・ともあれ、707年、孫の首皇子(将来の聖武)に皇位を引き継ぐため、
他の候補者を差し置いて、元明が即位するためには、皇位が男子直系に
引き継がれる規則(のようなもの)と、他の候補者が皇位継承から
離脱したことを、元明に理解してもらわなければならない。皇祖母から
孫への皇位継承は、持統−文武、元明−聖武、と繰り返され、
天孫降臨の神話として成立した。
・もともと文武の即位自体が横暴(ごり押し)だったのではないか。
大津を亡き者にする持統の策略はよろしくないのではないか。
このような元明の疑問に対する説明として、国譲り説話を捉えてみよう。
つまり「他の候補者が皇位継承から離脱したこと」を「国譲りの説話」
として構成してみよう。
・素材は「上古の諸事」または「上古の諸事」を潤色した物語もしくは
創作説話である。オホナムチ(−コトシロヌシ)の説話とアメワカヒコ
(アヂスキタカヒコネ)の説話は、従来は無関係であるが、これらを
接合する。フツヌシにタケミカヅチを加える。オホナムチと無関係の
タケミナカタを、オホナムチの子とする。このような改変を加えた上で、
オホクニヌシ=天武に対するに、系譜上の形象として、アメノホヒ=志貴
または川嶋、アメワカヒコ=大津、コトシロヌシ=忍壁、タケミナカタ
=高市、を擬えることにしよう。そうすれば、大津の事件や高市の
早世について、元明はこれらの前例として『古事記』の当該部分を
理解するだろう。(説話ではコトシロヌシは殺されたと考えられるが、
忍壁は殺されたのではなく皇位継承を拒否したと捉えるのである。
また、タケミナカタ神話の古事記への転用については、「高市の母は
宗像君の出身であり、宮廷神話に吸収される道は開かれていた」との
指摘がある。高市の死因は不明であるが、没後すぐに文武が即位して
いることを考えると、当時高市の死についての悪い噂が元明の耳に
入っていたと推測される。(この推測は、いささかトンデモ本的発想
であるが、こう考えることで初めて、該説話が『古事記』のみ記載されて
『日本書紀』に記載されていないかが理解できるのである。)
(第8回おわり)
(第9回)
『古事記』の問題に取り組んだことのある人には、上記の新説が
画期的であることが理解できるだろう。どう画期的であるかを説明する
なら、@上山=梅原の天孫降臨皇祖母皇孫反映説をさらに推し進めた
ものであるから、妄説からは程遠く、真相の一端である可能性が大きい
こと、A「出雲神話とは何か」という設問に対して「持統−文武、
元明−聖武の皇位継承を元明天皇に納得させるために、天武の
後継者が脱落していった過程を(おそらくは従来から伝わる説話に
潤色を加えつつ新たに構成して)物語化したもの」という明確な回答が
与えられること、Bさらに推し進めれば、「古事記上巻」の構想が
ようやく白日の下に晒されること。以上である。
Bについて説明しよう。
『古事記』は推古の系譜で終わり、推古以降は舒明の名称のみの記載
がある。(天智天武非兄弟説のように)日本書紀の記載を疑問視しない
限り、「父舒明・母皇極」の子が「天智・天武」である。これに
「イザナギ−イザナミ」の子「アマテラス−スサノヲ」を宛てよう。
「天智系に繋がる持統、草壁、文武、元明、聖武」「天武系の皇子たち」
には、「アマテラス−ニニギ」「スサノヲ−オオクニヌシ」を宛てよう。
これで、日向三代までの系譜が出来上がる。あとは初代天皇に接続する
ために、実際には皇孫の活動のない日向三代を付加する。これが現行の
『古事記』上巻の構想だったのである。
・この(あるいは途轍もないと受け止められるかもしれない)説を補強
する説話が、サルタヒコの説話である。サルタヒコが降臨を先導する
話は記紀に共通であるが、話の内容がかなり異なり、ヒラブ貝に手を
挟まれて溺れたという話素は「古事記」にのみ記述され。これは、
人麻呂のことを指している。人麻呂が天孫降臨に先立って皇祖母から
皇孫への皇位継承をバックアップしたことはほぼ確かであるが、
その最期は不明であって、梅原猛の著名な(石見での)刑死説がある。
私は、刑死か否かは確定しないものの(つまり、屈原のように身を
沈める生き方もありうると考える)、「古事記」にこのような形で揶揄
される生涯を送ったのは間違いないと思う。該当箇所を再読願いたい。
「ナマコの口が裂けている」というような話は、不比等の周辺の
官僚たちの笑い話なのである。(話が細かくなるが、水溺れの箇所は
伝説で、ナマコの箇所は創作かも知れない。)
(第9回おわり)
(第10回)
これまで書いてきたハンドル名「にんとく」の新説は、
「古事記上巻の構想一斑」という名の論文として流布させるつもりである。
この画期的な説は、更にどのような推論をもたらすか。
梅原猛は古田古代学=九州王朝説を一切認めていない。
古田武彦は梅原の神話説を津田説の亜流として完全に拒否している。
この新説によると、梅原説古田説両者の統合(いいとこ取り)が可能に
なるので、画期的と称するのである。
基本的な入門書(井上光貞「日本の歴史1」)から要点を引用しよう。
「神代史の最初の構想は、天地の分かれ、イザナギ・イザナミの国生み、
アマテラスとスサノヲの誕生・両者の対立、天の岩戸、オオクニヌシの
国譲り、天孫降臨、ニニギが土豪の娘を娶ってできた子どもホホデミが
大和へ東進。これが最初の形で、これに、アメノミナカヌシ等と日向
三代が加わったのが最終の形。こうした物語は、日の神を信仰する皇室と、
それをいただく大和朝廷が、ほぼ全国の統治者としての地位を勝ち得た後に、
(・・)それを体系的な物語として構想したものであろう。」(文庫108頁)
161 :
にんとく:2008/01/27(日) 21:33:00
井上の論は、津田の「帝紀と旧辞は六世紀の継体−欽明朝につくられた」
との説を前提としており、いわゆる出雲神話の古事記のみにある
オオクニヌシの伝承については、天武朝であるとしている(文庫74頁)。
六世紀に原型が成立し、原型の修正を天武朝までとしているために、
記紀の本質が理解できなかったのである。
今回の新説(「古事記上巻の構想一斑」)によれば、「日の神を信仰
する皇室と、それをいただく大和朝廷が、ほぼ全国の統治者としての
地位を勝ち得た」のは、六世紀ではなく、天智・天武朝になる。すなわち、
天智が秦の始皇帝に、天武は漢の高祖に、相当することになる。古事記は
解説者(例えば西郷信綱)自身が「わからない」との嘆きを連発して
いるのであるが、天智が初めて日本全国を統治した、というテーゼを
承認しない限り、記紀は永久に解釈できないであろう。
(第10回おわり)
(連載おわり)
162 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:49:08
長い書き込み、終わった? で、結論は、↓
大 国 主 伝 では、大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
大 国 主 伝 は、トンデモ説以下の汚物
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は、破綻しました。
(補論その1)
・連載終了後、古いノートを捲っていたところ、小林恵子「天武天皇の
年齢と出自について」(『東アジアの古代文化』16号)からの書き抜き
が見つかった。草薙剣と『漢書』の斬蛇剣との類似性を述べているこの
論文で、小林は「天武紀において「生而有岐巍之姿、及壮雄抜神武」と
いわれ、壬申の乱を勝利に導いた天武は、スサノヲにふさわしいであろ
う」との見解を表明している。これは拙論を補強するものである。
・『古事記』を位置付けるために『釈日本紀』を援用すればどうなるか。
「或る説ではこう云っている。日本紀は古事記を以て本と為す。多く相
違の文有り。古事記は只立意を以て宗と為す。文句の体を労せず。
仍(ナホ)撰修の間にすこぶる改易あり云々。」−−私の解釈では、古事記
は神代史を含む上古史の構想を試みたもの、ということになる。
「日本紀の調度(材料)となったのは、先代旧事本紀、上宮記、古事記、大倭本紀、仮名日本紀である。」−−私の想像では、ここに云う仮名日
本紀は714年撰修の国史である。
この他『釈日本紀』には「倭国の中南北二倭あり。これの意味は
何か。」というような問答が出ている。なぜこれほど重要な古典
に注釈本がないのだろう。
(補論その1おわり)
164 :
にんとく:2008/01/28(月) 16:05:55
(補論その2)
・『水底の歌』が主張するテーゼ(厳密にはヒポテーゼ=仮説)の一つ、
柿本人麻呂=猿丸大夫同一人物説について補強しておこう。以下は提唱
者が気付いていない(したがって「にんとく」の創意に係る)論拠であ
る。この場合に「同一人物である」を厳密に言えば、「猿丸伝説の核に
は常民に投影された人麻呂の像が存在する」を意味する。
・柳田国男は、全国に残る猿丸大夫の伝承を跡付け、「神を助けた話」
を著わした。そこでは「小野といえば朝日長者がかつて住み、必ず一人
の猿丸がその家から出た。」「猿麻呂の小野神が、神の孫なるが故に召
されて助成した。」というテーゼが紹介されている。さらに、「朝日と
謂ふ女性の、半ば人間に在って半ば霊界に遊んで居た」「神を助けた話
は、元何れも同じ源に出たとしても、何故に狩人の名が猿であったかの
一点だけは、今有る材料だけでは解説し得るの望みがないのである。」
という記述・資料にも(読み手は)遭遇できる。アマテラス(またはア
マテラスとその妹)の孫のために朝廷に召されたのが、小野氏の一族で
ある柿本人麻呂(本名は猿)であると大胆に仮定すれば、柳田の疑問は
解きうるのである。
(補論その2おわり)
165 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 16:10:35
今どき小林恵子を根拠にするとは、笑われるだけだよ。
165の意見を考慮し、もともと根拠でもなんでもないところの
小林恵子説を、「補強」とみなすのはやめておく。
重大な書きもれに気付きました。広瀬氏の「大国主伝」は破綻している
(あえて言うならばトンデモ説以下である)と思います。
で、にんとくの連載において、藤原氏の祖神タケミカヅチは当然ながら、
文武の擁立を支えた藤原不比等(一派)を指します。おそらく、後の
長屋王自刃事件にも似た暗躍があったでしょうが、これは歴史の闇に
葬られたと考えられます(天武の子のシキ皇子は多分これでしょう)。
(補論その3)
スサノヲとオホクニヌシの活躍する出雲神話の本質については、@史実
の中核存在説、A信仰的世界観に基づくという説(例えば、日本国土に
東西の軸を設定し、東の聖地に伊勢神宮、西の辺地に出雲大社を創建す
る。)、B巫覡信仰宣布説、C作為説(津田左右吉他)等、諸説入り乱
れている。この神話が、アマテラスの岩戸隠れとそれに続くはずのスメ
ミマ降臨の間に挿入されており、しかもそれが天子降臨ならぬ天孫降臨
の直前であることに鑑みれば、上記以外に、D亡き天武の後の皇位継承
の経緯を説話化したものという説、を加えなければ、出雲神話は解読で
きないだろう。
(補論その3おわり
(補論その4)
コトシロヌシ等について。
葦原の中つ国の平定を「日本書紀」で確かめよう。
本文:アメワカヒコの死。タケミカヅチとフツヌシによる
コトシロヌシの承諾、それと併せてオホナムチの承諾と広
矛授与。オホナムチは「やそくまでに隠れる。」タケミナ
カタを欠くが、これは「古事記」の説話に最も近い。
一書第一:アメワカヒコの死。タケミカヅチとフツヌシに
よるコトシロヌシ、オホナムチの承諾。ただし、「天つ神
が求めるので奉りましょう。」というふやけた言葉のみ。
一書第二:タケミカヅチとイハヒノウシ(フツヌシ)によ
るオホナムチへの問い掛け。オホナミチが承諾しないのを
受けて、タカミムスヒの説得により、オホナムチは神の事
を治め、顕露(アラハニ)のことをスメミマが治めることで決着
する。フツヌシの神は国を経巡り平定する。この時に帰順
したのが、オホモノヌシとコトシロヌシである。
以上から読み取れるように、タケミカヅチがオオクニヌシ
と二人の子(コトシロヌシ、タケミナカタ)から国を譲り
受けたという説話は「古事記」のみに記載がある。タケミ
カヅチがコトシロヌシ等を殺したなどという説話は一切見
られない。
(補論その4おわり)
(補論その5)
アマテラスとスサノヲは、天の安の河を中に置いて、ウケヒを行った。
天安河は、高天が原にあった神話上の河で、この川原は天つ神たちの
集会場となり、天石屋戸の時の神議りも、天孫降臨の決定も、この川
原の神集えでなされた。人麻呂の、天の川安の川原に定まりて神し競
へば磨待無(あるいは麿待無)(万2033)は庚辰の年(680年)の作であ
る。翌年(681年)には、草壁の立太子があり(2月)、「帝記上古諸事」
が記定されている(3月)。万2033の「磨」を「麿」に改める説を採る
なら、前年の吉野の盟(4月)を踏まえた歌と解釈できる。要は、人麻
呂は吉野の盟を追認しており、持統朝を迎えて草壁が亡くなってから
は、文武擁立、つまり皇祖母から皇孫への皇位継承に協力している、
ということである。ただし、万39の左注にみるように、人麻呂は、
持統5年(691)4月または5月以降、天皇に従駕できなくなる事情が発生
したものと考えられる。川嶋皇子の死亡は691年9月である。
(補論その5おわり)
171 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 04:38:28
.
172 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 17:24:17
UP!
173 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:09:42
もうとっくに結論済みなのに、わざわざ上げるな、ボケ!!
で、結論は、↓
大 国 主 伝 では、大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
大 国 主 伝 は、トンデモ説以下の汚物
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は、破綻しました。
174 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:29:15
大国と太国はまた違うのか?
175 :
売国マル半:2008/02/04(月) 20:47:03
大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)
の説明が不可能なまま。
←藤原氏が天武系の皇子たちを皇位継承から阻害したこと
の投影であるって、何度も言ってるじゃん。
にんとくの説に基づき、建御雷という重要人物(神)の説明をしよう。
「タケモカヅチとは、藤原氏が天武系の皇子たちを皇位継承から
阻害したことの投影である。」
178 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 15:12:02
>>176 それは「にんとく」さんの説です。
その説は、志貴、大津、河島、忍壁、高市といった天武の子を滅ぼしたのが藤原だという根拠レスな話です。
志貴と河島はよく分からんが、
大津は、鵜野讃良(=持統)に滅ぼされたという以外に考えようがなく、不比等とも時代的に接点は薄く(両者の接触は不可に等しい)、藤原氏の関与の余地はない。
忍壁は、事跡(大宝律令選定)や地位(知太政官事)から、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
高市は、功績(壬申の乱の功労者)、地位(知太政官事)、死んだときの扱い(万葉集の人麻呂の挽歌)、子の長屋王の待遇などから、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
そして、
「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」に直接対応付けるなら
「天武の親子(特に重要なのは草壁)を藤原氏が滅ぼす」(何のこっちゃ?)
という対応関係でなければならず、ムチャクチャです。
179 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 15:14:30
(続き)
さらに、広瀬氏の大国主伝では、
「ニニギは舒明、コノハナノサクヤヒメは斉明」となっていて、建御雷より後の時代の人物が不比等より前の時代の人物をモデルとしており、
「天武系の皇子たちを皇位継承から阻害した藤原氏が建御雷のモデル」というのも無理。
時間軸を好き勝手に捻じ曲げてコジツケてよいなら、妄想としてももはや歴史板の領域ではない。
結論として、
大 国 主 伝 では、大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
大 国 主 伝 は、トンデモ説以下の汚物
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は、破綻しました。
「志貴、大津、河島、忍壁、高市といった天武の子を
滅ぼしたのが藤原だという根拠レスな話です。」
178さんの「滅ぼした」という断定は、説話の一解釈であって、
書紀の神代巻を参照するなら、その解釈が一面的であることが
判ります。私の説は「滅ぼす」ではなく「皇位継承から除外する」
です。
大津→滅ぼされた
河島→亡き者にされた(または単純に「亡くなった」)
高市→亡くなった(が、悪い噂があった・・・というのが私の仮説)
忍壁→皇位継承から降りた
志貴→皇位継承から降りた
コトシロヌシは、神功紀と天武紀に再出する。つまり滅んでいない。
タケミナカタが古事記にのみ出ることの説明は、拙論以外に不可能。
182 :
siraki:2008/02/06(水) 11:27:00
183 :
siraki:2008/02/06(水) 11:30:49
184 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 11:33:18
>>180 「にんとく」さんの言うとおり、次のように訂正します。
「にんとく」さんの説は、志貴、大津、河島、忍壁、高市といった天武の子を皇位継承から除外したのが藤原だという根拠レスな話です。
志貴と河島はよく分からんが、
大津は、鵜野讃良(=持統)に滅ぼされたという以外に考えようがなく、不比等とも時代的に接点は薄く(両者の接触は不可に等しい)、藤原氏の関与の余地はない。
忍壁は、事跡(大宝律令選定)や地位(知太政官事)から、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
高市は、功績(壬申の乱の功労者)、地位(知太政官事)、死んだときの扱い(万葉集の人麻呂の挽歌)、子の長屋王の待遇などから、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
そして、
「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」に直接対応付けるなら
「天武の親子(特に重要なのは草壁)を藤原氏が滅ぼす」(何のこっちゃ?)
という対応関係でなければならず、ムチャクチャです。
>>「にんとく」さんの説は、志貴、大津、河島、忍壁、高市といった
>>天武の子を皇位継承から除外したのが藤原だという・・
←厳密には「天武の子(の説話への投影像)を皇位継承から除外したのは
藤原の先祖(の投影像)たるタケミカヅチ(の功績ないし意向)である、
ということを、第一読者の元明に印象付けようとした」という説です。
古事記の説話は、もちろん歴史そのものではありません。
>>「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」に直接対応付けるなら「天武の親子
>>(特に重要なのは草壁)を藤原氏が滅ぼす」・・で、ムチャクチャです。
←草壁の死(多分病死)以降、皇位継承のありえた者を疎外し、
孫の文武に皇位継承させ、今また元明に孫(聖武)への皇位継承をすることを、
184さんに対してでなく、元明に対して物語をもって説明するのが、
当該説話なのです。(このスレがいかがわしい説=トンデモ説の者によって
立てられているので、184さんは「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」を
毎度しつこく繰り返されていますが「滅ぼす」ではなく「降臨を承諾させる」
「出しゃばらせない」というのが説話の内容であることに気づいてください。
そうすれば、書紀と古事記の説話の齟齬や、タケミナカタの記事が古事記
にしか見られない、という大問題についても、光明が得られるでしょう。
>>184 大津は、持統に滅ぼされたという以外に考えようがなく、
>>不比等とも時代的に接点は薄く、藤原氏の関与の余地はない。
←大津は、アメワカヒコの位置にいます。タケミカヅチは関与しません。
河島、志貴は、アメノホヒの位置です。タケミカヅチは関与しません。
187 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 11:48:40
>>185 「にんとく」さん、ちょっとしつこいですよ。どんどんボロが出てきてます。
天武の親子を「滅ぼす」ではなく「皇位継承から除外」なのだという反論も、実際には、
>>112 の
「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたという歴史的事実があるなら、この語りもありえる、と私は考えます」や
>>128 から後退しているのですよね。
で、今度は(2月に入って
>>180 あたりから)、大国主の親子を「滅ぼす」ではなく「降臨を承諾させる」「出しゃばらせない」ということなのだという反論ですか。ますます後退してますね。
188 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 11:51:44
タケミナカタについても、古事記に記載があって、日本書紀に記載がないことの説明はぜんぜん出来ていませんよ。
元明に高市の早世を理解させるためか何からしいけど、日本書記に書けないことならこっそり教えればよいこと。
自分自身で「トンデモ本的発想」(
>>157)と言うくらい、恥ずかしい説ですよ。
しかも、高市が早世って何じゃコリャです。
(まさか現代の統計上では65歳以下は早世だからとかの屁理屈は言わないですよね。
ここでわざわざ早世と書いているのは、不自然に若く死んだ、なにか陰謀臭い、という含意ですよね。)
高市は672年の壬申の乱で主力軍を指揮し、696年7月に死亡するので、どう考えても40を超えているでしょう。
これを早世というのは、やはりトンデモですよ。
なお、スレ主の広瀬氏はタケミナカタについては、
>>91-92 のとおり説明を完璧に放棄しているので、
この議論に参加する資格もないというのが、哀れというか、みっともないというか、惨めというか、・・・所詮トンデモ以下ですな。
「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたという歴史的事実」は
文字通りだとするとナンセンスなので、後退させました。
後退させたのでこの説は誤り、ではなく、仮説を洗練させていきます。
「タケミナカタについて、古事記に記載があって、日本書紀に
記載がないことの説明」
←元明天皇に物語でもって説明するため、です。公には承認
されませんから書紀には載せられません。こっそり教えたのです。
古事記がこのような性格をもった書物だからこそ、続日本紀に
記載がないのです。「早世」についても、いくらでも後退させる
つもりはあります。ただ、古事記のオオクニヌシの系譜に出ない
タケミナカタがいきなり現れることの背景に、高市皇子の存在が
あった、という仮説はトンデモ説とは考えていません。
あと、187さんが、上山=梅原説をトンデモ説と考える方なら、
最初から拙論については無視されてけっこうです。
「不比等(の一派)が天武子を滅ぼした」と自分で書き込んでいました。
>>190 に続けて。これに注を付すなら、
「タケミカヅチが行動する、対コトシロヌシとタケミナカタが象徴(または
表象する人物を滅ぼした(=皇位継承権を失くさせた)」になります。
いくらなんでも、藤原が天武親子を滅ぼす、などというのは空論以下です。
それはそうと、タケミナカタについて、納得のゆく説明を、拙論以外に
聞いたことがありませんが、どなたか解説できる方はいらっしゃいますか?
191に続けて。「諏訪に特有な古代的性格とは、荒ぶる国としての独自の
イメージであり、歴史的には、信濃国造金刺氏と多氏との線で『古事記』
につながる。」・・・これは武藤武美の論。
「出雲大国家の地域的ひろがりを示す必要から、ことさらに諏訪神を登場
させたのではないかと考えられる。」・・・これは鳥越憲三郎の説。
「高市が皇位継承せず、文武が祖母から孫へ皇位を引き継いだことを
元明天皇に納得してもらうために、当該の説話を配置した。」・・・拙論。
オシホミミがいざ降臨という時に、ニニギが生まれたのでこの子を降臨
させるように、と、オシホミミが提案する。そこで、アマテラスと高木
が、ニニギに降臨を詔する。
タケミカヅチとアメノトリフネがオオクニヌシに国譲りするか否かを
問い掛けた時、大国主は「自分は言えない。コドモに訊ねてくれ。」
と言った。どうして自分で返答しないのか、と我々は思うが、これは、
オシホミミの言い分と対称になっており、ここで漸く、オオクニヌシ、
コトシロヌシ、タケミナカタ、がそれぞれ、天武、忍壁、高市、に
割り振られて当該説話が構想されたことが判明する。
712年の時点で、天皇:元明、知太政官事:穂積親王、
左大臣:石上麿、右大臣:藤原不比等、である。
石上麿は大友皇子に最後まで付き従っていた人物で、
穂積親王(673-715)以外は天智系・天智寄りである。
恐らく、従来の古事記観は、天武の詔勅によるもの
という権威付けを解釈しそこねたのであろう。
古事記自体がトンデモ本めいた要素を持っているのだ。
195 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 19:41:29
>>194 古事記自体がトンデモ本みたいだなんていったらお仕舞いだよ。
「古事記自体がトンデモ本みたいだ」とはちょっと誤解だ。
「トンデモ本めいた要素を持っている」というのは、
稗田阿礼が匿名である、歴史と神話を理不尽に混同している、
というようなこと。
言葉じりをとらえて何かもっともらしいことを言うのは
2ちゃんねるの醍醐味かもしれないね。
分ってきただろう。元明は、持統のようには
わが子の皇位継承に執着していなかったはず
という、もっともらしい仮説を設けることで、
「玉」を確保したい勢力がどのように動いたか
が、古事記から読み取れるわけだ。
カミムスビ、タカミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマトメムスビ、
オホミヤノメ、ミケツカマ、コトシロヌシ、は、宮中に祭られていた。
コトシロヌシが滅ぼされた、というようなことはありえない。
コトシロヌシのヒントは、一つは「高市社」、今一つは「うなて」、だが、
まだ良く判らない。
青柴垣神事のコトシロヌシは、祭る神がすげ替えられたものである。
199 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 01:13:11
199の方もそうですが、それではあなたの通念は、と尋ねると、
古事記はよく分からない、と返事なさるでしょう。
つまり、「妄想」かどうかの判定基準を、ほとんどの人は
持っていないと考えられるのです。
hoshu
202 :
にんとく:2008/06/06(金) 10:23:40
私は、「天智天皇が初めて日本を統一し、天武天皇がそれを簒奪(?)し、
持統・不比等のコンビでそれの揺り戻しがあった。」という大局観を持って
います。副次的に、九州王朝説に賛同せざるをえなくなっております。
古事記は日本書紀の下書き・青写真に相当するもので、いわゆる日本神話の
アマテラスとスサノヲの対立は、天智系と天武系の対立を軸として説話化
したものと見ます。スサノヲ=オホクニヌシとその子は、全体として天武系
を表象しているという神話解釈です。私が固定ハンドルを用いているのも、
この主張の提唱者の痕跡を残すためであります。拙論は、出雲神話の解釈の
一つであって、特に、このスレッドの>138以降に、詳しく述べています。
壬申の乱が実質的に越と倭の内戦で、記紀が天武絶対化の為、天武の来歴を反映したものになってるって事は
否定しないよ。でもそれって目新しくないよ?
204 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 17:49:42
205 :
広瀬 満 :