1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 01:11:15
2げっつ
4 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 01:14:13
邪馬台国は北九州。
5 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 01:20:46
占いだと畿内二人と九州二人で真っ二つに割れた。宮崎と占った人は投馬国が邪馬台国連合とクナ国の板挟みに会い クナに寝返ったたと占ってた。
>>4 畿内だニャ!
──v───
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
7 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 05:39:29
北九州じゃないだろ、宮崎できまり。
前すれで有明海手漕ぎで一日で横断という馬鹿。八代海もみろ。
何百キロあるうえ、畿内へ行くより長いくらいの海岸線なんだが。
今と比べるなら畿内までは半日で着くが?
8 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 05:40:13
>>6 チャチャ!そんな常識の無い人の言う事を信じちゃいけません!
9 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 07:20:05
本日都内某所において、九州説対畿内説の大論争大会がおこなわれるという。
大混乱に陥るとおもしろいと密かに期待しています。
10 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 09:28:07
873 :日本@名無史さん :2007/05/04(金) 20:48:44
めんどいのでごく簡単に書く。
詳細を知りたければ3世紀について書かれた専門書を読まれたし。
3世紀の日本列島は、九州も四国も中国も近畿も、東海も中部も関東も
すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内説なんだ。
もちろん面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある。
その中には2世紀まで玄界灘沿岸で栄えた奴国・伊都国などのツクシ連合も含まれている。
これは再三言われるように、機内王権がツクシ連合王権を支配下に置いたものではない。
当時は並列として存在していた可能性が高いとも考えられている。
もちろんキビ王権やサンエン王権の存在すら視野に入れている。
なぜ統一国家や支配といった考え方が廃れたのかは、とても書ききれないし
できれば専門書既読のうえで質問してほしいが、徐々にならば書けるかもしれない(それほど資料が膨大にある)
すごく大まかに言うと倭人伝の記述のうち、卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており
さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。
これが畿内説(実際は並列連合政権説)の基本的な考え方。
ただし未だに機内王権が鉄ルートを簒奪し、九州を支配下に置いたとする畿内自生説(樋口、白石など)も確かに学会には存在する。
両氏とも古代史の権威ではあるが、ほとんどの考古学者は同意していない。
北部九州や吉備の連合への影響などは、柳田や寺澤が提示しているように相当密接なものであった可能性が高い。
倭人伝記事との齟齬については文献史学も未だ明快な回答を提示し切れていない。
だが少なくとも協力な中央集権が畿内に発生し、それが他地域を3世紀初頭に圧倒したとする畿内説は、もうほとんど唱えられていない。
>>9 >本日13時より W大学国際会議場
>特別講演会の「邪馬台国は、畿内か九州か」
…たしかに。参加者はレポよろ
12 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 10:47:49
soy氏へ
双頭龍文鏡ですが、1式は2世紀前半ということは認めますね?
様式的にも、同時期の内向花文鏡や獣首鏡との要素の関連からそれは妥当です。
2式については資料が少ないのですが、1式からの連続的変化と、やはり獣首鏡との関係から2世紀後半には出現と考えるべきです。
下限については分かりませんが、3式が後漢末には出現し、2式が少ないことを見ると早くに製作が収束したと思います。
仮に2式の下限が3世紀前半までに下りても、古い時期の出土例が岩屋や馬場山、町南など弥生時代終末ですから、当初SOY氏が意図したようなこれらの鏡が魏晋鏡だから弥生終末が3世紀後半まで下りる、というようなことは言えないと思いますが。
弥生終末=庄内式が3世紀前半で矛盾しませんね。
また2世紀後半に製作の主体があると予想されるのに、これらの鏡に限り下限の3世紀とする、というのも都合の良い議論だと思います。
もっとも他の鏡も含めて総合的に議論すべきと思いますが、それならばもう少し基本的な鏡研究の文献にあたられてはどうでしょうか?
14 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 11:26:02
>>10 すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内説
通貨さえ無い時代に通商連合なんかあるわけない。物物交換が細々と行われていただけ。
人の往来によってある様式の土器が運ばれ広域的広がりをもった、というだけ。土器年代はあくまで不明とした上でのこと。
当時、畿内からから中国地方を経て九州に至る程の広域を往来できるほど平和ではない。つまり安全な世界ではない。
少し前に外国からの侵略も受け、人々は恐れている。各国は一大率を恐れ煙たがるほど卑弥呼政治は強権的な一面を持つ。
クナ国と言う敵対国の存在、など危険要因がいっぱい。クナ国にさえ手を焼いているのに
そんな広域で能天気に通商連合などやっていたらますます又違った国からの侵略、ということにもなり得る。
殆どの人は集落から出ることなく用のある人がクニ内部を闊歩し、クニから出る際は特使などとして派遣されたと言うのが通例だったろう。
壱岐対馬の場合は米不足の様だし島一島で一国だから多少状況は違うが。
15 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 11:36:26
>>10もちろん面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある。
そんな違った国の勢力範囲を無事に通過できるわけが無い。邪馬台国連合は団子状にくっついていた為
ある程度の往来が出来たのである。
「面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある
すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内」
ならば、当時の状況に照らしてそれは邪馬台国とかけ離れた無関係のクニグニの姿と言わざるを得ない。
16 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 11:44:24
>>10機内王権がツクシ連合王権を支配下に置いたものではない。
当時は並列として存在していた可能性が高いとも考えられている。
その前に畿内と北部九州がいかなる交流において文化圏の違うもの同士結びついたのか何ら説明がなされていない。
少し前まで倭国大乱の時代。民は集落に閉じこもり、お互い遠国と交流を結んでいる余裕など無かった筈だ。
17 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 11:57:17
>>10さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しない
一致しない筈だ。それは畿内の土器を元に考えているからだ。
そしてその年代もいつのものとはっきり断定できるものではない。
邪馬台国とは違う場所をいくら調べても何の結果も得られないのが道理だ。
「卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら 他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような
記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており 」
これも畿内邪馬台国を想定した上での矛盾が出ただけのこと。
元が違っているから矛盾が次々に浮びあがってますます五里霧中に陥っていっているだけの事だ。
18 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 12:05:11
2千年前の銅戈から製作者の指紋? 東大阪市の遺跡から
http://www.asahi.com/national/update/0512/OSK200705120004.html 2007年05月12日10時54分
敵をひっかけて倒す武器である約2千年前(弥生時代中期)の銅戈(どうか)に、製作に携わった人の指紋らしい痕跡が残っていることが分かった。
古代の青銅器で見つかったのは極めて珍しい。調査が進めば工人を識別でき、作品の地域的な関係が解明される可能性があり、
前例のない研究に発展しそうだ。大阪府立弥生文化博物館(同府和泉市)で開催中の「稲作とともに伝わった武器」展(朝日新聞社など主催)で紹介されている。
銅戈(長さ24.2センチ)は同府東大阪市・瓜生堂(うりゅうどう)遺跡から78〜80年の発掘調査で発見された。同博物館の常設展示開始から15年を経て、
表面の劣化が見られたため、保管者の大阪府文化財センター中部調査事務所の松岡良憲・調査係長らが今年に入って、刃の中心部付近の表面を詳しく調べた。
その結果、表面2カ所から、弓状紋か渦状紋の指紋の可能性が高い痕跡が検出された。"
同センターによれば、当時の鋳造では、粘土で作った鋳型と中に流し込んで固まった青銅をはがしやすくするため、
粒子の非常に細かい土を水に溶いたもの(離型剤)を鋳型の表面に塗ったという。この離型剤がまだ生乾きの時に、
指紋が付着したと同センターはみている。指紋が残ったまま乾き、鋳型の文様のような役割を果たして鋳出されたらしい。
青銅器は弥生時代に水田稲作などとともに大陸から日本列島へ伝えられた。はじめは製品がもたらされていたが、
やがて独自に生産され始めた。大きな勢力を持つ政治的なリーダーが、武器や祭りの道具として製作技術も独占したとされる。
江浦洋・同博物館学芸課長は「これまで見落としてきた可能性があるので、今後、ほかの青銅器も調べたい。
もし、類例が増えれば、特定の工人の作品の地域的な広がりなどがわかり、地域間の政治、経済関係などを
明らかにできる可能性がある」と期待している。
通貨が無くても通商はありうるが
経済史の勉強してこいw
紀元前7世紀に小アジアで初めて貨幣が鋳造されたが、それ以前の古代地中海やオリエントに通商が無かったという椰子はいない。
もっとも、邪馬台国時代には中国は貨幣経済であり、倭でも壱岐や北部九州の沿岸遺跡などで中国の貨幣が出土している。こういう遺跡には楽浪土器もあり、中国人との交易には貨幣が一部使われた可能性もあるかも。
また当時の中国や朝鮮を参考にすると、絹布、塩、鉄テイ、米などは原始貨幣的に交換された物品貨幣とも考えられる。
ですが氏は当時の交易レベルについて無知過ぎだろう。
>>16 互いに遠国と交流する暇も無いってアホか?
中国に使いを出し、鉄を朝鮮半島から求めていますがw
仮に邪馬台国が九州としても、国を越えて連合している時点で国の集落にこもっているとか完全に矛盾だが。
21 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 12:35:10
>>12 石野さんも講師陣に入っているね。
自他共に認める発掘屋ではあるが、サービス精神旺盛な人でもあるから
なんとなく和気藹々と進みそうな気がする。
しかし寺沢さんや柳田さんには声をかけなかったのだろうか。
安本さんが引用しまくっている御二方が参加しないってのもさびしいね。
もっともこの二人はサービス精神のかけらもないから
ぼろかすに非難されるのを恐れたのかもしれないね、安本さんは。
22 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 12:37:40
>>13 は前スレのコピペ?
双頭龍文鏡は前スレでは、1式はおそらく後漢代。
2式以降は、魏晋代とほぼ確定した流れだと考えていたのですが。
23 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 12:38:07
>>19紀元前7世紀に小アジアで初めて貨幣が鋳造されたが、それ以前の古代地中海やオリエントに通商
古代地中海やオリエントと一緒にしてる事に驚く。
世界の文明発祥の地であり古くから文字や書簡、封泥など通商を示す遺物が様々に出土するのに対し、
{封泥そのものが出土したかは定かな記憶ではないが円筒形の印は多数出ている}
倭ではどのような遺物がその証明をなすのか教えて欲しいものだ。
文字すらなかった筈だ。物品の受け渡しを示す遺物でも出土すれば別だが。
あんぽん教の宣伝、しつこ過ぎてウザい。
25 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 12:50:37
>>10 >すごく大まかに言うと倭人伝の記述のうち、卑弥呼の即位が
>「共立」という言葉で示されていながら 他の記述がまるで専制統一国家を
>思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており
>さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、
>倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。
簡単な結論だろ、畿内の王権≠邪馬台国だったってことだよ。
>>23 在地性以外の遺物が出れば「通商」の痕跡だよ。
器物が「略奪」により移動する場合もあるが、それは「通商」と紙一重の事象。
近世でもそうだが、交易団が交渉決裂したとたんに山賊集団に変貌したりする。
武力により略取するか、話し合いで交換するか、目的物を入手するのにより安価、
安全な方法を選択した結果に過ぎない。
集落間の物々交換でも「通商」は「通商」なんだよ。
キミはいったい何が言いたいの。
27 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 12:55:13
>>20 倭人伝に「其餘旁國遠絶不可得詳 」
それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
とある。女王国の境を奴国としていることから遠国とは吉備、出雲、畿内を指す。
「遠国と交流」が無かった事の証だ。
「中国に使いを出し、鉄を朝鮮半島から求めていますがw」
中国、朝鮮半島から来た魏の使者が自国を指して遠国などと言うわけが無い。
一大率がいて、必ず魏の使者が立ち寄った伊都国、その一大率の南に女王国が存在しているとされていて、
女王国の境が奴国であることからも、畿内などを指して遠国とい言った事は明白だ。
28 :
SOY:2007/05/13(日) 12:59:51
>>13 >2式については資料が少ないのですが、1式からの連続的変化と、
>やはり獣首鏡との関係から2世紀後半には出現と考えるべきです。
1式と2式が似ている、2式と3式が似ているというのは論者の視点にもよります。
>下限については分かりませんが、3式が後漢末には出現し、
>2式が少ないことを見ると早くに製作が収束したと思います。
3式の出現をもって2式の収束とするのは一仮説に過ぎないと私は考えています。
現に2式出土の墓を肝心の西村俊範氏さえ渋々ながらも三国代と認めています。
理論も大切ですが出土状況の方も重視すべきではないでしょうか?
出土年代と分類による年代とで齟齬をきたした場合、
何も出土年代の方を操作するだけが道ではないと私は考えます。
分類の年代観の方を再検討するという道もあるのではないでしょうか。
因みに西村俊範氏は3式の最終スタイルが後漢晩期としています。
その時点で彼の3式の年代観は現実の出土状況とはアンマッチの
ようにも思われますが、如何がなものでしょうか?
とりあえず、2式が出土している墓をもう一度書き込んでおきます。
1.江西省瑞昌県馬頭西晋墓
→ 西村俊範氏は呉代(3世紀第2もしくは第3の四半世紀)と『思われる』としています。
彼の見解ですら呉代です。晋代の可能性さえあるとも解釈できます。
2.湖北省随県唐鎮三号墓(漢魏墓)
→ 報告では三国代となっています。この時点で三国代の意見があることは明らかです。
西村俊範氏は後漢晩期に年代を上げうる『可能性がある』としているだけです。
3.河南省洛陽市晋墓
→ 古い報告で年代の確定はできないとなっています。これも後漢代とは断定できません。
それはともかく洛陽漢墓でなく洛陽晋墓から出ていたんですね。
この論議についてはあとは個々人が勉強して決めれば良いものかと考えていました。
>>27 奴国は二つあるんだよ。
福岡であることが確定的な二万戸の奴国と、どこか遠いところの奴国。
魏志をすなおに読めばそう取らざるを得ない。
あとから編纂された後漢書はそこを勘違いして、二つの奴国をゴッチャにしてしまったんだ。
>>27 >倭人伝に「其餘旁國遠絶不可得詳 」
>それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
>とある。女王国の境を奴国としていることから遠国とは吉備、出雲、畿内を指す。
>「遠国と交流」が無かった事の証だ。
ちょいと訊くが、旁國=「交流の無い遠国」なのか?
自女王國以北其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶不可得詳。
「女王国から北は、その戸数、道里を略載できたが、
それ以外の旁国は絶遠しており、詳細を得られなかった。」
旁國=「略載記述のある7カ国以外の国」じゃないのか?
違うつーなら、なんか、変で、おもろいこと書いてみ〜や♪
♪九州ですが の最近は 誤ることいっぱ〜〜い♪
九州ですが きょうも「文字すらなかった筈だから交易などない」とか妄想垂れ流し
なんで・す・Yo!
そしたらSO〜!
在地性以外の遺物が出れば「通商」の痕跡だって反論されちゃったんです><
♪あーいとぅいまて〜〜〜んw
畿内と交流無いって、おいおい九州で畿内系土器がたくさん出てますが。吉備も出雲もさらに東海もね。
オリエントの事例は貨幣が無くても通商はあるという事例に過ぎない。邪馬台国が古代オリエントレベルとは言ってない。
一方で古代中国の事例も出しているが。その中国の貨幣が倭に出土しているのも事実。
通商についてはポランニーの著作でも嫁。
33 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:11:52
>>30 少しは自重しなさい。
情報が得られない、詳しく記述できないような遠国ならば、
それは交流が無い、ないし乏しいからにきまっている。
34 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 13:16:07
>>20 最初に言ったように安全な世界ではない。 少し前に外国からの侵略も受け人々は恐れている。
各国は一大率を恐れ煙たがるほど卑弥呼政治は強権的な一面を持っており
クナ国と言う敵対国の存在、など危険要因が数多くある。クナ国にさえ手を焼いている。
トルキスタンと言う広大な蒙古帝国内をパスを使って自由に行き来するのとはわけが違う。
吉野ヶ里遺跡を見れば解るがその厳重な警戒のしようは異様でさえあり
能天気な通商連合などと言う妄想など吹き飛ぶほどだ。
実際に卑弥呼の死後100人ほどが殺される戦いがあった。邪馬台国連合は不安定なものだったのである。
吉野ヶ里のような環濠集落のままトヨの時代まで集落の姿は遺されていたと思われる。
>>28 確かに3式は大部分が巍晋鏡というのは今は大勢。しかし2式はどうかな。西村氏論文以降も資料が増えているが2式全体を三国に下げる研究者はいない。
まあこのあたりは専門ではないからわからないが。
少なくとも弥生終末に2式の出土するからといって弥生終末を3世紀「後半」に下げる根拠にはならないでしょうが。
倭人伝の冒頭をよく嫁
>今使譯所通三十國
使譯が通じているつーことは三十国すべて交流してる
37 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:18:35
>>32 九州から畿内系土器が出たからといって、畿内と直接交流があったかどうかはわからない。
畿内〜出雲、出雲〜九州の交流と、畿内〜九州の交流は違う。
>>33 >
>>30 > 少しは自重しなさい。
> 情報が得られない、詳しく記述できないような遠国ならば、
> それは交流が無い、「ないし乏しい」からにきまっている。
「ないし乏しい」
微妙な言い換えキターツ!!!
しかも、文末は「きまっている」。
もともと「其餘旁國遠絶不可得詳」と言う文章からは、
魏側が情報を得られなかったと言う事実は言えても、
倭人間で交流がないなどと言う事実は導きだせない。
恥ずかし過ぎだろうw
39 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 13:24:06
今ちょうど九州のTVでやってるが阿蘇神社は景行天皇の命で造られ2000年の歴史を持ち日本一古い神社だそうな。
周りには弥生時代の古墳が並び、勾玉、みすまる、などが出ているという。
阿蘇家の古墳など、古墳に触れると家がつぶれると言う言い伝えがあって地権者でさえ手をつけることは無いのだそうな。
40 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:24:59
>>32 大和からは、各地の土器が出ると言って、それが中心的な地域の証拠みたいに
言う人がいるが、吉野ヶ里遺跡にも各地の土器が展示されていたし、熊本県の
方保田東原遺跡からも山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた
土器が出土している。
全ての拠点集落が吉野ヶ里のような厳重な環壕集落ではないが。また吉野ヶ里の厳重な集落体制は3世紀にはなくなっていますが。
だいたい戦争もあれば交易もある、ふだんは交易だが話がまとまらない場合に略奪や戦争になるというのが社会のありかたであり、常に戦争だけしていたというのは妄想です。
また当時の倭の遠距離交易、通商は海上交通が主ですが。今みたいに領海がある訳でもなく、自由に通行できた訳です。
上の方でたまたまオリエントの事例を出したらオリエントレベルな訳ないだろうという筋違いな反論がありましたが、ポリネシアのカヌーレベルでも長距離の通商は恒常的にあった訳ですが。
あ、そぅ
吉野ヶ里と同じ銅鐸が出雲にもあるじゃん
>>34 > 最初に言ったように安全な世界ではない。
じゃ、怖がりな人たちは環濠の中にこもって自給自足の生活をしてたんですか?
足りない物資があれば他所に行って手に入れなくちゃならないと思うけどね。
とにもかくにも「通商」と言う言葉を否定したいだけで、前後の脈略とか考えた
発言は出来ないみたいねw
45 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:28:59
>>38 交流が無いと100%言い切れないからこそ、そういう言い方をしたまで。
46 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:29:28
>>40 だからそれが全倭的な通商の証拠の一つですね。
ただマキムクの場合、その外来土器が正しく搬入土器が多く、全土器中の搬入土器比率が大きいことと、搬入元の地域が顕著に広範囲といことで注目される訳です。
47 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:31:07
>>39 阿蘇の古墳にも興味があるなあ。
長目塚古墳は、110mを超える柄鏡式の前方後円墳だが、棺の中からは
35才位の女性の人骨が出てきた。
宇土市の向野田古墳といい、熊本には女王の痕跡が強くある。
>>39 > 今ちょうど九州のTVでやってるが阿蘇神社は景行天皇の命で造られ2000年の歴史を持ち日本一古い神社だそうな。
> 周りには弥生時代の古墳が並び、勾玉、みすまる、などが出ているという。
> 阿蘇家の古墳など、古墳に触れると家がつぶれると言う言い伝えがあって地権者でさえ手をつけることは無いのだそうな。
「弥生時代の古墳」が・・・
時代認識は正しい、ちゃんとした番組なのですか?
それとも、売れない芸能人が観光地とかであざといレポをかます手の番組出すか?
>>39 RKKの新・九州遺産…っておまい熊本やったのか!
51 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:35:32
>>48 どうしてそう人を見下すような言い方するかな
直接邪馬台国に関係の無い、日常会話でさえ、そういうイヤミさが
カキコを通じてヒシヒシと伝わってくるのだな。
逆にいえば、九州に関係のある話題なら何でも否定したい感情が見えすいて見えるな。
52 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:36:52
>>39 弥生時代の古墳て墳丘墓か?周溝墓か?
まさか前方後円墳なんていわないよなww
53 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:36:53
>>48 >>49 「弥生時代」に強引に「古墳」をねじ込んだのはどこの人たちだったかなwww
54 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:37:36
>>51 どうしてそう人を見下すような言い方するかな
直接邪馬台国に関係の無い、日常会話でさえ、そういうイヤミさが
カキコを通じてヒシヒシと伝わってくるのだな。
逆にいえば、畿内に関係のある話題なら何でも否定したい感情が見えすいて見えるな。
55 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:38:18
>>52 前方後円墳なんて倭人伝にも出てこないし、どうでもいい。
58 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:39:44
>>54 あなたもやめなさい。結局、
相手と同レベルだと自ら言っているようなものだろう。
60 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 13:40:21
>>32 邪馬台国時代の交流ではないだけの話だ。
女王国の北には一大率を置く、とされているが、伊都国しか書かれていない。
吉備、出雲、畿内に一大率がいたという文献もなければ、言い伝えもなく、
形跡も無い。よほど重要視されていなかったか、奴国が女王国の境でその先は不明だったかのいずれかだ。
よほど重要視されていなかった、と仮定した場合畿内王権はたいしたことが無かったが、
だからこそあちらこちらと能天気に行き来が出来、畿内一円交流が進み、
土器の普及も広い範囲に及んだものとも考えられる。
61 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:40:44
テレビ番組でそう言ったのか知らんが、そうだとしてもそれを垂れ流す、ですがが基本的な物事を全く分かっていないことがよく分かるエピソードだなw
63 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:41:58
>>57 北九州〜出雲〜越は当然、日本海の海上交流で結びついていただろうね。
だからといって畿内がその中心かというと・・・どうかなぁw
64 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 13:42:26
>>50 今日はお休みで墓参りかたがた弟のところにいるんよ。
65 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:43:08
九州を畿内と言い換えて応酬なんて見苦しい。
>>45 >
>>38 > 交流が無いと100%言い切れないからこそ、そういう言い方をしたまで。
「自重しなさい」とか命令口調でボケかましてたくせに、ドンドンとトーンダウンしますね。
旁國=「略載記述のある7カ国以外の国」つー解釈以外の考えがあるなら
先ずはそれを言いなさいよ。
もともと主語が魏人の文章なんだから「遠絶」の意味はどーでも言いんさ。
それとも、貴方は倭人が主語だと思うのかな?
倭人が「交流の無い遠い国だから詳しく知りえない」と言っていると主張するのかい?
さあ、お返事ちょうだいね。
68 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:46:19
>>65 とはいえこのスレにいる畿内説、九州説の両者とも、
相手を貶めることでしか主張できないから悪いんだろ。
内容に説得力があれば、自然と両方の説に、それぞれ賛同者が集まるんじゃないのか?
>60
凄い言い訳だなw
畿内から来たのは土器だけではなく古墳もある。政治的動向も無関係ではない。
また畿内系土器以外もたくさん行き来したのだがこれも能天気な動きか?
あとな土器の動きの活発な庄内式から布留式古式は3世紀で確定だが。
70 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:46:50
>>66 トーンダウンではない。あなたがどんどんヒートアップしてきたから、
ここで私が一歩引かないと、見苦しい泥仕合になってしまうから私が譲っただけ。
ギャアギャア騒ぐあなたと同じ目線にはなりたくない。
>貴方は倭人が主語だと思うのかな?
>倭人が「交流の無い遠い国だから詳しく知りえない」と言っていると主張するのかい?
私はコレ。
>>60 >
>>32 > 邪馬台国時代の交流ではないだけの話だ。
だって、邪馬台国よりも遥か前、弥生中期から広範囲なものの移動はあるんだよ。
交流は何時の時代でもあったの。
72 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:48:33
>>64 >
>>50 > 今日はお休みで墓参りかたがた弟のところにいるんよ。
実家が熊本か!
で、現住所は「お花畑の中」だろうw
74 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:50:00
>>71 ですが理論に言わせると
”いつの時代も能天気に行き来が出来た”ってことになるなw
75 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/13(日) 13:50:25
>>68 ですが、のムチャクチャな論理に説得力があると思うの?
77 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:51:45
>>56 うん?確かに倭人伝には前方後円墳なんて用語は出てこない、当たり前。
しかしだな、倭人伝に記載された西暦250年頃には、すでに前方後円墳は大和に出現しており
そのわずか数十年後には北九州にも次々と築かれる。
いくら時代を100年遅らそうと必死になっても、これは動かせない事実だ。
となると関係ないどころか、大有りになる。
関係ないことにしたい気持ちは分からんでもないがね。
78 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 13:51:58
>>41吉野ヶ里の厳重な集落体制は3世紀にはなくなっていますが。
そんなことは無い。北部の大規模建物群は3世紀のものだ。
去年もそこへ行って詳しく聞いてきたところだ。
「たまたまオリエントの事例を出した」ってあーた。違いすぎじゃんね。
79 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 13:52:15
九州ですが氏の主張とは別の面での主張になるが、記紀からすれば魏のほうは
「旁國遠絶」になるわけで、女王国のように日本版シルクロード上から離れて
いる地域ではなく倭人伝と記紀の論議ではロード上の始点あるいは終点的位置
となるのが魏なわけであるから、遠絶のために記紀に魏の情勢は書かれにくいし、
逆に魏からすれば畿内あたりは同様に遠絶の状態にあるから、伝に畿内の情勢
は伝の「旁國遠絶」の文から自明に近い。記紀も伝も、双方遠絶で無記述になり
やすいわけである。
ということで、記紀に女王国の記事が雀の涙ほどしかないということは、女王国
がロード上にはなくかつ畿内にもあるわけがないのであり、女王国の所在は
九州でも北を外れた人の交通の行きにくい地域にあったと考えるのが至当である。
ただ文字のことであるが、奈良の東大寺山古墳からの出土の鉄刀には
「中平□□五月造作支刀」
との記述があり、倍暦計上から、大陸の中平年間は日本では欠史八代の孝靈天皇
の世に相当しており、同じく倍暦計上から卑弥呼の年代はその後の崇神天皇の
時代になるから、この銘文の文字から日本の畿内では漢字を知悉していたことが
濃厚だと思える。この刀の銘文の意味を朝廷とその取り巻きとかは大陸側の
使者に尋ねるだろうから、そのうち卓越した者が勉強して漢字を読めるように
なるはずだと、こう考えるのである。
80 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:52:22
>>76 畿内説も説得力があるとは思えないよ。
九州説を叩きつぶせないんだから。
81 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:52:55
能天気に行き来ができたと言ったり、遠方の国と交流は無かったと言ったり、ホント、ですがは支離滅裂だなw
82 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:54:09
>>76 ないからこれだけスレが盛り上がってるんだろwww
83 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 13:54:56
>>73 父方のじいちゃんの里がね。祥月命日なの!親戚じゅう集まるの!
「現住所は「お花畑の中」だろうw 」
なにそれ?
84 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:56:09
>>77 倭人伝には前方後円墳の記述が出てこない、
あれほど規模が大きいものが記載されていない。
しかし畿内には厳然として「あった」。
すなわち畿内は、邪馬台国ではない。明快すぎる結論だと思うが。
85 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:56:15
>>83 ならPCに張り付いて無いでしっかり供養しる!!
>>78 吉野ヶ里の北内郭は3世紀だが巨大な環壕は3世紀には埋没している。また全ての拠点集落に厳重な環壕が常にあった訳では無い。
しかし遺跡に行って聞いてきたとか言う割には、その考古学的知識の無知さ加減には呆れるばかりだが。
>>70 >
>>66 > トーンダウンではない。あなたがどんどんヒートアップしてきたから、
> ここで私が一歩引かないと、見苦しい泥仕合になってしまうから私が譲っただけ。
> ギャアギャア騒ぐあなたと同じ目線にはなりたくない。
> >貴方は倭人が主語だと思うのかな?
> >倭人が「交流の無い遠い国だから詳しく知りえない」と言っていると主張するのかい?
> 私はコレ。
じゃ、私もクールダウンしちゃうから、肝腎なもう一つの前提にも答えてよ。
>旁國=「略載記述のある7カ国以外の国」つー解釈以外の考えがあるなら
>先ずはそれを言いなさいよ。
国名のみ記載の23カ国と略載7カ国は「交流の無い遠い国だから詳しく知りえない」と言う
ような関係なのですか?
卑弥呼は使譯所通三十國の代表なのだと思いますが、貴方は違うと思うのですね?
ここまで付き合ってくれたんだから、ちゃんと最期まで逃げずに付き合ってくださいね。
88 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:59:32
>86
>しかし遺跡に行って聞いてきたとか
誘導尋問でもしてきて脳内変換じゃね?
あるいは学芸員ではない一般人に聞いたとかw
89 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:01:30
>>44 そら殆ど自給自足でしょう。でなきゃどっから持って来るん?
縄文時代から稲作や栗栽培などやっていたし。当然じゃないの?
自給自足1率は00%に近いでしょうに。海産物と山のものは交換して手に入れただろうがね。
>>78 オリエントの例は通貨以前にも通商はあることの説明に過ぎない。
一方でポリネシアのカヌー社会でも長距離通商がある訳だが。
また北欧のバイキング社会などは社会段階的に古代の倭に近いが。
91 :
SOY:2007/05/13(日) 14:05:45
>>35 >西村氏論文以降も資料が増えているが2式全体を三国に下げる研究者はいない。
私は研究者の見解を鵜呑みにはしない主義です。
もし神がいて 神の啓示があったとしても 私は一考し それが正しいか正しくないかは自分で決めます
確か『Death Note』のニアもそんなことを言っていたように思います。私も同じ考えです。
>少なくとも弥生終末に2式の出土するからといって
>弥生終末を3世紀「後半」に下げる根拠にはならないでしょうが。
双頭龍文鏡の2式が三国・晋代であることが確定できれば、
それはそれで大きな進展であると私は考えます。
弥生終末が三国時代(220年〜)以降となった場合、
三角縁神獣鏡(〜239年〜)までの期間が短すぎるなど
いろいろと指摘もできるのではないかと考えるからです。
>弥生終末を3世紀「後半」に下げる根拠にはならないでしょうが。
確かに弥生終末を3世紀後半に下げる根拠が全て揃ったとまでは私も考えていません。
今はまだ年代を縛る要素を探している段階に過ぎません。
弥生X期の双頭龍文鏡の2式がどこまで降るかについては
鉛同位体比など多くの研究からの総合的な判断になると私は考えています。
弥生X期の双頭龍文鏡2式を晋代にまで降らせることができれば良しですが、
その結論に到達できるほど今の私の腕も長くはないということです。
まずは双頭龍文鏡2式の後漢代確定といった定説に対し、
一石投じただけでも良しとします。
92 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:06:02
2世紀末の倭国の乱が全面戦争なのか、各地で小競り合い多発の程度なのか、
はたまた親分の跡目をめぐっての争いなのか、異論はあるだろう。
しかし考古学的には弥生後期(X様式)は交易交流は増大しており、
乱以後と思われる庄内期には爆発的に活発になる。
そうすると交易の増大によって諸国間にある種の利害の不均衡みたいなものが生じ、
そうした不満が倭国の乱の一因となった可能性も考えられる。
卑弥呼はそこにリーダーシップを発揮し、諸国の利害を調節できた人材だったからこそ、
諸国が倭国王に共立したのかもしれない。・・・・ただ狗奴国は不同意だったようだが。
93 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:06:52
>>80 叩き潰せないって、それはどうかな。
世の中は広いし、いろいろな思想や主義がある。
進化論を宗教的観点で真っ向から否定して、遂には進化論を学校で教えないことを決議したアメリカ南部の州もあるし
宇宙人が人類を創世したと大真面目に語る宗教もあるし、信者も大勢いる。
そんな奴らにぐうの音も出ないほどの証拠を突きつけても
「うそだ!信じない!ありえない!陰謀だ!冒涜だ!うがー!」と逆に噛み付いてくる。
現に九州説そのものが仮想空間でしか存在しないものに
成り果てている現実の世界を君はどう考えるのだ。
戯言を連呼して取り残された見本がここに一人いるだろうから
それを他山の石とできるかどうかは、まさに君次第だ。
すでに必需となっている鉄は自給自足できないな。海と山の交換だけではない。
装身具としてのガラスや玉類をはじめ祭祀具用の青銅もな。最近は木製農具でもほとんど作っていない地域と集中生産している地域があることが判明している。
海と山の物の交換だけとか島だけたまたま米が足りないからとかそういう話ではない。
95 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:08:59
>>38もともと「其餘旁國遠絶不可得詳」と言う文章からは、 魏側が情報を得られなかったと言う事実は言えても、
倭人間で交流がないなどと言う事実は導きだせない。
それは屁理屈。現実に魏は詳しくその他のクニについて情報収集してるじゃんね。
そして交流があるなら少なくとも相手国の名前ぐらいわかるはずだ。
そして倭人伝に記される事になっただろう。
はいはい、いつものへたな一人芝居はやめようね。
96 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:11:30
>>93 九州説も畿内説もどちらも仮想空間だと思うが。
>>91 下げる「ためにする」議論だなそれ。
結局、安本説ねそれ。安本説だけは疑わないのかい?2式をいつの間にか晋代まで下げるなって。おいおいw
自分の前提も疑ったら?
他の鏡の様式の年代とか考えて、2式の成立を3世紀まで下げるのは無理だって。まあそれを受け入れたくないんでしょうが。
>>95 >
>>38もともと「其餘旁國遠絶不可得詳」と言う文章からは、 魏側が情報を得られなかったと言う事実は言えても、
> 倭人間で交流がないなどと言う事実は導きだせない。
> それは屁理屈。現実に魏は詳しくその他のクニについて情報収集してるじゃんね。
倭よりもさらに至近な三韓伝だって国々詳細は記載されてないだろう。
「屁」がつく「理屈」しか言えてないのは誰かな
> そして交流があるなら少なくとも相手国の名前ぐらいわかるはずだ。
> そして倭人伝に記される事になっただろう。
次有斯馬國、次有已百支國・・・・
国名は書いてあるだろうに・・・
キミさあ、何か大きな勘ちがいしてるよね。
99 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:15:46
2式の下限が三国になるかもしれないというのがいつの間にか2式全てが三国になり、さらに晋になる
100 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:16:10
>>89 おいおい、じゃあ天候不順とかは弥生時代にはありえなかったのかよ
いい時代だなwなんでも自給自足できてw
で、外来式土器や鉄やゴホウラやヒスイも自給自足か
おまえは語れば語るほど落ちていくな
2式の下限が三国になるかもしれないというのがいつの間にか2式全てが三国になり、さらに晋になるというのはおかしいね。
また鏡の年代自体は墓の出土年代より少しは前倒しにするのがより妥当だが。
>>97 SOY=Salesman of Yamataikokunokai
103 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:20:43
>>62テレビ番組でそう言ったのか知らんが、
そうだとしてもそれを垂れ流す、ですがが基本的な物事を全く分かっていないことがよく分かるエピソードだなw
畿内説を僕が嘘だと見抜いているもう一つの理由は、このように話の本質をずらして
すり替えが始まっているようにそこまでごまかしのテクニックの上に畿内説が乗っかっていると言う事だ。
こちらを嘘つき呼ばわりしなければもう論戦では勝てない事を自覚しているようだな。
Shinja of Ampomkyo
>>103 素朴な質問。
そのTV番組では、阿蘇の古墳を「弥生時代」のと言ったのですか?
それとも、「弥生時代」は貴方の考えですか?
「すり替え」とか言うのなら、まずはその辺を明らかにしてから言って欲しいような・・・・
107 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:24:16
>>91 前スレにあったが、寺沢論文読んだら?
それから引用文献探したら良い
寺沢論文は布留0式=3世紀後半説。布留0式=3世紀中頃説を採る最近の鏡研究者の主流よりは微妙に下げる説だが、根拠と論理は十分ある。しかし寺沢の年代観以上にさらに下げるマトモな研究論文は無い。
安本とかは全くマトモではないし。
>>100 今でも大地震や台風などでひどい目にあったところには
全国から善意の義援金、救助物資が届けられます。
日本人は昔から、そんな心根の優しい人たちなんです。
卑弥呼さまも台与さまも、
「神のお告げです! 困っている国には皆で助けてあげなさい!」
とお示しくださったのです。
嗚呼、卑弥呼さま! 台与さま!
このスレの見苦しい言い争い、申し訳ありません!
111 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:27:49
>>103 ずらしているも何も、本質的にですが、は分かっていない訳だし。分かっていないことの事例がまた増えただけw
>>102 なるほどねw
ごまかしやすり替えはですがの得意技だよな
トヨタン・・・・・・・・
あのね、ですがさん。
もし邪馬台国を初めとする三十数カ国が九州にあったのなら
本州に同時に存在した、それよりも巨大ないくつものクニに
魏も後の晋もまったく気づいていなかったというボンクラ揃いということになるんだけど。
そんなボンクラの残した記述がまず信じられないでしょ?
彼らがボンクラじゃなくて邪馬台国その他が九州にあったのなら
必ず本州についても言及するはずなのよ
張政は倭人伝によると邪馬台国に行っで激を飛ばしたことになってるんでしょ?
なのに九州と本州の交易状況どころか、半島と本州の交易にまったく触れていないなんて
どう考えてもありえないんですよ。
今や九州説というのは、本州の存在にすら気づかなかったボンクラどもが残した
その史料の方角や距離や政治体制に関する記述が正しいとする
矛盾しまくりの袋小路に陥ったからこそ衰退したんですよ。
115 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:42:13
>>66あんたねえ、
次有斯馬國次有己百支國次有伊邪國次有都國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國
次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國
次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有鳥奴國次有奴國此女
王境界所盡
ここまでが略載だから。略とは要点の意味。女王国との境、と文末にあるように
ここまでが邪馬台国連合内だから、詳しく解るに決まってるでしょうに!
「それとも、貴方は倭人が主語だと思うのかな?
倭人が「交流の無い遠い国だから詳しく知りえない」と言っていると主張するのかい?」
当然じゃないのーっ。どこ読んでんの?クナ国とのいさかいにわざわざ魏に仲裁を頼むほど親密で、
明王をして汝を大事と思うと言わしめた親魏倭王たる卑弥呼なのに。
何故倭人だけ交流があって国名も知っているのに、魏使にシークレットにする事などあろうか。
むしろこちらの事を詳しく知ってもらって魏の援護をよりよく受けられるようにするのが普通というもの。
魏使は何度も繰り返し倭と行き来しており、隠しおおせるものではない。
117 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:45:26
>>110 その卑弥呼サマが死んでから
またもや見苦しい権力争いになって
不幸な人々がさらに不幸になり
台与サマが後を継いでから、邪馬台国は歴史の表舞台から消滅し
蘇民は延々と不幸のバーゲンセールにあえぐことになるのだが、何か?
118 :
712@九州説:2007/05/13(日) 14:46:21
失礼します。スレが新しくなりましたが、この名前でいきます。
>>84 >倭人伝には前方後円墳の記述が出てこない、あれほど規模が大きいものが記載されていない。
>しかし畿内には厳然として「あった」。すなわち畿内は、邪馬台国ではない。明快すぎる結論だと思うが。
同意します。この点、本当に不思議だと思います。
>>114 >もし邪馬台国を初めとする三十数カ国が九州にあったのなら本州に同時に存在した、
>それよりも巨大ないくつものクニに魏も後の晋もまったく気づいていなかった
邪馬台国は畿内がどのような国か、中国の人間には詳しく伝えなかったでしょう。
当時の邪馬台国の、劣勢に追い込まれているという事情を考えれば、理由は明らかと思います。
(まあ、逆に、ライバル畿内勢力の力をありのままに伝えて中国に泣きつく、という手もあったと思いますが)
>彼らがボンクラじゃなくて邪馬台国その他が九州にあったのなら必ず本州についても言及するはずなのよ
魏志倭人伝に「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」という記述があります。
また、ほかの書物に、その国の名は「拘奴国」(≒狗奴国)とあります。
119 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:48:08
>>71邪馬台国よりも遥か前、弥生中期から広範囲なものの移動はあるんだよ。
交流は何時の時代でもあったの。
だから前から言ってる様に、人の交流と、土器などの物の伝播とは違うって。
特定の人が広範囲を歩き回ったんではなく、物、土器が自然に伝播して行ったので
時間が掛かったの!
>>114 賛成。
自給自足を言うのなら、北部九州の豊富な鉄器や漢式鏡はいったいなんなんだよ。
すでに縄文時代から黒曜石石器はあちこちに移動している。
また千葉の加曽利貝塚の巨大な馬蹄形貝殻堆積は、
おいしい貝の塩辛の製造工場で、貝の壺詰め商品をせっせと内陸部に運んで
石器などと交換していたとされている。塩の代用品だ。
>>115 >
>>66あんたねえ、
> 次有斯馬國〜次有巴利國次有支惟國次有鳥奴國次有奴國此女王境界所盡
> ここまでが略載だから。略とは要点の意味。女王国との境、と文末にあるように
> ここまでが邪馬台国連合内だから、詳しく解るに決まってるでしょうに!
それ、国名だけだよね。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」だから「略載」できるのは道理と戸数でしょうw
ですかちゃんたらトボケちゃって・・・お茶目だね〜w
> 「それとも、貴方は倭人が主語だと思うのかな?
> 倭人が「交流の無い遠い国だから詳しく知りえない」と言っていると主張するのかい?」
> 当然じゃないのーっ。どこ読んでんの?クナ国とのいさかいにわざわざ魏に仲裁を頼むほど親密で、
> 明王をして汝を大事と思うと言わしめた親魏倭王たる卑弥呼なのに。
> 何故倭人だけ交流があって国名も知っているのに、魏使にシークレットにする事などあろうか。
またまた、「シークレット」にしたなんて誰も言ってないでしょう。
かってに話を作らないこと。
秘密にしたから書けなかったと思う前に実際に見聞してないから書かなかったのかもしれないし、
三国史が採用した資料には7カ国分の記載しかなかったのかもしれないでしょう。
倭人伝は別に魏使の出張報告を丸々コピーした文章じゃないんだよぉ。
> むしろこちらの事を詳しく知ってもらって魏の援護をよりよく受けられるようにするのが普通というもの。
> 魏使は何度も繰り返し倭と行き来しており、隠しおおせるものではない。
凄いねえ、どんどん話が膨らんでいくw
122 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:55:01
>>81またすり替えを始めた。嘘はばれるものなのね。
読解力が欠けてるとしたら、それ以前の問題だが。
>>122 >
>>81またすり替えを始めた。嘘はばれるものなのね。
> 読解力が欠けてるとしたら、それ以前の問題だが。
アンカー付け間違えてないかw
124 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 14:58:40
>>86 ほう、吉野ヶ里の北内郭が3世紀に衰退していたと?
専門家が発掘の為常駐していたがその方が嘘をついているとでも?
125 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:01:26
>>118 あなたは結構まともにものを考えられる人だと思うから
単に知識不足(これは恥ではない)なのだろう。
山陰から丹後にかけての日本海側はもう弥生後期中葉には半島と直接交易をしていたことを示す遺物が出ているのですよ。
前スレにもあったが、マキムクの建築物などは魏尺を採用しているわけ。
なので九州の勢力が詳細を述べたがらなかったなんて考え方も成立しないの。
最後に残った可能性は、すべてを知っていた晋が、何故かわざとぼかしたということだけなのだが
そんなことをする理由そのものがないの。
それを主張するならば呉に対する牽制なんてのは時代的にありえないから
別の理由を考えてくださいな。
>ほかの書物に、その国の名は「拘奴国」(≒狗奴国)とあります。
両者を別ものだと言ってるのは、先ごろお亡くなりになった鳥越さんだけ。
126 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:01:29
>>90オリエントの例は通貨以前にも通商はあることの説明に過ぎない。 だからそれが違うつーの。
オリエントはその証拠があるの。
>>124 >
>>86 > ほう、吉野ヶ里の北内郭が3世紀に衰退していたと?
> 専門家が発掘の為常駐していたがその方が嘘をついているとでも?
またまた、すり替えキタ〜〜〜〜wwwww
128 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:05:02
>>126 >
>>90オリエントの例は通貨以前にも通商はあることの説明に過ぎない。 だからそれが違うつーの。
> オリエントはその証拠があるの。
つーか、オマエだって、つい数十分前に地域間交易の存在を認める書込みをしてるんだが?
130 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:08:50
>>93現に九州説そのものが仮想空間
それは畿内説のほうだろう。九州説にはれっきとした証拠がある。
壱岐国、対馬国、マツラ国、伊都国、奴国、いずれも倭人伝に記された
邪馬台国連合だ。これが畿内には無いからいくら考古学を持ち出したとて空想に過ぎない。
おまけに邪馬国、邪馬台国、の名と思わせる耶馬溪、やまくに、などがある。
これも畿内には無い。
>>119 土器様式の伝播と土器そのものの移動を混同すんなw
たとえば畿内の地で製作された土器、山陰で作られた土器が九州な出土する訳。一つや二つではないし。畿内には九州の土器はあまり出土しないが山陰には九州製作の土器は出土する。で、互いに時期的な矛盾は無くどちらかが著しく遅く出るとかは無い。
土器様式の伝播だけなら論理的には遅れて伝播し受容するというのはあり得るが、実際は上に述べたようなそれぞれの地域で作られた土器そのものの搬入搬出品の検討により、各地域の土器様式の平行関係がわかり、時期様式の伝播受容も遅れているということは無い。
132 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:14:23
>>120 わぁたぁしぃ、加曽利E〜
懐かしいネタだけど、知ってます?
>>124 北内郭はおそらく3世紀中葉だろう
しかしそれまでの吉野ヶ里とはまったく異なる様相を呈している
環濠は放置され、環濠内住居は生活具ごと放棄され
はっきりいえば廃墟のゴーストタウンに、それまでの九州になかったタイプの木造建築が出現しているのだ
柱状の様式的には山陰のものに近いとされるが、これは南内郭ともまた異なるもの。
>専門家が発掘の為常駐していたがその方が嘘をついているとでも?
学芸員がうそつきなのではなく、その話を勝手に脳内変換してでたらめを言う人間がいるだけじゃないか?
>>124 >>86は北内各が3世紀と書いてるだろ?>86が書いてるのは大環壕を含む吉野ヶ里の復元されている環壕などの厳重な施設が全てが3世紀では無い、ということ。まああの公園の復元は全てが邪馬台国時代に同時にあったような印象を与えるので問題があるが。
またもう一つ、各国の中心集落が全て環壕集落とは限らないというのも確かで、当時の最大集落の須久や那珂は集落内部の区間溝はあるが環壕は無い可能性が高いらしい。
134 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:16:26
>>130 >おまけに邪馬国、邪馬台国、の名と思わせる耶馬溪、やまくに、などがある。
ひょっとしてギャグのつもりなのか?
135 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:18:44
136 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:21:43
>>126 オリエントではなく、倭における数々の通商の証拠が何人もレスしていますが。
で、ポリネシアでも長距離交易あるよという書き込みは都合悪く無視ですか。
ヨーロッパ人来航時にタヒチとフィジーがかなり遠距離ながら定期的に通商していた記録もあります。当時のタヒチやフィジーは低位な首長制レベルだし人口的にも弥生終末の倭よりかなり低位な社会段階だと思いますが。
というか吉野ヶ里に行ったなら「吉野ヶ里王国」の古代の通商、交易についても遺物を展示して解説されているはずですがね。
138 :
712@九州説:2007/05/13(日) 15:25:19
>>125 >山陰から丹後にかけての日本海側はもう弥生後期中葉には半島と直接交易をしていたことを示す遺物が出ているのですよ。
>前スレにもあったが、マキムクの建築物などは魏尺を採用しているわけ。
>なので九州の勢力が詳細を述べたがらなかったなんて考え方も成立しない
中国の人間が本州の様子を知っていたとしたら、なぜ魏志倭人伝に
巨大古墳についての記載が無いのでしょうか。この疑問が残ります。
これは邪馬台国が畿内にあったとしても同じです。
139 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:26:12
奴国まではそりゃ九州だろ?次の不弥もな。それは畿内説も同じ。
しかし伊都や奴が九州だから邪馬台国も九州だというのは筋違いもいいところだが。
物々交換も通商は通商。古代オリエントも印章や文書はあるが交換自体は貨幣を媒介せず物々交換だが。
それはバイキングでもポリネシアでも同じ。
物々交換だから通商ではないという論理は成り立たない。
ポランニーを嫁。
径百余歩が古墳の描写ね。
142 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:32:38
九州ですが ◆IhXqm1bg5c は筒井康隆のエッセイにある小咄みたいなやつだな。
あるとき子供が靴を片方失くした。きっと親に怒られる、なので考えた。
子供「泥棒に靴を片方盗られた!」
親 「なんで片方だけなんだ?」
また子供は必死で考える。
子供「実は泥棒は片足だったんだ!」
親 「なんでお巡りさんに言わなかったんだ?」
またまた子供は悲壮なくらい考える。
子供「実は片足のお巡りさんが泥棒だったんだ!」
143 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:33:53
>>114 魏は九州邪馬台国と親密なんであって畿内など関連してない。
倭人伝は明王が卑弥呼に銅鏡100枚などを貰った。明王から言わせればあげた、
これが倭人伝の一番のメインテーマだから。これほど私{明王}はそなた{卑弥呼}を大事に思っているぞ、
あり難く恩を感じるように、と恩を着せているわけだ。
従い畿内などどうでも良いのだ。もし魏側が畿内について何らかの情報を持っていたにせよ
畿内などの出る幕は倭人伝の書かれた内容の主旨からしても無い。
144 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:36:27
九州だとアプリオリに決めた論理で説明されても証明不能の循環論に過ぎないがw
要するに説明になっていない詭弁
145 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:36:44
明王って誰?それは没有
明帝だよなw
147 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:39:43
>>120そんなのは物物交換で手に入れたものだろう。
148 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 15:42:36
>>114 記紀の中の魏の情報量を見て、逆(倭人伝から)を見て畿内の情報量の多い少ないを
考察すればいい。
だからさ、物々交換でも恒常的に、広範囲に、多種多量に、組織的にやっていたらそれは「通商」と言うの。
分かる?
物々交換でも共同体外との交換が恒常的に必要な社会ならもはや自給自足を強調しても無意味だなそれw
151 :
SOY:2007/05/13(日) 15:49:23
>>108 >寺沢論文は布留0式=3世紀後半説。
>布留0式=3世紀中頃説を採る最近の鏡研究者の主流よりは微妙に下げる説だが、根拠と論理は十分ある。
>しかし寺沢の年代観以上にさらに下げるマトモな研究論文は無い。
>安本とかは全くマトモではないし。
論拠を示すでもなく、論文名のみの発言や人物批判となった時点で既に終わっているのでは?
江西省瑞昌県馬頭西晋墓、湖北省随県唐鎮三号墓、河南省洛陽市晋墓を後漢代と証明するなり、
何かを論説するならともかく、『マトモだ』『マトモでない』の文章は説得力に欠けます。
考古学会の定説に対し一石投じたからと言って、少しうろたえすぎではありませんか。
他人の見解が自分の思いどおりにならないことくらいで、騒ぐ話でもありもせん。
私なんかクロスワードをやりながらここで気楽に発言しています。
正直、特定の人の自作自演や罵詈雑言の類は読むに値しませんし、
通商連合のコピ&ペーストもクドすぎます。
もし、まだ双頭龍文鏡2式について述べたりないのであれば述べれば良いと思いますが、
その中に私への個人批判は不要です。
行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張 我に与からず我に関せずと存じ候
152 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 15:56:05
>>121それ、国名だけだよね。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」だから「略載」できるのは道理と戸数でしょうw
邪馬台国連合内のことを国名しか解らないということはありえないから
国名のみの邪馬台国連合群は常識として略載の内に入れるべき。
「遠絶の地は詳しく述べられない」が、20数カ国を書いた後、「奴国が女王国の境である」
という記述からもこれらが邪馬台国連合だと判断できる。
153 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:56:29
>>147 こいつ、通商とか交易と物々交換とは根源的にちがうものだと思っているらしい。
その違いが明らかになるのは、はたして何時間後のことかな。
まあ、気長に待つとするか。
154 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:02:14
>>125前スレにもあったが、マキムクの建築物などは魏尺を採用しているわけ。
そんなの時代が違うんよ。何故魏尺が使われている事が魏国の存在した時期と同時期でなければならないわけ?
50年100年後使う事だってあり得るでしょうに。
自分の考え方がおかしい事に気が付かない?
155 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:07:27
>>128 ?
僕はプラムさんとはそこんとこ考え方が違うんよ。
邪馬台国とは邪馬台国連合30カ国の事を指している、というもの。
だから矛盾しないの。おわかり?
散歩に行こうよ!
───v───
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
157 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:10:35
>>129 通商連合などといって商人らしき者が諸国を回ったような事が無いと言ってる訳よ。
地道な物物交換によって徐々に土器などは広がったわけよ。
158 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:11:44
>>152 略載できるのは女王國以北、23か國も略載だとすると邪馬台国は最南端の国なのね。
さあ、次はどんな言い訳しますか?
だいたい想像はつくけどね。
159 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:14:51
>>156 この絵が出ると弱い。畿内説者だとは思うが弱みに付け込まないように。
160 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:18:30
>>157 安芸や周防から庄内が出ないのにバケツリレーみたいな交易で伝わったと!
はあぁぁぁぁ・・・
161 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:18:56
>>158 邪馬台国を九州の果てだと解釈すればいいんじゃないの。
天孫降臨も南九州だし。
162 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:20:47
163 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:23:37
>>160 出雲経由でしょう。庄内は北九州に多く畿内に少し。
九州起源で、出雲経由で畿内に伝わった。
畿内の庄内の出土地は、物部氏と関連が強い。
ニギハヤヒの東遷にも関係があるのかもしれない。
164 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:25:40
>>131それぞれの地域で作られた土器そのものの搬入搬出品の検討により、
各地域の土器様式の平行関係がわかり、時期様式の伝播受容も遅れているということは無い。
穀物類を入れた土器を土器のまま交換したら同時期の土器が違った土地で出土、交流があったのか、
てなことにもなるでしょうに。だからと言ってそれが交流を示す事にはならないのは
それが別の人によって別のクニへ運ばれる事もあり得るから。そうやっても土器は広がる。
もう一つの可能性は「各地域の土器様式の平行関係がわかり」といっても
そこに50年とかのズレがある可能性もある。同じ時が出たからと言っても
同時期とは限らない。故意に同年代と決め付けるところに間違いの元がある。
165 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:31:08
>>139 だから邪馬台国とは伊都国や奴国を含めた広域連合国家のことを言うの!
166 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:38:38
167 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:42:34
>>160 庄内は邪馬台国時代の後だと考えてるので
その後に広まったんでしょう。
168 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:43:45
>>165 >だから邪馬台国とは伊都国や奴国を含めた広域連合国家のことを言うの!
それはトンデモ説だ。
魏志倭人伝には、邪馬台国は1回だけ出てくる。明白に伊都国や奴国とは別の国である。
どう読んでも貴殿の解釈は成り立たない。
ちなみに貴殿の好きな安本氏の現代語訳を掲げておく。
>南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。
>水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官) を弥馬升(みまと)という。
>(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。
>七万戸ばかりである。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm
169 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:44:42
帰らないといけないので暫く書けませんが。
170 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:45:42
>>168 その普通の解釈が「トンデモ」って言われてもなぁ。
畿内説論者からみれば九州説すべてが「トンデモ」なんだろうけど。
>>166 偶然の産物にしては数か大杉w
鉄素材とか明らかに自給できないし、産地の限られる物が広域流通している。
これらが全て偶然とは強弁な過ぎない。国々に市あり、有無を交易している訳だが。
>>167 庄内式は3世紀前半を中心とする年代。3世紀後半以降とするのは勝手だが根拠の無い妄説。安本だけだよそんなトンデモ論は。
なお土器の動き自体は庄内式以前も多い。庄内式から布留式前半が特に活発なだけ。
172 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 16:54:05
>>168 だから邪馬台国と女王国とを区別してあるでしょ。
女王国は卑弥呼の宮殿のある直轄国で、北部九州邪馬台国連合すべてを
邪馬台国とひとまとめにして呼び、卑弥呼はそこの女王となり、対外的にも
その名称で通した。でないと倭国ではもっと広いし、奴,や伊都では小さいし、
かといって女王国では対外的にどこの国だか解らない。
邪馬台国7万戸というのもこれだとさもありなん。
>>164 互いの土地での様式の搬入搬出に時期的矛盾は無く50年ずれるというのは勝手な推測だな。
各地域の編年が20〜30年単位に細分化されているから、お互いに行き来している土器型式のチェックから50年ズレているということは無い。
で、土器が何で運ばれたか別にして、広義の「交流」以外に何があるの?穀物が入っていただろうとか訪問者が生活用具を持参したとか器種や出土状況からいろいろ考えられるが、いずれにしても「交流」だよな。
174 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:00:50
175 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:02:43
>>171 安本氏の庄内に関する見解が、それほどトンデモだとは思えないけどな。
たかだか50年程度見解が違うだけで、そのような言い方するのもどうかと。
畿内説論者のほうが年代繰り上げや捏造は常套だけどなw
176 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:05:10
>>174 ならば、魏志倭人伝に、吉備や出雲といった
中国から畿内に向かう間に当然注目されて
しかるべきの王権についての記述がないのはなぜ?
>>163 庄内式が九州に多く畿内に少ないという説がトンデモというのは前スレで暴露されていますが、
>>157 資本主義的な意味での商人が媒介する交換だけが通商とは言わない。
前資本主義社会でも「交易従事者」は存在する。倭では対馬などの海人族がそういう役割を担ったと考えられている。
178 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:09:57
>>177 「暴露」?
仮に「庄内式が九州に多く畿内に少ないという説がトンデモ」ということが
一般的に広く了解されている事柄なら、「暴露」という表現にはならないはずだが?
前スレで、畿内説論者がそれを連呼して、それがスレ内で常識化したってだけだな。
>>175 安本の年代繰り下げや庄内九州起源説が根拠薄弱のねつ造ですが何か
安本の年代論のおかしさ、成立しがたいことについても前スレで何人も指摘されていますが。
>>176 投馬国が吉備または出雲と考えられているのでその突っ込みは無意味
>>177 >庄内式が九州に多く畿内に少ないという説
説ってどういう意味だ?庄内式が九州に多く畿内に少ないというのは
考古資料としてゆるぎないだろうし、また考古資料とはそういうもの。
182 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:13:02
>>108 引用では意味ないよ。
庄内、布留の開始年代をどうに決めたのかを自分の理解でいいから書いてみたら。
庄内、布留の年代遡上のために、鏡の流通年代(紀年)を根拠にするには、
@三角縁、画文帯の紀年が製作年代と一致するのかどうか。
A仮に、紀年と製作年代が一致する場合でも、紀年と流通年代との関係が問題になる。
B三角縁、画文帯より以前に流通していた鏡の年代との関係が整合するか。
SOYさんと名無史との議論では、Bに関係して、双頭竜鳳文鏡が問題になっているが、
>>28を見る限りでは、2式は中国では三国時代の墳墓から出土している。
年代遡上のためには、これを200年頃までのものとする必要がある。そうしないと、
画文帯(180〜240)、三角縁(240〜)より以前の流通時期のものとはいえなくなる。
しかし、双頭竜鳳文鏡2式の年代遡上には無理がある。
画文帯より以前の時期の鏡としては、これ以外にも蝙蝠鈕座内行花文鏡、位至三公鏡、
方格規矩鳥文鏡、漢鏡6期の方格規矩鏡、キ鳳鏡、獣首鏡、三角縁盤竜鏡を除く竜鳳鏡、
飛禽鏡、円圏鳥文鏡などがある。
これらを全て200年より以前の流通とするのは、不可能。むしろ、これらの鏡の流通年代は
300年頃まで続いたと見られる。その後に画文帯が出て、さらにその後に三角縁が出ると
いうのが考古学の出した結論である。
>>178 まあスレ内では常識化したのは認める訳ねw
というかスレ内だけでなく安本の庄内式の話は学会で全く相手にされていないけどな
184 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:15:21
>>179 畿内説でも、年代繰り上げの件は偉そうには言えないだろう。
>>180 投馬国を<通過>して邪馬台国に至るような書き方はなされていない。
185 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:17:37
>>183 常識といっても、このスレに書きこんでる顔ぶれによる。
畿内説がほとんどなようなので、常識化するのも当たり前だろう。
>>182 誰もそんな結論を考古学でさ出していないがw
ある様式の成立と製作時期幅と、流通盛行幅はズレがある訳で。後者は後に引きずる訳で。
同じ系統の新しい鏡式が成立したら古い鏡式の「製作」は収束する訳で。
あと画文帯が300年以降とかとんでもないw105年の紀年鏡があり2世紀初めには成立していますが。列挙された多数の鏡式と共に作られていますが。
2世紀末の建安年間以降は画文帯神獣鏡が多様化したくさん作られたのは明白です。紀年鏡は建安年間以降たくさんありますがほとんど全て300年以前だし。
188 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:27:36
逆説的な疑問ですが、古代の北九州が「筑紫」と呼ばれていたのは常識ですが
倭人伝には「ツクシ」てクニは出てこないですね。
という事は、マツラに寄港した魏使一行は九州には上陸せず
海路を進んだのではないでしょうか?
189 :
712@九州説:2007/05/13(日) 17:29:33
魏志倭人伝の投馬国は、ツマ→ツモで、最終的にイズモ、
水行陸行は朝鮮半島から測る書き方。
アマテラスと対する概念として出雲という漢字が
あてられたのだと思います。
>182
安本派は中国鏡の独自の編年があるみたいだがマトモな根拠は聞いたことがない。
布留0式以前の庄内式が例えば3世紀後半なら何故に3世紀後半の鏡が全く無いのか?
安本派が勝手に年代を下げる3世紀後半の鏡と称するものではなく、誰しも認める3世紀後半の鏡がね。
191 :
712@九州説:2007/05/13(日) 17:41:33
>>188 >倭人伝には「ツクシ」てクニは出てこないですね。
不思議ですね。「隋書倭国伝」に次のような記事があります。
中国の使者・裴世清が北九州から畿内に向かった時、
「竹斯国より以東は、皆倭に属す」(この竹斯が筑紫です。)
ちなみに、この一文も不可解です。
仮に邪馬台国が畿内にあったとすると、
以前日本を訪れた魏や晋の使者は畿内のことまでよく知っている、
ましてや筑紫から東は倭に属すなんてことは当然知っていたわけで、
(隋の外交関係の人間がこの事実を知らないはずがありません)
なんでこんなわかりきった事実をあえて書いたのか、
おそらく魏や晋の時代には、そうではなかったのでしょう。
邪馬台国が九州にあったという論拠のひとつになっています。
192 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 17:43:13
>>180 投馬国から畿内に行くつっこみの具体的記述はなされていないから、これが
畿内説の繕いとなる過ちの原因。その考えは廃棄すべき。
>>181 庄内式が畿内に少ないって本気か?
前スレをよく嫁。安本に騙されるな。
九州に多いという分布図は庄内式「系」を含むかなり広義の「庄内式」の分布。
一方、畿内に少ないという庄内式の分布図は、庄内カメが主体となるより洗練された狭義の庄内式の分布。九州に多いと主張する基準なら畿内の庄内式の分布図は点が大杉て真っ黒になる。
一方、庄内カメを主体とするマトモな庄内式という基準だと九州では博多、比恵、那珂周辺といった福岡平野の一部といった非常に限られた分布になることが判明している。この分布は安本が言う九州の物部の分布とは関係が無い。
>191
以前の記事がおかしいから訂正しただけだろ
195 :
712@九州説:2007/05/13(日) 17:54:04
>>194 「魏晋時代には、福岡県より向こうは倭に属さなかった」
けれども今は違うんだ、という意味の訂正ではないのですか?
196 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:57:07
>>191 >「竹斯国より以東は、皆倭に属す」
これでは裴世清が来たときも竹斯国以西(以北?)は倭に属さないともとれますが…
197 :
SOY:2007/05/13(日) 18:15:04
>>190 >布留0式以前の庄内式が例えば3世紀後半なら何故に3世紀後半の鏡が全く無いのか?
3世紀後半の鏡が出土したとしても、3世紀後半の鏡と認めないからでしょう。
論理が循環しています。
>>186 >同じ系統の新しい鏡式が成立したら古い鏡式の「製作」は収束する訳で。
想像の話で、三国・晋代の墓から出土する事実は消せません。
>ある様式の成立と製作時期幅と、流通盛行幅はズレがある訳で。後者は後に引きずる訳で。
日本に入ってから埋められるまでの時間を考慮すれば確かに後に引きずります。
つまり、弥生X期は三国代よりもさらに後代になる可能性があるという意味ですね。
言われてみれば、洛陽晋墓から出土する2式を、
何もできるだけ遡って魏代にする必要もありませんね。
情報ありがとうございます。
198 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:19:41
話を単純化すると、こう。
九州説論者は九州説に不利な材料は否定。
畿内説論者は畿内説に不利な材料は否定。
話にならないのは当然かと。
♪ですが の最近は 誤ることいっぱ〜〜い♪
ですが きょうも邪馬台国とは伊都国や奴国を含めた広域連合国家とか
妄想書き込み出したんで・す・Yo!
そしたらSO〜!
魏志倭人伝には、明白に伊都国や奴国とは別の「邪馬台国」が出てくるって
反論されちゃったんです><
♪あーいとぅいまて〜〜〜ん
200 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:24:36
>>186 画文帯の中国での流通時期と日本での流通時期は、明確に異なる。
日本では、中国で画文帯と同時期に流通していた鏡とは同じ時期に流通していない。
例えば、上で議論のあった双頭竜鳳文鏡よりも新しい時期に日本での画文帯は
始まっている。日本での画文帯は古墳からの出土が中心である。
しかも、同向式は日本でほぼ全部が出土する。
また、日本製がほ確定している三角縁との連続性がある。
この状況で画文帯を紀年のみから200年頃の鏡とすることは暴論である。
蝙蝠鈕座内行花文鏡は魏の時代から始まったことがほぼ確定している。
さらに位至三公鏡はそれより新しい時期と見られる。
キ鳳鏡、獣首鏡などは、位至三公鏡とほぼ同時期かそれより新しいと考えている。
日本での画文帯はこれらの鏡の流通時期のあとに始まっている。
以上、普通に考えれば、日本での画文帯は300年頃からとなる。
私は320頃からと考えている。
事実を無視した年代遡上は学問の退廃を招くだけではないかと危惧する。
201 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:25:16
>>198 もうどっちも狂信的な宗教みたいなもんだろ
神VS神
>>172 >
>>168 > だから邪馬台国と女王国とを区別してあるでしょ。
> 女王国は卑弥呼の宮殿のある直轄国で、
「ですが理論」の1によれば、
女王國以北は略載できる(国名しか書いてなくても)30カ国全てのことなんだから、
じゃ、「女王國」とは邪馬台国連合の一番南に在る国なんだね。
つーことは、キミの女王国はどこら辺になるの?
佐賀平野?筑後平野?宇佐?
前スレで何か言ってたように思うが・・・どこだったっけ?
> 邪馬台国とひとまとめにして呼び、卑弥呼はそこの女王となり、対外的にも
> その名称で通した。でないと倭国ではもっと広いし、奴,や伊都では小さいし、
> かといって女王国では対外的にどこの国だか解らない。
> 邪馬台国7万戸というのもこれだとさもありなん。
すいませんが、奴と投馬を足しただけで既に7万ですが、何が「さもありなん」なんですか?
何か思いついたとしても、直ぐに書き込まずに検算くらいしてから送信しようね。
203 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/13(日) 18:45:26
邪馬壹国/邪馬台国以外の戸数表記のある国をカウントするだけでも、それだけで7万を超えますし
戸数表記のない国も20近く在りますから
邪馬壹国/邪馬台国は30カ国の総称じゃないと云う事でしょう
>>200 >この状況で画文帯を紀年のみから200年頃の鏡とすることは暴論である。
>以上、普通に考えれば、日本での画文帯は300年頃からとなる。
紀年銘のある画文帯鏡は、実はその年に作ったものじゃないと?
紀年鏡の全部が全部、偽りの紀年を入れたと?
>>200 画文帯の日本での出土が中国よりも全て新しいという時点で恣意的な年代操作。
日本の前期古墳の年代を前提的に下げる安本論による循環論法に過ぎない。
同向式は現状では日本に多い出土だが全て日本出土というのはウソ。中国での数量の現状はマトモな報告が一部という現状による。
同向式も他の画文帯と要素の共有や同時変遷があり、同向式だけ中国鏡ではないというのは無理がある。
また庄内に確実に出土の萩原1号や綾部山を無視してもなあ。布留0式以降の出土例が多いがいきなりこれを300年以降に下げる根拠が全く無い。
>>200 コウモリ座は後漢代にありますがw洛陽漢墓ほか多数ね。またウソついてるよ安本派はw
三角縁が日本製で確定とかもウソ。まさに論争中な訳だが。安本一派の中では勝手に確定かもしらんがw
国産説でも三角縁の年代は3世紀中頃から後半という、中国の画文帯からの系譜を踏まえた奥野正男の説もあるが、安本説はただのトンデモ。
画文帯がことごとく300年以降とかむちゃくちゃだなw現状では日本に多い同向式以外にも多数の神獣鏡形式がありそれぞれ紀年鏡があるが主要な型式変化は建安年間の2世紀末から泰始年間の270年頃までだが。
同向式も他の神獣鏡諸形式と連関した変化であり、同様の年代幅である。
獣首鏡やキホウ鏡も後漢墓に出土しておりコウモリ座が3世紀とかも含めて中国での出土の事実を無視した暴論を安本一派は言っている訳だね
>>200 事実を明らかに無視し歪曲した年代繰り下げは歴史のねつ造と学問の破滅を招く訳だね。
まあ安本説終わってるがwまさか本人でつか?
209 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:17:13
>>200>>204 記念碑でも墓石でもコインでも、或いは本の奥付でも
紀年というものはその年に作った事実を記録しようとするものだろう。
ずーっと過去の年号を彫ったり書いたりは、可能性としてはあるけれども
大半のものは正しく紀年されてると普通は考える。
鏡に関してだけ全部偽りの紀年とは、非常に不自然な考えに思える。
210 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 19:50:12
早稲田大学の討論はどうなったんだろうね?
萩原1号の画文帯同向式神獣鏡は楽浪出土鏡と同型。
また洛陽焼溝漢墓でも後漢晩期だが画文帯環状乳式神獣鏡は出土している。
洛陽焼溝漢墓には少なくとも後漢晩期=焼溝漢墓6期=2世紀中頃から3世紀初めまでに双頭竜文鏡、蝙蝠座内行花文鏡、獣首鏡が存在し、他の漢墓資料や獣首鏡の紀年鏡を見ればこれらは2世紀初めには成立した鏡群である。獣首鏡に親縁関係のキホウ鏡も同じだ。
神獣鏡も105年の紀年鏡がある。
これらだけでも安本の説明のデタラメさは明らかだ。
>>204 自分の妄想鏡編年に都合悪い紀年鏡は全て後世の鋳造ですw
>>197 だからさ、安本一派しか認めない3世紀後半の鏡じゃ無意味な訳。
あとね、2世紀の鏡だろうが晋代に出土してもふつうのこと。例えば前漢鏡でも晋代から出土することさえあるが、だから前漢鏡が晋代製作とは言わない。晋代にも出土するからその鏡式が全て晋代とかどういう論理だよw
型式学による製作レベルの編年と、流通時期幅は違うというのが理解できないみたいだね。
我田引水で弥生5期が三国とかわけわからんことを言ってるけど、弥生5期出土鏡が大量にあるのに確実な三国鏡は一つも無い訳だが。
何度も言うが安本しか言ってない全く通用しない勝手な編年による「3世紀」の鏡ではそもそも議論になりませんが。
SOY氏は結局は安本信者でしょ。学者の言うことは鵜呑みにしないと言ってるが、安本の論理だけは鵜呑みにしてるし。
通説に疑いを挟むのはそれはそれでいいけどさ、たまには自分が拠り所にする安本説も疑ったら?
安本信者ではない、というなら安本説への疑問や批判のレポートも頼むわ。あれを鵜呑みにしているのが信じらんないよ。
>>197 双頭竜文鏡2式を下限が三国になる可能性という慎重な言い方から、いつのまにか全て晋代に下げようとしているのが笑える。
何が何でも新しくしたいだけねw
三国時代の墓に出土したのは事実だから(一部は後漢代の可能性もある訳だが)、少なくとも三国には成立している鏡だが、晋代に出土したら全て晋代とかもう出鱈目過ぎだよ
216 :
SOY:2007/05/13(日) 20:20:36
>>211 >洛陽焼溝漢墓には少なくとも後漢晩期=焼溝漢墓6期=2世紀中頃から3世紀初めまでに
>双頭竜文鏡、蝙蝠座内行花文鏡、獣首鏡が存在し、
>他の漢墓資料や獣首鏡の紀年鏡を見ればこれらは2世紀初めには成立した鏡群である。
>獣首鏡に親縁関係のキホウ鏡も同じだ。
とっくに論議は終わったかと思っていましたが、
また、誤解を招く表現があったのでチェックしておきます。
双頭龍文鏡の2式は洛陽焼溝漢墓から出ていません。洛陽晋墓出土です。
江西省瑞昌県馬頭西晋墓、湖北省随県唐鎮三号墓、河南省洛陽市晋墓から
2式が出土するという事実は獣首鏡が後漢代から出土するといった理由で
消え去るものではありません。
論文名を挙げてもこのことを隠し、1式の洛陽漢墓出土をもって、
2式が洛陽晋墓から出土していることをもみ消すのは問題です。
中国では三国・晋代から出土、日本では弥生終末出土、
これほど期間の絞れる好資料はあまりありません。
もっと慎重に扱ってもらいたいものです。
>>214 信者つーよりも「工作員」でしょ。
今の安本教団は、売上げ激減で新規信者獲得に必死なんじゃないのか?
>>210 >早稲田大学の討論はどうなったんだろうね?
乱入者続出。
狂信的九州説者が火炎瓶を投げ、これに対抗して畿内説論者は消火器百本をブチマケ。
九州王朝派は機関銃を乱射。
四国派と沖縄派、はともにダイナマイトで武装。
夜になっても早稲田大学キャパスは各派入り乱れてのバトルロイヤル中。
警視庁機動隊と東京消防庁が出動し、ただいま沈静化へ向け必死の散水中。
>>216 ありゃ双頭竜文鏡2式は三国代の例があったはずだな。うち1例は西村氏は後漢晩期にすべきという例だよな。少なくとも三国にはあるはずだが、あたかも晋代にしか無いような書き方は問題だな。
1式は2世紀前半は確実な訳だが、これからスムーズに変化する2式が2世紀後半に成立するというのは他の関連鏡式の年代との比較で型式学的に成立しうる訳だが。製作時期がその時期でも流通時期幅が三国晋まで及ぶというのは矛盾無い訳で。
しかも型式学的に後の3式が後漢末例があるんだから。2式はそれ以前とするのが型式学的なふつうの考察。
3式については大部分が三国鏡というのはいいですが。
何が何でも双頭竜文鏡を新しくしたいというのは安本の論理に呪縛されている訳で。たまには安本の論理も疑ったら?
220 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:37:56
>218
ワロタwありえそうw
221 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 20:41:02
>>218 報道沙汰だな。何でそんなに荒れたんだろう?
SOY氏は安本氏の年代論や鏡の理解は全く問題は無いと思うの?
安本論に何か問題があるなら具体的に書いてね。
それとも安本氏だけは鵜呑みにするのかな?
223 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:44:12
ネタではなく、討論会の実際のレポートよろしく。
できれば安本信者でない人からのレポートが欲しいね。
224 :
218:2007/05/13(日) 20:51:04
>>221 太国さん。マジに返レスされると困る罠。ウソだよ〜。
ちょおとしたユーモアのつもり。
だれか参加した人、ほんとのレポよろ。
>>218 >バトルロイヤル中。
高貴なかたでつか?
226 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:07:31
石野さんは纏向石塚は非常に古く考えているんだが、箸墓に関しては、案外カタイんだよ。
去年おれが聴いたレクチャーでは280年築造説で、昔のまま。
そのとき参加してた若手研究者がみな一致して箸墓255〜265年築造説だったのに比べるとね。
でもそろそろ意見に変化があるかも。きょうはどうだったんだろうなあ。
話がかみ合ったとはとても思えないが、どうだったのだろう
228 :
SOY:2007/05/13(日) 21:14:30
>>222 >SOY氏は安本氏の年代論や鏡の理解は全く問題は無いと思うの?
もちろん疑問点は幾つかありますが特に何か語ろうとは思いません。
最近、特定の畿内説の方と思われますが、病的と言えるその陰湿な発言は
目に余るものがあり、もう少し落ち着くまで、その手の質問に対する回答
は控えさせて頂こうと思います。
既にここはそういった論議のできる場ではなくなっていると思われます。
>>228 いや、その疑問点をぜひ聴きたいのだけど。
それとも「信者」と言われたのが図星で、それをごまかすためにだから疑問があるフリをしている訳ではないですよね?
SOY氏はどう見ても安本説をトレースしているだけと思われ
232 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/13(日) 21:21:15
>>224 「大隈講堂前で乱闘」ってのは、
太国氏まだ若かりし頃、
40〜50年前ならありえたからね。
孫が首相になる時代か!
>>226 石野さんは固いけど、話を聞いていたら
だいたいって感じだろう?
だから絶対に280年説ではないような気がする。
>>230 図星なんだろ?
>既にここはそういった論議のできる場ではなくなっていると思われます。
なんていいながら議論してるんだからw
>>231 でも、前スレでは「安本は読んだことがない」とかほざいてたよw
237 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:37:07
>>229 石野さんが館長兼務の香芝市二上山博物館のシンポ。去年の秋。
他には森岡秀人さん、石野さんの大学の助教授の大久保徹也.さん、大阪市大の岸本直文さん、あと3人度忘れ。
箸墓250年という人もいたような希ガス。
大久保さんが鶴尾神社4号墳を、箸墓よりもぜったい後だって、かなり強く言ってた。
238 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:42:43
>>208 >最近、特定の畿内説の方と思われますが、病的と言えるその陰湿な発言は
>目に余るものがあり、もう少し落ち着くまで、その手の質問に対する回答
>は控えさせて頂こうと思います。
病的なほどに2chに貼りついて、四六時中罵倒レスしているのは
誰が見ても太国と九州ですがという、ともに九州説論者なのだが
それらは華麗にスルーして、安本批判のみが陰湿だというのは明らかにおかしい罠
>>237 >>あと3人度忘れ。
岸本道昭@たつの市教委・菅原康夫@徳島県教委・山田隆一@弥生文化博物館
石野が仕切ると言うよりは、他のメンツに言いたいことを言わせる趣向だったような・・・
240 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:51:38
>>236 安本信者は中立を保っているふりをするのが常套手段だから。
前に奴国とかいうコテがいたが、奴も安本なんて読んでいないと言いながら見事に信者だとボロを出して消えた。
もしかして、同一人物?
241 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:54:28
>>205 >>200が「ほぼ全部」としているのを無視しています。
同向式の「ほぼ全部」が日本で出土しているのは事実ですよね。
>>209 たとえば、三角縁の紀年でみると、240△よりも239△の方が図案の
抽象化が進んでいて新しいという逆転現象が生じている。
どちらか、もしくは両方がウソの紀年ということになる。
そもそも、240年ころの墳墓から出土した△の例が存在しない。
△を出土した古墳の年代を無理矢理古く見てもそこまで届かない。
>>206 いまどき本気で△が日本製と考えている人はいるのか?建前上の学説だろ。
日本で約500枚出土、中国で0枚出土のこの状況で。
日本では約130種類の△が出土しているが、これを中国で特鋳したとする
のは無理がありすぎる。
242 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:57:09
>>241 を訂正
本気で△が日本製と → 舶載と
>>240 同向式が中国や楽浪郡に数枚あるのは事実。うち一枚は萩原1号と同型鏡。
すでに書いているように中国での出土量の現状はマトモな報告が一部だから。
また同向式は他の神獣鏡諸形式と要素の一致があり相互連関し、要素の変遷も一致している。
同向式だけ日本製とかは無理。
三角縁についても倣古方格規矩鏡や斜縁神獣鏡などの三角縁と強い関係がある鏡の存在が明らかになって来たので、三角自体の有無だけでそれを国産とするのは現状では事実にそぐわない。
>>241 景初3年鏡と正始元年鏡の相違は、一系的に考えるのではなく、内区の倣古のモデルとなった神獣鏡形式が一つではないからに過ぎないが。
すでに国産説の奥野が指摘している。
>>216 洛陽晋墓の双頭龍文鏡は3式だぞ。2式が全部晋とかウソつくなよ。
246 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:32:41
>>243 >中国での出土量の現状はマトモな報告が一部だから。
中国の同向式数枚は詳細が不明というマトモではない出土報告であることや、
楽浪で1枚位の出土があるに過ぎないことからは、日本製を考えるのが、普通。
将来中国で見つかる可能性があるとか、中国にはもっとあるはずだ、ということは
見つかってから言うべきこと。
三角縁舶載説のなかには、「将来中国で大量に見つかると信じています。」と
発言する者もいるが、見つかるまでは国産説が有利なことは認めるべき。
倣古方格規矩鏡や斜縁三角から定型の三角まで日本製とする理由にはならない。
これはネタか?
>>244 苦しい説明だね。本気で三角が舶載と考えているのですか?
247 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 22:39:34
>>202「女王國」とは邪馬台国連合の一番南に在る国なんだね。
違う。邪馬台国連合は団子状にあった。邪馬国
躬臣国=玖珠町 巴利国= 杷木町 邪馬国=耶馬溪
支惟国= 基肄城下{基山町} 烏奴国=鳥栖市
このように団子状にくっついて長崎県、佐賀県、福岡県、大分県にまたがっていたのである。
クナ国はその南にあり、投馬国は筑後川を下って有明海を南下し20間で到達した。
それから別の邪馬台国が出てくるのではなく、こう読む。
「南至邪馬壹國女王之所都」
「南へ、邪馬台国女王卑弥呼の都とするところに至る。」であって「邪馬台国に至る」ではない。
名無しくん登場かw
249 :
SOY:2007/05/13(日) 22:42:15
>>245 >洛陽晋墓の双頭龍文鏡は3式だぞ。2式が全部晋とかウソつくなよ。
その手のデマや屁理屈にももう飽きました。
論文名を挙げてデマを流す、それが陰湿なのです。
これを最後のチェックにします。
あとは引き続きデマを流したところで、もはやチェックもいたしません。
双頭龍文鏡2式の出土例は以下のとおりです。
1.江西省瑞昌県馬頭西晋墓
→ 西村俊範氏は呉代(3世紀第2もしくは第3の四半世紀)と『思われる』としています。
彼の見解ですら呉代です。晋代の可能性さえあるとも解釈できます。
2.湖北省随県唐鎮三号墓(漢魏墓)
→ 報告では三国代となっています。この時点で三国代の意見があることは明らかです。
西村俊範氏は後漢晩期に年代を上げうる『可能性がある』としているだけです。
3.河南省洛陽市晋墓
→ 古い報告で年代の確定はできないとなっています。これも後漢代とは断定できません。
それはともかく洛陽漢墓でなく洛陽晋墓から出ていたんですね。
河南省洛陽市晋墓の2式が3式というなら、それを証明してください。
こういった出土例をもみ消すのが陰湿なのです。
洛陽晋墓から3式が出土するからと言って、2式の出土例が消えるわけではありません。
250 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:49:38
>92
>しかし考古学的には弥生後期(X様式)は交易交流は増大しており、
>乱以後と思われる庄内期には爆発的に活発になる。
ごりゃ、ウソだ。後期に特に畿内の流通が滞るのはまともな学者なら
だれもで知っていることだが。
いいかげんなこといっちゃいかんよ。
251 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:51:57
>>240 なんか、安本信者というレッテル張りが流行しているようだ。
しかし、安本氏の本も読んだことはあるが、彼独自のものと言えるのは、
甘木周辺と大和周辺の地名の類似を論じた箇所だけだと思う。
そのほかのものは、ずっと昔からあるもので、特に安本説というほどのことは
ない。年代論も彼のものではなくて、昔からあるもの。
里程・日程も明治時代からあるもの。
つまり、安本説に近いというのは、邪馬台国の比定地を甘木周辺にしている
人だけで、東遷説そのものは昔から非常に多くの人が論じている。
東遷説の人を、安本信者というレッテルを貼って攻撃するのは、どんなものか。
安本氏の功績は、畿内説のそういう言葉狩りのような意見に屈しなかったこと
かな。戦後しばらくは、「皇国史観」とか言うようなレッテル張りに屈した
人がけっこう多かったからね。
252 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:51:58
>125
>前スレにもあったが、マキムクの建築物などは魏尺を採用しているわけ。
誰がなこと言っているのかな?
よく報告書を読もうね。
253 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 22:53:11
>>202奴と投馬を足しただけで既に7万戸
前述したように投馬国は投馬国は筑後川を下って有明海を南下し20間で到達した場所にある。
邪馬台国とは別にあると考えるのが普通。
254 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:57:23
>>246 ちょっと待て。
いまどき総ての三角縁が舶載だとする説など存在するのか?
>三角縁舶載説のなかには、「将来中国で大量に見つかると信じています。」と発言する者もいるが
これは松本清張などでブームになった頃の樋口の発言だろ。
何十年前の学説をさも未だに主張しているように見せかけて非難する手法は
安本から学んだのかと前スレで問い詰めたが、相変わらずのやり口だな。
あとこれは本気で知りたい。
今現在、総ての三角縁に対して舶載(魏または呉生産)説を採る研究者など本当に居るのか?
また逆に総て国産とする説も今でもあるのか?
両者とも具体的な研究者の名前と著書、論文タイトルを挙げてくれないか。
しっかり読ませてもらうし、後に内容紹介するので具体的にいこう。
>>251 >安本信者のレッテル貼り
ちょっと違うよ。
正しくは「安本の宣伝をしている工作員のレッテル貼り」かな?
256 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 23:05:43
>>251 その通りで、安本説は従来説の土器、古墳年代を受け継ぐごくありふれた一般的な説と言えよう。
年代遡上主義者から見れば目の上のたんこぶ。目の敵とするのもうなずけるところ。
257 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:09:19
>243
>三角縁についても倣古方格規矩鏡や斜縁神獣鏡などの三角縁と強い関係がある鏡の存在が明らかになって来たので、三角自体の有無だけでそれを国産とするのは現状では事実にそぐわない。
だからって、魏鏡とはいえないよね。
いろんな意味で、あれを無理に魏鏡にするよりも素直に国産鏡にした方が
つじつまがあうと思うが。
258 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:10:15
魏志倭人伝を読んでいて思ったんだけど、
投馬(とば)国って、戸畑(とばた)じゃねえの?
松浦→糸都→奴(那)と、東に向かっていて、不や国(つや崎?)。
その次に南に向かって投馬(とば)国と来るんだけど、
これは遠賀川に入ったんじゃないかなあ?
遠賀川は南北に流れているわけだから、
それを少し南に遡ったところが戸畑(投馬)と呼ばれていた。
そして、遠賀川をさらに遡り(水行)、ある地点で下船し、
陸上を邪馬台国に向かった(陸行)のではないでしょうか?
あ、言い忘れましたが、私は邪馬台国甘木説です。
甘木に「オオナムチ神社」または「大神神社」と呼ばれる神社があります。
この神社は「おんが様」とも呼ばれているとか?
大和に向かう川が「大和川」であるように、
おんが様に向かう時に利用された川が「遠賀川」なのではないでしょうか?
あと、倭人伝に記載されてる地域は基本的に女王卑弥呼の支配下にあったのでは?
というのは、「官」「副」「次」は地名の紹介のたびに書かれているけど、
「女王」は邪馬台国にだけ現れるからである。
いかがでしょう? 九州ですがさん? ^^
>>253 >
>>202奴と投馬を足しただけで既に7万戸
> 前述したように投馬国は投馬国は筑後川を下って有明海を南下し20間で到達した場所にある。
> 邪馬台国とは別にあると考えるのが普通。
ホントにポンポンとよく考えずに書けるね?
じゃ、投馬って何さ?
王は居ないで、「官」が居る。
この「官」は誰に仕えてるの?
卑弥呼?
260 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:16:33
>254
>今現在、総ての三角縁に対して舶載(魏または呉生産)説を採る研究者など本当に居るのか?
>また逆に総て国産とする説も今でもあるのか?
前者は1人。
後者は、△を実際に掘ってる奈良の埋文の連中のを含め、非常に多い。
特に若い連中はほとんどそうだろ。
261 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:18:15
>
>>251 >その通りで、安本説は従来説の土器、古墳年代を受け継ぐごくありふれた一般的な説と言えよう。
>年代遡上主義者から見れば目の上のたんこぶ。目の敵とするのもうなずけるところ。
なわけねえだろ。
262 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:25:10
>>249 通常、史学論文では「○○である」との断定的表記は使用されない。
僅かだが、別の可能性があると考えるのが普通だからである。
だがその低い可能性を持ち出して「違う解釈も可能である」との鸚鵡返しは通常行われない。
なぜならそれは蓋然性の高さを最優先に考慮する為である。
可能性と蓋然性、この違いが判るだろうか。
この二つを意図的に混同して使用するのが、魏弁論理学の基礎テクニックのひとつである。
今回の西村論文に関しては、どうみてもSOY氏の情報不足による自説構築の瑕疵露呈であった。
それは誰にでもあるだろうから、ことさら責められることではない。
だが詭弁を弄し、論文名を具体的に提示した相手をデマや屁理屈呼ばわりするのは恥ずべきことであろう。
貴方はまともな倫理観と論理力をお持ちのように見える。
なのでそのような手を使って自らを貶めることは避けていただきたい。
263 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 23:26:19
>>258 興味深く読んだけど投馬国は南へ水行20日。奴国、フミ国から近すぎるんでは?
甘木説には基本的に賛成です。なお投馬の発音の再現は{トゥマ}のようです。
遠賀川流域にも邪馬台国連合の国はあったと思います。宗像なども古い歴史がありますし。
264 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:26:32
なんか自演が見苦しいなw
>>119 > だから前から言ってる様に、人の交流と、土器などの物の伝播とは違うって。
> 特定の人が広範囲を歩き回ったんではなく、物、土器が自然に伝播して行ったので
> 時間が掛かったの!
その屁理屈は何度も論破されてるでしょう。
畿内の土で造った土器と九州の土で造った土器が一緒に出るの。
キミが言ってることは次のような論理なんだよ。
Aと言う土地のBと言う様式の土器が100年かかって500キロ先のCへ伝播しました。
CではB様式を模倣してB’と言う様式の土器を造りました。
そして、Cで造られたB’様式の土器が村々を伝って、何十年間後かにまたAの土地に運ばれました。
そのころAでは、まだB様式の土器が使われていたので二つの土器は同じ土孔から出土します。
こんな感じだね。
ところが、Cで造られたD様式は300キロ離れたEと言う土地で在地のF様式やBやB’とも
一緒に出土する。そして、AでもF様式もB様式もB’も同時に出土する。
こう土器は様式じゃなくて現物が、それも一方通行じゃなくて相互に流通しあって出土するの。
キミが考えてるよう伝播に100年なんてケースは、相互流通がある限り在り得ない話なの。
判ったかなあ?
266 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:32:57
267 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:34:18
>>260 前者は了解した。
だが後者は小林編年でいうU類までの一部が
楽浪産か洛陽産である蓋然性が高いとの説が主流だと思っていたが
この考えはどういった理由で否定されているのだろうか。
様式論ではなく出土状況や作成技術論に基づくものなのだろうか。
できれば論文名を知りたい。
奈文研か橿原に問い合わせれば、それは閲覧できるのだろうか。
268 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 23:35:08
>>259 水行20日って投馬国だけ凄く離れているでしょう。
邪馬台国に属していたとしてもかなり飛び地なんじゃない?
しかしクナ国は幾つかの邪馬台国連合国と南接していたみたい。
だから投馬国だけ戸数などは別記してあると思うけど、
269 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:35:23
>>260 確かに埋文担当者などに国産説の人も少なくないが(寺沢、柳田など)、必ずしも多数派とは言えない。
森岡や西川、森田などは中国鏡説(従来からの倣製鏡は除く)。ただし西川は楽浪郡説。小山田は一部中国鏡、大半が国産説。大学の研究者は中国鏡説が多く、うち車崎のみがいわゆる倣製鏡をも中国鏡説。
福永や車崎が三角縁中国鏡説の根拠を固めて来ているので中国鏡説派がむしろ巻き返している状況かと。
271 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:40:37
272 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:45:27
>>269 いや確かに後期後半には、列島全体が一時的な流通停滞に陥る。
おそらく半島情勢の悪化が主原因であり、寒冷化も考慮されるかもしれない。
それが終末期の全国的な集落再編成のトリガーとなり
緊急避難的な通商連合化を選択せざるを得なかったという説もある(広瀬和雄など)
>>263や
>>256の内容から九州ですが=安本信者=SOYの自演と思われるがどうよ。
また
>>256はウソ。古墳時代3世紀後半開始説は1990年代にはすでに通説化していたし、九州の研究者では3世紀前半=弥生終末、古墳の成立=3世紀後半説は1960年代(森貞次郎、岡崎敬、反小林行雄の原田大六まで)から共通認識だったし、それが現在に至る。
274 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/13(日) 23:50:23
>>265 それは土器の年代設定が間違いないとの先入観があっての事。
又、場所によっても違う。巻向の事を言ってるのなら神武の東征が影響していると言える。
吉備や、出雲の土木建築などが集合して畿内の巨大古墳が出現したように広い範囲で異文化の交流が起き、
各地の土器が大いに交わる時期まで「畿内の土で造った土器と九州の土で造った土器が一緒に出るの。 」の時期を
ずらせば良いだけのことだ。年代を早く見誤っているのだ。
>>273 いや、いくらなんでも、ですがの○鹿丸出しな文章は他人には真似できないよ。
>>272 それは異論があるなあ。流通停滞の割りには鉄器普及は中期より後期が進むし、ガラス玉の流通も広域化し、鏡も完形は少ないが破片や小型倣製鏡は東伝するし。
>>274 お互いの地域でお互いの土器が出ていて編年的に矛盾しない。クロスチェックした編年網ができている。
ズラす必要性は全く無い。
都合悪いからズラしたいのだろうがなw
278 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:57:33
>>273 九州説は全部安本信者で同一人の自作自演に見えるのですか?
自分が自演しているから、他の人までそう見えるのでしょうね。
確かに、古墳時代を古く見る説(箸墓=卑弥呼の墓説)は昔からありましたが、
1990頃までは、古墳時代の開始は4C初め以降が多数で3C末ころは少数説。
石野でさえも1990年頃は古墳時代の開始を3C末〜4C初めにしていた。
年代遡上が有力してきたのはその後、弥生時代における鉄器の九州優位
という考古事実を認めるのと引き換え的になされたというのが事実。
279 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:59:33
>>252 寺澤薫の論文では、巻向の高床式建築物(彼は神殿としているがそれは置いといて)は
魏尺を用いているとあったように記憶している。
たしか「王権誕生」にも同様の記述があったはずだが
この8年間で否定意見が出ているのなら、当方の不勉強。
ぜひご教授願いたい。
>>249 いつのまに2式に晋代の出土例があることが晋鏡にしているのはおかしいだろ。三国には少なくともあるし、型式学的には後漢晩期成立が十分考えられるが。
>>246 全部日本出土みたいなこと言ってたがそれは違うね。同型鏡が楽浪にありすると中国製作の可能性はあるはず。また他の神獣鏡との関係を無視されてもなあ。
同向式だけ孤高の存在かよ。実際は違うがね。
281 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:04:31
>>273弥生終末、古墳の成立=3世紀後半説
巨大古墳建設は大和王権の権力拡大の象徴。「弥生時代の点と点を結ぶ緩やかな通商連合」
くらいで出来るものではない。吉備、出雲などの勢力が畿内と合体してから
権威を広く示す必要に迫られて巨大古墳が造られていった。卑弥呼の死、又それ以後は
次第に巨大化していったろう。卑弥呼の墓はその先駆けとなったのだ。
景初3年鏡と正始元年鏡の違いは模倣対象の原鏡の違いで十分説明できているが。ふつうの考え。
国産説の奥野正男でさえそうしている。
283 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:10:45
>>277 それも推定でしょ。こうだとの確定はあり得ない。
お互いの地域でお互いの土器が出ていても編年的に矛盾することもある。。
逆もまた真なり。
>>274 いくら我が儘を言っても事実は変らないでしょう。
吉野ヶ里まで言って勉強してきたんでしょう?
そこで畿内や出雲や吉備製の弥生後期の土器が出土しているのを見てきたんじゃないの?
285 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:14:40
>>273 ですがは安本信者ですらないだろう。
こんなのが工作員だったら邪馬台国の会が泣くぞw
SOYが隠れ安本なのは明白だろうが。
>>278 事実を述べて(3〜5行目)最後に嘘(6〜7行目)を付け足す手法はもう秋田。
土器編年の修正は鉄器とまるで関係ない。
庄内式開始が実年代200年前後の畿内発祥(播磨発祥説も同時に考慮されたが現在は下火)とされたことがまず前提にあって
それらは各地の土器交差との幾重ものクロスチェックによってもたらされた。
古留0式開始が実年代250から280までのどの時期なのかというのが、現在の争点だろう。
洛陽晋墓のは斜行櫛歯文帯の幅広さと位至三公銘の両横にある列点文の縦列からすれば3式にすべきもの。
いずれにしても、呉墓や三国と報告されるものまで勝手に晋に下げるなよ。
>>283 交差編年とかの理屈をオマエに理解しろって言っても無駄か?
理解できるノーミソが有るなら、ここまで恥晒してねーだろーからなw
>>283 だから矛盾していないがのだが
50年も下がるとかいう実例をあげてみな
289 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:19:50
>>284 吉野ヶ里は人と物との交流が盛んになった神武東征以降も人が住んでいた形跡があるから
当然のこと。
290 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:19:54
>>280 画文帯の同向式だけ国産とする考えではない。
鏡を複製する技術は、平原の鏡で証明されている。全ての鏡について
国産の可能性を視野に入れるのは当たり前のこと。
>>282 模倣対象??
特注なのに何を模倣したというのか?
日本向けに魏鏡とは別の規格での特注をしたとか、数千枚を特注したとか、
特注品を多数作る過程で100種類以上の三角縁を作ったとか、さんざん
無理な説明を繰り返していること自体、理論的根拠のなさを露呈している。
>>249 >あとは引き続きデマを流したところで
www
確かにデマだわw
三国とされるものまでしれっと晋代まで下げてるもんな。
>>281 おーい、いつのまにか
畿内説になってるよ、ですがさん。
それも昔の畿内自生説にw
>>289 訳のわからんこと言ってごまかすなよ。
神武さんっていつのこと?
畿内W様式のころの人なの?
294 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:24:25
>>287>>288 寝る時間で面倒なのでこれで勝手に勉強しんさい。
「古墳にせよ土器にせよ、製造の絶対年代を狭い範囲で特定するのは現代の考古学をもってしても非常に難しい。
たとえば、ある古墳・土器を3世紀後半と推定しても、実際には「3世紀後半を中心とする」という程度しか言えず、
今回の箸墓古墳も4世紀前半の築造の可能性は依然として否定できない。
今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は
260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、
学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
3世紀後半とは特定出来ない。墓誌・金石文・文献による特定、
例えば百済の武寧王陵は発掘された墓誌で523年の築造、
また高句麗好太王碑は刻まれた金石文で414年の建立と断定できる。
すなわち、出土土器による古墳の年代推定と墓誌・金石文・文献による年代断定とは、
精度に決定的落差がある。 古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、
古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」
引用先
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper21.html
>>289 おいおい、土器が伝わるのに100年かかることもあるんだろう?
2世紀の吉野ヶ里から畿内V式が出たら畿内庄内とは1世紀代のことかい?
>>290 どういう内区図像にするかという意味での手本の対象という意味での模倣対象だが。
また平原の例は鋳造技術はあるが鏡式、文様が全く違うからここでは参考にならない。
298 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:30:05
>>292 次第に巨大化と言ってるだけで畿内のでっかい古墳が造られたとは言ってないだろうに。
>>294の引用先でも言ってるように
「箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です」
と幅をもたせているから。これからは50年、100年の幅で考えるこった。
>>294 それは、私は交差編年と言うものの存在を全くしりましぇ〜ん、とか言ってるのと同じおバカな文章だぞw
まあ、何度もコピってくるからには、中身も何も理解してないんだろうがなあ。
300 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:32:17
>>285 >各地の土器交差との幾重ものクロスチェックによってもたらされた。
そこを具体的に。
1、土器のクロスチェックをいくら繰り返しても、相対年代しか決まらない。
2、同じ庄内式、布留式でも遺跡、墳墓出土の鏡と古墳出土の鏡では
同位体比の傾向に顕著な違いがあるとする新井の報告からは、土器形式
のみから同時代性を肯定できない。
3、庄内式、布留式は両者とも古墳時代の前後にまたがっており、縦列関係
には立たないので、土器形式のみでは相対年代しか決まらない。
4、九州の庄内式は遺跡、墳墓が主体であり、畿内は古墳が主体であって、
この点からも同時代性は肯定できない。
5、そのそも『胎土分析からみた九州弥生土器文化の研究』のようなソースも
なしに、『クロスチェック』とだけ言っても無意味。
301 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:33:32
>>296 一辺倒に考えない事だ。常にかかるとは限らない。
時と場合によって違うのだ。かかることもあればかからない事もありうる。
それを「幅」と言うのだ。
>>294 プラスマイナス50年の50年の根拠が全く不明だし、常にプラスというのはおかしい。
しかも現状の有力な年代論で箸墓をもっとも遅く280年を取り上げそれプラス50年というのも全く恣意的。
最近はもっとも早くする説は箸墓を卑弥呼以前にする説さえあるのに。これは箸墓とホケノを同時期としてホケノには三角縁など3世紀半ばの鏡はまだ無いからという理屈の説。
これにはさすがに批判があり、私は採らないが、こういう古い年代観まで考慮して述べるべきだな。
>>301 「かからない事も」と言うからには畿内V期における広域流通の存在は認めたわけだね。
304 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:36:54
>>297 >どういう内区図像にするかという意味での手本の対象
それを言い出したら、日本でのパッチワークも否定できないね。
あくまでも舶載説であれば、模倣の対象を具体的に特定する必要がある。
そもそも、抽象化された文様をパッチワークに用いたということは、文様が
抽象化されるまでの期間を想定する必要があり、模倣対象が違うとだけ
言っても、全く反論になっていない。
305 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:37:45
>>299 交差編年といっても
>>301に包含される。
幅を持たせて考えないと、現代の考古学では技術的に土器の時代特定など無理だと言ってるのだ。
>>289 土器編年の理解どころではない罠。
前に九州邪馬台国は卑弥呼の死後に滅びたとか言ってなかったか?
その後に神武東征があって出雲や吉備と連合化して人と物がの交流が盛んになり
同時に九州から庄内式が100年かかって機内に到着。
その後に巻向と箸墓が出来たってか?
箸墓5世紀説かよw
なら大仙は7世紀で高松塚なんかは8世紀か
ですが説の飛鳥、奈良時代は9世紀以降だったとは恐れ入った。
>>286の洛陽晋墓は「考古学報」1957-1のやつね。西村2式の例と違うならスマソ
でも2式が全て晋代とか強引過ぎだな。
308 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:40:33
>>306おもしろいけど「同時に九州から庄内式が100年かかって機内に到着。」
ここが違う。100年とは言ってないというに。幅があるため特定が出来ないのだ。
309 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:42:04
>>294 >同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
>製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。
関東古墳研究の大塚初重氏は、
同じ特徴を持つ考古遺物が出土したときに、場所が関東だという理由だけで
土器の編年を勝手に繰り下げるやり方を再考すべきと
否定的な見解を示している。
310 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:42:49
「特定が出来ない」この箴言をもって今日は寝るとしよう。
>>305 現代の考古学をまったく知らないくせに何いってんだか
そういえば現代の天文学も知らなかったっけ
>>304 神獣鏡全体の連続的流れの中では年代に矛盾はない。
なるほど手本になる神獣鏡があればそれだけなら日本でのパッチワークは可能だ。奥野正男説はそれ。しかし240年前後から260年代までの中国の倣古方格規矩鏡などの文様変遷と一致平行している事実があるのは日本での製作には不利な点だ。
>>310 何も認めない、といいたいようだが・・・傍目には何も理解できないとしか見えないw
314 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:46:12
>>310 結局
(∩. ゚д゚)アーアー聞こえない
かよw
誰だよスイカップマニアw
>このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
>【映画】初日大入り!「俺は、君のためにこそ死ににいく」 興収25億円動員200万人いける [芸スポ速報+]
>【本家本元】古瀬絵理27【スイカップ】 [芸能]
>>304 岸本氏、岡村氏、福永氏、小山田氏などにより三角縁神獣鏡諸形式の模倣対象となった先行神獣鏡諸形式との関係が明らかにされていますが。
さしあたり「シンポジウム三角縁神獣鏡」学生社でも熟読してくれ
317 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 00:51:20
>>309 関東と関西では真ん中に大きな険しい山脈があるのに
同時発売じゃないんだから。どうやって持っていったん?
畿内と九州でも同じ事。何で今まで使っていた土器を捨てて違う様式の土器を
使わなければならんの?土器様式は先祖から受け継いだ文化でしょうが。
易々と変える必要ないだろうに。変えて何のメリットがあんの?
今現在と時代錯誤してるとしか思えない。
宇佐なんでしょ?みんなあそこだって言ってるよ
>>308 100年ずれることがあるならそういう実例をあげてくれ。
100年ではなくてもずれるというならそういう実例をあげよ。
できないならデタラメなこと言うなw
320 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 00:58:31
1日で300レスか、すごいな。
鏡・古墳・土器は入り込めない。
迷路のようだ。
今F1観戦中。
吉野ヶ里の最盛期は2世紀初頭まで。
その後は衰退の一途をたどり
魏志倭人伝の卑弥呼の時代である3世紀中頃には
もう殆ど破棄された状態。
322 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 01:03:38
>>321 >吉野ヶ里の最盛期は2世紀初頭まで。
>その後は衰退の一途をたどり
>魏志倭人伝の卑弥呼の時代である3世紀中頃には
>もう殆ど破棄された状態。
何故その様になったのかの説明は持っていますか?
ですが説を整理してみた。
3世紀中葉・・・九州に伊都国や奴国を含む邪馬台国連合あり、総戸数7万。
それ以外に投馬国5万と狗奴国もある。吉野ヶ里全盛期も3世紀。
その頃本州は石器時代。
3世紀末頃・・・台与の時代に邪馬台国連合は分裂か消滅。石器時代の本州に一気に滅ぼされる。
同時に北九州発祥の庄内式土器や鉄器が東進し始める。
4世紀初頭・・・神武東征。突如巨大化した吉備や出雲と連合。畿内先住民を滅ぼして巻向建設。
東海、北陸、四国はまだ石器時代のまま。画文帯を晋より輸入開始。
4世紀末頃・・・箸中山築かれる。崇神による吉備、出雲、畿内の巨大王権発生。
前方後円墳が全国に築かれる。三角縁配布開始。
そして5世紀・・・柳本、古市、百舌鳥その他古墳群が一気に100年間の間に築かれる。
まさにですが流の土木バブルの時代。
もう笑うしかないです、ママンw
324 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 01:05:08
>>319 僕が言ってるのは場所が違うんだから時間差があって当然だ、と言う事。
100年かどうかはしらねども、場合によっては前述したような理由から
新文化を受け入れがたい地方もあったと思うので、広がり方に差があったと思うよ。
>>317 様式が変わるのと土器自体が動くのが混同されているな。
平行関係はまず土器そのものの動きで言っている訳。どうやって動いたも何も動いているのは事実。
製作技術と形態と胎土の研究ら土器の動きが分かっているのよ。研究は進んでる訳。関東にも畿内産や東海産など他地域のが事実として出土してるの。
九州にも畿内産、吉備産、山陰産、韓国産、などがあるの。
各地に互いに土器が移動しているのは事実な訳。分かる?
326 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 01:06:53
ちょっと。もう寝るけど・・。明日にして。明日も忙しいけど。
>>321 北内郭や高床倉庫群は古墳初頭まであるからそれは言い過ぎ。
329 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 01:12:37
>>328 >(吉野ヶ里の)北内郭や高床倉庫群は古墳初頭まであるからそれは言い過ぎ。
でも、軍事的には壊滅的衰退ですよね。
>>324 例えば九州から関東だってせいぜい数月だろ移動時間は。
土器様式全体が変わるなら多少時間がかかる場合もあるしれないが、交易などに伴って土器が運ばれるだけならそんなに時間差は考える必要ないはずだが。今は土器様式の変化ではなく土器そのものが搬出搬入される場合について言ってるの。
上の方で庄内を4世紀後半などと下降させるヤシは阿呆か!と言いたくなる。
馬具と須恵器の編年から、また百済の武寧王墓の発見で、古墳中期は400年頃にはもう始まっている。
古市古墳群の最初の大王墓・津堂城山は、4世紀末の築造と見て間違いない。
それなのに庄内を4世紀後半つまり350年開始などとすれば、とんでもない事態になる。
庄内ではまだ大型前方後円墳はつくられない。纏向型のみだ。
だったら箸中山の布留0はいつなんだ? 庄内に2世代とって、布留開始390ってか?
奈良盆地には前期の大王墓がいくつあるか数えてみろってんだ。
オオヤマトと佐紀の両古墳群で10基はくだらない前期の大王墓が厳然として存在する。
これら10基が390〜400のたった10年間にことごとく築造されたとでも言うのかッ! 馬鹿め。
332 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 01:24:35
>>331 >これら10基が390〜400のたった10年間にことごとく築造されたとでも言うのかッ! 馬鹿め
いやいや、それさえも100年ずらしちゃうんですよ奴らはw
でもさすがに飛鳥時代開始はずらせない(これは考古学見地ではなく、記紀の内容に反するから)から
古墳時代は5世紀の100年間にぎゅぎゅっと濃縮しちゃうわけw
すげえぞ5世紀w
333 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 01:24:37
F1スペイン終わった。
佐藤琢磨8位入賞1ポイント獲得。
334 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 01:28:08
335 :
332:2007/05/14(月) 01:29:26
>>324 君が何度もコピペしてくる説は、土器の伝播が一方通行の場合だったたら0.1%くらいは理がある。
しかし、双方向、三方向に伝播しあう場合には、まったく成立しえない陳腐な奇説なんだよ。
>>323 ありえねww
いかに九州説が無茶苦茶で、無理があるのかということが分かるww
339 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 02:25:02
>>315 >誰だよスイカップマニアw
俺は貧乳マニアだから違うぞw
ちなみに畿内説(通商連合説)
南の男王の国が熊襲だとしたら、やはり女王国は宮崎の中・南部辺りだろう。
伊都の一大率から見れば宮崎は、連合国の最南端って感じになるし。
豊前豊後から山脈続きで険しいからどうやっても楽な陸路ではない。
ちなみに九州で一番高く険しい九重山脈は豊後、宮崎北部まで険しい山脈続き。
宮崎南部の一部も邪馬台国だった、でも
熊襲の前線と女王国の前線が宮崎南部辺りだったら女王の住処にするわけないからさ。
人や住処なんかは多かったはず(でないと侵略されるかもだ)
それより吉野ヶ里が倭人伝の国の何に当たるか比定してみなよ。
あと宇佐から中津はですが君が指摘したようにやはり耶馬国でしょ。
山国川があるし、耶馬溪だけでなく、○耶馬町とつく地名が宇佐近辺にいくつもある。
そして日田市まで英彦山耶馬国立公園とかいう長い名前だったはず。
この辺りはさ、日田、玖珠、安心院、耶馬など変わった発音や当て字地名が多いね。阿蘇もそうだ。
阿蘇や熊本辺りは倭人伝の国に比定するとどこになるだろーか。
昔、阿蘇説のひとがいて次々に比定国を当てはめていた記憶があるが・・ひとつや
二つ位は合ってたかもだぞ
341 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 05:33:24
もう一つ宮崎説だと思うひとつ → 無数の 埴 輪 天国
あれってさ、昔は王墓に奴隷を生埋めしていたのを後に
埴輪人形に変えたんでしょ。そういう習慣が頻繁にあった証拠じゃんよ
どこよりも多い埴輪
卑弥呼の墓周りに100人生埋め←すっげー残酷 ⇒ 後に埴輪
畿内にもそーゆーたくさんの生埋め跡とか古墳から見つかってんの?この生埋め習慣って
いかにも古代中国のコピーでもあるよね。
埴輪よりずっと精巧な人形つくってたわけだが・・(持ち出し死刑のやつww)
342 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 07:06:55
>>323 何この悪意の中傷記事。きのうは畿内説は珍しく300レス経過中もまともに会話してくれたでしょ。
本当に自信があるならこのようにマタ−リぽくいこう。
343 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/14(月) 07:25:53
>>337 どこのどの話を持って言ってるのか?
「あり得る」を連発してるようにそうであったり無かったりするわけよ。
でも往々にして今のような伝わり方と全く違う。
畿内はたしかにおたくがいうようにその様な土器の伝播の仕方をしたのかもしれない。
しかしそれはとりもなおさず国間の情勢が安定しない時代に平穏に土器などのやりとりを能天気にやってるところは
邪馬台国ではないという結論に繋がるだけ。
344 :
SOY:2007/05/14(月) 07:29:11
>>286 >洛陽晋墓のは斜行櫛歯文帯の幅広さと位至三公銘の両横にある列点文の縦列からすれば3式にすべきもの。
私が『あとは引き続きデマを流したところで、もはやチェックもいたしません』と言えば、
それをいいことに本当にデマを入れ、2式を3式にして事実をもみ消そうとするとは…
他人の主張や立場を曲解、論文名を挙げて事実を捏造。いつまで続けることやら。
洛陽晋墓の2式が3式になるのなら、
西村俊範氏の双頭龍文鏡の分類は一から見直しです。
345 :
SOY:2007/05/14(月) 08:11:21
双頭龍文鏡に絡み、私も既にここで8発言もしてしまいました。
しかし、読み返してみても、それほど非難されるべき発言はしていません。
あとは読む人がどう判断されるかですね。
>>28 双頭龍文鏡の話で呼びかけられたので回答
>>91 双頭龍文鏡に対する私のおおよその見解を述べています
>>151 罵詈雑言ではなく論拠を挙げましょうと提案しています
>>197 流通盛行幅についてコメントしています
>>216 誤解を招く発言をチェックしています
>>228 論議が陰湿になっていると忠告しています
>>249 デマをチェックしています
>>344 デマをチェックしています
>>343 九州も土器が動いてますが。山陰や西部瀬戸内、朝鮮半島に出ているし、少ないが畿内にも行っている。また能天気にもw各地の土器を受け入れている。九州も邪馬台国ではない訳だな。
>>344 三国墓出土のまで勝手に晋代に下げるねつ造をしたのはどこの誰でしょうか?
348 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:17:01
畿内説も倭人伝から読めば無茶苦茶だが
北九州を繰り返す奴も似たようなもんだよ。
大体、地元で「北九州」なんて言うと皆、北九州市のことだと取ってしまうし。
天気予報なみに九州北部とか言うことも少しは考えつかないのかな。
大体さあ、方向が何十度ずれてるとか、この数字やココは間違いとかいっても
南国風の描写があるのは事実で間違えようがない。
つまり倭人伝には実際に少なくとも九州の中部以南まで南下して
見聞きした描写が含まれているんだよ。北部だけじゃないだろ。
九州の人間に、佐賀や福岡も南国風だぞ、なんて嘘は通用しないよw
349 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:27:20
>>210早稲田大学で行われた特別講演会について。
この講演会は安本美典氏が主宰する邪馬台国の会が開いたもので、聴衆者はほとんど邪馬台国の会会員でした。
内容は、邪馬台国への行程論ではなく、考古学の立場からの論争となりました。
NHKの番組の時も感じたのであるが、もはや論争の対象は行程論ではなく出土品による判断の方向に流れているようであった。
ただ畿内論者の先生もいっておられたが、邪馬台国の決め手が出てきていないということである。
彼自身は封泥の多量に発見されるところといっていました。
論争においては、この三者に限られ、一般の参加者の発言は行われませんでした。(もしやっていたら、
>>218のような状況になったかとおもわれます。
あと悪口雑言を書いておくが、安本氏の発表が長すぎ、時間をオーバーした。
聴取者の殆どが会員で彼の説は何度も聞かされていたであろうから、はしょって時間内におさめるべきであろう。
もしそれで、お客の発表が短くなったとするならば、なんのためにあれほどの著名人をはるばる遠方からよんだか意味がないであろう。
お二人は、何しに呼んだとケツを巻くってもよかったと思う。
350 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/14(月) 10:29:47
回答有難う。
352 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:54:17
>>349 詳細レポ乙。
>もはや論争の対象は行程論ではなく出土品による判断の方向に流れているようであった
これは文献解釈をやりつくしても結論が出なかったので、正しい方向だと思う。
封泥に関しての発言はおそらく石野さんだろう。
ただ彼自身が言ってるように、湿度の高い日本列島で果たして封泥が現存するかどうかが微妙ですな。
西谷先生がどのような発言をしたかも興味あるので、引き続きレポしてもらえたら嬉しい。
>>342 >>323は前スレからの君の発言をそのまま纏めたもので、悪意はそれほどないよ。
もし君の主張と違うところがあるなら、同様の形で簡易年表にしてレスしてくれ。
君は毎日言うことが違うのでいまいち主張が把握できないんだよ。
353 :
日本@名無史さん :2007/05/14(月) 11:03:37
やはり天皇家の墓を、公開するしか道はなし。
354 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 11:38:49
>>348 >九州の人間に、佐賀や福岡も南国風だぞ、なんて嘘は通用しないよw
当時の気候を考慮したこと無いだろう。
当時は弥生高温期で、
1〜2世紀の平均気温は現在より2〜3℃高かったのだよ。
3世紀前半には現在より平均気温は1〜2℃高い状態に低下していても、
2世紀の自然環境植生はまだ残っている。
有明海北部沿岸でも十二分に南国風であった。
現在より2〜3℃高い気候の特性。
冬:温暖適雨・・・野菜がよく育つ
夏:酷暑少雨・・・水稲の旱魃による不作。
355 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:01:41
>>354 2世紀から3世紀初頭までは寒冷期だったという人もいるけど
どっちが正しいの?
教えてエロいひと
356 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 12:26:00
>>354に対する参考事項
縄文晩期から水稲耕作が始まったのは何故だろうか。
縄文後期までは縄文温暖期で平均気温は現在より3〜5℃高かった。
当然西日本の夏季は酷暑少雨、旱魃で水稲には適さない気候であった。
縄文晩期から弥生期は寒冷化し、平均気温は現在より2〜5℃低い。
特に前3〜前2世紀頃は小氷期と呼ばれるほど気温低下。
夏季は高温多雨となり水稲に適した気候になった。
酷暑旱魃から高温多雨になることにより、
水稲は西日本に急速に広まることができた。
1〜2世紀の温暖化は、その水稲耕作に旱魃による重大な影響をもたらした。
前1世紀から3世紀にかけての気候変動は、北九州には大きな政治変動をもたらした。
357 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 12:31:22
>>355 >2世紀から3世紀初頭までは寒冷期だったという人もいるけど
前3世紀から前2世紀は平均気温が現在より5℃位低い弥生小氷期とよばれる時期。
1世紀から2世紀は温暖期。
358 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/14(月) 12:40:45
>>355 参考事項
4世紀から5世紀の古墳寒冷期というのもある。
西日本では、水稲生産量が増大し、経済力の拡大で、大きな古墳構築が可能になったのであろう。
>>359の補足
>おおむね現代より0.5℃程度寒冷
としたのは地球の平均値の話で、温度上昇は6000年前の縄文海進むのころでも
地球平均では0.5-2℃の上昇、熱帯では温度上昇幅はは0.5℃以下とされる。
最も影響の大きい北極でも年平均+4℃とされる。
Quaternary Science Reviews 2003,22(15-17)p1701-1716を参照。
6000年前の縄文海進のころでも、気温の上昇は年平均で1〜2℃とされ、
気温よりもむしろ海流変化や植生の変化などによる「気候変化」のほうが
影響が大きかったよう。
↓神奈川県立博物館・企画展を参照されたし。
ttp://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/index.html
361 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 15:22:50
>>359 dクス
つまりは時代として気温的にはさほど影響がなく
小氷河期や温暖期と呼べるものではなかったという理解でおk?
>気温よりもむしろ海流変化や植生の変化などによる「気候変化」のほうが 影響が大きかったよう
ここが重要で、海流変化は致し方ないだろうが
水田が増加し、麓にクリやドングリなどの広葉樹の植林がなされたことによる気候変化は考慮していいというわけだね。
つまりは地球規模の温暖や寒冷化より、毎年の暑さ寒さによる不作と豊作の差のほうがより重要であり
米にしても品種的に大豊作を招くような種は存在しなかっただろうから
これらのデータからも、弥生期に生活安定がもたらされた為の階層化発生との旧説は否定されるわけだね。
縄文後期にすでに階層化の確立があったらしいのは、三内丸山からも見て取れるしね。
362 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 18:28:27
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177904768/ 177 :日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/14(月) 08:13:01
>>170さん
>勘違い、逆でしょ?
逆ではありません。
銅の比重は8.9で、鉄が7.85、鋳鉄が7.2、銑鉄が7.0ですので、
鉄(軽箭)は、銅(穴穂箭)よりも軽いことになります。
184 :日本@名無史さん :2007/05/14(月) 18:27:12
>>177 それが本当に「鉄は銅よりも軽い」という意味だとしたら、
興味深い事実です。
九州説の主張では、鉄鏃は銅鏃よりも重くて威力があるから、
「九州勢力(鉄鏃)と畿内勢力(銅鏃)が戦えば、九州が有利」
というのが、九州説の根拠の一つと言われます。
しかし、実際に銅鏃のほうが、鉄鏃よりも重ければ、
銅鏃(畿内)が有利となり、九州説の根拠の一つは崩れます。
どう思われますか?みなさん。
363 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:01:22
>>362 コピペにマジレス
戦うこと自体が有り得ないので、どちらの説にも有利にも不利にもなりません。
強いて言うならば「弥生時代では鉄製武器を多く保有している勢力のほうが軍事力は上」という迷信は否定されるべきとは思います。
邪馬台国wikiを参照の事。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD 「畿内説の弱点」という項目に、以下の記述があります。
>倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する
>(しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
>また青玉をヒスイのことであるとすれば、これは新潟県糸魚川にしか産出せず、畿内説で考えたほうが無理は少ないともいえる。
>鉄は朝鮮半島を大産地とし、4世紀以降も主に北九州で出土するので、東遷説については根拠とならない。
>また、当時の製鉄技術では、鉄剣や鉄斧を用いる鉄文明が青銅文明を圧倒できたと考えるのは難しい)。
ここを読めば邪馬台国論争のだいたいの概要はつかめるので
妄想を書き込む前に一読することをお薦めします。
>>362 コピペにマジレス
金属の比重で戦いの有利不利を論ずるなんて馬鹿
金属の比重はその丈夫さとはなんの関係もない。
たとえば釣りでおもりに使用する鉛は、比重は11.34と重い金属だが手で千切れる。
重くて柔らかい金属だ。しかし銃弾となれば殺傷力をもつ。
つまり金属の硬さと密度あるいは比重は異なるし
それをもって兵器としての性能を定量化することは出来ない。
金属の硬さの評価では押し込み硬さ試験法が多く用いられるが、
これは荷重を加えたとき金属に生じた圧痕表面積あるいは深さを試験荷重で除して
いわば「変形のしづらさ」を測定する。
ただ金属には弾性があり、変形が小さい範囲では、変形しても元に戻る。
弾性が小さい(容易に変形する)物質はやわらかいと言うことが出来る。
一方、変形したままの状態になる性質を塑性という。
引っ張り強度や伸びというもので、延性や展性をしめさず塑性が小さい物質は容易に破断する。
そのほかに人間が感覚的に「硬い」と感じる傷つきにくさもある。
たとえばダイヤモンドは最も硬い鉱物といわれるが、もろい物質であり金槌などで簡単に砕けてしまう。
考古学は様々な分野を横断する総合科学であって、もはや文献史学者はその主役たり得ない。
言葉遊びや数字遊びは無意味である。
365 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:51:19
>>364 このスレ全否定wwwwwwwwww
orz
366 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:07:17
>>364 >金属の比重はその丈夫さとはなんの関係もない。
「鏃」の場合、丈夫さは関係ありませんね。
重さで威力が変わるでしょう。
また、皮鎧を着ていても、銅鏃は跳ね返し、鉄鏃なら貫通するとか、
必ずしも考えられないでしょう。
367 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:08:12
>>365 いや
>>363-364はここでは旧畿内説と一緒くたにされることが多い
ヤマト連合説が散々言ってきたことであって、そう目新しいものではない。
ちなみに考古学者の多数が主張する畿内説とは、実はこの連合説のこと。
その中で邪馬台国という卑弥呼が実際にいた場所はどこかという意味でなら、畿内説(大和説)が多いだろうが
何度も言われるようにこれは現時点での蓋然性の話であって、どこでも大勢に影響はない。
前スレからコピペで散々言われているのもこれ。
九州説VS畿内説という図式も、学問的にはもう存在していない。
マスコミ的にはまだまだありだろうけどね。
ショック受けた九州説論者は、柳田邦男の「伊都国を掘る」や「邪馬台国時代のツクシとヤマト」での氏の論文を読んでみ。
ヤマト連合内で巻向をはじめ、古留期に至っても中核的な影響を及ぼしたのは伊都国を中心とするツクシ王権であるというのが氏の主張だから。
368 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:21:17
>>367 なるほど。
考古学的には
「邪馬台国という卑弥呼が実際にいた場所」の探求は意味をなさないわけね。
やっぱorzだ
369 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:30:15
>>364 無意味ではないではない。余もこのレスとは関係は薄いが、古神道の五十音言霊
は当時の朝廷の信仰を理解する上で重要であり、これにて古神道の奥義を覚知
し、その延長として古代史の真に迫ることが出来た。
そのためこのスレでは6枚落ちで「史容疑」を指すことが出来ている。
数字遊びとか舐めて言ってるようだが、「邪馬壹國」の『壹』の意味も考古
では分かるまい。こちらはすでに知っているんだよ。だから九州説が正だと
うるさくけん制しているわけだ。
>>367 >学問的には
などと言うのであれば、誤字に無頓着なのはいかがなものか。
372 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:44:07
>>369 違う。ヤマト連合説であり卑弥呼の居場所はヤマトであるとの説。
少なくとも宗教的な中核は、平原王墓から巻向初期古墳にに継承されているというのが主旨。
柳田は、九州の考古学者に九州説はひとりもいないと言い切った人物。
>>371 揚げ足取りだが、指摘そのものは正しいので一応謝っておく。
ごめんなさいm(..)m
脳内で正しく変換しなおしてくれ。
373 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/14(月) 20:48:43
>>370 訂正
× 無意味でないではない
○ 無意味であるではない
374 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:00:56
畿内説を自称する人の意見って、
あの時代の[畿内の優位性]を主張するためのもので、
[畿内=邪馬台国ということ]の主張にはならない。
畿内王権の遺跡やら古墳がいくらすばらしかったとしても、
当時の畿内がすばらしかったというだけで、邪馬台国と関係があるとはかぎらない。
畿内に新発見がなされつづけ、かえって魏志倭人伝の記述を
さまざまな面で逸脱しているのではないかと。
375 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:08:05
>>374 >畿内に新発見がなされつづけ、かえって魏志倭人伝の記述を
>さまざまな面で逸脱しているのではないかと。
これは当たってる。畿内説を以前張っていた人たちも、
最近は邪馬台国に関心はないというか、位置論争に一定の距離を置いている感じ。
だから、畿内説にこだわって九州説に引導を渡そうとしている人たちは、
魏志倭人伝の記述を、邪馬台国は畿内だったが一般的記述は九州のことだったとか、
倭人伝の記述そのものの信憑性に疑問符をかけることで倭人伝とも距離をおいているんだな。
九州説と畿内説って、長年、いろいろな利害が絡みすぎたと思う。
畿内説は捏造の塊だとか、九州説は過去の妄説だとか
攻撃してる論者自体が時代遅れだろうと思う。
377 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:29:35
九州説の弱点:
畿内発のすべての考古資料を軽視してそれをすり合わせしようともしない態度。
畿内説の弱点:
考古学のみを重要な学問だと思っている態度。
378 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:30:51
>>363 ネタにマジレス。
鉄器の優位を否定する考えでしょうか。
そのような主張を学者が言っているのを見たことはありません。
世界史での、ヒッタイトの鉄器による隆盛まで否定する趣旨でしょうか。
日本史でも、古代以降でも鉄製武器と銅製武器が同列であった時代を知りません。
中世以降に、武器として、鉄ではなく、わざわざ銅で刀を作った例を知りません。
379 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:45:55
畿内でも九州でもフォークランドでもどこでもいい。
我々が知りたいのは「真実」だ。
議論したいのは「真実への糸口」だ。
お互いを攻撃し罵倒するのはやめようよ。
380 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:51:18
>>378 煽りにマジレス
>世界史での、ヒッタイトの鉄器による隆盛まで否定する趣旨でしょうか。
まさか初の鉄器文明とされ、その徹底的な機密保持によって優位に立ったヒッタイトと
それから1700年後の倭国での状況をいっしょくたにする反論がくるとは、夢にも思わなかった。
>日本史でも、古代以降でも鉄製武器と銅製武器が同列であった時代を知りません。
日本でも6世紀のたたら製鉄以降は、鉄そのものの強度が格段に増し、武器として有用なレベルにあがる。
その技術の結晶が鉄の芸術品と呼ばれる日本刀。
>中世以降に、武器として、鉄ではなく、わざわざ銅で刀を作った例を知りません。
僕も知りませんwなんでそんなことする必要があるのか
何よりそんな主張が突然湧き出すのが不思議でならない。
381 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:54:48
漏れは畿内説(というより連合説)だけど、九州説は十分アリだと思うよ。
前スレの712@九州説氏の説もなかなかよかったと思うし。
わりと好きなのは、有名な論者でいえば武光誠とかかなぁ。
「論争は畿内で決着」とか「学界は99%畿内説」とか
言ってるの聞くと、さすがに漏れなんかは辟易。
じゃあ「wiki訂正してこいやオマイら」と言いたい。
安本美典は・・・批判者も信奉者もどちらも多いほどの大きな存在って事かな。
畿内説って言う立場的にどうしてもトンデモに感じるだけで。
382 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 22:04:48
>>363 >戦うこと自体が有り得ないので…。
吉野ヶ里遺跡の甕棺から出土した人骨には、首のないものや骨まで傷ついた
もの、あるいは矢がたくさん突き刺さったものがあり、戦乱の弥生時代を象徴
すると言われた。
鳥取県の青谷上寺地遺跡でも傷ついた人骨が出土している。
また、文献を見ても、「倭国の大乱」があり、卑弥呼が狗奴国と争っていた
様子も記されている。卑弥呼の死後には、戦いで千人を超す人が殺されたと
も書かれている。
さらに、魏志倭人伝には、「城柵嚴設、常有人持兵守衞」とあり、戦国時代
ような様子がうかがえる。九州では、五重、六重の環濠集落もある。
朝鮮の三国史記を見ても、倭国が攻めて来たという記述がたくさんある。
総合的に見て、この時代が戦いの時代であった可能性のほうがずっと高い。
一方で、○○がなかったなど言うのは、悪魔の証明とも言われ、証明するのは
不可能に近い。それを考古学的に戦いがなかったなどと確定したかのような
言い方には疑問を感じる。
>>381 いや連合説をベースにして、その土俵内で邪馬台国はどこだったのかを
文献や考古学から読み解くのは、何の問題もないどころか素晴らしい話なんだよ。
それを庄内式土器は九州発祥で、マキムクは4世紀でとか
箸墓がモモソ=卑弥呼で、神武が実在して、崇神がヤマト王権の最初の王で天下布武したとか言うから
考古学畑の人間は嫌がるんだよ。
嘘データで否定したり(九州説というか安本説)
都合の良い所だけちゃっかり乗っかってきたり(皇国史観的畿内説)
それさえしなきゃ生暖かく見守っている訳なのだが。
384 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 22:10:46
邪馬台国論争は単に比定地だけを争うものではないと思う。
日本古代史の大きな課題である次の2点にどう関わるのか──。
・日本国家の起原
・天皇制の成り立ち
そのような問題意識をもって俺は考えていきたいと思っている。
>>382 お題のコピペをよく嫁
「九州の鉄剣と畿内の銅剣が戦えば・・・」
両者とも実用武器でないエモノで殺し合いすることがありえないとの内容で
弥生期の集落間抗争の有無とはまるで無関係の話だぞ
>>384 ・日本国家の起原
・天皇制の成り立ち
両方とも邪馬台国より5〜8世紀を調べたほうが早いと思う
387 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 22:42:11
>>385 お題は、鉄鏃と、銅鏃ですが?
バカですか?
>>381 >安本美典は・・・批判者も信奉者もどちらも多いほどの大きな存在って事かな。
「2ch」ではね。
工作員とか徘徊してるみたいだしw
世間ではどうかな?
かなりマイナーだと思うよ。
案外と安彦良和、星野之宣、寺島優辺りの方が著名だったりしてw
星野之宣の宗像教授シリーズは面白いよね。
連載開始当時は、畿内による鉄ルートの簒奪という白石説が最新説だったから
それに乗っかっちゃって、最近では鉄の民俗学に鞍替えしたという苦しい設定変更はご愛嬌として。
諸星が稗田シリーズで「マキムクか・・・邪馬台国のあった場所だな」と言い切っちゃったので
その対抗で箸墓出土の三角縁捏造事件を書いたところも読み応えがあった。
フィクション部分が多いのは漫画だし、そのほうが面白ければそれでいいのだけど
最近のやつで、巫女の顔面変形の事例をモチーフにして磐永姫伝説と結びつけた話など
フレイザーの見えない王の倭国的解釈として、非常に秀逸だった。
391 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 23:34:57
亀レスだが、
>>332で少し気になった。直接の関係はないが。
仁徳稜の築造期間について、大林組は古代工法では、ピーク時1日2000人を
使役して15年8か月要すると推計した。(東アジアの古代文化131号4頁)
以前は、この推計から箸墓などは10年位要すると考えていたが、疑問が出てきた。
1、1日1万人を使役すれば箸墓も2年位で築造できる計算になる。
2、租税としての労力を大量動員できる権力があれば、特に天皇稜などは優先して、短期間
に集中的に動員したと考えられる。
3、古墳は古墳時代の前期を中心に各地で大量に作られるが、箸墓に10年位を要する
とすると、各地に労力が分散しすぎる。
4、古代の天皇の在位期間からは、箸墓レベルが10年では長すぎるように思われる。
権力者は早く完成させることを望んだと思われる。
ということから、箸墓レベルでも2〜3年で築造したのではないかと考えるようになったの
だが、この考えはどうだろうか?
始皇帝陵は即位直後からつくってるけどね
>>391 >箸墓レベルでも2〜3年で築造したのではないかと考えるようになった
箸墓と言う個人墓を築造する前にベースとなるような築山が存在したとしたらどうか?
纏向で広域に行われていた運河や溜池などの「土木工事」、
その残土が方々に積捨てられていて、各古墳はそれらを利用する形で設計されたとしたら、
建造決定から完成までの期間は大幅に短縮できる。
で、目ぼしい廃土置場を消費し切ってしまった4世紀になると、
古墳は渋谷向山のように丘陵地の自然地形を利用するタイプが中心になった。
これ、北條芳隆がけっこうマジに喧伝してる「説」だけどねw
>>391 ありえないとは思わない、むしろ考慮すべきかと。
しかし大仙を含む百舌鳥古墳群と誉田山を含む古市古墳群などは
同時期にかわりばんこのような形で連続工事に入っていると考えられており、工期も相当に重複している。
その他の古墳群や中規模のものまで含めると、大和・河内だけでも常に複数の箇所で
大土木工事が行われていたことになる。
その際にいっぺんに2万人近く集めて一気に作って次の現場に行くか
2千人ずつで平行工事したかは各論があってもいいだろうね。
ちなみに前者を採れば統一王権と王族が、そのころには発生していたことの傍証になるかもしれないし
後者なら並列もしくは持ち回り制度の代表者クラスであった可能性も捨てきれなくなる。
箸中山は自然丘陵を利用するプロトタイプのひとつでもあるし
大仙のように土地を埋め立てた後で、新たに土盛りした時代とは工法も蓄積ノウハウも違うだろう。
二上山からバケツリレーで石を運んだという、非効率的な人海戦術で造ったらしいから
修羅などが一般化された5世紀とは同列には語りにくいと思う。
395 :
391:2007/05/15(火) 00:05:02
>>391の考えの利点は、古墳の規格と出土物のズレを合理的に説明できること。
記紀からは、モモは崇神の在位期間に崇神より先に亡くなったと思われるが、
古墳の規格から見れば、箸墓の方が前方部が発達している。
この点からは、箸墓の方が崇神稜よりも新しいと考えられる。
しかし、箸墓が特殊器台であるのに対して、崇神は円筒埴輪であり、崇神の
方を新しく見る要素がある(崇神稜も箸墓も本格的な調査はないが)。
そこで、崇神が即位後すぐに陵墓の築造に着手して2〜3年で完成させ、その後に
モモが亡くなり、箸墓の築造が始まり、その数年後に崇神が亡くなったとすると、
上記の問題を解消できる。
古墳の規格では崇神の方が古いが、葬送儀礼品では箸墓の方が古いということが
これで説明できる。
ただし、バチ形を崇神稜の規格に先行させる説もあるが、規格がほぼ同じでもバチ形
のみを古くみるもの不合理で、多数あるバチ形の全部を遡上するのも無理があり、
記紀によれば天皇稜が古墳となるのは崇神以降で、文献からも支持できない。
>>393 その北條説には激しく興味があるな。
「古墳時代像を見直す」にもそれ書いてあったっけ?
纒向古墳群も基礎部分は微高地丘陵を利用したのは間違いないだろうけど
柳本は言われてみれば完全な丘陵流用型になるようにも思える。
その後の時代に再度廃土を発生させる土木工事が相次いだので、さらに巨大化したとも取れるし
廃土再利用を前提に古墳を造ったともいえる。
マジ面白いな、これ。
397 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 00:19:59
>>361 >つまりは時代として気温的にはさほど影響がなく
>小氷河期や温暖期と呼べるものではなかったという理解でおk?
誤解しているよ。
>>359は地球全体の平均気温について述べているのだよ。
地球で圧倒的広い面積を占め海洋比率の高い低緯度地帯は平均気温の変化がほとんどないのに対し、
狭い面積で陸地比率の高い高中緯度地帯で気温の上下が起きたのだよ。
中緯度地帯の気温の上下は、その地域のいろいろな指標データーで推測しなければならない。
そのことについて、
>>359は
>>360で補足的に若干の説明している。
弥生前期が海進期なら「温暖」、後期が海退期なら「寒冷」でいいんじゃないですか?
箸墓の自然地形利用は後円部付近で5mくらい。
>>397 でも。
>最も影響の大きい北極でも年平均+4℃とされる。
とあるから
>>356-357に書いてある
>縄文晩期から弥生期は寒冷化し、平均気温は現在より2〜5℃低い。
>特に前3〜前2世紀頃は小氷期と呼ばれるほど気温低下。
とか
>前3世紀から前2世紀は平均気温が現在より5℃位低い弥生小氷期とよばれる時期。
なんかは数字が大きすぎるんじゃない?
>>359のデータとは違いすぎる
ここらへんの根拠はどこから来たんだ??
401 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/15(火) 00:48:29
>>323「ですが説を整理してみた」
これ、最初の一行目以外は全くこちらの謂いとは違ってるけど。
誰もこんな事言ってる箇所は無いよ?
>>319「100年ずれることがあるならそういう実例をあげてくれ」
だからどの時代のどの土器の事かをもう少し詳しく言わないと解らないってっ!
すべての土器に100年ずれが起こるとはこちらもどこにも書いてないし。
「ずれ」と「はば」の意味を取り間違ってるようだけど。
例えばこれ
>>325九州にも畿内産、吉備産、山陰産、韓国産、などがあるの。
各地に互いに土器が移動しているのは事実な訳。分かる?
これはいつのどの土器のことを指して言ってんの?
それが解らない事には返答のしようも無いし。
恐らく日本考古学会の最新の発表かなんかを基に、
取り上げて言ってるんだろうとは思うけど
それにしてもちょっと解釈が間違ってない?
402 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:52:39
>>401 「他人に理解されないのは説明不足」とむかしのえろいひとはいいますた
文句言う前に自分で要点整理くらいしろよw
403 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/15(火) 00:53:20
>>401続き
まあ最大で100年ずれる事を想定してそんな事はありえないと言いたいのかもしれないけど、
ある年からプラマイ50年づつだから。
404 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/15(火) 00:56:33
405 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 01:00:52
>>398 弥生前期が海退期で「寒冷」、後期が海進期で「温暖」。
しかし、海退期=寒冷、海進期=温暖と単純に決められない。
海退期は高緯度地帯が「寒冷」を示し、
海進期は高緯度地帯が「温暖」を示すに過ぎない。
中緯度地域が「寒冷」か「温暖」かは、
高緯度万年雪地帯の温度との連動が必ずしもあるとは限らないので、
その地域の温度指標データーで判断しなければならない。
406 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 01:05:58
407 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 01:06:25
408 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 01:07:03
>>395 >古墳の規格から見れば、箸墓の方が前方部が発達している。
>この点からは、箸墓の方が崇神稜よりも新しいと考えられる。
確かに1970年代ごろまでは、そんな意見も考古学者の中にはありました。
箸中山古墳(箸墓)を4世紀末とか5世紀とか書いている昔の文献、あります。
しかし、箸中山で都月型円筒埴輪が見つかったことが宮内庁から報告され、
さらに一時代遡る宮山型特殊器台も樹立されていたことが、今日では判っています。
一方、行燈山古墳(崇神陵)で見つかっている円筒埴輪は、
川西宏幸氏の円筒埴輪編年では、全5期区分のU期とされています。
これらに加え箸中山の前方部バチ形のことも考慮するなら、
箸中山は行燈山より古いとするのは妥当と思われます。
現在では、いくつかのグループに分けて墳丘の変遷を説明する試みはありますが、
墳丘形状だけを頼りに単系な編年を行うことはできないと考えられています。
http://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/Nyumon/hensen.html
409 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 01:07:05
>>406 だから
>縄文晩期から弥生期は寒冷化し、平均気温は現在より2〜5℃低い。
>特に前3〜前2世紀頃は小氷期と呼ばれるほど気温低下。
と
>前3世紀から前2世紀は平均気温が現在より5℃位低い弥生小氷期とよばれる時期。
の元となったデータをみせてください。
>>396 > その北條説には激しく興味があるな。
> 「古墳時代像を見直す」にもそれ書いてあったっけ?
いや、ここ最近の考えみたいだね。
関東での中期以降の古墳調査からの推論らしい。
何でも上州などには信濃や武蔵からの移住者が築いた新興集落が多く、
そういったところでは、集落の成立と古墳の築造がほぼ同時期になるものが、
あるそうだ。
つまり、集落建設によって生じた廃土を使って同時併行的に古墳を築く。
個人墓としてというよりも先ずは「ランドマーク」として古墳が築かれる。
被葬者は古墳完成期に亡くなった人物の中から適当な人が選ばれる。
まあ、首長的な人物かその親族などで、祖霊祭祀の対象となりうる人物だね。
女性の場合、経産婦が祭られていることが多いそうなので、
卑弥呼タイプの被葬者は少ないみたい、現首長の親とか妻とかも祭祀の
対象とされたのかもしれない。
まあ、詳しいことは北條氏ご本人に直接聞いてみないと説明しきれない。
かって、2chにも実名で降臨された前科のある方だから、
みんなでお願いすれば、また出てきてくれるかもよw
412 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 01:18:04
>>410 探してみる。
平地や湿原の堆積層の花粉データーで植物相の研究論文だが、今見つからない。
>>412 >平均気温が現在より5℃位低い
の部分が気温低すぎなのではないかと疑問におもっています。
よろしくおながいします。
>>401 >例えばこれ
>>
>>325九州にも畿内産、吉備産、山陰産、韓国産、などがあるの。
>>各地に互いに土器が移動しているのは事実な訳。分かる?
>これはいつのどの土器のことを指して言ってんの?
>それが解らない事には返答のしようも無いし。
いつどこの土器を指しているか判らない時点で、何にも知りませんと白状しているのだがw
ヒントつ福岡県 奴国 弥生後期から終末期、古墳前期まで
>恐らく日本考古学会の最新の発表かなんかを基に、
>取り上げて言ってるんだろうとは思うけど
第2ヒントつ10年以上、いやもっと前
第3ヒントつたぶん西日本新聞なら地元だけに他紙より大きく取り上げているはず
第4ヒントつその後も現説などで新発表があるたびに、大きく取り上げられてきた
最終ヒントつお前もかつてその詳細をどこからか引用している
知らない事は知ったかぶりしないで素直に言えってんだw
土器には詳しくないと言えた大好きのほうが、よほど漢だぞ
415 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 01:40:31
>>408 私は、特殊器台→円筒埴輪の流れを短い期間と見ています。
1、特殊器台(器台埴輪を含まない)の出土例は少ないので、その期間を
長く見ることはできない。
2、その少ない特殊器台が、箸墓で都月型と宮山型の双方が出ていることも、
その期間を短く見る根拠になる。
3、楯築を古くみる考えもあるが、特殊器台の流れからは箸墓とほぼ同時期と
考えられる。
4、楯築と類似する櫛山古墳が崇神稜に隣接しているが、位置関係からは
崇神稜と櫛山古墳はほぼ同時期と考えられる。
5、特殊器台の変化や出土の少なさや、埴輪のその後の変化の速度から
特殊器台の期間を10〜20年前後と推定する。
6、古墳築造と葬送儀式との間に5〜10年前後の誤差があると考え、特殊器台
の期間を短く考えると、崇神と箸墓の関係が合理的に説明可能になる。
416 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 02:28:18
>>415 >位置関係からは崇神稜と櫛山古墳はほぼ同時期と考えられる。
古墳が隣接しておれば同時期という考えは誤りです。
もちろん同時期のものもありますでしょうが、時期を異にする例もありますので、
一概に言うことはできません。
行燈山古墳(崇拝陵)は天皇陵ですから例によって宮内庁の管理下にあり、
ほとんど調査されておらず、まあ、よく判らない古墳といえますが、
櫛山古墳の方は1948年に発掘が行われており、これは前期でも遅い方の部類の古墳でしょう。
鍬形石や車輪石、石釧などの石製腕飾りが出ており、長持形石棺もあったので、出現期古墳ではありません。
417 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/15(火) 02:28:57
>>414第2ヒントつ10年以上、いやもっと前
誰かも言ってたように土器などの研究は日進月歩で変わってる。
僕が言ってるのは「最新の研究で解り出して来た」とされる日本考古学会の最新の発表を僕が以前引用した事。
その事をずっと言ってるのかと思いきや。
そんな10年以上も前の事より最近の研究がどうかを云々してるものとばかり・・。
日本考古学会のホームページを開けば出てくると思うよ。
418 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/15(火) 02:32:19
>>414 PS ごめんね、こんな時間に。
仕事から帰って風邪気味で寝ちゃったものだから。
>>415特殊器台の期間を10〜20年前後と推定する。
420 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 02:50:01
宮崎っていうのは 宮があるさき、いう意味らしい。
ちょっと調べたら もう、神話だらけだな、凄すぎ。
神武の父親を祭っている鵜戸神宮は海辺の断崖絶壁にあるらしい。
行ってみたくなった。
やはりこの辺り、なんかスゲーんじゃねーの?
椰子の木やサボテンだらけらしいし、海南島に似ていると表現されるにピッタリだ。
421 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:05:46
旧唐書には、倭国は古の倭奴国( 倭国伝のなか)、日本国は倭国の別種( 日本伝のなか)
とある。はっきり2ヶ国にわかれていたわけだ。
当然、その後日本が正式名称で朝廷は大倭→大和。つまり日本が倭を併合した。
さてどっちがどっちかw
倭に九州北部を含むのがまず間違いないく、倭人伝の描写では「交流可能な国」として
邪馬台国とその30数国をあげている。つまり倭とは九州だよ。
当時、畿内や四国とは交流がなかった。別種倭人の住む日本国とは単に
交流してなかったわけだよ。
おそらく九州ほど近くないので中国を脅威に思ってなかったのか、朝鮮のほうと
交流が多かったのか。
422 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:17:03
http://www2.plala.or.jp/cygnus/R26.html これが旧唐書倭国日本伝(全文)で全部よめる。
倭国の部分は倭人伝と似た表現がたくさん出てくる。また新羅から
一万4千里の東南の大海にある山ばかりの島。 もう九州のことだよ。
そして中文の日本国の部分。小国の日本が倭を併合し、倭が大和になったと表現。
西と南は大海に囲まれ、東と北は山脈がある・・・ってこれは本州島のことだ。
つまり方角は間違えてない。
423 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:19:58
>>422 >西と南は大海に囲まれ、東と北は山脈がある・・・ってこれは本州島のことだ。
↑ あ、併合したあとの九州を含む日本国全体像ね。まさに正確な表現だと思う。
424 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:23:48
もし畿内説者で、倭国は畿内を含む、というなら
この倭を併合して日本をつくった「小日本」の別種倭人とは
一体全体どこからきた倭人のことをいうんだ?
>>421 :日本@名無史さん :2007/05/15(火) 03:05:46
>旧唐書には、倭国は古の倭奴国( 倭国伝のなか)、日本国は倭国の別種( 日本伝のなか)
>とある。はっきり2ヶ国にわかれていたわけだ。
それだけ見たら、そうだが、
あの旧唐書には別のことが書いてある。
倭奴国は、現在の日本国の昔のことだとか...
つまり、日本の使者は、二転三転している。
それに対して、中国側が不審を抱いている様子が分かる。
とにかく、日本の使者は、倭という名前が相当、嫌だったらしい。
426 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:29:41
>>425 >倭奴国は、現在の日本国の昔のことだとか
書いてない。
>>422の原全文からどこのことを言っているんだか指してくれ。
>つまり、日本の使者は、二転三転している。
>それに対して、中国側が不審を抱いている様子が分かる。
>とにかく、日本の使者は、倭という名前が相当、嫌だったらしい
ソースを頼む。妄想ではなく。
倭が敵国だったからそう呼ばれるのが嫌でたまらなかったんだろう、というのは容易に
想像できるが。
427 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:43:21
>>425 >あの旧唐書には別のことが書いてある
もっとよく勉強しよう。
旧ではなく、そのずっと後に書かれた新唐書の
唯一日本のことが書いてある「日本伝」の最初のことだ。「日本,古倭奴也。」
つまり 「旧」唐書の倭国伝の「倭国は古の倭奴国」そのことを指してるんだよ、わかるかなぁ?w
『旧唐書』倭国・日本国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm 倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、
依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、
以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、
置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、
山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。
代々中国と通じている。
その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。
四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、
一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。
官には十二等級を設けている。
日本国とは書いてないが、少なくとも、聖徳太子の冠位十二階を設けた頃の日本と
倭奴国とは繋がっているような書き方である。
>>428からも分かるように
旧唐書の日本国と倭国は別種というのは、安易には信じられない。
430 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:52:39
失礼しました。
>>419は私の書きかけ途中で、手が滑ってしまいました。
>>415 >特殊器台の期間を10〜20年前後と推定する。
それはいささか短か過ぎると思います。
特殊器台は、最初の編年案(近藤・春成)では、立坂型期→向木見型期→宮山型期でしたが、
最近、向木見〜宮山の間をつなぐ矢藤治山型が出土しました。
また立坂型は、楯築・黒宮大塚などの古段階と、
巴状透孔をもつ真庭市中山遺跡のものなどの新段階とに分けられるようです。
確かに箸中山や西殿塚などでは宮山型と都月型円筒埴輪の両方が出ていますが、
葛本弁天塚の特殊器台は箸中山のそれよりももっと脚部と受け部が垂直近くになって(踏ん張りを失い)、
都月型円筒埴輪の形成へ一歩近づいた形といえます。
弁天塚ではこの型式だけで占められ都月型を含んでいないので、ここにも一時期が置けると思います。
ともかく立坂型、向木見型、宮山型はそれぞれ前後と紛れがないので、一型式少なくとも一世代は考慮し、
楯築弥生墳丘墓の築造は、箸中山古墳より少なくとも半世紀は古く見るべきだろうと思います。
431 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 04:08:01
日本という国号は、7世紀の天武天皇が作ったんじゃなかったかな。
諸外国にも通達を出したらしい。三国史記にも「倭が国号を日本に改めた」と
書かれているようだ。
日本書紀を編纂するよう命令を出したのが天武天皇というのも面白い。
>>428 >依山島而居。東西五月行、南北三月行
この地勢にあてはまるのは四国しかないな。
433 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 10:18:19
おへんろ してみ
東西5ヶ月も掛からんぞ
四国じゃ小さすぎ
434 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 11:24:35
>>430 >一型式少なくとも一世代
そこまでの期間の想定は難しいと思います。
私は1型式2〜5年ほどで、併行関係も存在していると考えています。
そのため10〜20年前後の期間と考えています。
箸墓と楯築の期間は、ほぼ同時期から10年前後の間で考えています。
今、ラジオ(J-WAVE)聞いてたんだけど、
アンケートで、「どこにあるか位置がわからない都道府県ランキング」というのがあって、
一位が「島根県」だそうだ。
普通の一般的社会人の、古代史への関心事なんて、こんなもんなんだよ。
わかったか?
436 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 19:02:09
九州論者に聞きたいんだが邪馬台国が九州にあったとすると、奈良の大和朝廷とは一体何者なんでしょうか?
437 :
九州命:2007/05/15(火) 19:25:23
現皇室の先祖が統治していた朝廷です。
壱与が邪馬台国の女王になったあたりから急激に膨張をはじめています。
>>436 まったくの素人ですが、倭人伝に記述される邪馬台国は九州、奈良の大和(現天皇系譜)とは別物(神武神話から出自は九州かも?)。
半島と交流も九州、ただ半島の戦乱に巻き込まれ弱体化、勢力を伸ばしてきた近畿大和に呑み込まれてた。
そのまま倭(九州)から日本(西日本)として大陸と交流を続けてきたのでは?
と、まったくの素人考えです。
439 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 20:07:00
>>436 >奈良の大和朝廷とは一体何者なんでしょうか?
1〜2世紀の温暖期の旱魃による社会混乱時に、
九州各地から畿内に、直接又は瀬戸内経由で移動した武装難民の群れの子孫の一部。
神武記、崇神記や畿内神社の移設にそれらを垣間見ることができる。
1〜2世紀の旱魃は西日本全体で起ったことだが、特に九州の水不足が深刻だったように思う。
440 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/15(火) 20:41:21
>>413 >>平均気温が現在より5℃位低い
>の部分が気温低すぎなのではないかと疑問におもっています。
僕も低すぎるように思いますが、
平均気温では−2℃〜−3℃でも冷夏が続いた年の夏季気温は−5℃位になったのではと解釈しています。
(一時期花粉が消えたり減少する現象)
441 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 21:48:55
>>440 うーん。話が通じてないなぁ…。
>平均気温では−2℃〜−3℃でも冷夏が続いた年の夏季気温は−5℃位になったのではと解釈しています。
の部分の”解釈”をしたのは、
>>412の論文の著者なのか?それとも「九州王朝大好きさん」なのか?
どっちにしてもどういう”根拠”で-5℃という温度低下になったのかが知りたいのです。
疑問に感じていることは
>>413に書きましたたように、-5℃は変動幅として大きすぎだと思います。
たとえば近年記録的冷夏とされた1993年でさえ、前年比0.5℃くらいですから。
参考↓
ttp://www.data.kishou.go.jp/climate/cpdinfo/temp/an_jpn.html 前にも挙げましたように縄文時代の最も温暖な時期でさえ、
日本周辺の温度変化は現代比+2℃とされています。
いずれにしても、−5℃とする根拠はどのデータにあるのかをお示しください。
442 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 21:57:52
443 :
712@九州説:2007/05/15(火) 23:10:09
>>436 >九州論者に聞きたいんだが邪馬台国が九州にあったとすると、
>奈良の大和朝廷とは一体何者なんでしょうか?
天皇家の系譜においては、崇神〜景行〜仲哀 までの代で描かれる王権。
記紀神話においては、高天原の神に乗っ取られる以前の、葦原の中つ国。
どちらもその勢力範囲は、現在提示されている考古資料から類推される
畿内王権の最大領土(領土なる言い方は不適切だが)とほぼ重なる。
どちらも最後には、別の血統の人間に国を奪われている。
444 :
712@九州説:2007/05/15(火) 23:35:49
畿内王権は通商連合という意味合いが強いことが考古資料からわかってきている。
これもどことなく「神々の寄り合い」、すなわち出雲神話をどうしてもイメージさせる。
邪馬台国を畿内とすると、狗奴国との対立はその連合内の
政治的対立、と考える方法もあるのだが、考えてみればこれも妙だ。
卑弥呼はなぜ魏の「錦の御旗」を欲したのかという理由が見えなくなる。
>>712@九州説氏
興味がありますので質問させてください。神武東征ってどういう意味があるんですか。
446 :
712@九州説:2007/05/16(水) 00:17:02
>>445 前スレで述べておいた説を見ていただかないと、意味が伝わりにくいかもしれませんが・・・
九州から畿内へ攻め上った応神(仲哀天皇を抹殺して畿内王権を乗っ取った)の業績を、
崇神〜景行〜仲哀よりも以前に、神武天皇として埋めこむことで、体裁を整えたのでしょう。
崇神や景行は明らかに神武東征や天孫降臨すらも知っていなかったということも、読み取れます。
崇神〜景行〜仲哀は、天皇家とは本来異なる畿内出身の王族でありながら、
四道将軍・ヤマトタケル伝説に暗示されているような、日本の基礎を作った
「功績」を認める意味で、特別に天皇家の歴史に組みこまれたのだと思います。
そしてその畿内の王族の神格化こそがオオクニヌシであろうと考えます。
怨霊を表す「崇」+始祖を表す「神」、崇神の称号も非常にいわくありげです。
神武の東征伝承は、応神天皇の東遷、その他の部族の東遷伝承、さらには
政治的意図なども加味しつつ、かなり遅い時期に成立したと考えます。
他人の妄想は読む価値も無いな。
鏡の話をしようぜ。
448 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 00:22:26
>>447 読む価値がないのならフィルターでもかければいいわけで、
つまるところ、このスレに来なければよいのでは?
450 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 00:26:05
>>449 鏡の話なんて堂々巡りで決着がつかないし、読む価値もないな。
物部氏の話でもしようぜ。
451 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 00:26:18
>269
そりゃ、九州内の流通。
おれは畿内と書いているが。後期の畿内が、流通が停滞するのは、
石器の減少、鉄器が相変わらず流通しないこと、小型ホウセイ鏡
の流入途絶、大集落の消滅などから明らか。
ただし、272の言うような日本全体の流通停滞なんてものはない。
この時期、九州と日本海側、特に山陰との交易は激増している(常松等)
この時期の流通停滞は、あくまで東瀬戸より向こうの特殊な現象。
近畿の学者が勝手に主張している九州と半島との交易の停滞なんてのも
考古学的な証拠は一切ない。
>>434 >私は1型式2〜5年ほどで、併行関係も存在していると考えています。
>そのため10〜20年前後の期間と考えています。
>箸墓と楯築の期間は、ほぼ同時期から10年前後の間で考えています。
もうなんつーかまるで考古学無視の無茶苦茶説だこりゃ。
楯築出土の長頸壺は上東式の鬼川市V期(高橋徹編年の[d期)
だから楯築はまだ庄内に入ってない時期の公算大なのだ
箸墓はご存知布留0。併行関係で言えば亀川上層期(高橋]d期)。
したがって楯築〜箸墓間には高橋\期がすっぽり入る。
\期は以前は酒津式といってたが畿内の庄内期にあたる。
おい、楯築〜箸墓間が10年なんて言ったら、庄内期は7〜8年か!たったの www
453 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 00:49:13
>270
>福永や車崎が三角縁中国鏡説の根拠を固めて来ているので中国鏡説派がむしろ巻き返している状況かと。
逆だと思うが。少なくとも黒塚以降の石野らの批判にたいしてまともな反論が
なされているとは到底思えない。福永の例の研究はそれはそれとして価値はあるが、
魏鏡だという根拠にはならんだろ。
それに266のリンクをみると、
相変わらず完全に否定された鉄器ルート奪取を言っているのはお愛想としても
「三角縁神獣鏡が登場すれば、これは魏の皇帝がバックにいますよというお墨付きの鏡なので、
政治的な優位性を示すという点では画文帯神獣鏡よりも上位に位置づけられる。」
というような奈良の埋文の連中が聞いたら卒倒するような考古学的事実に反する記述
が見られる(あと、銅矛が首長連合のシンボルだとか、畿内が一致団結して九州を倒したとか、佐原編年は大きな
意義があったとか)。こういう誰がどう見ても小林らの理論の枠組みを守ることありきの福永の研究が若手に影響
を与えるとは到底思えんのだが。
454 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 00:57:21
>>453 >奈良の埋文の連中が聞いたら卒倒するような考古学的事実に反する記述が見られる
なんだその言い方。奈良の埋文は何様だ?
>こういう誰がどう見ても小林らの理論の枠組みを守ることありきの福永の研究が
>若手に影響を与えるとは到底思えんのだが。
個人の名前を出したりするのはやめろ。ふざけるな。
>>453 お前のおかげでスレが死ぬ。たのむから消えてくれ。
456 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:05:13
>>452 土器についての基本的な見方が異なるようですね。
A→B→Cときっちりと時代を分けて土器が変遷しているわけではなく、
A→→→
B→→→→
C→→→→
というように、重複しながら変遷し、地域ごとの変遷の早さにも大きな差が
存在したと見ています。庄内式、布留式はどちらも古墳時代の前後にまたがる
というのが、新井の同位体比研究の出した結論でもあります。
特殊器台は一回の祭祀のためにのみ作られ、古墳に置かれるため、使用の持続性
を考慮して年代を決める土器とは根本的に異なります。
むしろ、特殊器台と同様に葬送のために作られたと思われる三角縁が短期間で
130種類ものバリエーションを生んでいることと比べるべきでしょう。
457 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:11:58
西都原の81号墳は、宮崎大学の調査で3世紀前半の可能性があると発表された。
しかし、これについてそんなに古くはないという人もいるらしいが、その根拠
は何だろう。
>>457 なまじっか古くなると
自説と矛盾が生じて、不都合になる人間がいるんだろw
459 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:18:59
>>454 個人の名前がでると不味いの?
誰の説がどうのこうのと主張してくれたほうがその文献を調べたりできて
根拠も証拠もない妄想垂れ流しされるよりはずっと助かるんですが
>>454 論文出してる研究者は、「名前を出すな」というような個人とは言わない。
461 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:56:40
462 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 02:02:31
>>461 ついでに記事も書いておくと、
2005年9月3日
81号古墳から土器の中に遺体を納める土器棺の一部が見つかった事が2日
わかった。
土器棺は弥生時代に用いられた埋葬形式。
宮崎大学柳沢一男教授は「81号墳が国内最古級の前方後円墳である可能性が
さらに高まった」としている。
宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる
奈良県の箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。
邪馬台国は日向で決まりだな。
北九州涙目。
なぜ、こうも九州説って
こうも無茶苦茶なんだ?
>>462 それ、その後、変わったんじゃないのか?
少なくとも箸墓よりは新しくされたはず。
466 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 04:31:41
>>462 だとすると4世紀末から5世紀初頭頃に築造されたとされる
男狭穂塚、女狭穂塚の中の人はだれかということになるんだけど…
どうなんだろうね??
467 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:25:43
>>453 そうだね。
中国や朝鮮半島で出土しないと言う事実に対して、
従来の特鋳説以上のものは見受けられない。
製法や意匠について、あれだけ精微な検証をして、
何故にそういう結論になるのか、と言いたい。
自分の専門分野以外の研究進展には、
目を伏せ耳を閉じているとしか思えない。
まあ、結論以外の研究成果は利用させて頂きますがw
468 :
サガミハラハラ:2007/05/16(水) 07:28:19
西都原の81号墳の弥生時代の埋葬につかわれたという土器棺であるが、(遺体が納められていたと判断しておく)
弥生と古墳の文化はある日から突然かわるものではなく、古墳は弥生の続きである。
となると、都から離れた地方では地方色が濃くあらわれることがあるので、前方後円墳の時代になっても、それまでの土器棺を使用した可能性も考えられる。
そうすると、この土器棺の埋葬年代は、弥生に行われた埋葬形式だからだけではなく、他に3世紀前半とみられる資料があったのであろうか?
教えてください。
469 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/16(水) 07:28:25
470 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 08:32:11
>>468 一応、「遺物の発掘状況も加味し、」と書かれているので、総合的な判断と
いうことになるのでは?
地方色があるといっても、地方色のない前方後円墳に、地方色のある棺の
組み合わせというのもどんなものでしょうね。
宮崎にはたくさんの古墳群があるわけだけど、その一つに生目古墳群という
のがある。これも、年代で揺れているような気がする。
生目古墳群。
3世紀末か、4世紀前半に作られはじめ、7世紀まで築造されたと推定される。
100mを超える古墳時代前期(3世紀後半4世紀末)の前方後円墳3基(1号
墳、3号墳、22号墳)を含み、古墳時代前期では九州最大の首長墓群で
ある。
1号墳(墳長136m)は、古墳時代最古期(3世紀後半)の大王墓である
奈良県、箸墓(はしはか)古墳の半分の大きさに設計した相似形とされる。
生目古墳群最大の3号墳は、墳長143mを測り、馬蹄形の周溝が巡り、
その外周には周堤がみられる。
墳丘は前方部二段、後円部3段で構築され、墳丘の斜面には葺石が葺かれる
他、テラスや墳端の周囲にも敷かれている。
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/
471 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 09:05:44
>>443 >>奈良の大和朝廷とは一体何者なんでしょうか?
九州日向説の自分の考えで言うと
奈良盆地の、元々栄えていた畿内の国々を統治していた勢力で、王は当然、天皇家。
そのころは東海、せいぜい吉備辺りまでしか勢力を誇っていなかった。その考えひとつとして
天皇の嫁達。文献からわかる名前からして祟神天皇まで畿内周辺からのみ。
「通商」での繋がりは更に広かった可能性は十分ありえる。
その頃、その天皇家の祖先の(自称)出身地でもある九州の宮崎辺りにあった邪馬台/女王国は
九州北・中部を統治していた。偶然にも神武と出身地が重なる。多分何か理由があるはず。
南の熊襲とは臨戦状態。北部は中国が人をさらいに襲ってくる時もあった。
だから九州では交戦と防御のために鉄器と戦力に磨きをかけていた。
畿内や吉備辺りも栄えていたが、九州方面の邪馬台国連合などと違い中国と交易したり
貢いだりなどはしていなかった。(貢ぎ物をもって献上に上がるというのは服従の証。中国が脅威だった
九州のみ。ひょっとして四国も?)
その後旧唐書の日本国伝の部分に書かれたような(倭/日本人が中国人皇帝に報告した内容の)
「日本人が倭国を併合して倭が大倭になり、日本国になった」というようなことが起こり、
九州の王族やらも畿内に移動したり、畿内の王族に嫁がせたりなどした。
その後、九州の都は大宰府周辺。宇佐は皇祖神繋がりの重要地。だから神託出せたり
神輿を発祥させたり、八幡を創ったりできた。たぶん中津市が豊葦原の中つ国。吉備と秦氏繋がり。
この関連だろう・・。
472 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 09:06:39
>>434 >私は1型式2〜5年ほどで、併行関係も存在していると考えています。
>箸墓と楯築の期間は、ほぼ同時期から10年前後の間で考えています。
特殊器台編年で、立坂型(楯築)と宮山型(箸中山(箸墓))が併行などという突飛な説は、これまで聞いたことがありません。
「併行関係も存在していると考えています」とおっしゃっても、その証拠を出さなければ誰も納得しません。
どうぞ「立坂型=<併行>=宮山型」の証拠となる遺物・土器片を示してください。示せるものなら。
宮山型特殊器台が出土した遺跡は岡山と奈良で僅か5〜6か所、報告書の類も限られますから、やろうと思えば簡単に済む話です。
それをなさらないで、「私は……考えています」だけでは、妄説と言うしかありません。
473 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 09:53:13
前から思ってたけど。畿内のほうが最新の立派な古墳をつくっていたからといって
邪馬台国だとなぜ言える?
死んだのは戦争中。戦争直前のような不安定な情勢で、なぜ他の安定した大国
の王族みたいに古墳造りに人や物を費やせる?
戦後も台与が立つまでかなり不安定な情勢だが。
とりあえず100人周りに埋めたらしいから、それを探してみろよwwww
474 :
サガミハラハラ:2007/05/16(水) 10:06:01
生目古墳群
混在する埋葬施設の発見はーーー流入した埋葬文化と在地性の濃い習俗が深く結びついた事実」
とありますね。
>>473 >とりあえず100人周りに埋めたらしいから、それを探してみろよwwww
先入観が魏志倭人伝の誤読につながる見本。
>「卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」
「周りに埋めた」とは書いてない。
百余人の殉葬があったことは間違いないと思うが、その葬法は、倭人伝だけでは判らない。
477 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 10:47:10
今ワイン飲みながらちょっと思いついた。
神武の名前に「日本」がつくだろ? 名前は出身地に付けられる。
だから日本というのも、ひょっとして・・・・神武の故郷の名前か?宮崎。
神武の出発地が、日向=日本(意味は同じだ)
だから日本人というのは神武の系統の国と人間のことだ。
つまり畿内と宮崎の両方かどっちかの名前では。
・・・・と、天武天皇は編纂した。
神武の居た時期から日向(日本)は邪馬台(ヤマタイ)→神武畿内移動 → 王になり畿内を日本のヤマトと名づける。
そして日向(日本)の邪馬台国と、神武以降の畿内の日本ヤマト国は同時に存在したかもだ。
中国人は当然そんなこと露知らず・・・あとで報告を受ける。
ちなみに自分は宮崎県人ではない。例え↑↑が本当だとしても現在あんな、九州一学力の低い
さえない県は全然羨ましくもなんともない。
冬休みに、よく宮崎一の高級リゾートで西洋人やゴルフ好きの芸能人家族などに混じって過ごしていたが、子供心に
パッとしない地元民たちだなと内心馬鹿にして見ていた。食べ物もまずくて親に早く帰りたいとねだっていたなぁ・・・。
正月でもかなり暖かく、薄着で海辺で遊んだり、崖の下の亀の背中に石を投げ入れる神宮に毎年行ったのを覚えている。
478 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 11:01:25
>>472 >宮山型特殊器台が出土した遺跡は岡山と奈良で僅か5〜6か所
一回の葬送儀礼で使い切りのものが、たったそれだけしか出ていない。
宮山型の期間が1〜2年位という可能性も考えてみるべきでしょう。
479 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 12:37:06
480 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 12:50:59
>>476 殉葬については、日本書紀の垂仁天皇のところに書かれている。
それによると、全員生きたままで、陵の周りに埋め立てた。何日も生きて
いて、昼夜かまわず泣き喚いた。やがて死んで腐っていき、鳥や犬が
集まってきて食べた。
あまりにもむごいということで、殉葬は止めよう。その代わりに埴輪を立て
ようということになったらしい。
だから、殉葬があったとしても、骨も残らないのではないかと思う。
481 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 13:43:30
>>481 >卑弥呼さんの場合はどうだったんだろうね
卑弥呼さんもトヨタンも、女王だから案外みんなから敬愛されてたのでは?
卑弥呼には婢1000人が仕えていたそうだが,古参の婢の中には
卑弥呼とともに長年,苦楽を共にした召使いも居たかもしれない.
主人が死んで,自分も老い,生きる希望が失われた場合,
もし殉死者大募集の貼り紙を目にしたら,ついフラフラと応じてしまうかも.
殉死者大募集の貼り紙、ってか〜 ww〜
タウンワークの「殉死者募集」を見てきますた。
時給安かったら、やだよ
486 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 16:45:30
卑弥呼の婢が1000人てのに着目してみる。
これは生産人口じゃない。つまり、この1000人を養う生産人口が必要。
軍事学では、常備兵力は人口の5%が限界らしい。
つまり、この1000人を養うには最低20万人の人口が必要。
さらに、彼女らは兵士ではないし官僚でもない。
それを踏まえると、邪馬台クニの人口は
50〜60万程度いたと考えられる。
487 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 17:07:06
>>482 急募:殉死者募集
敬愛する卑弥呼様と共に大きな古墳に埋葬されてみませんか?
職種:葬送殉死担当
業務内容:祭礼参加・古墳墳丘内埋葬・古墳管理・殉死 等
勤務地:卑弥呼様埋葬古墳・直径百余歩
募集人数:100名
応募資格:採用日において、原則として30歳未満の者で、勤務に専念できる者。古墳業界で、殉死業務、葬送祭礼業務の実務経験のある方は優遇する。
採用期間:埋葬後十年間とする。埋葬成績が良好な場合に限り、評価が認められた場合1年毎の更新が可能である。
雇用形態:倭国国家公務員で非常勤職員
給与:倭国人事院規定により埋葬後十年間 遺族に支払い
待遇:交通費全額支給 昇給賞与あり 倭国国家公務員法災害補償法の適用を受ける。
応募・お問い合わせ先
履歴書・職務経歴書を下記宛にご郵送まはご持参ください。
帯方東南大海之中倭国内
邪馬臺国女王庁 運営局庶務課 卑弥呼埋葬係 採用担当宛
e-mail:
[email protected]
>>487 ワラタ
でも当時はまだ新しいから、古墳ではなく墳丘墓だな
490 :
日本@名無史さん :2007/05/16(水) 17:48:35
3世紀初頭
畿内に住んでいた先住民族は、南方系の稲作文化が主流で
神の祭りに銅鐸を祭器として使用していた。
銅鐸は各地から出土するが、京都からは以外に出土例が少なく
西暦300年くらいで、地上から姿を消してしまう。
考古学上では、この説明の1つとして異文化をもった種族に
占領されたもので、同じ神を「マツロワヌモノ」として敵対
視され、破棄されたする説が有力である。
>>487 ワロタ。笑いが止まらん。wwwwww。しかし
>給与:倭国人事院規定により埋葬後十年間 遺族に支払い
のとこ、ちょっと考えさせられた。「遺族に支払い」のとこ。
もし本人も家族も、「やだやだ、やめてくだされれーッ!」て嫌がるようなら、
無理やりの強制殉葬は民衆の反感を買うだけ。政権は不安定化するだろう。
しかし殉葬者の遺族や親族が、「おお!、卑弥呼様に殉じられた方のご一族か!」ということで
名望UP、経済的にもUPするんなら、殉死者募集に自主的に応じるケースもあったかもね。
492 :
日本@名無史さん :2007/05/16(水) 17:56:05
畿内の銅鐸族の村に、ある日突然征服者がやってきたため
あわてて銅鐸を集めて地中に埋めたと思われ、その時点で
銅鐸は地上から消滅し、「日本書記」「古事記」にも記載
されていない。
畿内の農耕民族は攻撃用の武器を必要としなかった為、征服者
の異民族たちにひれ伏したので、征服者はその農耕民族のうえに
君臨し、巨大古墳を築けたのであろう。
もう、ここは電波ばっか。
494 :
日本@名無史さん :2007/05/16(水) 18:13:38
銅鐸は3つの部分で構成されている。
真ん中を「身」といい、上部は「紐」と呼ばれる。
周りには「ひれ」が附属している。形は偏平で筒型であり、
外見はとても美しい。
銅鐸の美しさに古代畿内部族が尊敬をあがめていたことは
充分想像できる。
文様はまだ文字のない時代であり、絵文様であり、イノシシ
シカ、トンボ、スッポン、カマキリ、ツル、カエルなど様々
ですが、稲作文化を中心とした農耕生活の様子も描かれている。
畿内の農耕民族の朴訥とした稲作文化が想像できます。
495 :
日本@名無史さん :2007/05/16(水) 18:23:17
銅鐸文化が忽然と畿内から消滅したのは西暦300年ですから
それ以前には、畿内王権などというものは存在しません。
温和な畿内の農耕民族は存在します。
稲作は集団作業ですから、農民の集団組織は存在しますが
村長は存在したでしょうが、倭人伝の記述されているような
環濠集落(戦闘目的)の存在はありません。
畿内の農耕民族である銅鐸族は征服される運命にあるのです。
496 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/16(水) 19:11:01
倍暦の計上から
神武即位 元年 同崩御 26年
崇神即位 237年 同崩御 239年
497 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/16(水) 19:13:02
訂正 崇神崩御は
× 239年 ○ 259年
>>495 >銅鐸文化が忽然と畿内から消滅したのは西暦300年ですから
西暦300年というのは出鱈目
記紀にも漢籍にもそのような記述は一切無い
>>487 あはははははは、あははは、あははははは母母、あはは・・・ (o≧∇≦)o www
傑作レス、乙!
しかし、どことなく埋文関係者の匂いも・・・・・
>>495 >環濠集落(戦闘目的)の存在はありません。
唐子・鍵は、環濠集落でしょ?
501 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 21:47:30
502 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 22:20:02
東日流外三郡誌によると、紀元後三世紀近畿地方に邪馬台国が勢力を振るっていた。
そこに朝鮮から渡来した、神武天皇率いる日向軍が攻めてきて、
出雲と畿内を攻め滅ぼし大和朝廷となった。
邪馬台国の王・安日彦、長髄彦は津軽に落ち延び、アラハバキ族を名乗った。
つまり、今の東北人が先住民族の末裔であり、天皇家は征服王朝だ。
松本清張の「砂の器」に、出雲弁と東北弁が似ているというのがでてくるが、
出雲から東北へ逃れたと考えればつじつまも合う。
503 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 22:27:13
東日流外三郡誌によると、紀元後三世紀近畿地方に邪馬台国が勢力を振るっていた。
そこに朝鮮から渡来した、神武天皇率いる日向軍が攻めてきて、
出雲と畿内を攻め滅ぼし大和朝廷となった。
邪馬台国の王・安日彦、長髄彦は津軽に落ち延び、アラハバキ族を名乗った。
つまり、今の東北人が先住民族の末裔であり、天皇家は征服王朝だ。
松本清張の「砂の器」に、出雲弁と東北弁が似ているというのがでてくるが、
出雲から東北へ逃れたと考えればつじつまも合う。
504 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 22:30:02
age
505 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 22:32:43
>>491 森鴎外の阿部一族という小説があったなあ。
江戸時代にも殉死の制度があったが、殉死は殿様の許可がないと出来なかった
らしい。殉死者の一族は、家を建て替えてもらったり、家禄が増えたりと
非常に優遇される。
小説の阿部何とかは、殿様に殉死を願い出るが、「ならぬ」の一点張りで
どうしても殉死が許されない。そうこうしているうちに、殿様は亡くなったが、
阿部は、死ぬことが出来ない。許可なく死ねば、犬死として馬鹿にされる。
殿様のそばで仕えておきながら、殉死も許されなかったのかと周りの評判が
悪くなり、阿部一族は没落の道をたどるというわけである。
506 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 22:59:33
日向って、ある地点から見て日に向かう方向、つまり東なんだよね
意味的には 日向=日本 でもある
北九州からみて近場的には宮崎、九州全体(倭)からみれば本州中央部(畿内)
引き続いて畿内に基点を変えれば東国(日本武の遠征地)
時代が下がって関東まで王化に浴してからは東北(田村磨が刻んだ日本中央碑)
もっとも、この国が「日本」を自称し始めてからは、日本(ひのもと)→日高見国 へと言い方が変る
日向=日本=日高見国 って日出る東のかた、東方フロンティアという漠然とした概念なんだよね
アメリカで「西部」と呼ばれる土地が、時代が下るにつれて
アパラチア山脈以西→ミシシッピー流域→テキサス・カンザス・コロラド→西海岸 と移って行ったのと同じ
508 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 01:33:14
手塚おさむの漫画で
>>480の部分がよ〜く書かれてたよ!!
509 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 02:05:03
火の鳥か。あれも名作だよな。
あながち、火の鳥の内容が日本古代史の真相かもなw
510 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/17(木) 03:56:20
>>311 僕が言ってるのは考古学云々言う前にどこか専門知識に陶酔し過ぎて頭でっかちで
一般常識を弁えていない物言いなのよねおたくら{考古学関係者ですか}の文は。
学問に先走りしすぎて今の高度文明社会と同様に考えてるような机上だけで実践が伴わないと言うか社会体験が足りないと言うか
一般通念に欠けるというか。全体的に世の中がどんなものかをを知らない非常識な考えにしか見えないわけよ。学問云々言う前に。
だから考古学かなんか知らないけど世間の普通の人だったら思わず首をを傾げたくなる奇妙な説ですよと言ってる訳。
学問が行き過ぎて国の予算使って遊んでるようにしか見えないのよね。
一般に学者は学問については詳しくても一般通念に欠ける事が多い。
だから昔から「先生と呼ばれる馬鹿で無し」と揶揄するわけよ。
考古学の先生方も頭の中は混乱状態だと思うよ。どんどん新事実が出てきて
今までの説が覆るんだから。
ちなみに「天文学に無知」とは冥王星云々の事を言ってるのかは知らんけど
結果はこちらの言う事の方が正しかったでしょう。まだむかついててその事は許してないんだけどね。
嘘つき呼ばわりした上一言の断りも無いんだから。
読み返してたらこんなレス見つけたので返信ね。以上トイレ起きでした。
511 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/17(木) 04:54:24
512 :
サガミハラハラ:2007/05/17(木) 11:08:14
ひつこいようですが、今ひとつ確認いたします。西都原古墳群の81号墳について、
土器棺の一部とありますが、土器棺ほぼ一個文の土器片ではないのでしょうか?
もし、弥生形式の土器棺にて埋葬したのであれば、その場の土器片をくみたてればもとの土器棺が
復元できるはずです。
一部が、数片のことであれば、なんらかの目的で外部から土器片のみを持ち込み敷いたとみられるわけですが。
ようするに、土器棺は復元できたのでしょうか?
ご存知のかた教えてください。
513 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 11:59:24
>>510 「先生と呼ばれるほどの馬鹿で無し」ではなかったのでは。
514 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 13:05:39
おまえら、もっと
日本の記紀や中国の史書を素直に読んでみいよ。
もう、トンデモ説が横行している。
516 :
日本@名無史さん :2007/05/17(木) 13:55:17
日本の記紀を素直に読めとは、どういう読み方か
教えてもらいたいね。
荒唐無稽な神話を素直に読んで、信じろというのか?
>>516 これって
>>515は素直に読んでしまうと
初期天皇の寿命が150歳だったり
配下の者に柑橘類を持って来いと黄泉の国に派遣したり(しかも持って帰ってくる!)
老人の生爪を剥いで素手で土を掘らせたり、女を馬と交尾させ、濡れたといって淫乱呼ばわりとか
そういうのを一字一句正確なものとして認識することを前提として議論するのが
誤りではないか、といいたいのではないかと。
つまり人間が記録するものである以上、程度の差こそあれ
間違い、勘違い、事実誤認、空想・妄想、嘘、捏造、改竄、拡大解釈あるいは過小評価など
混在してくるものだから、そういう文書を前提として
やれ○○国がどことか方角が東とか南とか何里とかいっても意味ないというか
信憑性の乏しいものをベースにしても仕方がないということ
ではないかと。
518 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 15:30:06
初期の天皇の時代は倍暦を使用していたから、実際は通常人の寿命。
519 :
日本@名無史さん :2007/05/17(木) 15:40:22
初期の天皇の時代は倍暦を使用していた?
それは、どうして証明されたのですか。
初期の天皇時代とは西暦何年頃ののことですか
倍暦を使用していたとする文献は存在しますか?
倍暦にすれば都合が良いから勝手に歴史を改ざん
するようないかがわしい主張は避けたほうが良い
と思いますよ。
>>517 初期の天皇の寿命が百歳以上超えている人が多いのは
半年を一年と計算していたからであろう?
とにかく、記紀の問題点は
年代が実年代と大きく異なってしまったこと。
記紀を素直に読めというのは、百パーセント信じろという意味ではない。
ただ、だからといってさ、自分たちの推測をあまりにも加味しすぎたら
もう、どうしようもないじゃない。
そんなんだったら、記紀なんか関係なしに、現代人の創作史にしかならない。
>>519 初期の天皇の時代は倍年暦だったというのは
日本にかぎらず、古今東西でもそうだ。
夏至、冬至で、一年を区切っていたのは、世界中どこでもそうだった。
魏略に、日本人は四季は知らない、春耕秋収で一年となす、と記載されている。
また、続いて、日本人が7,80歳の高齢者が多いと記載されている。
記紀の研究は、なるべく
記紀に書いてあることを真実に近いとしながらも
その矛盾点を探り、修正していくのが大事だと思う。
あんまり、これもあれも修正してしまったら
記紀を研究せずに、まっさらな状態から小説を書けばよいわけでw
523 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 16:00:21
>>519 とりあえず、以下をどう説明するんだね。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 1 18日 0 ↑
5日 3 19日 0 ← これは当時1ヶ月が14日だという事だよ。
6日 3 20日 0 ↓
7日 2 21日 0 日 月 火 水 木 金 土
8日 3 22日 0 1 2 3 4 5
9日 4 23日 0 6 7 8 9 10 11 12
10日 1 24日 0 13 14
11日 3 25日 0
12日 4 26日 0 このカレンダーだと
13日 2 27日 0 1ヶ月が今の半月位なのさ。だから
14日 7 28日 0 大略1年が今の半年相当だよ。例外は有り。
良い子にもわかる文献の使い方
正)
A市のB古墳からC世紀中葉の埴輪が出土
↓
記紀によるとD天皇はC世紀の為政者で、A市付近にはD天皇陵があるとされる
↓
B古墳はC世紀の天皇であるD天皇陵である可能性が高い
誤1)
A市のB古墳からC世紀中葉の埴輪が出土
↓
記紀によるとE天皇はF世紀の為政者だが、倍年暦に当てはめるとC世紀だった
↓
B古墳はF世紀の天皇であるE天皇陵である可能性が高い
誤2)
記紀によるとE天皇はF世紀の為政者だが、倍年暦に当てはめるとC世紀だった
しかもA市にいたにちがいない
↓
A市のB古墳からC世紀中葉の埴輪が出土
↓
B古墳は書物ではF世紀とされるが実はC世紀の天皇であり、
したがってC世紀の古墳であるB古墳は、E天皇陵である可能性が高い
525 :
日本@名無史さん :2007/05/17(木) 16:16:11
>魏略に、日本人は四季は知らない、春耕秋収で一年となす、と記載されている.
そんな記述を頼りにして、倍暦などと言ってる訳ではないでしょう。
例え古代人でも、天文知識や春夏秋冬は肌で感じてるし、1年を半期で
考えるのは、都会暮らしの自然を身近に感じない現代人の頭の中の妄想の
ような気がします。
>>525 天文知識があろうがなかろうが、
倍年暦とは何の関係もないよ。
たとえば、古代の人から見たら
収穫できる年と収穫できない年が交互にくると思ってたかもしれんし。
527 :
日本@名無史さん :2007/05/17(木) 16:59:53
>>526 その考えは非常識でしょう
そこまで捏造して、記紀を解釈する理由がわからん。
というか、倍暦を唱える人は、倍暦宗教を立ち上げたら
いかがですか?
宗教だったら、邪教として無視ししますので・・
どっちみち倍暦などという解釈をする人は無視しますが。
528 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 17:58:36
>>527 くやしかったら
>>523の表を崩すんだな。できれば大したもんだ。
紀が捏造ということにするかね?w
529 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:16:39
どうやってその数字が記録されたか教えて。
神代文字?w
倍年暦説なんて、別に不思議でも何でもなかろうに。
これって、明治時代に英国人の学者が最初に言い出したんだよねw
でも、その頃は公には議論が深まらなかった。
ただ、学者畑の間では、割と論争にはなっていた。
ようやく、ここにきて、論争ができるようになってきたということ。
記紀を全否定してきた左翼さんにとっては都合が悪いだろうけどw
倍年暦というのは、世界的に見たら不思議でもなんでもない。
>>528 くやしくはないし、
>>527でもないけど…
>>523の表ならば、1か月が15日になるのかも知れない。
だからといって×2倍年にはならないんジャマイカ??
それって結局1年が約24ヶ月になるだけだろw
この倍年暦説の上で、注意しなければいけないのは
日本書紀の場合は、倍年説だけ考慮しても、真実の年代は判明できない。
まず、日本書紀と古事記の編纂目的の違いを理解することだな。
日本書紀というのは、
中国と外交する上で、日本の歴史を中国に主張するために
中国式のやり方で歴史を編纂しようとしたこと。
そのために、無理に詳しい年月日を記し、編年体で出来ている。
また、中国史書の倭の女王の記載を意識してか、
無理に年代を改竄してしまっている。(倍年暦を考慮に入れずに)
また、固有名詞も、意味に忠実なように漢字の意味を重視している。
つまり、日本書紀は、中国人が読むことを意識している。
そのために、いろんなところを改竄を加えており
中でも、年代と固有名詞の漢字名は、かなり本来のものと異なってしまっている。
それに比べて、古事記のほうは
あくまでも、日本人に見せるためだけに、旧辞、帝皇日継などを
淡々と記載している傾向が強い。
そのために、日本書紀みたいに詳しく年代を知ることは出来ないが
割と、古事記に書いてある干支没年や天皇の寿命などは
正直に記してあると思われる。
また、固有名詞は、漢字の意味よりも、漢字の発音を重視して当てている。
このへんも、日本人向けの史書であって、中国人に見られることを
あんまり意識してないのかな?と思われる。
533 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 19:16:03
>>531 ハハァ〜ン! PuPPU ! 1年が24ヶ月ですか??www
534 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 19:26:15
>>532 実年代の判明は具体的にどのようにするんだ? それを言わなきゃ始まらん。w
535 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:47:47
>532にはげどう、政権が変わる旅に歴史を書き換える必要があったので
書いてる本人がわけが分からなくなった。
太国 がんがれ!
でも・・・
537 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 20:18:37
大国氏
一か月が
>>523のように15日で一年が12ヶ月、つまり1年を二年としたならば、
たとえば西暦偶数年に即位した天皇の場合は
「偶数年では春と夏の記事だけ・奇数年では秋と冬の記事だけ」
みたいになっているのでしょうか?
それから
>>533とかは茶化さないで
ちゃんと否定するなら論理で否定してみては??
538 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 20:25:31
>>529 奈良東大寺山古墳から出土した鉄刀の銘文に
「中平□□五月丙午造作支刀 百練清剛上応星宿□□□□」
とある。拙者の倍暦計上によれば、大陸の靈帝の中平年間は当時の
日本の孝靈天皇の時代に相当している。つまり欠史八代のころには
すでにこの銘文から畿内に漢字が流入していたことが把握できる。
朝廷は大陸の使者にこういうのをどのように読むのか聴いて勉強
しただろうから、当然漢字の読み書きくらいは可能であろう。
干支の文字も見られることから、紀の年代の記述もこれを使用
出来得るわけで、記録くらいは朝飯前だろうが。w
539 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 20:30:50
>>506 確かに東日流外三郡志は偽書であり、何百年も前から伝わった
文書ではない。しかし、それは新しく書かれた文書であるというだけで、
その中にも事実は存在しうるのである。偽書だからすべてがうそであるとは
言えないのである。
540 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 20:35:20
>>537 それは紀の編者らの後付けのしたようだ。春とか秋とか、通常の
1年の場合の四季を彼らがあてがったもの。だからなおさらまずく
なったわけよ。例えば開化天皇が11/12という秋から冬に行くころに
即位してるが、ならば秋日宮、冬日宮とすればいいのに。「春日宮」
と即位の季節に違えている宮名がその真相の見えている氷山の一角。
それに開化は御名を大日日尊という。二日あれば暑いわけであるが、
11月即位は御名と不一致で矛盾である。
541 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 20:39:11
>>533 21月、22月等の月の使用の記述は記紀等の文献にないだろうが?www
>>539 20性器に掻かれた文書を信用しると言われても…
543 :
サガミハラハラ:2007/05/17(木) 20:52:22
太国さん、東大寺山鉄剣の銘文は、古墳時代に古墳に埋納する目的で
日本で入れられたものですよ。
544 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 21:15:46
東日流外三郡志は偽書だけどやはり史実をある程度反映はしていると思う。
545 :
サガミハラハラ:2007/05/17(木) 21:16:03
太国さん、東大寺山古墳の鉄剣は、古墳に副葬するために古墳時代に日本で刻まれた銘文ですよ。
546 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/17(木) 21:23:50
サガミハラハラさん
情報感謝!
547 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:45:08
>>542 近年になって書かれた偽書ではあっても、各地の伝承や民話、風習
などをもとに推測された仮説として見れば、その中にも事実は
存在し得るのではないか。
548 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 23:58:42
549 :
日本@名無史さん :2007/05/17(木) 23:59:46
まだ倍暦妄想信者がこのスレにいるのか・・・
邪馬台国について語ろうよ。
倍暦宗教信者は専用スレでがんばってね。
>>540 >例えば開化天皇が11/12という秋から冬に行くころに
>即位してるが、ならば秋日宮、冬日宮とすればいいのに。「春日宮」
>と即位の季節に違えている宮名がその真相の見えている氷山の一角。
>それに開化は御名を大日日尊という。二日あれば暑いわけであるが、
>11月即位は御名と不一致で矛盾である。
良いところに目をつけたな。
ついでに言うなら、それは二倍年暦であるだけではなく、
その欠史八代の箇所は年代を倍増させている可能性がある。
だからこそ、夏日宮ではなく、春日宮なのかも?
551 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 07:19:38
俺は畿内説には賛同できないな。絹、鉄の鏃、勾玉の出土状況など、
論破しにくい事項について徹底無視しているところが嫌だな。
552 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/18(金) 07:45:39
>>548 再度の情報感謝! サガミハラハラ氏の件は参考にするという意味です。
>>549 妄想と言える自信があるなら
>>523の表を通常暦で滞りなく説明出来ることと、
当時の天皇の超長寿を合理的に説明をしろ。それとも紀の編者達のイカサマ
記載だと言うのか?w ならば考えが単純だな。ww
>>550 水増しした理由がなけりゃぁ君の論は合理的とはいい難い。大相撲でこの前
大騒ぎがあったが、八王長というのは利害がでかいときにやるんだよ。
紀の欽明二年三月の条に
「今は古今考へ覈りてその眞正に帰す。」
とあり、紀の編者らはイカサマを真に戻すことを強調している。誤認での記載
はあったようだが、彼らは意味のない「水増しはしていないよ」と宣言して
いるんだぜ。
倍年暦は、否定するほうが難しい。
世界どこでも、最初はそうらしいし。
アフリカの奥地なんかでも、やたら寿命が長い国があったりするけど
それは暦が異なっている関係上というのは一般的。
554 :
日本@名無史さん :2007/05/18(金) 09:16:35
・世間の常識
・学界の常識
・世界はどこでもそうらしい
・定説です
詐欺師集団のマニュアル語録です。
でも、世界の学者らは、そのように計算し始めているからね。
倍年暦説が不服なら、それらの学者らを否定するしかないわな。
>>551 畿内に政権が移っても、九州では鉄器が優勢ですが?
4世紀に大和政権が誕生する前は、九州に倭国を代表する政権(邪馬台国)があったとして、
どうして、畿内に政権が移ったんですか?
3世紀に、政権が九州から畿内に移行したという証拠は、
文献にもないし、考古学的にもありません。
神武東征は文献的に紀元前の話です。新しくても1世紀頃。
>>555 現在、倍年暦説を唱えてる世界の学者を、ひとりでも挙げてくれ。
558 :
サガミハラハラ:2007/05/18(金) 12:55:29
中平年刀の銘文が国産であることについて。
中平年とは、漢の霊帝の治世年間の年号で184年から189年にあたる。
この鉄刀がなぜ日本に存在するのかについて、中国から舶載されたものであるということになっている。
倭国の誰かが中国に貢献してこの刀を下賜されてきたということである。
ところで184年といえば倭国大乱が収束したあたりの年代である。
そのことから、拙はこのときの貢献は、卑弥呼があらたに倭王に共立されたことの報告と認知を求めて
中国に貢献したと見た。卑弥呼の即位は183年とみてよい。翌年貢献したわけである。
それでは其の時にこの刀を下賜されたのであろうか?
そう考えるとすんなりといくのであるが、同じように紀年入りの物品に銅鏡がある。それらの殆どは紀年の時代に鋳造されたのではなく、
古墳時代にはいってから古墳に埋納するためにつくられたものであることは、現在ほとんどの人が認めている。
そうするとこの刀の銘文も当然、同様の事情で日本で製造されたものと考えられる。
つまり、当時(今はつたわっていない)の中国の書物の中に、倭王が中平年間に貢献したという記事があり、
それを見た大和の工人が、その年号を刀に刻み、古墳に埋納したものである。
こうみるのが最も合理的で真実であろうと考えるものである。
決して妄想ではない。
>>523 その八代天皇が後世の捏造だから、意味のないこと。
560 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:43:58
邪馬台国は土グモで、景行天皇に滅ぼされたんだろ。
561 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:54:52
>>555 倍年暦というのは、まず、どうしてそうする必要があったのか、また、何を
基準にしているのかを説明しないと単なる数合わせになってしまう。
四季のある国にしてみれば、太陽の動きに連動した一年というのがもっとも
合理的だし、月の動きで示される一月が、一番わかりやすいわけだから。
562 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/18(金) 14:23:52
>>559 津田病の症状が著しいな。w 編者側は捏造どころか
>>552のとおり「俺たちは
誤を削り真を書いたのだ。」旨主張しているぜ。今生きてたらお前は文書偽造の
濡れ衣で怒った彼らに訴訟を起こされているだろう。
8代くらい増やしたって大して利害が埋まるとは言えない。やるんだったら百代、
数百代とか増加させなければメリットは薄い。お前さんの論が無になる利害の
ほうが大きいんだろうがねぇ?ww
それと証拠があるのかな? 天皇の超長寿は倍暦で、なんのことはない、今の
人々と大して変わらぬ当たり前の寿命だからな。
>>523はそれを裏付ける。
中国人の学者が言っていたが、
日本人は邪馬台国を「ヤマタイコク」「ヤマタイコク」
って呼ぶから駄目なんだよって、言っていたぞ。
これと同じことを台湾の学者も言っていた。
おそらく、発音は当時の中国語の発音なんだろうけど、
それは完全には解明されてないとか。
でも、中国の学者も台湾の学者も言っていたが
はっきりとは分からないけど、おそらく
日本語の大和(yamato)に非常に近い発音だったのでは?と。
闕史八代の頃の記事が、日付つきで伝わってたと本気で考えてる人が
約一名いるんだね。すごいよ、すごすぎるよ。尊敬するよ。
565 :
日本@名無史さん :2007/05/18(金) 16:25:48
天皇の欠史八代は世界の常識で、世間はみなそう思っており、
良識ある学者は八代天皇の捏造であることは認めている。
学界でも定説です。
倍暦は非常識です。
>>565 捏造だとは認めてるのはいない。
考古学の力だけでは判定が不可能とは認めている。
また、倍年暦に関しては、世界中のどこの国でも
春秋暦というのを採用していた時代があったわけで。
中国でも古代ローマでもそうだ。
>>564 おそらく、暦が変更したのは
雄略天皇の時代じゃないのか?とも言われている。
欠史八代の時代ではない。
568 :
564:2007/05/18(金) 16:50:28
まあ、俺はね、八人いたっていいと思ってる。
でもね、何月何日に何があったなんて、それは行き過ぎ。
中国みたいに正史編纂の為に、起居注でもつけてたら別だがw
せいぜい、誰の奥さんは誰で、その間に誰々が生まれて、
治世中にこんな出来事があって、くらいだろ。後世に伝わるのは。
569 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 16:54:51
>>563中国の学者さんは畿内説に相当毒されているようです。
まあ、つきあっているにが日本の主流の方々なのでそう吹き込まれて信じてしまうのもしょうがないか。
文献史学で言われているのが、
おそらく初期の天皇のことで分かっていたのは
古事記にあるとおり、天皇が何歳で死んだ
みたいなことぐらいだったのでは?ということ。
帝皇日継とか旧辞とかは、ほぼ古事記のままであり
日本書紀みたいに、編年体に出来るほどの情報はなかった。
日本書紀とは、中国人に見せるために出来た書物だからね。
無理して編年体で書こうとしたために、卑弥呼とか何とかで
いろいろ混乱して、年代をいじくることになって
後世の歴史家が頭を悩ます羽目になった。
古事記のように、淡々とした書物を各豪族が残してくれていたら
後世の歴史家も混乱することがなく、研究できたんだよ。
でも、そんなこと、1300年前の人間に不服を言っても
仕方がないわけで。
>>569 中国の学者は、別に畿内説を強行には押していない。
ただ、何となく、そうじゃないの?って感じだろう。
例の三角縁神獣鏡の日本国産説を押した王さんも
邪馬台国の所在地に関しては、大和じゃないのかね?という感じらしい。
それと、中国のは考古学の以外の分野では、文献史学の研究もかなりやっている。
当然、卑弥呼と日本の記紀の対応もかなりやっている。
昼と夜があるから現在で言う一日は昔の二日にあたる、
というやつは救いようがない馬鹿
夏と冬があるから(以下同じ)
歴史を捏造するために天皇の寿命を長くしたという馬鹿がいるけど
もし、そうならば、天皇の寿命を長くせずに
天皇の世代数を長くするでしょう?
>>572 :日本@名無史さん :2007/05/18(金) 17:17:14
>昼と夜があるから現在で言う一日は昔の二日にあたる、
>というやつは救いようがない馬鹿
それと二倍年暦とは違うでしょう?
575 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/18(金) 18:20:05
>>564 漠然とイカサマを書いて日付が全部1日〜14日までに左に集合するものか?
そういうことは考えにくい。 ↓
>>523 尊敬してくれるのは有難い。孤塁は死守される。
>>555 はやく、倍年暦説を主張してる、世界の学者の名前を出してね。
577 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:35:39
太国さん他が林巡査部長の身代わりになればよかったのに…
579 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:56:31
ですがさんが劣勢になって引っ込むと 太国さんがでてくる
太国さんが劣勢になって引っ込むと ですがさんがでてくる
そう見えるのは私だけでしょうか?
580 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/18(金) 22:57:24
殉職者の冥福をいのります。
581 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 01:25:56
>>563 国の名前が似ていることが東遷説の根拠の一つにもなっている。
九州にあった邪馬台国がいつしかなくなり、近畿地方に大和国が出現する、
というわけで、邪馬台国の読み方と、邪馬台国の所在地は別の問題だろう。
ついでに言えば、倭面土国も「ワメト」国と読めば、似ていなくもない。
言葉は、聞きようによって受け取り方はけっこう異なるから。
たとえば、アメリカの場合、昔はメリケンと言っていたようだし。
九州と畿内の地名の連続について、誰かまともに言える畿内説の奴はいないの?
朝倉と大和の地名類似は九州説最大の攻撃材料だと思うんだが?
584 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 02:50:02
>>579 2〜3日前から風邪気味のためお休みしていただけ。「劣勢になって引っ込む」なんかになってない。
議論していた相手が出てこないので尻切れトンボみたくなってるだけ。
しかし林巡査部長はかわいそう。将来ある有望な人だったようだし。子は小さいし。
しかも事の起こりが元妻との夫婦間の揉め事が元での発砲だなんて!浮かばれないよね。
ご愁傷様です。
585 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 03:16:15
スレの前の方を読み返していたのだが、鏡について>>28に対して、
>>35、>>91、>>97、>>108、>>151と応答があり、畿内説は、
鏡を古く見ようとするのに対して、中国での出土状況が合わない。
>>182に対する畿内説の反論を見ていて、疑問に思うのは、畿内説の
遡上年代によると、魏や晋で流通していた鏡を全部後漢に繰上げるため、
魏や晋で流通していた鏡がなくなる。画文帯は呉の領域であり、
三角縁は中国では出土しない。
>>182に列挙したものが日本で流通していた時期は、画文帯より以前で
あり、遡上年代に従い、画文帯を200年ころからとすると、魏や晋で
流通していた鏡はなくなる。
私は画文帯は320年以降(そのほとんどが330以降)と見ている。
586 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 03:22:36
>>563 確かに僕が以前聞いたのも「邪馬台」は「やまどぅ」とかいうのが古代中国の発音で、
「やまと」に近かった。しかしだからと言って畿内の大和を指すものではなく
北部九州にあった邪馬台国、つまり「やまと」が「倭」の名称に代わって日本全体の呼び名になり
神武東征とともにその名が畿内に移り、吉備、出雲、九州などの勢力が結集して一大勢力となり「大きな倭」となった。
その「大倭」=「だいわ」が北部九州由来の「やまと」と当てて呼称されるようになっていった。
つまり「大和=やまと」は後でくっつけた当て字なのである。
イタリアがローマ帝国に滅ぼされたエトルリアの名を受け継いでいるように
イギリスが今も特定の国ではアングル人の国と言う意味のアングリアと呼ばれケルトであるブリトン人の名をも国名に残しているように、
古名は民族の誇りでもあるのだ。北海道でアイヌ語の地名が多く残り、北米でインディアンの地名が今も数多く使われているのも
同じ理由によるもの。
ですが が優勢の場面に出会ったことがない。
おはよう!
588 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 07:24:00
>>586 だったら大和に結集した「大倭」勢力が称する国名は、
「もともと大和地方にあった地名」由来じゃなきゃおかしいだろ。
>>586 九州にある山門は
神功皇后が九州に遠征した時に付けられたって
日本書紀に書いてなかったか?
748 :日本@名無史さん :2007/05/10(木) 08:25:50
纒向京の本格的な発掘調査は、戦後の昭和四十年代からはじまり、
現在百回をこえる回数の調査がなされている。
この地域の多くは私有地であり、
民家や田畑のなかに古墳が点在しているような土地である。
また代表的な古墳は皇族の御陵なので宮内庁の所管になっている。
したがって発掘調査は簡単ではなく、予算の関係もあり、
百回をこえる調査で調べられた面積は、推定される纒向京の
二パーセントていどにすぎないといわれている。
しかしそれでも、ずいぶんいろいろなことが分かってきた。
とくにこの十年の成果はめざましいものがあり、
規模からいうと飛鳥京を上まわり、
藤原京に匹敵するほどの大きさと計画性を持っていたらしい
と分かってきたのだ。
>>581 >ついでに言えば、倭面土国も「ワメト」国と読めば、似ていなくもない。
音韻を勉強しろ。
>>558 >倭国の誰かが中国に貢献してこの刀を下賜されてきた
記録されてるはず。貢ぎと下賜の記録に几帳面な中国さんがねw
卑弥呼が唯一でてくる倭人伝に書かれてない。他のどの中国の史書にも
倭の女王に刀を下賜など記録してない。倭人伝の初めにでも載ってるはずだが?
馬鹿な妄想野郎。。。
>卑弥呼があらたに倭王に共立されたことの報告と認知を求めて中国に貢献したと見た
載ってないなWWW 妄想以外の根拠頼むよW あ〜ぁw でも相手してやっただけ感謝しな。
593 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 07:56:03
>>591 音韻を勉強すれば、倭面土国はなんと読む?
纒向って九州にもある地名だよね。
九州から移動してきた王族が建てた都かな。
いきなりできてるからな。
595 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 07:58:27
>>592 倭人伝には、「五尺刀二口」と書かれている。
面土は、メタと読む可能性が高い。
597 :
SOY:2007/05/19(土) 09:00:46
>>593 倭面土国の読み。私も気になります。
このスレでは既に『ワメト』『ワメタ』の意見が出ていますが、
確かに倭面土国は『ヤマト』に近いように読めます。
私は『土』を『タ』よりも『ト』と読んでいる為、
どちらかと言えば、私も『ワメト』派です。
>>591の音韻を勉強した結果の読みも知りたい。
598 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 09:06:05
>>588 それがこの場合違うわけね。邪馬台国という名は倭人伝などを通じて大陸にも知られており
倭人も倭と呼ばれるのを嫌って「やまと」と呼ばれるほうを選んだんじゃないのかな。
内外の通称が倭で無くやまと、となり神武東征とともにその名が畿内に移り、
吉備、出雲、九州などの勢力が結集して一大勢力となり「大きな倭」となったのです。
599 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 09:16:29
>>589 それはそれとしてまた別ものでしょう。書記の謂いが事実とは限らないし。
竹取物語の富士の山の名の由来のように後で取ってつけた話の可能性のほうが高い。
山門と大和の共通性だってよくわからない。
600 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 09:26:23
倭面って醜いツラって意味なんじゃ?
「倭」ではなく「やまと」だ。と言い張る倭人に人種差別的大陸人が
「なーにがやまとだ、倭だろ」「大和でなくて倭面土だろ」
と言うようなひねくれ者はここのスレにも出てきたりする。
古代からいるんじゃないの、そんなのは。
601 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 09:37:51
>>600 「ひねくれ者はここのスレにも出てきたりする。古代からいるんじゃないの、そんなのは」
どことはいえないがいる。
>>586と
>>588の間にいる。
602 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 09:41:03
>582 :日本@名無史さん :2007/05/19(土) 01:35:56
>九州と畿内の地名の連続について、誰かまともに言える畿内説の奴はいないの?
>583 :日本@名無史さん :2007/05/19(土) 02:36:01
>朝倉と大和の地名類似は九州説最大の攻撃材料だと思うんだが?
逆に畿内から九州に地名がうつったっていうトンデモもたまにいるよな。
まつわる伝承のほとんどが九州→畿内という流れなのに。
>>588 >だったら大和に結集した「大倭」勢力が称する国名は、
>「もともと大和地方にあった地名」由来じゃなきゃおかしいだろ。
九州出身の部族が主導権を握ったからもともと九州の地名「ヤマト」を
もってきたんだろう。邪馬台国の東遷の有無は別にしても。
603 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 09:59:35
とあるTV番組で宮崎県の東国原知事に田原総一朗{だったっけ}が
「宮崎は神話のふるさと、日本のふるさと」という主旨の話をしていたが
たいていの人はみなそう思っている。そう認めたくないのはここの畿内説暗いかな?
これからは「きないせつ」ではなく人の話を「きかないせつ」に名をかえようね。
604 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 10:01:53
>>602 >九州の地名ヤマト
わざわざ九州と結びつける必要は無いっつーの。
御存知とは思うが、
「山門・山都」と「邪馬台・邪馬騰」とでは、
「ト」の音が違う。
直接の関係は無いと言える。
605 :
712@九州説:2007/05/19(土) 10:02:25
しばらく来ないとすごくレスが進んでいるなぁ。
>>602 私は次のように考えます。
畿内にもともとあった王権は(古墳を多く建設した)、
出雲出身をリーダーとしたものであったが、ある時点で、
何かの事件をきっかけに九州出身のリーダーになった。
出雲族は、もともとの出雲の地に追放・・・というか戻された。
(周が殷の子孫に祭祀を続けさせた話のような感じ)
神武東征はその事実を極限まで華々しく描いたもの。加えて、
天皇家以外にも東遷の伝承があり、それら一切の「九州→畿内」という
伝承を総合化したものだろう。原型は応神天皇の東遷だと思う。
南九州の発掘が盛んになればな・・・
607 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 10:46:42
考えてみれば、大和を「やまと」と読むのは普通ありえない。
完全に当て字の類だろうなあ。
大倭の倭を和に代えて、大和にしたとすれば、大倭も「やまと」かな。
>>607 なんだそれ?おまえバカか?
(当時の中国人)が、(当時の日本)を漢字一文字で「倭」と表記したのを、
(当時の日本人)が自分たちのクニの呼び名の「やまと」として読んだから、ということくらい常識だアホ。
610 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:31:35
とりあえずこのスレ的には、三角縁神獣鏡は、国産でOKなわけね。
>>603 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 09:59:35
>とあるTV番組で宮崎県の東国原知事に田原総一朗{だったっけ}が
>「宮崎は神話のふるさと、日本のふるさと」という主旨の話をしていたが
>たいていの人はみなそう思っている。そう認めたくないのはここの畿内説暗いかな?
もうね、阿呆か?きみは。
邪馬台国畿内説と日向神話は、別に何の矛盾もないわな。
邪馬台国畿内説は、あくまでも
2世紀〜3世紀の魏志倭人伝の邪馬台国はどこにあったのか?
という論争で畿内を押しているわけだから。
613 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:54:17
>>612 矛盾はないが、畿内説は、
記紀神話の九州偏重の理由はなんだと考えてるの?
>>605 違う。神武東征と応神天皇とは話は全く違う。
>>613 畿内説でも色々、いるだろうから分からないけど、
普通に考えて、神武天皇の曽祖父のニニギが
高天原から九州に派遣された、その後、三代にわたって
九州に住み続けたのが大きな理由でしょう?
その神武天皇は、卑弥呼よりも150年ほど前の時代の
人物だったということだろう?
>>613 まず、北部九州に弥生式土器、鉄製利器と新種の水稲技術をもって渡来した。
それが、東九州(ただし、豊前地域)経由で瀬戸内、近畿、東海、関東や
出雲、丹後、越方面へ伝播していったわけだから、
祖先が九州出身と言う伝承があって当然だと思うが・・・
ニニギ(神武の曽祖父)の父親のアメノオシホミミ(カチハヤ)は
おそらく本名は、カチハヤであり、
アメノオシホミミは出雲系の官位の名称だと思う。
出雲系の官には「ミミ」という尊称がつく場合が多く
卑弥呼の時代でも、出雲と噂される投馬国の官には
「ミミ」とか「ミミナリ」が出てきたりする。
おそらく、紀元一世紀、時の日本の支配者だった出雲王朝(大和に本拠)は、
カチハヤ(官位はオシホミミ)を九州に派遣しようとしたけど
結局、その長男のニギハヤ(アメノホアカリ)と次男のニニギが九州に降臨した。
そのうち、ニギハヤは、即、出雲王権にたてつき
自分が大和の王権を継承し、主君だった出雲王権を彼らの出自の出雲へ追放した。
その後、紀元1世紀後半、
日向に下っていた次男のニニギの曾孫の神武天皇が東征し、
兄の家系であったニギハヤの曾孫・倭宿禰命から王権を奪った。
そういう流れじゃないのか?
ニニギ(神武の曽祖父)の父親のアメノオシホミミ(カチハヤ)は
おそらく本名は、カチハヤであり、
アメノオシホミミは出雲系の官位の名称だと思う。
出雲系の官には「ミミ」という尊称がつく場合が多く
卑弥呼の時代でも、出雲と噂される投馬国の官には
「ミミ」とか「ミミナリ」が出てきたりする。
おそらく、紀元前一世紀、時の日本の支配者だった出雲王朝(大和に本拠)は、
カチハヤ(官位はオシホミミ)を九州に派遣しようとしたけど
結局、その長男のニギハヤ(アメノホアカリ)と次男のニニギが九州に降臨した。
そのうち、ニギハヤは、即、出雲王権にたてつき
自分が大和の王権を継承し、主君だった出雲王権を彼らの出自の出雲へ追放した。
その後、紀元1世紀後半、
日向に下っていた次男のニニギの曾孫の神武天皇が東征し、
兄の家系であったニギハヤの曾孫・倭宿禰命から王権を奪った。
そういう流れじゃないのか?
>>613 神武東征は、記紀神話では紀元前の話。
畿内説とはなんの関係もない。
620 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 12:25:38
>>600 >倭面って醜いツラって意味なんじゃ?
>「倭」ではなく「やまと」だ。と言い張る倭人に人種差別的大陸人が
人種差別的大陸人の部分は同意するが、醜いは言いすぎだ。
倭=醜の意味での用例を出せよw
倭人の意味は「こびと」って意味だろ。中華人から見て背が低い人ってこと。
漢民族以外の異民族は化外の民ちうことで動物扱いされる。
南蛮とかムシ偏だし、北狄はケモノ偏。鮮卑や朝鮮なんてのもサカナ偏。
東夷の中で倭が人偏とされたのは中華にとっても一目置かれる存在だったのではないだろうか。
とにかく、紀元前1世紀〜紀元1世紀にかけて
複雑な政権交代やら紛争があったんじゃないのかZ?
ちょうど、中世の応仁の乱から関が原の戦いまでの間に
複雑な政権交代や各豪族の栄枯盛衰が合ったように。
倭面土国王=米多説は俺も興味深いと思う
しかし魏志倭人伝には現れなかったような?
ここが不思議
>>623 魏志倭人伝は、すべての国は網羅してないんじゃないような気がする。
また、吉野ヶ里遺跡は最盛期は紀元100年頃で
ちょうど、帥升の107年くらいの時期で
その後、徐々に衰退していき、
魏志倭人伝の紀元300年代には、完全に廃棄された状態になって
いるんだよね。
625 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 12:43:33
やまと→邪馬台→大倭→大和
これほどすっきりした話はないだろ?
>>624 もうそこまで分かってるなら吉野ヶ里が帥升の都でいいじゃん
反対してる人たちは素直じゃないな〜
627 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 13:05:25
>>612邪馬台国畿内説と日向神話は、別に何の矛盾もないわな。
あのね。そんな単純な話じゃないの。「宮崎は神話のふるさと、日本のふるさと」
の一言にすべてこめられているのが分かんない?
これには二つの意味があって、まず、宮崎は神話のふるさと、
これは天皇家が九州出身だということを暗示してるでしょ。
もう一つ、日本のふるさと、これは日本の原点と言えば邪馬台国。その場所は大陸近く。
つまり魏から程近く、倭人伝ゆかりの地名が多い九州にあったと普通の人は考えるわけよ。
ふるさと、というのは発祥の地の意味合いで使ってるわけ。バースプレイスなのよ。
>>627 1世紀頃に、日向の人が畿内にやってきて、
畿内に邪馬台国を建国しつつ、
日向を故郷(高天原?)として懐かしんでも、何の問題もないが?
629 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 13:25:21
>>620 学校で邪馬台国を習ったとき先生が言ってたけど。
サルのような皺のくしゃっとした顔の意味も含んでると。
各国の中国への使節の中で倭人が裸足でとりわけみすぼらしい姿で書かれた絵がある。
中華という優越の立場からしてある意味嘲笑を受けてたんじゃない?
630 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 13:27:07
631 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:33:41
見ざる聞かざる言ってることも猿
633 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/19(土) 13:36:14
東国原知事は邪馬台国宮崎説なんて言ってないし
九州ですがも邪馬台国宮崎説じゃないんでしょ
634 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:36:27
>>624 倭人伝には、次のように書かれている。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
もといた男子の王を帥升と考えるのは、十分に妥当性があると思う。
少なくとも、陳寿はそのような意図で書いたと考えられる。
帥升が後漢に朝貢したのは、安帝永初元年(107年)、倭国の大乱は、桓、霊間
あるいは、漢霊帝光和中となっていて、西暦180年頃に終わったと考えられる
から、「住七八十年」も合っている。
だから、帥升の国である倭面土国と、卑弥呼が都する邪馬台国が同一である
ことも十分に考えられる。
つまり、倭人伝の「其国」は、同じ国を指しており、邪馬台国であると思う。
よって、倭面土国=邪馬台国となる。
>>634 だったら「邪馬台国はもとの倭面土国にして帥升の国なり」って書くんじゃね?
>だから、帥升の国である倭面土国と、卑弥呼が都する邪馬台国が同一である
>ことも十分に考えられる。
>つまり、倭人伝の「其国」は、同じ国を指しており、邪馬台国であると思う。
>よって、倭面土国=邪馬台国となる。
なんの根拠もなく、「つまり」と「よって」の接続詞だけで
推測が断定になる見事な詭弁論法でつねw
636 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 13:54:49
>>633 そうだけど、神武東征の舞台は宮崎だと考えてる。それと
邪馬台国も九州である事に凄く意味があると思う。
637 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/19(土) 13:55:02
九州ですがは神武東征を邪馬台国東遷に結び付けたいようだけど
記紀編年の設計上はAD247年が崇神十年、258年が崇神没
神武は一世紀
仮に記紀編年上の神武の年代を無視して、
更に崇神=神武として「崇神東征」等として認めるなら、
それはその前提上では筋は通る
ただこう云う前段をすっ飛ばして記紀を引用しておいて、
都合よく直接的に「神武」が三世紀、或いはそれ以降なんてする事は出来きない
非合法な考え
>>628 日向は高千穂。
とにかく、巻向遺跡は、紀元180年頃から建設され
およそ紀元340年頃まで続いたと思われている。
規模からしたら、後の飛鳥京以上の規模だったらしい。
孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の
間のことだよね。
>>637 非合法ってなんだよw
それはともかくとして九州ですがってのはヘンテコなことばかり言って
多数の名無しから論破されてるのに
たとえば九州王朝大好きみたいな同じ九州から援護も疑問も出ないのは何故?
まったく同じ思想で一枚岩なのか、それとも自(ry
面土国(米多国)の帥升は、あくまでも佐賀平野に居た
九州の地方豪族だったんじゃないのかね。
おそらく、戦争捕虜160人は、金印をもっていた奴国から
奪ったような気がする。
だからこそ、奴国の金印は博多湾の北の志賀島で発見された。
おそらく、南の佐賀平野の面土国の帥升に攻められて
奴国の関係者が金印を隠したんだろう?
卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html 57年〜107年というのは、ちょうど、神武天皇あたりの時代だと思うから
この時代は、中央の大和でも、王位継承で、九州分家の神武を受け入れるなど
ごたごたが相次いで、地方への統制力が弱体化していたんだろう?
いわば、中世の応仁の乱直後の戦国時代への始まりのような状態で
戦国時代に九州の大名が各々勝手に海外貿易したのと似ているんじゃないのか?
641 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 14:06:18
>>635 反論になっていない。
もっと、具体的にどこがおかしくて、その部分はどう思うのかを書くべき。
642 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/19(土) 14:08:08
>>621-624 1〜3世紀の社会情勢としては共感できる。
1〜2世紀は弥生温暖期で、西日本の夏は酷暑少雨で旱魃が繰り返された。
博多湾岸の倭奴国のある福岡平野には那珂川と室見川の小河川しかなく、
倭奴国は、旱魃による水稲作の不作が続き、1世紀から国力が低下し始めた。
この旱魃による経済力の低下が各地の国間の勢力バランスを崩し倭の大乱を引き起こした。
一方佐賀平野では筑後川と六角川があり、旱魃の被害も福岡平野より比較的に少なく、
佐賀平野の勢力が福岡平野の勢力(倭奴国)を凌ぐ様になった。
佐賀平野の勢力が吉野ヶ里の倭面土国と考えるのは当を得ている。
又、倭奴国は倭面土国に怯え、後漢に支援を求めたと考えられる。
魏に対して狗奴国について同じ事を卑弥呼もおこなったと考えられる。
しかし佐賀平野の勢力(吉野ヶ里・倭面土国)も
筑後川左岸有明海沿岸の新興勢力(邪馬壱国)に圧され徐々に衰退していった。
643 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 14:14:13
>>642 九州王朝大好き氏
弥生小氷期に平均気温が5度下がったという主張の根拠のデータはまだですか?
>>642 面土国の話までは、共感できるが
邪馬台国に関しては、大和の巻向でしょう?
あの時代の中国人と倭人の間ではどのくらいの意思疎通が図れたのであろうか?
魏志倭人伝での作者の関心事は、倭国が魏の国を中華の正統政権と認めて
使者を送ってきたことだろう。そのほかのことはどうでもいい。といった感覚だろう。
だから、何処にあるのか、どんな生活をしていたかについては余興といった
感覚で聞いていたのだろうと思う。おそらく方位とかでも大雑把にろくに検証せずに
適当に解釈して記録に残したのだと思う。
646 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/19(土) 14:19:22
自説に合わないと、いい加減に書かれたとする手法。
時々見るけど、中国正史を読んでいればそう思うわけがない。
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、
装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。・・・
難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、
銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。・・・
塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、
難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」
こういう国への使いだから人は選ぶだろうし、
実際倭人伝での社会制度、物産、風俗の描写も簡潔明瞭。
帯方郡と倭との通交は景初二年だけじゃないですよね。
見ず知らずの一見さんに行き成り「金印紫綬」なんか授けないでしょう。
朝貢を取り付けた劉夏だって、相当詳細な情報を付けて推挙したはず。
公孫時代から民間も含めてかなりの往来はあったはずだし、
特に伊都などは「郡使往來常所駐」だから、魏代になってからも諸外国からの
渡航・駐在は多かったと思う。
649 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 14:24:19
>>637 別に結び付けてはいないけど?別の事だと思ってるけど。
それにあくまで「記紀編年の設計上は」でしょ。
そんな後世の文書が数百年前の文字の無い時代のことが正しく解るかな?
650 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/19(土) 14:28:15
土器編年があるように、記紀にも編年がある
天皇の年代一つ、系譜一つ、世代一つ動かす事を合法とする為にも
その前後の氏族伝承や系譜に付いて統一的な説明が要求される
邪馬台国東遷説の為だけに、
記紀から直接神武だけを取り出して措いて、
都合のいい年代に移植するのは簡単には出来ないと云う訳
九州ですがは、一つ動かすと他が全部動く事を考えてないから平気でそんな事を言っちゃう訳でしょう
氏族伝承だって、此処と此処が何世代詰めれるかとか、他と何世代分シフトさせれるかとか
この文献のこの説話は、この文献のこの説話の移植だとか、ここが何世紀以降の偽伝承だとか、錯誤だとか
ここは記紀以前の此方の伝承体系だとか、もう一流の伝承体系だとか
文献史料には相互に依存性、拘束性が在る訳だから
記紀を引用する以上は、こう云う観点を無視した論理なら非合法
651 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 14:34:21
>>639 第一そんな疑問を持つ事自体がおかしい。何人もいるのにすべての意見がぴったりと合うわけが無い。
意見が食い違うのならそれでいいんだし忌憚無く疑問をどんどん相手にぶつけていけば言いだけの話。
別にお友達してるんじゃあるまいし。当たり前の事を疑問視するのはやめてちょうだいね。
652 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/19(土) 14:38:14
>>538で言ったが文字はあったと思うね。
それに神武即位の辛酉も弓に止まった金光の鵄にちなんでその年即位となっ
たとすれば、辛酉も読めた漢字ではあるまいか。
653 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 14:41:43
>>642 するってぇとですが氏は
>>642の
>しかし佐賀平野の勢力(吉野ヶ里・倭面土国)も
>筑後川左岸有明海沿岸の新興勢力(邪馬壱国)に圧され徐々に衰退していった。
は基本的には同じ考えですかい?それとも異論ありますかね?
654 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 14:43:32
>>650 天皇の年代一つ、系譜一つ、世代一つ動かす事を合法とする為にも
大体「倭人は四季を知らず」で年代の数え方にも異論がある中参考までならともかくとして
詳しく論ずるには資料が足りなさ過ぎ。
655 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/19(土) 14:49:16
史実上の年代と設計上の年代がそもそも一致するかなんて事は保証出来ない話
でも彼等は、歴史上の特定の定点を意識していて、
そこからは逸脱しない伝承で揃っているのはほぼ確実
そこには紀年上の荒唐無稽な話は殆どない
656 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 14:49:58
>>653 吉野ヶ里は倭面土国に間違いないんですか?
僕は吉野ヶ里はかなそな国だと思ってるけど。
>>648 魏と倭の力関係を考えれば
倭の使いが帯方郡どまりなのは分かるが、
魏使が倭の都に行かないというのは
あまりにも怠慢じゃないのか?
そういうことがあったという
記録があるのだろうか。
658 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 14:55:46
>>655 荒唐無稽ではなかったにしても、文字が無かった時代に後世にどのようにして
伝わったんでしょうね?イスラエルの神エホバも元々は本当の名があったそうで
神聖なものを文字にしなかったため長い間に忘れられてしまった。
文字にしなければそれと一緒で、忘れ去られるんじゃないだろうか。
659 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 14:59:05
>>655 まして「天皇の年代一つ、系譜一つ、世代一つ動かす事を合法とする為にも
その前後の氏族伝承や系譜に付いて統一的な説明が要求される 」
とまでいうならよほど正確でないと意味を成さないのでは?
誤差があって50年〜100年ずれてました。では全く根拠を失ってしまうわけでしょ?
>>655 >そこからは逸脱しない伝承で揃っているのはほぼ確実
仮にそうだとしても、「定点」が実在したものか、
氏族同士が連合するにあたり、伝承をすり合わせたのか、検証するには、
証拠不十分。
征東大将軍は、利口な人だから、それくらい理解してるね?
661 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/19(土) 15:03:02
九州ですが氏のいう「倭人は四季を知らず」とか、文字も無いとかは、
ほとんどの倭民はそのとおり読めない状況だったということであろう。
がしかし、魏側を親交が進めば女王国にも漢字流入していくのは事の成り行き
であり、中には興味を持って使者に質問したりして研究し読める者が少々
現れて来ると思う。大勢的には殆ど無学的人々ばかりだったと思うが、うち
一握りは利巧な人物もいたに違いない。それらが読めたろう。
662 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 15:06:25
>>661 そうですね。ひょっとしたら曽我氏の滅亡とともに失われたと言う歴史書に
{なんというんだったか忘れた}載っていたかも。
663 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 17:31:32
>>655 >特定の定点
卓見だと思います。
その定点は、やはり神武即位や雄略即位あたりでしょうか?
なぜ、6世紀、大和の保守派が仏教導入を嫌がったか。
それは、
真性仏教というのは、先祖崇拝を禁じている。
これは先祖崇拝の神道には相容れないことである。
そして、もうひとつが、これは邪馬台国問題に関係するのだが
仏教は文字で書かれた教義があるので、
これが伝わると、庶民に幅広く文字文化が伝染する。
それによって、幅広い層に政治的な野心が生まれやすく、
たとえば、革命がやりやすくなる。
神道では、ミコトは、一部の特権階級のものであって
庶民に政治的な介入を許さないわけで。
おそらく、邪馬台国時代は、漢字のやり取りは、一部の特権階級では
あったと思う。そのそも、中国と高度な外交をしていたわけだから。
665 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:24:09
>>613 >記紀神話の九州偏重の理由
これは考古学の守備範囲ではなく、民俗学や文献史学の範疇に入るが
おおまかに2つの説がある。
1、ホムタワケ以降に創設された神武伝承によって、彼の勢力の歴史的正当性を強調しようとした。
また天武天皇もその直系に当たるとの主張が必要であったので、さらに補強した。
2、対大陸外交において、朝鮮半島の諸国より日本(倭国)が由緒ある歴史を有しているとのアピールに
古代から栄えた北部九州のブランドを利用した。このため記紀上の建国である紀元前660年が
半島諸国より古く、しかし大陸古代国家よりは新しくされる必要があった。
666 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 20:39:05
>>664漢字のやり取りは、一部の特権階級では あった
可能性は当然あるでしょうね。
ただそれを裏付ける証拠が出土すればなお確実性が高まるんでしょうけど。
最古の文字の出土例は何世紀だったですかね?また木簡や土器に書くなど
弥生時代の文字さえ見つかれば。
倭人は言霊に精霊が宿るといって神聖なものを文字にするのを特に嫌ったようだ。
対して中国では甲骨文字という吉凶を決する占いから文字が生まれたので
文字に霊が宿るとされていた。仏教の普及は倭人の教育改革だったとも言える。
667 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:42:15
上の方でキチガイ畿内説
>>364が面白いこと言ってたね。
>考古学は様々な分野を横断する総合科学であって、
>もはや文献史学者はその主役たり得ない。
>言葉遊びや数字遊びは無意味である。
668 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:00:28
九州説=右翼、畿内説=左翼。
九州説・神武東征は史実であり、前後関係を考えると、
九州に邪馬台国がなければ整合性が取れない。
畿内説・神武東征や天孫降臨など後世の空想の産物であって、歴史とは全く関わりない。
したがって、邪馬台国は九州とは関係ない畿内に求めるべきである。
畿内説・畿内に古墳が多数存在している。これは単に文明文化の様子を表すだけでない。
この古墳を建設するためには人民の強制的労働力が不可欠である。これを断行できたのは
すべての差別の根源である天皇家にほかならない。邪馬台国こそ天皇家の源流であって、
したがって、邪馬台国は畿内に求めるべきである。
669 :
太:2007/05/19(土) 21:10:25
畿内説は紀無い説であり、朝廷と近隣に女王国があるなら、それは
遥か遠い、日本の情報が行きにくい大陸にある倭人伝以上に卑弥呼
の情報がより詳細に記紀に載る。
女王国が畿内の地域にあるなら地図上では朝廷と目と鼻の先だ。
ならばうんと記紀に卑弥呼の人となりが書かれるに違いない。
それがないということは、女王国は九州にあったということだ。
九州ならば畿内より大陸に近いから、向こうの倭人伝のほうのみ
卑弥呼の記事が載るのは当然であ〜る。
670 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:16:34
671 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:16:49
>>668 >古墳を建設するためには人民の強制的労働力が不可欠である。
イヤイヤ働かされていたとは断定できない。
神様である天皇様の御陵の建設に携わることのできる僥倖を
心から感謝しつつ、喜びに打ち震えて作業をしていたかもしれん。
その時代の思考回路からは、喜んで参加していた可能性の方が高い。
ピラミッドの建築もそんな感じだったという説もある。
672 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:23:09
>>671 古墳の周りに大勢の人を埋めていたとしても?
>>668 >すべての差別の根源である天皇家
アメリカ合衆国は建国以来、世襲君主を認めない共和制の国であるが、
それでも黒人差別は長く続いた。
貴君は米国の黒人差別の責任まで、日本の天皇家に負わせるおつもりかな。
674 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:42:31
>>667 文献史学者が考古学の主役たりえないのは事実だろ
675 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 21:50:36
>>671 大仏鋳造の際も炉の破裂や銅の毒でたくさんの犠牲者が出た。
その死体は傍らに放置されうずたかく積まれていたという。
弥生時代の墓は奴隷階級中心にに造らせたと考えるのが妥当じゃないかな。
古代エジプトのようにオフシーズンの農民を救済するようなヒューマニズム的な王政は
無かったと思うけど。
676 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:57:11
畿内説って左翼というより、考古学の権威付けの目的だろ。
九州ですがは、本当に好き勝手に妄想するのが好きなんだな。
678 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 22:02:35
>>668 ・右翼的九州説
神武東征は史実であり、九州に存在した邪馬台国はヤマト王権の前身である。
邪馬台国など吸収政権が畿内に遷移したのがヤマト王権である。
・左翼的九州説
九州に存在した邪馬台国は畿内のヤマト王権とは無関係であり、九州の独立勢力である。
※この場合は、神武東征は史実とするものと虚偽とするものに分かれる。
・右翼的畿内説
神武東征や天孫降臨などすべて歴史上の事実であり、邪馬台国も連綿と連続するヤマト王権の一部である。
・左翼的畿内説
神武東征や天孫降臨など後世の空想の産物であって歴史的事実ではないが、
邪馬台国畿内を中心とする政治的勢力の中心として存在した。
>>669 日本書紀は神功皇后=卑弥呼という立場で書かれているだろ
つまり神功紀まるまる一巻が卑弥呼についての記述ということになるな
680 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/19(土) 22:29:40
>>679 神功皇后が卑弥呼だということは成立しないですね。
もしそうだつ言うんなら、紀の神功39年等の記述をストレートに
認容したわけで、そのままだと後代の應神、仁徳の寿命がそれぞれ
111歳、143歳になり、こういう生物学的に考えにくい両天皇の
連続超長寿を肯定せざるを得なくなる。
この矛盾を無くして神功皇后が卑弥呼であるとするには、水増し
年代を差し挟むとか以外に考えられない。ところが、紀の欽明2年
3月の条に「今は古今を考へ覈りてその眞正に帰す。」と、紀の
編者連は、俺たちは今までの文に誤が混じっているから分別して
真正に直している。イカサマはしていませんぞと主張していること
から、その位のことで文書偽造はしていないと観るべきで、その上
で過失による間違いはこれはやむを得ず出たということは言える。
倍暦の計上から、実の卑弥呼の年代は崇神のころである。
かようなわけで、神功皇后は卑弥呼ではありえない。
巨大な墳丘墓建設は、確かに大勢の人間が必要だね。
この人的資源を通年使役するなんてことはかなり無謀なことだと思う。
>>671 当時、水稲の耕作期である夏季と耕作不適期の冬季では、
農業生産への就業時間がどの程度違っていたかも詳らかではないが、
やはり、治水事業や開墾、道路建設などの大規模土木工事は
農閑期に行われたと考える方が合理的。
専業的な建設土木工集団とか、奴隷組織とかがあったのなら別だが、
中世以降でも見られるように、普通は、専門家は技術面でのリーダー
だけで、主力は一般の地域構成員で占められるはず。
墳丘墓の建造も大規模土木工事であることに違いはないので、
建設従事者は同じだと考えましょう。
農閑期とは言え、膨大な労力を費やす以上は何らかの見返りが無ければ
事業の円滑な遂行は困難だと思われる。
治水事業などであれば、自らの生命財産の安全確保や生産性の向上と
いう利益に繋がるわけであり、労力の提供も容易であろう。
これが、首長墓となるとどの程度の利益が認識できるか?
当時の一般民衆の宗教観も不明なので想像になるが、
宗教的シンボルとしてだけでは、100%のエネルギーを引出すことは難しいと思える。
なので、周濠を灌漑用池として併用するとか、建設用の道路を建造終了後も
物資の効率的な輸送路として活用できるようなものにするなどの付帯事業も
行われていたのではないか、これはオリンピックなど、現代の公共事業でも見受けられる
ことでもある。
>>668>>678 古代史の解明に現在の政治的立場やイデオロギーを持ち込んでも、
何の役にも立たない。
右翼だの左翼だのレッテル貼りは、古代史解明には百害あって一利なしと思う。
現在の天皇制を将来どうするかといった問題は、政治板や政治思想板があるから、
そちらで自由に議論してくれないか。
しかしひと言だけ言っておく。
いまの天皇制は、現行憲法の改正で廃止できるわけだが、
その改正の是非を問う手続きを定めた国民投票法が未整備、未成立では、
現行天皇制はいつまでも維持されるよ、左翼さん。
>>678 >右翼的畿内説
こんなものは存在しないよ。
もし、「自分はそうだ!」とか言うヤツがいたら、
それは大いなる自己矛盾にも気づかない、ただの○鹿w
684 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 22:43:01
>>675 その考えもあるとは思うけど、「奴隷階級中心」は違うと思う。
邪馬台国が徴税システムを持っていたことは魏志にもあり、
租税としての労働力を動員していたと考えられる。
平原や吉野ヶ里墳丘墓では、鳥居を思わせる跡があり、記紀でも
死者を弔う祭祀をしたことが書かれているし、特殊器台や埴輪などから
墳墓、古墳完成後に大勢が参加した祭祀が行われていたと考えられる。
大勢が力をあわせて、墳墓、古墳を作り、大勢で祭祀を行うことに
より統治に役立てるという意味もあり、ポジティブに古墳築造をしていた
と考えた方が良いと思う。
> 右翼だの左翼だのレッテル貼りは、古代史解明には百害あって一利なしと思う。
と
> 現行天皇制はいつまでも維持されるよ、左翼さん。
との矛盾の解釈が難しい。
最後の段落は別の筆者の手によるものか、
もしくは後代に付け加えられたものとみるのが妥当であろう。
686 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:07:09
ヤマトに最初に200メートル超級の大古墳が完成したときは、みんな
「バンザ〜イ、バンザ〜イ」て肩を叩いて喜び合ったんじゃない? 上から下まで。
そんな気がする。
ビッグなプロジェクトって、一労働者であっても案外誇りに思うものだよ。
688 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:25:36
>>687 私もそう思う。
出来たばかりの古墳は、草木の1本も生えていなくて、巨大な物体の全部が
葺石に覆われて、周囲には広い周濠がめぐらされ、壮麗な器台・埴輪が並べられ、
その時代の人々が見たこともない異様な神々しさがあったと思う。
それを作った人々は、満足感を持ったと思う。
689 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/19(土) 23:44:41
>>688 僕はそうは思わないなあ。それは造る方の論理であって、造らされる側は
何でこんなもん造んなきゃいけないんだ、との自己葛藤との連続だったと思う。
時間の自由は無いわ、給料が出るわけでもないわ、過酷な労働だわで
拘束状態の人間が無理に働かされていたと言うイメージしか浮かばない。
王族をはじめ土木建築指導する側の一握りの人間が大勢の労役を強いていたと言う感じ。
古代エジプトは今ある殆どの保険が揃っていたと言うし、
古代とはいえ日本の江戸時代なんかよりよほど高度の文明社会だったといえる。
倭国とは全く状況が異なる。
690 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 00:07:59
>>689 そこらへんの見方の違いは、時代背景から構造主義的な人間観を
どこまで取り入れるかの違いかと思います。
私は古代の人達は、王(天皇)を神と崇める感覚が染み付いていて、
人権意識もなく、王に奉仕することを至上の価値とする価値観があったと
見ています。
王族も庶民を「同じ人間」とは考えていなかったでしょう。
691 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 00:28:42
>>690 今でこそ台風は低気圧が発達したもの、地震は地殻の変動、
雷は電気現象、伝染病は細菌やウイルスが原因・・・・と
近代以降の自然科学のおかげで解明され、我々は不思議とも思わないわけだが、
古代においては、こうしたものはまさに神秘そのものであったろうと思う。
「人権意識」もそうだし、人々の自然に対する感覚も、古代はまるで違っていたと思う。
古代王は、また執政官は、人々にとっていったいどのような存在であっただろう。
692 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 00:37:48
>>689続き
古代エジプトは保険が完備されていたー。これは人権社会だった事の証。
翻って現在の日本はどうか。未だに人権というものがよく解っていない様に見受けられる。
林巡査部長殉職事件一つ見ても殉職した警官がいると言うのに犯人に対して「貴方を安全に保護したいのです」
などというわけの解らない人権の乱用、混乱ぶり。
犯人が社会のルールを勝手に破っておいて人権云々言う資格は無い。
即射殺してでも警官の方を守るべきだったと思う。
加害者を過度に守る愚昧でこのトンチンカンな日本の現在社会の風潮は、
家庭環境や教育現場に暗い混乱の影を落としている。それにさえ気付いていない。
未だに人権無視。人や動物の命を軽く見る。要するに今の日本の大人は莫迦なのよ。
今でもこんな調子だから古代に人権を保障された人々が労役をしていたとは思えない。
奴隷と言わないまでも身分の低いある程度自由を拘束された者によっての作業だったと思う。
九州ですが
黙れ
おまえの妄想を聞いてるやつは誰もいない。
694 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 01:18:01
>>693 ほう。そこまで強く言うなら古墳が国をあげて
老いも若きも喜んで造ったとでも言うその根拠を示してもらおうか。
示せなければ黙るのはどっちのほうでしょうかねえ。
早く示してもらいましょうかねえ。
古社には崇神の創建と伝わる神社が多い
中央からの奉幣して社殿も寄進したという事だろう
これは何を意味するか?
一面、地方の神を称える事で外地を宣撫する、“言むけ柔わす”政策に見えるが、
見方を変えれば、地方豪族の祭って来た神を半ば公が接収するという中央化の一翼に他ならない
大王の代理が各地を奉幣してまわるという事は即ち祭祀方式の画一化という事であり
社の建立も“見えざる神”を見える形にする、しかも大和様式の社殿として可視化するという荒わざ
まさに大王政府のプロパガンダになのだ、銅鐸の終焉と鏡の頒布もこれを裏付けていると言えよう
そして大和には巨大古墳が作られるのだ、これは大王の墓であると同時に国家祭祀の施設でもある
つまり、崇神の時代に“宗教の中央集権化が試みられた”という事なのだ
まさに祭政一致の時代らしい政策だ、時の大王が「崇神」という贈り名された意味がそこにあるのだろう
696 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:35:19
崇神=神武
697 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:36:33
あるいは欠史八代も居たが
ヤマト政権の成立が祟神のとき。
698 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:37:36
神話をつくったのが祟神だから。
支配者が自分の神話をつくりたがるのは古今東西共通。
699 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 03:06:40
巻向が栄えてた頃の王も、今の天皇家だったのかな。
途中で天皇の祖先がやってきて、祟神の代で乗っ取ったかな。
700 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 04:16:43
>>694 ですがと
>>693のののしりあいの前に、
>>620で俺は
>>600の
>倭面って醜いツラって意味なんじゃ?
に対して「醜い」という意味で用いた用例を挙げてくれといったのだが、
答えはまだかね?
>>629みたいな
>学校で邪馬台国を習ったとき先生が言ってたけど。
っていうのは用例とはいわないんだけど。
701 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 04:22:20
>>693 論破された腹いせに、言うに事欠いたこのレスはまだ完結していませんけど。
僕の話のどこがどう妄想でその論破はどうしたのでしょうか?お待ち申しておりますのに。
それも出来ずにただ八つ当たりで言ってるのなら素直に「どうもすみません」と
お謝りになったらいかがでしょう。そのほうがきっとスッキリなさると思いますよ。
702 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 04:28:32
>>700 だから「倭面って醜いツラって意味なんじゃ? 」ないの?と疑問文になってるだろう。
いちいちそんな事まで説明が要るのかねまったく。
学生のときこのように聞いたんだけど真偽はいかに?という意味なんよ元の文は。
余計なこと言わずにそれに答えさえすればいいだけの話だ。
703 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 04:44:11
>>700ですがと
>>693のののしりあいの前に
って、誰よ!この>693の人間!いきなり話の本筋をたがえたレスして。
「おまえの妄想を聞いてるやつは誰もいない」など内容も失礼極めて。
こちらのレスをいちいち読んでるからこそ妄想だのなんだのといってくるんとちゃうんか。
あらこっちまでおかしな物言いに・・。
でもそういえば畿内説らしいのが出てこないような気が。ということは九州説同士?もめて潰しあうのを
高みの見物と決め込んでる可能性があるということか。いつも姑息な連中だからありえるかも。
704 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 07:03:52
>>700 そして「ですが」って。
気安く呼ばんといて。
で、す、が、の最近は
誤(ママ)ることいっぱぁ〜い
706 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:23:53
>>693 人の意見を妄想って言う奴の気が知れないんだが。
邪馬台国はエジプトだったとか言うならともかく
たかだか九州って言ってるだけだろ。
畿内説ってこんな奴らばっかなの?
>>705 お前も煽るな。
「結論」だけが問題なんじゃなくて、
結論に至る過程が「妄想」なんだろう。
何らかの検証を行うでもなく、都合の悪いことには事実さえ否定し、
「思う」「思う」の連鎖から無理やりトンデモ説に結びつけたがる。
これを「妄想」と言う以外に表現のしようがあるまい。
708 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 12:06:59
>>707都合の悪いことには事実さえ否定し、
事実?事実じゃなくて捏造に置き換えてこうじゃないの。
「都合の悪いことには捏造さえ否定し、」
あんた何番のどの説の人間か教えなさいよ。誤りを正してやるから。
妄想編
通貨さえ無い時代に通商連合なんかあるわけない。
物々交換は交易ではない。
人の往来によって土器が運ばれ広域的広がりをもっても人の交流は無い。
壱岐対馬は南北に市糴していてもそれは米不足だからなのでかまわない。
古代地中海やオリエントは文明発祥の地だから通貨なしの交易が行われていてもかまわない。
吉野ヶ里のように厳重な集落があるのだからトルキスタンのような自由な行き来はなかったに違いない。
自給自足率は100%に近い。だけど海産物と山のものは交換して手に入れたがこれは交易ではなく(島国でも古代オリエントでもトルケスタンでもないから)物々交換だ。
交易、通商に替えて、物々交換連合と呼べば好いんじゃねーの?
>>710 「商」という言葉に、「貨幣を交えて」という意味があるというわけ?
>>711 いや、ですが通貨無しの「通商」を認めないからさ。
「物々交換連合」なら文句ないんだろうw
713 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 13:20:13
妄想というより、単に意地張って何が何でも認めないって感じですね。
ですがさん、もし物々交換が通称に含まれないのだとしたら
あなたの大好きな九州の邪馬台国は、魏や晋とも通商していなかったことになりますよ。
なんせ後漢末から隋に至るまで、大陸では通貨経済が完全に破綻し
物々交換によっての経済活動だったのですから。
これも通称とは呼ばないのですね、あなたの考えでは。
714 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 13:31:26
とにかく、九州ですがさんのスタンスは
いかなる反論も認めない、たとえ明らかに自分に非があっても絶対に認めないと
それを笑われたら、罵倒で返すいうものだと
スレ住人のみならずRONも十分に理解したでしょうから
一切のレスを返さないようにすればいいのですよ。
典型的なかまってちゃんじゃないですか。
かまってもらうのが嬉しくて嬉しくて仕方ないのですよ、ですがさんは。
正解を教えようが、煽りで返そうが、いずれにしても彼を喜ばせるだけなので
徹底的に無視すれば、そのうち消え・・・はしないな、違うハンドルで再登場するでしょう。
715 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 14:49:21
>>693>>709>>712>>713>>714 もともと、どういう話だったかというと、倭人伝の謂いが、
1、「奴国が女王国の境である」としてる事。
2、奴国はあくまで北部九州であると考えてる事。
3、「それ以外の国は遠く離れている為詳しく述べる事が出来ない」という記述を
九州と本州の境だと考えてる事。
などがベースにあってのこと。なお
4、倭人伝の方向はさほどの誤差は無い。と考えており、
5、南へ水行二十日で至る投馬国は有明海を南下すると考える。{九州南部}
その上でそちらの{通商連合}という言葉を聞き、本州と九州の交易は殆ど無いと考えた。
なぜなら通商連合を結ぶほどの交易を行っているなら
「それ以外の国は遠く離れている為詳しく述べる事が出来ない」{奴国が女王国の境である}
などという筈がないからである。
そっちが「土器の出土が交易の事実を示している」と主張するから
6、その土器編年は正しいかどうか疑問だ。根本的に見直したほうが良い。
といってるわけ。
たとえ例外的に交易のような事実があったにしろ、
7、近所の農家のおばさんが近隣と大根と白菜を交換したからと言って
通商連合などという大げさなものかよ。
というのがこっちの言わんとするところであって、これが僕の主張なのよ。
主張してどこが悪いんだ!ええっ!
716 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 15:23:12
大和朝廷が発祥地を隠すためにどのような方策をとったか。
第1に、皇族たちが大和朝廷の発祥の地が四国にあることを絶対に
口外しないことを誓約させています。天武8年(679年)のことであり、
これを「吉野宮の会盟」といいます。
第2に、大和朝廷の発祥の地が四国にあることを隠すための
カムフラージュを施した記紀を編纂したことです。
第3に、記紀の記述を信用させるために、各国々に「風土記」を
編纂させ、そのなかに記紀の記述を裏付けるような記事を掲載させた。
さらに、万葉集を編纂し、歌でも朝廷の発祥地を隠したのです。
第4に、全国各地にカムフラージュ用の神社を創建したり、場合に
よっては山を築いたりしたのです。そして、朝廷の発祥地である阿波
へは他国者を立ち入らせないようにしたのです。
ざっとこんな具合ですから、記紀や万葉集などから、いくら邪馬台国を
探そうとしても見つからないのは当然のことなのです。最大の疑問は、
このように歴史をゆがめるようなことをしてまで、朝廷はその発祥地を
なぜ隠そうとしたかです。
結論をいうとそれがわかってしまったら、唐が契約の箱(アーク)を
奪いに攻め込んでくるという恐れがあったからなのです。当時の朝廷は
極端なほどに唐来襲を恐れていたのです。それは白村江の戦いで、
日本は唐の水軍に敗れ、惨敗しているからです。そして、その結果
百済が滅び、国が滅びることの惨めさを身にしみて知ったからです。
もうひとつ理由があります。それは、ちょうどその頃、唐ではイラン人を
中心とするキリスト教の一派、景教によってキリスト教が流行り始めた
ということです。こんな時代に、もし「日本には秘宝契約の箱ある」という
ことが唐にわかってしまったら、本気で奪いにくる可能性は十分あった。
717 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 15:32:25
今週は、穏やかな週末ですね。
>>585でも書いたけど、畿内説の遡上年代を採用する人達は、
魏や晋で当時流通していた鏡は、どの鏡だと考えているのだろう。
彼らは、魏や晋の時代と思われる鏡、つまり古墳時代が始まる前の時期に
九州を中心に分布している鏡を、全て後漢時代まで繰り上げるので、
魏や晋で流通していた鏡がなくなる。
遡上年代を主張する人達は、本気であの考えを述べているのだろうか。
718 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/20(日) 15:43:27
阿波の国 剣山か〜?!
719 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:16:28
>>714 学術てのは、新しい発掘結果が出てきたらそれに応じて自説を修正してしかるべきだと思うんだが。
考察というものは常に結果に対して誠実でなければならない。
自説が変わるということは研究者にとって決して恥ずべきことではなく、
むしろ自説に拘泥して現実が見えなくなった研究者ほど醜いものはない。
720 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:38:09
きちんと見てなかったんだけどテレビで東南アジアの遺跡(多分、アンコールワット)を特集していて、
漢代の物だと三枚の銅鏡が出ていて、二枚の縁は帯状になっていたが一枚だけ縁が台形になっていた。
三角縁の前段階とは考えられないかな?
721 :
712@九州説:2007/05/20(日) 18:20:46
>>695 >つまり、崇神の時代に“宗教の中央集権化が試みられた”という事なのだ
>まさに祭政一致の時代らしい政策だ、時の大王が「崇神」という贈り名された意味がそこにあるのだろう
私は、「崇」という字に関して、そういった従来(?)の解釈もアリとは思いますが、
どうしても「崇峻」「崇道」「崇徳」の「崇」と同じ意味をあてはめて考えてしまいます。
722 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 19:08:16
邪馬台国に関しては、数多くの説があると思いますが、
いろいろな説をまとめてある本って無いですか?
ネットでもいいんですけど、できるだけ客観的にまとめて
あるやつがいいんですけど・・・
724 :
SOY:2007/05/20(日) 19:58:20
>>722 >邪馬台国に関しては、数多くの説があると思いますが、
>いろいろな説をまとめてある本って無いですか?
私が知っているところでは『東京堂出版 邪馬台国を知る辞典』があります。
この中の『邪馬台国論争の歩み P133〜P163』に日本書紀から榎一雄までが
読みやすくまとめられています。
>>724 >榎一雄まで
「邪馬台国所在地論争史」みたいなテーマだったら好いかもしれないけど、
「いろいろな説」って言うことであれば超古過ぎじゃないのかな?
726 :
SOY:2007/05/20(日) 20:42:25
>>725 >「いろいろな説」って言うことであれば超古過ぎじゃないのかな?
『東京堂出版 邪馬台国を知る辞典』
邪馬台国論争の歩み P133〜P163の後、
考古学上の邪馬台国 P165〜P186といった内容で、
戦前、戦後、1970〜80年代、1989年以降と説明が続くので
基本を押さえるには悪くはないと思ったのですが…
>>726 平成11年刊といっても貴方自身が「榎一雄まで」と紹介しているように、
最新の説はほとんどスルーじゃないの?
読まずに言うのも何だが、特に編者の一人「武光誠」と言う人は、
最新の畿内説には「理解の無い」タイプだよ。
ここにも多いが、昭和までの論争史を通読して、「古い機内説」「古い九州説」の箍が嵌ってしまうと
相手の論旨を曲解、誤解することにもなる。
読むのなら、あくまでも「過去の論争史」であり、現代に通用する説ではないことを認識して臨むこと。
728 :
722:2007/05/20(日) 21:10:57
>>723-727 みなさん、ありがとうございます。
今まで、邪馬台国に関することについていろいろ本を
読んで、自分なりの考えをまとめてみたいな〜と考えて
いたんですけど、なかなかまとまった時間が取れずに・・・
で、最近少し時間に余裕があるので、とりあえずいろんな
説に触れられる本が無いかな?と思ったんです。
ここのスレはたまに見てますけど、私にはまだまだ難しくて。
とりあえずみなさんのご意見を参考に私自身でも探してみます。
>695
明治政府の行った国家神道と同じことが試みられたと言いたい
731 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:15:04
>>727 >ここにも多いが、昭和までの論争史を通読して、
>「古い機内説」「古い九州説」の箍が嵌ってしまうと
>相手の論旨を曲解、誤解することにもなる。 読むのなら、
>あくまでも「過去の論争史」であり、現代に通用する説ではないことを認識して臨むこと。
ずいぶん偉そうな物言いだな、おい。
お前自身はいっぱしの学者なのかもしらんが、
「〜現代に通用する説ではないことを認識して望むこと。」
相手が初心者だからって、お前は何様だよ。
お前のそういう人を見下す態度がダメなんだよ。
普通の物言いができないのか?
732 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 23:18:59
>>709は
出てないようだが、まあよくもこんな紋切り型にして
誤解を生むような箇条書きに出来るもんだとあきれるばかりだ。
話の前後というものを全く理解せず無視していることからも
頭が回らない硬直した考えの人間である事が解る。
通商連合も「ある」と言ったり「ない」と言ったりしてるようであるが広域かどうかで違う。
畿内と九州まで広域だと無い。と言えるし、畿内だけならある、といえるだろう。しかし邪馬台国ではない事になる。
などと複雑。それを通商があったと言った後、無かったと言うとそこだけ持ってきて
「おまえさっきあったと言ったじゃないか!」と言う馬鹿も世間にはいるが
時と場合で違う結果になる事が理解できないでいるのである。
なぜこんな当たり前の事が解らないのか不思議だ?
733 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 23:25:58
>>727「古い機内説」って。
学者にしては字の変換が間違ってますけど?
機内食でも食べながら来たとかですか?
かまって君は消えてね
735 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:33:42
阿蘇神社でググッたけど凄いな、ここ。
紀元前2世紀ってマジ?
736 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/20(日) 23:36:13
>>734まだいたの?!おどろくー!
こっちの質問に何も答えられなくなった上に。
よーく恥ずかしげも無くレス出来るねえ。
厚顔無恥にも程が。ああ恥がわかんなかったのね。
頭の悪い「もんきりさん」。
737 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:42:51
>>731 「九州説は死んだ」「九州説は妄想」という題目を振りかざし、
考古学界だけの狭い世界でしか優位を保てない畿内説論者の
数少ない活躍の場だから放っておこう。
738 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:43:09
四国も怪しいけどなあ・・邪馬台国ではないだろ。
投馬辺りじゃねーの?
全っ然倭人伝と合わないけどWWW
739 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:49:01
四国も、出雲「的」な場所なんだよなぁ。
どうしてコテと名無しを使い分けるの?
741 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:57:56
742 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 00:15:15
阿蘇の宮氏職の家は日本で天皇家に継ぐ古い家柄だそうだ。
つまり天皇家除けば出雲に次ぐってことだね。
武光 誠 は、どうだろう?
前から本を読んでるけど、彼もだんだん畿内説に歩み寄ってるようだけどね。
誰かと違って、がちがちの九州説でもなさそうに思う。
彼が、最新の畿内説をきちんと理解したら、面白い視点の本を出してくれるんじゃないかな?
畿内説が有利になってきたのって
考古学上の進歩があったからだろう?
10年位前までだったら、九州説でも良かったんだけど
流石にここにきて、九州説にしがみついていたら
沈み行くボロ舟に乗る船員状態だから、まず〜という感じになってきた。
745 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 00:36:07
嘘の歴史がまことしやかに語られるようになったら
これほど日本と日本人にとって嘆かわしい事は無い。世界に恥を晒す事になる。
だからしがらみは学問、教育現場にあってはならない。このような議論一つにおいてもだ。
>>744 >流石にここにきて、九州説にしがみついていたら
>沈み行くボロ舟に乗る船員状態だから、まず〜という感じになってきた。
そういうこと。
古代史を調べれば、まず、3世紀の九州勢の東征なんてことが無いことは自明となる。
すると、九州説の場合、邪馬台国は3世紀末に消滅したと結論しなくてはならないが、
受け入れられるかどうかだな。
747 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 00:47:31
>>743 武光は、邪馬台国は北部九州で、同時期にマキムク王権も存在し、のちに
九州が畿内に征服されたという説。
彼の良さは、考古学と文献学を手広く論じている手軽な文庫本が多く
出ていることと、新しいことも結構網羅されていること。
九州説の利点と畿内の遡上年代の双方を取り込んだ、ある意味中立な考え
ではあるが、悪く言えばどっちつかず。
邪馬台国論争の概要を知るには、色々な立場の人の本に多く読むしか
あるまい。極端な学説の方が政治性が理解できて良いかもしれない。
>>747 >武光は、邪馬台国は北部九州で、同時期にマキムク王権も存在し、のちに
>九州が畿内に征服されたという説。
たしか最初は、マキムクにも関心が無い、いわゆる九州説だったけど、
調べていくうちにマキムクの重要性に気がついて、並立説になったんじゃないかな?
だいたい、考古学マニアの通る道だと思うよ。俺もそうだった。
「九州邪馬台国が畿内大和王権に征服された」という説は、
考古学的には、たいした矛盾は無いから、
「九州に邪馬台国があって欲しい」という人の最後の着地点だと思う。
生暖かく見守ることにしてるよ。
749 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 01:04:48
>>746 だからキリストも言ってるでしょう。
「隠されているもので明らかにされないものは無い」と。
必ず嘘は白日の下に晒され、ばれる日が来る。
どのような権威で取り繕った嘘も後世の人によって暴かれる。
げに恐るべきは神仏。畿内説が閻魔に舌を抜かれ地獄の火炎に焼かれるときは早近づけり。
750 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 01:08:04
>>748 私は逆の見方をしていますが。
畿内説の中には、いまだに三角縁の大半を舶載と主張する猛者がいて、
畿内説のほかの人達も、最高レベルの腫れ物扱いをしている。
畿内説の中には、弥生時代における鉄器の九州優位をいまだに認めない人も
いて、周りはいろいろと気を使っている。
畿内説の遡上年代には確たる根拠もないが、その点はみんなでスルーして
ごまかしの中に生きている。
普通に考えて、畿内説を本心から唱えている学者など居るわけなかろう。
>>750 >普通に考えて、畿内説を本心から唱えている学者など居るわけなかろう。
そうだね。
普通の考古学者は、邪馬台国そのものに関心が無いからな。
752 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 01:15:13
だから、邪馬台国はチェジュ島だって、何度言ったら分かるニダか?
753 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 01:20:11
今はっと気づいた事だが畿内説が道理が解らないんではなくして
道理が解らないから畿内説、なんではなかろうか。
スルーで。
755 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 01:27:55
>>754 言い当てられたものだから慌ててスルーとか言っても。
僕の目はごまかせませんよーだ。
畿内説は道理が解らない人の集まりと考えると今までの色んな経緯も
すべて納得がいくのよね。どう考えても道理に暗いとしか思えない。
無知じゃなくても蒙昧なのよ。
756 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 02:54:11
畿内説は20世紀に絶滅しましたです
757 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 03:34:25
>>747 それがいわゆる九州王朝説。
邪馬台国は九州にあったが、大和政権とは関係ないというもの。
ここでは、太国さんやサガミハラハラさんがそれに近い説だったと思う。
>>757 「いわゆる九州王朝説」というのは、古田武彦さんの説のことですよ。
そう定義しとかないと議論が混乱するよ。
759 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 05:06:19
畿内説は道理が解らないだけならまだしも、あくどいし、たちが悪い。
今までも色んな汚い手口で妨害また妨害の連続だった。
だから言える事は、やつらが隠し持ってる説はまやかしだ。と言う事。
畿内説は魔王であり、ペテンであり、ガリレオ裁判の天動説学者であり、
ジャンヌダルクを火刑に処した聖職者であり
最後は水戸黄門のすけかくにコテンパンに打ちのめされる悪党。
九州説が負けたら悪代官が勝って水戸黄門が殺害されたのと同じ事になる。
生き物に例えれば蠍や毒蜘蛛、ムカデ毒蛇の類であり
彼らの来世はその様な姿になるだろう。日本の歴史を捻じ曲げる大悪人云々・・。
760 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 06:24:58
あら?
あれほど虚勢を張っていた
>>715に対する畿内説の
>>693>>709>>712>>713>>714 等のお返事が無いようよ?
と言う事は畿内説は完膚無きまでに僕に論破されました。
と言う事でよろしゅう御座いますでしょうか?
御返答が無ければ原告側の勝利と言う事にさせていただきますが。
いえいえ御返答には及びません。ぐうの音も出ないでしょうから。
>>760 あんた一晩中なにやってんのw
誰ももう相手にしてくれなくなっただけだよ
>>758 古田ラインの九州王朝説に沿う立場なのか
それともヤマト連合内に属するツクシ王朝なのか、またはまったく別の相反する存在なのか
論者がまずそこを最初に明治してくれると議論しやすいのだが
その一番肝心な点を後回しにするから主張が見えなくなるんだよね。
762 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 06:39:40
>>761 誰がおまえなんかに返答を求めてなどいるものか。
多くの視聴者の皆様に語りかけているだけだ。
おまえなどにそもそもはなしかけたことすらないわ。
763 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 07:25:32
>>761 それにこちらを孤立させる事も畿内説者の姦計だと言う事に気付かない馬鹿だ。
なのもかにもすべて畿内説者の悪巧みなのだ。そうこうするうち畿内説が反転攻勢をかけて
九州説はバラバラにされてしまうかもしれない。それにころっと騙される愚か者なんだよおまえは。
畿内説者など毛筋程も誠意があるなど思ってはならない。現在過去未来にわたる永遠の敵なのだ。
九州説はそれを忘れたとき滅びさるだろう。畿内説者の子孫まで根絶やしにするのだ。
清盛が頼朝を生かしておいたばかりに平家は滅んだ。九州人はお人よし過ぎる。
相手の計略に簡単に乗る。それが命取りだ。畿内では歴史上騒乱で何度も町を焼き払われ
心は魔物のようになっているのものいる。九州人と同じと考えたら大間違いだ。
畿内説者には情け容赦無く、と心得よ。
764 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 07:33:25
>>758 九州王朝説というと、古田説ということになるのだろうが、もう少し幅広く
捕らえようとして「いわゆる」をつけたわけだが。
九州王朝説の系統と言ったほうが良かったかもしれない。
もともとは、本居宣長の偽僭説説に端を発していると思う。
しかし、これにもけっこういろんなバリエーションがあり、本居宣長でも
なく、古田武彦とも違ういうのもある。
基本は、邪馬台国(邪馬壱国)は九州にあり、大和政権とは関係ないという
ことだと思う。
>>764 >基本は、邪馬台国(邪馬壱国)は九州にあり、大和政権とは関係ないということだと思う。
いい定義だね。
九州内に邪馬台国を持ってくるのは九州説だから当たり前として
畿内ヤマト王権とその連合を別のものとみなすというのが
九州王朝説定義の基本だと思う。
台か壱かはそれに付随した補強や反論だろうから
それよりも3世紀の日本列島がどのような体制であったのかが最重要だし
その体制がいつまで続いたのかは、これはもう別スレで存分にということで。
3世紀の北部九州と畿内が互いに連合関係にあった
もしくは畿内などを狗奴国とみなす説は
連合説の範疇の中で、その首都たる邪馬台国がどこにあったのかを論じるわけで
お互いの基本の考え方を述べずに一方的に書くから
議論が成立しなかったのだろうから、今後は基本スタンスを明記すると
より的確な賛同や批判が得られると思う。
766 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 09:43:31
だから、邪馬台国はチェジュ島だって、何度言ったら分かるニダか?
☆○○人があなたのスレにやってきました。さて、その行動は次の6つの内どれ?
━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━
A 脳内ソースを持ち出し. ┃B 落ちる時は自分の都合を
根拠の無いことをわめく ┃ 告げる
∧ ∧..... ┃ │ | │彡
<#`Д´>O 犯罪は全部. ┃ │ .i|○ │彡<バイト
Oー、 //|.ヨソモンのセイや┃ │ | │ あるねん
.ビリビリ\(;;V;;)/. ┃ │ └― ┘
━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━
C なぜか東京を持ち出す i.┃D 理屈で反論できなくなり
从_从人_从_从人_ ┃ レッテル貼りか誹謗中傷
从从ゞ 頭狂人はイナカモン !/ ┃ ∧ ∧ <みんな頭狂が悪いんやーッ!!
土下座セイ∧ _∧ 从_从人__. ┃ <♯`Д ┌―――┐
⌒WWY´ <#`Д´> 氏ねや百姓.┃ / | i ̄ ̄i |
从_从 ( | | )⌒WW⌒⌒Y┃ jm==== | i :: i |
━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━
E ムキになってウリナラマンセー .┃F 事実に対して都合のいい仮定を持ち出す
((((( )))))) ┃ + ∧ ∧ .. ' ,:'.
| | .┃ ,:'.< `∀´> が人類文明の起源ちぅ
∧ ∧ 从_从人__..┃+ , ..⊂ つ 可能性大いにあるんちゃう?+
∩<#`Д´>'') ワシラが一番┃ ' ,:'ノ つ ノ + 。 , .. . +
ヾ ノ WW⌒⌒Y ┃ レ レ 〜 幸せ回路作動中 〜
━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━
768 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 12:51:32
以前に書き込まれていた、銅鐸の消滅ですが、
畿内の農耕民族が、九州方面からきた鉄器部族に
征服されたとの認識でOKですか?
どんどん追い込まれる九州説...
その間にも、多くの九州説学者の中でも
畿内説への転向があいついでいる。
770 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 16:11:58
どんどん追い込まれる畿内説...
その間にも、多くの畿内説学者の中でも
九州説への転向があいついでいる。
>>770 そう思いたい気持ちは分からんでもないが...
>>768 九州の銅矛文化も消滅してるので、無関係。
>>770 具体的に、誰が転向したって?
書けるものなら、書いてみ。
773 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 16:58:01
・・っと九州説の反論はそれだけ???。情けな。
774 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 17:12:59
772 名前:日本@名無史さん :2007/05/21(月) 16:29:55
>>768 >九州の銅矛文化も消滅してるので、無関係。
そう思いたい気持ちはわかるが、九州では、早い時期に
銅剣・銅矛から鉄剣・鉄矛に変化し、より強力な軍事
政権が誕生したにすぎない。
775 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 17:42:50
>>774 あのね、
>>768の「銅鐸の消滅ですが、 畿内の農耕民族が、九州方面からきた鉄器部族に 征服された」
から銅鐸が消滅したんじゃなくて、銅鐸の全盛期はもっと前の時代なの。
その頃から銅鐸は山の斜面など辺鄙な場所に埋められてんの。
九州勢力の東征で銅鐸文化が滅んだんじゃないの。元々そういう儀礼があったの。
776 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 17:50:19
>>768鉄器部族に征服
それに鉄器による畿内制圧など畿内のどこにもその様な証拠は無いの。
僕も神武東征は言ってるけど、とても制圧と言ったような大戦争の軌跡など無い。
だから九州の鉄器の多さが武力的に優位だったというのは少しはあったという程度でしかない。
778 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 17:56:53
西暦300年を境に、銅鐸が忽然と消滅しているのは
考古学の常識ですが?
九州の勢力の東征でなく東遷だと解釈したほうが良い
と思われます。
九州の部族も何らかの理由で吉備や畿内に移住を余儀なく
されたと思いますが。
779 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 18:02:59
銅鐸の消滅と高地性集落の誕生に何らかの必然性があると
思われます。
高地性集落は平野部に済んでいた住人が、高地性集落に移り
住むだけの理由がある筈です。(異民族の侵入以外には考えら
れませんが)
780 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 18:06:41
>>778忽然と消えてません。もっと後の地層からも出土します。
>九州の部族も何らかの理由で吉備や畿内に移住を余儀なく されたと思いますが。
それはいつも畿内説が言ってるでしょう。「それなら畿内に九州の文化の痕跡が残る筈だ」と。
しかしそういう形跡は無いの。
781 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 18:16:05
>>779銅鐸の消滅と高地性集落の誕生に何らかの必然性
銅鐸とは関係ないでしょう。言ったように銅鐸は引き続いて使われていた形跡がはっきりある。
高地性集落は畿内に限らず広範囲にあり、銅鐸との関連はありません。
782 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 18:21:10
どんどん追い込まれる九州説
その内潰れる畿内説
そして浮上するチェジュ島説
そして浮上するチェジュ島説
そして浮上するチェジュ島説
そして浮上するチェジュ島説
そして浮上するチェジュ島説
784 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 19:24:07
>それはいつも畿内説が言ってるでしょう。「それなら畿内に九州の文化の痕跡が残る筈だ」と。
>しかしそういう形跡は無いの。
九州ですがクンが無知なだけだと思う。
実際には、過去の文献や学者や作家もこの点をよく指摘している。
自分の無知を棚にあげて、自慢げに自説を主張しないほうがいい
と思いますよ。
邪馬台国の問題は、もう何百年もいろんな人たちが研究しており、
「九州ですが」という人物が、断定的な文章で表現できる程簡単
ではない。
自説であれば、最後に・・と思うぐらいの配慮は必要です。
785 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 19:59:08
>>784 例えば畿内説がよく言うのは九州特有の土器が巻向で多量に出土わけではなく広範囲の各地の土器が出る。
「九州の部族も何らかの理由で吉備や畿内に移住を余儀なくされたと思う」は想像に過ぎない。
九州の文化が畿内に移ったと証拠づられける遺物は何なのか、人を無知呼ばわりする前に特定してからにしてもらいたい。
787 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 20:14:54
えっえっえっ????
>>775以降は、本物のですがか?
ついこの間までの主張から180度転換している。
しかもそれをさも昔からの主張のように書き込んでいるし
どうした?ですが
また自作自演の失敗か???
788 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 20:30:48
これは完全に 自 演 ミ ス ですね
789 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 21:08:54
>>787 だいぶ前スレで「神武東征はあったが、大戦争のようなものではなかった」
と言ってるのであり、そこから導き出される答えの一つとして
>778九州の部族も何らかの理由で吉備や畿内に移住を余儀なくされた」
などと言う事は考え難いと言ってるの。
土地は既に人が住んでいることであり、そこに余所から移って来るなど
よほど平定でもしない限り大量移住できるわけが無い。
大戦争もあった形跡が無く九州人の畿内大量移住は無理でしょう。
他文化であればなおの事。
790 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/21(月) 21:18:10
>>789続き
ただし、神武東征を期に、この頃畿内で進んでいた人と物との交流がさらに進み、
{これは通商連合といっても差し支えないだろうが}出雲、吉備、九州などの技術が集積し始め、
大和朝廷の基礎が出来ていく。という筋書きなのだ。
>>787よ、
>>788よ
ですがくんを揶揄してはいけない。嘲笑はなお一層いけない。
彼は彼なりにがんばっているのだ。
すこしずつではあるが他の意見も吸収しつつあるのだ。
私は
>>790を読んで思わず涙が出そうになった。
そうだ・・・・そうなのだ・・・・彼は彼なりにがんばっているのだよ・・・・すこしずつ・・・・すこしずつ・・・
ですが
朝のスレはヒドイな
何書いてもいんだけど、中傷されたぐらいで報復すると同じ穴のムジナだぞ!
もう、良い年なんだから、興奮しないで受け流すすべを身につけなさい。
793 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 21:55:31
考えてみれば、土器というのは、王族とか軍人とかとは無縁のものだろう。
土器は、支配層が作るものでもなければ使うものでもない。
つまり、土器の移動というのは、土器を作る階級の移動ということになる。
一般的には、土器は女性が作ったらしいので女性の移動ということになる。
畿内から吉備系の土器がたくさん出てくるというのであれば、これは吉備から
土器を作る人間が多く移住したことを意味しているのではないだろうか。
支配階級だけが移住したとすれば、土器は支配された地元の人間が作ると
思われる。
794 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 22:14:06
巻向遺跡から出土した土器の約15%ぐらいは東海、北陸、出雲それから長門
方面です。その遺跡中のいちばん大きな古墳である箸墓古墳から、吉備国の
特殊器台埴輪というのが出てきます。
吉備国とこの巻向遺跡の勢力とが密接な関係にあったことの1つでしょう。
795 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 22:15:53
>>793 完全に前提が間違っているよ
王族や軍人などとの、両者まったく違うものを一緒にして
同じカテゴリーに閉じ込め、それ以外の庶民と分けるような分類など聞いたことがない。
具体的に2点挙げよう。
まともな反論が可能ならレスすればいい。
1、土器には生活具と共に祭祀具もある。
墳墓や古墳で出土する祭祀土器も、巨大前方後円墳び伴い日本全土で移動しているが
2、最大の過ちは、どうやら土器製作をごく簡単なものだと君が考えていること。
熱伝導率のいい薄手の土器を、比較的低温で作成するノウハウが
どれだけ困難で貴重だったかをもう一度考えてみてほしい。
庄内式がとてつもない画期なのは、そういうこと。
796 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 22:22:27
>>794 ところが古留0の短期間しか、基本的に使用されていないんだよな、特殊器台は。
それ以前はまさにごちゃまぜ。
寺沢もそのあたりは認めているので、王権の発生を古留0としている。
ホケノ山や石塚ではかけらも見つかってないよね?
>>791 がんばるニャン!
───v───
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
798 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 00:01:26
ダラダラと荒れるだけだから、少し前みたいに、テーマを決めて掘り下げようよ。
土器の話が出ているから、土器でもいい。基本の庄内式はどうか。
私も大まかなスケッチしか出来ていないので、やって欲しい。
1、庄内式の年代はいつごろか。
2、庄内式は祭祀用か、日常生活用か。
3、九州庄内式と畿内庄内式は同時並行か。
4、庄内式の発生源はどこか(九州起源説、畿内起源説)。
5、布留式との関係はどうか。分布に違いはあるか。
6、庄内式を物部氏との関係で見る説はどうか。
1、2世紀
2、日常生活用
3、もちろんかぶってる時期もあるが畿内のがやや後
4、九州でおk
5、
6、トンデモの類
800 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 00:23:59
800
>>793 畿内からたくさん出ている土器は東海系。
802 :
798:2007/05/22(火) 00:27:52
私のおおまかな考えは以下のとおり。
1、3、畿内の庄内式は古墳時代からあまり遡らない。畿内の庄内式は古墳時代に
多いという事実もあり、年代遡上派でも古墳時代の3、40年ほど前に開始と見ている。
対して九州の庄内式は遺跡、墳墓からの出土が多いので、九州の庄内式の
方が古いと見ているが、出土量では畿内の方が圧倒している。九州で発生したが
ほどなく畿内に持ち込まれ、発展したという見方をしている。
2、庄内式は一定以上の身分の者が日常生活で用いたものと、彼らが祭祀に用いた
ものとがあり、職人が製作したと考えている。
4、布留式の分布とは一部が重なると見ている。が、この点はよく分からない。
布留式の分布は庄内式以上に偏りがあり、分布域は狭いと見ている。
5、畿内の庄内式は、物部氏の畿内での分布域と重なるが、九州の物部伝承とは
重ならない。九州で発生した庄内式を物部氏が主体となって畿内に持ち込んだと
考えると説明できる。但し、鳥越のような物部王朝は認めない。
物部氏は、初期の皇室の祭祀を取り仕切っていたので、東征前後の時期から
崇神辺りまでは、物部氏を主体とした伝播があったのではないかとみている。
>>802 >物部氏は、初期の皇室の祭祀を取り仕切っていたので
でたらめはやめろ。
祭祀氏族は中臣氏だ。
804 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 00:53:21
>>798 1、3世紀
2、排便用
3、時間は相対的
4、チェジュでおk
5、知らん
6、トンチャモンの類
よって、チェジュ島で確定と観る!
805 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 01:13:32
>>798 田中元浩氏(立命館大学大学院)の論文抄録です。ご参考まで。
田中元浩 2005 「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」、日本考古学協会『日本考古学』 20号
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/journal/con20abs.htm#A3 (要旨抜粋)
・庄内式土器,布留式土器といった土器様式は単純な様相を示すものではなく,甕形土器・精製器種に複数の系統が存在する
・田中琢氏によって設定された庄内式土器は,当初考えられたような畿内地域通有の土器様式ではなく,その展開や分布に一定の偏在性が認められる。
・新たに出現する庄内甕・精製器種B群といった土器群は中河内地域の中田遺跡群でその成立をみるとともに,
その後の展開については中河内地域と,纏向遺跡を中心とする大和東南部,摂津・北山城・南山城地域に存在する拠点集落同士の交流をもとに,各地域へ展開していく
807 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 02:08:55
通商してた範囲を 連 合 にしてしまうとは。
連合なんかにする必要ないんだが。
808 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 05:59:10
「連合」と言うことばの意味付けにもよるが、
九州と畿内、吉備と東海などの組み合わせの交易を設定すると
単なる地域間の交流と言うより
広域連合と言う表現が適当と思う。
中継点を介在しない移動は不可能だから。
吉備や畿内の勢力が急成長したのは、まさにこの中継点としての位置どり。
>>803 物部氏も忌部氏もやってたんじゃねーの?
取り仕切っていたかはわからんが?
810 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 08:37:37
石上は物部だな。
中臣なんて記紀由来なんじゃないの?
祭祀氏族は、中臣・忌部の両者というのが常識。
物部が、祭祀氏族だなんて誰が言い出したんだ?
どうせトンデモ本の受け売りだろ。
物部が石上神社の神主だから祭祀氏族というなら、
神社の数だけ祭祀氏族がいることになる。
812 :
日本@名無史さん :2007/05/22(火) 10:44:59
物部はその名のとおり、古代から技術者集団
鍬・鋤の類から、物資の生産集団で、武器の
製造もやっていた関係で、後は軍事集団に
変貌していく。
813 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 10:48:21
「物」は、神霊・精霊という意味なんだが?
814 :
日本@名無史さん :2007/05/22(火) 11:05:13
>>813 そういう説を唱える人もいるという程度の認識
でいかがですか?
>>812 あっさり蘇我氏に敗北してるけどね。
物部氏の他に祭祀に関係する有力氏族知らないんじゃないの?
渡会とか知ってる?
36 :日本@名無史さん:2007/05/21(月) 16:49:49
神武東征って、そのあたりの神話って
みんな意外にちゃんと読んでないだろう?
古事記、日本書紀、旧事本紀白河本、海部氏系図などを総合してみたら
もともと日本は、出雲王朝(本拠地は大和?)が支配していました。
そこの臣下にカチハヤ(官位はアメノオシホミミ)という人物がいて
その長子にニギハヤ、次子にニニギがいましたとさ。
まずニギハヤが出雲王朝に謀反を起こし革命が成功、
アメノホアカリとして天津系の初代倭王になりました。
しかし、それから三代後、弟のニニギの子孫である神武さんが
ニギハヤの三代後の倭宿禰命から王権を奪取、
神武王朝が始まりましたとさ。
ちなみに、「ミミ」「ミミナリ」というのは出雲の官の名称。
神武の先祖・子供などに「ミミ」がついた呼称が多いのは
出雲王朝の影響でその官名を引き継いだのが大きく影響しているだろう?
ちなみに、神武の正妻との子供の長子には「ヒコ」があっても「ミミ」がない。
これは彼が最早、一官ではなく、倭王の新しい後継者と確定したからであろう。
(ただし、彼は早く死んで王位を継承することはなかった)
>>815 物部氏の敗北は、
保元の乱での源氏の敗北と一緒で
中央政界で敗れても、地方各地に基盤が広がっているから
そのあとの大逆襲があったわけで。
>>817 綏靖天皇は神沼河耳命(=かむぬなかわみみ)
皇位を争ったとされる異母兄も手研耳命(=たぎしみみ)だし同母兄も神八井耳命(=かむやいみみ)だ
その子安寧天皇は師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみ)だが、弟?が息石耳命(おきそみみ)だ
ここまでは「ミミ」一族っぽい系譜になってる
このあとは…
タラシネコネコネコイリイリタラシタラシタラシ
物部氏
大和朝廷が発生した4世紀の初め、石上神宮を氏神社として祭しを行なう氏族でした。
5世紀になると、大伴氏と並ぶ軍事氏族へと成長を遂げます。
初めて大和朝廷の大連の地位に就いたのは6世紀の初め
821 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 08:19:32
大物主
石上はもともと物部首の本拠地。
物部連はあとからやってきた。
すでにヤマト朝廷草創期から皇室の重臣。
ウツシコメ、イカガシコメと二代にわたって后妃を出している。
イカガシコオが崇神朝に現れ、その子トチネは垂仁朝五大夫の一人。
石上を傘下にしたのはこのとき。その子イクヒも仲哀・神功朝の大夫。
イコフツが履中朝に大連となり、同時期にはオホマエ・ナガマイらもいた。
雄略朝にその子メが大連となり、従兄弟のウシロとともに活躍した。
そして継体・安閑朝のアラカヒ、オコシへと到る。
「モノ」が霊的な名前なら、大物主が物部氏の祖だよね。
その大物主が三輪の神なら、物部氏は大和出身ということになるし、
大和を治めてたニギハヤヒの末裔と名乗ることからも、
大和出身と考えることが自然。
物部が東征してきたとか、
関はデタラメばっかりで萎える。
824 :
日本@名無史さん :2007/05/23(水) 12:51:43
九州にも物部の末裔の伝説がある。
825 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 17:21:59
>>824 伝説程度でよければ、どこにだってある。
義経が平泉から蝦夷を抜け、大陸に渡った伝説も実在するし
それを刻んだ石碑も、明記した文献も存在する。
それが事実かどうかを批判検証するのが文献史学の役割で
伝説や史料を元に、無批判に説を構築するものではない。
826 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 18:47:36
sageてる奴は同一人物www
827 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 20:42:53
大物主は変態ストーカ
可愛いの娘が川でオシッコしてるところに上流から接近してレイープ
人妻の家に夜な夜な忍び込んでレイープ
「ミミ」はオオキミの「キミ」とおなじ
ミミナリヤマは大族(君)が御成になった山
268 :日本@名無史さん:2007/05/24(木) 05:23:58
「ミミ」の件ついて
海部氏系図の研究をしている人の解釈だと
アメノオシホミミ(カチハヤ)は、出雲の官だったという話。
たぶん、オシホミミというのは出雲での官名で、
カチハヤが本名だと思われる。
じゃあ、姓はアメ(アマ?)かもしれんな。
そのアメノオシホミミの長男のアメノホアカリ(ニギハヤ)が
主君の出雲を倒して、天津系の初代倭王になったそうだ。
しかし、三代あと、
アメノホアカリ(ニギハヤ)の弟のニニギの曾孫の神武が
派遣先の日向から大和へ迎えられ、
新しい天津系の倭王になったとさ。
269 :日本@名無史さん:2007/05/24(木) 06:01:55
隋書の「日いずる国の天子...」の
「阿毎多利思北孤(聖徳太子か?)」の
「阿毎」は、皇室の失われた姓だったんじゃないのか?と妄想してみる。
隋の時代の発音で「阿毎」って何と発音するの?
音韻に詳しい人、教えて?
つーか、漢和辞典で調べてよ、誰か。
神話時代の皇室の先祖やその家族に
「アメの・・・・」がつくが、これは天孫系の姓なんじゃないのか?
よく天津系(出雲の官だった天孫)とか
国津系(出雲の王室だった地祗)なんていうが...
天津って中国やんw
832 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 11:53:34
>>819 タラシネコ!
──v──
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
834 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/24(木) 20:18:18
何だか邪馬台国とは直接関係無い話題ばかりがつづくが。
ミミも壱岐と出雲の文化的なつながりを示すものといえるが
邪馬台国以後のこととも言えるから、ただ単に前文化を受け継いだだけ
なのかもしれない。
835 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 20:59:16
系図なんて好きにつくれるんだから鵜呑みにするな、ボケが
836 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 21:01:12
巻向はやはり神武がつくったんかな?
837 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/24(木) 21:11:06
>>836 巻向と言うのは前代から人が住んでるから、
当然神武はその王朝に入り込んできたのでしょう。
>>834 みんな日本国家の成立過程に興味があるんであって
邪馬台国の位置そのものには大して興味が無いんだよw
839 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/24(木) 21:18:42
>>838 ここは邪馬台国を語るスレであって、日本国家の成立過程に興味があるのなら
それぞれにふさわしいスレで語りあったほうがいいんじゃない?
エジプトもOKだから、バーリトウードなわけだが・・・
841 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 21:41:23
>>838 それはおかしいな。ココは邪馬台国のスレだから、その見解はスレ違い。
畿内説の一部の論者は、「邪馬台国の位置?すでにそんなのどうでもいいし」と言って
他の論者とは次元が違うんだ、みたいな言い方をして悦に入っている人間がいるが、
じゃあスレ違いだろうと大いにツッコミを入れたくなる。
842 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/24(木) 21:49:28
邪馬台国はエジプトだ、と言う主張ははOKだけど、時代が違うのはどうかな?
邪馬台国以後などはあくまでここのスレのメインじゃないんだし。
>>829 >>じゃあ、姓はアメ(アマ?)かもしれんな。
アケメネス→アメ と思う
844 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 23:10:01
邪馬台国がどこかなんてもうどうでもいいんだって。
九州に決まってんだから。同時に畿内に大国があった。
で、九州からのとうせんはなかった。
タブラツヒメ(だっけ)が卑弥呼。
845 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/25(金) 02:05:25
>>844 邪馬台国がどこかなんてもうどうでもいいんだって。
と言う事自体が、すれ違いの証拠なんだって。
>>844は、邪馬台国が九州だってことだろ?
で、田油津媛が邪馬台国女王の末裔で、神功皇后率いる大和朝廷軍に滅ぼされたと。
それでいいじゃないか。
847 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 03:36:45
九州に決まってるというより、九州にあったんだよ。それが事実なんだから。
それがどう証明されるか、されないか。
もし考古学では畿内というなら、それは考古学が現時点で間違っているんだよ。
あるいはここを読めばわかるように、掘り出したものの解釈が間違っている。
ただそんだけ。
848 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/25(金) 07:10:35
>>846 それでいいじゃないか。
あんたが「それでいいじゃないか」 と思っているのならそれでいいじゃないか。
ここはあくまで邪馬台国議論の場。
そこまでして敢えて関わらなきゃいいじゃないか。
それに「田油津媛が邪馬台国女王の末裔で、神功皇后率いる大和朝廷軍に滅ぼされた」
こんな事は誰も信じないし。
849 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/25(金) 07:13:09
>>847もし考古学では畿内というなら、それは考古学が現時点で間違っているんだよ。
あるいはここを読めばわかるように、掘り出したものの解釈が間違っている。
ただこれは有りうるわな。
850 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 10:33:21
吉野ヶ里遺跡が発見される前の邪馬台国論争の争点は
マキムク遺跡や唐古・鍵遺跡から、邪馬台国畿内説を
唱える人が多かった。
ただ、唐古・鍵遺跡の環濠集落には、倭人伝の記述にある
楼観や邸閣のあとがなく、環濠もせいぜい数百メートル程度
しかなく、大乱を想像できるものではない。
畿内論者は、その説明に困ってどう反論したか
倭人伝の記述は誇張であって、記述は正確ではないとの主張
であった。
実際に当時の畿内論者の強気の論文はその主張が多かった。
ところが、九州に吉野ヶ里が発見され、40ヘクタールもの環濠
集落と楼観と邸閣など倭人伝の記述と一致する発見があいつぐと
唐古・鍵遺跡の土器の文様に楼観らしき文様を発見し、嬉々として
楼観まで、建立した。
畿内論者は次はどのような対抗策を講じてくるか見守っているが、
記紀の内容の解釈に倍暦宗教で解釈を講じて、記紀の内容から
畿内の初期大和政権なる主張を始めている。
やれやれ・・
851 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 13:53:25
倍暦宗教だと言うなら、古代天皇の超長寿を説明してくれ。
水増し論では話にならんぜ。
852 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 15:06:52
ネタ振り
「天足彦」とは誰なんでしょ?
隋書の「アメタリシヒコ」のことです。
853 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 15:07:21
古代天皇の存在そのものを疑ってみたら?
854 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 15:15:04
>>851 書いてある天皇が全部実在すると仮定するからおかしくなるんだろ?
855 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 18:21:05
>>854 おかしいのお前のほうだろう。海部氏の系譜と前1世紀〜1世紀の神宝の
沖津鏡、辺津鏡の出現で実在しないとは言えない状況にある。
大相撲で騒がれているが、八王朝っていうのは利害がでかいときにやる可能性
が出てくる。欠史八代をたかが8つ増やしたってそんなメリットがありそう
にもない。
歴史が古い国アピールが、日本書記がつくられた理由の一つでほぼ間違いないだろう!
857 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 21:00:48
>>856 それは間違い。そのくらい古くしてもメリットはあまりない。
858 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 21:47:23
同意。
どうせ捏造するなら2〜30代ぐらい捏造すりゃいい。
半端に8代捏造する理由がない。
何らかの伝承が存在したのは間違いないだろう。
859 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 21:58:49
綏靖天皇が天皇になるまでの下りなんて、とても生々しく、
かつ、捏造された話だとすれば、あまりにも(天皇に選ばれる話としては)
かっこよくない。
欠史8代は実在していたが、とても天皇として記載できるものではなかったのだろう。
860 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 22:59:47
メリットは、九州に邪馬台国が存在したことを、
古代天皇なるものをもちだして、ゴマかせることぐらい
かな。
日本書紀の編纂者は邪馬台国や初期大和王権の成長過程は
わかっていて、そのまま記述すれば、万世一系神話がなりたた
なくなること。
誰かがまんまとその浅知恵にはまっていることかな。
861 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 23:33:56
>>860 ならば雄略、武列天皇の大悪性も省かなくては不名誉で仕方
あるまい。さらに大草香皇子とか市辺押磐皇子とかの凄惨な殺害、
木梨軽皇子の不倫とかも幽冥界での孫悟空の閻魔帳のように記紀へ
の墨消しをやらにゃぁ萬世一系のスキャンダル、汚点となるんだが、
一向に消されてないねぇ〜?ww なぜしてないの?
そんな遠い女王国の帳消しをやるより、こっちのほうが露骨では
ないのかねえ〜? これを消すほうのがメリットがあるんでは
ないの?
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
862 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:44:03
太国さんに「津田病」と言われるかもしれんが
欠史8代の諸天皇方の和名は後人の造作の可能性が高いと思う。
また「何々氏の祖」を、欠史8代中の天皇の兄弟に置く例が多いのも
どうも史実とは見なし難い。
大化以降、藤原〜奈良朝期に、各氏族が自分達の先祖を天皇家にもっていって
おのれの家系の箔付けをやったのではなかろうか。
ただ、欠史8代が何から何まで後代の創作かというと、それはどうかな、とも思う。
天皇の母方の系譜、つまり皇后や妃をどこの氏族から迎えたかといった記録は、
何らかの史実が反映されているのではないだろうか。
ハエ、ウツシコオ、イカガシコオ、ユゴリ・・・などといった外戚氏族の人物名は
天皇名と違って相当に古風であり、史実の一端を表しているのではないかとも思う。
太国さんの主張にも、聞くべきところはあると思っていますよ。
まあ全面的に同意はできないんですけどね。
863 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:03:53
>>862 逆に考えると、のちの時代に欠史8代の天皇の名前を取り入れた
ともいえるから、その理屈は何の解決にもならないと思う。
むしろ、詳細な伝承が残っている外戚氏族との世代数が整合すること
からは、実在性を認めたほうがよさそう。
物部などの記紀編纂時には没落した氏族が古代では活躍しているので、
自分の先祖を持ち上げるために創作したというのも理屈に合わない。
864 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:25:23
それにしたって祟神には父親、祖父、曽祖父が居たわけで。
天皇じゃなくとも実在したのは確かだろ。せいぜい7、8代くらい覚えてたんじゃねーの?
それにしたって神武は祟神ぽいけどな。
聖書よんでみ、キリストが代々誰の子供で誰の血と繋がっているか延々とかかれている。
古代にはそーゆー系図が重要だったんだよ。
865 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:33:54
名古屋市の無職の男 高校に忍び込み、女子更衣室で数人分の下着を盗む
24日午前1時10分ごろ、名古屋市内の高校に男が侵入、パトロール中の警察官に、建造物侵入の疑いで逮捕された。
逮捕されたのは、名古屋市の無職 竹石圭佑(20)容疑者。
発見当時、竹石容疑者は女子更衣室で盗んだとみられる下着を数人分所持していて、
調べに対し、窃盗目的で侵入したことをほのめかしているという。
警察は、窃盗容疑でも調べを進め、余罪についても追求している。
イヨタン・・・・・・・・
867 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 01:21:03
868 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 05:59:33
西暦238年に、公孫氏は、司馬懿によって滅ぼされるが、この司馬懿というの
は、かなり残虐な人物で、公孫一族の15歳以上の男子を皆殺しにしたらしい。
この話を聞いた卑弥呼は穏やかではなかったと思われる。
翌年、卑弥呼は帯方郡に使者を送るわけだが、この時期は、魏の皇帝の変わり
目だった。
新しい皇帝は曹芳で、年齢はわずか7才ほど。これでは何もわかるわけがない。
したがって、卑弥呼の使者に応対したのは、当時一番の実力者で、大将軍の
曹爽だったはず。
曹爽は、倭人伝の記述からは、倭のことを気遣ってくれたのが感じられる。
ところが、曹爽は、嘉平元年(249年)に失脚し、代わって司馬懿が実権を握る。
これば、ちょうど台与が女王になったあたりで、台与は魏に朝貢するが、
司馬懿がこれに応えたような記述はない。
西暦265年に、司馬炎が晋を建国すると、倭の女王が朝貢するが、多分これが
最後の朝貢であり、その後150年間、中国との交流は途絶える。
西暦280年に呉が滅ぶ。
中国の動きに、もっと注目すべきかもしれない。
869 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/26(土) 07:35:48
>>862 後世の造作までの根拠にはならんね。貴殿の考えすぎ。
>>868 えらく勉強している。敬服。
870 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 07:39:05
あのさ〜〜〜〜
そんなくだらない昔のさ、確証もない妄想オタばなしやめね?
はずかしくない?
今西暦なんねんですか?
君たちたかが黄色人種じゃない?ww
白人から差別されてることの現代の日本の問題考えたほうがよくない?ww
かなしいよwあなたたち
871 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/26(土) 07:42:38
>>870 神州は黄金の国である。白が黄より下だとは限らない。オリンピックの
銀メダルより金メダルのほうが上であ〜る。シロガネよりコガネのほう
が上位である。
872 :
SOY:2007/05/26(土) 08:00:16
>>868 > 西暦238年に、公孫氏は、司馬懿によって滅ぼされるが、この司馬懿というの
> は、かなり残虐な人物で、公孫一族の15歳以上の男子を皆殺しにしたらしい。
> この話を聞いた卑弥呼は穏やかではなかったと思われる。
そう言えば、この公孫淵の末裔が日本にいるとの伝承があります。
何故にその出自を滅ぼされた公孫氏などにしたのか不思議です。
公孫淵−赤染氏−常世氏−赤染氏(復姓)−?−赤染衛門
真相はともかくとして面白い話です。
873 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 08:48:00
>>870 そんなレスはあっちのスレでしてね。
欧米人に負けず劣らずどころか日本人は世界一差別的だともいえる国民性。
自分と違うものをすぐに排除しようとする狭い島国根性のムラ社会。
到底異文化混在のいわば変人だらけのエキセントリックな欧米社会宜しく多民族生活に馴染まない。
温故知新は大事な事だ。古代から中国に対して段々差別意識が芽生えていく過程がわかる。
874 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 09:13:36
>>873 自国より優れた文化や強い軍事力がある国は、尊敬や恐怖の対象だよ。
中国に対して差別意識が芽生えたとすれば、欧州に半植民地化されはじめた19世紀中頃からだろう。
そのあたりから、日本にとっての中国は、アジアの覇者ではなく反面教師としての性格を帯び始める。
875 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 09:28:30
>>868 司馬懿が 公孫を滅ぼした事が元になり卑弥呼 が魏と友好を結ぶ為に近づいたとしたら
蟄居していた司馬懿にとっては名誉挽回のまたとないチャンスになったのかもしれない。
そういえば引きこもりというキーワードのみに関して言えば司馬懿と卑弥呼は共通点があるように思える。
単なる黄巾の影響だと思っていたのだが。
876 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 09:31:38
>>874中国に対して差別意識が芽生えたとすれば、欧州に半植民地化されはじめた19世紀中頃からだろう。
違います。既に記紀の中に差別意識が芽生えています。古代の事です。
877 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 10:09:18
878 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 10:10:55
>>870です
あのさ、なんでもかんでも差別とかw
まず身の程知ろうよw日本のレベルとかw
古代から中国差別とかさ、いい加減にしようよ。
まず大人になろうね。中国から全部受け売り文化と、金印もらって機嫌取り国家が何が差別できる身分?
それに日本が1800年代まで白人国家から植民地にされなかったのは
中国が朝貢制度による属国と日本を世界にいってたからなんだよ?
日本は属国と認めないだろうけど、現実白人の教科書には日本は中国の属国という認識で書かれてるし
中国文化のほうが高く評価されてるし。
それに日清も韓国併合も、相手が窮地に立たされてるときにしか攻め込まない卑怯な劣等国家ジャップ
こういうこというとちょんだのいうんだろうけど、別にかまないけどね
とりあえず日本の身の程わきまえてから中国蔑視してくんない?w
879 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:14:46
またひとりきちがいが増えたw
>>878 あのな、中国の属国は韓国だろうがw
海外の地図を見れば、韓国は中国の版図扱いになっている。
最近、韓国が中国に併合されつつあって、
日本もそれに賛成しつつあるから、あわてているんだろう?
881 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 11:26:19
>>877>>878 それがね、具体的にどこを指すのかか知らないのよん。
TVでそう言っていたのを覚えていただけだから。
でも聖徳太子の「日出処の天子」発言以降は確実に中国に対する意識は変わって言ったと思うね。
それに「なんでもかんでも差別」って言うけどこの世は差別社会でしょ。
第一古代日本が中国に対してただならぬ劣等感を抱いていたのは事実だし
それが反動で優越感に浸ろうとする風潮が生まれたとしても不思議ではない。
劣等感と優越感は表裏一体で、愚かな人はそれが短時間に交互に繰り返される。
白人の中でも文化を担ってきた人達というより愚かで肌の色くらいしか優越感を持てない白人が
自分たちの惨めな境遇を有色人を激しく攻撃する事によってうさ晴らしをするわけよ。
欧米の音楽家や芸術家など優れた文化を築いた人たちの面汚しといえるかもよ。
それにここは邪馬台国スレだからあっちスレで質問してねと言ってるだろうに。
ちゃんと答えてあげるじゃによって。
882 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:26:51
基地外じゃなくて事実でしょw
日本を美化したみかたもいいけど
本当に日本の歴史好きなら
醜い部分や認めたくない部分も
まず考えていかないと。
そんな日本は美しい国最強の国
進んでる国、文化立国
じゃあないんだからさ。
883 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:30:27
>>881
ありがとう
それから属国は韓国はもちろん
日本、ベトナム、タイ等も属国扱い
いい加減ちょんとジャップ目くそ鼻くそときずこうよw
みぐるしんだよw
日本が中国大陸にくっついてたら、同じ運命にきまってんだろ?
>>879 古代日本を語るスレに突然「日本は古代から中国を差別している」なんて
狂った主張をする住民でてきたら、それとほぼ同意見のコテがいる。
ほぼ同一意見のきちがい思想家が二人もいるなんておかしいと思わないか?
885 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:39:09
>>874ですが…
>>878 >それに日清も韓国併合も、相手が窮地に立たされてるときにしか攻め込まない卑怯な劣等国家ジャップ
白村江や秀吉の朝鮮征伐、太平洋戦争など、日本が負けた戦争だって当然ある。
当時の情勢で戦争になっただけであり、戦争をする以上負けない状況を見極めるのは当たり前の行為だと思うがな。
886 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 11:43:16
>>884古代日本を語るスレに突然「日本は古代から中国を差別している
だから嘘じゃないっつのに。確か日本書記だったっけ。
恩知らずが世話になった人をけむたがり、やがて敵愾心を抱くようなもんなのよ。
おたくなら身に当たる思いがあるんじゃない?
基地外一覧
・土器は移動には数十年かかる
・倍暦
・弥生時代は平均気温が現在より5℃位低い
・日本は古代から中国を蔑視
・三角縁神獣鏡は舶来
888 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:48:49
<<885
負けない状況見極めるというより、韓国併合も日清も
ただ単にマフィアが、隣の火事の家に助けを呼ぶ振りして物奪って、
あげくは、て助けしてやったから金よこせといってるようなもんじゃない
それを勝ったのいわれてもさおかしいよね
実際日本なんて日清日露なんて白人の代理戦争させられた駒だし
そんでも白人からの差別全開受けてて、少し民族意識でてきたら原爆ナ?w
889 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 11:49:19
>>878日清も韓国併合も、相手が窮地に立たされてるときにしか攻め込まない卑怯な劣等国家ジャップ
これは甚だ歴史音痴なのよ。当時の歴史的な背景のいろいろを鑑みなさい。
890 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:51:39
当時の歴史的背景ですか?ww
白人の胸先三寸の世界とアジアの状況で
日本がアジアの歴史的背景握って戦争吹っかけてるとでもおもっているの?w
891 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 11:54:52
>>887・土器は移動には数十年かかる
「当時土器の移動が瞬時に行われた」と言うのはきちがい以上。
もう何と言うか、あごの筋肉が緩んだまま口を塞げないというか、
開いた口が塞がらないというか。
892 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:58:48
>>888 >ただ単にマフィアが、隣の火事の家に助けを呼ぶ振りして物奪って、あげくは、て助けしてやったから金よこせといってるようなもんじゃない
>実際日本なんて日清日露なんて白人の代理戦争させられた駒だし
他国への差別意識なんざ、大なり小なりどの国でもあろうから気にしないが、日清日露太平洋戦争は日本自身のために戦った戦争であることに間違いはない。
敗戦国に対する賠償請求は当時当たり前だったことだから、マフィアに例えられても意味がない。
893 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:59:42
九州サンはとても紳士なので、もうこれ以上は攻めるのはやめます
ほかのチョんとジャップのみにくいモンゴロイド闘争してるやつのところいきます
894 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 12:01:57
卑弥呼が魏に貢物をしたとき、わずか数人の生口と布なのに
「親魏倭王」の印綬まで渡した理由を考えたことはありませんか?
公孫氏を滅亡させた司馬懿が取り次いだのかどうかは分かりませんが
、魏の皇帝にすれば、それほど重用する理由がよく分からない。
魏志を編纂したのは、司馬氏の晋王朝の時代だから、司馬懿の功績を
強調する意思が働いた可能性も考えられます。
895 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 12:01:57
>>890 朝鮮は日本による併合を望んでたの。
それと日本の利害とがかみ合ったにすぎないの。
最近の色んな事実関係の上で明らかになりつつあるの。
こないだNHKで特集組んでたの。
896 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:01:58
九州サンはとても紳士なので、もうこれ以上は攻めるのはやめます
ほかのチョんとジャップのみにくいモンゴロイド闘争してるやつのところいきます
897 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:05:02
898 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:08:21
>>894 東方の海上に仙人が住むという“蓬莱島伝説”があったそうだから、それが影響してるんじゃないかとも思う。
伝説の島“かもしれない”国からの朝貢だから、紙面を割いたのかもw
899 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:12:36
まずひとつ、可能性とか妄想はいい
それからNHKとか、日本のメディア鵜呑みにする馬鹿は歴史オタノかざかみにもおけない
戦前のプロバカンダあおられ馬鹿民族ね
それから
>>892 問題は君の低脳ぶり
日清など誰もが清国に攻めに入る段階で、日本にけしかけ、武器弾薬提供してるの誰かな?
軍事顧問団はだれかな?
その後雪崩を打って清に侵略しテイク列強国家は偶然ののタイミングかい?
もっといただけないのが日露をにほんのためとはざく馬鹿ぶりww
ロシアが満州に軍を駐留させ挑戦にも手を伸ばそうとして日本と衝突があんたらの見解だろ?おおまかなさ
その背景考えろ場かが
そもそも日本が幕末のころからロシア革命後の欧州をけん制してるドイツが
ロシアの目を東に向けさせる工作や、ロシアの極東進出、南下政策をけん制したいイギリスの
日英同盟 背景作ってんのは白人だたこ
だれから戦艦や武器弾薬提供されてるとおもってんだよ?w
もう少し事実じゃなく背景もなり行くも勉強しような
900 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 12:12:40
>>887 見てみい!
>>893さんはこんなに道理の解る御仁なのに>887ときたら・・。
ここまで道理が解らないなら日常生活にも支障があるでしょうに。
家庭や仕事で周囲に道理の合わない事を強要して。おお!周りの人達がかわいそう。
迷惑な事よのう。
901 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 12:14:02
>>898 蓬莱伝説ともう1つ徐福伝説があります。
3千人もの家来を従え、日本各地に伝説がありますが、神武神話と
共通する地名が気になります。
時期的には、弥生終期ですよ。
902 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 12:15:59
>>899 専用スレを立ち上げて、思いっきり論じて下さい。
誰も来ないとは思いますが・・・
903 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:18:58
そうか。。。
すまない
モンゴロイド闘争探してつついてきます
904 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:22:16
>>901 とすると、“徐福の蓬莱島探索”が実は“神武の東征神話”ではないかと?
905 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 12:32:44
さて、邪馬台国論争にもどりますか。
西暦238年に公孫氏が滅亡
卑弥呼が死亡したのが、西暦247年らしい。
晋の建国が西暦265年
呉の滅亡が西暦280年
呉の滅亡による中国からの影響はこの日本列島には痕跡すら
なにのだろうか?
揚子江下流には、当時日本人村が存在し、九州の有明海には
呉との交易ルートが存在していたとする記述も読んだことがある。
906 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 12:38:41
徐福伝説の残る地名、熊野・伊勢、北九州、河内、岡山など
神武神話との地名が重複しています。
日本書紀は当時の権力者が強引に年代を捻じ曲げていますが、
古事記には、特に年代記述もなく、7世紀当時の残っていたご当地
伝説を記述しており、あながち嘘とも言えない部分があるのかも
知れません。
907 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 12:55:11
>>905呉の滅亡による中国からの影響
この頃、画文帯鏡が作り出され次第に倭国にも、もたらされる事となる。
呉の影響のある鏡は中国の動乱で、人とともに倭国に伝来したものである。
908 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 13:06:19
呉から大量に人が流入した場合、その当時の日本列島において、
急激に文化・文明が変化していくことは充分想像されます。
当時の日本列島にも権力者が存在したとすれば、その流入民を
うまく活用したところが、勢力を増大させていくのでしょう。
結果として、九州から吉備や畿内に人の移動が発生したのかも
しれません。
909 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 13:22:43
>>908 その通り。この頃畿内に各地の文化が流入し、既に活発化していた畿内の人と物との交流と相俟って
巨大勢力となり、巨大古墳造築へと繋がっていく。
910 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:24:31
あのさ〜〜〜あんたらさ〜〜もdってきてわりーけど
そんなら日本人てなんなん?
どーせ大陸からわたってきた雑魚の末裔だべ?俺たちジャップって?
>>901 >時期的には、弥生終期ですよ。
何が? 何が弥生終期なの?
徐福はもし実在とするなら秦の始皇帝の時代の人だよ。
徐福のことを史記を書いた司馬遷だって前漢の人だよ。
何が弥生終期なの?
なんか勘違いしてない?
>>911訂正
徐福のことを史記を書いた司馬遷
↓
徐福のことを史記に書いた司馬遷
スマソ
913 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 14:03:13
>>910 「日出処の天子〜」云々の文に煬帝が怒ったのは中国の事を太子が「日没する国」と呼んだ、
つまり中国が世界の中心という時代は太陽が沈むように終わるのよん。と言う内容だったからに他ならない。
対して日本を「日出る国」と呼んだのは「和を以って貴し」という平和を希求する心情を持った太子が、
日本は日の昇る勢いで発展し、中国を越えるような世界の先進国となっていこう、という希望を表明したものである。
したがい、その様に卑屈では太子のお心に大いに反する事になりましょう。
914 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 14:19:35
九州さん
結論は日本はもともとの先住民ということなの?
915 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/26(土) 14:29:15
>>878 日本は黄金の国だが、中国は水銀の国と言ってよい。道教は丹を練る。
916 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 14:42:35
>>914 あっちこっちからでしょうね。
やはり蒙古斑があるのでそっちの血筋が一番濃厚なんじゃないのかなって気はしますよね。
縄文人はまだ広い範囲から集まった人々だったでしょうし。
よく解んないけど。おたくはどう考えてるわけ?
917 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/26(土) 14:50:53
>>887 倍暦でそんなら聴くがね、
>>523をどう説明するんだい?
それが出来ないとなると倍暦を否定の論拠が見えず、お前の負け。
918 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 14:58:52
九州産
日本人なんかチャイナと挑戦もんごるからわたってきたその中でも劣等人でしょうね確実に
919 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 15:10:08
>>918 うーん。おたくがそういうのならそうかもしれないねえ。
太平洋戦争にしろ最近の日本の犯罪の有様を見ても感心出来る事は何一つ無いし。
周辺諸国の信頼を勝ち得ることが出来なくては真に立派な国とは言えないかもね。
欧米は教育、環境問題などあらゆる分野で世界をリードしてるし、
日本もこれから見習っていく事になるでしょう。
920 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:13:05
ですがも自演荒らしとは地に落ちたなw
921 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:15:55
922 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:21:22
九州産
あんたみたいな日本人がもうすこし増えてくれれば
もうすこし白人からのアジア人差別へるのにね・・・
あんた紳士の歴史家だよ
923 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:35:39
紳士だってPuPUPU
924 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 15:45:55
>>922 このスレにもいるのよ
>>920>>921みたいな、わからずや勘違いジャップが。
こんなのが居る為、日本人が欧米人に人種差別を受ける原因になってるんじゃないのかな。
どれだけ話しても無駄だし、自分が正しいと思い込んでるし、
微妙な表現の言い回しや、事と次第で状況が変わる事すら理解できないし
こちらの話が少し複雑性を帯びるともう解らなくなる。
全体的に総合判断する能力に著しく欠ける。そういう連中が。
それでいてこっちを「へんてこな事ばかり言う」と謗って憚らない。
人間が生む文化がそんなに単純なわけ無いのに、単細胞で単純な回答しか思い浮かばない。
妻に思われてるかもよ。「単純な人で良かったって」つまり馬鹿って事よ。
そしてすぐ自演だ、荒らしだのと。あんたらじゃないっての!
>>922のおたくは違うだろうけど。>920>921のこんなのばかり相手にしてると
劣等民族というおたくの言い分が真に迫るわア。
925 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:53:05
926 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 15:58:35
ほらまた出た。
>>925が。
いい加減馬鹿から目覚めなさいよね。
失礼、二度と目覚めないから馬鹿と名づけるのね。
927 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 16:06:41
>>920>>921 そしてまあえらそうに邪馬台国と無関係の事には色々詳しくても
邪馬台国とは殆ど接点の無い無駄話に終始してるだけ。
蛇足もいいとこ。過ぎたるは及ばざるが如しとはまさしくこの事だと思うね。
928 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:22:04
929 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:33:55
>>913 九州ですが氏
>「和を以って貴し」という平和を希求する心情
”和をもってとうとし”は,裏返すと,”和以外はとうとぶな”という当時まだ残っていた,九州王朝に対する服従を,禁止した法律ではないですか.
この後,倭国は,日本に国号を変えますが,別にあった小国日本の名前を使う事にしたと,書いてあるので,当時は,日本は”倭国”です.
930 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 16:43:40
>>928 ほらもう解ってない。>927で言ってるでしょうに。
「邪馬台国とは殆ど接点の無い無駄話に終始してるだけ」と。「終始」と。
>919のように2〜3会話を交わすのと、はずれた会話に終始するのではわけが違うだろうに。
このようなちょっとした文章の見落としや、誤解を繰り返して
いっつも訳の解らないことばっかりこちらに対して言い出すのよあんた達は。
こっちは細かいところまで考えて文を作ってるから、こちらの主張をよく読みもせず、考えもせずに
紋切り型でおかしな質問してくるのは今後やめてくんない?
頭のいい人ならこっちが下手な会話をしても何を言わんとしているのかを鋭く見抜くもの。
本当にこっちの話の趣旨が解らないのなら、いちいちピンポイントでもいいから聞いて確かめなさいよ。
答えてやるから。
931 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 17:03:32
>>929 そんな解釈は始めて聞く。全然違うと思うけど?
他の憲法の内容も細やかな内容であって、これはただ単に「仲良く団結すること」を奨励している。
遣隋使が始めて煬帝に謁見したとき、倭とはどのような国か、と聞かれて
「神とともに起き〜」などという神話を滔々と述べ、皇帝一同、絶句したという。
とうとうこのときは独立した国とは認められずじまいだった。
煬帝も「倭人にはよく諭し教えて立派な国づくりが出来るように手助けしてあげなさい」と
側近のものに伝えたと言う。
後の遣隋使が同じ質問を受け「和を以って貴し」などと答えたというが、その成功の証左が、
中国より、和国が法律を持った立派な独立国と認められた事であろう。
「和以外はとうとぶな」などというものであれば中国が和は立派な国だなどと思うわけが無い。
932 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 17:30:34
そしてよくまあ
>>929みたいな{この人には悪いけど}おかしな意見に異論が出ないものだ。明らかにおかしいだろうに!
「和以外はとうとぶな”という当時まだ残っていた,九州王朝に対する服従を,禁止した法律ではないですか」
だなんて。
そのくせにこちらの意見にはすぐ難癖をつけたがる。たとえばAとかDとかいって。明らかに悪意に満ち満ちている。
僕が馬鹿馬鹿言ってるのはそういう類の人間であって、>292さんのような持論を展開する人ではないわけよ。
まあ人を呪わば穴二つよ。いずれ滅び去る事になるでしょうけど。この世から。
933 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 17:37:11
>>932の
「>292さんのような持論を展開する人ではないわけよ。 」は、
「
>>929さんのような持論を展開する人ではないわけよ。」の間違い。
>>292はとんでもないばかでした。
おまいら ですがをいじって遊ぶのはそね辺りでやめておけ
こんなですがですが、かなりの年配なんだぞ!
見えないかもしれないがな
とにかく、ですがをそっと暖かく見守ってくれ
↑訂正
×そね辺り
○その辺り
936 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 21:37:08
何でもいいから、みんなもうちょっと落ち着いて書き込もうよ。
誤字脱字ってのは、罪じゃないけど褒められる事でもないよ。
937 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 21:47:13
魏へは朝鮮半島西岸を沿岸航法でいくルートがあった
漢の時代は帯方郡まで行けば郡吏が水先案内をしてくれたのだろう
でも呉へは東シナ海を横断する外洋航法が必要となる
多分これをやってのけたのは海洋系の民俗かそれを支配下に入れているクニだろう
939 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 22:12:23
>>937 こんがらがる必要ないよ。正解だよ。
>>875で僕が
「司馬懿が 公孫を滅ぼした事が元になり卑弥呼 が魏と友好を結ぶ為に近づいたとしたら
蟄居していた司馬懿にとっては名誉挽回のまたとないチャンスになったのかもしれない。」
と、書いたけど北部九州にあった邪馬台国が魏に近づいた最大の理由は
南のクナ国を牽制する意図があったとのであり、さらにクナ国が後ろ盾として呉と繋がっていたとしたら
魏は邪馬台国が呉の支配下に入る事を恐れて当然クナ国と犬猿の中の邪馬台国に肩入れするに違いないのである。
司馬懿はまさに公孫を滅ぼした事で魏と邪馬台国の軍事同盟を結ぶきっかけを作った功労者という事になる。
暗殺を恐れて閉じこもっていた司馬懿が再び日の目を見て活躍しだしたのはこの頃であり
それはとりもなおさず将軍 曹爽 の力をそぐことになるのだ。
940 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 22:20:27
>>939続き
ゆえにクナ国と比定出来る熊本県の球磨盆地の才園古墳で、3世紀前半の
卑弥呼の時代に呉で作られた鏡が出ても何ら不思議では無いのである。
クナ国は東南アジアの海洋系だな
久米=クメール とも理解しているが
942 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 23:01:48
>>934 変な自演でスレ荒らししなければ放っておくんだけどね。
何度自演がばれても懲りずに続けるってのは、これは根性があるのか
それとも理性が失われているのかどっちなんだろうか。
943 :
SOY:2007/05/26(土) 23:02:09
>>937 鍍金対置式神獣鏡。私もこれは呉晋鏡ではないかと考えています。
華北にない鏡が日本にあることについては確かに不思議ですが、
赤烏元年銘対置式神獣鏡、赤烏七年銘対置式神獣鏡も日本に伝わっているので、
晋が呉を併合して以降に少々古い呉鏡も流れこんだ可能性があるのではないか
と私は考えています。
あくまでも一見解に過ぎませんが…
944 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/26(土) 23:58:38
呉が滅亡して晋に代わった頃から呉鏡である画文帯鏡などが倭国に流入を始める。
勿論新旧の紀年鏡がほぼ同時期に流入しており、弥生時代の古墳などから出土する鏡の紀年によって
その古墳年代を特定するのはナンセンスといえよう。
>>931-932 以和為貴。無忤為宗。人皆有黨,亦少達者。是以或不順君父,乍違于隣里。
然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
倭を貴いものとして,逆らう事がない様にしろ.
人民には所属(これは九州王朝)があるが,(倭以外に)素晴しい物があるわけではない.
(九州王を)良しとして,君父(天皇家)に従わず,周の(既に大和に服従した)隣里と違とする.
しかし,倭を上として,臣下が仲睦じく,論事を諧するなら,即ち事理も通じる.
一条で倭国を貴しとする,二条で仏を敬う,三条で王の命令に従う,そう言う宣言である.
ただ仲良くしろという幼稚園な主張では無く,国家の基盤が,日本列島に,唯一存在する倭国を中心とする事の,宣言なのだと思う.
十七条憲法の意味は,仏教を国是として,天皇中心の国家に従い,滅亡した九州王朝に限らず,毛野,出雲,九州等では,
まだ倭国に服従したばかりで,旧支配者を,まだ宗教的に崇敬している,”まつろわぬ地域”の支配地域における,
中央集権と,自治の否定を,目指す物である.
そのため,まず第一条で高らかに”倭国以外は貴ぶな”と宣言して,地方政権を,禁止したものではないのか.
現行の,日本国憲法が,まず第一条で高らかに”天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴”と宣言して,
天皇の権威を,否定したことと,同じ構図ではないのか.
946 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 00:32:14
>>945 それでいくと「和国を以って貴しとなす」ではなく、「和王を持って貴しとなす」となるべき。
仏教の精神は仏陀の慈悲の御力で国を救済するの精神であり、
国家神道の国粋主義と大きく異なり仏教の和の精神で国家をまとめていこうとの
太子の並々ならぬ平和を希求する精神であると取るべき。
中臣鎌足は東国で生まれて飛鳥で宮仕えしたらしいが
毛野の旧勢力の根強い東国になぜ
朝廷祭祀をつかさどる氏族の子弟が生まれたのだろう?
藤原氏の氏神の春日大社は、なぜ鹿島神宮から分祀されたのだろう?
948 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 07:41:57
>>942 >>943 画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡も呉の系統の鏡といわれるし、球磨地方のメッキ
鏡や、逸品といわれる串間の穀璧も江南のものといわれる。
文献にある魏のほうが圧倒的に注目されるけれども、意外に呉との関係の方が
大きかったともいえるかも。
そうなると、西暦280年の呉の滅亡は日本にとっても非常に重要な出来事
だった可能性が大きい。
949 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 08:44:59
畿内説の古墳などの年代算出法は画文帯鏡などの鏡を元にはじき出しているとのことだったが、
「呉が滅亡して晋に代わった頃から呉鏡である画文帯鏡などが倭国に流入を始める」
事から考えても箸墓古墳などの築造は280年以降のことと考えられる。
>>949 > 畿内説の古墳などの年代算出法は画文帯鏡などの鏡を元にはじき出しているとのことだったが、
> 「呉が滅亡して晋に代わった頃から呉鏡である画文帯鏡などが倭国に流入を始める」
> 事から考えても箸墓古墳などの築造は280年以降のことと考えられる。
う〜〜〜〜ん
確かに現況では箸墓280年と言う説も存在し得るんですけど、
それが「画文帯鏡などが倭国に流入を始める」と言う文章から
どうやったら導き出せるのか理解できないですねw
一体全体、何でそう思ったのかな?
まさか!箸墓から画文帯が出土していたとか、勘ちがいしたわけですか?
「理由」と「結論」の間に全然因果関係が見出せないんですが…
951 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 12:27:42
>>950 記憶だけで書いたんで疑問通り間違ったのかと思った。
引用
「マスコミは、箸墓と同じく奈良県纏向遺跡にあるホケノ山古墳が造られたのは3世紀前半と報道した。
畿内説支持者の中には、これは卑弥呼の父の墓で、これと同じ前方後円墳の箸墓は、
卑弥呼の墓かもしれないと言った人もいた」
ということから画文帯鏡が出土したホケノ山と箸墓を年代の接近した遺跡と捉え
画文帯の年代を
>>944のように
「呉が滅亡して晋に代わった頃から呉鏡である画文帯鏡などが倭国に流入を始める。
勿論新旧の紀年鏡がほぼ同時期に流入」と280年以降と限定。
そこから箸墓の年代が280年以降と判断したものである。
952 :
SOY:2007/05/27(日) 12:34:02
>>950 九州ですがさんと私の年代観が細かい所まで同じであるかは分かりませんが、
私はおおよそ以下のように考えています。
(1) 泰始7年銘画文帯環状乳神獣鏡(270年)
(2) 泰始9年銘画文帯同行式神獣鏡(273年)
(3) 上海博61鏡
(4) 楽浪鏡(画文帯同行式神獣鏡)
(5) 萩原1号鏡
画文帯同行式神獣鏡が華北で登場するのは晋が呉を併合する280年に近づいてからで、
(3)はともかくとして、魏代に華北にはないはずの画文帯同行式神獣鏡を(1)(2)の前
にできないと考えた場合、(4)(5)以降を280年よりも後にする方が妥当に思えます。
とは言え、楽浪鏡の年代が確定しない限りは水掛け論にしかならないと思うので、
現状、私は鉛同位体比の結果などが増えるのを待っている段階です。
953 :
SOY:2007/05/27(日) 12:38:33
>(1) 泰始7年銘画文帯環状乳神獣鏡(270年)
(1) 泰始7年銘画文帯環状乳神獣鏡(271年)でした。
954 :
サガミハラハラ:2007/05/27(日) 12:39:49
ヤマトトトヒモモソヒメは崇神天皇の代になくなったようです。
崇神天皇は288年に崩御ですから、箸墓築造は280年以降ということで正解ですね。
考古学のうえからも証明されたわけですね。
955 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/27(日) 13:52:03
サガミハラハラさんは古事記の崩年干支は信用しななったんだ。
確かあれでは、崇神崩御258年だったが? 30年ズレるねぇ?
956 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 15:47:24
>>951 これは責めている訳じゃなく確認なんですが
それなら庄内式土器が4世紀に九州で発祥したとの考えは撤回したということでいいですね。
そのうえで画文帯の輸入開始を280年ごろに見ると。
では三角縁の開始(または輸入)はいつごろからと見ていますか?
同時に黒塚、那珂八幡などの築造実年代も大まかでいいので書いてみてください。
くどいようだけど、決して煽ったりしているわけではなく
自説を大幅に修正されたようなので、新たな年代観をお聞きしたいだけです。
957 :
サガミハラハラ:2007/05/27(日) 16:00:24
私は、古事記干支は2倍年暦であると固く信じております。
ですから、普通暦は60年で還暦ですが、古事記干支は30年で還暦となります。
>>957 そういうことでしたか。論点は分かりました。
959 :
SOY:2007/05/27(日) 17:28:15
>>956 画文帯を280年以降にすると、細かな年代観の違いはあるとしても、
だいたいあとは単純な穴埋めになるように思います。
私の年代観としては以下のような感じです。
(1) 晋が呉を併合(280年)
(2) 楽浪鏡(画文帯同行式神獣鏡)
(3) 萩原1号鏡(庄内古)
(4) ホケノ(庄内3)
(5) 箸墓古墳(布留0)
(6) 三角縁神獣鏡(黒塚、那珂八幡)
庄内は河内発祥でおおよそ280年頃の開始。
庄内期が40〜50年は続いたと考えると、
三角縁神獣鏡の始まりは330年以降?
九州ですがさんが『庄内式土器が4世紀に九州で発祥』と考えているのなら
画文帯の輸入開始を280年よりも20年ほど後代に下げ、4世紀以降とした方が合うかも知れません。
(庄内期に画文帯が出土しているので)
或いは、私のように庄内開始を280年頃にするという見解もありのように思います。
20年という微妙な話ですが…
960 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 18:09:54
>>956>>959 画文帯が280年以降に輸入されたとしてそれが畿内に持ち込まれるのに5〜10年かかったとする、
また、庄内式が4世紀前後に開始する。ホケノ山はその頃の築造で、箸墓はその少し後。
三角縁はその少し後、というところでしょうか。黒塚などはホケノ山と多少前後して同時期でしょう。
961 :
950:2007/05/27(日) 18:24:15
>>951 > 引用
「引用」と標記する場合は出典を明記して原文どおり書きましょう。
この場合、出典は「どっかの新聞記事を読んだ記憶」でしょうか。
ご自身の記憶領域から引っ張ってきた文章は「引用」と呼ばないほうがよいですよ。
そのほかの部分は結局何が何でそうなるのかわかませんでしたw
962 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:53:13
>>961 951の括弧の中はそのまま貼り付けたものだけど。
たくさんあるお気に入りのどれかから持ってきたから
場所は解らなくなった。
その他はよく読めばわかるはず。
名無しになってるw
964 :
九州ですが:2007/05/27(日) 19:18:51
>>962は
勿論九州ですがだがHP自体ログインになって無い。
調子が少しおかしいのかも。
965 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 19:23:18
もとにもどったようよ。
呪いかニャ〜
──v───
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
967 :
956:2007/05/27(日) 19:55:48
>>959でSOY氏の年代観が具体的に判りました。
これについての批判や意見は後にということで
同時にお答えいただいた九州ですが氏の年代観である
>>960なのですが
端中山の環濠底から布留0式、その上の層から布留1式が出土している事実をお忘れのようですね。
もちろん庄内式のほうが布留より早い様式です。
これでは端中山築造を280年ごろと見ることと大きく矛盾します。
また宮山式特殊器台との整合性も失われます。
どこかを再度訂正されてから、また纏めて下さい。
968 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 20:05:53
邪馬台国は宇佐にあったと思う。宇佐の亀山は卑弥呼の墓らしいから。
大国主ですが、国譲りますよ!
971 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 21:05:21
>>967「端中山築造を280年ごろと見ることと大きく矛盾します」
とはどこにも言っていないが。
倭への画文帯流入を中国が晋になった後、つまり280年以降と限定。
画文帯鏡が出土するホケノ山の年代はそれ以前とは考えられず
そこから箸墓の年代が280年以降と判断したのは次の文
「 「マスコミは、箸墓と同じく奈良県纏向遺跡にあるホケノ山古墳が造られたのは3世紀前半と報道した。
畿内説支持者の中には、これは卑弥呼の父の墓で、これと同じ前方後円墳の箸墓は、
卑弥呼の墓かもしれないと言った人もいた」 ということを元にして
ホケノと箸墓を接近した年代ととらえ、ホケノと同じく箸墓の年代を280年以降としているのであって、
「280年以降」は「280年ごろ」ではありませぬ。
972 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:09:40
>>968 だ〜か〜ら〜♪
以前、我らが九州ですが ◆IhXqm1bg5c氏も述べておられたように、古代九州は
筑紫、肥、豊、日向の4つに分けられていた(そうですよね?ですがさん。^^;)。
肥の国の巫女が、「肥巫女(卑弥呼)」。豊の国の巫女が、「豊(トヨ)」。
宇佐神宮の御祭神「比売大神」様は「トヨ」。亀山に眠っておられるのは「トヨ」ですよ。
973 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 21:14:39
974 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/27(日) 21:26:40
比売大神はおそらく姫島からとった名であろうと思う。壱与の子孫
だろうな。壱与自体ではなかろう。彼女は崇神〜垂仁の時代の人物
で、比売大神は神功〜仁徳世の実在の人物だ。
トヨタン・・・・・・・・
976 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:27:28
イ!ヨタン・・・・・・・・イヨタン・・・・・・・・イヨタン・・・・・・・・
978 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:32:57
979 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:45:02
ははん。トヨタン派とイヨタン派と、ロリは二人おるんじゃな。
980 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 22:08:17
イヨタンとトヨタンは
スレがマターリ進んでいるときに現れる縁起もんなのよね。
981 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:19:22
985
989 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:45:28
これこれ、埋め立てはやめれ。
物を粗末にする現代人を見たら、古代人は呆れるぜよ。
書くことなかったらせめて倭人伝でも書き写せ。
990 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:46:56
991 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:50:14
>>971 でしたら「280年以降」つまり箸中山築造は3世紀の後半も含む書き方ではなく
はっきりと「4世紀以降」と書くべきですね。
いまはその是非を問うているわけでなく、そちらの主張の確認の段階なんですよ。
なのであいまいな記述をわざと混ぜる意図がよく判らないのです。
とにかく「庄内式開始は4世紀開始前後、通説より100年後と見る」
「ホケノ山築造は、画文帯が呉滅亡後に列島に輸入されたと考えるので、そこから280年以降で庄内式開始とほぼ同時期」
「箸中山は布留0式期の築造、年代は未定。黒塚はそれ以降、これも年代未定」
この主張でよろしいのですね。
>>990 みんな知ってると思うけど、それはニュース捏造スレ。
何の主張もできないアホ九州厨の、苦し紛れの仕業。
こんなことしか出来ないんだから、
九州説の評価はさらに大幅ダウンしちゃうんだよ。
アホだよね。
993 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 23:12:17
>>991 だから「あいまいな記述をわざと混ぜる」もなにも
>971のまま取ればいいじゃないの。
994 :
956:2007/05/27(日) 23:25:32
>>993 いや「280年以降」とかいてますが、あなたの考えでは
庄内開始以前の280年から300年の20年間に箸中山が築かれることはないんですよ。
ご自分で理解したうえで書いてます?
>>971の内容は明らかにおかしいんです。
それは考古学以前の問題で、内容が一致していないのです。
庄内開始を4世紀以降とした上で、そこから布留0までどのくらいの期間を見ているのかをきちんと述べないと議論に加われませんよ。
今の段階ではそれが考古学的にどうかということはまったく問うていません。
せめてそのなかでも矛盾のない説明ができるようになってから書き込むようにしてはどうでしょうか。
○鹿だからしかたないじゃん♪
エイプリルフールにマジで切れてるやつ、はじめてみた
997 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/27(日) 23:42:29
>>994「画文帯が280年以降に輸入されたとしてそれが畿内に持ち込まれるのに5〜10年かかったとする」
と言ってるのであって「庄内開始以前の280年から300年の20年間に箸中山が築かれることはない」
なんて事はどこにも言って無いし、「庄内開始を4世紀以降とした上で、」
などともいって無い。あんたが勝手に僕の説が辻褄が合わないようにするため
誘導尋問にかけようとしてるようにしか見えない。
「
>>971の内容は明らかにおかしいんです。 」というなら抜粋して言ってみればいい。
辻褄が合っていないことはない筈だ。
>庄内式が4世紀前後に開始する。ホケノ山はその頃の築造で、箸墓はその少し後。
この前提が大デンパ。
ホケノ山は庄内初期じゃなくて「布留0」、箸墓は「布留1」以降。
999 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/28(月) 01:42:02
>>998 その説の方があんまり耳にしないけど、何説?
1000 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 01:46:26
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