【古河公方】享徳の乱について語れ【関東管領】

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1日本@名無史さん
やはり、室町時代最大の戦乱といったらこっちだよな?
応仁の乱? あんなの10年ちょっとで終わっちまっただろ!
2日本@名無史さん:2007/02/07(水) 12:20:33
辺境で何が起ころうが大勢に影響はないのよ。
朝鮮戦争と同じ。
3日本@名無史さん:2007/02/16(金) 00:06:49
この大乱の影響は大きかったと思う。其の中でも山内上杉氏との対立のせいで、鎌倉から古河に走ったが、古河公方、足利成氏の力は大きく、結局、政知は鎌倉に入れず、東国の情勢は不安定のまま。そして、北条早雲が堀越をせめて、戦国時代の幕開けに…

4日本@名無史さん:2007/02/16(金) 02:00:46
室町関東は騒乱続き
中でも結城合戦の結城は漢気炸裂で好きだ
大田道灌が暗殺されねばもうすこし違う展開もあっただろうが、
結局西からのスーパー流れ者が名を上げることに

しかし早雲ってボケ戦術で相手を油断させて勝ったり、
領民をたくみに手なずけてたり
実に恐ろしい男だ、敵にはしたくねぇ
5日本@名無史さん:2007/02/16(金) 03:20:16
生涯反抗期のやんちゃな鎌倉公方家

馬鹿殿のお守り役なんてやってらんねぇよ上杉氏

こいつらに振り回されっぱなしの関東武家

6日本@名無史さん:2007/02/16(金) 19:57:06
う〜ん、スレタイを「鎌倉公方」にしてたらもっとスレ伸びてたと思うんだがな。
やっぱ鎌倉公方って、本拠地はこっちでぃ!と思ってたから室町将軍に反抗的だったんだろうか。
7日本@名無史さん:2007/02/16(金) 22:05:10
畿内に対して独立志向の強い関東

関東武家から見れば室町幕府など幕府に非ず、
自分たちの手で新たな関東政権を打ち立てようとしていたのでは
8日本@名無史さん:2007/03/05(月) 03:51:09
>>3
政知は、戦乱のせいで鎌倉に入れなかったのではなく、幕府のほうで、
政知が第2の足利持氏・成氏になる可能性を危惧して、鎌倉より目の行き届き
やすい伊豆に留め置いていたって説もあるね。
9日本@名無史さん:2007/03/05(月) 13:44:55
鎌倉に入れなかった理由は
鎌倉が戦火で灰燼に帰していたから?
10日本@名無史さん:2007/03/08(木) 21:42:28
上杉氏が渋川義鏡のことを嫌いだったからじゃないの?
11日本@名無史さん:2007/03/09(金) 04:10:51
鎌倉から防衛の拠点としての価値が失われたから。
室町後半期の鎌倉には、文化都市・商業都市としての価値はある程度残ったが、
政治的・軍事的には、かつてここが鎌倉幕府の本拠地だったという由緒以外の
価値はほぼ失われた。
12日本@名無史さん:2007/03/09(金) 16:59:36
>鎌倉から防衛の拠点としての価値が失われたから。

んなことない
玉縄城や玉縄藩のことを考えてみろ
13日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:19:22
逆じゃない?
鎌倉が役に立たないと見たからそれよりも後方に城を構えたと。
14日本@名無史さん:2007/03/12(月) 02:03:34
足利茶々丸って元服してなかったのかね
15日本@名無史さん:2007/03/12(月) 02:04:22
足利茶々丸って元服してなかったのかね
16日本@名無史さん:2007/03/17(土) 00:43:28
してたとしたら義材の一字を貰ってるだろうから名前は「材○」だね。
17日本@名無史さん:2007/03/21(水) 14:07:08
材木
18日本@名無史さん:2007/03/21(水) 14:25:16
足利材料
19日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:18:04
「材」の字を貰っている人って、
北畠材親(きちか)、
京極材宗(きむね)、
くらいかな?
20日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:50:47
享徳の乱って何年から何年まで?
本によって書いてること違くない?
21日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:42:01
それは旧暦を新暦に修正する時の問題では?
上杉憲忠殺害が旧暦12月で、都鄙合体の合意が旧暦11月だから新暦修正すると翌年に入ってしまう。
22日本@名無史さん:2007/07/18(水) 06:03:33
>>6
関東公方にしておけばもっと伸びてたと思う。
23日本@名無史さん:2007/07/18(水) 06:37:18
都鄙合体の後、成氏はどうして鎌倉に戻らないんだろう?
24日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:49:37
>>13
軍事的に役に立たない云々より、政治的意味で鎌倉に居を構えるべきだったと思う
鎌倉は関東の都だから、鎌倉の主=関東の主として正当性を主張しやすい。
25日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:50:11
あの段階での成氏の勢力基盤は、利根川(下流部は現江戸川)以東の
房総半島から常陸・下野のあたりだから、上杉氏の勢力圏になっている
相模には入りづらいというのもあっただろう。

それに永享の乱以降、甲斐は京都管轄になっているし、都鄙合体の条件として
伊豆を堀越公方管轄にするっていうのもあったから、相模では京都との
有事の際に防ぎきれないということもあったのかも。
26日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:17:00
>>24
でも成氏以降の古河公方も、
「鎌倉公方」とか、
「鎌倉+官途名」(例えば「鎌倉左馬頭」「鎌倉左兵衛督」など)とかって、
呼ばれているから、
鎌倉にいるかどうか自体は大して重要でないのかも。
27日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:35:01
鎌倉府の長なんだから当たり前じゃないのか
28日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:29:38
「関東府」「関東公方」っていおうよ。
公方の補佐は「鎌倉管領」じゃなくて「関東管領」なんだから。
29日本@名無史さん:2007/08/07(火) 14:01:27
公方なんだから、鎮守府将軍にでもなれば良かったのに。
尊氏も初めは鎮守府将軍だったし、
征夷大将軍が京都に居たらサマにならんからな。
30日本@名無史さん:2007/08/17(金) 17:26:21
まぁ鎌倉侵攻を許した苦い経験から南は三浦氏、西は今川氏で相模国自体は扇谷、武蔵・上野が山内だから利根川の東から出たくないだろ成氏は。
堀越公方が伊豆から相模に入ったら扇谷が困るし、山内が伊豆を割いたのも扇谷を牽制する目的もあるだろう。
もう当時の鎌倉は老築化し防衛力は丸裸だったと思われ。
31日本@名無史さん:2007/08/17(金) 17:37:50
鎌倉府だの鎌倉公方だの、そんな名称は室町時代にあったのか?
のちの歴史家が便宜上、つけた歴史用語なんでは?
32日本@名無史さん:2007/08/17(金) 18:10:17
だったらなんなんだ?
33日本@名無史さん:2007/08/17(金) 19:12:02
当時の実際の呼び名を知りたい。
34日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:44:02
鎌倉殿?
35日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:57:03
公方様、関宿様
36世界@名無史さん:2007/08/20(月) 09:00:27
成氏が古河を本拠とした他の理由2つ
1.古河は、三代氏満以来、鎌倉府御料所である下総国下河辺庄(現在の春日部、古河市、猿島郡)の中心地であった。
ちなみに下河辺庄は元々は小山氏の領地であったが、
小山隆政・若犬丸の反乱(永徳2年(1381年)と至徳3年(1386年))で氏満が没収して、自分のものとした。

2.成氏党の結城氏、小山氏、千葉氏が周辺にいること。
37日本@名無史さん:2007/08/21(火) 06:23:41
八条院領だった事とは関係ないのかな?
38世界@名無史さん:2007/08/25(土) 12:11:20
>>24
すみませんが東国の八条院領のことおしえてくれませんか?
39世界@名無史さん:2007/08/25(土) 12:52:57
×>>24→○>>37だった スマソ
40少し質問です。:2007/09/01(土) 21:26:06
関東管領についてですが、京都の幕府が認定しますので、何か書きつけを出すと思うんですが、正しいですか。
で、そこにはいつから関東管領と書くようになったんでしょうか、少なくとも上杉謙信は「関東管領」だと思うんです。
でも、いっちゃん最初は関東執事であったはずで、
室町時代当初は幕府の書類には、「関東執事」と書いていたはずと思います。
一方、鎌倉府の書類などでは、いつごろから関東管領と書くようになったのかなとも気になってます。
41日本@名無史さん:2007/09/01(土) 21:27:57

*)関東管領は古川公方側のヒエラルキーに位置づけられるかも。

*)一方、堀越公方は関東管領は居なかった、あるいは、関東執事だったかも。
42日本@名無史さん:2007/09/01(土) 21:30:02
関東管領は上杉憲顕の再任の頃に京都の細川頼之を意識して改めたとか。
だから、堀越公方の執事となった渋川義鏡が関東管領の名乗りを僭称だとして取り上げようとして上杉氏を敵に回した。
43日本@名無史さん:2007/09/02(日) 04:11:34
>>41
「古川公方」って何?
もしかして宮城県の古川あたりを本拠にしていた奥州探題大崎氏のこととか?
44日本@名無史さん:2007/09/03(月) 04:54:16
ふるかわ・・・さん?
45日本@名無史さん:2007/09/04(火) 05:18:55
>>33
古河御所
46日本@名無史さん:2007/09/07(金) 16:43:42
秩父七党だの関東八屋形だのは、スレ違いになるのかな??
47日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:02:22
どうぞ!
48日本@名無史さん:2007/10/07(日) 23:34:06
てす
49日本@名無史さん:2007/10/17(水) 10:31:18
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
50日本@名無史さん:2007/10/19(金) 22:50:15
>>49
聖教新聞広げている人を見たことが無いニート乙
51日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:49:03
俺は生協新聞は読むけど、聖教新聞は読まないな。
52日本@名無史さん:2007/11/02(金) 19:15:30
>>50
この前、マジで見たww
ダチンコと爆笑した・・・
53日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:18:56
古河へ移った後も、実際には「鎌倉殿」とか「鎌倉御所」とかみたいな
「鎌倉〜」を冠した名前で呼ばれているよね。
54日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:25:35
古河公方館跡いったひといます?
僕はすぐ近くに住んでるんですけど。
55日本@名無史さん:2007/11/25(日) 12:52:02
>>54
ノシ
56日本@名無史さん:2007/11/25(日) 16:57:29
>>56
ノシ
57日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:17:02
古河公方



足利将軍家が住んでいた所であり、関東騒乱に巻き込まれたのが茨城県古河市か。
関東地方の武士の動きを見続けてきた古河も日本の重要な地点であろう。
58日本@名無史さん:2007/11/26(月) 03:25:46
謙信は建前上は古河公方の家臣だよね
59日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:51:44
家臣ねぇ・・・。
60日本@名無史さん:2007/12/14(金) 01:07:53
管領就任以後なら古河公方の家臣か
長尾時代なら守護代でしかないから幕府の家臣の家臣か?
でもなんか身分引き上げに成功してるから幕府の家臣には昇格か?
で、管領になって古河公方の…
管領って微妙な存在だな
61日本@名無史さん:2007/12/16(日) 04:49:03
烏帽子被りたかっただけじゃないのか?
62日本@名無史さん:2007/12/16(日) 11:35:10
後見人みたいなもんだろ。
関白近衛と伯父の簗田などと古河公方として足利藤氏を擁立したりしてるし…一年くらいで氏康に拉致られて失敗したが。
ただ旧古河公方圏な利根川以東の人々にとっては山内上杉圏な謙信に対して部下とは思っておらずに同格だと考えてたフシが。
謙信管領就任時は衰退しまくったくせに関東の首座を巡り争った小山氏と千葉氏は鎌倉殿時代の格式待遇を求めるしw
千葉氏に花を持たせたら小山氏は怒って敵対するし、謙信が帰ったら千葉氏は北条の息がかかった重臣原氏の言いなりだしw
管領になったら関東八屋形たる小山や小田とか滅亡させられないし佐野も佐野大社の神主職?だかなんだかわからんけど天誅できねーし。
旧扇谷領で使えるヤツは太田三楽斎しかいねーし…深谷上杉とか羽生領は山内だったか?
山内上杉領でも時に北条に付いたりしながらオイシイ思いして由良足利兄弟(桐生とか館林とか伊勢崎とか)とか成田兄弟(熊谷とか騎西とか羽生とか)とか肥大していくし。
63日本@名無史さん:2007/12/16(日) 12:12:35
みんな自己中だから生真面目な謙信は酒でも飲まなきゃやってられんなw
でもま〜上杉史で言えば白井長尾三代活躍時が一番面白い時代だな!景信・景仲・景春はそろいもそろって名将。
足利成氏や太田道灌もいいキャラだよな!
人間の傲慢と猜疑心の象徴たる人物…扇谷上杉定正もよいな!こいつが実質的両上杉滅亡のスイッチを入れたと思うな。
大河化したら面白いと思うんだけどな。
64日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:18:08
>>61
烏帽子なんて誰でもかぶれる
65日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:04:30
最初は、足利の鎌倉公方が関東管領という呼び名でしたよね。そのときは、後の関東管領は関東執事であったと思う。
鎌倉では、いつのころからか、名前を格上げした。ここがむずむずしていたんだが。

まず、執事が関東管領になったのが、「上杉憲顕の再任の頃>>42」なんだね。
そっか、ちゃんと京都の了解を得ているだろうね。

で、鎌倉府の長が、公方様になったのは、いつだろう、今までは、「たぶん持氏かとおもうけども。
持氏が勝手に公方を名乗って、関東執事に諌められて、という感じではないかなぁ。」と思っていたけど、
「上杉憲顕の再任の頃(鎌倉府の長は基氏)」に、鎌倉府の執事が関東管領になったとすれば、
鎌倉府の長官が、関東管領のわけはありえない。基氏から「公方さま」なんだね。

鎌倉府の長が関東管領と呼ばれたのは、まず「義詮」のとき、これは確実か?
それから、たぶん基氏の最初のころくらいだろうか。
京都は、認めたんだと思う。


66日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:33:46
>>65
「公方」って言葉の意味はかなり広い。
場合によっちゃ、その辺の一領主クラスでも「公方」と呼ばれる。
67日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:47:20
「公方」には「おおやけがた」っていう訓があるし、「公方」を辞書で引けば
分かるけど、「公方」の意味は必ずしも幕府とか将軍家だけに限定されない。

室町幕府は、初期の二頭政治が観応の擾乱であぼーんしたあと、義詮の政権下で
かなり大きな制度的な改変が行われている。
それまで将軍家の私的な家宰という性格の強かった「執事」を、明確に幕府の
制度上に位置付けて「管領」としたのもこの頃。
それ以前の二頭政治期だと、執事高師直の立場は、あくまで将軍尊氏の私的な
側近で、鎌倉幕府の執権のように政務全般を監督する立場ではなく、むしろ
直義の立場のほうが前代の執権に近い。

鎌倉府に関しては、鎌倉府のトップが「鎌倉殿」と呼ばれ始めるのも、義詮が
将軍であった時期くらいから。
また、
執事→管領
関東管領→関東公方(鎌倉公方)
関東執事→関東管領
鎮西管領→九州探題
奥州管領→奥州探題・羽州探題
などの改組も全てこの時期。
68日本@名無史さん:2007/12/23(日) 14:40:47
>>58.59
 古河公方の下という意味では、どうか。
    関東管領の任命は、京都の将軍ではないかと思うんだけど、つまり
    京都将軍の命で、関東管領に任じられ、鎌倉公方を補佐すべしと。
  
    鎌倉殿(つまり古河公方の)部下という位置づけだろうが、
    それは室町将軍の指示によるので、室町将軍の部下でもある。
     ちょうど社長からの辞令で、営業第一課長になって、直属上司は営業部長という感じか。

 家臣とは、家に仕えるような私的な感じがする。
   ただ、関東管領というのは正式の幕府の役職だから、家の臣ではなく、 
   公の臣、天下の臣と思う。
   あくまで幕府の職員として、幕命には従うだけではとかと、臣下というのはちょっと。
 
 
69日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:40:43
織田政権における軍団長と与力みたいなものだろ?
70日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:04:13
>>68
わたしも、その通りだと思う。
家臣ではなく、室町幕府の鎌倉公方の下の役職が関東管領。
ちなみに京都のホントの管領よりも鎌倉公方は上の役職だったと思う。
鎮西探題、長門探題の足利直冬は下なのか上なのか?教えてください。
71日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:07:44
家臣は簗田とかだろ
72日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:56:57
何か室町って将軍との主従関係にある武士を明確に表す言葉がないな。
鎌倉なら御家人。江戸なら大名・旗本・御家人。室町なんかあったっけか?
73日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:20:33
>>72
ゆとりだなぁw
74日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:07:47
>>29
安房里見家は擁立した古河公方の子孫を鎮守府将軍って唱えてた。
で自分は副帥ないし副将軍。
75日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:10:48
知ってるのか?教えてくれくれくれ。
76日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:15:06
↑は>>73に。
>>74
あ、それ自分が書いたヤツだ。やっぱ同じ事考える人いたんだな。
77日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:37:18
奉公衆は本来の意味の旗本に近いんだろうな。
文官は別だし。
78日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:17:00
じゃあ江戸幕府の旗本は、室町幕府でいうところの奉公衆と奉行人層を
合わせたようなものと?
79日本@名無史さん:2008/01/14(月) 10:35:48
足利成氏は、里見義実を安房守護に、武田信長を上総守護に任命したんですか?
80日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:26:44
守護代じゃない?
81日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:35:51
そもそも武田信長は足利成氏と敵対してたはずなのにいつの間にやら成氏から上総守護代にしてもらい上杉から横領してるのが謎。
そもそも千葉県における上杉の守護代権力ってのはどの程度だったのかよくわからないし守護代になってた時期もよくわからん。
82日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:43:40
>>78
大雑把に言うと、奉公衆=番方、奉行人=役方?
83日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:50:31
>>80
じゃあ守護は上杉で、武田や里見はその被官だったってことか?
守護代ってのは守護の被官がなるものだよね?
84日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:24:01
守護代>>>一般国人だと思ってるやつ大杉。
85日本@名無史さん:2008/01/21(月) 19:53:14
>>83
守護は成氏が力づくで廃止だろう
86日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:17:32
守護が廃止されたら守護代も消滅するのが普通じゃないの?
守護代って守護が任命するものなんだし。
87日本@名無史さん:2008/01/21(月) 23:24:32
じゃあ越後上杉みたいに守護を放逐しちゃった場合は
自ら守護代を辞任した解釈すべきかな?
88日本@名無史さん:2008/01/21(月) 23:25:32
里見は管領を自認していたっぽいね。
89日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:11:48
>>87
越後の場合、守護家の後継者がいなくなって断絶し、
その後は幕府側の対応としても元の守護代家を事実上の守護待遇にしたんじゃね?
90日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:48:34
朝倉は正式な守護かどうかはともかく越前国主としては公認されていたらしい。
91日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:35:14
守護を放逐したあと別の守護を擁立し、守護代はそのままってケースは多いな。
92日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:35:58
>>90
伊豆・相模における後北条も同様。
93日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:38:26
関東公方が京公方に対して取って代わろうというのは、既に二代氏満でその動きが
あったわけだけど、それが応永の乱の時の満兼の行動、そして、永享の乱の持氏と
どうして、関東管領をつけていたのに、こうも謀反起こされるんだろうね。やはり、関東
御分国なんてのを与えたからなのかな。
徳川政権の時代と比べると、足利政権時代の反乱の多さは際だつよな。
94日本@名無史さん:2008/02/10(日) 19:48:53
いきなり観応の擾乱だし
95日本@名無史さん:2008/02/11(月) 00:36:48
先生!質問です!
鎌倉公方は当時何と呼ばれていたんですか?
「鎌倉殿」?
「鎌倉公方様」?
96日本@名無史さん:2008/02/16(土) 03:32:13
>>93
社会体質が根本的に違う時代を比較しても仕方ないだろ。
97日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:49:34
>>93
商工業が室町期は未熟だろ
98日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:39:15
統治機構に朱子学や武士道がなかったから
そもそも守護任命権を持つ足利将軍が守護同士または守護家の兄弟親戚を煽り対立させて、
どちらかの肩を持ったり疑心暗鬼を煽ってその紛争を激化させておいて調停する事で将軍権力を行使する統治方式なんで足利幕府が紛争内乱が多いのは当たり前。
なんせ将軍がワザとやって親将軍守護作りをやったり有力守護や管領を争わせる力量が試される。
義満はその辺の才覚が抜群だった。義教はやり方が粗雑で直球過ぎたが将軍伝統技を行使して鎌倉府滅亡に追い込んだ点は評価できる。
その後の将軍は幼くして即位し足利将軍帝王学を学んでないのか細川や日野らが安心できるように家臣達の飼い犬みたいにされた。
義政は若い時は反発したようだが保身に走った。その子義尚は保身に走らず戦死。
これで足利幕府は事実上瓦解。
ただ足利義昭の外交戦略は足利伝統の守護達を争わせてその調停者として将軍権威を見せつけるという事をしてるがすでに権威失墜した幕府なんてウンコにしか思われてないのが悲劇。
99日本@名無史さん:2008/02/16(土) 14:23:18
>>98
>義尚は保身に走らず戦死。
 義尚は酒の飲み過ぎで病死したと思っていたのだが、違ったのか!
戦死の状況を詳しく教えて。
 
100日本@名無史さん:2008/02/16(土) 14:34:08
>>98
義尚は近江の陣中で病死したはずだが、戦死って・・・
酒と女が大好きで親父の側室にまで手を出したらしいが
101日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:27:00
将軍が即位とかいってる時点でw
102日本@名無史さん:2008/03/01(土) 01:24:54
>>100
たしか義尚は、酒の飲み杉で、急性肝炎か腎臓病が発症し急死したはず。

応仁の乱以後、守護の在京制度が崩壊した。おまけに在国した守護は、
国人や守護代の反乱や隣国との抗争が始まっている為弱体化。
つまり応仁の乱で東西の両大名が共倒れ状態。

このため畿内では将軍親衛隊の奉公衆の軍事力が相対的に大きくなっている。
そこで将軍義尚は、奉公衆を使い親征を繰り返し将軍の力を回復させようとしている。

応仁の乱終結後から明応の政変で将軍義材が細川政元に廃立されるまで
の間16年間は、畿内においては室町幕府の権力は回復傾向。

将軍義尚と義材は、親征計画を数多く立案している。
実際にやった近江六角氏や河内畠山氏だけでなく、美濃斉藤氏や
越前朝倉氏・丹後一色氏・伊勢北畠氏への親征計画もあった。

丹後一色氏への親征計画は、実行寸前に一色氏が将軍義材に対して降伏し、
一色氏の再度の在京と押領した領地の返還を約束したため中止になった。

将軍義尚と義材は、かなり頑張っているよ!
103日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:35:32
まあ守護の在京義務なんて応仁の乱以前にも実際にはなかったみたいだけどな。
勝手に京都に集まってただけで。
104日本@名無史さん:2008/03/08(土) 04:00:19
>>103 勝手に(守護が)京都に集まってただけで。

それって応仁の乱以前の幕府に求心力があった証拠じゃね?
105日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:18:29
>>102
そんなに義尚らが幕威復興に頑張っていたとは意外だな…。
義輝の頑張りばかり強調されるからな、一般的に…。
しかし室町将軍家は親征に用いる兵力をどこから調達したのだ?
そんなに畿内一円の有力大名を叩けるだけの力があったのなら
そもそも弱体化する必要もなかったように映るのだが…?
106日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:22:00
織田信長以前は兵農分離が徹底されていないので
大規模な遠征を安定的に行うのは不可能。
もし将軍家が有力大名との合戦を行っても
その領国を取り上げるほどの戦果を挙げ得たかどうか…
107日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:44:01
つか義尚って六角氏征伐に反対した細川を無視して強行したから義尚情報を細川が六角に流しまくってんじゃなかた?
あの若さで突然死とか怪しいんだが細川&六角の謀殺じゃないか?
しかもこれをもって完璧なまでに将軍権威が地に落ちたし
細川の動きが将軍をないがしろにしまくりになったキッカケなんじゃ。
108日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:44:38
>>105
義昭段階でも奉公衆の兵力は5000くらいあったといわれるし、
明応の政変以前なら在国の奉公衆だって離散していないだろうから、
周辺の2,3の有力大名を味方にしておけば、他の一大名を叩くくらい十分に
可能だろう。

室町幕府が機能不全に陥るという点では、将軍家が決定的に分裂してしまう
明応の政変のインパクトが大きいだろう。
応仁の乱は、あくまで将軍継嗣候補者の争いであって、東西両軍とも
将軍義政に対する敵対行動ではないと、名目上は主張しているわけだけど、
明応の政変以降は自分自身が足利将軍家の正統な当主と主張する者が同時に
複数出現してしまうわけだからな。

結果、南北朝のときと同様に、各地の大名・国人が利害関係から思い思いに
都合のいいほうに味方し、やがて世の中がグチャグチャになっていくような
イメージだな。
109日本@名無史さん:2008/03/09(日) 13:51:58
細川が義尚の軍事情報を六角に教えてたりと筒抜けだったのは事実で戦死の可能性もある。
いくらなんでもあの若さでポックリいかんだろう。
110日本@名無史さん:2008/03/09(日) 14:45:18
一応、将軍義尚の親征には細川政元はついて行くんだけどな、当初の反対はあるけど。
裏で六角高頼と結託してたわけか。朝倉と美濃の斎藤氏も六角氏に味方していたらしいが。

>>108
明応の政変以前は、奉公衆は1万人を越えている動員数。御家人・国人だけでも300人居る。
応仁の乱以後に畿内でこれだけの軍勢を集められるのは、細川政元ぐらい。
畠山義就もせいぜい5000人ぐらい。

奉公衆の御家人は、実は山城や畿内の御家人・国人は意外と少ない。
三河・美濃・尾張・遠江の4カ国で約100名、近江25名・丹後18名・丹波11名・伊勢9名
摂津7名・越中と加賀に10名づつ。
山陰地方は、因幡と美作み10名づつ、備後7名・播磨6名・出雲5名
残りは、北陸や紀伊他の山陰地方の御家人・国人という感じ。

それでも、これをみると京兆家の最重要の領国の丹波に11名の摂津に7名の奉公衆が居る。

応仁の乱以後は、京兆家や他の守護は、幕政とは関係なく領国支配体制を強固にする方針だが、
この京兆家の2つの領国にこれだけの奉公衆が居ると領国支配体制を強められない。

結局、細川政元には奉公衆を動員する将軍親征が迷惑だと言うことだろう。

幕権回復は、守護、特に畿内最大の大名である細川政元にとって
いかに領国支配の阻害要因であるかがよく分かる。
守護の命令に従わない奉公衆が領国に居たら一円支配は完成できない。

明応の政変以後に、丹波と摂津の奉公衆は守護や守護代の被官衆に支配地を
押領されるケースが散見される。
111日本@名無史さん:2008/03/09(日) 16:33:50
明応の政変以後なら、義材派の奉公衆の所領を政元サイドが横領することには
何の問題もなかっただろう。
112日本@名無史さん:2008/03/15(土) 22:55:15
義尚が将軍権力を復興させたら細川も朝倉も六角も困るだろうしな。
操り人形や唯々諾々と事後承認したり追認したり政に興味ない愚鈍もしくは幼年将軍ではなく義教の悪夢の再来を思い出すような英邁だったから義尚も謀殺されたんだろう。
そういや父の義政も若き時は政事に対して熱心だったらしいね。
113日本@名無史さん:2008/03/16(日) 12:41:25
京兆専制論は崩壊したよ
114日本@名無史さん:2008/03/16(日) 13:46:11
>>113
禿同、
今はどちらかと言うと、畿内領有論が多数派かな。
今谷明先生の京兆専制論は、無理筋な理屈。

末柄豊氏の畿内領有論は今谷先生の京兆専制論を論破した形かな〜

>>111のいう京兆家の分国内の所領の押領や支配体制の変化に着目した
末柄氏の功績は大きいといえる。京兆家が守護大名的な間接的支配から
戦国大名的な一円支配に移行する過程を調べているのが特徴とも言える。

特に京兆家内部で京兆家当主(細川政元)vs京兆家評定衆(守護代級内衆)
の構図が勝元死後に出来上がりこの葛藤が政元の政治力の制約要因になり
最終的には死因となったことを示した事は大きい。

政元が戦国的な一円支配を完全に完成させたら守護代級内衆は要らなくなるしね。
115日本@名無史さん:2008/04/21(月) 01:16:57
>>109
義量・義栄は無視ですか?
116日本@名無史さん:2008/04/29(火) 22:36:07

日曜の石神井の照姫まつりの時、「決戦〜豊島一族と太田道灌の闘い」
って本売ってたお。
異常にマニアックで面白かったお。

でも、著者をみたら知り合いのKさんだった・・
そういえば昔から豊島氏ばかり狂ったように研究している人
だったけど・・とうとう本出したんだねー

Kさん応援してるおー 
2ちゃんでもイパーイ宣伝しといてあげるね(w
117日本@名無史さん:2008/05/01(木) 14:31:32
この頃の関東のことって複雑過ぎて
いまだに分からない
118日本@名無史さん:2008/06/16(月) 20:05:14
応仁の乱も敵味方が入り乱れすぎて非常に複雑な構図になっていた
119日本@名無史さん:2008/08/03(日) 01:55:38
>71.
 古河公方のもとには、管領はいなかったの? 
 簗田も、関東管領にできればなりたかったろうに。
 成氏は、あえて空席にして、諸豪族を釣ったのか、うまいな。

>74.義明は鎮守府将軍なのか、そうか、では、小弓公方というのは誰がとなえたんだか、本人か、後世の学者か。
    任命権ある幕府は認めていないんだからの正式名はもらえる筈ないしな。
    朝廷からの名称は、百官名とかで勝手に名乗るのが風習として確立?していたからOKか。
120日本@名無史さん:2008/08/03(日) 02:04:52
>安房里見家は擁立した古河公方の子孫を鎮守府将軍って唱えてた。
>で自分は副帥ないし副将軍。

 鎮守府副将軍って役職、本当は存在しないでしょ。
 これ、捏造の百官名の典型かも。
 すると、後で京都に賄賂送って認めてもらうという手間もいらないのかも。
121日本@名無史さん:2008/08/03(日) 07:19:40
古河公方館跡の公園行ったことある人いますか?
122武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/13(水) 00:27:30
>>121
こないだ行ってきたよー(^O^)/
公園になってて、いいとこだったー
123日本@名無史さん:2008/08/23(土) 19:03:45
足利→鎌倉→古河→喜連川 やっぱ鎌倉は格上だな。
124日本@名無史さん:2008/10/07(火) 05:12:28
質問です。
古河公方の読みは、「こがくぼう」。
さて、堀越公方は、「ほりこし公方」「ほりごえ公方」(両方あるようです)
どちらが正しいのでしょうか?
詳しい方教えて!
125日本@名無史さん:2008/10/07(火) 22:42:57
>>124
くつえつこうほう
126日本@名無史さん:2008/10/12(日) 03:54:53
>>124
どちらが正しいのかということであれば、間違いなく「ほりごえ」。
由来となった伊豆堀越は「ほりごえ」と読む。
127日本@名無史さん:2008/10/12(日) 15:23:55
室町時代(除・戦国)に人気が無いのはだ、
やはり京都に武家政権があるのが日本人の心情と相容れないからだろう。
鎌倉公方が「こっちが正統だ」と思うのも当然だ。

やっぱ中世は鎌倉(関東)よ。享徳の乱万歳。足利成氏サイコー。
2つ違いの義政なんて、応仁の乱でニートしてたわけだろ。
板東武者の棟梁・足利氏の嫡流は鎌倉公方だ。名前だって○ウジじゃん。
128日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:34:32
???
奈良も平安も鎌倉も人気があるとは言い難いが。
人気があるのは戦乱期だけと言っても過言ではない。
129日本@名無史さん:2008/10/13(月) 21:18:37
ここ三戦板じゃないんだけど
130日本@名無史さん:2008/10/21(火) 00:32:36
>>127
そりゃ結果論だ
承久の乱で在京御家人の多くが後鳥羽上皇を支持したのは京都に武家政権があるべきだと考えたから。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を否定しても上皇の下での幕府設置を否認しなかったのは、義時追討の院宣が鎌倉幕府によって設置された守護地頭に対して出されていることから明らか。
(幕府を全否定するなら、守護地頭は討伐・廃止対象になる。後醍醐天皇の建武の新政でも幕府は否定したがその組織系統は朝廷の元に取り込もうとしている)
131日本@名無史さん:2008/10/21(火) 01:23:40
>室町時代(除・戦国)に人気が無いのはだ、
やはり京都に武家政権があるのが日本人の心情と相容れないからだろう。

って現代人の話じゃね?
132日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:26:23
>>126さん!>>124 ですが回答ありがとうございます。
堀越(ほりごえ)公方ですね!
関東の足利家は、複雑ですね!!
小弓公方(おゆみ?こゆみ?)なんってのもありますね!←確か、古河公方が分裂したできた。
133日本@名無史さん:2008/11/29(土) 00:09:39
小弓公方は「おゆみ」だね
現在でも「千葉県緑区おゆみ野」という地名が残っている
134日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:49:53
小弓→生実→おゆみの
江戸時代に森川氏が生実(小弓)を治めていた(生実藩)
135日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:23:35
age
136日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:05:11
小弓公方 足利義明
137日本@名無史さん:2009/02/25(水) 10:27:48
age
138日本@名無史さん:2009/03/08(日) 02:49:44
>>130
なぜ守護地頭に院宣が下されたからといって、守護地頭制度を肯定したといえるのか疑問。
守護地頭といっても、治承・寿永の乱のときに源頼朝についた武士なわけで最初から幕府の御家人だったわけではない。
平氏の被官だったものもたくさんいる。
武士達はもともと皇族・貴族達の荘園の管理者、もしくは実質的所有者だったのだから、院宣が直接下されたとしても不自然ではないと思う。
139日本@名無史さん:2009/05/15(金) 19:46:54
>>136
足利義昭と発音が同じだけど気にならなかったんだろうか
140日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:42:58
>>139
どこをどうツッコメと……
141日本@名無史さん:2009/06/09(火) 04:16:59
小弓義明−頼淳┬国朝
       └頼氏−(喜連川藩)
142日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:33:44
関連スレ

六チンの乱を語る
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1246072639/l50
143日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:05:55
塵も積もればのようにこのスレもレスが貯まってきたな。
もっともスレ立て直後にも言ったように、鎌倉公方スレにしとけばもっと書き込みあったろうに。
かといって今さら鎌倉公方スレを立てるのも重複っぽくなる。

ほんとスレッダーは半端なスレタイにしてくれたもんだw
144日本@名無史さん:2009/10/01(木) 00:36:53
喜連川家に比べて平島公方の冷遇振りは酷い
145日本@名無史さん:2009/10/01(木) 13:43:21
北関の人が立てたんでしょ
146日本@名無史さん:2009/11/01(日) 08:28:02
>>144
妥当だろう。
何だかんだとあったが戦国の最後まで古河城を守り続けた古河公方に比べて
平島公方なんてただのお客さん。
武家政権&足利氏発祥の地である関東で最後まで生き抜いた古河公方が、
足利氏の正統な後継者と見られるのは当然のことだ。

別に自分が栃木だから言ってんじゃないぞ。
147日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:09:18
最大だ
148日本@名無史さん:2010/01/24(日) 20:58:26
保守
149日本@名無史さん:2010/02/09(火) 16:19:30
関東の足利など中央から見れば眼中にない
150日本@名無史さん:2010/03/09(火) 18:00:21
アウトオブガンチュー
151日本@名無史さん
足利の分家の古河公方のさらに分家だったはずの小弓公方が足利宗家になるとは