1 :
ta:
大昔、魏志倭人伝によると、この国は卑弥呼という女王が国を治めていた。
この謎の女王と邪馬台国は人々のロマンであり最大のミステリーである。
また、日本建国の謎と天皇家との関り合いは?
今、この謎にせまる!
2 :
神奈川県民:2007/05/20(日) 18:14:01
名前入れ忘れました笑
ご自由にどうぞ!
3 :
神奈川県民:2007/05/20(日) 18:16:13
みなさま、おひさしぶりです。
謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符シリーズの復活!
どうぞご自由にお書きください!
名前入れ忘れたが気にせずにいきましょう笑
4 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:16:15
5 :
神奈川県民:2007/05/20(日) 18:22:28
邪馬台国イコール物部氏はどうでしょうか?
初代邪馬台国王、ニギハヤヒという意見もありますが。
よって、邪馬台国は畿内!
神武天皇(初代)〜開花天皇(第9代天皇)は邪馬台国時代となります。
6 :
神奈川県民:2007/05/20(日) 18:29:00
邪馬台国
(呼び方は ヤマトノクニだそうです)
それと誰か携帯版のアドレス教えてください。
終止符6をみたいからです。
7 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:31:48
8 :
神奈川県民:2007/05/20(日) 18:50:34
邪馬台国はもうすでに発見されてるんだけどいろいろいう人がいますよね。
大和朝廷の発祥の地はどこですか?そう畿内ですよね。
それをわざわざ九州から東征だの東還だの考えすぎですよね。
天皇家(アマテラス一族)はもともと、本州のことをなんと呼んでましたか?
秋津島ですよね。
しかし実際には「虚空見つ日本国」が国号だったのです。
9 :
サガミハラハラ:2007/05/20(日) 19:17:44
>>邪馬台国はもうすでに発見されてるんだけどいろいろいう人がいますね。
邪馬台国は私が発見しました。
卑弥呼は歴史上のほかの人ではありません。
10 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:14:14
やっぱさあ、
前原遺跡の女王がそうなんじゃない?
伊都国が卑弥呼の時代の前、倭国だったことは確実と思うし、
卑弥呼の時代もなにか特別の存在だったことは間違いない。
邪馬台国と倭国、さらには伊都国の関係はよく分からないが、
卑弥呼が伊都国近辺に葬られていても、不思議ではないと思う。
前原遺跡以上に、卑弥呼の墓らしいところはある???
11 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:29:43
邪馬台国は甘木。
これだけはガチ。
いや〜、ドンコイと並ぶ名スレが続いてよかったです。
前原遺跡?
13 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:37:51
日神子
14 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:48:11
もう少し議論を整理することができんのか、おまいら
16 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 21:15:22
超能力捜査官に透視してもらえばいい。
17 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 22:02:09
>>10>>14 平原1号墓の鏡は凄い。伊都国の王墓に間違いないと思う。
しかし卑弥呼の墓ではない。
平原1号墓の墳丘は約13メートル×8メートル。
周溝部を加えてもそれほど大きくはならない。
倭人伝に記された卑弥呼の「径100余歩」に比べ、規模の点で平原は小さ過ぎる。
18 :
サガミハラハラ:2007/05/20(日) 22:45:10
前原の遺跡は歩(中国式なので1歩約140cm)百歩ないですよ。
19 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 22:53:47
逆にいうと、径百余歩の問題さえクリアされれば、
前原市の平原遺跡は、卑弥呼の墓として、急浮上すると思う。
そこで、これ↓ (ちなみに、俺とはなんの関係もないページだが)
http://itoitokoku.hp.infoseek.co.jp/hirabaru.html では「径百余歩」は何だったのか?それは平原にある特徴的な柱が関係していると思われます。
この柱は墳墓とは切っても切れない関係にあり墳墓の一部と考えられていたと思います。 それは
墳墓の盛土よりも、はっきり目立つ存在であったことは間違いありません。
この建てられていた柱の位置は墳墓から17.5メートル離れた所にあり、また墳墓の14メートルの
中心部分に 被葬者は葬られていたので、この半分の7メートルの位置が被葬者が眠る中心の位置
です。 この7メートルと墳墓から特別な柱の位置までの17.5メートルを足すと24.5メートルとな
ります。 別の言い方をするならば、被葬者から特別な柱の位置までが24.5メートルであったこと
になります。 これが陳寿のいう「径百余歩」であったのではないかと思うのです。
どうだろう? 平原遺跡は卑弥呼の墓と思えないか?
>>19 前原の墓では浮上なんかしないよ、どう考えても。
21 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:23:13
>>19 あまりにも恣意的な解釈。平原遺跡が卑弥呼の墓とはとうてい考えられない。
平原の調査に全精力を傾けられ、この遺跡の重要性を生涯訴えられた原田大六先生が聞いたら
「おまえはバカか! 帰れ帰れ!」と、きっとあの世でゲキドされるだろうな。
そのページ、銅像の写真まで入れておきながら、大六先生に対しなんとも無神経だと思うね。
(大六先生はもちろん畿内説。笠井新也氏の卑弥呼の墓=モモソヒメ箸墓説に賛同)
22 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:26:08
まあ、そういうな。
平原遺跡が、箸墓以上の卑弥呼の墓の有力候補なのは
疑いがないよ。
(箸墓は、実はやまとととひももそひめの墓ではなく、本当は祟神天皇陵
という有力説もあり、そもそも女性の墓かどうかが疑わしい。
それに比べれば、平原の方は、女王の墓なのは確定してるし)
平原遺跡は卑弥呼の墓
http://www.okunomasao.com/itosima.html (奥野氏のHPだが)
23 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:27:44
>>8 >それをわざわざ九州から東征だの東還だの考えすぎですよね。
日本書紀読もう。天武天皇が編纂したのに書いてるんだよ。
24 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:31:53
日本最古の神社は熊本ですが。
天照「神話」の関連神社は宮崎に集中してますが。
25 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:36:10
平原遺跡は
規模も小さすぎるし
年代も卑弥呼の死よりも百五十年くらい前だし
卑弥呼の墓というには無理がありすぎる。
さすがに150年前は古すぎるだろ。
まあそれはおいといて、前原が邪馬台国じゃないってことは
衆目の一致するところだから、卑弥呼の墓ってのは無理だな。
28 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 03:00:07
平原は280〜300頃だから、卑弥呼の時代とはずれるね。
>>28 >平原は280〜300頃だから、
こりゃ180〜200頃の書きマチガイだわな。
30 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 06:44:47
歴代の王の正妻達、巫女として働いた王女達もそれなりに当時の
最新の限りを尽くして宝に囲まれて葬られるだろう。
それをいちいち卑弥呼と騒ぐのもどうかと思うが。
卑弥呼が死んだのは戦争中ってことを忘れんなよ。盛大な葬式ができるような
状態じゃねーぞ。周りに埋められた100人つーのも戦争中の捕虜がいいとこ。
神功皇后が宇佐の神軍とともに熊襲征伐の際、死んだ隼人の100人の魂を鎮めるために
建てられたという宇佐の亀山傍の百体神社。ひょっとしてなw
31 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 07:29:43
私はいま邪馬台国に住んでいますので郵便番号を教えてもいいですよ
32 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 07:48:51
平原女王墓が誰を葬ったものかは判らないけど、
その地が伊都國の領域であることは間違いないでしょう。
ただ、王都と王墓の所在が一致しないこともあるので、
卑弥呼の墓が伊都にあってもおかしくはない。
もちろん、出身地や都近くの特に関係の深い地を
選ぶことが多いが、
その時の政治状況によっては、王の支配域であって、
威光を示すに効果的な場所が選ばれることもあるでしょう。
33 :
サガミハラハラ:2007/05/21(月) 10:02:45
私も郵便番号知ってますよ。
〒845−0001です。
34 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 13:00:47
末盧國は前原です。
35 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 13:14:19
卑弥呼の宮殿なら〒845−0021だよ。
神武東征って、そのあたりの神話って
みんな意外にちゃんと読んでないだろう?
古事記、日本書紀、旧事本紀白河本、海部氏系図などを総合してみたら
もともと日本は、出雲王朝(本拠地は大和?)が支配していました。
そこの臣下にカチハヤ(官位はアメノオシホミミ)という人物がいて
その長子にニギハヤ、次子にニニギがいましたとさ。
まずニギハヤが出雲王朝に謀反を起こし革命が成功、
アメノホアカリとして天津系の初代倭王になりました。
しかし、それから三代後、弟のニニギの子孫である神武さんが
ニギハヤの三代後の倭宿禰命から王権を奪取、
神武王朝が始まりましたとさ。
ちなみに、「ミミ」「ミミナリ」というのは出雲の官の名称。
神武の先祖・子供などに「ミミ」がついた呼称が多いのは
出雲王朝の影響でその官名を引き継いだのが大きく影響しているだろう?
ちなみに、神武の正妻との子供の長子には「ヒコ」があっても「ミミ」がない。
これは彼が最早、一官ではなく、倭王の新しい後継者と確定したからであろう。
(ただし、彼は早く死んで王位を継承することはなかった)
37 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 19:59:56
しかし、平原遺跡の場合、
副葬品からみて、原田大六氏は天照大神の墓としているが、
それもどうかと思う。
天照大神よりは卑弥呼こそ、ふさわしいと思うがな。
場所は伊都国なのか?
伊都国ではないだろ。伊都国の少し南で、伊都国の外。
邪馬台国の位置ははっきりしないものの、方角としては
あっているんじゃないか?
卑弥呼の時代にあっても伊都国は特別な国で、
中国の使者が常駐したのは伊都国であって、邪馬台国ではない。
いわゆる放射状読みの中心も、伊都国だ。
なにより、卑弥呼の前の時代の倭国は伊都国であるんだし。
(伊都国こそが、倭国そのものである時代があったということ)
おそらく当時、伊都国のやや南にあって祭祀をになった処が邪馬台国で、
経済・文化や祭祀以外の政治の中心地は、まだ伊都国だったのではないだろうか。
38 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 20:35:33
それと、平原遺跡で注目したいのは、
神武東征の出発地である日向峠と近いということ。
被葬者は、日向峠を向いていたという。
この地から使わされた征東将軍が神武だったようにも思える。
それはもちろん、日本書紀などに記載されていることだが、
倭の五王の上表文にいう、
東のかた毛人(もうじん)を征すること五十五国 とあるのは、
神武東征のことなんじゃないだろうか。
もしそうなら、そして、その日向峠にほど近い平原遺跡の
被葬者が卑弥呼だったら…、と妄想したくもなるがなぁ。
39 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 20:38:41
卑弥呼の墓は宇佐にあると決着している
このスレ復活したのか?
終止符つかないだな・・・やっぱり
41 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 22:37:50
>>22 平原遺跡が女性の墓というのがいまひとつわからないのだが。
何かで、武器の類がないのがその証拠と聞いたような気がするが、はたして
そうだろうか。
たとえば、熊本県宇土市の向野田古墳は、人骨が出土していて明らかに女性
なのだが、武器の類も出土している。鉄刀四本。鉄剣四本。刀子78本という
具合。鉄剣は長さが120cm近くもある。
だから、武器がないのが女性の証拠とは思えない。むしろ、貝輪のようなもの
があるのが女性の証のような気がする。
平原遺跡の場合は、鏡が人為的に割られていたことや、武器がないのがむしろ
悲惨な最期をあらわしているような気もするのだが。
42 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 23:10:30
>>34 奴国から東へむかった使者は、遠賀川に入り、それを南行。
少し遡ったあたりが投馬国。(トバタとして名残をとどめているのではないか?)
遠賀川をさらに南へ水行。ある地点で上陸、陸行して、邪馬台国(現在の甘木付近)
へ至ったのではないでしょうか。
このほうが、長崎まわり〜有明海北上〜筑後川よりも自然では?
43 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 23:14:10
>>41 おいおい、平原遺跡の副葬品くらい押さえておいてくれ。
中国にも例のない有名な巨大鏡…、しかも、内行花文鏡が太陽(日輪)を
象徴化した鏡が5面など、銅鏡40。
ほかに、素環頭大刀(そかんとうたち)1、ガラス製の勾玉(まがたま)3、管玉(くだたま)30以上、小玉500以上、連玉886個、
メノウ製管玉12、耳とう(ピアス)2などなど。
被葬者が女性であることは異論がないばかりか、太陽信仰と結びついた
巫女であるのも確実とされている。
問題は、卑弥呼の時代と合うか、そして、伊都国内じゃないのか?
という場所の問題。
時代については、2世紀前半から3世紀後半とされ、248年ころと
される卑弥呼の没年にかぶさってるんだが。
場所は、自分の場合は邪馬台国は伊都国のすぐ南にあったのではないか
と思っているんで無問題なんだが、伊都国内ではないか、という人も
多い。
卑弥呼は戦乱のうちに死んだ。
原田大六氏は、神事の最中に雷に打たれたのではないか、と言ってた
ように思うが。(同氏は天照大神の墓としている)
太陽の巫女だが、卑弥呼と別人なのか、それとも卑弥呼なのか。
自分は卑弥呼と思いたい。
そして、神武はここからすぐの、日向峠から東征した。
>>43 >被葬者が女性であることは異論がないばかりか、太陽信仰と結びついた
>巫女であるのも確実とされている。
無茶苦茶ですな。
45 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 23:46:58
>>43 なかなか良い意見ですね。
超大型内向花文鏡が日輪の象徴化というのは、そのとおりだと思います。
記紀のアマテラスにも通じるところがあります。
被葬者が女性で、武器が少なく、祭祀性の強い大型鏡から太陽神信仰と
結びつけるのも賛成です。
時期を3世紀後半まで視野に入れているのは私も同じで私は卑弥呼の墓の可能性
はあると思いますが、280〜300頃と見ています。
同じ超大型鏡を出土した古墳からみて平原だけを突出して古く見ることは出来ないので、
250頃より古く見ることは難しいと考えます。ミッシングリンクの発見を期待しています。
祭祀形態(鳥居様の跡が複数)からも吉野ヶ里末期の北墳丘墓より新しいと考えられ、
ここからも250より新しいと考えています。
私は、卑弥呼やアマテラスのような女性の祭祀者が歴代に複数いたと考えています。
その流れの中でモモソヒメや神功皇后も考えています。
46 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 06:30:31
平原遺跡の年代だが、
以下のページにあるように、卑弥呼の時代である3世紀半ばに重なるとの意見も
根強い。(卑弥呼の没年は、3世紀半ばの248年頃とされている)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku220.htm より引用
また、柳田康雄氏は論文「平原王墓の性格」のなかで、岡村氏の論考なども検討した上で、
総合的な考察により平原遺跡の年代を3世紀前半以降としている。
平原遺跡の年代については、考古学者の小田富士雄氏も「平原は邪馬台国の段階」であると
述べており、柳田康雄氏と同じ年代感のようである。
47 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 06:42:34
平原遺跡を太陽信仰に基づく巫女の墓 と見るのは、
一般的に認められている見解だよ。
http://selfpit.way-nifty.com/selfpit/2007/03/post_a458.html から平原遺跡部分の引用
特に直径46.5cmの古代で世界最大の超大型内行花文鏡(ないこうかもんきょう)5面を含む
銅鏡などの豊富な副葬品から、1号墓は巫女的な性格をもった伊都国の女王墓と推定される。
なお、超大型内行花文鏡を八咫鏡(やたのかがみ)として、「日本書紀」などにみられる
大日霎貴(おおひるめのむち)=[天照大神(あまてらすおおみかみ)の別名]の墓と考える
原田大六先生の説がある。
(前原市教育委員会)
一つの説として紹介されているのと、
『確実とされている』では雲泥の差がある
49 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 09:05:34
人骨が出土していて初めて確実だといえる。
首飾りは古代ではむしろ男性の装身具といわれる。したがって
平原の場合は、副葬品から見ても女性とする根拠には乏しいと思う。
別に平原に敵対するつもりもなく、ここが卑弥呼の墓であってもかまわないと
言う立場だが、なるほど女性だ、なるほど巫女だ、なるほど太陽信仰だと
納得するには程遠い。
確かに、国産の大型内行花紋鏡や大量の銅鏡は注目に値するが。
50 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 10:21:46
結局卑弥呼の墓とは大きさがことなります。
52 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 12:29:41
>>46 柳田康雄はその後再度論文を提出し、平原の実年代を200年前後と訂正した。
古代史好きなんだろうからさ、最近の本も読もうよ。
概要は「邪馬台国時代のツクシとヤマト」に掲載されている。
53 :
日本@名無史さん :2007/05/22(火) 12:43:46
末盧國を唐津とするとそこから東南陸行500里が
伊都国。
実際には地形からみて、唐津から前原までは貢物を
運んで陸行できないと思っている。
前原の平原遺跡は重要な邪馬台国時代の遺跡であること
は良くわかるが、上の矛盾を解決しない限り伊都国とは
認めにくい。
54 :
日本@名無史さん :2007/05/22(火) 12:51:35
前原が重要な港湾の拠点であったことから、唐津
前原を含めて、末盧國としたらまだ分かりやすい。
貢物も運ぶのには、邪馬台国に近い港湾に荷を降ろす
のが、常識と思われる。
36 :日本@名無史さん:2007/05/21(月) 16:49:49
神武東征って、そのあたりの神話って
みんな意外にちゃんと読んでないだろう?
古事記、日本書紀、旧事本紀白河本、海部氏系図などを総合してみたら
もともと日本は、出雲王朝(本拠地は大和?)が支配していました。
そこの臣下にカチハヤ(官位はアメノオシホミミ)という人物がいて
その長子にニギハヤ、次子にニニギがいましたとさ。
まずニギハヤが出雲王朝に謀反を起こし革命が成功、
アメノホアカリとして天津系の初代倭王になりました。
しかし、それから三代後、弟のニニギの子孫である神武さんが
ニギハヤの三代後の倭宿禰命から王権を奪取、
神武王朝が始まりましたとさ。
ちなみに、「ミミ」「ミミナリ」というのは出雲の官の名称。
神武の先祖・子供などに「ミミ」がついた呼称が多いのは
出雲王朝の影響でその官名を引き継いだのが大きく影響しているだろう?
ちなみに、神武の正妻との子供の長子には「ヒコ」があっても「ミミ」がない。
これは彼が最早、一官ではなく、倭王の新しい後継者と確定したからであろう。
(ただし、彼は早く死んで王位を継承することはなかった)
56 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 14:32:39
御前さぁ、此処のコピペを此処に貼んなよヴォケ
57 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 15:14:48
>>52 そこが柳田の限界か。
柳田は、三角縁舶載説の年代観に従い、三角縁の始まりを240頃とし、
画文帯の始まりを200前後とする考えから、平原を200年頃とする。
私は、三角縁は日本製であると考え、画文帯の開始を320年頃とし、
三角縁の開始を350頃と考えているので、平原は280〜300年頃と
いう
>>45の考えになる。
58 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 15:41:05
>>57 その考えとやらの根拠を述べねば意味がないので質問。
1、なぜ画文帯の開始が320年頃となるのか
それを示す併行出土物か出土状況、また文献などを具体的に提示されたし。
2、画文帯や三角縁の開始がなぜ平原の実年代と関係があるのか
これも桶屋が儲かる理論でなく、具体的に。
>>57>>58 横からだが俺も質問させてくれ。
3.画文帯や三角縁には紀年鏡が何枚かある。
これらは三国時代、つまり西暦200年代の年号である。
>>57は画文帯の開始を320年頃、三角縁の開始を350頃とするが、
そうするとなぜ現時点の紀年を銘せず、古い昔の紀年を入れたのだろうか。
4.もし偽銘ということなら、たとえば前漢武帝の「建元元年」とでもすればいいだろうに、
なぜか紀年鏡は三国時代のある時期に固まっている。
しかし、全部が全部同じ年ではなく、一定のバラツキも認められる。
これはなぜなのか。
60 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:09:45
>>59 >現時点の紀年を銘せず、古い昔の紀年を入れたのだろうか。
誰しもすぐ分かることながら、
景初三年(西暦239年)との銘の鏡は、
初期大和政権が卑弥呼の鏡を偽装したということだわな。
61 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/22(火) 20:27:41
237年=崇神天皇即位=景初元年
238年=景初2年 鏡剣を殿内に奉安する。←この行事に準じた鏡が出土のそれ
62 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:37:01
お前の祟神天皇は、景初元年(西暦237年)の即位か。
で、その祟神天皇はどこの祟神天皇よ。
広く知られた祟神天皇とは別人のようだが?
63 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/22(火) 21:03:42
>>62 お前は江戸川乱歩の探偵小説の読みすぎだ。
崇神天皇が二人もいるわけがない。それともお前は
崇神=神武=應神
なのか〜? 飛鳥さんの漫画等の見過ぎだな。ww
64 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 21:10:16
在日韓国民潭の圧力によって、一度は日本海単独表記に落ち着いた鳥取県琴浦町の日韓(友好)碑が、
日本国民の税金を使って「日本海・東海」併記をした石碑に置き換えられることが決まりました。
意見表明・抗議先
●琴浦町役場本庁舎(町長執務室兼議会事務局)
:〒689 - 2392 鳥取県東伯郡琴浦町徳万591-2
:TEL 0858 − 52 − 2111(代表)
:TEL 0858 − 52 − 1710(議会事務局)
:メルアド
[email protected] ●琴浦町役場分庁舎(商工観光課)
:〒689 - 2501 鳥取県東伯郡琴浦町赤碕1142 - 3
:TEL 0858 − 55 − 7801
●(町長)田中 満雄 (副町長)山下 一郎
●(議長)福本 宗敏 (副議長)坂本 正彦
琴浦町の日韓(友好)碑「東海併記問題」の最大のキーパーソンは、
琴 浦 町 の 「田中満雄」 町 長 と 「福本宗敏」 町 議 会 議 長 だ 。
彼らに意見しなければ意味がない!!
で き る こ と な ら 町 長 、 議 長 に 直 接
電 話 ・ 手 紙 で 国 民 の 声 ・ 歴 史 の 真 実 を 伝 え よ う ! !
転載をし皆に問題を知らせよう!
俺の御間入彦は、前97年即位
66 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 21:20:51
>>63 お前が別人の祟神天皇を引っ張りだしてきたんだろう?
書紀の通りなら、紀元前97年から、紀元前30年になるのかな。
(計算、合ってるかな?)
まあ、そりゃあんまりだろうということなら、
安本氏によると、紀元350年頃の人ということになるのかな。
で、その端数まできっちり出してきた237年即位の根拠はなに?
と聞いてるんだよ。
ただ単に、初期大和政権が、卑弥呼の鏡(景初三年 239年)を
偽装したというのをうやむやにしたいから、そこに即位を
持ってきたのかよ。
卑弥呼の鏡の年は、中国の史書にあるんだよ。
そっちの根拠はなんなんだ!!!
67 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 21:24:23
画文帯、三角縁の年代は古墳時代の開始をいつとするのかで、ほぼ決まる。
画文帯はほとんどが古墳から出土し、古墳時代の直前ころに存在したと考えられる。
古墳時代初期に、画文帯を出土するも三角縁を出土しない時期があるので、
三角縁は古墳時代の初期の中ごろから始まったと考えられる。
古墳時代の遡上の有無に拘らず、この点はほぼ全ての学者に共通する。
画文帯の紀年を正しいとすると、古墳時代の遡上か、鏡の伝世かの選択を必要とする。
68 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/22(火) 21:41:34
>>66 お前は前97年などと言っているところをみると、237年を神功37年
と観ているのか? そんなはずはないだろう。もし紀の編者連の
記述どおりなら、神功の後代の應神、仁徳はそれぞれ111歳、143歳
とかの寿命になっちまうぞ。だから237年は神功37年=景初元年
ではなく、編者連のやむを得ないことからの時代の当て方の
間違いだということなのだ。倍暦の計上で真の237年たる景初元年
は崇神即位元年に相当されるのだ。
だからそれら畿内の鏡とやらは、238年=景初2年=崇神2年の
鏡剣の殿内奉安の行事に準じて造作されたものであり、だからこそ
畿内からそれがうんと出土されるのだ。安本氏のは鮨詰め編年で
誤差が大きく役に立ちにくい。
69 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 21:47:02
>倍暦の計上で真の237年たる景初元年
>は崇神即位元年に相当されるのだ。
どこか、他所でやってくれ。
真面目にやってる人間に迷惑だ。
70 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/22(火) 21:49:52
>>69 余は真面目に言ってるんだよ。それと畿内出土とやらの鏡と、卑弥呼の鏡の
論に重要ではないか。お前は神功39年が239年と思っているようだな。
それは大間違いだ。
71 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 22:06:23
>お前は神功39年が239年と思っているようだな。
馬鹿だ、お前。
お前が他所に行かないなら、俺が出る。
馬鹿の相手は出来んからな。
72 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/22(火) 22:16:51
73 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 23:02:19
>>67 の続き。
紀年から、画文帯を180年〜240年頃とする考えの難点。
1、画文帯が出土する古墳時代直前頃より以前の時期に日本で流通していた鏡の
なかには、魏や晋の時代の鏡と考えられるものが多く含まれる。
2、1の鏡を全て後漢までの時期のものとすると、逆に、魏や晋で流通していたと
される鏡が存在しなくなる。
3、以上から、画文帯は、魏、晋の鏡がある程度日本で流通したのちの時期の鏡とする
ほうが良いので、その年代は300年以降と見るのが自然。私は320以降と見ている。
4、画文帯は日本での出土量のほうが大幅に上回っていることや、日本でほぼ全部が
出土する型式もあるので、日本で複製されたものが多く含まれていると考えられる。
5、紀年鏡のみ日本での複製ではないとするのも恣意的である。
>>67 >画文帯、三角縁の年代は古墳時代の開始をいつとするのかで、ほぼ決まる。
そして鏡の年代で古墳時代の年代を決めると。
長々とおつかれ
75 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 01:40:53
>>74 古墳時代の開始時期を古墳そのものから決めるのは、難しい(思考の分岐点が多い)。
例えば、基準として、崇神稜を用いる場合。
1、崇神稜の被葬者が崇神であることを認めることが前提(私は、認める)。
2、崇神の在位時期をいつとするのか、のアプローチも色々ありうる。
A、朝鮮への出兵等で後の天皇の時期を確定し、在位年代論などで遡る。
→私は、三韓征伐と朝鮮側の資料と比較して、神功皇后を380〜410の範囲内とし、
そこから在位年代論で在位の誤差も考慮して遡ると、崇神は310〜360の期間内に
活躍したと考えられる。私は、崇神を345〜360頃と見ている。
B、没年干支の記載から318年を崇神没年とする考え。
C、類似規格の古墳の出土物などを参照する(相対年代しか分からない)。
3、崇神規格と箸墓規格(バチ形)のどちらを最古級の前方後円墳とみるか。
A、崇神規格とすると、古墳時代は崇神稜より少し前の頃に開始となる(私はこの考え)。
B、箸墓規格とすると、それよりも10〜20年古墳時代が遡る。
4、崇神規格、箸墓規格の期間を後の時代の1規格の期間よりも数倍長く見る考え(遡上論)
によれば、さらに古墳時代は遡ることになる。
私は遡上論は不合理なので認めない。後の時代の墓域に比してかなり狭い一地域の
古墳群や同一規格の古墳に破格の長期間を割り当てることになるから。
5、前方後円墳に先行する別規格の古墳(帆立貝型、楯築など)を認めて、長期間を割り当てる
考え(遡上論その2)。先行タイプがあったとしても遡上論のような長期間は無理。
・・・こんな感じで、鏡を基準とした場合よりも分岐点が多いのが難点。
遡上論の不合理性を指摘するには有用かもしれないが。
76 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 06:48:14
>>72 太国 ◆yVAs7uaYlY
お前、自分が立てこもり犯だと気づけ。
みんな、引いてるぞ。
77 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/23(水) 06:49:29
78 :
日本@名無史さん :2007/05/23(水) 08:52:30
>>
倍暦を念仏しなければ、いい人なのに・・・
79 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 13:50:33
>>75 言いたいことはわかるがね。
>1、崇神稜の被葬者が崇神であることを認めることが前提(私は、認める)。
この「私は、認める」についての前提が必要なんだよ。
まずミマキイリヒコが実在したとの確証が必要になる。
これは記紀の記述によるとしか言いようがないわけだし
現時点どころか未来永劫に証明できないものだと思うんだわ。
なので「信じる」ことを論拠にするなら、これはもう神の存在を信じるというところが出発点の、宗教談義になるわけ。
これは君の本意ではないだろうと思う。
80 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 14:10:07
ここで学術的手法で論じてみよう。
3世紀の政治状況を出土物などから推測して、記紀で言う「ミマキイリヒコ」の時代に当てはめたとする。
その際に彼の実在云々を論じる前に、そこに書かれたような建国の事象を行った「誰か」もしくは「複数の誰か達」がいて
その内容を伝承として残したと考えるのは、ありだと思う。
そこに少々荒唐無稽な寓話が挿入されているのはご愛嬌なので、ことさらに突っ込むまでもない。
しかし「ミマキイリヒコ」と彼の一族が、3世紀の畿内王権の長、または初期ヤマト連合の代表だったとの確証がない。
これを崇神稜に当てはめるには、まず行燈山=真の崇神稜であることを証明し
なおかつ(繰り返すが)ミマキイリヒコの実在を証明せねばならない。
これは神功皇后も同様で
要するに特に継体以前の記述に関しては
登場人物の実在性、伝承の時系列の錯誤の有無、また実在しながら記載されなかった人物についての言及など
前提と言いきってしまう前に、証明せねばならないものが山積みなわけよ。
その作業と証明がままならない以上
文献からまったく離れた立場で実年代を論ずる考古学的手法には対抗できないのよね。
実際よく考えているなと感心したので、あえて言わせてもらったが
もしユーザーがあなたの説を読んだと仮定して、論拠に乏しいほうは選ばないだろうと思ったので
上記の点をもっと詳細に詰めてから、再度まとめてみてはどうだろうか。
81 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/23(水) 14:22:40
記紀の文証を否定すれば、この古代史論の世界は百鬼横行のようにどんな論説
も両手を振って歩ける。卑弥呼の存在も倭人伝の文証とかが駄目なら証拠がまぁ
ないということになる。津田病蔓延は一向に減らなくなってもやむをえんか?w
逆に考えれば、古代天皇と卑弥呼の証明が考古は出来ないということも言え、
考古の無力さが分かるとも云えるものだ。
記紀は大概の人が、都合よく解釈している。
年代以外を盲信したりね!
83 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 20:46:14
現在でも歴史教科書の作成でもめてるのにそして力のある方の都合がいい内容に書かれてるのを盲信させられる生徒は幸せか
84 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 21:02:50
>>82 都合よく解釈しているというよりも、登場人物の名前だけ使って、勝手に
物語を作っている。何でもありの状態。
85 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 21:05:56
>>79 >>80 いわゆる記紀捏造史観の系譜に属する考え方ですね。
この考えの難点をいくつかあげておきます。
1、血統を重視した身分社会における氏族伝承は、それ自体が信用性が極めて高い。
血統で人の価値が決まる時代に、血統を捏造した文書が広く流布したと考える前提には
無理があります。古事記、日本書紀、旧事本紀、新撰姓氏録などの氏族伝承は、基本的に
正しいと見るべきです。
2、捏造史観を維持するための証明要求の増大傾向
その証明要求を自説に適用することができないことが彼らの自己矛盾でもあります。
「ミマキイリヒコの実在の証明」は記紀と崇神稜では足りないという考えを、そのまま適用すると、
その後の時代の重要人物の多くが否定されることにもなります。
3、古典的実証主義の誤り。
「間違いなき物証を伴わない文献は捏造とみなす。」というネガティブ史観の問題性。
むしろ、文献資料を一応正しいと見て文献相互の矛盾や、出土資料との矛盾がある場合に
文献を疑うという考えをすれば足りる。
古典的実証主義は戦後数多くの発見で否定され続けてきた経緯もあります。
稲荷山の鉄剣の碑文が解読されるまで、「雄略の実在は否定するべきである。」という考えが
外的事実のあり方とは無関係な理論であることは、明らかですね。文献のみで存在を確実視
すべきでしょう。
4、神功皇后について、多くの伝承と朝鮮資料との符号や渡来した人物の符号が認められ、彼女の
突出した個性と行動が書かれているにも関らず、かたくなに実在性を否定する考えには、かなりの
無理があるように思います。
むしろ、実在性を肯定した上で、魏志を引用した矛盾などの点から修正していくべきでしょう。
86 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 21:31:03
>>85 まず概論からいこうか。
史学においての史料とは「まず疑うことから始まるもの」なんだわ。
内容を疑い、真贋を疑い、兎に角疑り深い嫌ぁな性格の者じゃないと勤まらないという悲しい側面がある。
あなたはたぶん「いいひと」なんだと思う。
それは人間的には素晴らしいのだが、史学者にはむかない。
また○○史観と括ってしまうあたり、もしかすると実証より何らかの思想や宗教が先にあるのではないかともこちらは疑うので
そういう「非常に疑り深い人達」が集う場所が歴史学なので、今後はやめておいたほうがいい。
1、などはまさにあなたの人の良さが滲み出た前提であり
2、に関しては、そのとおりその後の時代の人物や事象も疑っている。
もっと時代の下った、たとえば江戸期の話でさえこれ以上疑いようがないというところまで詰めているからこそ、通説として扱われている。
3、などはネガティブと言われれば、まあそのとおり。
しかしそういった非常に「人の悪い」学問なんだよ。
まさに人の悪い者たちが作った歴史を紐解くわけだから、こちらも相当に性格が悪くなる。
4、も同様だね。
あと旧事本紀を引き合いに出しちゃいけないとは言っておこう。
>>85 >血統で人の価値が決まる時代に、
それは江戸時代だろ
88 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/23(水) 21:56:35
>>85 理路整然として正攻法的でまっとうだね。
とにかく疑いすぎの人物は世に多大にいるから、まぁ貴殿の話に
ケチをつけてきたり忠告者もいるわけだが、ひるまず頑張って
もらいたい。
疑うだけ疑えというのが奴らですよ。しかし奴らは生命の元の
水道水は疑わずに飲むところが連中の矛盾なわけですな。
水道水は疑うだけ疑っても飲まざるをえないからねぇ〜。ww
まぁいまは整水器等おいしく体にいいらしい器械もあるそうで
いいですな。
腐らず今後も正論を通されたい。津田病人の治療もよろしく。
仮に崇神が実在してたとしても真の崇神陵が行燈山古墳とは言い切れないだろ
宮内庁が崇神陵としてるから崇神陵信じるってのはなんかおかしいよね
行燈山古墳は崇神陵かもしれないけど違うかもしれない
発掘調査したらもう少しいろんなこと分かってくるだろうけどさ
90 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/23(水) 22:52:41
91 :
85:2007/05/23(水) 23:12:50
>>88 多謝
>>86 捏造史観というのは、実体に即したネーミングだと思います。
この論者たちは、「記紀のこの記載は後世の創作なので、〜と考えるべき。」として
多くの学説を生み出しましたが、彼らの唱える「新説」が、記紀の他の部分に立脚
するという矛盾があります。
また、創作と断ずる基準もないので、たとえばAからZまでの事象のうち、創作とする
対象をCのみ、DHのみ、BFQのみなどと考えていくと無限に説が作れます。戦後の
一時期に流行した思考実験に過ぎないというのが、現時点での結論ですね。
稲荷山鉄剣の銘文などの発見があるたびに、180度も物の見方が変わるとすれば、
従前の考え方に問題があると言わざるを得ません。「物証なければ事実なし」という
実証主義の限界は明らかです。古文献も物証と見るべきです。
旧事本紀は、復権を果たしたと見るべきでしょう。上田・鎌田著の『日本の神々』など
でその史料価値が見直されています。記紀になく、旧事本紀にある地名表記が、藤原京
出土の木簡で確認されるなどの裏付けもあります。
92 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:20:52
>>89 文献では、崇神稜と景行稜は似た記述なので、位置の近い
行燈山古墳と渋谷向山古墳の取り違いはありうる。
現に、一時期は取り違いがあった。
現時点では、宮内庁指定でよいだろうというのが、一般的な
見方でしょうね。
93 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 00:52:04
>>92 >現時点では、宮内庁指定でよいだろうというのが、一般的な
>見方でしょうね。
違う。一般的な見方ではない。
考古学者をつかまえて、「行燈山古墳の被葬者は誰か?」と問うてみたらよい。
ほぼ全員が、「被葬者の名は判らない」と返答してくるであろう。
講演会やシンポジウム等の質疑応答の時間帯で、質問を放つチャンスはあるはず。
いったい、「宮内庁指定でよい」などと、どこの誰が言っているのか。
↑宮内庁
95 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 02:24:22
>>85 神功皇后が創作でない理由としては、オキナガ氏がその後有力氏族に
なっていないことも挙げられる。
自分の先祖に偉人がいたことにするという、創作の動機が存在しない。
96 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 03:39:47
大体さあ、宇佐の亀山。
公的には神武のひ孫の墓となっている。つーか誰だよwww
97 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 10:44:50
宇佐を発掘すればわかるではないか
98 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:59:11
>>93 その方向性の学説の考え方としては、
A、記紀は創作である。
A1、全部創作である。
A2、ある時期より前は、創作である。
A3、崇神より前は創作で、崇神より後も所々創作である。
A4、神武より前と欠史8代は創作で、崇神以後はA3。
B、崇神、景行の実在を認める。
B1、崇神稜、景行稜は互いに取り違いがある。
B2、崇神、景行とも陵墓とは別のどこかに葬られている。
B3、崇神、景行と陵墓との関係は、現時点では確認できていない。
記紀はそれが書かれた当時に残っていた文献と言い伝えを元に書かれた、と
普通に理解した方がいい。捏造史観はどうもユダヤ陰謀説レベルに見える。
崇神稜などの天皇稜は、記紀に場所が書かれていて、すぐ近くの別の陵墓との
取り違いの可能性を疑っても、それなりの根拠もなく、言い伝えそのものを疑う
のは、合理的ではない。
99 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:11:55
>>96 だから、トヨだって。
神武のおばあちゃん。
100 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 09:38:42
神武の曾孫だったらイトク天皇ということになるか。
しかし、古代の天皇は仲哀・セイメイ以外は近畿で死んでいるから宇佐に埋葬されている天皇は
絶対いないね。ただ、日本では、遺体がなくとも墓を(どこにでも)つくれるから、宇佐の墓は何かの由縁
で誰かがつくったものであろう。しかし、何の目的だろうね。
>>96 その宇佐神宮、亀山古墳は神武のひ孫という情報はどこから入手したのですか?
それ初聞きです
たまにはテレビで卑弥呼特集でもしてほしいよね。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・かすがのつぼねは当たり前にあるが・・
103 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:00:27
「不弥国から南へ水行20日で投馬国」と言う事だから、津屋崎を回り、
遠賀川へ入り、河口から南へ向かって少し行ったあたりが「投馬国」では?
「投馬国から水行10日&陸行20日で邪馬台国」と言う事だから、さらに
遠賀川を南へ10日間水行、ある地点で上陸、(上陸地点は飯塚あたりか?
江戸時代の街道は遠賀川沿いに延びており、飯塚で甘木方面へ分岐している。)
陸路20日で邪馬台国。
(魏の使者は不弥国までしか来ていないと思います。 なぜなら、不弥国から、距離の記載が、
里から日数になる。記述もえらくアバウト。)
あと、糸島半島に一大率が置かれていたが、「邪馬台国より北」をそれは監視していた、
ようするに邪馬台国は糸島半島から見て南にあると言う事だそうだから。
邪馬台国は甘木では?
神武のひ孫は懿徳だけだと思ってるのがいるねw
武速前、武稲富、息石耳、磯城津彦もひ孫。
宇佐のはもちろん武速前。
105 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 07:57:57
で、なんで武速前の墓が宇佐にあるの?
106 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:54:18
箸墓でフキ石発見だって
>>106 :日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:54:18
>箸墓でフキ石発見だって
ソースはどこだ?
109 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 13:15:42
俺の携帯のiチャネル
フキ石って何?
111 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 14:48:07
112 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 15:38:10
>>111 つまり、築造当初から前方後円墳だったということかな?
113 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 16:05:05
>>112 それはすでに前方部側面で確認された頃から確定的だったのだが
前方部前面にもあるということは、前方部が昔言われていたような
後円部の祭祀用に付加されたなどと言うものではない可能性が強まった。
また箸墓の時点で前方後円墳の定型化が相当詳細に決まっていたことも判る。
後の五色塚などとほぼ工法が同じだと考えられるから。
萩原1号やホケノ山、石塚などがそのプロトタイプだった可能性もさらに強まった。
これは下手するとマキムク型前方後円墳の開始時期は
マキムク開発とほぼ同時期にまで遡るかも知れない。
北條のいう「残土再利用説」は相当核心を突いているのではないかと思わされた。
114 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 16:21:43
卑弥呼の墳丘墓は円墳だから、箸墓はいったい誰の墳丘墓
なのだろう?
北條芳隆氏の説を誰か詳しく。
116 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 16:42:10
円墳だと断定する根拠は?
倭人条の記述が100%正確とは言えないぞ。
>>114 :日本@名無史さん :2007/05/28(月) 16:21:43
>卑弥呼の墳丘墓は円墳だから、箸墓はいったい誰の墳丘墓
>なのだろう?
魏志は大雑把だから分からない。
そもそも、魏志に書かれているような規模の円墳は
卑弥呼と同時期の古墳では発見されていない。
魏志の記述だけでは、卑弥呼の墓が円墳がどうかは分からない。
ただ、かなりの規模だったことは分かっている。
それくらいの規模の古墳は、卑弥呼と同時期だと
巻向からしか発見されていない。
九州にある古墳は全て小さすぎる。
119 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:17:22
>>115 論文そのものは現在探索中(考古学研究か季刊考古学にあったらしい)だが
古墳期に入って上総など主に東関東で新設された集落は
集落と古墳がセットになって出現するというもの。
つまり集落建設で発生した大量の残土の使い道として巨大古墳が発生した
または両者が表裏一体の工事であるとの考え。
オオヤマト古墳群でも初期の纏向が微高地への盛り土で築造されているのに対して
柳本では残土発生をもたらす開発がなかったためか、丘陵を削る形で古墳が形成される。
これは他のスレで紹介されていたものだが
正確な論文名と掲載紙が分かればすぐにでも取り寄せたいのだけどね。
誰か知りませんかね?
北條芳隆さんは分かり人みたいですけど
彼は邪馬台国論争に関して、どういう認識をもたれているんですか?
北條芳隆さんは若い先生みたいですけど
彼は邪馬台国論争に関して、どういう認識をもたれているんですか?
123 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:34:22
>>116 倭人伝には、卑弥呼の墓は、径百余歩とある。これは円墳と考えるのが普通。
したがって、前方後円墳である箸墓が卑弥呼の墓である可能性は少ない。
と、考えるのが自然。
一方で、
箸墓は、卑弥呼の墓に違いない。しかし、箸墓は前方後円墳。したがって、
倭人伝の記述は間違っている。
このように考えるのは不自然。
124 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:35:17
>>122 若いっていってももう40半ば過ぎ、50手前だったと思う。
村上などとの共著「古墳時代像を見直す」によると
東西の通商拠点とするために東瀬戸内や近畿各地、東海などが纏向を3世紀開始前後に開発。
それに北部・南部九州や日本海側、関東が相乗りして、実質的な通商の要となり
各地の出身者がそれぞれ地元から持ち寄った自らの神々が祭られ、商取引の約束事をお互いの神に誓い合うなどして
宗教的要所としても急激に発展した。
つまりバリバリのヤマト通商連合説で畿内纏向説。
>>123 魏使が見た時点では、埋葬用の後円部しか完成していなかったのかも知れんぞ?
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html#gaiko 卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
日本ではまだ大規模な殉葬が行われたことを示す遺跡は出土していない。
逆に、出てくればそこが邪馬台である可能性は極めて高い。
しかし、何処かの時点で中国の事例を考えて想像で書かれたとみるのが妥当かもしれない。
『径百余歩』の卑弥呼の墓を探すことに熱心な方がいる。『径』だから円墳であるとか無いとか、
『百余歩』は何mであるとか熱心な議論がされているようだ。
大体こういう方は魏志倭人伝に誤りは無いのだという立場でこの部分を信じているようだが、
その割にはその後の100人以上の奴婢を殉葬したという記述には無頓着である。
この部分を信じる限り、殉葬者が出てこなければ卑弥呼の墓ではないのだ。
しかし、残念ながら日本では今の所このような大規模な殉葬の風習は見つかっていない。
つまり、現時点で『徇葬者奴婢百餘人』は誤りであるとするしかない。
これが誤りなら、『徑百餘歩』も誤りである可能性は極めて高い。
ここにいう1歩は今でいう二歩にあたり、魏晋代では1.45mほど。
100余歩は145m+α。
127 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:44:02
>>123 その「径」を円周と捉えるかどうか、また円以外の周回で
その用法は他にあるのかなどはまた別にして
「百余歩」が事実なら、それに該当する墳墓は円墳、方墳、四隅
いずれにしても存在しない。
該当するのは定型化以降の前方後円墳だけ。
要するに「径」が円を指し「百余歩」が正確なら
それに該当する円墳がないということで倭人伝は間違っているとなる。
「径」か「百余歩」のいずれかが間違っているとしたら、候補地はけっこうある。
ちなみに両方間違っているという可能性も当然考えねばならないのは言うまでもない。
>>124 でも、過去のソースを調べたら
2001年の時点では、箸墓が卑弥呼の墓ではないことが
科学的に証明されてしまうかもしれないみたいなこと
掲示板でほざいていたよ。
129 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:49:15
>>123 前方部と後円部は同時に築かれているので、それはない。
>>127で述べたが「径」が円墳であることの証なら
「百余歩」の規模のものは日本列島には存在しない。
130 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:52:13
>>125 魏使は邪馬台国へは行ってない、という説もあるよね。
ドン来いスレにもちょくちょくそんな主張が見られる、主に九州説の人と思うけど。
じゃ、邪馬台国へ行ってないとしたら卑弥呼の墓は見てないから、径百余歩とか殉葬うんぬんとかは伝聞?
131 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:56:46
>>128 それ「誰が」ほざいたの?
世の中にはそれはそれは色々な人がいるんですよ。
まあ箸中山が250年前後にまで遡るなら、卑弥呼の墓もありだとは思うが
それこそ築造の実年代はまだ250から280の間で諸説あるというのが実情。
むちゃくちゃ古く見るのに230ごろというのはあるが、さすがに賛同者は少ない。
それ以外の説は、ぶっちゃけない。
4世紀以降にしないと破綻する昔の九州説を、商売上の目的で唱えているアマチュア一派は存在するがね。
>>130 魏志を書いた人は邪馬台国までは言っていないけど
魏の使者だった張政は、邪馬台国まで行ったんじゃないの?
よって、魏志に場合、一次ソースが色んなところから得ているので
話が混合している可能性大。
つまり、この記事は、著者が直接見にいった一次ソースの情報だとか
この記事は、二次ソース、この記事は、三次ソースぐらいだったとか。
133 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 17:57:58
吉野ヶ里遺跡が発掘されるまで、マクムク遺跡や唐古・鍵遺跡こそが
邪馬台国の跡だとする畿内説が多数を占めていた。
ところが、唐古・鍵遺跡には楼観・邸閣がなく、倭人伝の記述と相違
しているとき、畿内説の連中は、倭人伝こそ過大な記述で、当時の
邪馬台国と相違していると主張していた。
吉野ヶ里が発見され、楼観・邸閣跡が発掘され、その主張が頓挫して
いる。
>九州にある古墳が小さすぎるという、過去の陳腐な畿内論者のりくつが
頓挫するのも時間の問題と思われる。
>>131 北條さんだよ。邪馬台国=ヤマト説の決め付けに
不快を表していた。2001年の時点では。
ただ、その後の展開をみると、必ずしも
九州説論者でも無さそうだな。要するに慎重にするべきという感じか?
ただ、その後のヤマト王権が畿内中心に統合されたというのは
この人もガチだと考えているみたい。
135 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:00:06
>>130 >魏使は邪馬台国へは行ってない、という説もあるよね
それは主に畿内説の考え方ですよ。
その後の張政などは直接行って激をとばしたかもしれないが
旅程記事には反映されていないというもの。
だいたい突然日数表記に変わる時点で「実際には行ってない」と書いているようなものなんだけどね。
>>135 要するに、魏志を書いた周辺の人たちは
九州までしか訪問していない可能性が高い。
しかし、魏の使者だった張政は、直接
邪馬台国をいって卑弥呼の墓をみた可能性がある。
137 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:04:56
>>126 >しかし、残念ながら日本では今の所このような大規模な殉葬の風習は見つかっていない。
>つまり、現時点で『徇葬者奴婢百餘人』は誤りであるとするしかない。
おいおい、事実を捏造するな。
正しくは、九州では発掘例はあるが、大和では今のところない、だろ。
しかも書紀には、垂仁天皇が殉死を禁止したとあり、
それ以前には大和地方でも殉死が行われていたことが伺われる。
>>133 吉野ヶ里の遺跡は、2世紀前半がピークで
卑弥呼のいた3世紀中頃には、完全に衰退期に入っているんだよ。
139 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:10:57
>>134 本人が言ってたのかよw
こりゃまた失礼したすた。
ただ北條や村上が不満を示していたのは
畿内大和の勢力が鉄ルートの簒奪などで巨大化したという
白石などの唱えた「畿内自生説」にたいしてのもの。
そうではなく各地のオウが大同小異の一致の元に流通拠点を欲したというのが
細部に違いこそあれ、寺沢、柳田、石野、北條、村上、広瀬、赤塚など
ほとんどの考古学者が唱えるヤマト連合説。
>>133 >吉野ヶ里遺跡が発掘されるまで、マクムク遺跡や唐古・鍵遺跡こそが
>邪馬台国の跡だとする畿内説が多数を占めていた。
初めて聞いたぞw
70年代に誰がそんな先進的な説を唱えていたんだ?
もちろん吉野ヶ里の楼観・邸閣は時代も違うことを知った上での捏造カキコだねw
140 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:13:14
>>126 それに、「百余歩」にしても過去ログくらい読めよ。
平原遺跡を始め、大きさも該当するとされている遺跡はある。
そもそも、里の長さ自体に長里か単里かで異論があるうえに、
直径か円周かでも異論があり、しかも付属の遺跡も墳墓に含めるか
どうかでさまざまな説があるが、
少なくとも、条件を満たしていると主張してる遺跡は
いくつもある。
それと、径百余歩であるばかりか 家(径百余歩の冢)なんだから、
前方後円墳の可能性はそもそもない。
径百余歩の冢 の候補が存在しないならまじしも、
候補が平原遺跡を筆頭にいくつもある状態で、前方後円墳を
候補に挙げるのは誤りとしかいいようがない。
141 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 18:15:57
吉野ヶ里遺跡からは、多くの色付き管玉が発掘され、墳丘墓(参道まで
造成されている)も発見されている。
また、環濠の外堀(深さは4メートルもあり、人が落ちたら脱出できない)
以外にも内堀も発掘されており、マクムク遺跡とは比較にならないほど
大規模な環濠集落です。
畿内の人は、どうしても卑弥呼以前としたいらしいが、3世紀前半と3世紀
中頃と区別する感覚は、畿内説論者独特の感性なのか?
>>140 断じて平原ではありえんww
あれは伊都国だろうw?
143 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 18:19:15
>初めて聞いたぞw
>70年代に誰がそんな先進的な説を唱えていたんだ?
自分の無知を恥じているのなら、もっと謙虚な書き込み
が必要ですが・・・
>>141 あの〜巻向の規模は、推定で
飛鳥京なみと言われているのですが...
吉野ヶ里どころの広さではないですわな。
ただ、あのあたりは私有地などで、なかなか大規模な発掘が出来なくて
現時点は、巻向の推定規模の2パーセントしか発掘できていないということです。
145 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:21:17
>>137 >正しくは、九州では発掘例はあるが、大和では今のところない、だろ。
おーい、九州のどこでそんな発掘例があるんだ?
>しかも書紀には、垂仁天皇が殉死を禁止したとあり
これが事実なら垂仁陵に彼は眠ってはいないね。
なんせ埴輪がない。
>>140 >それと、径百余歩であるばかりか 家(径百余歩の冢)なんだから、
>前方後円墳の可能性はそもそもない。
このあたりもう少し詳細に。
そこがあなたの考えの一番の肝なんだから。
146 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 18:24:01
>>139 >初めて聞いたぞw
>70年代に誰がそんな先進的な説を唱えていたんだ?
邪馬台国論争は過去からずっと色んな学者や知識人や在郷の文化人が
熱心に議論をかさねているのに、そのほんの一部の知識で、他の方の
まじめな記述を中傷できるのか?
147 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 18:25:38
>>144 それでも、せいぜい20ヘクタール程度です。
吉野ヶ里は40ヘクタールは優にあります。
148 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:34:34
>>143 そうか、はっきり言わなきゃだめなのか・・・。
「捏造するな、このうそつき!」
唐古・鍵は70年代当初には1〜2世紀中頃までが全盛期だと判明していた。
近年になって纏向開発と同時に再開発されたことが判明したが
そこを邪馬台国だとか戯言いう畿内説など具体的に誰が述べていたから主流なんだ?
纏向も石野・関川の「纏向」の発表が契機であったとはいえるかも知れないが
70年代の通り名は「太田遺跡」だろう。
そこを邪馬台国だとした論者もまた当時はいない。
>>141 どうしてわざわざ時代が違うことがはっきりと判明している吉野ヶ里をもってくるのかよく分からん。
普通に九州説を考えている人でも、そんなアホはいないと思うのだが。
逆にありえない九州説を装うことで、九州説そのものを貶めるつもりならもうやめておきなさいよ。
150 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 18:43:20
>>147 >それでも、せいぜい20ヘクタール程度です。
東西約2km・南北約1.5kmの纏向が???
俺はどう計算しても300haになるが、君の知っている算数では違うのか?
151 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 19:02:43
>>124 全部ウソ。いい加減なこと書くな。
『古墳時代象を見直す』を読め。
古墳年代遡上論に対して慎重にすべしと穏健に戒めているから、
遡上論とは明確に一線を画している。
通商連合説とは違う。
152 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 19:12:38
>>151 北條さんは箸墓を250年まで遡上するのには反対だが
280年頃の築造だと主張しているんじゃない?
つまり卑弥呼の次の世代の墓だろうと
これは石野さんなどと同じ見解だよね。
例のイラストなんかを見ても通商連合説の一人だと見ていいと思いますが。
153 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 19:14:34
154 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 19:42:00
>>152 北條は年代ははっきり言っていないのでは。
「見直せ」と言いつつ自分の見解を出すわけにもいかんだろ。
基本的には、年代遡上論に対してもっと慎重にやろうよという立場。
箸墓を300年より古く見るなんてカルトのレベルだから、
それをはっきり言うことはなかろう。
>>154 >箸墓を300年より古く見るなんてカルトのレベルだから、
こういう書き方は人を不愉快にさせるだけ
レッテル貼りは学問ではない
箸墓が300年より新しいと主張したいのであればその理由を考古学的に書けばいい
156 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/28(月) 20:59:27
ドン来いスレ20で
>998が、こう言っている。まあ断片的で詳しい年代までは解んないけど。
>ホケノ山は庄内初期じゃなくて「布留0」、箸墓は「布留1」以降。
なんだと。ひょっとしておたくじゃないの?
157 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:09:14
>>155 逆に箸墓を300より古く見れない理由
逆に言うと、遡上させる根拠が正しくない理由
1、端的には、前方部の発達の度合いからみた年代からは320〜360の間で
の議論しかできないから、280はそのままでは成り立つ余地さえ全くない。
そこで、遡上派は
A、バチ型例外論(バチ型のみは例外的に異常に古い)
→恣意的に過ぎる。箸墓類似規格は4C後半のものが多い。
B、古墳規格無視
→データーの蓄積を無視。学問の前提が存在しない。
C、崇神、箸墓規格のみ遡上論。
→古墳の1規格は10年位(崇神から仁徳の比較的短い期間で大きな変化
を遂げている。)であるが、崇神、箸墓規格の両者で100年以上の期間を
割り当てて、両者を突出して長く古く見るのは無理。
→崇神、モモを記紀と切り離す、記紀捏造史観を前提とするが、それも無理。
2、遡上論のうち、鏡年代論で三角舶載説で紀年を正しいと見る考え。
→言うまでもなく、三角舶載説はもう無理。
3、庄内式遡上論
→庄内式の年代を鏡年代論で決めているので、2でアウト。
158 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:25:26
>>157 > A、バチ型例外論(バチ型のみは例外的に異常に古い)
> →恣意的に過ぎる。箸墓類似規格は4C後半のものが多い。
具体的な古墳名が出てこないので、まるで雲を掴むような感じの議論です。
お願いがあります。
・ここで「箸墓類似規格」と書かれた諸古墳名を列挙してください。
・それらが「4C後半のものが多い」とされる理由を、個々に挙げてください。
159 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:29:57
>>145 >おーい、九州のどこでそんな発掘例があるんだ?
だって、宇佐説の連中は、百体神社が奴婢100余人の殉葬跡だと
言ってるじゃん。
ちなみに俺は、平原遺跡派で宇佐説とは無関係だけど。
160 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:59:36
>>158 バチ型は、近藤の著書を読め。全部説明するの面倒。
庄内式からの遡上ルートが開拓される以前は、このルートが有力に
主張されていたという学説史的な意味はある。
利点は、三角縁を出土した古墳にバチ型といわれるものが数個あること。
有名なものでは椿井大塚山。
難点は、バチ型ではない三角縁出土古墳(黒塚など)。
出土した三角に共通性が高いので、黒塚を遡上せず、椿井大塚山のみを
遡上するわけには行かないが、両方を遡上すると、バチ型遡上論ではなくなり、
黒塚類似の古墳全体を遡上させる必要が出てくる。
前方部の発達段階からは、黒塚の次の規格が360〜380頃に相当するため、
規格論の無視につながる。
>>152 北條さんは、昨年の時点で
箸墓は260年頃と言っているな。
古くしすぎだとほとんど孤立無援状態だった石野が今や守旧派だからなぁ・・・・
年寄りにはついていけんて。ゴホゴホ・・・
163 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 17:23:58
箸墓は4世紀以降との認識でOKですか?
箸墓が4世紀以降という根拠って
相対年代しか分からない土器編年に頼った数字なわけで、あくまでも。
165 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 18:05:14
>>163 そう思うなら畿内説の箸墓や、庄内年代遡上派を完膚無きまでに論破してからにしないと。
畿内説の奇妙な意見で惑わされるんだからー。遡上派がいるときに言わなきゃだめなのよ。
肝心なときに出てこないでこんなところでこそこそ言っても畿内説は来るときゃ来るんだから。
連休とかにどどーっと。台風みたいに押し寄せて、引き潮みたいに去ってゆくし。
後には九州説者の屍が転がってるだけで。もしくは逃げ出してる。「考古学をかじってる人間に弄ばれてるだけ」とか言って。
どっかへ行ってしまう。そんな臆病じゃ駄目なのよ。
166 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:20:27
>>164 逆だよ。
土器編年に沿うと箸墓は2世紀第3四半期のあたりになる。
167 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:26:56
>>165 いや君の場合はどれだけ確かな証拠や矛盾を出されて論破されても
「見えない、聞こえない、認めない」の三無いをお題目のように繰り返すだけだから
逆にここを読むものに、九州説が成立しないことを知らしめてしまっているんだよ。
こう書くと「論破された覚えも証拠も矛盾もない!」と言い張るのだろうが
誰がどう見ても君の考える九州説は完全に破綻している。
本気で九州説のことを考えるのなら、君は退場して他の有能な論者に任せるべきだろう。
君が何か書けば書くほど、九州説の信用は堕ちていくのだから。
168 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:27:03
卑弥呼は坂井泉水
169 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 19:47:14
情報の入っている地域のほうに情報源は近いと観ることが無難な考えである。
女王国は日本にあった。が、日本にあったのに
魏志倭人伝 外国産 日本の女王国の詳細な記述がある。
古事記 日本書紀 日本産 日本の女王国の記述がほぼない。
ということは皮肉である。これは何を物語っているものなのか?
大陸半島に近いほど女王国の情報はその大陸半島にはいりやすくなる。そのぶん
だけ畿内から遠くなり畿内に女王国の情報は入り難くなる。
以上のことを深考するに、女王国は九州所在であることは動かない結論である。。
>>167 それを九州ですがクンだけのせいにするのはチト酷じゃないかね。
彼はどちらかというと笑かし専門で、自分がおもちゃであることを自覚しているようだからね。
仮に初心者が2ch日本史板の邪馬台国関連スレを見たならば
太国やサガミといった、あからさまに痛い連中にどん引きするだろうし
そこでまた九州説の信用度が落ちていくわけだ。
これってもしかして、明らかに痛いコテ九州説がこれほど粘着しているのは
逆にやつらは畿内説の工作員なのではないかとさえ思える。
それくらい揃いも揃って、内容どころか人格も狂っているというのはちょっと腑に落ちない。
そういう種類の人たちが九州説になるといわれればそれまでだが。
171 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:01:21
>>167 それは勝手にそちらがそう思い込んでるだけで、
自分の凝り固まった考えを元に置いてしか判断できないだけだろう。
僕は独自の説があって九州説の誰とも違う部分もある。
こちらから言わせればそちらこそ
「どれだけ確かな証拠や矛盾を出されて論破されても
「見えない、聞こえない、認めない」の三無いをお題目のように繰り返すだけだから 」
に大いに当てはまる。なぜなら今の考古学で「確かな証拠や矛盾」など
いえるものなんて殆ど無いからだ。その様な持論を持ち出す事自体詭弁の証拠でしかない。
「君は退場して他の有能な論者に任せるべきだろう」などというに及んでは
逃げているとしか思えない。そちらの限界をその様なかたちでお茶を濁すのは
卑怯であり、何をどう論破したのかを明確にすべき。
そんなことを言いながら今までの実態は自分達が言い負かされそうになるたびに卑怯にも
禁じ手のおかしな妨害で焦点をそらせ、いつも逃げに終始してきたではないか!
それこそみんなが知ってることだ。
そんな幼稚な言い訳に騙されはしない。いつもの脅しと妨害、それだけでも
自分らのの間違いと敗北を認めてしまっていることにもう気がついても遅くない。
このスレの二大スターさんを生暖かく見守りましょう。
暇つぶしになりますよ!
173 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:10:29
>>167>>170どれだけ確かな証拠や矛盾を出されて論破されても
くだらない念仏はその辺にしておくことだ。
畿内説の最初の矛盾は投馬国を東に読み替えなくては成立しないことだ。
伊都国の南に女王の都はある。ということは自明の理。
そんな明白なことさえ否定しなければ成り立たないほど
瑕疵だらけの説なのだ。そのどこがこっちが
「確かな証拠や矛盾を出されて論破された」のか。
すり替え上手この上ない。「職を変えて詐欺師になった方がいい」
という言葉でお返ししよう。
174 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:17:45
ついでに言うが、その様な思い上がった姿勢で学問を志すなどもってのほか。
人間のクズにはやめたほうがいい方向性だ。
きっと畿内説の学者もこれらのスレを読んだら悲しむだろうし、
師から激しく叱責されよう。それをしないような学者先生なら何も言う事は無い。
その様な最低の者には言うだけ無駄なだけ。
175 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 20:23:10
176 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:23:29
>>167>>170 まずはこれに答えて貰おうか。
「畿内説の最初の矛盾は投馬国を東に読み替えなくては成立しないことだ。
伊都国の南に女王の都はある。ということは自明の理。
そんな明白なことさえ否定しなければ成り立たないほど
瑕疵だらけの説なのだ」
さて、愚答をお待ち申そう。
177 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:26:45
>>175 太国さん、ちょっとビールを買ってきますね。切らしちゃってたので。
朦朧と酔っ払っても相手できると思いますよ。
178 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:29:05
朦朧と酔っ払っても相手
太国さんにじゃないですよ。
僕は持論以外はよく解んないのでノータッチですから。
179 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 21:00:06
>>169 それでも畿内に女王国があったと反論するとなれば、畿内のどこかに、朝廷に
女王国の情報が入ることが無くかつ遠い遠い大陸の倭人伝内に情報が入ることが
可能となると出来うる卑弥呼の国が、畿内にあったと考えねば肯定できるとは
言いにくい。という事は畿内のどこかに前人未到の秘境があって、その為に朝廷
が畿内に卑弥呼がいることを気付かずにいたということになってくる。
たとえば伊賀や甲賀の超大忍び砦が畿内にあってそれ一個が女王国であり、忍び
の掟とやらで大和朝廷に感づかれることのない大霧隠れの術として、あるいは
幻に近い深山幽谷の秘奥に女王国がありこれを朝廷が把握できず、ともに記紀
に記述ができない特異な状況があったためで、稗田阿礼、太安万侶、舎人親王ら
がみな記載することができずにいたということになる。
そしてここから遥か遠方の海を隔てた大陸に忍法を教えられてこれを使う遣使
が朝廷にはや駆けで秘密裏に伊賀甲賀にやって来て女王と面会したか、あるい
は大陸から西天への出発よりももっと古くおおいに天宮を荒らしたくらいか
その前後ころに、孫悟空がキントウンに遣使を乗せ、大海をひとっ飛びで黒部
渓谷様の奥地の女王国に着き女王と面会するか、あるいはタイムマシンによって
現代から携帯電話を借りてきて、これによって大陸から日本へ遣使の代行として
非常に強力な大デンパを発射し、朝廷にわからないように畿内の台地の地底に
住むという卑弥呼女王と交信してその状況を聴き取り、倭人伝としてまとめあげ
たということになって来る。こういうふうになると畿内説が有力になるだろう。
180 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:19:12
>>176 いつまでも見苦しい言い訳するもんじゃありませんよ。
伊都国も奴国も方角は間違っているでしょ。
現在の通説と違う場所を当てはめたいのならご自由に。
さてその独自の説とやらを矛盾なく書いてみてくださいなw
その前に、そんなに学会や通説が誤りだと確信しているのなら
どうして論文や本を書かないのですかね?
よりによって2ちゃんでやらずとも
現実の発表の場で何故言えないのかと小一時間(ry)
181 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 21:50:03
>>180伊都国も奴国も方角は間違っているでしょ。
間違ってません。当時は既に方位磁石があった。
古代中国では既に風水があり民衆の間に広まっていた。
風水によって八方をはっきりと知る事が一般民の中にも求められた。
方角を間違う事は道教によって致命傷である。そんなことが許されるわけが無い。
倭人伝の記述もどこで方角を計ったかで違ってくる。
倭国でも死者は北枕で古墳の入り口も鬼門の方角を避けるなど方角は正確である。
古代中国では天文学も進んでおり北極星を観測する事で方角を知っていた。
伊都国などの位置が違うなどというのはナンセンスで、
どこで方角を計ったかで違ってくる。どこを基点として観測したのか、
道も真っ直ぐではない為、測る位置によって微妙に方角は違ってくる。
その僅かな誤差と、北部九州から畿内までの遠距離を根本的に間違う事とは話が違う。
以前誰かも言っていたが、畿内への東方向は太陽の出る方角であり、
間違うほど中国人は愚かではない。
182 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:04:41
>>181 >倭国でも死者は北枕で古墳の入り口も鬼門の方角を避けるなど方角は正確である。
鬼門って北東だよね
そちらに入り口がある横穴式は全国に山ほどあるよ。
第一3世紀だと竪穴式だろう。
古墳の入り口って上だよ。
それと君の言う風水は、近代に入ってからの香港風水であって
易とはまったく別のものだよ。
混同しちゃいけないね。
で、愚かでない中国人はマツラから伊都、そこから奴と
どうして方向を間違ってしまったのだろうね。
北九州の地図を広げてみてごらんよ。
君はこれらの国を通説と違う場所だと考えているのならそう書いてくれないか。
マツラ=唐津付近、伊都=前原周辺、奴=玄界灘沿岸部一円
おおまかに書いたが、これとは違う考えなんだね。
183 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 22:35:58
>>182「古墳の入り口って上だよ。 」
??。吉野ヶ里の墳丘墓は東南の方向を向いている
「それと君の言う風水は、近代に入ってからの香港風水であって
易とはまったく別のものだよ。」
方角について同じである事を言ってんだろうに!
「マツラ=唐津付近、伊都=前原周辺、奴=玄界灘沿岸部一円 」
そのクニの中心集落を通るとしたら、方角がジグザグになるはず。
しかし東、東南、南、へとある一定の方向へと進んでいる。
これは伊都国から見て女王国が東南の方向にあったことを示し
その道すがら通ってきたクニを記したのもである。
184 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 22:43:00
>>179 遠い遠い大陸の倭人伝に我が国にあった女王国の詳細な記述があり、
かたやご本家たるこの国の記紀にこの国にあった女王国の記述が
殆ど無い。それでも、さらに強行に畿内説の主張を変えない御仁は
多々いることであろう。
では畿内に女王国があったと仮にも肯定して考えると
>>179のとおり
であるわけだが、さらに論述を続ければ、朝廷に知られてないから
記紀に記述が蚊の鳴く程度しかないわけで、このことは情報が漏れ
にくい環境として、畿内のどこかに前人未踏のジャングルの秘境と
いうものがあったということを肯定するほかはあまりないという
ことになる。
こういう奥地ならば超特殊な方法があってそれにより朝廷に知られ
ることなく遠方の大陸へ卑弥呼の情報が運よく届くことが可能には
なるだろう。いわば数十年前話題になった絵物語の「少年ケニヤ」
の如くであり、天頂にポッカリ大穴があいてる台地の地底に前世紀
の恐竜群が多数生息している超大穴倉にうす暗いながら女王卑弥呼の
国があったとせざるを得ない。
185 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 23:03:33
少年ケニアはちょっと古いかもしれませんけど、
でもその通りで、畿内に巻向王権と、女王国が同時にあったなど到底考えられない。
だからといって同一でもない。大和朝廷側の歴史に卑弥呼が出てこない。
卑弥呼は朝廷からもあくまでも別物と考えられてきた。そんな祖先を冒涜するような祖先神話は無い。
卑弥呼が大和朝廷の直接の祖先なら神代時代などとお茶を濁さず、正史として
邪馬台国を位置づけるはず。ところが大戦中も大和の古い歴史を国家宣揚のプロパガンダとして
国民に教育してきた軍部でさえも壬申の乱と邪馬台国は万世一系を否定するのもだとして決して教えなかった。
日本一古い家柄の天皇家が邪馬台国、卑弥呼を先祖と仰いでおられない以上、
邪馬台国、卑弥呼を天皇家の御先祖、つまり大和朝廷の先祖であると判ずる事は出来ない。
186 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 23:05:35
>>184 続き
そうなって来ると、畿内近隣にはまるで情報が届きにくいわけで、当然
大和朝廷に卑弥呼の存在は知られることが不蚊能なわけであり、かような状況
から女王国の存在を朝廷に秘匿して大陸に届かすにはどういう手段が取られ
るのかということを考えるに至る。
それにはてっとり早いのがそこに生存して徘徊しているプテラノドンを使うの
がいいが、孫悟空の大敵たる六耳の猿の、六耳の友達でアラビアン・ナイトに
登場する巨大鳥のロク鳥に秘境から飛び乗っていっきょに大陸へ飛来、到着
させるのが一番であろうと思う。なにせ鳩の卵くらいの宝石をザクザク集めて
しまうのがこの鳥の特技であり、ピカピカ光る金印なんかを持って行くには
なんと、最適者であるからなのである。
ついでにアラビアン・ナイトで有名な『臥海』なる海の老人とも極めて仲が
よく、これに遣使を乗せてひとっ飛びに、朝廷に知られることなく大陸から
黒部の奥地の地底に飛び降り、大穴から入りこむことができる。このため
舎人親王らに気付かれることがなく、記紀への記載はまるで無く、畿内説は
磐石になり、臥海の権威はうまく保全されるのである。
187 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 23:16:02
九州の1部族の崇拝であった3種の神器が畿内に伝播し、
天皇家の神器になるのは、畿内からの部族でなく、九州
の部族が天皇家の祖先でしょう。
畿内に存在した銅鐸を崇拝する部族は、征服された部族
であることは、明白でしょう。
188 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 23:17:13
大和朝廷側の男王を差し置いて卑弥呼を女王と呼ぶはずもなく
百歩譲ってモモとしても父の孝霊天皇を差し置いてモモを女王などと呼ぶわけが無い。
189 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:20:29
記紀には九州生まれだと書いてるだろ
それを、さも書いてないかように
>畿内からの部族でなく、九州の部族が天皇家の祖先でしょう。
と始める始末。馬鹿か御前は
190 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 23:25:04
バカに馬鹿と言われてしまった。
191 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:36:32
>>183 何を言いたいのかさっぱり分からん。
>吉野ヶ里の墳丘墓は東南の方向を向いている
何が東南を向いているんだ、観光客用の入り口か?
>しかし東、東南、南、へとある一定の方向へと進んでいる
倭人伝にはそう書いてあるが、実際の方角は違うよね。
伊都→奴などはほぼ90度間違っている。
もし伊都から邪馬台国が東南にあった(そんな説もはじめて聞いたが)として
ジグザグも何もあさっての方向に進んでいるわけだが。
どこかのサイトでもいいし、白地図に書き込んでスキャナーで取り込んでもいいから
図に書いて説明してくれないかね。
君の考えは南が東の書き間違いとかいう馬鹿げた畿内説なんかより、よほど不可思議なものだからね。
192 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:49:50
>>184 それは年代観の違い。
卑弥呼は、中国の情勢に通じており、帯方郡に使いを送っている。
また、九州の墓の副葬品などからも、古くから中国と交流があったことが
わかっている。さらに、南方の海でしか取れない貝が数多く出土している。
つまり、古代人の行動範囲は非常に広い。近畿地方も当然のごとく行動範囲
だったと考えられる。交流もあったに違いない。
このような状況で、邪馬台国九州説の立場に立つと、卑弥呼時代の畿内を
どのように考えれば良いのか。
一つは、あなたのように、すでに畿内には大和政権が存在していたと考え
ることが出来る。ただ、それでは矛盾もけっこう多い。
しかし、もう一つ、大和政権の誕生は卑弥呼のあとと考えることも出来る。
つまり、卑弥呼=天照大神。そのあとに神武東征に相当する出来事があり、
大和政権が誕生する。
これは記紀の記述に合致する。このように考えると、大和政権の誕生は、
4世紀になってからと考えるのが妥当で、纒向遺跡の誕生もその頃となる。
逆に言えば、纒向遺跡の誕生が4世紀になってからと考えれば、これは
記紀の記述と考古学が合致することになる。
だから、畿内考古学はこれを否定しなければならない必要性が出てくる。
193 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 23:50:18
>>191 だから今見つかってる集落同士を結んで、方向が違うなどという事自体がナンセンスだと言ってるの。
どうして前原が伊都国の中心だとだとわかる?どうして奴国が今の博多湾付近だと解る?
全然違うかもしれないだろうに。それを以って90度間違ってるという事自体成立しない。
前原はマツラ国に属していたかもしれないし、奴国の中心は大宰府辺りにあったかもしれない。
当時のクニの線引きなど誰にも解るのものではないのだ。
194 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 23:55:42
>>191何が東南を向いているんだ
墳丘墓の入り口に決まっているだろう。
東南の方向に向けられている事は初期道教、黄巾の影響なのだ。
195 :
SOY:2007/05/30(水) 00:06:46
>>191 >伊都→奴などはほぼ90度間違っている。
末盧〜伊都〜奴国の間で反時計回りに40度〜60度程度のズレがあると
いった話はよく聞きます。
90度というのは伊都國と奴國をどこに比定されたのでしょうか?
196 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 00:31:36
>>193 つまりどの国もどこにあったか分からない
なので倭人伝の記事を正しいとする前提において
考古学データは無視して論を進めると、そういうことですね。
そんな程度でいいのなら、僕は邪馬台国をエジプトでもムー大陸でも持っていけますけどw
>194
入り口ですかw
墳丘墓にそんなものがあるとは知りませんでしたw
で、何のための入り口なんですか?
それと吉野ヶ里以外の墳丘墓の入り口とやらもすべて東南を向いているわけですね。
あ、2.3の例外があってもいいですよ、ほとんど東南を向いているとお考えなのですね、その入り口とやらが。
>>195 これは冷静に読み返すと誇張になってしまいますね。
申し訳ない、訂正します。
伊都国を前原付近として奴国を玄界灘湾岸とする通説においては
両国は倭人伝記事から最大67度のずれが認められると。
ご指摘ありがとうございます。
197 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 00:53:29
>>160 >バチ型は、近藤の著書を読め。全部説明するの面倒。
近藤義郎名誉教授のことだと思うが、近藤さんは古墳時代中期以前は、
決して絶対年代に言及しない人だ。すべて相対年代で編年し、論じている。
だからきみがバチ形の、ある古墳を指して何世紀の築造である、とか言うのであれば、
それは、きみ自身が論証しなくてはならないはずだ。
近藤さんの著書『前方後円墳に学ぶ』には、箸墓以外のバチ形の例として次の古墳を挙げていた。
・吉島古墳・養久山1号墳・備前車塚(前方後方)・椿井大塚山・丁瓢塚・都月坂1号墳(前方後方)、
・浦間茶臼山・西殿塚・行燈山・中山大塚・権現山51号墳・矢藤治山・日上天王山
バチ形の度合いは、箸墓のように明瞭なものもあり、行燈山・中山大塚のように僅かなものもあるという。
>>157に、私からも問う。きみは上記の古墳のうちどれらを「箸墓類似規格」と見ているのか。
それらを「4C後半のものが多い」とするためには、個々について「4C後半である」ことの論証が必要だが、
きみはなぜそのことをきちんと述べようとしないのか。
三種の神器については、あれの本家本元は
出雲王朝か、あるいはアメノホアカリ(ニニギの兄)の後胤のほうが
本家本元じゃないのか?
だいたい、草薙の剣の別名は、アメノホアカリの孫の名前だし
(その草薙の剣のある熱田神宮の初代宮司は、アメノホアカリの嫡流の尾張氏)
伊勢神宮の外宮の神様は途中、丹波から引っ張ってきたんでしょう?
(丹波といえば、これまた、アメノホアカリの後胤の海部氏)
よって、三種の神器の伝承は
出雲王朝
→アメノオシホミミの嫡男・アメノホアカリ後胤(尾張氏・津守氏・海部氏など)
→アメノオシホミミの次男・ニニギ後胤(神武皇統)
199 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 02:25:45
>>197 近藤さんが、絶対年代の言及をしないというのはそのとおりですね。
近藤のバチ形論としては『前方後円墳の成立』もあります。
近藤のバチ形論は、バチ形のみではなくて、特殊器台や舶載鏡(三角も含む)を含め
たもので、黒塚や柳本天神山が発掘される以前においては、ある程度の合理性は
あったと思いますが、現時点では学説史上の存在です。
黒塚や天神山はバチ形ではなく、所在地や古墳形状からは4C後半とされてきた。
天神山の出土物は「画文帯後、三角前」である。これらの発掘ののちはバチ形論は
前提が消失したと見るべきでしょう。
400年前後とされる古墳の年代観は、遡上論者でもほとんど動かせない。
それは、古墳規格(前方部の発達度合い)や土器、埴輪、さらには須恵器で年代が
動かしにくいから。
しかし、350〜380頃と見られていた古墳は、この10年ほどの間に三角縁出土古墳を
中心に軒並み280〜300前後までの遡上年代が与えられています。
しかし、300〜380頃までに比定する古墳と遡上する古墳と規格の違いを見出すことは
できないので、ここに特定規格(バチ形)のみを遡上させて、規格論の骨格は維持しよう
としたバチ形論は意義消失したと見るべきでしょう。
私は、
>>197の古墳はほぼ全て4C後半と見ています。バチ形論が出された当時の年代観と
同じです。バチ形論はそれらのうち、特定の古墳のみ年代を遡上させるものですが、それでも
4Cの初めくらいまでの遡上というニュアンスと感じられます。
全体を恣意的に遡上することになった現在では、規格論という前提を捨ててバチ形遡上論を
採るような倒錯した考えが一部では言われているようですが、明らかな誤りです。
200 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 02:53:32
四季がない これは南部九州のことだよ。四季がない。
つまり倭人伝の内容のほとんどは南部九州のことを言っている。
しかしほぼわかっている比定地は北部のみ。
つまり中・南部の九州だよ、残りは。
201 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 04:26:39
>>200 なぜ、そういう苦し紛れの主張をする。
四季を知らないの直ぐ後に
春耕秋収で一年とすると書いてあるだろう?
202 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 04:56:05
>>196考古学データは無視して
あくまで倭人伝の記述が正しいものとし、考古学的発見に基づいた遺跡などから見たとしても、
クニ間の距離や方向はどの地点から測ったかによって違ってくるが
おたくにはそれがどこどこを基点としたものか確信持って断言できますか?
当時のクニの地理を示せといって正確に示せる者などいない。
前に言ったように魏使は「東、東南、南、へとある一定の方向へと進んでいる。
無駄な回り道はせず、女王国まで最短で進んでいる。
これは伊都国から見て女王国が東南の方向にあったことを示し
その道すがら通ってきたクニを記したのもである」 ということに変わりは無い。
北部九州から畿内方面を東でなく南だと勘違いする可能性は100%無い。
北極星で観測するからである。
まして「水行十日陸行一月」も観測を誤り、方角を間違い続けるなど不可能だ。
中国では風水が庶民の間に広まっており、方角を知ることが一般的になってる時代に、
魏使の中に方角のプロがいたであろうに旅者として方角を間違うわけが無く、
万一間違っていたとすれば
帯方群から既に南を東だと方角を間違っていた事となり倭国に到着する事すらおぼつかない。
百歩譲って伊都国、奴国の位置関係がずれていたとしても南は大分県方面になるだけである。
投馬国は南へ水行二十日であるが、その先に邪馬台国があるのではなく
女王国はフミ国から離れていない場所にある。
203 :
SOY:2007/05/30(水) 07:47:35
>>196 >伊都国を前原付近として奴国を玄界灘湾岸とする通説においては
>両国は倭人伝記事から最大67度のずれが認められると。
私は伊都國を三雲あたりに、奴國を比恵・那珂あたりに考えていたので
90度という値は少し大きすぎるのではないかと思い、発言しました。
確かに末盧〜伊都〜奴国の間で反時計回りに40度〜60度程度のズレがあります。
それは精度の問題なのか、別の理由があるのかについてまでは分かりませんが、
通説の比定地で考えれば、確かにズレはあります。
だから、これを根拠に反時計回りに40度〜60度程度のズレが起こりえるという
主張については私も納得するところです。
これを根拠に方位は無制限にズレても良いのだとするのなら問題はありますが、
具体例をもって反時計回りに40度〜60度程度のズレがある可能性を考えるのは
非常に常識的な主張だと私は考えています。
ただ、40度〜60度程度のズレがあったとしても、
私の中では邪馬台国は九州内に納まっています。
>>202 百歩譲って伊都国、奴国の位置関係がずれていたとしても南は大分県方面になるだけである。
この点において九州ですがさんの発言と私の結論は似ているかも知れません。
204 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/30(水) 08:26:05
>>192 女王国が畿内にあるなら、大陸以上に隣に位置する大和朝廷と女王国との交流
の方が遠い大陸より多いのは前人未到の奥地とかに女王国があるんだとか以外
には考えられない。
紀での神功39年たる239年は真は神功の時代ではなく倍暦により遡り、崇神天皇
の時代に合致する。稲荷山鉄剣の銘文の四道将軍オオビコと斯鬼宮との記述
から崇神がいたことは津田のようなわけにいかずということになり、崇神は
神武以後の人物であるから、神武以前のアマテラスが卑弥呼にはなるわけが
なく、その等号は成立しない。
崇神が3世紀前半にあるから、大和朝廷の誕生が4世紀に落ち込むことは
ありっこない。
205 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/30(水) 09:39:35
>>192 倍暦計上から
崇神即位=237年=景初元年 同崩御=259年
景行即位=293年 同崩御=322年
このことから、マキムクは3世紀末から4世紀初頭が正解。
206 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 17:47:38
こっちは倍暦厨か・・
ドンとこい!どこ〜?
208 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:57:41
>>199 >近藤のバチ形論は、バチ形のみではなくて、特殊器台や舶載鏡(三角も含む)を含め
>たもので、黒塚や柳本天神山が発掘される以前においては、ある程度の合理性は
>あったと思いますが、現時点では学説史上の存在です。
学史、学説史を知らないものが、このようなデタラメの学説史を捏造する。
209 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 21:12:37
>>207ドンとこい!どこ〜?
まだ立ってないようよ。
まぁ!終止符つかないこのスレがあれば、ドンとこい!はなくてもいいかぁ〜
211 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 21:37:58
やってる事は一緒だからね
スレタイが違うだけで
なのでここを九州でも畿内でもエジプトでもどんとこいとして
統一スレにすべきだろう
212 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 22:08:19
ドン来いとここは似てるようだけど
それぞれに分かれたほうがいいと思ってる人もいるようよ。
この前なんかドン来いスレで一日300レスいったもんね。
他の人は入る余地が無かったようよ。
まあ、どっちにあったと思うスレという違ったのも立ってる様だけど。
213 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 22:35:38
214 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:06:55
215 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:47:21
>>214 色々参考になった。サンクス。
まさか天神山以降とは思えなかったのだが、近藤を買いかぶっていたようだ。
考えてみれば、森浩一の三角縁国産説以降も舶載説前提という問題はあった。
リンク先
http://www.narahaku.go.jp/meihin/kouko/145.html では、天神山は
4C後半となっているが、それでいいのか?
ホケノ山→天神山→黒塚・椿井大塚山という通説とは、合わない。
私は、ホケノ山(340〜350頃)→天神山(350〜360頃)→黒塚・椿井大塚山(360〜)
と見ているので問題ないが、バチ形遡上論は天神山、黒塚以降は無理スジ。
あと、天神山の鏡の公表はいつかも気になる。椿井大塚山の報告が公表されたのは
発掘から30年以上経過した後で一部の学者がデーターを独占していた問題があった。
天神山の鏡の公表はどうなっていたのか気になる。天神山公表以前にバチ形論を
出していたのであれば、ある程度の学説史的な意義は認められると思う。
>>215 >天神山は4C後半となっているが、それでいいのか?
天神山は相対編年で前期中頃から後半とされる。
古墳時代の開始を4C初頭としていた古い年代観なら何ら問題ないし、
3C第3四半期と考える現在の年代観でも大丈夫。
>ホケノ山→天神山→黒塚・椿井大塚山という通説とは、合わない。
そんな「通説」は聞いたことがないぞ。
通説では天神山は三角縁の出現以降。
もっと勉強してくれ。
>あと、天神山の鏡の公表はいつかも気になる。
報告書の刊行は1963年だ。
>天神山公表以前にバチ形論を
>出していたのであれば、ある程度の学説史的な意義は認められると思う。
学史の理解が間違っているので無効。
217 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 23:52:13
日本最古の神社が九州の阿蘇 天皇家の次に古い家柄も九州
もうこの辺りからして、皇祖神が九州発祥なのは日本書紀読まずとも
明らか。
218 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 02:46:34
>>216 天神山はすぐに公表されていたが、椿井大塚山はそうではなかったのか。
ますます情報独占で独壇場での学説発表の問題性が強くなるね。
まあ、彼らに学者としての振る舞いは求めていないけど。
あと、おそらく椿井大塚山と黒塚を280〜300頃とする考えだろうけど、
その同笵鏡を出土した古墳も同じ年代とするんだよね。
三角出土の古墳を古く見ていくと、東海〜関東の方まで古く見ないと
整合しないが、300年頃にそこまでの支配を見るのは無理スジでは。
400前後の古墳との間にかなりの空白期間が生じるでは?
むしろ、崇神以降の伝承との整合性を見たほうが良い。
バチでないマキムクの古墳を古く見ている一方でバチ形論も援用するのは
無理がある。20〜30年間の古墳に100年前後の期間を与えるから無理が
出てくる。
219 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 03:06:20
>>217 近畿の丹波の海部氏は天皇家よりも古い家柄だぞw
220 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 06:29:23
古い家柄つったって、後で作られた歴史ならどうにでもなる。
天皇家のように百何十代も続いていることが明白かどうかが問題。
初代から数えて何代目かまでは何々のミコトなどという神代時代に突入してる場合はちょっと疑問。
221 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 08:45:07
滋賀・下之郷遺跡から、弥生時代のメロンが果肉ごと発見されたって。
222 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/01(金) 09:36:36
聖武天皇は確か豊桜彦尊、桓武天皇は皇統彌照尊、淳和天皇は天高譲彌遠尊
とか、仁明天皇は天璽豊聰慧尊とかミコトがつくよ。
223 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 21:18:20
>>222 そうでした。あくまで神代時代限定ってことでお願いします。
224 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:30:58
225 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:33:35
海部家って出雲より古い訳?
226 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 01:27:22
紙に書かれた系図では、海部氏のものが
一番、古かったんじゃないのか?
で、国宝に指定されたはず。
>>218 >ますます情報独占で独壇場での学説発表の問題性が強くなるね。
椿井の石室が国鉄の工事現場で偶然発見されたのは1953年。
遺物の一部は工事関係者によって隠匿・横流しされ、警察の捜査によってその回収が一段落したのは1957年。
調査担当者による報告書の原稿は1964年に主任教授に提出されたが、その教授が自分の名前で刊行した上、発掘調査資金の出所が複数であったところから権利問題で裁判寸前までになり、その報告書はお蔵入り(公式には存在しない扱い)に。
正式な報告が遅れたのはそんな不幸な経過をたどったため。
ついでにいっておくと1986年に京都府・国鉄と京大で話がつくまでは遺物の所有権もあやふや。
研究者といえども自由に利用できなかったのにはそれなりの理由がある。
>その同笵鏡を出土した古墳も同じ年代とするんだよね。
しません。
>300年頃にそこまでの支配を見るのは無理スジでは。
政治的関係などの解釈はあくまでも遺構や遺物の分析からなるべく客観的に導きだすもの。
「無理なはず」などと主観を前提にした時点でダメダメ。
なお、当時の首長間の関係を「支配と被支配」関係などと捉えている研究者は皆無。
>むしろ、崇神以降の伝承との整合性を見たほうが良い。
安易な『記紀』援用もダメダメ。
>バチでないマキムクの古墳を古く見ている一方でバチ形論も援用するのは
無理がある。
纒向石塚はバチ形前方部。
そもそも纒向の「古墳」が古いものだという認識は、近藤義郎がいうような「定形化した前方後円墳」とは異なる「定形化」していない墳形と推測されたから。
それが出土土器の相対的な年代観によって裏打ちされたわけ。
で、そちらの前方部形態による年代観の根拠は?
ヤマタイ国は九州にあった
229 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:08:13
椿井大塚山問題・・・藤田友治『三角縁神獣鏡・その謎を解明する』93頁より引用
-------------------------------------------------------------------------
小林ら関係者に深い責任があることだが、理由(トラブル)があって『昭和28年椿井大塚山古墳
発掘調査報告』(真陽社、1998年)は不当にも長年にわたり公表されず、ようやく1998年、
45年ぶりに日の目を見た。従って、検証しようにも報告書はほんの数人しか見れなかったわけ
だから、”学問の独り占め”といわれても、反論できまい。
今、ようやく貴重な報告書に接し、検証した。驚いたことに、精緻な理論で知られる椿井大塚山
古墳出土鏡配布論の小林は間違いが多い。森の引用した、小林の「労作」を検証すると次のように
訂正されなければならない。
椿井大塚山古墳の出土鏡数は「36枚」ではなく、37枚以上であり、鏡式の判明したのは「29枚」
ではなく、、37枚である。従って大塚山自体に4種の同型鏡含むから「24種類ではなく、32種類
の鏡が存在する。
なお、筆者は小林の間違いを指摘するためにの問題を提起しているのではない。学問を一部の
ものとし、情報を公開してこなかったことを問題とし、そのために森を含め検証できなかったこと、
その不当性を問うているのだ。
230 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:29:02
>>227 古墳の年代観の基本は単純
1、同じ規格(設計)の古墳は同時代に作られた。
2、後の時代にくだるほど、前方部が発達する。
3、同時代(同じ天皇の時代)の古墳が群れをなす傾向がある。
このレベルのことで遡上論は前提が消失する。あまりにもくだらない。
遡上論では、ほんの一部の規格に他の規格に比べて法外な長期間を与える。
遡上論では、マキムクの極めて狭い地域の少数の古墳に数世代分の長期間を与える。
私は、本気でこのような暴論を唱えているのかという心理学的考察にも重点を置いている。
例えば、都合の悪い事実をあえて無視することは、正常な知性があればありえないが、
それは虚偽と知った上での行動であるのか、イデオロギーによる強度の洗脳の結果なのか、
ということも認知科学のテーマとして重要性がある。
『嘘とだましの心理学』(有斐閣)など参照。
231 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 03:31:46
同一スレは無理。九州説系スレは和人伝推理話。機内説系スレは遺跡や卑弥呼は誰?系推理話と内容が違い過ぎる。
232 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:34:48
>このレベルのことで遡上論は前提が消失する。あまりにもくだらない。
>遡上論では、ほんの一部の規格に他の規格に比べて法外な長期間を与える。
>遡上論では、マキムクの極めて狭い地域の少数の古墳に数世代分の長期間を与える。
もうこの時点でサッパリ解らないぜ
誰か解説汁
233 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:51:24
話は簡単。九州説がマキムク周辺の年代を引き下げ続ける為に発生した時間的齟齬を。
畿内説が年代を引き上げた事が原因、として自己正当化する為に必要不可欠な言葉が「遡上派」「遡上論」
234 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:23:25
>>229 要するに自分しか読めないソースを引用して学説を展開しまくったってことだな。
藤村某の事件と双璧をなす学会の汚点。
>>229 この藤田氏がどういう御仁なのかとんと存じ上げませんが、引用箇所を一読しただけでも信ずるに足りない人であるということは分かります。
>検証しようにも報告書はほんの数人しか見れなかったわけだから、”学問の独り占め”といわれても、反論できまい。
椿井出土品を駆使した小林の論文「同笵鏡考」が収載された『古墳時代の研究』が世に出たのは1961年のこと。
報告書問題が起き、椿井の出土品が「呪われた遺物」となる3年も前のことだ。
結果的に”学問の独り占め”状態になってしまっただけで、この段階で小林がそれを予期していたなどとはいえまい。
むしろ、「自らの発掘品ではないにもかかわらず未報告の新出資料を使用する」という考古学界的には掟破りともいえることをしてまで自説を世に問うた姿勢は、”学問の独り占め”とは対極に位置するものだ。
>>229 >検証すると次のように訂正されなければならない。
>椿井大塚山古墳の出土鏡数は「36枚」ではなく、37枚以上であり、鏡式の判明したのは「29枚」ではなく、37枚である。
>従って大塚山自体に4種の同型鏡含むから「24種類ではなく、32種類の鏡が存在する。
ほんとに藤田氏は「検証」したのでしょうか?
まず総出土鏡数については、小林は先にあげた『古墳時代の研究』巻末の「主要古墳解説」で「36枚 以 上 」としている。
で、『昭和28年椿井大塚山古墳発掘調査報告』では確かにM1からM37までの鏡が記述されていて、一見すると出土鏡数は37枚以上のように見える。
しかし、M29の解説には
「その他には小破片があるが、別の鏡の部分なのかどうかはっきりしない。確かな鏡数のなかには加えていない。」
とある。
これは、M26が外区と鏡縁部分のみの破片であることから、M26とM29が同一鏡である可能性を完全には否定できないからで、そのため、確定できる枚数は一枚減じて「36枚以上」となるのである。
ついで鏡式判明枚数であるが、藤田氏は、出土鏡すべてと三角縁とで勘違いをしている。
椿井出土三角縁のうち、「三角縁唐草文帯四神四獣鏡」のごとく三角縁のなかでの鏡式まで判明する鏡は丁度29枚で、何ら問題ない。
>>229 ついでにいっておくと、椿井出土鏡の検証が1998年までできなかったというのは明かな間違い。
1989年には京都大学文学部博物において『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』展が開かれており、その図録で全出土鏡を見ることができる。
この展示会は所有権問題が決着したことを受けたもので、当時は「ようやく呪いが解けた」と話題にもなった。
この展示会に触れていない時点でダメダメ。
>>230 実年代観の根拠が全然語られてないじゃんw
>1、同じ規格(設計)の古墳は同時代に作られた。
バチ形前方部の古墳でも、
1 特殊器台と特殊器台形埴輪を持つ箸墓に対してそれらに加えて円筒埴輪を持つ西殿塚はとても「同時期」とはいえませんが。
2 布留0式期での築造が確定した箸墓に対して椿井大塚山は出土二重口縁壺から布留1式期とされていてとても「同時期」とはいえませんが。
>2、後の時代にくだるほど、前方部が発達する。
現仁賢陵(ボケ山)・現清寧陵(白髪山)と今城塚・五条野(見瀬)丸山。
前方部が発達しているのはどっち?
>3、同時代(同じ天皇の時代)の古墳が群れをなす傾向がある。
「同時代」ってどうやって判定するの?
>例えば、都合の悪い事実をあえて無視することは、正常な知性があればありえないが、それは虚偽と知った上での行動であるのか、イデオロギーによる強度の洗脳の結果なのか、ということも認知科学のテーマとして重要性がある。
つまり、自分自身を研究テーマにするということですねw
前方部と後円部の高さの比なんてのも一つの要素としてあるんだが、
そっちにまるで触れないのはなんでだろう〜なんでだろう。
なんでだ、なんでだろ〜〜〜
240 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:24:29
遡上反対君はくそみそになっとるなぁw
相手を捏造だと断じたいがあまりに
自分が捏造してりゃ世話無いわな
241 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:25:18
>>235 では、なぜ彼は、独壇場で学説を発表していたのでしょうか?
同じ資料を用いた別の学者の発表は発掘から30年以上後のことですね。
・・・・・・・・・岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』182頁より・・・・・・・・・・
1980年代末にいたって椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡が正式に公開された
ことがきっかけとなり、その編年をめざした新しい研究が始まる。
(以下、岸本直文、新納泉などの紹介)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この公開までの間に彼は自説をどんどん発展させている。
1971年、「三角縁神獣鏡の研究」
1979年、「三角縁波文帯神獣鏡の研究」
1982年、「『倭人伝』と三角縁神獣鏡」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>237 『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』は1989年に出版されているが、それは
小林が著書で引用した報告書ではない。
肝心のものがこの後もすぐには公開されなかった。
242 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:48:50
243 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:56:40
>>238 >都合の悪い事実をあえて無視すること
畿内説によく見られる行動ですね。バチ形の問題だけではない。
1、鉄器の九州優位という出土状況を認めるのに40年もかかった。
反対論者がどれだけ声を大にして言おうとお構いなし。
*『古墳時代像を見直す』にその経過が書かれている。
2、鏡の同位体比も20年以上ほとんど無視。
論文がどれだけ出されようが、とにかく無視。
検証不能な年輪年代を好意的に引用する一方で、誰でも検証できる
同位体比は無視。
3、日本でのみ三角縁が出土し続けていてもお構いなし。
「日本で約500枚、中国で0枚」の中国製?
これも理性のみでは理解不能。理性を超えるものの探求が必要。
244 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 02:04:12
>>238 >1 特殊器台と特殊器台形埴輪を持つ箸墓に対してそれらに加えて円筒埴輪を
持つ西殿塚はとても「同時期」とはいえませんが。
>2 布留0式期での築造が確定した箸墓に対して椿井大塚山は出土二重口縁壺
から布留1式期とされていてとても「同時期」とはいえませんが。
逆に考えよう。
1、特殊器台〜円筒埴輪までの期間が短い。特殊器台を出土する古墳は少ない。
古墳築造が同時期であっても、被葬者の死亡は同時期ではない。死亡時期の
ずれによる10年前後の間の変遷を考えるべし。
何でもかんでも、変遷期間を長く見て遡上しようとしてはダメ。
2、土器は、庄内、布留の並存関係(両者とも古墳時代の前後もまたがる)もあり、
土器形式が異なっていることのみで、時代差を大きく見ることは出来ない。
このことは、布留0、布留1との間でも同じ。
245 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 16:35:06
古墳からはいろんな土器が出るみたいだ。縄文式土器が大量に出るのも
珍しくないらしい。
これに、後の時代の落ち込みなどを考えたら、こりゃあ年代の特定は難しい。
>>243 言うまでもないけど熱心な畿内論者は
邪馬台国は関西地域になければならないとする運動集団だから。
もう学問の域を超えてるから
247 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 17:26:46
>邪馬台国は関西地域になければならないとする運動集団だから。
しかし、その動機がよく分からないんだよな。
なぜに、大和朝廷は中国に服属していた邪馬台国の後裔なので
ある、ということに無理にでもしたいんだろうね?
卑弥呼のもらった金印が大和ゆかりの地から出てきたら、
それこそ、日本国とは生まれたときから中国の臣下であると
証明されることだから、中国では大喜びとなるだろうが。
逆に九州説論者は、本居宣長以来、大和朝廷は中国に臣従していた
邪馬台国とは絶対に別であるという意図を隠し持っていて、
それはそれでやっかいなんだが。
そういう意味では、
だんだん考古学の成果で、マキムクと邪馬台国とは
同時的に並存していた可能性が浮き彫りになってきたのは、
いろんな意味で感慨深い。
248 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 17:53:49
戦後、左翼イデオロギーが反皇国思想として、今の畿内説の基礎になっている。
1 神武東征は認めるのは皇国史観と同じで、軍国主義であるとされて(直木など)、
九州の邪馬台国が畿内に移ったという見解は、皇国史観とされてきた。
故に、弥生時代における鉄器の九州優位を40年も無視し続けてきた。
2 三韓征伐という侵略を史実と認めるのは、日韓併合の正当化につながる軍国主義
とされて、神功皇后の実在性を認める考えも、軍国主義とみなされた。
3、天皇は万世一系ではなく、何度も王朝交代をしたが、捏造された偽書である記紀は
これを隠蔽し、天皇の権威を高めるために作られたとされた(王朝交代説)。
4、5世紀以前の氏族伝承なども全て捏造である、蘇我氏は朝鮮系であるなどの見解に
もつながっている。
・・・反軍国主義を標榜しつつ、翼賛体制のなかで大本営発表に追従するという矛盾
249 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:00:12
畿内論者「邪馬台国を畿内にしなきゃ 京都大学の権威が失われるから!世の中は権威だ!えっへん」これが本音。
>>241 >では、なぜ彼は、独壇場で学説を発表していたのでしょうか?
「呪われた資料」になる前にデータを得ていたから。
>同じ資料を用いた別の学者の発表は発掘から30年以上後のことですね。
「呪われた資料」になってデータを得られなくなったから。
>『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』は1989年に出版されているが、それは小林が著書で引用した報告書ではない。
>肝心のものがこの後もすぐには公開されなかった。
そちらが引用している岡村氏の著書の
>1980年代末にいたって椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡が正式に公開されたことがきっかけとなり、その編年をめざした新しい研究が始まる。
にある「1980年代末」の「正式」な「公開」が京大博物館での展示&図録のこと。
京大博物館での展示&図録が椿井出土鏡研究の画期となったことが指摘されてますね。
この図録が椿井出土鏡研究の重要な資料となったということです。
引用文の内容とかきちんと理解してます?
で
>肝心のものがこの後もすぐには公開されなかった。
の「肝心なもの」って何のことなんでしょうか?
もし1998年の報告書が1964年の報告書と同じものだと思っているのだったらそれは大間違い。
完全な別物ですから。
ついでにいっておくと、「呪われた資料」となった椿井出土鏡の歴史的価値が世に知られるにいたったのは小林の精力的な研究によってこそ。
小林は、論文中で写真を公開したり同笵鏡のデータを明らかにしたりすることによって、椿井出土三角縁の情報を読者に提供しており、
それなりの研究者であれば、実際には拝めなくなってしまった椿井出土三角縁の全体像をイメージできるようにしている。
さらには「三角縁神獣鏡目録」を作成・公開し、全国における三角縁および同笵鏡のデータを研究者間で共有できるようにもしている。
こうした姿勢を「学問の独り占め」といえますか?
>>243 >1、鉄器の九州優位という出土状況を認めるのに40年もかかった。
> 反対論者がどれだけ声を大にして言おうとお構いなし。
> *『古墳時代像を見直す』にその経過が書かれている。
その『古墳時代像を見なおす』は
古墳時代3世紀開始説
「舶載」三角縁神獣鏡中国鏡説
邪馬台国畿内説
で論じられているのだが・・・
もしも読み取ることができなかったのであるならば読解力の欠如に憐憫の情を禁じ得ません。
それともお得意の「都合の悪い事実をあえて無視」ですか?
>2、鏡の同位体比も20年以上ほとんど無視。
> 論文がどれだけ出されようが、とにかく無視。
> 検証不能な年輪年代を好意的に引用する一方で、誰でも検証できる
> 同位体比は無視。
>論文がどれだけ出されようが、とにかく無視
とあるが、その論文とやらを列記してみてはくれないか?
ちなみに三角縁のうちいわゆる「舶載鏡」群については
「後漢鏡などと同じ鉛鉱石を使ってつくられたという可能性を示唆し、日本の鉛鉱石でつくられたという可能性はないと考えられる」
(山崎一雄ほか「日本および中国青銅器中の鉛の同位体比」『考古学と自然科学』第12号、1979年)
と早くに指摘されていて、考古学界でも共通認識となっているのだが。
>>243 >3、日本でのみ三角縁が出土し続けていてもお構いなし。
> 「日本で約500枚、中国で0枚」の中国製?
> これも理性のみでは理解不能。理性を超えるものの探求が必要。
考古学者の中にも全三角縁=日本製を主張する人たちがいるけど、そういう人たちは実は鏡についての専門家でない人がほとんど。
しかも「中国から出ないから」とか「扱いが低いから」とか繰り返すだけで、考古学本来の技術的視点からの実証的な研究をしようともしない。
それに比べ「舶載」三角縁=中国製を主張しているのは、いずれも国内の鏡はもちろん、中国の鏡をも視野に入れている鏡の専門家たち。
彼らの地道な研究によって「舶載」三角縁の製作技術と中国東北部出土鏡の製作技術に共通点があることが明らかになりつつある。
まともな考古学研究者なら説得力のある方を選択しますね。
>>244 >1、特殊器台〜円筒埴輪までの期間が短い。特殊器台を出土する古墳は少ない。
> 古墳築造が同時期であっても、被葬者の死亡は同時期ではない。死亡時期のずれによる10年前後の間の変遷を考えるべし。
>何でもかんでも、変遷期間を長く見て遡上しようとしてはダメ。
埴輪の型式より「前方部の形態」を優先させる論拠を示してね。
>2、土器は、庄内、布留の並存関係(両者とも古墳時代の前後もまたがる)もあり、土器形式が異なっていることのみで、時代差を大きく見ることは出来ない。
> このことは、布留0、布留1との間でも同じ。
土器型式より「前方部の形態」を優先させる論拠を示してね。
ただただ「前方部の形態が一致すれば同時期なのだ」と唱えるだけ?
それじゃ宗教と一緒ですよ〜。
>>248 実際には、戦後、「左翼イデオロギーによる反皇国思想から」文献史学で生み出された崇神=ヤマト王権創始者説(三輪王朝説)の影響を受けて、一昔前に用いられていた「古墳時代開始=4世紀初頭」説が成立してるんですよね。
で、現在の「古墳時代開始=3世紀に遡る説」はそうした文献史学の影響から脱却し、純粋に考古学的見地から提唱されたものなんですけどね。
しかも、その「古墳時代開始=4世紀初頭」説を強力にプッシュしたのはほかでもない小林行雄。
つまり、「古墳時代開始=4世紀初頭」説を主張しているのに、その年代観の学問的背景とその主導者を攻撃しているわけ。
ほんと九州説論者って悲惨ですねwww
255 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:08:51
>>250 Kさんだけが独壇場で学説を発表し、「呪われた」以降も
さらに独壇場で発表し続けたことは、どう説明しますか?
256 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:15:36
>>251 >その『古墳時代像を見なおす』は
>古墳時代3世紀開始説
それが反論になっていると考えるほどの知能であれば、
これ以上の無駄レスは止めたほうがいい。
鉄器の九州優位を無視したこととは無関係。
>>252 いまだに三角が舶載鏡と信じている時点でアウト!
少なくとも「極めて不利な状況にある。」という現状認識を
示さないと問題外!
出土状況の圧倒的不利を理解した方がいいですよ。
10対0でサッカーの試合が終わった後も数時間審判にクレームを
言い続けているような見苦しさです。
257 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 07:43:15
鏡を持って引っ越ししてきた
258 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 07:57:46
椿井大塚山論文の事件はけっこう有名なのだが
それを小林が独り占めしたとの解釈ははじめて見た。
どうやらリアルタイムで経験したのではなく
後付けのあやふやな本でも読んで、批判した気になっているように思える。
そういった捏造によるネガティブキャンペーンはみっともないし
余計に九州説の信用が落ちるのでやめたほうがいいぞ。
本気で九州説を考えるならば
数理文献学者の主催する商売目的の同人誌連中からは
一刻も早く脱却すべきだろうね。
捏造と強引な解釈は、彼らの十八番であるし
結果的に現在考えうる「まともな九州説(連合内における主導的役割)」の評判まで道連れに落としまくっていることに気づいて欲しい。
259 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/06(水) 08:04:49
畿内になんかに女王国はない。
記紀の卑弥呼の情報の蚊の鳴き声くらいの文面で、朝廷のすぐとなりに
卑弥呼の国があろうはずがない。
かたやまるで遠い外様の大陸に親藩の日本の女王国の記事があるのに、
天皇のいる朝廷のとなりが女王国であるとか言うデタラメは早く覚醒
すべきである。大陸により近い九州にあったことは合理性が否めない。
朝廷の中の者が卑弥呼なら、記紀に神功皇后のように一章ができるが
それがない。ならば畿内にはないのは一目瞭然だ。
260 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 10:26:44
太国はクソ野郎だが
>>259 には同意だな。
大和朝廷自身が、卑弥呼がどこの誰だか分からなかったんだよ。
(いや、知っててわざと隠したのかもしれない)
国の成り立ちどころか、天地の始まりから歴史を書こうと
思って資料を国の権威で集めて、さあ、国史を書こうと思った
そのときに、卑弥呼がどこの誰だか分からなかった。
そんな馬鹿なことがあるだろうか?
そのことそれ自体が、卑弥呼と大和朝廷には、
(間接的にはともかく)直接的にはつながりのなかった
証明だろ。
畿内論者は、こういった九州説側からの根本的問いかけに
いつまで経ってもなにも答えようとしない。
それでも畿内説というなら、なによりも、
そういう根本的な問いに答えるべきだ。
261 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/06(水) 11:22:21
お前、クソは余計だろう。
262 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 14:42:55
>>258 あれは事件そのものが学会の汚点。
学内くだらない事情を理由にして(それ自体がやらせにも見えるのだが)学会が共有
すべき報告書が刊行されなかったのは事実。
報告書が一部の者にしか配られていない状況で独占的に1名が学説を展開し続けた。
それが、三角縁の配布論として学会で大きな影響力を有していた。
論者は新たな三角縁が出土するたびに配布図面を更新し続けた。
しかし、報告書の原典にあたって検証できないため、他者が反論できなかったにすぎない。
同時期に森浩一が国産説を提唱していたが、彼でさえ報告書の原典を見れず、
十分な批判をなし得なかった。
反論逃れのための資料隠し(情報の独り占め)とみられても仕方あるまい。
これを教訓とする見方をするならまだしも、彼を賞賛するなどもってのほか。
年輪年代でも原資料不明のまま結論が公表され、他者の検証を受けていないという
同じ問題が繰り返されている。
263 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 14:49:04
>大和朝廷自身が、卑弥呼がどこの誰だか分からなかったんだよ。→→九州だから
>(いや、知っててわざと隠したのかもしれない)→→九州だから
>>260 >知っててわざと
これも考えられないと思いますよ。
身内の恥も隠さず、敵対勢力の存在も明記してる記紀が
卑弥呼だけを隠蔽する理由がありません。
やはり「よく知らなかった」とするべきです。
あと「邪馬台(ヤマト)国が畿内か九州か」という議論も不毛に思います。
すでに、日本国の自称が「ヤマト」であったと私は考えます。
魏志の「倭」がすなわち「ヤマト」であるわけです。
その女王卑弥呼の所在地が畿内か九州かだけの問題です。
265 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 15:18:50
>あと「邪馬台(ヤマト)国が畿内か九州か」という議論も不毛に思います。
ともいえない。
昔から指摘されていることだが、魏志倭人伝の
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
訳)女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。
みな倭と同じ人種である。
の説明がつかなくなる。
これこそがマキムク(のちの大和朝廷)のことだと考えないと、
これはいったいどこのことなのか、という話になる。
266 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:20:19
帥升は、西暦107年に後漢に使いを送っている。帥升が近畿地方にいたとすれ
ば、生口160人を含む大船団で、瀬戸内海を渡り、玄界灘を通って中国に
行ったことになる。
このような行為が許されるためには、帥升は九州まで支配していたかまたは、
九州は全く問題にならない弱小集団だったと考えなくてはならない。
卑弥呼についても、同じで、帯方郡が魏に支配されるとすぐに使者を派遣
ほど情勢に通じていた卑弥呼が、近畿地方にいると仮定すれば、九州は
完全に支配していなくてはならない。九州に対立する別な勢力がいれば、
情報は伝わらないと考えられるからである。
つまり、これらを総合すると、帥升や卑弥呼が近畿地方にいたとすれば、
後の大和朝廷にも勝る勢力がすでに存在していたということになる。
これは非常識なので、帥升や卑弥呼は、九州にいたと考えられる。
帥升や卑弥呼は、中国に行き来するほど、行動範囲が広い。当然、近畿地方
のことも知っていて、行き来していたと考えるのが普通である。
仮に近畿地方に別な強大な勢力がいたとすれば、ぶつかるに違いない。
少なくとも、魏から倭王と呼ばれ、30カ国を支配していた卑弥呼を意識
しないはずがない。
なのに、記紀には、崇神天皇や神武天皇のことは詳しく書かれているが、
西暦250年くらいまで存在していた卑弥呼については書かれていないと
言う。本当に書かれていないのだろうか。
267 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:24:35
>>262 典型的な詭弁だし捏造だな。
たまに九州論者の中にそういった主張を繰り返し唱えるものが居るが
やはり安本の詐術に完全に騙されているのだろうね。
椿井大塚山論文に関しては
>>227>>235-237>>250に完全に軍配が上がる。
独占しようとした形跡すらないし、その後の和解内容も明白。
これに関しては一時期気勢を挙げて追及していたの安本さえも、今ではそれに触れようともしないんだがね。
>年輪年代でも原資料不明のまま結論が公表され
大嘘。これまた同様に安本が一時期やたらと噛み付いていたが、主張に根拠が無いことがはっきりすると
反論したことそのものを無かったことにしている。
ちなみに年輪年代の研究者は光谷から各地の研究者に受け継がれており
少なくとも関東では東大、明治、国学院など、関西では京大、関大、天理、同志社、奈文研その他
九州でも大宰府の国立などに常駐研究者が居るし、当然資料も行き渡っている。
元試料は正式な手続きさえ踏めば、橿原から借り受けることが可能だし、もちろん検証も自由。
てか既に様々な検証論文が提出されている。
素人さんを騙してあこぎな商売を続ける安本は、当然批判されるべきだが
その彼さえもとっくに諦めた手口を使って、ほとぼりが醒めたのを見計らうように繰り返し使うのはさすがに情けない。
以上、邪馬台国版「オレオレ詐欺」に関してはこれで終結ということで。
好事家に付け入って詐欺まがいの行為をするものは後を絶たないので
皆さんも十分にお気をつけください。
268 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:46:20
年輪年代に関しては、確かに樫原以外での追試が不可能だった時代がある。
しかしこれは試料を取り込んでいるなどより、もっと根本的な問題があってね。
それは、他の研究施設に検証可能な設備そのものがなかったってことなんだわ。
顕微鏡と方眼紙でやっているわけでは無いんだよ。
初期設備だけでもウン千万、常駐研究者の人件費や諸経費などのランニングコストと
設備買い替えなどを考えると、おいそれと手を出せるようなものではなかった。
それが設備コストの軽減と、機運の高まりによってようやく軌道に乗ってきたというところだな。
それにモリコーさんは、年輪年代がおかしいとは一言も言ってない。
各地で追試できる環境にないことが、そもそも学問としてどうかという話で
研究者にではなくお偉いさんたちに対して「もっとカネを出せよ」と言いたかったわけよ。
モリコーさんの偉いところは実はそこなんだよな。
一般向けにしても国や自治体に対しても、常にカネのかかるわりには利益の出ない学問である歴史学をアピールしてくれているのだから。
樋口も説そのものには批判は多いが、そこのところは非常に評価されている。
安本一派や古田一派も、自分たちの金儲けに腐心するのではなく
いかにして予算を引き出させるかを少しでも考えて欲しいな。
高島さんの爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。
269 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 18:01:17
>>267 やれやれだな。
約30年もの間、K氏のみが論文を出し続けたのはどうしてなんだ。
他の者が原資料に接することができなかったからではないのか?
この点には、君は一切反論できていない。
すでに事実が結論をだしている。くだらないごまかしは、恥の上塗り。
報告書の発表までにあれだけ時間を要したということ自体が、藤村の事件と
同レベルの汚点だろ。当事者の感情の行き違いでごまかせるレベルではない。
年輪年代の元資料(データーのもとになった1本1本の木材のデーター)
が公表されているわけではない。ごまかしはダメ。違うならソースを出せ。
データーそのものは著書等にして公開することが可能なわけだが、一部への
貸し出しという現状では検証とはいえない。
そもそも、年代発表をした元の試料を防腐処理をしてしまい、他者からの
検証が不能なものも存在する。検証という学問の前提が欠けている。
ところで、ここで何故安本なんだ?
270 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 18:32:20
文献的に、
その木の切り出されたのが間違いなく、○○年であると分かっている
木材があったとして、
それを黙って年輪年代法で鑑定させて、はたして正しい結果を
得られるかどうか、ぜひ実験してみたいものだ。
そんな木材がないものか…
江上先生ご健在の時からそうだけど、
畿内論者の個人攻撃は関係者じゃない人間から見ても異常すぎる。
現場は基本的にアカデミックな世界だから
学術的な検証に個人的な感情や思い入れを織り交ぜても
一般大衆には一見見極めがつかないことをいいことに
都合の悪い部分は無視、隠蔽。
相手の言ってもないことまで付け加えて、それに対して反論。
相手をどんどん煙に巻いていく
それほど賢くない庶民でも
やっぱり見てる人はちゃんと見てるよ・・
272 :
SOY:2007/06/06(水) 21:33:11
>>267 >元試料は正式な手続きさえ踏めば、橿原から借り受けることが可能だし、もちろん検証も自由。
>てか既に様々な検証論文が提出されている。
年輪年代については私も検証したいと考えていました。
年輪読取器で読み取った測定サンプルと年輪ものさしの数値データの
ダウンロード先をお教え願います。
なければそれらの数値データが記載された報告書名でも構いません。
273 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/06(水) 21:37:41
畿内説が何と言おうと年代測定の根拠を画文帯などの鏡に置いてるところが救われない。
画文帯鏡は晋の時代以降倭に入ってきたもので当然280年以降のこと。
三角縁鏡も同じ頃のもので呉が滅び、江南の銅鉱を晋が自由に使用できるようになってからのもの。
274 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 23:17:32
>>269 K氏とか言わんでも京大(当時)の小林教授と明記してかまわないんだけどねw
他者の論文が出なかったのは当たり前の話で
一次資料を直接閲覧できなかったため(このあたりの事情は既に述べられているね)であり
常識から考えて、自身で検証不可のものを論文にする馬鹿などいなかったというだけの話なんだけどね。
君はそんな試料でも論文化するって訳かい?
その時点でそいつは論文ではなく、単なる雑文なんだけどね。
安本の名前を出したのは「何 故 か」君と全く同じ主張をかつてしていたからだよ。
当人は今ではそんな話をしたことすら触れたがらないけどね。
>>271 江上さんを引き合いに出すのもアレだが
都合の悪いことを無視したり隠蔽なんてしていないよ。
その後の出土や研究によって、アカデミズム自らが通説をひっくり返すことは多々あるが
そもそもなんら問題の無い話(倭人伝の解釈や土器編年など)が都合が悪いからといって
いちゃもんつけるような情けない行為ばかりしているから、九州説は民間信仰レベルにまで落ちてしまったんだよ。
正式な手続きを踏んで、また正式な場で堂々と論文を出せばいいのに、絶対にそれはしないだろう?
かつては安本も古田も、また松本清張でさえ正式な形で論文提出して、学術的論争に加わっていたのに
いつ頃からかリング外から野次を飛ばすだけの存在に成り果てたのは、やっぱり情けないよ。
>>272 ウェブ上でのDLについては行っていないように思いますが
お住まいが関東なら、明治か国学院
関西なら橿原か京大、関大
九州なら大宰府に事前に申し込めば、少なくとも閲覧は可能なはずです。
出来ればどなたかの紹介があればなおベターです。
275 :
SOY:2007/06/06(水) 23:27:33
>>274 >関西なら橿原か京大、関大
そういったところでも入手可能なら、ストレートに奈文研に行けば、
年輪読取器で読み取った測定サンプルと年輪ものさしの数値データ
はすぐにでも手に入るということでしょうか。
できれば公開されている報告書名が知りたい。
276 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 23:46:35
>>275 奈文研だとかえって手続きがややこしいんじゃないかな?
何の紹介もなしに行くと胡散臭い目で見られるかもしれないし。
実は文献の世界と同様に、美術品的または歴史的価値のある出土品に関しては
盗難や偽造の危険性があるから、元試料を直接当たるには何らかのコネか信用が必要なので
そういう繋がりを今後築いていくためにも、配布資料から先に手を付けたほうがいいと思いますよ。
報告書名は、個別事案ごとにあります。
例えば「法隆寺構内出土の木片についての〜」や「池上曽根遺跡出土の表皮付着木片についての〜」など。
これも事前に担当者宛に手紙を書いて、年輪年代データを纏めたいなどとの趣旨を伝えれば
ある程度は用意してくれるかもしれません。
あとはコピー代実費で。
SOY氏はそういった世間一般の常識がおありのようだから、慇懃かつ簡潔な内容をお書きになれるでしょうから、注意点はそれくらいですか。
但し、出来れば春や秋の繁忙期は避けてあげてください。
277 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 23:55:28
>>274 >かつては安本も古田も、また松本清張でさえ正式な形で論文提出して
ここは少し気になる。最近はどの媒体で発表しても構わないという風潮が強い。
一般書籍レベルや『東アジアの古代文化』などの雑誌でも論文に引用される
ことが多く、この点で正規かどうかにこだわる理系の風潮とは全く異なる。
正規の論文という範疇をどの範囲で考えいるかわかりませんが、狭い世界に
視野を限定すると、反論から目を逸らそうとしていると勘ぐられるのがオチです。
278 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:22:57
年輪年代法は、ヨーロッパでは、ある程度確立され、定着しているらしい。
日本でも、やろうとした人は多かったらしいが、ヨーロッパと違い、気候が
複雑で、日本では無理だといわれていた。
地域によっても年輪の出来方には差があるから、異なったパターンが必要と
なる。
しかも、仮に年輪年代法で正確な年代がわかったとしても、伐採された時期と
使われた時期が異なるといわれると、参考に出来るかどうか困ってしまう。
たとえば、紫香楽宮の場合はぴったり一致する。法隆寺の場合は100年ずれる。
勝山古墳の場合も、かなりずれる。正倉院の宝物の中には、600年ずれるもの
もあるらしい。これで年代を決めるのは、けっこう難しい気がする。
安本氏の名前を出せばいいと思っている人がいるらしいが、やはり、論点を
絞って個別に議論すべき。そうでなければ、以前皇国史観のレッテル貼りで、
東遷説を縛ってきたのと同じになる。
畿内説はそういう手段しか使えないのかと思ってしまう。
279 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:24:27
280 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/07(木) 00:40:19
なーんか知らないけど「正式な形で論文提出」しさえすれば
それがいかにも権威があるかのような錯覚に陥って
そうでないと雑文だ、などと蔑むのは愚か者の骨頂だということ。
そんな調子だから素人目にも解る事が盲目になって正しいものも見えなくなる。
少しばかりの知識を鼻にかけては小難しい議論を好んで悦に入る。
少し考えれば、画文帯鏡などの年代が確定しない以上畿内説の言い分は
どんな立派な論文を書こうと想像を超えない。それだけのことなのに
学説じゃ、論文じゃと有難がって、権威に弱く迎合している、
その様な愚かな人なら昔からいるよ。友人にもいました。
今は中近東にいるけど。
281 :
SOY:2007/06/07(木) 00:40:43
>>276 >盗難や偽造の危険性があるから、元試料を直接当たるには何らかのコネか信用が必要なので
>そういう繋がりを今後築いていくためにも、配布資料から先に手を付けたほうがいいと思いますよ。
元資料の木材を私が直接計測しようと考えているわけではありません。
捏造でもない限りは、数値データは基本的に信用できると私は考えています。
ただ単純に測定した数値データを検証の為に入手したいだけです。
>例えば「法隆寺構内出土の木片についての〜」や「池上曽根遺跡出土の表皮付着木片についての〜」など。
たとえば纏向石塚。この周濠から出土した木材の数値データが掲載された報告書は
本当に存在しているでしょうか?
どういう報告書名でどこに限定して公開されているかが分からないことには、
入手のしようもありません。
どちらにしても年輪ものさしの方の数値データも必要になってくる話ではありますが…
私はC14にしても鉛同位体比にしても、自分でまがいなりに検証しています。
同じように年輪年代についても検証したいと考えています。
282 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/07(木) 01:06:33
TVでドキュメンタリーやってたけど木を切り出して20〜30年は海水に浸けるんだと。
その後に材木として始めて加工して柱などに使われる。
切り出してすぐに使われたどうかさえ不明だ。
年輪などで年代を割り出す事自体ナンセンス。
283 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 01:47:56
284 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 01:56:18
>>282 きみは
奈良県や長野県など、海のないところの縄文・弥生遺跡から出てくる木材は
山で伐り出したあと、いったん大阪湾や太平洋、日本海まで海水に浸けに行き
それから20〜30年経ったら地元奈良、長野に持ち帰って製材・加工し利用した
とでも主張するのかね。
285 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 02:13:58
286 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 02:17:31
勝山古墳というのは面白い。
葺石がないことなどから、弥生墳丘墓だという人も多い。
一方で、初期の前方後円墳だという人もいる。
年輪年代法で出土した木材を測定したら、西暦200年頃と出た。
古墳時代は、この頃には始まっていたと騒いだ人もいる。
しかし、出てきた土器は、布留0式。
なんか、チグハグ。
287 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 02:20:01
>>284 海に漬けたかどうかは知らないが、切り出してすぐ使ったか
どうかなんて、どうして分かるのか。
また、木材はその外縁部まで使ったかどうかなんて、
そうそう分かりはしないんじゃないか?
年代年輪法は、常に年代を古く見積もりすぎる危険性があるように
思えるが?
288 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 02:25:30
>>285 『情報考古学』のバックナンバーを見ていたら、読みたくなってきた。
1巻1と4巻2に計量言語の専門家の村上征勝氏が出ているが、
この分野でも活躍しているとは知らなかった。
289 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 02:57:26
法隆寺の心柱が、年輪年代で西暦594年の伐採と出た。
法隆寺の創建は西暦607年。しかし、法隆寺は、西暦670年に全焼し、8世紀始め
に再建されたと日本書紀に書かれている。
百年も保存していたと考えるのはおかしい。焼け落ちた元の柱は使えない。
他の建物の柱を転用したと考えることも出来るが、法隆寺以前には、この
大きさの建物はなかったとされる。
では、法隆寺は全焼したと言う日本書紀の記述は嘘だったのか?
しかし、瓦の年代の研究から現在の法隆寺が立てられたのは、8世紀はじめ
頃とされる。また、伽藍跡の発掘で、現在の伽藍より古い時期の塔と金堂の
遺構が出土しており、再建は動かないとされる。
ハテ?
290 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 03:23:45
年輪年代法は勘違いされてないか?
下の記事には、
>ヒノキには建築材料として
>不適な白太の部分が五三±一七年分あると推定して、結局心柱の伐採は六四四年、
>早くても六二七年
結局、年輪の一番外側の部分など、測られてはいないという意味にしか、読めないんだが。
年輪年代法の場合、適当にプラス・アルファするしかない。まあ、五十年分くらいかな? と
いうアバウトな世界の手法なのだろうか?
このような手法によりかかる畿内説は、大丈夫なのだろうか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou43/yoneda43.html 五九四年伐採確定に思う
というのは発表の仕方、内容に今一つ、スッキリしないものを感じるからです。
八七年に発表された時は五九一年の年輪としながら、ヒノキには建築材料として
不適な白太の部分が五三±一七年分あると推定して、結局心柱の伐採は六四四年、
早くても六二七年としていたわけです。
(略)
少し詳しく説明しますと、前回心柱の最外郭の年輪は五九一年と判断されたのですが、
今回は五九一年の年輪の外に三年分年輪があることがわかり、五九四年と発表しています。
しかし、前回年輪を見逃したとは考えられず、ものさしである暦年標準パターンに修正が
加わったと考えるべきかどうか。説明が不足していてよくわかりません。どちらにしても
心柱の最外郭の年輪を前回Aだと言って、今回Bだと言う。ふたつの判断が生きています。
科学者、研究者の態度としては、おかしいといわざるをえない。(略)
291 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/07(木) 03:40:36
>>284 海水に浸しておくのは一つの例として言ったまでのこと。
守山市二ノ畦・横枕遺跡の2基の井戸では出土した土器と年輪年代との間に150年もの開きが出ているが、
このような矛盾した年代を示す出土物もけして少なくない。
292 :
大和:2007/06/08(金) 09:40:02
>>281 SOYさん。
市井の輩ですが、「こんなところで」いかがですか。
『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』
奈良国立文化財研究所学報第48冊・同朋舎1990年
『年輪年代法の最新情報』2000・水谷拓実編
奈良国立文化財研究所「埋蔵文化財ニュース99」
手じかなところで刊行本
『日本の美術・No421』東京国立博物館 刊:図録
『弥生時代の実年代』学生社:水谷拓実氏が纏向石塚古墳、ヒノキ材に言及。
『考古学と年代測定学・地球科学』同成社:水谷拓実氏、石塚に触れず。
小難しそうですが、勉強になります
294 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 20:29:53
ピラミッドを部分解体して要塞を作ったイスラム帝国がありました
295 :
SOY:2007/06/08(金) 21:11:21
>> 292 大和さん
情報ありがとうございます。
因みに提示の資料にはちゃんと数値データは掲載されていますでしょうか?
これを強く求めています。
C14にしても鉛同位体比にしても、数値データは容易に入手可能なのに
年輪年代だけは数値データがきっちりと掲載された本を見かけたことがありませんでした。
提示の本に数値データが掲載されていれば、ようやくこれで検証ができます。
掲載されていなければ、今までどおり、気長に公開を待つしかありません。
296 :
SOY:2007/06/08(金) 21:35:04
>> 292 大和さん
>『弥生時代の実年代』学生社:水谷拓実氏が纏向石塚古墳、ヒノキ材に言及。
本棚を見たら、この本だけはありました。
けれでも残念なことにこの本にも結論だけしか書かれていませんでした。
標準パターンがどのような木材から作られたのか、
どういう問題があって、どのようにそれを解決したのか、
この経緯を知ってい人は限りなく少ないように思えます。
297 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:09:35
>>296 日本で年輪年代測定法を実用化しているのは奈文研しかないため、
「検証は難しい」とか「光谷さんにはデータを公開してほしい」とか
そんな意見を良く聞くので、追試の可能なデータは公開されていないのでは?
一般的に、科学的に信頼される方法というのは、誰でもが追試可能なもの
と聞くので、その意味では日本の年輪年代は科学的に信頼されるとは言えない
と思うけど。どんなものだろう。
>>294 サラディンの話だろ。
新たに石を切り出すより既存のピラミッドを解体して
そこから石を拝借する方が早い。
でも木の場合、風雨に曝されていれば使い古しは弱そう
299 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:23:56
>>267 >>274 気になるので、亀レス。
安本がそのような発言をしたソースを希望。
以前、橿考の内部者(寺沢の部下)を自称した者と同一と思われるが、
書き方がちょっと異常。毎回、嘘を書き逃げするが、今度も嘘か?
300 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:01:57
秦氏はユダヤ人だと思う。
301 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:48:19
>>267 まじで、安本って
やっていることがエゲツナイ
マスコミなんかにも、普通に研究家として登場するけど
ただの専門外のアマチュアの歴史商売屋じゃん。
302 :
大和:2007/06/09(土) 01:12:52
>>296 SOYさん(1)。
『弥生時代の実年代』学生社を所持とか。お話しの摺り合わせができてよかったです。
ところで、ご希望の数値データーは難しいように思います。思いますに年輪パターンの数値
化というものがどのようなものか存じ上げませんが、当該研究手法にはそぐわないように見
受けます。ここは指紋照合のように、現物突合しか研究成果は出せないのではと考えます。
勿論、資料の100%合致は検体資料が違いますので、SOYさんもご期待はされておられない
と考えますが、BC1000年〜AD2000年、概ね現在から紀元前1000年の約3000年間
の年輪パターンを数値化された資料とやらをご存知なのですか?。あれば私もぜひ拝見した
く願います。
303 :
大和:2007/06/09(土) 01:14:02
>>296 SOYさん(2)。
>標準パターンがどのような木材から作られたのか、
現在、ヒノキ・スギ・コウヤマキ・アスナロが実用に供されているとのこと。
『弥生時代の実年代』に載せてありますパターンはヒノキと思われます。
『考古学と年代測定学・地球科学』同成社に採用されておりますパターンの図柄が『弥生時
代の実年代』のパターンと同一のもので、こちらにヒノキと明示されております。
>どういう問題があって、
『考古学と年代測定学・地球科学』同成社に「測定資料」として箇条書きされております。
>どのようにそれを解決したのか、
「年輪幅の計測と年輪パターンの照合方法」として記述されております。
>この経緯を知ってい人は限りなく少ないように思えます。
光谷拓実氏論、コンピュターによる年輪パターンの照合は、時系列解析に用いられる相関分
析法によっている。詳しくは
『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』
奈良国立文化財研究所学報第48冊・同朋舎1990年
を参照されたい(『考古学と年代測定学・地球科学』同成社P18より)。とあります。
因みに、
>標準パターンがどのような木材から作られたのか、
『弥生実年代と都市論のゆくえ』池上曾根遺跡・秋山浩三著。P51に凡そ3000年間のパタ
ーを5つの標本で表されております。
304 :
SOY:2007/06/09(土) 02:00:15
>>302 大和さん
>ところで、ご希望の数値データーは難しいように思います。
年輪パターンの数値化。これは必ずされています。
年輪年代法は指紋照合のような方法ではないので…
同一の木材でもない限り、指紋照合のような方法では年輪は重なりません。
そもそも年輪の測定って年輪幅を数字化する作業のはずです。
>数値化された資料とやらをご存知なのですか?
大和さんもグラフくらいなら見たことがあるのではないかと思います。
> >標準パターンがどのような木材から作られたのか、
> 現在、ヒノキ・スギ・コウヤマキ・アスナロが実用に供されているとのこと。
上記のような意味ではなく、『3000年間のパターンを5つの標本』という方の意味での発言です。
その標本について詳しく知りたいという意味です。
>どういう問題があって、どのようにそれを解決したのか
これも一般論的な問題という意味ではなく、個々の資料における問題という意味です。
標準パターンとどの程度一致し、どの程度一致しないかなど、
そういった個々の資料における問題について知りたいという意味です。
こういった問題は個々の資料についてのデータが公開されない限りは分からない話です。
305 :
SOY:2007/06/09(土) 08:49:44
>>297 >一般的に、科学的に信頼される方法というのは、誰でもが追試可能なもの
>と聞くので、その意味では日本の年輪年代は科学的に信頼されるとは言えない
>と思うけど。どんなものだろう。
その点で日本の年輪年代法はまだ一つの手法としては確立していないと
私は考えています。
検証できないものを根拠にして科学的と言っている考古学者についても
どこか科学的ではないものを私は感じてしまいます。
私は会社員ですが、調査報告を行う時は、結論や考察だけでなく、
必ず数値データやその調査方法についても添付しています。
調査方法が妥当であるかも分からない調査報告書には意味がないし、
その報告書を読んだ他の人間が同じ手法、同じ条件で調査を行って、
同じ結論に至らなければ、その結論は誤りとされても仕方がないと
考えているからです。
306 :
大和:2007/06/09(土) 09:15:28
>>304 SOYさん。おはようございます。
私もC14や鉛同位対比分析、年輪年代法等にすごく興味をもっております。未だ素人考え
から抜け出ておりませんが、いろいろご教示よろしくです。
>>年輪パターンを数値化された資料とやら、あれば見てみたい(大和)。
あるようですね。前言取り消します、私も手に入れるよう努力いたします。
>こういった問題は個々の資料についてのデータが公開されない限りは分からない話です。
だいぶ専門的なお話しのようなので
>>276氏に同意。
307 :
SOY:2007/06/09(土) 11:11:38
>>306 大和さん
おはようございます。
年輪年代の数値データについては、時折、本屋で本を覗いたりしながら、
気長に待つつもりです。
学問の場なので消失しない限りはいつかは公開されると考えています。
鉛同位体比のデータについても、ある程度は公開がされていますが、
朝鮮半島や中国についてももっと調査して欲しいと願っています。
特に甘露年間の獣首鏡なんかはどのあたりに分布するのかなど
非常に気になります。
308 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:46:29
年輪年代法の根本的問題は、
仮にそれでもとめた数値が絶対的に正しくても、
その値に、それこそテキトーな数値を上乗せしなけりゃいけない、
という点にこそあるんじゃないか?
>>290 をよく読めば分かるように、
だいたい50年分くらい上乗せしたら、どうだい? てな調子の
推定をしないといけない。
で、マスコミに出るときは、この上乗せ分はしない年代が
確定年代で流れるもんだから、
法隆寺再建は誤り との結論になってしまう。
事実は、再建されてるし、年輪年代法の数値は、
それこそ研究者の主観でしかはじき出せない数値を
テキトーに上乗せしないといけない。
それは、いまのところ、50年くらいかと思われているが
それが正しいかどうかは神のみぞ知る、としかいいようがない。
もし大工が木材の品質のいいところだけを取り出して使いたいと
考え、芯の部分を選び出して使っていたら、
上乗せしなきゃいけない部分は、100年分はおろか
数百年分にもなるかもしれない。
その場合、年輪年代法の推定年代は、実際の年代よりも
数百年も古いものとされてしまう。
309 :
井沢元彦はバカですよ:2007/06/09(土) 14:56:51
310 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 15:50:04
>>308 私も同意です。
伐採した直後のヒノキを使用するという前提で、発掘担当者レベルが
遺跡や古墳の年代が今までの想定より100年も繰り上がるなどと
マスコミに発表し、学者はその暴走を黙認するという構造はダメですね。
長期間寝かせてから使わないと、そりやゆがみが出るという常識や
釘や固定金具のない時代では、より長く寝かせる必要があるという思考
が全て無視されている。
311 :
大和:2007/06/09(土) 20:29:15
SOYさん(1)。
どうも私の心得違いがあるようなので再論。
>年輪年代の数値データについては、・・・気長に待つつもりです。
やはり、私には難しすぎて読みきれませんが、SOYさんにはぜひお読みいただきたい。
「『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』奈良国立文化財研究所学報
第48冊・同朋舎1990年」ご研究に十分参考になると思います。
上記本概略に、もっとも年輪年代法の基礎研究は1979年の坪井清足・佐原真両氏の
洋行みやげ話がきっかけとか。関西では奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が実践
した。「しかし、古年輪学研究の基幹となる長期に及ぶ暦年標準パターンの作成まで発
展させた継続的な研究報告には未だ接していない(野田1987・1988))。とする。
素朴な疑問。年輪年代法の第一人者といわれる光谷拓実氏をもってして、たかだか2〜
30年の研究時間です。されどその期間一心不乱に研究している研究者のデーターが公
開されるとして、果たしてアマチュアがそのデーターを咀嚼し、結果、研究者の上前をは
ねることができるのであろうか。
312 :
大和:2007/06/09(土) 20:41:41
SOYさん(2)。
因みに本日色々調べてみました。暦年標準パターン(年輪ものさし・BC1300〜AD20
00)を載せている書物6冊。全て同一図柄(年輪ものさし)を採用しておりました。
但し、暦年標準パターンで例えば『紀元前後』のスパンを示す物差し代わりに、わっぱ
めしの入れ物1(年輪に歴史を読む)、法隆寺夢殿3(日本の美術・考古学と年代測定
学・弥生時代の実年代)、池上曾根遺跡柱根1(弥生実年代と都市論のゆくえ)、パタ
ーンのみ1(卑弥呼誕生)、の4通りがありました。
その前後も著者により対象物が変わっております。石川真脇柱根、周構墓木棺、法
隆寺五重塔、東大寺仁王像、町屋、現生林等とうです。各々の検体のパターン(数値
データー?)は当然標準パターンと同じ(SOYさんによればこの部分が問題なのでし
ょうが)ということで載せておりませんでした。纏向石塚の年代パターンは石野博信先
生も納得引用(邪馬台国の考古学)がありました。
313 :
SOY:2007/06/09(土) 21:14:51
>>311 大和さん
>やはり、私には難しすぎて読みきれませんが、SOYさんにはぜひお読みいただきたい。
>「『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』奈良国立文化財研究所学報
>第48冊・同朋舎1990年」ご研究に十分参考になると思います。
機会があれば目を通そうと考えています。
しかし、今までの経験からその本にも数値データは掲載されていないと睨んでいます。
数値データが実際には公開されていないにも関わらず、
2チャンネルではあたかもそれが公開されているかのように言う人がいる。
その可能性を考えています。
>>312 >因みに本日色々調べてみました。暦年標準パターン(年輪ものさし・BC1300〜AD20
>00)を載せている書物6冊。
何度も繰り返し言っていますが、本当に数値データは掲載されていたのでしょうか?
>素朴な疑問。年輪年代法の第一人者といわれる光谷拓実氏をもってして、たかだか2〜
>30年の研究時間です。されどその期間一心不乱に研究している研究者のデーターが公
>開されるとして、果たしてアマチュアがそのデーターを咀嚼し、結果、研究者の上前をは
>ねることができるのであろうか。
だから素人が検証してはいけないとするのは稚拙な考え方です。
厳しいことを言えば、数値データが公開されない、追試が行われないうちは、
日本の年輪年代法は光谷拓実氏の道楽に過ぎません。
>あたかもそれが公開されているかのように言う人がいる。
あの人は文章は上手だけど、いつもの詭弁の人だから。
基本的に「数値データは公開されてない」とするのが筋
315 :
大和:2007/06/09(土) 23:31:30
>>SOYさん。こんばんは
>機会があれば目を通そうと考えています。
>しかし、今までの経験からその本にも数値データは掲載されていないと睨んでいます。
検索しましたら絶版になっておりました。申し訳なかったです。
>何度も繰り返し言っていますが、本当に数値データは掲載されていたのでしょうか?
いえ、一応>312 では「ない」と書かせて頂きました。読みずらかったですね失礼。
>だから素人が検証してはいけないとするのは稚拙な考え方です。
いえ、真に素朴な疑問、他意はございません。放置で。
資料をお探しのようだったのでつい出張ってしまいました。お許しを。
316 :
SOY:2007/06/10(日) 00:10:13
>>315 大和さん
>検索しましたら絶版になっておりました。申し訳なかったです。
いえいえ。 資料の提示。非常に感謝しております。
ご提示の『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』は
近くの図書館にありますので、今度、図書館に行った時に目を通そうと考えています。
数値データを求めるあまり、少し言葉が乱暴になった点については
ご容赦願います。
317 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 04:09:08
>>308,
>>310 ところが、年輪年代では、表皮つまり一番外側の年輪が残っていないと伐採
時期は特定できないから除外されることになる。表皮が残っているものだけ
が年輪年代での測定対象になる。
ちなみに、伊勢神宮は20年毎に式年遷宮という建て替えを行うが、これは
8年前からヒノキを切り出して準備をする。つまり、8年で完璧に使える木材
になる。ほかの、たとえば、東大寺の大仏殿などはもっと短いようで、
18世紀始めの再建のときは伐採してからわずか2年で使われている。
しかも、このとき、何かのために別な木材を保管したというような話は
聞かない。保管するような場所もないだろうし、そんなときは新たに切り
出せば良いわけだから。
318 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 10:46:03
>>318 おいおい、嘘をいっちゃいけないよ。
法隆寺の芯棒は表皮なんて残っちゃいないだろうが、
測定の対象になってるだろ。
その測定結果で非再建となったから、
他の証拠から、再建派 対 年輪年代法信奉者との間で
大論争になってるんだろうが。
ちなみに、594年が年輪年代法のはじき出した数値。
ありえねー、と再建派はそれを否定するが、要するに再建派が言ってるのは
年輪年代法の手法自体が
なにやらとんでもない間違った前提に基づいているのではないか???
ということだ!!!
邪馬台国が解明されました。なんと驚くことに畿内だったのです。
お、おどろいた!
今までいろんな本を読んだりインターネットで検索して調べてきましたが。。。
畿内派に立つことも、九州派に立つことも有り、いろいろ考えた結果、畿内が正解みたいです。
九州説に関しては魏志倭人伝に記されてる邪馬台国までの距離しかみてないように思える。
もっと全体的にみてみよう!あなたは邪馬台国(やまとのくに)はどこだと思いますか?
322 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 12:50:20
神奈川県民さん。
あなたは確かこの「卑弥呼は誰か?」スレの最初のスレ主だったよね。
で卑弥呼は誰か、わかりましたか?
>>225 >海部家って出雲より古い訳?
どうゆう質問かきいてみたいですよね笑
>>322 このスレも私が作りましたよ。
卑弥呼は鬼道を使う。鬼道とはみんなが知ってるとおり霊的な呪文。
物部の「物」とはこの「霊的な呪文」を意味する。
昔、敗者は勝者に娘を差し出すという慣わしから、敗者となった物部王朝が
三人の娘、鬱色謎命・伊香色謎命・埴安媛を孝元天皇に献上した。
邪馬台国時代とはこれの少し前の時代とみている。
325 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 13:40:09
畿内説の場合、
邪馬台国の東方(海の向こう)にあったという倭種の国とは、
どこの国になるの?
九州説の場合、これがマキムクと考えられているわけだが。
326 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 15:45:14
>>318 もちろん表皮は残っていない。言い間違えたが、表皮の直下の部分のこと。
この表皮に一番近い部分が残っていないと、伐採の年代はわからないとされる。
調査された法隆寺の心柱は、50年以上前の解体修理のときに取り出されたもの
で、光谷氏は、一番外側の年輪が樹皮の直下にあるとして伐採の年代を
出している。
もっとも、あとになって肉眼ではわからなかった年輪が確認されたとして
3年分を追加しているわけだが。それが西暦594年。
327 :
SOY:2007/06/10(日) 20:46:28
>>年輪年代法
図書館で『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』 を斜め読みしました。
肝心の数値データが示されず、既に加工済みのデータだけの文章を読むと、
やはり、ある一つの疑問にぶつかります。
年輪年代法を引用している考古学者はちゃんとこれを検証したのでしょうか?
自分では全く検証せず、皆が言っているから正しいと考えて鵜呑みにし、
何の疑問も持たず引用しているように思えます。
石器捏造事件と言い、考古学の世界にはこういった体質があるのではないでしょうか?
とりあえず、ざっと読む範囲、歴年標準パターンでさえも数値データがなければ、
それが正しいとは判断できないと理解しました。
328 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:07:43
>九州説に関しては魏志倭人伝に記されてる邪馬台国までの距離しかみてないように思える。
これがすでに間違い。
もっと全体的にみてみよう!
329 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 02:10:57
邪馬台国は今では言う日本国のみたいな名なのかな?奴国とかは県名で。朱儒国は畿内説はコロボックル説とかかな?俺は子供がたくさんいた国だから朱儒国としたと推測。
330 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 02:15:22
当時の平均身長は150から160だとして平均身長が120しかいない地域なんてあり得ない。同じ人種で地域によって30センチの差があるなん例はない。朱儒は子供を小人と言いかったと推測。
331 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 02:45:12
>>329 ヤマトというのは地名ではなくて、倭王の都するところ、つまり首都みたいな
意味があるのではないかと考えるときがある。
大元は地域呼称集団じゃないの?人も含む
ハヤトと対を成しそうな気もせんではないが。謎だw
333 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 16:43:37
ヤマトと読んだかどうかも分からんし。
トじゃなくてイツかもしれないだろ。
もともと、原典のイツの字をトと読みたいために、
勝手に置き換えてるだけなんだから。
畿内説はヤマトでないと困るだろうけど。
それと、結局のところ、
魏志倭人伝の
邪馬台国の東、海を渡ること千里余りにはまた倭種の国がある
(九州説によれば、これがマキムクとなる)
という記述がカギになるような気がする。
ヤマト、ハヤト、
どっちも響きがかっこいいのは確かだな
335 :
大和:2007/06/11(月) 20:00:41
SOYさん(1)。フットワークの軽さ、さすがですね。折角お読みいただいたのに、火に油を
注ぐ結果になってしまって残念。
年輪年代法。たとえば、ヒノキのパターンを例にとれば(素人の勝手解釈です。お許しを)
現在、現生木〜BC1500ぐらいの凡そ3500年間の暦年標準パターンが完成している。
これ、対象木の天然群生林の中から最低15資料(ヒノキの場合:10ポイント、109サン
プル、平均257年輪数『年輪に歴史を読む・表V−1(P30)』平均年輪数は表V−1に記
載ありませんが、説明上単純合算平均値を書く)を採取し、1資料(板厚10cmの外皮つ
き円盤状切り出し)ごと、樹心から2〜4方向に側線(ガイドライン?)を引き、各々年輪の
『幅』を計測、同一年輪ごとに平均値を出し、その平均値をその資料の年輪データーとす
る。当該資料の年輪の数(この場合は257回)だけ作業を繰り返し、15資料あればこれ
を15回、109資料あれば109回繰り返すことになる。
次に、この1資料1年輪の『幅』データーを真中に前後2年輪、都合5年輪分を平均、対数
化する。これを年輪の数だけ行い、資料の数だけ行う。次に現生木だから表皮の年代が
判っているので伐採年を頭に対数化した数値を横軸を時間軸としたグラフ上にプロット、年
輪ごとの平均値を結び、257年間のヒノキの暦年標準パターンが出来上がる。と理解しま
した。
336 :
大和:2007/06/11(月) 20:02:44
SOYさん(2)。
次に検体資料を全く同じ行程で処理を行い、検体の年輪の暦年パターンを作成する。
この検体の暦年パターンと暦年標準パターンを目視照合し、合致点を見出すのである。
このさい、照合の目安として『指標年輪部』といわれるポイントが用意されている(省略)
この照合・合致のポイントに重なり合う部分をつなぎ合わせ、グラフ化したものが一般に公
開されております(弥生時代の実年代・日本の美術 No421 P23)等々。
但し、個人的には確かに不安もあります。
現生木は任意に大量に手に入る為、第一期間の標本資料として一点の曇りもない。しかし
それにつながる第二期間、第三期間、・・・、第X期間に於いて、期間の重なる部分を共有
する連鎖の状態。その一期間が鎖一個、即ち単一資料というのが心許無い気がします。
色々資料や刊行本をみますと同一期間で別サンプルを当てているケースや、重なり期間
が異なったグラフがあります。法隆寺心柱の確定には『日本の美術・No421』によりますと、
滋賀県宮町遺跡の柱根の伐採年代を特定した同じ暦年標準パターンを使って云々とあり、
電車の複線と同じように、各期間に於いて資料の積み重ねが進んでいるように見受けられ
るのが救いです。
※一応『年輪に歴史を読む』に沿ったところを要約したつもりです。でも誤記・誤解・読み飛
ばしを避ける為、『年輪に歴史を読む−日本における古年輪学の成立−』同朋舎刊をご参
照ください。
337 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:15:19
年輪年代は理屈は完璧なんだよね。
だからこそ、基礎データーがなぜ公開されていないのか、
という疑問が大きくなる。
338 :
SOY:2007/06/11(月) 21:51:36
>>336 大和さん
私は歴年標準パターンの照合関係を以下のように理解しました。
歴年標準パターンA 1009〜1984
歴年標準パターンB 1027〜1755 Aとは照合する
歴年標準パターンC 0751〜1591 A,Bとは照合する
歴年標準パターンD 0512〜1322 Cとは照合する。A,Bとは照合できず☆
歴年標準パターンE -037〜0838 Dとは照合する
歴年標準パターンF -317〜0258 Eとは照合する
まず、パターンDがパターンAやパターンBと照合できない点。ここが気になります。
光谷拓実氏は以下のような説明をしていますが、この説明だけではやはり不安です。
・おそらく原木の産地が異なっているため、年輪パターンの照合が成立しなかったのであろう
・照合が直接成立しない2組のパターンでも、その中間に別の年輪パターンを
介在せることによって照合が成立することがあるのだ
また、歴年標準パターンAを作成する際に以下のようなパターンを使っていますが、
a. 60点の檜から作成したパターン
b. 名古屋営林の大型標本
c. 付知営林署の大型標本
d. 山沢金五郎の大型標本
dとb,cは照合し、bとcもよく照合するのに、aとbはぼちぼちの照合、
dとaはほとんど照合しないといった点も気になります。
それについて光谷拓実氏は『今後の検討を待ちたい』としていますが、
データが公開されていないことには検討のしようがありません。
平均ととるという手法が何か影響を与えているのかと素人ながらに予想しても、
平均をとる前のデータが手に張らないことにはそれを確かめようがありません。
339 :
大和:2007/06/12(火) 00:32:01
>>338 SOYさん(1)。
暦年標準パターンというものが6個もあるのが驚きです。が、複数あるのは仕方のない事
のようです。氏自身も『日本の美術 No421』のなかで「暦年標準パターンの作成は、樹種
別(59図)地域別(58図)に作成する事が望ましい」としてヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤ
マキの樹種別、アゲマツ・ツケチ・オワセ・コウヤサン・コウチの地域別の暦年標準パター
ングラフを載せております。実際には、樹種別、年代別、地域別に使う事になる。と
木曽ヒノキの現生木(1986〜1009)→東大寺2月堂(1755〜1027)→一乗谷朝倉〜清洲城
城下町(1591〜783)→東京一橋高校(1146〜736)→草戸千軒町〜鳥羽離宮(1246〜512)
→平城京(木曽ヒノキ838〜-37)→平城京(257〜−206)図61。となるらしい。
SOYさんの表と照らし合わせるとパターンDが草戸千軒町に対応するらしいがDのほうが8
0年ほど下がるのでサンプルが違うようだがわからない。私とは参照本が違うのでしょうね。
340 :
大和:2007/06/12(火) 00:34:28
>>338 SOYさん(2)。
>dとaはほとんど照合しないといった点も気になります。
>平均をとる前のデータが手に張らないことには
お訊ねさせてください。
『日本の美術 No421』年輪年代法と文化財 光谷拓美著至文堂刊。
この中で、纏向石塚古墳の板材の年輪年代について以下のように報告されております。
板材:約長さ30cm・約幅60cm・約厚さ2cm
計測年輪数:248層
残存辺材部には38層分の年輪があった
残存辺材部の平均年輪幅は0.53mmである
削除された辺材部は約1cmである。その辺材部の中の年輪を正確に求める事はできない
図88:辺材部が明瞭に残存しております
材種はヒノキで形状は辺材型、辺材部の幅は2cmである。
この板は使用しない部分を切断し、投棄したものと思われる。
暦年標準パターンとの照合の結果、残存最外年輪の暦年は177年と確定した
削除された辺材部は約1cmを含めてもその伐採年はどうみても200ADを下がる事はない
※『大和:2cmで38層、1cmで19層。177+19で最大西暦196が伐採年となるのか』
この公開された報告書と先述の年輪年代算出手法をガラガラポンして、基礎データーとい
われるものがどういうものなのか後学のため、お教えいただけますか?。
卑弥呼って何歳まで生きたの?
148年にその名が現れ、248年ごろ没したことになってる。
つまり100歳。
名前が現れた頃は既にある程度の年齢になってるから、100歳以上生きたことになる。
複数いたとは考えられないだろうか?
342 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 06:06:26
148年に名があらわれたというのはなんという史料でしょうか?
343 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 07:38:22
「卑弥呼」の名を同名で使用していたようだね。その後特定の女性に絞って
固有名で使っていたのだろう? 魏書東夷伝?後漢書東夷伝?
三国史記の新羅本紀には、173年相当で「卑弥乎」とあるそうな。
344 :
SOY:2007/06/12(火) 07:40:55
>>339 大和さん
>SOYさんの表と照らし合わせるとパターンDが草戸千軒町に対応するらしいがDのほうが8
>0年ほど下がるのでサンプルが違うようだがわからない。私とは参照本が違うのでしょうね。
不思議です。私が見た本にはパターンDは草戸千軒と鳥羽離宮を合わせたものになっています。
草戸千軒 751〜1322
鳥羽離宮 512〜1122
>この公開された報告書と先述の年輪年代算出手法をガラガラポンして、基礎データーとい
>われるものがどういうものなのか後学のため、お教えいただけますか?。
既に分かっているものと思って発言していました。
暦年標準パターンのもとになった標本等の1層毎の年輪幅データのことです。
私も後学の為に聞けば、大和さんはこういった年輪幅データを見ることなく、
日本の年輪年代法を検証する方法を知っているのでしょうか?
年輪年代法。やっていることは至極単純です。
だから、数値データさえ公開されれば素人でも検証が可能です。
照合プログラムも2〜3時間あれば作成が可能でしょう。
数値データを公開することも別に難しいことではないはずなのに
何故、かたくなに公開しないのか不思議です。
>>342 東京堂出版の日本史年表4ページにあるのです。
148
この頃(後漢の桓帝・霊帝<147〜88>の間)倭国大いに乱れ、長く主なしと伝える[後漢]。
倭の諸国はともに卑弥呼を立て王とする(邪馬台国)[魏志]。
346 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 08:57:54
それは解釈が違うんじゃない?
普通は、
桓帝・霊帝の間(146年 - 189年)が倭国大乱の時代で、
その終わり頃がその後の時代に、卑弥呼を共立したと解釈するでしょ。
だから、限りなく189年に限りなく近い年(前か後か分からないけど)に
現れたということなんじゃ?
347 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 09:20:31
卑弥呼が彼女のみの単一名ならば倭人伝の卑弥呼はえらく長寿だったこと
になろう。
景初3年当時は80歳以上は確かになるが、あるいは100歳位の可能性が出て
来るが?
卑弥呼が短命だったという記録はあるのかい?
348 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 10:32:01
189年前後、十代半ばで共立されたんじゃないかと、
言われてるよね。
いまの真子さまくらいのお歳かな?
昔の人は、ロリコンだったのかなぁ。
素敵な時代だねw
349 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 11:14:31
「卑弥呼」は固有名ではなくて、地位の名称でしょう。
天皇陛下を「アキヒト」と言わずに、中国人に「テンノウ」と
呼んだら「手武能」とかかれたような感じ。
代々の女性神官を「日の尊(ヒノミコト)」とか「日御子」と読んで
いたのを、「卑弥呼」と当て字されたんでしょう。
350 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 11:58:14
基本的には地位とかの名称でそんなところだが、後代になって固有化したのかな
との考えだ。
351 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 12:40:23
日のミココ
353 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 14:08:24
なんですか。ニワトリですか。
354 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 14:47:42
卑弥呼が 日の巫女 とか現代音で判断しても、
無駄なんじゃない?
いちおう 卑弥呼 の音は ピミファ とされてるようだけど、
日 と 巫女 の古代音はそれに合ってるわけ?
(僕はよく知らないけど)
卑弥弓呼 は 日の尊(みこと)だろうなんて言われてるけど、
ちょっとこじ付けすぎだろうと感じるのは偏見かな。
古代音ではどうなの? 詳しい方、よろ。
355 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 15:26:51
まあ、現代語音では無意味かもしれないが、
狗古知卑呼を くこちひこ 又は くくちひこ と読み
ひこは男の名によく付ける 彦 だろうと考えると、
卑弥弓呼 の呼 の部分の音は こ でいいんだろうと思う。
弓 は こ なのか きゅう なのか、は分からんなぁ。
356 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 15:29:41
1980.4.2〜81.4.1生まれ
松坂大輔、藤川球児、キングコング、優香、眞鍋かをり、広末涼子
朝青龍
1981.4.2〜82.4.1生まれ
滝沢秀明、今井翼、安達祐実、安倍なつみ、鈴木あみ、ブリトニー・スピアーズ
1982.4.2〜83.4.1生まれ
宇多田ヒカル、倖田來未、深田恭子、矢口真里、三船美佳、椎名法子
オリエンタルラジオ、北島康介、イアン・ソープ、ウイリアム王子
酒鬼薔薇聖人(少年A)
1983.4.2〜84.4.1生まれ
オレンジレンジ、上田竜也(KAT−TUN)、中丸雄一(KAT−TUN)
小倉優子、ベッキー、寺原隼人
1984.4.2〜85.4.1生まれ
速水もこみち、赤西仁(KAT−TUN)、えなりかずき、若槻千夏、石川利華
アヴリル・ラヴィーン、タトゥー、木村カエラ、hiro(元SPEED)、白鵬
1985.4.2〜86.4.1生まれ
亀梨和也(KAT−TUN)、田中聖(KAT−TUN)、田口淳之介(KAT−TUN)
上戸彩、後藤真希、山下智久、小池徹平、ウエンツ瑛士
まなかな、中川翔子、宮崎あおい、宮里藍
1986.4.2〜87.4.1生まれ
亀田興毅、井上真央、松浦亜弥、高橋愛、石原さとみ、YUI
ダルビッシュ、BoA、沢尻エリカ、リア・ディゾン、オルセン姉妹
1988.4.2〜89.4.1生まれ
斉藤佑樹(ハンカチ王子)、田中将大、大嶺裕太(ロッテ)、福原愛
亀田大毅、森本貴幸(サッカー)
357 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 18:06:48
卑弥呼も卑弥弓呼も、「日皇子」の意味の王の称号なんじゃね?
卑弥呼と卑弥弓呼の称号はあまりに似通っているし、
称号を王の名前と勘違いした隋の官僚が、聞き間違えて弓の一字を入れただけのような気がする。
古代から鎌倉時代に至るまで、日本人は、
「はひふへほ」の音を、現代の「ふぁ、ふぃ、ふう、ふぇ、ふぉ」と発音していたらしいが、
隋では「卑」を「ぴ」、「呼」を「ふぁ」と読んだというのはあってるの?
358 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 19:28:30
「〜の尊(ミコト)」の「ト」の部分の発音が弱くて「〜ミコ」となったとすると、
卑弥呼は「日のミコト」でアマテラスに通じるものがある。
平原墳墓の超大型内向花文鏡は、まさに太陽をモチーフにした図柄。
「卑弥弓呼」(ヒミココ)は、「卑弓弥呼」(ヒコミコ)の誤記ではないかと思う。
「〜ヒコのミコト」なら記紀神話に何人か出てくるポピュラーな名前。
そもそも、卑弥呼が女性と言われた根拠はどこから?
360 :
大和:2007/06/12(火) 20:10:27
SOYさん(1)。こんばんは。
参照本によって数値が違うのもへんですね。私のと同じ資料のようですが草戸千軒のスタ
ート年751年と鳥羽離宮の伐採年1122年がどこかの指標年輪部で重なり合い一本化され、
下限を1246年としている。私のは2001年本だから古いデーターだったかも知れませんね。
法隆寺の心柱の例もあることですし。
ただこういう公表された数値の食い違いが標本への不信感を増幅さすのも事実ですね。因
みに草戸千軒資料の検証(どちらにしても手抜き検証:複数資料による数値の確認に終始)
はおこなっておりませんが、今回の争点『検証のための数値データーの公表』が図られてい
たら真、すぐ解決。ところが、この公開せよと云われる「数値データー」と称するものがパター
ングラフ作成途上に於いて、どの位置、ポジションに在するのか知りたく粘着。
たまたま、SOYさんから公開を希望する数値データーなるものが「年輪幅データー(2〜4方
向での年輪幅の計測数値の平均)」とのご返事を賜ったわけです。
361 :
SOY:2007/06/12(火) 22:26:21
>>360 大和さん
>草戸千軒町〜鳥羽離宮(1246〜512)
数値の違い。非常に気になります。私が参考にしたのは (おそらく…) 以下の本です。
年輪に歴史を読む : 日本における古年輪学の成立 / 奈良国立文化財研究所編 /同朋舎出版/1990
大和さんは同じ本の2001年版を読まれたのでしょうか?
もし、確認可能であれば、1246年と掲載されていた書籍名をお教え願います。
こちらの本のP97の歴年標本パターンの図にも1322年と書かれてあるので
こちらの本を見る範囲では、これは単なる誤記ではないようです。
a. 清州城下 751〜1591 (841層) パターンC
b. 草戸千軒 751〜1322 (572層) aの最終年から269年遡ったところから一致
c. 鳥羽離宮 512〜1122 (611層) aとbの751〜1122年のところで一致
こちらの本では上のような説明となっていました。
読んでいて気になったのは、aとbの始まりが751年というところ。
別に有り得ない話ではありませんが、最初読んだ時、気にはなりました。
そちらの本では草戸千軒町遺跡などのデータはどのようになっていますでしょうか?
363 :
大和:2007/06/13(水) 07:06:08
SOYさん(2)。
プロキシ制限でなかなか入りにくくなっております。今回はこれで終わりたいと思いますが、
お蔭様であらためて勉強することができました。サンキュです。
>年輪幅データーの公開。
細かく気の遠くなるような現場作業の結果、得られた1資料木の全「年輪幅データー」これ、
パターングラフ作成の前処理と捉えますが、以後の作業は独自の処理プログラムを手作り
されるとか。果たして独自プログラムでかえって不安が募るのではないか、危惧いたします。
>検証する方法を知っているのでしょうか?
ごめんなさい。私は据え膳をおいしく戴くだけなのですが、味見をすませた安全な食材だと
信じております。報告書をよみますと、検体資料として諸条件が定められておるようです。
資料としての資格を有しているかどうかをチェック、それぐらいしか味見材料の持ち合わせ
がございません。
>照合プログラムも2〜3時間あれば作成が可能でしょう。
失礼ですがSOYさんはこの道のプロですか。それとも既に手にしているお仲間ですか。
または、手下が全てやってくれる雲上人ですか。非常に羨ましい次第です。
>確認可能であれば、1246年と掲載されていた書籍名をお教え願います。
『日本の美術 No421』年輪年代法と文化財 光谷拓美著至文堂刊。 2001/6/15
第61図 紀元前206年までの暦年標準パターングラフの作成経緯図。(写真版)
また、入れるようになればお相手宜しく、どうも有難うございました。
364 :
SOY:2007/06/13(水) 08:05:44
>>363 大和さん
>パターングラフ作成の前処理と捉えますが、以後の作業は独自の処理プログラムを手作り
>されるとか。果たして独自プログラムでかえって不安が募るのではないか、危惧いたします。
素人が研究したものはダメで、プロが研究したものが良いというものでもありません。
私は肩書きよりも理にかなっていることの方が重要であると考えます。
>資料としての資格を有しているかどうかをチェック、それぐらいしか味見材料の持ち合わせ
>がございません。
生データを見ずに資料としての資格を有するかのチェックは難しいと思います。
例えば1+1を誤って3にしていた場合、3という数字だけでは検証できません。
>失礼ですがSOYさんはこの道のプロですか。それとも既に手にしているお仲間ですか。
>または、手下が全てやってくれる雲上人ですか。非常に羨ましい次第です。
大雑把に言えば、
数値データから移動平均を求めてグラフを作り、既にある式で照合するだけなので、
プロとか雲上人とかそんな大した話ではないです。
>『日本の美術 No421』年輪年代法と文化財 光谷拓美著至文堂刊。 2001/6/15
ありがとうございます。
図書館にあるので、何かの機会で図書館に行った時に読んでみます。
誤差の76年の数字。心当たりのない数字ではありませんが、
草戸千軒のスタート年を751年とすることとは相容れない数字のように
思えるので確認してみます。
365 :
大和:2007/06/13(水) 08:32:34
>>361SOYさん。入れたので。
年輪に歴史を読む : 日本における古年輪学の成立 / 奈良国立文化財研究所編
/同朋舎出版/1990。
なんだ、同じ本を参照されているんだ。よかった!でももう遅いか。
>a. 清州城下 751〜1591 (841層) パターンC
清州城資料に「841層」を持つ資料木は見当たりませんが。
『表X−6・清州城下町遺跡』上記本P105
本文図では751になっておりますね(P97・図X−2)。光谷本では(C)と(D)
の間に東京一橋高校遺跡のスケールがはさまっております。前述339の通りです。
366 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 09:48:03
>359
「魏志倭人伝」に、卑弥呼を繰り返し女王だと書かれてあるよ。
すでに王位についてから年月を経ているが、夫はいない、とか。
鬼道をもって人々を惑わす、とか。
王位についてから姿を見たものはほとんどいないとかね。
卑弥呼の称号が、女王特有のものであるのかはわからない。
男王でも女王でも卑弥呼と呼ばれていた可能性もある。
367 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 12:55:24
>>366 それに関連して
卑弥呼ははっきり女王と書かれているけど、アマテラスについては
神話の上では女性として描かれているというのが通説ですが、
男性という説もある。
368 :
大和:2007/06/13(水) 18:40:23
>>364SOYさん。チョットきつめですがご容赦を。
SOYさん、お言葉を返すようですが、SOYさんは船の櫓を手に入れただけです。
これから、見よう見真似で船を造り、情報の載らない海図を手に、座礁しない
よう目的地まで安全運行しないといけないわけです。
そんなの不安でしょ、だから今度は船を手に入れようとする。船が手に入って
も航海できない、だから暗礁や灯台・海流など情報の詰まった海図を手に入れ
ようとする。結局、奈文研の手のひらで踊っているみたいなものです。ミスリ
ードがなければ、得た結論は奈文研と同じものです。
そこででた結果が違うのは人為ミスです。ミスは奈文研も犯すでしょうし、SO
Yさんも犯すでしょう五分五分です。しかしながら、もっぱらその仕事を生業と
する複眼で確認された資料と、単眼で作られた資料の精度・正確さは比べるも
無くあきらかです。既に幾度と無く航海を済ませている国立奈文研号と、情報
の載らない海図を手に、初めて航海する手作りSOY号が、船賃同じ、目的地同じ
で乗船客募集をかけた場合、どちらの船に多くの人が集ると思われますか。
肩書きだけではないようです。但しです、島津のノーベル賞社員に例があるよ
うに、ヒョンなことから新しい発見・発明があるかもしれない。そうすると奈
文研に一泡ふかせることができる。また、真摯に取り組めば青色発光ダイオー
ドなみの発明にありつけるかも知れない。でも奈文研の基礎データーを使用し
たら大発見・大発明も奈文研に取り上げられるかもしれない。
369 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:33:15
>>368 横レスですが。
基礎データーが公開されていて、第三者による検証がシステム的に
保証されていなければ、それは「科学的データー」ではない。
これが、普通の理系学者の「絶対的」常識です。
この点については、一切の異論はないかと思います。
故に、専門技術者の数値を「天の声」として検証を放棄する訳にはいかない。
これは、SOYさんという個別の検証者のレベルの問題ではないと思います。
370 :
SOY:2007/06/13(水) 22:59:08
>>365 大和
> >a. 清州城下 751〜1591 (841層) パターンC
> 清州城資料に「841層」を持つ資料木は見当たりませんが。
大和さん、ちゃんと本に目を通されていますでしょうか。
清州城資料に「841層」を持つ資料木がないのはある意味
当たり前のことです。
>>368に対する私の反論は
>>369の方と同じです。
大和さんは、検証という行為を、する側とされる側の勝ち負けのように
考えてはいないでしょうか?
検証という行為に対し、あまりにも無意味な批判が多すぎます。
検証はより良いものを作る為の共同作業です。
> ミスリードがなければ、得た結論は奈文研と同じものです。
検証の意味を理解していれば、このような批判はないはずです。
たとえ同じ結論であっても検証には十分意味があります。
因みに、私の仕事では、専門家3人が検証するよりも、
素人を交えた3人の方が思わぬ穴を見つけてくれます。
それにしても大和さんは検証という行為に対して批判的ですが、
検証されるといったい誰がどういった理由で困るのでしょうか?
検証がプラスに働いても、マイナスに働くことはないように思えますが…
371 :
SOY:2007/06/13(水) 23:22:06
>>365 大和さん
> また、真摯に取り組めば青色発光ダイオードなみの発明にありつけるかも知れない。
> でも奈文研の基礎データーを使用したら大発見・大発明も奈文研に取り上げられるかもしれない。
ふと文章を読んでいて気付きましたが、
大和さんは、人間というものは名誉欲の為に研究するものだと
勘違いされてはいないでしょうか?
少なくとも私は調べたいことを調べ、聞きたいことを聞き、
言いたいことを言う。その程度です。
それに美味しい珈琲と塩饅頭が加われば、
さらに増して良しといったくらいです。
372 :
SOY:2007/06/14(木) 00:21:44
>>365 大和さん
> >a. 清州城下 751〜1591 (841層) パターンC
> 清州城資料に「841層」を持つ資料木は見当たりませんが。
風呂あがりにちょこっと確認してみました。
こちらの見ていたのはP72の説明と表W−5・清州城下町遺跡です。
確かに二つの表と文章はチグハグですね。
P105に掲載された13点のデータとP72に掲載された13点のデータ。
パターンCの元になった同じ13点なのに標本が微妙に違いますね。
よく読むと確かに841層は文章だけで数字で出所のない数字。
ますます元データが知りたい。
373 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 01:22:39
仮に呼がkoな場合、高句麗や扶余での敬称と符合するとも言われる
374 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 06:24:03
倭(ウィ)ッ国(倭の国)→いと国(伊都国)
美しい国→いつくし国→筑紫(ツクシ)国
山ッ国(山の国)→やまと国(大和国)
疾風の国→はやと国(隼人国)
375 :
大和:2007/06/14(木) 06:57:37
>>369さん。おはようございます。横レスどうもです。
>この点については、一切の異論はないかと思います。
同意。文学系も理学系の考えを尊重しないといけないですね。反省
文学系のファジーな部分と、理工系の理づめの部分と、どう整合性
を保つかということでしょうか。どちらも大事にしたいが本音です。
もっと勉強いたします。ありがとうございました。
卑弥呼を特定個人の呼称とすると、矛盾だらけでつじつまが合わない。
魏志倭人伝に登場する年代から、没年まで、あまりにも長すぎる。
ここを、明確にしないと、邪馬台国も永遠にわからんだろう。
377 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 13:04:56
卑弥呼が西暦180年に台与と同じ13才で女王になったとすれば、西暦247年に
死んだとしても年齢は80才。ありえない話ではない。
SOY、教えてgooに殴り込み
379 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 23:42:20
卑弥呼が女王になったのが西暦180年頃かどうかは分かりません。
ただ、卑弥呼は西暦247年頃に死んだ、
その時、かなりの高齢だった、
ということしか分からない。
かなりの高齢だったかどうかもわからないな
381 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 02:57:20
>>379 ここでは何度も書いているけれども、もう一度。
倭人伝では、倭国の大乱のあとに卑弥呼が共立されたとある。
卑弥呼が共立されて、大乱が収まったとも言える。
他の書物では、『歴年無主』とか『歴年無王』とあるのがその理由。
では、大乱はいつごろか?
中国の書物を見ると、「桓霊間」「漢霊帝光和中」「漢末」の3つに分かれる。
一番範囲が広いのは、「漢末」で西暦220年以前ということになる。
後漢は、西暦23年から西暦220年まで。
次に広いのが、「桓、霊間」で、これは、漢の桓帝と霊帝の時代ということに
なる。桓帝は、西暦147年から166年まで在位。霊帝は168年から188年まで在位
なので、西暦147年から西暦188年までの間となる。
最も範囲の狭いのが「漢霊帝光和中」で、光和は西暦178年から183年までの
6年間。
これらを総合すると、卑弥呼が女王になったのは、西暦180年くらいでよいの
ではないかと思うのだが。
382 :
サガミハラハラ:2007/06/15(金) 07:16:40
そうですね。私はもう少し絞り込んで183年即位(184年の春の可能性もある)とみています。
倭国大乱は156年開始とみています。
383 :
大和:2007/06/15(金) 07:51:48
SOYさん、276さん、369さん。
一連のレス、ROMりました。SOY氏とのバトル不本意、流れを読めてなかった
ようで失礼した。「資料提供」がつい、填ってしまった。許素。
>>381 大乱の開始時期が書いてあるだけで、おさまったのがいつか書いてない・・・・ともよめる。
385 :
サガミハラハラ:2007/06/15(金) 09:35:46
梁書に光和中とあるのは大乱が収まり卑弥呼の共立をあらわしているととれる。
とすると、光和中は178年から184年であるから、この期間中に大乱がおさまったと見られる。
386 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:37:35
>>385 そうですね。少なくとも、卑弥呼の女王共立を西暦190年以降とする根拠は
何一つないと言えるんじゃないかな。
180年代前半とするのが一番妥当かな。
387 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:59:01
年輪年代の基本は、年輪の幅ということになる。
気候が良くて生育が良いと年輪の幅が広くなる。逆に、気候が過酷なら年輪の
幅は狭くなる。これをグラフにすると一つのパターンが出来上がる。
いま伐採した樹齢100年の年輪を調べてグラフにすると、100年のパターンが
出来上がる。50年前に伐採した樹齢100年の年輪をグラフにすると、50年分が
重なり、その前の50年の年輪のパターンがわかり、合計で150年の年輪の
パターンが出来上がる。これをずっと繰り返していけば、弥生時代までも
届くことになる。
年代を調べたい木材サンプルの年輪のパターンを調べ、それが年輪年代の
パターンのどこに当てはまるかを調べれば、そのサンプルの伐採年代がわかる
ことになる。
このように原理は単純明快なのだが、実際はなかなか難しいらしい。
たとえば、年輪は中央に行くにしたがって幅が詰まって密になる。
これをどのように調整するか。
また、日本は海洋性の気候のために、それほど気候の変化がなく、年輪の
でき方に、年による変化が少ないとも言われる。更に、年輪は地方によって
差があるのはもちろんのこと、場所によっても異なるとされる。
欧米で、年輪年代による年代測定の方法が採用されているのは、多くの人が
知っていたが、そういう理由で、日本での年輪年代は不可能だと言われてきた。
とりあえず、複数の独立した研究機関による検証が必要だと思う。
388 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 21:41:25
年輪年代は、検証不能ゆえに態度保留の学者が多いのに、
光谷さんはなぜ年輪年代の基礎データーを公開しないのだろう。
自分が独力で作り上げたものが、他者に無料で利用されることに
納得いかないのだろうか。
389 :
SOY:2007/06/15(金) 22:19:57
>>387 > とりあえず、複数の独立した研究機関による検証が必要だと思う。
数値データを扱うだけなら素人でも検証が可能ですが、本格的な検証となると、
やはり標本の測定までも行えるような研究機関が必要となってくるでしょうね。
>>388 > 自分が独力で作り上げたものが、他者に無料で利用されることに
> 納得いかないのだろうか。
私費でやっていたらその心情も分からぬはないです。
ただ、その場合でも、国立の研究機関などがそのデータを高く買い上げ、
それを国民に公開して欲しいと私は望みます。
また、他者に利用されたくない、自分だけが研究できる状態にしたい、
こういった心情を認めてしまうと、調査報告書も出さず、発掘遺物を
独占するような破廉恥な考古学者が出てしまわないかと危惧します。
390 :
SOY:2007/06/15(金) 22:33:52
それにしても『年輪に歴史を読む』の中で標準パターンCが不整合を起こしている点も気になります。
(1) パターンCは清洲城下町遺跡の以下の13点の標本から作成したとあります。
(但し、P72とP105とでは13点の標本は若干異なります ☆)
_____年輪層__最外年輪__
a.折敷1__128___1591____P105にのみ記載 ☆
b.折敷2__205___0529____
c.折敷3__131___1514____
d.折敷4__118___1503____
e.折敷5__107___1492____
f.折敷6__208___1453____
g.折敷7__123___1330____
h.曲物底1_201___1512____
i.曲物底2_405___1466____
j.曲物底3_420___1443____
k.曲物底4_485___1396____
l.曲物底5_190_________P72にのみ記載 ☆
m.曲物側1_250___1282____
n.曲物側2_313___1002____これを信じると先端は688年 ☆
※ 因みにP72の表は照合率を示す表の為、最外年輪については記載なし
(2) 13点の標本の年輪層の最多は485層、最小は107層、平均は243層
(3) パターンCは841層のパターン
(4) パターンCはパターンA(1009〜1984年)の1009〜1591年の部分と一致
(5) (3)と(4)からパターンCの先端はさらに過去に伸びて751年
(6) パターンCの年代は751〜1591年
(7) 13点の標本のうち6点以上が重なるのは1313〜1492年 ☆
このあたりの矛盾について、どういった説明が既になされたのでしょうか。
>>389 >国立の研究機関などがそのデータを高く買い上げ、
>それを国民に公開して欲しいと私は望みます。
なるほど、その手もありますね。ただ、パイオニアとして地位や著作の印税も得て
いるから、今ならタダで全部公開しても良さそうですね。
>>390 元資料を読んでないのですが、光谷さんは多数の試料から「標準パターン」に合う
試料を選別して、「標準パターン」を作っているのではないかと考えています。
もちろん循環という問題はありますが、単純に全ての試料の平均値を出すという
方法ではないと思います。
392 :
SOY:2007/06/16(土) 08:49:17
>>391 >元資料を読んでないのですが、光谷さんは多数の試料から「標準パターン」に合う
>試料を選別して、「標準パターン」を作っているのではないかと考えています。
そうです。そして、パターンC(清洲城下町遺跡)の場合は13点の標本です。
ただ、その13点が同じ本の中でも2種類あるのでちょっと難解です。
>もちろん循環という問題はありますが、単純に全ての試料の平均値を出すという
>方法ではないと思います。
単に誤記なのか、本人にしか分からない複雑な処理をしているのかが判別できず、
既に正しい資料が公開されていれば知りたいと考えています。
私が見る範囲では、情報不足よりも誤記の可能性が高いように思います。
既に他の本などで13点の標本の正しい表が示されていれば、それで解決なのですが、
示されていなければ、出版社に質問するしかないといった話です。
ただ、年輪年代のことについてはおそらく回答は来ないと考えているので
質問状を出す気が起こりません。
今日、女王卑弥呼について本気で語り合いましょう。
394 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:24:37
>>392 >本人にしか分からない複雑な処理
私はそのような問題があるため公開されていないのではないかと見ています。
パターンに適合する試料とそうでない試料との選別に厳密な指標の設定は
極めて困難ではないかと推測しています。
ただ、パターンへの適合を10〜20年ではなく、100年位の期間で検討して
いるのであれば、適合するものについては、確実性が高いと思います。
検討事例の積み重ねで理論を補強したのちに全部を発表するのではないか
とも推測していますが、現時点で不確実性の部分を含めて公表すべきであって、
基礎データーを公表しない正当な理由はないと考えています。
396 :
SOY:2007/06/16(土) 21:38:42
>>395 > パターンに適合する試料とそうでない試料との選別に厳密な指標の設定は
> 極めて困難ではないかと推測しています。
私もそう思います。
> 検討事例の積み重ねで理論を補強したのちに全部を発表するのではないか
本当はよくないことですが、確かにそういう性格の人はいます。
私としては、合っているにしても、間違っているにしても、
早く年輪年代法の信頼度を裏づけるデータが欲しいです。
C14の結果と一致しているというのは、
“信頼度を裏づけるデータ”にはならないのかな
398 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 22:41:22
>>396 そういう慎重な性格の人なら、結果だけ発表するということはないと思うけど。
>>397 C14の場合は、かなり誤差が大きいといわれるから…。
欧米では、C14の結果は、年輪年代で検証されるといわれるから、年輪年代より
も信頼性は低いということになる。
C14で、弥生時代は紀元前10世紀に始まったという結果が出て、じゃあ、鉄器は
どうなるんだといろいろ議論があるらしいが、これもまだ様子見という段階かな。
池上・曽根遺跡の場合はたまたま年輪年代とC14が一致したみたいで、これが
近畿地方の弥生時代を100年遡らせる人が出てくる根拠になったみたいだけど。
399 :
SOY:2007/06/16(土) 23:26:55
>>398 >そういう慎重な性格の人なら、結果だけ発表するということはないと思うけど。
そう言われるとそうですね。
結果だけ発表し、その根拠となった数値データを示さない。
どう都合よく解釈してあげても弁護できることではないですね。
>>397 >C14の結果と一致しているというのは、
>“信頼度を裏づけるデータ”にはならないのかな
なりません。
結論に至るまでの過程が不明で、C14と一致するから信頼できるといった主張は
ある意味、年輪年代法は存在価値がないと言っているも同じです。
それにC14によって示される年代は
>>398が言うように揺らぎが大きく、
また、実年代との結びつけもまだ異論のある段階です。
>>399 同意です。
C14は既に世界基準が放棄されて南半球は別基準になっています。
その根拠は、海洋面積の広い南半球では、C14が海水の影響を受けて
北半球よりも古い年代が出るということになる。
日本は海に囲まれている上に、日本でC14で古い年代値が出る遺跡は
沿岸部に集中していることから、将来的には年代補正(北半球基準より
新しく見る)がなされると予想しています。
そうなると年輪年代とのマッチングで整合したという発表の方が怪しく
見えてきます。私は年輪年代の基本理論は正しいと認めていますが、
C14とのマッチングが整合したという部分は逆に疑問を抱いています。
>>400 念のため自己レス
>C14とのマッチングが整合したという部分
C14の年代については、北半球基準(当時は世界基準)にあわせて補正した
のちに根拠不明のさらなる補正をしているようなので、年輪年代にすり合わせ
た予定調和の補正をしている可能性を考えています。
年輪年代は基礎データーは不明ですが、私はたぶん正しいと考え、C14の方を
すり合わせたのではないかと推測しています。
C14による弥生時代の遡上は今のところ半信半疑です。
>>398 >池上・曽根遺跡の場合はたまたま年輪年代とC14が一致したみたいで
他にもずいぶんとあるようだぞ。読み流してるだけだから一覧を出せといわれても出来ないが。
確か、出雲大社の柱も一致したんじゃなかったっけ。
403 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 11:52:49
404 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/19(火) 21:48:11
あら?名スレがえらく沈み込んでるようよ。
>>401 >根拠不明のさらなる補正をしているようなので
聞きはじめなので詳しい回折キボン
406 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:50:11
>>405 以下は、私の勝手な理解・・・
C14年の測定値から導き出される年代は一般的には、想定される年代より、
古い年代となるようである。
とすると、普通に考えれば、C14年代と年輪年代とは齟齬することになるが、
C14年代が古く出る傾向そのものをさらなる補正値として、年代補正して
発表していることもある。
例えば、C14では50〜200年と出たときに、150〜200年と発表したりする。
しかも、その操作を、本来の年代較正と誤解させるような記載のものもある。
この追加補正の範囲は見解が定まっていないが、予定調和的な発表をする。
C14と年輪年代のマッチングについても、「より緻密な年代観の探求」という
ニュアンスで述べるなかで、両者の年代が合致していると誤解させるような
記述をしているものもたまに見かける。
邪馬台国は栃木県小山市の寺田東遺跡
409 :
SOY:2007/06/20(水) 23:33:42
>>407 >推測はいらない。SOYにきいている。
唐突でよく分かりませんが、私に何を聞いているのでしょうか?
炭素年代法の補正について私に聞いているのなら、
私はINTCAL98やINTCAL04くらいしか知りませんが。
これらの補正が妥当かについては、確実に絶対年が分かるもので
確かめなければなりませんが、そういう状況であるにも関わらず
基礎データを公開しない日本の年輪年代法には疑問を感じます。
年輪年代法がグレーのままだと、炭素年代法にも影響があります。
それでいいのだとこの状況を弁護される方もおられるようですが、
私は年代観がより明確になっていくことの方を望みます。
>>407 >>406は無視ですか。誤りがあるなら指摘して欲しい。
1、C14の測定値を国際基準にそのまま当てはめると、多くは想定より
かなり古い年代が出るということは、事実では。
2、にもかかわらず、その年代値をそのまま公表することはまれで、
何らかの補正をした上で発表するのも、よく見られること。
3、その補正をあたかも本来の年代較正であるかのように説明することが
あるのも事実では。
4、年輪年代とのマッチングでも恣意的な補正で合致したかのように
誤解させる報道をしているのも見かける。
5、測定値から導かれる下限の年代をあえて発表することを繰り返すならば
全体的に国際基準(北半球基準)よりも新しく見たほうが良いと思うが、
それをやらずに弥生時代の500年遡上を学会ではなくマスコミに先に発表
するというのもスジの通らぬ話である。学会で議論してからだろ。
411 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:04:35
邪馬台をヤマタイと読むのは
中国で唐代後半、日本では奈良時代から後だとおもうが。
それより前はヤマダイ、ヤマダが妥当。
412 :
SOY:2007/06/22(金) 21:19:27
とりあえず、年輪年代やC14についてはまだまだ検証していく段階。
というあたりで落ち着いたようですね。
特に私も
>>410の発言にさらに付け加えることもありませんし…
>>410 >2、にもかかわらず、その年代値をそのまま公表することはまれで、
>何らかの補正をした上で発表するのも、よく見られること。
よく見られるなら、具体的な事例を上げられるはずだね。
あげてくれ。
414 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:01:46
よく見られるといいながら全部ホケノ山、ワロタwww
しかもネタもとが当てにならない新聞記事。も一つワロタwww
さて、他にはないのかな。よく見られるんだよね。
416 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:50:38
>>416 実りがないのは
>>414のようなレスだよ。質問に答えてない。
>よく見られること。
と書いてることに対して、あんたがなにを見たのかを聞いてるんだよ。
批判があるかどうかなんてことを聞いてるんじゃない。
どれだけの事例を確認したうえで
>よく見られること。
と書いたのか聞いてるんだ。
現在、C14のデータは膨大な数がある。
それでよくあるっていうんだから、せめて10件は出してもらいたいもんだね。
さあ、出してごらん。
418 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:59:47
>>417 あれま!
でしたら、ご自分でまともな資料を出したほうが早いのでは。
粘着は嫌われるよwww
419 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 04:51:22
C14についてちょっと解説。実は書いている本人も良くわからないのだが。
普通、炭素の原子番号は12だが、自然界には、ごくまれにC14という放射性炭素
が存在する。通常の炭素の1兆分の1くらいの量らしい。
しかも、自然界にだいたい均等に存在しているらしい。
このC14は放射能を出しながら、徐々に窒素に変わっていく。半減期は5567年
くらいになる。つまり、もともと100個あったC14が50個になるまでに5600年
とか5700年ほどかかるというわけである。
この性質を利用して年代を測定するのが、放射性炭素年代測定法ということに
なる。
たとえば、いつの時代でも1gのものに100個のC14が含まれていたとすれば、
資料の中のC14の数を数えることでその生物が死んでから何年経っているかが
わかることになる。50個あったら、半分が窒素に変わったわけだから、
5567年経っていることになる。これが炭素14年代である。
しかし、いつの時代でも同じ量のC14が含まれているわけではないらしい。
年代によって存在するC14の量は変わる。これを調べるのが木の年輪になる。
年輪は、その年のC14を溜め込むらしい。だから、年輪を調べれば、その年の
C14の濃度がわかることになる。
年輪によってわかったC14の量にあわせてC14年代を修正するのが較正曲線で、
これは国際学会で決まっているらしい。INTCAL98などといわれる。
素人ながら言わせてもらうと、この較正曲線というのはどんなものだろうか。
C14は、年によって大気中の濃度が異なる。なのに、同じ年ならば、世界中の
どこでも同じ濃度という前提は成り立つのだろうか。
>>418 自分は寡聞にして知らないから辞を低くして聞いている。知らないものは出せないだろ?
君は知ってるんだから、出しなよ。書いた責任があるだろ。
それともデマなのかな。
>粘着は嫌われるよwww
粘着もなにも、まだ答を聞いてないからな。
ゼロ回答で引っ込むやつはいないだろ。
>よく見られること。
なんだろ。ホケノ山以外の事例はなんだい?
421 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:51:25
倭の5王が正しいのなら、古事記や日本書紀を書き換えるべきだと思うのですが
422 :
SOY:2007/06/23(土) 11:47:25
>>419 >C14は、年によって大気中の濃度が異なる。なのに、同じ年ならば、世界中の
>どこでも同じ濃度という前提は成り立つのだろうか。
C14の濃度は時代によって異なり、地域によっても異なる可能性があるので、
『どこでも同じ濃度』という前提に対する疑問は正しいと思います。
INTCAL98で較正して、なお合わなければ、地域ごとの較正曲線が必要。
そういったものだと私は考えています。
個々の遺物にもよりますが、年輪年代との整合性が高いという意見もあれば、
数十年以上も古い結果が出ているとの意見もあります。
まだまだ検証すべき段階ですが、年輪年代法がグレーのままなので、
日本のC14もそれにつられてグレーにならざるを得ません。
> なんだろ。ホケノ山以外の事例はなんだい?
おそらくホケノ山の件が挙げられるのではないかと成り行きを見ていました。
やはりあれは操作と言ってもいいくらいの認識なんですね。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/hokeno.html ただ、C14に関しては、基礎データが公開されているので、
専門家に限らず、努力すればその発表に対する検証も可能。
INTCAL98からINTCAL04へと問題点を解消する努力をしている。
そういった点でC14は年輪年代とは違い、科学の世界にあると私は考えています。
423 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 14:52:10
>>421 それをやると今はいいが、ずっと後代になって、未来の人間の猜疑心が超深い
者どもから記紀は偽書であると言い出されることは確実視されるからやるわけ
にはいかないね。つまり超津田流古代史論者が現れて記紀も倭の五王も創作され
た糊塗による史実ではないとかにされてしまう。
今だって金印は偽造みたいとか、九州王朝らしき年号は創作だとか、典型は
古史古伝は偽書であるとかこれなどいくらでも言われている。ひどいのに
なると記の記述の天皇33代すべて創作だとかキリもなく言い出して来る。
だから書き換えはうまくないぜ。
>>423 ∧_∧ ∧_∧
( 現実) (; ' A` )
三 ( つ つ (つ ,ノつ
三 人 ヽノ / ゝ 〉
(__(__) (_(__)
∧_∧ ∧_∧
(;Д⊂彡 三現実 )
⊂ ノ 三G( こつ
人 Y 三(_,\ \
し (_) 三___)
∧_∧ . . ∧_∧
( フ現実)フ ::∧_∧: ⊂(現実 ,)
( )ノ :( ∩∩ ). \ )
/ / / ::(´ ノ ノ:: ( ( |
(_)_) ::( ̄__)__):: し(_)
>>422 そのリンク先を読んで・・・
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/hokeno.html ベイズ統計は基準点が不明のときは使えないのではないか。
ベイズは基準点を観測者が任意に設定できる融通性があるが、恣意的と
いう面もあり、一定時点での株価を基準として種々の要素を入力して、
その統計から将来予測をするなどの場合ならまだしも、「基準年」が不明と
いう前提でベイズ統計論をどのように適用したのか、ちょっと疑問。
C14では古い年代が出ることを正面から認めた方が良いのではないか。
愛知県で極端に古い年代が出た例もあったが、測定誤差と見るよりも
日本では、国際基準より古い年代値が出るとした方がよさそう。
426 :
SOY:2007/06/23(土) 23:04:37
>>425 > その統計から将来予測をするなどの場合ならまだしも、「基準年」が不明と
> いう前提でベイズ統計論をどのように適用したのか、ちょっと疑問。
日常生活でベイズ統計を使っていないので詳しいことは分かりませんが、
もしそれによって結果が大きくずれるのであれば問題があると思います。
そもそもC14の結果は確立といった世界の話なので、
大なり小なりその手の問題は含まれていると思います。
ただ、日本のC14の結果が古く出る理由については、
確率密度分布の扱い方だけが原因ではないように私は考えています。
> C14では古い年代が出ることを正面から認めた方が良いのではないか。
> 愛知県で極端に古い年代が出た例もあったが、測定誤差と見るよりも
> 日本では、国際基準より古い年代値が出るとした方がよさそう。
個々の測定結果の誤差やバラツキはともかく、
日本でのC14の結果は古く出ていると私は見ています。
それは多くの人が認めているところではないでしょうか。
427 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 23:50:23
邪馬台国に天皇がいたか? 居なかったんだろ。
だから天皇のいた国じゃねーよな。
>>427 その時代に、記紀に書かれたようなオオキミ(天皇じゃねえだろ)は
おそらく日本のどこにもいなかっただろう。
記紀に釣られ杉。
卑弥呼と天皇家との係わり合いは?みなさん
430 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 15:30:33
直接の関係はないが、
遠い親戚ぐらいの関係はあったというあたりじゃないか。
当時の王家は通婚して関係を深めるのが、戦略上重要だったらしいから。
倭の王家は、朝鮮の王家にさえ通婚を申し入れている。
(参照)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/倭・倭人関連の朝鮮文献
三国史記(新羅本紀)
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、
王は阿飡の急利の娘を倭国に送ってやった。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせた
ことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
431 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 20:26:04
福岡の山門・八女地方の人は、自分の出身地を聞かれると「ヤマッタイ・ヤメタイ」と発音します。タイは〜ですの意味。タイの前にた行があると、ッになり、つまり、ヤマトタイとは発音しません。地元の者ならではの意見でした。
ヤマトタイは日本海にあるお
433 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:01:28
434 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:15:55
邪馬臺はザマダイ又はザマダ。
伊邪那岐をイザナギと読むのに邪馬臺の場合は
何故「邪」をヤと読むのか?
435 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 17:00:18
十八史略でも読みなさい。
字の語呂合わせゲームでいくなら
福岡側に近い大分北部の耶馬溪なんかモロだろ
437 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 18:33:15
十八史略は中世に編集したものだね。
邪馬臺時代とは離れすぎている。
邪馬台国スレもネタが尽きてきたかな。
誰かお題を出してみて。
SOYさんは何か興味のある分野はありますか。
439 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 01:56:05
倭人伝には、卑弥呼には夫がいないと書かれている。
これは最初からいなかったのか、それとも以前はいたが死んでしまったのか。
巫女的な女性のようなので生涯独身という先入観があるが、倭人伝を読む限り
どちらと断定するのはちと難しい。
子供がいなかったとも書かれていないし。
台与についても、夫や子供の存在について断定できる根拠はない。
440 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 02:14:34
>>439 そもそも「卑弥呼」は一人なのかも問題。
中国の史書によれば、卑弥呼は180年頃から248年頃まで居たことになる。
三国史記(新羅本紀)では、173年にも在位していたことになる。
>>433のリンク先では以下のとおり。
173年 倭の女王卑弥呼が使者をつかわして礼物をもって交際を求めてきた。
「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」
卑弥呼は、個人の名称ではなく、日巫女もしくは日御子という役職名で
170年頃から複数名が在位した(台与もその一人)とした方が、資料にも合う。
平原王墓はそのうちの1名の墳墓ではないかと考えている。
441 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 02:38:12
>>440 三国史記の記述については若干疑問がある。
西暦173年に卑弥呼が女王だったかどうかも疑問だし、
その当時、卑弥呼が使いを送るような統一国家が朝鮮にあったかどうかも
疑問。たぶん、なかったろうと思う。
新羅自体の建国は、西暦350年頃となっているし、中国に始めて朝貢したのも
その少しあととなっているから。
だから、卑弥呼の記述は、あとで挿入されたものだろうと思う。
倭人伝など中国の書物には、「名曰卑彌呼」とあり、卑弥呼は名前だと
なっているおり、複数の卑弥呼がいたとは書かれていない。
もし女王がすべて卑弥呼だったら、台与もそうなっていたと思う。
さらに、西暦180年頃の即位であれば、年齢的にも一人の卑弥呼でも十分に
成り立ちうる。
442 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 02:43:47
>>441 ちょっと補足すると、西暦173年は、中国の書物によると、倭国の大乱の
真っ最中だったと考えられる。その時期は、多くの書物に『歴年無主』と
あるので、王はいなかったと考えられる。その意味からも三国史記の記述は
疑問。
443 :
SOY:2007/06/27(水) 07:14:38
>>438 >SOYさんは何か興味のある分野はありますか。
どの分野もそれなりに興味があります。その時の流れに従います。
三国史記の卑弥呼の記述については一回り(60年)ずれている可能性を考えています。
(それでもピッタリとは合わず数年ずれていますが)
不思議なのは、卑弥呼の晩年以降(240年前後)が新羅の昔于老の時代と重なりますが、
これが邪馬台国の歴史とはあまり合っていないような気がします。
253年頃の于老の言葉:「倭の王を塩奴にして、王妃を炊事婦にしよう」
その頃はまだ台与が立っておらず、男王の時代と解釈できないこともありませんが、
何か違う時代のようにも思えます。
また、葛那古、于道朱君についても何者か気になります。
444 :
サガミハラハラ:2007/06/27(水) 10:09:05
三国史記の173年は干支の12年ずれていると考えられ185年のこととおもわれます。
12支はあうが、十干をまちがえたとおもわれます。
卑弥呼は183年に即位し184年(中平年)に中国に朝貢(金印【漢委奴国王印】を紛失していたため正式の朝貢とは認められず正史に記録はない)
し、あくる185年に新羅に挨拶にいったものと思われます。
こう考えるとぴったりです。
445 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 13:14:36
446 :
SOY:2007/06/27(水) 22:35:56
>>445 http://toron.pepper.jp/jp/kodai/3shiki/ ややこしい新羅の王統を追うには便利なページですね。
>三国史記の記載は、重要な事跡と天候異変等を箇条書きにしたもので
>架空の物語というよりは、何らかの古文書をもとに編纂したと考えられます。
私もそう思います。三国史記の成立年代は比較的新しいものですが、
何らかの元資料に基づいて書かれてあるのは間違いないと思います。
ただ、遡れば遡るほど、本当に年代的に正しいのかといった点で疑問はあります。
于老は王族中の王族なので無闇に想像と断定して削るわけにもいきませんが、
邪馬台国の時代に于老の事件があったというのも、なかなか信じがたいです。
三国史記と邪馬台国の両方を研究者している人たちは、
于老と邪馬台国の関係をどう解釈しているか気になります。
>>446 >遡れば遡るほど、本当に年代的に正しいのかといった点で疑問はあります。
私も同感です。但し、後世に付会した創作とも思えません。
干支年代の繰上げや、伝承の不正確さ、記録の書き足しによる混同などを
を考えていますが、史実の骨格はあるのではないかと考えています。
私は、300年より前に倭人が略奪をしたことはあっても、領土を奪う進攻をしたは
考えておらず、倭人の侵略記事は、鉄などの交易にからんだ争いが略奪に発展した
レベルのものと考えています。
対して、昔于老の記事は、倭国が国家として軍を派遣したという内容であり、やはり
時代が合わないという感じがします。
王の在位期間がやや長いことから見て、紀年の延長があったとして、昔于老は
300年以降であったのが繰り上げられ、さらに、その結果同時代とされた記事と
混同していると見れば、時代は整合できますが、技巧的過ぎる操作となりますね。
448 :
SOY:2007/06/28(木) 07:32:40
>>447 三国史記についての見解は驚くほど同じです。以下の点が特に…
・単純に創作とはせず、史実の骨格があったと考える
・300年より前は倭人が略奪をしたことはあっても
領土を奪う進攻をしたとは考えにくいとする
神功皇后の時代について
(1) 第十七代奈勿王(金氏)、奈勿王の子の未斯欣が登場
(2) 王の名前として第五代婆王(朴氏)の名前が登場
(3) 第十代奈解王の子で第十六代訖解王の父である于老(昔氏)らしき人物が登場
(4) 魏志の卑弥呼の記事が神功皇后の記事として登場
(2)と(3)は別伝になりますが、
この別伝が実際にはどの時代かを考えると、答えに詰まってしまいます。
日本書紀を信じるとと(1)と重なってしまうし、
三国史記を信じると日本と新羅の関係が少し新しすぎるように思えます。
三国史記の元資料を予想するのは我が手に余るといったところです。
449 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/28(木) 07:41:56
(4) 卑弥呼は崇神の時代だな。紀の編者は年代修正が出来なかったみたい。
そんなに間違えたのは、半島と日本の暦法にえらい違いがあったからと観てる。
日本側の1年が今の半年等とかでは狂うのが当然。
450 :
SOY:2007/06/28(木) 19:30:35
>>449 太国さん
> そんなに間違えたのは、半島と日本の暦法にえらい違いがあったからと観てる。
おっしゃるとおり暦法に違いがある上、編纂時の年代修正失敗など
いろいろな要素が混じりあっているのだと私も予想しています。
ただ、このもつれた紐をどこから解くべきかで四苦八苦しています。
そう言えば、崇神天皇の都や陵墓は山辺付近。
記紀と考古学的知見の間で微妙に整合性が取れているところが興味深いです。
451 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/28(木) 19:44:11
研究の進展を祈る。
>>448 たしかに、神功皇后の部分は、時代の異なる事跡が混在していますが、神功39年
の景初3年記事も干支はいづれも己未で干支だけは整合していたはずです。
紀は、天皇在位を長期として神功皇后が240年頃になるはずという考えや、卑弥呼
に相当する人物が他に見当たらないため魏志を引用し、一方では神功皇后の本来の
伝承に存在した朝鮮関係の事跡を、朝鮮の資料を参照しつつ、干支を整合させて
混在させたというのが、一案です。
朝鮮関係記事の登場人物が和風表記になっているのは、日本側の伝承が存在する
ことを裏付けます。朝鮮関係記事の当て字が紀のほかの部分よりも古い表記法という
指摘もあるので、日本の資料に残っていた表記が用いられていると考えられます。
但し、それでも干支120年繰り上げとは3、40年のズレが生じますが、日本側に干支で
表記した伝承が存在しなかったと見れば、何とか説明できます。
百済の肖古王(360頃?)の混在は、干支を重視した追加であろうか?
5代王の名前は誤記で流れとは離れすぎているので、誤記とすべきか?
ここら辺は、朝鮮関係の古伝を神功伝にむりやり放り込んだという感じもします。
453 :
SOY:2007/06/29(金) 07:16:48
>>452 概ね同じ考えです。
>百済の肖古王(360頃?)の混在は、干支を重視した追加であろうか?
近肖古王の記述については、ややリアルさを感じています。
七支刀との絡みも含めて考えると、
案外、近肖古王あたりの時代が本当に神功皇后の時代に近いのかも。
454 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/29(金) 07:26:32
半島と日本の当時の年代が両者の古文献と照らし
合わせて大幅に矛盾等が存在してるのは、半島、大陸側
と日本の暦法の本質に根本的に異なる点があったためで、
そのためになかなか合わないのだと推察している。
その根本的相違点とは日本側が当時倍暦を使用していたため
で、その違いを半島、大陸も日本も同一的暦法と思って
やって行くから、どうしても合わなくなるわけである。
紀の編者らもそのことで苦労したのであり、崇神の時代の
人物卑弥呼を神功39年にあてて、これを固定して他の半島の
記事を調整したから大きく混迷しているわけである。
紀の編者らも神功39年にすれば小康状態が保持できると観て
その条に入れたのであるが、これは間違いだったということ
になる。
那珂博士や伴信友の主張する中国の讖緯説に合わせて神武
即位を上代へ引き伸ばしたのではなく、当時倍暦での時間
の実質上の短縮があることを完全把握していなかった紀の
編者連が通常暦法で数字を決めたため、神武即位
が実際より古い時代の前660年になってしまったという
ことである。
奈良東大寺古墳の中平鉄刀の銘文から、
中平年間は倍暦計上で日本の孝靈天皇の時代に
相当するから、銘文の干支で欠史八代ころには
すでに日本で干支は使われていたと想う。
455 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/29(金) 07:48:18
>>454 続き
半島、大陸側と日本の暦法が同一的で大きな相違点がないとなれば、
向こうと日本の古文献の誤差は数年くらいでほぼ収まるはずであるのに、
実際はかなりの大きな断層がある。
日本の倍暦を認知せず、あちらの文献を見て当時の記載者らが年代の違い
を修正しようとすれば、干支にて60年ごとに調整して行くのが事の
成り行きである。干支というのはいかめしい二つの漢字から出来ており、
1年違いの隣の年の干支を見ても、1年のところ、もっと大幅に違って
入るように視覚的にどうしても見えてしまう。だから修正するのに
1,2年あるいは3,4年、数年の微調整は錯覚を嫌いやりにくかっ
たということである。それで60年の倍数での修正になるのを余儀なく
されたもので、60年、120年、180年・・・・・という60の倍数での、
干支がピタリと合うような調整の仕方を紀の編者らはやって行ったもの
であると観る。
卑弥呼の年代を神功39年にすれば完全に半島、大陸との誤差修正は
小康状態が保持できそうに思って、彼らはその記載を基に他の百済等の
史実を紀の中に挿入して行ったものと観ている。
456 :
時間潰しの店の片隅:2007/06/29(金) 08:00:30
確かに書紀の年代は60年単位でという面がみられますが、それは応神
神功紀のところであり、全てそうだと考えるのは無理なのでは?
457 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/29(金) 08:06:37
>>455 訂正
× 違って入るように ○ 違っているように
>>455 続き
向こうと日本との古文献の誤差が数年くらいならば、あちらもこちらも
ともに同一的暦法だったと観ていいだろうが、大きな狂い、誤差など
出るはずはないのに、実際は大きな違い、ズレがあるわけで、これを
直観すれば、半島、大陸と日本の暦法に大いなる根本的な相違点が伏在
したからであろうと考えるのが至当である。
それではかように大幅な年代のズレが生じる根元的本質は何かと推察
すれば、当時の日本が倍暦を使用していたからだと認容出来うる。
倍暦でも古文献を眺めてそれでも不条理があるとすれば、そこで倍暦を
誤認とするのではなく、倍暦法でも何らかの特殊な手段とかある事柄が
あって不条理に見えるだけで、よくよく調べて行けば諸々の矛盾等は解消
するに至ると観ている。
458 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/29(金) 08:14:23
>>456 確かに、紀の編者らは総て60年の倍数で調整したものではないようです。
小康状態で辛抱したんですよ。もっともそれも間違いだったわけで、
ただ故意に操作したわけではなく、やむを得ず神功世に合わせて間に
合わせたものです。それに他の史実をどうするかいろいろと考えを深く
想い巡らし、その倍数調整のやり方でなく何か合理性がありそうな点を
探し見つけて、倍数によらず記載年を決めてしまったようです。
これもまた間違いになってしまってますね。
>>453 >近肖古王あたりの時代が本当に神功皇后の時代に近いのかも。
その可能性もありますね。
朝鮮への出兵が370頃まで遡るとし、広開土王碑の391年は増派とみて、
記紀の記述から、最初の出兵を神功のときとするのも合理的と考えます。
古事記没年干支と時代が合いやすい利点もあります。
ただ、百済の近肖古王の記事(370頃)と新羅の記事(400頃)の両方を
神功の時代と見るのが難しくなり、神功伝で両者の順序が逆で、神功伝の
後半に肖古王の記事が挿入されたように見えます。
私は、最初の出兵が370頃まで遡ると考えていますが、それは神功より以前
の時代で、神功は390頃以降ではないかと一応考えています。
のちの時代に三韓征伐の功労者として神功皇后が記憶されていたとすれば、
最大の派兵と見られる390〜400頃になるのではないかと考えています。
>>454 時代が古くなったのは、讖緯説が原因ではなく、長寿の伝承が先に
存在していたという考えは、私も賛成です。
ただ、即位を辛酉年にしたのは、最後の微調整かと思います。
長寿伝承の説明としては、倍歴がもっとも明快な考えなのですが、
倍でも長すぎる天皇も存在するので、別の要素も加わっているのでは
ないかと考えています。
461 :
SOY:2007/06/29(金) 21:03:50
>>459 >ただ、百済の近肖古王の記事(370頃)と新羅の記事(400頃)の両方を
確かに両方を神功皇后の時代とするのは無理がありそうですね。
(1) 100年頃 婆娑王
(2) 250年頃 昔于老
(3) 240年頃 卑弥呼
(4) 370年頃 近肖古王
(5) 400年頃 未斯欣
私は(4)の時代が近いと見ていますが、(4)と(5)とで意見が分かれそうです。
また、肝心の卑弥呼の時代と三国史記の記事との関係も気になります。
三国史記に登場する卑弥呼の記事は1周+5年ずれているように思え、
新羅の昔于老の記事も本当は300年以降の話ではないかと思う一方で
193年の『倭人大いに飢え、来たりて食を求める者、千余人』は
時代をずらさなくてもあまり違和感を感じていません。
>>460 >長寿伝承の説明としては、倍歴がもっとも明快な考えなのですが、
>倍でも長すぎる天皇も存在するので、別の要素も加わっているのでは
>ないかと考えています。
私も倍暦だけでなく多くの要素が加わっていると考えています。
暦はデタラメのように見えて、結構、法則性をもっているので、
それをテコにして謎が解ければといろいろ試行錯誤してます。
>>461 私は、(4)と(5)の両天秤で、おそらく(5)だろうというレベルです。
(4)説の利点は、
>>459のほかに、記紀の流れからは、崇神が国内各地に将軍を
派遣して、景行の代でも日本武の尊が地盤固めを続けるなど、仲哀・神功以前の
時期に海外派兵のゆとりがないようにみえる点もあります。
三国史記では、
@10代から14代に対立の事件が書かれ、
A15代で一時関係が良くなるも、
B16代の36年に倭が国交断絶を申し出て、翌37年に大軍が押し寄せ、
17代でも同様に倭国と抗争し、18代の元年に未斯欣を人質にした
という流れで、倭国との抗争が大きく2回の時期に分けられます。
後半の抗争の始まりから、未斯欣の人質までを30年位と見ると、神功を後半の
当初に置くのが(4)説で、垂仁・景行を後半の当初に置くのが(5)説になるかと
思います。
463 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/06/30(土) 01:21:08
370年の時点では既に空位期間が終わっていて応神が即位と見るのが堅いです
新羅16代の在位37年(AD346)の記事は神功の新羅遠征ですね
>>462の続き
以上に対して、後半の抗争の始まりから、人質までを10年位に圧縮すると
いう考えも出来そうです。
16代の最後に倭の大軍が来て、18代の元年に人質を出したという流れは、
17代を10年位と見た場合、390頃に大軍を派遣して高句麗とも戦い、402年
頃に人質が来たことになります。
三国史記の紀年の延長を疑った場合、この考えも十分ありうると思います。
この場合は、神功皇后は390頃からとする考えに合いそうです。
465 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/06/30(土) 01:30:04
何故神功を390年頃からとしてしまうんでしょうか?
応神の古事記崩年干支設定年は394年ですよ
このピッチから考えても無いでしょう
466 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 02:42:13
そもそも三国史記の記述がどこまで信頼できるわけ?
>>466 近肖古王が360前後というのは、中国の史書でも裏付けられます。
390〜400の日本の派兵は、広開土王碑の391年などからほぼ
確実と言えます。それ以前の信頼度はいま一つです。
近肖古王については、神功の晩年と応神の時代に記載があり、古事記
没年干支とも整合するので、SOYさんのように神功を370頃にすると
いう考えは、もっともだと思います。
ただ、神功伝の中核を、日本が新羅を攻めて金城を包囲したという部分
と考えると、神功皇后は390〜400頃になり、晩年に別系統の百済の
近肖古王の記事を挿入したと考えられます。
私は神功伝で攻めた国が新羅であることからも、近肖古王は別系統の
資料の挿入ではないかと考えています。神功だけではなく応神までも
近肖古王と重なるとする記紀の立場は苦しいと思います。
468 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 04:12:03
日本書記は、神功52年に七支刀をもらったと明記してます。
その七支刀には、年号が刻まれていたことを、編纂者は考慮しないで、
神功の年代をずらしつつも、七支刀をもらったことは正直に書いてしまったのでしょう。
七支刀の年代解釈が正しければ、神功52年は369年前後です。
神功55年に近肖古王が死んだ(375年)とあります。
数年の誤差はあれど、神功記の時系列は問題ないように思われます。
469 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 17:43:52
日本書紀の神功皇后のところには、百済の肖古王が何度か登場する。
晋書によると、近肖古王は、西暦372年に東晋に朝貢している。
近肖古王は、西暦346年に即位したとされ、三国史記によると、第13代の王と
なっているが、実際は百済の初代の王ではないかと思う。
中国の書物に百済の名前が登場するのはこの頃だからである。
これらを総合すると、神功皇后の時代はだいたい推定できる。
ところが、日本書紀などから計算される神功皇后の時代は、西暦201年即位の
西暦269年没となる。
そういう年代観のために、魏志倭人伝の卑弥呼の部分が挿入された。
三国史記の卑弥呼の記述は、これと同じように挿入されたものだと思う。
中国史の道のり読むと九州に思えてくる
全体的にみると畿内かな〜
『虚空見つやまとのくに』の国号についてみなさんの見解を聞きたい。
万葉集でみえる、『山跡の国』『八間跡の国』のごとく、
この国号こそ邪馬臺(との)国と私はみてます。
472 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 20:41:31
マルタイって会社が九州にあるから、やっぱヤマタイ国は九州だろうな。
「これだ」ってラーメンが好きです
473 :
SOY:2007/06/30(土) 20:44:29
>>471 神奈川県民さん
>『虚空見つやまとのくに』の国号についてみなさんの見解を聞きたい。
虚空という言葉で記憶を辿ってみました。以下のとおりです。
(1) 虚空見日本から考えれば、饒速日命と関連。
(2) 虚空津姫命から考えれば、八幡信仰と関連。
(3) 虚空津日高から考えれば、日向神話と関連。
(4) 虚空蔵信仰から考えれば、秦氏と関連。
>>473 SOYさん
『虚空見つやまとのくに』・・・・
空から見て美しい国と聞きます。
私が言ってるのは(1)のニギハヤヒ関連です
>>473 SOYさん
『虚空見つやまとのくに』・・・・
空から見て美しい国と聞きます。
私が言ってるのは(1)のニギハヤヒ関連です
476 :
SOY:2007/06/30(土) 22:02:47
>>474 神奈川県民さん
>私が言ってるのは(1)のニギハヤヒ関連です
思考には遊びの部分も必要かと思い、少し視野を広げて考えてみました。
(1)のニギハヤヒ関連だけに絞ると、
ニギハヤヒが辿りつく大和は私も大和だと思います。
問題は虚空ですが、これを高天原〜哮峯(たけるがみね)とするなら、
大和が見える虚空は天磐船の飛行高度がそれほど高くないと仮定し
哮峯付近になるかと私は思います。(想像します)
477 :
467:2007/06/30(土) 22:48:00
>>467を一部訂正します。紀を読んでいて気付きました。
>近肖古王については、神功の晩年と応神の時代に記載があり、
は誤りでした。近肖古王は神功摂政55年に亡くなっていました。
ただ、神功、応神の時代に百済で数名の百済王をあてているのは、
何らかの起点を設定して、百済の文献の干支を基にして挿入したよう
に見えますが、これは後世の一時点を起点にして遡った結果ではないか
と見ています。
478 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/06/30(土) 23:09:41
日本書紀で良馬二匹を貰った応神15年記事こそがAD368年なんですよ
つまりAD370年の時点は既に神功の時代ではない筈なんです
これと「全く同じ年」のAD368年に、
百済が新羅に馬を送った事が三国史記の百済本紀に書いています。
新羅本紀には貰った事が書いています。
まぁ、百済が倭にも送ったとは書いてませんが。
日本書紀では神功52年に貰った事に成ってる七枝刀(実年代AD372年)も
古事記では応神天皇ですよね。
七枝刀を倭に送ったとはコレまた百済本紀には書いてないですけど、刀が実在しますからね。
日本書紀のタイムスケジュールは紀年操作によって意図的にシフトしているだけであって
古事記のタイムスケジュールは比較的正しい筈なんです
古事記には馬を貰った後に、刀と鏡を貰ったと、貰った順番まで書いてるんですよ
実年代に措いて応神15年記事の方が、神功52年記事より実年代では先行する正しさを
古事記が保証しているんです
神功紀に書いているからと言って、それが神功時代の事であるが保証されて居る訳ではないのです
応神紀に書いているからと言って、それが神功紀より全てが新しいと云う訳でなないのです
479 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/30(土) 23:17:08
近肖古王没年の375年は、倍暦計上から神功皇后の崩御年だという
ことを算出しています。
紀の編者連は神功55年に当てはめたようですが、375年が神功69年
だったわけです。
480 :
SOY:2007/07/01(日) 00:03:09
>>477 >ただ、神功、応神の時代に百済で数名の百済王をあてているのは、
>何らかの起点を設定して、百済の文献の干支を基にして挿入したよう
>に見えますが、これは後世の一時点を起点にして遡った結果ではないか
>と見ています。
百済王の即位・死亡記事は干支を元に挿入した可能性が高いと私は見ています。
一方で、三国史記と日本書紀とで干支が合っているわけでもないのに
内容が重なるような記述は、意外に史実ではなかろうかと睨んでいます。
>>478 征東大将軍さん
>日本書紀で良馬二匹を貰った応神15年記事こそがAD368年なんですよ
369年 百済王世子・奇生聖王が倭王旨の為に七支刀を造る(金石文)
372年 七支刀献上(神功52年)(干支2周ズレ考慮)
375年 近肖古王死亡 (神功56年)(干支2周ズレ考慮)
確かに神功52年、神功56年の記事は干支を元にした挿入かも知れませんね。
481 :
SOY:2007/07/01(日) 00:28:24
>>478 征東大将軍さん
>日本書紀で良馬二匹を貰った応神15年記事こそがAD368年なんですよ
>>480の発言を書いてから気付いたのですが、
古事記で良馬二匹の記事と横刀(七支刀)の記事がまとめてあるからといって、
必ずしも日本書紀の方が間違いではないかも知れません。
実年代は分かりませんが、七支刀は神功52年、良馬二匹は応神15年で別事件、
古事記はそれをごっちまぜにしただけかも…
それでも近肖古王の死亡記事については挿入だと思っています…
482 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 00:40:37
ところで、神功皇后は九州を征伐してるのだから、
邪馬台国東遷説は、当然否定されてるんだよね?みなさん。
中には、神功・応神が、九州勢力の東征だとかいう バ カ もいるから念のため確認しとく。
483 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 00:49:30
>>471 語路合せからいくと、やまとは八幡と関連だな。
ただ「邪」は六朝時代「ジャzia」だったし。
484 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 00:51:08
SOYさん、日本書紀研究家さんを御存知でしょうか?
通説の120年差ですと、応神15年は284+120年でAD404年の事になりますが
日本書紀研究家さんの年代列構想の考えを拡張して解釈して
彼女の言う「仁徳列」を用いて応神15年を計算すると、
「仁徳列」ですと84年差の年代列なので、284+84年でAD368になる事を見つけました
これが百済が新羅に馬を送った年とピッタリ同じAD368年になります
この箇所の古事記の記述とも完全に一致します。
古事記では応神天皇が百済の「照古王」から馬を貰い、
その後に刀と鏡を貰った順序になっていますよね
古事記の「照古王」は、三国史記百済本紀では「近肖古王」ですから、
彼はAD375年没に没している訳ですが、
仮に通説どうりに120年差で応神15年を解釈すれば応神15年=AD404年となって
応神天皇は「照古王」から馬を貰う事が出来ない訳です
古事記が時系列の問題について嘘を付く動機があるでしょうか?私はそう思いません
動機があるのは紀年操作の必要のある日本書紀の側です
日本書紀の応神15年条を見て下さい。「百済王」から馬を貰った事を書いていますが
百済王が「誰」であるかを書いていません。
彼等は書けなかったんですよ、古事記の通り神功55年=255+120=375年の時点で既に死んだ肖古王
から生存中のAD368年に貰った筈の馬を、年代列を移動して応神15年に挿入する紀年操作をやった訳ですから
485 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 01:09:26
征東大将軍まで数字遊びのワナに嵌るとはガッカリだ。
486 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 01:09:37
因みに応神天皇は古事記崩年干支が示す通りに、AD394年に没している筈ですから
応神元年を270+120=390年とすると、
日本書紀の応神5年記事までの内政記事だけがストレートに流用可能性があるだけで
応神6年から応神41年までの記事は、
「別の年代列を使ってのAD390以前の」応神天皇時代の事跡であるか
394年以降の仁徳天皇時代の事跡です
書紀の応神元年の実年代が390年であるからと言って、
390年が真の応神元年と云う事では無い筈です
応神天皇は古事記にあるように「照古王」から馬を貰ったと考えられるAD368の時点で既に天皇であり、
七枝刀で確認されるようにAD369年の時点で百済にとっての倭王旨だった筈なのですから
三韓征伐といっても、実は新羅だけを攻めて、百済は攻略していない。
史実の流れでは、350年頃から百済が日本に来て、七支刀や馬を献上して
天皇のご機嫌を取って、新羅が「金銀財宝の国」とそそのかして、日本に
新羅を攻めさせたように見える。
日本は、高句麗の広開土王とは戦っているが、百済との戦っていない。
5Cに中国から認められたのも百済を除いた地域の支配者の称号で、百済は
日本と中国を利用してうまく振舞っていた感じがする。
488 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 01:48:28
別に数字遊びで遊んでいる訳じゃないですよ、
日本書紀は数学的なパズルの用になって居るのは客観的な事実ですから
日本書紀を研究すると言う事は、このパズルの解明に向き合う事です
既存の研究の枠を超越しましょう
>>484なんかでも今まで解らなかった事が
古事記、日本書紀、三国史記で連鎖的に繋がって解決して居ると思うんですが
皆さんには、ご自身の説で、
古事記と日本書紀の矛盾に措いて、
本当は「誰が」七枝刀を貰ったのかに付いて
>>484を上回る説明出来ますか?
古事記と日本書紀の矛盾に措いて、
「どの百済王が」、「何時」、馬を送ったかに付いて
>>484を上回る説明出来ますか?
>>484はこの問題に措いて決定的な解釈の筈ですョ♪
御批判があれば具体的な内容に付いて批判して下さい。御待ちしております
489 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 02:00:54
>>488 君は、邪馬台国九州説だったよね?
それなら、根本的に君の意見など論外なんだけどね。
七枝刀を誰がもらったかなど、考古学上たいした問題ではない。
書簡などが出土すれば別だが。
490 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 02:06:54
卑弥呼の墓=箸墓説を言った事はあっても
邪馬台国九州説宣言なんてしてないと思うんですけど><
>>484 日本書紀研究家さんの見解は面白いとは思うのですが、
彼女のいう「定点」が本当に確定なのかという問題があります。
干支を基準に編纂すれば60年の倍数のずれは当然ですが、
それをもって、60年ずれたところに正しい年代があることには
ならないと思います。
492 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 02:19:46
493 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 07:57:54
>>486 征東大将軍氏は應神天皇を倭王旨だとしてるが、これは天皇の名や号と不一致
だからそうだというのは早計ではなかろうか?
むしろ九州の王ではあるまいか?稲荷山鉄剣の場合も畿内から外れた関東や
江田船山から雄略天皇の銘文となっていることからも分かるように王の遠距離
から刀が出ている。
彼は倭の五王を天皇とまだ考えているのだろうが、五王は天皇では
ないと観る。これも武王の一字のみしか合わないんだから天皇ではないね。
さらに
>>490から女王国九州説ではないと、畿内説らしいが、氏の支持
している古事記にも卑弥呼の記事はないし、これも氏の間違いと観る。
委奴国王や帥升の年代は、彼の主張は正解に近いだろう。
494 :
SOY:2007/07/01(日) 09:05:46
>>484 征東大将軍さん
>通説の120年差ですと、応神15年は284+120年でAD404年の事になりますが
:
>「仁徳列」ですと84年差の年代列なので、284+84年でAD368になる事を見つけました
確かに60年単位でずらすだけでは日本書紀の暦は復元できないので
それ以外の方法でも復元する必要があると私も思っています。
古事記の干支崩年。これを信じるなら404年は確かに私も違う気がします。
362年 仲哀崩御
394年 応神崩御
私が気になったのは
(1) 神功52年 七支刀 久テイ、千熊長彦
(2) 応神15年 良馬二 阿直岐
(1)の送り手は近肖古王の王子の近貴首、(2)の送り手は近肖古王なので
時代的には近肖古王の時代で間違いないとは思っているのですが、
ただ一点、日本書紀の物語を読むと、絡む人物が異なっているので、
本来は別の伝承ではなかったかと予想しました。
私は確固たる自信があって言っているわけではないので、
あくまでも参考と言うことで…
P.S. 日本書紀研究家さんの発言は見ていないです。
495 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 10:04:45
>>493 続き
それがしの倍暦計算では神功崩御は375年でこの年近肖古王も没した結果で
したが、翌376年廳神即位にてて同年王子貴須王即位と思えました。この百済の
王の死と王子の即位を覚えてか紀の編者らはそれぞれの当年に神功崩御と廳神
即位とをくっつけたわけで、よっぽど自信があったのかとそう考えて
おります。
神功崩御の375年は七支刀の369年より後でして、この時神功は摂政で天皇は無
でいるわけがないわけですから、刀の銘文の倭王旨とは天皇であるわけがなく
九州の某王だということです。倭の五王の倭王旨がないことは五王とは別の
部類の王であるわけで、当時は九州は数十国が乱立していたと推定したい
ところ、それらの中の一人の王であろうと考えますし、王と云っても、
戦国時代の武将クラスか江戸時代の大名級の人物ではないかと思考します。
刀剣は可動性のものであり、実際稲荷山鉄剣と江田船山からの鉄刀の雄略の名
から観て、当時の古代人の活動の一握りは広域に渡って移動が可能であったと
いうことが云えると思います。
496 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 15:56:48
七支刀を九州の王がもらった?
無理無理。ありえない。
太国は古田信者だからしかたがない
498 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 16:08:38
ヤマトタケルの頃から九州征伐はされており、
仲哀・神功は九州内陸まで巡幸してる。
その頃は前方後円墳が九州でも作られ始めている。
九州は、とっくに大和に従属してるとみるしかない。
倭の五王が九州の王なら、それこそ記紀に書かれていないのがおかしい。
九州の独立を認めながら、朝鮮出兵していたとでもいうのか?
499 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 16:22:51
>>496 無理じゃないよ。むしろ畿内より近いんだから半島とじっこんになりやすい。
それに数十も国があったんだろうから、倭王旨などという天皇の名、号と
合わないのは当たり前だな。
それに以下のとおり中九州と南九州は日本版シルクロードから一寸離れ、
畿内に情報が入りにくい地勢の処がわりかしあったろう。だから記紀に
載らないわけだ。むしろ大陸、半島のほうの情報が入りやすかったみたいだ。
卑弥呼の女王国もそんな状況だよ。
大陸 半島
↓
対馬等
↓
北九州−−−−−−−−−−−→畿内
500 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 16:25:37
>>499 待て待てちょっと間違えたかな? 倭王旨の銘文のある七支刀は畿内に着て
いるんだから、もう少し北九州寄りに国があったやも知れぬな。
501 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 18:23:21
>>491 どの年代列に当該天皇の特定の記事が乗るか如何かと云う問題は在りますけど
指摘されてる年代列の存在は認めて良いのでは無いかと思います
私も嘗ては彼女の理論には否定的でしたが、
辻褄の合わない部分だけを切り分けてドンドン排除して行くと
とっても魅力的な物になって来ました。
応神15年での有効性も見つけましたし、他にも色々新しい展開がありましたし。
60年の倍数ズレは応神列の事だと思いますが、まぁ、百済関係の外事記事の記録位置が、
三国史記等の半島側の文献に対して記録位置が120年分ズレて居る箇所が
存在するのは客観的事実なので、
その記事の本来の位置が120年分修正されるべきだと云う事には代わりはないと思います
半島側で確認できない記事がどの年代列に乗っているかは別の問題ですが。
502 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 19:05:16
>>492 私は邪馬台国の所在地に付いての断定的な発言を
なるべく回避するような言い回しをしている筈ですよ。
ただ、「日本書紀の製作者の設計では〜」と云う前置きをして、
「彼等は倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼と同一視して設計している〜」
と云うような言い回しになっている筈です。
日本書紀の設計では倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼と同一視して設定しているんですよ。
只これには文献史学上の根拠があると言えますが、そこには考古学的根拠は全く介在しません
ですから史実は違うかもしれないです。
日本書紀は倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼と設計しているにも関わらず
考古学上の決定的な証拠さえ出れば、それは日本書紀がそう云う設計であったと言うだけで、
史実として否定されるべき問題なんです。
考古学上、実際の邪馬台国が九州の特定のエリアである事が
決定的になっても全然構わないです。
日本書紀の設計が史実と違うのは、日本書紀の研究者の責任ではないんですから。
私は六百年以上の紀年引き伸ばしを行った現行日本書紀「以前の」
日本書紀設計段階での本来のタイムスケジュールは一体如何だっただろうかと云う事が関心の対象です
まぁ、逆にもし考古学上で邪馬台国畿内説の決定的な証拠が出たらそれは、
「日本書紀を作った側の人間は、日本書紀成立の四百年以上も前の史実を知りながら、
それを一般には解らないように日本書紀に織り込み、千二百年以上もの後世まで
隠し通す事が出来た」と云う訳ですから、これは大変面白い、凄い話じゃないでしょうか♪
私は考古学には余り興味が在りませんが、そう云う意味では考古学に期待してますよ。
早く白黒が付く瞬間を見たいものですね
503 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:28:42
記紀では解けないよ。
編纂の成立年代が500年も違う。遅い。
今から、500年前は、信長も秀吉も家康も
生まれていない、という歴史時空が、君らは、解らんのかね。アホカ。
504 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:35:23
卑弥呼は卑弥呼、つまり固有名詞である。
正史三国志を読め。
三小帝紀に書いてあるだろうが。
俾弥呼と。
このスレ、相変わらず、レベル低すぎるな。
もっと、少しは、勉強して書け。
505 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:51:15
卑弥呼は固有名詞。証拠は、
正史三国志三少帝紀に、俾弥呼と記してあること。
議論する前に、まず読むべし。
506 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 19:53:13
>>493 >>495 >>499 >>500 太国さんも、石上神宮のあの刀が七枝刀だと考えてる訳ですよね?
あれが七枝刀だとして、石上神宮が七枝刀を保持して居た事を如何思われますか?
九州の神社が持っているんじゃなくて、如何して石上神宮なんでしょうか?
九州の王から奪ったんでしょうか?
書紀ではココではそのまま読むとするなら七枝刀を神功が、
古事記では横刀を応神がと云う事になりますが
コレが同一の刀で石上神宮のあの刀が七枝刀なら
倭王旨は神功か応神の筈ですよね
応神天皇にしても、応神天皇が応神天皇として呼ばれるのは、ずっと後の事なんですから
作刀時の「倭王旨」が応神と名や号と不一致じゃないかと言っても、やっぱり
「倭王旨」の刀を百済から貰ったのは歴史書に拠れば神功か応神なんですよ(応神だと思いますが)
記紀に記録があって、刀が実在し、そこに「倭王旨」と書いている。
こう云う所が倭の五王の問題とは決定的に違いますよね。
507 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 21:38:07
>>506 征東大将軍さん
失敬。ちょっとアクセルだけでブレーキをかけそこなっていたよう
です。
>>493>>495等の件は一寸後退です。
このことは1年以上前でしたか、倉西さんとも意見の交換をして
おり、そのことを思い出しています。
訂正的につっこんで考えを新たにしますが、石上神宮の刀は神功世
関係の刀ではなく、468年の刀ではないでしょうか?
拙者の倍暦計上では468年(泰始四年)は安康元年となります。
この時代はまだ倭の五王の時代であり、旨王は五王ともども一字の
号であることからして、大陸に近い九州王朝の五王と並行して存在
した五王とは別の戦国時代での大名クラスの王であったと思考
します。候王の号が安康の康と音読み的に合いますが、これは偶然
であって候王は畿内の安康ではなく、旨王とともに勢力的に九州の
一段各下の王ではあるまいかと再考しているところです。
そうでなければ「旨」字は名詞ではなく王にはじめて刀を造るとか
の意味とも云える字やも知れません?
>>487でも書きましたが、私の一応の考えは以下のとおりです。
近肖古王が372年に東晋に朝貢したことは、中国の史書より確実で、
日本に七支刀を贈ったのは、「秦○4年」を(秦和4年=太和4年=372年)とし、
七支刀をもらったとする神功52年が壬申で372年に相当するのは、百済の史書に
基づく挿入ではないかと考えます。
百済は南下する高句麗と戦い、新羅とも敵対し、そのため日本に使者と宝物を
送って懐柔し、日本を誘導して軍勢を引き出し、新羅と高句麗を攻めさせた
(391年頃)のではないかと考えています。
509 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:34:20
>>502 >まぁ、逆にもし考古学上で邪馬台国畿内説の決定的な証拠が出たらそれは、
>「日本書紀を作った側の人間は、日本書紀成立の四百年以上も前の史実を知りながら、
>それを一般には解らないように日本書紀に織り込み、千二百年以上もの後世まで
>隠し通す事が出来た」と云う訳ですから、これは大変面白い、凄い話じゃないでしょうか♪
何をいってるのか、さっぱりわからんね。
日本書紀は、神功を卑弥呼にみたててるのであって、モモソヒメを卑弥呼に見立てたわけじゃない。
魏志を引用してることで、当然、邪馬台国は大和国だと主張している。
「女王卑弥呼」が誰を指したことかが、当時の編纂者にはわからなかったというだけだろ。
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 22:35:57
神功の時代の半島の太和年間に因んで後世に泰和の年号としたのか、
たまたま泰和の年号とし、過去の太和の年号に似ていてこの昔を
懐かしみ、和平友好を想って刀を贈答したものか、そのへんでは
ありますまいかね?
511 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:48:39
>>510 仮説よりも物的証拠の方が優先されるというのが、
どこの世界でも原理原則。
それが守れないなら、どんな説も成り立つ。
どんな説も成り立つということならば、その説が「真実」だと主張することはできない。
512 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:57:02
>>502 >私は六百年以上の紀年引き伸ばしを行った現行日本書紀「以前の」
>日本書紀設計段階での本来のタイムスケジュールは一体如何だっただろうかと云う事が関心の対象です
きれいごとを言ってるようだが、
君ひとりが真実を発見したつもりになっても、同調者がいなければ、妄想と同じ。
現に太国と征東大将軍では(現物のある)七支刀に対する見解すら一致できない。
せめて、「物的証拠を優先する」というルールくらい先に決めたらどうかね?
513 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 23:24:45
>>510 そんな能書きは分かりきったことだろう。2ちゃんは証拠がなくても
根拠資料があれば主張はできうる。
可能性は相当程度云えるだろうが。ブツはその七支刀ではないか。
そこに「泰□四年」とあるば、太和より可能性は優先だよ。
514 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:48:32
515 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:19:25
サギ師のいうことは巧みだからな。
516 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:39:06
>>514 >「奇生聖晋」は「貴首王子(きすせしむ)」を表していると考えてよいであろう。
バカ極まれりだな。
自国王の漢字表記を間違えるわけないし、
異体字とかいうレベルでもない異なった漢字を使うわけがない。
こいつはとにかく自説を組み立てて、自分は誰よりも物知りだと喧伝して信者を増やしたいだけなんだよ。
だがしかし、素人のこうあってほしいという願望をかぎ分ける嗅覚は天才的。
518 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 02:12:27
519 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 02:18:33
>>518 ずいぶん、あっさりした敗北宣言だな。
もっと安本を擁護してやれよ。論破してやるから。
>>504 卑弥呼って職制名じゃないの?
今で言う「市長」とか「知事」みたいな
521 :
時間潰しの店の片隅:2007/07/02(月) 08:36:48
職制名かどうか知らんけど、「名づけて卑弥呼という」とあるところをみると、
それまで邪馬台国では卑弥呼という名は(職制名や王としての名)なかったようだ。
>>519 論破できるなら中傷しなくていいんじゃね。
>>516 >自国王の漢字表記を間違えるわけない
その漢字表記が固定しておらず、各資料でまちまちの表記となっているのは、
「当て字」であるからとみれば、「奇生聖晋」は「貴首王子(きすせしむ)」を
表しているという考えもありうる。
安本のいう仏教伝来が後世であるというのは、いまひとつ根拠として弱いが、
彼の主張する読み方を採用した場合にもっとも意味が納得できる。
ただ、「聖」の文字を意味と無関係な音の借用とみるのも躊躇する。
524 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:32:39
>>523 「王子」は漢字と意味が一体になって中国から輸入された言語記号だから、
漢字を知ってるのにわざわざ「聖晋」と当て字される根拠はどこにもない。
他に例があるなら示すべし。
525 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:51:00
またそれ以前に、「晋」といえば、となりの国名であり。
その漢字音を借用したという理屈も不可解。
「倭王」は、意味通りの漢字が使われてるのだから、
「貴首王子」と書きたいなら「奇生王子」と書かなければ用法の統一性が無い。
他の文献などで、「王子」を「聖晋」と表記した例があれば別だが、
それが無ければ、仮説以前の思いつきにすぎない。
>>524 百済で漢字を使い始めた当時に、音の借用をしていたことは、ほぼ間違いない。
実際にも、王の名前でさえ同一の漢字で統一されていない。
後の時代に「王子」の文字が使われていたとしても、それは後の時代に編纂された
史書であり、370年頃に音の借用がなかったことにはならない。
>「王子」は漢字と意味が一体になって中国から輸入された言語記号
というのも証明されざる仮説に過ぎない。
「聖音」として仏教用語として読んだ場合の不自然さは、やはりある。
527 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:10:03
wikiより銘文
表・泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
裏・先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
>>526 >370年頃に音の借用がなかったことにはならない。
「王子」の意味を借用とは、そりゃ、無理な考えだろ。
銘文は漢文として書かれてる。
日本の万葉集とは違う。
528 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:12:09
>>526 >>「王子」は漢字と意味が一体になって中国から輸入された言語記号
>というのも証明されざる仮説に過ぎない。
証明されてないですか?
ならば、参考までに否定材料をお願いします。七支刀以外でね。
529 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:15:35
>>528 証明責任は存在を主張する側にある。
否定する側にはない。
530 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:19:37
>>529 ttp://www.h3.dion.ne.jp/~shimizus/patent.net/chinese/cn_trans.html >「プリンス・エドワード島」 (Prince Edward Island) は、 "Edward"の音訳の「愛徳華」に 、
> "Prince"と"Island"の意訳の「王子島」になり、「愛徳華王子島」です。
これは現代においての例だが、古代でも同じ。
現代でも古代中国でも、同じ漢字を使いながら地域ごとに発音が違う。
漢字を表意文字として使用することで、互いに意思疎通ができる。
それが「漢字」。
漢字と意味が、ばらばらに輸入されることはありません。
基本的に漢字は表意記号として使うものであり、まず意味を漢字表記できるものは表意漢字で書き、
固有名詞など表意できないものに限り、表音記号として当て字を使う。
>>529は、反論できなきゃ、己の無知を恥じることだね。
531 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:25:32
>>530 では、反論w
日本では、アルファベットのように表音文字として使用し、
それと併行して表意文字としても使われているよね。
表意文字として使用しているからといって、表音を否定する
理由にはならないよ。
532 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/02(月) 20:29:14
なにか『魏』の国名が、漢委奴国王の『委』と卑弥呼の鬼道の『鬼』
の合字になるのをまた想い出したな。
533 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:33:01
>>531 万葉集が韓国語で読めたという説を信じるタイプ?
534 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:35:28
>>533 全然話がちがうwww
古事記、日本書紀などは表音と表意を併行して使っているということ。
意味が伝わったから表音の語用がないという主張は論理としても
成り立っていないということ。
535 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:38:10
>>534 古事記は日本語、日本書紀は漢文って知ってる?
536 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:43:37
537 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:56:02
538 :
SOY:2007/07/02(月) 21:07:38
>>523 >「当て字」であるからとみれば、「奇生聖晋」は「貴首王子(きすせしむ)」を
>表しているという考えもありうる。
年代的に考えても、それがすっきりいく解釈のように思います。
百済の称号の類が全て中国化していたとする方が無理があります。
王がコキシと呼ばれたり、王子がセシムと呼ばれていても
何ら不思議ではないと私は考えます。
そもそも近肖古王以前に百済では当て字の類がなくなっていた
というのは有り得ない話だと私も思います。
539 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 21:12:18
SOY氏は、安本支持と。
太国氏や九州ですが氏はどうかな?
540 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/02(月) 21:53:39
文字の使用のやり方は変則で読むこともあろう。
あ〜六書か〜?
王子名の漢字を小細工的に別字を使ってやれよう。
確か古代マヤ文明の神聖文字のパカル王もそんなやり方だったな?
ただ年号までも泰和を太和をしちゃってよいのかね?
日本が好きでそのヤマト「大和」から太和としたならあり
うるだろうがね?
541 :
SOY:2007/07/02(月) 22:01:57
>>539 >SOY氏は、安本支持と。
安本氏を基準にしなければ古代史が語れないというのは正直うんざりです。
十人十色の古代史論争は安本氏の名前によってではなく、
論旨によって部類分けされるべきだと私は考えます。
安本氏の名前を出すにしても、安本氏の主張の中の○○についての△△の
考え方といったように具体的に示すべきではないでしょうか?
そもそも人の主張を勝手に部類分けする貴方自身は安本反対というように
単純に部類分けされ得る立場なのでしょうか?
542 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:02:04
>>539は、安本にこだわり過ぎだよ。
>>514のリンク先でも「晋」と読むのは、榧本杜人(かやもともりと)
の説であると書いてある。
>>521 中国側が個人名と認識しているという点は、誰も異論がないんじゃないの?
そのうえで、職名を個人名と誤解した可能性を考えてるんだと思うけど。
544 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:21:12
>>541 >そもそも人の主張を勝手に部類分けする貴方自身は安本反対というように
>単純に部類分けされ得る立場なのでしょうか?
安本の主張の中で同意できるところはほとんどないけどね。
君はあるの?
545 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/02(月) 22:36:27
安本氏の言う「旨」がミマキ(崇神)の「美」であるとの説は
間違いだと想う。一代約十年すし詰めはやりすぎでダメだ。
美王候王じゃぁ孫悟空(美猴王)が候補にのぼるわ。
泰和4年だったら、倍暦計算で安康元年(468年)だ。この場合は
旨とは倭の五王の傍列の系の王だ。そうでなく太和4年(369年)
だというなら、旨は王の名詞でないと観る。
546 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:42:00
故、其の地を號けて楯津と謂う
故號其地謂楯津←これは漢文ではないのか。
>>535 和文なのか。
547 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/02(月) 23:10:28
聖晋と西晋か〜??
王子は「奇しくも西晋で生まれた」のかね??ww
548 :
SOY:2007/07/02(月) 23:19:24
>>544 > >安本の主張の中で同意できるところはほとんどないけどね。
自分自身のことになると曖昧になるのですね。
人の主張を安本支持と決めつけたのだから、以下からはっきりと選ぶべきだと思うのですが…
(1) 単純に安本支持
(2) 単純に安本反対
(3) 他人の主張は決めつけられても、自分の主張は決め付けられない
>安本の主張の中で同意できるところはほとんどないけどね。
>君はあるの?
誤魔化しの常套手段として質問を質問で返すという行為にもうんざりです。
反対にしろ、賛成にしろ、私の立場は当初から安本氏を基準にはしてはいません。
同意するところもあれば、同意しないところもある。ただ、それだけだけです。
ここで発言している多くの人だって、そういったところでしょう。
だいたい何の義理があって、
論旨ではなく人物名で賛成・反対をしなければならないのかが分かりません。
自分の発言に責任をもっても他人の発言にまで責任を持つ気はありません。
ミマキ(崇神)の「美」といったように自分が納得する範囲で主張を絞れば、
安本氏よりも
>>545 太国さん支持といったように言うことはできますが、
主張するところも絞らず私の意見を誰かが勝手に決めつけても
それは私の認めるところではありません。
>>548 >ミマキ(崇神)の「美」
私もこれはどうかなと考えます。
崇神の在位を372年頃まで新しく見るのは、困難ではないか考えています。
ただ、「旨」を「美」と見るのはあり得るかなとも考えており、崇神の活躍期間を
20年前後と長く見ることもあり得ると考えているので、悩ましいところです。
今のところ、肯定も否定もできないというところでしょうか。
550 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 00:16:06
>>548 君は邪馬台国九州説だから、部分的に安本に迎合する部分があるかもしれないが、
考古学を少しでも勉強していれば、安本の九州説などは論外。
よって、他のどの論説も説得性に欠けると判断する。
はっきり選べというなら、「(2) 単純に安本反対」 ということで何も問題ない。
551 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 00:17:55
>>550 だったら、その都度論理的に反論すれば足りる。
中傷は、負け犬の作法と知るべし。
552 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 00:19:37
>>551 だから、反論すれば?
具体的な反論を拒否して「そう考えられる」で済ましてるのはそっちだろ。
553 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 00:23:03
もう一度、書いておく。
525 :日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:51:00
またそれ以前に、「晋」といえば、となりの国名であり。
その漢字音を借用したという理屈も不可解。
「倭王」は、意味通りの漢字が使われてるのだから、
「貴首王子」と書きたいなら「奇生王子」と書かなければ用法の統一性が無い。
他の文献などで、「王子」を「聖晋」と表記した例があれば別だが、
それが無ければ、仮説以前の思いつきにすぎない。
九州王朝の華麗なる歴史
委奴国王
↓
卑弥呼
↓
神武→ヤマト王朝作る(分家)
↓
継体天皇
↓
倭の五王
↓
磐井
↓
目多利思比孤(用明天皇)
↓
筑紫君薩夜麻
↓
大海人皇子(天武天皇)
↓
蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
555 :
SOY:2007/07/03(火) 07:18:09
>>550 >はっきり選べというなら、「(2) 単純に安本反対」 ということで何も問題ない。
了解。東日流外三郡誌を偽史とはしない立場ということですね。
私が以下のように述べ、その上ではっきりと自分の言葉で自分の主張を述べたのだから
二言はないと信じます。
> 十人十色の古代史論争は安本氏の名前によってではなく、
> 論旨によって部類分けされるべきだと私は考えます。
>
> 安本氏の名前を出すにしても、安本氏の主張の中の○○についての△△の
> 考え方といったように具体的に示すべきではないでしょうか?
>>553 >「貴首王子」と書きたいなら「奇生王子」と書かなければ用法の統一性が無い。
>他の文献などで、「王子」を「聖晋」と表記した例があれば別だが、
・同じ当て字が二つ以上存在しなければ当て字は存在しないという理屈は間違っています。
・人間が書いた記述において用法の統一性が絶対にあるという前提も間違っています。
また、貴方が『奇生聖音』ないし『奇生聖晋』をどのように訳しているのかも知りたい。
それは他の文献などでよく見られる訳し方なのでしょうか?
>またそれ以前に、「晋」といえば、となりの国名であり。
>その漢字音を借用したという理屈も不可解。
あの字を『音』と読むか『晋』と読むかは異論のあるところかも知れませんが、
上の理屈についてもいまひとつよく分かりません。
国号に使われる漢字は当て字には使われないという根拠は果たして何でしょうか?
556 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/03(火) 07:37:11
王旨と書かれており、「王」の字を使用しているところから、聖晋も「王子」と
書けるはずだ。しかしこういう銘文は一種の簡易なタイムカプセル内の文の
ようなものであり、何かしら銘文を入れた者の最も云いたいことを黙示的に
内在させたければ「聖晋」が王子のことを何らかの理由で云わんとしていると
も考えられるから、断定までには至らないな。
稲荷山鉄剣の銘文の「獲」のクサカンムリが無いのは、大「草」香王子が安康に
殺されたことの仇(「加多支」)の示唆かも知れない。かように内在の云いたい
ことを別の文字を工作的に入れたりして銘文の文字を選んだんではあるまいか?
>>555 >了解。東日流外三郡誌を偽史とはしない立場ということですね。
一言で言えば、子供のへ理屈ですね。
君が冷静さを保てる大人なら、そんな受け答えはできなかったはずだ。
相手と同じ論法をとったところで、論破することはできない。
>・同じ当て字が二つ以上存在しなければ当て字は存在しないという理屈は間違っています。
理屈はどうあれ、証明はできない。
>・人間が書いた記述において用法の統一性が絶対にあるという前提も間違っています。
太国も指摘してるように、王旨と書かれており、「王」の字を使用しているところから、聖晋も「王子」と
書けるはずだ。
>また、貴方が『奇生聖音』ないし『奇生聖晋』をどのように訳しているのかも知りたい。
関係ない。
>国号に使われる漢字は当て字には使われないという根拠は果たして何でしょうか?
君が、「普」を国号以外の当て字に使ったという用例を探すべき。
「普」を国号以外の当て字に使った用例が、七枝刀と同時期の文献にあれば、
納得するものである。
改めて整理すれば、「奇生聖音(普)」を「貴首王子」と解釈することは、
こじつけ以上の論拠がないということ。
1、
漢字を使う文化圏の者なら、「王子」は「王子」と書く。
「聖普」が当て字というなら、他の文献から似た用例を探してこなければ論拠にはならない。
「ニューヨーク」の語源が「入浴」というような類と同じ。
2、
隣の国名である「普」を当て字に使ったというなら、
これも、同時期の文献から、当て字に使うことができた用例を探さなければ論拠にならない。
君らの「そう考えるのが妥当だ」という論理に、他人が従う道理などない。
妥当だと主張するのであれば、せめて上記2点の「証拠」を携えてきなさい。
そうすれば、聞く耳は十分にある。
君らの「真実をみつけた」という発想には危険が伴うことを認識すべき。
「真実」を見つけようとするのは結構だが、「証拠」が伴わなければ、
「事実」と断定はできない。
断定できなければ、あらゆる可能性を探るべき。
「奇生聖音」を、どう解釈するか?という問題ではない。
わからなければ「わからない」と保留するのが正しい姿勢である。
何か他の別の意味を持つ、朝鮮語の音写かもしれない。
そうした可能性を、「貴首王子に間違いない」という先入観が邪魔をするだろう。
邪馬台国所在地論争も、全く同じ構図だと認識すべきだ。
安本の論がきにいらないのも同じ理由。
考古学が、新しい証拠を出してきているのに、
「こう考えられる」「こうに違いない」という論旨さけで、
物証の伴わない、具体性のない論拠で、「古代史の謎が解けた」だのと主張する姿勢だ。
もちろん、言論の自由があるので、何を主張するかは自由だが、
物証の伴わない、思い込みによる論の進め方は、いつかは自分の首をしめるだろう。
それでも、自分の説は絶対正しいと思うのなら、それは科学ではなく、「宗教」だ。
561 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 17:16:41
痛い香具師だなw
562 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 17:21:34
精神異常者はスルーで>>ALL
563 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 17:25:35
宗教でさえも、あそこまで硬直していないな。
かなりイタい宗教も数多くはあるが・・・。
京都の下鴨神社などはヤタガラスを祭る、神武と深い関係を持つ由緒ある神社だが
境内にて出土した、前進でくぁる無建築祭祀である奈良の小川の遺構については
はっきりと4世紀以降のものであると、神社が認めている。
そのすぐ隣にはBC660年にハツクニシラスノミコトが・・・と看板も掲げているんだけどね。
宮司さんいわく「それはそれ、これはこれ」とのこと。
モーゼの十戒が作り話だからといって、キリスト教が全否定されるってわけじゃないのと同じだね。
神武が架空だったとしても、天皇や日本が否定されるわけでもなく
神道にも何の影響も無いのだから、学問として真摯に扱ってほしいな。
564 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 17:37:27
>>555 >了解。東日流外三郡誌を偽史とはしない立場ということですね。
SOY氏が、「偽史」をどう定義してるのか気になる。
魏志倭人伝は、「偽史」ですか?
魏志倭人伝は、偽史か?
三国史記は、偽史か?
日本書紀は、偽史か?
古事記は、偽史か?
古語拾遺は、偽史か?
東日流外三郡誌は、偽史か?
566 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 20:28:24
古田と安本は、九州説という小さな商圏のなかで
同業者同士でシェア争いをしているだけにしか見えないのだが。
結果的には古田が東日流外で自滅したってかんじ。
東日流外三郡誌には誇大な表現もあるが、
だからといって一律に全否定するのはどうだろう?
568 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 20:49:27
>>567 昭和の偽作だとバレちゃったからね。
古文書でも口伝でもなんでもない。
もちろん元文書も存在しない。
569 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 21:03:37
東日流外三郡誌という書物そのものは近年に書かれたモノということでいいが、
十三湊の繁栄を示す内容については、その後の考古学上の発見と符号する。
なんらかの、地元の伝承を反映したものと考えれば、
まったくの創作と決め付けるのは早計かもしれないな。
極論を言えば、天孫降臨を描いた記紀も偽書ということになるし。
570 :
SOY:2007/07/03(火) 21:19:41
>>559 >何か他の別の意味を持つ、朝鮮語の音写かもしれない。
そういうことは言われるまでもなく皆が考えていることです。
貴方は『奇生聖音』は分からないと言いつつ、
幾つかの仮説については可能性がないと断言、
ここに至って『朝鮮語の音写かもしれない』と
皆が言っているようなことを今さら言う。
変です。
>>564 >SOY氏が、「偽史」をどう定義してるのか気になる。
>
>魏志倭人伝は、「偽史」ですか?
もう少し話を膨らませてくれたら、話に乗るかも…
先代旧事記、○○系図、風土記逸聞、神別記、天書、上記、
秀真伝、竹内文書、九鬼文書、物部文書、但馬故事記
中には古い伝承と伝えているものもあるかも知れない…
>>565 リストとして挙げるなら以下も追記したい。
延喜式、風土記、新撰姓氏録、古事記裏書、釈日本紀、高橋氏文、三国遺事
571 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 21:42:56
>>570 SOYさんは時々言葉遊びというか思考ゲームに陥るところがあるから、そこだけ注意してね。
たとえば「オハイオ」の語源は「おはよう」だとか
「テキサス=敵刺す」なんてのも「可能性はゼロではない。
ただし、考慮する必要が無いくらいに可能性が極端に低いわけですよ。
で、そういうものから除外していって、蓋然性の高い仮説を残す。
これが学問的手法ってなわけです。
前にブレイン・ストーミング的手法は嫌いじゃないと書かれていたように思いますが
ブレイン・スト−ミング=何でもありではないですよ。
むしろビジネスや学問の世界では、時間ばかりかかってほとんど役に立たない手法であるため
掛け声だけで終わってしまった議論方法です。
可能性の極端に低いアイデアは、とりあえず却下。
あとで時間が余ったら再考という普通の手法でやってくれませんか?
572 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 21:45:12
>>570 >ここに至って『朝鮮語の音写かもしれない』と
>皆が言っているようなことを今さら言う。
>>538で君は述べている論旨は、以下のものでしょう。
「奇生聖晋」は「貴首王子(きすせしむ)」と読むべきもので、他の解釈は成り立たないと考えている。
「他の朝鮮語の音写かもしれない」という検証を、なぜしようとしないのですか?
もうひとつ、「聖音」が仏教用語であるのならば、
「仏教が百済に伝来したのは、七枝刀の作られた時代」という証拠になりえます。
そうした証拠を否定する結果になるという責任も負うことになるということを自覚してますか?
573 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 22:06:07
誰だよwwこんなの釣ったのはwww
574 :
SOY:2007/07/03(火) 23:09:06
>>572 >
>>538で君は述べている論旨は、以下のものでしょう。
>
> 「奇生聖晋」は「貴首王子(きすせしむ)」と読むべきもので、他の解釈は成り立たないと考えている。
何度も言うように、最低限、他人の発言を捏造したり曲解するのはやめましょう。
私は『すっきりいく解釈のように思う』としか言っていなかったはずですが…
あまり意識はしてはいませんが、史実、文献、解釈、自分の考えが
それほど混ざらないようにはしているつもりです。
(1) 史実は実証し得ない段階
(2) 文献は奇生聖音ないし奇生聖晋
(3) 貴首王子は一つの解釈
(4) 三国史記に記された当時の百済の王子が貴首王子という点を考慮すれば
奇生聖晋と音的に近い貴首王子が一番すっきりいく解釈ではなかろうか
というのが私の考え (前発言者に賛同する形で発言)
> もうひとつ、「聖音」が仏教用語であるのならば、
> 「仏教が百済に伝来したのは、七枝刀の作られた時代」という証拠になりえます。
> そうした証拠を否定する結果になるという責任も負うことになるということを自覚してますか?
論が飛躍しています。
適当な発言が多いわりに『こうとしか考えられない』系の結論が多すぎます。
また、当て字の話にしても、なぜ、同時代の国号が使われる例といったように
妙に変形させた形で根拠を求めるのかも不思議です。
因みに百済への仏教伝来って、七支刀よりも前でしたっけ…
575 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 23:21:21
SOYさん、
”一つの仮説です”と、言い直すことはできないの?
>>574 仏教伝来については、画文帯や三角縁の仏獣鏡も検討する必要がありそう。
舶載、国産説のどちらでも、400年より以前に仏獣鏡が日本に存在していた
という点は変わらない。ただし、仏獣鏡のみを新しく見る説もありますが、
これはダメだと思う。
国産説では、仏教が渡来人を通して非公式に伝わったということになる。
舶載説では、仏獣鏡は中国南方が主で魏の領域では発見例がないという問題がある。
いずれにしても、公式の仏教伝来を基準として考えるわけにはいかないので、
>>523で書いたようにこの点を根拠とするのは弱いと思う。
ただ、朝鮮でこの時期に仏教が盛んであったとは思えず、仏教用語として読んで
意味が納得できるわけでもない。
しかし、「聖」の文字がその意味と無関係に発音のみを借用されたとも思えない。
仏教か〜・
妙法蓮華経堤婆達多品
「〜婆竭羅龍宮の女年はじめて八歳なり・・・」
婆竭羅龍宮=婆伽羅龍宮
↓
竭羅→伽羅→加羅
578 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 23:36:42
>>574 仮説を立てるのはいいが、仮説を証明する根拠が無いなら、そう認めたら?
みっともないよ。
579 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/03(火) 23:38:55
580 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 00:17:09
581 :
SOY:2007/07/04(水) 00:27:14
>>576 >いずれにしても、公式の仏教伝来を基準として考えるわけにはいかないので、
豊国法師がいるくらいだから、非公式の仏教は当然あったと思います。
ただ、さらに遡った仏獣鏡については日本人がその意味を理解していたかは疑問です。
>しかし、「聖」の文字がその意味と無関係に発音のみを借用されたとも思えない。
当て字と解釈するにしても、偶然ではなく字の意味を知っていたのかも。
>>579 征東大将軍さん
>でSOYさんに60年周期ではない周期の話をしようとレスを練ってる内に新発見がありました
研究家さんというのはそちらのスレの方だったのですね。
興味があるので、そちらにも覗きにいかせてもらいます。
ただ、そのスレの発言をある程度読みきるまではROMに留まると思います。
>>581 >さらに遡った仏獣鏡については日本人がその意味を理解していたかは疑問です。
経典にあるような教義は知らなくても、鏡の仏像を見て、「これは何」というレベルの
質問をして、簡単に教えたという程度の知識は広まったのではないかと思いますが、
仏獣鏡の数が少ないので、かなり限定された普及であったとは思います。
百済では七支刀と仏教の公式伝来との隔たりは小さいので、仏教思想が存在した
可能性は否定できないという程度のことは言えそうです。
583 :
SOY:2007/07/04(水) 08:00:43
>>582 > 百済では七支刀と仏教の公式伝来との隔たりは小さいので、仏教思想が存在した
> 可能性は否定できないという程度のことは言えそうです。
七支刀の聖音については異論があるので、仏教と結びつくかは微妙ですが、
仏教がすでに伝来していた可能性は確かに0ではないと思います。
384年の摩羅難陀の到来が事実なら、摩羅難陀を迎えた時点で
既に無名の外国僧などによって仏教が伝来していた可能性はあり、
それなら372年の近肖古王の東晋朝貢の時点でも可能性はあり…
といったように可能性だけは古くまで遡れるかも知れません。
ただ、特定の仏教用語によって仏教の存在を証明するといった話になると
聖音という仏教用語がいつ頃からどれくらい普及していたかなど
調べることはまだ残されているように思います。
七支刀が372年に倭国に贈られたとした場合、倭国からの対価は何かについて。
百済が高句麗、新羅と対立していた当時の情勢から、百済が倭国からの派兵を
要請したとする場合、370年頃に派兵はあったか。
1、神功皇后の派兵伝承に相当する。神功記の干支を重視。
2、崇神〜景行の時代の派兵。広開土王碑の時代(391)を神功にあてる。
3、その他の天皇の時代の派兵。
4、派兵しなかった。
私は、1か2であると考え、2の可能性を考えています。
私は、新羅伝の記事を信用しつつも、紀年の延長があると考えていますが、この考えでも
230年頃とされている于老の時代を370年頃にすることは困難で、崇神〜景行の時代にも
神功の規模に至らない派兵がなされていたと考えています。
585 :
SOY:2007/07/05(木) 20:42:14
>>584 ざくっと于老より後〜370年頃の記事を抜粋してみました。
どこから年代的にも史実とすべきかが難しいところです…
三 287 倭人が一礼部を襲う
三 289 倭兵が来ると聞いて船を修理し兵器を修繕する
三 292 倭兵が沙道城を攻め落とす
三 294 倭兵が長峯城を攻める
三 300 倭国と使者を交わす
三 312 倭国王が子の為に花嫁を求める
古 318 崇神天皇崩御
三 344 倭国が花嫁を求めるが断る
三 345 倭国が書を送って国交断絶する
三 346 倭軍が風島を攻撃する
古 355 成務天皇崩御
古 362 仲哀天皇崩御
三 364 倭兵が大挙して侵入する
日 364 久テイが来て帰る(神功46年の2年前)
日 366 斯馬宿禰が半島へ。近肖古王の貢献(神功46年)
日 367 久テイが来る。千熊長彦が新羅へ(神功47年)
日 369 荒田別、久テイが半島へ。木羅斤資、近肖古王、貴須と会う(神功49年)
金 369 七支刀の銘文
日 370 荒田別が帰る。千熊長彦が帰る。久テイが来て帰る(神功50年)
日 371 久テイが来て帰る。千熊長彦が半島へ(神功51年)
日 372 久テイが来る。千熊長彦が帰る。七支刀献上(神功52年)
三 375 近肖古王死亡
586 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/05(木) 21:08:30
>古 318 崇神天皇崩御
これは日本書紀をみる限り258年説を取る方が整合すると思うんですけど
どんなもんなんでしょうか
あと、362〜364の間に神功の新羅遠征がある筈ですよね
>>585 あと、新羅伝には天文記事が多いですね。
この記事の正確性はどの程度なのかも気になります。
日食、月食は暦があればある程度の予想ができることや、
中国の史書からの書き写しもありえますが、天文記事が
正しければ、年代の正確さが一応裏付けられることになります。
588 :
SOY:2007/07/05(木) 22:26:07
>>586 征東大将軍さん
> >古 318 崇神天皇崩御
>
> これは日本書紀をみる限り258年説を取る方が整合すると思うんですけど
> どんなもんなんでしょうか
ここは干支崩年をある程度信用する人たちの間でも、
畿内説と九州説とでは意見が分かれるところです。
258 崇神天皇崩御 説1 (崇神の死から成務の死まで38年)
318 崇神天皇崩御 説2 (崇神の死から成務の死まで98年)
355 成務天皇崩御
崇神の死から成務の死まで。期間的には垂仁、景行、成務の3代。
これを単純に3で割ると318説は1代13年、258説は1代が33年となります。
1代が13年は短いです。一方で1代が33年は当時にしては長いです。
ここで成務の在位が短く、崇神の在位が長かったと仮定すると、
垂仁と景行の年代は318年説にとってはそれらしい数字となり、
258説ではさらに在位年数が伸びるので苦しい数字となります。
逆に成務の在位が長く、崇神の在位が短かったと仮定すると、
258年説にとってはさらにそれらしい数字となり、
318年説にとっては絶望的な数字となります。
記事の分量から成務の時代は短かったと予想されるので、
崇神の在位年数がキーになってくるかとは思いますが、
一人の人間の寿命は統計学的には出せないので
さらに意見を出し合って検討する段階かと思います。
589 :
SOY:2007/07/05(木) 22:33:04
>>587 >日食、月食は暦があればある程度の予想ができることや、
>中国の史書からの書き写しもありえますが、
言われますとおり、中国の史書からの書き写しが多いようです。
でも、中には年代を解くヒントがないものかと期待したいです。
天文ではありませんが、193年の倭人が飢えて…の記事の時期は
アジア的にそういう飢饉の時期だったという説もあります。
>>586 征東大将軍さん
> あと、362〜364の間に神功の新羅遠征がある筈ですよね
神功元年の1年前なら『362 新羅遠征』といったあたりの追加が必要ですね。
自分の中で『364 倭兵が大挙して侵入する』とオーバーラップさせてしまい、
忘れていました。
P.S.
日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]のスレをざっと見てみました。
確か日本書紀紀年法研究家さんが征東大将軍さんに質問していたようですが…
590 :
時間潰しの店の片隅:2007/07/05(木) 22:36:25
>>587 ステラナビゲータという天文ソフトを使用すれば、日食の記録が合うかどうかわかりますよ。
591 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 23:02:58
SOYさん、まだ「こう考えられる」という思考から抜け出せないんですか?
「こう考えられる」ことで、何がわかるんですか?
SOYという個人の考えかたを披露したにすぎないんですよ。
592 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 23:07:30
また、SOYさんの考え方に同意する人が複数人、いや100万人、1億人いたとしても、
どこまでいっても、それは、「考えられる」の域を出るものではありません。
593 :
SOY:2007/07/05(木) 23:35:30
>>590 時間潰しの店の片隅さん
>ステラナビゲータという天文ソフトを使用すれば、日食の記録が合うかどうかわかりますよ。
まだ社会人でなかった頃に買った記憶があります。懐かしいです。
その時は卑弥呼の時代に日蝕があったかなどを試したりしました。
俗に言う卑弥呼の日蝕は結構、再現できていたような気がします。
>>591 >SOYさん、まだ「こう考えられる」という思考から抜け出せないんですか?
変に粘着されているようですが、
隗より始めよでまずあなた自身が100%断言できることだけで
まだ証明されていない古代史の謎を実証してください。
既に事実として周知されていることならわざわざ聞くほどのことはありません。
私は分かりませんというだけなら敢えて聞くほどのこともありません。
わざわざ、このスレで意見が出されることを否定してまでの発言なら
理屈だけを捏ねるのではなく、自身が行動をもって示してください。
不可知論的な理屈なら小学生でも捏ねられます。
貴方の次の発言が楽しみです。☆
たぶん理屈だけ捏ねて、古代史そのものは語らないと予想していますが…
新羅本紀によると、王の在位期間が全体的に長く、数年で没した王が
存在しないという不自然さがあります。
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/3shiki/ そこで、私は王の紀年の延長を疑っているのですが、どこから延長があった
のかと考えると、答えに窮してしまう。
400年以降も短命の王が居らず、在位期間の長さの傾向がそれ以前と
ほとんど変わらない。これは不思議というか不可解。
高句麗でも長寿王の在位が413〜491年と400年以降に長寿の王が居る。
三国史記は歴史に名を残した王だけを抜粋してつなげたのだろうかとも、
考えているのですが、この辺りがよく分からない。
595 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 00:05:04
>>594の続き
「有名王の抜粋説」では、他国(中国、日本)の史書で裏付けのある王の在位が
だいたい整合していることの説明ができるという利点がありますが、アドホックな
点で問題があります。
しかし、後世に編纂された三国史記が、他の国の歴史書と断片のみ存在する
朝鮮の史書とを掛け合わせ、中国の史書から天文情報を整合させて抜き取り、
王の在位時期を他の国の史書から確定させつつ編纂したとすれば、こうなった
であろうと思われます。
例えば、173年の卑弥呼の記載は中国の史書を参考にし、日本書紀の神功伝の
影響を受けて于老の時代に倭国の侵攻を書いたりしたと考えれば、一応の説明には
なります。
596 :
SOY:2007/07/06(金) 07:58:05
>>594 > 新羅本紀によると、王の在位期間が全体的に長く、数年で没した王が
> 存在しないという不自然さがあります。
確かにその不自然さは感じます。
でも、有り得ない数字でないだけに判断が難しいところです。
> 例えば、173年の卑弥呼の記載は中国の史書を参考にし、日本書紀の神功伝の
> 影響を受けて于老の時代に倭国の侵攻を書いたりしたと考えれば、一応の説明には
> なります。
三国史記の記事が果たして時代順に並ぶのかという疑問は私も抱いています。
ただ、于老は王族中の王族なので単純に彼の記事だけを移動することはできず、
于老の記事と他の記事との結びつきがどの程度堅固なのかを考えたりしています。
三国史記は編纂時期が遅いだけに、
中国史書等との辻褄合わせがしっかり行われている可能性は高いと思います。
七支刀について、上のレスの折衷になる解釈があったので、紹介します。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-7nanatusaya.htm 奇生聖音と読み、奇生を百済王の世子貴須とし、聖音(聖晋でなく)を仏教的に訳す。
「百済王の世子貴須は、(倭王の)恩義に生き、故(ゆえに)に倭王旨のために造る」
この考えは、七支刀を贈るきっかけは、倭国からの援軍であり、「音」は「恩」に通じる
というものですが、なかなか面白いと思います。
後世でも倭国は百済から、書籍、学者などの文化的財産をもらい、対価として出兵する
ことが基本的関係であったという考えは、多くの学者の拠るところです。
とすれば、倭国から派兵を受けた「聖恩」を王と王子の連名の七支刀で証し、倭国との
関係維持を図ったというのも、十分あり得ることではないかと思います。
この考えは368年頃に倭国からの出兵があったことが前提となりますが、この点も
神功の時代にあてるかどうかを別として、認めてよいと考えています。
598 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/06(金) 15:04:06
倍歴計上で、
神功摂政皇太后 353年 同 崩御 375年(近肖古王 没)
369年頃の「倭王旨」の「旨」は仲哀か神功の「タラシ」の「シ」であろうか?
600 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/06(金) 17:50:05
>>599 違うと思いますねぇ。さらに神功は摂政で女王ではないし、倭の五王のような
名前ではそういう王、大王は畿内にはなく、委奴国王のような九州の王の
可能性を捨て切れません。つまり神功の時代には畿内には王は欠でいない
わけで、紀の云う七支刀と同一かは確定できません。
九州の王の刀が畿内にあるのはおかしいとはいちがいに云えません。事実
稲荷山鉄剣も関東で出土しながら畿内の雄略の銘文と認容できるし、江田船山
鉄刀も同様です。刀剣は可動性のものですから、遠隔地に行くことは充分
云えます。
今、スレを読み返していて気付いたけど、
>>594の「有名王の抜粋説」は、
日本書紀研究家さんの年代列構想の考えと通じるものがあるね。
年代列構想の弱点は、
>>491で書いたように、干支のずれたところに
正しい実年代が存在するとは限らないこと。
「有名王の抜粋説」の弱点は、説明の道具として万能すぎて、何でも
説明できてしまうこと(王の系譜以外は)。
逆に言うと、そんな道具はそれ自体問題ある。
年代列構想も説明選択肢が増えるので、同じような問題がある。
602 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/06(金) 23:48:56
>>491 彼女の定点には間違いが内在してると思います。
それは 雄略5年=461年 で、従来の説を信用してしまってからの論の展開
ですから、同説が間違いならば彼女の論は崩れるということです。
雄略の後代の繼體の時代以降、一定時期2倍歴が運用されていることを従来の
説は見落としており、通常暦法で計算してますから合っていないんですよ。
この倍暦のため14年の差が残っており、真の雄略5年は 475年 です。
稲荷山鉄剣の銘文の干支は、このことから調べて雄略元年(471年)を倍暦算定
しています。
神功の時代をいつにするのかは本当に悩ましいですね。
私は、神功の時代は最大の派兵で高句麗とも戦った390〜400頃と
考えています(
>>467) が、一方では、七支刀は369年製作で
その頃にも出兵があったと考えています。
要するに、朝鮮出兵関係の記事を神功伝に放り込み、370頃の方を
記紀編纂時の挿入とする考えですが、
>>597 リンク先の
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-4sanngokusiki.htm の前後を読んでいて、再び神功は370頃かとも悩みだす次第。
資料の確実性から言えば、広開土王碑(414年に建立)の干支、七支刀の
銘文による製作年と関連する伝承、記紀の引用する朝鮮の史書は540年頃に
成立したものと考えられることなどから、どちらにも分がある。
応神が仲哀没年頃に誕生したという伝承を信用すれば、神功、応神を長く
見ても問題ではなく、神功を遡らせる考えにも分がある。
>>602 たしかに、紀での雄略の長寿は倍暦を想定させるものです。
あと、応神懐胎時期に短命で没したと考えられる仲哀の寿命も倍暦を
疑っています。26歳が52歳とされたような感じを受けます。
太国さんの各天皇の在位時期はどのようになっているのでしょか。
10代以降のものが知りたいです。
605 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 00:13:04
>>604 を訂正
紀での雄略の長寿・・・→ 記での
記では124歳の長寿。
606 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:54:51
記年が延長された。
実際に124歳だった。
政府が雄略天皇の死を隠し続けたために長寿と記録された。
雄略天皇の子供が、同じ雄略の名を騙った。
後世の歴史家が適当に記録した。
607 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/07(土) 07:41:45
>>604 崇神即位元年=237年=景初元年 同 崩御=259年(記と1年違いの算出)
垂仁即位元年=260年 同 崩御=292年
景行即位元年=293年 同 崩御=322年
成務即位元年=323年 同 崩御=342年
仲哀即位元年=344年 同 崩御=352年
神功摂政立皇太后元年=353年 同 崩御=375年(近肖古王 没)
應神即位元年=376年(貴須王即位) 同 崩御=389年
仁徳即位元年=391年(広開土王即位) 同 崩御=419年
履中即位元年=420年 同 崩御=422年
反正即位元年=423年 同 崩御=425年
允恭即位元年=426年 同 崩御=467年(安康即位)
安康元年=468年(石上神宮七支刀の銘文年?) 同 崩御=470年(雄略即位)
雄略元年=471年(稲荷山鉄剣銘文の銘文年のもよう) 同 崩御=493年
清寧即位元年=494年 同 崩御=498年
顯宗即位元年=499年 同 崩御=501年
仁賢即位元年=502年 同 崩御=512年(武烈即位)
武烈元年=513年 同 崩御=520年
繼體即位元年=521年 同 崩御=533年
安閑即位元年=533年 同 崩御=535年
宣化即位元年=535年 同 崩御=539年=欽明即位
欽明元年=540年 〜以下の年は通常暦
608 :
SOY:2007/07/07(土) 09:31:09
>>607 太国さん
一覧の提供、私からも感謝です。私は分かりやすいのが好きなので助かります。
ざっと見ると太国さんの年代観は畿内説に近いものなんですね。
私の年代観は崇神崩年を318年におき、あとは古事記の崩年干支と同じなので
差が分かる部分を抽出するとこんな感じです。
崇神崩御=259年 崩年干支=258 or 318 (差= +1 or -59)
成務崩御=342年 崩年干支=355 (差= -13)
仲哀崩御=352年 崩年干支=362 (差= -7)
應神崩御=389年 崩年干支=394 (差= -5)
仁徳崩御=419年 崩年干支=427 (差= -6)
履中崩御=422年 崩年干支=432 (差= -10)
反正崩御=425年 崩年干支=437 (差= -12)
允恭崩御=467年 崩年干支=454 (差= +13)
雄略崩御=493年 崩年干支=489 (差= +4)
繼體崩御=533年 崩年干支=527 (差= +6)
私が知っている範囲で安本美典氏の年代観はかなり時代が降った年代観です。
確か崇神天皇の活躍が359年頃としていたような…
そう考えると私の年代観は畿内説・太国説と安本説の中間に位置しているようです。
609 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/07(土) 14:33:47
>>604 仲哀天皇の時代は前後に3倍暦の時代を挟んで、この時代は通常暦をやって
いるようです。にわかに信じ難いでしょうが、とにかく当時は即位のたびに
暦法の変更をやっていたと考えたのがそれがしの論です。
もし仲哀世が倍暦をしていたと仮定すると、神功が11〜13歳の時に應神が
誕生することになり、ちょっと生物学的には神功が年少すぎます。
だからこの時代は通常の暦法だと思います。
>>608 SOYさん
信じ難いでしょうが、崇神垂仁の時代は3倍暦を、景行世は2倍暦で
成務で3倍暦に戻しています。仲哀世で通常の暦法に変え、神功〜仁徳世で
またもや3倍暦に戻しています。
懐疑的になると思いますが、それがしは即位のたびに倍暦変更をやっていたと
そう考えています。
以後、履中反正世で2倍暦、允恭〜武烈世で通常暦に返り咲き、繼體世から
最後の2倍暦を行使して宣化の仏伝あたりで恒久的なる通常暦時代に入っ
たようです。
610 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 18:17:53
お互いに馴れ合ってても、見解は一致しない。
SOYが太国の論理にどう対応するか楽しみだ。
>>610 不徳に相手にレスってても
別にアンポンタンの会の書籍売上げとかには貢献しないので
そのうち放置さするだろうw
612 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/07(土) 20:54:11
>>609 仲哀の前後の時代が仲哀世の通常暦法に相反して3倍暦を使用していたと
いう理由は、武内宿禰の超長寿にあります。武内大臣は紀の仁徳の条に
「国の長人」と記述がありますから5代と神功に仕えたほどの長寿なわけ
ですが、280余歳も生きたことは考えにくく、このことは大臣の時代が2倍暦
でも寿命が長すぎる疑問が残ることから、仲哀の前後の時代が3倍暦を行って
いたようだとの結論に到達するものです。
613 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/07(土) 21:12:05
>>608 SOYさん
年代観が畿内説に似てるんでしょうか? 女王国はそれがしは九州説です。
また神功皇后は卑弥呼ではないという立場です。もし神功が卑弥呼であると
すると、紀の神功39年の文等からの説でしょうが、神功の後代の應神、仁徳が
それぞれ111歳、143歳くらいの長寿になりこれを肯定することになるわけで、
この時代での紀がイカサマ、水増しをしたとかのことしか論の成立は難しいこと
となります。そういうことから、神功が卑弥呼であるとの考えは否定され
るべきとなるわけす。
614 :
SOY:2007/07/07(土) 23:21:57
>>609 太国さん
> 信じ難いでしょうが、崇神垂仁の時代は3倍暦を、景行世は2倍暦で
> 成務で3倍暦に戻しています。仲哀世で通常の暦法に変え、神功〜仁徳世で
> またもや3倍暦に戻しています。
細かい部分は分かりませんが、何となく手法が見えたような気がします。
私の視点はちょっと一般的な人とはズレています。
だから太国さんの『仲哀世で通常の暦法』の発言には特に興味を持ちました。
仲哀の時代に限って言えば、定点さえ押さえていれば、
日本書紀をそのまま読んでも実年代からは大きくずれないということですよね。
倍暦の太国さんですら通常の暦法と解釈する部分。それが仲哀の時代。
ここから始めれば、かなり手堅いやり方でやっていけそうです。
ようやく着手するポイントが見つかった気がします。
>年代観が畿内説に似てるんでしょうか? 女王国はそれがしは九州説です。
古事記の干支崩年を信じる人の間では、九州説は318年、畿内説は258年を
信じる人が多かったかと思います。
邪馬台国と纏向を平行としない限りにおいてですが…
615 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:26:34
太国は、SOYを抱き込もうとしたが、2倍暦には関心を示さなかったとさ。
所詮、九州説の人たちは、九州説という立場は一致していても、
論拠について深い部分は、互いに認め合っていないということ。
>>616 そこが大本営追従の畿内説との違いである。
618 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 00:31:42
>>597 倭が派兵したのは、完全に鉄利権と
朝鮮半島から中国楽浪郡が消滅した間隙を突いてだろう?
ちゃんと、日本書紀のことに、そのことが書いてある。
また、百済から倭へ来た人たちの多くが
楽浪郡の中国人官僚だったことにも注目すべきだ。
619 :
SOY:2007/07/08(日) 00:47:25
>>615 > 太国は、SOYを抱き込もうとしたが、2倍暦には関心を示さなかったとさ。
私の考えについては私が決めることであって
>>615が決めることではありません。
それと説明している人に対して『抱き込もう』などといった言葉は失礼です。
因みに倍暦については中高生の頃から興味を持っています。
620 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:05:17
>>619 倍暦が事実と認めるなら、太国説に異論は無いはずだが?
621 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:10:56
崇神天皇の没年は3世紀中にあったように思うけど
じゃないと、後ろの天皇の代数が凄く窮屈になるから。
でも、258年なのかどうかは分からない。
おそらく、干支と言うのは、中国から入ったものだと思うんだけど
当時は、日本と中国とでは暦が違ったから(春秋暦と四季暦の違い)
途中で干支が狂っていたように思う。
どうよ?
622 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:38:42
季節を2つに分けようと、4つに分けようと干支の循環に影響は無い。
623 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:57:15
日本書紀の記述を鵜呑みにして、2倍暦、3倍暦ていってるようにしか思えん。
624 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 02:06:35
日本書紀の編纂者にとっても
卑弥呼のことは大問題だったんでしょう?
あの史書は中国の外交官に見せなきゃいけない史書だから。
だから、余計な年代の弄くりをしてしまったために
後世の人たちが歴史解釈で苦しむ事態になった。
625 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 02:51:49
>>614 >倍暦の太国さんですら通常の暦法と解釈する部分。それが仲哀の時代。
>ここから始めれば、かなり手堅いやり方でやっていけそうです。
すごい幼稚というか、どうして手堅いと考えられるのか?
626 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 07:18:05
>>623 鵜呑みとなりますと、神功39年の記述の位置も鵜呑みにしたことになり
ましょうが、みどもはそれを否定しております。だから鵜呑みという
ものではありません?
それに逆に鵜呑みは駄目だと紀を否定すると、日本の古代史はほとんど
闇雲の中ということになり、せいぜい縄文弥生とか剣鏡、銅鐸、埴輪土偶、
土器と住居跡、墳墓からの類推でしか分からなんでしょう?
それとも記のほうはを鵜呑みは可なんですかね?
真に紀を鵜呑みにするのならば、古代天皇の超長寿を肯定することになるんでは
あるまいかと、そういうことになると思いますが? 超長寿を否定しているわけ
ですから、必ずしも鵜呑みではないでしょう。
2倍、3倍暦は、それがしは朝廷の信仰の古神道のことから、朝廷の取り巻き
あたりが被災逃れにこれを採用したのだろうと考えております。黄泉国の
千人絞殺、千五百の産室のイザナギ、イザナミ命の宣言呪詛から
1000 : 1500 = 2 : 3
の比率を定め、暦法に組み入れたのだろうということです。
これは今のところ、みどもの説の範囲です。
627 :
SOY:2007/07/08(日) 09:26:12
>>621 > 当時は、日本と中国とでは暦が違ったから(春秋暦と四季暦の違い)
> 途中で干支が狂っていたように思う。
暦の違いで干支がズレているなら何らかの法則性が見つかるかも知れません。
ただ、干支は単純なものなので一番狂いにくいものかと思います。
干支が同じ年数あるいは法則性をもってズレている箇所が
偶然とは思えないほどあるのなら、そういうことがあったと言えるかも知れません。
また、有り得ない干支の組み合わせが誤記レベルを越えて頻出したり、
十二支の中の幾つかが決して使われないといったことがあるなら、
干支を干支として使っていなかった可能性はあるかも知れません。
私としては干支がズレるとしたら、
史書を編纂する際に帳尻合わせした年代で干支をふりなおしたり、
干支で記録されていなかった記録に干支を新たにふったりする時かと考えています。
どうよ?
>>625 >すごい幼稚というか、どうして手堅いと考えられるのか?
解釈の分かれる要素ができる限り少ない箇所を扱った方が手堅いというのは
それほど難しい論理だとは思えませんが。
貴方は古代史の発言をするわけでもなく、人の発言に寄生ばかりしていますが
そういう発言を続けた為にスレの主旨が軽んじられ論者批判の話が中心となり、
場がしらけ、スレが機能しなくなるといったことに他ではなったりしてませんか?
そういうことを危惧します。
628 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:07:32
事件や人物と実年代のつながりの確実性が高いものをピックアップして
それらのネットワークを構築して全体像を作っていくことは、基本的な
方法だと私も考えます。
>>603でも書きましたが、414年に建てられた広開土王碑文からは391年に
倭国が朝鮮半島のかなり深いところまで侵攻して、高句麗とも戦ったことは
かなり確実性が高いと考えます。
このように確実性の高い事実を積み上げて、確実性の度合いを見計らいながら
全体像を構築するところに古代史の面白さがあります。
七支刀については、山尾幸久『古代の日朝関係』を読んでいて、また、悩み出して
います。彼は、百済が東晋からもらった「原七支刀」を模造したのが、日本に来た
七支刀であるとし、道教との関係を重視します。銘文が表と裏で明らかに違うこと
を指摘し、表にある年代は後年の書き写しとします。
629 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:22:44
中国で道教がさかんになったのは、300年以降に教義が体系化されてからで、
365年に神仙が多数光臨したとされるピークを迎え、翌年に道教思想から
東晋の年号が太(泰)和とされる。
この流れからは、神獣鏡が日本で作られたとした場合、320年頃以降で、中心は
360年以降になると考えられる。
仏獣鏡も神獣鏡と同じ頃とすると、神獣鏡は4Cの前半には遡りにくい。
私は崇神の在位の終わり頃に三角縁の国産が始まったと考え、これを350〜
360頃と考えており、神功を390〜400頃とするのは、この点も影響しています。
>>629 じゃあ、四世紀中ごろ〜後半に四道将軍派遣や日本武尊の出雲・筑紫・東国征服、
同末に三韓征伐が行われたということね、「倭の五王」時代と重なる時代だと。
そして、前方後円墳の極大化は五世紀の初めごろ・・・
631 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:53:53
崇神の四道将軍派遣は3世紀中頃だろう?
いつまでも古い考古学的知識に縛られるな。
632 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 11:08:38
2ちゃんにいる九州説論者って何者なんだ?
カルトなのか?
633 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 15:55:43
「天王日月」の銘のある鏡は日本では多数発見されているが、
中国でも発見されているのだろうか?
「天王」は「テンオウ」または「テンノウ」であり、のちの天皇に
つながる感じもする。
多数説は、7世紀末頃に「天皇」と表記するようになったとするが、
その頃は、「天皇」は「てんこう」と読むはずであるという考えも
あるので、「天王」がその前にあったとする考えも成り立つ。
634 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:04:24
>>627 >解釈の分かれる要素ができる限り少ない箇所を扱った方が手堅いというのは
>それほど難しい論理だとは思えませんが。
太国と畿内説では、崇神の年代観はほぼ一致してるが、
九州説と畿内説という大きな隔たりがあります。
場がシラける?
シラけてるのは、こっちだ。
妄想ばかり、しかもレベルの低い妄想ばかりで面白味も何も無い。
記紀から年代を考察したいなら、
太国より、征東大将軍の説を考察しないのか?そっちの方が事実に近づけると思うがね?
635 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:14:00
SOY氏は、征東大将軍氏から名指しで呼ばれたのに、
>>484からの征東大将軍氏の説について、検証しようとしないのはなぜだ?
記紀から年代を求める方法論を良しとした場合、
非常に具体的に、論理的に年代を求められる方法だろう。
答えは簡単。SOY氏は、自分の年代観(先入観)と微妙に違うから、
「ロムります」などといって、相手をしたくないだけなんだよ。
たとえ、征東大将軍氏の説が真実だとしてもな。
自分の身勝手な姿勢に、自分で気がついてなく、
他人から指摘されると逆ギレする。そういう癖を早く直したまえ。
違うというなら、征東大将軍氏の説から論考してみたらどうよ?
わからない部分は、征東大将軍氏から丁寧に解説してもらえるだろう。
636 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:29:44
>>635 文献が基本ということで安本と被るんだが、安本より筋が良さそうなので歯が立たないのだろう。
荒らしはスルーで行きましょう〜♪
639 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:25:45
>588 :SOY:2007/07/05(木) 22:26:07
>
>>586 征東大将軍さん
>> >古 318 崇神天皇崩御
>>
>> これは日本書紀をみる限り258年説を取る方が整合すると思うんですけど
>> どんなもんなんでしょうか
>ここは干支崩年をある程度信用する人たちの間でも、
>畿内説と九州説とでは意見が分かれるところです。
ここだな。
征東大将軍は、純粋に文献から年代を算出しようとしたことに対して、
SOYは、畿内説と九州説の問題にすりかえてる。
卑怯者め。
640 :
SOY:2007/07/08(日) 19:57:30
>>633 > 「天王日月」の銘のある鏡は日本では多数発見されているが、
> 中国でも発見されているのだろうか?
昔、紀年銘鏡の銘文について調べたことがあります。
その中で『天王日月』の銘を幾つか見ました。
天王という言葉自体は日本オリジナルではないようです。
ただ、それが天皇に繋がるかどうかはまた別の話ですが…
読みからその言葉の伝来時期を考える。実に興味深いです。
641 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:02:02
>>588 >258 崇神天皇崩御 説1 (崇神の死から成務の死まで38年)
>318 崇神天皇崩御 説2 (崇神の死から成務の死まで98年)
>355 成務天皇崩御
>崇神の死から成務の死まで。期間的には垂仁、景行、成務の3代。
>これを単純に3で割ると318説は1代13年、258説は1代が33年となります。
>1代が13年は短いです。一方で1代が33年は当時にしては長いです。
崇神を天皇崩御を258年にすると、
「1代が33年は当時にしては長い」と評価してるが、
成務天皇崩御を355年と、無批判に受け入れているのはどうしてだろう?
誰も同意していないはずだが?
642 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:20:47
>>614 崇神天皇崩御を、318年にしたいのは、
邪馬台国と纏向を平行としたくないからなのか?
643 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 21:29:33
倍暦計上で調べましたが、318年だと景行の時代の後半の頃で、ワカタラシヒコ
の立太子の年に相当しています。
644 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:41:39
というか、過去何年間の議論で崇神崩御は3世紀中頃と決着してるわけだが。
(畿内説も九州説でも)
どうして今頃318年なんて数字が出てくるのか?
空気読めてないのはどっちよ?
>>640 >昔、紀年銘鏡の銘文について調べたことがあります。
>その中で『天王日月』の銘を幾つか見ました。
サンクス。ネットで調べた限りではどちらとも分からなかったけど、
中国でも同じ銘文があったのですね。
念のためですが、その鏡は「舶載」画文帯ではないですよね。
646 :
SOY:2007/07/08(日) 22:00:56
>>641 論議をしたいのなら誹謗中傷や無用なつぶやきは省き、
要点を絞って発言して欲しい。
> 成務天皇崩御を355年と、無批判に受け入れているのはどうしてだろう?
> 誰も同意していないはずだが?
私は干支崩年が100%正しいとは一度も言っていませんが。
試しにこのスレを『干支崩年』で検索してごらんなさい。
干支崩年を信じるなら、とか、干支崩年をある程度信用する人たちの間でも
といった表現がなされているはずですから…
人の意見を作るのではなく、自分の意見を言ってください。
干支崩年の信憑性については、それはそれで興味深い話ですが、
他人の意見や世の中の意見を捏造しないという大前提でお願いしたい。
> というか、過去何年間の議論で崇神崩御は3世紀中頃と決着してるわけだが。
> (畿内説も九州説でも)
寧ろ、こういう部分が無批判に受け入れられていること自体が不思議です。
いったい何によって確定したのでしょうか?
私はこのスレにおいて『私はこう思う。他の人はどう思う?』的な発言は
許容している立場です。
しかし、『こうだと考えたい』と『決着している』とをゴッチャにして
発言するのはどうかと思います。
647 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:14:31
>>646 >私はこのスレにおいて『私はこう思う。他の人はどう思う?』的な発言は
>許容している立場です。
一見、正論に見えるが、そうではない。
他の人は論拠があって、自説を述べてるが、
君一人だけが、論拠もなく自説を述べている。
648 :
SOY:2007/07/08(日) 22:18:00
>>645 > サンクス。ネットで調べた限りではどちらとも分からなかったけど、
> 中国でも同じ銘文があったのですね。
中国の紀年鏡に限って挙げれば、以下のとおりです。
105 159 178 256年の環状乳神獣鏡
256 257 263 263 267 267年の対置式神獣鏡
目でざっと追って書いただけなので漏れはあるかも知れません。
因みに直接関係ありませんが『五帝天皇』という銘もあります。
> 念のためですが、その鏡は「舶載」画文帯ではないですよね。
上で言われている「舶載」画文帯に紀年が入っていなければ、
私が挙げた鏡とは重複しないはずです。
649 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:23:11
たとえば、太国は倍暦計算を根拠にしてるが、
SOYは、太国の論を「許容」するだけで無視してるだけではないか?
理由は「自分は、そう思わないから」。
太国や征東大将軍は、丁寧に話を聞いてもらおうとしてるのに、検証しようともしない。
どちらが失礼にあたるのかね?
650 :
604:2007/07/08(日) 22:27:03
>>607、
>>608 レス遅れましたが、多謝。
私の年代観は、神功を390頃とする第1案と、370頃とする第2案で
1案は安本に近く、2案はSOYさんに近い(ただし、崇神は318没)。
常に、両方の視点から検討していますが、どっちも捨てがたい。
紀の神功伝では、ミシコチの人質は古伝で、肖古王は干支による挿入に
見える。一方、古事記の応神伝の照古王は挿入ではなく、古伝に見える。
三国史記の百済の年代と、新羅の年代のどちらかが、誤りであろうか。
651 :
SOY:2007/07/08(日) 23:26:36
>>649 > 太国や征東大将軍は、丁寧に話を聞いてもらおうとしてるのに、検証しようともしない。
> どちらが失礼にあたるのかね?
平日は仕事に精を出してしますし、7月ともなると土日は海で遊んでいますので
私の行動の制限に関してはご容赦願いたい。
検証するも発言するもその時に可能な人が行えばよろしいかと…
検証って簡単に言いますが、検証って作業は結構難しいことです。
敢えて、今、求められている征東大将軍さんの説を検証するなら
もう少し『年代列』の説明が欲しいところです。
日本書紀のある時代の年代幅が実年代の3倍だった場合、太国さんは『倍暦』で考え、
征東大将軍さんは各天皇の年代を『年代列』として平行していたと考えている…
といったくらいに現状は理解しています。
まず思いつくのは、
それによって本当に日本書紀の暦年の大半が説明が可能かといった点です。
問題は必ずあるはずです。しかし、それがどの程度致命的かについては
幾つかの時代をピックアップし、実際に簡単な年表を作成しなければ、
検証のしようがありません。しかし、『年代列』を簡単に検証するなら
どの時代を例に年表を作るかさえ私はまだ決めていません。
もし、私にその時間がないことを批判する方がおられるなら、
その方が検証といった作業をされれば宜しいかと思います。
検証していないのでどちらが正しいとは言えませんが、
部分的には『倍暦』、部分的には『年代列』といった
ハイブリット的な可能性もあるかも知れません。
652 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:51:01
>>651 どんなに柔らかい言い方をしても、
結局は、「漠然と自分の思ってること」と異なる説は拒絶するということだろう。
しかも、自分では検証作業はしたくなくて、他人に任せたいといいつつ、
過去に、多くの人たちが検証作業をして、
崇神崩御は3世紀中頃として良いという所まで固まったということも受け入れないという。
どういうつもりなんだろうね?
653 :
SOY:2007/07/09(月) 00:05:34
>>652 >崇神崩御は3世紀中頃として良いという所まで固まったということも受け入れないという。
検証するのは大変でも、既に固まっていることの根拠を示すことは容易のはず。
再度、言います。
いったい何によって確定したのでしょうか?
そこまでは言えないよといったような根拠を示すのか、
根拠は示せないことを誤魔化すかは… 貴方の自由ですが (Freedom)
>>653 SOYさんが荒しと応答しても、スレが荒れないということは分かりました。
しかし、基本的に荒しはスルーした方が良いと思います。
>崇神崩御は3世紀中頃として良いという所まで固まった
は、ネタとして無視して構わないのでは。
まあ、
>>555で一本取ったのは余興として面白かったのですがw
PS:土日は海ですか・・当方は陸で球と戯れております。
655 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 01:50:22
>>653 >いったい何によって確定したのでしょうか?
ご自身の発言によってですよ?
>>614 >倍暦の太国さんですら通常の暦法と解釈する部分。それが仲哀の時代。
>ここから始めれば、かなり手堅いやり方でやっていけそうです。
手堅いやり方を求めるなら、
崇神天皇崩御を3世紀中頃と決めうちしたほうが、もっと手堅いですよ?
過去に議論したコテハンの人々で、崇神天皇崩御を4世紀にしてる人などいませんから。
656 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/09(月) 06:57:35
崇神崩御が 318年 というのはどんな理由からなんでしょうか?
657 :
SOY:2007/07/09(月) 07:09:24
>>654 > しかし、基本的に荒しはスルーした方が良いと思います。
そうですね。
荒らしに対して限られた時間の範囲内でそれなりに誠意を果たしたので、
このこびりついた荒らしについては古代史の具体的な主張を行った時に
限って以降は相手にすることにします。 (その方が生産的かな)
658 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/09(月) 07:21:35
州人天皇の没年は古事記分註天皇崩年干支の新解釈(記干支は2倍年暦である)により
288年であることから、その活躍は3世紀中頃とも言えるでしょう。
659 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/09(月) 07:29:51
訂正 州人天皇は崇神天皇の変換ミスでした。
660 :
SOY:2007/07/09(月) 07:53:38
>>656 太国さん
> 崇神崩御が 318年 というのはどんな理由からなんでしょうか?
私の見解は大雑把には
>>588で示したとおりで、断言する部分はないです。
文献的には258説でも318年説でも成り立つと考えています。
ただ、崇神の干支崩年が258説だった場合、崇神の時代は258年頃の山辺付近を
記述していることになり、また、畿内説では魏志倭人伝はその頃の山辺を記述
していることになります。しかし、両者は一致していません。予備知識のない
人に二つの資料を見せて『同じですね』と言っても首をかしげることでしょう。
一方で私は邪馬台国と纏向が平行するという立場でもありません。
九州王朝説でなく、崇神の時代をある程度史実と見ている立場である私が
一巡遡らせなくても無理があるとは言えない段階でわざわざ崇神の時代を
邪馬台国の時代まで遡らせないことはそれほど不思議ではないと理解して
頂けるかと思います。
もっとも、こういった部分に重きをおいて考えた結果というレベルの話なので
ある銘文が銅鏡に記されているといったように確証のある話ではありません。
ということでここらで私は出勤します。
661 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 15:51:33
>>660 >一方で私は邪馬台国と纏向が平行するという立場でもありません。
結局は、そこに行き着くわけだろ?
破綻したな。
662 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 16:23:57
「断言はしない」とか「どちらでも成り立つ」とか、
二言目には呪文のように書き連ねてるが、ただの逃げ口上にすぎない。
他のコテハン論客は、そんな無様な態度はしない。
自分の考え方を、論拠を説明しながら訴えること。
相手がどんなにデンパであろうと、そのほうが人間的に信頼されるものだ。
SOYは、「邪馬台国と纏向が平行しない」という根拠の無い先入観を持っており、
どのような議論でも、そこを突かれないように誤魔化してきただけ。
だから、成務天皇以降の実年代から議論しようとしていた。
崇神天皇から議論を始めると、「邪馬台国と纏向が平行しない」という、
自分の思い込みを追及されるからだ。
そして、現時点では、追求を跳ね除けるほどの論拠を持ちえていないのだ。
所詮、論拠なく「邪馬台国と纏向が平行しない」とSOYが思い込んでいるからこそ、
いままでの議論が全く噛み合わなかった原因と言える。
SOYは、これ以上逃げずに、「邪馬台国と纏向が平行しない」という立場の論拠がどこなのか、
はっきり説明すべきだ。
おそらく、誰もSOYには同意しまいがね。
663 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 19:15:01
ずっと上のほうで年輪年代法について議論が交わされていたが、
SOYの論法は「データを出せ」の一点張り。
まあ、相手を論破するには、悪くない戦法だが、
結局、それでは、古代史の何もわからない。
年輪年代法は、完璧ではない。しかし、ある程度は参考になるだろう。
年輪年代法の、参考となりえる可能性は一切評価せずして、
データが公開されて無いから信用できないとバッサリ切り捨て、
また、その一方で、「奇生聖晋」は「近肖古王」だと思い込んでいる。
そして今また、「邪馬台国と纏向が平行しない」などと言い出す。
恐らく、SOYの論法では、「邪馬台国と纏向が平行していた証拠を出せ」などと言い出すだろう。
しかし、乗せられてはいけない。
この場合、SOYが、纏向が邪馬台国以降だと証明するべきだろう。
そうでなければ「纏向の実年代はわからない」とするべきであって、
「邪馬台国と纏向が平行しない」という立場は取ることが出来ないはずだ。
自分からはデータを出さず、相手にだけデータを求める。
これがSOYの論法だ。
664 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 19:22:42
あらためて、SOYに確認しておこうか。
君の立場は、「邪馬台国と纏向が平行しない」というものであって、
「纏向の実年代はわからない」では無いのだね?
主張を変えるなら、これがラストチャンスですよ。
♪荒らし、粘着はスルーしましょう〜♪
他所のスレじゃ安本は完全スルーだからね。
棲み分けは大事だよ。
667 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 20:58:24
「崇神天皇は318年に崩御したんだって〜。」
と、電車の中で女子校生がゆってた。
変な人がいて怖いなあ。・・なぁ。・・ぁ。・・...........
|i__∩:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
| ,,.ノ ヽ、,,ヾ ̄ ゙゙̄`∩::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
| ● ● |ノ ヽ, ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
| (_●_) ミ● ● i'゙ ゙゙゙̄`''、,i::::::∩::::::::::::::::::::::::::::::::
| |∪| ノ (_●_) ミノ ヽ ヾつ ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::
| ヽノ ) ヽノ ノ● ● i| ● |゛゛`⌒):::::::::::::::::::::::::::::
ミヽ_ {ヽ,__ )´(_●_) `,ミ_●_) ミ ● |---っ__○::::::::::::::::::::
| ヾ / ヽ / ヽノ ,ノ |∪| ノ ) ミ工)・|ェ)・)・|゚∀・)ノ::::::
Senkyoshi Of Yasumotoもついにチェックメイトかw
´ ヾ
゛ (⌒) ヽ
((、´゛))
|||||
||||||| ドッカーン!!
/ | ∠|
(゜\./,_ ┴./゜ノ( 「Yasumotoだけは許さないニダ!!」
\ \iii'/ /,!||!ヽ
ファビョ━━ /V,,ニ..,ニ、、 ノ( \━━━ン!!!!
\ヽY~~/~y} `/~,/
| ,k.,.,!,.,.,r| ,! く
/ <ニニニ'ノ \
671 :
SOY:2007/07/10(火) 07:58:25
なかなか生産的な発言になりませんね…
荒らしさんへ
もう少し発言の仕方を覚えてくれたら論議をしてあげてもいいけど、
今みたいな中身のない発言ではさすがに私の手には余ります。
(もう少し大人の文章を組み立てる努力をお願いします)
それにしても
最後にたどり着く言葉が『女子校生』とか『安本』というのは嘆かわしい…
人間、こういうところで拠り所としているところが見えてしまいます。
征東大将軍さんはこの状況をどう見ているのだろうか?
672 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 09:01:32
畿内説ってこちらのスレでも荒らしを繰り返して皆様に迷惑かけてるのね。
ドン来い21でもわからずやがいて、まるで「ドンと来い竜宮城」みたいになっちゃった。
もう1000までいったけど。700レス以降は竜宮城のことだけ。
インドが暑いところじゃないとか何とか。もう非常識というか出るのはため息ばかり。
こちらを見くびって論破してやろうなど千年早いのよね。
お大事なマキムクスレは人気無くて沈没状態。世間では畿内説は誰も相手してくれないからね。
マキムク船沈没で多量の畿内ねずみが泳いでドン来い船と終止符船に避難して来ちゃったようね。
673 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 09:26:28
それに他所のスレ覗いてきたけどレベルが違う。凄く高い!それにやりとりがスマート。
邪馬台国関係は何か田舎もんどうしの罵倒合戦って感じ。
674 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 09:32:47
>>660 >>671 SOYさん
邪馬台国と纏向が平行ではないということはどういうことでしょうか?
景行天皇の巻向宮と女王国のあった時代とが一緒ではないということですか?
>>672 九州ですがさん
昨日それがしに恐竜の絵がワニの絵だとがんばり、青いタイの絵は浦島の絵
ではないとがんばって、せせら笑って的外れだとか書きこんでいた奴は、貴殿
と論争をしていた人物っでしょうかね?
浦島。竜宮に関しては拙者は論戦には加わっていたわけではなく、わきから
拝聴していたので、たまたま参考になることでこういうのはどうなんだろう?
と、役には立つか分かりませんが、まぁ息抜きのつもりであのスレに書きこみ
をやったわけです。
ところが竜からワニの的外れの話を自信満々に奴が持ち出してきたこと
はいいとして、「的外れだ」と、これこそ論争に直接には介入していない
それがしにああいうふうに言ってきたところを考えると、その文からして
相当あいつは精神状態が緊迫化でギリギリして、いささか貴殿に追い詰められ
ていたんでしょう。かように思います。
論争をわきから聞いていた者に対しても矢先を向けてきたようで、くやしがる
あいつの八つ当たりですよ。
675 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 09:51:47
>>674 太国さん
僕もそう思います。竜宮が南方というはっきりした根拠はあるんですよ。
だからきゃつは竜宮はインドではなく、神仙思想からくるのだといと言い張ってるんでしょうかね。
からかってるつもりがからかわれたと地団駄踏んだんでしょう。
こちらはからかうつもりも無いしかわいそうだとしか思いませんがね。
人を苛めたような人ほど逆の立場に立つと被害妄想が膨らむようですよ。
では、仕事に行ってきます。
ですが=プラム=恵也=太国w
677 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 10:07:54
>>676ですが=プラム=恵也=太国w
だからそれが被害妄想だっつーの。そんな器用で面倒なまね事するわけがない。
このような多重人格の発想が出来る
>>676こそ多くのパーソナルを操り
今までもあらゆる人格となって陰に陽に仕掛けをしくんだ犯人、コンダクターだ!
「2ちゃんの名にかけて」
678 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 10:10:45
おおっと、こんなのを相手にしてる場合じゃなかった。
出かけねば。ではどちら様も真っ平ゴメンなんしょ。
679 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:31:46
なんか急にレヴェルが下がったなぁ
680 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:40:49
>SOY
さて、邪馬台国と纏向が平行か否かについて、議論をはじめましょうか?
それとも、貴方にとっては、生産的では無いですかな?
681 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:49:12
ああ、もちろん、SOYが邪馬台国と纏向が平行か否かについて、
議論に参加するかどうか、それは貴方の自由。
荒らし認定するのも自由。スルーするのも貴方の自由。別の話題を振るのも自由。
どう振舞うか、自分でよく考えて決めてください。
征東大将軍に、助けを求めても無駄でしょうな。彼はクールな人だから。
682 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 16:11:47
では、文献方面から、話をしましょうか。
邪馬台国と纏向が平行であっても、魏志倭人伝や、記紀とは矛盾しないと考えます。
つまり、邪馬台国が纏向でも、九州のどこかでも、矛盾しないということであって、
九州説の立場から見ても、畿内説の立場からみても、
邪馬台国と纏向が平行で無いと、積極的に主張する理由はどこにもありません。
1、魏志倭人伝は九州内部の事柄であり、畿内の様子は書かれていない
2、記紀は、崇神時代の畿内の様子は書かれているが、九州の様子は書かれていない
文献から考察すれば、崇神時代=纏向時代として、
邪馬台国と纏向が平行であっても、なんらおかしくはありません。
考古学から考察しても、畿内から中国鏡が出てきたとしても、
九州の邪馬台国を介して畿内が買い付けたと考えてもおかしくはない。
九州に邪馬台国があった可能性を否定することは、考古学の仕事ではありません。
もちろん、まともな考古学者は、邪馬台国がどこにあったかなどということに関心を持ちません。
誰か反論は?
683 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:32:55
>>682 まじめな論述でおおいに結構ですが、考古学者は関心を持ってますよ〜。
684 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 17:00:25
「邪馬台国がどこにあったかなどということに関心を持ちません」
それどころか一躍有名になれて本も売れ、銭こもがっぽがっぽ。
>>682 まだ前ふりの段階だろうから、特に意見はないね。
続きを書くならノイズシャットの意味で、682との番号コテにしてほしい。
686 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:13:24
>>683 関心は持ってるでしょうが、さて、そこを対立軸にして、
考古学者VS九州説という構図に持っていくのは、いささかウンザリです。
考古学は、物証を掘り起こして整理するのが本来の仕事で、
その成果として、3世紀の畿内に広域物流の拠点が出来たことが認められました。
ここまでは、「科学」として、認めていいでしょう。
纏向が邪馬台国かどうかは、その次の問題です。
考古学が、纏向が邪馬台国と証明したわけではないし、
まして、九州に邪馬台国は無かったと主張することは、考古学の仕事ではないということです。
したがって、九州説派が、考古学を仮想敵のように見ることは間違いです。
土器編年がおかしいとか、C14が疑わしいとか、年輪年代法がインチキだのという議論は、
的外れといってもいい。
3世紀に纏向に王権が生まれたと、科学的に裏づけがされても、
九州に邪馬台国が無かった証拠にはならないわけで、
九州説を主張するあまりに、科学まで否定するような態度はいけません。
687 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:19:46
魏志はマキムクで前方後円墳を見たのであろうか?
見たとした場合、あの特殊な形態をあえて書かなかったのであろうか?
卑弥呼の居城は周濠と柵に囲まれていたとされるが、マキムクの近辺に
環濠集落は存在するだろうか?
崇神の実在を認めて、258年頃を没年とした場合、女王国とは両立するだろうか?
魏志はあえて女王国と嘘を書いたのであろうか?
・・・と考えると、崇神が250年頃のマキムクに居たとすると、魏志の邪馬台国とは
両立しないと考えるのが普通ですよね。
688 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:22:32
纏向が邪馬台国が平行であったことは、事実として認めるべきでしょう。
その上で、邪馬台国が九州にあったと考えるなら、
その根拠を丁寧に主張されればよろしい。
もちろん、邪馬台国が畿内にあったと考える人は、その根拠を丁寧に主張して欲しい。
「纏向と平行して、九州に邪馬台国が存在しえたかどうか?」は、
十分に検討すべき問題だと思います。
畿内王権誕生と同時に、魏と通じていた九州政権があったとしても、
その可能性を、どのように否定、あるいは証明できるでしょうか?
689 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:22:52
卑弥呼は役職名じゃあるまいか?
知られているように卑弥呼は中国が日本を卑下してつけた蔑称の当て字
たぶん本来は日巫女
690 :
682:2007/07/10(火) 17:24:26
682=686=688です。
691 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 17:41:29
>>686 「九州説派が、考古学を仮想敵のように見ることは間違いです。
九州説を主張するあまりに、科学まで否定するような態度はいけません」
考古学を全面否定してるわけではなくてこのあたり出没 の畿内説を否定してるわけ。
確かにSOYさんは御自分独自の説を主張されているのかもしれないが
トーナメント方式なら倭人伝の方向が南ではなく東に読みかえられた時点で畿内説はアウト。
科学的も糞もあったもんじゃない。マキムクまでもたどり着けないまま落選。
つまり畿内説はSOYさんの足元にドテッとこけた格好だ。
学者さえ色んな説があるからいいんじゃない?ただ畿内説は色々言ってくる価値さえ無いと思うけど。
692 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 17:52:05
特にドン来い21で700レス前後から出てくるやからは最低最悪最お馬鹿。
693 :
685:2007/07/10(火) 17:53:08
>>682氏
趣旨ごもっとも。
ではなぜそのような論調にスレが進まないのかの考察を述べさせてもらう。
ほとんどの九州説論者は、マキムクとの平行を認めると自説が成立しなくなると考えているのだろう。
考古事実に基づくと自説に矛盾が噴出する。だから認めないという思考回路に凝り固まってしまっている。
実際はあなたのいうように、平行して存在した可能性というのは少なからずある。
だがそういったタイプでない九州説が、必死に否定する。
否定せんがために、当然書き込みが増えて声が大きくなる。
ダシに使うわけではないが、比較的具体的に疑問点を述べておられる
>>687氏のレスへの回答で
それらをこちらも具体的に提示してみよう。
694 :
685:2007/07/10(火) 18:08:56
>魏志はマキムクで前方後円墳を見たのであろうか?
>見たとした場合、あの特殊な形態をあえて書かなかったのであろうか?
誤字は意訳して話を進める。
当然浮かぶ疑問である。径百歩などという具体性に書ける数字を書くくらいなら、その形状に言及しないのはあまりに不自然。
しかもマキムク型の最大の特徴は前方部の存在ではなく、後円部と一体となった段差の存在と、張り巡らされた葺石にある。
これにまったく言及していないということは「実際に見たわけではない」のではないかと、容易に推察される。
では北部・中部九州の3世紀における墳墓はどうであろうか。
実はマキムク型に劣らず、非常に特殊な形状を有している。
また典型的な盛り土円墳、方墳、さらには山陰型四隅突出墳などの首長墓が混在し
吉野ヶ里に見られた集合墓もまた同時代には存在している。
いずれも草木が生い茂る前の形態であったろうから、その違いは如実に判る。
しかしそれについても同様に言及がない。
これもやはり「実際に見ていない」少なくとも「詳細に調べたわけではない」ことを示している。
695 :
685:2007/07/10(火) 18:18:07
>卑弥呼の居城は周濠と柵に囲まれていたとされるが、マキムクの近辺に
>環濠集落は存在するだろうか?
あることはある。唐古鍵などはマキムク開発と同時に再開発され、埋没していた環濠を復活させている。
だがこれは非常に特殊な事例であり、一般的とは言いがたい。
だが北中部九州においても、すでに多くの環濠集落は衰退しており
3世紀の時点で環濠と柵が存在したと考えられる遺跡は、平塚川添などごく少数である。
これをして平塚を卑弥呼の居城と考えるのはアリだとは思うが
3世紀前半期に最も環濠や城柵が多く出土するのは、東海地方である。また山陰・北陸地方にも比較的残っている。
同時にこれらの可能性も考慮せねばならなくなる。
これも「本当に見たのだろうか?」との疑念を拭いきれない。
696 :
685:2007/07/10(火) 18:41:54
>崇神の実在を認めて、258年頃を没年とした場合、女王国とは両立するだろうか?
>魏志はあえて女王国と嘘を書いたのであろうか?
崇神の実在を認めるかどうかということ自体が、前提とするにはあまりに不確定なので
現時点では論ずることすら出来ない。
嘘を書いたというより、郡使が本当に事実を把握していたのか
また魏にもたらされた一連の報告内容が正確な事実を反映したものであったかどうか。
金印授受が事実だとしても、それに見合うだけの統率力を持った倭国のオウまたは権力集団が本当に存在していたのかどうか。
つまり「倭国」に国家としての実態があったかどうかを考察せねばならない。
魏志倭人伝の信憑性に関しては、故意の嘘や誇張、転載時の誤字脱字や欠如だけでなく
的確な事実把握がなされていたのかどうかという根本的な疑問を、考古事実は投げかけている。
動植物記事、風俗記事のように、比較的出土事実と合致する部分もあれば
先に述べたように、当時の日本列島の状況に一致しない部分もまたある。
方位距離にしても信頼性は薄い。でなければ畿内、九州の二分化の前に九州内で候補地が分かれるはずがない。
長々と述べてきたが、これらを一切考慮しない一部の九州説や畿内説が
何度説明しても聞く耳を持たずに、繰り返し無根拠に書き連ねるためスレに統一感がなくなる。
しまいには妄想と罵詈雑言しか書かない(書けない)一部コテハンが居ついてしまった。
本気で古代史に興味を持ち、俗説や信仰やイデオロギー抜きで語り合いたいのなら
そういう者たちとの棲み分けを心がけるべきだろう。
魏志の記述を否定して、両立するという結論を導くの?
むしろ、魏志にある「邪馬台国」とマキムクは両立しない、というのが
結論で、それ故、読み替え、否定が必要というべきでしょう。
698 :
685:2007/07/10(火) 19:11:49
つまり魏志倭人伝の記述を軸にして考察されてきた
かつての九州説、畿内説は、ともに成立不可であると言わざるを得ない。
なので根底から考え直さねばならなくなった。
主に考古学で考えられる初期ヤマト連合説とは、畿内説でも九州説でもない。
この連合の主導権を握っていた勢力が平行関係にあったのか、また一部突出したものがあったのか
それも時期によって目まぐるしく変化したのか、それは筑紫か吉備か出雲か大和か讃岐か、それとも東海かそれ以外か。
このような立場で考察を行い、連合内での勢力争いを論じるという、まさに根底から考え直し再構築したものである。
九州説、畿内説また九州王朝説にしても、現在主張するには再構築の必要性があるのは明白である。
事実を事実として認め、提示された物的証拠について再考察を行う。
その意味ではSOY氏の年輪年代についての疑問は最もだと思うし、疑義の提示にも同意する部分は多い。
ただやや恣意的に筆を進める傾向があり、結論ありきになっている部分は素直に認めていただきたい。
また再三指摘されているように、疑義の提示に終始し、自説を具体的に述べられていないことも併せて再考していただきたい。
正直なところ、傾聴に値する意見を述べられるコテハンは貴方ひとりなのだから、その自覚と自負は持っていただきたい。
699 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 19:17:44
>>697 いや従来の九州説でも、倭人伝記事と合致しないとの意味ですよ。
もちろん従来の畿内説も一致しない。
結論ありきでなく、倭人伝が考古事実と一致しないために考え直さざるを得なくなっただけです。
700 :
685:2007/07/10(火) 19:24:53
はっきり言ってしまえば、従来の九州説や畿内説といった古い邪馬台国論争は
考古事実によって根底から覆されてしまったのですよ。
そして現在は考古学者が中心となって、ヤマト連合説を唱えている。
それに対して昔の説を支持する残党が、主に考古学に対して反発を覚えている。
考古事実に反論があるなら、旧態依然の論を持ち出すのではなく
再構築した新しいタイプの九州説や畿内説が必要であろうと考えます。
701 :
685:2007/07/10(火) 19:26:31
>>699は私です。コテとsage入れ忘れ。
ギコナビはちょっと使いにくぞw
702 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 19:39:58
703 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 20:58:03
そう、私も聞きたい。九州説を根底から覆した考古事実はどのようなものでしょうか?
704 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:08:22
705 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 21:22:03
>>700 考古事実によって根底から覆されてしまったのですよ。
それ自体が間違ってる事だってありうるんだから。
学問は学問の域を出ない。また新しい発見によって変更を余儀なくされるもの。
「考古学において現時点で解ってる事」と前置きしてもらいたい。
あくまでも推定に過ぎない。10年前と同じ事を言ってるわけでもない学者は
10年後、また違う事を言っているだろう。そのようなものを過度に妄信するのは偏頗でしかない。
707 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 21:29:59
>>706 なんだ、文盲とか言って書き渋って逃げてるね。
言えないわけだな? だったそんな大きな口をたたくなよ。
具体性がないではないか?
>>705 そいつは慎重な態度でなく、ただの思考停止だな。
まず自ら検証行為を行わず、一般論に逃げているだけだ。
30年前の古代史通説をひっくり返したのは、紛れもなく学問だし
20年前の仮説をひっくり返したのもまた学問。
現在は10年ほど前の仮説に更なる見解が積み重ねられている段階。
この先これらが新発見によってまた覆されようとも、30年前に戻ることはない。
709 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:37:08
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
【栄光の】ビザンツ帝国総合スレ【東ローマ】 [世界史]
【本家本元】古瀬絵理27【スイカップ】 [芸能]
…誰だよスイカップマニアw
>>707 他人さんがきっちりと書いてくれたレスがすぐ上にあるのに
何度も同じことを書けとでも?
685の追加検証ならやってもいいが、まず読んでやれよ。
そのうえで具体的に反論せんと、こちらも具体的には書けないだろ。
711 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:43:29
>>708>>710 相手にするな、せっかくいい流れになってきたのにぶち壊しになるぞ
>>ですが=太国
ドンこい22立ててやるから帰れ
九州も機内もどちらも万人を文句無く納得させられる決定的な証拠は残念ながらない。
とゆう結論なんだね!
理解しました。
713 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 21:49:02
>>710 だからそこはどこだよ? 無コテで書いてあるだけとは探すのが手間かかる。
700以上スレが進んでるんだよ。慣例の不等号をつけてどの番号の何段目あたり
は書きこむのが容易だろうが?
714 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:53:50
>>713 685氏の内容に反論すれば言いだけじゃん、具体的にな
ですがお得意のごまかしは、底が浅くていかん
715 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 21:59:11
>>714 遠回しはもういいよ。考古事実って何だろうな?
ズバリ出せないんじゃ、これはハッタリだ。
おっ、太国久しぶりに論争してるのか?
がんがれよ
717 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:00:26
>>711 それは無理というもの
大きめの本屋に行ってみ
「相対性理論は間違っていた」「人類は月に入っていない」「植物と話が出来る」
こんな本ごろごろしてるだろ
どんなに動かぬ証拠を突きつけても、見ざる聞かざるで現実逃避する人間には、何を言っても仕方ない
最近のニュースでもそうだろ
「どらエモンが何とかしてくれると思った」「お年寄りですから・・・w」
こいつら本気でそれで理屈がとおると思ってんだよ
>>699 倭人伝に整合する部分がどちらの方が多いかと言えば、九州でしょう。
気候は畿内よりも暖かいように見える。
風俗記事(入墨など)や衣服は、マキムクとは合わないように見える。
絹などは、弥生の九州で多く発見されていて、同時代の畿内ではわずか。
鉄器も弥生時代では九州中心で、同時代の畿内は少ない。
環濠も吉野ヶ里など九州にあるが、マキムクにはない。唐古鍵の時代とする
ならまだしも、マキムクは時代の違いがあるように見える。
ジサイの風習は崇神以降の時代にはすたれていたのでは?
マキムクはそもそも時代が違うと見たほうが良いのでは?
719 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 22:02:32
>>708この先これらが新発見によってまた覆されようとも、30年前に戻ることはない。
いくらなんでもそりゃないでしょう。そんなことになったら無駄学問だ。
問題はこの箇所「この先これらが新発見によってまた覆されようとも」の部分。
>700での「従来の九州説や畿内説といった古い邪馬台国論争は
考古事実によって根底から覆されてしまったのですよ」はあ?
倭人伝の壱岐国、対馬国、伊都国の存在まで根底から覆ったんじゃあんめえな?
720 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:05:23
>>715 685氏はズバリ書いてるじゃん
九州も畿内も遺跡実態は倭人伝と整合していないって
しかし簡単に引っかかるんだなw
ですがお得意って書いたのに、ムキになって太国がレスしてるってw
721 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 22:06:42
>>711 エーッ!あんたみたいな考古学ゴリゴリ亡者がドン来いスレ立ててんの!
グエーッ!
722 :
682:2007/07/10(火) 22:08:26
>>718 >マキムクはそもそも時代が違うと見たほうが良いのでは?
九州説を取るなら、魏志倭人伝に書かれていることは九州内陸のことであって、
畿内のことではないはずですね?
ならば、畿内の様子が魏志倭人伝と違うからといって、
「纏向が邪馬台国ではない」と主張することは出来ても、
「纏向が邪馬台国と別時代」と見る理由にはなりません。
723 :
SOY:2007/07/10(火) 22:09:12
>>674 太国さん
> 景行天皇の巻向宮と女王国のあった時代とが一緒ではないということですか?
崇神の干支崩年が258年か318年かという問題の中でなされた発言の件ですね。
確かに私は崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではないと発言しています。
とりあえず、私が感じている疑問点について一行だけ書かせてもらいます。
1.邪馬台国が纏向、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 同一時代の同一地域を記述して内容が殆ど一致しない点が疑問
2.邪馬台国が九州、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い点が疑問
もちろん、この疑問点だけで両説が消えてなくなるわけではありませんが、
100%の答えが出せない古代史論議において、多くの意見が挙げられること、
疑問や反論が挙げられることは極めて正常なことだと私は考えているので、
一意見として受け止めて頂きたい。
>>698 685さん
> また再三指摘されているように、疑義の提示に終始し、自説を具体的に述べられていないことも併せて再考していただきたい。
私のどの意見のどういった点が聞きたいか、的を絞って誹謗中傷なしに聞けば、
すんなりと私は答えると思います。望まれる答えにそえるかどうかはまた別の話ですが…
具体的に私のどの見解のどの部分が知りたいのでしょうか?
双方が常識人して質問し、常識人として回答すれば、
今日明日に古代史論争の答えが出なかったとしても、
有意義な会話になるのではないかと考えます。
>>712 >九州も機内もどちらも万人を文句無く納得させられる決定的な証拠は残念ながらない。
少なくとも私はその立場での主張です。
太国さんはガンガレ
ですがさんおやすみなさい。
725 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:10:50
>>714 荒らしにかまうなってのがわからんか?お前はアホか?
こいつは自分勝手に曲解して、しかも間違いを絶対認めない社会不適応者なんだよ。
>>ですが=太国
今夜中にスレ立ててやるから消えろ
726 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 22:11:03
1問1答形式で述べます。
・考古学者は関心を持ちません。
Aそういうけど、考古学者の9割は邪馬台国畿内説だといいますよ。
・九州説を主張するあまり科学まで否定するような態度はいけません。
Aどんな科学を否定したのでしょうか?九州説は科学的根拠によってなりたっています。
・邪馬台国が九州にあったと考える根拠
A魏志倭人伝を精査した結果です。
・魏と通じていた九州政権の可能性をどのように否定、証明できるのか?
A九州説ですので証明するとなると、魏志倭人伝によるとしか答えられません。
・ほとんどの九州説論者は、マキムクとの並行を認めると自説が成立しないと考えているのだから。
Aマキムクが平行して存在していてもなんら不都合はございません。なぜなら邪馬台国の勢力範囲は九州中心であり、
畿内までおよんでおらず、そこは全くの別世界であったからです。
727 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 22:18:49
>>714 考古学が至上なんて当の考古学者でさえ思っていないよ。
ただ学説を立てた以上は後で「違うかなー」と後悔しても軽々しく変更できないだけ。
「自分の立てた学説とともに地獄の果てまで行くっきゃないか」と諦めてるだけ。
自分が「やっぱり違いました」と認めてでもみんさい。自分についてきた学生の立場はどうなる?
出版した本の内容を自ら変更したらどうなる?特にこれ「自分についてきた学生の立場」。
邪馬台国系のスレで九州説の皆様に対してごめんなさいとでもあやまるかえ?
728 :
682:2007/07/10(火) 22:20:22
>>726 >・ほとんどの九州説論者は、マキムクとの並行を認めると自説が成立しないと考えているのだから。
>Aマキムクが平行して存在していてもなんら不都合はございません。なぜなら邪馬台国の勢力範囲は九州中心であり、
>畿内までおよんでおらず、そこは全くの別世界であったからです。
纏向が邪馬台国と同時代ということを認めるのであれば、
貴方とは見解の相違はありませんね。
他の九州説諸氏も、そうであって欲しいものです。
>>722 それは、違う。
九州説は邪馬台国時代を弥生時代とする前提で成り立っています。
対して、マキムクを古く見る畿内説は、邪馬台国時代を古墳時代します。
しかし、古墳時代に入った頃には、九州の環濠集落も衰退している。
三角縁の分配に見られるように、九州は、畿内を中心とした文化圏の
一翼に組み込まれている。
マキムクを邪馬台国時代とすることが、前提として魏志と両立しないので
あって、魏志の記述と弥生の九州とは両立します。
730 :
682:2007/07/10(火) 22:24:25
>>723 九州説を取るなら、魏志倭人伝に書かれていることは九州内陸のことであって、
畿内のことではないはずですね?
ならば、畿内の様子が魏志倭人伝と違うからといって、
「纏向が邪馬台国ではない」と主張することは出来ても、
「纏向が邪馬台国と別時代」と見る理由にはなりません。
SOY氏は、九州説を採りながら、
魏志倭人伝は、畿内の様子を描いたはずだと決めてかかってるわけですが?
それは矛盾した考えではありませんか?
731 :
682:2007/07/10(火) 22:29:52
>>729 >マキムクを邪馬台国時代とすることが、前提として魏志と両立しないので
>あって、魏志の記述と弥生の九州とは両立します。
この部分では、おそらく、貴方とも見解の相違は無いように思えます。
「纏向が邪馬台国ではない」と主張することは出来ても、
「纏向が邪馬台国と別時代」と見る理由にはなりません。
↑の書き方とも矛盾はしないでしょう。
732 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 22:30:14
>>725 それがしは間違いを認めたときはあるよ。
以前は卑弥呼を神功世と主張していたが、大陸半島が倍暦不使用と言う話を
信じたことと比売大神の存在を検討して、卑弥呼を崇神世の人物と論を
改めている。率直に言ってるだろうが。
倍暦とこれで、古代史のカラクリ的主要の全容が明快になってきたものだ。
>>731 見解の相違かな。マキムクと同時代のほかの地域をどう見るのかについて。
マキムク(又は奈良)は畿内で最後に鉄器が普及した地域であって、古墳時代の
直前から栄え始めています。古墳時代に入って画文帯、三角縁の畿内中心の分布が
生じて、九州中心のそれ以前との逆転が生じています。
マキムクの時代には、九州の環濠はほとんど埋まっていたと考えるため、その時代の
九州は魏志と整合しない(魏志よりも新しい時代)と考えています。
但し、伊都国の環濠は九州の他の地域(例えば、吉野ヶ里など)よりも早く埋まって
いた可能性は視野に入れています。
734 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 22:42:19
>>725荒らしにかまうなってのがわからんか
それだったらまともな論くらい展開しなさいよ。
畿内説もちゃんと倭人伝を根拠にしていたりする。
都合が悪ければ考古学が全ての様に言い、倭人伝などの文献をを軽視する。
都合のいいところだけ倭人伝を持ち出す。
かたや考古学至上主義は文献無視。倭人伝無視。考古学だけでは邪馬台国の存在はわからない。
文字の無い時代の事、邪馬台国とマキムクを結びつけるものは何一つ無い。
畿内のことが考古学でどれほど判明しようとも邪馬台国とは関係ないことになる。
それで邪馬台国を論じるというのだからそれ自体が自語相違。
735 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 22:42:49
急いで書き込みをしたので言葉足らずのところがありました。
マキムクの年代はいつとみているのでしょうか。
卑弥呼の即位は183年であり、没年は247年であろうと考えられます。
卑弥呼死後も邪馬台国は続いており266年の晋への朝貢は壱与邪馬台国であると考えられます。
しかしそこで邪馬台国は消滅したわけではなく、最終的に九州が大和朝廷の配下にはいったのは290年代であろう
とみています。
私が、マキムクと述べたのは、大和王権が存在したということです。
つまり、邪馬台国と大和王権は並立(おそらく没交渉)していたとみているということです。
遺跡の状況から3世紀の日本列島の状態が「魏志倭人伝」とは異なるといっている話題なのに
どうして
>>726見たいな主張に戻るんだ?頭悪いなw
737 :
685:2007/07/10(火) 22:48:27
>>729 何か根本的に勘違いしてないですか?
弥生終末期、古墳時代黎明期などというのは時代区分の便宜的呼び名であって
別に九州説=弥生時代ではないですよ。
判りやすいように、あえて実年代で書きます。
北部・中部九州の環濠集落が衰退するのは、主に2世紀中頃からです。
そのなかで玄界灘沿いに古くからある各集落は、環濠を再生しないまま3世紀に突入します。
そして3世紀にはマキムクは誕生しています。
三角縁の分配は、早く見ても3世紀第3四半期から第4四半期。
畿内マキムクと九州邪馬台国が平行していたという考えは、理論的に成り立ちますよ。
しかしもっと考古学的に掘り下げていけば、九州のツクシ連合=邪馬台国連合が非常に考えにくくなるというだけです。
また再三述べられているように、倭人伝記事は九州も畿内も風俗、特産、動植物、政治形態など
出土物から考えられる当時の日本列島の姿に、必ずしも一致していません。
もし倭人伝を中心に考えるのなら、日本列島以外を視野に入れねばなりません。
出土物から考えるなら、倭人伝には他の地域(海南島や台湾、半島南部など)の記事もいっしょくたに混ざっているとなります。
なぜ倭人伝を根拠と出来ないと考えるか、これで判ってもらえるでしょうか。
738 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 22:48:31
>>725僕も間違いを認めたことはあるよ。
畿内説者や考古学至上主義者がもっとまともだと思っていたことかな?
739 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 22:53:23
>>736遺跡の状況から3世紀の日本列島の状態が「魏志倭人伝」とは異なるといっている
それはね。畿内が倭人伝とは関係無い地域だからなのよ。
740 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 22:57:19
>>736レスがどんどん進み、書いているうちに遅れてしまうのだよ。
741 :
685:2007/07/10(火) 22:59:51
>>736 そちらの話題に戻したいのでしょう。
マキムクの年代論、つまり邪馬台国と平行かどうかで
一番最初に述べた「平行とすると自説が破綻する人」は触れられたくない話題でしょうから。
一人一説の趣がある九州説ですから、様々な考え方がありましょう。
ただ自分は、もう今では考えにくくなった説はばっさりと捨てましょうと言ってるだけに過ぎません。
新発見から目をそらして、繰り返し同じことを延々と書き続けるか
罵倒に逃げるか、それでは古代史、いや学問の真の面白さが判らないままで人生もったいないと思うからこその提言であると理解してください。
742 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 23:01:19
>>739 九州も違うと書かれているのは華麗にスルー
間違えを認めるのは、当然
今後は、あまり間違えないように、慎重にお願いします。
744 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 23:03:06
確かに風俗物産関係の記事にはおかしいところがある。
だからといって行路記事等まで信じられないとするのはどうかと思う。
風俗物産にかんしては、ほかの文書がまぎれこんでいたのを、陳寿がきづかず
そのまま載せた可能性がある。
>>737 玄界灘沿いに古くからある奴国、伊都国では、北中部九州よりも早く環濠が
埋められたという認識は同じですが、その時期は見解の違いですね。
しかし、文化圏としては九州中心の鏡分布の時代から畿内中心に移っているので、
両者を区分して交渉のない別の文化圏とすることは、不自然です。
画文帯は、魏志で重視されている伊都国、奴国からの出土量が僅少で、画文帯と
「邪馬台国」の同時代性を言うのは、無理があると思います。
画文帯は畿内中心で、ほとんどは古墳から出土していますが、これは古墳時代と
邪馬台国時代のずれであると見たほうが良いと思います。
ちなみに、川西の「同型鏡とワカタケル」を読む限り、日本国内で同型鏡のキズの
系統区分ができるという点で、画文帯は日本で周密な製作、使用の流れが存在
したことを想定させます。
746 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 23:11:47
>>745奴国、伊都国では北中部九州よりも早く環濠が埋められたとありますが、
奴国、伊都国の都はみつかっていたのでしょうか?
くわしい場所教えてください。
747 :
685:2007/07/10(火) 23:23:26
>>744 流れが速すぎるということですか。
それならば雑音と一緒くたにしていまったことは申し訳なかったですね。
ではちょっと整理してみましょう。
魏志倭人伝にある、対馬、一大、末盧、伊都、奴、この5カ国に関してですが
(狗邪韓、不彌移行に関しては不確定ということでとりあげません)
この5つが現在比定される地域と、その中心と考えられる各遺跡に異論がありますか?
もし無いのなら、この時点でほとんどの方角、距離、規模に瑕疵があることについてどう考えるかが論点となります。
あるのなら新たな候補地を具体的に提示すればいいだけです。
特にどうやら対馬、壱岐で間違いないと考えられる対馬、一大の国情に関する貧しさを思わせる記事が
出土状況とまったく違う事に関してはどう思われますか?
少なくとも1世紀から3世紀までの広範囲に見ても、明らかに間違いです。
それ以降の国は正確に書いているなどとは考えられませんよね。
自分は複数の時代、地域の情報を倭国という大まかな括りで、ごちゃまぜに編集してしまった結果だと見ています。
748 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 23:25:06
>>737なぜ倭人伝を根拠と出来ないと考えるか、これで判ってもらえるでしょうか。
それは倭人伝が間違っているのではなくておたくの考えが間違ってるだけ。
自論が正しくて倭人伝が間違ってるなどおこがましい!
749 :
SOY:2007/07/10(火) 23:30:14
>>730 682さん
> SOY氏は、九州説を採りながら、
> 魏志倭人伝は、畿内の様子を描いたはずだと決めてかかってるわけですが?
私が答えに窮するのはこういう点です。
私の見解は『魏志倭人伝は畿内の様子を描いた』ではありません。
>>660が私の大元の発言なのでご確認願います。
ある程度共通のものさしを持たなければお互い曲解するだけで
有意義な論議になりません。
682さんが以下をどう考えているかによっても結論は変わると思います。
1.a.魏志倭人伝は九州内陸を描いているとするのか、
b.魏志倭人伝は畿内を描いているとするのか
c.それとも特に仮定はしないのか
2.a.崇神を3C中頃の人とするのか
b.4C以降の人とするのか
c.それとも特に仮定はしないのか
1や2の見解についてさえ今日明日に結論が出るものではありません。
また考古学見地についても全てを解決するにはまだ不十分な段階です。
しかし、それを踏まえた上で、どの立場で意見を述べているかが分かれば、
最終結論で罵りあう必要もなく、的を絞った論議ができるのではないかと
私は考えています。
750 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 23:36:50
5つの現在比定される地域について、対海国は対馬南島で、伊都国は佐賀県多久市で、奴国は
肥前山口です。一大国の記事と出土状況が全く違うとは」おもえません。相応とも思いますです。
751 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 23:40:02
>>748 もうこれは魏志倭人伝原理主義だよなぁ…
構図としては、病んでいるといわれる日本の裁判なんかと同じ。
自白に基づく証拠は過度に重要視される一方、それに合致しない物証を軽視する構図、と。
魏志倭人伝の記述を過度に重要視する一方で考古学的状況を軽視、と。
752 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 23:45:51
邪馬台国は魏志倭人伝によるものです。
考古学的状況は私は軽視したことはありません。尊重はしていますが丸呑みは
しておりません。
ところで環濠が埋められたとかいう奴国と伊都国の都はどこでしょうか?
753 :
685:2007/07/10(火) 23:46:22
754 :
682:2007/07/10(火) 23:58:18
>>749 貴方の立場は理解しました。
「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
当方は、邪馬台国と纏向は並行するという考えを支持しています。
また、文献を信用するなら、纏向は崇神時代のものでしょう。
邪馬台国の所在については「九州にあった可能性を否定しません」
が、魏志倭人伝と畿内の様子が違うことを理由に、
邪馬台国と纏向は並行しないという論は成り立たないと考えます。
>的を絞った論議ができるのではないかと
では、的を絞って、改めて、お聞きしますが、
邪馬台国と纏向(崇神)が平行しないという立場を採られている根拠は何ですか?
755 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/10(火) 23:59:46
>>751 >>753{恐らくは同一人物}
さっすが!年配の方?だけあって冷静ですね。紳士的な態度に頭が下がります。
方や下品なコレ、
「
>>725 ですが=太国
今夜中にスレ立ててやるから消えろ 」
にくらべると人格の違いが顕著ですね。
宝石と馬糞以上の開きが同じ人間でも出るものですね。
756 :
685:2007/07/11(水) 00:16:04
>>755 >>751と自分
>>753は別の方です。
あと褒めて頂くのは有難いですが、それよりもまずまともなレスを心掛けて下さい。
今のまま自作自演や罵詈雑言を繰り返すのであれば、今夜のように今後もレスを返すことはありません。
面倒だし場が荒れるので、あえて言わなかっただけです。
他の参加者も同じ思いをしているようですので、真摯にご自分と向き合ってください。
757 :
SOY:2007/07/11(水) 00:57:15
>>754 682さん
SOY 邪馬台国と纏向は平行しない
682 邪馬台国と纏向は平行する
邪馬台国を九州とするか畿内とするかによって
邪馬台国・纏向同時代説への私の疑問点は変わります。
既に
>>723で簡単な説明を書いているのでコピ&ペーストします。
1.邪馬台国が纏向、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 同一時代の同一地域を記述して内容が殆ど一致しない点が疑問
2.邪馬台国が九州、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い点が疑問
> 邪馬台国の所在については「九州にあった可能性を否定しません」
> が、魏志倭人伝と畿内の様子が違うことを理由に、
> 邪馬台国と纏向は並行しないという論は成り立たないと考えます。
邪馬台国を九州に仮定した場合に、邪馬台国を畿内に仮定した場合の
説明では的がずれてしまうのは当然です。
二説同時に論じては纏まるものも纏まらないので、
邪馬台国が纏向か九州かの仮定をさらに統一した方がいいですね。
因みに邪馬台国と纏向が同じ時代の同じ場所にあった場合、
両者の記述は極めて近いものになるとは思われませんか? ☆☆☆
一方は女王で一方は女王でない。この点はどうお考えでしょうか?
このあたりの見解を示し合い、主張が平行線となったところで、
次は九州に仮定した場合ってところでよろしいのではないしょうか。
758 :
682:2007/07/11(水) 01:03:43
>>757 >邪馬台国を九州とするか畿内とするかによって
>邪馬台国・纏向同時代説への私の疑問点は変わります。
話をすりかえるのは、おやめなさい。
邪馬台国と纏向が平行するかしないかは、邪馬台国の所在地の問題ではない。
纏向から発掘された遺物が、3Cか否かということであり、
貴方は、纏向から発掘された遺物が、3Cではないと言ってるわけです。
ですから、纏向から発掘されたどの遺物が、3Cで無いのかを説明してください。
貴方も、年輪年代法で相当こだわった方ですから、相応の考古学物証の知識に基づいて、
「纏向は、3Cではない」と考えているわけでしょう?
それとも、文献だけで判断しているわけですか?
イエスかノーでお答えください。
759 :
682:2007/07/11(水) 01:09:02
>>757 あなたは、明らかに、「邪馬台国と纏向は同時代か?」という論点を、
「邪馬台国九州説VS畿内説」の論点に摩り替えようとしましたね?
無自覚なら、今後反省してほしいですが、故意であれば悪質です。
警告しておきますよ。
伊勢神宮にいって卑弥呼に詫びてこいw
761 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 01:29:20
いつもこのスレを楽しみにチェックしているんですが、邪馬台国論者の方々に、ひとつ質問していいですか?
紀記にはなぜ邪馬台国の記録を残さなかったのでしょうか?
記録を残せない理由が、紀記編纂者にあったのでしょうか?
一部に神功皇后に比定した記載はあるようですが、それも年代的な部分から、信憑性に欠けると一般的に考えられています。
邪馬台国論者の方々はどう思われますか?
やっぱり粘着癖が顔を出したか・・・
自作自演をみんながスルーして来たのに。
てゆうか
>>682と
>>685のコテ設定ミスくらいは気づけよww
763 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 01:59:49
自分のレスにピンポイントのタイミングで合いの手を入れてしまう
我慢のなさは、生まれながらの粘着体質でしょうか。
766 :
SOY:2007/07/11(水) 07:54:44
>>758 682さん
答えに窮すると荒れてしまうところは相変わらずですね。
> 因みに邪馬台国と纏向が同じ時代の同じ場所にあった場合、
> 両者の記述は極めて近いものになるとは思われませんか? ☆☆☆
> 一方は女王で一方は女王でない。この点はどうお考えでしょうか?
この程度の質問を投げかけられたくらいで答えられないとは…
答えに窮すると論点をずらす。
こういったことを常套手段にされては論議は深まりません。
(人格を変えても手口が同じ。嘆かわしや)
征東大将軍さん や 大和さん はこんな人をどう思っているのだろう?
767 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/11(水) 07:58:26
>>751 刑事裁判の自白は捜査機関の追及と関わって被疑者の自白となってくるが、
被疑者は有罪判決を受けるとムショ行きとなるので、重罪ならば死刑も
あることから、被疑者にとって切迫敵利害甚大のものである。
さらに間違えれば無実に至るもので、かような状況のものはかなり厳格に
とことん証拠が欲しい範疇の文面となる。
古文書の場合はそんな切迫的利害は少なく、のんびりした状況で記述され
る状況のものであろうから全部正とは当然言えないものの、間違いもそれは
あるわけであるが、刑から必至に逃れたい自白の文面とは同一視できない。
768 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/11(水) 13:50:40
マキムクの話題がでていたので試見をひとつ。
マキムクは横浜のようにある時期から大きな町として発達したようである。
そこは、国の中心地のような貴人の館などは存在せず、一般人の居住している
地域のようである。
ということは、マキムクは門前町のような都市であるといってよい。
町の東の山麓に崇神から景行までの宮があったとされることから、彼ら支配者の生活に給
するものを生産する人や諸国から運ばれてきた物産の集積地であったのではないだろうか。
ここでの問題はその年代である。
大和王権は崇神から急速に拡大をはじめ、東は福島会津から西は広島までその勢力下においた。
其の時から門前町としてのマキムクが造成されたのであろう。
崇神の即位は日本書紀の年代を精査復元をすると、AD272年であり没年は288年である。
このことからマキムクは270年代からはじまり、景行の大津遷都の343年?までの間に栄えたものと考えられます。
よってマキムクは2世紀後期からとみるのがよろしいかと思います。
769 :
682:2007/07/11(水) 15:32:25
>>766 >> 因みに邪馬台国と纏向が同じ時代の同じ場所にあった場合、
>> 両者の記述は極めて近いものになるとは思われませんか? ☆☆☆
>> 一方は女王で一方は女王でない。この点はどうお考えでしょうか?
>この程度の質問を投げかけられたくらいで答えられないとは…
魏志倭人伝と畿内の様子が一致しなくても、何も問題はありません。
魏志倭人伝は、畿内の様子を描いたものとは断定できず、
それゆえに当方も、「邪馬台国が九州にあった可能性を否定しません」
了解しましたか?
魏志倭人伝の問題と、「邪馬台国と纏向が平行するか?」という議題は無関係です。
貴方の立場である、↓の根拠について、はぐらかさずに、答えてください。
「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
>答えに窮すると論点をずらす。
それは、SOYという人物の論法です。
>>768 >崇神の即位は日本書紀の年代を精査復元をすると、AD272年であり没年は288年である。
どのような方法と計算で精査復元したかを
以降のレスで具体的に述べるべきですね。
それによって貴方のレスの評価が定まります。
771 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/11(水) 17:34:05
当2ちゃんねる日本史の「皇国史観に基づいた正しい古代史」の157番をごらんください。
772 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/11(水) 17:51:22
ほかに古事記分註天皇崩年干支2倍年暦説での説明も必要なのですが、
どのスレに書き込んだのか不明となりました。
これについては、近々出版の予定ですので暫くお待ちください。
773 :
682:2007/07/11(水) 19:31:28
SOY氏が論点をずらそうとなさらないように、改めて論点を整理いたします。
1、魏志倭人伝の記述は、畿内の様子を書いたものとは断定できない。
2、魏志倭人伝の記述が、九州の様子を書いたものなら、邪馬台国は九州の可能性がある。
3、邪馬台国が九州にあった可能性を、考古学は否定できない。
上記1〜3に反論のある人はいないはずです。
よって、魏志倭人伝を持ち出して、「九州説VS畿内説」の論を展開することは無意味です。
しかし、上の問題と下の問題は、別次元のものです。
以下はSOY氏の立場です。
「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
また、SOY氏は、以下の様な立場もとっています。
>723 :SOY:2007/07/10(火) 22:09:12
>
>>712 >>九州も機内もどちらも万人を文句無く納得させられる決定的な証拠は残念ながらない。
>少なくとも私はその立場での主張です。
SOY氏は、九州も畿内も邪馬台国があったという決定的証拠は無いと考えています。
それならば、「畿内に邪馬台国があった可能性」についても否定できないはずです。
邪馬台国が九州にあったと仮定しても、邪馬台国と纏向が平行しないと考える理由は不可解です。
邪馬台国が畿内にあったと仮定した場合も、邪馬台国と纏向が平行しないという考え方は不可解です。
なぜ、SOY氏は、「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」のでしょうか?
何を根拠に、そのような立場をとっているのでしょうか?
回答を、お待ちしております。
774 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/11(水) 19:48:49
SOY氏の話は何だかケムリに包まれたようで、さっぱりわかんない?
回りくどい説明でなく、切れのある白黒の明確に判別できるような文で
よろしく願いたい。
>>768 なんだ、あんたサガミかw
複数のハンドル使用はルール違反だぞ
776 :
685:2007/07/11(水) 20:46:46
>>761 ご質問については、まだ定説・通説と呼べるものはないですね。
ですので3つの考え方をご紹介しましょう。
ひとつは九州王朝説に代表される、大和朝廷とは別系統の王朝の出来事であるとの考え方。
これに関しての詳細は、九州王朝スレで質問されれば良いかと思います。
2つ目は隠蔽であるとの考え方。
理由としては、推古以降に顕著となった隋(大陸の強国)との対等外交を推し進めるにあたって
朝貢の過去が好ましくないものであるとされたてめ。倭の五王についても同様の解釈。
3つ目は、隠蔽プラス積極的利用。
記紀編纂時に、過去の中国史書が参考にされたのは周知の事実ですが
完全に無視するわけにはいかなかったので、中国史書に何らかの勘違いがあるとして
いわば折衷案の形で、完全否定まではしないがうやむやにしている。
また半島再侵攻に大義名分を持たせるために、百済、新羅などとの過去の出来事を、日本有利に書いている。
特に書記は、対外的歴史文書としての役割が大きく、それには実年代の明記が必要となるので
漢の金印授受の寸前に、景行が突然筑紫征伐に出たり、倭の五王の時期にいきなり兄弟継承が挿入されるなど
明記はしないが、否定もしないといったあいまいな態度で書かれている。
いずれにしても記紀の信憑性に関しては、天武・持統期の様々な政治情勢が密接に絡む問題ですので
それに特化したスレかサイト、専門書をご参考になればよいかと思います。
777 :
761:2007/07/11(水) 21:13:43
>>776 なるほど、レスありがとうございます。
最近、図書館で古代史を読む機会があり、私見ですが3番目の項目に同意です。
あくまでも『隋』とは対等外交を貫くために、過去の大陸への朝貢の史実は隠蔽、及び曖昧な形を取らざるを得なかった。
その結果、邪馬台国を記紀に残せなかったと。
また色々勉強してきます。
778 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/11(水) 21:32:41
女王国が記紀に殆んど書いてないのは隠蔽などではなく、女王国が畿内から遠く、
かつ大陸の倭人伝に詳細記述が出来えたことから、大陸に近い日本のある場所に
あったということを物語っているである。その情報の取れる取れないの物理的
に合理性を認められるべき位置は九州、それも中九州以南である事になるのだ。
隠蔽するんなら、紀の編者らは神功39年の記述も削除するだろうがね。
景行の時代より金印の話の時代のほうが古い。
779 :
SOY:2007/07/11(水) 21:36:31
>>773 682さん
以下の質問に対して、それほどの長文は必要しないと考えていましたが…
『因みに邪馬台国と纏向が同じ時代の同じ場所にあった場合、
両者の記述は極めて近いものになるとは思われませんか? ☆☆☆
一方は女王で一方は女王でない。この点はどうお考えでしょうか?』
とりあえず、682さんの見解をまとめると以下のとおりですね。
邪馬台国と纏向が同じ時代の同じ場所にあったと仮定した場合においても
邪馬台国を記述している魏志倭人伝は必ずしも纏向を記述しているとは限らないから、
邪馬台国と纏向の描写が似ていなくても、
たとえ一方が女王で一方が女王でなかったとしても何ら不思議ではない。
私はこれを不思議と考えます。682さんはこれを不思議と考えない。
こういったことは個々の感覚に依存した問題なのであとは平行線でしょう。
邪馬台国と纏向が時代的に平行するかしないかという問題における
682さんの『邪馬台国が纏向と仮定した場合』の見解は分かりました。
682さんが何度も述べられるように『邪馬台国が纏向にあったとは限らない』は
もっともな主張です。だから『邪馬台国が九州と仮定した場合』の考察も必要ですが、
誹謗中傷が発言の主となるようでこの論議の継続は難しそうですね。
780 :
682:2007/07/11(水) 21:45:02
>>779 それでは、以下の貴方の立場の根拠について、教えてください。
「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
781 :
761:2007/07/11(水) 21:50:55
>>778 仮に邪馬台国が九州に位置していたとして、大和政権が邪馬台国を滅ぼした、または邪馬台国が東遷し大和政権を樹立したとするなら、なぜ記紀に卑弥呼の存在及び邪馬台国の痕跡を残さなかったのでしょうか?
そこにはやはり、記紀編纂時の政策や、不都合となる史実があったのではないでしょうか?
邪馬台国と年代の合わない神功皇后に比定するような、曖昧な形を取らざるを得なかった何らかの理由があったと思います。
782 :
682:2007/07/11(水) 22:03:08
>>779 何度もお聞きしてますが、今夜あたり答えを教えてください。
>「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
>「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
↑の立場をとる理由は、「魏志倭人伝の記述が不思議」という、
貴方の主観だけの話ですか?
それとも、考古資料に基づく話ですか?
考古資料に基づく話なら、纏向のどこが邪馬台国と同時代と思われないのか、
根拠をお聞かせ願いします。
783 :
SOY:2007/07/11(水) 22:28:40
>>780 682さん
> それでは、以下の貴方の立場の根拠について、教えてください。
>
> 「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
> 「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
何故、『邪馬台国と崇神時代の纏向が同一時代でない』という見解を
わざわざ二つに分けてしまわれたのでしょうか?
何か意図があってのことでしょうか?
貴方は
>>754で以下のとおり述べています。
> また、文献を信用するなら、纏向は崇神時代のものでしょう。
崇神時代の纏向という仮定の論議であることは貴方も理解しています。
以下は邪馬台国と崇神時代の纏向が同一時代でないということについて
私が記述した文章です。これを記述するのは3度目です。
1.邪馬台国が纏向、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 同一時代の同一地域を記述して内容が殆ど一致しない点が疑問
2.邪馬台国が九州、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い点が疑問
1については
>>779でも述べたとおり双方の見解が出されたと見ていますが…
それとも何かさらに断言できることがあって述べたりないとお考えでしょうか?
貴方が述べる分について私が述べるなということはありません。
784 :
682:2007/07/11(水) 22:39:51
>>783 >何故、『邪馬台国と崇神時代の纏向が同一時代でない』という見解を
>わざわざ二つに分けてしまわれたのでしょうか?
ああ、他意はありませんが、どちらもあなたの言葉で、
意味的には同じだと思いましたので。
で、
>>783の論旨は非常にわかりにくいのですが、
貴方の立場の根拠は、魏志倭人伝と記紀の不整合という
「文献のみ」によるものと、解釈してよろしいか?
785 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/11(水) 22:52:32
>>781 記紀に記述がないということは、
3〜4世紀あたりの女王国においては大和朝廷の滅ぼされたという事件は
なかったということになります。また、東遷して大和政権が樹立されたという
史実もなかったことをも意味しています。
紀の編者連が年代の合わない神功皇后へ比定したようだという事は、当時の大陸
半島の古文献と日本の紀の原書群の双方の年代が調整困難なほど著しくかけ離れ
ていて収拾つかなかった事からで、連中がえらく困って苦労していたことを
物語っています。だからその調整の中でこれが一番合いやすいとして大陸半島
の古文献を神功のへんに挿入して、小康状態として終結したということです。
そのことから前後の時代にも配慮等をせざるを得なくなり、ついに神武即位が
B.C.660年にする道を選択するという結果になったと観ています。
それだから那珂博士や伴信友らの主張する讖緯思想、辛酉革命に因んで
B.C.660年への引き伸ばしを図ったとかの構想が編者らにあったのではなく、
古文献の食い違いをうまく適合させられないことからのやむにやまれぬ手段で、
うんと年代のズレる干支60の倍数掛け算の付加減での失敗整合がそういう結果
に至ったのだということです。
では何故そんな大幅な年代のズレがあったのかというと、当時の大陸半島の
暦法と日本の暦法との内容に本質的に決定的な違いがあったためだという
のが真であります。その違いとは、向こうが一般的暦法でしたが、日本の暦法
は倍暦を採用していたことにあり、これが調整がつかなくなった大きな原因
なのだということです。
786 :
682:2007/07/11(水) 22:55:54
>>783 > 「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」
> 「崇神と邪馬台国を同一時代とする立場ではない」
↑見解が、貴方の「文献のみ」による考察の結果なのであれば、
文献の解釈は主観に左右されやすいので、ことさら追及はしませんが、
一方で、纏向からは、実際に遺物が出てきます。
今日の今日まで、纏向から出土している遺物等の実年代について考察してこなかったのですか?
SOY氏に、あらためて見解を聞きたいものですが、
纏向から出土している遺物等は、邪馬台国と同時代では無いとお考えですか?
それとも「纏向から出土している遺物等は、邪馬台国と同時代か、わからない」ですか?
貴方にとって、この答えは、非常に簡単ですね。
違うなら違う、わからないなら、わからないと答えればよろしい。
即答できますね?
787 :
ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/11(水) 22:58:18
>>775はい、当たりです。
サガミハラハラ改め時間潰しの店の片隅 そして ふと聞こえてきた君の歌 とHNを変更しています。
次はコーヒーカップを持つ手がふいに と変化します。
788 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 22:58:56
>>781 >なぜ記紀に卑弥呼の存在及び邪馬台国の痕跡を残さなかったのでしょうか?
横からで失礼ながら。
日本書紀の編纂者も記紀編纂時には既に邪馬台国について判らなくなっていたのではないかと。
ただ魏志倭人伝という書物には確かに記されているので無視するわけにもいかず。
だから神功皇后というそれっぽい人物を創り上げ(モデルはいたかもしれないが)たのではないかと。
で神功皇后紀の注釈に、魏志倭人伝の卑弥呼を匂わす記述を記載してお茶を濁した、と。
789 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 23:16:22
あの粘着はドン来い前の九州説スレのときからしつこいね。
九州説のコテに粘着して、スレを荒らしてコテの追い出しをはかる。
議論ではいつも劣勢に追い込まれ、ウソの書き逃げを繰り返す。
いまでは議論はせずに、言葉尻に粘着するようになった。
安本の名前を見るや脊髄反射で狂人の如く吠えまくる。
これがココでの数少ない畿内説支持者の実体。
790 :
761:2007/07/11(水) 23:31:10
>>785 日本書紀の倍暦ですね。
倍暦について、私は全体を把握していないので見解を述べる立場にありませんので、勉強して出直します。
氏の見解としては、邪馬台国が東遷して大和政権樹立、または大和政権が邪馬台国を滅ぼしたとは考えにくく、相互に関係が無かった、という見方ですね。
>>788 確かに邪馬台国と記紀編纂の時期とでは500年程の隔たりがあるので、正確な位地は把握できていないと考えられますね。
ただし、邪馬台国が東遷して大和政権を樹立した、または大和政権が邪馬台国を滅ぼして倭を統一していったとすれば、大和朝廷には邪馬台国に関する何らかの情報(伝承)が残っていたと考えます。
これを記紀に残さなかったのは何故なのかが疑問でした。
もう少し古代史を勉強して、出直してきますね。
791 :
SOY:2007/07/11(水) 23:55:24
>>784 682さん
> 貴方の立場の根拠は、魏志倭人伝と記紀の不整合という
> 「文献のみ」によるものと、解釈してよろしいか?
邪馬台国を纏向に仮定した場合については概ねそういったところです。
崇神天皇の干支崩壊が258年か318年かで始まった論議の中で、
魏志倭人伝と記紀の不整合はごく自然に思いつく疑問点だと
私は思っていましたが、どうも分かりづらかったようですね。
しかし、『魏志倭人伝と記紀の不整合』という言葉を出されていることは
今は既に理解できていると判断します。
また、その私が抱いた疑問点についても双方の意見が出ていると見ています。
貴方は、同一時代の同一地域を描いて、一方が女王で一方が女王でなかった
としても何ら不思議ではないという立場ですね。
邪馬台国を九州と仮定した場合の疑問点につきましては、
私は『前方後円墳』という言葉を出していますので、
これを「文献のみ」の範疇に入れることについては賛同しかねます。
> 今日の今日まで、纏向から出土している遺物等の実年代について考察してこなかったのですか?
異論の多い遺物の実年代を今回の主張の根拠に入れなかったとしても
別に批判めいたことを言われる筋合いはないように思われますが…
> それとも「纏向から出土している遺物等は、邪馬台国と同時代か、わからない」ですか?
現状、実年代が確定できる人はいないと見ていますが、682さんは唯一の例外なのでしょうか?
実年代について考察してこなかったのですか?などと言われるからには
万人を納得させる主張を何かお持ちのようですが…
是非、お聞かせください。皆が関心を持って聞いてくれるでしょう。 ☆☆☆
792 :
788:2007/07/12(木) 00:10:30
>>790(761氏)
私も古代史は最近勉強を始めたばかりですから。まぁ話半分くらいに聴いてください。
記紀と魏志倭人伝の不一致に関して私の妄想は
>>788の通り。
で、もうひとつ私が疑問に思うことは「東遷」について。
支配者が移動したのならその支配者層の持つ生活様式の移動もあって然るべきなのですが、
どうやらそういった痕跡が考古的には見られないようで。(勉強不足かもしれませんのであったらご教示を。)
私は神武東遷や邪馬台国東遷を支持しません。崇神以前は非存在あるいは存在しても狭い地域の為政者という認識です。
強いて「東遷」を考慮するとすれば、崇神一派が大和にやってきたのではないかと。
これはホケノ山古墳と鳴門市の萩原2号墳の石積み木槨構造という
埋葬形式の連続性に注目した妄想です。萩原2号墳の詳細な調査待ちですが。
いずれにしても妄想ですのでそこんとこよろしく。
793 :
682:2007/07/12(木) 00:44:12
>>791 『魏志倭人伝と記紀の不整合』という件について、 不整合を認めた上で、
邪馬台国が、九州にあっても畿内にあっても、矛盾は無いと考えます。
主観の相違ですね。
>現状、実年代が確定できる人はいないと見ていますが、682さんは唯一の例外なのでしょうか?
実年代は、「わかりません」。
考察なら、纏向が邪馬台国と同時代という見解を支持します。
貴方は、考察するつもりもなく、わからないなら「わからない」と、一言で答えればいいのでは?
794 :
682:2007/07/12(木) 01:03:13
>>791 >私は『前方後円墳』という言葉を出していますので、
>これを「文献のみ」の範疇に入れることについては賛同しかねます。
ああ、そうそう、貴方は、纏向の『前方後円墳』は邪馬台国と同時代ではない、と、
そういう考察をしてるわけですね?もちろん、何がしかの根拠があってのことですよね?
「言葉尻を捉えて、揚げ足をとってる」などと、批判されたくはないので、
発言の真意を確認したく存じます。
それとも、やっぱり「纏向の実年代は、わかりません」としておきますか?どうですか?
この件で、発言を撤回しても、追及しないと約束します。
795 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 03:46:37
796 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 03:54:53
>>795 君、頭おかしいんじゃない?
それがありえるとしたら携帯以外の2つ以上の回線を持っているってことになるぞ
797 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 04:10:10
>796
どうやったら、IDとか見れるんですか?
>>797 2chで使用されているスクリプトの基本は
閉鎖騒ぎの際に圧縮率を高めるために改良されたものが今でも使われている。
それはIDがすべてに割り振られていて、板によって表示される設定なっているか否かというだけ。
どうしても仕組みを知りたければ、2ch型掲示板を運営してcgiを読めば判る。
ちなみにnyには解析ソフトも流れている。
ただし使用は自己責任で。
799 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 04:29:26
このスレではどうやったらIDが読めるんでしょ?
800 :
SOY:2007/07/12(木) 07:51:59
>>793 682さん
> 実年代は、「わかりません」。
言うまでもなく当たり前のことです。貴方はその立場にありながら、
その貴方でさえも「わかりません」と言っている実年代を根拠にしなかったという理由だけで…
> 今日の今日まで、纏向から出土している遺物等の実年代について考察してこなかったのですか?
> 貴方は、考察するつもりもなく、わからないなら「わからない」と、一言で答えればいいのでは?
といった批判をされています。それにあまり読解力もないようですね。
通常、『現状、実年代が確定できる人はいないと見ていますが』の文章を見れば、
実年代を確定できる人がいる。それが私です。といったようには読み解きません。
普段から曲解ばかりしているから、こんな簡単な文章さえ理解できないのです。
> ああ、そうそう、貴方は、纏向の『前方後円墳』は邪馬台国と同時代ではない、と、
> そういう考察をしてるわけですね?もちろん、何がしかの根拠があってのことですよね?
既に以下を書くのは4度目になります。
2.邪馬台国が九州、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
→ 前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い点が疑問
これも主観の相違って形に落ち着く話に思えますが。
邪馬台国が九州にあったと仮定して、邪馬台国と纏向が同時代であると考えた場合、
畿内を頂点としたと言っても過言ではない、従来の墓制から考えれば非常に巨大な
前方後円墳が九州に作られている段階に、狗奴國のことは記述しても畿内のことは
記述しないという点を私は不思議に考え、貴方は考えない。
そういったところではないでしょうか?
> 実年代は、「わかりません」。
> 考察なら、纏向が邪馬台国と同時代という見解を支持します。
その考察の部分を発言するべきではないでしょうか? ☆☆☆
興味深い問題なので皆も聞きたいと思っていることでしょう。
801 :
682:2007/07/12(木) 09:23:40
>>800 >通常、『現状、実年代が確定できる人はいないと見ていますが』の文章を見れば、
>実年代を確定できる人がいる。それが私です。といったようには読み解きません。
>普段から曲解ばかりしているから、こんな簡単な文章さえ理解できないのです。
そうですか。あなたも実年代は「わからない」ということでいいわけですね?
なぜ、もっと早く、簡潔におっしゃらないのか不思議ですが。
そして、「纏向が邪馬台国と同時代でない」とも考えておられる。
なぜ、「纏向が邪馬台国と同時代でない」と言えるのか?(しかも、実年代が、わからないのに)
不思議だったので、ずっとお尋ねしていたわけですが。
その回答が、以下の文、というわけですね?
>2.邪馬台国が九州、崇神天皇は同じ時代の纏向 という説について
> → 前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い点が疑問
重ねて、考古資料に基づく他の論拠は無いのか?と、お尋ねしたのですが、
それは「無い」と、そういうことで、よろしいわけですね?
とりあえず、事実確認まで。
当方の認識に誤りがあれば、指摘してください。
どうにも、貴方の文章は、読みにくい部分がありますので。
802 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/12(木) 09:26:49
SOY氏の書きこんでいることは具体性が乏しく、実態が皆目見当がつかいない。
まるで将棋の穴熊戦法のようで、論点を攻められることの防壁を堅くし遮っ
ているように思えてならず、回答が終始抽象的で論点が掴めにくい。
批判をかわすためか、そのやり方をする気持ちはは分からんでもないが、まぁ
歯がゆいというか、こちらとしては論説の全貌が闇雲でまるっきり見えて
こないから、いい評価はつけにくいということとなる。
読んでいると、自分はAである、しかしBもありうる。CではないがDもない
と云える、とかの主張の仕方で優柔不断のような奥歯がはさまらない行ったり
来たりの、時計の振り子のような話ぶりが多いように見受けられる。
こういう状況だから女王国の所在も畿内説なのか九州説なのか、あるいは
他所説なのか? これでさえもどっちなんだろう? と第三者を幻惑させ
てしまっている。AではあるがBもあるの主張では、どんな説でも成り立つ
のを拒みませんということになる。こういうのはあまり芳しいとは言えない。
白黒のスッキリする論述をお願いしたい。相手方から突付かれて
自説の過ちに気づいたり失敗も経験して新たな知識も増え、後々の研究に対処
できうる。
相手の追求を論述に見せかけた会話術でかわしたりして彼らを怖がっていたん
では、男らしくない。
彼は九州説だろうと思うが、何とも? わからん?
王朝とは、
連続した元号を持ち
連続した政体があり
しっかりとした首長の交代があり
広域に影響がおよぶような国だろう。
九州王朝の華麗なる歴史
委奴国王
↓
卑弥呼
↓
神武→ヤマト王朝作る(分家)
↓
継体天皇
↓
倭の五王
↓
磐井
↓
目多利思比孤(用明天皇)
↓
筑紫君薩夜麻
↓
大海人皇子(天武天皇)
↓
蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
754 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 17:36:34
古代九州は当時数十国に分立していた時期が多々続いたろうから、江戸時代で
の大名的勢力の者は多かったろう。委奴国王はそういうクラスにの人物で王朝
とまでの上位の人物ではないな。
卑弥呼と委奴国王の線が継続の系かどうかは定かではないが、別系であろうと
そう考えている。卑弥呼は九州王朝の始点の女王であり、その祖の一人が
委奴国王かどうかは先述のとおりだが、卑弥呼の父あたりは先の大名級の一人で
あったろう? それが卑弥呼の代に至って勢力をつけ、彼女が王朝の始祖となっ
たと観ている。神武は卑弥呼と全く無関係ではないが、直接的王系の繋がりは
無いとしてよい。
倭の五王朝も同様に神武とも卑弥呼とも別系であり、短期の九州王朝である。
当時卑弥呼の子孫系と並行して二王朝存立の状態にあった。
磐井は朝廷のあらさんにやられたとしても、九州王朝は文武世までのウラゴト
だから、そこで滅亡にはならんわけで、勢力の消長を見るにまだ継続と出て
いるところから、どうも筑紫君は九州王朝の王ではないと観る。ここんところ、
他の九州王朝論者と考え、主張が違いがあろうかとも思うが、それがしは
そう観ている。
古代史関連のスレには必ず顔出すよな>古田信者
なんかノルマでもあるのか?
806 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:13:19
>>798 そんな見え透いた嘘は自演を認めたのと同じですねwwwww
自作自演と粘着を繰り返して、まともな議論をしているつもり?
807 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:30:19
年代論は、三角縁の(ほぼ)全部を国産と認める立場では、かなり絞れる。
国産とすれば、製造年と埋納年とのずれが少ないことが帰結される。
となると、同型の鏡を出土する古墳はほぼ同年代といえる。
椿井大塚山、黒塚の同型鏡の分布、出土状況から、両者は4C後半と確定できる。
日本で500枚以上、中国で0枚でも、舶載説を死守しようとする人はこの辺が
分かっているのだろう。
808 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 18:47:50
>>807 ほぼ全部が国産なら逆に椿井大塚山、黒塚は、どうやっても4c後半にはならないのでは?
というかすべてが舶載とする考えなど、小林が5類に分類した時点でなくなっているだろ。
それはもう今から30年以上前の話で、しかもその小林編年が訂正されてからももう10年以上経っている。
で同型というのは2類のことか?それとも二神二獣か?
考え方が支離滅裂すぎて、君が何を言いたいのかすらわからん。
809 :
ふと聞こえてきた君の歌 実はサガミハラハラ:2007/07/12(木) 19:23:29
随分と白熱した論争が続いていますが、もう少し論点を整理して絞ったほうがよいのでは?
810 :
682:2007/07/12(木) 19:53:16
>>809 論点は、「纏向が邪馬台国と同時代か否か?」という単純なものです。
「纏向は、邪馬台国と同時代ではない」というSOY氏の根拠を要約したものが、
>>801 今は、
>>801が、SOY氏の論旨のすべてかどうかを、本人に確認している段階です。
811 :
SOY:2007/07/12(木) 19:58:32
>>801 682さん
古代史の論議が目的でなく、ただ荒れるのを楽しむ。
そういったことはやめにしませんか?
正直、自作自演をされる方には嫌悪感を抱いています。
それは古代史論者である以前に『人間として失格』です。
偽れなければ語れない。曲解しなければ論議できない。それでは困ります。
それと主旨をそらすのが目的だと思われますが、すでに答えていることに対して
何度も答える気にはなりません。
> 重ねて、考古資料に基づく他の論拠は無いのか?と、お尋ねしたのですが、
> それは「無い」と、そういうことで、よろしいわけですね?
概ねそのとおり。但し、前方後円墳を挙げて考古資料に基づかない
とするのは語弊を招く恐れがあるのでその点については賛同しない。
そこまで私は説明しています。
このことで数発言も続けてしまう貴方の意図がよく分かりません。
ただ、これさえも分からないと主張している貴方の分からないが
どれだけ当てにならないものかは、はっきりしましたが…
> 実年代は、「わかりません」。
> 考察なら、纏向が邪馬台国と同時代という見解を支持します。
そうそう。何故か的を得ない質問で話がそれて流れしまいそうなこの部分。
その考察の部分について発言すべきではないでしょうか?
812 :
682:2007/07/12(木) 20:03:43
>>811 >古代史の論議が目的でなく、ただ荒れるのを楽しむ。
>そういったことはやめにしませんか?
まったく同感です。
>> 実年代は、「わかりません」。
>> 考察なら、纏向が邪馬台国と同時代という見解を支持します。
>そうそう。何故か的を得ない質問で話がそれて流れしまいそうなこの部分。
>その考察の部分について発言すべきではないでしょうか?
たとえば、土器編年の話をしたとしましょう。
しかし、所詮は実年代はわからないので、
貴方は、それを理由に、当方の考え方は間違ってるなどと指摘することができます。
説明すればするほど、不毛な議論の応酬になる結果になることは自明でしょう。
さて、どうすればいいか、貴方に知恵はありますか?
813 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:20:10
>>761 >紀記にはなぜ邪馬台国の記録を残さなかったのでしょうか?
残っていますよ。高天原についての記載がそれだと思います。
>記録を残せない理由が、紀記編纂者にあったのでしょうか?
むしろ、出雲神話を無理矢理くっつけた不自然さが目立ちますよね。
814 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:28:48
>>768 >マキムクは門前町のような都市であるといってよい。
まったく同感です。巻向へ逝ってみましたが、同地は戦国時代の小田原
ではなく、平和な時代に利便性に富んだ江戸であると思いました。
ただ、巻向は記紀神話にあるように、神武が畿内入りしたときにはすでに
存在しており、開発は神武記紀入り以前の事ではないでしょうか?
もちろんすでに誰かがご指摘なさっていたように、「平和な時代」に建設発展した
と思われる巻向が「魏志倭人伝にきさいされている邪馬台国」だとは思えません。
815 :
761:2007/07/12(木) 20:54:28
>>792 レスありがとうございます。
私も「邪馬台国東遷」については疑わしいと思います。
>支配者が移動したのならその支配者層の持つ生活様式の移動もあって然るべきなのですが、
>どうやらそういった痕跡が考古的には見られないようで。
私も勉強不足でして、参考までに聞いてください。
魏誌倭人伝では、倭人は刺青を入れる風習があったとの記述がありましすが、これらが大和政権に引き継がれたか?という点についても、紀記からは伝わってきません。(罪を犯した者に対しては行っていたようですが)
>ホケノ山古墳と鳴門市の萩原2号墳の石積み木槨構造という埋葬形式
詳細を勉強してきます。
816 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:54:47
>>808 舶載説の人達が『シンポジウム三角縁神獣鏡』を出したのは、それほど昔でもないですよ。
舶載説は三角縁の大半を舶載とする説。国産説は(ほぼ)全部を国産とする説。
小林は、魏からもらった三角縁の分配が畿内中心であるとして畿内説の根拠とした。
その頃は三角縁を出土するのは4Cの古墳からであるとして、伝世論も併用された。
伝世論があるゆえに、畿内の古墳出土の三角縁と関東の古墳出土の三角縁が同型で
あっても、時代は異なると見ることができた。
今では、三角縁出土の古墳を古く見る傾向が強いが、黒塚や椿井大塚山を古く見る
ことができても、同型鏡を出土している関東などの古墳までも同様に古く見るのは困難。
同型鏡は、畿内の古墳の突出した年代繰上げが無理であることを証明する。
817 :
761:2007/07/12(木) 21:15:30
>>813 >高天原についての記載がそれだと思います。
私の解読力が未熟なのか、卑弥呼の足跡、邪馬台国の確実な存在を記述しているとは感じませんでした。
紀記をもう少し勉強してきます。
>むしろ、出雲神話を無理矢理くっつけた不自然さが目立ちますよね。
そうですね、出雲神話をあれだけ記述した事は、編纂者側に何がしかの意図があったと考えます。
818 :
SOY:2007/07/12(木) 21:51:11
>>812 682さん
> たとえば、土器編年の話をしたとしましょう。
> しかし、所詮は実年代はわからないので、
> 貴方は、それを理由に、当方の考え方は間違ってるなどと指摘することができます。
その可能性も考え、今回、私は考古学知見による絶対年代の説明は省きました。
> 説明すればするほど、不毛な議論の応酬になる結果になることは自明でしょう。
> さて、どうすればいいか、貴方に知恵はありますか?
ある種のルール決めをしたら良いかと思います。
1.最終的には主観の相違という形になることを初めから認識しておく
2.断言できないことは断言しない。
3.その代わりに私は思うといった発言は許容してやる。
(思うの話が納得できなかったとしても私はそうは思わないで済む話)
4.論点を拡散させない。仮定の証明は後回しにしても良い。
5.前提とした仮定が納得できなくても頭ごなしには否定しない
(その仮定を支持できないので私はそう思わないで済む話)
とりあえず論議の続きはいづれ気が向いた時にでも…
819 :
682:2007/07/12(木) 21:58:57
>>818 ルールを定めるのは結構なことですね。
もうひとつ、ルールを決めましょう。
6.自分の立場を明確にする。
A.畿内説。
B.九州説。
C.邪馬台国は、畿内か九州か、現時点で決められない。
D.その他。具体的に自分の考え方を最初に述べること。
>とりあえず論議の続きはいづれ気が向いた時にでも…
再開のおりには、ぜひ、貴方の立場を明確にしてください。
Aなのか、Bなのか、Cなのか、Dなのか?
Cであると言うなら、以下の文言を宣言していただきたく思います。
「邪馬台国が、畿内にあった可能性を否定しない」
もし、Cの立場をとるそぶりで、↑の文言を言えないのであれば、
貴方は、「嘘つきと呼ばれても、誹謗中傷に当たらない」ということに同意してください。
了解しましたか?
820 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 22:20:51
考えは人それぞれ、自由に意見を言えば良い。
他人の意見が気に入らないからといって、いちいち是正を求める必要もない。
誤りであると思うポイントを具体的に分かりやすく言えば足りる。
その意見を正しいと思うかどうかは相手しだいというのも当然。
そもそも、絶対的な真理が存在すると言う前提もない。
絶対的な正しさを求めるのであれば、宗教でもやったらどうか。
自説がその宗教そのものというのであれば救いがたいが。
821 :
SOY:2007/07/12(木) 23:17:52
>>819 682さん
> A.畿内説。 > B.九州説。
> C.邪馬台国は、畿内か九州か、現時点で決められない。
> D.その他。具体的に自分の考え方を最初に述べること。
選択肢が少し強引のようにも思えます。この選択肢では100%の人がCになります。
682さんの立場も聞いていません。682さんもCと答えるのではないでしょうか。
因みにCの選択肢がなければ私はBです。682さんはCがなければ何になるのでしょうか?
それにしても何故このような詐欺めいた選択肢を作られたのかが理解しかねます。
> 「邪馬台国が、畿内にあった可能性を否定しない」
> もし、Cの立場をとるそぶりで、↑の文言を言えないのであれば、
> 貴方は、「嘘つきと呼ばれても、誹謗中傷に当たらない」ということに同意してください。
何様のつもりといった文章ですが、これは論点そらしですね。
貴方が誓わせようとしているこの文章はいかようにも取れます。
畿内説を否定するような発言は一切してはいけないというようにも取れます。
詐欺師がよくやる手です。こういった点から考えると九州説は有り得ない、
こういった点から考える畿内説は有り得ないといったような発言は十分有り得ます。
論議するのにこれを誓えといった方向に話をもっていく必要はありません。
邪馬台国は畿内か九州か現時点で決められないといったようなことを
共通認識とするだけで十分です。
> 実年代は、「わかりません」。
> 考察なら、纏向が邪馬台国と同時代という見解を支持します。
では、その考察とやらを述べてください。厳しくチェックさせて頂きます。
822 :
682:2007/07/12(木) 23:32:56
>>821 >選択肢が少し強引のようにも思えます。この選択肢では100%の人がCになります。
貴方の提示した、この前提は「間違い」です。
九州説の人、畿内説の人は、このスレにも実際います。
そして、それぞれの方は、それぞれの主張を自由にされてかまわないのです。
当方は、もちろん、Cです。
邪馬台国は、九州にも畿内にも四国にも東海にでも、どこにでも存在した可能性を否定しません。
あえて、Cを選ぶなと要求されるなら、科学的に状況証拠で、畿内説を採用します。
貴方が、九州説なら、九州説ということで結構なことです。
貴方が、なぜ九州説なのか? 今は議論するつもりはありません。主観の問題でしょうから。
しかし、Cという立場であるなら、
「邪馬台国が、畿内にあった可能性を否定しない」 と発言することに、何も抵抗は無いはずです。
議論を再開するなら、CかDか、はっきり決めてください。
以上。
古代史関連のスレには必ず顔出すよな>古田信者
なんかノルマでもあるのか?
824 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/12(木) 23:48:30
>822さん
SOY氏は臆してるようですから、そっとしてやったほうがよろしいんじゃ
ないんですか?
彼を窮地に追いやるようで、ホッとさせてやって下さい。明確のほうが
いいんですが、突付かれるのがちょっと耐えられないみたいです。
いずれ生長して自立した論説をするようになるでしょうから・・・。
現段階ではA、Bにまたがる主張を止める選択を採れないようですね。
通常なら反対説者には拙者もかなり言いあうところですが、いずれいい研究家に
なるでしょうからあたたかく見守ってやって下さい。彼はお若い方ですかなぁ?
825 :
ふと聞こえてきた君の歌 実はサガミハラハラ:2007/07/12(木) 23:56:54
よく邪馬台国の時代という言葉を聴くが、卑弥呼の在位は183年から248年である。
その後も壱与の時代まで続いているのであるが、論争で邪馬台国の時代と言う場合は
卑弥呼の貢献の237年から壱与の即位あたりまでをさして論争しているようである。
つまりかなり狭い範囲をさして、その時代にマキムクに都市があったかという論争になっているようである。
ところがこれがすれ違いとなる訳は、マキムクの年代がはっきりしていないことにある。(続く)
826 :
682:2007/07/13(金) 00:09:06
>>824 太国氏は、九州説論者として明確な立場を持っていますので、当方は敬意を払いますよ。
しかし、SOY氏は、九州説なのか、古代を公平に俯瞰しようとしてるのか、さっぱりわかりません。
年輪年代法の議論にしても、公平な目線で年輪年代法を検証してるのか、
年輪年代法を攻撃するつもりで検証してるフリをしてるのか、さっぱりわかりません。
何せ、「データを出してください」としか、彼は言いませんから。
公平なフリをして、故意に議論のための議論を楽しんでるとしたら、悪質としか言えません。
SOY氏が、本当に、公平な目線を持とうとしてる方なら、
「邪馬台国が、畿内にあった可能性を否定しない」 と、簡単に言えるはずです。
しかし、そうでないようなので、当方も失望してるところであります。
827 :
SOY:2007/07/13(金) 00:34:50
>>822 682さん
> 議論を再開するなら、CかDか、はっきり決めてください。
貴方が世の中に出た時、会社などでこのような方法で論議するつもりですか?
以前、九州説が一つに纏まらなければ、畿内説を否定するなと言った人がいました。
それと同じレベルです。浮世離れした逃げ口上です。
こういった方法で話をそらすことはできません。
確証できることのない段階で片方は畿内説、片方は九州説。
こんな当たり前のことでわざわざ誓ったりはしません。
仮に誓ったところで次から次へと別の逃げ口上を貴方が用意するのは火を見るよりも明らかです。
そもそも貴方の主張は何だったのでしょうか? 終始誹謗中傷で終わりですか?
> 実年代は、「わかりません」。
> 考察なら、纏向が邪馬台国と同時代という見解を支持します。
:
> あえて、Cを選ぶなと要求されるなら、科学的に状況証拠で、畿内説を採用します。
状況証拠から科学的に考察できるなら、それを論じればよろしいのでは?
私の発言はこう考えるから疑問が生じるといった一行程度の簡潔なものでした。
それでも結論だけでなく『記紀と倭人伝との不整合』といった点を述べています。
そろそろ貴方は人に言う以上に身を持って示すべきではないでしょうか?
828 :
682:2007/07/13(金) 00:44:32
>>827 貴方は、他人にばかり論じることを要求していますが、
たまには、貴方の持論も聞かせてください。
他人の説に噛み付いてるだけのように見えますよ?
結局のところ、貴方は、「邪馬台国が畿内にあった可能性は無い」とする九州説、
ということでよろしいわけですね?
貴方が九州説だとしても、その件を追求するつもりはありません。
貴方の論は、貴方の論ですから。
ただ、どういう論なのか、はっきりさせてくださいということです。
829 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:13:09
>>809 それは同意だねえ。
・・・問題はお題を何にするか。
この際だから、ズバリ年代論で行きましょうか。
古墳、土器、鏡、その他の中から、誰か決めてくれいw
830 :
788:2007/07/13(金) 01:19:13
>>813 >>817(761氏)
>高天原についての記載
>出雲神話を無理矢理くっつけた不自然さ
このあたりはたしかに不自然。
物語全体におけるスサノオの存在が変。アマテラス(太陽)とツクヨミ(月)に無理やりスサノオを挿入した感じ。
アマテラスとツクヨミはそれぞれイザナギの左目・右目から誕生という対になっているが、スサノオはその鼻から誕生。
誕生からしてかなりイレギュラーな感じ。おそらく同系ではないのだろうと。
この後もことあるごとにアマテラス系とスサノオ(出雲系)は対立するし。
その最たるものは国譲りで、出雲系の持つ支配権をアマテラス系が簒奪するというもの。
国譲りという出来事が記紀に書かれたということは、程度の差こそあれ実際に国譲りというか
アマテラス系=現・天皇家による政権簒奪があったのではないかというのが私の妄想です。
実際に出雲系からの政権簒奪が行われた年代は、神話時代ではなくて意外ともっと新しい時代の出来事であって、
具体的には簒奪したのが崇神一派なのではないかと。
いずれにしても妄想ですのでそこんとこよろしく。
831 :
788:2007/07/13(金) 01:25:15
>>829 古墳ベースのお話でよろしいのではなかろうかと。
土器は移動云々、鏡は舶来云々で、それぞれ無意味なレッテル張りになるだろうから
小休止ということでいかがでしょうか。
832 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:34:06
>>812 >>古代史の論議が目的でなく、ただ荒れるのを楽しむ。
>>そういったことはやめにしませんか?
>まったく同感です。
厚顔無恥とはよく言ったものだ。
お前の自作自演と粘着でスレが荒れているんだよ。
>>830 >アマテラスとツクヨミはそれぞれイザナギの左目・右目から誕生という対になっているが、
>スサノオはその鼻から誕生。
>誕生からしてかなりイレギュラーな感じ。おそらく同系ではないのだろうと。
そのあたりは、記憶しやすいように身体の上から順に個人名と対応させていったという
考えがあるね。覚えやすいように、身体の一部と対応させるのは記憶術の基本で、
そのような記述は神代には多い。
『日本神話120の謎』で安本も同じことを書いてる。誰が言い出したのかは知らぬが。
要するに、古伝であることは間違いなさそう。
安本なんて引き合いに出すなよ。キモチワルイから。
古田説ベースで進めていけばいいじゃん。
835 :
SOY:2007/07/13(金) 08:06:01
>>824 太国さん
私だけは古代史の真相を知っている、私だけはちゃんと考察している…
こういった結論だけの主張を広げていっても論議はまとまらないと私は考えています。
ならば私のように一行ずつでも理由をつけ、テーマを絞って主張するというやり方も
あると思われるのですが、いかがでしょうか?
そもそも、私が思うところを述べているから荒らしがそれに粘着が可能なわけですし、
個人批判に終始に徹する人がいるから、私はさらに先の見解を展開できない。
ただ、それだけの話ではないでしょうか?
どこぞやのスレで九州ですがさんが冥王星うんぬんの話に終始させられて
古代史の話ができなくなっていることがありました。
それをもって貴方は九州ですがさんを非難しますか?
とにかく分かりにくいと言うのなら、
私のどの主張のどの部分が分かりにくいのかを具体的に聞けば、
そこで生産的な会話は成立するのではないかと考えています。
まずは個人批判に終始するのではなく、不毛な論争を避ける努力を各自が行い、
発言しやすい場を作ることが大事であると私は考えています。
836 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 10:28:40
>>835 >どこぞやのスレで九州ですがさんが冥王星うんぬんの話に終始させられて
>古代史の話ができなくなっていることがありました。
>それをもって貴方は九州ですがさんを非難しますか?
これは非難されてもしかたがないんじゃないかなぁ・・・
あと竜宮の話とか。
837 :
682:2007/07/13(金) 15:10:28
>>835 >ならば私のように一行ずつでも理由をつけ、テーマを絞って主張するというやり方も
>あると思われるのですが、いかがでしょうか?
本当に、貴方がそのように考えてるとしたら、
その手法は、議論の場において迷惑、荒らしと同じと言って良い。
なぜなら、一行だけで、他人に難癖を付けることは、非常に容易だからである。
データが公開されてない考古資料については「データを出せ」と言っても論破されない。
誰も実年代がわからなければ、「纏向が邪馬台国と同時代ではない」と言っても論破されない。
自分は論破されないように、常に安全な立ち位置を見つけて、
一行で批判するだけで、相手を簡単に追い詰められると思ってるだろう?君は。
持論を展開しないのも、相手からの批判をかわすためだろう。
つまり、フェアでは無いのだよ。君の議論の手口は。当方にはお見通しだがね。
838 :
682:2007/07/13(金) 15:41:52
>>660 >一方で私は邪馬台国と纏向が平行するという立場でもありません。
その理由は、何か?と、問えば、「魏志倭人伝と記紀の不整合」という。
「文献のみか?」と、問えば、
「魏志倭人伝に前方後円墳が記載されないのはおかしい」という、
前方後円墳という単語をだしたから、「文献のみ」ではないと言う。
「邪馬台国と纏向が平行しないという根拠となる考古資料はあるのか?」と、問えば、
「無い」と言う。
それだけで、「邪馬台国と纏向が平行するという立場でない」と主張したのか?と、確認すれば、
「実年代がわかる人はいない」と言う。
貴方が、他人の年代論について何か指摘するときは、
根底には「実年代がわかる人はいない」という「切り札」があるわけだから、
貴方は、決して論破されません。
貴方は、「切り札」を持ったまま、今後も議論に参加するつもりですか?
それとも、「切り札」は、封印しますか?
ぜひ、お答えください。
839 :
682:2007/07/13(金) 15:54:12
当方は、「実年代がわかる人はいない」ということを認めた上で、
「邪馬台国と纏向が平行する」という科学的状況証拠を支持します。
このような主張は、正当性があるものと考えます。
「魏志倭人伝を読んで、邪馬台国が九州だと思う」ことと、同レベルの問題でしょう。
当方が論破されるためには、科学的状況証拠を覆さなければなりません。
「実年代がわかる人はいない」という立場のままのSOY氏には、
当方に難癖を付けることは出来ても、論破することは出来ません。
良くて平行線ですが、平行線と予想できる議論をすることは無意味です。
840 :
682:2007/07/13(金) 16:10:18
>>824 >いずれいい研究家になるでしょうからあたたかく見守ってやって下さい。
そうですね。いずれは、良い論客になるでしょう。
そのためには、議論の仕方を修正していただきたく思います。
まず、「実年代がわかる人はいない」という切り札を捨てて、
実年代がわからないことを主張の根拠にせず、
実年代を考察し、考察の根拠を理論的に述べられるようになることが必要でしょう。
「互いに考察を出し合い」、「お互いの考察の根拠が理論的かどうか」で、議論の余地が生まれます。
そのことを、本人が自覚できるかどうか、ですね。
なんか難しい事はよくわからんけど!
2CHなんだし、ぬるーく生暖かい議論をしょうぜ!
自分の考えと違ったとしても、『大変ユニークなご意見で・・・勉強になりました。』的な無難な対応で願いますうーっ!
そこで、表題にある卑弥呼は誰と思うか、完結にのべてくれまいか?
ソースはあってもなくてもいいよ。
ちなみに俺はアマテラスでよろしく
842 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 21:02:07
あの粘着君は歯止めが利かないねえ。
「彼」もコテつけてた頃は、結構マトモだったのに。
ネット依存症かな。
>>550→>>555の恨みというレベルを超えているね。
>>557以下もかなりヤバイ精神状態ではあったが。
843 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 21:15:29
>>831 古墳ベースでも年代論にからむと荒れそうだね。
出土した鏡や土器編年でも荒れそう。
彼は、畿内説以外を書くと議論でなくて荒しで対抗するからね。
議論では何ともならないという自覚があるのだろう。
これが年代遡上に狂奔する畿内説の現状。
844 :
ふと聞こえてきた君の歌 実はサガミハラハラ:2007/07/13(金) 21:19:58
マキムクの年代を考古学的に237年から266年ごろまでとしたい人たちがいて、
畿内の年代を古くもっていこうとしているようである。
ということはそもそもマキムクの年代は237年までは遡ることができないのに
無理をとおそうとしているようにみえる。
その背景はマキムクに鎮座する箸墓を卑弥呼の墓とし、邪馬台国は畿内で卑弥呼の都は
纏向であるとしたいがためであろう。
しかしマキムクからは行政府であったような遺物遺構は発掘されていないのである。
そこは一般の市民が居住していたような生活遺物(周囲の古墳の遺物は除く)しかみつかっていないようである。
であるから、私は東山麓にすむ王や貴族に生活物資を給したり諸国からの物産の集積地の役割をはたしていた都市?
であると考えたものである。
そのマキムクの年代は考古の年代をかさ上げする以前の3世紀後半の終わりのほうであるとみるものである。
それは私が日本書紀及び古事記をもとに算出した崇k差箕天皇から景行天皇がマキムクの東の山麓に宮処を構えていた時代と重なるのである。
845 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 21:47:58
>>830 >アマテラス系=現・天皇家による政権簒奪があったのではないか
全く同感です。遠く九州からなんとか畿内に入り、三輪の大物主の庇護を受けた
神武。ところが何故かその子孫である崇神は「大物主が祟る」として彼を祀っている。
私も神武の子孫が三輪巻向の主であった出雲諏訪系を倒し、主になったのではないか
と思います。9代が「開化」なので、この頃何か決定的な動きがあったのでは?
この、2〜9代の間に「国譲り」が行われ、それを具体的に書いたのではとても
「天皇」としての業績の記載にならないので欠史とし、遠く神代の事として記紀に書いた
のではないかと思っています。
846 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 22:05:34
>>817 「確実な存在」というにはいかがかと思いますが、
高天原→高千穂への天孫降臨→日向でのコノハナサクヤ姫との結婚
と言う流れで記紀で話は進みます。
私はこれを九州山地の西にいた人たちが高千穂を越えて日向に到達し、
九州山地の東の人たちと交流を持つ事に成功した事を描いたものだと
考えています。つまり高天原は九州山地の西にあったわけです。
では九州山地の西のどこかといえば、「天の安川」という記載が記紀にあります。
(これは禿げしくガイシュツですよね。)そう、甘木が高天原だと思います。
ちなみに、「魏志倭人伝にある邪馬台国」も私は甘木にあったと考えています。
(理由は長くなるので書きません。)したがって、高天原=邪馬台国と考える次第です。
なお、天照大神が必ずしも卑弥呼とは思いません。卑弥呼より何代か前の人かも
しれないと思っています。
847 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/13(金) 22:56:35
>>835 SOYさん
貴殿の手前の書きこみを重ねて読んで、ある程度はおっしゃりたいことが
分かって来ました。書きこみを見ておおざっぱに云いますと、貴殿の特徴から
なんでしょうが、焦点が絞りにくく、それがしには内容が一見して明解とでき
る記載の感じはありません。
最初に質問の答えをピタリと簡明に書きこんでもらい、それからその件について
順次説明して行くという方法がよろしいんじゃないですか? 幾度
も読み返さないと、ちょっとこちらとしては把握しずらくなっています。
>>660を読み返しましたが、貴殿が女王国を崇神よりも古い時代に位置付けて
おられるように想えますが・・・?
>>723のほうからは、崇神世と女王国は同一時代でないとされているらしく、
項目 2 の九州に
前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い
ということはどういうことでしょうか? この前方後円墳とは九州のでしょう
か、畿内のもののことでしょうか?
突付いているんではないので焦らず、短くてよろしいです。
848 :
788:2007/07/14(土) 00:06:24
>>845 おおむね同意見ですが、「大物主が祟る」の解釈は私の妄想と異なります。
私の妄想としては神武朝から崇神朝への交代に関しては簒奪ではなく
婚姻によるものだったのではないかと考えています。つまり崇神婿入りという妄想です。
つまり私は
>>830で「アマテラス系=現・天皇家」とは書きましたが「アマテラス系=神武系=現・天皇家」とはしていません。
「アマテラス系≠神武系」かつ「神武系≠現・天皇家」という妄想です。
要するに三輪巻向の主であった出雲諏訪系こそが神武朝ではなかろうかと。
こう考えるのは神武の子供の名はなぜかカムヌナカワミミ(=綏靖)とかタギシミミとかキスミミとか、つまり「ミミ」がつく出雲流の人名だからです。
どこかから(九州かもしれないしよそかもしれない)やってきた崇神さんは、
ここで出雲一門の有力者オオビコさんのお嬢さんであるミマキヒメさんと婿入りのかたちで結婚して
ミマキイリヒコさん(ミマキさんと婿イリ結婚したヒコ)と呼ばれた、と。
いずれにしても妄想ですのでそこんとこよろしく。
849 :
SOY:2007/07/14(土) 00:15:04
>>847 太国さん
>
>>660を読み返しましたが、貴殿が女王国を崇神よりも古い時代に位置付けて
> おられるように想えますが・・・?
そうです。そもそも崇神の干支崩年を258年とするか318年とするかで
私が318年と考えると主張したことから始まった論議(粘着)です。
太国さんの理解で合っています。
> 前方後円墳が作られているのに畿内への意識が薄い
> ということはどういうことでしょうか? この前方後円墳とは九州のでしょうか、
> 畿内のもののことでしょうか?
>
> 突付いているんではないので焦らず、短くてよろしいです。
いえ、的を得た質問だと私は思います。個人批判よりも先になされるべき質問です。
実はこの質問をするのは太国さんということも私は百発言前から予想していました。
しかし不毛な論議に終わると判断したので続きは既に自分で言ってしまっています。
----
邪馬台国が九州にあったと仮定して、邪馬台国と纏向が同時代であると考えた場合、
畿内を頂点としたと言っても過言ではない、従来の墓制から考えれば非常に巨大な
前方後円墳が九州に作られている段階に、狗奴國のことは記述しても畿内のことは
記述しないという点を私は不思議に考えます。
-----
古代史をテーマに論議するならば、次はこの発言のこの箇所が分かりづらい、
この部分は納得できないという形が望ましいと考えますが、如何でしょうか?
太国さんは個人批判よりも古代史の方が好きな方と信じておりますが…
850 :
788:2007/07/14(土) 00:20:25
>>848つづき。
大物主が祟る部分の妄想的解釈です。
つまり大物主あるいは大国主と解釈してもいいのでしょうが、
いずれにしてもここで祭祀の対象となっているのは出雲系の祭神(つまり神武=出雲系)であるわけです。
婿入りしてきた崇神さんは自身の祖霊であるアマテラスを祭神としていたが、
即位してまもなくの疫病流行という事態により、おそらく人民に支配者としての資質を疑われたのではないかと。
結果アマテラス系の祭神を放棄してこれまでの通り出雲系の祭神を祀るように戻した、というのが私の妄想。
ここに疑問点がひとつ。一般的には「大物主=大国主(出雲神)」と解釈されるが、なぜここだけ「大物主」となっているのか?
実は大国主とできなかった明確な理由があるというのが私の妄想。
このとき大国主はまだ存命だったのではないか?
いずれにしても妄想ですのでそこんとこよろしく。
851 :
SOY:2007/07/14(土) 01:01:59
>>850 788さん
非常に興味深く拝見しています。ちょっと割り込みになってしまいますが…
> このとき大国主はまだ存命だったのではないか?
ここで日子坐王の父親が登場してくれれば…
私の妄想とあなたの妄想は非常に近いです。
852 :
682:2007/07/14(土) 01:28:48
>>851 やれやれ、持論を語らずして、他人の論にしのびよる悪いクセを直すつもりは無いみたいだね?
太国氏も、疑問をもってるようだし、連休だし、もう面倒くさいから、
SOY氏の論を代弁してあげるよ。
------------
卑弥呼が死んだあと、一部の勢力が畿内にやってきて、纏向の地で王位につく。
これが、後の崇神天皇。
------------
細かいディティールは知らんが、大筋ではこんなところだろう。
邪馬台国が九州にあって、纏向とは時代が違うという立場なのは、上の説を唱えたいから。
最初からそう言えばいいのに、なぜ隠してるのかさっぱりわからんよ。
おおかた、相手が油断したころを見計らって、持論に誘導しようとでも思ってるんだろう。
853 :
ふと聞こえてきた君の歌 実はサガミハラハラ:2007/07/14(土) 07:57:25
マキムクが3世紀後半後期からだとすれば、邪馬台国の時代がおわってから町が形成されたということになり、
これは邪馬台国の東遷の結果であるとの説が登場する。
しかしこの説の弱点は肝心のマキムクから九州系の土器等の遺物が出土しないという点である。
854 :
SOY:2007/07/14(土) 12:48:18
682さんが他の人に誓約を要求している条件
・邪馬台国が畿内であることを否定するような発言をしてはならない
・纏向の絶対年代は卑弥呼の時代であることは決められないといった
否定的な発言をしてはならない
ここから考えると、彼が科学的に考察した末に導かれたと嘯きながら
語ることを避けている主張はせいぜい以下程度でしょう。
主張:纏向の絶対年代は卑弥呼の時代で、邪馬台国は畿内である
根拠:纏向の絶対年代が卑弥呼の時代なら邪馬台国は畿内だから
こんな彼と何か意見交換が可能と考えている人がいれば、
その方はなされば良いと思われますが、私はお断りです。
ところで太国さん、
私は682さんが古代史論議において何が言いたいのかよく分かりません。
妙な誓約条件から予測するのが限度です。
太国さんは682さんに対して分かりづらいといった批判をしないことから考えると、
太国さんは682さんの発言をよく理解しているかと思われます。
682さんの古代史の主張がいったいどういったものか説明して頂けるでしょうか?
突付いているんではないので焦らず、短くてよろしいです。
855 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:23:37
>>845 アマテラス系の人物は、初期においては、
神武やその子供も含めて出雲系の名前が多い。
「ミミ」というのは出雲系の男子につける尊称でしょう?
よって、アマテラス系は、出雲王朝の有力臣下(出雲王権の姻族?親族?)だったんだろう?
出雲王朝は、配下のアマテラス系を
北九州・南九州・丹後・河内・大和などに派遣した。
そこでアマテラス系は力を蓄えたのだ。
ちなみに、アマテラスの子供の一人のアメノホヒ(出雲国造の祖)なんて
記紀では大国主の国譲りに失敗したとあるが
出雲国風土記のほうでは、大国主によく使えたとあるらしいw
アマテラス系が自らを天孫族としたのは、出雲王朝に対する易姓革命を正当化するため。
そして、アマテラスという独身の女神を最初に持ってきたのは
天皇家がそこから男系が始まったという皇室の出自(万世一系)を神格化させるため。
そして、アマテラス系の神武皇統がもう一つ隠さなければいけなかったのは
出雲王朝に対する易姓革命を最初に成功させたのは、
アマテラス系の中でも神武皇統ではなく、
尾張氏・海部氏などのアメノホアカリ系(アマテル系)だった。
アメノホアカリは、神武の曽祖父のニニギの兄で、
「北九州」に降臨・その後、息子と一緒に東征して大和の国王になり、
その後、出雲王朝を倒したらしい。その時、物部氏の祖のニギハヤヒも一緒に同行した。
(ニニギ・神武が「南九州」の日向に降臨・東征した伝承との違いが面白い)
856 :
855の続き:2007/07/14(土) 13:26:24
アマテラス系の本来の嫡流はアマテル系(アメノホアカリ系)であり、
だからこそ、そのアマテル系の嫡流である尾張氏は熱田神宮で
草薙の剣の本物を保管してきた。皇室にあるものはレプリカだ。
熱田神宮には、朝廷が熱田神宮にある本物の草薙の剣を狙うことを恐れる
変な伝承があるのは、アメノホアカリが本来のアマテラス系の正統だからだろう。
また、古代の皇室が、当初は女神のアマテラスではなく、
男神のアマテル(アマテラスの孫・アメノホアカリ)を祀っていたのは
アマテラス系の王朝の創始者がアメノホアカリだったからであり、
その後、神武皇統が政権を奪取するにあたって、
アマテルが最初だと都合が悪くなったのだろう?
857 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:30:34
何処かで聞いた様な話をパクって繋ぎ合せた話はイラン
858 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/14(土) 13:54:39
僕もSOYさんの説はだいぶん前から拝見してるけど確か
一部以前の僕の説に似てたような記憶がある。
それはNHKでやっていた内容で 邪馬台国のその後の行方
卑弥呼の死後、東征に向かった神武は出雲、吉備などの勢力を伴って畿内へ向かう
そこで各地の巨大古墳造りなどのノウハウを結集し畿内に暫く後に巨大古墳が造られるもとになる。
神武東征によって巻向が都のように整備され神武即位。日本各地より物流が活発化する。
というもの。巻向で各地の土器が出土するのはその為で、そう考えれば
邪馬台国と巻向は同時に存在しないともいえる。SOYさんはこのこと言っているのではないか。
この説ならTVでも紹介されるようなポピュラーな説であって、けして突飛な説ではない。
方や
巻向で広範囲な日本各地の土器が出土するのをを邪馬台国時代の事とし、
巻向を邪馬台国と比定すれば混乱して倭人伝の記述とも合わなくなる。
この場合土器年代の想定が間違っているか、もしくは巻向が
邪馬台国とは無縁の地であるかのどちらかである。
つまり一連のこれらのやりとりは考古学では数十年か、
はたまたそれ以上の作成時期に幅をもたせて考えるべき土器編年を
あたかも一定の時期に作られたように解釈し
記述と合わなくなった倭人伝をでたらめ呼ばわりしているのではないか?
Vによる邪馬台国論争とかあれば面白いんですけどね・・・・
860 :
682:2007/07/14(土) 15:21:45
>>854 >主張:纏向の絶対年代は卑弥呼の時代で、邪馬台国は畿内である
>根拠:纏向の絶対年代が卑弥呼の時代なら邪馬台国は畿内だから
悪意に満ちた曲解ですね。
当方は、最初の最初から「邪馬台国が九州にあった可能性を否定しない」と宣言しています。
当方の主張は、
「纏向の絶対年代は卑弥呼の時代という説を支持する」
「邪馬台国が九州と仮定して、纏向と同時に存在したことを否定しない」
根拠は、科学的状況証拠と、文献からの考察です。
------------------
しかし、あえて、言わせてもらえれば「東遷説」は、断固として否定します。
科学的状況証拠と、文献からの考察しても、
九州の邪馬台国が、畿内に東遷したという根拠は、どこにも認められません。
もし、SOY氏が、「東遷説」をとっているならば、根拠を具体的に述べてもらいたい。
根拠なく、「東遷説」を採るのも勝手だが、その場合、当然、貴方とは議論の余地は無い。
そのことを理解したなら、貴方も、他の畿内王権スレに立ち入ることを遠慮すべきである。
861 :
682:2007/07/14(土) 15:39:01
>>858 九州ですが氏、NHKの引用とはいえ、具体的な「東遷説」の根拠を示してくれたことについて、
貴方の姿勢を評価しますよ。貴方とは、まだ議論の余地がありそうです。
少なくとも、何も根拠を述べないSOY氏よりはね。
まず、NHKの番組が、何年前に放送されたものか?だけ教えてください。
そして、奈良から出土してる外来土器のほとんどが東海土器だということもご存知ですか?
もちろん、事実関係のみだけの話です。
これをもって、「東遷説」否定の根拠にはなりませんから、安心してください。
862 :
682:2007/07/14(土) 15:55:25
「九州に邪馬台国があったことを否定しない」とする当方が、
九州に邪馬台国があったと仮定して、その後どうなったか?
仮定の上で仮定の話をすれば、科学的状況証拠と文献から矛盾しない論は、
「九州の邪馬台国は衰退し、畿内王権に飲み込まれた」というものです。
いわゆる古田説、九州王朝説、太国説について、
科学的状況証拠と文献から矛盾しない限りにおいて、それらの説は否定しません。
問題は、いつ九州王朝が畿内王権に屈したか?という点ですが、
仮定の上で、さらに仮定し、仮定の話をすれば、
文献から考察すれば、遅くとも神功時代には完全に九州は畿内に屈していたはずです。
そうでなければ、朝鮮出兵などは出来ないでしょう。
当方は、これ以上、仮定の話をするつもりはありません。
863 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 16:05:24
>>860 >「東遷説」は、断固として否定します。
結論を確定させてから議論するなら、宗教板に行け。
君が自作自演で育ててきたマキムクスレにSOYさんが書き込んだのは
自作自演がバレバレで寂びれてからだから、SOYさんを恨むのは筋違い。
大体、老教授が笠木忍とか閻魔あいとかのフアンという設定は
無理があるだろwwwwあんたも遊びすぎだよwww
864 :
682:2007/07/14(土) 16:08:46
「東遷説」否定の根拠も挙げておきます。
考古学的にみて、九州勢力の東遷の根拠が無いことはもちろん、
文献にも、九州勢力の東遷を示唆する箇所はありません。
天孫降臨も、神武東征も、時代が違いすぎます。
また、外国の文献からも、倭国の首都が九州から畿内に移動したとう記述は見られません。
首都が移動すれば、外交上、記録が残るはずでしょう。王朝が滅んだ場合もしかり。
ただ一点だけ、「小国日本が倭国を併合した」というような記述があったと記憶してるだけです。
旧唐書、日本伝だったと思いますが、間違いなら、指摘してください。
日本書紀には、大和王権と筑紫の対立が何度も描かれています。
これは、九州の邪馬台国残党と大和王権との戦いを示唆しているかもしれません。
>>815=716
>魏誌倭人伝では、倭人は刺青を入れる風習があったとの記述がありましすが、
>これらが大和政権に引き継がれたか?という点についても、紀記からは伝わってきません。
>(罪を犯した者に対しては行っていたようですが)
この風習の記述の違いも興味深いところですね。
865 :
682:2007/07/14(土) 16:16:51
「東遷説」が、民族大移動でなく、ごく少数の王族が、畿内で王位についたという説について、
それならば、考古学で、「東遷」を示唆する遺物が見付からなくても、成り立つ説かもしれません。
しかし、その説は、どこまでいっても、仮定をいくつも積み重ねた仮定の説であり、
根拠は非常に弱いと見るしかありません。
科学的状況証拠と文献から矛盾しない根拠の量から考察すれば、
「東遷説」を支持することは困難です。
もちろん、それでも、「東遷説」を支持したい人はすればよろしい。
本人がそうだと信じるなら信じていればよろしい。
ただ、他人を説得するには、根拠が薄いことは認めていただき、
「東遷説」を受け入れない人がいても、人格攻撃などをしてはいけません。
866 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 16:20:13
>>863 つーことは、今年になって出てきた老教授は
前とは中の人が別人ってこと?
つまり、なりすまし?
867 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/14(土) 16:40:32
SOYさん
>>849 >非常に巨大な前方後円墳が九州に作られている段階に、狗奴国のことは記述
しても畿内のことは記述しないという点を私は不思議に思います。
記述しないとは倭人伝のことですな? これは場合とかの条件によりますが、
畿内は狗奴国が対馬に面しているような位置にあり、畿内はそこからずっと
遠隔だから、その一段後ということで、関心は(九州としてますが)女王国
に焦点があるからでしょう。畿内に関心のある文書としたければ、当然遠隔
でも陳寿は焦点が畿内の大王のことにて書けないわけではないでしょうが、
伝は九州の奥への興味なんでしょう。
>>854 682氏のことでは、貴殿の説への彼の問い合わせによるそれがしの傍聴
ですから、貴殿の説明が不明瞭であったことからの従属性を帯びる反論での
682氏の内容ということになり、そういうところからの発展的反論では拙者
も分からないことになります。
貴殿の説明はだいぶわかってきましたところで 〜お求めの682氏の反論の説明
をしろとなれば再度最初のほうから再読せねばならなくなり、ちょっと彼の
文面の理解のための負担がきついことになります。
ですからここは貴殿が彼に簡潔明瞭としての説明を彼に要求するのが筋だと
思います。そっちのほうではいさいさか拙者は第三者です。たまたま彼が貴殿
を批評していて、それがしは貴方の一寸不明瞭な感じの説明を自分もそう
感じたと、その点ばかりだけ相槌をうったのみです。
868 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/14(土) 16:45:28
>>867 訂正
× 畿内は狗奴国が対馬に面しているような位置にあり
○ 狗奴国が対馬に面しているような位置にあり
869 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 17:43:31
>>866 前から同じ。
あのスレは、ROMって楽しんでいた。
一人で9割を自作自演で書くメンタリティーは一見の価値ありだった。
空気の読めないヤツが指摘してしまい残念www
>>866 「老教授」ってデビュー当時からそういうキャラだよ。
ちょっとAVが好きな好人物の研究者、つーのが基本的スタイル。
871 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 18:15:31
どうなんでしょうか?
昔論戦を戦わせた頃と比べると
今の教授は内容が薄いような気がするのですが
昔は遺跡や出土物の知識が半端じゃないってイメージがあったのですが
今のはそれを単になぞっているような感じがして、別人っぽいぞとは思っていましたが
872 :
日本@名無史さん :2007/07/14(土) 18:54:37
卑弥呼は韓国の呪術師で日本国王アマテラスだと思う。
天皇家ってどう考えても朝鮮からきただろう
高天原から天孫降臨なんてもろに朝鮮から来ましたっていうことだろ。
インカ帝国も最初文明国のスペイン軍見て神様だって思ってたし
日本人が優れた文明を持つ朝鮮人を神様だと思っても違和感ないね。
卑弥呼は韓国の呪術師で日本国王アマテラスだと思う。
おそらく倭人伝の30カ国の王が争ってたとき、卑弥呼を王に立てたってことは
優れた当時の科学(と思われてた)文明の国からきた呪術の
朝鮮巫女なら納得してみんなで王にしたと思う
873 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 20:37:16
>>848 なるほど。その可能性はありますよね。
ただ、それにしては国譲り神話はやたらと血なまぐさい。
活躍する神々はタケミカズチや、フツヌシ。大国主は出雲の沖に沈んで逝く。
やはり決定的な場面では武力が使われたのではないか、というのが私の妄想です。
874 :
SOY:2007/07/14(土) 20:44:03
>>867 太国さん
> 伝は九州の奥への興味なんでしょう。
遠くの大勢力よりも近くの敵。確かにそういう視点もあるかと思います。
これらは魏使が何に興味をもったかといった話なので憶測になりますが、
私の考えは以下のとおりです。
以下の2点を前提にしています。
1.前方後円墳は畿内を頂点とする墓制といっても過言ではない
2.前方後円墳という共通する墓制が畿内と九州に出現している
1の点で畿内勢力よりも九州勢力の方が大きいと私は判断しました。
2の点で畿内と九州には深い交流があり、双方の勢力比については
ある程度、把握が可能な環境にあると私は判断しました。
こういった状況下において邪馬台国よりも大きな勢力があることを
果たして魏使が記録しないでいようかというところが私の疑問です。
憶測が絡む話ですので、もちろん絶対的な主張ではありません。
この程度の軽い主張です。
私の古代史全般の主張が分からないという件につきましては、
私は古代史全般の主張を語りつくしてはいないので当然です。
ただ、私は論点を絞り、順序立てて論議をしていこうと考えていますので、
このテーマのこの点についてあなたはどう思われるのかといった形で質問
を頂ければ、的を絞って可能な範囲で私は答えようと考えています。
P.S. 682さんのことは了解です。
彼がよく言う『〜の可能性は否定しない』といった部分を除く
彼の主張の『科学的状況証拠』とやらの肝心の中身については
彼が語れば済む話なのかも知れません。
875 :
682:2007/07/14(土) 21:00:42
>>874 >私は古代史全般の主張を語りつくしてはいないので当然です。
SOY氏が「東遷説」を持論としてるのだろうと、
当方が指摘しても、「曲解だ!」と抗議してこないので、
SOY氏は「東遷説」ということでよろしいのでしょう。
それならそうと、最初から宣言すれば、長々と議論をしなくて済んだとは考えませんか?
当方が、SOY氏を批判するとしたら、この1点のみです。
なぜ、自分の主張を隠して、議論に参加しようとするのか?
貴方の姿勢、貴方の論旨が不明で、困惑してることは、第三者の太国氏も指摘してることですよ。
876 :
788:2007/07/14(土) 23:22:05
>>850つづき。
大国主に関する妄想的解釈です。
後に大国主として国譲りのモデルとされたのは、崇神が婿入りした当時の出雲系の支配者ではなかろうかと。
つまり崇神の義父であるオオヒコが大国主のモデルというのが私の妄想。
オオヒコという名は、固有名詞としてはあまりに一般名詞過ぎる。
大きな彦つまり大男。彼こそが神話の大国主のモデルとされたのではないか。
崇神紀では、オオヒコは四道将軍として息子のタケヌナカワワケ(武渟川別)とともに東方へと派遣されたことになっている。
武渟川別のヌナカワという名は大国主の妻、ヌナカワヒメ(沼河比売)を想起させる。で二人のあいだの子こそが、諏訪大社の祭神タケミナカタである。
オオヒコは北陸方面へ派遣されたとされる。ヌナカワヒメは北陸・高志の出身。そしてタケヌナカワワケは東山道へと派遣されている。
さらにオオヒコの兄弟には、古事記における大国主の右腕であるスクナヒコナとぼしきスクナヒコタケイゴコロ少名日子建猪心までいる。
こんな感じでオオヒコを取り巻く人物の関連性は大国主とその周辺と類似しているというのが私の妄想。
それでは大国主と神武朝との関係はどのようなものなのか?
私は
>>788で神武について「崇神以前は非存在あるいは存在しても狭い地域の為政者という認識」と書きましたが、
もう少し妄想したほうが楽しいので、神武以来の欠史八代が存在したと考えてみます。
私は
>>848で書いたように、出雲諏訪系こそが神武朝と妄想しています。
これらを統合するとスサノオこそが神武天皇のモデルということになります。巨大妄想です。
大国主は、日本書紀ではスサノオの子供とされているが、古事記やで日本書紀の一書によればスサノオの6代もしくは7代子孫とされている。
つまり欠史八代はスサノオからオオクニヌシにいたる出雲系支配者に関する記述なのではなかろうかと。
大国主がオオナムチをはじめとする幾つかの神格を融合しているのはこの6-7代の建国の経緯を統合されたためではないかと。
いずれにしても妄想ですのでそこんとこよろしく。
877 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 23:37:37
邪馬台国は大阪府豊中市にありました。
徐福は島根県美保関に上陸しました。
出雲王朝の始祖は徐福です。
そして秦氏は徐福の子孫です。
卑弥呼は役職名で、正式には日巫女と書きます。
卑弥呼は中国がつけた蔑称です。
なお徐福と卑弥呼には血縁関係はありません。
878 :
788:2007/07/14(土) 23:51:07
>>855-856 妄想にお付き合いくださり感謝。
私は、天照大神そのものが後世の創作神と考えていますので、
アマテラス系(=アメノ○○系)の出自についてはあまり妄想したことがありません。大変参考になります。
>出雲王朝は、配下のアマテラス系を北九州・南九州・丹後・河内・大和などに派遣した。
出雲王朝におけるアメ系の位置づけは、もしかしたら配下ではなく同盟関係者かもしれないと。
たとえるなら、それは戦国時代における国人領主が利害関係の一致により共同歩調をとるような関係ではなかろうかと。
もちろん出雲朝はある程度主導的立場を持っている。
そしてアメ系の尾張氏・海部氏も支配者の婚姻関係はあったにしろ共通祖先ではないのではないか。
地域領主が婚姻などを通じて「共通の祖先を持つという信仰」を共有しながら連帯感を強めていったと妄想。
もちろん同祖でもなんら問題ないのですが。
ぶっちゃけ妄想ですのでそこんとこよろしく。
>>873 妄想にお付き合いくださり感謝。
>国譲り神話はやたらと血なまぐさい。
たしかに争乱の記述があるのですが、私は武力行使には否定的。
武力行使があったら入り婿はせず大国主もろとも殺戮してもおかしくない。
神話では大国主以下コトシロヌシはあっさり降伏。まぁタケミナカタは多少抵抗したようですが。
大国主自身は、出雲に社を立てて隠居ということになっているが、これは後見人とか院政とかではと妄想。
もっと妄想すると、出雲朝と崇神系勢力とが同盟などする必要が生じて婚姻関係を結んだのが国譲りではなかろうか。
結果強大な「出雲+崇神連合」が成立。出雲諏訪勢力としては倭国全体の支配権(代表権)を崇神勢力に譲り、
替わりに諏訪やその他出雲系直轄地の支配権を保障された、と。
ここまでの出雲系の大幅な譲歩が「出雲国譲り」であるという妄想だか、
実は私はここまで出雲が譲歩する理由についてはまだ妄想が未発達であります。
「出雲+崇神連合」の仮想敵国は果たしてどこだったのか?これは私の妄想の弱点です。
いずれにしても妄想ですのでそこんとこよろしく。
879 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 02:57:09
>>864 >文献にも、九州勢力の東遷を示唆する箇所はありません。
記紀の神武東遷は時代が違うって、バカじゃないwwwww
旧事本紀も知らないらしいねwww
新撰姓氏録はなおさら無理かwww
880 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 06:59:30
神武東遷ではなくて神武東征です。遷と征では事象が異なる場合があります。
>>879は
>>864への批判を書いているようですが、文意をよみとっておらず的外れになっているように
思えるのは私だけでしょうか?
881 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/15(日) 08:31:31
いいえ
>>859 v(^-^)vピスピスーッ
882 :
すれ違いでごめん:2007/07/15(日) 09:17:38
883 :
唐松山:2007/07/15(日) 10:25:37
実年決定の為に 朔で 考える
成 務からの閏の廻し
成 務 天 皇元年春正月,甲申朔戊子=791年=297321日
3、5,8,11、13,16,19年目 が閏
1月1日の歴日の目安
=INT(INT((D49*365.24688+$C$1)/29.53059+0.3)*29.53059)+C$4
+$C$1=100、 C$4=8305
1年の長さ 365.243でも殆ど同じなのでどちらでも良い。(リントク暦でも景初暦でも朔は、変わらない。)
仁徳天皇と履中天皇の間に50年間の空白ができます。
この空白は使える 私としては、100年位ほしいが
まず 卑弥呼=崇神 が 卑弥呼=景行 が 楽になる
次 鬼の城 をこの空白に入れられる。
そして 武内に 潰された?大和政権の復活
用明辺りから また暦が変わる。?
この 空白 皆様は、どのように見ますか?
884 :
SOY:2007/07/15(日) 11:03:05
>>881 征東大将軍さん
そろそろ自作自演の茶番はやめにしませんか?
最近のスレに限ったことではありませんが、
それを頼みに発言される方が少し多すぎるように思えます。
度が過ぎない範囲であれば特に私はそれを指摘しませんが、
全く反省の色なく厚顔無恥でいるのもどうかと思います。
発言者そのものを分からなくして自作自演されている方が
自作自演しない人の発言を分からないと批判しているのは
どこか歪んだものを感じています。
そういった人たちを征東大将軍さんはどう思いますか?
Pu! まるで他人事のように(ry
886 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 12:02:22
「名のある隊の東遷、東征」というより、
「ぼんやりした集団の無自覚な東漸」と
いうなら考えてみてもよいかな、程度。
もちろんすべての可能性があるのだろうが、
神話みたいにドラマチックな歴史の再現は
無理。俺だって見てきたように知りたいけ
ど・・
今度の盆休みみなさんどこかに出かけられますか?
邪馬台国の候補地、宇佐、北九州、博多、奈良あたりでかけてみては!
888 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 14:20:53
そろそろ議論に戻りましょうか。
私としては、国産鏡(の疑い)の系譜に興味があります。
A 三角縁・・・全部が国産であることが確実。
B 画文帯・・・大半が国産、流通期間が長い。
C 獣文鏡・・・国産が多く含まれている。
D 内向花文鏡・・・大型鏡の国産は確実
E 方格規矩鏡・・・平原で多くの国産あり
順序としては E→D→C→B→A(→B)
889 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/15(日) 15:07:32
今は金属盗が多いね。当時も出来上がっている剣とかの銅鉄類を溶かして、
再利用で鏡などを製造する連中に利益の提供を受けて譲渡していた悪者が少し
はいたんではなかろうか?
倍暦の計上から 景所元年=237年 を算出したことで、景初3年等の畿内周辺
出土の鏡は、紀の崇神二年の天皇の同床共殿の鏡による配下及び一般の民の
右へならえに因んだ品だと拙者は観ている。青龍年号の鏡もこの天皇の行事の
予定から、前もって製造した鏡類ではあるまいかな?
891 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/15(日) 15:18:14
>889 訂正
× 紀の崇神二年
○ 紀の崇神六年(実年代 238年)
892 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/15(日) 15:20:31
>>889 すみません 年号は 景初 でした。これも慎むんで訂正します。
893 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/15(日) 18:54:03
んーっと、そう云う事を私に訴えられても困っちゃうんですが(;^_^A アセアセ・・・
まぁ、ちょっと一連の話の流れに付いて。こう云う事なんじゃないでしょうか?
恐らくSOYさんに挑んでる彼は、同一人物と推測できる発言経過からして、
「基本的に」畿内説ないし両面待ちの立場で、考古学主体の人なんじゃないかと思うんですが、
彼は「主に」九州説論者を中心に考古学的見解で「決定的に異なる」
と考える相手とは徹底的に争って、淘汰しようと思ってるんですよ、きっと。
兎に角SOYさんの引き出しを全部開けさせて、丸裸にして、退路を断たせて、追い詰め様と、
相手の間違いを追及して認めさせ様と、こう云う訳です。
勿論彼は自分の知識や論理展開にはある種の確信があってやってるんでしょう。
SOYさんが彼と異なる見解を示せば、そこに付いては徹底的に質問責めにするつもりなんですよ
SOYさんの知識の全てを、SOYさんの論理展開の一つ一つを徹底的に追及したがってるんですよ
そこでSOYさんがナカナカ持ち札を全部見せてくれないから少々苛立っても居る訳です。
一戦交えて勝つ気で居るんですから。
さぁ!御前の考えを一から十まで言ってみろ!出鱈目を言うな!やってやるぞ!と、大げさに言えばこんな感じです。
シンプルな話です。
こう云う訳ですからSOYさんも自分がある説を、「肯定する時でも」「否定する時でも」
どんな論理によってそう判断しているかの追及を常に受けるつもりで明確な発言をして下さい
そして相手の説に対しては徹底的に追及し、自説の正しさは徹底的に証明する積もりで対応して下さい。
相手が(全力で?)挑んで来ているんですから、SOYさんも全力で相手を追い詰める気でお願いします。
最終的にお互いに多数の矛盾点/弱点を指摘し尽くして、平行線を辿るぐらいまで行ったらお腹一杯になるでしょう。
逆にそこまで行かないと論者としては、ちょっと弱いかなァなんて思います。相手を返り討ちにする気で居て下さい。
と云う訳で、徹底抗戦・真っ向勝負・全面戦争でお願いします\(^o^)/♪
894 :
682:2007/07/15(日) 19:28:52
>>893 さすが、征東大将軍氏は、クールに物事を見られる人ですね。尊敬しますよ。
>さぁ!御前の考えを一から十まで言ってみろ!出鱈目を言うな!やってやるぞ!と、大げさに言えばこんな感じです。
その通りです。
年輪年代法で、誠実に対応してる大和氏に対し、SOY氏の対応はちょっといただけません。
SOY氏がどのような姿勢で持って、議論をしているのか、
今後、彼と無駄な論争を避ける意味でも確かめる必要がありましたからね。
SOY氏は、ウソでもいいから「邪馬台国が畿内にあった可能性を否定しない」といえば、そこで議論は終了でした。
しかし、彼はそれを拒んできましたので、彼は正直で誠実な人だと認識するものです。
もし、ウソをついたら、徹底的に叩き潰すつもりでいましたが、
SOY氏が「東遷説」だと遠まわしにでも確認できたので、当方の目的はこれで終了です。
もちろん、徹底抗戦・真っ向勝負・全面戦争大歓迎ですよ。
そのときは、「畿内説VS九州説」ではなく、「東遷説VS東遷否定説」で行きましょう。
895 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:07:13
>>893 自分のレスが勝手に682に引用されても放置で、自分が批判されたら、
「俺は関係ない。おまいらもっとやれ!」ってか?
普通に見て、おまいと682は自作自演だよ。
682はキ○ガイを前面に出して周りの譲歩を迫る今の畿内説そのものだよ。
スレを荒らしているという自覚もないのだろう。
896 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:08:55
ソイヤ ソイヤ ソレ ソレ ソイヤ ソイヤ ソレ ソレ
897 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:19:44
まあ、とにかく議論に戻りましょう。
まともな議論をしている間は682の出番はないのだから。
ということで、
>>888に続けて勝手に鏡で書いていく。
三角縁が国産であるのは既に30年以上前に結論が出ている。
むしろ、未だに舶載説を唱えている学者がいること自体が不思議である。
日本で500枚以上出土、中国で0枚でも中国製という異常な議論が平気で
まかり通るのが学会の現状である。
画文帯も同向式はほぼ全部が日本で出土(楽浪で1枚位あり)しても、舶載と
して、国産説は無視されている。画文帯が5C、6Cの古墳から出土しても伝世
した舶載という理屈はさすがに無理がある。
古代史学会の真の暗黒時代は、戦後に始まったと見るべきである。
「空白の50年」とか「失われた60年」と言われる現状はこんなものである。
898 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:29:47
古墳開始年代を大幅に遡上する畿内説では、画文帯を200年頃からとし、
三角縁を240頃からとする。
しかし、そのためには、画文帯以前に日本で流通していた鏡を全て200年
より以前の時代にしなければならない。
つまり、位至三公鏡と言われる鏡を画文帯より以前の流通時期とするが、
位至三公鏡は年代遡上を言い出す以前は魏晋時代の鏡とされていた。
これらの鏡の全部を200年より以前の時代とすることは、不可能である。
単純に考えて、これらの鏡を200年より以前とすれば、魏晋時代の鏡が
存在しなくなるが、暴走する年代遡上説はこの理屈も無視する。
年代遡上をしなければ、畿内説が成り立たないからといって、無理しすぎである。
899 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:35:05
大津の「せた」は、何故だろう?
瀬田:日本書紀
勢田:続日本紀・和名抄・延喜式
瀬田勢田混用:中世
瀬田:現代
900 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:40:23
位至三公鏡と言われる数種類の鏡の中国での流通時期は220〜300年頃であり、
日本ではこれらの鏡は古墳時代が開始する以前の時期の墳墓から出土する。
これに対して、画文帯はほとんどが古墳から出土する。
この点のみを見てもホケノ山は300年より以前に遡るとするのは不合理である。
画文帯以後に流通時期の来る三角縁を出土する古墳はそれ以後である。
901 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:43:41
三角縁は130種類以上が日本でのみ出土しているが、舶載説はこれを
「特鋳」とする。しかし、130種類以上ものバリエーションを中国で作って
その一部さえ中国で出土していないという現状を無視する。
野球の試合で500対0で9回の裏が終了しても、5回裏初球がストライクで
はないと文句を言うような、くだらない議論に価値は見出せない。
>>898 ハァ?
「位至三公鏡」なんて国内じゃわずか10枚程度しか出土してないじゃん。
方格規矩鏡や画文帯、三角縁とか、ある程度の個体数が出てないと
パターン化したりできないから、何らかの推定材料にするのは弱いぞ。
つーか、この鏡のことを言い出すのは、大概は例のヒトのところの方ですね。
903 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:58:17
>>902 682のコテはつけないのか?
わずか10枚???30枚位はあるぞ。
魏晋時代の鏡が古墳時代より以前の時期の墳墓から出土している
ことはどう理解するのかな?
少数なら300年の鏡も200年の墳墓から出土するとでも考えているのかな?
904 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:02:51
問題は、位至三公鏡だけじゃあないよ。
キ鳳鏡、獣文鏡(獣首鏡等)、飛禽鏡なども画文帯より以前の時期に
流通しているが 、これらも200年より以前の時期とするのかな。
画文帯の日本での流通開始を300年頃にしないとダメだよね。
905 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:10:53
結局、戦後の学会の歴史は「恥知らず」の歴史なんだよ!
弥生時代の鉄器の出土量で九州が畿内の数倍という事実を40年も
認めなかった暗黒時代が、戦前ではなく、戦後に存在する。
同時並行で中国で1枚も出土しない三角縁を舶載と言い続けてきた歴史が
存在する。椿井大塚山の資料を1名が独占して一人で約30年発表を
続けてきたという歴史もある。
一方では記紀捏造史観が発掘により否定され続けてきた歴史も存在する。
その歴史の延長に年代遡上が存在するんだよ!
>>903 >30枚位はあるぞ
「位至三公鏡」としての分類条件を教えてよ。
どこのどういうのが「位至三公鏡」なのかな?
何か、数え方が違うような気がするよ。
どこで、どのくらい出てるかもね。
俺は、銘が「君宣高官」でもいいが、
逆に三角縁の銘に「位至三公」とあっても、
それを「位至三公鏡」とは呼ばない程度の知識はあるよ。
907 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:18:24
>>906 その前に君が魏晋時代の鏡と考えている鏡を列挙したまえ!
議論が横道に逸れる質問は却下する。
>>907 つまり、都合のよい鏡種だけに限って話を進めたいと!
じゃ、「位至三公鏡」の総出土数が10枚程度か30枚以上かは置いておくとして、
そのうち、庄内併行期以前に埋納されたものは何枚あるのかな?
その辺をぼかしたまま「三国時代」に流通したとか言う点に固執されてもねえ。
日本じゃあまり流通してなくて、それも中期古墳から出てくるのがほとんどだろ。
909 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:31:33
>>908 それこそ論点のすり替えですね。
繰り返すけど、君が魏晋時代の鏡と考えている鏡を列挙したまえ!
910 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:40:08
要するに年代遡上を支持する者は「魏晋時代に流通した鏡は何か?」
という単純な問いに対して沈黙せねばならないということ。
>>909 じゃ、画紋帯、飛禽鏡、獣帯鏡・・・
はい、今度はオタクが答える番だよね。
912 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:36:40
>>911 >画紋帯、飛禽鏡、獣帯鏡・・・
色々悩んだみたいだけど、3個だけなの???
獣帯鏡は獣形鏡と区分する用語法かな。私は区分せずに獣文鏡ですが。
それはいいとして、獣帯鏡を魏晋鏡として画像鏡は漢代にするのかな。
飛禽鏡は古墳時代より前の墳墓の時代の出土があるから、画文帯より
以前にこの鏡の流通時代が存在することになるが、それでいいの?
古墳から出たもののみを魏晋鏡としようとすると無理があるね。
913 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:43:04
>>908 >庄内併行期以前に埋納されたものは何枚あるのかな?
その質問は無意味だお。
庄内式は古墳時代以前に始まっていることを争う者はいないのだから。
位至三公鏡は魏(220〜265)と西晋(265〜316)に流行した鏡であるが、
これは古墳時代より以前に流通しているから無視ですか。
その流通の後に飛禽鏡、画像鏡、獣文鏡、画文帯と続くのであるから、
画文帯を300年以前とするのは苦しいですね。
>>912 さっさと前提の問いに答えてよ。
俺が知ってる限りでは庄内以前に遡る「双龍鏡(位至三公鏡)」の出土って、
九州では3枚だけだよ。
まさか甕棺から出ましたとか言い出さないと思うけど、それは、どこのどんな鏡なのさ。
そして、それは「三国・西晋」時代に流行ったタイプの鏡なのか、
それとも後漢代に遡るタイプの「鏡」なのか・・・
915 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:50:29
古墳時代から出土する画像鏡や獣文鏡は、中国、朝鮮での出土もあるが、
その同型鏡の系譜が国内で発展している面もある。
この点からは、国内で複製された可能性があり、中国、朝鮮と同時期とも
言い切れないですね。まあ、朝鮮の出土は記事が遅いものもあり年代遡上
には否定的なものになりますが。
返事がないので寝る。
論点を絞りたいなら、中期古墳から出土したやつまで員数に含めないで、
庄内以前の出土鏡について、製造、輸入、伝世、埋納の条件を語るべきだろう。
岩屋、原田、平出土の「位至三公鏡」の埋納が画紋帯に先行すると判断する
根拠も知りたい。
917 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:58:57
>>916 だからあ、古墳時代より前か後かが重要であって、庄内以前かどうか
の問題ではないんだってば。
まあ、庄内遡上=古墳年代遡上という遡上派はそうかもしれんが、
庄内開始から古墳時代開始の間隔を無視するところ問題なんだよね。
>>913 >>画文帯を300年以前とするのは苦しいですね。
画紋帯って萩原墳丘墓からも出てるけど、萩原を4世紀だと・・・
919 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 02:27:42
>>918 萩原は345年頃ですね。
ホケノと同じ頃。
年代遡上の行き過ぎの典型例がホケノと萩原。
はぁ?
921 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/07/16(月) 07:20:07
熊本の国宝江田船山古墳出土の同向式画文帯は5世紀みたいよ。
922 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 07:24:49
>>917 古墳時代開始の定義って何ですか?
つまりどの時点から古墳時代の開始と見ているのですか?
考古学では
1、纏向型開始(庄内式開始)
2、箸中山築造(古留0式開始)
3、三角縁供伴
この3説が唱えられており、最近では1を推す学者も多いです。
どれを採るにしても、単なる便宜的な時代区分に過ぎませんが。
ところであなたは、何を基準に区分したのでしょうか?
ちなみに
>庄内開始から古墳時代開始
土器編年と便宜的区分を同列している時点で、果たして基準があるのかどうか非常に怪しいのですが。
>>913>>919など
まず画文帯が4世紀となる根拠は何ですか?
これは煽っているのではなく、本当に思いつかないのです。
画文帯を3世紀初頭から中葉と見る根拠は、もちろん土器や古墳編年ですが
仮にこれらの考古学的見地が間違っていたとしても、4世紀に特定できる根拠はないですよね。
極端な話、2世紀でも5世紀でもいい訳です。
なぜ4世紀中葉なのですか?特定できる根拠は何ですか?
923 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 07:53:16
>>921 そう、画文帯同向式神獣鏡の時代分布は相当に広い。
また地域分布も同様に広く、江田船山と同型鏡のものも出土している。
一口に「画文帯」の3文字で括れるほど単純な話ではないのですよ。
ホケノ山の画文帯同向式神獣鏡が注目を集めたのは
楽浪産のものと同じ様式であったためで
これは黒塚などのように三角縁と同時出土する様式より、明らかに古いものだった訳です。
銅鏡の話題になると、特に三角縁に見られがちな傾向ですが
味噌も糞も一緒にして論じているように思えるのです。
まず様式区分をはっきりと書いていただきたく思います。
あと、「魏晋鏡」って何ですか?そういう様式区分は初耳ですが
魏と晋独特の様式というのがあるのでしょうか?
同様にたまに「呉鏡」というのも見かけますが、これも呉独特の様式がある訳ですか?
もし本当にそういう区分が存在するのならば、具体的な見分け方をご教授くださいませ。
>>912 日本で出土したもので「漢」だの「魏」だの鏡式の年代を語るのはおかしくないか?
まずは、中国での出土状況を考察し、中国での編年を考えるべきだし、
日本で出土するものについては、それが舶載鏡かィ方製かに分けて考えなければ
ならない。
舶載であれば中国での編年と伝世が論点になるし、
ィ方製であれば原鏡の編年を基に新たな編年が必要になる。
わずか2〜3枚の出土状況で鏡の先後関係を決定し、自説に都合のよい定義を
作られても、はあそうですかとはいかないですね。
925 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 12:17:42
>>924 >わずか2〜3枚の出土状況で
2〜3枚じゃないって。
でも、少数なら300年の鏡も200年の古墳から出土するという
理屈は成り立たないね。
926 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 12:24:06
>>922 庄内式は、畿内全域で見つかっているわけではない。
庄内式は九州では古墳時代開始以前の墳墓からの出土が主体である。
畿内の庄内式も古墳が築造される以前から使われていた。
という理由で、庄内式開始=古墳時代開始という説はダメでしょうね。
九州が庄内式の時期(古墳時代開始前)の畿内の庄内式は古墳時代
には至っていないと考えるのが普通です。
故に、九州の庄内式で出土した鏡を古墳時代に分類しようとする試みは
無理です。
古墳は全国規模で同規格のものが拡散しているので、同規格の古墳は
同時代性が推定されます。故に、畿内を古墳時代として九州をそれ以前
とする年代観も成り立たない。
927 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 12:30:18
>>923 まず、三角縁国産説を採るかどうかの立場を表明する必要があるね。
舶載説というデタラメが通用する学会ほどこのスレは優しくないよ。
楽浪産の画文帯はそこ以外では、日本でしか出土例がない。
つまり、日本が朝鮮に侵攻し始めた時期に日本からもたらされたものと
考えるのが最も理にかなう。
そうなると350年以前に朝鮮に持ち込まれたとは考えにくいだろうね。
>>925 何が「2〜3枚じゃない」なの?
何が「300年の鏡」なの?
根拠だけじゃなくて、キーワードすら書けなくなりましたね。
まあ、しょうがないですかね。
>>927 > まず、三角縁国産説を採るかどうかの立場を表明する必要があるね。
> 舶載説というデタラメが通用する学会ほどこのスレは優しくないよ。
何で「三角縁」の話に跳ぶのか?
まずは、画文帯の出土と遺跡の実年代比定について語るべきじゃないかな。
そちらは、画文帯を300年以降の鏡と主張しているが、
その根拠が甚だしく薄弱なんだなあ。
傍目から見えて来るロジックはこんな感じなんだが・・・
与件1「位至三公鏡」は三国時代以降に流行した鏡
∴ 3世紀中葉以降の鏡
与件2先後関係は「位至三公鏡」>「画文帯」である。
∴ 画文帯の出土する遺跡は300年以降の遺跡
まず、この与件と結論の関係について論じるべきなのに、これを前提に話を進めたがって
いるようにしか見えないね。
> 楽浪産の画文帯はそこ以外では、日本でしか出土例がない。
> つまり、日本が朝鮮に侵攻し始めた時期に日本からもたらされたものと
> 考えるのが最も『理にかなう』。
そうじゃないと自論が崩壊しちゃうわけですね。
ヒビの入った鏡の踏み返しなんか、鏡作りの本場にわざわざ持っていきますかねw
930 :
SOY:2007/07/16(月) 13:12:59
>>893 征東大将軍さん
論議がしたいのであれば正々堂々と臨むことです。荒らし専用キャラでは埒が明きません。
もし、論議するなら貴方の仮想キャラの中では『クール』との評判が高い『征東大将軍』、
これと論議するのが無駄のない最短の論議ができるのではないかと考えています。
簡潔を好む私がそろそろこういった結論に至るのは貴方にも理解できる話でしょう。
あと、合いの手くん、反安本くん、素人くん、中立くんのキャラもいりません。
もう一つ。相手の発言が覆せないくらいで、
相手に覆しやすいようにこう主張して欲しいとは望まないことです。
私の主張は私が決めることで、貴方が覆せるかどうかで決める話ではありません。
もし、東遷説で論議がしたいのなら、
東遷説の話もあがっていなかった『記紀と倭人伝との不整合』の話の中で、
何故、私(SOY)が東遷説の話をしないのかといった的外れな批判などせず、
『話は変わりますが、東遷説についてどうお考えかご意見を伺いたく思います。
私はこう考えております』
…といった感じで話を進められるのが筋だと考えますが、如何でしょうか?
真面目に論議したいなら、真っ向勝負でお願いします \(^o^)/♪
今、銅鏡論議中のご様子なので、それがきっちりと終わった後、
もし、征東大将軍さんが何か古代史のことで論議したいことがあるなら、
正々堂々と登場し、意見を言ってください。
気が向いたら私も話にのります。
931 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/16(月) 13:24:53
>>895 最初に言って措きますが、私は彼ではありません。
それと彼が私のレスを引用しようとも、彼の責任ですし
特に歪曲でもしない限り、私が関与する積極的な動機はありません。
SOYさんと私との書紀の話は、それより150レス程度前の時点で終わっている話なんですよ。
それ以降の問題は、SOYさんと彼との二人の関係であって、私は関係ありません。
私の
>>893に対する彼のレス
>>894を見て下さい
良いですか?彼はこう云う人なんですよ。
彼はSOYさんを遣り込めようとする一貫に措いて
私のレスを一週遅れぐらいで使ってる訳ですから、
私がそこで介入すれば、私が彼に利用されている事になる訳ですよ。
仮に私の説に対する批判があれば、それは私とその人、個々人での一対一の関係です。
改めて彼の一連の行動を利する形で、SOYさんの年代観を否定するような話を
私が出て行ってする必要はなかったと思います。
932 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :
以前に太国さんと研究家さんの説の違いを争わせようとした「彼のような方」が居ました
太国さんの説を批判する為に、研究家さんを利用しようとして
「太国さんを批判しないのはおかしい」と、こう言う訳です。
その時は、研究家さんの意向に関わらず、私は「彼のような方」を延々と批判しました。
太国さんの説に批判があるなら自分でやれば良いと思ったからです。
今度の彼の場合は、私にSOYさんを批判させようとするのではなく、
SOYさんに私の検証しろ等と勝手に言っているだけな訳ですから
そのまま私が取り合わなかったまでです。
SOYさんの論説への批判があれば、彼が一人で勝手にやれば良い事ですし
SOYさんの論説が彼から批判を受けているからと言って、それを理由にはどうこうしようとは思いません
但し、自説の具体的な内容に付いて批判を受けた場合は、それ相応の対応をすべきです。
と、こう云う考えです。