1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 13:02:02
3 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 13:04:46
名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/05/17(木) 08:42:06
山梨の武田信玄、新潟の上杉謙信、山形の最上義光、仙台の伊達政宗とかは
地元で今も崇拝されてるのに
静岡では 何故今川義元が崇拝されていないんだ?
静岡人が崇拝するとしたら義元しかおらんだろ?
清水次郎長なんかで喜んでる場合ではないぞ
麻呂で崇拝されるのっていったら天神様くらいだろ。
5 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 14:51:42
神社の神主さまも麻呂スタイルでございます〜
6 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 15:36:25
静岡の有名人とか あまり思いつかないね
浜松も含めて静岡県全体でも 本田宗一郎くらいか
違法人の次郎長で町興ししようってくらいだから かなりイタイ土地ではある
7 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 15:39:34
今は伊豆も静岡県か
伊豆だったら北条時政がいるが
かなり しょぼいw
8 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:39:44
正直
北条時政(源氏嫡流の舅・幕府の大物)>>>(越えられない壁)>>>>今川義元(源氏分家末流の田舎守護)
北条氏(執権を世襲)>>>(越えられない壁)>>>>今川氏(田舎守護)
だと思う
>>1 テンプレ見てコーヒーを噴出しそうになったw
10 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:12:27
麻呂が上洛したのは 坊主時代だろ
尾張に攻め込んで逝ったのは 尾張の今川勢力が織田に圧迫されたから
織田を滅ぼして尾張を取っても上洛はできんわ
寝たスレでマジレスして楽しいのかの?
無粋じゃ
12 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:58:14
>>10 公家の義元の上洛を妨げる無粋者は尾張のお漬け物くらい。
お漬け物を叩きのめせば上洛の道はパッと開ける。
13 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 20:03:47
信玄と謙信の一騎打ちとか 義元の上洛目指した桶狭間とか
後世の物書きが作った御伽話を信じるのは厨房
謙信は常に陣頭に立って戦った。だから信玄と一騎打ちするのも当然のこと。
義元は京に憧れ、公家になろうとしていた。だから上洛するのも当然のこと。
珍説に飛びついて常識を見失うのは厨房のすること。
15 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 20:32:14
麻呂は元々京の坊主だったんだから 都が好きなら
今川に戻らないで京で坊主を続けりゃよかったんだ
欲に目がくらんで還俗して半端な侍になって氏んでりゃ世話ないね
まさに不覚の一生だね。
|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:i;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;|
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|______|_____|
| 三| _ _ |三 !
| 三| 三シ ヾ三 |三 |
| 三′ .._ ||||| _,,..u i三 |
ト、ニ| <でiンヽ ;'i"ィでiン |三.|
', iヽ! 、 ‐' / !、 ーシ |シ,イ
i,ヽリ u ,' : !. u |f ノ
ヾ! ui ,、 ,..、ヽ__!_lノ スレ違いとな!?
| _ _ ゙ー┬、`ヽ、
l ,ィチ‐-‐fー'⌒,ラー- ヽ
゙i、 ゝ、二フ,ニ二j ,-ヽ \ ___
| \ ー一 ゙ー'7/ ハ 、 \_/ -ヽ
,ィ|、 \ /,二=-ヽ_ ゙、 ヽ^i-!:i
_, イ | ヽ_ 二=''" `ー--、 ` ゙、 丿 !:|
lミ三三三三三ゞ" ``゙‐-三三三三彡l
lミ三三ミミ'" `ミ三三三彡l
,-'ミ三三ミミ″ _,,,, `ミ三三彡;l
. l,‐、i三三三' ,. -"二三,、: : : : : . . : : : `ニ三こ-、、. 三三ニ彡´^ヽ
.i l ll三三三 ´;ィ彡'",ニ、`ヾ、、: : : . . : : : : ;彳"ニ、ヾミ、、: :. 三三彡//^、',
i l !三三三 .::メ《(::о::) ,l:ヾ、: : : . . : : : :,イ'ヘ(::о::) ゞヘ、:: 三三彡ノ i l
ヽ', :l.ヾ三三 : : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ : .: : 、´``'-`''‐="‐'"´:: : : : : 三彡ソ i //
ヽY ヾ三ミ : ::`ー---‐'''"´: :ノ : : ヾ、`ー--- ' ´:: : : : : 三彡 l //
. ','、 ゞ三; :: : : : : :;;;;、-‐'´ : : `' 、、; : : : : : : : 彡ツ i//
',ヽ、_!ヾミ : : ` 彡' ノ/
ヽ ` `ミ _, : : _ . 彡 ノ./
', ' ミ .:/ ` ´ ヾ:. 彡 /
ゝ、__,,ノ.ミ .:/ ヽ. 彡 ノ
ミ .:/ :、.ゞ≡ ,r;つ 丿 ヾ、 彡‐--'′
ミ .:/ `ー‐‐'´ ヽ 彡l
19 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 00:09:56
まろあげ
|_:::::::::::::::::::::::::::::l:..l;;;:::.:.:::::::::::::::;:;:;:;:;:;:;|
.l..: ̄'''' ー-''':::___i_i___,,...、、、'ェ´''''---‐|
,L,,,___ ..':';i i'' ::.:.. :.:.::;:;:;|
{rミミ::l `'‐--- !_!,,,、 ----‐‐‐-i' ̄;;:i
|ミミ:::l r‐‐ァ r‐‐ゥ _」 三|
|ミミゝ' . ̄  ̄ {,,,、 三|
i´lミ: ! _,,.-_- .-_、 :i 三|
|:|ミ::ノ .,,ィ'r。ァ`ュ ィ"r。ァヽ, | :ニ/i`l
.!ヽ:l . `'''''"´~ / ::. 弋''-‐.'` |. ノi !;ノ
i 'ゞl:::. ./ :: .゙‐- i::l,,i /
l ..|:i:::. ;〃 :: i, | |';.ノ
~ゞ::::::::... ''〈 _±:: ....... |├'
|:::::::::::::.. ) ( .::::::::. ノ:ノ
!::::::::::::::...._,,...____ ..:::.:::. ノ/_
`ヽ,::::::::::..{〉ヘ,__,゙iq /!1l
l::::::::::.八`-''フ~i / ;;r' .i ヽ
/|ヽ:::::: i :^‐‐' .ノ / / / `!_
.,ィ'フ .i ;;'、:: ゙ー-‐′ / .ノ ./ -〒ヽ
__/-/ ヽ . .ヽ..,,__ / / ./ ノ }
そういえば上洛説の根拠って何だろ?
いや、最終的には上洛目指すとしても桶狭間の時が
上洛目指してというのはやっぱり違和感があるんだよなぁ
ここまで定着するには、それなりの理由があると思うんだけど・・・
>>21 歴史小説の影響が強いんじゃないのか?
織田信長の鉄砲とか武田の騎馬隊とか
小説の影響が強いらしいし。
23 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 09:31:29
戦嫌いの麻呂が自ら兵を率いて出陣したからじゃね?
24 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 09:38:32
上洛して朝廷幕府に献金、官位や尾張三河守護を公認させる必要があるだろう
天下を取る意味とは違う
お礼言上なら大々的に軍起こす必要ないな
26 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:38:36
義元クラスの名門公家なんだからそれ相応の供を連れて行く必要があるだろうが。
27 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:50:45
今川家は公家ではない
室町幕府から守護を命じられた武家だが
28 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 12:23:01
おい、麻呂を東海道一の弓取りと呼び始めたのは 誰だい?
29 :
葛山何某:2007/05/18(金) 14:57:50
lミ三三三三三ゞ" ``゙‐-三三三三彡l
lミ三三ミミ'" `ミ三三三彡l
,-'ミ三三ミミ″ _,,,, `ミ三三彡;l
. l,‐、i三三三' ,. -"二三,、: : : : : . . : : : `ニ三こ-、、. 三三ニ彡´^ヽ
.i l ll三三三 ´;ィ彡'",ニ、`ヾ、、: : : . . : : : : ;彳"ニ、ヾミ、、: :. 三三彡//^、',
i l !三三三 .::メ《(::о::) ,l:ヾ、: : : . . : : : :,イ'ヘ(::о::) ゞヘ、:: 三三彡ノ i l
ヽ', :l.ヾ三三 : : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ : .: : 、´``'-`''‐="‐'"´:: : : : : 三彡ソ i //
ヽY ヾ三ミ : ::`ー---‐'''"´: :ノ : : ヾ、`ー--- ' ´:: : : : : 三彡 l //
. ','、 ゞ三; :: : : : : :;;;;、-‐'´ : : `' 、、; : : : : : : : 彡ツ i//
',ヽ、_!ヾミ : : ` 彡' ノ/
ヽ ` `ミ _, : : _ . 彡 ノ./
', ' ミ .:/ ` ´ ヾ:. 彡 /
ゝ、__,,ノ.ミ .:/ ヽ. 彡 ノ
ミ .:/ :、.ゞ≡ ,r;つ 丿 ヾ、 彡‐--'′
ミ .:/ `ー‐‐'´ ヽ 彡l
31 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:59:09
静岡人よ 麻呂を仰げ!
32 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 19:02:22
経緯はどうあれ 今川焼きを静岡名物にするしかない
ミカン味の今川焼きとか作ってみれ
33 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:04:23
蜜柑味抹茶味鰻味
>>32 みたらし団子のタレをちょっとうすめに作って中に入れるってのもなかなか面白そうだなとふと思った
35 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:45:12
36 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 23:13:38
l l l
l 了 l
{ニニニニニゝ
/ ⊂⊃ ⊂⊃ まろは義元でおじゃる。
/ \ 苦しゅうない。
/ (●) (●) \
| (__人__) | そち
\ /^ヽノ / ちこうよれ。
/\ / /__// ̄\
.\ / / / \ まろ夫
\/^ヽ V \
__人_ノ
>>35 結構うまいとおもうんだがな
ならモチいれてみたらしのタレつけて食うとか
38 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 00:16:20
「さあ、買った買った
今は昔 今川義元様が 桶狭間で食ってて
あまり美味いので逃げるのを忘れちまったらしいという
今川焼きだ さあ買った」
とか いい加減な口上をつけて売り出してみれ
39 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 01:03:48
麻呂の好物って何だろ?
お汁粉あたりか?
(゚∀゚)
/;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::ヘ
/,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ
L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l
|l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::... ...:::::::;;;;;;|l
〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
/j/ ヾ、
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (●) (●) ||
|::||::::::::::::: \___/ ||
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ
__/\ ̄`ー―---oo-――'"ヽ__
「 \\ ヽ ハ // / |
/^| \\ \// / |ヽ、∧
42 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 12:20:15
43 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:33:41
来月放送の『風林火山』の「三国激突」の回で勘助と6年ぶりに再開した義元は、
白化粧&お歯黒&直衣&立烏帽子の麻呂スタイルにすっかり変貌してるらしい。
細川俊之にやらせればイメージが変わるかも
「毛利元就」で大内義興を演じたときは公家風な格好はしてても
弱そうには見えなかった。
そういや「炎立つ」の藤原秀衡(渡瀬恒彦)なんかもまんま公家姿だけど貫禄あったなぁ
お歯黒麻呂はそろそろ飽きてきたから、ああいう路線でいって欲しかった・・・
つか、
>>43はガセだろ。
雑誌で「三国激突」の義元見たけど、白塗りなんかじゃなかったぞ。
髭は生やしてたけどな。
47 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 06:54:45
麻呂、カコワルイ
48 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 11:28:00
日本人の9割以上は 脳内で
義元=麻呂
でOK
49 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 11:39:21
>>46 もちろんいつもそういう格好でいたわけではないが、
アニメ「少年徳川家康」(原作:山岡荘八)から、
そういう誤ったイメージが定着してしまったらしい。
>>49 大河ドラマ「三国激突」の今川麻呂守義元がそういう格好かどうかを言ってる所に、お前のそのレスは一体何の意味があるのか?
51 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 03:12:34
52 :
46:2007/05/22(火) 12:39:12
>>49-50 すまん、飯吹いたw
>>51 被ってた。
多分立烏帽子だと思うが、写真が小さい&上まで写ってなかったので断言はしない。
53 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 16:18:19
烏帽子を被っていたのは日常的な場面?
それとも正装が求められるような改まった場面?
54 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 18:16:26
今川氏真の辞世2首
なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科にして
悔しとも 羨ましとも 思はねど 我が世にかはる 世の姿かな
ちょっと情けなさ過ぎでしょ、これw
55 :
52:2007/05/23(水) 01:27:52
>>53 烏帽子を被る場についての一般的な質問なのか、漏れの見た写真についての質問なのか、
安価がないんで迷ったが、漏れへの質問だと解釈してレスしとく。
ネタバレになる気もするが、ノベライズによると、陣を敷いた善得寺城での、使者引見の場面。
他国からの使者を迎える場だから、改まった場面と言えるだろう。
次の日曜まで待てば、次回予告に映像が出てくるんじゃないか…と予想。
56 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 14:31:20
おいおい、今川義元が公家大名だとか、
上洛を狙っていた、なんて本気で信じているのか?
最近の説では尾張への領地拡大説が有力だぞ、
家督もすでに氏真に譲ってるし、
57 :
56:2007/05/25(金) 14:33:24
公家大名なのはそうかもしれんがそれを理由に
貧弱今川と決め付けるのはやめろ。
貧弱大名なら駿河、三河、遠江3カ国を支配できるわけがない。
すべて三国同盟のおかげ
59 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 16:06:26
嘘でも出任せでも おもしろけりゃ話のネタになる
それで稼いでいた昔の噺家とか芝居があったんだから
真実が伝わる訳がない
上洛目指した義元の大軍が信長の奇襲で負けたとか
武田の騎馬隊が信長の鉄砲三段撃ちにやられたとかのほうが
面白いからね
60 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 02:32:48
仮にも東海道一の弓取りと言われた男だ
誰が言ったのかは知らんが
東海道って狭くね?東国一とか西国一とかなら自慢にもなるけど
>>61 狭いことは狭いが、文弱の公家が東海地方一の大名と言われるまでに武名をあげたわけだ。
立派なものじゃん。
64 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:20:16
65 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:31:44
>>61 東海道は律令制における七道の一。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河
遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の
15国の事。
>>65 よーするに、滋賀より東側の東海道本線領域全部か
>>66 というか、千葉や茨城まで含んでいるんだが。
68 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:25:44
倅の氏真も東海道一だな
東海道一の放蕩鞠蹴り息子
親父も呆れてたらしいからね
西国一の侍大将とか海道一の弓取りって最後が似てるよね
70 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:56:22
関ヶ原より東、の方が正確だな。
すまん、鈴鹿関より東、か。
74 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 03:54:17
戦国時代から江戸時代には木曽三川と富士川の間が、特に「海道」と呼ばれた。
いまの東海地方と考えてもいいだろう。
義元の代になって領土が拡張し、駿河・遠江・三河の太守。
尾張の3郡は今川の勢力下で、多分今川の工作によるものか同盟していた道三が敗死、
同盟が破綻して織田は孤立無援となれば、だれもがいずれ織田は滅ぶとおもっただろう。
>>69 義元の次に「海道一の弓取り」と言われたのは家康だよ。
75 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 04:41:48
近江は最初は東海道で途中から近畿になったはず
76 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 05:50:18
今川焼って義元が食べるのに夢中でアボンしたってやつ?
77 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 07:04:36
>>74 なんだ ただあそこらへん領有してますよって程度だったんだね>>海道一の蹴鞠師
78 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 08:05:09
麻呂の領土拡大も合戦の勝利も
仲間の坊主の功績
坊主が逝ったのに 尾張の戦で陣頭指揮なんて不相応なことやるから
麻呂は逝ってしまった
79 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 08:19:30
>>78 麻呂は京都で連歌をするために尾張を通行中だった。
麻呂くらいの格になるとただの旅行でもそれなりの供揃えを用意する必要があった。
織田と戦をする気なんかなかった。
大勢の麻呂ご一行様を見て、野蛮で小心者の織田某は
何を勘違いしたのか突如襲撃し、麻呂を虐殺した。
朝臣の麻呂を殺した織田は朝敵。打ち首獄門。
80 :
次回希望テンプレ(前スレ立てた人):2007/05/27(日) 12:46:50
§ 溢るる気品、秀でし能力。
§ ひと時は最も先進的な政を布いた一代の傑物。
§ 海道一の弓取りとは将に麻呂のことよ。
§ ここは当初より人気スレッドなるは、まこと鼻高きこと。
§ 単に麻呂の遺徳ゆえと心得る。
§
§ なれどデブだピザだ惰弱だなどと呼ばるるは堪忍ならぬ。
§ その方ら麻呂を岡崎の小倅と混ぜこぜにしておるのではおじゃらんか?
§ 嗚呼、まこと戦には負けとうないものよ。
§ 不覚、不覚!まさに一生の不覚でおじゃる!
82 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:05:52
律令制の五畿七道の区分のなかで、近江が東海道に属したことはない。
但し道路としての東海道は、中世には鈴鹿経由よりも関ヶ原経由のほうが
一般的になっていたのは事実。
京都から東海道方面へ行く場合でも、美濃府中のあたりまでは東山道と同じ
経路を通って、濃尾平野に入った段階で東海道に転線して、尾張・三河方面へ
行くという経路がこの時代には一般的ではある。
83 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:20:34
静岡人は 麻呂を神として祭るべきだ
そして今川焼きを奉納せよ
84 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 23:34:09
85 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:21:33
近畿なんて区分は明治になってできた言葉だよ
87 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 04:33:53
88 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:19:56
89 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 04:56:46
鎌倉時代の北条得宗家もそんなものだろ。
91 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 13:59:56
立烏帽子&狩衣が普段着。
92 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 00:01:17
麻呂の最大の失敗は 阿呆の氏真しか男子がいなかったこと
他に優秀な子供がいたら 麻呂の死後も今川家は繁栄していただろうに
93 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 00:37:10
>>92 いや、氏真は36歌仙にも選ばれ日本文学にも名を残したし、蹴鞠も達人。
最後には徳川家で高家になるなど、ある意味では優秀。
94 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 07:55:50
信長の前で蹴鞠をやる腑抜けは逝ってよし
95 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 09:23:44
麻呂キモイw
97 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 00:34:30
>>95 朝刊で初めて見たときにも麻呂そのものって印象だったな
98 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 14:36:36
今川氏って嫡流の子孫が断絶しているから、いくら貶めても誰も抗議しないし、死人に口ナシ状態なんだよな。
>>98 戦国大名みな死んでますが?
勝てば官軍、負ければ賊軍
勝った者が正義
仕方ないよ・・・
徳川家みたいなガチで偽源氏でも将軍になれるくらい強さがあれば
仕方ないよ・・・
>>99 「戦国大名みな死んで」るのは当たり前。
>>98は家が続いているかどうかの話をしている。
遂に「その時歴史が動いた」で取り上げられるな。
我らの御館様が脚光を浴びる時が来たのだ。
103 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 22:11:34
>>102 えっ?今川義元がやるの?詳細キボン!
>>104 今はそうなっているが、月曜日までは「信長誕生〜悲劇の武将 今川義元〜」となってたから
今川サイドの視点じゃないかと思う。
>>104 今はそうなっているが、月曜日までは「信長誕生〜悲劇の武将 今川義元〜」となってたから
今川サイドの視点じゃないかと思う。
>>105 そうだったのか、ありがとう。
「仮題」となってるから、また変わるかもな。楽しみにしていよう。
今川メインのタイトルじゃ視聴率取れないだろうから
信長メインのタイトルになっちゃうのはしょうがないな
そりゃ麻呂がメインだったら視聴率はとれんわ。
110 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 11:33:20
>>104 そうか・・・義元ファンの俺としては残念だ。
112 :
104:2007/06/26(火) 00:44:22
>>110 いや、
>>105情報によると、元々のタイトルは義元寄りだ。
放映前の時期になって番組の中身を信長サイドに変えるとは考えにくいから、
タイトルだけを、いかにも信長サイドっぽくしてみただけじゃないか。
しかし、もしそうだとすると、今の仮題はタイトル詐欺になりかねんなw
副題で義元の名が出れば別だが。
114 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 22:28:17
東京12チャンネル(テレビ東京とも言うらしい)が超歴史ミステリーとかいう
DQN番組やってたが みましたか?
その番組で桶狭間の戦いの醜いでっちあげが さも本当のように放送されていた
これは納豆ダイエットに匹敵する やらせ番組だ
115 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:03:16
テレビ東京のDQN番組
信長公記の記述を丸呑みして 好き勝手言い放題
今川軍が略奪しに行って義元周囲が手薄になった時に 信長が攻め込んだが
これは奇襲ではないんだとさ
あと生駒吉乃の存在が最近まで分からなかったとか 脳内自説のオンパレード
116 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:20:36
信長伝説をつくった男の方がしっくりくるなぁ
史上最大のヒーロー信長の始まりは麻呂様だし
>>113 長篠の勝頼編みたいに、信長の周到な用意があった裏付け的な検証内容になりそうなタイトルだね
118 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 20:21:17
>>117 うわ、それヤメて。
対玄広恵深、対氏康×2、対信秀、三国同盟、東尾張に対する謀略とか
義元が良かった時のことやってくれい!
NHKよ、テレ東のような糞チャンネルとは違うところをみせてくれ!!!
誌名は忘れたが、二週置きに出るテレビ情報誌の内容紹介だと、確か、
・義元は実は鉄砲をいち早く取り入れるなど先進的な武将だった
・それを信長が見習って取り入れた
みたいな内容だったと記憶している。
立ち読みだからうろ覚えだが…
水曜の夜中になれば、公式サイトに紹介文が出るだろう。
>>118 >対玄広恵深、対氏康×2、対信秀、三国同盟、東尾張に対する謀略とか
>義元が良かった時のことやってくれい!
・玄広恵深
氏輝、彦五郎に続いて3人目の兄殺し
・対氏康×2
関東に大敵を抱える氏康に本領の駿河をやりたい放題に荒らされる。
武田の援軍と関東情勢によって滅亡は免れる。
・対信秀
尾張の小奉行・織田某に三河をやりたい放題に荒らされる。
一発逆転で坊主に軍を率いさせてみたらなぜかまぐれ当たり。らっきー。
・三国同盟
北条に本領を荒らされて滅亡寸前の今川の土下座外交に、
いいかがん今川に振り回されるのが嫌になった武田と、
ろくに米もとれない駿河を攻めるのに飽きた北条がのってくれた。滅亡回避。
・東尾張に対する謀略
うつけ者の謀略に引っかかって味方となった土豪を粛正。アホですわ。
122 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 13:25:52
>>121 あからさまな釣りだなw2ちゃん社員か?
>>122 >2ちゃん社
えっ、そんなのあったの!知らなかったーー!
その時歴史が動いた 第295回
「天才信長をつくった男〜今川義元 真説・桶狭間の戦い〜」
平成19年7月11日 (水) 22:00〜22:43 総合
小和田 哲男 (おわだ・てつお) さん (静岡大学教授)
織田信長がその名を天下にとどかせた桶狭間の戦い。今川義元の大軍を織田信長が奇襲、
奇跡的な勝利をとげた合戦として知られている。
しかし近年の研究で、これまでの義元像そして桶狭間の戦いそのものの実態に、これまでの
通説と異なる様々な事実が明らかになっている。
貴族化した武将とされてきた今川義元は、実際は、家臣・農民の組織化をはかり一大軍事
集団を作り上げた革新的武将だった。一方、東海地方の覇権をめぐって義元に敗退を重ねて
いた織田氏。そして父・信秀の死後、義元との戦いを引き継いだのが信長だった。“天才的な
武将”とされる信長だが、実はその手本を敵将・今川義元に求め、その強さの源である
「組織力」を徹底的に学んでいた。その中からさらなる創意を重ね、やがて信長はのちの
“ノブナガイズム”ともいわれる独自の軍事力を作り上げていった。
頭角をあらわす信長に危機感を抱く義元は、ついに信長軍殲滅(せんめつ)を決行。
今川義元と若き織田信長。戦国の革新者である2人が、世代交代をかけ、桶狭間で激突する。
番組では、戦国の改革者・今川義元と、その彼としのぎを削ることで成長を遂げた若き信長、
この両雄の対決を描く。
125 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 23:36:20
うむむ、微妙だな。
義元をどこまで掘り下げて放送するか...
狐橋とか吉良攻めとかやって欲しいところだな。
126 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 23:42:09
>>121 確かに凄い釣りだなw
つっこみどころ満載w
127 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 00:57:19
↑
痛いところを突かれてあせりまくりの麻呂ヲタの図
128 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:33:38
>>124 見た感じ、義元さんを貶める内容じゃないことは、確かだね!楽しみ!
>>124 ,彡ニ三三三三三三三ニ=ヾ;:;:;:;:;:;;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:i;:;:;:i'
,彡ニ三三三三ニ三三ニニ;〃ヾ、;:;:;:;:;:;::;:;::;:::;:/;:;:/
,彡彡,'',ニ=ミミミ三三三三ニニ彡 `゙゙''ー-、;:;:;:;/;:;/
',彡'/ r' ノヽヾミ三三三三三彡' _,,,,,,、ヽ;:;ィ''|
彡'|.|(‐'''" 'iミニニ三彡"´ ̄ `゙゙ー' ;;;:|
. 彡i、ヾ (' ヾミニ三' __,,、 ....ノ / .
彡ゝ `'' " |ミミミ' ‐'"ひi,;'´ ,ィ;;ァ'
'彳`ー‐i |ミミミ' `゙ーシ' |、ニ'
--、/ i |ミミ .,,r‐''" | ノ
く'ノ :i ミミ ´ ., ' |' わしを蔑むような内容じゃなければよいでおじゃるがのぉ。
、\ .l ヾ .ノ(_,,、. |
:\ヽ, ヽ / `t‐一' __
::::ヽ ヽ `::. ,; ' .:i 〈 ヽ
:::::::ヘ ヽ `::. ''"⌒゙''一ノ | }
::::::::::ヘ.ヽ ヽ、 ` ー'ーノ !>'⌒ヽ、
::::::::::::::ヽヘ `ー┬‐一;;''""´ /ヽ、 , )
\、:::::::::ヽヽ /::ヘ ) `゙'ー、_ /:::::::::Τ  ̄ `l
〃`゙ー、;;;;\\ /i:::::::丿 ' , ' , '`゙ヽ、 /:::::::::::┼‐- -ノ
130 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 12:44:51
_,,,,,,,,
, - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l |
|. ,' //
. ',. ,' , r' 今夜10時、見逃すでないぞ
. ゙, ゙'ー ‐` l |
゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
l ` 、,,,,、- ' " / /.| |
. | | .l i / ./ | |
| | | l / ./ .| |
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| | | ', / / l .l
131 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 13:44:22
静岡中の人が麻呂を尊敬するような番組を期待してます
>NHK
132 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 14:54:58
133 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 20:37:55
134 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 22:51:55
お ま い ら 反 応 無 し か YO !
135 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 23:22:29
>>134 小和田のオッサーンが出てきた時点で、こりゃ駄目だぁとおもたよ。
ひどい出来・・・
別にいいじゃん、信秀を一方的にフルボッコして病死に追い込んだ風に描写して貰えて
138 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 23:53:55
未曾有の大軍を擁して攻め込む戦略の先駆けだったんだね。近隣諸国の国人や地侍を圧力で屈服させる戦法。
凄いんぢゃまいか?けど、山陰の尼子や大内も大軍を率いてなかったかね?
まぁ桶狭間って時点で、信長のだしに使われるのは確定してたわけで・・・
140 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 02:59:16
どんな内容だったんでつか?
詳しく知りたい・・・
緒方信長の映像が使われてましたね
142 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:43:28
結局、麻呂などではなかったということでファイナルアンサー
143 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:43:45
>>53 >>55 すげぇ遅レスだが、室町当時は庶民でも帽子を脱ぐことは殆どなかったぞ。
例外は坊主かガキか乞食くらいだ。
烏帽子、立烏帽子、何にしてもだが、屋外屋内関係なく被っていた。
取るのは寝るときと風呂のときくらいだったらしい。
現代でもそういう人いるな
146 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:22:05
戦国大河での烏帽子の扱いって、ものによってかなり違うよな。
例えば「信長」なんかのときは将軍・公家以外の登場人物が烏帽子を被っている
場面はほぼ皆無だったが、「毛利元就」なんかでは改まった場面では
烏帽子着用が基本になってた。
最末期の月山富田城落城の際の毛利元就と尼子義久の対面の場面も
烏帽子だったし、大内家中なんかは日常から全員烏帽子着用がデフォみたいに
描かれていた。
>>146 あの頃は風俗が大きく変わっていった時代。フォーマル面でもやはりそうです。
信長の・・・といっても桶挟間から本能寺まで結構な期間がありますが、
この間にすっかり様変わりしていたようです。
大内と同じように京文化の庇護者を自称していたわれらが今川の麻呂様(笑)は、
「被っているのが常識」と思われたに違いありません。
148 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 00:20:16
麻呂などではなかったということでファイナルアンサー
149 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 02:35:59
烏帽子をかぶった信長は想像できないよねぇ。
道三との対面時に正装したときくらいか・・・
150 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 02:43:32
>>147 しかし「毛利元就」のときの大内親子は、立烏帽子だけでなく着ている物も
直衣がデフォだった。
しかし今年の大河では、駿河の麻呂様は頭は立烏帽子でも服装で直衣姿は
一度も出てこない。
せめて今後(史実かどうかの議論は別にして)おそらく描かれるであろう
善得寺会盟の場面なんかでは、三者とも直衣&立烏帽子で対面して欲しいものだ。
151 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 18:50:01
麻呂殿は大企業の社長なのでフォーマルな衣装がお好み、
M&Aで成り上がったカンパニー織田(IT関連)の社長は普段はノーネクタイ。
152 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 21:20:01
あの頃って
将軍の義晴、義輝親子が月代剃って肩衣着てる肖像もあるから
時代劇では雰囲気出しのためお公家服着てるけど
実際には義昭も普段は月代肩衣姿だったんだろうね
肖像画のために粧しこんだ可能性は?
絵なら、烏帽子かぶっていなくてもかぶってるように描くことも可能ジャマイカ?
逆もまたありえる。
155 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 00:55:23
>>152 おいおい、お公家服ってなんだよ・・・。
てゆうか、公家が月代を剃ることはなかったんだろうか?
あと時代劇とかだと、戦国時代の丁髷って、後ろに真っ直ぐ伸びているタイプと、前頭部のほうに向けて少し曲がっているタイプがあるね。
前者は烏帽子装着を想定していない髪型、後者は想定している髪型ってことなのかな?
>>155 >公家が月代を剃ることはなかったんだろうか?
変装だったり武芸あるものなら月代をそることはあったかもしれませんが、
それだと武家のうち。いわゆる高位高官の公家や皇族ではありえないこと。
>後ろに真っ直ぐ伸びているタイプ
まーいわゆる茶筅髪(ちゃせんがみ)のことと思いますが、あれは公家
由来で、あの上から烏帽子を被っていたそうな。むしろ烏帽子装着を
想定している髪型ではないかと。
157 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 02:47:44
髷が後ろに真っ直ぐ伸びていると、烏帽子に入らないじゃん。
158 :
157:2007/07/20(金) 02:51:08
てゆうか戦国物の時代劇とかだと、烏帽子装着の機会のある大名クラスの髷は曲がっていて、雑魚家臣の髷は真っ直ぐじゃね?
今の大河でも、勘助の髷は斜め後ろに向かって真っ直ぐだけど、晴信の髷は前のほうに向かって曲がっている。
159 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 10:29:30
立て烏帽子と侍烏帽子
なあ
丁髷ってハゲごまかしのためだよな?
>>160 ごまかしているっーか、ああでしか髷を結えないから
スキンヘッドにすりゃいいじゃん!
>>161 そうじゃなくてだな
そもそもあんな形なのがハゲごまかしというか
伸ばし放題だと落ち武者呼ばわりされるし、バーコードっていうのもあんまりだし
そう、ちょうど現代でいうバーコードが丁髷の意義だったんじゃないかと
164 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:21:24
>>155 烏帽子と狩衣くらい知ってるよ、学校で習うもん
そんなとこでいちいち反応しなくてもいいじゃん
それはそれとして
丁髷はあの当時小指くらいしかなかったからはげ隠しにはならんと思う
165 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 04:51:22
狩衣ってお公家服?
公家の日常着って直衣じゃね?
狩衣=狩用の衣
直衣=タダの衣
当世風にいえば、ジャージとシャツの違いみたいなもんだ。
167 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 09:33:47
自分で戦場にでない武将はろくな武将じゃないな〜
たまに出てみればあっけなく討ち死ぬし 統率力もないし
168 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 09:55:03
いや、武将だよ
>>168 義元は元坊さん。
元公家はお母ちゃんの寿桂尼だろ。
なるほど、公家の息子で坊主になっていた香具師が突然クーデターで駿河を乗っ取ったわけか。
野蛮だね。
氏真誕生〜悲劇の武将 今川義元〜
坊主〜武将〜麻呂 今川義元
>>171 「クーデター」ではないね。
この時代によくある跡継ぎ争い。
175 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 17:24:52
176 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 19:30:22
○梅岳承芳 VS 氏輝・彦五郎×
○梅岳承芳 VS 玄広恵探 ×
177 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 20:43:20
そんなごたごた起こしてる間に
「天下一苗字」無視して
那古野城に今川氏豊とか出てきてたね
>>163 「丁髷ってさ、実は馬鹿にしたいいかたなんじゃないか?」と言いたいんだと理解するが
そういう意味なきにしもあらず。
というのもだな、この丁髷が男の髷の総称になったのは明治になってからでな。
丁髷は禿げた爺さんの髪型だが、頑固でコンサバな爺さんが、断髪令が施行されても
まだ結っていたんでという、そんな経緯があるんだな。
まあ「男のプライド」って奴が歴史に名を残したってことだ。
あまり深く詮索するでない。
179 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 06:49:11
麻呂が桶狭間で奪われた刀が、信長のお守りになっていたらしい
180 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:11:14
信長版・天叢雲剣
181 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:06:14
>>179 某番組で最近得た知識だからって得意気に自慢しなくていいよ。
司馬遼が書いているぐらいだから最近ってわけでも無いと思うが…
麻呂→桶狭間
信長→本能寺
お守りどころか祟られてる気がするが・・・
ひんと:天下人
185 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 16:36:05
信長の子孫のスケート選手が犯罪おかして処分されるらしいぞ。
義元殺した信長はなんで処分されなかったの?
氏真公が蹴鞠を披露して、その罪について赦免することを全国的に宣言したから
義元の評価が低いのは氏真の影響があると思う 生き恥晒しすぎ
氏真がアホなのは義元の責任。教育&急死
ムチャクチャだなw
実際どれほどのアホだったかは知らないが、今川家としてはあそこで義元が急死するのがあまりにも想定外。
他の跡取ぼんくら仲間と比べてもちょいと氏真は巡り合わせが気の毒な面がある。
国人のお頭も死んでるし、足元見て松平独立するし、甲斐の両刀使いは工作してくるし
桶狭間の時点で事実上チェックメイトだ
まあまともな武将はみんな両刀だったからね
義元は違ったんだろうけど・・・
193 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 20:27:21
今川最強
たしか秀吉も義元と同じ高貴な出だったはず
秀吉って天皇の息子だったはず。
公家出身の義元より↑。
秀吉は両刀でしょ
198 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 14:17:46
秀吉は神の子だよ
キリストとかと同格
199 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 23:44:26
>>198 むしろ、キリストやマホメットと同じキチガイ。
秀吉は神そのものだよ
キリストとかマホメットより↑。
201 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 07:43:39
あれ、秀吉って日本猿が突然変異したんでないのか
202 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 12:28:11
秀吉は織田に仕官する前の一時期今川につかえていたらしいけど愛想つかして出て行った
今川って本当人材登用が下手だね〜
203 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:24:16
秀吉は、引間城主飯尾氏の被官松下氏に就職活動をしたのであって
今川は秀吉が居たこと自体知らなかったんじゃないか。
204 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:09:15
205 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 02:32:45
yes
206 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 20:56:55
age
207 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 06:51:00
age
208 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 15:01:59
, ´  ̄ ̄ ̄ ` 、
__,/ \
 ̄ア ヽ
/ | ヽ
/ / /.l | | l | l | ',
/ / / /__|__l__ll ハト, _ト,__l | l
| | l | l__l__ハハ | | |l从ヽ |`| l ヽ |
| | | |//丁ヽ V リ イ丁 Tヽl | ヽ |
|,ハ l | | |ヽ{::::`‐| {::::`‐j/ j/ヘ/|ヽ
ヽ .| .V ゝ--' ゝ--' /l|ノ⌒|:: ヽ 私の執事を や ら な い か ?
/ ヾV'| ヽ __'_ / | .l:: ',
/ .:::/ | | \ | j / | | |: ',
/ .::/ | | ` 、 ー―' イ | | l::: ',
. / .::/ | | __,r‐|`  ̄ ´ h_, l | l::: ',
/ .::/ ,| |´}_ L_,--、__ ノ __{`! .l l:::. ',
/ .::/ / l j }_//-r―┴、 ヽj | .j`ヽ l::. ',
. / .::/ / V | / ー二ヽ‐' Y j V i ';:: ',
/ .::/ .l l | 二`ヽ> j 〈 | ';::. ',
. / .::/ | l. l ヽ jl / / l '、:::. ',
/ .::/ < i ,、j } 'Y { 〈へ_,、, i 〉 ヽ::. ',
,' .::/ ヽ/`===|/\ 人 /〉l===<l/ ヽ:::. ',
,' ::/ L_/ V \\// ヽl Y ヽ::. ',
,' .::/ |. / ゛/<.´ ヽ | ',:::. i
,' .:::/ ヽ ,/ / ', ',. | ',.::: l
209 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 22:47:03
やりません
210 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 00:50:20
>>208 年収1000万以上住み込み三食昼寝肉体関係つきなら
212 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:24:50
病気が移りそうだから、やめとく。
l三`ー 、_;:;:;:;:;:;:j;:;:;:;:;:;:_;:;:;_;:-三三三三三l
l三 r=ミ''‐--‐';二,_ ̄ ,三三三彡彡l_
lミ′  ̄ ー-'" '=ミニ彡彡/‐、ヽ
l;l ,_-‐ 、 __,,.. - 、 彡彡彳、.// 我が計略を受けるがよい
_______∧,、_‖ `之ヽ、, i l´ _,ィ辷ァ-、、 彡彡'r ノ/_ ______
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄'`'` ̄ 1  ̄フ/l l::. ヽこ~ ̄ 彡彳~´/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ´ :l .l:::. 彡ィ-‐'′
ゝ、 / :. :r-、 彡′
/ ィ:ヘ `ヽ:__,ィ='´ 彡;ヽ、
_,,..-‐'7 /:::::::ヽ _: :_ ヽ ィ´.}::ヽ ヽ、
_,-‐'´ { ヽ:::::::::ヘ `'ー===ー-- ' /ノ /::::::ヘ, ヽー、
今川なんて
今川家を滅ぼしたのって家康?信長?どっち?
桶狭間で義元の首を取ったのは信長だが
家康はどうなの?
216 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 12:47:11
信長はシカト
家康は守ってあげた
強奪したのは武田
217 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 18:31:35
218 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 18:33:17
219 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 19:05:36
>>215 駿河をエサにして武田・徳川に与えた信長
220 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 21:03:13
家康って根っからの謀反人なんだね。
今川を滅ぼし豊臣も滅ぼした。
下克上の典型だね。
221 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 19:43:28
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
↑
お前こそ出ていけ
225 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 22:03:26
226 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:43:37
でも信長の野望でやると一番統一しやすい大名なのは確かだよね><
227 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:57:59
今川十八人衆って聞いたのですが、氏真のときでしょうか。
具体的に誰なんでしょう。
そもそも今川は足利一門
なぜ駿河の守護になったか
なんてのを調べてみるのもおもしろいかも
229 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 01:37:10
>>224 なんか、Koria票、いきなりドバット増えたぞ(w
230 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 02:01:41
>>228 建武政権期に守護だった石橋和義の奥州転出のため。
232 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:13:01
いよいよ来週の日曜です。
233 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:45:54
このネタで一週使うのかよ
234 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 17:59:40
いよいよ明日が麻呂の命日か。
泥まみれになりながら必死で足軽にかみつくんだっけ?
公家の作法はよー分からんね。
235 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 18:55:38
義元公は立派な武家だよ弓取りだよ。
公家なんかじゃないよ!
麻呂は永禄三年五月十九日(1560年6月12日)に討ち取られたのじゃぞ。
グレゴリオ暦に直しても6月22日じゃ。
237 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 22:54:00
大河ドラマのことを言っているんだよ!
238 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 19:58:54
義元本当に死ぬの?
239 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 20:29:13
松平元康が謙信方式で今川家の家督を継承して、今川元康になればよかったのに。
240 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 20:53:03
嫡子がいるのにそれはない。
241 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 07:56:26
蛆座寝は北条氏直を形式上の養子にして
奪われた領土を北条を使って奪還しようとしたが駄目だった
242 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 08:27:05
義元って射殺されたんだってね。
でもなんで首まで取られたの?
というか、なんで本陣近くまで織田の鉄砲足軽が侵入できたの?
243 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 08:40:17
山本勘助なんて実在するかどうか怪しい香具師だろ
そんなのが義元に織田攻めの助言するわけない
怠画ドラマは フィクションばっかり
>>242 >でもなんで首までとられたの?
こいつ馬鹿か?
>>243 こいつはアホ?
ドラマなんだからフィクションなのは当然じゃん。
>>244 たぶんお前が一番バカでアホだと思うよ。
246 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:20:08
史実では義元は斬り殺されたことになってるだろ
ドラマは どこまで本当で どこからフィクションなのか判別しづらいから
たちが悪い
247 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:58:58
>>246 >史実では義元は斬り殺されたことになってるだろ
ソースキボンヌ
248 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:07:03
自分で調べろ
おはぐろしてたから歯は強かった
250 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:18:49
義元って斬り殺されたのか?
>>250 「信長公記」によれば義元は織田兵に斬り殺されて首をとられ
義元の首級は信長のもとに持ち帰られている
愛知県西尾市の東向寺に今川義元首塚なるものがある
首以外の胴体は今川軍が持ち帰って駿府に埋葬した
敗北した今川本隊ってどうやって駿河に帰ったんだろうか。
織田も早々に引き上げたし、桶狭間に再度戻って
義元の胴体回収の上、隊伍を組んで帰ったのかねえ?
というか、義元の胴体って他の死体とどうやって見分けたんだろうか。
いいもの身につけてただろうし、身ぐるみ剥がれてなかったのだろうか。
>>251 信長公記には斬り殺されたとは書いてなかったはず。
槍か刀かは不明だったと思われ。
組み敷かれて脇差しで首をギシギシやられたんじゃね?
痛かっただろうなあ。
きっとものすごく人間離れした悲鳴を上げたんだろうね。
「ぎょえぎょえええ〜!!」とか。
255 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:07:24
257 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 00:45:54
>>253 少なくとも鉄砲で撃たれて逝ったのではない
怠画ドラマは嘘
>>257 あれ、鉄砲で撃たれた描写じゃねえじゃん
>>258 鉄砲で撃たれて機能停止してたと思うんだが。
まさか杯割られただけで腰が抜けて家来に引きずっていかれたわけではあるまい。
dゅmゅ,yゅsゅmゅtゅh」kゅgゅd」k」r」nn」///.
sゅnnn」kゅtゅg」」ttゅmゅhゅsゅgゅjy」n」ゅ.
261 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 11:45:54
>>253 「信長公記」によると義元は馬にのり三百騎ばかりで後退したが、
五十騎ほどまで討ち減らされ、自身も佩刀を抜いて戦い織田兵を退けたりしたが、
その横合いから今度は毛利新介が槍で突進、ついに討たれた。
262 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 13:39:01
先日掛川城に行って参りました。かつては人質として馬鹿にしてたであろう家康に包囲され氏真はここで何を思ったのだろうとしばし考えました
263 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 14:18:04
264 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 16:13:41
信長公記は、大本営発表並の嘘ばっか
信用できんな
265 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:30:03
>>262 馬鹿にはしてないだろう。義元も自分の親族の娘を家康の嫁にしている。
また、家康は今川家の軍師である太源雪斎から教えを受けることも出来たし、
かなり厚遇されていたといえるだろう。
氏真が没落したのは武田・織田・徳川の同盟による共同作戦の結果(信玄の力が大きい)
であって、家康単独では氏真を攻め滅ぼすことなど出来なかった。
>>259 視界がきかない程の超集中豪雨の直後に攻撃を開始したようなので、鉄砲が使えたかどうか?
266 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:37:58
>>264 それでは真相はどうだと?
>>265 しかし織田・徳川と武田が共同歩調だったのは、ごく短期間だけどな。
結局、氏真本人を含めて今川の一族・家臣団を完全に滅ぼさなかったのは、
信玄のいいようにはされたくない織田・徳川方の思惑だろうし、結果として
上杉と北条が氏真支援のための同盟を結んで武田と対峙して、さらに
織田・徳川もやがては氏真保護の姿勢になっていくわけだから、長い目で見れば
武田にあまりいいことはなかったような気もするな。
しかも征服した駿河では、これ以降毎年のように、親今川の国人たちによる
一揆に悩まされるわけだし。
>>265 家康は単独で今川を押しまくりだったわけだが。
よそからの介入がなければ余裕で滅ぼしてただろ。
268 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:03:47
今川の家臣って太源雪斎と岡部元信と朝比奈泰朝くらいしか名将いなくね?人材が乏しい。ほとんど
三河武士を盾に闘ってたから、家康の三河軍団が鬼強くなって最後は掛川城でガクブル。最悪だな。
269 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:26:19
>>267 寝言はやめてくれ。
家康が遠江に侵攻できたのは信玄が今川軍の主力を撃破し、駿府まで占領したからで、
信玄との同盟がなかったら家康は遠江には一歩も入れなかった。
永禄11年12月13日には今川軍は信玄の前に潰走し駿府も占領、家康は今川の主力の潰走を知り
12月15日に遠江への侵攻を開始している。
>>269 今川領は尾張、三河までひろがってたんだけど、遠江より西のことは完全スルーですか?
272 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:11:43
>>263 鳴海砦の岡部元信の包囲網凄いな。鳴海砦は、織田にとって大事だったんだな。。。と見せかけた
奇襲だったのかね?確かに、義元が大高城に入って居れば奇襲は無理だったね。尾張は終わって
たろーな。
で、この半島に布陣してる大軍団の葛山勝嘉って誰?信玄の六男の信貞かい?だったら、ここで
あぼーんした訳か。完全孤立して戦死とか痛いなぁ。。。。。。。
273 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:17:54
274 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 12:12:39
しょせんは坊主くずれのDQN麻呂
戦争のセンスがなかったから、勝てる戦に負けて逝ってしまった
さらに悲惨なのは後継者が 馬鹿に輪をかけた超DQNだったこと
276 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 20:22:38
普通に戦ってれば、今川は織田を滅ぼして尾張を併合していたのに
愚か者の義元だから負けた
あと、氏真は救いようのない阿呆だということ
OK?
とりあえず、その件が有力だという文献を読んでみたいものだ
話はそれからだ
>>276 義元は愚かすぎて普通に戦ったにもかかわらず壊滅的な敗北をした。
早い話が公家の今川に戦は無理。
279 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 03:09:12
>>270 三河以西は義元一代で獲得した領土なので、無くても無問題。
>>276 同盟を破って駿河に侵攻した信玄に今川軍主力が撃破されるまで、遠江に一歩も入れずに
「救いようのない阿呆の氏真」に手も足も出なかった家康は氏真より阿呆だということ。
OK?
氏真は剣を塚原卜伝に学び、蹴鞠は飛鳥井流宗家から受継ぎ、
和歌は権大納言冷泉為和に学んで1000首を超える歌を残して三十六歌仙。
文武両道で、家康より遥かに高級な人種だ。
280 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 03:09:45
織田が今川に勝つとしたら奇襲しかないと、普通の武将だったら分かるだろう
奇襲を受けにくいように、本陣を城か砦に置いて部隊配置をする
それができなかった義元は、坊主崩れのマロ
281 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 03:17:47
下級武士なら、槍や剣が上手なだけでもいいかもしれん
公家なら、蹴鞠や和歌が上手ならいい
しかし、戦国大名の当主は、それでは務まらない
戦に負けない知略と、家臣や領民を信服させる器量が不可欠だ
氏真を公家のように育てて放置していたのは、義元の責任だろう
282 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 03:33:44
>>278 義元は愚かではない。
兵力に圧倒的に差があるから普通は籠城。トチ狂って奇襲を狙ってきたとしても
相手がそこそこの軍勢であれば、物見はある程度の距離をおいて発見でき
こちらは自軍の態勢を整えることができ、相手を返り討ちすることも可能。
まさか正午過ぎに降り出した視界を隠すほどの集中豪雨の中を敵が接近してるとは誰も思わない。
つまり、信長の勝利はやぶれかぶれの行動がたまたま結果を出した、単なるラッキーパンチ。
信長が短時間の集中豪雨を予想して出陣したわけがない。
283 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 05:52:42
公家にしたら下級だよな
285 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 12:42:54
>>281 公家は下級武士のように槍や剣が上手じゃないぞ。
286 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:01:41
>>283 身分は低いけど領地はたくさんもってるから実質上級。
287 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:55:25
風林火山で今川義元の肖像画が出てたけど、威厳もあって結構カッコ良かったな。
288 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:56:05
>>279 寝言はやめてくれ。
相続時の領土、南尾張を織田に、三河を徳川に奪われてすでに前線が遠江まで大きく後退してたわけだが。
なのに「遠江に一歩も入れなかった」ってwそんなのが自慢になるのかよw
つうか三河には氏親の時代から手を出してたし、西遠江も動揺しねえ。
武田、北条という後ろ盾がなければ今川など速攻で滅びてただろ。
義元、鉄砲打たれてびびりまくってたね。
家来に引きずられてた。
なんか腰が抜けてた感じだったね。
291 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 14:08:43
>>290 同意。普通はびびって腰を抜かす。
特に戦など知らない公家の義元ならば尚更だ。
失禁しなかっただけでもその胆力を賞賛するべき。
292 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 14:12:48
雪齋が逝った時点で、内政に専念すればよかったものを
今までの勝ち戦や領土拡張は、雪齋のおかげ
逝って義元は阿呆
293 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 14:19:06
295 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 16:51:26
>>289 創作の描写に反論するのもバカバカしいが、
戦国武将がビビルわけがない。鉄砲なら自軍にもある。
>>292 そんなバカな西に強敵もいないわけだし、どんどん所領を拡大しなければいけません。
実際に義元は自身で軍を率いて出陣(第一次小豆坂合戦など)したこともあり、
信長くらいは簡単にひねり潰せるわけで、桶狭間は天災のようなもの。
当時の誰が見ても義元が信長に勝つ確立は95%以上だろう。
296 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:50:58
え?義元って自分で合戦指揮したことあったの?
298 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:32:19
5千の兵で陣を張ったのなら、それなりに備えをするのが自然。
備えをしなかったのは、部下が悪いことで義元は悪くないよ。
299 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 19:30:23
>>298 大将が備えの組み方を知らなかったんじゃね?
備えの使い方を知らなかったんじゃね?
300 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:54:49
第1次小豆坂があったと考えている方が多いのかな?
俺は無かったと思っている方なんだが。
301 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:37:01
雪斎存命中の今川の戦いは
すべて雪斎が指揮していたようだ
つまり、義元は初陣で氏んだようなもの
302 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:38:30
>>300 そういう説もあるようですが一般的ではありません。
「三河物語」にも天文十一年の小豆坂合戦では「今川義元が生田原に陣を取り」とあり
天文十七の小豆坂合戦については「総大将太原雪斎が生田原から攻め上がる」記述されています。
「寛永譜」には松平隼人正信吉が長子伝十郎と共に、天文十一年の小豆坂合戦で討死したとあります。
織田家の方でも第一次小豆坂合戦では勝利なので戦功が多く詳しくは書かないが、
「織田系譜」や「岡田系譜」などにその戦功が記録されている。
303 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:42:30
>>297 もちろん何度もありますよ。
『三河物語』に、天文十一年の小豆坂合戦(第一次)に
「今川義元が生田原に陣を取り」とりますね。
また、この戦は織田信秀に負けは負けですが惨敗ではありません。
惨敗なら、またすぐに軍事行動は起こせませんしね。
その他にも、天文14年には北条氏康を攻めて9月十六日に吉原(現富士市)を奪還し、
9月十九日には長久保城付近の戦いで氏康に勝利、長久保城を開城させています。
天文16年には三河の田原城をあっというまに攻略していますし、
桶狭間でも『三河物語』にあるように、義元自身が丸根・鷲津の付け城を大物見し、
軍議を開いて丸根・鷲津砦の攻略を命ずるなど陣頭指揮を取っています。
馬に乗れないとか、お歯黒などの記述がある資料は江戸時代中期からのもので、
全くデタラメです。
304 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 22:25:26
>>302 ありがとう。
ここ見ていると、今川義元って、現実とのギャップが激しいな。
305 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 04:57:16
雪斎が活躍し過ぎたのが今川凋落の原因かと。
義元が有能だったのは銭勘定と資金運用とサッカーと和歌。
有能な武将も居たには居たが、義元では使いこなせなかった。
氏真を廃嫡して元康を婿養子にする思い切りの良さがあれば、多少状況は違ったかも知れないが。
306 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 05:03:30
義元と雪斎の関係は、上杉景勝と直江景綱の関係に似ている
ただ雪斎は義元より早く逝き、今川家は滅亡
景綱は景勝と同じくらい生きて、上杉家は残った
直江兼続のことかな?
>>303 なんかしょぼいね。
対北条戦は関東に大敵を抱える北条を相手にしても武田の援軍なきゃ支えられないような状態だし。
信長とは役者が違いすぎる。雪斎がいなけりゃどうにもならんわ。
309 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:35:38
今川義元
政治 65
軍事 22
知謀 47
教養 84
魅力 61
310 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:50:40
>>270 尾張の拠点は一時的な軍事占領に近いレベル。
三河も(特に西三河は)今川氏の傘下に入ってから日が浅い。
よって尾張・三河に関して、義元がああいう形で突然不慮の死を遂げてしまった
以上、今川氏の勢力圏から三河以西が離れてしまうのは、誰が跡を継ごうと
一時的には如何ともし難いと思うよ。
311 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:52:44
312 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:59:56
>>272-273 葛山氏は元々駿東郡にいた有力な国人領主。
>>283 義元は位階は四位止まりだから、公家の世界なら、堂上ではなく地下官人レベル。
>>305 >氏真を廃嫡して元康を婿養子にする思い切りの良さがあれば、多少状況は違ったかも知れないが。
嫡子がいるのにそんなことをすれば、かえって家中が割れるだろ、普通。
>>310 尾張は地元豪族を寝返らせての拠点だし、西三河も旗頭的存在の松平を縁戚にしての統治で、
しかもそれほど日が浅いわけではない。
これらの統治が瓦解したのは義元の失策(謀略にかかって地元豪族を処断)、
氏真の無能(徳川の独立を許し、その徳川に付け入る隙があったにもかかわらず勢力拡大を許した)
に尽きる。
314 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:50:42
>>308 武田の援軍なきゃって、善得寺の会盟の時の事かな?
吉原では単独で勝利しているし。
信長と比べたら誰もが無理だろ。(雪斎だったとしても)
315 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 12:14:53
今川ってさ、北条の大規模な侵入があったときはいつも武田の援軍呼んでね?
316 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 13:31:59
>>315 自軍の損耗を抑えるための戦略的判断。
常に他者を以て他者にに当たらせる、軍学の実地応用。
武田も今川の要請とあっては断るべくもない。
317 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 15:23:02
武田勝頼滅亡を目の当たりにした今川旧臣は、これを氏真より酷いと評したとか。
318 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 17:16:49
>>316 単に今川が弱いからだよ。武田信玄も必要もないのに
毎度毎度来援するほどお人好しではない。
というか、自分のケツも拭けない雑魚が軍学とかなんとかいっても全く説得力がないと思われ。
319 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 19:14:42
同盟関係なんだから、援軍に赴くのは普通だろ。
義元も氏真も、信玄や氏康の援軍に何度も軍を派遣させているよ。
>>319 お義理程度にな。
一方今川は北条に関東攻略の片手間に本領の駿河を荒らされて防戦一方、
ときどき隙をついて小城を奪還するのがせいぜいなわけだが。
武田に助けてもらわなければ駿府も危うかっただろう。
321 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:41:08
おまえら大河見たか?
鉄砲打ちかけられても泰然と酒を飲む上杉謙信
腰を抜かして首を取られる今川義元
優劣は明らか
322 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 22:08:29
>>320 >お義理程度
他国のために国を傾けるような大戦は、どこもしたくないだろう。
>片手間 荒らされて
荒らされたのは分かるが、氏綱が片手間だったかは知らん。
>小城を奪還
そういう城があった事は知らない。
>駿府も危うかった
先鋒が興津を放火しまくっているが、本隊は富士川を渡っていない。
>防戦一方
北条侵攻→巻き返し→膠着→停戦という流れだろ。
その後、1545年まで北条と大きな戦いをしていないし、
第一次小豆坂合戦なんてやっているんだから。
要するに、北条に攻められてヒイヒイ言ってた今川と、
弱小今川に、足を引っ張られるのにうんざりした武田が北条に哀願して、
三国同盟が結ばれたってことでしょ。
今川も安全が確保できた上に駿東が返ってきて、
しかも嫁までゲット出来てよかったじゃん。
面倒見てくれた武田と親切な北条に感謝だね。
324 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 02:45:26
>>323 面倒見たのは今川だろう。
なにしろ晴信の家督相続に協力してやったのだから、借りは返してもらうぜ。
325 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 03:28:54
一次小豆坂合戦は義元の勝ちだろうな。
戦術的には負けだが、戦略目標であった包囲された岡崎城を守ることは達成したし。
326 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 04:44:58
>>313 200年の蓄積がある西駿河〜東遠江のあたりに比べれば、今川の勢力に
入ってから、三河も尾張も十分に日が浅いわけだが。
>>326 つまり今川は200年くらい統治しないと自分の領土に出来ないわけか。
ダメじゃん。
義元も織田鉄砲隊の三段撃ちで討ち死にしたの?
329 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 09:43:25
この間の大河ドラマの義元の死、しっちゃかめっちゃかでしたね。
今までと一味違うと魅せたかったのでしょうがあれじゃね。
多分信長を出したくなかったんじゃろ
義元の兄、氏輝はストレスで病死したのか暗殺されたのか
彦五郎共々義元に暗殺された
333 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 12:07:01
氏輝が男児を残していれば、今川家は安泰だっただろうに
残念だ
義元に殺されるだけだろ
335 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 14:36:42
その場合、義元は京都の建仁寺で坊主として天寿を全う。
336 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 18:01:48
今川家の嫡流として育てられたのは氏輝
義元は余り物として京都に坊主に出されて、武士の心構えなど皆無
氏輝が氏んだ時点で、今川家は終わっていたと言える
義元はなんで北条のご機嫌を損ねてまで武田の娘とケコーンしたの?
そんなに武田が恐かったの?
>>337 信虎が戦上手で歯が立たないから。
北条との長年の友誼を捨てて武田と組んだら、今度は北条にボコられた。
339 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 20:51:37
しかし西のほうではいよいよ織田信長が本領を発揮し始めて家柄や古臭い権威が
根元から崩れ去ろうとしているときに、鎌倉での関東管領の仰々しい行列は、
関東の後進性を如実に物語っているようで複雑な気分だ。
言ってる意味がよく分からんけど、仰々しい行列ならば
江戸時代も将軍上洛の行列の方がはるかに上だが。
>>324 信虎追放は武田内部で完結している問題。
今川はただ単に追放された乞食を預かっただけ。
そんなもんは借りのうちにはいらない。
一方の今川は武田のお蔭で滅亡を免れた。
342 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 01:22:51
?
今川は武田と松平に滅ぼされたではないか
一時しのぎに武田と結んだのが間違いの始まり
>>342 結ばなかったら武田信虎に駿府落とされてたかもね。
345 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 03:40:20
346 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 07:25:01
武田家当主が信虎のままでも
結構イイ線いきそうだ。
347 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 10:08:07
信虎じゃあ婿の諏訪家や今川家は滅ぼせないから、
信州の佐久地方だけ侵略して満足するくらいだろ
信虎はえげつないから速攻で攻めてくるよ
竹千代を洗脳しきれなかったのが痛いな。
奴の黒いオーラを見抜いていたのは何人いただろうか。
350 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 23:19:58
領土拡張も家臣の掌握も下手だよね。
目立つ功績は内政くらいじゃね?
351 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 00:02:07
>>350 義元は三河の他に尾張の一部まで拡張してるけどね。
信長の偶然のラッキーパンチがなかったら、桶狭間でも先鋒として活躍した
松平元康や朝比奈泰朝、井伊直盛などや鳴海城を守っていた岡部元信らが
太源雪斎や朝比奈泰能に変わって今川家の次代を支える人材になっただろう。
352 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 00:16:50
それでも、長生きの元康に最期はお家を乗っ取られてアボーン(´・ェ・`)。氏真じゃ、どの道あぼーんの運命しか無いと思うがね。
義元だって、長生きするとは限らないんだし。
353 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 00:29:01
>>352 それは難しいだろ、一代で成り上がった秀吉とは違い、
今川には代々の譜代衆がいるからね。
354 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 01:01:47
>>353 松平元康より統率力のある武将っていたの?真面目に。元康は、あれでも一門衆だよ?信康は
氏真からしたら義理の甥にあたる訳で。。。太源雪斎亡き後、岡部元信と朝比奈泰朝しか名将は
いなく無い?雑魚ばっかりなイメージがある。
薩垂峠の戦い。
今川氏真軍20000人
武田信玄軍12000人
結果。
今川勢、遁走。
こんなんで、戦歴も無い譜代が一門衆になって戦功を挙げまくって歳をとって老獪になった元康に
敵う訳が無いと思うのだが。。。如何に?お答え下され。
355 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:05:01
>>354 今川が2万?
何かの軍記物の数字だろうが、ありえない。
後の慶長三年の石高を見ても駿河+遠江で40万石弱だ。
しかも、武田・織田・徳川同盟で西方にもある程度は手当てしておく必要がある。
このときは今川の重臣に裏切りが多数出て自滅したが、武田も後に裏切り続出で滅亡w。
まあ、今川が桶狭間で勝利後も松平家は父弘忠の時代の三河半国の領主程度だろうし、
功績をあげれば岡崎城は返して貰えるかもしれないが主家の乗っ取りは無理だろう。
義元が死んだとしても、氏真は織田信秀や豊臣秀頼のような幼主ではないしね。
356 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:17:53
357 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:29:17
>>355 瀬名信輝、朝比奈政貞、葛山氏元らが内応し対陣した為、氏真は急遽駿府へ遁走。
雑魚武将ばっか(笑) てか、一門の元康や血族の信康に岡崎城だけ?そんじゃ、そこ
らの土豪以下じゃね?家臣でも譜代でも一門でも無い土豪以下。今川の血族が土豪以
下の扱いかぁ。凄いな(笑) 竜造寺隆信と鍋島直茂・勝茂親子はあれだけ重宝されて、
最後は暗愚な竜造寺政家を譜代の家臣も一門衆ですら見限って乗っ取ったじゃないか。
358 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:34:32
ここで、今川家は義元が死ななきゃヽ(´ー`)ノマンセー言ってる馬鹿がいるが義元が死んだら
四方八方から攻められどのみち滅亡。氏真が暗愚なんだもん。譜代や一門も裏切るだろ。
瀬名氏や松平氏などの一門衆の裏切り、譜代家臣の裏切り。。。氏真が義元並のカリスマ
があればそういう事は無かったろーが、いかんせん敵の前で蹴鞠しちゃうお馬鹿さんだからね。
元康厨へ。確かにここの住人は元康が嫌いだからいくら元康を評価しても無駄だよ。だってな。
ここのスレの見解では、氏真>>>>>>>>>超えられない壁>>>>元康なんだから。
そんな、超えられない壁くらいの差があったのに天下取った元康って。。。。氏真なら天皇になれ
たんじゃない?どうなの?皆。
359 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:37:51
氏真は、軍神!治世の神!知略は太公望以上。義元は更に上の神。これがこのスレの鉄則。
元康なんてのは、統率力も政治力も知略も無い。脱糞、スカトロ野郎。分かった??????
バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!
バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!
360 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:46:23
マジレスすると、武田信虎はかなりの猛者。1521年の福島正成率いる今川軍の大軍を撃破した猛者。
甲斐を統治して、同盟が無ければ一気に駿府に雪崩込んで義元もあぼーんだろ。その時は、北条氏綱
もここぞとばかりに武田に組して河東まで軍を進めるから、四方八方的に挟まれ駿府はどの道失う羽目
になるだろね。それは、何故か???太源雪斎でも限度ってもんがあるから。いくら良い軍師でも、武将
が雑魚しか居ないんだからな。上で、岡部元信と朝比奈泰朝を名将と言ってる馬鹿がいるが、、、、、、、
忠臣なだけで武将としては二流。一流とは、信玄、謙信、氏康、信長、秀吉、家康を言う。分かったかね?
361 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:52:20
>>355 明日、図書館行ってごらん。きちんと載ってるから。多少の膨張はあれど今川軍のが
武田軍より数は多かったのは間違い無いから。駿河+遠江で40万石弱だ。>ノンノン
安倍金山+駿河の海の幸&海洋産業(貿易)も立派な財源ですぞ?石高だけで動員数を
割り出す古臭い頭な人なんでしょうね。もっと、歴史を、、、嫌、、小学校から学び直してお
いでね^^
362 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 03:17:01
>>355 軍事関係者の試算だと、桶狭間での今川軍の兵力は
1万8千ぐらいじゃないのか?って感じらしい。
むろん、これでも、かなり寄せ集めで
まとまりに乏しいとか...
今川の桶狭間での軍事行動の意味は不明確だが
隣国が織田信長によって統一されると
明らかに今川にとって危機的状態になっていたわけで。
京都への道に60万石クラスの戦国大名が誕生する。
そうなれば、今川との国力関係から考えて、
今川はあの地に八方塞状態になる。
363 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 03:30:46
355の人気に嫉妬。
雪斎って学問は出来たのかも知れないけど、武将としては3流だよね。
尾張の守護代の家来に兵力にものをいわせてちょっと勝った程度でしょ?
岡部や朝比奈なんかこんなのよりも格下なんだから、程度が知れるよね。
兵力があれば勝てる・・・雪斎
兵力があっても負ける・・・義元
366 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 21:25:14
正直認めろよ!今川厨!三河軍団以外に名将なんて居たか???????????????????????
え?教えろや????????????? 雪斎? あんなん、外交僧だろ。 武将で言ってくれ。頼むから!!!
岡部や朝比奈とか言うのは無しな。あいつらだって三流だから。庵原ってのも譜代だが雑魚武将だしな!!!!!!
何とか言えよ!今川厨!元康の才能を見込んだから一門にして三河軍団を先発に立たせて戦に勝って来ただけだろ?
え???????? 長篠の戦いも、織田より徳川のがはるかに活躍してるよな?姉川は創作だが。で?どうなの?
義元と譜代で天下獲れるの? 稲葉山城の斉藤義龍は凄い強いぞ?あの信長でさえ手こずったんだし。まず、家臣団
が優秀。それを落として更に六角氏などを倒せるの??そういう、戦略眼を持った武将いるの???????????
いねーだろwwwwwwwwwwwwwwwwwwww バーローwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
367 :
今川義元:2007/11/30(金) 21:28:34
>>1-1000 正直、上洛なんて無理と思ってた。三河軍団に頼りすぎてた。正直、尾張を獲る事だけしか頭に無かった。
氏真は、自分で云うのなんだが、、、暗愚とは知ってた。岡部や朝比奈も武将として一流では無いとも知ってる。
そして。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。この義元自身も。。。。。。。orz
368 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 22:10:11
今川は義元雪斎という最低のコンビに乗っ取られた
369 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 23:02:41
実は、今川氏輝って凄い優秀な戦国大名だったんだってね。氏輝と彦五郎が同時に同じ日に死ぬなんて
暗殺だろ。首謀者は誰だよ。今川を滅ぼす一因を築いた馬鹿だな。
370 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:58:42
>>364 へえ、三流なの。松平竹千代が9歳から15歳まで師事した雪斎が三流なら竹千代は四流ですか?
義元の教育係りは雪斎であったので、松平次郎三郎元信(後に元康)は兄弟弟子なのですよ。
息子の竹千代を織田信秀に奪われ、今川を裏切り自分に従わなければ竹千代を殺すと脅されても、
かってに殺してくれと返答し、今川への忠義を変えなかった松平広忠の思いに報いた雪斎は、
天文16年には、竹千代を織田信秀に1千貫で売った戸田康光の田原城を攻略、
戸田康光を敗死させ、翌天文17年の小豆坂の戦いでも織田氏に勝利、翌天文18年には
安祥城を攻めて織田信広(織田信長の兄)を捕らえて人質交換で竹千代を取り戻してます。
371 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 02:12:30
家康ってそんなに濃密に雪斎に師事してたのかな
372 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 02:27:04
>>371 雪斎が元康を師事したのは後世の作り話。てか、そんなのも分からん馬鹿はスルーしときんしゃい。
後世の創作というか「妙心寺記」に出てくる話だっけ?
374 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 03:48:33
>>373 妙心寺史に記述されているね。
臨済寺(住持:太原崇孚)には家康公手習いの間というのがあるようだ。
375 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 03:56:57
今川家の滅亡は氏輝の死から始まっていた。
雪斎の死亡で拍車がかかり。
松平元康の離反で壊滅。
何故、義元の死や氏真の暗愚は滅亡の一因にならなかったのは…
二人とも居てもいなくても良い存在だったから(笑)
376 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 04:00:57
兄氏輝の死は痛かったね…
義元は、兄を越えるくらいの器が必要とされた。
義元が今川了俊のレベルだったら凄かったろーに。
義元は、江戸時代に生まれてくるべきだった。
>>370 家康が雪斎に師事したというのは俗説。
仮に弟子であったとしても、弟子は師匠に劣るなどということもないし。
松平は織田に圧迫されて今川に頼ったわけで、生き残るために今川についただけ。
今川への忠誠心から竹千代を見捨てたのではない。生き残るために息子を見捨てたんだよ。
で、田原城攻め小豆坂合戦安祥城攻めすべて兵力差があり、
勝って当たり前の戦いを順当に勝っただけ。
378 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 08:32:13
↑
雪斎は北条相手では役に立たなかったよな。
379 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 08:44:42
>>370 義元と広忠って仲が良かったんだと思う。
義元は、氏綱に河東を攻められている間も、広忠の岡崎復帰のため引き続いて手を貸している。
雪斎からすれば、義元が家督を継いだ時に三国同盟を結んで後顧を無くし
転がり込んできた広忠を使って、西に勢力を伸ばす気だったんだと思う。
その義元が北条を足蹴にして武田と結んだわけだが。
それにブチギレた北条が駿河侵攻。
381 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 10:12:59
3者にとって、無駄な10数年間だったわけで
氏綱が、雪斎と信虎の考えを理解する事ができたらよかったんだが。
>>381 雪斎が氏綱の考えを理解できなかったからそんなことになったんだろw
383 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 12:33:51
3国同盟は、3者にとって大いにメリットがあった事はわかっているんだから
それが理解できなかった氏綱が残念と言っているんだよ。
>>383 弱小の今川をつぶして駿河とった方がメリットは大きい。
北関東はほどほどにし、山内上杉と妥協して駿河を攻めておけば謙信の介入もなく、
安全に南関東〜駿河遠江を征服できて北条としても楽だった。
ちなみに三国同盟とは・・・
今川・・・滅亡を免れた
武田・・・弱小今川への援軍派遣で振り回される心配がなくなった
北条によって秩序が崩壊してた西上野ゲット
北条・・・西に北に頑張ったのに(氏康の代では)大して領土ひろがらず
三国同盟で一番損をしたのは北条。弱小今川なんかと同盟を結ばなければ・・・。
>>384 弱小というけれど、後北条は今川の縁者だから
伸し上がれたということもあるので…
386 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 13:55:25
北条は東国では成り上がりの新参者だが、そんなのに軽くひねられちゃう今川って
>>386 お家騒動ばかりだったということもあるかと
388 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 14:32:53
ま、いずれにしても当時の東国じゃ田舎の中の嵐だw
389 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:21:35
>>385 北条早雲は今川氏親の叔父で、家督争いの功で駿東郡の興国寺城を与えられていたわけだが、
氏親の後援で伊豆討入りを成功させたのが後北条氏が戦国大名になる始まり。
血の繋がりが濃いので、急に今川が武田と同盟を結んだのには、恋人を取られたように逆上。
390 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:50:21
>>386 でも「石氷を投打つ様に」(信長)という視界を隠す程の豪雨、
つまり偶然がなければ、今川本隊も陣形も整えることが出来、
2千の織田軍は返り討ち、または最低でも義元は戦場は離脱できた。
また荒天がなければ朝比奈、松平隊は織田軍の動きを見失うことはなく、
義元の本隊の救援に駆けつけることができただろう。
つまり信長の偶然の勝利がなければ、今川は駿遠三尾の大大名。
義元はさすがに海道一の弓取り、やはり信長はうつけのイノシシ武者
という話になっていたハズ。
>>390 タラレバで言い訳しても今川は結果負けた
この事実は変わらんよw
>>390 信長からすれば、文弱の今川なんか豪雨なんかなくても余裕でしょ。
泥にまみれて死ぬか土にまみれて死ぬかの違いしかないと思われ。
393 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:08:23
勝利は百に一つの幸運。
信長のこれ以降の戦は、数で相手を圧倒するだけ。
394 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:09:13
>>390 豪雨は無関係だよ。
普通は、物見(偵察)が居るので、天候に関係なく敵情を得られたはず。
それが、正確に織田勢の動きを把握できずに本隊まで攻めかかられた
となれば、物見が封じられていたと考えるのが妥当。(敵情把握は極めて
重要な任務なので、物見が雨宿りをすること自体あり得ない。むしろ視界が
悪くなれば、物見を増やす方向にある)
梁田の手勢が街道の要所要所で今川方の物見を討ち取って織田勢の
動きが伝わるのを封じたのだろう。
鷹狩りと称して尾張領内をくまなく走り回った信長は、手勢をどこに置けば
効果的に物見を封じられるのか熟知していた。
物見を封じるのは、出陣のタイミングだけで良いから、急に情報が集まらな
くなって今川方が不審に思う頃には、織田勢が今川本隊に突入していた。
天候頼みだったわけじゃなく、用意周到に直接今川本隊に突入できる手は
ずを整えていたんだよ。
松平が大高城に居続けたのは、元康実母の実家水野家からの「義元討ち死に」
の一報を不審に思ったからだが、情報伝達時期が早すぎるので、信長が意図して
義元を討ち取る以前に水野家に指示して伝達させたと考えるのが妥当。
信長の思惑通り、水野家の一報を不審に思った元康は屈強な三河勢を大高城
に留め置いてくれて、桶狭間に来ないでくれた。
本隊以外の今川勢の動きも鈍く、伝令も同じように要所要所で討ち取られ
ていた可能性が高い。
梁田が一番手柄なのは、表向き義元の居場所を知らせたからだが、実際は
「信長がどこにいるか?」「今川本隊で何が起きたのか?」を悟られないよう情報
秘匿に貢献したからだろう。
情報秘匿は極めて重要だから、勲功として取り上げずに秘匿したw
当然、後世に記録は残らない。
396 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:19:20
>>395 水野は織田方だから情報が早くて当たり前
397 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:36:28
>>395 桶狭間は谷ではない。桶狭間山で高地なので、もし物見が封じられて?いたとしても。
豪雨が無く視界がよければ誰でも織田軍の動きを遠方から確認でき、戦闘用の陣形を整えられる。
物見も不意を襲われるということは無い。
398 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:38:24
笑えるのは午前中のカンカン照りが「俄に急雨石氷を投打つ様に...」と急な豪雨になり
「熱田大明神の神軍がと申し候なり」と信長は天佑神助だと狂喜乱舞。
転変地異は異常な結果を招くものですな。
399 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:40:11
>>393 名将とは、孫子の兵法にあるように、
開戦前に相手を圧倒するだけの兵力を集めたり、有利な条件を作り出し、
勝つのが当たり前という状態を作り出す事に成功した人物達。
ただ人間がやる事だから、完全に作り出す事など不可能な事。
信長・秀吉・家康・今川・謙信・信玄等々。
400 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:08:50
>>399 それが雪斎流の負けない戦い方でもある。
401 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:31:40
>>395 信長はそんな緻密な手は打ってないよ。
情報戦でそんなに相手を凌駕していたなら、
「あの武者、宵に兵糧をつかいて夜もすがら来たり、大高へ兵糧入れ
、鷲津丸根にて手を砕き、辛苦して疲れたる兵なり」(信長公記)と、
今川本隊を戦闘で疲弊した朝比奈・松平隊と誤認するような事態にはならない。
創価層化
403 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:00:58
名将言行録によると、義元は軍律を破ったたわけ者を罰せず、
和歌が巧みだという理由で赦免したそうだね。
こんなんじゃ家中の誰も軍律なんか守ろうとしないよ。
武芸を修めるヒマがあったら和歌の稽古に励むに決まってる。
今川が北条にも織田にもおくれを取るのは必然だったのだな。
>>403 名将言行録なんぞソースにして得意になるなよw
これは『常山記談』よかさらに時代が下った本だろ。
405 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 03:30:22
まあ、突然のハプニングである豪雨がなければ、今川は敵対した者でも
降伏すれば許す場合が多いので、信長も今川の一武将として活躍したかもしれん。
結局タラレバかw
>>403 今川は公家なんだから武芸より和歌を奨励するのは当たり前。
408 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 16:37:57
氏真は蹴鞠で有名だけど、義元はなんか特技はあったの?
信長って結構寛大だし、何か特技があったんなら討ち取らなかったんじゃないかな?
氏真も誅殺されても仕方がないのに、殺されるどころか蹴鞠を披露する機会を与えられて、
お褒めの言葉まで頂戴したんでしょ?
やっぱり氏真>>>>義元なのかなあ。
410 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:43:26
>>408 予め氏真>義元という結論があって、氏真は蹴鞠で…という例から、
やっぱりという結論を導き出したんだろけど。
氏真のどんな所から、初めに氏真>義元という結論を持っていたの?
411 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:52:14
桶狭間がすごいのはその後の信長の軌跡が日本の歴史を変えたからだろう。
運だけのマグレの勝利という説があるが信長のその後を見る限り普通に考えたら
考えたらそれは違うだろう。もし仮に信長がその後尾張一国の大名で一生を終
えたのならマグレの勝利という説も説得力を持つ。
412 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:22:18
桶狭間はマグレの勝利だが、本能寺までは運が非常に良かったのは確かだ。
美濃の斎藤義龍がわずか35歳で急死して子が13歳で家督を継ぐなど、
尾張一国の領主で終わるはずが上洛の道が開けた。
413 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:45:34
信長は身分の低い家に生まれて塗炭の苦しみを味わいながら自力で道を切り開いた
義元は公家の息子として生まれて名刹で優雅な貴族僧生活をおくり、その後側近僧のお膳立てで実家の家督を奪い、
面倒事は坊主任せで怠惰な生活をおくっていた
>>413 氏真は文化人としても評価されてるそうだが、義元は文化的無能者だった。
415 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:21:40
年上のライバルがどんどん死んでいったのは信長にとってラッキー
416 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 12:04:52
桶狭間でもう一つ大きいのは突然の集中豪雨(100ミリを越すと50m先が見えない)
の他にはそれに付随する強風。
「沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れた」
ほどの風は、信長隊の背から今川側に向けて吹いたが、
「摺上原の戦い」で見てもわかるように風上側が絶対有利。
417 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:49:35
>>414-415 義元も氏真も信長も当時の大名クラスが普通に身につけている程度の文化・教養水準は普通にクリアしているだろ。
418 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 14:44:58
>>413 >信長は身分の低い家に生まれて
信長の父信秀は従五位下、弾正忠、備後守、三河守だぞ
どこが身分が低い家なんだ 秀吉と勘違いしてるんか?
>塗炭の苦しみを味わいながら
親の威を借りて、好き放題やってるのが塗炭の苦しみなのか?
>義元は公家の息子として生まれて
いつから今川家が公家になったんだ
義元の母は公家出身だから、公家の孫というのは正解かもしれんが
419 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 20:01:44
今川家、北条家、武田家の跡継ぎでは誰が賢かったか?
勝頼:自刃、武田家は滅亡。
氏直:切腹、お家存続は許される。江戸時代1万石の弱小大名。
氏真:江戸時代まで生き抜き、幕府高家旗本として優遇される。
少なくとも、勝頼や氏直より氏真の方が賢かったといわざるをえないな。
まあ、足利一門はみんな幕府で優遇されて高家になったんだけど。
アホゆえに生かされたんだろ 無能の証
アホゆえに(笑)、氏直も生かされたけど、氏真ほど精神力のある人間
ではなかったので心労で病没
422 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 18:54:42
寿桂尼は夫の死後幼いわが子をかかえて
戦国戦乱の中公家出身の女の身ながら
今川家を維持したのに
なんで息子はあんなに馬鹿なんだ?
423 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:34:04
海道一の弓取りで馬鹿ではない。
少なくとも、信玄、氏康、織田信秀とは対等どころか、
織田勢を三河から追い出し、尾張の一部も領国化してるので織田には勝っている。
桶狭間でのパプニングの集中豪雨(氷も降った)や強風がなければ、駿遠三尾の太守。
424 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:24:29
息子はばかだけどな
>織田勢を三河から追い出し
三河勢と合力して追い出したんだろw
信秀は、三河・今川連合軍と戦ったんだから、劣勢は当たり前。
むしろ善戦してる。
>>421 氏直をなめちゃいかん。
本能寺の変後の動きなどを見るかぎり、決して無能ということはないはず。
それに、秀吉の力を有る程度は悟っていたみたいだし、家康の娘婿だから
助命されたんだろう。で、壱万石を与えられると、家臣たちにもいろいろ
書状をだしているが、もし長生きすればそれなりの規模の大名には
なったかもしれんよ。
>>425 三河衆を今川方に合力せしめた手腕を忘れているな。
429 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 21:21:41
織田に勝ち三河を制したのは雪斎の手腕だろ
それと義元が馬鹿ってことと何の繋がりが?
431 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 09:04:37
>>428 平日の真昼間から書き込みか・・・
弱小大名の織田信長に殺されたことが
馬鹿でなくてなんだ
義元厨
432 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 12:06:58
平日の昼間と今川義元と何の関係があるんだ?
厨ってのは脈絡もなく、非論理的な悪口を書くよね。議論ではなくて。
433 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 19:49:28
尾張の生産力の高さを考えれば、尾張一国だから弱小なんて言う論理こそ成り立たない。
434 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 20:10:33
尾張=5
三河=3
遠江=3
駿河=2 くらいだな
435 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:09:33
尾張は信長3今川1その他1くらいかな。よくて今川9織田3くらいか。
尾張南部は今川領だし、北部は従属レベルで
信長が動員できたのは4〜5千程度。
436 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 02:57:44
当時は尾張八郡の内今川の勢力下にあったのは海西郡(全体)と、
愛智郡、春日井郡の一部、知多郡の帰属については今川説と織田説がある。
まあ、信長を倒すには朝比奈や松平の先鋒だけでも十分。
義元は沓掛城でのんびり吉報を待っていればよかった。
>>431 平日にしか休みもらえない職種もあるんです
>>431 家督争いに勝ち、三ヶ国をまとめあげて武田・北条と張り合ったんだから
義元は名君の部類だろ
おまえさんのアタマがおかしくて現実が理解できないのか?
439 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 12:06:14
家督争いっていっても相手は庶子でしかも節再その他のお膳立てだし、
三か国まとめたっていっても唯一の強敵松平は勝手にこけて残りは雑魚ばっかだし、
北条には対上杉戦の片手間にぼこられるし、
武田には張り合うどころか滅亡の危機を助けてもらってる始末・・・。
そして頼みの節再が死んだらありえないような大敗。死に様も実に見苦しい。
誰が名君だって?
徳川家としてみれば今川家は
良い人達では困るわけで
441 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:52:04
しかし今川が有能であれば今川が征夷大将軍となり
今頃は駿府(静岡)が首都になっていたことだろう
442 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:20:53
>>441 ちょっと違うな。
「(石氷を投打つ様..)な突然の集中豪雨というパプニングがなければ」
今川が征夷大将軍となり今頃は駿府(静岡)が首都になっていたことだろう
443 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:22:58
家督争いっていっても相手は庶子でしかも節再その他のお膳立てだし、
三か国まとめたっていっても唯一の強敵松平は勝手にこけて残りは雑魚ばっかだし、
北条には対上杉戦の片手間にぼこられるし、
武田には張り合うどころか滅亡の危機を助けてもらってる始末・・・。
そして頼みの節再が死んだらありえないような大敗。死に様も実に見苦しい。
誰が名君だって?
444 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:33:17
>>441-442 仮に今川の天下になっても、全国支配の拠点を駿府におくかどうかは分からないぞ。
駿府の周辺って、平地は狭いし、他の地域へ繋がる街道も一本道の東海道しかない。
もっと放射線状に各地への街道が伸びているような場所を拠点にしそうな気もするが。
445 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:35:52
敵地で雨が降ったので雨宿りしてたら負けちゃいました。
首も取られちゃいました。
え?先鋒は何してたって?敵の数が少なかったんでスルーしちゃったんですよー。
酒宴??
そ、そんなのするわけないじゃないですかー。
ほ、本当ですよー。
446 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 13:58:26
>>445 普通の雨じゃないぞ、ピーカンで沓掛城を出発し大高城に向かったら
突然の「石氷を投打つ様」な雹まじりの集中豪雨だ。
雹はかたまりが大きいものは当たれば大怪我ではすまないのに、
そんな状態で行軍している基地外(信長)がいるとは誰も思わない。
447 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 14:03:29
>>444 名古屋城(那古屋城)は今川氏親が築城した城ではあるし、幕府は那古屋でよいかも。
その場合名古屋人は「みゃあみゃあ」の代わりに何て言うの?
静岡弁のイメージが全然ないもんで。
えびふりゃーや天むすやみそ煮込みうどんの代わりに鰻丼が名古屋名物になるのか?
451 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 01:01:03
今川幕府初代将軍は義元、二代将軍は氏真で、
松平元康は築山殿の嫉妬がもとで家内騒動が発生、改易。
452 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 01:37:26
あほか。吉本なんて家柄もないし能力もないのにどーやって天下とるんだか。
453 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 01:40:02
454 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 08:37:41
今川義元が最も寵愛した男色相手は誰ですか?
456 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 09:52:16
これまた凄い荒れ方だな。流石日本史板
那古屋城主だった今川氏豊と勘違いしてるんじゃ?
>>452 というか、義元のまわりには戦を知っている武将はいなかったのだろうか?
いくら義元が戦下手でもまわりがお膳立てしてやれば何とかなりそうなものなんだけど。
460 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 18:37:34
かんわきゅうだいにて少しごめん:戯歌
吉良氏ですが、「足利絶えれば吉良が継ぎ吉良が絶えれば今川が継ぐ」という戯歌だったか、
この吉良氏は、系図を見ると、今川氏の兄貴筋ですね。
でも、足利の次は吉良でその次が今川なんていうと、吉良氏はそれなり大勢力でないと
変だと思います。
当時、たとえば室町幕府初期あたりで吉良氏って強大で、
だったんですか?てか、この初期を指した戯れ歌でしょうか。
義元のころでは、この歌は、吉良を抜いて読み解く歌という感じでしょうか。
↑
この話題は何度か出てるけど、結局根拠不明なんだよね。
吉良や今川が特別優遇されたようでもなし。
462 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 21:13:58
この歌自体、出所不明なんでしょうか。
吉良っていっても西条吉良と東条吉良があるでしょ。
西条吉良は三河に残った?けど、斯波氏あたりの家来みたいだったんでは?
東条吉良は武蔵吉良とか言って、結構活躍したみたいだけど。
上杉がいたのでパッとしなかったかも。
東条も西条も三河。
武蔵吉良=蒔田とは別。
464 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:30:26
>>463 鎌倉段階だと、吉良氏嫡流(後の西条吉良・東条吉良の共通の祖先)が吉良庄の
西条を、のちの武蔵吉良のに繋がる系統が吉良庄の東条にいた。
しかし南北朝初期に武蔵吉良に繋がるほうは、奥州管領となって東北地方へ
転出し、奥州管領罷免後も武蔵国世田谷に土着して三河へは戻らなかった。
一方、吉良氏嫡流のほうはその後、観応の擾乱に際して家が2つに分裂し、
それぞれが吉良庄の西条と東条に拠って、以後は戦国期まで分裂状態が続く。
>>462 > 西条吉良は三河に残った?けど、斯波氏あたりの家来みたいだったんでは?
吉良氏は室町期を通じて将軍家の親族扱いのはず。
室町の半ばくらいでも中央の記録にかなり出てくるし、系図を見れば婚姻関係も
ほとんどが当時の守護や奉公衆クラスの家ばかり。
陪臣まで落ちたとは考えられない。
それに、そこでどうして斯波氏が出てくるの?
465 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:45:50
>>464 >将軍家の親族扱い
具体的に。斯波や細川、畠山なんかとどう違うの?
斯波は結構名門だよな。
確か斯波と吉良は鎌倉期には足利を名乗っていたとか(今川も?)
足利宗家が天下取ったので遠慮したらしいけど。
467 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:27:53
吉良、渋川、石橋の3家は「御一家」といわれて、一門扱いだった。
468 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:50:59
尊氏以降の将軍家の分家は少ないよね
>吉良、渋川、石橋
こいつら、家柄的に斯波より明らかに下じゃね?
とくに石橋なんか斯波分家だし。
470 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 10:27:41
1487年に将軍義尚が近江の六角高頼を攻めた際の従軍者名簿には、
「御一家」として「吉良殿・渋川殿・石橋殿」が「殿」付きで明記されている。
たしか「御一家」という家格ははっきりと制度化されていなかったはず。
足利一門で大名未満の、旗本というか、奉公衆的なとりまきのうち、家柄のいいのをそう呼んだだけだろう。
>>471 石橋吉良渋川らは南北朝の頃には探題になったり守護になったりしてたけど、
その後没落して京都で名誉職を与えられて細々と生きてた実質ニートだからね。
473 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 17:01:56
話を戻そう。
吉良渋川石橋を「御一家」と表記した史料はある(「御一家」の格式については不明)。
仮に「御一家」が江戸幕府における御三家のようなものだとすると、
吉良には将軍家一門として、相続権があるのだろう。
では今川はどうなのか。例の戯歌(足利絶えれば吉良が継ぎ吉良が絶えれば今川が継ぐ)のとおり、
渋川石橋等を飛び越えて今川が将軍家を継承することが出来たのか。
>>473 どの家に相続権があるとか、そんなこと決まってなかったんじゃね?
吉良今川石橋だろうが斯波細川畠山だろうが相続権などないだろ。
継げるのは坊主と鎌倉公方くらいだろ。
476 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:58:36
静岡ははっきり言って山と海ばかりで、
ここで都になったかも知れないなどといっているやつがいるが
ありえない。みかん畑と茶畑ばかりのところ。製造業なども
規模が小さく正確なものを作る。こういう田舎を治める人物は、
都会を治める人間より有能でなくてはならない。
今川は人物としてまともだったに違いない。
ましてや信長のような人間が存在できもしない。
477 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:25:06
鎌倉のときもあるから誰もいい
479 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 12:39:10
石橋家って南北朝あたりで没落してるはずなのに、9代義尚時代の近江出兵時に
「御一家」の「石橋殿」ってのが史料に登場するんだよな。
細々と続いてたのか?
480 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:13:21
>>469-470 石橋だけでなく渋川も斯波の分家扱いのような気がする。
ただ
>>470で挙げた諸家が「苗字+殿」で呼ばれるのに対し、斯波氏はそもそも
苗字で呼ばれることがほとんどない。
苗字を記さずにいきなり官途名とか、屋敷の所在地の地名から勘解由小路殿とか
っていうケースが多い。
たぶん室町幕府の武家宛の発給文書のなかで、苗字が記されない相手って、
関東公方と斯波氏だけじゃね?
481 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:34:03
>>471 イメージ的には近世の徳川三卿に近いのかもな。
ただ足利宗家の相続権があるとは思えないが。
>>472>>479 まず吉良氏に関しては鎌倉段階から不遇な一族。
足利一門の中でかなり上位の家格を持つといわれ、鎌倉中期の一時期には
越前の守護になったりもしている(鎌倉段階で足利の庶流が守護職を兼帯した
唯一の事例でもある)にも関わらず、霜月騒動で満氏が安達泰盛に加担して
討たれて以降は、足利尊氏の鎌倉幕府離反まで記録に一切出てこない。
それ以降については既出なので省略。
渋川氏については、嫡流は戦国期まで九州探題として存続しているし、
応仁の乱の当事者の一人である斯波義廉は、この家系の出身で斯波氏の養子と
なった人物。
このことは室町中期段階でも、渋川氏が斯波氏の分家であり、なおかつ
斯波宗家の相続権があると認識されていた可能性が高いといえる。
また関東にも、関東公方に仕えて16世紀まで存続する渋川一族がいる。
石橋については、有名なところでは南北朝初期に奥州管領として奥州へ下った
一族が現地に土着して塩松石橋氏となって戦国期まで残る。
この家系は地理的な近さや成立経緯の類似から二本松畠山氏とよく対比される。
なお塩松石橋氏は、永享の乱や結城合戦に際して、伊達・芦名・二本松畠山
などの諸氏とともに京都の幕府から協力を求められており、この段階でも
幕府が奥州の諸氏に対して軍事動員をかける場合に、真っ先に声をかけるだけの
価値のある勢力として見なされていることが分かる。
482 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 13:03:54
奥州に土着した塩松石橋氏とは別に、京都には石橋氏の嫡流らしき人物がいて、
「御一家」の「石橋殿」と呼ばれていたが、その実態がいまいちよくわからん。
483 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 03:20:03
足利氏>>斯波氏>渋川氏>>>>>>>>吉良氏>今川氏が実際
斯波の家格はダントツだが、渋川は斯波に次ぐ
484 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 08:07:15
分家第一の斯波は御一家ではないの?
管領=バトラーになって実を取ったから細川と同格まで墜ちた?
485 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 08:39:08
>>484 そもそも管領家の方が御一家とやらよりも上ではないのかな?
室町の御一家=江戸の御三家・御三卿ではないのだし、
御一家=足利一門、その他=家臣 という図式は間違っていると思う。
486 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 09:58:12
>>478 もともと人がいつかない田舎を統治するのは並みの力量じゃ無理だぞ?
あの当時は毎年のように天災がくるんだしな。
飢饉で全滅した中山間地をおまいは復興可能なのか?
都会のほうが統治が簡単なんだぞ。
一揆の発生率とか地域の人口に対する作付面積とか試算してみろよw
↑
何を言ってるのか今いちよく分からんが、
キチガイだと言うことはよく分かるレス
488 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:54:58
室町時代の駿河には、都鄙の境界という側面があるから、ここを治めるのは
結構難しいし、室町幕府からも重要視されていたことは間違いない。
室町幕府は永享年間と文明年間に2度も今川氏のお家騒動に対する大規模な
介入を行うが、室町幕府が特定の一大名のお家騒動にここまで執拗に介入した
例は他にはなかなかない。
そしてこの室町幕府による今川氏のお家騒動への介入は、いずれも駿河への
関東からの影響力排除を目的としている。
489 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:36:12
駿河・信濃・越前3カ国守護は、将軍・関東公方両者から信頼を受けている
必要がある。時には両者の間を取持たなければならないから。
また、関東に近づき過ぎると将軍から警戒されてしまうという難しい位置。
490 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:42:19
つまらん! くだらん! あ〜ほくさい!
アホがわいてるな。
将軍の介入を受けた守護など土岐一色大内赤松などいくらでもいるし、
駿河など治めるのはたいして難しくない。
そんなに今川を特別視したいのか。
492 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 01:43:17
>>489 越前は越後の間違い? 確かにそうした側面はあるかも知れないが、
越後は山内上杉の分家が守護、信濃も一時期は犬懸上杉が守護、
駿河の今川も義教期以前の系譜を見ると扇谷上杉などとの婚姻関係が目立つ。
室町の前半期だと、このへんの都鄙境界付近の守護は関東寄りの傾向が強そうな
イメージ。
ただ信濃は小笠原の守護復帰以降は、明らかに鎌倉よりは親京都だし、
駿河の今川も範忠の家督相続以降は親京都色が強くなる。
あと甲斐の武田も信重以降は親京都傾向が強い。
そういう意味では、永享の乱は将軍義教の戦略勝ちといえそうだ。
鎌倉へ攻め込む途上にある信濃・駿河・甲斐の守護を全て親京都に塗り替えた
上で、彼らを持氏討伐の先鋒に起用w
特に相続争いの過程で将軍義教の支持がなければ孤立無援状態だった
今川範忠や武田信重は、義教にかなりの恩義を感じていたようで、義教の死後も
その供養を欠かさずにやっているって記録もあるし。
>>491 釣りかも知れないが一応マジレスしておくと、貴方が挙げた守護家への
室町幕府の介入は、いずれもその守護家の勢力削減を目的としているが、
今川や甲斐武田のような都鄙境界に位置する守護家への介入は性格が異なる。
理由はなんであれ幕府の介入をうけた守護はいっぱいいいるってことだろ?
もともと今川は京都側の人間で、侍所の頭人や九州探題も出してる。
今川範忠の父範政も将軍からの信任の厚い人物。
今川の御家騒動も耄碌した範政が範忠をさしおいて、
年端もいかない子供に家督を与えようとしたことに発するものだ。
将軍の介入などなくても今川は京都側。
そもそも、極論すれば、将軍と鎌倉公方の対立などというものもない。
鎌倉公方とその側近がちょっと暴れただけで、第一の家臣である上杉氏にも見限られる程度のものだし。
コップの中の嵐に過ぎない。「対立」ではなく、「ワガママ」レベル。
495 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 15:58:15
上杉氏を鎌倉公方の「家臣」とかいってる時点で、この時代を分かっていないのがバレバレ。
江戸時代の付家老みたいなものだ罠。公式の任命権自体は将軍が持っていた。
でもそれは形式的なもので、上杉禅秀の乱なんかは鎌倉公方主導で、
関東管領の任命をしたことが直接の原因だね。
鎌倉公方はなんで謀反をおこそうと企てたの?
分家のくせに身の程知らずじゃね?
499 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 08:37:02
>>497 基氏の時代には京都とは対立していない。
氏満や満兼の段階だと、康暦の政変や応永の乱のときのように幕府内の反主流派によって担ぎ出されるケースが多い。
そういうのと関係なく根本的に京都との関係が悪くなるのは、義教が将軍になる頃から。
500 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 08:43:30
鎌倉・古河公方寄りの軍記物なんかだと、持氏が反幕府色を強める原因として、
元々将軍義持は自分の死後は持氏に将軍職を譲るつもりだったが幕府の重臣達が
勝手に義教を還俗させて将軍にしちゃったからみたいな書かれ方をしている
ことがあるな。
義持が将軍職を持氏に譲ろうとしていたなんて俄に信じられないが、
もしかしたら、こうした見方は当時の関東には結構あったのかな?
501 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 09:34:30
でもさ、氏満満兼なんかも京都まで出陣しようとして関東管領に必死になって止められてるよな。
諌死者まで出してるし。
担ぎ出されたというより本人もやる気満々だったんじゃね?
502 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 23:30:14
どーれにしーよーうーかーなー
吉良今川も候補に入れるべきだった。
505 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 03:15:53
>>501 本人は確かにやる気満々だったかも知れないが、それは担ぎ出そうとして
そそのかした奴がいたからこそ、やる気満々になっちゃったともいえなくない。
康暦の政変のときの斯波義将とか応永の乱のときの大内義弘・今川了俊とか。
御輿自体がやる気満々になっちゃったら、それはもう「担ぎ出された」というレベルじゃないんじゃね?
507 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 04:52:03
御輿とはそういうものだよ。
自分を支持して担ぎ出そうという人に囲まれると、なんか上手くいきそうな気がしてきて、その気になっちゃうもの。
でも結局何回か未遂があって、結局最終的に都鄙関係が修復不能になったのが、永享の乱と。
この人も桶狭間の直前に病死でもしてれば名君だったのになあ。
曰く、義元が生きていれば信長は滅ぼされていたと。
歴史というのは面白いねえ。
鎌倉公方が勘違いしちゃったのは武家の都である鎌倉に足利氏のままでおいといたからだよ。
鎌倉氏とか坂東氏とかに創氏改名しておけばよかったのに。
そうすれば自分が臣下であることを認識して謀反を企てることもなかっただろう。
510 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 17:52:03
511 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 20:33:18
仮に桶狭間で死ななかったとして美濃斎藤は素直に道を明けたのか?
>>511 仮に桶狭間の戦いが上洛戦だったとして・・・
・美濃斎藤が義元の上洛を妨げる理由がない
守護大名とは本来京都居住するのが一般的であり、その守護が上洛するということは文句のつけようのない行為
斎藤は危険を冒して今川の上洛を妨害するほど上方の勢力(三好、あるいは将軍義輝)と深い関係にない
斎藤自身も今川とは敵対関係ではなかった
斎藤としても触らぬ神に祟りなし、さっさと通ってくださいね、ってとこであろ
通したところで面目がつぶれるわけでもなし、今川が礼さえ尽くせば軽くスルーすると思われる
・美濃を通らず東海道から上洛したかもしれない
美濃じゃなくて伊勢から近江経由で上洛する手もある
田代公方
514 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 10:46:42
むしろ斉藤道三が死んで、美濃側の勢力が織田信長を積極的に支援する可能性が
なくなったことも、今川義元が本格的に尾張攻略に乗り出す要因の一つに
あるんじゃないかな?
まあ尾張については、今川側からすると失地回復的な意味合いもあるし、
斯波氏やその守護代であった織田氏は200年来の旧敵という側面があるから、
最後まで武力決戦に持ち込む可能性がやっぱり高いかなぁ。
ただ仮に尾張攻略後の義元が上洛を目指したとして、尾張より京都側にある
美濃・伊勢・近江の在来勢力を一々武力で潰していくようなことはしなさそう。
たぶん永正の政変のときの大内義興みたいに、上洛途上の道筋にいる武士達を
悉く引き連れて京都へ入るような感じになりそう。
>>514 大内義興の上洛は足利ヨシタネという将軍候補がいたが、
ただの守護に過ぎない今川義元が上洛しても他国の人間はついてこない。
516 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 11:56:05
織田信長すら上洛には形ばかりの将軍足利義昭を伴った
足利一族の今川はそれすら必要ないと思っていたということか
そういえば死ぬ直前に上洛した甲斐源氏武田信玄も単独入京を目指していた
今川としてはバックには三国同盟があるから心強かったろうな
武田&北条としても親戚の今川が天下に近づけばそれだけ自分たちにも利益があるわけだし
518 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 12:24:20
>>515-516 そりゃ、京都の将軍家から要請されて上洛するという形にするだろうよ。
義晴・義輝期の将軍家は、各地の有力守護家に対して
「上洛して幕政に参加するように」
というような内容の御教書・御内書を乱発しているから、大義名分は立つでしょう。
519 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 12:28:33
三国同盟なんて何のあてにも
ならなかったがな
520 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 12:38:49
>>518 今川が上洛する大義名分は立つが、通り道の大名を従えることは出来ない。
せいぜい通行許可をもらえるくらいだ。
521 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 13:02:30
>>518 今川義元は将軍家から要請なんてされてないだろ。
当時の将軍は14代足利義輝だが、
戦国大名の間を泳ぎきり、将軍権威を死守した最後の将軍だった。
織田信長の力で入京、将軍となった義昭と異なり、
義輝は今川の力で将軍になったわけでも、京に住めなかったわけでもない。
今川を入京させる意味がない。
522 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 13:40:41
>>522 あれ、どうして義輝は謙信に上洛を要請したのかな?
523 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 13:56:34
>>522 アンカのつけ間違い?
上杉謙信は上洛して足利義輝に拝謁するとまた帰っているよ。
今川義元も京を押さえる意思はなく、
将軍に挨拶して帰るだけのつもりだったの?
あれだけの軍勢率いて行って?
524 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:23:38
>>523 上洛は義輝の要請による松永討伐のためで、朝倉、六角氏の正式な了承のもと
5千の兵を率いて上洛している。これを実現するため義輝は武田に長尾と和睦
せよという御内書を送って和睦させている。
5千の兵でも三好勢には勝てると謙信は決断を促したが、結局、義輝は決断できなかった。
まあ、晴信は和睦を無視して北信に出陣したりしてるけどね。
525 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:35:39
五千の兵ではさすがに不安だったんだろう
下手に負ける戦しかけたらけしかけた自分の命もやばいしw
526 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:48:27
>>525 義輝の要請で長尾勢の通行を許可した六角も加勢するだろうし、
当時から精強と思われていたので謙信が上洛要請の第一候補だったわけで、
義輝が決断すれば、今までいやいや三好に従っていた連中も立つんじゃないか?
527 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:13:10
>>526 ここは上杉謙信スレではない。
今川義元の上洛に関して、
将軍足利義輝はどんな下知を下したの?
>>526 無理でしょ。足利将軍の権威なんかとっくに揺らいじゃってるし、
たかだか5000の兵力しか連れていない越後の田舎者にそこまでの影響力はない。
まあ、当時の畿内の戦は動員兵力がそれほどでもないから多少のことは出来たかもしれんが、
海千山千の六角が越後守護代ごときが来たからといってそう易々と動くとも思えん。
つうか、そんなに簡単に事が運ぶのならば、謙信に命じるよりも六角に命じた方が話は早いと思うぞ。
529 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:26:14
江戸時代初期、第二代将軍徳川秀忠が、
1615年に室町将軍家縁故である
石橋家、吉良家、今川家の3家を登用したのに始まる。
その後増加し、
宝永9年(1780年)に26家となり、以後幕末まで変わらなかった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
石橋氏の誰が高家になったの?
その時代まで存続してたってことか?
530 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:28:15
>>526 将軍の命令だから通せといったところで
自分より勢力の弱い奴に従う馬鹿はいない
世は下克上
531 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:31:34
だいたい、将軍の意向がそれほど絶対だったのならば
上杉謙信に上洛要請などしなくても
将軍義輝が自軍を率いて松永を討ったでしょう
まあ将軍にそれだけの権威があれば
松永に攻め滅されたりしないわけだが
532 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:35:40
義輝が義元に上洛を要請した形跡はないようだ。
533 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 15:40:51
畿内で嘲笑のマトとなった将軍は頭の古い田舎者に助けを求めた
たすけてたもれ〜
駿河の麻呂大名 「わかったでおじゃる!待っているでおじゃる!」
権威は残ってるだろ、少なくとも畿内には
じゃなきゃなんで三好らは義輝暗殺したあと、義栄擁立したんだ
535 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:15:11
>534
自分に逆らえない将軍を立ててあやつり人形にするためだろ。
義栄が上杉謙信に上洛命令を出せば、三好は従うのか?
違うだろ。
義栄を殺してまた別の将軍を立てるだけ。
>>535 権威も何も無い存在なら擁立する必要が無いだろ?
いくばくかの権威が残存すればこそ、擁立するメリットがあるわけで
そもそもなんで権威も無い将軍を暗殺せねばならないのか
権威も何も無い将軍が、自分らの意に沿わないからと、殺す必要は無かろう?
537 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:56:15
>>536 「お飾りの将軍」と
「将軍の命令に戦国大名が従う」
とは別物であることは分かりますよね?
戦国大名は、大義名分などかざされても、それに従う必要は無いわけ。
将軍が長宗我部に上洛命令を出したら全大名が長宗我部に従い、
上杉に上洛命令を出したら全大名が上杉に従うわけ?
上杉謙信に将軍が上洛命令を出したからって、
ほかの大名が上杉を崇めて道をあけないからこそ、
謙信はやむなく海を伝って上洛したわけでしょ?
大丈夫?
>>537 それから、お飾りであればあるほど、それが勝手な行動しようが問題ない、だから殺す必要が無いって事は変わらないだろう
で、お飾りの将軍を殺して、自分らの意図に沿う将軍を吸えたのは何故?
540 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 18:47:24
>>537 越中の一向一揆とは敵対してたし、兵の輸送なら海上の方が早いよ。
朝倉や六角は将軍の要請で謙信に道を明けたしね。
武田が御内書どおりに北信でじっとしててくれればいいが、
やがて、蠢動しだしたからには京に長居はできんわな。関東管領へのめどもついたしね。
541 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 19:12:28
高山右近の子孫も地方で健在ですよね
542 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 23:08:15
レベル低すぎてワロタ
将軍の権威は低下したものの、多少は残ってて利用価値があるからこそ
好き勝手に追い、殺し、首をすげ替えるんだろ。
という当たり前のことを指摘されると、なぜか権威が「無くなった」と勝手に解釈して
意味不明なことを口走る人って一体何?
543 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:31:09
>>542 レベル低すぎてワロタ
将軍の命令に戦国大名が従っていたという主張をどう見るの?
それにここは今川義元スレですが?
今川義元の上洛が将軍の命令ではなかったこと自体、
将軍に何の権威も無かったことの証拠。
今川義元が将軍にどんな利用価値を見出していたと言うの?
史料も読まない小学生は出てってね〜
544 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:51:20
>>543 言ってることがキチガイそのものなんだが・・・w
>将軍の命令に戦国大名が従っていたという主張をどう見るの?
従った例もあるし従わなかった例もある。両方ともいくらでもある。
で、あんたは何が言いたいわけ?
>今川義元の上洛が将軍の命令ではなかったこと自体、
>将軍に何の権威も無かったことの証拠。
上洛するのに将軍の命令など全く必要ないんだがw
そもそも義元の「上洛」の根拠となる史料キボンw
>今川義元が将軍にどんな利用価値を見出していたと言うの?
今川義元の名を100ぺん唱えてご覧
っていうか、義元が将軍にどんな利用価値を見いだす必要があるんだい?
>史料も読まない小学生は出てってね〜
厨学生の君はいったいどんな史料を読んでるのだろうか?
545 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:55:06
>>544 まじで基地外だな。
レスするなよ、低脳。
お前が読んだ文献を示してからここの住人に相手してもらえ。
546 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 08:56:02
>>544 ぷっ。
昨日から一人でこのスレにしがみついて、
そんなに暇なの?
↑
つっこまれてあせってるやつの図
548 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 10:33:08
>>547 君が目を通した史料の名前は出せた?
まだ史料ひとつも読んでないの?
だめねえ〜
549 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 11:06:14
厨学生の読む史料ってなに?
マンガ日本昔話?
550 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 18:09:35
>549
馬鹿、乙。
551 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 18:28:18
>>521 >当時の将軍は14代足利義輝だが、
この一行だけで
>>521が以下に頭が悪いかをよく表しているw
まさか義稙を2代として数えているとか?
>義輝は今川の力で将軍になったわけでも、京に住めなかったわけでもない。
義輝って京都に住めなかった時期も結構あったと思うが。
552 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 18:42:11
>>551 ぷぷっ。
それをいうなら、歴史教科書&歴史参考書会社を
訴えたら?
現代の皇室の第○代天皇というのも、
皇極(斉明)天皇や孝徳(称徳)天皇など
重祚した天皇を2度数えていますね。
お前がいかに馬鹿な小学生かと言うことが
良くわかるスレだな。
553 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 18:43:11
とりあえず、ここまでのスレの流れを整理すると、元々は、仮に桶狭間の戦いで
今川義元が勝利してその後に上洛を目指したらどうしただろうか?
という全て「仮定」の話をしていたはず。
その上で、もし上洛を目指したとしたら形だけでも将軍からの要請ってことに
するんじゃないか?みたいな話をしていたはず。
少なくとも
>>520までのスレの流れはそういう「仮定」の上での話。
しかし、そういう、もし桶狭間で今川が勝ったらという桶狭間以後の仮定の
話をしていたのに、
>>521=
>>527が将軍家は今川に上洛要請はしていないという
見当外れなレスをして論点がズレた。
>>521>>527のレスは、桶狭間の前段階での史実としては正しいが、スレの流れは
全く読めていない。
結局のところ、桶狭間の戦い以降に今川義元が何を目指していたのかは、
本能寺の変以降に織田信長が何を目指していたのかと同様、何もわからない。
その当人が死んでしまったのだから。
554 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 18:50:22
>>552 現在の一般的な歴史教科書の類では、皇極(斉明)天皇や孝謙(称徳)天皇の重祚は別々の代として数えているが、
足利義稙について、明応の政変前と永正の政変後を別々の代としては数えていない。
というか、そもそも義稙が一度将軍職を追われてその後復活すること自体、まず触れられていない。
あと重祚に関しては、事実関係からいえば後醍醐天皇についても実質的には重祚といっても差し支えないはずだが、通例ではそうはいわない。
とりあえず挑発的なレスをしている奴は全て、スレが荒れることを期待している荒らしだ。
内容の真偽・痛さに関わらず相手にしないほうがいい。
556 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:22:56
>>554 えっ?
どの教科書?
普通は、10代将軍足利義材、12代将軍足利義稙としているよ。
11代足利義澄を意図的に外している?
後醍醐天皇など出してきている時点で・・・
あれは北朝光厳天皇を否定し、光厳天皇を歴代天皇の代数から
省いているためだよ。
11代将軍足利義澄は、君の頭の中で抹消されているの?
歴史本にはみな載っているのに?
はいはいイタチ外
558 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:29:31
俺は論文や史料は読むけどヲタ向け歴史本は読まないな。
大して価値のある情報が得られるわけじゃないし。
559 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:30:45
560 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:46:58
前々から疑問だったのだが、なんで信長は義元を殺したのだろう?
別に、是が非でも殺す必要はなかったと思うのだが?
561 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:51:29
大人しく降伏しとけば本能寺で死なずにすんだものを>>信長
562 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:13:50
>>560 若気のいたり?
空気読めなかったバカだったから?>信長
563 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:44:59
>>553 全然違う。そんな仮定の話はしていない。
今川は上洛しようとしていたと思い込んでる人(
>>511)がいたから
そんな事は考えにくい、という話をしてただけだ。
「仮定」の上での話、ではなく、そのような仮定は成立しないという話だ。
あんたはスレの流れが全然読めていない。
つうかなんかズレたやつが混ざってると思ったが、あんただったのか。
564 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 21:10:35
565 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 21:26:49
>>556 現在流通している小中高の歴史の教科書や受験参考書などでは、ほぼ例外なく
10代=義稙、11代=義澄、12代=義晴、13代=義輝、14代=義栄、15代=義昭となっている。
もちろん教科書レベルでは、本文で全ての将軍に言及しているわけではないことが多いが、参考として載っている足利将軍家の系図での代数の振り方なんかは基本的にそうだ。
また最後の足利義昭を「15代将軍」と明記しているケースは多く、このことからも義稙(義材)を2回は数えていない。
因みに等持院や鑁阿寺なんかでは、義栄を代数に数えず代わりに義視を数えているケースもある。
ただこの場合でも結局全部で15代としており義稙を2回数えてはいない。
566 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:05:14
>>564 仮の話は
>>514でオワッテル
あとは今川が上洛を目指してたかどうかの話。
それから将軍の権威やらなんやらの話へ。
だが仮の話を続けてるつもりの人が混ざっていた・・・。
話題はどんどん変わってるのにね。
568 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 23:03:09
だ・か・ら・・・
信長が義元をわざわざ殺す意味があったのかと小一時間・・・
ていうか、信長うぜええええええ
>>568 別に殺したっていいだろ?
公家が一個減ったところで京都には腐るほど在庫があるんだし。
571 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 03:30:49
572 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 03:40:06
>>508 義元が桶狭間直前に病死したとした場合、桶狭間の戦いがなくなる以外の歴史の
流れが史実と同じになるとは必ずしもいえないと思うよ。
当主が自然に病死するのと、合戦で敗死するのでは、その大名家の家中が受ける
ダメージに雲泥の差がある。
だから仮に義元が桶狭間直前に病死した場合、史実のような今川氏の急速な
弱体化は起こらない可能性もある。
もっとも、氏真に器量がなければいずれは弱体化するだろうが、その場合でも
弱体化のペースは鈍る。
そして今川氏の弱体化のペースが鈍れば、徳川家康の独立が遅くなり、
織田・徳川同盟の成立も遅れ、さらには織田信長の美濃征服が遅れることにも
なりかねない。
また甲斐の側でも、武田氏の駿河侵攻が遅れるだろうし、仮に信玄の寿命までに
武田氏の駿河侵攻がなされなかった場合などは、かなり史実とは違う展開に
なってしまうような気がする。
573 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 07:39:39
>>569 一武将ならともかく、隣国の国主を殺すなんて、いくら戦国の世でも空気読めてない。
今川義元が当時天下に一番近いというのもわかる気がする
三国同盟あるし血筋もいいし京に近いし 京は乱れてるし
あのまま上洛しない手はないな
575 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 08:03:22
テレビでやる馬鹿殿のイメージが先行しているからな。
テレビで見る義元は、大軍を率いて自分は馬にも乗らず、
織田信長の精鋭部隊にあっさり首をとられる馬鹿殿そのもの。
志村けんのばか殿が義元そっくりのおしろいメイクででるのも
貴人の証であるお白粉、お歯黒が馬鹿殿の代名詞のように見えてきて
悪効果だな。
志村けんが悪いのではなく、本当は白粉をこてこてに塗っていたほかの戦国大名を
白粉なしで出すなら、義元だけ白粉にせんでもいいだろうということ。
576 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 08:04:25
577 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 08:29:14
>>571 >>514今川が上洛すれば、周囲の大名はみな従う(A)→
>>515一大名が上洛したって周囲の大名はついてこない(反論)→
>>518足利将軍のお墨つきをもらえばみんなついてくるだ(A)→
>>520足利将軍から許可もらったって周囲の大名は従わない(反論)→
>>521そもそも、足利将軍が今川義元に上洛許可証なんて出すわけ無いだろ(反論)
以降、足利将軍が今川義元を上洛命令を出す可能性など
なかったことの討論。
こういう趣旨なんじゃないのか?
>>571 =(A)だろうが。
578 :
577:2008/01/11(金) 08:31:45
上洛命令を出したところで周囲の大名が従わないだろうという
ことの討論でもあるな。
そうしたら、将軍の命令なら、従う!
周囲の大名は今川義元を戴いて、大挙して将軍の元へはせ参じる!
という変な人が出てきたわけだ。
579 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 09:26:02
>>578 将軍家の相続権もある今川家の当主が下知をすれば近隣の大名はすべて従う。
580 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 10:13:33
>>579 近隣どころか隣国大名の織田信長に
今川義元は殺されたわけだが
581 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 12:17:44
信長はうつけ者だから例外。
582 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 13:04:49
そもそも武田、北条との三国同盟自体、
今川、武田、北条の関係が対等です、といっているようなもの。
義元が没するとすぐ、武田信玄が三国同盟を破棄し、
駿河へ侵攻したのもうなづける。
武田信玄は、自ら上洛するに当たって、
周囲を自らの配下に収めねばならぬことを周知していた。
しかし今川義元は、武田、北条と対等ですよ、といっただけで
今川が武田や北条の君主だったわけではない。
これをもって、今川義元に上洛する意向があったとは思えない。
義元に天下を狙う意向あり、と見れば、
同じ野心を持つ武田信玄辺りが真っ先に三国同盟を破棄しただろう。
583 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 14:04:57
織田上杉武田
すべて周囲を配下にしないまま上洛した。
584 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 14:20:05
>>583 織田はそのために上洛してから周囲をしらみつぶしに征服しているわな。
上杉は将軍に会いに行っただけだろ、
敵と鉢合わないためにわざわざ海路を使って。
天下を取る意思なし。
武田は途中で死んだ。
どの場合も、近隣の大名は織田、上杉、武田に協力していない。
585 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 14:55:59
>>584 織田の上洛は徳川浅井の支援を受けた
武田の上洛は北条の支援を受けた
今川の上洛は途中でアクシデントがあり中止されたものの自力だった
謙信は自力で上洛を達成した
誰が一番すごいんだろうね?
586 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 15:06:48
>>585 対等な関係での支援などありえないよ。
武田信玄が上洛しようとした際、
北条はすでに駿河侵攻を終えた信玄に討つ手なく、
武田に人質を一方的に送りつけ、
武田の庇護下に入ったようなものだった。
織田でいう徳川もそのようなもの。
かつて、今川義元に先陣としてこき使われていた家康は、
信長のもとでも先陣などもっとも危険な役を担わされ、
完全に信長の下知に従うだけの信長支配下の同盟者。
正しくは、
武田は上洛時、北条を実質的支配下におさめていた、
織田は上洛時、徳川を実質的支配下におさめていただろうね。
協力者とは少し違う。
587 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 15:49:55
>>586 武田は北条に攻められた今川に援軍を送ってたけど、当時は今川の家臣だったの?
588 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 15:55:37
>>587 上洛に協力するのと、
自国の領土を守るのに援軍送るのとは訳が違うでしょ。
武田が送った援軍は今川の領土保全のためで、
ちょっと上から目線(頼まれたので援助してやるよ〜)
上洛に協力するのは
私はあなたを天下人として認めます、ってことでしょ。
すごい馬鹿が現れたw
北条が武田を天下人と認めたんだってw
591 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 19:57:22
592 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:15:53
>>579-580 将軍のお墨付きは、本気で上洛を考えるのなら、ないよりはあったほうがいい。
お墨付きがあるからといって全ての周辺勢力が無条件で従うとはいえないが、
敵対勢力をある程度(一時的にでも)減らす効果は十分ある。
ただ将軍のお墨付きは、元々のその大名自身の実力がある程度備わっている
状態でこそ、大きな相乗効果を発揮するだろうから、弱小勢力が将軍の
お墨付きを得て活動したところで、大勢への影響がどれだけあるかは微妙。
まあその点、仮に今川が駿遠三の三ヶ国に加えて、生産性の恐ろしく高い
尾張まで手に入れてしまった場合、かなり強大な勢力になることは間違いない。
問題はその後に上洛を指向するかどうかだけどね。
593 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:19:40
>511仮の話
>512仮の話
>513将軍の話
>514現実の話(一部仮の話)
>515現実の話
>516現実の話(ただし勘違い)
>517現実の話
>518仮の話
>519現実の話
>520現実の話
>521現実の話(ただし勘違い)
>522現実の話(ただし勘違い)
以後上杉の話とか将軍の話とか泥仕合
>553仮の話を蒸し返す
仮の話はすぐに終わって現実の話〜泥仕合になったんだが、
泥仕合に負けた人が>553になって>511の話を蒸し返そうとして失敗、ぶち切れる。
なんか義元が本当に上洛しようとしてたと思ってる人(>516)とかも
いたことからなんか勘違いしちゃったのかもしれない。。。
595 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:30:46
そんなことどうでもいい。
なんで織田信長は桶狭間で今川義元を殺すという、空気読めない行動をとったのか?
いくら戦国時代でもやりすぎだろ。普通、国主の首まで取らないだろうに。
596 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:44:58
掟破りというか反則だよな。
そもそも信長は義元を殺すつもりだったのだろうか。
桶狭間の戦いはただの不幸なアクシデントだったのではないだろうか。
>>597 まあ義元が討たれたことに関しては、偶然に偶然が重なった結果かもな。
>>594>>598 >598は>594へのレスかな?
まあ客観的に見て>553は>514や>518と同様の可能性はあるが、
斑切れたのはむしろ>521のほうだろう。
それで新たな泥仕合が始まった。
601 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:05:45
上田原合戦から一月が過ぎて、武田晴信公が続投を正式に表明した。
武田家中の重臣会議で、信濃侵略路線の継続に了承をとりつけた。
あれだけ明確な信濃衆の「ノー」の意思表示を、どう受け止めたのか。
記者会見でただされた晴信公は、こう述べた。
「合戦での厳しい審判を厳格に真摯に受け止め、反省すべきは反省しながら、改革、国づくりに向かって責任を果たしていく」
要するに、厳しい戦闘結果は晴信路線に対する不信任ではなく、
板垣・甘利のチョンボと受け止めるということなのだろうか。
だとすると、武田家首脳部はこの歴史的大敗の重さを見誤っていると言うよりない。
そもそも晴信公自身が「私と村上さん、どちらが信濃の覇者にふさわしいか、領民に聞きたい」
として、この合戦を信任争いと位置づけたはずである。
記者会見でそのことを聞かれた公は、まともに答えようとはしなかった。
逆に「人心を一新せよというのが領民の声だと思う」と言い、
自らを除く指導部や城代を入れ替える考えを示したのはあまりに都合が良すぎないか。
政治は結果責任だ。政治家は進退によって責任を明らかにする。
今回、結果に対して潔く責任を負おうとしない指導者に領民は失望するだろう。
「なぜ続投なのか」という疑問と不信は、長くくすぶり続けるに違いない。
602 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:06:32
「天声珍語 8月1日 」
どうっと吹いた風が、塩尻峠の森の木々をなぎ倒していった。
累々たる倒木。聞こえてくるのは、大将や幕僚たちへの恨み節だ。
「赤備え」が猛威をふるった7月の言葉から。
本領復帰をめざした守護方の高遠頼継氏は、あえなく虜囚の身に沈んだ。
「猛暑と武田の遅延戦術、守護殿の失言とやる気の無さなど逆風の中、
対陣期間の大半を見回りや味方の監視に割かれた・・・」
実力で勝負できなかった、おのれおのれおのれ、と悔しさをにじませる。
敗走したほかの武将も悲鳴を上げた。
「水だけならまだいいが、酒までどんどん出てきた。」
「オウンゴールが4点ぐらいだ。」
足を引っ張った代表格の信濃守護・小笠原長時殿は敗戦当日、
「…………。」終始無言で逃亡した。
603 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:07:27
「慰安婦決議―当主談話でけじめを (8月1日付け」
佐久-小県・国人郷村連合が、
志賀城陥落時の慰安婦問題で武田家に謝罪を求める決議を採択した。
決議は「残虐性と規模は前例がない。天文年間最悪の人身売買事件の一つ」とまで述べている。
武田家は当主晴信公の談話で、甲軍の関与を認め、謝罪した。
それを受けて、さらに、新たな居城築城計画を取りやめ、
信濃国人抑圧政策も撤廃することを約束した。
佐久側がこうした取り組みを十分に評価していないのは残念なことだ。
しかし、過去の甲軍をこれほど糾弾する決議が採択されたのは、武田家の側にも原因がある。
そのことを厳しく見つめなければならない。
そもそも信濃国内には、武田家が信虎公時代の価値観を引きずっているのではないか、という不安がある。
武田家の諏訪侵攻に対し佐久有力国人が関東管領に懸念を伝える書簡を送ったのはその表れだ。
武田晴信公の登場は信濃国衆の警戒心を高めた。
さらに決定的だったのは、公の軍事ブレーンらが反論広告を高札に掲載したことだ。
今回の決議を採択した本会議で、小県在住の矢崎平蔵氏(仮名)は、
「歴史をゆがめ否定する武田の一部の試みには吐き気をもよおす」と述べた。
「価値観外交」を掲げる武田晴信公は「甲信は価値観を共有する同盟だ」というのが持論だ。
自由や民本主義といった理念で共通していると強調する。
だが、こうした価値観を共有するためには、
自由や人権を抑圧していた信虎公時代の軍国主義を総括し、
きっぱりと別れを告げる必要がある。
慰安婦問題で甲軍をことさらに弁護することは、
自由や人権の抑圧を肯定するかのように受け取られてしまう。
それはいま甲斐・信濃が共有するはずの価値観に反するということを、
武田家首脳部は知るべきだ。
604 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:08:18
武田信玄は信濃侵攻は甲斐が生きるための道と主張している。しかしちょっと待って欲しい。信濃侵攻は甲斐が生きるための道と主張するには早計に過ぎないか。
武田信玄の真摯な姿勢が、今ひとつ伝わってこない。
例えば上杉謙信からは私利私欲による他国侵略と主張するような声もある。
このような声に武田信玄は謙虚に耳を傾けるべきではないか▲
思い出してほしい、過去にも何度も武田信玄は上杉謙信の叫びを無視している。
武田信玄は上杉謙信の私利私欲による他国侵略という主張を間違いであるかのような発言をして、批判を浴びた。
確かに上杉謙信には潔癖過ぎる保守主義者という問題もある。だが、心配のしすぎではないか▲
武田信玄の主張は一見一理あるように聞こえる。
しかし、だからといって本当に武田信玄は信濃侵攻は甲斐が生きるための道と主張できるのであろうか?
それはいかがなものか。的はずれというほかない▲
事の本質はそうではではない。その前にすべきことがあるのではないか。
武田信玄は、未来を担う一員として責任があることを忘れてはならない。
武田信玄の主張には危険なにおいがする。各方面の声に耳を傾けてほしい。▲
武田信玄に疑問を抱くのは私達だけだろうか。
信濃侵攻は甲斐が生きるための道と主張したことに対しては上杉謙信の反発が予想される。私利私欲による他国侵略という主張を支持する声も聞かれなくもない▲
武田信玄もそれは望んでいないはず。しかし武田信玄は強欲、残忍である。
信濃侵攻は甲斐が生きるための道と主張する事はあまりに乱暴だ。武田信玄は再考すべきだろう。
繰り返すが武田信玄は強欲、残忍である▲
武田信玄の信濃侵攻は甲斐が生きるための道と主張したことは波紋を広げそうだ。今こそ冷静な議論が求められる。
605 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 08:02:31
>591-600
>たぶん永正の政変のときの大内義興みたいに、上洛途上の道筋にいる武士達を
>悉く引き連れて京都へ入るような感じになりそう。
ここで一人で暴れている人は何が言いたいの?
結局、514の自演で、自説が覆されたから怒ってるんでしょ?
レスどんだけ消費したら気が済むのw
あせったやつが水増しレスしまくって局面を複雑化させようとするのはよくあること
>553に対して>521だった奴が粘着してるだけだろ。
>>605 >結局、514の自演で、自説が覆されたから怒ってるんでしょ?
てか日本語OK?
514の自演によって、誰の自説が覆されたの?w
609 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:27:54
>607=608
ああ、早速連投514がきたw
514に対して、次から次へといろんな人が反論をつけたでしょ。
それに対して怒ってるんでしょ?
よくスレを読み返してごらん。
君が書いたもの以外はすべて514への反論になっている。
610 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:36:05
553=514
君が連投をやめれば、このスレも丸く収まるよ。
連投君。
611 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:18:00
つーか
>>514って、そんなに変なこといってないじゃん。
義元が仮に尾張征服してその後に上洛目指したらって話なら、
永正の時みたいになる可能性は想定するのはそんなに変な発想でもない。
>>514を真っ向から論破するような反論が出ているようにも思えないが。
むしろ
>>514と
>>553が同一だと決めつけて、
それを目のかたきにしている御仁がいるように思えるぞ。
ID非表示の板ならではだね。こういう不毛な論争って
612 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:19:41
そんなことより、信長が義元を殺すという、必要もないことをした理由を
納得のいくように説明してもらいたいものだ。
613 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:21:38
>>612 大河板の玄広恵探スレに、玄広恵探の亡霊がそうさせたってあったよ☆
614 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:43:02
売り出し中の若い鉄砲玉が、大親分の首を取って名を上げようとしたのかね?
615 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:47:23
>>611 はいはい、君のような投稿が荒れるもとだからね。
514君。
616 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:51:11
戦国時代の合戦を比較してみたら、敵の領国を攻め滅ぼす最終決戦でもないのに、
相手側の総大将の首を取るなんて異例中の異例だよな。
あの程度の合戦で、隣国の大名の首を取った桶狭間の特異性が際立って見える。
617 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:52:10
そんなに514が憎たらしいの?
618 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:54:09
619 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:56:12
>>613 玄広恵探の亡霊が集中豪雨を降らせたんだな。
620 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:00:05
>>617 くだらないことをぶり返している人がいるからでしょ。
621 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:01:22
622 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:35:27
>>616 今川は代々不慮の死を遂げる運命なんだよ。
ほら、義元の祖父の義忠だって領国外で討たれてるじゃん。
623 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:39:09
>621
君が611であることはわかったから、もうレスするな。
双方くだらん。
624 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:41:52
625 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:44:12
>>624 ID醸したらさっきから同じ奴の連投じゃね?
いいからレスすんなよ、糞。
626 :
611:2008/01/12(土) 11:59:28
627 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:59:57
スレ違いの話題でケンカしてる奴らは、桶狭間の信長同様に空気読めてないってことで。
どいつがどいつなのかよく分からんけど、
いまだに義元上洛などというとっくにおわった仮定のはなしを
蒸し返して粘着してる奴はアホということで。
いろんはんろんおぶじぇくしょんある?
とりあえず土曜に早朝から514を連呼していた基地外が消えれば丸くおさまるべ
そんじゃ「514」を全角で書いてた奴は全部同じ奴だったってことで、。
631 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:37:35
当時の織田氏の勢力では、駿遠三の三国の太守だった今川氏を滅ぼす力も意志もなかったはず。
それなのに桶狭間で義元を襲って殺害するというスタンドプレー。
信長の突飛な行動は、やはり異常としかいいようがない。
あの時点で今川義元本人を殺す必要とか必然性が全くないのに、なぜこんな出すぎた行動を・・・
>629=630
もう書くなよ。
634 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 13:13:57
635 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 13:33:55
そりゃ自身だからなw
>>572 ただ氏真に器量がなければあっという間に低迷するのも戦国の習いだろうね。
結局は織田が台頭したんじゃないかな?
そしてその台頭が遅れると、信長も少しは謙虚になって本能寺はなかったかもしれない。
逆に氏真に器量があれば家康が氏真と組んで織田は滅んでいたかも。
いずれにせよ、義元の今の扱いはなさそう。
もしそうなら、大河なんかでは高橋英樹辺りの大物が演ずる役柄になったかもしれないね。
桶狭間の時に義元のいる本陣は何であんなに兵が少なかったの???
本陣を手薄にするなんて考えられない
640 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 18:12:06
本陣ってどれくらいだったの、俺は5千だと思っていたんだが。
641 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 20:31:46
642 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 20:44:04
まさか本当に義元の首を取りにくるなんて思わないからな。
>>639 本陣の兵数が多ければ大坂夏の陣の家康みたいに
義元も桶狭間で死ぬことがなかったかもね
644 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 03:13:06
>>639 義元本陣は5千くらい。特に少ないということはない。
その日は、信長が出陣してくると予想されていたから、略奪や泥酔などはなかったと思う。
中島砦に向けて幾重にも防備を固めていたため、多少、気の緩みはあったかも。
ただ、本陣で戦闘が始まった時、この防備部隊は救援に来なかった。
何をしていたのだろうか?
645 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 07:50:08
>>644 犯罪者が襲撃してきたんだから、普通は逃げる&警察に通報じゃね?
646 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:32:22
信長にしてみれば、とりあえず尾張から今川軍を撃退できればいいわけだろう。
あの段階では、天下統一はおろか駿河征服すら念頭にないんだから。
なのに今川義元本人を討つというのは過剰防衛というかやりすぎではないのか?
まだ今川氏を滅ぼすだけの国力も理由もないのに無茶やりすぎだよな。
>>646 織田軍のほうが兵力少ないんだから大将の首でもとらないと勝てないだろ。
信長公にしてみりゃ、あのうつけ麻呂は殺しておいて大正解だわな
649 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:33:42
話し合い
はいはいワロス
651 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:24:30
今川の傘下に入るという選択肢もあったわけだが。
652 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:28:36
そもそも今川義元が隣国の馬鹿殿織田信長を
攻め滅ぼそうと思って尾張に侵攻したんじゃなかったか?
傘下も何も、今川義元は率直に信長の首を
狙いに来ていたんでは?
義元を討たなければ信長が攻められるところだった
653 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 23:05:08
信長が大人しく降参して臣下の礼を取ったら、首までは取られないだろう。
降参せず麻呂を返り討ちにした信長はえらい
655 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 23:17:16
駿府という名のエサをハイエナ武田を釘付け
656 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 23:58:20
信長は下民の分際で無礼。
切腹を命ずべき。
麻呂も坊主のままで一生過ごせば、殺されずにすんだ。
後世にも麻呂呼ばわりされずにすんだのに
_,.: -=- .,_
,r '"-= -.,、 ミ ` :.,
,i" ヽ, ミ ヾ.ヽ,
i ヽ ミミi
l ` 、 ヽ ミ i
_,.-"=-.,_、 _,,. _ i ミ i
i l'~t・ヽ`i i"=,,-、`_ _,..-=-i_,/、
ヾ.,_ ~,. / .i `"~ ヽ'-'"~ r'", i
.i r' ` -=-'" ソ,. ' _______________
.i ` ' ヽ` -、 y_,. ' /
i -'= - .,_. , ヘ、 < 賊を返り討ちにした信長にあっぱれやってくれ!
,/"i, .:::.' 、 _,.-'"i i`、_ \
_,..-'" l `-= _,. -='" /; i ヽ ̄~`=- _  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
r" i' l ::::::.`-., ::::::::.. /; i ヽ ~ヽ `-.,_
i ヘ ::::..ヾ ヽ、. /; .ii j `、
_,ィ:f:f:f:f:f:f:f:f:f:f:ァ:ァ、
,イ彡'´ ̄  ̄  ̄  ̄´}ニミi
ムヲ }二ミi あっさりと討ち取れた麻呂に
lミf へ、,,_ _,,.ィヘ. }三ミi
Y_,´二、 _,二二,__ ヾミヨ ___ l三ヨ f } f }
{:.:.:^iト:.:}‐{:.::ィiヒ.:.:.:广Ti⌒} |__| ,イ─┐ l/ l/
.ト--ーイ ` ー--‐' 、 リ ´ lこ, ノ o o
f イ,、 ,.、)ヽ T 「
{ ノ __ ヽ、 ! l
{ イ-─‐‐-ゝ } ! }
ヽ ヽ ノ ノ_ノ
`iー`------'‐一'" '人
_,.イ\ / /\
659 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:16:19
今川義元も兄貴が早世しなければ
一生坊主だったんだな
660 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 21:29:18
お前らスペイン帝国やユダヤを忘れてないか?
661 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:47:34
勘九郎はちょっと露骨にマロマロし過ぎていた。
>>575 風林火山の義元は良かったけどね
イケメン過ぎて変な感じがしたけどw
今度大河で義元出す時は志村けんの馬鹿殿みたいな感じでもいいけど
指を噛み切って大暴れすることはやって欲しいね
663 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:16:28
どっちにせよ、殺す必要のない義元を討った織田信長は空気読めないDQN
664 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 12:40:16
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. ',. ,' , r' 殺す必要がない?プ
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゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、バカジャネーノ
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666 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 15:56:51
まあ、普通は今川領に攻め込んだ最終決戦でもないのに、
敵の総大将の首狩りはせんよな。
信長って、戦闘狂のバカじゃねーの?
667 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 19:09:00
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. ',. ,' , r' はいはいワロスワロス プ
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668 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 20:58:12
織田信長って善なの?悪なの?
669 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 21:30:07
勝った者が正義
麻呂は悪
この時代、負ければ麻呂よ
671 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 10:45:58
あえて言おう
信長は義元の首を取る必要はなかったと
672 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 11:01:02
田舎の洒落大名!
673 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 12:18:42
お前ら馬鹿か?史実通りの軍勢の差を考えると義元を討ち取れなかったら確実に信長は討ち死にか捕虜だろ?
小数の軍で大軍に勝つなら短期で決めるのが鉄則。その最善策は敵の大将を討ち取ること。義元は寄親寄子製などを初めて導入した優れた武将だったのは認めるが、桶狭間に関しては油断と信長が神がかっていた
674 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:53:15
675 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:59:07
で今川は仮に上洛したら何を目指すつもりだったの?
室町幕府の再建? それとも足利将軍家を倒して自分が将軍になること?
>>675 京で本当の麻呂達と麻呂生活を楽しみたかった
677 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 16:13:27
京都の今川屋敷っていつ頃消滅したの?
義元の時代はまだあった?
678 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:11:13
氏親以降、今川の当主が京都に住んだことってあるの?
680 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 17:43:07
氏真は徳川家康に駿河を明け渡すのと引き換えに
家康から扶助を受け、
領地を失ってから京に住んでいたんだよね?
氏真が家康に駿河を明け渡すと言うことはあるまい。
682 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 20:11:34
家康は信長と組んだりせず、氏真を守り立てた上で、その譲りを受けて
「今川元康」になる選択肢もあったはずだ。
683 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 21:43:54
THE 蹴鞠
684 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:13:03
氏真 〜KING OF KEMARI
685 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 01:39:45
和歌は後水尾天皇選の集外三十六歌仙に選ばれ、蹴鞠は飛鳥井流の名人、
武術は塚原卜伝に新当流を印加され今川流剣術を創始。
氏真文武両道だったわけだが、徳川と武田が同盟して攻め込んではどうしようもない。
かつての家臣である家康からの援助で京の文化人と往来し、連歌の会などに出席、
最後は旗本として安穏に暮し、ある意味勝ち組?
100万石の領土失って旗本に落ちたんだから普通に考えれば負け組だけど、
それでも公家としては非常に恵まれてるわな。
687 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:22:48
公家w
義元 〜KING OF MARO
689 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 09:51:08
MAN OF THE MARO
690 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 09:51:58
谷原章介は、まろまろしていなかったのが玉に瑕だったな。
691 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 18:33:33
麿なんて虚構だがな。
いい加減、歴史上の人間に勝手なイメージを植え付けて遊ぶのはよせ。
692 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 07:27:30
義元は、まろまろしてるから、義元なんだよ。
麿大名YOSHIMOTOという漫画をYMあがりで連載してくれ
694 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:53:32
夕方の水戸黄門に麻呂が出てました!
>>694 水戸黄門の時代って江戸時代じゃなかった?
義元はもう戦死してたと思われ。
戦死ならカッコいいんじゃないか?
697 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 17:21:16
小和田哲男
って、キチガイ????????
今川の地元ひいき。
>>697 世の中にはいろんな趣味の人がいるんだよ。
699 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 18:57:41
>>698 ま、麻呂が好きな人もいるのか????
信じられん・・・。
というか、なぜ皆麻呂が嫌いなんだ?
701 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 11:12:46
副将軍じゃにのか?
足利を倒すというのはどうか。
今川家はご一門だろ。
親族だから倒すもなにもないだろ。
将軍職を譲られる事はあるかもしれないが。
702 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 11:16:59
徳川家康って母親が清和源氏水野氏の女性なんだな。
知らなかった。
じゃ、半源氏系将軍だわな。
母系の血筋を主張してもよかったのじゃいのか?
新田系の血筋に執着しなくても。
どうせ、父系はうそ臭いのだし。
703 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 13:11:43
松平は源氏嫡流新田の分かれ。
一方の今皮は源氏傍流の謀反人、足利氏の分家末流。
貴賤は明らかじゃね?
705 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 21:10:28
いい加減、義元を麻呂呼ばわりして、勝手な妄想で遊ぶのはよせよ。
義元=麻呂なんてお前らの願望と妄想にすぎず、虚構にすぎないんだからな。
>>705 お前
>>691か?
今川義元のAAだってさ。どう見ても麻呂だろw
,r‐、
_,/ニミヘ
≦;≡;≧ミ、、、__
, -〃川ヽヘヘ彡彡彡ッ、、
/ミミ三三三ン彡彡彡彡彡、
/ミヾミミミミ彡彡彡彡彡彡彡ニヘ
iミミ' `゙'"´ `彡彡ミ|
,iミミ rz;, ,zュ;, '彡彡ミi
|ミリ ,......_ ,......_ ';彡彡i
iミ' .;' ._ヽ.. .::'' _,_,_`:., ';彡;ィ
ヾ; ,イ又ン'.:) (.-ニ夂=、_ 彡ッ''、
|i ゝニ=''丿 ;ヾ、;;三´ 彡' /
.| ' /: : ヽ.` ツノ'i
, -‐| ゙-、__,-、,' \ |!' ノ
//;;ヽ| ,,ィ彡ニツ::ヾミニz、、 /"´
|;;;;;;.i ', " 'ーニ三三ィ"´ `゙' /
.|;;;;;,i ヘ, `ー‐''´ /、_
|ヘ;;ヽ iヽ i|||i .//7ヽ
|\ヽヽ \ ' .//// \
!\\ヽヽ、`゙ー‐-‐‐''"´/"´ ヽ、
`゙゙'‐┴----‐‐‐‐''''""´ iヽ
これも
(ニ=zr=、、,,___
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,/川川川川川川彡三ミヽ、
ィシ"゙゙゙゙゙''""""""""゙゙ヾミミミミヽ、
,〃_,, r;;;;;i ヽ、ミミミミミ;、
〃、(ツ , _二-、、 7ミミミミミ;、
/ `ヽ ;' ヽ, ' ,_,_,_,、、ヽ、 ヾミミミミミミ
,r'""゙`フ ,ヽ、 ̄ ̄`゙゙' 'ミミミミミミミ
i' / ヽ、 iミミミミミミミ
.| 、rュ rュ ') ,ミミミミミミミ
| ノ,=≡≡=、 ,'ミミミミミミミ
.| ,イ /TTTヽ、ヾ、 _,,,|ミミr‐、,' r、|ミ
| リ| |r' ̄`゙'ーヾト、 / iノ / ./ソ|i ノミ
.| ノ |.| r‐-,-‐┤ヾ、 _,/_|_/_/ |ノミ
| |.| / / ,シ' /;;;◎;;;;◎;〈, / iシ
.| ヾエエエエエ/ /;;;;;;|;;;;;;;/;;;;;;◎ヽ、|
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', i||i // |;;;;;;;|;;;;;;/;;;;;/;;;;;;/;;;;i
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ヽ、\`゙"""""´ | |;;;;;;r≡≡≡==ニ/
三ニ=--、、、________, -'ヽ〉/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
708 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 02:05:36
なんで義元は麻呂なんかになっちゃったんだ?
止めてくれる人はいなかったのか?
武田北条らと違いを出したかったからじゃね
710 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 06:58:34
戦に輿を使うもんじゃないな
AAなんて、お前らが勝手に作って遊んでるだけだろがw
史実と何の関係もない。
重度の痔主では輿を使わざるを得ないだろが
麻呂で痔持ちかよ!
714 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:04:38
麻呂の蹴鞠の腕は息子よりも上ですか?
715 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 17:33:21
短足デブだったらしいし、蹴鞠どころか歩行もままならなかったのでわ?
716 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:45:03
ピザ麻呂の厠はどんな仕様だったんでしょうか?
大便するのも大変そう・・・
体を支える小姓、尻を拭く小姓、とりどり居るからなんの不自由のないすよ
718 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 04:51:53
小和田哲男 今川贔屓のキチガイ静岡人。
>>718 おまえは今川叩きのキチガイヒキヲタだけどなw
720 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 10:41:51
強風大名な
721 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 13:55:57
このあいだ、麻呂と信長が桶狭間で決戦する小説を書いた。
>>721 一騎駆け寄り斬りかかる信長。それを悠然と杓で返す麻呂…
723 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 16:30:37
死に様は無様すぎる
麻呂の命の重さ=足軽の膝1つ+足軽の指一本
725 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 21:45:11
小和田哲男 今川贔屓のキチガイ静岡人。
725 アンチ今川のキチガイ2ちゃんねらー。
727 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:14:33
桶狭間戦記ってマンガ読んだら義元のイメージがだいぶ変わった
センゴク外伝はかっこよすぎる
真・戦国大名だからな
眉の書き方変えればいくらでも強くなる
730 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 22:55:09
小和田哲男 今川贔屓のキチガイ静岡人。
731 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 01:51:00
今川義元未だに信長恨んでるだろ?
義元って魔族だよ
斎藤道三と明智光秀と義元は魔界の三傑
732 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 01:52:31
今川義元が
明智光秀と接触したがっている
733 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 01:56:48
今川家は斎藤家明智家あたりと縁を結べ
お似合いだよ お前ら
735 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 23:33:58
義元でおじゃる
みなの者は尾張侵攻が上洛戦だと思っておるようじゃが
あれは単に尾張を掠め取ろうとしただけでおじゃるw
だから信長はムキになってまろの首を狙ってきよったのじゃろ
今、思えばはなから上洛すると伝ておれば、信長も素直に道を
あけたかもしれんのぅw まっことくやまれるのぅ
上洛しても将軍にそのまま収まれるのか?
737 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:46:57
将軍は無理かもしれんが関白くらいにはなれたんじゃね?
尾張の百姓でもなれるくらいだし。
738 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 23:20:44
義元でおじゃる
麻呂は将軍になることなど
一度たりとて考えたことは
おじゃらぬ
麻呂は足利幕府の再興だけ
を願っておったのじゃ
まぁ副将軍くらいは考えて
おったがのw
739 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 03:29:30
小和田哲男 今川贔屓のキチガイ静岡人。
三好でもムリだから麻呂ではムリじゃないか
741 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 19:08:23
三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ、雨が降ってきて、織田信長3千の攻撃を受けて、討死したそうです。なんて能天気なんでしょう?やはり凡庸と評するのが妥当?
742 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 19:22:18
>>741 腹が減っては戦が出来ぬと言うぞ?
関ヶ原の戦いの折、毛利秀元隊は一日中弁当を使い、英気を養った。
他の西軍の諸隊は皆潰走したが、弁当のお蔭で毛利隊のみは無事で、
堂々と東軍の脇を通り抜け、途中で黒田長政を生け捕りにし、大坂城に入城できた。
大坂城に入城後も一日中弁当を使った効果は残っており、意気軒昂の毛利秀元は、
毛利輝元に対し、徹底抗戦を要求した。
しかし弁当を食べてなかった毛利輝元はあっさり無条件降伏してしまった。
桶狭間で弁当を食わなかったら、今川義元は生け捕りにされ、今川家は改易されてただろう。
743 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 20:50:57
宰相の空弁当(;^ω^)
744 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:53:20
745 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 21:15:34
今川の全盛期は、義元時代と捏造されたのはなぜか?実は氏親時代に、家臣の北条早雲の領土〜駿河・遠州、三河(牧野氏、吉良氏、鵜殿氏)、尾張の名古屋城の今川氏豊までの広範囲が今川の勢力圏だったのです。
信長が天下人になったためのライバルとしての脚色ではないでしょうか?上洛というインチキ。
今川氏親(今川最強)東海道の覇者
今川の全盛期は、義元時代と捏造されたのはなぜか?実は氏親時代に、家臣の北条早雲の領土〜駿河・遠州、三河(牧野氏、吉良氏、鵜殿氏)、尾張の名古屋城の今川氏豊までの広範囲が今川の勢力圏だったのです。
義元のは、上洛ではなく、尾張旧領奪還作戦だったのです。
尾張〜相模までの東海道の覇者。
747 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 12:33:22
マロマロしてないとね
748 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 13:34:21
戦国無双の今川君て…なんか好きだな
可愛くね?
749 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 19:02:45
まろやかだね
もういっちょいく?
>>745 今川氏豊は今川氏親には臣従してない、独立勢力(出身=那古屋氏説)って見解も強いが。
少なくとも義元の弟なら、京都に逃げたまま行方不明。
花倉の乱にすら無関与ってのはあまりにもおかしい。
あと義元臣下に戦上手がいないってのもおかしい。
上のほうで雑魚呼ばわりされてる朝比奈政貞は織田信秀相手の小豆坂での戦功目覚しいし、
庵原之政や庵原将監あたりの庵原一族なんかは落日の今川家をよく支えてる。
寝返り組だと岡部政綱、朝比奈信置なんかも武名をあげてるな。
でも肝心要のトップである今川氏真がクズなのだけはガチ。
752 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 00:17:01
>>751 岡部氏や朝比奈氏、庵原氏あとはマイナーだけど富士氏など、決して
人的に劣っているということは無いと思うんだけどね。
実際問題として、徳川政権下で大名になっている今川旧臣も何人かいるしね。
753 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 11:32:00
>>751 おまえは、バカか?
斯波氏が、遠江、尾張の守護で、今川氏親が、打倒して、遠州を領国化。
尾張には、那古野城を築城、氏豊を配置、名古屋合戦記、言継卿記で確認できる史実。
室町時代は、同族で飛び地で複数守護なんてよくあることだし。
信長の時代から、領国を一元化支配する戦国大名が登場して、領内の一向一揆も全滅させたわけよ。
754 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 11:37:44
あと、海道一の弓取とは、徳川家康のことで、明治時代の本が初出。
義元のことではない。
755 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 20:30:34
>>753 おお、すごい。
名古屋合戦記を史実と言い切った!
756 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 16:10:44
小和田筆頭に今川厨は、捏造だらけ。
勉強になるのでどの部分が捏造か具体的に指摘してくれ。
もちろん根拠となる資料も示してな。
758 :
捏造:2008/03/30(日) 23:27:04
今川義元の本は、小和田のマンセー本しかない。
小和田以前に、義元の本ははぼ皆無。
江戸時代に、義元マンセー本はなく、桶狭間の討死のみ。
759 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 05:26:10
>>748いいキャラだよね、信玄や信長、秀吉、家康にも好かれてるしね。
>>460 >吉良氏ですが、「足利絶えれば吉良が継ぎ吉良が絶えれば今川が継ぐ」という戯歌だったか、
亀ですまないけどこの戯れ歌の出典を知ってる方教えてください。
>>529 >石橋氏の誰が高家になったの?
これも知りたい。
今川スレで聞くのは申し訳ないんだけど、全然手がかりなくて。。
763 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:49:03
>>753 那古屋(名古屋)は遅くとも室町の中頃から今川氏の一族の所領だった。
これは将軍義教の富士遊覧に関する『満済准后日記』の記事に、この地が
今川苗字を名乗る者の所領として見えることからも分かる。
そしてこの『満済准后日記』に見える今川苗字を名乗る者がおそらくは
今川那古屋氏(今川一族の那古屋氏)のことだろうとされている。
764 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 20:49:34
海道一の弓取は、徳川家康のことである。
義元のことであると、サイトで捏造垂れ流すな!!!!!!!!!!!!
765 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:08:14
国立国会図書館データベースを検索した結果、海道一の弓取は、徳川家康のことと判明しました!!
今川義元のことであると、史実を捏造した犯人をご存知のかた、いますか?やっぱり、静岡人でしょうか?小和田哲男などの。
767 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 00:42:34
海道一の弓取は、徳川家康のことである。
義元のことであると、サイトで捏造垂れ流すな!!!!!!!!!!!!
765 :日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:08:14
国立国会図書館データベースを検索した結果、海道一の弓取は、徳川家康のことと判明しました!!
今川義元のことであると、史実を捏造した犯人をご存知のかた、いますか?やっぱり、静岡人でしょうか?小和田哲男などの。
義元がまともに勝った戦なんて数えるほどしかないな
家督争いと織田をボコったくらいか 北条にはボコられまくるし
最後は弱小織田にやられるし 弓取りじゃねぇ蹴鞠り 海道一の蹴鞠名人だろう
>海道一の蹴鞠名人
雅でいいですね。
770 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 02:24:28
海道一の弓取りと呼ばれたのは
義元の親父だって。義元はただ家督を継いだだけ
771 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 02:45:33
↑
捏造乙。
アホ元は、上洛じゃなく、尾張攻めで、討死だけどな。
出典も示せず講談やゲームから得た知識しか披露できない低レベルの
大馬鹿者が跋扈して実に見苦しいスレだな。
773 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 21:13:03
2chで何を偉そうなことを・・・
学術論文でも研究発表でもない、ただの趣味の場だろ。
どうせ書き込んでるのは、普通の歴史マニアだけ。
場の空気を悪くするようなこと書いて、何かいいことあるのか?
自己満足じゃないか
775 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 01:34:10
海道一の弓取は、徳川家康のことである。
義元のことであると、サイトで捏造垂れ流すな!!!!!!!!!!!!
765 :日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:08:14
国立国会図書館データベースを検索した結果、海道一の弓取は、徳川家康のことと判明しました!!
今川義元のことであると、史実を捏造した犯人をご存知のかた、いますか?やっぱり、静岡人でしょうか?小和田哲男などの。
776 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 01:38:45
歴史板って、こんな荒れ方するのか、腐女子板と変わらんな。
>>775は、典型的名アンチ今川キチガイだから、特別
778 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 22:38:37
徳川って今川の川を貰って付けたのかな?
得川からじゃなかったけ?
780 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 04:02:50
新田足利の世良田得川を、徳川にしたのが、家康。
781 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 04:08:45
海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。
命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。
小和田哲男の捏造のせいで、今川義元みたいな凡人のことにされてしまった。
捏造こええええええええええええええ
キチガイ静岡人。
782 :
今川義元:2008/04/17(木) 05:06:23
麻呂が生きていた時には徳川など聞いた事も無い?
いつの時代の東海一かしらぬが、しょせんは成り上がりでおじゃろう。
783 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 05:49:15
>>782 叔父上、わたくし瀬名をお忘れですか?
わたくしの夫を知らぬとは叔父上の痴呆もここまできてしまったのですね。
これでは戦で大きな失策をしでかしそうで心配ですわ。
784 :
今川義元:2008/04/17(木) 07:11:14
はてさて。
瀬名なら、三河の松平に嫁がせた筈じゃろう。
見所のある若者でおじゃる。
785 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 15:06:37
海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。
命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。
小和田哲男の捏造のせいで、今川義元みたいな凡人のことにされてしまった。
捏造こええええええええええええええ
キチガイ静岡人。
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
787 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:01:21
788 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:27:15
789 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 00:43:25
790 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 11:41:17
あの信長ですら、今川義元を尊敬していた。
それと、家康は今川氏真のおかげで天下を取れたんだな
家康は能無しタヌキ。天才氏真の助言通りに動いただけ。
今川家最高〜! 今川BANZAI〜! 今川家の栄光を取り戻せ!
今川アンチ、キモ杉だろ・・・・・
目をあわせてはいけません><
793 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 14:43:02
海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。
命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。
小和田哲男の捏造のせいで、今川義元みたいな凡人のことにされてしまった。
捏造こええええええええええええええ
キチガイ静岡人。
786 :徳川を海道一の弓取とはいひしぞ:2008/04/17(木) 15:35:58
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
787 :日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:01:21
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013601&VOL_NUM=00001&KOMA=33&ITYPE=0 家康=海道一の弓取って、書いてあるな。。。。。。。。。。。。。。。
凡人義元のことじゃねえええええええええええええええええ
793があぼーんな件
やけくそだな
犯罪だけは起こすなよ
親が泣くぞ
うちの市には桶狭間合戦で最期の時に義元がつけていたと言われる兜がひそかに残されている。
この地域の元藩主のご先祖が織田軍から義元のみしるしを取り返した時につけていたものだそうで、
長年この地域の神社の奥に保管されていたとか。
実物の写真を見たことがあるけど、余分な飾り・・立て物やしころはなく鉢だけのものであった
が、鮮やかな金色をしていたのが印象的だった。
797 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 21:27:50
海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。
命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。
小和田哲男の捏造のせいで、今川義元みたいな凡人のことにされてしまった。
捏造こええええええええええええええ
キチガイ静岡人。
786 :徳川を海道一の弓取とはいひしぞ:2008/04/17(木) 15:35:58
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
787 :日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:01:21
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013601&VOL_NUM=00001&KOMA=33&ITYPE=0 家康=海道一の弓取って、書いてあるな。。。。。。。。。。。。。。。
凡人義元のことじゃねえええええええええええええええええ
798 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 21:35:13
ちゃんと指を食べるんだろうな?
800 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 04:22:27
海道一の弓取
徳川家康のことである。小牧・長久手の合戦で、豊臣秀吉率いる大軍に勝利したことから、
東海道で最強の武勇の者という家康を讃える称号である。
いずれも、幕府関係者の史料に頻出の呼称である。明治時代の徳川家康の本
には、織田信長の感状から、元亀元年6月28日から、家康の称号であると
伝えている。元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。
是より、家康の武名いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。
姉川合戦での大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、御母にて
ましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、と記載されている。
小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍が
家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、軍略妙謀まろの
及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
今川家臣で、これは!!、という武将を3人は上げるとなると誰ですか?雪斎と松平元康はなしで。
朝比奈泰能・泰朝ははいるかな?
802 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 00:19:39
岡部元信と朝比奈泰朝と庵原元政
803 :
信長 :2008/05/25(日) 13:14:20
狭間で勝利したからこそ家康や秀吉は不信仰今川の
魔の手から逃れることができたのです 桶狭間の勝利がなければ秀吉や家康は今川に騙され食い物にされていたでしょう
信長が不信仰光秀に謀反で殺されたことは決して
秀吉や家康にとって笑い事ではありません
今川や明智のような馬鹿連中と戦うには
正法をしっかりもって挑まなければなりません
そのように戦えば決して負けないでしょう
今川なんて殺せばいい
ぜひもなし まで読んだ
今川は海道一の弓取り!
変な荒らしが居るようだが、みんな気にスンナ!
806 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 16:33:59
807 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:20:32
>東照宮御実紀
そんなもの、徳川マンセーの、捏造史観じゃないか(wwwww
808 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:46:08
809 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 07:30:49
天下を取っても、日本一番とは書けなかったんだね。
二度の敗走は誰でも知っているし。
でも、駿河を支配していた武田に負けているし、尾張・伊勢を支配していた織田の事実上に従属しているから、東海道一番と言うのは間違いだね。
部下に指示するのが大好きで、自分は御輿に乗ってるだけで何もしない。
いまでもいますよね、そういう人。麻呂の子孫ではないでしょうか?
早く死んでくださいと思いませんか?
そうします。コロコロ o___rz
813 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:29:39
814 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 22:57:04
>>813 >東照宮御実紀
なんだ、19世紀に200年も前のことを書いてるやつね。小説のようなものだね。
小牧長久手で家康が勝ったのなら、秀康を人質に出す必要はないし、
実際には「小牧長久手」では、一部の局地戦で勝利(池田 恒興を敗死さすなど)しただけで、
伊賀・伊勢はほぼ全部を占領され、小牧と目と鼻の先の竹ヶ鼻城なども秀吉の水攻めで落城したが、
家康は手も足もでなかった。尾張でも秀吉の占領地は拡大しており、
家康が勝利したと主張するのは真珠湾で勝ったから、日本はアメリカに勝利したと主張するのと同じ。
まあ、本来は秀吉・信雄戦争であって、家康は助っ人(役に立たなかったけど)で主役じゃないけどね。
816 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 14:10:41
桶狭間ってのは、信長の楽勝だったのを、太田牛一が、劇的な勝利に脚色したものです。
尾張は60万石ありますんで、今川の70万石と互角です。
今川の4万5千というのは、根こそぎ動員と、尾張国境の反信長勢力を今川方とカウントしている。
戦場にいたのは、実数1万5千くらいで、しかも分散していた。
信長のつくった囮の砦攻略のために。
織田の2千とか5千って、本隊だけです。
島津といっしょですよ。
817 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 15:30:12
↑アホか
尾張西部の二郡は今川方に裏切ってるわ、
南部の知多半島とも遮断されてるわで
60万石のうち織田方は40万石以下だ。
818 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 16:25:45
三河を今川の完全領国もウソです。
刈谷の水野、豊田の鈴木は、織田方です。
知多半島の久松、水野も織田です。
尾張の大高の山口だけです、今川は。
弥富の服部左京亮は、ほとんど伊勢長島一揆と同じで、熱田の住民に撃退されており、
こいつを戦力でカウントするなら、熱田の住民も兵力でカウントする必要がある。
819 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 00:15:51
>>818 大高・鳴海・沓掛の3城のほかには、尾張北部の品野城周辺も今側方に侵食されていた
服部左京亮は熱田の自警団に撃退されたけど、長島で縄張りを持って支配していたのは事実
信長は前年までに一応尾張統一したが、まだ謀反を警戒して、ギリギリまで清洲城を離れれず、
美濃と伊勢野方面にも防備を緩めるわけには行かなかった
自称歴史学者の荒らしに何言っても無駄。
ウィキペディアと知恵袋で自分の妄想をわめき立ててる荒らしだからね。
こんな文章力無いアホに歴史のイメージ操作は無理だから、安心して放置しましょう。
821 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 17:26:39
桶狭間ってのは、信長の楽勝だったのを、太田牛一が、劇的な勝利に脚色したものです。
尾張は60万石ありますんで、今川の70万石と互角です。
今川の4万5千というのは、根こそぎ動員と、尾張国境の反信長勢力を今川方とカウントしている。
戦場にいたのは、実数1万5千くらいで、しかも分散していた。
信長のつくった囮の砦攻略のために。
織田の2千とか5千って、本隊だけです。
島津といっしょですよ。
822 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 19:26:27
よく考えたら、桶狭間で信長が今川義元の首を取ったのはやりすぎだったと思う。
いくら戦国時代でも隣国の太守の首を取るなんて、敵の本拠地を落としたときくらいであって、
最終決戦でもなんでもない一戦闘で駿遠三の太守の首を取るなんて狂気の沙汰だ。
まさに空気が読めてないスタンドプレーとしかいいようがない。
あえて問う。
信長は義元を殺す必要があったのか?
尾張守護はなにやってたの?
国内の犯罪行為なんだから取り締まって厳罰に処さなきゃ駄目じゃないの。
825 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:29:38
尾張守護は、その「犯罪人」によって既に追放され廃絶していた。
まあ、父信秀と今川が戦争したときは、適当なところでやめてるのに、
なんで信長のヤツは本気出して義元の首とったんだろう。
やりすぎだろ。普通、そこまでやるか?
826 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:53:47
家康は信長と組んだりせず、氏真を守り立てた上で、その譲りを受けて
「今川元康」になる選択肢もあったはずだ。
あったかもしれないが、それは選ばなかった
それだけのこと
もし今川範満がそのまま龍王丸に家督を譲らなかったら、どうなってたんだろう?
義元は駿河のお屋形様になれなかったのかな
829 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 20:19:41
信長が義元の首を取る必要って本当にあったのかな?
昔は何の疑問もなく史実を受け入れてたけど、よく考えたらやりすぎの感はいなめない。
>>828 氏親は当主になれず、寿桂尼の嫁いでこなかった。
よって義元誕生せず。
>>829 あれがやり過ぎなら浅井長政はもっとやり過ぎになるな。
832 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 10:05:33
浅井長政の場合は既に信長の勢力下に入ってた長政の裏切りという経緯があるし、
浅井の本拠地の小谷城を攻め落として自害させたあとの首だしな。
今川の本拠地の駿府を攻略したわけでもないのに、駿遠三の太守の首を取るなんて、
やりすぎと言わずして何と言う。
そもそも浅井長政はなぜ信長を裏切ったのか。
しかも信長の背後を突くような形で。
いくらなんでもやり過ぎではないか?
信長もやり過ぎだと思ったからサレコウベに金箔はってさらし者にしたんだろ。
835 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 13:11:34
なんにせよ義元の首を取る必然性はない。
スタンドプレー以外の何物でもない。
836 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 15:28:43
沖田畷の戦いで首を取られた龍造寺隆信の事もたまには思い出して下さい。
837 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 16:11:34
ノビーは最初から義元の首級をあげることまで考えていたのかな。
むしろ服部小平太とか毛利新助とか現場の荒くれ連中の先走った行動じゃないの?
義元本陣の急襲まではノビーの作戦だとしても、首狩りまでは狙ってなかったんじゃないの?
信長は義元の元へ命乞いに行くつもりだったんだと思われ。
はいはいわろすわろす
840 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 19:24:06
>>838 武装したままでか?
このトンチキ野郎め(w
841 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 19:31:33
信長の目的がわからん。
追撃して今川領に攻め込む力までなかったし、
まして今川氏を滅ぼす力もなかったのに、
義元だけ討つなんて。
ただのバカだな。
842 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 20:47:53
領地を拡大したかったのでは?
843 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 09:58:56
尾張国内の親今川勢力の支配地を奪取するだけなら、
別に義元の首を取る必要ないんじゃないのかな?
844 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 16:55:06
コピペご苦労さん
小和田哲男の静岡人
↑
日本語がおかしいんだが・・・あ、日本人じゃなかったか
846 :
日本@名無史さん:2008/08/15(金) 00:34:38
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| 先生!海道一の弓取は徳川家康のことニダ!
| 小和田哲男の静岡人が歴史を捏造しているニダ!
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∧_,,∧∩ ∧_,,∧∩ 先生、隣の国の子が紛れ込んでます・・・
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848 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 02:43:09
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| 先生!海道一の弓取は徳川家康のことニダ!
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850 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 15:53:30
851 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 22:16:29
今川家臣では鵜殿長照が好きなんですが・・・
「東照宮御実紀」って江戸時代に幕府の息がかかった形でつくられたものだろ?
北朝鮮の将軍様の何とかと同じ。
853 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 21:46:23
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855 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 05:07:50
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弁当でも食ってろ
それとも指食いてぇのか
858 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 02:41:33
859 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 02:56:06
東照宮御実紀は金正日マンセー本と似たようなものw。
860 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 03:07:48
東照宮御実紀は小説レベル
861 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:41:59
862 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:54:18
弓取って弓取る身つまり武士だろ
863 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:51:49
首とりはのぶのやりすぎ
逸脱行為だな
弓取りって弓泥棒だろ
竹千代は領地没収されて駿府で乞食してたらしい。
そういえば義元も子供の頃京都の名刹で乞食してなかったっけ?
866 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 04:28:32
867 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 20:11:11
おれ今川って苗字だけど実家農家だから関係ない。
まぎらわしいわ
868 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 20:22:07
869 :
まろ様:2008/12/05(金) 20:26:20
870 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 21:54:04
のぶの引き立て役になるとわ
871 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 22:14:07
>>866 その史料では、家康が海道一の弓取と呼ばれていた根拠にはなっても、
今川義元が呼ばれなかった根拠にはならないじゃん。
活躍した時代がずれている以上、義元の異名が同地域出身の家康に
受け継がれたとしても別に不思議じゃないし。
通説を否定するなら論拠は明確に。
872 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 09:53:34
上洛して征夷副将軍になればよかったのにな
873 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 12:04:24
どうかなあ のぶに敗れてると思うけどな
義元の妨害を排除しながら尾張を統一しつつあるのぶ
尾張は豊かな生産力と資金力の前では
東海三国結集しても短期間での攻略は難しい
信長に上洛の先鋒を申しつければよい。
875 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 13:46:59
876 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 15:35:00
今川義元と雪斎を神格化して、家康の師匠にしようという勢力がこの知恵袋にいますね。捏造は許されませんよね?小和田哲男でしょうか?今川厨の捏造擁護にだまされないように。
海道一の弓取=徳川家康のこと。今川義元のことは完全な捏造。
家康の軍法の師匠は、雪斎は、幕末の地誌(郷土誌)の駿国雑志の捏造。徳川の公文書に記載なし。
家康は、今川に恩義を感じていた?捏造です、改正三河後風土記、徳川実紀では、今川は三河を横領した悪党です。
>>858 >>861 >>866 >>875 >>876 はYahoo!知恵袋とウィキペディアを荒らし回ってるアホですから相手しないように
愛知県安城市からお越しの自称歴史専門家サマです
安城と徳川・織田が大好きで、豊橋と今川・伊達・武田が大嫌い
実社会で思うようにいかないらしく、ネットで自説をひけらかしてストレス発散しているのです
そっとしといてあげてください
878 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 18:42:33
:お約束
「織田がこね、羽柴(豊臣)がつきし天下餅、
座りしままに食うは徳川」
880 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 21:27:02
そもそも今川義元には上洛の意思など無かった。
あの時点で上洛など、荒唐無稽と言わざるを得ない。
尾張には織田、美濃には斉藤、近江には六角・浅井、京には三好・松永といった強敵がひしめいていた。
義元の意図は、せいぜい織田を叩いて尾張に勢力を張る程度のこと。
対して織田信長の意図は、今川の侵攻を撃退すること。
義元の首を取ってしまったのは、たまたま偶然、もののはずみってもんだ。
そもそも桶狭間の合戦は、信長が状況判断を誤った結果の遭遇戦である。
信長は斥候の報告で前方の丘の上に、敵の一部隊が居ることを知った。
実はこの部隊は義元の本隊であったのだが、信長はこれを前日に大高城に兵糧を運び入れた部隊であると誤認した。
昨日から闘ってきて疲れている小部隊であるから、容易にやっつけることが出来る、これを叩いて景気づけにしようとしたのだ。
しかも、世上信じられている奇襲ですらなかった。
織田軍の進撃は義元が陣取った丘の上から丸見えであった。
織田軍は、相手が疲れた小部隊だと思い込んでいたので、意気盛んであった。
この気力の違いが勝敗を決したのだ。
最も信頼が置ける歴史資料『信長公記』の記述を信頼すれば、上記のごとくである。
881 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 22:33:19
首狩りは服部小平太とか毛利新助などの端武者どもが先走った、いわばアクシデントだよな。
思慮の浅い馬鹿どもが見境のないことを仕出かしたわけだ。
882 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 23:07:44
うむ しかし葉武者の暴走をとめれなかったのぶにも責任があるよ
のぶの暴走ともとれる
某大河にいたっては
軍師山本某の画策になってる。噴飯ものだな
桶狭間を理由に信長の天才っぷりを語る奴なんて、今どき信者くらいなもんだろ〜
個人的に政治・戦略において評価できるのは美濃進出あたりからだと思ってる
桶狭間で信長を讃えるなら「運も実力のうち」って言葉が一番かな
で、今川義元についてだけど、運が悪かったというフォローは置くとして
尾張攻略で失敗のリスクを全く考えていなかったのは痛いね
おれは今川没落は氏真だけの責任じゃないと思ってる派だが、どう?
884 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 21:17:52
桶狭間の奇襲作戦なんぞは、小説家・小瀬甫庵による創作。
885 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 21:19:38
>>883 今川没落の一番の責任者は武田信玄じゃろが。
886 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 08:05:10
塩止めした今川に非難されるいわれはない
上杉なんかと密約しくさった氏真などぶっ潰してやんよ!(怒)
また変なのが沸いたな
888 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:15:41
889 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:30:08
今川義元も「海道一の弓取り」と形容されておる。
徳川家康の専売特許ではないのだよ。
上がってる時はたいがいこれだ
バカの一つ覚えとはまさにこのことだな
891 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 02:31:11
弓取りとは武士のことで、海道とは東海道のこと。
すると、「海道一の弓取り」とは、東海道で最大の勢力を持つ武士、東海の覇者って程度の意味だ。
今川義元が現役だった頃は今川義元が、その次には(そういう言い方はしないとは言え)信長が、
そして信長没後、小牧長久手の戦い以後には家康が、その称号に相当する地位だったわけだ。
ただそれだけのこと。
「室町殿」とか「九条殿」とかの呼び名と同様、元は普通名詞に過ぎなかったんだよ。
ただ、その名前で呼ばれることが最も適切な大人物が出てきたから、特定個人をさす固有名詞に転換されたんじゃないか?
893 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 21:37:18
海道一の弓取とは、東日本(東国)で最強の戦上手の武家の棟梁の意味であり、
桶狭間で討ち死にした義元のことではないのは、明白。
また、静岡県のみを東海とはいはない。同じ東海道の信長に敗れている以上、
東海一であるはずがない。
桶狭間で義元が討ち死にするまでは、織田や斎藤が義元に抵抗することが可能とは誰も考えていなかった、
それぐらいの強さはあったんだよ。
だいいち、その時期の松平元康は、明白に今川の家臣(外様だが)だった。
武田と今川の間の同盟関係だって、今川の方に主導権があった。
北条も、元は今川の家臣だった。
(とはいえ、長く争い続けていた武田と同盟関係を結んだことで北条と敵対関係に入ったから、
三国同盟締結の時点では北条との間には上下関係はなくなっていただろうけど)
こういった諸条件を考えれば、今川義元が東海道で最強だったことは明白。
だからこそ、義元の討ち死には広範囲に大きな影響を与えたんだ。
895 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 01:39:20
海道一の弓取とは、東日本(東国)で最強の戦上手の武家の棟梁の意味であり、
桶狭間で討ち死にした義元のことではないのは、明白。
また、静岡県のみを東海とはいはない。同じ東海道の信長に敗れている以上、
東海一であるはずがない。
896 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 16:26:27
>>894の間違い
・織田と違って斎藤は兵は強兵、兵力も多い。そもそも今川と斎藤が戦う理由がない。
だからだれも今川と斎藤が戦ったらどうなるか、などシミュレーションしなかった。
・今川は氏輝の代から武田に連戦連敗、だから北条を裏切って、辞を低くして武田と同盟を結んだ。
ぶち切れて攻め込んできた北条にボコられ武田に援軍を仰いでなんとか駿府を維持する有様。
はっきり言って3国同盟のうち今川だけが圧倒的に弱体なのが現実。
>897
織田が美濃へ攻め込んだことは何度もあったが、
斎藤が尾張へ攻め込んだのは、応仁の乱の末期、文明年間の斎藤妙椿時代だけ。
つまり、全体的には斎藤より織田の方が優勢の時期が長かった。
もちろん、織田信秀時代だって同様だ。
織田と斎藤の間の戦いは常に美濃国内でのみ戦われた。
尾張国内の、信秀と対立する織田の諸氏(本宗家も含む)が尾張国内で信秀と戦ったことはあるが、
そのときでも、斎藤家の臣下が尾張国内へ攻め込んだことはない。
信長の代になって、道三の部下が信長への援軍として尾張国内へ入ったのが、
斎藤家の家臣が尾張国内で行った、この時代としては唯一の軍事行動だったんだよ。
だから、
>織田と違って斎藤は兵は強兵、兵力も多い
などという俗説は事実無根の大間違い。デタラメの極みだよ。
それに、
>そもそも今川と斎藤が戦う理由がない。
というのも、織田が健在な間だけのこと。織田が倒れたら、斎藤との戦いは絶対に避けられなかったよ。
同盟する理由は全くないのに対し、戦う理由ならいくらでもあった。同盟が成立する余地は全くなかったんだ。
>今川は氏輝の代から武田に連戦連敗
これもデタラメだな。
今川と武田の間の争いは常に甲斐国内で行われており、
今川が武田領に攻め込んでいたんだ。武田が今川領に攻め込んだのは、きわめて限られた事例だけ。
信虎の代になってからは、どうにか領内で撃退できるようにはなったとは言え、
武田が今川領へ攻め込むのはまだまだ困難だった。所領の面積でも、今川領は武田領の2倍を超える広大さだった。
今川が武田や北条より劣勢になったのは、桶狭間で敗退した後の立て直しで手こずっていた間に領地が減ったからで、
桶狭間戦の頃までは北条や武田よりも明白に有力で巨大な大名だったんだ。
899 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 07:47:24
攻め込もうと攻め込まれようと今川がボコられてるのは事実だろ
>>899 ソースよろ
どの文献も、書いた側の勢力が「俺達Tueeeee」になってるんだよ
甲陽軍鑑なんかその代表的存在なんだが、知ってるよね?
>>898 イタイ奴が湧いてるな・・・。
まず同じ斎藤といっても妙椿と道三は全然別物。こんなのを一緒くたにしてる時点で
>>898のレベルが知れる。
織田が美濃(西美濃)に攻め込んだのは、斎藤(道三)に圧迫された守護土岐氏支援のため。
そういう大義名分があったからこそ美濃国内で、大手を振って暴れることが出来た。
よーするに織田の美濃攻めというのは、織田対斎藤じゃなくて、土岐の援軍対下克上斎藤なんだよ。
しかも朝倉も協調して美濃に介入してきたから、西美濃すらまとめきれない斎藤は兵力も足りず、
苦戦を強いられた。・・・が戦えば圧勝した。
大義名分もなく孤立無援で兵も足りない斎藤に織田は圧倒されたんだよ。
一方斎藤の目標は美濃掌握であって尾張征服ではない。
だからわざわざ尾張なんかに攻め込むはずがない。
そして織田を打ち破って国内をまとめかけたところで織田は白旗を揚げた。
・・・優劣は明らかだよね。
武田の件も同じ。甲斐一国を掌握しきれない武田に対し、今川はちょっかいを出して惨敗した。
所詮今川なんかそんなレベル。そして武田の主敵は伝統的に信濃の諸豪族。
わざわざ甲斐信濃を放置して駿河に攻めてなんぞ来ません。ゲームじゃないんだから。
織田対斎藤の関係と、武田対今川の関係を並べるのは無理がある
争いそのものもだが、争いに至った経緯も違う
>>898の「織田の次は斎藤」ってのはさすがにゲームっぽいが、
>>901が一時点を指して「所詮そんなレベル」って言うのも十分ゲームっぽい
一時点じゃないだろ。
今川は武田にも敗れ北条にも敗れと、近隣の有力勢力に苦戦する時代が続いていんだよ。
勝てる相手と言えば西の土豪連中くらい。
>901
道三とそれ以前の斎藤が、かなり関係が薄いことは常識だから省略したが、
常識ってほど有名ではないと思うヤツもいたのか。
道三が斎藤家を乗っとったことは基礎常識だと思ってたよ。
妙椿の死後にも、斎藤の強大化を嫌ったからか、守護の土岐氏は他氏の守護代を任命し、
斎藤家との間で激しく争ったことがあるが、
このときも織田氏が介入して美濃国内で戦ってるよな。
その織田氏も2派に分かれてたのに、主に美濃国内で争ってなかったか。
ま、一方は最初から劣勢だったしな。劣勢な者どうしで組んで、案の定、負けたってだけ。
道三の時点になると、守護の土岐氏は国外(尾張)にいて、争ってたが、
土岐氏そっちのけで勝手に斎藤と和睦して手を引いたんだっけ。
斎藤側は城下まで攻め寄せられても撃退できず、引き際の逆襲で大きな打撃を与えたとは言っても
劣勢な点ではかわりがなかったから、織田側が優勢の形で和睦してるじゃんか。
当主の姫を、織田の傍流の三男坊の嫁にしてるだろ。後に尾張を統一した信長とて、
この時点では、(織田家中で最大規模の奸臣だったとはいえ)支流だった信秀の子、
いちおう信秀の嫡男だっただろうとは言われてるが、支城主に過ぎない地位だった。(まあ、兄2人は庶兄だったが、一方は信長同様に支城主だった)
だいいち、この時期、美濃国内の主要な城のいくつかの城主が織田だったしな。大垣城とか。
これで織田>斎藤じゃなかったって言うなら、まともな根拠を出してみようぜ。
>902
でも、織田を倒したあとの、次の攻略対象って、美濃か伊勢しか有り得ないだろ。
あー、美濃より伊勢の攻略が優先された可能性はあるな。
905 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:12:38
>>904 >でも、織田を倒したあとの、次の攻略対象って、美濃か伊勢しか有り得ないだろ。
>あー、美濃より伊勢の攻略が優先された可能性はあるな。
ゲーム脳乙
>>904 妙椿没後の船田合戦は土岐家の御家騒動。
>>906 というか、美濃の内戦はたいていが御家騒動。
斉藤道三の立身だって、土岐氏の家督をめぐる争いの中でなされた物。
道三一代で成り上がったか父の代からの二代で成り上がったかは知らんけど。
>>904 舟田合戦は
>>906の言うとおり土岐氏の御家騒動であって、織田対斎藤の戦いではない。
美濃守護土岐成頼が末っ子を寵愛して嫡男を廃嫡しようとしたことから起きた戦いだな。
土岐氏の御家騒動なんだから美濃で戦って当たり前。
参戦した守護代織田某も姻戚関係から参戦しただけ。
こんなものを織田対斎藤の戦いとして、しかも織田優位の証拠としてあげるなんて、狂気の沙汰。
しかも当時の斎藤と道三時代の斎藤は事実上別物だし。
で、道三のときは、謀反人であり、西美濃すらまとめられない状態で、旧守護を擁する
朝倉織田に攻め込まれたが圧勝。
信秀は本陣まで崩されて弟その他一族も失う大敗。
織田が占領していた大垣城も奪取。織田は美濃から追い出され、尾張国内の求心力も無くなって和を乞う始末。
斎藤→旧主・外敵を追放、西美濃征服
織田→大義名分を持ちながら惨敗・美濃の拠点喪失
どう見ても斎藤>>>織田ですが。
西美濃統一してない状態の斎藤にすら惨敗したんだから、統一後の斎藤になんぞ手も足も出るわけない罠。
>でも、織田を倒したあとの、次の攻略対象って、美濃か伊勢しか有り得ないだろ。
意味不明ですが・・・w何で攻略しなきゃならんのですか??
> 西美濃統一してない状態の斎藤にすら惨敗したんだから、統一後の斎藤になんぞ手も足も出るわけない罠。
斎藤氏が美濃をまとめていく間、尾張だって情勢は変動してるわけでしょ?
そういう所を省いて、合戦の結果だけ挙げて斎藤>>>織田とか言われても全然説得力無い
あと、「圧勝」とか「惨敗」とか、非常に恣意的に使ってるが、それって誰の解釈?
>>908 >斎藤氏が美濃をまとめていく間、尾張だって情勢は変動してるわけでしょ?
↓
>尾張国内の求心力も無くなって
>あと、「圧勝」とか「惨敗」とか、非常に恣意的に使ってるが、
↓
>信秀は本陣まで崩されて弟その他一族も失う大敗。
明確に説明されてますよ
910 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 07:57:14
>>908 >でも、織田を倒したあとの、次の攻略対象って、美濃か伊勢しか有り得ないだろ。
なんで 攻 略(笑)しなきゃいけないの?
911 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 12:56:15
ゲーム(笑)だからさ
904と906(とその他の人にも)に訊きたいんだが、
美濃国内の織田領の土地って、いつごろ、どういう経緯で織田領になったんだ?
それと、尾張国内には斎藤領とか土岐領ってあったのか?
なんか、今川領はあったらしいんだけどさ。那古野とか
織田領というか、織田の占領地だろう。
斎藤と戦うためには橋頭堡を確保する必要はあるが、
あくまで織田は援軍なわけだから、勝手に他国を
自分の物にすることは出来ないよ。
斎藤を撲滅したあとに謝礼として土岐から贈与される可能性は
あったかも知れないけどね。
914 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:24:59
>>912 信長の織田家は信長の祖父が津島の利権を押さえたことから力をつけてきた経緯がある。
当時の津島は港町で、美濃・伊勢・知多・三河などとの交易で栄えていた。
この経済力が織田家発展の基盤になったのだ。
地図を見ると判るように、津島からは木曽川、長良川をさかのぼることによって、西美濃方面へ行くことが出来る。
織田もこの方面から美濃進出を図ったというわけさ。
一夜城で有名な墨俣城も長良川をさかのぼった地点にある。
信長はこの進撃路とは別に、小牧方面からも攻略の手を伸ばしている。
一時的にではあったが、小牧に城を築いてそこに居を定めた時期もあった。
>914
スマン、誤解しやすかったかな。
信秀時代(?)の、美濃国内の織田領。
信秀の領地だったかどうかは知らん。
>910-911
当時の戦国大名自身による述懐で、
大名という者は他国と戦って勝つことに存在意義があるのであって、
勝てなければ家臣らは自分を支持してくれず、見限って去ってしまう
と述べた事例があるだろ。
たしか、信玄の書状じゃなかったか?
武士の基本は領地の防衛。
敵から守ってくれないような頼みがいのない大将は見限る。
「守ってくれない」ならな。
そこからもう一歩踏み込んで、「外に攻め込んで勝つ」事が要求された時代だったんだよ。
その一方で、「信玄公が求める軍役の負担が重い」と嘆く領主たちの声もあり、
単に「外に攻めていって勝つ」事だけをみても、賛否の声が併存してたようだが。
まあ、連年の飢饉で苦しかった領民の間では、
「他国に攻め込んで、略奪で一財産こしらえつつ、勝って帰る」ことが、
領民からも、最も求められていたって事だ。
そんなこと要求されてないって。
他国に出兵できるのも大義名分があるときだけ。
文弱の今川が美濃攻めたところで、留守になった駿府を武田北条にあっさり落とされて滅亡だろw
つうか尾張すらまともに統治できないんではないか。尾張は大国だからな。
921 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 17:25:32
今川自体、足利の分家の吉良の庶流だろう?
今川氏親の時代にイッキに勢力拡大したわけ。そのとき、軍師が北条早雲。
北条早雲は形勢不利とみるや三河から撤退している。
逆に義元の時代は雪斎も含めて、三河を中途半端にした。
一向一揆も解体していないし。
北条早雲>雪斎
氏親>義元はガチ。
早雲は家康のひい爺さんに完膚無きまでに打ちのめされ、はるか伊豆まで褌一つで逃亡した。
一方雪斎禅師は松平を下僕にし、三河一国を制圧した。
氏親は討ち死にを恐れ、駿府館で震えているばかり。
義元は雄々しくも遥か尾張まで親征した。
雪斎>>>>早雲
義元>>>>>>氏親はガチ。
923 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 00:04:52
今川自体、足利の分家の吉良の庶流だろう?
今川氏親の時代にイッキに勢力拡大したわけ。そのとき、軍師が北条早雲。
北条早雲は形勢不利とみるや三河から撤退している。
逆に義元の時代は雪斎も含めて、三河を中途半端にした。
一向一揆も解体していないし。
北条早雲>雪斎
氏親>義元はガチ。
早雲は家康のひい爺さんに完膚無きまでに打ちのめされ、はるか伊豆まで褌一つで逃亡した。
一方雪斎禅師は松平を下僕にし、三河一国を制圧した。
氏親は討ち死にを恐れ、駿府館で震えているばかり。
義元は雄々しくも遥か尾張まで親征した。
雪斎>>>>早雲
義元>>>>>>氏親はガチ。
925 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 17:51:02
今川自体、足利の分家の吉良の庶流だろう?
今川氏親の時代にイッキに勢力拡大したわけ。そのとき、軍師が北条早雲。
北条早雲は形勢不利とみるや三河から撤退している。
逆に義元の時代は雪斎も含めて、三河を中途半端にした。
一向一揆も解体していないし。
北条早雲>雪斎
氏親>義元はガチ。
早雲は家康のひい爺さんに完膚無きまでに打ちのめされ、はるか伊豆まで褌一つで逃亡した。
一方雪斎禅師は松平を下僕にし、三河一国を制圧した。
氏親は討ち死にを恐れ、駿府館で震えているばかり。
義元は雄々しくも遥か尾張まで親征した。
雪斎>>>>早雲
義元>>>>>>氏親はガチ。
927 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 21:10:19
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
929 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 05:09:28
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
ミネルヴァ書房「今川義元」と人物叢書「今川義元」、どちらがオススメですか?
近刊がいいと思うので、後者を読もうと思うのですが…
義元自体お勧めできない人物
932 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 19:56:55
要するに庵原忠胤が最優秀なわけでしょ
岡部元信はなぜ裏切ったの?
結局、雪斎禅師とは何だったのか?
お坊さんでしょ。禅宗の。
名前見ればわかるジャン。
桶狭間戦記2巻マダァ-?
(・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
梅岳承芳 という呼称が誰のことかわかる人、
日本人1.2億人のうちどのくらいだろか?orz
そろそろ新学期が始まって、アンチ義元のアレが復帰しそうで怖いな。
940 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 08:38:30
藤本正行『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)
941 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 14:12:18
福島正成と福島正則は血縁?
942 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:18:04
>>941 血縁(同族)だという説もあるようだが、たぶん違う。
福島正則の母親は豊臣秀吉の叔母。
つまり、尾張西部の、身分の低い階層の出身者。
一方の福島正則の方は、「ふくしま」ではなく「くしま」。
九島と表記されることもある。
今川の重臣だったが、甲斐の国へ攻め入って、武田信虎に討たれた。
住んでいた住所も離れているし時代も若干ズレている。
身分も違うし、苗字の呼び方も違う。
テリー伊藤がやってた人の親戚かな?
くしまめ!やりおったわ!アーっはっはっ!!!!(・∀・)
944 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:18:03
>>934 岡部元信が今川家を裏切ったことは無いが?
945 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:13:12
武田に寝返ったよ。
946 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:37:56
>>942 の 「一方の福島正則の方は、「ふくしま」ではなく「くしま」。
は俺のタイプミス。
× 福島正則
○ 福島正成
947 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:56:36
>>945 情報源ってなに?
Wikipediaにそれらしい情報が有るけど、
俺は知らないので、寝返ったとは思っていないんだが。
948 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:28:19
あれは寝返ったんじゃなくて見限ったんだと思う。
949 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:08:35
麻呂あげ
950 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:58:27
そもそも”上洛”についての戦国における定義がわからん
要するに京に軍隊を連れて乗り込んだら 天下?と昔謎に
思った。その先端が今川義元でした 単に京都を見物する
のでは駄目なのか、 あと通過する国は侵略されるのか、
どうぞお通りくださいと言えば害されないのか。大名が
上洛を遮るのは何故か?桶狭間の戦いについてもあまり
わからない。そもそも京都の大名が天下なら松永久秀が
天下人だったのかなどと思いました!上洛はセレモニー?
どんな意味合いがあるのか。大軍を率いたらそれだけ費用もいるだろうに。
>950
今川義元は、大名としては上洛していない。
大名になる前には上洛歴があるが。
単に京都を見物するだけだったら、信長がまだ美濃を攻めてたころの謙信も、(信長在世時の)家康も、これに該当する。
通過される国だけでなく、近隣諸国も含めて、
「天下人」の傘下に入らないと侵略される。
松永は天下人になる前に降伏せざるを得なかったから、天下人じゃない。
そのまえの、三好長慶は天下人だったけど。
ちなみに、当時の言葉としては、「天下」という言葉は京都周辺地域のことを指し示していたと思っても、さほど大きな間違いじゃないだろうと思う。
つまり、「京都を安定支配していること」が、天下人としての絶対条件。
軍隊を引き連れて上洛しただけでは、すこし不足。
京都の実権を奪っても、戦国時代という単位で見て。
それほど意味があるのかについて謎。どのみち朝廷の言うことを聞かないから
”戦国大名”なのであって。権威のない 将軍家を抱え
込んでどれだけのメリットがあるのか。 当時は全国統一
が大名の最終目標だという解釈からすれば亡びかけた
室町幕府をかかえる意味がわからない
守護大名は本来京都に集住するものだった。
守護大名たる今川義元が京都に向かうのに、道中の大名たちは
それを遮る合理的な理由がない。
もちろんただ京都に向かうと言うだけで天下人になどなれるわけはないし、
大名たちは傘下に入る必要など全くない。
955 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 14:12:52
>>952 メリットがあるから、信長は義昭を擁して上洛したんでないの。
956 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 11:29:16
今川に関する信頼のおける良質な1次史料は存在しない。
よって、小和田などの狂信者の盲説妄言が定説史実化する。
徳川における三河物語、家忠日記、信長公記のような著者のはっきりした
来歴の明らかな歴史書は、今川にはない。
上杉、武田、北条なども軍記しかない。
伊達にいたっては、家譜(自己を絶賛するインチキ本)しかない。
957 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:42:43
信長はどうも武田家を滅ぼすことに乗り気は無かったみたいで天正十年に甲斐に攻め入ったが、穴山信君の息子に武田家を相続させることを約束してる。
今川義元は討ったがその後、氏真は赦されている。
根絶やしという考えは無かったと見える。
荒木村重は裏切ったから根絶やしにされたが、茶々をはじめとする浅井の娘3人も信長の姪ということで赦されている。
958 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:22:43
あえて問う。
信長は義元を殺す必要があったのか?
959 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:26:57
>>959 斎藤は逃亡を許されてるし
朝倉も存続を許された。
961 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:52:03
寿桂尼に抱かれて息絶えたい
毛利新介に抱かれて息絶えたい
963 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 11:48:14
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
>>963 もういいよ。
そのレスは見飽きた。
馬鹿の一つ覚えもいい加減にしな。
965 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:04:33
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
966 :
枡居堅:2009/04/02(木) 15:03:33
義元ってけっこうチビのオッサンだったらしいね
967 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 06:26:20
今川って嫡流は絶えたけど、品川のような傍流は現在も残ってんの?
968 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:56:28
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
969 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:46:54
今川の尾張進攻は旧領回復と織田攻略が目的で上洛のためではない
つか、そもそも遠州侵攻(文明頃)からして旧領回復のためだしな。
んで返り討ちにあって当主義忠が討ち死にしてから今川家の困難が本格化したんだろ。
義忠の嫡子(のちの氏親)が、身の危険を感じてか(←与太)、国外退去を余儀なくされたぐらい。
氏親の代の後半になってようやく、因縁の地・遠州を制圧できたわけだしな。
その次の「因縁の地」である尾張への侵攻は、氏親の子・義元を待たねばならなかったわけだが。
971 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 15:24:15
信長も下立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、
いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、
火花をちらし火焔をふらす。然りといへども、敵身方の武者、
色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員を知らず。
服部子平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏す。毛利新介、
義元を伐臥せ頸をとる。
おけはざまと云ふ所は、はざまくみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、
節所と云ふ事限りなし。深田へ迯入る者は所をさらずはいづりまはるを、
若者ども追付き追付き二つ・三つ宛手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。
頸は何れも清須にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、
御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。
世はぎょう季ニ及ブト雖モ、日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、
山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、
それも御用に立たず。千が一の信長、纔か二千に及ぶ人数に扣立てられ、
迯死に相果てられ、浅猿敷仕合、因果歴然、善悪二つの道理、
天道恐敷候なり。
麻呂麻呂言われてる割にはかなりの武断派だったなぁこの人
領内自体はともかく領民達は度重なる合戦で結構疲弊してたけど
何より足利の分流というのがよろしい、大変よろしい
今川義元の欠点は猜疑心が強すぎたことだな。
家臣が裏切ったと思い込んで、真相を見極めようともせずに誅殺したりしてる。
単に頭が悪いだけだろ
( ^ω^)今川アンチ乙
まぁ海道一の弓取りという異名は義元には付くべきでは無いよな
城攻めの名人と言われた秀吉をして、野戦の達人とまで言われた家康なら戦上手として充分値するが
義元にそんな傾向は無いだろ
>>973 息子はともかく、義元はそんなにたくさん家臣を殺してたの?
>977
国境紛争に際して、前線の現地武将だった山口とか渡戸とかが殺されてたっけ。
他にもいた気がするが記憶はない。と横レスしておこう。
>973 はもっと多く知ってるんだろうな?
>>978 ありがとう。
こういうことって義元に限らずあったのかな?
氏真のほうは遠江関連で結構殺したのは知ってるんだが
義元が家臣を殺したのって井伊位しか知らなくて、
井伊が北条との繋がりが限りなく黒に近いものだったので、
単純に義元が殺した=猜疑心が強すぎるとは思えなかったんだが
ちょっと調べてみるわ。
信長(ら織田氏)を見限って今川について、近隣武士たちを積極的に今川へ誘いまくって、
今川方の前線基地として大活躍した山口や、
山口に誘われて今川に付いた戸部(上記、渡戸は間違いじゃね?)らを殺して、
その居城に今川近臣を城代として送り込んで、かなりの規模の軍を滞在させたんだっけ
「信長に内応して今川を罠にはめる件についての打ち合わせ文書」を偽造して
今川方に流れるように細工した信長の罠にはまったんだ、ということになっている。
980をみてちょっとネットで調べたんだが、山口って山口教継でいいのかな?
とあるHPには信長が、今川方に寝返った山口が自分側の情報を今川に与えないようにするため
「山口は実は今川に寝返ったふりをした織田の間諜」だという手紙を今川方にもたらして殺させた、とあった。
ただ、wikiには寝返って数年後(1560年?)に死んでいるとあって、情報を知られないために調略したにしては
時間が経ちすぎ?とも思えるし、山口が死んだあとは岡部が鳴海城に入っていて、別に織田にとって調略してまで
山口を殺すメリットがあると思えないんだけど、なんかあったのかな?
ネット知識だけの素人考えなのだが、義元の山口親子殺しは、寝返りを疑ったというよりは、難癖つけて殺してしまい
腹心を尾張攻略のために鳴海城に置きたかったのかと思った。
信長も下立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、
いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、
火花をちらし火焔をふらす。然りといへども、敵身方の武者、
色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員を知らず。
服部子平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏す。毛利新介、
義元を伐臥せ頸をとる。
おけはざまと云ふ所は、はざまくみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、
節所と云ふ事限りなし。深田へ迯入る者は所をさらずはいづりまはるを、
若者ども追付き追付き二つ・三つ宛手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。
頸は何れも清須にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、
御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。
世はぎょう季ニ及ブト雖モ、日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、
山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、
それも御用に立たず。千が一の信長、纔か二千に及ぶ人数に扣立てられ、
迯死に相果てられ、浅猿敷仕合、因果歴然、善悪二つの道理、
天道恐敷候なり。
>981
>980をみてちょっとネットで調べたんだが、山口って山口教継でいいのかな?
うn
>とあるHPには信長が、今川方に寝返った山口が自分側の情報を今川に与えないようにするため
>「山口は実は今川に寝返ったふりをした織田の間諜」だという手紙を今川方にもたらして殺させた、とあった。
いちおう、それ通説のはず。
>情報を知られないために調略したにしては 時間が経ちすぎ?とも思えるし、
>山口が死んだあとは岡部が鳴海城に入っていて、
>別に織田にとって調略してまで 山口を殺すメリットがあると思えないんだけど、
当然の疑問だと思う。解答はない。
>ネット知識だけの素人考えなのだが、義元の山口親子殺しは、寝返りを疑ったというよりは、難癖つけて殺してしまい
>腹心を尾張攻略のために鳴海城に置きたかったのかと思った。
たぶん、近隣の領主たちも同様に感じたんじゃないかなあ。
984 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 18:58:23
信長はわざわざ今川義元を殺す必要はなかったと思う。
スルーするか降参して臣従すればよかったのだ。
いくら戦国時代でも、敵の総大将(というか隣国の国主)を討つなんて、
最終決戦でもない限りやらないだろ。
信長、空気読めよ。
985 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:07:17
やっぱり突飛だよな。
あそこで義元の首を取るのはスタンドプレーというか過剰防衛だろう。
やりすぎとしか言いようがない。
986 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:51:39
野獣の本性に起因するとしても、突飛な感は否めないな。
当時の織田家には、まだ今川家を滅ぼして領国を併呑するだけの力も意志もないのに、
義元だけ討ってどうするつもりだったのだろう。
信長個人の武名をあげんがための厨臭い行動にしか思えない。
いずれにしても、部下の信頼を大きく低下させる愚行なのは明らか。
この時代の武士の忠誠はギヴ&テイク。
987 は
>>983 へのレス。
>>984 〜
>>986 その件については既に議論が尽くされている。
ようするに、もののはずみでアアなってしまっただけ。
>>983 この一件の後に実際、義元への部下の信頼は低下したり、なにか問題って起こったりしたの?