【古河公方】享徳の乱について語れ【関東管領】

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102日本@名無史さん:2008/03/01(土) 01:24:54
>>100
たしか義尚は、酒の飲み杉で、急性肝炎か腎臓病が発症し急死したはず。

応仁の乱以後、守護の在京制度が崩壊した。おまけに在国した守護は、
国人や守護代の反乱や隣国との抗争が始まっている為弱体化。
つまり応仁の乱で東西の両大名が共倒れ状態。

このため畿内では将軍親衛隊の奉公衆の軍事力が相対的に大きくなっている。
そこで将軍義尚は、奉公衆を使い親征を繰り返し将軍の力を回復させようとしている。

応仁の乱終結後から明応の政変で将軍義材が細川政元に廃立されるまで
の間16年間は、畿内においては室町幕府の権力は回復傾向。

将軍義尚と義材は、親征計画を数多く立案している。
実際にやった近江六角氏や河内畠山氏だけでなく、美濃斉藤氏や
越前朝倉氏・丹後一色氏・伊勢北畠氏への親征計画もあった。

丹後一色氏への親征計画は、実行寸前に一色氏が将軍義材に対して降伏し、
一色氏の再度の在京と押領した領地の返還を約束したため中止になった。

将軍義尚と義材は、かなり頑張っているよ!
103日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:35:32
まあ守護の在京義務なんて応仁の乱以前にも実際にはなかったみたいだけどな。
勝手に京都に集まってただけで。
104日本@名無史さん:2008/03/08(土) 04:00:19
>>103 勝手に(守護が)京都に集まってただけで。

それって応仁の乱以前の幕府に求心力があった証拠じゃね?
105日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:18:29
>>102
そんなに義尚らが幕威復興に頑張っていたとは意外だな…。
義輝の頑張りばかり強調されるからな、一般的に…。
しかし室町将軍家は親征に用いる兵力をどこから調達したのだ?
そんなに畿内一円の有力大名を叩けるだけの力があったのなら
そもそも弱体化する必要もなかったように映るのだが…?
106日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:22:00
織田信長以前は兵農分離が徹底されていないので
大規模な遠征を安定的に行うのは不可能。
もし将軍家が有力大名との合戦を行っても
その領国を取り上げるほどの戦果を挙げ得たかどうか…
107日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:44:01
つか義尚って六角氏征伐に反対した細川を無視して強行したから義尚情報を細川が六角に流しまくってんじゃなかた?
あの若さで突然死とか怪しいんだが細川&六角の謀殺じゃないか?
しかもこれをもって完璧なまでに将軍権威が地に落ちたし
細川の動きが将軍をないがしろにしまくりになったキッカケなんじゃ。
108日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:44:38
>>105
義昭段階でも奉公衆の兵力は5000くらいあったといわれるし、
明応の政変以前なら在国の奉公衆だって離散していないだろうから、
周辺の2,3の有力大名を味方にしておけば、他の一大名を叩くくらい十分に
可能だろう。

室町幕府が機能不全に陥るという点では、将軍家が決定的に分裂してしまう
明応の政変のインパクトが大きいだろう。
応仁の乱は、あくまで将軍継嗣候補者の争いであって、東西両軍とも
将軍義政に対する敵対行動ではないと、名目上は主張しているわけだけど、
明応の政変以降は自分自身が足利将軍家の正統な当主と主張する者が同時に
複数出現してしまうわけだからな。

結果、南北朝のときと同様に、各地の大名・国人が利害関係から思い思いに
都合のいいほうに味方し、やがて世の中がグチャグチャになっていくような
イメージだな。
109日本@名無史さん:2008/03/09(日) 13:51:58
細川が義尚の軍事情報を六角に教えてたりと筒抜けだったのは事実で戦死の可能性もある。
いくらなんでもあの若さでポックリいかんだろう。
110日本@名無史さん:2008/03/09(日) 14:45:18
一応、将軍義尚の親征には細川政元はついて行くんだけどな、当初の反対はあるけど。
裏で六角高頼と結託してたわけか。朝倉と美濃の斎藤氏も六角氏に味方していたらしいが。

>>108
明応の政変以前は、奉公衆は1万人を越えている動員数。御家人・国人だけでも300人居る。
応仁の乱以後に畿内でこれだけの軍勢を集められるのは、細川政元ぐらい。
畠山義就もせいぜい5000人ぐらい。

奉公衆の御家人は、実は山城や畿内の御家人・国人は意外と少ない。
三河・美濃・尾張・遠江の4カ国で約100名、近江25名・丹後18名・丹波11名・伊勢9名
摂津7名・越中と加賀に10名づつ。
山陰地方は、因幡と美作み10名づつ、備後7名・播磨6名・出雲5名
残りは、北陸や紀伊他の山陰地方の御家人・国人という感じ。

それでも、これをみると京兆家の最重要の領国の丹波に11名の摂津に7名の奉公衆が居る。

応仁の乱以後は、京兆家や他の守護は、幕政とは関係なく領国支配体制を強固にする方針だが、
この京兆家の2つの領国にこれだけの奉公衆が居ると領国支配体制を強められない。

結局、細川政元には奉公衆を動員する将軍親征が迷惑だと言うことだろう。

幕権回復は、守護、特に畿内最大の大名である細川政元にとって
いかに領国支配の阻害要因であるかがよく分かる。
守護の命令に従わない奉公衆が領国に居たら一円支配は完成できない。

明応の政変以後に、丹波と摂津の奉公衆は守護や守護代の被官衆に支配地を
押領されるケースが散見される。
111日本@名無史さん:2008/03/09(日) 16:33:50
明応の政変以後なら、義材派の奉公衆の所領を政元サイドが横領することには
何の問題もなかっただろう。
112日本@名無史さん:2008/03/15(土) 22:55:15
義尚が将軍権力を復興させたら細川も朝倉も六角も困るだろうしな。
操り人形や唯々諾々と事後承認したり追認したり政に興味ない愚鈍もしくは幼年将軍ではなく義教の悪夢の再来を思い出すような英邁だったから義尚も謀殺されたんだろう。
そういや父の義政も若き時は政事に対して熱心だったらしいね。
113日本@名無史さん:2008/03/16(日) 12:41:25
京兆専制論は崩壊したよ
114日本@名無史さん:2008/03/16(日) 13:46:11
>>113
禿同、
今はどちらかと言うと、畿内領有論が多数派かな。
今谷明先生の京兆専制論は、無理筋な理屈。

末柄豊氏の畿内領有論は今谷先生の京兆専制論を論破した形かな〜

>>111のいう京兆家の分国内の所領の押領や支配体制の変化に着目した
末柄氏の功績は大きいといえる。京兆家が守護大名的な間接的支配から
戦国大名的な一円支配に移行する過程を調べているのが特徴とも言える。

特に京兆家内部で京兆家当主(細川政元)vs京兆家評定衆(守護代級内衆)
の構図が勝元死後に出来上がりこの葛藤が政元の政治力の制約要因になり
最終的には死因となったことを示した事は大きい。

政元が戦国的な一円支配を完全に完成させたら守護代級内衆は要らなくなるしね。
115日本@名無史さん:2008/04/21(月) 01:16:57
>>109
義量・義栄は無視ですか?
116日本@名無史さん:2008/04/29(火) 22:36:07

日曜の石神井の照姫まつりの時、「決戦〜豊島一族と太田道灌の闘い」
って本売ってたお。
異常にマニアックで面白かったお。

でも、著者をみたら知り合いのKさんだった・・
そういえば昔から豊島氏ばかり狂ったように研究している人
だったけど・・とうとう本出したんだねー

Kさん応援してるおー 
2ちゃんでもイパーイ宣伝しといてあげるね(w
117日本@名無史さん:2008/05/01(木) 14:31:32
この頃の関東のことって複雑過ぎて
いまだに分からない
118日本@名無史さん:2008/06/16(月) 20:05:14
応仁の乱も敵味方が入り乱れすぎて非常に複雑な構図になっていた
119日本@名無史さん:2008/08/03(日) 01:55:38
>71.
 古河公方のもとには、管領はいなかったの? 
 簗田も、関東管領にできればなりたかったろうに。
 成氏は、あえて空席にして、諸豪族を釣ったのか、うまいな。

>74.義明は鎮守府将軍なのか、そうか、では、小弓公方というのは誰がとなえたんだか、本人か、後世の学者か。
    任命権ある幕府は認めていないんだからの正式名はもらえる筈ないしな。
    朝廷からの名称は、百官名とかで勝手に名乗るのが風習として確立?していたからOKか。
120日本@名無史さん:2008/08/03(日) 02:04:52
>安房里見家は擁立した古河公方の子孫を鎮守府将軍って唱えてた。
>で自分は副帥ないし副将軍。

 鎮守府副将軍って役職、本当は存在しないでしょ。
 これ、捏造の百官名の典型かも。
 すると、後で京都に賄賂送って認めてもらうという手間もいらないのかも。
121日本@名無史さん:2008/08/03(日) 07:19:40
古河公方館跡の公園行ったことある人いますか?
122武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/13(水) 00:27:30
>>121
こないだ行ってきたよー(^O^)/
公園になってて、いいとこだったー
123日本@名無史さん:2008/08/23(土) 19:03:45
足利→鎌倉→古河→喜連川 やっぱ鎌倉は格上だな。
124日本@名無史さん:2008/10/07(火) 05:12:28
質問です。
古河公方の読みは、「こがくぼう」。
さて、堀越公方は、「ほりこし公方」「ほりごえ公方」(両方あるようです)
どちらが正しいのでしょうか?
詳しい方教えて!
125日本@名無史さん:2008/10/07(火) 22:42:57
>>124
くつえつこうほう
126日本@名無史さん:2008/10/12(日) 03:54:53
>>124
どちらが正しいのかということであれば、間違いなく「ほりごえ」。
由来となった伊豆堀越は「ほりごえ」と読む。
127日本@名無史さん:2008/10/12(日) 15:23:55
室町時代(除・戦国)に人気が無いのはだ、
やはり京都に武家政権があるのが日本人の心情と相容れないからだろう。
鎌倉公方が「こっちが正統だ」と思うのも当然だ。

やっぱ中世は鎌倉(関東)よ。享徳の乱万歳。足利成氏サイコー。
2つ違いの義政なんて、応仁の乱でニートしてたわけだろ。
板東武者の棟梁・足利氏の嫡流は鎌倉公方だ。名前だって○ウジじゃん。
128日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:34:32
???
奈良も平安も鎌倉も人気があるとは言い難いが。
人気があるのは戦乱期だけと言っても過言ではない。
129日本@名無史さん:2008/10/13(月) 21:18:37
ここ三戦板じゃないんだけど
130日本@名無史さん:2008/10/21(火) 00:32:36
>>127
そりゃ結果論だ
承久の乱で在京御家人の多くが後鳥羽上皇を支持したのは京都に武家政権があるべきだと考えたから。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を否定しても上皇の下での幕府設置を否認しなかったのは、義時追討の院宣が鎌倉幕府によって設置された守護地頭に対して出されていることから明らか。
(幕府を全否定するなら、守護地頭は討伐・廃止対象になる。後醍醐天皇の建武の新政でも幕府は否定したがその組織系統は朝廷の元に取り込もうとしている)
131日本@名無史さん:2008/10/21(火) 01:23:40
>室町時代(除・戦国)に人気が無いのはだ、
やはり京都に武家政権があるのが日本人の心情と相容れないからだろう。

って現代人の話じゃね?
132日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:26:23
>>126さん!>>124 ですが回答ありがとうございます。
堀越(ほりごえ)公方ですね!
関東の足利家は、複雑ですね!!
小弓公方(おゆみ?こゆみ?)なんってのもありますね!←確か、古河公方が分裂したできた。
133日本@名無史さん:2008/11/29(土) 00:09:39
小弓公方は「おゆみ」だね
現在でも「千葉県緑区おゆみ野」という地名が残っている
134日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:49:53
小弓→生実→おゆみの
江戸時代に森川氏が生実(小弓)を治めていた(生実藩)
135日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:23:35
age
136日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:05:11
小弓公方 足利義明
137日本@名無史さん:2009/02/25(水) 10:27:48
age
138日本@名無史さん:2009/03/08(日) 02:49:44
>>130
なぜ守護地頭に院宣が下されたからといって、守護地頭制度を肯定したといえるのか疑問。
守護地頭といっても、治承・寿永の乱のときに源頼朝についた武士なわけで最初から幕府の御家人だったわけではない。
平氏の被官だったものもたくさんいる。
武士達はもともと皇族・貴族達の荘園の管理者、もしくは実質的所有者だったのだから、院宣が直接下されたとしても不自然ではないと思う。
139日本@名無史さん:2009/05/15(金) 19:46:54
>>136
足利義昭と発音が同じだけど気にならなかったんだろうか
140日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:42:58
>>139
どこをどうツッコメと……
141日本@名無史さん:2009/06/09(火) 04:16:59
小弓義明−頼淳┬国朝
       └頼氏−(喜連川藩)
142日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:33:44
関連スレ

六チンの乱を語る
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1246072639/l50
143日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:05:55
塵も積もればのようにこのスレもレスが貯まってきたな。
もっともスレ立て直後にも言ったように、鎌倉公方スレにしとけばもっと書き込みあったろうに。
かといって今さら鎌倉公方スレを立てるのも重複っぽくなる。

ほんとスレッダーは半端なスレタイにしてくれたもんだw
144日本@名無史さん:2009/10/01(木) 00:36:53
喜連川家に比べて平島公方の冷遇振りは酷い
145日本@名無史さん:2009/10/01(木) 13:43:21
北関の人が立てたんでしょ
146日本@名無史さん:2009/11/01(日) 08:28:02
>>144
妥当だろう。
何だかんだとあったが戦国の最後まで古河城を守り続けた古河公方に比べて
平島公方なんてただのお客さん。
武家政権&足利氏発祥の地である関東で最後まで生き抜いた古河公方が、
足利氏の正統な後継者と見られるのは当然のことだ。

別に自分が栃木だから言ってんじゃないぞ。
147日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:09:18
最大だ
148日本@名無史さん:2010/01/24(日) 20:58:26
保守
149日本@名無史さん:2010/02/09(火) 16:19:30
関東の足利など中央から見れば眼中にない
150日本@名無史さん:2010/03/09(火) 18:00:21
アウトオブガンチュー
151日本@名無史さん
足利の分家の古河公方のさらに分家だったはずの小弓公方が足利宗家になるとは