冷泉天皇について語ろう

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1日本@名無史さん
村上天皇の第二皇子。
記述によれば、大変な美形・精神薄弱だったそうですが
2日本@名無史さん:2007/03/06(火) 23:07:33
このスレは50まで生きない
3日本@名無史さん:2007/03/07(水) 00:13:25
>>1
うp
4日本@名無史さん:2007/03/07(水) 01:15:19
冷泉じゃ〜な
5日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:55:55
綺麗な名前だな。そんだけ。
6日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:10:59
村上天皇は16人の子供がいましたが
中でも一番可愛がっていたのが
第二皇子の冷泉天皇だといわれています
7日本@名無史さん:2007/03/08(木) 01:44:11
今で言うアスペルガー?
8日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:17:39
梁に毬を乗せようとして、1日中蹴り続けていたとかいう話だっけ?
9日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:44:34
アスペルガーと普通の自閉症の違いがわからない・・・
10日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:38:16
アスペルガーの方が知能が高い
11日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:57:19
元方の民部卿や桓算供奉の怨霊でもいいから、とにかく誰かにとりつかれて欲しい過疎スレであった
12日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:58:31
冷泉帝は退位後42年生きた(61歳で崩御)。
陽成帝は退位後65年生きた(81歳で崩御)。
退位後は何をしていたのだろう?
全く表舞台に現れなかったというのが不気味だ
13日本@名無史さん:2007/03/12(月) 22:42:48
花山院は荒くれどもを集めて大暴れ
陽成院は色事に精を出した
陽成院のヤバい恋人って誰だったっけ?

それに較べて、冷泉院はつまらんな・・・何か逸話あったっけ?
14日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:13:34
>>13 冷泉帝は五、六歳の時に父帝にあてた手紙に男性性器を描いたとか、思春期になっても天井高く鞠を突き上げる遊びにこだわり、いつまでも続けていたらしい。
15日本@名無史さん:2007/03/13(火) 21:09:58
冷泉‐花山の親子は遺伝か?
陽成天皇はマジで81才まで生きたの?
16日本@名無史さん:2007/03/13(火) 21:34:24
古本屋で買った昔(S60)の「歴史と旅」の「歴代天皇総覧」って本があるんだけど、
陽成天皇の覧は清和源氏=陽成源氏説で殆ど埋まってた。
あとは宮中殺事件がちらっと載ってて、その後は退位してから長生きしたってことだけ。
扱い軽いよね。
この前そのものズバリ「陽成院」って本を図書館で見たな。
細かい内容は覚えてないけど、退位直後はそれなりに記録に登場するらしいけど、
やはり晩年のことはあまり記録がないらしい。
17日本@名無史さん:2007/03/14(水) 22:46:35
冷泉天皇は精神分裂病で花山天皇は躁鬱病なんだっけ。
どこで読んだかは思いだせんが。
18日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:36:55
>>14のエピからすると、精神分裂病というより自閉症って感じかな?
素人の印象だけど

退位してからの逸話なら、自邸が火事で炎上しているのを見ながら、「庭火」を意味する題の神楽を口ずさんで、群臣に笑われたというのがある
このエピなんかは、不遇の院への同情と、冷遇されても強くというか飄々と世を過ごしたある種のたくましさを感じるといったら、考え過ぎかな?
19日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:25:04
そもそも精神異常に至った原因はなんだろう
生まれた時は正常だったろうし
20日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:06:25
>>14
>冷泉帝は五、六歳の時に父帝にあてた手紙に男性性器を描いたとか、

出典は?
21日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:17:30
不二龍彦w
22日本@名無史さん:2007/03/15(木) 07:49:06
病で伏せってる時や御所が火事で避難する時に大きな声で歌を歌い続けたそうだけど、タミフルでも常用していたのかな?
23日本@名無史さん:2007/03/15(木) 08:01:20
>>6
それは違うな
村上天皇と安子皇后が一番可愛がっていたのは
冷泉天皇の同母弟で円融天皇の同母兄の
為平親王だよ

しかし為平親王が同母弟である円融天皇に皇位を奪われたのは
為平親王妃の父親が、左大臣源高明(醍醐天皇の皇子)だったからだ
藤原氏としては、源氏に天皇の舅の地位を取られる訳には
いなかったからな
24日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:44:36
>>20 『歴代天皇のカルテ』って本に載ってた。
「大鏡」「江談抄」「古事談」からのエピソードらしい。
冷泉天皇は幼少より顔つきや日常生活動作が普通ではなく…
とも書いてあるが、そんな奴天皇にするなよ
25日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:05:10
まあ為平親王の息子の源頼定が、冷泉の息子の三条天皇から
尚侍藤原綏子(兼家の娘)を寝取って、自分の子供を産ませたし

円融の息子の一条天皇が死んだ後にも、一条の女御だった
藤原元子(左大臣顕光の娘)も寝取って子供を二人も産ませてる

頼定にとっては、三条も一条も自分の従兄弟なのに、二人は天皇に即位
自分は臣籍降下して正三位・参議止まりの人生だったから
三条の尚侍や一条の女御に自分の子供を産ませた事で、少しは意趣返しが
出来たわな
26日本@名無史さん:2007/03/17(土) 00:25:45
冷泉の孫娘(花山の皇女)は野犬に喰われた
これも元方の怨霊は三代後まで発揮している
27日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:17:35
ほほー
28日本@名無史さん:2007/05/02(水) 17:04:32
>26
花山天皇の皇女は、強盗に殺されたんだよ。
万寿元年十二月八日に事件発覚、
万寿二年三月十六日に犯人が逮捕されている。
若くして退位させられた花山天皇は、
自分の乳母子やその娘にまで子を産ませ、
随分身分の低い女性とも交渉があったらしい。
29日本@名無史さん:2007/05/02(水) 17:23:51
>19
「大鏡」によれば、冷泉天皇は、賢帝とたたえられた父村上天皇よりも
整った顔立ちをしていたと書かれてありますし、五体満足ではあったのでしょうね。
五体満足ならば、生まれた時は正常だと思うでしょうね。
生後約3ヶ月で皇太子に立てられたときには、異常はわからなったかもしれない。
村上天皇の皇子については、乗馬の際、馬のたてがみを口でくわえ、
必死でしがみついていたと言う第八皇子永平親王の逸話もあり、
冷泉天皇と同じような症状だったのかもしれません。
30日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:48:53
村上天皇に異常な遺伝子があって本人は陰性だが
生まれてくる子はたまに陽性となって精神異常をきたす可能性とかも考えられる
31冷泉公裕:2007/05/04(金) 21:37:59
そんなこともあり得たわけです
32日本@名無史さん:2007/05/04(金) 22:07:49
ヴィクトリア女王みたいだな。
33日本@名無史さん:2007/05/04(金) 22:35:18
後冷泉院は自分の謚号が嫌だろうな
34日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:56:43
>>30 鳥羽天皇と待賢門院の四人の男子のうち、一人は盲目、一人は聴覚障害に加えて立つことができない身体障害者だった(残りの二人は崇徳と後白河)
美福門院との間にできた近衛天皇は眼病(遺伝性のガン?)で17才で死亡。
鳥羽天皇もやはり村上天皇と同じく、悪い遺伝子を持っていたのだろうか?
35日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:29:43
近親婚の結果?
36日本@名無史さん:2007/05/07(月) 08:32:27
近親婚のせいかもねぇ。
37日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:28:01
日本で近親婚はやばいという認識が生まれたのは
いつごろなんだろう。
38日本@名無史さん:2007/05/07(月) 10:09:25
>>37
近代まで認識はなかったんじゃないかな?
鳥羽天皇と待賢門院(いとこ同士の結婚)の皇子にも正常な人もいたし、
冷泉天皇の両親、村上天皇と中宮安子(いとこ同士の結婚)の皇子女も、
冷泉天皇以外は正常だった。
冷泉天皇ののちに続く、
花山天皇、一条天皇、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、すべて両親はいとこ同士。
後冷泉天皇の両親は叔母と甥で、後三条天皇の両親がまたいとこ婚。
天皇家は、江戸時代末頃まで、近親婚(おじと姪、おばと甥、いとこ間の結婚)
を行っていたよ。
39日本@名無史さん:2007/05/07(月) 15:11:03
近親婚じゃないのに徳川家慶は14男13女がいたが成人したのは家定だけって、どんだけ〜
40日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:25:36
徳川時代は将軍は脚気とクル病で死ぬんがデフォみたいなとこあるから、
生育環境が悪すぎるってのもあるよね。
鉛の入ったおしろいみたいなのも使ってたりするし、
近親婚以外にも早死にの要素はある。
けど、遺伝子異常と思われる要素は、やはり近親婚かな。
41日本@名無史さん:2007/05/08(火) 00:52:56
クル病ってなんですか?
42日本@名無史さん:2007/05/08(火) 08:58:50
冷泉天皇の叔父朱雀天皇も、精神薄弱だったというね。
朱雀天皇は、醍醐天皇と関白藤原基経の娘中宮穏子の皇子だけれど、
(ちなみに、醍醐天皇の母は藤原氏だが、穏子との血縁は少し離れている)
中宮穏子が21歳のとき生んでいた皇太子保明親王は早世、
保明親王の遺児慶頼王が皇太子に立てられたがこれも早世(菅原道真の祟りとされた)。
藤原氏が天皇家の外戚としての地位を失おうとしているまさにそのとき、
中宮穏子が懐妊、39歳で生んだのが、朱雀天皇。
怨霊を避けるため、3歳まで御簾内から出さず、昼も夜も灯りをともして育てられたと言うが(大鏡)、
精神薄弱で政治を執ることができなかったため、
叔父の藤原忠平が史上2人目の関白に就任、藤原氏の発展を築いた。
中宮穏子はこの後、41歳で村上天皇を生んでおり(村上天皇は冷泉天皇の父)、
こちらは賢帝だったため、藤原忠平の死後は、摂関を置かなかった。
43日本@名無史さん:2007/05/08(火) 09:14:31
3歳まで御簾内から出さずか。
そりゃクル病にもなるだろうし、精神の発達にも支障をきたしそうだな。
先天性の障害か後天性の障害か判別できんな。
44日本@名無史さん:2007/05/09(水) 15:45:09
冷泉天皇の奇行(「江記」などより)
・足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた
・父帝に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた
・清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ
・病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた
・退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難する時に牛車の中で大声で歌を歌った


普通こんな皇太子は廃位されるだろ、常識的に考えて…
45日本@名無史さん:2007/05/09(水) 16:03:42
皇太子時代の冷泉天皇には、冷泉天皇の母中宮安子の長兄である
藤原伊尹が、娘の懐子を送り込んでいたからね。
冷泉天皇は生殖能力だけは正常で、皇太子時代に妃の懐子との間に皇女をもうけていたから、
伊尹にとって懐子の皇子を帝位につけるために、冷泉天皇を即位させることは重要だったろうね。
案の定、冷泉天皇が即位した翌年、懐子に師貞親王(のちの花山天皇)が誕生したため、
冷泉天皇は在位2年で退位させられてしまった。
46日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:04:01
>>45 第一皇女は14才の時に生まれたしね。
女好きは花山帝も同じだったらしく、妻の母との間にも子供を作ってるW
47日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:32:31
衛生環境さえ良いのなら、平安時代の高位の貴族に生まれてみたいものだな。
楽しそうだ。
48日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:45:25
冷泉の父親・村上天皇は
醍醐天皇の第14皇子
49日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:34:13
>>44 冷泉天皇は歌が好きだったんですね。
でも当時の歌ってどんなもの?
後白河法皇が愛した今様とは違いますよね?
50日本@名無史さん:2007/05/10(木) 01:42:46
蹴鞠の鞠を梁に当てようと一日中ボール蹴ってたのはこの人?
京都サンガに入ったらよかったのにな
51日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:21:30
朱雀が薄弱って初めて聴いた。
ソースプリーズ
52日本@名無史さん:2007/05/10(木) 17:59:59
サッカーが好きだというだけで、精神薄弱扱いとは…

むごい、むごすぎる。
53日本@名無史さん:2007/05/10(木) 18:23:44
>>44 歌とサッカーと高い所が好きなだけで、精神薄弱扱いされるこんな世の中じゃ…
54日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:45:19
尾崎豊+ジェームズ・ディーンみたいなキャラだったんだろか
55日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:55:36
朱雀は普通の人。現代から見れば特に失政もないのに、譲位させられた。
承平・天慶の乱は当時の観念では天子の失政だったから。
56日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:56:45
俺の好きな天皇三傑
武烈天皇・冷泉天皇・陽成天皇

他に異常だった天皇っている?
57日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:30:44
花山
58日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:39:22
>>54
+窪塚)÷5
59日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:17:48
反社会的・理由なき反抗
サッカーを愛好し歌手になりたかった背徳皇子の波瀾万丈人生
60日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:52:01
>>56
武烈入れるんなら雄略も
アホっぽい死に方したのは四条天皇(粉撒いて人転ばすつもりが自分が転んで頭売って死んだ)
61日本@名無史さん:2007/05/11(金) 07:43:09
四条はまあ子供だったからな…。
平城とか後円融の破滅型も捨てがたい。
62日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:00:59
>>55
朱雀天皇が自分で政治を執らなかったという事実はあるね。
成人の天皇の業務を代行する関白は、もともと、思いがけず即位した
光孝天皇が、功労者である藤原基経に例外的に認めた地位で、
当時、光孝天皇と基経との間に血縁関係もなければ、関白は世襲でなかった。
光孝天皇の子、宇多天皇の代に関白は廃され、その子醍醐天皇にも関白は置かれなかった。
これが復活するのは朱雀天皇のとき。
醍醐天皇と中宮穏子の間に生まれた朱雀天皇は、同母兄やその遺児が死亡していたため
生まれながらの皇太子で、誰かの奇特な功労によってあえて帝位についたという天皇ではない。
にもかかわらず、朱雀天皇の叔父藤原忠平は、天皇の叔父であるというその血縁関係のみで、
はじめて関白に就任、天皇の業務を代行した。
一方、朱雀天皇の同母弟村上天皇の場合、当初忠平が関白を務めたが、
忠平の死後はこれを廃止している。
朱雀天皇が健全ならば、関白を置く必要はなかったと思われる。
63日本@名無史さん:2007/05/11(金) 17:59:18
平城天皇って幸せだったかもよ
薬子亡き後は他の女を近づけもしなかったなんてさ
そんな相手に出会えただけでもある意味幸せじゃん
よっぽど好いてたんだろうなあ
64日本@名無史さん:2007/05/12(土) 00:24:48
>>56
簒奪に怯えて錯乱の末、抜刀して暴れた後小松も香ばしい
65日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:17:11
後円融
66日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:50:55
三遊亭後円融
67日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:56:49
>64
>簒奪に怯えて錯乱の末、抜刀して暴れた後小松も香ばしい
 鉄鞭を振り回していたという称光とか、称光からペットの羊をねだりとってすぐ
撲殺したという小川宮(天皇じゃないけど)とかも。
68日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:14:16
後円融―後小松―称光・小川宮のラインは
冷泉―花山に匹敵するツワモノでつね。
69日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:20:05
冷泉―三条ー小一条ラインも
尋常ではない。
70日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:25:25
>後円融―後小松―称光・小川宮のライン
好意的に解釈すれば、この辺はいつ将軍家に棄てられるか怯えていた時代だからね。
天皇でいられるのも義満のお陰だし、義満が気まぐれで他系統の天皇を押し立てたら完全にアウトだもんな
71日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:12:43
後円融は精神的にまいってのDV夫だったけど、
先天的な精神障害だったとも思えんな。
義満との密通を疑って妃を鞘で殴ったのだって、
すぐさま義満に聞こえるだろうし、聞こえても平気だったと言うか。
後円融はいとこにあたる義満に怯えていたというより、
対決姿勢をとろうとしていたように見えるのだが。
72日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:59:51
>>69 いや、三条・小一条院はマトモだろ。
73日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:14:02
>>72
三条天皇は、精神的異常というより、目が見えなくなったり、体が弱かった。
小一条院は、精神的に少し異常があったらしい。
それにより、母親の皇后女成(うまく変換できないが女偏に成)子は弟を皇太子にしようとしたことがあったらしい。
事実、小一条院は道長の四男能信を呼んで東宮位を降りてしまったり、
関白頼通の外圧にもめげず即位の日を待ったのちの後三条天皇らに比べると、明らかに意志薄弱。
小一条院は、廃太子後、道長の娘と結婚して長年連れ添った妻を見捨てたり、
晩年には瑠璃女御などと呼ばれた受領の娘を寵愛したりして、性にはだらしなかったらしい。
74日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:10:39
>>73 ヒドス
三条タソは道長の度重なる嫌がらせによるストレスが原因の緑内障によって失明したんだっ
小一条院くん(;´Д`)ハアハアもまた嫌がらせにより無駄な争いを防ぐため自ら皇太子をボンクラ敦成に譲ったんだ。
道長の娘だって嫌々押しつけられただけだいっ
75日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:22:20
>>74
チミもストレスで失明すんの>?
小一条院君もいやいや道長の娘寛子に入り婿したなら、
寛子と次々子供作ったり、寛子が早世したあと
すぐに頼宗(道長次男)の娘と再婚したりしないと思うけど。
女好きだったんだよ。
寛子は、小一条院の元妻顕光女の怨霊で死んだといわれたんだよね。

76日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:53:41
小一条院、寛子のところに通うにあたって子供まだ作った前妻延子を
ぽいっと捨てたからなぁ・・・本当にこれっぽっちも顧みなかったらしい。
その捨てられた怨みで前妻は死後怨霊となって寛子を祟り殺し。

まぁ自分よりも10歳以上も年上で三十路の延子よりも
18歳の新妻・寛子に夢中になるのもわからんでもないが。
そりゃ若い奥さんの方が良いわな。
77日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:01:52
>>28
あれ(゚Д゚)
花山の皇女は恋愛トラブルで袖にした男に、
屋敷内から連れ去られて真夜中に全裸で川に投げ落とされたと記述があるよ
皇女は自力で川から上がり助けを求めたものの
誰も来ず、寒さと体力消耗とで凍死。
その凍死体を通りかかった野犬が食い散らした。

ちなみに昔の平安時代は現代より平均気温が低く寒かった(現代は温暖化だからなぁ)
78日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:16:47
全く同じ話が今昔物語?か何かにあった
ディテールも全く同じ
野犬に食われて骨と黒髪だけ残ったってやつ
花山天皇の皇女の話なのか
強盗に身ぐるみ剥がされて川に落ちたってことになってるけどほとんど同じ
これ実話なら衝撃だよなあ
79日本@名無史さん:2007/05/13(日) 06:47:01
>>77-78
今昔物語などの説話は、作り話も含まれているからね。
>77の出典は何?
万寿元年十二月八日に事件発覚、
万寿二年三月十六日に犯人逮捕の記事は、
国史大系板「日本紀略」にあるもので、信憑性は高いと思うよ。
恋愛絡みのネタではなく、犯人は物取り目的と思われ、
皇女を殺した犯人が逮捕されてる。犬の話は出てこない。
80日本@名無史さん :2007/05/13(日) 13:35:31
大した実力もないくせに、倒幕計画を立ててそれを実行に移す「オレジャイアン」後鳥羽(顕徳)院も
も素晴らしい・・・。
81日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:22:55
なんかスレタイから話しがずれまくってるな
スレタイ変えればよかったかも
◇ヘタレ天皇列伝◆
◇精神薄弱天皇列伝◇
◇歴代天皇の暴露伝◇
82日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:09:40
>79
「殴り合う貴族たち」に話が出てましたね。
それによると、小右記に、「花山院の皇女が盗賊に殺され、遺体が犬に食い散らかさ
れた。実際は盗賊ではなくなにものかが誘い出して殺したのだ、という噂もある」と
あるのだとか。
で、万寿二年三月に逮捕された容疑者の口から、首謀者として左中将某の名が出たた
め、実資や道長、頼通も驚いたとか(万寿二年七月二十五日)。

その三日後に名前不詳の「真犯人」が、「全て私がやりました」と自首してきて幕に
なったそうですが、なぜか万寿三年四月に、件の左中将は理由も不詳のまま右京権大
夫に落とされ、後は権守やら左京大夫を歴任して終わったそうです。
83日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:42:14
どちらにしても深窓のお姫様にはむごい人生だ…
84日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:59:54
>>82
左中将某=伊周の息子だっけ?
85日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:55:02
>84
>左中将某=伊周の息子だっけ?
ですね。荒三位と呼ばれていたとか…。
86日本@名無史さん:2007/05/14(月) 00:50:34
>>85 藤原道雅だね。
花山法皇に矢を放った伊周に負けないくらい、かなりのドキュンだったようで…
87日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:19:28
藤原道雅が恋愛のもつれで花山院皇女を殺したって事実だろうか?
落ち目の公卿は呪詛のネタなどにも使われるからよく分からんが・・・
三条皇女当子内親王との破局の数年後、ってこと?
伊周事件や当子内親王事件に詳しく触れる「栄華物語」では、
この件については全く触れるところがないね。
道雅の妻が、夫道雅を見限って、三条天皇の中宮(道長次女)に出仕した、
って話はのってるんだが。
88日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:47:44
若くして公卿になり、その後ずっと塩漬け状態。ここまで極端な例はあまりないな。
89日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:59:48
>88
失脚した公卿の子孫は仕方ないかも・・・
伊周の弟隆家も、父道隆在世中に17歳で就任した中納言が、生涯の極官だった。
道雅の妹は、道長の次男頼家の正室になっているのに、上手く立ち回りできなかったのかな。
隆家のほうは一筋通ったものがあったせいか、中流公家として江戸時代に至るまで子孫は堂上に残ったようだが
90日本@名無史さん:2007/05/14(月) 11:01:39
89
道長次男の名前、訂正。
頼宗だった。
91日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:52:15
せめて現任公卿になっていれば位階だけは二位くらいまでは進めるんだけど。
散三位じゃあこの時期は昇進のしようがないんだよね。
92日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:31:04
>>44を見る限り冷泉天皇は無邪気な池沼じゃないか。
それよりも殺人を好んだという陽成天皇が気になるな。
退位後60年も消息を伝える書物が少ないっていうのは、あまりにも狂暴で軟禁されてたとか…
93日本@名無史さん:2007/05/15(火) 02:32:00
反対にいい人だった天皇は?
用命天皇はなんとなくお人よしのいい人っぽい
影が薄いというか
妻の間人皇后が用命の死後、義理の息子と再婚したっけ?
94日本@名無史さん:2007/05/15(火) 07:01:41
>>92
陽成天皇って、殺人までやったっけ?
光孝天皇の皇女を2人が妃になっているけれど、
百人一首にはそのうちの一人に求婚した際の
優しい歌が残っているのに・・・
95日本@名無史さん:2007/05/15(火) 08:15:20
殺人を好むまでは言い過ぎだと思う。
幼なじみの側近をかっとなって殺しちゃったらしいってだけだろう。
それでも自分で手を下したってのは平時の君主としては問題有るけど。
96日本@名無史さん:2007/05/15(火) 10:12:47
>93
用明天皇は在位期間2年で病死してしまったからね。
短い大王期間にこれといった大事件も起こらなかったから、影が薄いのかも。
用明天皇の大后穴穂部間人皇女は、用明天皇の庶子多米皇子と再婚してるね。
多米皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の兄だけれど、母が大后でないために皇太子になれなかった。
用明天皇の弟穴穂部皇子は、用明の死後、大王になろうとして、
敏達天皇の大后炊屋媛(のちの推古天皇)を犯そうとした、とあるから、
多米皇子も、継母の大后穴穂部間人皇女を妃に迎えることで、
弟の厩戸皇子に対抗する意図があったと深読みしてみたり・・・
97日本@名無史さん:2007/05/15(火) 11:38:04
>>93
精神的に不安定だったけど、聖武は奥さんの光明子の尻に敷かれっぱなし
98日本@名無史さん:2007/05/15(火) 19:04:31
陽成タソは本当に悪いヤツだったの?
99日本@名無史さん:2007/05/15(火) 19:06:18
源氏物語の冷泉研究した時に史実との関連性を調べさせられてモニョった経験が
100日本@名無史さん:2007/05/15(火) 19:10:17
陽成帝、単に10代の少年の暴走ってことだと思うが。
101日本@名無史さん:2007/05/15(火) 20:24:31
>>99
私は小学生のときにまんが版源氏物語から入った
光源氏と藤壷の子の冷泉帝にほのかな憧れ・きらびやかな平安絵巻物語を想像していたのに
現実がこれとは…

ちなみに橋本治版源氏のあとがき?には実際の冷泉天皇をやたら美化している描写があります
102日本@名無史さん:2007/05/15(火) 20:29:14
源氏物語に朱雀帝、冷泉帝など、史実と同じ天皇の名前が登場しているのは、
当時の天皇号が退位後に天皇が暮らした邸(朱雀院、冷泉院)にちなんでいるためで、
紫式部は当時の皇室所有の邸の名をとって命名してたからだそうですね。
朱雀帝のモデルが実在の朱雀帝、冷泉帝のモデルが実在の冷泉帝、
ということではなさそうですが。
103日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:25:28
朱雀天皇の愛娘で冷泉の皇后昌子内親王は美人だったらしいけど子供できなかったね。
104日本@名無史さん:2007/05/15(火) 23:02:05
出来なかったと言うよりも出来るわけないってか。
冷泉の狂気を怖がって殆ど近付かないで、里邸に籠もっていたらしい。
105日本@名無史さん:2007/05/15(火) 23:20:55
陽成天皇・冷泉天皇・四条天皇

この3人は個人的に好き
106日本@名無史さん:2007/05/16(水) 01:08:11
冷泉の子供を生んだ二人の女御は早くになくなったし、
妻として付き合うには大変な方だったのかもね
107日本@名無史さん:2007/05/16(水) 09:25:18
>106
冷泉天皇の女御は早く・・・といっても、
冷泉天皇の女御藤原懐子は40歳、女御藤原超子は年齢不詳(この人は20代後半ぐらいかも)、
同じく年齢不詳の女御藤原付(付の下に心)子が冷泉没後円融天皇に出仕しているところを見ると、
歴代天皇の女御と比べてそんなに早死にではなかったかも。
冷泉天皇の弟円融天皇の女御の場合、藤原詮子が41歳、尊子内親王が20歳で死去しているので。
花山天皇が即位したとき生母は亡くなっていたことが知られるので、懐子は早死にのイメージがあるのかもしれないけれど、
当時の平均年齢からするとそれほど早死にだったわけでもない(ちなみに藤原懐子は冷泉天皇より3歳年上)。
冷泉天皇と同年生まれだった中宮昌子内親王は、冷泉天皇より早く、50歳でなくなっていますね。

108日本@名無史さん:2007/05/16(水) 12:36:39
平安時代の平均寿命が30歳前後だったよね?
一条天皇の中宮・藤原定子は25歳で死去
109日本@名無史さん:2007/05/16(水) 13:01:56
>108
藤原定子はお産で死んだから、寿命とは言い難いのだけれど。

東三条院藤原詮子は、弟藤原道長の邸で、一条天皇と中宮彰子臨席のもと、
盛大に「四十の賀」を開いている。
いわゆる、長寿を祝った行事で、「五十の賀」「六十の賀」なんてのもあるのだけれど、
最初の賀が四十歳から。四十歳が長寿と見なされていたことがわかる。
110日本@名無史さん:2007/05/16(水) 13:25:41
>>109 じゃあ冷泉帝の62歳は長寿だね。
陽成帝の82歳は化け物か…
111日本@名無史さん:2007/05/16(水) 13:57:15
道長の子供は早死か長寿か両極端だな。
112日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:09:11
近代以前の平均寿命は、
乳幼〜幼年までの死亡率が高いから、
平均がガクって落ちるけど、
10歳ぐらいまで生き延びると、
そこからはかなりの高確率で50歳近くまでは生きていられたそうだにょ。
113日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:22:36
人間五十年
下天の内を比ぶれば
夢幻の如くなり
114日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:43:34
こうしてみると
女性はお産で死ぬ確率高いんだね
昔の女性は、妊娠したら生きるか死ぬか賭ける感じで
ガクブルだったんだろうか…
115日本@名無史さん:2007/05/16(水) 20:17:36
戦前まで生きるか死ぬかの危険があったからな、妊娠は。
116日本@名無史さん:2007/05/16(水) 20:27:38
そして戦後は産めよ増やせよのベビーブーム
117日本@名無史さん:2007/05/16(水) 21:12:49
ベビーブームは復員した男と再開を果たした女が
猿のようにセクロスしたから起きたんじゃないの?
118日本@名無史さん:2007/05/17(木) 06:44:53
>>117
戦勝国民の韓国人に強い男の子供を産みたい日本女がいっせいに群がったから。
119日本@名無史さん:2007/05/17(木) 20:35:43
学も無かったし子供を労働力にしようと思ってたから
今の発展途上国と一緒だな
120日本@名無史さん:2007/05/17(木) 21:23:59
>>98 罪人を塔の上に登らせて矢で狙ってたのしんだとかいう逸話があるが、本当だったらヤバい
121日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:19:31
冷泉天皇のお后でなんか変わった死に方をした人がいたようだけど
朝方に、肘をついたまま眠るように亡くなっていたやつ?
122日本@名無史さん:2007/05/18(金) 01:40:27
>>121 冷泉帝の寵愛が篤かったという三条天皇生母、藤原超子(854〜882)ですね。(;´Д`)ハアハア
123日本@名無史さん:2007/05/18(金) 07:46:49
天皇じゃないですが冷泉家に養子に行って冷泉に苗字を変えたいのですが無理ですか?
上冷泉家、下冷泉家以外に冷泉って家あります?
124日本@名無史さん:2007/05/18(金) 10:44:06
冷泉ナントカという俳優がいたような。
125日本@名無史さん:2007/05/18(金) 15:59:28
西園寺とかその類の苗字に憧れる。
126日本@名無史さん:2007/05/18(金) 17:36:59
冷泉も西園寺も、地名(というか、寺名というか)だよ。
姓はどっちも「藤原」。
冷泉家は邸が平安京の冷泉小路に面していたことから呼ばれたもので、
西園寺家は、鎌倉時代にいた公望という人が西園寺という寺を建てたから。
足利義満が末裔から西園寺の地を譲り受けて建てたのが、あの金閣。
そんなのにあやかりたい?
127日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:56:43
いまの皇太子なら赤坂殿とか名乗るのか。
128日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:08:08
>>123
いっぱいいるんじゃね?
少なくとも萩藩士にはいたはず。
大内の分家が母方の公家冷泉家の姓を名乗ってたのが、
大内の滅亡後に毛利に仕えた。
129日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:47:47
東風吹かば
130日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:55:01
にほひをこせよ
131日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:08:46
梅花
132日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:14:32
鎌倉時代にいた公望だってさw
133日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:15:13
公経だね
134日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:24:37
>>132
流れ止めんな。
罰として別部穢麻呂に改名な。
135日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:44:25
>>134
別にいいじゃんか。心のせまいやつだな。
お前の名前は今日から狭虫ね。
136日本@名無史さん :2007/05/19(土) 00:13:35
冷泉帝は弟の円融帝と比べると子沢山だけど、円融帝の実子が一条帝ただ一人というのが何とも・・・
一条帝の実父は冷泉帝だったりして・・・。
137日本@名無史さん:2007/05/19(土) 00:53:49
タイトルに似合わず良スレ
138日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:46:09
>>136 一条天皇は歌や笛など芸術面に秀で、また温和な性格だったらしいから普通に円融帝の子供じゃない?
冷泉―花山ラインのドキュンさが見られないしね。
139日本@名無史さん :2007/05/19(土) 12:47:20
>>138
冷泉の子でも三条天皇は立派な方だったよ。
140日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:16:44
まんが『陰明師』作:夢枕 獏 画:岡野玲子

村上天皇や皇太子時代の冷泉天皇などが登場してます
冷泉天皇はまともな雰囲気ですた
あと超子の母親の藤原時姫がいい女(;´Д`)
村上天皇の寵姫・祐姫の怨霊も出てきます
141日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:35:05
>>140 ♪アッソレ\(^_^ )( ^_^)/オンミョージ
超子・詮子の美人姉妹の母親であり、兼家の子供もたくさん生んだからそりゃ美人だったろうなぁハアハア
142日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:23:05
冷泉帝は退位後、大好きなサッカーと歌三昧の悠々自適な生活を送っていたんだろうなぁ
牛車の中でもギター片手に
143日本@名無史さん:2007/05/21(月) 02:07:11
屋根に登ったのは、きっと一人になりたかったんだよね。
イケメン冷泉帝( -_-)
144日本@名無史さん:2007/05/21(月) 22:37:12
冷泉帝の和歌って残ってないのかなぁ
確か陽成帝は残ってたと思ったが
145日本@名無史さん:2007/05/21(月) 23:16:46
たぶん歌って書いては破ったので残ってないのではジャマイカ
146日本@名無史さん:2007/05/22(火) 01:52:19
なんでサッカーの神様とか歌の神様として祭られなかったんだろ?
147日本@名無史さん:2007/05/22(火) 18:58:30
肖像画には鞠が描かれていないか?
148日本@名無史さん:2007/05/23(水) 19:36:02
陽成天皇は闘犬、闘鶏、乗馬が趣味だったらしいね。
長寿の秘訣は部屋に閉じこもらないことだね。
149日本@名無史さん:2007/05/24(木) 17:59:25
なるほど、冷泉帝も御所のお庭で公家さんたちとサッカーやったり、夜はカラオケでストレス発散の生活か
150日本@名無史さん:2007/05/24(木) 19:55:59
サッカー、ひとりぼっちでやってたんでは?
記述にはサッカー仲間の名前はない
周りからキチガイと避けられたのなら孤独に遊んだと思うのだが
151日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:50:47
扶桑略記には陽成帝は御所を抜け出して六条の公家の屋敷に盗みに入ったという記述があるが、冷泉帝が屋根に登ったのは御所の外でめいっぱいサッカーをしたかったんだと思う。
悲しいかな冷泉帝はその勇気が無かった。
御所が火事の時、避難する牛車の中で大声で歌を歌ったのは、御所の外へ出れてうれしかったのだろう。
152日本@名無史さん:2007/05/26(土) 21:06:10
自閉症・・・男性に多く、整った高貴な顔立ちをしている場合が多い。
生れ付き見る、聞く、触るなど知覚や物事の理解の仕方が変わっていて、コミュニケーションがうまく成り立たない。
長らく世間一般では「閉じこもり」などと誤解されてきたが、様々な特殊能力があることが近年知られるようななってきた。
153日本@名無史さん:2007/05/27(日) 12:07:17
冷泉帝の狂気の原因は
村上天皇の第一皇子・広平親王を立太子に出来なかった
外祖父の藤原元方一派の怨みがもとだと思う
広平親王と冷泉帝は同じ歳の異母兄弟なんだが、母親の身分の差でアサーリ後継争いから脱落
二人の皇子が三歳の時に、元方は恨みながら死去。
そうしたいきさつから、元方の呪いを恐れた冷泉帝の母の安子中宮一派は
幼い憲平親王(冷泉帝)を絶対に外に出させなかったと思う
当時は、魔物や物の気の存在が信じられていたし
外に出れば元方の怨霊に殺されると思い込んでいたと思われる
154日本@名無史さん:2007/05/27(日) 12:12:56
ところが、回りの過剰心配のせいでまだ幼いうちから
外で遊ばせてもらえず屋敷内に監禁よろしく閉じ込められたら
怨霊の存在がなくても幼子が遊べずまともな神経でいられるはずがない
結果、憲平親王(冷泉帝)の中で精神異常が発生
155日本@名無史さん:2007/05/27(日) 12:29:09
一日中蹴鞠を蹴り続けたり屋根に登ったり牛車の中で歌ったりしたのは
やはり外に出れるのが嬉しくて嬉しさ爆発の行為だったと思う
また、寝込んだ時にも歌を歌っていたのも外に出れないストレス解消方法だったんだろう
それが、周りに理解されなくて狂気のレッテルを張られた可能性も。
156日本@名無史さん:2007/05/27(日) 12:32:00
同い年の異母兄の広平親王は22歳で亡くなってる
この腹違いの兄弟たちは互いをどう思っていたのか……

腐女子が喜びそうな題材ではある
157日本@名無史さん:2007/05/28(月) 02:33:27
>>156 元方VS師輔の外祖父になりたい争いに巻き込まれた悲劇の第一皇子だね。
こっちの方が数倍まともだったのに
158日本@名無史さん:2007/05/28(月) 03:22:46
御所が焼けた悲しみを歌ったぐらいで、キチガイ扱いか…

いつの時代もパンクは抑圧されてきたんだよ。

159日本@名無史さん:2007/05/28(月) 05:06:22
冷泉天皇の同母姉承子内親王は四歳で死んでるはず
懐子が産んだ娘も早死にだけど超子が産んだ娘は幼女のうちに死んでる
和泉式部と付き合ってた超子の息子二人も早死
しかし穏子は数え42歳で村上天皇を産んでてすごい
でも保明親王と康子内親王の年齢差が16(?)歳も離れているのはちょっと疑問
42歳で子供生む能力があるなら二十代〜三十代前半に沢山子供が産めたはず
160日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:01:04
チンポの絵描いたり一日中リフティングしてるというのは頭悪い男子高校生なら普通かも
161日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:05:46
冷泉帝はは永遠の中2病。
162日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:56:35
「お、おかみが屋根にっ!!」
歴代天皇で唯一御所の屋根に登り、都の景色を楽しんだ冷泉帝は漢の中の漢!
163日本@名無史さん:2007/06/02(土) 19:46:03
御所の池で泳ぐ冷泉帝
164日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:38:54
なんと・・・
帝はサッカーや歌が上手いだけでなく
スイマーでもあったのか!
ビバ☆オールラウンダー・れいぜい
165日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:15:01
冷泉帝杯争奪都一周牛車競争とかもやったんじゃないか?
166日本@名無史さん:2007/06/03(日) 17:57:22
歴代天皇の遺骨は残ってるの?
167日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:11:52
>>166
だいたい残っているんじゃない?
 被葬者を確定できない古墳は別として。
 ただ、調査はさせてくれないだろうけど。
168日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:33:53
冷泉天皇の骨が残ってたら
それを元に復元顔作ってほすい
どんな美形だったのか
169日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:02:53
>>166,167
残ってるわけ無いだろ。
だいたい陵墓が確実にわかっている天皇さえ少数なのに。
近世の将軍大名墳墓の発掘調査でも骨が残っているのは少数派。
それよりも悪い状態で葬られている歴代天皇の骨が残っている可能性は低い。
特に火葬骨は脆くなってるし。
170日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:11:57
>>169
>残ってるわけ無いだろ。
と断定しておいて
>残っている可能性は低い。

で、どっちが結論なんですかァ?
171日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:41:36
残っていない
172日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:43:56
天皇の陵墓は盗掘にあってるとは思うけど、遺骨は盗まれていないんじゃない?
まぁ副葬品が盗まれてたら誰の墓だか分からなくなっちゃうかもしれないけど。
でも、そもそも宮内庁が墓を調査しちゃダメって言うのはどうして?
173日本@名無史さん:2007/06/05(火) 07:27:23
天武持統陵が鎌倉時代に盗掘にあった時、遺骨は盗掘者に棄てられたんじゃなかった?
174日本@名無史さん:2007/06/07(木) 02:18:35
>>173 そうなの?
田村麻呂の墓が特定されたらしいが遺骨はあるのかな?
175日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:33:06
>>174
今でも立ったまま東をにらんでいます。
176日本@名無史さん:2007/06/09(土) 01:09:52
教育テレビで平安貴族の食生活みたいな番組やってたが、当時の酒って糖度40パーセントもあるんだな。
冷泉帝やら陽成帝みたいに長生きできたのは酒をあまり呑まなかったからかもね。
177日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:33:32
なまじ社会的に抹殺されているから酒席の付き合いもない。
いいんだか悪いんだか。
178日本@名無史さん:2007/06/10(日) 14:25:31
はあ? 二人とも宴会三昧の一生ですが
179日本@名無史さん:2007/06/10(日) 18:41:20
>>178 いや、干されてたでしょう!
だって酒席に招くメリットないじゃない
180日本@名無史さん:2007/06/10(日) 23:15:02
平安貴族はよくあんな濁酒みたいな酒飲んだよなー
181日本@名無史さん:2007/06/11(月) 01:06:55
平安時代の食事は見るからにどれもまずそうだ
貴族の食事なんか栄養ゼロに近い
味覚の慣れコワス
182日本@名無史さん:2007/06/11(月) 23:50:08
中公文庫の日本の歴史読んでたら冷泉帝が「大水竜」っていう
名笛を刀で削っちゃった話がちらっと出てきたんだが有名な話ではないのかな。
ぐぐっても大水竜ピンでないと出てこない。
183日本@名無史さん:2007/06/11(月) 23:58:28
初耳
184日本@名無史さん:2007/06/12(火) 02:04:39
>>182 おれも初耳。
しかし冷泉帝はいろんなことやらかしてくれるな。
おもしろエピソード集でもつくれるくらいだ
185182:2007/06/12(火) 02:39:57
他にも
・神璽の箱を開けようとした
・東三条南院にいたとき放火しようとした
・塀の上に渡した板の上を歩こうとした
・大嘗祭の御禊のときは終始正常で、美麗で端然としていた
 (これは目に見えぬ師輔の霊が輿の中で天皇をうしろから
  しっかりと抱いて守護していたに違いない、と評判になった)

という話がのっていた。
出典は明記してないけど、名著と呼ばれる本だから与太話ではないと思う。
186日本@名無史さん:2007/06/12(火) 12:58:46
もちろん出典のある話だが
ただそれら出典はちゃんとした史書ではない。
187178:2007/06/12(火) 13:00:11
>>179
そりゃ招かれはしない。院は宴の主催者。
188日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:38:59
>>185
>美麗で端然

ことばだけ聞くと、おお…と思ってしまうが
当時の美意識基準にあてはめて評価したものなのかな、やっぱし
189日本@名無史さん:2007/06/13(水) 10:01:20
>>169
古代の天皇陵はいかがわしいものが多いけれど、
平安時代中期以降は、公の史書と同時に公家の日記も多くて、
ほとんどの天皇陵は確定しているよ。
ただ、遺骨となるとどうかな。
埋葬の場合、状態がよければ遺骨が残る可能性はあるが、
日本の天皇家の場合、持統天皇以降、天皇は亡くなったら火葬されており、
骨壷に収められた時点で、すでに骨灰の状態。
仮に灰の一部が出てきても、顔を復元することはできないしね。
江戸時代、寛永寺に葬られた歴代徳川将軍の遺骨の中にも状態のいいものがあって
身長や血液型がわかったり、顔の復元に成功したものもあったが、
歴代将軍の遺体はいずれも火葬ではなく、埋葬であった。
ミイラになっていた奥州藤原氏の遺体からも血液型がわかったが、これも火葬されてない遺体だった。
宮内庁によって歴代天皇の陵墓は発掘できないが、発掘できたところで、それ以前の問題。
190日本@名無史さん:2007/06/13(水) 12:38:27
>>185

冷泉帝こそ、最初の傾き者だな…

時代を先取りしすぎたよ。
191日本@名無史さん:2007/06/13(水) 13:35:24
「栄華物語」を読んでいると、かわいそうになってくる>冷泉上皇
寒い冬の日に、自分で着ていた衣装を脱いで、
みんなおつきの人たちに分け与えてしまって、
自分自身は寒そうに震えていたとか、
お付きの人は、神様の化身だと呼んでお仕えしていたとか・・・
冷泉天皇は、「発作」が起こって前後のことがわからなくなるときと、
比較的普通でいられるときがあったみたいだね。
「発作」が起きていないときは、割と平常でいられることもあったらしい。
192日本@名無史さん:2007/06/13(水) 15:12:20
鬱病だったのかもね。
193日本@名無史さん:2007/06/13(水) 15:36:03
ええ人やん、冷泉院
194日本@名無史さん:2007/06/13(水) 22:36:55
>>189
平安以降も殆ど不明だよ。
文献では「どこそこに陵墓がある」との記載はあっても、井沢大先生が大好きな「穢れ思想」で、天皇の死体も穢れたものとして扱いはさほど丁重でもなく、陵墓も後世の推測に過ぎない。
古代〜中世は肉体ではなく霊魂を供養する方に力を入れたから。
天皇陵ではっきり断定できるのは泉涌寺に葬られた後水尾以降。
何しろあの藤原道長の墓もわからないんだからね。w
現在頼朝の墓とされるのも誰のだかわからない供養塔だし。
195日本@名無史さん:2007/06/14(木) 09:55:30
泉涌寺に最初に葬られたのは、鎌倉時代の四条天皇のはずだが。
平安時代の天皇陵も、凡その場所は判断でき、
調査すれば、骨壷くらいはでてくるだろう。
もちろん、中身は、残っていたとしても灰だろうが。
196日本@名無史さん:2007/06/14(木) 22:16:15
現在、天皇陵とされているものは、「誰それ天皇はどこそこに葬られた」と記録されているところからそれらしいのを認定したのであって、果たしてそこがその天皇陵なのかは学術的には全く根拠がない。
赤の他人の墓である可能性も高い。
197日本@名無史さん:2007/06/14(木) 23:17:06
>>194
少なくとも白河天皇以降の天皇陵はほぼ確定と見て良いだろう。
これ以降の天皇のほとんどは寺域などに陵があり、その寺が
管理していたから信用性が上げる。(醍醐天皇陵も醍醐寺によって
管理されていたので、天皇陵として確定している)
鎌倉以降になると墓石もあるのでより信用性が増す。
198日本@名無史さん:2007/06/14(木) 23:23:21
199日本@名無史さん:2007/06/15(金) 07:52:38
イザワなんか読んでないで、山田邦和大先生を読みなさい。
陵墓については、これが一番。
200日本@名無史さん:2007/06/15(金) 11:17:50
DNA鑑定したら全然違ってたりして
201日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:00:24
まあ、それもいいだろう。
源氏物語は実際の不倫をもとにして書かれたのです〜
202日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:53:53
>>141
超子はともかく詮子が美人って何に書いてあるの?
遅レススマソ
203日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:11:15
>>202
141ではございません。
詮子が美しいというのは「栄華物語」で読んだことがあります。
しかし、おそらく道長の娘に仕えた女房が書いたであろう「栄華物語」に、
不美人な天皇妃など登場するはずもなく、史料としてはいまいちかと思います。
ちなみに、超子が美人と書いてある史料を知らないのですが。
ご存知?
204日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:22:25
>>185 >玉璽の箱を開けようとした

冷泉帝なら祟りも恐れずやってくれると思った。
多分後日また開けたんだろうなぁ
どんな勾玉が入っているか見たいな〜
205日本@名無史さん:2007/06/18(月) 13:25:25
>>204
璽の箱を開けたら、煙が出て冷泉を包もうとしたのでさすがに
恐ろしくなってすぐに閉じたそうだよ。
206日本@名無史さん:2007/06/18(月) 20:11:52
>>205 玉手箱かよWWW

堀河天皇が病に伏した時にその箱を胸に置いて治るように祈ったらしいね。
讃岐典侍日記より
207日本@名無史さん:2007/06/18(月) 21:32:26
冷泉帝、意外にヘタレw
208日本@名無史さん:2007/06/20(水) 09:26:16
冷泉帝は還暦を迎えられても、その無垢な御心を忘れず蹴鞠や御歌を歌われていたのでございます。
209日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:07:00
あの時代上皇が還暦を迎えるのは大変珍しい事だよな。
陽成院も冷泉院も還暦祝いしてもらったのかな?
210日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:50:43
なんか冷泉帝のエピソードはどれもこれもほんわか気持ちになれるなぁ
側近もなんだかんだ文句言いながら憎めないって感じで
冷泉さん日記を書き綴ってたんだろうなぁ
211日本@名無史さん:2007/06/21(木) 08:38:24
冷泉院に日記なんてあったっけ?
冷泉院には、あの時代にしては珍しく、自分で作った歌も残っていない。
花山院は大量の和歌を残したものだが
212日本@名無史さん:2007/06/22(金) 13:26:32
>>211 冷泉院のことを記述した貴族の日記という意味では?
冷泉院は和歌とかには全く興味が無かったというか文盲だったと思う。
その点花山院は牛車をデザインしたり和歌に秀でていたりと芸術的な才能があったようだ
213日本@名無史さん:2007/06/24(日) 00:34:44
冷泉の母親の安子は気性が激しくて、村上帝の寵姫に土器を投げ付けたりしたんだってな
こわいょぅ
214日本@名無史さん:2007/06/24(日) 15:15:54
そして間に入った村上帝にも逆ギレ
その様子をそっと覗き見ていた冷泉・円融兄弟

円融(当時7歳)「ぁにぅぇこゎぃょぅ(;_;)」
冷泉(当時16歳)「守平、蹴鞠でぁそぼぅょ、ねぇ屋根の上でさぁ\(^O^)/」
215日本@名無史さん:2007/06/24(日) 15:29:02
冷泉と円融ってあんまり交流の話ないなあ
円融は30代前半でなくなったしね。
円融と冷泉の間には、父母に愛された同母兄弟為平親王があって、
円融は当初、皇位継承者として有力ではなかったしね。
216日本@名無史さん:2007/06/24(日) 15:55:00
冷泉と円融は年が離れてるしお互い「ずっと年上の兄」「幼いおとうと」って認識だったんざ
217日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:10:27
円融は同母の兄弟姉妹の中では、
四歳年上の同母姉資子内親王と仲がよかったといわれるね
円融の在位中、資子内親王は一緒に内裏に住んで、一品に叙されている
冷泉は仲の良い兄弟とかいたのかなあ?
東宮候補ということで隔てられていたんだろうか。
花山天皇は、和泉式部と浮名を流す異母弟たちと仲がよく、
一緒に遊んだり、恋人を譲ったりしているみたいだね
(この恋人はショックのあまり出家・・・)
218日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:47:01
>恋人を譲ったりしているみたいだね(この恋人はショックのあまり出家・・・)

詳細キボンヌ
219日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:08:13
>218
花山天皇は出家、退位後、
伯母に当たる藤原伊尹の娘九の君(花山院の生母懐子の同母妹)
を恋人にしていたんだけれども、藤原為光の娘四の君という新しい恋人ができた。
そこで、かつての恋人九の君を、異母弟の為尊親王(冷泉第三皇子・母は藤原超子)に譲るんだね。
為尊親王はのちに和泉式部と浮名を流す好色な皇子、このときも兄に薦められるまま
九の君を正室に迎えたんだけれど、自分の意思と無関係にあてがわれた九の君は、
仏教に傾倒、出家してしまう。
この辺りは、栄華物語に詳しく書かれてあるね。
220日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:56:19
冷泉院御製
年へぬる竹の齡を返してもこのよを長くなさむとぞ思ふ(詞花332)
うつろふは心のほかの秋なれば今はよそにぞきくのうへの露(新古今1575)
秋ならで霜夜にみゆるきくの花時過にたる心ちこそすれ(新千載646)
我に非ぬ人の手向るぬさなれどいのりぞ添ふるとくかへれとて(新続古今909)
221日本@名無史さん:2007/06/26(火) 19:38:43
>>220 守平も師貞も死んじゃったし、なんで僕だけ長生きなのかなぁ。о〇(´ω`)
っという冷泉院のお気持ちがよく伝わってまいります。
222日本@名無史さん:2007/06/26(火) 23:01:16
>>221
スレチでしかも時代が違うが
昭和天皇には三人の弟宮がいた、40代なかばで二の宮(秩父宮)が薨去され
二人の皇女もすでに亡く
晩年には三の宮(高松宮)も先立たれ
側近の「長生きしてくださいね陛下」励ましにも
「長生きしてもあまりいいことはないから…」と淋しくお答えになられたという
223日本@名無史さん:2007/06/27(水) 04:02:08
為平を忘れるな
224日本@名無史さん:2007/06/27(水) 08:46:07
>>221
花山院が退位させられたり、三条院が不遇だったりして、
冷泉院が普通の父親だったら、随分胸を痛められたと思う。
皇女三人はいずれも短命だったしね。
冷泉院には四男三女があったけれども、
冷泉院が亡くなったとき存命だったのは、第二皇子の三条天皇ただ一人、
残る六人の皇子女に先立たれている。
225日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:51:46
息子の三条天皇も道長に冷遇されてあんまりいい人生じゃ
なかったみたいだしね。
せいこさんのおかげでたくさんの子どもに恵まれたけど。
226日本@名無史さん:2007/06/28(木) 19:42:44
>>225 三条帝こそ悲劇の天皇だろ。
道長にいじめられたり、失明したり。挙げ句の果てには敦明親王が廃太子。
かろうじて禎子内親王が後三条帝を生んで血筋を保ったが
227日本@名無史さん:2007/06/28(木) 22:02:24
冷泉天皇はいじめられなかったんですね
不思議だな
228日本@名無史さん:2007/06/28(木) 23:32:42
>>227 仮に現代に生まれていても、歌が好きでサッカーが巧くて屋根にものぼっちゃう少年じゃあクラスの人気ものだろう。
229日本@名無史さん:2007/06/28(木) 23:41:46
230日本@名無史さん:2007/06/29(金) 06:02:53
「へのこ」の繪を描くのが好きな男色家だった
231日本@名無史さん:2007/06/29(金) 08:28:50
>>228

なにそのやんちゃっ子
232日本@名無史さん:2007/06/29(金) 08:33:53
>>227
冷泉天皇が在位2年で帝位を追われたのは、
ある意味、外孫を立太子させたい叔父伊尹の陰謀だったかも。
権力者の邪魔にならない退位した天皇には、好意的だったみたいだよ。
三条院も、退位後は、行幸する際に道長がお供したり、
廃太子になった敦明親王も道長の娘婿となり、この道長の娘の早世後は、
道長の次男頼宗の娘婿になって、道長一族が生活の面倒を見ていたようだし。
233日本@名無史さん:2007/06/29(金) 11:06:05
>>232 三条帝は心労から失明した上、四肢も不自由になったから仕方なく退位した。
おまけにその一年後に崩御。
敦明は父のようになるのを恐れて自ら皇太子を辞退。
それと引き替えに小一条院として平穏な生活を手に入れたって感じだね。
234日本@名無史さん:2007/06/29(金) 11:33:52
永井路子の「望みしは何ぞ」(藤原能信が主人公)だと
敦明親王は三条帝を失望させないために
亡くなってから東宮を辞退したことになってる。
道長の支配体制は磐石、後見は頼りない、
こんな世の中を無理に泳いで何が楽しいんだと。

まあ実際はこんなじゃなかったかもしれないけど
小説だと飄々としてて好きだった。
235日本@名無史さん:2007/06/29(金) 12:21:18
>234
まあ、その小説だと、敦明は当初より東宮になどなりたくなかった、
それよりも、気楽で風流な親王生活を送りたかった、というスタンスでかかれてあるね。
しかし、「大鏡」を読むと、敦明親王が東宮の地位にある頃から
道長が娘の寛子を後宮に入れて、後見する予定だ、という噂があり、
当初、敦明親王に呼びだされた能信は、同母妹の寛子を早く入内させろという
催促だと思った、と書かれてある。
実際は、敦明からの東宮辞退の話であったため、これを後で知った
敦明の母は悲しんだとか、そういう内容。
236日本@名無史さん:2007/06/30(土) 09:53:03
敦明親王は器ではないがな。
237日本@名無史さん:2007/06/30(土) 11:13:49
>>230 冷泉帝が村上帝に男根の絵を描いて送ったのは、やんちゃな消防がウンコの絵を描いて喜ぶことと同じ。
別に奇行でもなんでもない。無邪気やん?
238日本@名無史さん:2007/06/30(土) 21:03:10
>>236
それを言い出すと、このスレの主人公、冷泉天皇は?
という話になる。
摂関全盛期の天皇に、天皇としての器は必要ないかも。
239日本@名無史さん:2007/07/01(日) 00:25:22
君子は器ならず。
240日本@名無史さん:2007/07/01(日) 01:11:39
冷泉上皇が院政を敷いていたら世の中ハッピハッピーになったのに
241日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:12:13
いや、実は摂関家も冷泉院に気はを遣っていたのです。
でも二言目には
「朕にかまうな!」
でしょう?
今日はご機嫌がお悪いのかと退出するも、直後に再び
「蹴鞠の相手をいたせ」
だぜ?
院が屋根に登ったのも、引っ掛かった鞠を取るために御自ら…
242日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:35:15
冷泉天皇のところへ、家臣がご機嫌伺いに行くと、
降ろされた御簾の中で、
ひたすら歌を歌っておいでであったらしいな。
火事で逃げる際も、牛車の中で歌を歌っていた。
歌が大好きだったようだな。
243日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:39:11
\(^O^)/ ←冷泉天皇
244日本@名無史さん:2007/07/03(火) 12:21:30
ちゃんとHして子供作ることは出来たんですね
245日本@名無史さん:2007/07/05(木) 21:07:24
>>244 はい、懐子様との間に一宮様がご誕生になったのは帝が御年14の時でございます。
御体が壮健であらしゃいましたのであちらの方はそれはもう毎晩毎晩
246日本@名無史さん:2007/07/05(木) 22:36:04
14歳か早いな…
男はいいが女の子は大変だな
まだ未熟な身体だろうに
247日本@名無史さん:2007/07/06(金) 00:15:11
>>246 いいえ、兄貴。
絶世の美女とうたわれた女御藤原懐子は帝より五つ年上の女盛りですわ、げへへ
248日本@名無史さん :2007/07/06(金) 00:25:23
花山帝も親父に似てかなりお盛んだったからなw
249日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:07:36
実際には誰の子か分からないけどね
250日本@名無史さん:2007/07/08(日) 14:18:01
>>249 いや、花山帝は冷泉帝の本当の子だろ
乱心するなどの性格もオンナ好きなところも似てるし
251日本@名無史さん:2007/07/08(日) 14:26:00
記述では親子の容貌は似てないらしいけど
252日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:39:18
>>250
冷泉天皇は女のことに関してはかなりお行儀よかったよ。
中宮や女御などの正式なお妃以外は手をつけていないし。
子供は、女御藤原懐子との間に3人、女御藤原超子との間に4人。

それに比べると、花山天皇は、女癖が相当悪い。
女御藤原姫子を寵愛したかと思うと、1ヶ月ぐらいで全く召さなくなったり、
続いて女御藤原祇子を寵愛、祇子が妊娠7ヶ月で死ぬと、突発的に出家。
退位後はおとなしくしているかと思えば、伯母の九の君、祇子の妹四の君と次々恋人を作り、
四の君に通っているときには、その姉三の君にかよう藤原伊周に間男と勘違いされて矢を射掛けられるし。
乳母子とその娘平子を母子ともに寵愛、同時に妊娠させ、
母親のほうに一男二女、娘のほうにも一男二女産ませたのも、花山天皇。
253日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:23:07
>>252 花山帝って比叡山・熊野で厳しい修業を積んで西国巡礼霊場の祖として崇められたんじゃなかったの?
254日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:28:27
>>253
花山天皇、修行に行ったのは事実だが、
都へ戻れば女は手放せなかったらしい。
晩年には、思い立った熊野参詣を、
贅沢だといって藤原道長にとめれれているから、
物見遊山だとでも思われていたのだろうか・・・
255日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:05:44
と言うか、オンナ好きって遺伝するのか?
256日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:12:14
花山は自身の女好きが元でひとりの皇女を殺されていましたね
257日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:26:33
女にだらし無い花山
サカーと音楽に夢中の冷泉

冷泉さんの好感度急激上昇中♪
258日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:30:34
しかし平平子ってすごい名前だな
でも母親の本名が残ってなくて娘の本名が残っているのはどうしてだろう
259日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:16:18
どんな恋愛でもいいが
親子丼ぶりだけは受け付けん
激キモー
260日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:06:41
どうして?
親子なら外見や性格も似てるだろうから
好きになっても不思議はない。
特に年齢差が少ない場合。昔は20未満も多いだろうし。
261日本@名無史さん:2007/07/09(月) 01:07:29
平子が15歳ぐらい、母が30歳ぐらいだと思う
262日本@名無史さん:2007/07/09(月) 01:13:56
おお、だったら十分あり得る。
現代でもどこぞの富豪とかならやってそうだ。
3代どんぶりもあり得るかもw
263日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:18:28
まぁ美しい人は四十こえても美人だからな。
常盤御前も義朝のガキを三人産んで、清盛のガキ産んで、さらに藤原ナントカに嫁いだしね。
264日本@名無史さん:2007/07/10(火) 20:59:20
用明天皇の皇后、穴穂部間人皇女も用明との間に四人の皇子を産んだあと
用明の死後には彼の息子の田目皇子と再婚して一女をもうけてるね
265日本@名無史さん:2007/07/11(水) 11:15:35
うちのかあちゃんも親父と結婚して三人の子をもうけた後離婚して再婚相手との間に双子をもうけ、さらに離婚して新しい旦那を物色中ダヨ
266日本@名無史さん:2007/07/11(水) 16:23:33
>>265
あばずれ母ちゃんだな
267日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:19:14
冷泉院と花山院の親子関係はどうだったのだろう?
冷泉の皇后安子は狂気の帝に恐れをなして近づかなかったらしいが。
さすがの花山もガクブルか?
268日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:42:05
近頃の天皇さんは自分の死後、自分が「○○天皇」と呼ばれる事になるんだろうなあ
とわかってるだろうけど、昔の場合は自分の諡なんてわかんないんだよね。
天皇の仕事しながら、なんかこう、思うとこなかったんかな。
漢文つうかそういうのから採ってるわけだから、一応外国語なわけで
今で言うとバンド名みたいな感覚で「どうせならカッコイイのがいいなあ」とか
思わんかったかな。
REIZEIって語感も意味も結構かっこいい
269日本@名無史さん:2007/07/21(土) 04:03:46
謚じゃなくて追号だし >冷泉院
270日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:05:12
>>267

親子関係も気になるけど、皇后が狂気の帝に恐れをなして近づかなかったのに
超子や懐子とは子供を作っているんだから、皇后以外の妃にはまともだったのか、
それとも恐れをなしていやいやながらつくったのか?
271日本@名無史さん:2007/07/21(土) 14:13:02
相手は違ってたりしてw
272日本@名無史さん:2007/07/21(土) 15:26:53
>>267
冷泉天皇の中宮は、朱雀天皇皇女の昌子内親王。
中宮藤原安子は冷泉天皇の后じゃなくて、母ちゃん(村上天皇后)。
273日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:20:49
DNA鑑定もない時代だから不義の子だったとしても親子認定
つか歴代天皇は途中から別の血にすりかわってる可能性大
274日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:41:21
父ちゃんと兄弟の出世がかかってるから、
相手を選べんわな、摂関家の息女は。
生まれながらに高貴な朱雀皇女昌子内親王は、
あんな男、いや!って言って
やらせなくても許されるが。
275日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:44:39
>>273
源氏物語になるな。光源氏の子が天皇の子として天皇になったのが。
源氏物語は暗に宮中のタブーを盛り込んでいるような気がする。
276日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:56:01
この時代の妃は、実家と密接に繋がっていて、
一年の3分の1ぐらい里にいるから、密通もするだろうな。
藤原道長の異母妹も東宮妃でありながら密通して妊娠してたっけ。
こっちは発覚してしまったので、以後東宮のもとへあがれなくなったが。
277日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:56:44
>>268
概ね譲位後に住んでいた屋敷名が付けられているからだいたいの想像は付いたんじゃないか?
278日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:18:22
>>277
冷泉天皇→退位後、冷泉院という屋敷に住んでいた。
      (屋敷が冷泉通りに面していたから、冷泉院)

円融天皇→退位後、円融寺という寺を建て、出家して住んでいた。

花山天皇→在位のまま突発的に出家した寺の名前が花山寺。

一条天皇→生前、母東三条院が入手した一条院(一条通りに面していた)を伝領、
      内裏が焼失した際、一条院を里内裏にした。

279日本@名無史さん:2007/07/21(土) 22:56:47
>>278
やはり花山天皇だけ異色だな。
まさかそんなことで縁ができるとは本人も思わなかっただろうな。
280日本@名無史さん:2007/07/26(木) 17:07:21
>>268
遺詔で追号を定めるという手もあるな。
ただ、白河院以降だったと思うから、冷泉院の頃はそういう手は打てないか。

可哀想なのは、後陽成院だよね。
不仲の息子にキチガイ天皇の加後号にされて、
息子は、親子逆転の加後号を遺詔で付けちゃったんだから。
281日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:30:57
今、夢枕獏が朝日新聞に連載してる小説に蹴鞠の名手が出てくるが冷泉帝以上の強者だ
282日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:43:39
「 霊友会 」とは ? 「 立正佼成会 」とは ? http://www.geocities.jp/sonomama_da/reiyuu.html

さあみなさん。 このような霊感商法を 撲滅していきましょう。
283日本@名無史さん:2007/08/25(土) 09:26:42
>>281 あれは凄いね。
雨の日は太極殿の軒下で、病気の時でも布団の中に鞠を入れて足にくっつけていたって…
冷泉帝にも一緒にサッカーする友達がいたのかな?
284日本@名無史さん:2007/08/28(火) 12:34:17
光源氏、醍醐天皇皇子高明の実子だから仕方ない
285日本@名無史さん:2007/08/28(火) 12:36:34
286日本@名無史さん:2007/08/28(火) 14:12:02
287日本@名無史さん:2007/09/03(月) 18:37:18
>>284
光源氏は天皇の子で一世源氏だから、
高明の子ではなくて源高明自身がモデルだといわれていたのでは・・・
(高明は一度流罪に処せられたあと、都へ戻ってきているしね。
 もっとも、光源氏のように活躍はしなかったが・・・)
288日本@名無史さん :2007/09/03(月) 20:51:57
>>280
後冷泉院こそ、最も不当な後加号だよ!
目立った乱行も治績もまったくない、まるで空気のように希薄な存在感の天皇なのに・・・
そもそも冷泉院の血をまったく引いてないし〜
289日本@名無史さん:2007/09/03(月) 21:03:36
名前はかっこいいんだけどな・・・。
290日本@名無史さん:2007/09/03(月) 21:49:55
冷泉天皇の由来となった冷泉院は、最初にここを退位後の住居とした
嵯峨天皇の頃には、冷然小路に面し、冷然院と呼ばれていたみたいだね。
だけど、繰り返し火災にあい、「然」の字に火がつくと「燃」になるから
縁起が悪いということで、建物の名前を冷泉院と変え、通りの名前も冷泉小路になったみたいだ。
建物や通りの改名がなければ、「冷然天皇」になっていたわけだ。
291日本@名無史さん:2007/09/04(火) 23:07:19
 ∬
    ∫    ∧_∧
     ~━⊂(´・ω・`)つ-、  ほほう
      ///   /_/:::::/ 
      |:::|/⊂ヽノ|:::| /」
    / ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
  /______/ | |
  | |-----------| |
292日本@名無史さん:2007/09/04(火) 23:35:31
冷然 も かっこいい
293日本@名無史さん:2007/09/05(水) 11:18:52
じゃあ冷泉布美子さんは冷然布美子という名前になるところだったの・・・?

ところで冷泉布美子さんは冷泉天皇の血はひいているのだろうか?
294日本@名無史さん:2007/09/05(水) 21:56:18
>>293
冷泉家は藤原北家の流れ。
295日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:40:39
いや、それは俺でも分かる。俺が言いたいのは女系の女系の女系でも冷泉天皇の血をひいているのかということ。
296日本@名無史さん:2007/09/06(木) 22:36:32
>>293
冷泉家はたしか、藤原定家の末裔だ。御子左流、だっけ?
当主は代々、「為○」と名乗る。
今は亡き、入江相政(いりえすけまさ)侍従長も、これの分家スジ。
297日本@名無史さん:2007/09/07(金) 10:48:58
>>296
藤原道長(藤原北家)ー藤原長家(道長六男;御子左家と呼ばれる)ー(中略)
−藤原定家ー為家−為家の息子が二条家、冷泉家、京極家に分かれる
298日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:04:31
冷泉天皇―三条天皇―禎子内親王―後三条天皇―(中略)―竹田JOC会長
スポーツ好きの血は現在も脈々と…
299日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:12:34
>>298
後三条天皇から後の(中略)部分が一番重要で、
その間、間違いなく血筋が繋がっていたのかということだろう。
300日本@名無史さん:2007/09/17(月) 23:17:46
中略部分が長すぎ&広がりすぎだろw
301日本@名無史さん:2007/10/01(月) 16:49:06
>>297
二条家、冷泉家、京極家に分かれたんじゃなくて
御子左家=二条家から、冷泉家と京極家が分家させてもらったんだよ〜
302日本@名無史さん:2007/10/01(月) 19:32:27
蹴鞠ってさ、勝敗や順位を争う競技スポーツなの?
テレビでときどき見るけど、ただ円陣パスしてるようにしか見えない。
誰か正式なルール知ってたら解説キボ。
303日本@名無史さん:2007/10/04(木) 21:06:52
蹴鞠はより遠くに飛べたほうが勝ち
だったキガス
304式腸陰土 ◇A丁DF4vF乙ys:2007/10/05(金) 07:35:32
確かキャッチボールと同じで、いかに上手く華麗に続けるかということを目指すはず。
受け手の技量が未熟ならそれに合わせて、受けられるような蹴り(何と表現すればいいのかよくわからない)を入れないといけない。
305日本@名無史さん:2007/10/06(土) 15:47:06
蹴鞠には、勝敗も順位もない。
304の言うとおり、できるだけ長く続けて楽しむ遊び。
勿論、蹴鞠の上手といわれる人はいて、
天皇から褒美を貰ったりすることはあったけれどもね。
のちには公家の家業になったりもした。
306日本@名無史さん:2007/10/08(月) 17:26:17
>>305
冷泉は蹴鞠が上手かったとして何か賞品とか貰ったかな
307日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:51:13
天皇や上皇に褒美を与える目上の人など存在しないだろうな
父村上天皇在世中の皇太子時代ならともかく
308日本@名無史さん:2007/10/15(月) 19:38:51
ここまでチンコのAAが貼られていないことに正直驚いた。
309日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:40:09
>>307 円融天皇が
「兄ちゃんスゲーな」
って言って褒美をあげた可能性はある。
310日本@名無史さん:2007/10/27(土) 01:44:44
昌子内親王SEXしなかったのかよ!
311日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:33:13
11月3日午前11時から、奈良県桜井市の談山神社で、「けまり祭」があります。
次のサイトで→「祭・年中行事」→「けまり祭」→…と辿ると、蹴鞠の勉強ができます。
蹴鞠の動画もあるけど、冷泉帝のレベルには、程遠いようです。
http://www.tanzan.or.jp/index.html

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。
後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
http://www.tanzan.or.jp/ryakki.htm
312日本@名無史さん:2007/10/28(日) 15:19:45
ウィキの冷泉天皇の項目で「しかし、天皇の血統は確実に孫娘の禎子内親王をもって、没後円融系と融合される事となったのである。」という文章にはなんかホロリとしてしまった。
313日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:47:50
歴史学に凄いマイナーな存在感であるにもかかわらず
このスレ住人の冷泉帝への愛には驚かされます
314日本@名無史さん:2007/11/10(土) 18:38:47
父の村上帝は自分に陰茎の絵を描いた手紙を送り付けた子供をなぜ帝位につかせる?
どんなにイケメンだったとしてもさ
315日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:05:40
昌子内親王も美人だった。
2人は従兄弟。SEXしたのか??
316日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:36:10
子供できなかったよねー
317日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:21:02
>>315
昌子内親王が美人だったと言うソースプリーズ
318日本@名無史さん:2007/12/09(日) 23:59:27
冷泉家が平氏だって言う人いたんだけど間違い?
319日本@名無史さん:2007/12/10(月) 07:47:03
>>318
間違い。
藤原道長の六男長家の家系。
鎌倉時代に御子左家(=二条家)から分かれた。
320日本@名無史さん:2007/12/21(金) 21:30:13
冷泉帝にW杯みしてやりてぇ
321日本@名無史さん:2007/12/22(土) 15:39:56
イケメンでサッカーがうまいなんて現代に生まれてればモテモテだったろうに
322日本@名無史さん:2007/12/22(土) 18:15:37
「お声も振る舞いも常人とは異なり不気味だった」
と書かれているのに?
323日本@名無史さん:2007/12/23(日) 17:25:04
自閉症の人は一芸に秀でているとよく聞くが冷泉帝は運動神経だったか
よく体を動かして、太陽にあたって、ストレスも無い生活だったから長生きしたんだね。
324日本@名無史さん:2007/12/23(日) 18:29:41
いくつかの記録で昌子内親王がかなり美人となってる。
325日本@名無史さん:2007/12/23(日) 19:10:59
>>322
現代の感覚と平安時代の感覚を一緒にしてはいけませぬ
326日本@名無史さん:2007/12/25(火) 12:05:32
>>322 仮にも天皇だった方に対してそんな失礼な事書いてもよかったの?
327日本@名無史さん:2007/12/25(火) 15:25:59
>>325>>326
平安時代の女房文学、「栄華物語」に書かれてあるよ。
中宮昌子内親王は、夫冷泉天皇の発作が恐ろしいので、
里第ばかりにあってほとんど参入しなかったとかね。
328日本@名無史さん:2007/12/27(木) 17:24:05
円融帝曰く、兄は恐ろしきものなり
329日本@名無史さん:2007/12/28(金) 16:41:27
「冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なき物なれ」(大鏡)
330日本@名無史さん:2007/12/28(金) 17:26:15
>>319
レスさんくす。自分が間違ってるのかと思ったが
相手の間違いだったようだ。
331日本@名無史さん:2008/02/11(月) 10:30:28
    |┃三 ガラッ! ┌───┐ミ 
    |┃       | あげ  |  
    |┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃   ( ___)│    サッ 
    |┃=  (_》 ^ω^)E)   
    |┃ ≡⊂     ノ  
332日本@名無史さん:2008/02/14(木) 08:39:15
村上帝の子じゃないし、源高明元親王の御子だよ!!!
333日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:14:47
age
334日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:30:17
>>324
何の史料か上げよう。
脳内史料?
335日本@名無史さん:2008/02/18(月) 21:32:50
第二皇子の冷泉帝と第一皇子の広平親王は母親違いの同じ歳の兄弟
どちらもルックスは良かったから腐女子向けのノンフィクション小説の題材にはぴったり。
336日本@名無史さん:2008/02/19(火) 00:08:31
寛仁親王と姪の承子女王は
337日本@名無史さん:2008/02/19(火) 08:53:00
>>33
広平親王をルックスがよいとしている史料はない
狂質の冷泉天皇は主人公というのも・・・
338日本@名無史さん:2008/02/20(水) 21:12:43
円融や花山はイケメンだったのかしら?
339日本@名無史さん:2008/02/20(水) 22:58:42
同母兄弟の円融とか為平親王もイケメンというのは聞かないね
つーか、冷泉はイケメンというか美しい容姿と言われてる
そうやって大人しく黙っていれば美形なのにさとか書かれてるし
340日本@名無史さん:2008/02/21(木) 08:46:38
>>339
冷泉天皇は「父親の村上天皇より容姿が勝っていた」
「発作が起こらない時には帝らしい様子にみえた」
という微妙な言い回し。
村上天皇より顔がよかったからといって
村上天皇の容姿が良かったとしているものはないようだし、
(村上天皇の治世をほめるものはあっても)
冷泉天皇が誰もが振り返る美男だったかは微妙。
341日本@名無史さん:2008/02/21(木) 08:55:59
為平親王と源高明女との間に生まれた
源頼定は美男だった可能性があるんじゃないか
三条天皇の東宮時代の妃藤原綏子や
一条天皇の女御だった藤原元子を寝とっている
もっとも為平親王が美男だったというより
母親譲りだったかも知れんが
342日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:14:58
冷泉天皇の妃たち

中宮;昌子内親王(950-999)
朱雀天皇の皇女。母は、保明親王(醍醐皇太子)女煕子女王。
朱雀天皇の一人娘として誕生。
父母の没後は叔父村上天皇の庇護を受け、村上天皇の皇太子憲平親王に入侍。
憲平親王が即位、冷泉天皇となると、女御宣下、次いで立后して中宮となるが、
夫冷泉天皇の狂質が怖いのでほとんど里第にいたとある。
皇太后、太皇太后。
343日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:28:26
女御;藤原懐子(945-975)
摂政藤原伊尹の長女。母は、代明親王(醍醐皇子)女、恵子女王。
皇太子憲平親王に入侍、宗子内親王、尊子内親王を産む。
冷泉天皇即位後、女御宣下。
第一皇子師貞親王(のちの花山天皇)を産み、
冷泉天皇が在位2年で退位すると師貞親王は円融天皇の皇太子にたてられた。
花山天皇の即位を見ることなく死去。

女御;藤原超子(?-982)
藤原兼家の長女。母は、摂津守藤原時正女、時姫。
冷泉天皇に入内、女御宣下を受ける。
冷泉天皇の退位後、光子内親王を産む。
超子が居貞親王(のちの三条天皇)を産んだ際は、
ときの関白藤原兼通が兼家は円融天皇を廃して
この皇子を即位させようとしていると吹聴した。
為尊親王、敦道親王を産んだが、若くして頓死。

女御;藤原怤子 (生没年不詳)
藤原師輔女。
父の没後、冷泉天皇に入内、女御宣下。
冷泉天皇の退位後も内裏に残り、
円融天皇に仕えて尚侍となった。
344日本@名無史さん:2008/02/26(火) 09:07:13
源高明(醍醐天皇元皇子)の血筋はみんな美男美女よ、おほほ...
345日本@名無史さん:2008/02/26(火) 18:03:36
>>344
その割に、源高明も道長室明子の子供たちも
美男美女という話は聞かないなw
346日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:04:06
>>342>>343
妃にことごとく先立たれてるんだな。
347日本@名無史さん:2008/02/27(水) 08:33:18
宗子内親王って冷泉が数えで15のときの子供じゃなかった?
348日本@名無史さん:2008/02/29(金) 18:44:39
冷泉天皇の孫の清仁親王って何で天皇になれなかったんだろうね。
349日本@名無史さん:2008/02/29(金) 19:31:12
651 :soopllofeiv:2008/02/29(金) 19:15:41 ID:Q7eu+aQC
   天皇家 = 正田 一族(いぜん農民とすりかえ)



652 :日出づる処の名無し:2008/02/29(金) 19:21:04 ID:+KnCT9CS
天皇陛下万歳!


653 :soopllofeiv:2008/02/29(金) 19:23:09 ID:Q7eu+aQC
 都合のいい お金の減らない財布一族 フラグ=ショウタ一族(うんこ天皇)


654 :日出づる処の名無し:2008/02/29(金) 19:23:22 ID:lsGbWCRp
天皇陛下万歳!


655 :soopllofeiv:2008/02/29(金) 19:24:02 ID:Q7eu+aQC
頻繁にいれかえ 偽者家族 おかねのへらない財布一家


656 :soopllofeiv:2008/02/29(金) 19:25:46 ID:Q7eu+aQC
醤油の会社の社長が天皇 すりかえ皇族 政治家と企業の一部の利権
 お金のへらない うんこ家族 天皇家
350日本@名無史さん:2008/02/29(金) 19:40:44
このままでは3/15に表現の自由が奪われる!
   2ちゃんに"韓国嫌い"って書き込んだだけでアウト!

       日本を乗っ取られたくない奴は目を通してくれ!

人権擁護法案をVIPPERで潰せ!!!!!!!!!!!!!五の章
http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1204120141/

【手紙】人権擁護法案反対リアルメル凸運動 3【葉書】
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1114300664/

人権擁護法案、外国人参政権、反対合同連携OFF
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1202004248/
351日本@名無史さん:2008/03/01(土) 09:57:54
>>348
清仁親王の父花山天皇は、冷泉天皇の第一皇子ながら、
外祖父や生母が没してから若年で即位、
帝位は不安定で早々とだまされて帝位を追われてしまった。
清仁親王は花山天皇が出家後に作った子供。
院政期には法皇が愛妾を持つのは当たり前だったが、
当時は出家の身で愛人を持つのはタブー、
しかも花山法皇が乳母子かその子との間に儲けた
中宮や女御を母としない卑母の子だった。
ただ、花山法皇は大層可愛がり、
父冷泉上皇の養子として親王宣下が受けられると大変喜んだという。
352日本@名無史さん:2008/03/01(土) 10:21:55
>>347
藤原実頼も長男の敦敏と12歳しか違わないし、
そんなに珍しいことでもない。
353日本@名無史さん:2008/03/01(土) 10:30:23
摩羅の画を描いて父親に送ったという話は何という文書に載ってたのですか?
354soopllofeiv:2008/03/01(土) 12:42:42
soopllofeiv:2008/03/01(土) 12:36:19 ID:lA35VTpT
ばばたれ婆美智子曰く

 「おててをあげたらご飯がたべれる能力」 =天皇所有


277 :soopllofeiv:2008/03/01(土) 12:37:56 ID:lA35VTpT
おててを
  挙げて エサをおねだりする 天皇

                BY名無し皇太子(オリジン死亡)


278 :soopllofeiv:2008/03/01(土) 12:39:37 ID:lA35VTpT
   すごいっ(”;   Xmanだっ! 低能平下
355日本@名無史さん:2008/03/01(土) 13:06:10
>354
スレ違い
356日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:17:29
>>353 大鏡、江談抄、古事談のどれか
357日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:12:11
後冷泉天皇や後陽成天皇はこんな名前つけられて不満だろう
358日本@名無史さん:2008/03/18(火) 21:10:29
今日立ち読みした橋本治の本に孤帝記という短編小説が載ってたんだけど、このモデルって冷泉天皇なのかな
359日本@名無史さん:2008/03/22(土) 08:49:18
「陽成院」て題名の本があった。源益を宮中で殺害し馬を乗り回し都で狼藉を働いたのも本当らしい。
だれか「冷泉院」て本を書いておくれ。
360日本@名無史さん:2008/03/24(月) 14:46:29
>>357
後水尾天皇の悪意があったとされる後陽成天皇はともかく、
後冷泉天皇のほうは悪い意味でつけられたものではない。
この時代、天皇号は後院(退位後に住んだ邸宅)の名や、
内裏が焼失した際移り住んだ里内裏の名から取られていた
ため仕方がない。
後冷泉天皇は天皇のまま没したため後院は持たなかったが、
冷泉院ゆかりの天皇だった。
冷泉院は冷泉上皇が後院として住んでいた邸宅だが、
冷泉上皇の没後まもなく焼失。そのまま再建されることもなかったが、
後冷泉天皇が1051年、焼失から35年ぶりに冷泉院を再建。
御所が焼失した際、冷泉院に逃れて住んでいたことがある。
後冷泉天皇の「冷泉」はこの冷泉院に由来するもので、
冷泉天皇にちなんでつけられた号ではない。

361日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:36:35
>>360 後水尾帝は親父嫌いだったの?
362日本@名無史さん:2008/03/25(火) 08:11:53
>>361
冷泉天皇の話題とは離れてしまうけれども・・・
後陽成天皇はもともと関白豊臣秀吉から第一皇子良仁親王を
儲君と定めるよう決められていた。
しかし、豊臣家が関ヶ原で敗北すると、後陽成天皇はこれを
反故にして良仁親王を出家させ、自分で儲君を決めようとする。
しかし、ここでも徳川家康の横槍によって女御近衛前子を母とする
第三皇子政仁親王が儲君にたてられた。
後陽成天皇はこれに反発して異母弟八条宮智仁親王への譲位を求めたが
徳川家康に拒否された。
院政をとろうとする後陽成と、後水尾は不仲であったとされる。

後水尾とは水尾天皇と呼ばれた清和天皇のことで、
後水尾生前の意思によって決められ、生前ゆかりの邸宅の名とは無関係。
一方、後水尾は父が没したとき清和の息子で良い逸話のない陽成の名を贈っており、
親子間の不和が原因かとも言われる。
363日本@名無史さん:2008/03/25(火) 19:10:11
>>362 なるほど、勉強になりましたm(__)m
364日本@名無史さん:2008/04/01(火) 21:22:55
陽成天皇は乗馬好き
発達障害が疑われている徳川家綱も馬が好き
冷泉帝は蹴鞠だけでなく乗馬はしたのかな?
365日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:28:03
冷泉帝はわからないけど、息子の花山帝は乗馬を好んだようだね
平安貴族にとって、弓はいいけど乗馬はあまり雅ではなかったんだろうか
陽成も花山も馬好きってのがマイナスっぽい書かれ方をしている気がする
366日本@名無史さん:2008/04/02(水) 08:53:13
冷泉天皇は障害があってじっとしていることができなかったようだ
即位の礼の際、輿に乗って巡業するとき、外祖父の故師輔の霊が
後ろから冷泉天皇をはがいじめに押さえていたために
かろうじてしばらくの間じっと輿に座っていることができたと考えられたようだ
この障害により乗馬は無理だと思われる
367日本@名無史さん:2008/04/02(水) 16:00:32
 ADHDだったのかな?
368日本@名無史さん:2008/04/02(水) 22:07:04
徳川家茂とおなじだね
369日本@名無史さん:2008/04/04(金) 11:59:48
家茂は乗馬しただろ
370日本@名無史さん:2008/04/04(金) 22:48:02
家重のことかもよ。9代将軍。
371日本@名無史さん:2008/04/05(土) 01:21:34
誰か清寧天皇を語ろうスレ立ててくれ。

父親の雄略スレはあるのに 息子の清寧は何故ないんだ?
アルビノ皇子のファンはいる筈だ!
372日本@名無史さん:2008/04/11(金) 21:22:41
清寧天皇いいね
誰か、アルビノ☆清寧天皇のスレ立てて
立てようとしたが無理だった
373日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:24:09
イケメンだったといわれる天皇は反正、清寧、一条、二条、
美少女だったらしいのは元正、後桜町

あと生涯自炊を続けた仁考天皇
374日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:29:11
>>373 生涯自炊詳しく
375日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:16:23
>>373
元正は「続日本紀」に美人だったという記述がある。
反正は歯並びが奇麗だったため「瑞歯」と呼ばれたという説も。

あとは?
一条天皇が美男だったとかなかったと思うけど・・・
376日本@名無史さん:2008/04/13(日) 23:48:17
一条はよく知らんが二条は確か平家物語に美男子って書いてあったよ
美少女みたいな容貌だったから平治の乱のときに脱出した際に
女と思われて包囲を脱することが出来たらしい
377日本@名無史さん:2008/04/14(月) 00:03:45
元正女帝って優しくて気立てがよくて美人説が一般(母親がそういってるんだよね)なんだけど
大伴家持かなんかの談話で
「超わがままでー山登ったときはお土産無いとか疲れたとか腹減ったとか
大騒ぎしてもうね・・・イヤーあの時は舎人親王君が上手くおだててくれたからほんと助かったー」
みたいなのも残ってるんだよね

どっちが本当の姿だったんだろ・・・
まぁわがままお嬢でも顔のつくりはよかったのかな
それはそれで仕えてみたい気はするw
378日本@名無史さん:2008/04/14(月) 14:49:32
関係ないが「続日本紀」の記述をもとに
作家の永井路子が元正天皇を主人公にした「美貌の女帝」という小説を書いているね
379日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:54:16
>>373 仁孝帝が自炊とかウソだろ
常考
380日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:24:29
元正とか後桜町とかは処女?
381日本@名無史さん:2008/04/28(月) 18:19:59
多分
382日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:07:18
冷泉帝は昼は鞠と戯れ、夜は女官と…
なんと幸福な人生六十年!
383日本@名無史さん:2008/04/29(火) 14:25:37
冷泉天皇は62歳まで生きたけど、
子供は31歳のときに誕生した第四皇子敦道親王を最後に、誕生していない。
妃たちには次々と先立たれ、それ以降、寵愛していた女官の記述もないことから、
結構、潔癖な生活をしていたのかも。
384日本@名無史さん:2008/04/29(火) 19:51:48
>>383 と言うかそもそも興味が無かったのかも
385日本@名無史さん:2008/05/02(金) 20:28:35
多分酒も飲まなかったんだろう。
あの時代の酒は毒だからね。
386日本@名無史さん:2008/05/03(土) 05:08:23
冷泉は藤原氏から疎まれた。その理由は藤原の血筋より皇室(宇多醍醐の近親婚)の色濃い血筋であったから。しかも、時の藤原権力によって実父を村上と無理矢理宛がわれたのだから、切れたくもなる。その点が清和天皇系が廃されたのと全く異なる。ファンタジーにしないように。
387日本@名無史さん:2008/05/07(水) 20:35:51
デムパ?
388日本@名無史さん:2008/05/07(水) 22:22:38
>>379
俺も仁孝帝がそんなことをしていたって話は聞いたことが無い。




ただし、光孝帝が即位前に自炊していたという伝説はあるけど。
389日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:57:22
>>368-370
家定のことだろう?
390日本@名無史さん:2008/07/08(火) 21:25:35
人生の大半は大好きな蹴鞠をしてすごしたんだな
391日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:01:00
蹴鞠という適度な運動、上皇というストレスの無い地位が長生きの秘訣か
陽成院も乗馬が好きだったみたいだし、やっぱ体を動かさなきゃだめだね
392日本@名無史さん:2008/09/30(火) 01:54:48
>>386
清和天皇系で廃されたのは陽成個人でしかも形式上は退位だから子孫の皇位継承は否定されなかった。
ただ、陽成の男子が陽成退位及び光孝崩御時点で生まれていなかった。
宇多は陽成本人の復位論及び陽成嫡男の元良親王擁立論を恐れていたらしい。
393日本@名無史さん:2008/10/14(火) 05:55:33
>>391 よく歌を大声で歌っていたらしいが、この時代の歌ってどんなの?
後白河が好きだった今様みたいなもの?
394日本@名無史さん:2008/10/15(水) 19:41:13
催馬楽とかじゃないかな
源氏物語で夕霧が結婚する時に、みんなで唄ってる場面があったけど
395日本@名無史さん:2008/10/16(木) 05:24:25
>>394 なるほど催馬楽か〜
聞いてみたいなぁ
396日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:04:05
>>393
史料で残っているものとしては火事で車に乗って逃れる際
燃え盛る屋敷を見ながら冷泉上皇が歌っていたという「庭火」。
「庭火」は神楽歌。
神楽歌は神社などで奉納される祭祀の歌。
神楽歌のいくつかは今でも宮中祭祀において伝承されている。

催馬楽はもともと民間の流行歌だったもので
平安時代に宮中行事に取り入れられ平安貴族たちに口ずさまれるようになった。
催馬楽はもともと民間で歌われていたため自由な音程で歌われていたが
宮中に取り入れられる際に中国音楽にならって律呂で歌われるようになった。
一条朝に催馬楽は大流行、源氏物語には催馬楽として23曲が上がっている。
しかしその後催馬楽は衰退、消滅する。
後水尾上皇のときに催馬楽の復興が試みられ、現在では大学などが主体となって復元が試みられているが
いずれも平安時代の催馬楽がそのまま伝承されてきたものではなく消滅したものの復元にすぎない。
397日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:42:59
>>396 まったく関係ない歌を歌ってたわけでもないんだな。
398日本@名無史さん:2008/10/27(月) 07:36:22
今、火事現場でキャンプファイヤーの歌を歌うようなものだな。
一般常識から見ると、きわめて逸脱した行為だな
399日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:03:43
冷泉天皇の精神薄弱の原因って何だったの?
同母兄弟には狂気はないから近親婚による遺伝子異常のセンは無し
早くから東宮に決まって蝶よ花よと大事に育成されすぎて
栄養不足・日光不足とでおつむに栄養が廻らなかったとか…
そのわりに異常に長生きしたね
400日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:35:38
冷泉天皇は自閉症か何かじゃないかな。

言語障害が見られ、
(声なども気味が悪く、という記述あり)
突然突拍子もない行動をとることがある。
(即位の礼の間、冷泉天皇がじっとしていられるか人々は不安がっていたという)
また、回転するものに強い興味を示す(蹴鞠好き?)。
文字など視覚を通すものに関しては普通の知能を示すことが多い。
(膨大な量の和歌を詠んだ)
尚、自閉症だからといって短命だというデータはない模様。
(長命の人もいる)

自閉症は遺伝子障害の一種だとも考えられているが、
親から子へ伝承される病気ではなく、突然変異的な異常。
近親婚の影響はでない。

大事にされすぎて発病した天皇というのも
この時代聞かないから。
401日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:51:50
>>400 〉回転するものに異常な興味を示す
ワロス
402日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:09:50
>>400
>回転するものに強い興味を示す(蹴鞠好き?)。
文字など視覚を通すものに関しては普通の知能を示すことが多い。
(膨大な量の和歌を詠んだ)

ふむ、現代ならゲームやアニメ漫画好きな秋葉住人か…
あとカラオケにもハマったに違いない
生まれてくる時代が千年ほど早過ぎたね、冷泉の帝よ。
403日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:21:48
>>402 いや、現代に生まれたらどうしょもないニートだろう
404日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:22:27
今で言えば、DQNなキムタクってことか。
405日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:26:28
皇后の昌子内親王は美人と記録にあるが
間に皇子がいれば、優秀で美しい子ができる
確率もあったよ。
406日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:21:14
冷泉天皇の異母弟の永平親王も、美形だけど白痴だったはず
遺伝でないとはいえ村上天皇を怪しみたくなるな
しかし、そんな永平親王を養子にするなんて、昌子内親王も不思議な人だ
407日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:48:07
永平親王は村上天皇晩年の子で幼少時に両親を亡くしていたから、養子の話も来たんだろ。
道隆、通兼、道長など摂関経験者を3人も出して優秀だと言われた兼家の息子たちも
四男道義は「痴れ者」、次男道綱は「文字もかけず」などと酷評されているから
20人の子供がいた村上天皇にできの悪い息子が2人いたところでそんなもんだったのかも。
藤原道長はライバルの小一条院流(敦明天皇の外戚)を笑って
「八の宮の痴れ者」と小一院家を外戚とする永平親王のことを
常に持ち出していたが、道長自身、自分の血縁者に冷泉天皇がいることには触れず。
408日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:14:12
保育園レベルでペニスとわかる絵をかける能力があるとは
ゴッホと同じ躁鬱じゃないか?ハイテンションのときに
逸脱行為に走るから。
今ならラテン系な皇族としてJリーグ発展させただろ。

戻るけど、元正女帝はエリカ様ってとこだろうな。

最後に栓子の子供ってマジ円融の子?淀殿の疑惑と被る。
409日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:23:07
>>408
円融天皇には一条天皇以外一人も子供がいないよね。
初婚は早く、33歳まで生きているのに。
(ちなみに32歳で死んだ息子の一条天皇には5人の子供がいた)
詮子以外の3人の妃たちには子がなかったし
(中宮遵子とはかなり仲が良かったみたいだけど)
一粒種の一条天皇を産んだ詮子も
一条天皇のみのたった一回しか妊娠しなかった。
たしかに円融天皇=秀吉=子胤なしの可能性はあるよね。
410日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:36:04
まさか、寵愛していた実弟道長の子・・・
411日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:40:53
>>410
超子と道長は4歳違い。
一条天皇が生まれたとき弟の道長は満14歳。
不可能ではないかもしれんがちょい無理がある。
しかも奥手だったのか道長は初婚が遅かった(22歳で倫子と結婚)。
412日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:45:25
>>411
道長はあえて結婚しなかったのかもよ。
兼家が実権を握る前に嫁を迎えた道隆・通兼の正室の実家の身分はそんなに高くない。
父が摂政就任後に妻を迎えた道長の正室は現職の一上の娘で、次の室は元左大臣の娘。
413日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:50:30
つーか、明子とは結婚しようと思えば早く出来ただろ>道長
414日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:27:16
>>412
道隆は正室の貴子をめとる前に別の女性に長男を産ませている。
正室をめとる前にほかの女性と結婚することも可能だったと思うが、
道長にはそれもない。
道兼の正室は叔父道量の娘で、身分はけして低くない(天皇の女御になってもおかしくない)。
また、道兼もこの正室と結婚する前に藤原繁子との間に長女の尊子(一条天皇女御)を
産ませている。
>>413
明子は父高明が左遷された際、初めは叔父の盛明親王の養女になっている。
詮子の養女になったのは盛明親王が老齢になったためで死去する寸前。
盛明親王は道長が21歳の時に没しているので明子が詮子の養女になったころもこの頃か。
道長が明子と結婚できたのも姉の詮子が養女を斡旋したためだから
そんなに早い時期ではないよね。
もっとも、詮子が新婚の道長に明子を斡旋したというのも辻褄が合いにくいから、
明子と道長の結婚は倫子より早かったという学者もいる。
でも、せいぜい倫子よりも1年程度早かったというにとどまっている。

415日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:06:13
道隆の最初の子供(実質の長男だが父の子になってる)は
容姿も人間的にも出来た人みたいだね。疎遠みたいだけど。
416日本@名無史さん:2008/11/04(火) 12:32:57
>>406
永平親王は思慕していた従姉妹に嫌われ従兄弟たちに散々いじめられた揚句
24才で他界しているね
異母とはいえ、同じ白痴仲間の冷泉とはえらい差があってカワイソス
417日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:39:01
そこが皇位につけた者とそうでない者の差だよ
418日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:34:13
しかし白痴だろう?
いくら帝とはいえ、傀儡政権だったんだろうし
世間の役立たず人間は退位したら周囲からさっさと打ち捨てられる事も出来たはずだし
なのに長生きした上にストレスのない快適生活を送る事が出来たのは
冷泉は周囲から守られ愛されていたんじゃないか
419日本@名無史さん:2008/11/05(水) 06:13:28
多分石○慧みたいなキャラだったんじゃ・・・
420日本@名無史さん:2008/11/07(金) 09:55:27
大人のティムポの絵を描いたのですか?
421日本@名無史さん:2008/11/07(金) 20:10:49
>>418
冷泉上皇は退位してもその2人の息子が即位したからじゃない?
冷泉院には権力者の娘たちが入内、花山天皇と三条天皇の2人が即位した。
さすがに天皇の父にふさわしい生活はさすがに息子の天皇が保証する。
冷泉上皇が没したのは第二皇子の三条天皇の在位中で、立派な葬儀も行われたし。
(天皇は葬式を主宰できないけど、天皇父にふさわしい待遇で、という意味で)
邸が燃えたときにも息子の花山法皇が急いで馬で冷泉上皇のもとに駆け付けたというし。
あの有名な冷泉上皇が「庭火」の歌を歌ってた時だけど。

422日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:23:53
ティムポの絵は現存してるの?
423日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:08:43
宮内庁が保存してないか?
424日本@名無史さん:2008/11/08(土) 18:45:30
>>421
息子たちに大事にされていたんだね 幸せ者だ
精神異常者の親にたいして寛大に接するのは中々出来ない。
介護放棄の現代人たちに爪の垢を煎じて飲ましたい
425日本@名無史さん:2008/11/08(土) 18:47:29
>>421 冷泉天皇が庭火歌ったのって子供時代じゃなかったのか
いい大人がそれじゃあな…
426日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:41:36
5歳で陰茎の絵を描くのは天才だよ。
427日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:43:12
>>424 亀田兄弟と父だって同じだろ。
428日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:27:24
>>424
冷泉上皇の世話をするのはおつきの者であって
花山法皇や三条天皇は同居するわけでも介護するわけでもないから。

上皇になってから政治に介入するわけでもなく、
息子たちの好きにさせていた冷泉上皇は
息子たちにとってはある意味都合のいい上皇だったかもしれない。
また、天皇の地位は父母から与えらるものという観点から、
天皇に対する父院、母后の存在は大変重い。
円融上皇も存命中は息子の一条天皇自ら
毎年正月に父院のもとへ行幸して挨拶に伺い、
円融院の近臣たちに叙位をしていたはず。
429日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:51:01
三条天皇も藤原兼家の外孫のはずだが、なぜ一条帝が先に皇位についたの?
430日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:37:18
>>429
この場合、兼家の孫なのにというのは無関係。
冷泉天皇(兄)と円融天皇(弟)の系統が交互に即位していたからだよ。
花山(冷泉皇子)→一条(円融皇子)→三条(冷泉皇子)
だから後一条の次は順番で行けば小一条院だった。
431日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:45:55
>>429
冷泉天皇が退位の際に花山を立太子するように新天皇の円融に命じる詔を出したから。
円融天皇も退位の際に一条を立太子するように新天皇の花山に命じる詔を出したから。

花山はこっそり退位したためそうした詔書を出されなかったために、摂政兼家が三条を立太子した。
432日本@名無史さん:2008/12/02(火) 06:42:07
昌子内親王との間にいっぱい子供作って欲しかった。
史実では、2人とも美形だったのは確実なんだから
美男美女に恵まれただろう。
帝も美しい昌子内親王に積極的に迫ればよかったのに。
なんか、藤原氏の陰謀を感じる。
433日本@名無史さん:2008/12/02(火) 20:33:19
だよね〜。
434日本@名無史さん:2008/12/03(水) 16:41:25
藤原氏の陰謀じゃなくて“昌子内親王が”狂気持ちの夫を嫌っていたんだろ。
自分から引き篭もって出てこようとしていなかったし。
当時の昌子内親王はろくな後ろ盾がないから藤原氏にとってもそこまで脅威でもない。
それに狂気を持った人の相手をするのはよほど精神に負担が掛かったのか
冷泉天皇の子供を産んだ藤原氏の女御は二人とも早死にしているから、
むしろ子を産まなかった昌子内親王は長生き出来てよかったのかも。
435日本@名無史さん:2008/12/03(水) 20:04:52
>>432>>433
また出たかwなまみこばばあ。
自分で「だよね〜」っていつものパターンだな。
定子も産で死ねて本望だったろうね。
436日本@名無史さん:2008/12/03(水) 22:38:54
昌子内親王と帝って従姉妹じゃーん。仲良くなかったの?
添ぶしは、昌子内親王ちゃう?
437日本@名無史さん:2008/12/04(木) 10:12:45
他の女御はボコボコ子供生んだのにね。
438日本@名無史さん:2008/12/07(日) 11:35:19
昌子内親王のほかにも冷泉天皇の女御だった藤原怤子は子供を産んでいない
冷泉上皇は長生きだったが子供は7人中三条天皇以外の全員に先立たれてんだよね
439日本@名無史さん:2008/12/07(日) 17:32:05
でも、同じ年の昌子内親王が最初の相手でしょ。
440日本@名無史さん:2008/12/07(日) 17:48:20
どうだろうね。
昌子内親王と同じく、963年に入内した藤原怤子が最初の相手かもしれないし、
やはり同年に入内した藤原懐子かもしれない。
添伏は年長の女性が務めるともいわれているし、なにしろ精神的にヤバかった相手だから
同い年の内親王よりも年長の藤原怤子や藤原懐子が務めた可能性も高いね。

幾ら美形でも精神異常のある相手じゃ、昌子内親王が怖がって近付きたがらなかったのも理解出来る。
441日本@名無史さん:2008/12/09(火) 18:37:35
昌子内親王の入内は父帝の願いだっただろ。
添伏は、内親王だと思う。
442日本@名無史さん:2008/12/10(水) 13:04:20
大切な娘だから朱雀天皇は、添伏は娘にさせたかっただろうしそうなっただろう。
443日本@名無史さん:2008/12/11(木) 21:19:37
冷泉帝って仲良よかった兄弟や友達はいたのか?
444日本@名無史さん:2008/12/16(火) 10:15:33
円融は?
445日本@名無史さん:2008/12/16(火) 20:49:39
応和3年2月23日、東宮憲平親王(のちの冷泉天皇)が14歳で元服した夜、
昌子内親王が内裏に参入し、添伏を勤めている。
冷泉天皇の第一子を産んだ藤原懐子がいつ入内したかは記録にない。
ただ、翌964年9月19日に第一皇女宗子内親王が誕生しているため、
懐子の入内が963年だと言われているだけ。
元服前の天皇や東宮に妃が立てられた例はないため
昌子内親王が冷泉天皇の添伏役で最初の妃だったことは間違いないと思われる。
446日本@名無史さん:2008/12/17(水) 10:04:13
昌子内親王の朱雀天皇の希望での入内、当然添伏役は、内親王だろ。
そこで第一皇子が出来ていれば、藤原一族の戦々恐々だったわけだが。
昌子内親王が不妊だったと限らないし。
447日本@名無史さん:2008/12/17(水) 12:54:27
とはいえ昌子内親王が姿も見たくないほど冷泉天皇を嫌っていたからなぁ。
幾ら美形でも精神イっちゃっている人から迫られたらそら恐いわ。
あと昌子内親王に男児が生まれても別に藤原一族は何とも思わないよ。
どうせろくな後見ないし、仮に即位させて新しい娘を送り込むなりすればいいんだし。
448日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:19:03
統合失調症とかの精神疾患なのか、知的障害なのかがわからない。
躁鬱病の感じもあるけど。暴力とかもあったのかな?
よだれ流しまくってたとか?
449日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:49:02
昌子内親王以外の女御は、SEXしまくって子供生んでるじゃん。
帝に意思があったら、美人の従姉妹昌子内親王を夜の相手に
指名した日もあったと思う。藤原家の陰謀じゃね?
450日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:50:50
朱雀帝は、どうして寵愛する一人娘の入内を望んだのだろう?
451日本@名無史さん:2008/12/17(水) 21:12:07
>>449
指名しようにも昌子内親王“が夫の冷泉天皇を嫌って”里邸に引き篭もり。

ろくな後見もない花山天皇が藤原氏によって早々に退位させられたように、
昌子内親王が親王を産み、即位させたとしても結果は同じだったと思う。
後見がない=いくらでもすげ替え可能だから、藤原氏の陰謀はない。

あと従兄妹だろうが美男美女だろうが、人間好き嫌いは当然ある。
歴史上には不仲ないとこ婚も不仲な美男美女カップルは山のようにある。
452日本@名無史さん:2008/12/17(水) 22:00:29
>>449
前のほうにも出ていたが・・・
冷泉天皇は62歳まで生きたけど、最後の子が生まれたのは31歳のときなんだよ。
むしろ、藤原氏が病弱な冷泉天皇にセックスを無理強いしてたんだろ。
冷泉天皇がセックスを強いられていた超子や懐子が没すると、
以降、冷泉天皇は大好きな歌と蹴鞠に専念して長生きされたんだよ。
453日本@名無史さん:2008/12/18(木) 09:05:44
昌子内親王、添伏の時から嫌な思いしていたのかな?そこまで嫌うなんて。
他の女御は、家のために耐えていたのか?
454日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:16:50
>>450
昌子内親王には後見の弱さがあるから、一皇女として歴史から消え去るよりは
入内させれば最低でも女御くらいは望めるだろうという思惑と、
朱雀の子孫が本来嫡流であるべきだったのに、男子に恵まれなかったために
弟・村上帝の子孫に天皇位を継承させなければならなかった無念さと。
この辺が動機かな?という気がする。

昌子内親王の入内は、朱雀帝と村上帝の血による融和策という感じもする。
455日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:29:58
朱雀帝は鍾愛する昌子内親王を一品にして一生独身にするってことを考えなかったのか?
456日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:46:39
>>453
この時代の天皇妃が恋愛結婚することはまずありえない。
親が決めた相手と結婚しなければならないのが定め。
しかし、家の繁栄のために政略結婚の相手の子を産むことを親兄弟から強いられる
藤原氏系の姫たちが大変だったことは事実だろう。
>>454>>455
昌子内親王を冷泉天皇に入内させ、中宮に立てることについては
冷泉天皇の父村上天皇の多大な後見があったという。
村上天皇は朱雀天皇の同母弟、兄朱雀天皇が直系であるところを
朱雀天皇に男子がなかったために弟である村上天皇の系統が皇統を奪ってしまうことになったわけだ。
賢帝と言われた村上天皇はさすがにこの事態に良心の呵責があったのだろう。
兄朱雀天皇の嫡女を自分の嫡子である冷泉天皇の中宮に据えることで、
弟の系統が皇統を奪うことに対する良心の呵責が少しでも和らいだのだろうと思われる。
少なくとも昌子内親王は中宮として女性最高の地位と栄誉、朝廷からの御封を生涯受けるわけで、
父朱雀天皇も満足であっただろうと思われる。
457日本@名無史さん:2008/12/19(金) 09:23:48
昌子内親王も父の悲願を理解していたら
我慢して、皇子つくりにはげんだだろうに。
458日本@名無史さん:2008/12/19(金) 10:54:35
まぁ父の朱雀帝とは三歳で死に別れて縁薄いし、
藤原の姫が次々と入内してきてたから、嫌いな男の相手をしないで
「私が産まなくてもいい」と思ったのかも。
459日本@名無史さん:2008/12/19(金) 11:47:00
朱雀天皇は、DQN甥に寵愛する大事な娘をよく嫁にやったな・・・
460日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:43:44
>>457>>459
458氏も言っているが、朱雀天皇は昌子内親王が3歳の時に没しているんだよ。
朱雀天皇がわずか3歳の娘の入内を決めて死んだわけではなく、
昌子内親王の入内は朱雀天皇の意思では全くない。
幼くして両親を亡くした昌子内親王は叔父村上天皇の庇護を受けた。
昌子内親王の入内は村上天皇の意思。
亡き兄朱雀天皇の嫡女を冷泉天皇の中宮に据えることで
わが子冷泉天皇の皇統が正統化されるという思いもあったのかも。
この場合、昌子内親王は冷泉天皇の嫡妻の地位にあればそれでよく、
別に無理に冷泉天皇の子を産む必要もなかっただろう。
461日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:29:30
円融 「お兄ちゃんがボール貸してくれない!」
462日本@名無史さん:2008/12/19(金) 23:42:38
>>386
無理やり宛てがわれたって、実父はやはり高明(醍醐天皇皇子、村上の兄)?
463日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:00:27
>>460 昔、ある書物で昌子内親王の入内は父帝の遺言だって書いてたよ。
464日本@名無史さん:2008/12/21(日) 09:43:40
>>463
何の書物か書いてくれないと。
一次史料ではないよね。
乳幼児の死亡率が高かった当時、
わずか3歳の子の結婚を決めることは
一般的ではなかったけど。
465日本@名無史さん:2008/12/21(日) 09:46:21
冷泉上皇も自分の弟円融天皇に皇女の尊子内親王を嫁がせている。
尊子内親王が嫁いだとき冷泉上皇は在世中で上皇の希望だったというから、
こっちの間違いじゃないの?
尊子内親王は立后することもかなわず、
(円融天皇の中宮には当時関白頼忠の娘導子があった)
20歳で子もなく没してしまったけど。
466日本@名無史さん:2008/12/21(日) 13:06:39
円融帝の中宮のとき内親王以外にも、栓子もいたよね
(栓子はもれた時、父兼家は激怒し、皇子と栓子を
実家に戻している。
決め手は、藤原家の兄弟喧嘩と添伏は誰だったか、か?
467日本@名無史さん:2008/12/21(日) 14:14:52
うつけ者と言われた信長が実は考えあっての行動だったように
冷泉も実は精神錯乱のフリをしていたという事はない?
大事な行事ではまともになる瞬間もあったし
468日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:15:59
>>466
スレ違いになるけど、円融天皇の添臥は兼通の長女媓子。
でもって詮子が立后出来なかったのは兄弟喧嘩は関係ない。
媓子は27才で15才の円融天皇に入内(973年)、中宮に冊立されている。
兼家の娘の詮子と頼忠の娘の遵子が入内した時(788年)、既に中宮位は埋まっていたわけだ。
詮子と遵子が入内した翌年に媓子は崩御、その翌年に詮子が皇子を産む。この年に尊子内親王入内。
媓子死後、空位だった中宮位に座ったのは関白を父に持つ遵子だった。
以後、詮子と兼家親子は宮中に参内せず、尊子内親王は落飾した。
469日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:21:26
>>467 精神科疾患の人は症状に波があるから、落ち着いていたときもあったんだろ。
470日本@名無史さん:2008/12/22(月) 19:25:30
>>460
冷泉の立太子の際に村上は母穏子と兄上皇に一応了解を取った筈だから、その時から構想があったとしてもおかしくはないな。
471日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:22:52
昌子内親王は、従兄弟の事知らないわけじゃないんだから
嫌なら拒否できただろ。最初は上手くいってたんじゃ?
472日本@名無史さん:2008/12/23(火) 15:04:53
>>470
確か、師輔・村上・穏子・朱雀の4人の合議で決定して実頼はスルーだったっけ?
473日本@名無史さん:2008/12/24(水) 00:15:55
高明も入れて(実頼排斥グループの核ですョ)
474日本@名無史さん:2008/12/24(水) 10:36:20
せめて昌子内親王との間に皇子がいたらな〜。
475日本@名無史さん:2008/12/24(水) 12:52:59
いても花山天皇のようにさっさと退位させられた可能性大。
それ以前に昌子内親王側に子作りする意思がなかったんだし、どうしようもない。
476日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:41:16
意思がなくても添伏のときにやっただろうから、出来てたらよかったのに。
477日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:23:18
仮に昌子内親王が皇子を産んでかつ立太子されていたら、
兼家は綏子を、道隆は定子を入内させたんだろうか。
それとも花山天皇と同じでさっさと引き摺り降ろすから、
娘は入内させないのか。
478日本@名無史さん:2008/12/25(木) 20:52:04
道長の正妻倫子は、父がお后にしたかったんだが
該当する天皇って誰だったんだ?
そして、早く入内させなかったのはなぜだ?
479日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:25:16
>>478
多分、関係が良好だった花山。
だが、在位期間が短すぎて機会を逃した。
もっとも、うっかり倫子が花山の皇子を生んだら、その皇子を天皇に立てようと企てたとかいちゃもんをつけられて大宰府送りになったかもな。
480日本@名無史さん:2008/12/26(金) 10:03:02
倫子って円融に入内って可能性はなかったかな?
481日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:55:38
年齢的にも釣り合っている倫子を円融天皇に入内させようにも、
>>468にも書いてある通り、既に円融天皇の中宮は埋まっていたからじゃないかな。
左大臣の娘なんだから入内させたから当然立后はさせたかっただろうし、
媓子崩御後に入内させることも可能だっただろうけど、
結局はライバルが多くて止めたってところかと。

って円融天皇のことは微妙にスレ違いだね。
482日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:19:54
入れておけば、多産な女だから栓子にとってかわってたね>倫子
483日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:38:47
なまみこ婆何やってんの?
年末で精神科も閉まってるから暇なの?
栓子って何なの?
なんでいつも日本語変なの?
484日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:54:09
                          
雄略天皇の息子、清寧天皇は、億計王(仁賢天皇)を恐れていた。
だから、億計王の弟王(弘計王=顕宗天皇)に皇位を譲り、
顕宗天皇と同盟を結ぼうとしたが、顕宗天皇は、兄である仁賢天皇に
暗殺されてしまった。
清寧天皇を暗殺したのも、仁賢天皇であろう。


485日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:03:43
まぁもし倫子が入内して皇子を産みまくって詮子に取って代わっていたら、
一条天皇も誕生しないわけだから、定子や彰子の入内先も変わっていただろうね。
それ以前に、兼家やその息子達の栄華もなかったかもね。
でも、超子が既に冷泉天皇との間に三条天皇(兼家の孫)を産んでいるから、
花山天皇と同様に倫子の子も排斥していったかもしれないけど。
486日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:34:39
その前に倫子が入内していたら彰子は生まれていないね。
487日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:06:49
道長は明子との娘を送り込んだだろう。
488日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:34:31
冷泉天皇がいて温泉天皇がいないのは片手落ち
489日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:45:39
>>487
倫子と詮子が対立して、かつ倫子の子が天皇位についていたら、
母后となれない(=一条天皇が存在しない)詮子は明子を引き取らないのでは?
従姉弟ではあるけど、明子と道長の接点は薄くなる。

それ以前に明子との娘を誰に送り込むわけ?
490日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:42:24
冷泉天皇から話がそれまくり。
なまみこ婆は2ちゃんねる以外に趣味がないのか。
491日本@名無史さん:2008/12/28(日) 03:54:22
>>488
冷たい泉って高明(村上の兄)の実の子(源氏にある通り)て裏の意味でしょ 醍醐の孫には違いないけど
492日本@名無史さん:2008/12/28(日) 10:10:22
温泉天皇(ぬくみず天皇?)薄毛そうだなw
493日本@名無史さん:2008/12/28(日) 15:40:37
>>491
そもそも「冷泉」の別表記である「冷然」を冠した「冷然院」は嵯峨天皇が立てたものだった訳だが。
494日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:54:20
温泉天皇 ワロタwww
495日本@名無史さん:2008/12/29(月) 12:08:33
美形っていう記述あったっけ?
496日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:01:14
栄花物語で見た気がする。
黙って座っていると美しいのに、病気の症状が出るとお気の毒だ、みたいな感じで。
497日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:45:46
父親の村上天皇よりも容貌が優れていた、という記述だったような。
容貌は父親よりよかったのに、能力は賢帝と言われた父に全く及ばなかったと。
賢帝村上天皇と、大勢の妃たちをまとめ上げた中宮安子との子なのに
という書きぶり。
498日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:38:40
安子って嫉妬して他の妃に物投げた女かw
499日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:44:09
安子のお陰で村上天皇の後宮は平穏だったとある。
女御芳子に火桶を投げたというエピソードはあるが
安子はどの妃を後宮から追い出したわけでもなく
「どの妃も大事にする」村上天皇の意思を尊重した。
安子が亡くなると村上天皇は悲哀のあまり
芳子のもとへもあまり通わなくなったという。
村上天皇が一番愛したのは第一に中宮の安子、
第二に安子の同母妹登子だと言われてるけどね。
500日本@名無史さん:2008/12/30(火) 12:53:03
芳子って美髪の上に長ロングヘアーだったらしいね。
501日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:56:55
5メートルくらいあった。
502日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:30:34
美人の最高じゃーーん
503日本@名無史さん:2009/01/01(木) 20:06:43
で、それが冷泉天皇とどう関係があるの?
504日本@名無史さん:2009/01/01(木) 20:20:46
>>503
冷泉帝の大ファンであらしゃりますのやな。
505日本@名無史さん:2009/01/01(木) 23:29:40
>>504
このスレは“冷泉天皇について語る”スレであって、
村上天皇とその妃&子供達について語るスレじゃない。
多少の脱線はともかく、脱線しすぎたら注意するのはどのスレでも当たり前だろう?
506504:2009/01/01(木) 23:40:37
>>505
 いやどうも失礼を致しました。言わはることは正論どす。
 冷泉天皇について語ることてそんなにないのと違うかなと
思いましたもんで,ついつい>>504の書き込みをしてしまい
ました。
507日本@名無史さん:2009/01/02(金) 00:05:03
>>506
語ることがないからってスレ違いなレスを延々していいわけではない。
村上天皇関係を語りたければ、該当スレに行くか、なければスレ立てすればいいだけ。
508日本@名無史さん:2009/01/02(金) 09:43:13
三年ほど前にスレを立てた者ですが
まさかこんな息の長いスレになるとは思いませんでした。
超マイナー人物なので10レスくらいで消えるだろうと予想していました。
みなさんありがとうございます。
509日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:31:12
>>508 貴様がこの糞スレを立てたDQNか!
510日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:59:30
>>509
あんた「糞スレ」に来てるの。よっぽど暇なんだね。
511日本@名無史さん:2009/01/09(金) 17:22:31
村上すれ希望
512日本@名無史さん:2009/01/11(日) 21:50:31
誰か清寧天皇スレ立てて欲しい
513日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:55:34
庭火の歌の件は、単に火を見たから火を歌ったんだろw
そのレベルだよ。
514日本@名無史さん:2009/01/13(火) 11:01:36
ティムポの絵を筒に贈ったつーエピを残しだの誰だよw
515日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:29:16
もっと大切なこと記録しろよ
516日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:35:23
しかし、誰が見てもくだらないエピソードを記録に残すなんて
当時はよほどインパクト強かったんだろうか

今でいえば、イケメン俳優が全国生放送で〇〇〇の絵をその場で描いた、
くらいの衝撃度かなっ?
517日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:56:42
>>515
その話が載る「古事談」は朝廷の正式な記録などではなく
歴史上の有名人のちょっと面白いエピソードを集めたものだから。
新聞を読んでいるばかりじゃちょっと飽きる、
嘘かほんとか面白おかしく書いた週刊誌が読みたくなることもあるだろ?
まさに昔の週刊誌まがいのものだよ。
518日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:06:53
しかも、確か子供の頃の話だよね。
519日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:14:28
>>514
使いの者がよく持って行ったなw
520日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:53:22
>>519 桐の箱とかに仰々しく入られたらそのまま渡すしかないだろ
521日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:54:10
使いのものはキノコを書いたと思ったんだろ
522日本@名無史さん:2009/01/14(水) 18:48:36
皇太子冷泉君と使いの者と村上帝とキノコの絵だけで
四コマギャグ漫画の出来上がり。
523日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:26:26
ティムポを書く
   ↓
女官、使いのものはキノコの絵と思い微笑ましく父帝に報告
   ↓
帝、息子の才能にびっくり
   ↓
息子、ティムポの絵だお!と父上に説明・・・
524日本@名無史さん:2009/01/14(水) 20:43:56
子供が書いた○○ポの絵がキノコ状のはずは無い。
525日本@名無史さん:2009/01/14(水) 20:47:14
憲平大人気だな。
526日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:06:17
ティムポの絵を描く

    ↓
女官、使いのものは竹の子と思い微笑ましく父帝に報告

    ↓
父帝、息子の才能にビクーリ

    ↓
「それティムポだお」と息子に説明される帝・・・
527日本@名無史さん:2009/01/17(土) 15:08:18
むしろ、憲平くんの絵でとっさに廃太子にしなかった村上パパの懐の深さに感心した。
弟宮たちの中に東宮候補はいくらでもいたはず。
528日本@名無史さん:2009/01/17(土) 16:12:03
それより冷泉帝の皇太弟争いで
守平親王が勝ったのが不思議
為平親王とは同母兄弟で年少なのに
妻が源氏か藤原氏かの違いなのか
529日本@名無史さん:2009/01/17(土) 19:52:23
>>528
「大鏡」に詳細が載っているよ。
冷泉天皇が即位すると、道長らの父である藤原兼家が、
何の前触れもなく当時9歳だった守平親王のもと訪れ、
早く髪をおとき申し上げよと女房らに命じて守平親王に身支度をさせ、
そのまま守平親王を牛車に乗せて自分も同乗して内裏へ行き、
そのまま周囲の裏をかく形で守平親王の立太子の儀を行った。
兼家一人の独断とも言い難いから、当時関白をしていた長兄伊尹との共謀であったらしく、
兼家はこの直後、この功績により同母兄の兼通を抜いて出世した(これが兼通・兼家兄弟の確執となるのだが)
伊尹・兼家兄弟が同じ甥である為平親王を東宮につけなかったのは
為平親王の岳父が源高明であったためだろう。
源高明の同母姉2人は伊尹・兼家兄弟らの父師輔の妻であったこともあり、
高明自身師輔の娘を妻に迎えるなど、師輔の存命中は高明は同族のような扱いを受けており、
村上天皇や中宮安子が冷泉天皇が病弱なこともあり期待をかけていた為平親王に
正妃を送りこめたのもこのような事情からだった。
しかし、中宮安子、師輔、村上天皇が亡くなると源高明は師輔の遺児たちの
他氏排斥の的となり為平親王も帝位につくことができなくなってしまった。
ちなみに守平親王は東宮にたった時点では9歳で元服前であり、
まだ妃を迎えていなかった。
530日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:05:22
>>527 5歳だし、長幼の序とか安子のこと考えたらできなかったろ。
531日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:15:42
>>527
村上は実の子でないからと 知ってたからでしょ 皇位継承順位は藤原基経の子孫たちが外戚争いで持ち回り 次は誰になるか今上さまが決めることは無理 養子も実子ということでオッケーなご時世 カナシ
532日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:26:46
>>527
子供がいないとわからないかもしれないが
5歳ぐらいの子供は「うん○」とか「ちん○」とかいう言葉が大好きで
普通の子供でも保育園や幼稚園で卑猥な言葉を覚えて帰っては
親の前で平気で使ったり「うん○」の絵を書いたり粘土で作ったりするよ
5歳児の行動としては特に問題があるとは思わない
それより冷泉天皇は長じてからの行動に問題があったんだろ

冷泉天皇が皇太子にたてられたのは生後3か月のとき。
さすがにこのときは冷泉天皇の異常に誰も気づかず(身体異常ではなかったため)
文字通り期待された皇子だったのだろう。
もっとも、長じるに従って村上天皇や中宮安子の期待は同母弟の為平親王に移ったようだ。
一度皇太子に立った皇子を廃太子にすることは容易ではなく、
賢帝と言われた村上天皇は首を縦に振らなかっただろうね。
冷泉天皇にはしっかりした外戚がついていたために
たとえ天皇が政治をとれなくても政権運営に問題はなかっただろうし。
533日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:27:54
冷泉に精神異常があるらしいとわかったのは何歳頃?
皇太子時代に明らかになってるから19歳即位時には
為平親王17歳、守平親王(円融)10歳だけど
534日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:50:59
天皇の中で最も狂っているみたいな書かれ方もしていたから
思春期には症状がはっきり出ていただろう。
535日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:48:19
皇后の昌子内親王も脳病だったんでしょ?
脳病が脳病を怖がってたの?タイプが違ったのか…

↓京都岩倉に関するHPより
◎大雲寺の観音院は冷泉天皇皇后昌子内親王の脳症平癒に建て
られたことから、宿坊はその病の保養所として栄えた。
536日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:52:14
>脳病
そうなの?!
お綺麗なご夫婦ふたり揃って欠陥持ちでしたか…

美人薄命じゃないけど、あまりに美しい人間は精神に異常を抱えているイメージあるのは
自分自身が単に耽美ホラー小説の読みすぎっすか?
537日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:09:40
昌子内親王は聡明で仏教の帰依深く、
985年、36歳の時に岩倉の大雲寺に観音堂と六堂を建立。
昌子内親王はこのころ脳病を病まれその治癒を祈願するためだったとされ
本尊の十一面観音像は平安時代脳病治癒の仏だとされて
後三条天皇の第三皇女佳子内親王が脳病治癒の祈願に訪れたりしている。

同時代の資料では昌子内親王の脳病の状態を明らかにするものはないのだが、
冷泉天皇のような先天的な欠陥だったというよりも後天的なうつ病などだったのかもしれない。
夫の冷泉天皇が病平癒を祈願して仏に祈ることも無理だったのに比べ、
昌子内親王は仏道を推進することはできたのだから。
538日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:49:23
DQN夫と嫌でも儀式の時に並ばないといけないので
ストレス性障害(昔ではもののけ)があっただろう。
539日本@名無史さん:2009/01/25(日) 15:26:56
祐子内親王も岩倉で療養してるし。
540日本@名無史さん:2009/01/25(日) 19:44:36
祐子内親王って?
昭和天皇第2皇女・久宮祐子内親王ではないみたいだが
541日本@名無史さん:2009/01/25(日) 19:48:30
>>540 アフォ!定子様のお孫にあたる内親王じゃ
542日本@名無史さん:2009/01/25(日) 21:00:03
スレチになるけど、祐子内親王は定子の孫じゃなくて曾孫な。孫は嫄子女王。
さらに言えば、祐子内親王・℃q内親王姉妹は揃って精神異常というかもののけに悩まされていたとか。
543日本@名無史さん:2009/01/26(月) 19:48:01
>>542
祐子内親王なんか漢字が違うんだが、祐子内親王の同母妹は禖子内親王。
禖子内親王の晩年はもののけどころではなく痴呆に近い状態だったが。
>>541
ここは冷泉天皇のスレ。
なまみこ婆のためのスレじゃないから、ホームへ帰ろうね。
544日本@名無史さん:2009/01/27(火) 18:02:34
源氏物語の明石の中宮の女一宮ももののけにつかれて岩倉近辺にいてたしね。
545日本@名無史さん:2009/01/28(水) 04:07:51
>>537 >>539
岩倉の精神疾患治療の地としての伝統はそんなに古くに遡るものだったのか。
546日本@名無史さん:2009/01/28(水) 05:47:33
ちゃんとHはできたんだね
547日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:56:32
いわくら病院のHP参照
548日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:48:52
で>昌子内親王
髪の毛ふりみだして、胸をかきむしって机帳の中でひとりでブツブツいってる、
…なんて状態が続いておつきは大変だった、って記述を当時の貴族の日記だかで実際見たよ、
ソースもう覚えてないけど。ごめんね。

典型的な精神分裂病の症状だが、もちろん調子のいいときもあっただろうね。
近親結婚で、遺伝でいろいろ出るんじゃないかな…当時の高貴な方々は。
彼女は伝わる限り最古の女性の例に近いらしいが、他にも多かったと思うよ。
549日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:36:27
近年では、後桃園天皇の第一皇女で、光格天皇の中宮・欣子内親王がいる。
産んだ子供はすべて死産か夭折。
そのせいか、心に病をかかえて内裏をうろついたという記録もある
550日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:52:58
ちなみに後桃園天皇は若くして崩御したために
子供は欣子内親王しかいなかった。
皇統断絶のピンチが最大になったときだった。
傍流の王子を天皇に迎えて欣子内親王を中宮に据えなければいけなかった。
内親王が中宮になるのは460年ぶりだという
551日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:07:26
雅子さんも欣子内親王もお世継ぎ問題で心を病んだのかもしれんね。
大正天皇の生母柳原愛子もおかしくなってたことがあるだよね。
552日本@名無史さん:2009/01/29(木) 15:16:36
明治天皇の皇子が大正天皇しかいないのは異常だった
あれだけたくさん子種こさえてほとんどが死亡って恐すぎる
553日本@名無史さん:2009/01/31(土) 14:13:15
殺されたの?
554日本@名無史さん:2009/01/31(土) 14:49:04
スレ違いになるからざっと書くけど、
明治天皇の子供は15人いたけど、成人したのは5人。
皇子は5人のうち1人(一人は死産)、皇女は10人のうち4人しか成人してない。
死亡率の高さに驚くけど、ちょっと時代を遡った江戸時代、
徳川家斉は50人もの子がいたものの成人したのは半分以下だったと言うから、
乳幼児の死亡率が馬鹿高いんだろう。昔から女児よりも男児の方が弱いと言うし。
555日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:45:14
歴代天皇の皇子皇女の誕生後の死亡率は1歳未満が圧倒的だね
そんな時代がずっと続いていたから大正天皇の代の貞明皇后が
四人もの皇子を産んで成人に成長させたのは
まさにネ申
556日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:53:22
明治天皇の最初の子を産んだ葉室光子
次の子を産んだ橋本夏子は
いずれも最初の出産で亡くなっている。
大正天皇の生母柳原愛子も3人産んだが
難産の気があり子を産みたくないというので
自ら天皇の寝所を辞したらしい
母体が持たない人も多かったからな

出産死亡率(妊婦・乳児)は帝王切開のない戦前までは相当高かった
現在、日本人妊婦の3割が帝王切開で子を生んでいることを考えれば
いかに妊婦と乳幼児の死亡率が高かったかがわかると思う
557日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:29:11
現代の場合は別の問題が。

産気付いて病院にかけつけても病院たらい回しで
妊婦死亡のニュースが続出………
558日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:37:41
今は産科より婦人科でおばあさんの相手をした方が儲かるからな
559日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:12:22
>>557
現在の妊婦の死亡原因のトップは出産中の脳内出血だよ。
昔のような難産での死亡は帝王切開技術によりほとんどなくなった。
帝王切開ができる産婦人科でも脳内出血の治療ができるところはほとんどなく、
結果的に病院たらい回しとなる。
勿論、昔は、脳内出血の場合でも原因も分からず妊婦は死亡していただろう。
560日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:02:51
>>547
岩倉の歴史にもふれているね。
 ttp://www.toumonkai.net/our/hanseiki.html
 どうもありがとう。
561日本@名無史さん:2009/02/03(火) 12:14:29
チンチンの絵は何でチンチンとわかった?
562日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:33:20
>>549 欣子内親王
あやしいよね。あの夭折は、暗殺じゃないの?皇位継承権がらみの。

>>553 明治天皇の美子皇后、すさまじいヒステリックな嫉妬の人で、
何人か自分で手をかけたらしいね。石女といわれて耐えられなかったのか、
有名な話。
赤子を見せろといって部屋に入ってきて、生母やおつきを追い出してしまう。
(もちろん皇后だから誰も逆らえない)。でキュッと締めてしまう。
柳原は、良くわかってて、うまく実家に逃げたんだよ。

江戸時代は、乳母の化粧(鉛入り白塗り)が赤子の口に入って鉛中毒、
で死んじゃうケースも多かったらしい。
563日本@名無史さん:2009/02/04(水) 08:28:54
>562
ソースは?

明治天皇の子供ってみんな臣下のうちで育てられたんじゃないの?
564日本@名無史さん:2009/02/04(水) 15:13:21
>>562
まるで見てきたかのようだね
あなたはもしや時空警察官かタイムトラベラーかなんかですか?
565日本@名無史さん:2009/02/04(水) 17:10:33
芳恵さんに不可能なんてないんですからねっ!ヴィ〜ンヴィ〜ンヴィ〜ン
566日本@名無史さん:2009/02/04(水) 19:31:56
>>562
明治天皇の皇子女はみな、養君をつけられて父母と離れて育っている。
勿論、皇后からも離れて育っている。
(というか、これが皇室の伝統なのだが)
大正天皇は実母の顔を知らず、9歳で皇太子に立った時に
明治天皇と美子皇后に初めて拝謁してあれがご両親です、と周囲に教えられ、
長らく美子皇后を実母だと信じていたのは有名な話。
明治天皇の内親王が嫁入りするというので父明治天皇に挨拶に伺ったところ、
明治天皇は内親王に気づき、「あの夫人は誰か」と尋ねたというエピソードもある。
(明治天皇は離れて暮らす実の娘の顔を知らなかった)
明治期の天皇の皇子女が御所で育っていたと信じているあたりが
あまりに素人すぎる。

567日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:59:08
大正天皇の第2皇子・淳宮(のちの秩父宮)が
祖父の明治天皇に可愛がわれ、おもちゃを与えられていたが
崩御の時まで顔も声も知らなかったそうだしね

大正天皇は実母が柳原愛子と知ってかなりショックだったが
臨終時は愛子さんに看取られたのは、やはり血の繋がった母子ならでは。
568日本@名無史さん:2009/02/04(水) 21:08:23
ちなみに本題を冷泉天皇に戻すと
父の村上天皇が他の子供に会いに行くのは月に一回ほどだったが
冷泉天皇の元へは週に一回くらいだったとか?
569日本@名無史さん:2009/02/04(水) 21:38:21
>>568
「栄華物語」によれば妃たちが産む皇子女たちは妃の里で育てられ
(平安時代の話ね)村上天皇の代くらいまでは5〜6歳になってから父帝に拝謁したらしい。
それが摂関常置期の冷泉天皇以降には里の力を背景にどんどん会う年齢が下がったのだと。
ちなみに一条天皇ぐらいになると妃の里へ行って見舞ったりまでしているをわけだが。

もっとも、冷泉天皇は生後3か月で皇太子に立ったことから、
事実上内裏で育ち(皇太子には後宮の梨壺などが与えられて内裏に住む)
宮中行事などもあったから父村上天皇に会う機会は多かっただろう。
ただ、首を振ったり、奇声を発したり、尋常でなかった冷泉天皇が
どれだけ宮中行事に参加し、父帝に拝謁していたのかは疑問が残るが。
570日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:11:43
>>564
詳しい本が出てるよ。
571日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:57:02
>>869
生後三ヶ月から無理矢理宮中行事に参加させられてたんなら
そりゃストレスで頭おかしくなるよ。
どんなにか遊びたかったろうに。かわいそうに、、、
で、晩年は子供のように無邪気に遊び暮らしストレス解消スッキリ
したから長生きできた。
572日本@名無史さん:2009/02/05(木) 15:41:24
昌子内親王は夫がDQNで病んだのかな?
573日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:10:26
>>871
生後3か月から宮中行事に参加とは書いてないだろw
安徳天皇だって泣いて行事を退出した記事があるくらいだし。
天皇と異なり、東宮は出たいときだけ出ればいいのだし。
わずか7歳で帝位についてもきちんと育った一条天皇の例もある。
帝王教育はそれは厳しいもので、
他の子供と一緒に遊び暮らしてたらきちんと育たないよ。
574日本@名無史さん:2009/02/06(金) 01:59:01
じゃ厳しい帝王教育に耐えきれず精神を病んだ説もありうるね
575日本@名無史さん:2009/02/07(土) 10:23:33
>>574
この時代の天皇たちは同様の帝王教育を受けてきただろうが、
なぜ冷泉帝だけが奇声を発したり首を振ったりするようになるんだい>
冷泉帝は明らかに先天的な疾患だろ。
576日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:56:11
重度の小児麻痺ちゃう?
577日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:48:47
現代では研究によって多彩な病名がわかるが
昔はそういう事がわからないから
ただ一言だけ、
祟りだの狂乱だの欝だので片付けられる。
本当のところはもう少し症状と本人診断しないとわからない。
ていうか、歴代天皇の骨って残ってないのか?
578日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:57:43
あったらどうする?
>576
じゃあ蹴鞠ができるかよw
579日本@名無史さん:2009/02/16(月) 19:19:51
高機能自閉症ってとこじゃないかと思うんですけど
580日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:37:45
一日蹴鞠したり正しく歌を歌ったりと
体力・頭脳的には問題はなかったようだ。
581日本@名無史さん:2009/02/17(火) 18:40:09
重度のダウン症だと
582日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:03:20
ダウンだったら顔や体型に色々と特徴があったとか記述があるんじゃないかと
583日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:51:20
ダウン症(蒙古の顔)は平安時代だとイケメンだったからね。
ダウン症の人って、音楽とかいくつかの分野で特別な才能を
発揮してる人いるし。中軽度のダウンかもしれん。
584日本@名無史さん:2009/02/19(木) 09:11:27
61才まで生きてるから違うだろ
585日本@名無史さん:2009/02/19(木) 13:22:52
トゥレット症候群(チックの重症なやつ)だと思う
586日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:57:56
ダウン症の男性はほぼ男性不妊になるらしい
遺伝子の関係で正常な精子が作れないらしい
冷泉天皇は7人も子供を作ったからダウン症ではないよ
587日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:05:59
じゃダウン症のセンは無しと。
あと何と何と何がある?
消去法で片っ端から可能性を否定してみよ
588日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:17:57
自分は、
過去の自分の愚かな行為やバカな振る舞いを思い出すと
恥ずかしさのあまり
>奇声を発したり首を振ったりする
んだが。
589日本@名無史さん:2009/02/21(土) 00:13:30
凶暴性はなさそうだからアスペの線は無いね
重度のADHD+学習障害ってとこか
自閉症かどうかはボーダーラインぎりぎり?
590日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:50:40
>>585が濃厚
591日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:14:23
みんななんでそんなに詳しいん?
自分には初めて知る病名ばかりだ
軽く調べてみたらトゥレット症候群の可能性が近いのかな?
性的な表現も含むし
でもどの病名もストレスからくる発症がほとんどだね
592日本@名無史さん:2009/02/22(日) 08:02:37
トゥレットを観たことのある精神科のナースです。
タイプは様々ですが、奇声もありますし、性欲もあります。
(エロ小生津よりエロ本とか目に訴えかけるものが好き)
会話能力、文章などは個人差はありますが、高い人は高いです。
運動能力は個人の持って生まれたままあると思います。
ICD−10などの診断基準を観てください。DSMーW=TRでもOKです。
KYでわがまま自分勝手な面が強いと思います。
私の担当した患者さんは母親に対して大きな憎しみがありました。
593日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:07:00
さっきタイムリーな事にイギリスのトゥレット症患者の特集番組見た
なんか違う気がする
憲平の場合は、大事な式典の時は何故か正気に戻る事があった
594日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:55:10
>>593 いろんなタイプがあります。突然まともになってナースと
コンビにに買物に行ったりしてましたよ。
TVのようなケースは見たことがありません。
595日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:20:37
トゥレット症候群(チックの重症なやつ)だと思う
596日本@名無史さん:2009/05/04(月) 11:20:00
ほー
597日本@名無史さん:2009/05/17(日) 07:49:16
【志村貴子】青い花【NOISE】 part2
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/anime3/1242131654/35-42
35 名前:ななし製作委員会[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 22:42:25 ID:gZ5Qn9N0
鎌倉は頼朝の墓とかがあるから、遠足や修学旅行で来る学生も多いしな。でも頼朝の墓ってしょぼいんだよな。
俺の小学校の卒業文集にも
「遠足で頼朝の墓へ行ったら、小さくて驚いた。何で、あんな偉大な人の墓が、あんな小さいんだろう」
と書いてる子が3人いる。

39 名前:ななし製作委員会[sage] 投稿日:2009/05/17(日) 00:20:46 ID:N8+XPTs2
>>35
謎だな…
日本史上でも稀に見る有能な人物なのに

41 名前:ななし製作委員会[sage] 投稿日:2009/05/17(日) 01:07:08 ID:YL66eJ8h
>>39
だよなぁ。初めて朝廷から政権を奪って武士の政権を開いたすごい人なのに。

42 名前:ななし製作委員会[sage] 投稿日:2009/05/17(日) 01:57:52 ID:CM/ojs1R
>>39
>>41
それでも、大分マシになったんだぜ。
平安時代には「死=穢」だったから、貴族とかが死ぬ際には家族が死体を目撃しないように避難するのが当たり前だった。
勿論、家族は埋葬なんかには立ち会わず、家来が埋葬を行って埋めた地点に木製の墓標を立てただけ。
だから、近親者の場合は実際に立ち会った家来から墓の場所を聞き出して墓参りをすることもあったが、孫の代になるとどこに埋葬されていたかが不明になるのが当たり前。
藤原摂関家の墓は現在の宇治市木幡の御蔵山にあったとされているが、摂政・関白のほとんどを含めて誰がどこに埋められているのかわからないまま、あたりはすっかり住宅地として開発されてしまった。
だから、そこの住人が何か必要があって地下を掘ったらとんでもない事態に遭遇しない可能性はゼロとは言えない。
ついでに頼朝の墓も本当かどうか怪しいらしい。
参考リンク
道長の墓見極めのヒント見つかる 浄妙寺跡の遺構発掘調査
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics050827-7.html
冷泉天皇について語ろう(日本史板)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1173189404/194-197
598日本@名無史さん:2009/05/17(日) 07:54:09
暇人やな
599:2009/05/18(月) 10:46:03
良源が冷泉天皇の東宮時代の護持僧だったとあちこちで見かけますが、
その根拠となる文献はあるのでしょうか。
即位してからも良源が近くに(宮中に)いたのでしょうか。
護持陰陽師という役割だった人もわかっているのでしょうか。
おわかりになるかたがいたらぜひ教えてください。
600日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:34:13
天皇家の家系図、知らない人が見たらなにに見える?
家畜の近親交配に見えるだろ?
人間は家畜じゃない
人間を近親交配すると子供が作れなくなるぜww

劣勢遺伝子だらけで子供が作れなくなる
601日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:01:02
ヨーロッパの王室皇帝家は
もっと凄いだろw
ちなみに天皇はただの人間じゃなく神に近い
602日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:20:09
ヨーロッパは基本一夫一婦制だから影響がモロ出た。
東洋は一夫多妻制だから、数撃ちゃ当たるで血統が繋がるところが多い。
603soopllofeiv:2009/06/28(日) 00:23:44
しるか吐き気がする
604日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:21:22
>>599
護持僧と陰陽師とは全く別物だが。
護持陰陽師など、聞いたことがない。
護持僧と呼ばれる天皇のために祈祷を行う僧はいたが、
陰陽師なんか付けないよ。
阿倍清明が天皇の護持なんかやってたか?
道長とは個人的に親しかったみたいだけど。
605日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:36:12
確か、誰のときだったかは忘れたけれど、道長が身内の病気に陰陽師を読んできて、実資から「祟りだったら祈祷僧じゃないのか?」と批判されたということがあった筈。
だから、僧侶と陰陽師の祈願対象が違っていたのでは?
内科と歯科と眼科が違うみたいに。
606soopllofeiv:2009/06/28(日) 21:41:41
しるかぼけ!
607日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:33:06
阿倍清明は陰陽寮で活躍したが加持祈祷は専門ではない。
むしろ陰陽師は占い師に近いよね。
608日本@名無史さん:2009/07/03(金) 22:32:39
清明て冷泉天皇とも親交あったの?
609日本@名無史さん:2009/07/04(土) 03:26:08
>>603
平安時代末期までの貴族は身分の高い人にあこがれていたため近親婚をやりまくっていた。

キモいことはキモいが史実なんだからしょうがないw 


時代背景を考えると、当時の日本では血統や血縁こそが最優先される世界であり、政略結婚が全盛だったのだ。
権力者と関係がある女と一発ヤルことは、その女の家族の富や権力を後ろ盾として得ることに等しかったのだ。 
その頃の倫理は「父親が同じでも腹(母親)が違えば他人」だったから子供は母親の実家で育てられるため、
腹違いの兄弟同士で顔をあわすこともめったにない。 
そんなわけで腹違いの兄弟姉妹間では「兄弟・親族という観念」が希薄だった。
反対に「近親で結婚してれば、よそものに財産が散れない」という利点もあるわけだ。 
冷泉天皇も懐子も超子も、みんな親はイトコ同士でしょ。みんな揃って同じような顔つきだったかもよ? 
ただし、その代償として体が弱い人が異様に多かった事が史実に記録されている。
医学的に、血のつながりの濃い近親婚を禁じる理由はいくらでもある。
ただし、近親婚をすると不良品ができる可能性が高くなるけど、生まれつきの天才ができる場合も高くなる。
その典型的な例が競走馬や家畜。  そういうわけで、近親婚=悪い遺伝を持った子ばかり、ということもない。  




でも、家畜と違って人間の場合は「生まれつきの欠陥品は市ね!!」というわけにはなかなかいかないからなぁ〜。
610日本@名無史さん:2009/07/05(日) 07:51:01
>>609
飛鳥奈良時代くらいは、天皇の皇女と叔父甥異母兄弟の結婚ばかりだった。
両親が叔父姪同士で、自分の妻が叔母だとか異母姉妹とか。
平安時代あたりから、歴代天皇の奥さんの名前が藤原〇子だらけで
それもキモいな。
611日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:29:37
>>610
あれって成人か叙位か入内の時に父親が学者に付けてもらうんだぜ
まぁ、それが面倒くさい場合や一人娘の場合、金が無くて学者に頼めない場合などには父親から1字貰う場合もある。
例えば、北条政子は「時政」の子、平時子(二位尼)は「時信」の子って意味。
612日本@名無史さん:2009/07/05(日) 15:22:57
近親婚をキモいと感じる時点で歴史に向いてないんじゃない?
613日本@名無史さん:2009/07/06(月) 02:35:40

*************************************************************
296 名前:[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 23:02:51 ID:6AUsTZkh0
今週発売の週刊朝日は強烈。
「天皇陛下のご学友が進言
選択肢は、『別居療養・離婚・廃太子』」。
ソースは地下鉄中吊り広告。
*************************************************************
614日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:45:52
>>610
冷泉天皇の奥さん
中宮;昌子内親王・・・冷泉天皇の従姉(昌子内親王の父朱雀天皇は冷泉の父村上天皇の同母兄)
女御;藤原懐子・・・冷泉天皇の従姉(懐子の父伊尹は冷泉の母安子の同母兄)
女御;藤原超子・・・冷泉天皇の従姉(超子の父兼家は冷泉の母安子の同母兄)
女御;藤原怤子・・・冷泉天皇の叔母(冷泉の母安子の実妹)
615冷泉天皇ってインブリート?!:2009/07/11(土) 01:12:32
>>609
近世の医学の発展により近親婚やインブリート(近親交配の別名)は遺伝子的に劣性遺伝が指摘され,忌避されるようになりました。

しかし飛鳥時代のような昔では,そのような医学的な知識がなく、皇后や妃には血統を重視して同一家系から選ばれました。
勿論、豪族の娘を娶る事も多々ありはしましたが、正妻に迎えるケースは稀でした。 
殊に皇后ほどの身分となると、やはり同じ皇族から迎えるのが無難とされた様子です。
兄弟にして夫婦とか伯父と姪の結婚とかそんなのが当たり前の世界・・・。これが飛鳥・奈良時代の天皇家。
有名な例としては天智天皇(中大兄皇子)と妹の間人皇女(孝徳天皇皇后)との同父同母間の関係です。
当時は,異父母系の関係は許されていましたが,彼等の関係はその掟を破るものであり,
そのため天智天皇は間人皇女が死ぬまで天皇になれなかったという説があります。

日本書記にも生まれつき白髪だったとかとか,生まれつき声が出なかった皇子が記載されています。

しかし,平安時代以降は藤原氏との度重なる婚姻により劣性遺伝の可能性は否定できませんが,
異常性について正史には残っていません。 おそらく,歴史に記載されなかった劣性遺伝の皇子が存在したでしょう。


平安時代の天皇家は藤原家との超〜濃いインブリードが行われていたようです。人間を馬と同じように扱うのはやめましょうww
616日本@名無史さん:2009/07/11(土) 19:57:05
>>615
このスレでは既出だが。
近親相姦で出現する可能性のある病気は限られている。
ありとあらゆる病気の原因が近親相姦にあるという書き込みはやめよう。
白髪や唖は通常婚の夫婦からでも生まれ、近親相姦の場合の比率と変わらない。
よって、近親相姦の影響ではない。
617日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:34:43
>>616
重要なのは近親婚をやると遺伝子疾患に罹る確率が高いという事実だけです。 

近親婚をやると常染色体劣性遺伝疾患の頻度が増加することが知られています。
常染色体劣性遺伝は問題のある遺伝子を二親ともから遺伝されることによって引き起こされる病気なので、 
保因者のいる家系同士で子供を作ると劣性遺伝子を両方持つ可能性が高いのですね、 
およそ普通婚の12倍程度だといわれています。 近親婚は似たような遺伝子を持つ両親なので、
「劣性」遺伝子が発現する確率が上がるということです。劣性遺伝というと、性質として劣っているように思われがちですが、
そうではなく表面に現れにくいという意味になります。通常あまり表面化することのない病的な劣性遺伝が、
ペアになってそろってしまう可能性が高くなるわけです。常染色体劣性遺伝疾患の代表的な例として知られるのは・・・。
 全身白子、先天性魚鱗癬、テイ. サックス病、嚢胞性線維症、フェニルケトン尿症、パーキンソン病、ガラクトース血症、
糖原病T型、ウイルソン病などがあります。詳細は↓で・・・。 
http://merckmanual.jp/mmpej/sec22/ch327/ch327d.html
http://www.h2.dion.ne.jp/~park/index1/i1009arjp.html
http://www.new-agriculture.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=69986
http://genetopia.md.shinshu-u.ac.jp/genetopia/s-case_041228/counsel%81Q041228/COUNSEL/csg.html
ただし、戦前までの天皇家の多くが近親婚による出生児でしたが、障害者は少なかったと思います。
近親婚を繰り返している遺伝子は、危険因子が淘汰され、障害児が生まれる可能性は低くなります。品種改良では良く使う手段ですよ。 
618日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:46:51
>>614
どう見ても冷泉天皇はインブリードです。ほんとうにありがとうございました。


品種改良などでは結構インブリードが行われることも多い。
インブリード、まあ近親交配だが特に競馬の馬やら熱帯魚なんかでは必要な形質をロストしたくないわけだ。
ところで、人間の場合にも必要な形質をロストしたくないからインブリードするとしても、
インブリードを繰り返すとろくでもない結果が生まれる。
まず致死遺伝子ってのを人間はたくさん持っている。
1個だけなら問題ない、あるいは物によっては有用な遺伝子だが、2個そろうと死ぬ。
で、そういう遺伝子を人間は一人当たり平均2個もっている。
もしこの遺伝子が今一度に倍になったら、人類はまず絶滅する。
インブリードの場合この致死遺伝子がそろいやすくなる。
死産が増える。おかしな遺伝病も固定されやすい。
おまけに染色体不分離も起こりやすいかも知れん。

そんなわけでインブリードは人間にはお勧めできない。
619日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:58:38
>>618
冷泉天皇の父:村上天皇
冷泉天皇の母:藤原安子
村上天皇との血縁関係:父の従弟(5親等)


冷泉天皇はインブリードじゃない
620日本@名無史さん:2009/07/13(月) 20:24:51
藤原基経ーーーー藤原穏子ーーーー村上天皇
    |             |
                  ーーー冷泉天皇ら三男四女
    |             |
     −藤原忠平ー藤原師輔ー藤原安子

冷泉天皇の両親は現在でも結婚ができる範囲。
しかも同母弟の為平親王、円融天皇、同母妹の四人の内親王は正常だった。
一番末の同母妹の選子内親王は、歌才に優れ、長命で5代の天皇の賀茂斎院を勤め、
大斎院と呼ばれて文学サロンを持っていた女性。
621日本@名無史さん:2009/07/14(火) 12:50:25
冷泉系は光る源氏の兒孫だから 廃嫡された
622soopllofeiv:2009/07/14(火) 17:13:43
以上 まんが日本昔話でした(”・・
623日本@名無史さん:2009/07/15(水) 01:32:31
皇統譜信者=天皇と日本体制を絶対視信仰
624日本@名無史さん:2009/07/15(水) 12:55:45
>>618
確か、人間の遺伝子にはかなり高い確率で損傷があるとか。
でも遺伝子(=ここでは染色体の意味)は一対なので、異常な部分があっても優性遺伝で無い限り
もう片方の遺伝子が補っていて、表面には顕れません。でも父母が近縁者だとすると、
父親由来の遺伝子と母親由来の遺伝子が同一になる可能性が高くなります。
結果、異常な遺伝子が一対揃ってしまい、変な病気を喰らう確率が高くなります。

シミュレーション:劣性遺伝の場合
 Aa : 父親の遺伝子。aが変異した異常な遺伝子。aは発現せず正常な人。
 Ba : 母親の遺伝子。父親と血縁で、aは遺伝した異常な遺伝子。同じくaは発現せず正常な人。

 生まれた子供の遺伝子:
 AB : 正常な遺伝子を持った子供。
 Aa : 父のAと母のaを受け継いだ子供。父と同じ、aは発現せず正常な人。
 Ba : 母のBと父のaを受け継いだ子供。母と同じ、aは発現せず正常な人。
 aa : 両親の異常なaを受け継いだ子供。aの異常が発現し、変な病気が発生。

なんと、25%の高確率で異常が出てしまいます・・・。
625日本@名無史さん:2009/07/15(水) 20:33:55
>>624
ずっと同じ人が連投してるけど。
ここは冷泉天皇のスレですが?
関係のない話がしたいのなら日本史板から出てってねw
626日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:19:26
ほほー
627日本@名無史さん:2009/12/11(金) 16:10:42
憲平がインブリードなら、同母弟の為平や守平もインブリードだろ。
628日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:42:00
天皇家は太古の昔からインブリード

なぜ憲平さまばかり責めるのだ?
629日本@名無史さん:2009/12/23(水) 16:54:57
冷泉天皇と藤原怤子を題材にした少女小説を見つけました。
嘘つきは姫君のはじまりという題名。
相当いじってるかと思えば、広平親王一家との確執やら
妃ではない登子や主人公の友人として
円融天皇に入内する兼通の娘・媓子も登場し詳しい。
ただ、前提として怤子が本人ではなく乳姉妹が身代わりとなっている。
また女が全員名前が変わっている。
年齢もずらしてあり冷泉天皇と藤原怤子が同い年、
15歳になってもまだ元服していない設定。

冷泉天皇の奇行にもプラスの解釈がなされていて
そう言おうと思えばそうなる、という感じ。
時期としては元服前だが怤子が御匣殿別当で
怤子が副臥になってゴールインという筋が見えている。
奇行についての解釈が話題になっているようだからあげてみました。
630名無しさん:2009/12/27(日) 16:26:28
嘘姫面白いな
631日本@名無史さん:2010/02/07(日) 16:33:24
検索では、圧倒的に「添臥し」が多数なのに、あえて17件しか
用例のない「副臥し」を使ってつのはなぜだろう?御匣殿も
「みぐしげどの」なので、「みくしげどの」と古典で習った
自分には、ルビが邪魔>嘘姫
632日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:20:18
保守
633日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:28:59
点検
634日本@名無史さん:2010/04/02(金) 23:20:51
会社や学校など多くの人たちが集まるような場所で、どうどうと
私は冷泉天皇を一番尊敬している・私は冷泉天皇のような生き方
人物象に近づきたいといったらどうなる?
635日本@名無史さん:2010/04/03(土) 09:20:09
ニポン史最大のヒミツの1つ…レゼー院はヒカル言辞の実嗣
636日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:54:21
嘘姫つながり
637日本@名無史さん:2010/04/28(水) 05:13:23
>>287
おいおいw
嵯峨天皇の時代から、150年過ぎてるぞっ!W
源融以外に無い訳で・・
638日本@名無史さん:2010/04/28(水) 06:56:03
>>637
は?
高明は醍醐源氏の一世だろうが。
639日本@名無史さん:2010/04/28(水) 09:50:01
>>638
何か、光源氏の時代の天皇が、醍醐天皇で、源綱は、光源氏の曾孫では無いと?
640日本@名無史さん:2010/04/28(水) 09:55:09
>>638
紫式部が源綱意識して、源綱が頼光と共に、仁明天皇の源光の籍に入っていたのを勘違いして、光源氏としたのは、違うと言う事か?
641日本@名無史さん:2010/04/28(水) 10:03:06
>>638
まぁ・・俺の推測なんだがなW
光源氏は、紫式部晩年作品説なんだよね。
642日本@名無史さん:2010/04/28(水) 12:45:06
☆安倍 晴明 921年から1005年

☆渡辺 綱 953年から1025年

○紫式部(生没年不詳)

紫式部、生誕が・・
970年から978年
1008年が、30歳位と推測されるんだって・・。

紫式部、没が・・
1014年から1031年

俺は、安陪清明没以降の渡辺綱が、酒呑童子の話がされた後に、紫式部が、30半場から40代以降に、綱の話を聞いて、綱の先祖を辿って最初、綱が源光の子孫と勘違いして、光源氏物語を書いたと思ってる。
実際の綱の先祖は、源融だと題名がパッとしないからそのまま書き続けたと思う。

643日本@名無史さん:2010/04/28(水) 13:13:21
後の、源平合戦の主人公の源義経に安陪武家の子孫、松浦高俊、綱の子孫、松浦党波多氏宗家の呼子兵部少輔清友(の清友は、嵯峨天皇の后妃、橘清友の娘だった外祖父の清友の名を付けられてる。)、峯五郎披らが
藤原氏末裔、武藤氏から少弐氏の水軍、村上水軍、海賊王の藤原純友時代からの付き合いの阿波水軍と河野水軍が参戦している。
その、松浦党がメインに成っていたのは、バックに、藤原純友の子孫、蒲池氏や有馬氏が居たからだ。
644日本@名無史さん:2010/04/28(水) 13:25:04
蒲池氏は、松浦党に・・松浦(安陪)高俊の子孫の相神浦松浦氏と相智氏、源久の子の波多氏兄弟の末裔も、有馬氏も、後に、波多氏として纏まり、長男、渡辺氏、次男、平戸氏、三男以下は、波多氏と成ったのだ。
645日本@名無史さん:2010/04/28(水) 13:34:17
少弐氏は、竜造寺氏
平氏時代の松浦党拠点庄家の主の永井氏とは、元は、大江氏ルーツは、平良兼の末裔。後に、将軍家康公に仕えた永井家。
646日本@名無史さん:2010/04/28(水) 13:37:51
だから、源融以外は、あり得ない。
647日本@名無史さん:2010/04/28(水) 13:42:01
義経を操っていた後白河法皇と呼子は大天狗と天狗神の関係。
傀儡師の烏天狗を使って、義経=牛若丸を、羽黒山で鍛えていたと思われる。
648日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:02:22
源平合戦で源氏勝利後の波多呼子氏は、百年後に歴史に登場したのが、呼子兼。元寇と戦い生き抜き、更に、百年後の・・
新田軍に追われてきた、足利尊氏は、伊予の源氏水軍を頼り、少弐氏率いる水軍が、京へと進攻。
待ち受ける、楠木軍と新田軍の陣形を崩し、勝利。
足利尊氏を将軍へと導いた。足利時代の始まりである。
649日本@名無史さん:2010/05/14(金) 23:35:20
「手紙」のエピソードを見て某ゲイ漫画を連想した人は手を挙げてください。
650日本@名無史さん:2010/05/21(金) 01:23:50
何のことでしょう??
651日本@名無史さん:2010/05/22(土) 03:09:49
>>44
>・父帝に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた
かと。某ゲイ漫画は知らんが・・・
652日本@名無史さん:2010/08/19(木) 12:55:23
>冷泉帝は五、六歳の時に父帝にあてた手紙に男性性器を描いたとか、

5〜6歳じゃ自分のチンコを見て描いたのか
それとも親父のチンコなのか・・・w
653日本@名無史さん:2010/08/20(金) 22:02:41
ふむふむ
654日本@名無史さん:2010/08/20(金) 22:46:05
>>652
幼児に自分のチンコを見せる父親なんてまずいないでしょ
ましてや父親は天皇
何十人もいる自分の息子と一緒に風呂に入るとかいう
家庭的な人じゃないんだから
655日本@名無史さん:2010/08/21(土) 07:49:31
その手紙には陰茎だけが書かれていたのか文字もあったのかが重要
656日本@名無史さん
絵だけだよ
村上天皇から文字の手紙のお返事に
絵を書いて送った