1 :
神奈川県民 :
2007/02/02(金) 18:29:57
2 :
神奈川県民 :2007/02/02(金) 18:46:38
まずは倭迹迹日百襲姫命からいってみようか! 日本書紀 是(こ)の後(のち)に、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)、大物主神(おおものぬし)の妻(みめ)と為(な)る。 然(しか)れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。 倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)、夫(せな)に語りて曰(い)はく、「君常に昼は見えたまはねば、 分明(あきらか)に其の尊(み)顔(かほ)を視ること得(え)ず。願(ねが)はくは暫(しまし)留(とど)りたまへ。 明旦(くるつあした)に、仰(あふ)ぎて美麗(うるは)しき威儀(みすがた)を覲(み)たてまつらむと欲(おも)ふ」といふ。 大神(おほみかみ)対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。 吾明旦(くるつあした)に汝(いまし)が櫛笥(くしげ)に入りて居(を)らむ。 願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰(ここ)に倭迹迹姫命、心の裏に密(ひそか)に異(あやし)ぶ。 明くるを待ちて櫛笥(くしげ)を見れば、遂(まこと)に美麗(うるは)しき小蛇(こをろち)有り。 其の長さ大(ふと)さ衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。 時に大神恥ぢて、忽(たちまち)に人の形と化(な)りたまふ。 其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「汝(いまし)、忍(しの)びずして吾に羞(はぢみ)せつ。 吾還(かへ)りて汝に羞(はぢみ)せむ」とのたまふ。仍(よ)りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、 御諸山(みもろのやま)に登ります。 爰(ここ)に倭迹迹姫命仰(あふ)ぎ見て、悔いて急居(つきう)。 則(すなは)ち箸(はし)に陰(ほと)を撞(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。 乃ち大市(おほち)に葬(はぶ)りまつる。故(かれ)、時人(ときのひと)、 其の墓を号(なづ)けて箸墓(はしのみはか)と謂(い)ふ。 是(こ)の墓は、日(ひる)は人作(つく)り、夜は神作る。故、大坂山(おほさかのやま)の石を運びて造る。 則ち山より墓(みはか)に至るまでに、人民(おほみたから)相(あひ)踵(つ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。 時人歌(うたよみ)して曰(い)はく、大坂(おほさか)に 継(つぎ)ぎ登(のぼ)れる 石群(いしむら)を 手逓伝(たごし)に越(こ)さば 越しかてむかも
3 :
神奈川県民 :2007/02/02(金) 18:48:57
「日本書紀」崇神天皇10年9月の条 時に大神恥じて、忽ちに人の形となりたまふ。 其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)でむ」とのたまふ。 よりて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山(みもろのやま)に登ります。 ここに倭迹迹日百襲姫命仰ぎ見て、悔いて急居。 則ち箸に陰を撞きて薨(かむさ)りましぬ。すなわち大市(おおち)に葬(はぶ)りまつる。 故、時人、其の墓を號(なづ)けて、箸墓(はしのはか)と謂ふ。 この墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大阪山の石を運びて造る。 すなわち山より墓に至るまでに、人民(おおみたから)相踵ぎて、たごしにて運ぶ。 時人歌して曰く、大阪に 継ぎ登れる 石群を たごしに越さば 越してかむかも
4 :
神奈川県民 :2007/02/02(金) 18:54:54
第7代孝霊天皇の御子、倭迹迹日百襲姫命と大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命が登場する。 倭迹迹日百襲姫命(ももそ姫)は、7歳で大和を旅立ち、讃岐・引田の安戸の浦に到着、 水主(水主神社)に住み地元の民に稲作・灌漑を伝えたが、讃岐全土を治めるため、 馬篠(艪掛神社)から船に乗り、讃岐・船岡山(船岡神社)に入り落ち着いた後、 讃岐一宮(田村神社)に住み、ため池を作り、稲作を伝え、讃岐全土を治めたため、 地元では農業の開祖神として祀られている。 十八才の時大和国から迎えが来たので、地元民は抵抗空しく、大和の国に帰っていった。 その後、大物主と結婚し、奈良県の広陵町(箸墓・全長280m)に眠っている。 姫のお供で就いていった忌部氏(天太玉命の後裔)も近くに讃岐神社を設け ここは平安時代に延喜式内社となっている。
5 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:04:27
だから卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命ではない! 別人だし時代が違う!倭迹迹日百襲姫命は古墳時代(大和時代)初期のシャーマンだ!
6 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:09:04
>>972 其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。
年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食傳辭出入。
居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。
>「事鬼道能惑衆」……、これが卑弥呼が共立された最大の理由
とあるが、それは卑弥呼が選ばれた理由じゃないの?
共立された最大の理由は『其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。』
7 :
神奈川県民 :2007/02/02(金) 19:15:23
8 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:20:49
卑弥呼は宇那比姫命?ナイナイ(笑) 宇那比姫命は先代旧事本記によると末裔とある。 卑弥呼には弟がいて政治を助けるとある。双方が一致してない。
9 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 19:24:07
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
10 :
前スレ972 :2007/02/02(金) 19:27:52
>>6 >それは卑弥呼が選ばれた理由じゃないの?
そうですよ。
男王ではうまくいかない、しかし女王だとまとまる、そこに倭という国の特質があると思う。
台与(壱与)のときも、同様だ。
あえて踏み込んで言えば、武力だけの男王では、倭国乱は収拾できなかった。
宗教性を帯びた卑弥呼をトップに戴くことで、倭国連合(狗奴国を除く)が成し遂げられた。
中国からすれば、奇異なことに見えたかもしれない。
11 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:29:56
>>983 太国さん
あなた何年ここいるの?
もう1度「古事記」「日本書紀」をお読みなさい。
>>8 いつも答えはそれだね。
きみは伊勢神宮いったそうじゃない。何しにいったの?(笑)
13 :
あだち :2007/02/02(金) 19:37:28
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14 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:40:25
15 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:44:33
>>10 >そうですよ
って納得してるんじゃあそれでいいじゃない!
>>12 卑弥呼を参拝してきた!
>>13 ここの題名よく読んでみろよ 場違い!
職制名だから卑弥呼って何人もいるだろ 2代目の卑弥呼だけは個人名までわかる。
17 :
太国 :2007/02/02(金) 19:48:38
>>11 九州出身さん
どこに2代目3代目・・・のスサノオがいると記紀にあるのか?
18 :
九州出身 :2007/02/02(金) 19:58:19
>>16 >2代目の卑弥呼だけは個人名までわかる
誰??
>>17 大国主は素戔鳴から数えて何代目だ?大国主は誰を后妃とした?
19 :
九州出身 :2007/02/02(金) 20:04:12
太国さんへ あなたプラム氏と同じくらい、ここ長いんやないの? おれ2か月だよ? プラム氏はさすがって思うところあるよ まあ漢字ドリルだけで想像力は欠けてるけどね(笑)
20 :
太国 :2007/02/02(金) 20:20:26
>>19 あんな代数のつけ方じゃぁ、ねずみ講式にだれでもに近くスサノオ
×代目っていうことになり、いい加減すぎる。
それでもそうするって言うんなら、スサノオ×代目は分かったから
具体的に何ていう名だ? ww 帥升か?ww
21 :
九州出身 :2007/02/02(金) 20:31:21
「ス」「イ」「シ」「ホ」意味解釈は「本州」の事 「帥升」の字意は「帥の升」で意味解釈は「代表の集団」。だそうだ この帥升が出雲の神スサノオである。 そう!邪馬台国を建国した人物。 記紀では天下を治める スサノオなのだ!
22 :
太国 :2007/02/02(金) 20:39:15
>>21 この言い回しじゃぁスサノオ初代に聴こえるがねぇ?
23 :
九州出身 :2007/02/02(金) 20:43:31
>>22 「帥升」は日本語じゃない
それとも州左之於(スサノオ)だったらあなたは納得してたのかな?
信じるのも信じないのもあなたの勝手
24 :
九州出身 :2007/02/02(金) 20:45:50
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。 これなんて訳す??
25 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/02(金) 21:16:59
>>19 >まあ漢字ドリルだけで想像力は欠けてるけどね(笑)
漢字ドリル か〜 やっと他人様から言われる様になった(後一息)
『想像力は欠けるけど』
太国さんに言われるよ『想像力なら以前のプラムの足元にも及ばないって』
26 :
一応九州王朝説 :2007/02/02(金) 21:17:10
何で4の方が消費が早いんだよw
>>24 「その国、本亦男子を以って王と為し、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、
すなわち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼という。」
ではだめなんですか?
27 :
太国 :2007/02/02(金) 21:30:50
>>23 九州出身さん
ちょっとねぇ〜?w
それよりまだ大物主神のほうが可能性があるように聴こえますが?
一斗升は物がうんと入りますよ。
28 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/02(金) 21:53:32
>>9 >古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国でも圧倒的多数派はそんな、三足土器なんて使ってないよ。
三足土器なんて、お金持ちの道楽みたいなものでしょう。
今の時代にグルメとして食い物に執着してる暇と金を持ってる連中の遺物に過ぎない。
圧倒的多数派はそんな、ヘンテコナ土器は手に入らないしセイゼイ容器に水入れて炊い
て適当に食べるのが関の山!
現代とたいして変わらんでしょう。
編年 それは国際的には 否定され排他される 非科学的な 年代基準 科学の無い考古学は日本にしかないW
30 :
九州出身 :2007/02/02(金) 22:31:34
今日の課題はこれだ!ここまで一気にいこう 住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。 事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。 自爲王以來、少有見者。 以婢千人自侍。 唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。 居處宮室・樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。
31 :
九州出身 :2007/02/02(金) 22:41:44
天照大御神(大日霎貴尊)、倭大国魂(大物主神) この2大皇祖神についてにする? 魏志倭人伝とどっちがよい?
32 :
九州出身 :2007/02/02(金) 23:01:42
みなさん記紀は読んだかな? 日向、出雲の合併では圧力による国譲り。 日向、大和の合併では戦の末、敵の大将を自軍の裏切りにより日向に明渡してる。 この一連の流れは日向族による列島の支配・侵略を忠実に物語ってるのである。
33 :
九州出身 :2007/02/02(金) 23:06:49
大まか 日向族による列島の支配・侵略を忠実に物語ってるのである。 詳細 日向、出雲の合併では圧力による国譲り。 日向、大和の合併では戦の末、敵の大将を自軍の裏切りにより日向に明渡してる。
日本史板馬鹿コテ番付 初場所 日本史馬鹿コテ評価協会 横綱審議委員会 番付のご意見宜しくお願いします。 東 番 付 西 太国 横 綱 九州王朝大好き 恵也 大 関 一応九州王朝説 九州ですが 関 脇 プラム 16歳中卒ヒッキー 小 結 九州出身 倭奴国 前 頭 サガミハラハラ 月光仮面 十 両 定ちゃん 候補多数 幕 下 歴史学博士の俺様 コテの殆どが荒らしニートの自作コテ このメンバーで、仲良くスレが始まりますね。
35 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:39:42
九州人が多いんだな。2ちゃねらは。
九州が嫌いな九州人が多いですよw
37 :
九州出身 :2007/02/02(金) 23:45:31
38 :
日本@名無史さん :2007/02/02(金) 23:50:13
>>36 >>34 の九州ゴテはみんな鼻つまみたくなるぐらい九州マンセーだけどね。
39 :
九州出身 :2007/02/02(金) 23:55:08
太国、九州王朝大好き、恵也、一応九州王朝説、九州ですが、プラム、16歳中卒ヒッキー、 九州出身、倭奴国、サガミハラハラ、月光仮面、定ちゃん、候補多数 歴史学博士の俺様 彼等一人一人の持説を簡単に載せてくれない? 邪馬台国は?都は何処?卑弥呼は誰? ちなみにおれは邪馬台国は30連合国家で都は豊国。卑弥呼は天照大神。
40 :
九州出身 :2007/02/02(金) 23:58:44
《訂正》 天照大神 ⇒ 天照大御神
41 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 00:11:11
>>37 >プラムさんがうるさいんだ
当然
あの和文で理解できたら天才だ
『相攻伐』が起きたから女王が共立されたと書いてあるのに、その起因となった『相攻伐』になる原因が解らない。
42 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 00:20:51
>>39 いちいちそんな人
>>34 に聞くこと無いよ。
何も反論できないから嫌がらせにやってるだけにきまってんじゃん。
それ自体が敗北を認めてるってことなんだから。
43 :
九州出身 :2007/02/03(土) 00:22:07
>>41 >『相攻伐』になる原因が解らない
自分でも「あなたは漢字だけは」って人から言われるのよく解るしょ?
頭の問題だ!
男王が立ち乱れ、女王が共立されておさまる。
これをプレゼントしよう!
44 :
九州出身 :2007/02/03(土) 00:26:08
>>42 >きまってんじゃん
>敗北を認めてるってことなんだから
お子様は寝る時間やない?
敗北ってあんたね・・・・学びにきてるんじゃないの?
45 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 00:34:45
相攻伐 互いに攻撃しあっていた。 これは倭国大乱に通じるでしょ。原因は貧富の差が出来、国間の利権争いなど。 国々は協議した、そして卑弥呼を立てた。男王と共立していたのではない。 国同士が卑弥呼を共立したのです。
46 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 00:37:21
>>44 聞く相手が違うと言ってんの。馬鹿番付の人に聞いてるんじゃないの?
47 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 00:47:12
>>45 卑弥呼が死んだあと、男王を立てたが、国中が不服。
千人あまりを殺しあった。壱与を女王にすると国はついに定まった。
これと同じことが卑弥呼共立のときも起きたと解釈するのは良いと思う。
倭人伝の「その国もとまた男子を以って王とする…」の解釈からも
それが自然だと思う。
48 :
九州出身 :2007/02/03(土) 00:53:47
>>45 >「原因は貧富の差が出来、国間の利権争いなど」以外は良いよ。
でもこれって君の妄想だよね?言ってる事は解るんだけど・・・
はたしてそうかな?
>>46 彼は馬鹿だったのか(笑)
49 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 01:01:57
>>48 あんた学校でなんて習った?普通こうでしょう。
弥生時代は稲作の収穫高がグンと伸び、人口も急激に伸びた。
その為、土地や、水、など国同士で、奪い合う事になる。
妄想って、授業に参加してたんでしょ。居眠りしてたんなら別だけど。
50 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 01:12:36
>>49 稲作が日本に伝わったのは、縄文晩期。弥生時代はいろんな説があるが、
600年は続いている。だから、収穫物を蓄え、それをめぐる争いは
弥生時代に共通したもので、その間の恒常的なものと思われる。
倭国の大乱として、中国まで鳴り響く出来事は、やはり違う原因と
考えるべきだと思うが。
51 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 01:15:20
みなさん、とても良い議論をなさっていると思う。 倭国乱から卑弥呼共立へは、魏志倭人伝のここにしか史料がない。 文面は短いが、日本史上の重要な場面だ。 九州出身氏は、「妄想」などと言って、諸氏の考えを切り捨ててはいけない。 各人想像力を働かせて卑弥呼共立の具体相を語り合うのは、決して悪いことではない。
52 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 01:22:13
>>50 違います。縄文時代は稲作とはいっても南方から伝わったとされる原始的なもの。
他にクリなどを栽培して、食料にしていた。本格的に弥生人が稲作を始め、たくさんの人口を養える石高が
人口を急激に伸ばし、鉄器などの殺傷能力の有る武器も大陸から伝わり、
争いが絶えなくなったのが倭国大乱の始まり。
53 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/03(土) 01:25:10
残念ながらお寝みの時刻がまいりました。
卑弥呼の倭国大乱は2世紀後半であり これは、農耕が伝わってから大分あとの時代であり 倭国大乱の直接の原因は、この時期 東アジアでは寒冷化で作物の収穫量が激減していたのが 大きな要因だと思う。
55 :
九州出身 :2007/02/03(土) 01:31:47
>>49 >>52 大体言ってることは合ってるが、45の倭国の乱(相攻伐)原因は違う所にあると私はみている。
56 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 01:34:57
>>52 しかしね。後漢書や隋書・北史には、「歴年無主」と書かれている。
つまり、長い間、主がいなかった。
さらに、卑弥呼を王として共立することにより大乱は収まる。
もともと男王がいた。
これらを総合すると、やはり「倭国の大乱」は後継ぎでもめたと
考えるほうがいいと思う。
57 :
九州出身 :2007/02/03(土) 01:38:43
58 :
九州出身 :2007/02/03(土) 01:42:22
あっごめん 同意じゃない。 跡継ぎやなく列島支配をかけた戦とみてる
59 :
九州出身 :2007/02/03(土) 01:54:07
>>56 そのレスだと卑弥呼の一族間での戦って事になりますよね?
『後漢書や隋書・北史には、「歴年無主」と書かれている。
つまり、長い間、主がいなかった。
さらに、卑弥呼を王として共立することにより大乱は収まる。』
これらを総合すると『列島の主』を賭けた戦い(別々の一族での)だった。
これが正解かな。
60 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 01:54:32
>>56 >これらを総合すると、やはり「倭国の大乱」は後継ぎでもめたと
>考えるほうがいいと思う。
うん? じゃあ、 「後継ぎ」とは、「30国連合体制の倭国王の後継ぎ」の意味?
卑弥呼よりずっと前にも連合倭国王はいた、その後継者争いで相攻伐した、ということ?
俺はそんなふうには読めないなあ。
卑弥呼が共立されて、初めて30国連合の体制ができた、と今まで思ってたんだが。
61 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 02:02:53
>>60 西暦107年に後漢に朝貢した帥升は「倭国王」と呼ばれている。
帥升が献上した生口は160人。当時の人口から考えると膨大ともいえる。
恐らく、大規模な戦乱の勝者で、だからこそこれだけの人間を献上できた。
卑弥呼と同じように、29カ国連合の盟主と考えたほうがいいと思う。
>>59 卑弥呼の時代であっても、狗奴国は敵として残っているわけだから。
62 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 02:14:10
>>61 なるほど。そう言われれば。そうだなあ。
どうも俺も先入観があったみたいだ。もっと考えてみるよ。
あ、そうすると狗奴国王は、卑弥呼を連合倭王とは絶対認めたくなかった側、ということだな。
だったら、狗奴国と卑弥呼との争いは、すでに倭国乱の時点で萌芽している、と?
63 :
九州出身 :2007/02/03(土) 02:21:20
>>61 帥升がもともと連合国家の王。それを70〜80年後に引き継いだのが卑弥呼。
しかし、『帥升』、『卑弥呼』は別々の一族である。
連合国家的にみれば跡継ぎとなるが、列島を賭けた戦いでもあったのだ。
64 :
九州出身 :2007/02/03(土) 02:26:38
狗奴国王は『帥升』系の残党みたいなもの。 そりゃ卑弥呼に反発するわな。
65 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 02:33:43
>>62 ここのところは難しいが、たぶん、倭国の範囲は限定的だったと
思われる。つまり、九州とかあるいは九州の一部とか。
少なくとも、日本全体という意味では使っていないと思う。
だから、その範囲の外にあったのが狗奴国ではないかと。
これについてはいろんな説があると思う。
たとえば、倭国の中の異端児として狗奴国を捕らえる人もいるだろうが。
狗奴国については、倭人伝では南にあると書かれているが、後漢書では
東に海を渡ること千里で狗奴国に至る、とある。
考古学的にみたら、2世紀後半の倭国大乱と 卑弥呼の父親である孝霊天皇の吉備平定は 完全にかぶる。 この瀬戸内に、高地性集落や軍事跡が多く発掘される。 『帥升』、『卑弥呼』の畿内の同一一族だと思われ。 『帥升』=孝昭天皇 『卑弥呼』=モモソヒメ
67 :
九州出身 :2007/02/03(土) 02:43:44
>>65 倭人伝の狗奴国と後漢書の狗奴国は、『帥升』系の人だが同じ場所にあるのではない。
68 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 02:44:19
>>65 ありがと。きょうは勉強になった。こういう議論が大切だな。
倍暦、平均在位なんかは、コテコテ連中が別スレでやってくれたら、とマジ思うよ。
ほんじゃ、寝る。zzzz
69 :
九州出身 :2007/02/03(土) 02:46:26
>>66 君は黙って聞いといたほうが良い。
『卑弥呼』=モモソヒメ ってぜんぜん違う!!
70 :
九州出身 :2007/02/03(土) 02:48:15
>>62 >なるほど。そう言われれば。そうだなあ。
ってあなたには信念というものが無いのか(笑)
71 :
九州出身 :2007/02/03(土) 02:52:55
>>68 なぜ
>>65 にありがとうなんだ。65さんは間違ったことは言ってないがまだよく解ってない人。
感謝するなら
>>63 >>64 のレスに対してすることだな。
そのほうが君にとっても良い。
72 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 04:15:42
>>71 ひょっとしてギャグのつもりなのだろうか・・・
それとも本気で自画自賛しているのならば、ネットから撤退して病院逝け
73 :
太国 :2007/02/03(土) 07:28:29
74 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 07:51:44
九州出身さんよ
昨晩のような妄想追尾議論がお好きなら、私はこの場から退出させて貰う。
過去にも同じ議論が繰り返されて、結果どおいう結論になるか
いやと言う程体験しているからね
>>65 のレス見ただろう
妄想追尾議論を続ければあの手のヤシがしだいに増えてくる
そして 永久連載が始まり、終いには………。
君の好きなようにやればいい
(^-^)/
75 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/03(土) 08:03:37
九州ですがさん 以前にもレスしたと思うが『紀年』と『年紀』では意味が全くちがうし、『使譯』と『譯使』も違う。 君のよく触れる『椁』もそうだ 考古学会がいかに業界用語を利用し誘導しているかわかるだろう。 結局誰もメンドクサイ根幹を避け、あやふやのまま 議論の輪を広げた結果が今の現状。 今だけだよ 馬鹿になって、一から根幹をしっかり掴むのは それから 自分の考えに肉を付けても遅くはないし、そのほうが しっかりした身体も出来る。 今のままでは 想像という衣だけで冬の寒さには耐えられない。
76 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 09:14:26
>>75 いいこと言いますね、プラムさん。
なんのしがらみもない素人学者(笑)が何言おうと自由だが、だからこそ少なくとも
自分の考えと勉強で構築することが大事。思考実験としても、生き方としてもね。
>>66 最近売り出し中ですねw
でも、高地性集落と言ってもひとくくりには出来ないのは前も書きました。もっとフレ
キシブルに考えないと、特に孝霊天皇(実在についての議論もありますが)の時代
比定、吉備の歴史や発展など難度A級ですからw
77 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 09:33:57
孝霊〜開化の天皇は、一世代分の世代の重複がある筈なんです 先代旧事本紀の記述をベースに考えますと、 孝元-開化-崇神までのラインは確認出来るんですけど 孝霊と孝元の父子関係が確認できません つまり孝霊と孝元が同世代、或いは、0.5世代違い程度で 両者は非直系関係と云う事になります そうすると孝霊天皇は周辺の勢力とその歴史を、 孝元-開化-崇神ラインと独立/並列させて考える事が出来ます
78 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 09:45:55
こういうのもありますね。
ttp://members3.jcom.home.ne.jp/wakoku-keisei/hatidai2.html 私の意見は異なりますが、どうもこのはじめの頃の王統については
いろんな操作が加わっている疑念はぬぐえない・・・。近い血統や王
については、そんなに簡単にいじれないしいじってはいけなかったで
しょうが、このあたりの古すぎる所については、私も自信がない。
全部存在したと確定した上で倍歴を展開する自信はありません。記
紀をどこまで忠実に見るかは、内容によって違いますが、このような
最重要な部分でも絶対正しいかとなると・・・。
倍にしても長すぎるし、三倍ってのは弱い。となると、一応そんな人が
いたと仮定すればいろんな数的操作があったのかも。
79 :
太国 :2007/02/03(土) 10:57:40
>>78 どういう点が弱いんだろう? 3倍が君に自信がないことだろう?w
80 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 11:04:14
例えば
>>78 のサイトの最初のモデルでは
綏靖-安寧-懿徳を一つの直系ラインとして捉えていますが
先ほどのように年代計算をして行くと、神武〜孝安は計四世代程度しか許されないので、
2世代分の世代の重複関係がある筈だと解ります
既に
>>7 のサイトでも指摘されて居る事ですが
先代旧事本紀には孝昭は安寧の子であると云う旨が記されています
これは懿徳と孝昭に父子関係が認められない決定的証拠です
>>78 のサイトの二番目のモデルでは、
懿徳と孝昭の間に断絶が見られなかった等と言っていますが
先代旧事本紀がこの二者の断絶を主張しています
また、日本書紀紀年法スレに昨年書き込みましたが、
日本書紀の神武元年〜懿徳末年の翌年の空位年までを含める累積年数と、
孝昭・孝安の累積治世年数が、185年ずつ分配されている事を発見しました。
これを考えれば現行日本書紀で孝昭と孝安が二世代で185年であるなら
同一185年区間の神武〜懿徳+1の185年が四世代である事などは許されない筈です
本来は、神武〜懿徳+1の185年区間も二世代だった筈です
神武の治世年間が突出し、2代〜4代の天皇の在位年数が短いですので
綏靖、安寧、懿徳を同一一世代と考えるべきだと思われます
神武〜懿徳が計四世代から二世代に削減されるので、
>>77 で述べた孝霊の一世代削減と合わせて、現記紀系譜から直系三世代分削減できます。
そうすると、先代旧事本紀やその他の神武〜崇神までの諸氏族の世代数と天皇の世代数を
同期させる事が出来ます。現記紀系譜上位十代は、原案の七世代から、日本書紀の年代
引き伸ばし計算後に、直系十世十代の系譜に改変された物である事は最早決定的でしょう。
とまぁ、こんな具合に考えて居ります
81 :
太国 :2007/02/03(土) 11:15:43
>>80 征東大将軍さん
雑多なことを介入せず、3倍暦で単純に考えた場合
孝昭孝安の在位の計は62年で30年ずつばかりで不具合はないと
考えます。旧事紀の記載は参考くらいに止めたほうが無難です。
82 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 11:24:05
イエイエ、三倍説のアプローチを否定している訳ではありません 書紀三倍説と一世約三十年説を併用させて解いた日本書紀の年代と系譜は、 先代旧事本紀の記述と極めて高い一致性が確認出来ると云う事ですよ
先代旧事本紀の 欠史八代の箇所 分かっている人はいませんか?
84 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 12:05:59
>>71 はおそらく自作自演を失敗したのだろう。
最近邪馬台国関連スレには、あからさまに複数ハンドルを使って
あたかも自説が正しいかのような自演を繰り返すばかが多いな。
その手法も多種多様で、初心者を装ってネタ振りしたり
追随者どころか反論まで自演しているケースまである。
おまいらいい加減に他の日本史板住民が影で嘲笑ってることに気づいてくれよな。
もう今ではまともな人はほとんど書いてくれなくなったじゃないか。
太国や一応九州王朝説などは一応古参なんだから、まずそこを注意してやれよ。
85 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 12:06:56
なるほど。面白いです。そちらのスレは全然見てないもんでw 今帰ってまたすぐ出るので、また。先代旧事本紀はもの凄く貴重ですね。 偽書の一点張りの馬鹿な人もいますが。
86 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 12:10:34
>九州出身さん せっかくコテつけたんだし、コテ無しには気をつける&関わらない等、 普通の掲示板と同じルールで考えた方がいいよ。でなければトリップ 推奨。私の場合は他と間違われない自信があるからいいけど。 まあ時間さえあれば、他スレと合わせて読めばすぐ分かるけどね>荒らし
87 :
九州出身 :2007/02/03(土) 12:48:50
>>72 こうゆう奴ってよくいるよね
>>72 >この場から退出させて貰う
プラム
俺が止めると思ったのか 去りたければ去れええええええええ笑
>「いやと言う程体験」って先輩気取しちゃって!プラムちゃん
>>84 そんなブスイ言わない!
解ってる人は解っているんだし、それを承知で黙認なんだから
89 :
九州出身 :2007/02/03(土) 13:08:43
>>84 なんで自作自演になるんだ。
あれは(
>>51 >>56 >>61 )初めて来た人やないかな。知らないけど・・・
>>86 >コテ無しには気をつける&関わらない
ここってほとんど「日本@名無史さん」。
常連はハンドルネームつければいいのにな。
90 :
九州出身 :2007/02/03(土) 13:12:59
>>86 ん 荒らした人なんかいたかな?!どのレスが荒らしだって?
91 :
九州出身 :2007/02/03(土) 13:19:37
「日本@名無史さん」へ ここ日本史によく来るならハンドルネームくらいつけろよな すべて同じ人がいってるように聞こえる。
92 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 13:48:17
想像に過ぎると言われるかもしれないが、以下のようなことも論じ合ってほしい。 利権争いか後継者争いかは、一応置いといて(スマソ)、倭国の大乱で各小国のリーダー・武人達が、 烈しく憎みあい、相攻伐していた、としよう。(←この前提も異論はあるだろうからご意見を) しかし戦乱も長く続けば、経済は疲弊、人心も倦み、「そろそろ和平を」との機運が…。 誰かが、「男王を廃し、卑弥呼サマを倭連合の女王としようじゃないか」と提案したかもしれない。 すると、各武人たちこぞって、「それがいい、それがいい。そうしよう」と…。 だが、疑問点が二つ。 1.諸国のリーダー・武人や民衆は、「卑弥呼サマ」を知っていたのか? 2.和平や共立の提案があったとしても、いったい誰がどうやってそれを諸方に触れ回り、同意をとりつけたのか?
妄想スレだけに 妄想大会かW
94 :
愛知県民 :2007/02/03(土) 14:59:04
勘注系図にも大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめみこと)が 丹波の由碁理の妹として出てきますが、これは・・・? 意富夜麻登久邇阿礼比売命は安寧天皇の曾孫で、淡路島出身という 古事記の記事とは違っています。 古事記のアレヒメは叶姉妹・・・じゃなくて蝿姉妹の姉であり、 本名は蝿伊呂泥(はえいろね)ですが、この二人は別人なのか?
95 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 15:03:16
>すべて同じ人がいってるように聞こえる 君2chに向いてないよ。 ここは「匿名掲示板」だから名無しが当たり前、どこに来てるつもりかね。 コテ必須を主張するならSNSに行きたまえ。 そのうえ自作自演がバレても居直る態度も見苦しい。
96 :
九州出身 :2007/02/03(土) 15:30:36
>>92 >1.諸国のリーダー・武人や民衆は、「卑弥呼サマ」を知っていたのか?
>2.和平や共立の提案があったとしても、いったい誰がどうやってそれを諸方に触れ回り、同意をとりつけたのか?
誰かこたえてやって!
>>94 丹波一族スか。ちと調べてみます。
>>95 妄想してろ!
97 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 16:19:13
>>95 昨夜、参加していたけど、自作自演はなかったなあ。
自分と違う意見に賛同し合う議論があると、自作自演に見える人がいるらしい。
要するに、読解力のなさを露呈している。
もう少し注意深く読んでほしいものだと思う。
>>96 その疑問に答えるのはなかなか難しい。
文献に全く書かれていないことだから。
参考になるとすれば、壱与が女王になった経緯かな。
それでも、卑弥呼の宗女であること。年齢が13才と言うことしかわからない。
卑弥呼の鬼道をシャーマニズムと考えれば、その才能があったこと、
さらに、血筋も関係があったかもしれない。
結局、想像の域を出ないわけだけど。
98 :
保存しましょう :2007/02/03(土) 16:20:57
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■ (省略・・・) 396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。 397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。 433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。 (省略・・・) 475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。 477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。 479年- 百済東城王即位。 490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。 495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。 501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。 512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。 (省略・・・) 565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。 594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。 598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。 (省略・・・) 616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。 624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。 638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。 641年- 百済義慈王が即位。 641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。 642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。 645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目! 中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。 645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目! 663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。
99 :
九州出身 :2007/02/03(土) 17:19:39
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼 〔訳す〕 その國、もともと男子を以て王となし、住まること七、八十年。 倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。 名付けて卑弥呼という。 この「七八十年」は7,80年でよい。 「共立」とは共同で設立することを表してる。 意見ある人どうぞ。
魏志に出てくる2世紀後半の倭国大乱は何処であったのか? 考古学的に視たら、2世紀後半の遺跡では 瀬戸内海沿岸で高地性集落の軍事施設。 倭国大乱は吉備であった。
101 :
九州出身 :2007/02/03(土) 17:30:17
102 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 18:36:58
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
103 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 19:36:49
>>96 それは卑弥呼が「鬼道」による政治をしたという点で明白です。中華から広まった鬼道は「巫鬼道」という未婚女性を寄代とした
先祖信仰です。漢代に大流行した「巫鬼道」は後に仙道等と体系化され道教として学問的に昇華されていくです。
中華では神と鬼を分けて考えます。神は山・河・天・風雨・星日等の自然的な超常的存在、鬼とは人が死んだ後、魂魄の魄という欲望・妄執・恨怨の部分が地に残されたり、集まった意識的な超常的存在を一般的に指します。
つまり「巫鬼道」はこの先祖の祖霊を、出産により物質的肉体的に先祖とつながる女性を寄代(門)とすることで呼び出し、祖霊の言葉を伝える術であるです。先祖を司るところから、中華では葬礼や墓制と「巫鬼道」は深いつながりがありました。
倭で大乱となり多くの戦死者が出たことで、葬礼を通じ各国に共通の宗教的影響力を卑弥呼は持ったと考えられます。
先祖はこのような争いを望まなかったぞ、戦死や負傷したのは先祖が怒って加護をしなかったのだと祖霊信仰を通じて国をまとめるシンボルになったのではないでしょうか?
記録には実務的には男王もついていたようですが。
104 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 20:15:10
単に北方アジア系シャーマニズムを観て、楽浪経由の魏の使いが 鬼道と呼んでいるだけだろ。 龍信仰も亀卜も伝わっていないのだから。
105 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 20:17:15
>>103 レスありがとう。
勉強不足の分野で、おれには非常に難しいが、当時の中国の思想や宗教も、卑弥呼登場の歴史を探究するには、
よく知ってなくちゃいけない、ということだね。
こういう議論をしっかりやって、「邪馬台国関連スレは妄想スレ」の汚名を返上したいものだな。
106 :
太国 :2007/02/03(土) 20:41:24
「王」の字を考えるに、こんなのは日本でも出来うる文字ではないだろう か? たとえば「卍」だが、こんなのはナチス独逸でも逆で使っていたで あろうし、「卜」も漢字も片仮名のトと同形だし。英字のyと、ギリシャ 文字のλとも転倒してるだけで同形と観てよい。さらに片仮名のイも結局 は同形になるし、うちが最初だとか言うのははばかったほうがよかろう。 最も単純な部類の英字のIだって漢字の一とまあ似た型で、十の字も 英字のXと意味は違うが型は大差ない。
107 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 20:44:24
>>94 勘注系図が示す大倭久邇阿禮姫命は、
古事記が示す意富夜麻登久邇阿礼比売命と同一世代に修正出来るので
同一人物を指していると見て間違いないと思います。
可也長く成りますが、先ず、
瓊々杵尊(皇孫)、彦火明命(天孫)≒饒速日命(天神)
以上を皇統、尾張・海部、物部の始祖を同一世代とし、
且つ、瓊瓊杵尊の一世後を神武天皇【=神日本磐余彦火火出見尊】とすると
>>80 の話を規準にしますと、安寧は瓊瓊杵尊二世孫に成ります。
先代旧事本紀や勘注系図で彦火明命(天孫)≒饒速日命(天神)の次の世代に
天香語山命、宇摩志麻治命が来るように、
瓊々杵尊(皇孫)の次の世代は神武である筈なのです。
記紀のような日向三代の下二代の海神神話/竜宮神話は無視します
古事記や日本書紀に依存するタイムスケジュールではなく
先代旧事本紀や勘注系図のタイムスケジュールに合わせた方が
諸々の問題が解けて来ます。
108 :
愛知県民 :2007/02/03(土) 20:47:24
>>96 「久邇阿礼」が「国生(あ)れ」なら淡路島か。
「共立」されるにふさわしい出生地のようにも思えます。
>>63 帥升=スサノヲ説は可能性ありと思いますが、
「七八十年」を帥升から数えるというのは・・・?
私はヤマトの歴代男王と考えます。
孝昭天皇の時代にヤマトは公孫氏・帯方郡に服属し、朝鮮半島の鉄資源確保を図りますが、
渡来人も増え、国内は不安定になります。
古事記では孝安天皇の第一皇子は「大吉備諸進命」(おおきびもろすすみのみこと)
渡来人「温羅(うら)」の率いるキビ国を攻めるも討ち死に。
これが「倭国乱」でしょう。
109 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 20:47:36
次に、古事記では 安寧-師木津日子命-和知都美命-蝿伊呂泥【=意富夜麻登久邇阿礼比売命】 こうなってると思いますが、意富夜麻登久邇阿礼比売命は、 瓊瓊杵尊五世孫と云う事になります。 勘注系図の大倭久邇阿禮姫命はと云うと、彦火明命七世孫建諸隅命と同期させてあります。 しかし、ここに問題が在ります。 先代旧事本紀には七世孫、建諸隅命の妹に大海姫命【=葛木高名姫命】を挙げ、 崇神天皇の皇妃となった旨を書いています。つまり崇神もまた七世孫相当なのです。 瓊々杵尊(皇孫)、彦火明命(天孫)≒饒速日命(天神)の七世孫は崇神天皇の時代なのです では孝霊天皇の子を産んだ意富夜麻登久邇阿礼比売命と、 勘注系図の七世孫大倭久邇阿禮姫命は別人でしょうか? 勘注系図には七世孫建諸隅命に一云丹波縣主由碁理としています。 実はこの注釈の側の同期関係がズレて居るようなのです。
110 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 20:48:44
崇神も建諸隅命も七世孫と云う事は、
開化は六世孫でなければならない筈ですし
先代旧事本紀からも開化が崇神の一世上である事が確認できます。
開化記に開化が旦波之大県主の由碁理の女(ムスメ)の竹野比売を娶ったと言う旨の記述があります
そうすると竹野比売と開化が同世代である事が考えられます。
ならば彼等二人は六世孫で、由碁理自身はその一世上の五世孫相当でなければならない筈です。
つまり勘注系図に書かれた七世孫「建諸隅命」と、
一云「丹波縣主由碁理」は独立させて考える必要があると理解出来る訳です。
そうなれば、こう云う事が考えられます。
七世孫建諸隅命と同じ世代に書かれている、大倭久邇阿禮姫命も
由碁理と同じ世代だけ移動させて良いのではないか?
>>80 で言ったように、先代旧事本紀から
七世孫崇神、六世孫開化、五世孫孝元までは世代の重複関係がないと言えますが、この事と
年代計算の結果から勘案すると五世孫孝元と、孝霊が同一世代でないか?と云う事が判ります。
そうすると、五世孫孝霊と五世孫(勘)大倭久邇阿禮姫命が同一世代になり同期し
古事記での孝霊とアレヒメの関係の記述とも矛盾しないので
(記)意富夜麻登久邇阿礼比売命=(勘)大倭久邇阿禮姫命
と断定する事が出来ます。
111 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 21:04:33
この原因を考えると、本来の勘注系図の骨格部に対して、 後の時代に別の資料から詳細を合成する時に発生した時のズレ、と云う事が考えられるのですが 後の時代に合成する時に、本来なら、瓊々杵尊(皇孫)、彦火明命(天孫)≒饒速日命(天神) を同一世代とし、次の世代には、神武、天香語山命、宇摩志麻治命と云う具合に 同期しなければならない所を、 籠神社側の資料と記紀とで天押穂耳尊で同期を取り、 それ以降の天皇側の世代を記紀の記述に依存して 山幸彦/ウガヤを挿入して計算した為に同期関係が二世代分ズレて居るトコロがあるんじゃないでしょうか? その結果、勘注系図が三世孫天忍人命を倭宿祢命とし、 彼が神武時代に息津鏡と辺津鏡を持ってきた旨が書いて居いるんだと思います 先代旧事本書紀を見れば神武と同期の尾張氏は一世孫?天香語山命(=熊野高倉下)です 勘注系図では熊野高倉下も二世孫天村雲命の弟であるとしていて、 ここでも、先代旧事本書紀と勘注系図で同期関係が取れませんが、 アレヒメの問題からも勘注系図は骨格部分とそれ以外の注釈部は区別して考えるべきと思うので 同期問題の指標としては、『現時点に措いては』先代旧事本紀を主とし 勘注系図を従とすれば良いのではないかと思います 「実は勘注系図の同期関係の方が正しかった〜」と云う事が確認されるまでは。 それから、「由碁里とアレヒメを兄妹とし、神武の4世後とする資料が籠神社側に存在していて イザ本格的な系図を作成する時に、三世孫倭宿祢命で神武と同期を取って居る為に、 その四世後の七世孫の建諸隅命の所へ由碁里とアレヒメを挿入してしまった」 と云う事も考えられなくもないですが、それではちょっとシナリオとしては複雑な感じがしますよね。
112 :
愛知県民 :2007/02/03(土) 21:16:42
>>107 >>109-111 征東大将軍さん、丁寧なレスありがとうございます。
ただ、先代旧事本紀や勘注系図って、記紀をまとめて吹き飛ばすほどのものかな?
他の方の意見も聞きたいですね。
113 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/03(土) 21:20:05
先代旧事本紀に七世孫建諸隅命の所に孝昭の大臣の旨が書いてあり、 記事の内容の前後関係からどう考えてもオカシイ 先代旧事本紀の中でも特異的な記述なのですが、 ※先代旧事本紀では彦火明命七世孫建諸隅命の妹の大海姫命が崇神の子を産んでいて、 同様の記述が日本書紀でも確認できるので大海姫命と崇神の同期関係は動かせない 以前私は、この原因を建諸隅命と由碁理の関係からそうだと思ってたんですが、 どうやら三世孫倭宿祢命と神武を同期させて、そこから記紀の通りに天皇をカウントすると、 丁度七世孫建諸隅命の所で孝昭が来る事が原因だと考えた方がより無理がないようです そうすると先代旧事本紀のこの箇所は記述は、 先代旧事本紀の他の記述より最も新しい記述箇所である可能性が在ります 海部氏関係の出版でも、このズレたままの同期関係に基付いているらしい系図が見られますが 山幸彦/ウガヤ分で二世代分全体にずれている筈ですし、 上位十代を、直系十世十代として扱っているようなので それを考慮すると更に三世代のズレがあって、 単純に言っても計五世代相当の同期関係のズレが在るのではないか?等と私は考えて居ます 崇神〜応神までになると先代旧事本紀側にも系譜のズレ/錯綜が見られますね まぁ、これも、ほぼ同期関係を特定してますが
114 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 21:56:45
>>110 まあ世代と言っても単純に輪切りに出来るものではないですがね。
書紀編者がそういう編集方法も使っていたのは確かだとは思います。
アレ姫は同一人物だと思いますよ。
ところで、意富夜麻登久邇阿礼比売命ってなんで大倭なんですかね。
この称号自体天皇全員の冠じゃないのに。
まあ単にハエじゃ具合悪いって事かもしれませんがw
あるいは百襲姫の母だからなんですかね。
でも、どうも大倭国を統べるほどの存在だったとは思えないし・・・。
そのことと、孝霊天皇の「大倭」とはたまたまではなくつながっていると
思います。その父も「大倭」、孝元も「大倭」。折しも奈良盆地の南半分
と大和川に橋頭堡を築いた時代ですから、それまでの数代とははっき
りと違う。
このことから、高安・孝霊の時代に吉備から何らかの政治的・軍事的
援助があったのではないか。
115 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 22:11:45
(続き) 孝安の第一子は大吉備諸進命、また孝霊とアレ姫の子も吉備津彦。 四道将軍派遣なんかを本気で言ってる人が最近も出没してますがw、 ようやく奈良盆地に広がりつつある時代にあり得ない。あったとしたら 逆でしょう。つまり、西からの支援があった。 神武は吉備に滞在しました。しかしながら奈良盆地南端の袋小路の ようなところで、他からの力はあてにしにくかった。或いは、磯城県主 =先行するニギハヤヒ・物部一族の援助によってかろうじて生きなが らえたのかも。孝安までずっと磯城県主の娘なんて、どっちが本流か わからないw いや、マジな話、物部が滅亡するまではそっちの方が 本家と伝えられていたかもしれない。物部の大阪側の本貫は、大和川 が河内湖に注ぐ所、今の八尾ですから、神武一統よりは海に開けてい たでしょう。 結局、古田説で言うところの、九州王家の与えた称号が「大倭」のでは なかったか。この説は、私的には気に入っているものの一つです。弥生 墳丘墓もないのに突然前方後円墳が出現する謎も説明できます。吉備 →畿内のルートだったと。と言っても吉備が邪馬台国や統一王朝のセン ターだったとは考えにくいので、神武のスタート地点の九州のほうがしっ くりくる。 他に説明できる方法があれば知りたいものですが、この問題については あんまり納得いく話はなかったですね。
116 :
一応九州王朝説 :2007/02/03(土) 22:21:34
架空の天皇かどうかについては、最初の十代ほどで各氏の起源が 明示されるところから、どうかなと思います。記紀編集時点で現存す る諸豪族が、こぞって納得できるものでなければ、歴史改竄のそしり は免れず、租霊信仰が中心の当時は恐ろしいことですw どの家も自分ちの歴史を持っていたが、最終的に天皇家が勝利・統 一覇王になった時点でそれらは破棄・改竄されて、天皇家を中心にし た形で残された、そんな所じゃないかと思います。 ただ、先代旧事本紀、勘注系図などと大きな矛盾がないのは、改竄と いうかそれなりに根拠があっての「○○氏の租」ということなのかな、と。 どうも横レスを差し挟んでしまって申し訳ない。
あのさ、倭面土国とか、倭面上国って 当時の音韻では、なんと読むんだ? 魏志倭人伝関係は、上古音とか中古音とか 参考になりゅソースはネットにあるんだけど、 後漢書関係は無いんだよね。
118 :
愛知県民 :2007/02/03(土) 23:23:05
>>114 蝿伊呂泥の「蝿」は昆虫でしょうか?
「南風」とか、任那の伴跛(はへ)とか・・・
>>117 音韻は詳しく存じませんが
「面上」は「面土」の誤り
「面土」は「国王」の誤りでしょう。
119 :
日本@名無史さん :2007/02/03(土) 23:40:48
>>104 いや、魏志倭人伝東夷伝をみて鬼神を信仰する国が半島にたくさんあるが、鬼道を政治に用いたのは倭だけだ。
倭はただ信仰するのではなく、それにもとずいて政治体制が行われていた事を中国の使者がつぶさに見ていた証拠。
漢代に方士を使い政権内部に食い込んだ公孫氏とオーバーラップして倭や卑弥呼が描かれているのはその為かもしれない。
>>117 >「面上」は「面土」の誤り
これは理解できる。
>「面土」は「国王」の誤りでしょう。
これは違うだろう?www
「面土」と「國王」は間違えようがない。
121 :
愛知県民 :2007/02/04(日) 00:14:41
>>120 確かに考えにくいですが、
@「マト国」が見つからない。(ヤマト、マツラ、イト(回土の誤りとする)など苦しい説ばかり)
A後漢書には「倭國王」とあるだけで、「倭面土國王」とあるのは二次史料のみ。
であることから、「倭國王」が「倭面土」と誤写され、正しくは「國王」と追記したのが
「倭面土國王」とされた・・・ということも排除すべきではないと思います。
書き写すときに国王が二度書きされて、倭国王が倭国王国王になり その本をさらに写した人が倭国王国王じゃ意味が通じないから一つめの 国を面に変えて(似てたんでしょうね)倭面土国王としたっていうのが一番ありそう。 倭国王−倭国王国王−倭面土国王
おまえら、「帥升」、「帥升等」、「師升」について どう思う?
124 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/04(日) 01:13:59
>>112 先代旧事本紀と勘注系図/本系図の歴史的意義は正当に評価されて居ないと思います。
それもこれも旧来の文献史学者が、日本書紀の年代算出論の研究を怠った為に、
先代旧事本紀と勘注系図/本系図に措ける年代観の正しさや、
現存記紀の改変系譜に対する、先代旧事本紀と勘注系図/本系図他に伝承される系譜の価値が
良く認識されて居ないからだと思います。
文献史学者自身が、先代旧事本紀を単に記紀以下の価値として軽視したり、
記紀の欠史八代を以って崇神以前を考古学に投げて追随しているようにも感じますし
まぁ、そう云う彼等が遣り遺した事を山積みにしてくれたので、
私としては色々楽しみが残っていて嬉しい訳ですけど
記紀を吹き飛ばすかはさて措き、
>>107 で
>>109-111 やって来たような事で
もう少し面白い事があります。
>>114 そうですね、蝿伊呂姉妹に蝿伊呂泥の側にだけ別名として意富夜麻登〜ですから。
蝿伊呂杼も孝霊妃と云う立場ですが意富夜麻登〜なんて事はありませんし
意富夜麻登〜は何か追号みたいな感じなんでしょうかね
皇后でもない訳ですが。
そうすると、一応九州王朝説さんが言われるように、
母母曾毘売命の母だからと云う理由だとすれば、
母母曾毘売命の地位に特別な意味が在らねばならなくなりそうですが、さてさて
125 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/04(日) 01:35:55
>>123 「帥升」を「スシ」と読んで、記紀風にすると「スシノミコト」
とうことで、「スサノウノミコト」の家系と関係がありそう。
これはどう?
「帥升等」シシト 大日本彦耜友尊(おおやまとひこ すきとも のみこと)=懿徳天皇 日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくに おしひと のみこと)=孝安天皇 とかどうよ?
586 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/02/04(日) 00:52:19 卑弥呼とモモソヒメが同一人物かは分からないけど 古事記での孝霊天皇の吉備平定 (岡山の神社などの伝承には、孝霊46年、孝霊71年?に吉備へ派遣軍がきたとある) 日本書紀・古事記での 崇神5年の疫病 崇神10年の四道将軍(古事記では吉備派遣軍の記述はないのだ三道)と 河内の武埴安彦の謀反・モモソヒメが予言 モモソヒメの急死 これらは、魏志の邪馬台国の記述と 2世紀後半の短期間の瀬戸内海沿岸の高地性集落の防御遺跡の出現と おもいっきりかぶるんだよね。
128 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 01:43:55
>>123 畿内説としては、この時期に「倭国王」の存在はまずい。
倭を畿内を含めた広い範囲と考えることが出来なくなるからである。
というわけで、いろんな説が出る。
たとえば、帥升についても、複数形で書くのはおかしいとか。
けれども、帥升自らが部下を引き連れて海を渡ったと考えれば、
複数形も納得がいく。
>>128 >畿内説としては、この時期に「倭国王」の存在はまずい。
>倭を畿内を含めた広い範囲と考えることが出来なくなるからである。
>というわけで、いろんな説が出る。
それの意味が分からん。なぜ、そうなるのか?
>けれども、帥升自らが部下を引き連れて海を渡ったと考えれば、
>複数形も納得がいく。
それが納得いかんのよ。倭国王自ら
海を渡っていくかよw
当然、使者を派遣するだろうよ。
国王が自らが海を渡って中国に使者として行くなんて そんなこと、有り得るかよw
131 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 02:10:49
>>129 歴史学的には、邪馬台国は九州にあり、倭というのは九州の一部を
指していたという説の人も多い。つまり、畿内はまだ倭国に含まれて
いなかったというわけ。
帥升が後漢に朝貢したのは、永初元年(107年)。
邪馬台国時代よりもずっと前のことだから、いっそうその意味が強くなる。
仮に倭国に畿内が含まれていたとすれば、帥升当時、日本のほとんどを
支配していたことになってしまう。崇神天皇の四道将軍派遣を
出すまでもなく、歴史的な発展の過程を無視することになる。
したがって、倭国は九州の一部(熊襲の存在があるから)に限られる。
そうなると、倭人伝を読めばわかるが、帥升から卑弥呼は連続している。
つまり、邪馬台国も九州ということになる。
>>130 それはあっても良い。
>>131 あの〜孝霊天皇の時代にも吉備へ派遣軍をおくって
吉備を平定しているんですけど...(古事記)
崇神天皇の以前も以後も
何度も、大和王権は地方に軍を送っています。
よって、矛盾しません。
584 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/02/04(日) 00:30:52 2世紀後半の倭国大乱(卑弥呼擁立の切欠)は 瀬戸内海沿岸が舞台だよ。 考古学的に視ても、2世紀後半の軍事施設の遺跡が 突然、登場して、消えている。 岡山の桃太郎伝説と孝霊天皇・モモソヒメ・吉備津彦は 全部つながってくる。 このへんの神社の伝承にも 孝霊天皇が何度か遠征軍を数十年に渡って派遣したことが残っており、 古事記にも、孝霊天皇が播磨を通過して吉備へ派兵・平定したと出てくる。
588 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/02/04(日) 01:53:46
>>586 孝霊天皇って在位76年なんだね。
倭人伝の
「その国、本亦男子を以って王と為し、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、
すなわち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼という。」
で、とどまること=在位すること と解釈するのが一番素直な訳
在位年数もぴったり合うなあ。
そして、父帝が76年在位したあとなら当然 年齢もかなり上
おまけに弟も即位している。
名前も<ひめのみこと>なので<ひ・み・こ>の三文字が入っているか。
589 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/02/04(日) 02:15:10 瀬戸内海沿岸地方は二世紀頃の高地性集落が多く,併せて, 小型の鉄鏃の出土が多い。他の地域の鉄鏃の増加はそれほど多くないのに 中国地方は後期中葉から後葉にかけて多く出土している。 多くは高地性集落からの出土である。 まさに、この地域が臨戦態勢にあったと想像される。
137 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 02:25:51
>>132 孝霊天皇がいつの時代の人かというのが問題。
東遷説では、西暦300年頃とみなしていると思う。
畿内説では、ずっと古いと考えているのだろうが、では、孝霊天皇は
どこに住んでいたのだろう。
考古学的には、弥生時代ということになるのだろうか。
大和としたら、唐古・鍵しかない。ところが、この唐古・鍵というのは
相当な田舎集落。鉄も出ない。王宮らしきものも発掘されていない。
石器中心で暮らしていた完全な農村集落。
あなたの年代感覚では、仮にも天皇といわれる人が住んでいた場所がない。
>>137 >>136 を読め。
そのサイトは全面的には認められないけど
倭国大乱と孝霊天皇のところは
文献史学上も考古学上も気候学上も
説明できる。
>>137 あの〜きみ、
なぜ、唐古遺跡が残ったか知っている?
その田舎集落だけ、水際で水没したからだよ。
水際から離れていて水没しなかった町は
何度も新しく町が立て替えられていて残っていない。
たまたま水没したところだけ遺跡として残った。
戦闘遺跡 遺跡に関して調べてみると,弥生時代における本格的戦闘があったと考えられる遺跡と いうのはほとんどないのであるが,大阪湾岸地方から瀬戸内海沿岸地方にかけて, 二世紀後半の集団戦の跡と考えられる遺跡が数多く見つかっている。 また,この頃のものと考えられる高地性集落が瀬戸内海沿岸地方に多数みつかり, また鉄鏃の出土数を調べてみると,他の地方の鉄鏃出土数に大きな変化はないのであるが, 中国地方は後期中葉から後葉にかけて急激に増大している。 しかも,実践的な小型の鉄鏃が多いのである。これらから, 後期中葉から後葉にかけて(2世紀中頃から後半)の大阪湾岸から瀬戸内海沿岸地方が, 軍事的緊張状態にあったことは間違いなさそうである。 これらの遺跡は,吉備津彦命の進軍コースと一致している上に,年代もほぼ一致するので, この大乱に関連していると考えられる。 どうやら,二世紀後半に,出雲・吉備・讃岐連合軍対大和朝廷の大乱があったようである。
585 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/02/04(日) 00:41:44
別スレで面白いものを発見した。卑弥呼の統治背景に葬礼の支
配があったとしたら、畿内の前方後円墳の広まりと何らかの因
果関係がでてくるのではないだろうか?
卑弥呼の時代の墓制を特定すればその支配範囲も分かるという
ことでは?
103:02/03(土) 19:36
>>96 それは卑弥呼が「鬼道」による政治をしたという点で明白です。中華から広まった鬼道は「巫鬼道」という未婚女性を寄代とした
先祖信仰です。漢代に大流行した「巫鬼道」は後に仙道等と体系化され道教として学問的に昇華されていくです。
中華では神と鬼を分けて考えます。神は山・河・天・風雨・星日等の自然的な超常的存在、鬼とは人が死んだ後、魂魄の魄という欲望・妄執・恨怨の部分が地に残されたり、集まった意識的な超常的存在を一般的に指します。
つまり「巫鬼道」はこの先祖の祖霊を、出産により物質的肉体的に先祖とつながる女性を寄代(門)とすることで呼び出し、祖霊の言葉を伝える術であるです。先祖を司るところから、中華では葬礼や墓制と「巫鬼道」は深いつながりがありました。
倭で大乱となり多くの戦死者が出たことで、葬礼を通じ各国に共通の宗教的影響力を卑弥呼は持ったと考えられます。
先祖はこのような争いを望まなかったぞ、戦死や負傷したのは先祖が怒って加護をしなかったのだと祖霊信仰を通じて国をまとめるシンボルになったのではないでしょうか?
記録には実務的には男王もついていたようですが。
142 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 02:44:10
>>138 そのサイトの年代感覚もずれている。
「吉備国を平定した」というのを倭国の大乱に結びつけるのもこじつけ。
それが大乱なら、日本の古代史は大乱だらけになってしまう。
>>139 それをどうやって証明する?
それは、邪馬台国畿内説を前提として組み立てた空論。
そんなのが認められるのなら、何でもありになってしまう。
大集落があったが、消滅したでは話にならない。
鉄の場合も、見つからない理由を、回収して再利用したからとか言う。
よその土地ではおびただしい鉄が発掘されているのに。
畿内説の理論は想像しているだけ。勝手に物語を作っている。
143 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 02:54:17
>>140 高地性集落の意味も考える必要があると思う。
単に、倭国の大乱に関連付けてよいものか。
高地性集落のような防御的な集落は、数度、攻撃を受けたあとに、
作られたと考えるべきだと思う。
三国史記を見ると、倭国が何度も攻撃してきたことが書かれている。
つまり、朝鮮半島まで攻撃の対象としている。
瀬戸内海沿岸にも他国の攻撃に備えた多数の高地性集落がある。
ところが、九州にはほとんど高地性集落はない。
これは何を意味するのだろう。
144 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 06:43:06
>>142 唐古・鍵では鉄器は出土している。芝もそうだね。
君が糾弾する孝霊天皇云々の説は確かに論外だが、君自身も間違っている。
鉄器出土分布に関しては、まず村上恭通を読むこと。
出土量の西高東低は間違いないが、それと弥生終末期の王権とは無関係。
また池上曽根では列島最大の木道建築物跡が出土しているのは知っているよね。
唐古・鍵でも吉野ヶ里よりやや小ぶりのものならすでに出土している。
これらが楼閣か神殿なのかの議論は別として、無いというのはおかしい。
第一鉄が溶けたなどというのは大昔の畿内説であって、とっくに畿内説論者から否定されている。
たとえば三角縁を魏鏡だと主張する畿内説など、もう今ではほとんどない。
かといって呉鏡とか全部国産なんてのは論外だがね。
出来れば最新の資料を参考にして、現在の学会主流である畿内説とはどんなものかを理解すべきではないか?
145 :
144 :2007/02/04(日) 06:54:41
同様に南が東の誤記(写し間違い)という畿内説も今や存在しない。 どうもこれらの誤謬は、安本あたりの策略にまんまとひっかかった御仁が多いせいだろう。 彼の手口とは、これらのとっくに消えた種類の畿内説を掘り起こして、だから信用できないなどとキャンペーン展開するやい口だ。 信じられないも何も、畿内説論者そのものがそんな考え方をすでにしていないのだから、これは相当にタチが悪い。 かつて日本は軍国主義だったから今でも危険だとかの、恣意的な情報操作の手口とまったく同じなので気をつけるように。 君らが批判し戦うべきなのは、現代の学会主流の畿内説なのだから。
146 :
144 :2007/02/04(日) 07:11:29
>>143 高地性集落にも平地内集落にも戦闘の痕跡はまったく見られない。
それ以前の弥生中期前半までだと、かろうじて小規模戦闘を示唆する遺物が出土する。
つまり中期以降ムラからクニに発展してからは、大きな戦争など起きてはいないのだ。
このことから倭国大乱は直接的な戦争ではなかったことが明白になっている。
三国史記はまるで時代が違うし、これはおそらく倭寇か北部九州諸国との利権争いを記したものだろう。
同様に
>>140 の言う
>後期中葉から後葉にかけて(2世紀中頃から後半)
の河内にそんなものは出土していない。反論があるならどこの遺跡から何がどれだけ出たのか具体的に示すように。
第一後期中葉から後半が2世紀中頃から後半というのがそもそも間違っている。
一部論者が言う庄内4世紀説はまったく成立しないので、これも騙されてはいけない。
どうせヒステリックな反論がくるだろうが、単に彼らは土器編年の相互関連どころか地層データもまったく知らないので誤った結論を出しているだけだ。
そんな聞きかじりの知識では古代史の解明などとうてい無理だろう。
とにかく先に正しい資料を読め。主要論文は少なくともチェックしろ。
めんどくさいだろうが、話はそれからだ。
147 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/04(日) 07:27:01
続きです。書紀の崇神天皇治世元年にこう在ります。
>又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛〈一云大海宿禰女八坂振天某邊。〉
>次妃尾張大海媛。生八坂入彦命。淳名城入姫命。十市瓊入姫命。
この日本書紀の八坂振天某邊を
>>7 のサイトでは、
勘注系図の「九世孫」の葛木高千名姫命の亦名八坂振天伊呂邊命と同期させて、
崇神も「九世孫」同等として同期させて居ますが、
勘注系図では六世孫建田勢命の別名として、亦云大海宿禰とあります。
つまりこの事と先程の日本書紀の記述から、
(勘注/六世孫)建田勢命=大海宿禰
―――――――――――――――――――――――
(勘注系図/七世孫)大海姫命
(旧事本紀/七世孫/崇神妃)大海姫命【=葛木高名姫命】
(崇神紀/元年/崇神妃)紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛【=大海宿禰女八坂振天某邊】
(崇神紀/元年/崇神妃)尾張大海媛
と云う事になります、そうすると
(勘注系図/九世孫)葛木高千名姫命、亦名八坂振天伊呂邊命はどうなるのだ?
と云う事に成りそうですが、アレヒメと同じように仮に二世代繰り上げると
丁度七世代になって、ここでも「七世孫」崇神と同期関係が成立しそうです。
更に九世孫に意富那比命とあり一云亦名大海宿禰命としています。
先程の六世孫建田勢命=亦云大海宿禰の、他の別名にも大宇那比命とあり音も通じそうです
九世孫から六世孫に三世代シフト出来るのか?と云う問題になりますが、それはチョット置いて措きます
さてココからです。
勘注系図の九世孫には、意富那比命の妹に日女命が居り、その注釈が続く形でこう在ります。
妹日女命、亦名中津姫命、亦名~大市姫命、一云千〃速日女命、一云日~、亦名倭迹〃日百襲姫命
148 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 08:21:24
>>145 >君らが批判し戦うべきなのは、現代の学会主流の畿内説なのだから。
要するに、畿内説は仮説を立てては破綻し、新しい仮説を立てる。
また、破綻し、次の説を立てるの繰り返し。
畿内説を批判する立場からすれば困ってしまうな。
森浩一氏が言っていたが、畿内では鉄のかけらでも出れば大騒ぎすると。
唐古・鍵に鉄がほとんどないのは常識。
鉄は西高東低で、近畿では近江付近が多く、畿内は特に少ない。
鉄斧に見られる利用技術も完全に西高東低。
149 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 08:33:42
>>144 唐古・鍵遺跡の大型建物跡は、確か時代が違っていたんじゃなかったかな。
まあ、建物ということになれば、縄文時代中期、青森県の三内丸山遺跡の
建物もでかかった。
150 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 08:49:39
>>146 真偽はともかく、三国史記の新羅本記によると、倭兵が攻めてきたと
言う記録は西暦300年までに、10回ほどある。
その中には、
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、
これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
など、とても海賊の類とは思えないものが多い。
これが九州の兵だとしたら、荒波をわたらなくても良い日本の周辺には
もっと頻繁に兵を出していたと考えられるのだが。
つまり、高地性集落はこれに備えたものではなかったか。
九州に高地性集落がほとんどないのは、攻める側だったからでは
ないかと思うわけである。
>>150 君は知らない。
その三国史記の年代間自体が
ごちゃごちゃなわけで。
三国史記が書かれたのは、日本書紀よりも後なんだよ。
半島でも初期でも二倍年暦なわけで。
九州説は、そうとう 厳しくなっているよ。 このスレとか、非専門家の愛好家が騒ぐくらい。
153 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 09:19:17
そうだね。東大OBの××元教授等の逆鱗に触れたからね。 日本考古学界から組織的に潰しが入るよ。宮○庁や○部科学省 すべてを敵に回すことになる。
>>148 それは九州説が言っているんでしょう?
学会では外れの。
>>153 宮内庁から発掘調査の一部お許しが出たのは
もう、分かっているからだろう。
邪馬台国が畿内のことだという。
じゃ、なぜ、今まで曖昧にしてきたかというと
日本の皇室は、ユダヤ人たちに
天皇=ユダヤ人説を期待を持たせるため。
そうすることによって、国際社会で有利に結びつけるため。
(たしか、中東歴史専門家の三笠宮御長老の談)
でも、近年のユダヤ人、国際金融資本の転落により
その必要がなくなってきたと。
156 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 09:38:01
欧米のユダヤ人の間では 明治以来、日本の皇室がユダヤ人と国際金融資本と関係が深かったんだよな。 むこうがわの記録を見れば分かる。 そこで分かるのは、日本の皇室サイドは そうとう、天皇=ユダヤ人説の期待を持たしてきたのが分かる。 なぜ、そうしたかというと、当時 フランス革命、ロシア革命など、世界中の王室が 国際金融資本の策謀によって、どんどん廃止されてきたこと。 当然、日本の皇室もターゲットになっていた。 日本側の皇室でも、そのことに対する危機感があった。 そのそも、幕末戦争では欧米の武器商人が暗躍していた。
158 :
144 :2007/02/04(日) 09:40:26
>>148 新発見によって仮説が変更されるのは至極当たり前だし、正常に機能している証拠だよ。
九州説論者の悪いところは、破綻が明白なのにしがみついてしまったことだ。
だから完全に取り残された。最新のデータを加味して再構築すればいいのに、それすらしないだろ。
あと森さんは東遷、九州説じゃないからね。基本的には畿内説。
この辺すら勘違いしているレベルだから、九州説は馬鹿にされる。
でもって森さんは今や考古学から引退して関東学なるものに鞍替えしている。
ご本人によれば、もう畿内で確定的だから批判の余地が無いので面白くないそうだ。
>>153 ほらほら、すぐそんな嘘をついて自分を誤魔化すんだからw
考古学はマンガの秘密結社かよw
>>155 三笠宮の発言は、何かで見た記憶があるわな。
あの人、中東専門家でしょう?当然、ユダヤ人の研究もやっている。
たしか、そこで、天皇がユダヤ人と見られていることは
我々(日本全体も皇室も)の存続に有利に働くみたいに言っていたと思われ。
160 :
144 :2007/02/04(日) 09:43:43
まあ
>>155 も妄想に囚われた哀れな畿内説論者のひとりだし
こういったしょーもない畿内説もあることは事実だ。
だけどこんなのを批判して畿内説そのものがおかしいって論法は通用しないよね。
161 :
144 :2007/02/04(日) 09:48:03
国際関係に有利であっても、事実無根なんだからしょうがない。 有利ならせいぜい政治的に利用すればいい。 ただそれが度を過ぎたら、木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説やジンギスカン=義経が 戦前の皇国史観の正当化に利用された二の舞になるがね。
162 :
144 :2007/02/04(日) 09:58:47
>>154 追い詰められているというか、破綻して成立しないことが明らかになったから九州説は実質消えたのさ。
ここで必死になっている連中だって、それくらいは知っている。
知っているからこそヒステリックに口汚く罵るわけだ。
老教授なんかは、こちらから知識を教えるからもっとまともな九州説を構築してくれと明言しているよね。
彼がなぜ連中を相手にするのかはよく分からないが、要するにせめて論争できるレベルに上がってきてくれってことなのかもしれないね。
実際学会どころか世間一般が畿内説で固まってしまったようだし
彼らにしてみればそんな常識的なことで必死にならんでもいいってことで相手にしないのだろうね。
163 :
144 :2007/02/04(日) 10:07:17
だから嘘のデータや妄想を省いたまともな九州説で対抗しなよ。 まず庄内は4世紀などには絶対に下らない。それを示すようなデータは一切無い。 同様に弥生終末(古墳黎明)の実年代は、現在200年から230年の攻防である。 これはマキムク方の最初の築造をいつと見るか、つまり石塚などがいつかということ。 箸墓は250年から280年の攻防。那珂八幡や赤塚は280から310年あたりでの攻防。 もう時代はそこまで進んでいるんだ。 いつまでも取り残されたままの九州説でいいわけないだろ、再構築しなおせ。
164 :
愛知県民 :2007/02/04(日) 10:14:12
>>147 >妹日女命、亦名中津姫命、亦名~大市姫命、一云千〃速日女命、一云日~、亦名倭迹〃日百襲姫命
こんなに別名が多いと、「結局、誰だか分からないんです」とも読めますね。
日神とモモソヒメが同じとは、どう読めばよいのか。
モモソヒメが神格化されて、「箸」が「梭(ひ)」に置き換えられた?
165 :
太国 :2007/02/04(日) 10:18:07
>>134 卑弥呼は孝靈天皇とは時代がぜんぜん違うよ。
前者は4世紀の女性で神功皇后の時代あたりの人。
後者は2世紀の人物である。孝靈の在位は確かに
76年(3倍暦で26年)位だが、時代の差は200年位で大違いだ。
>>156 卑弥呼が畿内の人物なら三国志よりも記紀の中に女王の詳細が
記載されて、近隣に住まう天皇との交流の具体的に載る。
それがないんだから、卑弥呼が畿内人でなく、九州の人物だ。
166 :
太国 :2007/02/04(日) 10:21:51
168 :
144 :2007/02/04(日) 10:30:02
太国のは学問ではなく「そういう宗教」なのだからもうしょうがないw ただ古神道が迷惑すると思うので、それを名乗るのはやめたら?
>>168 144さんも太国だろ
余地だらけだよ
文章太国並だし
170 :
144 :2007/02/04(日) 10:38:13
>>164 当時の「箸」とは糞へらのことだよ。
便所でまだお尻に残っている汚物をこれで掻き落して、後は少量の水で洗うってのが当時の排便方。
だから尻餅ついたときにスタンドに立ててあったこれで女陰を突いたってこと。
でもってこの糞へらが使われだしたのが5世紀末から6世紀初頭あたり
なので箸墓伝説そのものがそれ以降に作られた話ということになる。
もうひとつの「昼は人が造り…」はまだ由来がはっきりしていない。
171 :
SOY :2007/02/04(日) 10:46:00
>>163 144
>まず庄内は4世紀などには絶対に下らない。それを示すようなデータは一切無い。
>同様に弥生終末(古墳黎明)の実年代は、現在200年から230年の攻防である。
これについて『嘘のデータや妄想を省いた』まともな根拠を示して欲しい。
『もう時代はそこまで進んでいるんだ』という言葉だけでは信用できなし、
検証もせずに信じるのは科学ではないと考えます。
抽象的な論拠、『権威者が言っている』『何処かに書かれている』と
いった誤魔化しの発言、質問を質問で返して最初の質問を消す姿勢、
個人批判、こういった類のものはよく見かけますが、
そうではない建設的な意見が是非とも欲しい。
それなくして『再構築しなおせ』の発言は説得力に欠けます。
172 :
144 :2007/02/04(日) 10:50:42
文章は下手だが、太国じゃないってw かつて古代史が人気だった理由ってのは想像の余地が大きくて 個々に妄想を膨らますことが出来るってのがあったのだが 今では相当に判明してしまったから、勝手な妄想が通用しなくなっちゃったんだよね。 考古学サイドもこれには逆に困っているようで(なんせ客寄せパンダの邪馬台国がほぼ判明しちゃったんだから) 人気=世間の関心が低いと肝心の発掘調査に支障をきたす羽目に陥ってい待った。 マスコミ向けの派手な話題づくりに腐心しているのはそのため。 そこを批判するのは簡単だが、これはもうどうしようもないことかもしれない。 高島さんとかは実際立派な学者なのだが、このまま九州での関心が薄れるのはヤバいってんで、わざと九州説を流布しているところがある。 安本や古田ももうちょっとマシな説をだせば、今みたいに九州説が没落することは無かったかもしれないね。
173 :
144 :2007/02/04(日) 10:58:29
>>171 本当に必要なら書くよ。約束する。
コテは144でいいだろ?
ただ相当な量になるので時間はほしい。
皮肉じゃなく平日に毎日書き込めるような余裕は無いんだわ。
それとSOYさんは今までにどんなデータを見てきて、まだ信用できないと判断したのかな?
俺は石野さんのマキムクに関する一連の論文や柳田、北條、寺澤、村上などを薦められるままに読んでそう判断したのだが。
そちらももし何らかの根拠があるのなら、提示してくれないか。
これは質問を質問で返す行為ではないはずだ。
こちらが根拠を示してそれをまとめるから、そちらもやってくれという等価交換の取引だと思うが。
174 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 11:10:00
卑弥呼は誰だ?
しかし平日には昼夜の区別無く九州説が書きまくって 日祝日になると畿内説がでてくるってのはなんか示唆的だな
176 :
愛知県民 :2007/02/04(日) 11:14:19
>>170 箸墓伝説も、モモソヒメの活躍も古事記に無いのも不思議ですね。
弟・キビツヒコの活躍と同様、(日本書紀の崇神でなく)孝霊天皇の時代か?それなら台与か?とも思いますが、想像説を出ませんね。
177 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 11:18:41
九州説は邪馬台国よりまず仕事探せってこったw
178 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 11:22:05
やっぱり、入鹿は天皇を守ろうとしてたんだね あとの天智のハクソンコウの戦いと鎌足と不比等の藤原の政治。変だなとおもったんだよな 天武時代に書紀がかかれたらしいけど、なんで天智むけの書き方になったんだろう?
179 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 11:23:50
妄想だな。
180 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 11:31:44
>>175 >>177 まともに議論できないからといって、そういうことは言わないほうがいい。
畿内説の人間はチャチャを入れるだけの素人集団と思われるぞ。
181 :
SOY :2007/02/04(日) 11:49:45
>>173 144
>本当に必要なら書くよ。約束する。
その真摯な姿勢に感謝します。コテも期限も指定するわけでなく、
気が向いた時の書き込みだけでも私にとってはプラスとなります。
>それとSOYさんは今までにどんなデータを見てきて、まだ信用できないと判断したのかな?
確かに論点が広がりすぎる可能性があるので経緯だけを示します。
私もおそらく質問などに即答できないのでその点はご容赦願います。
1.邪馬台国論争の論争の中心は所在地論争
2.当時の繁栄地を邪馬台国と仮定する点は多くの論者が同じ
3.その仮定で『弥生時代の北九州』か『古墳時代の纏向』か論議
4.見方を変えると絶対年代が確定すれば所在地問題は概ね解決
5.絶対年代を決定する主な根拠は以下のとおり
・中国系遺物との併行関係/年輪年代法/炭素年代法
6.年輪年代法
→ 資料選定とブラックボックスな研究の点で疑問あり。さらなる測定結果をもとに判断せざるを得ない。
7.炭素年代法
→ 年輪年代法と強い一致が見られるが大きな揺らぎが使用難。紀元前にはならないはずの弥生V期の結果を見る範囲、古く出ている感もあり
8.中国系遺物との併行関係
→ 使用できそうな遺物は一部の銅鏡くらい
9.銅鏡
→ 三角縁神獣鏡 中国で出土しないので紀年と実年代の一致を検証する手立てなし
→ 画文帯神獣鏡 三角縁と同じく呉鏡の流れをくむ点で280年以降の疑惑あり
→ 位至三公鏡 魏晋代に主流となっている鏡なのでもっと三角縁神獣鏡と共伴すべきなのに明らかに時代差がある点で看過できず、単純に位至三公鏡を後漢鏡とすることもできず、ここでも三角縁神獣鏡の年代に疑惑あり
182 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 11:50:49
>>180 いや畿内説とか無関係の野次馬よ、俺
>>177 はしらんけど
その邪馬台国にさほど興味が無い俺が見てそう思うっていってるだけなんだが
被害妄想も大概にしたら?だから追い詰められているとか馬鹿にされんと違う?
183 :
SOY :2007/02/04(日) 11:52:17
文章が途切れるので経緯の後半だけを再アップします。 5.絶対年代を決定する主な根拠は以下のとおり ・中国系遺物との併行関係/年輪年代法/炭素年代法 6.年輪年代法 → 資料選定とブラックボックスな研究の点で疑問あり。さらなる測定結果をもとに判断せざるを得ない。 7.炭素年代法 → 年輪年代法と強い一致が見られるが大きな揺らぎが使用難。紀元前にはならないはずの弥生V期の結果を見る範囲、古く出ている感もあり 8.中国系遺物との併行関係 → 使用できそうな遺物は一部の銅鏡くらい 9.銅鏡 → 三角縁神獣鏡 中国で出土しないので紀年と実年代の一致を検証する手立てなし → 画文帯神獣鏡 三角縁と同じく呉鏡の流れをくむ点で280年以降の疑惑あり → 位至三公鏡 魏晋代に主流となっている鏡なのでもっと三角縁神獣鏡と共伴すべきなのに明らかに時代差がある点で看過できず、単純に位至三公鏡を後漢鏡とすることもできず、ここでも三角縁神獣鏡の年代に疑惑あり
184 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 12:22:07
>>181 なるほど、あなたの根拠はおおむね理解した、ありがとう。
ではまず先に銅鏡に関してまとめるわ。
遺物併行/年輪年代法/炭素年代法は後日まとめることにする。
3日ほど時間がほしい。
先に一言だけ言っておくと、神獣鏡は実は魏晋や呉などの国家で括れるものじゃないんだわ。
国家ありきで作成されたのは漢鏡W期まで。あとは国策による政策とは言いがたいんだ。
よって魏の鏡や呉の鏡とは言える場合はあるが、魏の様式とか呉の様式とは言えないんだよ。
このあたりを具体的に例示して行くことにする。
185 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 14:42:26
これさえ出土すれば決定的な証拠と言えるような物があるのでしょうか? 銅鏡百枚一括出土とか、時代的に墓誌が期待できないのがつらい
◆ 我が将来に無防備宣言。将来の日本をも無防備にする存在。ニート・引きこもり・フリーター ◆ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (6 (_ _) )< ボキュは格差社会の被害者なんだ!もっと優しくしろよ! |/ ∴ ノ 3 ノ \_______________________ \_____ノ,, ∩_ /,|┌-[]─┐| \ ( ノ 自立しろって言うな! / ヽ| |賊 国 | '、/\ / /
187 :
SOY :2007/02/04(日) 15:26:54
>>185 >これさえ出土すれば決定的な証拠と言えるような物があるのでしょうか?
出土していないことを前提にしての話なのであまり生産的では
ありませんが、例えば、今、古いと見られている庄内・布留の
地層から攪乱のない状態で3C後半〜4C以降に間違いないと言え
るような遺物(紀年鏡、木製品)が発見されるだけでも畿内・九
州説の論争は収束に向かうと思われます。
188 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 15:41:44
>まぁ高句麗語と上代日本語は共通点が多いから・・ ↑↑ 根拠なし!(爆笑 >倭人が江南の南方系とツングース系の北方系の混血説もあるくらいだから・・ ↑↑ こちらも根拠なし!(爆笑 百済人と高句麗人が同族という説は、396年以降に生まれたものだろうな。 >396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。 ↑ 百済・日本側から見たら、これ以降は『漢城の百済』は滅びたのであり、 存在しない(任那領内には亡命政権として存在するが)わけだが、 高句麗側から見ると、百済(漢城)は高句麗の版図内に、高句麗の属国として ちゃんと「存在する」わけである。 そして、高句麗領=百済(漢城)を支配したのは、高句麗王族であったはず。 だから、高句麗が「百済は高句麗と同族」と主張する場合、百済の原住民族が 同族なのではなく、そこを支配している移住民が『同族』なのだ。 あくまでも、390年以降の話であって、紀元前から高句麗人が住んでいた わけじゃあない(w
189 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/04(日) 16:49:04
>>158 >九州説論者の悪いところは、破綻が明白なのにしがみついてしまったことだ。
どこがどう破綻してるのか、全くわからん。
「最新のデータを加味して」卑弥呼の古墳が見つかったわけでもあるまい。
それに、俺でさえ神武天皇による九州王朝の東遷説なんだが、東遷ということは
九州王朝が近畿に都を移したという意味だろう、それじゃ九州説というべき。
−−−−−(引用開始)−−−−−
「弥生時代の奈良県域では、弥生遺跡はたくさんあり、しかも大面積の発掘がおこなわれ
ているのに、北部九州の弥生社会でのような銅鏡副葬の風習の形跡は皆無である。
(中略)ところが近畿地方で前方後円墳の築造がはじまり、絹が使われだすとともに、ほと
んどの古墳に銅鏡が副葬されはじめ、しかも二十〜三十枚の多数の銅鏡を副葬する風習も
あらわれる。北部九州の文化が伝わったのは事実とするほかない。
その背後に集団の移動を想定すると邪馬台国東遷を考えるのが説明しやすい。」
http://www.tg.rim.or.jp/~picno/index15.html
190 :
太国 :2007/02/04(日) 16:57:12
>>189 おおむね恵也の言い分は正解だが、彼は 卑弥呼=アマテラス
だから神武東遷を九州王朝の東遷と考えて主張している。
ここの1点のみは間違いだが、あとは正解だろう。
彼のいう東遷をゴリ押しするなら、古史古伝のウガヤ朝からの東遷
としたほうが正解の可能性が強まる。
191 :
九州出身 :2007/02/04(日) 17:11:34
99:九州出身 02/03(土) 17:19 其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼 〔訳す〕 その國、もともと男子を以て王となし、住まること七、八十年。 倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。 名付けて卑弥呼という。 この「七八十年」は7,80年でよい。 「共立」とは共同で設立することを表してる。 意見ある人どうぞ。
192 :
九州出身 :2007/02/04(日) 17:13:53
今日は畿内説がよく頑張ってるようだね!まずは畿内説の言い分からきこう!
193 :
太国 :2007/02/04(日) 17:14:28
>>191 まぁそんなところでいいんじゃないかい?
194 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 17:27:05
>>192 でも、ドン来いスレでは今日の畿内説は風前の灯みたいよ。
195 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 17:31:15
>>191 それって広く流布してる訳のまんまじゃないの。
おたくっておもしろいかたね。
196 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 17:38:02
どこが畿内説有利なんだか。呪いの画文帯鏡、くらいじゃないの僕は見てないけど。
TVドラマを見た上司に鏡の事を聞かれた。
>>195 は、私です。
197 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 17:38:20
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
198 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 17:39:46
>>144 さん。単刀直入に聞く。
三角縁神獣鏡は日本製かどうか。今すぐに、一言で答えてくれ。
199 :
九州出身 :2007/02/04(日) 17:42:13
200 :
九州出身 :2007/02/04(日) 17:45:38
>>195 うーん すべてひらがなにしてほしいのか?
201 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/04(日) 17:54:35
>>197 で、何?一般人は、やはり土器じゃないの?
トリポッドみたいな、鼎の類のものを言ってるのだろうけど。
よかったら、そのさきもせつめいしてみよう。
202 :
九州出身 :2007/02/04(日) 17:55:42
スサノオの九州平定の話とか知ってる人いる?
私は
>>199 で帥升=スサノオとしている。
天下を治めるスサノオは出雲・九州の主だった!
異論ある人どうぞ
>>191 >意見のある人どうぞ
スル‐だし
何もねえだよ
205 :
サガミハラハラ :2007/02/04(日) 17:59:26
>>191 倭国大乱は156年からはじまっています。男王はそれ以前7,80年だとすると、西暦76年から86年の間に即位したことになります。
ところが問題となるのは倭面土国です。その王が中国まで貢献にいったのであるから相当の勢力をもっており、其国の男王が出る幕はないことになる。
鼎立していたのでない限り、7,80年はながすぎるので2倍年暦であり、普通暦では35ないし40年とみてよい。
そうすると男王の即位は西暦116年から121年となり、倭面土国の滅亡はそのころとなる。
男王は倭面土刻を滅ぼし、倭国統一の政権となり、123年に新羅と倭を講じています。
206 :
サガミハラハラ :2007/02/04(日) 18:06:20
最後の新羅と倭を講じて、は新羅と和を講じての間違いです。 最後の行の倭面土刻は倭面土国の間違いです。
( 人__屑_) 13歳で恋愛を、18歳で就職をした。 |ミ/ ー◎-◎-) 親も奴隷で、寄生虫としての人生に生まれたことを憎んだ。 (6 (_ _) ) ただ負け惜しみを言うのはいやだった。 __| ∴ ノ 3 ノ だから愚痴はかみ殺してた。 (__/\_____ノ 「悪いのは俺でなく、社会そして親」が口癖。 / ( )) ))) 19歳で、2ちゃんねると出会った。 []___.| |生涯穀潰し ヽ 自分を相手にしない日本社会と実力を見抜けない上司と企業は糞以下と気づかされた。 |[] .|_|______) 実社会で言えば、妬み、嫉妬、貧乏人とバレてダサいから、 \_(__)三三三[□]三) ずっと2ちゃん限定で、奴隷の素晴らしさを説いて回った。 /(_)\::::::::::::::⊃:::::| 年中無休で奴隷擁護してる己に最高に酔えた。 |エロゲ |:::::::::/:::::::/ 「奴隷は高等遊民!!」 (_____);;;;;/;;;;;;;/ 本当に心の底から笑えた…。 立派な社会人になれたと希望を胸に入社した会社 自立といって一人暮らしをはじめた。 勤めてすうねん毎日上司にののしられ 同僚には抜かれ、後輩にも追い抜かれる始末。 「奴隷は高等遊民」書けば書くほど惨めな生活が強調される。 一人寂しい部屋でみじめな企業奴隷をつづけた親を思った。 僕もこのまま流行の投資家にもなれず、高級とは いえない生活をつづけやがて、ニートとなる女性一人を 性のはけ口として同じ企業の歯車を育て社会に送り出し 夢に見た自由な生活は介護施設の中なんだなと・・
>>205 『御覧』魏志倭人傳によると倭国が乱れたのは光和年中(178-183)ですが
どのように考察しますか?
209 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 18:49:44
>>158 そうだね。
三角縁なんかは、日本でのみ多種、多量の出土が続いて、森浩一が国産説を唱えて、
「王様は裸だ」と言っちゃったのに、パンツを穿こうともしない王様がたくさん居たね。
その後も日本でのみ多種、多量の出土が続いて、同位体比でも結論も出たのに、
意地を張ってフルチンのまま徘徊し続けた人が多かったね。
最新データーも無視して、フィードバックしない人たちって哀れだね。
210 :
九州出身 :2007/02/04(日) 19:04:21
倭国大乱は桓帝・霊帝の間(146年 - 189年)。
「男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年」とあるのでこの男王は武力支配。
ここの男王がなぜ武力支配かって?
まあ頭の良い人だけが解ればいいこと。
それに
>>205 さん なぜ魏志倭人伝に書かれてる文を「7,80年はながすぎるので2倍年暦であり」
としたのは何故ですか?2倍年暦なんかで逃げたらいけませんよ。
私は大乱の時期を170〜180年頃と見ています。よって7,80年前は100年前後。
211 :
九州出身 :2007/02/04(日) 19:19:11
◆ 逃がすな 甘やかすな これが恥知らずで頭のおかしいニートの正体だ ◆ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (6 (_ _) )< ボクはいつも被害者なんだ!こんな不幸な生活をさせられてるのは |/ ∴ ノ 3 ノ \_________ 親のせい!社会のせい! \_____ノ,, ∩_ /,|┌-[]─┐| \ ( ノ 甘やかされている恥知らずなんて言うな! 被害妄想なんて言うな! / ヽ| |賊 国 | '、/\ / / 怒らせると怖いんだぞ!
213 :
サガミハラハラ :2007/02/04(日) 20:53:17
>>210 つまり、倭面土国の存在です。委奴国と倭面土国は両立していないとみています。
無駄な時間使うんだったら 前向きに少しは評価される事もできますよ! ¥馬鹿¥でも ¥馬鹿¥らしいと感じても ¥馬鹿¥の前と後にでも ¥馬鹿¥が小さなポイントに 君も 少しだけ活躍だね!
倭面土国について議論でもしましょうか
倭面土国について議論しましょうか?
218 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:19:30
倭面土国について、故原田大六氏の新説がありますが、ご存知? いや、新説というと、もう古いかな。 大六氏がノートに書き留めていた原稿が、御逝去後に明るみに出たものですけど。
>>218 いえ知りません。
原田大六氏の説はホームページで1度読んだくらいであまりよくは知りません。
よかったら教えてください。
倭面土国については、まず西嶋先生の倭国の出現を読みましょう。 話はそれからだ。
221 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:28:49
勝手に読んでろバーカ
いろんな説がホームページなどに書かれてて卑弥呼は誰かもなかなか解らないよね。 主に、神功皇后説、熊襲の女酋説、倭迹迹日百襲姫説、天照大神説、日女命説、 こんなところでしょうか? 本、ホームページを読む度に違うことが書かれてるので悩まされるのが現実。
224 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:32:16
225 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:34:14
このスレに書き込んでる奴って、閑で貧乏で女にもてないクソ虫ばっか。 役に立たない薀蓄を書き込んで嬉しいか?ニートの諸君!!
226 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:37:09
神奈川県民 あんたウケルねwプラムから謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符! 乗っ取られてるやんw おれはあんたの味方だがね あれは常識なさすぎる。
227 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:38:38
SOROTTEBAKANANNDA WWWWW
>>226 敵味方などない。その発言事態が低レベルすぎる。
>>227 ありがとう ちょっくら読んでみますね
>>227 地図みたいだが・・・ほい1時間ならOKです。
232 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:47:32
神奈川県民のせいで 卑弥呼の邪馬台国がうぜえ
233 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 23:50:09
みっともない荒らしは止めろよw ROMってんだからさw
>>227 続き
原田大六さんも、このような甕棺出土地地図を、ずっと自分でつくっておられた。
発掘・発見があるたびに、九州の地図上に●で一個一個プロットされていた・・・
それで、倭人伝の末盧国、伊都国、奴国、不弥国は、だいたい読めてくるる。
唐津市、前原市、福岡・春日市、嘉麻市に比定で、これは通説と一致。甕棺が濃密に出ているわけですね。
ところが、背振山系の南、筑後川流域の平野部にも、甕棺の集中があり、大六さんはそこに目をつける。
筑後川西岸部(佐賀県)と、福岡県側の筑後川中流域に、それぞれ2国ぐらい、あったんじゃないか・・・と。
そう大六さんは、考えたわけです。
お話の途中で申し訳ないが九州出身に替わりますね。
238 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 00:08:42
>>235 訂正
読めてくるる → 読めてくる スマソ
で、原田大六さんは、「国名不明」ながらも、この筑後川流域の筑後平野に、二つの国があったに違いない、
と考えていたわけですが、ある日ふと、
「この佐賀県側の甕棺集中地帯(佐賀県神崎郡)が、後漢書にいう倭面土地国だろう!」
と思い至るわけです。
239 :
九州出身 :2007/02/05(月) 00:14:10
佐賀県神崎郡ともう一つはどこですか?
240 :
九州出身 :2007/02/05(月) 00:20:05
畿内説の人はいますか? てかなぜ学会では畿内説のが有利なのか知りたい。 三角縁神獣鏡が出土したから?まきむく遺跡が発見してから何故、畿内が有利なのか知ってる人いる??
241 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 00:21:10
242 :
九州出身 :2007/02/05(月) 00:21:45
魏志倭人伝にでてくる女王国は明らかに九州でしょ? なぜ畿内説が有利なのか誰か説いて見ろ!!
243 :
九州出身 :2007/02/05(月) 00:24:20
>>241 あれ・・原田大六さんは畿内説なの?てっきり九州説かと思ってた。
私は107年の倭国王帥升は記紀に出てくるスサノオと思ってますがどうでしょうか?
244 :
九州出身 :2007/02/05(月) 00:27:47
安本美典氏って人気あるよね。 ところで今の学会のメンバーて誰なのか知ってる人いますか?
>>243 その説には全く賛同できませんな。
あのね、帥升ってのは107年だから、
卑弥呼よりもそんなに前ではないわけだから。
247 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 00:47:42
倭面土、帥升 どちらにしても、ちゃんと 上古音、中古音で考えないと駄目だけど、 そういうソースが無いんだよね。 みんな好き勝手に、現代日本語の発音で考えている。
249 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 01:13:26
>>247 続き
興味深いのは、原田大六さんは、吉野ヶ里遺跡の発掘・発見を知る前に、亡くなられていたことです。
ご逝去が昭和60年。吉野ヶ里は昭和61年ぐらいから発掘が始められ、
平成元年の2月でしたか、マスコミに「世紀の大発見!」として、報道されましたね。
ですから、原田さんがコツコツと地図上にプロットしていた甕棺には、まだ吉野ヶ里は含まれていません。
(私が
>>227 でリンクした歴博の藤尾慎一郎氏の論文も、吉野ヶ里はまだ)
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html それでも、面土(地)国かどうかはべつにしても、弥生の国の存在を考古学的に予言した大六さんは、さすがだと思います。
遺著、『悲劇の金印』の中で、遺稿集編集委員会が、次の注記を書いています。
「吉野ヶ里遺跡について述べておきたい。……ここは原田大六先生が、生前から指摘していられる面土地国そのものである」
考古学者が思い付きで文献史の問題に口を出すからややこしくなるのだな。
前から思うんだけど 考古学や文献史学のお偉いさんたちは もっと、ネットに公開したらどうだ? 参考資料とかを... 研究結果をそのまま発表したら 誰かにパクられるかもしれないから嫌なんだろうけど 普通の参考資料ぐらいは、ちゃんと公開するべきだ。 じゃないと、ネットでも世間一般でも 初歩的な知識を知らないまま、自説を放言しまくる輩に 汚染されてしまっている。
252 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 15:46:49
>>251 今でも発掘した資料は俺のものというトレジャーハンター的な
感覚の人は多いよ。税金を使っているという感覚は強くない。
椿井大塚山古墳の大量の鏡の資料なんかは他の学者には見せないまま、
30年間以上も秘密扱いして、自分の文献に引用し続けた学者もいたりした。
そんな感じの事件が結構ある。
>>252 そもそも、トレジャーハンティングが好きだからあの道に入ったという人はスゴク多い。
税金がどうこういっても、美術工芸品として見事なものとか、歴史的にすんごく
貴重なものを見出すことができたなら、それでちゃんと成果を出したことになるのだから
ここで話は終わる。「スポンサーよ何か文句があるのか」と。
でも現実は、そうでないクズのほうが遥かにたくさん出てくるのであって、
そういったものは私物にされてしまう。特に石器とか小さな宝飾品の類が。
スポンサーだってクズまで所持保管をやってはおれないのだし、掘った人にしても
それを得られるのが儲け。貴重なものは国やスポンサーのものなのだから。
でももし、学問上は何やらわからんけど何だか凄いものを見つけてしまったら、
手前で研究を始めてしまう。どうせ誰に訊いたってわからないものなんだし、
国やスポンサーにしても何だかなといわれてるのがオチなのだから。
そんなものを「人のもの」にしてしまうのは、バカバカしいと思うじゃないの?
彼らにとっては「初めに発掘ありき。そして、訳判らないものだったら
それから学問しよう」になるのさ…
254 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 17:07:28
やっと見れるようになったか
255 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 17:36:08
>>254 おー、ほんとだ。
イライラが解消、まずは良かった。
しかし・・・、また再び、罵り合いの悪寒・・・
>>247 だからさ、その「倭面土」の読み方が
それで良いのか?ということ。
倭面土地国 (倭の面土地(めどち)の国)
これって、おもいっきり、現代日本語の発音じゃんw
257 :
サガミハラハラ :2007/02/05(月) 18:17:56
倭は上古音でヰ、面はメン、土はドでヰメンド国が正解です。 まず、倭は、隋唐以前はワではなくヰと発音していたことを認めましょう
258 :
初心者 :2007/02/05(月) 18:53:47
>>257 「ヰ」って、どういう発音なんですか?
近いので教えてください。
「土」 上古音 t'ag 中古音 t'o
最近、邪馬台国は、畿内だと思うようになったけど、 倭面土国に関しては、九州の吉野ヶ里だと思うようになった。 目達原で、ここは吉野ヶ里のすぐ近く。 で、帥升等は、定説どおりで帥升らであり、 107年、倭から複数の王が朝貢に来ていたもよう。 その中に、目達原の王の帥升がいた。
261 :
九州出身 :2007/02/05(月) 19:30:39
>>260 どうして畿内説をとるようになったの?
もしそれが本による影響なら著者名と題名教えてください。
262 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 19:48:08
>>260 >107年、倭から複数の王が朝貢に来ていたもよう。
面土国の王自身が海を渡って、洛陽まで朝貢に行った、と読めるが、そうお思いか?
前にも誰かがそんなレスしていて、えらく批判を浴びていたように記憶するが、
俺としては、きみが、「王自身が洛陽まで朝貢に行った」と考える根拠を聞きたい。
263 :
九州出身 :2007/02/05(月) 19:57:54
私は帥升107年をスサノオとしました。 一見、中国史倭人伝と記紀の人物をつなぐのは無謀にも思われるかもしれません。 しかし、割とつながるもんなんです。まるっきり名の無い人物のほうが不自然なのです。 何故か?! と言われそうですが、馬鹿な人は解らなくてよいのです。 頭いい人だけ解ればいいこと。
264 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/05(月) 20:04:47
107年がスサノオなら、神武の年代は何年相当だと考えているんですか?崇神の年代は?
>>262 誰もそんなことは言っていない。
その当時、倭王が複数、朝貢していたんだけど
その中で有力なのが、面土国の帥升だったと言っている。
彼が直接、海を渡って朝貢したとは言っていない。
あと、注目されるのは、その帥升は印綬を貰ってないということだな。
>>263 それは凄い無理な話だ。
地理的にも時代的にも無理。
>>262 誰もそんなことは言っていない。
その当時、倭王が複数、朝貢していたんだけど
その中で有力なのが、面土国の帥升だったと言っている。
彼が直接、海を渡って朝貢したとは言っていない。
あと、注目されるのは、その帥升は印綬を貰ってないということだな。
つまり、帥升は中国から完全には認められていない。
おそらく、中国から認められていたのは、57年の倭奴国(博多湾付近)の国王だったんだけど、
佐賀県か福岡県南部の国王の帥升は、倭奴国を倒したんだろう。
>>263 それは凄い無理な話だ。
地理的にも時代的にも無理。
安本の平均在位説は暴論だから信用できない。
57年の倭奴国は、福岡市。 107年の面土国は、筑後平野。 問題は、邪馬台国。 たしかに、筑後平野にも邪馬台国の痕跡らしい地名も無いことはない。 ただね、邪馬台国は、明らかに規模が違うのよ。
268 :
九州出身 :2007/02/05(月) 20:26:15
>>264 大国主が200年ごろ。
神武は220〜250年ごろの人やないかな
よく解らないが・・・
269 :
九州出身 :2007/02/05(月) 20:27:37
270 :
九州出身 :2007/02/05(月) 20:35:51
>>265-266 確かに安本の平均在位説いい加減で正確な年代はわからないよね?
暴論って言う人もいるわな。
しかし、それで大体の活躍年数が見当がつくのは小学生でも解ることだよね?
271 :
九州出身 :2007/02/05(月) 20:38:40
>>266 >それは凄い無理な話だ。
>地理的にも時代的にも無理。
とあるが無理な話かな?おれは可能とみるが。
272 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 20:51:11
畿内説に無理があると思うのは、吉備(or出雲)に関する記述が無いと思われる事。 畿内説の皆様はこれをどう考えておられるのでしょう??
>>269 おまえが小学生。
もう一度、統計学を勉強してj来い。
あのね...君がどう泣き喚こうがね、
邪馬台国は畿内で決まりなの。
なぜかは言えないけどね、今は。
そのうち分かるよ。
>>272 言っていることが分かりません。
何に、その記述は無いって?
もう、おまえら、話が通じないよ。
じゃ、なぜ、畿内説で考古学会が90%以上で固まっているか
考えましょう。
275 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:01:35
>>274 それは考古学会にボスがいて逆らう奴は学界から追放するぞとおどしているからですよ。
276 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:02:22
>>274 それは考古学会にボスがいて逆らう奴は学界から追放するぞとおどしているからですよ。
>>275 逆らう奴は学界から追放するぞとおどしている「考古学会」のボスとは誰か?
278 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:17:05
>>277 脅しもあり得るけど、単なる洗脳じゃないかな。
よく言われることだけど、畿内説はある種の宗教。
神武東遷を認めるのは皇国史観だから絶対ダメという宗教。
その宗教による洗脳で、日本でのみ500枚近く発見される三角縁をいまだに
舶載と主張し続けて、それに基づいて畿内説の年代観を正当化している。
宗教ゆえに不利な証拠は目に入らないし、思考停止に陥る。
フロイトのいう抑圧(情報拒否)のため。自分が洗脳されているという意識すら
持てない哀れな学者が多すぎる。
279 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:21:37
かなり前の話であるが、新聞に(かなりおおきな特集であったが)考古学界のトップのようなかたが、「考古学会では屋m差大国九州説を唱える者は一人もいない」 と発言しておりました。その口ぶりから、かなり強圧的な人だと感じました。 残念ながら今になってこのように聞かれるとは思っていなかったので、新聞や日時人名は記憶しておりません。 切り抜いておくんだったと反省しております。
>>278 あのさ...話が通じないんですけど...w
何も畿内説だからって、神武東遷を信じてないとはならないと思うんですけどw
そこが九州説の阿呆さ加減なんですよw
問題は、神武東遷は卑弥呼より前だということ。
281 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:30:54
神武は東遷ではありません。東征です。
282 :
277 :2007/02/05(月) 22:33:07
>>275 に再度尋ねる。
逆らう奴は学界から追放するぞとおどしている「考古学会」のボスとは誰か? 氏名で答えてくれ。
283 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:39:10
だから忘れてしまったといってるでしょう。 切り抜いておくんだったと残念がっているのです。 太っためがねをかけた人だったような、いや記憶があやふやなので、どんな人物だったかは。 しかし、その発言だけはしっかりと記憶しております。
284 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 22:42:29
わたしも先生方のポジションが絡んでるように思えます。 悪く言えば脅し・ニラミを利かせてるといいましょうか。 有効な論が無いのに何故かいつのまにか、勝手に、畿内説有利となってるのです。 どうしようもないですね。
中国の学者が言っていたけど 神武東征が事実としても それは卑弥呼のいた時代よりも前だろうと。 少なくとも、卑弥呼より後に 神武東征のようなことは無かっただろうと。 あとは、卑弥呼の政権が畿内か九州かのどっちかで 畿内なら、その当時、ある程度、畿内から北九州ぐらいまでの 連合政権が誕生していただろうし、 九州なら、その当時、畿内と九州は別々に歩んでいたんだろうと。
286 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 23:13:52
畿内説はいわば宗教。ムラなのである。暗黙の掟に逆らえば。君。わかってるね?
負け犬九州説の遠吠えが聞こえるのは ここのスレですか?w まあ、心配しなくとも、 107年の帥升さんに関しては 九州というのはガチですよ。
九州説の人が放つ、このビグ・ザムのドズル並みの強い怨念はどこから湧いてくるのだ
289 :
九州出身 :2007/02/05(月) 23:46:35
畿内説のバカはほっといて・・ 書紀に天照大神:倭大国魂の二神を天皇の御殿の内に御祀りした。 とある子の二神はどの神に該当する?
考古学会に文献史学を論じられてもなあ、という気がする。 データだけ出してくれればいい。 (いや、煽りじゃないよ。役割の話です。)
291 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 00:29:08
292 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 00:45:55
竹石圭佑…名古屋、20歳小・中学生を狙う強姦魔だった。
293 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 00:54:11
>>279 >と発言しておりました。その口ぶりから、かなり強圧的な人だと感じました。
大学教授にはこんなキチガイみたいなのが多いようだぜ。
脚気菌を発見したとかホザイテタ東大教授のおかげで、日清戦争や日露戦争で大量の陸軍兵士が
死んでるけど、海軍は死んでません。
大作家の森鴎外(森林太郎)も、キチガイの仲間だったんだよな!!!
−−−−−(引用開始)−−−−−
1885年から1886年にかけて、東京大学の緒方正規が「脚気の病原細菌を発見」と
発表したことから脚気の原因についての騒動が始まった
http://www.microbes.jp/aimai/kurashi/fl130.htm
294 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 00:58:54
>>283 それはたぶん白石太一郎氏。
>>284 ところが君らが”ドン”とか思っている白石さんの鉄ルート簒奪説は
ものの見事に石野、寺沢、柳田、村上などに論破された。
他の大御所である樋口さんも森さんも然り。
だから畿内説を仕切っている大御所なんて居ないの。
妄想だけならともかく、なんでそういう嘘つくかなぁ。
295 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 01:01:36
>>284 >悪く言えば脅し・ニラミを利かせてるといいましょうか。
俺の友達に、子供が名古屋大学の教授になり損ね他の大学に教授として行かれた方がいる。
その方がいうには、
頭の良い人間でも、教授になるには数億円の金が必要だ。
教授になるには上司に気に入られて、ゴマを摺っておかないと助手の地位からナカナカ上がれん。
大学というのは、それだけ隠れた利権集団だと言われた。
296 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 01:03:38
>>293 君だけじゃなく九州説論者は学歴コンプレックスでもあるのかね?
同じ九州説でも決してみっともない愚痴をこぼさない高島忠平を見習って欲しいものだ。
297 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 01:09:15
>>295 それはおそらく息子が教授になれなかった言い訳。
常識的に考えて数億円も教授の地位に出す馬鹿は居ない。
だいいちどうやって回収するの?
何よりもそんなヨタ話を信じる君の思考回路がおかしい。
その一点だけでもう君の説は信じるに値しないと判断するのが世間というものだ。
298 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 01:20:02
>恵也 ◆o4NEPA8feA その例え、どっかで読んだ覚えがあると思ったらプラムが同じこと書いていたやん。 おもいっきり一人二役がばれたな、プラムw
300 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 01:28:11
>>297 >だいいちどうやって回収するの?
回収する方法があるから、教授の地位にそれだけの金額が必要になるの。
あなたは世間知らずのニートじゃないの?
「白い巨塔」でも読んで見たらどう?
少しは実社会がわかるよ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
教授選挙で、お金がとびかっていたのを覚えている。見ていくうちに、どんどんと
ドラマにひきこまれていった。こんなにひきこまれたドラマは久しぶりだった。
http://www.7memo.com/kyoto.htm
301 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 01:29:20
>>299 >おもいっきり一人二役がばれたな、プラムw
俺はそんなセコイ事はしない!
302 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 01:31:26
>>296 >君だけじゃなく九州説論者は学歴コンプレックスでもあるのかね?
いや、俺は全くないと自覚してる。
学歴より実績だよ。
実績のある方にはそれなりに、俺にもコンプレックスはあると思う。
303 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 02:01:26
>>262 後漢書には次のように書かれている。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見
これを素直に読むと、倭国王帥升等が生口160任を献じ、請見を願う、
となる。
どうして帥升自身が行ってはいけないのかその理由のほうが聞きたい。
>>300 「白い巨塔」って、いつの話だw
具体的に回収方法を述べよ。そんな見え透いた嘘で世間を騙せると思うな。
そんでもって君、なぜ
>>301 でプラム宛の指摘に恵也で答えたのだ?
頭に血が上ってまた失敗したのだろうがなw
305 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 02:11:19
>>303 つづき。
倭人伝には、卑弥呼が魏に使いを送った様子は次のように書かれている。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻
「倭女王は、大夫の難升米等を派遣し、郡に詣で…」となる。
帥升等の場合と違うのは歴然。
もう一度聞く。どうして帥升自身が行ってはいけないのか?
>「白い巨塔」 そのネタもかつてプラム名義でやってたじゃんw
307 :
262 :2007/02/06(火) 02:29:59
>>303 >どうして帥升自身が行ってはいけないのかその理由のほうが聞きたい。
あなただったか。
いやなに、当スレか別のスレだったかは忘れたが、倭面土国王の帥升自身が中国(洛陽?)へ
渡海して朝貢したんだ──との趣旨の、あなたのレスを見たとき、じつは、ハッとしたのだ。
他の人は、「バカな。使節団を送ったんだよ」と一笑に付していたが、私は意表をつかれる思いがした。
あなたの説、一理あると思う。もう少し意見を聞きたい。たとえば、倭面土国は何処か、など。
308 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/06(火) 05:12:19
倭面土国って・・・。学生の頃授業で「倭」という字は、醜い猿のような顔をした、 というような軽蔑の意味も含まれていると習った記憶がある。 委という文字のもともとの象形文字が、猿のような顔を表していると。 真意の程はともかくとして、倭面土国というのは「猿のような顔をした土人の国、」と取れないこともない。 つまり遅れた土人の国という蔑視だ。
309 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 06:42:14
ちょーwwwwwwww!教授になるのに数億円だってwwwwwwww アホだwwwwwwコイツwwwwwwwwww 数ある学問の中でもビンボーランキングの上位に常に位置する歴史学の しかも金食い虫で有名な古代史がらみの考古学が何で儲かるんだw 考古板のこれ読んでみ。 【考古学者って儲かるんですか?】 あまりのビンボーぶりに泣きたくなるぞ
>>303 古代中国語をちゃんと勉強しなおしましょうねw
311 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 09:15:43
倭人は小柄な顔が男前でない人類で、バカにされてました
312 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 09:26:58
プラム=恵也は
>>301 で確定か。
いやはや、なんともさもしいね・・・
313 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 10:25:30
そんなのみんな知ってるよ 知っていながら笑い者にしていたのに、いまさら何いってんだw
314 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 10:25:58
馬鹿コテ天国ですなW
>>313 笑いものにして楽しいの?俺全然楽しくないけど、君頭大丈夫?カキコミで笑い飛ばして馬鹿じゃないの?本当に楽しむなら、住所割だし本人の前で直接笑い飛ばしてやった方がスッキリすると思うし、その方が健全。さあ。やってこいよ。そして結果報告投稿しろ
俺はその方が楽しいな。
なにビビってションベン漏らしてるんだ さあ報告しろタコ。お前みたいのが本当のウザイ奴
316 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/06(火) 11:24:37
>>294 微妙に同意できるww
白石→石野→寺沢→柳田→村上 の順かww
あのグループも村上辺りまで行くと中立性が結構あるね。
あの人は年代を具体的に言わないから。
317 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 12:03:17
>>315 笑われるような恥ずかしいことを毎日やる馬鹿が一番悪いんじゃね?
つーか名無しで乙、プラム=恵也w
318 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 12:06:28
>>316 違う違う
白石←(反目)→石野、寺沢、柳田、村上が正しい。
村上ははっきりとホケノ山の実年代を230年ごろと明言している。
北條も同じ意見。
319 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 12:23:27
うわー、また人大杉じゃん。w
320 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/06(火) 12:27:01
>>318 > 村上ははっきりとホケノ山の実年代を230年ごろと明言している。
そうか。じゃあ、全員似たようなもんだね。
ホケノは330〜350頃でしょ。
というか、正当な考古学者の殆どが 250年前後に集約されてきているでしょう・ 350年なんて言う人は皆無になってきている。
>>315 お前の論理はおかしい、それは狂人の論理だ。
分りやすく例え話をしてやる。
街角で大声で会話している奴がいた。
だが良く見ると男が一人で立ち位置を変えながら、一人で何役もこなしている。
演劇の練習かと思ったが、そうでもない。目がマジだ。
それを見た人たちの反応は・・・
1、アブナイ奴だと思って近寄らない。遠くから眺めるか、ひたすら無視する。
2、そのうちの誰かが勇気を出して、または親切心から「あなたは誰と会話しているのですか?一人しか居ませんからやめなさい」と諭した。
ところが「一人じゃない!一人に見えるのはおかしい!」と言い張る。流石にこの時点でヤバいと全員が気付く。
3、「病院行かせたほうがいいんじゃないか?」「この人可哀相な人だよ、ほっといてあげなよ」などの会話が洩れ始める。
4、結果、ほとんどの人がその場を離れる。
5、噂を聞きつけてきた野次馬が、笑いながら煽る。
今は5の段階なんだわ。ところがお前はこういう。
>住所割だし本人の前で直接笑い飛ばしてやった方がスッキリする
それは陰で笑っている奴らより、何倍も残酷で人でなしの行為ではないか?
323 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 12:51:38
>>321 >350年なんて言う人は皆無になってきている
少なくとも学者では一人も居ないね。
俺もここで初めてそんな主張を読んだ。
調べてみたがネットの様々なホムペでもほとんど見かけない。
つまり学会どころか素人愛好家すらも有り得ないと考えているようだ。
324 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 12:54:13
突っ込み不要だなW
325 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 12:59:05
>>322 君の理論もおかしい。
なりすましの事実証拠は掴んでいるのか?
掴んでいるなら衆知に晒し、事実認定すべきだろう。
憶測でのカキコなら、君が一番の荒らしだ。
326 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 13:07:13
衆知に晒されて、思いきり指摘されてるじゃんw
301 名前: 恵也 ◆o4NEPA8feA 投稿日: 2007/02/06(火) 01:29:20
>>299 >おもいっきり一人二役がばれたな、プラムw
俺はそんなセコイ事はしない!
304 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/02/06(火) 02:05:11
>>300 「白い巨塔」って、いつの話だw
具体的に回収方法を述べよ。そんな見え透いた嘘で世間を騙せると思うな。
そんでもって君、なぜ
>>301 でプラム宛の指摘に恵也で答えたのだ?
頭に血が上ってまた失敗したのだろうがなw
常識的に見て明白だと思うが。
100%でないにしても、極めて疑わしいとは少なくとも言える。
>>326 もプラム
根拠は【カキコ】などという死語を臆面も無く使う点。
>君が【一番の】荒らしだ。
【一番】なる形容詞を使う点。
これも100%とはいえんだろうが、相当に疑わしいな。
328 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/06(火) 13:14:37
>>323 三角縁を国産と考えるとホケノ山は300以降になる。
三角縁舶載説だと画文帯(180〜240頃)、三角縁(239頃〜)となるが、
三角縁国産説だと、三角縁は330〜360頃に開始となり、
画文帯は300以降に開始とみる方向になる。
私は画文帯を320頃開始、三角縁を350頃(〜360頃)に開始とみて、
ホケノ山を340〜350頃と見ている。
三角縁舶載説が宗教的になるのは、三角と画文帯の年代が紀年鏡で
ピンポイントに遡上できる利点に固執しすぎるからだと考えている。
あと、239紀年三角縁より240紀年三角縁の方が古い型式であるなど
紀年鏡の年号の信用性は国産、舶載という以前に問題がある。
>三角縁国産説だと、三角縁は330〜360頃に開始となり・・・ まずなぜ国産説だとその年代になるのかが不明。 >三角と画文帯の年代が紀年鏡でピンポイントに遡上できる・・・ これまた何十年前の見解を持ち出してきたんだか 畿内説自身からとっくの昔に否定された小林編年と伝世鏡理論だぜ、それ。 >紀年鏡の年号の信用性は国産、舶載という以前に問題がある だからぁ畿内説もそう考えているんだって。 福永、西川などによる編年が現在のデフォルト。 ここの九州説が批判する畿内説は、とっくに消えたものばかりだとの指摘は正しいみたいだな。
330 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 13:52:46
>>328 >239紀年三角縁より240紀年三角縁の方が古い型式である
どこがどう古い形式なのかを、もうちょと詳しく説明キボンヌ
そいうこと書いてるホムペあるんなら、リンク貼ってくれたら嬉しい
>>327 「カキコ」や「一番」をよくプラムが多用するのは、君が知ってるように新人じゃ無い限り衆知の事実。
君が指摘出来ることは証拠にはならないし、ただただコテ利用の悪戯に過ぎないと言う事だ。
詰まらん言い掛かりで、スレを荒らすのは止したまえ〔見苦しい〕
プラムと恵也では、スレ内容がまるで違い過ぎる。下司の勘繰りこれに尽きる。
332 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:02:34
>>323 畿内説の言い分は、だいたいが、○○がそう言っている。
そんなことを言う学者は一人もいない。
こんなのばっかり。
ホケノ山古墳が3世紀半ばというのなら、その理由を言わなくちゃあ。
挙証責任を押し付けてばかりいるのは、まあ卑怯者かな。
333 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:04:06
>>331 >プラムと恵也では、スレ内容がまるで違い過ぎる。下司の勘繰りこれに尽きる。
禿同だよ。もうこんな話題やめよう
学会のボスとかなんとかの話題も、ちとも面白くないよ
もっと学問的なこと、みんなで書こう
いや全く違う主張の者があたかも二人いるように使い分けて
盛り上がっているように見せかけているから非難されてるんだよ。
だから指摘する者が荒らしなのではない。
むしろやらせを排除したいという点で、真っ当な意見ではないか。
とマジレスするが
>>331 もプラムなんだよなぁ・・・
あんたの文体、特に倒置法の使い方に特徴ありすぎw
335 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:11:56
江戸時代からまったく進歩しない邪馬台国論争 おめでたいのが多いな
>>333 禿同の訳無いだろw
たのむから見え見えの自作自演はやめてくれって
あのな邪馬台国関連は昔から厨房が多い、それは事実だわ。
しかしまともな議論が戦わされて大いに盛り上がった時期も確実にあったんだ。
あんたの自作自演のおかげで、そういうまともな論者が去っていっただけであって
あんたがそれをやめれば、少なくとも正常化に向けての大きな前進になるんだよ。
今が異常な状態なんだわ
あんたに言われんでも、こっちは十分に学問的な話をまともな人と一緒にしたいんだ。
だからもう荒らしはやめてくれないか、プラム。
プラムならプラム、恵也なら恵也とコテ打っている。
338 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:15:12
完全に証拠あがってるやん>自作自演&なりすまし
339 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:19:24
>>337 あんたアホですかw
>プラムならプラム、恵也なら恵也とコテ打っている。
【誰が】コテを打つんだ?
なぜ名無しのあんたがそんなこと言い切れる?
そんなこと言い切れるのはこの世に一人しかいない。
まだ言い逃れする気か?お望みなら徹底的にやるぞ。
正常化への千載一遇のチャンスだ。
340 :
333です :2007/02/06(火) 14:20:58
>336 ぼくはプラムさんでも恵也さんでもないんだけどな でも信じてくれないのかな・・・ まいいや、 それよかさ、卑弥呼が誰と同一人物だったか、あなたのその眼力で追及してよ そっちを禿しく読みたいよ
>>340 よし少し真面目に答えるか。
誰と同一人物なんて、まるで意味が無い。そんなことを真面目に論じた仮説は今では無い。
文献史学の立場からも、記紀と中国史書における登場人物の摺り合わせはすでに学問として行っていない。
そういう面白そうなことは学問板ではなく創作板でやってくれ。
学問板というのは、そういう面白くない話をするところなんだ。
だから君の希望は激しく板違い。
343 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:32:39
>>321 ホケノ山古墳の場合は、発掘当初、二重口縁壺という土器が出土した。
これは庄内期に通じるものということで、3世紀半ばという年代が与えられた。
しかし、一般的には木槨は、布留0から布留1というのが通説らしい。
さらに、土器も布留0式が大量に出土し、庄内期はありえないということになった。
だいたいわかると思うが、古墳の場合は古いものが出ても年代の参考にはならない。
現代の人の棺の中に、江戸時代の小判が入るようなこともあるからである。
だから、一番新しいものが年代の参考になる。
寺澤編年でも、布留0式は300年頃とされるから、ホケノ山古墳は
4世紀になってからということになるんじゃないのかな。
なんせ、ホケノ山古墳の場合は木槨だから。誰かの口癖ではないが、
倭人伝には、棺はあっても槨はないと書かれているわけだし。
>>343 >棺はあっても槨はない
中国人からみれば、倭の陵墓の槨なんて
槨のうちに入らなかったんじゃないのか?
中国の皇帝の槨なんて凄いぞ、スケールが。
345 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:38:17
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
346 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:38:40
>>343 訂正
>しかし、一般的には木槨は、布留0から布留1というのが通説らしい。
木槨ではなく、木棺でした。
347 :
333です :2007/02/06(火) 14:39:52
>>342 だって「謎の女王卑弥呼は誰か?」がここのスレタイなんだよ
板違いと言われても・・・ 困っちゃう・・・ (TヘT)
あ、出なきゃいけないからまたね〜 (^^)/~
>>343 >二重口縁壺
それは墓室内では無く集濠からの出土。
布留0は墓室内(正確には天井が抜けて落盤したとみられる)
知っていながら書いているだろう、あんた。
寺澤が布留0は300年頃だと、いつどこで述べた?
王権誕生以降は一貫して250年から280年と主張しているぞ。
最近では更にさかのぼる可能性があるとまで言っている(これはこれで問題あるが)
素人騙しが通用すると思うなよ。
>>339 お前一人で舞い上がってパーティーしてないか?
350 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:45:41
>卑弥呼は誰? 学問的に答えるならば、卑弥呼は固有名詞ではない可能性が高いってことだね。 それ以上は既出のように、学問板でやる内容ではない。 オキナガタラシヒメやらモモソやらヤマトヒメ、どれでも好きな奴にあてはめて、面白い小説を書いてくれ。
351 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:51:28
えらく盛り上がってるな。 これは九州説VS畿内説といった趣きではなく 学問板正常化VS妄想大好きの戦いだね。
プラムさん一人で頑張ってるみたいだし、徹底的に追究し、盛り上がるならパート三でやってよw ここでやられると迷惑なんだよね。
353 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 15:01:35
>>348 いや、布留0式は、集濠から出土しているらしい。
調査概報では下層・中層・上層の土器がいずれも布留0段階となっているらしい。
(桜井教育委員会・橋本輝彦氏)
寺澤薫氏の最新邪馬台国事情という本によると、布留0式は、西暦300年
頃に始まっているようだ。この本がいつ出たのかはわからないが。
まあ、都合が悪くなるとどんどん変わるのだろうが。
354 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 15:07:45
355 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/06(火) 15:19:29
356 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 15:22:58
>>355 散々相手しておいて今更忙しいって・・・
何なんでしょうねぇ、このひと
357 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 16:11:24
急に静かになったが、古墳の年代推定について一言しておく。 墳丘上に供献された祭祀土器であれば、古墳築造→埋葬→祭祀土器供献 が、一連の連続した流れの中で 行われたと思われるから、そういう祭祀土器は、古墳の築造(埋葬)年代とほとんど違わない、と推測できる。 ホケノ山の二重口縁壺はこれに該当する。年代推定の、最重要資料である。 しかし、周濠やその周辺で見つかる土器は、そんなわけにはいかない。「廃棄」という可能性があるからである。 いまの粗大ごみの収集日を思い浮かべてもらえばいい。最新の物も捨てられているが、明治のころの古時計やら 江戸期かもしれない火鉢や徳利の類いも、ゴチャマゼで廃棄される。 周濠やその周辺で見つかる土器の中には、古墳の築造よりも前に作られたものも、あるかもしれない。 たまたま周濠が掘られ、水が溜まった後、「ごみ」として捨てられた可能性もある。古墳の年代と関連づけるには、 相当の慎重さが必要である。
358 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 16:25:12
>>357 纏向石塚や勝山は、太平洋戦争時に高射砲陣地として墳丘上部が削平されていた、というから、
墳丘上に供献された祭祀土器が見つかるかどうか、はなはだ心許ない。石塚は削平が過ぎたようで、
埋葬施設もよくわからなかったようだ。
それでも墳丘周辺から見つかった土器等で年代推定をしているが、
ホケノ山のように墳丘表面(墓槨内に落ち込んでいても)に据え置かれた二重口縁壺のようなわけには
いかないことが、ご理解いただけるだろう。
(墳丘封土内で見つかる土器も、年代推定には二次的資料であり、扱いには慎重さが必要)
プラムの自演や複数ハンドルの使い分けは周知。 少なくとも自演をしたことがあるのは、本人も認めている。 分かる人には分かると思うが、ちなみにかれは虫でもある。 そして残念なことに老教授にも自演癖がある。 知識に敬意を表して誰も指摘しないだけで、これも周知。
360 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 16:43:02
>>358 箸墓古墳の場合は、墳丘表面から次のようなものが採集されている、と宮内庁が報告している。
@宮山型特殊器台(と壺)、 A都月型円筒埴輪(と壺)、 B土師器の底部穿孔壺、C須恵器
これは何を意味するかというと、古墳築造後、墳丘上で土器を備献する祭祀が、埋葬直後だけでなく、
そのあとも時間をおいて、ずっと続けられていた(あるいは時々に行われていた)ということだろう。
こういう場合は、箸墓の年代推定は、当然なことだが、
「墳丘上に据え置かれた祭祀土器のうち、もっとも古いもの」
が第一の資料となるのである。すなわち、宮山型特殊器台(と壺)である。
>>343 が、「一番新しいものが年代の参考になる」と書いているが、盗掘がなかった密閉された墓室での
一括出土資料であれば、全くその通り。だが、墳丘上とかのオープンな空間では、違った考え方、思考方法も
必要になってくるのである。考古学を初めて習う人は、どうかこのような点を混同しないでほしい。
>>359 根拠の無い憶測でものを語り、スレの混乱を促進する事なかれ
362 :
訂正 :2007/02/06(火) 17:02:53
363 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 17:30:25
老教授の自演は知らんかったなあ どれだか教えてくれるとうれしい
364 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/06(火) 17:50:54
>>304 >具体的に回収方法を述べよ。
当事者でもないのに、そこまで分かるか!
アンタはロクに本も読まない、世間知らずの馬鹿に過ぎん。
氷山の一角さえあなたには見えないのだろうね。
−−−−−(引用開始)−−−−−
安部氏は「引率者」として若い血友病専門医らを同行、費用は製薬企業側が負担した。
同会議に参加した「十数人」の費用として、安部氏の主宰する家庭療法委員会名義の
預金通帳から1316万1500円が旅行会社に支払われ、その支払いと重なる時期に血液
製剤メーカー4社から1000万円以上が同口座に入金されていた(97年7月7日、東京地裁安部公判)。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/cat24/
365 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/06(火) 18:01:28
>>330 三角縁の変遷は各説乱立ではあるが、基本的には、「オリジナル」を想定して、
それが簡略化される方向で新しくなるということは、大体学説でも一致している。
抽象的な図案が具体化して「オリジナル」に近付くのはおかしいから。
これを前提とすると、239紀年鏡で、外区斜面の鋸歯文の省略が生じているのは、
後期以降に生じる現象という見方になる。それ以外にも省略が見られる。
但し、岡村のように、短期間での大量生産のなかで「逆転現象」が生じたとする人も
いるけど、かなり苦しい説明。
舶載説には、図柄の変遷を出土年代に対応させるニュアンスも見られるが、それだと
「伝世」とは言えないはず。順番に伝世したのか。
国産が舶載の変遷のなかに組み込まれるような考えも、変。リアルタイムで並行?
「区別不能だから全部舶載」という車崎の潔さは認めるが、ふつうは逆だろ。
366 :
九州出身 :2007/02/06(火) 21:07:27
今日はプラムの話題で盛り上がってるね。(笑) 女々しいプラムはホっといて・・・ 『後漢書』(巻八十五 東夷列伝第七十五) 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。 安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。 だれか訳せる?
367 :
九州出身 :2007/02/06(火) 21:49:09
『後漢書』(巻八十五 東夷列伝第七十五) 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。 安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。 漢訳 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。 倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。 安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。 倭奴國は極南界とあるのでこれは九州を指す。 問題は帥升らである。
368 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 22:10:14
俺も老教授の自演はそっとしておこうと思ってた。プラムも放置してるけど、それは別の意味w
な〜んだ、みんな分かってたの。従者まで自演するところが微笑ましくて突っ込めなかったww プラム氏の原語解釈ははっとするところもあって、いい。どうみても恵也とは別人だよ。
371 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 00:00:25
[713]日本@名無史さん<>
2007/02/06(火) 22:05:14
>>682 畿内説はコテ無しでもすぐ誰か分かる。
「既に論破」・・・「それは既に論破されている。」が口癖。論破された理由は不明。
「既に解決」・・・既に解決済みという反論も好きだが、解決した理由は常に不明。
「それ改説」・・・森浩一なども都合が悪くなると、「改説した」ことになる。
「白石叩き」・・・白石だけ畿内説から分離してバカにする。
「反安カルト」・・・安本が大嫌いで、特に在位平均年代論には脊髄反射。
「連投レス」・・・一人で多数派工作。時間帯と文体を変える暇を惜しむ。
「マキムク厨」・・・とにかくマキムクはスゴイらしい。
「しょうゆ」・・・ソースは出ない。
但し、全部同一人。
>>682 の作者。
[714]九州ですが ◆uZFVMLIhZI <>
2007/02/06(火) 23:17:03
>>713 しかし笑うー。みんな真剣に議論してるのを一蹴するかのように。
九州ですがさんですか? さすがです。
[717]日本@名無史さん<>
2007/02/06(火) 23:45:44
ひどい自演を見たので皿仕上げ
372 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 00:02:04
九州ですが ◆uZFVMLIhZI 06/10/18 15:20:25
俺はケツ感じるまで2年かかりました
最初はこんなんありえへんってくらい激痛だったけど
今じゃモロ感じまくってます。なので
痛いのを我慢して
>>1 さんも、回数こなしてみて下さい
その日の体調、相手が自分のタイプか
タチのチンポの形、大きさ、テク、ローションの種類
などでも左右されると思いますが頑張って下さい
>>20 間違えた。。。名前とトリップは忘れてください
自演推理の能力をフルに使えば邪馬台国問題なんぞすぐ解決。
374 :
九州出身 :2007/02/07(水) 01:06:47
375 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 01:30:11
>>243 九州出身さんへ
>あれ・・原田大六さんは畿内説なの?てっきり九州説かと思ってた。
そうですよ。よくそういう勘違いしてる方、いるみたいですね。(苦笑)
原田さんは、笠井新也氏の「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫」説に、かなり以前から賛成しておられました。
ただ、ご著書、『邪馬台国論争』(1969 三一書房)の時点では、箸墓は卑弥呼の墓ではない、と言っておられます。
それが変化したのは、『卑弥呼の墓』(1977 六興出版)からで、明確に箸墓=卑弥呼の墓説に変わられました。
箸墓=卑弥呼の墓は、やはり笠井新也氏(元徳島大教授)が太平洋戦争中に初めて提唱した学説ですが、
考古学者としてこれに賛同したのは、原田大六さんが最も早く、一番乗りのお一人だったのではないでしょうか。
それまでは、考古学界ほとんど一致して、「古墳時代は3世紀末もしくは4世紀から」としていましたからね。
原田さんが箸墓古墳を3世紀中葉まで繰り上げたことは、考古学界の常識に風穴を空けたという意味において、
大きな出来事だったと思っています。
376 :
九州出身 :2007/02/07(水) 01:33:23
>>369 >>367 私も最近になってプラム&九州ですが以外の人間が真ともだと気付かされたばかりなのですが、
もう彼等の話はやめましょう。どうでもよいです。
本来の論争進めるべきと思います。
それより永初元年(107年)、倭国王帥升等についてみなさんの認識をききたいです。
私はこの帥升を出雲スサノオとしています。
倭面土国王,帥升はよく耳にしますが、この「面土」は解析すれば表の土となり
九州以外の土が想像されます。
みなさんどうですか?
377 :
九州出身 :2007/02/07(水) 01:53:56
>>375 箸墓ですか・・・初めは疑ってみましたが、私には卑弥呼の墓が特殊器台形埴輪が
出土された箸墓だとはどうしても思えないのです。
原田大六が3世紀中葉まで繰り上げたのはなぜかご存知ですか?
378 :
九州出身 :2007/02/07(水) 02:03:01
>>371-372 邪馬台国論争を考えるとき仲良しこよしは必要ないと思いますが、くだらないレスをするのも
どうかと思います。
もう少しまともなレスをするようになさい。
379 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 02:25:05
380 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/07(水) 04:09:28
えぇーと、可也スレが進んでしまいましたが
>>164 えぇ、ただ、千〃速日女命は、
古事記の孝霊妃の春日千千速眞若比賣の子の千千速比賣命
倭迹〃日百襲姫命は勿論、
古事記の孝霊妃の意富夜麻登久邇阿礼比売命の子の夜麻登登母母曾毘賣命
ですので、この勘注系図の九世孫の二名は孝霊天皇の一世下に付くべきだと云う事は断定できます。
孝霊天皇は
>>110 でも触れたように、本来は瓊瓊杵尊五世孫相当の筈です。
そうすると、孝霊の子は瓊瓊杵尊六世孫で、瓊瓊杵尊七世孫相当の崇神の一世上になりますよね。
書紀に話を移して、一世約三十年説単純計算すれば、崇神の治世年間に
当時の崇神より約三十歳年上の(紀)倭迹迹日百襲姫命が崇神十年に亡くなったと云う筋書きです。
以上のように孝霊の位置関係から、
勘注系図の九世孫の注釈は、六世孫にシフトさせても妥当だと見るべきでしょう。
そして本来のその六世孫の女性は、海部氏の伝承で「日神」の神格と習合される人物だったと云う事です。
ここでは「天照大神」ではなく「日神」です。
381 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 05:42:00
>>344 あんなのだけが槨とすれば、倭には槨は無い事になる。
しかし隋書倭人伝に「人を葬るに棺槨を以ってする」とあるからその限りでないことは明白だ。
382 :
サガミハラハラ :2007/02/07(水) 08:28:49
>>376 倭面土国は博多湾沿岸を中心にして存在しました。
帥升はシュセンと上古音で発音します。現在周船寺の周船という地名にのこっています。
倭面土はイメンドとよみます。土は国の意味です。ですからイメンの国が正解です。
イメンは訛であって、正しくはイマエです。マエがメーとなまります。
お前、手前がオメー、テメーとなるごとしです。
よってこれは、倭前の国のことです。つまり、倭の前に当たる国という意味で、
大陸に向いた博多湾沿岸がピタリと該当します。
シュセンは北部九州訛なので正しくはスセリです。これはニニギノ命の嫡男の(ホ)スセリノ命のことです。
383 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 09:27:17
記紀はフィクションなので解毒は不可能ですよね
384 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 09:46:19
>>382 サガミさん
イマエが転訛し(イメー)に、イメーがイメンになり倭面になることはありません。
イメンはあくまでも(イメム或はイマム)の転訛であり、
イマエ(イメー)とイメン(イメム)を結び付ける事は 無理かと
余りにも悠意的な、しかもイメージ刷り込みかと考えますが。
385 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 09:56:39
それに、 「倭面」を(イメン)とするなら「倭傳」は(イデン)になり「倭人」は(イジン)ですか? 詰まり、 「倭面」は(イメン)と読ませないと、自説に支障をきたす為の処置でしょうか?
386 :
サガミハラハラ :2007/02/07(水) 10:00:09
問題の一つは、間に入った通訳の技量という問題もあります。 北部九州訛の言葉であったようであるが、倭人が訛っていたのを通訳したのか、 通訳が北部九州訛であったのか等の問題もあります。
九州説の人間なら、倭面土国を素直にヤマト国と読めばいいのでは? 当時はイメド国だったかも知れないが、最終的にヤマト国に変化したと。 何か不都合があるのか?
388 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 10:16:45
>>386 サガミさん
>通訳の技量
その考察が世間で通用するかどうかは、サガミさん御自身が一番知っている事。ま、小学校の授業の中ならOKでしょうが
>>384 >イマエが転訛し(イメー)に、イメーがイメンになり倭面になることはありません。
ソースをどうぞ。
「オマエ→オメー」などの連母音変化が起こり得ることは、音韻学の基本なのですが。
390 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 10:22:41
>>387 この場合、
「倭面土」は書物の世界ですから、(音韻)よりも(表意)を重視すべきかと
後世の読み人は、歴史を聞かされるのではなく、書物を読み知る訳ですから。
391 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 10:33:20
>>384 前から気になっていたのだが、悠意的というのは、恣意的かな?
>>389 倭人伝にある卑弥呼は魏から「倭王」と呼ばれたが、都するところは邪馬台国。
後漢書の帥升は、「倭国王」で、同時に倭面土国の王とすれば整合性がある。
つまり、帥升は倭面土国の王であり、倭国連合の王でもある。
当時の中国人が地名を聞いたとき、「倭面土国」と聞こえたものと、
少し後の中国人に邪馬台国と聞こえたものが同じということもあるかも
しれない。となると、邪馬台国は、ヤマト国だった可能性もあるかも。
つまり、倭面土国と邪馬台国は同じ。同様に、大和も同じということで
東遷説が出てくる。
392 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 10:35:53
>>391 指摘ありがとう。
「恣意的」では
“思いつき”になってしまうので
「悠意的」
深く考え過ぎと、
述べたかったのです。
394 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 11:43:39
>>391 そう。だから九州説は倭面土国を素直にヤマト国と読み、
東遷したといえばいいのに、なぜそれをしないのかと。
>>393 魏志倭人伝に出てくる数十カ国に国名に意味があるわけじゃないでしょ?
396 :
サガミハラハラ :2007/02/07(水) 13:16:03
ですから倭は当時ヰと発音していたのですよ。 ワメンドがヤマトに変化することはあっても、ヰメンドがヤマトに変化することはありません。 更に、奈良県のヤマトは神武の故郷の山門(ふくおかし西部)の地名を移植したのです。
397 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 13:38:08
imendo→iamato→yamato
398 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 13:39:47
>>396 サガミさん
当時(ヰ)と発音していたなら(ワメンド)も(イメンド)も関係なく、(ヰメンド)であり、倭人は(ヰジン)であり、倭は(ヰ)なんですね?
399 :
389 :2007/02/07(水) 14:44:53
君の説は、当時は撥音便がなかったという説なのか。 連母音変化も撥音便も、ある条件下では普通に起こりうる。 >イメンはあくまでも(イメム或はイマム)の転訛であり、 >イマエ(イメー)とイメン(イメム)を結び付ける事は 無理かと >余りにも悠意的な、しかもイメージ刷り込みかと考えますが。 高知方言で「オンシ」「オマン」はそれぞれ男性女性のに二人称を指す。 「オマン」の音韻変化を考察すれば、君がサガミハラハラ氏の説に異を唱えたやり方は 余りにも恣意的(悠意的ではなく)な、しかもイメージ刷り込みかと考えますが。 いかがだろうか。
400 :
389 :2007/02/07(水) 14:46:51
401 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 14:48:45
翰苑に書かれし「倭面上国」、通典に書かれし「倭面土国」 全ての原点は後漢書「倭国」 なら、意味的に 倭国=倭面上=倭面土 は、同じ意味であり文字の違いは編纂者の違いです。 これを「倭面土」を切り離し、特別視し浮き上がらせてはいけない事であり 「倭面土」を扱うときには必ず、他の「倭国、倭面上」を同席させなければいけない と、言うことです。
402 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 14:55:21
>>399 高知弁を引き合いに出される事の意味が解りません。
403 :
389 :2007/02/07(水) 15:11:04
>>402 高知弁は非常に分かりやすい一例としてあげた。
君にも理解できたと思う。
404 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 15:12:14
>>399 「メン」の前に(ウ)を付け (うめん)とすれば簡単ですよ
う・めん→(産めん)であり、「ん」は否定になります。詰まり(産め+無/ム)で〈うめない〉となります。
だから(メン)と(メム)は同じ意味で有り、(メン)は(メム)の転訛となります。
発音が変わり意味も変わっては変ですから
方言とはそういうものでしょう?
その点サガミ氏は、(メン)と(メー)の意味について触れていませんし、変ですよね
405 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 15:26:10
>>402 さん
高知弁を使用したとき、その変化に対し、意味が同じであるかなんです。
言葉は変われど意味は変わらずですから
「おま‐」と「おまん」はどのように意味が同じかです。
406 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 15:27:42
407 :
サガミハラハラ :2007/02/07(水) 15:33:23
オマエがオメーと訛るようにヰマエがヰメーとなるわけです。 ついでヰメードが通訳される際、ヰメンドとなまったのでしょう。 メーの次にドを発音するとき、詰まったのでしょう。
408 :
389 :2007/02/07(水) 15:45:23
>>404 産めん(否定形のン)は「産めぬ」からの変化です。
umenuからuの脱落があったと考えるのです。
>だから(メン)と(メム)は同じ意味で有り、(メン)は(メム)の転訛となります。
の前提が崩れます。理論再構築のうえ反論願います。
>>405 onusi oNsi(uの脱落)
omaesan oman(esaは変化後に脱落)
当然、音韻変化の前後で意味は同じですが、それがどうかしましたか。
409 :
389 :2007/02/07(水) 15:52:47
>>407 ご存じかも知れませんが音韻変化には法則があります。
そこを無視すると語呂合わせで何でもありになります。
音韻変化をなめてはいけません。例えば開拗音化がなされる時は、他の語彙も一斉になされます。
貴説が語呂合わせでないならば、その変化がなされたという論拠を提示願います。
410 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 15:58:42
>>409 私は一音一意と考えますので、ゴロ的と捉らえられてもごもっともかと
これは今の段階では「景初四年」と同じ、状況証拠だけに過ぎないのも確か
411 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 16:11:47
412 :
389 :2007/02/07(水) 16:14:56
>>410 プラム氏
>>409 はサガミハラハラ氏宛てです。プラム氏には
>>408 の返答をお願いします。
きついようですが、プラム説は音韻学においては情況証拠以前の問題です。
本気で取り組まれるなら、言語学を基礎から勉強されることをお勧めしておきます。
413 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 17:12:17
>>412 >言語学を基礎から勉強されることをお勧めしておきます
ありがとうございます。
>プラム説は音韻学においては情況証拠以前の問題です
音韻学だけに絞るのですか?意味はどうします?
意味の無い音はただの雑音ですよ? 分けて考える事自体変です。
音そのものは複雑に分解できるでしょうが、そこに意味を加えると意外なほど
単純です。
そういう学問が無い事が残念です。
414 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 17:17:25
>>408 さん
>産めん(否定形のン)は「産めぬ」からの変化です。
意味が全然違うのに変化しちゃいますか? その辺考えてみてください。
415 :
太国 :2007/02/07(水) 17:23:19
古代人は迷信深いから語呂合わせもけっこうやっていただろう? 能面か? 筑紫の島は面四つあり。産室不合はウガヤ朝。 雄能語呂島
416 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 17:42:43
>>408 さん
これは住人諸氏にも考えて貰いたい事です。
「うまぬ」と「うまん」ですが、
「産/ゥまぬ」=“産まぬ身体”としてみれば判りやすいかも?
「うまぬ」は、初めから産むという行為が無い身体であり 判りやすく言えば(男)
「うまん」は、“産む”という行為が身体的に備わっているにもかかわらず、産む行為を否定するもの
詰まり、「うまぬ」と「うまん」では、根本的に意味が違い、そこから変化することは有り得ないと いう結論です。
417 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 17:49:47
>>412 さん
確かに私は「言語学」に関しては初心者です。
多分私のしているのは、「言語学」ではなく「言意学」かもしれません。
418 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 18:02:36
>>416 訂正します。
「うまん」……×
「うめん」……〇
スマソです。
419 :
サガミハラハラ :2007/02/07(水) 19:02:34
確かに音韻変化には法則があります。 しかしそれは、同一言語を使用する人たちの間でが主ではないでしょうか。 外国語や通訳を通したときなどは、とんでもない事態もおこることもあるのではないでしょうか。 例えば、私は青森の出身ですが、子供の頃「後ろに下がれ」というときに、「バイキ」という言葉を使ったものです。 これは英語のback〈バック〉からきたものですが、音韻変化の法則にあっているでしょうか。 当方、音韻学には全くの素人ですが、倭面土国問題ではこの音韻変化が重要だとおもいますので、ご教授のほどよろしく お願いいたします。
420 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 19:16:16
その前に、漢字は音韻よりも表意でしょ
421 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 20:11:50
>>391 僕はこの説に賛成。邪馬台は中国ではヤマトと発音していたはず。
倭面土というのは、倭人の醜い猿のような顔を似たような音で、揶揄したものと考える。
しかし飽く迄も九州説で、の話だが。
422 :
太国 :2007/02/07(水) 20:18:42
西遊記 「傲來國」花果山?
423 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/07(水) 20:24:49
>>416 「うまん」は、“産む”という行為が身体的に備わっているにもかかわらず、産む行為を否定するもの
「うまん」と「うまぬ」の区別だけでなく、うまん、という言葉には、うみます、という意味もあるよ。
>>391 、
>>421 私も賛成です。
古代でも日本を外国と区別することばは当然あったはず。
日本人が外国人に対して「私は○○国の者です。」という場合、「ヤマト」しかそれにあたる
言葉が見付からない。この種の言葉(国名、種族名)は変化しにくいという想定のもと、
前3C頃までには「ヤマト」かそれに音韻変化する前の言葉が成立していたと考えています。
故に、57年の「倭奴国」は「ヤマトのナの国」で、107年の「倭国王」や「ヤマト国王」、
239年の「邪馬台国」は「ヤマト国」であると考えています。
その後の「ヤマト」という言葉の意味が同じなのも根拠です。
ということで、「倭面土国」は「ヤマト」に近い発音の同じ意味の言葉ではなかったかと
考えています。
425 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 21:06:42
>>424 奴国さん
五世紀の范曄は後漢書に「倭国」と書き
八世紀の杜佑は通典に「倭面土国」と書きました。
>「倭面土国」は「ヤマト」に近い発音の同じ意味の言葉ではなかったか?
すると当時中国では「倭」を「ヤマト」と発音していたのでしょうか?
それとも 後漢書と通典では、全く違う系統資料似ての編纂でしょうか?
五世紀と八世紀ではまだ、二世紀の発音が再生可能だったんですね?
426 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 21:16:07
>>424 それは倭人伝の記述を見ることによっても妥当性だと思われる。
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
倭国の大乱の前、7,80年に男子の王がいて、卑弥呼は同じ系列で
あると読める。また、「住すること」とあることから同じ場所で
あると考えられる。
しかも、倭国の大乱の7,80年前は、帥升が後漢に朝貢したのが
西暦107年であることを考えると、ちょうど帥升の時代に当たる。
これが最も妥当な考え方だと思う。
427 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 21:21:35
>>425 倭は「わ」でよい。
倭国と倭面土国とは異なる。
倭国と邪馬台国が異なるように。
>>425 プラムさん
中国では、日本のことを「ワ」と呼び、日本では自国を「ヤマト」と呼び、日本人は
日本(ヤマト)を意味する「倭」を「ヤマト」の当て字にしたと考えています。
ただ、「倭面土」は「ヤマト」と発音するのは難しいですね。
中国で「ヤマト」の当て字を作るときに、語頭に日本を意味する「倭」の文字を無理に
使ったから、それに引きずられて次の語が「面」になり、「倭面土」となった、・・・・・
・・・・・というのは、かなり苦しい考えですが、あり得ないわけではないと思います。
「倭の伊都国」の意味で「倭面土」と書いたというのも、発音としては苦しいので、
意味重視で「ヤマト」かな?というレベルの考えです。
429 :
389 :2007/02/07(水) 22:02:41
>>413 ことばであるから、当然意味は重要です。しかし
>イメーがイメンになり倭面になることはありません。
>イメンはあくまでも(イメム或はイマム)の転訛であり、
>イマエ(イメー)とイメン(イメム)を結び付ける事は 無理かと
これは音韻学の上から成り立たないと指摘しているのです。
ご理解願います。
>>414 意味は同じですよ。
>>416 >「うまぬ」は、初めから産むという行為が無い身体であり 判りやすく言えば(男)
>「うまん」は、“産む”という行為が身体的に備わっているにもかかわらず、産む行為を否定するもの
何か勘違いされていますか?
重ねて言いますが、意味は同じです。
>>417 音韻変化を語るなら、音韻変化について学んだ方がいい。それとも言意学では音韻変化を語らないのか。
>>418 その訂正をするなら君の主張が支離滅裂になるのだが、それでよいのか。
私は最初からウメヌ→ウメンの変化を説明しているのだが。
できればここは学問板だし、まじめに願いたい。
430 :
389 :2007/02/07(水) 22:06:25
>>419 >しかしそれは、同一言語を使用する人たちの間でが主ではないでしょうか。
>外国語や通訳を通したときなどは、とんでもない事態もおこることもあるのではないでしょうか。
その通りです。
>当方、音韻学には全くの素人ですが、倭面土国問題ではこの音韻変化が重要だとおもいますので、ご教授のほどよろしく
>お願いいたします。
残念ながらお教えするほどの知識はありませんが、よろしくお願いします。
431 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 22:55:20
>>429 >その訂正をするなら君の主張が支離滅裂になるのだが、それでよいのか。
私は最初からウメヌ→ウメンの変化を説明しているのだが。
できればここは学問板だし、まじめに願いたい。
出先で書いた書き込みで支離滅裂のようですので
後ほど改めて書き込み致します。
>できればここは学問板だし、まじめに願いたい
真面目に前向きに受け止めていますが?そう取られたのであれば残念です。
しかし、どのレスを基準に真面目ではないと捉えたのでしょうか?
真面目、真面目ではないと判断するには必ず基準が存在します。物事の比較は
例外なく基準をもうけます。
432 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 23:10:36
どうしたプラム 今日のプラムはひどすぎる 不まじめと取られてもしかたないのでは
433 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 23:14:41
>>423 九州ですがさん
>「うまん」と「うまぬ」の区別だけでなく、うまん、という言葉には、うみます、という意味もあるよ
(うまん)だけでは(うみます)の解釈は困難では?
(うまんとする)なら(うもうとしている)になると思いますが?
そもそも「メン」と「メム」から始まった話
(うまん)と表示したのは私のミス、(うめん)で考察すべきでした
434 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 23:16:56
>>432 >どうしたプラム
今日のプラムはひどすぎる
不まじめと取られてもしかたないのでは
何処がどのように不真面目なのか?
435 :
九州出身 :2007/02/07(水) 23:20:40
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。 光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。 この帥升は誰??
436 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/07(水) 23:22:42
真面目に取り組んでいるのに不真面目と捉えられては仕方有りません。 これ以上この席にての発言も無意味かと判断し、 失礼致します。
437 :
389 :2007/02/07(水) 23:47:53
>>431 >出先で書いた書き込みで支離滅裂のようですので
>後ほど改めて書き込み致します。
お待ちしております。まさか、とは思いますが
>>436 は議論放棄宣言ではありますまい。
>しかし、どのレスを基準に真面目ではないと捉えたのでしょうか?
君自身が認識しているように、支離滅裂な主張に論拠を置いている点です。
比較的論理的な組み立てができる方だと思っておりましたので、
ふざけているのかと思ったのです。
しかし君は至って真面目だという。これは私が君の能力を買いかぶったということで、その点は大変失礼しました。
くどいようですが、回答をお待ちしております。
438 :
九州出身 :2007/02/07(水) 23:54:03
>>382 サガミハラさん
昨晩からのレスを読ませて貰いました。
がんばってるのは良いがあなた指摘されまくり(笑)
倭国王帥升等ですが九州以外の国とみるのが正しいんじゃないですか?
建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。
倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口百六十人を献上し、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。
439 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 00:16:15
>>437 さん
私もまだ言語に関しては取組途中で有り、何処に論拠を置いていいのか解らないと答えた方がいいでしょう。
>買いかぶり
高く評価下さりありがとうございます。しかし、期待に応えられず申し訳有りません。
私の修正意見は必ずレスしておきますので
440 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 04:51:18
>>433 プラムさん
そうですよね。「うまん」を「我、うまん」という時の場合「生まぬ」ではなく、「生まむ」ですから。
おなじ「うまん」の発音でも意味が違ってきます。
441 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 05:03:57
>>439 高く評価下さりありがとうございます。しかし、期待に応えられず申し訳有りません。
プラムさんこれジョーク?「高く評価下さりありがとうございます」って。
まさか「買いかぶり」って言葉を勘違いしたんじゃないよね。
ヒント:皮肉
443 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 07:24:21
昨日の続きです。
先ず話を
>>408 >>409 にもどして
貴方は「うめぬ/umenu」の変化が「うめん/umen」であり、その理由に〔u〕の脱落をあげ (onusi-oNsi)の例をていじした。
これでいいですよね?
ではまず。
@〔u〕の脱落
簡単に脱落で片付けてしまっていますが、何故脱落させたのか?何か変化するときには(脱落) 脱落した起因が必ず存在するもの
先ずは、どおして脱落したのかの説明をお願いします。
444 :
サガミハラハラ :2007/02/08(木) 07:29:28
倭面土国の位置については、一文を著わすために調査したとき、北部九州の糸島半島あたりとの説しか目にはいらず、 位置については、糸島半島から博多湾岸一帯とみるのが定説であるとみてよいと感じました。また私が調べてもその位置で間違いはなく、珍しく私説と学会等の意見が一致したと思いました。
445 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 07:57:58
>>408 さん
貴方は(うめぬ)という日本語に対し、〔umenu〕と判りやすくローマ字で発声を説明してくれました。
でも、仮置きされた〔umenu〕を弄って法則としてはいけませんよ!
脱落を説明するならあくまで(うめぬ)→(うめん)で説明すべきでしょう。
〔u〕の文字は近代になってから日本人は認識したのですからね
(うめぬ)(うまん)の言葉は古代から存在していましたので
法則は古代であれ現代であれ共通とすべきでしょう?
違いますか?
446 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 08:00:38
>>441 九州ですがさん
別に皮肉を込めたわけでもないし、勘違いしたわけでもありません。
447 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 08:37:36
何処かの方言で、女性に呼びかける時のオマンは女性器の呼称から来たというのはいかがでしょうか。
448 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 09:35:53
相手に性器の呼称で呼びかけるということはないでしょう。同様、産めぬ、産めんとセクハラまがいの呼称でよびかけることもないでしょう。 馬鹿馬鹿しいのでもう止めてください。(涙)
449 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 09:50:41
>>448 >馬鹿馬鹿しい
何処が馬鹿馬鹿しいのです?性器の呼称も、セクハラまがい(貴方の主観)の言葉にしても、立派な意味をなすことばです。
「マン」を考えて見ても
「お万の方」「マン所」等、昔から女性に対する言葉として伝承されています。
馬鹿馬鹿しいとする説明を求めます。
450 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 10:04:19
お万の方も政所も女性器とは関係なかったかと思いますけど。ちがいますか?
451 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 10:22:17
>>450 では、どのように違うのか教えて下さい。
452 :
太国 :2007/02/08(木) 10:34:18
プラムさん だいぶ、感情が高ぶっているようで、冷静に対処願います。 他スレのw男は、多分昔拙者と論を張り合った負け犬王で、別名を 「コテ無パン」と言う有コテの足をひっぱるのが生きがいの男です。
453 :
太国 :2007/02/08(木) 10:38:14
W男は「コテ無パン」の無コテです。
454 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 10:47:52
>>449-451 に横レス。
「お万の方」「マン所」を先に持ち出したのはプラム。
女性器との関係を挙証すべきは、まずプラムにある。
同音の言葉をテキトーに持ち出したことを批判されて、
ではどのように違うのか・・・などと開き直るのは不真面目。
455 :
○「本能寺の変、425年目の真実」 :2007/02/08(木) 10:52:56
○人多すぎ状態をなんとかしてくれ。自由に書き込めないぞ。 ○卑弥呼ほど影響のあった女王の墓が、巨大に造られ、 そこに神社とか、偉業を示す巨大石碑が建てられてないのが不思議だ。
456 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 10:59:32
>>454 おマンやマン所という言葉はどうなのか?と聞いてるだけです。 知らなければ知らないでOKだし、私も詳しく知らないから 知っていれば教えてもらおうと尋ねたのです。
で、
>>454 貴方の番が廻ってきました。
>テキトウ
何を基準にそう判断したのか? テキトウの言葉の裏には必ず妥当があります。で、貴方の妥当範囲はなんであるか
提示願えれば 今後の判断基準材料となり、注意しながらレスできます。
457 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 11:03:02
>>452 太国さん
今日は全然冷静です。
だから今日は直ぐ「ツッコミ」入れられます。
御心配ありがとうございます。
458 :
サガミハラハラ :2007/02/08(木) 11:50:52
卑弥呼の墓が築造された頃は、巨大石碑だとか神社等はなかったものとおもわれます。 ただし、現在の卑弥呼の墓には烏森神社、後西院御製碑、聖徳太子像、招魂碑等があります。
459 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 12:14:35
>>458 サガミさん
サガミさんがそう思われた理由は?
それに、「卑弥呼の墓が造られ時期」と、時間限定されるには
それなりの設定が有ると考えますので、その理由を添えて戴ければと
テキトーとテキトウは、全く同一の意味だろうか…
461 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 12:26:03
サガミとサガミハラとサガミハラハラは、全く同一の意味だろうか…
462 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 12:32:21
463 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 12:35:02
>>458 サガミハラハラさん
>ただし、現在の卑弥呼の墓には烏森神社、後西院御製碑、聖徳太子像、招魂碑等があります。
唐突にいろいろ出てきたので、なにを言おうとされてるのか、よくわかりません
烏森神社、後西院御製碑って、どこにあります?
聖徳太子像、招魂碑って、どこのものなのですか?
もうすこし説明きぼ
464 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 12:59:39
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
465 :
サガミハラハラ :2007/02/08(木) 13:02:11
卑弥呼の墓は佐賀県小城市小城町にあります。南北192M東西154Mたかさ16Mです。 かなり広いので上記の神社、碑は頂上部にあります。 神社は江戸時代の建立、像や碑は近代のものです。 天正時代以前に人骨が大量(おそらく)に出土し娑婆丘の名がついた。 近世に碑を建立するとき、大量の土器がかたまって出土し、鉄刀も出土したという。 倭人伝の距離行程記事から小城が邪馬台国であることに間違いなく、岡の状況出土品から ここ小城公園内の桜ヶ岡が卑弥呼の墓とみて間違いないと考えます。
466 :
サガミハラハラ :2007/02/08(木) 13:06:05
上記近世は近代の間違いです。訂正いたします。
>>389 さん…
>>445 をどう思います?
いっそのこと言語学板に放り込んだほうがいいんじゃないでしょうか。
468 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 13:25:53
>>467 何故一人で決める事ができず、他人に相談するのです?
私は必要とあらば
漢文板であれ何で有れ、何処へでも出張しますから御心配に及びません。
何か疑問点が有るなら直接どおぞ
逃げも隠れもいたしません。
469 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 16:08:07
逃げて隠れてくれればいいのに
居なきゃ妄想いっぱいできるもんな‐。
In ancient China, cooking rice was carried out what is called by 3-pair-of-shoes earthenware.
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http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
472 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 19:00:27
473 :
463です :2007/02/08(木) 19:28:16
>>465 >>466 サガミハラハラさん
ありがと。へー、佐賀県小城説なんだ〜
ぐぐってみたら本の一部立ち読みとかできました
サガミハラハラさんのメガネかけたにこやかなお顔も見えたよ〜 (*θヮθ*)
小城説いますぐに賛成はできなけど、体に気をつけてがんばってください
474 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 20:29:46
三足土器で炊飯してたことがどうしたのかどういう意味があるのか 教えなさい、なにが言いたいのかぜんぜんわかりませんので
475 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 20:34:14
>>474 だから、スレ落ちしないように空揚げしてんのよ。
あ、あんたも唐揚げ? こいつはスマン。
スレが多すぎてどこで何やってるのかわからなくなった。 確か、107年に帥升が自ら中国へ行ったとかどうとかという話があったと思うが、 同じ後漢書安帝紀にはこの朝貢について (永初元年 107年)冬十月,倭國遣使奉獻. とあるので、倭国王である帥升が自ら中国に行ったということはないね。 もしこれが一説にいう王が主の誤りで 倭國・主帥・升等(倭国の主帥である升たち) と読むなら別だが。
477 :
太国 :2007/02/08(木) 20:54:28
107年は倍暦の関係でズレており、正確ではないだろうな?
>>477 いえいえこれは中国側の記録だから倍暦にはあらず。ずれていないでござるよ。
479 :
太国 :2007/02/08(木) 21:02:15
480 :
九州出身 :2007/02/08(木) 21:03:23
>>476 誤りでという考えはしないほうが良い。
そうゆう考えだとキリがないし・・・
倭國王 帥升である。
481 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 21:06:09
>>476 >王が主の誤り
へ〜っ 最近ではトンとお目にかかれなかった 良レス。
そうですね “国王”と“国主”では 意味が全く違いますし、
私は「帥升」とは形容されたモノととらえ、“国主”路線を重視しています。詰まり「代表」という。
482 :
九州出身 :2007/02/08(木) 21:06:59
483 :
九州出身 :2007/02/08(木) 21:13:35
『後漢書より』 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。 光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
484 :
太国 :2007/02/08(木) 21:14:45
>>482 まぁ
>>478 さんの回答は正解だろうな。ただこのへんのスレで、大陸側で
倍暦を使っていたとか書きこんでいたので、もしや?と思ったわけよ。
聞き間違いかな? それとも半島側で倍暦があるのかな?
役にたつ話あったら教えて下さい。
しかし日本暦と付き合わせるとズレると思う。107年以前で倍暦が
あるからですな。
485 :
九州出身 :2007/02/08(木) 21:16:59
主なんてどこにも書いてない。
>>476 >>481 君らは『主』として大国主の『主』としたいえわけ?
倭國王帥。俺の目には『王』とみえる 俺の目が悪いのか、君らの目が悪いのか。
486 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 21:17:43
>>476 【国主と国王】 を誤写 とすることは、正確には誤りかもしれません。
決して誤りと出来ないという事(詳しいコメントはもう一度確認してから)を
付け加えさせて頂きます。
487 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 21:18:47
>>476 後漢書の場合は、「主」ではなく「王」と書いてあるわけだから、
まずは王と解釈するのが自然だと思う。
主帥という官職名も、当時の中国にあったかどうか知らないが、
倭にあったとは思えない。少なくとも、日本に関する記録には出て来て
いないはず。
後漢書の場合は、
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
となっていて、倭國・主帥・升等と解釈すれば、朝貢の主体が
見えてこない。つまりだれが升等を派遣したのか。
中国にしてみれば、派遣主という一番大事な人物を書き漏らすはずはない。
倭国王の帥升らが生口百六十人を献じ、請見を願う。
と読むしかない。
488 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/08(木) 21:24:31
>>446 プラムさん 遅レスですが。
謙虚なんですね。
>>487 まあね。俺もそう思う。
だから帥升は中国には行ってないってことでファイナルアンサー?
490 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 21:28:25
>>485 校勘を行う場合、参考とする史料はサイトなどに掲載されている文字を参考にするのではなく、
影印を使用することが望ましいことなのです。
サイトの活字は参考程度にし、出来る限り版木印刷を利用されたい。
491 :
太国 :2007/02/08(木) 21:29:26
検討したが、107年が真だと、倍暦の関係で孝昭天皇の時代に相当する。 そんなはずはないな? 帥升は崇神〜景行あたりの人物。手前でも開化。 だから、なにかしら、間違いが107年の数字にあると観たくなる?
492 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 21:35:41
>>488 九州ですがさん
夕べみたいに鋭い指摘のレスはありがたいものです。
自分の考えの甘さを知るのには最適なんです。
493 :
九州出身 :2007/02/08(木) 21:39:29
>>490 んでその写真には「主」とあるの?
サイト&本なんかで読むより原文があるといいんだが そうもいってられなくない?
494 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 21:40:12
このスレも早く
>>476 さんのレス見て、「ありがとう」と言えるくらいのレベルになればと
思っています。 正直私も忘れかけてた内容でした。
頭の悪いニートのバレバレ自作はもうするな(^^)/
496 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 21:52:40
>>481 王を主と読む説はずっと昔からあるのだよ。
畿内説にしてみれば、2世紀初頭に中国から「倭国王」と呼ばれるような
人物がいては困るわけ。倭国というのは、奴国などと違い、日本に近い
意味があるのだから。
邪馬台国は、九州の壱岐や対馬まで支配下においている。
では、いつ支配下に置いたのか。2世紀初頭には倭国王がいて、すでに
支配下においていた。仮に帥升が畿内にいたとすれば、2世紀初頭の
帥升は、大和政権以上の権力を持っていたことになる。
これはありえない。
だから、帥升は九州にいて、倭国というのは九州を意味することになる。
つまり、卑弥呼も九州にいて倭王と呼ばれることにつながる。
>>489 逆、帥升自身が中国に行ったとしか考えられない。
497 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 21:54:22
>>493 >んでその写真には「主」とあるの?
サイト&本なんかで読むより原文があるといいんだが そうもいってられなくない?
今はネット社会 大概のものなら
ただ著作権の問題もありますから、私が今言えることは、「主」と読める刻本は存在している。
ということだけです。
498 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 22:07:35
>>496 (省略されました)と出ているので一応ここに書くと。
>>489 逆、帥升自身が後漢に行ったとしか思えない。
>>494 プラム氏は言葉遊びが好きなだけみたいだ。
文献に書かれているこの文字は間違いで、本当はこうで、なんてこと
していたら、きりがない。
どうして、畿内説の人が「王」は「主」の間違いなどと言い出すのか
その理由が考えるべき。
>その理由が考えるべき。 効くねーwwwwwwwwwwwwwwwwww
500 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 22:17:42
>>493 九州出身さん
googleにて(紹興本 影印)と検索すれば (大論争)の中で
「魏志 倭人傳」ですが拝見できます。
501 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 22:22:53
>>498 私は 間違いなどとは言ってませんが
「王も主」も正解であり 今私は「主」を中心にてみている。
そういうことです。
>>496 だからさ、後漢書安帝紀には
>>476 にかいたとおり
(永初元年 107年)冬十月,倭國遣使奉獻.
と使者を遣わしたと書いてあるのよ。
国王である帥升がが使者になるわけはないからね。
503 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 22:31:57
>>495 必ずスレを荒らすきっかけを作るのは(名無しさん)ですね
どうぞ IP 抜いて確認下さい。
そしてその結果を晒してもらいましょう。
やっぱりお笑いIPだったよw
505 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 22:48:31
>>496 >畿内説にしてみれば、2世紀初頭に中国から「倭国王」と呼ばれるような
>人物がいては困るわけ。
おれ畿内説だが、すこしも困らない。
2世紀初頭の「倭国王」は、北部九州にいた。それはきみの言う通り。
考古学的にも、そう考えないほうが不自然だ。
しかし3世紀に入ると、状況は変わってくる。
>帥升自身が中国に行ったとしか考えられない。
これは賛成。この点については、きみを応援するぜ。
506 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 22:52:11
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● _( "''''''::::. ● ● ● ●__ ____,,,... --‐'''^~ ヽ ゛゛:ヽ ● ● ● ●:::::::::....:"""" ・ ・ . \::. 丿 ● ● ● ●::::::::::::::::::: ・ ....:::::::彡''ヘ::::/ ● ●:::::::::::::::::::::::::::::;;;;;,, ---‐'' "^~ ●●●●●-‐‐
507 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 22:53:12
508 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 22:58:44
>>502 >国王である帥升がが使者になるわけはないからね
そういう主観的な意見は感心しません
その一言で、貴方の主張が水の泡と化しますから
509 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 23:02:33
>>502 章懐太子註の光武帝紀のところには「東夷倭奴國王遣使奉獻」とある。
これは、奴国の王が金印をもらったときのことだが、ここにははっきりと
「倭奴国王が使いを派遣し…」とある。
一方で、安帝記の部分は「倭國遣使奉獻」であり、「倭国が使いを派遣した」
と書かれていて、倭国王が派遣した、つまり「倭国王遣使奉獻」とは
書かれていない。
これは、王自らが来たから書けなかったと考えられる。
だいたい、後漢書の「倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」は
倭国王の帥升等が請見を願った、つまり実際に行ったとしか読めない。
510 :
389 :2007/02/08(木) 23:03:36
>>プラム氏
議論が枝葉末節に入り込む前に確認しておく。
本論は
>>382 サガミハラハラ氏の説に対する
>>384 プラム説への反論である。
私は
イマエが転訛し(イメー)に、なることも有り得る
あるいは
イメンはイメム或はイマムの転訛であるとは言い切れない
ことを説こうとしている
ただし、いたずらにサガミハラハラ氏を擁護するものではない。
後のレスから推測できるように、氏の説もまた思いつきの域を出ない可能性が高い。
しかし、プラム氏の論はそれ以上に成り立たないと考える。
では、以下各論に入る
イマエがイメーになるかも知れない例
お前[omae]→[ome-]
(音韻記号の長音記号が出ませんでした。[-]で代用します。)
イメンがイメム或はイマムの転訛ではないかもしれない例
高知方言女性二人称[omaesaN]→[omaN]
511 :
389 :2007/02/08(木) 23:04:17
>>443 脱落の原因について
発音しやすいから、です。
死んで[∫inite]→[∫inde]
産んで[umite]→[unde]
飛んで[tobite]→[tonde]
[b][m]あるいは[n]音の後の母音は脱落しやすいのです。
>>445 発音者が音韻記号を意識しようがしまいが、音韻変化を分析するには音韻記号が便利です。
文字の変化をとらえるのではなく、音の変化をとらえるのです。
>>447 世界的に、父、母、性器、乳、は[p][b][m]から成る言葉が多いのです。
転じて女、男の呼称に使われることもあります。
つまり、性器の呼称が女の呼称の語源とは考えられてはいませんが、
どちらも同じ理由(発声しやすい)でできた言葉と考えられております。
[t∫it∫i][mama][papa][t∫impo][manko]など
>>496 邪馬台国は、九州の壱岐や対馬まで支配下においている。
この点は畿内説派はどう説明する?
513 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 23:24:53
>>512 >邪馬台国は、九州の壱岐や対馬まで支配下においている。
>この点は畿内説派はどう説明する?
はて、どう説明するとは?
3世紀段階で倭の権力の中心は、畿内の邪馬台国にある。
壱岐や対馬まで支配下においているのは当然。
伊都国に一大率があり、壱岐や対馬にも官をおいているのだ。
難升米らや魏使がそこを何度も通るのだから、きちんと支配している。
514 :
九州出身 :2007/02/08(木) 23:24:59
つーか 帥升が行った行かないって論争はそんなに重要ですかね。 行ってたらどうなるのって思ってしまった・・・
515 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 23:30:50
>>510 >>511 さん
返レスありがとう。
で、ここでツッコミ入れてもいいですか? 内容を拝見していると、どうやら
ご自身の考察では無いような書き込みですがいかがでしょうか?
それに、
根本的に考え方が違うようですし、
私の考えは「一音一意」 一つの音に必ず一つの意味がそんざいする。ですから
夕べの私の書き込みも、多少修正する部分がありますので
次のレスにて 「ヌ」と「ン」の活用法則をレスします。
516 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/08(木) 23:38:20
>>510 >>511 さん
「住めぬ」「住めん」
「産めぬ」「産めん」
「噛めぬ」「噛めん」
「ん」の場合
「住」「産」「噛」と、対象になるモノの中で“限定される”(単一)
「ぬ」の場合
「住」「産」「噛」と、対象になるモノの中で “範囲が限定されない”(単一でない)
「住めん」は、住もうとする特定の所(単一)が “住めない”と、表現し、
「住めぬ」は、住む場所を特定せず(単一でない)“住めない”と、表現します。
お互い考え方が違うので、貴方の説明を「間違い」と表現する事はさしひかえます。
518 :
九州出身 :2007/02/08(木) 23:43:17
言語学はよく解らないが、一つの漢字は原則として一つの言葉を表す。 漢字の中には字形、音、意味が含まれてることになる。
519 :
389 :2007/02/08(木) 23:51:16
>>515 >内容を拝見していると、どうやら
>ご自身の考察では無いような書き込みですがいかがでしょうか?
どういう意味ですか?間違いなく私自身の考察です。
そう思われた根拠を示されたい。
>私の考えは「一音一意」 一つの音に必ず一つの意味がそんざいする。ですから
揚げ足をとるようですが、例えば
お前
オマエ[omae]
オミャー[omja-]
オメー[ome-]
オメ[ome]
は全て同じ意味です。
時と地方により、同じ意味の言葉が別の発音(表記も!)になるのです。
音節数さえ変化します。一音一意で説明がつきますか?
>>509 倭國遣使は他にもあるぞ。
宋書孝武帝紀 倭國遣使獻方物.
宋書順帝紀 倭國遣使獻方物.
隋書煬帝紀 倭國遣使貢方物.
新唐書蕭穎士伝 倭國遣使入朝,
全部、倭国王が来たわけではあるまい。
だいたい、倭国王を使いっ走りにするその時の倭国の主は誰だよ。
常識で考えてそんなやつがいるわけないだろ。
521 :
389 :2007/02/09(金) 00:02:39
>>516 例えば関西方言(京滋を除く)の
住めん は 住めぬ
と全く同義です。
君の言う 住めん が関西方言の 住めん と同じ意味なら、残念ながらはっきり「間違い」です。
また、君の言う 住めん と 住めぬ の使い分けはいつどこでされていますか。
私は聞いたことがない。
522 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 00:02:59
>>519 >どういう意味ですか?間違いなく私自身の考察です。
そう思われた根拠を示されたい。
そうでしたか。それはこちらの勘違いかと 申し訳ございません。
>お前
オマエ[omae]
オミャー[omja-]
オメー[ome-]
オメ[ome]
は全て同じ意味です。
私には直に判断つきかねますので、全てどのように同じ意味である事を説明願えませんか?
523 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 00:19:23
>>521 >君の言う 住めん が関西方言の 住めん と同じ意味なら、残念ながらはっきり「間違い」です。
また、君の言う 住めん と 住めぬ の使い分けはいつどこでされていますか。
私は聞いたことがない。
そもそも
正しく言意どおりに全て使用されていますか?
それに、言意は学校では教えてくれないもの きずかないのもとうぜんです。
私達は無意識のうちに使用しているものですから
例えば 母音(あ、い、う、え、お)の基本言意は
(ア)= 範囲が限定された 中心から外方向
(イ)= 範囲が限定された 下方向
(ウ)= 範囲が限定された 外側から中心方向
(エ)= 範囲が限定された 横方向
(オ)= 範囲が限定された 上方向
母音に時間を加える事により、(子音)ができます。
読んでいてもサッパリわからないでしょう? 私もここまで毎日一年かけてなんとかですから
そのような事を十分理解しないで 間違えと判断していただきたくは有りません。
だから、あなたの考えもいまは否定いたしません。
524 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 00:21:30
>>518 >言語学はよく解らないが、一つの漢字は原則として一つの言葉を表す。
漢字の中には字形、音、意味が含まれてることになる。
はい
漢字は基本的に「一字一意」ですね
525 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 00:25:25
>>520 >だいたい、倭国王を使いっ走りにするその時の倭国の主は誰だよ。
史料に明るくないと、そうした疑問が出ても仕方ないかもしれない。
520氏に考えてほしいのは、後漢書のテキスト(異伝)の問題。
このスレだTったと思うが、何日か前、だれかが書いていたと思う。
倭面上、倭面、倭面土、・・・、などと、いろいろ異伝があるのは、
後漢書の原文に、なにかそうした文字があったと考えてみるべきだ。
それで、「倭面土国王帥升等・・・」が元の形ではなかったか、と、
多くの学者が述べているのだ。
つまり帥升は、倭国全体の王ではなく、倭の中の面土国という小国のみ
支配する王であったと考えれば、帥升自身が使節でも、おかしくはない。
526 :
389 :2007/02/09(金) 00:36:07
>>522 >それはこちらの勘違いかと 申し訳ございません。
大変失礼である。以後気を付けられたい。
>私には直に判断つきかねますので、全てどのように同じ意味である事を説明願えませんか?
全て日本の方言で「お前」 の意味。
>そもそも
>正しく言意どおりに全て使用されていますか?
必ずしもそうではない。言葉は生き物で時代と場所により異なる。誤用が一般化することも当然ある。
>それに、言意は学校では教えてくれないもの きずかないのもとうぜんです。
同意しかねる。
>私達は無意識のうちに使用しているものですから
ほぼ同意。
重ねて問う。
また、君の言う 住めん と 住めぬ の使い分けはいつどこでされていますか。
私は聞いたことがない。
その使い分けがなされている事実を提示できないのなら
>>516 は学問の対象ではないと断じられても仕方ないが、どうか?
527 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 00:36:25
>>520 >、「倭面土国王帥升等・・・」が元の形ではなかったか、と、
多くの学者が述べているのだ。
それは変ですよ
多くの学者が述べているという理由は、特にこの邪馬台国問題には当て嵌まらない事でしょう
多くの学者が研究しているのに
こうして謎のままではないですか?
528 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 00:44:16
>>526 >使い分けをされている事実。
普段使い分けていないのですか? 無意識のうちに使い分けていますよ
それを説明しろと言われても 困ります。
今、貴方が無意識に使っているものです。
>>525 だから西島読めって。古本後漢書なんてもう否定されてるんだよ。
530 :
389 :2007/02/09(金) 00:54:58
>>528 つまり、その使い分けは各人が無意識にしているもので、説明できない、ということか。
証明できない=プラム説を信じるしかない、という訳ですね。
君がそれを信じるのは自由だ。しかし、私は信じない。使い分けはしていないから。
よって
>>516 は学問の対象ではないと言えます。
強いて言えば宗教ですね。非常に残念です。
>>522 >私には直に判断つきかねますので、全てどのように同じ意味である事を説明願えませんか?
勘弁してくれよ…
>>389 は、お前[omae]という一つの単語が転訛するパターンを書き連ねているだけじゃないか。
だから同じ意味なのはこの論の前提条件だ。説明無用。
ましてや『[yimae]→[yime~] の転訛なんてごく普通のことですが何か?』という
>>389 の単純な反論に何でこんなに書き連ねるんだ。
532 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 07:57:44
>>530-531 のレス拝見していると、音韻学って閉鎖的であり、テリトリーを守る事に必死なんですね
>信じない、宗教だ
それは貴方個人の考えでしょうか?それとも音韻学界でしょうか?
学問は日々新しい考えが入り、それを従来のモノと照らし合わせ 変化していくモノ それをたかだか二日たらずで宗教ですか?
音韻学の世界を垣間見る事が出来ました。
連立母音の場合片方が脱落しやすいことは解りますが、脱落するパーンの説明が無かったのが残念です。
omae の場合、ome、omaのパターンが有りますが、その脱落法則は有るのか(無いのか)?
>>531 彼はヘリクツボーイだから、相手するの疲れる。
だからつっ込みどころ満載でもスルーするのが吉。
534 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 09:13:13
>>531 も随分とナメラレタものだ!
新人じゃあるまいし
周りからは“スルーの指導”が必要と見られているようだ
>>533 彼は自分の意思で判断するし、余計なお節介だとおもう。
535 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 09:30:10
>>514 帥升の問題は基本的に、西暦107年に後漢に朝貢した帥升が倭国王かどうか
というところ。つまり、その頃、日本に倭国王と呼ばれる人物がいたか
どうかということ。
邪馬台国も壱岐や対馬まで支配下においているし、伊都国に関しては
代々王がいて、皆女王国に属していると倭人伝に書かれている。
畿内説の立場に立てば、畿内の邪馬台国が九州を支配していたことに
なる。しかし、日本書紀には、崇神天皇は四道将軍を派遣して近隣諸国を
支配下におさめようとしている。
仮にも、九州を支配しようとするならば、近隣諸国は完璧に支配して
おかなければならない。ここに畿内説の大きな矛盾がある。
だから、倭国の大乱を畿内の勢力が九州を支配するために戦乱だった
という説が出てくる。しかし、そのずっと前に倭国王がいたら、
畿内勢力はいつ九州を支配下に置いたのだろうということになる。
この大きな矛盾を解決するには、邪馬台国九州説しかなくなる。
536 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 09:37:09
>>535 つづき。一部重複。
畿内の勢力は、いつ九州を支配下に置いたのだろうということになる。
こういう矛盾があれば、邪馬台国は九州説しか成立しないことになる。
そこで、昔から畿内説の人は、帥升は倭国王ではない。
つまり、この時代には倭国王などはいなかったと主張した。
そのために、倭国王帥升等ではなく、倭国・主帥・升等と妙な主張をした。
王の名前を複数形で書くことはないというのがその根拠だった。
しかし、帥升が実際に後漢に行ったとすれば、少しも不思議ではない。
ということなのである。まあ、古典的な九州説対畿内説の論点というわけ。
537 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 09:55:00
>>535 横です
>伊都国には“代々”王がいて
「丗有王…」
この“丗”を(代々)と解釈する事(用例的)の困難さは、先日漢文板にても説明済み
大事な箇所ですので、再度の検証を希望します。
>>536 >そこで、昔から畿内説の人は、帥升は倭国王ではない。
>つまり、この時代には倭国王などはいなかったと主張した。
大昔の人は知らんが、今どきそんなことないだろ。
107年当時は九州の国であることをほぼ100%が認めている。
ごく一部の例外がいることは否定せんが。
大方は畿内説を含めて、倭国乱を経て最終的に箸墓築造までに
畿内に王権が出来たという立場だろ。
この王権が出来た時期が三世紀後半以降なのか、2世紀末から3世紀前半とみるかで
九州説と畿内説が分かれるだけ。
この九州から畿内への王権の移動が連続なのか(東遷)、断絶があるのか、
また、王権の主体が何であるか(九州・吉備・東四国・大和自生、他)で意見は割れると思うが。
539 :
○「本能寺の変、425年目の真実」 :2007/02/09(金) 10:34:45
○人多すぎ状態を何とかするべし。自由に書き込めないだろう。 ○というか、卑弥呼が民衆に偉大な女王と認定されていたなら、 大古墳、側に神社くらいあるのではないかと思うんだが? 当然、そのご神体、像くらい造られるのでは?
おれも
>>535 に横。おれなんとなく畿内説派。
>だから、倭国の大乱を畿内の勢力が九州を支配するために戦乱だった
>という説が出てくる。
うん、そうした主張が畿内説の一部の学者から出されてるのは知ってる。
ていうか、ほとんど白石さんお一人の説じゃないのかい?
白石説だけをとりあげて、畿内説の代表みたいに書くのはやめてくれ。
九州説がいろいろあるように、畿内説もいろいろなんだ。
君のいう「大きな矛盾」が生じていない畿内説も、あると思うよ。
白石さん以外の畿内説も、ぜひとりあげて、それで批判をやってくれよ。
541 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 10:44:54
ここで「丗」について、少し触れておきます。 御存じの様に、「丗」には(よ、よよ)と和訳されます。 (よ、よよ)と和訳されるにも法則(決まり)があり、多くの著書はこれらに蓋をしているのが現状です。 「よ」の場合 「丗」の対象となるもの(時間或は人)のどちらかが、必ず【単一性】となり、限定されるのです。 一方「よよ」は 「丗」の対象となる(時間或は人)が【単一であり】、もう一方が【単一ではない/限定されない】モノです。 この様に、活用が異なります。
542 :
太国 :2007/02/09(金) 11:02:13
>>523 プラムさn
貴殿は、古神道の「言霊学」を論じているように見えます。
日本史とは別に研究してみたらいかがでしょうか?
堀秀成の言霊の論はピッタリのような気がします。
日本史の通常の学術板では不向きですかな?
ただ、昔は迷信によって日取りを決めたりしてたでしょうから、
迷信抜きで真の日本史は語れないと思いますから、言語的にも
貴殿の方法は否定するのは早計のように思えます。現に拙者も倍暦
で、参考に補強効果を想って論を張っています。
しかし、論理的に納得しないと気がすまない方が確実に多くいるの
が常ですから、今のところ副次的、傍証的にやられたほうが
よろしいんではないかと思考します。
543 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 11:05:37
>>538 倭国王・帥升が九州の人間であれば、倭国は九州ということになる。
九州の帥升が日本全国を支配していたとは考えられないわけだから。
つまり、当時の中国は、九州を倭国と考えていた。
歴史学者もそのように考える人が多い。
また、倭人伝には、大乱の7.80年に男子の王がいたと書かれている。
この男子の王が帥升と考えられ、卑弥呼との連続性が見られる。
となると、卑弥呼は「倭王」つまり九州にいた王ということになる。
そう考えることで、壱岐や対馬まで支配していたことが説明できる。
崇神天皇の四道将軍派遣の矛盾も解消する。
ちなみに、中国の多くの書物には、倭国の大乱について「暦年無主」
と書かれている。つまり、王がいなかった。
卑弥呼が共立されたのは大乱のあと。
つまり、倭国の大乱は王の跡継ぎをめぐる戦乱だった。
倭国の大乱を畿内政権の樹立と関係付ける根拠など一切ない。
544 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 11:08:59
省略されましたが出たので、念のために続きを書くと、 つまり、倭国の大乱は王の跡継ぎをめぐる戦乱だった。 倭国の大乱を畿内政権の樹立と関係付ける根拠など一切ない。
545 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 11:13:32
>>540 畿内説もいろいろあるから難しい。
全ての人を相手にすることは出来ない。
一人の人の意見に反論すると、違う人から畿内説はそういう意見ばかり
ではない、と言われると困ってしまう。
その人の意見の反論すれば、また別の人から畿内説はそういう意見ばかり
ではないと言われてしまうのだろう。
546 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 11:22:03
>>542 太国さん
御指導ありがとうございます。
迷信について
「迷信」と言う言葉のイメージが先行していると感じます。
「今尚消えずに残り伝承される」
これが真実の歴史と自負しますので。 上層階級は「文字」にて記録を伝承し、文盲の多くの民は、知恵を使い「言葉」にて
過去の出来事を伝承した。
これが歴史です。
>>545 >畿内説もいろいろあるから難しい。
その通りなので、これから畿内説批判をやるときは、
「誰々の畿内説は、……と矛盾が生じるので、成り立たない」
と、批判の相手の名前を明示してからにしてほしい。
ちなみに、白石さんと正反対の考えの畿内説といえば、原田大六。
原田大六は、北部九州勢力(伊都国中心)の「東征」が倭国大乱で、
結果、畿内邪馬台国が3世紀初頭には成立していた、と考えていた。
まあ晩年は、主張に変化が見られ、「九州・吉備の連合軍」みたいな
言い方に変わっていたように思うが…。
白石さんも原田大六も、箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは一緒。
だが、主張の中身は、これだけ正反対なのだ。
548 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 11:51:36
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549 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 11:56:59
卑弥呼の時代にはもうすでに渡来人によって畿内までの宅地開発は終わっていたので 倭国と言えば畿内までになってます。
550 :
389 :2007/02/09(金) 12:50:45
>>531 ありがとうございます。
>>532 >
>>530-531 >のレス拝見していると、音韻学って閉鎖的であり、テリトリーを守る事に必死なんですね
全く違うと思う。
>それは貴方個人の考えでしょうか?それとも音韻学界でしょうか?
私個人の考えだ。しかし賛同者は多いと考える。
ヌとンの使い分けを言い出したのは君だ。
私は例を出せと言った。
君は例示を省略し、「無意識にあなたも使い分けている」と答えた。
私は使い分けてはいない。
「この家は汚いから住めぬ」
「この家は汚いから住めん」
どちらも同じ意味として発言できる。
そして同じ意味として理解することができる。
日本人の大多数も同じだ。
無意識にでも、意味を使い分けたものであれば、指摘されたら
「ああ、そういえば別の意味で使っていたなあ」
と理解できるはずである。そうでなければ使い分けてはいないと判断できる。
君は自分の説が宗教に位置付けられるのは不本意か?
それとも自身でも宗教だととらえているのか?
もし前者なら使い分けの例を出さねばならない。
その場合、時代と地方は限定されてよいが、そこで普遍的に使い分けされている事実を示べきだ。
客観的な例がないのなら、使い分けはなされていないと認めねばならない。
学問では間違いを認めることは恥ずかしいことではない。
認めないことが恥ずかしいことだ。
後者なら、それを公言してくれるだけでよい。
宗教だから真実ではないとは私は考えない。
真実かどうかは宗教以外の方法で検証されればよいから。
551 :
389 :2007/02/09(金) 12:51:33
>学問は日々新しい考えが入り、それを従来のモノと照らし合わせ 変化していくモノ 同意する >それをたかだか二日たらずで宗教ですか? たかが二日たらずで、逃げずに客観的に検証しうる例を出せばよい。 >連立母音の場合片方が脱落しやすいことは解りますが、脱落するパーンの説明が無かったのが残念です。 具体的な質問があれば、答えられるものについては答える。 >omae の場合、ome、omaのパターンが有りますが、その脱落法則は有るのか(無いのか)? 法則はあると考える。アクセントの位置にもよるのではないか。 例) 「トランプをば、取って下さい」 変化1→ 「トランプを取って下さい」 変化2→ 「トランプば取って下さい」(九州方言) [woba]が地方により[wo]
552 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 13:26:29
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
553 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 13:38:10
>>550 さん
>『汚いから住めぬ』
>『汚いから住めん』
方言的にどおかは知りません。しかし、実際『ぬ・ん』と文字が違っていますので 意味も違ってきます。(一音一意)ですから
実際の使い分け云々になると、便宜上使用されていないことが大部分ですから 文章として、或は単語(単品)と別けてもさまざまではないでしょうか?
会話的には同一視されていても、単語は使い分けていたり、或はその逆も、
その所はどお、お考えでしょうか?
554 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 13:45:23
>>551 >宗教的
私は何といわれようが別に気にしません。
ここに参加しているのは、一つでも何か新しい事を盗もうとしているだけですから。
しかし、直ぐ異質のモノを宗教と結び付ける事が嫌いなだけです。
宗教って 本来もっと別なものでしょう?
(尚、宗教に関して深入りするつもりはありません。)
555 :
389 :2007/02/09(金) 14:05:24
>>553 >方言的にどおかは知りません。しかし、実際『ぬ・ん』と文字が違っていますので 意味も違ってきます。(一音一意)ですから
方言をご存じなければ教えよう。
「住めぬ」を「住めん」と発音する地域は存在する。
この地域では「ぬ」と「ん」は文字(表音)は違っているが、意味は同じだ。
西瓜(すいか)をすいくゎと発音する地域も存在した。
この地域では「か」と「くゎ」は文字(表音)は違っているが、意味は同じだ。
君が知らない方言を例に出すと、一音一意は完全に破綻する。
一音一意は普遍的な説でないことが君にも理解できたと思う。
>実際の使い分け云々になると、便宜上使用されていないことが大部分ですから
君がいうヌとンの使い分けは大部分ではなされない。ということか。
しかし、少しはあるはずだ。逃げずに例示願いたい。
もし例示できないなら、説を「使い分けは存在しない」と訂正されたい。
>文章として、或は単語(単品)と別けてもさまざまではないでしょうか?
>会話的には同一視されていても、単語は使い分けていたり、或はその逆も、
君があげた
「住めぬ」「住めん」
「産めぬ」「産めん」
「噛めぬ」「噛めん」
について文章、単語、会話、どれでもよい。
時代と地方は限定されてよいが、そこで普遍的に使い分けされている事実を示せばよい。
556 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 14:10:02
>>550-551 さん
一方的で申し訳有りませんが、この話題は保留しておいて下さい。
私も「音韻学」は初心者ですし、十分な受け答えもできません。
調度良い機会だし、少し「音韻学」の学習をし、知識を付けてから 論戦に挑みたいと考えます。 如何でしょう?
漢字音の「重箱や湯桶」もまだ不十分ですし、
557 :
389 :2007/02/09(金) 14:20:49
>>554 君の説を宗教と位置付けたことに誤解があるならおわびする。
君の説が異質のモノだから宗教と結び付けたのではない。
「無意識にあなたも使っている。それを説明しろと言われても 困る」という返答についてだ。
くどいようだが、私はヌとンは使い分けていない。
よく知らない他人の無意識を論拠とする姿勢を宗教と評したのだ。
検証が不可能ではないか。
>>543 >この男子の王が帥升と考えられ、卑弥呼との連続性が見られる。
と
>ちなみに、中国の多くの書物には、倭国の大乱について「暦年無主」
>と書かれている。つまり、王がいなかった。
矛盾しておるよ。
それまでの秩序が崩れ、誰が国主かわからない状態になって、
その後、新たな王が共立されたってことだから、明らかに連続性はない。
かつて足利氏の室町幕府があり、倭国が乱れ暦年無主となり、
徳川氏が最終的に事態を収束させ江戸に幕府を開いて
政権の中枢が京都から江戸に移った、みたいな話だろ。
559 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 14:24:21
>>555 さん
そうではないんですよ。
私が言ってる(言意)は!
(スイカ)
あの球状の甘くて美味しい物が「す」「い」「か」の三文字(三音)になったか?
つまり、
「す」と言う言意
「い」と言う言意
「か」と言う言意
が揃って初めて、あの物体を「スイカ」と表現した。
青(あお)と、いう色も、
「あ」と言う言意
「お」と言う言意
と、言う二文字(二音)が揃い あの色を表現した
そお言う事ですよ!
そお言う学問が「言意学」です。
560 :
389 :2007/02/09(金) 14:40:40
>>556 保留、よかろう。ただし
>>384 >>404 >>516 >>523 >>528 >一音一意
について一旦無効とみなすことに同意していただく。
ヌとンの使い分けの例を、君が見つけることができれば議論再開はやぶさかではない。
>調度良い機会だし、少し「音韻学」の学習をし、知識を付けてから 論戦に挑みたいと考えます。
それは君の邪馬台国問題への取り組みに、大きなちからを与えると信ずる。
検討を祈る。
561 :
389 :2007/02/09(金) 14:47:08
>>559 そういう説が存在することはもちろん知っている。
それも完全に論破できるが、その前に
議論を続けるか、保留かハッキリされたい。
なお続けるならヌとンの使い分けの例示から願いたい。
562 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 14:52:04
>>560 『一音一意』『一字一意』は 私の根幹ですし、
それを無効にする
則ち、『全てを捨てそして退室しろ』と 同意です。
私の邪馬台国理論は
そこが原点ですから
それだけは無理です。
『一音一意』を控える事は可能ですが(だから今まで記・紀に深入りしなかった)
563 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 14:59:34
>>561 保留
それに、レスのズレによる誤解かと?
564 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 16:03:07
言意学 の検索結果 1 件中 1 - 1 件目 (0.04 秒)
565 :
463=473です :2007/02/09(金) 17:38:27
566 :
463=473です :2007/02/09(金) 17:49:22
>>565 でも、「県内の前方後円墳としては最古級に位置づけられる。」とも書いてますね。史跡のページ。
だから、ものすごく気になってきたんです
サガミハラハラ氏執念の佐賀県小城説・・・・ひょっとして!?・・・・ な〜んてね (^^;)>
567 :
九州出身 :2007/02/09(金) 18:51:17
プラムせんせー 一音一意は解ったが音と意味はどっちが重要なの? そしてその理由は?
568 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 18:53:20
appleにどんな意味があるんだよ
569 :
九州出身 :2007/02/09(金) 18:54:40
>>567 を少し訂正する。
訂正音と意味 ⇒ 字形、音、意味 この3つでお願いします。
570 :
九州出身 :2007/02/09(金) 19:03:24
住めん は 住めぬ ?(頭の中????ってかんじやわ笑) なんか皆、言ってることが違うようで誰を信用すればいいのか。 誰が正解なの?
571 :
サガミハラハラ :2007/02/09(金) 19:12:45
卑弥呼の墓について お答えします。 茶筅塚古墳は卑弥呼の墓ではありません。桜ヶ岡そのものが卑弥呼の墓であり、茶筅塚は卑弥呼の墓の頂上部に後世築かれた 前方後円墳です。(被葬者は不明) 倭人伝によれば卑弥呼の墓は歩百余歩とあります。この歩は中国の長さの単位であり、ざっと1歩は145cmぐらいです。 ですから卑弥呼の墓は直径150m以上となります。 桜家岡の大きさはその位ですので、桜ヶ岡の大きさは卑弥呼の墓の大きさに合うわけです。
572 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 19:16:49
>>567 >>569 >>570 九州出身さん
その話題むし返すの、やめませんか
おふたり「保留」で合意したみたいなんだから。
やるんだったら言語学板があるよ
謎の女王卑弥呼は誰か?・・・・が、ちとも前に進まない気がします
それよか ・・・名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治国・・・
あたりへぼくは進みたいです。いろんな意見を知りたいです
ほかのみなさんは、どうかな〜?
573 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 19:23:17
>>567 九州ですがさん
>>562 での約束があるから詳しくは話せないが どちらも重要
君がもし、文字を知らなかったらどお相手に自分の意思を伝えますか?
そういう文字のない時代が古代列島には永くあったんだよ
文字を知らない所に、自国の文字が出来るよりも早く外国の文字が入り込んだ
だから漢字には自分たちの意思を載せる事ができなかった。(漢字には既に漢人達の
意思が載せられているから)
だから 古事記は漢字の音だけを引用し書かれている。
それから暫らくして、やっと自国の文字を発明した『かな文字』の誕生です。
かな文字は、自国の文字であり、そこには日本人の意思が込められていると考えたところで
なんの違和感も無いはずだよ。
中国の漢字が(一字一音)であるように・・・・・・・・・・・
かな文字はお判りのように (一音一字) そこになんの意思も込められていないと考える方が
よほど困難な考察だとは思わないか?
(単なる一音一字だけの事なら、それは単なる落書き いや、落書きのほうがなんらかのメッセージ
が込められているから ましかな?)
簡単に説明すると そんな理由。
後は君に判断を委ねます。
574 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 19:25:06
これにて言語の話は暫らく 封印 以上
575 :
463=473=565です :2007/02/09(金) 19:25:34
>>571 サガミハラハラさん
さんくす。ちょと出かけます。またね〜♪
576 :
太国 :2007/02/09(金) 19:40:30
577 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 19:49:30
あららw
578 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 20:01:57
>>571 www.asobo-saga.jp/collection/vol24.html
>その昔「娑婆岡」と呼ばれた小城公園は、
>初代元茂と2代藩主直能がその岡に桜を植えたということから歴史が始まる。
>明暦2年(1656)に「桜岡」に名を変え、
>直能はこの南側に庭園を造らせ「自楽園」と称して隠居生活を送った。
あれ??????
580 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/09(金) 20:12:24
じゃあ、前方後円墳の真下を発掘調査ですね 後はお金と許可の問題です
581 :
九州出身 :2007/02/09(金) 20:14:06
了解。 言語学の話は終了〜。 『後漢書』倭人伝の 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。は 出雲のスサノオによる朝見ってことで決着。
582 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 20:17:37
そう来たかw
583 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 20:22:49
>>576 太国さん
太国さんが 四世紀後半なら 私は八世紀と提示します。(チョット苦しいけど)
585 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 20:29:36
>>580 征夷大将軍さん
その話題、以前散々やって具体的な事まで 盛り上がった。 果たして本人がどお出るか? この話題始まると、必ず何処からか「名無しさん」の影がちらほらと
586 :
九州出身 :2007/02/09(金) 20:29:55
535:02/09(金) 09:30
>>535 >西暦107年に後漢に朝貢した帥升が倭国王かどうか
>というところ。つまり、その頃、日本に倭国王と呼ばれる人物がいたか
>どうかということ。
いまさらいたかどうかって・・・倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
いるじゃないですか!倭国王が!!
587 :
SOY :2007/02/09(金) 21:00:00
ハンドル名:144殿
>>163 >まず庄内は4世紀などには絶対に下らない。それを示すようなデータは一切無い。
>同様に弥生終末(古墳黎明)の実年代は、現在200年から230年の攻防である。
の発言に対し、
>>171 >>173 >>181 >>184 の流れの中で意見を交わし、
>>181 >先に一言だけ言っておくと、神獣鏡は実は魏晋や呉などの国家で括れるものじゃないんだわ。
>国家ありきで作成されたのは漢鏡W期まで。あとは国策による政策とは言いがたいんだ。
>よって魏の鏡や呉の鏡とは言える場合はあるが、魏の様式とか呉の様式とは言えないんだよ。
>このあたりを具体的に例示して行くことにする。
との返事を頂いたSOYです。
その後、如何なものでしょう?
もし時間があまりにもないようでしたら、新しい論拠集めは後日に
延ばして頂き、『年代を断言する発言』の元となった既にあるべき
はずの根拠だけでも聞かせてもらえればと思います。
588 :
九州出身 :2007/02/09(金) 21:15:32
>>559 ひらがな一つ一つ、元はといえば漢字だからね
589 :
太国 :2007/02/09(金) 21:17:38
>>583 プラムさん
8世紀は絶対的に考えられません。ご冗談だとは思いますが。w
720年、日本書紀成立ですから。
4世紀後半は倍暦での算出です。神功のころですよ、他の論に
だまされないように願います。特に恵也はデタラメだから、要注意
にして下さい。
590 :
389 :2007/02/09(金) 21:19:05
591 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 21:40:42
>>590 ご理解ありがとうございます。
確認させて頂きますが、漢字に対する『一字一意』は対象外とさせていただきます。
それはよろしいですね?
592 :
389 :2007/02/09(金) 21:50:17
>>591 >確認させて頂きますが、漢字に対する『一字一意』は対象外とさせていただきます。
>それはよろしいですね?
読み返せば分かる通り、漢字に対する『一字一意』について、私は議論していない。
よって、なんら問題ない。
九州と畿内に都がありどちらかが邪馬台国でどちらかが狗奴国である。
594 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 22:27:20
595 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/09(金) 22:59:37
>>535 >>536 >>538 >>543 107年の倭国王帥升については、畿内説のほとんどが奴国、伊都国の王墓の連続性から、
この地域の王であることは認めている。そうなると、この地域の王墓が連続して平原王墓
に繋がっていることからは、平原王墓の頃までの「王権の連続性」が肯定できる。
畿内説の問題は、この先。
1、畿内説の多数は、当初、平原王墓を200年より大きく遡る年代と主張した。
→平原をそこまで古く見るのは困難。畿内説でもこれは今や少数。
2、石野、白石等は、平原王墓を無視して、同時並行で「畿内王権」の成立を主張する。
→そこまで畿内王権を遡らせること自体が、無理スジ。
→北部九州の文化を継承した畿内王権が同時期というのは、おかしい。
→この説によっても、伊都国を配下に置く「邪馬台国」は北部九州という結論になる。
結局、畿内説の遡上派は、平原王墓に触れずに年代を語る。これはアンフェア。
都合の良い事実だけを抜き出して議論してもしょうがない。
596 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 23:10:20
>>588 >ひらがな一つ一つ、元はといえば漢字だからね
それはどうでしょう?
その材料。後日ゆっくりやりますか?
ところで、ひらがなが漢字から出来た時の記録とか残っていますか?(製作秘話)とか
(製作日誌)とか? 学者ってそういう肝心なところの詰めは結構いい加減ですよ
597 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/09(金) 23:20:24
>>589 太国さん
今(愛子さん)がその位置に一番近い位置にいます・・・・・・・・?
八世紀と言ったら(天智帝の娘)なんてどうです? 最後の卑弥呼として
598 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 23:24:02
そもそも畿内説と平原王墓は根本的に無関係。これはアンフェア。 都合の良い事実だけを結合させて議論してもしょうがない。
>>595 >1、畿内説の多数は、当初、平原王墓を200年より大きく遡る年代と主張した。
何でわざわざ畿内説を引き合いに出すかなぁ。
関係ないのになんでもかんでも日本が出てくる朝鮮日報みたいだ。
これは畿内説どうのこうのじゃなくて考古学界の主流だったんだが。
>2、石野、白石等は、平原王墓を無視して、同時並行で「畿内王権」の成立を主張する。
別に無視してないが・・・・
600 :
144 :2007/02/09(金) 23:33:35
>SOY氏
時間が足らないのもそうだが、ここんところのスレの流れを読んでみて
ほとほと呆れ返ったので、ここに書くのはいやになったんだわ。
程度の低い自演連中が、性懲りもなく嘘八百を並べ立てている現状にあなたはどう思う?
>>595 などは特にひどい。どうやら彼は安本関連サイトなどから拾ってきた理屈を書き散らしているみたいだが
石野が平原に言及していないだとか、もう大嘘ばかりなんだわ。
知っていながらやっているのか、単に無知なのかはわからんが
これではあなたも含めて、まともな議論を希望する者はここをその場にするのは不可能だろう。
よって別の場所か、あるいは捨てアドを用意してくれたら直接送ることにする。
さすがに付き合ってられない。
俺は現実の世界で考察を続けることにする。
あなたもそれを希望するなら、まず別の場所を提示してくれるとうれしい。
>>598 >>599 >>600 平原の年代については、当初は全体で議論が分かれていたのは事実だか、途中からは
畿内説論者が中心となった年代遡上論が強かったのも事実。
私は、白石、石野が平原の年代に言及したのを見たことがない。ソースあれば読みます。
柳田も、「平原スルー」現象があると言っているんだから。ただ、柳田は三角縁舶載説の
鏡年代論を採用している点がダメだと思うが。
あと、平原を200とした場合の畿内の遡上年代との整合性について議論するとか、
そういう方向の方が建設的ですね。
602 :
九州出身 :2007/02/10(土) 00:03:17
>>596 きみはホント漢字が好きだね(笑)
材料って・・・・・・あんたね。
邪馬台国の謎を追求する為ならいいんですが、単なる漢字の解析ならお断りします。
605 :
SOY :2007/02/10(土) 00:28:21
>>600 >俺は現実の世界で考察を続けることにする。
了解しました。誠意をもって返事をしてくれたことに感謝します。
こちらはここをROMしつつ、現実世界で自説を検証し続けます。
論議の続きはいづれの機会ということで…
私が
>>181 で示したような流れに沿って今後も論議が繰り返されること
と思われます。この機会に即答できる為の資料を集めておいてもいい
かも知れません。
>>601 平原がスルーされてたのはまともな報告書が出てなかったからだよ。
当時の状況を考えればやむを得ない面はあるとしても、
大六には考古学者としての責任を果たしてほしかったな。
一方的に大六を責めるのは筋違いだというのは重々承知しているが、それでも・・・
>畿内説論者が中心となった年代遡上論が強かったのも事実。
じゃあそのソースを出してみなよ。事実と言うんだからあるんだろ?ソース。
>私は、白石、石野が平原の年代に言及したのを見たことがない。
白石の本は手元にないのでしらんが、
石野は邪馬台国の考古学に思いっきり書いてある。
607 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 01:22:52
>>601 新しい本がお望みなら「邪馬台国時代のツクシとヤマト」に
柳田論文と殿に収録されている。
単にあんたの勉強不足で知らないだけ。
>>606 >>601 で書いた建設的な方向の議論を期待していたのだが・・・
君は議論はせずに自説の「独演会」だけだね。煽らないとレス来ないしw
いかにも2CH向きの性格だね(俺もかww)。
原田大六の報告書が具体的な議論をなすのには不十分というのは、そのとおり。
ただ、結構色々な議論がなされているのも、事実。
椿井大塚山である学者が膨大な記録を30年以上門外不出として、その記録を
引用して、三角縁の独自の学説を展開していたのに比べれば、まとも。
平原の畿内説論者の年代観は、柳田『伊都国を掘る』199頁以下参照。
まあ、柳田が強く反論し過ぎて、その後の議論が途絶えている感じもする。
具体的な資料がそろってからの方が議論が停滞している感じもする。
ただ、柳田は畿内年代を遡上させすぎ。彼の説との整合性がよくわからん。
彼は伊都国東遷説を止めたのか?
石野はその本に書いてあった。というか、その頁に付箋がしてあったww
平原を210〜250頃のニュアンスで書いてあったのが気になったのを今思い出した。
石野が、「卑弥呼の墓にふさわしい」とまで書いている真意がよく分からん。
彼は、纏向と平原の並存関係を想定しているようだが、そうなると邪馬台国は九州で
畿内は別の王権と言うことになりそうだが、1頁弱では分からない。
平原の年代と畿内の遡上年代との整合性(東征、征西?)について、意見を聞きたい。
この点の畿内説からの言及でソースがあれば、よろしく。
609 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 02:27:33
>>595 >2、石野、白石等は、平原王墓を無視して、同時並行で「畿内王権」の成立を主張する。
確かに白石さんは、九州の弥生墓制についての言及が少ない印象、わたしにもある。
しかし、今手元にある文庫本の『古墳の語る古代史』所収の「古墳時代の文化史」を引けば、
倭人が最初に製作した倣製鏡は、…(中略)… 定型化した前方後円墳に先行する可能性が
高い福岡県平原墳丘墓出土の擬銘帯をもつ倣製内行花文鏡や直径四六・五センチメートル
の大型内行花文鏡などが知られている。(※倣=原文は人偏に方)
と、平原についても、大和との先後関係に言及して書かれている箇所が見つかる。
「白石等は、平原王墓を無視して、同時並行で」(この表現自体が実におかしい!)なんてのは
全くのウソであり、スレの閲覧者を誤認に導き、さらには白石さんの名誉をも毀損している。
610 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 03:47:44
>建設的な方向の議論を期待していたのだが・・・ 本当に口だけの奴だな。 散々嘘を書いて議論を混乱させてきたのは誰だ? 他者の意見を参考になどと奇麗事を並べながら、自分は嘘しか書かないくせに。 お前はとんちんかんな自説を並べるプラムや九州ですがなどよりずっとたちの悪い、ただの嘘つきじゃないか。 今まで何度嘘がばれた?そのたび底の浅い言い訳の繰り返しだろう。 もうお前の言葉に耳を貸す奴はいない。 お得意の自演も通じない。 奴国 ◆BdeghU15Mk は大嘘つきだと証明されたのだからな。 見苦しい、二度と書き込むな、消えろ。
611 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/10(土) 03:55:22
>>609 けど、それって「アリバイ作り」のために少し言及したというレベルじゃないの。
で、平原とマキムクの並存になった場合、どうなるの?結局、君は議論しないね。
あと、安本を中傷するのはOKで石野、白石、寺沢とかはダメとかいう基準は何?
君の嫌いな安本の方がかなり格上に見えるんだよね。説得力と誠実性で。
同位体比の問題もそうなんだけど、畿内説の検討は、「彼らが何を言っているか。」
ではなくて、「彼らが何を無視しているか。」を検討した方が分かりやすい面は、ある訳だし、
彼らの著作を読んでいて、流れの中で引用されないモノはかなり気になる。
アリバイ的な「ちょっと言及」の著作を出されても、納得できない。何も解決しない。
同位体比なんて、20年以上前からだし、もう50以上はの論文があるんじゃないの。
それを無視しつつ論じることは、不可能だし、問題があるなら正面から言うべき。
無視して閉鎖的な環境で議論をすることの理由が、よく分からない。
森浩一が、彼らを「事実を受け入れることができない宗教」とか言ったりしたことの意味は、
そういったところにあるんじゃないの。
612 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/10(土) 04:07:58
>>610 君が議論する気がないのなら、こっちもそうする。
1、君が、「老教授」だというのは、みんな知っている。
2、君が、
>>371 で名指しされたコテ無しということも。その後に発狂したことも。
3、君がさんざん安本を中傷したことや、安本の著作の資料が捏造で「寺沢部長も
お怒りになられていた。」とkkkを自称したことがあることも。
4、しかも、その安本の資料がkkkの資料そのものとバレて、君が発狂したことも。
5、知っていて、放置するやさしさがこのスレにはあったのに、君は気付けないのか!
6、君が議論に応じるなら、君の過去の失態は水に流そうと思ったが、最悪な奴だな。
7、畿内説論者の恥さらしだな。
613 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/10(土) 04:25:23
証拠アゲ。
881 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/04/09(日) 17:52:51
>>876 >>822 がとっくの昔にソース出してますよ。
「畿内説を撃破する」読みましたか?そこには様々な形で寺沢、石野、柳田各氏の論文が引用されています。
引用元も当然載っています。
さあ、そこで元の論文と趣旨がどれほで歪められて引用されているか
ご自分の目で確かめればよろしい。
ちなみに安本はこの恣意的な引用によって、特に寺沢、柳田両氏より激しく詰問されている。
文章としてのソースはない。だが埋文に携わる者なら先刻ご承知の事件だ。
部長があれほど激しく怒りをあらわにしたことなどなかったからね。
その後、大手出版社から安本の本が出ていないのは、さすがにこの件で各社とも尻込みしたから。
ちなみに圧力なんてまったくないよ。
まさに研究者としての、そして執筆者としての品位を問われたのだ。
これが誹謗中傷かどうかは、それこそ自分自身で調べればよい。
ただそれだけのことだ。
614 :
610だが :2007/02/10(土) 04:53:23
>>612-613 まさに狂人だな。
お前を糾弾する奴はみな「老教授」かwなんだそのkkkってよw
まじで病院池。冗談抜きで相当にやばいぞ、お前。
それとなんだこれ?「2006/04/09(日) 17:52:51 」って
そうか1年近くも前から嘘つきが知れ渡ってのかw
議論に応じるだと、馬鹿、お前と議論したい奴なんてこの世に一人もおらんわw
他人の誹謗中傷でしか自分の存在価値を示せない奴に用はない。消えろ。
615 :
610だが :2007/02/10(土) 05:01:28
あ、わかった。 奴国 ◆BdeghU15Mkは自分が嘘をついている自覚すらないんじゃないか? つまり自分の妄想がすべてであって、かれにとってはそれが現実なのでは。 無常なようだが、気ちがいに付き合う気はない。 専門医のところで治療しろ。 NGワードに指定したので、もう読むことはない。
616 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 07:31:24
>>602 >君はホント漢字が好きだね
嫌い。嫌い。大嫌い。
でも仕方ないんだな〜
漢字で書かれた漢文だから!
メンドクサイが先にたって誰も触れようとはしない 基礎知識 だから目茶苦茶な議論が延々これからも続く。
617 :
太国 :2007/02/10(土) 07:35:43
何だい? kkkって?
618 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 07:42:16
>>617 太国さん
以前何処かで見たような見ないような?
私も記憶を辿っていますが……?
でも、初めて見るフレーズじゃないんだな〜。 以前畿内説限定スレかなんかで……?
619 :
太国 :2007/02/10(土) 07:48:47
プラムさん おはよう御座います。分かったら教えて下さい。考古学の資料の 何かですかねぇ? あのw男は有コテハンを足をひっぱったりくさすのを快感として いる、一種の愉快犯的傾向の感じがするあまり品行の芳しくない 人物で、過去にそれがしに論説でとっちめられた奴だろうと推察 しています。スルーでいいでしょう。
>>609 >確かに白石さんは、九州の弥生墓制についての言及が少ない印象、わたしにもある。
古墳時代が専門だからね。
自分のテリトリー以外は語らないと言うのは、それがそれでまともだと思うけどね。
自分の専門外までしゃしゃり出てほら吹きまくるよりは。
621 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 08:00:06
考古学分野を語る時、必ず代理戦争になる。 何故だ? 熾烈な派閥争い? 場所違いも甚だしいぞ!
622 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 08:07:24
>>621 これが学問板の正常な形。
ところで君の自演も見苦しいがこの奴国ってどうなのよ?
>>617 察するに
@クー・クラックス・クラン
A勝平このやろこのやろ
BKinKi Kids
このへんだと思う
624 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 09:05:48
625 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 09:13:48
>>622 >これが正常な形
まるで病院待合室の病気自慢大会だな!
626 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 09:27:20
627 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 09:28:04
>>622 >この奴国ってどうなのよ?
感想文ならスルーするし、疑問な断定なら突っ込むだけだよ!
>自演
関係無い。
それより君が異常なほど自演にコダワル理由が知りたい。そっちの方が興味ある
ここに居る住人諸氏の中でも、自演にコダワッテいるのはほんの一部だからな!
それもかなり以前から一貫して粘着の様に
ここに永く居れば自然に判る事だし
628 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 09:40:53
>>626 会社からだよ
IP抜けば 昼間は何時も同じ場所から携帯だし、夜は自宅PCからだから
>自演にコダワッテいるのはほんの一部だからな! 幸せな人ですね、みんな知っていながらあきれて言わないだけだと思います。 タブン突込みを入れているのは一部ではないと思います。 自作自演を許す掲示板など見たことありませんよ。 私はこだわってはいないけど見苦しいと思うし、その人の言うことは信用できません。 >会社からだよ 仕事中に私用メールを打つ会社員も同様に信用できませんし ずいぶんいい加減な会社にお勤めなんですね。
630 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 09:52:00
そんないい訳がましい説明要らんぞw 弁護士決まったのか?w 弁護士にも色々居るみたいだぞw 訴えられるのか?www しっかし板全体のスレが伸びないなw
631 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 10:10:48
>>629 君に私生活をとやかく言われる筋合いではない。
会社は会社に利益を齎す人材を使用している訳だし、利益を運んで来ればフリーな会社は、世間にはいくらでもある。
もう少し、実社会を勉強すべきですな!
信用出来ないレスならスルーかNGにすればいい。
632 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 10:12:04
633 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 10:15:06
おかしいな? プラムの携帯とPCで 同じトリップ付けられんのかなwww
634 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 10:17:45
635 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 10:20:47
そうか常識なのかw それで弁護士どうした?w
実社会では私用メールを打つ人など何を言っても信用されませんよ。 そんな人が利益などもたらすはずはありませんし まわりへの影響を考えれば上司が注意するのが普通の会社です。 でもたぶん仕事と言うのも嘘でしょうね。
637 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 10:32:27
いまのところはっきりと自演の証拠が挙がっているのはプラムと九州ですがってことか 奴国はほら吹きで太国はきちがい これも確定だな なあプラム…どうして自作自演がだめなのか理由わかるか? やらせと一緒なんだよね、これって だから駄目 そしてやらせをした者は信用を失う これが世間の常識
638 :
愛知県民 :2007/02/10(土) 10:35:33
>>199 確かに、安易に「誤写」を持ち出すのは駄目ですが、
「面土国」には問題が多いことも事実です。
今年は107年から数えて1900周年にあたり、
57年から数えて1950周年でもあります。
この二つの問題も解決したいですね。
>>380 なるほど、「日神」=「天照大神」とは限りませんね。
勉強になります。
639 :
太国 :2007/02/10(土) 10:43:05
>>637 そういうお前は論を張れない負け犬だろう?w
>>638 107年はまず合ってないだろう? 合うと倍暦で孝昭の時代に
実年代で相当し、数字がまったく合わない。合わせるやり方に
何らかの欠陥があったということだな。
帥升っていうのは崇神前後の時代の人。
640 :
九州出身 :2007/02/10(土) 10:47:07
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説、根強いな〜 共に巫女であり、巨大な箸墓が魏志倭人伝の百余歩と合うからだろう。 卑弥呼は〜248年頃の人なのでを歴代天皇と照らし合せばよい。
641 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 10:50:11
642 :
太国 :2007/02/10(土) 10:52:02
>>640 卑弥呼は4世紀の神功皇后のころの九州の人物。
倍暦の実年代は
神功39年=365年 神功66年=374年
643 :
九州出身 :2007/02/10(土) 11:02:29
>>642 365、374年て「〜248年頃」までと繋がらない
>>638 誤写がどうこうの前に、倭面土国は元刊本系統の通典にしか存在しないんだが。
明代以降、校勘の結果削除されてしまい、殿本系通典には残っていない。
現存する後漢書も倭国。
645 :
太国 :2007/02/10(土) 11:27:42
>>643 だから、真面目に言うが、貴殿のは100年以上間違いだな。
646 :
九州出身 :2007/02/10(土) 11:31:32
>>380 >>638 >「日神」=「天照大神」とは限りませんね
てか日神=天照大神と考えたほうがよいのでは。
モモソヒメは日神と書かれてるようだが、わたしは初代日神が本物の「日の神」とみている
647 :
九州出身 :2007/02/10(土) 11:33:44
>>645 365、374年 ←おれには三百六十五年、三百七十四年とみえるがどっちが目が悪いのかな?
648 :
九州出身 :2007/02/10(土) 11:38:44
関係ないかも知れないが、卑弥呼って今で言う引越しを1度もしたことはないのかな?
649 :
太国 :2007/02/10(土) 11:39:51
>646 モモソヒメが日神だとか、どこのどのへんに書かれているんだろう? 貴殿はなんだか初代2代とかの重箱方式が多いようで、こういうやり方 は混迷を招くし、逆になんでも成立が容易になるから、極端に言えば 仁徳5代は雄略だから、雄略は仁徳の名であるという論理が平気で成り立 つため、どんな不利な論理もOKに至り、マズイことこの上ない。 さっきの〜248年とやらは倍暦を考えずに、単純に紀と年代をあてて行く と神功39年は239年だから、それと似た考えで〜248年をひねくり出し たのかねぇ?
651 :
九州出身 :2007/02/10(土) 11:53:56
>>649 モモソヒメが日神と書かれてるのは、たしか先代旧事本記だったかな・・・自分で調べろて。
初代2代というのはよくカブキの世界にもあるやん。名を受け継ぐっていうか、
何代目「菊の介」とか。これたとえ話ね。
それと倍暦なんてもんはやめんしゃい(笑)
そんなの解らないから無理やり倍計算してるだけやん。
〜248年というのは西暦248年のことだよ
652 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 12:01:48
プラムの後は太国ご登場かよwww 似たような不思議な文調ですよねw
653 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 12:15:25
だんだん
>>652 が中卒ヒッキーに見えて北野は私だけでスカ?
654 :
九州出身 :2007/02/10(土) 12:19:45
豊前、豊後、日向、筑紫とかよく耳にするが、実際その地を訪れた事の有る人って ここにどれだけいるん? まず宇佐、伊勢、熱田神宮とか行ってみるのがいいんやねえん?
655 :
愛知県民 :2007/02/10(土) 12:19:56
>>176 先週の続きです。
大胆ですが、「箸墓の被葬者は意富夜麻登久邇阿礼比売命」という仮説を立てます。
すると・・・
(1)箸墓の名称について
箸墓の正式名称は「大市墓」ですが、被葬者が淡路島出身だったので
「淡路墓」とも呼ばれたのではないか?
「淡路墓」(あはぢはか)→はぢはか→箸墓(はしはか)
この「はぢ(恥)」と「箸」から、箸墓伝説が作られたのではないでしょうか。
(2)箸墓の向きについて
円墳と前方後円墳の違いは、墓に「向き」ができることです。
箸墓の前方部は西南西に向いており、まさに淡路島の方角です。
淡路は前方後円墳が無い特異な地域ですが、その謎とも関連があるかもしれません。
656 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 12:20:58
>>653 www
いいとこ突いてるよねw
でも君がそのヒッキーに見えて北野は私だけでスカ?
浮き出て見えるw
657 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 12:33:00
グァハハハハっ〜 ヒッキー君 出勤乙です。 ソロソロコテ付けても良いのでは?
658 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 12:35:17
おっ どうだ弁護士に頼んだのか?w
659 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 12:39:28
>>656 >>653 は私だよ
コテ付けるの忘れた?
いや! 何人かに絞り込んではいますよ。
それに 最近やたらと新スレ乱立だし
当時を知ってる住人なら、誰もが感じる自然な事。
660 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 12:41:12
661 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 12:43:49
>>658 関係あるよw
この板の住民なら
当然だろ!
いつもながら自己中な事ばっか言ってんじゃねーよ!
裁判沙汰になったらこの板どうなるんだwwwwwww
>>650 北宋刊本もあったね。のちの刊本の底本にはなってないようだけど。
『翰苑』の該当箇所は後漢書に曰くとしてひいているものの魏代の記事を含むことが
湯浅により指摘されて以来、出典が范曄後漢書であることが疑われている。
唐類函というのははじめてみたがいつの本だ?類書らしいが。
素直に唐代でいいのか?
665 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 13:15:01
>>661 私は訴えたり等しないし、出来ない。例え行動起こしても、門前払いになることは明白。
ここの住人でもあるし、同じ穴のムジナだから
誹謗中傷はお互い様
原告の資格無しだよ。
666 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 13:19:32
>誹謗中傷はお互い様 >原告の資格無しだよ。 また出任せ言いましたねw 出任せについて謝罪願えませんか!
667 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 13:21:51
>>666 >出まかせ
何それ?
社会のシステム判ってないね。
>>667 悪い俺はお前より解っているよw
土曜日に携帯でレスする仕事の奴よりwww
669 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 13:29:31
>>なら 説明には及ばないだろう。
まどうせニートだろうけどw
671 :
愛知県民 :2007/02/10(土) 13:30:24
>>644 魏志の「邪馬壱国」、隋書の「イ妥国」の例もありますから、
後漢書だけに頼るのも危険でしょう。
>>646 天照大神が日神とされたのはいつの時代かも難しい問題・・・
モモソヒメ=日神は勘注系図ですね。
>>147
672 :
九州出身 :2007/02/10(土) 13:39:42
バカに平均在年数っいってみ バカに言ってもバカだから解らないはず。 みんな試してみて!
673 :
九州出身 :2007/02/10(土) 13:43:02
>>672 平均在位説は学界の権威からは相手にされていない。
二倍年暦のほうは、学会からも気にされているけど。
あれは、数学素人を騙した素人統計学。
だからこそ、安本氏は、誤差を考慮しない天文学ソフトの
皆既日食説にも飛びつくという赤っ恥をかいた。
これは、素人・自称専門家の愛好家がおこす間違いだ。
675 :
一応九州王朝説 :2007/02/10(土) 14:17:07
プラムさんは、ほんとに厨房なの? 挑発に乗りすぎw 確かにレス時間は長いようですが。ほんとに無職なの?
676 :
太国 :2007/02/10(土) 15:14:26
>>651 自分でとか言ってることは、貴殿の自説のいい加減さを自ら暴露
してるように想える。逃げているわけだろうが。
旧事紀にそんなことは書かれていないことを遠回しに回答してるよう
なものだ。駄目よん、いい加減なことをラッパしてはね。
笑って、倍暦を認容しないようなのか? そうならば、その〜248年
とやらは通常暦の対応とかで決めこんだ年数だから、そうなると
古代天皇の寿命が200歳前後もぞろぞろいたことを、これも遠回し
に宣言しているようなもので、滑稽である。
677 :
九州出身 :2007/02/10(土) 17:38:46
>>674 はあ 解ってないな・・・じゃあ界王拳10倍じゃあまずいわけ?
あなたには初めから説明しないとわからないぽい。
神武天皇即位は紀元前660年2月11日なんでしょ?
>>676 >>649 で
>『モモソヒメが日神だとか、どこのどのへんに書かれているんだろう?』
という質問に対して自分でさがすよう言ったまでだ。
卑弥呼はモモソヒメではない。
よってたぶん旧事本記やないかなってヒントを与えただけ。
>>474 >>476 二人まとめて倍暦か。
大体なんでバイ暦がでてくるの?神武即位は紀元前660年やないのか?
678 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/10(土) 17:43:39
>>674 相変わらずだな、「kkk」。
安本の平均在位説のどこがダメで、どこが良いのかという視点で
書いた方がいい。てゆうか、前に私と恵也氏がやった。
ここに残るなら、議論に参加しようぜ。
679 :
九州出身 :2007/02/10(土) 17:50:15
卑弥呼は推古天皇だ!っていう人は何故いない? なんで天照大神、モモソヒメ、神功皇后とかなんだよ。 一人くらいは推古天皇っていう説もあっていい思うんだけど。
680 :
九州出身 :2007/02/10(土) 17:54:00
それは記紀に書かれた31代用明天皇以前の年数が異様に長いと解ってるからでしょ? ていうことは神功皇后ではないといえる。
681 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 18:05:12
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
682 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 18:48:38
三足土器で炊飯のどこにどのような意味があるのかも解説しなさい、 あたまがおかしいのかとおもうよな
>>642 陳寿は297年に亡くなっているので、卑弥呼が4Cの人物と言うのには無理があるのでは?
推古朝ではぼつぼつ日本でも歴史書がつくられたりしていたから。
685 :
九州出身 :2007/02/10(土) 19:20:54
>>683 で太国が突っ込まれてる(笑)
そりゃそうなるわな
686 :
唐松山 :2007/02/10(土) 19:24:59
歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 崇神 205年目 1年度 16日 75回 74899日 2536.05 崇神元年正月壬午朔 205年目 1年度 16日 75回 74928日 2537.03 元年二月辛亥朔 208年目 4年度 17日 76回 76257日 2582.03 四年十月庚申朔 211年目 7年度 18日 77回 77114日 2611.05 七年二月丁丑朔 211年目 7年度 17日 78回 77320日 2618.03 七年八月癸卯朔 211年目 7年度 12日 78回 77404日 2620.87 七年十一月丁卯朔 212年目 8年度 18日 78回 77793日 2634.05 八年十二月丙申朔 213年目 9年度 17日 78回 77881日 2637.03 九年三月甲子朔 213年目 9年度 8日78回77911日 2638.04 九年四月甲午朔 215年目 11年度 18日 79回 78649日 2663.03 十一年四月壬子朔 216年目 12年度 18日 79回 78974日 2674.04 十二年三月丁丑朔 216年目 12年度 18日 80回 79181日 2681.05 十二年九月甲辰朔 221年目 17年度 19日 80回 80716日 2733.03 四十八年正月己卯朔 221年目 17年度 20日 80回 80805日 2736.04 四八年四月戊申朔 228年目 24年度 21日 82回 83433日 2825.04 六十年七月丙申朔 230年目 26年度 22日 83回 84172日 2850.06 六十二年七月乙卯朔 231年目 27年度 24日 84回 84705日 2868.11 六十八年十二月戊申朔
687 :
唐松山 :2007/02/10(土) 19:37:04
全て 新月(のつもり)に合わせました。 倍暦 の方々は、このうち幾つの 新月を 認めますか? 歴年は、当方の都合ですので 無視してかまいません 崇神27年間は、もう少し縮んで(死亡時の増しが、まだ訂正されていません)23,4年 是でみる限り 卑弥呼 の余裕は、 ありません。
688 :
唐松山 :2007/02/10(土) 19:48:33
221年目17年度19日80回80716日2733.03四十八年正月己卯朔 221年目17年度20日80回80805日2736.04四八年四月戊申朔 228年目24年度21日82回83433日2825.04六十年七月丙申朔 230年目26年度22日83回84172日2850.06六十二年七月乙卯朔 231年目27年度24日84回84705日2868.11六十八年十二月戊申朔
689 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 19:56:50
卑弥呼が10代くらい同じ名前を使っていた
一日のことを、ついたち、と言いますね。これは、「月立ち」が語源なんでしょうか? たしかヤマトタケルの物語に、「月立ち」が、女性のメンス(生理)の意味で使われていたのでは? それと、関連して、もう一つ。(浅学ですので、みなさんにお尋ねしてます) 十五夜は、もちづき、ですね。 この「もち」という言葉の語源、元々の意味は? 「もち」、あるいは「ついたち」は、一体いつの頃から使われているのでしょうか? ご存知の方、よろしく。
691 :
愛知県民 :2007/02/10(土) 20:30:23
安本美典氏の平均在位十年説には、大きな例外があります。 それは高句麗・百済・新羅の例です。 古い時代はともかく、百済滅亡(660年)までの200年で調べると 倭国は雄略〜斉明天皇まで17代ですが、 新羅は慈悲麻立干〜武烈王まで10代、 百済は蓋鹵王〜義慈王まで11代、 高句麗は長寿王〜宝臧王まで9代です。 私も昔は安本信者でしたが、身近にこれほど例外がある以上、 たやすく倭の古代に適用はできないと思うようになりました。
692 :
太国 :2007/02/10(土) 20:44:40
通常暦的に紀とつき合わせて年数をあてて行った場合、 神功39年=239年 神功66年=266年 だから、陳寿の259年っていうのはこれと同じやり方で通常暦で あてている年数だということが一目瞭然で分かるから、この数字は 仮の通常暦計上で真とは言い得ない。 そうでないと應神天皇は110歳、仁徳天皇は143歳になってくる。 こんなことはありっこない。だから259年というのは実年代ではない。 もっと後世に遡るわけ。
693 :
太国 :2007/02/10(土) 20:46:41
694 :
太国 :2007/02/10(土) 20:58:15
>>677 九州出身さん
前660年神武即位では以後仁徳までの大半の天皇の寿命が100〜
300歳ばかりになり、そんなことはありっこないだろう?
だから当時は倍暦をやってたわけ。ということは現今の人物とみんな
似たような、通例で妥当な寿命だったわけ。
695 :
日本@名無史さん :2007/02/10(土) 21:37:02
>>694 >前660年神武即位では以後仁徳までの大半の天皇の寿命が100〜
>300歳ばかりになり、そんなことはありっこないだろう?
これは同感。ありっこない。
>だから当時は倍暦をやってたわけ。
ここがおかしい。「だから」と簡単にいうが、論理が飛びすぎ。
倍暦云々以外の理由だって、可能性としては、あるだろ。どうして太国はそこを考えてみようとしないのか。
696 :
太国 :2007/02/10(土) 21:57:27
>>695 讖緯説か? 以下をその説で説明できるか?
【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表】
1日 4 15日 0
2日 2 16日 0
3日 3 17日 0
4日 1 18日 0
5日 3 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 4 23日 0
10日 1 24日 0
11日 3 25日 0
12日 4 26日 0
13日 2 27日 0
14日 7 28日 0
29日 0
30日 0
これはほぼ1ヶ月を14日でやってた文証。讖緯説では無理だろう。
697 :
太国 :2007/02/10(土) 22:24:19
>>690 イザナギの阿波岐原でのミゾギハラヒにて成った12神の筆頭が
衝立船戸神で、記は通常8神ずつの記述なのにここのみは12神と
いうことは「月経つ2・7戸神」で1ヶ月が2×7の2週間で
古代は運用していたという論拠の一つ。
モチツキはウサギの餅つきの意味があるのでしょうかな?
数読みに
ヒフミヨイムナヤコト モチ ロ
とあり、11と12番目のことから1年を12ヶ月としたか?
そんなところでしょうか?
安本氏の信望者たちが哀れになる... でも、今は九州説を煽る必要がある。 何故なら、邪馬台国論争を盛り上げないと 発掘調査資金を調達できないから。
699 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 22:58:02
>>690 >「ついたち」は、一体いつの頃から使われているのでしょうか?
ご存知の方、よろしく。
「ついたち」 漢字表記【朔】(サク /ついたち)
この文字に(しんにゅう)を付けたら 【遡】(ソ /さかのぼる)
(さんずい)付けたら【シ朔】(ソ /さかのぼる)
【塑】これは(ソ)
【朔】関連の漢音は「サ行」がいっぱい
こんなのは役にたちませんか?
700 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 23:06:30
>>697 太国さん
>ヒフミヨイムナヤコト モチ ロ
とあり、11と12番目のことから1年を12ヶ月としたか?
そんなところでしょうか?
ヒフミヨイムナヤコト モチロネラ シキルユイ ツワヌソヲ
(モチロネラ)→勿論ですとも
太国さんは、こんなの嫌いですか?
ヒント スレタイ
702 :
SOY :2007/02/10(土) 23:35:31
>>678 :奴国
>安本の平均在位説のどこがダメで、どこが良いのかという視点で
>書いた方がいい。てゆうか、前に私と恵也氏がやった。
確かにそのように論議されるべきだと私も考えます。また、問題点が
分かれば、平均在位説も改善できると私は考えます。
>>691 愛知県民が挙げた1例も看過できない問題だと思います。
また、私がざっと考えただけでも、以下の問題があると思います。
1.直系継承か兄弟継承かを考慮すべき
2.1と絡んで長子継承かどうかを考慮すべき
3.暗殺など特殊なケースをデータから省くかを考慮すべき
4.重祚など特殊なケースをデータから省くかを考慮すべき
5.生前に譲位があるかないかを考慮すべき
6.男性天皇と女性天皇で在位年数に影響がないかを検討すべき
703 :
九州出身 :2007/02/10(土) 23:42:13
704 :
九州出身 :2007/02/10(土) 23:43:29
705 :
九州出身 :2007/02/10(土) 23:49:07
太国さん >寿命が100〜300歳ばかりになり、そんなことはありっこないだろう。 ていうのは解った。そこでなぜ君は倍暦を選んだのか説明してちょーだい。 説明はわかりやすくね。
706 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:19:55
>>691 >安本美典氏の平均在位十年説には、大きな例外があります。
>それは高句麗・百済・新羅の例です。
これは例外とはいえないよ。
高句麗・百済・新羅の例は、年代が信頼できる部類のものとはいえない。
この年代はこれらの国が滅亡してずっと後になって、朝鮮で作成された「三国史記」
の記述だろう。
これは日本書紀が書かれてから、400年くらいして書かれたもの。
だから西暦1100年頃の年代には信頼性があるけど、百済が滅亡した西暦660年頃
の年代記録は日本書紀よりも、はるかに格下の信頼性クラス。
モノサシ自身が狂ってるんだから話にならん!
−−−−−(引用開始)−−−−−
三国史記(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾
らが1143年に執筆を開始、1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一
新羅末期までを対象
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98
707 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 00:36:20
恵也のせんずりは今日も激しい。こいつバカだぜ。
708 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:39:01
>>687 >倍暦 の方々は、このうち幾つの 新月を 認めますか?
倍暦の連中は、何のために暦が作られたかの根源的思考力がない。
暦とは、農作物の栽培に必須の道具だから作られたんだぜ。
俺は昨日、ジャガイモを買ってきて畑に植えた。
種屋さんで売ってたから、もう植えてもいい時期なんだろうと素人考えで植えたのだが
ネットで調べたら3月頃から、植えるという。
温室ハウスで栽培する専門家ならこの時期だからと、売ってたんだろう。
まあ植えてたら芽を出してくれるだろう、と適当に考えてたがネットでよく見ると発芽の
条件はジャガイモでは厳しい事を書いてあった。
ジャガイモを切って分割して植えるときに、切断面に灰を塗り3日ほど陰干しして乾かし
弱い日光に少し当てて発芽を刺激し、それから埋めて3cmほど土をかぶせると発見した。
俺は20cmほど土をかぶしてた。
慌てて今日、植えたジャガイモを掘り出して陰干ししてる、1ヵ月後に植えようと思ってるが
・・・・・・・・手遅れかもな!!!!
709 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 00:46:11
710 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:52:36
>>702 >1.直系継承か兄弟継承かを考慮すべき
考慮すべきじゃない!
記紀の記述の信頼性が問題になってるのだから、数字だけでなく継承にも疑問が存在する。
それを確かめるべき、客観的記録が他に残ってない。
記紀の継承を信用するか、信用しないかの問題が関わってくる。
今は確認手段がないのだから、むしろ信用をしないという地点から論理を積み上げていくべき。
現代科学とは、再現実験が出来る事だけを基礎としてここまで発達してきたもの。
再現実験が出来ない歴史問題じゃ、疑問がある話は少しでもはずしてから組立てて考えるべきだ。
711 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 00:56:45
>>710 そんなことより、貴様の人生をどうするべきか良く考えろ
712 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:57:07
>>696 >欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表
自分で干支を日にちに変えれるようになってから、書き込みなさい!
他人が適当に書いた日にちを、くそ真面目に信用するものじゃない。
713 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:58:19
>>707 >恵也のせんずりは今日も激しい。こいつバカだぜ。
バカと天才は紙一重!
714 :
九州出身 :2007/02/11(日) 01:05:27
いや、バカと天才は紙一重やない 生まれついたもの
715 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 01:09:43
716 :
九州出身 :2007/02/11(日) 01:14:27
今日は建国記念日
717 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 01:20:39
>>692 ゴメン言ってる意味がわからない。
記紀の年代が倍暦を使用したことにより実年代とずれるとしても、
3cの著者によって書かれた卑弥呼は3cの人物でしょ。
っていうか太国さんのいう4Cというのは、 世間一般でいう4Cとは違うって事だな 相手しただけ馬鹿だったよ。
720 :
九州出身 :2007/02/11(日) 03:06:50
卑彌呼の宗女「臺與」 この『臺』はなんて読むのが正しい? てかどこからトヨという呼び方がでてきたか知ってる方いらっしゃいますか。
>>702 :SOY
私は、平均在位説は、2〜9代目の天皇の実在を前提とした場合に、神武の即位が
230〜280頃に収まる可能性が高いというレベルで見ています。
前提である欠史8代は「たぶん」実在と考えています。
初期の天皇の実在を前提とした場合、その年代を推測するのに、後の時代の平均在位
などを参考にするという方法論自体を、間違いとはいえない。
但し、
>>702 以外にも、即位したかどうかがはっきりしない天皇の扱いなどの不確定な
要素が色々あるので、安本が、ピンポイントに神武の即位年を割り出す根拠にしている
ニュアンスで述べているのは、誤りだと思います。
30代から遡る場合、平均値1年の違いで神武即位年での誤差が30年。
中間での誤差も無視できない。安本は、仲哀や崇神の即位年が彼が想定する実在値と
10〜20年の誤差になっているのに、神武で収束(予定調和)させているが、これはダメ。
欠史8代の実在を認めながらその在位が特に短いというのも、不徹底。
むしろ、記紀や朝鮮の資料などから、中間の位置にいる天皇について、別系統の検証値を
設定するべき。例えば、仲哀(神功)即位390年とした場合、神武即位は250〜260頃。
安本説でも、仲哀を起点にすれば、この頃になるという矛盾が存在する。
722 :
九州出身 :2007/02/11(日) 03:38:16
魏志倭人伝の壹與はじめは「トヨ」思ってたが調べると「イチヨ」になる。 「臺與」て知ってる方いらっしゃいますか?
723 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 04:22:47
>>720 壹與を、諸本の比較から「臺與」とし、豐鍬入姫に近いとして「トヨ」のルビを振ったのは、内藤湖南(虎次郎、1866〜1934)の「卑彌呼考」です。明治43年(1910)、雑誌『藝文』に分載発表。
ネットで本文が読めますが、以下に抄録しておきます。
壹與 本傳には邪馬臺を邪馬壹と誤りたれば此の壹與も臺與の誤りなるべし。梁書及び北史には並びに
臺與に作り、宋本御覽には臺擧に作れり、證とすべし。卑彌呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、
我が國史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫(又豐耜姫命)の豐(トヨ)といへるに近し。
國史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる體なれども、
人傳にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り傳へたるならん。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html
724 :
愛知県民 :2007/02/11(日) 05:55:12
>>706 確かに三国史記は12世紀の成立ですが、それ以前の古記録に拠っています。
百済本紀の近肖古王〜久爾辛王の7代については、その在位年代が
日本書紀の神功・応神紀に干支2巡=120年繰り上げて記述されており、
日本書紀の年代操作の跡が窺えますが、逆に三国史記の信頼性を高めています。
新羅本紀の阿達羅尼師今二十年(173年)夏五月、倭の女王卑彌乎が使者を送って来訪させた
という記事についてはどうでしょうか?
725 :
SOY :2007/02/11(日) 07:45:41
>>722 九州出身
>「臺與」て知ってる方いらっしゃいますか?
その表記を使っているのは確か北史や梁書だったと思います。
726 :
太国 :2007/02/11(日) 08:19:57
>>706 お前の10年説がデタラメだということが、氷山の一角のように
現出したので、
>>691 が疑惑を持ったのは当然だ。
彼の言うように、用明からやってそんなうまく卑弥呼の年代が
ピタリと分かるなどとは、甚だしく滅茶苦茶だということだ。w
>>708 それは先に農作で暦法を決めたということも相当ありうることだが、
当時は参考にはなるが、江戸時代が士農工商のように、古代は腹が
満ちてれば刀、(朝廷の権威)と古神道(天皇の信仰)と迷信的な
ことが優先するから、農作は二の次に追いやられる。
>>710 お前はうまいものばかり食う主義で、自分にまずい(不利)なもの
は廃棄してしまうのが最悪の行為だ。同様に古い物は捨てて新しい
もの(でかつうまいもの)は頂くというのも、これも最悪のもう一つ
だな。古いものでも冷凍庫に入っていれば腐敗はしないのだから、
古い→信用しない→捨てる のやり方は確実に失敗に至る。
古い→信用できるものもある→取捨を客観的に考察する
というふうにしないと。古き本物も廃棄してしまい、誤の自論に
なおさら固まる取り返しのつかない頭になる。お前がその典型。
お前のは100%に近く間違っているぞ。
するから、
727 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/11(日) 08:22:41
『三国史記』「新羅本紀」での新羅第四代、昔氏王統脱解は AD57年に即位になりますよね 新羅本紀によれば脱解は倭の東北千里の多婆那国で生まれたと云う旨があります。 彼は海を越えてやって来た倭人と云う事になりそうですが。 『三国遺事』では『三国史記』とは少し違った話になるようですね。 脱解は龍城国から来たそうです。これ、海神/竜宮神話を半島に持ち込んだ倭人居るような感じがしませんか? さて、日本書紀で倭迹迹日百襲姫命の死が書かれる崇神十年(日本書紀BC88年)を AD247年に同期させ、日本書紀の進行年3年に対して実年代の進行年を1年として計算すると、 日本書紀で神武天皇が即位した神武元年(日本書紀BC660年)は、AD57年になります。 それと、平安期の文献に新撰姓氏録と云う物が在りますが、そこで皇別氏族として扱われる新良貴氏は、 「稲飯命」の後裔氏族として扱われる特異な出自を持って居ます。 それによると新良国の王になった旨がありますよね。 新羅本紀を書いた側の人間。或いはその元史料を遺した側の人間。 それに、新撰姓氏録編纂段階で皇別氏族として列せられた新良貴氏。 彼等は知っていたんじゃないですか?AD57年が本来日本の正史上に措いて如何なる年であったかを。 勿論、新撰姓氏録を作った側の人間も。 それから、古事記の表記では「稲氷命」ですが、古事記の上巻の最後に面白いエピソードがありますね。 稲氷命がハハの国として海原に入ったと。書紀ではまた少し違う扱いですが さてさて
728 :
SOY :2007/02/11(日) 08:26:23
臺與の件 よく読んだら
>>723 が解説していました。重複でした。
>>710 恵也
>考慮すべきじゃない!
平均在位年数を考える際に直系継承か兄弟継承かは考慮すべきと
考えます。政権が安定しているか等の諸条件でその割合は変わり、
それを考慮しなければ結果が大きくずれると思われます。
>今は確認手段がないのだから、むしろ信用をしないという地点から論理を積み上げていくべき。
記紀の記述をある程度信用することが前提で天皇の平均在位年の考えは
存在し得ると思います。もし、継承方法、天皇の数などが信じられない
のであれば平均在位年の考えは放棄した方が良いと考えます。
『信用をしないという地点から論理を積み上げる』という貴方の考えは
理解できますが、その発言をしつつ『信用できないものの上に論理を積
み上げる』という貴方のやり方はいかがなものでしょう。
>>721 奴国
>30代から遡る場合、平均値1年の違いで神武即位年での誤差が30年。
確かにこれは看過できない問題ですね。単純に平均在位年で長い期間を
推し量るのは危険ということですね。
>むしろ、記紀や朝鮮の資料などから、中間の位置にいる天皇について、別系統の検証値を
>設定するべき。例えば、仲哀(神功)即位390年とした場合、神武即位は250〜260頃。
私は兄弟相続かどうかを考慮に入れているので結果は異なりますが、
ある程度検証できる天皇で補正するといった考えには賛成です。
729 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 09:05:50
記紀を書いた時点でよくわからなかった事が今現在確定できるとはとうてい思えない
730 :
唐松山 :2007/02/11(日) 09:45:37
正月壬辰朔癸卯 160年目1年度5日58回58448日1978.96月 孝元元年正月辛未朔甲申 181年目1年度10日64回66067日2236.97月 開化天皇元年正月庚午朔癸酉、 205年目1年度16日75回74899日2536.05月 崇神元年正月壬午朔 226年目1年度17日83回82574日2795.95月 垂仁 元年春正月,丁丑朔 269年目1年度0日98回98406日3332.07月 景行 元年秋七月,己巳朔己卯 崇神から 景行 まで 全ての記事の 朔 を拾い出し適当と思われる 処に当てはめてみました。 その 一部です。 皇暦では、 朔 が合いません
731 :
唐松山 :2007/02/11(日) 09:47:15
歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 崇神 205年目 1年度 16日 75回 74899日 2536.05 崇神元年正月壬午朔 205年目 1年度 16日 75回 74928日 2537.03 元年二月辛亥朔 208年目 4年度 17日 76回 76257日 2582.03 四年十月庚申朔 211年目 7年度 18日 77回 77114日 2611.05 七年二月丁丑朔 211年目 7年度 17日78回77320日 2618.03 七年八月癸卯朔 211年目 7年度 12日78回77404日 2620.87 七年十一月丁卯朔 212年目 8年度 18日78回77793日 2634.05 八年十二月丙申朔 213年目 9年度 17日78回77881日 2637.03 九年三月甲子朔 213年目 9年度 8日78回77911日 2638.04 九年四月甲午朔 215年目 11年度 18日 79回 78649日 2663.03 十一年四月壬子朔 216年目 12年度 18日 79回 78974日 2674.04 十二年三月丁丑朔 216年目 12年度 18日 80回 79181日 2681.05 十二年九月甲辰朔 221年目 17年度 19日 80回 80716日 2733.03 四十八年正月己卯朔 221年目 17年度 20日 80回 80805日 2736.04 四八年四月戊申朔 228年目 24年度 21日 82回 83433日 2825.04 六十年七月丙申朔 230年目 26年度 22日 83回 84172日 2850.06 六十二年七月乙卯朔 231年目27年度 24日 84回 84705日 2868.11 六十八年十二月戊申朔 歴年年度誤差閏歴日月齢崇神 19年目1年度-22日7回6977日235.99月 崇神 春正月庚辰朔。天皇即帝位 38年目1年度-16日13回13889日470.05月 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯 59年目1年度-11日20回21803日738.05月 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申 71年目1年度-10日25回25966日879.02月 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子 80年目1年度-10日29回29243日989.99月 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。 106年目1年度-5日38回38722日1310.98月 孝安 元年春正月乙酉朔辛卯
732 :
唐松山 :2007/02/11(日) 09:49:27
歴年年度誤差閏歴日月齢崇神 19年目1年度-22日7回6977日235.99月 崇神 春正月庚辰朔。天皇即帝位 38年目1年度-16日13回13889日470.05月 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯 59年目1年度-11日20回21803日738.05月 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申 71年目1年度-10日25回25966日879.02月 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子 80年目1年度-10日29回29243日989.99月 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。 106年目1年度-5日38回38722日1310.98月 孝安 元年春正月乙酉朔辛卯 136年目1年度2日48回49649日1681.00月 孝霊天皇元年春正月壬辰朔癸卯 160年目1年度5日58回58448日1978.96月 孝元元年正月辛未朔甲申 181年目1年度10日64回66067日2236.97月 開化天皇元年正月庚午朔癸酉、 205年目1年度16日75回74899日2536.05月 崇神元年正月壬午朔 226年目1年度17日83回82574日2795.95月 垂仁 元年春正月,丁丑朔 269年目1年度0日98回98406日3332.07月 景行 元年秋七月,己巳朔己卯
733 :
唐松山 :2007/02/11(日) 10:02:40
征東大将軍さんへ 年数は、大体良いと思いますが AD247年=崇神10年の 根拠を 教えてください。
734 :
太国 :2007/02/11(日) 10:03:34
>>712 適当ではないだろう。お前は確率統計を強信するからなおさら
>>696 のように左側に数字が集まるなどということの適当で
ないことが覚知できるわけで、ランダムではありっこない。
逆にこういうかたよりは、古代の記録からほぼ正しく伝わって紀が
成っているとうなづけることになる。
そりゃぁこの前のお前の言い分のように、記は稗田の頭からの外部
伝達だからなるほどお前の言うとおり数字は間違ってはいるよう
だが、これもお前の言い分どおり紀はさらに冷凍庫的確保していた
多数の原書群により、さっきの左終結の数字の状況から、古代の紀
の記述は信用が充分おける。そうでないものは、彼らは「一書に
曰く・・・」の書きこみで未来の人間に多説の中の一つでありと
いうことが知れる工夫にて判別できるようになっている。
古いから信用できないから捨てるでは、古き物の中の本物までも
一緒に捨ててしまい、論の失敗に行き着くのは当選確実である。
少し前のニュースでの2千数百万円を古新聞とうっかりゴミと
間違えて捨ててしまった件が報道されていた。
お前もこの大失敗をしてるのさ。
735 :
唐松山 :2007/02/11(日) 10:13:02
注 垂仁が長くなっていますが、朔を並べただけですので このように成ってしまいました。 時至9ヶ月24日後で 訂正が必要です。
736 :
唐松山 :2007/02/11(日) 10:29:05
太国さんへ質問 太国さんは、 日の干支を信用していますか? とりあえず崇神21年としましたが(そこに干支が有る)チトきつい 26,7年の方がスムーズ。
737 :
太国 :2007/02/11(日) 10:43:20
>>712 続き
お前は
>>696 の表がお前のデタラメが一目瞭然になるから、これを
覆い隠したいために、干支がどうのこうのと言ってるわけだ。
まるでアルカードがクルスに覆いをかぶせ投棄したいのと非常に
よく似ているな。ww じゃぁ次表はどうだ?繼體も2倍暦だよ。
【紀の繼體の日数統計表】
1日 3 15日 0
2日 0 16日 0
3日 2 17日 0
4日 2 18日 0
5日 3 19日 0
6日 1 20日 0
7日 2 21日 0
8日 1 22日 0
9日 2 23日 0
10日 1 24日 1←即位直前大迹楠葉行き先帝武烈の通常暦残
11日 1 25日 0
12日 0 26日 1←武寧王の子の死の百済の通常暦
13日 1 27日 0
14日 2 28日 0
29日 0
30日 0
即位直前繼體元年1/24→即位は同2/4 同7年8/26百済王の子淳陀死
738 :
太国 :2007/02/11(日) 11:36:31
>>736 唐松山さん
システム的には問題なく、信用出来ましょう。
>崇神21年云々
なんだか意味が分かりません?
>>733 の征東大将軍さんの
247年=崇神10年 は拙者の説に近いです。拙者のは以下のとおり
実年代240年=紀の記載の崇神10年
739 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/11(日) 11:52:08
例えば神功紀の年代は、『三国史記』「百済本紀」との同期関係に120年分のズレがみられる訳ですよね? じゃあ、それ以前の年代はどうなっているのか?と云う時に 漢籍と同期を取っているんじゃないか?と云う事ですよ 書紀三倍説に従って、AD57から計算するか、AD247年から逆算するかすればそう云う結論になります その時AD107年は懿徳元年になります。 AD247年=崇神10年は、 卑弥呼の没年をAD247と日本書紀を作った側の人間が解釈したと仮定して 崇神十年の倭迹迹日百襲姫命没と同期させて書紀三倍説で逆算しただけですよ ただ彼等が卑弥呼没をAD248年没としていたなら、この計算は1年繰り下がりますよね
740 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 12:10:30
だから帳尻あわせの暦ばっかり作るなって。 既に邪馬台国と大和朝廷は完全な別物だと認識汁。
741 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/11(日) 12:40:30
日本書紀は当初は漢籍とも百済人が持ち込んだ史料とも帳尻が合うように設計されて居る筈なんですよ 今の様に年代操作されたのはその後のステップでの話です。 ですから、ある特定の年代を規準にしたり、特定の法則に従って計算して行くと 矛盾しない年代が芋づる式に出来上がる事が考えられます。 彼等が有用な痕跡を残していればですが 彼等が行なったステップを逆から辿る事さえ出来れば、 年代操作する以前の日本書紀の紀年が完全に復元される寸法です 勿論その時に復元される年代に想定される人物が「史実上の」その人物か如何かは別の問題ですが それに我々の机上の計算を見て苛立つ必要もありませんよ 日本書紀を創った人間こそは机上の計算をやった張本人な訳ですから 冷静にお願いします
742 :
太国 :2007/02/11(日) 13:10:47
>>705 九州出身さん
簡単にっていうのはなかなか難しいですが、他の考えで具合よく
仁徳以前の天皇の超長寿が合理的に説明できますか?
他って云えば讖緯説か、適当っていういい加減か、故意なる偽造か
創造上の物語とかいうことになりますよ。
1年が当時の半年でやっていたというのが倍暦の基本的考えです。
とにかく
>>696 と
>>737 の表を見て下さい。当時は1ヶ月が14日間の
2週間でやっていたことが可也あったということの文証です。
743 :
太国 :2007/02/11(日) 13:29:49
>>709 陳寿の没年が259年ならば、紀のストレートの記述とつりあって
いるわけだから(→紀の神功39年=239年)、この259年を容認
するということは、應神仁徳の寿命が現実離れした大数で生存して
いたことを君は信じることになる。w
>>743 >>709 ではないが、誰か陳寿の没年が259年と言っているのか?
言っている香具師がいるとすればそいつはおかしい。
745 :
太国 :2007/02/11(日) 15:05:20
>>744 さん
失礼しました。259年は誤記です。2ちゃん書きこみ重厚、不自由の
ため訂正を怠らざるを得なくなったためです。
297年と云われているそうです。
>>925 さんの問いからです。
この数字のところ、紀のストレート記述対応では
神功39年=239年 神功66年=266年 で
陳寿没年が297年となると見た目ではは帳面が合ってますが、これ
を容認すれば應神(とくに)仁徳は超長寿だということの矛盾が
でます。
746 :
太国 :2007/02/11(日) 15:24:34
747 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/11(日) 15:28:09
>>728 SOY
直系か兄弟かの伝承の違いを重視する考えは、宝賀寿男と同じですね。
宝賀は、直系での在位期間という視点で神武をたしか180頃とする。
初期は直系ばかりなので、かなり古い時代に遡る。
宝賀は、安本説を詳細に検討して、その不確定要素の指摘もしている。その上で、直系承継を
重視して、各天皇に対応する豪族の世代数との一致を指摘して、これを補強する。
たしかに、父親が在位25年で50歳で死亡した場合、父が25歳のときの子供は25歳で即位
というように、長期間の在位を正当化できますが、初期の天皇に直系が続くという伝承をどこまで
信用できるのか、という根本的問題もあります。
また、結論として出てくる神武即位年が200年より古いと、ちょっと古すぎると感じます。
>>745 中国の正史と記紀を直接結びつけることに無理があるのでは?
三国志以前から中国では等倍暦(とでもいうのでしょうか、今の1年とほとんど同じ1年の暦)を使用していたので、
中国側の記録を西暦に当てはめてもズレはないはずです。
しかし、当時の日本では等倍暦を使用していたとは限らず魏志倭人伝の記述で
倭人の寿命が80−90 あるいは100と倍暦の使用をうかがわせる記述もあります。
なので、中国側の記録は今と同じ感覚で扱ってよく、記紀などの日本の記録は疑いの余地もあり
慎重に扱う必要があるということではありませんか?
そして、陳寿の生没年、卑弥呼の年代などは中国側の記録なので
素直に西暦換算するのに問題はないはずです。
749 :
太国 :2007/02/11(日) 15:56:16
>>748 そのように中国の記録を心配ないと固定して、日本の年代を遡って、
後で仁徳以前の天皇の寿命がみな当たり前の寿命になってくれたと
云うんなら、これはOKの可能性が相当出てくると言えるが、
そんなうまく行くのかい?
297年陳寿没では應神仁徳はべらぼうの長寿のままだろう。
このへんの天皇(神功を含む)と後代の繼體ころが(全部でないが)
倍暦となれば、当然陳寿の寿命も後送りということになる。
念のため言うが。卑弥呼は神武前後の人物ではないから、当然陳寿の
没年は4世紀以降になってくるわけ。
750 :
九州出身 :2007/02/11(日) 16:10:30
>>742 太国さん
ほうほうそれはなかなか面白いデーターですね。
では太国さんがいう倍暦での初代神武〜31代用明天皇までの年代は
どうなるのですか?
面倒だが初代〜用明までの年代を表示させてください。
よろしくお願いします。
>>749 なんで話がかみ合わないのかな
当時の中国の暦は解明されているから、それを西暦換算するのは問題ない。
そして中国古典で應神仁徳の寿命を述べているわけではないから矛盾もないでしょ。
752 :
太国 :2007/02/11(日) 16:22:12
>>750 九州出身さん
用明を云ってるところをみると、貴殿は安本氏説なんですか?
この板の「邪馬台国は大和朝廷になったのか part21」のスレの
>411〜>499に断続的に年表をこさえてあります。
そちらをお読み下さい。
>>751 貴殿は甘いんじゃないの?
753 :
九州出身 :2007/02/11(日) 16:30:08
安本説やないが自分の目で見て大体、用明らへんからと
754 :
太国 :2007/02/11(日) 16:45:29
>>753 九州出身さん
お求めの用明のところ、欽明元年から以前になっています。
というのは、欽明以降すべて、用明までも通常暦であり、一般の
暦表の数字と変わりありませんから。
755 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 17:12:44
卑弥呼って「ひめみこ」つまり女の皇子という一般名詞のこと じゃないの?
757 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 18:08:10
>>559 忙しかったので時間差ですが。
>「す」と言う言意
「い」と言う言意
「か」と言う言意
が揃って初めて、あの物体を「スイカ」と表現した。
そお言う学問が「言意学」です。
これちょっと違うんじゃ?
スイカは、西瓜つまり中国語のシークァが 訛ったものですよ。
758 :
愛知県民 :2007/02/11(日) 18:14:20
>>741 >それに我々の机上の計算を見て苛立つ必要もありませんよ
>日本書紀を創った人間こそは机上の計算をやった張本人な訳ですから
>冷静にお願いします
別に怒りませんが、日本書紀の「帳尻合わせ」を解明しても・・・
我々(少なくとも私)は史実が知りたいわけでして。
>>755 卑弥呼=「ひめみこ(女王)」
卑弥弓呼→卑弓弥呼=「ひこみこ(男王)」
でしょうね。
759 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 18:18:59
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
760 :
SOY :2007/02/11(日) 18:21:26
>>747 奴国
>宝賀は、直系での在位期間という視点で神武をたしか180頃とする。
>初期は直系ばかりなので、かなり古い時代に遡る。
宝賀氏の計算方法が予想できませんが、私の計算では神武はA.D.100
くらいの人となりました。ただ私の計算は崇神の年代を予想するのが
目的だったので、あくまでもその理屈で考えると神武がそのくらい
になるといった認識でしかありません。
正直、神武の実物像はよく分かりません。崇神については陵墓の位置
から庄内期以降の人という思いがありましたので、試算してみようと
考えましたが、神武についてはまだまだ私は研究する段階にさえあり
ません。
>初期の天皇に直系が続くという伝承
初代から九代にかけての直系。確かに私も疑わしく思っています。
同時並行説など、いろんな説も聞きます。そういったこともあり、
私はこれらを平均在位年では扱いませんでした。
ただ、9代以前については、2倍暦?に絡むあたりの話(月の前半に
事件が集中する)には興味があるので、それがこの掲示板でどう展開
していくかについては興味があります。
原形となる暦がどういう形をしていたのか実に興味深い話です。
761 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 18:32:22
>>573 「
>>567 九州ですがさん 」
は僕ではありません。元気は良いが、ちょっと単純が玉にキズの「彼」です。
762 :
九州出身 :2007/02/11(日) 18:36:25
プラムへ
ほら
>>757 で言われるるぞ
なんて言い返すんだ(笑)
太国氏へ
>>754 その通りです。
763 :
一応九州王朝説 :2007/02/11(日) 18:44:08
太国さんはトリップとらないの?俺みたいなチンピラと違ってレス数も 多いしw 時々本人と違うのが混じるからややこしくて。
764 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 18:48:59
やっぱり半分助平師匠の言ってる発音が大事なんですね、でも発音も どんどん転化していき、またききでひみこことかに
765 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 18:54:19
766 :
九州出身 :2007/02/11(日) 18:56:18
>>757 九州ですがくんへ
プラムのかた持つわけや無いが、漢字の基本を言いたかったと思う。
「一つの漢字は一つの言葉」っていうのは基本だから。
767 :
一応九州王朝説 :2007/02/11(日) 19:08:50
基本ですな
768 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 19:24:55
>「す」と言う言意 「い」と言う言意 「か」と言う言意 はいはい。これはたとえ話なのね。あーびっくりした。
769 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 20:09:52
使い慣れない漢字を当て字に使ってるのでよけいにわかりにくいよね
卑弥呼は誰だ? 西暦180年代頃に王に推された (2)鬼道を得意とした (3)未婚で、弟が国政の補佐役をしていた (4)婢千人が侍っていた (5)城柵に囲まれた宮殿に住み、ただ一人の男子のみが飲食を運び、辞を伝えるための出入りを許可され ていた (6)死んだときに径百余歩の塚が作られ、奴婢100人余りが殉葬された
772 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 21:10:11
>>770 神奈川県民さん
やっとここまで来ましたね(感泣)。ぼく大好きなところです
よかったら神奈川県民さんお得意の読み下し、きぼ
>西暦180年代頃に王に推された
これね、異論アリ!の人、あんがい多いような悪寒するけどな・・・・
だって倭人伝に、そんなに、はきーりとは、書いてないでつ
773 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 21:23:15
>>770 神奈川県民さん
それとさ、ここ
>ただ一人の男子のみが飲食を運び、
たしかにそう書いてあるけど、でもなんだかヘンだよね
だって婢千人もいるんだよ
婢サンたち、「あ。私お給仕、します!」て申し出ないのかなあ?
男子にばっか飲食の世話させて、サボリの婢サンたちだなあ (ーー:)
>>773 婢千人は誰かが中国側に誇大表現して報告したのだと思う。
史実ではなかろう。多めに見積もってもせいぜい百人程度。
775 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 21:41:45
>>772 倭国の大乱の時期について、後漢書や隋書には桓、霊間と書かれている。
桓帝は西暦147年から166年まで在位。霊帝は168年から188年まで在位。
だから、桓、霊間というのは、147年から188年までとなり、かなり広い。
一方、梁書や隋書には、霊帝の光和中と書かれている。これは西暦178年から183年。
これらから卑弥呼がいつ女王になったのかが推定できる。
>>760 2倍暦については、部分的にそれを裏付けるようなものとして、
1、継体の宝算が、古事記43年、日本書紀82年で約2倍というのは、6世紀の
始め頃まで2倍暦があったようにも取れる。
2、若くして亡くなったと思われる仲哀の宝算が52年というのは、2倍暦で26年
とみると、整合しやすい。
3、倭人伝に「倭人はみんな長寿だ。」とあるのは、年齢の数え方が違う根拠になる。
などを考えていますが、初期の天皇には2倍でも長すぎる人がいるので、伝承が
不正確だったと考えています。
777 :
愛知県民 :2007/02/11(日) 22:14:24
>>770 魏志倭人伝の卑弥呼・台与の記述は、過度に神秘化されていると思います。
日本書紀は倭迹迹日百襲姫(私は台与と考えますが)について
「聡明叡智、能く未然を識りたまへり」と記し、武埴安彦の乱でも
崇神天皇に適切な助言をしています。
まずは卑弥呼のイメージを変えましょう。
779 :
九州出身 :2007/02/11(日) 22:49:27
卑弥呼ってこんなに綺麗なのかな?
780 :
九州出身 :2007/02/11(日) 22:52:44
781 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 22:53:59
卑弥呼もたぶん少女のときに女王になったんだろうけど、 卑弥呼も台与も当時の美少女だったと思う。 そのほうがカリスマ性があるわけだから。
>>781 しかし、何十か国、あるんだ。
卑弥呼一人がとびきりの美人というわけでもあるまい。どんなムラにも可愛い子は、一人や二人、居ただろう。
それよりも、身に付けている服や装身具、メイクやヘアスタイルが、普通の女の子とはかなり違っていたのではないか。
要するに奇抜なニュー・ファッションで、そこに多くの人の、好奇(=好貴?)の目が注がれたのでは。
そういう人と違うスタイル卑弥呼自身の好みで、親や周囲もそれを認め、入手し、与えていた・・・。それができる階級だった。
もちろんそれは、卑弥呼の宗教的な特異な体質が、すでに幼くして、現れていたんだろうと思う。
783 :
愛知県民 :2007/02/11(日) 23:21:22
>>778 これは現代人の卑弥呼ですね。イメージ変えすぎ。
次に考えたいのは、日本書紀が卑弥呼=神功皇后としていること
(異論のある人もいそうですが・・・)
最も古典的な説として、今でも示唆に富んでいると思います。
784 :
太国 :2007/02/11(日) 23:22:25
飛鳥美人画のようなかんじ。
785 :
愛知県民 :2007/02/11(日) 23:39:53
日本書紀の編者は、魏志倭人伝をそれほど正しいとは見ていなかった。 あの記事の通りなら、卑弥呼はまるで現代の何処かの将軍様か教祖様であり、 まともに国を治められるはずが無いと思ったのでしょう。 実際、歴史の何処を探してもあのような卑弥呼は見つからず・・・ 神功皇后という比定は、それなりに妥当だったと思います。
倭人の風俗習慣、社会制度を記録した魏志倭人伝の中段のところに、有名な「貫頭衣」が出てくる。 >婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。 > (婦人は髪を屈[糸介]していて、衣は単被のようなものを作り、その真ん中に穴を開けて頭を通して着ている) だから逆に、卑弥呼や台与(壱与)は、貫頭衣ではないファッションを多くの場合、着ていたと俺は思う。 王族であり、庶民とは身分・階級が違う。 それは特にファッションで、強く表現されなければならなかっただろう。
787 :
太国 :2007/02/11(日) 23:44:58
卑弥呼は神功の頃の時代の人物。
788 :
日本@名無史さん :2007/02/11(日) 23:46:38
ボケはやめれ
791 :
九州出身 :2007/02/12(月) 00:00:35
>>787 太国さん
あなた言ってることが矛盾してるよね。
>卑弥呼は神功の頃の時代の人物
倍暦よく言ってるが、それだと神功皇后にならないんじゃない?
792 :
愛知県民 :2007/02/12(月) 00:04:04
あとは、卑弥呼=意富夜麻登久邇阿礼比売命という、私の説です。
アレヒメも神功皇后と同じく、皇后とはいえ天皇の子孫で、れっきとした皇族。
孝霊天皇よりかなり年上で、天皇は頭が上がらなかったと思われる。
日本書紀ではモモソヒメのほうが詳しく書かれているが古事記では逆で、
箸墓の被葬者もアレヒメではないかと思われます。
>>655 も参照の上、批判等あればどうぞ。
793 :
太国 :2007/02/12(月) 00:05:55
>>791 矛盾はないですよ。(神功世は3倍暦の時代)
神功39年=365年(紀の記述のストレートの対応では239年)
神功66年=374年(同 266年)
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・
794 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 00:06:41
795 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 00:18:10
797 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/12(月) 01:39:43
>>724 >確かに三国史記は12世紀の成立ですが、それ以前の古記録に拠っています。
肝心の古記録が歴史の闇に消えて、信頼性が確かめられないのなら古記録とやらは無視すべき。
俺は日本書紀にしても三国史記にしても、作成された年代のずっと前の年代に関しては無視してる。
年代に関する信頼性はゼロ。
新羅本紀も三国史記の一部だから、12世紀頃の年代なら信頼性はあるけど2世紀ころの年代記述は
全く信頼性はないよ。
798 :
一応九州王朝説 :2007/02/12(月) 01:54:11
>>792 「大倭」の冠についてはどうお考えでしょうか。
男王じゃないのにそれがついているということは、九州王朝説なら
「淡島出身の九州王家の血族」となるんでしょうかね。まあある意味
楽な考え方ですが。
ただ、孝霊天皇から勢力を拡大し始めた事については、何か政治的
背景があるように思いますが。アレ姫の墓が箸墓だというのは十分に
あると思いますが、墓の形状については、九州発信と考えていま
すから、それをわざわざ持って来るほどの大物だったのではないか。
或いは、吉備との関係も濃いので、そっちからかもしれませんが。
そして、その後エリアと勢力を拡大するたびにモニュメンタルな前方後
円墳を残して、九州との政治的結合と物質的優位性を誇示したのでは
ないかと考えます。
まあ孝霊の墓の比定地もいい加減な物ですが、私はホケノ山じゃない
かと。その周辺の墓についても、実際掘ってみないと分からないんです
が、宮内庁っていう狂信者集団がいますのでどうにもこうにも。マキムク
については、九州から正式に叙任されたことで強力なバックを得ることで、
大きな政治都市・耕地集落を持つことが出来たのではないか。
まだ所詮仮説の一つですが。箸墓が孝霊の墓かもしれませんしね。その
後狂ったように各地に前方後円墳が作られていくのは、九州統一からそ
の軍事・経済的プレゼンスが大きくなり、その支援を得るために柵封体制
に入ることでヒエラルヒーが形成されていったからではないのかな、と。
畿内発でもその意味は同じだけど、当時ヤマト南部の小勢力だった一豪
族がいきなり墓と支配を全国化はできない。
799 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 05:16:13
>>773 >婢サンたち、「あ。私お給仕、します!」て申し出ないのかなあ?
男子にばっか飲食の世話させて、サボリの婢サンたちだなあ
だから僕が言ってる黄巾、つまり初期道教の影響は否めない。妄想じゃないんですよ。
黄巾では王位に就くと人前に姿を見せないという考え方なんです。
そしてたった一人の男子というのも、宦官だったと思います。
「鬼道とは黄巾なり」という文献もありますから。全くの同じものではなくとも、
シャーマニズムと掛け合わせたようなものだったんでしょう。
800 :
愛知県民 :2007/02/12(月) 06:57:18
>>798 >「大倭」の冠についてはどうお考えでしょうか。
「大倭」でなく「意富夜麻登」という表記ですね。
娘の夜麻登登母母曾毘売命とあわせて、古事記ではこの二人だけが「夜麻登」という文字になっています。
意識して書き分けたのかどうか、気になります。
801 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 07:29:42
宦官って性別があるのですか?
802 :
太国 :2007/02/12(月) 08:07:45
>>795 まぁそんなところです。その絵はちょっと頬あたりが太りすぎ
ですな。w
803 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 08:24:31
卑弥呼は当然当時の中国人がヒアリングした当て字だが、 日御子とか、日巫女って意味だと思う。 ホツマツタヱを読むと、 天照(アマテル)カミとか、下照ヒメとか、 若仁(ワカヒト 若日人の表記のほうがより原意に近い)とか、 若昼女(玉津島神社表記では稚日女尊だが、原意に沿う表記はこうなるらしい)とか、 とにかくお日様に関係した名前が多いね。 姫の原意は「日女」なんだよね。
804 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 08:32:56
そうそう、当時のカミは神の意味ではなく、御上(オカミ)なんだよね。 つまり為政者(上様 うえさま)のことをそう呼んでいたわけで、 天照大神なんかも、死後祀られて神様扱いになっているだけで、 生前の原意に沿った漢字表記は天照上(アマテルカミ)が正解だそうだね。 おっと、ここで、音読み訓読みは関係ないよ。 なにしろ、後世になって適当に音に漢字を当てているだけのことだから、 どっちの読みで字を当てなくてはならないかなんて規則はないし、 基本的には関係ないこと。 ホツマツタヱは記紀より内容が正確で情報量が倍以上あるから、 後世の改竄を受けているとしても、伝承内容のほうはかなり正しいと感じる。 古事記より信頼できるのは確かだね。 卑弥呼は原意に沿った正しい漢字表記は日巫女。
805 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 09:03:03
漢字の使える渡来人を書記にやとって書いたのでかなりハチャメチャになるかも
806 :
SOY :2007/02/12(月) 09:17:34
>>776 奴国
2倍暦。あったことを匂わせる状況証拠的なものは
多いのに実証が難しいところに興味をそそります。
私が最初に2倍暦を認識したのは『100歳を越えても
200歳を越えない年齢』に何らかの法則性を感じたか
らです。
とりあえず、今は『事件が月の前半に偏ること』と
2倍暦がどのように関連しているかを考えたりして
います。
しかし、これはどちらかと言うと、邪馬台国の問題
というよりは記紀の問題ですね。
807 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/12(月) 09:24:52
>>758 仮に日本書紀の内容が史実を反映させて居るとしても、
日本書紀が本来どう云う年代観で書かれていたかが解らないと始まらない訳じゃないですか。
ま、考古学もありますが。
ただ、日本書紀が史実を反映させて書いてるかどうかは私の責任では有りませんので、
日本書紀の紀年問題を完全に解いたとしても、書紀から史実が見えるとは言えないですし、
取り敢えずその限界を頭に入れた上で考古学的成果に左右されず、
文献史学者は文献史学として書紀の年代を算出すべきなんですよ。
>>655 >>792 大市と云えば勘注の神大市姫命を連想出来ますし、
箸墓の被葬者がモモソのままでも問題無いと思いますけど、如何でしょうか
808 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/12(月) 09:29:07
>>776 伝承がおかしいんじゃないですよ。
治世年間の設計に合わせて、寿命が算出されるだけであって
そう云う伝承に基づいている訳でも何でもないです。
809 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 09:45:12
卑弥呼の生年と没年はいつか、それと台与の生没年も、みなさん、推理してほしい。 というのは、「宗女」ということから、台与はだいたい卑弥呼のひと世代下のイメージで 語られる方が多いような気がする。違うと思う。 ふた世代差、つまりおばあちゃんと孫ぐらいの年齢差があったのではないか。 もし卑弥呼、台与を、記紀の系譜中に探すのであれば、これは案外大切だろう。 卑弥呼存命中に、もちろん台与は生まれていたと思うが、卑弥呼の死のとき、台与は いくつだったか。狗奴国との争い、これへの卑弥呼の対応など、台与は理解できていたか、 台与は卑弥呼から、なにか「教義」みたいなものを伝授されたか、など、とても興味がある。
810 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 09:51:27
>>776 以前、テレビを見ていたら、どこかの途上国の、田舎の老人が、年齢は
120才だと言っていたんですね。ところが、息子というのが若い。
どうも正確な年齢を知らないらしい。
古代の日本もそんな感じで、正確な年齢を知らなかった可能性が
あるんじゃないかな。だから、自分は百歳と言う人も多かった。
晋書にも、倭人について「不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀」と
あるわけだから。
また、「秋の収穫の時を以って年紀となす」ということから、2倍暦も
どうかと思う。2倍暦に疑問を持つのは、区切りがわかりにくいと
いうことが大きいと思うのだが。
春耕を忘れてますよ
812 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 10:01:09
>>809 >ふた世代差、つまりおばあちゃんと孫ぐらいの年齢差があったのではないか。
いやいや、ひょっとしたら3世代差ぐらい、あったかもしれませんよ。
ひいおばあさんと、ひ孫、ぐらいね。
うん、なかなか面白い課題なので、倭人伝を読み直して、二女王の生没年、考えてみましょう。
>>810 >晋書にも、倭人について「不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀」と
あるわけだから。
また、「秋の収穫の時を以って年紀となす」ということから、2倍暦も
どうかと思う。2倍暦に疑問を持つのは、区切りがわかりにくいと
いうことが大きいと思うのだが。
以前何処かでプラムが言ってたように《秋收之時》は収納で、納税を年の最後とし一年の区切りとした
考えがしっくり来るんだが?
814 :
愛知県民 :2007/02/12(月) 10:35:59
>>807 征東大将軍さん、失礼しました。
素人がお仕事を侮辱しているように取られたかもしれません。
今週はこれで退場しますが、今後も会話に応じて頂ければ有り難いです。
本当に、失礼いたしました。
>>809 卑弥呼即位が180年代とすれば、かなりの年齢差でしょうね。
ただ私は即位はもっと後と見ています。
魏志には「住七八十年」とあるだけで、年は長大だったとあるので。
815 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 10:41:21
寿の思想による年号の増しを正確に補正できる、ホツマツタヱと、 記紀と魏志倭人伝などの4書を、しっかり照らし合わせれば分かることですが、 日巫女さんの日本での正式なお名前は、ヤマトトビモモソヒメです。 生まれたのは160年頃で、没年は247年。 ネヤト26年ずらし(正始八年、崇神十年)ってことになります。 お墓はもちろん箸墓古墳です。 これでほぼ無矛盾で、ファイナルアンサーと見ていいから、 このスレッドは終了かも。
816 :
唐松山 :2007/02/12(月) 10:47:11
「不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀」 これは、下民 の事 支配階級は、暦(農事暦)をもって支配していた。 だから 会稽で開かれる秋の市(ダラダラ長期間開かれていたとは思わない。) に 時節をもって やって来る。
817 :
太国 :2007/02/12(月) 10:50:16
だから大祓いの6月の末で区切る。半分づつだからそんな困難 ではない。女王国とか九州王朝はどうだか可能性のみに留まっては いるが、畿内では倍暦をやっていたわけ。 3倍暦の崇神世は2倍暦の開化世の暦法の延長っていうか、3倍暦 との並用があるんではないかということで(現今の午後2時が14時 でもあり、両者が並用のごとく) 紀の文 崇神62年7/2(6月末の翌々日、実年代257年) 詔したまひしく「農は天下の大きなる本にして云々・・・今河内 の狭山の埴田水少なし云々・・・百姓農事を怠る云々・・・ 民の業を寛かにせよ。」とのりたまひき。 これは半年後(2倍暦では、当時の新年の)第二日目に農業を天皇 が勧めている。つまり年の初めのためしとてである。
818 :
太国 :2007/02/12(月) 10:53:55
819 :
太国 :2007/02/12(月) 10:57:29
>>818 は誤入力です。
>>815 貴殿の説はすべて間違い。卑弥呼は崇神世の人物にあらず、神功の時代
の4世紀の女性です。箸墓は卑弥呼と無関係。
820 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 11:00:26
スルーでいきましょう
>>816 >支配階級は、暦(農事暦)をもって支配していた。
当然の事だろう
漢書には樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。暦があればこそ
823 :
唐松山 :2007/02/12(月) 11:09:21
ほつま でみる限り 卑弥呼は、筑紫の オオミケ 増しのある 年の干支は、年代測定には、使い物にならない。 日の干支は、書紀で見て 崇神から景行までで (年号、月、干支)をワンセットでみる 間違いと思われる所は、2ヶ所 1ヶ所目は、 崇神7年11月 丁卯 崇神8年11月とすると ピッタリ治まる その他の 年代に関係なし。 困るのは、垂仁5年から18年にかけて 閏がひとつ多くなりすぎる 7年7月 を7年8月 等操作が必要 垂仁 末も操作が必要。
824 :
唐松山 :2007/02/12(月) 11:22:22
当時の暦の 新暦は、5月(現在は4月) 支配階級の シノギは、 種貸し よって天皇は、種貸やの大親分 揚がりの 種籾を運ぶ道は獣道ていど 畿内で 支配できる範囲は、おのずと限られる。
825 :
SOY :2007/02/12(月) 11:22:36
>>809 >卑弥呼の生年と没年はいつか、それと台与の生没年も、みなさん、推理してほしい。
卑弥呼の即位年に関わるあたりの記事を少しまとめてみました
1.倭面上國王師升 (107年)
2.住七八十年 (xxx〜xxx年)
3.桓霊間倭國大乱 (147〜188年)
4.漢霊帝光和中倭國亂 (178〜183年)
5.歴年無主 (xxx〜xxx年)
6.乃共立一女子爲王名曰卑彌呼 (xxx年)
気になるのは以下の点です。
(1)倭國大乱と歴年無主の同じ時期を示すのか
(2)桓霊間や光和中というのは倭國大乱の始まりを示すのか全てを示すのか
180年頃に大乱があり、歴年倭国の主がおらず、すぐに卑弥呼が
即位したと考えれば180年という解釈もありですが、歴年を短く
考えなければならないところがひっかかります。
年長大は必ずしも老人にのみ使われる言葉でないので、卑弥呼
がある程度若い可能性はあるように思います。
826 :
太国 :2007/02/12(月) 11:58:00
>>825 帥升は107年ころの人物ではない、この年は実年代で孝昭天皇の世
になり、そのころ九州には主だった国王的人物は居なかったという
のが真相であり、当時は畿内からも大陸からも圧力的な事件はほぼ
無く、攻められる心配もない時代だったということである。江戸
時代の鎖国的状況が非故意的な状況で時代が経過していたのである。
が、しかしまったく大陸との交通的出来事が0なのかと言うと
そうではなく、国をひっくり返される事件ものは起こらなかったと
いう意味である。
帥升は崇神〜景行、あるいは一歩譲って前代の開化の時代の九州の
人物で、時代の数字は200〜300年前半あたりと観る。
神武が九州から畿内に移った時点で、九州は他国の干渉が少ない
主のいない王朝の空白時期になり、崇神の時代ころに以後の九州王朝
ができたということなのである。
827 :
唐松山 :2007/02/12(月) 12:01:04
歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢垂仁 232年目1年度23日84回847342869月垂仁元年春正月,丁丑朔 233年目2年度24日85回851482883月二年春二月,辛未朔 236年目5年度24日86回864762928月 238年目7年度24日87回871262950月五年冬十月,己卯朔 240年目9年度20日88回877122970月七年秋七月,己巳朔 240年目9年度20日88回879192977月十五年春二月,乙卯朔 245年目14年度22日89回895143031月二十五年春二月,丁巳朔 245年目14年度-8日90回895443032月三月,丁亥朔丙申 246年目15年度-8日91回900753050月二十六年秋八月,戊寅朔 263年目`0000-7日97回960973254月九十年春二月,庚子朔 262年目`0000-5日96回958633246月九十九年秋七月,戊午朔 262年目`0000-6日97回960403252月冬十二月,癸卯朔壬子 263年目`0000-6日97回961283255月明年春三月,辛未朔壬午
828 :
唐松山 :2007/02/12(月) 12:02:19
歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢景行天皇 263年目1年度-6日97回962463259月景行元年秋七月,己巳朔 264年目2年度-5日97回964833267月二年春三月,丙寅朔 269年目7年度-3日98回984323333月十二年八月乙未,朔 274年目12年度-3日103回1001153389.94十七年春三月,戊戌朔 275年目13年度-2日103回1004993402.94十八年夏四月,壬戌朔 276年目14年度-2日103回1010013419.94十九年秋九月,甲申朔 277年目15年度-2日104回1011783425.94廿年春二月,辛巳朔 282年目20年度-1日105回1032173494.98廿五年秋七月,庚辰朔 284年目22年度0日105回1037783513.98廿七年春二月,辛丑朔 285年目23年度0日106回1041623526.99廿八年春二月,乙丑朔 286年目24年度-4日106回1046603543.85四十年秋七月,癸未朔
829 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 12:05:54
>>825 普通に考えれば、倭国の大乱をもって「歴年無主」。
大乱が治まってから卑弥呼が女王になったのではなく、卑弥呼が女王に
なる事により大乱が治まった。
大乱の治まった時期は、範囲の狭い霊帝の光和中をとり、最も遅くても
西暦183年。これは同時に卑弥呼が女王になったと考えられる最も
遅い時期と考えられる。
卑弥呼の没年は、倭人伝の時系列から正始八年(247年)よりもあと。
一般的に言われている西暦248年頃かな?
となると、卑弥呼の在位年数は、65年から70年。
女王になったのが台与と同じ13才とすれば、享年は80才くらい。
830 :
唐松山 :2007/02/12(月) 12:09:23
ごめんなさい 暦日と月齢が 合体してしまった 景行元年 暦日94246日 です。
>>829 >となると、卑弥呼の在位年数は、65年から70年。
女王になったのが台与と同じ13才とすれば、享年は80才くらい。
桓霊間すでに年已長大(年既に長大)となっているので13才とは考えがたい
832 :
唐松山 :2007/02/12(月) 12:24:47
193年 倭人が大飢饉となり避難民到来 この記事を 崇神6年 民散る に合わせると 倭国大乱の 収束は、景行の時代となり 景行18年 ?筑紫のオオミケ倒れ… 同20年 イオノ姫(五百野皇女)14才 これ筑紫向け
833 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 12:40:16
>>831 倭人伝の記述は、帯方郡の使いがやってきた景初三年(西暦238年)
よりも後の記録。
同じ部分に、「王となって以来見たものは少ない」と書かれているわけで
これが王になったときのこととは思えない。
同じく、「年已長大」も帯方郡の使者がやってきてからのことと思う。
>>832 それは三国史記の新羅本記に書かれていることだと思うけど、
大飢饉というのは、江戸時代を含めけっこう頻繁に起きているので
それを倭国の大乱に重ね合わせるのはどうかと思う。
834 :
唐松山 :2007/02/12(月) 12:40:21
この時 景行は、ひとつ?の和歌を残しています。 ...ただ巫女想う... この歌を平安の閑人貴族が ...畳薦... などと訳してしまうのでかみ合わなく成ってしまった。
>>833 >倭人伝の記述は、帯方郡の使いがやってきた景初三年(西暦238年)
よりも後の記録。
同じ部分に、「王となって以来見たものは少ない」と書かれているわけで
これが王になったときのこととは思えない。
同じく、「年已長大」も帯方郡の使者がやってきてからのことと思う。
あの文章には目をつぶるの
836 :
唐松山 :2007/02/12(月) 13:02:52
たしかに 飢饉は、常時在ったでしょう でも 国外にまで 散った民が押し寄せる 記録では、6月に1600人以上 田植えの終わった真夏にですよ その年のソウルでは、5月に積雪30センチ 四道将軍の 行動は、半年 治めたものは、まつろわぬ人等とまだ感化されていない人等 タケハニヤスは 腹違いの兄弟 当然の事であり 乱れ では無い 出雲を治めたのも この飢饉の結果 此処に一度は、軍を出す 当然 よって 畿内静謐 (九州は、この反対)と書かれている
837 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 14:47:24
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
838 :
九州出身 :2007/02/12(月) 19:31:39
>>793 なぜ神功皇后が3倍暦なんだか。あなたの倍暦がいまいちわからない。
どこか解りやすいカキコしてますかね?
839 :
太国 :2007/02/12(月) 19:52:17
>>838 3倍暦だということは、神功世が等倍とか2倍暦では武内宿禰の寿命
がとてつもなく数字が大きく、現代では考えられないほど長い事になり、それはありえないということから来ています。
神功と5代に遣えたことから、武内の生存時期の天皇、神功世は
(例外あり)3倍暦をやっていたとせねば合理性が薄くなります。
武内大臣はそのまま暦では285歳で生きられっこない数字ですし、
仮に2倍暦でも142歳、←どうですか? 貴殿でもそういうことは
ありえんと言うでしょう。彼の真の寿命は111歳ですよ。
840 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 20:28:06
武内宿禰が倍暦説の弱点ということで良さそうだな
842 :
太国 :2007/02/12(月) 20:38:34
3倍なら弱点にはならないでしょう? だいたい2倍暦より通常暦説の ほうが弱点であり、前者より後者のほうが寿命が馬鹿でかくなるから それが分かる。
843 :
日本@名無史さん :2007/02/12(月) 20:44:40
倍年暦では武内宿禰は説明できない。 3倍暦は説得力がない。
844 :
太国 :2007/02/12(月) 20:56:56
>>843 コヨミは古黄泉にして、古代の暦法の朝廷の採用方法は迷信深い、
より太古にあった神事等に依っていると考えております。
それは黄泉の国の、二神の産室と絞殺との言い合いからにあり
1500:1000=3:2
の関係から2倍暦と3倍暦を用いたもので、朝廷がイザナミの呪い
の恐ろしさを回避すべく、このような暦法をこさえたということ
になります。
なお コヨミ→9・4・3 から、欠史八代間の3代4代(安寧、
懿徳)と9代(開化)の時代は2倍暦を使っています。八代間の
他の天皇世は他の倍暦法です。
845 :
九州出身 :2007/02/12(月) 21:11:28
>>839 >3倍暦だということは、神功世が等倍とか2倍暦では武内宿禰の寿命
>がとてつもなく数字が大きく、現代では考えられないほど長い事になり、
>それはありえないということから来ています。
それは有りえないからあなたが勝手に3倍にしたんですか?
それに武内の年齢も勝手に決めてるに過ぎない。
有りえないっていうのは解るんですがあなたの説は適当にごまかしてるとしか思えません。
846 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 21:47:02
>>780 違います。僕ではありません。でも、この語尾に「何々でつ」という言い方、
何か懐かしい響きがあるような、ないような。
847 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 21:55:00
848 :
太国 :2007/02/12(月) 22:11:26
>>845 『神』の号のつく天皇は3倍暦ですよ。たとえば神武を見て下さい。
神武即位から同崩御までは3倍でやってるようです。
【神武即位〜崩御までの月数表】
神武元年1月 即位
同 2年2月 国造県主を定める
同 4年2月 鳥見山で天神を祀る
同 31年4月 巡幸
同 42年1月 神沼河耳尊 立太子
同 76年3月 崩御
この記録を見ると1月〜4月までしかないんですよ。このことは
当時1年が1月から4月までの四ヶ月しか無かったことを匂わせ
ています。四ヶ月ということは1年の三分の一ですから、このこと
は当時3倍暦をやっていたということです。
じゃぁ何故5月以降を使わなかったのかという疑問が出ます。それ
は高天原の五月蝿なす暗黒の世を嫌ったものであり、畿内平定の業
の最中に五瀬命が戦死したのが5月だからです。神武はこのことに
非常にショックを受けたようで、黄泉国の呪いのせいで天照大御神
からの守護が無かったのは5月にある、この月は凶と観たという事
です。だから5月以降を絶ったんですよ。当時縁起を担ぐのは、
神武は日を背にして戦おうとしたことからうなづけます。
また黄泉の国の黄色も嫌ったのか、方位でも五黄殺を嫌うのです。
五瀬命の御名にも五の字があることからもなおさらです。
ただ、崩御直後からは通常暦を使用し始めます。
849 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 22:30:01
ドン来いは1000までいってたんだ。スレ主のプラムさんに拍手。
850 :
九州出身 :2007/02/12(月) 22:43:40
>>848 ほうほう、5月を凶とし縁起を担ぐとはなかなかですね。
でもそれなら5月だけを排除すればいいことだしそこのところはどうなんですかね?
太国さんがいうのは神武、祟神、神功皇后、応神は3倍暦で、それ以外の30代までの天皇は倍暦。
その計算だと神功皇后が卑弥呼の時代と重なるんですかね?
851 :
太国 :2007/02/12(月) 23:15:24
>>850 『神』の号の天皇以外の世でも3倍暦はやっていますよ。
5月だけを排除するんでは2倍も3倍も出来にくいし、11月分に
なるから、そういうんでは 1.09倍暦 で運用は困難でしょう?
11数は素数のうちでも2桁で、1桁なら単純的でやり易さはあるも
これじゃぁ使用が難儀するんじゃないんですかな?
この計算から神功世が卑弥呼の時代と重なるんじゃないんですよ。
紀の神功39年と同66年の記述は当時の九州の卑弥呼の記事だという
蓋然性が極めて強いのですから、神功世にあちらに卑弥呼が生存
していたということですよ。編者側は卑弥呼を神功と見立てたと
するは編者側の恣意が入りますから、見立てたのではなく、その時代
ころに両者が並存していたということです。もし見立てたのなら、
「一書に曰く・・・」的書き方か、推定で挿入してますよとかの
断り書きをして誤解を防ぐ算段を彼らはやりますよ。
それで紀の並存はあの記載方法なら信用すべきで、神功39年、同66年
の紀の書きこみから倍暦で算出しますと、それぞれ365年、374年
に相当するわけです。このことは卑弥呼が4世紀の人物であること
を物語っています。
>>839 >>840 >>843 武内宿禰の長寿は干支120年繰上の前後にまたがったからという見方は
できないでしょうか。
神功皇后のときに、卑弥呼時代と三韓征伐時代を混同する干支繰上が生じた
ので、倍歴で165年のところが285年になったという見方です。
853 :
太国 :2007/02/12(月) 23:42:05
>>852 紀のストレート対応なら285歳ですが、165歳はまだまだ超長寿で、
この年齢はありっこないでしょう?
854 :
九州出身 :2007/02/12(月) 23:43:09
>>851 だから魏志倭人伝に記される248年頃亡くなった卑弥呼がなぜ4世紀の人物なの?
大国さん途中までいいんだが最後おかしいよ?(笑)
855 :
太国 :2007/02/12(月) 23:55:37
>>854 倭人伝のどこに248年ころ亡くなった記述があるんですか?
いいですか、後代の繼體世も2倍暦なのは半信半疑でしょうが、
もしやと思ってくれてるんではないかと拙者は想ってますが?
ならば今までの臥海の年数合わせが大きく狂っているんではない
んですか?
もしや中国でさえも倍暦だった時があったかも知れませんよ。
あと書きこんでおいてくれれば明日以降に考えます
小説ですが、西遊記にも天井の1日は地上の1年とありますがね。
zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
856 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/13(火) 00:12:56
857 :
九州出身 :2007/02/13(火) 00:24:59
>>855 中国も倍暦となる根拠を示してほしい。
何か握ってるの?
858 :
SOY :2007/02/13(火) 00:37:12
>>852 >武内宿禰の長寿は干支120年繰上の前後にまたがったからという見方は
>できないでしょうか。
私も寧ろその考えの方が妥当のように思えます。
また、武内宿禰は古代天皇とは違って、没年齢が記録として残されて
いたのではなく、彼が景行天皇の頃に生まれ、仁徳天皇の頃に死んだ
という記録からその年齢が算出されたのではないかと私は推測してい
ます。
古代天皇はデタラメな年齢のようで100歳を越えても200歳を越えない
というある種の法則性があります。
そんな長寿の中において彼の年齢は突出しています。そういった点で、
彼の年齢と古代天皇の年齢は事情が異なると私は考えます。
859 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 00:45:41
>>855 大国氏の場合は、ここは通常の暦、ここは2倍暦、ここは3倍暦。
場合によっては中国も2倍暦をとっていたかもしれない、となる。
それでは、自分で勝手に歴史を作っておいて、文献の歴史を自分の
作った歴史に合わせることになる。本末転倒というべき。
倭人伝の記述によると、景初三年(239年)に卑弥呼が魏に使いを送る。
正始元年(240年)梯儁が詔書・印綬を持って帯方郡からやってくる。
正始四年に、卑弥呼は伊声耆・掖邪狗を派遣し朝貢。
六年に難升米に賜る黄幢が帯方郡に到着する。
八年(247年)に帯方郡の新しい太守が着任。卑弥呼は載斯、烏越等を派遣し、
狗奴国と戦乱状態にあることを説明する。
張政が黄幢などを持ってやってきて戦争を止めるよう檄をなして告喩する。。
ここで「卑弥呼以死」となる。
男王が立つが国中が服さず戦乱状態になる。台与が王になる。
台与は掖邪狗らに張政の帰還を送らせ、同時に朝貢する。
となっていて、一般的には、西暦248年頃死んだとされる。
860 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/13(火) 00:51:21
古代の天皇は、医療技術も発達していない中、病没とかで個別に大きく差があってしかるべきなのに、 揃いも揃って長寿なのは倍歴論云々以前に、おかしい。
861 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 01:04:26
862 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 01:10:07
863 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/13(火) 01:11:10
鎌倉時代も30歳くらい。縄文人は狩猟して肉を食べていたので、結構栄養状態がいいが、 弥生人は穀物中心で栄養が行き届いていない。その為短命だったのではないか。
864 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 01:11:48
865 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/13(火) 01:15:15
うーん。脳が寝ている。明日に備えてもう寝まZ。
866 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 01:23:43
こちらも限界だ。もう寝よう。
>>864 によると古代〜近代では乳幼児期の死亡率の高さが平均寿命を
押し下げる大きな要因だけど、10歳まで生きた者のその後の平均寿命で
みると40歳を越えるように思う。
平均寿命が社会階級によって異なることは、産業革命期のイギリスの例が
有名だけど、古代でも支配者層と平民では平均寿命がかなり違っていた
可能性が高いと思います。
868 :
太国 :2007/02/13(火) 07:14:16
>>859 >それでは、自分で勝手に歴史を作っておいて、文献の歴史を云々
それでは、臥海で勝手に歴史を作っておいて、君はそれにたぶらか
されたのを信じているだけのことではないか?w
繼體世が先帝の普通暦の日付と百済暦の通常暦らしいこの記述以外
は総て記録は1日〜14日までしかない2倍暦が濃厚なのに、それを
知らずか、無視してそれより先代(武烈以前)の年数合わせをやっ
てれば、当然先代になる卑弥呼の記述なんか合いっこないぜ。
神功39年が239年ならば、應神仁徳両天皇はべらぼうの超長寿の
ままで、こんなことはありっこない。拙者が歴史を作ってるなどと
いうのは極論であり、説は紀の矛盾をいかに合理的に説明しよう
としてるかをやってるのさ。
倍年暦では武内宿禰は説明できない。 3倍暦は説得力がない。
870 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 08:31:36
寿の発想で暦に増しが行われている事実を無視して、 何倍暦って空論ばかり語る人が大勢いるスレはここですか? 天皇が即位したり死んだりしたとき、 10年とか30年といった単位で年号が足されているんですよ。 寿思想があるんです。 皆さんこの存在をちゃんと勉強して、矛盾を解決しましょう。
871 :
太国 :2007/02/13(火) 09:46:48
>>869 神武の3倍暦を匂わすのがこれ↓(当時の1年は4ヶ月のもよう)
【神武即位から崩御までの月統計表】
1月 2 5月 0 9月 0
2月 2 6月 0 10月 0
3月 1 7月 0 11月 0
4月 1 8月 0 12月 0
即位前及び即位直後は通常暦である。
872 :
サガミハラハラ :2007/02/13(火) 09:52:53
寿思想での割り増しに何か法則性がない限り、日本書紀の紀年の復元は 不可能となります。在世の終わりのほうの記事のない年数はそっくり割り増しとなるのでしょうか。
873 :
太国 :2007/02/13(火) 09:55:14
>>870 下表を見てみろ。増すより15日以降が引く以上の0だ。
増す張本人は他ならぬ君だ。↓なぜ当時は1日〜14日迄なんだい?
答えてみろい。
【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表】
1日 4 15日 0
2日 2 16日 0
3日 3 17日 0
4日 1 18日 0
5日 3 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 4 23日 0
10日 1 24日 0
11日 3 25日 0
12日 4 26日 0
13日 2 27日 0
14日 7 28日 0
29日 0
30日 0
中国人は、自分達以外の民族を書くとき賤しい字を当てる 倭とか蒙とか だから卑弥呼→ヒミコという音にわざと無茶苦茶な字を当てたんだろう 日巫女という役職のことであって、根本的に個人名ではないんじゃ?
875 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 10:29:47
>>867 おおざっぱに言えば、弥生時代、生まれた人は10才までに半数が死亡する。
10才の人でも50才になるのは半数。
さらに、60才になるのはその半数。
70才まで生きる人はほとんどいないということになる。
一方で、現代は、生まれた人の半数が80才くらいまで生きることになる。
倭人伝に書かれている倭人は長寿というのはなんかからくりがありそう。
876 :
○「本能寺の変、425年目の真実」 :2007/02/13(火) 10:42:20
○人大杉状態をなんとかするべし。自由に書き込めないぞ。 ○卑弥呼が偉大な女王とされたなら、その使っていたものは代々受け継がれても不思議ではない。 とくに魏からの金印は、この国の所有の絶対証明になる。 しかし、残っていないのは?
877 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 11:05:38
>>868 記紀とかを編纂する上で基本になったのは、神武天皇の即位で、
まず、これを紀元前660年あたりに決めてしまった。
記憶に残っている歴代天皇をその期間に割り当てた。
これが事実じゃないかと思う。
神武天皇の即位はそんなに古くないので、結果として天皇の寿命は
間延びしてしまった。
つまり、過去の天皇の詳しい年代は記録として残っていなかった。
古事記と日本書紀で天皇の在位期間がばらばらなのがその根拠となる。
878 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 11:11:07
>>876 古代では、死は汚らわしいものだったらしい。
だから、亡くなった人の持ち物も穢れた物と扱われた。
受け継がれずに、墓に副葬されたのは、それが理由の一つだったんじゃないかな。
卑弥呼の「親魏倭王」の金印は、魏が滅んでしまったら、あまり意味が
ないので、後には大切にはされなかったと思う。
879 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 11:36:36
寿思想は、対中国対策外交文書である日本書紀には、気取られるような形で記されていないよ。 国内向けに作られたホツマツタヱのほうを読むと、ちゃんと補正できるように書いてある。 日本書紀は、ホツマツタヱの伝承内容の5割以下しか翻訳されていない。 また、ホツマツタヱ以外の文献の伝承も多少付け足してあるかな、程度のものにすぎない。 しかも、編纂を統括していた中国人の翻訳者が、日本の文化に対する認識レベルはかなり低くて、 日本人が妻のことを「妹」と呼ぶことすら知らなかったりと、けっこう致命的だから、 もう笑ってしまうしかない記述部分がある。 なので、ホツマツタヱをまともに正しく翻訳できずに、記述内容が不完全で意味不明になっていたり、 明らかな誤訳になっていたり、コピーミスで文法的に変な文章になっている箇所がけっこう目立つよ。
880 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 11:37:55
日本書紀では意味不明で有名な、夜間箸墓古墳を築く部分の記述なども、 原典のホツマツタヱでは、ちゃんと意味が通じる文法的に正しい日本語で書かれているよ。 これは、日本人が二つの文献の記述を見比べれば、一目でおかしいと気付くんだけど、 当時の編集者は見落としてしまったみたいだね。 撃ちてし止まんなんて、戦前の教育で使われた箇所も、 記紀では神武天皇が皇軍に対して、シタタミ貝のように見苦しく這いまわって戦えと、 なにやらとんでもないナンセンスな意味不明の命令を出しているようにも読めてしまう、 かなり曖昧な描写になっていたりする。 ところが、ホツマツタヱでは、シタタミが貝の名前と下民の二つの意味を担う掛詞になっていて、 敵兵が右往左往混乱しながら無様に戦う様を、神武天皇が蔑んで語った言葉だと分かるように書かれている。 そして、敵の大将が皇軍との戦に負けて、スサノヲのように流浪の身になることを恐れ、 自分に大義名分がなく、反論の余地がないことを悟って軍を引いて敗北を認めたと、 ちゃんと書き手の意図が明確に読み手に伝わるように記述されているんだよね。
881 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 11:38:36
記紀はホツマツタヱと比べて、情報量が半分以下だし、 書き写すときに、変な思い込みで、原典にない描写を勝手に書き加えて、 原典が伝えようとしていた真意を損なう記述にしてみたりと、 編集がいい加減なだけでなく、やってはならない誤訳のオンパレードになっている部分すらあるんだよね。 そんな不完全なものを頼りにしているだけでは、邪馬台国問題は決着しないと思う。 神代文字捏造ブームの話に惑わされて、偽書だと頭から決め付けないで、ホツマツタヱをちゃんと読もう。 そして、寿思想を理解して、正しく年号の増しを取り除いた推理をしてみようよ。
882 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 12:07:41
上の撃ちてし止まんのくだりの解説では、少し説明が舌足らずのようなので、 文献解読に必要な予備知識を補足しておきます。 ホツマツタヱは記紀と多少違う記述箇所があり、天照大神は基本的に男神と記されています。 スサノヲが天照大神の13人いる妻のうちの一人を、過失とはいえ殺してしまい、 アマキミ(天皇の意味)に逆らったことを理由に、 宮号を剥奪されて、下民(したたみ)の身分にまで落とされて、流浪の身になって、 まるでシタタミ貝のように、各地を転々と徘徊して這い回った故事になぞらえた歌を 神武天皇が皇軍に歌わせたら、敵の総大将が戦意を失って軍を引いた、 というのが、ホツマツタヱが伝えている真意です。 ホツマツタヱでは天照大神は基本的に男神と記されていますが、 どうも、伊勢神宮の扱いや、古事記の描写などと照らし合わせてみると、 女神性も伺えるため、重大な事実を隠して書いていない可能性が見え隠れしています。 天の岩戸伝説を思兼尊が思いついて実行するしかなかった、当時の差し迫った状況を推理することで、 伝説の真意を解き明かして、天照大神の神の姿を浮き彫りにすることが出来ます。 男神と女神どちらの伝承も正しくて、 記紀が後世改竄されて、男神が女神になったわけではないと、示すことも可能です。 また、なぜ日本には、没後功績のあった人を神社に祀る風習が生まれたのかといったことまでを、 明らかにする謎解きの試みを、 この板の『天照大神は男神か女神か』スレッドで行う予定です。 天照大神が卑弥呼だという説もありますが、そうではないことも明らかになってきます。 まだ書きかけですが、興味がある方はあちらのスレッドも読んでみてください。
>>881 そのあたりを分かりやすく書いたお勧めの本があれば、教えて下さい。
また、ホツマからは邪馬台国はどこだと読み取れますか。
貴兄の解釈をご教授お願いします。
九州説(筑紫、大分、南九州)・九州王朝説・東勢(東進)説・畿内自生説・・・
どれが近いのでしょうか。
ちなみに私はクナ国東進説です。
885 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 12:51:03
ホツマツタヱ…。 初めて聞いた。どんなものかぜんぜんわからない。 まず、信憑性を確かめるほうが先では?
886 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 12:51:23
全員死ぬ間際に子供ができるなら在位期間の間延びも意味が有る。 でも15〜30ぐらいの間に子供を作るわけだから 100年生きようが200年生きようが跡継ぎが生まれた後の期間は被る。 先代の天皇が200歳で死んだ、よって次の天皇は0歳からスタートではない。 先代が200歳で死んだなら跡継ぎの息子は180歳で天皇になる。 となれば跡継ぎの天皇は在位期間は短くなる。
887 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 13:16:27
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
888 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 13:55:34
>>885 ホツマツタヱは、かなり悲惨な扱い方をされてきた文献で、
道鏡の焚書で消えてしまうところを、
命と引き換えにある人物が、家宝として江戸時代まで子孫に伝えていたとされています。
ところが、江戸時代に神代文字捏造ブームが巻き起こって、
ストレートにこれに巻き込まれてしまい、
偽書疑惑満載になって、一般の研究者の目から隠蔽されてしまっていた、
五七調の古代和歌で記されている日本最古の叙事詩です。
ただし、当時捏造された神代文字は、それを用いて書かれたまともな文献が無かったり、
あっても、内容が荒唐無稽すぎてお粗末なので、すぐに捏造と分かります。
ホツマツタヱ他ヲシテ3文献は、そのような一般的な捏造文字とはかなり異なる特徴があり、
分量も記紀の倍近くあるだけでなく、
記述内容が記紀よりしっかりしていて、より高い整合性を備えている印象があります。
文字の音韻体系が新しすぎて変だとか、和歌なんて音読みの人物が当時いるのは変だとか、
「かくれんぼ」とか「めかけ」なんて言葉が弥生時代に本当にあったのかとか、
さまざまな憶測に基づく理由を付けられて、長い間偽書と指摘されてきましたが、
ほぼその全てに対して、十分な反論が完了しているようです。
したがって、安易に偽書と判断してよい物ではないと思われます。
889 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 14:00:37
詳しいことは、ウィキペディアのホツマツタヱの項目などで。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%80%E7%9C%9F%E4%BC%9D ただし、この記事の内容はかなり公平性を欠く改竄が繰り返されているらしく、
要注意と思われます。
ホツマツタヱは江戸時代に人々の目に止まってから研究されはじめて、
多くの人の手で偽書と判断する研究が先行して存在するのに、それを明らかに無視して、
「30数年来の蓄積をもちつつあり、学問的な再評価が待たれている」などと、
中立性を欠いた、読めばすぐに嘘と分かるような記述が散見されます。
たった一人しか学術的な検証に耐える解説書を記述できる研究者がいないように、
偏った記事を書いてしまうひとがいたりするようなので、
全てを鵜呑みにしないで警戒したほうがよいと思います。
ある程度参考にはなりますけどね。
890 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/13(火) 18:43:08
コピペになりますが 『求む お知恵拝借』 『景初四年』の状況証拠にもなんとかメドがたち、次に『景初五年』の状況証拠作りを試みたく思い つきましては、謎多き古代史解明の為、一人でも多く知恵を拝借致したく ここにレス致した次第です。 何か情報が御ざいましたらレス宜しくです。 m(._.)m では また……。
891 :
九州出身 :2007/02/13(火) 20:09:29
892 :
九州出身 :2007/02/13(火) 20:18:01
ホツマツタヱは・・あの奇妙な旧日本字か・・・少しだけみたくらいかな
893 :
太国 :2007/02/13(火) 20:45:17
>>891 例えば、崇神垂仁世は3倍暦ですが、書きこみが非常に長くなり
ますので、すでに書きこんである
「2倍念暦」のスレの
崇神 >133 >135 >137
垂仁 >154 >155 >158 (>161 訂正)
にそれぞれ書きこんでいますので、そちらをお読み下さい。
894 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 22:09:45
>>886 垂仁天皇は崇神天皇が81才のときに生まれている。
ところで、日本書紀の景行天皇の記述はちょっと不可解。
景行天皇は、垂仁天皇16年に生まれた。そのとき垂仁天皇は55才。
垂仁天皇は、在位期間99年で享年は154才くらいのはず。
ところが、日本書紀には140才で崩御と書かれている。
また、そのとき景行天皇は83才。
つまり、景行天皇は83才くらいで天皇になる。
在位期間は60年。だから、景行天皇の享年は144才くらいのはず。
ところが、日本書紀には106才で亡くなったと書かれている。
書記の計算ミスかこちらの計算ミスかどっちだろう。
895 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 22:14:51
>>894 ちょっと間違えた。
全文訂正。
ところで、日本書紀の景行天皇の記述はちょっと不可解。
景行天皇は、垂仁天皇16年に生まれた。そのとき垂仁天皇は55才。
垂仁天皇は、在位期間99年で140才で崩御。
また、そのとき景行天皇は83才。
つまり、景行天皇は83才くらいで天皇になる。
在位期間は60年。だから、景行天皇の享年は144才くらいのはず。
ところが、日本書紀には106才で亡くなったと書かれている。
書記の計算ミスかこちらの計算ミスかどっちだろう。
896 :
太国 :2007/02/13(火) 22:23:04
>>894 紀のどこに106歳で亡くなったとありますか?
897 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 22:26:32
在日って結論ありきで議論しようとするから気持ちが悪い。
898 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 22:29:18
>>896 景行天皇紀の一番最後に書かれているはずだけど。
899 :
太国 :2007/02/13(火) 22:34:52
>>898 なるほど、成務もそんな矛盾がある話だな?
何かあるね? それは。箸墓の秘密に関わるかもな??
有難う。今後の参考になる。
900 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 22:35:34
ネットで調べてみたら、だいたい106才で崩御と書かれていたが、 ウィキペディア(Wikipedia)だけは、143才で崩御となっていた。
901 :
太国 :2007/02/13(火) 22:44:16
2倍と3倍の調整困難か? 日本武尊との調整の観点か? 矛盾が解決できないので、遠回しを含み、二つの歳で矛盾のまま記述 したんかな?
902 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/13(火) 22:45:47
推理としては、 ・もともと106歳で設計されていた ・成太子時の年齢は改変されてない21歳は正しい ・成天皇時の年齢は84歳 ・106-84+1=23、実際の治世は23年だった ・治世年間の分配法則により景行の治世年間が60年に拡張された→差分は虚構年 ・それによって成太子時の年齢から逆算すると143歳になる ・しかし、成天皇時の年齢は余りにも高齢 この理由の可能性の推理 1、n倍歴として解釈して解消すべき問題 2、先帝の垂仁が天皇が、景行を太子を立ててから崩御するまでの間に虚構年がある 3、先帝の虚構年の問題 さて
903 :
SOY :2007/02/13(火) 23:07:42
>>895 >日本書紀の景行天皇の記述はちょっと不可解。
昔から指摘されています。38年間はいったい何処にいってしまった
のか確かに奇妙な話です。
でも、矛盾のない記述よりもこういった計算のミスこそが古代の暦
を解明する切欠となりそうな気がして興味深いです。
古事記の干支崩年では137歳。年齢が長い方が正しいとするなら、
立太子の記事は垂仁37年ではなく、実際は+38年した75年とすべき
なのかも知れません。
どちらにせよ雲を掴むような話です。
いつも思うのですが、2倍暦を考えた時、天皇は確かに長寿なのに
立太子の年齢は意外にそれらしい数字なので何か違和感があります。
904 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/13(火) 23:08:49
垂仁40年〜垂仁86の計47年が空白年だから、仮にこれを全て虚構年と認めて処理すると 84-47=37 成天皇時の年齢は37歳、つまり崩御が59歳
905 :
SOY :2007/02/13(火) 23:19:41
>>903 別のことを考えながら計算していたので計算違いしていました。
>立太子の記事は垂仁37年ではなく、実際は+38年した75年とすべき
>なのかも知れません。
立太子の記事は垂仁37年ではなく、実際は+37年した74年とすべき
なのかも知れません。
906 :
太国 :2007/02/13(火) 23:34:02
実年代で10歳前後で立太子がありうるよ。
907 :
太国 :2007/02/13(火) 23:48:58
景行天皇 実年代 誕生 265年 立太子 270年 6歳 即位 293年 29歳 崩御 322年 58歳
908 :
太国 :2007/02/13(火) 23:56:29
成務天皇 実年代 誕生 299年 立太子 318年 20歳 即位 323年 25歳 崩御 342年 44歳
909 :
SOY :2007/02/14(水) 00:03:37
>>906 太国
>実年代で10歳前後で立太子がありうるよ
もちろん在り得ない話ではありません。ただ欠史8代あたりの立太子
の年齢を半分にして計算すると予想以上若い年齢ばかりが続くことに
なるので2倍暦があったっとしても太子の年齢には適用できないもの
なのかと考えたりしています。
もちろん当時の制度がよく分かっていないので絶対にないという話で
はありません。
910 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/14(水) 00:06:02
>>906 等倍ならざっと立太子は20歳前後
二倍で10歳前後
三倍で7歳前後
どれも無理はないですね
>>903 >>905 垂仁74年あたりは、垂仁40年〜垂仁86年の空白年次区間なんですよね。
この空白が事後挿入だったと考えると、
この年間に記事をシフトさせるべき可能性はちょっと考え難いと思うんですが
太国さん等のように、書紀の全区間に虚構年を全く認めずに三倍年歴まで駆使するなら、
この場合事後挿入ではなく、予め空白年が1/3程度あったと云う事で、15年程度ですから
それ程目立たない訳ですが、それでもそう云う理由で記事の記録位置自体は移動させたりはしないですね。
他にもイロイロ説は在りますが。
それに、書紀の長い方が『正しい』寿命かと言っても、
日本書紀編集者側も1年違いの誤差の場合でも、恐らく立太子時の年次と年齢記載から、
崩御時の年次を以って算出しているだけの事でしょう。我々がそうですが。
それ以外の場合の記載の方に意味があると云うのは私もそう考えます。
現段階になる以前の、1ステップ前での算出値ではないか?なんて思っています。
「伝承」などではなくて。
911 :
九州出身 :2007/02/14(水) 00:10:23
太国さん いま「2倍念暦」の真実 拝見しましたが、 >現今の午後3時が15時でも同等の意味であると同様 とか考えてみる余地ありそうですよね。
912 :
SOY :2007/02/14(水) 00:33:30
>>910 征東大将軍
>垂仁74年あたりは、垂仁40年〜垂仁86年の空白年次区間なんですよね。
>この空白が事後挿入だったと考えると、
>この年間に記事をシフトさせるべき可能性はちょっと考え難いと思うんですが
あくまでも1つの可能性としての意見で、違うと言われれば、
それまでの意見です。
>現段階になる以前の、1ステップ前での算出値ではないか?なんて思っています。
私も1つの可能性としてそれを考えています。辻褄が合わないところ、
通常とは違ったパターンのところ、私はこういったところが気になる
性質です。
編纂時にまぎれこんだ間違いは編纂過程を知る手がかりにきっとなる
と信じたい。
913 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 02:31:31
神武天皇は初代と息子の一人二役って説は有望なのかな。
914 :
太国 :2007/02/14(水) 07:15:32
>>909 立太子
神武 15歳
綏 5歳
安寧 21歳
懿徳 11歳
孝昭 9歳
孝安 7歳
孝靈 10歳
孝元 6歳
開化 6歳
915 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 07:16:43
普通に考えれば、人物が生きた年月じゃなく神武という年号が百数十年続いただけだろう。
916 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 09:50:31
年号は後年になってから創作したと聞いてますが、現実にはなかった事かも知れないらしいですね
>>915 そのような説は、もう、信じられていないわけ。
わざわざ、神武天皇という個人を作る必要が無いから。
もし、数代の人物を一人に纏めようとするのなら
そこは神代ということにしている。
神武天皇は、一様、人間界の最初の人物なわけで。
918 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 11:00:26
>>917 神代紀は『紀』全体のあらすじ、決して神世の時代を書いたわけではない。全てここに要約されている
919 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 11:22:10
人物神は記紀の産物。それまでのカムイは主に自然神であり、人では無い。 その点女性も人では無く自然の一部 しかし、記紀編纂時には過去の人物を神とし奉らねばならない背景がそこには有った。
920 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 11:38:49
神武天皇の息子さんについては、
当時の文献のなかで注意を払う必要があるようなことが書いてあったと思うけど。
必要もないのに、そんなことを普通は書かないよね。
襲名というのは、ホツマツタヱにも明記されているケースが多々あるよ。
同じ名前を継ぎながら、代替わりしているケースは、天照大神以前にあったみたいだね。
天照大神(イミナはワカヒト)自身も、スサノヲが暴れたとされる、
天照皇朝8年の内乱の時点で一度死んで、天の岩戸伝説で復活しているらしいよね。
このとき、どうやら思兼尊の妻で天照大神の姉のワカヒメが、
復活した天照大神役を、一時期務めていた可能性があるらしい。
そのあと、天御影命が、アマキミ(天君)の影武者を勤めて、
天孫降臨を命じていた可能性すら指摘されているね。
記紀の倍近い情報が記された文献だから、当時のことがよりはっきり分かってきたってことかな。
天御影命の名前を率直に解釈するなら、天照大神の御姿を留めた人物ということになるらしいね。
天照大神は男神か女神か論争や、天照大神影武者説、
執権政治形態説まで飛び出してきて、かなり面白くなっているね。
詳しいことは、ホツマツタヱと記紀を照らし合わせて謎解きをしている、
この二つのサイトを読めば分かるかな。
http://www1.ocn.ne.jp/~hotsuma8/ http://www.geocities.jp/crossmi_ray/ もっといいサイトがあったら教えてね。
921 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 13:31:11
>>914 初期の天皇は、皇太子になってやがて天皇になるという風に、あまりにも
整然としすぎているような気がする。
記録の確かな時代になると、まずそのようなことはなくなる。
天皇が崩御しても跡継ぎが決まっていなかったりする。
922 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 17:00:12
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
923 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 17:17:08
人多杉をなんとかしろ!
924 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 17:29:58
ひと大杉がこのまま続くようならば、2ちゃんねるに見切りをつけて、ほかに移動するしかない。
925 :
一応九州王朝説 :2007/02/14(水) 18:32:45
>>919 いつから人が信仰の対象だったのかはわかりませんが、決して
神武以後だとは思えません。既に八百万の神は出雲に集まる時
代があり、その神は祖霊神=地方の各部族だと考えます。
>>923 ,924
半年ロムってろ、いいことに気がつくから。
人口から考察したら、どう考えても 邪馬台国、投馬国は九州に治まらんのよ。 九州説の多くが、狗奴国を熊本にしている。 で、狗古智卑狗を菊池彦と解釈して... で、その場合、邪馬台国、投馬国をどこにするのかだが、 収まらんのよ、九州には。
928 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 19:42:22
出雲に集まって国内会議をするので首都は出雲でした
929 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 20:01:08
>>925 >決して
神武以後だとは思えません。既に八百万の神は出雲に集まる時
代があり、
その情報は何処からでしょうか?
『八百万の神』
何故七百万や九百万ではなく、八十万や八万じゃなかったんでしょうね
930 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 20:04:06
>>927 >人口から考察したら
どのように人口を割り出したのですか?説明いただけると助かるのですが
931 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 20:07:10
>>924 ひと大杉がこのまま続くようならば、2ちゃんねるに見切りをつけて、ほかに移動するしかない。
こんだけ人が居るんだから、誰か知恵の有る人居ないの?
僕だって会話さえ楽しめればいいんだから。
>>927 収まるのねそれが。
932 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 20:31:49
その人口は多分『戸』より割り出されたと考えますが この書が中国の書である以上、中国の律令に照らし合わせねばならないと思います。 あくまでも参考ですが 『官制大観』にその律令は纏められており (戸主条) 戸主には、皆、家長を以てなすこと。戸の内に課口があるならば課戸とするこ と。課口がなければ不課戸とすること。{不課というのは、皇親、及び八位以 上、男年16以下、また、蔭子、耆、癈疾、篤疾、妻、妾、女、家人、奴婢を いう}。 (三歳以下条) 男女は、3歳以下を黄とすること。16以下を小とすること。20以下を中と すること。男は、21を丁とすること。61を老とすること。66を耆とする こと。夫がなければ寡妻妾とすること。 ・・・参考として一部抜粋・・・・・ このように事細かに書かれています。 それを基にした割り出しでしょうか?
933 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 20:38:06
八百万、は古代から数大くを表す表現の一つ。 八と言う文字には大きく広がっているという意義が。
934 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 20:38:32
935 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 20:46:58
>>933 >八と言う文字には大きく広がっているという意義が。
その意義でいくと『八咫烏』はどう解釈するの?
936 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 20:57:40
『八百万』ヤオヨロズ ヨロズ屋→解決出来ない物事だけ扱う仕事→(正常でない)仕事
937 :
SOY :2007/02/14(水) 21:34:08
>> 914 太国 何か認識が違うような… 何か特殊な計算をしている? 私の認識では→の右側のとおり >立太子 神武 15歳 → 15歳 綏 5歳 → ? 安寧 21歳 → 21歳 懿徳 11歳 → 16歳 孝昭 9歳 → 18歳 孝安 7歳 → 20歳 孝靈 10歳 → 26歳 孝元 6歳 → 19歳 開化 6歳 → 16歳
938 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 21:41:54
やはたがらす
939 :
太国 :2007/02/14(水) 21:59:08
>>937 安寧は一致してますねえ? 計算は倍暦です。但し開化までで、
神武即位の前年以前(←全部でないでしょうが)と綏(神武崩御
直後から)世は通常暦です。
940 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 22:19:50
>>935 「中国古代の説話で、太陽の中にいるという3本足の赤色の烏。また、太陽の異称」
という事だし、八と言うのは道教でも神の座する場所と言う意味だったと思う。つまり世界。
この場合とても大きなという意味でしょう。
太陽を意味することからも、太陽が出て明るくなり、行く手がはっきりした、
というのを奥ゆかしくこのように表現したものかも。
941 :
太国 :2007/02/14(水) 22:22:09
>>935 片手の掌を拡げた長さが咫として8倍でも、八咫烏と八咫鏡とは
大きさも違うんじゃぁないでしょうか?
日神は八咫鏡の冠をかぶってますが、烏と大きさを合わせることを
頭に浮かべれば、だいぶ大きさが違うと想います。因みに日神は
小柄な美姫です。アイス・スケートの安藤美姫さんには似てない
ようです。
それに八咫烏の神武即位直前の頃は、神話と実際の歴史との交錯帯
の時代で烏詮索は日本史スレではひかえたほうが無難と考えます。
942 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 22:30:19
>>941 は、間違いなく太国、御本人のようです。
943 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 22:42:47
>>940 >「中国古代の説話で、太陽の中にいるという3本足の赤色の烏。また、太陽の異称」
という事だし、八と言うのは道教でも神の座する場所と言う意味だったと思う。つまり世界。
3Cの頃朝鮮の渡来人が、太陽に三本足の烏を故国の旗印としていました。
(烏は太陽からの使者である)という伝説が、中国、朝鮮辺り在地化したと考えられます。
それらの人達が大宇烏脇に天津小屋根命を神明神社に祀り、その旗印を神紋と
宇脇には古くから太陽に三本足の向かい烏に波を図案化した、村の紋所があり、幕や提灯に描かれ今に
伝えられています。
朝鮮高句麗真シンハリ古墳より出土した壁画には太陽と三本足の烏が描かれている。
そして、大正天皇の即位儀式には数本の八咫烏の旗が飾られた
中国の鳳凰の足は二本なのに? 高句麗では三本に?
944 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 23:00:44
>>943 かなりお詳しいですが、「中国の鳳凰の足は二本なのに云々」の部分はどうでしょう。
鳳凰は、鳳と、凰の二匹で一対。不死鳥フェニックスで、八咫烏とは全く関係が無かったと思います。
945 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 23:10:19
>>944 いや〜っ 御輿に乗っている鳥が二本足なもので参考までに(あれは鳳凰でしょう)?
946 :
太国 :2007/02/14(水) 23:12:52
このごろTV、新聞報道とかで知るわけですが、金色のカエルが見つ かったとか、金色のサンショウウオが発見されたとか、これは 突然変異だろうとかで、珍しい動物で吉祥のなんとかになるのか? こういうニュースはたまにあったようです。 ということから、神武のころに金鵄が飛んできたとかいっても、 それは充分ありうることだと思いますね。
947 :
日本@名無史さん :2007/02/15(木) 00:06:41
>>946 太国さん
>>943 で訂正する個所があったら訂正願います。 私ではあれが今の限界
よろしくです。
948 :
九州出身 :
2007/02/15(木) 00:46:30 >>941 >日神は小柄な美姫です
なぜ小柄ってわかるんですか?