1.『記紀』は朝廷の東征を正当化するためにつくられた書物なのか
2.なぜ太安万侶は『記紀』の編纂をしたのに稗田阿礼は『古事記』だけなのか
3.稗田阿礼が女性だったという説は正しいのか
4.『記紀』ではどこまでが創作で、どこからが史実なのか
5.『記紀』編纂の資料となった『帝記』『旧辞』はどのようなものだったのか
6.『魏志』と『記紀』との関係。『魏志』は朝廷の賄賂で書き換えられたのか
どれでもいい。大いに語ってくれ
2 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:58:34
1で征伐されるのは日本人なんだよな
2の口承ありえないわな。文字の無い世界の話なのに中国的な君(キミ)とか国(クニ)がでてくるのは明らかに漢字文化の民族のでっち上げ。
文字を持たない邪馬台国以後の空白の世紀に渡来した漢字文化の大和朝廷が日本人を討伐して日本の神を殺し歴史をでっち上げた。
3 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 22:01:44
>>1 4がおかしい。「創作」じゃなくて「神話」だろ。
4 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 00:07:57
古事記は勅撰書でなく太氏に伝わっていたフルコトブミを
安万侶のの子孫である多人長が弘仁年間に先祖に仮託し序文をつけて世に出したもの
しかし本文は大化前代の伝承を伝え歴史のみならず日本語研究の貴重な史料である
謎の人物である稗田阿礼は太安万侶によれば聡明で感覚的な表現が得意だったとされている
柳田國男氏は女性説を提唱、ほかには藤原不比等説もある
『帝記』『旧辞』の暗誦を命じられたのは文字を知らなかったのではあるまいか
そうなると文字を勉強しなかった人物。つまり女性説が浮き上がってくる
もし藤原不比等が稗田阿礼だとすれば、わざわざ太安万侶に『古事記』作成を命ずることはない
以上が稗田阿礼=女性説
なぜ太安万侶は『古事記』編纂直後に『日本書紀』を編纂する必要があったのか
『古事記』は序文でもあるように『報告書』的意味合いが強いのではあるまいか
一大プロジェクトである『日本書紀』作成は国内はもとより、
アジアにおける朝廷の正当性を誇示するためのものではなかろうか
『古事記』という教科書があったため稗田阿礼は必要とされなかったのだろう
以上、稗田阿礼が『日本書紀』編纂に加わらなかった理由
『帝記』は天皇家の系譜。『旧辞』は神話w
太安万侶が命じられたのは『帝記』と『旧辞』を融合させ、さらに天皇家とむすびつけることだったのでは?
天皇家を神の子孫とすることで東征の大義名分を得たものではなかろうか
東征は虐殺ではなく恭順であり過酷な租庸調の要求を正当化したものと思われる
天皇の神格化は九世紀まで東国には絶大な効果があり高望王が関東へ下野した際には祭り上げられた
以上、『帝記』『旧辞』および東征正当化説
土着したのは桓武天皇からであり、それ以前の天皇は半島からの出張組だったという極端な説もある
天皇家が絶対視されたのは壬申の乱以降という説もあり大化の改新自体の時期も疑われている
しかし元号制定時点で土着していたのは確実視されており皇極天皇以降は史実の可能性が高い
以上、創作と史実について
なぜ吉備真備ほどの重臣が2度も遣唐使として派遣されたのか
やはり恭順の意向を示し、続いて要求をしたものと考えてよいのではあるまいか
遣隋使以上の重臣を派遣することで唐への「誠意」を示したものと思われる
ただし吉備真備の「要求」が『魏書』の改竄であった可能性は低いのではなかろうか
以上、『魏書』の改竄について
6 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 18:59:50
>>5 稗田阿礼が女性であっても男性であってもかまわないが、
>『帝記』『旧辞』の暗誦を命じられたのは文字を知らなかったのではあるまいか
>文字を勉強しなかった人物。つまり女性説が浮き上がってくる
これは違う。
『帝記』『旧辞』が文字になったものだったのならば、天武天皇は書物を献上させればすんだ。
「国記」や「天皇記」とは別に、文字のなかった頃から
代々節にあわせて語り部によって暗誦させてきた伝承があった。
天武天皇は、それを稗田阿礼に暗記させた。
稗田阿礼は語り部ではあったが筆記者ではなかったため、太安万侶がそれを代筆した。
女性=文字を勉強しなかった、ということはありえないでしょうね。
この時代、女性の天皇は当たり前。
「古事記」は女性の元明天皇に、漢文体の「日本書紀」も女性の元正天皇に献上されている。
献上された女帝や女帝に使える女官たちがこれを読めなかったとは到底思えない。
太安万侶が書紀編纂に携わったかどうかは確かじゃないだろ
8 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 20:22:21
>>7
>太安万侶が書紀編纂に携わったかどうかは確かじゃないだろ
?
太安万侶と日本書紀は関係がない。
古事記編纂の間違い?
9 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 00:17:22
10 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 13:18:26
古事記編纂も疑わしい
11 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 09:04:18
古事記が編纂されたことは、
国家事業として編纂された六国史のどこにも書かれることがなく、
太安万侶架空説までとびだしていたが、
太安万侶の墓と墓誌が見つかったことで
太安万侶実在=古事記編纂もほぼ事実と考えられるようになっている。
しかし、太安万侶が書いたのではないとすると、
古事記は誰が書いたのだろうね。
12 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 09:51:01
神田秀夫論攷集におもしろい文章がある。
この人、古事記の構造を書いて、宣長を超えたと言わしめた人。
単なる学者の文章の域を超え、読み物としても面白い。
古事記年報バックナンバーにも掲載されてるから、一読してみれば?
俺が感動した言葉の一つ。
「太安万侶が実在したと言うことは墓がでて実証されたが、だからといって
彼が古事記のプロデュースをしたなんて、墓誌のどこにも書いていない。
大騒ぎするほどのことじゃないよ」
13 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 09:52:27
>12
だから、太安万侶が実在したことは現在多くの人が認めている。
その上で、「古事記の作者は誰?」と聞いているのだが。
14 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 10:00:00
すまぬ。
>>11のこれに対して書いたつもりだった。
>>太安万侶実在=古事記編纂もほぼ事実と考えられるようになっている。
神田秀夫「古事記は持統5年以前に成ったか」では、大胆にも
筆者は人麻呂だと言っている・・・。賛否あろうが、内容は面白いぞ。
他に「古文芸の源流」「巨椋池」なども参考になった。
15 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:39:24
古事記はまだしも、日本書記に関しては作者も書かれた年代も解ってない書物だしね
16 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:49:35
そもそも古事記と日本書記を正史と認定し、それ以外の歴史書を認めないとしたのは明治政府だよ
江戸時代までは聖徳太子らが書いた旧事紀を幕府は正史として扱ってた訳だから
明治時代以前は古事記や日本書記は沢山ある風土紀の中の一つでしかなかったよ
それを明治政府が正史とした理由は
「古事記と日本書記は系譜の書が紛失してしまってる書物」
だったからだと思うよ
明治政府は天皇の系譜を北朝系から南朝系に書き換えたから、系譜が解る書物は破棄した訳だし
17 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 13:09:57
インドのヒンズーでは、それぞれの地方に伝わって来た20以上もの古代聖典を「正史」と認定してる
コレが正しい姿だと思うよ
氏族や地方などの立場が違えば、同じ出来事でも見方が違う
日本武尊は記紀では英雄だとしても、武力制圧を受けた氏族や地方によっては悪である訳だから
明治時代にかなりの風土紀などの歴史書が焼かれたらしいけど、それでもまだ日本には沢山の古史があるよ
個人で持ってる人や地元の資料として役場に寄付したりとか今でもあるし
日本の歴史は沢山の氏族達による歴史な訳だし
18 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 15:38:49
当時は真名だったわけだが、女性の文盲率は平安時代に低下したんじゃね?
天皇や内親王なら真名くらい知ってただろうけど、ほかの女官は真名を読めたのかな。
清少納言は内裏でも別格視されてたって話だけどなあ。
稗田阿礼が女性だったなんてロマンがあるじゃん。
19 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 16:19:37
おお。女性の地位かあ
そういや昔は通い婚が主流で、子供は女性が教育し育ててたらしいしね
男は自分が国を作ったと思ってるかもしれないけど、女性がそういう教育をしたから、そういう役割に付いただけかもね
記紀を女性を主役みたいな視点で見ても面白いかもだよ
イザナキ→天照や素戔嗚尊に命令する立場
んで、天照大神も
猿田彦に案内させた岩戸のヒルメ(猿姫)
国造りを命じた神功皇后
山彦の話の豊姫
、、、多分、まだまだ沢山いるでしょ?
なんか女が主人公の話にも読めなくない気がする
20 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:52:02
父親がだれかわからない時代は母系社会になる。
母親だけはわかるから。
夜這いの実態も当時を生きた紫式部が源氏物語で現しているが皇后も素性の知れない男の夜這いを受ける。
明治政府が天皇を神聖視してしまったために嘘の天皇像が創作された。
偶像とされなければ天皇家の人たちも人並みになれたろうに。
右翼と神道利権の亡者に担がれて国民が最高位の民主主義制度と敵対する必要もなかったろうに。
21 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:56:52
>>18 清少納言や中宮定子は白楽天の漢詩を熟知していたし(香炉峰の雪)、
紫式部も中宮彰子に白氏文集を教えていた、
また、女房仲間から「日本紀のお局」とあだ名をつけられていたというから、
天皇妃や内親王たち、それに仕える女房たちは漢文を読めたのだろうね。
紫式部のように学者の父を持てば、当然、娘が興味を示せば文献を与えていただろうし。
22 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 18:12:18
竹取物語書いたのも清少納言だっけ?
女が主人公で、結婚してくれって迫って来た天皇や氏族達にかぐや姫は色々な命令出してたしね
女は決して弱い立場にあった訳じゃないのかもね
23 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 08:45:56
竹取物語は平安初期の成立。
作者は清少納言ではないぞよ・・・
>>21 紫式部や清少納言とかは特別な例では?
だからエピソードに残るんじゃないの?
25 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 13:54:48
>>24 枕草子や紫式部日記を読むと、
天皇の妃后たちの殿舎には、天皇は勿論、
さまざまな天上人たちが訪問していた。
当然、話し相手になるのは女房たち。
漢字を全く知らなかったとはいいがたい。
女房日記は基本的に平仮名だが、漢字も出てくるよ。
26 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:45:32
真名と仮名が出てきたところで異聞
仮名は発音どおりに読める発明だったわけで
それまで女性の多くは真名を読めなかったわけだよね
中宮ともなればカテキョがいたのは当然なわけで
イパーン的な禁裏の女房は文盲だった可能性が高い
源氏物語にしても写本が庶民に流通するのは後世のことだったような
27 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:18:20
>>26 漢字は漢が作ったとして、カナ文字は加那の文字じゃ無いのかな?
漢字以前は国内で文字統一がされてはいなかったにせよ、いわゆるシュメール文字と同じ表素文字があったよ
シュメール文字のような母音子音を組み合わせた表素文字や、カナ文字のように52音の音にそれぞれの字体を付ける音字を作るのは誰でも出来るよ
ただ統一文字として全て同じ書体に統一するのが大変なだけでさ
漢字伝来以降も、漢字を使う人は学問を受けた人達に限られてたと思うよ
いわゆる神代文字って言われる表素文字の方が簡単だもん
発音のまま書けるしさ
28 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:29:21
>26
「女房奉書」
天皇に近侍し、伝達役を務めていたのは女官の内侍。
律令制度確立後から江戸時代末まで、
女官が政治に口出しするのが朝廷の特徴だった。
当然、天皇が伝達したいことを文章にしなければなりません。
後の時代には女房奉書は漢字かな雑じり文で書かれたが、
当初は漢文だったはず。
また、古くから、出家する女性は多かったが(日本で最初の出家者は女性)、
当然、出家した女性は経文を読み、写経をしました。
光明皇后は直筆の写経が正倉院に残っていますね。
庶民の話をするなら、男も女も平安時代には文盲率は高かったと思う。
29 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/01(土) 19:34:00
漢字を文字として統一し普及させたのは神仏合同期の、大乗仏教徒達だと思うよ
漢字自体はそれ以前に早くから伝来して来てる文字と思うし
大乗仏教普及以前は山岳密教の伝来もあったけど梵字とか使ってたりするしさ
まあ憶測でしかないけどw
ただ漢字に表意以外の、表音(声って呼んでたらしい)を持たせたり
2文字以上の字を組み合わせた熟語(衣服とか土産とか)を作ったり
カナ字と合わせて読みやすくしたりとか
ここまで漢字を使いこなせて尚且つ普及統一出来てる国は日本だけだよ
タイやベトナムは漢字使うのやめちゃったし、今の中国人は文字じゃなく表意字としてしか使えてない訳だしさ
30 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:39:06
>>28 漢文って「ノ」「ハ」とか言うカナの助詞が入って初めて読める文だよ
例えば仏教のお経って、あれ文字じゃ無いよ
表意文字を発音してるだけだからお経の発音には意味が無いもん
31 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 05:53:04
般若心経って、たしかに日本語読みだよな
ほんまもんの般若心経は文字が違うのかな
玄奘が中国語訳して誰か日本語訳した香具師がいるってことか
32 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:19:05
女は文盲だったという26から派生したレスだが
つまり禁裏女房や貴族夫人は文字の読み書きができたということでおk
男も漢字のみを使っていたわけでもない
御堂関白記、小右記にはカタカナ多数
33 :
唐松山:2007/12/04(火) 21:25:18
お初
迷想
古事記の干支が 本物であったら
西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕
西暦293年 癸丑 仁徳 誕生
西暦296年 丙辰 應神元年
西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換
西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
同年 百済 獻七枝刀一口
西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨
西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌)
西暦329年 己丑 神功崩御
西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支
西暦367年 丁卯 仁徳崩御
34 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 01:25:42
>>33 古事記の崩年干支が本物であったらとして
以下の年の根拠は?
書記の記述と矛盾なく説明できます?
神武立太子 BC697
神武〜懿徳 185年間
孝昭・孝安 185年間
孝霊〜孝元 133年間
開化 60年間
崇神 68年間
垂仁 99年間
景行・成務 121年間
仲哀〜応神 121年間
仁徳〜反正 99年間
允恭〜雄略 68年間
清寧〜宣化 60年間
欽明〜壬申 133年間
文武立太子 AD697
36 :
唐松山:2007/12/05(水) 19:03:50
神武から 景行までは 書紀等で 記年は 出来ています。
成務は 書紀の 朔に 8年の 空白を入れると 繋がる状態なので 保留中
古事記の 年齢では 合わせた事は在りません。
記年方法は 増し
つまり 書紀は19年7閏法で書かれている。 其の中に 19年7閏をひとつの単位とする 空白年(増し)
が 含まれている。(書紀によくある連続した空白など)
この方法で どうしても読みきれないのが 応神辺りから
そこで 今回の 古事記の干支による 解析となりました。
仁徳以降は いま考え中 (現在の天皇の数で繋がらないわけではないが 何か在りそう。)
37 :
唐松山:2007/12/05(水) 19:34:00
天皇 西暦 治世 増し
神武天皇 37年 19年間 57年
空白(タギシミミ) 3年
綏靖天皇 59年 14年間 19年
安寧天皇 73年 11年間 27年
懿徳天皇 84年 5年間 30年
孝昭天皇 89年 26年間 57年 懿徳の弟 懿徳元年生まれ
孝安天皇 115年 26年間 76年
孝霊天皇 141年 19年間 57年
孝元天皇 160年 19年間 38年
開化天皇 179年 8年間 52年
崇神天皇 187年 25年間 43年
垂仁天皇 212年 23年間 76年
景行天皇 235年 22年間 38年
閏の廻し8年 8年
成務天皇 265年 4年間 57年
仲哀天皇 269年 4年間 4年
神功皇后 273年 38年間 32年
応神天皇 311年 41年間 0年
空白 2年
仁徳天皇 354年 68年間 19年
たとえば 崇神は 4歳くらいで即位 垂仁を生むまで 15年位
神武天皇治世は ほつまでは 18年と 書かれています
旧事記では タギシ耳による 空白は 4年
纏めてから まだ見直しは 行っていませんので その辺は。...
38 :
唐松山:2007/12/06(木) 19:35:49
静か過ぎる 何でもよいから 突っ込んでくれ
突っ込み,質問歓迎
調整 仲哀と神功は 一つの暦です
仲哀天皇 270年 3年間 6年増し
神功皇后 273年 56年間 13年増し
何か?1年狂っているような気がするが これで 整合性は アップ
西暦429年 己巳 雄略 崩御
西暦527年 丁未 継体天皇 1世代分 少なくなった が 治世27年くらい
とみると 即位 西暦501年 これはこれで 面白いかも?
39 :
唐松山:2007/12/07(金) 19:39:11
誰も 突っ込んでくれないなら 増長してやる。
迷想中 仁徳誕生、応神元年 を訂正
西暦272年 応神誕生
西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕
西暦291年 辛亥 仁徳 誕生
西暦294年 甲寅 應神元年
西暦329年 己丑 神功崩御
西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支
西暦367年 丁卯 仁徳崩御
西暦429年 己巳 雄略 崩御
西暦527年 丁未 継体崩御
書紀の 仲哀,神功 治世も変更
仲哀 西暦270年より 3年 6年の増し
神功 西暦273年より 56年 13年の増し
これで 古事記の 応神、仁徳の 年齢こじつけの下地完了
まず 応神130歳
応神 334−272+69=131 応神の年齢に神功の治世69年を 足した
仁徳83歳
仁徳 367−291+(337−330)=84 仁徳の年齢に神功崩御から仁徳即位までの年数を 足した。
1年の違いは 私からの 贈り物 ってか。
40 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 20:39:00
せっかくの良スレに変なのがわいてる…
41 :
唐松山:2007/12/07(金) 22:09:13
古事記を日本書紀と 同じ土俵に 上げただけ。
ある 名無史さんが 「やってくれ」と言うので 出てきたが
邪魔だと言うなら 引っ込む。
頑張ってチョ
おおいにやって下さい。
43 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:45:02
古事記には「も」の書き分けがあるけどその8年後の成立とされる書紀にはない
なぜか?
普通に考えればこの時代にはすでに発音上の区別は失われてたと考えるのが妥当
それでは古事記になぜこの書き分けがあるのか?
それは一部の専門家が主張している通り一種の仮名づかいではないのか
「わ」と発音するが「は」と表記するように
あと別の可能性としては書き分けのある本文の成立が区別していた時代に遡るということ
但しこの場合は来歴を記した序文について考えなければならない
古事記だけにある大年神の神道譜も新しい要素がある
44 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:49:51
コテハンを使う人は
学問的議論が出来にくい
なぜならば思い込みが強すぎるから
45 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 04:09:41
名無しから不当な評価を受けてはいるがそれは卓越した自分の研究に対する嫉妬に起因する陰謀であり、
自分の研究を掠め取ろうとする隠された目的すら垣間見える。こういう不敬な輩こそ断固断罪されるべきであり
コテハンを名乗り自分の立場を明確にする者こそ正義である。
46 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 08:49:10
一般的には、威圧性・話術・図太さ・偏狭さ・性格の腐れ具合・
派閥力等に優れている人は、糾弾されるべき状況でも糾弾されなかったり、
糾弾されても退けたりするので、問題行動を行ない続けやすいわけです。
特に、軽度な問題行動なら尚更で、皆は無難な対応で済ましやすいです。
※偏狭さや性格の腐れ具合もリアル能力の一種です。
リアルでの言い争いでは、彼らが腐れたことを言い続けていると、
多くの人は聞くに堪えないので折れてしまいやすいわけです。
ネットなら尚更で、多くの人は彼ら人を言い負かす程の意欲は無いのですから。
47 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 02:22:03
>>46 いろいろ書かれてるが
何が言いたいのかよく分からない
もっと簡潔に
48 :
唐松山:2007/12/19(水) 19:42:20
迷想続き
もし 「書紀の干支が正しければ」の巻
誕生年は,旧事記の 治世と聖寿より 割り出し 聖寿は 古事記より
西暦 干支 天皇 誕生年 没年齢 聖寿 誤差
291年 辛亥 仁徳誕生
334年 甲午 応神没 62才 130歳 –68 古事記干支
337年 丁酉 仁徳元年
367年 丁卯 仁徳没 治世30年 76才 83歳 –7 古事記干支
398年 戊戌 仁徳没 治世61年 107才 83歳 ??? 以下 書紀干支
400年 庚子 履中元年 仁徳16年 53才 64歳 -11
406年 丙午 反正元年 仁徳39年 36才 60歳 -24
412年 壬子 允恭元年 仁徳63年 54才 78歳 -24
454年 甲午 安康元年 履中1年 56才 56歳 0
457年 丁酉 雄略元年 允恭7年 61才 124歳 -63 白河本旧事記の聖寿61歳
489年 己巳 古事記干支
480年 庚申 清寧元年
485年 乙丑 顕宗元年 允恭38年 40才
488年 戊辰 仁賢元年 允恭34年 53才
西暦400年庚子 履中元年 以降 暦の圧縮,伸長は 在りません。
仁徳83年間(空白を含む ?本旧事紀)が必要。実際は83−19=64年間 をどうするか?
太子菟道稚郎子の年齢と共に?
あと干支(日々の干支も含む)の 切り替えと。
倭の5王を 差し込むには 更に 考察が 必要。
49 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:14:45
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50 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 17:52:09
「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」
age
52 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 22:26:42
倭の5王は
履中、反正、允恭、安康、雄略
なの?
53 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 22:42:45
421年 倭王「讃」、「宋」に遣使 履中
425年 倭王「讃」、「宋」に遣使 〃
430年 倭王「?」、「宋」に遣使 反正
438年 倭王「珍」、「宋」に遣使 〃
443年 倭王「済」、「宋」に遣使 允恭
451年 倭王「済」、「宋」に遣使 〃
462年 倭王「興」、「宋」に遣使 安康
478年 倭王「武」、「宋」に遣使 雄略
54 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 22:56:40
「宗書」によれば、
@珍は讃の弟
A興は珍の世子
B武は興の弟
この血縁関係から、
@讃=履中 、珍=反正(反正は履中の弟)
A済=允恭、興=安康(安康は允恭の子)
B武=雄略(雄略は安康の弟)
とされている
もっとも、雄略=武であることのみがほぼ異論がないだけで、
讃を応神や仁徳に当てる説、珍を履中に当てる説、
興を木梨軽皇子に当てる説などがある
55 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 14:40:41
稲荷山古墳出土鉄剣象嵌文字
(表) 辛亥の年七月中、記す。 =========>471年?
ヲワケの臣。
上祖、名はオホヒコ。
其の児、(名は)タカリのスクネ。
其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。
其の児、名はタサキワケ。
其の児、名はハテヒ。
(裏) 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。
其の児、名はヲワケの臣。
世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、 =====>雄略?
シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、
此の百練の利刀を作らしめ、
吾が奉事の根原を記す也。
56 :
にんとく:2008/02/05(火) 15:48:15
>>1 1.神武東征は(創作ではなく)伝承としてあったのだろう。「正当
化するために」というのは動機の一つであろう。(いずれも推測)
2.3.稗田阿礼=不比等説を採るなら、実質的には両者の編纂に
関わっているはず。稗田阿礼が(X+Y+Zの共同名義のような)
一種の偽名であるとすれば、仮に稗田阿礼が書紀の編纂に関わった
としても、表面には現れない。(もともと、書紀が舎人親王と
安萬侶だけというのがおかしい。)古事記の素材が後宮の女性に
あったという意味では、偽名の稗田阿礼は女性だとも言える。
4.5.帝紀(帝記)は欠史八代の記述のようなもの。旧辞は神話
(物語)や説話・歌謡の部分。旧辞に属する部分はほとんど創作の
可能性もあるし、僅かに史実を含む可能性もある。つまり、よく判ら
ない(ので、書紀の資料批判が古代史を語る上での第一歩とされる)。
6.これも神功紀での卑弥呼への言及以外不明。『魏志』は朝廷の
賄賂で書き換えられた、というのは妄説であろう。
・日本史板の「大国主=天武」スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177236818/l50 の138以下が古事記論(出雲神話論)になっている。
稗田阿礼は仮名で、正体は藤原不比等である・・・これは梅原猛説であるが、
古事記序文が書いているように、
不比等が、天武天皇から、旧事を読み習うよう命令された、
というのは事実なのだろうか。「帝記及上古諸事」を改編するよう
命令したのは、天武以外の命令系統ではなかったか・・・
というような疑問を持つ。
58 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 19:59:33
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は
蘇我入鹿を暗殺し大化の改新を行った。
大海人皇子(後の天武天皇)は天智天皇が没した後、
天智天皇の太子大友皇子との戦いに勝ち天皇に即位した。
いきさつから考えると
天武天皇は天智天皇寄りの人を排除するんじゃないかと考えるが、
どうして藤原鎌足の子である藤原不比等が活躍できたんだろ?
天武没時(686年)に、不比等は28歳。
おそらく天智天皇寄りということで、持統天皇と不比等は、
天武の晩年か没後に、急速に接近する機会があったと思われる。
60 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 21:15:34
天智天皇存命中、不比等は幼く、
天智天皇と不比等に接点はほとんどない
近江朝廷が滅んだとき不比等はやっと14歳で
幼いために処分も免れた
不比等の登用は不比等の妻が蘇我氏だったからだといわれている
持統天皇の母方もまた蘇我氏だったから
持統天皇が姻戚の不比等の妻の引きで
不比等を重用したという説
古事記序文偽書説を、私は採らないが、どうも
天武天皇の勅によって稗田阿礼が旧辞を習い覚えた、
という話は、不比等の入れ知恵または了解の下に
安麻呂が語った、架空の話ではないのか
という気がしてきた。
62 :
風神:2008/04/15(火) 12:43:02
日本書紀の神功皇后は卑弥呼と同年代に描かれている。では、古事記の場合は?
古事記も、神功皇后に関連して、怡土、宇美、末羅という地名を書いていることに着目し、
古事記が描く神功皇后も卑弥呼という設定だという説があるが、どうなんだろうか。
63 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 16:49:34
日本書紀と古事記は同じ史料をもとにして書かれてあるから
内容が似ているといわれているよね。
日本書紀は神功皇后と卑弥呼を同年代に描いているよいうより、
隋書の文章をそのまま引用してきて、
ここに出てくる卑弥呼とは神功皇后のことであるとしている。
実際には両者の人物像はかなり違うのだが。
64 :
風神:2008/04/16(水) 09:48:26
>隋書の文章をそのまま引用してきて、
倭人伝では?
「日本書紀」の卑弥呼の箇所は「倭人伝」からの引用。
隋書からの引用は別の箇所(雄略紀?)だったはず。
「古代氏族系譜集成」所収の中臣氏系図に阿礼が男性として系図に載っている件について。
>>66 できればその阿礼の前後を紹介してください。
68 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 20:24:58
>>66 その本に根拠はあんの?
著者が電波っぽい
稗田って九州にも地名があるんだね
70 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 04:14:20
来週のその時歴史が動いたは古事記だよー
71 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 10:31:37
息長氏の傳承も使われてると思う。
息長氏は更級日記にも出て來くるが、今でも續いてんのかな?
72 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 19:42:32
>>69 「稗田」という地名自体は神戸にも倉敷にもある
ありふれた地名
74 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:35:45
>>6 文字がない時代からの伝承を節をつけて伝えてきたなんてロマンがありますね。
その時歴史は動いた見逃したから、帝記とか別に暗誦させなくても書き写せばいいじゃんとか思ってたけど、やっぱ書物じゃなかったんだ
>>6 >『帝記』『旧辞』が文字になったものだったのならば、
>天武天皇は書物を献上させればすんだ。
←これは誤解。天武は欽定の『帝記・旧辞』を策定しようとした。
あるいは、別の者が天武の意向と見せかけた可能性もある。
>天武天皇は、それを稗田阿礼に暗記させた。
>稗田阿礼は語り部ではあったが筆記者ではなかったため、
>太安万侶がそれを代筆した。
これも誤解。天武の権威を背景に、稗田阿礼が手を入れた。
太安万侶は、代筆というか、阿礼の協力者。
76 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 09:36:23
結局、帝記・旧辞は文書化されていたの?
天武は稗田に何のために暗誦させたの?
>>76 結局、帝記・旧辞は文書化されていたの?
←もちろんされていた、と推測される。
天武は稗田に何のために暗誦させたの?
←序文のここの部分は、疑問を生じさせる。
現行の「古事記」が天武の意向通りのものでないことを
示しているもの(と私は考える)
78 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 22:34:51
古事記伝読んで出なおしてくる
79 :
唐松山:2008/05/03(土) 00:09:11
日本書紀と古事記の 西暦が 合体しました
詳しくは、古伝妄信に 書き込んで有ります。
>>78 >古事記伝読んで出なおしてくる
「古事記伝」語釈では誰も凌駕していないし、参照・出典の宝庫で
今も研究に必須の文献だが、根本的に記紀と古代日本を誤解している
ということを明記しておいてくださいね。
81 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 21:12:44
>>80 本居宣長が誤解しているというのはどういうことですか?
82 :
にんとく:2008/05/03(土) 22:54:50
>>81 宣長の天皇観が(今風の言葉で判り易く言うと)原理主義的であって、
記紀(のうちの特に「記」の方)を批判的に読解しえない、ということ。
日本神話については上山春平「続・神々の体系」、日本書紀については
森博達「日本書紀の謎を解く」、を勧める(いずれも中公新書)。
83 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 23:42:59
>>82 ありがとう。まずそれらを読んだ上で古事記伝読んでみます
84 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 00:02:04
古事記が倭国の歴史。
日本書紀が日本の歴史。
85 :
にんとく:2008/05/04(日) 00:54:37
「釈日本紀」(国史大系該当巻の4頁)より。
問。撰修此書之時。以何書為本哉。
答。師説。或云。以古事記為本。(・・)古事記者只以立意為宗。
古事記の概略・設計図に従って肉付けしたのが日本書紀である、
という見解を私は採用しています。
>>76 漢字だけだと正しい読みが解らないから暗誦させたんだろう。
「記紀」だって奈良時代の読みは解らないんだろ(今の読みは鎌倉時代のだっけか?)
雄略天皇の名前が稲荷山鉄剣までは「ワカタケ」と読まれてたのはいい例だ。
「誦習」の意味は?
宣長以外に、倉野や西郷の見解、その他現代の
種々の注釈本にあたってみましょう。
>>82 如何にも左翼の受け売りって感じの宣長観だな、お前。
88は「左翼」も「宣長」も理解できていませんので気にしないでください。
岩波文庫の「古事記」が改版された。(2007年12月)
活字が鮮明になった。値段高くなった。960円
天下を平定することを「聞こえ示す」とあるくらいだし、
古代の日本は非常にオーラルな世界を持っていたんじゃなかろうか?
文字よりも言霊を重んじる世界を
93 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 00:58:03
やはり、ヤマトタケルは英雄だね!
94 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:45:30
あげ
95 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 12:27:09
96 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/14(日) 14:12:49
雄略天皇の名前はワカタケ で正しいワカタケルとは別人
日本武尊の子供のワカタケル(稲荷山鉄剣)を
雄略するための 読み替え。
そうゆう見方もあるよね
若建吉備津日子のことかもしれないし
99 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 16:28:41
誰?
100 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:39:11
ヤマトタケルの祖父。
101 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 13:17:27
古事記に名前が挙がる神名はいくつくらいあるのか教えてください。
もしくは、そういうサイトがあれば教えて下さい。
102 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:38:11
古事記を読んでみればいいのでは?
103 :
キック松平:2008/09/22(月) 07:18:19
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080926-OYT1T00765.htm 西郷信綱さん死去、古事記研究などの国文学者
骨太な「古事記」研究などで知られた国文学者で、文化功労者の
西郷信綱(さいごう・のぶつな)氏が25日午後10時35分、急性心不全のため死去した。
92歳。告別式は30日午後0時30分、川崎市多摩区南生田8の1の1春秋苑。喪主は妻、みち子さん。
大分県出身。斎藤茂吉の短歌に傾倒したことをきっかけに、古典文学研究の道に進んだ。
本居宣長の古事記研究を踏まえ、さらにイギリスの社会人類学、
フランスの現象学の成果をくみ上げた独自の方法論で戦後の研究をリードした。
20年がかりの「古事記注釈」4巻(角川源義賞)をはじめ、
ロングセラー「古事記の世界」や「古代人と夢」「古代人と死」など多数の著書がある。
学問のあり方にも独自の姿勢を示し、戦後は鎌倉アカデミア創設に参加。
横浜市立大学を1971年に辞職し、在野で研究を続けた。
(2008年9月26日23時16分 読売新聞)
西郷さん、学生時代には論文でお世話になりました
ご冥福をお祈りします
106 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:31:36
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
107 :
大和島根:2008/11/02(日) 17:39:16
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
108 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:05:49
>密かなブームになっています
へぇー、何冊売れたの?
109 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:48:48
110 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 21:04:14
111 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:55:02
>>1 >稗田阿礼が女性だったという説は正しいのか
男性か女性かの前に、実在の人物かどうかが問題だろ?
ものすごい知能の持ち主のように描かれているけど、古事記にしか出てこないのは
なぜ? 頭が良かったんなら日本書紀の編纂にも関わるはず、出てこないのは架空の
人物なのでは?
112 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:22:58
>>111 稗田阿礼以前に古事記の編者である太安万侶も日本書紀には出てこない
太安万侶非実在、古事記偽書説(平安時代に日本書紀などをもとに編纂されたなど)
まであったんだ
太安万侶の墓と墓碑が見つかってとりあえず太安万侶という官僚が存在したことは証明されたが
朝廷から位階を受けていた官僚の太安万侶ですらこの有様なのに
ましてや「語部(かたりべ)」の一人にすぎない稗田阿礼なんか日本書紀には載せんだろ
日本書紀は天皇の皇子女ですら抜けていると思われる人が少なくないのに
113 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:32:43
糞チャンコロ、また工場首になったよ。
吃驚するほど、使えないもんな〜、糞チャンコロ。
この先どうなるんだろう、糞チャンコロ。
金神に見放されたからホームレスでしょう。
あ〜【乞食】か、糞チャンコロは。
114 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 23:57:09
やはり、日本文明の根本に出雲があるのではないかと思う。
115 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:26:33
ほー
116 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:26:33
日本文明の根本は日向だよ。日向は天孫降臨の地。髪長媛の出身地。
景行天皇が長期滞在した土地。
この特別扱いはどうゆう意味か? 日向こそ倭国の中心だということだ。
117 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 03:09:19
『古事記』の成立は他の史書に記録されてないと聞いたのですが
『古事記』の存在が最初に確認出来る最も古い史料って何ですか?
119 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 06:33:46
>>118 こんなに早くレスつくとは思わなかった
ありがとう
120 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:49:45
いいよ
121 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:32:02
122 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 02:57:25
まだこんな議論があるのか・・・
俺の仮説
安万侶のの子孫である多人長が弘仁年間に紀の講義(和語での読み方の講義・奈良時代半ば以前は貴族の教養として漢語で読めた?)した時
太氏に伝わるフルコトブミを基に先祖に仮託し序文をつけて世に出した
しかし本文は大化前代の伝承を伝えており歴史のみならず
日本語研究の貴重な史料なのはまちがいない
根拠
1.古事記序に和同4年元明天皇の勅命により稗田阿礼の語る旧辞を太安万侶が
撰録し和同5年正月28日に撰上とあるが、続日本紀にその記載が無い事
2.弘仁私記序に初めて古事記が引用されてる
3.古事記云として引用されているもののうちで現存古事記に一致するものは
平安中期以降
1,2,3に関連するものとして
奈良時代以前とされる文献、史料、金石文のうちで
現存古事記を除くと見当たらない
万葉集草稿はこの時代に存在してた可能性は十分有るけれど
編者とされる大伴家持が死の直後政治的事件に巻き込まれて(藤原種継暗殺)、庶人に落とされるという処分を受けてるので
名誉回復された大同年間以降に世に出たと考えるのが妥当
なお万葉集には2箇所「古事記」の引用が有る(90番、3263番の歌)
ただ
表記がちがう(90,3263共)
歌詞がちがう(3263)
弘仁私記序が初めてというのはこの意味
平安初期とされる文献(ほとんど逸文のみ)に「古事記」の引用は有るけれど
字句が一致するものはない
123 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 02:59:45
連投すみません
あと蛇足だが
古事記には「も」の書き分けがあるけどその8年後の成立とされる書紀にはない
なぜか?
普通に考えればこの時代にはすでに発音上の区別は失われてたと考えるのが妥当
それでは古事記になぜこの書き分けがあるのか?
それは一部の専門家が主張している通り一種の仮名づかいではないのか
「わ」と発音するが「は」と表記するように
あと別の可能性としては書き分けのある本文の成立が区別していた時代に遡るということ
但しこの場合は来歴を記した序文について考えなければならない
古事記だけにある大年神の神道譜も新しい要素がある (例:松尾神社成立譚・改竄の可能性あり)
124 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 06:51:27
>太氏に伝わるフルコトブミを基に先祖に仮託し序文をつけて世に出した
これは誰がつくったもの? どんな内容?
125 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 22:26:16
>>124 土佐国風土記逸文、釈日本紀に「多氏古事記」からの引用がある
内容は現存古事記とは別文
126 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 19:02:29
土佐国風土記逸文は、読んでみるとまともな引用文ではないな。
古事記にこんな趣旨の話があるというだけで、古事記と日本書紀をごちゃまぜ
にしたような話になっている。それをもとに推論するのはどうかな?
127 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 01:19:43
あなたたちは古事記のテキストをどこで読んだのですか?
128 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 02:31:29
似たような話があるぞ
「先代旧事本紀」は平安時代中期に書かれた偽書(中身というより来歴を偽っている)というのはほぼ定説だが
これも承平年間に紀の講義をした矢田部公望(物部氏のゆかりをひく)が偽作したとの説が学会の一部でいわれてる
今のところ論証を欠く単なる蓋然性に基づく仮説に過ぎないが
129 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 05:12:19
基本テキストが読める文献として
1.増補国史大系(現在新版が刊行中、吉村引文館)
2.日本古典文学大系新装版(岩波書店刊)
無くても論じられるが
注釈は新しくなってる
130 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 08:06:05
「先代旧事本紀」って文庫本みたいな簡単に手にはいるものはないのかな。
131 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:18:51
>>130 無理だろう
期待出来るとすれば講談社学術文庫ぐらいか・・・
132 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 02:47:37
これが「還矢恐るべし」という諺の起源である
って文あるけど、そんな諺あるか?
当時はあったんじゃね。史記とか読むと「狡兎尽きて走狗煮られる」とか「唇が無ければ歯は
寒い」とか出てくるけど、今は言わないでしょ。それと同じでしょう。
134 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 05:44:16
>>126・125
普通に考えて土佐風土記の本文からの引用は土佐の神河(みわがわ)についての言及部分までだろうね。
後半は「神」を「みわ」と読むことの注釈だけど、126の言う様に記紀の内容を混同している。
ただ、女性名を「玉依毘賣」にすれば確かに古事記本文の内容に一致する訳で、「多氏古事記」も
「太安万侶編纂の古事記」のつもりで書いたのだと納得できる。
つまりこの注釈を付した人物は古事記本文を確認することなく記憶をたどって引用したので
このような書紀の類似記事との混同をおかしたのだといえる。
一方で、曲がりなりにも官製の地誌である風土記の本文が、編纂者の記憶をたどって注釈されるはずがない。
さらに、土佐の神河の注釈に大和の三輪山をもちだして説明すること自体風土記の趣旨から逸脱していて
朝廷の官人の仕事とはとても思われない。他の現存風土記にもそのような例はない。
したがって土佐風土記の本文からの引用は土佐の神河(みわがわ)についての言及部分まで。
122の「太氏に伝わるフルコトブミ」が存在した特別の根拠はないな。
135 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:54:00
136 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 17:08:12
古事記は偽書。
こんなことは、江戸時代に決着してる。
>>128 記紀らの孫引きがあるからであって聖徳太子云々という意味じゃ偽書かもしれないが
記紀らですべて埋まるかというとそうじゃないわけであって今は現存しない資料を推測できる
ことは変わらんでしょ
海部氏勘注系図なんて補足するような文献も出てきたし資料価値は高まっているんじゃないかな
138 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 04:42:58
>>137 偽書とは来歴を偽ってる書(中身は別)
とは言えそれならばこそ内容についてはより慎重に吟味するのは学問的には当然
「古事記」の内容は来歴はどうあれ古伝承を伝えてるのが結論(例外もあるが)
「先代旧事本紀」は国造本紀を除けば独自の内容は無い
>>138 > 「先代旧事本紀」は国造本紀を除けば独自の内容は無い
本当に読んでいるのかよ
140 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 05:15:10
>>140 読んでいたら
>>138のような発言出るわけないだろ
具体的に書けば物部に限らず海部氏らその祖火明命のことなんだよ
142 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 01:59:45
>>141 「独自」という言い方がまずかったかな?
「国造本紀」以外は記紀、古語拾遺や平安中期にあった文献(ほとんど逸文のみ)から再構成出来ると言い換えよう
自分でやったわけではないが江戸時代からその辺の研究著作があるはず
天孫本紀は?
144 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 15:33:41
古事記は文学、日本語の研究などには役に立つ。
しかし、所詮平安初期に作られた偽書なのだから、
その取り扱いには十分注意が必要だ。
特に古事記から新たな史実を見い出そうとするのは所詮無理である。
古代史の史実を探る為にはやはり日本書紀しかない。
ただし、仁徳以前はすべて架空の人物である。
仁徳以前は天皇(大王)などではなく、単なる王でしかない。
145 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/25(土) 15:38:31
盲象乙枯!!
146 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 00:34:00
144の様な短絡的意見は偽書説論者からしても迷惑
内容を吟味すれば古伝承を伝えておりそれを記した成書があったことを推測させるに十分
紀を重視するのは同じだがその別伝としての価値は有る
勿論成立時に書き改められた箇所や付け加えられた部分も有ると考察出来るが
それは個々の文を検証した上の事
147 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 23:56:23
>146
古事記そのものは勿論古い書物、或いは文学的な書物としての価値はある。
私が言いたいのは史実として古事記を使う事の価値である。
古事記から、日本書紀に書かれていない新たな史実などほとんど見い出せないと言っているのだ。
少なからずとも、平安初期に書かれた書物であろうことは古事記を読めばわかる。
新撰姓氏録よりも新しい書物が古事記なのだから、815年〜830年頃の偽書である。
146は、偽書論者からしても迷惑と言っているが、江戸時代にすでに決着してることを
私は簡単に述べたにすぎない。
>新撰姓氏録よりも新しい書物が古事記
具体的な根拠を
149 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 19:33:30
>>148 根拠。新撰姓氏録から古事記の引用がない。
古事記という書物は、異様なほどに氏族に感心をもった書物で
日本書紀よりはるかに多い皇別氏族を列挙している。
ところが、新撰姓氏録は日本書紀からの氏族の引用にはいちいち注記しているのに
古事記からは唯の一つも引用がない。
これは、新撰姓氏録よりも古事記が新しいからである。
>>122のとおり、続日本記に古事記の記載がない。
古事記に一致するものは平安中期以降しかない。
弘仁私記に初めて古事記という書物があることを伝えた多人長。
この、弘仁私記以前のどの書物にも、古事記の引用がないのは古事記が
弘仁私記時期に出来上がった書物である証拠だ。
古事記は多氏の価値を上げるための偽書だ。
新撰姓氏録編者の上毛野氏よりも当時失脚していた多氏のほうが偉いのだと
言いたいだけがためにでっち上げられたのが古事記の序である。
150 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 04:14:38
>>149 個々の論証は概ね賛成だが
やはり結論は短絡的と言わざるを得ない
なぜならばこの問題は江戸時代に決着しているとか(事実に反する、書いたのは貴方だよね?)
最後の三行は主観に過ぎる
151 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:46:59
>>149 最後三行は主観と言われればそのとうりかもしれない。
しかし、現に薬子の変で多入鹿は失脚し、逆に上毛野は「朝臣」の姓を授かって
新撰姓氏録の編纂に加わったことを人長が面白かったはずはないと容易に察しがつく。
古事記序というものを水戸黄門よろしく印籠のように掲げ最古の歴史書などというが
この序を省いて冷静に古事記に携れば偽書である事は明確である。
そして、賀茂真淵が指摘していることを私はここに言っているにすぎない。
152 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:32:52
>>151 122、150だが俺は序文は多人長の手になるもの、本文は古伝承を伝えており(当然改竄や不可はある)それなりに貴重
根本的には同意見だと思うので敢えて書くが(これが最後)
賀茂真淵までは偽書とは言わないまでも序文の不整合、諸本の少なさからそれほど重要視されてない
本居宣長の「古事記伝」が出てから記紀の評価は逆転
それは最近まで続き(現在でも?)
太安万侶の墓誌が出土した時の当時の古代史家のコメントを見れば分かることだが・・・
印籠だとか賀茂真淵だとか無意味なことを・・・
153 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:01:55
×不可
○付加
154 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:47:37
>>152 古伝承と史実とは全く違う。
私も古事記の価値は十分に理解しているつもりである。
しかしながら、古事記という書物は文学作品あるいは国語(日本語)としての
書物であって、歴史書(史実の探求)という書物としては不適切である。
古事記自体が平安朝に出来た新しい書物だから史実としての価値がないのではない。
その内容に日本書紀にはない新たな史実など古事記からは見い出せないのだ。
太安万侶に関して言えば墓誌が出土する以前から実在の人物であることは
承知している。
しかし、続日本紀に太安万侶のことは書かれていてもこの人物が日本書紀に携った
或いは、古事記を献上したなど何もかかれていない。
賀茂真淵が言うように太安万侶以降に書かれた書物が古事記だ。
厳しい言い方だが、賀茂真淵が無意味なのではなくて本居宣長の古事記伝のほうが
史実の探求という面ではよっぽど無意味である。
155 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 09:45:36
>>154 厳しい意見だな。
しかし、古事記が偽書だったなんて知らなかった。
156 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 09:09:52
いや、それ定説じゃないか>偽書
内容の古伝承が史実ではないというのは同意だけど。
157 :
156:2009/08/01(土) 09:11:35
まちがえた。一字抜かしてた。一字ちがいで全然逆の意味になるw
いや、それ定説じゃないか「ら」>偽書
内容の古伝承が史実ではないというのは同意だけど。
まともな学者で古事記が偽書とか言ってる奴はほとんどいないだろ。
158 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 05:14:11
偽書論の存在が知られる事はいい事
教科書で習われた事しか知らない人が大多数だろうから
だから
>>154のような短絡的なものを偽書論と思われるのは迷惑
結論を言う前にきちっとした文献批判をしてからだったらいいが・・・
159 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 00:02:15
古事記序
@稗田阿礼なる人物は古記録を誦習させられるほどの学者でありながら
姓(かばね)がない人物である。身分のない人物が天皇の舎人という
官職についている。
稗田阿礼なる学者が日本書紀やその他の書物に全く名前が出てこない。
A太安万侶に古事記を編纂させたとあるが、続日本紀には太安万侶の官位
のことなど記載されているのに、古事記編纂にあてたことなど全く書かれていない。
太安万侶は日本書紀の編纂にもあたっているとされているが、日本書紀
どころか、続日本紀にも書かれないというのは不自然である。
古事記本文
@新撰姓氏録は実に1812もの皇別氏族を列挙いるが、その注記に日本書紀の引用
は一つ一つ書かれているのに古事記から引用したと唯の一つも書かれていない。
A播磨風土記、出雲風土記からの引用が多々伺える。
文献批判はこんなものでは短絡的なのか?
160 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 01:52:08
>>157 賀茂真淵派まともな学者ではないのか?
本居宣長の師であると私は認識しているが・・・・・・
161 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 02:03:14
>>159 播磨風土記 ×
因幡国風土記 〇
訂正
162 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 03:55:26
>>160 本居宣長は名簿を奉げて真淵の門弟になるが
直接会ったのは一度きり
賀茂真淵が伊勢に立ち寄るということを古本屋(?)に聞いて
宿を探して会いにいった(行きは駄目だったが帰りには会えた)
たぶん記紀万葉の認識については異なる点も有ったろうが
両碩学の間では熱い話が有ったろうと想像される
もしかしてこの時の真淵の示唆が後の宣長に影響してないはずが無い
師説を奉じるだけでは後継者とは言えないと思うが・・・
>>159 素朴な疑問だが、正史があくまでも『紀』であった以上、正史に準ずる存在としての『録』に『記』からの引用が無いことを以て、「故に、『記』は偽書」とするのは成立し得ないかと。
164 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 17:32:07
>>162 >>160は賀茂真淵が、まともな学者かどうかが言いたかっただけでないの?
本居宣長が門下生であったことは間違いないのだし。
165 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 17:40:13
>>163 素朴な疑問だが、古事記が最古の歴史書なら普通引用するのではないの?
しかも、氏族は日本書紀より古事記の方が多いのだから普通は参考にするでしょう。
>>165 素朴な疑問だが、最古だからといって多少参考にはしても引用するとは限らないのでは?まして同じような時期を書いた「正史」が別にあるなら、わざわざ違うのを引いてこんでもいいんじゃないかと。
167 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:51:38
最古という自称が揺らいでる
先入観抜きで文献批判をすれば当然出てくると思うが・・・
168 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 22:12:41
>>166 例えば、日本書紀神武天皇紀では氏族は一つしかない。
古事記には、21氏族がある。
新撰姓氏録は7氏族。
新撰姓氏録は日本書紀からの引用はきちんと書かれている。
あとの6氏族を古事記から引用したとして何故書かない?
1氏族は書いても6氏族のことは、多少の参考だから書かなかったのか?
169 :
日本@名無史さん:2009/08/03(月) 22:13:38
日本書紀と古事記に共通した古書があったというのが
一般的なんじゃなかった?
「国記」の一部が蘇我邸から救い出されたとあり
この国記は現存していないが
これが日本書紀と古事記のもとになっているとか。
170 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 00:24:25
>>169 古事記という書物が最古の書物であるのなら不思議な事が起こる。
日本書紀神代巻では本文が終わるたびに一書(あるふみ)いわく。と書かれている。
さて、古事記が日本書紀以前に出来た書物であるのなら当然に一書の中に古事記を
参照して古事記との内容が合致したものが出てくるはずだ。
ところが、これが全くない。
日本書紀は古事記を全く参照しなかった。
話は簡単だ。古事記などこの時代になかったからだ。
一方、古事記は神代巻では出雲国風土記、因幡国風土記逸文と非常に
よく似た描写が書かれているが、日本書紀にはない。
これも、話が簡単で、風土記よりも後に古事記が出来ているからである。
171 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 16:00:31
古事記が最古の書物というのは、序以外にはないということ?
原文読んだことないけど、古事記序と本文の整合性がとれていないということなのかな?
172 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 20:00:20
>>171 整合がとれないというのは
本文がより古い成書の存在を推測できる部分を含んでる形跡がある
(逆に平安時代に付加された疑いがある部分もある)
序文では元明天皇の詔で口唱を筆録せよとあるが
同時代の音かどうか疑わしい(「も」の甲乙の区別)
来歴の唯一の史料が古事記序文のみ(即ち自称、正史である続日本紀には無い)
173 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:41:09
>>172 古事記序と本文との整合性はまるでとれていない。
しかし、最も重要なのは日本書紀天武天皇紀十年と古事記序の整合性だ。
天武が2重人格でなければ、このような相反する編纂命令などしない。
174 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:43:23
175 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:55:25
>>172 172は本文は古い時代に書かれていて、序を後から付け足したと言いたいのか?
176 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 23:09:27
大和岩雄あたりの古い説だよ。
177 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 23:42:52
>>175 本文も紀より後にできたと思える箇所が散見する
178 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 01:46:30
>>177 古事記は神代巻に非常に時間を割いていることを念頭において
本文を見てみる。
まず、風土記が上進されたのが和銅6年(713年)
出雲国風土記が献上されたのが733年。
実に20年もの歳月をかけて風土記を作り上げた。
ところが太安万侶は711年稗田阿礼に習わせて1年で古事記を完成させ
712年に献上しているのである。
因幡国風土記や出雲国風土記とよく似た内容を1年で作り上げたことになっている。
こんなバカな話はない。
古事記が風土記よりも後に作られた偽書だからなしえたのである。
古事記序と古事記本文の整合性でいえばなぜ序に和銅5年と書かれたか全てが氷解する。
古事記は風土記を盗作したのだ。
盗作したからこそ、713年より前の712年を入れなければならなくなった。
散見どころではない。
本文がそんな後の時代に作られたのなら、
敏達・用明の後裔氏族についても当然触れられるはず。
異様なほど氏族に関心がある書物なんだろ?(
>>149)
特に路公・当麻公は天武朝までに賜姓済みだし、
偽書を想定してもこれらの氏族を落とすのはおかしい。
180 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 03:35:17
>>179 嘘をついて人を信用させようとすれば
嘘の部分はなるべく最小限にして
本物を肥大化させるのは普通
181 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 10:57:01
古事記が偽書ではないという人たちは
>>144からの名無さんの主張の反論を是非聞きたいのですが・・・
このままでは古事記偽書説に傾きそうだ・・・・
182 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 19:46:30
>>179 敏達・用明だけを引っ張り出すな。
古事記下巻仁賢、武烈、継体、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古
これらは系譜しかのっていない。
これの意味する所は、仁賢以前で氏族を出し尽くしたのだ。
出し尽くしたというのは、多氏(古事記編纂者)が考える氏族のことだ。
古事記が歴史書としての価値がない。というのはこの部分にもある。
いわゆる、近代に近づくにつれて豊富に書かれる日本書紀とは対照的だ。
本文をマクロ的に見た場合、政治の事にはあまり触れることなく、神話や
歌が異常に多く書かれているのはなぜか?
これは古事記編纂者が政治的無頓着、或いは政治的無知な人物が書いた
書物であろうことが考察される。
そう、例えば雅楽寮のような多氏が書けばな。
183 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 09:16:46
古事記は純粋な和語で書かれていて、日本書紀は漢語で書かれた
書物だと昔きいたのですが、それで同年代に2つの歴史書があるのだと
習ったような記憶が・・・・
だからこそ本居宣長も古事記を絶賛したのではないの?
184 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 23:44:33
185 :
163:2009/08/08(土) 01:08:53
>>165 「普通」って何?
単なる貴方個人の価値観に依拠しての史料批判は不可だよ。
オレが指摘したのは貴方の論法の齟齬。
>>166 他の人が見た時に、オレが再反論したように見えるから、文体真似るのはやめてくれんかね?
しかもしょうもない主観的な見解に過ぎんし。
そういうのは迷惑だから自分の言葉で書け。
186 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 03:45:37
>>163は
>>166はではないのか。迷惑な奴め。
しかし、
>>165が言うように古事記という書物がその当時存在しているのなら普通参考にするだろ。
もし、真実に古事記が国史としての地位がその時代あったのなら参考にしないという
考えのほうが不自然ではないのか?
新撰姓氏録は皇別氏族のほとんどが応神までである。
古事記の最も得意とする分野であるにも関わらず古事記からの参照がないのはどういうことか。
先にも述べたが、神武では1氏族しかない日本書紀。
古事記では21氏族
新撰姓氏録は、古事記に記載された皇別氏族の紀元を全く無視して作って献上したのか?
1812の氏族を皇別、神別、諸藩に別けているが、もっとも重要なのは皇別氏族に決まってる。
その、皇別の紀元を古事記から参照しないということがありえる事実は一つしかない。
815年当時でも古事記はなかったのだ!
187 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 05:37:04
新撰姓氏録は編纂の過程が明らか
その注に日本紀合だけでなく続日本紀合もある
そのころ昔からの身分秩序の変動期だった当時を反映して新たに姓を改姓する願いが続出(代表例は斎部氏)
それに対応するためのいわば便覧として編纂された
現存古事記がその時成書として存在してないのは十二分な傍証(まして自称の通り勅撰書だったらなおさら)
古事記に日本書紀からの引用が無いことを理由に古事記を偽書とするのは不可。
「偽書である可能性がある」というだけ。
それに、過去の論争にも出た通り、上代特殊仮名遣いの古事記のみの残存という事実には、偽書説、特に本文改竄説の立場からはどう応えるのか?
189 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 05:50:44
>>188 >上代特殊仮名遣いの古事記のみの残存という事実
この事と序文に記された来歴に矛盾があるとは思いませんか?
現在は逸文のみだが多氏古事記、一古事記の存在が有る(現存古事記とは異文)
これらが俗にいうタネ本だったとは考慮に価しない話か?
だから先行する成書の存在を推測出来ると以前書いた
>偽書説、特に本文改竄説の立場からはどう応えるのか?
1,2の例をあげると
松尾神社成立譚(内容が平安初期と論証出来る)
書紀の欽明紀の皇子女の記載と比べてもらえば古事記の方が新しい
190 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 15:29:48
>>188 日本書紀が古事記を引用していないこと「だけ」を取り上げて偽書だ。などと
言った憶えはないぞ。あくまでも要因の一つだ。
古事記なる書物を引用している部分が万葉集にもある。
しかし、これは現存古事記とは全く別物だ。
現存古事記よりも万葉集の仮名使いのほうが古いのだから、今の古事記は偽書。
一方、万葉集は古事記という書物を引用しているので、「古事記」と名乗る
書物は昔あった。
しかし、現存古事記とは別物である。というだけである。
191 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 20:16:32
>>190 成立当初の原本古事記が残ってないのだからどうしようもないじゃん。
古事記より万葉集のほうが言葉づかいが古いなんて学説あったっけ?
192 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 04:22:57
たまたま岡田英弘「日本史の誕生」をつまみ読みながら
ネット検索しててたどり着きました。
この本の247頁にこう書いてありますね。
ぱっと読んだ感じでは、論証が強引な気はします。
『・・・「万葉集」巻二に「古事記」というものを引用して、軽大郎女の恋の歌「君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ」をのせているが、これは今の「古事記」とは別の書物である。
その証拠に「万葉集」の引用では、「君之行 気長久成奴・・・」と、漢字の音と訓を混ぜて書いてあるのに、今の「古事記」では、「岐美賀由岐 気那賀久那理奴・・・」と、音だけで書いてある。
「万葉集」の中でも、年代が古い歌ほど、漢字の訓を使って日本語を表記する傾向が強く、漢字の音を使うのは年代の新しい歌である。
今の「古事記」のように日本語の一音節ずつを完全に漢字の音で表記するのは、年代がきわめて新しい歌の傾向である。
そうすると、大伴家持が「万葉集」を編纂した八世紀の後半にも、まだ今見るような「古事記」は存在しなかったことになりそうである』
ところで、矢嶋泉「古事記の歴史意識」はオススメですか?
193 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 22:11:46
>>191 万葉集で古事記を引いているではないか。192の言っているとおりだ。
同じ歌が万葉集と現存古事記に載っているんだよ。
ところが、漢字表記は全く違う。
だから、古事記には国語としての価値はあるのだ。
歴史書としての価値は皆無に近い。
194 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 16:09:02
本居宣長は古事記が最古の歴史書として絶賛したのはなぜですか?
彼は、多氏となんらかの関係のある人物には見えませんが・・・
古事記が怪しいというのは賀茂真淵も指摘していてるのに
門弟にあたる大学者の本居宣長が偽書に気付かないものなのでしょうか?
195 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 08:58:48
現行古事記は万葉集以降に読みをリライトされた、当時の現代語訳なのでは?
質問。
日本書紀に書いてないから偽書って言ってる人は、富本銭も偽物と思うの?
197 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 00:26:38
そうかもしれないけど、どっちでも同じ。
199 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:59:32
>>193 古事記は奈良時代の成立。
奈良時代の表記で記していて問題がない。
奈良時代成立の万葉集が古事記成立よりさらに古い時代の歌を引っ張ってきて
飛鳥時代の表記が混じっていても不思議はないが?
なぜそれが古事記は新しい書だという根拠になるのかの理由がない。
200 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:23:19
>>199 旧古事記らしき書物はあったんだよ。
現古事記とは全く別物。
旧の古事記を基に現古事記を作成したのであれば、当然に古い表記も出てくるだろう。
しかし、現古事記は平安時代の代物だ。
奈良時代成立の根拠を逆に聞きたい。
201 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:30:37
>>198 日本書紀、続日本紀に古事記の事が書かれなければ疑うだろ。
古事記の何を持って偽物と言っているのかがわからないが、偽書の意味は
来歴を偽っているかどうかの話だぞ。
712年成立に関しては嘘だ。
歴史書としての価値はほとんどない。
文学、国語の価値は非常に高い。
これが私の見解だ。
202 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:36:05
古事記に出てくる人物って新羅の王子とか百済系って本当?w
>>201 俺にアンカー付けてるってことはそれが富本銭の件の答えなのか?
正史に書いてない富本銭も疑うのかと訊いてるんだ。
逆に言えば正史の記事は全て書いてあると言えるのか。
故意か事故かはともかく書いてないことも少なくないと推測すべきではないのか?
204 :
日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:15:16
>>203 正史の記事に全てが書かれているなどと一言も言っていない。
富本銭ごとき記事を正史に載せる必要もないだろう。
古事記なる書物が偽書か否かを判定する材料の一つに正史を用いるだけだ。
新撰姓氏録も材料の一つだ。
そして、古事記序、本文。これも材料の一つだ。
総合の判断で偽書だと言っているんだよ。
205 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 12:49:30
>>195 現代語訳にリトライされたから古事記成立は平安時代ということになる。
206 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 00:39:42
序文が偽りだから古事記は偽書だというのなら
タイトルからして日本紀と違うんだから日本書紀も偽書だろ。
207 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 00:57:56
>>206 するどい指摘
なぜこれを問題にしないか不思議
偽書(来歴を偽ってる書)というのとは違うが
続日本紀の記述と明らかに異なるんだから
続日本紀以降の後世の偽作としか言いようがないな。
あるいは続日本紀が国史のくせに記述がいい加減で信じるに値しないのかの二択しかない。
209 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 11:43:30
古事記が来歴を偽っているのは間違いなさそうだね。
日本書紀は来歴を偽ってはいないのなら「偽書ではない」でいいんでないの?
日本紀の来歴を流用するなら、まず日本書紀と日本紀の言う日本紀が
同一のものであることを証明をしなければいけないのでは?
○:続日本紀の言う日本紀
×:日本紀の言う日本紀
212 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 17:00:29
図書館に行き、
平成21年度の群像新人文学賞評論優秀作 伊東祐吏氏(74年生まれ)の受賞作を
『群像6月号』を読むべし。
鮮烈なデビューだ!
『古事記』を書いてある事をありのままにそのまま受け止める本居宣長が語られている。
自分で考えた「トンデモ」やってたって埋もれるだけだ!
もし、自分が世に出たいのなら先ずは古事記鵜呑みから始めろ。
213 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:57:07
ほー
214 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 12:40:08
古事記を読むなら何がいいですか?
>>214 最初は現代語訳から読んでみたら?
梅原猛の「古事記」がおすすめ
216 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 17:30:14
>>210 >日本紀の来歴を流用するなら、まず日本書紀と日本紀の言う日本紀が
>同一のものであることを証明をしなければいけないのでは?
中小路氏は日本書紀以前に成立した中国正史の書名から分類しています。
国名に「書」の字をつけた書名を持つ史書。
継起し、ときには並立しつつ興亡・交替した複数の王朝のうちの一つについて叙述した
紀伝体史書。例:漢書・宋書・隋書など。
つまり、複数あった王朝のうちの一つについて叙述した紀伝体史書が、国名の下に「書」を
つけた「なになに書」であり、これが日本書紀の「書」の前例なのです。なお「紀」は本紀(帝紀)
を意味します。
ということで別物ですね。
217 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 18:10:28
ホツマツタエって知ってます?
知ってるよ。で?
219 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 21:50:38
稗田阿礼は古事記の話を全てなぜか話し言葉で全て暗記していたそうですよね
さあ、そんなことが可能なんですかね?
どうしてそういう話になったかというと、中国からの文字の輸入
以前に日本に文字は存在しないということになっていたからですよね?
ホツマツタエによれば、古事記・日本書紀はその一部の
記述に過ぎないものになっています。
それは、古事記・日本書紀よりも年代的に古いものであることが
最近確認されました。
稗田阿礼のやったことは、ホツマツタエに記録されている文献
(漢字でもひらがなでもない)を部分的に読み上げ、太安万侶が
それを部分的に記録したものに過ぎないのでは。
>>219 >なぜか話し言葉で全て暗記していたそうですよね
その謎の答えは「阿礼が読み上げたホツマツタエが話し言葉で書いてあったから。」とでも言いたいの?
>さあ、そんなことが可能なんですかね?
可能か不可能かで言えば可能。文字を使ってない民族でも古くからの伝承が伝わってる事は珍しくない。
また、ヨーロッパの例になるけどwikipediaの「記憶術」の項も参考になるだろう。
高天原に神々が現れて、すぐ姿を隠すのがは
ビッグバンが起きた直後の宇宙に似てて面白いな
222 :
日本@名無史さん:2009/11/19(木) 19:54:03
>>220 文字がないということは文語体もなかったわけでしょ
どうやって古事記になったんでしょうね?
古事記の膨大な量を数百年に渡って口づだえで伝承ですか?
だから、その実在がずっと疑われていたのです。
しかし、元になる文献が縄文文字であるなら納得できますけどね
223 :
日本@名無史さん:2009/11/19(木) 23:19:14
だから語り部っていうんだってw そんな予備知識もないのか。
日本だけじゃない。世界中に文字を使わず口語だけで歴史を語る
民族がいる。日本もかつてそうだった。中国の文字をつかうようになるまではな。
それだけ。
>>222 >どうやって古事記になったんでしょうね?
語り部の阿礼が語って安万侶が記録する。だから話し言葉で何の矛盾も無いな。
縄文文字があったんなら三内丸山辺りから何か出ないとおかしいな。
倭国が中国の王朝と国交があったんだから漢字も伝わってるかと思うのですが、唐にならないと紙はありませんが木簡や竹簡はあったと思いますよ。
226 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:10:31
そもそも古事記とは『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』
という現状を正すために、天武天皇がその編纂を命じたものです。
しかし、その諸家つまり天皇家以外の豪族たちが持っていた帝紀および本辞
とは何でしょう。
天武天皇が当時28歳の稗田阿禮に勅語して、『帝記』・『旧辞』を暗誦させた
ということになっているんですよね。
つまりそれが全て伝承というのなら、28歳の稗田阿禮は各豪族たちの
伝承にも天皇家の伝承にも通じていたということですよ。
どういうことなんでしょうかね。
稗田阿禮は当時の言葉で過去に記された文字を読み上げたんじゃないんですか?
多分白村江の件で倭を裏切った国賊ということを隠すために書かれたんやないかな。で邪魔な今までの記録を燃やしてしまった。そのときに蘇我氏のとこには沢山記録が残っていて天皇に従わなかったから抹殺されてしまった。
「耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき」とあって、読んだとは書いてないな。
耳で聞いて復唱して覚えたって事になる。
>しかし、その諸家つまり天皇家以外の豪族たちが持っていた帝紀および本辞
>とは何でしょう。
それぞれの家の語り部が伝承していた記憶。家によっては漢字で書いたものもあったかもしれない。
それを摺り合わせたものを阿礼に覚えさせたんだろう。
大和言葉を綴る事の出来る文字があったとしたら、わざわざ漢字で表記する苦労は何のため?
>>227 誰が誰を裏切ったって?
都合の悪い事を隠すためってのは良いとこついてると思う。
230 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 01:33:35
>>228 >耳で聞いて復唱して覚えたって事になる
古事記が書かれたのは、8世紀初頭
その内容は、どう見ても数百年前です
稗田阿禮28歳
その彼が、天皇家のみならず各豪族たちのそれぞれの伝承を
完全に暗記していたとほんとに思いますか?
どうやって?
>大和言葉を綴る事の出来る文字があったとしたら、わざわざ漢字で表記する苦労は何のため?
確かにその通りです
しかし、森鴎外は日本の公用語を英語にしようとしていたのですよ
それに比べれば、いわゆる大和言葉の発音を基に漢字を借用しょうとしたのは
理解できないことでもないです。
「ほつまつたえ」によれば、たとえば矢と屋の区別は出来ないのです(完全に同じ文字)
つまり、同音異義語が存在しておりより明確な表現手段を借用した
可能性もあるのではないでしょうか。
231 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 01:43:56
>>229 古事記が書かれたのは壬申の乱を経てです
天皇家による国を二分する古代史上最大の内乱です
統治上最も都合の悪いことは、天皇以前の歴史が存在するという
ことじゃないでしょうか?
当時、天皇を中心に国ををまとめていく上でそれは不都合なこと
じゃないでしょうか。
小池一夫の漫画で古事記をテーマにしたのがあったな
天皇の正体が時間を操ってる化け物エイリアンで話が凄いぶっ飛んでたっけな
>>230 >その彼が、天皇家のみならず各豪族たちのそれぞれの伝承を
>完全に暗記していたとほんとに思いますか?
そうは言ってません。それぞれの伝承の異同を摺り合わせた「決定稿」だけを暗記するのが任務。
前にあげたwikipediaの「記憶術」の項を見ればキリスト教の修道士は聖書を始めとしていくつもの
文献を完全に記憶する必要があった事が判る。
また、科挙を受けるものは四書五経を始めとして更にいくつもの文献を記憶する必要があった。
それらに比べたらまだ少ない方。
>理解できないことでもないです。
鴎外は漢字をやめてローマ字にしようとした訳じゃないでしょ。漢字の受容はそのくらいのレベルの
変な事だった訳ですよ。
>より明確な表現手段を借用した
何故「漢字ホツマツタエ交じり文」ではなく「万葉仮名」が採用されたのか。明確な答えが出せますか?
234 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:12:30
>>233 稗田阿禮が記憶したとされるのは、文献ではないでしょう。
数百年に渡ってバラバラに伝承されている話を耳で聞いて
それを暗記していたというわけでしょ。
つまり各豪族たちの中に入って話を聞き、そのすべてを記憶する
という作業を行っていたということになるわけです。
これが疑問なんですよ。
万葉仮名というのは、元は漢字ですね
最初は漢字だけ、古事記もそうです。
ホツマツタエは文字ではなく、古事記・日本書紀と言われているものを
含む1万2千行に及ぶ伝承書です。しかしここに神話はありません。
全て実在として描かれており、神武天皇をはるかにさかのぼります。
そしてここで記されている
素朴な文字はそれでいて
切り離して使えるものじゃないのです。
しかも縦書きでないと意味が正しくとれない。
詳しくは「よみがえる日本語」をお読みください。
>>234 >稗田阿禮が記憶したとされるのは、文献ではないでしょう。
「決定稿」って書いたからといって文献を意味してる訳ではありません。各家ごとの語り部の伝承を
摺り合わせて、正しいと決めたものを記憶したという事です。
>ホツマツタエは文字ではなく
これは失礼。ヲシテですか。それを現在の仮名のように使う事は出来なかったんでしょうか。
>しかも縦書きでないと意味が正しくとれない。
昔は基本的に横書きしませんから問題になりません。漢字が導入された頃はなおさらです。
とりあえずホツマツタエの内容には興味ありません。あしからず。
236 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 22:48:43
8世紀の初頭にできた「古事記」「日本書紀」とは、6世紀の半ばに
既に朝廷でまとまられていた「帝紀」や「旧辞」にもとづいて書かれている
のは現代においては常識であるはずです。(高校レベルで教えられているはず)
天武天皇が各豪族たちが所有するバラバラな言い伝えの「誤り」
を正し「真実の書」を記すということで編纂されたというものです。(天皇中心の律令国家体制作りの基礎となるものともいえる)
しかし、「帝紀」や「旧辞」に基づいて書き記すのならなぜ
稗田阿礼が必要だったのでしょうか。太安万侶一人でそれなら十分では?
なぜ、彼に音読させたのでしょう。
ここからは、勝手な推測ですが稗田阿礼は「帝紀」や「旧辞」ではなく
すでにそれを読めなくなっている伝承書を音読したのではないでしょうか。
それは「ほつまつたえ」(まことの言い伝えの書)
であれば、つじつまが合うように思えてなりません。
226 稗田阿禮は当時の言葉で過去に記された文字を読み上げたんじゃないんですか?
228 「耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき」とあって、読んだとは書いてないな。
耳で聞いて復唱して覚えたって事になる。
235 「決定稿」って書いたからといって文献を意味してる訳ではありません。各家ごとの語り部の伝承を
摺り合わせて、正しいと決めたものを記憶したという事です。
236 稗田阿礼が必要だったのでしょうか。太安万侶一人でそれなら十分では?
なぜ、彼に音読させたのでしょう。
★「稗田阿禮」は、【日枝(ピエタ)の生まれ=聖人・大津皇子(諡号は、雄略天皇・聖徳太子&聖武天皇)】
★『日本書紀』の「天武下巻」=【雄略天皇(大津皇子)条】
28歳の稗田阿禮(雄略・大津皇子)が、人麻呂(書きの基の一麻呂=「官房長官」の名乗り)が、隠岐島で、臨死の時、
【隠岐島西郷町加茂(山)】鴨山の岩根し【倭根子(皇統)を】枕ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ (巻2・223)
皇太子に同行した藤原八束(真楯)が、稗田阿禮(28歳)=人麻呂(聖武天皇)隠岐の島にて臨死(数え年・百一歳年)からの、聞き取り。
● 『記、紀、万葉』とは、何か?
『記&紀』については、比較的知られているので、ここでは簡単に触れておくだけに留めて置きます。
★『古事記』は、【物部氏……石上 布留、<古>の<事>を<記>した、
倭国・九州筑紫王朝(祖神は、卑弥呼)・物部系<夏>の史書】です。
倭国は、「白村江(はくすきのえ)の戦い」の、孝徳天皇(&)有間皇子(定恵)で、一旦滅亡。
高句麗の大臣・泉蓋蘇文は、【額田王・太田(十市)皇女を毒殺し】(復活)倭国・天武天皇に。
★『日本書紀』は、【日本国・九州近江王朝・(統治家)天智系[春]大伴氏の、史書】です。
新羅王武烈=「百濟鎮將・劉仁願」=【外来征服王朝・天智天皇(春)】
名目上の君臨家は、蘇我大王家(秋)。
★『万葉集』は、表裏一体の二重構造を持つ、「表」は歌集、【裏】は史書。
【裏】の史書は、【大倭国・九州台与(→豊)国(&) 近江王朝(天照大神)・蘇我大王家(秋)聖武天皇の勅撰史書】
に成っています。
言い換えれば、『万葉集』は、【最初の即位・雄略天皇(ヤマトタケル)に仮託した、大津皇子(聖徳太子)の、
二度目の即位の聖武天皇、の一代記】です。
但し、『記、紀、万葉』は、平安時代の大和朝廷(梨壺)に於いて、同時に最終編纂されています。
また『記&紀』は、肝心な処では、欺瞞(嘘)があります。
例えば、統治者・天智天皇(春)と、統治者・天武天皇(夏)は、諡号に「天(の文字)」を使用して、
【外来征服王朝(天智天皇は、新羅王武烈、天武天皇は、高句麗の大臣・泉蓋蘇文)】である事を隠しています。
あたかも、兄弟である如く、扱っています。また二人の父を舒明天皇としています。
でも、統治者・舒明天皇は、君臨者・斉明太上天皇下の【藤原鎌足(嘉摩子)】です。
舒明天皇・藤原鎌足が、天智天皇や天武天皇の父である筈は有りません。
「表意」=【擬物法や諷喩(寓喩)に依る、裏意(真意)】=【古典文学に共通】
●「春、夏、秋、冬(四季)」=【四つの王統=古典文学全般に共通】
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香来山 (巻1・28)
この歌から、「春」=【天智(新羅・隼人)大伴系】と「夏」=【(天武)物部系】の【裏意(真意)】が、判った。
あたりまで夏【物部系】ぞ忘るる山陰の清水や秋【蘇我系】のすみか成るらむ 式子内親王
★「春(大臣家)」=【天智(★新羅・大伴・隼人→のちに、平氏)系】
春【天智系・弘文朝】過ぎて〜】 (巻1・28)
石走る垂水の上の早蕨(さわらび=【早人(隼人)・突厥(トルコ人)】)の
萌え出づる春【天智系(春)の世】になりにけるかも 志貴皇子
「春はあけぼの」=【天智系は日の出の勢い】・『枕草子』
せをはやみ岩にせかるる滝川【石川(蘇我)=天の川】の割れても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院
★「夏(大臣家)」=【主流(鳩派)は、孝徳(物部)系・倭国九州筑紫王朝・のちの、源氏。
& 傍流(鷹派)の★高句麗・泉蓋蘇文(倭国を復活させた、(孝徳天皇の)皇太弟・天武・物部系)】
傍流の外来征服王朝・天武・物部系★高句麗・泉蓋蘇文の血脈は、
「道鏡」=【藤原南家豊成(仲麻呂の兄)】で以って、断絶。
夏【物部系(傍流鷹派)・天武朝】来たるらし白妙の〜 (巻1・28)
「夏は夜」=【(主流鳩派)倭国(のちに、源氏)・孝徳天皇・物部系(夏)は滅亡間近】・『枕草子』
★★「秋(君臨家)」=【日本国・蘇我大王家・イ妥(だい)国九州豊国(★&百済)王朝・君臨者・小野妹子(蘇我 卑弥呼)
〜大倭国・九州近江王朝・斉明太上天皇】
「〜 そこし恨めし(部分比定から) 秋山われは(肯定へと)(巻1・16)」
=【(本来なら)私・大田(十市)皇女こそ、蘇我大王家の額田王〔奴佳臺王〕なのに……】。
「秋は夕暮」=【蘇我大王家の勢いは日の入りに】・『枕草子』
皇統君臨家・蘇我大王家(秋)
山【山辺(山部)氏・山辺皇女】川【石川(蘇我)氏・石川朝臣君子(大津皇子)】も依りて仕ふる神ながら
たぎつ河内に舟出せすかも 人麻呂(巻1・39)
大倭国・蘇我大王家(秋)の、連邦に【倭国(&)高句麗、百済(&)新羅】。
★「冬(大臣家)」=【藤原(朝鮮半島の百済・巨勢)系】
冬【舒明鎌足(金多遂)】こもり 〜 (巻1・16)
「冬はつとめて(早朝)」=【藤原系は新参者】・『枕草子』
「白き灰勝ちになりぬるはわろし」=【新羅魏・隼人(ハイト)寄りになったのは良くない事だ】
(注) 「新羅(しんら)・天智系大伴氏」=【→新羅魏(しんらぎ・しらぎ)……斉王 芳(魏の少帝)の血脈を引いている】
大倭国・蘇我大王家は、百済、新羅、倭国・物部系、高句麗の、連邦の盟主だった。
241 :
ごはん:2009/11/28(土) 09:13:37
『稗田阿禮は、当時、お祭りや街角で豊富な昔噺を語っては人気を博していた、
今で言う「古典落語」の大師匠。
だからこそ、天皇は民衆に対するその影響力を考えて配下に加え、また利用もした。』
…と見るのが自然だと思う…。
ごはんちゃん、おととい来てね。(笑)
243 :
ごはん:2009/11/28(土) 23:39:10
アラシに来た訳じゃないよ。
とるに足らない珍説奇説に映っただろうが、
極めて真面目な見解のつもりだ。
244 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 10:02:37
トコヨ国のシンボルが橘(カグ)の花
この木を植えた「ハラミ山」(富士山)を「橘山(カグヤマ)」という
現在も京都御所の紫宸殿前に配置されている木は桜、そして橘(たちばな)
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
万葉以前の文化・歴史、文字を否定するとなんのことだかわからなくなります
245 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:23:33
日本書紀で「馭慮嶋」
古事記で「淤能碁呂」
現代一般で「オノコロ」
伝えているのがただの「音」にすぎないから、意味が取れません
馭慮嶋為国中之柱。〈柱。此云美簸旨邏。〉而陽神左旋。陰神右旋。分巡国柱
>オノコロを国の中の柱として、
>イザナギは左から柱を廻り、イサナミは右から柱を廻った
ここでフトマニ図を見てみましょう
http://www.hotsuma.gr.jp/futomani.html 中心部に注目
246 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 13:43:39
「1+1=?」と訊かれて
「=1+1」と答える。
記紀より邪馬台国論争に夢中になる奴ら。
永久に解答など得まい。
「2」と言っても理解出来ないだろうしねぇ…。
247 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:54:44
記紀は邪馬台国を描いているそうだよ。
248 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 08:59:32
古事記が偽書だと主張している人、頑迷に過ぎる。
古事記の内容が無茶苦茶なのは同意するが。
天武天皇はどうして壬申の乱のことを隠さずに古事記と日本書紀に載せたんだろうね
万世一系の天皇家の正統な跡取りを主張するなら、甥の大友皇子との相続争いの戦乱なんて黒歴史だと思うが
もし神武天皇や欠史八代や欠史十代が天皇家を正当な王族と偽装する伝説なら尚更だろ。
平民(国民)に「俺が正当な天皇だ、俺の政治の力でお前達を幸せにしてやるから俺について来い、俺のために租庸調の税を納めろよ」という立場なんだからな。
古事記も平民に読ませるために作っているんだし。
敵方に付いた兵は処分(処刑とか)、味方に付いた兵士は恩賞として兵役免除とかやって
口封じして書物には載せないと思うが。
250 :
249:2010/03/16(火) 00:02:31
古事記の冒頭には「歴史を正す」とあるわけだから
編纂を命じた天武天皇にとって都合の良いようにできていなければおかしいと思うんだが。
壬申の乱なんてなかった事にすると思うんだが
それか秀次事件の秀吉みたいに秀次が非行をしたとして切腹を命じたみたいに
大友皇子が悪人とする噂を流すと思うんだが、大友皇子を皇族の中の悪人に仕立て上げて、それを退治した自分は正義にすると思う
「俺に味方したお前達も正義だ、これからも付いて来い」と言う意味で古事記を編纂するはずだろ。
実際はただの醜い相続争いとして記録されていることがおかしい。
251 :
249:2010/03/16(火) 00:11:13
乙巳の変、大化の改新は蘇我一族、特に入鹿を天皇家を乗っ取った悪魔として
それを討ち取った中大兄皇子(天智天皇)を正義にしているんだぜ
天武天皇にとって、先代天皇である兄を正義にしているわけだ
ではなぜ大海人皇子(天武天皇)は自分自身を正義として古事記に記さなかったんだ?って話になる。
252 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 00:21:21
>>251 天武の存命中に出来上がらなかったからじゃない?
天智が正義>完成品を受け取ったのは天智の娘の元明。
どんなに悪く書かれても、書き直しさせると思われ。
253 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 00:27:12
>>251 252のつづき。
大体、古事記に壬申の乱の記述あった?
254 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 10:33:44
古事記に出てくる、イザナキギだけど、イザナミが亡くなってその後、離縁した後、
アマテラス・ツクヨミ・スサノオを誕生させるよね?
その後、イザナギはどうなったの?
あと、イザナミが亡くなるまで、多くの土地や神を作り上げた事は理解できるんだけど、
イザナミが亡き後、イザナギが一人で、アマテラス・ツクヨミ・スサノオを男一人で、
作り上げたの??
今一、矛盾していて理解できないんだが・・。
あと、もう一つ、古事記の最初の神、開祖が、イザナギとイザナミで、その二人から、
全てのものが作り上げられていったんだよね?
>>254 >アマテラス・ツクヨミ・スサノオを男一人で、作り上げたの??
作り上げたというか、イザナミに会いに黄泉の国に行った汚れを落とすためにみそぎを
した際に生まれた。
ギリシャ神話のゼウスだってアテナ女神を独りで生んでる。強力な神はしばしば異常
な生まれ方をする。問題無い。
あとイザナギ、イザナミは最初の神では無い。始めに別天津神と呼ばれる五柱の神が
順に現れ、その後神世七代と呼ばれる七代十二柱の神が現れる。この神世七代の
最後に現れたのがイザナギとイザナミ。
神武天皇の所まで、古事記の話を読んだが、面白いねw
ヤマタノオロチとかスサノヲとかヤマタノオロチとか、テレビゲームだけの世界の話だと思っていたが、
古事記が原点だったんだなw。
257 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 00:01:56
稗田阿礼の子孫の阿礼氏が飛騨の山奥で連綿と続いている。
258 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:58:01
稗田阿礼って、稗田の礼ちゃん、って意味なんじゃないの?
昔の中国では、「阿」は「ちゃん」って意味で使ってたんだろ?
古事記の上巻を一通り読んでみたけど、読む人を馬鹿にしたような内容だよね
序文の方なんか、嘘八百だって分かることを正しいことだから、正しいことだからって書いてるし
昔の人間はこんなのに騙されて信じ込んでたんだな
259 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:15:48
古事記通のみなさん、偽書説のカタマリ・大和岩雄氏ってどうなん?
在野研究家らしいが病的な執念深さで御歳80越えた昨年、30年ぶりに
「新版・古事記成立考」を出して偽書説全開。
どこまでネチッこいジジイなんだよ!
672頁もあって読む気しないけどw
オレは意外と「序」も偽書なんかじゃないつー気がする。
「序」では勅命受けてからたった4か月でスピード完成させたことになってて
いかにもウソ臭いじゃん。
(いくらベースがあったとはいえ、日本書紀でも何年もかかってるのに)
でも人間ウソつく時は「ウソ臭いウソ」なんてつかんだろw
よって、「序」の判定はシロ。
260 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 00:09:46
>>253 日本書紀の壬申の乱は元明天皇が「戦乱の悲劇を繰り返してはならない」と言う意味で詳しく載せたのか?
天武天皇の時代だと天武天皇にとっては天皇の座を争ったことで、天皇としてのリーダーシップを疑われる黒歴史だろうから隠蔽するだろうな
それと、敵の大友皇子が天皇にはふさわしくないとして
秀吉が秀次事件で秀次を切腹させた(処刑した)時のように、秀次が謀反をしたとか盲人を殺害するなど暴れまわったなど
いろいろな敵を悪だとして噂などを流して(古事記と日本書紀にも記して)自分を正当化するだろうな。
261 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 06:27:34
日本書紀は大友を天皇とは認めていないし、天武の挙兵は近江側の
攻撃計画に対する反撃だと記している。壬申の乱の記述が詳しいのは
天武の皇位簒奪への疑念への弁明としてだ。
第二の理由は壬申の乱で天武に味方した諸氏族の功績を顕彰することだ。
既に斜陽氏族だった大伴氏も吹負の功績で一時的に息を吹き返す。
書紀の記述にはこれらの氏族の記録が利用されている。
262 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 06:50:15
>>259 買ってはみたが、内容はもう一つだね。これまでの偽書説を超えるものではない。
263 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 20:13:00
大和岩雄は上代特殊仮名遣いがまったくわかっていない。これが大和説の
一番の弱点だ。
やはり偽書なんだよ。
265 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 00:52:25
つーかお前らその本読んでないだろ。
丸わかりだぞ。
266 :
日本@名無史さん:
大和サンのはパラパラっとだけ見たことあるよ。 はしがきのイメージだと
「オレは松本清張にガンバレって激励されたんだぞ、チキショー」
「プロ学者はみんなシカとしやがって、オレに反論してみろ、チキショー」
「こんなんじゃ死に切れん、チキショー」