謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!11

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1神奈川県民改め三重県民
其の国、もとまた男子を以て王となす。
とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年。
乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。
鬼道に事へ、衆を惑わす。
年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

魏志倭人伝に記された、この謎の卑弥呼 なる人物の正体を暴こうと思う。
また、天皇家との関わり合いは?!
2神奈川県民改め三重県民:2008/01/06(日) 22:30:12
3神奈川県民改め三重県民:2008/01/06(日) 22:34:07
A 邪馬台国は九州にありそのまま消えて幻となった。
B 邪馬台国は九州にあり東征して大和朝廷になった。
C 邪馬台国は九州にあり大和朝廷の西進でほろんだ。
D 邪馬台国は近畿にありそのまま消えて幻となった。
E 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。
F 邪馬台国は近畿にあり同じ近畿にあった別の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。
G 邪馬台国は近畿にあり出雲の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。
H 邪馬台国は近畿にあり九州の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。
I 邪馬台国は九州、近畿以外の地域にあった。
J 邪馬台国はなかった。
4神奈川県民改め三重県民:2008/01/06(日) 22:47:23
太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。
プラムさん・・・B 魏志倭人伝の解読に力を入れ漢字にはめっぽう強い。実はこの人、
         卑弥呼は先代、次代が有り天照大神で東遷説というのは余り知られてない。
サガミハラさん・・・A,C 邪馬台国は佐賀県小城市甘木で小城公園内桜ケ岡が卑弥呼の墓だという。
             邪馬台国関連、本の著者でもある。
唐松山さん・・・B 卑弥呼は景行天皇時代の人物。『ほつまつたゑ』を中心に論争。
九州ですがさん・・・AB 邪馬台国は九州。神社の由来とか、吉野ヶ里遺跡などを調べる。
愛知県民さん・・・B 畿内説⇒九州説。卑弥呼は祟神天皇以前の時代で台与=万幡豊秋津師比売
          だという。宇佐の比売大神が気になるらしい。
古代さん・・・C 邪馬台国の時代の大和朝廷は九州〜畿内まで影響を与える。
        卑弥呼は神功皇后によって滅ぼされた?!
美濃もんたさん・・・I 近代史〜古代史まで興味を持ち、岐阜の山に伝わる伝承を調べる。
           邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国のこと。
横槍さん・・・E 卑弥呼=天照大神(大日霊女貴命)で女神とする。
ローガン・・・F 畿内説で箸墓は卑弥呼か 壹輿の墓とする。
正月○鹿さん、汽笛一声さん、日本@名無史さん・・・不明  
5サガミハラハラ:2008/01/06(日) 23:25:35
 正体といっても、卑弥呼は他の誰でもありません。
 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
 卑弥呼の墓は、小城公園桜ヶ岡です。
6サガミハラハラ:2008/01/06(日) 23:41:50
邪馬台国と天皇家とは全くと言っていいくらい無関係です。
7神奈川県民改め三重県民:2008/01/06(日) 23:45:59
うはっ〜終止符スレ10で1000取れなかった!

<先ほどの続き>
中国人からみれば「倭国」
列島人から言わせれば「壹國」「臺」

「壹國」「臺」=「倭国」

「倭種」=「日本」    と私はしています。

連合国家とは28カ国なのか29カ国、30か国なのかは
正確にはわからない。
8ローガン:2008/01/06(日) 23:46:29
>>5
だから〜サガミ先生。桜が丘が卑弥呼の墓とする根拠を教えてください。
9太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/06(日) 23:49:24
>>6
あまり双方は関係うすい。「南、邪馬壹国に至る」の文から、畿内説
をとるには山陰道経由で琵琶湖のほうから南下だな。ならば倭人伝は
「南、大王国に至る そのさらに南、女王国に至る 云々」
と書くねきだろう? が、朝廷たる大王国記載がな〜い。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・
10神奈川県民改め三重県民:2008/01/06(日) 23:55:17
邪馬台国は邪馬台国としてる⇒太国、サガミハラ、古代、改め、他
九州 邪馬台国から大和朝廷になった⇒プラム、唐松山、九州ですが、愛知県民、他
機内 邪馬台国から大和朝廷となった⇒横槍、ローガン、他

名無しさんと名前呼ばれなかった人はどこですか?

そろそろ巴戦といきますか(笑)           敬称は略
11日本@名無史さん:2008/01/06(日) 23:57:57
>>1  グレート乙、 スレ立て早えぇぇw

「楼観・城柵、厳かに設け」は明らかに環濠集落ですよね。
何もないところに楼観(物見やぐら)を作る意味はないですから。
この点だけで、マキムクは候補地から除外できる。

というか環濠集落の終焉後のマキムクは明らかにこれより後の時期。
12九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 00:01:38
>>1000
貢物を港で点検 はマツラ国ではないでしょうか。
なぜなら「ここで陸に上がって」とあり又、「津で貢物などを点検する」
とありますから。マツラ国に津があるんだと思いますが。
今夜はもう寝ます。
13プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 00:44:45
>>1

皆さん おめでとさん

『古代天皇家の力関係』

大王
↓↓
大王の娘
↓↓
娘の旦那である天皇
14正月○鹿:2008/01/07(月) 00:47:30
>>12

> 貢物を港で点検 はマツラ国ではないでしょうか。
> なぜなら「ここで陸に上がって」とあり

 「陸に上がって」などとは倭人伝の何処を捜しても書いてないでしょう。
単に次の伊都との位置関係が陸路で示されているだけです。
ホントに陸路行ったのかもしれませんが、書いてあるかのように思うのは読み過ぎ。

> 「津で貢物などを点検する」
> とありますから。マツラ国に津があるんだと思いますが。

 当然、末盧にも津は有ったのでしょうが、
それは、伊都にも投馬にも邪馬台国にも有ったことでしょう。
港湾関係の遺跡は日本中に存在しますから。

 たまたま一大率の記事の直後に記述されているため、
「臨津搜露」なども一大率の職務の一つのように読み、
伊都の港のことではないかと思われる方も居られるようですが、
「〜如刺史」で一大率の説明は終わり、
「王遣使詣京都〜」以降は別の文章と読む方の方が多いようですね。

 そして、それは邪馬台国の港でのことと考える方も多いのです。
 そう考えれば、前スレ1000氏の    > 魏志のこの部分はかなり変な記述ですね。
> 皇帝から下賜された宝物は厳重に封緘されて直接相手の国王に手渡すのが本来。
> 封緘された中身の目録を使者が持参してそれも相手の王に渡してチェックを受ける。
> しかし、伊都国で中身をチェックしたのであれば、魏からの使者の役目はここで終わり、
> あとは帰路に付けばいいことになる。    
 と、言うような疑問も生じないわけです。

15天之御名無主:2008/01/07(月) 03:29:55
三輪王朝の王妃が卑弥呼(日=神の巫女)じゃないかな。
出雲の大国主の国譲りは実は大物主(三輪)からの譲りであって
この地域にあった三輪王朝こそのがその当時の日本の首都みたいな
もんだったと思う。
(三輪のすぐ隣に全く違う政権国家ができたのに何もその経緯が書か
れていないのもおかしすぎる。)
中国には日本が独立した固有の国として認めてもらいたかったから
あへてその土地で起こった対立的な政権交代(渡来人と先住民の抗争)
を隠したため、この土地の文献的なものが残っていないのかもしれない。
三輪山の麓の箸墓古墳に眠っている姫がかなりの確率で卑弥呼だと思う。
16日本@名無史さん:2008/01/07(月) 05:46:59
>>14
伊都国までは陸行なので、港町でないと考えるのが普通では?
不弥国のほうは港町の可能性が高いと思う。
17プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 07:58:13
不彌國に港を求めるのは全くの不条理
たぶん、投馬國への水行二十日がそうさせるのでしょう。
しかしこの水行二十日の起点は奴國から、不彌國への移動は視線だけ
陸行なら
『東陸行〇〇里至不彌國』或は
『東水行〇〇里至不彌國』と、
必ず移動手段が明記されます。
18プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 08:51:30
『東行』とは


起点→→→→→(東)→→→→→起点

学校に行く、会社に行く、東に行く
19汽笛一声:2008/01/07(月) 08:54:09
わざわざ津に臨んでとかいているのは、伊都国がつにのぞんでいないからですよ。
つまり、船がくると内陸の伊都国から末ろ国まで出向いて臨検するということです。
20プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 09:26:20
>>19

『津』に港の意味はない。
津が港の意味になるには、文脈中に海、川、船等を意味付け出来る時はじめて“津”を港と判断できます。
21ご参考まで:2008/01/07(月) 10:26:49
プラムさん、オメデトウございます。今年も宜しくお願いします。
【津涯】岸辺・船着
    〔書、論語徽子〕今殷は其れ綸喪せん。大水を渉るに、其の津涯無きが如し。
【津人】船頭
【津梁】渡し場の橋
    〔顔氏家訓、帰心〕以って来世の津梁と為すべし。
                            『字通』850頁
22プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 11:15:29
>>21さん
おめでとうございます。

『津』=港
このイメージは、四方海に囲まれし地域に住まう人の固定観念からくるものと考えます。
『津』一文字では
特定されし範囲に集まる(集約される)
そう解釈したほうが、使途の広がりを持ち
さきはど>>21さんが掲載してくれたような様々な熟語と結び付き、意味の広がりが出来るものです。
23日本@名無史さん:2008/01/07(月) 12:11:12
>>16
伊都国は古代は港町でもありますよ。
あの辺りは、古代は半島が東と西の両方から深くえぐれていたので、
川伝いに船で伊都国の中心まで乗り入れることができました。

<末盧国>−<伊都国>−<奴国>は船での往来の方が便利で、
伊都国はその要衝の地になります。
24日本@名無史さん:2008/01/07(月) 12:44:32

伊都の比定地が前原じゃない人には通用しませんけど…
25唐松山:2008/01/07(月) 17:31:58
けもの道は どう処理する?
26九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 19:18:17
>>14「陸路行ったのかもしれませんが、書いてあるかのように思うのは読み過ぎ」

「海千餘里至末盧國有」で到着して「東南陸行五百里到伊都國」で陸行になっている。
書いてあるかのように、ではなく書いてある。

卑弥呼と魏王の貢物や献上品は当時の宝物であり魏使が到着した津は同一と考えるのが道理。
監視を設けて積荷を改めたというのは盗難防止等の為でありそれらの監視施設プラス良好な港
となれば一箇所に統一するのが良策。邪馬台国までの魏使のルートは他に無かった為
倭人伝のような記述になったもの。




27九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 19:52:26
>>20
少なくとも古代の津は港の事です。

つ【津】
1 船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港。
「三箇(さんが)の―」 「海上(うなかみ)のその―をさして君が漕(こ)ぎ行かば」〈万・一七八〇〉
2 港をひかえて、人の多く集まる所。
28日本@名無史さん:2008/01/07(月) 20:37:58
>981 :汽笛一声:2008/01/06(日) 22:45:38
>>977なんでそんな回り道を?
>博多から平地を直ですよ。甘木なんて。  (前スレより)

これは現代人の考え方ですよねー。
松浦辺りでは海辺に張り付いて人々は生活してるって書いてるでしょ? 
そして何より魏使一行は九州北岸を海沿いに移動しているわけだし。
29日本@名無史さん:2008/01/07(月) 20:53:08
>>5
だからそれはインコのピーちゃんのお墓だってばあ。
>>6
関係ありますよ。宇佐の豊玉姫と関係ができた山幸彦は卑弥呼の孫かひ孫でしょ?
30プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 21:16:58
>>27

>少なくとも古代の津は港の事です。


では「港」や「湊」の文字は必要ないですね、古代の文字から削除してもよろしいですか?

津を港とするには
港にすべき文脈が存在するからこそ、津を港と意味づけられるのではないですか?


>「海上(うなかみ)のその―をさして君が漕(こ)ぎ行かば」〈万・一七八〇〉

海上之 其津乎指而君之己藝歸者
もしかして、この句ですか?
そして、その読み下しで間違いないでしょうか?(その読み下しは仙覚さん?) 私は万葉集に疎いものですから

「其津」を(その津)と読み下した理由を聞かせてください。(何ゆえ津は津そのものであるか)
今後の参考にさせていただきますので
31正月○鹿:2008/01/07(月) 21:20:28
>>26
> 「東南陸行五百里到伊都國」で陸行になっている。書いてあるかのように、ではなく書いてある。

陸を行くにはあがらないと行けないのは当然ですが、「陸にあがって」とは書いてないでしょう。
例えば、投馬・邪馬台の「水行10日、陸行1月」を「水行ならば、陸行ならば」と解釈する考えが
ありますが、貴方流に読込めば「あがったり、あがらなかったり」と言うことになりますね。
でも、「並行読み」のような考え方は、陸行とか水行とかは二点間の距離を表現する手段に過ぎず、
誰かの実際の行動を表現したものではないことを前提にしています。
実際、倭人伝の行程表記も誰かの具体的な旅行記と言う体裁ではなく、「郡から倭に行くには」と
言う抽象的な移動を表現しただけの文章なのです。

> 卑弥呼と魏王の貢物や献上品は当時の宝物であり魏使が到着した津は同一と考えるのが道理。
> 監視を設けて積荷を改めたというのは盗難防止等の為でありそれらの監視施設プラス良好な港
> となれば一箇所に統一するのが良策。

これも誤解されているようですが、この部分の原文は『王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯』です。読めば判るとおり、臨津搜露されるのは、
魏への朝貢物、魏からの下賜物だけでは無く、倭から帯方、韓国へ、帯方、韓国から倭への流通のこ
とも記しており、あきらかに通常の交流全般において行われていることの説明です。これを特定の事件
と結びつけて解釈するのは読みすぎです。倭人伝で特定の事件についての表記が始まるのは、「景初
二年六月倭女王〜」からで、それ以前の表記は特定の事件・事実について語ったものではありません。

> 邪馬台国までの魏使のルートは他に無かったため倭人伝のような記述になったもの。

と言うわけで、これも読み過ぎ。「從郡至倭、循海岸〜」が「魏使のルート」とも書いてありませんし、
ルートはこれ一つとも書いてはありません。半島側渡海基点「狗邪韓國」を金海などの洛東江口に求
める立場では対馬海流の影響を考えると渡海開始地としては東に行過ぎだと言われています。
逆に対馬からの到着地としてなら(つまり帰路)妥当のように思えます。
32横槍:2008/01/07(月) 21:31:16
>>15
卑弥呼=天照大神のモデルですか?
33古代:2008/01/07(月) 21:37:08
『日本書紀』によれば、アマテラスは、その名をオオヒルメムチ尊(大日靈女貴尊)といった。このうちの「大」・「貴」・「尊」は美辞句なの
で、その実名の部分は「日靈女」になる。「靈女」は「巫女」であるから、
「日靈女」は「ひみこ」とも発音できる。
また、天照=大日靈女貴尊を日女命(ヒメノミコト)と呼ぶこともある。意味は太陽の巫女、太陽の妻というような意味である。
つまり、もともとは大日靈女貴尊・日女命は太陽に仕える巫女、あるいは太陽神の妻というような位置であったと思われる。
後に太陽神そのもの、天照大神となったと考えられる。
34プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 21:51:58
>>31

>陸を行くにはあがらないと行けないのは当然ですが、「陸にあがって」とは書いてないでしょう。


「陸にあがって」とは、当然書いていない
しかし
陸行は計測五百里に対する起点から着点までの計測場所を表しているから、当然計測するには陸地を歩測しなければならない
つまり
「陸行」=陸を歩測する
35九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 21:59:37
>>31陸を行くにはあがらないと行けないのは当然ですが、「陸にあがって」とは書いてないでしょう。

これは屁理屈。陸行とは書いてあるが本当は水行したかもしれないとでも言いたいような言い方だが、
じゃ一体何処に上陸して何処のルートを通ったのかさっぱり倭人伝の記述は参考にならない代物だということになる。
そんな支離滅裂なもの正史として残すわけないでしょ。
陸行と書いてるのは上陸したから陸行出来たんだから。
里の記述も無い邪馬台国、投馬国の水行十日・・等と一緒にしたらいけない。
36日本@名無史さん:2008/01/07(月) 22:10:22
プラムさん。ですがタンに厳しい突っ込みはお控え願います。
大まかなイメージでアバウトにとらえてあげてください。
圧が上がらない程度の指摘はOKです
37九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 22:16:01
>>31
そんなこと倭人伝のどこにも書いてはいないし読み取る事も出来ない。
別のルートがあれば、そのつど次のクニまでの里数と方向が違ってくる。
何度も言うが、その様ないい加減な正史は綴られない。
マツラ国から女王国までのルートが一貫していたからこそ、倭人伝のような
里と方向が決定付けられているのである。

38日本@名無史さん:2008/01/07(月) 22:32:46
>>30
>その読み下しで間違いないでしょうか?

小学館の日本古典文学全集の2では、同じ読み下しです。
むしろ、これ以外の読み下しができないでしょう。
この全集は、万の全部の原語と読み下しが載っていていいですよ。
39日本@名無史さん:2008/01/07(月) 22:40:59
>>35
魏の使者は、多くの荷物を船に積んでいて、正規の使者としてそれなりの
人数、おそらく100人以上であったと考えます。
とすると、水、陸、水、陸と船を何回も乗り換えるような移動を見知らぬ土地で
したとは思えないので、行ける所までは船で行ったと思います。

そもそも、最初に伊都国ではなく、松浦(戸数の少ない田舎)に行ったのは、
予定外に潮流に流されたためである可能性が高く、そうすると、わざわざ松浦で
船を下りて、陸路に変えるとも思えません。
40日本@名無史さん:2008/01/07(月) 22:45:37
>>31
>「從郡至倭、循海岸〜」が「魏使のルート」とも書いてありませんし、
ルートはこれ一つとも書いてはありません。

そういう考えが許されるなら、もう文献の解釈の域を超えている。
あなたのお気に召すまま、なんでもありということになってしまう。
41九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 22:47:00
>>30
僕も日本の古代の文に港という字が出てこないので(知らないだけかもしれませんが)
調べたら色々使い分けているようですよ。これが解りやすいです。
引用
港ということばは、古い時代には津、湊、泊などと、場所や役割によって呼び名がちがっていました。
津は水をあらわす「サンズイ」と、進むという気持ちをあらわす「聿」をあわせたもので、
川の渡し場の意味でつかわれ、中国から伝わりました。湊はいくつかの水路が集まってくる場所をあらわします。
泊は水の浅いことをあらわし、船が岸につきやすいという意味があります。港は「サンズイ」と町なかの道をあらわす
「巷」をあわせたものです。水上の通路、のちに水路のある町、港をあらわすようになりました。

http://www.kaijipr.or.jp/mamejiten/fune/fune_4.html
42プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 22:49:18
>>38さん サンクスです。


最近疑い深くなりまして

万葉集一番歌の
「菜摘須兒」
(仙覚系統では ナ・ツム・スコと名詞)
(雅澄さんは ナ・ツマ・ス助動詞 コ 名詞)

と、人様々でありまして
私はお手上げです。
43九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 23:01:49
>>39 
そうするとこのマツラで下船したのは突発的だった、という事ですか。
普段来るときは伊都国まで行ったと。魏使は何度も来倭してるようですし、
それなら伊都国から陸行したと記すのが妥当じゃないでしょうか。
例外の方を優先させてマツラ国から陸行で伊都国何里・・とは記されないと思うんですけど。
44汽笛一声:2008/01/07(月) 23:02:18
>>29卑弥呼に子供がいましたっけ?
45プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 23:04:42
>>41
たぶん
その使い分けは、日本独特の使い分けではないでしょうか?
身近に海を有する地だからこそ、可能なでは?
大陸の遥か内陸部で、果たして意味として成り立つものでしょうか?
言語が多様に異なる民族の共通認識的な意味合いを持つ文字ですから
46九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 23:20:55
>>45
日本独自でしょうね。日本の津は縄文時代海岸に近い河口にあった集落から津、
という概念が生まれたんでしょう。だからもともと海を渡る為ではなく、
川を渡るための船着場だったのでしょう。
47九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 23:27:37
>>45 津という字は倭人のものではないですから輸入物です。
概念は倭人のものです。そういう意味で日本独自のものですが、
「港」などという字は後世にどのようにして作られたかまでは解りません。
倭人が作ったのかどうかも知りません。
48横槍:2008/01/07(月) 23:36:28
>>33
サンクス!
ここのスレは『卑弥呼は誰か?』なのに
議論が『邪馬台国は何処か?』に流れて、常に収拾がつかん
49古代:2008/01/07(月) 23:41:34
48
いえどういたしまして
50プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/07(月) 23:45:00
>>47

確か「港」の文字は梁書でひろえたかと(間違っていたらスマソ)
「湊、津」は古いです。
51ローガン:2008/01/08(火) 00:05:56
>>37
>なんども言うが、その様ないい加減な正史は綴らない

どうしてそうはっきりと言えるのでしょう?史書には全く誤りがないと言う事ですか?
それとも他はどうあれ、魏志倭人伝には全く誤りがないと言う事ですか?
それとも魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への道筋に全く誤りがないと言う事ですか?
どうお考えなのかは、分かりませんが、あのようにはっきりと仰る以上、客観的な論拠をお持ちなのでしょうね。
是非、是非ご教示頂けませんか?


私は正月〇鹿さんのレスはよく理解できる内容だったと思いますよ。
もっとも、全面的に賛同出来ない部分も無いわけでは無いですが、考え方については理解したつもりです。
しかし貴方は…
>何度も言うが、その様ないい加減な正史は綴らない
と返信されましたね。きっと確固たる客観的な論拠があるのでしょうね。
ご教示ください!
52九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/08(火) 01:06:09
>>51
寝る頃に言われても・・。もう一度よく読んでみて下さいよ。どっちが無体か。
彼の主張はどう考えてもおかしいですよ。例えば

「陸を行くにはあがらないと行けないのは当然ですが、
「陸にあがって」とは書いてないでしょう。 」とか・・。
こんな変な理屈聞いたことありませんよ。どうかしてるとしか。
そして僕の言う「その様ないい加減な正史は綴らない 」がどの箇所を指しているか
お解りになっていないようですが・・。だから「魏志倭人伝には全く誤りがないと言う事ですか? 」
などという疑念を持たれているようですね。そうではないですからよく読んでください。
解りますから。とにかく彼の言う事は一見まともそうで無茶苦茶です。
53正月○鹿:2008/01/08(火) 01:18:09
>>40

>>「從郡至倭、循海岸〜」が「魏使のルート」とも書いてありませんし、

> そういう考えが許されるなら、もう文献の解釈の域を超えている。

どうしてですか?
貴方が伊都や奴を倭人伝の字面どおりに読んで、背振山地等の内陸に比定する方なら
次の説明は多少理解し辛いかもしれませんが、多数派である玄海灘沿岸部に比定する
なら簡単な話でしょう。

唐津から陸路、前原から陸路、博多から陸路、どれも理由があれば選択可能なルートでしょう。
移動の目的や使用する船舶、天候などに応じた最も便利な方法が選択されることだと思います。
前レスでもふれましたが、渡海航路では対馬海流の影響で東方面に流されることを予定して
ルートを設定をするのなら往路と帰路は別々の港を利用した方が効率的であるとも思います。

そして、半島と倭との間の通交には、梯儁一行のように勅使の来倭も有れば、
勅命以外の郡吏の往来や韓人と倭人の交易活動などもあります。
それらのルートが常に同一でなければならない理由はありません。

漢書や三国史の地誌で章の冒頭に路程が記される目的は、これから記述される地域の位置情報を
知らしめるためのものでしょう。旅行記や軍記物と違い、誰が移動したかと言うテーマは与えられて
おらず、記述も簡略化、抽象化されたものです。
倭人伝で主格が明確に記される文章は、主として「景初二年六月倭女王〜」以降の部分です。
それまでの前半部は、基本的には倭の国情に対する概況説明で、地誌的部分なのです。

で、原文ですが「從郡至倭、循海岸〜」、ここでも主格は省略されているのです。
誰が移動したかは抽象化されされたものなのです。
なのに、そのルートは「魏使が実際に通ったものを記載した」かのように読むことは、
私には「読み過ぎ」だと感じますし、どうしても魏使のルートなんだと思込むことこそ解釈の域を超えている。
54日本@名無史さん:2008/01/08(火) 01:41:57
>>37

>別のルートがあれば、そのつど次のクニまでの里数と方向が違ってくる。
>何度も言うが、その様ないい加減な正史は綴られない。
>マツラ国から女王国までのルートが一貫していたからこそ、倭人伝のような
>里と方向が決定付けられているのである。

はぁ?
東京から仙台経由で青森行っても、秋田経由で青森行っても
東京と青森の位置関係(距離や方角)は変らないよなあ。
今は新幹線だと仙台経由だけど寝台だと秋田経由なんだよね。
55日本@名無史さん:2008/01/08(火) 03:05:58
>>51
倭人伝を含め、文献に間違いがないとはいえないけれども、間違いがあることを
前提にしてはいけないと思う。

>>53
倭人伝を先入観なく読んだとき、伊都国が前原とは思えないのですよ。
まず、壱岐(一支国)から唐津(末盧国)を経由して前原に行くのが
わからない。壱岐からならば、唐津も前原も同じような距離なのは、地図を
見れば明らかだから。
さらに、唐津から前原まで陸路というのもわからない。方向も違う。

伊都国=前原は、本居宣長が最初に比定した。これは地名の類似からで、
畿内説にとっても都合が良いし、北部九州説にとっても都合が良い。
前原が弥生時代に栄えていたのはまぎれもない事実で、遺物も豊富。
だから、定説のようになった。

しかし、倭人伝の里程・日程の解釈では伊都国が前原というのは納得できない。
唐津から素直に東南に陸路を取ってみると、多久市あたりに出る。
これでいいのではないか。そうすると奴国は佐賀平野、不弥国が吉野ヶ里
あるいは古代に港町として栄えていたらしい諸富町あたりになる。

これで有明海に出て南に水行が出来る。全く無理がない。
もちろん、畿内には行き着かないし、北部九州も通り過ぎる。
だから、曲解ともいえる解釈が横行することになるのだと思う。
56日本@名無史さん:2008/01/08(火) 03:07:58
>>55
伊都国を前原付近に比定したのは、本居宣長ではなく、新井白石でした。
57日本@名無史さん:2008/01/08(火) 03:14:41
もう一つ付け加えると、弥生時代後期は、玄界灘沿岸の時代ではなく、
有明海の時代だと思う。それは、吉野ヶ里遺跡などの大規模環濠集落からも
裏付けられる。だから、唐津が窓口になる。多久市とか小城市付近が
後の大宰府のような役割になる。
そう考えているのだけど。
58サガミハラハラ:2008/01/08(火) 07:52:46
ご明察です。
59プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/08(火) 12:32:26
>>55
先入観があるから佐賀方面に抜けてしまうのです。
60ローガン:2008/01/08(火) 16:15:08
>>55
スルーしょうかどうか迷ったのですが、アンカーがついていたので…

>倭人伝を含め、文献に間違いがないとはいえないけれども、間違いがあることを前提にしてはいけないと思う。

間違いがあることを前提にする人はいないでしょうね。ただ間違いがあるかもしれないと思って読むのが、資料批判には大事な事だと思いますよ。

さておき、貴方は先入観を持たず、素直に文献をお読みとの事。
当然、後漢書東夷伝、隋書〇国伝も先入観なく、素直にお読みなのでしょうね。
貴方が比定される女王の都の所在地に、隋書や、後漢書の記述がよく符合するのでしょうか?
是非お説を拝聴したいですね。
61唐松山:2008/01/08(火) 19:43:48
 ホ06098 ヲシホヰに ウブヤのミミに あれませる ヲシホミのミを ヲシヒトと イミナをふれて
カミアリの モチヰたまえば タミうたふ さきにモチコが うむミコの ホヒノミコトの タナヒトぞ ハヤコがミツゴ
ヒはタケコ ヲキツシマヒメ フはタキコ ヱツノシマヒメ ミはタナコ イチキシマヒメ
しかるのち アキコがうめる タタキネは アマツヒコネぞ しかるのち ミチコがうめる
ハラキネは イキツヒコネぞ トヨヒメは ネのウチメにて ヌカタダの クマノクスヒぞ
ミコすべて ヰオとミメなり

上記の 3姫を 祀る神社が 見付かりました。
本は、安曇郡誌 第2巻上 昭和43年発行 非売品 の174ページ

 しかるに 明治9年の上野組村誌は次のように記している。
八幡宮は ヱ津島比売命、市杵島比売命、辺津島比売命、応神天皇、神功皇后 五柱を合せ祭る。
鞠子社は 健御名方富命、前八坂刀売命を合せ祭る。
 と出ています、格は 村社  現在は松本市です。 
ヱ の字が 漢字に成らなかった。 
62サガミハラハラ:2008/01/08(火) 19:48:09
伊都国は前原であるという江戸時代以来の定説が正しいという先入観をもって、
倭人伝をよむから邪馬台国に行き着かないのです。
かような先入観を捨てて倭人伝を読むならば、伊都国は多久方面であるというのは自明の理と
なるのです。
63九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/08(火) 19:50:05
倭人伝からはっきりと読み取れる事実を捻じ曲げてはいけないといっているのですよ。
マツラ国を歩いた様子が書かれているのならそう素直に受け止めるべきだと思いませんか?
それを「伊都国から上陸した」のように書かれてもいないことを付け加えるのは
文献無視であり、文献に基づいていないといわれても反論できないと思いますが。
64唐松山:2008/01/08(火) 19:59:37
訂正
ヱ でなく ヲ でした
ヲキツシマヒメの ヲが 漢字変換できなかった。
65サガミハラハラ:2008/01/08(火) 20:04:08
そうです。伊都国は内陸国であることを示しているのです。
66プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/08(火) 20:10:41
>>63

末廬國を歩測した記事はあるけど、伊都國を歩いた記事は無いよ
それが史料事実。
67日本@名無史さん:2008/01/08(火) 21:02:53
>>62
師匠。伊都国は前原ではなく、糸島半島でしょ? 
多久なんて似ても似つかない名前じゃないですか。
そもそも師匠は「投馬国から水行・・」のくだりを
どう説明するのですか?
68日本@名無史さん:2008/01/08(火) 21:38:07
よく分からんのだけど、道程は連続説じゃなくて放射説なの?
69プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/08(火) 21:40:07
>>68

>よく分からんのだけど、道程は連続説じゃなくて放射説なの?


順次式だよ
70サガミハラハラ:2008/01/08(火) 21:45:26
3世紀の地名(似たものも含む)が現在も必ずのこっているはずという先入観をすてるべきです。
71日本@名無史さん:2008/01/08(火) 21:47:57
>>62 サガミハラハラ氏へ。
>かような先入観を捨てて倭人伝を読むならば、伊都国は多久方面であるというのは自明の理と
>なるのです。

先入観を排するのはいい。大事なことだと思う。
だから、そうやってサガミハラハラ氏が得た多久方面は、伊都国の一つの候補地には、なるだろう。

だが、伊都国=多久は自明の理なのか?
確定なのか?

小生は、まだまだ論証が甘いと思うのである。
失礼を省みず申すなら、学問を志す人間に必要な謙虚さが、サガミハラハラ氏の物言いからは、
ほとんど伝わってこないのである。
疑問を二つ挙げる。

(1)「伊都」という国の名が、多久方面の古地名に探ることができるか。

(2)伊都国は、王がいた、一大率が置かれていた、郡使が常に滞留した、など、倭人伝には
特徴のある国として描かれているのであるが、多久方面の考古学はそれを裏付けるか。

こうした問いに答えが出ないまま伊都国=多久説を確定とするのは、早計に過ぎると思うのである。

むしろ、旧怡土郡の故地であり江戸期より伊都国の候補地であった福岡県前原市の方が、近年の
発掘調査(三雲遺跡の再調査や平原遺跡の発見)で、よりいっそう伊都国の可能性が強まってきて
いるのではないだろうか。
72日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:14:49
>>70
それならば、対馬、壱岐、松浦の地名の一致もすてなければなりませんねえ。
さあて、魏使一行は日本列島のどこに上陸したのでしょうか?
それ以前に邪馬台国の名前も捨てないといけないですね。
師匠。
相模
73日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:22:19
>>70
邪馬台国は人口7万個。これは倭人伝に記載されているなかで
最大の人口。これがたいした河川もない多久にあったとは思え
ません。筑後川流域と考えるのが自然ではないでしょうか?
74改め:2008/01/08(火) 22:40:19
邪馬台国の七万余戸は人数に直したら何人でしょうか。
75改め:2008/01/08(火) 22:47:17
>>8 へ横
>だから〜サガミ先生。桜が丘が卑弥呼の墓とする根拠を教えてください。

本を読めってことではないでしょうか。
後ろのページの方に卑弥呼の似顔絵がのってあったような・・・。
http://meisou.com/books_data/00181/00181.htm
76日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:54:26
新井白石は、「古史通或問」あるいは「外国之事調書」で、倭人伝で出てくる
国の比定をしている。これは行程等は一切考えていない。純粋に地名から比定
している。たとえば、伊都国は怡土郡から取った。

そういうわけで、倭人伝で「其餘旁國」とされている斯馬国は、志摩郡に
比定している。これは伊都国の隣である。伊都国や奴国は戸数や道里を
略載出来る国で、その間にある斯馬国は「その余の旁国」というのは
ちょっとおかしい。

また、地名から取ったために混乱も見られる。たとえば、「古史通或問」では
邪馬台国は、近畿地方の大和に比定しているが、「外国之事調書」では、
山門郡つまり大牟田市のあたりに比定している。

伊都国=前原は、この延長にあるから、それほど信頼性があるとは思えない。

>>60
全部、先入観なく読むようにしてますよ。まだ、邪馬台国がどこかは決めて
なくて探している最中だから。

>>71
考古学的なもので、国が比定出来るなら邪馬台国などは一番最初に見つかるの
ではないかと思う。吉野ヶ里遺跡や甘木の平塚川添遺跡はいったい倭人伝の
どこの国に比定されるのだろうか。
77横槍:2008/01/08(火) 22:55:46
>>74
一般的には35万人としていますが、良く分かりません。
日本では戸籍調査のようなものを行うようになったのは、吉宗の時代からですから。
因みにその時代の中国では一戸あたりの人数は、
魏=6.68
呉=4.59
蜀=3.36となっています。
しかし、時代によって一戸あたりの人口密度は、かなりばらつきがあって
宋元豊6年は1.45しかありません。

だいたい、七万戸という数字があてになるのかどうかも判らないのが現状でしょう。
伊都国の戸数も資料によって違いますから。
78九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/08(火) 23:02:27
>>70
ある意味賛成です。例えば伊都国が今の糸島郡。マツラ国、松浦半島、など
三世紀の地名が今と全く同じ地点を指すと思うのは間違いだと思います。
地名の位置が当時とずれているという事もあり得るのではないでしょうか。
まして一つの弥生遺跡同士を結んで倭人伝に謂う東南は実は東北の方角である、
等という疑念は全くのお門違いだと思うわけです。
おおおよそ倭人伝に記されている方角は当たっていたのではないか。
それは例えば熊本県は大分県の西にあるでしょうか?南西にあるでしょうか?
それとも南にあるでしょうか?答え難いと思いますが
この例を持って推し量るべきだと思います。
79aratame〜ひみこ:2008/01/08(火) 23:06:22
>>77
>魏=6.68 呉=4.59 蜀=3.36
>宋元豊6年は1.45

はどこで手に入れた情報でしょうか。
弥生時代の人口って・・・。
80横槍:2008/01/08(火) 23:15:00
>>79
『中国人口史』文津出版
中国人口でググレば、何処かで資料はヒットしますよ
81aratame〜ひみこ:2008/01/08(火) 23:28:24
今、すべてのスレ見終わりましたが、
>>31の正月○鹿さん〜プさんとですがさんにボコボコにされてる(笑)

まあ、確かにその文はおかしいですよね。

それにしても「末廬国」は松浦半島東側なのか西側なのか意見が分かれるところです。

松浦半島付近の漁師さんが一番知ってるかもしれません。

伊都国が東南方向だからどっちも少し無理が生じる。

そしてその前の五百里・・・。
82日本@名無史さん:2008/01/08(火) 23:31:05

先入観とは?

「倭人伝記載の各国の戸数は、絶対正しい」
「それは先入観です。そういう考えは捨てなければいけません」
「なにぃ、戸数に誤りがあるとでもいうのかッ!」
「いや、正しい戸数もあるだろうし、聞き書きの際に倭人が誇大な数字を言ったかも・・・」
「そういう考えこそ、先入観だッ!」

「方位は誤ってる可能性がある」
「それは先入観。方位は正しい」
「方位を正しいと思うその考えこそ先入観」

「卑弥呼は女性の王様だよ」
「先入観ですねぇ」
「おいおい、倭人伝にそう書いてあるぞ」
「書いてあることがいつも正しいとは限りませんよ」
「そういう疑いを持つのは、きみが先入観に犯されている証拠だッ」
「残念ながらあなたには、私が先入観に犯されているという先入観があるようです」
「うるせえ!」
83aratame〜ひみこ:2008/01/08(火) 23:35:36
<81のレス訂正>
五百里⇒千里
84ローガン:2008/01/08(火) 23:37:40
>>78
あらあら!方角がよくわかっていないなんて!いったらだめですよ。

よって立つところがなくなってしまいました。
85ローガン:2008/01/08(火) 23:51:28
>>75
改めさん!ありがとう。なるほどそう云う事ですか!
いや〜面白そうな本ですね。読んでみたいですね。
それはそうと…サガミ先生に御弟子さんがいらっしゃるのですね。師匠…
86日本@名無史さん:2008/01/08(火) 23:53:24
>>82
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
87九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/08(火) 23:54:42
>>78
方向がわからないなど何時言いました?それどころか
「倭人伝に記してある方角は間違っていないと思う」と書いてるじゃないですか。
88プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 00:03:21
>>81さん

>伊都國が東南方向


何処から?
まさか末廬からじゃないよね
そんな事何処にも書いてないから
89日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:07:07
対馬国から一大国(一支国)への行程は、倭人伝に

>又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大国

と記されている。

だが対馬は、地図で上島・下島のどの地点をとっても、
そこからまっすぐ下に、つまり真南に線を引いたとしても
壱岐島にはカスらず、到達しない。

地図で確かめていただこう。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=33.98750927951151&lon=129.2919768786588&sc=9&mode=map&type=scroll

倭人伝に「南」とあるけれども、実際は真の南になっていない一つの証左である。

倭人伝の方角記載が全て絶対正しいと主張するのは誤りである。
90ローガン:2008/01/09(水) 00:09:45
>>87
すみません!じゃ私の勘違いなのでしょうね。

大分と熊本の位置関係…
西と南西と南の区別がつきにくいって書いてあるように思ったですよ。

違いましたか?
91日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:10:20
>>87
松浦→(東南)→伊都→(東南)→奴国は、不正確ですよ。
90°時計回りに修正しないと、合いません。
92ローガン:2008/01/09(水) 00:21:48
>>91さん。方角を90度間違えたのではないと思いますよ。
会稽東冶の東と考えてたようですね。
書いた人は南と考えてたのではないでしょうか。
93日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:41:56
邪馬台国スレ覗くの2年ぶりくらいだけどプラムってまだ生きてたんだね
94日本@名無史さん:2008/01/09(水) 01:20:43
>>93
でも最近の住民は銭にならないレスはスルーするので、彼に振り回されてないでしょう。
95プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 05:57:04
『又南渡一海』

この文は一大國が對馬國の南に位置しているという文じゃあない。
『渡』とするものは“船”
その船がどのように次の目的である一大國に行くか、その行為を表したもの
つまり
對馬國を出た船は、船首を指南の指し示す“南”に向け進めば、地理的に東南に位置する一大國に行けると記載しています。


船の渡る行為が南向き
これが
『南渡一海』
指南があるから方位を間違える事はありません。
96日本@名無史さん:2008/01/09(水) 08:02:24
>>94
確かにスレ住人のスルースキルは上がりましたね。
97美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 08:36:36
えっと例えばなんですけど

http://mobile.seisyun.net/cgi/wgate/%E5%BC%81%E9%9F%93
邪馬台国を仮に↑のリンク先にある弁韓12ヶ国の「弥烏邪馬国」と仮定して

そこから東南にある伊都を畿内〜美濃〜信濃辺りの地域と仮定した場合、魏志倭人伝の記述との辻褄は合いませんか?


ただ「里」って単位が現代と当時では表してた距離が違うと言う話もあるので、微妙かも知れないっすけどお
98ご参考まで:2008/01/09(水) 09:23:33
末盧国が唐津、伊都國が前原、奴國が博多というのは、地元の人間にとっては
地理感覚からしても、遺跡分布からしても、自然に思う次第です。
ところで、里程里数に拘る必然性は無用と、かつ無意味と考えます。
何故なら、帯方郡から狗邪韓国の里程か七千里、対馬國まで千里、壱岐国まで
千里、末盧国まで千里、ここまでで、一万里です。
明帝紀においては、洛陽から遼東までの里数は四千里と明記してあるのです。
地図帳を開いて見るならば、『誇張誇大』は明らかです。
したがって、魏晋短里説は誤りであることも、ここに明白です。
陳寿は漢書を意識対抗して書いたはずです。漢書には西域伝が有りますが
三国志には西域伝はなく、その代わり立てられたのが東夷伝であります。
司馬懿の好敵手の曹真が活躍したのが西域だったという理由を加えても自然です。
なにせ、東夷諸国の平定は、司馬懿並びに晋帝室にとって、司馬氏創業記念の地です。
倭人伝に限らず、東夷諸国の記事に誇張が多々あるのは、当然でありましょう。
99美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 09:55:08
伊都=伊那岐or伊奈波
そのまんまだと思うけどな

ちなみに、扶桑、東海、蓬莱、伊都、、、
呼び方が違うだけで同じ地域の事と思うけどなあ
ただ地名は氏族と共に移動したりするから特定は難しいのかも知れないね

地名の移動を考えると、「中国」って地名は紀記の中では「なかつくに」の事だけど
戦国時代とかになると吉備氏が収めた今の中国地方の事を「中国」って呼ぶようになってる
中国の毛利

平安時代以降〜江戸時代は「中国遠征」ってのは、日本の中国地方へ遠征に行くって意味の言葉
(現在の中国へ行くって意味じゃ無い)


今の中国大陸を攻めたなら「中国征伐」とは書かずに「明国征伐」とか「日清戦争」って書く


古い書物に「中国」って記述があれば吉備氏の中国地方の事か、もしくは氏族が納める「なかつくに」の意味で、中国大陸の事じゃ無いっす
100プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 09:56:16
>>98さん

その誇張説明は少し矛盾します。
誇張であるなら
韓域規模を“方可四千餘里”と、洛陽遼東に相当の規模にし、大國扱いにする意味はありません。
101美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 10:01:18
あと「九州」ってのも諸説ある

今の中国大陸に九つの州があった時代は、大陸の事を「九州」って呼んでた時代もあるみたいだよ

その名残で近年まで中国からの米の事を「九州米」って呼んでたらしいし
ちなみに紀記時代は今の九州地方の事は「筑紫島」とか「筑紫地方」って呼んでるね


地名って色々ややこしいっす。だから特定すんのが難しいのかもね
102美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 10:09:33
邪馬台国に対して男王が納める狗奴国が美濃や尾張って話もあるんだっけ?

その場合は伊都国は美濃や尾張の事じゃ無いと思うな
信濃(諏訪飯田)辺りは昔から伊那郡や伊州とかだから、そっちが伊都じゃ無いかと思う
ちなみに葦原中国は信濃の事と言われてた時代もあったよ
葦原神社や素戔嗚尊の諏訪大社や塩田神社や新羅三郎や阿蘇氏の氏神の神社とかもある土地な訳だし

それこそ山に囲まれてる土地だしね
103美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 10:20:35
あと地域にある行事や風習文化からは追えないかな?
他の地域の事は良くわからないけど
例えばいまだに仏教伝来以前からの山岳信仰の風習文化がある地域ってあります?
白山や位山の飛騨が一番有名かな?
奥美濃の方もいまだに御嶽山の国之常立尊信仰が続いてるっす

具体的に言うと、田舎の婆ちゃんに気いたら、毎年、御嶽山の神主さんに来てもらって神棚を拝んで貰ったりとか
104美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 10:27:29
あと年寄りの風習で気になってたのが
「お弘法さん」と「お庚申さん」とかって言う風習

お弘法さん(空海)やら、お庚申さん(猿田彦)とかで地域の年寄りとかが集まる風習って他にもあるんですか?
あとお月見の日は「泥棒する」って風習も全国的じゃ無いみたいっすね

他には山の神を敬う「山なんとかの日」
この日は今でも一切の山仕事を辞めて山の神様を称える日らしいよ

全ての行事は旧暦にちなんだ事で、田舎の方じゃ行事はいまだに旧暦に沿って行ってるみたいだよ

旧暦の方が暦としては偉いような気がするよ
105美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 10:33:42
風習とかは邪馬台国とかと関係ないと思うけど、婆ちゃんとかに聞いても
「いつから、どんな理由でやってるのか知らん」
とかだから、すげー気になってたっす

全国的な風習なのか田舎だけの風習なのかすら良くわからん
106日本@名無史さん:2008/01/09(水) 10:48:10
俺的には九州より吉備氏がいたり出雲がある島根や広島の中国地方の方が、九州より古くからの日本の都のような気がするけどなあ
厳島神社とか出雲大社とかは古くからの氏族や都がいた土地な気がする


九州はなんか「神武東征」「日本発祥」に拘り過ぎてる気がするし

紀記読めば神武天皇以前から日本に都はあった事は読み取れると思うけどなあ

あと「王」や「帝」や「天皇」の称号は自称なんだから日本全土を統治する以前から氏族が名乗ってても別に構わないんだよ
日本統治=天皇称号
って意味じゃ無いと思うけどな
107ご参考まで:2008/01/09(水) 11:08:33
明帝の景初二年に遼東の公孫淵を司馬懿が討伐したとき、正確には、韓諸国は
未だ魏の直轄領土ではありませんでした。楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵が
穢が高句麗の支配下に入ったことから、軍を起こし攻めたのが、正始六年だと
韓伝に陳寿が記しています。その後、ご承知のとおり、帯方軍で反乱が起きました。
この戦いで弓遵は戦死しますが、「ニ郡の軍はそのまま進んで韓を滅ぼした」訳ですが
当時、東夷方面軍司令官は、母丘倹でした。母丘倹は、司馬懿の遼東討伐時の
幽州刺史で司馬懿の直属の部下でした。
東夷諸国の平定討伐司令官は母丘倹でありましたが、正始年間の東夷戦略を指揮していたのは
司馬懿ということになります。東沃沮伝等他にも誇張記事は多々あります。
司馬懿の晋帝室創業の地が東夷諸国である訳ですから、
卑弥呼が朝貢して来た倭は、里程も遠絶の地である、と記述した方が、陳寿としては
自らの晋帝室の歴史担当官吏としての立場から、当然であるはずです。
108美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 11:12:29
あと九州発祥説ってのはどうしても
「日本は中国朝鮮から海を渡って来た天皇氏族が東征して統治した国」
見たいな話に聞こえちゃうしさ
本当にそうなら神武以前の日本の神々の神話なんて残らないと思うよ

俺は神武以前から日本は日本人が暮らしてた国だし、神武も日向三代も同じ日本人だと思うよ

その頃の移民や渡来人が日本人になった訳じゃ無いと思うけどな
109ご参考まで:2008/01/09(水) 11:29:27
司馬懿が征服領土とした韓は、縦横四千里と記したのは、司馬懿顕彰の意です。
ならば、その先の倭は、さらにもっともっと遠くの里程に在ると書くべきは
当然の事であります。
漢書西域伝の国々も、殆どすべて万余里と漢書は記しているのです。
西域伝を立てない陳寿が、東夷の国々を大国もしくは遠里であると記すは当然です。
尤も、当時すでに倭への里程は詳細に中国に収支されていたはずです。
何故ならば、前漢が四郡を設置したのは紀元前108年だからです。
シルクロードは世界に冠たる商業民族の漢民族が拓いた道です。なんとなれば
四郡の中国商人にとって、倭は目と鼻の先程の距離でした。
其の証拠は、貨泉が近畿地方にも大量に出土することであります。
110美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 11:37:58
>>109
漢民族って少数民族でしょ?
随人や唐人や支那人や満州人や元人と漢人は違う民族と思うよ


中華人民共和国になってからまとめて「漢人」って呼ぶようになっちゃったから全部が漢人って呼ばれるようになっちゃったけどさ

戦前まではちゃんと漢人は漢人で支那人や唐人や上海人や満州人とかと区別されてた民族だよ
この戦前にいた少数民族の漢人が古代の漢人かどうかは良くわからないけどさ

古代の漢朝廷も言われてるほど大国じゃない気がする
秦ってのも良く考えたら大秦ってローマ帝国を差す言葉だし、秦の始皇帝とローマ皇帝の即位の年代はほぼ同じだし
111美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/09(水) 11:46:39
中国大陸はローマやトルコやギリシアとか西洋の大国が統治してた時代もある訳だから

秦、晋、魏、随、夏、梁、、
どっかここらの国のうちどれかは中国大陸を支配した西洋の帝国を差す言葉だと思うよ
ちなみに「元」って言ったらモンゴル帝国を差す言葉な訳だしさ

秦は日本から見たら蚕を日本に伝えた氏族とあるから秦はやっぱアーリアやメソポタミアの方から来た氏族な気がするよ
秦氏はローマに滅ぼされ国を終われたイスラエル帝国のユダヤ人って話も時代的にはまあわからんでもないしさ
中国人ってより中東人って考えればね
112プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 11:55:27
>>107さん
>当然であるはずです。

そう考えるのは後世の主観かと
正規の実寸法で記載して何か不都合でもありますか?
誇張寸法で記載すれば、必ず遠距離になるにつれ超大国を生むという、矛盾したものになります
自分の領土の何倍もの大国をうみだし喜ぶ皇帝が居るのですか?

その辺の矛盾をクリアーして頂く事を望みます。
113プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 12:08:15
>>107さん
いや? (圭角さん?)


その余りにも曖昧で主観的な“司馬懿顕彰の意”を具体的に示してください。
顕彰というオブラードを剥がし、目に見える(史料事実)ものにしていただけると、有り難いと考えます。
114日本@名無史さん:2008/01/09(水) 12:23:49
あとそうだ。シルクロードってのもインドメソポタミア辺りを中心として東西に網の目のように広がる道だから、作ったのはシュメール人とかそんな時代だよ
中国で言えば夏とかの時代
夏も確かシュメール人の国家だし

万里の長城もこの時代と思うけどな
115ご参考まで:2008/01/09(水) 13:26:03
司馬懿顕彰の史料事実につきまして、プラムさんへ。
司馬懿の名は、陳寿の三国志に百回以上も登場し、幾度も繰り返し記してあります。
が、私が調べた限りにおきましては、司馬懿を「司馬懿」と記しているのは、
魏書の帝紀に二回、蜀書に二回あるのみであります。残りすべては、司馬懿は
「司馬宣王」と記されているのであります。
例えば、有名な諸葛亮との五丈原の戦いにおいても陳寿の記述は次の如くです。
「諸葛亮は五丈原に根拠地を置き『司馬宣王』と渭南で相対した。」
明帝紀には『司馬宣王』と11回出てきます。少帝紀には同じく6回です。
無論、東夷伝においても司馬懿は『司馬宣王』と記されております。
また、司馬懿のみが三国志にその伝がありません。司馬懿の政敵や司馬懿が
斬殺した者の伝はありながらも、であります。この理由は言うまでも無いことです。
陳寿が晋帝室を憚り司馬懿を顕彰する必要が在った、いや、しなければならなかった
からであります。
116サガミハラハラ:2008/01/09(水) 14:02:38
なにかレスの進むのがはやくて手おくれという感じであるが、私への質問があるのでお答します。(質問以外のレスにも言及します)
>>53どうしても魏使のルートなんだと思い込むことこそ解釈の域をこえている。
正月の○鹿さん卓見です。
このことに考えがおよんだのは、私についで二人目です。
郡使の往来の郡使は、魏の時代の郡使ばかりではなく、公孫氏や漢代の楽浪郡の使者も入っているのです。

>>60女王国の所在地に隋書や後漢書の記事がよく符合するでしょうか?
 隋書や後漢書には女王国の位置は記されていないと思います。
 もし1万2千里が女王国の位置とするならば、それは郡より女王国までの総里数とみられるでしょう。
 そうすると、韓国内7千余里とするならば、邪馬台国は北部九州内ということになります。
 よって投馬国二十日は別計算。水行十日陸行一月は総日数ということになります。
117サガミハラハラ:2008/01/09(水) 14:31:29
>>66末ロ国から伊都国までの500里とは、末ろ国内と伊都国内を伊都国の都まであるいた距離の合算です。

>>67あえていうなら、伊都はイタと当時は発音していました。
タクとは50%あっています。

投馬国云々は不弥の港から二十日水行して到着するとみます。邪馬台国へは不弥の都からすぐとみます。(古田説)
万2千余里は総距離数です。水行十日陸行一月は総日数です。

>>51確かに書物には全く誤りがないとはいえません。
私がかいた「神功皇は実在した」の本にも多くの誤植があります。
しかし、問題はその程度でしょう。
細部に誤りがあっても大略は正しいとみていいでしょう。
方角については、東を南などという極端な間違いはないものと思います。

またルートについては、郡から倭に行く場合であり、頻繁に往来していたとみられる(漢の時代から)
一般的なルートとみてよいでしょう。

>>69古田武彦氏のいうところの道行法です。
 決め手は「行」という字です。「行」がある国には行き、つかない奴国にはいかないのです。
118プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 14:32:18
>>115さん

と、そのように陳壽、或はその代理の者が書き留め、後世に伝えているのでしょうか?
或は、何時までも
主観的に終わるものですか?
119プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 14:49:53
サガミさん

因みに
「行」文字に(い‐く)の意味はありませんよ
120太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/09(水) 14:58:14
邪馬壹国と壹与とで2回も陳寿が壹と臺の間違いをしているということは考え
にくい。中国の古文献に臺のほうが圧倒的に多いらしく、そこから邪馬臺国のほう
が正解だという結論を出すのは早計である。双方の字の頻出度が多いほうとか
著しく多いからだとかで、多いほうを採用するなどというのはもってのほかの
失敗選択法であり、字の多寡にとらわれてはまずいのであ〜る。

鎮守が誤字を採用したというなら、伝んの他の国名のひとつ「邪馬 国」もこれ
は陳寿が字を書き落としたのかと云いたくなる。 彼は知ってますよ、「壹」
と「臺」の判別くらいはねぇ。w

大陸古文献の「臺」字のほうは日本を知らない著者編者の誤認と観ていい。
当時の日本は九州と本州が別国気分にあり、たとえば本州の国を九州の国と混線
してそれら著者らが思い違いしたということである。陳寿の女王国書きこみは
詳細に渡っているから、国名の誤認はしてなかったということさ。
121太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/09(水) 15:09:30
>>120 訂正
× 鎮守    ○ 陳寿
× 伝んの他の国名     ○ 伝の他の国名

つまりだ九州側が「邪馬壹国」であり、畿内側がすでにヤマトと呼ばれていた事
からか「邪馬臺国」と思いこんだようで、中国の著者らの連中は未知混線のため
いっしょくたにして書き間違いしたということのもようだ。だから当時
「邪馬壹国」と「邪馬臺国」と「邪馬国」の三者が存在したわけで、まだ頭の
『邪馬』の字を使う国が日本にあったかも知れん?『邪馬』はそのころ国名に
いささか使うことが多い傾向にあったのだろう?
122サガミハラハラ:2008/01/09(水) 15:28:19
>>71伊都国=多久は間違いありません。
ただし、都については今までは延寿寺と主張してきたのであるが、ちかごろは、寺よりもうちょっと北へ100m〜200mのところであるように思いはじめています。
その根拠は墳丘墓の存在です。寺の北方数百mのところに、神社のたっている円丘がある(普通の道路地図でも確認できます)それが墳丘墓でないかと見ています。
近々行ってたしかめてこようとおもっています。

謙虚さについてですが、おとなしく控え目では押し流されてしまいます。私のようになんのバックもなくどこにも属するところもないものにとっては、大声で主張し
鉦や太鼓で吹聴していかなければ消えてしまうのです。
私は本来は気が小さく引っ込み思案でおとなしい人間なのです。

(1)については、古地名が必ずしも残っているとはかぎりません。
(2)考古学の裏付けは現在のところ全くありません。なぜなら発掘されていないからです。
延寿寺の北方に伊都国の墳丘墓があると
予想したのであるが、その根拠を述べたい。
当時の北部九州には独特の都市計画があった。
これは、北に墳丘墓、その南方に居住区、その外に市場という設計である。吉野ヶ里がその典型で同様なのは甘木市にも見られ、北に甘木公園の丘、その南に甘木、その南
に牛木がある。小城でも桜ケ岡、その南に甘木、その南に石木とある。
123ご参考まで:2008/01/09(水) 15:29:26
プラムさんへ。
陳寿の『正史三国志』の一つの大きな特徴は、いわゆる「現代史」であるところ
に在ります。ここが他の中国正史との大きな差異であります。
ご承知のとおり、たとえば後漢書の編纂は南朝宋の范曄(生年398-445)であり
陳寿(生年233-297)の如く、晋帝室の歴史官でありながら、
晋の魏からの政権簒奪の歴史を書いたものでありますから、ここここそが
正史三国志が他の中国正史とは大きく異なる点であるものなのです。
「司馬懿」顕彰は「司馬氏」顕彰としても可であります。
その証拠は、司馬懿の子や孫も常に、司馬○王・司馬□王・司馬△王と
陳寿は配慮して尊称をもって記述しているからであります。
 これが、史料事実としての追加分です。・・・圭角
124ご参考まで:2008/01/09(水) 15:38:37
行に「行く」の意味は有ると思います。プラムさんへ。
〔孫子〕
「山林険阻の形を知らざる者は、軍を行(や)ること能ず。」
125サガミハラハラ:2008/01/09(水) 16:02:06
それでは伊都国である多久市延寿寺付近でみてみよう。
北の平地の中に孤立した丘がある(普通の道路地図でも確認できます。神社のマークがあります。)
それが墳丘墓だとすれば、居住区はその南である。
市場は延寿寺の西の集落にあったであろう。延寿寺は都の南端であるといえる。
かような点から、伊都国王墓及び都を比定するものである。
もしこの地域を発掘してもなにもでないのであれば、私の多久説は崩壊することになります。

>>72そうですね、捨ててもいいですよ。しかし諸国の比定地はかわりません。

>>73人口論についてはまだわかりません。

>>75ありがとうございます。けど、すみません。絶版です。
私が調べた、倭国歴訪を置いてある図書館は  八王子中央図書館  三鷹中央図書館  相模原淵野辺図書館  相模原橋本図書館
                横浜中央図書館  新宿中央図書館の「神功皇后は実在した」の付録に邪馬台国のことをのせました。倭国歴訪より進化しています。
                以上です。 
                
126ローガン:2008/01/09(水) 16:15:50
>>116
話は振り出しに戻ったようですね。
隋書「都於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也」
後漢書李賢注「案今名邪摩堆(惟)音之訛也」
素直にお読みになるのでしたね。

>>東を南と書き誤ったとは考えていません。南だと認識して、そのように書いたと思いますよ。

私が貴方に質問したのは、貴方が特定した卑弥呼の墓とやらの、根拠です。
やっぱり、本を買わないとだめですか〜
127ローガン:2008/01/09(水) 16:38:15
>>120
陳寿が、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」を間違えたと誰も言ってないと思いますよ。


じゃあ「邪馬嘉国」も別に存在した国ですか?
128サガミハラハラ:2008/01/09(水) 17:20:44
図書館にはリクエストというのがあり、希望した本を買って貸してくれるようです。
ちと面倒で時間もかかりますが。
倭国歴訪は在庫があるかわかりませんが、同様のことが「神功皇后は実在した」にのっておりますので、それをリクエストっするのがよろしいかと思います。

図書館においていただくと、こちらとしても多くの人に読んでいただけるのでありがたいです。
129日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:23:43
国立国会図書館へ行けば全史料が読めるよ。
関東(東京)と関西(京都)にしかないけど。
130サガミハラハラ:2008/01/09(水) 17:26:20
邪馬台国問題は非常に複雑で人々の先入観も強く、ネットに要点だけをかきこんでも理解しがたいとおもいます。
詳細にかきこむのも大変でしかもじきに埋もれてしまいます。HPをつくるとよいのですが、作り方がわからないのです。
今度パソコン教室に行き、ブログを学び利用しようかなと思っています。
131サガミハラハラ:2008/01/09(水) 18:00:17
根拠は、魏志倭人伝の行路記事による邪馬台国の特定です。
倭人伝の行路記事の記述どおりにすすんでいくと、佐賀県小城市の市街地に到達します。
そしてそこには甘木という天子(国王)がすんでおられたような地名があり、歩百余歩の
円丘があったのです。その説明板にはかつてその丘から人骨がでてきた旨の記述があり
ことから娑婆岡となずけられたという記述がありました。
それは卑弥呼の葬式のときに殉死させられた奴婢の骨ではないかと考えました。(少量では娑婆などという命名はしなかったろうと思った)。
よって記事の記述に合うこと、都らしき地名がある、大きさと殉死にかかわるような人骨が出土(戦国時代天正以前)した記録があることから、その丘(桜ケ岡)が
」卑弥呼の墓であると考えています。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/09(水) 18:18:06
>>127
その可能性はあるでしょう。九州は小国に分けられていたでしょうから、その中の一国ともありえますね。
133日本@名無史さん:2008/01/09(水) 18:18:45
>>131
3世紀に殉死、風葬された人の人骨が、
残っていることはありえないでしょうね。
古墳など、表の空気に触れない場所にあっても
全身骨が残っていることなど稀ですから、風葬ではまず残らない。
人骨は、のちの時代の人たちのもので、埋葬場になっていたことは考えられます。

小城市の桜岡にある古墳って、茶筅塚古墳のこと?
茶筅塚古墳は前方後円墳で、4世紀後半築。
3世紀で円墳の卑弥呼の墓とは時代も形態も違う。
134プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 18:53:42
>>124さん

『行』に(行く)の意味なんてありません。
これは根本的な国語教育の誤りです

漢字一文字では名詞以外殆どの文字は意味をなしません。(つまり意味がない)例えば
『行』が(い)カ行になるには、「東京に行」のように、〇〇に+行 とセットに成り初めて『行』の文字に“い+カ行”の意味が成立します。


違いますか?
135日本@名無史さん:2008/01/09(水) 18:56:30
【文化】 日本最初の都市? 「邪馬台国」畿内説の最有力地、纒向遺跡中枢地区を発掘へ…奈良県桜井市
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1199864094/
136サガミハラハラ:2008/01/09(水) 20:17:59
>>骨の出土状況はしるされていません。風葬ではないようです。
桜ケ岡全体が卑弥呼の墓です。
茶筅塚古墳は4世紀にその地の豪族が卑弥呼の墓の上に新たに作った墓です。
これから考えるに、この豪族は卑弥呼とは全く関わりはなかったようです。
137サガミハラハラ:2008/01/09(水) 20:29:01
殉葬について、吉武高木遺跡だったか、大量の甕棺墓が発見されたが、副葬品の多い墓がすくなく、
ほとんど副葬品が何もない甕棺であったが、これら副葬品がない、または少ない甕棺は副葬品の多い墓の人物の殉葬
でなかったかといわれています。

卑弥呼の時代には甕棺は廃止されていましたので甕棺はないが、あるていど深く埋葬せられたのではないだろうか。
138日本@名無史さん:2008/01/09(水) 20:29:40
>>136
3世紀に築かれた円墳を壊して
4世紀に前方後円墳を新たに作るの?
この王族が卑弥呼と関係なかったところで、
百年程度なら前王権の墓であることがわかるはず
ほかの王の墓を壊して自分の墓にする例なんて
あったっけ?

何代もの王の墓にしたのなら尚更、
どの王の殉死者だかわからないですよね。

王の近親者を同じ墓に同葬した例はありますしね。

ただ、茶筅塚古墳が卑弥呼の墓だというのは無理。
139九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/09(水) 20:54:13
>>90
違います。どこを基点を置くかで違ってくるという事を
例を出して説明しているところです。
140日本@名無史さん:2008/01/09(水) 21:06:00
年末からココの勢いは凄いね
ドン来いをぶっちりだね
141プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 21:09:16
>>136サガミさん

自分で桜ヶ岡を否定してどうするんです。
そこから出た人骨は殉葬されたのですか?だったら卑弥呼の墓じゃないですね
たぶん他の人の墓ですよ(^O^)/
卑弥呼の死に対しての百餘人は“殉葬”じゃなく“徇葬”で、全く意味がちがいます。

殉葬とされるなら
桜ヶ丘は違います。


自分で否定しちゃいましたね
142日本@名無史さん:2008/01/09(水) 21:19:42
>>131
相模の師匠。
1:邪馬台国までのすべての道のりが「水行十日、陸行一月」だとすれば
  投馬国まで「水行二十日」はどう解釈するのでしょうか?
  ちなみにどちらも方向は「南」です。
2:小城が邪馬台国だとすれば、松浦〜小城の間に「五万個+七万個」の
  人口がある事になります。これは現代にも勝る超過密都市がある事に
  なるわけで、相当無理があるのではないでしょうか?
143九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/09(水) 21:24:11
>>98 「末盧国が唐津、伊都國が前原、奴國が博多」
 クニのサイズはそんなに小さくはないと思いますよ。
特に奴国の国域は大きかったと思います。
魏使は東、東南、方向へと一貫して進んでいる、という事は
女王の都への通りすがりである事が解ります。
特定の弥生都市に立ち寄ったのではないのです。
あくまで女王国までの最短距離を通ってきたのです。
漢代、中国は風水などが一般に信じられ方角を正確に知る事が必然となっていました。
まして戦乱の三国志時代であり広大な中国で方向を間違えれば軍策が全く立てられず
軍隊の全滅を意味します。
当時の中国では北極星を目印に方向を知っていたので倭にあっても同じであり
倭に来る時も方角のエキスパートを連れていたと思います。
従って方角は誤りではありません。距離については多少不自然さがありますが
理屈付けが出来ない事もありません。
144日本@名無史さん:2008/01/09(水) 21:25:58
殉葬と徇葬って全く違うんですか?
145プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/09(水) 21:48:20
>>144

はい(^O^)/


例えば
徇葬にしろ殉葬にしろ、『葬(ともらう)』という

〇葬 の 〇は、屍をともらう方法が〇だ、という意味です。

土葬→屍を土に埋め葬する
火葬→屍を焼き葬する

風葬→屍を外気にさらし葬する

殉葬→屍に何かを供える葬する

徇葬→あまねく葬する


と、いうように

たぶん、常に影印を見ている人は決して『殉葬』と『徇葬』を混同し、扱う事はしないでしょう。
146古代:2008/01/09(水) 22:21:54
邪馬壹国の発音「ヤマタイ」あるいは「ヤマド」、後者はヤマトに似ていますね。
隋書倭國傳では、「邪馬台は邪摩堆」だと記していまして、「ヤマト」です。
『万葉集』には「耶馬臺」という字があり臺を「ト」と呼んでいる。
ちなみによくいわれる九州の「山門」の発音が甲類、「大和」「邪馬壹」は乙類なので
これだけで九州説をとるのは早計か。
ちなみに、耶馬臺を「ヤマト」と呼んだからといって大和朝廷に結びつくということではないので悪しからず。
147日本@名無史さん:2008/01/09(水) 22:30:44
>>143 ですがさん。
>「奴国の国域は大きかった」というのはいかにも抽象的ですね。
 奴国:投馬国:邪馬台国=2:5:7 でいいですよね?
  ちなみに私は奴国は那珂川流域、投馬国は遠賀川流域、邪馬台国は筑後川流域と考えています。
>「あくまで女王国までの最短距離を通ってきたのです。」
 とは何を根拠におっしゃっているのでしょうか?
 現代、邪馬台国ばかりが有名ですが、「魏志邪馬台国伝」ではなく、「魏志倭人伝」がタイトルです。
 読むとそれは倭人たちの国々について述べているわけで、一直線に邪馬台国に至る道程を述べているとは
 思えません。「倭人伝」には倭人たちの成している大国である奴国、投馬国を紹介しつつ邪馬台国への道順
 を魏に紹介していると考えるべきでしょう。そしてそれは距離的にはやや遠回りでも一番安全な道ではなかったかと
 思っています。
 
148日本@名無史さん:2008/01/09(水) 22:42:11
>>146
>『万葉集』には「耶馬臺」という字があり

何という写本の第何巻、国歌大観の歌番号は何番。
149太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/09(水) 23:25:30
>>146
隋書を書いた者の間違いだね。当時もう日本は九州の王朝と畿内の
大和朝廷との二つの世界に隔てられていた。だから国名が二つあって
もおかしくなく、隋書の編者は間違いを犯して卑弥呼の国でない
国名を書いたというのが正解。つまり九州と本州とは別々の国という
考えが古代日本人の感覚なわけ。

その間違いを信用しちゃぁおかしくなるよ。女王国名は陳寿の書いた
とおり「邪馬壹国」が正しい。壹与までも二つもあんなに詳細に
倭人伝を記述していて間違えるものではない。「邪馬国」っていうの
もボケの陳寿がうっかりと抜かしてしまったのか?w そうではある
まい。当時『邪馬』の名がつく国名が少しばかりはやっていたという
ことだ。それで遠い中国の著者らが似ていたため誤認して、他の書も
右へならえで間違えてしまったのさ。
150正月○鹿:2008/01/09(水) 23:26:13
>>55

> 倭人伝を先入観なく読んだとき、

最初にお断りしておきますが、>>31等で私が言っていることは、
文章の中で書かれていないことは、仮説として類例などを斟酌し
て組立てるべきで、これを省略して書かれていないことを書かれ
ているかのように扱うのは反則ですし、「書かれている」と誤読す
るのも同罪だと思います。
また、「從郡至倭〜は魏使一行が通った行程として書かれている」
という(そこまで言い切る人は滅多にいませんが)ような考えは、
それこそ「先入観」まみれの誤読の結果だと思いますね。

> まず、壱岐(一支国)から唐津(末盧国)を経由して前原に行くのが
> わからない。壱岐からならば、唐津も前原も同じような距離なのは、
> 地図を見れば明らかだから。

それは、そうです。壱岐から航路を引くとして、一番近いのは呼子です。
呼子から唐津までは沿岸水行して唐津から陸行というのは、前原へ
行く方法としては不合理です。その「不合理」に対する私の解釈(実際
の行程ではないから説)はありますが、それを説明するに当たっては、
先ず互いの「先入観」を検証しながらでないと出来ないことですね。

> 唐津から素直に〜全く無理がない。

「全く」かどうかはともかく「無理」のなさそうなコースです。
ただ、伊都は「郡使往來常所駐」なのですが、今のところ多久にそのよう
な痕跡は見つかっていません。逆に前原は楽浪方面との濃密な関係など
から私的には第一候補と見なさざるを得ませんのです。

151横槍:2008/01/09(水) 23:46:16
いつも古い時代の世界地図を見ると思うのだが、
どれも朝鮮半島が異常に誇張されて書かれているよね
ルーツは倭人伝かな?
152あさきち:2008/01/10(木) 00:07:24
>>149
太国さん。しばらくです。以前七支刀の件で別の所でお話した、あさきちです。
隋書が書かれた当時、日本には九州王朝と大和朝廷との二つの世界があったのですか!
ご教示ありがとうございます。

>隋書の編者は間違いを犯して卑弥呼の国でない国名を書いたというのが正解。

論拠をお願いします。
>他の書も右へならえで間違えてしまったのさ

これについても、宜しくお願いします。
尚、切り返しの質問は無用です。教えて頂きたいだけですから.

急ぎませんので。宜しく。
153美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 00:08:04
>>130
ブログはレンタル日記帳見たいな事だから、ブログレンタルサイトとかに登録するだけで簡単に出来るっすよ^^
パソコン教室に行かなくても平気っす


HPもレンタルとかで作れる所とかあるけど、HP作るならホームページビルダーとかのソフトで自分で作った方が良いと思うっす
HP作るには使ってるインターネットのプロバイダーに「WEBスペース」を借りて、んでそのスペースに自分の作ったHPのファイルをアップロードして、、
って、この辺の理屈がちとややこしいんだと思う

とりあえずレンタルブログとか借りて、書いて見たりが良いかもっす
サイトからメアド登録するだけで大概すぐ使えるよ^^
154美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 00:11:52
邪馬壹国ってのが話になってたけど、これ邪馬台国と同じ意味じゃないの?
155ローガン:2008/01/10(木) 00:14:26
>>150
同意します。
結構なレスでした。
156美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 00:21:40
距離を表す単位の「里」の意味を調べてみるとね、
時代によって「里」の距離がまちまちだから、古代の書物にある「○○里」ってのを近代の「里」って単位に当てはめない方が良いと思うよ

里の単位の意味
・地球の外周の距離を何分割かした単位
・影が一時間で伸びる距離
・それまで使ってた「町」って距離の単位を元にそれを何倍かした距離
・100歩を1里とした


なんかいろいろあって良く解らなかったよ
もし距離を元に場所を探るなら
魏志倭人伝を書いた氏族が「1里」を何を基準とした単位として使い、1里は何キロの事になるのかをちゃんと調べた方が良いと思うっす
157日本@名無史さん:2008/01/10(木) 00:32:53
邪馬台国の証拠出るか…纒向遺跡を本格調査
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080109p102.htm
158美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 00:34:23
京都〜大原が三千里
母を訪ねて三千里

例えばこれも同じ三千里っても、全然違う距離っすよ

あと戦国時代とかもそうだけど、こういう場合の距離の表示って、普通は直線距離の事じゃなく、街道とかの道のりの距離を書くと思うよ


「美濃から江戸へ行くには尾張に出て東海道で行けば○○キロ。信濃に出て中山道を通って行けば○○キロ」(当時はキロじゃないけど)
江戸時代の藩主とかも確かこういう書き方してたしさ
159古代:2008/01/10(木) 00:40:40
卑弥呼という字がもともとの発音を差別的な漢字で書かれているという事から
姫子、日女子、日巫女、日御子などの漢字が当てられるよね。
てことは邪馬台国のもともとの漢字もあるのでは?
邪馬=山だろうけど台はなんだろう?そのまま「山台国」かな。それとも「山大国」・・
そもそも邪馬台国って固有名詞?
倭の起源が「我(わ)は・・・・」て説明したときの印象からって説があることからすると、国の説明した時の印象では?
だから邪馬〜という国が多い。でも固有名詞っぽい国名もたくさんあるか。知ってる人いますか?
160日本@名無史さん:2008/01/10(木) 00:42:24
魏志倭人伝の「里」ってのは直線距離の事じゃなく、そこに辿り着くまでの街道とかの道のりの長さの事と思うよ
海路での距離の海里の意味と、陸路での距離の里では、意味が違う気がするし

真っ直ぐな街道なんて無いもん
特に峠超えの街道とかは、ちょっと峠のあっちへ行くだけなのに丸一日かかるよ
クネクネ道だからさ

どこからどの街道を通って、どこへ行った事としてるのか良く解らないけども
161日本@名無史さん:2008/01/10(木) 00:53:20
>>159
邪馬台国を「ヤマタイコク」って発音するのは日本人だけだよ
亜目利加(アメリカ)とかさ


「邪馬台国」って大陸人が付けた名前なら、その国名の発音には何の意味も無くて、付けられた漢字に意味があるだけだよ

日本人が付けたなら「ヤマタイコク」って発音に邪馬台国とか山大国とか、発音から漢字を当てたりしてるよ
162日本@名無史さん:2008/01/10(木) 01:17:12
>>157
おいおいマジで「邪馬台国問題に終止符」すんじゃね?w
163古代:2008/01/10(木) 01:20:09
「我」から従うという意味合いのある「倭」という字が当てられ、日本国内ではその字を嫌って「和」に変え
さらに聖徳太子の時に「日本」に変えたというのが流れだよね。

例えば山辺にある大きな国という事で「山大国」と大陸の人が名付けたんだけど、本字は使わないので邪馬台国という字をあてたとか。
むしろ逆かな。日本人が「ヤマタイコク」って言ってその発音に邪馬台国という字をあてた、かな。
164日本@名無史さん:2008/01/10(木) 02:10:46
中国語は、音に字を当てるので、
卑弥呼という字が、同時、魏でどんな風に発音されていたのかが問題。
で、結論は「PIMEPA」
ヒミコだと日巫女かな? とか思うが、ピメパってなに?

魏の役人が邪馬台国の使者に、「あんたらの王はなんて呼ばれているの?」
とたずね、使者が「ピメパです」と答えたから
ピメパという音に卑弥呼という文字を当てたのだ。
だから、日本人はピメパとは何なのかを考えなくてはならん。
165日本@名無史さん:2008/01/10(木) 03:31:45
ジャバダイコクって読めばインドネシア方面っぽいな
166日本@名無史さん:2008/01/10(木) 03:37:20
>>164
中国人は音に漢字を当てる使い方は出来ないよ

「1字に対して1発音(子音+母音+子音)」
ってのが、中国人

中国人の漢字の使い方を英語で例えると
「JAPAN」って書いてあれば
「ジェイ、エー、ピー、エー、エヌ」
って読むんだよ
これ以外の読み方はしないよ


中国人は日本人とは漢字の使い方が違うっす
167美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 03:59:53
中国人は熟語の観念が無いってのは、例えばカツオなら「堅魚」って熟語じゃなく「鰹」って字を作っちゃうから見たいだよ
(ただし新しい漢字が増えすぎちゃうから古代の時代の人が漢字を何千文字かで纏めたらしい)


「倭」ってのは単純に考えれば「人+委」って字
「魏」ってのは「委+鬼」って字になる


中国人は自国を「鬼」として、日本を「人」としてる事になる


あと「ひみこ」って発音から「卑弥呼」って字を当ててるとしたら、それは中国人の漢字の使い方じゃないっすよ

168日本@名無史さん:2008/01/10(木) 04:25:45
>>150
以前から、インターネットで遺跡や古墳を見ているのだけど、嫌になるくらい
数が多い。多すぎて頭の整理がつかないくらい。

多久市の遺跡としては、牟田辺遺跡がある。
甕棺墓60基が出ていて、細形銅剣、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、円環型銅釧など
が見つかっている。佐賀県の見解では、「弥生時代中期には多久盆地に有力な
首長層が存在したことを示す」となっている。
また、四反田遺跡からは青銅鏡も見つかっている。

多久市も何もないところではないと思う。
もっとも、多久市が伊都国と決めているわけではなく、あの周辺だろうと
思っているわけだが。
もう少し東にある佐賀平野西部最大の弥生集落跡・土生遺跡でもいいと思う。

それにしても、佐賀平野には、惣座遺跡や吉野ヶ里遺跡など巨大な弥生集落が
多い。

佐賀平野からは、前漢鏡や後漢鏡が数多く出ている。これは、古くから
大陸と交流があったことを示している。はたして、どういう経路で大陸に
行っていたか。
地図を見る限り、唐津から多久市へ抜ける道が、卑弥呼以前の弥生中期から
あったとしても不思議ではないと思う。
169日本@名無史さん:2008/01/10(木) 04:34:24
>>168
ついでに書いておくと、邪馬台国の位置としては、山門郡や宮崎平野の
可能性も残るが、熊本が一番有力と思っている。
170美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 05:08:19
俺は倭人が朝鮮半島を統治してた時代の弁韓11国の中の「弥烏邪馬国」の事なだけな気がするけどなあ
http://mobile.seisyun.net/cgi/wgate/%e5%bc%81%e9%9f%93
ウィキにもあるし


あと邪馬台国がどこに有ったかとかの前に
「邪馬台国が日本の発祥国」
見たいな解釈がそもそもおかしいとは思ってるけど

倭人伝の中の邪馬台国の場所を特定したとして、そこが日本の発祥にはならないと思うよ
つか日本の歴史は邪馬台国よりもずっと古いよ

171日本@名無史さん:2008/01/10(木) 05:15:52
例えば大陸には三国志より前の時代の封神演義って言う仙人達の神話がある

この中では日本は「東の海に浮かぶ扶桑の国」って呼ばれてる
邪馬台国より前の時代だよ

かと言って扶桑国が日本の発祥とも思わない
それより遡って、芦原の中国や中つ国原の時代ってのも紀記に書いてある訳だし
すげー昔から日本人は日本に住んでるんだと思うよ
172美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 05:21:57
またトリップ付け忘れた;;

とにかく「発祥」って言葉になんかすげー違和感があるっす

日本人は魏志倭人伝の頃の時代に中国大陸や朝鮮半島から渡来して来た民族って訳じゃないと思うけどなあ
あと、石器時代、縄文時代、弥生時代って区切り方も違うと思うし
縄文人も弥生人も同じ時代に共に住んでたと思うよ
昔はアイヌ人と日本人が共に住んでたようにさ
173美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 05:39:11
>>142
俺思うんだけど、魏志倭人伝には
「女王卑弥呼が納める倭人の国がある。邪馬台国、○○国、○○国、、
其の国から南東へ水行十日、陸行き1ヶ月行くと伊都国がある」


って書いて無いですか?

邪馬台国への道のりじゃなく、邪馬台国など複数の国々から、伊都国とかへの道のりを記してるような気がするっす


「其の国より、水行○○日〜」
の、『其の国より』ってのは邪馬台国とかの国々の事じゃ無いのかな?


「魏国より水行十日〜」って事を書いた訳じゃ無いと思うよ
174美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 05:49:29
http://www63.tok2.com/ii/i.cgi?U=home2/ahonokouji/siryo/sub-wajinndenn.html&P=0

って、すんません
書いて無いっすね

耶麻都=大和=邪馬台国=日本=全て発音が「ヤマト」で日本の事
見たいな解釈しちゃえばそれまでな気はするけどなあ

狗奴国なんて名前の国も日本には無いって言えば無い訳だし
175日本@名無史さん:2008/01/10(木) 07:35:20
166は日本語ができないw
176ご参考まで:2008/01/10(木) 09:01:29
プラムさん、おはようございます。
「行」は「行く」と、これ自体のみで意味するところ也、と存じます。
そうでないとするならば、
「草木茂盛『行』不見前人」の解釈理屈が窮屈になりませんか。
この場合、行のみにて「行く」という好例と存じます。
また、金文(古代、青銅器に刻まれた文字や文章)にも、「先行・行道」のように
用いられているということです。
177ご参考まで:2008/01/10(木) 09:13:36
追伸、
韓諸国は、司馬懿の東夷戦略をもって、魏が征服領土とした国ですから
戦前の大日本帝国が、満州を大領域国として日本国民に喧伝したことと同じく等しく
考えてよいと存じる者です。
さればこそ、扶余にしても韓国にしても倭にしても、誇張表現されている所以と
思う次第です。
178プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/10(木) 09:49:21
>>176さん おはようございます。


『行』ですが、
この文字に先程貴方が記したように(先、道)等の、方向性や目的が付加し、はじめて『行』に(い‐カ行)の意味になります。
付加されるモノによって『行』の意味は変化するのです。
だから“カ”行の『行』は(いく)ではなく(ギョウ)ですね
『行』に特定の意味がないからこそ、変化出来るのです。
179プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/10(木) 12:49:03
>>177さん
国民宣伝と魏書は同等ですか?
180ご参考まで:2008/01/10(木) 13:34:27
プラムさんへ。
『三国志』は、ご承知のとおり、晋による統一が為されて間もなくの時期に書かれました。
蜀の滅亡は263年、呉の滅亡は280年。作者陳寿の仕えていた蜀、その蜀と敵対し続けていた
蜀が滅んだのは、陳寿が30歳を過ぎたばかりのときでした。
それから統一まで約20年経過していましたが、作者は勿論周囲の人にも、三国時代の記憶は
生々しく残っていたはずです。
魏の後を受けて成立した晋王朝のもとで、三国時代の歴史及び晋が魏から政権を簒奪した歴史を
書く訳ですから、細心の注意が必要であったことは言うまでもありません。
 描く時代とその歴史家の時代が近接していれば、必ずと言ってよいほど批判が起こり時には
誹謗中傷が加えられるのは日本と中国の教科書問題からも解ります。
 なぜなら、ごく近い祖先に対する記述に敏感な子や孫が生存しているからです。
彼等は気に入らない記事に出会うと故意の曲筆として非難します。
しかも、陳寿の場合、その彼等とは、自らが仕える晋帝室です。つまり、晋の創業者の司馬懿の
子孫である訳です。故意誇張もしくは『喧伝』する意図が無いはずがありません。
 三国志が他の正史とは、こここそが決定的に異なっていることのご理解をと存じます。


181ご参考まで:2008/01/10(木) 13:58:44
以前にも申しましたが、明帝紀での代表的な故意作為記事は、明帝と司馬懿の永訣記事です。
司馬懿は早馬で駈け戻り明帝の臨終に間一髪で間に合います。幼帝を補佐せよと遺詔をした
その当日に明帝は崩御したと陳寿は記しています。時代劇ではあるまいし、こんな話はまず
有り得ない話でしょう。この記事の陳寿の作為意図は、明帝が病床に伏して以来、臨終当日迄
司馬懿は都洛陽に居なかったというアリバイ工作記事に外なりません。
 証拠はありますよ。明帝は、司馬懿が駈け戻る前に、反曹爽派の人材を司徒と司空に任じて
いるのであります。かくなる人事は司馬懿不在では出来ません。さらに言うと
陳寿は、一人明帝の評を悪口で書いています。武帝紀の曹操や文帝の曹丕と読み比べて下さい。
つまり、三少帝を経て晋の司馬炎が魏から禅譲を受けるのは当然という布石なのです。
まだまだ沢山ありますよ。明帝の継主の斉王などに至っては、その出自さえすら不明であると
あえて明記している次第です。これも晋帝室を憚った記事であります。
 かくなる魏書です。倭人伝のみが、故意作為誇張が無いと断言する理由がありません。
182ご参考まで:2008/01/10(木) 14:08:51
明帝崩御記事の前段を御読みください。
明帝は自称仙女と称する者の水を飲んだが病状悪化を理由に女を斬殺しています。
司馬懿のアリバイ記事は、司馬懿の明帝毒殺疑惑を払拭する為に書かれたものです。
しかし、やはり嘘を重ね塗り固めても、やはりホコロビは見え隠れしています。
それでも、陳寿はかくあえて書いたのであります。
史記を書いた司馬遷は宮刑に処せられ、漢書を書いた范固は獄死していました。
まして陳寿は現代史を書いたのです。晋帝室監督の下にです。
曲筆して書かざるを得なかったのは、当然ではありませんか。
しからば、倭人伝いや東夷伝のみが曲筆個所皆無などとは云えぬ次第であります。
183日本@名無史さん:2008/01/10(木) 15:17:29
ご参考までさんのレス、最高!

こういうの読むと、ものすごく勉強になるね。
悪評多い2ちゃん日本史板だけど、まだまだ捨てたものじゃないなと思うよ。

ご参考までさん、がんがれ!がんがれ!
184プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/10(木) 15:49:52
>>181さん

だから倭人伝は誇張など、作為的な部分の可能性が付き纏うだけで、間違いなく誇張だとする理由にはなりませんよ
誇張があるなら
誇張の部分と、裏付け証拠を提示し論理的に解決するのが史学の姿勢です。
主観的に99%疑わしくても、論証、物証がなければ
可能性0%のトンデモと何も変わりません。


で、何処が疑わしくその物証は?

もしかしたら『倭人在帯方…』の『倭人』も、本当は適当にでっちあげたのかも……
うたぐり出したらキリがありません。
出来る限り主観は省き議論しましょう。
185ご参考まで:2008/01/10(木) 15:57:00
ご参考までに、東夷伝及び倭人伝が司馬懿顕彰と言うさらなる理由
 明帝の太和三年229年12月の記事
大月氏国王波調から使者が来て波調を親魏大月氏に任ずる
 斉王の正始四年243年12月の記事
倭国の女王俾弥呼が使者を遣わし捧げものを献上した

世界史地図で見るとおり大月氏国は大版図国です。倭国はそれこそ矮小です。
ご存知のとおり、倭と卑弥呼の初見は明帝紀です。ここで疑問が生じます。
倭人伝に卑は弥呼朝貢は景初二年と記され、つまり正始四年より以前である
ことは皆さんご存知のとおりです。
 この記載順序に、皆さんは何の疑義もお感じになられぬでしょうか。
其の前に、大月氏の魏朝貢に貢献した人物は、司馬懿の好敵手の曹真です。
これは、司馬懿顕彰の証明の入り口です。後日、詳細は書きます。つまり、
帝紀には、親魏○王と記してある朝貢国の王が二人は居る訳です。
が、陳寿の記事取扱いには、雲泥の差異が在ると言わざるを得ない次第です。
では、後日・・・。レス浪費で本日は恐縮です。
 
186ご参考まで:2008/01/10(木) 16:00:38
プラムさん、東夷伝に陳寿が書いているところの
・女ばかりの国
・顔が二つある人間の住む国
というのは、誇張と言わずして何とおっしゃるのでありましょうや。
187プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/10(木) 16:06:21
>>186さん

顔が二つ、女だけ
そう書いてあるなら、そう受け取るしかないでしょう。
他にどうする事もでまきませんから
そして、その翻訳は正しい和訳なのですか?
出来れば原文提示し願いないでしょうか?
188美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 16:36:41
>>186
>顔が2つある人間の住む国

おおー。それ両面スクナの事だ
飛騨の昔の呼び名は肥国、日球国、火国、日高国、、だったけな?

両面スクナは仏教の毘沙門天だかのモデルともされてる人だよ

顔が本当に2つあったかどうかは知らないけど、もし本当にいたなら、伝承から考えていわゆる巨人族の人と思うよ
山奥の洞穴で仙人として住んでたんだよ


女ばかりの国ってのは聞いた事無いけど探せばどっかにそんな話しがあるかもだよ


顔が2つとか事実だとは言わないけど膨張だとか作り話とか決めつけない方が言いっす
何かそういわれてた理由があるからそう書いてるんだと思うしさ

顔が2つってのは両面スクナのいた国の事と思うよ
189太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 16:49:05
>>188
この前、黄金強盗が侵入した高山の鍾乳洞のところだな。お前さん
見に行ってないなら、一回行ったらどうだ?
もう随分前に見学して来た。今回、秀逸。
190美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 17:03:44
>>189
おー
確かにいろいろ行きたい所は沢山あるっす
両面スクナの洞穴って龍とか何とかって名前じゃなかったですっけ?

伝承やいわれが本当なら顔が2つあったとか4メートルあったとかは別として、実在した人物と思うよ
人物ってか仙人やら龍神とか言う扱いされてるような人なはず
けど結構いろいろ詳しく伝承が探したらあったはずだよ


よし!俺の中では「実在した」って事にしちゃうっすw
191太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 17:11:26
>>188
今回はなかなか粋のことを出してきたな。だがそれが顔が二つある
人間の住む国ズバリそこを示してるとはマ〜ダマダ云い難い。だが
面白いものを引っ張りだして来たので、味があると思う。
君はムー民なんだろう?w

来月刊行のは女王国が畿内か九州かどちらなのかを超能力者に観て
もらう企画だな。彼らはあたるときはスゴイからねぇ。TVで事件後
彼らに観てもらったら、的中したのが金貸し会社の放火犯人の似顔絵
だった。大したもんだよ、あれは。w しかし女王国となると崇神世
の古いころだから、そううまく行くかどうか? 難しいと思うがね?
192美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 17:17:44
女国ってのもくぐったら沢山あった
日本ってよりどっかから渡来して来た女仙人達の民族の話っぼい気がする
場所が日本以外にも朝鮮半島、チベット、西遊記の話の奴とかいろいろあって特定出来ないけど、同じ女仙人達の事を言ってるのかも知れないっす

ちらっとくぐった感じだと
浦島太郎が行った竜宮城はこの女国の事みたいな感じの言い伝えと思う
亀石に乗って行けるとか行けないとかの話みたい
これ三河の亀石の話と同じなんよなあ

女国ってのも多分なんかちゃんとした史実があるにはある気がするよ
これが浦島太郎とかの竜宮城とかの事なら、両面スクナよりも有名な話なのかも知れないっす

女国が竜宮城ならどっかの島の事みたいな感じと思う
193太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 17:23:26
連中が九州に来たとき、実際は行ってないだろうが、高山伝殺と記の
国生みにある女島伝説を双頭人の国、女ばかりの国と彼らが思いこん
だためだろう?w 両面宿禰の話と日女島の話は仁徳紀あたりに
どちらも書かれていると思ったがね?
194美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 17:31:33
>>191
俺さ、昔の人はアホでもウソ付きでも単なる妄想家でも無いと思ってるんだよ

例えば「日食を見て恐怖した経験を天照と岩戸になぞらえて、、」みたいなのは現代人が昔の人はアホと言う前提で勝手に解釈してるだけと思うしさ

昔の事は昔の人が一番良く知ってるっすよ
だからまずは昔の人達が現代まで、どんな伝承や言い伝えを伝えて来てくれたのかってのを調べるのが大事な気がするんすよ
突拍子の無い話でも何かそう言う話として伝わる理由があるんだと思うしさ
調べるってもネットで探せば本当沢山そういう伝承や神話が出て来るしさ
日本は伝承や神話が本当に沢山ある国すよ
日本は歴史と神話の国と思うしさ


あとはそれらをパズルみたいに勝手に解釈して繋げて見たりとかだよ


つか初めからそういう伝承を否定しないっす
(すげー顔が2つあった人間が本当にいたかも知れないぜw)
とか思いながら、他にどんないわれや伝承があるのかな? っていろいろ調べたりだよ^^
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 17:39:29
記の伊予の「二名島」の形容かも知れんがね? とにかく記にはそこ
んところを「身一つに面四つあり」とあるから、島名の「二名島」の
二を思って双頭人二人分とみなして九州に来た連中が聞きこんだん
だろうがな?w
196美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 17:45:28
だいたい日食が岩戸だなんてのも、自分達で暦を作って使ってた古代が日食や月食を知らない訳ないんすよ

旧暦や13月暦って言う暦は月と太陽と地球の動きを理解してる天文学のある人じゃなきゃ作れ無いよ


「月は地球の周りをグルグル回ってる星」
なんて間違った知識しかない現代人より古代人のが天文学に詳しいんすよ

地上から空を見上げりゃ、そら月も太陽も地球の周りを回ってるっす
ただ宇宙からの視点で見た場合、月は太陽の周りをグルグル回ってるだけで地球をグルグル回ってる訳じゃ無いっすよ

っても俺も最近までこういう事を全然知らなかったけど
197美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 18:00:17
>>195
女国の方はちょい自分なりに、ちゃんと調べて見るっす
女国なんて話、今知った所すよ
けど何か元となる史実がちゃんとある気がする


太国さん、あんま九州に拘らないでもいいと思うすよ
日本の発祥なんて、記紀や他の伝承から言えば、邪馬台国の時代より遥か以前の事だと思うし
俺がいつも神武即位の2600年がおかしいって否定するのも、日本の歴史はもっと古いと思ってるからすよ
魏志倭人伝にも邪馬台国が日本の始まりなんて書いてないっす
仮に日本の歴史が5000年として、日本は沢山の国がある都市国家だから
邪馬台国はその歴史の上にあった国の名前の一つとしても別に魏志倭人伝の記述と相違は無いすよ
歴史が5000年かどうかは知らないけど、とにかく古いっす
198太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 18:01:01
卑弥呼の女王国が2倍暦をやってたかどうか不明だ。ある人は春秋暦
という2倍暦法があったと主張するが、あれだけ(倭人伝)ではどう
だかわからない。
アイヌのほうは、新井白石は蝦夷志に
「まだ文字なし。甲子を知らず寒暑を以て年を紀す。虧盈(←月の
満ち欠け)を以て月とする。(新井白石全集)
と書かれているとういうが、あっちも倍暦はあったのか??
199太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 18:03:34
九州にこだわるななど、ぼかすのを推奨しちゃぁいかんよ。
200美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 18:44:05
>>199
まあ発祥は九州でもいいっすよ^^
九州、吉備、越は大陸との交流の窓口の港があった場所で、そういう意味じゃ特に九州が一番の港なのは間違い無いと思うし
日本書記によれば当時は九州の済洲島に日本府が置かれてた訳だから、日本(発音はヤマト?)って国の名前はここから来てるんだとは思うよ

ただ九州勢力が各地の荒ぶる神々を統治してカシ原に宮を置いた以前の歴史も
俺は同じ日本人の歴史であり日本民族の歴史と思ってるっす

誰が統治しようが複数の勢力に別れようが日本人同士の勢力争いなだけと思うしさ
201美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 19:02:31
>>198
暦を作ったのは古代人なんすよ
今世界的に使われてるグレゴリオ暦、いわゆるキリスト暦ってのも、500年ぐらい前に、古代からあった複数の暦を掛け合わせて作ったもの
天体学の知識に乏しい(月は地球の周りを回ってるとか思ってたり)学者が複数の暦を統一した暦


一方、今は使われてない古代の旧暦や13月暦ってのはちゃんと古代人が天体の動きを理解して天体運動と連動するように1から自分達で作った暦
(例えば旧暦や13月暦の新月は月と太陽の動きを正確に表してるけど、今のグレゴリオ暦では正確な新月の日にちとかがわからない)

暦の成り立ちがどうかとかは暦を作った古代人にしか分からないっす
けどちゃんと天体の動きなどと連動した理由があるっす
マヤや昔の中国やインドのように複数の暦を使って更に他の観念まである暦もあるっす(例えば仏教の仏滅大安とか、六白二黒とか)

今の暦は天体運動とはずれてるから間違った暦とも言えるっす
この暦を使ってると立春とかの正確な日にちが解らなくなるとかって話もあるみたいだよ
202サガミハラハラ:2008/01/10(木) 19:26:11
>>153ありがとうございます。
203日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:20:59
あ〜あ、もう簑問他と太国のチラ裏と化してるな。w
204唐松山:2008/01/10(木) 20:44:36
美濃もん太さん ちゃんと ほつま 読みました?
暦も出ているし、なにしろ 神代に強い。

今の 書き込みの状態じゃ 混沌としていて まだ 陸に成っていない、
固まってから 書き込むべき それまでは 古伝盲信が 在りますよ。
盲信なら 水を固体と言っても良いから。


205横槍:2008/01/10(木) 21:18:31
隋書倭国伝に東西五月行、南北三月行となっているので・・・

ソウル〜出雲、水行20日
出雲〜大和、水行10日(陸行換算1月)が正解でしょう。

因みに出雲から大和
東回り
出雲⇒若狭湾⇒陸行2日⇒琵琶湖⇒淀川⇒大和、計10日間
西回
出雲⇒瀬戸内海⇒大阪湾⇒大和、計10日間




206美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 22:15:06
>>204
はい、ちょい俺も陸路とか考えてみるっす

美濃辺りの古い街道ならどの辺りをってのはなんとなくわかるんけどなあ、、
207太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 23:01:51
>>152
あんたはこちらを人払い進言していて今日はこちらを用とするのか? あまり
勝手すぎないか? それはある程度回答してはやるが、切り替えしの質問は
するな、などわがままが激しい。質問はするなと言うから、その回答からの
再質問は受けないぜ。七支刀の適正な見解には感謝している。

それは古神道の数読みで、古代において未来に対して主導権を取っての時代区分
というものが悠遠の神代からすでに決定されているということだ。
だから教科書で教える時代区分とは異なるものであり、学校で教えられた区分も
一生懸命これまでの先輩にあたる学者、研究家が苦労してこさえた体系だから、
それなりに有意義であり役立つことは大きいが、それだけでは古代の真相は
充分に見えて来ない。当時の日本の朝廷は古神道の信仰の基盤に立っての日常
生活であり、これを無視、排除して古代を見ようとする者が結構いるんでは
なかろうか? これでは食堂の窓に飾ってある蜜蝋の食品料理を眺めて食わずに
味の美味い?不味いか?をああだこうだと外周で言うことに終始するだけで、食べ
ないで結論を出して帰るようなものであり、古代史の真の姿は未来永劫分からな
いであの世行きとなる研究家にておしまいになる。古代エジプト学者の吉村先生
でも古代エジプトの神々を論じながら同古代史を論じている。つまりだ、そこの
国の古代史の真相を知る上には、一度は自らがその当時の国の神官になりきった
つもりに装って古代史を観るべきだろう。
208九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/10(木) 23:13:03
>>182
例え、ご参考までさんの言う曲筆があったとしても、それが倭人伝に及ぶことは考えにくい。
なぜなら倭国の実情を中国人は良く知らないので、何らかの思惑による曲筆など必要がないからだ。
それらと違って頭が二つある人種、などの記述は曲筆などと言えるものではなく、
恐らく陳寿自体良く知らなかったことに関して伝説や言い伝えをそのまま書かざるを得なかったものだろう。
倭人伝は魏使が興味深く倭人の行動、風俗などを見聞した真面目な内容であり
本国の記述のそれとは違った趣を呈しているといえよう。
209太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 23:20:42
>>152 続き
それではそういう時代区分とはいかようなものか? これが古神道の時代区分
であり、神代では1数が当時を示す古代史時計の針だということだった。

天地の初発〜日神誕生以前 0 (こに時代は年月日が無いから判然としない)
日神誕生後〜神武即位前   1 (同上)
神武即位後〜明治時代前   2
明治時代後〜 ?       3 (平成の現代は針はここ!)

以上のようになってるんだよ。どうしてそうなるのかということは今のところ
秘の段階である。信じないなら信じなくてもいいがね、これが真相なんだよ。

そこでだ、ここの2の時代のとき、神代たる1の時代に於いて未消化のある
抽象的モノが存在しており、卑弥呼はこれを自ずのモノと為すために、彼女の
国を2の時代の後代にあったが、1から国名を『邪馬壹国」としたというのが
女王国の真相なのである。だから隋書等の編者らは遠い大陸にいるため国名を
誤認して、ヤマトの名も知ってたこともあってか「邪馬臺国」だと思いこんで
いたということだよ。そういうことで、真の国名は『邪馬壹国』なのである。

当時すでに2の時代の主導権を取ってる国は大和朝廷の畿内の領域であり、これと
並行して女王国が1の時代の領域に1の残存として再生していたのだ。
210プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/10(木) 23:50:01
>>208 ですがさん

>中国人は倭国の事情をよく知らない


それは違います。
彼等は洛陽に居ながらにして、列島の様子を把握出来る環境です

目の前に、生きた広辞苑がいるではないですか?
211横槍:2008/01/10(木) 23:52:49
>>209
よく分かんない噺だけど
ゼロが数列に加わったのは明治以降なんじゃないの?
そうすると0が1に、1が2にずれて『邪馬弐国』になるんじゃないの
ヨコヤリです。
212太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 00:02:02
>>211
以後2,3・・・は普遍的に順次数字が増えて行くから、とりわけ
国名に入れるものでもない。女王国の場合は2の時代なのに1の
数を支配する特例のためにこの数字を強調し、国名に数字が入っているもの。もしかしたら、まだ混沌を示唆するために「邪馬国」とは
「邪馬 国」であって「邪馬0国」かも知れんぞ??w
    ↑
    空

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
213横槍:2008/01/11(金) 00:08:10
もう無茶苦茶
zzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・・
214あさきち:2008/01/11(金) 00:17:26
>>209
ろんきょがききたかっただけだから。
ないならないでいいよ。べつに。
ひらがなだからよめるだろ。
このあいだかきこみにかんじをまじえてごめんね!

215正月○鹿:2008/01/11(金) 00:23:22
>>168
うん、佐賀平野にはたくさん遺跡があるね。
ただし、それ以外のところにもたくさん遺跡はあるわけで、
そこから何が出てくるかが肝腎ですけどね。
でも、数が多いということは、今後何かが見つかる可能性も大ではありますが・・・・

例えば、地の利の有る玄海灘側の遺跡からは、半島との往来の証として、
韓式、楽浪式の搬入土器が大量に出土します。
三雲番上遺跡の廃棄抗などからは、有りとあらゆる種類の楽浪系土器が出るそうです。
そういった遺物の出土地であることは伊都比定地の条件の一つだと思います。

次に熊本ですが、こちらでも半島系の土器は出ます。。
ただし、三雲や御床松原が100だとすると10くらい、吉備や畿内はさらにその10分の1ですが。
ちなみに、私は畿内説ではありますが、熊本は狗奴國ではないかと思っています。
さしたる論拠はありませんけどね。

まあ、考古ネタを続けるとここではスレ違いかと思いますのでこの辺で・・・
216日本@名無史さん:2008/01/11(金) 02:42:12
考古ネタ上等。

太国やらもん太やらのデムパオカルトより100億倍ぐらいマシ
つか馬鹿コテはマジ芯で欲しい。
217日本@名無史さん:2008/01/11(金) 04:10:18
>>215
玄界灘沿岸には大規模な集落跡がない。有明海沿岸に比べるとこれが弱いと
思う。ただ、鏡を数十枚も副葬する習慣は、後の畿内の古墳にも通ずるので
このあたりが気になるところかな。

熊本の弥生後期の鉄器の出土量は群を抜いているといわれる。
これを九州北部に敵対する勢力と見るか、それとも北部も含めた中心勢力と
見るかで考え方が異なるように思う。

倭人伝の「一大率」は、九州北部を監視する役割りを担っていたと思う。
その意味からすると、邪馬台国は離れたところにあったと考えられる。

だから、邪馬台国が熊本にあったら、ある程度納得がいく。
熊本からは女王の眠る古墳もいくつか見つかっているので、女王国としても
ふさわしいのではないだろうか。

では、狗奴国はどうなるか。後に大和朝廷の宿敵になる南九州の熊襲や隼人を
狗奴国にしてもよいが、自分の考え方からすると、出雲に比定したいところ。
幸いにも、後漢書にはそれを裏付けるような記述がある。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」の部分。

なぜ、出雲を狗奴国に比定するかというと、それによって中国の歴史書と
記紀の記述が一致することになるから。
更に、熊本にあった勢力が日向に進出したとすれば、邇邇芸命の天孫降臨伝説
にもつながる。

まあ、この考えを受け入れられない人が多々いるのはわかっているが。
218太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 07:22:37
>>214 朝吉くんよ
ははぁなめてるわけだ。考古はこっちの本域じゃぁないしお前の見聞での得意技
だろうからいい顔できたろうが、そのへんはそうは行かないぜ。だいたいあれ
でさえもお前の本質的論ではなくだれかの聞きこみを先にして小出しして来た
論法作戦だろうが? 借り物でお前自体の論述ではあるまい? それともお前が刀
のX線撮影でもしたんか? ならばお前の自論と認めていいがね?ww

さぁザヘお帰りを〜・・・。 ここはお前の来るところでないし、4世紀で能書き
をたらふく垂れてればいい。帰りなよ。
219ご参考まで:2008/01/11(金) 10:16:35
プラムさんへご返信・お尋ねの原文は「東沃沮伝」の後半の終わりの方に有ります。
『又言有一國亦在海中、純女無男。又説有一人項復有面』
この前後はご自分でお願い致します。東夷伝原文はネットで容易に入手できます
ことは、プラムさんも勿論ご承知のことと存じ上げますので。
ちなみに、碩学の今鷹真・小南一郎京都大学史学教授の訳文を次に掲げておきます。
『老人が言った。海中には女ばかりで男のいない國があります。また、うなじの所に
もうひとつ顔のある人間がいます。』(ちくま学芸文庫・正史三国志4)
220プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 10:37:48
>>219さん
お手をわずらわせ申し訳ございません。


やはり「言と説」でしたか。
その土地に伝わるお話しと捉えた所で、何の違和感もない記載でもあるわけで、その老人も確証を示し説明した訳じゃないかと
221ローガン:2008/01/11(金) 16:16:43
>>217
九州の墓に漢鏡の副葬多いですね。王墓なのでしょうね。
しかし、平原1号には古いタイプが2枚のみ。あとは国産。
でも、漢鏡が半島から来なくなった訳ではなさそうですね。
7期漢鏡は九州より東で多く見つかります。
九州勢力としては入手が困難になったのかな?
しかし全く九州で見つからない訳ではありません。
古墳から出土してますね。
古墳…… 前方後円墳ですが、始まりは大和でしょうね。そしてあまり時をおかず、北部九州でも前方後円墳が造られます。
赤塚、石塚山、那珂八幡、生掛古墳等々…
遅くともこれらの古墳の被葬者が死ぬ迄に、吉備や大和と同じ首長霊祭祀方法になっていった訳ですね。
中でも、豊前赤塚が古いのかな? 邪馬台国の時代ですね。
222日本@名無史さん:2008/01/11(金) 17:37:36
>>221
>赤塚、石塚山、那珂八幡、生掛古墳等々…
>中でも、豊前赤塚が古いのかな? 邪馬台国の時代ですね。

4つ挙げておられますが、このうちの最古はおそらく小郡市の生掛(津古生掛古墳)でしょう。
庄内期併行であり、邪馬台国の時代に重なると思います。

この津古生掛古墳は、九州の古墳時代の黎明を探るうえで極めて重要な遺跡なのに、住宅開発の犠牲になって、無情にもつぶされてしまいました。
なんとか保存できなかったのでしょうか……。(泣)

津古生掛古墳 (福岡県小郡市津古)
前方後円墳と言うより、周囲の土を掘って盛り上げた円丘に細く短い突部がつく「長突円墳」。全長32m。
鶏形土器、方格規矩鳥文鏡など出土。
http://www.inoues.net/museum/ogoori67.jpg
223改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:09:05
卑弥呼の墓はどこかって??

「親魏倭王」の金印が見つかってないから卑弥呼の墓もまだ見つかってないはず。
金印はおそらく墓と一緒に埋葬されてると読む。

天皇家の関わりある箸墓とか歴代天皇綾だってある程度は調べてるんだが、
出てこないのが現実。
というか、箸墓の埋葬されたといわれる円墳部分中心を調べたらいいじゃないか!
とか声が聞こえてきそうだが、おそらく金印はでてこないと思います。

何故かって?! 卑弥呼は天皇家と関わりないからです。
224改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:21:05
>>88 プラムさんへ

>>伊都國が東南方向
>何処から?
>まさか末廬からじゃないよね
>そんな事何処にも書いてないから

だからプラムさんはちゃんと魏志倭人伝読みなさいって。

漢字解読より目の使い方学んだほうがいいんじゃない?
225サガミハラハラ:2008/01/11(金) 18:40:23
卑弥呼の墓には金印がはいっていない可能性があります。
壱与に伝わり、晋ができた時、中国に持って行き親晋倭王の印と交換した可能性があります。
226改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:43:05
『末廬國』国について

松浦半島を東側なのか西側なのか意見が真っ二つに分かれてる。
サガミハラさん達は西側としてるのだがはっきりいって違ってます。

多くの人が関係者が語ってるとおり。
對馬國⇒ 対馬
一大國⇒壱岐
末盧國⇒唐津周辺
伊都國⇒前原周辺
奴國國⇒博多湾周辺
不彌國⇒宇美周辺  まあこんなもんではないでしょうか。
227改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:46:05
>>225
>卑弥呼の墓には金印がはいっていない可能性があります。
>壱与に伝わり、晋ができた時、中国に持って行き親晋倭王の印と交換した可能性があります。

サガミハラさんの考えがわからない。
なぜ宗女の壹與へ伝わるんですか?
なんで交換するんですか?
228ローガン:2008/01/11(金) 19:00:14
>>222
ご教示ありがとう。津古生掛の方が古かったのですか。


改めさん。金印の役割を考えると卑弥呼に副葬されたとは考えにくいですね。

卑弥呼と天皇家との繋がりについては不明としかいう以外にないですね。
229日本@名無史さん:2008/01/11(金) 19:00:50
可能性ありと言ってるわけだけど、なんで可能性が出てくるのか知りたいところではある。
230プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:02:16
>>227

伊都國が末廬の東南にあるなら、
『伊都國在末廬國東南』や『東南至伊都國陸行五百里』でいいじゃん

だれもが抱く単純な疑問だよ。
そこは“臭いものに蓋”かな?
231改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:22:05
>>228
ローガンさん〜もっと当たり前に考えてくださいよ。

『金印の役割』って、親しい国の証に倭王卑弥呼へ送った品物。
ナルメに送ったわけではないんですよ。
普通に考えたら卑弥呼のもの⇒墓ですかね。
まあ、断言はできないが周辺なのは間違いないところです。

>>230
わたしは東南にあるとは言ってない。
鎮守でしょ。



232プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:25:32
ま、サガミさんの場合
長年温めてきた『桜ヶ岡卑弥呼墓』を
先日自ら否定なさった訳で、これから新天地を求め旅立つ訳ですね。

で、新たな候補地は?
233改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:29:30
サガミさんへ質問

卑弥呼の時代の地名が現在では残ってないってどこかにレスしてたと思うが、
對馬國⇒対馬
一大國⇒壱岐
とかはどうなんでしょう?
名残ないですか? 

ボタンを掛け間違えたのはサガミさんのほうではないんですかね?

234ローガン:2008/01/11(金) 19:29:55
>>231
印はどう使うのでしょうか?
卑弥呼の死で冊封解消?
235プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:31:13
>>231

じゃあ
いったい>>224のレスはなんだったの?
23618歳になりました中卒ヒッキー:2008/01/11(金) 19:34:20
久しぶりにきてみましたが、冗談でしょ?僕がいた2、3年前からまさか毎日
ここで無限ループの不毛な議論してるんですか?端からみてると
絶句するというかきもち悪いですよw
237改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:36:46
>>234
>印はどう使うのでしょうか?

とか面白い質問しますよね。
それじゃまるでプラムさんと同じレベルの質問じゃないですか。
私に聞くことなのでしょうか?ローガンさん

>>235
東北ではなく東南って書いてるでしょてことだよ。プラムさん
238改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:42:12
>>236
友人とか学校、会社で「邪馬台国論争」したら確かにそう思われる。

しかし、ここは邪馬台国論争するところであり別におかしくなくない?
239プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:47:01
>>237

東南って書いてありますよ、それでOKですよ

>東北

それなに?鎮守が書いたの?
240改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:59:38
プラムさん
「1759174(いなこくいなよ)」でしたっけ?!
まだ信用してるんでスか?
この前レプリカだが九州国立博物館の「漢委奴国王」の金印みてきたんだが、
(かんわのなのこくおう)て書いてましたよ。
241ローガン:2008/01/11(金) 20:07:02
>>237
そりゃ確かに墓に入った可能性がないとは言いません。
イヨタンや男王が新たに印を下賜されていないので冊封の印を使用出来ない状態にはしないと思いますよ。

プラムさんと同じレベルとは、畏れ多い事です
242プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 20:20:14
>>241

そう書いてあるモノをそう受けとめるなら
そう主張する事は当然の事ですね
243正月○鹿:2008/01/11(金) 20:32:24
>>226

> 『末廬國』国について
> 松浦半島を東側なのか西側なのか意見が真っ二つに分かれてる。

西側も東側も全体が「末廬國」と言う意見も有りますよ。
論者は「普通は伊都まで水行だろう説」の私ですが。

末廬と呼ばれた地域は、現在の東松浦半島だけではないかもしれません。
そのあたりに自他共に共通の地域と認識する領域があって、そこが「末廬國」。
倭人伝の記載では「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人」と書かれ
ています。

「濱山海居」は、訳し難い言葉なのですが、後続の「草木茂盛、行不見前人」と
併せて考えれば、内陸部よりは沿岸部を主な居住地とする勢力のように思います。
そして、戸数は四千もある。
長大な沿岸部だけに散ばって住んでいるようなイメージです。

桜馬場の被葬者のような存在を考えれば、そこかしこに中核集落はあったかもしれませんが、
玄海諸国の他の国々とは社会構造が異なる地域だったのではないかと思います。
思えば、この国だけは「官」が居ないのですよね。

244プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 20:35:11
訂正

>>241としたアンカーは>>240へのミスでした。

ごめんなさいねm(__)m



>>241ローガンさん
私は今でも『チラ裏プラム』ですから
「畏れ多い」なんて言わないで下さい。
245改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 20:45:23
>>242
ハッキリいってあのホームページは信用してません。

言葉の伝承みたいなのは凄いな〜とか思ってしまうが、あの人の邪馬台国感はイマイチわからない。
何でそうなるのかなとか思ってしまう。

又、今夜か明日、明後日でもぶった切りに行こう思ってるので宜しくデス(笑)
246改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 21:01:12
正月○鹿 さん
全体が「末廬國」でもいいんじゃないですか。
私がいいたかったのはルートのことです。

サガミハラさんの言うルートはご存知ですか?
247改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 21:02:05
正月○鹿 さん
全体が「末廬國」でもいいんじゃないですか。
私がいいたかったのはルートのことです。

サガミハラさんの言うルートはご存知ですか?
248プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 21:07:33
>>245

私も二年前、あのHPを潰そうと考えていた一人ですから
貴方のそういう気持ちは理解できます。
249小倉優子が好き:2008/01/11(金) 21:10:01
相模の師匠! 
>>142の質問に答えてください。
250日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:15:45
魏志倭人伝には
1:方向 2:距離 3:地名 4:人口
の4つの要素があります。
1の方向にこだわると、2、3、4の要素を満たせなくなってしまいます。
251日本@名無史さん:2008/01/11(金) 22:36:06
                            
宇治谷 孟「あとがき――解説に代えて――」
『日本書紀・全現代語訳 下』(講談社学術文庫)

>この海彦・山彦の話にしても、産室の屋根をウの羽で葺くのに、それが葺き終わぬうちに子が生まれたので、
>ウガヤフキアエズと名づけたなどというのは、われわれもオトギ話程度にしか受取っていなかったものである。
>ところが韓国の古代史研究家によると、三韓を遡る数百年前から、南部朝鮮に「伽耶」という高度の文明国があり、
>韓国固有語で、上伽耶(ウカヤ)・下伽耶(アラカヤ)と呼ばれる兄弟国であったという。

この宇治谷という人は、本物の馬鹿ですなあ。
韓国語に「上伽耶」だの「下伽耶」だのといった表現法は無いんだよ。
何だよ、「上伽耶」って?
「北伽耶」「南伽耶」という表現なら分かるが、上伽耶なんていう表現は、
韓国語には無い。
日本語にも無いし、中国語にも無い。英語にも無い。
ふつうは、北○○、南○○と表現するだろ。
それに、『上伽耶』なんていう名前の国は、過去に存在したことは無い。


252日本@名無史さん:2008/01/11(金) 22:42:16
>>236
邪馬台国論争にはほとんど進展がないね。
みんな自分の考えが一番正しいと思っているからしょうがないか。
歩み寄るところがないから、堂々巡りになる。
253日本@名無史さん:2008/01/11(金) 22:50:57

韓国の古代史研究家って、誰かね?
自称・研究家の妄想ジーサンなんだろう。

それに伽耶(カヤ)っていう地名は日本語なんだが・・・。
日本語の離ゆ(かゆ)が変化した言葉がカヤであり、
「離れた国」の意味である。






254横槍:2008/01/11(金) 23:07:06
と言うか、九州説という袋小路に入ったら、脱出不可能
255ローガン:2008/01/11(金) 23:07:23
>>252
百人いたら百通りの考えがありますね。
だから面白いのでしょう。

まだやめられまへんなあ〜
256日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:44:14
>>251

-上伽耶なんていう表現は、韓国語には無い。
-日本語にも無いし、中国語にも無い。英語にも無い。

中国、韓国は知らないが、日本語、英語にはあるだろうw
257日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:45:16

穏当に近畿でいいんじゃねーの

他のは考古学的な裏付けに乏しいからまー無しだろな。

なお妄想は自由だからお気軽にドゾ
258日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:59:38
>>257
考古学的に畿内説というのは、怪しいものだな。
以前は、三角縁神獣鏡が唯一の支え。それが破綻しても考古学的に畿内説と
言い続けるわけだから。
まあ、都合の良い一点だけを取り上げて、都合の良いように解釈するのが畿内
考古学だろう。
重要な鉄については全く触れないし。たまに触れれば、畿内は廃品回収が
徹底していた。あるいは溶けてなくなった、だから。
259日本@名無史さん:2008/01/12(土) 00:20:13
>>251
現代韓国語で、上はウィ、下はアレだろ。今の慶尚南道のあちらこちらに
大伽耶とか金官伽耶とか色んな伽耶国があったのも事実。
ひょっとしたら上の伽耶とか下の伽耶とかの呼び方もあったかも
しれないじゃない。
260日本@名無史さん:2008/01/12(土) 01:41:43
>>236
つうか文献中心だともう2・3年どころか何十年同じ事を言いつづけているんじゃね?w

>>258
「鉄は朽ちた」「リサイクルが徹底していた」とか言っている考古学者ってまだいんの?
3世紀半ば頃ならヤマトは、まだまだ鉄器後進地域で問題無いんじゃね?

昔は「 邪馬台国=日本の大半を〆る強大な国家 」ってイメージだったからでは?

逆にいえば未だにその固定観念から抜け出せていないのが
九州説論者のような気がしないでもないですw

261日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:09:58
>>260
>文献中心だともう2・3年どころか何十年同じ事

発掘調査の年代と脳内妄想が不一致になってもがいてるんだろ
畿内説も九州説も
262日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:26:00
上・下の表現は日本にはあるだろ。
前・中・後の表現もあるが。
263ローガン:2008/01/12(土) 15:36:51
>>261
文献的にみても、畿内説でさほど不都合は感じませんが…

考古学的には、畿内説で決着したのではないでしょうか?
264日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:41:54
日本語における上・下の表現は、「川上の地」「川下の地」とか、
「山上の地」「山下の地」といった意味で使われるのであり、
朝鮮人が主張しているような北(上)と南(下)という意味ではないよ。
そもそも、日本語には「北は偉くて上位、南は卑しくて下位」というような政治思想は無い。
これは朝鮮人の思想だろう。

前・中・後も東西南北と同じように水平方向を表す言葉であって、
上・下というような垂直方向(政治的な上下関係)を表す言葉じゃあないだろ。

265日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:48:09
>>263
魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっているのだが。
環濠集落の時期は圧倒的に九州が優位なのだが。
魏志に出てくる鉄鏃が畿内は九州の10分の1以下なのだが。
君は文献も考古学も知らないね。
266日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:18:43
>>265 >魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっているのだが。

なっていない。
まるっきりの出鱈目だ。

おのれの勝手な解釈を押し付けてもらっては困る。
そんな態度では、これから歴史を学ぼうとしている子どもたちに示しがつかない。



卑弥呼の居所が環濠集落だと魏志に描写されているのなら、魏志からその部分を書き抜いてみろ!
267日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:32:01
ファビョるなよ関西人・・・・・
268日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:43:29
>>265-266
卑弥呼の居所に環濠があったなどとは、魏志倭人伝には描かれていません。
269日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:53:53
                                                  
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
270日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:04:15
>>265
「女王の住まう所、周囲に濠を巡らし…」とか書いてあれば良かったんだろうけどw

あとその都市が卑弥呼の時代より数世紀前に造られたなんて記述があれば
マキムクなんて候補から確実に外れていると思うんだけど…

その都市が何時頃造られたなんか分からんでしょ?
出来立てのホヤホヤかもしれん訳だし…
てか各地の勢力の均衡を計るには新しい都市の方が都合良くね?w
271日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:06:31
>>266
横だが、たぶん、「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の部分だろう。
宮室というのは、たぶん王の住む家。桜観は、高く立派な建物。
城柵を厳かに設け、常に人が武器を持ち守衛する。

環濠とは書いてないが、厳重な警戒がされているということで、日本では
環濠集落が一番妥当だと解釈するのが普通だと思うが。

吉野ヶ里遺跡が発表されたとき、倭人伝の記述にぴったりだといわれた。
たとえば、纏向遺跡はどうなんだろう。
畿内にはぴったり来るような遺跡があるのだろうか。
272日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:13:05
>>270
倭人伝には、伊都国について「世有王、皆統屬女王國」と書いてある。
つまり、代々王がいてみんな女王国に統属すると。
女王国は相当前からあったのだろう。
273プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/12(土) 17:21:18
>>272

>伊都國には代々王がいて

そんな事何処にも書いていませんよ
274日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:25:27
考えてみれば、玄界灘沿岸の地域からは宮室や樓觀と見られるものは出ていない。
畿内にも確か、なかったと思うが、となると、郡使の見た風景はひょっとして
有明海沿岸か?
もちろん、見つかっていないからなかったとは言えないわけだけど。
275日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:31:18
>>273
あなたの解釈は独特だから。
「皆統屬女王國」は、「皆、女王国に統属する」で良いわけでしょ。
276ローガン:2008/01/12(土) 17:31:41
>>265
そうですね。私はあまりものを知らないので。貴方はきっと詳しいのでしょう。

環濠集落とは卑弥呼の記事の後に出てくる、宮室楼觀…を指しての事ですか。(違ってたらごめんね)
もしそうなら、何故環濠集落といいきれるのですか?
私は豪族居館でもいいのじゃないかな?と思いますよ。


鉄鏃の記述は、漢書からの引用でしょうね。郡使がはたして倭国内で確認したかどうか疑問です。
そういったものの、出土量の多少を言われても……
277日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:37:55
>>272
「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。
 官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。
 千余戸有り。
 世王有るも皆女王國に統属す。」
の部分ね。
すると代々女王が統治する国があって、それをある時皆が盟主に祭上げたって事かな?

そうすると…
「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
 倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
 名付けて卑弥呼という。」
ここで挙げられている「國」と言うのは大小の国の連合体と言う事になるのかな?

「國」の記述を邪馬台国一国と、邪馬台国を盟主とする連合体と分ける
…理屈としては面白そうw
278日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:44:18
そもそも「環濠集落」って中に 一次産業に従事する者=農民 の民家を抱えるものでしょ?
卑弥呼の住む宮殿の周りに民家が立ち並んでいるって記述は無いべ?

もしあれば政治と宗教の特化都市マキムクはアウトだなw

279日本@名無史さん:2008/01/12(土) 18:04:59
>>271 >「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」

「環濠」とは書いてない。「環」「濠」を含む字句も一切無い。
卑弥呼の居所に環濠があったかどうかは、魏志という文献からは確定できないのである。

むしろ魏志に「環濠」めいた記載が無いことを重く見て、「卑弥呼の居所は環濠集落ではなかった」と積極的に捉えることもできよう。
当時の倭の地に、もし濠を環らす居館や集落等があれば、それは魏側からすれば特筆事項とも思われるからである。


要は解釈はさまざまである、ということだ。

それを弁えず、
「魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっている」
などと出鱈目を述べた>>265は唾棄されて然るべき存在であり、学問を志す人間ではない。
280プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/12(土) 18:19:24
>>275

>「皆統屬女王國」は、「皆、女王国に統属する」で良いわけでしょ。

OKですよ

>あなたの解釈は独特だから

周りが余りにも無頓着すぎるだけの話


代々と書いてある場合、その代々が何時から代々なのかを明確に示し、初めて代々と表記できる
これは道理
それに、ここで代々と記載する意味は全くなく
状況をまるで把握しない単純な誤訳

「世」を(代々)と和訳できるには、それなりの条件が伴ってはじめて(代々)と和訳できるわけ
それを完全に無視し、「世」と見れば脊髄反射的に(代々)と和訳している
281日本@名無史さん:2008/01/12(土) 18:31:56
                                                 
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。



282改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 18:58:14
サガミハラさん、ローガンさん
「親魏倭王」の金印をなぜ副葬されてないと思ってるのですか?

他のみなさんも彼らと同じ考え?!
283ローガン:2008/01/12(土) 19:19:52
>>279
同意します。
マア、もういいじゃないですか。
反論ないところをみると、納得したんじゃないですか?
おそらく、城柵→逆茂木→環濠集落と連想したんじゃないですか?
284正月○鹿:2008/01/12(土) 19:21:36
>>279

書いてないことを書いてあるかのように思う、
の典型ですね。
例示された吉野ケ里にだって、
隔壁と兵士で守られ、多数の婢を従えた女王が
引きこもれるような施設は発見されていないでしょう。

私は想像力が貧困なので、大奥か神社のようなものしか
思い浮かびません。
285改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 19:24:45
サガミさんの邪馬台国、佐賀県小城市説は周りからいろいろ言われてるが
確かに面白いとは思うんですよね。

私もサガミさんみたいに皆、驚くような場所を邪馬台国だって示したいんだが、
現実を考えたらありえない・・・笑
286愛知県民:2008/01/12(土) 19:27:05
>>282
「親魏倭王」の金印は卑弥呼個人に与えられたものではないでしょう?
魏志にも、後継者台与に改めて金印を与えたとは書いてないし。
魏から晋に代わった266年の朝貢で、「親晋倭王」の印を受けたかもしれません。
そのとき魏の印はどうしたのだろう?
287横槍:2008/01/12(土) 19:32:02
>>282
金印は、大事な証印なので魏が滅んだ後も役所に厳重に保管されていたんじゃないの?
『漢委奴国王』の金印も古墳で発見されたわけじゃないし
288改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 19:36:38
>代々王がいてみんな女王国に統属すると

日本語訳が魏志倭人伝に書いてるわけないよね(笑)
世有王皆統屬女王國。

「皆」の字が見えるから日本語訳したとき「世有王」を「代々王」
と解釈したらだめなんですかね。
プラムさんどうなの?
289改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 19:48:14
>>286-287
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻。
太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月 詔書報倭女王 曰 制詔親魏倭王卑彌呼。

「親魏倭王」はナルメ達ではなく倭王卑弥呼に与えられた物です。
290改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 20:04:50
太守劉夏遣吏將送詣京都。

よく使者が女王の都まで「行った行かなかった」議論がなされてるが
これを見るかぎり京都まで送ると書いてるよね。
291愛知県民:2008/01/12(土) 20:11:10
>>290
改めさん、それは違います。
この「京都」は魏の都・洛陽のことですよ。
292日本@名無史さん:2008/01/12(土) 20:17:00
>>279
それは普通に読めば、環濠により守られた施設です。
樓觀というのは、高いところから見渡せる物見やぐらのような施設です。
この施設が城柵で囲われた内部にあると魏志に書いてあります。

この場合の城柵は、平地に柵だけがある施設ではなく、濠があると考えるのが
普通で、柵だけでは防御施設としては意味がないでしょう。
つまり、卑弥呼の居所は、明確に環濠集落として書かれています。

環濠のない纒向を邪馬台国時代に遡上させるようになってからは、この当然の
解釈ができなくなったのは、残念ですね。纒向は300年頃からです。

ちなみに、末盧國、伊都国、奴国の想定地は、多数説では環濠集落ですね。
これらの地域では環濠集落が終焉した後は目立った財物の出土もないため、
環濠集落の時期が邪馬台国に書かれた時期と考えるのが普通です。
293改め〜壹與:2008/01/12(土) 20:23:18
>>291愛知県民さん
失礼!改めます。
294唐松山:2008/01/12(土) 20:37:43
稲城とは 環濠と柵で 防御された 施設だと思う。
遠くから見ると 柵が稲木(イナギ)に 見える
また 土手が 稲を干してあるように 見える

稲藁で目隠しなら 火をつければ 一発で丸見え。
 
295改め〜壹與:2008/01/12(土) 20:45:20
唐松山さん
アマテルが活躍した年代は西暦何年とお考えなのですか?
296プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/12(土) 20:51:39
>>288さん

「代々」は縦の時間

「皆」は横に広がる数

まるで違うものです。
「皆」を重視するなら「丗」も、同じ横の広がりです。

ましてや
倭人伝は魏時の短い時間幅を記録する史書
代々なんて最も相応しくないトンデモ和訳です。

陳壽も最初に“今/魏時”と限定していますよ。
297改め〜壹與:2008/01/12(土) 21:03:17
あぁ 以前から言ってたこれですか・・・。
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%97

当然、狗邪韓國もその三十連合国家の一部としてみてるんですよね?プラムさん
298ローガン:2008/01/12(土) 21:08:14
>>282 改めさん。
昨夜>>241に書いたのですが、読んで貰えなかったようですね。
印は基本的に中国朝と冊封国の王との間で、文物が取り交わされる際、竹簡等を束ねた紐の結び目に付けた粘土に押す為のものでしょう。
まあ、それがどこまで実際におこなわれたかは、知れませんが…。
墓に副葬されてしまえば、粘土への押印は出来ない状態になりますね。

卑弥呼の死後、冊封を解消した様子も、新しく印が下賜された様子もないですね。
次代の王が受け継いだと思いますよ。
勿論、断言は出来ませんが。
299日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:08:57
                                                  
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。

300ローガン:2008/01/12(土) 21:24:09
>>292
5世紀の豪族居館にも、濠も柵もありますよ。
301愛知県民:2008/01/12(土) 21:24:53
魏志倭人伝の最後には「臺」も出てきますが、これも洛陽の皇帝の宮殿です。
おそらく邪馬臺国=邪馬国であり、女王の都であることを示すため「臺」をつけたのではないか。
弁辰の邪馬国(弥烏邪馬国)と区別する意味もあったと思います。
302プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/12(土) 21:27:22
>>297

>当然、狗邪韓國もその三十連合国家の一部としてみてるんですよね?プラムさん

全然
考えたことも無いです。 ちゃんと韓國って丁寧に区別されてますから
303唐松山:2008/01/12(土) 21:35:12
天照大御神の 年代を 計算した事が無いので 良くは判りませんが
崇神から4代前位だと 西暦−50年頃か?

いつか 計算したいが 神代の暦は難しい。
@百、万 の振り
A2重構造
B増し

上記のような 構造物 であるが 推定、検証するには 情報の絶対量の不足。
行きつけても 西暦1年辺りまで 丁度神武誕生あたり
もし 西暦1年が 月と太陽にとって特別の年なら ここから ホツマの暦の始まりと考えられる。
304改め〜壹與:2008/01/12(土) 22:01:43
>>298
>次代の王が受け継いだ

まあ、わたしは倭王卑弥呼の金印は墓、もしくはその付近にあると見てますので。

>>302
韓国は〜どうなんでしょうね。
私も分からない。

>>303
唐松山さんなら計算してるかな思ったが難しいか・・・。
305日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:13:03
>>279
確かに。
考えれば考えるほど環濠集落って感じではないな。

というより雰囲気としては、樓觀なんて出雲の国譲りのあとに作られた巨大神殿ってやつとか
あんな感じがするなぁ。
で神社みたいに敷地の領域だけぐるっと石とか生垣とかで囲ってあって、要人警護している、と。
そのなかに巫女さんが居ると。

306日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:26:20
>>284
なんかおかしいね。倭人伝に書いてないことはありえないと言ってみたり、
倭人伝に書いてある方角は間違いだと言ってみたり。

なお、吉野ヶ里遺跡からは王の居館と思われる柱穴が出ており、復元されている。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/WebLibrary/yosinogari/DSC00036.JPG

これは唐古・鍵の建物のように土器に書かれた絵を復元したものではない。
307日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:30:47
建物のデザインは土器に描かれた絵を参考にしてるんだけどね。
308日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:36:00
>>305
もう一つ吉野ヶ里の写真をアップすると、こんな感じ。
卑弥呼が住んでいたとすれば、こんな場所という気がしない?

http://morimori.txt-nifty.com/kyusyu/yoshinogari/yng_10.jpg

樓觀についていろいろ言うのはいいけど、それらしきものが畿内から出て
いるのかな?
309日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:46:19
>>一大率
「女王国以北に特に一大率を置き検察する、諸国は之を畏れ憚る。」

このことは邪馬臺国≠北・中部九州と推測する記述である。

よって、邪馬臺国は南部九州(宮崎、鹿児島、熊本南部)か、南→東
として吉備や畿内とするのが妥当たろう
310日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:51:25
>>265
魏志に出てくる鉄鏃が畿内は九州の10分の1以下なのだが。

鉄鏃の出土量が 九州>畿内
よって、邪馬臺国=九州

って言うのは、倭人之条のどのあたりの記載に基づくものなのかな??
311305:2008/01/12(土) 22:57:11
>>308
たしかにこんなのがあったなら権力者がいたのかも、って建築物だけど…

…って>>305で文献の記述だと環濠集落じゃなくって
神社みたいなのしか想像できないなって書いたんだけどそれがなんで
樓觀が畿内から発掘されたかどうかって話になるの??
なんか勝手に周囲が敵だとおもってない??
312ローガン:2008/01/12(土) 23:01:28
>>306
それで?何?

あ!横ですが
313日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:04:08
環濠集落の時期の各種の出土物は、北部九州は畿内の10倍以上。
戦前からこの傾向は明白だったが、門外漢の医学博士である中山氏が九州説の
中心だったため、畿内説はこの事実を無視し続けてきた。

戦後派、門外漢の原田が九州説の中心になったため、畿内説はより頑なに
「畿内の後進性」を無視・否定し続けてきた。
学界では「畿内の後進性」を認める者が皆無であったというのがこの時代の状況。

90年頃になり、畿内の後進性があまりにも明白で、無視を続けられなくなり、
これを認めるのと同時に環濠集落の終焉を100年早くする年代遡上が始まった
というのが、学説の変遷についての事実。
314日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:05:13
>>311
それはごめん。

まあ、宮室、樓觀、城柵が郡使の見た国の風景の三点セットと言えるわけで。
315ローガン:2008/01/12(土) 23:17:45
>>313
だんだん面倒になってきた。変な本よんだんちやうのん。
zzzz…
316横槍:2008/01/12(土) 23:20:51
>>313
年輪測定法で、弥生遺跡全体が古い時代にシフトしてるんじゃないの?
317日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:22:43
>>313
んな事言い出したら「九州説は本居宣長の皇国史観に基づいたでっち上げって」事になるんとちゃう?w
九州説とて色んな色んな説があって時代と共に変遷してるでしょ?

畿内説に対する私怨は他で晴らして下さいw
318日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:27:04
>>315
畿内の後進性を畿内説が認めてこなかったことは、事実。
白石のように、いまだに認めないのもいる。
これを明確に認めだしたのは、寺沢の『王権誕生』のころから。
それまでは出土状況を図やグラフにすることさえ、勇気のいることだった。
この「無視」は少し古い文献を見ればすぐに確認できる。

鉄器については、村上が『古墳時代像を見なおす』でいかにひどい無視が
続けられてきたのかを縷々書いている。
319日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:42:46
昔は、「銅鐸文化圏」と「銅矛・銅戈文化圏」とを対等に扱い、
その他の出土物で九州が圧倒していたことは無視された。
畿内説は、銅鐸を古く見ることにより、九州とのバランスを取ろうとしてきた。

小銅鐸、鐸形土製品、初期・中期の銅鐸の鋳型が九州で多く出土している
ことには、ほとんど言及されなかった。これはいまでもそうだが。
320横槍:2008/01/12(土) 23:47:09
そもそも、魏志倭人伝に邪馬台国(やまとのくに)に書いてあるのに、素直に
読まなかったのが原因。フェイクで出たアイデアを妄信してはいけない。
女王国が何処かなんていうのは、問題ではないよ。

※邪馬台国ではなく邪馬壱国だよ。なんていう野暮なツッコミは禁止します。
321日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:49:42
>>316
年輪年代法も放射性炭素による年代測定法もいやというほど議論している。

結論として、年輪年代法は客観的な裏づけがない。
C14については、誤差が大きい。世界的に一律に定められた較正曲線に
疑問が残る。

ということかな。
322日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:51:51
>>321
書き忘れたが、年輪年代法による測定結果が正しいとしても、伐採時期と
使用時期とに差がある。実際に数百年違うものもある。
323日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:57:21
>>320
魏志倭人伝を素直に読む?
邪馬台国は南にあると、倭人伝には書かれている。素直に読まないとね。

それに、ヤマトの国は他にもある。山門郡とか。
324横槍:2008/01/13(日) 00:30:12
>>323
>>205を参照してチョッ
325日本@名無史さん:2008/01/13(日) 01:02:40
>>315 >zzzz…

ローガン氏は眠られたようだ。
きっと内心は、ほとほと呆れておられることであろう。小生は手に取るように分かるのである。
それで、ローガン氏に代わって批判を行いたいと思うのであるが、その前に>>313氏に確認しておきたい。

>>313 >門外漢の医学博士である中山氏が九州説の中心だったため、(略)



この「中山氏」とは、九州帝国大学医学部教授であった中山平次郎氏のことか。



さらにもう一点>>313氏に確認しておきたいので、よろしく頼む。

>>313 >門外漢の原田が九州説の中心になったため、(略)



この「原田」とは、平原遺跡の発掘調査で調査主任を務められた原田大六氏のことか。



もし同姓の別人を指しておられるのであればご教示願いたい。
ご回答無き場合は、それぞれ中山平次郎氏、原田大六氏で相違ないと受け取らせていただく。
326日本@名無史さん:2008/01/13(日) 01:53:45
>>325
で、何が言いたいの?
327愛知県民:2008/01/13(日) 07:27:55
ローガンさん
前スレでは失礼いたしました。太平御覧の魏志倭人伝は見ておらず、勉強不足でありました。
しかし、新たに疑問が出てきました。
太平御覧では倭国の乱について「漢霊帝光和中」としているのです。
私は魏志の「住七八十年」が原形であり、後漢書では57年から数え、韓伝の「桓霊之末」と同時期とした。
梁書では107年から数えて霊帝光和中と解釈したと考えています。
太平御覧の魏志倭人伝が梁書の解釈によって書き換えられているとすれば、
全行程の前に「又」がついているのも同じ可能性が出てきませんか?

邪馬臺国と邪馬壹国についても、言われるほど明らかではないと思います。
328太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 07:58:59
>>310 参考
【梁書 巻第五十四 列伝第四十八】

『・・・南に水行十日陸行一月日にして邪馬臺国に至る。倭王の居する所なり。
 ・・・俗は正歳を知らず、多くは寿考にして多く七、八十に至り、或は百歳
 に至る。・・・靈帝の光和中、倭国乱れ相攻伐して歴年、乃ち共に一女子
 卑弥呼を立て王と為す。・・・
(これ観ると、女王でなく倭王と書いてある。この編者は女王国と畿内朝廷か
 北九州の小王あたりを混雑していっしょくたにしているに見受けられる。女王国
 は邪馬壹国であるのを邪馬臺国と書いている。面白いね。えらく長寿だから倍暦
 をやってたのかねぇ?)

 ・・・沙門慧深有り・・・説いて云う。・・・扶桑(日本のどこか。畿内だろ
 う?)は大漢国の東二万余里在り、地は中国の東に在り。・・・国王を名づけて
 乙祁(弘計尊=顯宗)と為し・・・其の地に鉄無く銅有り、金銀を尊ばず。』
329愛知県民:2008/01/13(日) 10:09:21
>>328
梁書扶桑国伝も伝聞記事とはいえ、乙祁国王など、真実は含まれていそうですね。
扶桑国=倭国、大漢国=中国(支那)を誤解したと考えられる。
文身国は蝦夷のことでしょう。
女国はよく分からないが、海女の描写のように思われます。
330唐松山:2008/01/13(日) 11:05:08
邪馬臺国は 卑弥呼の頼りとする 景行の都する所。
331横槍:2008/01/13(日) 11:29:27
>>328
倍暦について
魏志の『知正歳四節但計春耕秋収為年紀』は、倍暦に関係ないと言う人がいますが、
晋書によるとその部分が『不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。』に訂正されています。
魏志の記述が道理に合わないと思ったからでしょう。
つまり、魏志倭人伝のその部分は、倍暦の記事として唐の人は読んでいたのです。
332正月○鹿:2008/01/13(日) 11:34:09
>>306

>なんかおかしいね。倭人伝に書いてないことはありえないと言ってみたり、

そんなこといつ言いましたか?
書いてないことを書いてあるかのように主張したり思込んではいけないとは言ってます。
でも、それは「書いてないことはあり得ないと言って」るわけじゃないでしょう。
「言ってる」と思うなら該当レスを提示してください。
まあ、この貴方のレスは「書いてないこと」を「書いてある」かのように主張する典型的な
ケースですねw

書いてないことでも倭人伝以外の資料などを検証して仮定することは出来ます。
逆に倭人伝に書いてあることでも他の資料とつき合わせて、否定的な仮説を作ること
も出来ます。
「いけない」のは書いてないのに書いてあることにする行為。
要するに検証し得ないことを検証済みと同等に扱う行為ですね。

>吉野ヶ里遺跡からは王の居館と思われる柱穴が出ており

掘っ立て柱タイプの大型建物の跡ですか?
それが婢千人を従えて棲むことの出来る建物かとどうかは置いておくとして、
それは畿内で言えば池上曽根や唐古・鍵、そして纏向でも出ているものですね。
て、言うかもっと後世の時代でも・・・
要するに「環濠集落」とは直接に関係の無い話でしょう。

貴方が「魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写」と言い張る>>265氏と同じ人か
どうかは判りませんけど。
333ローガン:2008/01/13(日) 12:23:39
>>327
こんにちは!
太平御覧は魏志倭人伝ですね。
ただ、現行本と違い欠落が多いですね。筆者が割愛したのか、それともテキストに書かれてなかったか…
いずれにしても、南宋刊本のテキストとは違うものでしょう。
梁書とも違うテキストでしょうね。細かい事を言えば、御覧は「乍南乍東」ですね。
梁書、北史、隋書は成立年代が近く、同じテキストに依るものでしょう。

>後漢書では57年から数え

?よくわかりません。

まあしかし、もし「又」が全行程に書かれてあれば、水行10日陸行1月の起点を郡に求められない事をご理解戴けた事は私的には前進です。
(今までいくら書いても、そんな事は倭人伝には書いていない!って声高に云わればかりで…。)
今後ともご教示宜しく願いします。

尚、「壹」と 「臺」については先達が多く論じられており、私も以前書いたのですが。
334改め〜壹與:2008/01/13(日) 12:32:13
>>330
>邪馬臺国は 卑弥呼の頼りとする 景行の都する所。

やっと参戦した唐松山さんに〜ちょっと突っ込んでみようか(笑)

景行の都する所ってどうゆう意味でスか?
邪馬臺国は卑弥呼が都する所ではないんですか。
335改め〜壹與:2008/01/13(日) 12:37:13
邪馬臺国⇒邪馬壹国

当時か後の時代かの違いですが。
336愛知県民:2008/01/13(日) 13:19:20
>>333
>>後漢書では57年から数え

>?よくわかりません。

57+70=127
57+80=137
桓・霊の間=147〜189
107+70=177
107+80=187
霊帝光和中=178〜184
337愛知県民:2008/01/13(日) 13:26:30
改めさんは「イヨ」派ですか?
実は名前が二つあった可能性はないだろうか。
豊予海峡を挟んで豊の国と伊予の国は向かい合っています。
四国は古事記では「伊予の二名島」と呼ばれている。
半ば冗談ですが。
338改め〜壹與:2008/01/13(日) 13:35:47
>>333へ横
>まあしかし、もし「又」が全行程に書かれてあれば、水行10日陸行1月の起点を郡に求められない事をご理解戴けた事は私的には前進です。
>(今までいくら書いても、そんな事は倭人伝には書いていない!って声高に云わればかりで…。)

『梁書』『北史』は魏志倭人伝から引用されてる。
畿内説の逃げ道ってところか。

それより、後漢書の
『其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里』
とかご存知ですか?ローガンんさん
339改め〜壹與:2008/01/13(日) 13:42:37
>>337
ああ〜『改め〜壹與』
これはくっつけてるだけですよ。
私の横に壹與が居るというか、まあそんな感じです。
昨日は卑弥呼が居ましたが・・・。半ば冗談。
340太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 13:44:19
>>328 >>331
当時七、八十に至る奴が多く居たということは倍暦の使用の可能性が高まるな?
341太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 13:48:54
倍暦ならば、水行十日陸行一月は水行五日陸行半月だが・・・?
342改め〜壹與:2008/01/13(日) 13:49:30
>>340
それは中国も倍暦をしようしてたということですか?太国さん
大陸人は1年を知ってて、倭人は知らなかったんじゃなかったんですかね?
343太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 13:51:09
3倍暦なら、水行三日陸行十日になるがね? どうだろう??
344愛知県民:2008/01/13(日) 13:55:13
>>341
倍暦でも十日は十日でしょう。
半日が一日でなければ。

でも、陸行半月は可能性はあるか?
345改め〜壹與:2008/01/13(日) 13:55:59
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%AE%E6%97%A5
記紀によると紀元前660年(660 BC)、神武天皇が即位したとされる日である。

倍暦ってこのBC660年で使用したという認識ですが間違ってますかね?
346唐松山:2008/01/13(日) 14:01:15
328の太国さんの 読み方に合わせると
邪馬臺国は 卑弥呼の(頼りとする 景行の)都する所。
()内の文字が 抜けている。 と読む
もし ()内の 景行を崇神と書き換えて 読むと 卑弥呼が九州でも大和でも
書紀の記事内容から 支持出来ません。
よくある 機内説では、 男王=崇神、 卑弥呼=モモソ姫
モモソ姫は大物主の妻ですから 支持できません。

まあ この様な 読み替えの一つ。
347太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 14:03:45
>>342
中国のもっと古代では倍暦をやっていたというが? 1/5、永平寺の
貫首宮崎さんは106歳で寂滅された。司馬遷の史記では黄帝、尭、
舜は100歳は超えてるとあるとの話だから、倍暦をやってたのかも
知れない。卑弥呼の頃大陸はやってないと思う。もっと古い時代では
ありうるが? 半島では嶋王のころ日本に習って一時倍暦を使用して
いたと考えている。
卑弥呼とその後代のあたりで中国が倍暦不使用ならば、女王国で倭人
の知悉のもとに倍暦をやっていたことになって来る?
だって七、八十を超える者が大勢いたんなら、そう考えたくなるが?
348太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 14:07:22
>>345
神武即位にて3倍暦をやってますよ。ただ九州の卑弥呼(←後代)ははっきり
しないんです? しかし梁書のあの文面だと倍暦をやってたんではなかろうかとの
考えまでは行きますが?
349太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 14:08:49
>>344
まぁ日のほうはそうかもしれないね?
350改め〜壹與:2008/01/13(日) 14:23:08
>当時七、八十に至る奴が多く居たということは倍暦の使用の可能性が高まるな?

弥生時代といっても人類誕生から見たらごく最近の時代です。

私は書いてあるとおり七、八十生きた人もいると考えてますが。

まあ、記紀百何十歳っていうのはさすがに嘘と思ってるが(笑)
351太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 14:37:49
>>350
それはある程度はいるでしょう。0じゃないですよ。ただ多いとなるとそれが
当たり前の寿命だったということになるから、倍暦をやってたんではないかと
想うわけです。

>>344 愛知県民さんはズバリ日は違うとおっしゃるから、相っ当・・・倍暦研究
をやっておられるんではありませんかな?w
352日本@名無史さん:2008/01/13(日) 14:42:41
>>325  
昨日はローガンの自演が確認できたね。
彼は汚い言葉は、コテ無しで書くのね。
353横槍:2008/01/13(日) 14:51:13
倭人伝に書いてあるのは、寿命は百年或いは八、九十年
平均90歳ぐらいか?半分で調度いいぐらい

354愛知県民:2008/01/13(日) 14:52:21
>>351
ご期待に添えなくて申し訳ないですね。
あまり首を突っ込んでないです。
ただ、記紀ともに古代の日付が15日以前のものが不自然に多いことは確かで
何かありそうだとは思います。
まだこれからですね。
355ローガン:2008/01/13(日) 14:57:55
>>338
はい、読んだ事あります。
356改め〜壹與:2008/01/13(日) 14:58:47
或百年,或八九十年

って書いてあるしそれくらいは生きたんでしょう。
意見が分かれるところですが、徐福が不老不死の霊薬を探しに来てるし
逆に半分くらいなら来るわけがない。
357siraki:2008/01/13(日) 15:04:22
358日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:13:13
>>332
「城柵嚴設、常有人持兵守衞」は、強固に防御を固めている様子を示している。
日本の古代でこういう防御集落といえば環濠集落なので、環濠集落を連想するの
が普通だと思う。

また、日本の古代で「城柵嚴設」とするほどの防御施設で、環濠をつくらないと
考えるほうが不自然。吉野ヶ里でも環濠の周囲に柵を立てた後が見つかっている。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/WebLibrary/yosinogari/DSC00020.JPG

倭人伝がすべてのことを細かに書いているわけではないので、書いてないから
ありえないとすると困ったことになる。

たとえば、纏向遺跡で城柵と思われる遺構は見つかっているのだろうか。

>それは畿内で言えば池上曽根や唐古・鍵、そして纏向でも出ているものですね。

そうかな?

>>265氏とは別人だが、倭人伝の記述が環濠集落だろうと思う点では同じ。
考古学者もだいたいそう思っているはず。吉野ヶ里で畿内説の考古学者が
うろたえていたことは良く覚えている。
唐古・鍵遺跡に見切りをつけ、畿内自生説が出なくなった。
359唐松山:2008/01/13(日) 15:31:00
倭人 正歳を知らず
実際に年齢は数えていません。
もし 此処にかなりな老人が居る、子供、孫、ひ孫もいる そしてひ孫が働き盛りだったら
この老人の 年齢は かなりの年齢だと思われる。
これを 或百年,或八九十年 と推定して 倭人伝に載せる 寒い半島より 老人は多かったと思う。
360太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 15:44:36
だったら歳、のすごくいってる老人が多くいるとか具体的数字をぼか
して書くんでないの? 七、八十の上にさらに百を述べているところ
を観ると相当具体性が高い。
361ローガン:2008/01/13(日) 15:46:32
>>352
まって、まって!自演なんかしない!
だいいち、名無しでも書かないし…
362横槍:2008/01/13(日) 16:01:13
人間五十年〜と比べても倍ぐらいだよね
日本は長寿の国で今でも世界的に有名だよ(他国より数歳長生きなだけだが)
本当に百歳も本当生きられる国なら、シナ人が軍隊を送り込んでいるよ
363ローガン:2008/01/13(日) 16:08:36
>>358
集落についての記述ってどうしていいきれるのですか?
364唐松山:2008/01/13(日) 16:28:17
具体性が無いから 80から100歳としているので
具体性が在ったら 「80過ぎの老人も多い」と書く。
 
365日本@名無史さん:2008/01/13(日) 16:52:07
>>360
当時の日本には年号がなかった。だから、生まれた年がわからない。
生まれた年がわからないから、年齢もだんだんわからなくなってくる。
高齢になるとほとんどわからない、という状態では?

卑弥呼の年齢にしても、「長大」とあるだけで具体的な数字が全く出てこない
のは、年齢がわからなかった可能性が高いと思う。
366唐松山:2008/01/13(日) 16:58:02
この年齢と 記紀の伸長された年数とは、関係ありません。
367横槍:2008/01/13(日) 17:13:35
>>365
年齢が分からないなら、その長寿を記載する理由が無いだろう。
不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀と年紀を付けていた事が注釈されているしね。
まあ日本では誕生日を祝う習慣が余りなかったのでどこまで正確かは、分からんが、
一般人に聞いても大雑把な年齢ぐらいしか答えられんかっただろうな

368日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:24:58
>>365
魏志倭人伝に台与が王位についた年齢は十三とあり、
邪馬台国の人が年齢をわかっていたことは確実なのだが。
369日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:32:43
子供の頃、近所のおばあさんから○○ちゃんは○○才になったね、とか言われて
いたが、2才くらい多く言われていたような気がする。

どうも、生まれたときは1才で、正月が来るたびに一つ年をとる計算らしい。
「数え年」とか言っていたなあ。今は、満年齢だが。
370日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:36:52
>環濠
てかさあ、こんなん畿内説と九州説で話全然噛み合わないだろう?

畿内説…邪馬台国を大王の支配が全国に及び環濠集落が消えて行く
    古墳時代の先駆的都市とする。
九州説…邪馬台国を環濠集落でクニが形成された弥生時代の
    最後の都市とする。

…って事で各々頭ン中に思い描いている都市のモデルが違うんでねえの?

てか環濠を邪馬台国の必要条件にしている学者さんっていんの?

目下巻向の最大の弱点、言いかえれば畿内説が発掘調査に期待しているのは
大陸との交流を示す物なんじゃね?
(まあ金印とか出りゃ九州説は即死エンドだけどさあw)
現時点では全く出ていないと思うけど…。
371太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 17:51:05
>>364 >八十過ぎの老人も多い
>>328 >多くは寿考にして多く七、八十に至り、或は百歳に至る

上の文は具体性はあるというなら比較して、下の文も具体性があると言える。
下のほうが一寸だが具体的。「過ぎ」が入ると何故具体的なのか? 
372日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:06:05
>>370
畿内説は、邪馬台国とは無関係にマキムク王権を論じるのが主流で、
寺沢のように纒向は邪馬台国ではないという学者もいて、基本的に
同時代の九州が環濠集落かどうかに言及しない。

九州説では邪馬台国時代を環濠集落の時期とするが、それは
1、環濠集落の時期に各種遺物が九州優位であること
2、末盧國、伊都国、奴国は環濠集落の時期に栄えていたこと
3、狗奴国との抗争があったことから環濠が存在していたと考えられること
4、魏志のいう「樓觀」は物見やぐらで、「城柵」は濠を伴うと考えられること
などが根拠となる。
373太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 18:27:36
>>365
日本と云ってるが、九州のほうはなんともだが、畿内朝廷のほうは生まれた日が
不明でも天皇の崩御日はちゃんと全部記述されている。なお垂仁は誕生日が分か
っており、卑弥呼の死のころ前後のはずだと思った。天皇の誕生日はそれ以外
分からんようだが、誕生年は分かってるから崩御時何歳かは書かれている。それ
が長大なのは倍暦の使用のためである。
>>366
倍暦は別として関係ないと思っていいだろう。だがそうなるとあなたは景行世頃
に卑弥呼が九州に所在した主張であるが、景行の超長寿も関係ないでよろしい
のか? 景行九州行幸の月日は紀にあるわけだから、何歳の時九州へ行ったか
数字の上からは決まっているんで?
374日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:51:13
■シラキとは『知らす城』のこと

 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、『知らす城』の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉なのである。
シラキとは金城(現在の慶州)の別名であった。古代日本人は、金城とその周辺地方をシラキと呼んでいたのだ。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領である真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いていた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
 しかし、3世紀頃から、北方の太白山脈からワイ族(朝鮮人の先祖)という異民族が志羅紀領の北部に
侵入するようになり、やがて志羅紀はワイ族に乗っ取られた。こうしてワイ族国・新羅が誕生したのである。
 神功皇后の『新羅征伐』は、ワイ族に奪われた日本領土・シラキを取り返すための軍事行動だったのだ。
けして侵略ではなかったのだ。


375日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:52:15
>>370
>現時点では全く出ていないと思うけど…。

纏向遺跡では韓式土器が出土してますよ。
もう10年以上前ですよ。纏向の第90次調査(1996)だったかな。

これは重要な発見と思われたのでしょう、桜井市の埋文担当者が『古代学研究』に寄稿し、資料紹介されてます。

橋本輝彦・村上薫史:「纒向遺跡巻野内地区遺構群の特殊性と韓式系土器」、『古代学研究』141号、古代学研究会 1998
http://www.mediajoy.ne.jp/~kodaiken/main3.html
376唐松山:2008/01/13(日) 19:01:24
多くは寿考にして多く七、八十に至り、或は百歳に至る
寿考 =没年齢を推定 という意味でしょう。
377唐松山:2008/01/13(日) 19:12:45
景行の超長寿も関係ない って何?
倭人伝に 景行の年齢は 出ていません。
特定できる 人の年齢は 出てこない。
でしょ?
同じ頃の 高句麗も100才当たり前 ですよ
倭の 年齢だけが増長されているわけではない、 
使節が そんな年齢に 惑わされるわけが無い。

378日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:43:04
>>375に補足

それと、纏向遺跡内に所在するホケノ山古墳からは、こんな遺物が出土してます。
8年前に大きく報道されましたよね。

・画文帯神獣鏡(同向式)1面
・内行花文鏡と半肉彫表現の鏡の破片
・素環頭太刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後
http://murata35.cool.ne.jp/kansaitanboki/2000.04/hokenoyama/hokenoyama01.htm

これらホケノ山古墳の銅鏡や素環頭太刀などは、纏向と大陸との交渉をうかがわせる遺物であると現地説明会で言われ、その通りだと私も思うのですが、違いますでしょうか。
379太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 20:05:50
>>377
それでは卑弥呼と景行九州行幸とは全く関係ないと観てるんですね?
380日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:22:11
>>374
その意見に賛成です。




381唐松山:2008/01/13(日) 20:29:59
倭人伝に 景行と特定できる人物は出てこない、と
景行と卑弥呼とは 関係ない、

この2つは 別でしょ。
それとも太国さんは、「卑弥呼の侍従(弟)と男王 以外は認めない」と言うこと?
倭伝の倭国の見聞は 白水郎(海人)の領分の記事しか載っていない、
良田なし は上記の地域の記事 筑紫平野の記事も無い。
酒を好む とも書かれていて そこそこの田が無いと 酒を醸す事も出来ない。

ひょっとすると検視は 松浦までしか来ていない。其の先は 聞き取り調査であるかも?

382太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/13(日) 20:37:00
>>381
卑弥呼と九州行幸での景行とは無関係と考えてるんですか?
そのへんに話が行くと、肩透かしの別論に話が重くなるようですが?
383日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:21:27
>>378
・画文帯神獣鏡(同向式)・・・同向式は中国では皆無、楽浪で1枚、日本で多数出土。
          という状況から日本出土のものは大半が国産と考えられる。
・内行花文鏡・・・中国では100年頃を中心とした流通であるが、日本では5C頃の墳墓に
          まで出土が続くため、日本で大量に複製されたと考えられる。
・素環頭太刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後 ・・・国産可能

ちなみに、ホケノ山は箸墓と同じ布留0式期の築造という考えでほぼ固まっている。
384日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:45:31
>>383
>同向式は中国では皆無

んなこたねえと思うが、とりあえず「同向式は中国では皆無」の確かなソースを出してくれ
385正月○鹿:2008/01/13(日) 23:36:28
>>358

自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飮食傳辭出入。
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞。

王となりてより婢千人を侍し、会ゆるもの少なく、
出入りする男子只一人有りて飲食を給し辞を伝う。
楼閣、城柵を厳に設けし宮に居し、兵常にを守る。

貴方の思考にある「城柵嚴設常有人持兵守衞」は「環濠のある集落」。
読めば分かることですが、倭人伝の記述で兵が守っているのは「宮室」です。
集落ではありません。
これは外敵からの防御ではなく、前段の「自爲王以來少有見者〜」の状態を
保つための治安用務の衛兵のことではないですか?

御説に従う倭國の状なら、環濠集落はどこの国にもあるものです。
ならば倭地全体の風俗記事として記述すれば足りることで、
ことさら女王の宮室の記事に続けて記述するようなことではないでしょう。

>倭人伝がすべてのことを細かに書いているわけではないので

要は「書いていない」と言う事実は認めるわけですね。
そして、それを補足するためにいろいろと考察を述べられたわけだ。
そう言う手続きをするなら、苦言などは申上げません(反論はしますが)。
ただ、それを省いて「書いてある」からと言張る(思い込む)だけで、
他説の否定に足れりとされては困るのです。

>書いてないからありえないとすると困ったことになる。

前レスでも申し上げましたが、私がいつそのようなことを書いたのか
早く明示していただきたいものですねw
386日本@名無史さん:2008/01/13(日) 23:46:44
>>370
畿内説と九州説、どちらの描く邪馬台国像が、倭人伝に書かれた倭国の状況に
近いかということだろうな。

ところで、畿内説の年代観によると、吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代にはすでに
衰退してしまったということらしい。
しかし、吉野ヶ里遺跡の発掘責任者である高島忠平氏の年代観は、卑弥呼の
時代にはまだ吉野ヶ里遺跡は存続していたということになる。

これは、いわゆる庄内期の開始時期とも関連する。

このあたりも面白い。
387日本@名無史さん:2008/01/13(日) 23:57:32
>>385
>御説に従う倭國の状なら、環濠集落はどこの国にもあるものです。
>ならば倭地全体の風俗記事として記述すれば足りることで、
>ことさら女王の宮室の記事に続けて記述するようなことではないでしょう。

吉野ヶ里では、環濠集落の内部に環濠で守られた内郭があり、そこに
王宮らしき建物がある。このような状況を特筆した可能性が最も高い。
388日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:09:22
>>387
言いたい事が良くわからないのだけど。
じゃあ、あなたの思う「居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」は、
具体的にどこにある?
どこでそういうものが発掘された?

確か、大分県の日田市から環濠居館の跡が出ている。
しかし、ここでは「樓觀」は出ていない。

倭人伝に書かれている、王が住んでいたと考えられる建物(宮室)、樓觀、
城柵、今のところ一番ふさわしいのは吉野ヶ里じゃないのかな。
環濠集落が一番妥当だろうと思う。

それとも、もっとぴったりするところを知っているのかな。
389日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:11:10
>>388
>>387ではなく、>>385
390日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:12:51
そんなこと言ったら、原の辻も平塚川添も皆多重環濠だよなあ・・・
391横槍:2008/01/14(月) 00:16:17
大和に環濠集落が在ったとは考えにくけどな
平城京や平安京や御所には塀はあったが堀(あっても精精溝程度)は無かったからね。

例えば、中国の戦国時代、各国の首都は巨大な城壁に守られていたが、
最強の蓁の首都カンヨウだけは、城壁も堀も無かった。
それは、函谷関という天然の要害に守られていたため

大和も近辺に強敵が存在せず、生駒山などの要害に囲まれ、治安もよければ
わざわざ堀を造る必要は無いだろう。
392日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:28:44
>>390
平塚川添遺跡は四重くらいだったかな。熊本県のうてな遺跡も四重くらいの
環濠があったと思う。

そういえば、日本の戦国時代の城も多重環濠か。
393正月○鹿:2008/01/14(月) 00:47:37
>>388

何か逆切れ状態になってますけど、論点をお忘れですか?
貴方が>>265氏とは別人と言うことなので何なのですが。

>魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっているのだが。

私はこの文言の是非について語っているんですよ。

これに対して貴方が主張することは、私に対する中傷を除けば
城柵嚴設とは厳重な警戒と言うことだから環濠が妥当だ、でしょう。
そして、ご自分でも認めているようにそれは「書いていない」ことなのです。
ならば>>265氏の書いてあるかのような主張は倭人伝の誤読、

貴方のように何らかの補足説明があって、初めて言える仮説なのであって
決定事項のように言うのは間違いでしょう。
折角、意見の一致を見たところなのに、なんでまた切れるのかなw

まあ、貴方も人が言ってもいないことをいつまでも「言った」と言い張ったり
よく解からない人だけど。
394日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:49:16
>>384
「わが国から発見される鏡のうち、三角縁神獣鏡とならんで中国ではほとんど発見例
がない舶載鏡に画文帯同向式神獣鏡、斜縁二神二獣鏡、「上方作」銘半肉彫り四獣鏡、
飛禽鏡がある。」(西川『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』20頁)
西川はこれらの鏡が楽浪で出土しているとする。

王仲殊は、『三角縁神獣鏡』217頁で日本各地の画文帯同向式の同笵鏡が21面にもなると
してこれらは日本製としている。なお、王は画文帯同向式が中国で出土していないとするが、
この本の図版に鄂城出土の「同向式」が載っている。外区紋様が日本出土の画文帯と異なる
ため、画文帯同向式の範疇に含めていないと思われる。

現時点では、画文帯同向式は日本で35〜40枚出土、楽浪で約1枚、中国では3枚出ている
が、中国のものを同列に扱えるのかは疑問。
395日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:57:26
>>393
普通に読めば環濠集落の描写でしょう。
「樓觀」(物見やぐら)を設置していて、城柵もあるというのは、環濠集落では
良く見られることだが、環濠集落の終焉したあとは、「樓觀」は無くなる。
畿内説はこの点は沈黙しているのが現状じゃないのかな。
396日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:00:24
>>391 大和に環濠集落が在ったとは考えにくけどな

ハァ?(゚Д゚)y─┛~~
397日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:09:22
>>396
唐古・鍵遺跡は環濠集落だよね。
398日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:14:20
つーか、日本全国環濠だらけ。
399日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:19:33
でも、唐古・鍵遺跡からは何も出てこない。
掘って出てくるのは石器ばかり。特定の階級が住んだと思われるような
建物の跡も見つからないし、もちろん樓觀、つまり高くて立派な建物の跡も
見つからない。
ここでめぼしいものが見つかったら、畿内説の考古学者の「神の手」で
邪馬台国にされていたかも。
400日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:26:33
401日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:42:04
>>400
それは卑弥呼の時代よりも350年〜400年近く前の建物跡だから。
402日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:52:53
だから?
403横槍:2008/01/14(月) 02:10:44
>>397
唐古・鍵遺跡は、このスレの邪馬台国とは時代が違うべ
404日本@名無史さん:2008/01/14(月) 04:39:54
てかさあ、マキムクの場合、あれだけ運河に囲まれてたら環濠なんか意味無くね?w

(まあ実際かの地にあれだけの運河があったというのは素人には想像し難いんだけど…)
405日本@名無史さん:2008/01/14(月) 05:20:05
>>399
>でも、唐古・鍵遺跡からは何も出てこない。
>掘って出てくるのは石器ばかり。

唐古・鍵遺跡の出土品は、石器だけではありません。
石器以外にも、次のようなものが出ています。

土器、骨角器、青銅器、鉄器、ガラス製品、麻製品、etc.

あなたのこのレスの2行を文面通りにとらえるなら、あなたは大嘘つきです。
406405:2008/01/14(月) 05:25:53
>>405
木器や玉製品も出ています。失礼。
407日本@名無史さん:2008/01/14(月) 05:44:02
もののたとえ、ということがある。

以前は、唐古・鍵の人間が、纒向に移って大和朝廷の前身になったのだと
言う畿内説の人が多かった。いわゆる自生説というやつ。
その期待をこめて、延々と発掘調査が行われた。

その結果、現在そのようなことを言う人はまずいない。それを裏付けるような
物が出てこなかったからである。特に期待した鉄器がほとんど出なかった。
その状況を、掘って出てくるのは石器ばかりと表現したわけ。
408日本@名無史さん:2008/01/14(月) 07:03:17
>>407
>以前は、唐古・鍵の人間が、纒向に移って大和朝廷の前身になったのだと
>言う畿内説の人が多かった。いわゆる自生説というやつ。

ほう、初耳だねww
誰が言ってた?
多かったて言うんだから、5人ほど名前をあげてみな
409日本@名無史さん:2008/01/14(月) 07:56:48
>>407

倭人之条には、「大縞模様の布、倭錦、緑青兼、畠系衣、帛布、丹、木付、短弓、
矢」などの朝貢品が列挙されている。武器以外で倭国が誇れるものは
これらだったのだろう。

しかし、なぜに畿内の3世紀以前の遺跡から鉄器が少ないゆえに
≠畿内説というのは理解できない。

倭人之条のどのあたりに、邪馬臺国の鉄器優位性が示されているのだろうか?

少なくとも、九州説をとる場合でも、

「女王国以北に特に一大率を置き検察する、諸国は之を畏れ憚る。」

と書かれている以上は、北部九州説は否定せざるを得ないが。

少なくとも中・南部九州でないと理解できない。
410日本@名無史さん:2008/01/14(月) 09:17:22
>>408
407は今、その5名に名前の公開許可を求めているようです。
あと数年お待ちくださいw
てか3年ROMってろ
411太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 09:30:28
>>409
北九州は女王国があるとは考えにくい。というのは、大陸半島から対馬等を経て
北九州に入ってくるわけだから、北九州に女王国があるんなら朝廷の連中の耳にも
入り、女王国の大まかな状況が朝廷側に手に取るように分かってくるはずだ。

なると大陸半島からの朝貢もあろうが、もっと朝廷に近くなる北九州の女王国から
朝廷に朝貢が来てよいが、そんな記述は全くと言ってよいほど記紀には無い。

だから女王国は中九州以南という可能性が高い。ただし大陸半島から朝廷へ至る
満ち筋からかなり外れる北九州の領域は少ないながらあるやも知れぬから、
そういう地域なら北九州説も可能性としては少し残ることにはなる。
412唐松山:2008/01/14(月) 11:19:11
鉄製武器
秦の時代には在ったが 少なく脆い
漢の武帝の頃より 青銅器に取って代わる まだ青銅器中心
3国時代 鉄製が 主流となる
大和では
日本武尊 の関東征伐の時 伝来の草薙の剣を使用 青銅器製と思われる。
これは伝承だから 話半分と見ても 鉄刀が 主流の時代ではない。
巻向(景行の都)からも 鉄器時代を思わせる 出土品は無い。
413日本@名無史さん:2008/01/14(月) 11:36:57
>>407

> もののたとえ、ということがある。

「たとえ話」と「「うそ」は違うでしょ。
日本語は正しく使いましょうね。
414唐松山:2008/01/14(月) 11:46:53
蛇足
崇神稜、箸墓稜を そのまま認めると、
垂仁は 墓域の 巻向に 都を移した。

墓が 「隣に在ってはいけない」とまで言わないが どうだろう?
415卑弥呼の子:2008/01/14(月) 12:31:23
邪馬台国は存在した、という前提で私の疑問や意見を述べさせていただきます。

1 邪馬台国の人は入れ墨をしていた、ということですが、この風俗は邪馬台国が
  四散したあとも、どこかに残っているはずではないでしょうか?

2 卑弥呼は「鬼道をよくし」とありますが、これを本式に勉強した人だと
  考えると、中国人だったのではないでしょうか?
  弟とのみ会話をした、とあるのは要するに、それ以外の人とは言語が通じなかったからではないでhそうか。

3 記紀には邪馬台国の記述はありませんが、彼らはやはり邪馬台国のことを
  知っていたのではないでしょうか。そして都合の悪い部分は焚書坑儒したのではないでしょうか

4 邪馬台国の記録を残した資料はいくつかの古墳には残っていると思います。
  漢字の伝来はもっとあとのことですが、かな的には使われていたと思います。

5 そいうわけで私が注目するのは宮崎県の西都原古墳で、ここを本格的に調査すればだいたいのところはわかるのではないでしょうか。
416サガミハラハラ:2008/01/14(月) 12:31:23
パソコンの調子が悪く返答がおくれてしまいました。

>>226マツロ国については、わたしは、松浦半島の西とはいっておりません。
マツロ国は唐津で、唐津は東唐津と西唐津があり、西唐津八幡町の川浪商会の前の海岸に上陸したとみています。

>>227金印は個人にあたえられたものではなく、中国に承認された国の国王に授与されたものです。
そしてその印は中国への貢献の際に使用されるわけです。
ですからそれは伝世され代々使われるものなのです。
 ですから卑弥呼がしんだからといって墓にうめてしまっては困る(貢献のときにインが押せない)わけです。
王朝が 変わったときには新王朝から改めて新印を授受するわけです。その時に旧印をもっていって新印をもらってきたとおもわれます。

>>232桜ケ岡説を否定といいますが、そのようなことはありません。

>>233当時の地名がすべて残っているというわけではなく、のこっていない致命もあるということです。

>>142については、投馬国まで20日というのはフミ国からということです。
倭人伝の行路記事は複数の資料があったようで、投馬国と邪馬台国までの記事は別の資料によったようです。
フミ国までは漢(またはキ氏朝鮮)代の資料によったようで、投馬国と邪馬台国は魏使の資料によったものです。
ちなみに、魏使は里で距離は測っておりません。

戸数は国全体の戸数です。5万や7万の都市があったわけではありません。
417太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 12:37:51
>>415
>3 どういう点が都合悪いのか?
>4 紀元前1世紀の鏡が吉野ヶ里から出土しているし、例の金印にも国王の漢字
   があるから、女王国のある以前から、倭人の漢字の理解と使用の可否は別と
   して漢字は日本に伝来してると観るべきである。 
418古代:2008/01/14(月) 12:51:21
415
<2、この場合の鬼道というのはそのまま大陸の鬼道という意味ではないのでは?
大陸に当てはめて考えれば鬼道というだけで。
弟もほんとうは夫ではないか?日本では異母兄弟の結婚はあったが、大陸の常識ではありえなかったので、世話を焼いていた。と解釈したのでは・・

<4、魏志の内容は知っていたようだから当然邪馬台国の事は知っていたでしょうが、それがどこにあったのかとか、卑弥呼が誰であったのかというとはわからなかったと思いますね。
稗田阿怜は邪馬台国は大和朝廷で、卑弥呼は神功皇后だと思っていたようですが・・わからないのでここに差し挟んだという感じです。

419日本@名無史さん:2008/01/14(月) 12:53:26
@ 鯨面は、白水郎(海人)及び縄文人の風俗。 エミシは縄文人の伝統を ついこの間まで持っていた。
A 鬼道は、伝え聞 半島にも有る 本国で曹操が戦った相手も鬼道。
B 書紀では 漢字変換のとき 間違った変換をしてしまい、解からなくなった。
C 本当の名前は、呪詛で使う必要があったので 文字を残さないのが当国の風習。
D 何が出るかな?期待はするけど 
420日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:14:33
質問!
モモソヒメの墓が大王級なのは何故?
九州にあの規模の墓ってあるんですか?

卑弥呼と宗像三神は関係あるんですか?
421日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:20:42
>>415

> 弟とのみ会話をした、とあるのは要するに、それ以外の人とは言語が通じなかったからではないでhそうか。

弟が補佐していたという記事は有ります。
会うもの「少なく」一人の男子が給仕・伝達を行ったと言う記事もあります。
その男子が弟かどうかわかりません。

> 3 記紀には邪馬台国の記述はありませんが、彼らはやはり邪馬台国のことを
>   知っていたのではないでしょうか。そして都合の悪い部分は焚書坑儒したのではないでしょうか

書名が定かではありませんが、天平年間の蔵書目録(もしかしたら国家珍宝帳?)に
史記、漢書などと並び三国史も載っているそぷですので、当然読んでいると思います。

> 4 邪馬台国の記録を残した資料はいくつかの古墳には残っていると思います。
>   漢字の伝来はもっとあとのことですが、かな的には使われていたと思います。

多分無いと思います。

> 5 そいうわけで私が注目するのは宮崎県の西都原古墳で、ここを本格的に調査すればだいたいのところはわかるのではないでしょうか。

1〜4から5に結びつける根拠がまるでないのが笑えます。
422太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 13:41:14
>>420
大王級だから不審なわけ。女王国は九州だから畿内に卑弥呼の墓を朝廷の管轄下
で造るというのは考えにくい。そうなると記紀等古伝に齟齬があった可能性は
あろう?
卑弥呼と三神は強い関係はない。
>>421
>3 載っているくらいでは相手はそれを探しずらく、あきらめて探さなきなる。
423日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:57:34
宗像=住吉=八幡 と見て
 ホ06098 ヲシホヰに ウブヤのミミに あれませる ヲシホミのミを ヲシヒトと イミナをふれて
カミアリの モチヰたまえば タミうたふ さきにモチコが うむミコの ホヒノミコトの タナヒトぞ ハヤコがミツゴ
ヒはタケコ ヲキツシマヒメ フはタキコ ヱツノシマヒメ ミはタナコ イチキシマヒメ
しかるのち アキコがうめる タタキネは アマツヒコネぞ しかるのち ミチコがうめる
ハラキネは イキツヒコネぞ トヨヒメは ネのウチメにて ヌカタダの クマノクスヒぞ
ミコすべて ヰオとミメなり

上記の 3姫を 祀る神社が 見付かりました。
本は、安曇郡誌 第2巻上 昭和43年発行 非売品 の174ページ
 しかるに 明治9年の上野組村誌は次のように記している。
八幡宮は ヲキ(オキ)津島比売命、市杵島比売命、辺津島比売命、応神天皇、神功皇后 五柱を合せ祭る。
鞠子社は 健御名方富命、前八坂刀売命を合せ祭る。
と出ています、格は 村社  現在は松本市です。 
ヲキ の字が 漢字に成らなかった。 

424電波大魔王:2008/01/14(月) 14:22:38
朝鮮半島との交通の要衝にある伊都国は別にして、
奴、狗奴、投馬、邪馬台の4大国は交易権を巡って
激しい競争関係にあったんだよ。

そして、最終的に奴・投馬・邪馬台の三国同盟が成立し、
狗奴だけは除外された。

多分、地理的な関係じゃないかな?
奴・投馬・邪馬台は国内交易ルートを共有するような関係にあり、
狗奴だけは、そのルートから外れる立場だったのだろう。
(倭人伝では『第二の奴国』の南に配置されている。)
そして、両者は国内交易ルートの出口である伊都との交易を競う。

3世紀初めころには三国同盟が優位であり、盟主卑弥呼は
『親魏倭王』にまでなってしまう。
その後がどうなったか分からないが、交易ルート自体が変化して
(輸出入の窓口が博多湾に西新地区に移動する)いるので、
三国同盟対狗奴国の図式も変化したことだろう。
425唐松山:2008/01/14(月) 15:05:31
風土記 による 熊襲地域は、
九州北西部であり、白水郎の土地。
426プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/14(月) 15:08:45
>>416サガミさん

では「殉葬」と「徇葬」の違いはどうなされますか?

桜ヶ岡の決め手の一つとして「殉葬」をあげていますが、原文には「徇葬」となっています
427サガミハラハラ:2008/01/14(月) 16:38:18
ジュン葬は殉葬のこととみています。
そうでなければ意味が通じません。葬式に奴婢を百人使ったでは記述する意味がないでしょう。
確か前のレスでこのことについてろんぜられたかと思いますが何番でしたっけ。
428日本@名無史さん:2008/01/14(月) 17:24:47
>>408
どうも基本的に知識に欠けるようだな。
邪馬台国九州説は、明快で、東遷説と九州王朝説に分かれる。
東遷説は、九州にあった邪馬台国が東遷し大和朝廷になる。
九州王朝説は、邪馬台国は九州にあり、大和朝廷とは別物。

では、畿内説はどうなる?古墳時代に大和に強力な王権があったのは事実。
その勢力は、どこで生まれた?
よその勢力がやってきたのか、それとも大和で芽生え成長したのか?
どっちかだろう?

大和で生まれて成長したと考える人がいるのは当然だろう。畿内説としては
これが自然な帰結になる。だから、大和にその痕跡を探す。
めぼしいものは、唐古・鍵しかない。ここの人間が纒向を作ったのだという
人がいるのも当然ということになる。

でなかったら、東遷説を受け入れなくてはならないようにもなるわけだから。

それを始めて聞いたなんていうのはド素人か?
429日本@名無史さん:2008/01/14(月) 17:31:38
>>409
鉄は武器としてだけではなく、道具としても青銅器よりはるかにすぐれている。
だから、鉄があるとないとでは国力に大きな差がでる。
これは古代の常識。

考古学的に見ても、もっとも鉄の量、あるいは利用技術がすぐれているのは
中部、北部の九州で東に行くに従って質量共に劣る。
劣る近畿地方でも、近江地方の方がまだましで、畿内は更に劣る。
後進地域だと考えざるを得ないことになる。

また、倭人伝には、倭人は鉄の鏃を使うとある。
鉄がないのは困ったことになる。
430プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/14(月) 18:06:55
>>427サガミさん


徇葬が殉葬と意味が同じなら、最初から殉葬と書くでしょ。
当時殉葬と徇葬は、きちんと使い分けられている


つまり
曖昧に誤判断された 桜ヶ岡は、自動的にペケで確定しちゃいます。
431横槍:2008/01/14(月) 18:20:18
>>428
その説は最初、津田右左吉が言い出したんだろ
戦前はそんな事、発表するわけにはいかないからね
432日本@名無史さん:2008/01/14(月) 18:29:38
>>429
倭人伝には、倭人は鉄の鏃を使うとある。
鉄がないのは困ったことになる。

倭人之条に記載されていることが全てが邪馬臺国のことではないだろう

邪馬臺国の人々は皆鉄の鏃を使うと記載されているなら了解ですが。

だから、何も困らない・・


433日本@名無史さん:2008/01/14(月) 18:45:18
纒向遺跡は、古代の王宮が営まれたとされる三輪山山麓(さんろく)にあり、
東西約2キロ、南北約1・5キロ。邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の
墓説がある箸(はし)墓(はか)古墳(3世紀後半)もある。県や市による
調査は1971年に始まり、現在まで153回行われたが、住宅開発などに
伴う緊急調査が85%の130回を占め、調査が終わったのは全体の5%
程度。

>>407
纒向遺跡は邪馬臺国とは関係ないと思うけど、「…期待した鉄器がほとんど
出なかった。その状況を、掘って出てくるのは石器ばかりと表現したわけ。…」

まだ5%だから石器・木製器ばかりというのも判断が早すぎませんか?
これからの調査を推移を待っても遅くはないと思うがね。
434日本@名無史さん:2008/01/14(月) 18:55:10
>>428
>大和で生まれて成長したと考える人がいるのは当然だろう。畿内説としては
>これが自然な帰結になる。だから、大和にその痕跡を探す。
>めぼしいものは、唐古・鍵しかない。ここの人間が纒向を作ったのだという
>人がいるのも当然ということになる。

そういう「唐古・鍵→纏向へ移動して纏向建設」(=ここが邪馬台国)、との畿内自生説をいったい
誰が、かつて述べてたか、そこが問題なんじゃよ
言いだしっぺの>>407は、「と言う畿内説の人が多かった。いわゆる自生説というやつ」、とだけ書いて、
そのような説を主張してた研究者がどういう顔ぶれか、書いておらぬ
じゃから>>408で、
「誰が言ってた? 多かったて言うんだから、5人ほど名前をあげてみな」、
と質したわけじゃが、>>407は答えてこぬ

ちゅうことで>>428さんよ、あんたに頼む、
研究者の氏名を挙げてくれ、
「唐古・鍵→纏向へ移動して纏向建設」、との邪馬台国畿内自生説を主張してた研究者を
435日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:17:50
>>431
)その説は最初、津田右左吉が言い出したんだろ

横槍氏よ、いい加減な横槍は困るのう
右左吉? 左右吉じゃろ
それはともかく、津田左右吉がまさか纏向遺跡(旧名太田遺跡)について何か言ってたとは思えんがの
纏向の本格的な発掘は1970年代からじゃよ
それより前1961年に津田は亡くなっておるわ
436日本@名無史さん:2008/01/14(月) 20:57:54
唐古・鍵と纏向しか話題にならない・・・
池上曽根遺跡とか四ッ池遺跡とか久宝寺遺跡とか加美遺跡とか
弥生時代〜古墳時代の遺跡群は九州説ではなかったことになってるんだなぁ
437古代:2008/01/14(月) 21:05:49
纏向の墓が誰の墓か
まあ畿内説で挙げられるのは卑弥呼の墓もしくはトヨの墓
九州説では大和にあった王権の誰かとなる、日本書紀ではモモソ姫の墓。古事記にはその記載はない。
もう一つの可能性としては物部王権の墓とも考えられる。日本書紀では神武東征前は物部氏が大和を支配していた、とあるので。
さらにもうひとつの可能性としては大物主王国があって大物主自身の墓。それが巫女・妻の墓へと変化した。

438日本@名無史さん:2008/01/14(月) 21:08:16
遺跡をないことにするのは乱暴ですね。

東遷説を唱える人達は
吉備や出雲の制圧をどのように行い、
大国主を倒したのか、長臑彦との戦いは?

いろいろご教授お願いします。
439太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 21:11:25
箸墓がモモソの墓とすれば大きすぎるんではないのか?
疑念はそこから始まる。しかし卑弥呼の墓でもない。彼女は九州の女性であり、確実に別人だな。
440日本@名無史さん:2008/01/14(月) 21:12:54
池上曽根、四ッ池遺跡、久宝寺遺跡、加美遺跡は確かに弥生時代〜古墳時代
にかけて大阪平野にあった大規模集落を伴った遺跡のようだが、このスレ
が「邪馬台国問題に終止符」なので、畿内説をとる場合でも、これら遺跡
は邪馬台国問題にはどうかかわってくるかわからない。
441横槍:2008/01/14(月) 21:13:38
>>435 太国?
津田ちゃんが初めて神武東征を否定した事を言いたかったのだ
442太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 21:15:25
東遷も考えにくい。だいたい国を移すなんて、孫悟空に頼まん限り
出来る芸当ではない。だからこれも間違いは東遷確実だ。ゆっくり
国が動くなんて溶岩でもあるまいし、無理な話だな?w
443太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 21:17:56
>>441
それは別人だよ。拙者ではないよ。
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 21:23:55
畿内説 記紀が国を隠したから記載がない。w
東遷説 九州から南極の氷のように国が移動した。w
445日本@名無史さん:2008/01/14(月) 21:47:44
>>432
畿内説はだいたいそういう考え方をする。
鉄がなければないでよい、と。
要するに、邪馬台国は畿内と決まっていて、全てはそこから始る。
帰納法的というのか、論理的でない。

鉄を使わない後進的な民族と、鉄の武器を持つ人々とどちらが優位にあるか。
周囲の人が鉄の武器を使い、邪馬台国が鉄を持たないなどと考えるのは、
まともな思考とはいえない。

邪馬台国は、周辺の国々を従えていたとされているのだから。
446日本@名無史さん:2008/01/14(月) 21:52:37
だが、九州説にしても
確かに大陸と近いために文化は高かったもしれないが、
反対に大陸に近いために新羅やクマソ、隼人がいて、危ないとも言える。
九州に太宰府のような六波羅探題のような
ものを置いたんじゃないか。
447日本@名無史さん:2008/01/14(月) 21:54:05
>>440
> 池上曽根、四ッ池遺跡、久宝寺遺跡、加美遺跡は確かに弥生時代〜古墳時代
> にかけて大阪平野にあった大規模集落を伴った遺跡のようだが、このスレ
> が「邪馬台国問題に終止符」なので、畿内説をとる場合でも、これら遺跡
> は邪馬台国問題にはどうかかわってくるかわからない。

はあ?
池上曽根と四ツ池は弥生中期の遺跡だけど、
加美・久宝寺遺跡は纏向と同時代で河内庄内の中心だよ。
当然、大和と同じ政治圏を構成していたと思うよ。
纏向が内陸で対東海方面への拠点とすると
加美・久宝寺は港湾都市で対瀬戸内への拠点集落なんでしょう。
448日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:00:20
>>445
3世紀の畿内に鉄がなかったということの
証明が不十分

畿内の古墳からも、三角縁神獣鏡などと一緒に
刀剣が発掘されているんだが。
449サガミハラハラ:2008/01/14(月) 22:09:10
>>430私が小城が邪馬台国であると信じているのは、魏志倭人伝の行路記事のとおりに行くと、
佐賀県小城市甘木にたどりつくからです。
そしてそこに記述どおりのおおきさの丘があれば、それが卑弥呼の墓であると確信するのは当然でしょう。
逆にそれを否定できますか?否定することは、倭人伝の行路記事を否定することですよ。
確かに倭人伝の記事の方角などを否定して、自分の思うところに邪馬台国をもっていく方が大勢いますが、
たとえば箸墓が卑弥呼の墓ではとおっしゃるかたもおられますが、あの墓が卑弥呼の墓であるという証明は桜ケ岡よりもないでしょう。
「考古学的には女性の墓だとすら断定できないはずです。
450日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:20:22
>>434
407と428は、同一人物だよ。

唐古・鍵から纒向というのは、以前はいろんな人が言っていた。畿内説の人は
だいたいそう思っていたはず。
で、そのことについて誰が言っていたか名前を挙げろという。
まあ、挙証責任を押し付けるという最低の議論の手法のわけだが、これは調べ
なくてはならない。

しかし、まともに議論しようと言う気があるなら、以前の畿内説はどういう
成り立ちを考えていたのかをそちらから述べるのが筋というもの。

畿内説は、以前はこういう考え方が大半だった。唐古・鍵から纒向へなど
そんな説はなかった。もし、そういう研究者がいるとしたら挙げてみろ、
というのが普通の大人の議論。

畿内説の誰がそんなことを言ったかを調べるのはけっこう大変だが、調べて
みよう。そちらも以前の畿内説の概要を述べてくれ。
子供みたいに証明しろ、証明しろというのはやめたほうが良い。
451日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:32:01
>>450
一人見つけた。昭和50年頃、田辺昭三氏が言っている。
本は、角川選書の「シンポジウム邪馬台国」。
452太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 22:51:22
>>448
3世紀末には畿内に鉄はないそうだ。→>>328
顯宗の時代は倍暦計上で3世紀末即位。鉄剣はよそからでないの?
453日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:53:13
>>450
石野博信氏も唐古・鍵遺跡から纏向遺跡に移動したと考えてきましたと
言っている。
454サガミハラハラ:2008/01/14(月) 22:59:18
吉野ヶ里について、
小城が邪馬台国の都になったのは3世紀中ごろです。それまでは、吉野ヶ里が都でその北内郭に卑弥呼様はすまわっておられたのです。
小城に遷都しても吉野ヶ里のような構造で設計したので、 倭人伝の都の記述が吉野ヶ里によく合うのでしょう。
455改め:2008/01/14(月) 23:00:47
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。

とあるから北九州・大分の海沿いも含まれてた可能性がある。

女王国(都の邪馬壹國)は大宰府〜宇佐?!
456日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:05:38
いつぞやか、マキムクで製鉄をしていた後が見つかったとか。
壮大な水道設備もある。
神殿の柱跡も。もちろん墓も大きいのから
石を積んだだけのも含め相当数ある。

これがヤマトなのか、大国主の国なのか、邪馬台なのか

宮内庁は箸中の調査を許可するべきだ
457改め:2008/01/14(月) 23:09:11
>>416
>印は個人にあたえられたものではなく、中国に承認された国の国王に授与されたものです。
>そしてその印は中国への貢献の際に使用されるわけです。
>ですからそれは伝世され代々使われるものなのです。
>ですから卑弥呼がしんだからといって墓にうめてしまっては困る(貢献のときにインが押せない)わけです。
>王朝が 変わったときには新王朝から改めて新印を授受するわけです。その時に旧印をもっていって新印をもらってきたとおもわれます。

個人(国王)に与えられたものですよ。
それと墓に埋めてもなんで困るのかわからない。印が押せないって?卑弥呼が亡くなってるのに
卑弥呼の印を誰が押すんですか?面白いもといいますよね。
458ローガン:2008/01/14(月) 23:12:02
>>449
サガミ先生。
そうですね! 南って書いていますね!
会稽東冶の東って書いていますね!
記述は正しいのでしょう?魏志倭人伝は正しいのでしょう?
じゃあ小城ってところがきっと会稽東冶の東にあったのでしょうね!




海の中に……
459太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 23:12:32
>>456
とにかく畿内に行った慧深という大陸の者がオケの国王(天皇)の処は鉄がないと説明している。で、製鉄の後といってももっと後代ではないの? だいたいそこは朝廷関係の遺跡だな。
460日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:13:17
>>457
卑弥呼ちゃんへとは
ハンコに書いてないだろ馬鹿w
461サガミハラハラ:2008/01/14(月) 23:14:39
卑弥呼がなくなって壱与が位をついで中国に貢献するとき「親魏倭王」の印鑑を押した国書を皇帝に差し上げるわけです。
462改め:2008/01/14(月) 23:14:49
サガミさん
>戸数は国全体の戸数です。5万や7万の都市があったわけではありません。

これはそうかもしれませんよね。>>455でいったように女王国の範囲は広いみたいです。

>当時の地名がすべて残っているというわけではなく、のこっていない致命もあるということです。

サガミさん残ってない言ってませんでしたか?
463日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:15:41
>>459
では、鉄論議は愚ではないか?
464改め:2008/01/14(月) 23:16:31
>>460
卑弥呼ちゃんへ
と書いてあるんですよ(笑)

460さんは魏志倭人伝みたことある?
465太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 23:19:04
>>463
畿内か九州かで議論しあってるんだから、ある程度必要だろう?
愚と云うは極言。
466サガミハラハラ:2008/01/14(月) 23:19:45
>>462もしそうなら、残ってない地名もあるに訂正しておいてください。
467日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:20:35
「親魏倭王」印は私印じゃないでしょう。
公印でしょ。
私印ならともかく、公印をあの世まで持って行かれちゃこまるw
貴方の説じゃ、役所の長が退職記念に持ち帰るようなもんだよ。
468日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:20:57
>>464
ほほう、歴史的発見ですな!
では卑弥呼ちゃんは
ちゃんとした本名であるとw?

伝書の意味を理解してくれ。腹が痛い
469プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/14(月) 23:22:41
>>449サガミさん

その前に
卑弥呼の墓の場所なんて何処にも記載ありませんよ

それに、サガミさんがおっしゃる倭人伝どおりなら、末盧國から東南に伊都國があるなら
『伊都國在末盧國東南』あるいは『東南至伊都國陸行五百里』と記載するのではないのですか?
そう記載されるべき所が、そう記載されないのですから
当然、伊都國は東南の位置にはないという事、これは物事の道理

いろんな角度から見ても
佐賀に抜けることを拒んでいるのです。
470日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:26:17
>>465
大陸から九州の郡所に渡って、
瀬戸内海からヤマトに取り寄せて、研究させて製鉄させたと。

鉄が何処から広まろうが 愚問ではないか?

マキムクにはいろんな産地から お取り寄せが多い。
471改め:2008/01/14(月) 23:27:40
>>467
>「親魏倭王」印は私印じゃないでしょう。

誰も私印とは言ってない。

>私印ならともかく、公印をあの世まで持って行かれちゃこまるw
>貴方の説じゃ、役所の長が退職記念に持ち帰るようなもんだよ。

それは今の考えでしょ。
あなたの考えなら永久に親魏倭王とでもいいたいのかな。
472古代:2008/01/14(月) 23:29:39
「親魏倭王」の称号は夷国の王には破格の称号らしい。
朝鮮半島で魏から独立しようという動きがあったので、倭国との関係を強化したかったみたいだけど。
普通の夷国の称号はどういうもの?「魏倭王」?「魏倭邪馬台国王」?
南蛮とか北荻とか他の東夷の王の称号はどんななんでしょうか?
473太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 23:31:43
>>470
愚問なら、お前のほうは研究をそこだけしなければいいことだ。ほかの連中は
そんなにそう思ってないだろう? だって、よ〜く鉄がどうのこうのってこの
へんのスレで論議してるよ。マキムクは朝廷の遺物と観て可。
474改め:2008/01/14(月) 23:32:02
>ほほう、歴史的発見ですな!
>では卑弥呼ちゃんは
>ちゃんとした本名であるとw?
>書の意味を理解してくれ。腹が痛い

誰も本名などいってないでしょ。
475サガミハラハラ:2008/01/14(月) 23:33:18
えーっ。
476日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:40:02
>>473
どう可なのか説明しろ。
お前が馬鹿三人の一人にされてる意味を
いい加減理解しろよw

鉄がどっから伝わろうが、統一国家になってるとすれば関係ない。
統一国家じゃないにしても
九州なんて南も大陸からも半島からも脅威があるところに
国家は考えにくい。
477日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:41:44
>>474
えーっw!?
478太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 23:42:07
>>476
ははぁ、結局お前も論議をするわけだ。自語相違だな。ww
479日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:44:58
両国の名の入った大事な証印を私物化してもらっては困るな
横領罪で(ry
480改め:2008/01/14(月) 23:47:07
卑弥呼が本名なのか役職名なのかは知りません。

しかし親魏倭王の金印は倭王卑弥呼宛に送られてるのです。

卑弥呼の墓もしくはその周辺に金印があると私は信じてます。
481日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:47:18
>>478
論議した結果、どこから伝わろうがそれは愚だと。
お前は理解できないために未だに議論してると、
そういうことだ。
482日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:47:52
>>476
馬鹿三人?
もん太&ブラザーズ(太国+サガミ)?
483太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 23:48:21
>>476
お前は愚とか馬鹿とか、そういう話が好きなんだ?? Pu!
聞くに、お前は鉄の論議を再開してるんだからお前のことではないのか??ww
ハっハ!!、長く鉄の論議が好きなんだ・・・?ww 鉄って熱すると長くなるな。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・
484日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:48:54
卑弥呼の墓が発見されるとしたら、
どのような遺物が出た時点で卑弥呼の墓と同定されるのかな?

まず、円墳であることかな。
鏡100枚は墓には埋めない可能性があり、
散逸していたりで墓からは出土しなさそうなので微妙。
墓の近くに大きな遺跡(卑弥呼の都)が見つかる可能性はあるのだろうか?
485日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:50:30
>>480
なんだそれw
歴史的発見でもしたのかと思ったぞwww

印が見つかり、卑弥呼の本名がわかり、場所も特定したのかと思ってたがwwwww

改めデンパに改名しろ
486日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:51:06
個人的に、卑弥呼の墓に金印があるとは思えない。
倭王の権威として継承されると思われる。
志賀島の金印も、辺鄙な場所から出土している。
487改め:2008/01/14(月) 23:51:11
なにが横領罪だ(笑)

逆に卑弥呼宛の品物がどうして他の人に渡るのかわからない。

わたしは卑弥呼の鏡だってまだ発見されてないと思っている。
488改め:2008/01/14(月) 23:53:49
>卑弥呼の墓が発見されるとしたら、
>どのような遺物が出た時点で卑弥呼の墓と同定されるのかな?

魏志倭人伝に書かれてる贈り物が全て出てきた場所。

そこが卑弥呼の墓となる。
489日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:53:53
確かに、馬鹿三人に太国は外せないなwww
490横槍:2008/01/14(月) 23:58:32
>>487
例えば認定書を墓に入れる奴が居るのだろうか?
特に歴史的に重要な証文は子孫が大事に保管しておくのではないのか?

奴国王の金印は、発見された状況からして、
この国が滅んだ事を表しているんじゃないか?
491日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:02:26
略奪、盗掘、改鋳、下賜などで散逸してる可能性は高いと思うけど?
見つかったとしても100枚には満たないのでは?
あと、歴史上、中国から日本に下賜された金印は4つあるとされ、
「漢委奴国王」の金印のみが現存。
卑弥呼の「親魏倭王」、足利義満と豊臣秀吉が貰った「日本国王ノ印」。
秀吉は鋳潰したそうだから、卑弥呼の金印も現存してる可能性は低いのではないかと思う。

全て見つかるというのは無理として、どの程度のものが見つかれば同定できるだろうか?
492日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:05:15
ところで、倭の五王は金印をもらっているのかな?
493日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:08:03
>>476
現に、志賀島から金印見つかってますよ。
九州には何かしら国家はあった。
494改め:2008/01/15(火) 00:09:04
なんか議論してる人のレベルが低いのか。

想像する人ばかりやなく現実主義者はいないんですかね。
495日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:11:30
>>445
つうか素人から見りゃ鉄器の量のアドバンテージから自説を押しつける九州説が余程牽強付会に見えるなあw

そもそも30ばかりの国を武力で統合したのか、もっと緩やかな連合体だったのか分からんでしょ?
第一巻向に各地からの土器が出ているのは事実でしょ?
496日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:14:41
>>494
お前が言うなwww抱腹絶倒するわwww
497日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:14:45
>>480
他の古墳を見ても、金印が出てきたという実例がないから、
卑弥呼の墓もしくはその周辺に金印というのも想像にしからならいね。
現実的に考えると、既に失われているだろうなと。
墓に副葬品として金印を埋めるかも微妙。
498改め:2008/01/15(火) 00:16:17
>>415
1 刺青する人現在にもいますよね(笑)

2 中国人が倭人といってるから中国人ではないと思いますが。

3 かもしれませんよね

4 今のところ発見はないですよね。

5 私は卑弥呼の墓が宮崎県の西都原古墳とは思ってませんね。
499日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:16:21
てか盗掘されてんべ?w
500日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:20:03
円墳なんてものがあれば、人工衛星から分かると思うんだけどな。
既に破壊されてるか、埋まってしまったかのどっちか?
501古代:2008/01/15(火) 00:20:42
495
邪馬台国が強力な武力で周りの国々を従えていたとは考えにくい。
それなら卑弥呼が女王になる必要性を感じない。兵法に長けたものがなるはず。
いや卑弥呼は兵法に長けていたのかもしれないが、普通にみれば巫女的な神秘性、いわば神の威光で支配していた感は否めない。
次に男王がたって乱れたというのも緩やかな連合国を想像させる。
502改め:2008/01/15(火) 00:23:16
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。

女王国の東、海を渡ると皆倭種てありますがここはどう思ってるんですか?

サガミさんとか太国さん
503古代:2008/01/15(火) 00:23:39
495
訂正・王や女王はカリスマがあれば兵法は関係ないね。けれども邪馬台国自体に強力な武力はなく、卑弥呼のカリスマ性に従っていたのでしょう。
504日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:24:22
>>456
古代の製鉄所っていろんなとこで発見されてるよね。
関東なんかでもそうだし。
505日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:26:59
>>502
倭人の国がいっぱいあったんだなぁと思う。
連合国家もあっただろうし、敵対国家もあったろうね。
506日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:28:42
意外と、卑弥呼の墓は既に見つかっているかも。
金印や卑弥呼の鏡とされるものが出なかったからスルーされていたりw
507日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:29:45
>>505
朝鮮半島南部でさえ馬弁辰とあったわけだから
それより広い日本列島ではいくつかの集団に分かれていてもおかしくない。
もっとも中国大陸ではそれ以上の単位で統一されていたこともあるから
統一されていてもそれはそれでおかしくない。
508日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:34:43
南九州の熊襲と隼人は倭種。(「くまそたける」と言う名前などから)
この頃の日本なら完全な統一はされていないね。
509日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:42:44
>>503
てかもっと実利的なものだったりしてw

東国にすれば水上運輸で巻向まで物資を運べるのは相当ありがたかったのでは?w
510日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:54:41
>>436
>唐古・鍵と纏向しか話題にならない・・・

同感です。
九州説(アンチ畿内説)の方は、とりあえず大和の遺跡が目障りなんで(笑)、唐古・鍵と纏向遺跡に批判が集中しちゃうんですね。
畿内説の方は2ちゃんでは少数派のようですが、纏向遺跡は最後の拠り所?のためか、アンチ畿内説勢が放つ火の粉を振り払わなければいけないし(笑)、どうしても言及回数が増えますよね。
でも去年行われた邪馬台国の会の公開討論会では、総括をされた西谷正先生が大事なことを言っておられます。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku257.htm

>邪馬台国は九州か畿内かという関心で追求していくのもひとつだが、そうではなくて、
>倭人伝に記されたころの3世紀の日本列島がどうであったのかという研究調査も必要ではないか。

>邪馬台国時代に、九州はもちろん日本列島各地に国ができていたのではないか。
>生産用具や墓などその実態を解明することが重要ではないか。
>いそがばまわれというが、このような作業を地道に積み重ねることも邪馬台国を探す上で
>重要なことと考える。

>地域ごとにこのようなことを調査し、相対的に比較することで、邪馬台国が絞れてくる。
>このような地域研究が重要であり、日本列島がどうであったかについて、日本列島全体の
>墳墓や鏡などの分布を考えて行く必要があるということである。

>九州を含めて日本列島全体を調べていくことが遠い道のりだが
>邪馬台国を絞っていくための重用な方法である。

こういう態度であれば、畿内大阪府の加美・久宝寺などの遺跡も、当然俎上に上げられます。
九州の遺跡も、吉野ヶ里だけでなく、北部九州・南部九州を問わず、視野に入ってくるでしょう。
いや、その他にも、日本列島はあちこちに3世紀ごろの重要遺跡がありますよね。
出雲、吉備、播磨、讃岐、阿波、但馬・丹波・丹後、近江、美濃・尾張、信濃、房総、毛野、越、佐渡、……

まあ、ここ「謎の女王」ではスレ違いになるので、「ドンと来い」ではぜひやりたいですね。
511日本@名無史さん:2008/01/15(火) 01:01:25
>>471

>>「親魏倭王」印は私印じゃないでしょう。

>誰も私印とは言ってない。

じゃ、公印だろう。

>>私印ならともかく、公印をあの世まで持って行かれちゃこまるw
>>貴方の説じゃ、役所の長が退職記念に持ち帰るようなもんだよ。

>それは今の考えでしょ。
>あなたの考えなら永久に親魏倭王とでもいいたいのかな。

イマイチ、反論の意味が判らないが、印は倭王と言う公職に対するもの。
そのときの王が死んでも王権が滅んだわけじゃないので後任の倭王が任官
されれば同じ印章を使用することは出来る。
今の御璽だって代々使いまわしている(4代だけど)。

貴方は「假金印紫綬」と言う言葉の意味がわかりますか?
これは贈るとか与えるとか言う意味ではないのですよ。
余談だが、遣使に際して下賜された魏の御物も倭王権に賜ったもの
(今以絳地交龍錦五匹以下のもの)と卑弥呼個人が賜ったもの(又特賜汝紺地句
文錦三匹以下のもの)があるのは知ってるかな?
剣や鏡はこの個人あて下賜物、そういうものならお墓に持てっても私も文句は
言わない。
512日本@名無史さん:2008/01/15(火) 01:14:34
>>510
なんでこのスレで「安本信者」とか「安本」って名前が出てくるのか
これのリンク先を見て初めてわかったw

しきりに「再現性」云々言ってるけど、胡散臭いねこのひと。
用語をさも自分の意見が科学的であるかのように語る詐欺師の手口だなw
513日本@名無史さん:2008/01/15(火) 01:35:03
>>512
学者ごとに違うデーターが出るのは、まずいだろ。
データーを出すときに元の資料を全部別表にでもすればいい。
結論だけ表にすると、抜け落ちが分からなくなる。
安本は出典を明らかにして表を作るからまともだよ。
石野は、それができない。
514日本@名無史さん:2008/01/15(火) 01:40:19
安本信者乙
515日本@名無史さん:2008/01/15(火) 02:12:03
>>513
「俺のデータ収集は完璧だ、おまえのは欠落があるから信用ならない」
って相手を追及することで相対的に自説を強くさせてるだけに見えるんだがなw


516日本@名無史さん:2008/01/15(火) 02:24:07
>>512
「再現性」という用語は、自然科学の法則を実験で導き出すときによく言われますね。

水を電気分解すると、酸素と水素の体積比が1:2となります。
これはアメリカの大学の研究室でやっても、日本の小学校の理科室でやっても一緒。
筑後川の水を使おうが、オホーツク海の流氷を融かして使おうが、結果は同じ。
水素原子や酸素原子の挙動は場所によらない、ということです。

違う研究者によって何度実験を繰り返しても、常に同一の結果が得られる……これが自然科学の法則の再現性です。

しかし安本美典氏は「再現性」を、かなり違う意味で使っていますね。
まあ考古学は、化学や物理学などを援用したりはしますが、自然科学そのものではありませんからね。
517日本@名無史さん:2008/01/15(火) 03:08:51
これはちょっひどいですね。

>>313
>戦前からこの傾向は明白だったが、門外漢の医学博士である中山氏が九州説の
>中心だったため、畿内説はこの事実を無視し続けてきた。

>戦後派、門外漢の原田が九州説の中心になったため、畿内説はより頑なに
>「畿内の後進性」を無視・否定し続けてきた。

中山平次郎先生も原田大六先生も、邪馬台国=畿内説ですよ。
お二人とも九州説の中心人物なんかじゃ全然ないですよ。(笑)

>というのが、学説の変遷についての事実。

ちょっとちょっと。(苦笑)
いい加減な学説史を捏造したりすると、きっと原田大六先生はあの世で激怒されてますよ。「このバッカモンめが!」って。(笑)

それと、門外漢呼ばわりするのはどうかと。
お二人、専門家顔負けのたいへんな専門家です。論文や報告書に少し目を通してみてください。
518太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/15(火) 07:40:07
>>502
海を渡るって云ってるなら、もう云わずと知れたことだろう。w そこは九州の
右側の中国地方、全体的には本州、あとは四国ということになる。畿内説だと
北海道しかないということになるだろう? 当時まさか太平洋に別の大島があっ
たとは聞いてないからね。畿内説は北海道としないと、あとはその沈没した
太平洋の底にあるという大島大陸がない限り、無理だということがなおさら拍車
がかかる。畿内説は成立はうすい。北海道でないとするのを主張するならば、
畿内説はムー大陸を出して来なければ、ハワイくらいまで拡張せねばならぬこと
となる。w それとも千余里が気になるのか? 船で四国の南岸側を航海すれば
畿内への紀伊半島に至れるし、もっと向こうなら難破しなければ関東にも到達
できよう。
519日本@名無史さん:2008/01/15(火) 08:20:52
親魏倭王の金印が墓(卑弥呼とは限らない)から出てくる可能性はあります。
中国の辺境の王の墓からテン王の印が発見されています。
520サガミハラハラ:2008/01/15(火) 10:03:05
>>294稲城について
イナとは否のことです。つまり攻撃を拒否する難攻の城という意味です。
イナに稲という字をあてたために意味がおかしくなってしまったのです。
521サガミハラハラ:2008/01/15(火) 10:11:11
>>261文献については、画期的といえる解釈がでています。
これをもって邪馬台国の比定地問題は解決したといっていいでしょう。
現代は倭人伝の元の文献はなにかという問題にすすんでいます。
今までは魏使の報告書をのみ陳寿がまとめたとおもわれていたのですが、どうもそうではないようだということが考えはじめられています。
522サガミハラハラ:2008/01/15(火) 10:31:07
>>285私が25年ぐらい前に自分なりに邪馬台国を探してみようと思ってたどりついたのが佐賀市でした。
その時思ったことは「こんなところが邪馬台国であるはずがない」でした。
しかし、現実的に考えていくと、探しの近くの小城に間違いはないのです。
>>285さんは、現実的に考えてありえないとわたしと正反対のことをいっておられますが、その理由はなんでしょうか。
ちなみに、25年前にわたしがありえないとおもったわけは、「山のあなたの空遠く、卑弥呼の住む国があると人は言う」という
あこがれというか夢想のせいでした。
523プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 10:34:22
>>520サガミさん

漢字の使用に誤りがあります。

「否」の文字に“いな”の否定を表す場合
必ず“否”文字に否定と意味付け出来る設定条件が必要となり、その条件がない限り「否」に“イナ/否定”の意味を持たせる事は出来ません。

〈例えば〉
・学生か“イナ”か
・テストの答案用紙に“合否”をつける

学生や答案用紙というような付属するものが必要となります。

単に
「イナ」だからという理由で「否」文字を当用するのは間違いです。
524サガミハラハラ:2008/01/15(火) 10:41:43
>>304古代の人物の年代については私に聞いてください。
天照大神は西暦40年には生存しています。40年から42年にかけてが天孫降臨ですから。
525サガミハラハラ:2008/01/15(火) 10:48:45
>>308卑弥呼は吉野ヶ里に230年ごろまで、まさにその写真の北内郭内に住んでいたのです。
1700年の時をへて、まさにそれが再現されたのです。まさに身震いをする光景です。
卑弥呼はその後小城に遷都しましたが、おそらく同じような建物にすんだのでしょう。
倭人伝の記事がそれをあらわしております。
526サガミハラハラ:2008/01/15(火) 11:06:28
>>313あたりから
畿内説とやらで、畿内の出土品の年代をどう判定しどんどんさかのばしていってもかまわないが、邪馬台国と切り離して考えていただきたい。邪馬台国は九州佐賀県小城でまちがいないのである。
邪馬台国が九州か畿内かのでの論争は確かに日本の考古や古代史研究に大きな発展と役割をしてきたことは認めるが、最近は逆に阻害するような結果に進んでいるように思えてなりません。
527日本@名無史さん:2008/01/15(火) 12:21:03
なんか独りで論争解決しとるwww
528日本@名無史さん:2008/01/15(火) 12:40:51
要は宮内庁が古墳の調査を許可すれば、
殆どの論争は解決するんだろ。
宮内庁は法律は無いのにも関わらず、
立入禁止にしている。
官僚は前例のないことはやりたがらない。
529517訂正:2008/01/15(火) 12:59:11
>>517訂正
>これはちょっひどいですね。(誤) → これはちょっとひどいですね。(正)

それとこのスレッドの趣旨にそって申し添えますが、故原田大六先生は卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説でした。「学説の変遷についての事実」を言われた>>313さんは何もご存知じゃなかったようですね。(笑)
530サガミハラハラ:2008/01/15(火) 13:05:01
>>527レスがおおくてついていけず返答が遅れているのです。
531サガミハラハラ:2008/01/15(火) 13:08:26
>>523成程、否の漢字にそのような意味と使用法があったのですね。
532日本@名無史さん:2008/01/15(火) 13:19:57
>>528墓誌なんかが出ない限りなんの解決にもなりませんよ。
533プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 13:47:20
>>531サガミさん

漢字は一字だけでは意味を成しません。
漢字は文章に組み込まれ、互いに相互作用し、始めて意味を持ちます。
漢字一文字単独に存在するのは、漢字が本来持っている“意/字意”だけです。
534日本@名無史さん:2008/01/15(火) 14:57:10
>>532
箸墓を調査すれば、少なくとも畿内説は 下火になるだろ。
直径100mくらいの大きさといい、
記述通りの古墳はあれしかないのだから。
535プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 15:10:33
>>534

記述通りは徑百餘歩
536サガミハラハラ:2008/01/15(火) 16:27:11
箸墓を発掘しても出ないもの
1、卑弥呼の金印
2、三角縁神獣鏡
3、だれのでもとにかく墓誌
4、人骨
5、金目の副葬品
537サガミハラハラ:2008/01/15(火) 16:33:57
>>534さん 失礼しました。重要なことを失念いたしておりました。
倭人伝に棺ありてカクなしとありますので、ホケノ山のようにカク室が
あったら、畿内説はアウトですね。
538日本@名無史さん:2008/01/15(火) 16:44:25
>>536
>箸墓を発掘しても出ないもの

発掘してみなきゃ分からんよ。
どうして出ないと、サガミハラハラさんは発掘する前に分かるんだ?
論拠を聞かせてもらおうか。
とりあえず次の3つだけでいいから。

>2、三角縁神獣鏡
>4、人骨
>5、金目の副葬品
539サガミハラハラ:2008/01/15(火) 16:51:13
三角縁神獣鏡はもっとあとのじだいです。初期古墳から出土しません。
人骨はもう溶けていてないですよ。
墓泥棒がもう盗掘していると思います。
540日本@名無史さん:2008/01/15(火) 17:31:22
>>539
>人骨はもう溶けていてないですよ。

一般的傾向で人骨が残りにくいことは知ってる。
でも人骨が出てきた古墳もあることは、サガミハラハラさんだって知ってるだろ。
で、未調査の箸墓について、人骨が溶けていてない、とする理由は?
一般的傾向を聞いてるんじゃないよ。箸墓だとなぜ残っていないのか?論拠を述べてくれ。

>墓泥棒がもう盗掘していると思います。

「思います」では論拠にはならんでしょ。
箸墓に墓泥棒が入って金目の副葬品はもう全部盗掘された・・・その証明をきっちりとしてくれ。
541唐松山:2008/01/15(火) 17:34:19
ところで 当時 箸を使っていたの?
542プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 17:52:29
>>541

>当時、箸を使っていたの?

八世紀には使っていたと考えますよ
543日本@名無史さん:2008/01/15(火) 17:59:05
イチキシマヒメ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%92%E3%83%A1

彼女を「卑弥呼」とみる人もかなり多い。
544改め:2008/01/15(火) 18:02:55
箸墓なんか探しても何も出てこない。

墓を掘ろうとか誰か言ってたが醜い考えはやめましょう。
545唐松山:2008/01/15(火) 18:37:40
8世紀には 箸を使っていたでしょうけれども
箸墓を作った時代 に箸を使っていたか?

埴輪以前の 土器は 壷か小皿 箸とは関係ないか。
546唐松山:2008/01/15(火) 18:42:52
イチキシマヒメ の事は 昨日 書きました。
3女神プラス卑弥呼で 姫大神なら 考えの範疇。
547改め:2008/01/15(火) 18:57:44
<親魏倭王の金印をめぐる論争>
>>511
>>>「親魏倭王」印は私印じゃないでしょう。
>>誰も私印とは言ってない。
>じゃ、公印だろう。
>>>私印ならともかく、公印をあの世まで持って行かれちゃこまるw
>>>貴方の説じゃ、役所の長が退職記念に持ち帰るようなもんだよ。
>>それは今の考えでしょ。
>>あなたの考えなら永久に親魏倭王とでもいいたいのかな。
>イマイチ、反論の意味が判らないが、印は倭王と言う公職に対するもの。
>そのときの王が死んでも王権が滅んだわけじゃないので後任の倭王が任官
>されれば同じ印章を使用することは出来る。
>今の御璽だって代々使いまわしている(4代だけど)。
>貴方は「假金印紫綬」と言う言葉の意味がわかりますか?
>これは贈るとか与えるとか言う意味ではないのですよ。
>余談だが、遣使に際して下賜された魏の御物も倭王権に賜ったもの
>(今以絳地交龍錦五匹以下のもの)と卑弥呼個人が賜ったもの(又特賜汝紺地句
>文錦三匹以下のもの)があるのは知ってるかな?
>剣や鏡はこの個人あて下賜物、そういうものならお墓に持てっても私も文句は
>言わない。

おまぇ等全員まとめて馬鹿スか?

まともな人はいないのか。
っか論争する以前の問題。

私の考えに賛成してるのは>>519さんだけか。
548プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 19:03:15
>>545

箸墓造成時に、箸墓と言う名称だったか?が、先ずは問題かと
名無しの権兵衛さんに
記紀編纂時、新規で付けられた名称は多数存在するのでは
549日本@名無史さん:2008/01/15(火) 19:04:35
改めさんは神奈川県民改め三重県民さんの事ですか?
550唐松山:2008/01/15(火) 19:07:54
「親魏倭王」印 が 有ったと仮定し
倭王なる者が 伝世し 
魏が滅んだ時点で まだ倭王だったら 墓まで持っていく。
551日本@名無史さん:2008/01/15(火) 19:09:46
>>547
えーーーーッ!
改めさん、また今夜もやるのォ?
ったく、元気そのものやね

で、なんですか、我々は「全員まとめて馬鹿」でつか・・・・・
ふー;っ、疲れるなあ・・・・・
552サガミハラハラ:2008/01/15(火) 19:10:38
>>540
>>536のレスは箸墓を発掘してもでないもの、であって、箸墓を発掘しても絶対でないもの、ではありません。
というよりも、あなたは国語学の話をしているのですか?
現代国語学には関心がありませんので。
553日本@名無史さん:2008/01/15(火) 19:13:20
                                                  
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知ら城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
 小国の『韓』だけが相手なら、漢朝は、問答無用で『韓』を武力制圧し、真番郡や臨屯郡に併合していたはずだ。
だが、実際には併合しなかった。これは、『韓』の背後に『倭』がおり、漢朝が『倭』との友好関係を
重視したためである。
 つまり、漢朝が『韓』の独立を尊重するかわりに、宗主国『倭』に対して「親漢外交」「朝貢」を
求めたのだ。そして、『倭』も漢朝の要求を受け入れたわけである。これが『韓(カラ=シラキ)』が独立を保てた
真相なのである。


554改め:2008/01/15(火) 19:35:16
卑弥呼の「親魏倭王」が何処にあるのかを巡ってどうも妄想が激しい。
魏志倭人伝に書いてあるとおり考えれないんでしょうかね。

まあ、金印を巡る論争は面白いので今夜もやるか思ったが止めときましょう。

今日は箸墓の倭迹迹日百襲姫もしくは市杵嶋姫にでもしますか。

555サガミハラハラ:2008/01/15(火) 19:41:34
箸について
現在橋というと
食事のときに使う二本の棒のことでこの食事での使用はけっこう新しいようです。
過日アイヌ展を見に行ったところ、アイヌ人の使う箸が展示してありました。その箸は祭祀用に
使うもので一本で装飾がほどこしてありました。
古代の箸も同様で祭祀に使うものだったのではないでしょうか。
となると、巫女であったモモソ姫がしゃがんだときあそこにさしてしまったというのもうなずけます。
556改め:2008/01/15(火) 19:53:08
卑弥呼=イチキシマヒメ って誰が始めに言い出したんですかね。

どこかの本に昔の人は卑弥呼=イチキシマヒメ と考えられてたとか記憶あるんですが。
557改め:2008/01/15(火) 19:54:46
>>556訂正
どこかの本に昔の人は卑弥呼=イチキシマヒメ と考える人が多かった
と書いてた記憶ある。
558改め:2008/01/15(火) 19:59:05
この板って子供も観ることあるんですかね。勉強とかで・・・。

邪馬台国について調べたりするのに先生方も見てたりして。

うかつに変なこと書けないですよね(笑)
559改め:2008/01/15(火) 20:05:53
さがみさん↑どうなんですかね?

それとプさんから質問受けてたみたいだけどどうなったの?

自分が信じてたものが違うと気づかされる事もあるかと思いますが。
560日本@名無史さん:2008/01/15(火) 20:08:30
では 改め は何も書けんなwww
561改め:2008/01/15(火) 20:11:41
おほほほ まあ暴言はやめときましょう(笑)
562日本@名無史さん:2008/01/15(火) 20:14:45
普通にキモい。
563改め:2008/01/15(火) 20:17:57
↑そうゆう言葉はやめといたほうがいいぞ。
本当に子供が邪馬台国の勉強をしに覗いてるかもしれない。

観てる人が学べるレスでもしてくれな。
564日本@名無史さん:2008/01/15(火) 20:18:21
>>552
逃げるなよ、サガミハラハラさん。

>>539
>人骨はもう溶けていてないですよ。
>墓泥棒がもう盗掘していると思います。

何を根拠に、箸墓の人骨は「もう溶けていてないですよ」などと言えるのか、それを訊いているのだ。
それと、自分で「思います」と言ったところで、他の人は必ずしも納得しない、少なくとも俺がそうだ。
他人を納得させるにはきちんとした論拠を示さなくてはならない。

俺は、箸墓の内部主体がきっちり調査されるまでは、金目の副葬品が一つ残らず墓泥棒の盗掘で
持ち去られてしまったかどうかは判断できんと思っている。
だから箸墓を発掘しても「金目の副葬品」は出ないかもしれないが、ひょっとしたら墓泥棒が見逃し
た小さな玉製品1個ぐらいは出るかもしれない。人骨の出土も骨片なら可能性は完全ゼロではない。

要するに、出るか出ないか、今の俺には分からない。
だがサガミハラハラさんは、なにゆえか、人骨や金目の副葬品は「出ない」とするので、その根拠を
訊いたわけだ。
逃げないでちゃんと答えろ。
565唐松山:2008/01/15(火) 20:26:45
壷で酒を醸している時 かき混ぜる棒を 箸と呼んだ  辺りですかね
これなら 結婚した モモソ姫でも 納得できる。

次は 石葺き 
石葺きは 大物主、三輪神 の文化?
墳墓の型は違っても 出雲は 石葺き その他 地方にも有る
566日本@名無史さん:2008/01/15(火) 20:26:58
>>563
>おほほほ まあ暴言はやめときましょう(笑)

これをキモい以外なんといえば
純粋にキモいと思います。
必死で一方通行なレスの数々…チラシの裏にでも書いててください。
567改め:2008/01/15(火) 20:35:33
>>566
はいはい もうわかったから邪馬台国論争でもしてちょーだい。

関係ないレスはここらへんでやめないと他の人の迷惑。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)

三国志に詳しいかたここのスレいますかね?
568プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 20:45:27
>>566唐松山さん

壷の中を掻き混ぜる為に用いたり、モノを掴むから「箸/はし」だし、川を渡るのに用いると「橋/はし」
そのモノの先っちょは「端/はし」

棒一本で「はし」が三つも揃いました。
箸墓の「はし」って
本当に「箸」なんですかね?
569日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:01:05
なに?久しぶりに覗いたら、改め 必死すぎw
570九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/15(火) 21:03:56
聖徳太子が日本で初めて新しい箸食制度を朝廷の儀式で採用した。
これが公の場で箸を使用した最初の儀式よん。
一般に箸食が広がったのは8世紀。箸墓という名は聖徳太子以降に付いたのよん。
571唐松山:2008/01/15(火) 21:25:25
仏さんじゃないから わからん

堕胎の失敗と見ていますから そんなサイズ。

ハジカミ 生姜の別名 1本棒 に見えるから? 他の 見方もあるだろうが
572日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:43:09
箸について。
倭人伝には、倭人の風俗習慣を記述したところに、

>食飮用ヘン豆手食。(ヘンは竹カンムリに邊)
>(食飲にはヘン豆を用い、手をもって食す)

とありますから、3世紀に箸の使用は一般化してなかったと思います。

ただね、いろいろ疑問も湧きますよ。

・熱い食べ物はどうやって食べた?
・具の入った汁物みたいな料理(たとえばですが寄せ鍋みたいなの)は、道具なしで手だけで食べられるか?
・女王卑弥呼や台与、各国の正副官みたいな身分の高い人に料理をお出しするとき、料理人や給仕はどうやって器に小分けした? まさか手づかみ?
・梯シュンや張政ら魏使一行が倭に滞在していたときは、箸を使わなかったか?
・難升米、都市牛利、掖邪狗など倭側の使者一行が帯方郡や洛陽に滞在していたときは、どうした? 魏の高官たちと会食する機会もあったでしょうから、手づかみというわけにはいかないのでは?

どなたか、想像でもいいですから、返レスしてくれませんか。
573日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:47:11
箸中とも言うよね
574日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:55:39
改め氏は、人間性を改めてから出直して来たまえ
575日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:59:57
>>572
手でつかめないようなものは食べなかったとか。
あるいは冷えてから食べたとか。
インドあたりでは今でも手で食事をするのが普通だから、手で十分食事は出来ると
思う。
576日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:13:34
箸でホトを衝いたというのは後世の付けたしで、さすがにそんな死に方は
していないだろう。しかし、元の伝承に「箸」が関連していて、そこから伝承が
膨らんだとすると、「箸」が関係している可能性はある。

オオクニヌシの御霊を鎮める儀式に「箸」を使い、自らも日常生活で箸を
使っていたハイカラ婆さんで、あだ名が「箸の姫」だったかも知れない。

スサノウが出雲に行ったときに上流から箸が流れてきたという古伝は、
「出雲の人は箸を使う」という当時の認識を基にしているとすると、オオクニヌシ
を夫としたモモソヒメが箸を使った可能性はある。

出雲には九州を経由しない鉄器ルートがあったとされるが、新羅との交渉で
箸を使う人が出てきたとしてもおかしくない。
577日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:27:52
ホトってやはり 女性のアレの事になるんでせうか?
578日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:30:56
日本には言霊という文化があるわけだから
そういう意味で漢字を記載したり、また、箸を使ったりは
さほど一般化してなかったとは思うけど

でも、中国と活発な外交をしていたのだから
普通に外交官や貴族の間では、中国の慣習もある程度
知られていただろうと思うわけで。
たとえば、漢字なんかは、それを記された遺跡が紀元1世紀ぐらいから出没するわけで、
一応、世界の考古学・歴史学の基準だと
奴国の金印が発見された時代から、準歴史時代となるわけで。
579日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:32:33
箸墓の箸は、本当は
土師のほうだろう?
580サガミハラハラ:2008/01/15(火) 22:32:55
>>564かような主張を聞きますと、私の桜ケ岡説にとってもとても心強いです。
581日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:39:55
>>578
>たとえば、漢字なんかは、それを記された遺跡が紀元1世紀ぐらいから出没するわけで
遺跡ではなく、鏡のような遺物じゃないですか?

>奴国の金印が発見された時代から、準歴史時代となるわけで
57年、107年、237,247,266年しか歴史は無いよね。
582サガミハラハラ:2008/01/15(火) 22:40:19
閑話をひとつ。
榎の僧正って知ってますか?
ある僧正の家の前に大きなエノキがあったのでいつしか人々は榎僧正と
渾名するようになったという話です。
箸墓もそうでしょう。モモソ媛の死因を噂するうちに箸墓とよぶようになったのです。
583日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:43:45
漢は金印を結構たくさん作って、周囲に配ったらしい。
だから、いくつか出土しているわけだが、墓から出てきているものもある。
しかし、「漢委奴国王」の金印は妙なところから出てきたものだ。

>>577
古事記によると、天照大神の機織女も、機織の梭(ひ)が陰土(ほと)に突き
刺って死んだとある。日本書紀では、天照大神自身が傷つき、怒って天岩戸に
隠れたというのもあると書かれている。

なんか意味があるのだろうか。
584日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:45:52
ところで、漢委奴国王の金印のことって中国の文献には出てくるの?
585日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:47:44
箸墓
日本で最初の堀に囲まれた墓

そこには、墓に参るための大きな橋があった。

人は何時しか橋墓と呼ぶようになった、、、、、土佐
586日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:48:38
>>584
後漢書にあるこれだろうな。
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬」

「委」と「倭」が微妙に違うけど。
587日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:48:57
>>584
後漢書に、倭の奴国に印綬が送られたとある。
588日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:53:12
箸が男性器とすれば、
レイプされて死んだとか…それはないかw。
昔の女性の殺し方もしくは
自殺の作法なんだろうか?残酷だな
589日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:59:41
>>588
出産時に死んだじゃないの?
590日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:01:22
>>580
もう一度言うが、逃げるなよ。
自分の発言には責任を持て。
茶化して応えるような下卑た人間の著書なんか
「読むに値するようなもんじゃなかろう」と思われてしまうぞ。
591正月○鹿:2008/01/15(火) 23:03:36
>>579
> 箸墓の箸は、本当は
> 土師のほうだろう?

土師(はじ)墓説、昔からありますよね。
直ぐ近くの穴師には、土師連の先祖と言う野見宿祢を祀った相撲神社もあるし、
当初は、纏向方面にも根拠地があったのかも知れません。
後世の根拠地は河内当麻ですが、これは河内の大型古墳造営が始まり、
移転した結果というように考えられます。
でも、殉死制度の廃止を提起した野見宿祢の一族が造った墓なら、
100人殉葬と言われる卑弥呼の墓に見立てられるのは皮肉なことですな。
592日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:03:49
天宇受女命もホトを出して踊ってたみたいだよ。
593プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 23:04:14
>>587

印綬と假金印紫綬を同一視してはいけない。
594日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:04:52
あと、イザナミはホトを焼かれて死んでしまった。
595日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:05:06
ですよねー
596日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:05:48
古代日本では女性器にまつわる話がいろいろと出てくるね。
597日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:08:18
>>595>>593にね
598日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:09:10
 ほとぼりが醒めるとは性交の終わった状態w
(ホト掘り)
599古代:2008/01/15(火) 23:19:45
591
殉死制度の廃止を提起した野見宿祢・・
思えばモモソ姫は大物主に殉死したとも言える、言葉が違うか、生け贄かな
神に人身御供を差し出すという習慣は古代ではあちらこちらにあった。殉死が埴輪に変わっていくように生け贄も代わっていく。
すなわち、神に命を捧げるのではなく生涯を捧げる巫女へと代わっていった。モモソヒメはその中間のような存在であり、橋渡し役である。
600日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:25:52
イザナミはホトを焼かれて死んだ(出産による死?)
アメノウズメはホト出しで踊った(昔の太陽信仰時代の巫女のスタイル?)
機織女は梭がホトにささって死んだ(無惨な殺され方の例?)
モモソヒメは尻餅をついてホトに箸が刺さって死んだ(懲罰?)

ホトに何かを刺されて命を落とすのは懲罰的意味があったのでは?(古代の刑罰?)
601プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/15(火) 23:30:19
>>597

一見たいした事でないような些細な妥協の積み重ねが、此処まで謎に包み込んだ原因の一つだからね
完璧は不可能かも知れないが、出来る限り妥協を取り除く作業を と
602日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:30:25
>>576
>箸でホトを衝いたというのは後世の付けたしで、さすがにそんな死に方は
>していないだろう。

ふつうの箸でホトを衝いたぐらいではそう簡単には大量出血はしない
30センチ以上ぐらいある箸で、先が鋭く尖った特殊な箸でないと子宮粘膜を傷つけるには至らない
まあ箸の表面がささくれ立っていたら膣粘膜を損傷する可能性はあるが
もう一つ箸でホトを衝いて死に至らしめる可能性としては、精神的なショック死
603正月○鹿:2008/01/15(火) 23:32:09
>>598
>  ほとぼりが醒めるとは性交の終わった状態w
> (ホト掘り)

貴方の説の方が面白そうだけど・・・・
学習期の良い子の皆さんのために。

ホントは

  『火通(ほとほ)りが冷める』

と書きます。

ツマラン話で御免。
604日本@名無史さん:2008/01/16(水) 00:08:33
>>576
>箸でホトを衝いたというのは後世の付けたしで、さすがにそんな死に方は
>していないだろう。

ずいぶん昔に読んだんですが、巫女が終身処女を守ったかどうかを神官たちがホトで調べる……そんなことを書いてあった論文がありましたよ。
論文というか、妄想を綴ったみたいなものでしたが……(そう断ってありました)。
インカのマチュピチュ遺跡で発見されたピンセットと凹面鏡とか絡めて、モモソヒメと箸や銅鏡についてもいろいろ想像力豊かに書いてありました。
筆者は季刊誌『東アジアの古代文化』を出していらっしゃる大和書房の大和岩雄さんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%8C%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B2%A9%E9%9B%84

巫女の守るべきとされる「終身処女」という言葉が、なぜか印象に残りました。
最初『東アジアの古代文化』に掲載され、あとで大和さん著の単行本に収められたと思います。手元には所持してないので、なんという表題だったか忘れました。あやふやレスでごめんなさい。
605日本@名無史さん:2008/01/16(水) 00:37:57
倭人伝の西暦247年の出来事と
日本書紀の崇神天皇治世十年の出来事って
そっくりなんだよなw

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、大きな墓が作られる。

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、箸墓という大きな墓が作られる
606ローガン:2008/01/16(水) 00:44:48
>>580
サガミ先生!今宵は怒涛の書き込みお疲れ様です。
おやすみになる前に一つだけ…
「槨」ですが、古墳で云うところの「粘土槨」とか、「木槨」は現代の考古学用語です。史書の槨とは違います。
又明日、楽しいお話をお願いします。
607日本@名無史さん:2008/01/16(水) 01:59:09
ホトと言えば、明日香に祭りがあったような
608太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 07:01:34
>>605
百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の女性だな。

卑弥呼の死 247年
崇神十年(倍暦計上で)240年

それに、似てはいるが双方別人だろう。九州に百襲媛が行ったとなると、彼女
が卑弥呼である可能性は出てくる位に留まるが、それも無いようだし・・・。
609太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 07:12:45
>>605 >>608
(倍暦計上から)崇神即位元年=237年 であり、ここから247年を降下計上して

240年=崇神十年(←紀の記述年)
247年=崇神11年 卑弥呼死(紀では崇神三十一年〜同三十三年相当)
610日本@名無史さん:2008/01/16(水) 09:32:54
質問なのですが
魏志倭人伝に登場する国とはどのくらいの大きさだったと推定されますか?
また国と国、例えば末盧国/伊都国/奴国は隣接していたと思われますか?

不勉強な質問で申し訳ないのですがお答えいただけたら嬉しく思います。
611プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/16(水) 10:13:30
>>610

貴方はどのくらいの規模なら納得しますか?
つまり、そういうレベルの話しなんですよ
各々の国域なんて永久に解るわけないし、別して影響するものではありません。(第一、それらを詳しく記載した資料がない)
それに、
末廬、伊都、奴、それらが隣接していたかいなかも、さして重用ではないでしょう。
末廬、伊都、奴 の間に、割り込む地域がないと言うだけのことです。
612サガミハラハラ:2008/01/16(水) 10:29:42
>>458会稽東冶については冶は治の誤りではないかという説があります。
会稽東冶の東は広い海であり、東がどのあたりをさすのかあきらかでありません。
呉の太伯の逸話から、その支配地の東という説がけっこう魅力的です。
613日本@名無史さん:2008/01/16(水) 12:55:00
伊都国って、漢字の音韻は中古音でつけられた名前だから
少なくとも、隣国の奴国(=なこく・上古音)よりも
新しい年代に中国に知られた国だと思う。
よって、大和国(邪馬台国)が九州を統治するために
比較的に新しく設置された国がじゃないのか?

だいたい、伊都国の推定場所って、もし、戦国時代なら
隣国の奴国に併合されても良いような場所に存在している。
つまり、大和国が九州を統治するにあたって
奴国の領国から伊都を分離して、そこに一大率を置いて
九州全土を監視するようようにしたのでは?と思う。
614日本@名無史さん:2008/01/16(水) 12:55:07
>>608
山のさらに向こうの空の向こうに卑弥呼がいる
とかなかったっけ?

九州でそれを中国人が聞いたんなら、
奈良にいたモモちゃんの事っぽいよな
615日本@名無史さん:2008/01/16(水) 12:58:48
>>612

>>会稽東冶については冶は治の誤りではないかという説があります。

そりゃ逆だ。
現存の刊本が会稽東治で
「東冶」の方が類書との違いを勘案して、
校訂した文字だよ。
616日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:38:46
>>615
東治と東冶では何処がどのように違い、そのまま間違いで使うと、どのような影響が出るの?
617プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/16(水) 13:49:28
>>613

>伊都は音韻中古音


確か中古音は三期(前、中、後)に分類されてたと記憶するが、そのどれ?
それに、上古音だったら
中古音伊都は、どんな文字になるの
618サガミハラハラ:2008/01/16(水) 14:33:18
伊都国は上古音でイタ国と発音するそうです。
江戸時代にはそれがわからず新井白石はイトと読み糸島地方のイト郡にあててしまったのです。
中古音は隋唐の時代の発音とききましたがどうだったでしょうか?
なお奴は上古音ではトまたはドと発音します。那ノ津とは無関係です。
619プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/16(水) 14:46:55
>>618サガミさん

で、上古音でイタと発音する文字はなんですか?
当然、発音が分かっているんだから
それに相当する文字もわかりますよね?


ところで
昨日の伊都は末廬の東南は諦めましたか
当然不可能な事だと言う認識をもたれたかと思います。
620サガミハラハラ:2008/01/16(水) 17:00:45
イタのタは好古都(は
621サガミハラハラ:2008/01/16(水) 17:19:40
イタのタは好古都(ハカタ)のタと同じで古い朝鮮語で国という意味だそうです。
イは因幡、出雲、石見、壱岐、伊邪のイ(ヰ)と同じ意味でしょう。
つまり倭(ヰ)の国ということで、委奴(ヰト)国の本家です。
622プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/16(水) 17:19:44
>>620サガミさん


言ってる意味が見えません。
なぜそうなのかも添え、説明してください。
623日本@名無史さん:2008/01/16(水) 18:34:40
>>618サガミハラハラ先生へ

>なお奴は上古音ではトまたはドと発音します。那ノ津とは無関係です。

これは完全にサガミハラハラ先生の勘違いではありませんか?
奴は倭人伝で用例が多いので影響するところ大です。
いちど辞典とか関連ホームページ等で、奴の古音を再確認していただけませんでしょうか。
624日本@名無史さん:2008/01/16(水) 19:50:22
森博達先生が
魏志倭人伝は中古音の音韻で書かれている
と言っているんだよね。
そんなことから、倭人伝に書かれている固有名詞が、それぞれ
上古音か中古音で書かれているかによって
その固有名詞が中国側に知られたのがいつなのか?
という一つの基準になる。
よって、一大率が設置された伊都国は
比較的に新しい年代(隣国の奴国よりもずっと新しい年代)に
中国側に知られた国名ということになる。
625日本@名無史さん:2008/01/16(水) 19:51:49
サガミハラハラさんの降伏宣言の日も近い。

626日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:00:15
サガミは雑魚
627siraki:2008/01/16(水) 20:06:55
新作スレです 楽しんでください

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=99160

邪馬台国 滅亡と 悲恋の運命のカップル...

628九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/16(水) 20:29:26
>>605
モモちゃんが卑弥呼ならどうして考霊天皇を差し置いて
{卑弥呼=モモちゃん}を親魏倭王などと命名してあるのか。
又どうして倭人伝に親の考霊天皇の記述が無いのか。
又、倭人伝中の「伊都国にも王がいる」の記述通りであれば
この伊都国などの諸王は考霊天皇とどのように関係性があるのか。
などが解明されなければならない。
629古代:2008/01/16(水) 20:46:22
628
何故考霊天皇に注目するのか良くわからないんですが
崇神天皇ならわかりますけど、なぜ崇神という王がいるのにモモソヒメが女王卑弥呼なのか?
考霊天皇はその前の王だから倭国が乱れている時の王だったでいいのでは?

ついでにいうなら箸墓の話が出てくる日本書紀には、モモソヒメは考霊天皇の皇女とは書いてなかったはず、母親の名前までは出てくるが出自は不明。
古事記には考霊天皇の皇女としてモモソヒメの名前が出てきますが、名前があるだけで何の活躍もしてません。
630サガミハラハラ:2008/01/16(水) 20:49:29
>>623
その辞典や関連ホームページがまちがっているのですから。
631サガミハラハラ:2008/01/16(水) 20:51:49
中古音はいつの時代からかどなたか確認をお願いいたします。
632太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 20:54:46
卑弥呼のかなり若年のころが孝靈天皇の時代ころというのは可能性
としてありうる。当時大陸は靈帝のころであるのが倍暦計算の結果で
分かっている。奈良東大寺の鉄刀銘文の中平年間は孝靈の世に当たる。
633サガミハラハラ:2008/01/16(水) 21:06:58
卑弥呼は183年に即位し248年ごろ没しています。
その間の大和の天皇はいとく、考昭、考安、考霊、考元の5帝となります。
倭人伝に書かれている時代は考霊と考元の時代です。
634太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 21:17:25
>>633
五帝に遣えたんなら武内宿禰も五帝に遣え、違うところは武内のほう
が神功にも遣えたことのみで300歳寿命に書かれていて貴殿の2倍暦
でも150歳近くなる筈。卑弥呼は七、八十〜百歳と云われていること
をも2倍暦とするんですか? そのままならば五帝に遣えた卑弥呼は
比較で200歳ばかりで伝に書かれていてもおかしくないはずですが? 
如何?? 卑弥呼の場合は武内と比較して五帝はそのままだと長すぎ
るように想えますが??
635太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 21:20:27
>>634 訂正

× 300歳寿命に書かれていて

○ 300歳近い寿命の意味で書かれていて
636横槍:2008/01/16(水) 21:20:45
>>629
>モモソヒメは考霊天皇の皇女とは書いてなかったはず

書いてあるよーん
因みに孝元の娘にもヤマトトトビ姫というのがいて同一人物ではないかと推測される。
637太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 21:29:43
>>634 補充説明
「そのままなら」という書きこみは、紀の計算の成り行きなら五帝分
で200歳位
で伝に書かれることになろうという意味です。すみません。
638古代:2008/01/16(水) 21:29:45
636
あら本当だ失礼。出自がわからないのは母親の方だったかも。記憶違い。
639太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 21:39:34
サガミハラハラさん
云いたいことは、卑弥呼が武内大臣の次に寿命が切迫してますよと
いうことですよ。五帝だとそういうことでしょうが?
卑弥呼が長寿だと云ってもそんなに長いもんなんですか?
確かに武内の例がありますから、絶対とは言いませんが、例外の
超長寿者のナンバー2的寿命とは考えにくと想いませんかね??
640日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:02:54
>>638
>あら本当だ失礼。

正直でなかなかよろしい
こういう風に記憶違い勘違いをすぐ認めて訂正してくれる人ばかりだと良いのじゃが・・・
641日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:14:48
>>633
>卑弥呼は183年に即位し248年ごろ没しています。

その「卑弥呼」は一人だったとは断定できないのでは?
むしろ、3、4人の「日の巫女」がいたと考えた方が、寿命からは自然。
トヨもそのうちの一人で出身地が「豊の国」だから区別して書かれただけ
かも知れない。
642日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:17:42
第一条、邪馬台国は万世一系の卑弥呼が代々統治し(ry
643サガミハラハラ:2008/01/16(水) 22:24:39
卑弥呼の在位は65年です。20歳で即位したとしたら85歳没で異常な年齢ではないでしょう。
神武から垂仁天皇までの各天皇在位年は4倍されているとお考えください。
神武橿原即位131年です。
644横槍:2008/01/16(水) 22:31:03
>卑弥呼は183年に即位し248年ごろ没しています。

183年なんて資料にあったのか?
倭国大乱の記事は倭人からの情報を魏暦に当てはめたものじゃないの?
もし倭人が倍暦を使用していたら大乱は200年頃の時期になり、
卑弥呼共立は、210年頃になるんじゃない。
13歳で女王になったとしたら齢50歳で不自然な年では無い。
645日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:45:54
>>641
トヨとイヨ、読み方が違うと出身地も変わると思うんだけどそのへんどうなの?
みなさん、どっちの読み方だと思う?
646日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:48:22
何故そうなる?
じゃあ 大阪で生まれたら大阪子になるんかw
安易に名前を土地に当て嵌めるなよ
647日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:49:27
>>610
桓武天皇の頃(8世紀後半)には、68カ国あったらしい。
これは江戸時代まであまり変わらないように思う。
東北地方はまとめて陸奥国だったが。

その前の倭王・武(5世紀初め頃)のときは、西国・東国であわせて121カ国と
宋に送った上表文には書かれている。

だから、これからすると、邪馬台国の時代の国はかなり多かったと思われる。

ところで、桓武天皇の頃は、国に等級がついていた。
大国、上国、中国、下国と。

大国は、大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国
・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国の13カ国。

上国は、山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国
美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国
因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国
紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
の35カ国。

中国が、安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国
日向国・大隅国・薩摩国の11カ国。

下国が、和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国
対馬国の9カ国となっている。
648日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:50:57
いやいや、>>641が豊の国って言い出したからそう言ったまでなんだけど。
そもそも、トヨだから豊の国にいたんだとかって考え方には否定的な私。
じゃあ、卑弥呼はどこの国なんだよ!と。
649日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:52:01
>>647
ああ、風土記とかにあるやつか。
650日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:55:46
で、トヨとイヨ、どっちの読みなの?
651サガミハラハラ:2008/01/16(水) 22:55:49
東大寺山古墳出土の中平年刀は、倭国のだれかが中国に貢献してもらってきたものと
みられています。中平年は184年から189年の間です。
三国史記新羅本紀には173年卑弥呼貢献とあります。これは12支1巡間違えたものとおもわれるので、185年に新羅に長江とかんがえられます。
そうすると、183年に卑弥呼は即位してあくる184年に中国に貢献、ついで185年に新羅に貢献したという筋書きになります。
なお中平年刀は国産であり、中g特の何かの資料に倭国が中平年に貢献したことをしり、
銘をいれたのです。
652太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 23:15:23
>>643
その4倍というのはどういう意味ですか? 4倍暦のことですか?
4倍暦は否定してたとおっしゃっていましたが? 65歳で5帝分
ですか? なんだか安本さんのスシ詰め年代論ににちゃいますね??
まさは卑弥呼をアマテラスと思っていないですか?
653横槍:2008/01/16(水) 23:17:13
184年は黄巾の乱が起きた三国志演義の始まる年ですね。
この年の貢献のことがどの資料も全く無いのは不思議

173年を12支1巡間違うよりも干支還暦間違う方がずっと可能性が高いんじゃないの?
そうすると173年は233年になり、237年の貢献とも辻褄が会いそうだ
654サガミハラハラ:2008/01/16(水) 23:18:36
4倍暦ではなくて2倍年暦を2倍して在位年をふくらませたのです。
655日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:24:11
>>641
邪馬台国と敵対した狗奴国の男王の名が、卑弥呼より一字多いだけの卑弥弓呼。
なので卑弥呼=日の巫女と考えるのはあまりにも短絡的では?
個人的には、当時の倭では、卑弥呼が女王を表す単語、卑弥弓呼が男王を表す単語ではなかったかと考えます。
つまり、イザナギ/イザナミ、オトコ/オトメ、そういう類の呼び方だったのでしょう。
従って、卑弥呼は姫皇子のこと、卑弥弓呼が彦皇子のことだったと考えるのが妥当ではないでしょうか?
きっと中国のお役人には卑弥呼、卑弥弓呼と聞こえたのでしょう。

そう考えると日の巫女だからアマテラスというのも俗説かも知れません。
基本的に、古代の巫女たちのスタイルはアメノウズメが体現していると思います。
鬼道をよくした卑弥呼もアメノウズメのような感じだったんじゃないかと思われます。
卑弥呼の時代、日蝕もあったそうですし、巫女の立場がアマテラスにすり替わっていくという仮定でなら
女シャーマンがアマテラスにもなるでしょう。
しかし、卑弥呼は日の巫女のことだから卑弥呼がアマテラスのモデルというのはあまりにも飛躍しすぎだと思っています。
656太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 23:30:25
>>654
2倍年暦を2倍すると4倍年暦じゃないの??ww
それとも1倍年暦になるんかい?? 具体性の薄い答えだね。
何が何だか貴殿の話は理解困難???
657横槍:2008/01/16(水) 23:35:20
>>656
奴さんの考えは、実際には2倍暦が使われていたが、
書紀編集時に更に2倍したという事だろうけど、クイズダービーのラスト問題のようで・・
根拠が解らない
658サガミハラハラ:2008/01/16(水) 23:37:09
卑弥呼はこの年、中国に即位の報告に使者を派遣したのであるが、実は大事なものがなかったのです。
それは国書に押す印影です。代々つたわっていた「漢委奴国王」の印を紛失(志賀島に隠されていた)したからです。
そのためこの貢献は正式なものとは認められず、正式な記録にはのらなかったのです。
ハンコは大事です。大切に扱いましょう。
なお委奴国と邪馬壱国と邪馬台国は同じ国で時代により呼称がことなっているだけです。
659日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:38:43
>>655
魏志は各地域を「国」とするが、王が出てくるのは伊都国と狗奴国と卑弥呼。
ほかの地域には、派遣されたと思われる官が存在する。

地域対立でみると、女王の統率する地域と狗奴国に二分される。
とすると、(伊都国の王+卑弥呼)対(狗奴国の王)の図式になる。
卑弥呼の側は、政治実務を伊都国が仕切り、祭祀を卑弥呼が仕切る形であった
と考えると、卑弥呼は日の巫女という地位であったと考えられる。

後の時代も夜は兄で弟が昼という説明を中国にしていたりする。
夜に祭祀を行う王がいて、昼に政治を行う王がいるという関係。
660太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 23:41:55
>>651
>倭国のだれかが中国に貢献してもらってきたもの
>中平刀は国産

これは倭人が中国に貢献して中国からもらったということか?
それとも倭人が中国に貢献して朝廷からもらったものという意味ですかな? 国産なら後者だと思いますが・・・?
661古代:2008/01/16(水) 23:47:53
655
姫のもともとの字は日女で、彦のもともとの字は日子であったろうと言われ、どちらも高貴な人への尊称です。
日女とかの意味の中に既に巫女的な意味合いも入っていて、日女子(ひめこ)でも日巫女(ひみこ)でも意味的にはそれほど代わらないのでは

日の巫女だから天照というより、天照の尊称で「日女命」と言う字があることや
大日靈女貴尊という別名のうち美称を除いた「日靈女」は「ひみこ」と読めることなどから推定もされているのであって飛躍・単純ではないように思える。
662サガミハラハラ:2008/01/16(水) 23:50:18
つまり、中平年刀は三角縁神獣鏡なみの国産品だということです。
663横槍:2008/01/16(水) 23:54:15
卑弥呼が、天照大神だとするとスサノヲは、誰になるの?
卑弥呼の男弟?
狗奴国王?
奴の国(根の国)に派遣された大率?
664日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:54:30
>>655
なるほど。
665太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 23:54:36
>>662
国産品を中国から倭人がもらったというのは考えにくいような気が
しますが? 4倍とは横槍氏の説明の意味でよろしいか? そうなら
ば、その合理的理由を明日でいいですから書きこまれたい。
666太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 23:57:32
>>663
アマテラスは卑弥呼でないから考えるだけ無駄な労働です。そうやる
と、安本先生の無理なスシ詰め論をゴリ押ししたままになります。
667日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:00:08
>>661
では卑弥弓呼は何?
668古代:2008/01/17(木) 00:04:54
663
おもしろいですね。狗奴国王だとスサノオが高天原で暴れたエピソードとか
それで天岩戸に篭ったとか想像しやすいですね。

でもまあ実際はスサノオは倭人伝の中には出てないと思いますよ。記紀では天照の弟ですが、実際は血縁関係にはなかったでしょう。
天神族だけれども追放されて地神族でもあるという立場ですしね。
669日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:05:24
>>663
素戔鳴尊は、狗奴国王の卑弥弓呼かな。
670横槍:2008/01/17(木) 00:08:08
政略結婚ぐらいは当然あったでしょうから、義姉弟ぐらいですかね
671日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:14:11
記紀によると、伊邪那岐・伊邪那美が日本の国を生み、日本にある八百万の
物を生んだことになっている。
そのあと、伊邪那岐の禊払いのときに生まれたのが、天照大神、月読命そして
素戔鳴尊。
姉弟ということにはなっているが、それは伊邪那岐が生んだことになっているから
そういう風になっているだけであって、実際に姉弟と解釈する必要はないと思う。
672日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:22:33
>>666
>安本先生の無理なスシ詰め論

なんとなくワロタ。
たしかに、彼は理詰めが過ぎる感じもする。
673日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:25:43
イザナミ・イザナギとか、
アダムとイヴみたいだよね。
女が先に堕落するところとかそっくり。
ひょっとして、シルクロードから聖書の触り程度の事は伝来してたのかも
674日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:28:22
>>672
大国先生の言う「すし詰め」は、年代の「すし詰め」ということだろう。
逆に言えば、彼等の年代観が「間延び」ともいえるが。
675日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:36:19
魏志では卑弥呼と卑弥弓呼が書かれている。
これは明らかに対比であり、当時の女王と男王の意だと思われる。
卑弥呼は日の巫女が訛ったものだとしてしまうと、卑弥弓呼にあたるものがないというのがその論拠。

日女命や日靈女と出てくるのは、
後の世に卑弥呼を神格化して字を当てただけだと思われる。
それがアマテラスにとなっているのでしょう。
しかし、卑弥呼の時代には、姫皇子、彦皇子という呼び方をしていたはずです。

後の世に卑弥弓呼には字を当てていませんが、
かつて大勢いたであろう女性シャーマンの存在が太陽信仰では大きなものだったから
卑弥呼に対しては日女命や日靈女という当て字ができたのでしょう。
日女命や日靈女と呼ばれている頃には既に神格化(すりかわり)していて既にアマテラス化していますね。
それから、天の岩戸も産道だなどという話もあるぐらいですし、
古代日本の太陽信仰においては女性の霊性がかなりよりどころになっていたのでしょう。
だから、男王の卑弥弓呼には後の世に字を当てていない。

そう考えると、卑弥弓呼がスサノオというのは面白いアプローチかも知れませんね。
もちろんシンボリックに扱われているので、
単純にスサノオ=卑弥弓呼ではないかも知れませんけど面白いと思いました。

それから、卑弥呼に限らず、当時の巫女たちには男弟のような付き人がいて、
神懸かりした巫女と民衆との仲介を果たす為政者の立場であったかも知れませんね。
676日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:38:27
>>674
ナルホド、確かに安本説では、欠史8代のところがすし詰めでちょっと窮屈。

比べると太国説は間延びだけど、古伝を重視する宝賀説は太国さんの
年代観に近くて相通じるところがありますね。
677日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:46:58
>>671
そういえば、月読命って男か女かはっきりしないですよね。
あまり目立った活躍もないですし。
天照大神(ナイーブ)と素戔鳴尊(あらくれ)ほど素性の分かりやすいキャラクターではないですね。
678日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:59:32
>>677
うん、その後、全く登場しないと思う。
どういう理由で、そういう存在感のうすい神様が生まれることになったのか不思議。
何かで、その理由がうまく説明されているのを読んだような気もするけど。
679古代:2008/01/17(木) 01:02:57
卑弥呼→日女子(ひめこ)、卑弥弓呼→日子御子(ひこみこ)なのでは?
日女は太陽の妻、日子は太陽の子。どちらも祭祀を司る意味がある。

自分の考えとしては、天照と日靈女はもともと別だったが後に同一視されるようになった。
天照は一人ではなく集合体である気がする。

671
月読命は秦氏の神であったらしい。とするとスサノオもどこかの王か氏の始祖か・・
月読命が活躍しないのは中国思想に拠る所が大きいように思う。
680日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:06:05
インドのシヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌを思い出してしまうのは私だけかな?
シヴァとヴィシュヌは非常に人気がある神だけど、ブラフマーって人気ないですから。
681日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:10:27
ブラフマーってどんな神様?
682古代:2008/01/17(木) 01:17:06
ブラフマーは創造神なので世界を創造してその役割が終わったとみなされている。
破壊神シバが世界を破壊するまでは活躍の必要がない。

ある意味月読も似ているのかもしれないが。月齢によって暦を生み出してその役割が終わった。
また死をも司る月読命は重要視されなかったのかもしれない(神道では死は忌むべきもの”黒不浄”として嫌われている)
683日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:29:07
>>681
参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A5%9E%E4%B8%80%E4%BD%93

ブラフマーは中性(ブラフマン)と呼ばれることもあり性別不詳の月読命に似ている。
シヴァはリンガ(男根)とも呼ばれ、破壊の神であることから素戔鳴尊に似ている。
ヴィシュヌは女性(天女など)に化けることがあり、天照大神に似ている。(天照大神が男装したりという話などあったり何か通ずる)

上記の理由だけではないですが、ヴィシュヌは繁栄の神でもあるので豊饒(女性)に通ずるところもあるかなとか、
まぁ色々と日本の神話と共通点っぽいところがたくさんあるかなとか思ってます。

>>682
「月読命は「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切無い。伊邪那美神のいる夜見の国という説もある」そうなので、
我々現世の人間から見ると、黄泉の国にいる月読命はあまり重要ではないのかもと感ずるね。
存在感が薄いのも頷けるような・・・
684日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:30:22
ブラフマーはヒンドゥー三神の一体。
日本ではボン天さん。
三神では1番弱い存在とされている。
685日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:36:24
月読の黄泉ってとこから、
本当は長兄なのに ゼウス、ポセイドンの下にされてしまった
冥府の王ハデスにも似てるな。
686古代:2008/01/17(木) 01:40:21
自分もそう思った。三界分治のモチーフとか。イザナギの黄泉の国訪問の話もギリシア神話との関連が指摘されているし
687日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:47:16
黄泉ってことは 殺された可能性があるな。
たしか大国主も国を譲る見返りに
黄泉の国の王になったとか。まさしくハデスになった。
大国主もタケミカヅチに殺されたわけだ。
出づ雲は霊魂の心的象徴だから、出雲が黄泉の国として、
そこに大国主の霊魂を閉じ込めたのだろう。
688日本@名無史さん:2008/01/17(木) 01:50:21
じゃあ、サラスバティーはトヨかな?
サラスバティーは日本でいう弁財天。
689日本@名無史さん:2008/01/17(木) 02:48:56
ツクヨミ説話の残存状況の悪さ、ないし説話上の存在感の薄さ。
このあたりはとても面白いなあと思います。

「月」を核にした神話はかつて日本に根強く存在していたと
思う(縄文中期土器の図像などから)。
690日本@名無史さん:2008/01/17(木) 09:10:56
卑弥呼が、
神話とか語り部によって、受け継がれていなのなら、大した人物ではなく、そこらの「宗教的な女村長みないな存在」で、議論の必要性はないだろ!
重要な人物なら何かに意味付けされているはず。候補は3人ぐらいにしぼられるが、永遠と続く床屋談義!決まらないよ!

691日本@名無史さん:2008/01/17(木) 09:31:19
だがそれがいい!!(AAry
692サガミハラハラ:2008/01/17(木) 10:47:18
>>665古墳時代には鏡を主に服装することがはやっていました。そしてその副葬品に倭と中国に関係した年号を
いれることがあったようです。三角縁神獣鏡のケイショ年号等それです。同様なことが刀にも行われ、それが中平年刀です。
ひょっとすると親魏倭王の金印も模造され、どこかの古墳に入っている(入っていた)かもしれません。(神功皇后陵との説あり)
紀が何故2倍年暦をさらに2倍にしたかですが、これは天皇家の歴史を中国の歴史に近づけようとしたからかもしれません。
つまり、倭王の先祖は呉から来たという記録が中国にあったからです。
ご存じのように紀の編纂に際しては、外国特に中国資料を第一に考えていてそれに合うように紀を編纂しています。
よって天皇の先祖も呉からきたように編纂することになったのです。
ところがいかんせん普通暦では呉とは結びつかないのです。そこでアンコウ天皇天皇以前を2倍年暦にし、さらに事情によっては
虚構年を加え、それでも足りずに垂仁天皇から上は2倍年暦を2倍していき、神武天皇の測位年が辛酉革命年にちかずいたので調整し、
即位BC660年としたのです。
問題はなぜ660年の辛酉年を選んだのかということです。
このことは私のなかではまだ解決していません。試案はあるのですが、これについてはのちほど。
693プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/17(木) 11:54:21
サガミさん

物証はおろか論証すらも伴わない、学問からかなり逸脱した、お伽話の世界に突入ですか?
最近特に目立つ事著しいですね。

自ら出版物の品位を低下させる行為は楽しいですか?
694サガミハラハラ:2008/01/17(木) 12:02:54
かなり合理的に組み立てられた論だと思いますが。
自ら出版物って、わたしの出版物読んでの評価でしょうか?
695siraki:2008/01/17(木) 12:13:03
日麻古は 温羅王のように一般名詞なの特定名前ではない..
最後の 日麻古 神功皇后天皇ではなく皇后よ,,意味が分かって?

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1929222

邪馬台国 滅亡と 悲恋の運命のカップル...
696プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/17(木) 12:20:28
サガミさん

>かなり合理的に組み立てられた


そう認識されていのですね? いや、なに
私にはそう見えなかったのでレスしたまでですから
697日本@名無史さん:2008/01/17(木) 12:27:52
自分の都合で勝手に数字を足しておいて 合理的?

なに言ってんだかw
698プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/17(木) 12:39:00
サガミさん
私も>>697さんと同意見です。行程記事の距離にしろ、紀の年代にしろ
全て起因説明がまるでないのです。
699日本@名無史さん:2008/01/17(木) 12:52:38
176 :劉達新 ◆r8qshg.1/2 :2007/10/04(木) 14:06:18
>>163

ははは、痛い所を突かれたが漢の高祖や中国では古くから神武帝と考えられている徐福たちが華南人なのは周知の通りだ。
日本人と華南の漢族とは、お互い歴史的に共通性を持ち、漢の高祖が漢民族を興すずっと以前から交流がある。

そして、東晋や劉宋時代に東北の穢人討伐戦(対高句麗戦)で活躍し、穢人を支配して穢土に「辰」(今日の韓国)を建国し、
今日まで途絶えることなく続く日本の基礎を築いた倭の五王たちも、劉宋時代は華南の呉王朝の亡命政権と考えられていた。
これは決して私個人の捏造ではないよ。
中国では古くから日本の王侯(後の皇帝)は戦国時代の呉王闔廬の末裔だと考えられている訳だし、
後の劉宋時代には漢民族と協力して、思い上がった東北狩猟民族を平定した倭の五王(讃、珍、済、興、武)たちも、
日本の国王一族が呉王闔廬の末裔だと自ら公表してそれを認めている。
(今日の右翼的日本人は何故かこの歴史について否定するが、それを裏付ける決定的証拠を出さない。)
更には「呉音」は「漢音」よりも先に日本に伝わり今日に至っている訳だし、日本人の和服(漢装)も古くは呉服(呉装)と呼ばれている。

残念ながら多くの華南の漢族と日本人は、漢化した東北中国人とは歴史的にも民族的にも、そして東北中国人の異質な習慣を
見てもウマが合わないのは当然なのだよ。私の母親は遼寧省出身なのだが・・・

まぁ、私はこれ以上語らないからほどほどに頑張りたまえ。
700太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 15:15:50
>>692
それは日本で大陸の年号入りの剣鏡を造ったということは否めません。
その中平年刀を大陸の帝から倭人に授与されるということがおかしく
てしようがありません?w これではもらった倭人は剣が現実は
日本製では有り難がらないでしょう?w そういう主張をする貴殿は
そういうことがまかりとおっているようなデカい言い草なのに質問の
説明に終始しておらず、かような上っ面の回答で説明したように見せ
かけているだけではないですか? 全くなっていませんよ。むこうで
造った剣鏡であれば、もらう倭人は喜び、有り難がるというものです。

倭王の先祖が呉から来たという古文献はどういうものなんですか? 
これも具体的資料が出ておらず、ガソリンの入ってない車を動く走れ
るとか主張してるようなもので、説得力がまるで無いと云えます。
中国の資料を第一にして編纂してるという根拠も無では誰も信じて
もらえませんがね。
701太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 15:31:53
>>692
>アンコウ天皇天皇以前を2倍年暦にし、さらに事情によっては虚構年を加え、
 それでも足りずに垂仁天皇から上は2倍年暦を2倍していき

それでも足りずというのはアナタの考え、主張の矛盾不整合が充足されてない
から虚構年を加えたり、2倍年暦を2倍だとか、恣意的気ままに取捨選択して
こうなんだとうちらに云ってるだけで、紀の編者らが故意に虚構年を加えたとか
2倍年暦を2倍にしたとかいうのはサガミハラハラさん、あなたがその不合理を
勝手なやり方であなたが拭い去って造った想像的創造怪物論ですよ。
702日本@名無史さん:2008/01/17(木) 16:04:37
太国さん、がんがれ!
703日本@名無史さん:2008/01/17(木) 16:11:34
ほう。太国にもファンがいたのか。
きみは稀有なる存在だね。ww
704ローガン:2008/01/17(木) 16:39:26
太国さんがんばれ。サガミ先生も負けるな。
705九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/17(木) 19:33:45
>>699「呉音」は「漢音」よりも先に日本に伝わり今日に至っている訳だし
日本人の和服(漢装)も古くは呉服(呉装)と呼ばれている」

呉音が入ってきたのは、伝わった仏経典が呉音で書かれていた為であって
この頃から日本に漢字が広く使われるようになった経緯によるもの。
倭人が呉の末裔であることとは関係ない。

>日本人の和服(漢装)も古くは呉服(呉装)と呼ばれている。

呉服というのは呉で考案された織り方、という意味で呉服、というのであって
主に江戸時代の庶民が着ていた縦縞模様のものをいう。縦横の織物は元々ダマスカス織。
これを日本では{どんす)ダマスカスの略と呼んだ。
これも呉の末裔としての倭人の関係をを示すものではない。
所詮中国古代の伝説に過ぎない。
トルコの伝説で、ユーラシア大陸の西端に行ったのがトルコ人で
東端に行ったのが日本人であり、元々同じ人種であった。
というような類のもの。
706日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:13:20
呉音といっても実際には劉宋の時代のことだしな
707横槍:2008/01/17(木) 20:22:04
>>692
>よって天皇の先祖も呉からきたように編纂することになったのです。
逆だろ

呉滅亡 前547年
神武即位 前660年

天皇家が呉の末裔で無い事を、
証明するために神武をその滅亡前に置いたなら、話は分かる

708日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:39:34
>>648
「肥の国」。今の佐賀、長崎。
709サガミハラハラ:2008/01/17(木) 21:11:10
呉の末裔って、呉が滅んだ際に日本に渡ってきたのではなくもっと前、呉の成立ぐらいまでさかのぼってください。
710横槍:2008/01/17(木) 21:19:50
>>709
んなわけない
それじゃ、天皇家は呉の王の子孫じゃなくてその支流の子孫になっちゃうじゃないか!
正統性を重んじる儒教国家中国との外交で著しく不利になるだろ
711日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:27:01
>>709
すいません、体系的に書いてください。
その都度話が小出しに出るので、何をいってんのかわかんない。
712サガミハラハラ:2008/01/17(木) 21:31:34
天皇家は呉の太伯の子孫とみたのであって、最終的に呉が滅んだときの王の子孫というのではありません。
713太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 21:32:27
サガミハラハラさん
貴殿の呉説は こうだ という話ばかりで、文献も資料も図も他の証拠
のようなものも一切ない。このままどうしてそうなのかという上の
ブツが出て来ないならば、あなたの恣意による好き勝手で創作した
誤説とみなすしかない。
714サガミハラハラ:2008/01/17(木) 21:36:07
>>700中平年刀は公定から倭人に授受されたものではありません。
ある人の埋葬のさいに副葬品として日本で作ったかたなに中年の年号を刻んで副葬したのです。

古典は魏略です。
715横槍:2008/01/17(木) 21:38:19
>>709
追伸
呉の建国は、前11世紀で、これとも年代が合いません
716日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:38:32
サガミのいってることわかんない。
他の人の疑問、質問はその意図するところはわかるのに。
717横槍:2008/01/17(木) 21:40:46
サガミさん
倭人が、呉太伯の末裔を名のった理由を知ってますか?
718サガミハラハラ:2008/01/17(木) 21:41:01
呉説については大きな障害があるためこうだとまだ主張できる段階ではありません。
719サガミハラハラ:2008/01/17(木) 21:42:43
>>717わかりません。ぜひ教えてください!!
720日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:44:14
>>718
またはじまった、逃げのほのめかし。
721サガミハラハラ:2008/01/17(木) 21:52:20
>>718神武即位をなぜ660年にもっていってのかについては、まだ検討中であるため、断定的なことはいえません。
ですから、まあ、にげのほのめかしといわれてもそのとおりですね。
722横槍:2008/01/17(木) 21:56:56
>>719
外交上、朝鮮よりも上の国であるとの主張からです。

朝鮮は、箕子が作った箕子朝鮮が始まりとされています。
箕子は、殷末期の賢臣とされています。

同時代に呉太伯が、います。彼は孔子が崇拝した周文王の叔父です。
血筋では最高クラスのものです。

そして大事なのは、伯爵>子爵という事です。

この事から倭国には、中国人(恐らく江南地方の)の政治的アドバイザー
がいた事が判ります。
723日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:03:38
696 名前:プラム ◆TOfHBAKZgM [] 投稿日:2008/01/17(木) 12:20:28
サガミさん
>かなり合理的に組み立てられた
そう認識されていのですね? いや、なに
私にはそう見えなかったのでレスしたまでですから

697 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/01/17(木) 12:27:52
自分の都合で勝手に数字を足しておいて 合理的?
なに言ってんだかw

698 名前:プラム ◆TOfHBAKZgM [] 投稿日:2008/01/17(木) 12:39:00
サガミさん
私も>>697さんと同意見です。行程記事の距離にしろ、紀の年代にしろ
全て起因説明がまるでないのです。

自演だとしたら芸が無いな・・・
724太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 22:03:42
>>651
>中平年刀は、倭国のだれかが中国に貢献してもらってきたもの
>中平年刀は国産品であり
>>714
>中平年刀は公定(←皇帝のことのよう)から倭人に授受されたものではありま
 せん

この三つの説明は自語相違に近い。じゃぁ倭人が中国皇帝以外の中国人から
もらったというのか??
725日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:05:16
>>708
火の国、肥の国は熊本。
古代から火の君がいたらしい。磐井の乱のあと、北部にも勢力を伸ばしたと
されている。
熊本県では、城南町(宇土市の近く)や氷川町(八代市の北部)、つまり
熊本平野の南部が「火の国」発祥の地とされるらしい。

八女市の岩戸山古墳は「石人」で有名だが、これは熊本県にも広く分布して
いる。北は江田船山古墳付近、南は氷川町の野津古墳群からも出ている。

石人は岩戸山古墳が発祥といわれているが、逆の可能性もあると思う。
726横槍:2008/01/17(木) 22:22:37
>>721
>神武即位をなぜ660年にもっていってのかについては、まだ検討中であるため、断定的なことはいえません

(2倍暦x2)暦論の根拠が無い事を認めましたね。潔い態度だと思います。
727サガミハラハラ:2008/01/17(木) 22:37:21
自分の都合で勝手に数字を足したり、起因説明がなっていないといいますが、
いろんな資料を照らし合わせてもっとも合理的に説明つくものを述べているわけです。
そのためのポイントがあってそれをうごかさないようにくみたてていくわkrです。
それはわたしの著書を読めばおわかりでしょう。

行程記事と年代論を一緒にろんじられても。まるで別ですよ。両者に共通することといったら、各ポイントをしっかりおさえて論を組むということでしょうか。
>>724
>>726根拠がないのではなく、なぜその年にもってきたのか紀の編者の心の内がわからないといっているのです。
2倍年暦を2倍しているのは間違いありません。
728横槍:2008/01/17(木) 22:45:47
いさぎ悪いっす
729太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 22:54:47
「2倍年暦の2倍」というのはわけのわからん言い方だと、一般の
スレ人は思うに違いない。他の語句でよく再説明したら?
730日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:56:07
サガミの話はどうでも良いから他でやれ
731サガミハラハラ:2008/01/17(木) 22:58:32
>>7292倍年暦を2倍とかくのは4倍年暦ではないということをあらわしています。
732太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 23:12:39
サガミハラハラさん
確か貴殿は武内宿禰の寿命を実の年齢で百数歳と主張してましたよね? それで
>>643で、卑弥呼の寿命は65歳だとおっしゃっている。さらには5帝に遣えたとも
云っている。ところが武内大臣も5帝に遣え、双方の違いは武内がもうひとつ神功
にも遣えてたから、大臣の場合は6帝分相当だとみなしてよいことになる。

そうなると武内が1帝分多いわけだが、武内は百数歳で卑弥呼が実年齢65歳の
寿命といいうのは、いくらなんでも離れすぎてはいないか? と想うんですがね?
これは間違っていると考えるのが相当だと察知しますよ。
733日本@名無史さん:2008/01/17(木) 23:13:31
こんなスレタイを立てたらどうだろう 【とことん】サガミVS太国【語れ!】
734サガミハラハラ:2008/01/17(木) 23:19:32
卑弥呼は5帝につかえていません。卑弥呼(九州)の在位中に、大和(奈良)では5人の天皇の時代が
経過したということです。
さらに卑弥呼の即位年にある天皇が即位し卑弥呼の没年にある天皇が没したということではありません。
卑弥呼はイ徳天皇の途中の年に即位し考元天皇の途中の年にしんだということです。
735サガミハラハラ:2008/01/17(木) 23:21:25
>>733そうですね、他の方々しらけてしまっているようですし。
736日本@名無史さん:2008/01/17(木) 23:26:45
>>735済みません。納得してもらえるとは思いませんでした。
737太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 23:28:04
>>734
失礼、眠くなってきたから遣えたという言い回しをしてしまった。
これは間違いだね。ただそういうことではなく5帝分でしょうがね?
だから65歳と100余歳とでは5帝相当と6帝相当ということになり、
1帝分では、そんなに差があるんですか??
いま遣えたの間違いを指摘してくれましたが、あなたの間違いらしい
ここのところをとぼけないようによく考えて下さいよ。これは
おかしいと想いませんか?
738太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/17(木) 23:41:17
>>736さん
おっしゃることはよくわかりますが、サガミハラハラ氏に逃げの
うまい口実を与えちゃいますよ? たしかに深夜ですのでまもなく
それがしも寝ますが、明日以降に彼は回答なしに当分ここへの
書きこみはよろこんで遠慮しちゃうかもしれませんよ。

卑弥呼の遣えたは明確に間違いでしたが、眠くもあり、こんな誤句
を云っちゃいました。たしかにこれは間違いですから無として
下さい。ただ明日以降も卑弥呼の年齢と年代の不合理を彼から説明
をさせたく思いますので、むしろ協力してほしいです。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・
739サガミハラハラ:2008/01/17(木) 23:41:40
>>643では卑弥呼の在位は65年であって寿命ではありません。二十歳で即位したとすれば没時は85歳となります。
イ徳と考元のそれぞれ10年づつとすれば105で武内とあいますです。
眠いからもうねましょ。
740日本@名無史さん:2008/01/17(木) 23:49:39
>>651
>中平年刀は国産であり、中g特の何かの資料に倭国が中平年に貢献したことをしり、
銘をいれたのです。

実はこの部分だけ同意。
この刀は内そりで当時の直刀と違う故に通説では後漢製とされる。
しかし、同時に出土している鉄刀の環頭には佐味田宝塚古墳の家型文鏡の家型と類似
するものがあり、こちらは国産である故に、前者も国産とするのが合理的。

180年頃の紀年の鉄刀が4世紀後半の古墳に伝世したとするのも不自然で、同様の問題
のある紀年鏡の多くと同様に国産と考えるべき。
日本で出土する紀年鏡の大半は中国文献の卑弥呼に関連する時期に年号に集中するが、
これは、後世に日本に関連する文献の年号から拝借したのであろう。
741日本@名無史さん:2008/01/17(木) 23:51:34
プラムはどうした!
742日本@名無史さん:2008/01/18(金) 00:03:00
>>725 >石人は岩戸山古墳が発祥といわれているが、(略)

そのようなことを言った考古学者はおらんと思う。

ふつう石人の発祥とされておるのは、筑後市と八女郡広川町の境にある石人山古墳である。



このスレにはどうも出鱈目な考古知識を垂れ流す輩がおるようで、なんとも情けなく思う。
743プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/18(金) 00:28:14
>>739サガミさん

「タラ、レバ」の世界、楽しいですか?
744日本@名無史さん:2008/01/18(金) 00:34:11
>>742
八女古墳群あたりでもいいと思う。
岩戸山古墳の石人が有名だと思ったので、まあわかりやすいかなと。

要するに、筑後よりは熊本のほうが先ではないかと言いたかったわけ。
745日本@名無史さん:2008/01/18(金) 00:41:47
>>742
たとえば、江田船山付近では
http://www.kktaiki.com/sakuhin/sekijin.html
南部では
http://www.hikawacyou.hinokuni-net.jp/his/pub/detail.asp?c_id=14&id=13
となっているから。
746日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:11:46
>>708
では、トヨはトヨミコ?
イヨという読み方だとしたらどうなる?
747日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:19:11
>>688
ちなみに、シヴァ神は大黒天。
ちなみにちなみに、七福神のうち、国産の神様は恵比寿様のみ。
恵比寿はご存じの通り、釣り竿を持ち、漁労採集の神様。
要するに、稲作文化の弥生人が入植する以前の
縄文時代から信仰のあった古い神様。
恵比寿は、蝦夷(エビス、エミシ)とも読める。
髭を持ち、海老(蝦)の意である。
エミシ、アイヌ人、縄文人、きっとそれが日本人のルーツを探る手がかり。
748日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:22:59
749日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:25:20
>>517、 乙。

貴殿のレスに気づくのが遅れた。
>>313氏は「中山氏」「原田」と苗字だけしか書いておらんので
彼がフルネームを回答してくるまで暫く待つつもりであった。

>>517 >中山平次郎先生も原田大六先生も、邪馬台国=畿内説ですよ。
>>517 >いい加減な学説史を捏造したりすると、(略)


仰る通りである。
ただ正確を期せば、中山平次郎は研究の初期には筑後山門郡説を踏襲していたが、
その後自らの精力的な九州考古学の研究の蓄積を経て、後年は考えを改めたと言えるであろう。

これに対し、戦後になって中山に私淑した原田大六は
最初期の長大論文『日本国家の起原』から終始一貫し、邪馬台国畿内説で生涯を通した。
無論原田の主張にも幾つかの重要な変化はあるが、彼が九州説に与したことは一度も無い。


ところが、まさに唖然とするのであるが、>>313氏はこのように書いた。

>>313 >門外漢の医学博士である中山氏が九州説の中心だったため、(略)
>>313 >門外漢の原田が九州説の中心になったため、(略)
>>313 >というのが、学説の変遷についての事実。


正に噴飯物のタワゴトとしか言いようが無い。
原田大六の著作を何か一つでも読了しておれば、このような嘘を書ける筈はなかろうに。


だが、読みもしておらんのに知ったかぶりし、「原田が九州説の中心」等と似非学説史を垂れ流す。
その知性の欠如、ならびに探究とは程遠い学問精神の荒廃ぶりには、慄然とせざるを得ぬ。
750日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:26:11
>>725
では、邪馬台国という地名の名残は出雲の何処になるの?
伊都国=糸島、末廬=松浦なわけでしょ?
751日本@名無史さん:2008/01/18(金) 05:49:04
上の方でツクヨミの事が語られていたが太陽と対を成す月の神で
かつ三貴神の一人と言うにはあまりエピソードも少ない。
こう言った構造を「日本神話における中空構造」とか言うそうな…

似たような構図に造化三神におけるアメノミナカヌシとかかな?
多分道教(三清あたりか?)の影響だと思うが…

まあ普通に考えてスサノオが後から割りこんだんだろうw
食物神を殺す話もツクヨミとスサノオの2バージョンがあるし…

インドのブラフマン・シバ・ヴィシュヌとかと比較する向きもあるようだが
ぶっちゃけ意味無いだろうw

兎に角、記紀神話は神代だからといって古い伝承が元になっているとは限らず
そこらへん物語の時系列と伝承の古さは一致しない事を念頭に置くべき。

752他スレからコピー:2008/01/18(金) 06:27:18
■他スレからのコピーですが・・・

763 :日本@名無史さん:2008/01/17(木) 07:38:52
伝仁徳陵の造営期間は、延べ680万人の人が、一日当たりピーク時2,000人が働いたと仮定し、その工事期間は15年8ヶ月以上かかった計算となるらしい。(大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』1985年より)。

伝仁徳の時代の5世紀ともなれば畿内にも十分に鉄器が入ってきているので、木製の鍬や鋤の頭部には「鉄」を付けて補強したものとして使用できたはずです。

しかし、3世紀中・後期の纒向には、潤沢には鉄器は入っていない。
単なる木製の鍬や鋤で膨大な造営がなされたため、両者の規模は異なるものの、同程度以上に時間を要したとも考えられます。

となれば、箸墓古墳の造営開始時期は、完成前どの程度から始められたと推測できるのでしょうか。竣工年を3世紀後期としても少なくとも中期以前には着工が必要だったのではないでしょうか。

そして、5世紀の陵のように、王陵自体が権威の象徴として、生存時から造営を開始するに対し、3世紀中・後期の初期大王陵の造営に関しても同じく生存時から工事開始されていたのでしょうか。

この2点(工事道具の未発達・生存時からの工事開始)の考え方次第では、半世紀程度は簡単に動いてしまう。後期が中期に、中期が前期にと・・・

この私の疑問にどなた様でも結構です。わかりやすく解説していただければ幸いです。
753日本@名無史さん:2008/01/18(金) 07:40:04
<神功皇后陵>宮内庁が立ち入り調査許可 考古学協会に通達
1月18日2時32分配信 毎日新聞

立ち入り調査が認められた神功皇后陵(五社神古墳)=奈良市山陵町
で、本社ヘリから森園道子撮影

 宮内庁は17日、古墳時代のものとされる奈良市の神功(じんぐう)
皇后陵(五社神(ごさし)古墳)の立ち入り調査を許可することを決め
、日本考古学協会に通達した。陵墓への立ち入り調査は、宮内庁が補修
工事を行う際の見学は認めてきたが、学会側要望を受けた許可は初めて
。今後、他の陵墓の立ち入り調査についても申請があれば検討し認めて
いく方針だ。
754太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 07:59:00
>>739 >>633 >>643
昨晩は眠いせいもあって、うっかり卑弥呼が天皇に遣えた言い回しをしてしまい
ましたが、だいぶボーッとしていたようで、当然間違いです。しかもサガミハラ
ハラ氏の再なる指摘で、寿命と年齢を混線したようで、まぁ相当眠い状態でした。

この思い違いはサヨナラして論議を重ねますが、彼の言い分は卑弥呼が即位から
没まで65歳だったということで(寿命と間違えたんですが、こういう場合は65年
とか65年間とかと書いてくれると間違いしにくいので、そう書いてもらいたい
です。)、そうならばなおさら期間が短くなるのだから、65年間で5帝分卑弥呼
が在位していたなどとは到底考えにくいということになります。

当時の九州での卑弥呼1代の在位期間が、畿内では天皇5代分の期間であったなど
ということは、卑弥呼のほうが著しく長く、いくら卑弥呼が長寿であったと
しても(武内が仁徳の歌の説明でいうように日本最長寿者というこういう例外は
あるものの)、卑弥呼までも1代が5代と、そんなに経過するものなのか?と
考えたとき、彼の主張の4倍とか2倍年暦の2倍というのは、どこかで大きく
狂いがあるんだということが、馬脚を現した考えにくい代数の落差でそれが判然
としていると想う。
755太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 08:05:16
>>754
× 武内が仁徳の歌の説明でいうように日本最長寿者というこういう
○ 仁徳が歌の中での説明で武内が日本最長寿者であるという、こういう
756日本@名無史さん:2008/01/18(金) 12:07:46
太国は
まだ寝とるなw
757日本@名無史さん:2008/01/18(金) 14:57:21
>>749
>>313は「九州説」→「(弥生時代の)九州優位説」と読み替えるべきじゃね。
文章全体から分かると思うが。

で、学界が「畿内の後進性」を無視・否定し続けてきた事実はあるのか?
758日本@名無史さん:2008/01/18(金) 16:39:11
このスレに登場する傀儡子は、魏志に登場する卑弥呼について何も理解していない阿呆ばかり。
歴史認識能力も半島民並みだなw














(ゲラゲラ
759サガミハラハラ:2008/01/18(金) 16:41:20
>>754拙の算出したイ徳天皇から孝元天皇までの即位年と没年をしるしておきます。
イ徳天皇 168年から176年
孝昭天皇 176年から197年
孝安天皇 197年から222年
孝霊天皇 223年から242年
孝元天皇 243年から257年
卑弥呼は183年から248年ごろまで65年の在位とみると、孝昭から(昨日は確認もせずにかきこんだので間違いました。陳謝)
孝元までの4代となります。
これですと、そう違和感がないとおもいます。
二名様には大変ご迷惑をおかけいたしました。特に太国さんには大変失礼をいたしました。
760サガミハラハラ:2008/01/18(金) 16:43:05
訂正 二名様は皆様のあやまりです。
761日本@名無史さん:2008/01/18(金) 19:27:26
太国はどうした!
762唐松山:2008/01/18(金) 19:29:45
伝仁徳陵の造営期間は、
西暦367年丁卯から 西暦398年戊戌 までの 31年間と考えています。
百姓から見れば 当時2000人分の食料をどのように 確保したか?

鉄が豊富になるのは、神功西暦272年以降 とりあえず農業の充実
応神稜は 飛ばして
仁徳稜の建設は、 新羅 364 倭兵が大挙して侵入  ここで 建設の為の人足集め
「 倭兵が大挙して」と書いてありますが、半分以上は百済より援軍でしょう
百済にとって新羅が困る事は 良い事 ですから。

763太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 20:24:45
>>759
これを見ると卑弥呼の件はだいぶ表見的にはおかしく感じなく
なったが、懿徳の在位がたった9年で孝昭の在位も12年となって
ますが、えらい短すぎるとご自身で不審に思いませんか?w
仲哀とか履中等少ない在位の天皇もおられるわけですが、とくに欠史
八代はみかけとはいえ超長寿の数字であって、在位実年数としては
あまりにも少ないと疑念が出ざるをえませんが?

とりわけ孝昭は紀では寿113歳なのに、在位だけを観ても 12年 と
いうのは、どうも短いと感じますよ〜? 間違いがありますね。
764日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:33:01
>>758
お前が馬鹿だという事だけはよくわかった。
次からはお前の「卑弥呼に対する理解」とやらを書く事だな。
765太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 20:50:58
>>759 >>763
まぁそれがしの説からそんなふうに感じてしまうのやもしれません?
だが〜懿徳の1桁在位はどうも少ないように想っちゃいますわね?
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 21:05:53
>>762
倍暦計算にて、後代 499年 は顯宗即位年です。つまり5世紀末ですが、
このころは畿内に鉄は無いと日本から大陸に帰った慧深という物が梁書>>328
証言しています。それ以前では畿内は鉄が豊富だったということですか?
767唐松山:2008/01/18(金) 22:03:35
鉄は、任那からの輸入品 
鉄の国産化は、もう少し後。

顯宗即位 西暦483年 まだ国産の鉄は、有りません。
製鉄の 技術の事かも? 山は有ったし鍛造は 出来た。
768日本@名無史さん:2008/01/18(金) 22:12:42
【考古学】 神功皇后陵の立ち入り調査の許可を決定、1段目の平らな部分までの撮影が
認められる・・・宮内庁
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1200656437/l50

ちょっとだけよ!!ってな感じwww
769太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 23:14:38
>>767
そうですか。

>>643 >>759 サガミハラハラさん
貴殿のおっしゃる卑弥呼在位65年というのは、天皇ではっきりしてるものの中で
では昭和天皇の64年在位が最高のはずですよ。それよりも卑弥呼の在位が長いと
いうことになりますから、女王が天皇だったらそれこそ卑弥呼天皇が各天皇の中で
最高在位を誇ることになりますが、可能性としてはありますが〜よっぽど資料、
根拠、証拠等が揃ってない限り貴説は冒険だということになりますが、それでも
かまわんと云うんでしょうかね??w
770あらためひみこ:2008/01/18(金) 23:25:04
太国さんVSさがみはらさん 熱い戦いが始まった笑
771日本@名無史さん:2008/01/18(金) 23:29:23
鹿島あたりでも5世紀の製鉄遺跡が出土してるぞ
772太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/18(金) 23:37:31
>>771
梁書にいう慧深は畿内朝廷のほうには行ったわけだが、鹿島のほうに
までは行ってないということだろう。
773日本@名無史さん:2008/01/19(土) 00:31:46
太国寝るな!朝迄書け!応援しているぞ!
書け!書くんだ!太国。
774日本@名無史さん:2008/01/19(土) 00:34:06
がんがれ!がんがれ!
775あらためひみこ:2008/01/19(土) 00:38:04
>書け!書くんだ!太国。

って太国さん書きまくってるのに〜w
次にレス多いのがサガミさん、んでわたし、プさん
離れて、横さんローガンさん、みのさんてとこか。
776日本@名無史さん:2008/01/19(土) 00:40:24
天皇は姫太伯の子孫
日本人は中国人
777横槍:2008/01/19(土) 00:41:18
>>769
世界史的にみても60年を超える在位の王、皇は、
康熙帝、乾隆帝、ビクトリア女王、昭和ぐらいしか知らんがな。

在位65年以上の王なんているのかな?いたら教えて下さい。
778日本@名無史さん:2008/01/19(土) 00:47:53
>>777
ラムセス2世が66年
779日本@名無史さん:2008/01/19(土) 00:52:05
>>762
>伝仁徳陵の造営期間は、
>西暦367年丁卯から 西暦398年戊戌 までの 31年間と考えています。

仁徳陵がもし生前に築造を開始していた寿陵であったとしても
この年代はいささか古過ぎじゃないのかね。
それと考古学の方では、堺の大仙古墳は5世紀後半みたいなことを言っておるがの。
つまり指定間違いの可能性もあり、ちゅうことらしいが
780日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:10:02
5世紀後半となると、倭王武(雄略=ワカタケル大王)の可能性もあると言う事ですか?古代史に置いて一番権力を使ったのは、確かに倭王武らしいから!
781日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:12:32
考古学的には
伝仁徳陵より伝履中陵のほうが古かったりするんだっけか?
782日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:36:03
>>777
タイのプミポン国王(ラーマ9世)も、おととしが即位60周年で、大祝賀行事があったぞ。
今年は62年目だわな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E9%E4%B8%96
昨年病気されたが、今は回復してお元気とのことだ。

ということで、このさいプミポン陛下には、在位世界記録への挑戦をお願いしようかと・・・
783日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:51:10
>>779-781
ここを読んでみな、

大仙古墳 ・・・ひょっとして宮内庁の治定が間違っているかもしれない大王陵
http://www.bell.jp/pancho/travel/furuiti-mozu%20kofungun/daisen-kofun.htm
784日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:58:55
>>783
つまり記紀の陵墓記事はあてにならない
→記紀の王統譜はあてにならない、と?
785日本@名無史さん:2008/01/19(土) 02:01:02
倭王武(雄略=ワカタケル大王)があまりに権力を使いすぎたので、周りの豪族達から一族を抹殺されたって事も考えられますね!静寧天皇(雄略の息子)の白髪もわかる気がする。任期5年だし!そこで、倭の王は絶えるでしょう!
786日本@名無史さん:2008/01/19(土) 02:03:27
広義のオオヤマト古墳群にしても
隔絶した規模をもつ墳墓を大王の墓とすれば
記紀の記述とは数があわなくなるぽい
787横槍:2008/01/19(土) 03:53:29
>>783
へえ〜大仙古墳は、5世紀後半の築造ですか〜驚き
私は、仁徳天皇は477年没と考えていたので、
案外この説があっているかも知れない
788日本@名無史さん:2008/01/19(土) 05:03:28
大体は 生きてるうちに墓は造り始めるよね。
789太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 07:24:51
倍暦計上で

 仁徳崩御 419年

陵はけっこう修復してるんだろうから、新しい素材が陵から出てもおかしく
ないだろう。
790日本@名無史さん:2008/01/19(土) 07:39:35

北部九州説が否定される要因

◇女王国より以北に一大卒が置かれたこと
◇伊都国に留まったであろう軍使によるリアルな報告がなされていない
◇「旁國遠絶不可得詳」と書かれるほど傍らの地も遠いと明記
◇水行で十日、陸行で一月を要すること
◇7万戸を要する都市が北部には見当たらない

とりわけ、一大率のくだりが気になります。都が遠地にあったからこそ、
大陸との窓口である地に軍使が留まり、一大率が置かれたものと考えます。

やはり、中・南部九州説が妥当ではないでしょうか??
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 07:40:35
いまイザ・ニュースっていうのを見てたら、アンコール・ワットも修復工事で
危機が消えた記事があった。こんなことだろう?
792太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 07:46:35
>>790
北九州説は成立しにくい。だいたいそこは半島から畿内に朝貢が行く経路だから、
女王国の情報が畿内にも入るし、女王国にも畿内の情報が入るから女王国も朝廷
へ朝貢するだろう。しかし女王国の朝貢なんて記紀に記載はないから、そこん処
には女王国はない。どうしても北九州となれば、その経路からかなり離れた場所
でなければない。絶対否定はしないが、かなり成立は難しい。
793日本@名無史さん:2008/01/19(土) 07:58:18

【政治】小沢民主党代表「個人的にも昔から賛成で、早くやるべき」 韓国の李特使と在日韓国人の地方参政権問題などの協力確認★2
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1200673559/l50
794日本@名無史さん:2008/01/19(土) 08:33:07
弥生時代後期は、人口で見ても北部九州より南部九州のほうが多かったらしい。
795日本@名無史さん:2008/01/19(土) 08:40:19
>>794
ついでに書いておくと、西暦200年頃の北部九州の人口は4万人。南部は6.5万人
と計算されている。ちなみに、畿内は3万人。
ただし、これは遺跡の数から推定されているが、その遺跡は関東地方の遺跡の
規模を元にしているそうである。近年、吉野ヶ里遺跡など九州では大規模な
遺跡が出ているので、九州の場合は、もっと多かったということも言われる。
796日本@名無史さん:2008/01/19(土) 09:27:12
後漢王朝滅亡期の2世紀中頃に大陸より多数の避難民が倭国に移住してきた。
その中の一人に物部の祖饒速日尊が居た。彼らは大乱に明け暮れる北部九州
に嫌気をさして、東へと進み、安住の地であった河内・大和にたどり着く。

そこで地の神であった長髄彦の妹を娶り、畿内に物部政権(三輪王朝)を
確立させる。その頃、また一方で倭国大乱で敗北した北部九州にあった
ヤマト軍(邪馬台国)は南に逃亡し日向国(高千穂久士布流多気)に
第二次邪馬台国を樹立する。そこで、国力を附けて再度北上し、宇佐(中津)
に至り第三次邪馬台国を樹立する。国力を増強させ、多数の兄弟と兵士を
従え、筑紫国岡水門・吉備を経て、数年の歳月を費やし、神宮皇后と
武内宿禰夫妻は畿内に至るが、そこに先住者であった饒速日尊の子(子孫)
である宇摩志麻遅命(事代主)が待ち受ける。そこで、国譲りの談判に成功
し、物部一族は出雲や諏訪地方に落ちていく。強引な談判により敗北し深く
恨む物部氏を厚く祀り始めヤマト朝廷の平穏を願った。
797プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/19(土) 09:33:54
>>790

>女王國以北

形や広さに定義の無い地域を基準と出来ないから『自女王國以北』としたのですから、『女王國以北』と言う認識は間違いですよ


>傍らでも遠い

傍らは傍ら、遠いとする表現を傍らとを比較することは出来ません。
遠近を表す場合、基準がなければ単なる個人的な感覚。
個別によって異なる感覚を、公文に使用することはありません。


>水行十日陸行一月


目的に対する方向性がなければ、これだけでは移動出来ません。
798古代:2008/01/19(土) 10:20:28
796
事代主が饒速日尊の子ということは饒速日尊=大物主ということでしょうかね。
大物主は海を照らしながら現れたのでもともとは太陽神であったとも言われるし、饒速日尊もアマテル神の一人だったと言われるのでそう考えられないこともないかな。
事代主から国譲りだから葛城王朝という架空の(?)王朝を作って三輪王朝に繋げたという考えなのかな?
そうすると記紀に書かれた国譲りの主・大国主はなんなのかということになりませんか?
799これがプかw:2008/01/19(土) 11:38:24
>>797

> >女王國以北

>>790の文中には、そのような表現は無いが?
和文で「女王国より以北に」とは書いてるけど、

> 形や広さに定義の無い地域を基準と出来ないから『自女王國以北』としたのですから、
> 『女王國以北』と言う認識は間違いですよ

全体的に意味不明な文章だが、とにかく相手が書いてないようなことに難クセ着けてる
ように見えますが。

> >傍らでも遠い
> 傍らは傍ら、遠いとする表現を傍らとを比較することは出来ません。

誰も「傍ら」と「遠い」を「比較」なんてしてないだろう。「遠い」は「傍らの地」を説明しているだけ。
【比較】(ひかく・ひこう)(1)くらべること。二つあるいは三つ以上のものをくらべあわせて、
そこに認められる異同について考えること。  By goo

> 遠近を表す場合、基準がなければ単なる個人的な感覚。
> 個別によって異なる感覚を、公文に使用することはありません。

またも意味不明。単に「遠い」だけと言う抽象表現が何故「公文」に使えないのか?
詔勅の中にも「汝所在踰遠」「汝來使難升米牛利渉遠」とか書いてありますが、
これらは「遠い」と言う意味ではないのか!
厳密に言えば三国史自体は、陳壽の私著であって「公文」ではないだろう。

> >水行十日陸行一月
> 目的に対する方向性がなければ、これだけでは移動出来ません。

>>790は「移動」のことなど書いていない。空間的距離表現のようだが?
800日本@名無史さん:2008/01/19(土) 11:57:20
詳細な分析乙
801日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:03:44

>>798
大物主大神は、「出雲国造神賀詞」では大物主櫛甕玉と言われ、
大穴持(大国主)の和魂であるとされている。

よって、大国主=大物主=饒速日尊と推理できないでしょうか。

出雲には物部の匂いがぷんぷんしている事実もあるので。。
まんざらじゃないかもです。
802古代:2008/01/19(土) 12:22:05
801
まあ大物主=大国主は一般にそう考えられていますが、大物主が大国主の幸御魂、和御魂であるというのは後付けの説明な気がするんですよね。
仮に大陸から物部氏がやってきたのだとして、当時人があまり住んでいなかった大和に居を構えたのはわかるとして当時は吉備に大きな国があったはずなんですよね。
それを避けるために大和を選んだと考えると、吉備の神=大国主なはずだから大国主=大物主=饒速日尊というのは苦しいような。やはり大国主と饒速日尊は別と考えた方が自然です。
ただ、影響を及ぼしあってて、同一視されたということはあるかもしれないですが。
ちなみに物部文書によると、物部氏は最初東北にいて、それから大和を支配した、ということになっています。
東北にには神宮皇后を祀る神社もあって、興味深いですね。
803プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/19(土) 12:29:45
>>799

天地が逆転するほどのモノでもなさそうだから
804日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:51:10
                                                  
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知ら城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
 小国の『韓』だけが相手なら、漢朝は、問答無用で『韓』を武力制圧し、真番郡や臨屯郡に併合していたはずだ。
だが、実際には併合しなかった。これは、『韓』の背後に『倭』がおり、漢朝が『倭』との友好関係を
重視したためである。
 つまり、漢朝が『韓』の独立を尊重するかわりに、宗主国『倭』に対して「親漢外交」「朝貢」を
求めたのだ。そして、『倭』も漢朝の要求を受け入れたわけである。これが『韓(カラ=シラキ)』が独立を保てた
真相なのである。
805日本@名無史さん:2008/01/19(土) 13:01:32
                                  
■欠史八代の真相

日本書紀には、第2代から第9代までの天皇の功績とその時代の日本史が記されていないが、
これはなぜなのか?

実は、この欠史八代の時代は、ヤマト朝廷が漢朝へ「朝貢」していた時代なのである。
当時の記録が無かったわけではない。記録はあった。焚書されたのである。
日本にとっては、漢朝に朝貢していた時代は「屈辱の時代」であり、ヤマト朝廷の政治的権威が
大きく揺らいだ時代だったのである。
だから、第2代から第9代天皇までの時代の記録は焚書された。
おそらく、第10代=崇神天皇の命令で、焚書が行われたのであろう。
天孫たる天皇家が、人間である漢朝の王(皇帝)に対して朝貢していたなどという歴史は、
後世の人間、および地方の領主には知られてはマズイ歴史だからだ。

806日本@名無史さん:2008/01/19(土) 13:14:28

>>802

物部文書も阿比留草文字で書かれた神代文字であって、四七音ないし五〇音
しか書き分けされていない。

奈良時代以前までの日本語の音節は八七種類の音(甲乙二種類の音、母音が八つ)
があり、神代文字は明らかに新しい文字として偽書説が後をたたない。

だからといって、内容も全てが偽物ということも言えないが、物部の
主流ではなく、一派・分派が東北の地に天降ったというのが正解だった
のではないでしょうか。
807唐松山:2008/01/19(土) 13:19:24
805へ
 天孫たる天皇家が、人間である漢朝...
天皇家はエイリアンの末裔である。 と主張したいのか?
 崇神天皇の命令で、焚書
考霊時代の 宝物殿を出火で焼失 のことか?
 欠史八代の真相 に 西暦を付けたら 考慮する。
808日本@名無史さん:2008/01/19(土) 13:43:18

日本書紀=崇神天皇紀に、崇神天皇が出雲王(振根)を殺したという記録がある。
あの時代、出雲は朝廷に反逆し、ヤマトから独立していたらしい。
おそらく、ヤマト朝廷が漢朝に朝貢したことで、天皇家の権威が失墜していたからだろう。
つまり、「天皇は天孫である」という説が説得力を失っていた時代なのだ。
崇神天皇の時代は魏の時代だが、崇神天皇は分裂していたヤマト連合国家を再統一し
天皇家の権威を復活させたから、後世の朝廷は崇神天皇を高く評価したのだろう。



809日本@名無史さん:2008/01/19(土) 14:28:18
>>808

兄が反乱し殺される
兄が弟に成敗される
兄が弟に服従する

これらのパターンは

神武天皇(弟)×五瀬命(兄)
弟猾(弟)×兄猾(兄)
小碓命(弟)×大碓命(兄)
飯入根(弟)×出雲振根(兄)
山幸彦(弟)×海幸彦(兄)

やはり、これらは1つの事実の焼き直しなのだろうか・・
810日本@名無史さん:2008/01/19(土) 14:30:28
勿吉→物部
811横槍:2008/01/19(土) 14:44:46
>>752
>伝仁徳陵の造営期間は、延べ680万人の人が、一日当たりピーク時2,000人が働いたと仮定し、
>その工事期間は15年8ヶ月以上かかった計算となるらしい。(大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』1985年より)。

本当かね?じゃ遥かに建造が困難だと思われるクフ王のピラミットは何年掛かるんだろう。
土建屋得意の水増し請求の気がする
 体積 仁徳天皇陵    140万?
    クフ王ピラミット 260万?
812横槍:2008/01/19(土) 15:07:22
>>811
140万?=140万立方メートル
260万?=160万立方メートル
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 15:26:40
>>805
「日野郡誌」の孝靈天皇の記事に漢へ朝貢というのはないと想うが? どうなん
だろう? 暦法の相違が大陸半島と日本とに大きな狂いがあり、載せると合わな
くなるから、記述を見送ったということだと想う。特に八代間は超長寿天皇が
ズラリなので向こうと年数月日が全然合わないので編者らは苦悩して紀への記述
を保留したと想う。
814日本@名無史さん:2008/01/19(土) 15:54:52
クフ王ピラミットも仁徳天皇陵も 農閑期のみ 作業を進めるとするならば
造営期間は更に伸びる。
土盛りの最中に雨降りなら休み、この辺も考慮されているのかな?
815日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:02:47
仁徳の世の人民はメシも炊けないほど貧しかったんだろう。
きっと農繁期でもこき使い回したからじゃね
816日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:09:41
>>752
最大時2000人で15年なら最大時5万人なら半年。
817あらためひみこ:2008/01/19(土) 16:31:02
邪馬台国問題へ初めてふれる方へ

学校の歴史教科書での「日本の歴史」で人物が生々しく登場するのは
聖徳太子が活躍した七世紀まで待たないとでてこない。
それ以前の人物は中国側の資料にのってある「卑弥呼」や「倭の五王」
が少し書かれてるにすぎない。
かといって日本側の資料に六世紀以前の日本人が書かれてないわけではない。
あの有名な「古事記」「日本書紀」がそれに当たる。
どうして六世紀以前の日本側の資料を信じ歴史教科書に書かないのは、
戦前の皇国史観への反発だろうか。
この日本書紀には魏志倭人伝(中国史)が引用されてる箇所があり、
そして日本書紀の編纂者は邪馬台国時代は神功皇后が活躍した時代とする。
だが、わたしも含め多くの論争者は邪馬台国時代は神功皇后以前のものとしている。
この謎に満ちた邪馬台国、そして女王卑弥呼をどうとらえるのか、
あなた達の意見を聞こう。
818あらためひみこ:2008/01/19(土) 16:33:15
これ>>1にもって来るべきですよね。失敗したかな。笑
819日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:47:09
>>809
古事記や日本書紀などに見られる「けしからん兄」「良い弟」という記述は、
一種の記号なんだろうな。

兄・弟というのは、甲・乙みたいなものなんだろう。
朝廷に従う者は弟、逆らう者は兄、というふうに分類してるんだろう。
政治勢力を分類し、表すための記号なんだろう。





820日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:49:54
>>814
>>815

しかも、鉄の金具がない鍬や鋤で土木工事を行ったはず。
青年男子を農繁期以外で労役させたはずなので、完成までは途方もない
期間が要したはず。

5万人も借り出すことはできなかっただろうね。
箸墓古墳は何度も見ているが、ポキポキ折れる鍬・鋤であんな古墳を
つくったかと思うと頭が下がります。
821あらためひみこ:2008/01/19(土) 17:05:00
>752
>この私の疑問にどなた様でも結構です。わかりやすく解説していただければ幸いです。

貴方が2,000人の工事責任者だとしたら毎日一生懸命指示して何日で出来上がると思うのでしょうか?
貴方の言う半世紀かかるようなら無能な責任者だったのでしょうね。
822日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:09:29
鉄無しで 箸墓は、作れるか?
ポキポキ折れる事は無くとも 盛り土の 土の採取に木の鍬、鋤
石は、奈良盆地の中央にある湖の反対側。
823あらためひみこ:2008/01/19(土) 17:29:12
みなさん>>13のプさんのレスみて!
>『古代天皇家の力関係』
>大王
>↓↓
>大王の娘
>↓↓
>娘の旦那である天皇

「控え」が何かいうちょるよ(笑)
プさん〜それってあなたの師匠が言ってたことやん
824愛知県民:2008/01/19(土) 17:32:11
箸墓で盛り上がってるみたいですが・・・
纏向遺跡の搬入土器の割合を見ると、東海系が圧倒的に多く、次いで北陸・山陰系、河内系、吉備系である。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
畿内である河内を除くと、四道将軍の派遣地域と一致しています。
九州の土器は少ないようで、これも記紀の記述と一致している。
やはり邪馬台国は九州だと思う。九州の何処かは難しいが。
825日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:39:43
徴税システムの存在は邪馬台国の時代に既に存在していて、労役税として
人民を駆り出せば数万単位の労働力を投入することができる。
数万を前提とすれば、仁徳稜でも1年ほどで完成する。

古代天皇は平均10〜12年の在位であり、短命の天皇も存在したので、5年以上
かけていては、埋葬が間に合わなくなるリスクが大きくなる。

長い期間をかければ途中で雨季に環濠が水で埋まり、水出しの労力が余分に
生じる。葺き石をする前の盛り土の崩壊が生じやすい。短期間で完成させれば
これらの問題を回避でき、無駄な労力を費やさずに済む。

よって、仁徳稜で1〜2年、箸墓でも半年から1年ほどと考えるのが合理的。
箸墓は大坂山から手渡しで石を運んだという伝承があるが、事実とすれば数万人の
労力が投入されている。実際にも大坂山の石が用いられている。
826あらためひみこ:2008/01/19(土) 17:45:13
>817でいったように
日本側の資料(古書)ではこのようにしている。

『邪馬台国時代は神功皇后が活躍した時代』

この事実についてみなさんの見解をお願いします!
827唐松山:2008/01/19(土) 18:02:30
正始元年庚申=神功40年庚申 年の干支は合ってる
その他も 年の干支は合ってる? (百済記の干支を知りたい)

書紀編纂者は この時代 倍暦を否定。
828あらためひみこ:2008/01/19(土) 18:03:25
>>758みたいに文句いうだけやなくサガミさんみたいに堂々と自分の考えを
述べてみては如何でしょうか。

まあ、サガミさんは男らしいのですが、ただ突っ込みどころが多いだけです。
829愛知県民:2008/01/19(土) 18:05:17
>>825
箸墓の大坂山の記事も正しかったようですね。
日本書紀の記事は意外なほど正しいようで、崇神天皇時代の畿内は邪馬台国ではないと思われる。
ツヌガアラシトと穴門の伊都都比古の記事で分かるように、崇神天皇の支配は九州に及んでいません。
私は邪馬台国はもっと古く、闕史時代か神代と見ていますが、ここまで遡ると「歴史」といえるか?
卑弥呼は歴史上の人物ですが、彼女が誰かと問うことは、「歴史」の枠外に出てしまうのではないか?
ちょっと疑問。
830日本@名無史さん:2008/01/19(土) 18:10:51
違うな
831あらためひみこ:2008/01/19(土) 18:17:40
<817に対して追加する>
戦前の皇国史観への反発だろうか。

ではなくそれが本当の歴史との見解もある。
古田先生みたいに九州王朝が天智天皇以前にあったなどあげられる。
832あらためひみこ:2008/01/19(土) 18:22:16
>>829
>日本書紀の記事は意外なほど正しいようで

>817>826に書いてあるじんぐう皇后の記事も書記は正しいでスか?
833日本@名無史さん:2008/01/19(土) 18:29:38
ウザイなコイツ
834愛知県民:2008/01/19(土) 18:31:14
>>832
「意外なほど」と言っています。すべて正しいとは言ってません。
魏志も挿入年代は正しいけれど、神功皇后を卑弥呼の年代としたのが誤りと思います。
年代は大事ですね。年代が分からなくなると神話になってしまう。
そんな気がします。
835日本@名無史さん:2008/01/19(土) 18:40:28
>>826
神功皇后というかオキナガさん家のタラシ姫という女性は
書紀では誇張されているが実在したと思う。

ただ書紀編纂にあたって編纂者は
大陸の記録にあるような女王にあたる人物が、自分たちの歴史に存在しないと判断し
神功皇后の部分にそれをにおわせる記事を挿入して時間軸を調整してお茶を濁したのだと思う。
倍暦かどうかはともかくとして書紀編纂者は執筆に当たって
・大陸と張り合うため創始者の歴史をいかに長くするか
・大陸の記録にある卑弥呼をどう扱い自分たちの認識する歴史に組み込むか
の問題を、時間軸を味付けしオキナガさん家のタラシ姫を誇張することでうまく解決した、と。

露骨な神功皇后の記事をもって、卑弥呼=神功皇后 という発想になってしまうのは
書紀編纂者の思うツボ
836唐松山:2008/01/19(土) 18:46:27
神功皇后元年 日食を西暦273年に当てる その他の日食では上手く当て嵌まらない
理由 月のずれが大きくなる、食率が小さい、日食が続き 記事内容とずれる。
又 小さい日食(食率40%以下)では1日が2日の如く ならない。

書紀の記事、神功皇后元年日食は 正しい
西暦251年(呉太元1年)頃 王須が 百濟郡を置く。 
西暦272年 神功渡海 百済は国としてまだ 固まっていない こんな時代だから成功した
渡海は こんな時代だからこそ 仲哀を殺してでも 行く必要が有った。
837日本@名無史さん:2008/01/19(土) 18:51:48
>>836
273年5月4日。初夏の午後に、福岡で0.888、奈良では0.946。
おそらく晴れていれば空が薄暗くなっただろう。
ttp://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/jp3000/TO273_%205_%204.html
838日本@名無史さん:2008/01/19(土) 18:51:55
>西暦251年(呉太元1年)頃 王須が 百濟郡を置く。 

え?
839唐松山:2008/01/19(土) 18:53:38
百済国の自出は
梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷 東夷 百濟  に拠ると

馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戸,百濟即其一也。後漸強大,兼諸小國。
晉平二郡地矣,自置百濟郡。晉太元中,王須
西暦251年(呉太元1年)頃 王須が 百濟郡を置く。
と書かれています。
魏の滅亡(西暦265年)を以って独立?
840日本@名無史さん:2008/01/19(土) 18:58:04
>>821
752の者は大林組のプロジェクト内容を引用し、鉄器普及時の伝仁徳陵の作成
予想期間15年8月に対し、鉄器普及前の箸墓古墳では、木製鍬・鋤でどの
くらい造営期間を要しているのか教示を請うている。
工事責任者の能力を問うているのではないだろう。
他の者は、3年なら3年、5年なら5年とその理由を付して説明して
あげているぞ。

841日本@名無史さん:2008/01/19(土) 19:07:08
このスレの住人さんは、女王国=邪馬台国 or 女王国≠邪馬台国
どちらが多勢なのでしょうか??

素直に解釈すれば前者になりますが。
842日本@名無史さん:2008/01/19(土) 19:19:51
唐松は駄目だな。コイツが駄目な基準で言えば、一番ましそうなのでプラムだな
843唐松山:2008/01/19(土) 19:39:40
神功 渡海
渡海以前に倭に 大量の鉄器、鉄製武器は 期待できません。
そうすると 船も 丸木舟に板を1枚宛がって 少し大きくした程度の物。
大量の兵士を送り込んで、力で征服は、考えられない。
半島は 鉄の産地、 武力=鉄なら 半島に敵わない。
任那を懐柔、百済と通好 後は、新羅本記の歴史に合わせる。

842さん 貴方の 編年をお聞かせください。
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 19:48:39
日蝕が正しいなんて云ってるからじゃないの??
845日本@名無史さん:2008/01/19(土) 19:52:09
>>817あらためさん
歴史学者の間で大きく意見が相違している事項については
そのどちらかだけとって、「これが正しい歴史だ」と子ども達に教えるわけにはいかない。
教えるとするなら、面倒でも、両論併記するしかないだろう。
それら両論を学ぶための子ども達の負担も、われわれ大人は配慮してやる必要がある。

それに歴史は日々の積み重ねで、年々その記述すべき対象が増えていく。

戦前の子は第二次世界大戦を学ばなくてもよかった。(まだ始まっていないから)
今の高校教科書だとベトナム戦争はおろか冷戦終結や湾岸戦争まで示されている。
旧石器、縄文、弥生(登呂遺跡・吉野ヶ里遺跡)などの事項を教えるようになったのも
戦後になって考古学が進展していったからである。

科学の分野もそうで、昔の子が学ばなかった分子生物学とかコンピューターとかも、
今の子ども達たちは頑張って勉強している。

今の子ども達は、我々に比べ、学ばなければならないことが多過ぎるのである。
歴史を細かく教えていったら、授業時間がいくらあっても足りないだろう。

しかし歴史は面白い。私は日本古代史が大好きである。
だから子ども達にもぜひ古代史には興味を持って取り組んでほしいと私も思うのだが、
だからといって、なんでもかんでも詰め込んでしまうとかえって消化不良となり、
逆に歴史嫌いの子を増やしてしまうことになりはしないだろうか。

要は、子ども達に歴史への興味を持たせ、大人になってもそれ持続させるような、
効果的な日本史の教え方であり、使う教材もそうした観点から峻別すべきだろうと思う。
846唐松山:2008/01/19(土) 19:55:51
日食を間違い とするより 書紀に忠実。

少しでも 忠実に見ようとするのが 私のモットー
古事記もほつま伝も 範疇です。
書紀で読んだ 編年は、古事記、ほつま伝でも 通用する。
847太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 20:05:07
日食だったらあんなぼかした神功元年の書き方にはしないだろう。
日が欠けりとかいうふうに具体的書くと思う。それにあんなに長時間
日食が続くとは考えにくい。あの記述だとそのように思える。
だから当時、特殊な気象条件が重なったとか火山の噴火の影響だとか
そういうところだろうが?
848日本@名無史さん:2008/01/19(土) 20:25:21
>>752
最後の古墳築造の開始は、基本的には生存時からの開始だろう。
仁徳伝では生存時に陵の築造に着手した記事がある。
生前に作るものを「寿陵」という。生前に自分で立派なものを作っておけば、
後継者が陵を作ってくれるかを心配することもなくなる。
逆に、死後に何年もかけて先代の陵を作るというのは想像しにくい。
849日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:05:09
日蝕ってカイキ?
850日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:20:15
>>849
そう簡単に皆既日食帯に入ることなんてないから。

実際に食分が0.7以上になってくると薄暗くなるから日食と気づくけれど、
食分がそれ以下だと興味がなければ日食が起こっていることさえ気づかないんじゃない??
851日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:23:40
宮崎の女狭穂塚古墳は、墳長176m。後円部の高さ15m。
いわゆる箸墓よりも小ぶりだが、これについても築造期間が推定されている。
それによると、一日1000人を動員した場合、農閑期を中心とした年間200日で
計算すると2年半程度を要したとされる。

また、秦の始皇帝陵は、東西485m 南北515m 高さ115m。
いわゆる仁徳天皇陵よりも大きいだろう。
これは、始皇帝が即位した13才のときから作り始められ、死亡する50才まで
作り続けられた。40年近い年月がかかっていることになる。
852日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:31:43
個人的な考えだが、いくら権力のある王でも、死んでしまえばただの物。
そんな人のために大きな古墳などを造るのは無駄ではないかと思っていた。

しかし、始皇帝の葬儀は大々的に行われたらしい。これは、葬儀の責任者が
その王の跡継ぎであり、その権力を引き継ぐという意味があるらしい。

こういう考えに立てば、権力の大きな大王ほど大きな古墳が作られたという
のも納得できるような気がする。死後に造られた古墳であっても、大きな
古墳が作られる可能性もあるのだなと。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 22:44:19
紀の神武以降を読んでいくと蟻の大群のように朔の記述がある。これ
は月の運行観測から原書に記録されたものと思うかも知れぬが、どう
やらそうではない。もし天体観測からの記録ならば、毎度のこと月を
四六時中に観測してたということになるが、そうならもっと目立つ
月蝕の記録を佛伝以前はまるっきりしていない。仏伝以降では大陸
から天文関係の技術等が入ってきたんだろうから、紀の皇極二年に
月食の記事があるのはうなずける。蟻の大群の書き方の紀であるから
観測ならば女王蟻に相当する特殊な朔と云える月食の記事が仏伝以前
に数個はあってもおかしくないのだが、それが全く無い。ということは、これは観測ではなく、紀の編者らの月満ち欠けの29.530589・・
・日の精密データが分かっていたことからの後代から神武の代への逆算による正確な後付けの記録だということである。

それだから、同様に神功元年の一見日食を思わせる記述は原書関係
からの四六時中の観測のものではなく、月食が書かれてないんだから、
これも日食ではないと考えたほうがいい。

そして神功の時代に卑弥呼が生存していたのではなく、大陸半島と
日本の暦法の相違のための断層を編者らは倍暦のためだと感知せず、
修正をうまくこなせず、神功紀に伝の挿入をしたものである。
854日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:47:49
自分の力を誇示する為に
墓を立派に大きくするのは今も同じ。

>>852
そう死んでしまえば「モノ」になる。
もののけの祟りを恐れ、神社を建てる。
855太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/19(土) 22:52:43
平面積では仁徳陵が世界最大。
856日本@名無史さん:2008/01/19(土) 22:55:32
古墳といえば権力誇示の為に作るのでは?
権力を引き継ぐという考えは面白い。
最初は古墳によって権力の引継ぎが行われていたが、後に大嘗祭によって権力の引継ぎが行われる様になったのかもしれない。

死は穢れだけれども、二年くらいすると氏神となり、一族を守ってくれる。
そのため二年くらいは埋葬しない(万が一生き返るというような可能性も含んでいたのかも)
どうも魂と肉体の定着が上手くいかないと病気になり、死とは魂と肉体の分離という考えだった気がする。
重要なのは魂のほうで神社は御魂鎮めの意味が大きい。
要は墓は肉体のため、神社は魂の為に建てる。
857日本@名無史さん:2008/01/19(土) 23:09:11
秦の始皇帝陵東西350m、南北345m、高さ76m。仁徳天皇陵より小さい。
858唐松山:2008/01/19(土) 23:58:07
太国さんは 以前 書紀編纂者が 歴史を引き伸ばす為に 倍暦を行ったと 主張していた、
其の編纂者は 干支の会う所へ海外書物を抽入。 感知できない筈が無い。

百済記と書紀の記事内容が合わないのは 百済記がその後 分散、再編集された為? ではないか
新羅記は その後 半島を統一したので 狂いは無い。
859日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:26:26
>>856
>墓は肉体のため、神社は魂の為

いわゆる中国の「魂と魄は異なる」という考え方と関係する話なのでしょうか
860日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:29:01
>853
イイぞ、太国。応援しているぞ
861ローガン:2008/01/20(日) 00:40:30
ここの論客の方々へ
日本書紀によれば、四道将軍がミマキさんから印をもらってますが、天皇や大王が「印」を授ける例って他にありましたか?
ご存知の方々ぜひ、ご一報を…
862日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:45:55
859
そうですね。道教の魂魄をどの程度まで理解していたのかは定かではないですが、なにかしら影響があったのではないかと思います。
神道の四魂の考え方も似ていますし。
863古代:2008/01/20(日) 00:51:20
「続日本紀」七五八年恵美押勝(藤原仲麻呂)が天皇から「恵美家印」の使用を認められた、ではだめ?授ける場面?
864日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:57:36
相変わらず『卑弥呼=アマテラス説』は人気があるみたいだがw

まあ卑弥呼その人かは別にしてもモモソの神婚説話から想像できるように
太古神に仕える巫女を神格化したというのはあり得る話だわな。

んで時代が進んで大王(天皇)が神と直接交信するようになると
巫女と奉っていた神共々外に放出w
あっちこっちさ迷って最終的に伊勢に落ち着いたと…

そう考えれば明治になるまで天皇の伊勢行幸が無かったのも理解できる?www


865古代:2008/01/20(日) 01:01:37
継体天皇が磐井の乱の時に物部麁鹿火に将軍の印を授けた
866日本@名無史さん:2008/01/20(日) 01:10:02
寝たのか?
867愛知県民:2008/01/20(日) 01:24:39
>>865
宇治谷さんの訳では「印綬を授けて」となっていますが、岩波文庫の原文読み下しは「斧鉞(まさかり)を操りて」
これは誤訳? 写本の種類とかですか?
868日本@名無史さん:2008/01/20(日) 03:18:07
>>825
秦の始皇帝の陵は、囚人を使って作られたらしい。
考えてみれば、古代の人もみんなそれぞれに役割を持っていたと思う。
その役割を放棄して古墳を造るのはやはり無理がある。
たとえば、食料を作る人が食料作りを放棄すれば、みんなが飢え死にする。

だから、古墳作りは余力を使って行われたか、それともよその地域から
奴隷のような人を連れてきて行われたと思う。

巨大な古墳には、征服戦争のようなものが関係していたのかもしれない。
869日本@名無史さん:2008/01/20(日) 06:26:22
長兄家族が家をまもり、
下の兄弟が古墳工事に出てたんだろ。
大家族だらけだからな。

戦中の徴兵と同じようなもんだ
870太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/20(日) 08:01:48
>>858
そんなことは云っていません。
大陸半島と倍暦の日本との暦法の相違が古文献の年代に大なる断層が有る結果
となったもので、干支の倍数の120年修正が結構合うと観た編者らが、それを
主体としてあちらの古文献を紀に挿入し、こういう調整が年代拡張になって
しまったということですよ。

>>868
以前はそのように教えられて来たが、絶対ではないが、どうもそうでないかも
知れない。というのは映画のリズ・テーラー演じるクレオパトラでは奴隷を使役
してピラミッドを作ったようになってるが、間違いでそれは吉村先生のヒエロ
グリフ解読では、彼らは奴隷ではなく食事にも困ることもなく率先してみんな
協力して造成したんだということが文字に書かれているそうな・・? そんなこと
をTVで放映してた。だから、こき使ったとかいうのはまだ決めこめないだろう。
871古代:2008/01/20(日) 09:10:36
867
そういえば日本武尊の東征の時にも
則ち天皇、斧鉞(おのまさかり)を持りて、日本武尊に授けて曰く・・

天武期、壬申の乱でも、将軍任命の儀式には斧鉞が使われている
斧鉞を与えられるというのは大陸では全権委任の象徴のようだからここから来ているのか。
すると印綬は?意訳?
872愛知県民:2008/01/20(日) 09:31:46
>>871
崇神天皇の段では「印綬」なので問題ないですが、「斧鉞」を印綬とするのは誤訳というべきかと。

>>861
ローガンさんの意図がよく分からない。
四道将軍は史実ではないということでしょうか。
>>824 の纏向遺跡の搬入土器割合についてはどうお考えで?
873唐松山:2008/01/20(日) 10:13:27
古墳時代 3世紀始め位 とみて
各地に 大型古墳が作られる、
応神、仁徳稜 だけの問題なら 「各地から人足を集める」 でも 読めるが
各地の 古墳が作れない、
任那の古墳は、3世紀始め頃より、副葬品の鉄器は、始め 祭祀性の強いもの、 まもなく実用性の強い武器類になる。

半島への出兵目的は、人足狩り 土地を治める為ではない。
百済とは通好を結んでいるので、始め新羅、後高句麗が其の対象となる。
874愛知県民:2008/01/20(日) 11:30:23
卑弥呼は「親魏倭王」であって、「親魏倭邪馬臺国王」ではないですね。
「漢委奴国王」も「委奴」で一つの国名だと思います。
「委=倭」の中の一国を冊封するという例は無いのではありませんか?

「倭国の極南界」を古田氏は「倭国、南界を極む」と読み、裸国・黒歯国まで含むと見るようです。
ここに関しては、古田氏の読みが正しいように思う。

倭奴は匈奴と反対で「おとなしいやつら」の意。
倭人は山岳信仰から「弥烏邪馬国」「邪馬国」「邪馬臺国」といった国名をつけ、
自らを「山人」=ヤマトと呼んだのではないか?
875愛知県民:2008/01/20(日) 12:19:25
くどいようですが、「極南界」ですからね・・・
単に「奴国は倭国の一番南にある」なら「南界」でよいはず。
後漢書では裸国・黒歯国が最後に出てきて「使駅の伝うる所、此に於いて極まる」とある。
ここは誤読されているように思います。
876唐松山:2008/01/20(日) 12:59:52
又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長。与侏儒相類。

大和は侏儒国の近くであろう
この辺で 方向が 東=>南 に変化。
877ご参考まで:2008/01/20(日) 14:08:25
裸國・黒歯國は、東沃沮伝に陳寿が記しているところの
女ばかりの國・顔が二つ有る人の住む國と同類同列です。
かくなる陳寿の誇張荒唐無稽記事の裏側こそ、実は、誤読されいるのだと
私は思いますが、皆さんは如何ですか。
878太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/20(日) 14:16:52
女島と、面四つの二名島か? 一名で二面。
879愛知県民:2008/01/20(日) 14:31:30
裸国・黒歯国は荒唐無稽とは思いませんが?
南の暑い国のことでしょう。
もちろん、そこまで倭奴国の領土であるはずはないですが、
倭の使者が誇大宣伝したのだと思います。
博多の小国に金印を与える筈もなく、漢土の南を極めてくれたご褒美ということでしょう。
880日本@名無史さん:2008/01/20(日) 14:39:55

〔結論〕

「遺跡」が見つからない事には、話にならない。
881日本@名無史さん:2008/01/20(日) 14:41:57
縄文人には成人の通過儀式として抜歯の風習があり、
後期縄文時代に入ってから抜歯に変わるものとしてお
歯黒を入れるようになった。
882ご参考まで:2008/01/20(日) 14:50:27
愛知県民さん、倭の使者の誇大宣伝ではありませんよ。
陳寿が、あえて、誇大表現したのでありますよ。
理由の一つは、簡単ではないですか。
三国志には前漢書の西域伝は立ててないのですからね。
前漢書に立ててなかった東夷伝を自ら初めて書いたのですよ。
誰だって陳寿と同じ気持ちになって自然でしょ。
883愛知県民:2008/01/20(日) 15:03:04
陳寿は後漢書は書いてないと思いましたが?
史書の成立過程も複雑らしいので、勉強しときますわ。
884横槍:2008/01/20(日) 15:32:59
魏の曹叡には、卑弥呼は東の『西王母』のイメージだったのかも
885唐松山:2008/01/20(日) 16:49:58
黒歯国=こしき=甑島
886日本@名無史さん:2008/01/20(日) 22:36:05
卑弥呼も若いころはもてたけれど、ばばあになってからは人望落ちて、
浜崎あゆみみたいな女だったんじゃないのか?
887日本@名無史さん:2008/01/20(日) 22:37:42
それでも半世紀以上権力の座に付いていたわけでヒロヒトもびっくりw
888日本@名無史さん:2008/01/21(月) 06:20:17
共立された時既に婆さんなのに
889日本@名無史さん:2008/01/21(月) 06:59:04
女子と書いてあるから女の子だろう。
890日本@名無史さん:2008/01/21(月) 09:22:28
水行は河を遡る/下るも含まれるよね?
で、陸行は当然、川を渡る場合もあったんだよね?
例えば末盧国=唐津近辺,伊都国=糸島/前原だとして陸行だと
いくつも川を超えるわけなんだけど橋でもかけてたのかな?
それとも上流の渡りやすいところを渡ったのかな?

今は普通に橋があるところでも昔は川で陸の孤島状態なばしょって
結構あったんだろうね。
891日本@名無史さん:2008/01/21(月) 10:30:35
>880
どんな「遺跡」が見つかったとしても決定的証拠にはなりえない。
892ご参考まで:2008/01/21(月) 15:53:15
890さんのご見識を支持します。
そもそも、唐津から前原まで夏の暑い盛りに陸路を行くなんて考えられませんよ。
実際には、魏使は直接に海路を伊都國へ到達した、ものだと思います。
なぜなら、あえて唐津で船を降りて、草木繁茂して行くに前人が見えないような
陸路を、わざわざ汗をかきながら、歩行しなくてはならぬ必然性は無いですものね。
陳寿としては、末盧國と伊都國が陸続きだと言いたかったのだろうと、思います。
魏使は唐津で船を降りたら、草木繁茂して歩行困難だったから、慌てて船に戻ったたのだ
と解する方が自然だと思いますね。
やはり、いわゆる解釈は自然であることも肝要だと私は思っております。
893プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/21(月) 18:30:29
>>892さん

『思います』『思います』のみでは何も解決しません。
私達は書かれている事により、過去を知る事が出来るのであって
個人的な主観で知るわけではありません。
894プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/21(月) 18:45:36
末廬國にて歩行困難を知り、急遽船にての移動と考えるなら、先ずは
船にての移動となった史実を文献にて証明すべきです。
文献にて知り得た情報を、一個人的な主観で左右してはいけません。
文献は文献にて証明すべきがスジです。

主観でいいなら
ドラえもんの“どこでもドア”移動もアリですね
895日本@名無史さん:2008/01/21(月) 19:49:03
主観的でも客観的でも・・・しばらくは解決しそうにない事は、このスレがしめしています。
まぁ、この状況をまったりたのしみましょう。
896太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/21(月) 19:55:18
サガミハラハラさん
卑弥呼の在位が昭和天皇以上でよろしいんですか? 稀にはそういう
ことも言えますがねぇ? 合ってるんですかねぇ〜?
やはりもっと根拠、資料等を出してくれないと信じるには早計という
ほかはないね。

ところで、貴殿が主張していた中平鉄刀が国産だというのは、鉄の
成分分析の結果なんですか? 具体的に研究者も入れて説明をして
下さいよ。もしそうなら国産なんだから、欠史八代の間には日本で
漢字が使われていたということの動かぬ証拠となりますから、是非
詳細に解説されたい。
897日本@名無史さん:2008/01/21(月) 19:57:06
>>892
解釈は自然であることが肝要だが、
我田引水の論のために無理な解釈を自然だと言い張るのはやめた方がいい。
898唐松山:2008/01/21(月) 20:05:49
裸国・黒歯国や侏儒国は
今の琉球弧 に探すべき。

神武記 高尾張邑有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長。与侏儒相類
北史卷九十四 列傳第八十二 流求國=台湾
隋大業元年 西暦605年
時倭國使來朝見之,曰:「此夷邪夕國人所用。」

文字に書かれる事は少ないが 常に交流が有った と見るべき。
珠貝為聘, 縄文遺跡からも 南方の貝が出土していますから。
899横槍:2008/01/21(月) 20:18:02
237年には、既に死んでいた

というのも一つの考え方では?
誰も姿を見たものは居ませんから
900正月○鹿:2008/01/21(月) 21:47:41
>>894
> 末廬國にて歩行困難を知り、急遽船にての移動と考えるなら、先ずは
> 船にての移動となった史実を文献にて証明すべきです。

>>892の文章をどう縦読みしたらそういう解釈になりますかね?

> 文献にて知り得た情報を、一個人的な主観で左右してはいけません。
> 文献は文献にて証明すべきがスジです。

貴方の言ってることも「主観」で「証明」は為されていないと思います。

陸上を500里行くと伊都国と書いてある事実と
実際に誰かが500里歩いて伊都国に着いたと言う事実は
全く異なる次元の話だからです。

例えば遼西から楽浪へ海路でも行けますが、遼東経由の陸路でも行けます。
遼西から楽浪までの距離を表すのに水行でも陸行でも可能なわけです。

特定個人の経路を説明するのであれば、陸路を行ったか、海路を行ったかは
重要な問題ですが、不特定者の移動に要する距離を示す場合に、その路程に
大きな違いが無ければ片方が省略されても問題は無いのではないでしょうかね。

倭人伝の記載は単に末盧から伊都へ陸行500里と記述しているだけで、
特定の誰か(例えば張政)が陸行500里の移動をしたと書いているわけでは
ないのです。

901九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/21(月) 22:35:44
>>890
元々倭の場合「津」というのは河口に近い川の渡し場、という意味で使われていたから
渡し舟で渡ったというのが交通手段だったろう。
902プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/21(月) 22:36:49
>>900

何か勘違いしていませんか?

『東南陸行五百里到伊都國』
の文章は、これにて陸行五百里とする起点の位置を確定する文章で、決して伊都國を意識した文章では無いと言う事
そもそも
根本的な事が間違っているんです。
903九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/21(月) 22:42:15
>>892 魏使は唐津で船を降りたら、草木繁茂して歩行困難だったから、慌てて船に戻った

船に慌てて戻ったなど、若しもそうなら記される筈でしょう。
そちらの勝手な想像にすぎません。

904九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/21(月) 22:54:54
>>900 単に末盧から伊都へ陸行500里と記述しているだけで、
特定の誰か(例えば張政)が陸行500里の移動をしたと書いているわけでは
ないのです。

そんなの屁理屈でしょう。「報告には陸行500里と書いてるけど
実は私達は海路を行ったんですよ」なんて作文に書いたら
例えば小学校だってクラスの皆から「なんじゃそりゃ」と笑われると思いますが、いかが?
905日本@名無史さん:2008/01/21(月) 22:57:21
卑弥呼の時代のずっとずっと前から大陸と交流があったわけで、それなりの
交通路が出来ていたと思うけど。

郡使が、何の知識もなく日本にやってくるのはありえず、当然、案内人が
いたと考えられるので、試行錯誤的な行程はとらないと思うが。
906正月○鹿:2008/01/21(月) 23:06:43
>>882

>陳寿が、あえて、誇大表現したのでありますよ。

そう言う部分もあるかとは思いますが、倭人伝に書かれた倭の基本的情報は
三国史編纂時よりも遥か前に出来上がっていたと思いますよ。
東夷伝が司馬懿の功績の顕彰を目的としていることは誰もが認めるところです。
しかし、後世の顕彰の限らず、激しい権力闘争を勝ち抜くためには、現役時代にも
同様の功績誇大化は行われていたことでしょう。

例えば、卑弥呼の親魏倭王叙任ですが、シルクロードの要衝を押える大月氏の
波調と同格というのは、どう贔屓目に見ても過分の扱いです。
私見ですが、これは司馬懿の東夷宣撫の功績を「顕彰」するために、新たに獲得した
属国倭を誇大に評価した結果ではないかと。

親魏倭王叙任は、たった一回の朝貢で認められました。
この難升米一行の朝貢を取り次いだのは、帯方太守劉夏。
このときの倭に対する報告は、倭人からの聴取のほかに、魏支配下前の帯方・楽浪郡
に蓄積された漢代からの知見に加え、前述の「顕彰」目的の修飾も行われた。
萬二千餘里、七萬餘戸、以婢千人自侍等々の倭地に関する諸情報は、
このときの劉夏の報告に基づくものではないでしょうかね。

実際に倭地に行った張政の報告が陳壽に伝わらずに、
それよりも前の劉夏の報告の方が残ったというのは不自然かもしれませんが、
倭人伝には叙任時の詔書が引用されています。
これの参考資料として劉夏の報告が添付されていれば、その情報の方が伝わり易かった
とも考えられます。
907正月○鹿:2008/01/21(月) 23:14:13
>>904

> そんなの屁理屈でしょう。「報告には陸行500里と書いてるけど
> 実は私達は海路を行ったんですよ」なんて作文に書いたら
> 例えば小学校だってクラスの皆から「なんじゃそりゃ」と笑われると思いますが、いかが?

「報告」の原文じゃないでしょう。
倭人伝の該当する文章は報告の引用ではありません。
倭に対する史書としての説明文です。
ですので、特定個人の移動の記録ではありません。
そこのところを誤解されないように。
と、言うか判ってて言ってるんでしょうけど。
908日本@名無史さん:2008/01/21(月) 23:20:10
小学校でクラスのみんなを笑わせるとは、明るく楽しいクラスみたいで素晴らしいですね!
ですがさんのスレもユーモアにあふれている時も見受けられ楽しませてもらってますけど・・・
909九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/21(月) 23:36:29
>>905 に賛成で
郡使といっても国使のようなものだから鴻臚館のような迎賓施設があった可能性が高い
ので、幾つも倭に上陸地があったとは考え難い。
当時、倭の道といっても今のように縦横無尽に走ってるわけではなく
インカ道のように次のクニに行くにはほぼ一本道だったろう。
明治期に日本に来た欧米人が日本の道路を見て「道路と呼べるようなものではない。
道路に関しては多くの国の中で最も遅れている」と言わしめた様に
倭人が当時葦の生い茂る草むらを掻き分けて魏使を道案内したとしても何ら不思議はない。
910日本@名無史さん:2008/01/21(月) 23:44:25

水掛論だな、こりゃ

スレタイの卑弥呼は誰かに、話題を戻したほうがいいんじゃねえか
911九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/21(月) 23:46:35
>>907
例えばの話です。史書ならよけい海路ならその説明を書くべきではないでしょうか?
文中に陸路で説明してるのに実は海路を使っていたりの、ちぐはぐな文面を
史書として残すことは無いと思います。
912九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/21(月) 23:54:01
>>908
ほんとは楽しいやりとりが好きなんです。
今までの中ではリアル考古学さんとの面白レスが一番のお気に入りで
永久保存しています。
913正月○鹿:2008/01/22(火) 00:36:50
>>911

> 例えばの話です。

違うでしょう。

貴方の>>909のレス
>郡使といっても国使のようなものだから鴻臚館のような迎賓施設があった可能性が高い
>ので、幾つも倭に上陸地があったとは考え難い。

>>911
> 史書ならよけい海路ならその説明を書くべきではないでしょうか?
> 文中に陸路で説明してるのに実は海路を使っていたり

この貴方の考えは「倭人伝の路程は郡使の経路」と言う前提で成立しています
倭人伝の路程=郡使の経路を自明のこととして考えてらっしゃる訳ですから、
当然、「特定の移動」を示した文章かどうかと言う点については一切考察されない。

旅行記なら郡使行程を記載することが重要なのでしょうが、
三国史のような書物では一般的な地理関係が重要な説明事項なるんじゃないですか?
倭の地理を説明することと郡使の行程を説明することは別モノなのです。

末盧・伊都・奴以下が全て臨海地に所在し、半島からの渡海者はそこを水行することが、
主要ルートだと仮定した場合、隣接する国相互においては陸路が主要ルートであるなら
二国間の位置関係を陸路で示すことは「ちぐはぐ」でもなんでもありません。
914日本@名無史さん:2008/01/22(火) 00:41:39

…ったく諸葛亮が五丈原で過労死しなきゃw
915日本@名無史さん:2008/01/22(火) 00:46:06
結局のところ畿内説だろうが九州説だろうが
当分は纏向の発掘調査を注視するしかないわな。

文献による議論なんかどれもこれも禿げしく外出なんだろうからwww
916日本@名無史さん:2008/01/22(火) 01:13:44
>>915
纏向に限らず各所の発掘動向を注視するしかないね。

考古学的事実から日本の3世紀をどう評価するか?
その結果、文献に書かれていた事象を振り返って
「あぁこういうことだったのね」と目からウロコになることはあっても、
魏志倭人伝の文献史学から新事実なんて出てこないからw
917日本@名無史さん:2008/01/22(火) 01:57:00
倭人伝の邪馬台国までの行程の記述の解釈は、基本中の基本とはいえ、それぞれ
の比定地にとっては死活問題だから、おいそれとは譲れないことになるなあ。
たとえば、邪馬台国は南にあると断言されたら畿内説は即死だから。
918日本@名無史さん:2008/01/22(火) 02:16:05
>>917
「死活問題」「おいそれとは譲れない」「即死」とか、
学問なのにこういう言葉が出てくるっていうのは
やっぱりおかしいと思うよ。
それで食べてる学者先生ならそうかもしれないが
919日本@名無史さん:2008/01/22(火) 02:23:50
>>917
文献って事で言うと台湾の謝銘仁って中国文学の研究者だっけ?
「魏の使者は時に旅を休んでゆっくりして行った…」みたいな話w
もう何でもありやねw

>>918
多分なんかの私怨があるんじゃね?w
920日本@名無史さん:2008/01/22(火) 03:26:57
>>919
>多分なんかの私怨があるんじゃね?w

ひょっとしたら917は狗奴国王の末裔か?
だから千七百年以上経った今でも宿敵・卑弥呼に怨みを抱き続け・・・・ w
921日本@名無史さん:2008/01/22(火) 03:33:50
おいそれとは譲れないとか、なんなんだろう?
是々非々で譲るべきところはふつう譲れるもんだがなあ。
922日本@名無史さん:2008/01/22(火) 04:20:12
初心者は、譲るのも簡単だろう。知識の蓄積もないし。
でも、長年考え続けた人は、その人なりの理論を構築している。
けれども、方向が違うの一言でその全てが瓦解する。
全て一からやり直さなくてはならない。

しばらく、ここのスレを読んでいれば、誰一人譲る人がいないということ
くらいわかりそうなものだが。
923日本@名無史さん:2008/01/22(火) 04:30:24
>>921
邪馬台国論争が市井の歴史愛好家を巻き込んでブームだった時の雰囲気を引きずっているんじゃね?
安本vs古田とか相当だったんでしょ?

>>920
>千七百年以上経った今でも

そう言えば出雲大社と物部神社が近年まで仲が悪かったって話聞いた事がある。
何でも崇神の時の出雲の神宝ぶん取りに起因するとかしないとかw

…あり得ない話ではないかもwww
924九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/22(火) 06:42:46
>>913 この貴方の考えは「倭人伝の路程は郡使の経路」と言う前提で成立しています

全くこの考え方に異論を差し挟む余地は無いと考えます。
私が>>911で言ってる様に倭人伝に残された記述こそ何よりの証拠なのであって
記述を逸脱した想像はあくまで想像にすぎないのです。
それであればその他にも膨大な作り話が出来てしまう。
まさに一編の小説が出来てしまう。これは脚色であって事実を基にした
フィクションといえます。
925日本@名無史さん:2008/01/22(火) 07:19:33
>>917
>邪馬台国は南にあると断言されたら畿内説は即死だから。

しかし、倭人之条の冒頭
「倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國」を素直に解釈
すれば、北・中部九州説も同じく即死だろう。

この場合の南東は南の誤りで、しかし、「南至邪馬壹國」は南が
正解と指摘されそうです。
926siraki:2008/01/22(火) 07:21:52
927日本@名無史さん:2008/01/22(火) 07:32:52
>>925
残念ですが、帯方郡から北部九州は南東で正解です。
お気の毒ですが・・
928太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/22(火) 07:43:51
倭人伝の女王国は
@ 記紀には編者独自の記述が無い
  最も考えるべきは、女王国情報は畿内に流入してない。すなわち両者は遠隔。
A 北九州から畿内の間の記載が無い。
  最も考えるべきは、伝の著者が畿内への関心が薄い。女王国が畿内にあると
  いう意図とは思えない。
B 南邪馬壹国に至るの文面から、畿内にある場合は日本海がわの山陰道から
  朝廷の域を通って女王国に至ることになり、朝廷が卑弥呼に隷属してたこと
  になるが、記紀の様子から畿内を支配していた記紀の記述と背反しているから
  考えにくい。国の隠匿は困難で、ならば記紀に女王国の悪態を書けばいい。
929ご参考まで:2008/01/22(火) 09:33:31
プラムさんおはようございます。レス有難うございました。
思います・思いますで、恐縮です。
なれど、私は九州在住にて唐津や前原は観光その他で、現地を実際に何度も見ています。
その自らの体験に拠りまして、・・・思いますと書いた次第なのです。
壱岐対馬・末盧・伊都國までは、ほぼ皆さんの地理位置認識は同じ次第でありますから
現地に行っての感想も大事な要素であるとは、それこそ「思います」次第です。
930古代:2008/01/22(火) 12:30:52
伊都國まではたどることが出来る。しかし、その先からは雲行きが怪しい。
不弥国までは距離の単位の「里」によってきちんと記されているのに、投馬国、邪馬台国はあいまいな「日数」という表現に代わる。
さらに3世紀には出雲、吉備に比較的強大な国があったはずだが、「倭人伝」には出てこない。
そこで、使者は北九州あたりまでは行ったことがあるが、投馬国、邪馬台国は行ったことがないという説が出てくる。
なお、投馬国は出雲国との説もある。投馬は「ツマ」と読み、出雲の「イ」は読まれないことが多いので「ツモ」であるとする。
931日本@名無史さん:2008/01/22(火) 14:21:12
本末転倒なきもするが
伊都國までの比定地が間違ってないとすると
大まかな里数は逆算できるわけだけど
これだと二万戸を有する奴国が国境-国境の距離でも近すぎる気がする。
もっと言えばその先の不彌国なんて1000戸ちょっとなのになんで國を
わざわざ分けてるのか解らん。
932プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/22(火) 15:35:28
>>920さん

倭人伝解析に九州在住はかえって足枷になるんじゃないのかな〜?
読み人たる漢人の多くは、九州どころか実際の海さえも知らない人が殆どかと

根本的に倭人伝記載文は、郡からの行程表ではなく位置関係と規模を文章にて再現したに過ぎません。
『郡使往来常所駐』と言う文言を入れる事によって、伊都國迄の郡使往来は前文で記載した内容と重複し、移動した事を表しています。
つまり
郡使の公式経路は、その内容にそれて移動する事はなかった事が解ります。

一連の内容の基本は
行程表に非ず、『倭人在帯方東南大海中』を具体的に記載した詳細文
そこに郡使往来行程文を重複させたのは、倭人伝には外交記事が付属し、郡使が倭を往来した事が書かれているからなのです。
933プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/22(火) 15:37:02
>>920さん

倭人伝解析に九州在住はかえって足枷になるんじゃないのかな〜?
読み人たる漢人の多くは、九州どころか実際の海さえも知らない人が殆どかと

根本的に倭人伝記載文は、郡からの行程表ではなく位置関係と規模を文章にて再現したに過ぎません。
『郡使往来常所駐』と言う文言を入れる事によって、伊都國迄の郡使往来は前文で記載した内容と重複し、移動した事を表しています。
つまり
郡使の公式経路は、その内容にそれて移動する事はなかった事が解ります。

一連の内容の基本は
行程表に非ず、『倭人在帯方東南大海中』を具体的に記載した詳細文
そこに郡使往来行程文を重複させたのは、倭人伝には外交記事が付属し、郡使が倭を往来した事が書かれているからなのです。
934プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/22(火) 15:38:42
あら!

重複レス m(__)m
935日本@名無史さん:2008/01/22(火) 19:34:27
>>428氏の主張には欠陥があり、学問的に正当な論理を構成し得ていないと思うので指摘しておく。


>>428 >邪馬台国九州説は、明快で、東遷説と九州王朝説に分かれる。

これは3世紀の邪馬台国を九州に想定すると、その「行方」が二通り考えられているという主張だが、
もう一つ、九州邪馬台国の早期の「滅亡説」(消滅説)も有り得るのに、何故かそれを述べないのは不審である。
実際、邪馬台国論争の一方の雄であった白鳥庫吉ほか、過去幾多の史家が言っておる。

古田武彦の九州王朝説なるものも、一種の「滅亡説」ではあろうが、
邪馬台国後裔の九州王朝が7世紀末に滅ぼされるまで九州に君臨したとする特異な説であり、
白鳥らの九州邪馬台国滅亡説とは全く異なると見なければならぬ。


>>428 >では、畿内説はどうなる?古墳時代に大和に強力な王権があったのは事実。
>>428 >その勢力は、どこで生まれた? よその勢力がやってきたのか、
>>428 >それとも大和で芽生え成長したのか? どっちかだろう?

「畿内説はどうなる」などと振っておきながら、ここで>>428氏が二者択一で迫っているのは、
大和盆地に大型の前期の前方後円墳を造った所謂ヤマト王権についてである。

ヤマトの王権が、いったい外部勢力主導だったのかそれとも自生だったのか、との
出自をめぐる二者択一であり、論点を邪馬台国から何故かヤマト王権へと、ずらしているのである。

さきに前段の九州説の箇所で>>428氏が触れた問題は「九州邪馬台国の行方」であった。
ところがここの段では「ヤマト王権の出自」を問題とする・・・・。
無意識なのか、意識的な作為なのか・・・・。
前段と同様の問題意識であれば「畿内邪馬台国の行方」を論じるべきであろうに、何故かそれは閑却されるのである。


そして>>428氏は最後の段で、論理構成上は全く不可解な次の主張をするのである。 (未完)
936日本@名無史さん:2008/01/22(火) 19:37:01
(承前)

>>428 >大和で生まれて成長したと考える人がいるのは当然だろう。
>>428 >畿内説としてはこれが自然な帰結になる。(略)
>>428 >でなかったら、東遷説を受け入れなくてはならないようにもなるわけだから。

不可解なのは、「でなかったら、東遷説を受け入れなくてはならない・・・」の部分である。


一見、三段論法の如き論理構成に似せてはいるものの、実のところは似非論理でしかない点、
読む側に幾らかの洞察力さえあれば明白であろう。


さきの


>>428 >よその勢力がやってきたのか、それとも大和で芽生え成長したのか?

との二者択一は、繰り返すが、ヤマト王権についてであった。
ヤマト王権が大和盆地に自生したか、それとも非自生であったか、ということであり、
この場合の非自生とは、「大和以外の勢力がヤマト王権を樹立した」の意に他ならず、
主導勢力の出自の場所は、大和以外の地であれば何処でもよく、九州か否かは>>428氏は不問であった。


もちろん九州も、想定され得る「よその勢力」の候補の一つではあろう。
だが、>>428氏の論理の筋を厳密に辿れば、「よその勢力」に九州以外の地の勢力を当て嵌めても何ら矛盾は無い。
例えばではあるが、阿波、出雲、近江、尾張、吉備、讃岐、丹後、播磨、美濃、・・・・・、
或いはこれらの一地域だけでなく、複数の地域が協同して大和にヤマト王権を樹立したとしても何ら構わない。

また複数地域の協同ということで補足するなら、大和勢力と大和以外の勢力の協同という、
自生・非自生の二者択一では割り切ることが出来ぬ場合も、一応は想定しておくべきであろう。 (未完)
937日本@名無史さん:2008/01/22(火) 19:40:39
(承前)

縷述してきたように、ヤマト王権が非自生的に大和盆地において樹立される場合を想定するとすれば、
論理構成上の可能性としては、実にさまざまなケースが考えられるのである。
事実、牧健二、原田大六、近藤義郎、寺沢薫、赤塚次郎等の名前を列するまでもなかろうと思うが、
九州邪馬台国の東遷説以外にも非自生的なヤマト王権の樹立を独自の立場から考察してきた諸氏は少なくない。

従って>>428氏が前段および中段で示している命題(と今は言っておく)を、幾らいじくり回したところで、


>>428 >でなかったら、東遷説を受け入れなくてはならないようにもなるわけだから。

との結論めいた主張は、決して導き出されるところではないのである。

なお付言すると、ここで>>428氏が用いる東遷説とは、畢竟、邪馬台国東遷説でしかない。
それは冒頭で氏が


>>428 >邪馬台国九州説は、明快で、東遷説と九州王朝説に分かれる。

と書いていることから明白である。

思うに>>428氏の脳裏の奥には、「ヤマト王権自生説に非ざれば邪馬台国東遷説しかあり得ぬ」
とする先入主が根深く巣くっているのである。
レス>>428で一見論理的構成を目論んだかに見え、その実まったく非論理でしかなかったのは、
この先入主が、本来学問的には自由闊達であるべき知の働きを、枷の如く封じ込んでしまうからであろう。


実のところを申せば、ヤマト王権の自生説には、小生も反対である。非自生と思っておる。
だが、かと言って九州邪馬台国の東遷説に与するのはどうしても躊躇せざるを得ない、
──そのような立場の古代史好きも、小生の如く何ほどかはいることを>>428氏に知って頂きたく、
本レスを書いた。長文、かつ非礼に及んだ点、お詫びする。 (完)
938日本@名無史さん:2008/01/22(火) 21:58:09
>>936 超長文乙ww
>不可解なのは、「でなかったら、東遷説を受け入れなくてはならない・・・」の部分である。

うーん
だけどさ、その1行前のところですでに問題があるんだよな、ヤシの論じ方は。

>>428 >大和で生まれて成長したと考える人がいるのは当然だろう。
>>428 >畿内説としてはこれが自然な帰結になる。(略)

ここでヤシは畿内説は自生説だけに絞って、畿内説の他の選択肢を奪ってやがるんだよ。
だから大六センセイなんかはハナから完全無視
ま、ヤシのよく使う手だよww
939九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/22(火) 22:05:36
以前のスレで倭人伝の方位を南でなく東と読み替えて畿内の方に魏使が進んだ、
という論に対し、ある人が「太陽の登る方向に進みながら正面を南だと思う馬鹿はいない。
と論破していた人がいたが全くその通りだと思う。昇る朝日は嘘をつかない。
940太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/22(火) 22:10:52
そうすると

「壹」→「臺」
「南」→「東」

まぁよく変える事を平気でやるねぇ〜?w 変えないと合わない。
そうなんですか。
941正月○鹿:2008/01/22(火) 22:11:18
>>924

> 全くこの考え方に異論を差し挟む余地は無いと考えます。

挟みますw

> 私が>>911で言ってる様に倭人伝に残された記述こそ何よりの証拠なのであって
> 記述を逸脱した想像はあくまで想像にすぎないのです。

私の主張は倭人伝の「路程」は郡使などの特定人物の移動行程を記述したものでは
無いと言うことです。
私の言い分が「想像」だと言うのであれば、現実に誰の移動行程とも書かれていない
無主の文章を何の解釈も無しに無条件で郡使などの行動と結びつけてしまうのも、
これまた「想像」だときずいてください。
942日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:21:17
どっちもどっちだな。
「畿内自生説を採らなくても、即東遷説が成り立つわけではない。」
と一言で済みそうな話で睡眠を誘うことはないだろうに。

ただ、自生を否定する場合には、どこから勢力が来たのかとなった場合に、
「吉備〜東海までの各地の勢力が行儀良く協力してマキムク王権を共立しました。」
という考えは空想が強すぎる。
古代はそんな平等で平和で民主主義的な社会ではなかろう。
どこかに居た権力者集団が大挙してマキムクに来たと考えた方がすっきりする。
共立協調政権が王政にどうやって移行したのかも疑問だ。

そう考えた場合に、その直前まで日本では最大勢力であった九州の勢力が
東遷してきたという可能性は検討せざるを得ないだろう。
記紀も旧事紀もそのことを書いているわけだから。
その考えは軍国主義の皇国史観だから最初からダメだというのは学問の否定。
943日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:26:35
>>942>>935以下を読んだ感想。
944横槍:2008/01/22(火) 22:39:24
出雲=投馬説なんですが・・・

もしイズモIZUMOのUにアクセントがあったとすれば、
始めてこの単語を耳にした人は「ズモ」と聞こえたはずです。
幕末の人がアメリカをメリケンと聴いたのと同じです。

次に”ズ”ですが、音読みでズと発音する文字は、図、頭、豆です。
その中で頭と豆は、「トウ」とも発音します。
つまりトウと発音されているものの中に昔は”ズ”と発音されていたものがあったのではないでしょうか?

投馬は、ィズマと読むのでは?
945日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:44:25
>>942
なんだか詭弁に感じます。
投の字が昔はズと読まれていたという証跡を出さないと説得力がまったくありません。
946プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/22(火) 22:45:18
>>939

昇る朝日の方角が“東”ななか?東の方角から朝日が昇るのか?
どちらを選択するかによって、
これからの展開が180度変わる
947九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/22(火) 22:54:53
>>941
おたく色々反論してくるようだけど、要するに僕はご参考までにさんの
>>892 「魏使は唐津で船を降りたら、草木繁茂して歩行困難だったから、慌てて船に戻ったたのだ
と解する方が自然だと思いますね」

の根拠はなんですか?と問いただしてるんですよ。
まずこちらの質問に答えてはどうですか?
948日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:56:41
>>942
>どこかに居た権力者集団が大挙してマキムクに来たと考えた方がすっきりする。
>そう考えた場合に、その直前まで日本では最大勢力であった九州の勢力が
>東遷してきたという可能性は検討せざるを得ないだろう。
>記紀も旧事紀もそのことを書いているわけだから。

マキムクて具体的な遺跡だよ、たくさんの出土品が出たんだぜ。
で、なぜ君が可能性を考えてる「九州の勢力が東遷してきた」、の、証拠は何さ?

記紀や旧事紀?
そうじゃないだろ、マキムクが具体的な遺跡である以上、ここは考古遺物や遺構で示すのが当然だろ。
九州の勢力が「大挙してマキムクに来た」って明確に言えるモノは何さ? 何が出てる?

少なくとも俺には、マキムク出土の土器を見ていくと、
九州勢よりか伊勢・東海勢の方が遙かに多かったと思えるね。
949日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:57:45
消滅説もあるかもしれないけれども、一応、大和朝廷とは関係ないということ
で九州王朝説に含めたつもり。
ただ、白鳥倉吉については、「倭女王卑弥呼考」のなかで、
「皇祖発祥の地である九州において、上古、卑弥呼を初めとして、女子で
君長であったものが多数いたとすれば、天照大神が女王として天上に君臨する
のもまた、なんの怪しむべきことがあろうか」
「(倭人伝に書かれていることは)地上に起きた歴史上の事実であり、
(記紀における高天原の記述は)天上に起きた神典上の事跡であるが、
その状態の酷似すること何人も否認するあたわず」と述べている。

つまり、天照大神と卑弥呼を同一視していると思われ、東遷説を示唆していると
考えられる。

畿内説の人の関心のある大和盆地の遺跡は、纏向遺跡だろうと思う。
この遺跡は、庄内期の開始と共に誕生したといわれている。
では、庄内期はいつから始まったか。畿内説の人は西暦200年頃という人が
多いのだろう。また、西暦300年頃という人もいる。
西暦200年頃に始まったとすれば、卑弥呼の都と言うわけだろう。
しかし、ではどちらにしろその前はどうだったのか。
新しく建設された纏向を作った人はどこからやってきたのか。

以前は、近くにある唐古・鍵遺跡の人がやってきて作ったという人が
けっこう多かった。これが自生説。
最近は、各地の人が共同して建設したなどという机上の空論のような意見が
あることも知っている。

しかし、以前は九州の邪馬台国が東遷したと言う意見が多かった。
>>428は、あくまで「以前」の話をしていたと思うけど。
更に、古事記・日本書紀共に、皇室の発祥を九州としている。
大和に都を置く大和朝廷が作った「皇室の歴史書」にそのように書かれて
いるわけである。
950古代:2008/01/22(火) 22:58:39
出雲=投馬説ですが、古代の母音は現在の5音ではなく8音であったといわれますが、
自分は古代の発音等にそれほど詳しくないので詳細は論じられません。すみません。
ただ大陸の人がどのように聞こえたか?ということですよね。だからこのような説も出てくる。
951日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:59:30
九州説をとる場合でも九州勢力が畿内までを支配していたとすれば、
九州以外の国名が魏志に書かれた可能性はあるかも。
特に、列挙された国。以下思い付きで。

列挙された国のうち、支惟国は紀伊、巴利国は尾張と通じる。
華奴蘇奴国は語順を変えれば、奴華蘇奴国でナガスネ国。
952日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:00:28
949は>>935
おっと>>942は同じようなことを言っているなあ。
953日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:06:53
>>951
>華奴蘇奴国は語順を変えれば、奴華蘇奴国でナガスネ国。

お〜い、勝手に語順変えていいのか〜〜、www
954横槍:2008/01/22(火) 23:10:49
>>945
大昔に変わってしまった発音を再現することは難しいでしょう
説の根拠は>>205 かなり逆説的だが・・
955日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:28:10
>>942
>その直前まで日本では最大勢力であった九州の勢力が

これは自明なこと?

たしかに弥生期全般は九州優位と見てもいいだろうけどさ、
「直前」に限ると、どうかな。疑問の余地あり、と思うんだけどな。

山陰の四隅突出墓とか岡山の楯築とか、どうよ?
あんな大きさの墳丘墓、九州でつくれてる?
956古代:2008/01/22(火) 23:33:06
「混一疆理歴代国都之図」という地図がある。大和説を補強するものとして有名な地図である。
この混一疆理歴代国都之図という古地図は、十五世紀初頭に朝鮮で作られたものであるが、
これを見ると、じっさいの日本列島は南西から北東にかけて延びているとどうじに弓状に曲がっているが、昔の日本人は東西に横たわっていると考えていたらしい。
ちなみに鎌倉時代のいわゆる行基図の日本も東西に寝た形になっている。
「古今華夷区域総要図」は地図としては読みにくいが、南北が逆になっている。

別にだから南→東で正しいとか大和説が正しいとかという事が言いたいわけではない。
地図がどうあれ東西南北は正しく認識できただろう。
要するに古代人の地理感覚がどれほど信用できるのか?ということである。
不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?
とは言いながら他に資料がないので仕方がないんですけどね。
957古代:2008/01/22(火) 23:47:48
2世紀は九州に強大な勢力があった。その後、それに対抗する形で出雲から吉備に大きな勢力が出来上がる。
土器などから考えると九州と出雲系に交流は見られない。敵対していたか、認識していなかったか。
3世紀には大和の勢力も登場しする。ここで、九州にも他の地域の土器が見つかる。各々の関係は不明。この九州、大和、出雲、吉備などの関係が鍵。
958日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:53:32
>>949
>新しく建設された纏向を作った人はどこからやってきたのか。
>最近は、各地の人が共同して建設したなどという机上の空論のような意見が
>あることも知っている。

お〜い、机上の空論じゃないぞ。
纏向出土品の分析や各地出土品との比較をやって、
そんな意見が強くなってきたわけだぜ。
知らない?
959横槍:2008/01/22(火) 23:59:19
なかなか考古学では、歴史(特に政治史)を解明するには、
難しいように思うが。

例えば、尾張出身の秀吉が大阪に入ったからと言って大阪に尾張文化が花開いたわけではないし、
家康が、江戸に本拠を移したからといって遠州文化が移動したわけではない。
考古学で解るのは、政治史よりも経済、文化史だよね、根本的に

文献でも発掘されれば話は別だが
960日本@名無史さん:2008/01/23(水) 00:14:07
>>957
>土器などから考えると九州と出雲系に交流は見られない。

おい、いきなり出雲と北部九州の交流を否定かよっ!
出雲にとっては唯一の物証といっていいほどだぞw
961日本@名無史さん:2008/01/23(水) 00:19:33
九州と出雲はヒスイ、玉、鉄の交易が存在したことは明らかだよ。
荒神谷では銅鐸と銅剣が出ていて、この面でも九州との交流は
推測できる。
初期の銅鐸の鋳型は九州で多く出土している。
962古代:2008/01/23(水) 00:42:05
この場合の交流は人のやりとりという意味です。つまり、戦ってどちらかの奴隷になったり、あるいは奴隷として人を送ったり、移民を受け入れたりという事はなかった。
963日本@名無史さん:2008/01/23(水) 01:27:06
>>962さんのいう
「人のやりとり」があったorなかった
は、どこで判別できるんでしょうか? 
964日本@名無史さん:2008/01/23(水) 01:39:47
てか纏向から出土する九州の土器少なすぎじゃね?
東西の交易拠点であったんだからもっと九州からの文物が出てしかるべきだと思うんだけど…
少なくとも九州勢が纏向の交易に積極的に関ろうとした形跡って無いよね?


965日本@名無史さん:2008/01/23(水) 02:19:04
邪馬台国比定地論争自体は正直どうでもいいが、
記紀伝承、とりわけ皇統譜の真贋論争が気になる。
ちなみに僕は記紀皇統譜は8世紀初時点で認められた、
まあいわゆる「造作」であろうという立場。

で、邪馬台国九州説論者の人の多くが、
アマテラスは誰だとか、イワレヒコは誰だとか、
ニギハヤヒがどうとか、わりと記紀を史実の反映として語っている点に
いちばん違和感があります。
966日本@名無史さん:2008/01/23(水) 02:32:03
>>959
文献の極めて少ない時代だから。
あなたのいう「文化史」をもとに政治史を語る限界性や危うさは
ここの人もみんなふまえてると思うよ
967日本@名無史さん
あれ?なんで倭人伝なんだ??倭国伝じゃないんだ???