【漢籍潤色】日本書紀総合考察スレ【古伝妄信】

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1極 ◆v6e4s/0I9s
前スレが終了したので建てました

前スレ【倍歴】記紀時代の編年考察スレ【七支刀】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1188330074/

2日本@名無史さん:2007/12/02(日) 11:33:52
タイトルが気に入ったのでカキコしました    あっ2ゲッチュ
3日本@名無史さん:2007/12/03(月) 12:02:18
武烈天皇の動物園と宴会は完全にパクリだな。
4サガミハラハラ:2007/12/03(月) 12:14:35
ありがとうございます。
このスレで記紀2倍年暦についておおいに論じましょう。
5唐松山:2007/12/03(月) 19:35:16
「書紀は 倍暦で書かれている」と 盲信 しているサガミさんへ
ザンネンな お知らせです

神功皇后 三十九年.是年也,太歲巳未  が西暦239年己未   年の干支は合っている。
神功三十九年 魏志云:明帝景出三年六月 4. 景初(237年-240年)
神功四十年.魏志云:正始元年 5. 正始(240年-249年)西暦240年庚申  年の干支は合っている。

つまり 神功40年に魏志云:正始元年 を持ってきたのは 「年の干支が合っている」及び「女王である」
この2点 で 時代錯誤を 起こしたと思われます。

倍暦を使用した編纂者が 干支で 年数を数えている 事実 について お答えください。
6太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/04(火) 14:53:49
サガミハラハラさんの主張の紀の應神即位と違えた應神現実即位っていうのは、
おかしいわけで、その不可解あがいやでも目立つのは紀の立太子がどうやら
ご本人の言われる現実即位とやらの後に、これが位置していることである。

應神天皇の場合は垂仁天皇とともに、代々の天皇の中で数少ない天皇誕生の日付
がしっかりと記述されてる天皇であり、このことは他の天皇よりもその記載が
より細かいと言えることだから、それだけ記録が他の天皇よりも原書の記録が
しっかりしているということを物語っている。ということはサガミハラハラさん
よりも舎人親王らのした記述のほうがより安全であるということを示している。
7太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/04(火) 14:56:10
訂正
× 不可解あが    ○ 不可解さが
8唐松山:2007/12/04(火) 18:51:28
迷想
古事記の干支が 本物であったら
西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕
西暦293年 癸丑 仁徳 誕生
西暦296年 丙辰 應神元年
西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換
西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
同年       百済 獻七枝刀一口
西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨
西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌)
西暦329年 己丑 神功崩御
西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支
西暦367年 丁卯 仁徳崩御

9唐松山:2007/12/04(火) 19:12:36
神功と応神は 上記の様に 重なっているのではないか?

10太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/05(水) 21:07:52
水増しとか言うと、どんな記年論も成立するよ。持論に合わない箇所の数字の
大きい年代を、水増しの語にすればなんでも合うに決まってるわけ。
これと対称的かとは思うが、天皇の代数が合わないから架空で創作とか父子継承
を兄弟継承にすりかえるとか、代数を減らして合わせようとたくらむ。

こういうんならどんな連中の紀年論でも合うことになる。
そういう論はどこかが間違っているのだと気付くべきではなかろうか?
11日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:21:47
わかってないなおまえ
基本がない奴には無理なんだろうが…
12太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/05(水) 22:22:05
何がだ? お前もっと具体的に言え。
それとも何か〜? お前は紀年が正確に説明できるのか?
わかっていないとは、それを解説してからぬかせ。
13日本@名無史さん:2007/12/08(土) 19:36:02
なあ、勝手にタイトル変えたらそれだけで充分に偽書じゃないの?
なんで日本紀がいつのまにか日本書紀になるんだよ。
中身もきっと変わってるぞ。
14太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 20:42:39
やりゃぁ、関与者は発覚すれば当時死罪だぞ。
15日本@名無史さん:2007/12/08(土) 22:06:54
改竄責任者は天皇に近い人間か本人だったんだろ
死刑(笑)
16太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 22:30:46
だったら大悪の武烈とか雄略を削るぜ。お前の大妄想。
17日本@名無史さん:2007/12/08(土) 22:35:11
血縁関係にない古い天皇はどう書いても問題ない
18太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 22:39:18
改竄するなら雄略とか武烈の大悪部分を改竄して賛美した天皇にしてるよ。
Aの家族に殺人犯人がいるなら、Aは身分の改竄したくなるのはAの本音だろ
うがね。紀はそうはなっていないんだよ。

もっと地についたことを考えろ。
19日本@名無史さん:2007/12/08(土) 22:44:11
天智天武兄弟などの敏達系の皇族はもともと近江や越の地方豪族で
蘇我宗家に仕えるため馬子の時代に大和にやってきた
応神「天皇」や継体「天皇」の子孫でもない
20太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 22:47:05
>>17
お前、紀は国家文書だぞ。そんなことを偽造すれば舎人親王らは公文書偽造罪に
関与したことになる。これはただではすまない。
当時の天皇がやれと言うんなら、雄略、武烈は善人天皇に仕立てられてるよ。
これではじめてお前の言う偽造だということになるんだ。

あんまりデタレラメを言うな。
21太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 22:54:09
>>19
あんまり距離は皇統の本質とは関係ないね。一系は無窮に現在まで
来ている。ただし卜事(ウラゴト)で、南北朝のこのときは二系に
なる理がある。
22日本@名無史さん:2007/12/08(土) 22:54:51
天皇など飾りなんだから藤原氏の都合がいいように天皇の教育のため
悪王の例を載せたのね
23太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 23:02:35
雄略と武烈とかは、都合のいいことよりも都合の悪いことではないか。
お前、ゴマかすなよ。
飾りなぞは、落飾後のことについて言え。
24日本@名無史さん:2007/12/08(土) 23:08:24
つーか天智って百済の王子が本物を殺してすり替わった奴でしょ
25太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 23:11:35
百済んこと言うな。お前の頭を疑う。人類の一部がUFOだとかの宇宙人とスリ換わってるとかいうのと同類だ。ww
26太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 23:14:42
そのうち天皇は宇宙人だと言い出すんだろう? お前ムー民か?ww
そろそろ精神科へ行って脳内診療をしてもらえ。ww
27日本@名無史さん:2007/12/08(土) 23:16:04
太 国 論 破 さ れ て 涙 目 w
28太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 23:20:09
泣くまで待とうホトト偽書か〜〜?ww

こんな連中、相手にすんの止めた。ww

ZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
29日本@名無史さん:2007/12/08(土) 23:20:10
釈日本紀の引く推古紀は今みる推古紀と内容が違うよね
30日本@名無史さん:2007/12/09(日) 00:20:32
つーか中身の問題は置いといて
勝手にタイトル変えるだけでそれだけで充分に偽書ですよね、
形式的に言って。
しかも古い方は全然残ってないし。
これ組織的にやったんだろ。
31日本@名無史さん:2007/12/09(日) 00:37:38
昔、日本は三韓と同種なりとありし書を、
桓武の御世に焼き捨てられる。(神皇正統記)

犯人は神武天皇と同じ辛酉の年に即位し、
図書寮に保管されていた『日本紀』の原本を
勝手に改ざんが可能な当時図書頭山部王のみ
32日本@名無史さん:2007/12/09(日) 01:16:54
どうせなら自分の母親も非韓系に捏造してほしかった。
33日本@名無史さん:2007/12/09(日) 04:01:59
それは当時では非韓系に捏造する動機がないから無理でしょ
34唐松山:2007/12/09(日) 20:30:36
韓系にしておけば また 韓を征服しても 言い訳が立つ。
35日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:05:37
だか断る
36唐松山:2007/12/11(火) 19:12:15
神功皇后はタジマモリの 末裔であり タジマモリは アメヒホコの末裔、

判ります?
37日本@名無史さん:2007/12/19(水) 02:34:32
日本史板に書き込むよにうなって半年
特に古代史に書き込むコテハン連中にはあきれる
我が仏尊しONLY
脳内妄想の思い込みの結論ありき
論破するのは簡単だがだんだんアホらしくなってきたorz
38美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 07:06:53
>>31
三韓時代=三国時代
でしょ?

百済、新羅、高句羅、どれも倭人の納めてた領土だよ

ちなみにこの時代には半島に朝鮮人はまだ居ないから
400年前に明の属国として初めて李氏朝鮮王朝って言う朝鮮民族の王朝が出来たんだよ

それ以前に朝鮮人による国や王朝や朝廷なんて存在しないよ
39日本@名無史さん:2007/12/19(水) 08:53:12
×納める
○治める
40唐松山:2007/12/19(水) 18:03:40
迷想続き
もし 「書紀の干支が正しければ」の巻
誕生年は,旧事記の 治世と聖寿より 割り出し 聖寿は 古事記より 

西暦  干支 天皇    誕生年 没年齢 聖寿  誤差
291年 辛亥 仁徳誕生
334年 甲午 応神没        62才 130歳 –68 古事記干支
337年 丁酉 仁徳元年 
367年 丁卯 仁徳没 治世30年  76才  83歳 –7  古事記干支
398年 戊戌 仁徳没 治世61年  107才 83歳 ???  以下 書紀干支
400年 庚子 履中元年 仁徳16年 53才 64歳  -11  
406年 丙午 反正元年 仁徳39年 36才 60歳  -24
412年 壬子 允恭元年 仁徳63年 54才 78歳  -24
454年 甲午 安康元年 履中1年 56才 56歳   0
457年 丁酉 雄略元年 允恭7年 61才 124歳  -63 白河本旧事記の聖寿61歳
489年 己巳  古事記干支
480年 庚申 清寧元年
485年 乙丑 顕宗元年 允恭38年 40才
488年 戊辰 仁賢元年 允恭34年 53才

西暦400年庚子 履中元年 以降 暦の圧縮,伸長は 在りません。
仁徳83年間(空白を含む ?本旧事紀)が必要。実際は83−19=64年間 をどうするか?
太子菟道稚郎子の年齢と共に? 
あと干支(日々の干支も含む)の 切り替えと。
倭の5王を 差し込むには 更に 考察が 必要。
41日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:32:16
この人どこにでも同じこと書き込んでるな
寂しいの?
42日本@名無史さん:2007/12/20(木) 10:20:19
二代目の天皇は三人兄弟の末っ子で、長男を殺して即位する。
母親と皇后は姉妹。
母親は彼女の父親が巨大な鰐に姿を変えて女性に近づいて思いを遂げた結果生まれた。

日向三代抜きの神武天皇が直接降臨する話が存在したか、そんな話を作ろうとしたが
まとめきれずに企画を放棄して、その残骸だけが残っているのか?
43日本@名無史さん:2007/12/21(金) 00:42:45
自殺、売春、虐待、大量殺戮、女性差別、は農耕社会になってから始まりました

天皇はA型で朝鮮の出身です。A型は2000年前に日本に来たから帰ればいいのに。
A型は100%農耕民族とはいえないがO型かB型にぜんぜん好かれないA型は
農耕民度が高すぎるから2000年前に日本の先住民族を大量に殺してきた
遺伝子、多そうだね。

遊牧民族は厳しい自然の中を小さい家族で移動しながら生活してきたので家族と他人の線引きをはっきりさせたと思う。
これをクールと感じる。だから、そのぶん身内にはあつくなるのか。

B型は遊牧民族、O型は狩猟採取民族。
A型は農耕民族。農耕民族は2千年前(つい最近)に、中国から日本に来た。A型は2万5千年ごろ誕生して農耕社会を
作ってきた。農耕民族社会になってから狩猟採取民族が大量に殺され滅び吸収され、ホームレス、虐待、売春、
女性差別 が始まり、強制的に横並び結婚し横並び子作りしないと女が生きていけない社会になる。
横並びの群れ社会(農耕民族社会)は無理やり敵を作り差別しないと作れない。これが、いじめ。
ブサイクで、もてない農耕民族はとくに性欲として横並びの群れ社会を作りたがる。

農耕民族社会はA型女も不幸になります。
44日本@名無史さん:2007/12/21(金) 08:31:58
>>42
×巨大な鰐に姿を変えて
○丹塗りの矢に姿を変えて

八尋鰐になったのは初代の父の母
45日本@名無史さん:2007/12/21(金) 13:14:45
それもあるけど、事代主が鰐になって産ませた話もあるんだよ。
46唐松山:2007/12/21(金) 18:09:29
大物主と事代主は,うまく線引きが出来ない。
例えば  たたねこ は誰の子?
47日本@名無史さん:2007/12/21(金) 18:29:07
日本書紀の文章には漢文として文法上の誤りが多数散見され
当時の碩学が書いたにしろやはり限界はあったということなのだが
例外的にあるまとまったブロックはそういう誤りのほとんどない正確な漢文で書かれている。
その部分を書いたのは中国人ではないかと言われ、するとその人物の和語を記す
万葉仮名の使い方、これが面白いことにつながっていく。
48唐松山:2007/12/22(土) 13:31:57
万葉集の 畳薦 を訂正してもらいたい。

七支刀 
西暦312年にもたらされた物 であるならば 制作年月日は、
○○4年 ○月16日丙午××
16日丙午は 辛卯朔となる
312年より前で 辛卯朔の月を探すと
西暦310年9月 西暦305年7月  が考えられる
干支の計算値の信頼度 低いが(私が計算したものなので)1日ずれると2ヶ月のずれが有る。
49日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:06:11
古事記にある大物主の神の話が日本書紀では事代主の話になってます。
古事記と日本書紀で変わってる話はよくあるよね。
50日本@名無史さん:2007/12/27(木) 04:01:33
記紀ではネタ本が違うんだろうね。
それにしても多数あったろうネタ本が一冊も伝わっていないのは不審で
焚書が行われたのではないかとさえ思われる。
旧事本紀などにその断片があるのかもしれない。
51唐松山:2007/12/27(木) 19:49:48
ほつま はネタ本です。
52日本@名無史さん:2007/12/27(木) 20:06:58
タネ本じゃなくてネタ本です
53唐松山:2007/12/27(木) 21:17:27
増し暦 の信憑性 神功編

神功元年  皇暦861年辛巳=西暦273年癸巳
神功39年 皇暦899年己未=西暦299年己未
(899−861)−(299−273)=38−26=12

仲哀の増しは6年でした。 6+12=18 19年7閏法に 1年足りません。
何処かに 間違いがある
有りました 百済武寧王の墓誌 (癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到) 1年の狂いが在ります。
つまり 魏→百済→倭で使われてきた暦と その後の暦との間に1年ズレが在るのではないか?

ついに 支那の暦にまで イチャモン つけたデ。
百済の 干支は この時代 1年ずれていた。魏の暦は関係なし。 が正しいか。
そうすると もう1回 直さねばならないが 何処だ?

54日本@名無史さん:2007/12/28(金) 00:09:57
大物主ってすごいよな
便所に隠れて女のホトを突いたとか
55日本@名無史さん:2007/12/28(金) 03:35:15
>>54
現代人の感覚からすれば変態性欲者だが
古代人的にはそうでもないらしいぞ
56唐松山:2007/12/28(金) 12:32:50
便所=厠=川屋
当時なら 良くて 川に踏板を渡しただけ 屋根も無い
つまり 青姦 親と同居の娘を 外で待つ
娘は、「用足し」といって外に出てくる。
57古代:2007/12/28(金) 14:23:19
事代主は賀茂氏が祀っていたいた神であります。
大物主は三輪山に祀られていて、三輪氏が祀っていました。
賀茂氏と三輪氏の祖は大田根子で、大田根子は三輪山に大物主を祀っていました。
大田氏が祀っていたいた三輪山を三輪氏が引き継いだとも考えられます。
一方賀茂氏ですが、大和と伊豆に別れます。
天孫族との争いに負けた事代主は伊豆に逃げ伊豆で祀られる事になります。
でも、大和の賀茂氏は自分達の神を見捨て(?)氏神神社を大和に建てます(賀茂神社、下鴨神社)
58古代:2007/12/28(金) 14:33:19
さて、古事記では大物主が矢に化けてイスケヨリ姫を産ませますが、日本書紀では事代主がヤヒロワニに化けて産ませたことになっています。

古事記では国津神である大物主の娘と天孫である神武天皇との結婚によって、天地合同で大和を支配したという構図が窺えます。

一方日本書紀では事代主も大国主の息子であるので国津神系であることは変わりませんが、当時の大和朝廷に強大な力をもっていた賀茂氏の神に変えられた、と考えられます。

賀茂氏と天皇家は深い繋がりがあるようで、後に伊勢の斎宮と共に下鴨神社に斎院として皇女を送ることが慣例になりました。
59古代:2007/12/28(金) 14:51:00
賀茂神社の祭神八咫烏(賀茂建角身命)は神武東征の時に協力した。とありますね。
伊豆に逃げた賀茂氏は自分達の神を見捨てず信念を貫いた。が歴史の負け組みだった。
一方大和の賀茂氏は寝返って神武につき、この時の賀茂建角身命を氏神として賀茂神社を建てた。
60古代:2007/12/28(金) 14:54:49
ちなみに葛城の役の小角や藤原の不比等の妻は賀茂氏の人です。
61日本@名無史さん:2007/12/29(土) 05:14:13
古事記は偽書(来歴を偽っている・序文)
本文は古いものだがところどころ改竄されている

書記については編纂時に神武以降年表を作成し
年月日のなかった伝説に付加したもの
ただ南朝との通交が復活した5世紀半ば以降は記録に基づいてる可能性は高い

独断で結論だけでスマン
議論していただければいくらでもソースは出すし
自分の考えに固執する気はない
62唐松山:2007/12/29(土) 06:40:03
偽書 と言う考え方は、捨てた方が良い 考え方が偏狭になる。
全ての書に 多少の 誤り、間違いは 在る。

4世紀はじめ 新羅と国使交換 
4世紀中葉より 古事記に干支が入る これ以降 書紀、古事記の干支の増しは ありません。

5世紀 中葉まで 年代がおかしい?という ソースを出してください。
63太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/29(土) 07:20:48
>>61
ならば、もっと伝説らしい神武以前は何故年代を付加しなかったのか? そこの
どういうところがどういうふうに改竄したということが明確にわかるのか? 
そして改竄した理由とは何か?
64古代:2007/12/29(土) 10:18:35
古事記の序文に謎が多いからといって古事記が偽書であるというのは反対です。
(なぜ序文だけが漢文で書かれているのか?何故由来が「朕聞」で始まるのか?諸国にあった帝記とはなんなのか?)

確かに平安の頃には古事記が偽書であるとして回収し、日本書紀を広めようとした感はありますが、これは時代の要請であって、それだから古事記が偽書であるということではないと思います。

古事記と日本書紀で言えば確かに内容が微妙に異なっているいる箇所は多々あり紛らわしいことは否めませんが、逆に重要であるように思います。
日本書紀をみれば古事記の内容を踏まえた上で、細かく解説し、あるいは訂正したと見られる箇所も多くあります。

例えば、大物主が現れる時古事記では海を照らして現れた、としか書いてありませんが、日本書紀では実は大国主の幸御霊であると書かれていたり
古事記では神功が神がかりで出兵したとしか書いてありませんが、日本書紀には実は住吉の神だった旨が加えられています。

日本書紀が全30巻だったのに対し、古事記はわずか3巻ですが、古事記に204出てくる氏族は日本書紀では111しか出て来ません。
氏の由来(神の由来)知る手がかりとして古事記は貴重なものです。
65古代:2007/12/29(土) 10:21:51
実は住吉の神だった→神功にお告げをしたのは住吉の神だった。
66唐松山:2007/12/29(土) 12:53:09
三輪神社←たたねこ→鴨氏

住吉 元は,治り神 稲の病気や風の害が 少なくなるように 祈っていた。
景行が九州にいるとき この神社の 女性が亡くなる 景行は住吉に この女性の為に社を建てさせる。

仲哀が九州で係わった 住吉と同一で 海外の情勢に明るかった。

67日本@名無史さん:2007/12/30(日) 00:09:42
よく高天原はどこなのか?という論争があるが、
日本の古代史研究で重要な「延喜式」では、
高天原は奈良県御所市の高天台付近とされているのを知っているだろうか?

つまり、延喜式が編纂された西暦10世紀の時点では、
京都朝廷の公式見解では、高天原は大和国の一地域とされていたのである。

このへんには、それゆかりの神社や地名が多く存在している。
こういう地域は、日本の他の地域にもあるが、
それらは後世にそのような伝承が出来上がった可能性がある。
九州を高天原とする伝承などは、神武東征が何なのか?という伝承によって、
後世の人たちが独自解釈した可能性が強い。

が、奈良県御所市付近は、少なくとも西暦10世紀の時点では、
京都朝廷からそのような見解を持たれていたというのは大きな事実だ。

で、奈良県御所市にある高天原伝承ゆかりの地名や神社はというと

高天彦神社
http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/takamagahiko.htm
天安川神社
http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/amenoyasukawa.htm
天香山神社
http://www.norichan.jp/jinja/renai/amenokaguyama.htm

また、天安川神社の祭神は天尾羽張神で、この神様は古事記の
天安河の話に登場する。この尾羽張は、尾張氏・尾張国の名称の元に
なったと思われ、皇室と兄弟の家系である尾張氏の以前に拠点であったと思われる。

古事記・日本神話の伝承地〜高天原史跡ガイド
http://takama.sakura.ne.jp/index.html
68日本@名無史さん:2007/12/30(日) 02:53:52
八咫烏と金鵄の違いについてお尋ね申す
大きな(やあた転じてやた)烏と金色の鵄(トビ)
八咫烏の方は本来は三足鳥ではないし金色でもないと言われるけど
(直訳デカイカラス)
烏の方は太陽にまつわる神話とか世界各地にあるんで神聖視されてるから
本邦の古事記の記載もこのご多分に漏れずと思うんですが
日本書紀の方は何で金色の「トビ」なんですかね?
もし神話として本当に伝わっていたのがトビだったとしたら
箔付けの為に中国の金烏(三足鳥)に因んで
鵄に金色と三本足を加えた?(流石に鳥の種類は代えられなかった?)
逆に本当に烏だったとしたら漢籍主体の日本書紀が
わざわざ烏をトビに変えたことになるけど理由がわからんです
オリジナリティーを出したかったとか?
猛禽類の方がカッコイイから?
69日本@名無史さん:2007/12/30(日) 03:41:36
>>63
いわゆる「古史古伝」の多くには神武以前の王統・王朝が記されてる。
これもあながちデタラメと片づけるわけには行かない。
一介の男だったイワレヒコが九州から大和に入って、
今日から俺がこの地域の王様だと言ったって正統性もないわけで
圧倒的武力でごりごり征服したという感じでもなく
だから神武天皇の素性は何だったのか、神武天皇が王様になる前の
大和はどんな状態だったのか、ニギハヤヒだのナガスネヒコだのは本来何者なのか
その辺りは記紀の記述では謎のベールに包まれてるわけよ。
70唐松山:2007/12/30(日) 09:32:38
八咫烏が わからない
八咫=46cm*3.14=144cm 八咫鏡の円周
からす 意味は、鳥のカラスではない事は確か。

神代 大物主は 九州北部から日本海側にかけて 勢力を誇っていた。
九州中、南部にいた 天孫族は なかなか勢力を拡大できないでいた
そこで 武力で 筑紫に勢力を拡大 大物主と対峙、
筑紫に入った 天照大御神は天照と 手打ち 
天照が大物主に 暦を提供 見返りとして 筑紫の支配権を獲得
九州北東部から東,日本回側にかけては 大物主の支配 その他の九州は、天照大御神 の支配地
代が変わって ニギハヤヒの時代 ナガスネが暦を盗み出し,畿内へ逃走 これを 大物主が追いかけるが追討失敗
2次追討計画を立て、神武が先発 ナガスネ討伐に成功 大物主と共に ナガスネが居た 明日香に入るが 神武は直ぐに
明日香を出 橿原に宮を作る。

支配地
神武=橿原
大物主=春日、近江、越、出雲,等 神タタネコ=ちぬ(河内)。

71唐松山:2007/12/30(日) 09:49:57
訂正
筑紫に入った 天照大御神は天照と 手打ち  を

筑紫に入った 天照大御神は大物主と 手打ち に訂正
この時の 王は ニニギ
72古代:2007/12/30(日) 12:11:33
ヤタガラスのヤタは頭の大きさのことで頭がヤタもある大きなカラスってことでしょうか。
そんなカラスはいないので日本書紀では金鵄に変えられたのかな?金鵄は瑞兆らしい。
このときニギハヤヒもでてくるので黒色よりは光り輝く黄金の方が良かったんでしょう。太陽の化身?
まあ実際は鳥使いだったんじゃないでしょうかね。とび使い?
73日本@名無史さん:2007/12/30(日) 13:12:49
ヤタガラスは人名ですが…
子孫の名前まで書いてあるし。

動物の名前が付いたからといって動物というなら、
蘇我馬子は馬なの?
74日本@名無史さん:2007/12/30(日) 13:17:02
日本書紀にもヤタガラスは出てる。
75唐松山:2007/12/30(日) 19:07:34
ホ01125 カラスアフギは ソフハなり ヒアフキのハは みたはらふ
カラス扇は 12葉なり 緋扇の葉は 御霊払う
ホ06128 カラスカミ まつれはくろき トリむれて カラスとなつく

これでも カラスが 解からない。

76唐松山:2007/12/31(月) 00:19:12
絵で見る 神武東征
棒の先に 扇が有り 其の上に金の鳶
この扇が カラス扇?
77唐松山:2007/12/31(月) 00:36:05
367年 丁卯 仁徳没 治世30年  古事記干支
398年 戊戌 仁徳没 治世61年  書紀干支
この31年は、 書紀には 19年間の 御陵制作期間と成っていますが、実際には31年間であった。
履中の年齢から見ると 履中誕生は仁徳16年頃 仁徳死亡時 15歳なら即位可能。 太子に成った年でもある。

78美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 16:45:15
>>73
稲葉の白兎も人だね

あれ稲葉の白兎足(アリト)の事だよ
79日本@名無史さん:2007/12/31(月) 20:29:38
白兎のモデルは穆天子伝では?
80日本@名無史さん:2008/01/01(火) 23:11:08
61です
レス頂いたのに申し訳ありません

古事記が偽書
偽書=来歴を偽ってる書(内容の真偽とは別)

仮説
安万侶のの子孫である多人長が弘仁年間に紀の講義(和語での読み方の講義・奈良時代半ば以前は貴族の教養として漢語で読めた?)した時
太氏に伝わるフルコトブミを基に先祖に仮託し序文をつけて世に出した
しかし本文は大化前代の伝承を伝えており歴史のみならず
日本語研究の貴重な史料なのはまちがいない

根拠
1.古事記序に和同4年元明天皇の勅命により稗田阿礼の語る旧辞を太安万侶が
 撰録し和同5年正月28日に撰上とあるが、続日本紀にその記載が無い事
2.弘仁私記序に初めて古事記が引用されてる
3.古事記云として引用されているもののうちで現存古事記に一致するものは
 平安中期以降

1,2,3に関連するものとして
奈良時代以前とされる文献、史料、金石文のうちで
現存古事記を除くと見当たらない

万葉集草稿はこの時代に存在してた可能性は十分有るけれど
編者とされる大伴家持が死の直後政治的事件に巻き込まれて(藤原種継暗殺)、庶人に落とされるという処分を受けてるので
名誉回復された大同年間以降に世に出たと考えるのが妥当
なお万葉集には2箇所「古事記」の引用が有る(90番、3263番の歌)
ただ
 表記がちがう(90,3263共)
 歌詞がちがう(3263)
弘仁私記序が初めてというのはこの意味
81日本@名無史さん:2008/01/01(火) 23:14:37
80の続きです

平安初期とされる文献(ほとんど逸文のみ)に「古事記」の引用は有るけれど
字句が一致するものはない

あと蛇足だが
古事記には「も」の書き分けがあるけどその8年後の成立とされる書紀にはない
なぜか?
普通に考えればこの時代にはすでに発音上の区別は失われてたと考えるのが妥当
それでは古事記になぜこの書き分けがあるのか?
それは一部の専門家が主張している通り一種の仮名づかいではないのか
「わ」と発音するが「は」と表記するように
あと別の可能性としては書き分けのある本文の成立が区別していた時代に遡るということ
但しこの場合は来歴を記した序文について考えなければならない

古事記だけにある大年神の神道譜も新しい要素がある (例:松尾神社成立譚・改竄の可能性あり)

書記の年暦に関しての事は後で
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:27:16
書いた奴が記紀双方で違うからだろう?
83日本@名無史さん:2008/01/01(火) 23:53:51
諸資料を駆使してかかれた日本書紀はおよそ雄略紀から崇峻紀までが帰化人、それ以外が日本生まれの元僧侶
元ネタになった資料の執筆者はまた別
84唐松山:2008/01/02(水) 00:05:41
もし 序文 が違うのなら、 その序文を書いた、書かねば成らなかった 当人になれ。

この序文を書かねばならなっかた当人に執って、 古事記なる文章群は 自分の目の前にある ボロボロになった
文章群 一つしかない、「この文章を 後世に伝えたい」 この一念で書き写した、一文であったら 其れから1000年以上 過ぎた
我々に 「偽書」なる レッテルを 貼れるのか?

有り難く 押し頂く これが 今現在に生きる我々の態度。
真贋は 2の次 言い出せば 日本書紀が一番偽書に近い とも考えられる。
85サガミハラハラ:2008/01/02(水) 00:18:56
>>81書紀の年暦に関しての事はあとでーーー期待してます。手ぐすねひいてまってます。
86日本@名無史さん:2008/01/02(水) 10:47:08
大正・昭和と軍部は日本書紀を部分的に改ざん・公開していたそうですが、
その部分とはどこなのでしょうか?

聞きかじりの知識なので嘘かもしれませんが、ご存知の方がおられましたら
ご教授ください。
87唐松山:2008/01/02(水) 13:10:48
サガミさんも 早く 本物の暦に 直して下さい。

私唐松山の 方法は
書紀は 19年7閏 で書かれている 拠って 其の中に 19年7閏の空白を差し込んで 増やされている。

○○年正月朔と書いてあれば ○○年=○○−3(1天皇紀で19年*△回になる) 正月朔はそのまま
天皇2代で 一つの暦 の時もある。

81さんの 方法も 期待してます。
88日本@名無史さん:2008/01/02(水) 13:23:56
本居宣長が解読するまではまともに読めなかったデタラメ漢文の古事記は
多分個人の歴史ノートみたいなものだった。
後代それにもっともらしい序文を偽作して付けた。
89サガミハラハラ:2008/01/02(水) 18:58:26
>>87景行天皇から雄略天皇までの年代(即位年及び崩御年、末年)については、
復元しており上梓いたしました。(誤植だらけですが)ぜひご購読ください。
神武から成務までもできておりますが、一部のひとにだけ講演のとき配布いたしました。
90日本@名無史さん:2008/01/02(水) 23:33:59
俺は初期の内容はかなり真実味があるかと思う
91唐松山:2008/01/03(木) 13:17:36
古事記等 編纂当時 著作権なんてない。
書き写すのが 伝世のはじまり 書き写したものはすべて偽書 なら 本物などない。
間違いを著者以外が訂正したら 偽書か?
悪意を持って 書き換えたら 偽書 だろうが 序文の書き換え程度 我慢しろ。
92唐松山:2008/01/03(木) 13:52:38
サガミさんは 西暦355年ぐらいが 神功の渡海 フロッグ又は奇跡が起きて
三韓を治める。 書紀にはこの様に書いてあるので 仕方ないが 次

応神13年に 応神の子供仁徳が髪長姫と恋は 読み替えない限り 不可能
偽書とは この様な 理のない読み替えを使う物。
93美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 21:48:49
えっと太国さんの2倍暦の解釈に対しての疑問は
とりあえず15日を1ヶ月としてたって前提は俺も否定はしないっす
旧暦では新月〜新月が約30日でこれを1ヶ月としてるけど
新月〜満月までは15日だから、これを1ヶ月としてた暦があったとしてなんら不思議じゃない
94美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 22:02:10
ただね
「1年」って単位は
×12ヶ月を1年とする
○地球の公転周期(約365日)の単位が1年

おれはこう思ってる


例えば「1日」の単位
仮に30分を1時間とした場合
×24時間(今の12時間)で1日
○48時間(今の12時間)で1日
って事にすると思うしさ
旧暦や今の暦は大陰大陽暦見たいな名前だけど
ようは月の動きを暦にした「月(英語でモンスだっけ?)」って単位(大陰暦)と
地球の動きと連動した「日」「年」って単位(大陽暦)を組み合わせてるだけだから
1ヶ月の単位を15日としても年や日の単位は変わらないと思うよ


太国さんが言ってるのは「昔は15日を1ヶ月としてた暦がある」って事でしょ?
「年」は365日を1年としてる単位だから1ヵ月の単位を何日にしようが
1年の単位が180日や720日に変わったりはしないと思いますよ
95美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 22:13:12
ただ太国さんの言うように「当時の暦や単位が現代使ってる単位とは違う」ってのは俺はその通りだと思う

現代使ってる暦や長さや距離の単位を絶対の前提に考えない方がいいとは思う


例えばノストラダムスの予言
あれはノストラダムスの書に「1999年、7の月。マルスが、、」って書いてあったのを、そのまんま西暦の1999年7月って解釈してただけだし

1999年、7の月

ノストラダムスの書にはこの記述以外に、こうした年号を書いてる記述は無いよ
こんなのいくらでも解釈できちゃうし、本当に予言を書いた書なのかも本人にしかわからないしさ
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 23:09:09
美濃もん太氏は2倍暦を否定してないと言いながら、否定の論述を
してぐらついている。さらに30分が1時間とする1日が48時間制で
あることを主張していて、まるでバットマンのツーフェイスのような
なりふりであり、またはバットマンでもあって鳥でもあり獣でもある
というまことにおかしな論説であり、白黒の決着がなされていない。
これでは困ってしまう。w まったく高い評価はつけられない。
97サガミハラハラ:2008/01/03(木) 23:30:14
>>92日本書紀の応神13年には、応神天皇は41歳ぐらい。20歳の時仁徳をもうけたとすれば、
応神13年には仁徳は21歳ぐらいとなり、年齢上の無理は全く生じません。
98美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 04:52:57
>>96
太国さんが言ってるのは「一ヶ月が15日の暦がある」ってのを「一ヶ月を15日としてた場合は、12ヶ月は約180日となり、約180日=一年になるはずだ」ってことでしょ?
その解釈に関しては俺は違うと思うよ

過去には今の暦とは別の二倍暦や三倍暦や、十倍暦とかがあった可能性とかは別に否定はしないよ


ただ、一ヶ月が15日だったら1年は約180日となり、、、って解釈は俺は違うと思います
新月〜新月 約30日(これが旧暦の一ヶ月が約30日の理由)

ちなみに
新月〜満月、満月〜新月 約15日だから
新月〜満月までの15日を一ヶ月としてる暦があっても別に不思議じゃないよ
ただし15日を一ヶ月としたからって、一年が365日の半分の約180日にはならないと思うっす

13月暦ってのもあるけど、この場合も1年は365日ですよ
99美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 05:01:30
あとこれは違うかもだけど、もし昔は地球の自転速度が今の1/2の速さだった場合には
新月〜新月 15日
一年 約180日
になるとおもうよ

ポールシフトとかで過去に地球の自転速度が変わった説とかはあるにはあるっす

100日本@名無史さん:2008/01/04(金) 06:25:46
101太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/04(金) 07:31:44
>>98
>ただし15日を一ヶ月としたからって、一年が365日の半分の約180日には
 ならない

それはなる。普通にちゃんと計算してみろ。いい加減なことをいうなよ。
 15×12=180日  じゃないか?

自転がちがうときは確かにあったそうだ。3億5千万年前は1年が400日ばかり
あって地球の自転がいまより早かったそうである。珊瑚の年輪の日輪で判明
してるそうである。だがまず2、3千年くらい前ならそっちの心配はないと思う
がね。180日余での1年とは君はこれは否定しているが、古代マヤには1年が
260日の1.4倍暦という暦法がある。そんな単純に否定していいのかね? 勿論
古代マヤにも通常的なる農耕暦と云われている1年365日暦もある。

否定して1日が48時間あったそうだが、本当にそうなのか? そのさらなる理由
は?? またあとで質問しよう。
102唐松山:2008/01/04(金) 09:13:21
サガミさんの 記年は これでは?

仲哀  352年 4年
応神  356年55年
103サガミハラハラ:2008/01/04(金) 14:19:34
はいそうです。
104日本@名無史さん:2008/01/04(金) 14:43:34
つまらん! くだらん! あほくさい!
105ローガン:2008/01/04(金) 20:31:38
>>1
スレ主さんに伺います。
倍暦とはまあ、たとえば、一年を二年と勘定する事なのですか?
もしそうなら、記紀の長寿が説明出来ますね!
記紀が編纂された当時は倍暦の世の中ですか?それとも普通の暦ですか?
106サガミハラハラ:2008/01/04(金) 20:51:09
真実は意外とあっさりしたものなのです。
107極 ◆v6e4s/0I9s :2008/01/05(土) 07:00:41
>>105
編纂当時年齢を倍歴で記録していた人はいません。
日本書紀の編纂コンセプトの中に特定の期間を二倍にするなどの紀年上操作は確かに存在します、
それは該当の時代に二倍年歴などを使用していた根拠にはなり得ません。
当時の年齢記録作法が編纂時に忘失されていた可能性の示唆も的外れでしょう。
日本書紀は意図的に紀年を倍増・追加している箇所が存在するのは周知の事実です。
結論としては遠い時代ほど年齢を表記した理由を考えればいい。
108ローガン:2008/01/05(土) 08:14:25
>>107
意図的に倍増している訳か。なるほど。そういう暦があつたというわけではないのですね。

ではある部分のみ、倍歴で記載されている、其の論拠があればご教示ください。
109極 ◆v6e4s/0I9s :2008/01/05(土) 09:39:29
んー、何か勘違いしてるなー。紀年を倍増するとは…
何とか天皇の年齢や在位期間を50から100にしているという考え方ではありません。

古い時代のA天皇の在位期間50年は新しい時代のX・Y・Zの三天皇の在位期間50年に等しく、
A天皇の在位期間は信頼性がない…
ようするに近い時代を基準に紀年を過去の方向に倍増しているという考え方
110日本@名無史さん:2008/01/05(土) 09:49:45
ここはコテハンさんたちの憩いの場なので
真面目に議論したかったら地下スレにいった方がいい
111日本@名無史さん:2008/01/05(土) 10:00:53
日本書紀をチェックしたら応神40年1月24日という日付があった。
112ローガン:2008/01/05(土) 10:15:27
>>110
ああそうでしたか。空気を読めず失礼しました。
113太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/05(土) 10:55:34
>>111
「私本日本書紀」という現代語訳のサイトを見てみたが、そのとおり24日に
なっているが、拙者の「日本書紀」(武田祐吉 校註)では10日になっており、
ピタリ2週間相違がある。1ヶ月を28日とした場合、半月分ズレていることに
なる。 孝安即位でもかようなことがあったが、別本か?
114唐松山:2008/01/05(土) 17:13:33
応神 四十年春正月,辛丑朔戊甲, 天皇召大山守命、大鷦鷯尊,問之曰
甲子,立菟道稚郎子為嗣.
菟道稚郎子の立太子が 40年正月の事なら 甲子日は 24日と成る。

全て 朔、月齢を基準に書かれています。
この 朔を 1日と読み替え 朔と関係ないとする 太国さんの読み方に 理は有りません。

月が変わった場合は 月も入れるが、月が変わらなければ日にちだけ 入れる。
太国さんの読み方に 理は有りません。
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/05(土) 20:08:52
拙者の理じゃないですよ。武田氏に拠るんですから、そっちへ言って
くださいよ。神典と大成経を見ると24日の記載だね。干支の変動
を観ると1ヶ月まるまるあったなら24日ということになる。どうだったのかね・・・? しかもウジノワキイラツコは即位してない。今回は
武田氏のが10日になっていたことで見落としだったがね。 暦法の
変更は次代即位にてあるから崩御年は変わり目で編者側で何か辻褄
が合わない事由があるようだ? 他でも変わり目では日付が変な箇所
がある程度見られる。
永く紀を眺めてると、ど〜うも崩御年のみあたりは月後半の記載が
なぜか多い? ところで24日だと、佛伝以前では最も数字が大きい
日の立太子だということになる。立太子の記録では殆ど月前半だからね・・・。次は垂仁の19日だけくらいで他は全部月前半にある。
116日本@名無史さん:2008/01/06(日) 17:52:52
履中天皇の死亡時の年齢も変な事になっている。
117唐松山:2008/01/07(月) 17:50:14
反正天皇 六年春正月,甲申朔丙午,天皇崩于正寢
書紀の 日付けが おかしい
6年正月は、戊申ではないか?
118唐松山:2008/01/07(月) 17:52:23
訂正
反正天皇 6年正月は 戊申朔ではないか? に訂正
119太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 18:18:51
>>111
今回は武田先生の「日本書紀」でウジノワキイラツコのその日は1/24でなく1/10
になっていたためで、後者のことしか思っていなかった。

崩御あたりはほかでも数字が月後半とやら意表をつく日数になっている記述が
わりかしあるのだが、唐松山氏は砂漠のオアシスのつもりなんだろう?w
しかしその水も枯渇となりうるもののようだ。

この1/24の件はおそらくだが、應神崩御により先帝の時代の暦法に戻そうと
したことから、崩御のほうが少し後の日付でも崩御年から通常暦でやろうと
したことからの結果であり、月後半の日付になったのではあるまいか? 仲哀の
時代は通常暦であったからだ。ところが仁徳即位において、通常暦をなぜか取り
やめて3倍暦法を應神から続けて採用したもようである。このへんの時代は仲哀
を除いて3倍暦法行使が神功から継続していたようである。そうでないと武内宿禰
の寿命が200歳を超えてしまうからありえず、仲哀世以外通常暦もまた2倍暦も
ないと言える。景行世は2倍暦運用である。
武内宿禰は皇寿の寿命であった。
120唐松山:2008/01/07(月) 18:48:20
仲哀の時代は通常暦であったら
神功が子を産むまで 年月がかかり過ぎ

まあ人事だから あまり突っ込まないが。
121太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 19:45:14
>>120
出産まで13ヶ月は仲哀の通常暦法から神功の3倍暦移行による説明で、昨年終り
ころ説明してます。そうすると2,3ヶ月詰まりますから通常の女性の出産とほぼ
同じ期間となり、おかしくないです。
122太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 19:58:49
>>116
詳細に説明されたい・
123唐松山:2008/01/07(月) 20:02:00
神功が仲哀の妃に成ったのは 仲哀2年
神功が応神を生んだのは 仲哀8年

子作り第1とするなら 丸6年は長すぎ
他に妾を連れて行って 其方に子供が出来ても良い?
124太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 20:16:04
>>123
これはあなたの恣意的選択。現皇太子妃も長かったんじゃないの?
125唐松山:2008/01/07(月) 20:50:38
現皇太子妃は 年齢がね...  だから

江戸時代なら 6年は 産づ女 として処分? かも

太国さんの 暦年は 見直し? それとも 反正6年と同じく 書紀の間違いで乗り切る?
反正6年は、日数が合わないが ウジノワキイラッコの1月24日は 日数は合っている。

反正天皇元年春正月,丁丑朔を 0 として
六年春正月, 戊申なら 62ヶ月 1831日 1ヶ月平均29.533日
閏年は 2、4年の2回


126太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 21:15:26
>>125
ワキイラツコの日数は合ってると云ったって、干支空亡の空回り
かも知れんよ。無なる14日間の空転でも干支は月の運行でないから
可能だよ。その間も干支は変動してるからね。

應神紀は天皇崩御になる前、先の1/24のほか記録はすべて1日〜14日
の2週間に収まっている。このことは当時の1ヶ月が14日間しかなか
った可能性が大きい。となると應神崩御日にその1/24はさて置いて始
めて14日の次日の15日崩御の日付が出る。崩御日と1/24という15日以降の日が應神紀では崩御年に来て、始めて現れた日付であることとなり、このことは天皇崩御により、皇紀970年から同972年までの時は
先帝仲哀の通常暦法で行こうとした天皇の取り巻きの為せる業なる
も、973年仁徳即位にて通常暦は何の事由だかは不明だが取りやめと
なり、應神崩御年以降と仁徳即位以後も神功世からの3倍暦継続を
施行したということになると思う。
127日本@名無史さん:2008/01/07(月) 21:25:03
ヤリチン秀吉に子供が出来たのは晩年らしいですよ
128唐松山:2008/01/07(月) 21:42:32
応神紀に 朔の有るのは 全部で9個 数学的に見ても異常ではない のでは?

書紀の何処かに 「朔は新月の事ではない」とか書いてあるんですか?
朔と朔の間は 干支を数字に直すと 29日か30日になっていますが? 月齢と関係ないと。ましてや
 29,30と言う数字とも関係ない 当然年数も数えられない(此れは私も同感)

私は 太国さんの暦年をその様に理解しています、反論、間違いが無ければ 返答無用。
 
129日本@名無史さん:2008/01/07(月) 22:20:03
橋場製造秀吉
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 23:19:41
>>128
朔は後に紀の編者らがつけたものですから精密計算は確実だった
ようで、9つもつけることができますよ。原書にあるいは原書のまた
以前の某人が天体観測をして記録した記事じゃぁないでしょうが?

そうならば月蝕の記事のほうは特殊な朔と言うべきもので、当然
原書かそれ以前の某人が特異ということで記録も手を抜かないで記録
するでしょうが? 舎人親王配下の者らが正確なる精密逆算での
後付けの記録なわけですよ。その裏付けということで、そのへんに
ひとつも月蝕記事が0ですよ。
131太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/07(月) 23:29:25
唐松山さん
蟻の大群のように朔が紀に記録されてるのに、月の女神ダイアナ
(大穴)ではないが、特殊な朔である女王蜂(月蝕)がないんでは
おかしいではありませんか?

当時も欠損、穴のあいた月食があったでしょう。
132日本@名無史さん:2008/01/08(火) 10:18:04
履中天皇は15歳で皇太子なり、即位した時の年齢は71歳。
死亡した時の年齢は70歳。
133太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/08(火) 11:04:04
>>132
仁徳の時代は3倍暦を行使しており、履中世は2倍暦に変更しての暦法をやって
います。ということで、実際は9歳で立太子、28歳で即位、崩御時は30歳です。

それ、即位が死亡より歳が上であるわけがないです。
134唐松山:2008/01/08(火) 19:52:32
歴史書に 月食が無いのが そんなにおかしい事なのか?
現在の 天文学専門の 歴史を書いた物にも 載っていないだろう?
現代の普通の歴史書に 月食が載っていたら 教えてください。
135太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/08(火) 20:16:26
いやぁおかしいですね。そんなはずはないでしょう? 月蝕なんか
特殊な朔のようなもんじゃありませんかね? それが原書の作者の
それ以前の月観測者からの記録ならば、朔のほか特殊な朔たる月蝕
を奇異と感じて原書に書きこむでしょうがね?

紀の編者が精密計算の逆算にてえらく正確に紀に書き入れて決めた
ものでしょうが? ところがいくら正確でも月蝕の発生のほうは未だ
メカニズムがイマイチだったということと、正確精密にての月蝕日時
を求められなかったということですよ。だから月蝕の記録がないわけ
ですわ。つまり後付けの算出記録ですよ。
136日本@名無史さん:2008/01/08(火) 20:29:46
日本書紀の原文を確認不能てどんだけ金ないんだよ
137唐松山:2008/01/08(火) 20:30:12
だから 現代の歴史書にも載らない 些細な事を 
1年に1行も無いような 粗い歴史書に 月食を求める 意味がわからない?
それよりも
1059己亥  419己未  仁徳崩御
仁徳崩御の 少し前に 高句麗の広開土王の 碑が立つ
倭軍ぼろ負け そんな時に あれだけ大きい陵墓建設 できるの?
138太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/08(火) 20:39:21
その倭軍は九州王朝ですよ。だからおかしくはないでしょう。

現今の歴史書等と較べっことは事情が異なるでしょうが? 紀の原書
での朔は、これが天体観測を毎回行って記述したとは言い難いという
ことですよ。もしそうなら関連の特殊な朔たる月蝕も観測記録として
原書に入れますよ。29日余の小数点の精密値はしっかり彼らは知悉
していたから逆算できたわけです。
139唐松山:2008/01/08(火) 20:54:55
倭軍が九州で 仁徳が畿内 と考えた時
仁徳の 経済力の 元は 何処にあるんですか?
応神稜の建設で 蓄えは使い果たしているはず。
本当は 労働力で 考える方が 正しい のだが 

応神稜建設の 労働力は、半島から連れ帰った奴婢を使ったが 陵墓建設終了後
奴婢達は 各地に入植された為 畿内の労働力に 余裕が無い。
私はこの様に考えています。 神様を労働力としては使えないから。
140太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/08(火) 21:02:50
それは何とも? だが、仁徳は高台から統治域を見渡して竈のケムリ
が全然出ないので、これは住民が貧困だろうと思ったわけで、宮殿も
雨漏りしたのか修理もせずに人民が富むのを待ってたそうじゃない
のか? 富んで来たからいったん税納めを保留してたのを再開したん
でしょうがね? ならば何とかなるでしょう。
141唐松山:2008/01/08(火) 21:19:08
だから 人足が 畿内に 居ないんですよ
半島から 人足の供給が 止まってしまったんですから
各地へ散った 人足を再集結させるには 各国造から了解を取り対価を払わなければ成らない
3年ほど貯めた分は 建物の補修に消えてなくなる。
まあ この時点では 建物の補修も終わっていますから 作稜が主となりますが。
人足と貨幣(鉄板)の不足は明らか。

142太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/08(火) 21:27:02
仁徳の「税収と人足」の不足がどのくらいかは感知はしていません
が、実際仁徳陵を造ったのは後の帝の時代でしょう? 例外はそれは
あるわけですが、だからそっちの時代を調べなければ資金不足か否か
の真の実態はわからんでしょうが? だから仁徳世の人足等が不足だ
としても、その時の件は無関係に近いではないですか?
実際仁徳陵が存在してるんですから、資金繰り出来たことは疑いない
でしょう。
143唐松山:2008/01/08(火) 21:29:21
西暦400年までなら。
144美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/11(金) 00:01:44
>>114
「1ヶ月が15日ぐらいしかない」
とかの理由なんとなく解った

時間だけじゃ無く、日付も12干支とかの表記だから、12干支にまんま数字を当てて「12日しかない」みたいな解釈になる訳かあ
145美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/11(金) 00:21:28
俺、甲子とか丑三とかの数え方を良く知らないから偉そうに言えないけど
干支は10進法と12進法との組み合わせで60進法とかそう言う奴かあ

日本や古代中国は
・暦や時間などは12進法
・ものを数えたりする10進法

この辺りをキチンと使い分けてた気がするよ
やっぱ少なくとも俺より頭いいよ
146美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/11(金) 00:29:13
日にちまで干支表記だったなら、旧暦や干支と天体運動との関連性を読み解くのは、俺が思ってる以上に難しいなあ


十二干支は12進法に置いての数値を表した単位みたいな事にも使ってたんかあ
日本語には英語などにある12進法の名残の「トゥエルブ」の呼び方が無いのが気になってたけど
12進法の場合は干支で数えてたって事かも知れないな

暦にしろ○○進法の観念にしろ、やっぱ昔の人はすげーなあ
147日本@名無史さん:2008/01/11(金) 02:52:47
なぜ口当たりのいい事だけつまみ食いして
基本的なことを勉強しないのか?
148美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/11(金) 10:51:36
>>147
俺です?
グレゴリオ暦がなんだとか、月は19年周期で同じ満ち欠けでそれがなんとか暦だとか
そっちばかりいろいろ調べたり考えたりしてたっす
365を12で割ったり13で割ってみたりとかw

そんなんより数字じゃなく干支表記とか、基本的な事をわかってなかったっす。おれ。
難しいっすよ
149唐松山:2008/01/11(金) 19:06:11
もん太君へ 進呈
暦日(E9=皇紀)  =INT(INT((E9*365+106)/29.53059+0.3)*29.5306)+8305
皇紀1年=8777 暦日に成ります。 これを 1月1日の朔の干支に直す
朔の干支(F6=暦日)=CHOOSE(MOD((F6+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((F6+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
皇紀1年1月1日=8777日=庚辰 になれば 正解
朔の廻しは とりあえず合っていますので 神武元年1月1日として 使う事 ただし
200年、400年と 長く使うと 閏年が狂ってきます(前年の13月になる)
式を見て解かるとおり 19年7閏 を崩さないようには出来ていない式です。
19年7閏は 絶対崩さない事。
成務で 閏が狂うので 8年間の 空白を入れると合う。

ほつま には暦を 「梓に彫りて奉る」 と出ています
つまり 古代の暦は 木に彫った印だけで 使えるもの
19年7閏6940日(6939日) あれば 永久に使える。

ほつま の干支 
=CHOOSE(MOD((AC3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((AC3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")
150日本@名無史さん:2008/01/13(日) 12:43:44
自分は成務天皇と同じ日に生まれて、仁徳天皇と同じ日に生まれた息子が居るとは、
竹ノ内のじいちゃん元気すぎ。
151唐松山:2008/01/14(月) 11:26:31
迷想 続き 3
西暦273年 神功元年 治世18年間
西暦293年 仁徳 誕生
西暦294年 応神元年 治世41年間 
西暦297年 菟道稚郎子 誕生
西暦308年 応神15年 菟道稚郎子 百済人より文字を習い始める。
新羅 312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず 太子菟道稚郎子の妃
二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢
西暦334年甲午 応神崩御 聖寿63歳
西暦337年 仁徳元年 治世68年間?
新羅 344 倭国が花嫁を求めたが辞退
新羅 345 倭王が国書を送り国交断絶
西暦352年 履中 誕生
364 倭兵が大挙して侵入  仁徳稜建設の為の 人足集めか?
西暦367年丁丑 古事記による 仁徳崩御 聖寿75歳
西暦372年 反正 誕生
西暦399年 允恭 誕生
西暦400年 履中元年 治世6年間 ここから西暦の干支と朔の干支が合う
402 倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
405、 407、408 倭兵が侵入  人足集めも余り上手くいかない?
西暦412年 允恭 即位 14才
415 倭人と戦い勝利 414、広開土王碑
木梨輕皇子與輕大娘皇女的戀情 二十三年春三月
西暦420年 穴穂 誕生
西暦452年 允恭崩御 聖寿54歳
西暦453年 穴穂即位 34才
西暦456年 雄略即位 15才 崩御37歳
西暦478年 清寧即位 19才 崩御24歳
西暦483年 顕宗
152太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 13:03:48
仁徳崩御に古事記を云うなら、次代の履中即位まで33年もカカルなんておかしい
事甚大である。さらに女王国九州説の説明がいつも音無しの構えで毎回無いから、
卑弥呼の時代が景行の時代になるという説得力は具体的説明が出て来ない限り、
まるでないね。
153日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:43:26
とりあえず 卑弥呼=景行ね
ホ38167  カシハヲノイシ ながさムタ はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり
とびあがる かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ

刀自3度の高熱 一度の息 ...
この母(刀自)が 卑弥呼
彼 住吉直入神 が 弟
死亡したので社を建てて祭る
なお 宗像=住吉=八幡 と考えて
姫大神は 沖津島姫、市岐島姫、辺津島姫の 3女神に卑弥呼を合わせたもの
少し前に 地方の八幡神社に この前記3女神が 祭られている事を見つけたので書きました。
現在の祭神と 少し違う所が 興味ある。
(こちらも 元を再掲載しましょうか?)
編年に忙しくて 同じ事を何度も書くのもと思いとばしてた。 
仁徳から 面白いので 又書く。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 14:48:35
無コテは唐松山さんだろう? 風邪でも引いてるのかね? それがしもこの二日間
は鼻かぜと咳。今日はだいぶいいが? ご自愛下さい。
155唐松山:2008/01/14(月) 15:34:23
シナリオ 1
菟道稚郎子が 百済人より文字を習い始める。
そして 新羅から花嫁を貰う 太子菟道稚郎子の妃と成る。
そうすると 28年 新羅の使者を追い返す。
まず有り得ない
王朝内部で何が起こっていたか?
新羅派と百済派に分かれ 双方の駆け引き
一応 百済派の 勝ち 文字を百済派が独占
応神の崩御時 菟道稚郎子の即位を拒む者の出現
仕方無く 仁徳が即位する
仁徳の崩御 
履中は 年齢から見て 仁徳の子供ではなく 菟道稚郎子の子供
仁徳の後を継ぐ者(百済派)が居りません。
仁徳の崩御後 履中が即位するが 百済派がこれを認めたのは、31年後。
履中を仁徳の子供という事にして 認めた。

とりあえず こんなシナリオ。
156唐松山:2008/01/14(月) 15:41:52
続き
継体 応神5世孫
私の 年数からは 不可能
現実は 履中の5世孫 である。

迷想もここまで来ると すばらしい。
157太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 18:13:31
百済が認めた歳と崩御年は別のものでしょう。w
31年も天皇がいなければ摂政とかが立ちますよ。
158日本@名無史さん:2008/01/14(月) 18:26:02
神功が現実に摂政した。 とは思えない
仁徳の 時代を延ばして 辻褄を合わせる。
似たようなもんです。


159日本@名無史さん:2008/01/14(月) 18:44:31
又は
応神末ころ 菟道稚郎子に 子共@が出来る
幼少の為 仁徳が継ぐ
仁徳16年 其の子供@に 次の子Aが出来る=履中
其の子@が仁徳を継いだが 抹消される。
次のA 履中からは 記録される。
菟道稚郎子には 謎がある。

160太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 20:16:29
>>158
君のは滅茶苦茶。君は死ぬまで真相がわからずすごす迷宮の迷い人。w
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/14(月) 20:31:33
>>158
貴方は唐松山さん?? もしそうなら、あまりにもデタラメが増幅
しています。神功摂政が信じられない記紀不信者であられることに
なるのだが、これではサガミハラハラさんの應神現実即位とやらと
やり方は違うものの、共通性の思考に到達しており、大間違いは
当選確実。
162日本@名無史さん:2008/01/15(火) 10:06:25
神功皇后が摂政になったのは辛巳。
応神天皇が即位したのが庚寅。
神功紀は実際の年数に暦が一周する60年を足して膨らませてる。
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/15(火) 10:58:17
>>162
繼體即位 507年 は 丁亥年 だが、繼體の時代以降は2倍暦をやってるので、
即位年は14年詰まり、別に影で消極的に倍暦の干支があったとすれば、即位年は
521年なるも、ここをそのまま 507年 として倍暦干支を当てると 507年は
辛丑 となる。應神、仁徳世は3倍暦の時代であり履中、反正は2倍暦であると
それがしは前々から主張しているもので、さらに允恭〜武烈世は通常暦法の時代
であることをも説明して来た。

このことから 507年 を倍暦干支 辛丑 として、以前の古代を【通常暦】にて
逆算で当てて行くと、應神即位はやはり紀の記述どおり 庚寅 に合致するので
ある。紀の編者らは14年の繼體世以降の倍暦とする紀の原書のどれかに 507年 
相当箇所が 丁亥 でなく、倍暦干支の 辛丑 にて書かれているのを採用して、
同即位から通常暦しか考えてないのでストレートに逆算して 庚寅年 を應神
即位とした、と同時に、最初からどれもこれも通常暦だけを信じて通常干支を当て
ての逆算でも、君のいうとおり同一の 庚寅年 になることも確かだったもので、
倍暦の干支があるなどとは露知らず、原書の説明不足も手伝ったんだろうが、
倍暦干支は霧隠れの状態になったままでいたというのが事の真相である。

つまり應神即位ではどちらでも 庚寅 を指すのである。507年 からの逆算で
全部拙者のいう倍暦逆算での倍暦干支当てだと、應神即位は別干支の 丙子 と
なるのに注意。
164唐松山:2008/01/15(火) 17:30:33
とりあえず このスレで 吾が脳内嵐 ブレーンストーミングを行って

再出発しないと 常識なる編年に流される。

それでも 考慮しなくては、ならない範囲だと思っている。
165日本@名無史さん:2008/01/15(火) 17:57:52
応神天皇死亡年齢−統治期間−60=神功皇后の統治期間
166唐松山:2008/01/15(火) 18:30:48
百済国の自出は
梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷 東夷 百濟  に拠ると

馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戸,百濟即其一也。後漸強大,兼諸小國。
晉平二郡地矣,自置百濟郡。晉太元中,王須
西暦251年(呉太元1年)頃 王須が 百濟郡を置く。
と書かれています。
魏の滅亡(西暦265年)を以って独立?
神功渡海が 西暦272年
倭と通好を結ぶ。 
任那は倭が治める。
新羅は 其言語名物有似中國人,
と書かれており 「建国始めから漢字を使えた。」と思います。
其の分 国の経営はしっかりしており、倭の提案を受け容れない。

新羅 287 倭人が侵入
295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
300 倭国と国使を交換
312 倭国が王子(ウジノワキイラッコか?)の花嫁を求めこれに応ず 

私は この辺に合わせていますが 
太国さんは、 神功= 346 近肖古王即位の 近くに設定しているようですが
百済の歴史は、 近肖古王即位以前の記事 は全く信用置けない。
となれば 其の後も 全く信用が置けない となる
そもそも 近肖古王なる 名の王は 存在せず 肖古王が2人居る歴史書です。
167日本@名無史さん:2008/01/15(火) 19:20:59
                                                 
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知ら城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名だったのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いていた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
 小国の『韓』だけが相手なら、漢朝は、問答無用で『韓』を武力制圧し、真番郡や臨屯郡に併合していたはずだ。
だが、実際には併合しなかった。これは、『韓』の背後に『倭』がおり、漢朝が『倭』との友好関係を
重視したためである。
 つまり、漢朝が『韓』の独立を尊重するかわりに、宗主国『倭』に対して「親漢外交」「朝貢」を
求めたのだ。そして、『倭』も漢朝の要求を受け入れたわけである。これが『韓(カラ=シラキ)』が独立を保てた
真相なのである。

168唐松山:2008/01/15(火) 20:02:58

梁書卷五十四 に書かれた 百済より 以前は、邑=国 の時代でしょ。

新羅がこれより早く 「建国されていた」として シノギはなんですか?
全体を纏めるシノギが無ければ邑=国の時代。
そこに任那日本府なるものが存在したとして やはり シノギが問題となります。
169太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/15(火) 20:25:40
>>165 紀から数え年方式で

A=応神天皇死亡年齢=970年(崩御)− 859年(誕生前年)= 111歳
B=統治期間=970年(同上)− 929年(即位前年)= 41年
C=60年(還暦年、干支一巡年)

A−B−C= 10年(神功皇后の統治期間)


神功皇后の統治期間=929年(崩御)− 860(立摂政皇太后前年)= 69年

 10年 ≠ 69年  ???
170太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/15(火) 20:36:08
ああそうか? 神功皇后の統治期間も60を引くのか〜? だと、
1年ズレは数えと満年齢の相違での誤差か? 数え計算だと10年と9年で
1年違うから、偶然だろう??
171唐松山:2008/01/15(火) 20:51:55
私は 神功39年を以って 「それ以前の 暦の使用方法を変えた。」と考えています。
そうすると 後は 重ねるか 何かしないと合わない
それから 「暦は 昔から数えられていた。」 と主張していますから、
現在まで続く暦とは 段差がある。 「書紀に段差なし」この辺も伸長の一つ

仁徳の空白とは 関係なし。 
この辺は ウジのワキの?で 考えています。
お互い 努力あるのみ 
172太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/15(火) 21:15:37
どうやら古代日本は当時幾度も暦法を変えていたというのが真だと
思います。サガミハラハラさんは当時2倍暦をずっと行使していたと
する考えで編年してますからどこかにえらく不具合が出るわけで、
それであっちに水増しこちの水増しとかがあると想像しているもよう
でしょう? これは失敗だと考えますがね?

古代の世界の暦法を観てみますと、かなり暦法の変更は重ねていたよ
うで、最初から最後まで(せいぜい太陰暦から太陽暦への変更は認め
るものの)同一の暦法であったと考えやすいのが暦を考える素人さん
でありましょう? だから少しでも変わった暦法を云えばデンパだと
か云い出して信用しないのが素人の現代人の頭脳かと思考します。

たとえば古代ローマでも最初は1年が304日の10ヶ月暦法であっ
たそうで、その後暦法を変更して2ヶ月はさんだということだそう
です。これがロムルス暦であり、その後ユリウス暦となり、次いで
時代は経過しアウグスツス帝改正があり、1500年以上経って
グレゴリウス暦にまたもや変わったとなっています。其の年の1582年
は10月は改正のため10日間ほど空白の日数を作り現今に来てるもの
ですから、暦の空白も毎回の暦法改正も、むしろかなりあったと考え
るのが正解でしょう。
173唐松山:2008/01/15(火) 22:10:55
ユリウス暦は、19年*4+1日 (6939日*4+1日)
この 太陰暦を 24節気(太陽暦)で数えた物
長く使われた様に 非常に安定した物です。 不安定な暦は不要。
しかも 文字も良くしない 倭において数学が有ったとも思えない。
雨や曇りの多い倭において 観天も毎日は出来ない。
そうすると 暦は輸入品しかない。
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/15(火) 22:22:59
>>173
>倭において数学が有ったとも思えない。

有ったでしょう。弘計尊はひろく計算する意味の御名、億計尊は
億の計算をする意味の御名。計算不能なら八百万神とか179万余年
とかの記述も書かんでしょうし、即位崩御等の年月日もキチンと
紀にあるんだから、それが分かるくらいなら数術はあったでしょう。
175日本@名無史さん:2008/01/16(水) 02:19:00
天孫降臨から神武の東征の頃まで1792470余年という年数の覚え方

179年から247年(卑弥呼の死んだ年)までが69年間(神功の摂政期間)
176サガミハラハラ:2008/01/16(水) 09:07:55
179万云々は唐の時代に、宇宙が1巡する時間だという説をきいたことがある。
177 ◆ZXCFJZBCEA :2008/01/16(水) 09:47:22
手元の倭姫世記を確認してみて
ニニギ 318542年
ホホデミ 637892年
フキアエズ 836042年
とあって合計が1792476年になるみたいだね
178日本@名無史さん:2008/01/16(水) 09:52:18
太国さん、応神天皇の死亡年齢は110歳では?
179太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 10:12:34
>>178
>>169のAから数え式には111歳となる。満でやるなら

  970−860=110   だろう?
180日本@名無史さん:2008/01/16(水) 10:22:50
当方所有の日本書紀には110歳死亡と記述されてるが、太国さんの方は?
181太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 11:42:10
>>180
110歳となってるのもあるよ。気にするな。
182日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:06:19
紀元・暦法を集めるスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496 (dat落ち)

143 :あやめ:03/05/15 16:11
 >>120 >>121 >>123 >>130 >>133
 神武天皇即位の年を179万2474年とする「天孫紀元」なるものが話題になっています。
 何だか素性の知れないトンデモな感じの紀元ですが、戊寅歳からスタートするとか
 言ってる向きもあるようなので、どこからこういう説が出てきたものか考えてみる
 ことにします。
 先ず思いつくのは「日本書紀」の「神武天皇即位前紀」の次の記事です。即ち磐余彦尊
 (神武天皇)が一族に向かって東征を宣言する語の中に、「天祖の跡を降せしより今に
 逮(およ)ぶまで一百七十九萬二千四百七十餘歳なり」とあります。江戸時代の国学者
 伴信友は「比古婆衣」という研究ノートに収録した「日本紀年暦考」で、契冲の校本に
 この部分を細字と注記していて元来は傍書であったと思われるが、後に本文の中に
 竄入してしまったものだろうと論じています。これに対し岩波文庫の書紀の補注は
 「弘仁暦運記」や「舊事紀」にも同文が見えるので、強がち排除する必要はないとして
 本文の一部と認知しています。
 「日本紀年暦考」は更にこの数字の根拠を尋ねて諸書を渉猟した結果、平安末期から
 室町初期に亘る多くの文献に瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鶿草葺不合尊の三代の治世
 年数の記載が見え、それらを合算したものが正に1792476年となると説いています。
 詳細は次回のレスで
183日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:06:58
日本書紀の原文無ししかもってないとか考えられない馬鹿だな
184日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:07:52
151 :あやめ:03/06/15 13:04
 「日本紀年暦考」が参照している載籍は主として次の諸書です。
 括弧内は略称、数字は凡その成書年次です。
 「倭姫世記」(倭)1296「帝王編年記」(編)1301「元亨釋書」(元)1322「簾中抄」(簾)1330
 「神皇正統記」(正)1340「佛法和漢年代暦」(佛)1350「神代巻口訣」(口)1367
 「應安本年代記」(應)1370「皇代記」(皇)1380「東寺年代記」(東)1436「壒嚢抄」(壒)1445
 「寛正本天神祇王代記」(寛)1465「文正本年代記」(文)1466「文明本王代記」(王)1486
 「日本運上録」(運)1591「文禄本年代記」(禄)1595「倭漢合運圖」(合)1611

 偽妄三神世暦年説
 ○瓊瓊杵尊
 31萬8542年  倭・編・元・簾・佛・皇・東・壒・寛・文・王
 30萬8533年  正・口
 31萬8541年  應
 31萬8543年  運
 なお伴信友はこの最後の年数の最下桁の3は実は2の誤写であろうと言っています。
 理由は「運上録」は次の2代については「倭姫世記」以下の諸書と全く同年数を採って
 いるからだという点を挙げています。
185日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:10:25
152 :あやめ:03/06/15 14:00
 偽妄三神世暦年説の続き
 ○彦火火出見尊
 63萬7892年  倭・編・元・簾・佛・口・應・皇・東・壒・寛・文・王・運・禄・合
 63萬7893年  正
 63萬7890年  文
 ○鸕鶿草葺不合尊
 83萬6042年  倭・編・元・簾・佛・皇・東・壒・文・王・運・禄・合
 83萬6043年  正・口
 82萬6040年  應
 83萬5676年  寛

 信友は各代とも最上段挙示の多数説が原文であって、他は写誤と断定しています。
 そしてその合算値  318542+637892+836042=1792476 が「書紀」の記載と合致し、
 偽妄説の淵源であるとしています。

153 :あやめ:03/06/15 14:24
 信友は諸書に記載されている神代の年数も挙示しています。ただし國常立尊から
 諾冊二尊に至るまでは極めて大雑把な数字しか見えません。天照大神については
 「應安本年代記」と「文禄本年代記」が5028萬7607年と細かい数字を掲げ、
 忍穗耳尊については「寛正本天神祇王代記」は88萬3929年「文禄本年代記」は
 5028萬7607年と天照大神と同じ年数を記載しているそうです。
186太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 14:25:00
それは365倍暦かも知れない? 西遊記は365倍暦を記述している。天上の1日は
地上の1年という考えでの物語構成である。人参果の説話も倍暦の示唆だろう?

ただし神代でいつもそうだったとは云えないし、想像の行きを出てない。
火火出見尊は580歳とあるそうだから、これなど365倍暦ではないよう?

ウガヤ朝等があったんなら、179万余年はつじつまがかなり合って来るし・・・?
187太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 16:23:55
>>182 >>184 >>185
なるべく他のスレ人が呼んで、易しく分かるような書き方で願いたい。まぁ
こちらも分かりにくいとおっしゃると思いますので、それがしもなるたけその
ように心がけます。

そういう誇大数字は何か特別の出所がさらに奥にあるのでしょうが、こういう
数字よりももっと誇大数字をやっていたのが古代マヤ文明で、たとえば年月日
の単位での 1アラウトゥン からすれば、日本の179万余年の数字はこれと比較
してもっともっと膨大で、日本のほうはヒヨコです。こういう数字を古代マヤの
人達は使っていたということで、古代人は知能の段差がいまの現代以上に大きか
ったのではあるまいかとかように想っております。

佛者もそれ以上の数字を頻繁に使用していることは、各大乗経典を読めば
多々目にとまるもので、法華経など五百塵点劫、三千塵点劫とか比喩によりそれ
以上にべらぼうな数字を並べてるものですが、これのほうは抽象的数え方であり、
マヤのほうは具体的明確性ある数え方という点で相違があるように見受けられます。
188唐松山:2008/01/16(水) 20:18:03
ホ15160  クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ
フソヨヨロ いまたさかりの カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる
ホ28326  アススミソミホ カスガカミ モモヰソムヨロ フソヰなり
 フタヱにいわく わがヨハヒ 
ホ16160 オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり

古代の暦
百、万は 振り
その数え方で? 2重?
さらに 増し 一定の長さの中に 19年7閏の増しが含まれている。

ホ00063 オオンカミ モモナソヨロの トシをへて
おおんかみ 70歳 −8年=62才  まだ正解ではない。
189太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 20:21:23
どういう理由でその増しが必要になってるんでしょうか??
190日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:28:17
>>182 >>184 >>185
>なるべく他のスレ人が呼んで、易しく分かるような書き方で願いたい。

>>182>>184>>185は、どう見てもただのコピペな訳だが。
191太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/16(水) 20:32:27
>>190
あ〜そうですか。ならば〜 やむをえぬことのようで? 
192唐松山:2008/01/16(水) 21:22:19
今日は上手い物を食べた 拠って十年寿命が延びた 
この10年を 暦に組み込むと 増し。
八百屋のおっさんが 100万両の 大根を売っていた
この万両が 振り

こんなんで 真っ当な 暦を考える奴は 馬鹿か俺ぐらい。
193日本@名無史さん:2008/01/18(金) 15:33:55
安寧・垂仁・景行・成務の立太子時の年や年齢から数えていくと書紀の死亡年齢とに誤差が出来る。
194日本@名無史さん:2008/01/18(金) 16:30:15
仲哀天皇の死亡を8年9月5日死亡説を採ると、165の式が成立。

神功皇后の妊娠が分ったのは8年9月5日。
神功皇后の臨月は9年9月で、2ヶ月も遅い。
応神天皇の誕生は9年12月。
仲哀天皇の死が9年2月ならば、12月の誕生は普通。
石で出産を遅らせる必要は無い。
195唐松山:2008/01/20(日) 11:07:47
ヰソススの チヱのハタトシ アメかわる コヨミまだとて モノヌシが イセにもふでて これをとふ
アクルトシなる  ミタのアヱ なればフタヱト  キアヱより ヱとホとかぞえ ヒトヱムソ

50鈴の 1000干(支)の20年 天変わる 暦まだとて 物主が 伊勢に詣でて これを問う
明くる年なる ミタの合え なれば2干支 キアエ(甲子)より 干と支と数え 一重60年

この キアエ(甲子)年 は アスス暦元年で 「皇暦元年(神武元年) 」は アスス暦58年です。
神武誕生は アスス5年頃。
これ以前の暦は 50鈴という事になりますが それ以前に 暦は有っても暦に名前の無い時期もあります。

あれませる アマテルカミそ フソヒスス モモフソヰエタ トシキシエ ハツヒほのほの いづるとき ともにあれます
現れませる 天照神ぞ 21鈴 125枝(干支) 年キシエ 初日ほのぼの 出るとき 共に現れます。
196日本@名無史さん:2008/01/20(日) 12:08:57
応神天皇の立太子は摂政3年で、その時の年齢は3歳。

応神天皇と仁徳天皇には名前を交換したという伝承があり、それぞれの兄弟の忍熊王と大山守皇子は宇治川の戦いで死んでいる。
197日本@名無史さん:2008/01/20(日) 16:00:21
>>196
その情報は、どこからのものですか?
198日本@名無史さん:2008/01/20(日) 17:41:58
>応神天皇と仁徳天皇には名前を交換したという伝承
これでは、応神・仁徳親子がお互いの名を交換したように聞こえてしまう。

応神(誉田別)と気比大神(去来紗別)の名替え
仁徳(大鷦鷯)と平群木菟宿禰の名替え、だな。
199日本@名無史さん:2008/01/21(月) 08:52:34
名替えの補足、ありがとう。

情報は日本書紀からです。
200日本@名無史さん:2008/01/22(火) 01:24:52
>>196-198
なんだそれ?
千代の富士が引退して、陣幕親方になったと思ったら九重親方になってて
もとの九重親方が陣幕親方になったようなものか??
201日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:08:57
応神天皇を何処に埋葬したかの記述がなく(古事記には有る)、仁徳天皇が何歳で死んだかの記述が無い。
吉備の妃の話と枯野の話を古事記と日本書紀で比べると仁徳の時代と応神の時代が入れ替わってる。
202日本@名無史さん:2008/01/22(火) 11:38:51
品陀の日の御子、大雀、大雀
    by古事記
203日本@名無史さん:2008/01/22(火) 20:07:40
神代の歴史が、亜熱帯や熱帯なら
  180日を1年にする事に違和感ないな
204唐松山:2008/01/22(火) 20:25:20
月齢なら 6ヶ月 177日
180日の数え方に 違和感あり。
205日本@名無史さん:2008/01/24(木) 23:55:50
『ヤマトタケルの鹿狩りの信仰的意味』についてだれか分かる?
土地土地の神とか国土統治とか、草薙剣とか関係してくるの?
206古代:2008/01/25(金) 00:46:47
205
賊がヤマトタケルを鹿狩りに誘い出して火を放った、腰の剣があたりをなぎ払った。それで草薙剣と呼ぶようになった。
という話。ここでは土地の神は関係ない感じだけど。焼津の地名の由来が書かれている説話かと。
ヤマトタケルの東征の途中の話。
古事記では鹿狩りではなく沼にすむ悪神を退治して欲しいと頼まれる。
このあと伊吹山の悪神を退治に出かけるが・・
古事記では父王が「東の国はまだ荒ぶる神々が騒ぎ立て、反乱を起こしている。行って平定せよ。」と言ったので湖の神や伊吹山の神になっているが、
実際はその土地の平定であろうから国土統治に関係しているということ?
207唐松山:2008/01/25(金) 18:44:01
鹿と神なら 鹿島神宮
常陸辺りまでの先住弥生人は 日本武尊関東征伐の時 鹿島に依って治められた。
と言うこと?

関東西部、丹沢、秩父山塊の裾の開拓、入植は、この時から。
208日本@名無史さん:2008/01/27(日) 16:09:19
神宮皇后が神託を受ける際に審神者を務めたのが中臣烏賊津使主。

允恭天皇の命を受けて衣通朗女を連れてきたのが中臣烏賊津使主。

武内宿彌・葛城襲津彦・中臣烏賊津使主と応神朝は長生きが多い。w
209唐松山:2008/01/27(日) 18:39:33
武内宿彌 生誕 西暦240年 甘美內宿彌關於武內宿禰的讒言
応神9年 西暦302年 この年で 争う 元気
 武内宿彌の弟に甘美內宿彌が見つからない
嶋宿彌や甘美內宿彌は 九州出身ではないか?
 
210日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:27:26
>>209
日本語でおk
211日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:31:24

きっと翻訳エンジンを通してるんだろう
212日本@名無史さん:2008/01/29(火) 09:58:15
神功皇后に神託を与えた伊勢の度会の神の名は?
213古代:2008/01/29(火) 21:05:22
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命のことかな?
214日本@名無史さん:2008/01/30(水) 09:53:34
そお!
でも、九州から帰ってきて祀る神は天照の荒魂や稚日女になってる。

敏達朝で日祀部を置いたという記述があったり、天武朝でも倉橋川の川上に斎宮を作ったという記述がある。
伊勢神宮の歴史は、かなり上げ底になってるようだ。
215太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 11:00:42
佛伝以前は倍暦だから底は上がるのはどれでも全部そうなる。ただし通常暦法の
時代もあったから、その期間は別だがね。w
216日本@名無史さん:2008/01/30(水) 14:17:24
歴史の記録者である渡来人が倍歴なんて使うわけない
編纂時に担当者が10年を20年にしたんだろ
217太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 15:59:32
半島でも一時倍暦はやってるようだ。だろじゃ、お前の研究が出来てない話。
渡来人だってやろうろ思えばやれよう。もっと具体的にやらないならやらない
事由を言わないんじゃ、暖簾に腕押し。
218日本@名無史さん:2008/01/30(水) 18:36:45
太国は神武天皇の即位は西暦何年だと考えてるの?
219唐松山:2008/01/30(水) 18:43:04
私の 編年 仁徳治世63年間が 長すぎるとお思いの方へ
履中、反正、允恭は 磐之媛の子供と言うことになっていますが、本当に仁徳2年に后になった磐之媛の子供か?

仁徳 治世87年
履中 治世6年 77才 仁徳16生
反正 治世6年 60才 仁徳39生
允恭 治世42年 78才 仁徳63生
皇后:磐之媛命 仁徳三十五年..山背の筒城宮において薨去

しかも 磐之媛命は応神の子供であり 仁徳は腹違いの兄。八田皇女や雌鳥皇女(隼別皇子妃)も同じ
履中が生まれるまで14年、反正、允恭に至っては、磐之媛命薨去後。

仁徳 治世87年は長すぎるからと言って 只「短くすればよい」という問題ではない。
菟道稚郎子皇子(応神天皇皇太子)の后、子供が 書記から抹殺されている問題とともに 
「再考せねばならない。」問題だと捕らえています。
220太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 20:14:42
>>218
倍暦計上で、神武即位は西暦元年だね。通常の干支と倍暦の干支もともに
『辛酉』を指し、一致している。
十二支の『酉』は「西」と「一」の合字で、前者は西暦を後者は1年=元年を
示唆したものか?
221太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 20:19:32
そうそう、倍暦計算で、崇神即位は 237年=景初元年 だよ。
222日本@名無史さん:2008/01/30(水) 20:32:39
半島史は王莽に殺された朱蒙の時代を上限にしたので三国の歴史は軒並み延長されている
別に倍歴てわけじゃないよ
223日本@名無史さん:2008/01/30(水) 20:32:54
売国企業マルハン
2chでパチンコの大手、株式会社マルハン(代表取締役会長 韓 昌 祐、代表取締役社長 鈴木 嘉和、代表取締役副社長 韓 裕)
のスレで ホルコンや遠隔や桜などについて書き込むと工作員(渋谷マルハン社員、マルハンに依頼されたネット工作会社)(仮)
がやってきてスレを荒らしてスレを機能停止させます。(大量のコピペを連投するのでコピペ馬鹿と呼ばれている)
↓↓工作員の荒らしのやり方↓↓
2007/11/03(土)ID:b+XZQwwt0
マルハン難波店http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1146755003/417
マルハン総合スレッドhttp://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/413-416
MPT渋谷パート9http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1197771701/9
2007/11/14(水)ID:IQ2W+BsJ0 2007/11/15(木)ID:Fi5mVWm/0
マルハン総合スレッド 9http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/486-488
マルハン難波店http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1146755003/434-437
ガイア(笑)http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1178977365/490-492
ガイア正社員友の会http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188211786/134-138

工作員に荒らされ機能停止したスレ
■■■■マルハン総合スレッド 9■■■■http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187021165/
【山崎】MPT渋谷パート9【シャネル】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1197771701
【基地外が大暴れ4】エスパス日拓総合スレ【18発目】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188885488
MPT渋谷はマルハン・パチンコ・タワー渋谷の略です。

パチンコ産業は荒らすことでレスとレスの間を空けて読む気をなくさせたり
マネーロンダリング、さくら、ホルコン、遠隔、などの風評被害を最小限に抑えようとしてる。

新スレ→○○○マルハンパチンコタワー渋谷パート10○○○
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1201304777/l50

224太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/30(水) 20:37:53
>>222
もう一度よく調べて来い。そんな単純じゃないぞ。それに通常の暦と倍暦の
並用ってこともあるようだ。だから通常暦のようで倍暦があった時代があると
思う。
225唐松山:2008/01/30(水) 21:43:44
高句麗の歴史 初期は確かに長い
新羅の歴史  初期は確かに長いが 西暦100年ぐらいから後は 信用できる。
百済の歴史  歴史書何てモンじゃない メチャクチャ な代物
226日本@名無史さん:2008/01/30(水) 23:56:33
高句麗も上代は同一の説話を複数化してるのあるよね
新羅はどうかな?系図を信頼すると4世紀末からでない?
227日本@名無史さん:2008/01/31(木) 06:54:50
>>224
全くその通りだと思います。
228唐松山:2008/01/31(木) 18:19:25
倍歴なる物は 簡単につじつまを合わせるだけなら その様ににも見えるが
太陰暦と相性が良くない だから 本物の暦(太陰暦)に直せない

伸延された暦は 正しい暦に圧縮出来なければならない 何故なら
「正しい暦を伸延しても 正しい暦の如く見える」のが書記です。
「暦は無かった」とする方もおられますが 書記の記事は順番どうり並べられている
として 圧縮しているようですが暦がなければ 順番の正否も解らないはず。

 226さんへ
私の編年を見ていただけたでしょうか?
特に 新羅の歴史に合わせたつもりはありませんが 新羅本記と良くマッチする。
229日本@名無史さん:2008/02/01(金) 00:02:44
なんだこのスレはw
てっきり紀の漢籍潤色を論じる場かと思ったら・・・
コテハンども故小島憲之博士の著作でも読め
230日本@名無史さん:2008/02/01(金) 03:54:28
お金がないので無理
231日本@名無史さん:2008/02/01(金) 04:45:04
インチキ
232唐松山:2008/02/03(日) 09:28:40
神代の暦
神代の長さは 1020年+58年です。
読むことの出来る書物は、 ほつま伝
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm

ホ04012 ホツマクニ ヒカシはるかに ナミたかく 西より海を渡ってきました。
ホ04017 ヰオツギの マサカキもうえ  世継ぎの 暦です
ホ04096 あれませる アマテルカミそ フソヒスス モモフソヰエタ  
トシキシエ ハツヒほのほの いづるとき ともにあれます  天照大神の誕生
ホ28003 ヰソススの チヱのハタトシ アメかわる コヨミまだとて モノヌシが イセにもふでて これをとふ
50章の 1020年 天皇の代替り
スス=1章=19年7閏のこと
ホ28019 アクルトシ(翌年)なる ミタのアヱ なればフタヱト キアヱ(甲子)より ヱとホとかぞえ ヒトヱムソ

数字をほつま干支に直す=CHOOSE(MOD((E6-1),10)+1,"き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((E6-1),12)+1,"あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")
1=きあえ 1021=きあえ→この58年後が 神武 元年=私は西暦38年と見ています。

233日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:54:10
くぁwせdrftgyふじこlp;
234唐松山:2008/02/03(日) 11:02:06

元首 暦を数え始めたのは、いつか? 張培瑜は672BC(673BCの間違いと言う人もいる)と 主張しました。ので
西暦前672年を 朔旦冬至 として 章(19年)を数えるのが妥当ですが 少しの間 横に置いておく。

BC1020年は 甲子年に当たるので この年から 章を数えると
−678丙午、 ―70年甲寅、 ―51年癸酉、 ―32年壬辰、 ―13年辛亥、 7年庚午、 26年己丑 
−678丙午を覧る −1020年+19年*18回=−678年  張培瑜の672BCと 6年の差

西暦1年が 甲子年に当たる AC7年庚午から 6年前

神代と神武 を分けるのは、 西暦1年である。
神武 元年は 西暦1年より数え始めた アスス58年。

235日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:18:12
太国寝るな!邪馬台国はほっとけ。
さがりまくっているぞ。もっと書いてくれ。
236日本@名無史さん:2008/02/08(金) 03:36:45
太国さんへ
日付が月の前半に偏ることが二倍歴の根拠になる理由を教えてください
237太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 10:39:01
>>236
完全証拠にはならんけれども、相当の文証、根拠にはなりますよ。通常の考え
をするなら、月後半がなく当時の各天皇の寿命が百数十歳とズラリと並んで
いるならば、1年が今の半年だったんだろうということは充分主張できます。

ではありますが、当時の信仰と迷信、風習とかで月後半を物忌みから活動を避け
ていた為に、紀の仏伝以前の記録には月後半の記述が著しく少なくなってしまっ
たとも、これも充分言えます。ところが特に欠史八代間では天皇崩御に関して
は全部月前半であり、こういうことは自殺、暗殺等が多分に起きたんではない
限り、月前半に8回も連続して死亡日が全部集中するということはとても起こり
うる可能性は極めて、ありうる事とは言えず、このことは月後半を消極的活動で
生活するという事とは別個であり、生物学的にも全部が全部月前半に死ぬという
ことは考えにくいことから、これは倍暦をやっていたというかなり強力な文証
だと言えることと想います。それに八代は月前半と言っても、さらに突っこめ
ば、八代全部が上旬崩御となることから、2倍暦どころか3倍暦の可能性も
相当程度可能性があると言えるものです。
238太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 15:18:31
>>237 続き
それでは欠史八代間はどういう暦法でやってたのかと考えれば、通常暦だけか
2倍暦だけか、あるいは3倍暦のみというやり方の一本的方法をとっていたのか
と色々考えると、まず通常暦のみ単調にやってたとはその頃の天皇の超長寿者が
多いことと、この時代では紀の記録が全部月前半に位置すること、さらには
崩御は総て月上旬の記述になってることから総合的に考えると、まず一個一個の
代の天皇の月日数の記録が数個しかないことをも考慮に入れて、全般的に2倍暦
で全部やってたとか3倍暦で通していたというものではなく、個別に暦法を変更
して使用していたと考えるのが最も適切であるという考えに至る。

古代ローマの場合も、その初期では1年が10ヶ月という304日暦法であったが、
前46年にユリウス暦となり、前8年アウグスツス帝改正で1年が12ヶ月に変更と
なり、さらに1582年グレゴリオ暦法に変更となったように、日本でもそれとは
異質なるが、やはり暦法の変更が多く行われていたということが言えます。
239太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 15:28:41
>>238 続き
紀の記載を見て仁徳以前を考えるに、神武から仁徳までは2倍暦法を行使して
いたとの考えだと、かなりよく説明がつくんですが、それのみではどうしても
不合理の箇所がケッコウ出て来るんですよ。それでこの説の論者の多くは、途中
水増しがあったんだろうとか、天皇の父子継承はウソで兄弟継承だったんだろう
とかの説を採るようになって行くようです。天皇の超長寿の記載だけでも水増し
かと考えやすいところ、2倍暦を肯定してそこから水増しを考え、主張するなら
ば、2倍暦説を採る前に超長寿を水増しと考えたほうがよろしいんじゃないかと、
そういう倍暦論から水増しに行く考えは失敗ではないかと想っておる所です。
240太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 20:32:06
>>239 続き
九州から畿内に入った神武は、いろいろと畿内の反抗者と戦い辛酸の後に勝利し
初代天皇として橿原で即位したわけだが、彼は兄、五瀬命の戦死に非常に衝撃を
受けていた。命が五月に戦死したこともあって、迷信深い神武は即位において
大いに5の数字を嫌い、凶数とみなして、1年の暦において5月以降の月を削除
して1年としたのである。つまり当時は1年が1月〜4月までの四ヶ月しかなく、
これが朝廷における3倍暦の始まりなのである。今でいう1年が経過するのに
当時は実質3年分の経過しているということになる。

5数を嫌う他の理由は、神武以前、高天原では五月蝿なす暗黒、万の災いを避け
るためであり、5数から5月以降を無とする祓い目的に3倍暦の動機があったの
である。丁度方位、九星における五黄殺を凶方位とするのと似ている。そして
父帝の3倍暦行使を記念してか、次代綏は3日に立太子した。

3倍暦を行使していたから神武紀には即位以後は1月〜4月までしか記述がない。
神武崩御直後、綏は即位を待たず直ちに先帝即位前の元の通常暦に戻している。
241太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 20:49:05
>>240 続き
倍暦はどうやら通常の暦法と並行して使用してたようで、二重性たるものである。
これは現代でも午後1時が13時であるように12時間性と24時間制との併用の
如くであり、現代人も混乱をきたさない如く、当時もそんなにこんがらがること
はなかったのであろう。

神武が1年を1月から4月まででおしまいとしたのを受けて、次代綏は
皇紀42年1月3日に立太子を行ったのだ。その数字に月対応の1,2,3,4の四数
があるのはそのためである。これが3倍暦計算では神武14年になる。14は1〜4
の示唆なのであろう? 神武14年において、皇紀は42年まで数字が進行する。

神武崩御後、綏は神八耳命と強力して謀反の手研耳命を討った。この神八耳命
の功績を讃え、彼は命の名にある八数に因み、8日に即位したのだ。
242太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 23:20:31
>>241 続き
五瀬命は5/3に戦死した。戦死した日の月数5が命の御名の五と合致する事から、
えらく縁起を気にする神武は5数を凶数と考えたのだが、日数の3は死ななかっ
た三毛入野命の御名の三になることから、逆に3数を吉とみなしたもである。
それで3倍暦の施行に因んで神沼河耳尊は3日を吉日として、この日に立太子
をすることにしたのである。

三代安寧は先帝神沼河耳尊の立太子が3日のことから自己の代数3に鑑み、
即位を3日に行った。先帝は1/3の立太子で神武崩御直後に通常暦に戻して
いたことで、安寧はなぜか通常暦を取りやめ2倍暦に踏み切っている。1/3の
半年後の7/3即位はそのためである。安寧は立太子を7日に行ったのであるが、
これは即位を7月に行うことを前もって決めていた事からであり、安寧即位前年
に先帝が崩御したのが5月であったことから翌月の6月をも5月と同列にみなし、
この崩御年の7月を安寧即位前元年1月として先帝の通常暦を廃し、残り半年を
6月(=12月)までで閉じ、即位年から1月〜6月を無と為し、即位前年の最後
の月の6月の延長のつもりで、即位年最初の1月を7月と為し、即位年を7月〜
12月までの半年たる2倍暦でこれを消化した。ついで即位2年からの2倍暦は
1月〜6月ですませ、3年は7月〜12月のみとして交互に換えて以後2倍暦法を
行使して行ったのである。
243日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:06:33
それはいつ決めたの?
244太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 07:37:46
>>243
決めたって、安寧の即位前の立太子の7日のことか? これなら立太子の日から
以前だということは確かとなるが、それがいつだったかの詳細はわからんだろう
が? ただそのことは重要ではないはずだろ。
245唐松山:2008/02/09(土) 10:33:56
書記に 干支が なぜはいっているか?
正しい年数に直す為の 指標でもある
全く 干支の入っていない 百済記は 手の着けようがない。
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 10:45:40
>>242 続き
それではどうして綏年間が通常暦をやっていたのが解かるのかと問われれば、
まずは父子関係からの年代に矛盾があるか否かからの合理性の無い暦法はありえ
ないという考えによる歳数の検討からのものであるが、神武崩御の翌年の葬儀月
が9月に行われていることと、特に綏崩御が神武の嫌った月数5月になっ
ていることで、神武の時代は1年が1月〜4月までしかないわけだから、5月
とか9月とかの記載は神武の3倍暦法と食い違い、綏では通常暦に復したと
いうことが分かって来る。そこで神武崩御の直後から神武即位前の通常暦に戻し
たようで、綏の即位年から通常暦を再興したのではない。通常は天皇即位年、
あるいは天皇元年に暦法変更をやるのが慣わしになっていたと観ているが、まだ
朝廷がが始まって間もない2代となるころだから、そういう変更方法がなじんで
ないこともあってか、様式が定まってない時世のためであろう? だから神武
崩御直後の暦法変更というのは例外に属するもののようだ。それに先帝の暦法を
そのまま継いだ天皇もあったようだし、時代時代により大きく変動はしている。
247日本@名無史さん:2008/02/09(土) 12:31:07
太国さん 「合理性の無い暦法はありえないという考え」 支持しますよ
「暦に直せない 編年は間違いである」と 同等に。
 
248唐松山:2008/02/09(土) 12:43:39
日本の 歴史
BC10 暦を持った 太伯 が九州南部に 入植
BC6   天照大神 誕生
AC1 西暦1年 暦法の変更
西暦38年 神武 1年
西暦186年 崇神1年
西暦236年 景行1年
西暦273年 神功1年 夏日食
西暦400年 履中1年

仁徳が 未だに解らない
仁徳は 応神の子供であれば 后に 応神の子供を娶ることはない。
サザキとキズが 入れ替わっていれば
武内の子供が 応神の子供を娶る  可能性大

応神崩御 卯遅稚が次ぐが 作稜中は即位しない。
応神を稜に祀った頃 大山命等の 事変
以前倒した仲哀の残党 との 軋轢か?
何れにせよ卯遅稚朗子は 即位せず 死亡
仁徳が 後をみるが 即位したのは、木菟
これなら 応神の子供を娶る事は可能であり 王道を継ぐ為に必要不可欠。
249太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/10(日) 07:52:22
>>247
説明が不十分だったようで、あいすみません。
「合理性の無い暦法はありえない」と言いましたその暦法というのは、この場合
通常暦法なのか、2倍、3倍とかの倍暦法だったのかという選択のことです。
綏の時代を倍暦だとして考えると、確か父子関係の歳数がおかしくなる筈です。
そういうことでこの時代は通常の暦法を採用していたんだと考えております。

>「暦に直せない 編年は間違い」
 記紀等くらいの古文献の量ですから、暦に直せと言っても無理ですよ。直せ
 なくても編年の正確性はあう程度落ちる可能性はありますが、神武以降に於て
 は定められる可能性も相当程度あります。
250日本@名無史さん:2008/02/10(日) 08:16:14
くだらん
251唐松山:2008/02/10(日) 14:46:51
百済本記は 歴史に直せません。
 
252太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/10(日) 18:05:37
四代までの即位の日数を並べると、以下のとおりである、

神武 1
綏 8
安寧 3
懿徳 4

これを見ると、なぜか綏が2とならず8日に即位している。ほかの天皇は自己
の代数に合わせた日に即位している。ということは綏のみ異物的暦法を使って
いたことを安寧、懿徳の後代の天皇が遠まわしに示唆しているという考えに行き
つく。安寧は自己の代数に合わせた日に即位したのだが、これを継承して懿徳が
同様に自己の代数日即位としている。それが孝昭に至って5代目だから5日に
即位するのかと思えば、外して9日即位を敢行している。

これを熟考すれば代数にあわせた安寧と懿徳は同一的暦法をやったのではないの
かのと考えに行く。懿徳は安寧の暦法を継承したのであろう。そうなると安寧は
先述のとおり2倍暦法だったから懿徳の時代も同じ2倍暦を行使したのだとの
考えにたどり着く。すると孝昭は安寧、懿徳の代数日即位に違背してるわけ
だから、孝昭は2倍暦ではないことが分かってくる。

2代綏も先述どおり代数日即位をせず8日の即位だが、8代は孝元であり、
孝元が14日即位としたわけは上表の1〜4代を注視させるために選んだ日数なの
であろう? 綏世の異物とする暦法とは通常暦であることになる。現代的には
倍暦のほうが異物と言えようが、当時では逆の考えであったのだろう?
253唐松山:2008/02/11(月) 10:51:18
古代日本の暦法 
「古記」は、「大宝令」の注釈書
「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。
だそうです。
中国の暦では、朔旦冬至は 西暦11年のライン。
前回 私が纏めた年数は
西暦1年甲子 より数え始めましたが 神武 14年のラインが 一章のライン
神武 14年のラインを朔旦冬至と見なすと 3年の狂いが有ります。

日本書紀の朔を並べると 当然のごとく 合わない朔が出てきます それを書き出すと
開化五年春二月丁未朔壬子 1月が丁未朔になる
成務三年春正月,癸酉朔己卯 前年の12月(13月)が癸酉朔になる
特に この2点 どちらも 章の 1年目
私の計算が悪いのか? 暦法がちがうのか? 単なるまちがいか?
254唐松山:2008/02/16(土) 10:19:55
これまでの 纏め
日本書記は 19年7閏で書かれているので 適度に19年7閏を差し引くと
正しい 年数になる。
(皇暦から19年7閏を引く、ただし例外あり。)

“ 西暦   治世   増し
神武天皇  38年  19年間  57年
空白(タギシミコ) 3年間  
綏靖天皇  60年 14年間  19年
安寧天皇  74年 5年間   27年
懿徳天皇  85年 11年間  30年
孝昭天皇  90年 26年間  57年
孝安天皇 116年 26年間  76年
孝霊天皇 142年 19年間  57年
孝元天皇 160年 19年間  38年
開化天皇 180年 6年間   52年
崇神天皇 186年 23年間  43年 
垂仁天皇 219年 17年間  76年
景行天皇 236年 22年間  38年 
朔の廻し8年に相当
成務天皇 266年 4年間 57年
仲哀天皇 270年 3年間   5年
神功皇后 273年 37年間  33年 
応神天皇 294年 
仁徳天皇 337年   
履中天皇 400年 
255唐松山:2008/02/16(土) 10:49:55
例外
安寧天皇と懿徳天皇は同じ 暦
開化天皇と崇神天皇も同じ 暦
仲哀天皇と仲哀天皇も同じ 暦

懿徳元年 ホ31302  マカリヲコヨミ あらためて 間借りの暦 検めて
懿徳、崇神は 幼くして 皇位に付いた為 暦を 新たに立てる 能力が無かった。
孝昭天皇も幼くして 皇位に付いたが 3代同一の暦は つらい。
応神天皇 294年  (訂正 仲哀天皇 294年と 書いてしまいました。)
仁徳天皇 337年は 死亡後 御陵の制作 その間 天皇が立たなかったので
暦の 改暦は行われなかった。

合わせ場所
新羅本記 に合わせています (と言うより新羅本記に合ってしまった。)
西暦193年 倭人飢饉のため押し寄せる=崇神6年
西暦265年 魏滅ぶ 百済この頃建国(県から国へ昇格)
西暦273年 日食
256日本@名無史さん:2008/02/16(土) 11:25:00
つまらん数字遊びだな。
数字いじくってマイ歴史の創作か。
257唐松山:2008/02/16(土) 13:16:00
日本書紀の 暦は 皇暦で見た通り 19年7閏で書かれています。
ほつまの 暦は 書記と殆ど 同じ長さ
書かれている方法は、 19年7閏では 有りません
19年7閏プラス 空干支
 空干支とは 例えば19年7閏を2つに分ける とりあえず10年と9年とします
この 10年と9年の間に 6年の増しを 入れるとすると
書記では 25年間の正しい閏の廻し
ほつま では 10年は正しい廻し 6年分の空干支 17年目から 初めの10年に続く
月の閏月が入る。

ただいま 計算中

256さんは 皇暦が正しい とでも?

258日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:51:03
というより、皇紀=書紀の年代自体、史官による机上の創作なんだから、
それをどういじってみたところで砂上の楼閣のような・・・
259唐松山:2008/02/16(土) 16:55:53
皇紀=書紀の年代自体 砂上の楼閣で有るかどうか?
いじって見なきゃ解らない。
と言うことで 編年を考えています。

いじった結果が 前掲 
世継ぎは 出来ています。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/16(土) 18:04:01
>>258
机上の創作の論拠はどういうものなのか? 天皇の超長寿は倍暦だから現代と
大差ない歳であり、これだけでは創作の結論にはならない。
261改め〜卑弥呼:2008/02/17(日) 01:22:30
ここのスレ初登場かな?!
終止符以外のスレはあまり行かないんだが・・・唐松山さんがせっかく
年代表を書いてくれたとの事なんで観に来ました。
それにしても、太国氏のいう「卑弥呼は祟神天皇時代」と違うのはどうしてですかね?

262日本@名無史さん:2008/02/17(日) 06:45:08
また基地外が来たな
少しは電波本以外読めよ
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/17(日) 07:42:10
>>261
先に考えることは、卑弥呼が神功皇后ではないということである。もし前者が
後者なら神功の後代の應神、仁徳の寿命が連続して百数十歳も生存していたこと
を肯定することになり、これはありえないと観るべきだということである。紀の
記述の神功39年は西暦では239年となるが、これは大陸の古文献等で確定的と
観るものだが、日本の記紀等で確定だとすると、應神、仁徳が連続で超長寿
だったということになり、生物学的に不合理だということになって来る。

これを日本側で倍暦をやっていたとすると、この超長寿が何のことはない、今の
人間と大差ないごく当たり前の寿命だったということになり、超長寿の疑問が
氷解して来る。倍暦はどうやら仏伝直前ころからそれ以前の世で施行されて
いたらしく、ここから逆算すると、239年=崇神治世3年 の結果が出る。という
ことは、卑弥呼が崇神天皇のころの人物だということが分かり、紀の編者らが
大陸と(紀の編者らが未知だった倍暦使用の)日本の古文献の記述に大幅な
ズレがある矛盾に困惑し、これを整合させようとして干支の倍数の120年の幅で
断層を埋め、神功が卑弥呼だろうとの考えもあってか、神功世に当てた記載と
したということである。いかめしい漢字2個の干支がピタリと合わないと一見
して間違い修正だとの疑問が解消しないから、干支の倍数で合わせたのである。

他の近似的論者のやり方は、孝靈世に倭国大乱があったことを日野郡誌等の記述
から結論付け、崇神世が卑弥呼の年代だろうと推論した。(拙者も彼らも卑弥呼
の若年は孝靈〜開化世と推定している。)そこで記の崇神の崩年干支を重視し、
それから同崩年の258年説と318年説(干支一巡60年差)に分かれたが、拙者は
倍暦計上で259年崩年を計上したので、1年差の258年説をほぼ正確と観ている。
264日本@名無史さん:2008/02/17(日) 08:36:00
神武立太子 BC697
神武〜懿徳 185年間
孝昭・孝安 185年間
孝霊・孝元 133年間 ※3
開化 60年間
崇神 68年間
垂仁 99年間
景行・成務 121年間 ※4
仲哀〜応神 121年間 ※1
仁徳〜反正 99年間
允恭〜雄略 68年間 ※5
清寧〜宣化 60年間
欽明〜壬申 133年間 ※2
文武立太子 AD697

1) ※1から※2までの期間を二倍に展開したのが※3から※4までの期間である
     古事記の孝元天皇崩御年齢は57歳であり
     日本書紀の孝元の在位期間も57年と数値が同じである
     崇神も68年在位[紀]で168歳崩御[記]と68
     垂仁も53年在位[住吉大社神代記]と153歳崩御[記]で53の共通性があり
     +100の意味は不明であるがそれぞれ関連する固有の数値が68、53であるのは
     認識できるだろう。
     開化の場合はちょっと複雑で継体の在位が3年削られた影響で
     60年在位[紀]63歳崩御[記]と3年の差が生まれてしまった
     異なる史書でみられるこの共通性の出典はいかなるのもだったのだろうか?
2) ※5安康紀までは唐の暦法である儀鳳暦で編年されている
     在位が極端に長い天皇が多い故に創作されたものと考えるのが妥当
265唐松山:2008/02/17(日) 11:23:57
264さん の言う 100年が 私の 増し
100年を 差し引いて 紀記や 旧事記、ほつま を綺麗に読めるか?
特に 太子誕生時の 天皇の年齢 それから 天皇以上の長寿の考察
一応の年に直せば 検討するが 今のままでは、検討出来ない

多分 年に直したが いまいち 日光結構とは いかなかった。
と言うところでしょう。


266太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/17(日) 12:06:54
>>264
>創作されたものと考えるのがが妥当
妥当というより、あなたの論が合わないから創作という結論に速着するわけ。
創作するというイカサマはそれだけの利害があって、初めてやるものだよ。
そういう創作するイカサマの合理的動機を言わねば、あなたの主張は妥当では
なく、退けるしかない。
267日本@名無史さん:2008/02/17(日) 12:33:10
16氏乙
268日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:13:10
允恭のときに新羅から金なんとかって医者?が来たけど
新羅人が外国で金氏を名乗るのは6世紀に入ってからだよね?
実は允恭の時代は6世紀なんじゃないかな?
269日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:16:27
金波珍漢紀武
270太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/17(日) 13:16:44
5世紀中ほどだね。
271日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:22:33
磐井の乱の時の大連が室屋だった形跡があるから
ひょっとしたら…
272日本@名無史さん:2008/02/17(日) 13:32:15
景行天皇が神武天皇の兄という社伝だか伝承だかがあるらしいし
成務は景行の父であると風土記にあるから記紀の系図は
編纂者がでっちあげたものだわ、きっと。
273唐松山:2008/02/17(日) 13:48:57
仁徳 治世87年
履中 治世6年 77才 仁徳16生
反正 治世6年 60才 仁徳39生
允恭 治世42年 78才 仁徳63生
皇后:磐之媛命 仁徳35年..山背の筒城宮において薨去

この辺から 解らない。
景行→成務は 歴史の流れどうり 逆には 読めない。

274太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/17(日) 13:56:55
>>272
じゃぁ、社伝等のほうがでっち上げでないという論拠はどういうこと?
2行目は風土記のほうが正解かも知れない? しかし間違いが記紀にも
あることは否めないが、間違いは過失的であろう? 故意ならば、その
根拠がとりわけ必要だ。あっちがそうだからこっちが間違い、イカサマ
だとかは決定できない。逆の場合のこっちがそうだからあっちがデタラメ
という場合もあろうわけ?

風土記の具体的文の書きこみを願う。
275日本@名無史さん:2008/02/17(日) 15:09:56
自分で探せよ
風土記くらい何冊か持ってるだろ、播磨国風土記のイナビ郡の条あたりだ
276日本@名無史さん:2008/02/17(日) 20:05:48
応神や神功といった新しく作られた天皇は一般的に奈良時代の創作なのは揺るぎない
おそらく本当の倭王を暗殺しちゃったので皇位継承の正当性を持たせるため
歴史を創作したんだろう
277太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/17(日) 21:09:11
>>276
創作すれば舎人親王は死罪か準死罪だ。現代で云えば公文書偽造
だ。記は神話伝説を取りまとめた箇所はあるわけだが、そこんところ
までいい加減ではない。その考えこそお前の創作で津田病に罹患して
いることを物語っている。だいたいイカサマだという創作しなければ
ならない合理的理由を、創作だと言い出す奴に限って具体的に言っ
たためしがない。w
278日本@名無史さん:2008/02/17(日) 22:13:13
まったくそのとおりだと思います。
天皇に対する異常な思い入れがあった津田のように
冷静な判断を欠落していてはまともな考察の妨げになると思えわれます。

日本書紀の紀年設定者が紀年を二倍するなどいった
歴史創作行為に至る動機というのは名目上天皇の意思であり
断片的記録の再編集というべき修史事業は創作は言い切れないと思います。
279日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:31:55
日本書紀から離れるが・・

何年か前に日本の鉄器を炭素で測ったら、その鉄器の作成は紀元前8世紀だかなんとかで中華よりも古くなってしまい
話題になっていたことがあった。
あれは結局どうなったのですか?

280日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:34:24
仮に日本書紀編纂が皇位継承の正当性云々のためなら、
わざわざ天皇暗殺やウルトラCの皇位継承の逸話や近親相姦の逸話やらを
載せている理由は何なんだ?となる。

281唐松山:2008/02/19(火) 19:05:35
仁徳時代の近親相姦の逸話 は
もう一つの系統があり それを無理矢理1本に纏めたためではないか?

反正、允恭は 磐之媛の子供ではない、多分履中も同じ。

282日本@名無史さん:2008/02/19(火) 19:22:01
皇位の正当性はあって当然
>>280はなぜそれが正当性の否定に当たると考えているのか知りたいな
283日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:05:43
正当性を宣伝するためならば、もっとましなことを書くだろうな。

中華の史書をみろ。
自画自賛の嵐
284日本@名無史さん:2008/02/20(水) 10:46:56
たしかに宋書みたいにされても困るな
285日本@名無史さん:2008/02/20(水) 11:10:15
>>281
系図の想定ありますか?
286唐松山:2008/02/20(水) 19:09:03
書記等から 消された 系図
応神から仁徳にかけて ウジノワキイラッコ 
このイラッコは 継体の五世孫の一人 大イラッコではないか?

当時 百済派と新羅派に分かれ 文字を独領した 百済派(東漢)により 抹殺された。
又は 神の子応神 その子仁徳 この裏に 仲哀の子ホムヤワケ その子がウジノワキイラッコで
応神の娘を娶って 一本化しようとした。

まだ 考え中。
287日本@名無史さん:2008/02/20(水) 20:49:53
わけがわからん、根拠も不明だな
288唐松山:2008/02/20(水) 22:18:08
根拠?
履中、反正、允恭は 誰の子?
特に反正、允恭は母?磐の媛死亡後の生まれ。
年齢で 見た場合 ですけど 合理的説明が付かない。
289唐松山:2008/02/20(水) 22:45:16
仁徳天皇
神功皇后55年誕生
応神13年 髪長姫と恋
仁徳2年 磐の媛を妃とする
仁徳16年 履中誕生
仁徳35年 磐の媛死亡
仁徳38年 反正誕生 母は磐の媛
仁徳63年 允恭誕生 母は磐の媛
その間に 応神の娘 仁徳にとって腹違いの妹 2人を 妾にしようとした。

多分数字的には こんな処
合理的 説明が出来ますか? 私には出来ないので いろいろ考えています。
290日本@名無史さん:2008/02/21(木) 13:13:25
紀年上の年齢関係について整合性を欠いているので
親子の関係も疑っているということですね?

紀年の信頼性有無に関わらず
日本書紀にはこのような年齢の不一致は多いです。
ですがそれが即親子関係の否定につながるのか疑問です。

年齢の不一致在の原因を考えてみると
第一に考えられるのは「在位期間の延長による副作用」
第二に「それぞれ別系統の出典に基づくものをそのまま採用」
第三に「後世の人による計算違いの追記」
291日本@名無史さん:2008/02/21(木) 13:17:05
まず、それぞれの紀年や年齢の記述などから
その数値の性質を吟味することから始めないといけません
292唐松山:2008/02/21(木) 18:11:09
仁徳が何故 不信か
仁徳が応神13年 髪長姫と恋 仁徳16,7才不信は無い
応神41年に死亡 スッタモンダ も 一応 理解する
仁徳2年 妃を立てる   まあ当然
ここから
仁徳は一体 何才で即位したか?
何故 応神の娘を 妃にしなければ成らなかったのか?
仁徳が応神の子であれば 腹違いの妹を 妃に据えなくとも 即位できたのでは、ないか?
近親結婚の前例、安寧天皇がもらった 妃は安寧の母親の弟の子供 
生まれた子 懿徳 早死にです。当然 近親結婚が悪い結果に成りやすい事は解っていたハズ

履中が生まれるまで 16年仁徳の即位年齢を考えると長すぎる 
磐の媛は 産まず女として 処分対象。
もし 反正、允恭が仁徳の子供だとしたら 仁徳?才の時の子供 仁徳も男だから不可能とは言わないが
履中、反正、允恭 年数が延長されていなければ 親子で丁度良い 年差。




 
293唐松山:2008/02/21(木) 18:34:42
仁徳の疑問 追加
仁徳が 矢田の皇女を妾にする
磐の媛は怒って 山城へ 引っ込んで帰ってこない

当時の 女性の適齢期は 15才 この辺の年齢で考えないといけない。
磐の媛が 山城へ行く前に 3人を産んだのか 仁徳が山城まで 種を運んだのか?
山城へ行く前に3人を産んだとすると
允恭治世23年間 と長すぎる。

編年を かなり圧縮しても 変な 年数になりそうだ。


294日本@名無史さん:2008/02/21(木) 18:57:26
>>289
応神の没年、仁徳の没年がおかしいから
そんな変なことになるのでしょう
日本書紀は皇太子に立った年齢が、死没年齢から逆算すると全く合ってなかったり
即位した年齢が、死没年齢から逆算するとこれもあっていない例が多々ある
日本書紀と古事記で同じ天皇の死没年齢が違っていることも当たり前
あれを根拠に年齢を逆算するのは不可能
295唐松山:2008/02/21(木) 20:05:52
応神、仁徳は 没後塚が作られる
此の 作稜期間中は、天皇が立てられなかった。 と考えたとき

改元 暦の延長は 天皇の専制事項なので 作稜中は延長されることはない。
これを 中心に考えている。
ただし 仁徳68年作稜に入る、仁徳87年死亡
19年は 延長である。丁度 暦の1章に当たる。
改元(暦の延長)を決行したのは、履中。

 
296日本@名無史さん:2008/02/21(木) 21:54:51
暦を説明するために根拠のない勝手な妄想を語るのはやめてください
あなたの目的は何ですか?
297日本@名無史さん:2008/02/22(金) 05:16:02
ほつまつまつの布教
298唐松山:2008/02/22(金) 17:07:04
誰か 根拠のある 妄想を語ってくれ。
299日本@名無史さん:2008/02/22(金) 19:00:04
確信犯か…
質問にも答えられないところをみると相当都合が悪いんだな

根拠にならない要素を基準に勝手な妄想を展開して支持が集まるわけない
300虹歩命:2008/02/22(金) 22:31:03
>>298サガミハラハラさんが得意ですよ。近頃なりをひそめているようですが。
301サガミハラハラ:2008/02/23(土) 07:24:50
呼びましたか。私の論のどこが妄想だと。
302日本@名無史さん:2008/02/23(土) 11:07:01
神功皇后は奈良時代の創作
303日本@名無史さん:2008/02/23(土) 20:28:41
記紀は全編ある意味神話だから創作とかねつ造とか議論すること自体が無意味
当然歴史として認識してしまうのも誤りですよ
304唐松山:2008/02/23(土) 21:36:22
記紀は全編ある意味神話だから とは言うが
書記の様に 日付が入っていれば
合わせたくなる。
305日本@名無史さん:2008/02/23(土) 21:56:43
万葉813番前書きに、古老の言い伝えとして
「オキナガタラシヒメ」が出てくるので、
神功皇后は奈良時代の創作、という解釈は誤りだね。
306日本@名無史さん:2008/02/23(土) 22:55:49
>>304
勝手に合わせてろ
307日本@名無史さん:2008/02/23(土) 23:12:21
>>305
古老とはどういう地位の人物をあらわしているのか
解釈を知りたいね
308日本@名無史さん:2008/02/24(日) 15:02:03
神功皇后は39年まで それ以降 日々の干支が無い
仁徳天皇は31年まで それ以降 日々の干支が無い

神功40年以降は 対外記事の 差し込み で切り抜けられるが、
仁徳32年から68年までは 国内記事  何故 干支が無いのか?

応神、仁徳が”干支”から切り離されて 漂っている。
309太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/24(日) 18:25:49
>>308
たしか

神功52年の七支刀はあったんでないの? 9/10 丙子

仁徳67年の10/5 甲申の陵地を定む、10/18 丁酉 陵を作る。
310太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/24(日) 18:27:13
ああ対外記事か。w すまん。
311唐松山:2008/02/24(日) 20:26:52
仁徳66年までは干支がない に訂正
此の干支のない時期に 反正、允恭が生まれる。
312日本@名無史さん:2008/02/25(月) 20:39:11
>>308
ん?あるよ
313伝八:2008/02/25(月) 21:53:53
唐松山さん
日本書紀には允恭の年齢は若干とされていますが
何を参考に何歳とされているのですか?
314日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:49:10
古事記の崩年を採用したなら古事記の崩年干支で在位期間で考えないと
おかしいだろ
315日本@名無史さん:2008/02/27(水) 07:24:18
ミマキイリヒコのイリとはどういう意味かわかる人いますか?
316日本@名無史さん:2008/02/27(水) 07:46:46
元祖 日本の利権団体が
旧約聖書をコピーして日本人をかく乱し
君臨し続けます
317日本@名無史さん:2008/02/27(水) 07:47:24
元祖 日本の利権団体が
旧約聖書をコピーして日本人をかく乱し
君臨し続けます
318唐松山:2008/02/28(木) 19:08:46
允恭の年齢は、 
{『四旧事紀』と『記紀』の天皇等の在位年数及び聖寿一覧表}
から 旧事紀より 引用  ネットの何処かに有る。 が忘れた。
以前 書き込んだ事がある。


319日本@名無史さん:2008/02/28(木) 19:40:03
旧事紀の年齢を採用する理由はなんですか?
320日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:13:35
允恭天皇

『古事記』『旧事紀』は78歳
北野本『日本書紀』は81歳(一本68歳)
『扶桑略記』『水鏡』『神皇正統記』などの史書はおおむね80歳
321唐松山:2008/02/28(木) 20:53:44
旧事紀の年齢を採用する理由は 旧事紀は日本書記の資料の一つと思うから

古事記の雄略124才没を支持すると
応神没(甲午)から雄略没(己巳)まで 156年
書記が171年  15年の差

古代の暦を読む ポイント 章を合わせられるところ
仲哀元年閏十一月乙卯朔戊午、8年後神功元年閏12月
神功元年閏12月の記事はないが 十二月,戊戌朔辛亥,生譽田天皇の次に
2年三月,丙申朔庚子の記事がある 朔の日数を数えると この間に閏月が必要
以前に書き込んだ 閏の廻しだと 閏12月が妥当。
安閑天皇元年 あんかんてんのう
安閑天皇 元年閏十二月,己卯朔壬午次は10年閏2月 暦法が違っています。
西暦700年頃の朔は、697年12月、703年4月、706年正月、708年8月,711年6月、
806年6月、806年2月、811年12月、814年7月

現在19年で並べて 朔旦冬至を調べているが
西暦1995年朔旦冬至 このラインに並ばなくては成らないが、
西暦784年、898年朔旦冬至 と書かれています。
朔旦冬至は、動くものでしょうか?
 
322日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:56:05
赤猪子は雄略の求婚を八十年待っていたことについてどう考えていますか?
この八十年とは実際の年数なのですか?
323日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:08:23
実年数じゃないだろ・・常考
324唐松山:2008/02/28(木) 22:38:42
赤猪子って 男?
325日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:10:16
童女とあるから女
326日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:47:16
>>324
おまえ古事記読んだことないのか…最低だな
もう電波書き込むな
327日本@名無史さん:2008/03/02(日) 10:05:28
>>315
『日』の朝鮮読み『イル』と同じ意味です
328日本@名無史さん:2008/03/02(日) 10:16:44
八十年が雄略の年齢に加算されている可能性はあります
安康を殺したとき八歳たったのにも一致します
329唐松山:2008/03/02(日) 11:23:46
古事記で 雄略没 124才
80を引く 44才で没  かなり信憑性は増す しかし
応神没から雄略没 までの長さを比べたとき 古事記での年数が不足する。
日本書紀の 仁徳年間を 圧縮して合わせる。 これで正しく読めるのか?
書記の仁徳を診る
神功55年? 仁徳誕生
応神5年 ウジノワキ誕生? 同15年漢字の勉強を始める
応神13年 髪長姫と恋  仁徳16才くらいと推定しておく
同28年 高麗の使者にウジノワキ対処   この辺まで暦の伸長は無さそう
同41年 応神没  
仁徳 即位 この時点で仁徳の年齢は? 44才
古事記で仁徳治世33年 長すぎると思うが 不可能ではない ただし
書記に書かれた妃は まず無い。(履中誕生仁徳16年)




330日本@名無史さん:2008/03/02(日) 13:01:27
雄略は允恭の子以外の可能性はないの?
331日本@名無史さん:2008/03/02(日) 17:03:35
仁徳は応神と同一人物説があったね
古事記基準では65歳くらいか、応神の崩年は神功の崩年に置き変えてもいい
332唐松山:2008/03/02(日) 17:51:28
雄略は允恭の子以外の可能性は 可能性十分ある 

継体は応神の5世孫となっているが、無理に応神に繋げるため 允恭を仁徳の子とする。
履中から允恭にかけて 半島で高句麗に大敗、この不名誉を背負った天皇へ繋げるより
半島3国を治めた応神へ繋ぐため 書き換えられた。
333日本@名無史さん:2008/03/02(日) 18:55:22
失地で不名誉な天皇は継体天皇本人なのでそれはない
334唐松山:2008/03/02(日) 20:42:28
不名誉な記録を継体まで 持ち越すな。
335日本@名無史さん:2008/03/02(日) 20:51:49
近江毛野の幼稚な政治認識は継体も同様だったのは疑いようがない
336唐松山:2008/03/02(日) 21:32:27
まだ 文字による治世は無理
法律を作って明文化、以前。

@ 婚姻関係を深め 上下の秩序とする。
A 飴とムチで 治める =鉄を下賜する替りに人足を出す、米を納める。

@も2代目3代目と時代が下れば 難しい。
Aは 鉄が他のルートから入れば うまくいかない。
官位を与える 後の時代。

天皇家の”凌ぎ”も難しい時代。
337唐松山:2008/03/06(木) 20:25:29
履中天皇 元年春二月,壬午朔 を 西暦400年とすると 39ヶ月後(1151日後)
北魏 天興(398年-404年) 西暦403年 天興 6年 癸卯夏 四 月 癸 巳 朔 , 日 有 蝕 之

日本書紀で 履中4年癸卯(西暦403年) 4月 癸 巳 朔に成ります。

中国の干支と日本の干支を合わせるなら この辺が 適当かと。
ただし 閏の廻し(配置)は 以前のまま かも
ブネイ王 墓誌の 朔とも一致
西暦700年には 朔の廻しも 違っている。

神武 から履中迄の 朔は 以前書き込んだ 廻しで正しい。 私の以前の説で計算している方は
訂正して下さい。
神武 3年閏5月 です。

338日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:10:00
>>327
嘘を書くな。
339唐松山:2008/03/07(金) 18:13:29
西暦4年甲子をアスス1年キアエと予測

アスス50年九州に於いて天皇の代替り
50−19=31年 
この年の10月神武 出発 8年後=神武 元年
8−5=3 これが 神武 出発から元年までの 年数と増し 注 5年の狂いになる。
此処までは、九州の暦を使用したため 狂いの解消が 出来ていない。
西暦4年+31年+3年=西暦38年 これが私の推測した 神武 元年(アスス58年)
皇暦1060年 履中元年
1060−400=660 660−38=622 622年は神武 元年以降の 増し
622=19*33−5  5年の狂い解消

仁徳年間87年 87−19+5=73年ほしい
まだ 中身には狂いがありそうなので 全体発表は 先送り。
以前発表とあまり変わらないが 景行と成務の間にあった 閏の廻し8年は無し。
その分確保のため仲哀の 増しは無し。

神武 3年の閏は5月 
三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、
十七年閏五月、十九年閏十二月とす
340唐松山:2008/03/10(月) 18:23:13
西暦4年の干支が 甲子年春正月みずのとうま壬午朔(1日程度の狂いを含む) なら
西暦400年 履中元年1月丁丑年辛亥朔(2月辛巳朔)に繋がる

私の計算が正しい とまでは言い切れないが 
書記の 伸長方法は ”増し”とは言えるのではないか?。
341唐松山:2008/03/11(火) 12:11:21
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin16/rekihouz.html
http://www.wagoyomi.info/doutei.html  允恭より

神武 以前から 暦は 使われていた。
允恭以降 暦は 繋がっている。
342唐松山:2008/03/15(土) 09:29:32
大国さん そろそろ 編年の見直し 出来ました?
343太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 16:24:31
編年はいまのところそのままです。唐松山さんのは履中即位の時点で後代の倍暦
のため20年ズレてますよ。繼體の時代ころの倍暦等で、これを無視してますから
ズレちゃうわけ。
344唐松山:2008/03/17(月) 20:55:20
書記の年数が伸長されている 理由の一つが 解明しました。

神武 元年春正月庚辰朔  皇暦1年1月1日 暦日8777日として
履中天皇六年春正月,癸未 皇暦1064年1月1日 暦日397400日に成ります。

この間の日数は 397400−8777=388623日
章に直すと 56章 中身は
6939日*17=117963日と
6940日*39=270660日 足して388623日
通常の四分暦なら 6939*1+6940*3=27759日、  27759 / 365.25=76年
上記の様にならないといけない。
次に 月齢を見る
27759 / 29.53059=940.00831 誤差は 29.53059*0.00831=0.2454日 
76年で0.2454日
次 履中6年 実際の経過は400年弱と思われる?が
388623 / 29.53059=13160.01475 誤差は 29.53059*0.01475=0.4356日
76年の5倍程の時間が経過しているにもかかわらず 月齢の誤差は 半日弱 許容範囲内。
月齢を合わせる為 年数の伸長を行った面も 有るのではないか?。
崇神の時代から 年数の伸長は有る=神代から暦は使われており、月齢も測られていた。
この様な 推定と成りました。

345太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/17(月) 22:26:13
唐松山さん
履中天皇六年というのは皇紀で 1065年 のはずですが?
346唐松山:2008/03/19(水) 19:32:18
訂正 履中天皇六年=1065年でした。
1065=19*56 私の計算表が悪いので 1年ずれた年度を読んでしまった。
太国さん ご指摘感謝


347唐松山:2008/03/19(水) 19:36:39
又 訂正 神武 元年=1年 なので
1065−1、 1064=19*56 でした。 すみません。
348唐松山:2008/03/19(水) 20:24:31
継体天皇元年 元年春正月,辛酉朔甲子 暦日434638 西暦507年
安閑天皇元年 三月癸未朔戊子    暦日444560 西暦534年
同年     閏十二月,己卯朔壬午  暦日444856 

日数を繋げると 上記の 日数に成るが 西暦から見ると 閏の廻しが 良くない
履中 400年辺りから 見直し ”つなぎ目” を見つけたい。


349aratame_himiko17:2008/03/19(水) 20:55:48
こんばんわ〜! たまには、日本書紀総合スレへ書き込み。

初代神武天皇〜三十三代推古天皇まで丸暗記するまで時間かかった〜!
わたしはここまで。
-宣化天皇辺りでゆっくりなるが、文句ありますか〜?w
350唐松山:2008/03/20(木) 19:54:48
こちらは、終止符と違って 時間がゆっくり流れていますから。
351日本@名無史さん:2008/03/21(金) 08:54:31
>>349
丸暗記する意味は薄いな。手元にあれば問題ないから
コテハンのように数字で遊びたいなら干支ぐらい覚えてもらわないと困るぞ
352唐松山:2008/03/21(金) 21:17:59
数字遊びも楽じゃない。

「暦は神世の昔から有った。そして 記録された物が 書記である。」
この考えで 進めている以上 合理的 説明をせにゃアカン

倍暦連も 後の時代に 干支を付けた。 合理的説明をしてもらいたい。
353唐松山:2008/03/21(金) 22:35:21
数字遊びの 必須アイテム

漢籍電子文献資料庫
http://140.109.138.249/ihpc/ttswebquery?@0:0:1:hanjiquery@@0.4953244717257548

の中の 工具箱を開くと 中国の年号と日々の干支 など
http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/sinocal/luso.html
国号、帝号などを打ち込むと 西元(西暦)や日々が解る。

354太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/21(金) 22:58:23
唐松山さん
倍暦を否定するなら、欠史八代の天皇の崩御日が全て月上旬であるの
は何故なのかを説明して下さいよ。
355 灰神楽:2008/03/21(金) 23:00:17
今「神功皇后は実在した」を読んでいるのだが、倍暦についてかなり合理的な説明をしていますね。
わたしは初心者なので正誤をきめかねていますが、皆さんどうですか?
356日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:15:34
まぁはっきり言って天皇の年齢や在位年数なんざ合理的説明できる代物じゃありません
だいたい古い天皇の年齢が詳細で新しい天皇ほど年齢が不明な理由はなぜか?
それは古い天皇の年齢が創作だからです。さらにその中で年齢の異説が少ない天皇ほど
創作された時期は新しいと考えられます。日本書紀の古い時代は唐(8世紀)の暦法、
新しい時代は宋(5世紀)の暦法で書かれていますどういう事なのかと言いますと、
つまり古い時代は当然古い暦法で歴史を記録されていなければなりませんが
しかしどこにもそのような記録は見られません。ただ他国の史料を引用して同時代を
騙っているに過ぎません。では記紀に見える崩年干支や在位期間は
何を根拠にどういった経緯で記載されるに至ったのか考えてみる必要があります。

たとえば古事記では年齢記載が最初に消えるのは清寧天皇からです。この時期に
漢文の知識をもつ某氏族と雄略天皇に後事を託されたある豪族がいますね?
彼等は何故か初代神武天皇と九州から来たことになっていますがその後さっぱり
消息不明です、次に現れるのは日本書紀の垂仁天皇のところです。
ちなみにここでの大夫という表現については気に留めておいた方がいいと思います。
この人たち、ホントは垂仁天皇の先代と一緒に九州からやって来たんじゃないかと
普通は訝しがられるのも当然です。ではその前の天皇たちって一体。。。

というわけで欠史八代の天皇の存在について合理的な解釈を少ししてみました。
357日本@名無史さん:2008/03/22(土) 13:14:11
>>355サガミハラハラさん。初心者はそんな色物を手に取らないと思いますよ
358唐松山:2008/03/22(土) 18:52:07
倍暦は まだ 年数の予測をしただけで 暦に直していません。
私は 倍暦は 暦に直せない代物と 考えています。

神武 死亡時に 手研耳と神八井耳の確執があり (四年間とも)
この時 手研耳に味方した者は 冷や飯を食らっています。

太国さん 日々の干支は 符丁でなく 60進数の数字です。 
朔とは 新月、 春は季節、
「春から夏にかけて ため池を掘る。」ありえない当然太国さんも その様に考えていると思いますが
15日以降の記事の少なさより 季節を違えては 読める話も チンプンカンプンに成ってしまう方がおかしい?。
359日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:05:19
古い年代の日付の方が新しい暦に合うなんて話もあるな。
360唐松山:2008/03/22(土) 19:33:22
履中の頃の 閏のまわし
仁徳87年 春正月戊子朔癸卯春正月戊子朔癸卯から冬十月癸未朔己丑
仁徳87年は正月から10月の間に閏月が入ります。
履中2年春正月,丙午朔己酉から三年冬十一月,丙寅朔辛未の間に閏月
同五年春三月,戊午朔から同年秋九月,乙酉朔壬寅の間に閏月
このような情報を集めてゆくと
閏年は仁徳末年、履中2年、5年、8年、10年、13年?、16年、19年と成ります。
次時代は少し離れるが北魏の閏年
461年閏9月、464年閏4月、477年閏11月、480年閏9月、483年閏4月
488年閏9月、491年閏9月、491年閏7月、494年閏4月、496年閏11月

西暦400年から(もっと以前からでも良い)横に19年を並べて それを積み上げた
暦を作る。
西暦400年=履中元年として 閏年を並べる、すると縦のラインで閏年が推測できる
ただし 破章法の場合 ラインが崩れるかもしれないが ほぼこのライン上に閏年が
来る。 
そして 北魏の閏年と 同じ年になる。 朔の干支は北魏と同じ(以前に書き込んだ。)

神武 から仁徳までの閏の廻しとは違う。
履中から 中国の干支に合わせた のではないか。

361唐松山:2008/03/22(土) 19:56:41
訂正
北魏の閏の 491年閏9月 は消去して下さい。書き間違い。

362太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 19:57:42
>>356
太安万侶と舎人親王達が、死罪、準死罪となる文書偽造の創作をやったその理由
とは何か? ただなんとなくやったでは理由にならんよ。なんとなく重罪をかぶ
るなどとは通常考えられないからねぇ。
363太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 20:11:42
>>358
季節も後付けじゃぁ、矛盾だでクサい物にフタをしてオシマイだでは
いい加減な説明でしょうが?
364唐松山:2008/03/22(土) 21:05:00
15日以降に死亡した天皇が一人でも居たら 倍暦の敗北認めますか?
365太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 22:01:44
>>364
そういうお方がいたって倍暦の敗北にはならんでしょう。何と
なれば、30日まるまる月の日数があっても月数自体が空白である暦法
の時代では、倍暦が可能ですから。
グレゴリオ暦、ユリウス暦の前身の初期暦も1年は12ヶ月なく、10ヶ
月でしょうが。w これが一歩進めば倍暦がやれますよ。
366唐松山:2008/03/22(土) 22:04:00
ホ34257 ムソヤトシ シハスオナヱハ ヰカネアヱ キミコトきれて モノいわず ゐねますごとし
あくるトシ ネヤヱハツフカ アメヒツギ ミヨアラタマの ハヅキソヒ カミアガリぞと
ヨにふれて

崇神68年 師走オナエ 5日ネアエ 君事切れて 物言わず いね居眠ます如し
明くる年 ネヤヱ1月2日 天日継ぎ 御代アラタマの 1月11日 天皇崩御ぞと
世に触れて

崩御の日にちを 変更したのは 此だけではないでしょう。
あまり深く 考えない方が良い。

ところで ”年数を3倍にする”と言うことは ”日にちを3倍にする”ということですか?
日にちを3倍にする なら 日々の干支で日数は数えられますよ。
367太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 22:10:35
>>366
日にちを3倍にすることではないと考えています。一例で、1年が
4ヶ月だったとかそういうことだと考えます。
368唐松山:2008/03/22(土) 22:36:56
孝昭が懿徳を葬った時
ミオヤヲクリの ホツミヒと シワスのムカと モハにいり 
8月1日と師走6日と 喪入り

年が跨る?
369唐松山:2008/03/22(土) 23:11:53
訂正
366 の ハヅキソヒ=8月11日に訂正

2倍の時なら 8月から12月でも 良いか
ただし 春正月は前月の12月と同じ年は無い。
季節も月も 後付だから 良いのか?
370太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 23:22:32
>>369
欠史八代は文字通り欠史で文面少なく、その8月→12月へ跳ぶ可能性
はありましょうが、断定は無理です。
371日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:15:03
死罪(笑)
372唐松山:2008/03/23(日) 18:25:11
ホ13109 こたえとく スズはマサカキ ホスヱのび トシにぎなかの ムヨロホギ 

古代 年数が延長されていた頃の 暦の使い方
ムヨロホギ 6(万)祝辞  天皇在位6年頃から 空白年を入れる
ホスヱのび 在位末延び 天皇の在位期末は 在位初期より 間延びしている。

在位期間中を平均して延ばしたのでは無い。
書記を読んで 世継ぎを立てる 太子18歳が 即位53歳とか 明らかに 末の方が延長されている。
373唐松山:2008/03/23(日) 21:23:23
太国さんの 編年を 自動車カタログで見ると
イラストです どんなにすばらしく見えても イラストから自動車(本物の歴史)は作れません。
図面(暦付き)に起こして下さい、図面が作れなければ ただのイラストです。
サガミさんも 同じ。
374太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/23(日) 22:02:46
>>373
記紀くらいと寡少の記録くらいであなたの要求の暦などできっこ
ないでしょうが。だれもいませんよ。それくらい記録が少ないん
ですからね。あなたはそういう過度の要求ばかりしてますが、その
要求をあなた自身でやり遂げるには他の詳細なる記録が発見され
ない限り、今生では無理ですね。あなたは七生報国なんでしょう?w
とにかく、金が少なきゃぁ高価な買い物はできないでしょう。ww
375唐松山:2008/03/23(日) 22:12:32
341で掲載した 中国の干支を見ました?
あの程度でも 一応 暦にしています。
書記の記事程度 朔が在れば 直せると思います。
私はあきらめず 続けています。

中国の干支と同列には扱えないから ”?”か。
376太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/23(日) 22:35:13
>>375
無理でしょう? やるんならどうぞ。それがしは無理だと考えます。
労して功無しですよ。いいんですか? 日数計算等は当時の不規則、空亡とかで
正確には求まりません。
377日本@名無史さん:2008/03/23(日) 23:26:45
378日本@名無史さん:2008/03/25(火) 08:20:44
今の天皇はテロリスト天智の子孫なので
チベット虐殺は支持しているんですよね
379 :2008/03/25(火) 23:16:26
もし、チベットのせいでオリンピックが不首尾に終わったら、その後チベット人大虐殺がはじまるでしょうね。
外国に亡命したチベット人以外チベット人は存在しないことになります。そして、亡命したチベット人は亡命先のくにの中に飲み込まれ、地上から姿を消してしまいます。
しかし、こうゆうことは人類の歴史のなかではごく普通のことなのです。
380唐松山:2008/04/04(金) 21:54:55
神武 元年から以前
57年+1020年前の 干支を計算してみました。
神武 元年春正月を 辛酉年1月庚辰として 月齢を29.530585 で計算すると
神武 前 1077年は 甲子年1月甲子朔 に成りました。
月齢を 29.530589 で計算すると 癸亥 1日の違い。
381唐松山:2008/04/09(水) 19:31:09
重要なので こちらにも書き込み
諱を調べました。
ホ04185 マコトナを ヰミナとたゝゑ アネにミツ われはヨツなり
… タマキネいわく ヰミナには タラにヨつぎに ナとノリと あわせヨツなり
アマツキミ ヒヨリトまでを つくすゆゑ ヒトにのります キネとヒコ ウシもノリなり
メはのらず
カンヤヰミミノミコをうむ イミナイホヒト=後のミシリツヒコ
綏靖、神沼河耳、神淳名川耳 カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
安寧、師木津日子玉手見、磯城津彦玉手看 イミナシギヒト タマデミコ
懿徳、大倭日子{金且}友、大日本彦耜友 ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコスキトモ
ソフヲシエ カエシネミコをヨツギなる コトシソヤなり 懿徳12年 カエシネを太子とす、18歳
孝昭、御真津日子訶恵志泥、観松彦香植稲 ウチのうむミコ カヱシネの イミナミルヒト
孝安、大倭帯日子押人、日本足彦国押人 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ
孝霊、大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊 イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコ
孝元、大倭根子日子国玖琉、大日本根子彦国牽  ヤマトネコヒコクニクル イムナモトギネ
開化、若倭根子日子大毘毘、稚日本根子彦大日日 イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ
崇神、御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植 ウチのうむミコミマキ イリヒコの イムナヰソニヱ
垂仁の兄 ミマキヒメ シギにうむミコ  トヨキヒコ イムナシギヒト
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
景行の兄 ニシキ イリヒコの イムナヰソキネ その前に生まれたホンヅ(譽津別)の皇子は?
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ  諱ウヂヒトは ヨツギミコなり
☆ イミナを四つに分けるのは、自分でして下さい。
382唐松山:2008/04/11(金) 20:52:01
神代 1020年について
ホ28003 ヰソススの チヱのハタトシ アメかわる コヨミまだとて モノヌシが… (千枝の20年)
1020年にどんな意味があるのか 計算しました。
まず 19年の倍数では無い。 12616ヶ月 372557.9108日 小数点以下は、切り捨て
太陽暦に直しても あまりおもしろくない 
これに 1年、12ヶ月、354日をプラスしてみる
1021年、12628ヶ月、 月数*29.530589=372912.2779日
この日数を365.2422で割ると 1020.999977年 

甲子年から数えて 1020年後の甲子年 此に まるまる354日の閏年を設ける
甲子年の次の年は、閏甲子年 
これで 中国の暦に 甲子年甲子月甲子日朔 が出来るらしい?

383唐松山:2008/04/29(火) 13:58:49
来るかな?
384A_himiko ♪:2008/04/29(火) 21:38:54
倍歴はこっちでいいじゃん。

こっちでなら付き合います。

385唐松山:2008/04/30(水) 21:45:19
昔は スレタイに 倍暦と入っていたが、 スレ主さんの意向で 妄想の場所になってます。
386唐松山:2008/04/30(水) 21:55:18
ホ32034 フソヰハル イツモハツソヒ 25年春 出雲暦1月11日

古事記は、出雲の暦で 書かれている。
387日本@名無史さん:2008/04/30(水) 22:03:35
極さんて唐松山さん?


388唐松山:2008/05/01(木) 00:42:03
違いますよー
389極 ◆v6e4s/0I9s :2008/05/02(金) 08:01:14
極とは極太の略です
リアルちんこは細いです
390唐松山:2008/05/02(金) 12:12:36
書記、古事記の暦の読み方。 古事記=出雲暦

天皇   西暦  治世  増し 皇暦  古事記,干支 調整。 西暦
崇神天皇 186年 30年 38年 68ねん  138,戊寅 92。 西暦230?
垂仁天皇 216年 23年 76年 99ねん
景行天皇 239年 22年 38年 60ねん
成務天皇 261年  3年 57年 60ねん   175,乙卯 92。 西暦267
仲哀天皇 264年  9年  0年  9ねん   182,壬戌 92。 西暦274
神功皇后 273年 50年 19年 69ねん
応神天皇 323年 43年  0年 43ねん  274,甲午 92。 西暦366
仁徳天皇 366年 34年  53年 87ねん 307,丁卯 92。 西暦399
履中天皇 400年  6年  0年  6ねん  312,壬申 92。 西暦404
反正天皇 406年  6年  0年  6ねん  317,丁丑 92。 西暦409
允恭天皇 412年 42年   0年 42ねん
安康天皇 454年  3年   0年 3ねん   364,甲子 92。 西暦456
雄略天皇 457年 23年  0年 23ねん  489,己巳  0。 西暦489
清寧天皇 480年 省略
顕宗天皇 485年
仁賢天皇 488年
武烈天皇 499年
継体天皇 507年 25年  0年 25ねん  527,丁未 0。 西暦527
安閑天皇 532年
391唐松山:2008/05/02(金) 12:13:36
解説
@雄略天皇 124才崩御 前後の天皇の崩御齢と比べて 長寿である。 
雄略は、幼くして」即位、23年間の治世を経て崩御、 
簡単に推定すると 10才で即位、33才と死亡と見ると 124−33=90 →加増されているおおよその数。

A何故 92年の 誤差か。
19*4=76 76+16=92年です、
書記の最後は 19*2=38 38+16=54年(現実には53年)  履中元年に中国と干支を合わせる、
合わせるために 16年という 中途半端を差し込む。

B1年の違いは? 書記の成務治世3年と計算されていますが 記事は4年を支持
書記の成務治世60年が 61年有れば どちらも満足させられる。

なお 神功から仁徳は 暫定値です。 3人では長すぎる。
392太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/02(金) 14:08:02
水増しとか言えばどんな年代論もいい加減で横行できうる。水増しの客観的事由
が相当程度存在しないと何の価値もない。
紀の年代、月日を(たとえば死亡年)を何かの事由でシフトしたとかいうもの
上と同様。どんな否定論も横行しうる。こういうのは古代史論の犯罪的行為の論
に感じる。唐松山さん、あまりルーズが利く論法は止めてもらいたい。
393唐松山:2008/05/02(金) 14:19:32
書記と古事記が 合う読み方を 止めろというのですか?
394太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/02(金) 14:30:27
あなたは欠史八代の月日はシフトの旨されてると言ったでしょうがね?

こんなことを言うから、悔しさ千万で出鱈目否定を繰り替えす改めを活気立たせ
ることになるんだろうが。そんなのシフトがあったとすれば、いかような論でも
成立しちゃうよ。十二分なシフトの合理的事由があれば聞く耳をも持てるが、
何の事由も書きこみ無でシフトがあったなどは、先述のとおり、どんな年代論
でも縁日の金魚の紙網の穴を開けなくする論法となり、これでは古代史の犯罪的
行為と感じるのは当然でしょうがね?

>>392の死亡年  訂正→死亡日
395唐松山:2008/05/02(金) 14:46:20
では 太国さん 
天皇の死亡直前に どんな出来事が有ったか 全ての書物を使っても良いから
挙げて貰いたい。

感情論ではなく 理論の矛盾点を 突いて下さい。

倍暦では、季節さえ合わせられない。
古事記の読み方から 潰しますか? 書記の読み方を潰しても 古事記が残りますから。

396太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/02(金) 15:05:52
>>395
そんなことを言いたいじゃないんですな。あなたの言ってる天皇の死亡
日数が、どんな事由もなしにですよ、即シフトしたんだとか言うのは
どんな出鱈目論でもミソもクソも、共在、凶在できる迷惑論と言うべき
だということですよ。
あのとき、シフトした根拠がまるで無ではありませんか。

そんなんなら、あなた論も根拠が無で水増し固定でも、洪水まで水量を
増加可能で、そいつに各家の畳の上まで自ら増水させる行為をされる論
だということよ。これじゃメチャクチャの極だろ。

季節がどうのとあなたは言ってるがね、こちらは少ないながらも資料を
出して説明やってますよ。少ないかも知れぬがこっちは無でないですよ。
倍暦だっておかしくはないですよ。朔の話で後付けでわかるでしょうが? 

そこまで言うなら、まずあのシフトした事由を出来る限り出して
下さいよ。それがなけりゃぁ、あのときのあなたの単なる即興のいい加減
なシフト抗弁ということよ。だからくやしくて出鱈目否定の改めを活性化
させてしまうんですよ。

あなたが倍暦否定するのは、大いにこれだと思う持ち駒があるからなの
かも知れんが、まぁ何らかの無理で沈没だと想うね?

これから外出なので、また後でね・・・。
397唐松山:2008/05/02(金) 15:37:39
古事記の読み方では、そんな事は、言いません。
単純に 92年スライドしただけ。

それに合わせるのが 書記の読み方。
両方の書物を味方に付けていますから 強いですよ

古事記は単純に 92年スライドしただけですから 脆い、反面堅い
爪でガラスを引っ掻く様なやり方では、割れないよ。
398太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/02(金) 18:13:02
あなたは記紀双方を見方だとか言ってるが、紀の記述の欠史八代間の死亡日数
はシフトしたとか言ってるわけで、こんなんでは根源的に紀を採用してその年代
を論の入れるというのはシフトしてるんだからどこへシフトされたかを特定して
から記紀を整合させないんでは自語相違的であろうがねぇ?
それともあなたの使う部分の紀の記述はシフトしてないとでも言うのかね? これ
ではずいぶん恣意的あろうが〜?
399改め:2008/05/03(土) 12:40:38
おっさんおっさん〜こっちきなよ

常連でも周りに気を使い
スレタイに沿った話をせんといかん。
400改め:2008/05/03(土) 12:49:02
>>398太国氏へ
>つきあったところで、お前資料根拠も無しに
>それに証拠の表も反論できていないで

それは貴方も同じ。どこに有効なレスがあるんでつか?ここへ提示してな

>お前のは否定目的の否定でかく乱が目的の悪心の実行が焦点だろうが。w
>はやく支離滅裂のお脳を治療して正規の論が出来るようになってから
>出直して来い。 悪心抱くならもっと泣け、泣け。泣き屋になってやるぞぅ〜。

泣かせてみろてかんじ、大体、貴方のが古代史暦は長いのになにしとん?
わたし一人、納得させられずにいる。今後、ベテランとか言いなさんなw
401改め:2008/05/03(土) 12:52:38
>>398 太国
おっさんおっさん〜わたしは逃げも隠れもしない!

貴方は論破が最終目的でいるが、わたしは「真実が分かれば論破されてもよし」とする。
大体、古代史暦何年なの?
わたし一人納得させられずにいる貴方はなにやってんだい?ww
402太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/03(土) 12:53:55
改めよ。ここに来たからにはまだ悪心が覚めやらぬようだな。w
逃げてここまで来たか?wそうとう常連に警告されて逃げてきたわけだ。
そして、お前もとうとう年愚の汚覚め時が来たのだ。悪心を抱いて
くやしさを晴らす為の転覆目的の陰謀だから最後に泣かねばならない
のだよ。wwww うあっはっは!!wwwww 消えたほうがいいぜ。
403改め:2008/05/03(土) 12:59:36
>>402
アンタそればっかりなんだよ。
わたしとあなた、どっちが指示されてると思う?あんたじゃないよw

「倍暦」とは日本書紀編纂者が使用したまで。
書紀に書かれてる当時は、倍暦なんて使用してないよ。

当時、倍暦を使用してないが、記紀編纂者が用いたもの。
あなたは当時から倍暦なるものが存在し、行使されたとお考えのようだ。
ハッキリいって違う。どこにそのような痕跡はあるのか?
出鱈目をいってるのは太国のおっさんの方であり、それを押し付けてはいかん。

注意:当時とは、神武〜祟神天皇が活躍していた時代のこと
404改め:2008/05/03(土) 13:03:32
>>402 太国さん
向こうの終止符16>>956のレスみてみなよ

>支持

あれはあんたの倍暦に「支持」したわけやないよw
誰からも支持されてないところをみると、
他の人たちは、私が言ってるほうが正しい!と思ってるのでは?

405改め:2008/05/03(土) 13:09:52
太国氏へ 
氏の倍暦について他の人のレス
>太国先生、論に勝ったのは誰が見ても明らかなので、
>改め君をそっとしといてやってはくれまいか。

みんな、アンタが倍暦になると異常に熱く成り過ぎるので
気を使ってるんだよ。それぐらい気が付いてるよね?w
まったく〜可哀想に・・・w
406日本@名無史さん:2008/05/03(土) 13:51:18
>>改め
ここは真面目なスレなんですが。。。。
407日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:46:57
up
408日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:47:51
あげるな。来たらどうする。
409唐松山:2008/05/03(土) 19:41:27
太国さんへ
どの様な状態なら。 倍暦をあきらめますか?
私が 太国さんの 倍暦に日にちを付けてあげたいが、1年の長さが不特定なので其れも出来ない、
例えば 天皇初年の1月1日が 太陽暦の1月1日である、とか
何か 提示していただかないと 検証も出来ません。
太陽なら ユリウスかグレゴリオか?

神武 と、雄略は、ユリウスの1月1日でも良いので 検証するための
資料が 未だ提示されていません。

出していただければ 検証しますよ。
410唐松山:2008/05/03(土) 20:26:09
1 神武 天皇 8777日 庚辰
80 綏靖 37629日 壬申
113 安寧 49677日 庚申
151 懿徳 63556日 己卯
186 孝昭 76343日 丙戌
269 孝安 106642日 乙酉
371 孝霊 143909日 壬辰
447 孝元 171668日 辛未
504 開化 192487日 庚午
564 崇神 214399日 壬午
632 垂仁 239234日 丁丑
731景行 275409日 壬申
途中 省略
1253推古天皇 466059日 壬寅

皇紀と言えども 日にちで数えられますから 
とりあえず 太国さん ご自分で やるか 私が検証するか?
まずは 自分で やりますよね。

全て 1月1日です。
411ローガン:2008/05/08(木) 14:11:44
唐松山さん、太国さん。ザの天皇のルーツスレに神功紀分注についての妄想を書いてみました。
一度遊びにいらしてください。#349からです。

http://history.bbs.thebbs.jp/1139018811/e
412日本@名無史さん:2008/05/08(木) 20:57:35
唐松山は秀真伝を使わないでほしい
413日本@名無史さん:2008/05/08(木) 21:27:44
5世紀半ば以前の記紀の干支が儀鳳暦の後付であることは山本清彦が半世紀以上も前に唱えて古天文学の常識なのだが。
414日本@名無史さん:2008/05/08(木) 21:54:30
半世紀も前のものがホントに正しいのかという素朴な疑問が・・・・
415太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/08(木) 21:56:17
紀の干支は後付け。同意。
416日本@名無史さん:2008/05/09(金) 03:02:57
>>414
記紀は何年前に書かれたもんだよw
417日本@名無史さん:2008/05/09(金) 08:36:28
>>413 紀では安康紀と雄略紀を境に編者がことなるとかいう説を森なんとかという学者がいったことがあるとおもうがだれだったっけ。
418にんとく:2008/05/09(金) 11:09:33
「安康紀と雄略紀を境に編者がことなる」
森博達先生『日本書紀の謎を解く』によると、
1-13,22・23巻と14-19,24-27巻で文体(和臭の有無)が大きく異なる。
419日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:03:29
にんとくさんありがとうございます。早速図書館で借りてきました。
420にんとく:2008/05/10(土) 11:06:37
疑問を一つ提起しましょう。
万葉集左注には「日本紀」「日本書紀」の両者が出てくるのだが、
一例として、万44左注に「日本紀に曰く、朱鳥六年・・」という記述がある。
「日本書紀」は朱鳥元年だけのはずなので、これは、「日本紀」と「日本
書記」の相違(おそらく「日本紀」を改編して「日本書紀」に改題した)
を示しているのではないか、と思うが、どうだろうか。
421唐松山:2008/05/10(土) 17:40:30
出雲暦 考察
天皇…… 暦年 年干支 月数 日数 朔干支 出雲暦 西暦
………… -56暦年 甲子 0月数 0.58日 辛巳
神武天皇 1暦年 辛酉 705月数 20819.65日 庚辰
………… 184暦年 甲子 2968月数 87647.37日 戊辰 4年 96年
孝昭天皇 186暦年 丙寅 2993月数 88385.63日 丙戌 6年 98年
崇神崩御 318暦年 戊寅 4625月数 136579.55日 庚子 138年 230年
成務崩御 355暦年 乙卯 5083月数 150104.56日 乙丑 175年 267年
仲哀崩御 362暦年 壬戌 5170月数 152673.73日 甲寅 182年 274年
応神崩御 454暦年 甲午 6308月数 186279.54日 庚申 274年 366年
仁徳崩御 487暦年 丁卯 6716月数 198328.02日 己酉 307年 399年
履中崩御 492暦年 壬申 6778月数 200158.91日 己卯 312年 404年
反正崩御 497暦年 丁丑 6839月数 201960.28日 辛巳 317年 409年
安康崩御 544暦年 甲子 7421月数 219147.08日 戊申 364年 456年
改元 干支を 西暦に合わせる
…………. 660暦年 庚申 8855月数 261493.95日 甲午 480年 480年朔、戊戌は2日前
…………. 664暦年 甲子 8905月数 262970.48日 辛未 484年 484年朔、壬申は1日後
雄略崩御 669暦年 己巳 8967月数 264801.37日 壬寅 489年 489年
………… .670暦年 庚午 8979月数 65155.74日 丙申 490年 490年朔、戊戌は2日後
継体崩御 707暦年 丁未 9437月数 278680.75日 辛酉 527年 527年
………… 708暦年 戊申 9449月数 279035.12日 丙辰 528年 528年
422唐松山:2008/05/10(土) 17:55:40
出雲暦は 孝昭の初め 大物主が天皇家から 分けて貰った暦であるため
92年程の 狂いが在った為 雄略時代に 中国の暦と合わせる

ほつま伝により 暦の解読
書記の干支を使って 正しい 西暦に直す
旧事記の 雄略124才を使って 古事記の干支を 西暦に当て嵌める

何が 不都合なんですか?
もし不都合があれば 理論を以て 反論して下さい、歓迎します。
423唐松山:2008/05/10(土) 18:02:53
>422 の日数の少数点以下は 月齢を見るために使っています 小数点以下は切り捨て。
暦年の数字で 計算していますので、西暦に合致するものでは有りません。

424唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/10(土) 22:01:05
日本の暦は その昔 中国より伝わってきた。
初めは、同一のものであった。

この考えを 是 とすると 神武 元年では、遅すぎる
これ以前の暦の 参考は ほつま伝以外に無い。
又は 違った 編年を 考える。

ほつま伝を 嫌わずに読んで下さい。


425唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/12(月) 18:48:36
出雲暦 の 考察バージョンアップ

出雲暦は、孝安天皇元年(西暦119年)乙丑年 より 伸長されることなく使われた
成務崩御 西暦265年 出雲乙卯年
仲哀崩御 西暦272年 同 壬戌年
応神崩御 西暦364年 同 甲午年
安康崩御 西暦454年 同 甲子年

もし 大物主が暦の発行者であったら 崇神5,6年の大凶作の責任を どう感じたであろうか?
426太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/12(月) 19:59:07
唐松山さん
應神崩御=364年 ですと 仲哀崩御=272年 ですから、

 364−272=92年

となり、神功の摂政の期間と應神の在位で92年間ですから、お二人
のうち御一方では

 92/2=46年

ですが、ちょっと長すぎませんか? これが46年だから感じてないの
かも知れませんが、各々+4年だと各期間が50年になりますよ?
片方がこういう長さはありうるが、2回続けては合理性にいささか
疑念が出ますが〜? 大丈夫ですかね?
427唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/12(月) 20:13:53
長すぎますよ

だから 応神は、名を変えた とか 仁徳末 20余年間何事もない。
この辺も 年数に加えないと 辻褄が合わない。

書記と古事記が この年数を支持している以上
一応 この年数で 考えてみます。

私は、古事記を持ち出す前も 大体この年数で考えていましたから 古事記は心強い。


428日本@名無史さん:2008/05/13(火) 10:08:43

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
429唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/13(火) 21:26:55
朝鮮半島系住民よ 早く 百済本記を 歴史が読めるようにしろ、
他人の国の 歴史には 口出ししたくないから。

弥生情勢図
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif

水田も 倭人の住む地域以外から 発掘しろ。
430唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/15(木) 12:08:39
太国さんの 神功から仁徳まで
非常に小綺麗に纏まったいる 世継ぎは問題ないが、応神稜、仁徳稜の
築造が 出来そうにない。
たとえば 仁徳4年民の暮らしを見て調を停止する、この時には応神稜は、出来上がっていたと思います、
何故なら この時点で民が疲弊していたら あんな大きな稜は作れない。
仁徳陵は、仁徳67年から始まる。 
3倍の時代だから 5年で出来た では 通らない。
431太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/15(木) 12:26:59
>>430
何時造って、何時終了したのか? そして以後の修理の可能性も含めて検討せね
ば、そんなことははっきりせんだろう? 死ぬ前につくったものと死後つくっ
たのもあろうし、そこまで考えないで、否定するのは早計。
432太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/15(木) 12:41:06
仁徳67年なら仁徳4年から随分後だろう。煙がうんと見えて心配なくなっ
てからだろう。379年(仁徳67年)〜399年(仁徳89年)で倍暦で正味7年
くらいだな。なんとかやれるだろう。399年の陵葬時に完成だとは書かれ
てないだろう? 未完成時でもだいぶ出来てれば葬儀はやれるよ。

中国も五輪で未完成でも、あの聖火の強行を見ればわかるように、強行
すれば施設完成前でも事を遂行することはやるはずだ。
433太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/15(木) 12:44:07
>>432 訂正
× 399年(仁徳89年)
○ 399年(仁徳87年)
434日本@名無史さん:2008/05/15(木) 15:14:39
昔は工事にかかる人間の数が凄まじい人数だろうしな。
435唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/16(金) 20:24:14
仁徳治世初めに 民の家から煙が立たないので 徴税を猶予する。
こんな 時代なら 応神稜の大きさと 社会の状態の格差が有りすぎる
仁徳稜は仁徳治世年間中に 20年の歳月を費やして作られた。と書記に書いてある。
多分そのくらいの 歳月を要したと思う。
人足連中も飯を食わずに働けないし。

そんなことを考えているので 年数はほぼ決まったが 中身が…

履中元年の干支は年も朔も中国の暦と同一 
この後で 紀年を延長していたら 中国の暦に合わせられない。
436太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/16(金) 20:32:15
唐松山さん
現今の中国情勢をみてもわかるじゃないの?
四川大地震で人民が枯渇、疲労困憊しても五輪は実行可能とかで
大戦争が起こらん限り、予定通り開催を強行しますよ。

当時も煙云々で人民で疲労困憊している者らがかなりいても、造陵と
葬儀は強行するでしょう。
437唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/16(金) 21:11:25
かなり強行に造稜は推進したと思いますが、
人足が大量に死亡してしまっては、工事継続出来ない訳ですから
その辺の 人口や食料確保がどの様だったか?
この辺をポツポツ考えています。

人足は、半島から連れてくる。 こんな処でも良いが、
その人足の 食料は、? と来ると 答え???。
438唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/16(金) 21:39:24
考??  作稜工事の 人足と食料
まず 半島において 家族単位で捕虜とする
捕虜を各地の王に分散 農業基盤を固める
これらの 家族や村単位で 作稜工事用人足を徴集、畿内へ送り込む
残った家族や村に対し 食料の供出をしないと おまえ等の親父や兄が餓え死ぬぞ、
と脅しを掛け 食料の供出をさせる。
後 畿内で作稜に携わった人足は、各地方に戻り 其所で王の塚を作る。

これなら 各地同時に同様の 稜を作れる。
439美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 17:08:11
天照が九州で一生を過ごした事になってるんですか?

イザナミイザナキの降り立った地も、天照が産まれた地も奥美濃の恵那山周辺だよ


ちなみにそれ以前の国之常立命は飛騨に居たよ
440唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 17:13:44
イザナミは紀州熊野。
441美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 17:21:34
>>440
美濃の中津国(今の中津市)に降り立ったんだよ


イザナミが天照を産んだのは安木って場所
時代は「数年間、大雨が降り続いてた時代」だよ
世界中に洪水神話ってのがあるけど、仮にそれが現実にあったとしたならその時代に産まれたんだよ
442美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 17:24:23
あと天照の大権山に奉納されてた神器は八つの鎌だよ

一つは明智光秀の始祖の土岐氏に貸したとされてる
岩村城にも奉納されてた
443唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 17:32:16
イザナミは紀州熊野、
国之常立命はイザナミより更に以前で トコヨの国から渡ってきたばかりの神。

我が国の歴史は、神武 以前、神代が1100年ほど
天照の年齢は、170万才。

この辺の 年代を 議論するためには、ホツマは読んでないと 議論の対象にならないから
読んでおいて下さい。
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/17(土) 17:33:04
唐松山さん
以下のサイトはものすごいよ。全国各地の見えなくなった石碑の文字を写真で
上手に撮って井上先生という方に画像分析してもらって出した多大の年表等
の年月日と歳だ。 ↓

http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GAZO2.html

これらの石碑の文は当時よりも後代に宮内庁の陵の比定と同様に各陵墓に銘文
を独自に比定して石碑等を設置したとか? まぁ大半そのへんだろう?
神武以前にズラリと干支があったというのは疑問が残り、こういう考えに行き
ついている。もしくは当時暦法が多々あって混線状態にあったんだろうか?
紀の記述と拙者の論と合致しない個所が多すぎるほどある。

しかし仁徳崩御が拙者の倍暦計算の419年とピタリと一致しており、混線の中で
倍暦法があったと気をよくしている。不合の個所を検討中です。
445日本@名無史さん:2008/05/17(土) 17:44:16
>>443
ほつまは読んだ事ないや(^_^;)
ちなみに国之常立命は恵那山の近くの御嶽山の御神体で、金星を表す六亡星がシンボルマークだよ



国之常立命と同一視される飛騨のサナートクラマも金星から日玉に乗って降り立ったと言い伝えられてるよ

イザナミイザナキは国之常立命の日玉の国から、川の下流の中津国に降りたって言う話もある


ちなみにこの辺りでは天照の恵那山と、国之常立の御嶽山があるけど、やっぱ国之常立命のが上位見たいな扱いだよ


ちなみに飛騨の白山は多菊姫信仰の山
446美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 17:48:12
ほつまだっけ?
天照以前の国之常立命や、ヒイロガネなんかの神話を書いてる書物って?

あれ日玉(飛騨)の国の事だよ

日本アルプスの高地の高原にあった国
447日本@名無史さん:2008/05/17(土) 17:52:09
竹内文書のこと?
448唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 17:58:46
太国さん 吟味してから 返答するね。
墓誌 日本の古墳から特に天皇の古墳から 「墓誌が出ることはあり得ない」と感じています。
現在の 蒙古辺りでは まだ 他人に自分の本名を証さないのが 当たり前らしいですよ。
八十ヒラカを作って 呪いを掛ける この時必要なのが 本名 ですから。


もん太君 これは 如何に歴史が作られたかを 検証する資料ですから。
資料も 読んでないと議論になりません。
449美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 18:03:21
>>447
ごめ^^そっちかも^^

日本は仏教伝来以前までは山岳信仰の国だったと思うよ

寺社以前の信仰の形として巨石遺跡群も沢山あるし、山岳信仰文化も今なおこの辺りの地域では残ってるし


ちなみに巨石遺跡群ってあれ面白いね
山の中腹に天の岩戸や神鳴岩と呼ばれる巨石を置いて、そこに儀式の祭壇と言われる雨乞い岩を作って、、
あと御神岩と言われる巨石があって、山の登山口には、鳥居の原型と言われる二本の巨石を置いて、、


古代日本人の信仰心は凄いなって思うよ
450美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 18:10:16
>>448
ホマツタエに書いてあるんじゃなかったっすけ?
神社の原型ってか由来の説明


元々は神社ってのは山そのものを神の社として祀ってた物で、山の中腹に掘った穴に入り、岩で閉ざして、その山頂に小さな社を築く

これが神社の原型でしょ?
こういう山岳遺跡が飛騨や美濃や三河尾張には沢山あるよ


国之常立命や天照やイザナミはこの時代に祀られた神だから、山自体が今でも御神体となってるよ
御嶽山にしろ恵那山にしろね
451唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 18:43:57
もん太君 太国さんが 貴重な スレを啓上してくれたから見るように
イザナミ、イザナギの稜も載ってるから。
452美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 18:54:02
>>451
俺携帯なんで(^_^;)
ただ古墳って漢字伝来以降のもののような気がするよ
天照やイザナミは神代文字の時代の人と思うよ

山岳信仰の巨石遺跡群の方には古代神代文字のペドログリフが刻まれてたりするしさ
453美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 19:06:07
墓がある場所=その人物がいたばしょ
とかは決めつけない方が良いよ
新潟にキリストの墓があるからって、キリストは日本の王だった訳じゃ無いし

あと例えば神武天皇陵見たいに明治以降に作られた古墳なんてのもあるし


例えば九州王朝なら九州王朝で、○○が発掘されたとか、○○に記述があるとか以前に、まず九州各地にどんな神話や伝承が残ってるのかを調べたら良いと思うし

アイヌ王朝や琉球王朝だって別に記期に記述がある訳じゃないんだしさ
454唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 20:16:01
神 武 76年-57=19年間,,,,即位........没年...................治世.....誤差
綏 靖 33年-19=14年間 17丁丑52壬子............35...16年
安 寧 38年-29=9年間  53癸丑90庚寅............37...10年
懿 徳 34年-28=6年間  31辛卯75乙亥............44...14年..10
孝 昭 83年-57=26年間 6丙寅88戊子................82...25年
孝 安 102年-76=26年間 29己丑142壬午........113...37年..10
孝 霊 76年-57=19年間  10庚午126丙寅......116...59年..40
孝 元 57年-38=19年間 27丁亥93癸巳.............66...28年..10
開 化 60年-57=3年間 23癸未103癸卯..............80..23年..20 

干支による数字より増しを差し引く、と 私の計算との誤差です。

もん太君早い話 美濃付近の天照の話は 後付と書きたいのか?
元は一つの神話が どの様に美濃に伝わったか?又はそこから拡がったか?
そこを 話したいのでは?
455唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 20:28:33
孝霊は、60年過ぎに 富士山見物に出かける、
死亡前に 40年の増しを差し込んである、 等治世中に差し込まれた増しは、誤差として現れる。
誤差のない 天皇は、死亡時に 増しを差し込む。

それにしても 墓標は、何時の時点の伝承でしょうか?
456美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 20:34:07
>>454
後付けの可能性はゼロじゃないけど、俺は後付けじゃないと思うよ

元となる話や出来事があって、それが神話として伝わって来てると思うしさ


天照は何年も雨が降り続いてた時代、激しい神鳴(明光)と同時に依那に包まれて産まれて来た女の赤ちゃんだよ
それまでの神様は体が弱く一人しか子供を産めなかったり、奇形の子供ばかり産まれてたけど、イザナミが天照を産んでからは空も晴れ、神様は沢山の子供を産めるようになったんだよ


天照の名前にはそういう意味がある
ちなみに天照が産まれて来た時にくるまれてた依那は恵那山の中腹に埋められて、恵那山が天照の御神体の山となったんだよ

神話にある血に染まった池のあった場所には血池神社があるし、産湯の泉もちゃんと現存してるよ


ちなみに国之常立命のいた飛騨には「イザナミが産んだ奇形の子」って話もあるから、その可能性もあると思うよ
457美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 20:48:41
その土地にはちゃんと詳しい話ってか、違う側面の話とかがちゃんと残ってるよ

神様の名前や呼び方が地方によって違ったり、ある地方では英雄でも、ある地方からしたら鬼見たいに言われてたりするケースもある

けどそういう話や神話を沢山集めれば何となく元となる話や場所が見えてくるよ
記期神話もそういう神話の1つで、違う地域では違う側面から見た神話で伝わってたりするよ
458太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/17(土) 20:48:59
すごいサイトだな。武内宿禰佰六歳、下田小学校校庭石棺か〜?
本人(石田氏)は勝ち誇った気持ちでいるかな? 女王国を畿内と勝手
に決めこんでるし、倭の五王を天皇と先行的に信じているようだ。
それに倍暦のことはおそらく詰めてないだろうし、失敗は多いね。
しかしこれらの多大の石碑が確かに出たとなると、どデカい参考に
なり功績は大きい。
459美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 22:12:59
つかこのスレでは天照が九州で産まれ九州で一生を終えたって話になってるんです?

九州にはそれにまつわる神話や伝承とかあるんですか?
460太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/17(土) 22:51:05
>>458 訂正
× 石田氏
○ 池田仁三氏

池田様、失礼しました。目が悪く間違えたです。
461唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/17(土) 23:07:13
ダメだ もん太君には、ついて行けない。

神代の話を神話で終わらせず 歴史の一コマとして 蘇らすのが目的だろ?
縄文時代「産まれて来た時にくるまれてた依那」どの様に処理していたか 書き込んでくれ。
462美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 23:31:17
>>461
おれ神話とは思って無いよ

記期の解釈では「天照はイザナミの左目から産まれた」ってなってるけど、そうじゃないって言ってるんすよ

ちゃんと産まれた状況も産まれた場所も、産まれてから寝かせた岩も残ってるよ

ただ産まれてからの足跡みたいなのは特に伝わってないや
恵那山の神様となり神坂峠を越える大和健にイタズラしたりとかの話はあるけど、これは死んだ天照が見たいな事と思うし
個人的には産まれてからすぐ死んでる可能性もあると思うよ

イザナミと天照の神話は、天照が神鳴りと共に産まれてから、長年の雨が止み、ようやく空が晴れ、それいこうは沢山の子供を授かる事が出来た見たいな事が天照の功績見たいな感じの伝承だし


あと記期にも「天の岩戸に隠れた天照」の話があるけど、天の岩戸に入ってる人は既に死んでる人(命、神)だよ

この岩戸の付近に神鳴り岩とかをおき、祭壇となる雨乞い岩を置いて、その祭壇で儀式を行ってたみたいだから

天の岩戸や巨石遺跡がある信仰の対象の山は1つだけじゃないよ
恵那山や御嶽山や弥勒山や白山や笠置山や
とにかく沢山そういう山はあるよ
463美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 23:37:21
国之常立のいる飛騨の方の伝承が正しければ、天照はイザナミが産んだ奇形の子だよ

「胞(エナ)に包まれて産まれてきた」
ってのも、奇形の意味なのかも知れないし


胞ってのが何の事なのか正直良く解んないや
464美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/17(土) 23:45:04
あとは例えば「因幡の白兎」の神話のルーツの話も多分これだろうなってのも見付けたよ

あれ多分、三河に伝わる稲葉の素兎足(アリト)の話だよ

白兎が乗ってきた鰐ってのはワニやサメじゃなく和仁氏の事と思うよ
ちなみに鰐ってのは川を下る船の事でもあるよ
465美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/18(日) 00:05:49
唐松山さんの言うように、神代の話を神話とせずに、実際には何の出来事の事なのか、そのルーツをきちんと明確にしたい気持ちはあるよ^^

記期の漢文の解釈が間違ってて、違う話で解釈されてる話もあると思うしさ
因幡の白兎も兎の事じゃなく兎足(アリト)の事を書いてるなら、稲葉の王子の兎足が、和仁氏に騙されて身ぐるみ剥がされたって話がちゃんとあるわけだし

桃太郎の話も腰に着けたキビ団子じゃなく、古志にいる吉備氏を見方に付けて相手を退治した話とかがあるよ
あれも何がの出来事が、ああいう形で伝わってるだけの話と思うよ
浦島太郎と山幸彦の話は同じ出来事の話かも知れないし、竹取物語の話も、天皇とかが出てくる詳細の話とかもあるみたいだしね^^
466唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/18(日) 11:32:17
現在の 私の編年 

天皇 西暦   治世   増し      古事記
神武天皇 41年  19年間  57年
空白(タギシミコ) 3年間  
綏靖天皇 63年 14年間  19年
安寧天皇 77年 11年間   27年
懿徳天皇 88年 5年間  30年
孝昭天皇 93年 26年間  57年
孝安天皇 119年 26年間  76年 119年 己丑年 古事記の干支の初め
孝霊天皇 145年 19年間  57年
孝元天皇 164年 19年間  38年
開化天皇 183年 3年間   57年
崇神天皇 186年 30年間  38年 230年 戊寅
垂仁天皇 216年 23年間  76年
景行天皇 239年 22年間  38年 
成務天皇 261年 4年間 57年  267年 乙卯
仲哀天皇 265年 9年間   0年  274年 壬戌
神功皇后 274年 50年間  19年 
応神天皇 324年 43年間   0年 366年 甲午 
仁徳天皇 367年 33年間  54年 399年 丁卯   
履中天皇 400年............................... 404年 壬申 

理論を以て 潰して下さい。 歓迎
467太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/19(月) 07:37:00
唐松山さん
拙者の倍暦計算では懿徳誕生は58年を計上しました。これは光武帝から金印を
もらった57年の1年手前です。
ところが金印の側面には常根津日子の銘文があって、懿徳も常根津日子も安寧
の皇子ですから、拙者の計算は適合してますね。銘文のことは以前知ってまし
たが、ずっと看過していました。
これで当時畿内と北九州には連絡性があったことになるようで、ちょっと
驚いているところです。貴殿の計算で合いますか?あなたのは懿徳が88年即位で
拙者は82年即位で、これだと貴殿のもそんなに不具合はないかな? 懿徳誕生年
とおかしくないかも調べてみて下さい。
468 サガミハラハラ:2008/05/20(火) 16:03:18
当板の皇国史観に基づいた正しい古代史スレにわたしの倍暦計算による、神武即位年及び垂仁天皇までの在位年をのせておきました。
是非ごらんください。誰にでもわかる理由ものせてありますのでどうぞ皆様ごらんください。
469日本@名無史さん:2008/05/21(水) 04:45:02
>>444
こりゃちょっとひどすぎませんか。
画像解析っていったって、写真はどれも質が悪すぎますし。
私はこういう学問にゃあかるくないですが、

ttp://www11.ocn.ne.jp/~jin/YOSIN.htm

これが「吉野ケ里遺跡隣接日吉神社宮跡碑銘」?
こんな横書きってアリなんですか?
470太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/21(水) 07:21:45
二千年とか経ってものにもよるが、鮮明だというほうが
おかしくはないか? これは殆ど読めるよ。
古代マヤ文明のマヤ神聖文字は書き方の順が一応決まってるが、
いろいろと例外も多く逆に書いたり不規則な文字も多々ある。日本
でもそういうことがあってもおかしくはない。

云いたいことは、明治政府の御陵比定の如く、天津国玉の時代より
ずっと後代に古代のおえら方が各地に比定での石碑等を建てたんで
はないのかっというのが拙者の考えだ。記紀と死亡月日が不一致の
が多いし、一致しているのもあるも、用心、検討は相当せねば
なるまい。これらを探し出したとなると、池田さんの功績は多大で
ある。こういう情報がまだ広まってないんだろうが、それは古代史
学者の論説の生死にかかわり、圧力を回避しているからか? そん
なところかな?
471日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:06:19
ほほう、こんなのがあるんだ。
まあ当然後世に立てられたものだろうが・・・
その「後世」が何時なのか?には興味がないでもない。比較的新しそうだけど。
472太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/21(水) 15:17:17
おろらく後世だと想うが・・・?
473日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:37:17
そのサイトは信じないほうが吉だろ・・・
ttp://www11.ocn.ne.jp/~jin/KASEI.htm
474太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/21(水) 22:40:21
そっちのはわからん?
475日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:42:46
信じる信じない以前の問題だろ、それ。
476 :2008/05/21(水) 23:20:46
この写真群、何年かまえにもあちこちに掲載されたもので、事情を暴かれのせたひとが
「だから僕はまだ初心者ですがとことわっているでしょう」といってました。
書かれている字が同じ人だとわかりますね。(和田喜八郎サンではありませんよ)
何年かごとに蘇るみたいですね。
477太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/22(木) 15:13:09
まぁそれがしも同一文字の可能性がないかな〜とは考えていた。もしそうならば、
古代のそれら各人物が死亡の直後に書きこんだ石碑等ではなさそうで、後代に
あるお偉方の命で、それぞれの遺跡墳墓等とかで一斉に設置したのであろう。

だが一応役立つべきものだな。評価は大きいと観たいが、臥海の先生が自論防備
のため色々ケチをつける可能性があろうから、論をひっそりやってるのかな?
478唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/22(木) 20:22:04
ポスト内藤湖南殿
ここに現れたら 暦について 語りましょう。
479唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/22(木) 20:30:29
墓標より推定は、困難でしょうね、
何時、誰が墓標を作ったか?
これさえ 特定できそうにない、古ければ コンピューターを使っても 解析出来ないと思いますよ。

でも 並べて見てはいるが…。
480ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/22(木) 22:28:05
>>478
わざわざお呼びいただいてどうもありがとう。

暦とは天皇の在位年代のことですかね?
481太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/22(木) 23:32:07
唐松山さん
池田さんの発見されたという石碑の中の 神功崩御年=己丑年 も
調べましたが、それがしの繼體以後が2倍暦になるという通常暦干支
と倍暦干支の二重干支行使で、繼體以後の2倍暦による14年ズレが
あったろうという考察から、14年ズレでの干支は神功では己丑年に
合致しました。やはり倍暦を行使していたと思いますがね。

繼體即位元年の干支は丁亥年ですが、宣化即位年(後半期=535年)
のからの(自説の)2倍暦としての逆算での繼體即位元年(521年)
の倍暦干支は辛丑となり、こういう倍暦干支があったものとして、
倍暦年での507年(←倍暦での仁賢6年に移行)を辛卯年として丁亥
と取り替えて、507年以前を倍暦逆算にて干支をあてはめて行くと

 神功崩御年=(倍暦での)375年=己丑年

となり、石碑と合致します。ここで注意してもらいたいのですが、
倍暦通常暦境基点の535年から倍暦干支での逆算では

 仁賢6年=(倍暦での)507年=(これも)丁亥年

 神功崩御年=(倍暦での)375年=乙亥年

です。535年からの倍暦干支逆算と507年での干支取替えでの14年ズレ
の倍暦干支は異なります。だから三重的になるわけです。

神功崩御倍暦干支年は535年逆算では乙亥年、同崩御倍暦干支年は
507年(=仁賢6年)の14年ズレ逆算では己丑年というわけです。
482太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/22(木) 23:37:15
>>481 訂正 10〜11行目
× 辛卯年として丁亥と取り替えて
○ 辛丑年として丁亥と取り替えて
483唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/23(金) 20:13:04
ほほ〜お。
私の方は 未だ 海の物か?山の物か? 判りません。
墓標は 一つ一つの 来歴の寄せ集め。
一つが違っていても その他を 否定できないし 一つが合っていても 他を信用するわけにも行かない。
484唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/23(金) 20:27:56
早い話 息長帶比賣命/息長宿彌子は 是までどうり」の
皇暦で表された 墓標 

新鮮味が無い。
485太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/23(金) 20:30:58
繼體よりずっと後代のものが繼體〜宣化の2倍暦を想定せず通常の
暦法で編年をやっていただろうから、2倍暦で14年の断層ができ
てしまうわけですよ。だからこんなふうになるんだと想いますよ。
繼體〜宣化の2倍暦論に関しては貴下はすでに拙者の書きこみを読ん
でご存知のはずですが?
486日本@名無史さん:2008/05/24(土) 00:36:34
アップ↑
487唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/27(火) 21:32:30
墓標を眺めているが 纏まらない。
男性の没年齢は、十〜二十年増されている?
女性は、ほぼ 同じ  当然例外も在る。

この状態は、 神代の時代から有る 編年を難しくしている原因でもある。

天皇の聖寿 天照大御神=百万歳
太子=千歳
臣=百歳

神代の”振り”は こんな感じ。
数字が小さい分 厄介だ。
488唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/27(火) 22:02:46
ポスト内藤湖南さん

私の編年と 近いと言えば近い
折角考えた 年代考では有るが 現実の年代と 合わせるスベは有るのですか?

489唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/28(水) 12:24:45
墓標の干支考
墓標の干支には2通りあります 書記の干支と出雲の干支 この2つが 渾然一体と成っているので 分ける必要がある
書記の干支 訶惠志泥命/孝昭D AD 22〜 88 戊子年8月8日67
出雲の干支 國押人命/孝安E AD 42〜118 戊午年1月9日77  
同じく   賦斗迩命/孝霊F AD 82〜136 丙子年2月8日55
同じく   國玖琉命/孝元G AD108〜153 癸巳年9月3日46
同じく   大毘毘命/開化H AD124〜163 癸卯年4月9日40
崇神10年? 建波邇夜須毘古命/孝元子 AD128〜167 丁未年4月9日40

書記の干支 息長帶比賣命/息長宿彌子 AD289〜389 己丑年4月17日101


孝安没干支辺りから 混ざり始める 誤差は0〜4年 とりあえず この辺りから2通りに分ける必要がある。
年齢はシビアに考えない、正しく分けることが大事 出雲暦には増しが 無い物として 並べて下さい。

編年は、その後で 考える、墓標も ある程度 仕えそうです。
490唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/28(水) 12:40:41
西暦119年=皇暦269年 己丑年 孝安天皇元年で 計算

皇暦268年 訶惠志泥命/孝昭D AD 22〜 88 戊子年8月8日67
西暦148年 國押人命/孝安E AD 42〜118 戊午年1月9日77 出雲干支ですので 西暦の干支では有りません。
西暦166年 賦斗迩命/孝霊F AD 82〜136 丙子年2月8日55
西暦183年 國玖琉命/孝元G AD108〜153 癸巳年9月3日46
西暦193年 大毘毘命/開化H AD124〜163 癸卯年4月9日40
西暦197年 建波邇夜須毘古命/孝元子 AD128〜167 丁未年4月9日40

皇暦929年 息長帶比賣命/息長宿彌子 AD289〜389 己丑年4月17日101
491唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/28(水) 21:48:56
出雲暦 設定位置 変更
数えはじめ
観松彦香殖稲/ 孝昭天皇元年 西暦93年 丙寅年 とする。

孝安天皇元年より 違和感がない、しかも
西暦506年は 己未年と成り 大長谷若建命墓、己未年八月七日薨、御年六十二歳

倭王武 に対応する。
 
492唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 15:58:36
墓標を 出雲暦で見る 没年
63〜76 皇暦 神沼河耳命/綏靖A 壬子年5月10日50
77〜87皇暦 玉手見命/安寧B 庚寅年12月6日49
88〜91皇暦 鉏友命/懿徳C 甲子年9月8日65
93〜118皇暦 訶惠志泥命/孝昭D 戊子年8月8日67
119〜145年 國押人命/孝安E 戊午年1月9日77
145〜163年 賦斗迩命/孝霊F 丙子年2月8日55
164〜180年 國玖琉命/孝元G 癸巳年9月3日46
183〜190年 大毘毘命/開化H 癸卯年4月9日40
元年は、私の書記による編年 参考です。
ここからは責任もちません。
360年 品陀和気命墓(棺) 甲午年九月九日75
386年 大雀命墓、己未年八月十五日、83
399年 伊邪本和気命墓、壬申年一月五日64
405年 水歯別命墓(棺)、戊寅年七月五日59
423年 若子宿禰命墓、癸巳年一月十四日61
481年 木梨軽王命墓、甲午年五月十二日41
483年 穴穂命墓、丙申年八月九日41
506年 大長谷若建命墓、己未年八月七日62 

太国さん ここから どう料理しましょう。
493太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/29(木) 16:34:23
そんな早い結論で大丈夫〜?
494唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 18:01:14
責任回避のため 360年 品陀和気命以降は 参考資料
495美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 21:12:36
「神武天皇が日本の発祥」
って解釈をしてるからオカシくなる気もするよ
日本書記や古事記を読んで解ることは、日本の歴史は神武じゃなく、それより遥か以前の国之常立命とかの時代からが日本の歴史の始まりだって事
その後、国産みやイザナミイザナキの降臨があり、天照やスサノオの時代があって、それより後にイワレビコや天皇の時代が来る

日本の歴史は神武天皇からじゃなく、それより遥か以前から日本の歴史は始まってるよ

ここまで自分の歴史を遡れる民族は世界中で日本民族だけだと思うよ
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/29(木) 22:17:10
>>492 唐松山さん
綏と懿徳の在位期間が3〜4年ばかりですが、そんなに少ないん
ですか?仲哀とか履中等の短期在位ですがね?
間違っているとは思いませんか?
497太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/29(木) 22:23:22
失礼 綏はそうでないですね。計算違いでした。
498唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 22:48:24
懿徳と孝昭は 腹違いの兄弟
ほつま でさえ深読みしないと 読めない、 
墓標は 私の編年を支持。
私の編年が先にありますから。

もん太君 良く解っているネ それでは 天照の年齢を 言ってごらん。
499唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 23:08:08
安寧11年 ソヒのハツミカ ヨシヒトの イマヤトセにて ヨツギミコ
懿徳  フソフトシ キサラツシトハ ソフヲシエ カエシネミコを ヨツギなる コトシソヤなり 

懿徳は 皇暦の八才で太子となる、 
懿徳4年 孝昭を産む

私の編年で行きますと 懿徳4年では 世継ぎをもうけるには まだ早すぎる。

墓標の年号は、皇暦でしたので 墓標が私の編年を支持することは無い、大変失礼しました。
500唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 23:14:02
懿徳8才で太子となる
懿徳4年に 孝昭を産む

私の編年では 「懿徳4年に 孝昭を産む」不可能なんです。
墓標は皇暦でしたので 私の編年を支持することは無い 大変失礼しました。
501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 23:22:45
  ヲモイカネ シナノイナホラ アチノカミ
もん太君 早く ほつま読んで 話を合わそう。
502美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 23:50:28
>>501
ほつまも記期も他の風土記や古史古伝も、別に書いてある内容は同じじゃないんですか?
違うとしたら、書いてある内容じゃなく、その書物の内容の解釈が違うってだけと思うよ(細かい違いはあるかもだけど)

どのみち日本書記も古事記も、天皇の系譜の書を紛失しちゃってる書物だから、日本書記や古事記では正しい系譜は解らないっすよ^^


日本書記や古事記の内容の解釈には俺は間違いが沢山あると思うしさ

例えば明治維新後に明治政府は、天皇の系譜はそれまでは北朝系で続いてたのに
「南朝系が正当な天皇系譜だ!」として、先代旧事記を偽の歴史書と認定し、それまでの北朝系の天皇系譜を破棄して
南朝系を正当として系譜の紛失した日本書記を正書とした
(その過程で歴代の北朝系の天皇を八人ぐらい日本の歴代天皇から排除した)
例えば平安時代まで遡らなくても、明治まで歴史を遡れば、明治以前と明治以降じゃ歴史が塗り変えられてる訳だし

明治以降に長州政府から正史と認定された日本書記の解釈には、九州の長州政府の都合の良い解釈が多々なされてるのも事実すよ

「初代天皇の神武天皇は九州から東征を始め日本を統治した。これを日本の始まりとする」
ってのも単なる長州政府がした解釈だよ


俺からいわせりゃ神武以前の時代のスサノオやイザナミの時代も日本の歴史が書いてあるんだけどね

同じ内容でも、神武からが日本って解釈する人もいれば、イザナミイザナキからが日本って解釈する人もいるよ
503美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 00:12:47
>>501
唐松さん。ちなみにホツマでは「○○天皇」って記述は無いらしいすね?
確か「イワレビコ」や「オシロワケ」って言う、元々の神名で書いてあると思ったっす

あと、ほつまは記期よりも詳しい内容が書いてあるし、記期見たいに漢文じゃないから、漢文の解釈を間違えたりも無いすよ
(ただし今度は発音の解釈をしなきゃいけなくなるから発音の解釈の間違いは出るとは思う)


けど書いてある内容はそんなに変わらなく無いですか?
あとホツマで年代がはっきり解るなら、記期で解釈されてる年代より、ほつまの年代のが正しいと思うすよ


それにホツマや他の歴史書見ても、イワレビコが日本の発祥って書き方してる書物は無い気がするよ


イワレビコを日本の始まりと解釈をする人がいるだけでさ
504美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 00:19:34
墓標に「皇暦」ですか?
つか「皇暦」って暦が造られたのは明治時代以降ですよ


例えば今のキリストの生誕を元年とする西暦が造られたのは西暦400頃
例えばそれ以前の時代のものに「205年」ってあれば西暦205年の事じゃない(西暦205年には、まだ西暦って暦は存在しない訳だから)



ほつまの年代認定って、皇暦を元にしてるんですか?
ほつまが書かれた時代に、皇暦なんて暦はまだ無いっすよ
505唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/30(金) 12:07:10
もん太君 下記の様な話をしたいんだろ? 

さきにミコ ミタリうむとき シナノより ヨシナアガタのヌシきたり
アマテルカミの タメシあり エナこふときに ミコトのり 
ハニシナヌシは ヱナガタケ ハヱシナをよび サラシナと ツマシナヌシら
このミヱナ そのオにをさめ まもるべし

 ヱナガタケなる シナノクニ いたるワカヒト ヒタカミの 
アメノミヤにて ミチまなぶ 

付き合うけど このスレには1日1回まで 書き込みを 認める。 まず 天照の年齢は?
終止符!スレに19が二つある もう一つのスレ余り書き込みがない方 そちらに書き込め 読んであげるから。
506唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/30(金) 13:01:32
綏靖天皇五年、甲申(きのえさる)の歳にして生(アレ)ましけり。二 十五年甲辰(きのえたつ)の歳、立(たち)て皇太子(ひつぎのみこ)となる。時に年(みと)し二十一。
安寧 38年中、11年間
ヨホツヤヱ ウツキソヰカに ヌナソヒメ うむミコイムナ ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコ
スキトモぞ
ソヒのハツミカ ヨシヒトの イマヤトセにて ヨツギミコ 
安寧天皇十有一年癸亥(みづのとゐ)春正月壬戌(みづのえいぬの)朔(ついたちのひ・一日)、立(たち)て皇太子となる。時き年し十六
懿徳 35年中、5年間
天豊津姫(アマトヨツビメノ)尊を立てて皇后とす。
イヒヒメを ココタヱヰトシ ヤヨヒユミ スミヱにミユキ ミルをみて ウチのうむミコ
カヱシネの イミナミルヒト
フソフトシ キサラツシトハ  ソフヲシエ カエシネミコを ヨツギなる コトシソヤなり
孝昭 83年中、26年間
天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。
フソコトシ キシヱハツミカ キサキたつ

孝昭の諱  観松彦香植稲 ミルヒコカエシネ、 カヱシネの イミナミルヒト
彦と仁 次男と長男の違いがある 
位を継ぐことにより 諱をミルヒコからミルヒトに変えたのではないか?丁度
神八井耳(ノ)命が弟に位を譲った時のように。
そうでなければ 懿徳は綏靖時代に生まれている 
安寧と懿徳は、兄弟?。 どちらを取るか? 又はどちらが正しいか?
507唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/30(金) 19:41:14
墓標を見て 気が付いたこと
天皇の墓標が 各地に散らばっていて 死亡時にその土地に作られた墓稜の位置と
全く関係ない 地方にも在る。
その割に 年代は合っていると思われる。
どの様に解釈しましょうか?
>505参照 天皇の生まれたとき 各地の豪族等が その生まれたばかりの天皇の 守りとして
仕える、その時 生まれたばかりの天皇の エナを各地に持ち帰り 祀る
天皇死亡時に その塚に墓標を建てる。
508太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/31(土) 14:37:54
唐松山さん
池田仁三さん解説の井上先生が見つけたらしい金印の側面の「常根津日子命」
は57年時なわけで、倍暦計算で

 安寧誕生=34年
 金印賜与=57年
 懿徳誕生=58年

となりますが、このことから漢委奴国王(=常根津日子命)が光武帝から金印
をもらった57年時では安寧は24歳の計算になります。

紀の安寧の条によれば、安寧の皇子の記述として

「一は云はく、三の皇子を産みたまひき。
  第一を常津彦某兄と曰し
  第二を大日本彦耜友天皇(懿徳)と曰し、
  第三を磯城津彦命と曰すといふ。」

懿徳誕生は58年ですから、常根津日子命は57年以前誕生ですよ。倍暦計算は正に
合ってますね。つまり安寧の后が57年に命を生んで大きくなってから北九州の
国王にすることが誕生時決まったんではないですか そのことで光武帝から祝い
なのか金印をもらったと考えていいんではないでしょうかね? もしくは57年
以前での安寧が23歳手前のまぁ15,6〜23歳頃までのある年に誕生の子が常根津
日子命で、そのことから彼を北九州の国王にすることを決めたとか、まぁ
そのへんでしょうな?
509太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/31(土) 15:03:50
池田さん解説の金印側面文字の安寧皇子名があったことは、当時の北九州と畿内
にすでに漢字の使用があった蓋然性は多大となる。
ところが奥九州女王国は倭人伝から文字なしだから、卑弥呼の国が奥九州の
準隔絶地帯にあったこととなおさら想う。つまり畿内の文字使用で、後代の
卑弥呼の時代の崇神世前後も漢字は朝廷で知悉事項だと観てよく、漢字に未知な
女王国が畿内にあろうわけがないとしてよい。
510唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/31(土) 21:44:05
九州の 干支は 私の 考えの外にある 
依って 今のところ 九州は 外して考えています。
511唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/31(土) 22:35:41
もう一度 見直しますが、
>508の考えでは 倭国=畿内大和?
是は 無いでしょう、 この頃は、大物主の下
「儂を祀れ」と言われて 祀ったのは、孝昭。
512太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/31(土) 22:38:24
だから畿内は大日本耜友が皇位に就け、北九州は常根津日子が国王となれという
継承だったんでしょうな。
513日本@名無史さん:2008/05/31(土) 23:08:05
南九州は天孫族
514唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 01:27:02
私の見方では、暦を司るのが 大王
孝安以降 没年が皇紀で無くなるのは、何故か?

天孫族 =熊曾 は無いと思う。
515唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 01:33:50
そうか 少し判ってきたぞ

倭国大乱のキッカケは、古墳時代小氷期 寒冷化の始まり
半島人が九州へ南下してくる、 北九州の土地は開発余地が少ない、
南九州に入植、北九州と軋轢を生む。

516九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/01(日) 11:55:32
>>515
>倭国大乱のキッカケは、古墳時代小氷期 寒冷化の始まり

倭国大乱の時期は弥生温暖期。
倭国大乱のキッカケは、弥生温暖期の西日本の旱魃による食料不足。
517サガミハラハラ:2008/06/01(日) 15:53:02
倭国大乱のきっかけは、単純に王位継承権の争いですよ。
518日本@名無史さん:2008/06/01(日) 17:06:36
小規模であれ民族移動を伴うのだから、
「単純に王位継承権の争い」ということはありえない。
神武東征であればありえる。
519日本@名無史さん:2008/06/01(日) 19:40:29
王位継承権の争いなら 相争うこと歴年
最終的に 7,80年 は、長すぎる。

神武東征でも 重要な戦いは、1年 周りの平定を入れて 最大5年程度でしょう。
実力が違いすぎて 比較対象には 成らないか。
520唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 20:17:16
倭国大乱の中に 西暦193年の飢饉も含まれていると思う
新羅本記に依ると この時の5月に 都に大雪が積もったと出ている、
干ばつよりも 冷夏。
521唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 20:27:18
追加
この頃の 新羅の暦は、7月稲刈り です。
522唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/03(火) 19:33:00
墓標
今 神功以降を並べて 年代を振っているが メチャクチャですネ。

これに整合性を与えないと 歴史に成らない?
523太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 19:44:22
墓標の字がどれも似ているとか言う方がおられたが、確かに似て
いると思う。だから墓標のそれぞれの字がコンピュータ解析とやらで
もやっとでしか判別できない、やっと見える状況から、写真上
にこういう字だと分かるように解析の関係者がなぞって書いておい
たのかも知れない? となれば同一人物の字でも不審性は
うすらぐ・・・?
いまのところ参考だが、どうなるか・・・?
524唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/03(火) 21:47:14
天皇  私西暦  墓標 干支
応神天皇 366年 361 甲午
仁徳天皇 399年 386 己未
履中天皇 405年 399 壬申
反正天皇 411年 405 戊寅
允恭天皇 453年 420 癸巳
安康天皇 456年 483 丙申
雄略天皇 479年 506 己未
清寧天皇 484年 451 甲子
顕宗天皇 487年 455 戊辰
仁賢天皇 498年 465 戊寅
武烈天皇 506年 473 丙戌
継体天皇  533年 皇531辛亥

天皇を入れ替えたい
武烈の子供雄略 性格も似ている。

整合性のある 読み方が在る以上 偽とするわけにはいかない。
歴史として読めない人間には、偽とするのが 保身のためにも成る。
捨てる物の無い我々?は 邁進するのみ。

525太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 21:53:29
偽だったら出展の墓標が多すぎることで簡単にバレる。だからウソ
のように感じるようだがウソではないだろう。金印もニュースに
ならないからおかしいとかの話もあろうが、だったら青森文書のよう
にとことんたたかれるはずだ。が、それがない。
ということは、出すと有名学者、有名研究家の説が軽く崩れるので
そっとしていたく、当たらず触らずでおおっぴらになったないんでは
ないのか? そのへんだな。
526唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/03(火) 22:12:25
肥後チプサン= 天照大御神

それでも 此処までは信じていない。
527日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:21:26
太国さん。あの写真に信ぴょう性をもとめておられるのですか。
あれは真っ赤ないたずらですよ。
ばかばかしくてだれも相手にしない代物ですよ。だから誰もたたかないのです。
528太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 23:05:11
忠告感謝。
529太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 23:14:52
http://nagoya.osu-dnews.com/archives/50278113.html

こんなのはどうなのかな?
530太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 23:40:50
唐松山さん
ホツマの件ですが、

NHKの番組「その時歴史は動いた」で、御木本パールが大粒真珠を
沢山作って西欧の宝石商から偽物だと叩かれて大騒ぎになって
シーンで、御木本パールの大粒真珠ネックレスをぶち切って
それらが床に落ちこぼれるところを見てましたが、ホツマにも真は
うんとかだいぶかある程度かあるんではないかと考えますが〜??

その後御木本さんは外国に訴訟して勝訴したとのことで、裁判官が
真と判断したそうです。出る杭は打たれると女性専門家が同番組で
説明してました。ただ青森文書はどうなんだか ?マーク です。w
531日本@名無史さん:2008/06/04(水) 18:57:33
大先生方にとって 都合の悪い物、自分と意見の合わない物、に
偽 、無視 等のレッテルを貼ることを 仕事としていますから
かみついても仕方ない 倉西女史の様に雲行きが怪しくなったら 店をたたんで 後は、無視。
532太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/04(水) 22:02:00
審議双方の意見を聞いて可否は保留だ。御木本パールも西欧の宝石商
に偽物だと決めこまれたがそうではなかった。
あの番組の説明だと、そのころは直径3mmの真珠しかなかっ
たらしいが、これの5mmのを作った首飾りだからか、ニセだと
あしらわれたが、本物だということの判決となったそうな・・・。

ただ言えることは、それがしの倍暦計算では金印の側面文字の名から
計算が正確であることになる。いろいろ思うがあの人は畿内説者で
帥升を孝安天皇と主張してるくらいだから、金印側面文字は真でなけ
れば神武天皇にするのが成り行きであろうが「常根津日子」という
天皇でない名となってるから、まだ何とも?だ。即棄却というわけ
には行き難いので・・・。
なので保留で、今後に取捨選択する以外になかろう?
533太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/04(水) 22:04:13
>>532 訂正
× 審議   ○ 真偽
534日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:52:55
温暖化は500年周期だね。
弥生温暖   3世紀から4世紀(遺跡の多くは高台)
平安海進   9世紀から10世紀
      (寒冷期の鎌倉攻め時の新田義貞の稲村ガ崎越えは可能)
戦国時代   15世紀から16世紀(熱田神宮は海の側、家康入府時の江戸は湿地帯)
地球温暖危機 21世紀から



535日本@名無史さん:2008/06/05(木) 21:02:46
あと
紀元前の大森貝塚は沖合いの島で隔離された人々(人為的に)が生き抜く為に貝だけを
食べていたという説もある。
536唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/05(木) 22:29:01
墓標でトランプしてます まだ当分アガリは無さそう。
537太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/05(木) 22:41:58
今宵はTV8chの番組で文書偽造を得意とするアメリカのか? そう
いう終身刑になったホフマンとかいう外人被疑者のイカサマを放送
していた。そういう奴もいるから、即断はいかんが注意が必要で、
取捨はそれからだな。
538唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/10(火) 19:43:02
撮って出しに付き 間違いご容赦。

西暦.出雲‥皇歴.‥‥‥没年‥..…….....歳…..名前
☆272..乙丑....859..己卯..己卯年3月15日 52..帶中日子命/仲哀M
275..戊辰....862.........戊辰年7月14日 64..豐鉏入日賣命/崇神女
275..戊辰....862........戊辰年4月15日 56..千千都久和比賣命/崇神女
279..........866..丙戌..丙戌年12月9日 30..香坂王/仲哀子
280,,........867..丁亥..丁亥年7月15日 28..忍熊王/仲哀子
285..戊寅....872....…戊寅年6月3日 46...五百木入日子命/景行子
312..........918..戊寅..戊寅年11月6日 55..若建王命/小碓子
318…..辛亥…埼玉 稲荷山 鉄剣銘
☆323........929..己丑..己丑年4月17日 101..息長帶比賣命/仲哀后
338..辛未....944........辛未年7月4日 106..建内宿禰
341..甲戌....947........甲戌年5月17日 64..品夜和氣命/仲哀子
358..........964..甲子..甲子年2月6日 47...髪長比賣命/仁徳妃
360..........966..丙寅..丙寅年7月7日 54..妹八田若郎女命/応神女
☆361..甲午....967......甲午年9月9日 75..品陀和氣命/応神N
362..乙未....968........乙未年6月7日 50..大山守命/応神皇子
363..丙申....969........丙申年6月9日 30..宇遅能和紀郎子命/応神子
367..庚子....973........庚子年6月16日 71..曽都毘古/建内子
378..辛亥...1038........辛亥年10月7日 36..速総別王命/応神皇子
379..壬子...1039........辛亥年10月7日 36..女鳥命/応神皇子
384.........1044..甲申..甲申年7月17日 45..黒比賣命/履中后
539唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/10(火) 19:44:11
その2
☆386..己未...1046.....己未年8月15日 83..大雀命/仁徳O
387..庚申...1047........己未年9月26日 45..墨江中津王命/仁徳皇子
390.........1050..庚寅..庚寅年6月30日 17..財王命/反正皇子
391..甲子...1051.......甲子年3月5日 53...若沼毛二股王命/応神子
393..丙寅...1053........丙寅年5月21日 50..宇遅能若郎女命/応神女
397..庚午...1057........己巳年*月*日 45..黒比賣命/仁徳妃
398.........1058..戊戌..戊戌年3月5日 43..市辺忍歯王命/履中皇子
398.........1058..戊戌..戊戌年8月4日 40..御馬王命/履中皇子
☆399..壬申...1059......壬申年1月5日 64..伊邪本和氣命/履中P
400..癸酉...1060........壬申年2月15日 42..意富富杼王命/若沼毛王子
401.........1061..辛丑..辛丑年8月23日 46..多訶辨郎女命/反正女
405..戊寅...1065........戊寅年7月5日 59...水歯別命/反正Q
406..己卯...1066........戊寅年5月15日 45..都怒郎女命/反正后
413..丙戌...1073........丙戌年7月 6日 47..弟比賣命/反正妃
☆420..癸巳...1080......癸巳年1月14日 61..若子宿禰命/允恭R
421..甲午...1081........甲午年5月12日 41..木梨軽王命/允恭子
☆423..丙申...1083........丙申年8月9日 41...穴穂命/安康天皇S
425..戊戌...1085........戊戌年6月6日 65..忍坂大中津比賣命/允恭后
432..乙巳...1092........乙己年6月8日 54..宇斐王命/意富富杼王子
434.........1094..甲戌..甲戌年7月14日 61..都夫良郎女/反正女、斎王
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/10(火) 19:45:09
その3
☆451..甲子...1111........甲子年1月16日 41..白髪命/清寧22
454..丁卯...1114........丁卯年5月14日 36..糠若子郎女命/仁賢妃
☆455..戊辰...1115........戊辰年9月25日 38..袁祁石巣別命/顕宗23
460..癸酉...1120........癸酉年5月5日 64..橘大郎女命/允恭女斎王
☆465..戊寅...1125........戊寅年8月8日 52..意祁命/仁賢24
466..己卯...1126..丙午..戊寅年10月19日 38..難波王命/顕宗后
466..己卯...1126..丙午..丙午年1月14日 39...手白髪郎女命/仁賢女
473..丙戌...1133........丙戌年6月7日 44...高木郎女命/仁賢女
☆473..丙戌...1133........丙戌年12月8日 18..小長谷若雀命/武烈25
475..戊子...1135........戊子年3月26日 65..妹若帶比賣命/仁賢妃
475..戊子...1135........戊子年3月26日 65..春日大郎女命/仁賢后
483..丙申...1143........辛未年11月4日 55..久須毘郎女命/仁賢女
484..丁酉...1144........己酉年12月22日 56..春日山田郎女命/仁賢女
485..戊戌...1145........戊戌年2月8日 30..彦主人王命/宇斐王子
495..戊申...1155........戊甲年6月11日 46..韓比賣命/雄略妃
500..癸丑...1160........癸丑年5月16日 51..財郎女命/橘中津比賣
☆506..己未...1166........己未年8月7日 62..大長谷若建命/雄略21
507..庚申...1167........庚申年6月13日 64..若日下部王命/雄略后
508..辛酉...1168........戊子年3月26日 65..妹若帶比賣命/雄略女
512..乙丑...1172........乙丑年5月4日 52..振比賣命/彦主妃、継体母
516..己巳...1176........己巳年7月7日 62..意杼比賣命/雄略妃
541唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/10(火) 19:46:07
出雲暦と皇暦の2重を 検証、補強
285 戊寅 皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46、239生  46才
312 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子    戊寅年11月6日55、257生 55才
318辛亥 皇924 甲申

生まれた年が ほぼ確定できる この二人で
五百木入日子命は 景行元年生まれ
若建王命は 景行46年生まれ 日本武尊が関東から帰った後に生まれる、(皇暦は、多少の狂いアリ)
書記の記事どうりです、 
二人の死亡年干支が同じですが、同年又は、60年ずれ では死亡年齢が合わない 2重の暦でなければ、説明できない。
景行元年から景行46年まで 現実は、17年を表示しています。
五百木入日子命より17年後に生まれた 若建王命、若建王命の死亡は、五百木入日子命死亡後26年目
26-17=9 9歳長生き 55才―46才=9年 数字はピッタリ 
私の 編年と墓標共 正しい事を証明しています。
景行28年=同40年、景行41年=同46年
542唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/11(水) 13:24:02
名前を 日本武と変えて九州より凱旋した コウス16才
その年の冬を関東で過ごし 翌年 尾張に帰る その年に 若武が生まれる。
書記の記事通り 年数のみ読み替え。

どうでしょう?
543ローガン:2008/06/11(水) 15:57:29
>>541

> 出雲暦と皇暦の2重を 検証、補強
> 285 戊寅 皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46、239生  46才
> 312 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子    戊寅年11月6日55、257生 55才
> 318辛亥 皇924 甲申

> 生まれた年が ほぼ確定できる この二人で
> 五百木入日子命は 景行元年生まれ
> 若建王命は 景行46年生まれ 日本武尊が関東から帰った後に生まれる、(皇暦は、多少の狂いアリ)
> 書記の記事どうりです、 
> 二人の死亡年干支が同じですが、同年又は、60年ずれ では死亡年齢が合わない 2重の暦でなければ、説明できない。
> 景行元年から景行46年まで 現実は、17年を表示しています。
> 五百木入日子命より17年後に生まれた 若建王命、若建王命の死亡は、五百木入日子命死亡後26年目
> 26-17=9 9歳長生き 55才―46才=9年 数字はピッタリ 
> 私の 編年と墓標共 正しい事を証明しています。
> 景行28年=同40年、景行41年=同46年
544ローガン:2008/06/11(水) 16:11:04
>>541


> 生まれた年が ほぼ確定できる この二人で
> 五百木入日子命は 景行元年生まれ
> 若建王命は 景行46年生まれ 日本武尊が関東から帰った後に生まれる、(皇暦は、多少の狂いアリ)
> 書記の記事どうりです、 


若建 景行41年生まれ?
紀によると、日本武は40年再征ですよ。稚武王は両道入姫との間の第4子と書かれています。
記に「於是坐倭后等御子等諸下到而作御陵」と有りますから、両道は再征に同行していない。
これで何故書紀の通りなんですか?
545唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/11(水) 18:35:33
ホ38090 オオウスをよび ヤマトタケ ヰオギイリヒコ ヰオノヒメ ワカタラシヒコ
トヨクワケ ムタリオミコの ナををぶる あまりナソヰコ…
大碓が小碓、五百木入日子等の親がわりになっているので 四,五年頃 五百木入日子が生まれる?
何しろ子供80人では 良く解らないが 両道入姫がついて行かなくても 40年の内に懐妊…
それとも 数年後が46年度か 分解能はこの辺までです。
景行治世22年間と計算していますので 20年を超えることはない。

あと考えなければ成らないのが 年齢の加増
仲哀で30年位、香坂王、忍熊王が15〜20才 加増されていると見ています 是より小さな数字は
分解能の不足により 見切れません。
そう言うことを 割り引いて考えて下さい、 これ以上正確な数字ははじき出せない。


546唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/11(水) 18:57:22
年齢加増の問題は、 墓標による編年を始める時には、「考慮しなければ成らない」と
書き込んでありますので このスレをもう少し遡って 確認して下さい。

その上で この編年を見て下さい。
書記と古事記を 一つの暦で読める方法は、これ以外考えられますか?
547ローガン:2008/06/11(水) 20:40:16
>>546
あ〜ごめんなさい。
向こうのレスしか見てなかった…
いちどゆっくり遡って読んでみます。
548日本@名無史さん:2008/06/19(木) 08:18:33
1 まず、怒鳴りつけろ。
2 無理難題を吹っかけろ。
3 徹底的に我侭を通し、鼻面を引き釣りまわすこと。
4 日本人が怒ったり理詰めで反論してきたら、
  「南京」「731」…旧日本帝国の「悪行」をわめき立ててテーブルをひっくり返せ。
5 同時に、媚中派の日本国外交官を使って、「中国人は面子を重んじる。
  ここで相手の顔たてなければいけない。」と妥協工作させること。
6 「妥協案」を持ってきたら取り合えず「食え」。
7 日本人に「交渉成立」と思わせて油断させろ。
  ただし、将来的な言質は一切与えるな。
8 『手打ち』の「儀式」には中華料理で歓待せよ。
  30年来の友人のような笑顔で。その際、日本人にあてがう女性を用意すること。
9 『手打ち』式の翌日は、日本人に落ち度がなくても、
  以前にも増して怒鳴りつけ、最大限不機嫌を装うこと。
  「何故、ご機嫌を損ねたのか」その理由を、常に日本人に考えさせること。
  これは聡明で誠実な人物に特に有効な方法である。
10 日本人が「友情」を求めてきた場合、友情の証(あかし)として、
  祖国、所属する組織、家庭、等帰属団体に対し何らかの「裏切り」を要求せよ。
  いきなり、大きな獲物を求めてはいけない。些細な「裏切り」から始めて、
  徐々に倫理観を麻痺させること。当方の「友情の証(あかし)」の代償は、
  利権、金銭、女、等「即物的・世俗的」なものを過分に与えるべきである。
  「名誉」を与えてはいけない。
11 「内輪の交渉」を推奨する。「内輪の交渉」とは当事者同士で行う交渉であり、
  党本部への事前報告、および、何時でも食言して、
  「使い捨て」にできる日本人であればどのような「口約束」をしても構わない。
  「内輪の交渉」では、日本人の上司に「嘘の報告」をさせることが成功の第一歩である。
549唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 17:48:21
59年 乙未 皇76 丙子 63 神倭伊波禮毘古命/神武@ 丙子年3月11日63
76年 己酉 皇112 壬子 50 神沼河耳命/綏靖A 壬子年5月10日50
77年 庚戌 皇113 癸丑 56 河俣毘賣命/綏靖后 戊寅年4月6日56
87年 庚申 皇114 甲寅 49 玉手見命/安寧B 庚寅年12月6日49
92年 辛酉 皇151 辛卯 65 鉏友命/懿徳C 甲子年9月8日65
118年 乙丑 皇152 壬辰 67 訶惠志泥命/孝昭D 戊子年8月8日67
145年 辛卯 皇187 丁卯 77 國押人命/孝安E 戊午年1月9日77
163年 丙子 皇389 己丑 55 賦斗迩命/孝霊F 丙子年2月8日55
180年 癸巳 皇463 癸卯 46 國玖琉命/孝元G 癸巳年9月3日46
190年 癸卯 皇511 辛卯 40 大毘毘命/開化H 癸卯年4月9日40
225年 戊寅 皇601 辛酉 42 印惠命/崇神I 戊寅年12月7日42
238年 辛卯 皇850 庚午 71 伊久米入日子/垂仁J 庚午年7月1日71
263年 丙辰 皇850 庚午 45 若帶日子命/成務L 庚午年6月11日45
265年 戊午 皇795 乙亥 86 大帶日子命/景行K 戊午年11月7日86
272年 乙丑 皇859 己卯 52 帶中日子命/仲哀M 己卯年3月15日52 
323年 丙辰 皇929 己丑 101 息長帶比賣命/仲哀后 己丑年4月17日101
361年 甲午 皇967 丁卯 75 品陀和氣命/応神N 甲午年9月9日75  
386年 己未 皇1046 丙戌 83 大雀命/仁徳O 己未年8月15日83
399年 壬申 皇1047 丁亥 64 伊邪本和氣命/履中P 壬申年1月5日64
405年 戊寅 皇1065 乙巳 59 水歯別命/反正Q 戊寅年7月5日59
420年 癸巳 皇1080 庚申 61 若子宿禰命/允恭R 癸巳年1月14日61
423年 丙申 皇1083 癸亥 41 穴穂命/安康天皇S 丙申年8月9日41
451年 甲子 皇1111 辛卯 41 白髪命/清寧22 甲子年1月16日41
455年 戊辰 皇1115 乙未 38 袁祁石巣別命/顕宗23 戊辰年9月25日 38
465年 戊寅 皇1125 乙巳 52 意祁命/仁賢24 戊寅年8月8日52
473年 丙戌 皇1133 癸丑 18 小長谷若雀命/武烈25 丙戌年12月8日18
550唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 17:58:36
西暦、出雲干支、皇暦、皇暦干支の順番で並べてあります。
各天皇の崩御年齢は、加増されている。何故言えるか?
この表だけでは、「表が狂っている」とも見えますが 此処に書き込まなかった
各墓稜の方々の死亡年と誕生年も 調べると この長さで編年は、合っています。
年齢加増を見ると、天皇が最も長く30年位が多い様です、次いで世継ぎを産んだ后、太子が10年とか。
551唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 18:03:26
>549 訂正します。
何処かで狂った。すみません。
552唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 18:16:18
訂正
59年 乙未 皇76 丙子 63 神倭伊波禮毘古命/神武@ 丙子年3月11日63
76年 己酉 皇112 壬子 50 神沼河耳命/綏靖A 壬子年5月10日50
87年 庚申 皇150 庚寅 49 玉手見命/安寧B 庚寅年12月6日49
92年 辛酉 皇151 辛卯 65 鉏友命/懿徳C 甲子年9月8日65
118年 辛卯 皇268 戊子 67 訶惠志泥命/孝昭D 戊子年8月8日67
145年 戊午 皇371 辛未 77 國押人命/孝安E 戊午年1月9日77
163年 丙子 皇389 己丑 55 賦斗迩命/孝霊F 丙子年2月8日55
180年 癸巳 皇463 癸卯 46 國玖琉命/孝元G 癸巳年9月3日46
190年 癸卯 皇511 辛卯 40 大毘毘命/開化H 癸卯年4月9日40
225年 戊寅 皇601 辛酉 42 印惠命/崇神I 戊寅年12月7日42
238年 辛卯 皇850 庚午 71 伊久米入日子/垂仁J 庚午年7月1日71
263年 丙辰 皇850 庚午 45 若帶日子命/成務L 庚午年6月11日45
265年 戊午 皇795 乙亥 86 大帶日子命/景行K 戊午年11月7日86
272年 乙丑 皇859 己卯 52 帶中日子命/仲哀M 己卯年3月15日52 
323年 丙辰 皇929 己丑 101 息長帶比賣命/仲哀后 己丑年4月17日101
361年 甲午 皇967 丁卯 75 品陀和氣命/応神N 甲午年9月9日75  
386年 己未 皇1046 丙戌 83 大雀命/仁徳O 己未年8月15日83
553唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 18:26:53
再度 訂正 すみません。

66年 己亥 83 癸未 神八井耳命/神武子 癸未年4月19日27
92年 乙丑 184 甲子 鉏友命/懿徳C 甲子年9月8日65
神八井耳命に注目 これでも年齢加増されている。
554太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/29(日) 22:43:10
>>552 唐松山さん
そんな編年でよろしいんですか? 墓標は合ってるとか申して
いたようですが?w

その神武の個所の59年というのは即位年ですか? そうならば墓標
の関係からの57年の金印側面文字の『常根津日子命』名とは全く
ズレてて合ってないでしょうがね?
555日本@名無史さん:2008/06/30(月) 20:12:29
墓標に 即位年は、無いでしょう。

墓標の続き
墓標で見る神功時代
まだ考察1回目なので 同一人物が複数回登場したり 死亡年が違う人物も?
とりあえず 皇暦と出雲暦の混入具合いでも見て下さい。
皇暦の分解能はまだ低い。
西暦○年  出雲 皇暦   人物、、、、、、、、、、、、、、、、、没年、、、、、、、、、推定死亡年齢
西暦272年 乙丑 859己卯 帶中日子命/仲哀M   己卯年3月15日52 、17
西暦273年 丙寅 860庚辰 手登与命/美夜受比賣母 丙寅年6月3日70
西暦273年 丙寅 860庚辰 伊邪眞若命/崇神子   丙寅年4月17日69
西暦273年 丙寅 860庚辰 息長田別王命/小碓子  丙寅年4月25日49
西暦273年 丙寅 880庚子 訶具漏比賣命/景行妃  庚子年5月19日45
西暦273年 丙寅 860庚辰 仲哀天皇末年
西暦274年 丁卯 861辛巳 神功皇后元年
西暦275年 戊辰 862壬午 豐鉏入日賣命/崇神女  戊辰年7月14日64 、64
西暦275年 戊辰 862壬午 弟財部郎女命/成務后  戊辰年8月25日37
西暦279年 壬申 866丙戌 水歯郎女命/景行妃   丙戌年8月4日44
西暦279年 壬申 866丙戌 香坂王/仲哀子     丙戌年12月9日30、10
西暦280年 癸酉 867丁亥 押別王命/景行子    癸酉年4月19日40
西暦280年 癸酉 867丁亥 忍熊王/仲哀子     丁亥年7月15日28、8
西暦281年 甲戌 868戊子 美波迦斯毘賣命/景行妃 戊子年4月7日54
西暦281年 甲戌 868戊子 稲依別王命/小碓子   甲戌年10月8日40
西暦281年 甲戌 868戊子 建貝児王命/小碓子   甲戌年10月9日40
西暦282年 乙亥 899己未 神功 39年 ?
西暦283年 丙子 881辛丑 志理都紀斗賣命/五百木妃 丙子年5月16日40
西暦285年 戊寅 872壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46
西暦291年 甲申 878戊戌 吉備兄日子王命/景行子 戊戌年4月26日45
西暦291年 甲申 878戊戌 印色入日子命/垂仁子  戊戌年4月16日61 
西暦292年 乙酉 899己未 神功 39年
西暦293年 丙戌 900庚申 稲瀬毘古命/阿邪美津夫 丙戌年5月4日45
556唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 20:13:40
その2
西暦295年 戊子 902壬戌 玖玖麻毛理比賣命/小碓妃 壬戌年5月26日57
西暦295年 戊子 902壬戌 日子人大兄王命/景行子 戊午年5月9日51,
西暦296年 己丑 903癸亥 息長帶比賣命/仲哀后  己丑年4月17日101 、41
西暦297年 庚寅 904甲子 眞敷刀辨命/美夜受比賣父 庚寅年 7月5日57
西暦298年 辛卯 885乙巳 久須毘賣命/景行女斎王 乙巳年7月5日62
西暦294年 丁亥 901辛酉 眞若王命/景行子    辛酉年10月8日55
西暦298年 辛卯 905乙丑 須賣伊呂大中日子命  辛卯年4月26日50 
西暦279年 壬申 896丙辰 大中津日子命/垂仁子  丙辰年7月15日73、
西暦299年 壬辰 906丙寅 倭比賣命/垂仁女斎王  丙寅年7月9日84 
西暦301年 甲午 888戊申 倭根子命/景行子    戊申年7月26日47 
西暦301年 甲午 888戊申 吉備弟比賣王命/景行女 戊申年5月17日50
西暦301年 甲午 908戊辰 兄比賣命/大碓妃    戊辰年7月26日68
西暦306年 己亥 913癸酉 足鏡別王命/小碓子 癸酉年4月16日47
西暦307年 庚子 894甲寅 沼名木郎女命/景行女 甲寅年4月28日66
西暦307年 庚子 914甲戌 品夜和氣命/仲哀子 甲戌年5月17日64 、36
西暦311年 甲辰 918戊寅 袁那辨郎女命/応神妃 戊寅年4月11日42
西暦312年 乙巳 918戊寅 香余理比賣命/景行女 戊寅年8月1日72
西暦312年 乙巳 918戊寅 若建王命/小碓子   戊寅年11月6日55
西暦321年 甲寅 928戊子 天津建許呂命/倭建孫 甲寅年4月9日46 
西暦323年 丙辰 929己丑 息長帶比賣命/仲哀后 己丑年4月17日101 、71
西暦323年 丙辰 929己丑 神功皇后末年
557唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 20:36:41
応神編
西暦324年 丁巳 930庚寅 応神天皇元年
西暦328年 辛酉 934甲午 品陀和氣命/応神N  甲午年9月9日75 55
西暦328年 辛酉 934甲午 糸井比賣命/応神妃  甲午年5月25日41 41
西暦329年 壬戌 936丙申 石志麻郎女命/斎王  壬戌年4月9日53 53
西暦331年 甲子 938戊戌 若沼毛二股王命/応神子 甲子年3月5日53 53
西暦331年 甲子 938戊戌 髪長比賣命/仁徳妃 甲子年2月6日47 47
西暦333年 丙寅 940庚子 迦具漏比賣命/応神妃 丙寅年4月24日44 44
西暦333年 丙寅 940庚子 曽都毘古/建内子   庚子年6月16日71 71
西暦333年 丙寅 940庚子 高木入日賣命/応神妃 丙寅年5月16日49 49
西暦335年 戊辰 942壬寅 弟日賣命/応神妃、景行孫 戊辰年6月27日45 45
西暦335年 戊辰 942壬寅 野伊呂比賣命/応神妃 戊辰年9月6日44 44
西暦336年 己巳 943癸卯 黒比賣命/仁徳妃   己巳年*月*日45 45
西暦338年 辛未 944甲辰 建内宿禰      辛未年7月4日106 96
西暦341年 甲戌 948戊申 品夜和氣命/仲哀子 甲戌年5月17日64 64
西暦347年 庚辰 954甲寅 阿部郎女命/応神女 庚辰年5月3日46 46
西暦349年 壬午 956丙辰 大名方王命/大枝王命子 壬午年2月20日39 39
西暦351年 甲申 958戊午 川原田郎女命/応神女  甲申年10月9日46 46
西暦353年 丙戌 960庚申 中日賣命/応神后景行孫  丙戌年1月14日67 67
西暦353年 丙戌 960庚申 三野郎女命/応神女 丙戌年6月8日40  40
西暦357年 庚寅 964甲子 矢河枝比賣命/応神妃 庚寅年6月26日55 55
西暦357年 庚寅 964甲子 木之莵野郎女命/応神女 庚寅年6月17日52 52
西暦359年 壬辰 966丙寅 額田大中日子命/木荒田夫 丙寅年9月14日61 61
西暦359年 壬辰 966丙寅 宇遅能若郎女命/応神女 丙寅年5月21日50 50
558唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 20:37:42
応神2
西暦360年 癸巳 967丁卯 妹八田若郎女命/仁徳妃 丙寅年7月7日54  54
西暦361年 甲午 968戊辰 品陀和氣命/応神N   甲午年9月9日75   75
西暦361年 甲午 968戊辰 木荒田郎女命/応神女  戊辰年7月8日64 64
西暦361年 甲午 968戊辰 波多毘能大郎子命/仁徳子 甲午年5月9日47 47
西暦362年 乙未 969己巳 大山守命/応神皇子   乙未年6月7日50 50
西暦363年 丙申 970庚午 登富志郎女命/応神女  丙申年4月9日54 54
西暦363年 丙申 970庚午 宇遅能和紀郎子命/応神子 丙申年6月9日30 30
西暦363年 丙申 970庚午 応神天皇末年
西暦365年 戊戌 971辛未 妹大原郎女命/応神女 戊戌年6月9日51 51
西暦367年 庚子 974甲戌 曽都毘古/建内子   庚子年6月16日71 71
西暦367年 庚子 973癸酉 仁徳天皇元年
559唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 20:49:14
西暦367年 庚子 973癸酉 仁徳天皇元年
西暦370年 癸卯 977丁丑 迦多遅王命/応神皇 癸卯年10月7日65 65
西暦371年 甲辰 978戊寅 吉備兄媛命/応神妃 甲辰年10月9日56 56
西暦371年 甲辰 978戊寅 泉長比賣命/応神妃 甲辰年4月7日46 46
西暦373年 丙午 980庚辰 息長眞若比賣命/応神妃 丙午年4月18日67 67
西暦374年 丁未 981辛巳 石之日賣命/仁徳后 丁未年6月9日56 56
西暦378年 辛亥 985乙酉 女鳥命/応神皇子 辛亥年10月7日36 36
西暦378年 辛亥 985乙酉 速総別王命/応神皇子 辛亥年10月7日36 36

西暦386年 己未 1046丙戌 大雀命/仁徳O 己未年8月15日83 83
西暦386年 己未 1046丙戌 墨江中津王命/仁徳皇子 己未年9月26日45 45
西暦399年 壬申 1059己亥 伊邪本和氣命/履中P 壬申年1月5日64 64
西暦399年 壬申 1059己亥 意富富杼王命/若沼毛王子 壬申年2月15日42
西暦399年 壬申 1059己亥 仁徳天皇末年
西暦400年 癸酉 1060庚子 履中天皇元年
西暦401年 甲戌 1061辛丑 大羽江王命/応神皇子 甲戌年8月18日57
西暦405年 戊寅 1065乙巳 都怒郎女命/反正后 戊寅年5月15日45
西暦405年 戊寅 1065乙巳 水歯別命/反正Q 戊寅年7月5日59 29
西暦405年 戊寅 1065乙巳 履中天皇末年
これ以降は、全て 出雲暦に付き 省略。
560唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 21:09:20
途中省略
西暦500年 癸丑 1160庚辰 財郎女命/橘中津比賣 癸丑年5月16日51 51
西暦506年 己未 1166丙戌 大長谷若建命/雄略21 己未年8月7日62 62
西暦506年 己未 1166丙戌 武烈天皇 末年
西暦507年 庚申 1167丁亥 若日下部王命/雄略后 庚申年6月13日64 64
西暦507年 庚申 1167丁亥 継体天皇元年
西暦518年 辛未 1143癸亥 久須毘郎女命/仁賢女 辛未年11月4日55 55
西暦518年 辛未 1178戊戌 都夫良郎女命/継体女 戊戌年6月3日40  40
西暦518年 辛未 1178戊戌 太郎女命/継体女   戊戌年7月1日27 27
西暦518年 辛未 1178戊戌 川内若子比賣命/宣化妃 戊戌年9月14日46
西暦523年 丙子 1183癸卯 若比賣命/継体妃  癸卯年6月19日40 40
西暦526年 己卯1186 丙午 手白髪郎女命/継体后 丙午年1月14日39

継体より皇暦復活又は、中国に合わせる。
561唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/30(月) 21:29:46
重要人物を落とした。
西暦529年 壬午 1189 己酉 春日山田郎女命/安閑后 己酉年12月22日56
西暦531年 甲申 1191 辛亥 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82
562日本@名無史さん:2008/07/04(金) 17:33:48
質問させてください。
記紀の中で神が人間をつくったという記述はあるのでしょうか?
それとも人間は、神とは別に存在していたのでしょうか?
もちろん陸地がなければ人間は生きられませんが、
神がつくった以外の陸地もあるようですし。
おねがいします。
563太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/05(土) 09:47:13
>>562
「つくった」というより「生んだ」でしょ! 古事記の場合はイザナギ、
イザナミ神が国産み後、大事忍男神以下の神々を生んだとありますから・・・。
「つくった」とは書かれてないようです。大事忍男神以下の神々は「神」の字
が付加されてますが、実際は人間ですよ。
564日本@名無史さん:2008/07/05(土) 15:26:26
>>563
ありがとうございます。
確かに神話としては、「つくった」でなく「生んだ」が正しいですね。
しかし私個人の感覚ですと、神が生むのは神、それ以外のものはつくったと表現するのが妥当だと思ったもので。
(陸地に関しては迷うところですが)
大事忍男神以下の神々は実際は人間だとありますが、どのような根拠からなのでしょうか?
また、そうすると三貴子も人間なのでしょうか?
よろしければお願いします。

ここで問うのは若干スレ違いの気もしたのですが、わざわざ回答くださりありがとうございました。
565唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/05(土) 17:43:46
ホツマには、日本武尊の葬儀の所に出てくる 神と人の関係

ホ40330 ミタビのベ シヅのスガタに クモかくれ キミさめいわく カミのツゲ ワレはいやしき
ヒカワガミ モトにかえると メグミこる マヨヒをさとす シメシなり ムカシいわくは
ヒトはカミ カミはヒトなり ナもほまれ ミチたつノリの カミはヒト ヒトすなほにて
ホツマゆく マコトカミなり
566唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/05(土) 18:07:45
太国さん 西暦と皇暦の間には、大きな段差が有るのに
墓碑と西暦の間に段差が無い。

どう解釈しますか?
567太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/05(土) 20:30:36
>>564
自動車工場で作る車ですが、設計図から完成まで数千だか数万だか
素人だからはっきり分かりませんが、とにかく多大な工程を経て車の
完成となるわけですから、あなたのおっしゃるとおり、一個の生命体
を産卵、出産とは別に最初の最初に出来上がるには、神という高度の
人間の能力をはるかに超えた存在があっての創造主、生命の製作者
なら、それはつくったということは言えるでしょう。しかしそういう
設計製作者の超知性体は人類には具体的には感知出来えないのが
現今のところです。

仏像の姿というのは人類の次世代の上位生命体の創造、具現で
あるように感知できます。それが如来の三十二相八十種好と云われ
るものなのでしょうね? 前世紀の逆の、未来後世紀の上位人類の
モデルの一寸具体化したものが仏像なのだと想えますがね?

大事忍男神以下が現人類の祖先的人類の大本的名前だということは、
古神道の秘密から受け取れる説明ですから、なかなかその具体性に
云い難いのは秘密の語からお分かりだと・・・・・ 今の段階では
そのくらいそか云い及べないということです・・・。

三貴子も当然人間ですよ。大昔、この地上に生きていた方々のうち
の三人ですね。

>>566
具体性が出ていない設問ですから何ともお答えしにくいですが、
そうならば書きこんだ者が西暦を知っていたということが、まとも
に考えればそういう考えに至ります。

 神武即位元年=西暦元年

ならば当然と云えることになりましょうかね・・・。
568日本@名無史さん:2008/07/06(日) 17:37:31
>>565
よくわからないのですが、もともと全て神であったものが迷うことによって人間になった。
迷いを払うことにより再び神に戻るということでしょうか。
すべての生命の中に仏性が宿るという考え方に似ていますね。

>>567
読ませていただきましたが、古神道というもののなかでは一般的なのかわかりませんが、
どうやら独自の信仰に基づく認識と受け取りました。

私が求めていた答えとは違ったようですが、丁寧な回答ありがとうございました。
569唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/06(日) 20:05:31
日本の神代とは、
人は神、神は人の時代のこと
死んだ後神と崇められるのは 人として生きているときから人々を指導、教示した指導者。
無から神が作られたのではない。
570日本@名無史さん:2008/07/06(日) 20:35:50
なるほど徳川家康のようなものなのですね。
神世七代も含めて実際は全て人間だという考えと理解しました。
571太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/06(日) 21:04:36
神世七代神は人間じゃないです。国産み以前のことですから。地上
がなけりゃぁ生存できません。
572唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/08(火) 22:47:12
神世七代神とか言っても神武 の上に 1000年程付け加えただけ 
天照大神は、神武 より600年ほど前の生まれ。
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/08(火) 23:04:26
アマテラスは神世七代神じゃないよ。それよりもっと後。
574日本@名無史さん:2008/07/10(木) 12:09:19
日本の神代に設定している時代に
ギリシャ本土とかエーゲ海では
農業が始まってたのは凄いね。
575よこやり:2008/07/10(木) 23:19:56
〇五七 倭奴国王、漢光武帝より金印を授かる
一〇七 倭奴面土国王帥升等、後漢の光武帝に朝見
一八三頃卑弥呼共立される
二三七 倭国、魏に遣使
二四七 卑弥呼死す
二四九 豊与共立される
二六六 倭女王、晋に遣使
二七九 ―神武即位―
二八七 手研耳即位
二八九 ―綏靖即位―
三〇〇 新羅と国交を結ぶ
三〇五 ―安寧即位―
三一二 新羅の妃が倭国に嫁ぐ
三二四 ―懿徳即位―
三四一 ―孝昭即位―
三四五 新羅と国交を断絶
三四六 新羅の金城を攻める
三五三 ―孝安即位―
三六四 大挙して新羅を攻める
三七四 ―孝霊即位―
三八二 ―孝元即位―


576よこやり:2008/07/10(木) 23:21:01
四一〇 ―崇神即位―
四一三 倭国方物を献ず(晋書)
四一四 ―垂仁即位―
四〇七〜四一八 安帝の時、倭王賛あり(梁書)
四二一 倭王讃朝貢し、徐授を賜う(宋書)
四二五 倭王讃、貢献(宋書)
四三〇 倭王讃、方物を献ず。
四三四 ―仲哀即位―
四三八 讃死す。弟珍立つ。遣使貢献す。
―神功皇后即位―
四四〇 倭軍が新羅の南部と東部に侵入。
四四三 ―応神即位― 倭国王済、遣使貢献する。
四四四 倭人が新羅の金城を包囲
四五一 倭国王済に六国諸軍事を加える。
四五九 倭人が船百余隻で新羅を攻める
四六〇 倭国遣使、方物を献上する。
四六一 応神崩御
四六二 倭国王済死、世子、興遣使。
四六三 ―仁徳即位― 倭人が新羅のマ良城を攻撃
四七七 ―履中即位― 倭国遣使、方物を献上す。
四七八 倭国王興死。弟武立つ
四七九 倭王武を鎮東大将軍とする。
四八〇 ―反正即位― 
四八二 ―允恭即位―
五〇〇 倭人が新羅の長峯鎮を攻め落とす
五〇二 倭王武を征東大将軍とする。
五〇三 ―安康即位―


577よこやり:2008/07/10(木) 23:23:31
五〇五 ―雄略即位―
五十六 ―清寧即位―
五十九 ―顕宗即位―
五二〇 ―仁賢即位―
五二六 ―武烈即位―
五三〇 ―継体即位―
五四二 ―安閑即位―
五四四 ―宣化即位―
五四六 ―欽明即位―
五八五 ―用明即位―
五九四 ―推古即位―

神武は精々3世紀後半の人ですよ


578太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/11(金) 07:14:25
ただ羅列したってまだ無意味に近い。どうしてそうなったかの事由がまだ書かれ
てないが? 倭国大乱は孝靈の世のころだ。それで吉備行幸してるわけ。卑弥呼
は孝靈の後の時代で崇神のころ活躍してその時代に死んでいる。
つまり神武は卑弥呼より古い。なに? 卑弥呼がアマテラスだと思ってるの??
579唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/11(金) 17:25:03
四一〇 ―崇神即位から四七七 ―履中即位まで
書記の世継ぎを大幅に書き換えている。
暦を無視している。
書記で履中即位年の干支は、西暦400年の干支ですから 77年先を行く干支を
どの様に西暦の干支に戻したか?
580よこやり:2008/07/12(土) 12:29:49
>>579
西暦がずれたのは、宣化以前は2倍年暦を使用していたためだと思います。
欽明の途中で等倍年になったと考えます
581唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/12(土) 16:54:51
2倍暦なる暦法は、日本の建国以前から 存在しません。
古事記は、加増されず 1対1の長さです。

書記を2分の1にしても 古事記の長さにならない。
582太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 17:21:22
百数十歳も生きるわけがな〜い。w
これば当時倍暦を行使していたからだ。月の後半がな〜い。一目瞭然。

傍半カメラに半在者の姿がなけりゃぁ、そこは半在者は通っていな〜い。
トウジョウさんの失踪した事件でも、傍半カメラに写ってない所は半在者は
通っちゃいな〜い。
紀に逆らっては妄説ばかり。
583太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 17:27:20
>2倍暦なる暦法は・・・・・【存在しません】

 欠史八代では、紀は月の後半が【存在しません】が。w
584唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/12(土) 19:17:56
欠史八代でも 日々の干支は 1年の長さを太陰暦で読める。

それより太国さんは、「暦は後付け」でしょ?
日にちの記述のみ正しい その心は?
違うか 日にちをどの様に伸延したか?かな。
585よこやり:2008/07/12(土) 20:16:32
>>581
昔説明したが、在位60年以上の天皇は干支一巡繰り入れられていると
考えられる。この分を差し引くと書紀と古事記の年代記はかなり近くなる。
古事記も2倍年暦のデータを使用した思われるが、倭の五王の記事を鑑みる
と書紀の方が精度が高い事が判る。
崇神以前の精度については不明
586太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 21:00:28
>>584
読めるなら具体的に説明してもらいたい。暦が後付け? 後付けにはなるならない
はあまり重要ではない。なぜか? 後付けをするのは、その対象がなければ創作
になる。紀のこれは創作ではない。だから対象が何かを見極めるべきだが、四季
の場合は月で、ああここの記載は春だ冬だとの判断ができるから後付け可能な
わけよ。暦の年月日の数字が後付けならその対象は干支だよ。干支で精密逆算で
年月日がわかるからだ。干支が後付けだというなら、その対象は年月日が
あったからだということになる。年月日で干支は後付け可能である。よって、
いずれにしろ暦年月日が後付けだったとしても正確に過去の時間を特定できうる。
こういうような具体的説明をやってくれないのが唐松山さん、あなただよ。
増しとかいうのも具体性を聞いたことない。

よこやりさん
だいぶ研讃をやってますね。頑張って下さい。ただ五王は畿内と直接関係の
薄い九州小国の王だから、外してやらないと失敗だよ。
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 21:34:55
唐松山さん
紀をナメてて逆らっててはまぁ〜ず沈没だよ。
あなたはホツマを重視し、紀を軽視しているように思える。
ホツマのことはそんなに拙者は知らないが、単独人物の記述で
できたものなんでしょう? 紀の神武以後は原書を多数大勢で調査
し、最も信頼おける記述で書かれていると観られるから、ホツマと
信用度がケタ違いだと思ったほうが安全だ。そのいい例がアマテラス
が男神などとホツマには誤説がある。それは価値在る記述を拙者は
否定しないが、両者相違がある場合は紀を採ったほうが安全だね。

こういうことは冷静に取捨選択しないと、誤を自説にして省り見ぬ
傾向に考えが行きがちで、妄説に頭が憑かれるわな。
588唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/12(土) 22:03:34
とりあえず 私の編年 孝昭以降
皇暦と古事記暦は 合わせる術がある。

合わせられない倍暦は?
589唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/12(土) 22:09:56
増しとかいうのも具体性を聞いたことない。
私が言い出しましたから 私以前に”増し暦”なし。
特徴
太陰暦として読める
1年は、1年 四季もそのまま
違うのは年数の数え方 何処で縮めるかの違いでは在る
590太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 22:42:27
唐松山さんよ
1年は現今の1年とは限らない。ここから合理的理由も無しに
恣意的勝手に無いと否定してるから、もう用心の考えが頭になく
紀に逆らっているから失敗は目に見えており、唐松山記となって
いる。他国で1年が365日でない事例が多数あるのに、恣意に陥り
改めと同様、改めようとしない。あんたの沈没は当選確実だな。
合わないと増しを持ってきて、合わない量だけ増減すれば、どんな
屁理屈でも編年できてしまう。こんなでは真にならない。
591改め ◆PWTcGEfp1s :2008/07/12(土) 22:48:38
>>590
>1年は現今の1年とは限らない

それは貴方が『和』というものが分かってないから変なことをいうのです。
わたしとか唐松山氏のが分かってるということ。
貴方はそこが分かってないのです。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 22:50:06
>>588
>合わせる術がある。
【合わせる】のは、遠回しには恣意的なことをして一致させるとする
ご都合術をしますとの宣言の答え。こんなのはダメだな。

客観的に観て【合ってくる】でないといかんね。でないと沈没。
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 23:03:45
>>591
これの ↓ 右半分が無いのは何故か? 具体的に説明するんだな。
           今お前が言った通り素直に解しないと駄目。

【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0   29日 0
2日 2  16日 0   30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0

594太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/12(土) 23:35:48
改め逃亡!!
595改め ◆PWTcGEfp1s :2008/07/13(日) 00:20:47
>>594
なにが改め逃亡!! だ!

>>593は以前わたしが論破したではないか。
いまさら古い考えをもってこられても困る。
15日以降の事件を隠して表示させないで下さい。
596日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:23:22
                                    
>韓国人は反日主義だと言われている。
>しかし、韓国人が「日本が好きだ」と言うと、政治的、マスコミ的に問題があるので、
>「嫌い」という態度を通しているだけだ。
                                                               
 実は、2000年前から反日主義だったワイ族。その実態とは?
                                
 現在の朝鮮人は、半島東北部の太白山脈(たいはく山脈)の東側に住んでいたワイ族(『東ワイ』とも呼ばれた)の
子孫である。高句麗人(フヨ族)ではないし、韓人(カラビト)でもない。今、国際社会で「コリアン」と呼ばれている民族は、
実は朝鮮人ですらない。
 もともと朝鮮人というのは、紀元前1世紀の時代に半島北部に住んでいた漢人のことである。
つまりチャイニーズのことだ。衛氏朝鮮国の住民である漢人が「朝鮮人」と呼ばれていたのだ。
現在の『コリアン』と呼ばれている半島人(ワイ族=ワイアン)とは、異種なのである。
 古代の半島南部に住み、日本列島の住民から韓人(カラビト)と呼ばれていた人々は、倭人系民族だった。
彼らは、とうぜん日本語を話したし、現在の半島人(ワイアン=WAIAN)とは人種・民族が異なっていた。
 カラ半島南部においてワイ語(現在の朝鮮語の基になった言語)が公用語になったのは、
8世紀以降であり、7世紀までは、半島南部の公用語は倭語(日本語)だったのである。
古代日本人が交流していた相手は、あくまでも半島南部の倭人であって、ワイ族(今の朝鮮人の先祖)ではない。
古代における日本列島住民と半島南部住民の交流には、朝鮮人(ワイアン)はまったく無関係なのである。


597太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 06:29:39
>>595
>困る

 矛盾 → 困る≠論破した ← 矛盾

ハハぁ〜わかった〜お前の論破されたというのは説明できないという意味だな。
そうだろう。傍半カメラに写ってなけりゃぁ、そこには半在者はいないんだよ。
トージョーさんという女性の失踪事件も傍半カメラで半在者の姿は映ってなか
ったのは、大々的に報道されて記憶に新しい事件だ。お前がどう保在ても傍半
カメラに半在者が影も形もなけりゃぁ、そこには半在者は通ってないのだ。
半在者かどうかでの、有倍の存在は後半定を左右する重要な焦点にな〜る。

紀に逆らって論破されたと大風呂式を広げても、この紀の記載の統計はそうは
問屋は卸してくれない。
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 07:32:05
これで ↓ 当時の1年が現今の1年(=365日)だと今も紀に逆らって主張して
             いる唐松山氏はこの説明ができない。

【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4   15日 0
2日 2   16日 0
3日 3   17日 0
4日 3   18日 0
5日 6   19日 0
6日 3   20日 0
7日 2   21日 0
8日 3   22日 0
9日 3   23日 0
10日 1   24日 0
11日 4   25日 0
12日 3   26日 0
13日 3   27日 0
14日 7   28日 0
         29日 0
         30日 0

傍半カメラに日写体の人物が映ってなけりゃぁ、そこには日疑写は存在しない。
トージョーさんの失踪事件で、半在写の映ってないことをTV局は重大事実
として大々的に報道した。半在写の有倍の焦点ともなる。

こういう傍半カメラに映ってないことを紀解にも捻じ曲げるのがあなたと
論破離の改めなのだ。ww この表は当時朝廷が倍暦をやっていた文証なの
である。その史文はくっきりと紀に残されていた。
599日本@名無史さん:2008/07/13(日) 07:59:54
在特会を応援ください。
日本人の力が必要です。
このままだと日本はとんでもない
方向にいきます。

http://www.zaitokukai.com/

http://jp.youtube.com/watch?v=6WGTPeL8QGM
600よこやり:2008/07/13(日) 09:59:20
>>586
>ただ五王は畿内と直接関係の薄い九州小国の王だから、
>外してやらないと失敗だよ。

九州小国の酋長が、征東大将軍(日本、朝鮮半島の総司令官)に任命されるのか?(笑
601太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 10:10:18
小国の中のぬき出でた国の王さ。紀のどこに天皇が将軍に任命されてると書かれ
てあるのか?w 大局的には当時、畿内と九州とは別国。
602よこやり:2008/07/13(日) 10:41:01
そこまで自信を持って言うのなら
何か九州に征東大将軍の資料や伝承等を提示しなさい
まさか大の大人がカンで言っているわけじゃ無いよね
603改め ◆PWTcGEfp1s :2008/07/13(日) 11:00:14
>畿内と九州とは別国

ソレを言うなら一大國も末盧國も伊都國も別国ですよ。
畿内と九州とは別国というより同じ列島です。倭=九州 機内は倭種。 
604太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 11:23:33
改めよ、だから大局的と言ってるだろうが。よく読め。

>>602
どこに天皇が五王と記紀に書いてあるのか? それを言ってくれな。将軍号
など天皇がもらったなど書かれてない。おまけに名も一致せんだろう。讃など
ホムダとオオサザキとか、名があわんよ。同一人ならことごとくがほぼ一致して
くるものだ。五王を天皇として編年するのは労して功なしの無駄さ。倉西さん
も検討もしないで五王を天皇と見立てて失敗だな。それでもそうだと五理王シ
するならあんたの勝手だがねぇ〜疲れるだけで寝てたほうがいいぜ。
605日本@名無史さん:2008/07/13(日) 11:39:36
>>604
確かに、従来の説では、五王と天皇の年代が一致せず記紀の記述の信憑性
に疑問があった。
これは、武=雄略としていたため。
しかし、>>576で示したとうり中国側の資料と書紀のデーターは完全に一致
するのですよ。
606太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 12:25:58
>>605氏はよこやりさんなのか?
一致している具体的な書きこみをされたい。どのように一致してるのか??
恣意的要素が強いと一致にならんよ。
607唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 12:26:24
455〜485 戊戌 1145 乙丑 彦主人王命/宇斐王子 戊戌年2月8日30
464〜506 己未 1166 丙戌 大長谷若建命/雄略21 己未年8月7日62  42才
460〜512 乙丑 1172 壬辰 振比賣命/彦主妃、継体母 乙丑年5月4日52
491〜518 辛未 1178 戊戌 太郎女命/継体女  戊戌年7月1日27
483〜523 丙子 1183 癸卯 若比賣命/継体妃    6月19日40
487〜526 己卯 1186 丙午 手白髪郎女命/継体后 丙午年1月14日39
479〜531 甲申 1191 辛亥 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82   52才

武=雄略で 問題在りませんが…。
継体は 辛亥年の死亡ですし…。
608太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 12:31:30
武王は雄略にあらず。問題はあるよ。
609唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 12:55:46
墓標は、雄略506年己未の死亡を否定していない

書記において月前半の日にちしか無い、私も特に否定しません では、
その日にちと次の日にちの間の長さは、日々の干支で数えられる。← 太国さん否定して下さいネ。
そして其の日々の干支は、ひと月が平均29.5日である。←同じく否定して下さい。
610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 12:58:09
よこやりさんも これを否定又は見解を上梓願います。
611太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 13:27:18
>>609
>間の長さ
意味不明???
612よこやり:2008/07/13(日) 13:35:09
倭人伝には、次の一文が注釈されています。
 『魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀』
和訳:魏略(魏の歴史書)によると、その人たちは正しい年や春夏秋冬を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫で年紀を計るだけである。
この注釈は五世紀に斐松之という人が付けたものです。『三国志』全体では、本文よりも彼の注釈の方が文字数が多くなっています。ただし倭人伝についてはこの一文だけです。
 二倍年暦説を推す人たちは、これがその証拠としています。すなわち、春耕を一年、秋収を二年というようにカウントしていたというのです。
又それを支持しない人たちは、こんなものは、二倍年暦のことを言っているのではなく。ただ農作業が一年の目安となっているだけと主張します。
どちらの言い分が正しいのでしょうか?

私は、2倍年暦論者の考えかたを支持します。
何故なら、後者の解釈ではわざわざ魏略から引用して注釈を入れる内容ではないからです。
倭国が二倍年暦を使用していたなら、これは正に、特記するに値する記事です。
648年に中国の正史の一つである『晋書』が作られました。これは、『三国志』の次の時代のことが書かれた書物です。その中に次の一節がありました。

『不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。』

和訳・・、その人たちは正しい年や春夏秋冬を知らない。
ただ秋の収穫の時に年紀をつけるだけである。
  百歳あるいは、八、九十まで生きる人が多い。

どうですか?前の文章と比べると、「春耕」の部分が無くなっているのが分かりますよね。何故でしょうか?
 恐らく、晋書の著者は、倭人のこの部分を2倍年暦として解釈したのではないでしょうか?
七世紀の日本では既に等倍暦になっており倭人伝のこの部分は道理に合わず、間違いとして訂正したのでしょう。少なくとも唐の時代の人には倭人のこの部分は2倍年暦として読めたようです。
 よって、書紀の古い時代の年代記は、1年間を半年として読む必要があるのです。


613太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 14:04:35
>>612
整然とした論述、感服。

それがしは畿内のみにて、九州とは分けて倍暦を考えています。
神武が畿内に来てからは即位直前までは通常暦をやってましたが、
即位にて突然それを取りやめ3倍暦法を行使していたというのが
それがしの考えです。
九州のほうはどうだったか確認できていませんが、倍暦をやって
いた可能性はそこの文から否定はできません。ただ神武は倍暦の行使
に関して九州で知って経験していた倍暦を見本として、独自性の
ある3倍暦という奇異な暦を行使していたかなとは思いこんで
いますが・・・? 九州暦は確定的根拠等は把握まで至りません。
ただ九州はやはり通常の暦法があって、九州地域の一部において倍暦
をやっていたかなとの想いです。参考にして下さい。
614唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 14:09:59
その人たちは正しい年や春夏秋冬を知らない。
その人たちが問題 この記録された土地
其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀
其俗=天皇家等は含まれない。
記録されたところは、松浦までの場所であり海人の土地、風土の記録
漁業に必要なのは 月齢であり 24節気は、不要

それでは、私の編年を読んで頂いた物として質問
書記の長さと古事記の長さが同じになる読み方であり 古事記の長さは伸長されていない。
是を 否定して下さい。
615太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 14:30:29
記は阿礼個人の単独記憶からのもの。
紀は多くの原書から編者らが検討吟味し偽を排除する精神での成立。

旧車販売後、いろいろ欠点を無くしてよりいい車を造ろうとの精神
から出来た物が新車であるが、記を旧車とすれば紀は新車に相当
する。だから記は参考になるが、紀を信用したほうがいい。

唐松山さんは紀を軽視し単独性の強いホツマとか記を偏重するから
失敗にたどり着く。ホツマは記紀にあきたらない状況の想いから
新鮮味を感じて飛びつきたくなるのは分からんわけでもないが、
会社組織が製造した自動車ではなく、ある個人が製造したマイ・カー
車のようなもので、運転に際しては会社組織の製造車より気に入っ
た面もあろうが、不安的要素、不利は捨てきれない。
616唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 14:31:03
神武 即位の春正月庚辰朔から二年春二月甲辰朔までの日にちは?
春正月庚辰朔。神武 天皇即帝位
二年春二月甲辰朔乙巳。
答えは、384日

朔の干支は384日だと主張しています。
そうですよねえ 太国さん。
倍暦では無い証拠でも在ります。
617よこやり:2008/07/13(日) 14:31:46
>>614
雄略だけでなく他の王も中国側の記事と完全に合致しますか?
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 14:35:34
独り理解してても一般は意味不明の域を出ません。具体的、分かりやすい
書きこみでの説明を求めます。
それが正を含んでても、閏をやったりすれば調整は可能でしょう。日はとびはね
がある場合がありますよ。
619太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 14:57:35
唐松山さんは1年各月の全部が全部1日〜28日(あるいは30日)とか
存在してるという確固たる妄想が出来上がってから計算の失敗が
あるんでないの? 384日なら論破離の改めにの否定されますぜ。
勿論古代マヤにも819暦がありますから、変則暦のそういう384日とか
の暦法がないとは断言したくないですが、もうすこし進展の論拠が
ないと・・・空白日での計算間違いとかかも知れんですよ。

古代ローマ暦でB.C.46年は445日あったそうですな。具体的計算
を分かりやすく提示して下さいな。この年は閏月で67日を設けて
いるそうです。A.D.1582年には10日間の空白日が設定されて
います。
620唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 18:16:01
朔を数字になおすと
春正月庚辰朔。天皇即帝位    8777
懿徳天皇元年二月己酉朔壬子   63586
元年秋八月丙午朔        63763
元年(干支誤)》九月丙子朔乙丑 乙亥63792に訂正
二年春正月甲戌朔戊寅      63911
二月癸卯朔癸丑         63941
この調子で全て?の朔を数字に直して在りますよ。
履中天皇元年春二月,壬午朔  395599
履中天皇元年の干支は 西暦400年の干支と合致します
これ以降に圧縮が有れば 更に数百年分の圧縮か、伸長が必要。
書記の伸長は、660年 是が私の計算です。

太陰暦ですよ〜。
621唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/13(日) 18:39:56
書記の伸長方法は、各天皇の時代 19年*n回の増しがある。
19年=6940(6939)日 これが基本

皇暦を19年毎に切り 積み上げる
ここから 19年*n回を差し引く
太陰暦の基本19年を崩さず 圧縮=月齢に配慮した圧縮方法です。
結果は 前の書き込みを参照のこと
古事記(出雲暦)は伸長されることなく 私の書記による編年と合致します。

書記の長さ=古事記の長さ
是を崩さないと 倍暦の復活は無い。
622太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 21:03:00
増しはあなたが合わないからあなたが足したんでないの? そんなら何でも
あっちゃうね。あの表から崩れはしない。特に死亡日は自殺、暗殺等以外
不変ある。19年増しなんて、一見うまいようで、結局あなたの恣意的操作。
こちらは厳正に紀の表を見てそれに従っている。
623よこやり:2008/07/13(日) 23:12:37
>>613

五王が九州にいた場合

『東は毛人を征すること五十五国、
西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国』

西の六十六国は、何処になるんだろう?
624太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 23:35:07
>>623
だから五王は5人だよ。その前は九州にいたんでなくてよい。つまり
五王には失礼だが、先祖はどこの馬の骨かはわからない。先祖のとき
は今の国にいたとは言えない。神武さえ九州から畿内へ移動して
行った。ならば五王の先祖もどこからか移動してきたということは
充分考えられる。先祖のときは別地方であったということになるから
西に国がうんとあってもおかしくはない。
625よこやり:2008/07/13(日) 23:39:44
>>624
それは貴方の想像ですよね
根拠の有る資料でも存在するのですか?
626太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 23:49:43
想像というよりも、矛盾はないだろうが。そこの地域に5代前にも
いたとは限らないぜ。5代くらいなら定着してなくても不審はない。
成り上がり的王達だから5代だったわけよ。神武のように5代以前に
他地方から来たということだな。
だいたいDNA(禰名)が一致してなきゃぁ天皇とは別人だ。捜査
で半在写をキャッチするにDNAが極めて重要なのだ。
九州と畿内を別国としっかりわきまえないと、妄想の女王国畿内説
へ直進して抜けなくなるぞ。用心しな。明日話そう。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・
627よこやり:2008/07/13(日) 23:56:34
五王が九州に居たという根拠は何処にも無いのだが・・・・
畿内なら記紀という資料が有り、呉と通商したとの記事もある
いくら古い資料とは言え、古代人を侮ってはいけないと思うのでR〜

zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
628太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/14(月) 06:38:27
それは畿内も北九州も呉と通商はできたろう。北九州は畿内より対馬経由の
場合は近いんだからおかしくはないぞ。五王が畿内にいたという根拠も記紀
には薄弱だよ。あなたと同説者が五王と天皇をセメダインしてる事からの失敗。
629唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/14(月) 19:16:11
厳正に紀の表を見てそれに従っている。
太国氏説=朔を完全無視。
私は、朔を全て正しいとしています。
630太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/14(月) 20:14:08
じゃ、なんで八代間の天皇は全部上旬崩御なの? 朔じゃぁ日数欠の
空白があるし、そこからやるには紀の文面では絶対的に調査は
不可能。それだけ暦法の変更が多いみたいだし。とくに八代間は
史実が0に近いから日数計算したって空白、暦法の不規則改正など
があることは充分想定でき、これでは日数の正確度は地に落ちる。
だからそういう方法は失敗直行。
631唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/15(火) 21:28:24
朔で 日数欠の空白を 提示して下さい。
ナイヨ。
632太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/15(火) 21:44:47
書きこみ方が誤解を生んでるやも知れないが、この前も書きこん
だとおり、朔計算は後付けであり、欠史八代間とかに空白日が
ありゃぁもう沈没。実際八代の数少ない記録の統計表を見ても、
月後半は空白だよ。全部月が30日あったと勝手に決めこんでも、
あの表からどうやら空白は固い。だから逆算での日数計算など、今の
資料だけでは不足で、やるだけ無駄。
633唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/15(火) 22:05:44
後付けの 朔 なら >630を引っ込めた方が 太国さんの為。
朔は、29日か30日を支持 15日でどう朔を読むの?
空白日は、朔で埋められるが 年までは(数年から10数年の空白)も同じに埋められる。
と言うのなら 埋められないところを表示しましょうか?
ただし 「朔の表記まで太国さんが倍暦の範疇である、」を認めたらの話ですが。
634唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/15(火) 22:09:23
追記
全ての 古文を認めたら かなりの量の文献になります、
「偽書」の範囲を狭めることが太国さんには 必要かと?。
635太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/15(火) 22:52:57
とにかく唐松山さんは1年の日数全部365日あると固く信じていて、
これではダメ。マ〜ズ不規則空白が存在するね。欠史八代は殆ど史実
が書かれてないんだから、日数の逆算なんかで正確に求めるという
こと自体無理なんだよ。だからあなたの失敗は目に見えるようだ。

またホツマを偽書とは1回も言ったことはないですよ。参考には
なるでしょう。拙者だってそんなにはホツマを知りませんが、ホツマ
を少しは論文に使ったことはあります。しかし独り免許的で恣意的
要素は警戒せねばなりません。記紀と相違があれば記紀を優先
すべきです。紀は多数の原書の吟味検討を積み重ねて、そのことから
編年してるものですから、こっちを採用するほうが無難ですね。
636唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 20:10:52
>「欠史八代は殆ど史実が書かれてないんだから、」
その割に 15日までの日付に拘る 其の心は何?
>紀は多数の原書の吟味検討を積み重ねて、そのことから編年してるものですから
未だに紀の編年が言われるのは、間違えた吟味が続けられているため。
大多数の皆様は、「紀の時代に暦無し。」で吟味していますが
わたしは、「紀の時代に暦あり。」で編年していますから
「古事記の干支は、孝昭元年より加増されることなく使われた。」などと発言出来るのです。 
当時の暦法は太陰暦であり、太陰暦で重要な朔を認めない編年は認められない。
私にとって 欠史八代の方が四世紀より 読める。
637よこやり:2008/07/16(水) 20:22:48
>>636
倭人伝を診ると、倭国の過去についての記述は極めて大雑把
この時代、歴(暦)が無かった事は自明でしょう
638唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 21:28:55
大雑把 と暦無しは、次元の違う話。
書記に書かれた年数(正しく読み替えて)と古事記に書かれた年数は、合致する。
この読み方を「正」としないで どうするの?
生まれた年が ほぼ確定できる この二人で
五百木入日子命は 景行元年生まれ
若建王命は 景行46年生まれ
出雲暦と皇暦の2重を 検証、補強
285 戊寅 皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46、239生  46才
312 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子    戊寅年11月6日55、257生 55才
318辛亥 皇924 甲申
西暦の次の干支は、出雲干支です。
西暦と皇暦の誤差(書き込んでない)にも注目
この様に干支を2通り用意すれば 読める。
639唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 21:42:13
別の場所でも同じ事が言える。
西暦の次は出雲干支 この辺は皇暦干支=西暦干支
そして特に天皇の年齢には注意が必要。

417〜459 壬申 皇1119 己亥 意富富杼王命/若沼毛王子 壬申年2月15日42 42才
438〜492 乙巳 皇1152 壬申 宇斐王命/意富富杼王子 乙己年6月8日54 54才
455〜485 戊戌 皇1145 乙丑 彦主人王命/宇斐王子 戊戌年2月8日30 30才
460〜512 乙丑 皇1172 壬辰 振比賣命/彦主妃、継体母 乙丑年5月4日52 52才
479〜531 甲申 皇1191 辛亥 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82 52才
640よこやり:2008/07/16(水) 21:58:25
>>638
暦があったなら何故
『住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年』

七八十年とか歴年などのように具体的な年数を書かないのだろう?
641唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 22:02:43
治世と没年
93〜118皇暦 訶惠志泥命/孝昭D 戊子年8月8日67
119〜145年出雲 國押人命/孝安E 戊午年1月9日77
145〜163年出雲 賦斗迩命/孝霊F 丙子年2月8日55
164〜180年出雲 國玖琉命/孝元G 癸巳年9月3日46
183〜190年出雲 大毘毘命/開化H 癸卯年4月9日40

例えば 190年癸卯は 出雲暦このまま伸長されずに使われると
506己未 皇1166丙戌 大長谷若建命/雄略21  己未年8月7日62
雄略没己未を 出雲暦で西暦を見ました。

此処まで読める暦を 無かったことにするの?
当然この年数で書記も読めるんですよ。



642太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/16(水) 22:13:25
出雲暦っていうのはそれがしも知らないが、その地方は倍暦を
やってなかったかも知れない。つまり畿内からすれば出雲も外国に
準ずるようだから、畿内には持ってくるのは失敗の可能性あると
想う。用心が肝要。
643唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 22:24:36
>640
魏の使者が自分の目で確かめていないから「ここから」とは書けない。
倭国乱の始まり 2つの勢力に分かれて争いが始まったのなら 最初の対立を
明記出来るが、
唐松山論によると
何故乱れ始めたか? 新羅193年(崇神6年)冷夏による不作にヒントがあります。
当時の王家の治世=種貸し=種を貸し付けると同時に暦(作付け日等)を配布
この冷夏で人民の流動化そして支配層の分裂とその独立が促進される。←九州の出来事です。
一応193年を例に出しましたがこれ以前から始まっていたのかも知れません。
まあ少しづつ不信が離反に変わっていくわけですから 何年からとハッキリ線を引けない。

リクエストが有ればこの後も書きますよ。
644よこやり:2008/07/16(水) 22:29:38
『本また男子を以て王となし、住まること七、八十年』

本の男王は、誰になるんですか?
645太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/16(水) 22:35:46
欠史八代の日付は紀では15日でなく14日までよ。14日までの2週間
しか存在しない。この記載事実に逆らうととんだ妄説の転倒に終着。
646唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/16(水) 22:39:42
出雲暦も太陰暦です。これに合わせるには 書記も朔を重要視しないといけない。
私は、「書記の朔は真である」をモットーに編年を考えました。だから合わせることが下来たと。

出雲暦より先に書記による編年がある、素晴らしいですねえ。
647太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/16(水) 22:46:48
真であるのは計算が真であるということで、空白は間違いなく存在
し、しかも不規則の時があったと観たい。だから朔での日数計算
は、事実と合うことは極めて困難であり、それを無視してできる
できると主張するのが唐松山さん、あなた。労して功無しは当選確実。
648日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:04:20
ここって日本書紀スレじゃないの?
649日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:38:18
650唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/17(木) 20:38:32
書記等の書物の中に 歴史的事実を「整合性を持って読めるか?」
是が 私が編年研究を始めたキッカケ
193年=崇神6年とか
崇神11年=異族多帰=巻向の土器
273年=日食=神功元年
この様に他の資料との整合性が得られる読み方。
是に合わせるために 朔にウソをつくような読み方はしていません。
朔には忠実な読み方です。
651太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/17(木) 21:58:28
日食が長時間続くか〜?w 妄想。誇張にも限界があるよ。
652唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/17(木) 22:28:35
「日食が長時間続く」
一日日食?が続くと言う読み方は 太国さんの妄想。
一日を二日に分けたような日食と読む。
そうすると大きな食でなくては成らない=273年以外該当する食はない。

太国さんの口には合わない? ひとつ食べてみたら?。
653太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/17(木) 23:14:12
>>652
空白日があれば二股日で長時間にはなろう。たとえば日食が午後11時
45分から始まって翌日の午前0時15分までなら、その間に空白日に
なってれば、みかけ上では長時間ということになる。しかし日食は
夜中にはおきないぜ。wwwww
654唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/18(金) 20:31:26
273年 5月 4日 (日本時)皆既食
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/jp3000/TO273_%205_%204.html
655太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 22:44:17
273年は神功初年でない。垂仁の時代だよ。
656唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 20:17:27
それでは、暦法の違いはひとまず置いて。
太国暦年を 暦に直すお手伝いをしましょう。

太国論では、「正しい暦年を皇暦に書き換えた。」ですよね。
そこで 西暦237年5月4日(太陽暦)が 皇暦何年何月に当たるか 解説をお願いします。
太国さん どうぞ。
657太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 20:45:46
5/4はどうだか確定まではやらないが、237年は景初元年だよ。
つまり崇神即位元年だが、紀の記述では崇神即位元年〜同3年(倍暦
の関係)つまり皇紀564年〜566年さ。
唐松山さん、あなたは細かすぎるやり方だから失敗するんだよ。
658唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 21:44:56
西暦237年が皇暦?年か、これが知りたい。
そうすれば 暦に直す1助となる。

私の暦も未だ荒いですよ だから 年度の若いころは、西暦を入れられるが
末年辺りは、「その辺」ぐらいしか言えていません。

5月だから半分弱の所とか? もっと絞り込まれないと その先へ進めない、
659唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 21:48:12
残念 皇暦564年は、崇神元年。
点検願います。
660日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:00:13
                                                       
>韓国人は反日主義だと思われている。
>しかし、韓国人が「日本が好きだ」と言うと、政治的、マスコミ的に問題があるので、
>「嫌い」という態度を通しているだけだ。
                                                                  
 実は、2000年前から反日主義だったワイ族。その実態とは?
                                
 現在の朝鮮人は、半島東北部の太白山脈(たいはく山脈)の東側に住んでいたワイ族(『東ワイ』とも呼ばれた)の子孫である。
高句麗人(フヨ族)ではないし、韓人(カラビト)でもない。今、国際社会で「コリアン」と呼ばれている民族は、実は朝鮮人ですらない。
 もともと朝鮮人というのは、紀元前2世紀の時代に半島北部に住んでいた漢人のことである。つまりチャイニーズのことだ。
衛氏朝鮮国の住民である漢人が「朝鮮人」と呼ばれていたのだ。
 現在の『コリアン』と呼ばれている半島人(ワイ族=ワイアン)とは、異種なのである。
 古代の半島南部に住み、日本列島の住民から韓人(カラビト)と呼ばれていた人々は、倭人系民族だった。
彼らは、とうぜん日本語を話したし、現在の半島人(ワイアン=WAIAN)とは人種・民族が異なっていた。
 カラ半島南部においてワイ語(現在の朝鮮語の基になった言語)が公用語になったのは、8世紀以降であり、
7世紀までは、半島南部の公用語は倭語(日本語)だったのである。
 つまり、7世紀の『白村江戦争』の後に、ワイアンが半島全域に移住し、今の半島人の先祖となったのである。
ワイアンは、志羅紀人(シラキ人=任那人とも呼ばれた)や百済人等のカラビトとは異なる民族なのだ。
 古代日本人が交流していた相手は、あくまでも半島南部の韓人(倭人)であって、ワイ族(今の朝鮮人の先祖)ではない。
古代における日本列島住民と半島南部住民の交流には、朝鮮人(ワイアン)はまったく無関係なのである。
661日本@名無史さん:2008/08/01(金) 00:01:33
研究者は2600年前には遺跡は存在しないから書紀は嘘をついていると結論してるが
書紀の年齢記述がおかしいとは思わないんだろうかw
662日本@名無史さん:2008/08/13(水) 14:50:20

1年を正確に365日としない自然歴だったらアイヌの記録とか
現在でも他所の国の少数民族とかに見られる。

が倍歴と言うのは寡聞にして知らない。

なにやら自然歴一般と倍歴を同じものに言いたげな奴がいるが
それほど人の生活の中で自然に生まれてくる物なら
何処かで使われている・使われていた事例を教えてくれwwww





663太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 15:05:01
日本書紀の神武以後の記述で農耕の記事は

紀の崇神六十二年(実年代257年)7月2日

である。崇神の時代は3倍暦行使であったが、先帝開化の世の2倍暦
行使の継続用を消極的に行っていたのがこれから読み取れる。
7/2は現今の1年の前半分(←当時の1年分経過)経過後の、後半
の半年(当時のこれが1年分)の初っ端の1日の翌日に2倍暦の
正月として早々と農耕を薦めている。つまり正月2日に農耕推奨の
詔が出されたということなのである。

別スレ「なぜ邪馬台国を大和と認めないの?2 >927に解説
した雄略の時代の通常暦法行使に当たって、朝廷の下級官僚あたり
か、併用して、反正世の2倍暦法での年数計算を通常暦と並用して
いたようなことと同様、崇神も先帝開化の2倍暦法を3倍暦と並用
していたのがこれからも伺えるのだ。だから農耕でも倍暦は否定
するわけにはならない。
664太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 15:31:15
>>663
美濃もん太氏は同別スレで倍暦を大勢否定している。ということは
当時は通常の暦法(1年=365日)を行使していた以外にありえ
ないわけであると当人は自認してるわけだから、その通常暦を
行使していたことになる仁徳以前の天皇のほぼ全員が百数十歳の
寿命であったことを紀の記述の年月日に誤認がない限り、遠回しに
これらの百数十歳の生存をしていたことを認めていることになる。

かようなおかしな論説をおかしいと想ってないようなのが、もん太氏
の論説だということとなる。これでは完全な不合理である。こういう
ことを彼はおかしいと想っておらず、とぼけて回答をしてないよう
である。これではダメである。
665日本@名無史さん:2008/08/13(水) 17:07:05
>>664 

「倍歴の否定=超長寿の肯定」
と言うのはつまり倍歴以外に超長寿の説明があり得ないと言う前提に立てばこそ。


そもそも、その寿命の記述を事実でないとする者には意味が無いw



666 :2008/08/13(水) 17:21:12
「そもそもその寿命の記述を事実でないとする者」倍暦のみかたがまだ確立されていないころにそう判断したのでしょう。
倍暦の説明が確立した現代、再考すべきです。
667日本@名無史さん:2008/08/13(水) 17:31:26
>>666
>倍暦の説明が確立した現代

倍歴が確立されている?

何処ぞの学者から倍歴に基づくきちんとしたカレンダーのような物が出されたか?

犬国の場合、
「*月*日から*月*日まではすっ飛ばす」
「*月は月ごとすっ飛ばす」
とつじつま合わせる為ならなんでもありだぞww
668日本@名無史さん:2008/08/13(水) 18:30:23
それから犬国のアホはすっとぼけているのかどうか知らんが

欠史八代にしても日本書紀で孝安の即位が1月27日となっている。

事が暦だけに
「単なる例外、レアケース」
なんて言い訳はあり得ない。

考えても見ればよい
現代である年の8月だけ40日なんて日付が出てくるはずがあるか?w

669美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 20:24:25
>>664
俺は「イワレビコやニギハヤヒは西暦600年頃の人物」とも言ってるんだよ

西暦660年(だったけな?)の辛酉年に紀記の記述の通り橿原で即位してる天皇もいる

この辛酉年を紀元前660年とか言う解釈からして間違ってるから、欠史八代や長寿なんて話になるって言ってるんだよ

あと紀記を読んで「イワレビコが日本の始まり」って解釈してるならそれもおかしいよ
イワレビコ以前から日本は日本だよ
670美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 20:37:22
>>666
紀記のどこに「360才で死んだ」とか寿命が書いてあるんだよw

紀記にしろ先代旧事紀にしろ、ちゃんと和暦(旧暦)と干支十二支で時代を書いてあるよ


例えば辛酉年を西暦に変えると、660年、600年、540年、、、



例えば「辛酉年に生まれて辛酉年に死んだ」ってあれば、寿命は60才、120才、180才、、、

普通に考えれば60才って事ぐらい解るよ


これを300才とか180才とか間違って時代を解釈しちゃえばアホ見たいな長寿になるよ
671美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 20:50:31
あと「皇紀」なんて暦は明治維新後に長州政府が紀元前660年を日本の始まりと解釈して勝手に作った暦なだけだよ

時代や寿命が辻褄合わないのも皇紀って暦が間違ってるからだよ
672美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 20:55:41
>>663
紀記は和暦(旧暦)で書かれてる書物であって、西暦や皇暦やイスラム暦やマヤ暦や仏暦などで書かれてる訳じゃ無いですよ


紀記に「7月2日」ってあるなら、それは和暦(旧暦)の7月2日の事で、現代の暦だと8月ぐらいの事だよ
673美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 21:19:37
1年を1日に例えれば解りやすいかな?
現代の俺らは1日って単位を24分割して24時間を1日としてる

これをいちいち8時間を1日としたり12時間を1日としたりしない

同じように約365日周期で1サイクルしてる年って単位を、わざわざ182日や70日を1年としたりしないよ


倍暦だの三倍暦だの古代の人らをバカにし過ぎ

倍暦なんて使ってたなら
「去年の1月は寒かったのに、今年の正月はめちゃくちゃ暑いなあー」
ってなるよ


んなバカいないっての
674美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 21:24:51
「その俗民は春夏を知らず、春に耕し秋に収穫して年季とする」

だったっけ?

これをどう解釈したら倍暦使ってた事になるんだよw
675:2008/08/13(水) 21:54:23
676太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 22:04:29
>>675は書きこみの誤操作。失礼した。
>>668
孝安即位が1/27というのは日本書紀の北野本で、それはコテハン氏
の征東大将軍氏が調べてくれて、間違いの可能性が大がそうだ。
他の別本では1/7だよ。そちは間違ってる本で居眠りしておれ。
677太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 22:13:45
>>672
それはそうだろう。ズレるんだろう。そんなことは答えになっちゃ
いない。7/2は2倍暦での元旦の翌日だ。夏に元旦があったという
ことだ。そちの説明では当時の天皇の超長寿の説明を回避して
焦点をぼかしている。これではまずい。だが、もん太氏はあの負け犬
よりは表面だけでなく論述をして批判しており、長所は伸ばして
もらいたい。負け犬は辛酉革命以外当人の論がない。あとのはみせ
かけだけで、例えば学者がどうのこうのとか、例の別スレの終り頃
でいかにも論述してるように思わせているだけで、効果も有効も
辛酉だけで、取れてない。勿論技ありも一本もあやつは出せない。w
678日本@名無史さん:2008/08/13(水) 22:16:06
>>676 犬国 ◆yVAs7uaYlY

その写本が正しくて北野本が誤っていると言う根拠はなんだ?

自説に都合が良いだけをもって正しいとするならアホ丸出しだぞ?wwwwww



679美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 22:25:52
>>677
>7/2は2倍暦での元旦の翌日だ。夏に元旦があったということだ

だから紀記は和暦(旧暦)で書かれたものであって、キリスト暦や倍暦とかで書かれてる書物じゃないですよ

例えば紀記に「甲申年、6月12日」って書いてあれば、それは旧暦の甲申年の6月12日の事ですよ

ちゃんと和暦の24節期の「春」とか「節」ってのも書いてある訳だし
680日本@名無史さん:2008/08/13(水) 22:31:50
そもそも神武や欠八代史の実在が疑われているのはその寿命や
記述の少なさ等文献上だけではなく

神武東征の考古学的資料もなく欠八代史も無論無い事が大きい。

欠八代史が実在したのなら纏向に繋がる話になるが
それは所謂「自生説」となるが

今日、纏向に大和以外からの勢力の合流を否定する学者も
まあ少数派だろう。

(卑弥呼共立に繋がる首長連合その物を否定するのなら畿内説自体が成り立たない)

681美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 22:35:41
そもそも一年の単位は約365日すよ
1日の単位も24時間



182日や90日を1年としたり、13時間や8時間を1日としたり、そんな訳の解らない暦を作ったり使う奴いないよ

暦や文字を持たないアマゾンの原住民ですら一年や1日の単位は知ってますよ



182日や120日や90日を1年とすると、春も夏も四季も無くなるし、毎年毎年、その月の季節が違って来るんだよ

例えば1日を12時間(30分を1時間として24時間)として生活するバカはいないすよ
682太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 22:38:14
>>679
だから春とかそういうのは舎人親王の後付けよ。紀の神武以後の記事
は蟻の大群の如く季語が月の手前についている。紀の原書は多数
あったわけで、その全部が季語がついていたのではなく、季語が
無くての月日記述のみの原書群も多数あった筈で、紀は官僚形式で
天皇に見せるためにそういう季語をつけて書く決まりというか、
いかめしい仕来たりがあって、原書群についてなかった月日にほぼ
全部季語をつけたわけ。だから倍暦がなおさら隠没してしまったと
いうこと。舎人らは十月と原書にあれば、ははぁここは秋の記述
だなと疑念もなく想い、秋十月と、かように紀に記載してしまっ
たため、倍暦の真が「紀吏隠れ」してしまい、あんたとあの負け犬
暦研究者が騙されてしまう因となったわけなのだ。
683美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 22:46:47
あと干支十二支は60年サイクルの暦(約365日×60)

これは太陽系や木星と太陽と地球との天体の位置関係が60年周期だからだよ(十二支は12年で太陽を回る木星の位置を示してる、干支は良く調べてないや)

仮に過去にどこかの誰かが倍暦やら3倍暦やらを独自に作り使ってたとしても、それは和暦で書かれてる紀記には関係の無い事だよ

イスラム暦が13ヵ月だからって
「一年を13ヵ月としてた暦がある。だから紀記の年代も13ヵ月(395日)を一年として計算しなおすべきだ」
とはならないでしょ?
684太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 22:56:45
>>681
マヤの金星暦なんかそんな365日暦ではないよ。584日暦だぜ。
外にマヤ暦では182日がどうのより、819日暦法というのがあって、
これはマヤ独自の暦法だ。他国は使ってないはずだ。君はこういうの
を知らないのかねぇ?
おまけに四季がどうのと言ってるが、古代エジプト暦は1年が
3分の3季暦だぞ。三季だ。いい加減なことを堂々と言うなよ。

マヤ暦では1年260日暦法があって、かように変則な常軌を逸脱
した暦法を使っているのだ。過去の「世界不思議発見」6chで放送
していたが、古代エジプト暦はB.C.2772年以後は1年が265日の暦法
の数え方であったとの解説であった。
だから古代人でのあんたの言うバカはうんといたんだよ。
685美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 22:57:06
>>682
和暦(旧暦)ってのは24節期の暦で、一年を24分割してるんだよ

節分なのか節後なのか解るように「春」とか「節」とか書いてあるんだよ

和暦(旧暦)は、今おれらが使ってる西暦なんかよりも天体学的にも季節的にも正確な暦
ちなみに現代使ってる西暦では、立春とか節句がいつなのか解らなくなるんだよ


十五夜や八十八夜や七夕とかも現代使ってる西暦では正しく表せてなくて、旧暦の方では正しい七夕や八十八夜がいつかちゃんと解る暦だよ



ちなみに紀記は和暦(旧暦の24節期)で書かれてる書物で、西暦だの皇暦だのキリスト暦だの倍暦だので書かれてる書物じゃ無いですよ
686美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 23:12:03
>>684
そういうのは倍暦と同じように後の近代の学者達が「これは一年を265日としてたと言う事に違いない」って勝手に解釈してるだけだよ
ちなみに倍暦や3倍暦もこれと同じ


例えば今使ってる西暦と明治時代以前まで日本が使ってた旧暦と比べても、紀記でも使われてる旧暦の方が季節や太陽系や月の天体運動を正確に表してるよ
あと暦は確かにたくさんあって、太陽暦や太陰暦などを組み合わせて使ってる
例えば和暦の干支十二支は木星の天体運動の周期を表してる木星暦であるわけだし

あとエジプトやマヤの人達も地球の365日で1年の周期は知ってるよ
一年ってのは北極星を中心に、星座が一週する周期なんだから
一年たてばまた夜空の同じ位置に同じ星座や星が見られるんだよ

マヤやエジプトはシリウス星などの位置を目安に農作物を植えたりとかしてたんだよ
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/13(水) 23:18:27
>>685
書かれてたって、後付けでは君の言うことはあてにはなるまいが。
紀に書かれている朔(新月だって後付けだよ。なぜか?

いいかい紀を調べてみると、さっきの季語のようにだ、月日のところ
にこれまた蟻の大群のように朔、朔、朔・・・・・と、この語がこれ
でもか〜もういいよと言いたいくらいひっきりなしに出てくるのさ。
ところがこれと関わる月食の記事を調べてみると、紀にはあるには
あるが、皇極二年(643年)にそれがある。朔が観測結果を記録して
いそうな紀の原書群に月食記事があったのなら、新月の天体観測の
記録とともに特殊な新月である月食を皇極紀の以前の神武〜舒明紀の
中に落とさず、少なくとも数個あるいは十数個あらねば釣り合いが
とれていなく、おかしい。
朔が神武から多数記録があるのに、月食たる特殊な朔が皇極手前まで
でただの1回も記録が無いというのは解せない。これは客観的に観
て、朔が紀の原書群にあったものではなく(但し一部はあったかも知
れないが)、紀の編者らが年月日あるいは干支を観て月齢の精密な
定数を知悉していて、逆算式に朔を紀に多数書きこんだことを物語っ
ているのだ。だから君もあの魔毛犬候補生も騙されてしまったと
観るのが正解なのだよ。こんなんだから、四季なんて後付けよ。
またな・・・・・・・・・・・・・・・

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
688美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 23:32:42
>>687
太陽暦と太陰暦の違いとか解ってる?

北極星を中心に約365日で星や星座は回る
ちなみにこれは太陽も同じ
地球の地軸が傾いてる為、太陽は365日後にまた同じ高さで登るようになる
この約365日の周期が一年って単位
これが太陽暦

「月」って単位は、太陰暦って言って地球と月の関係を表してる暦だよ
月は約30日かけて新月→満月→新月って繰り返してる

十五夜は新月から丁度15日目の満月が見られるから十五夜って言うんだよ


689美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 23:39:00
>>687
「朔」ってがあるのは紀記が和暦の24節期で書かれてる書物だからだってば


詳しく覚えて無いけど(つか今は旧暦は使わなくなっちゃってるし)節句を境に節後が「朔」だったかな?
なんかそんな感じで着けるんだよ
春とか朔って言葉はさ
たしか朔とか春とか秋ってのは、春分を始まりとして、一年を24分割した24節季のいつの事かを表してる暦だよ
秋ってのは秋分の事で夏ってのは夏至の事だよ
別に季語で付けてる訳じゃ無いよ
690美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/13(水) 23:46:47
とにかく一年365日って単位は太陽暦で太陽や星座の周期を1年としてる単位だよ



太国さんは盛んに「1年を182日としてた」って言ってるけど、じゃあこの約182日は、何を基準にした単位何ですか?

一年を365日としてるのは太陽の周期の約365日を一年とした太陽暦だからですよ



もし倍暦なんてのがあったのなら、一年を約182日としてたって事になる
この暦を作った人や使ってた人は、なんで約182日を一年としてたんですか?
ちなみに4倍暦だと約90日を一年ってしてたって事になるよ
691美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 00:06:30
「古代は地球の公転速度が今の二倍早かったから、太陽の周期も現在の時間で言うと約182日でサイクルしてた」
って言うんなら182日を一年としてたってのも解るんだけどね

そうでないなら一年を182日や90日とする基準が解らないよ
太陽のサイクルを基準とした一年365日の太陽暦とは別の暦って事になるしさ


太国さんは古代の人が倍暦や4倍暦を使ってたって言うなら、この182日や90日を一年とする周期が何を基準にその日数にしてたって考えてますか?
古代の人がバカだったとしても182日やら90日やらって基準をどう決めたのかが解らないすよ


古代の人がバカなんじゃなくて、古代の人は倍暦や4倍暦を使ってたとか解釈してる人の方がバカなんだと思うよ
692日本@名無史さん:2008/08/14(木) 00:22:54
>>683 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew
>これは太陽系や木星と太陽と地球との天体の位置関係が60年周期だからだよ

あのなあ、アホの犬国のツッコミも無いみたいだが・・・

いいかな?
先ず
 木・火・土・金・水の五行 = 5
 陰と陽 = 2
この二つで 5×2=10 ・・・十干
例えば 木の陽なら甲(きのえ) 木の陰なら乙(きのと)

これに十二支を加え10と12の最小公倍数が60になるって話だよ。
つまり60年で十干・十二支の組み合わせが一巡する、即ち「還暦」
天体周期?頭冷やせwww


693日本@名無史さん:2008/08/14(木) 00:34:37
>>682 犬国 ◆yVAs7uaYlY
>舎人らは十月と原書にあれば、ははぁここは秋の記述
>だなと疑念もなく想い、秋十月と、かように紀に記載してしまったため

あはは。
アホの犬国、もう少し考えようぜ?w

・・・てか十月は冬だろうがカスwww

「疑念もなく」?
じゃあ「夏十月」とか記された原書は無かったのか?
ご都合良く季節と月の齟齬のある記述は無かったとでも?w

記紀に月と季節の齟齬のある記述が無いのなら
そりゃ分かっていて修正したという事以外ないわなwwwwwww

もうちょっと自説に整合性を持たせようぜ?アホwwwwwwwwww




694日本@名無史さん:2008/08/14(木) 00:59:00
本文だけでも天地開闢の時点で古事記と描写が違う。
別天つ神は一書に寄せられ、天地の生成と神代七代のみが本文で述べられている。
神代七代は、男性神3+男女ペア4組であって、単独神2+男女ペア5組ではない。
古事記は単独の神は身を隠すと述べている。
国生みはイザナギとイザナミとがまるで自発的に行い?、
神を産むことについては、山川草木と自然神をわずかに記述。
三貴子はイザナギの禊によるのではなく、夫婦間の子供だとしている。
葦原中国を平定し天孫降臨を主宰したのはアマテラスではなくタカミムスビ。
しかも天孫が降臨した後の記述も短く、吾田(鹿児島の加世田あたり?)にたどり着いて
美人一人と子供3神を儲けて死んだというだけ。
書紀と古事記では天皇の崩御時の年齢なども異なっている。
「記紀によると」、「記紀が云々」と一緒くたにして語るのには注意だろう。
695美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 01:17:01
>>692
ありがとう
確かにいわゆる陰陽道つかタントリズムの思想もあるかもね
けどタントリズムは木星や金星や天体周期も関係あるよ

あと日本には金星黒なんとかとか、なんか難しい暦もあるし仏滅大安なんかの仏暦もあるし
あれらもややこしいけどルーツはあるんだろうしさ

これらの暦を作った人や理解して使ってた人はやっぱ色んな知識がある頭がいいひとだと思うよ
今の西暦と和暦(旧暦)を比べても、和暦の方が24節期や四季や天体運動に対して正確な暦だしさ

696太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/14(木) 07:06:15
もん太氏よ。そんな能書きの垂れ流しはもう魔ヶ戌に任せて、君も注文を
つけるならな、まっすぐ前面を見て、仁徳前の古代天皇が百数十歳の寿命が
なぜ連続するのか? 紀を信用してないなら話し相手はあまりやらないが、少なく
とも何らかの真を持った紀の年月日の記述と観るなら、その説明をしたまえ。
ウイリアム・プランセンが倍暦説を唱えたのは、その超長寿の不審からだろう。
697太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/14(木) 07:31:54
>>689 >>690 >>691
君は24節気がどうのこうの申してるが、1日が24時間なら、この1日も午前と
午後で2倍暦的12時間指針で、12時間を2回繰り返すんだよ。
それに江戸時代なんぞは1刻が2時間であり半刻が1時間なんだよ。もん太殿
2倍暦が1年の半分を単位とする理由を聞くなら、なぜ1時間が半刻なのかね?
反問するよ。このようにミニ2倍暦が厳然としてあるんだよ。現今でも24時間の
1日が2回の12時間で、太陽の1日の1周の半日たる12時間で1日のミニ2倍暦
は今もやってるんだよ。余は4倍暦なんぞ主張してないぜ。そういうのはあの
サガミハラハラという人物に聞いてくれ。こちらは神武以降の時代では4倍暦は
なかったと観ているから・・・。
698美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 07:56:23
>>696
>数百才の寿命がなぜ連続するのか


寿命が数百歳とか言ってるけど、紀記には「天皇は数百歳まで生きた」なんて書いて無いですよ

即位した年や死んだ年の干支が書いてあるだけですよ



例えば
「辛酉年に生まれ、辛酉年に死んだ」
って書いてあれば、太国さんなら、この天皇の寿命は何歳だと解釈しますか?

60歳ですか?
120歳ですか?
それとも240歳ですか?

紀記にどんだけ正確な内容が書いてあっても、解釈する側が間違って解釈してれば、数百歳とか言う寿命になっちゃいますよ



同じように「辛酉年に天皇は即位した」って書いてある内容を、間違って解釈しちゃえば

間違った解釈しちゃえばイワレビコは紀元前600年どころか、紀元前6000年前の人物になっちゃいますよ


そもそもがイワレビコの話を紀元前600年頃の事って解釈が間違ってるんですよ
そこを間違って解釈してれば、間の天皇の寿命も辻褄合うように伸ばして解釈するしか無くなっちゃう訳だから
699美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 08:18:55
>>697
だから1刻を2時間としようが、1刻を4時間としようが、1日の長さは24時間で変わらないのは解りますか?
1刻を1時間とするなら24刻で1日とするだろうし
1刻を2時間とするなら12刻で1日としますよ

それとも江戸時代の人はバカだから、1刻が今の2時間だったからって、2つ日で1日という逆倍暦でも使ってたんですか?


あと24節期の暦の場合は、一ヶ月を節分と節後の約15日に分けるから、15日以上の日付があまり無くなるのは当たり前ですよ
節期の始まりの春分の日をどこにするかによるみたいですけど、例えば10月なら
10月秋(秋分を含む節期で要は1月の前半、約15日)
10月朔(秋分を含まない方の残りの後半、約15日)
少し違うかも知れないけど、和暦の24節期の暦って、こう言う事らしいですよ

だから「○月」って後に必ず「春」とか「朔」とか「秋」とか書いてあるんですよ

春とか秋とか夏とかは「春分を含む節期」とか「夏至を含む節期」って意味であって、季語で書いてる訳じゃ無いですよ
ちなみに「朔」ってのは節分の後半とかそんなような意味だったと思うよ


源氏物語でもこの24節期の和暦を使ってた様子が解る記述とかありますよ
「今年はま
700美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 08:32:08
>>697
暦の単位の意味を理解した方が良いですよ

例えば1日と1時間の関係


1日って単位は朝から次の日の朝になるまで
太陽が登り、また次の日の太陽が登るまでの単位


時間ってのは、その1日を何分割したかってだけで
1日って単位を24分割すれば1刻が1時間になるし
12分割したなら1刻は2時間になりますよ



年って単位も同じすよ
太陽が同じ高さで登る周期、星座が北極星を中心に一周する周期を1年としてる単位ですよ

この周期が365日だから一年が365日なだけで、もし200日で周期してるなら一年は200日になりますよ


月って単位は新月から新月までの単位
月はこの運動を一年に12回〜13回(年によって違う)繰り返すから、一年の間に12ヵ月(旧暦やイスラム暦では13ヵ月表記もある)あるってだけですよ


ちなみに月は新月〜満月。 満月〜新月 の周期が約15日だから、例えばその15日の周期を1ヵ月とすれば24ヵ月で約1年になりますよ

701美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 08:45:45
一年の単位の意味解りました?

江戸時代までの旧暦は1日が12刻しか無かったけど、だからと言って半日(12時間)を1日とはしませんよ

同じように一年を24節期に分割したからって、一年は約365日ですよ


仮に倍暦があったならあったで構わないけど、じゃあその倍暦を使ってた人は何を基準に182日を一年としてたんですか? って事になるよ

思い付くのは
「一年365日を半分にして、182日を一年とした」
って事なら一年を約182日にしてたってのは解る


ただこの場合、先に一年365日を知ってるから182日を一年と出来る訳で、365日の周期を知ってるなら、いちいち一年を半分に分けずに、そのまま365日を一年にしますよ
702美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 09:07:59
だから「倍暦なんてのは近代の学者が後付けで勝手に考えただけの暦だ」って言ってたんですよ

倍暦だの4倍暦だのは1年365日の単位を使ってる人じゃなきゃ出来ない発想ですから

「今の1年を2年としてたに違いない」見たいな勝手な後付けの発想すよ




暦や単位を作る事を考えたら、
もしまだ年や月とかの単位も決まって無く、暦を作ろうとした場合に、何の基準もなく「よし、182日を一年としよう」とはならないすよ

182日の12ヵ月だと、一ヶ月の単位も今の一ヶ月の新月〜新月の単位とは違う単位って事になるし

一年が182日だと、月は182日の間に6回しか新月を迎えなくなるから、それなら一年は6ヵ月じゃなきゃおかしくなるし



暦を作ったり決めたりする事や、それらの単位の成り立ちとかを考えたら「一年を182日としよう」なんていう倍暦なんて暦は無いですよ


古代の人をバカにし過ぎ
「きっと古代の人は俺らよりもバカだから一年365日って事も知らないから、今とは違う倍暦なんて暦を使ってたんだ」
なんて言って言ってる学者の方がよっぽど暦を作った古代人より暦の成り立ちすら知らないバカだよ

703美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 09:18:36
ちなみに倍暦を唱えてた学者ってだれですっけ?

それらの学者は学者の肩書きを持ってても、ただのバカですよ

「学者が言うから正しい」「学者が証明出来たと言ってたから証明されてる」

こんな風に思わない方が良いですよ
学者なんてたいした根拠もないくせにすぐに「これで証明出来た」って主張したがるのが学者ですから


「中国の書物に、春に耕し秋に収穫し、年季とする。と書いてる事から、倍暦を使ってた事が証明出来る」
って、こんなアホ見たいな学者も中にはいますから
704日本@名無史さん:2008/08/14(木) 09:26:30
非処女を好きになる事の馬鹿らしさ
ttp://love6.2ch.net/test/read.cgi/pure/1217761516/l50

ここで馬鹿が非処女皇后がいた!
とか騒いでいるんだが・・w
こいつの書き込み見てて
笑いすぎてて腹痛い(ワラ
705美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 09:51:57
そもそも倍暦を主張した学者が「2倍暦」なんて呼び方してる時点で
「今の1年を2年としてたとしたら欠史八代の矛盾も無くなる」
って後付けの発想してるって事が解るしさ
1日は24時間
12時間だと半日

一年は365日
182日だと半年


一年365日が、一年182日になる訳だから、名前を付けるにしても2倍暦じゃなく、1/2暦って呼ぶのが普通だよ

「1年を2年としてた倍暦を使ってたんだ!一年が2年になるから2倍暦だ!」
程度の発想だから2倍暦なんて呼び方しちゃってるんだろうけど


けどこんなアホ見たいな主張でも学者って肩書きがあれば2倍暦(実際には半分の長さの1/2暦)なんて主張も信用しちゃう人がいるんだから楽なもんすね
706太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/14(木) 09:55:16
>>698
紀の仁徳前の天皇の寿命がその殆どが百数十歳と書かれている。余は
それを数百歳などとは言ってないぞ。ゴマカすなよ。
寝ぼけテンノか? 寝ぼけ天皇か? 百数十歳と数百歳とは大違いだ。
707日本@名無史さん:2008/08/14(木) 10:03:52
120歳・・・頑張れば生きれるかも?
200歳・・・むりむりむりw
708太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/14(木) 10:05:40
>>699
時間は半分方式はいい、日と年は半分方式は絶対ダメというのが
君のお脳の中身だな。時間が半分できるなら日でも年でも半分は
やれる。つまり君の恣意的選択なのだよ。おかしいったらありゃぁ
しない。w
紀の神武〜仁徳までの記述で13月〜24月っていうのはないんだよ。
だから24節気なんていうもの、をいかにも紀にあるように付加されて
の強言はうまくないねぇ。マヤでは誰かさんが13ヶ月カレンダーを
やっておるがねぇ〜。13〜24月の記載がなけりゃぁ、24節気なんて
この時代は直接関係ないよ。当時は閏は別として12月までしかなか
ったということだねぇ。
709太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/14(木) 10:32:24
>>686 >>703
君の論より古代エジプト、マヤの研究家のほうが言ってることは確かだよ。
あちらのことはどの学者も暦法の見解の相違が少なく、君とは信頼度が
全然違う。
それに古代マヤ文明では1年365日を後回しにして、長期暦も存在する。
バクトゥン完了は2012年で区切れるが、マヤの暦法は奇異多彩で365日なんかに
こだわっていないさ。こだわるのは君のお脳だな。もう妄想はやめてくれ。
いまでもマヤ地域で一部がやっている1年260日ツォルキン暦法は、君が否定を
言っても、いまもむこうは行使をやめはしないぜ。

1年365日以外の暦法がうんとあることを否定したって、彼ら学者の弁は動きは
しないよ。それは鉄壁の信用度だよ。日本の臥海とは一緒にはできないぜ。
710美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/14(木) 11:43:26
>>706
紀記にそう書かれてるなら、そう受け止めればいいんじゃないですか?

ただ、天皇の寿命や即位期間と、元号とをごっちゃにして解釈しちゃってる可能性もあると思いますよ


例えば「神武150年」ってあれば、これは神武天皇が即位して150年目って意味じゃなく、神武って元号にしてから150年目って意味ですよ

元号を天皇の即位や死亡に合わせて代えるようになったのは明治天皇以降ですから


ちなみに元号ってのも日本の和暦で、紀記も元号とかは書いてるすもんね
711日本@名無史さん:2008/08/14(木) 14:25:32
しかし犬国 ◆yVAs7uaYlYがやたら、「マヤ」を持ってくるのはいい加減うんざりと言うか
あまりに幼稚な牽強付会だなw

そもそも天体の周期を厳密に測定したマヤの暦と
「○日から○日まではすっ飛ばした」
「○月は月ごとすっ飛ばした」
なんてことを平気で言う犬国のアバウト極まりない倍歴モデルと一緒にする事自体が笑い話www

そもそもマヤの遺跡の碑文は、その冒頭から金星やら太陽やらに基づく暦をこれでもかと言うくらいにしつこく記しているわけだが

そう言う暦に対するパラノイアとも言える姿勢は、彼らの神話・世界観に基づく事が分かっている。
世界は過去に何度か滅びており今の世界もやがて滅ぶ
・・・その強烈な強迫観念故で、特に金星はケツァルコアトルとして重視された。

マヤ歴は生み出された背景が分かるが、じゃあその倍歴の発生した背景は?
農耕と言うのなら弥生時代は2期作か?
それとも宗教政治的な意味があったのか?

日本の古代に1年を正しく365日と数えない
あるいは月に当たる物が厳密に何日とされない「自然歴」があったであろうと言うのは常識で
だから2倍歴もあったと言うのは意味が違う。


まあムー愛読家のアホの犬国は
「マヤのパレンケ遺跡に宇宙飛行士が描かれている」
なんて事を言ってそうだがwwwwwwwwww
712太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/14(木) 21:34:50
2ちゃん、古代史の魔ヶ戌ジョーカーさまは辛酉だとさ。Pu!www
713美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 00:47:27
>>709
古代エジプトの研究者って、ミイラも装飾品も何一つ出てきてないのに、勝手にピラミッドを「王の墓」って解釈してた人達ですよw

研究者達に見解の相違が少ないってのも、逆に言えば、研究者達が自分で考えて無いからですよ
研究者の癖に
「ピラミッドはクフ王の墓だ」
って説を疑いもしない訳だから

研究者が100人いれば100通りの意見や説があってもいいんですよ
研究者の癖に、それまでなされて来た解釈や説を鵜呑みにするだけで、自分でゼロから考える事をしないから研究者同士で意見の相違が無いんですよ



倍暦を唱えた研究者と太国さんに意見の相違が無いのも、単に太国さんが研究者や学者の主張をそのまま鵜呑みにしてるだけだからですよ


714美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 00:53:09
>>708
>時間は半分方式でもいい


そんな事は言ってないですよ
1日を24に区切れば1時間×24で、1日の単位は24時間

仮に江戸時代見たいに1日を24の半分の12で区切ったとした場合でも、1刻を2時間として、2時間×12刻で、1日の単位は24時間で変わらないですよっていったんですよ
715美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 01:20:54
>>709
>1年365日以外の歴法がある

俺が言ってるのは「1年365日は太陽の周期(地球の公転周期)を表した太陽暦」って事ですよ


例えば和暦(旧暦)ってのは、
太陽暦(1年365日、1日24時間)、大陰暦(1月約30日)、24節期(1年に24節句)、干支(10年で1周期)、十二支(12年で1周期)、元号(幕府の都合で改正)

これらの暦(周期)が解るように作られてる暦


古代マヤや、古代エジプトでも太陽暦(1年365日)以外の暦があっても、そんなの当たり前ですよ

例えば金星の周期を表す暦は、金星の公転周期である224日周期の暦になる
マヤが使ってた金星暦ってのはこれですよ


だからと言ってマヤは太陽暦(1年365日)を使わずに、金星の周期の224日を1年としてた訳じゃ無いですよ

マヤのピラミッドは太陽暦の1年の日数である365段で作られてて、ピラミッドの影の位置により、日本で言う冬至や夏至の日が解るように太陽とピラミッドの位置を計算して立てられるんですよ

あとマヤならスバル星、エジプトならシリウス星が、ピラミッドに対してこの位置に来れば一年(365日)ってのが解るように立てられてるよ

シリウス星やスバル星の位置により雨季や農作物の植え付け時を把握出来るように計算してる
エジプトのラムレス2世の作った神殿も、太陽の位置を計算して、1年に一度だけ神殿の中のラー神の像を朝日がスポットライトのように照らすように計算されて作られてる


こういう事が出来るのも、マヤやエジプトが太陽暦(1年365日)ってのをきちんと把握してたからですよ


マヤやエジプトはその上で、金星暦(224日暦)や他の何かを基準にした太陽暦以外の暦(周期)も理解してたって事ですよ
716美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 01:45:51
「1年を182日としてた」
「1年を565日としてた」

もしこんな文明があったとしたら、その文明は1年を182日や565日としてたって訳じゃ無く、太陽暦(1年365日)を使ってた無かったって事ですよ

だから「1年を○○日にしてた」って言い方じゃなく
「1年を365日とする太陽暦を使ってた無かった。変わりに○○日を1周期とする○暦を使ってた」
って言い方をするのが正しい言い方ですよ


ちなみにマヤも古代エジプトも太陽暦は使ってますよ
そもそも太陽暦を知らなかったり使わずにいたら、雨季や季節や農作物の植え付けや収穫時期が解らなくなりますから
あと「年」「year」って単位は、太陽暦の周期を表す単位だから、太陽暦の365日以外の大陰暦や金星暦の周期を「年」なんて呼ばないですよ
ちなみに「年」って漢字は「実り、収穫」って意味もある
農作物などは1年365日を周期に実り、収穫出来るからだよ

だから182日周期の暦や565日周期の暦の単位に対して「年」って漢字は当てないですよ

月は月の周期を表す単位だから「○月」って単位な訳で
年は太陽暦と連動してる地球上の農作物の実りを表す漢字だから、その365日周期を「年」って単位にしてる訳ですから
717美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 02:05:35
マヤや古代エジプトでは太陽暦(1年365日)以外にも、大陰暦や金星暦や木星暦や、他の惑星の周期や、何かを基準にした365日以外の暦が存在してた


こんなの知ってますよ
マヤ文明の研究者やエジプト文明の研究者は
「マヤやエジプトでは太陽暦(365日)以外の224日や565日を周期とした暦が存在してた!だからマヤやエジプトでは224日や565日を1年としてたんだ!」
って言ってるんですか?

だとしたらその研究者はアホですよ

マヤやエジプトが太陽暦以外の金星や木星や土星やスバル星の暦(周期)を持ってたからって、太陽暦(1年365日)を使って無かったって事にはならない事ぐらい解るでしょ?

日本にしろ和暦(旧暦)で使ってた太陽暦や大陰暦や24節期以外にも、仏滅や大安などを表した仏暦や、その地方独自の伊勢暦や出雲暦や、陰陽暦や、他にもたくさんの暦を使ってるんすよ
太陽暦(1年365日)以外の暦の存在なんて探せばいくらでもあるよ

けど太陽暦(1年365日)以外の暦が存在してるからと言って
その文明が太陽暦を使わずに、182日や656日や252日を1年としてたって事にはならないよ


倍暦だなんだ言ってた研究者は、そんな事も理解出来ないバカだから倍暦だの何だの言ってるんすよ
718美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 02:30:21
あと2倍暦を主張するにしても、1年を182日とする暦の名称も「2倍暦」なんて呼び方はしない方が良いですよ

2倍暦なんて呼び方は主張した学者がバカだから2倍暦って名称で呼んでるだけで
今の暦で言う半年(182日)を1年としてたって事なんだから言うなら「半暦」ですよ
今の一年の単位を2倍にすれば730日の暦
半分にすれば182日の暦になります

1年を730日の暦を使ってた場合に「2倍暦を使ってた」って言うんですよ

つか「2倍暦」なんて名称で呼んじゃってるのも
この学者が「今の1年で2才歳を取るような暦を使ってたから天皇の寿命が倍になっちゃってるんだ!これなら欠史八代の矛盾が説明出来る!」
って程度の事の為に主張しただけの事だから
「天皇の寿命が2倍になっちゃってるから2倍暦だ!」

って「2倍暦」なんて呼んじゃってるんですよ

暦を2倍にしたら1年は730日だって事すら解らないアホ学者すよ
719美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 02:50:35
太国さんは、今後主張するにしても「半暦」って言い方した方がいいすよ
暦は2倍じゃなく、半分になる訳だから半暦ですよ

最終的に「だから天皇の寿命が2倍になってるんだ!」って事を言いたいんだってのは解るけど、だったら暦は今の半分の半暦って言わないとおかしいですよ


あとサガミハラさんだっけ? 更に3倍暦とか4倍暦とか言ってたの?
そもそも3倍の暦なら一年は1095日だし

倍暦を主張してる人は自分では気付いて無いかも知れないけど、この呼び方は凄い変すよ

2倍の暦を使ってたなら天皇の寿命は更に伸びちゃいますよ
2倍暦って呼び方の間違いからまずは直した方が良いですよ
720美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 03:29:10
太国さんやサガミハラさんも、倍暦を主張した学者と全く同じように
「古代の日本は2倍の暦を使ってたから、記紀の長寿の天皇の寿命は実際には半分だ」
って言って来てるけど、、

、、、2倍暦を使ってたなら150才の天皇は300年生きた事になっちゃいますよ

それぐらいはいい加減に自分で気付いて下さい

今の2倍の2倍暦を使ってって主張したいのか
今の半分の半暦を使ってたって主張したいのか
良く考えた方が良いですよ
721太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 06:59:16

>>713
エジプトの王の墓に焦点をズラさなくたっていいよ。余が言って
るのは、エイジプトとかマヤの暦法は世界の学者の見解はほとんど
変わりがないから、君の主張は全然通らないってことが自明だと
いうことだ。それは古代日本の場合はまだまだそうではないから、
君の言い分は一応聞く耳をもつが、その墓の見解はあっちでイイん
だよ。今はエジプト、マヤの暦法、これの見解が学者のは絶対の真を
おけるということだ。別に天体の1周を1年としなくても、1年と
決められれば、それでそれが1年になるんだよ。
>>714
1日の単位がどうのとか言ってるが、時法、日法で2分割という
ことは現に今も21時を午後9時が同時刻であるように、江戸時代も
半時が1時間であるように、やってるということだよ。それが君は
年の2分はやってない、時間の2分(半時)はやっているいう、
恣意的論理をしているというのをうまくないと言ってるわけ。
722太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 07:14:26
>>715
深夜は、魔毛犬かじり得意のジョーカーさまは来なかったようだね。
そんなことは日本でも通常暦法を使ってたことは確かだろう。それに
並行して倍暦を行使してたんだよ。当時は単一暦法ではないよ。そん
なことは言わずとも日本も複数暦法なんだよ。
>>716
君の言ってるのは224日はいい565日?はいい、だが182日というのは
ダメだという主張なわけだよ。どうだい? いかに君が恣意的選択の
論理で、卑怯小ズルい考えに固まってるか自明だろう?w
>>717
外国の暦法に関する学者は君の言うアホではないぜ。君のお脳の点検
でもしたほうがいい。
>>718 >>719
呼び方の批判もいいが、そういうのにこだわりすぎるのが君の頭だ。
古代において中国というのはないなどと、それはそうだが、便宜上
2ちゃんの者がそういう言い方をしてるだけのこと。君だって本名
は美濃もん太氏ではなかろうが? それを強調するなら、君も本名で
書きこまねば自語相違だぞ。
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 07:17:30
>>720
これも君の恣意的主張であって、言い方がよくないから歳数がもっと
増大するなどと、笑わせるなよ。ならば聞くが君はTVの美濃もん太氏
になるのか? そうじゃないだろう? こんな論理はやめてくれ。
724美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 07:45:04
>>722
「224日はいい。182日はダメ」
なんて言って無いですよ

マヤもエジプトも太陽暦の1年365日を使ってたって事を言いたかったんですよ
マヤもエジプトも1年は365日ですよ
725美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 08:21:38
>>723
「2倍暦」なんて言い方は良くないですよ

良くないって言うか、呼び方が間違がってる訳だから直した方が良いですよ

2倍の暦(1年730日)なんて使って無いわけですから
726サガミハラハラ :2008/08/15(金) 08:54:44
私、日本書紀の在位年の記録は、神武から垂仁まで4倍年、景行から安康までは2倍年暦
雄略からは普通の暦とみています。間違いありません。
4倍年ですがこのような暦すなわち4倍年暦などというのはありません。
日本書紀の4倍年は古代天皇の在位年をのばすために、2倍年暦を2倍したものです。
4倍年というものが社会で使われていたということはありません。
727日本@名無史さん:2008/08/15(金) 09:12:30
>>726
>神武から垂仁まで4倍年、景行から安康までは2倍年暦雄略からは普通の暦

だったら、神武即位は西暦何年になるの?
728サガミハラハラ :2008/08/15(金) 10:08:15
これはしっかりはっきりパッチリと西暦131年秋年前期とでました。
729美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 10:13:59
>>726
4倍年だと、1年が1460日の暦になりますよ
730サガミハラハラ :2008/08/15(金) 10:26:34
4倍年は暦ではなく2倍年を書紀の編纂時に2倍にしただけです。

4倍年暦があるとすれば、1年は91日でないですか。
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 10:52:23
日本は四季があるから4倍というのは考えにくい。3倍年暦はある。
732太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 11:00:54
>>725
そんなことはスグなれるから、それでいいんだよ。君が今からそん
なことをすれば混乱してしまう。おまけに君は認めてないんだから
なおさらだよ。それでも言うなら、先ず自分のコテハンに本名を
使え。TVの美濃もん太氏と誤解が出る。
733美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 12:54:27
>>730
1年が91日なら1/4年ですよ
734美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 12:58:40
>>732
別に今から言ってる訳じゃなく、初めて聞いた時にも俺、太国さんに言った覚えありますよ
それ言うなら1/2暦じゃないの?って



太国さんは
・今の2倍の暦を使ってた
・今の半分の暦を使ってた

どっちを言いたい訳ですか?
735日本@名無史さん:2008/08/15(金) 15:07:24
>>731
>日本は四季があるから4倍というのは考えにくい。

同様に2倍と言うのも考え難い。

春と秋、夏と冬を同じ月表示にする?w
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 15:13:39
日本はは二季でない。
737太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 15:17:11
>>736
訂正 × はは   ○ は

古神道の大祓いの区切りが6月だから2倍暦はありうる。
738日本@名無史さん:2008/08/15(金) 16:42:34
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/pure/1217761516/l50

いまここで変態馬鹿が一人日本書紀を冒涜しております!(ワラ
ソースを偽り、捏造し、さらには解釈が間違っているのにも関わらず
それを認めず自分の言った事もとっとと撤回する狼野郎です
一度こちらで変態馬鹿を凹ませてください(ワラ
739のんびりひまじん:2008/08/15(金) 17:02:33
このスレ・日本書紀を疑う方向の考察は基本的に面白い。ただし、紀年論はほどほどにしといた方がよろしくありませぬか。
もともと、日本書紀のなかで材料が乏しい箇所についての議論で結局得ることも乏しいだけでしょう。憎まれ口を言いたくないので、

材料を提供します。
201〜300 の百年間に、記事ある年34 VS 記事ない年66・・・この記事のうち60・120年(あるいはそれ以上)ズレ頻発
301〜400  〃     〃   30 VS  〃   70・・・   〃
401〜500  〃     〃   64 VS  〃   36・・・雄略紀(α群)以降記事増加
501〜600  〃     〃   80 VS  〃   20
601〜697の97年間に、 〃   93 VS  〃    4・・・この最後の無記事年は627(推古35)年

たとえ、後世の我々から見て、つまらないような年中行事すら記述がないということは
それ位に、あやしい記事しか並んでいないことを示すと私は考えます。
(天皇の即位・生没年を話題にするにも、ほどほどに。成果とぼしく県下つまらない。)    

ちなみに、年中行事が「続日本紀」なみに毎年出てくるようになるのが、天武紀。
(その天武紀以後でも内容はあやしい)
740美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/15(金) 17:15:53
>>737
だから2倍の暦なんて使わないですよ
741太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 18:17:45
>>740
残念でしたねぇ。以下の表は、君が抗弁否認しても当時の1年は現今
の半年たる2倍暦等が真であることをを物語っているんだよ。

【日本書紀の欠史八代の立太子、即位、崩御、立后の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


上表を見ても、15日以降の右側部分がからきし無いねぇ〜。当時の
1ヶ月が14日間の2週間しかない時代があった文証なのだよ。
それに紀には君の主張する13月〜24月の記述などの月が全く無いと
いうことはだ、君の主張が不合理ということなのだよ。つまり当時
も1月〜12月までしかなかったということになるのさ。
742のんびりひまじん:2008/08/15(金) 18:27:44
>>739
九州王朝論者のはしくれとして補足します。

関西王朝が、九州王朝をかくした歴史書であるところの日本書紀なのですが、
天武紀になって、やっとのこと関西王朝の自前の年中行事(※)が記述されます。

※いちおう下記の事例を挙げます。
(弓)射る:各地の神社の正月ごろ弓射行事(又はやぶさめ)の元祖・・・恒例行事化と見えるのは天武4年正月以後
御薪(みかまぎ:百官が天皇にたきぎを献上する儀式)・・・天武4年正月より
告朔(こうさく:毎月一日、朝臣が天皇にあいさつする)・・・天武6年11月より
龍田風神広瀬水神の祭祀・・・天武4年4月より(のち奈良時代には4・7月の恒例となる)
大解除(おおはらえ:罪けがれを神に祈って水に流してもらう)・・・天武5年8月から本格化
大嘗祭・・・天武2年12月より

上記と比較するなら、それ以前部分の日本書紀記述には、自前の記録すら少ないと見ます。
で、九州王朝の記録から盗用をすっごく多く含んでいるでしょう。

最近、日本書紀末期部分に、記事集団の年代偽装が見つかってきています。
古代史の不明が、もう少し明らかになってきますから、
九州王朝説に注目を続けましょう。
743ヨコから:2008/08/15(金) 20:21:28
>>741

じゃあ祟神以降も百歳以上出てるのに月後半の日付が出てるのは何故?


つじつまが合わないじゃん?w
744太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/15(金) 22:53:57
>>743
つじつまもクソもないよ。崇神世は1ヶ月が30日ばかりでの倍暦の
行使で、12ヶ月中に空白月を設けての3倍暦をやってたんだよ。
八代間とは暦法のやり方が違うのさ。倍暦でも暦法の方法を変えて
の行使なのだ。
神武世も同様、八代間とは倍暦の行使方法が違う。神武世は崇神と
同様に1ヶ月が30日ばかり置いてはいるが、1年が1月〜4月
までしかない3倍暦法なんだよ。神武といっても即位前は通常暦法を
やっていたが、即位〜崩御までは1年4ヶ月で5月〜12月が空白で
無の3倍暦を初に施行していた。しかし崩御直後、即位を待たず、
次代の綏はこれを不便と思って、いったん倍暦を取り止めたが、
3代安寧の代にて再度の倍暦行使に踏み切ったのである。だから上表
はおおまかの意味合いであり、綏世は倍暦はせず通常の暦法なん
だよ。

神武紀を調べてごらん。上表は15日〜30日が0だが、神武即位から
崩御までは5月〜12月がまったくない0だ。当時は5月以降の月が
なかったからだよ。神武崩御直後、5月以後の9月に葬をやって
るが、これは即位を待たずに綏が通常暦に戻したからなのさ。
745日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:52:47
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/pure/1217761516/l50

いまここで変態馬鹿が一人日本書紀を冒涜しております!(ワラ
ソースを偽り、捏造し、さらには解釈が間違っているのにも関わらず
それを認めず自分の言った事もとっとと撤回する狼野郎です
一度こちらで変態馬鹿を凹ませてください(ワラ
746美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/16(土) 15:02:53
>>741
だからそれのどこが暦が倍になってるの?
747日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:05:17
インド皇帝に即位する
748日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:19:41
>>744 犬国 ◆yVAs7uaYlY
>1年が1月〜4月までしかない3倍暦法なんだよ。

つうか神武の橿原宮での即位から崩御までの記事は
70年以上と言う長さに比すれば異常に少ないわけだがw

しかし月の記載が無ければコレ幸い

 (1〜4月)×3回=12ヶ月

と言うトンデモ暦、もうなんでもアリだなw

倍暦ならまだアホに合わせてその年始を「夏至・冬至」「春分・秋分」と想像してやれん事もないが
その年3回の年始って何が基準なんだ?wwww


749太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/16(土) 15:32:26
>>746
これは当時 ↓ のごときカレンダーだったっていうことよ。

日 月 火 水 木 金 土
       1  2 3 4
5 6  7 8 9  10 11
12 13  14


書きこみ ↑  の為ズレるだろうが、当時の1ヶ月は15日〜30日がないんだよ。

あんたの言う13月〜24月っていうのは記紀に記載がない。つまりあんたの恣意的
構想によって造られたものが、この13月〜24月なわけだぜ。
記紀は月は1月〜12月までしかな〜い。ということは

 14日×12ヶ月=168日  と  182日−168日=14日  で、

右式の残り14日が閏月なわけだ。こうして当時の1年が現今の1年で2倍暦を
やってたのが真なんだよ。
750太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/16(土) 15:34:31
なお日本史板の噛み付き負け戌ジョーカーさまが登場したようだ。www
751日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:50:31
アホの 犬国 のお陰で気づいたがw

良く欠史八代の実在性が問題になるネタの一つに
前後の大王、神武や祟神と比べその記述の少なさってのがあるが

神武にしても即位から崩御までの記述は相当に少ない。

山あり谷あり波乱万丈の東征劇を経て

 「めでたく神武は王様に即位しました、めでたし、めでたし・・・」

でストーリーが殆ど終わっちゃっているんだなwww





752太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/16(土) 15:56:05
欠史八代に15日〜30日の記述が0だ。 ところが、即位〜崩御までの部分の
神武紀には5月〜12月の記述が0だ。←これは何を物語っているのか?

知れたことよ、神武即位から崩御までの時代が1月〜4月までの4ヶ月しか
なかったからだ。つまり神武即位〜崩御の時代は、当時の1年が現今の4ヶ月で
終わってたということをを意味する。つまり3倍暦法を行使していたのだ。
だから神武と欠史八代とは、倍暦でも異質なる倍暦を行使していたことになる。
但し次代の八代の筆頭、綏天皇は倍暦の不便を思ってかこれを取り止め、通常
暦法に戻した。しかし3代安寧は再度の倍暦の行使を採り、当分の間の時代、
倍暦が主流になったのである。
753太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/16(土) 15:59:23
負け戌のジョーカーさまは、ただいまこのスレで大暴れであ〜る。どうもお脳に
傷でもあるんと違う〜〜?ww
754太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/16(土) 16:06:47
>>749 訂正
× 当時の1年が現今の1年で
○ 当時の1年が現今の半年で
755日本@名無史さん:2008/08/17(日) 14:30:15
                            
 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はワイ族の子孫である。この2つの民族は最初から別種なのだ。
戦前に唱えられ、現在も一部の無知な日本人や朝鮮人が唱えている『日韓同祖説(日鮮同祖説)』は学問的な
根拠がまったく無い、妄説である。


■倭人とは何か

 シナ揚子江下流地域、浙江、福建、広東、広西、海南、ベトナム、ラオス、台湾、フィリピン、
沖縄諸島、九州、四国、本州、カラ半島南部などに住んでいた、南方アジア系=海洋民族の総称である。
漁業を生業とし、また内陸部の倭人は稲作を中心に農業も行っていた。


■ワイ族とは何か

 古代カラ半島東北部に居住していた北方アジア系=狩猟民族。もともとはシベリアの山岳部や森林地帯に
住んでいたツングース系民族の一派であり、現在の朝鮮民族の直系の先祖。
 ワイ族は、古代の半島南部に住んでいた倭人系民族のシラキ人、ミマナ人、クタラ人などと敵対関係にあり、
倭人系民族と領土紛争を繰り返していた。
 ワイ族は3世紀初頭から、まずシラキを侵略し、シラキ領北部にケリン(鶏林)を建てた。
3世紀後半にはシラキ南部にまで軍事侵攻し、4世紀前半にはカラ半島東南部を完全に乗っ取った。
 ケリンの軍事的圧迫を受けたシラキは、3世紀後半には領土が西方に移動し、国号をミマナに改めた。
その後、ケリンは、国号を『新羅(シンラ)』に変えた。
 新羅(ケリン)は、半島東南部を拠点にして、西側に隣接する日本領=ミマナ(馬韓)に対して
侵略を何度も仕掛け、6世紀前半に、ついにミマナを滅ぼし、新羅に併合した。
 7世紀の『白村江戦争』では日本と百済を相手に戦争し、百済を滅ぼして、半島の南北地域の大部分を
支配下においた。
756唐松山:2008/08/18(月) 21:10:42
書記は、日の干支が太陰暦で19年6940日で書かれています。
この数字を無視して圧縮しても 正しい暦に成らない。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/18(月) 22:51:06
唐松山さんは常に紀の>>741の表の日を無視している常習。またその説明もして
いない。
758唐松山(おそまつ):2008/08/20(水) 19:30:13
太国説によると 書記に書かれた日々の干支は後付… 信頼度低いと言うか信頼できない。
その干支を 日付に直した物も… 信頼できない、と続くハズ
その信頼できない 日付の偏り を分析して編集した 太国倍歴は 信頼度非常に低い。

このように 3段論法で太国説は、破綻します。

私のように書記の干支は当時の暦法で記録された物 と捉えると 日々の干支は数字に直せますから
そこから見直さないといけない。
 
759太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/20(水) 22:29:19
後付けだということは、それの対象があって、それに基いて日数を
定めたということになる。たとえば四季を月数の前につけてる後付け
は、月数という対象から、あぁこの月は夏だとか、この月は冬だとか
の判別ができ、後付けが可能となる。紀はそういうことにて季語が
後付けになっている。
日数の後付けを主張するならばかように対象があるはずであり、たと
えば群書群の干支が分かっていて、それから後付けが可能になったと
いうことになる。後付けで真が損なわれる場合とならない場合とが
あり、日数の場合が損なわれているという論拠がなければ、単なる
恣意的にて信じないという宣言をしたまでのことであり、もう一度
言うが、信じないという論を後付けとかで防壁を作ったまでのこと
で、なんら損なわれるという論拠が書かれてないない。だから
唐松山さんの捻出した即興的の信じない宣言での論拠、説明が不十分
で終わらせる、理由の実が無い文句なわけ。
先に信じないがあって、そこに後付けかどうか具体的論説がなく、
名ばかりで終わる後付けの無説明。だから後付けではないとする考え
も充分生きている。後付けしたいなら、>>741表のように、どうして
数字が左に全部行かせたのかが、甚だ疑問である。
そんならばホツマ文も後付けだとい軽く言われても致し方あるまいが。
760九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/22(金) 13:42:17
■挹婁(ユウロウ)族とは何か

 古代カラ半島東北海岸に居住していた北方アジア系=狩猟民族。もともとはシベリアの山岳部や森林地帯に
住んでいたツングース系民族の一派であり、現在の朝鮮民族の直系の先祖。
 挹婁(ユウロウ)族は、武力が強く、夫餘族、沃沮族、濊族を侵略し強盗を働き嫌わた。
後には、古代の半島南部に住んでいた倭人系民族のシラキ人、ミマナ人、クタラ人などと敵対関係にあり、
倭人系民族と領土紛争を繰り返していた。


濊(ワイ)族は夫餘系言語であったから、朝鮮語とは異なる言語である。
挹婁(ユウロウ)族は、夫餘族に似てはいたが、言語は夫餘と異なる。
761唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/24(日) 13:11:33
元になる 月日が在って それを2〜3倍に伸長すると、
@ 当然季節の合わない 記事ができる、
A 元になった 暦法がある、 太陰暦に直してある、
B 太陰暦は 1年の長さが 353(354)日か384(383)日の2通り

元になった 暦法が 解らない
書記の暦法は 太陰暦
元の暦法が 1年120日等なら 誰も相手にしない暦法 春に種を蒔いて秋に収穫、この繰り返しが1年。
元になった 正しい暦法と日付けを再現しなければ成らないが 再現できない。
3倍ならば 書記の暦日を3で割る、これなら支持できる元にはなるが、季節の異常が出現する。
762太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/24(日) 13:42:29
唐松山さんよ
季節の異常は後付けさ。↓ これなどどう考えるんだい?

日本書紀の 允恭二十四年六月 の条
 「二十四年の【夏六月】御膳の羹汁、凝りて氷となりき。」

これは倍暦研究家が見れば、允恭天皇の御世、倍暦をやってたんだろうとの考え
になりがちだが、これはそうではなく、反正天皇世での倍暦行使を廃止して、
允恭が通常暦法に戻したのだが、朝廷の下級官吏か? 反正世での2倍暦行使を
そのまま副次的に使用していた為、こういう文面があるんだよ。この文の後に
天皇が凍りついたことを奇異に思ったので、季節が合わないが編者らは奇異と
観たことで、紀に挿入しても支障ないと思って紀に書きこんだ文面だよ。

それより、紀の年数が後付けというなら秀真伝の年数も後付けなのかね?
763唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/24(日) 20:33:41
真冬に羮が凍る 当然あり得る、記事には成らない。(夏だから記事になる)
履中元年2月の干支は 書記の干支=西暦の干支
干支を合わせるためには、これ以降伸長、圧縮されることなく使われた。

太国説では この辺はまだ伸長されているので 圧縮が必要と唱えていますが、
それでは この辺の干支の取り扱いを 教えてください。
764太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/24(日) 23:25:30
六月が冬ならば、倍暦での1年たる現今の半年即1月〜6月に於て、
現今の後半年でのこの6月は12月相当になりうるから、倍暦を行使
していたという論はこの辺の時代では否定の抹消できにくいよ。

その等号と圧縮、伸長とは具体的説明がないので、意味不明?
765日本@名無史さん:2008/08/25(月) 11:11:11
横から悪いけど現実に
「御膳の羹汁、凝りて氷となりき。」
ってありうるのかね?

前後の文章や出来事を見た方が幸せになれるかもよ?
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 11:21:31
だからその「夏六月」とは夏は後付けの、倍暦での12月の名残りと思える。
767美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 11:24:08
>>741
1月春 12日(今の暦での2月16日頃)

1月朔 01日(今の暦での2月25日頃)



記紀は明治時代以前まで日本が使ってた24節期での暦(和暦)を使って書かれてるだけだよ


ちゃんと「春」とか「夏」とか「朔」って書かれてるだろ?
記紀に書かれてる「朔」や「春」とかの意味がわかって無いでしょ?
768美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 11:31:38
>>744
記紀でも一ヶ月は約30日あるだろ

例えば
10月 秋18日
10月 朔12日

24節期の和暦で書かれてるんだから合わせて約30日だよ


「朔」ってちゃんと書いてあるだろ?
意味わかって無いの?

それが解らないとなんで桃の節句や端午の節句や土用の丑の日や春分や節分とかの行事があるのか意味も解らないでしょ?


日本の文化や風習の意味をちゃんと理解した方が良いよ


そもそも明治時代以前まで日本が今とは違う和暦を使ってたって事は知ってるの?
記紀は単純にその和暦で書かれてるだけだよ
769美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 11:59:31
>>749
明治時代以前まで使ってた和暦(旧暦)では
1月 春 約15日
1月 朔 約15日

2月 節 約15日
2月 朔 約15日

3月 節 約15日
3月 朔 約15日

って、ちゃんと一ヶ月は30日あるってば

和暦ってのは「春」や「朔」や「夏」ってので節句や節分を表してるんだっての

記紀の暦にもちゃんと「春」や「朔」って書いてあるでしょ?

間違いなく記紀は1年が約365日で、四季(春分夏至秋分冬至)、12ヵ月、24節期の和暦で書かれてるよ

9月秋10日 ってのは9月の節前の10日の事
9月朔10日 ってのは9月の節後の10日の事

少しは日本が本来使ってた和暦ってのを勉強した方が良いですよ

ちなみに和暦では桃の節句は別に3月3日と決まってる訳じゃないし、2月の節分も必ずしも14日じゃないよ

和暦(旧暦)を少しは勉強しましょう
記紀も和暦で書かれてるんだし、日本の文化行事は和暦に添って行って来たんだから
770美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 12:07:43
>>752
>不便に思って通常暦に戻した


言ってて自分でおかしいとおもいませんか?


もし本当に(何を基準にしてるか知らないけど)約182日の周期を1年としてた暦を使ってたのなら、いきなりどこかで暦をちょうど2倍に伸ばした事になる


「今の1年の日にち(約182日)を2倍にして、1年を365日って事にするかなー」


↑こんな決め方で1年が約365日と決まったって思ってるんですか?

今使ってるローマ暦も、江戸時代まで日本が使ってた和暦も1年や約365日

なにを基準に1年を365日としてたのか解りますか?

それ以前に約182日を1年としてたのを倍の長さに変えて365日とした訳じゃないですよ?
771美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 12:13:38
>>741
日付を書き出す時には記紀に書かれてる通りにちゃんと「秋」や「節」や「朔」って言う節句も書いて下さい


記紀は和暦で書かれてるんだから「10月 8日」 だけじゃ和暦(旧暦)の何時の事なのか解りませんよ

10月の秋(節前)の8日なのか
10月の朔(節後)の8日なのか

和暦で書かれてる記紀には、それがちゃんと書かれてますよ
772美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 12:28:30
>>762
その夏は「6月の夏至を含む方の節期」って意味だよ

「朔6月」ってあれば「節後の節期」って意味



春分がその年の何月何日になるかによって、何月何日までが節前になるから変わってくる

源氏物語にもこの辺りの事は書いてあるよ

12月に春分が来れば正月の春の節期は短くなる

正月 春 7日
正月 朔 23日
なんて節期になったりもするんだよ



つか太国さんは一度ちゃんと和暦(旧暦)や24節期を勉強して下さい
少なくとも源氏物語や記紀が書かれた時代から江戸時代まで、ずっと日本が使って来た暦だから、まずはこの和暦を理解した方が良いですよ
たかだか100年まえまで日本人が使ってた暦で、今でも日本の文化や風習や神事や祭りなどは、旧暦を元に行ってたりするんだよ


記紀にしろ源氏物語にしろ、7月朔とか7月節とか、ちゃんと和暦で書かれてるだけだよ


太国さんは和暦や24節季を知らないから「きっと倍暦だ」なんて勝手に想像して言ってるだけなんだから
773美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 12:37:15
>>764
記紀のどこに6月に冬が来たなんて書いてあるんだよ(笑)

夏6月って書いてあるんでしょ?
6月の夏至を含む節期って意味だよ

今の暦で言うと7月頃の事だよ


和暦の6月の夏至がある節期の頃(今の暦だと7月頃)に、御膳の何とか汁が、凝りて氷となったってだけだよ


つかそもそも凝りて氷に、、って意味も良く解らないし

原文は何て書いてあるか知らないけど「6月が冬だったんだ!」なんて解釈するのはアホですよ
774美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 13:00:56
あと太国さんは「倍暦」って言い方をするまえに、もし倍暦なんてのがあったとするなら、ちゃんと
「○○を基準として○○日を1サイクルとして、これを1年としてた」

って、それが何を基準にしたどんな暦なのかを説明すべきだよ

例えばマヤには金星暦は金星の公転周期である240日を1サイクルとした金星暦があった
これなら解るの
(っても当然マヤは同時に地球の公転サイクル365日を1周期とした暦も持ってた)


倍暦倍暦って言ってるのは、「1年を182日としてた」って事でいいんですか?

だとしたらこの182日って数字は何を基準としたサイクルなのかをまず説明して下さい


じゃないと、こんなアホ見たいな暦を使ってた理由が解らないすよ
775美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 13:26:47
>>766
和暦の勉強をして下さい

記紀は和暦で書かれてて、和暦では夏6月ってのは夏至を含む6月の節季って意味だから今の暦に直すと、だいたい7月頃の事ですよ

天皇の崩壊の日付とかもきちんと見て下さいよ
朔6月8日ってあれば、6月の節後の節期の8日って事だから、今の暦で言う7月末〜8月頭頃の事ですよ

だから一ヶ月は節前と節後を合わせてちゃんと約30日ありますよ



つか太国さんはもしゼロから暦を作れって言われて作れますか?

月や地球や太陽や星の動きやサイクルを正確に把握して理解して無ければ和暦のような正確な暦は作れないですよ

要は記紀の時代に既に古代日本人はそれだけの知識を持ってたんですよ
和暦ほど正確な暦を作れる程の知識を持った古代人が、地球や天体の周期と全く関係ないサイクルを1年として使ってた訳無いですよ

太国さんは一度365日と何も関係ない300日や200日や182日や100日を1年として、暦を作って見て下さい
1年を何ヵ月にして一ヶ月を何日にしますか?
それは何を基準に決めますか?
776美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 13:36:41
あと182日を1年とした暦にした場合、6ヶ月×約30の暦になりますよ


月は約30日で新月から満月になり、また新月になり、地球と同じ約365日で太陽を一周します

ちなみに月が新月と満月を繰り返す理由は月の公転円は正確な円では無く、月は12角形〜13角形の公転円で太陽を周るいびつな公転円をしてる為です

その為、月が公転円上で太陽に最もちかずいた時に地球の内側に来る事となるため地球からは月は新月に見え
太陽から最も離れた場所に来た時には地球の外側にいる為、地球からは満月に見えるんですよ


その周期が約30日です
777美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 13:55:35
仮に1年が182日なら月は約30日周期で6回新月を迎えるから6ヵ月×30日になりますよ


1年182日にしたばあい、12ヵ月×約15日の暦にはならないですよ
もし一ヶ月を約15日としてたと言いたいなら、その一ヶ月15日の周期は何を基準にした周期ですか?

1日を新月とした場合、15日じゃまだ次の新月を迎えませんよ?

一ヶ月を15日としてたのなら、この一ヶ月は月の周期を示す太陰暦とは全く関係ない暦になっちゃいますね

1年が182日なら、一ヶ月の単位も何の暦(周期)を15日として、何の暦(周期)を12ヵ月としてたんですか?



つか、倍暦とか言う奴は暦になってませんよ?
太陽暦や太陰暦も全く関係無い暦(周期)です
倍暦ってのは何の暦(周期)を表して、何を基準に決めた暦ですか?



そもそも太陰暦を表してない暦を使ってたのなら「月」なんて単位は要りませんよ

「子乙年、123日」
って書けば言い訳ですから
778美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 14:02:33
あと太国さんは
「日本の偉い学者が古代の中国の書物に倍暦を使ってた事が書いてあるのを発見したから倍暦があった事は間違いなく事実だ」
みたいな事を言ってたけど


その学者さんは何を根拠に「古代では倍暦が存在した事が証明出来る」って言ってるんですか?


「我々の暦は1年は182日で一ヶ月は15日で、、」
て書かれた書物でも有ったんですか?
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 14:37:50
だからそんなたいそうな大口を叩くなら、どうして仁徳以前の天皇の殆どが
百数十歳の寿命なんだよ? 君の言い分ではこれら天皇の超長寿を遠回しに容認
したことになる。w だからお前さんの言い分では全く解決にはならないねぇ。w
こういうことの合理的説明をだ、1年が1年だとかの理屈で矛盾なしに説明して
くれよ。それが今までただの1度も君は言わないじゃないか。だからいくら
そんな大口をだらだらとしつこく言ってもだ、そこに君の大きい不合理が丸見え
のまま。そんなに生きるわけがないだろうが? 現人神だからそんなに超長寿
ができるのか?w 明治以後の天皇を見ても、そんなに長生きはしてないぞ。後
は、唐松山氏とサガミハラハラ氏の水増し、拡張しかあるまいが。もしくは
最悪的言い分だと、紀はデタラメの年月日だという論理きかないはずだ。
水増し、水虫、拡張じゃぁ、どんなんでも都合がつく。恣意的論と言わざるを
得ない。

1年が1年365日では、百数十歳を追認してるわけだから、君の言い分は片手落ち
の不成立当選ということになるのだよ。www
780太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 14:39:58
訂正
× 論理きかないはずだ   ○ 論理しかないはずだ
781美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 14:40:47
あと文明や技術も全て大陸からもたらされた見たいな言い方もいい加減にして欲しいすよ

文明ってのはどこかの地域から世界中に広がった訳じゃなく、約2000年〜2500年ぐらいまえに、世界各地でそれぞれの地域で一斉に文明が始まってる

もしその時代に文明を持ってないサル見たいな人種がいたとしたら文明を持った人種にとっくに滅ぼされてるはずだよ
文明を持ったもの同士で文明の滅ぼし合いすらやって来てる訳だから
(それでマヤもアステカもエジプトも古代イスラエルもインディアオも滅んだ)
俺ら日本人の先祖の古代日本人が文明を持たない人種だったのなら文明を持った渡来人に滅ぼされてて、それは俺ら日本人の先祖じゃないはずだし

あと俺ら日本人のルーツをわざわざ大陸とする必要はないよ
文明を持った人種が渡来してきて古代日本文明を築いたと言うのなら、文明人ならその事をちゃんと歴史書に書くはずだから
782美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 14:53:23
>>779
天皇の寿命って原文にはなんて書いてあるの?

そもそも記紀で始めに出てくる天皇は仲哀天皇でしょ?

例えば「神武天皇」ってあっても、元号が神武の時の天皇って意味の場合もあるんだよ

そもそも記紀って別に神武が日本を治めて初代天皇になった、、、って話を書いてる訳じゃないぞ?

イワレビコ以前から日本は日本だし、アマテラスやスサノオも日本の話だよ
アマテラスは中つ国を治めたりスサノオは天つ高原を治めてたりだよ

イワレビコがナガツネヒコを倒す前は、ナガツネヒコが治めてた訳だし
この時代も日本の歴史だよ
イワレビコ以前から日本は日本だよ

神武を日本の始まりと解釈するからおかしいんだよ
ソレイゼンの話も日本の歴史で、天皇氏族以外の氏族が治めてた時期もあるよ
例えば蘇我氏の飛鳥朝廷は蘇我氏が日本を治めてたんでしょ?

記紀を読むと国を治めるのは大国主から国譲りを受けた氏族だってルールはある気はするけどさ
血統社会だったってのも解るよ
783美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 15:02:45
>>779
例えば神武天皇。 記紀に「神武天皇は○○才で死んだ」って書いてあるの?
だとしたらおかしいよ

記紀では「イワレビコ」って人は登場するけど「神武天皇」って人物の事は書いてないでしょ?
だいたいイワレビコの寿命なんて記紀に書いてないぞ?
あと天皇って称号は「日本を統治する者」って意味じゃないよ
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 15:09:16
記紀に出てくる最初の天皇は仲哀天皇じゃ〜ないんだよ。神武天皇
だよ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

世界中が1年が全部365日の暦法を使ってたんじゃ〜ないんだよ。
マヤの金星暦は365日ではないだろう。さらにだ、古代ローマ暦での
B.C.46年は1年が445日もあったんだよ。その年は365日以上の日数
があったのだ。だから君の言うことは残念だろうがデタラメという
ことなんだよ。この年を乱年と言うんだそうだ。かように君の頑迷
固陋なる世界の全暦法が1年が365日が絶対だというのは完全な
間違いなわけさ。w

紀には例えば「夏六月三日」と書かれているも、「夏六節気三日」
とは書かれてないんだよ。w つまり君の言い分は恣意的創作なわけ。
785美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 15:12:51
「天皇」って称号は要は天つ神の血統氏族である証明の神器を持つ血統氏族に与えられる称号な訳で、祭祀を行う司祭としてその血統を受け継いでるだけな訳だから

ちなみに吉備の出雲大社の宮司も同じ
祭祀をとりおこなう司祭として血統を継いでるよ
で、天皇は要は物部氏な訳でしょ?

国譲りを受けた諏訪のスサノオの血統氏族


神器はその氏族の証の意味だよ
786太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 15:16:03
これから外出だから書いておきな。帰ってから話を聞く。
787美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 15:22:10
>>784
「神武天皇」なんて人物が出てくるの?
だとしたらよけいにイワレビコは神武天皇じゃないよ

イワレビコの話と神武天皇の話が別々にあるなら、イワレビコと神武天皇は別の人間だよ
「神武天皇の寿命」とか言うけど、イワレビコの寿命が書いてあるのか、神武天皇の寿命が書いてあるのかどっちなの?

つか単に「神武」って元号の名前じゃないの?
神武70年ってあれば神武って元号の70年目って意味だよ



明治時代以降になって元号+天皇って呼びかたになっただけで、明治以前は天皇は名前で呼ばれてるよ
例えば昭和天皇もヒロヒト天皇だよ
788美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 15:32:31
>>784
太陽暦は365日の暦
太陰暦も365日の暦

マヤは金星暦も知ってたし太陽暦も太陰暦も知ってたし使ってた文明だよ


古代日本は1年が365日の太陽暦も、1年が365日で約30日ごとに12〜13回の新月を迎える太陰暦も使わずに

1年が182日って言う暦(周期)を使ってたって言いたいんでしょ?

もしそうならこの182日って暦(周期)は何の暦なんですか?


古代ローマで445日の暦があったとして、それは何の暦(周期)なの?
つか何を根拠に言ってるの?


地球と月の1年(公転周期)は365日だよ
金星の暦は240日で1年
木星は約12年が1年


182日ってのなんの暦なの?
789美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 15:42:38
>>784
つか、全地球上のどの地域でも地球の暦(公転周期)は365日で1年だよ

知らないの?
790太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 18:27:29
これからメシだ。あとでな。w
だいたい南極などは日が沈まぬ状態で長く〜〜それが継続するというではないか。
南極はあれか〜? 日数を数えるのに日が沈むまで長らく待つのか?ww

どの地域でやってると言っても、いまのマヤでも1年260日のツォルキン暦を
原住民の一部はやってるよ。デタラメはこれくらいにしな。
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 20:05:55
記紀にある最初の天皇は神武天皇なんだよ。知らないの?
792美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 23:29:22
>>790
ツォルキン暦(金星暦)ってのは明けの明星が地球暦で何月何日か解る暦の事で、日本でも使ってるってば

他に大安や仏滅などをしめす仏暦や、黒金星だなんだ伊勢暦や出雲暦や沢山の暦があるよ
だからと言って1年が300日になったり150日にはならないよ


で、182日の暦(周期)ってのは何を基準とした暦(サイクル)なんすか?
793美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 23:37:44
>>790
南極でも北極でも日本でも、地球上では1日の長さは24時間だよ

これは地球の自転の周期が24時間だからだよ


日本でも夏と冬では夜が明ける時間や日が沈む時間は違う
けど
「12月は日が沈むのが早いから1日の長さを20時間にしよう」
なんてならないよ

1日って単位の暦(周期)は、何を基準に24時間(12刻)としてるのか解ってますか?


もし地球の自転速度が早くなり自転周期が15時間になったとしたら1日は何時間の暦になるか解りますか?

もし地球の公転周期が早くなり、200日で太陽を一周するようになったとしたら1年の暦(周期)は何日とするか解りますか?
794太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/25(月) 23:44:00
夜もふけてきた。五輪の特番を見てたので書きこみはあまりしなかっ
たが、また明日以降にな。〜が、少しは書こう。

ツォルキン暦は1年が260日の暦法なんだよ。ツォルキン暦の解説書
のどこに、この暦法が1年365日とあるんだ? 1年が365日のマヤの
暦法はハアブ暦のほうだよ。知らないのか? もう君のデタラメとは
付き合っていられないな。記紀の初代天皇が神武天皇ではないなどと
もう君は精神病院で脳内検査をしてもらったほうがいいぜ。w
記紀の明文を間違えるんだから、ちょっと脳内に障害があるかも
知れんぞ?w 明日でも至急診てもらえ。
795美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/25(月) 23:53:37
朝になって夜が開けたら1日の始まりじゃないんですよ


回転してる地球の上で今いる地域が丁度太陽の裏側に来た時が「午前零時」で1日の始まりとしてるんですよ
古代人はそういう天文学的な知識があるからこそ、1日を24時間と定め1日の始まりをちょうど今いる場所が太陽の裏側に来た場所を1日のスタートとした暦を作れるんですよ


暦を作った古代人が1年を約365日としたのも、でたらめに365日と決めた訳じゃ無いんですよ


一ヶ月を約30日としたのもでたらめに約30日とした訳じゃ無いんですよ
和暦で閏月や閏年があるのもきちんと月や地球の暦(1年約365日周期)に合わせる為ですよ
796美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 00:15:38
>>794
ツォルキン暦は金星の暦(周期)を表した金星暦だよ
この金星暦を理解してないと、いつ金星が明けの明星となり宵の明星となるのかが解らないからだよ

古代タントリズムは金星(明けの明星)を信仰してたから、金星暦があるのは当たり前だよ
マヤだけじゃなく日本も使ってたよ

日本では密教や陰陽道上で金星暦は重要な暦だよ

九星って言う神道上の暦とか知らないんですか?
「七赤 金星」「六黒 木星」とかいうやつ

金星の暦以外に太陽系九星の暦を示した暦だよ
マヤだけが金星の暦(周期)を知ってて使ってた訳じゃなく、日本にも古代から金星暦も木星暦も解るようにした九星の暦とかありますし使って来てますよ
日本も古代から金星の暦や木星の暦を使って来てますよ
だからと言って1年(地球の公転周期)が200日になったり500日になったりしないですよ


あと古代には金星信仰の他にシリウス星信仰もある
彼らはシリウス星の衛星の暦(周期)も把握して使ってましたよ



つか盛んにマヤ暦やら金星暦を言ってるけど、金星暦ってのは単に金星の公転周期(約240日)を表すだけの暦じゃないすよ
金星の動きを理解した上で、地球上から見たときに、金星がいつ明けの明星となるのかを解るように作ってる訳だから

相当な天文学的な知識がなければ 七赤 金星 とか言う暦は作れないですよ
797美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 00:34:03
「金星は約265日で太陽を一周してる。よーし1年を265日としよう」
って、古代のマヤ人や日本人はこんなバカじゃないすよ

地球は約24時間で自転して、約365日で公転する
だから地球の1日を24時間とし、年(公転周期)を365日としてるんですよ

んで月は約30日周期で公転の軌道を変えるから(だから月の太陽に対する公転円は正確な円では無く12〜13角型になる)、一ヶ月を約30日としてるんですよ




ちなみに近代人は「月は地球の周りを回ってる」って思ってるかも知れないけどこれは間違いだよ
月は太陽の周りを地球と同じ約365日かけて回ってる星であって、地球の周りをグルグル回ってる訳じゃないですよ

月が太陽に対してどういう動きをしてて、その時に地球と太陽と月の位置がどうなって、地球から月はどうみえるのか

これを理解してないと「月」の暦は作れないですよ
月が地球の周りを回ってるって思ってる人には、いつを新月とするのかとかが解らないから「月」っていう暦は作れないよ
798美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 00:59:32
日本が古代から使ってた九星とかの 「七赤 金星」とか言う暦は、肉眼では見えない冥王星の暦(周期)まで知ってる天文学的知識がある人が作った暦だよ
五曜だかを表す暦で陰陽道や密教徒らにとっては特に重要な暦


太国さんは、まるで古代人が1年365日の暦(周期)ってのも知らないバカだった見たいな言い方してるけど、古代人は近代の天文学者なんかよりもよっぽど天文学的な正確な知識を持ってますよ
じゃなきゃ古代マヤにしろ古代日本にしろ、こんなに正確な暦(和暦は今使ってるキリスト暦よりも正確な暦)は作れないですから

地球の暦(約365日周期)を知らないアホが金星や月や九星の周期を理解出来る訳無いですよ


暦を作った古代人が1年を約365日として閏月や閏年まで使ってたのは、地球の公転周期が約365日だったから365日で1年(1周期)と定めただけですよ


もし地球の公転周期が200日だったなら古代人は1年を200日としてますよ

あと仮にもし月が無かったら「○月」なんて暦は使って無いですよ
一ヶ月が約30日なのも月が太陽に対してどういう動きをしてるかを表した暦(周期)なだけですから

もし月が太陽の周りを約30日周期で軌道を変え、12〜13角形の公転円で回る星では無く
正確な円で公転してる星だとしたら「新月」や「満月」なんてのも無い訳ですから


それと月は地球の周りは回って無いですよ
一ヶ月が約30日なのも月は太陽の周りを公転してるって言う正しい月の動きを理解してる知識が無いと、月の暦なんて作れないですから
799美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 01:06:52
>>794
あと太国さんは「古代マヤの人は地球の公転周期(1年)を265日としてた」とか
「古代エジプトでは地球の公転周期(1年)を565日としてた」

とか言ってますけど、古代のマヤやエジプトが地球の公転の周期(1年)を265日とか656日とかとしてたって言う根拠は何ですか?


古代マヤ人は金星の公転周期が265日だから、1年(地球の公転周期)も金星と同じ265日だと思ってたバカなんですか?

800美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 01:38:59
あと古代日本が倍暦(1年が今の半分の暦)を使ってたって事は、古代日本人は地球の暦(公転周期)を182日だと勘違いしてたって事ですか?

地球の周期(1年)が182日だと思ってたほどバカじゃないでしょ?
そもそも何をどう考えたら地球の周期(1年)が182日なんて数字が出て来るんですか?


1年を182日
1年を265日
1年を100日
1年を565日
地球の周期(1年)をこういう日数に定めて使って見て下さい

いつ頃暑くなりいつ頃寒くなりとか言う季節の変わり目も全く解らなくなるし、何月頃に耕し、何月頃に実るのかも全く解らなくなりますよ
まず地球の周期(1年)をそんな日数にしたら四季って観念が全く無くなる
あと一ヶ月を15日としたら月の周期の観念も無くなるよ
月の暦を示す「一ヶ月」なんて暦は意味が無くなるから「月」なんて暦を使わないよ

1年365日であれば新月が12回(閏年は13回)くるから12ヶ月って暦を使えるけど、1年を100日や182日や265日としてたら月の周期は12ヶ月じゃなくなるから12ヶ月なんて暦にならないですよ
こんな暦を使うバカいないですよ


分かりやすく言えば1日を12時間や10時間として生活するのと同じですから
1日を10時間として生活すると朝昼晩の周期の
801美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 02:27:05
地球は1年を365日とした暦(周期)で動いてる星
正確な周期が解らずに、1年を360日や380日としてた。
ってのならまだ解る
ただ正確な周期が解らなかったとしても1年365日の周期の地球の暦を、182日や150日周期だと勘違いするバカは流石に居ないよ

古代マヤもエジプトも1年(地球の周期)が365日だって事ぐらい知ってたよ
802太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 07:54:30
>>796
君は天体の金星と九星の金星をゴチャマゼにしていて滑稽だ。w
九星の金星は神道じゃぁないんだよ。
それに世界中に1年が365日でない暦法が多数あるのに、ゴリ押しで
否定しても、暦法の学者からの覆らない明確な定論であり、君の
主張は全然通らないわけさ。勿論明確でない古代の暦法の部分も、
これまたあるわけだが、マヤの1年が260日暦法という1年が365日
でない典型の暦法から、他もゾロゾロあるわけで、古代ローマ暦は
紀元前46年は1年が445日であり、365日ではないもので、これなど
現今のグレゴリオ暦の前身であ〜る。その他1年が365日でない暦は
まだまだあるわけで、マヤも他に1年365日にこだわらないマヤの
長期暦、819暦法とがこれでもかというほど1年が365日に無関係な
暦法がいくらでもあ〜る。マヤ長期暦はキン、ウィナル、カトゥン、
バクトゥンという代表四つの単位からある年(紀元前3113年)を基と
しての暦を編んでいて、これまた君の言う1年365日にこだわっては
いない。つまり君の主張は全然ウソのデタラメなのである。
それでもそうだと言うなら、今日あたり精神病院でオツムの点検を
してもらわないと、今後君は支離滅裂な論理が増幅する懸念があり、
君のお脳は危険状態に陥る模様となろう。だいたい君の主張らしい
仁徳以前の天皇が百数十歳も生存していたという考えも、ついでに
精神科医にそれを話して、お脳の診察を受けねばならんぞ。ww
803美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 08:27:33
>>802
仁徳以前の天皇が長寿なんて言ってないよ

そもそもイワレビコの話は蘇我氏を倒した大化の改新や王壬の乱の事を書いてある話だからイワレビコは西暦600年ぐらいの人

これを紀元前2400前の話とするから、天皇の寿命を無理やり伸ばして解釈して2400年の辻褄を会わせてるだけだよ
ちなみに期記に書かれてる辛酉に橿原宮で即位した天皇ってのは神武天皇の事じゃなく天武天皇の事だよ

天武天皇は記期に書かれてるように辛酉年(西暦660年)に宮を橿原宮に遷都しそこで即位してるよ

ちなみにニギハヤヒは諏訪大明神の事で、倒されたナガツネヒコってのは蘇我氏らの事だよ
804美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 08:31:51
>>802
地上での1年(地球の公転周期)は何日なのか解りますか?

1日って暦(周期)は、地球の自転周期を表してる暦
この周期が約24時間だから1日は24時間だね


1年って暦は何を表してる暦なのか解りますか?
805日本@名無史さん:2008/08/26(火) 08:34:06
記紀時代に干支六角柱みたいな遺物は出てないの?
806美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 08:36:46
>>802
明治6年(だったかな?)は、日本は1年が330日ぐらいしか無かったよ

これは暦を和暦から今使ってる新暦に変えた年で新暦は和暦の12月頭頃を1月1日としてたからだよ

日本も明治6年は暦の上では330日ぐらいで1年が終わった事としたよ
その年だけはね

807美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 08:47:50
太国さんは「年(year)」って暦が何を表してる暦なのか理解して無いんすか?

「日(day)」ってのは何を表す暦か解りますか?

「日」って暦が何を表す暦なのか解れば1日は何時間で1日なのかは解りますよね?
1日=24時間
1日=1440分
1日=12刻
ですよ。


「1年(1year)」って暦はだいたい何日ぐらいで1年(地球の周期)なのか解りますか?

808美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 09:05:36
>>802
マヤは地球の1年(周期)を約260日としてた訳じゃなく、金星の1年(周期)が約260日だって事を知ってて暦にしてたってだけだよ


地球の周期が365日
金星の周期が260日

だから明けの明星が見られるのは○月○日だ
ってのを把握してたって事すよ

これがマヤ暦であって1年を260日としてた訳じゃないですよ



あと例えば「○年○月○日」って書くのは、月と地球の周期を表した暦

だから太陽(日)大陰(月)暦ってよばれる


例えば太陽暦だけなら「今は平成20年の260日」とか言う暦になる
これに月の暦を合わして「○年○月○日」って表してるから太陽大陰暦って呼ぶよ


これに金星暦を加えれば「○年○金星○月○星」って書き方になるよ
ただマヤはこういう書き方はしてないと思うよ
金星暦ってのは「次の明けの明星は○○日後だ」ってのを把握してたって暦だから
809美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 09:19:47
「年(year)」ってのは地球の周期を表す意味の文字だって事は解りますか?
「月(month)」ってのは月の周期を表す意味の文字


だから1年(地球の周期)は365日ですよ

マヤの265日の暦は金星の周期を示す暦なだけだから、1Venus(金星の周期)が265日ってだけですよ


他にも365日以外の周期はそら沢山ありますよ
新月=約30日
24節期=約15日
金星=約260日
木星=約3180日
金星の自転=約243日
ハレー彗星=約70年

そらいくらでも365日以外の暦なんてありますよ


で、地球の周期(1年)は何日周期か解りますか?
810美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 09:24:53
別に182日を1周期とした暦や、590日を1周期とした暦があってもいいんすよ
一ヶ月だって365日じゃなく30日を周期とした暦な訳だから


ただ182日を1周期とした暦を使ってたなら、これは何を表した暦なんですか? って事を聞いてるんですよ
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 09:28:00
君は1年が絶対365日だというゴリ押しをしていて、今度は1年が330日だとか
抜かしている。笑わせるな。君は自語相違なんだよ。wwwwwwwww
そういうデタラメをダラダラ言うなら、今日精神病院で診てもらったほうがいい。
812日本@名無史さん:2008/08/26(火) 09:36:50

古事記編纂時、漢風諡号は未定なので
神武天皇という記述は古事記内には見られない。

一百三十七歳没
813日本@名無史さん:2008/08/26(火) 09:47:14
神武などの漢風諡号は8世紀後半に山部親王の指示で淡海三船が作ったもの
814太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 09:50:35
>812
そういうことでなく、神武が記紀での初代天皇だと言ってるわけ。いちいち
カムヤマトイワレヒコノミコトだとか言わずに、言ってもいいが、こっちの
ほうが議論上便利だろう。それを言ってるわけ。
815美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 09:54:35
あと暦の成り立ちの話と天皇の長寿の話は全く関係無いですよ

太国さんの言う倍暦なんて暦にした所で天皇の寿命の辻褄は合わないすよ


倍暦で辻褄合わない部分は
「倍暦でも辻褄が合わない期間は、じゃあ3倍暦を当てはめれば辻褄はあうだろ!」
ですか?

こうやって記期に勝手にデタラメな解釈を加えちゃうから、期記の内容とかの辻褄が合わなくなっちゃうんですよ


例えば記期のイワレビコの東遷の話に書いてあるのは
「そして天皇は辛酉年に橿原に宮を遷都し治めた」
見たいな事ですよ


@この天皇が神武天皇だとは書いてない
A紀元前400年前の辛酉年とは書いてない
Bこの天皇の寿命が何歳かなんて書いてない
Cこの時の天皇が初代天皇でこれが日本の歴代の始まりだなんて書いてない


2400年前とかこれが日本の始まりで天皇の始まりだとかってのは、明治維新後に明治政府が勝手に解釈しただけだよ


辛酉の年に宮を橿原に遷都した歴代の天皇ってのを飛鳥時代以降で探してみ?
ちゃんと実在するからさ
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 10:05:26
美濃君よ
そろそろ精神科で診てもらえ。天武が神武だとか記紀の初代天皇が神武でない
とか、天体の金星が九星の金星だとかで神道だとか、噴出してしまう。www
こういう発言を支離滅裂の状態だということになってくる。もう議論だとか
いう話ではない。こういうお脳がおかしい?という発言がなくなって正常な
状態の発言に戻ってくれば論議はできるが・・・、支離滅裂では相手もできない
し、相手をするのは精神科のお医者さんだな。
817美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 10:11:28
>>811
地球の周期(1年)は365日ですよ

ただ明治6年は明治政府が和暦を廃止して、イギリスが使ってた新暦を使う暦の改正があったんだよ
イギリスでは和暦(旧暦)の12月2日頃を1年の始まりの1月1日としてたから、それに合わせる暦の改正をしたから、まるまる一ヶ月ぐらい暦がずれちゃったんだよ

この時の混乱の様子は暦のなんたらって言われてるよ


例えば七夕ってのは和暦の7月7日は月が一番暗い日で天の川が一番良く見える日だったから和暦の7月7日が七夕だった

だから七夕ってのは今の暦でいう8月7日頃が本当の七夕なんだよ

田舎の方ではまだちゃんと七夕は8月7日にやってたりするよ
桃の節句や端午の節句も、今の暦の3月3日や5月5日じゃないよ

818美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 10:25:25
>>816
いや記期の原本の何処にもそんな事は書いてないですよ

イワレビコの所だけでもちゃんと読んで見れば解りますよ

だからそういう場合は記期の内容が違うんじゃなく「解釈」が間違ってるんですよ

だいたい古事記の何処にも神武天皇の名前も神武天皇の寿命が何歳とかも書いてないですよ

まずなにを記期のどこ漢文を根拠に神武の寿命を数百才と解釈してるんですか?


なにを根拠に天皇の寿命を数百才とかって解釈してるのか良く解らないけど、それは記期じゃなく、期記を読んだ近代の学者の解釈が間違ってるんだと思いますよ

そもそも前から言ってるように、俺が普通に読む限りイワレビコの話は西暦600年頃の中のオオエノ皇子や蘇我氏らの大化の改新の時代の話すもん

蘇我氏を倒して天武天皇は橿原に宮を遷都してるじゃん

天武天皇調べたら記期に書いてある通りに、ちゃんと辛酉年(西暦660年)に遷都して治めてたよ
819美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 10:34:56
>>813
「神武」とかってのは「神武期」って後から付けた時代の名前のような気がするな

俺らも勝手に過去の時代に飛鳥時代とか奈良時代って名前付けて呼んでるしさ
神々が武闘した時代の話を神武記って書いてるだけかも知れないし

岐阜の垂井神社だかどっかは確か「建設は神武代に建てられ」って、神武って名前は天皇じゃなく時代の名前として使われてたし


神武天皇の祀られてる宮崎神宮や橿原神宮や神武陵を調べたら、それら全部、明治以降に、天皇の九州発祥説で記期を解釈した長州政府が作ったり建てたりしたものだったし
820美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 10:44:16
>>814
神武が初代天皇だとか2400年前だとかってのは書いてないですよ

そう解釈されてるだけで、解釈が間違ってるんだと思いますよ



そもそも記期を読む限り、イワレビコが日本を統治した建国者なんて書いてないですよ
あれをよんで日本の歴史の始まりがイワレビコって解釈は無理やり解釈してる気がするよ

イワレビコ以前に書いてある話もあれは日本の歴史だよ
日本の始まりはアマテラスやイザナミとかの時代まで遡れるよ

記期をそのまま読めば日本の歴史の始まりは国常立命すよ


記期を普通に読めば日本の歴史は紀元前600年よりもっと長いすよ
821美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 11:01:50
>>814
東征の話はイワレビコの話として書かれてるんですよ
神武天皇って名前の天皇は出てこないですよ
あと記期の何処にもイワレビコが初代の神武天皇となったとかも書いてないすよ


いくら記期に正しい事が書いてあっても、解釈する側がデタラメな解釈をしてると辻褄が合わない話になって欠史八代だとか、偽書だとか、日本の歴史は嘘だとか言われちゃうんすよ
822太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 11:02:12
だれが数百歳などと言った。君はゴマカスのか? この前もこのことを言って
はいないと話したろうが。百数十歳と数百歳とは全然ちがうぞ。
だから君は支離滅裂なわけさ。記紀の初代天皇は神武なわけ。要するに君の
書きこみはメチャクチャの極。能書きを多数並べても、史離滅裂ではお話に
ならんねぇ〜。
823美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 11:07:31
>>822
そう解釈されてるだけで、実際には記期にはそんな事は書いてないすよ


解釈が間違ってるんじゃ無いですか?
間違った解釈をしてると、せっかくの歴史書も意味が無いですよ
欠史八代や長寿のように歴史の辻褄が合わなくなっちゃいますよ
824美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 11:21:07
太国さんは学者のした解釈をただそのまま信じてるだけ見たいに見えますよ

自分で調べたり考えたりしないんですか?



例えばずっとさっきから聞いてるのは
「182日の暦としてたなら、この182日って周期(暦)は、何を基準に182日としてるんですか?」
って事ですよ

これ太国さんなりに考えて見て下さいよ
どうしたら暦を作る時に182日なんて日数にしたのか意味解らなくないすか?
825太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 11:22:08
まぁよく記紀を読むんだな。特に日本書紀をな。
今日でも精神科へ行って診てもらったほうがいい。だいぶ君の話はいい加減で
史離滅裂の状態にある。取り返しがつかないまで行くと、もはや時が遅い。
826美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 11:28:28
>>825
まあ記期の解釈はとりあえず良いです


倍暦を考えて見て下さい
182日を1周期としてたなら何故182日を1周期としてたのか?
180日じゃダメなんですか?


あと「年」ってのは何を表した暦の単位なのか
これも考えてみて欲しいですよ


827太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 11:35:10
通常の方なら否定論者でも書きこんで回答するがね。君の場合は正常な論議を
やってたときもあったが、今の君はどうやらあた○がおかしいんではないか?
との懸念が強い。それを診てでももらった後、史離滅裂でなさそうな様子ならば
回答するだろう。しかし現段階では、君は自己のお脳と相談するほうが先だろう。
828美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 11:40:37
>>827
いや、マジで太国さんの意見を聞きたいすよ

何を基準として182日なんて日数を1年としてたと思いますか?
829美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 11:47:12
俺は182日なんて数字は1年が365日周期だって事をしって無ければ出てこない数字だと思いますよ

1年が365日だって事を知ってれば、それを基準に半分にすれば182日ってだけの数字だから


太国さんはどう思いますか?
830日本@名無史さん:2008/08/26(火) 12:33:32
×日本の歴史の始まり
○日本の神話の始まり
831太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 12:47:09
君なんか1年は365日絶対とか言っていて、今度は1年が330日などと言い出して、
これなど余の主張を君が否定の上での自認肯定であり、自語相違である上に
史離滅裂な言動であると言える。こういうんでは精神科へ言ってお脳を診てもら
って、治してもらったほうがいい。
論議はそれからだよ。
832美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 13:16:02
>>831
明治6年は和暦を廃止する暦の改正を行った為に、明治6年は本来なら12月3日を、明治7年の1月1日としたから明治6年は数えると330日ぐらいになりますよ

ただ1年を365日とする周期じたいを変えた訳じゃ無いですよ
833美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 13:18:33
で、仮に182日を1年としてたとしたら何を基準に182日を1周期としてたと思いますか?

どっから182日なんて数字が出て来たと思いますか?
834美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 13:23:30
逆でもいいですよ
「1年」って単位は何の周期を表す暦として使ってたと思いますか?


その辺り、倍暦を主張する太国さんは自分でどう考えてるんですか?
ちゃんと教えて欲しいです
835太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 13:53:15
まず先に君の脳内の点検が必要だ。どうして史離滅裂なのか? それを自分で君が
君のお脳と相談しなければ、取り返しがつかないこととなる。大丈夫か〜〜?
836美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 13:59:38
>>835
自分の考えが無いなら無いで別にいいですよ

ただ学者の主張や解釈を鵜呑みにせずに、ちゃんと自分で考えてみて自分の意見を持った方がいいですよ

837太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 14:06:53
もん太氏は
@ 1年は絶対に365日だ
A 1年は明治の時は330日だ

こういう ↑ 史離滅裂なことを平気で言っており、これ位ならまだ
いいとして、これ以上におかしな理屈を言い出せばもう、もん太氏は
人格分裂の症状が出てきたと言わざるをえなくなる。
神武が天武だとか天体の金星が九星の金星で神道だとか、もうおかし
な状況は続くばかりである。
これではまるで
バットマンのツーフェイスの如きであり、いつもいつもコインの表裏
で脳内が動き出す。こういうんではもう取り返しがつかない。
838太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 14:10:04
考えは当然ある。ただ君のお脳と君自身が尻滅裂でないかを相談したほうがいい。
それのが先に違いあるまい。
839美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 14:17:28
>>837
地球の周期(1年)は地球上のどこでも365日ですよ


明治時代も1年365日の暦ですよ
暦の改正があった明治6年だけは、和暦と新暦では1年のスタートの1月1日の時期が一ヶ月ぐらい違った為、暦を改正した明治6年は330日ぐらいで終わってますよ
840美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/08/26(火) 14:19:44
>>837
あと神武天皇が天武天皇なんて言ってないですよ

記期に「天皇は辛酉年に橿原に宮を遷都して治めた」って書かれてる天皇は天武天皇の事だって言ってるんすよ
841太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/26(火) 15:06:34
330日があるんなら、その時は地球上で365日ではなかったことになる。www
しっかりしてくれよ〜〜ん。よ〜く君は君のお脳と相談するんだな。
842唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/29(金) 14:15:11
下記は、太国説です。
1117丁酉  471辛亥  稲荷山鉄剣銘文干支辛亥年と一致【雄略元年】
1191辛亥  533癸丑  安閑即位 繼體崩御
1196丙辰  536丙辰  宣化元年

@ 西暦471年辛亥 西暦干支で記録される。
A 皇紀1191年辛亥 百済において 皇歴で記録される。
おかしい?つまり
@は 日本の暦法による辛亥年、稲荷山鉄剣銘文辛亥年で 
Aは 西暦531年辛亥 天皇が太子等と共に殺されたと百済で記録される。
最低でも この様に読まないと、471年辛亥年には、西暦干支が使われていたのに
533癸丑年 百済で、皇歴を使って記録される、となる以上支持出来ない、

百済武寧王墓誌 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到。西暦523年癸卯年五月丙戌朔=440603
継体25年、皇歴1191年、廿五年春二月,辛丑朔丁未=443438、
継体25年は、西暦531年辛亥でないと 武寧王墓誌の記録された西暦523年癸卯が異常
となる。
安閑天皇元年、西暦534年 三月癸未朔戊子=444560日
朔干支を数字に直してありますから この数字に対し 
太国説で 反論してください。
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/29(金) 20:38:34
おっしゃっている意味がまだわかりにくいですから、回答はしにくく
さらなる具体性待ちです。しかし百済の連中は倍暦なんぞ(一部の者
は知っていたようですが)知らんやつばかりでしょうがねぇ・・・。
断層が出てもおかしくないでしょう。
844日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:38:46
>>841
太陰暦→太陽暦に変わったことを言ったいるのでは?
太陰暦には「閏月」あるし。
「閏月」のある月とない月は1ヶ月程度ズレるぞ。
845日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:51:15
ちょっと調べてきた。
明治5年旧12月3日が1873(明治6)年の1月1日らしい。
846日本@名無史さん:2008/08/29(金) 22:18:49
もうちょっと調べて来た。
当時日本が採用していた天保暦は太陰太陽暦で1月を月齢(29.5日)を基準にして29日の月を6ヶ月、30日の月を6ヶ月としていた。
つまり1年が354日だった訳だ。
…で、公転周期(365.2425日)とズレるので約3年に1回
(実際には19年に7回)「閏月」を入れていたらしい。
つまり天保暦は
「閏月」のない年→354日
「閏月」のある年→383or384日
で成り立っているということらしい。
847太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/30(土) 07:49:24
>おかしい
それは、その西暦っていうやつは倍暦での干支ですから、当然皇紀
とはズレますよ。おまけに百済の連中の殆ど(但し知っている奴も
僅かだが、いたもよう)知らないとなれば、合わないのが当たり前
でしょうがね・・・。

>@は 日本の暦法による辛亥年、稲荷山鉄剣銘文辛亥年で・・・
 533年癸丑年 百済で、皇歴を使って記録される

そのとおり日本の暦法にての辛亥年ですが、倍暦ですから雄略元年
だったということですよ。

>Aは 西暦531年辛亥 天皇が太子等と共に殺されたと百済で記録

殺されたのが本当かどうか知りませんが、暗殺は今のところ安康と
崇峻でしょうから、それは保留としか云えません。


533年癸丑の干支は通常暦では安閑元年(←実年代534年)ですが、
533年癸丑は倍暦では安閑元年ではなく、元年の前年の安閑即位年の
繼體崩御年です。ですから533年とは、後者はそのまま533年でも、
前者の通常暦法の考えでは534年と、事実年代が1年差が出来ていま
すよ。〜以下の設問ははまた後で・・・もう一度読み返しましょう。
848唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/30(土) 11:56:01
もん太君 太国さんに 噛み付く前に 皇歴を正しく理解すること。
神武元年春正月庚辰朔。天皇即帝位=8777日として数える、
皇歴2年 二年春二月甲辰朔 =9161日 
皇歴1199年 宣化天皇 四年春二月,乙酉朔=446362日
朔とは、新月のことであり 29.5306日の倍数である、
そして19年=6940日(6939日)を一つの単位として
組み立てられている。 
書記に書かれた“朔”は、総て上記の式に当てはまる(数個の間違い?を除く)。
とりあえず 上記の日数の正しさを検証したら、
唐松山説=「書記に正月朔と書かれていれば全て正月朔で読める。」に挑戦してください。

太国さん 日付単位でどの様に合わせるか?ですよ。
6世紀の皇歴は、西暦の干支と日付単位まで、同一と私は見ています
1〜2年圧縮された 「太国説」どの様に書記は伸長されたか?
伝承による 誤差程度の日数ですから。
849唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/30(土) 12:22:30
西暦523 年癸卯年=384日、354日、355日、383日、355日、354日、384日
530年=354日、355日、384日、354日、384日、354日、355日、384日、354日
539年=355日、383日、354日
西暦523年(皇歴1183年)からの19年間6940日

この間の朔は全て合います。
この数字をどう?料理するか?又はどう料理したか?
850唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/30(土) 12:42:15
百済武寧王墓誌 癸卯年五月丙戌朔から19年間に28回の朔が
書記に記録されている、朔はもちろん 29.5306日の倍数です。
百済武寧王墓誌は、書記の記録ではないが、数字的には
書記のライン上にある。

851唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/30(土) 14:40:00
継体廿五年春二月、天皇病甚。○丁未、天皇崩于磐余玉穗宮。時年八十二
冬十一月丙申朔庚子、葬于藍野陵。【或本云、天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云廿五年歳次辛亥崩者

西暦531年辛亥=皇歴1191年辛亥、廿五年春二月,辛丑朔丁未(443438日)に天皇崩
皇歴1192,1193年は、書記に記事なし
西暦534年甲寅、皇歴1194年甲寅、安閑天皇元年 三月癸未朔戊子(444560日)です。
西暦533年安閑天皇即位は、どこから?

852太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/31(日) 07:51:41
だいたい倍暦を知らない紀の編者らの日数換算は計算自体は正確
ですが、アテにはならんでしょう? だいたい朔ばかりの羅列に
特殊朔たる月食の記事が佛伝以前全く無いんでは、アテにはなら
ないということがいやでも感じられますね。
倍暦の干支は隠れている干支で、表沙汰ではうっすらはありますが
出てないですね。だからといって倍暦の干支が無いわけではありま
せんよ。

1998年9月、古田先生が武寧王陵へ行き、そこで碑面の字に改刻の跡
を見つけたそうじゃないですか。「癸卯」とあるところ「甲辰」
だったそうですよ。なぜ改刻になってるんでしょうかね? 倍暦が
いささか半島に伝わっていて、干支の狂いが出て書き直しを
したとか、半島の者らが倍暦を知らず、倍暦干支の存在からの干支
のズレが浮き上がっていて、間違いと思い一般の干支を正と思い、
直すつもりで改刻したとか、まぁそのへんでしょう。これのせいで
半島の暦が、やはりこれも、1年ズレてるとか古田先生は申して
いますよ。これにも1年ズレがある。これは重視すべきですよ。

なおもん太氏はいい書きこみをしてくれることも多々ありますもの
の、支離滅裂で自語相違も平気でやる癖があるので、相手にはもう
出来にくいですね。殆ど傍観しておきますよ。ただ正論だなと思う
ときは相手にしますがね。彼はほっといたほうがいいですよ。呆れ
てますから・・・。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/31(日) 10:31:53
>日付単位でどの様に合わせるか?

こんなん ↓ で、どのようにうまく合わせられるんですか? 甚だ
                   それは疑問でしょうがね?

【繼體紀関係の日数統計表】

1日 3 15日 0 29日 0
2日 0 16日 0 30日 0
3日 2 17日 0
4日 2 18日 0
5日 3 19日 0
6日 1 20日 0
7日 2 21日 0
8日 1 22日 0
9日 2 23日 0
10日 1 24日 1←武烈暦当時、繼體即位前楠葉宮へ行く(1/24)
11日 1 25日 0
12日 0 26日 1←百済暦の半島、武寧王の子 淳陀死亡(8/26)
13日 1 27日 0
14日 2 28日 0


上表 ↑ のように、通常暦の武烈世の末期の宮行きと通常暦の半島
の死亡記事以外は全部月前半の14日(2週間)に記事が収まって
います。繼體は過去の懿徳世での2倍暦を再燃させるため、懿徳と
同月日に即位したから、当時1ヶ月がほぼ半月の2週間だったという
ことですよ。24日、26日という通常暦の月日以外は月後半は空白の0
じゃないですか。これで日数の換算が正確にできますかね?

ここで空白月日等とかの特殊な欠落があれば、日数換算など
莫大な新資料の古文献等が見つからない限り、無理な相談ですねぇ。
854唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/31(日) 12:36:05
日々の干支は、1月が29日か30日であると主張しています。
月半ば以降の記事が無くても 関係なし。

太国さんの 日付は、「継体元年春正月,辛酉朔甲子」等の干支を
数字に直した物でしょ それなのに 「日々の干支は、信じられない」と
主張する、そして「日々の干支を信ぜず数字に直せば信用できる」と、
矛盾していますよね。
それとも 日付が数字で書かれた「日本書紀」が有るんですか?
855太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/31(日) 13:37:59
言い回しが不都合だったようですが、その信じるべきその数字がなぜ、
1日〜14日までなるのよ? それを考えろということですよ。数字自体の計算は
正確でしょうがねぇ。あなたの言い分が正解ならば、1日〜30日まで数字が
まんべんなく分布しますよ。w
856太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/31(日) 13:46:39
なぜ欠史八代の天皇全員が全部、月上旬に死ぬんでしょうか? これは記事が
無くとも、関係なしではないですよ。全員が全部自殺とか他殺だったんですか?
そんなことはないでしょう。これは当時1ヶ月が10日しかなかった時代が存在
していたとする考えのほうが合理的だということです。神武の時代も1月〜4月
までしか即位〜崩御までは記事がないですよ。双方から考えられる合理的考察は、
当時のある時代は3倍暦法をやってたということですね。他に考えられるのは
天皇の超長寿の説明に、あなたの得意も水マシでしょう? これならどんな暦法論
でも合っちゃいますよ。
857唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/31(日) 14:36:07
1117丁酉  471辛亥  稲荷山鉄剣銘文干支辛亥年と一致【雄略元年】

太国さんは、西暦471年には、日本に暦法が入っている(当然太陰暦)と認めているんですか?
471辛亥を認める限り その後の干支を日々の干支まで認める必要がある。
そうすれば
清寧天皇元年庚申春正月,戊戌朔壬子(424775日) を
1140庚申  494甲戌  清寧即位  と見ていますが
西暦480年庚申春正月,戊戌朔壬子 との整合性をどう取るか?
これは中国の干支ですから、
西暦536年丙辰=宣化天皇元年丙辰二月,壬申朔(445269日)へ 
軟着陸する 数字的裏付けが無い、つまり 全体で19年引き延ばされている
として 記録された各日付(干支)の間を圧縮した数字
ただ1年を半分にすると言っても 1年が355日のときは?となる。
「朔は新月でない」とすれば それを認める 事実を提示出来ていない。
「月半分の記事しかない」では「朔は新月でない」を否定出来ない。
月の半ばに、日食や月食が有ったと言う記事でも 提示していただければ 
太陰暦でない事程度は認めますよ。

現在 欠史八代の話をしていません。
太国さんが 我が国で西暦干支を記録したと認める 年代の暦法です。


表は、月の半ばまでの数字しかないが 干支を積み上げた数字では、
全ての数字が「有る」事になっている 



858唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/08/31(日) 14:52:46
さらに言わせてもらえば、
「年数は、正しく圧縮できたが 中身は記事が少なすぎて再現できない。」
こんな状態では 「(年数は)記事が少なすぎて正しく圧縮出来ない。」
と言うのと 同等。
「各天皇の治世のみ正しい」だけ認めろ 言われてもね〜。



859太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/31(日) 15:46:25
>軟着陸
  ↓ これも参考になるでしょう。

「梁書」巻五十四列伝第四十八
 扶桑国、齋の永元元年、其の国の沙門慧深有り。来りて荊州に至り
 説いて云う。「扶桑は大漢国の東二萬餘里在り、地は中国の東に
 在り・・・・・・・国の王を名づけて乙祁(オケ=顯宗天皇)
 と為し云々・・・・・・・」

倍暦で永元元年は499年ですよ。清寧崩御の翌年なんですよ。

これが倍暦を否定しているあなたの考えで通常暦だけだったら

 永元元年=499年=武烈元年

で、とうに顯宗も仁賢も死んでたことになり、ここの文と合わないで
しょう? この乙祁が顯宗より後即位の仁賢だとしても、武烈元年の
前年498年の崩御で成立しにくいですよ。つまり

 永元元年=499年=顯宗即位元年

の倍暦の計算のほうがしっくり合いますね。ここでも元年になるん
ですよ。
860太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/31(日) 16:26:20
同書にはその後に

「嗣王立ち、三年国事を見ず。」

とあり、仁賢は弟の顯宗に即位を促して自ら即位をはばかって
いたから、3年間国事を見なかったというのは紀の記述と合って
いると観てよいでしょう。
さらに乙祁の「乙」は「甲」が兄を意味するなら弟を意味する字だと
いうことになり、乙祁は仁賢ではなく顯宗だということが特定でき
ますから、通常暦しかないという考えでの

 永元元年=499年=武烈元年

は、顯宗は死んで10年以上経過していて全く合わないということに
なりますんよ。
861日本@名無史さん:2008/09/01(月) 19:45:49
「倍暦」なるものが存在するなら
「夏の12月」というものも存在するのですか?
862太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/01(月) 20:22:35
>>861
そういう場合もありえますよ。>>762の清寧紀の文とか、開化の時代
に11月即位なのに春日宮にいたというのは釣り合わんでしょう。
おまけに開化は大日日命といい、二日の形容でさも暑い名前ですよ。
宮が四季の春字が付き天皇の御名が夏のようで、な〜ぜ11月に即位
したのかおかしいとは思いませんか?
863日本@名無史さん:2008/09/02(火) 08:22:31
理由にならない
864太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/02(火) 14:18:52
>>863
理由にならないという理由が書かれてないよ。そんなんじゃダ〜メ。
理由があるんだよ。仁徳以前の天皇の超長寿が合理的に説明できうる。開化の
時代は2倍暦を行使していた。2倍暦だと11月即位でもおかしくなくなる。
当時の1ヶ月は1日〜14日の2週間しかなかったときがあったのだ。→>>741
865よこやり:2008/09/02(火) 21:18:46
魏志倭人伝に
倭人の寿命が百年或いは八九十年とあり、
その前に
「魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀」
の注釈があえて入っている。
これだけで2倍暦が使われていた十分な証拠になると思うが・・・
866日本@名無史さん:2008/09/03(水) 11:11:53
「倭人は正しい暦を知らず、季節の移り変わりを持って年を測っている」と書いてるんだけど?
867太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 11:52:02
倭人伝のその記述では2倍暦の充分な証拠とは、拙者も倍暦説だが
言い難いと思う。不十分だね。ただ可能性としては提示できてよい
文面だが、参孝だな。しかし>>741表からして2倍暦はあったと
観るべきである。それに仁徳以前の古代日本は九州と畿内は別国と
考えるべきで、畿内が倍暦をやっていても九州もそうだとは言えず、
出雲も吉備あたりも別個に考えたほうがいい。

当時畿内朝廷が2倍、3倍暦を行使していた根源的事由の一は、神武
の兄五瀬命が5/8の5月に戦死したことで、皇祖の守護がない月は
5月だという朝廷の迷信というか、そういう考えがあって、5月の五
と五世命の名の五が合致していたことが決定的事由なのである。
それは高天原の岩戸閉鎖の信仰で、五月蝿なす状態の混乱が日神の
岩屋隠れの原因であったから5月を凶として五瀬命への守護が行き
届かなかったのだという〜彼らの考えからのことなのである。

戦死日の8も凶の考えもあったかも知れぬが、8は命の名と数字が
合わなかったので、小凶としたか軽い困惑くらいでの数字だったよう
で、この時点で5以外の他数よりも注目に値する数字だったことは
確かである。彼らはこのとき、5数を恐れたのである。
868太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 12:13:02
>>867 訂正
× 参孝  ○ 参考  ;  × 五世命  ○ 五瀬命

神武の次代綏は即位直前、神八井耳命の助力のもとで手研耳命を
討つことができ、この功績を讃えて8日に即位した。8数は五瀬命の
命日ではあるも、五瀬命の名の五数とは合致してないので、8数を
凶から吉へと転回できうる数字と、こう考えたのであろう。その次代
安寧は3日、懿徳は4日に即位したが、即位日数を順に並べると
 1.8、3、4  なので、8が2ならば数字が綺麗に並ぶことと
なるが、このため懿徳は2月即位で不順の2を埋めたのである。懿徳
の子孝昭は数字の番が5日に当たることで、5日は5月ではないから
強く忌むまで至らないものの、まぁ即位では回避したほうが無難と
観たようで(5月の大凶ではないから即位以外の孝靈の5日立太子
にてのランクを落としての使用とした。)、5から一桁では遠い極の
9数の日に即位した。これは5日をひとまず回避したことを物語って
いる。安寧は7月即位だが、7数日の即位は未使用のことから、孝安
は7日に即位したものである。
869太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 12:37:42
朝廷は5月のほか6月も嫌っていたようで、紀の記述での6月即位
というのは皆無である。嫌う理由は定かでないが、5月の延長の意味
か? 5,6月並べて6数を嫌っていたようである。だから紀の記述
で佛伝以前では、特段の事由あるような以外この二つの月のは希少
である。孝安の次代孝靈から即位日が二桁数になったのは1から9
までの一桁の気に入った数字を使い果たしたためであり、一桁のとき
とは違い、二桁数では奇数ではない偶数のみ日数に使用している。
孝安までは4以外は奇数を使用して尊重していたようだが、使用済み
の孝靈以後は二桁での偶数使用を日数での尊重か? 選択している。

孝靈 12日  孝元 14日  開化 12日だが、開化は孝靈と同日即位
しているわけで順が綺麗に整う16日に即位はしていない。ここが重要
なのである。なぜ開化は16日即位をすれば数字が整然とするのにこれ
をせずに12日即位をしたのか・・・?
それは当時の1ヶ月が1日〜14日までの2週間までしか無かったから
である。15日以降の日が存在してたならば、開化は16日即位を断行
しただろう。当時カレンダーに16日という日数が無かったから、開化
は虚無の16日から反転して再度12日即位をせざるを得なかったのだ。

そうだとなれば通常の1月即位(1/12)ならば孝靈と同月日になって
ちまうためこれを避け、1月でないやはり二桁の11月即位で間に
合わせたのだ。>>741表を再確認して欲しい。同表から、八代当時
では、1ヶ月が1日〜14日までの、現今のほぼ半月が当時の1ヶ月
だったということなのだ。つまりそのころ2倍暦を行使していた時期
があったのだ。
870日本@名無史さん:2008/09/03(水) 12:44:56
>>864
863ではないが理由にならないだろ。

大日日命が暑い名前だってのも主観でしかないし、
暑いから大日日命って名前だろってのも同様。

妄想乙。
871日本@名無史さん:2008/09/03(水) 12:47:35
二日で夏生まれなら、一日はいつの生まれだよw

それとも名前に日が二つなら必ず夏生まれとか統計でもあんの?
872太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 12:51:46
>>870
妄想だということは、あんたが論がない限り、仁徳以前のの当時の天皇の
百数十歳の寿命を遠回しに肯定したことになる。つまりあんたこそ妄想
なわけ。開化の「開」にも門カマエで日が二個ついている。あんたの
言い分なら11月など即位することはなく春でも即位したほうがいい筈だ。
そうなってない11月なのは、特段の事情の説明が無い限りおかしいんだよ。
873太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 12:53:03
>>871
夏生まれたとはどこに書いてあるんだ?
874太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 13:47:36
>>869 追加訂正
× 孝安までは4以外は奇数を使用して尊重して
○ 孝安までは4,8以外は奇数を使用して尊重して
875日本@名無史さん:2008/09/03(水) 15:49:57
>>872
>妄想だということは、あんたが論がない限り、仁徳以前のの当時の天皇の
>百数十歳の寿命を遠回しに肯定したことになる。
ならねーよ、ぼけ。

>夏生まれたとはどこに書いてあるんだ?
こりゃ失礼、即位だな。

では、改めて。

二日で夏即位なら、一日はいつの即位だよw

それとも名前に日が二つなら必ず夏即位とか統計でもあんの?
876太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/03(水) 17:42:40
お前なかなか態度がデカイなぁ。笑わせるな。wwwwwww
ならば>>741表の数字の左寄りを説明するんだな。できまいがねぇ。wwwww
天皇が百数十歳ゾロゾロいるんだよ。それを合理的に説明できてから大口叩け。
877日本@名無史さん:2008/09/04(木) 09:09:37
で、

 二日で夏即位なら、一日はいつの即位だよw

 それとも名前に日が二つなら必ず夏即位とか統計でもあんの?


提示できないなら、つまりあんたのは妄想でFAwwwww
878日本@名無史さん:2008/09/04(木) 09:14:14
そもそも事実を正確に記録していたと推定する根拠は乏しい
いわば神話を

 合理的に説明

しなけりゃならん理由なんざ、
俺にはこれっぽっちもねーんだよ、デブw
879日本@名無史さん:2008/09/04(木) 10:50:29
>>876
干支尺と合わせて使っていた日尺の長さが14日分しかなかったから
…ではいけませんか?欠史八代紀を読めば分かると思いますが
年齢の前後関係もバラバラで全くヤル気が見られません。
短い文章のなかで何故?「史実に忠実だから?」「いい加減な引き伸ばしの残滓?」

儀鳳暦で年代が記載されている期間は明らかに諡号などを奈良時代に
新規制作されているので日付を含めて当時の記録のなにかしらを
反映しているわけではないと断言できます。
古事記ですら海外との関連深い崇神天皇の崩御年を始めて干支で
記載するくらいですから、それ以前の記録に正確性は認められない。

880太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/04(木) 11:00:50
>>877
お前全然紀を勉強してないな?ww 2日即位なんて垂仁からだ。
初心者だと一見局部的にはそれが妄想に思えるが、そうではない。だからお前が
妄想だと言い出すのはもっともだが、研究が進展すると考えを改めざるを得ない
のだよ。それにボケとかデブとかは論説ではない。論説のできない研究の持ち駒
の無いお前のような奴が恫喝とか悪口とかを持ち駒の代用とするわけだよ。お前
が暦法のキチンとした研究論説を持ってるなら、>>741表の抗弁を論説で少し
でもやって来る。お前は同表の反論=0で、論説でない悪口がお前の指し手。w

紀の神武以降は、神武手前の記述と違って年月日の記載が具体的にあるから、
神話ではない。(少しは神話的の個所はあるが・・・お前は結論が早すぎるん
だよ。
881太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/04(木) 11:02:40
>>879 これから外出なので、あとで回答する。
882日本@名無史さん:2008/09/04(木) 11:25:27
で、

 二日で夏即位なら、一日はいつの即位だよw

 それとも名前に日が二つなら必ず夏即位とか統計でもあんの?


提示できないなら、つまりあんたのは妄想でFAwwwww
883日本@名無史さん:2008/09/04(木) 11:26:58
>紀の神武以降は、神武手前の記述と違って年月日の記載が具体的にあるから、神話ではない。

それ誰先生の定義?聞いた事ないぞw
884日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:09:23
質問でーす。

1)春日って「カスガ」って読んでるけど何で?

2)神代紀・神武紀・崇神紀には和歌が載っているけど間の巻にはなんで無いの?
885日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:11:58
>>862
>開化の時代 に11月即位なのに春日宮にいたというのは釣り合わんでしょう。
春日宮には春しか居てはいけない理由はない。

>おまけに開化は大日日命といい、二日の形容でさも暑い名前ですよ。
論ではなく主観。

結論
理由にならない。
886日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:34:21
綏靖天皇以外は崩御の年齢は開化天皇が注記であるだけで
他は立太子の年を記載する理由はなんだと思う?
887日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:52:43
>2日即位なんて垂仁からだ。

で、具体的に2日即位はすべて夏即位でいいのか?
888日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:56:34
軽く調べたけど二日って他にいるの?
889日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:07:45
偽書wには

 二十二年正月,稚日本根子彦大日日命

という記述もあるな。春でもなんら問題ない。
890日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:12:50
引用するとこ間違えたw

 開化天皇.
  諱-稚日本根子彦大日日尊者,大日本根子彦國牽天皇第二子也.

  元年癸未春二月,皇太子尊,即天皇位
891太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/04(木) 14:38:19
えらく書きこみが多くなったな。今は時間が少なく再度外出するので、後回し
だな。おそらく余に論説の持ち合わせがないので、恫喝と悪口が持ち駒だろうと
言われたのでむくれていたんだろう? 研究の跡の無い奴の反論が大略だな。w
それだけデカく出て言うんなら、仁徳前の百数十歳の各天皇の寿命を合理的に
説明するんだな。どうせ拡張とか水マシしか言えんだろうな?ww

>>879
どのように、どうして14日分しかないわけ? 当時の1ヶ月が14日間しかなかっ
たからだがねぇ。そうでないと思うなら、これを覆せる論述をどうぞ・・・。
ヤル気が見られないというのは貴殿の感情の吐露であり、これで判断しちゃうん
じゃぁ早計だろうな? 引き伸ばし(拡張)をしたと言うなら、その事由を
説明乞う。た〜だ辛酉革命とかでは紀の年代の範囲では革命なんかないし、
説得力はもん太氏らならそうだというがね。w こちらは革命が無い以上否定的
だよ。始皇帝世より古くしたいためなら、前660年で間に合うが、大陸には三皇
五帝とか殷、夏があって、前660年では中途半端で中国より古くはならんから、
これも否定だね。w

紀は短巻的記述と考えては大間違い。編纂当時の大量の原書群から検討を重ね、
しかも年代関係は記を否定してるから相当の自信があったわけで、大量の原書群
の信頼度の高い物の吟味寄せ集めと記の崩年干支の誤の改正をしてるわけで、
こういう多量の原書群からの年代策定であるため、個人的記載物では無く、
背景に多量の原書群という威力があるわけで、貴殿の言う正確性は無いという
考えは権威が無い。多量の原書群の大半というか、そうでなくても信頼度の高い
相当量の原書群の著者の支持が遠回しにあるわけで、紀は1個の書物のようで、
バックは相当量の著者の支持が見えないながらあるから、信用性は揺らがない。
892太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/04(木) 14:44:49
>>891
時間がないので、書き方がおかしかったな。余は論説を落ち合わせて
いる。奴のほうがないようだいう意味。濁点位置が狂ったか。即外出。
893日本@名無史さん:2008/09/04(木) 14:55:43
太国逃亡(w
894太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/04(木) 22:13:21
>>887
すべてかどうか、それはなんとも? です。
その可能性はあるでしょうが・・・? 紀がうなるほど記載事項が
多ければわかるでしょうが、あのくらいでは断定はできないですね。
垂仁世は3倍暦を行使してますよ。
あと2日即位は反正天皇で、この時代は短いが2倍暦をやって
ましたね。開化は2日即位じゃないですよ。
895日本@名無史さん:2008/09/05(金) 16:07:15
>861
>「倍暦」なるものが存在するなら
>「夏の12月」というものも存在するのですか?

>862 名前:太国
>開化は大日日命といい、二日の形容でさも暑い名前ですよ。

>872 名前:太国
>開化の「開」にも門カマエで日が二個ついている。あんたの
>言い分なら11月など即位することはなく春でも即位したほうがいい筈だ。

>875
>二日で夏即位なら、一日はいつの即位だよw
>それとも名前に日が二つなら必ず夏即位とか統計でもあんの?

>887
>で、具体的に2日即位はすべて夏即位でいいのか?


>894 名前:太国
>あと2日即位は反正天皇で、この時代は短いが2倍暦をやって
>ましたね。開化は2日即位じゃないですよ。


誰か翻訳してくれ。
896861:2008/09/05(金) 20:19:30
なるほど。では6月は
「春の6月」(3月の下旬)と
「秋の6月」(9月下旬)になって「夏の6月」というものが存在しなくなりますが
紀記ではどんなものなんでしょう?
897太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/05(金) 21:29:21
>>896
2倍暦法も時代によりやり方が違うようだから、その二季の配分
だけとはいえない。だいたい開化の2倍暦と反正の2倍暦が同一方法
をとっていたかどうかまでは、紀の文の量では判明しない。当時を
記録する多量で詳細の記述ある古文書が現れない限り絶望に近い。
898太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/05(金) 21:55:36
>>896
それに夏6月と言ったって、畿内朝廷は6月を避けるから6月の記事
が著しく紀には少なく、なおさら真相がとりずらい。6月は朝廷の
嫌う凶の月であるらしく、このため紀の各天皇には6月即位は一人と
して見られない。

さらに神功紀の

「魏志に曰く 明帝の景初3年6月、倭の女王 大夫難升米をして
 郡に詣り、天子に詣りて朝献らむことを求めしき。」

からして、朝廷が凶月の6月は物忌みの為、大陸に働きかけることは
ありえない。ただし大陸半島からの朝廷への働きかけは礼を
失するのを避けるため、凶月であっても応じてはいる。

この6月の大陸への神功39年の働きかけ記事は、卑弥呼が畿内の女
ではないことを物語っているのだ。彼女が朝廷の女なら、この月は
忌んでジッとしているはずなのだ。
899日本@名無史さん:2008/09/06(土) 03:18:22
月の下旬も凶日ですね
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 07:20:05
>>899
月前半と後半とで陰陽と為し、吉凶を考えていたのかも知れない。下旬凶日と
いうことはありうるだろう。この場合は紀に下旬の記載は少ないことで、その
可能性が言える。ただし月後半は空白の場合があったこともあるわけで、これ
だと当時の1ヶ月は現今の半月相当だということになる。欠史八代間の天皇は
全て月の上旬の崩御であり、このことは彼ら天皇が自殺とか他殺とかいう人為的
死亡ばかりでない限り統計学的に全部上旬集中は殆どありえないわけで、これは
当時の中旬、下旬が空白の虚無だったことを物語っているのだ。つまり倍暦の
文証となるのである。ただし崇神の世からは倍暦でもやり方を変えており、
1ヶ月が現今と同様の30日まであったが、途中の月あるいは日を欠としての倍暦
の行使をしていた。
901唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/06(土) 12:16:51
太国さん 苦戦中
902唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/06(土) 12:59:03
《延喜式巻四十》造酒司
諸節会料酒
正月元日一斛八斗。七日三石四斗。十六日二斛三斗。十七日一斛四斗。五月五日一斛八斗。相撲節一斛八斗。九月九日一斛六斗。十一月新嘗会四斗。若可過此限。聴辨官処分。

後世に於いても 1年の行事は、季節ごとに決まっていた。
文字の発達していない古代において人を集めるには、先に日にちが決まっていれば、
それに併せて人々は、集散できる (市も同じ)
太国説では これでさえ 連絡を入れないと出来ない。

903太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 14:01:28
そのくらいじゃ恣意的考えだよ。だったら>>741表も月後半があるはずだぜ。
904唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/06(土) 17:21:26
日々の干支は、後半も在る事を支持しています。
後半分の干支を無視している、太国説。
無視した後半の干支の説明がない。無視したままでは、暦に直せない。

905太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 18:50:47
説明は以前したよ。天体は運行してても空白では違ってくるぜ。
あんたの知り合いも失礼だが全員上旬に死ぬのかいな? そんなはずはないぞ。
906唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/06(土) 19:54:53
書記の記事が前半に偏る と
年数を加増するために 偏らせた とは意味合いが違う
偏らせた 証拠が全く無い。
春正月の記事は、秋の初めの出来事である証拠
書記の記事の中に 「どうしてもこの季節は合わない」という証拠を
提示できない=季節は正しい。
907太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/06(土) 20:23:48
上旬で全員死亡なんぞ、時卯計学的に考えてありっこない。それを
奇妙な言い訳を思いついて肩透かしをやっても失敗だよ。紀に忠実で
ないと、行き着く所は沈没船。
欠史八代間の記事が1日〜14日までしかないことは、当時の1ヶ月が
2週間だったか、一歩譲って月後半が忌み日で活動を避けていたかの
どちらかだ。つまり、月前半が陽、後半は陰と朝廷が考えてのこと
で、この場合は陰は忌避日だったということだ。
唐松山さんよ。>>741から陰の日の記述がまるでない。つまりだ
紀のタイマーの記述は全てが陽政半応を示しているのだ。この疑惑
からトンヅラしてては駄目。厳粛に受け止めて紀改な即興の言い逃れ
でイカサマ論を保持しててはアカン。八代間のタイマーは全部陽政。

とりわけ八代の天皇の死のタイマーは、陽政は陽政でも全部が上旬と
いう脳考なる陽政半応を示している。このことは当時陰政が空白の
虚無日であった時があったということを意味しているのだ。
908美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 03:53:37
>>848
唐松さん。こんちわ
「皇暦」なんて暦は無いですよ
「皇紀」の事を言ってるなら、あれは明治政府が勝手に紀元前660年の辛酉年を元年と定めた暦で、明治になってから作られた暦だよ

それ以前の日本は和暦を使ってて、記期や万葉集の暦と同じだよ


だいたい干支の始まりは辛酉年じゃなく甲子年だよ
ちなみに天智天皇が即位して定めた暦が干支だよ
909美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 04:06:22
>>907
だから>>741の日付は間違ってるっての
記紀にはちゃんと「朔」や「春」とか言う和暦の24節気の記述があるだろ?

「朔」の意味とかわかってますか?

910美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 04:18:44
どのみち太国さんの主張する倍暦(ただしくは、1年が182日しかない半暦)では欠史八代は何も解決しないよ
だいたい太国さんは日本が紀記の時代から使ってた暦の干支の始まりが「甲子年」ってのも理解してないし

元号ってのも天皇の崩壊や即位に関係無く、主に甲子の年に改正してたりしてたんだよ

辛酉の年が暦のスタートじゃないよ
911美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 06:44:02
・暦月
朔月から晦日までの約30日を一ヶ月とする月暦
1年は12ヶ月
朔月を月の始まりとして数える



・節月
節気から次の節気の前日までの約30日を一ヶ月とする節暦
1年は12ヶ月
1年は12の節気と12の中気からなる、24の節気に分け
一ヶ月は「節(朔月)」と「中(閏月)」の約15日で表す
また立春から立夏の前日までを「春」、立夏から立夏の前日までを「夏」というように、1年を4つの季節にわける




7月7日 朔 → 今で言う7月7日

閏7月7日 → 今で言う7月22日
912美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 07:12:54
この紀記や万葉集や古近和歌集にも使われてる和暦の名前は「元嘉暦」って言って、黄道の周期を30日に区切った暦で、太陽や月の動きの他に、春分(日中と夜中の長さが同じ)や夏至(日中が最も長い)などの正解な季節を表せる暦

現在日本が使ってる西洋暦よりも複雑だけど正解に天体や季節を表せる暦


紀記は朔月や1年の他に24の節気まで正解に表せる元嘉暦で書かれてる書物だよ


ちなみにそもそも十二支は歳星(木星)の周期を表し、十支は太歳星の周期を表してる暦な訳だから、干支は約60年で一周期ってのは変わらないよ
913美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 07:24:54
名前は元嘉暦じゃないかもw


中気が来てから月名を決めるって暦だよ
同じ月を朔月と閏月とで分ける暦
太陽暦+大陰暦+24節気+歳星暦(干支)の暦
還暦約60年
十二支約12年
十支約10年
1年約365日
一ヶ月約30日
1節季約15日
1日約24時間


の暦だよ
914太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 07:35:17
唐松山さん
もん太氏を相手にしないでいたほうがいい。なにせ、史離滅裂な状況を隠せない。
言えることは貴殿ももん太氏も何故仁徳前の古代天皇のその殆どが、百数十歳と
いう超長寿であるのか? その事由がまるでお二方とも全然言及しないで暦法が
どうのこうの言ってる。これではいくら紀年したりもん太氏のような知っ
たかぶりの反論をしたってあまり意味が薄い。だいたいもん太氏のいう紀が拡張
したという那珂博士のような論をいうなら、さも紀が24節気で正確に書かれて
いるような採用論こそおかしいと考えてい然るべきだ。もん太氏は否定すべき
当体を平気で肯定するようなバットマンのツーフェイスのごときだから、12ヶ月
をコインの陰陽表裏で24節気に恣意的変更をクルクルとやる。あきれてる。w
紀が24節気なら13節気とか17節気とかの記事がそれにあるはずだが、これが
全く無い。もん太氏のデタラメが歴然としている。
915美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 07:43:26
>>914
俺は天皇は長寿だなんて思って無いよ

そもそもどこにも神武天皇の寿命なんて書いてない

「神武天皇は○○○歳だ」って解釈してるバカがいるだけだよ
916美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 07:54:40
>>914
ちなみに太陽の黄道上の動きを24に区切ったものね

つか24節気の旧暦は、西洋暦に変わった今でも使ってるよ

なぜ立春や夏至がいつなのか解るか知ってる?
なぜ節分や桃の節句を祝うのか知ってる?
土用の丑の日の意味知ってる?

和暦がそういう暦だからだよ
917愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/07(日) 11:05:15
>>915
美濃もん太さん
>そもそもどこにも神武天皇の寿命なんて書いてない
>「神武天皇は○○○歳だ」って解釈してるバカがいるだけだよ

七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。
(日本書紀卷第三)
日本書紀を読んでから書き込んでください。
918 サガミハラハラ:2008/09/07(日) 11:28:04
ちなみに、福元日本書紀紀年法によれば、
生年西暦101年春年
東征123年春年45歳
即位年131年秋年前期古事記では31歳(62歳)
崩御年150年春年後期古事記では68.5歳(137歳)です。

日本書紀では>>917のとおりです。

919サガミハラハラ:2008/09/07(日) 11:32:00
>>918
訂正1行目福元は復元のあやまりです。
神武の年代では、日本書紀と古事記が、時期によって2倍年暦や4倍年が
まじりあっています。
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 11:35:28
愛知県民さん
もん太氏はいい評論をやることもあるんだが、相当は支離滅裂で滅茶苦茶な論
もけっこうやるお人だから、これで彼の評価がドカ落ちするわけ。言っても、
目が覚めないのが彼の性格らしいと思います。w
921愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/07(日) 13:07:44
>>920
太国さんはご存知でしょうが、河童虫さんに教えて頂いたサイトを載せておきます。
六国史
ttp://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/index.html

もん太さんもすぐに調べられるでしょう?
まずは講談社学術文庫の現代語訳を読むほうがよいかもしれません。
922美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 13:41:57
>>917
だからどこに「神武天皇の寿命が○○○歳だ」なんて書いてあるんすか?
日本書記を良く読んで下さいよ
「神武代」って言う時代の名前は出てきても「神武天皇」なんて名前の天皇は出てこないすよ


ちなみに辛酉年に遷都して橿原宮で即位した天皇は天武天皇ですよ

923太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 13:50:29
紀の初代天皇は神武天皇。それを違うという根拠が薄弱。だいたい
もん太氏がそういうことを言うなら、もん太氏はコテハンを止めて
本名を書きこむべきだ。
924愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/07(日) 13:53:48
>>922
日本書紀卷第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇
と書かれています。
925唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/07(日) 13:57:33
カムヤマトイワワレヒコが後世 神武という名を付けられた。
で 良いんですよ。
ちなみに辛酉年に 神武も即位している。
もん太君 私の編年が理解できましたか? 反論を期待していますよ
926唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/07(日) 14:08:48
日本書紀は 朔を基本として書かれた書物、結局{日}単位で再現できるのは、増し。
新羅本紀の信憑性

新羅本紀第ニ・第九代 伐休尼師今(在位 AD184-196)
3年(AD186) 三年 春正月 巡幸州郡 観察風俗 夏五月壬辰晦 日有食之
秋七月 南新縣進嘉禾=7月稲刈りを表す。
9年(AD192) 九年 春正月 拜國良為阿述明為一吉
四月 京都雪 深三尺 夏五月 大水 山崩十餘所
10年(AD193) 十年 春正月甲寅朔 日有食之
三月 漢祇部女 一産四男一女 六月 倭人大饑 来求食者千餘人
11年(AD194) 十一年 夏六月乙巳晦 日有食之
新羅本紀第ニ・第十代 奈解尼師今(在位 AD196-230)
5年(AD200) 五年 秋七月 太白晝見 隕霜殺草 九月庚午朔 日有食之
6年(AD201) 六年 春二月 加耶國請和 三月丁卯朔 日有食之 大旱

BC104年        11月甲子朔=第0月、1.999日(月齢)より計算
AD186年7月4日、日食  6月癸巳朔 =第3583月、105810.099月齢
AD193年2月19日、日食 正月甲寅朔=第3665月、108231.608月齢
AD194年8月4日、日食  7月丙午朔=第3683月、108763.158月齢
AD200年9月26日、日食 9月庚午朔=第3759月、111007.483月齢
AD201年3月22日、日食 3月丁卯朔=第3765月、111184.667月齢
乾象暦の暦日
AD223年2月18日、 正月庚寅朔=第4036月、119187.456月齢
小数点以下は、切り捨てて干支に直す。
第九代 伐休尼師今の時代は、日食の記事は正しい
第十代 奈解尼師今の時代, 日食の記事に不審あり
紀元前104年11月朔日は甲子の日であり、月の初めが冬至であった。
これを「甲子朔旦冬至」といい、宇宙の始まりと同じ状態であるとされた。
AD223年2月18日、乾象暦の暦日 正月丙午朔は、新羅の干支と同等であり、
BC104年11月 甲子朔旦冬至より 1ヶ月遅い暦法です。
倭の暦法は、BC104年11月 甲子朔旦冬至のライン上に在ります。
927愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/07(日) 14:38:43
古代新羅で独自の日食記録があったのでしょうか?
日本での最古の日食記事は推古天皇崩御時(628年)ずっと後になります。
中国史書からの挿入と考えるほうが自然と思いますがね。
928愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/07(日) 15:08:53
三国史記の日食も謎ですが、日本では日食記録がなぜ628年までないのか?
考えてみれば不思議なことです。
この辺りはこのスレでも議論されているようなので、また読んでおきます。
zzz・・・・
929太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 15:23:18
愛知県民さん
唐松山さんはトボけているんですよ。新羅の古文献にあんなに天体記録があって
紀に同様の記録たる日食、月食が仏伝以前に皆無なころから、紀の多数の蟻の大群
を思わせる朔の記事が舎人親王とその取り巻きの逆算による後付けだったことを
物語っています。神功初年の記事を無理にも日食に変装させてチャチャーッと
しているのが唐松山さんなんですよ。
おそらくは紀の多数の原書群に日食等の記事がある程度あったかも知れませんが、
彼ら朝廷の者らは年代等の不一致を察知し、紀に載せないで諦めたのやも知れ
ません。
930ひょっとして犬国に引導を渡せるか?w:2008/09/07(日) 15:43:40
犬国が自身の倍暦理論のよって立つところの
例の欠史八代の日付の記述が月前半に集中する件についてだが・・・

ひょっとして関係ある?と思った物があるので書いておくw

ソースは『古代史の基礎知識』 吉村武彦編集 角川選書 掲載の 古代年中行事 の一覧表。
(ただし『岩波日本史辞典』付表を改変 とあるので孫引きだが・・・
 その本を持っている人が確認してもらえるならありがたいw)

そこに月々の「朝廷儀礼」「節会・宴」「政務」「祭祀」で行われる日付等を書いてあるんだが
そのうち「政務」「祭祀」で出てくる日にちが1〜15日になっている。
(「朝廷儀礼」「節会・宴」はそれ以降の数字が出てくる)

ただし干支で「中卯」とか「下寅」とかの表記もあり、それだと月後半になるだろうし
「下旬」とか「当月中」と言うのもある。

しかし数字で「○日」と指定される物は何故か15日まで。

欠史八代の日付の記述と同じ法則性が働いたのか?




 
931唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/07(日) 15:47:13
神功元年の記事は、日食
朔を後付けとすると その計算式が再現されない限り 倍歴に未来は在りません。
増し ならほぼ計算方法が再現されている。
932太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 15:49:17
参考文献提出と説明は感謝するが、オマエもっと口をつつしめ。
933930:2008/09/07(日) 15:52:03
ちなみにこれは俺の勘でまったく根拠無い妄想だがw

15日までと言うのは道教的なロジックが作用しているような気がするww

参考 『河図洛書』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%9B%B3%E6%B4%9B%E6%9B%B8

上記の 洛書 = 九数図 を参照。
934太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 15:55:44
>>931
新羅本紀にそんなに食の記事があって、日本書紀の食の記事が中間頃
のポツンと1個あるというのは非常におかしいぜ。そんなところに
あるんなら、その前後あたりに新羅文を同様かそれに準じるくらい
の食の記事があって然りだろうが。w ということは、それは日食
ではないとするのが安全だ。増しはあんたの論が合わないときの
ジョーカー、紀離札であり、そんなんならどんな理屈でも通る。
唐松山さん、いい加減な増しなどしちゃいかんぜ。」
935唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/07(日) 16:04:53
古代から 朝廷の儀式の日取りに大きな変更が無ければ、その後の日取りと連動する、
日付の表記に 末5日=25日などもある。
延喜式等に日取りは、書かれている。この日付との整合性が採れない 倍歴。
936太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 16:09:48
なぜ紀のその当時の日数記事に「末」の字がないのか? これも
なけりゃぁ当時では認容はできまい。だいたい古代から現今まで、
空白の虚無の日が多々存在すれば日数計算などやっても合うわけが
なく、無駄な労力。
937唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/07(日) 16:15:06
西暦192、193年の新羅の記事は、崇神5,6年の出来事と同等と思われる そして
そして神功元年の記事を日食と考えれば、273年の日食であり
この数字を一つの編年で解決できる”増し”が当時の暦法、
そして 出雲歴は、伸長されることなく 記録された。
938太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 16:23:32
神功紀を再確認しな。日食が数日続くわけがない。wwwww
誇張があってもそんな長くはないだろう。
939唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/07(日) 17:41:44
神功記に 日食が何日も続いたと書かれているのですか?
私には、1日の出来事です。
940太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 19:35:16
夜の午後11時59分から翌日午前0時01分とかだったら見かけ上2日間
になるがねぇ。しかし日食は夜中は起きないぜ。wwwwww
941美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 21:01:19
>>923
紀記の何処にもそんな事は書いてないって言ってるんですよ

そもそも、その解釈は明治政府によって作られた解釈で、明治時代以降に言われてるだけの話


普通に紀記を読んで見て下さいよ
紀記では国常立命が降り立ってイザナミイザナキが神産をする所からがこの国の始まりとして書いてある
アマテラスにしろイワレビコにしろ歴代天皇にしろその子孫だよ

誰かが天皇に即位して日本が始まったなんて紀記には書いてない

紀記をもう一度、アホ見たいな先入観を捨てて読み直した方がいいですよ

日本の歴史はイワレビコが登場するよりもっと古いですよ
942美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 21:09:31
>>924
カムヤマトイワレビコ天皇と神武天皇の二人がいたって事ですね?
ちなみに「天皇」ってのはアマスラノミコ(だっけな?)って読んで、天つ国の神の血統者って意味ですよ


ナガスネヒコも(紀記に書いてあるかは知らないけど)「二人の天子が現れて二人が領土をよこせと言ってきた」と言ってますよ
紀記にもちゃんとイワレビコとニギハヤヒって言う二人の天子がいた事が書かれてますね
943美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 21:13:02
ちなみにニギハヤヒはナガスネヒコを倒した後にイワレビコに大和を治めさせて自分は諏訪に帰ったよ

その後、ナガスネヒコの大和から遷都して橿原に藤原宮を立てて辛酉年に即位したのが天武天皇ですよ
944太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/07(日) 23:04:41
早く精神病院で診てもらえ。なお近隣の連中に聞いてみろ→記紀
の初代天皇は神武天皇。君のお脳とよく相談してみろ。
945日本@名無史さん:2008/09/08(月) 04:47:16
初期の天皇が超長寿なのは
・英雄(半神)故の誇張
・口伝をそのまま記したが故の矛盾
で解釈すればいいやん。
946日本@名無史さん:2008/09/08(月) 05:13:26
>>944 太国 ◆yVAs7uaYlY
>早く精神病院で診てもらえ。

お前も一緒に行けwww
947日本@名無史さん:2008/09/08(月) 05:32:34
次スレは古事記スレ使おうぜ。同じだろ?

【太安万侶】古事記【稗田阿礼】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1196166752/
948太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/08(月) 06:57:22
>>945
誇張はものによってはあるが、年代関係は誇張とは考えにくい。中途半端の
やり方だから、そうではないな。誇張というものは、天皇が7尺、10尺とかの
大男だとか相貌を人間とかけ離れた形容であるのがそれだ。古史古伝もそういう
誇張がしてある。過去にそれがしは博物館だったかの展示品で中国古代の女帝
(呂后だったか?)の絵巻物を見たが、臣下よりも2回りばかり大柄に画かれて
おり、解説も誇張だという話だ。
年代の誇張するなら、仁徳より後の天皇でもそうするべきだし、仁徳前で通常人
に近い寿命の天皇もおられるし、秦の思考低(←946www)に打ち勝つため古く
したと主張しても、古代中国にはそれ以上に古い三皇五帝もいるし殷、夏も
あることから、どうせやるならこれらより古くしないと大陸への誇示にはなり
難く、効果は少ない。
949日本@名無史さん:2008/09/08(月) 08:21:07
天孫降臨から1792470余年
余裕で支那より古い
950太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/08(月) 10:44:42
ならば神武を古くする必要もなかろうな。また始皇帝より古くしても三皇五帝も
あるし、中途半端だ。
951日本@名無史さん:2008/09/08(月) 16:26:01
久しぶりに来たが太国よ、草つけるとアホっぽく見えるぞ?
www←これね。
952日本@名無史さん:2008/09/10(水) 06:30:15
神武天皇と崇神天皇は同時代だったのではないか
というような研究はありますか?
953太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 07:30:21
妄想だが 神武天皇=崇神天皇 と主張している方の書を探すこと
になるだろう。これはもう間違いだぜ。双方は200年余離れている。
954日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:51:28
>952
別人として同時代に存在したという研究は知らんが
『神武天皇=崇神天皇』という類のものならよくある
一冊の本になるようなネタでもないので書名には使われていないと思うぞ
ハツクニシラススメラミコトというの同じ称号を持つんだから同一人物なんじゃ…
とかそーゆー感じです。

そもそも神武天皇は大伴連氏や物部連氏の権威づけとして考案された
ヒーローなので、その人たちが実際活躍し出す時代にヒントがあるかもね

>953
まぁ何年離れていようが関係ない
上代の天皇の在位年数が長すぎるから不自然で捏造だという意味ではないぞ
その紀年の構成は明らかに不自然な作りだからだ
年代に関しては若干の事実も含まれてはいないと断言できる
955太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 10:55:20
断言できる? Pu! 早計だな。それとも詳細な事由があるのか?
それに紀の後章の仏伝以後の年代は信用できよう。
956日本@名無史さん:2008/09/10(水) 19:07:34
太国は欽明紀なんて読んだことないだろう?
957日本@名無史さん:2008/09/10(水) 20:33:14
>>955
ありますよ(^-^)
958太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 22:01:08
そのほう、あるんだったら早く説明されよ。
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/10(水) 22:04:38
欽明記は読んでるよ。お前こそ読んでんのか?
960日本@名無史さん:2008/09/10(水) 23:55:58
>>958
あなたの理論に合わないことは以前確認していますから
もう一度説明する意味はありません(^-^)
961952:2008/09/11(木) 04:18:27
>>953 >>954

レスありがとう。

何となーく、神武vs磯城彦の話と、崇神vs武埴安彦の話が、
裏表になっているように感じたんです。

神武紀
・吾平津媛
・香具山の土を取る
・磯城彦を攻める
・忍坂 - 墨坂

崇神紀
・武埴安彦 - 吾田媛
・吾田媛が香具山の土を取る
・磯城瑞籬宮
・墨坂神 - 大坂神

妄想です。はい。
962日本@名無史さん:2008/09/11(木) 06:49:24
まあ、都合のいいとこだけ抜き出すとそうなりますね
その調子でいろいろ書いていいですよ
963太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 07:31:13
>>960
断言だとかは、君の恣意的宣言だな。
964日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:37:06
日本書紀の年代は後世の追記であることは確定事項なので
「事実は含まれない」と言った訳で、別に恣意的ではないと思いますよ。

あんた、コレにわずかな事実が含まれる根拠を提示できんの?
できないでしょ?あんた勝手に言ってるだけだから(^-^)
965太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 11:02:08
佛伝以前はどうでも、以後のほうは間違い。記紀も古史古伝も倭人伝等も、
どれもこれも後世の時間経過での記述なことは確かだが、だからと言って含まれ
ないとは言えない。お前の恣意的デタラメ。
966日本@名無史さん:2008/09/11(木) 11:15:19
> だからと言って含まれないとは言えない。

どうしてそう言えるのですか?(^-^)
967太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 14:27:53
だからどうして断言できるんだよ? 説明がな〜い。お前の勝手な主張で権威
はまるでダ〜メ。
968日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:13:46
説明したよ(^-^)
969太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 21:27:54
どこにだ?
970日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:34:42
もう一度書こうか?(^-^)
971太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 21:40:05
そうしろ。どうして断言なのか?
972日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:41:59
次スレが立ったら書きますよ(^-^)
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 21:46:03
お前逃げるのか?スレが終わるのを待ってんだろう? 時間切れ真近の
サッカーみたいだな。要するにお前は書きたくないわけだ。だから時間
伸ばしをやってるわけか。つまり断言はなんら根拠のないお前のいい加減
なデタラメ主張なわけだ。
974日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:57:41
そんなことどうでもいいじゃないか(^-^)
975太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/11(木) 22:00:16
断言とかデカいこと書きこみやがって、お前の即興で思いついた
デタラメ言葉だ。
976よこ:2008/09/11(木) 23:29:51
いつまでたってもはぐらかしトークの連投で埒明かないね

邪馬台軍団集めて一度オフ会でもやりませんか?

生太国氏を一度拝見してみたいです。


977太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/12(金) 07:41:41
極さん そろそろ次スレの容易を願います。
978極 ◆v6e4s/0I9s :2008/09/12(金) 08:16:43
それがさ…
俺が極なんだよ(^-^)
979太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/12(金) 09:35:26
>976氏のことかしらん? >977の訂正

                  ×容易   ○用意
980よこ:2008/09/12(金) 20:15:33
俺は極じゃないよ
981太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/12(金) 20:22:11
ハイハイ。
982唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 09:51:36
暦は、神武以前から有り当時の暦法で記録された。=私。
暦は、欠史八代頃は無く書記編纂時に編纂時の暦法で伸長して割り振られた。=太国氏。
欠史八代の長さが書記より太国説に分が有ることは認める(私も圧縮している。)しかし 2,3倍の
「朔だけでなく 季節まで書き換えた。」と言われるとその証拠が全く提示できない太国説です、
日食、月食が書かれていないから、”増し暦”は間違いという太国さん
日食、月食が書かれていないから、”倍暦”は、正しい とは成りません。

神武から政務天皇までの 崩御前数年間の記事が全く無いのは、何故?
私の説は、空白年の差し込み。説明できますか?
説明できなければ 太国説破綻。
983太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/13(土) 11:10:28
差し込めばどんなんでも合うよ。w 外出だからあとで!
984日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:53:37
推古以前の記録なんてないから
985太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/13(土) 15:04:54
>>982
2〜3段目 欠史八代ころに暦がないなどと主張はしていない。伸長というと
故意に紀の編者連がやったようで、辛酉革命とは別に他の事由でB.C.660年への
拡張を彼らが恣意的にやったような書きこみであり、それがしはそんなことは言っ
てはいない。彼らが紀を成立させる努力で不可抗力的に伸びてしまったという
ことだよ。

紀は、だいたい殆どが月日の前に四季を入れている。紀の原書群全てに同様に
四季を月日の前に入っていたと考えるのはおかしい。現今の書籍だって見れば
四季のある書き方のが全部ではないよ。今でも一部しかない。これは原書群著作
の当時も同様だろうが。紀に四季のあるのは当然、天皇が見る官僚の厳しい格式
張った書き方という、堅苦しいものが書くときの礼式だったので月日の前に季語
をほぼ全て挿入したわけだよ。だから後付けと観るのが正解なのさ。

倍暦を記述した原書群に季語がなければ、当然季語の書きこみは舎人親王一派
だったということだ。彼らはまず倍暦に未知なことから、なんの気なしに四季を
入れてしまったためあんたともん太氏のような考えの者らが多出してしま
ったということになり、彼らは大変なる余計な挿入をしてしまっわけだが、上意
での決まりの書き方では彼らを咎められない。
986太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/13(土) 15:17:11
唐松山さんの主張の増し暦なるものは、結局言い換えれば空白での
複数年が在る閏年ということであり、閏で空白なぞ必要ないだろう?

実の月が不足だから閏月とするんだろうから、もともと空白で不必要
なるときに、足りてるわけだから閏月を設定する必要はないわで、
それを無理にでも先行空白の年に閏年を数年、数十年とか入れること
は、唐松山さんが合わないための付け足しなわけ。

そういう閏年を幾年も挿入する考えの前に、これはご自身の説が間違
っているんだとの解釈に以降、振り出しに戻るのが正解だ。
987唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 15:20:50
>差し込めばどんなんでも合うよ。w
確かに 合うようには見える がしかし
日々の干支を一定のルールーで圧縮しないと 朔が狂ってくる
そして 1年の長さも 太陰暦から逸れてしまう

これでは1年の長さも特定できない倍暦の2の舞い。
988日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:53:00
計算しても意味がないよ
989唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/13(土) 18:15:49
何故計算しても意味が無いんですか?
私の計算結果
崇神5年の記事は、193年に当たる そして神功元年の日食=273年の日食
そのほか 出雲暦なるラインが有り此方は、考昭元年より伸長されることなく使われた。
という結果となっています。このスレの初めから読むこと。

反論期待。
990太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/13(土) 21:13:02
さっき9chの楽曲演奏番組で「四季♪」を聴いてたが、なかなか心
が鎮まり、只今気分がいい〜。
さて、記の崩年干支からの

 崇神崩御=258年

は、非常に正確だったということだ。それがしもとことん倍暦計上で

 崇神崩御=259年

を算出している。唐松山さん、318年説は失敗だよ。
991日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:23:51
age
992のんびりひまじん:2008/09/14(日) 02:46:10
紀年論ならば、大先輩の著作を克服して欲しい。紹介します。
山田武雄 日本古代史研究整理 1992年 千秋社
読み難い。ほとんど売れなかったらしい。しかしびっしり中身が詰まっている。

もう一冊紀年論なんてバカバカしいのではないかと疑問させる書物がある。
池田定道 推古朝こそ原帝紀成立期 1995年 近代文芸社
結論部分は賛成しないが、日本書紀のトビトビ記事の分析ぶりには感心した。
993日本@名無史さん:2008/09/14(日) 03:43:51
いまの記紀の解釈は本来の歴史ではない。
本来の日本の歴史はもっと立派で偉大であるはずなのに、
世間はその事実を認めようとせず、日本の歴史を貶めようとする。
このスレのコテハンたちは間違いを正し、本来のあるべき日本の歴史を取り戻すのだ!(^-^)
994日本@名無史さん:2008/09/14(日) 04:49:50
実際の天体の運行は計算で出せる
安康紀以前は唐の暦法でほぼ正確に書かれているので合わせるのも簡単
995日本@名無史さん:2008/09/14(日) 05:08:58
>>992
本を買う金がない
996太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 07:51:11
唐松山さんは確か〜拙者に神功初年の記事が紀のどこにあるのか聞いておいて、
神功元年の日食=273年としている。となるとホツマ伝にでも記述があるのかね?
神功紀は無関係か?w
997日本@名無史さん:2008/09/14(日) 08:57:56
都合がつけばいいんです
998サガミハラハラ:2008/09/14(日) 10:34:03
紀年論ならば、後藤幸彦の「神功皇后は実在した 明窓出版」をすすめます。
倍暦を用いほぼ絶対年代というものを合理的にみちびきだしています。
いまのところこれに勝る紀年論はないでしょう。
だだこれはケイコウ天皇から雄略天皇までである。ケイコウ以前についても完成したようであるが、今執筆中ということであり、来年の出版となるようです。
999唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 10:34:38
現在の 私の編年 

天皇 即位西暦   治世   増し      古事記
神武天皇 41年  19年間  57年
空白(タギシミコ) 3年間  
綏靖天皇 63年 14年間  19年
安寧天皇 77年 11年間   27年
懿徳天皇 88年 5年間  30年
孝昭天皇 93年 26年間  57年
孝安天皇 119年 26年間  76年 119年 己丑年 古事記の干支の初め
孝霊天皇 145年 19年間  57年
孝元天皇 164年 19年間  38年
開化天皇 183年 3年間   57年
崇神天皇 186年 30年間  38年 230年 戊寅
垂仁天皇 216年 23年間  76年
景行天皇 239年 22年間  38年 
成務天皇 261年 4年間 57年  267年 乙卯
仲哀天皇 265年 9年間   0年  274年 壬戌
神功皇后 274年 50年間  19年 
応神天皇 324年 43年間   0年 366年 甲午 
仁徳天皇 367年 33年間  54年 399年 丁卯   
履中天皇 400年............................... 404年 壬申 

崇神318年などと 言ったことはありません。
訂正しておいてください。
1000サガミハラハラ:2008/09/14(日) 10:35:57
図書館のリクエスト制度を利用するのも一つの手です。
手続きとう面倒ですが、本棚にかさばることもなくべんりです。
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