謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!12

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1日本@名無史さん
其の国、もとまた男子を以て王となす。
とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年。
乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。
鬼道に事へ、衆を惑わす。
年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

魏志倭人伝に記された、この謎の卑弥呼 なる人物の正体を暴こうと思う。
また、天皇家との関わり合いは?!
2日本@名無史さん:2008/01/24(木) 00:21:36
12スレも消費してまだ終止符打てないのかよw
3日本@名無史さん:2008/01/24(木) 00:26:01
>>973(前スレ)
土器についてはあまり良くわからないのですよ。

たとえば、弥生前期の遠賀川式土器。北海道を除く全国に広まったけど、
時期的に、これを政治的な広がりと考えることは出来ない。
というわけで、稲作と関連付けられている。
稲作が西から東に広がっていく過程で遠賀川式土器も広がったと。

ところが、弥生後期になると土器を政治的に解釈する人も出てくる。
しかし、弥生後期にいろんな場所の遺跡で、各地の土器が出てくるのは
良くあること。

たとえば、熊本県の山鹿市付近の方保田東原遺跡からは近畿地方や山陰地方の
土器が出ている。佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも同じく山陰地方や近畿地方の
土器が出ている。
奈良県の纏向遺跡もおなじように各地の土器が出ている。
これらをいったいどのように解釈したらよいのか。

単なる人の交流があったということではいけないのかと。

弥生後期の遺跡からよく出土する貝輪は、沖縄で作られたものらしい。
実際に沖縄から貝輪が出ているし、作りかけの貝輪も出ている。
これなども交流があった証拠だと思うし、それ以上のものではないと思う。

ちなみに、九州でよく出てくる巴形銅器は、愛知県の朝日遺跡からも出ている。
4日本@名無史さん:2008/01/24(木) 00:27:18
昔、卑弥呼にお世話になったよ
5ローガン:2008/01/24(木) 00:28:17
おや又、勃ちましたね。男はやっぱりこうでないと!又書きますのでよろしくお願いします。
6日本@名無史さん:2008/01/24(木) 00:43:08

・・・・・・・・・・・・・・・・ (イヨタン…イヨタン…イヨタン……)
7日本@名無史さん:2008/01/24(木) 02:02:26

              -― ̄ ̄ ` ―--  _
          , ´         ,    ~  ̄、"ー 、
        _/          / ,r    _   ヽ ノ
       , ´           / /    ●   i"
    ,/   ,|           / / _i⌒ l| i  |
   と,-‐ ´ ̄          / / (⊂ ● j'__   |       
  (´__   、       / /    ̄!,__,u●   |
       ̄ ̄`ヾ_     し       u l| i /ヽ、
          ,_  \           ノ(`'__ノ   >>1 乙
        (__  ̄~" __ , --‐一~⊂  ⊃_
           ̄ ̄ ̄      ⊂ ̄    __⊃
                   ⊂_____⊃
8九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/24(木) 05:47:17
6、7と続けてたのしい書き込みが・。
9プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/24(木) 09:57:30
>>1

(ネタまき)

『…自爲王以來…』
…魏志倭人伝…


『…及共立一女子卑彌呼爲王彌呼無夫婿…』
…梁書倭國伝…
10サガミハラハラ:2008/01/24(木) 14:46:18
ながらく書き込みを休み質問にも答えず失礼いたしました。レスが多く瞬く間に次にすすんでしまい、私が答えるのも時代おくれとなってしまうようです。
>>763のイ徳と孝昭の在位がみじかすぎるのではとの件と、 卑弥呼の在位年がながすぎるのではとの件ですが、両者ともけっして異常な数字ではなく、ありえないことではないと思います。
他にもいろいろあるようですが、スレもあらたまったことですので、新規で書き込んでいきたいと思います。
11太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/24(木) 15:29:51
サガミハラハラさん
冒険しますね。ww
ついでに中平刀の国産説の詳細をされたい。
12プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/24(木) 15:46:19
>>11太国さん

冒険と言うより“無謀”

一つとして足元が固まっていないのに、手を広げ過ぎるから
全てのレスに対し、直ぐに反論出来る状態です。
13日本@名無史さん:2008/01/24(木) 17:58:34
2代から9代まで架空というのも有力なんだよなあ。
では、神武天皇から即、崇神天皇?
それよりもやっぱり神武=崇神か。
となると、神武の時代は、4世紀前半から半ばくらい?
14日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:22:37
太国!13に教えてやれ。応援しているぞ!
15太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/24(木) 18:23:30
いま帰ってきて見てる。メシだ。あとで。
16唐松山:2008/01/24(木) 21:00:23
増し で 治世 年齢を 推定
西暦   治世  即位年齢
神武天皇  41年 19年間  25才以下
空白(タギシミミ) 3年間     手研耳は天照の 血統
綏靖天皇  60年 14年間  15才 大物主の子供が母
安寧天皇  74年 11年間  14才 大物主の孫が母
懿徳天皇  85年 5年間   8才 早世
孝昭天皇  90年 26年間  5才  懿徳の弟
孝安天皇 116年 26年間  15才  手研耳の曾孫が母 天照の血液が入る
孝霊天皇 142年  19年間  20才
孝元天皇 161年 19年間  14才
開化天皇 180年  8年間  13才
崇神天皇 188年  25年間  4才 母は 庶子
垂仁天皇 213年 23年間  10才
景行天皇 236年 22年間  17才 
朔の廻し8年に相当 景行と成務に入る
成務天皇 266年 4年間  
仲哀天皇 270年 3年間
神功皇后 273年 21年間  天日矛→田島守の血を引く
応神天皇 294年 41年間
仁徳天皇 337年 
履中天皇 400年

2代から9代を抜いて 読めるか。
17唐松山:2008/01/24(木) 21:22:21
手研耳の子供
香具山のもとで生まれた 天押男 
阿智 思兼 に教えを請う

美濃もん太君の 逸話は この辺から生まれました。
18日本@名無史さん:2008/01/24(木) 21:28:10
結論!邪馬台国は逓増!
19横槍:2008/01/24(木) 21:40:26
>>16
応神 41年間
仁徳 63年間w
二人続けて凄いね

雄略以降在位40年以上の天皇は明治と昭和しか居ないのに

20唐松山:2008/01/24(木) 22:16:00
応神 没年齢 65歳  神の子供であれば 血液が薄まった分 長生き で可能
仁徳 63年間 没年を 西暦367年丁卯(古事記)なら 290年生まれとして 77歳
不可能ではない  後は 塚作り

新羅 364 倭兵が大挙して侵入
同 393 倭軍が侵入 籠城戦を行う
仁徳陵 建設のための 人足狩り。
21神奈川県民改め三重県民:2008/01/24(木) 22:17:26
ええええええええええええええええええええええ!
フライングしちゃったの〜〜?
駄目じゃ〜ん
22日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:24:02
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!11
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1199626004/l50

      / ̄ ̄\   前スレ省略は>>1の怠慢だろ・・・
    /ノ( _ノ  \
    | ⌒(( ●)(●)     常識的に考えて・・・・・・。
    .|     (__人__) /⌒l
     |     ` ⌒´ノ |`'''|
    / ⌒ヽ     }  |  |              
   /  へ  \   }__/ /             / ̄ ̄\ >>1
 / / |      ノ   ノ           / ●)) ((●\', ・
( _ ノ    |      \´       _    (   (_人_)'∴ ),  '
       |       \_,, -‐ ''"   ̄ ゙̄''―---└'´ ̄`ヽ   て
       .|                  ______ ノ    (
       ヽ           _,, -‐ ''"  ノ       ヽ   r'" ̄
         \       , '´        し/.. >>@ | J
          \     (           /      |
            \    \         し-  '^`-J
23日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:26:04
初期の天皇の在位期間は日本書紀では次のようになっている。と思う。
1 神武天皇 76年
2 綏靖天皇 33
3 安寧天皇 38
4 懿徳天皇 34
5 孝昭天皇 83
6 孝安天皇 102
7 孝霊天皇 76
8 孝元天皇 57
9 開化天皇 60
10 崇神天皇 68
11 垂仁天皇 99
12 景行天皇 60
13 成務天皇 60
14 仲哀天皇 9
神功皇后 69
15 応神天皇 41
16 仁徳天皇 87

ちなみに、17代履中天皇から32代崇峻天皇までの平均は12.5年くらい。
24神奈川県民改め三重県民:2008/01/24(木) 22:28:02
何度か立てる言ってたのにぃ〜ほかの人も気分よくスレしたいよね!
25日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:40:40
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!12
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1201179094/
26日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:42:20
気の利かない馬鹿が立てたこの糞スレは破棄
27太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/24(木) 22:43:22
>>12 プラムさん
サガミハラハラ氏は自論を変えないと豪語しており、貴殿は無謀だと
おっしゃっておられ、すこぶる同意。w
充分な論拠を古文献、資料、ブツ等を示して、そして合理的に彼が
説明できない限り、大風呂敷というか・・・まぁ間違いではないかと
疑念が収まりません。まぁそれがしも2倍、3倍暦で貴殿におそれく
同様に思われていたとは想ってますが、拙者はいろいろ考察してそう
いう資料、根拠等を交えてこうではないかとやってますがねぇ。w
>>13
お前さんもだいぶ津田病に感染して早く治療をせねば、そのまま末期
症状になってしまうよ。孝靈天皇なんか吉備のほうにうんと事跡が
残っているそうで、日野郡誌にはその詳細が書かれている。そこには
孝靈山もあり、吉備行幸は倭の大乱のときだそうで、架空などという
のは考えられない。東香川にも百襲媛の幼少時の活動伝承もあり、
そこには孝靈神社もある。架空ならいちいち吉備や東香川に天皇の
デマを垂れ流しに畿内から出向いていかねばなるまいが。こういう
ことは考えにくい。百襲媛の父親は誰だと言うんだな??ww
28日本@名無史さん:2008/01/24(木) 23:31:39
神社の縁起とか家伝とかは、大概は後世の偽造。
記紀の登場人物の事績が書かれていても、記紀からパクっただけかもしれないねw
29日本@名無史さん:2008/01/24(木) 23:48:19
まだ寝るな。もっと書いてくれ!太国!
30太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/24(木) 23:48:25
>>28
だいぶ津田病の末期だな。記紀からパクったと云うが、全国に
神社はうんとある、もしお前の言うことがそうならば100%ウソを
【個別】につかねばならない。全部が共犯にするためには全国津々
浦々まで印刷されてない筆字の記紀をばらまきに、水戸黄門以上に
漫遊記紀をする労力を、新幹線とかデンパ探知機の繼體機械の無い
時代に息切れして行わねばならない。
つまりだ全部が共犯でなければそういうことはありっこない。ちまり
お前のウスラ妄想。 ハッハッwwwww

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・
31ローガン:2008/01/24(木) 23:54:03
>>9
ん〜ネタまき…
おもしろそうなお話が聞けそうな、聞けなさそうな…
気になる。
32プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 00:14:18
>>31ローガンさん

梁書は魏書を見、そしてあのような記載をしたわけです。
ご自身の意見、感想等を書き連ね
固定観念を捨てジックリ比較すると、いろんなモノが見えてきますよ(今まで見た事のない世界が)


私はただのネタまきだから
33日本@名無史さん:2008/01/25(金) 00:21:33
>>30
大概の神社なんてどこぞの有名社から勧請してきたもんだろう。
「全国に神社はうんとある」っていっても同じ系列なら正しく「共犯」だろう。
ちったあノーミソ使った反応をして欲しいね。
34太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 07:27:05
>>33
いいか浅野守の刃傷だって、早馬で大汗と労力を使って播州の大石に伝達に
言ったんだ。お前の言うことは今の現代ならデンパ探知機たる繼體電話があるから
事は割かし容易にできようが、それでも神社の相手側を共犯に誘うにはかなり
容易とは言えまい。それを強制で記紀のウソをさせようとしても猛反対も当然
起こるから全部を抱き込むことは不可能だし、反対者から記紀のウソを垂れ流して
ると「ウソ事跡強要の伝承」までやって来られる。

それに最も記紀がウソ伝承とできない理由は、畿内と九州の遠距離にある。
だからお前の言うとおりなら当時新幹線とかはないから伝書鳩か狼煙等か馬かとか
早がけの忍者にやってもらうしか無い。そして当時は印刷できないから畿内か
九州へ着いてから多数の神社分、筆字の記紀を多人数ですたこらと記紀の冒頭から
終りまで書き終えて、それから多数の神社に強制でウンと言わせて事跡の偽造を
せねばならない。それにやらない神社もだいぶあろうから、そのウソの垂れ流し
の完全に行われていることの確認もせねばならない。とても不可能だ。
35日本@名無史さん:2008/01/25(金) 07:39:31
神社の勧請って早馬使って大汗かいてやるもんか?
意味ワカンネ〜。
36太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 07:53:16
>>28 >>33
もっと極端なことを言えば、畿内と九州を地球と火星に置き換えれば、お前の
主張する火星人の畿内地球人からのパクリなんて,当時は宇宙船などないから
不可能なことはお前の豆脳でも思い知るほど分かるだろうが? 昨日だったか
火星へ着陸したアメリカの機内から撮影したのか?火星人発見のカラー写真が
日本のTVで発表されていた。火星の大地でえらく人体に似てるので驚いたがw

それはいいとしてw畿内と九州はそこまで離れてはいないが、当時は別国と
みなせる位両者は遠隔にあり、お前のいう記紀のパクリを九州まで蔓延垂れ流し
に行くには大変な時間、手間、労力がかかり、とてもそんなことをやるヒマなぞ
朝廷にあろうはずもない。お前は当時デンパケータイ畿械があるという気分
でいるから、そんな短絡的豆脳の結論妄想を考え出すわけだ。www
37日本@名無史さん:2008/01/25(金) 08:59:09
勘注系図には国府の印がいくつも押されていると言うから、定期的にチェックを受けていたという事だな。
38日本@名無史さん:2008/01/25(金) 09:17:21
魏志倭人伝の人達だって纏まったのに
なぜこのスレの人達は協力して
邪馬台国は何処か、卑弥呼は誰かを
探そうとしないのですか?
これだけ知識のある人達が集まってるんだから
皆で協力して帯方郡からどこだって比定していけば
いずれ邪馬台国も見つかると思うんだけどな。
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 11:05:00
印鑑は、今日も読売に「辛丑之印」の銅印の考古話が載ってたが、ただ押せば
いいだけの単純労働だから、そういうのはまぁ目暗印もやれるしできるだろう?
だいたい吉備まで孝靈の実在ウソを垂れ流しに行くだけでも多大な金がかかるし、
さらに東香川までニセの孝靈神社と百襲媛に関わるデマ、金つかいはらくでない。
40siraki:2008/01/25(金) 11:56:16
天才 siraki 天高日知之子姬尊 突破!
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1930746
41日本@名無史さん:2008/01/25(金) 12:17:21
分社、末社が本家の由来を踏襲するのは当たり前の話。
本社だって式内社のようなお墨付きがあるのと無いのでは実入りが違う。
縁起の創作にだって気合いが入るだろう。
実際、祭神がいつのまにか変わっちまった神社は多い。
戦国大名の出自にも怪しいのが多いようにハク付けのための歴史改ざんは多い。
太しくんは、そういうのが好きそうだが。
42プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 15:06:46
チョットムズ過ぎたかな?
『…卑彌呼爲王彌呼…』
43日本@名無史さん:2008/01/25(金) 15:07:23
>9
共立されたのは卑弥呼だけと
その後に弟が王となったってことでしょうか?
44太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 15:28:39
>>41
いちいち孝靈山なんて山の名前までは踏襲しないよ。踏襲するのは末社まで
だろう? お前も津田病重症だな。w
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 15:46:37
>>28 >>33 >>41
たかが八代造作して何の利害が埋まるのか? よく相撲は八王朝相撲で話題に
なるが、利害がでかくなると八王朝をやることがある。8代じゃぁ中国半島史の
古さに追いつきはしないし、どうせ架空を造るなら少なくとも2桁やらにゃぁ
利巧とは言えない。利害がなきゃぁ、記紀には年月日までキチンと書いてあるから
これは架空とは言えない。日野郡誌には孝靈天皇の活動が詳細に書かれているが、
吉備行幸は特筆すべき事項であるし、その当時が倭の大乱の年代と附合するから、
吉備へ行った理由もうなずける。八代架空はお前の豆脳の考えすぎ、妄想。ww
46太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 16:25:03
>>41
だいたお前は事例が大きくして漠然として否定の理由付けをしていて、まだまだ
具体性に乏しく例外もだいぶあろうということを無視してるのは、なにか津田流の
論理構造に似ている。こういうのはマズイ。それには例外もありえないという式の
否定がやれなければ単なる上っ面の否定であり、いい加減である説明だということ
である。まぁそれはいいとして、そういう末社、本家の伝達の場合も確かに多くは
あろう。だがそうでない本家分家の連絡でないようなものあるはずだ。それを
お前は無として津田方式を誤理押しているのである。畿内からかなり遠い出雲の
日御崎神社社伝には欠史八代の【孝靈61年】半島の月支国王が出雲に戦いに
来たが、神風?によって難を逃れたとの伝承があり、これなど記紀には載って
いない。
つまり安万侶と舎人親王らとはまるっきり無関係と思うべきでかつ畿内から遠方に
あり、共犯をやるには記紀にこの話がないし意思の疎通はえらく日数がかからねば
できっこはない、つまり双方は独立しており、合理的に共犯関係は無いと観るべき
で、ここの神社特有の情報のようであるし、他社にいくらでもあるべき話ではない
から、本家分家の関係とはほど遠く、お前の論理が破綻する。
47プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 17:09:44
なるほど>>43さんは、そのように解釈しますか
他の方はどのように解釈しているか、聞いてみたいものです。
私は『卑彌呼と彌呼』の記載に興味が湧きます。
48日本@名無史さん:2008/01/25(金) 18:11:19
日御崎神社の伝承に天皇年紀が使われているってこととが何か?
舎人親王が出雲まで行って講釈たれなきゃ伝わらないのか?
日本書紀を見りゃ誰でも分かることだろう。
きみの言ってることは、全く無意味な反論。
もう少しノーミソを使い給え。
49太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 18:31:09
>>48
舎人が出雲まで行ったのか?そうでなければ各々独立。共犯性は0。ww
意思の相通が地球と火星と断絶のように、当時は双方の距離が隔絶的で片面的
共同意思までしか成立は不可能。よって八代間の存在はデタラメとはいえない。
かつ大なる利害もみあたらない。つまりお前の妄想。話をそらさなくてもいいよ。
50唐松山:2008/01/25(金) 20:17:24
日御崎神社は 夏至、冬至、春分、秋分 の存在を 支持。
太国さん どうしましょ。
51日本@名無史さん:2008/01/25(金) 20:30:36
太国www
もう、支離滅裂。
畿内と出雲が近いと言いたいのか、違うと言いたいのか?
何が言いたいのかさっぱりわからん!
ノーミソのキャパ超えちまったみたいだな。
哀れむよ。
52太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 20:39:58
>>51
お前もそろそろ津田病の治療に精神科へ行って診てもらえ。もう末期
重症だな。www ww ww ww www

唐松山さん。貴殿も八代を架空とほざくのか??
53河内王朝:2008/01/25(金) 21:18:35
邪馬台国初心者です。推理小説のようで、毎日、楽しんでいます。
在住的には畿内説としたいのですが、やはり相対的には九州とりわけ中部筑紫
平野にあったのではないかと考えています。

狗奴(クナ)国も熊襲国と推測できれば、「狗古智卑狗」は菊池彦とも音読み
ができ、熊本にある「キクチ」との関連でも妥当だと思います。

多くの九州説の方も同様に言われています。また、邪馬台国が九州の西南西
に位置したことから、便宜上も、大陸の玄関口の伊都国に一大率を置き、
連合国の統率を図ったとすれば理解できます。

卑弥呼は狗奴国との争いに敗れ、死去し台与がその後、継承して日向国で
力を付けてから、北上し宇佐から吉備を経由し畿内にいつの時代かに東遷
したとも考えられます。(東遷説ではありません。)

しかし、この場合でも、やはり引っかかるのは、道程が郡からの連続式から
急に伊都国から「放射式」としなければならないことです。

魏志倭人伝は、三国史の魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条の一部であって、他の
列伝と考えを異にすることはできません。

よって、同じく道程において「連続式」から「放射式」になっている事例が
あれば、自分の気持ちも安定します。

三国史魏書のなかで他国の道程で類似のケースについて、ご存知の方は、
お教えいただけませんでしょうか。
54太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 21:21:37
唐松山さん
月支国王の出雲攻撃は、孝靈天皇の世の当時倭国大乱があったこと
からか、国力が弱っている日本側を攻めようとする意図が敵さんに
あったためとも想えます。攻撃の絶好の機会ということだったんで
しょうが、神風により退散したということです。なおどこの神社も
今は夏至冬至春分秋分は肯定するに決まってますよ。皆、義務教育を
受けてるんですから。

>>51
お前の八代架空という反論は甚だしくwww皇統無系。www www www
 ハッハッ!! wwwww
55日本@名無史さん:2008/01/25(金) 21:58:07
>>45
日野郡誌に興味を抱きました。
これはいつ頃に書かれたものでしょうか。
7〜8世紀頃であれば、信用性がかなりあると思いますが・・・
56太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 23:02:27
>>55
伯耆国の記録らしい。いつ成立かまでは知りたかったがとれたいない。
ただえらく孝靈天皇の事跡を詳細克明に記述があるようだ。

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-18tairan.htm#日野郡誌
57日本@名無史さん:2008/01/25(金) 23:27:29
>>51
いや、そんな事はない!いいぞ!太国!もっと書いてくれ!
58太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/25(金) 23:36:52
坊さんは次いで次いで書いていたいう
「大水主大明神和讃」一巻
には欠史八代の孝靈天皇の黒田宮から東香川に七歳のときに旅に
出て東香川に行った百襲媛の活動記録があり、そこには孝靈神社が
あるという。
八代が架空などというのは、いかに乱暴極まりない根拠もへったくり
も無いで主張した皇統無系な滅茶苦茶論だ。
59日本@名無史さん:2008/01/26(土) 01:25:25
>>56
>伯耆国の記録らしい。いつ成立かまでは知りたかったがとれたいない。
それじゃ史料批判できないのではないのでしょうか?
60日本@名無史さん:2008/01/26(土) 01:40:48
欠史八代が後世の造作なら、ヤマトから遠く離れた各地で
孝霊などの伝承が残されるはずがない。故に、欠史八代も実在とするのが妥当。

↑平易にいえば、こういいう主張なのかな?
61日本@名無史さん:2008/01/26(土) 03:11:32
『日野郡史』(日野郡自治協会編・名著出版発行)第四章 神社」引用
『伯州日野郡染々福大明神記録事』なるもののの
写本の現物はあるの?

62日本@名無史さん:2008/01/26(土) 07:10:32
>>38
古だぬきばっかりだから。新鮮な柔らかい頭だったら、まとまっていくかも。

>>53
狗古智卑狗を菊池と結びつけるのはこじつけのような気がする。
つまり、官の名前と地名を結び付けるのはどうかと思う。

他の国の官の名前は地名とは結びつかない。
たとえば、対馬国や一支国の官・副官は卑狗・卑奴母離となっている。
邪馬台国や投馬国にも官・副官はいるが、これは地名とは関係ない。
狗奴国の官名だけが地名と関係あるのはどうかと思う。

>>58
崇神天皇の諡号などをみると怪しい。

崇神天皇は、古事記では所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと)
日本書紀では、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)となっている。

一方で、神武天皇は、日本書紀では、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
とも書かれている。まあ、神武天皇が「はつくにしらすすめらみこと」というのは
納得できるが、どうして崇神天皇に同じような名前が与えられているのだろう。
63太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 07:13:40
正月も旧正月と2回あります。w
64日本@名無史さん:2008/01/26(土) 07:27:09
神のつく天皇は、神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三人。

応神天皇は、三韓征伐の後、神功皇后と共に九州から大和に入るが、
異母兄弟である香坂王・忍熊王に大和入りを阻まれる。
なんとなく、神武東征に似ている。

応神天皇と神宮皇后を祀っているのは宇佐神宮。
なんか、こんがらがってきた。
65太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 07:53:54
伝承も参考になる。偽書もあろうが、当たりか外れはわからん馬券に騎手の批判
が出来なかろうとの批判もあとでいい。捨てるのは早計。完全偽書なら、公言して
それから捨てればいいだろう。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/kohrei.htm
66唐松山:2008/01/26(土) 07:58:47
崇神天皇の諡号は
崇神天皇の実績 大国主より 国譲りを受けた。
崇神6年秋の出来事 これ以降 大彦を始め各地へ軍を派遣することができる。
67太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 08:02:40
日野郡誌とかは、中国の古文献での倭の大乱と年代が研究しているやつがほぼ
合致していて、かなり役立つという話だから、まで捨てられない。
本社→末社とかで、または現物からの話の横取り、パクリもあるが、だいたい
試験でカンニングをやれば出題の教諭、教授が各学生の回答内容を見てカンニング
が分かるから、どこかでボロが出る。
68日本@名無史さん:2008/01/26(土) 08:09:32
奴国=な国で、上古音。
伊都国=いと国で、中古音。
少なくとも、伊都国が、中国人に知られるのは
奴国よりも後だった可能性が高い。

場合によっては、伊都国は比較的に新しく設置された国だろう。
この国には、邪馬台国から一大率が置かれていたらしいから、
邪馬台国(大和国)が九州を統治するために新しく設置された国かもしれんだろう?
69サガミハラハラ:2008/01/26(土) 09:44:17
魏志倭人伝の国名はすべて上古音です。
奴国=と国
伊都国=いた国
伊都国は世世王有ですから古くからととれます。
70横槍:2008/01/26(土) 10:28:24
綏靖 天皇
「神道集」という書物には、綏靖天皇は朝夕七人の人間を食べ、人々を恐怖のるつぼに落とし込んだという記事がある
そうだが、どういう経緯でこういう話が作られたのかははっきりしない。
天皇は33年在位し、古事記では45歳、日本書紀では84歳(2倍暦?)の崩御
71日本@名無史さん:2008/01/26(土) 10:33:48
>>69
んなこた〜ない。
純粋な漢文の著名な先生である森博達先生が
基本的に魏書は、中古音の音韻で書かれていると言っている。
この先生は邪馬台国の話には係わってない先生だ。

そもそも、倭人伝には、「卑狗」という官の名称はいっぱい出てくる。
上古音「ひく」、中古音「ひこ」だが、
おそらく「彦」だから、どう考えても中古音「ひこ」だろう?

相模原原さん、可愛そうだけど、あんたの説は終了だよ。
72太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 10:52:12
サガミハラハラ氏はいっこうに中平鉄刀が国産であるという根拠、資料をいまだ
すっぽかして説明をしてない。これは欠史八代時日本で漢字が使われていた強固
な証拠になるし、倭の大乱と関わって卑弥呼の時代特定にも非常に参考になるが、
のほほ〜んととぼけているのか独善的論理の先行なのか、疑念が増幅するばかり
である?
73古代:2008/01/26(土) 11:37:02
70
経緯はやはりわからないので勝手な推測を・・
綏靖天皇の父は天孫神武天皇。母は国津神である事代主の娘。
よって綏靖天皇は天津神と国津神血を濃く引いていることになり、中でも国津神の血が強いといえる。
それ故に荒御魂が強く発祥し、生け贄を要求するようになった。
天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという逸話は神社を建てて荒御魂を封じるという象徴。
事代主を祀っている賀茂氏の地位低下から考えようとしたが、「神道集」が書かれた時にはとっくに断絶しているからこのような説。
74日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:39:22
>>70
>天皇は朝夕七人の人間を食べ

スゲー大食いだなw
まあ、祖母と曽祖母が鰐娘だからその血が濃く出たんだろう。
75サガミハラハラ:2008/01/26(土) 12:22:15
>>71私は国名といっております。
森先生の説のカラクリについてはまたの機会に。
76日本@名無史さん:2008/01/26(土) 13:06:37
>>75
いや、だから、諦めろ。
中国人が国名と官位名で中古音を使い分けるのか?
使い分けることは無い。
上古音を使っているのは、奴国みたいに西暦57年(上古音の時代)から
中国人によく知られている国名だ。
こういうのは慣習として上古音時代につけられた漢字名が引き継がれやすい。
倭人伝が中古音で書かれているのは動かせない事実だ。

森先生が全て正しいとは思わないが
少なくとも、彼は純粋な漢文の知識から
倭人伝は中古音で書かれていると言っている。

さがみはらはら、まもなく、あなたの説も終了だ。
77正月○鹿:2008/01/26(土) 13:53:09
>>67
> 日野郡誌とかは、中国の古文献での倭の大乱と年代が研究しているやつがほぼ
> 合致していて、かなり役立つという話だから、まで捨てられない。

「日野郡史」自体は、郷土の好事家により大正年間に編纂されたもの。
元禄年間に刊行された日野郡野誌によるところが大きいが、それ以外にも古家に
伝わる古文書や寺社の縁起等もこまめに収録した労作です。
ただ、古事古伝の散逸を防ぐことが目的の書物なので、その内容の真贋などには
深く立ち入ってはいません。

で、孝霊天皇の事績に関する伝承ですが、
例えば楽々福大明神記録事に出てくる「大林山の鬼退治」の話。
これ、その鬼の頭・胴は当時の日本には居はいないはずの「馬」「牛」のようだったとか、
天皇を案内したものが「渡辺左衛門丞」と言う、人名としては中世以降に成立した呼称を
もっていたり・・・ボロが出まくりの話なんですよね。

> 試験でカンニングをやれば出題の教諭、教授が各学生の回答内容を見てカンニング
> が分かるから、どこかでボロが出る。

そう、見れば分かること。
当然、太国氏にもボロは見えているはずで、
それを分かっていながら実しやかに自説の根拠に挙げたりするのはペテン師の手口です。
違いますか?
78サガミハラハラ:2008/01/26(土) 14:01:09
ちょっとまえ、某TV番組に楊という中国人がでていたが、あるタレントから
「ヨウサンですかヤンさんですか?」とたずねられてどちらでもよいと答えていました。
中国人にとって漢字が大事であって発音はどうでもよいようです。事実現代でも地方によって
発音がちがうようです。
だから、記載するときの時代の発音にあわせて記録して、後世発音が変化しても字は最初にしるされた字を使いつづけるのです。
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 14:38:56
>>77
どうして牛、馬がいないことがわかるのか? お前はタイムマシンでも持って
るのか??w 神代には天班馬を逆はぎにはぐ説話もあり、お前のほうも出所を
ださないデタラメ文としか評価できない。ww
80正月○鹿:2008/01/26(土) 14:48:24
>>79

> 神代には天班馬を逆はぎにはぐ説話もあり

えー、それが論拠ですか・・・・

まあ、牛の方はよく分かりませんが、馬はだいたい4世紀以降でしょう。
弥生時代以前の遺跡では、犬猪鹿等の骨は出てきても馬は発見されていません。
倭人伝にも牛馬無しって書いてあったりしますね。
81太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 14:59:58
>>77
お前も○の中に馬を入れないのはそのためか?www 馬落ちならば、なおさら
デタラメを垂れ流しに安万侶と舎人が早馬で出雲や北九州などにおいそれと行け
まい。ならば共犯説は成立はしない。欠史八代加増の共同謀議は片面的共同意思
を以てしても成立はしない。つまりお前のデッチ上げ以外の何物でもない。

記紀の編者が伝承造りに出雲や東香川、北九州まで出向いて八代分増やした架空
のものならば、なぜ伝承のほうの孝霊は詳細な有史があり、記紀の編者はその
記紀の八代を欠史としてるのに、馬も無いという方法でイカサマを伝えた出雲、
北九州へのウソ垂れしは有史にしたのか? おかしいではないか? 伝承の
ほうも天皇らの名ばかりの欠史で、有史たる活動のほうは載せないようにする
はずだがねぇ?ww つまりお前のボロがこれまた出たんだよ。ww

記紀に天班馬があって馬が無かったというお前の解説は、よく記紀を読んでるの
かと、お前の稚拙な論説が黒光りしている。ww
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 15:01:47
>>80
牛のほうは分からないだと?wwwww
そんなんで無かったなどと大デタラメ吹鳴するな。とんでもない奴だ。
83唐松山:2008/01/26(土) 15:34:34
倭人伝の牛馬無し、は野生の牛馬
84正月○鹿:2008/01/26(土) 15:40:41
確かに牛は伯耆でも2世紀代に遡れるみたいですね。(南方ではもっと前から)
牛については潔く訂正、謝罪します。
でも、それ以外の貴方の反論は何が言いたいのか理解できない。
もう少し整理した内容で再掲願いたい。
あの内容じゃコメントのつけようがない。
85日本@名無史さん:2008/01/26(土) 15:58:24
                               
台湾人の顔は、本当に日本人にソックリですね。

台湾ガールのmvoir33ことシロクマちゃん
http://www.youtube.com/watch?v=I8PqfmwInzk

http://www.youtube.com/watch?v=9kXe-n4M7EM



86太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 18:36:40
>>84
お前が横から能書きをはさんできたんだろうが? 遡って読んでるんだと想っ
たよ。そうならまだ2桁だから前から読めば分かるだろう?

要するにだ、欠史八代が架空だという奴がいるから、どうしてだ?と聞いたが、
根拠のない先行主張で、上っ面の否定を言ってるから根拠を出して文句をつけて
いるわけよ。その理由っていうのは、ひとつは、本社から末社での共同謀議に
よる安万侶、舎人らが畿内から隔絶の北九州等に新幹線もない時代にツルの一声
で、どんな方法でやったかもあいつは言わないが、神社全部がそれに参加し、
欠史八代の天皇を造作、つまり文書偽造をやったと奴は主張してるんだよ。

つまりだ、どこかの店の景品でやってたが大ビンの中の硬貨のつかみ取りのよう
なもので一握りで総括神社の偽造伝達が可能のようだが、現実にはウソにさから
う神社も多分にあるわけで、全部ビン内の硬貨をつかむような言い草であり、
おこぼれの硬貨もわんさとあるくせに、ニセの伝承を北九州とかの全部の神社へ
上下下達式に出来るわけがないとそれがしは反論してるわけだ。あいつは全部
取ったようなことを言ってるわけで、そんなことは不可能に近いと言いたい
ものだ。だから向こうの遠隔地に孝靈とかの伝承がうんとあるということは、
八代が架空という論は大いなる欠陥説で信用できない乱暴な説だと書きこんでい
るわけ。 わかったか??
87太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 18:39:53
>>86 訂正
× 上下下達    ○ 上意下達
88正月○鹿:2008/01/26(土) 21:10:54
>>86

過去レスは流しつつも目は通していますよ。
だけど、解かんないw

日本書紀が編纂されたのが8世紀ですよね。
これは日本国の正史であるとともに天皇を頂点とする神道のバイブルじゃないですか。
各地の神社と言うのは、みなこの天皇の権威の下にぶら下がった存在でしょう。
そんな、諸々の神社の縁起に日本書紀の登場人物が出てこない方がおかしい。
と、言うか天皇と何も関係しない神社なんて存在し得ない。

>神社全部がそれに参加し、欠史八代の天皇を造作

誰もそんなことは主張していないと思います。
先ず、最初に日本書紀が出来て、次いで、各地の神社の縁起の中に登場人物が
取り込まれていったんだろうと言う主張を貴方が理解していないだけ。

>ニセの伝承を北九州とかの全部の神社へ上下下達式に出来るわけがない

「ウチの神様は昔、魏の皇帝の臣下だった卑弥呼様ですよ」なんて言うところが、
あったら、それは神道じゃなくて、別の宗教でしょう。
日本書紀の高天原と天孫説話と言う思想を受け入れたところだけが神社として
存続しているだけ。
つまり、神社は律令体制の中に取り込まれることで体系化された存在なんですよ。
伊勢だけじゃなくて、宗像、諏訪、阿蘇、住吉、三島、それに出雲だって例外じゃない。

ちなみに、私は闕史八代を否定はしませんよ。
古事記にも存在する以上、日本書紀編纂時の創作じゃないことは顕かですが、
稲荷山鉄剣でも八代前まで記載がありましたから、崇神のプロフィールとして、
直系八代くらいの伝承が残っているのは普通でしょう。
ただ、その8人が「天皇」だったかは、事績が無いことから疑わしいと思っています。
89太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/26(土) 21:59:22
>>88
>みな天皇の権威の下にぶら下がって
それは現代と現代にちかい時代の状況じゃぁないか。w 八代当時の
天皇の時代はまだ畿内の小領主の存在に近いものなんだ。勢力は豪族
より一段多いくらいだろう?それが出雲や北九州の神社、伝承地まで
御稜威が行くのか?ww 笑わせるなよ。お前もこの前の本社と末社
がどうのとか言ってた奴と五十歩百歩の似たような論理展開で、お前
の古代史は現代史近代史のごった煮だ。もう一度出直して来い。

それにこちらをペテン師とか言ってたが、お前こそ牛馬のペテンを
自供しており、お前こそペテン師だということになる。www
90日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:01:47
>>88
>先ず、最初に日本書紀が出来て、次いで、各地の神社の縁起の中に登場人物が
>取り込まれていったんだろう

この部分が少し疑問。
最初に神社に元になるような土着信仰の施設があって、それが後世に皇族とかの
祭祀施設としての機能も併せ持つようになったということでしょうか。

その考えは、弥生時代からの土着信仰の施設の存在が考古学的に証明されていないと、
古墳時代以降にそれが変質したという前提も成り立たないですよ。
むしろ、ほとんど全部の神社は古墳時代以降に作られて、それが出来た当初から皇族や
その祖先を祭るためのものであったと考えた方が自然です。
91日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:17:39
>>90 に続けて

>>88さんのような主張はたまに見かけますが、
仮に、元は皇室(王族)とは別の宗教施設で、記紀編纂後に変質したとすると、
日本全国に権力から独立した広範囲な民間宗教団体を想定することになるの
でしょうか。

そして、その謎の団体Xは古墳時代の初め頃から急速に強大化したが、皇族
(王族)に神社を乗っ取られ、闇の中に消えていったと・・・

そんな考えをするよりも、祀り神に縁のある人たちが各地で神社を作っていった
という方が自然ではないかと・・・祀り神の地域偏在は普通はこのように説明さ
れていると思います。
92日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:52:19
あいかわらず大乃国は電波を飛ばしてるなw
93正月○鹿:2008/01/26(土) 23:56:37
>>89

全く論点がかみ合わないですねw

> >みな天皇の権威の下にぶら下がって
> それは現代と現代にちかい時代の状況じゃぁないか。w 

天皇制が確立してからに決まってるじゃないですか。
飛鳥浄御原令では既に後世の神祇官に相当する職が存在したとの説もありますが、
確定的に言えるのは大宝令以降では、各地の神社はこの職の統制のもとに置かれ、
官幣、国幣等の社格も定めれています。

>先ず、最初に日本書紀が出来て、
>次いで、各地の神社の縁起の中に登場人物が取り込まれていった

私は日本書紀が出来てからの話として説明してるんですよ。
読めば解かるでしょう。わざとですか?

> 八代当時の天皇の時代はまだ畿内の小領主の存在に近いものなんだ。
> 勢力は豪族より一段多いくらいだろう?それが出雲や北九州の神社、
> 伝承地まで御稜威が行くのか?ww 笑わせるなよ。

そんなのが、日野まで嫁さん、娘連れで鬼退治に行くんですか?

> それにこちらをペテン師とか言ってたが、お前こそ牛馬のペテンを
> 自供しており、お前こそペテン師だということになる。www

牛の話は訂正したでしょ。
貴方の方は、自分に都合の悪いところは全てスルーなんですねw
94正月○鹿:2008/01/27(日) 00:10:03
>>90

> >先ず、最初に日本書紀が出来て、次いで、各地の神社の縁起の中に登場人物が
> >取り込まれていったんだろう
> この部分が少し疑問。

神社の発祥の話ではありません。
太国さんへのレスにも書いたように、各地の神社の縁起には日本書紀の内容を取り込んで
いるものが多いということです。

> 最初に神社に元になるような土着信仰の施設があって、それが後世に皇族とかの
> 祭祀施設としての機能も併せ持つようになったということでしょうか。

書紀のような神話譚は、それぞれの神社でも独自の伝承があったかもしれませんが、
そういったものもすり合わせて体系化したものが日本書紀なのではないでしょうか?
そして、日本書紀の内容と矛盾するような伝承は、次第に淘汰されていったのでは、
ないかと考えているわけです。

> その考えは、弥生時代からの土着信仰の施設の存在が考古学的に証明されていないと、
> 古墳時代以降にそれが変質したという前提も成り立たないですよ。

建物の話ではありません。

> むしろ、ほとんど全部の神社は古墳時代以降に作られて、それが出来た当初から皇族や
> その祖先を祭るためのものであったと考えた方が自然です。

今の神道の源流が何時出来上がったか、そのプロセスがどうだったのか、
いろいろなご意見があって当然だとは思います。
貴方のご意見は、日本書紀の記述が正しいと考える立場であれば正論でしょう。
95正月○鹿:2008/01/27(日) 00:19:24
>>91

> >>88さんのような主張はたまに見かけますが、
> 仮に、元は皇室(王族)とは別の宗教施設で、記紀編纂後に変質したとすると、
> 日本全国に権力から独立した広範囲な民間宗教団体を想定することになるの
> でしょうか。

全然違いますね。
そんなことを言ってるように読まれますか?
王権の確立の過程で、それぞれの小勢力の信仰が取りこまれていくようなイメージ
で話をしています。
拙文を理解していただいていない感じですね。
96日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:26:29
>>91氏の主張がよくわからなかったので
疑問を書き込みしようとと思ったら
先にご本人から反論あったw
97日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:38:33
>>正月○鹿様
>ちなみに、私は闕史八代を否定はしませんよ。
古事記にも存在する以上、日本書紀編纂時の創作じゃないことは顕かですが、
稲荷山鉄剣でも八代前まで記載がありましたから、崇神のプロフィールとして、
直系八代くらいの伝承が残っているのは普通でしょう。
ただ、その8人が「天皇」だったかは、事績が無いことから疑わしいと思っています。

↑できればこのあたりあなたのお考えををもう少し説明していただけませんか?
私は欠史八代は、記紀成立直前だとは思いませんが、やはり架上の疑いがあると
思っています(故に崇神以前の系譜記事は判断の材料にせぬようしています)

98日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:51:06
>>94
>そして、日本書紀の内容と矛盾するような伝承は、次第に淘汰されていったのでは、
>ないかと考えているわけです。

私も、当初の縁起が後世に忘却、変容したものも多いであろうとは思います。
一方で、当初からの縁起の骨子が伝わっているものも多いでしょう。
最重要の祀り神に関しては後世の変更は受けにくいと考えています。

私のマチには、少彦名の神社やコノハナサクヤヒメの神社がありますが、後世に
わざわざマイナーな神を選んで祭るとは考えにくく、当初からこの神に縁のある人が
この神を祭ったと考えた方が納得がいきます。
99日本@名無史さん:2008/01/27(日) 01:15:25
>>98
>最重要の祀り神に関しては後世の変更は受けにくいと考えています。

議論の要点はこのあたりなのかな?
100日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:02:50
太国およびこれ立ち上げた>>1

同じ終止符12が2つ出てるわけだが、
ローガン氏、横槍氏、愛知県民氏等が向こうの「終止符12」来たので
彼等の判断、行動が間違いではなかったことを証明するために言わせて貰います。

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!て1〜12まで
「神奈川県民」がやってたんやないの?

お前等馬鹿か????

終止符すれを奪い取った気でいるみたいだが、お宅らには常識はあるんかい?
ここは子供やなく大人が集まってるのでもう少し常識あるのが普通やのう。

太国は人が集まるスレッドに書きしたければ自分でつくんしゃい!!


101日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:06:35
>>99>>97
おまえも常識あるんか?

正月○鹿 おまえも常識あるんか?
終止符スレやなく自分で作ってそこに書き込みしなさい!

サガミハラハラもか?
102正月○鹿:2008/01/27(日) 02:08:22
>>98

> 私も、当初の縁起が後世に忘却、変容したものも多いであろうとは思います。
> 一方で、当初からの縁起の骨子が伝わっているものも多いでしょう。
> 最重要の祀り神に関しては後世の変更は受けにくいと考えています。

熊野の新宮・本宮なんかどうでしょうね。

祭神の速玉大神、夫須美大神、家津美御子大神は、
それぞれ、伊弉諾、伊弉冉、素盞嗚の別名とされていますが、
神名を考察すると全くの別神格で後世の付会のようにも思えます。
こう言うケースは少なくない(多い少ないも論者の主観によりますが)と
思います。

そもそも日本書紀の自体が天つ神と国つ神の融合を表しているわけで、
神話の世界と現実の境目は茫洋なるものがありますが、
それらの伝承が何時頃かに成立して8世紀の書紀編纂に至ったのも事実だと
思います。
ただ、それと同じことは書紀編纂後にも引き続いて行われているものだとも
思います。

103日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:08:37
>>96>>98
おまえも常識あるんか?

正月○鹿 おまえも常識あるんか?
終止符スレやなく自分で作ってそこに書き込みしなさい!

サガミハラハラもか?
104日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:10:28
>>100
あなたの書き込みのおかげでレス100まできたことだし
併存では駄目かい?
ここはここで議論がつながりつつあるみたいだし。
105日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:11:37
>>102 正月○鹿くん

きみは常識あるのかね?

書き込みしたいらしいが終止符スレ使やなく
自分でつくったほうがいいのじゃないのか?
106日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:15:42
>>104
これをどうぞ→>>100
>ローガン氏、横槍氏、愛知県民氏等が向こうの「終止符12」来たので
>彼等の判断、行動が間違いではなかったことを証明するために言わせて貰います。

それが大人の判断とは思えません
107日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:17:17
太国と立ち上げた>>1以外は向こうに行ったほうが正解では?

こっちへきなよ。
108日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:19:15
>>105その他類似の人へ

あなた方の言い方、まったく不可解かつ不快。
スレタイ重複が問題ならそれ相応の表現があってしかるべきだが
109正月○鹿:2008/01/27(日) 02:21:39
>>97
>あなたのお考えををもう少し

深い考えはありません。
例えば孝霊天皇の和風縊号の一部「太瓊」などは実名っぽいでしょう。
こう言った名前が崇神の直系尊として語り継がれていれば、
いわゆる「天皇記」のような後世の文書に記録された可能性は
あるんじゃないかと思うだけです。
「天皇」として存在したかどうかは検証不能ですけどね。
110日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:23:18
不愉快にさせて申し訳ないです。

余りにも非常識が多いので感情的になってしまいました。
111日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:28:01
>>110
>不愉快にさせて申し訳ないです。
余りにも非常識が多いので感情的になってしまいました。

何に対してかの謝罪か不明。
不特定多数書き込み板であることを踏まえた書き込みをお願いしたい
11297:2008/01/27(日) 02:29:07
>>108は正月○鹿 の馬鹿のレス?

おい 馬鹿
11397:2008/01/27(日) 02:34:47
>>111
謝罪?
これをみてる関係のない掲示板利用者へ謝罪しなさい。

馬鹿
114日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:36:56
>>112
97および108本人ですが、
馬鹿と呼ばれるわけがわかりません。
あと>>112さんは私>>97ではありません。
11597:2008/01/27(日) 02:38:21
>>108のレスはお前か????→正月○鹿

おまえに言うたんやない 関係のない掲示板利用者に決まってるだろが!!
この馬鹿!!!
116正月○鹿:2008/01/27(日) 02:38:28
>>100

今日は、たまたま、小まめにレス付けできる時間があったので連投気味に書込み
ましたが乗っ取ったとか言われるのは心外ですね。
他の方がもう一つの方に行かれるというのならこちらを沈めることに異論はないですよ。

2chの昔のルールでは、重複スレは早く起った方を生かすというのが基本でしたが。
まあ、二つあるのは不便なのでどちらかに統一した方がよいでしょうね。
いっそのこと削除依頼を出されたら如何ですか?
117日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:41:42
もうとっくに出してるよ。
118日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:42:34
>>115
>108の書き込みは私です。正月○鹿氏さんではありません。
なんかえらく混同されてる気がします。
あなたの怒りのもとはなんですか?
119正月○鹿:2008/01/27(日) 02:43:40
>>115

最期に一言。

>>108のレスはお前か????→正月○鹿

違いますよ。
見てりゃ解かるでしょうw

ところで、私からも質問。
何でそんなこと訊くのですか?
120日本@名無史さん:2008/01/27(日) 02:56:52
『私=>>97』を騙って>>112以下の下劣は書き込みを続けたことは
心外であり、>>112,>>113,>>115のカキコミ者には謝罪と訂正を求めたい。
121日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:03:37
神奈川県民改め三重県民さん。
削除依頼出したんだったら、そのことをアナウンスして
ちゃんと他のユーザーを誘導しないと駄目だよ。
122日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:08:42
いっそのことドン来い!を再開するかw
あれは、元々畿内説スレを乗っ取って、誰かが適当にスレ立てて
続けてきた正統派の何でもありスレwwだから気兼ねしなくていい。
123日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:09:29
>>100以降の突然の書き込みについては
「狂ってる」としか思えなかったがな。
124日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:13:07
>>123

神奈川県民にも虫の居所の悪いときはあるさ。
125日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:18:21
>>100
>終止符すれを奪い取った気でいるみたいだが、

たかが2ちゃんのスレタイごときで
何がそこまで彼を怒りたぎらせたのか? マジでわからん.

無視すべきなんかなあ
126日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:21:38
>>122
>畿内説スレを乗っ取って

そうゆう言葉を使うようではサイト利用をやめなさい!!!!!
貴方みたいな悪者にはサイト管理者もドン来い!のスレ主さんも
来てほしくないと思います。

追伸
ドン来い!等、人気スレの主さんは良識者でないと勤まりません。
初めは人気のないところから始まり目に見えない苦労を
超えて人が集まるようになるのです。 悪者は排除するのみ。
127日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:22:18
えーと、時間的に先に立ったこっちが本スレで良いのか?

仮に今までのスレが同じコテで立てられていようとスレは個人の物ではないし
逆に言えば終止符がうたれるまで同じコテがスレを立て続けねばならない義務を負い
そのコテがスレ立てを止めたらスレが終了ってことになっちまうからなw

…しかし太国は相変わらずのキチガイぶりだなw
最近のマイブームというか馬鹿の一つ覚えは「津田病」なのか?
アホの如く連呼しているようだがww
128日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:34:08
>>126
いやほんとうにあなたが何に怒ってるのか分からない
129日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:37:15
>>126
まあ、ドン来い!が7からなのは事実で
あのスレはよく荒れるがゆえに面白いのも事実ですね。

過去ログをみたら、終止符!は3で難升米さんが今回と同じように
スレを立てて、4時間後に神奈川県民さんが4を立てた以外は、
全部神奈川県民さん(改め)が立てていますね。

スレ主として交通整理もある程度やってきたから、ここは改めさんを
立てて上げても良いような気もします。
130日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:38:53
>>98
>コノハナサクヤヒメの神社がありますが
ひょっとして浅間神社かな?
もしそうならコノハナサクヤヒメが祭られたのは江戸時代あたりからだと言う…

まあ現存する神社の縁起なんかその殆どが記紀神話以後にあわせたもんなんだろうな。
八幡も応神と習合する前の原始ハチマン神とかがいたというし、東日本の古い神社の
末社にはアラハバキが祭られていたりするが…

邪馬台国の時代から変容せず祭られているってのは、まあ無いと言っても良いほどだと思うw



131正月○鹿:2008/01/27(日) 03:46:37
>>128
多分、私の書込みに怒ってるんでしょう。
質問・反論に全てレスするつもりでいたんで
更新せずに書き続けてたから「静止」が出ていたのに
気がつかなかっただけなんですけど。
結果とし無視したようになったので、それにキレたんでしょうね。

悪かったですね>怒りの主さん
132日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:49:46
>>129
悪者は排除するのみとかw
>>126のレスに限ってみても、
まともではないでしょう、この「終止符スレ主」氏。
みなさんがよしとするなら仕方ありませんが。
私もどっちでもよくなってきました
133日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:54:40
正月○鹿vs太国は噛み合ない議論とはいえ久々に面白かったんだがなー
134日本@名無史さん:2008/01/27(日) 05:22:06
>>133
いやいや、太国と噛み合ったら人生 オワタ\(^o^)/ だろ?w

てか欠史八代の事についてだけど、そもそも初代神武の「イワレビコ」なる名前が
飛鳥の近くの磐余(イワレ)の首長(彦=ヒコ)と言う意味で朝廷が飛鳥にあった
6世紀の性格を強くすると言う。

また欠史八代中5人にその名前に「日本」と言う文字が見えるが
国号としての正式使用は702年遣唐使の頃、中国側の記録だと10世紀の「旧唐書」が
その嚆矢だと聞くが…それらから考えてやはり少なくともそのまま実在した人物ではないのではないか?

無論、卑弥呼は誰か?の問いに対する有力候補、モモソの父親が孝霊だったりするから
何らかの意味があるんだろうが(例えば葛城王朝の記憶とか…)
135太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 06:59:22
>>93
>天皇制が確立してから・・・・・  ・・・・・
お前は支離滅裂だな。日本書紀が取りこまれどうのっていうのは、お前の言い分
ではないか? 余が言ったように言うんでない。天皇制が確立したときはすでに
地方の伝承は出来上がっている。だから記紀の編者らが畿内から遠隔の地方に
出向いて八代造作の文書偽造の神社全部の共犯者作るということは到底不可能
だということを、お前が遠回しに吐露したことになる?w

それに余は鬼がどうのなんぞ言ってはいない。余が孝靈伝承を出したその中に鬼
の話があるからと、余の論に無理やり糊塗し、入れこもうったってそうは行か
ない。まるで余独自で鬼がどうのと言ってるような論である。お前がそんな
ことをやるなら、お前も論じている卑弥呼も鬼道をやってるから余もお前の論
に鬼を挿入して撹乱してやってもいい?

お前は欠史八代を否定しないなら、疑念を抱くなどというのは自語相違ではない
か? つまりお前は牛馬というより、蝙蝠と獣のどっちだかはっきりしない弁明
をしているわけであり、これではまるでバットマンではないか? バットマン
なら八代存否の話し合いに余計な介入なんかするな。それにバットマン
どころではないぞ。お前は実在肯定でありながら疑わしいという実在否定の
いい加減なるデタラメなツーフェイスであり、これは支離滅裂というお前の豆脳
が両面宿禰式の精神状態にあることを意味する。こう云われても過言ではない。
お前こそ両刀使いという矛盾の大王であるわけだ。www
136太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 07:26:31
>>134
国号の正式使用は702年遣唐使の頃
お前も短絡的結論だな。桃栗三年柿八年とか言われるが、お前のそれは甘柿の
成ったころであり、柿の木はそれ以前から存在する。日本という国号の前に日本
という名の人物がいてもおかしくはない。お前たちはいつも出来上がった時のみ
のことばかりで事を決めこんでしまう。考古の検証をやる奴もこういう連中が
多いんではなかろうか? それは止むを得ない面もあろうが、国号成立の日から
日本という語があったとするのは大間違い。バットマン兼ツーフェイスの正月○鹿
も、こういう結論が大好きであり、大きく事を誤りやすい天才だ。ww
137日本@名無史さん:2008/01/27(日) 10:24:27
>>131>>136
今すぐGO!
 ↓
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1196549436/l50


 〜 糸冬 子 〜
138古代:2008/01/27(日) 10:57:43
名前から考えれば、実際のところは難しいですが、何人か架空で、何人か実在している感じではないですか?
欠史八代は畿内の有力氏族の娘を娶っているので、架空であるとするとその結びつきが全て崩れてしまいます。
ゆえに、天武朝は、畿内の諸氏族の力が強かったために、天皇偽作の際に、それらの氏族と天皇家が古くからかかわりのあるように見せかけたかった、という説が出てきます。

記紀編纂には藤原不比等が大きく関わっていたと考えられている。
ここで注目したいのは不比等の娘宮子が文武帝に入内していることである。
宮子の母は賀茂比売。賀茂氏出身である。欠史八代には賀茂氏の后妃が多い。
不比等が宮子を入内させるに当たって前例を作りたかったという意図があったのかもしれない。

139日本@名無史さん:2008/01/27(日) 11:18:54
むしろ、天皇のほうが日本にあった古代宗教にすり寄った感がある。
でなけりゃ、日本という国は支配できない。
140日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:35:40
>>136 太国 ◆yVAs7uaYlY
いつもの太国センセイの電波理論だな。
つか理論と言えるほど中身が無いんだがw

まあ単語として「日本」がその702年に初めてできたなんて言ってないし
それ故に「正式国号としての使用」と断っているんだが

反論するなら日本と言う文字が記された記録で(例えば木簡とか)
もっと古い物を挙げてもらいたいんだが…

下らないケチレス以下の戯言ほざかれてもねえwww
141日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:51:52
>>102
>神名を考察すると全くの別神格で後世の付会のようにも思えます。

どんな考察なのか分からないので何とも言えないですね。
ただ、津田左右吉や直木孝次郎のような考察は初めに結論ありきでダメだと思います。

>>130
浅間神社はそれ自体が新しい感じもしますね。
サクヤヒメはホノニニギの妻で「ホ」が「火」に転じて、後世に火にまつわる逸話として
完成したのでしょう。この観点から元々の「ホノ」の部分はより古い伝承で本来は
火とは関係ないと考えられます。
『日本の神話・伝説を読む』(佐佐木隆)は、元の伝承が膨らんでいく過程を考察して
いますが、津田や直木よりもまずこの方向性で考えた方が良いですね。
142太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 14:55:56
>>140
記であろう紙であろとかまわんだろう。記紀に載ってるよ。これが文証だ。それ
を覆したいかっこう理屈が偽書とか架空とかで、恣意的に糊塗すればいい。それ
がお前。だが無いという資料根拠からの理屈がなく、上っ面の理屈をつけて否定
をしてるわけだが、それがお前の得意技ではないか。ww 記紀を覆す当時の文証
をお前も出せよ。阿礼と舎人も古史古伝も八代の実在を言っている。神武以降は
書いてあることは大同小異で変わらない。お前と阿礼、舎人と三者の言い分を聞く
にお前のは要求ばかりで否定の資料が○でない。たとえば当時の記録で阿礼とか
舎人が文書偽造をやったとかのそういうものをもお前も出さにゃぁならん
だろう?w それにだ、日本根子の名のついてない天皇ばかりで阿礼らのウソ
だとの木簡も見せてもらいたい。それがお前も無ければお前の話はお前の豆脳の
短絡的な思考にしかすぎない。

何も欠史八代だけじゃない。後代の清寧だって白髪の日本根子といい、名自体が
木簡の始原の木の根っこである。柿とは書いてないがねぇ? 次代は顯宗だ。
これの実在は梁書に書かれてあるから、前代の大日本根子がデタラメとは考え
にくく、なおさらお前の言い分は壊滅する。
143太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 15:01:18
>>140
日本根子の書かれている古文献

古事記 日本書紀 旧事紀 古史古伝

このようにうんとある。皆在るとの回答だ。無いとの回答のは無い。

日本根子という人の存在はウソ、架空だと書かれた古文献

  無  wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
144太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 15:06:56
>>140

>>143を見れば、木簡を出せというのはこちらに言うセリフなんだよ。wwwww
145日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:11:47
>>140
>記であろう紙であろとかまわんだろう。記紀に載ってるよ。これが文証だ。

だからその記紀の記述の真偽云々を論じている時に記紀を証拠として出してどうする?
って話が何故理解できないのか?このアホはw

まあキチガイ太国は話にならないのは分かっている事で
他の誰でも言いから「日本」なる言葉が何時頃で来たか知っている人が居たら教えて欲しい。

一説には今の東大阪に「日下」なる地名がありそれがヒノモト→ニホンに変化したとか聞いたことがあるけどw
146日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:23:05
記紀の記述がややこしいのは8世紀頃の政治状況のみで書かれているんじゃないと言う事じゃないかな?
もしそうなら8世紀頃の政治状況だけを見ればその真偽が容易に分かると思うし…

日本書紀みたいに「一書に曰く…」と異なる伝承をそのまま載せているのは同時代にあまり例がないと言うし…

恐らく各時代で作られた話とかをそのまんま載せちゃった感が強いw

欠史八代の伝承が崇神の伝承より新しいモノだと言う可能性は多分にあるんじゃない?w
147日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:42:59
一度記録に残せば、たとえそれが捏造であっても、数百年後には
もはやそれを覆す証拠がなくなることをよく知っていた渡来系の知
識人を優遇し、文字として記録することを学んだ大和朝廷が賢かった
ということだ。
記紀の事実を覆そうとしても、最初から負け戦。すでに時遅しです。
148日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:53:25
しかも、大和朝廷は、強権による移住策をとって蝦夷や浮囚を防人
や開拓民として移したり、地域豪族を解体して郡や郷に分け、一部を
渡来系豪族に与えるなど権力集中を防ぐとともに、渡来人と古日本人
の人種の混血、融和を進めた。
その結果、もはや、大和朝廷を作ったの渡来人が連れてきた渡来人
だけを排除しようにもできなくなっているわけです。
朝鮮人はうざいとほざいている当人も朝鮮人の血が混じっているわ
けですから。
相手が悪すぎたとあきらめるしかない。
149太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 16:24:08
>>145
お前の言い草の真偽云々が先ではないか。w お前の言う阿礼、舎人らの説明の
八代がイカサマ記述をしたという木簡とか古文献を早く出してくれよ。こちらの
がわんさかあってお前のほうは皆目0行進では得点にはならない。そうでないと、
お前の主張は暖簾に腕押しの無文献主張であり、お前の豆脳の短絡さが日に
映えるのだ。www
150日本@名無史さん:2008/01/27(日) 16:59:38
>>147
いや、そう言うある種の「悪意」と言うよりは「無頓着」「おおらかさ」なんじゃあるまいか?w

徹底して恣意的な改竄を試みたのならもっと整合性のある筋書きになっていると思うww
151太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 17:01:42
>>145
梁書巻五十四 列伝第四十八
 扶桑国、齋の永元元年、其の国の沙門慧深有り、来りて荊州に至り、説いて
 云う。『扶桑(=日本)は大漢国の東二万余里在り、地は中国の東に在り
 ・・・文字有り、扶桑の皮を以て紙と為す。・・・・・
 国王を名づけて乙祁(袁祁=顯宗天皇)と為し、・・・三年国事を視ず・・・』

このように清寧(白髪の大日本根子尊)の次代の顯宗天皇の記録がある。しかも
「乙」の漢字から兄の仁賢ではなく弟天皇だということが明解にわかる。

隅田八幡宮の人物画像鏡の銘文

 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時 云々・・・・・

は、上のとおりである。ここで男弟王とは繼體オホド王だと言われているが、
『弟』の漢字から弟天皇の顯宗(乙祁)の可能性が強まる。後者が真であると
して、じゃぁ【日十大王】とは誰か?ということになる? 大王とあるから、
畿内周辺で考えると、もうこれは天皇としか云えない。ではどの天皇なのか?と
想えば、「十大」とは『本』の字の分離であって、実は日十大王とは日本王の
示唆だということが解るのだ。つまりだ顯宗あたりの天皇で日本号がつくのは
白髪の大日本根子尊以外にはいない。つまり大日本根子とは清寧天皇であるから
して、日十大王とは清寧であり、この鏡の漢字のトリックが見えてくるのである。
このように隅田八幡の鏡の漢字銘文に。ちゃんと『日本』の字を分離して隠して
刻字しておる。

つまり短絡的豆脳所有者>>140の要求の木簡以上の金属製の物の漢字は堅牢で
あり、大いに『日本』字の存在の堅牢な物証となる。wwwwwwwwwwww
152日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:31:09
この扶桑国なるものがまたゲテモノ。
中国が日本をいかに知らなかったことの証明ともいえる。
153日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:34:09
>>150まさか、1200年も経ってから検証を受けようとは夢にも思っていなかったことは確かです。
そのころは、まあ、この程度ならばれないだろうと高とくくっていたのではないでしょうか。
お役人の仕事というのは、昔も今もそんなものですよ。
154日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:38:49
>>152
> この扶桑国なるものがまたゲテモノ。
> 中国が日本をいかに知らなかったことの証明ともいえる。

扶桑国ってのは日本のことじゃないよ。

文身國在倭國東北七千餘里
大漢國在文身國東五千餘里
扶桑在大漢國東二萬餘里

倭國からさらに32000里東に行ったところとされている。
155日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:40:55
>>154メキシコだって話でしょう?おめでたいな>扶桑国
156日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:45:02
そんなことくらいじゃ犬国には通用しないw
157太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 17:46:41
>>156
なんだお前だろ? 木簡を出せと云ったのは?? wwwwww
158太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 17:51:06
>>152
こいつのいうのもイカサマの糊塗のみで話がストップ。www
小奴何も手持ちが無いんだよ。ただゲテモノと云うだけで根拠も何も
書いてない。www こういうことは餓鬼でも云える。www
159日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:59:45
>梁書巻五十四 列伝第四十八
> 扶桑国、齋の永元元年、其の国の沙門慧深有り、来りて荊州に至り、説いて
> 云う。『扶桑(=日本)は大漢国の東二万余里在り、地は中国の東に在り
> ・・・文字有り、扶桑の皮を以て紙と為す。・・・・・
> 国王を名づけて乙祁(袁祁=顯宗天皇)と為し、・・・三年国事を視ず・・・』
> このように清寧(白髪の大日本根子尊)の次代の顯宗天皇の記録がある。しかも
> 「乙」の漢字から兄の仁賢ではなく弟天皇だということが明解にわかる。

太国はどっかのトンデモWEBページの断片だけ読んで
信じ込んでたネタをあっさり否定されたので涙目状態です。
160日本@名無史さん:2008/01/27(日) 18:06:31
>>151
梁書巻五十四 列伝第四十八 には何の罪もありません。ただ、

> 云う。『扶桑(=日本)は大漢国の東二万余里在り、地は中国の東に在り
            ↑
このカッコ書きは誰がつけたんでしょうね?
それがゲテモノだと言っているだけの話です。
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 18:10:25
>>159
ははっ、くやしい訳だ。もっと泣け。えんえ〜んとな。wwwww

この文は以前に某古代史研究者が発表したのを贋作と強行主張した奴がいたそう
だ。そいつは自説が成立しなくなるんだろう、無理やりにもイカサマ文との糊塗
をやっらしい。つまりそいつは自説の間違いにま〜だ気がつかなかったわけさ。

この文があると奴の説は負けになる。そこでゴリ押しでも贋作の糊塗を謀って
息をつないだわけさ。www だが客観的に考えればそいつの説はデタラメ
なる証拠の厳粛な文証なんだよ。それでもお前もそうだろうが、ま〜だ目が覚め
ないわけなのさ。w そろそろお前も念愚の汚覚め時が来たわけだ。wwwww
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 18:17:38
>>160
それは余がつけたわけだよ。原文にイコールがあるか? 当たり前だ。ww
お前が面食らうことのないようつけた注釈だよ、扶桑自体がメキシコかどうか
はこの際大したことではない。じゃぁ聞くが、乙祁というのはどういうメキシコ
人なんだ?? それを出してからモノを云え。それでゲテモノになるのか?
笑わせるな。誰も注釈できなくなるわ。
どうせお前もあとは何も無いんだろう?? 餓鬼でもお前の反論はできる。
そんな反論こそ虚無なゲテモノだろうが?
もっと大人になるんだな。www www
163日本@名無史さん:2008/01/27(日) 18:20:48
>>161

>扶桑(=日本)は大漢国の東二万余里在り、

大漢國はどこにあるのw

そうやって、何時までも見えない振りを続けているのって、
傍から見てるととても哀れだよ。
164太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 18:32:16
>>163
哀れなのはお前のほうだろうが。www

大漢国のほうは罪が無いだろう? 無いほうを聞いてもしようがない訳だ
よ。在るとお前の言うほうは余に論破されたから、今度はお前が言う罪の
ないという方向で文句を云ってるわけだ。そんなら最初から罪がないなど
と云うな。お前もそこの文がゲテモノと云う自身があるんだから、相当
の資料を持ってるんだろう? そいつを出さないで大漢のほうの日本で
ないあさって話に大風呂敷を広げるということはだ、お前には全く持ち駒
の無い手詰まり状態だということがよく読める。
くやしかったら、反対してる文献、資料等を出して云って来い。将棋の話
をしてオセロの話に転向して反論しても、お前の史容疑の負けは負け。w

ははっは、泣いてやるよ。泣き屋になってやろうか?wwwwwwww
165プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 18:55:43
『どなたか教えてください』

万葉集に書かれている

「山跡乃國者」 →「ヤマトノクニハ」
「八間跡能國者」→「ヤマトノクニハ」

この仮名読み
『跡』を(ト)と何故読むのかは分かったんですが、どうしても
『者』を(ハ)と読む理由が分かりません。

どなたかご存知方、教えてください。   お願いします。
166日本@名無史さん:2008/01/27(日) 18:57:32
で、キチガイ太国尊師の火病は絶好調のようだが(苦笑

結局文字として「日本」と言うのが出てくるのはいつの時代なんだ?

まあこの邪馬台国ヲタなら知っている話なんだろうが
「新唐書」「旧唐書」には
「倭国の東にあった小国日本が倭国を併合した」って書かれているんだよね?

これを素直に受け取れば九州説が有利っぽい気がするけどwww
167日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:23:21
>>165

「者」

漢文の用法で、一定の状態や事物を示すときに使われることがある。
日本語では適当な訳語が無いが、意味的には題目であることを示す
格助詞の「は」に近い。
用法的に近いので「は」と訓読するようになったと言われている。
音借では無い。
168日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:29:59
どなたかためになる邪馬台国のスレたてていただけませんでしょうか。
169日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:33:34
>>164

もう一回見てみろ。

文身國在倭國東北七千餘里
大漢國在文身國東五千餘里
扶桑在大漢國東二萬餘里

倭國>東北七千餘里文身國>東五千餘里大漢國>東二萬餘里扶桑

これが梁書の記事だろう。
扶桑(=日本)なんてどこから出てくるんだよw
何度も何度も意味のワカランこと書きなぐってりゃ
誤魔化せるって本気で思ってるのかwww
他人からみたら、己のアフォさを連呼しまくってるとしか見えないんだよ。
もう、ホントに哀れむよ。
170日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:36:20
>>165
ようするに、「者」の中国音に「もの」は無いでしょう。
「者」と同じ意味の大和言葉の「もの」を「者」に結びつけたのです。それが訓読み。
漢文の「者」には、大和言葉の「もの」とは別に、主語を表す助詞の「は」に近い意味がある。
だから、「者」と大和言葉の「は」を結びつけたのです。いわば訓読みです。
ところが、平仮名・片仮名が定着すると、助詞には漢字を当てなくなったので、
「者」の訓読みに「は」が残らなかったと言うわけでしょう。
171日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:49:59
>>166

>結局文字として「日本」と言うのが出てくるのはいつの時代なんだ

文献として残っているので確かなのは万葉集。

山部赤人の歌を例にすると

なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 
出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 
飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち
降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず
くすしくも います神かも 石花の海と 名づけてあるも 
その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも 
その山の 水のたぎちぞ 「日本(ひのもと)の大和の国」の 鎮めとも 
います神かも 宝とも なれる山かも
駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

ただ、これは国号としての日本(和訓はヤマト)ではなく
大和の国にかかる枕詞としての日本(ひのもと)だけど。
172日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:53:29
>>151 犬国
>想えば、「十大」とは『本』の字の分離であって

……でなんで「日本」を「日十大」なんて暗号化せにゃならんの?

やっぱ犬国センセイのレベルで無いと分からないオカルト的秘事があるんでしょうか?www

173プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 19:53:34
>>167さん
>>170さん
ありがとうございます。


こう言う事でしょうか?

我者・吾者

我は・吾は
と言う関係から
174日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:55:18
犬国は自棄酒呑みに出かけちまったのかな?
今宵はたくさん呑めそうな気分になれて、
これはこれで御本人も満足したんだろうなw
175166:2008/01/27(日) 20:34:38
>>171
サンクス。

「大和の国にかかる枕詞」かあ、、
やっぱ大和つか三輪辺り(元々大和は奈良盆地全体を指す言葉じゃなかった)
で太陽信仰があった名残なのかな?

176日本@名無史さん:2008/01/27(日) 20:47:30
犬国=太国ただのバカ。もうくるな。よそで一瞬で論破されたの、よんだぞ。WWWWW
177太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 20:49:04
>>166
神武以降の話をすればいいことだよ。それ以前のことはこちらもお前の豆脳も
知りやしない。とにかく神日本磐余彦から日本という漢字が使われていること
は記紀等から確かだ。なぜか? 簡単だ。お前のほうは反論する独自の提出
古文献がなにもない。www ハハッ! 今後も出せまいがねぇ?www
いまのところ出せ出せといってるのだが、お前のほうは出したためしが有りの
脳みそよりも分量が無い。これではお前の脳は蟻の脳の量といい勝負だぞ。w
178166:2008/01/27(日) 21:01:59
>>177 キチガイ太国尊師
>とにかく神日本磐余彦から日本という漢字が使われていること
>は記紀等から確かだ。

正確には
「記紀に日本という漢字が使われていることは確かだ」だな。

悪いがこっちはお前のように宗教の如く記紀を崇めているわけじゃないんでw

無論、その可能性を完全に廃している訳ではないが状況から考えて
かなり懐疑的と言うか否定的にならざるを得ない。
179太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 21:03:37
>>169
フ〜ン。じゃぁどこからメキシコ国王いうことが出てくるんだ。出てこないのは
お前の持ち駒でなければならない反梁書の文献よ。そこにだ、扶桑がお前の別荘
だとか墓場だとかいう事が論じられてるならこっちも折れてもいいが根ぇ〜。w

乙祁国王は古代メキシコの国王なのか〜〜?ならば古代マヤの王だとお前は遠回
しに言ってることとなる。アハウ王というマヤ王がいたからオック王か〜?w
古代メキシコとほざくならオックの意味くらいはわかるだろうが??ww

メキシコだとの何の理由が存在するのか、お前は全然言わず、根子の遠吠えのw
笑い話がお前の本領ではないかぁ?ww そんなら喜劇のスレでも行け。
180古代:2008/01/27(日) 21:04:23
日本というのが使われたのは聖徳太子の遣隋使の時ではなかったっけ?
倭というのは大人しく従うというような意味であるので、この字を嫌って和という字が当てられたりしたのだが、
遣隋使派遣の折にはそれまでの朝貢外交をやめて対等外交に路線変更した。
よって国号も倭や和ではなく日本という字に変えた。というような話だった気がする
181太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 21:05:07
>>178
だからお前は津田猫の末期なわけだ。wwwwwwwwwwwwwwwww
182太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 21:09:14
津田猫も末期となると、haha! もう救いようがないぞ。ww
若日本根子でもニャ王と泣くのか?? 否否、無くのか〜〜?wwww
183日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:33:47
太国が必死すぎて精神崩壊してるぞwww
184日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:38:57
まあ所謂「倭の五王」が河内の大王であるのは
(それぞれどの大王に対応するかの違いはあっても)
ほぼ間違い無いんだから「倭」の範疇に畿内が入っていても不思議は無いのかな?

しかし半島大陸に近い九州をそれから外す事は無いだろうから
九州を平定していないヤマト王権を倭の王に任ずることは無いか?

仮にヤマトが九州のどの連合勢力より強大であっても半島に近い九州の方が軍事的政治的には重要な気がする。
185太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 21:41:58
>>184
間違いだな。倭の五王は九州の分立してた小国の王だよ。
186169:2008/01/27(日) 21:43:06
>>179

俺は「メキシコ国王」なんて一言も言ってない。
しかし、お前は扶桑=日本と書いた。
誤魔化すんじゃないよ。

今なら、「妄言でした、正しい知識を与えていただきありがとうございました」
くらいの返事があれば許してあげないこともないがなw
どうだ?改心するか?
187日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:49:53
>183
>185
注意されてもまだわからんのか?
188日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:51:30
スレも12なので、できるだけ外出の話題を避けて新しいネタふりを試みてみるがw

みんな何気に「女王国」なんて言っているが
戦乱の中で女王を共立するなんてのはやはり日本史の中でも奇観としか言い様が無いんじゃないのか?

無論、後世に推古女帝とか出るわけだがそれなら畿内説に歩がある気もする。
その推古も遣隋使の時には女帝であることを秘したという話もあるし…

半島大陸の影響を強く受けた九州は女王共立という点では逆に不利なのでは?
むしろそれは文化的後進地域・新興地域のヤマトの方が有利な気がしないでもない。

「倭国王の師升等(ら)」とあるように群雄割拠の九州では連合を組む事になれていた
少なくとも前例はあるわけだし…
(師升等を一人の人名とする説もあるのは知っているが)

まあ傍証のそのまた傍証程度の話ではあるがwww
189日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:56:50
太国!負けるな。お前を応援しているぞ!ガンばれ、ちょっとおされているぞ!
190日本@名無史さん:2008/01/27(日) 22:03:52
以前、プがこういった状況に陥ったとき太国がアドバイスしていたのを見たことがある。
何でも相手の指摘は一切無視して、見当はずれなことをテキトーに書いていればい、
みたいなこといってたがw
今日は、その手法も全く効果が無いみたいだなwwwww
191日本@名無史さん:2008/01/27(日) 22:10:07
やっぱりこっちは、2軍のばったもんスレだなw
192日本@名無史さん:2008/01/27(日) 22:12:54
いっそスレを畿内説と九州説に分けたら?w

勿論、犬国センセイ他オールスター軍団が九州説に集合っつう事になるんだろうがwww
193日本@名無史さん:2008/01/27(日) 22:16:31
サガミ、プラム、ですがの諸先生方も太国だけは引き受けがたいだろう。
194プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 22:45:27
>>184

>まあ所謂「倭の五王」が河内の大王であるのは
(それぞれどの大王に対応するかの違いはあっても)
ほぼ間違い無いんだから「倭」の範疇に畿内が入っていても不思議は無いのかな?


その「倭」とは、外交記事的な「倭」?  それとも地理記事的な「倭」?
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 22:58:30
>>186
何、俺は言ってないって〜?無コテの夜逃げは結構だよ。どこにお前
じゃないという証拠があるのかい? お前が扶桑をつつくならあれは
お前だと言うのを強く主張するのはいくらでも出来る。ww
それに自作自演も無コテなら作戦できる。 だれがそんなことを信用
するか? お前くらいのもんだろう。ww
196プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 23:05:49
>>193

>サガミ、プラム、ですがの諸先生方も太国だけは引き受けがたいだろう

太国さんとは畑が全く違いますから、引き受けるも引き受けないもありません。
ただ
このくらいで凹む太国さんではないことは確かです。
197太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 23:06:13
>>178
>宗教の如く記紀を崇めているわけじゃあない
そんじゃ倭人伝のほうは宗教を崇めるのか? 卑弥呼は鬼道を
やってたんだよ。中国の古文献は崇めるのか? ならば随分恣意的
だぞ。お前そうなると中国人か〜??
198:2008/01/27(日) 23:11:07
>>190
お前もいい加減な野郎だな。プラム氏にアドバイスは確かにしたが、
そんな適当とか云々など書きこんだ覚えはない。ふざけるな。
199太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 23:19:14
根拠、資料、文献も出ない反論野郎に限って、キチガイとかデンパ
だとかを多用するようだ。毎回来て、こういう言い草の野郎がいる。
論を持ってないからキチガイ、デンパの語で反論したように見せかけ
撹乱を企む。奴には何の論説もない。要求ばかりは多大だよ。

200プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 23:26:03
>>199太国さん


>根拠、資料、文献も出ない反論野郎に限って、キチガイとかデンパ
だとかを多用するようだ。毎回来て、こういう言い草の野郎がいる。
論を持ってないからキチガイ、デンパの語で反論したように見せかけ
撹乱を企む。奴には何の論説もない。要求ばかりは多大だよ。


納得。
自分の意見を持っている人は自分の主張を優先しますから、当然キチガイ、デンパの語
などという語は最初から出てきません。
201日本@名無史さん:2008/01/27(日) 23:34:07
>>188
九州は女王が多かったと思う。たとえば、日本書紀の景行天皇のところにも
何人も女王らしき人物が出てくる。
大分県の速津媛(はやつひめ)、宮崎県南部の諸県君泉媛(もろかたのきみ
いずみひめ)。福岡県の八女津媛(やめつひめ)など。

実際に大きな古墳に女性一人が葬られたものもあるから。
202日本@名無史さん:2008/01/27(日) 23:34:13
>>188
何か今日はにぎやかですね。

>戦乱の中で女王を共立するなんて
この戦乱は別系統の王のいる国の戦いではなくて、一つの国の中の
王族同士の覇権争いと見てはどうでしょうか。
のちの時代でも王族(皇族)は継承者争いを繰り返しています。

この考えでは、熾烈化する継承者争いを治めるために、宗教的なシンボルとして
卑弥呼が共立されたという見方が出来ます。
狭い九州の全土に奴国の支配がいったん及び、その後各地に派遣された王族が
継承者として争う状態になったのではないかと見ています。
203太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 23:40:54
>>200 プラムさん
そういうことなんですよ。この野郎はここらの関連スレのガン細胞の
ような奴で、こいつが有コテハンを全部キチガイ、デンパに仕立て
あげるトンデモ野郎ですよ。貴殿もかなりやられているはずですよ。
元凶はかやつですからね。奴には強圧をかけたほうがいいです。
204プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 23:46:54
>>203太国さん

多分?かなり以前からの常駐者ですね
205太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 23:55:07
>>204
そのようです。毎回書きこんでキチガイとか多発して、こちらを疲れ
させるひどい野郎です。有コテが束になって毎回あいつに多方から
一気に突つき挙げて締め上げたほうがいいです。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
206日本@名無史さん:2008/01/27(日) 23:57:38
犬国ちゃん、ついに泣きが入って他のコテに共闘を依頼中www

207日本@名無史さん:2008/01/28(月) 00:03:56
しかしこの太国ってコテ、紀以外に「日本」の記述と聞かれて
何故か「扶桑」を日本と読ませたり、「日十大」を日本と読ませたり、、、

いくら2ちゃんでも、そりゃアホだ馬鹿だキチガイだと言われても仕方ないのでは?w
208日本@名無史さん:2008/01/28(月) 00:33:16
>>197
>卑弥呼は鬼道をやってたんだよ。
正確には卑弥呼がやっていた祭祀やらを魏の使者が鬼道と称しただけだろう?

つうかお前はその「鬼道」なるものがどんなものか具体的に知ってるの?w
209古代:2008/01/28(月) 00:51:38
横からですが、卑弥呼の鬼道について
「後漢書」では「鬼神の道を事とし・・」とあります。中国で鬼神とは祖先霊の事とされます。
さらに「魏志」馬韓の条に鬼神の説明があります。
「田に種をまき鬼神(祖先)を祀る。群集歌舞し酒を飲み〜・・・農事を終え、同じ祭りをする」
「国は鬼神を信じ、一人を立て、天神をまつらしむ、この巫を天君という」
210こっちのスレの208:2008/01/28(月) 01:00:00
>>209
いや俺が聞いて知っていたのもそう言う内容だった。
(そこまで詳しく知っていたわけじゃないけど…)

この場合の「鬼」と言うのは現在の「鬼籍」の「鬼」に近いのかな?

せっかく犬国のトンデモ説が聞けると期待していたのにwww

…しかしやっぱスレどっちかに統一した方が良いのかねえ?
211古代:2008/01/28(月) 01:10:25
そもそも鬼は死人のことのようですね。で、鬼神は死人神で祖先神。氏神のことかな。
日本で言うならば鬼神=モノですね。
212日本@名無史さん:2008/01/28(月) 01:16:06
スレが立てられないというから、立てただけのことだろう。
2ちゃんでは、「すまん、俺はスレが立てられなかった。代わりに誰か頼む」
というのが普通で、「俺が立てるまで誰も立てるな」という方が異常だと思う。

まして、スレ立てた人を悪者呼ばわりするのは間違っている。

もっとも、並立するのは、分散するのでどちらかを優先し、使い切ったところで
もう一方に移るというのは賛成だが。
213日本@名無史さん:2008/01/28(月) 01:29:52
しかし卑弥呼のお仕事が先祖供養なら、都市の中に前方後円墳があった纏向は
ある意味打って付けとか?w

>>212
しかしこのスレの住人ってそう言った 汎2ちゃん的ルール(?w) を持ち合わせて居ない香具師って多い希ガスwwwww

214太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/28(月) 07:37:29
>>172
オカルトの有無はいまのとこと必要ないだろう。そういうこともあるかも知れ
ない?オカルトの有無より、お前の豆脳内の資料の有無の関心のほうが十用だ。w
>>206
どうせお前も資料、根拠等は持ってないんだろう? スレから無きゃぁ消えろ。

>>207
キチガイと云う奴は資料、根拠の持ち駒がない証拠。何も持ってないから
キチガイの語でカバーしてるわけだ。つまり・・・ハハッ wwwwwwww

キチガイの語を書きこみに入れる=無能の論説<豆脳<有りの脳ミソ

フ〜ン、お前は他に何もトリエがないわけだなぁ〜。wwwww
中身が無いんじゃぁ〜お前蟻と相談しろ。お前はノー無しか〜〜??w
215日本@名無史さん:2008/01/28(月) 09:11:24
>太国sann
ある意味スレは盛り上がるんだろうけど
もう相手にしないほうがよいのでは?
はたで見てるほうもいい気持ちはしないし
発言もしにくいので。
216太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/28(月) 09:54:31
>>160
なんだこれは?

 日
  ↑

この矢印は誰がつけたのか?? 日の字はカッコか??
これでは意味不明の増幅文であり、お前、日増しに荒唐無稽になって来ているな。
217日本@名無史さん:2008/01/28(月) 10:19:42
荒れすぎ。子供のケンカ以下。もう、来るのよすよ。読む気もしなくなった
218日本@名無史さん:2008/01/28(月) 12:35:43
NGワードに 太国登録したら
やたら あぼーん が増えててワロタwww
219古代:2008/01/28(月) 12:42:26
213
田に種をまき鬼神(祖先)を祀る。群集歌舞し酒を飲み〜との記述を見るとこれは祭りのことで、ただの先祖供養というか
田植えを中心とした年中行事を仕切っていたとも考えられます。
馬韓と日本を一緒に考えるのはどうかというのもあると思いますが、田植えの時に歌を歌ったりという風習は日本にも見ることが出来るし似た感じではなかったかと連想させます。
天神と鬼神が登場するのも面白いと思いますね。賀茂氏が事代主を神としながらヤタガラスを氏神として祀っていた(事代主もある意味先祖だけど)のに似ています。

220唐松山:2008/01/28(月) 17:38:34
卑弥呼が 仕えていた神が 治り神 として
書記の 石っころを ホツマで読むと

書記
天皇初將討賊、次于柏峡大野。其野有石。長六尺、廣三尺、厚一 尺五寸。天皇祈之曰「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而擧焉。」因蹶之。則如柏上於大虚。故號其石、曰蹈石也。是時、祷神 、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。○
ホツマ
ホ38167 そのハジメ カシハヲノイシ ながさムタ はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり
とびあがる かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ


柏、王の地 長峡縣 刀自三度篤さ 一度息 天皇祈 とびあがる。
彼、住吉治り神 両刃の社 新に建て 是、祀らしむ。

ここまで 曲げて読んでは だめか?
221古代:2008/01/28(月) 19:18:10
志我~は志賀海神社とするのが通説で、住吉三神と綿津見三神がご祭神。
222日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:44:44
志賀海神社のご祭神に住吉三神がはいっているのですか。知りませんでした。
223九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/28(月) 20:50:35
224日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:54:12
志賀海神社を検索したがどこにも祭神が住吉三神だとかいているのがみつからない。
どこにかいてあるのか教えてほしい。
225唐松山:2008/01/28(月) 21:06:45
志我~は海神で 良いのか?

ミ07003 ツキスミの シガノミコトが  ヱトのカミ
226古代:2008/01/28(月) 21:14:07
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki17.htm
確かに志賀海神社の説明には出てきませんね。
227唐松山:2008/01/28(月) 21:33:28
ホ05086 ツクシアワキの ミソキニハ ナカカワにうむ ソコツツオ つぎナカツツオ
ウハツツオ これカナサキに まつらしむ またアツカワに
ソコとナカ カミワタツミの ミカミうむ これムナカタに
まつらしむ またシガウミに シマツヒコ つぎヲキツヒコ
シガノカミ これはアヅミに まつらしむ

志賀海神社は 安曇か?

228古代:2008/01/29(火) 00:25:27
志賀海神社は安曇氏が奉斎する
229日本@名無史さん:2008/01/29(火) 01:23:59
卑弥呼の行った鬼道が祖霊を祭ったものである為、中国のの人間から鬼道に分類されたものであるのか?
それとも中国で行われていた道教的なものであるのか?
…前者後者で随分卑弥呼のイメージが違ってくるなw

もし後者の立場を取るのなら、弥生末期から古墳時代前期にかけての
畿内を中心とした神獣鏡ブームwと言うのがバックグラウンドとして浮かび上がってくるwww

中国じゃあ神獣鏡以外にも方格規矩鏡、獣首鏡、双頭龍文鏡etc…多種多様の鏡があり
日本で特に神獣鏡が流行ったのは神仙思想が持て囃されたからだろう。

で、そのブームの中心に卑弥呼がいたとw

まあどちらかと言えば畿内説に有利な話かな?w
230日本@名無史さん:2008/01/29(火) 03:33:25
隅田八幡宮の人物画像鏡の銘文 で、
>「十大」とは『本』の字の分離であって、実は日十大王とは日本王の
示唆
云々との説が上のほうでありましたが、そもそもこれは誰の説なんでしょうか?
勉強不足ですみません。
231日本@名無史さん:2008/01/29(火) 04:11:00
倭人伝の「鬼道」と
論語の「鬼神を敬して遠ざく」の鬼とは
まったく違うものなのか?
232日本@名無史さん:2008/01/29(火) 06:45:04
>>91
>やっぱりこっちは、2軍のばったもんスレだなw
2軍でいいから、こちらじゃ広く穏やかに意見交わしあえるスレで。
素朴な疑問も地道ん議論できるような方向で。
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 07:44:46
>>230
隅田八幡鏡の銘文の「日十大王」というのは、いろいろ考えてみたが、先述の
とおり大王は畿内では天皇以外には考えられないと観た。すると日十という名の
天皇がいなければならないが、そういう方はいないようである? じゃぁ他に
大王が畿内にいたことになるが、畿内にいれば朝廷との交易か葛藤記録がなけれ
ばならないから、倭人伝の男王としか言えなくなってくるが、卑弥呼は九州に
間違いないことから、記紀にも合理的に合致する卑弥呼等の記述がないことで
畿内に女王とその男王の存在は否定すべきであって、ならば日十という天皇が
必ずいたことになる。それでは何者かと熟考したが、これは何か刻んだ者がウラ
で隠して言うたい何らかの暗号的銘文なんだろうという結論なのである。

>>172はオカルトだと否定的説明だが、そいつは卑弥呼の鬼道はオカルトでないと
遠回しに否定したことになり、これはおかしな奴のオカルト拒絶である。自己の
信仰にするとかそういうこととは別であり、一緒くたにするからかやつのような
オカルトだとかで否定に回るのだろう? 卑弥呼もオカルト鬼道をやってるん
だから、自己の信仰とかの考えにする必要もない。それでも拒絶するなら、
卑弥呼の鬼道はオカルトだから、このスレに来る自体が>>172の矛盾である。
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 07:58:32
>>230 >>233 続き
この前TVで知ったが江戸時代、と金の将棋駒の看板の店は質屋の遠回しの表示だ
そうで、同時代もこういう粋な説明をやるらしく、昔の中国人はよく漢字の分解
遊びで漢詩を作ったりするようである。稲荷山鉄剣もこんな暗号めいた銘文を
やってると観ている。

そういうことで 「日」+『十』+『大』= 日本 として、右辺は示唆した、
当時、銘文を刻んだ者の遠回しの『日本』という意味の隠し語と観るべきだと
それがしは考えてみた。しかしこんなことはもう誰かが見破っているかも知れ
ない? それは誰だかは知らない?

以上から男弟王らしい乙祁(=顯宗)のころにこれに合致する天皇と言えば、
白髪の大日本根子たる清寧天皇とするのが至当ではなかろうか? 拙者はそう
観ているのである。
235日本@名無史さん:2008/01/29(火) 09:24:54
>>233-234
ありがとうございました。
むしろ新説ですね。
236太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 11:09:15
>>235
日十大王を深考して、顯宗(乙祁=男弟王?)の前代が「日本」名の付く大日本
根子(清寧)ですから、日十大王とは日本王と読んで、大日本根子のことで
しょう。鏡の銘文の
「癸未年八月日十大王・・・」とは 癸未年八月十日 なるも、日本王を示唆
するため十日と書かず日十と、からかったか? 逆書きしたんだと想いますがね?
237太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 11:11:46
>>235
つまり王を誰か当ててみろと、銘文を刻んだ者が言いたいことなんでしょう?
238日本@名無史さん:2008/01/29(火) 15:28:46
>>229
邪馬台国問題に興味を持つ人が多い理由の一つとして、やはり女王・卑弥呼の
存在が大きいと思う。
そこで思うのは、どうして女王なのか、つまりどうして女なのかというところ。

倭人伝を見ると、もともとは女王はいなかったふしがある。どうも、最初の
女王が卑弥呼だったようだ。倭国の大乱と呼ばれる争いの後のことである。

卑弥呼の次の女王も、少女の台与となっている。男王が立ったが、国中不服。
争いが起きて千人あまりが死んだ。そこで台与が女王になった。
国は治まる。しかし、その後再び男王が立つ。

思うに、帥升のときに、一応、連合のような体制ができた。その連合の内部の
問題としての王の座を決めるときは、男王では分裂状態になることもあった。
そのような場合には、女性の卑弥呼を王にすることにより治まった。
台与も同じような状況だと思う。

しかし、連合の外部との軋轢には女王では対処できない。
だから、男王が立つことになった。狗奴国との争いがそれではないかと思う。

女王の主とする役割は、やはり神の声(先祖の霊)を伝えることだと思う。
これが、女性特有の資質だったのだろう。
239太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 15:40:49
>>235
繼體も顯宗も同年に生まれてますから、鏡の銘文の男弟王は前者に見せて後者
でもあるという兼用、重複での意味ともとれます。
240日本@名無史さん:2008/01/29(火) 16:02:03
いいぞもっと書いてくれ!
241太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 18:23:41
>>235
先出の梁書では国王を「乙祁」と書いていますが、古事記では「袁祁」として
顯宗天皇ということになります。これは邪馬臺国と邪馬壹国の一字違いのこと
に似て、仁賢(富祁)ではなく、弟の顯宗でよろしいと思います。

日十大王は十日のところ逆にて日十と鏡の銘文にあり、十を強調してるので
しょうか? ならば顯宗は日本書紀では弘計尊とあり、その「計」には「十」が
文字のツクリにあります。
242日本@名無史さん:2008/01/29(火) 18:29:41
絶好調だね!
243太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 18:43:14
>>235
倭国→ワクニ→ワク2→ワクワク

アラビアンナイトのハサンアルバスリの冒険には、ワクワク島の記事があり、
ワクワク島は日本であるという説がある。

ワクワク→2クワ→フ・クワ→扶桑
244日本@名無史さん:2008/01/29(火) 19:03:08
うおぉぉぉ〜〜ッ! ワクワクするぜッ!
245古代:2008/01/29(火) 19:22:27
日像鏡という鏡がある。『日本書紀』の岩戸隠れの段の第一の一書に石凝姥命(イシコリトベ)が天照を呼ぶために作ったとされる日前神(鏡)である。

さらに第三の一書では「上枝には鏡作の遠祖天抜戸(アマノヌカト)が児, 石凝戸辺(イシコリトベ)が作れる八咫 鏡(ヤタノカガミ)を懸け・・」とある。
八咫鏡とは固有名詞ではなく「大きな鏡」という意味であるので日像鏡=八咫鏡(三種の神器)と考えてもよさそうである。

しかし、第二の一書には「乃ち鏡作部の遠祖天糠戸者をして,鏡を造らしむ。」とあり、岩戸に差し入れた時に傷があり、これが伊勢に祭られていると書かれている。
この伊勢の鏡=八咫鏡であるとするために、日像鏡を作ったが出来がイマイチだったので紀伊の国の日前~とし、新たに八咫鏡を作ったと解釈されている。

しかし、素直に読めば伊勢の鏡の作者は天糠戸者だから八咫鏡とは作者が違い、伊勢の鏡≠八咫鏡となりそうであるが・・先にも書いたように八咫鏡は固有名詞ではないので間違いではないか。
八咫鏡は別名が真経津鏡と日本書紀に書かれているので伊勢の鏡=真経津鏡とは解釈すれば問題ない事になるが。。日本書紀の書き方はややこしいし、なにやら謎めいている。

さらに宗像三女神のうち、他の二神はご神体が玉であるが、市寸島比売命のご神体は八咫鏡であるという。

天照のご神体は八咫鏡、真経津鏡は豊受大神のご神体であるとの話を聞いたが・・・本当かな?
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 20:30:38
>>235

 ワク+ワク=ワクムスビ
247九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/29(火) 21:10:41
鬼道とは初期道教黄巾。弥生時代の倭に今と同じ様な祖先崇拝があったとは考え難い。
家族の中で死んだ人を死という暗黒の不浄から守る為に棺の中に鏡を置き冥福を祈る。
という事が主であり、既に以前亡くなった数代前の祖先を崇めるということはしなかったのではないか。
倭の歴史も浅く、彼らの寿命はかなり短く代替わりが激しく、祖先の為祈る余裕は無かった。
自分達の現世利益、死後の安穏の為、鬼道を用いて占ったりした。
248日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:13:47
>>247
卑弥呼時代のことも、それが何らかの形であとの時代に残っていると考える
たちなんだけれども、その観点からすると、倭迹迹日百襲姫や神功皇后に
その名残が見られると思う。

日本書紀には、少女が、崇神天皇の命を狙っているものがいる、との歌を
詠んだとある。そのことを聞いた聡明でよく物事を予知する倭迹迹日百襲姫は、
その歌に不吉な前兆を感じ、武埴安彦が謀反を企てていると言った。
とある。その後、崇神天皇は武埴安彦を征伐する。

また神功皇后の場合は、神が皇后に託し、神託を垂れたとある。
すなわち、熊襲を攻めても何にもならない、宝の山である新羅を攻めよと。
その神託を受け入れず、熊襲を攻めた仲哀天皇は急死する。

このあたりに鬼道の様子が見られるように思う。
249日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:28:08
>>245
伊勢神宮の御神体は、八咫鏡だろう。八咫とは長さで、手のひらを広げた長さの
八倍だったと思う。だから、140cmくらいかな。これが鏡の周囲だから、直径は
46cmとかそれくらいだったと思う。(数字はかなりおおざっぱ)。

もちろん、八咫鏡は御神体だから誰も見た人はいないが、鏡を入れた箱を
見た人はいるらしい。それによると、ちょうどそのくらいの鏡が入る大きさ
だったといわれる。

大きな鏡というと、たとえば平原遺跡から出た大型の内行花文鏡が有名だが、
奈良盆地でも、大型の日本製の内行花文鏡が出ている。

だから、八咫鏡も内行花文鏡ではないかと思う。
そういうわけで、卑弥呼がもらった鏡は、中国製の内行花文鏡ではないかと
思っているのだが。
250古代:2008/01/29(火) 22:30:29
鬼道の他にこの時代の祭祀に関係するものとしては銅矛・銅鐸があげられる。
銅鐸の文化圏は近畿・東海。銅矛は九州。中国地方は銅剣(銅鐸も少数出土)。
銅剣や銅矛は初期において武器であったが、後に祭器として扱われたと考えられ、悪霊払いに使われたと考えられている。
日本書紀では日矛をもって踊る姿が見られるので、あるいは祭りでこのように使われたかもしれない。
銅鐸については諸説ある。
祭りに使われたとする説。地霊・穀霊の依り代とする説。稲魂を守る術具とする説。
251日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:30:45
太国どうした!テレビなんかみるな。書け!応援しているぞ!
252太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 22:40:21
>>235
和久産巣日神か〜〜

ワクワク 和桑久 あるいは 倭桑久か〜〜。

『桑』 これ分解読みで、ヌが三個。サヌキだな。w
253古代:2008/01/29(火) 22:48:39
249
八咫鏡の八咫を具体的な長さとする人もいますが、記紀では八は多いということを表す数字で
八百万の神々、八咫烏、八坂瓊など随所に八という数字を用いています。
天の岩戸の鏡には無理に岩戸に差し込んだ傷があり、伊勢の鏡にも傷があるのでこれが証拠であると書かれています。
254日本@名無史さん:2008/01/29(火) 23:07:47
>>253
でも、伊勢神宮の御神体は誰も見た人はいないと思う。
八咫鏡を大きな鏡と解釈することも可能かもしれないけど、
実際問題として、ウキペディアの記述をそのままコピーすると、

説文解字の「咫」に、「周尺の八寸を咫とし、十寸を尺とする」とある。
この「周」とは円周のことであり、咫とは円周の単位であった。円周率は
約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺
となり、これを 4 咫とした。従って 1 咫は 0.8 尺である。

日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。
後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、
現在 4 枚の出土例がある。

となっている。
255古代:2008/01/29(火) 23:39:33
ウキの説明は読んだことありますよ(^_^)だから八咫を実数と考える人もいます。
八咫烏の八咫も頭の大きさと考えたりね。
説明にもあるように最初は一般名詞だったのが固有名詞化したと考えた方が自然だね。
平安まで宮中の内侍所に鏡が祀られているとの記述と垂仁の御世に伊勢に移されたとの考えから八咫烏が二枚あったとの説も(レプリカを作ったとの説明も)
さらに別名の真経津鏡(まふつのかがみ)だけど、似たものとして布都御魂(ふつのみたま)という剣があり石上神宮に祀られている。
経津主神(ふつぬしのかみ)は刀剣の神であるので、真経津鏡も威力がある鏡という意味かな(魔払鏡)
256太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 00:02:26
>236
隅田八幡宮人物画像鏡銘文
「癸未年八月日十大王年男弟王・・・・・」〜〜〜〜〜〜〜〜〜日と十を置換
「癸未年八月十日大王年男弟王・・・・・」

上の二つを考えるに、下段は年月日が出揃うが、このことは上段の『十』の箇所を
『日』にしろという示唆なのかも知れない? すると以下のようになる。

「癸未年八月日日大王年男弟王・・・・・」

『日日大』の語を逆読みすると大日日(開化天皇)の御名となる。
大日日尊は若日本根子日子であるから、清寧天皇の若日本根子(大日本根子)の
御名と近似で相対する。つまり銘文は開化天皇をさらに遠回しに示唆してるので
ある。
257太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 00:04:27
>>256 訂正
日と十を置換 は2番目の文です。
258古代:2008/01/30(水) 00:53:32
日像鏡が天照の前霊(さきみたま)であるとしても何故和歌山県にあるのかが謎。
和歌山県の神は木の神である五十猛(スサノオの子)であるから出雲系であると見れるんだけど。
紀の国の支配の拠点かな。それにしては皇祖神に準じる扱いで大げさだし、他に理由があるのか。
259日本@名無史さん:2008/01/30(水) 01:29:17
>>250
唐古鍵や清水風の絵画土器には戈を持って踊る人物像が描かれてますな
260日本@名無史さん:2008/01/30(水) 01:45:13
>卑弥呼の鬼道

案外、大陸の道教の亜流みたいなもんだったのかもw

以下畿内説を前提に・・・
それまで祭祀の中心アイテムであった銅鐸を捨て代わりに銅鏡
しかも神仙思想を表わした神獣鏡をその座に据えた時点で
祭祀の形態もがらりと変えたのかもしれない。

その方が大乱後女王共立と言う新体制で求心力を得るには好都合だったのではないか?

今も昔も日本人の新し物好きは変わらなかったりしてw

まあ卑弥呼の鬼道を道教とは関係の無いものとしても
実は弥生時代の宗教・祭祀って意外に分かって無いらしい…

下手すりゃアイヌや沖縄にその残滓が見られる縄文のそれより不明なのかもw
261260:2008/01/30(水) 01:56:18
銅鏡についてもう一つ言うと
三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏から下賜されたものじゃない”MADE IN 魏”じゃないと言う説の中で

「中国で似たような意匠の鏡は呉にあり、呉から職人を招いて日本で造らせたものだろう」
と言うのがあるが、素人としてはむしろそっちの方がビックリw

なんだかんだで大陸半島から遠いことが九州説にアドバンテージを与えているはずなのに
独自で大陸から当時の最新技術を持った職人を呼び寄せる事が出切るなんてスゲーと思うわけでwww

262日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:16:59
>>247
>弥生時代の倭に今と同じ様な祖先崇拝があったとは考え難い。
>数代前の祖先を崇めるということはなかったのでは

>>247氏の説の裏付けはよくわかりませんが、私も、はっきりした祖先崇拝が
形を為すのはわりと時代が下がってからではないかと疑っているので、
とても興味深いなあと思いました。

あまり考古学に詳しくはないのですが、初期古墳の濠の埋まり方を見ると
どうも造られたあとはほとんど放置されたのでは、という話も聞きます。
古墳時代に入っても、そこ(古墳)に誰が葬られたのか、
人々はあまり記憶してこなかったのではないか?
確かこのようなことが、森浩一先生だったかの本で読んだ記憶があり、
気にかかっています。
263日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:26:38
>>260
鏡の話は難しいですね。
ただ鬼道の話の関連で言えば
我が国出土の三角縁神獣鏡の画像は、本場の神仙思想からいえば
ありえない間違いが相当多く見られるとか(岡村秀典さんの話だったか?)
264日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:56:22
>>太国氏
隅田八幡宮人物画像鏡銘文 について。
>からかったか? 逆書きしたんだと想いますがね?
>昔の中国人はよく漢字の分解遊びで漢詩を作ったりするようである。
稲荷山鉄剣もこんな暗号めいた銘文を やってると観ている。
>つまり王を誰か当ててみろと、銘文を刻んだ者が言いたいことなんでしょう?

ありがとうございました。個人的にはさすがにそこまでついていけない
というのが正直な感想ですが、太国氏の闊達な発想力には敬意を表したいと思う。
私ももうすこし自由に古代史に触れてみたくなりました。

265九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/30(水) 07:34:55
>>262
鎌倉時代以前は墓参りの風習が無かったんだって。
日本の先祖供養は仏教のお盆に由来するから少なくとも仏教伝来し
それが民間に広まるまで無かったでしょうね。
文字の無い弥生時代には位牌や過去帳があるわけでもなく
アフリカのように口伝口承して祖先の偉業でも代々伝えないと
すぐに忘れ去られるんじゃないですか。
でもその様な文化、風習は日本には残っていないし。
やはりそれも無かったと思いますけど。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~finesky/nihonsi/h-2-1-1.html
266古代:2008/01/30(水) 09:39:53
265
247はまあともかく鎌倉時代まで引きずるのはどうですかね。
先祖供養は仏教的な先祖供養の事をいってるんでしょうか?
日本的な従来の考えからすれば死体は忌むべき不浄なものだから尊重しないのは当然。それは247で書かれてましたね
わざわざ死体に詣でるはずはないんですが。
日本で尊重されるのは体から離れた魂の方ですよね。神道でもそうだし。
神道じたいが道教の影響を多分に受けている節があるので、弥生時代にまで結びつけるのは出来ませんが。
口伝口承はしてたと思いますよ。そうじゃないと記紀や風土記は全て創作になってしまいます。
一子相伝で伝えられていた家伝などもありますし、明治に結構消えましたが。
267古代:2008/01/30(水) 09:53:13
口伝の話が出たので大国主の末裔である(と称する)富家の口伝をあげますと
・出雲族は北海道、東北を経て出雲に来た(紀元前)
・出雲王朝はかつては北九州から新潟までを領有していた。
・代々の王が大国主を名乗った(大国主は固有名詞ではない)
・スサノオが朝鮮よりスサに渡来し、そのときの大国主を滅ぼした。
・物部氏はもともと出雲親族だったが天孫に転じた。
・天照は平安以降に祭祀された
てなことが伝わっているようです。
268唐松山:2008/01/30(水) 19:59:22
仁徳 六十年冬十月 差白鳥陵守等充役丁
白鳥陵と言えば 日本武尊 
先祖を 大事にしましょう。
269日本@名無史さん:2008/01/31(木) 00:13:35
畿内の古墳で見られる棺を鏡で囲む風習も魔よけの意味があったのかもしれない。
それから、棺の内部を朱で塗るのも魔よけの意味があったらしい。
古代の阿蘇では、家にもベンガラを撒く風習があった。鬼門といわれる北東の
方向に特に厚く撒かれていたらしい。

死者を穢れた汚いものとする様子は、記紀なんかにも良く見られる。
出雲国譲りのときの、アヂシキタカヒコネノカミは、死んだ天若日子に
間違えられ、すごい剣幕で怒る場面がある。
270古代:2008/01/31(木) 00:37:13
氏神信仰とからめますと、死は不浄ですが、一方で死者は守り神となるとも考えられました。
死んでから2年くらいたつと不浄な穢れが体から抜け、氏神となり、子孫を守ってくれるとされたのです。
けれども神には幸魂、奇魂、和魂、荒魂、という魂が混在し、荒魂は災いをもたらすので神社で祀りました。
道教で鬼神が祖先神として遇される一方、病気など災いをもたらすのに似ています(四魂の概念も似た要素を道教に見ることが出来ます)。
日本では鬼神=モノであり、上手く祀らないとモノノケとして人に病気を起こさせると考えられました。
271日本@名無史さん:2008/01/31(木) 01:05:00
倭迹迹日百襲姫が嫁ぎ先の大物主の支配地の最初の女王になったんだよ。
272日本@名無史さん:2008/01/31(木) 01:51:07
畿内説は
モモちゃんを卑弥呼にすると、トヨたんが誰なのかわからなくなるんだよな。神功?
273日本@名無史さん:2008/01/31(木) 02:31:55
卑弥呼は誰かということになれば、これは間違いなく天照大神。
もちろん、台与も天照大神。

これを前提にすれば、謎の150年間も見えてくる。

卑弥呼は、狗奴国との争いの最中に亡くなる。
狗奴国を出雲とすれば、次の台与の時代になり、男王(高皇産霊尊)の登場で
狗奴国(出雲)との争いに決着がつくことになる。

この後に日向への遷都あるいは日向への勢力の拡張。
同じ頃、饒速日命に相当する人物は大和に行く。
ほかの地域に行った一派もいたに違いない。
まさに、日本の古代史上激動の時代だった。

その中から、日向の神日本磐余彦が主役に躍り出る。
274日本@名無史さん:2008/01/31(木) 03:34:55
>女王卑弥呼
どうしても巫女=呪術とかの連想でその個人のカリスマ性や神秘性に話がいってしまいがちだが
女王共立と言うのは第一義的には各勢力のパワーバランスをとる為で
女王本人のカリスマ性や神秘性なんか二の次だったのかもw

男王なら宦官でもない限り子供を作り地位権力の継承を目論むだろうし
女王で終生未婚ならそんな心配も無い。

ひょっとして女王共立とはあくまで暫定的な措置だったのでは?
それが案外上手くいって半世紀も続いたとw

275日本@名無史さん:2008/01/31(木) 03:52:37
畿内説を前提とした場合の素朴な疑問…

魏への朝貢つってもアポ無しでいきなり行って皇帝に会えるはずも無く
帯方郡の太守に根回しを依頼する等の折衝が必要だっただろう。
しかしそんな動きは当然九州北部の勢力の知るところとなり
当然そんな事を許すはずも無くあらゆる手段で妨害すると思うんだが…

まあ三世紀中葉にすでに九州を畿内の王権が武力で平定していれば問題なしだが
流石にそれは無いと思うw

畿内と北九州との間に何らかの政治的妥協が結ばれていたんだろうか?
276日本@名無史さん:2008/01/31(木) 04:27:53
>>古代氏そのほかの方へ
私は弥生後半のころの葬制や死生観、あるいは死体観に興味をもっています。
>日本的な従来の考えからすれば死体は忌むべき不浄なものだから
尊重しないのは当然。
>わざわざ死体に詣でるはずはないんですが。
日本で尊重されるのは体から離れた魂の方ですよね。

古くから日本は死体=不浄、魂=清浄ということでしょうか?
中国の魂魄観の影響などはどうでしょう?
初期前方後円墳に体=穢、魂=浄のような観念が生まれていたのでしょうか?

なんか自分でもずっと微妙で、痒いところに決して届かぬ背中の湿疹みたいな
感じな部分なんですが
277日本@名無史さん:2008/01/31(木) 10:21:41
狗奴國「この国(中古音)」=許乃國「この国」
許乃國とは、京都の宇治あたり。(山城國風土記逸文より)

狗奴國の官・拘右智卑狗「こうちひこ(中古音)」(魏略逸文より)
拘右智卑狗=河内彦


つまり、狗奴國王・卑弥弓呼=許乃國王・彦命=武埴安彦命

武埴安彦命の領国は山城國。(日本書紀、古事記などによると)
武埴安彦命の生母は埴安媛「はにやすひめ。河内青玉繋の女」
つまり、武埴安彦命の外戚は河内の豪族であり、彼はその一族によって養育された。

狗奴國の乱=武埴安彦命の乱であり、武埴安彦命は
大和朝廷(最高権力者・崇神天皇、最高祭祀者・百襲媛命)を
山城国と大坂から挟み撃ちにしている。(日本書紀、古事記などによると)
278日本@名無史さん:2008/01/31(木) 10:26:15
>>275
邪馬台国=大和国の場合、
自動的に、九州は、大和の管轄下になる。
何故なら、倭人伝では、邪馬台国が伊都国(確実に北九州にあった)に一大率を設置して
諸国を監視していたと記載されているから。
279日本@名無史さん:2008/01/31(木) 11:21:02
>276
魏志倭人伝に倭人の葬式?の様子が書かれてますね。
神道には神葬祭って葬儀の方法があるんですが
倭人伝の記述はこれとはあきらかに趣が違います。
が、最後には水浴するってあるからこれは禊
つまり死は不浄でそれを洗い落とす意味があるのだと思います。

その頃、高句麗では金銀財宝を死者に贈り石を積んで封じ周りに松を植える
とありますから古墳時代の墓はこの影響を受けているのでしょう。
こちらも石で封じるとありますから死は不浄だという思想の現われでしょう。

死が不浄と見られたのは、その頃の死の主な原因が病死だったからではないでしょうか?
例えばその頃にイーフルエンザが流行しても現在のように治療する術はなく
次々に死人が増える結果となり死が死をよぶように感じたのではないでしょうか?

神道では人は神から魂を戴き生かされているって思想があるようですから
魂が清浄だという発想はそこら辺に元があるのだと思います。

思いますばかりで申し訳ないですが個人的な考えを述べさせていただきました。
280古代:2008/01/31(木) 13:32:14
276
倭人伝の記述は以下の通り
始め死するや、停喪すること十餘日停喪すること十餘日、時に當たりて肉を食せず。
    喪主は哭泣し、他の人は歌舞飲酒に就く。
    已に葬りて家を挙げて水中に詣で、澡浴し、以て練沐の如くす。

さて、古代の葬法の儀式に「殯葬」があります。
埋葬前に殯屋/殯宮(もがりや)に棺を安置し、死者の近親らが一緒にこもり、
食膳をあげたり歌舞を催したりし、もしかして死者が蘇生するかもしれないので見守る儀式。期間は一年間ほど。
この習慣は倭人伝の記述に似ていると思いませんか?

現在でも天皇が崩御なさると、殯宮でおよそ1カ月の間毎日、生前に陛下が好まれた食物などを供える日供の儀があり、10日おきに祭りがあります。
殯宮に移すのは亡くなってから13日後です。これも停喪すること十餘日という記述に似ている気がします。

このような習慣を見ると単純に死=不浄ではなさそうですね。
長くなりそうなので一旦切ります。

281日本@名無史さん :2008/01/31(木) 13:49:45
278 名前:日本@名無史さん :2008/01/31(木) 10:26:15
>>275
>邪馬台国=大和国の場合、
>自動的に、九州は、大和の管轄下になる。
>何故なら、倭人伝では、邪馬台国が伊都国(確実に北九州にあった)に一大率を設置して
>諸国を監視していたと記載されているから。

こういう馬鹿というか非常識な連中が機内節では多数いる。
時代錯誤も甚だしい。
伊都国を監視する手段を考えてみたことがあるのか?
2世紀の交通手段を想像してみたことがあるの?
(大型船はまだないので、手漕ぎ船の時代ですよ)
2世紀の道路事情(河川に橋なんかかかっていない)を
考えてみたことがあるの?
畿内からどうやって九州勢力を監視したのか説明してみろよ
言っていることの矛盾に気づけよ畿内を念仏する前に。
282古代:2008/01/31(木) 13:59:46
一二三呪文というのがありまして、一二三・・ふるへふるへと唱えながら体をゆらせると
病気や様々な苦しみから逃れることはもちろん死人でさえ生き返る。とあります。
このような事から見ますと、病気や死というものは魂と肉体との定着が上手くいかない故に起こると考えられていたようです。
従って、死んでも魂の定着さえあれば、生き返ることもある。それが「殯葬」に繋がっていると思われます。
魂と肉体の定着という意味からすると魂魄の概念に似ています。一二三呪文のもとは物部氏の「ふる言」だと言われています。物部氏が渡来系だったのかもしれません

さて、神道では死は黒不浄といって忌み嫌われていたわけですが、死とはなんでしょうか?
2年くらい経つと体から不浄が消えると前に書きました。思うに、死んでもしばらくは生き返る可能性があり、完全な死とはみなされなかったのではないでしょうか。
死体が腐乱してくると、もはや魂が返ることはなく、ここで死が認識され、腐乱の状態が不浄なのではないでしょうか。ここで魂は移されます(もしくは棺に封じられる)
やがて肉が落ち白骨化すると不浄が消えた状態と見なされたのだと思います。単純に死体=不浄というより魂の抜け出た肉体に意味はないと考えられたのかもしれませんね。


283日本@名無史さん:2008/01/31(木) 14:34:25
畿内説じゃないが>281さん
それって九州でもあんまり状況は変わらんのじゃない?
魏志倭人伝に従えば女王国はかなり遠いよ。
ましてや郡使が行くのを諦めた国々が女王国の境だよ。

ところで
畿内説の人は女王国までの工程を南から東と読みかえるってのは知ってるけど
自女王國以北特置一大率の北も南と読み替えるの?
284古代:2008/01/31(木) 15:03:22
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm
この地図の図4・1と隣にある(b)図を見ると実際の日本と先方の人間の描いた日本とでは、
その向きがほぼ九十度違っている。
畿内説ではこれを根拠として南→東としているようである。
285日本@名無史さん:2008/01/31(木) 15:07:36
>>283

は?
畿内説なら当然そこの「以北」は、「実際は「以西」のことでっせ」と読み替えるんだろ。

俺さ、九州説支持なもんで、あんましそこ深く考えたことなかったけど、
畿内説の連中なら当然「以西」と読み替えてるとばっかし思ってたが・・・

あれ、違ったか?
おーい、誰か畿内説の人、答えたってくれ。

286日本@名無史さん:2008/01/31(木) 15:18:13
>>285
読み替えるとかじゃなくて
方角や距離が全体的にあいまいで信憑性が無いと考えている。
畿内説というのはあまり倭人伝の記述を重要視していない。
大昔の内藤説は一所懸命読み替えをしていたが、今はそんな人はいない。
287日本@名無史さん:2008/01/31(木) 16:05:36
>>281
馬鹿はおまえ。
中世だって、畿内が九州に大宰府や九州探題を置いていたじゃないか。
前近代というのは、さほど社会に変化が無いわけだから、
邪馬台国=大和説なら、おのずと
近畿が九州を統治していたことになる。
中国人なんて、もっと広大な版図を統治していたわけだし。
288日本@名無史さん:2008/01/31(木) 16:12:59
>>281
というか、なぜ、わざわざ、
北九州の伊都国に一大率が設置されたのか、考えてみろ。
邪馬台国と伊都国が離れていたからだ。

また、おまえは近代の工業化革命の常識にとらわれ過ぎている。
19〜20世紀にかけて、社会は大きく変化はしたが
紀元前5000年〜18世紀までの社会変化は、
19〜20世紀の社会変化よりも小さいといわれている。
つまり、昔は社会はゆったり進歩していた。
289日本@名無史さん:2008/01/31(木) 16:40:31
>286
えーそうなんですか!!
で邪馬台国だけは信じてるってなんかおかしくないですか?
それって別に邪馬台国じゃなくてもよさそうな。
290日本@名無史さん:2008/01/31(木) 16:59:15
邪馬台国畿内説の人は
倭人伝の方角や距離を重要視していないだろう?
こういうのは、一番、記述を間違えやすくて
間違えることによって、解釈に混乱が出るから。

むしろ、倭人伝に記載されている
政変などの出来事のほうを注視している。
291唐松山:2008/01/31(木) 17:47:23
邪馬台国畿内説の人は
むしろ、倭人伝に記載されている
政変などの出来事のほうを注視している。

そうなんですかね?
畿内説の人で 卑弥呼=モモソ姫 と見ている人もいるようですが
崇神記 を読んでいるんですかね?
292日本@名無史さん:2008/01/31(木) 18:05:29
そうです。卑弥呼=モモソ姫節の畿内派のかたは、崇神天皇実在説をとるかたがたであり、
記紀の記述は真実であると信じている方々です。
293古代:2008/01/31(木) 18:31:04
銅鐸の文化圏は近畿・東海。銅矛は九州・四国。中国地方は銅剣(銅鐸も少数出土)。
便宜上
近畿・東海をニギハヤヒ王国
九州・四国をアマテラス王国
中国をオオクニヌシ王国
銅矛・銅鐸のない吉備をスサノオ王国とします。古代の勢力図はこんな感じと思われます。
四国は最初出雲か吉備の勢力下にあったが、九州に征服された、と見ます。
(紀の国の神がスサノオの息子であることと、この地の女首長名草戸部が神武に殺された話、準皇祖神日像鏡がある事から。)
四国を拠点としたアマテラス王国は大和を征服します(ニギハヤヒの国譲りから)
一方ニギハヤヒの一族の一部は姻戚関係にあった吉備に逃れ仕えます(吉備のスサノオ神社を祭っているのが物部氏である事から)
吉備は大和に対抗するため出雲のオオクニヌシ王国を支配下におきます(富家伝承より)。
出雲・吉備王国は長く大和と並存していたが、最後には大和の支配下に落ちます

294日本@名無史さん:2008/01/31(木) 19:07:55
>290
じゃぁ邪馬台国は九州ということで。
機内にはそれに匹敵するかそれ以上の勢力がありましたってことでいいよね。

え?記録に残ってないといや?
わがまま言うんじゃありません。
295日本@名無史さん:2008/01/31(木) 19:11:14
箸墓を卑弥呼の墓だと推測する以上
モモソヒメ=卑弥呼説は誰しも考えることだ。

畿内説の主流派は誰しも思うことだ。
296日本@名無史さん:2008/01/31(木) 19:15:47
九州説はかなり外堀を埋められていて
最後の叫びで
アマチュアの歴史愛好家たちが絶叫している状態だろう。
学者さんの間では、内心、畿内で決まりだとは思っている。
で、最後の総仕上げで、纏向遺跡の調査に
国までが重い腰を上げた。
297古代:2008/01/31(木) 19:27:15
272
卑弥呼をモモソ姫と考えるパターンでは崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命がトヨとされます。
天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が臺與に相当するという説です。
垂仁天皇の皇女倭姫命という見方もあります。天照の魂を身体に移して伊勢まで運んだとされていることから。
298太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 20:21:00
巻向は垂仁、景行の宮の関わりの遺跡だ。そんなところに女王国があれば
天皇と卑弥呼の交流が記紀に載るはずだ。
卑弥呼が朝廷の女だと言うなら、倭人伝には女王国ではなく大王国(天皇国)と
いうような記述になるよ。天皇以上の勢力を巻向で奮っていたなら、記紀の景行、
垂仁の章の前後に女王の章を置くだろうが。だから巻向なら天皇以上の勢力という
ことになるわけで、記紀の内容からそういうことは非常に考えにくい。

つまり女王国は九州にあったということになる。百襲媛が九州へ行ったとなれば
彼女が卑弥呼であるとの可能性は出てくる。ただそれも可能性ということに留ま
ると思う。彼女は四国には行ってるからね。
299横槍:2008/01/31(木) 20:27:15
九州説で、山門とか甘木とか内陸部に邪馬台国を肯定する人達が居る

こんな馬鹿馬鹿しい説は無いと思うけどな

世界の古代都市は、水運の上に成り立っている。

洛陽、長安、北京全て内陸の港都市

山門、甘木は運河が発達していたのかな?
300太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 20:32:08
インカの都市は山奥にあるから、水の都合は山奥でも調達可能な場合がある。
当時の九州内陸の状況が解明できなければ、内陸説は充分残存できる。
おまけに九州は台風が来るから、洪水になるわけで、溜めこめば生きていける。
301日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:32:55

トヨタ〜ン・・・
302小倉優子が好き:2008/01/31(木) 20:34:25
>>299
あのさ、釣りだとは思うけど、それなら何故
「水行十日、陸行一月」なの?
303日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:38:27
こ〜のバカタレ
人が考えた題名でするんやなく自分たちで作れって!

いいやんいいやんてか〜?まるで子供なや。
304日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:41:12
相手の気持ちや常識がわからない人は嫌いです。
305日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:41:42
>>299
九州最大の筑後川流域ですがなにか?
さらに山門郡なら今でもクリークに川下りが名物ですがなにか?
306唐松山:2008/01/31(木) 20:42:38
畿内説の主流派が モモソヒメ=卑弥呼として
崇神10年が どんな年だったか 解っているのか?

崇神6年 大凶作のため 人口半減
崇神10年 為に軍を編成 農奴狩りに出る 大和に 塚を作る 人足がいません。

この辺は どの様に 読んでいますか?
307日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:43:32
>>303 >>304 ???
308日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:44:48

ユ、ユウコリン・・・・・・・・・・・     モモカヒメタン……
309日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:51:39
いいやんいいやんって言葉だけが伝わってきます。

人が傷ついたり嫌がることをする人は大人ではない。
みなさん相手の気持ちて考えた事あるの?
310日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:52:22
不愉快でしょうがないんで落ちます!!
311太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 20:55:39
当時は九州内陸への道は開けていなかったんではないかと思う。だから
南がどうなってるか、行ってみようということになり、山奥を踏みこんで
迷いながらあっちか?こっちか?というような状態でさまよって旅を
したんだろう? なにかの国があるんじゃないのか?というような秘境
探検のつもりで、南の道もあるかないかの混迷状態で後退前進をしながら
なれない場所を進んで行ったもので日数が経ってしまった。
そこである日々のうちのある日、前方が拓け素晴らしい郡村に近い状態の
未知の国に踊りでた。女王国の発見はそのときであった。そこで中国人は
国の使いの役となり、女王国の人物と会うことになり、女王国の風習状況
を興味深々知る事になった。どのくらい滞在したかは知らんが、ある日
帰国の途についた。そういうちょっと盲点的な人の入りにくい位置に
女王国があったのだろう? 陸行一月、女王国到着はこんなんではない
かな?w
312日本@名無史さん:2008/01/31(木) 20:57:35
>>309 >>310
ちょっとおおお。痴話げんかにこのスレ使わないでよお。
313筑後原住民:2008/01/31(木) 20:58:26
>>299

筑後周辺の地図おいときますね。
何か見つけられないか作っておいたものです。
甘木に近いところまでなら水運も可能と思われます。

http://uproda.2ch-library.com/src/lib008405.jpg

314横槍:2008/01/31(木) 20:58:45
>>302
日本列島を態々陸行1月する必要はあるまい
水行10日(陸行換算一月)

>>305
日本の川の急流を態々遡る必然性はあるまい

日本の文明化(都市化)がユーラシアに遅れたのは、
内陸の港町が出来にくかったためじゃないの
海を渡るのは危険が伴うし
315日本@名無史さん:2008/01/31(木) 21:01:41
>>307
こらこら。
きみは現実のアイドルに関心を持ってはいかん。
いや、小倉優子はもう二十代半ばだろう?

きみはきみのメルヘン脳内でだけ、13歳の
イヨタン(トヨタン)と仲良く遊んでなさい。
316アンカ付け間違えた:2008/01/31(木) 21:06:42
>>315
アンカ>>307>>308に訂正。やれやれ。ww
317小倉優子が好き:2008/01/31(木) 21:07:58
>>311
わっはははははっは! 太国面白い!w
二倍念力の法則で逝くと、陸行一月は、現代の時間では陸行15日って事になるのかな??

マジレスすると、「陸行一月」はおそらく倭人の申告だろうから、
「ある日、前方が拓け素晴らしい郡村に近い状態の 未知の国に踊りでた。」
なんて事はないだろ?
318太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 21:11:41
>>317
あぁそうですか? 当時の中国人版インディ・ジョーンズかと思いましたがね?w
319横槍:2008/01/31(木) 21:19:38
まあ陸行一月は、無いな
楽浪郡から狗邪韓国まで七千里を水行して来たのに
態々陸行一月するわけないな
320太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 21:29:49
>>319
半島のほうは陸続きで道がよく知れれていたんでないの? ところが
奥九州は行ったことのない秘境的な場所であり、地図も無く、ただ
道草をしながら、準密林の山奥を探検したんだろう?
 
日数経過が続くある日のこと中南米の密林の奥へさまよってた欧米人
が前方に古代マヤの遺跡を発見したごとく、古代中国人が女王国の
木製建造物群を発見した。前者は無人状態だったが後者は女王国の
住民がいて彼らと初見し、女王国の情報を得ることになった。だから
一月はありうるかも知れんし、倍暦なら半月とかになって来るぞ。
321唐松山:2008/01/31(木) 21:30:55
道は有りました。
獣道に近い物ですが(まだ鉄器が十分でないので 下草を刈ることもなく 踏み後ですが)
これらの道を通るとき 顔見知りがいないと 通行が出来ません 各村々毎に お土産(通行税)が無いと通してもらえない。
お茶?の一杯も飲まされて 土産話の一つぐらい話さないと 通してもらえない 
1日に 10K か15Kmも進めば 御の字。 
上記は、平和なとき
実際には、山、坂に賊が屯しているので 軍の護衛が必要であった。
322小倉優子が好き:2008/01/31(木) 21:36:32
>>319
>まあ陸行一月は、無いな
って逝ったって、魏志倭人伝にそう書いてあるじゃん。
323小倉優子が好き:2008/01/31(木) 21:40:36
>>319
>まあ陸行一月は、無いな
って逝ったって、魏志倭人伝にそう書いてあるじゃん。
324小倉優子が好き:2008/01/31(木) 21:41:25
連投スマン。
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 21:43:29
とにかく天香具山へ入ったときも、たかが低い山なのに、頂上へ行く
には時間はそんなにかからんが、頂上へ行ったら、前方は道はあった
が、雑草が伸び放題で山道が隠れて塞がってしまっていた。さらに
その塞がり道は蜘蛛の巣の大群で、そこから前進するにはよっぽどの
堅固な意思が必要だ。これはもう駄目だとそれがしはあきらめざるを
得なかった。まぁこんな山でもこんな調子だ。

当時の阿蘇の周囲もとても内奥に侵入できないほど、そういう障害物
が立ちふさがっていて事は非常なる手間がかかり、相当強靭なる
意思がないと踏みこめなかったんではあるまいかね?

黒部の幻の滝へ行くにも十字峡までは苦労して行けるが、そこから
滝へ行くにはプロでさえも困難な道程のはずだ。そういうように、
黒部ほどではあるまいが、旅の一月はありうることだ。これは机で
の話のようなわけには行かん。
326日本@名無史さん:2008/01/31(木) 21:48:46
モモソ姫だとすると大物主との関係は?
327横槍:2008/01/31(木) 21:51:19
>>320
なんで三十ヶ国の宗主国が、ジャングルの秘境にあるんだw パオ〜ン
328日本@名無史さん:2008/01/31(木) 21:55:33
>>322
畿内説をとった先学諸氏の中で「陸行一月」をきちんと説明できているのは
おそらく笠井新也氏だけだろう。
笠井説すなわち
 遠賀川下流域(不彌国)→日本海航行→出雲(投馬国)→日本海航行→、
  北近畿上陸→大和(邪馬台国)まで徒歩陸行。
329筑後原住民:2008/01/31(木) 21:59:41
九州の山は常緑樹が多く、秋冬でもあまり見通しが良くなりません
そのため、人家に近い林ならまだしも、山に分け入ると、歩行困難
になる場所が多いと思われます。当方の地区の自然歩道も夏冬に
整備が行われますが、人通りの少ないところは通行困難になります。
いまは草刈機と軽トラ、キャタピラ運搬機で作業していますが、当時は
なかなかそういうわけにも行かないでしょう。

今のような自動車道路でない道で、日常使用するわけではない峠道では
容易に通行困難になることは考えられると思います。
330太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 21:59:56
>>327
お前知らないのか? 古代マヤもパレンケ、コパン、チチェンイツァ、
ティカル、ウシュマル、ヤシュチラン、カラコル、ピエドラス・ネグ
ラス、カミナルフユ等多数の都市国家群だよ。コパンとかティカルは
統率的勢力がかなり強かったんではあるまいか? おたがいに戦争
しあったりしていたんだ。似てるではないか?ww
331横槍:2008/01/31(木) 22:02:00
>>328
>北近畿上陸→大和(邪馬台国)まで徒歩陸行

琵琶湖水行じゃないと不自然すぎるよね。

九州説なら日向なら、水行10日陸行すれば一月
他は苦しいでしょう
332九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/31(木) 22:13:08
>>301 めでたい縁起もんが出た。

>>276 初期前方後円墳に体=穢、魂=浄のような観念が生まれていたのでしょうか?

僕は無かったと思います。倭人に漢字が早くから認識されていたにも拘らず
民間に浸透しなかったのは言霊といって言葉に霊魂が宿るという考え方があり
文字を軽視していた{と考えられる}
言葉に霊魂が宿ると考えていたという事は人の死によって清浄な霊魂が
不浄な死と分離するというような体系だった宗教的な考えに基づくものではなく
死などを目に見えぬ畏怖すべきものと単純に捉えていたものと思われる。
あくまで亡くなった身内が土に埋められても明るい日が差すように
邪悪なものが近づかないようにただ願って埋葬していたのではないかと思う。
333328:2008/01/31(木) 22:15:53
>>328訂正
スマソ。
笠井氏の不彌国比定地は、遠賀川下流域ではなく、宗像郡津屋崎付近だった。
ちょっと別人の説と混ぜっこになっていた。スマソスマソ。

それから、陸行一月がスタートする上陸地点は、笠井氏は越前の敦賀としていた。

まあ、敦賀のある福井県も「近畿地方」と見なす慣習が一部にあるから、
これは「北近畿」のままにしておこう。
334日本@名無史さん:2008/01/31(木) 22:24:37
>>333
笠井新也は卑弥呼=モモソヒメ説だな?
335小倉優子が好き:2008/01/31(木) 22:24:39
>>328
津屋崎(不や国)→(南へ水行二十日:遠賀川を南へ船で遡上)→投馬(トバ:戸畑)国。
戸畑(大河遠賀川流域に存在し、5万戸の人口を養うにふさわしい。)から→(船で水行十日)
→飯塚or田川に到着→(陸行一月:徒歩で冷水峠などを越えて甘木に至る)
336328:2008/01/31(木) 22:45:26
>>334
そう。最初に言った人だ。卑弥呼の墓=箸墓古墳説もだ。

>>335
どうしそんな大回りするのだ???
博多から、国道3号線沿いにあったと思われる古代の道を通れば
甘木までは1日だろう?
それに、その大回りやったとしても、一ヶ月もかからんだろう。

それと、(南へ水行二十日:遠賀川を南へ船で遡上)のところ、何かおかしいね。
遠賀川の位置を勘違いしてないか?
337横槍:2008/01/31(木) 22:47:01
>>335
>津屋崎(不や国)→(南へ水行二十日:遠賀川を南へ船で遡上)→投馬(トバ:戸畑)国

距離は何`?
たったそれだけ距離の移動に二十日も要するなら陸行の方が余程楽そうだが
338328:2008/01/31(木) 22:49:53
>>336訂正
どうしそんな → 〇 どうしてそんな
何度もスマソ。
339サガミハラハラ:2008/01/31(木) 23:03:10
笠井新也って無茶苦茶な人ですね。
340日本@名無史さん:2008/01/31(木) 23:19:05
奈良盆地が大和川を遡ったところにあるのを見ると、陸行が川をさかのぼると
言うのもありうるかもしれない。
確か、古代は、川をさかのぼるとき船をロープで引っ張っていたと聞いたこと
がある。これだったら、ものすごい時間がかかったかもしれない。
陸行一月もありえるかな。

とすれば、船が遡れるような川というと、九州では、筑後川、菊池川、白川、
緑川くらいかな。球磨川は急流だから遡れないだろう。
川内川もありうるかもしれない。東側にもあるが、こういう経路はとらないと
思うので省略。
341太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 23:20:46
サガミハラハラ氏は、まるでカラスのエサ突きに来ているような
もので、先述の国産説を追及する手前でパッと飛んでしまい、いなく
なる。まったく昨今は信用度が低落している。
342會稽東冶之東:2008/01/31(木) 23:30:13

>計其道里當在會稽東冶之東

帯方郡から女王国までの行程を方向、距離から推し量ると、その位置は、
会稽、東冶(台湾・奄美大島の西対岸)の東に当たる。

陳寿は女王国を郡史が常駐していた伊都国の付近にあった風には報告
されていなかっただろう。

相当に南だと思う。少なくとも日向あたりかと。対岸に一海1000里で
また倭種(四国)とも推測できる。

しかも温暖、しかも天孫降臨の地、しかも、南に蛮族の隼人がいる。

343太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 23:38:09
>>328
それはキチンと説明ができてない欠陥たる盲点がある。それならば朝廷の近隣
と通過するから、天皇国として大王国も近くにあったとの記載が倭人伝に
なければおかしい。卑弥呼の女王だけ浮き上がっているのは記紀からも解せない。
だから陸行一月というのは北九州から畿内の間の日数ではない。もっと別の考え
に改めねばならない。九州でも先述のとおり一月はありうる。

それでもその畿内の説が通用するには、卑弥呼が神武手前の天皇の不在の時代で
なければ成立しない。それも安本先生式では天皇在位がえらく短すぎて卑弥呼と
アマテラスを無理にも合わせねばならなくなり、そういうことも考えにくい。
344日本@名無史さん:2008/01/31(木) 23:41:27
>>339
無茶苦茶という評価はどうかな。
水行十日陸行一月をなんとか日本列島の中の行程として
できるだけ合理的に解釈しようと努力した結果だと思うが。
笠井説は、素人のちょっと思いつきではないような気がする。

陸行一月を朝鮮半島内の行程と解釈したのは古田武彦さんからだったと思うが、
最初それ読んだとき、なんか無茶苦茶な漢文解釈だなと思ったな、
今でもそう思ってるよ。
水行十日陸行一月の字句は倭人伝では投馬国と邪馬台国の間に出ているのだから、
両国間の行程と読むのが当たり前で自然な漢文解釈じゃないか。
345日本@名無史さん:2008/01/31(木) 23:45:26
>>342
宮崎は以前からずっと考えてきたのだが、やっぱり遠すぎる。
倭人伝の記述にはぴったり来るのだが、交通の事を考えるとやはり不都合かなと。
だから一大率を置いた、という考えもありうるが、それでも、やはり遠い。
卑弥呼が途中で遷都したと考えられないわけではないが…。

しかし、北部九州ではいろいろと不自然。その折衷案というわけではないが、
熊本が妥当ではないかと思う。
熊本は土地が豊かで、江戸時代は肥後五十四万石といわれたらしいが、実際は
七十四万石あったらしい。
346日本@名無史さん:2008/01/31(木) 23:49:06
九州すら統一できない小国に魏は何で最恵国待遇をしたのかな。
東のヤマト王権の記述も少しくらいあっても良さそうなものだが。
当時もそれなりの勢力張ってたのは間違い無さそうだし。
347太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/31(木) 23:51:13
それにだ、北九州から畿内なら、途中の要所要所の地理の説明が伝に
ないのも首を傾げる?? 記紀に女王国の独自の記載がなく、北九州
と畿内の中間点の駅伝的に地名も記載がないという不審は、一月が
北九州から畿内にかかった時間と考えるのは肯定するには当然躊躇
すべきものである。
つまり、女王国は奥九州以南と観るのが正解となる。一見一月で
長すぎに思えるが、先述のとおりそのくらい経過することは九州内
でも充分云えることである。
348日本@名無史さん:2008/01/31(木) 23:51:57
@神武天皇の東遷以前にニギハヤヒ(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)が先に
河内・ヤマトに天降っていた事実がある。

A天降族には、天照大神系とニギハヤヒ系の2ケがある。

B物部氏の足跡として北部九州〜畿内(河内・ヤマト)〜尾張・美濃・越
〜出雲に色濃く残っている。

C出雲も三輪も物部系であり、記紀の内容も九州・出雲の記述が多いの
がポイント

結果 物部が臭い・・  以上


349日本@名無史さん:2008/01/31(木) 23:54:36
>>345
熊本など九州の中央部は、水行十日陸行一月の解釈に最もてこずる地域だと思うが。
古田さんのような朝鮮半島内陸行を想定すると、逆に熊本は行程の合理的説明ができないはず。
それに熊本邪馬台国説の場合、投馬国をどこに比定する?
350横槍:2008/02/01(金) 00:04:18
そうだね、
九州説ではどうしても投馬国の説明が苦しいんだよね
351日本@名無史さん:2008/02/01(金) 00:07:48
>>349
確かに、熊本で全て解決するというわけではない。
たぶん、投馬国は八女市付近にしなくてはならないのかな。
まあ、自分としては、百点満点ではないが、85点くらいで他のところよりは
点数が高いかなと思っているわけで。

更に、熊本といっても、菊池川中流域もあれば、白川を遡った阿蘇もある。
緑川中流から下流域もあるというわけで、絞りきれていないのだが。

宮崎もずっと考えてきたのだが、決定的だったのは、天孫降臨。
卑弥呼=天照大神と考えていて、天照大神のいた場所が高天原であり邪馬台国
ということになる。
そうなると、高天原から天降った邇邇芸命の地である日向は邪馬台国ではない
と言う結論になってしまった。
352太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 00:11:44
観光気分で、最初は北九州海岸近隣を水行陸行でめぐり、どこかで
女王国が奥にあるという情報を得て、行ってみようということに
なり、残り陸行主体で内地に入ったということだろうな。それで
初めて中国人の未知となる初探検の奥九州に入ったんで、探し出す
のにえらく手間がかかったから一月分となったというわけなんだ。w

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
353日本@名無史さん:2008/02/01(金) 00:14:44
案内人いなかったのかよ
354日本@名無史さん:2008/02/01(金) 00:14:56
那国=福岡平野=2万戸が正しいのであれば、
投馬国=5万戸、邪馬台国=7万戸、九州説で探すと、それに匹敵する平野は
筑紫平野と熊本平野以外にありえないと思う。
どっちがどっちかはわからないが、それに匹敵するだけの面積の平野がもうない。

筑紫平野や熊本平野が、二つの国に分かれている可能性は否定しない。
筑後川西北岸側と東南岸側など
355神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 00:31:50
オッス! ちょっとそこ寝ないように!まだ寝るなよ
356神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 00:33:19
太国&横槍
あの〜ここでなにしてるの?
何がしたいのかハッキリのべてみろ!
357神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 00:40:53
人が人気を高めてきた終止符すれでおたくら何がしたいわけ?
スレをパクってやろうとか悪どいことはやめてくれない?
太国 ◆yVAs7uaYlY  ←神経おかしいのか?
横槍        ←神経おかしいのか?
會稽東冶之東    ←神経おかしいのか?
サガミハラハラ   ←神経おかしいのか?
小倉優子が好き   ←神経おかしいのか?
唐松山       ←神経おかしいのか?
筑後原住民     ←神経おかしいのか?
古代        ←神経おかしいのか?
358神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 00:44:17
オイ〜唐松山と横槍へ

おめーら何がしたいんだ?
人から注意しないときずかないのか?

九州ですがってわたしが「九州出身」時代から知ってるんだが、

んで九州ですがさん
おたくはどうゆう神経してんだ?説明してみろよ
359神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 00:47:27
そんな悪どい考えはやめてください!!

その前にいい大人たちが注意されるなよ
360神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 00:49:19
太国へ
オタクナニシテンノ?何言われてもパクればいいってか?
頭おかしいんじゃね?
361275:2008/02/01(金) 01:24:56
>>278
いや流石に一大卒云々は分かっているが、それは交易ルート上に置いた出先機関みたいなもんじゃないのか?w

どう考えても北部九州の勢力にとって畿内からの朝貢は面白くないに決まっており
それを何故阻止しなかったのかが不思議。

多分女王共立に至る前の大乱がどのような構図だったのか、どのような帰結を迎えたのか
…によって変わってくる話だとは思うが。

個人的には鉄器の流通をめぐる九州と西国諸勢力との闘いと想像しているが…
362日本@名無史さん:2008/02/01(金) 04:21:31
改め氏は酔ってるな。
こりゃ相当な酒じゃぞ・・・・・・・,ww
363九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/01(金) 06:46:54
>>355>>360
 かたりはやめなさい! 僕の知ってる神奈川県民さんはそんな汚い言葉を使って
人を罵る人ではありませんし、おバカなレスをする人ではありません。
それになんで神奈川県民改め三重県民さんが「九州出身だった頃」になるのだ?
そういえば九州出身とかいうへんなのがいたような気が・・。
僕をして「九州出身さんっておもしろいのね」と言わしめた人でしょ?
364九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/01(金) 07:14:26
九州と名の付く人でもう一人変なのがいたような・・・。
九州ですがアアそれは僕か。
365横槍:2008/02/01(金) 07:49:37
>>350
そこで、畿内説ですよ
366日本@名無史さん:2008/02/01(金) 08:00:19
↑自己完w
367日本@名無史さん:2008/02/01(金) 08:28:12
>>365
畿内説には決定的な弱点が多すぎる。
だいたい、卑弥呼時代に九州まで「官」を置くほど強力な王権があったらおかしい。
四道将軍派遣で周りを固めようとする崇神天皇も真っ青ということになって
しまう。

>>355->>360
このスレもすぐに終わってしまう。もう誰も立てないだろうから、そんなに
気にすることはない。
368日本@名無史さん:2008/02/01(金) 08:52:51
邪馬台国:阿蘇〜高千穂/有明海水行→宇土半島あたりから陸行

投馬国(直):長崎県普賢岳付近
投馬国(放):球磨川近辺若しくは鹿児島県出水市近辺

狗奴国:宮崎県都城付近


え?水行20日や10日もかからんだろうって?
手漕ぎで陸沿いに進んで食料を現地調達してたんだろ。
有明海を水行するって事は魏から乗ってきた船じゃなく
倭で造られた船って事で丸太舟に毛のはえた程度のもんだろう。
二十日分も食料つめるとは思えん。
369日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:44:12
九州説って、こういう場だけ
元気だな。

もう既に、外堀を埋められているよ、九州説は。
370日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:48:48
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。


次の日本書紀の記載と倭人伝の狗奴国の卑弥弓呼の乱のあたりの記載を良く比べてみてください。おそらく、同じことを書いてあるんだと思います。

日本書紀
武埴安彦の反乱
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki033.html
箸墓
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki034.html

倭人伝
狗奴国との戦いや卑弥呼の墓の近辺の記述。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi10.html
371日本@名無史さん:2008/02/01(金) 12:08:53
>>369
↑ 良くでてくる根拠皆無の捨て台詞
372日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:24:30
>>371
でも、まじで外堀を埋められている。
マスコミなどでは、両方の顔を立てて、九州説VS畿内説なんだけど、
学者の間では、殆ど畿内説で決まりで
更にその先の話の展開になっている。
373日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:34:38
>372
具体的にその外堀とその先を教えてくれ。
で殆どって事は完全じゃないって事だよな?
どこに不備があるのかもついでに教えてくれ。
374日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:52:59
>>372
その先というのは、たとえば、
邪馬台国から大和朝廷が誕生したのか、あるいは、
邪馬台国は大和朝廷そのものなのか...

とにかく、纏向遺跡の規模は半端な大きさじゃない。
吉野ヶ里の約5倍あり、後の飛鳥、藤原京、平城京などに匹敵できるくらいある。
いわゆる牧歌的な国家ではなく、強大な武力と経済力をもった国家の可能性が高い。
375日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:54:29
>>373
最大の弱点は伊都国(三雲遺跡など)、奴国(須玖など)に匹敵する規模の遺跡が
九州に無いということだろうね。
倭人伝によれば最大の戸数を有しているわけだから
少なくとも玄界灘沿岸の各遺跡と同等以上の規模でなくてはならない。
もしそれ以下の規模だと仮定するなら、倭人伝の記述は誤りということになり
距離や方角の記述の信憑性も再考せねばならない。

あと3世紀やそれ以前に北部九州と畿内が対立していたなんてことはありえないと判明したから。
高地性集落が次々と発見された頃は、その考えもありだったのだが
特に瀬戸内各地の遺跡からの出土物や墳墓構造が明らかになるにつれて
地域ブロック単位でいくつもの連合があり、それらが互いに交易を行っていたことが確実となった。
3世紀になると隣り合ったブロック同士だけでなく
たとえば東海のものが九州から出土したり、その逆もありなどと交易が広範囲になる。
これが倭人伝に言う卑弥呼の時代の倭国の姿。
376日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:55:31
>>372
邪馬台国大和説の人たちも、
九州説で頑張ってきた人たちの立場も考えて
断定的なことは言わないようにしているが、
学者の現場では、ほぼ勝負がついてて
その先の大和(邪馬台)朝廷の創世記についての研究に
話がかわりつつある。
377日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:58:14
>>370
それで、ほぼ決まりだよね。
378日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:59:51
>>374
>強大な武力と経済力をもった国家
それは畿内説からしてもやや異端だな。
経済力には同意だが、武力に関してはどの国も頼りないものだったと考えられているし。
まあここは九州説の人たちが集まる場所なんだし
自説の披露は他のスレでやってあげなよ。

とりあえず三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だとか
南を東と読み替えるとか
モモソが卑弥呼だとか、そんなことを考えている畿内説というのはもう無いといっていい。
あってもそれはかなり異端の説だ。

畿内説ってどんなものかの回答にはなったかな?
379日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:10:13
いまいちよく解らないな。

畿内に巨大な勢力がありました。
それはよく解る。
遺跡の規模もでかいしそれなりの権力者がいたんだろう。

で、なんでそれが邪馬台国なんだ?
380日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:14:18
>>378
強大な武力をもっていたかどうかの基準は
相対的な物差しなので、言いようが無いが、
しかし、当初、言われていたよりは、かなり中央集権的だという話しでしょう。
まさに、卑弥呼の死の前後に、四道将軍の派遣や
狗奴国の卑弥弓呼(許乃国の彦命)の乱があったり
大戦争があったわけだから、かなりの動員力の兵力があったことになる。
381日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:26:41
>>380
>>375がその答え。
もし九州に大型もしくは小・中規模連携型の都市遺跡群が
玄界灘以外にあれば、そこが邪馬台国だと考えても差し支えない。
その場合は倭人伝にある30ヶ国が、北部九州を含む九州経済ブロック圏となり、邪馬台国連合の正体だと考えられる。
しかし無いので考えにくいというだけ。
だから消去法みたいなもので、まず九州の学者が九州説を捨てた。
今はおおざっぱな仮説として、北部九州ブロックが積極的にかやむを得ずかは不明だが
本州に発生していた広域経済圏に参加したことから、魏への朝貢が可能になったのではないかと見る向きが多い。

>>380
>四道将軍の派遣や
これを史実ととるのは危険だよ。
そういう記述があるだけで、何の物証もないしそれを匂わせるようなものすらない。
>狗奴国の卑弥弓呼
これも倭人伝では「素より和せず」のみだから、戦争状態だったとは言い切れない。
卑弥呼の死後に国が乱れたともあるが、それも短期間でトヨを立てるというなあなあの政治決着で落ち着いていることからも
勇壮な大戦争があったとは、文献資料のみを照査しても考えにくい。
382日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:44:21
>>375
>最大の弱点は伊都国(三雲遺跡など)、奴国(須玖など)に匹敵する規模の遺跡が
>九州に無いということだろうね。

マテ、それは両方とも九州だ。それとも

畿内に無いということだろうね。...の間違い?

383日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:46:42
>>381
四道将軍については、どこまでが史実かは分からないけど
少なくとも、西暦240年代は、いろいろ
混乱の時期にあったんじゃないのかな?

狗奴国については、
長年、邪馬台国連合と対等に渡り合っていた大国のように
解釈する学者や歴史愛好家が多くいるが、
俺からみたら、「素より和せず」のみだから、
狗奴国は、邪馬台国を中心とした倭国連合の一構成員の国家で
卑弥呼の死後の直前だけ、卑弥呼らと権力闘争をしたという感じ。
まさに、狗奴国(この国・中古音)=許乃国(この国・宇治・山城国風土記より)であり、
狗奴国の乱は、武埴安彦命(百襲媛命の甥、崇神天皇の伯父)の乱のことだと思われ。
384日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:54:44
>382
伊都国/奴国は九州だけど
邪馬台国に比定する遺跡が九州にはないって言ってるんだろ。

要するに魏志倭人伝は畿内説にとって有利な部分は正しいけど
不利な部分は正しくないってことだ。

で、それをカバーする為に記紀あたりを持ち出してくる。
385日本@名無史さん:2008/02/01(金) 15:19:25
>>384
それは九州説も同じ。

だから、結局、中国史書、日本史書、考古学の様々な分野を総合して
その結果、畿内説が有利になってきているんだろう。
386日本@名無史さん:2008/02/01(金) 16:01:48
>385
>それは九州説も同じ。
違うと思う。

倭人伝の里数や方位がおかしいのは認めるが

その中に法則性を探すのが九州説。
だから短里とか放射説とか出てくる。
さらにはそこから記紀の記述等と比較検討して東征説とかが発生してる。

畿内説は
記述がおかしい→倭人伝は資料として役にたたない→
記紀に色々な記述がありそれに伴う大規模な遺跡も沢山ある
→こんなに大きなものが記録に残ってないわけはない→
倭人伝に邪馬台国がある→中国史書、日本史書、考古学の様々な分野を総合して判断すると
邪馬台国は畿内なんでしょ?

倭人伝を一旦切り捨ててるのに
なんで邪馬台国だけ引きずるのかが解らない。

それこそ邪馬台国と同じ頃、畿内には大和大国(仮称)があり
それが現在の日本の基盤になりましたでいいじゃない。
387日本@名無史さん:2008/02/01(金) 16:56:40
>>386
いや、どう言えば判ってもらえるのかな。
極端な話をすると、邪馬台国や卑弥呼の存在の信憑性も疑っているのが
いま考古学者が中心に唱えられている説なんだよ。
だから三国志のなかの倭人伝が、正確に3世紀の倭国の状況を把握していたかどうかも
比較文献が無いから不明以上のことは言えないし
仮に邪馬台国と呼ばれるものが日本のどこかにあったにせよ
それが本当に倭国の盟主だったかどうかは、今は誰も断言できない。

そこで九州説をとるならば、>>375>>381で書いたように
九州経済ブロック(考古学では便宜的にツクシ王権と呼称している)がその正体となるし
ツクシ王権が独断で朝貢したことになる。
これが>>386さんの考える九州説だと思う。

たぶん畿内説という昔の呼び名が混乱を招いているのだろう。
今は倭国経済連合(邪馬台国経済連合)もしくは初期ヤマト政権という
九州から関東に至るまでの地方経済ブロックが、首長国連邦のように機能し始めていたというもの。
纏向遺跡=邪馬台国というわけでもなく、ましてやそこに卑弥呼が居たと考える人も少ないんじゃないかな。

念のため、意見を押し付けるつもりは無い。
あくまでも畿内説の概要を知りたいというレスがあったからそれに答えただけで他意はない。
このあたりをもう少し詳しく知りたい人は、通称マキムクスレを呼んでみるといいかもしれない。
参考文献や論文を知りたい人も、そこで質問すれば誰かが答えてくれるだろう。
388太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 17:00:28
疑う〜? 津田病の波及伝播だろう。
389日本@名無史さん:2008/02/01(金) 17:02:51
ついでに、記紀も継体以前の記述は、遺物が出土したもの以外は
倭人伝より信憑性が薄いと考えていることもつけ加えておく。
記紀の記述にこだわる人は、どちらかというと学問よりイデオロギーを大切にする人で
それは学問的な畿内王権とは関係ないので、混同して糾弾しないでよ。
390太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 17:12:08
だいたい考古はまだ幼児の段階だから、重要ではあるが、アテにしす
ぎるととんだ方向に考えが行ってしまう。これにハンドル、ブレーキ
をかけるのが記紀等古文献である、後者をないがしろにすると、女王
国、卑弥呼の存在まで疑念を持つようになり、津田病の伝播、伝染の
蔓延が、そういう病状を発生させる。
ただ考古は幼児と云えど、パワーは極めて強力であり、まるでスーパ
ーマンの幼児の車上げのような凄さがあるのは大したものである。
この力を横暴にさせないため、記紀等のクリプトン元素をも重用せね
ばならない。
391太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 17:16:56
>>389
梁書には繼體以前の乙祁(=顯宗)の記述があるから、そんなこと
で信憑性がどうのこうの低下させる必要はない。
392日本@名無史さん:2008/02/01(金) 17:32:07
というか、考古学者の先生は
基本的には、考古学的資料だけから色々と考察するしかない。
それらが彼らの正当なやり方。
文献などの資料を持ち出すことは邪道なんだよ。
しかしながら、考古学的資料だけで、歴史を思い描くことなんて
絶対に不可能なわけだから。
結局は、学会などでの正式な場所では、断定しては発言できないが、
考古学の先生は、結構、文献を読み漁っている。専門外なのにw
で、正式な場所でないところでは、文献的なことに発言している人が多い。
393唐松山:2008/02/01(金) 17:34:48
九州と大和の距離
景行のクマソ征伐の時の 日数
ホ38105 アフミヅキ クマソそむきて ミツギせず ヲシテさゝけて ミカリこふ
ハヅキモチより ミユキなる ナのヰカいたる スハウサバ 

8月15日出発 9月5日 宇佐付近に到着 20日ほどの里程。

394日本@名無史さん:2008/02/01(金) 17:36:50
>>390 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 17:12:08
>だいたい考古はまだ幼児の段階だから、重要ではあるが、アテにしす
>ぎるととんだ方向に考えが行ってしまう。これにハンドル、ブレーキ
>をかけるのが記紀等古文献である、後者をないがしろにすると、女王
>国、卑弥呼の存在まで疑念を持つようになり、津田病の伝播、伝染の
>蔓延が、そういう病状を発生させる。

というか、今、話題になっている箸墓古墳なんてのは、
もろ、倭人伝と記紀の記述が始めて一致するんだよ。
よって、当初は考古学者のスタンスは、文献は信頼できないというスタンスだったのが
結果的には、考古学と文献史学の全てを整合させる事態になっているわけで。
当初の思惑とは違う方向になっている。
395太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 17:40:02
>>392
文献無しだと、彼らは死ぬまで古代の真相が解らぬままあの世行き
を覚悟せねばなるまい。ww 鏡と剣の銘文で、せいぜい繼體と
雄略くらいまでであとは天皇が無とみなすんだろうから、役にも
立たないノンメリット性の強い学問になっちゃうことになる。ww
396唐松山:2008/02/01(金) 18:21:06
現在言われているところの 箸墓古墳は、鉄器が入ってきた後の作成だろ?

崇神10年に 箸墓クラスの塚を作る 人足がいません。
397日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:27:49
>>387
>極端な話をすると、邪馬台国や卑弥呼の存在の信憑性も疑っているのが
>いま考古学者が中心に唱えられている説なんだよ。

また、とんでもないウソをw
倭人伝の外交関係の記事の信頼度は覆せないというのが定説。
存在しない国との外交関係を公文書に残したと言うのかね。
398九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/01(金) 18:37:13
>>374「その先というのは、たとえば、
邪馬台国から大和朝廷が誕生したのか、あるいは、
邪馬台国は大和朝廷そのものなのか... 」

ばかばかしい。「日本の古名をヤマトというからヤマタイが元になったんですよ」
なんていう幼稚な手口で何にも知らない外人さんは「それもそうね」と思い込んでしまう。
倭人伝の文献無視、詭弁と捏造とダマカシの畿内説。
399日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:42:33
すごいな、まるで神様を否定されたように
狂信的九州説がファビョっている
普通に古代史とかに興味もって覗いた初心者なんかはどん引きだろうな
400日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:45:48
>387
言いたい事は解ったよ。
邪馬台国なんてどうでもいいし
ましてや卑弥呼なんていたかどうか解らない人間なんて探しても無駄。
けどその時代に日本って場所が
かなり文化的な生活を送ってたことだけが真実で
それしかわからないし検証のしようもないってことだな。

でここで箸墓とかモモたんの事をいってる奴らは異端で
そんな奴らの事はしらんということだな。
401日本@名無史さん:2008/02/01(金) 19:19:25
横から失礼。
当方畿内説支持だが考古資料同様
魏志倭人伝や記紀もかけがえのない
資料だと思っている。
卑弥呼モモソヒメ説にも興味がある。
こんな畿内説派もいるので一言した。
402九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/01(金) 19:27:49
まあちょっと言いすぎたか知らん。
気を悪くしないでね。
403唐松山:2008/02/01(金) 19:52:03
考古学と古文献は 別物と考える前に 年代をずらして考えましょう。
例えば
崇神5年 国内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
崇神6年 新羅  193 倭人が大飢饉となり避難民到来
崇神10年 四道将軍
崇神11年 異俗多帰。国内安寧。
 考古 2C末 急に地方の土器が集まる。
崇神17年 始造船舶 卑弥呼畿内説の弱点でもある。

かなり 合っています。

西暦193年に倭から 多数の人が渡海した としたら 倭人はかなり前から
半島で 農業を営んでいた。多分 天日矛がやってくる前から。


404日本@名無史さん:2008/02/01(金) 19:57:15
世界史版よりやってきた私が華麗にこのスレに終止符をうってあげよう
科学的に歴史を見るマトモな方は結局こういった結論となってるはず。


卑弥呼うんたらの話は陳寿の捏造。
405横槍:2008/02/01(金) 21:05:35
考古学を中心に話を展開する奴は、ここに書き込む資格は無いだろ
考古学板がちゃんと設定されているのだから

歴史学は、文献を中心に具体的な過去を探求するもんだよ
勿論、文献の入った考古学的遺物は、こっちの分野だと思う。

難しいのは、天照大神。
神話学の分野だが、倭人伝の卑弥呼と同一人物なら歴史上の人物
406太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 21:09:14
同一人物ではないな。卑弥呼は神武以降の女性でアマテラスは神武以前のため
おのおの別人だな。それを無理に合わせようとすると、安本先生のような
スシ詰め在位になってしまう。
407横槍:2008/02/01(金) 21:22:06
>>406
俺は安本論は、あまりかってないが、スシ詰めとは思わない。

継体以降の天皇で在位年数が30年以上の天皇って何人いると思う?
408日本@名無史さん:2008/02/01(金) 21:55:57
>>405
違うと思う。
例えば君は信長の比叡山焼き討ちは事実だと思う?
信長公記にはそういった記述が無く、信長記では見られるわけで
信憑性からすれば公記の記述が正しいだろうと推測するのが文献学。
ところが実際に比叡山を掘り返して、焼土や炭を丹念に分析して
そのような痕跡はまったく見られないと物的証拠を挙げるのが考古学。

文献に記載されたものが事実かどうかを確かめるためのものだから
考古学を無視すると何一つ確かなことはいえない、推測だけの世界になってしまう。
平城京や平安京だって、実際に掘り返したからこそ文献資料の正しさが実証されたわけだよね。
409日本@名無史さん:2008/02/01(金) 22:05:22
魏志倭人「伝」だから、
倭人が朝貢した際に、
身振り手振りで伝えたことを陳寿が書いただけ。
中国は当然、平仮名もカタカナもないので
漢字の当て字が使われてる。
名前かどうかわからない
ヒミコを卑弥呼にした可能性がある。
例えば
「ヒミコのお告げでクナを攻めた」と。
↓陳寿は
「卑弥呼という女王がクナ国を攻めるよう命令した」↓しかしもしかしたら
「日巫女にクナを攻めても大丈夫という、お告げが出たから攻めた」
のかも知れない。

という作文を中学生の時に出して、朝礼で表彰されたよ
410横槍:2008/02/01(金) 22:08:44
>>405
おいおいよく読めよ
別に考古学を無視するわじゃねーよ
あくまで参考資料というわけだ
411九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/01(金) 22:26:31
>>409
「伝」だから「伝わった事」という意味を指すのではなく
見聞した事とみるのが正しいと思う。実際に魏使は来倭しているのだから
見聞きした事を伝えたもの。陳寿にとっては伝というだけ。
倭にはボディラングリッジの文化はありません。
412唐松山:2008/02/01(金) 22:28:42
神代の暦
神代の長さは 1020年+58年です。
読むことの出来る書物は、 ほつま伝

ホ04012 ホツマクニ ヒカシはるかに ナミたかく 西より海を渡ってきました。
ホ04017 ヰオツギの マサカキもうえ  世継ぎの 暦です
ホ04096 あれませる アマテルカミそ フソヒスス モモフソヰエタ  
トシキシエ ハツヒほのほの いづるとき ともにあれます  天照大神の誕生
ホ28003 ヰソススの チヱのハタトシ アメかわる コヨミまだとて モノヌシが イセにもふでて これをとふ
50章の 1020年 天皇の代替り
スス=1章=19年7閏のこと
ホ28019 アクルトシ(翌年)なる ミタのアヱ なればフタヱト キアヱ(甲子)より ヱとホとかぞえ ヒトヱムソ

年に干支を振る(例えば ○○15年辛亥など)様になったのは 紀元前100年位から 天照のトシキシエは このままでは通用しない。
初期は暦は有っても数えていない。1年目が1章の始まりではないので注意

413太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 22:32:13
>>407
あの先生の説に疑問を持つか色々吟味してみて信用してるのか?
反問するが、30年以上は何人いるのか?

とにかくお前は倍暦を否定して安本先生の説を本気で思っている。
これでいいんだな?
414日本@名無史さん:2008/02/01(金) 22:39:22
>>370
武埴安彦の反乱を狗奴国との争いに比定するのはちょっとおかしい。
これは、武埴安彦に反乱の様子がうかがえるので、征伐されたというだけの話。

倭人伝では、倭国の使者がわざわざ帯方郡まで行って狗奴国との交戦の様子を
説明している。
黄幢をもらったのも、恐らく、狗奴国との争いのためだろうと思われる。
かなり苦戦して困っている様子が感じられる。

一方で、天照大神と素戔鳴尊との争いは、切羽詰っている。
古事記によると、素戔鳴尊が高天原に上って行くと、山川がことごとく動き、
国土が皆揺れた。天照大神は、驚いて素戔鳴尊は高天原を奪おうとしているに
違いないと戦いの準備を始める。

こちらのほうが、倭人伝の記述にもあっていると思う。
415九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/01(金) 22:41:14
>>408
考古学のみを重視し文献を軽視するのは本末転倒。
いわゆる倭人伝の方向が間違っているとして東を南に読み替え
畿内の方角へと女王国を位置を持っていくなど、そのきわみといえよう。
416古代:2008/02/01(金) 22:45:02
409
ヒミコを卑弥呼としたのは差別的な碑字を故意的に使っているのであって、日本に限ったことではない。
したがってその本字を巡って姫子、日巫女、日御子、日女子などの字が候補に挙がっている。

魏志倭人伝で、魏の使者は伊都国までは実際に行った事があるが邪馬台国には行った事がない使者が聞いた話を更に陳寿が聞いた
つまり邪馬台国の話は又聞きである。

最近の見解では天皇家はもともと太陽神天照を祀っていたのではなく、継体あたりからであろうと言われている。
元々は稲穂の神を祀っていた可能性が高い。
天照=卑弥呼なら伝説的な女王を神格化したと説明することになるが太陽神にした理由は?
一方太陽神であったニギヤハヒなど各地の信仰のアマテル神(天照神)の元締めとして天照大神を作ったとも考えられる
417河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/01(金) 22:46:43
>>409
倭人伝は便宜上区分けされたにすぎない。紹煕本は区分けしているようだが、紹興本は区別無くストレート。
倭人伝の俗称自体をネタにするの人って
未だ居たんですね(ある意味、国宝級)
418神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 23:04:59
こんばんわ
419横槍:2008/02/01(金) 23:06:54
>>413
他スレからのコピペだが・・・

在位30年を越える天皇一覧(雄略朝以降のみ)
欽明 539−571 32年
推古 592−628 36年
醍醐 897−930 33年
後小松 1382−1412 30年
後花園 1428−1464 36年
後土御門 1464−1500 36年
後奈良 1526−1557 31年
光格 1779−1817 38年
明治 1867−1912 45年
昭和 1926−1989 63年

安本説は、たしか書紀の各天皇紀のページ数から在位年数を割り出す
という噴飯物の説なのであまり信用していない
420日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:07:35
>>418はホンモノか?
421神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 23:09:50
みなさんへ
えっと昨晩は失礼しました。
余りにもこっちの事考えてくれないのでムカツキましたw
それとみなさんがこのすれ立てたわけではないかもなんですが、
私の考えがあってスレを立ててるところもあるし今後、このような
真似だけはしないでほしいです。

まあみなさんが悪いのではないかと思うがここに書き込んでおきます。
422太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 23:10:27
>>419
そっちのことを云ってたのか? そっちのことでなく用明以前の
天皇のことだよ。
ソレはいいとして、そんなにあるのに、何でスシ詰めでないという
のか??
423神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 23:15:40
今回は11スレ終了時、わたしが立てれない状態で誰かが立てたのでしょう。
しかし、少しぐらいは待っててほしかったですね・・・

まあ、今回いろいろ言っても仕方ないので我慢するべきと考える。
それとスレは今後もわたしが立てますのでご理解のほうはお願いしますよ。みなさん
424神奈川県民改め三重県民:2008/02/01(金) 23:18:19
あと昨晩の数々のご無礼ほんとにすみませんでした。 以上

425日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:19:07
あのー、考古学者がよく使う「・・かもしれない」ていういいかた、
あれは、ずるいんじゃないでしょうか?
少なくとも、「私はそう推測する」と、自己責任で発言してほしいです。
426横槍:2008/02/01(金) 23:23:12
>>422
確実に年代が判るのは、例えば欽明からだとしよう。
そこから100代後の明治までは、1328年。平均13.28年
100代ぐらいのサンプルがあれば統計学も参考になるのでは?
初代の神武まで存在していたとしても精々西暦200年ぐらいが妥当ではないの?
427太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 23:28:50
>>426
なんで大正、昭和を外すんだ? 数字が上がるからか? そんなら
安本氏支持に思える。200年? そんなに詰まらんよ。倭国大乱
あたりが神武即位だというのか?
428日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:33:33
>>426
 神武から数えると欽明天皇は21世代目
 1世代20年と仮定すると20年×20世代で400年間。
 欽明即位がAD509年、神武即位を概算するとAD109年かw
429日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:38:19
>>427
欠史八代を考えたら、神武即位は300年以降になったりして。

対馬や壱岐あるいは末盧国や伊都国を含め、30カ国近くが邪馬台国に属していた
とされるわけで、かなり強力。もし、その頃、近畿地方に大和朝廷の前身か
あるいはそれに類するものがあったら、皇室の歴史書である記紀に書かれている
と思われるが。
430日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:38:31
>>416
違う。アマテラスを祭ったのは
天武天皇からでは?と言われている。
少なくとも、崇神天皇の時代には既に天照は祭られていたが、
それは、アマテラスではなく、アマテルだった。
431日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:42:15
>>414 :日本@名無史さん:2008/02/01(金) 22:39:22
>>370
>武埴安彦の反乱を狗奴国との争いに比定するのはちょっとおかしい。
>これは、武埴安彦に反乱の様子がうかがえるので、征伐されたというだけの話。

>倭人伝では、倭国の使者がわざわざ帯方郡まで行って狗奴国との交戦の様子を
>説明している。
>黄幢をもらったのも、恐らく、狗奴国との争いのためだろうと思われる。
>かなり苦戦して困っている様子が感じられる。

そんなもん、おまえの解釈のサジ加減じゃないか?

武埴安彦命は、皇族の一族だし
彼の反乱はただの争いじゃないだろう?
当然、彼は皇位を狙っていたわけだし。

432日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:43:54
とにかくさ、安本の九州説ってのは、
個人的な主観のサジ加減が多すぎるんだよ。
433古代:2008/02/01(金) 23:45:49
430
継体か天武か迷いましたがとりあえず古い継体説を取りました。
崇神の御世でいけば箸墓は太陽信仰と関わりがあるのでは?という話もありますね。
434日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:48:28
安本も引くに引けなくなっているんだよ。
奴はこれで今まで商売してきたんだから。
よって、内心、自分の説は間違いだと思っても
なかなか後戻りが出来なくなっている。

奴の無理な主張の根底にあるのは、アマテラス=卑弥呼説だ。
しかし、そもそも、天武天皇の時代以前は
アマテラスではなく、男のアマテルを祭ってたわけなんだから。
その時点で、奴の主張が崩壊する。
435日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:51:49
>>433
日本書紀に、崇神天皇が疫病が流行るのは天照大神の祟りだとかいって
宮中から外へ出して天照大神を祭ることにしたという記載があるが

その神社が今もあるのだが、そこに祭られているのは
天照国照彦火明命なんだわな。
つまり、アマテラスではなく、アマテルのほう。
436日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:55:06
卑弥呼は倭王。天照大神は高天原の主宰神。どちらもトップで立場が良く似ている。
倭迹迹日百襲姫は、ただの先代あるいは先々代天皇の娘。ちゃんと天皇もいる。
外交的に王と認められるわけがない。

さらに、卑弥呼も天照大神も独身。倭迹迹日百襲姫は、一応、大物主神と
結婚している。

妙なさじ加減は畿内説のほうだと思うが。
437日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:55:46
崇神天皇から垂仁天皇にかけて色々あったみたいで。崇神天皇とい
えば、初めて天皇らしい天皇になった「御肇国天皇」と呼ばれた天
皇。それ以前の天皇は「欠史八代」と呼ばれることで有名。そして
、崇神天皇は治世6年、天照大神を恐れて宮中の外に祀ることにし
た天皇。

私本日本書紀
崇神紀・大物主神の神託
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki032.html

しかし、その崇神天皇が治世6年に女神・天照(アマテラス)を祀
ったであろう神社は、なぜか男神・天照(アマテル)である「天照
国照彦天火明命」が祀られている。記紀の記述と微妙に違う。この
アマテルとは、尾張氏の祖先で、神武天皇の曽祖父ホノニニギの御
兄弟。

鏡作坐天照御魂神社
http://www.geocities.jp/engishiki01/yamato/html/031203-01.html
438日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:56:48
垂仁天皇の時に伊勢神宮が建立されるが、その時に母方に尾張氏が
いる皇女が重要人物の一人として登場する。(渟名城稚姫命は先帝
の崇神天皇の皇女。母は尾張大海媛。)

私本日本書紀
垂仁紀・伊勢の斎宮
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki042.html

これって、天武天皇の時代以前は、天照国照彦 火明命を、大和の始
祖・天照(アマテル)として祀っていた証拠じゃないのか?つまり、
女神アマテラスって、天武天皇が古事記を編纂する時に新しく作り
出した神様。だとしたら、なぜ、崇神天皇は疫病が流行したのを、
この天照国照彦 火明命の祟りだとして恐れたのはよく理解できます。

しかも、崇神天皇の前は、欠史八代とかいって、記紀には記載が殆
ど無い。そして、その欠史八代の系図の途中には倭迹迹日百襲姫命
という卑弥呼と噂される女性が登場する。おそらく、神武皇統は尾
張氏の先祖から祭祀を掌握するために、一族の女性を巫女として祭
祀を奪ったのでは?と推測できます。
439日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:59:09
>>436
妙な匙加減は九州説だろうが。
大物主と結婚とか言ってもな、その大物主は
夜にしか現れなくて、しかも、実は蛇だったとかいう
どう考えても、本物の人間と結婚したという話じゃないだろう?
440横槍:2008/02/02(土) 00:01:19
>>434
これは、しかたないかも知れない
プロのスポーツ選手が八百長するようなもの
金のためもあるし、試合を盛り上げるためもある
441古代:2008/02/02(土) 00:02:50
天照国照彦火明命は尾張氏の神です。
大海人皇子の壬生・大海人宿禰一族(海部氏・尾張氏)は伊勢を拠点としていました。
伊賀から伊勢に入った大海人皇子は天照大御神を望拝したとあります。
このとき天照国照彦火明命が天照大御神となったのかもしれません。
日本書紀の崇神天皇の段では祟りが天照大神に及ぶのではと恐れて出したのでは?
442古代:2008/02/02(土) 00:12:24
441
訂正 崇神天皇は神を恐れ共に住むのは不安と大国魂と天照を外へ移した。
この時移したのは桧原神社では?天照若御魂神
443日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:14:13
天照大神には、卑弥呼のほかに台与も含まれている。
素戔鳴尊との争いのときに天の岩戸に隠れるまでが卑弥呼で、岩戸を出てからが
台与となる。
岩戸に隠れるというのは、古代では尊い人物の死を意味する。

倭迹迹日百襲姫は、死後、復活もしないし、次の女王もいない。

さらに、台与のときに男王が立つ。並受中国爵命とある。
天照大神には、高皇産霊尊が並立している。

しかし、倭迹迹日百襲姫ではその説明が全く出来ない。

>>440
天照大神=卑弥呼+台与は自然な帰結。
不自然な倭迹迹日百襲姫を持ってこなくてはならない方が、苦肉の策といえる。
444横槍:2008/02/02(土) 00:18:21
>>441
崇神の時は、両宗派(大国魂、天照大神)の檀家争いじゃないの?
疫病の原因をお互い相手のせいにしたりして
 
結局、両方大和から追い出されるはめに
445日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:26:25
崇神が武埴安彦を征伐したのは、言いがかりみたいなもんだろ。
証拠といえば、モモの霊感と流言だけ。
要するに後の時代と同じように権力を握った側が、地位のある皇族に
言いがかりをつけてやっつけたんじゃないの。
それにより崇神系統での皇位継承が保たれたということだろ。
446日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:28:32
>>443
あの〜豊鍬入姫=台与なんですけど...
こちらは、卑弥呼と台与の二人の候補が居るんですけど...

アマテラス一人が、卑弥呼と台与の二人を表しているという無謀な解釈ではない。
447日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:32:56
武埴安彦の生母は、河内の出自って
記紀にも記載されている。

魏略の狗奴国の官は、拘右智卑狗。これは河内彦のことだろう。
狗奴国は中古音で、この国。
武埴安彦命の領国は山城だったと記載されているが
山城風土記によると、京都・宇治のあたりは、許乃国(この国)と言われていた
と記載されている。

全てが繋がってくる。
448日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:39:35
古墳時代だったら、魏に援助を要請して檄文が来るまでに
決着がつくんじゃないかな。
環濠集落だったら、持久戦がありうるだろうけど。
449日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:54:39

トヨタン・・・・・・・・
450古代:2008/02/02(土) 01:08:10
438
天照国照彦火明命の別名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で
ニギハヤヒは物部氏、尾張氏、海部氏、穂積氏、などの祖とされます(ホアカリ=ニギハヤヒとした場合。分ける人もいる)
初期では神武以前に大和を支配していたとあるのでニギハヤヒと考えた方がわかりやすい。

崇神の御世に祟り神として登場する大物主はもともとは太陽神(海を照らしながら現れる)だったが
この時から蛇神として登場する。
一方宮中では天照を追い出し三輪山に大物主を祀る。

天皇家が祀っていた太陽神は実は大物主で、後に天照大神を皇祖神としたので蛇神に変えられた。とも考えられる
崇神の世の天照神、倭大国魂神、大物主の関係は一つのカギ。さらに天照国照彦火明命が絡む(?)。
451古代:2008/02/02(土) 01:19:02
444
倭大国魂神は追い出されてないです。大和神社に祀られてます。
渟名城入姫が斎主として祀ったが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった話が有名
452日本@名無史さん:2008/02/02(土) 01:52:51

ヌナキノイリヒメタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
453日本@名無史さん:2008/02/02(土) 01:56:30
>考古学を中心に話を展開する奴は、ここに書き込む資格は無いだろ

いちおう無文字時代を対象としているわけですから、考古学も大切ですね。
454日本@名無史さん:2008/02/02(土) 02:26:50
九州説論者のみならず畿内説論者までもが陥りやすいのは
3世紀の畿内王権(三輪朝と言っても良いか?)がその後のヤマト王権に繋がり
ヤマト王権の日本の統一が右肩上がりに進んでいるという思いこみではないか?

そうなれば歴史を逆算して卑弥呼の時代に畿内の王権が九州まで支配していたなんて
あり得ないと言う論に帰結するのは当たり前なわけでw

また畿内の勢力も”面”と言うより”線(=交易ルート)”と考えた方が良いのではないか?
でないと九州まで力を及ぼしていた畿内王権がすぐ近くの狗奴国に手を焼くと言うのがおかしくなるw
455日本@名無史さん:2008/02/02(土) 02:32:41
>>454
面ではなく、線(ないし点)という理解のしかたは
わたしもその通りだと思います
456日本@名無史さん:2008/02/02(土) 02:38:00
>>450
つうか太陽神と蛇神って古代には同一って事はなかったっけ?
伊勢の太陽神アマテラスも古代には蛇体だったと言う古神道家もいたと聞いた記憶があるが…

ふと思い出したが伊勢の夫婦岩だったっけ初日の出参拝スポットとして有名だが
二つの岩の間に注連縄が貼ってあり…

 海を照らしながら現れる太陽 を 注連縄(=蛇) 越しに見る形だなw
457日本@名無史さん:2008/02/02(土) 02:49:55
>伊勢の太陽神アマテラスも古代には蛇体だったと言う古神道家

↑それは誰ですか?
458日本@名無史さん:2008/02/02(土) 07:19:50
吉野センセ?
459古代:2008/02/02(土) 09:16:18
456
うーん蛇神と太陽神が同一って事はあまり聞かないな。
蛇は稲穂の化身、稲妻の事、水田を行き来してるので水田の守りとされた、など稲の神
神を降ろすとき、木に縄を巻きつけて蛇に見たてた。ご神木に注連縄
その後は神域とを分ける役目になった。
注連縄自体が縄で作るから稲作と関係が深いと言われるし。

太陽神の方は木に布を巻いてその上に鏡をくくりつけて神を降ろした。
こういうやり方は今は見られないから神木に注連縄が混同の原因かなぁ

大物主が蛇になった段でいうと、蛇っていうのは実体のない「神」がとる一つの形態で本体が蛇という事ではない
と考える人もいる
460日本@名無史さん:2008/02/02(土) 09:32:06
>>450
ニギハヤヒとホアカリが同一人物といっているのは
物部氏側であって
皇室、尾張氏、海部氏が主張していたわけではないから
今のところ、明確なことは分からない。
461日本@名無史さん:2008/02/02(土) 09:38:38
>>454
おかしくないだろう?
そもそも、狗奴国がどの程度の国かは分からない。
というのは、倭国は、卑弥呼を持って、一度、平穏になったわけだから。
狗奴国王との仲の悪い関係は、卑弥呼と卑弥弓呼の個人的な関係じゃん。

よって、卑弥呼=百襲媛命、卑弥弓呼=武埴安彦命なら説明がつく。
これは身内同士の争いだろう。

そもそも、邪馬台国は、伊都国(明らかに北九州)に一大率を設置していたわけだから
畿内説なら当然、九州までを傘下においていたわけだし。
纏向遺跡からは、北九州から関東までの広範囲の土器が出てくる。
462太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 09:53:59
九州まで傘下には入っていないだろう? 景行、神功、仲哀の時は旅行とか半島
の関係だろう。だからそろそろで雄略ころから九州にも朝廷の力が介入してただ
ろうが、まだまだ不完全であり、九州王朝の支配もあるから、全国的になるのは
元明以後だな。蝦夷はどうだか知らんが、そんなところだ。
463日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:08:40
>>462
傘下に入ったとかいっても、それっきりで安定するという固定観念は止めたほうが良い。
たとえば、足利幕府だって、たえず、地方の豪族に反逆されまくっていたわけだし。
一回、傘下に入ったから、これで後々まで、おとなしく平穏無事なことのほうが
珍しいぐらいなんだから。


464日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:11:52
紀元1世紀に火明命により、一度、倭国の大半が統一したんだけど
でも、それで磐石になったとは思えないわけだし。
その後も、何度も統制が揺らいで
畿内中央政権が、地方へ遠征軍を派遣したことは幾度と無くあったんだろう?

だいたい、鎌倉政権や足利政権だって、たえず、
地方に反逆されて、遠征軍を派遣したりしていたじゃん。
465古代:2008/02/02(土) 10:14:33
460
物部氏側ではなくて海部氏でしょう。
日本最古の「籠名神社祝部氏系図」で海部氏の祖先は彦火明命であるとし。
籠神社の社伝によって彦火明命はニギハヤヒの別名であるとした
「勘注系図」に別名・天照国照彦火明櫛玉饒速日命とある。

籠神社は一方で彦火明命と山城の賀茂別雷神とは異名同神であるとする。。(ーー;)

物部氏はニギヤハヒを始祖とする一方では経津主神を祀っていたとされる。
(ニギハヤヒが氏神で経津主神が祭神?系統違うような・・)
さらに吉備でスサノオを祀っているのも物部氏・・(ーー;)
466日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:15:12
>>461
倭人伝によると、正始八年(西暦247年)に、卑弥呼は帯方郡に使いを送って
いる。使者は、狗奴国と交戦状態にあることを説明する。
そこで、張政が派遣され、檄を以って告喩するということになる。

これを見ると、卑弥呼は、魏というか帯方郡に仲裁を頼み、そのために張政が
やってきたと受け取れる。狗奴国のほうが優勢だったようにも解釈できるので、
狗奴国はかなり強力な国だったのだろう。
467日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:28:36
>>466
だから、

>これを見ると、卑弥呼は、魏というか帯方郡に仲裁を頼み、そのために張政が
>やってきたと受け取れる。狗奴国のほうが優勢だったようにも解釈できるので、
>狗奴国はかなり強力な国だったのだろう。

この解釈自体、サジ加減だろう?

そもそも、卑弥呼と卑弥弓呼は個人的な仲の悪さで
そもそも、卑弥呼が死んだ後、わざわざ、彼女のために
大きな墓を作るくらい余裕があるんだから...
狗奴國というのは、宇治の辺りにあった許乃國で、
そこの領主は、卑弥呼の甥だった武埴安彦命。

魏略には、狗奴國の官・拘右智卑狗が大きく関与していたとある。
武埴安彦命の外戚が河内の豪族だったことは、記紀にも記載。
つまり、武埴安彦命の背後に、彼の外戚である河内の豪族がいたのは分かる。
468古代:2008/02/02(土) 10:30:36
鏡作坐天照御魂神社の社伝
八咫鏡を皇居から伊勢に移す際に、代わりの鏡を鋳造した(皇居に祭るため)。
その時の試作品の鏡が天照国照彦火明神であるという。
伊勢に八咫鏡を移したとある一方、皇居で神鏡を祀っていたと記述があるので疑問に思っていたがこれで解決。
皇居の鏡の名はないのかな?
469日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:35:56
>>465
海部氏は、物部氏を同族とまでは主張していない。
ただ、その系図には、物部氏の祖と同じような別名が登場するだけ。

俺は、海部氏系図には、古代の謎を解く重要な要素があること自体は認めるが
だからといって、何でかんでも、海部氏系図が真実だとは思わない。
あれは、あくまでも、平安時代の海部氏の独自見解にすぎないわけだから。
470古代:2008/02/02(土) 10:48:51
469
海部氏は古代の有力氏族と結び付けたかったのでは?賀茂氏の神とも同一だと言ってるし
物部よりの『先代旧事本紀』にもホアカリ=ニギハヤヒとあるけどまあ偽書と言われているし根拠としは弱いか。
ただ物部文書を参照していると言われるので考慮にいれてもいいかな
471日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:50:30
>>467
おいおい。あまりにも身勝手な解釈じゃないかい。

倭人伝には、
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」
とある。

これは、卑弥呼が狗奴国との争いを説明するために使者を送っているわけで、
その仲裁のために張政がやってきたことは明らか。また、張政が仲裁しているの
も明らか。

自分で解決できなかったから、このような手段に出たわけで、狗奴国が強力な
敵だったと解釈するのが普通だと思うが。
472日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:55:18
物部氏・・建設省
海部氏・・水産省
安部氏・・防衛省
渡部氏・・運輸省(水路部)
磯部氏・・水産省
田部氏・・農林省
こういう感じで氏=省、役所だな
473日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:58:21
>>471
それが身勝手な話しなんだよ。
それに武埴安彦命は、庶子とかいっても
皇族の一族だから、この反乱は皇位を狙った大乱な訳で
魏が仲裁するのも、よく分かる話だ。
474日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:00:26
皇室、海部氏、物部氏、どれが本当のことを言っているかはわからないが
共通して言えるのは、尾張氏がいかに凄い家系だったということだ。
475日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:40:22
一大率近辺の解釈は
”女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ”
で間違ってないですよね?

畿内説だとこの諸國ってのは九州勢力ってことになるのかな。
南を東と読み替えて畿内にたどり着いて
北を西か南かあるいは南西に読み替えて伊都国に戻るわけですね。

もうどこでもありですねこれは。

倭人伝は嘘だらけで距離も方向も滅茶苦茶。

なら邪馬台国は北海道あたりで暖かかったという話も嘘で
卑弥呼はアイヌ女性でもいいんですよね。
476日本@名無史さん:2008/02/02(土) 12:53:47
>>217 日本@名無史さんさんへ
>荒れすぎ。子供のケンカ以下。もう、来るのよすよ。読む気もしなくなった

どうもすみません。
今後そのような事なきことにします。
477横槍:2008/02/02(土) 13:19:52
>>453
考古学の話をするなとは言ってないよ、
考古学に終始するなら考古学板に書けと言っているだけ。

古代史は文献が、非常に少ないし信用度も低い
倭人伝を素直に信じれば、邪馬台国=ムー大陸説になる。
しかし、これは地理学によって修正される
記紀を素直に信じれ場、300歳以上生きた人間がいた事になる。
しかし、これは、生物学によって訂正される。

要するに文献の不足をあらゆる知識で修正しなければ、
真相には近づけないだろう。
考古学もその一つのツールにすぎないのだ

>>455
邪馬台国時代
都市国家(春秋時代)=九州説
領土国家(戦国時代)=畿内説
でいいのかな?
478日本@名無史さん:2008/02/02(土) 13:55:57
横槍さんたちへ

向こうからのコピーですが
>もともと古代史スレが乱立する中からあなた方が選んだんではないんですか?
>文句があるようでしたら別のところへ書き込んだらいいこと!

スレ主の神奈川県民の意に反するお考えなら

>こちらへどうぞ
>「邪馬台国」「邪馬台国ドンと来い!」「天皇総合スレpart5」
>「なぜ邪馬台国を大和と認めないの?」「【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その2」
>「※ 九州王朝 ※ 12」「 君は邪馬台国はどっちにあったと思う?」「卑弥呼の墓か 福岡で円墳確認」
>「ここだけ邪馬台国に時空移動しているスレ」「結論→邪馬台国は捏造」
479太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 14:01:16
>>477
素直でもムー大陸にはならんだろう。水行十日陸行一月のことか?

それは九州を観光していた期間だよ。今の役人も地方派遣、出張とかで、仕事の
ついでに観光を兼ねてる役得をやるような塩梅だ。

滞在して移動もし、そのくらい月日がかかったということ。最初から女王国が
あることを知ってたんではなく、未知だからどんな所か周遊してみようという
目的だよ。女王国の場所が大陸にいたころから周知してたんではない。目的を
女王国と見定めに行ったんなら、もっと早い日程で着いてるよ。
480日本@名無史さん:2008/02/02(土) 14:18:57
>狗奴國
まあ、直接的な軍事力の衝突が無くとも、通商国家だった纏向にとっては
その交易ルートを遮断とまでいかなくても、干渉される事は国家の死活問題に
直結したのでは?

仮に狗奴國を濃尾平野としたら東への交易ルートが危なかったとか?
481日本@名無史さん:2008/02/02(土) 14:20:34
観光とかwww
太国さんは年代といい、
今回といい、
自分の都合の良い付加を付けるが多いですねwww
482日本@名無史さん:2008/02/02(土) 14:43:15
自論には中身が無いからw
483横槍:2008/02/02(土) 14:57:57
>>478
よく分かんないけど、同じスレタイが重複して紛らわしいなら
ちゃんとルールに従って後から出来た方スレを削除すれば問題ないと思うけど

それとも13をすぐ立ち上げて、そっちに移るか
484日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:03:35
>>480
狗奴國(この國)は許乃國(この國)のことだから
京都の宇治あたりの国。
ここの領主の卑弥弓呼(彦命)の武埴安彦命は
開化天皇の庶兄であり、
狗奴國王の乱(武埴安彦命の乱)は
皇位継承をかけた大乱だったことが分かる。
武埴安彦命の母方は河内彦の家系。
魏略には、狗奴國の官は拘右智卑狗と出てくるが、これは河内彦。
狗奴國王の乱(武埴安彦命の乱)では、山城と大坂から大和を
挟み撃ちにしている。記紀によると。
485日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:06:20
武埴安彦命の領国があったあたりは、
昔、許乃國(この國)といったことが、山城国風土記逸文に残っている。


宇治 (詞林采葉抄 第一:存疑)

山城の國の風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮(應~天皇)に
御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子(仁コ天皇弟)、
桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。
本の名は許乃國と曰ひき。 (今井似閑採択)

http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html
486日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:07:04
>>483
太国氏、プラム氏、愛知県民氏など初期メンバーの意見なら神奈川県民氏も
耳を傾ける思うが新入りのあなたが呟いても聞いてくれないかと思います。
487横槍:2008/02/02(土) 15:09:37
>>486
who are you?
488日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:09:41
こっちは太国と遊ぶスレにすればいいじゃん。
多分、すぐに消費できると思うよ。
489日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:34:04
>狗奴國王の乱(武埴安彦命の乱)は
>皇位継承をかけた大乱だったことが分かる。

そもそも共立された女王に皇位継承と言うのがよくわからない話w
しかも夫も子も無い寡婦を相手にだ。

ただ…
>武埴安彦命の背後に、彼の外戚である河内の豪族がいたのは分かる。
…と言うのは後の河内朝に繋がりそうな話だとは思うw
490太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 16:09:10
>>481
だからそうでないと言うなら説明しろい。
491日本@名無史さん:2008/02/02(土) 16:29:55
>>490
人それを「悪魔の証明」と言ふw
492太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 16:33:27
説明しないでいることは猫で〜もできる。w
493日本@名無史さん:2008/02/02(土) 16:35:32
>>478
「スレ主」って、スレ立てしたコテがそれってわけではないだろ?
一番説得力のある、話をつなげていける香具師がそう呼ばれるべきだろ?
ねえ、相模腹腹さん。そうおもいませんか?
494小倉優子が好き:2008/02/02(土) 16:43:20
>>350
「投馬国」の説明が苦しいのは畿内説のほうでしょ?
495日本@名無史さん:2008/02/02(土) 16:58:41
>>481
>観光とかwww
いやそれは謝銘仁とか言う台湾人の中国文学の研究者がその様な事を言っていたはずw

ただそうなるともう本当に何でもありで魏志倭人伝の行程の記述から邪馬台国を比定するなんて
益々不可能って話でwww
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 17:15:59
>>495
だから最もありえない矛盾を倭人伝と記紀ほか、中国古文献を見て把握
することだ。もっともおかしいことは基本の倭人伝が日本から遠い大陸に
あるのに日本にあった女王国のことをかなり詳細に説明してるのに、畿内
で書かれたろう本元日本の安万侶、舎人による記紀には独自での女王国の記述
が全くないという皮肉な事実だ。一行でも崇神、垂仁の宮の近隣に卑弥呼の国
があるとか、朝廷にる某女が魏から親魏倭王の称号をもらってとかあれば、これ
でもう畿内に女王国があったことが一発でわかるのに、全然記載が無い、という
ことはだ、女王国は畿内から相当遠方の土地にあったことを物語っている。

だから情報があまり畿内に届かなかったため記紀に書かれることがなかったと
いうことになる。しかし北九州なら半島からの遣使の通り道だから、そこに
女王国があれば当然卑弥呼の情報は容易に畿内に流れ、半島よりも近いから記紀
にも当然記録が残るがそれもない。ということは、まず北九州も考えにくいこと
になるから、女王国は中九州以南にある小国だということに帰着する。

だから陸行一月とかは畿内にあるように思うだろうが、観光を兼ねたものならば
周遊してあちこち陸地を探検するから、この期間の長さはおかしくはない。
497日本@名無史さん:2008/02/02(土) 17:33:02
>>496
人それを「循環論法」と言ふw

邪馬台国と後のヤマト王権に繋がる畿内の勢力が別物であると言う前提はどう言う根拠で成り立つのか?

そもそもその前提が証明されるなら少なくとも畿内説vs九州説の論争にはほぼ決着がついたも同じw

まあこんな事を何度言っても犬国は循環論法を循環するのは分かっているんだがwww
498日本@名無史さん:2008/02/02(土) 17:43:43
>>489
いや、だから
邪馬台国(大和国)の政治的権力(皇位)は
開化天皇の子の崇神天皇に受け継がれていて
祭祀の長である百襲媛命(卑弥呼)は、その系統を支持していたんだろうがw

それに異を唱えたのが、武埴安彦とその外戚の河内彦だろう?
499太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 17:46:47
>>497
なにも審判論法をするこた〜ぁないよ。お前のは審判の採点が武器じゃないか。
古代史ボクシングではちゃんと正規なジャブやフック、ストレート等たるを武器
として攻めてくればいいことだ。お前のは審判の採点を自分でして得点をかせぐ。
お前のやる採点はお前のほうにしか点は行かないんだから、中東の笛以上に
不公平でコスいんだよ。
500日本@名無史さん:2008/02/02(土) 18:12:51
>相模腹腹さん
普通そこまで自分を宣伝するか?
501古代:2008/02/02(土) 18:16:28
武埴安彦命の乱と邪馬台国と狗奴國王の諍いを結びつけ、
モモソ姫=卑弥呼とするのもいいが、倭人伝にある卑弥呼の死後男王が立ったが国が乱れ、13歳の台与が立ったら治まった
という所まで説明できなくては支持しにくい
502日本@名無史さん:2008/02/02(土) 18:16:32
>>498
まあ畿内の出現期古墳の分布を見れば
南の大和川水系では古墳が奈良盆地南東に集中しているのに対し
北の淀川水系では摂津・北河内・乙訓・山城南部と分散しており
ヤマトの勢力外だった事が伺えると言うし
それを考えればあながちあり得ない話でもないと思うが、、、
…後は方角の問題だなw

>>499
自説の矛盾を突つかれて窮した馬鹿が
「腹いせに、お前の説も叩いてやるから出せ」
と言っているだけだなw

いやマジで
「邪馬台国と後のヤマト王権に繋がる畿内の勢力が別物である」
事の証明をやってみ?
上手くいけば考古学会ひっくり返るかもしんないw
がんばれ犬国www
503横槍:2008/02/02(土) 18:22:32
>>494
畿内説だと出雲あたりに落ち着くが、九州説だと肯定地がバラバラ。
これは、苦労している証拠だと思うが・・・
更に行程を連続式で読むと、邪馬台国ドンだけ遠いんだよwってなってしまう。

>>498
逆じゃないの?
6〜9代までは根子(ネコ)が続くが、崇神、垂仁の時代は入(イリ)が多い
正統は武埴彦では?
504古代:2008/02/02(土) 18:45:07
503
>6〜9代までは根子(ネコ)が続くが、崇神、垂仁の時代は入(イリ)が多い
正統は武埴彦では?

?武埴安彦命にネコはつかないけど。
武埴安彦命が葛城王朝の後継者で、三輪王朝を興した崇神が滅ぼしたと見るのかな?
505日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:01:22
素朴な疑問…

邪馬台国が狗奴國との対立で魏に助力を要請した時
当然、狗奴國がどっちの方向から攻めてくるなんて話は出たと思うんだよね。

日本の地理をろくすっぽ知らない中国人はともかく、倭人が自国の東西南北を間違うなんてあり得ない話で…
そうすると少なくとも狗奴國は邪馬台国から見てやはり南だったのでは?
…とも思うんだがどうだろう?

で畿内説だと熊野か南九州とかになると思うが
後者だと半島との交易の為の九州北部の拠点を脅かされていて
相当深刻な問題だったと思えるし
また魏の介入はそりゃ効果てき面だったろう
(畿内や東海に狗奴國があった場合に比べて半島に近いんだし…)
506横槍:2008/02/02(土) 19:11:55
王朝を興したという程でもないが、四道将軍などは、
政敵を日本各地に追いやったのでは?と推測する。
開化を奉る神社が丹波にあることから、ネコ系はここに飛ばされたのでは?

反撃にやって来たのは、神功(ネコ開化の子?)応神(タラシ孝昭の子孫)
と妄想してみる
507日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:15:55
根子の意味も知らんのか?
508日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:28:43
倭人伝の方角の記述に関しては分からん。
もし、狗奴國=許乃國で、
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
拘右智卑狗=河内彦
なら、中国の使者は、狗奴國のある所在地を表すのに混乱したはずだ。
武埴安彦命の勢力範囲は、山城、河内と飛び地でまたがっていたわけだから。
狗奴國の所在地に関しては、南とあるものから、東とあるものまであって
中国側もかなり混乱しているから。

また、狗奴國の男王・卑弥弓呼は彦命という「尊称」の可能性が高い。
これは、邪馬台国の人間が、狗奴國の王をそのように読んでいたからで
だから、中国側にそのように伝わった。
つまり、狗奴國の王は、邪馬台国の人間からもある程度
尊称で呼ばれるほど敬意をもたれていた可能性が強く
また、邪馬台国と同じ文化圏だった可能性が強い。

だからこそ、卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命(百襲媛命の甥、崇神天皇の伯父)
は説得力をもつ一つなわけ。
509横槍:2008/02/02(土) 19:29:13
>>507
定説を覆す、素晴しい発想に期待大!!
↓  ↓
510508の続き:2008/02/02(土) 19:31:06
狗奴國の王は、邪馬台国の人間からもある程度
尊称「彦命=卑弥弓呼」で呼ばれるほど敬意をもたれていた可能性が強く
また、邪馬台国と同じ文化圏だった可能性が強い。

そんなわけで、狗奴國が熊襲という異民族のように捉えるのは納得がいかない一つだ。
511日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:00:21
異民族にしたり、土人にすることは政治的によくある事だw
512古代:2008/02/02(土) 20:00:24
508
その説はちょっと弱いのでは?今までのはある程度説得力があったけど
古代で彦というのは珍しくない。貴人の尊称だから神武の時の九州ウサ国造をウサ津彦とよんでいるから
これを同じ文化圏というなら畿内から九州まで入る事になる。
彦命というのも特段に珍しくない
彦命=武埴安彦命でもいいし彦命=大彦命でも何でもいい。武埴安という特定が必要。
河内彦から連想した方が説得力あり。

513日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:03:30
>>501 :古代:2008/02/02(土) 18:16:28
>武埴安彦命の乱と邪馬台国と狗奴國王の諍いを結びつけ、
>モモソ姫=卑弥呼とするのもいいが、倭人伝にある卑弥呼の死後男王が立ったが国が乱れ、13歳の台与が立ったら治まった
>という所まで説明できなくては支持しにくい

少なくとも、百襲媛命の次に祭祀の長になった巫女は
崇神天皇の皇女の豊鍬入媛(台与)なわけで。
その当時の大和朝廷の政治機構がどのようになっていたかは
分からないので、明確なことはいえん。

が、崇神天皇とか、垂仁天皇という名称は
後の時代につけられたものだから
その当時は、明確な皇位と非皇位の境界が曖昧だったのかもしれない。
514日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:09:54
>>512
>古代で彦というのは珍しくない。貴人の尊称だから神武の時の九州ウサ国造をウサ津彦とよんでいるから
>これを同じ文化圏というなら畿内から九州まで入る事になる。

それは、神武天皇以前に、既に大和によって畿内から九州まで
連合王権が誕生して、ある程度、同じ文化圏に属していたということではないのか?

誰かが言っているが、大和王朝の真の創始者は、
神武天皇の曽祖父のニニギの兄のホアカリ(天照国照彦火明命)で
彼によって、九州も、神武の3代くらい前には、大和の影響下にあったという見方。
ニニギは、高天原から高千穂へ降臨したのだが
この高天原は延喜式では奈良県御所市高天とされ、高千穂は宮崎とされている。
515太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 20:17:37
>>502
>邪馬台国と後のヤマト王権に繋がる

お前、卑弥呼が神武より古いと思っているのか? 逆だ。>が合ってないんじゃ
証明もなにもあったもんじゃないぞ。それに馬鹿とか、こういう所で言う奴は
資料、根拠を出して論述したためしがあまりない。だからそう云う語を抜かすと
いうことは、>>502の俺は何も持ち合わせありませんと遠回しにお前の豆脳の
様子を証明してるようなものだ。そんなことより、ちゃんと論述をしろ。
516日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:35:49
>>475
畿内説は邪馬台国を「東」へもってくるよな。「倭人伝の方角は信がおけない」って言って。
しかしこれ一理あるんじゃねえか?

九州説畿内説を問わず大半の人は末盧国を唐津に、伊都国を前原に比定してるよな。
しかしこれ倭人伝記載の方角の通りの比定じゃないぞ。

九州説論者は畿内説の方角の扱いは無茶苦茶だと言って批判するけど
伊都国を前原とするかぎり九州説も同罪じゃねえのか?

倭人伝には末盧国から伊都国へは「東南陸行五百里到伊都国」とある。
倭人伝は「東南」なんだぜ!

で地図を見ようか。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E130.13.14.9N33.32.34.4&ZM=4
末盧国の唐津から「東南」だと多久、小城、佐賀市の方向に進むことになる。前原の方じゃない。
前原は唐津から見れば「東北」だろ。違うか。

仮に末盧国をもし呼子としても呼子から前原は「東」にしかならん。
倭人伝の「東南陸行五百里到伊都国」の「東南」にこだわり続ける限り、
どうがんばったって前原を伊都国に比定はできないってことになるぜ。

伊都国を前原に比定してる九州説論者はどう思う?
517獄犬 ◆cat/M.qBig :2008/02/02(土) 20:40:41
>>509
根子のつく人名をリストアップして眺めれ
518小倉優子が好き:2008/02/02(土) 20:41:06
>>503
投馬国って、不弥国から「南」に水行20日でしょ?
出雲って、「東北」になるよね?
>出雲に落ち着く 
じゃなくて、まず出雲ありきのような気がしますが。

ついでに言うと、伊都国にある一大率は邪馬台国の北にあるはずですが、
畿内説だと、伊都国(糸島半島)は遥か西になりますよね。
北斗七星のある「北」と、太陽の沈む「西」はいかに文化程度の低かった倭人も
間違えないと思うのですが、どうお考えになりますか?
519日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:42:05
倭人伝の方角って
最初の所在地がほぼ確かな、対馬〜奴国からして
方角がかなりずれているんだよなw 90度以上。
方角に忠実なはずの九州説論者は、このことを殆ど指摘しないw

なぜ、こうも方角がずれたのか、倭人伝の著者に聞いてみるしかないよ。
520日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:45:40

ぼくを呼んだニャ?
──v─────
  ∧,,,,,,∧
 ミ,,´∀`彡 
  ミ   ミつ
 ミ,,,○,,,,,,,,,ミ

521日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:46:52
ネコ違い。
522小倉優子が好き:2008/02/02(土) 20:52:56
>>474
日本書記によれば、イザナギの命が「天尾羽張」という剣で迦具土神を斬った時、
剣の鍔際についた血から成った神が「タケミカズチ」。その滴った血より成った神
の孫が「フツヌシ」とあります。
ところで、欠史八代の五代孝昭天皇の時、葛城の豪族「尾張氏」から妃を迎えて六代
孝安天皇が生まれています。これは天皇家と尾張氏の深い結びつきを示唆しているといっていいでしょう。
この「天尾羽張」は「尾張氏」の事であり、記紀神代の国譲り神話はこの「孝」の字を
持つ四代の天皇たちの間に成された九州系神武の子孫による出雲系大国主の追い落としを
描いたものではないでしょうか。
尾張氏はこの「国譲り」の際、天皇側についたわけですから、当然丁重な扱いをうけますよね?
523古代:2008/02/02(土) 20:57:56
514
ホアカリが九州を影響下に置いたというのは飛びすぎでは?
物部氏が九州に影響力があったのでニギハヤヒならわかるけど
ニニギが九州でホアカリが畿内。ニニギ系(神武)が大和を制圧したので畿内から九州までってことかな。

前にも書いたけど古代には銅矛文化と銅鐸文化銅剣文化があった。
出雲が緩やかに交わっているのでここを中継としたかなりゆるい連合国があったとは考えられるかもしれないが
それより記紀が書かれた年代から見て首長クラスは全て〜彦って名付けたという方が簡単。


524古代:2008/02/02(土) 21:06:00
522
タケミカズチは中臣氏(藤原氏)の神、フツヌシは物部氏の神(といわれている)
尾張氏とは密接な関係にある・・
古代においては賀茂氏や宗像氏や尾張氏やらいろんな所から妃を娶っている。
政権維持の方法の一つでことさら尾張氏だけを特別視していたわけではなさそう。
525日本@名無史さん:2008/02/02(土) 21:06:59
>>518

>北斗七星のある「北」と、太陽の沈む「西」はいかに文化程度の低かった倭人も
>間違えないと思うのですが、どうお考えになりますか?

倭人が間違えたかどうかが問題じゃなくて
倭の地理が魏志に掲載されるまでに、なんか錯誤が混じってくる場面があったんじゃねえか?
いろんな報告や伝聞をまとめて魏志はできたんだろ?
そんな問題設定をしてみることがあんがい大切だと思うけどな、
方角ばっかしじゃなく他の風俗とか外交とかの記事もさ。

おれ503じゃないけどみんなの議論を読んでの感想。
526小倉優子が好き:2008/02/02(土) 21:11:59
>>516
倭人伝どおりの方角、距離をそのまま正確なものだとすれば、
それこそ「畿内説」は九州説以上に成り立たないと思いませんか?
魏志倭人伝の記載が正確でないからこそ、諸説あるわけでしょ?
倭人伝には、1:方角 2:距離 3:地名 4:人口 
などの要素があり、それらをもっとも矛盾なく満たす場所はどこかと
いうアプローチをしていくべきなんじゃないでしょうか?
ちなみに私は「魏志倭人伝にある邪馬台国」は九州甘木にあったと思っています。
527古代:2008/02/02(土) 21:12:41
日本の地図は伊能忠敬が作る地図まではかなり不正確。
古代の地図は行基図と言われるが、日本列島は東西に横たわっている。
実際の本州は歪曲しなければいけないが、歪曲してないので東西になったのか
実際は南北に近いわけだから倭人の認識がどこまで正しかったかは疑問。
528横槍:2008/02/02(土) 21:16:40
>>517
なんか凄いトリップだな

>>518
郡〜出雲水行20日
出雲〜大和水行10日(陸行一月)
529小倉優子が好き:2008/02/02(土) 21:20:10
>>528
おおっと、横槍さん。
>郡〜出雲水行20日
>出雲〜大和水行10日(陸行一月

だけとはずいぶんじゃありませんかあ? 方角が全然ちがいますよ。
530日本@名無史さん:2008/02/02(土) 21:24:00
>>526

>ちなみに私は「魏志倭人伝にある邪馬台国」は九州甘木にあったと思っています。

で末盧国、伊都国はどこにあったと思ってる?
531小倉優子が好き:2008/02/02(土) 21:30:59
>>530
東松浦半島、糸島半島。

君はどこにあったと思ってる?
532日本@名無史さん:2008/02/02(土) 21:31:50
 崇神天皇の異母弟と言われる彦坐王と、シラキ王の子と呼ばれている天日矛は同一人物ではないか。
 もし、彦坐王と天日矛が別人ならば、この両者が共に『但馬国』および『崇神天皇』と関わりがあることを、どう考えれば良いのだろうか。
天日矛は但馬国の領主となり、その子孫から息長足姫が出ている。また、彦坐王も但馬国(当時は丹波国に属していた)を
治めていた人物であり、息長足姫の父方の先祖である。また、両者とも崇神天皇の時代の人間である。
 彦坐王が征伐した玖賀耳之御笠(クガミミ)と、天日矛が結婚した麻多烏(マタオ)の父親・太耳(フトミミ)は同じ人物ではないか。
つまり、彦坐王(天日矛)は、但馬国の領主・太耳を討った後、太耳の娘・麻多烏を妻に迎えたのではないだろうか。
 丹波国主の玖賀耳之御笠(クガミミ)と出石の太耳が、実は同一人物で、彦坐王と天日矛も同一人物である可能性は、
じゅうぶん考えられる。

 古事記にある彦坐王の丹波国領主・クガミミ征伐の記録と、日本書紀にある天日矛と但馬国領主の娘の婚姻についての記録は、
同じ出来事を異なる視点で記録したものかもしれない。
533横槍:2008/02/02(土) 21:33:07
ユウコリン
郡ヨリ南、出雲
出雲ヨリ南、大和コレ正解アルネ!

末盧国、伊都国、従来説デOKヨ!アマリ興味ナシ
534日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:00:50
当時は方角を知るのは太陽と月が基準。
季節でズレるのも知ってただろ。
昔の人は地図はもちろん、
日本どころか自国の大陸がどうなってるのかすらわかってない。

だから正確な場所を書けるわけがない。
535日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:07:52
>>531

末盧国が東松浦半島、伊都国が糸島半島って答だけど、
糸島半島は東松浦半島の「東南」じゃねえよな。東か北東。
地図をもういっぺんリンクしとく。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E130.13.14.9N33.32.34.4&ZM=4
だからきみも倭人伝の方角に信を置いてないわけだ。w

しかしさ、それ(=方角に信を置かないこと=)こそが正しい思考法じゃねえかと思うんだ。

おれも通説と一緒。
末盧国は唐津市、伊都国は前原市、9割9分ぐらいの自信あり。w
邪馬台国は畿内大和。以前は6割5分ぐらいだったけど最近は9割方そう思うようになったな。
536九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/02(土) 22:08:44
点と点でクニが結ばれていたなどありえない。
倭人伝のクニの人口数万人というのはクニの範囲が面だからこそのキャパ。
その上、クニ同士が遠すぎ。また似たような名も全国広い範囲を探せばいくらでもある。
広範囲に点と点で結ばれていたという邪馬台国のどこにクナ勢力が侵入していたかも不明。
それ程大きな国ならクナ国でなくてもあちこちで諍いが起こり邪馬台国は対処に苦慮していた筈。
クナ国一国しか敵がいなかったということは邪馬台国の範囲は大した広さではなかったことの何よりの証拠。
537日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:22:47
>>517
関係ないが、阿蘇に根子岳というのがある。

武埴安彦の乱は、比較的簡単に制圧されている。
一方で、狗奴国の場合は、張政が「檄を以って告喩した」とあり、これは
戦いを止めるように告喩したとする解釈が一般的。決着はついていない。
倭人伝の記述にも決着がついた様子は見られない。

武埴安彦の乱は、少女の歌から始ったもので突発的なもの。狗奴国と卑弥呼は
素より不和とあるのでこの面からもおかしい。

武埴安彦の乱を狗奴国との争いに比定するのはどう考えてもおかしい。
538九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/02(土) 22:25:19
>>535
今現在、松浦とか糸島と呼ばれている地域と弥生時代のクニの場所、地名が
全くダブって同じというわけではない。
マツラ国から東南の方向に行ったら伊都国に着くと書いてあるのだから
その通りに素直に額面通りに読むべきである。
魏使はマツラ国から東南の方向に行ったら伊都国に着いちゃったのだから仕方が無い。
今現在の地名が頭から離れずに固定観念で考えるから解らなくなるのである。
539日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:28:50
>>516
まあ、そのとおり。
しかし、最近は、伊都国が佐賀平野の西側にあったとする意見もある。
文字通りの東南陸行を取るわけだが。
僕もその意見で、不弥国からの水行は有明海を行くものと考えている。

ただ、伊都国が前原でないのは、畿内説のほうが致命的につらいかもしれない。
540九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/02(土) 22:32:13
>>520
「チャチャ!もう おねも(おねんね)しなさい!」
541古代:2008/02/02(土) 22:36:04
誰も書かないので・・根子とは神人族のトップの呼び名。その意味では彦よりも上の扱い(?)
542日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:36:11
女王の国は山島にあって、
周旋すること何千里とか書いてあるから
九州だよね。

帯方郡から韓国南岸まで何千里というのと比較してみると、
丁度九州一周くらいの周旋距離。

本州も周回できないこともないかもしれないが、
距離が全然合わない。

東の海を渡るとたくさん倭人の国があるとも書いてあったから、
畿内にも大きな勢力があったんだろうけど、
卑弥呼は九州だよね。
日向(ヒムカ)の国と豊(トヨ)の国。
543日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:36:44
>>539
>伊都国が前原でないのは、畿内説のほうが致命的につらいかもしれない

全くつらくない、というか関係ない

不彌國までの記事と投馬、邪馬台国までの記事は別の資料を使ってますから
544九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/02(土) 22:39:54
>>542 本州も周回できないこともないかもしれないが

弥生時代当時に本州を周旋する人はさすがにいなかったんじゃない?
545日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:43:42
>>543
では、伊都国はどこ?
546日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:48:50
>>538
>魏使はマツラ国から東南の方向に行ったら伊都国に着いちゃったのだから仕方が無い。

以前にも議論になったが、倭人伝の最初にある倭の諸国への行程記事は、
魏使が辿った通りのルートを記載したものかどうか。

魏使のルートと切り離す考えもできるのでは?

たとえばだが、狗邪韓國や対馬國などの人間が一支国辺りに渡り、
そこの島民や九州側からやって来ていた商人達に伊都国付近の地理を尋ね、
そうした伝聞が帯方郡吏に報告されていた・・・・・そういう考えもあり得るだろう
547日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:58:12
伊都国を前原に比定しないのはサガミハラハラさんと
もうお一方の、計お二人だけかと思っていましたが。
他にもいらっしゃるのですか。
548日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:17:31
>>547
もっといるんじゃないかな。
投馬国の五万戸や邪馬台国の七万戸は別として、それまでに出てきた国の中では
奴国の二万戸が突出して多い。これも佐賀平野に比定するのが妥当だと思う。

吉野ヶ里遺跡などの大きな環濠集落もあるから、倭人伝の「宮室、桜観、城柵
厳かに設け」という記述などが生きてくると思う。

玄界灘沿岸では、大きな環濠集落が見つかっていない。もし、玄界灘沿岸しか
通っていないとすると「宮室、桜観、城柵厳かに設け」の光景をどこで
見たのかということにもなるし。
549横槍:2008/02/02(土) 23:18:21
あの辺はその後もずっと人が住んでいるからね

末櫨國から東南の方角に伊都国があったとしても土建屋がその痕跡
潰しちゃったんじゃないの?

ヨコヤリというよりナゲヤリ
550日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:23:15
狗奴國の王が
許乃國の武埴安彦命というのは、
かなり説得力のある説だな。

これって、今後、急速に広まってくるな。
551日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:26:44
しかし、環濠集落というのは敵の襲来に備えて濠を掘ったわけだから、
そんな政情が不安定な土地に何万人もの人口があったはずがない。
それを考えれば、吉野ヶ里遺跡はせいぜい数百人規模の小さな集団
だったことに気がつくはず。
552日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:36:03
佐賀平野、筑紫平野の領域で”今の”市街地から、昔のクニの痕跡がないか
調べています。
福岡平野はさすがに、全面的に市街地が広がってしまっているので、痕跡を
見つけるのが難しいのですが、佐賀や八女、筑後だと古い神社や遺跡と市街地が関連して
存在するらしいように見えます。
前原も平原遺跡や三雲遺跡の周辺にぽつんと集落があります。
大規模工事などで消滅する可能性は非常に大きくありますが、
結果的に集落が続いてきた場所もあるのではないでしょうか

人の住みやすいところは大規模造成しない限り、意外と少ないものですし
街道などの関係を考えると、意外と決まってしまうものかもしれません。
吉野ヶ里もしっかり国道34号線沿いにあります。
集落が出来たから、道が出来たのか、道があるから集落が発達したのか
周りの集落をまとめる役目だったのかもしれません

553日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:40:40

>>542

俺の理解に近いなあー
554太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 23:42:37
許乃国は紀の国だろ。音韻が似てるように感じるが、そのくらいは
ちょっとは起こることはある。畿内は女王国が統治してるんでなく、
天皇国が統治してるんだから、全然別国だな。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・
555古代:2008/02/03(日) 00:03:47
550
面白いとは思うけど
狗奴国=許乃國=山城の宇治だとすると狗奴国はかなりの小国ということになるね。
狗奴国と戦争になったので魏に応援を頼んだという倭人伝の記事が意味を成さなくなる。
そうすると狗奴国も連合国でなければならないが、今度は逆に記紀にはそんな記述がない。
556日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:16:36
>>555
だから、それは解釈の匙加減だ。

武埴安彦命は、先帝(開化天皇)の庶兄にあたり、それなりの大人物だろう。
しかも、大坂と山城の二方面から大和を攻撃しているし
ものすごい政変だよ、これは。後の壬申の乱に匹敵するだろう?

で、結局、卑弥呼の大きな墓が作られたんだから
この戦争はわりと早く鎮圧されたんだろう。
もし、長期間にわたる大戦争なら、おちおち卑弥呼のデカイ墓なんて
作ってられない。
557日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:18:00
>>550
現在畿内説で狗奴國の第一有力候補は濃尾平野かな?
方角の問題と、前方後方墳と言う独自文化圏を有し、畿内と渡合えるだけの国力を持っていそうと言う条件から…

ただ個人的には畿内・纏向と対立した原因が良く分からない。
地理的に見て纏向勃興の最大の受益者だろうし…
558日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:18:05
 崇神天皇の異母弟と言われる彦坐王と、シラキ王の子と呼ばれている天日矛は同一人物ではないか。
 もし、彦坐王と天日矛が別人ならば、この両者が共に『但馬国』および『崇神天皇』と関わりがあることを、どう考えれば良いのだろうか。
天日矛は但馬国の領主となり、その子孫から息長足姫が出ている。また、彦坐王も但馬国(当時は丹波国に属していた)を
治めていた人物であり、息長足姫の父方の先祖である。また、両者とも崇神天皇の時代の人間である。
 彦坐王が征伐した玖賀耳之御笠(クガミミ)と、天日矛が結婚した麻多烏(マタオ)の父親・太耳(フトミミ)は同じ人物ではないか。
つまり、彦坐王(天日矛)は、但馬国の領主・太耳を討った後、太耳の娘・麻多烏を妻に迎えたのではないだろうか。
 丹波国主の玖賀耳之御笠(クガミミ)と出石の太耳が、実は同一人物で、彦坐王と天日矛も同一人物である可能性は、
じゅうぶん考えられる。

 古事記にある彦坐王の丹波国領主・クガミミ征伐の記録と、日本書紀にある天日矛と但馬国領主の娘の婚姻についての記録は、
同じ出来事を異なる視点で記録したものかもしれない。


559日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:18:22
>>554 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/02(土) 23:42:37
>許乃国は紀の国だろ。

それは多少関係があるが
許乃國は宇治の辺と、山城国風土記逸文に記載されている。
よって、武埴安彦命の領国の近辺だ。
560日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:22:35
>>557 :日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:18:00
>>550
>現在畿内説で狗奴國の第一有力候補は濃尾平野かな?
>方角の問題と、前方後方墳と言う独自文化圏を有し、
畿内と渡合えるだけの国力を持っていそうと言う条件から…

畿内説の場合、考古学者が先頭を走っていたから
どうしても、考古学的物的の特徴から、濃尾平野ということにしたがるな。
ただ、今後、文献史学がかなり畿内説に傾いているので
許乃國の存在がクローズアップされる。
はっきりいって、許乃國の場合、明確な考古学的物的資料は期待できない。
日本書紀を読んでも、許乃國の特徴は、大和朝廷本拠地と至近距離で
考古学的には特徴のあるものは残さなかった可能性が高いから。
561日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:29:10
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。

その南に、狗奴国がある。王は男である。
狗奴国の官を“狗古智卑狗”という。女王に従わない国である。

女王に従わないのは何時のことか。狗奴国が、
後ろの珠儒国・裸国・黒歯国と同じ場所ではなくここに書かれているのは
倭国の一部という認識か?
後に出てくる狗奴国との抗争を論拠として、
狗奴国は邪馬台を中心とする倭国29ヶ国に匹敵する大国とする説があるが、
感覚的なことだけだがどうも素直には受け入れ難い。
倭国を構成する一国と同規模ではなかろうか?

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html#chiri
562古代:2008/02/03(日) 00:39:45
解釈の匙加減では済まないこともある。モモソ姫は皇女で女王でない。崇神は無視?

卑弥呼の死の後男王が立ったが従わず、トヨが立って乱は収まった。も説明が危うい
卑弥呼=モモソヒメ トヨ=豊鍬入姫命を臺與とするならばモモソヒメと豊鍬入姫命との間に空白の時間があり
何らかの国内の乱れがなければならないはす。
無理に倭人伝と記紀を結びつける必要はない。
563日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:41:11
後漢書には、「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
とある。拘奴国は、女王国から東に海を渡ること千里にある。皆倭種と
言えども、女王に属さず。

だから、狗奴国を出雲と考えている。日本海沿岸には、妻木晩田遺跡など
大規模な遺跡がある。帯方郡まで足を運ぶような倭国の人間が、この国の
存在を知らないはずがない。

文化的にも異なるので、軋轢があったと考えられる。

出雲といえば、素戔鳴尊ということにもなる。
564日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:43:04
2つのスレに同じこと書くなよ。
どっちかにしてくれ。
565古代:2008/02/03(日) 00:45:37
561
狗奴国が倭国の中の一国で邪馬台国と盟主の座を争っていた。
どちらが盟主となるべきかを決めてもらうために魏に調停を頼んだ。というのは大いに考えうる
566ローガン:2008/02/03(日) 01:19:11
>>565
狗奴国との関係を帯方太守に伝えたのは8年ですね。
黄幢下賜の詔は6年。よって、黄幢下賜や檄に、狗奴国との争いに対する援軍の意味合いはないと思います。




私もオグラユウコが好きです。
567日本@名無史さん:2008/02/03(日) 01:24:44
初心者ですみません。
寺沢氏が『王権誕生』で描いた邪馬台国前後史が
とても妥当だと思うんですが、
寺沢『王権誕生』の問題点とはなんでしょう?
568日本@名無史さん:2008/02/03(日) 01:29:54
>>563
その後漢書の記述は、魏志に出ていた二つの別々の記事を、
つまり一つは狗奴国と、もう一つは倭種の国だが、
それらをあまり吟味もせず、というか、うろ覚えだったのでいい加減にくっつけて
クナ国だけのこととしたように思える。違うだろうか。

九州に邪馬台国を比定し、後漢書記事を使って出雲にクナ国を想定するのは、
そりゃ神話もあり考古事実も山陰は急浮上で、魅力的なのかもしれないが、
学問としてはいただけない。

クナ国は魏志では「南」であり、要するに後漢書と魏志は相矛盾している。

そのテキストの研究、分析を、先にやる必要がある。学問とはそうしたもの。

面白いだけが動機で、魏志を無視し、後漢書に飛びついている、という印象を持つ。
569日本@名無史さん:2008/02/03(日) 01:57:50
>狗奴国=許乃國 説
うーん、、その場合、武埴安彦命が勝利していたら自らが纏向に入って
「うはwww今日から俺サマが大王でおkwwwwww」
って事だったのかな?w

確かに王家筋同士の争いなら同盟国の王らも傍観していたかもしれない。
(=狗奴国自体の国の規模は問題で無くなる)
てか纏向の交易拠点としての機能に変わりが無ければどうでも良かったかもw

でもなあ、、そんな身内同士の争いに魏に助力を乞うと言うのは、やっぱ受け入れがたいなあ。
多分方角以上に問題にされるんじゃなかろうか?
570日本@名無史さん:2008/02/03(日) 02:03:51
>>562
西暦3世紀の大和の政治体制がイマイチ分からないから何ともいえない。
ただ、天皇制度が明確に確立したのは天武天皇前後だから、
それまでは、明確な天皇という存在が居たのか?という疑問もある。
崇神天皇という名前は後世の漢風の名称で
おそらく3世紀当時は、三巻入彦といわれていたみたいだから、
他の豪族との呼び名に決定的な差が感じられないので
そのへん曖昧だったんじゃないのか?と。

倭人伝では、卑弥呼が擁立する以前は、男の王が80年続いたというし。
どうも、祭祀の長と政治の長が分離していたように思う。
で、この場合、倭人伝には祭祀の長が倭王卑弥呼として登場したが
現在の天皇の流れというのは、政治の長の可能性が高い。
祭祀を握っていた奴が一応、倭王だったんだけど、
いつのしか、それが有名無実化していき、
実際に政治をしている奴のほうが、大王(天皇)と呼ばれるようになった?
571日本@名無史さん:2008/02/03(日) 02:08:01
>>569
でも、今、注目される箸墓が
本当に卑弥呼なら、自動的に
という解釈がクローズアップされていく。
卑弥呼の死の直前の経緯と、百襲媛命の死の直前の経緯に
かなりの整合性が感じられ、その場合、
許乃國=狗奴國、卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
という推論が成立しやすい。
572日本@名無史さん:2008/02/03(日) 02:12:02
あと、倭国の魏への使者というのは

魏の対呉戦略と
倭国の公孫氏滅亡後の半島政策という
もっと大きな国際情勢のほうが大きな要因で

その途中で偶然、狗奴國(許乃國?)の乱があったという感じ。

573日本@名無史さん:2008/02/03(日) 02:12:23
イワレヒコと同様、
「ミマキイリヒコ」もまた
当時の名称がそのまま伝えられたかどうかは微妙だと思う
574日本@名無史さん:2008/02/03(日) 02:41:09
まあ魏は卑弥呼の要請に答えて詔書のみならず黄幢(黄色い軍旗まで)送っている。

もし狗古智卑狗と卑弥呼の対立が、直接的な軍事力の衝突を伴わない政治的対立なら、軍旗なんて送るだろうか?

もし狗奴国=許乃國=山城の宇治で、そんな近くと事を構えたなら
許乃國の方に「明確な考古学的物的資料」が出なくとも
纏向の方にその緊張を伝える遺構遺物が欲しいところだなあ…。

今後の調査でどうなるか分からないが、今の所それを匂わす物は出てないのかな?
575日本@名無史さん:2008/02/03(日) 04:24:54
卑弥呼は、魏から親魏倭王の爵位を得ている。にもかかわらず、狗奴国は戦いに
踏み切っている。狗奴国はけっこうなつわものなんだろう。

以前から狗奴国との対立があり、黄幢を欲しいといったのは、正始四年の朝貢の
時だろうと思う。しかし、ひょっとしたら、景初三年の最初の朝貢自体が狗奴国
対策だったのかもしれない。
576日本@名無史さん:2008/02/03(日) 04:46:45
卑弥呼は田油津媛
577日本@名無史さん:2008/02/03(日) 05:00:39
>>576
関裕二乙
578日本@名無史さん:2008/02/03(日) 07:49:04
誰だよそのゴミは
579日本@名無史さん:2008/02/03(日) 08:02:08
>>1

『其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼』

ここで質問 其國とは倭国? 女王国? 邪馬台国?

ということで、卑弥呼は

@卑弥呼は連合30ケ国の王に共立された女王?
A邪馬台国という巨大連合国で共立された女王?
B女王国という巨大連合国で共立された女王?

誰か整理されているでしょうか?


580九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/03(日) 08:42:00
>>550
畿内には邪馬台国伝説もなければ卑弥呼伝説も伝わっていない。
モモがヒミならモモがあそこを箸で突いて死んだなど奇妙な伝説ではなく
女だてらに父の考霊天皇を差し置いて魏王と渡りあったじゃじゃ馬姫だったとか
さらに金印まで貰っただとか、そっちの方を遺せっての。
581サガミハラハラ:2008/02/03(日) 08:45:56
卑弥呼は共立されました。共立されたから立場が弱いとは限りません。
たとえ共立された時はよわくとも時が経つうちにつよくなっていくこともあります。
倭人伝をよむと、一大率の権限や諸国が畏怖するところからみると、その主の卑弥呼の当時の権力はかなり強いものであったと考えられます。
582日本@名無史さん:2008/02/03(日) 08:53:24
>>579
整理なんてしたらせっかく考えた自説が通らない可能性がでるだろ
却下却下
583日本@名無史さん:2008/02/03(日) 08:58:39
>>579
個人的な考えを言うと、

いわゆる倭国の大乱の後に卑弥呼は共立された。大乱といわれるくらいだから
一つの国の内部ではなくて、倭国全体に関わると思う。
倭人伝では倭国が乱れるとなっている。後漢書、梁書も倭国乱れる。
隋書などは其国乱れるとなっている。

だから、卑弥呼は倭国の王であり、「其國」もまた倭国だと思う。
では、もといた男子の王とは誰かというと、後漢書に倭国王と書かれている
帥升だと思う。男子と特定されているところを見ると、記録には残っていないが
元の資料にはけっこう詳しく書かれていたのかもしれない。

つまり、帥升が後漢に朝貢した西暦107年には、すでに邪馬台国連合のような
ものが出来ていたものと思う。
また、帥升は連合国の盟主である邪馬台国の王ではないかと思う。

女王国については、伊都国が女王国に属しているとか、女王国より北の国は
戸数・道里を略載できるとか、女王国より北には一大率をおくとかいうのは、
邪馬台国だろう。
ただ、女王国の東に海を渡ること千里でまた国がある、皆倭種、というのは
倭国全体を指しているようにも思える。
郡より女王国に至るに万二千余里というのも倭国のように思えるが…。
584日本@名無史さん:2008/02/03(日) 09:07:00
>>583
その倭国大乱も伝言ゲームみたいなところがあって
時代がたつにつれて、どんどん大きな戦乱のように
記述が変化してきている。

最初のもと記事になったであろう倭人伝のあたりの記述では
倭国乱は、男王が80年ぐらい続いた後、歴年争った、で卑弥呼共立だから
せいぜい数年争ったぐらいの感じだよ。

今、注目されている百襲媛命が卑弥呼なら
倭国乱というのは、欠史八代のあたりの戦乱ということになる。
585日本@名無史さん:2008/02/03(日) 09:13:08
>>584
倭迹迹日百襲姫はありえないな。第一、王になっていない。
586日本@名無史さん:2008/02/03(日) 09:35:21
>>585
いや、だからさ...
そんなこといったら、中世の中国は
毛利などの地方の大名を日本国王として
交流していたぐらいなんだぜw
また、その当時は、祭祀と政治が分離していて
祭祀の長のほうが、倭王というふうに認識されていたかもいれない。

だいたい、崇神天皇からが、初めての天皇らしい天皇というぐらいなんだから。
(しかも、そういう風に記述されているのが、百襲媛命の死の直後の記述だ)
欠史八代の頃は、百襲媛命みたいに祭祀を掌握しているほうが倭王というふうに
認識されていたのかもpしれない。
587日本@名無史さん:2008/02/03(日) 09:42:14
>>454
>〜手を焼いた〜
質問するけどさあ、佐賀の乱や西南戦争をどう位置づけるの?
政府は手を焼いたよ。でも政府は日本国内を掌握していたじゃん。
江藤新平や西郷隆盛は負ける事確実だったよ。政府が国内を掌握していたもの。
それに宝治合戦や比企の乱や二月騒動や源義経討伐も幕府は手を焼いていた。
でも幕府は御家人達を掌握していた。
手を焼いた=両者互角勢力とは限らない。
(例・・大阪夏の陣・冬の陣や関が原、応仁の乱、南北朝)
手を焼いた=(弱小勢力なのに)降伏しない、刃向う、従順じゃないとも取れる。
西南戦争、佐賀の乱、比企の乱、源義経討伐

588日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:05:09
>畿内王権が、すぐ近くの狗奴国〜
このスレで使われてる国の意味は何なの?
「幾つかの国に分裂しているが、倭人の国だ。
観念的に戦国時代の武家。同盟したり、裏切ったり。」

これで良いの?
国の意味が分らない。

もう一つ。
奥州藤原氏のミイラを鑑定した結果、日本人だったよね。歯槽膿漏が見付かった。
数代前の先祖が京都から下向したから。
でもミイラ調査するまでは、系図詐称説が左翼から言われていた。
だから記述の通り記紀も素直に読んでも良いんじゃないの?
何で左翼は、「あー」何だろうね。
589日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:15:34
>>586
>中国は毛利等の地方の大名を日本国王として交流していた〜。
嘘はいけない。「日本国王として」は間違い。
任命されてないよ。それとも、大内家が対馬の宗家の様に公文書偽造をして交流したの?
単に大内家が独自に交流していた位でしょ。
毛利も交流していたのは、知らなかった。
590横槍:2008/02/03(日) 10:17:41
俺は、邪馬台国=大和
   卑弥呼=天照大神

という考えなんだが・・・
同じ考え方の人いるのかな?
591日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:24:33
>>590
私は邪馬台国=大和
卑弥呼キ天照大神で別人
592日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:31:25
邪馬台国=大和
卑弥呼=神功皇后
593ローガン:2008/02/03(日) 10:37:15
>>590
邪馬台国=大和 同意します。
卑弥呼については ? といか、noアイデア
594太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 10:55:39
まったく別だよ。大半それで騙されてしまう。それは陳寿が騙そうとしたわけ
ではないがね。

 邪馬台国→ヤマタイ国→ヤマト国→大和国→畿内説

っていうのは、陥り易い失敗の考察だ。そういうんでは古代史の明智小五郎には
なれない。最初は拙者もそういう考えから始まった。ところがそれだとどうして
も不合理が出てくる。だからその矢印は遺棄せねばならない。
それと一月でまた騙される。九州でも充分説明できる。決定的なのは記紀に女王
国の記載がないことだ。畿内は天皇国の統治であり女王国の統治ではない。
595日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:10:49
>>590
邪馬台国=大和。九州から大和へ移行。邪馬台国は畿内。畿内に移行した後に卑弥呼登場。
卑弥呼=天皇家の先祖の誰か。だけど神宮皇后は違うと思う。

宇佐八幡総本社が大分なので、皇室の先祖は九州。勢力拡大しながら畿内へ。
個人的に宇佐御神託事件が気になる。態々九州へ勅旨を派遣した。
邪馬台国(大和)の前身が九州と縁があったからだと思う。
つまり
邪馬台国=大和
卑弥呼の邪馬台国=畿内
邪馬台国(大和)の故郷=九州の何処か。大分(宇佐八幡)、宮崎周辺。
596日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:17:09
太国は、八幡神社の総本社の宇佐八幡をどう思う?
弓削道鏡の件で勅旨を派遣したでしょ。
態々九州へ派遣した理由は?
近場の畿内周辺でも良かったはず。
597日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:27:50
というかさ、高天原は延喜式では奈良県御所市高天なんだが。
つまり、近畿→九州南部→近畿なんでしょう?天皇家の先祖は。
で、天皇家の先祖が九州南部に派遣されている間
尾張氏の先祖が大和の王だった。
で、百襲媛命は卑弥呼。豊鍬入姫命は台与。
598日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:39:26
高天原には実際行ってきました。
入口は小さかったのですが集落があって
広大な台地がありました。
狩猟民族が生活していたということです。
その後、鴨氏を併呑して葛城氏は大勢力になったそうです。
葛城王権(欠史八代)は三輪王権との争いに負け、
土地を明け渡すことになったが、後族の蘇我によって
我、再び蘇ったそうな。

これはあくまで言い伝え。

当麻と三輪の力自慢が戦って
当麻が負けたなんて説話も これが相撲の始まりとか
599日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:40:50
なんだかみんなの卑弥呼論争みていると、写楽探しとにている。

卑弥呼は卑弥呼で他の誰でもない。では駄目?

600日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:46:38
>>599
銀魂の真似?
ジャスタウェイはジャスタウェイであって、他の何者でも無い。by坂田銀時
601古代:2008/02/03(日) 11:49:55
まあ世界の中心は畿内みたいな時代があったので高天原だけ取り上げるのはどうかな
尾張氏の先祖が大和の王という説は魅力ではあるが大和の王だったというニギハヤヒとの整合性を説明する必要がある。
まあかならずしも記紀の記述が正しいとは限らないけれども。

マキムクで他の地方の土器(全体の15%くらい)のうち半数近くが東海のものだったので繋がりを見ることは出来るが
尾張氏が大和の王で東海に移ったというなら逆に東海地方の古墳で畿内式土器が大量に見つからなくてはならない。
まあ土器も何とでも説明をつけれるんだけど、そうするとかなり説得力が出てくる。
602日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:52:09
>邪馬台国→ヤマタイ国→ヤマト国→大和国→畿内説

結局畿内説ってここなんだよね
思い込みっていうかなんというか
無知な頃に思い描いたヤマタイとヤマトが似てるから畿内だって
マキムクだの考古学だのは思い込みの補完作業で実はどうでもいいんだよ

603日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:52:35
>>590

小生も邪馬台国は大和で、奈良盆地に都があったものと推定する。
卑弥呼は倭迹迹日百襲媛で、これは笠井新也説に同意する。
墓も箸墓が濃厚である。

卑弥呼と天照大神は無論同一ではない。天照大神はカミであり、観念上の存在である。


ただ笠井説を襲った考古学者原田大六によれば、天照大神を祀る神宮の御神体八咫鏡は、
平原1号墓出土鏡と同様な大型の内行花文鏡ではなかったかと推定し、森浩一も賛意を示している。

とするならば卑弥呼は、太陽信仰のシンボル・内行花文鏡の祭祀を司った巫女王ではなかったか、とも考えられるが、
或いは卑弥呼は、銅鏡祭祀を行ってはいたものの未だ内行花文鏡には関知せず、
畿内における本格的な内行花文鏡祭祀は、台与の代以降に始まるものかもしれぬ。


いずれにせよ3世紀の段階では、銅鏡に神格を感ずることはあっても、
「皇祖神天照大神」の如き観念は、「天皇家」概念と同様、まだ殆ど成立しておらなかったであろう。
604日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:01:10
連投タンスレで、畿内説の矛盾点が矛盾していないよとかなりつかれているが・・
まだ100スレちょいみたいだけど
605古代:2008/02/03(日) 12:03:19
603
古代で神と人との区別はあいまいで神だから実在しないとは言い切れない。
皇祖神天照大神の観念は今まで議論したように天武朝から(とりあえずね)
それまでは皇女を数回伊勢に派遣したくらいで、皇祖神的な扱いではない。
初期の天照は男神だったと考えられているので、後に伝説上の日の巫女であった卑弥呼(ここでは卑弥呼=日巫女とする)とくっつけたとすれば事足りる。
まあ考え方でどうにでもなる。天照の別名から卑弥呼に当てる説があるので参照されたし
606日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:09:19
>>600

真似?
何も真似したわけではないが、卑弥呼より弟を探した方が早いかも。

607日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:12:01
>>598
もう言っていることが無茶苦茶だな。
三輪山王権も欠史八代も同じ系統だ。
ただ、欠史八代のときは、尾張氏が途中まで祭祀を握っていて
神武皇統は政治的権力だったんだろう?

また、相撲の起源は日本書紀に書いてある。お前の説は間違い。
608日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:12:22
>>605
>>590の設問にはどう答える?
609日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:16:38
>>602 :日本@名無史さん:2008/02/03(日) 11:52:09
>>邪馬台国→ヤマタイ国→ヤマト国→大和国→畿内説

>結局畿内説ってここなんだよね
>思い込みっていうかなんというか
>無知な頃に思い描いたヤマタイとヤマトが似てるから畿内だって
>マキムクだの考古学だのは思い込みの補完作業で実はどうでもいいんだよ

あのな、邪馬台国のヤマタイは、あくまでも便宜上、現在
そうやって読んでいるだけなんだよ。
当時、あの漢字をどのように読んでいたかは分からないが
おそらく、中古音で、呼んでいた可能性が高い。
610日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:20:30
>>607
尾張氏の子孫は現在何をしているの?
熱田神宮は平安末期に娘婿の藤原系統になったんだよね。

611日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:22:04
>>610
尾張氏の子孫は、かなり多く残っているよ、神職に。
熱田神宮のトップから退いたが、それ以外の神職で複数のこっていたはず。
一番、有名なのは、田島家だな。
612日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:27:09
そうなんだ。
今でも熱田神宮は娘婿の藤原系統でいいのだよね。
源頼朝の母親の家だよね。そして従弟の足利家初代の母親の家でもある。

田島家は、男系子孫なんだよね。
613日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:31:12
欠史八代の部分の記述が少ないのは
要するに、その時代では、大和朝廷には
尾張氏の先祖という、神武皇統を超える存在が君臨していたんだろう?
天武天皇はその箇所がいやだったんだろう?
古事記では、尾張氏の記述が殆ど無いのに、
後の史書では、天武天皇が幼い頃、海部氏にかくまわれ
壬申の乱では、尾張氏にかくまわれ、尾張氏のおかげで勝てたことが記載されている。
天武天皇が、熱田神宮(尾張氏)に、草薙の剣をなかなか返さなかったり
尾張氏に対する嫌がらせが激しい。

おそらく、欠史八代の時、祭祀を尾張氏の先祖が、政治を神武皇統が行っていたんだろう。
室町時代の、祭祀の天皇家、政治の足利家の関係に似ているように思うし、
また、南北朝時代の持明院統と大覚寺等にも似ているかな。
が、神武皇統がその関係を破った。、その時に
神武皇統は一族の百襲姫命を巫女として、尾張氏の先祖から祭祀の長の座も奪った。
で、百襲姫命の死の直後、崇神天皇が初めて天皇らしい天皇になった。
ちなみに、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(台与?)が初代斎宮になっている。
614日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:34:50
中国で倭人といえばアムール川沿いに住むツングース族のことだろう?
今の中国の東北地方にあった国が倭国。その女王が卑弥呼。
日本のことだと勘違いしてるだけだ。
615日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:35:56
>>612
ちなみに、今の熱田神宮の大宮司家は、
途中、京都の公家が養子が入っており
男系でみたら、江戸時代の東山天皇の男系子孫。
男系で見たら、伏見宮系の旧宮家よりも
現皇室に近かったりする。
616日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:39:04
欠史の逸話、説話、古墳が葛城に集中して多いのは何故?
617日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:43:44
邪馬台国とは邪悪なアルタイ人の国という意味。
中国から見てアルタイ族とはどういう種族かといえば、
当て字でもわかるように馬に乗った騎馬部族のことだ。

618日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:45:05

その書き込みが事実だと仮定しても、熱田神宮も藤原流になっちゃったね。
娘婿だから血の繋がりがあるけど、それを言い出したら
源頼朝と足利家は母親の血筋を持って尾張氏となってしまう。
足利家と源頼朝は源氏であって、それを持って、尾張流とは言わない。

ところでその仮説は根拠があるのですか?

619日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:54:57
>>616 :日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:39:04
>欠史の逸話、説話、古墳が葛城に集中して多いのは何故?

三輪山に首都を移す前は、葛城に首都があったんだろう?
で、その葛城には、高天山(現・金剛山)という山があった。
忍穂耳命(神武天皇の4代前)が、
葛城の豪族(鴨氏、大伴氏、現葛城氏の祖先)の女性を妻に迎えたことからも、
大和王朝の創世記は、葛城から出発したんだろう。
ちなみに、その忍穂耳命とその葛城の豪族の女性との間に産まれたのが
ホアカリ(尾張氏・海部氏の祖先)とホノニニギ(皇室の祖先)。

まあ、分かりやく、徳川幕府に例えるのなら
大伴氏、鴨氏というのは、水野氏、榊原氏などの譜代大名。
尾張氏、海部氏、皇室は、親藩大名。
620日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:56:52
>>615
有難う。途中で系統が皇族子孫に変わったんだね。
621日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:59:55
>>619
南朝、北朝。
622日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:07:07
>>619には悪いが、神話時代の系図は当てにならない。
私は土師氏から大江や菅原に分かれたなんて信じてない。
尾張氏、海部氏も信じて無い。徳川家の新田子孫説も信じてない。
どっかの土豪だと思ってる。
神話としてではなく、本当に信じてるの?

しかし足利が源氏だと言うのは信用できる。
623日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:13:19
>>622
じゃ、なぜ、藤原氏は自分の家系を皇室と同じにしなかったのかな?
日本書紀には藤原不比等がかかわっているから
藤原氏に都合が良いようになっているのに
その割には、大和王朝の中心に居なかった尾張氏や海部氏のほうが
皇室と同族の名門家系にされている。
624日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:15:54
>>622
文献を鵜呑みにするのはよくないが、
信じられない、信じられないといって
21世紀の現在に勝手に空想物語を描くほうは
もっとよくない。
625622:2008/02/03(日) 14:37:50
>>623
言われてみれば、その通りだね。
藤原家が関わっている。
悪かったね。
>>624
悪かった。


海部って、元総理大臣だけど、系統子孫なの?
それと、大昔「何でも鑑定団」に皇室と肩を並べる古さの家系図の当主が登場したけど見た人いる?
名字を教えて欲しい。
100代は越えていたと記憶している。そして、本家の当主と次期当主(跡取り息子)は
同じ飛行機・新幹線・船で移動出来ないらしい。理由は不測の事故を防ぐため。
生き残りの確率らしい。だから跡取り息子と一緒に出掛けた事がないらしい。
次男以下とは同じ飛行機・船・列車でも良いんだって。
天皇家も今上陛下と皇太子殿下は同じ乗り物に乗らないんでしょ。


626太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 14:49:38
>>596
なんだ? 和気清麻呂のことか? そっちは時代がずっと後だろう? そこは
元明よりも後代だ。 だからそれがしのテリトリーではない。よっぽどでないと
論には入れないよ。それに宇佐の比売大神っていうお方は卑弥呼ではないよ。
神功〜仁徳あたりの女性だよ。日女島生まれの九州王朝とかの女王クラスだ。

畿内は天皇の統治の場所だから、そこは女王の統治では卑弥呼の頃は無い。
つまり女王国の統治は九州だよ。狗奴国と許乃国とは音韻が似てるだけで、別の
国だよ。安本先生も九州の地名を引き出して、各々畿内の似た地名を指摘して
いる。このように、単に少し似てる感じだが別物なのさ。
627日本@名無史さん:2008/02/03(日) 14:58:45
>>625
籠神社の海部氏じゃないのか?
日本最古の系図をもっているうという。
まさに尾張氏から別れた家系。

丹後一宮 元伊勢 籠神社このじんじゃ 京都丹後日本三景天橋立
http://www.motoise.jp/
628日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:00:03
>>626
安本こそが、無理に地名の類似を強調して
九州説をほざいているんだろうがw
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 15:01:38
>>628
お前、九州説でも違うところは各自うんとあるんだよ。
630日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:02:58
>>626
というか、許乃國の武埴安彦命なんて
もろ地名の類似だけではなくて
卑弥呼の死の直前の出来事からして
一致するじゃんw
631太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 15:07:49
>>630
そのくらいの一致じゃイコールにはならんぞ。倍暦計算で、倭の大乱の頃の大陸
では靈帝がいた時は、日本は孝靈の時代であり靈帝が孝靈天皇になるわけもない。
632日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:12:19
>>631
というか、箸墓と邪馬台国を結びつける以上
どうしても、それはクローズアップされるでしょう。
まあ、断定は良くないが、それが自然な流れだわな。
633622:2008/02/03(日) 15:17:28
>>627
国宝のお宝になってるなんて凄い。
634日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:21:40
635日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:29:51
海部氏の系図は、邪馬台国論争や
皇室の欠史八代、神武東征などの謎が隠されていると言われている。

ただ、だからといって、海部氏の系図を100%信じるのは不味いと思う。
というのは、この系図は所詮、平安時代以降の海部氏の見解だから。
その時代には、まだまだ古代の謎が多く残っていたかもしれないが
でも、それでも、平安時代の時点...という前置きがついてしまう。

とくに海部氏系図で信じられないのは、彼らが自分たちの家系を
火明命の嫡流のようにしるし、尾張氏のほうを傍流にしていること。
また、始祖の火明命が、海部氏の本拠地・丹波へ降臨したと記載していること。

どう考えても、尾張氏のほうが嫡流だし、また火明命は大和生まれで大和を本拠地に
していたほうが正解だろう。
おそらく、火明命から何代かたった後の尾張氏の分家筋のものが
丹波へ赴任したというのが本当のところではないだろうか?
つまり、尾張氏の傍流の者が丹波の土着の豪族の婿に入ったという感じ。
だから、海部氏系図には、尾張氏伝承と丹波の土着豪族伝承が
混ざり合っているとも言われている。
636622:2008/02/03(日) 15:57:02
それでも凄い。

大昔に見た「何でも鑑定団」の記憶が薄れていたので、名字が分らなかった。
当主と次期当主は事故防止の為、同時に同じ乗り物で移動出来ない
(次男以下は当主と移動出来る)と語っていた事と
古い系図の鑑定の場面だけしか覚えてなかった。
だから、国宝に指定されて、赤い朱印まで押されていたのだとは記憶になかった。
日本で唯一の国宝なんだね。やっぱり、同族なんだ。
物部氏や大伴氏?伴氏?、土師氏、葛城氏と比べて、海部氏と尾張氏の活躍度が少ないけど何でなんだろう。
>>635
不明な所は尾張氏や皇室の系図で補えるのでは?
637日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:57:14
まあどうあっても畿内説の優位は動き様が無い。

頭冷やして冷静に考えてみれば分かる話で
三世紀中頃にはヤマトに後の藤原京よりも大きく、平城京に比べても遜色の無い規模の纏向と言う都市が誕生していた。

その都市は広範な交易範囲を持った交易国家とも言える都市で
各地の首長の連合体の性格を持っていた。

なら当然魏に朝貢し冊封される事を熱望したであろう事は間違いないだろう。
(一つは交易の為、また他方で寄り合い所帯故その求心力の強化の為)
これを海外との交流なんか考えない自給自足的田園都市なんて考える方がおかしい訳でw

それで尚且つ九州にあった勢力が倭王として冊封されるとすれば
 1)ヤマトの朝貢を許さぬように関門海峡・玄界灘を厳重に支配し使者の通過さえ許さなかった。
 2)魏にヤマトと天秤にかけられたが外交戦術が功を奏し競り勝つ事ができた。
 3)自分達はヤマトの者と偽った(所謂、偽僭説)

何れも仮説としては成り立つだろうがヤマトがそのまま冊封されたとするより難しい話にはなるだろう。

638日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:11:55
>>636
もう一つ、注目できるのが
その海部氏系図では、火明命の第一夫人が
出雲の大国主の娘だったということ。

そして、播磨国風土記には、父の大国主が、子の火明命と喧嘩をして
子の火明命に譲るような話が出てくる。
これって、出雲の国譲りの話では?と推測できる。
つまり、出雲国譲りとは、出雲の大国主が、娘婿の火明命に
出雲の統治権を譲渡した話なのでは?という推測。
639日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:43:26
>>631
散々、自分の都合が良いように
年代足したり観光させたりしててよく言うな〜www
640日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:45:20
>>598
>我、再び蘇ったそうな。

まあ「蘇我」って色々と解釈はされているなw

あと欠史八代と言われる大王の宮の多くが
葛城氏の勢力範囲にあるのは後の「記紀」の皇統譜の元になった
「天皇記」を編纂した蘇我氏の意向とも…。


641改め〜壹與ちゃん十三才:2008/02/03(日) 16:57:23
>>639
「観光」
本当に観光だか知らないが、639氏は古代史をよく知らないから馬鹿にしてるのだろう。
それはあの人独自の呼び方でわたしも似たような考えをもってるのである。
642日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:01:52
はいはいwwwあんたがタイショ〜
643小倉優子が好き:2008/02/03(日) 17:09:15
>>613
「神武皇統を越える存在」は尾張氏ではなく、出雲出身の大国主(三輪の大物主)
だったのではないでしょうか?
尾張氏はむしろ神武の子孫(孝の字の四代)とともにそれを滅ぼした側では?
(当時、遠く九州からやっと畿内三輪巻向にやってきた彦火火出見の子孫たちは
大国主から葛城に土地を与えられ、尾張氏らと同じように一諸候として暮していたのでしょう。)
その記憶が記紀神代の「国譲り神話」となったのではないかと思います。
天皇の名前からすると、「開化天皇」の時代に勝利を決定する何かがあったような気がします。
また、その頃本拠地も交通の便が良いところへ移っていますしね。
さらに十代崇神天皇は「四道将軍」を各地に派遣し外征に打ってでますが、こういった
現象は豊臣秀吉が朝鮮出兵をした時のように内戦が終わって戦力が充実
(というより、余ってしまったと言うべき?)した時によくみられますよね。
644日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:09:44
蘇我氏は楚人
長江文明を築いたミャオ族の子孫
楚とせず蘇としたのは出処を隠す意図があったのかもしれない
645日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:25:10
箸墓が卑弥呼の墓だという人がいるが、これが畿内説の状況を良く表している。
倭人伝の記述は当てにならないといいながら、倭人伝に書かれている「径百余歩」
の記述だけは信じている。

しかし、箸墓は「径百歩」ではない。だから、後円部だけが先に作られたという
珍説を出す。前方部も同時期に作られたことが判明してもめげない。

内部の調査はされていないから、詳しいことは何一つわからないのに、
卑弥呼の墓だと思い込んでいる。

最後の望みとばかり、築造年代に賭ける。一生懸命卑弥呼の死んだ時期に
合わせようと努力する。時代さえ合えば、卑弥呼の墓に間違いないと
信じ込んである。
年代が合ったとしても、可能性がある程度の意味しかないことは無視する。

まあ、年代も合わない可能性のほうがずっと高いが。
646日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:38:12
宮内庁は最近になって、
箸中の調査の許可を出したそうだよ。

これで終止符が打てればいいんだけど
647日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:50:12
日本書紀に置ける卑弥呼は神宮皇后で宜しいのですか。
素人考えですが、卑弥呼が倭人の上古音の当て字だとしたらそれに近い発音ですよね。
それに近い発音の人名は無いのでしょうか。
或いは、ひみこ、姫巫女、日巫女だとしたら役職名になるのかしら。
卑弥呼は人名か役職名か。
疑問
何故日本書紀は、唐土の国の書物に記述されている卑弥呼は○○を指す。
或いは、卑弥呼は役職名で本当は○○である。
この様に編纂しなかったのでしょうか。当然中国の書物を読んでいたはずですよね。
だから邪馬台国九州説の方がしっくりするのですが。
神宮皇后だとしたら、もう少しはっきり記述しても良かったのに。
それと気になるのは金印の行方です。
皆様は何処に埋まっていると思いますか。
畿内で発見されれば、畿内説確定間違いなしで、九州で出土すれば九州説確定間違いなしですよね。
648日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:53:36
>>646
金印出土の可能性はありますか。
壁画新発見の可能性はありますか。
刺青男性壁画発見の可能性はありますか。魏志倭人伝によると、刺青をしていたのですよね。
649日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:08:29
さぁてね、何かしらは出て来るでしょうなww。
箸墓はれっきとした古墳なんでwww
650日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:10:42
学習院の教授で皇室・宮内庁に近い人が
卑弥呼は百襲姫命が卑弥呼だろう?と言っているんだよな。
で、皇室サイドもそのへんをつかんでいるんだろう?

>>643
謎の古代といっても、長いからね、結構。
金印の奴國から邪馬台国まで200年あるわけだから、
それぐらいあると色んなことがあっただろう。

おそらく、
出雲王朝→大和王朝初期(尾張氏系)→大和王朝初期以降(神武皇統)と
権力変遷も目まぐるしく変わったんじゃないのか?

たぶん、ニニギは、近畿の高天原の出身で
九州南部の日向に派遣され、
神武の代に呼び戻されたんでしょう?
651日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:13:40
>>644 :日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:09:44
>蘇我氏は楚人

蘇我氏は、皇別系の武内氏族で、武内氏族の嫡流・皇別葛城氏が衰退した後に
台頭してきたから
蘇我氏が皇別氏族の武内氏というのは事実だろう。
蘇我氏が渡来系と関係が深いのは事実だろうが
父方の家系で見たら、蘇我氏は皇別系というのはほぼ間違いない。
652小倉優子が好き:2008/02/03(日) 18:15:05
神功皇后は卑弥呼とは別人でしょ?
653日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:24:28
古事記では、天武天皇が編纂したもので、
尾張氏の記述が殆ど無いけど、出雲の国譲りはあるんだよ。

それで、日本書紀になると、出雲の国譲りすらなくなる。

654日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:25:05
>>645
先ず箸墓がモモソの墓か?があって
その後にモモソが卑弥呼か?と言う問題が来るのであり。

箸墓がモモソの墓でありかつ卑弥呼の墓でないと言うのなら畿内説から
卑弥呼=モモソの説が消えるだけ。

箸墓がモモソの墓でもなくかつ卑弥呼の墓でもないと言うのなら畿内説から
箸墓=卑弥呼の墓の説が消えるだけ(卑弥呼=モモソの墓は他にある可能性)

いずれにせよ箸墓の被葬者が誰かと言う結果で畿内説自体が消えるわけではないだろ?w
655日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:25:41
>>小倉
日本書紀著者が「卑弥呼って、神功じゃね?」って
書いてたっていうのが元ネタ
656日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:26:14
てか箸墓なんて相当盗掘されてんべ?www
657日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:28:50
九州に径100歩の古墳ってあるの?
奈良にはあるけど…九州のって聞いたことないな
658日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:31:37
>>648金印は埋葬品に非ず。
鏡なら女王の埋葬品としてふさわしいが、
金印は宝物として代々引き継ぐのです。
659日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:31:51
日本書紀の編纂者は
神功皇后を 卑弥呼と台与の二人にあてているんだけど
それは比較的に年代が近かったからだろう?
だから、無理に年代を引き伸ばしてそうやったんだけど

どうも、上古代の日本は、暦が違っていたみたいで、
実際は百襲姫命のほうが、卑弥呼だった。

でも、神功皇后も実在の人物でしょう。
もし、卑弥呼と台与の二人に指定する架空の人物を作るのなら
二人の女性皇族の権力者を創作すれば良い訳だし。
660日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:31:53
邪馬台国は九州が正しい。畿内は嘘。
魏志倭人伝を素直に読むと九州。
661日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:36:05
>>660
素直に読むと太平洋上に突き抜けますが何か?

662日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:37:53
>>660
素直に読むと海の中に邪馬台国が。
龍宮城の姫が卑弥呼かw?
663日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:40:24
方角は九州であっている。畿内とは逆。
664日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:47:19
地図も方位磁石もない時代に正確な方角とかw
それに山河を越え、山の山のそのまた向こうの山に女王はいると
九州で聞いたとなってるが
665日本@名無史さん:2008/02/03(日) 18:51:47
だから、素直に読めば太平洋の中なんでしょ。日数や距離にちょっとした誤解があっただけ。
それに九州にも古墳は沢山あるよ。
666日本@名無史さん:2008/02/03(日) 19:01:58
ムー大陸論者キタwww
667日本@名無史さん:2008/02/03(日) 19:03:39
まあ流石に金印は無いだろうがw
万が一埋葬されていたとしても盗掘されてそうw

で卑弥呼の墓って確定する材料って何になるんだろう?
魏から卑弥呼に下賜されたのは
 ・通常の献上品に対する返礼として錦の織物類
 ・「特に汝に賜う」として織物、金、五尺刀、銅鏡、真珠、鉛丹

まあ一番絵になるのは銅鏡かな?
完全魏オリジナルのwww
668九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/03(日) 19:22:15
>>628
壱岐、対馬、奴国、伊都国、マツラ国などの国名が倭人伝と符合することは論を待たない。
一国の大きさは100里、200里ほど行けば次国に行く程度。これはムラからクニへ発展していく過程で
郡ほどの大きさになったものと考えると説明がつく。
今の県ほどの大きさを統一するのがどれだけ大変かは戦国時代の大名をみれば解る。
従い北部九州の比較的狭い範囲に邪馬台国連合30カ国は団子状に集中していたと見るのが妥当。
比定地は長崎、福岡、佐賀、大分の四県にまたがり、ほぼ比定されたとおり。
畿内説の比定の方がこじつけ。
669日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:12:36
邪馬台国が東遷してヤマト政権ができたと予想
670日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:57:50
>>668
倭人伝の国々は「郡ほどの大きさ」と、九州ですがは言うのか?
どの国も,、か?

対馬国、伊都国の戸数は千余戸だ。不彌国も「千余家」。

ところが奴国は二万余戸、投馬国は五万余戸と、格段に戸数が多い。
対馬国や伊都国の、2倍、5倍・・・じゃねえぞ、20倍、50倍だぞ!

これだけはなはだしい戸数の違いがあるのに、
どれもこれも「郡ほどの大きさ」と考えるのは、ちっとはおかしいと思わんか!

そんで、邪馬台国はどうだ。七万余戸!・・・じつに70倍だ!

九州ですがは倭人伝の記事を、すこしも検討せず、尊重せず、だな。
つうか、倭人伝の記事は読んでないんじゃねえか?
671日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:58:53
>>669
侵略するならまだしも、
東遷する意味がわからんよ。
あまり信憑性がない。
吉備や伊予国スルーとか意味わからん。
672小倉優子が好き:2008/02/03(日) 20:59:43
少し前、下関に旅行に逝きました。そこで以下のようなものを見ました。

「数方庭の由来と鬼石」(忌宮神社:いみのみやじんじゃ 境内にて)
第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の反乱を平定の為御西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮
の皇居をおこされたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し、
豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが、宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次い
で討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。
賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍のまわりを
踊り回ったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭り)の起源と伝えられ、塵輪の顔
が鬼のようであったところから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

「壇具川」(功山寺近くの川にて)
壇具川の名称は、神功皇后が三韓鎭治の時、この豊浦の地(長府)で祭壇を築き天神地祇を祭り、
その祭壇に用いた道具を流した川と言う事からその名がついたと伝えられる。昔は祭事が終わると
その都度祭具を川に流したと言う。又その祭壇を築いた場所(忌宮神社正面の惣社町一帯)を
「壇の上」といい、その地名が伝えられている。

これらはかなりなまなましく、いかにもありそうな話で、ほかにも神功皇后に関する言い伝えは
関西方面にもあり、そこに見える神功皇后像は、魏志倭人伝にある卑弥呼像とは似ても似つかない
ものに思えます。
673日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:31:14
>>657
径百歩というのは、直径が百歩。つまり、直径145m程度の円墳ということになる。
奈良盆地にはこういう古墳で、3世紀代まで遡れるのはあるのかな。
ただ、これくらいの規模の古墳を築こうとすれば、相当時間がかかる。
倭人伝の記述を見ると、そんなに時間をかけたようには思えないのだが。
674横槍:2008/02/03(日) 22:47:53
箸墓は、最初造られたときは、帆立形だった可能性はないのかな?
675日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:54:39

>>638>>643


海部氏、尾張氏の祖である、「天火明命」は日本書紀では
天照国照彦火明命として、また、先代旧事本紀には天照
国照彦天火明櫛玉饒速日尊と記されている。

まさに物部そのものである。その物部氏は神武東遷前に
既に畿内に天孫降臨していた大王家以外の唯一の氏族
であり、大和朝廷が始められた三輪山の神であり、また、
出雲の神社の祭神には物部氏(饒速日命やその子
宇摩志麻遅命)が多い。

しかし何故か、天照大神の弟の素盞嗚尊や母イザナギは
黄泉の国出雲に祭られている。物部氏と深いかかわりの
ある出雲らである。

そして、その物部を打ち滅ぼしたのは、蘇我馬子であり、
その蘇我本家を滅ぼした者(天武・持統や藤原)により記紀
が最終編集されている。
676日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:57:12
帆立貝式古墳といえば、宮崎に男狭穂塚古墳があるなあ。
大きさもだいたい合っているが、年代が違うらしい。
男狭穂塚古墳は、天孫降臨で有名な邇邇芸命の墓と伝承されている。
677日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:04:52
>>668
今の県ほどの大きさを統一するのがどれだけ大変かは戦国時代の大名を
みれば解る。

しかし、秀吉の朝鮮出兵に先立つこと1200年前に、朝鮮半島に少なからずも
派兵していたよ。

卑弥呼の時代の100年後にはね。
678日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:14:57
>>674,>>676
ホタテをなめるなよ
679古代:2008/02/03(日) 23:15:58
675
饒速日命はスサノオの子・大歳神の子で出雲出身という説があります。
これは各地の神社の伝記を調べた面白い説です。
そうすると最初畿内を支配していたのは出雲神族って事になるのかな。

<しかし何故か、天照大神の弟の素盞嗚尊や母イザナギ(←イザナミ)は
黄泉の国出雲に祭られている。
スサノオは母を求めて根の国に下っているので(黄泉の国かは異説あり)

出雲のもともとの神はキヒサ神やフナト神(名前に自信なし)
フナトの神はイザナギがイザナミの黄泉の国から逃げる時に
ヨモツ平坂とこの世を分けるために差した境界の神(賽の神)。と言われている。
スサノオを出雲の神としたのは後の時代。天照の弟の方がいいからね。
680日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:24:55
天武天皇にとって、気に入らなかったのは
尾張氏ら火明命の子孫たちで、
出雲王朝に対しては、そうでもなかったんじゃないのか?
だって、古事記では出雲の国譲り自体は記載されている。

おそらく、出雲国譲りを起こしたのは尾張氏の先祖のほうだったんじゃないのか?
いわば、神武皇統は、江戸時代で言う紀州徳川家みたいなもんだろう?
で、徳川幕府を開いたのが徳川秀忠で、その男系の子孫が残っていたら
なんかの拍子で紀州家が宗家を継承しても
常に秀忠の男系子孫に負い目を感じるみたいなもんだろう?

ちなみに、出雲の国譲りは、日本書紀のほうで消滅した。
日本書紀は正式な正史だから、大和王朝が革命を起こす姿が問題になったはずで
天武天皇の時点(古事記を編纂した時点)では、出雲のほうは気にしてなかったのかもね。
681日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:28:26
自分の推測では、蘇我氏の館で燃えてしまった帝紀や旧辞には、
大和王朝の初期の大王は、尾張氏の祖先ということになっていて
途中、百襲媛命から神武皇統へ皇位が渡ったように記載されていたんじゃないのか?
で、欠史八代のへんでは神武皇統は政治的には最高権力だったけど
名目上(祭祀上)は、尾張氏の系統のほうが大和大王だったように思う。どうよ?
だからこそ、古事記なんかでも、欠史八代のほうは、寿命しか書いてなくて
干支没年の記載が残っていない。
大王ではなく、執政ぐらいだと、その人物が何歳で死んだぐらいしか
記録が無かったんじゃないのかな?
682日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:42:33
大和に邪馬台国があったって事でいいじゃん。
邪馬台国→大和朝廷→平城京→平安京って流れの方がいいし、
日本の中心の方に文化があったって方がなんとなくいいし。
683古代:2008/02/03(日) 23:45:15
681
どうよって言われても根拠が乏しい。尾張氏が祭祀権を握っていたならその後もある程度は影響力を持っていないと。
むしろ古代で祭祀権を持っていたのは物部氏、中臣氏、賀茂氏、忌部氏あたり。
684日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:47:48
>>679
いいこと教えてやるよ。

ニギハヤヒと火明命が同一人物かどうかは別として

播磨国風土記には、出雲の大国主と火明命の親子喧嘩の記述がある。
で、大国主が子の火明命に譲るような話。
で、出雲の大国主と火明命が親子?と疑問に思ったんだけど
その謎が直に解けたよ。

海部氏系図のほうに、その謎が書いてあった。
つまり、火明命の正妻が大国主の娘。

つまり、大国主と火明命の関係は、義理の親子の関係。
685日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:49:05
>>683
祭祀はどこの豪族にもあるけど、
もともと大和大王の祭祀というのは尾張氏が行ってたのと違うか?
686日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:59:18
>>680>>681
要するに現皇室は南朝で北朝に子孫がいたとしたらという事?
自称北朝末裔の熊沢天皇(笑)
687日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:01:10
騎馬民族が日本を制圧→ヤマト朝廷
だと思うが。
688日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:04:27
>>686訂正
皇室は北朝だった。
自称南朝子孫が熊沢天皇だった。
689古代:2008/02/04(月) 00:07:21
モモソ姫=卑弥呼なら崇神天皇はどうなるのか?
の問いに対しては明確な答えがでないようなのですね。
自分はアマテラス寄りだけど、モモソ姫の線も皆無ではないと思うので説明を。

古代の統治の仕方にヒコ・ヒメ制というのがある。男女の共同統治によって統治が行われていたというもの。
葛城王朝で、天孫の神武と出雲神族(地祇系)のイケスヨリ姫の共同統治(天地地祇の共同統治)が象徴している。
古代では通い婚だったので家は母系家族だった。男性をイエギミ、女性をイエトジと言った。
一族のまとめ役は女性の方が優位、男性は外で(政治的・経済的に)働く存在だった。
祭祀権は女性優位だったかもしれない。

崇神天皇の御世、本来なら政治=男性。祭祀=女性だったが、
国内が乱れたので女性が政治的にも介入した(神託という方法で)という事かもしれない。

ただヒコ・ヒメ制なら皇后との共同統治なはず。考えられるのはモモソ姫が一族の家刀持(イエトジ)としての惣領姫であったということ。
しかし、モモソヒメが崇神朝の惣領姫であったという記述が無いのは苦しいところ。

さらにモモソヒメが活躍するのは日本書紀だけで箸墓との繋がりを作るために創作された感は否めない。

690日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:08:42
大和王朝の始祖・天照国照彦火明命(ホアカリ)は
彼の妻が出雲・大国主の娘で
妻の父親(大国主)から倭国の覇権を譲られたこと(出雲国譲り)
に正当性があるんじゃないの?

一方、そのホアカリの兄弟のニニギ(神武天皇の曽祖父)は
出雲の国譲りをされていない。
ニニギの妻は出雲王朝とは関係ない豪族出身で
大和の初代の大王になったホアカリの命令で
九州南部へ派遣(熊襲平定が目的?)されたので、
神武皇統は大和王朝の本来の本流ではなく傍流ということだった。
691日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:11:55
倭人伝の記載で注目されるのは
女王卑弥呼が擁立されるまでは、
80年くらい男王の時代が続いていたということだね。
それこそ、尾張氏の祖先の時代じゃないのかな?
また、卑弥呼擁立の切欠になった倭国乱は
尾張氏の祖先と神武皇統の欠史八代の人たちの間で争いが起こったんじゃないのか?
692日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:14:43
>>690
海部氏系図の
火明命の妃が、大国主の娘だったというのには注目だね。
693日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:18:30
>>690
江戸時代の光格天皇(直接の先祖)も傍流だけど、神武天皇=光格との定義で良いの?
本家が途絶えたから光格天皇が即位した。
694日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:27:35
>>694
それは本家が途絶えたからだけど
尾張氏と神武皇統の場合は、尾張氏は断絶していないし

また、神武皇統と尾張氏の共通の祖先は
忍穂耳であって、ホアカリやニニギではない。

忍穂耳が出雲から国譲りされたのなら、忍穂耳が大和の初代国王であり
神武皇統はその男系の直系子孫だから、何の問題も無かったのだけど

残念ながら、出雲国譲りで大和の始祖になったのは
忍穂耳の子であるホアカリからで、ホアカリが始祖の場合
神武皇統は、その兄弟の男系子孫ではあるが、
始祖ホアカリの直系の男系子孫ではないことになる。

このことが神武皇統にはまずいことだった。
695日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:27:55
古事記の序文に、「旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむ
として…」とある。
このとき、すでにいかがわしいようなものが混じっていたようだ。

古事記では、饒速日命の出所は不明となっているらしい。邇邇芸命の兄である
天火明命と同一視するものもあるらしいが、神武天皇にしてみれば、曾祖父の
兄ということになる。
統制のときの神武天皇は、そこそこいい年だったので、ちょっと怪しげな説と
いうことになりはしないだろうか。
696694訂正:2008/02/04(月) 00:28:12
697日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:30:52
>>695
統制は東征の間違い。
ちなみに、古事記には、饒速日命は物部氏の祖とだけ書かれているらしい。
698日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:35:28
>>695
ニギハヤヒとホアカリが同一神かどうかは分からない。
物部氏はそのように主張していたが
皇室をはじめ他の豪族はそれを否定していたみたいだし。
また、日本書紀では、一書という形で複数、説が出ているんだが
その中に、ニニギの子供にもホアカリがいたらしい。
ニニギの子供には、ホアカリと似たような名前の子供が多く登場するし
もしかしたら、ニギハヤヒは、世代から考えて、そっちのホアカリかもしれない。

あと、世代的に無理な記述は、何もニギハヤヒと神武だけではない。
だから、それ自体、記紀の編纂者はそんなに問題にしてなかったはず。
699日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:41:09
古代の国造の出自一覧

http://www.myj7000.jp-biz.net/table/kokuzou.htm
700古代:2008/02/04(月) 00:57:35
698
ニギハヤヒがホアカリと同一でなくてもよいが
ニギハヤヒがニニギとは別に天下って大和の地を支配していたという記述を
覆さなくては。それに、では物部氏と尾張氏の関係は?
物部氏は何故出雲や吉備でスサノオを祭っているのか?むしろ尾張氏が祀るべきだろう。大国主とか。
尾張氏が大和を追われたとき何故義父である大国主の出雲系ではなく東海へ拠点を移したのか?
神武が大和を征服した時に出雲は助けに入るどころか従ったのか?それで東海へ逃げた?神武と大国主の関係は?
701九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/04(月) 05:33:44
>>870 どの国も,、か?

どのクニもとまでは言っていない。郡にも色んな大きさはある。おおよそだ。
ムラからクニへの発展途上に戦国時代を上回る大きな国があったとは考え難いと言っているのだ。
それより畿内説のいう広大な地域を点と点だけで結んだ国家のありようのほうが
よっぽど奇異な姿だとしか言いようがない。まして統一国家並みの領土だとは考えがたい。
一大率は伊都国にあるが邪馬台国は畿内にある、では異変があってちくいち中央に連絡するのに
どれだけの日にちを要すると思うのだ。中国のように山の頂上ごとに狼煙でも上げてというわけにもいくまい。
徒歩で行くしかない時代、連絡網の関係でそれほど管轄地域は広げられない。直轄地ならなおさらだ。
無理に辻褄合わせをしようとすれば誰の目にも奇異に映る説になる。
702九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/04(月) 06:04:06
>>701
>中国のように山の頂上ごとに狼煙でも上げてというわけにもいくまい。

広域国家を肯定するわけではないが、
弥生期の瀬戸内では狼煙を使っていたと見られる遺蹟があるよ。
703日本@名無史さん:2008/02/04(月) 06:22:35
>>701
>徒歩で行くしかない時代
だからこそ瀬戸内海を使っての海上輸送なんだなw
単に歩くだけでも難儀なのに、荷物を運ぶとなると舟運となるわけで…

>誰の目にも奇異に映る説になる。
一体全体何処が奇異なのか?
どの道、現実に纏向に各地から物資が運び込まれているんだから、どうしようなもないw

後の4世紀5世紀に交通運輸手段や連絡手段が飛躍的に伸びたのか?
例えば馬の使用が一般的になったとか、街道を整理東西に伸びる大動脈を作ったとか?
それに乗っかってヤマト朝廷が全国を統一していったとか?

大体、領土つっても緩やかな連合体であって武力で制覇し支配する領地を想像するから話が進まないw
704703:2008/02/04(月) 06:31:55
>>702
>弥生期の瀬戸内では狼煙を使っていたと見られる遺蹟があるよ

弥生後期後半頃に高地性集落が盛行している。
ちょうど倭国大乱の時代。
705日本@名無史さん:2008/02/04(月) 06:42:55
ずっと後の畿内でさえ、大和・山城・摂津・河内・和泉の5カ国がある。
畿内周辺は近江・伊賀・伊勢・志摩・紀伊・淡路・播磨の7カ国。
つまり、邪馬台国時代よりずっと後の近畿地方でも12カ国ある。

5世紀の倭王・武が宋の皇帝に送った上表文では、東55カ国、西66カ国を支配
しているとある。

1世紀頃の漢書地理誌によると、倭国は百カ国余に分かれていたとある。
倭人伝には、それが30カ国余となっているから時代と共に統合されている
様子がうかがえる。

だから、倭人伝にある邪馬台国時代の国の広さが郡程度と言うのは、だいたい
妥当な線だと思うが。
706日本@名無史さん:2008/02/04(月) 07:50:17
>>701
>一大率は伊都国にあるが邪馬台国は畿内にある、では異変があってちくいち中央に連絡するのに
>どれだけの日にちを要すると思うのだ。

邪馬台国は九州だとしても、このですがの一大率の捉え方や古代の地方支配の感覚はおかしい。

一大率を置いたのは、対馬〜不彌の玄界灘沿岸諸国を特に監視し、統治するため。
したがってかなり強い権限を女王から委任されていたとみるべき。

異変があったらいちいちそれを中央(邪馬台国)に取り次いで指示を仰がないと
一大率は何もできない、というのでは、地方支配にはまるで役にたたない。

一大率は名前からして相当の権限を中央から委譲されており、
これを特に伊都国に置いていたのは、
玄界灘沿岸諸国が邪馬台国の都からは地理的に至近距離ではなかったから、と見るべきだろう。

一大率には、邪馬台国から信頼のおける優秀な人物が派遣されたと思うが、
魏志倭人伝には伊都国には王がいたとも記されているので、
もし邪馬台国と伊都国に強い信頼関係があったなら、
伊都国の王族を一大率に任命することもあったかもしれない。
707日本@名無史さん:2008/02/04(月) 08:16:22
>>694>>696>>698
だったら天智天皇の皇子の弘文天皇→臣籍降下(母親は十市皇女)
天武天皇の孫皇子の武天皇の場合はどうなるの?
その理論で言ったら弘文天皇には子孫が存在する。天智天皇の方が兄だよ。
>ニギヤハリ、ホアカリ〜
もっと単純かもよ。弘文天皇は母親が皇族じゃなかったから駄目だったんでしょ。
天智天皇には皇族を母に持つ皇子が居なかった。弟の天武天皇には条件を満たす皇子が沢山居た。
ニギヤハリ、ホアカリの時代も母親の身分が家督相続に影響したとする。
母親の身分とは、家柄が良くても母親の実家が没落したり反乱したとする。
故に廃嫡される。しかし皇子は皇室子孫なので臣籍降下で許される。
背景が違うが弘文天皇の皇子は臣籍降下して、その後も脈を保っている(出世はしないが)。

こじ付けかも知れないが此処のスレ住人達に質問。
ニギヤハリ、ホアカリ、出雲国譲りの時代に、天智天皇、天武天皇の兄弟が居たとする。
ニギヤハリとホアカリも兄弟。二人とも存命中に兄の天智天皇の皇子の大友皇子を
後押しする一派としない一派があったとする。てんやわんやの騒動の後で
兄の皇子の大友皇子の母親の一族に何かあったとする。
天智天皇と大友皇子は弟の天武天皇に宣言する。皇位を譲る。
その代わり、自分達を準天皇的な扱いをしてくれ。そうすれば天智系子孫は
子々孫々まで天武天皇系列に忠誠を尽くすと誓う。
↑その後、国譲りとして伝わる。天智天皇は神様になる。
※出雲、ニギヤハリ、ホアカリの妻は敵対?のはずがお互いの親戚なんでしょ。
壬申の乱に当て嵌めても、弘文天皇の皇后は天武皇女。天武天皇の皇后も天智の皇女。
更に天武天皇の皇太子の正妃も天智の皇女。
壬申の乱が起きた時が古代だったとしたら、飛鳥時代辺りには天智天皇の国譲りとして
伝わってる可能性もある。で、弘文天皇系が本家だったが、国を譲った伝説としてね。
708日本@名無史さん:2008/02/04(月) 08:28:28
魏志倭人伝に
依山島為國邑→山や島に隠れるように國邑をなしているって
書いてあるのになんで平地ばっかしが候補地になるの?

至と到が使い分けてあるよね。
字の成り立ちを調べればわかると思うけど
帯方郡→狗邪韓國と末盧國→伊都国は直線じゃないってことだよね。

そもそも邪馬台国連合の政治的中心は女王国ではなく伊都国だよね?
現在の天皇家と内閣に通じる部分があるように読める。

特別に一大率を置いたのは邪馬台国なの?
魏若しくは帯方郡の可能性は0なの?
709日本@名無史さん:2008/02/04(月) 08:29:29
↑間違ってしまった。
ニギヤハリ、ホアカリは兄弟じゃなかった。
でも、私の言いたい事は何となく伝わったでしょ。

710日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:07:10
>>708
一大率が帯方郡とか魏の派遣した高官で、これを諸国が畏れはばかっていると
したら、狗奴国との争いのときわざわざ帯方郡に行かなくても一大率に
頼めばいい。でも、張政がやってきているし、一大率は全く活躍しない。
だから、郡や魏の派遣した高官じゃないのではないかな。
711古代:2008/02/04(月) 09:16:23
天智天皇と弘文天皇・天武天皇の話が出たので言わしてもらうと、
兄弟間の確執は日本書紀全体に流れるテーマと言ってもいいほど
あちらこちらにエピソードが散りばめられている。
これは天武天皇が兄である天智天皇系から皇位を奪ったのを正当化するため、と言われている
古代の系譜では第二子が天皇となるケースが多い。

武埴安彦命の乱でいうなら、皇后処世の皇子大彦命が庶子である弟・武埴安彦命を撃っている。
そのあとの忍熊王らの反乱でもそう(皇后処世の応神に対する反乱)だけど
ここで、ワニ氏(の祖先)が両方とも活躍しているのは注目したいところ。
ワニ氏の活躍を入れたいから作ったエピソードか?
ワニ氏は孝元天皇の代に妃を送っている。崇神天皇の異母弟彦坐王を産んでいる
712日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:36:14
>>711
確かに、長男が冷遇されているような気がする。
天孫の邇邇芸命も弟だし、その子の山幸彦も弟。神武天皇は四人兄弟の一番下
だし、第二代の綏靖天皇も一番下の弟。

この辺なんかあるなあ。やっぱり天武天皇かな。
しかし、天武天皇は天智天皇から皇位を奪ったわけではないのだが。
713日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:36:55
古代さんに聞きたいけど

実は、物部氏、海部氏の間でも、伝承に大きな違いがあるんだ。

物部氏の祖のニギハヤヒは河内に降臨したことになっているが
海部氏の祖のホアカリは丹波に降臨したことになっているしね。

また、尾張氏がいつ東海に下ったかについても
ホアカリの子供くらいという伝承もあれば
もっと確実な伝承では、ホアカリの数代後で、
崇神天皇のちょっと前くらいに東海に下ったというのもある。
また、それは、あくまでも、尾張氏が東海を領土にしただけで
あいかわらず大和に居住し続けたという説もある。

>>707
ホアカリの妻とニニギの妻は親戚ではないと思われ。
714日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:39:58
>>712
海部氏系図のほうでは
ニニギが第一皇子で、ホアカリが第三皇子ということになっている。
(ちなみに、他に2人の皇子の名も記載されている)

このへんが記紀との大きな違いだ。
記紀では普通、ホアカリが兄で、ニニギが弟となっていて
別の一書では、ニニギの子供にホアカリがいたともある。
715日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:45:08
>>700
あと、古代さんに言いたいが
尾張氏が東海に領土を得たのと、出雲とは関係ないんじゃないのかな?
そもそも、出雲を祭るのは、
ホアカリ、ニニギの叔父さんのホヒさんの子孫である
出雲国造家という存在があるんだから、
いまさら、尾張氏が出雲にかい?
716日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:48:35
古代氏族の出自を徳川時代に例えるのなら

天神=譜代大名
天孫=親藩大名
地祇=外様大名
717日本@名無史さん:2008/02/04(月) 09:54:45
なんか、朝から盛り上がっていますね。
世間では、邪馬台国畿内説でほぼ決まりですが
ここでも、そのようですよね。

邪馬台国論争は畿内で収束していますが、
問題はその次の段階ですね。
718ニニギ:2008/02/04(月) 10:04:38
数年前、NHKの「その時歴史は動いた」で邪馬台国は近畿か九州か、で視聴者投票を行ったが、そのときはだいたいダブルスコアで九州のほうが多かった。
「世間」はそんなものだよ。
719日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:09:14
>>711
外国には、末っ子男子が家督を継ぐ風習がある国もあると聞く。
理由は末っ子が最後まで両親の元で育つからだそうだ。
上の男子は成人すると自立して家をでるから、必然的に末子男子が跡を継ぐようになる。
古代の日本では、現代の様に長男相続の概念がなかった可能性もある。
今でこそ皇室は直系相続優先だが、平安時代や中世までは兄弟相続も行われていた。
平安時代なんて、摂関政治で兄弟相続が沢山あった。
>庶子である弟、武埴安彦命を撃っている。
庶子ということは、母親が正妃じゃないんでしょ。
江戸時代大名・京都貴族だって、側室生母の庶子長男と正室生母の弟だと正室腹が跡を継いでたよ。
源頼朝は三男だったけど、正室腹だから跡を継いだ。
足利家も代々北条家が正室だったから、家女房腹、遊女腹は長男を産んでも跡を継いでない。
正室か否かは幕末まで重要でしょ。
庶子の場合は家督を奪ったとは言わないと思うが如何?
源頼朝は兄の跡目を奪ったとは言わない。母親が正室だからだ。
>>712
相続形式が古代は違ったののでは?
平安時代、中世は皇室でも兄弟相続が行われていた。
古代は、弟相続が当たり前前だったとか。

720日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:11:51
畿内説の方々へ

あなた方が見出している物は残念ながら邪馬台国ではありません。
それは大和王朝であり当然のことながらそこに卑弥呼はいません。

収束しているのは邪馬台国がどこにあったかではなく
どこに国家の中心があり日本が出来上がって行ったかです。
かって邪馬台国だけが文化程度が高く倭国の基盤になったと思われていた頃は
どうしても大和=邪馬台国でなければいけなかったのでしょうが
そんなことはなかったということを一番ご存知なのは畿内説の方々のはずです。

大和がかって、倭国の中心地でありそこに暮していた現在の天皇家の
先祖が日本という国を造り上げて行ったのは間違いないことです。

しかし邪馬台国はそこにはありません。
721太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 10:13:53
>>717
畿内になんかには女王国はないよ。記紀にも無い畿内にあったとあんたが決め
こむ女王国は、畿内から遠隔の九州にあったということが正解。卑弥呼が朝廷の
女だというなら、女王国とかより大王国(=天皇国)と伝は書くに違いないし、
記紀にも崇神紀のあたりで卑弥呼紀が挿入される。
722日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:14:25
>>717
おいおい、私は邪馬台国九州説支持だよ。
神武天皇の天孫光臨地は高千穂。宮崎の日向。
723日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:18:36
>>718
というか、あれって、百襲媛命すら
報道してなかったしな...
あの番組の報道の仕方だと、九州説のほうが心に響くものがある。
神武東征の話を結びつけたりしていたし。

結局、畿内説というのは、考古学者が主体だったから
どうしても、文献で説明できない。それが邪道になるから。
しかし、考古学者は実は、文献を頼りに発掘をやっている。

でも、あの番組が始まる直前は、2倍くらい九州説のほうが多かったんだけど
あの番組が終了した時のアンケートだと、1:1.5に縮小していた。

また、最近、邪馬台国九州説のシンポジウムがあったんだけど、
九州の学者さんでも、今や殆どが畿内説。

だから、国も支援してるんだろう?
724日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:19:55
>>722
あの〜おまえ、高千穂と高天原のことを
一緒にこたに考えてないのか?
725日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:21:08
>>723
神武天皇の畿内遠征は事実です。
726日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:24:17
つーか、皇室が
邪馬台国=大和説を支持してきているんだろう?
そういう話を聞いたよ。
宮内庁のあたりでも
箸墓=百襲媛命の墓=卑弥呼の墓ということでケリガついていて
いよいよ、今年から5年かけて
国と桜井市が、纏向遺跡の中枢部を大発掘調査するんだろう?

また、福岡県が邪馬台国=九州説を広めるためのシンポジウムを開いたんだけど
その場でいきなり九州の学者さんが「私は邪馬台国畿内説なんだけど・・・」と
前置きされてしまったわけでw
727日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:25:34
魏志倭人伝を読むと九州だよ。
どうして畿内説はそれを無視するのか分らない。
海の中になってしまうのは、日数や距離にちょっとした手違いがあっただけ。
屁理屈を捏ねないで素直に読めば良いの。
視聴者はそれが分ってるから九州説が多いのだよ。
728日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:27:35
>>725
あの、神武の畿内遠征自体は否定していない。
で、おまえさ、神武の一家が日向に居たのはどれくらいって知らないだろう?
日向三代というぐらいだから、神武の曽祖父のニニギから。
ニニギは、高天原(大和の葛城の高天)→高千穂(九州南部の日向)へ
大和宗家から派遣され、神武の代に畿内へ呼び戻された。
卑弥呼は、その神武の数代のちの話だ。
よって、邪馬台国=大和国
729日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:29:16
なんか畿内説の言い分を聞いてると
学者が言ってるだの皇族が支持してるだの
自分で考える事を放棄する事から始ってるような印象を受ける。
730古代:2008/02/04(月) 10:33:44
715
尾張氏と出雲を関連付けたのは自分ではない。
尾張氏の祖ホアカリが出雲の大国主から大和の地を支配するように言われたので、
ホアカリが大和の地を支配するようになった、と説を唱えたのでその割には出雲に尾張氏の痕跡がないと言っただけ

天穂日の子孫・出雲国造家(千家)が出雲を祀るのは崇神天皇の御世から。
崇神天皇はそれまで出雲を祀っていた出雲振根の一族を殺し、大国主を祀らないのは恐れ多いとして出雲国造家に祀らせた。
要はこの時に出雲から祭祀権を奪って朝廷の都合のいい一族に祀らせた。
731日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:34:04
>>727
やれやれ...
おまえは勘違いしているかもしれないが
邪馬台国=畿内説の場合、
倭人伝には、九州にあった可能性が高い伊都国に
邪馬台国が一大率を設置していて諸国を監視していたんだから、
当然、畿内が九州を監視状態にしていた。
だから、邪馬台国が大和にあっても、
当然、倭人伝には九州の情景だって登場するわけだ。
732日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:34:14
たしかに...
畿内説って、誰が言ったか判らない他人の説をよりどころにしているだけだよな
自分の説や証拠を全く出せない。

九州説はコテの論証や証明はもちろんだが、それ以外の名無しも
抜けている場合が多いにせよ、ちょいちょい傍証を挙げてくるな。
733日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:35:23
>>729
私の考えは邪馬台国が九州にあって、畿内へ移り大和朝廷になった。
魏志倭人伝を読めば九州だよね。
734日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:38:05
>>731
方角はどう解釈するの?
735日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:40:45
>>729
たしかにな。畿内説の人間はすぐにそういうことをいう。
しかし、九州説の自分にとっては悲しいことだが
今やマスコミ・学者・国家の殆どが
邪馬台国=畿内説で固まってきているのも事実。

むかし、九州説の本場といわれた東大ですら、
もう、邪馬台国は畿内で決まりとばかりになっているらしい。
また、九州大学も完全に畿内説だそうだ。
九州説を唱える学者など、殆どいないけど
決め付けは良くないから、仕方なしにテレビなどに出して
畿内VS九州で放送してやるらしい。

今まで九州説を支持していた学者で、畿内説に転向して
もう面白くないからといって、別の分野(関東の考古学)の
研究に変更した人もいる。
736日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:47:07
考古学をとっている友達に聞いたが
その大学の教授いわく
邪馬台国はほぼ100%近く畿内説で決定で
もう、九州説VS畿内説というふうに論争する次元を超えているらしい。
ただ、世間的には、九州説で商売をしてきた人もいるし
また、こういうものは決め付けは良くない建前があったり、
また、論争をあおることによって、ブームをつくって、発掘資金をつくらないといけないので
あやふやにしているらしい。
737九州:2008/02/04(月) 10:47:45
当時、最先端の武器は、やはり九州北部に存在したのではないだろうか?
それと、西暦57年き金印をもらったのであれば、何らかの形で感じは日本でも使われていたはずで、その資料が残っていないのは、旧記や帝辞とともに、天智天皇あたりが焚書坑儒をしたのではないだろうか?
だいたい、考古学的には畿内、というけれど、九州の古墳は、宮崎の西都原古墳をはじめ、発掘させない、というのが文科省や宮内庁の方針らしいから。
戦前、一時期、西都原古墳の発掘をしていた東大の古賀っていう教授は「ここはとても2000年前のものではない」と発言したことから日本にいられなくなりロンドンで死去したという。
このへんをあばけば本当のことがわかるよ。
たとえ畿内であっても
738日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:51:06
西都原古墳は年代から見たら
3世紀後半じゃなかったか?
でも、纏向遺跡のもっとも古いのが2世紀後半だから
纏向遺跡よりも遅れてはいるが
日向が大和から重視されていたのは事実でしょう。
ただ、神武は卑弥呼よりも前の人だし、
また、神武の曽祖父のニニギは、大和から日向に知事として派遣されたんだろう?
739日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:51:43
でさ、その学者先生の方々の畿内説ってどんなのなの?
100%決まりってことは邪馬台国を示す何かが出たってこと??
で”こういうものは決め付けは良くない建前”ってなに??
100%なんでしょ??
740日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:53:01
>>736
私は九州説支持だけど、質問したい。
何時頃から、学会は畿内へ傾いたのですか。
つまり、○年前位から傾きつつあった。そして○年前が確実となって、流れが加速してしまった。
決め手は何ですか。
741日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:55:44
>>737
畿内説の学者の多くが
九州の素晴らしさを完全否定しているわけではない。
そもそも、18世紀まで常に、九州は海外交易の重要な玄関口だったし、
たとえば、首都・政治中心地の京都よりも、貿易港の博多湾のほうが栄えていた
という記述があるぐらいだから。
しかしなら、政治的には、九州は、畿内の監視下にあった。
邪馬台国時代も同じような感じじゃないの?
742古代:2008/02/04(月) 10:58:14
713
それはむしろ自分が質問したのだけど・・・
海部氏の系図と尾張氏の系図は比較的矛盾しない。
さて先代旧事本紀によるとニギハヤヒの子供、天香語山命が尾張氏になり、
宇摩志麻治命が物部氏につながった、とあります。
先代旧事本紀は歴史書としては偽書だが、物部氏に詳しいのでここは取り上げてもいいところかな。

<物部氏の祖のニギハヤヒは河内に降臨したことになっているが
<海部氏の祖のホアカリは丹波に降臨したことになっているしね。
これについてニギハヤヒとホアカリが別人なら矛盾はしないが・・
龍神社の伝承ではホアカリの天孫の証として、息津鏡・辺津鏡を賜って丹後に降臨したとある。
一方ニギハヤヒは、十種の神宝とともに天岩船に乗って河内に降臨したとある。

そもそもニギハヤヒが河内を治めていたというのは日本書紀の記述で、
古事記では神武が畿内を制圧した後に登場する。
もともと畿内にいたのかもしれないが、どちらかというと神武に随伴してきた印象を受ける。
また、書記に中臣、物部が海人の神として登場するので物部は九州、あるいは瀬戸内が基盤であったかもしれない。

先にも書いたが天武天皇が壬申の乱の折、その教育係であった海部氏(尾張氏)を頼ってここを拠点とした。
その経緯から海部氏の地位があがり、尾張氏と結びつき、さらには尾張氏のホアカリの地位が上げられた、というのが真相っぽい

ちなみに東海の土器から考えるとこの地域に古くから権力者がいたことは想像に難くないので、これが尾張氏ならもともと東海を基盤としていたと思う。
前にも書いたがマキムクで比較的多数東海地方の土器が見つかるので、大和とは縁が深かったのは推測できる。
ただこの東海の土器の人たちが、少数の支配的な層とみるか、奴隷として差し出した人たちなのかはわからないので、力関係は不明。
743太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 10:58:28
以下のことで女王国を畿内だと強信してしまう。

@ 邪馬壹国→邪馬臺国→ヤマタイ国→ヤマト国→大和国→畿内説
A 陸行一月
B 畿内に多数出土の鏡を卑弥呼がもらった鏡と考える。

 @は女王国と大王国(=天皇国)が畿内に並存してることとなるが、もしそう
 なら記紀の原書に地図上で目と鼻の先にある女王国の記載があり、それが記紀
 に書かれる筈。女王国を書くと都合悪いから無視したというなら、それより
 も女王国の不利、悪口を記紀に書けば足りるからその可能性は薄く、国の隠匿
 は東京裁判の大地図のハワイの無視からも可能性としては稀にはあろうが、
 いまのところは人民から女王国の情報は漏れるに決まってるし、考えにくい。
 だからタマタイと云うより邪馬壹国と観るのが正解であり、当時は国名にヤマ
 をつけることが多分にあっただろうことは邪馬国の記述からも察知しうる。
 女王が神武以前の天照だというなら、スシ詰め在位の無理でダメである。また
 朝廷の女なら伝の記述は女王国より大王国(天皇国)の記載となる筈でダメ。

 A大陸から直接女王国があるんだとの認識目的の信念を持って九州へ行ったの
 ではなく、遣使を兼ねての旅行遊覧的ものであり、北九州あたりの国をのんび
 りと周遊して楽しみ、それから最も分ってない内陸の準密林を疲労困憊しなが
 ら迷いに迷って、とうとう女王国を発見したのであり、一月位の経過は言える。

 B倍暦計算により 237年=崇神即位元年=景初元年 であり、崇神2年=
 景初2年(紀の崇神六年) 崇神天皇の同床共殿による鏡剣の祭祀からの一般
 人民への右へならへ式による鏡を祀る慣行からの鏡群がこれらの鏡で
 あるから、大陸産なら九州、畿内双方へもたらされた物であり、畿内のは女王
 への鏡ではないし、国産ならなおさらである。
744日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:58:57
>738
>でも、纏向遺跡のもっとも古いのが2世紀後半だから

げ、また年代繰り上げたのか?何度目だ?
745日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:01:56
>>740
1987年だったか、吉野ヶ里が発見された時は
ずいぶんと九州説が盛り上がったらしい。
が、それでも、考古学者の間では、九州説は圧倒しなかった。
ただ、その頃は、まだまだ曖昧な感じで
ここが邪馬台国だ!と言い切れるものはなかったそうだが、

しかしながら、1990年中頃には、ほぼ考古学者の9割近くが
畿内説というほうに傾きつつあったとか...
(ここが面白いのだが、吉野ヶ里ブームのせいか、世間では九州説の人気があった)
で、ここ5年の纏向遺跡の発掘調査で、
考古学者は100%近いだろう?という話だ。

ただ、考古学者というのは学問の性質上、所詮、歴史学には深入りはしなくて
表立った学会では踏み込んだ発言は出来ない。
また、考古学者が纏向遺跡に焦点をあてたのは文献上からだが
それは考古学者としては邪道なので、表立って言えないとか。
746日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:09:26
はっきりいて、考古学者の偉い先生の多くは
邪馬台国は畿内の可能性が高いとしながらも
断定は出来ないといっている。
ただ、ここ十年以内に、邪馬台国=大和国は定説になる可能性が高いともいっている。
だからこそ、桜井市や文化庁が重い腰をあげて金を出すことが決まった。
その動きに焦っているのが福岡県で、わざわざ九州説を広めるシンポジウムを開いたり、
九州説を広めるための映画まで作成しようとしている。(吉永小百合主演でw)
747日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:13:51
最新の畿内説の邪馬台国=大和国の根拠はなんなの?
学者先生が言ってるとか文化庁がお金を出すとかもういいから。
なんで邪馬台国=大和国なのかを説明してください。
748古代:2008/02/04(月) 11:16:22
倭人伝を読むと九州が有利な気もするが、物証に乏しい。
倭人伝が詳しいのは伊都国で投馬国や邪馬台国は伝聞で遠い印象を受ける。
畿内か九州か。
畿内はやはりマキムクの存在と大和王権の存在が大きい。
書き換え可能な文献より物証があるほうが有利なので、学者は畿内説が多い。
一方九州説はアマチュアの歴史化に根強い人気があり、多説を唱える。
といったところかな。
749倭国:2008/02/04(月) 11:19:05
中国の人の話では、陸行1月といっても、それは13日あるいても、17日歩いても1月、というのであり、なかには物忌み、方タガエ、で2,3日は休むこともあるので、陸行1月は1日の距離x30と単純に計算すべきではない、という。
750日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:22:21
>>747
纏向遺跡の発掘の進展があったからじゃないのかな?
でも、纏向遺跡は全体の2%ぐらいしか発掘されていない。
逆にそれだけでも、かなりの発見がある。

当初、吉野ヶ里遺跡を支持していた九州説論者に、
纏向遺跡のことをチンケな遺跡と批判されていたんだけど
発掘の進展で、纏向遺跡は吉野ヶ里の5倍ぐらいの規模で
後の藤原京などに匹敵することが分かってきた。

で、もともと纏向遺跡は日本書紀の百襲媛命という卑弥呼に似た
モデルがあったから、勢いづいた面もある。
751太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 11:22:32
>>747
国名の音韻が似通っているからなんだろう? それで連中強信を持つようになり、
其の間違いから抜け出なくなる。それは終生変わらぬくらいの堅いものだ。
いわゆるカルトのようなものであり、失敗と知る回復はなかなか出来なくなる。

畿内説はそういうものだ。だがこの考えは間違いであり、いまも東京都は京都
と畿内、東京と離間して似た名の部分がある。さらにオーストリアもオーストラ
リアではなく、双方似た国名なるも別だということである。かようにして、当時
邪馬壹国と邪馬臺国とは別国と観るのが正解なのである。
752日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:23:18
>>742古代と>>743太国

変な事を聞きたいのだけど、遊び心の気持ちで臨んで欲しいのだが、
古代と太国が書物編纂を朝廷に命令されたとしたら、どんな風に記述するのか?
あくまでも遊び心、余興のつもりで答えて欲しい。

1 徳川家康降臨は三河と江戸のどちらか。
2 源頼朝降臨は京都と伊豆と鎌倉のどちらか。
3 足利尊氏降臨は下野の国と鎌倉と室町のどちらか。
4 豊臣秀吉降臨は尾張と大阪のどちらか。
5 源義経降臨は鞍馬山と京都と奥州平泉のどちらか。
降臨の意味合いにもよるけど、幕府創始者は幕府所在地なのかな。
太閤さんは大阪で義経は鞍馬山かな。

誰でも良いので、天孫降臨ならぬ、降臨をどことして記述する?
日本書紀の天孫降臨をみて、他の偉人だったらどうなるのかなと。
2千年後の日本人に教える為、編纂を頼まれたらどうする?
貴方が編纂した書物しか残らない。只一冊の書記と仮定した場合の降臨の位置。
余興のつもりだから、怒らないで。誰でも良いから。
753日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:29:05
でも、なんか不思議な気持ちがするね。
現場では、もう殆ど畿内説で決まりなんだけど
世間的には、まだまだ九州説を煽らないといけないなんて...
でも、発掘調査というのは、金にならない行事だから
どうしても、論争を煽って、ブームを作らないといけないというのは
なんとなく悲しいな...
754日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:32:46
>750
纏向遺跡遺跡が巨大なのは解るのですが
それと邪馬台国との関係はとなるとどうなのでしょうか?
なにか関係を示す発見があったのですか?
百襲媛命の件は似てるかどうか微妙です。

邪馬台国=大和国なのは百襲媛命=卑弥呼だからなのですか?
755太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 11:34:38
>>752
おかしなことを聞くなよ。拙者は舎人親王ではないから、そんな空想を
して何になる? 神代は年月日の記載が殆どないから、神話、伝説の域
を出ないので、具体的天孫後輪なるものが史実なのか、UFO着陸まで考え
なきゃぁならんから、いまのところ日本史板では論議はとても無理
だろうが?ww それは人間として生まれたアダム、イブが具体的にどう
創造されたかとかの類で、とても其の論議は正常にはでないだろう?
それとも何か天降に合理的なうまい説明があるのか??ww

だから、おおむねアマテラスから少々論には入れても、なるべく神武以降
が安全だからそうしなよ。ww
756倭国:2008/02/04(月) 11:36:04
畿内説の人に聞くけど、邪馬台国に属していた30か国はどこなの?

それと、邪馬台国は南の狗奴国に攻められ、卑弥呼も殺された、と想像できるんだけど、
当然類推できることは狗奴国は邪馬台国以上に先進的な武器を持っていた、ということになるね。
よくいわれるように、狗奴国が和歌山や尾張や出雲であれば、どうやって武器を大陸から持ってきたの?
そこまでの航海技術があれば、もうとっくに倭国は大陸の餌食だったんじゃない?
757日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:40:00
>>756
卑弥呼は殺されてない。魏志倭人伝にはその様な記述は無い。
病死だよ。
758日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:41:42
狗奴國は東という文献もあるんだよな。
だから、倭人伝などの方角は本当に混乱している。
伊都國、奴國までの方角からして、90度ぐらいずれているし。

で、誰かが言っていたけど、狗奴國は中古音で「この國」で
許乃國(この國)=京都の宇治 だとかいっていたけど
倭人伝と日本書紀の出来事の一致からは、それがしっくりくるな。
759古代:2008/02/04(月) 11:41:50
752
既存の勢力地が降臨地だと旧勢力の抵抗にあう。政治の本拠地も伝説として弱い。
ということで
1は三河
2は伊豆
3は下野の国
4はどちらでもない(尾張では百姓の子とばらされそう。)
5は鞍馬山

760日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:44:30
>>756
卑弥呼は殺されてないよ。それは、君の憶測。
だいたい、卑弥呼の死後、大きな墓を作る余裕があったんだぜ。
狗奴國に攻められて滅亡したのなら、そんな余裕なんてないじゃん。
しかも、倭人伝には、その後、男の王がたったが纏まらず
卑弥呼の宗女の台与を擁立したことが書かれている。
この感じから考察すると、狗奴國は普通に鎮圧されたんじゃないのか?
761日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:46:28
>>758
この書き込みだね。

370 :日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:48:48
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。


次の日本書紀の記載と倭人伝の狗奴国の卑弥弓呼の乱のあたりの記載を良く比べてみてください。おそらく、同じことを書いてあるんだと思います。

日本書紀
武埴安彦の反乱
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki033.html
箸墓
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki034.html

倭人伝
狗奴国との戦いや卑弥呼の墓の近辺の記述。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi10.html
762日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:50:23
>>759
分った。
幕府創始者は、それぞれ伊豆や下野の国や三河に降臨して、大阪や鎌倉や室町や江戸へ遠征した形になるのだろうか。
日本書紀風にかんがえれば、遠征したと取るのか、遠征が成功したと取るのか知らないが。
とにかく、サンキュー。
763日本@名無史さん:2008/02/04(月) 11:57:26
卑彌呼以死・・・
ここは”卑弥呼の死を以って・・・”
その前に狗奴國との話が出てるから戦死とかって話が出るけど
これは拜假難升米為檄告喻之で終結してるね。
そこから卑弥呼の死までの時間的流れは書いてない。
すぐなのかある程度の時間がたってからなのかは判断できない。
764日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:03:10
日本書紀では、

崇神10年に
許乃國の武埴安彦命の乱が起こって
その年中に鎮圧され
その直後に百襲媛命が死去し、大きな墓が作られる。

そして、その翌年、崇神天皇による四道将軍遠征がある。
また、崇神天皇は皇女の豊鍬入媛を初代斎宮にしている。

この辺が倭人伝と同じなんでしょう?
765日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:04:54
倭人伝では、卑弥呼の死後
男の王がたったが、争いが起こったと記載されている。

日本書紀では、百襲媛命の死後の翌年に
崇神天皇による四道将軍遠征の戦争がある。
766古代:2008/02/04(月) 12:07:25
764
<そして、その翌年、崇神天皇による四道将軍遠征がある。
<また、崇神天皇は皇女の豊鍬入媛を初代斎宮にしている。

ここは倭人伝だと、どこが同じ部分に当たるのかな?
767古代:2008/02/04(月) 12:08:12
765に答えが(^_^.)
768日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:19:02
崇神天皇による四道将軍の派遣の計画は、武埴安彦命の乱の前にされていたが

その計画を知った武埴安彦命が、大和が空になるのをみこして挙兵した。

で、そのことに気がついた百襲媛命が、崇神天皇に進言。
四道将軍は急遽、武埴安彦命を討伐する。

その直後、百襲媛命が急死、彼女の大きな墓が作られる。

そういうわけで、当初の計画よりも遅れて、四道将軍は派遣され
その翌年に、四道将軍の遠征は成功する。
そして、国は安定し、崇神天皇が初めての天皇らしい天皇といわれたという
記載が登場する。
769日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:24:05
豊鍬入姫がいつ斎宮になったかはちょっと分からないが
普通に考えて、百襲媛命の死後の
皇室の最高の巫女は、豊鍬入姫命だということは容易に分かる。
その次の倭姫命まで、最高の巫女だったみたいだし。
770日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:29:42
>>761の改正版↓

倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。
→その直後、男の王がたったが、争いが起こった。

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。
→その直後、崇神天皇は四道将軍を派遣し、大きな戦争をする。


次の日本書紀の記載と倭人伝の狗奴国の卑弥弓呼の乱のあたりの記載を良く比べてみてください。おそらく、同じことを書いてあるんだと思います。

日本書紀
武埴安彦の反乱
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki033.html
箸墓
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki034.html

倭人伝
狗奴国との戦いや卑弥呼の墓の近辺の記述。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi10.html
771日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:40:20
四道将軍の出自は明らかになってたっけ?
もしその中に尾張がいれば
スッキリ感があるんだが
ああ、家臣だったんだなと。
772古代:2008/02/04(月) 12:41:27
倭人伝で13歳の台与が立ったら乱が治まった、という記述に対し
豊鍬入姫はたいした活躍はしてないのが気にはなるけどまあ大筋ではあってるかな。
モモソヒメの為に箸墓が作られた意味がわからないけどね。
先にも後にも巫女に古墳をつくるといのは例がない。
773日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:49:16
>770を何度読み返しても大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命にならん。
大和国・天皇VS許乃国・武埴安彦命だよなこれ?

ん?卑弥呼は単なる巫女で邪馬台国を納めてたのは別人ってことか?
774日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:52:28
>>772
百襲媛命の死の翌年、四道将軍の遠征も成功させて
崇神天皇は初めての天皇らしい天皇になったと記載されているんだよね。
つーことは、百襲媛命が生存中は
彼女のほうが大倭王にふさわしかったと言えなくも無い。

>>771
四道将軍の出自は明らかだよ。
百襲媛命の弟や甥。(つまり、崇神天皇の大叔父や伯父)
775日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:55:39
>>773
卑弥呼は鬼道を行い、普段は誰にも顔を見せなかった。
で、彼女の男弟が政治を行っていた。
そのように倭人伝には記載されている。

これから推測できるのは、百襲媛命は実際には政治を行っていない。
祭祀を行い、誰とも顔を合わさないんだから、これは政治を直接的には行っていない。
776古代:2008/02/04(月) 12:59:50
大彦命=皇后の第一皇子(武埴安彦命の異母兄)
武渟川別命=大彦の子供
吉備津彦=皇系妃の子モモソ姫の兄弟
丹波道主王命=開化天皇の孫。父はワニ氏処世の皇族。ワニ氏が武埴安彦命を撃っている
母が天之御影神の女(額田部氏?)

ここで面白いのは
大彦命武は埴安彦命を撃っている。
武渟川別命は東海(尾張氏の拠点)
丹波道主王命は丹波(ホアカリが降臨したという地)
吉備津彦は大彦命武埴安彦命の妻を撃っている
みな尾張氏と関連付けようと思えばできる(無理があるかな?)

777日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:01:45
纏向遺跡には、吉備からの出土も多いけど
百襲媛命の同母弟に、吉備津彦がいたり、
彼女の伯父にも、吉備の支配者になったであろう名前の人物が登場する。
778日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:08:16
今の畿内説って、終戦直前の大本営みたいなんだよね。

弥生時代の畿内が後進地域であったことは戦前からはっきりしていたのに、
畿内説は100年近くその出土状況を認めずに拒絶し続けた。
その出土状況を公言することもできない言論弾圧が続いて、大本営が
畿内説万歳!を連呼し続けてきた。かくて、畿内の鉄は溶けて消えることになった。
当時は、学界の会合のたびごとに「天皇制史観の打破」を掲げた時代であり、
九州の邪馬台国が畿内に移ったという「皇国史観」は認めてはならないとされた。

しかし、掘っても掘っても九州優位は固まるばかり、弥生時代を300年頃までと
していた時代に、『後進地域』のヤマトに邪馬台国があったとする精神主義も
苦しくなってきた。

そこで、弥生時代を200年までとする年代遡上が急務とされた。
まず、年輪年代に飛びついて伐採年を使用年とする理屈で年代遡上を謀った。
しかし、今に至るも年輪年代の基礎資料は非公開で検証も不可能である。
一方、土器編年を細分化して、年輪年代に合わせて遡上させることが行われた。
これが今に至る年代遡上説の誕生である。

これにより、畿内説は「弥生時代の畿内は後進地域であった。」ことを認める
ようになった。100年来の懸案の一つがなくなった。

年代遡上が無理なことは、ほとんどの学者が気付いていると思うが、誰もそれを
批判できない・・・こうやって大本営は破滅に向かっていったんだなぁとしみじみ思う。
779日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:11:13
>>775
倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王
名曰卑彌呼事鬼道能惑衆
年已長大無夫婿有男弟佐治國
自為王以來少有見者

弟が国を治めるのを助けたとはあるが
国を治めていたとはなってないよな?
誰にも顔を合わせなくとも傳辭出入つまり
卑弥呼の声を伝える者はいたわけで
間接的ではあっても政治を行ってたんだろ?

そして卑弥呼→弟ではあっても弟→卑弥呼じゃないように
天皇→百襲媛命であって百襲媛命→天皇じゃないよな?

さらに言えば百襲媛命は年已長大でもなければ無夫婿でもない。
蛇は昔から神の化身と言われてるから無夫婿はなんとかクリアできても
年已長大はどうなの?
780日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:12:00
>>778
あの〜最近、外国で出版された大和朝廷の書籍でも
卑弥呼=百襲媛命だろう?となっていましたよ...

まあ、別にあなたを相手していませんが...

大本営で敗戦一直線なのは、九州説のほうです。
781日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:15:57
でたwww
外国で出版された大和朝廷の書籍www
学者が言ってる。天皇家が支持してるの次は
外国で出版された大和朝廷の書籍ですかwwwww

自分の言葉で反論してね。
782古代:2008/02/04(月) 13:16:46
2世紀の土器を見ると吉備系土器と九州土器が多い。
出雲系と畿内系は少なめ。この時は九州と吉備に大きな国があった。
畿内は人口の少ない小国だった。
3世紀になると畿内系土器の数が増え、大きな国になった事を思わせる。
一方銅鐸・銅剣・銅矛からみると九州、畿内、吉備、出雲に文化圏を分けれる
783日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:17:37
>>779
ついでに良いことを教えてやるが
そんなこといったら、天皇号が誕生したのは、天武天皇以降の時代だよ。

たとえば、崇神天皇さんは、
彼の生存中は、
ミマキイリヒコと言われていて、おそらく、本名はイニエでしょう?
ミマキイリヒコという名称だけだと、天皇というよりは
ただの三巻(みまき)にいる勢力者というぐらいにしか
想像がつかないし、天武天皇以降が
崇神天皇という大層な漢風の皇帝名称をつけたから
イメージが大きく変わるが...
784日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:22:18
というか、纏向遺跡が邪馬台国の首都だとするとだ、
必ずしも鉄器の多さなのでは、国の首都を探れなくなるわけだ。
鉄器が多い=強いからここが首都だ!
という固定観念を打破しなければいけなくなる。

たとえば半島南部だって、カヤ地域が鉄の産地だったけど、
鉄の産地ではない新羅や百済のほうが強かっただろうが...

中国だって、後進地とされた秦によって
全国統一が成し遂げられた。


785日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:23:53
>783
なるほど。
ということは百襲媛命→天皇(当時:ミマキイリヒコ/ただの三巻の勢力者)
という図式が成り立つわけだな。

年已長大はどうなの?
786古代:2008/02/04(月) 13:24:22
779
百襲媛命はかなり年長だよ。百襲媛命は7代孝霊天皇の娘だから
孝元天皇、開化天皇を経て崇神天皇の世で没した事になる。
百襲媛命=卑弥呼はイマイチ疑問だけどね。
787日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:24:28
>>782
前近代の農耕社会下で2〜3世紀のわずか
一世紀の間の100年で、
人口比がそう劇的に変わるとは思えないのだが...
788日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:25:16
というか、土器の出土や鉄器の出土だけで
全てが分かるのか?
789日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:27:53
>>779
まあ、そういうことを言い出したら
それは、あんたの解釈次第になるわな。

>弟が国を治めるのを助けたとはあるが
>国を治めていたとはなってないよな?

こんなのは、もう、人それぞれの解釈次第になる。
あの記述は人によって、これは弟が実質的に国を治めていたことになるな
とも解釈する人が多いわけだし。
790日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:28:36
畿内説は奈良盆地に存在していた盆地湖も認めないよね。
地質学では常識レベルなのに何故認めないのだろう?
791日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:30:32
>>790 :日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:28:36
>畿内説は奈良盆地に存在していた盆地湖も認めないよね。
>地質学では常識レベルなのに何故認めないのだろう?

あの〜畿内説はむしろ、その盆地湖を認めている人が多いんですけど...
むしろ、それを大和が水に恵まれていた、防衛上も強固だった
といって、畿内説に結びつける人が多い...
なんというかね...
792古代:2008/02/04(月) 13:32:31
土器が多いと言うことは使っていた人、つまり人口が多いということ。
銅矛・銅剣と銅鐸とは文化の違いが合ったと説明される。
それ以上のことをわかったとは言っていない。
793日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:38:27
考古学者の偉い先生は、邪馬台国の首都は纏向遺跡の可能性が強いと言っているけど
殆どの先生は断定はしていないよ。
それは考古学者としては正しいやり方。
その最大の理由は、まだ纏向遺跡は、2%ぐらいしか
発掘調査していないから、時期尚早ということらしい。
ただ、桜井市と文化庁が力を入れてやるらしいから
凄く期待しているみたいですよね。
794日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:42:16
>>791
そうかな、畿内説の本の地図で盆地湖があるものは見たことがない。
むしろ盆地湖がなくて不自然に思うことが多い。
795日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:43:40
8世紀に大和から山城へ首都を移したのって
大和の湖が枯れたのも大きな要因じゃないのかな?
で、琵琶湖の湖に近い山城のほうが、新たに首都に選ばれた。
796日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:48:45
>>794
というか、纏向遺跡を発掘している人たちって
当然、地質学の考えも参考にして
古代、ここに湖があったとか、ここに川が流れていたとか
そういうのを参考にしてやっているよ。
じゃないと、川や湖だったところを発掘しても、無駄になるしね。
ちなみに、箸墓とかがあるあたりって、大きな河があったとか。
797日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:50:41
>>783
そういう意味なら、渡来人表記もそうだよ。在日が戦後言い出した単語なんだから。
それまでは帰化人だよ。何故か左翼は戦後に出来た単語の渡来人に拘る。
聖徳太子はいなかったのなら、渡来人もいなくなる。
宇都宮幕府というものはあったけど、幕府は鎌倉時代になかったから、鎌倉幕府表記は間違いになる。
文化も近代欧米の概念を輸入して翻訳した言葉。概念という概念もそうだよ。
だから江戸時代の元禄文化や上方文化も無い事になる。
中世も当時その単語がなかった。
こんな風になってしまう。

798日本@名無史さん:2008/02/04(月) 13:58:39
>786サンクス。
そうか高齢なんだな。
婿とか蛇とかほととか性的な臭いがするので
若いとばっかり思ってたよ。

おかげで大分見えてきた。

まず記紀に百襲媛命という巫女がいてかなりの権力者であるのは
天皇(当時:ミマキイリヒコ/ただの三巻の勢力者)に
直で進言きる事からも明らか。
さらに蛇と結婚つまりは神と結婚していたとあるから
これは霊的な能力が優れていたことの比喩。
卑弥呼の立ち位置はあくまでも巫女的なもので政治は行っておらず
これは百襲媛命に通じその他も一致する。
よって卑弥呼=百襲媛命
卑弥呼がここにいるのだから大和=邪馬台国なんだな。

対外的に帯方郡使をもって
女王国と言わしめるほどの権力者だったんだな百襲媛命って。
799日本@名無史さん:2008/02/04(月) 14:11:16
壁画の発見はあるのかな。
明日香古墳やキトラ古墳みたいのが発見されたりしてね。
卑弥呼の時代は刺青をしていたんでしょ。

畿内が邪馬台国との前提は本当に間違いないの?
神武天皇の遠征後に卑弥呼が登場したんだよね。
800日本@名無史さん:2008/02/04(月) 14:16:28
>>799
その線は近年、強くはなっているが
まだまだ断定は出来ません。
しかしながら、2008年の今年から10年ぐらい掛けて
纏向遺跡の発掘調査に、桜井市と文化庁が力を入れるし、
今年はいよいよ、纏向遺跡の中枢部への発掘が開始される。

だから、楽しみだね。
801798:2008/02/04(月) 14:37:40
後ひとつでけ教えてくれ。
倭人伝に”倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王”の一文があるのだが
百襲媛命も当然共立されたんだよな?
で記紀ならそのあたりのことが具体的な国名と共に出てると思うのだが
どうなってる?
802日本@名無史さん:2008/02/04(月) 14:48:01
>>800
刺青の有無が一番気になってる。
魏志倭人伝には刺青していると記述されてる。

個人的には内部を調べたら古墳を閉じて欲しい。
他国の事だからどうでも良いけど、エジプトの博物館公開は私がエジプト人だったら嫌だ。
奥州平泉のミイラは閉じられてるけど、博物館で常時公開は嫌だもん。
世界遺産の話があるけど、ミイラの件はどうなるんだろうと心配。
古墳内の物は写真を撮るなり、レプリカを作るなりしてさっさと閉じて欲しいのが本音。
壁画が見付かっても、絵画によくある複写?模写?コピー?して皇室が続く限り閉じて欲しい。

刺青は庶民だけでなく、貴族もしていたのだろうか。
刺青が気になる。
それにしてもキトラの壁画の剥げ落ちは残念でならない。
>>800
所で関係者ですか。
関係者だったら、調査が済み次第皇室が存続する限り閉じて欲しい声もあると伝えてね。

803古代:2008/02/04(月) 14:59:41
前にも書いたんだけど
古代の統治は男女共同支配があって、この制度をヒコ・ヒメ制という。
男性は家長(いえぎみ)女性は家刀自(いえとじ)といって同じ権限を持っていた。
当時は通い婚だったので男性の居住は一つでなく定まっていなかった。
なので家族は母系中心家族だった。それ故、一族の相続や祭祀には女性の方が権限が強かった。
といっても上古代においては明確な区別はなかったようなので、まさしく共同支配であったのかもしれない。
つまり共立とはそういった意味で、影に男性支配者もいたことを暗示しているとも取れる。
モモソヒメは崇神天皇の后ではないが、モモソヒメが一族の家刀自として君臨していたならありえなくはない。
もちろん共立を連合として別に捉えることも出来るし否定しないが・・・
804日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:04:45
>>801
さあな。
もし、卑弥呼=百襲媛命なら、
卑弥呼が共立される前の
倭国には、80年くらい男の王がいて、その後、歴年争いが起こったというあたり
ここは、皇室系図で言うところの欠史八代のあたりになるんだな。
海部氏が朝廷に差し出した系図も、欠史八代あたりがカットになっていたんだわな。
で、海部氏は予備に欠史八代のあたりの記述がある系図を
長い間、隠し持っていたというわけ。
805日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:06:51
>>803
古代の豪族は、
姓は父方から受け継がれるけど
名前には、生母や養育者の影響のあるものをつけるのが
流行していたような記述があるね。
806古代:2008/02/04(月) 15:09:12
805
そう。それに血統は男系相続だけど財産などは女性相続だった。
807日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:15:12
基本的なことお訊ねしますが、
卑弥呼って倭国の女王ですか? 邪馬台国(あるいはヤマト国)の女王ですか?
808日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:39:40
>807
邪馬台国の女王

倭人伝では倭国が出てくるのは3ヶ所
倭国に来た郡使が常に伊都国に留まると言う記事と
俗に言う倭国大乱の記事と
正治元年(240年)に梯雋らを派遣する記事

倭人の住む処=倭国であり女王国=倭国ではない。
狗奴國も倭国だしね。
個人的には狗邪韓國あたりの北岸が接する海上に線を引き
(地図があった?)日本側を倭国と言ったように東夷伝を読むと取れる。
809日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:48:17
湖があったか否かについては
貝塚の発掘で有ったが確定。
葛城と三輪が湖を争ったこともあるかも。
三輪に葛城は負けたけどさ…
810日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:48:37
>>807
それは色々な説があるが...
まあ、卑弥呼が住んでいたのは、邪馬台国(大和国?)というのは確か。
でも、倭国連合で共立したんだから
倭国の女王でもあるだろう?
親魏倭王というぐらいだし。
811日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:51:19
>>809
葛城と三輪が争ったかどうかは分からんが
大伴氏や鴨氏などは、葛城土着の豪族で
尾張氏や神武皇統は、これらと婚姻を結んでいたのは確実。
で、尾張なんてのは、葛城の地名だしね。
812日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:56:36
オシホミミ(ホアカリとニニギの父。神武の四代前)は
葛城出身(高木神を祭っていた)の豪族の女性を妻に迎えていたんでしょう?

よって、原葛城氏系(大伴氏、鴨氏など)は、
徳川幕府に例えるのなら、家康の母方の水野氏みたいなもんだろう?

ちなみに、原葛城氏系としたのは、葛城氏には
後に武内宿禰の子孫によって再興された皇別系葛城氏と区別するため。
813ローガン:2008/02/04(月) 16:01:43
>>754
邪馬台国に直接関連した遺跡という訳ではないですね。

3世紀の奈良県南東部で誕生したと考えられる首長霊祭祀方法が、あまり時をおかず、北部九州で見られる事。
又その祖型が、吉備にある事を考えるとそのころ、西日本の広い範囲で同じ祭祀を共有しはじめたと思われます。
北部九州、山陽、近畿に跨がる「広域倭国」を想像したいところです。
又、後漢末期漢鏡の出土の中心が、九州から近畿に移っている事などを考えると、倭人伝が書かれた当時の倭国の中心地(都)として、
蓋然性が高いのが纏向ではないか?という事です。
814日本@名無史さん:2008/02/04(月) 16:06:02
>>808 >>810
ありがとうございました。

ちなみに、卑弥呼は邪馬台国女王に「共立」されたんでしょうか。
それとも倭国連合の女王に「共立」されたんでしょうか。
資料から読めるかどうか分かりませんが、もし後者だとしたら、
卑弥呼はその時すでに邪馬台国女王だったんでしょうか。
815ローガン:2008/02/04(月) 16:35:55
古代さん。
日本書紀の雄略紀で田辺史伯孫が娘の嫁ぎ先へ孫を見に行くって記事がなかったですか?
今、手元にないので確認出来ないのですが。
もしそうなら、男系相続ではないでしょうか?
816日本@名無史さん:2008/02/04(月) 16:45:30
>>814
倭人伝の全体の流れからみたら
卑弥呼は倭国全体の女王という感じがするね。
で、彼女が住んでいたのが邪馬台国(大和国?)かと。

倭人伝をよく読んでみたら、卑弥呼が共立される前に
倭国には男の王の時代が80年くらい続いたとある。
で、やがて歴年争って、卑弥呼を共立させた。
あんまり詳しいことは分からん。史料が不足しているから。

ただ、卑弥呼が百襲媛命なら、
欠史八代のあたりで歴年争う(卑弥呼共立の原因)ことが
あったというのが、だいたい推測できる。
817古代:2008/02/04(月) 16:50:12
815
実はそこまで厳格な区別はなかったようです。
通い婚が基本でしたが、父となると一緒の家に住んだり、娘を嫁がせたりと言うこともあった様です。力関係?
818日本@名無史さん:2008/02/04(月) 17:13:52
>814
>814
倭国連合と書くと誤解を招きそう。
敢えてつけるなら邪馬台国連合。
これは倭国統一がまだなってないから。
これは狗奴國と邪馬台国が争っている事からも明らか。

で、質問の邪馬台国の女王に共立されたのか
連合の女王に共立されたのか?

難しいところだけど
邪馬台国の女王を共立して連合の代表にした
例えば、東京都知事を決めてそれを総理大臣にした感じだと思う。
倭国大乱時、卑弥呼は巫女だったかもしれないが女王ではなかったはず。
これは共立されたとき女子だったから。
819古代:2008/02/04(月) 17:14:26
天火明命の系列
天火明命の曾孫、天忍人命から出たのが尾張氏で、
天忍男命から出たのが住吉神を奉斎する津守氏
尾張氏から別れたのが、籠神社の社家・海部氏と掃部氏
天火明命は倭氏の遠祖、振魂命の子、天前玉命と同一人物とする系図があり、
そうなると、高倉下命と倭氏の宇豆毘古は従兄弟同士ということになる。大倭氏も同系
尾張氏の祭神に賀茂氏の神があることや他に繋がりがあるので親戚関係か傍系とも
振魂命が物部氏の布留御魂神と同一ならば、物部・和珥氏も大和系
生駒山の北部に饒速日山があるので物部氏はこのあたりか。

高木神は天皇家がもともと祀っていた神といわれる高皇産霊神であるが
その名の通り木の神と言われている。
木の神と言えば紀の国の五十猛神である。ここに前皇祖神・日像鏡がある。
820日本@名無史さん:2008/02/04(月) 17:30:24
>>819
せめて自分の意見のモトネタとなっている、原文くらいは載せて下さい。
821古代:2008/02/04(月) 17:52:40
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/tennsonnkeifu.htm
これがわかりやすいと思う。
822日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:00:48
何で皆は畿内説結論で話してるんですか。
九州説は絶対にないのですか。
823日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:07:30
>>821
そこに掲載されている系図の信憑性はどうでしょうか?
824ローガン:2008/02/04(月) 18:10:19
>>817
そうですね。仰る通りかと思います。
825日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:11:10
>>822が頑張って九州である事を証明すればいいんですよ。
826日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:22:13
>822
畿内説の勉強中ですw
畿内説は論点が九州説とは違い倭人伝ベースではなく
学者先生や天皇家が支持してるや外国の本にも書いてあった等からスタートし
遺跡と記紀ベースで天皇の系譜から邪馬台国を推定している為
普通に倭人伝ベースの話をしてもまったくかみ合いません。
ですから九州説が畿内説を論破するには
畿内説の言い分も知っておく必要があります。
827日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:27:40
>>819
オシホミミは高皇産霊神の娘(栲幡千々姫)と結婚して
その間に、ホアカリとニニギをもうけた。
よって、高皇産霊神と 尾張氏・神武皇統は、女系でつながっている。

高皇産霊神を祖にする豪族には
大伴氏、斎部氏、鴨氏、原・葛城氏などがある。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02103.htm
828古代:2008/02/04(月) 18:28:45
信憑性はどうでしょうか『先代旧事本紀』と『勘注系図』をどう見るかですね
『先代旧事本紀』は偽書と言われていますが、歴史的記述を除けば正しいと見る人もいます。

新撰姓氏録には次の記述もあります
掃守連(かにもりのむらじ)。
 振魂命(ふるむすびのみこと)の四世孫、天忍人命(あまのおしひとのみこと)の後なり。


829日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:39:23
>>828
曲学の徒さんは、『勘注系図』を信じすぎているような気がする。
この系図は重要参考文献だと思うけど
鵜呑みにするのも危険なような気がする。
830日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:40:38
>>825
魏志倭人伝を読むと九州方面だと思います。
私は宮崎・大分・鹿児島北部辺りだと思います。
あの辺りの古墳の何れかに相当すると思います。
重要な点は、卑弥呼は数十カ国を統治していました。
古代に数十カ国も統治しようとすれば大変ですよ。
畿内説だと九州方面まで統治していたんですよね。だとすると面積が広すぎませんか。
一カ国当たりが小規模が適切です。だから九州です。
次に記紀には卑弥呼を名指ししてません。畿内だとすれば皇室の先祖です。
何も記されてないのは可笑しいと感じませんか。
百襲姫命は魏志倭人伝の卑弥呼だと書いたはずです。
それが無いのは、卑弥呼は九州の奥深くに居たからです。
831古代:2008/02/04(月) 18:51:03
829
自分はむしろ日本書紀を信じすぎている人が多くて危険な気がする。
832河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/04(月) 18:57:27
>>826

>九州説が畿内説を論破するには


論破したところで意味無いよ。
論破しても過去の歴史は動かない。論破側が歴史の真実とは言えないし
九州説VS畿内説なんて下らないよ。
833日本@名無史さん:2008/02/04(月) 19:47:58
>>831
まあ、結局、いろんな文献史料を総合的に
みていくしかない。
日本書紀は一応、一書...という形で
複数の引用元を明かしているから、そういう面では公平だわな。
ただ、全ての文献史料はそうなんだけど、鵜呑みにせず
複数を吟味検討していくしかない。
834日本@名無史さん:2008/02/04(月) 19:52:22
>>830
あのな、3世紀の纏向遺跡からは
九州から関東までの土器が発掘されるんだよ。
835日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:02:05
家の箪笥の引き出しには$紙幣があるけど、すると俺の屋敷はアメリカ領?
836日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:17:28
>>833
それじゃあ、魏志倭人伝なんか、もっと鵜呑みに出来ないね〜

>>835
バカ発見。
837日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:22:51
神武天皇が出てきたのは九州の存在をアピールするため
838日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:31:23
>>836
だからこそ、全ての文献資料を読み比べて
検討するしかないわな...
839日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:32:52
帝記と旧辞さえ見つかればいいのにな
840日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:33:59
九州から神武は大国主から大和を奪ったんだろう。
普通に卑弥呼はモモソだろ。
卑弥呼が女王に見えたのはお告げを聞く大王の態度がが
家臣に見えただけ。
政治は大王が行って、その吉凶は日巫女が占ってたんだろ。
841日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:34:44
>>836
>バカ発見
自分で自分を発見してどうする
842日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:41:41
>>841
意味不明過ぎて泣ける
843小倉優子が好き:2008/02/04(月) 20:44:51
>>769
豊鍬入姫がトヨだって事?
だとすれば、「魏志倭人伝のトヨ」は崇神天皇の娘で、伊勢神宮の初代斎宮って事に
なってしまうと思うのですが、相当無理がありませんか?
844日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:50:29
>>843
ないけど。卑弥呼と祟神は
晩年の巫女と戴冠したての新大王で大王の娘が
巫女になっただけ
845改め〜卑弥呼:2008/02/04(月) 20:53:47
こっちは 九州説VS畿内説でもりあがってるみたいだね!
誰と誰がやりありあってるのか?ですが氏と名無し?
846古代:2008/02/04(月) 20:54:08
土器のどう見るかは難しいところ。
交易品としての価値は乏しく日用品と考えたい。
そうすると。マキムクの85%くらいは畿内式で15%は各地の土器。
だがその中で半数近くが東海地方の土器よって7・8%くらいかな。
これは各地から差し出された人質?奴隷?諸侯が集まったから?

一方福岡の福岡市西新町は北九州土器65%、畿内系25%、出雲系9%
25%もいてはもはや奴隷とか人質とか考えにくい。これは畿内からの支配者層?
崇神の御世に疫病が流行って国内の人が逃げ出したとあるので、難民?
847小倉優子が好き:2008/02/04(月) 20:57:41
>>844
トヨは晋に「トヨ」として使いを送っていますよね?
崇神はおっしゃるように新「大王」。
何故「崇神」としての使いを送らなかったのでしょうか?
848改め〜卑弥呼:2008/02/04(月) 21:09:45
>>847
だからどこに「トヨ」とか書いてるんだ!
君はまずいそこらへんから学んだほうがよくね?
849小倉優子が好き:2008/02/04(月) 21:12:38
魏志倭人伝には、「卑弥呼が没したあと、男王が立つがうまく逝かず、
トヨがたって丸く納まった。」とあります。
豊鍬入姫は崇神天皇の娘ですから、豊鍬入姫=トヨとすれば、
崇神天皇は「トヨの前の男王」と逝ってさしつかえないと思うのですが、
だとすれば、上記の魏志倭人伝の記載に矛盾しませんか?
850日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:19:13
>>848
あのさあ、「ほのめかしてる」だけで「書いてない」なんてのはダメだよ。
日本初紀の編者が「中国ではこんな風に逝ってる」と書いたようなもんだ。
では聞くけど、なんなの? 改め〜卑弥呼さん。
851改め〜卑弥呼:2008/02/04(月) 21:25:15
>魏志倭人伝には、「卑弥呼が没したあと、男王が立つがうまく逝かず、
>トヨがたって丸く納まった。」とあります。
>豊鍬入姫は崇神天皇の娘ですから、豊鍬入姫=トヨとすれば、
>崇神天皇は「トヨの前の男王」と逝ってさしつかえないと思うのですが、
>だとすれば、上記の魏志倭人伝の記載に矛盾しませんか?

>あのさあ、「ほのめかしてる」だけで「書いてない」なんてのはダメだよ。
>日本初紀の編者が「中国ではこんな風に逝ってる」と書いたようなもんだ。
>では聞くけど、なんなの? 改め〜卑弥呼さん。

誰か教えてたって〜
852日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:26:17
>>851
お前が教えてみろ。
853日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:28:46
>>851
あんたが教えなきゃだれが教えるんだ?
さあさあ。www
854改め〜卑弥呼:2008/02/04(月) 21:31:39
それより九州説のみなさん
畿内説の日本@名無史さんが「モモソヒメ=卑弥呼」だっていってますけど、
誰も反論しないん?
言われたままかい(笑)
855日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:31:43
おまえら、いったい何を議論してるんだ?
856日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:33:01
>>854
>それより九州説のみなさん
じゃねーぞ。ちゃんと教えろよ。www
857日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:33:24

トヨタン・・・・・・・・・・・・・・
858日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:35:30
>>854
改め〜卑弥呼さんさあ、自分の考えをかかなきゃ。
それじゃあ単なる卑怯者だよ?
859日本@名無史さん:2008/02/04(月) 21:48:25
すみません。みなさん。
「改め〜卑弥呼」は、「誰かおしえたって〜」とか、「誰も反論しないん?」
とか言うばかりで、自分の意見を書かない卑怯者です。
私が替わりに謝ります。ごめんなさい。
860日本@名無史さん
改め〜ドツボ に改名しる