1 :
日本@名無史さん:
死ねる事の幸せ
死ねる事の希望
ニダ━━<ヽ`∀´>━━ !
3 :
金吾秀秋:2007/01/28(日) 08:35:42
さあ、為信のお話のつづきをきかせておくれ(´・ω・`)
4 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 08:39:27
5 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:14:57
6 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:33:24
島津豊久が気に入りです。朝鮮征伐の最終撤退の時も海岸で義弘たちが引き上げてくるまで、何日もずっと待ってたらしい。
7 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 03:40:44
風雲児たちでは沖縄を侵略した大悪人あつかいの島津
8 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 06:39:17
>>7 沖縄ばかりでなく、韓国も侵略している。実際大悪人ですが。
9 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 11:50:23
あれ秀吉の命令じゃん
んもぅ、そーやってすぐ人のせいにする
11 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 19:24:15
あれ太閤の命令じゃん
12 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 08:35:49
>>12 今のトレンドは金吾だろうが。
時代遅れでやんの。ばーか。
これからは前スレのケツにあった津軽のような、
居たんだ、で、お前何しに来てたの?な武将が流行るはず。
15 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 19:13:47
というかスレも14まできたからほんとお前何しに来てたの?な武将の事でもはなさないと
スレがもたない後はループな話題ばかり
16 :
金吾秀秋:2007/02/04(日) 01:17:37
夜空がきれいだね(´・ω・`)
君の方が綺麗だよ
18 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 01:31:58
ttp://www.uploda.net/cgi/uploader1/index.php?file_id=0000190318.jpg 浮世絵を扱ってる店のサイト巡りしてたら、関ヶ原を描いたヤツを見つけた。
その名もズバリ「敵ヶ原大合戦之圖(画:月岡 芳年)」
絵師の落款の形態からすると、時期的には、恐らく慶応3〜4年から明治初年あたりの作。
実際、人物単体はともかく、関ヶ原そのものを扱った浮世絵ってなかなか無いのでレアかも。
なお、武将名が実際と違うのは、当時の出版規制に配慮してなので、この場合の読み替えは
敵ヶ原→関ヶ原 品 左近→島 左近 大谷 吉高→大谷 吉隆 で。
…ただ、よくよく見ると右側で発砲してる面々の鉄砲に銃剣がついてるので
恐らく、幕末期の戦争の風刺画として描かれた可能性が大かもしれないけど。
19 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:36:55
>>18 そうそう。
昔、羽柴秀吉が姫路城天守を築いている浮世絵(?)みたいな絵を見たけど、
「真柴筑前守久吉」になっていました。
その絵では、姫路城の天守が既に白壁造りの五層で、完成しているのに何故か
足場が組まれていて、真柴久吉と加藤清正ら家臣たち(それぞれ違う名前にな
っている)が足場を使って天守に上がっていました。
(肝心の職人(大工)の姿が無い。)
江戸時代に描かれた絵では、徳川家にとって都合が悪い人物の名前を変えてい
たようです。
江戸末期になると、合戦図に描かれる城という城は、白壁造りの近世城郭に
なり、着物も江戸時代の着物です。
明治になるとさらに進んで、鎧と兜以外は明治の服装。
城攻め図では、城は幅広い水堀に高い石垣に白壁造りで、重層櫓が建ち並んで
いて、攻め手は大量の大砲を使用されている。もちろん鉄砲は銃剣付き。
・・・というふうに時代考証がめちゃくちゃです。
まあ、絵師は歴史家ではないので、絵師は絵師なりに真剣に描いたのでしょう。
今、私たちは大河ドラマや時代劇を見て昔の風俗を想像していますが、
それらは本当に正しいのかどうかも微妙です。もちろん昔の資料に基づいて
時代考証はされているでしょうが、完全に正しいとは言い切れないです。
20 :
金吾秀秋:2007/02/12(月) 05:47:30
春がまちどおしいね(´・ω・`)
21 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 07:58:21
まあ、明治維新の頃は戊辰戦争とか描くために、戦国時代の合戦の設定借りてるわけで、
洋服っぽい軍装や剣付き鉄砲や大砲が出てくるのはしゃーない。
22 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 04:15:31
毛利吉川小早川は三人揃ってどうしようもないくらいアホ。
この三人の中で一人でも優秀なやつがいれば歴史は変わってたな。
24 :
金吾秀秋:2007/02/17(土) 22:12:51
まったく、毛利も吉川も救いようがないアホだぜ(´・ω・`)
25 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 22:53:02
金吾が裏切らんかったら勝ってたんかな?
guest guest
28 :
金吾秀秋:2007/02/25(日) 03:57:36
吉政はなかなかみどころがあるやつだな(´・ω・`)
29 :
岐阜中納言:2007/03/08(木) 09:29:15
花粉症あげ。
30 :
金吾秀秋:2007/03/09(金) 01:58:09
だいじょうぶかい(´・ω・`)?
31 :
岐阜中納言:2007/03/09(金) 09:35:55
敗色濃厚で米野の戦いあげ。
32 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 10:46:35
>>22 吉川広家が一番のカス、隆景の方が長命であれば良かったのに
33 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 14:22:13
>>19 ×徳川家に都合の悪い
○織田信長以近代
では?
34 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 15:06:01
毛利は出陣はするが戦闘はしないということが多い
高松城水攻めでも出陣だけで戦闘はしていない
小競り合いくらいの戦争は得意だが、関が原の戦いみたいに
朝鮮の役帰りの武将のすさまじい戦いぶりを見て、吉川以下の毛利軍は
ションベンちびって、動けなかったというのが真相
35 :
金吾秀秋:2007/03/12(月) 04:08:35
漏れ様は、動いたんだぜ(´・ω・`)
毛利も朝鮮逝ってそれなりに頑張ってたでしょ・・・
37 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 09:09:04
>>34 広家の奮戦も知らぬとは・・・・朝鮮に行ってないのは家康だろ。
>>37 家康の江戸城は土塁作りの非常に貧弱なものだったらしい。
のちに加藤清正ら韓国から石詰みの技術を盗んできた連中に命じて
石垣を築かせた。
41 :
金吾秀秋:2007/03/21(水) 22:55:30
岡山城は、漏れ様が改修したんだぜ(´・ω・`)
42 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 22:56:31
死体はどうやって処理したの?
43 :
岐阜中納言:2007/03/27(火) 09:24:30
地震お見舞い、あげ。
44 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 17:35:40
会津征伐で実際に宇都宮まで行った大名の名前と兵力ってわかりますか?
45 :
岐阜中納言:2007/04/06(金) 09:18:32
大垣日大健闘あげ。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
47 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:58:56
揚げ玉
48 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 09:07:45
あげ
49 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 00:39:24
「NHKその時」に村上水軍の関ヶ原をやっていたが、村上水軍に九鬼水軍、水上の戦いでは西軍の圧勝だな。
村上氏が四国の豪族に調略してた書状が見つかったて言っていたが、毛利元康の書状も何年か前に見つかっている。
毛利氏は思われていたより積極的に動いてたのかも知れないな。
50 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 09:07:35
とりあえず、吉川くんを除いてはまじめにやっていたみたいだね。
伊勢湾の制海権を握ったのは九鬼守隆ですよ
52 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 00:22:52
>>51 お父さんや村上さんも伊勢湾で暴れたようですが?
そこいらの時間軸をkwsk。
渋滞あげ。
54 :
金吾秀秋:2007/05/06(日) 12:20:13
季節はこれから夏に向かいます(´・ω・`)
55 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 09:18:08
56 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:24:08
長束は本戦でも戦ったみたいだけれどどの程度だったのだろう
盛親なんかもそうみたいだが、小競り合い程度。
58 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 09:12:35
毛利勝永なんかもいたはずだが後ろの法で参加せず。
59 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:36:56
徳川方の資料が多く残っている影響からか。
関が原は、家康が勝つべくして勝った、と考えている奴が多すぎ。
当時の徳川の国力を考えれば、勝って当たり前とまではいえなくとも、
順当な勝利、勝率は東軍のほうが高かったくらいのことは普通に言えると思うが。
むしろ、逆に小早川がなぜ裏切ったかとかを全く考慮せずに、
小早川さえ裏切らなかったら西軍の勝利だ、とか言い出す輩も結構いるだろう。
西軍には勝つ要素が少ないんじゃないか
62 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 23:09:09
松尾山城を、小早川に取られたのが痛かった。
あそこには、秀頼が入るはずだった。
秀頼までは行かなくても、毛利輝元が入れば、状況は変わっていた。
59>>そうなのだが、関ヶ原の当日は家康の焦りが見える話が多く伝わってる。
家康にしろ薄氷を踏む思いだったんだろうな。
60>金吾がぴょったのも事実だろ。
結論からすれば順当かもしれないが、それは結論を知ってるから言えるんでしょ。
そんな分析で敵味方が本当に決まっるんだったら当時の人も解ってるよな。
65 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:15:50
親は西軍、子供は東軍(生駒、真田)のようにどっちが勝っても家名は残るようにしている
場合が多く、関ヶ原の時点では五分五分か6分4分で多少西軍有利だろう。
もっとも、小山評定の前の時点なら黒田長政が福島正則の説得に成功するかどうかわからず、
家康の内心では東軍勝利の可能性は1割前後、小山評定後は3割に上昇、
江戸城で調略の手ごたえをつかんで勝利の可能性は4割というところだろう。
なにより、西軍は秀頼を手中にしていることが大きく、輝元が秀頼を担いで出陣したら、
東軍の中核は秀吉子飼の大名なので対抗できない。
また、関ヶ原の戦ではモルトケの弟子のメッケルの言うように、陣形、人数の点では、
圧倒的に西軍有利、また西軍陣地前には土塁、切岸、柵など陣城の遺構があり、
中仙道、北国街道を封鎖して東軍を誘引し、東軍は長篠での武田軍のようになるハズであった。
ここでも、小早川、吉川の調略で黒田長政が活躍したが、
実際に寝返りが現実のものになるまでは、調略が成功したかどうかは不明なので、
家康が爪をかんでいたのも当然だろう。
>>65 西軍決起直後に首謀者の一人であるはずの増田が東軍に内通。
小早川は伏見城を落した直後に小早川の側から家康に接触し、
合戦当日にはその陣内に黒田からの目付けすらいた。
吉川も早々に家康に連絡を入れている。
そういう事実も勉強しておいた方がよいよ。
名目上も兵力の上でも西軍の主力である毛利家が割れている段階で、
実質西軍に勝ち目はない。
その状況でよくもあそこまで頑張ったものだとほめるべきだ。
というか、秀忠軍3万5千が到着していれば、
小早川がどうしようが東軍圧倒的有利は揺るがない。
つまり西軍がどうにか接戦に持ち込めたのは悪天候のおかげであって、
ただ単に運が良かっただけ。
>>62 秀頼が入るはずとか言うから西軍派が間抜け扱いされる
>>67 それを言い出すと西軍の未着部隊をカウンターで合わせられるよ
どうする?
>>67 秀忠はどう考えても間に合わないよ、家康も簡単に決着付くなんて思ってないだろ。
71 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 00:06:34
>>66 内通なんてだれでも知ってるが、それが本当の内通だと確信できるのかな?
後世からみればなんとでも言えるが、家康本人は確信していたとは思えない。
だいたい、家臣に内通を装わせ敵を誘導して撃破した達人が毛利元就だよ。
調略させたら歴戦の家康には敵わない
大老としての権威、将としての名声、莫大な所領を背景に
秀吉死後から着々と味方を増やしている
西軍の多数の大名が東軍に内通していたというが
東軍の諸将も証拠が残っていないだけで
西軍と内通に近い書状のやり取りをしていただろうし
当時の情勢でたった1日の決戦で
ああも簡単に大勢が決すると思っていた人物が居るとは思えない
家康も出来れば決戦などせずに確実にじわじわ簒奪したかっただろう
西軍は健闘しているが後世の視点で見れば
もっとこうしていればということが多い気がする
73 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 00:46:42
>>67 秀忠軍が到着すれば、西軍の鶴翼の有利な陣形+防御柵に対して五分五分、
にはなったかもしれん。
まあ、いずれにしても立花宗茂隊の到着のほうが早く到着する。
>>72 確かに決戦にはリスクがつきものだから「関ヶ原の戦い」のような決戦はしたくなかっただろう。
家康自身、小が大を破る戦いを「桶狭間」で経験してるし、
後年、夏の陣では、やはり敵の攻撃を受けないハズの家康本陣が攻撃されて、あわや義元のように頓死。
まさに、「運は天にあり」。
実際の調略は黒田長政が行ったわけだが、結果的には調略がうまくいきすぎて、
オヤジの野望は実現しなかった。吉川への調略だけが成功していれば、
理想的な、なかなか決着しない事態になっていたかも。
そうなれば、黒田と上杉の巨大化は必定。
黒田はともかく上杉は以外と手間取っている
伊達がどれだけ食い込んでくるか
75 :
戦場の掟:2007/05/19(土) 03:02:33
秀忠遅参は家康の謀略ではないか、と疑っている
前田が動いてきても対応できる
もし敗勢となって後退しても、いずれ大軍が来るという心理効果
それまで両軍潰し合ってまさに理想的
誤算は秀忠軍到着前に決着して加勢大名への分け前を多くせざるを得なくなったこと
>>71 百戦錬磨の家康はある程度の確信を持っていたと思うが。
しかし、それ以前に論点は、
東軍西軍それぞれが主観的にどれほど勝利の確信を持っていたかではなく、
客観的にみてどちらの方が勝率が高かったと言えるかでしょう?
つまり、後世から見た目で評価するほうが正しい。
もし仮に三成が楽観的な人間で勝利を確信していて、
逆に家康が悲観的な性格で勝利を疑っていたとしても、そんな両者の主観は関係なく、
実際にはどちらが勝つ可能性のほうが高かったのかが問題なのだから。
>>71 元就が奇跡的に関ヶ原まで生きていたら、家康との偽内通合戦や謀略合戦で楽しいことになっていただろうな。
史実以上に誰が敵か味方かわからん。ことによると大名本人も自分がどっちの味方なのかわからなくなるかもなw
でも、ボンボンの輝元にはその達人っぷりを真似るのは無理だ。相手が秀忠でどっこいどっこいのレベル。
>>74 伊達みたいな半人間に食い込んでくる能力なぞありはせん。上杉本軍とまともにやりあったら、泣いて岩出山まで逃げ帰るに
違いない。
家康が勝算がないのに決戦に及んだというのは戯れ言
勝算がないのならいくらでも引き延ばせる
>>77 伊達は実際に食い込んできているし、岩出山まで逃げ帰っていない
事実を直視して貰いたい
80 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 12:58:01
>>77 上杉家は必死に捏造しているが、白石城と福島城の攻防戦では伊達家
にこてんぱに敗北している。福島城の手前ではいわゆる牢人衆の上杉将士が
ほとんど討ち死にしている。格下の最上には更に惨めな負け方をしている。
81 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:15:53
上杉は、伊達に白石城では700人、福島城では300人、トータル1000人も
討ち取られているしな。実際、長谷堂の撤退戦しか誇るものがない。
まあ、伊達は本気で上杉とやろうなんて考えてなくて火事場泥棒しか念頭にないんじゃないかな。
85 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:20:07
>>84 そのとおり。
白石城は城主が留守の城で、上杉の主力は徳川主力を迎撃するため革籠原に終結、
伊達は2万で守備兵は千弱なので勝って当然だが、上杉からみればツメをひっかかれた程度の損害。
歴戦の徳川主力の迎撃より、重要度は、遥かに劣る。
福島城は本庄繁長が約3千の兵で守っていたが、火事場泥棒的に城を奪取しようとした政宗が、
2万の兵で関が原後20日ばかりして攻撃するも、結局防御が堅く攻略失敗。
景勝自身が率いる後詰の上杉本体が接近中との報を得るや、尻尾をまいて逃走。
上杉軍主力からは逃げまくっていたが、これで大勝利と吹聴できるのはサスガは伊達とほめてあげよう。
西軍が結成され、関が原の戦いの結果がわかるまでは、西軍勝利の可能性もかなりあり、
また、徳川主力が西上した関係で上杉の主力も自由に動けるので、政宗は上杉への積極的攻撃を停止。
上杉が最上領に侵攻し、最上方の小さな勝利もあったものの結局は長谷堂城と山形城を残すだけ。
落城は時間の問題なのだが、ここでも、伊達はわずか3千を派遣して様子見。
でも、確かに黒田よりは手間取ってるかもしれない。
まあ最上がどう動くかが大きい
もし早期降伏して上杉の先兵になるのであれば伊達も逃げ帰るしかない
逆に徹底抗戦になれば時間がかかるのでそう簡単に制圧できなくなる
>>85 そのとおり。
>白石城は城主が留守の城で、…上杉からみればツメをひっかかれた程度の損害。
そりゃ上杉の強がりに過ぎない。その後、城将の甘粕虎氏は景勝の激怒を買い、不遇を囲った。
白石城は伊達の喉元に食い込んでいた軍事要衝で、それを手に入れた政宗は石川昭光に守らせ、
関ヶ原直前には二千人に守備勢を強化している。これにより上杉は更に圧迫される結果になった。
ちなみに、二度と白石城は上杉には戻らなかった。
>福島城は本庄繁長が約3千の兵で守っていたが、結局防御が堅く攻略失敗。
福島城の戦いというのは、よく軍記物で誤解されているが、城の攻防戦というのは
大したことはない。伊達勢は様子見という感じで、砂子実常の部隊が城門付近で
突っかけた程度。上杉は日中の戦いで主力が粉砕されて壊滅して、事実上戦いは終了
している。政宗の真の狙いは梁川城にあったため、上杉軍を福島城へ押し込んでしまうと
さっさと帰っている。翌日景勝の援軍が駆けつけてきたがすでに伊達の姿はなく、勝ち逃げ
されたといってよい。
また兼続が最上に長谷堂で苦戦してるにもかかわらず、景勝が米沢から出撃できなかったのは、政宗
に留守を襲われるのを恐れたため。当時伊達襲撃の風評が流れており、結局景勝は伊達に振り回され
つづけてしまい、好機を逸した。
それだ!
伊達がいるから上薄着だって全力で出撃できるわけではない
謙信+越後と状況が違う
89 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 14:10:05
>>87 白石城の城将は甘粕景継であったが、信玄との一騎打ちでも有名な川中島の戦いでしんがりを務め、
飯富昌景らを相手に奮戦し寄せ付けず武田方の追撃戦を失敗させた勇将。
城を留守中に奪われたわけだが、上杉氏の会津から米沢に転封後の所領は2万石→6千6百石で、
上杉の所領が4分の1になったわけなので、甘粕氏の所領が減るのは当然。
「不遇」を囲ったのならこんなに貰えないよ。
もし本当に本庄繁長隊の主力が壊滅し、損害軽微ならば城を包囲してるわけなので簡単に福島城も取れ、
上杉本隊とも戦えただろう。おじけづいて逃げた政宗。
政宗軍2万が、3千(城兵の一部なので実数は500〜1000程度)の本庄隊に城外戦で勝っても自慢にもならないが、
本庄繁長にすれば相手が籠城ときめて油断していれば攻撃しようと部隊(息子が指揮)を出して、
途中で一当てしたにすぎず、その部隊は壊滅などせずに城に帰って当初の持ち場に入っている。
火事場泥棒をしようと結局上杉領に入りながら、なにもできず逃げ帰った政宗。
上杉側では伊達の動きは問題にもしていない、
景勝本隊が動かないのは結城秀康や越後口の監視ためで、長谷堂、山形のわずか2城に
押し込められ、滅亡必死の情勢でありながらわずか3千しか援兵を出さず様子する伊達の動きは、
上杉の計算どおり。景勝本隊から救援を出さなくとも包囲された2城の落城は時間の問題。
90 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 14:28:45
>>89 ・川中島の殿は甘粕景持
・知将は優勢だからといって必ずしも強攻するわけではない。
上杉本隊と戦ったところで伊達にはなんの利もない。
>>90 > 上杉本隊と戦ったところで伊達にはなんの利もない。
利はないけど、もう数日関ヶ原の決着が長引いてたら、戦わないことによる不利はあったかもな。
「最上を見殺しにして傍観していた。定めし上杉と内通していたのであろう」と家康にいちゃもんつけられて改易か減封。
譜代大名家を創設したり戦功のある諸大名に領地を与えるための元手はあればあるだけ良いからね。
勝手な開戦は止めろと言われているのに火事場泥棒をやり、徳川方の南部家の領地で一揆を煽った上に最上を見殺しに
したら、処罰の対象にしなければ家康の貫禄が疑われてしまう。
・・・・だからと言って、政宗が本気で景勝の本隊と戦ったら、運が良くても20騎程度の家臣に守られて泣きながら岩出山城に
逃げ帰ることになるわけだがw
まあ、大リーグ選抜と楽天イーグルスが試合したみたいなことになるのは関ヶ原本戦の勝敗の行方よりも明らかだな。
92 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:18:40
大河ドラマに決まった火坂雅志『天地人』(下巻)を読んだ。
本庄繁長は、関ヶ原後に攻め込んできた伊達政宗軍に大勝利。
わざと負けたふりをして福島城へ撤退、そこを梁川城の須田長義
と挟撃したため、伊達軍は大混乱。
政宗本陣は切り崩されて、本陣の陣幕が奪われたばかりか、
上杉方の齋道二は、政宗に二太刀もあびせたという。
世に言う「松川合戦」だという。。
ちなみに作者は新潟人。
自分は読んだことが無いが、評判を聞くと随分下らない小説らしいな>天地人
伊達も上杉もがちでやる気はお互い無し。
伊達、最上に形だけ援軍出して南部領のかすめ取り。
上杉、最上を和睦か降伏に追い込んで越後奪還。
お互いの利害は一致してんじゃない。
二人とも、もう少し長引いて欲しかったんじゃない。
96 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 14:29:25
誰も1日で終わると思ってなかったとおもわれ・・・
大垣城に残された人たちにはどのように説明したのだろう、残った人たち
は放り出して逃げる木じゃないかと不安になっただろうに
>>92 随分史実に忠実な作品だな。放映が楽しみになってきた。
>>97 ドラマでは、上杉に大敗した政宗は、わずかな供回りを連れて信夫山の間道を抜け、
白石城をへて、北目城へ落ち延びていくことになるな。
>>98 政宗はえなりか猫ひろしか濱口にやってもらいたい。
100 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 08:43:14
>>99 そんな連中ではかっこわるすぎる。
正宗はキムタクがいい。
バカヤロ。政宗は金田龍之介に決まっている
>>100 いいんだよ。この番組での政宗は道化なんだから。
見た目イケてないヤシにキモい演技してもらって視聴者に嫌悪感を持ってもらうのが主眼。
どうして鳥居元忠が伏見城に残されたんだ
>>103 家康がいかりや長介だったと仮定しよう。
捨石となる伏見城に高木ブーを置いてしまうと、籠城希望者が少なくなるし、
徹底抗戦で武威を示して欲しくても、内応やら裏切りやらで恥を晒す可能性
がある。
かといって、加藤茶や志村を入れて殺してしまうと後々困ることになる。
困った長さんは、仕方がないので年配の荒井注に因果を含めて籠って
もらったんだ。
鳥居元忠に関しては諸説ある。
家康が西軍決起を煽っていた若しくは知っていたとして
・元忠が老骨に鞭打ち進んで捨て石になることで東軍の結束を高める。
・家康は昔の恨みを忘れずに、元忠への家康の意趣返し。
・三成一党の蜂起を軽く考えていた。
家康が西軍決起を知らなかったとして
・知らなかった、終了。
>>105 どうして仲本工事ではいけなかったんだ?
108 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 01:40:34
松尾山城に、秀頼を擁し、西軍総大将の毛利輝元が入れば、西軍は勝利した。
北国街道と中山道を封鎖した、高さ3mにも及ぶ土塁が築かれており、東軍はなかなか攻めきれなかった。
メッケル少佐も断言してではないか。
西軍の圧勝と。
遺言を守らないのか
鳥居は年だからもういいと思ったんだろ
子供がそれなりに遇されているし
>>高さ3mにも及ぶ土塁が築かれており、東軍はなかなか攻めきれなかった。
これはこの時代のものなの?諸説あるようだが。
>>110 家康が?重他?
112 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 10:58:05
>>110 まさか西軍が決起するとは思わなかったんだろう。
前田(戦わずにひれ伏す)→上杉→毛利と順番に潰していくつもりだったのが、
思いがけず上杉に呼応して毛利・宇喜多等が三成の工作で決起、
場合によっては敗北の可能性もあり、心中はブルブルって状況だったろう。
>>112 同意、江戸に引きこもって動かなかったのが何よりの証拠。
ただ引きこもってたんじゃなくての情勢分析はさすがだがな。
宇喜多は首謀者でしょ。
首謀者のわりには伊勢でもたついていたな
115 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 19:19:39
前田利長は、越後から攻め入るように命令されていたが、
なぜか南に進軍している。
場合によっては、西軍に付く気があった。
関ヶ原の戦いが始まってるんだから上杉攻めより北陸の西軍諸城攻略の方が優先だわな
北陸の前田&丹羽、東北の上杉&伊達&最上、九州の加藤&黒田たちは
自分が東軍だとか西軍だとかそういう意識が有って動いてたのかねえ
皆適当に近隣の潜在的敵国を混乱に乗じて侵略しただけに見える
戦後家康との関係で勝手に勝ち組・負け組に分けられた気がする
>>117 いったいどこをどう考えれば「適当」だなぞと言えるのか?
内心はどうであれ、伊達・最上は家康の対上杉戦略の中に組み込まれているし、
黒田も西軍の大友と戦っている。
前田と丹羽は微妙だが、家康は前田とも連絡を取っているし、
西軍も前田を敵として戦略を練っている。誰も適当になんて戦ってはいない。
>>113 自身の家中もまとめられないようなボンボンに、三奉行を動かし弾劾状を作ったり、
毛利を旗頭に掲げたりといった、大規模蜂起のための工作をすることなんて出来ないよ。
豊臣政権の中枢にいた人間が首謀したのは間違いない。
>>108で勝っていたなら大阪城へ家康を引き入れてたはずだろ
どうして関ヶ原で決戦したんだ
121 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 03:34:35
関が原で家康が勝利した後に、秀忠軍は到着しましたが。家康は怒って秀忠に3日間会おうとしなかったです。
周りの家来の取り計らいで秀忠に会った家康は、秀忠とその家来に向かって、何故真田を無視して上田で戦わずに、
早く来て家康軍に合流出来なかったのか、と非常に怒って叱りつけました。秀忠とその家来は沈黙をしていましたが、
上田での軍議の席で、戸田氏鉄ただ一人が、真田と戦わずに家康軍との早期合流説を唱えた事が判明しました。
家康は戸田氏鉄を誉めて、すぐに岐阜県美濃の大垣藩10万石の殿様にしました。その後に、戸田氏鉄は大目付まで
出世しました。俺の先祖は戸田氏鉄の直属の家来でしたから、一緒に行動していました。
秀忠軍が中仙道を予定通りに来れば、家康軍と協力できますから、関が原の戦いも徳川軍が非常に有利に戦えましたし、
徳川軍の方が簡単に勝てました。
防衛大にくる外国軍からの留学生が関ヶ原の初期配置をみて、10人中10人が
西軍の勝利と言うらしい。
疑問は、なんで家康はあんな陣形を関ヶ原で取ったんでしょうか?
寝返り前提だった?、よく分かりません。
寝返り前提と言うか、既に寝返ったも同然。
伏見攻め直後から家康に連絡を取り、それ以後は西軍としての従軍を一切拒否。
陣中には東軍黒田家の目付けがおり、
そして決戦前日には既に陣取っていた西軍を追い出して松尾山を占拠。
この段階で東軍として行動していたとして問題ない。
この状況で小早川を西軍として配置図を作るということ自体が不正確。
小早川を東軍、或いはせめて所属を明確にしていない部隊として、
配置図をかけばどちらが勝つかの答えは自ずと変わってくるでしょう。
124 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:40:29
家康が、動かない小早川に業を煮やして、松尾山に向けて大砲を撃った。
それに驚いて…というのは、嘘です。後世の捏造。
遠すぎて聞こえるはずが無い。
125 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:44:44
南宮山に陣取った毛利や、さらにその奥の長曽我部は、
西軍というより、戦いを放棄すると宣言したに等しい。
なぜなら、この二つの陣からは、関が原の戦場が見えないからだ。
まぁドラマっぽく揺れ動く気持ちの中で裏切ったとか業を煮やして大砲撃つ方がしっくりくるからな
現実は元から西軍なんてアウトオブ眼中
松尾山への発砲は事実でしょう。
福島勢など秀吉子飼いの連中の弱体化を待って絶妙のタイミングで裏切らせている。
合図以外の何物でもない。
当初より示し合わせていた事を隠す俗説が、家康が、動かない小早川に業を煮やして
云々ってことなんでしょ。
小早川が当初より内応していたとなると、高台院が当初から家康側についていたことを
示すようなものだから、小早川の裏切りは当日の変節としたいのでしょう。
後日、証拠隠滅のため早死にさせられたとw
想像もいいが、根拠を示さないと話のタネにはならないね。
129 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:06:35
130 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:47:43
根拠って、
いくら信頼性の高い資料といえども、
完全に本当か?は解らない。
特に、徳川家にとって不利な情報は、
江戸時代に消されていると思われる。
131 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:51:23
金吾の法名って黄門なんだね。
>>130 史料がベストだけど、論理でもいいんじゃない
史料だって、自分で読み下したかどうか疑問だしね
最近通説が否定されまくっている
1192作ろうじゃないの??
>>122 >>123 約束なぞ何の役にも立たないのを、一番知っているはずの家康だからこその疑問だろ。
>>125 長曽我部は戦闘してたんじゃないの、毛利も山麓に布陣。
136 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 01:28:37
>>123 松野の話しなぞからすれば小早川家中でも殆んどが西軍のつもりと思われ。
高台院が当初から家康側についていたことを >>
高台院が家康よりとの根拠は今や希薄なのだが。
>>122 1、調略に自信があった。
・これは、史実通り。
2、時間が経つと不利になる要素があった
・秀頼の出馬の可能性
・西軍の京極(大津城)攻略の部隊の到着(約一万5千)
・西軍の伊勢方面攻略部隊の到着(約一万5千)
・それに比べ、秀忠軍の遅れ
(時間が経っても東軍の戦力増強は期待できない)
3、味方の豊臣恩顧の士気
・それこそ、秀頼が出てきたら一大事。
時間がなかったの一番だと思う、
家康も万全ではないが、どちらかと言えば
行かざるを得なかった面はあったと思う。
東軍に対しての一番の疑問点は、秀忠軍に中仙道を進ませたこと。
西軍の疑問は、色々あるが、
最近は、
やる気がそこそこあった、南宮山の安国寺、長束、長宗我部は、
なぜ、伊勢街道から関が原に移動しなかったんだろう?
っというか、伊勢街道に西軍の兵が配置してないのはなぜなのか?
138 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 04:35:24
厳島の戦いでは元就は家臣(桂元澄)に陶への内応を約束させ、陶軍を厳島に誘導。
長篠では佐久間信盛に勝頼への内応を約束させ、陣城への攻撃を誘導など、
偽の内応で敵を誘うことは良くあるので、家康が金吾の裏切りが本当かどうか
心配していたのは確かだろう。(偽の内応はよくある手)
>>137 秀忠軍に中仙道を進ませても十分間に合うハズだった。
ところが、福島らが岐阜城を簡単に落としてしまい、このままでは家康抜きで
東軍が西軍に勝利してしまい、今後のイニシアティブを取れなくなると恐れて、
予定より早く手元の兵を率いて進発。結局秀忠とは合流できなかった。
>>134 もはや、約束というレベルじゃあない。
現に西軍を追い出して松尾山を占拠するという、具体的な行動を起している。
少なくともその時点で小早川を西軍と見るのは間違い。
>>137 長宗我部はやる気がなかった組
東征を阻止されてやむなく西軍に参加しそのままずるずると
>>140 やる気云々は難しい表現。
参加事態はズルズルだが戦闘意欲は十分。
両軍ともズルズル組みは多いよ。
>>140 もともと秀頼の命で大老たる家康が上杉を征伐するという形なのだから、参加は当然。
途中で家康の弾劾文が布告されたのだから、諸大名の動揺・混乱は当然。
家康は小牧でそれをうまくまとめたのと、まとめきれなかった三成の違い。
三成にとっての長政がいなかったのが大きい。
143 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:17:21
戦況を見ていて、
少なくとも緒戦は、西軍が優勢だった(と伝えられている)
そのまま西軍が優勢だったら、西軍につくつもりだったかもしれない。
小早川という奴は
144 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 23:55:54
南宮山の部隊は元々大垣城が攻撃された時の後詰隊だし、その部隊が全部
関が原方面に移動したら大垣城が完全に取り残される。
三成からすれば攻囲状態になるし、長束たちからすれば負けたら逃げ帰れる
という利点がある。伊勢街道沿いに置けなかったのは人数が足りなかったと思われ
金吾ちゃんが松尾山にいた伊藤隊を追い払って入ったというのは江戸期に書かれた
ものに出てくるのであって、実際にしたのであればその時点で東軍に寝返った
と宣言したようなものであって、関が原で戦おうとう考えないと思うが
>>141 戦闘意欲なし
あるのなら何故戦わなかったのか?
>>145 南宮山方面の総大将は毛利秀元=吉川広家、一人で出てけばボコられる。
いつでも戦えるように陣を前進させて、秀元に攻撃命令を要請。
既に銃撃戦は開始済み。
長束や安国寺も全く戦わなかった訳じゃないのよ。
148 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 06:07:00
関が原の戦いは、家康と三成の実戦経験の多さの差が出ました。
家康は武田家などと非常に多く戦っています、実戦経験が豊富です。
三成は文治派です、実戦経験が殆んどないです。
西軍は家康に勝つチャンスが有りました。関が原の戦いの2日や3日前に、東軍が西軍がいる大垣城から、
数キロ離れた赤坂山、今の金生山の麓に陣をひいた時は、到着したばかりでしたから東軍の陣はグチャグチャでした。
副大将の宇喜多秀家が言うように、その時に戦っていたら、西軍は大勝利でした。三成の実戦経験の無さが勝機を
逃しました。家康の誤算は、秀忠軍の到着が遅れたのと、西軍に関が原に先回りをされて、戦いの要所を先に押さえられた
ことです。軍師大谷刑部を中心として考えだされた、関が原での西軍の軍隊の配置は完璧でした。ただ、配置した諸大名に
裏切り者が出て西軍は負けました。松尾山で迷っている小早川に、家康が鉄砲を撃って、裏切りを催促したことは事実です。
家康軍は苦戦していましたから、小早川が裏切らなかったら、西軍は勝てていたでしょう。
家康は負けそうになったから、桃配山の本陣から出て、戦いの最前線に陣構えを変えていることから、家康軍の苦戦が
よくわかります。石田、宇喜多、小西軍だけが戦った西軍が、もう少しで家康の東軍を打ち破るところでしたから、
軍師大谷刑部を中心として考え出された、関が原の西軍の陣構えが優秀であったことがわかります。
三成も実戦経験は沢山あるし、家康は小牧以来ほとんど戦ってないよ。
152 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:15:48
関ヶ原後、旧宇喜多領に入り大幅加増となるも、2年後の1602に嗣子なしで21才で死去。
このため無嗣断絶。もし、秀秋が長生きしていれば大阪の陣は起らなかっただろう。
153 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:11:39
普通に潰されたでしょ。
154 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 13:34:06
家康は自分の代では関ヶ原の恩があるから加藤や福島は潰せなかった。
家康死後なら潰せるだろう。
>>150 三成が戦を知らない、という論が良く出てくるが、
俺もそれは違うと思っている。
秀吉の側に長くいたわけだから、戦い方は知っているはず。
武蔵忍城での水攻の失敗のインパクトが強いのだろうが、
あれは、秀吉が下した戦術であり、三成だけの責任にするのは、酷であろう。
>>155 戦を知らないというより、諸将の従わせ方を知らないというべきでしょう。
三成が指揮を執るのは秀吉が天下をほぼ手中に治める様になり、味方は彼に服従を誓う者ばかりの頃
関ヶ原の様に何時、誰が敵味方に転ぶか定かでない状況は、それ以前の国境にいる豪族を調略していく
といった家康の時代に相似している
そういう意味では三成はこの様なパターンの戦は知らないと言えるかと
>>148 関ヶ原の勝因と実戦指揮ってほとんど関係ないじゃん。
調略というか政治でしょ政治。
>>156 大将の器ではないんだろうな。
優秀な参謀でありブレーンだから良い大将がいてこそ輝く。
将としてもそこそこは優秀じゃないかな、正則なんぞよりは戦がうまいかもしれない。
>>151 山内は何で戦わないのか?
日和見だったのか?
>>155 いや知っているだけで実行はできないというのはあるぞ
>>157 いや調略に到る根底に流れているものだよ
基本的には勝つ方につきたいものだからな
長宗我部らは勝つ方につきたかったのを無理に阻止された
赤坂で夜襲をかけるべきと提案するも、
それは、儀に反する、と三成側が却下した
島津が提案したと言われているが、これは島津家の後付けであることが、はっきりしている。
165 :
金吾秀秋:2007/05/30(水) 03:46:05
備えているんだぜ(´・ω・`)
163>>
三成に関する悪い話は後に作られた話が多杉なので
まともに信じるイクナイ。
168 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 10:52:58
輝元がグズグズせず、秀頼を擁して松尾山に入っていれば秀秋も裏切れず、
福島などは戦線離脱か西軍に寝返りとなり、西軍の圧勝だったわけで、
そうなれば家康は戦ベタのたぬき親父で、さすがは義元の後継者といわれただろう。
169 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 11:09:43
上杉が動かなかったのが納得できない。
伊達や最上に背後を衝かれるという恐れはあったにしても、それは始めから予測できた事なのでは?
170 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 11:50:22
>>169 上杉は上方での戦いが1日で終わるとは思ってないだろう。
普通に最上を打倒してから伊達と和睦なり密約なりしてから、越後に乱入もしくは
佐竹と図って関東進撃と考えていたハズ。
171 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 11:55:50
>>168 利家が秀頼を大坂城に移したときの様な覇気と実力が輝元にあれば、無理やりにでも連れ出した労にな。
172 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 14:58:12
>>169 上杉は伊達や最上らと停戦交渉し、後方を固めて関東に乱入する予定だったが、
ところが、最上が上杉領の酒田を攻撃してきたので、やむをえす最上領に侵攻し
関東乱入は後回しになってしまった。
伊達の場合は、西軍が決起すると洞ヶ峠状態になり上杉への攻撃を中止したが、
最上は、なにをとち狂ったのか上杉を攻撃し、危うく滅亡しそうになりながらも
上杉の関東への乱入を遅延・阻止したので、24→57万石の大幅加増となった。
>>171 なにも淀君の言うことに耳をかす必要はなかったのにね。
暗殺したほうが豊家のためだったかもしれない。
(後年の大阪の陣でも淀君は秀頼を城外に出すことを、かたくなに拒否)
173 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 16:34:06
元就の権謀術策、直家の暗殺スキルの一部でも2人に相続出来てればね。
174 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 16:39:01
>>172 >上杉は伊達や最上らと停戦交渉し、後方を固めて関東に乱入する予定
無理だろ。最上と伊達はそれほど甘くない。和睦は罠で、上杉の希望的
観測は無情にも裏切られ、上杉が南下した途端、最上は庄内へ、伊達は信夫
・伊達郡へ侵入を開始。米沢は略奪放火の憂き目にあうだろうな。
175 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 17:41:20
>>174 最上が長谷堂城、山形城の2城を残すだけに追い詰められても、
わずか3千の兵を出してアリバイ作りという、その後の伊達の行動を見ても、
上杉が関東に入ったとしても、伊達の場合は大勢が判明するまでは動かないだろう。
越後の堀秀治も同じで、近年、西軍につこうとした書状が発見されている。
相馬もやはり、中立。
西軍決起で模様眺め状態の上杉周辺の諸大名に比べ最上の異常さがわかる。
おかげで、最上はプラス34万石、伊達はたった2万石の増加。
176 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 21:24:14
佐竹が、江戸を背後から急襲すべきだった。
伊達は旧領の回復が目的で、上杉と正面からやりあう気はなかった
上薄着与し靖と見れば、乱入したであろう
179 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 09:27:04
堀秀治も同じで、近年、西軍につこうとした書状>普通の大名はこうだろうね。
東軍が飼ったから、東軍の戦略が全てうまくいったみたいに喧伝されてるだけ。
反三成の急先鋒のハズの清正でさえ西軍につこうか迷ってるしな。
伊達が徳川に忠誠を尽くす理由もないし、天下に野心があればどちらが勝にしろ
既成事実として占領地を沢山作っておきたいところ。
181 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:40:51
もし最上が動かなければ上杉&佐竹連合軍対秀康&秀忠連合軍、西の関ヶ原との2元中継で面白い、
てか、家康が江戸を動かないな。
上杉にしても伊達の動きがあるので全軍で南下するということはできない
守備兵だけ残していけば、伊達が必ず乱入してくる
半分の上杉軍では決定的戦力とは言えず、むしろ撃破されかねない
そうなると現実的選択肢は史実通り
佐竹は、北条を何回も撃退した強豪。
江戸を背後から急襲しいてれば、歴史は変わった。
秀康が関ヶ原前にグレていれば東軍もピンチだったかもしれない。
185 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 01:42:34
>>181 上杉としても、そんなに簡単に決着がつくとは思わないので、
最上を滅ぼしてから南下しても、十分間に合うと思っていただろう。
局地戦では最上側も多少勝利したものの、圧倒的な兵力差で最上が長谷堂城、
山形城を残すだけに押し込められても、伊達は山形城の東方に着陣して様子を見るだけ(傍観)。
景勝は5大老の一人であり、東西いずれが勝利するか不明な状況では筒井のように洞ヶ峠をするしかない。
>>182 もし、半分程度残したとすると、それでだけでも伊達への備えは十分(攻めてこないだろうが)。
半分程度残したとしても3万以上の兵は南下作戦に使えるので、佐竹と連携すれば江戸城落城も夢ではない。
186 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 02:37:46
関が原の戦いの時に、小早川秀秋が西軍に味方したら、後の徳川幕府も無かったし、
明治維新も無かったし、第二次世界大戦に日本が巻き込まれることも、無かったかもしれません。
父母が出会わずに、我々も生まれてこなかったかもしれません。
そういう意味で、小早川秀秋の裏切りは日本のその後の歴史を変えました。
187 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 06:46:25
上杉が長谷堂で苦戦している情報は伊達に逐一報告されていた。
政宗は、関ヶ原終結直前に、2万の大軍で側面から米沢の景勝を
突くと、結城秀康に書状を宛てている。これに結城秀康が加われば
実際、景勝はひとたまりもない。上杉は戦いが早期に終わって滅亡
を逃れたといえる。
>>185 上杉本隊が南下した場合、白石城を前進基地にした伊達の主力を支えきるのは
まず無理。まずは梁川城から一気に陥落するだろう。
>>187 佐竹の荒廃が解らないから秀康が関東を空けるのは無理だし、伊達の手紙なぞ
いつもの張ったり。
決戦なんて勝てばいいが負けたら滅亡だよ、そんなリスクを伊達が負う訳無し。
>>174 最上はともかく、伊達は上杉兵500くらい残しておけば身動きもできまい。精強さが段違い。
対最上に1万、対伊達に1000くらい残して主力は南下して大丈夫でしょ。
191 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 10:41:19
東軍 徳川、黒田、福島、細川
西軍 石田、宇喜田、小西、大谷
くらいで後はどっちにつけば生き残れるかというのだけを考えていたような
西軍の敗因は毛利、増田、長束といった首脳陣までが右往左往していたのが
原因だった希ガス
192 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 10:48:42
>>190 >伊達は上杉兵500くらい残しておけば身動きもできまい。
当初兼続はそう考えていた節があるが、肝心の景勝が臆してしまった。
ところで上杉と伊達が戦ってみると、伊達が圧勝している。白石城は
半日ほどで陥落。戦後のどさくさまぎれの福島侵攻では、上杉将士が
ほとんど虐殺されている。戦いになっていない。
193 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 10:50:41
上杉の戦果は、唯一伊達の小荷駄隊を襲っただけ(笑)
194 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 11:20:25
>>191 長束くんは違うし、東軍には藤堂くんを入れてあげて。
195 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 12:43:52
藤堂は金吾ちゃんが家康へ攻め込んだらその場で裏切るぞ・・・
韓国の当時の書物に三成が立たなかったら清正が立つという話が出ていたが
196 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 15:04:58
197 :
本田正信:2007/06/01(金) 15:56:33
皆裏切った(´・ω・`)
198 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 20:36:40
>>195 そういう話は、全くのデタラメだ、とは言い切れないよね。
日本に残る資料は、おそらく徳川に都合悪い部分は、消されているに違いないからだ。
藤堂は謹厳実直だから裏切る可能性は低いだろ
>>185 上杉の全兵力を6万以上と計算しているということは、
万石あたり500人程度の動員率ということなのだろうけど、
同じ動員率で250万石の徳川の兵力を計算するとその兵力は12万5千人。
関ヶ原へ向かっていた家康・秀忠軍の兵力7万弱を引いても、
5万5千は関東に残っている計算になってしまう。
他に結城家や蒲生のような東軍の諸将もいるし、江戸城攻略などほぼ不可能。
佐竹の兵と合わせても難しいでしょう。
もちろん、万石あたり500も動員できたとは限らないが、
それならば上杉の兵力も減ってしまい、結局は同じこと。
202 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 23:23:36
上杉はかなりの数の浪人を雇ってたんじゃないか。
落城の時の大坂方なんぞ10間ソもいたぞ。
>>200 万石当たり300人とかいう計算は余りあてにならないよ、割り当てと動員可能は別の話だしね。
>>203 基本は300だろ
他に何を規準に算定するんだ?
>>204 諸記録からかな?
関ヶ原の井伊隊は二千数百程度らしい
>>203 どっちみち、上杉だけ動員率を上げるのはおかしいでしょう。
浪人を雇うのだってどっちだって出来るのだから、
多少はともかく一方的に上杉の兵力だけ何万も水増しするのは変だ。
いずれにせよ、推測できる双方の兵力では関東乱入はきわめて難しい。
>>202 逆に言えば、膨大な財力を持つ豊臣家が日本全国からかき集めても10万なんだよ。
会津の上杉が単体で何万も集められると考える方がおかしい。
まして上杉家は国替えと加増の直後で、
軍事的にも新たな体制を築かなければならない時期だったのだし。
>>205 諸記録といってもそれこそ色々じゃないか?
どれに決めるのか?
>>208 信憑性を吟味するの、小早川の1万5千なんぞは今は否定されてるでしょ。
だから面白い。
>>209 だから何を規準に?
石高でないとすると?
211 :
sage:2007/06/02(土) 18:19:25
>>207 豊臣家の場合は死に花を咲かせる戦、上杉の場合は一旗あげられる戦。
>>207 俺は上杉の武名を慕って、全国から一旗組が陸続と参集したという話を信じるな。
213 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:13:52
愛だよ愛。
214 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 07:09:57
上杉に参集した牢人衆、岡左内、齋道二、青木新兵衛、車丹波。
司馬遼太郎の「城を取る話」は車丹波がモデル。
215 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 08:02:57
>>210財力、将来性、武名、家柄とか?今の企業と同じだろ。
>>215 それらに総合値を出して判断すると?
妥当な計数が算出できるとでも?
>>211 大坂に集まった浪人衆の多くが死に花咲かせる覚悟だったとは思えないが。
むしろ、これこそ一旗上げる最後の機会と思って来た者の方が多いのでは?
上杉のときは他の地域でも戦乱があったし、
この後戦がなくなるとも思われていなかっただろうから、
無理に上杉の下に集結する必要はない。
どっちにしろ上杉だけ一方的に、
浪人衆による何万もの増強を見込むのはおかしいでしょう。
上杉だけ一方的に>他の大名て浪人を募集なんてしてたの?
上杉はそもそも越後から会津に加増転封されたばかり
加増された大名はその石高で浪人や現地の有力者、
または旧支配大名の配下を雇用するのが普通
で国許で新規採用やってるのを家康に難癖付けられて会津征伐→関ヶ原という流れ
そういえば集めていたという話も
でも一気に1万越えも簡単には集まらないだろ
それに実力以上に集めていたなら開戦準備していたことになるが・・・
>>220 普通に考えれば大幅な加増で新規召抱えや城の整備をしていたのを家康に居ちゃ問
付けられただけれど、開戦準備説は昔からあるよ。
・三成と示し合わせて家康をおびき出す説
・越後奪還の準備説
とか。
関ケ原の直前って各大名が最大限の軍拡をやっていた
ころだから、取り潰しが進行中の大阪の陣のときと
「転職」市場の状況が違いすぎるとおもう。
最上攻めの人数次第だろ
3万以上で攻めたと言うことはない・・・はず
そうだな
大坂の陣のころは、侍バブルが崩壊して、「企業」がたくさん取り潰し
食えない浪人がたくさんいた
225 :
金吾秀秋:2007/06/04(月) 04:56:12
あじさいがきれいな季節になったね(´・ω・`)
226 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 00:13:12
>>224 黒田如水は今まで蓄えた金銀を軍資金にして数千の軍勢を作っているし、
関東や奥羽にも取り潰しになった大名は多い
>>200 領外に出て戦う場合は兵站(ロジスティック)の関係もあり大量動員は無理だが、
領内で内線作戦を行なう分には補給の問題は少なくなるので外征時よりは動員を増やすことは可能。
100石あたり5人程度は可能だろう。
(但し、立花宗茂などは100石あたり4人を動員していた)
浪人衆では車丹波、前田慶次、岡左内、上泉主水、山上同及、斎道二などが、
新規召抱えになっているが、車丹波などは500余の兵を率いて参陣している。
徳川初期の軍記物では浪人衆は2〜4万と記述されている。
慶長三(1598)年の『伏見蔵納目録』では、上杉景勝が豊臣秀吉に運上した天正大判は
二千二十枚余とあり、全国の六割に達するとある。
謙信時代からそうなのだが、上杉は軍資金には余裕たっぷりなのだ。
100石あたり3人では3万6千しか動員できず、もし三成との同盟が本当だとしても
三成が本当に決起するかわからないし、三成が動いたとしても毛利輝元を動かし
西軍を結成できるとはかぎらないわけで、そんな状態で家康に対して
「くるなら来い、相手になってやる」とは言わないだろう。
天下の兵をむこうにまわしても、多少の勝つ可能性があるくらいは兵力を集めていたと思われる。
>>226 敵を待ち受けるならそうかも知れないが、
もともとは上杉が関東に攻め込んで江戸城を落す云々と言う話。
その場合領外に出る戦いだから、ご指摘の通り兵站の問題もあり大動員は無理。
逆に領内で待ち受ける側となる徳川の方が、寄り多くの動員をかけることが出来ることになる。
つまり、上杉としては仮に領内で待ち受けることは出来たとしても、
関東に繰り出すなぞ全く不可能。
228 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 08:50:33
>>227 少なくとも最上に繰り出した兵数(2万5千)で南下できるだろうが、
あらかじめ軍資金にものを言わせ兵站物資と部隊を大量整備してあればプラスアルファ
の兵で南下できるだろう。
佐竹とも連携できるしね。
229 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 08:56:12
実際伊達などは上杉方の白石城を攻撃する際は1万8千の兵だったので、約100石あたり3人だ。上杉は浪人衆も多く、人員にも余裕があるからもう少し多めに領外戦に人員を出せるかも。
>>228 石高で言えばあまり変わりない毛利も少なくても3万以上を出陣させてるな。
佐竹あたりと合力すれば5万以上の動員は可能だから家康の留守狙いなら十分だし、
家康が関東を動かないなら東上してくる西軍とで関東に侵攻できるんでは。
231 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 17:56:35
上杉は転封間もなかったので、会津などの領内は相当脆弱だった。
伊達が梁川攻めで上杉に浸入したとき、近隣在郷からわらわらと
伊達に味方する勢力があらわれてきた。
「人も草もことごとくなびいた」と政宗は今井宗薫に当てて書いている
ほど。上杉が南下したら、伊達信夫辺りは伊達一色になるだろう。
よって上杉の南下は博打だね。
領内整備が遅れて他のはあるだろうし、一揆を煽るのは伊達の常道だね。
上杉が南下しても伊達は様子見だろうね、但し上杉が負けたら帰るとこ
ろはないね。
伊達は抜け目がないから雌雄が決するまではどちらに転んでもいいような動きをする気がするが
>>228-230 仮に3万ほどの兵力で南下しても、
関東残留の徳川軍だけで約1万、結城・蒲生・里見ら東軍の関東諸将の兵力約1万。
あわせて2万ほどは関東に残留しているので、攻めて簡単に勝てるほどの兵力差ではない。
当然伊達や最上の押えも必要だし、佐竹と合流言うが史実において義重が東軍派で家中が割れ、
結局具体的な動きが出来なかった事を考えればそれほど簡単ではない。
加えて国替え直後で領国も安定せず、しかも戦乱がどのくらい続くか分からない状況で、
無理やり関東に攻め込むなどあまりにも無計画すぎで、現実的にはほとんどありえない。
>>226 最初から天下の兵を向こうに回す覚悟があって、
「天下の兵をむこうにまわしても、多少の勝つ可能性がある」と思っていたなら、
別に関ヶ原の戦いが東軍の勝ちで終わっても、家康に屈服する必要はないと思うが。
確かに関ヶ原で反家康派が潰れたことで、確実に天下の兵を敵にすることになったが、
もし仮に最初からその覚悟かあったなら何も変わりはしないわけだし。
天下の兵を向こうに回す覚悟があって>天下の兵を向こうに回して戦っている間に
反家康派が挙兵するのを当てにしてたんじゃないかな。
家康が上杉を攻めあぐねてれば家康の専横に不満を抱いていた諸大名が必ず挙兵する
との考えもあるだろうし、謙信の後継を自負する直江や景勝にとっては家康ズレの恫
喝に一戦もせずに降伏するなぞプライドが許さない麺もあったんじゃないかと思った
りする。
>>234 関東在留の東軍は寄せ集めだから当てにはならない、秀忠軍が残ったのはこのため。
東軍と西軍が関ヶ原で睨み合いの対陣になって家康が関東を長期に留守にするような事態にならないと
佐竹も動かないだろう。
佐竹の中立はある意味当然、西軍に味方すればすぐに潰されるのは目に見えてる。
238 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 02:26:34
>>231 伊達は法螺吹きが多いから信用しないほうが良い。
実際には関が原後に、火事場泥棒作戦の福島城や梁川城攻めをしていて、
「人も草もことごとくなびいた」のなら両城とも簡単に取れたはずだが、
上杉軍が仙道・梁川筋から接近してきたらあっさり政宗は逃げ帰ってしまった。
>>232 伊達は攻めないだろう。上杉が孤立し家康率いる東軍に備え革籠原に主力を貼り付けている時なら、
裏口でちょっかいを出せもしようが、東西どちらが勝利するともわからない状況では
動かない、実際の動きを見ても滅亡寸前の最上に3千の兵を援軍に出したものの傍観していて、
西軍にたいして言い訳できるようにしており、関ヶ原の状況がわかってからやっと積極的に動いている。
>>234 その状況でも、押さえの兵は3万以上残っているから最上、伊達、堀対策としては十分。
239 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 02:31:52
>>235 おそらくは小牧・長久手のようなことを狙っていたのだろう。
家康軍に勝たせないようにし、あわよくば血気にはやり領内に侵入しようとする
部隊を血祭りにあげるなどしているうちに、反徳川勢の決起を待つわけだ。
小牧・長久手では雑賀衆や長宗我部などが大阪を攻撃しだしたので、秀吉は講和を選んだ。
240 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 02:36:54
>>239 確かに関ヶ原で大勢が決してしまうと、そういう戦略は難しい。
それでも、関ヶ原後一年以上、武装解除せずにがんばっていたのは、
なにかの反徳川の動きを期待していたのだろう。
>>238 その状況でなお3万の兵が国元に残るというなら、上杉の総動員6万となる。
もし120万石の上杉が6万の動員と計算できるなら、浪人の雇い入れ等の増加分を考慮しても、
石高250万石の徳川で動員数が10万を下ることはありえない。
その計算でいけば関ヶ原に向かった徳川軍を差し引いても、3万は関東に残ることになり、
上杉の勝てる見込みはさらに少なくなる。
まあ、こういう兵力計算は結局机上の空論になってしまうわけだが、
徳川と上杉の倍以上という石高の差、関東には徳川以外の東軍大名もいること、
そして上杉の背後にも警戒すべき相手がいること等を考えれば、上杉が関東に侵攻するのは、
いくら徳川の主力が関ヶ原にいるとはいえ、極めて難しいと言わざるを得ない。
242 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 09:19:19
徳川と上杉の倍以上という石高の差>そうね。
3万は関東に残ることになり>五分じゃない。
関東には徳川以外の東軍大名もいること>諸刃の剣だね。
そして上杉の背後にも警戒すべき相手がいること>お互い様ね。
243 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 14:27:37
>>241 徳川は250万石はないよ。250という数字は関八州約300万石(慶長3年)として、
そこから佐竹氏の石高を引いた数にすぎない。
上野には真田、下野には佐野、蒲生などの独立大名、安房には里見氏などもいるので、
大雑把に言って徳川領は200万石程度だろう。
それと財政力のある上杉と単純に比較されても困る。
>>238 > 伊達は法螺吹きが多いから信用しないほうが良い。
と言うか、一から十まで法螺吹きしかないと言った方が正確な表現だと思う。
245 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:41:22
>>244 「伊達の薄着」とか「伊達や酔狂で・・」「伊達にしてない」とか」の諺を考えると昔から伊達ははったりということか。
間抜けなことに、上杉は、政宗から偽りの和睦を示されて欣喜雀躍している。
直江兼続は、これで安心だと、福島城の本庄へ書状を送っているが、
政宗はその裏で白石城の守備をしっかり増強した上、最上を支援している。
兼続は、罠にかけられたといえる。
上杉が最上攻めを3万以上で行ったという史料はあるのか?
もしあるのなら4万以上実働していたと言えるが
248 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:31:18
>>246 それは偽りではないだろう、東西どちらが勝利するか未定である以上、
西軍の有力者(大老)の上杉と和睦しておく必要がある。
実際にその書状にある通り、わずか3千の兵を最上の援兵にだし、
しかも関が原の勝敗の情報が入るまでは傍観して、上杉の行動をさまたげてはいない。
おそらく、直江には形だけの支援ですから気にしないでくださいと言っていたのだろう。
>>247 上杉軍がどれだけの兵力を最上攻めにつかったかを知る良質な史料は残念ながらない、
江戸初期の軍記ものでは2万3千、2万5千、3万などとなっていて一定しない。
ただ、最上攻めは実稼動部隊の三分の一程度しか使っていないかもしれない。
最上程度には、それで十分で、途中ちょっとした苦戦もあったが、
長谷堂、山形城の2城を除く最上領を制圧しており、
その2城の落城も時間の問題(伊達が傍観してるしね)。
249 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 01:17:42
>>247 226にあるように100石あたり5人とすると5万人+浪人数万で8万前後かもしれない。上杉の金蔵には金がうなっており、可能な数字ではある。
但し軍記物では上杉の兵5万余、奥州浪人数万で、10万以上の兵ということになっていて、
革篭原の正面に本庄繁長が四千の兵を率いて布陣、敵に押されて退き、
敵を原に引き寄せる役とし、その後方に安田能元、島津久秀が兵六万をもって待ち受け、
直江兼続は兵三万をもって朴坂にあり、家康軍が鬼怒川を渡るのを見るや、
西側から側面を突いて出、この時、すでに関山の麓に陣を布く
千坂・斎藤・長尾・三宝寺・村上・色部・竹俣の諸将は東から敵の後方を突く。
景勝は八千の精兵を率いて長沼にあり、敵の本陣を攻めてこれを全滅させるという作戦だったそうだ。
250 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 01:31:47
>>248 >実際にその書状にある通り、わずか3千の兵を最上の援兵にだし、
しかも関が原の勝敗の情報が入るまでは傍観して、上杉の行動をさまたげてはいない。
それは違うな。上杉の軍記本のシナリオではそうなっているがw
伊達政宗が終始静観し消極的に見えるのは、政宗の判断ではなく、徳川家康の指示に従って行動しているから。
東軍の一属将としての態度をとっている。奥州戦線での家康の方針は、基本的に上杉を真綿で締めるように包囲して、
牽制することで、政宗のような野心家に上杉領を食い荒らされるのを懸念した家康は戦乱の不拡大方針をとった。
あくまで「牽制役」を伊達には命じている。上杉からみると「傍観」に見えるが家康からすると「牽制」という役割を
果たしている。上杉領の伊達の勝手な切り取りを封じ込める意図もあった(いわゆる百万石の墨付きの覚えの意味)。
結局、家康のもくろみ通り、伊達の牽制役は効果を発揮して、景勝は後背を恐れ、宇都宮にすら南下できなかった。
上杉が伊達をどれほど恐れていたかは、伊達が国境付近でちょっと動いただけでも上杉が異常とも見える反応を見せていることか
らも伺うことができる。
>>242 関東の東軍諸大名の何が諸刃の剣でなの?
そして、背後に警戒する相手がいることがお互い様とは?
>>243 関東から常陸を除いて約300万石、そこからさらに諸大名分を引いて約250万石です。
で、上杉の財政力というものを過大評価しすぎでしょう。唯でさえ国替え直後で、
軍等も急遽加増分に見合うように規模を拡大しなければならない時期だったのに、
それを大きく上回るような動員が出来るというのは、上杉に都合よく考えすぎ。
253 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 09:26:10
>>251 徳川家康の指示に従って行動したのに恩賞の約束は反故か?
本当なら最上より加増受けてもいいんじゃん。
>>248 軍記物でさえ3万ということであれば
3万を越えるということはなかったのではないか
>>249 徳川の動員兵力が約7万とされているから
上杉だけで10万というのはいくらなんでも多いのではないか
>>253 徳川の指示に従って積極的に戦わなかったから命拾いしたんだろうが。
好き勝手に戦ってたら惨敗して討ち死にしてたんだから、徳川としては礼を言われこそすれ恩賞を与える必要はあまりない。
>>256 笑った。
>>251 大体伊達は天下騒乱の火事場泥棒狙いだから徳川のために働いたなんてこたあない。
べつに伊達を辱しめてるんじゃなくて野心家の政宗ならあたりまえの話。
258 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:41:47
関ヶ原の上杉はてんで駄目だな。白石城を陥落させらた上、伊達より戦力の劣る格下の最上に惨敗しているw
景勝、直江では所詮伊達、最上の敵ではないということだろう。
259 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:46:47
最上に産廃?て何?
撤退船のことか?
260 :
名無し:2007/06/08(金) 17:47:50
261 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:13:03
>>251 徳川の指示なんて関係なく、二股かけてただけの話。
だったらどうして、ちょかいを出して上杉を戦闘に引きずり込んだ最上が、
24万石→57万石の大幅加増で、伊達は58万5千石→60万5千石、ですずめの涙の加増なんだ?
まあ、積極的に戦ってたら、最上もろとも伊達も滅亡してたのは確かではある。
最上+伊達(計80万石)でも上杉の戦力には全然及ばない。
もし、上杉が伊達を恐れるほど伊達勢が強力なら、関が原後の福島城、梁川城への
攻撃(火事場泥棒)の際、たとえ、上杉の後詰部隊が接近していたとしても、
泰然として福島城などへの攻撃を続行してもよさそうだが、あたふたと逃げ帰る政宗。
262 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:24:28
>>258 白石は「歩」を一枚取られた程度、上杉主力が攻撃すればいつでも取り返せるが、
それほどの価値はない。
長谷堂城、山形城の2城を残すのみになり、伊達に必死の救援要請をした最上が
勝ってるなんて笑わせる。
関が原の敗報を聞いて引き上げ途中の上杉を襲ったものの、最上は返り討ちにあっている。
少なくとも最上が勝ったとはいえないだろう。
その最上を見殺しにしようとした伊達乙。
264 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:40:55
>>252 慶長3年(1598)
相模 194,304.00
武蔵 667,126.00
安房 45,045.00
上総 378,892.00
下総 393,255.00
常陸 530,008.00
上野 496,377.00
下野 374,083.80
どう計算しても関八州では約300万石
それから以下を引きます
佐竹義宣(54万石)
蒲生秀行(18万石)
里見義康(9万石)
成田長忠(3万7千石)
山川朝信(2万石)
佐野信吉(3万9千石)
真田信之(2万7千石)
この他1万石前後の大名多数
徳川は約200万石ですね
265 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:05:38
>>264 少ないでしょうが、伊豆は何石だったのでしょうか?
秀吉が国替えを命じた際に、常陸は佐竹が居たので、
その代わりに伊豆を足して関八州としたと何かで読んだ記憶があるのですが・・・
266 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:10:47
>>264 多少追加
多賀谷重経(6万石)
山川朝信(2万石)
大関資増(1万3千石)
那須資晴(1万5千石)
水谷勝俊(2万5千石)
大田原晴清(8千石)
267 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:12:46
じゃあ通説の徳川250万石は嘘と言うことか
>>268 徳川が関東+伊豆以外にも飛び地を持っていたということはないのかな?
270 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:34:08
うそだね。これでもし太閤が結城家(10万1千石)を秀康に継がせなかったらもっと少ない。
271 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 01:01:11
>>269 たしか、近江に在京賄い料的に数千石の飛び地があったはず。
実際に常陸を除いた7カ国を足せば250万石にもなるが、実際は虫食いだらけで200万石もない。
272 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 03:35:34
Wikipediaなどでは徳川家康の項に
「その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、
北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総
の7カ国に移封された。これは150万石から250万石への加増である」
などと書かれているのを見ても、250という数字が安易な合計であることがわかる。
実際には下野には徳川家の領土はほとんどなく(結城も当初は別家)、
下総(多賀谷氏など)、上総(里美氏が一部領有)、上野などはスポンジ状態
であって250万石なんていいかげんなウソ。
なので、毛利、上杉と徳川では、実力でそんなに差があったわけではなく、
特に毛利には毛利本体の120万石の他に、出雲の吉川[18万石]、
筑後久留米の毛利秀包[13万石]があるし、上杉には財政力(金)がある。
273 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:25:49
上杉軍は弱小。直江兼続は最上に上山で大敗したうえ、名将上泉を
みすみす戦死させてしまった。伊達には白石城を半日程度で落城させられた。
戦後のどさくさ紛れの梁川福島城侵攻では、上杉将士が瞬殺され、福島城下
は徹底的に伊達軍に蹂躙されている。
また白石城を留守にしていた甘粕は景勝の不興を買い、その息子達は津軽を放浪
したという。
274 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:33:55
>>261 積極的に戦ってたら、最上もろとも伊達も滅亡って、
史実では最上すら滅ぼせなかったのだが・・・・
どっかの異世界の方ですか?
史実では最上すら滅ぼせなかった>つ、関ヶ原での西軍の敗報。
>>272 毛利も吉川や秀包は毛利領に含まれているはずだが
後、近江は10万石、蒲生秀行(12万石)、成田長忠(2万石)
重箱の角を突っつくようであれだが、こういうのはイメージですし、あまり細かくやるとドツボに嵌ります
何公何民みたいに
278 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:33:58
>>277 毛利秀包はどうか知らないが、吉川は含まれていない。
279 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:34:41
>>275 東西の決着がなかなかつかなかったらという前提だろう。
280 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:06:34
>>273 個々の戦いを取上げて勝ってるとわめいているようだが、
結果的には長谷堂、山形の2城でかろうじて耐えているだけ、
これ以外の最上領は全て上杉に制圧されている、これで勝ちとは
まるで伊達のほら吹き。日本が松本大本営以外全て占領されても
途中の小戦闘(珊瑚海会戦)で勝ってれば勝利なの?、思考回路がおかしい。
また、関が原の敗報を聞いて退却した上杉への追撃戦でもへまばかりの最上。
火事場泥棒戦(福島・梁川)でも大軍を擁しながら、むなしく引き上げる政宗。
その際に本庄軍と野戦があったとして、伊達が勝利していたとしても5倍の戦力なので
勝利は当たり前なのだが、勝った勝ったと自慢する伊達厨、おいおい伊達は5倍の戦力でも
勝利がおぼつかないほど弱いのかよ。
281 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:26:29
283 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 15:29:55
結局毛利三川が参戦していれば西の楽勝?
三成は朝鮮での戦いを再現しようとしてたわけ?
もし上杉の大勝ならば関ヶ原敗北後もその後も攻勢を続けて最上を落とせば良かった
結城程度であれば粉砕できるのでは
>>283 「三川」というのは吉川、小早川とあとどこの家?
結局毛利三馬鹿に振り回されただけの三成であった。
なんだか上杉贔屓が過ぎる書込みが横行していますね。
ひとつ謙信の時代とは違う
ひとつ謙信も城攻めを得意とはしていない
景勝の時代になって急に城攻めが得意になったのか
289 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:47:05
>>284 バカだな、関が原で大勢が決まればそれまで洞ヶ峠で、ひよりみしていた勢力が
攻撃してくる可能性がある。戦闘周囲に対して戦闘人員をより多く配置するには、
戦線を縮小する必要があるんだよ。実際にそれまで中立だった相馬などが、関が原後に上杉を攻撃しているからね。
>>289 上杉が強く軍勢も多いなら相馬などものの数ではないはずだ
死ね
苦戦した最上に更に庄内を奪われたのは、関ヶ原後という事実。
292 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:49:20
>>290 バカだな相馬以外にも堀や結城が攻撃してくる可能性があるだろ。
大勢が決した後では、周りは中立をやめて攻撃してくる可能性がある。
>>291 庄内は突出部で戦闘正面が広くなるので放棄。
293 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:00:13
>>288 別に不得意ではない
小田原城は攻略できなかったが、信玄も出来なかったし、
秀吉が20万の兵で包囲し、まったく後詰が期待できない状況でやっと自ら開城。
謙信が小田原を包囲した時には、同盟関係にある晴信が救援のため出陣している。
以下におもなものを挙げる
永禄五年二月、館林城、三月、唐沢山城を攻略。
永禄六年三月、騎西城、四月、小田城を攻略。
永禄七年一月、小田城・唐沢山城を攻略。
永禄七年十月、関東に出陣し唐沢山城を攻略。
永禄九年六月、越中に出陣、増山城を攻略。
永禄十年二月、唐沢山城を攻略
永禄十一年三月、越中に出陣し金山城を攻略。
元亀二年二月、越中に出陣し、椎名康胤の富山城をはじめ諸城を攻略。
元亀二年十二月、武田信玄の属城石倉城を攻略。
元亀三年十月、富山城を攻略。
天正四年九月、越中に出陣し、栂尾城と増山城を攻略
天正五年九月、七尾城、末森城、尾山城(金沢城)、大聖寺城を攻略。
>>278 毛利領は吉川氏の東出雲・隠岐・西伯耆も含んでいた。
因みに徳川家の250万石は当代記、1594年時の所領240万石の記述に
近江10万石を足して250万石という事になっている。
295 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:01:38
>>277 あれ、高校の副読本の歴史年表・地図では蒲生秀行は18万石なんだが。
>>293 不得意とはいえないが得意ではないだろうというのが論点なのだが?
小田原はしょうがないな
>>292 間抜けだな結城はもともと敵対していたんだよ
だから相馬や堀にさえ対抗できないだけの弱小なのかい
死ね豚
298 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:58:29
>>297 結城はそれまで上杉が南下したら防御するという体勢だったが、関が原の情報で、
積極攻撃に転ずる可能性がある、堀も同様。それにいままで傍観してる弱腰の伊達までが、敵対しだすし、
その上、関が原で大勢を決した東軍が、また10万近い軍勢を起こし、
上杉を攻撃する可能性もある。領内に戻って、縦深防御体制を作るために時間を稼ぐ必要があるわな。
299 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 05:52:21
第二次上杉征伐は、家康によって具体的に検討されていたからね。
上杉家は震え上がって、結城秀康に斡旋を頼み、和睦した。
突っ張りつづけていれば、間違いなく滅亡しただろうから。
>>298 そもそも、上杉が火事場泥棒(伊達)ではなく平身低頭していた最上の方を先に攻めることにしたのは、庄内地方を守りにく
い飛び地状態なのを解消すると同時に、縦深防御体制を作るためでしょ。
つーか、そうなったらなったで出羽領の東側面がずーっと伊達領と直接接するわけだが、上杉兵300=伊達兵1万なので一城
あたり400くらい入れておけば兵力比の原則から十分時間稼ぎになるから心配していなかったんだろうな。
>>295 あの頃は検地法ころころ変えていたし、表高という考え方もないから
断定は危険かも
>>298 結城にしろ伊達にしろ既に敵対していた
最上を簡単に落とせるなら落としてから縦深体制を築けばよい
上杉だけで10万いるなら、東軍本軍が来るまでは持つ
上杉はもともと三成を当てにして徳川と戦ったと言うことか
単独で戦う気はなかったと
>>303 宇喜多、毛利、前田の動向が判らず、佐竹が徳川に敵対している状況と、
奉行衆・宇喜多・毛利の連合軍が敗退した後では話が別。
後者の場合は、領国に籠って守備を固めながら、諸侯の動静を見極める
必要がある。
上杉は徳川との一戦を決意していたのは確実だと思う。
>>304 それならば最上を潰しておけば良かったんじゃないか
長期戦になる可能性もある
>>304 奉行衆の蜂起を知っていたと言うことか?
307 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 14:22:33
家康の戦略はすごい
天下分け目の戦いに当時の有力大名をことごとく参加させなかった。
そして見事に天下とり。凄すぎる。
野戦に出てくれればちょろいけど甲状腺は大変なのよ。
やはり最上だって大変と言うことだ
大口ばかり叩くなよ
10万もいてなぜ野戦で最上に負けるのか
そんなに弱小なのか
315 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 01:09:25
>>312 全兵力を出したら領内が、がら空きでしょ。
最上程度を潰すには2万や3万で十分なので、それだけの兵しか出してない。
事実、本庄、千坂、色部、山浦(村上)らの有力武将は最上戦には参加していない。
その程度の兵でも長谷堂城、山形城以外は全て上杉勢に制圧されている。
もし、関が原の決着が長引けば伊達が傍観していることもあり、両城とも落城は必死。
但し、関が原での東軍の勝利が判明した以上は、力攻めした場合には
籠城側は元気100倍になっているので、もし落城させることに成功したとしても、
相当な損害も予想されるわけで、プラスとマイナスを考えて退却したのだろう。
実際には、景勝が関が原の情報を聞いて不安になり、単純に呼び返しただけなのかも。
>>309 いや、これでなかなかハッタリだけの伊達と比べれば強敵だよ。
317 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 06:18:13
最上は伊達の代理戦争にかり出された形になっている。
突進だけがとりえの猪(上杉)と老獪な狐(最上)双方で死闘を繰り返し、
戦力を磨り潰すのを横から眺めているといったところ。
上杉は野戦にも弱く、梁川攻めでは簡単に牢人衆が討ち取られている。
318 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 12:14:23
>>317 本庄・須田らの部隊の5倍以上の戦力の伊達なので勝ったとしても当たり前。(負けたという説もある)
1対5で決闘をして勝ったら、おれは強いんだと威張る。それが伊達クオリティ。
ただ、救援の上杉部隊がきたら、政宗はすぐにトンズラ。
>>318 勝って当たり前の戦力比5対1でも惨敗するのが伊達クオリティ。
320 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 14:52:16
>ただ、救援の上杉部隊がきたら、政宗はすぐにトンズラ。
痛撃を食ったのは本庄軍。伊達的には残敵掃討したから、初期の目的は達してるから
満足だったはず。既に白石城もとってるし。w
この件では上杉は、有名な捏造をしているな。 余程悔しかったのか。
ちなみに大河の「天地人」にも捏造記録が出ていたし。
322 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 18:30:09
323 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:05:23
おまえうざい
324 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 22:35:29
325 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 23:14:10
>>320 初期の目的は火事場泥棒作戦で福島城、梁川城をとることですよ。
目的をひとつも果たせない上に損害多く、むなしく逃げ帰る政宗。
Wikipediaには伊達軍の死傷者続出とあるが、果たしてどれだけの損害なのか?
ちなみに伊達郡西根郷の佐藤次兵衛(佐藤新右衛門一族)の覚書によると
須田大炊頭は伊達兵の首級八百を得たようだ
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、
此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に
掛合申候所次郎右衛門打取申候、其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検
被成候所、首数八百余と御印被成候、
326 :
岐阜中納言:2007/06/11(月) 23:37:17
あやめ祭りあげ。
>>315 いやだから最上を潰すのに2万で充分なら
あと8万もいるから最上攻めを継続できるだろ
最上を潰した後ゆうゆうと帰国すればいい
最上が大したことないのなら士気が多少上がっても落とせるだろ
それとも士気が低くないと歯が立たないの会
328 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 02:44:06
>>325 >伊達軍の死傷者続出
伊達家側もそれなりに損害も出ていたから、福島城攻略に執着しなかったと見られる。
片倉の家臣2名が死んでいるが。
>此儀梁川へ聞へ
この佐藤某の記録が語っているのは、佐藤が須田長義の部隊に所属しており、伊達の後陣の小荷駄隊
を襲ったこと及び「正宗之御幕を取指上申候」したことを指している。
討ち取った「首数八百余」(この数字の真偽は別として)の内容は、足軽、人足、雑兵、葉武者の類になる。
なお「正宗之御幕」だが、荷駄隊が落としていった伊達家の家臣の誰か(?)の旗差しものを拾って梁川城へ
持ち帰ったのかもしれない。
上杉だけで10万も動員できるわけ無いだろ。
せいぜい4万ぐらいじゃないの?
331 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:47:33
>>330 上杉だけで10万も動員できたらいろいろ夢がひろがりまくりんぐwだよな。
それだけ上杉だけで動員できるのなら東軍西軍に対する第三極とかつくれない?
防衛戦と侵攻戦では訳が違うな。
侵攻に10万も動員出来るなら防衛には15万動員できる。
上杉は領地総動員の5人役で6万ってところだろう。
ただ、2万5千人程度は戦闘力、作戦遂行能力なんかは期待出来ない。
人夫や、荷駄要員だろうな。
毛利は大坂に6万で出陣したとの記録もあるが、留守舞台も含めると7〜8万も
動員したことになる。
335 :
金吾秀秋:2007/06/26(火) 02:27:54
梅雨らしい気候になったね(´・ω・`)
336 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 17:07:58
わが敵は西軍なるぞ!大谷隊を蹴散らし宇喜多の背後を襲うのじゃ!!!
それーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!by秀秋
337 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 17:31:35
エロい人youtubeに関ヶ原系の動画upして。頼む!
338 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 22:50:35
どっちにせよ、最上が危うい状況だったのは変わらんだろうな。
直江が率いていた部隊は長谷堂で膠着していたが、酒田から
侵攻していた志駄・下らの軍勢は寒河江まで進撃しており、
もし戦いが長引いたら、直江のいる方面とは別方向から敵勢が
動くことになり、脇腹を突かれる形になる。さらにそうなったら、
上杉だけでなく先に最上憎しで西軍に寝返った小野寺義道も勢い
づくだろうから、それこそ最上は窮地に陥るんじゃないか?
339 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 22:36:46
金吾ちゃんの所は空梅雨ですか
こちらはダムの取水制限が出そうです
最上を降ろしても関ヶ原で西軍が負けたら終わりだね。
それを言っちゃあおしまいだが。
最上がチャッチャッと負けてくれれば、家康も江戸を動けないのでは。
九州方面ってどういう状況なんですかね?
>1から読んでいっているのですが、話題
にあがっていなかったもので…
あそこは確か、黒田くんが頑張っていたハズ。
343 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 11:32:13
>>342 大友吉統が毛利の支援を受けて、旧臣を糾合して西軍として決起、
九州の細川忠興の飛び地、杵築城を攻撃する。城将松井佐渡守は
よく防戦し、黒田孝高も援軍をだしたため大友軍は引き上げた。
その後、石垣原で大友は黒田の軍勢に敗れて、大友吉統は降伏。
その後も黒田は九州の諸城を攻略したが、すでに大勢は決して
いたんだな。
ちなみに、加藤清正は当初は殆ど動いてなく、大勢が決した頃に
なって小西行長不在の小西領へ軍を動かしている。
また、鍋島直茂も在国ながら当初は動いておらず、西軍につき、
不戦敗同然の形で大坂城から退去した立花宗茂の柳川を攻めている。
こんな感じかな?
俺は上杉って、関ヶ原(東軍・西軍)のどさくさに紛れて領土拡大を目論んでたとしか
見えないんだが・・・もし上杉が本気で三成と共謀してたとしたら、木曽川を渡って
結城秀康率いる2万程度の軍勢なんぞ、上杉ならさして苦もなく打ち破れる。
そうすれば上京するのは難しくない。伊達・最上に対する押さえの兵がいるから
全軍とは言えないが、5万のうち2万程度は送る事が可能なはず。
どうも上杉って言うと正義の武将謙信のイメージがあるが、俺は謙信が正義の武将ってのも
信じてないんで(苦笑) あいつも関東を狙っていただけの節があるし。
>>344 >木曽川を渡って
へー、関東にも木曽川ってあったんですか。
正義って言うのは人それぞれの正義がある。
>>345 歴史見直した方がいいよ。結城秀康隊が陣を敷いてたのは
木曽川の向こう側だからw
大谷吉継が最後に小早川言った呪いの言葉って何ですか?
349 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 01:16:09
>>348 秀秋は人面獣心の輩なり、必ず3年(うろ覚え)のうちに
取り殺してくれん!
みたいな内容だった気がする。
350 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 01:21:44
>>349 サンクス!
今日テレ東で大谷吉継は豊臣秀吉の息子だ!みたいな番組やってて、気になって色々調べてたんだ。
カッコイいよ吉継
>>343 サンクス
なるへそ。九州の東軍で積極的に動いていたのは、
官兵衛君ぐらいなのですね。清正公が動いていな
いのは、意外w。
ところで世間では、官兵衛は野心があったように
思われていますけど、実際はどうなんですかね?
352 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 02:17:58
>>351 流石に東西対立の隙をつき天下狙う・・・なんて
大それた考えは持っていなかったと思う。だけど、とりあえず
九州をかき回して、今後の政権内での自身(黒田家)の地位を
上昇させようとは考えていたのでは?
353 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 03:08:39
354 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 11:24:11
だれかyoutubeにupして。見逃してしまった
>>351>>352 明確に天下を・・・とは流石に黒田官兵衛でも考えていないだろうが
西軍・東軍入り乱れる中、九州を押さえれば第三勢力として
さぞ面白い展開に持ち込める!くらいは考えて当然だろうな。
てか、現代人でヒヨッコの俺らですらこの程度の考えを持つんだから
百戦錬磨で老練な官兵衛がどこまで考えて行動していたかなんて
推し量れんよw
>>355 鍋島・加藤・島津が在国しているのに、弱小勢力の如水がどうやって
九州を抑えるんだよ。
>>356 鍋島は上方に兵を送っているから、在国の兵力は少ない。
加藤は豊臣の長老格とも言える如水とは古くから親交があり
尊敬している存在だから、上手く使おうとするだろう。
実際、家康に聞こえるように清正を先鋒に立てて島津を破り
天下を狙う事も出来た。と公言している。
359 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 06:49:39
黒田、加藤が島津領へ攻め込んだら、逆に返り討ちにあいそうだな。
薩英戦争も「威嚇目的」で接近したところ、至近弾をくらって、
旗艦が戦線離脱して、赤恥をかいているし。
黒田も、戦死で生涯を終わるだろう。
>>357 鍋島の兵力が少ない?
息子に着けた兵数は少ないのだから、黒田の数倍はある。
>>352,355-360
ならほど。
しかし、相手はあのくせ者、小寺官兵衛。
人たらし秀吉の下で、働いてきた小寺官兵衛。
島津、鍋島、立花、小西と同盟をむすぶ考えは?
関ヶ原で一番奮闘したのは何処の部隊だと思う?
俺はなんだかんだ言いつつ、黒田・細川を一手に引き受けた
石田隊だと思うんだが。
禿道 多くが討死にしているシナ
石田鯛は武勇に優れた将が多かったよね。
秀次の家臣も多数抱えてたけど皆勇敢に戦ったみたいだし、
石田鯛の奮戦は東軍所掌の語り草にもなったらしい。
366 :
岐阜中納言:2007/07/04(水) 23:48:52
大雨あげ。
367 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:08:00
義弘と合流しようと北上中だった3千の島津の部隊がいるようだが
部隊長の名前はなんだっけ?
そんなのいない
>>367 義久と義弘の間に溝があって、島津全体としては殆ど
義弘に手を貸してないからな。せいぜい豊久が駆けつけた
くらい。
その情報のソースはどこ?
遅レスだが、徳川家の石高250万石っていうのは実高って感じで、表高が200万石超ってとこか?
上杉家に関しても表高120万石だが、佐渡の金山なども含めて実高150万石超って感じかな、下手したらもう少しいくかも知れんね。
佐渡の金山では米取れないだろ・・・
372 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 12:06:17
>>371 もちろん米よりは黄金のほうがいいだろう、わざわざ大阪等で売る手間がいらない。
金山収入や交易なんかで儲けた分は実高には入らないわけだが
374 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 18:57:58
>>370 5公5民とすると実高の半分が領主の手に入るが、そのうちから家臣への棒給、
行政費などを引いたわずかな分が大阪などで売られて金に変わるわけで、
金の産出が巨額だった上杉などは、キャッシュフローでは遥かに徳川を上回っていただろう。
毛利の場合は防長2カ国で表高36万石に対して実高は徳川初期で57万石、
幕末では100万石に達している、しかも毛利の場合は一石をはかるマスが、
他国のものに比べて大きかったので実際の石高はハンパではないだろう。
ただ、上野の国など幕末になっても表高と実高が変わらない国もある。
>>374 それをいうなら徳川家は利根川等の河川交通の運上金や伊豆の金山なんかがある
後、家康個人の蔵入地は百万石に達するとか
この手の話は調べれば調べるほど出てくるけど、詳しいデータがないから適当な所で
切り上げないと結論出すのに半世紀はかかる。
376 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 00:04:01
>>357 226にあるように
「慶長三(1598)年の『伏見蔵納目録』では、上杉景勝が豊臣秀吉に運上した天正大判は
二千二十枚余とあり、全国の六割に達するとある。 」
豊臣の金蔵を潤していたのは上杉の上納金(天正大判)。
377 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 00:25:14
>>294 遅レスだが、「当代記」は成立年や著者も不明なので、あまり信用しないほうが。
>>374 毛利の国力は半端じゃないだろうな。
元就以来中国地方を支配して瀬戸内も抑えている。
大坂に6万の軍勢で出勢とあるからハッタリがあるにせよ留守部隊や他への派兵も含めると
凄い動員力だよ。
家康も当初から毛利との全面衝突は避けようとしてたからな。
380 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 14:04:52
秀秋の養父である小早川隆景が長命でまだ生きていれば、
こんなブザマまことにはならなかった。
小早川は本当は嫌だったのに仕方なしに養子にしたっていう説があるらしいね
誰が好き好んで秀秋みたいな若者を養子にするかね
383 :
381:2007/07/11(水) 15:44:30
384 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 23:04:36
>>378 家康が秀忠とあわせて6マソといわれてるよね、
秀康とその傘下は徳川軍というより関東諸軍だから
そう考えると毛利の動員力は石高異常な気がする。
>>384 徳川は200万石としたら、3人役で6万、5人役で10万。
250万石なら、3人役で7万5千、5人役で12万5千。
まぁ、やはり、頭一つ抜けていると思うよ。
386 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 02:36:56
検地の際の基準は
毛利は 1歩(6尺5寸四方) 1反(300歩) → 1反=1,163.7m2
徳川は 1歩(6尺2分四方) 1反(300歩) → 1反= 998.1m2
おなじ1反でも、徳川と毛利ではだいぶ広さが違うわけで、
つまり徳川基準なら毛利の石高は約1.2倍する必要がある。
そのうえ出雲吉川、筑前小早川は別途知行だしね。
てことは120万石×1.16=140万石相当?
徳川が200万石としてもまだ開きがあるが、
未開地の関東より中国の方が経済なども発展していそうだから、
実力てきにはかなり伯仲かな。
輝元は朝鮮の役で秀吉に6万人動員すると豪語したからね
(流石にそれはしなかったが)つまり、それくらいの動員能力があるってこった。
それで徳川にビビってるんだからしゃあないよな〜 他にも有力大名は西軍が
圧倒的に多かったってのに。
389 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:46:35
じっちゃんの謀略の素質が少しでもあれば、所領安堵のカラ約束など見抜けたろう。
>>389 じっちゃん並みの謀略力があったら、徳川幕府じゃなくて毛利執権体制になってたよなw
ていうか、毛利が打倒徳川に挙兵しなければ西軍自体が存在しない訳、
ビビッテたのは吉川だけ、
他の一族は主戦派だったんだが、吉川の裏切りによる大敗のショックと豊臣に捨てられる可能性
、吉川の裏約束なんかで下ったんだろ、
自分の一族の裏切りで西軍が大敗したわけだから、戦争を継続するなら吉川を処刑
する位は必要。
その上で豊臣に対徳川戦を決意させなくてはならない。
無理にでも承認が採れれば、敗残兵を吸収して立て直しは効くかもしれない。
秀家なんかは領国に戻って再起も可能だろう。
393 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 16:11:18
仮に関が原での西軍大敗が無く、大垣城周辺での長期戦になった場合
いずれ徳川毛利の間で和睦に至った可能性も高い
足利政権のように弱体な中央政権の下で戦国時代ほどではないがそれまでの
武家政権のように慢性的な内紛が続いた可能性が大きい。
家康の真の偉大なところは太平の世を実現したことだ。他の誰も実現できなかったろう
394 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 16:28:44
, -=ミ;彡⌒`丶、
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lと', `"" ,l l `"" ,リぅ!
ヽ-ヘ ,ィ''。_。ヽ、 /_ン'
', / _lj_ } ,'
l、 ^' ='= '^ /!
l ヽ. `""´ ノ l、
_, ィ{ `' ― '´ }ヽ、
/  ̄ ¨丶ヾ`ーs一'´__ ¨ ´ ̄`ヽ、
/ ` 〃 '´ ヽ
,′ / l! ;
| j |D|! !
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l ! :2:. └ ' .:c:: ! |
l//" " } !
,ィー─--- 、//l ,′ !
〃 ,〉ー‐ァ'´/ l | イ .'
. /Y/ 〃勺 l | l i
いっつも金吾チャンばかり責められてて気の毒だな。
最大の戦犯は吉川なのに。
396 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:52:02
>>395 いや確かに当日の戦犯は吉川だがそれまでに東軍に寝返っていた小早川や
京極の動きをみて西軍に勝ち目なしと判断した可能性もあるので
吉川は伊勢では本気で西軍で戦っていて決戦場で日和見したタイプだろう
397 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 23:01:17
>>396 もともと対徳川戦には反対なのだが伏見や伊勢は輝元の命に従って行動してた、
だからこそ誰も、身内すら疑わなかった訳である意味絶妙の寝返りとも言える。
398 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 23:04:40
399 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 16:13:52
400 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 21:02:57
毛利両川を当てにした武将や大名はろくな目に遭ってないな。
荒木村重しかり別所長治しかり。
明智光秀も毛利とは共闘していなかったものの、挟撃はならず。
関ヶ原ではご存知のとおり。
ほんとうに当てになりません。毛利両川家。
401 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 21:08:35
加藤清正 小西行長
402 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 21:31:44
毛利の体質そのものが国人連合体制なので内部分裂を起こしやすいのは
ある程度しょうがない所がある。それでも輝元が家康並の器量ならば
中央集権体制にもっていけた可能性もあるが実現したのは関が原後だった
幕末にはそれが生きたわけだし、毛利の家は歴史上この家が動けば天下が
動くって感じの家だよ
>>400 この戦は従来は家康対三成ととらえられていたけれど、家康対輝元の戦いと思う。
秀吉の死後すぐに家康が野心を露にしたのに対して、危機感を持った四大老と
奉行衆が対抗して力の均衡を得るが、利家の死により家康に傾く。
七将事件では輝元は三成を応援して兵を増派して尼崎に布陣し家康と対峙したが、後手に廻ったため
三成は失脚し輝元も家康を兄とする形で屈服。
このときの不手際の反省が関ヶ原の時の迅速な対応に結びついている。
その後も輝元は安国寺を通じて三成と連絡をとり、家康の隙を狙っていたと思われる。
本来は対家康において味方であるはずの上杉討伐にあえて反対せず、しかも国許に引き上げている。
これは家康側からすれば輝元の敵意の無いことの表明ととれるが、逆に家康を安心させて大坂を離れ
させるための計略にも見える。
家康が大坂を離れ奉行衆からの手紙が到着するや、家中の一部の反対も無視して異常な速さで大坂入り
している。
輝元の様な大身の大名が上坂するにはそれ相応の用意がいるが事前に用意していたとしか考えられない。
さらに輝元が大坂に入城する前に西の丸にいた徳川の留守居を在坂の毛利勢が追い出している。
しかも1週間足らずで6万とも言われる大軍を大坂に集結させている。
続き
しかしこの計画は輝元一人で出来るものなのか、安国寺には無理だし広家が知っていたとも思えない。
恐らく元康等が中心に家中の手配りをしたのではないか、輝元が元康に宛てた手紙や元康が調略をして
いた手紙なぞが現存しているし、大坂で元康は広家の反対論を論破したとの話もある。
輝元はこの後も蜂須賀家政を謹慎処分にして伊予を接収するなど活発に動いている。
最期はあっけない幕切れになったが輝元は俗説の様に安国寺や三成に騙された訳でなく、自身の野望の
ために挙兵したわけで名実ともに西軍の総大将であったと思う。
405 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 23:55:20
輝元が総大将で力不足だったのか。
吉川の寝返りが全て?小早川、京極、鍋島がそれまでに寝返っていたの
に対し東軍は伊達や最上の内通はあるものの主力軍の寝返りはなし
三成は大柿城をでるべきでなかった?秀元に吉川と戦う気力があれば?
長束・安国寺・長曽我部に浅野・池田に突撃する勇気があれば?
豊臣秀頼を擁し、人数でも多かった西軍はん何故敗北したのか
輝元にやる気があるのならばなぜ戦場に出なかったのか?
また大坂で決戦するという手もなくもない
407 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 01:03:11
>>405 能力不足というか無能の人だな。秀頼を擁して輝元が松尾山に
入っていれば西軍は必勝。内応のつもりの毛利両川も、
輝元が動けば動かざるをえなかった。
また、大阪城で秀頼を手放さず、抗戦していれば勝機はあった。
家康自身も「大阪城には秀頼君がいるので攻撃できない」
と書状に書いているが、豊臣恩顧の大名なら、なおさらそうだろう。
毛利が秀頼を擁してがんばっていることがわかれば、
島津や上杉もがんばるだろうしね。
勝利は無理かもしれないが、いい条件で和睦できたかもしれん。
淀君もガンで、大阪の陣でも諸将が反対したのに、
大砲が怖いというので和議を結んで堀を埋められ、
また夏の陣でも秀頼の出陣に強行に反対、
関ヶ原の時点でも秀頼の出陣に反対していたが、
淀君には毒を盛っておくべきだった。
事実秀元や立花宗茂は大坂での抗戦を主張してたはず。
とくに秀元は吉川広家にたばかられたという意識が強かった
みたいだからな。
でも実際、余力は十二分にあるんだよね。
まあ開始時と比べると激減だが、死ぬ気でやれんこともない
>>409 秀頼を擁立しているというのが最大の強み。
おそらく豊臣恩顧の連中は秀頼を旗印にされた以上
三成相手のようには行かないだろうし
411 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 17:09:29
毛利家の内情を通説のように広家と安国寺に限るのではなく
元康、秀包、秀元、福原、熊谷、宍戸らがどういうスタンスで
この戦に望もうとしていたのかが見えてきたとき西軍敗北の
真の理由が見えてくると思う
要は毛利サイドには「覚悟」がなかったんだよ、「覚悟」が。
三成の4分の1、家康の半分ほどもあれば歴史は違っていたんじゃないかな・・・
413 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 05:26:16
三浦純正 「敗者から見た関ヶ原合戦」 洋泉社新書 2007
読んだ人いますか?
414 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 08:04:26
輝元は吉川元春、小早川隆景がいなければだめなんだろうな。輝元ピンではやる気なさそうな気がする
>>413 読んだ。好著だと思う。
最近の新説を客観的に盛り込んでいるから、一読する価値はある。
輝元、やる気があるなら戦場に出るべき
出ないで勝とうというのは甘過ぎ
417 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 12:49:54
>>416 輝元が大阪城を出れなかったのは豊臣家が徳川に寝返る可能性があったから
だろう。関が原決戦は西軍にとって全く想定外で輝元にとって驚天動地
だったのだろう
>>417 豊臣家は親徳川派も多数いたし留守居の増田からして二股。
輝元が大軍を擁して西の丸に陣取っているから抑えが効いているようなもの。
関ヶ原に向けて出陣したら裏切りかねない。
どうしてもするなら秀頼を無理やり連れて人質にして出陣するしかない。
しかしそれは太閤の遺言を破ることにもなるので家康の違約をせめられない。
長宗我部氏ってなんで東軍に付かなかったの?
輝元は自分以外信用できなっかたのか?
一族は信用してたんじゃない、
そこが甘さになって広家に騙されたけど。
爺さんの元就は隆景や元春から見ても恐ろしい存在だったらしいから、
そういう意味では詰めで坊ちゃん育ちがでた気がする。
>>421 一族を大阪に入れて出陣すれば良かったのでは?
>>421 それは仕方ないな。
元就の時代とは状況からして全く違う。
元就の頃は弱小勢力で生き残れるかどうかって瀬戸際を渡ってきたんだから。
>>419 一般的には西軍に街道を封鎖されてとか、東軍に送った使いが
西軍に捕まって・・とか言われてるが、実際はどうだったんだろうな?
425 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 18:40:47
ところで、家康の会津遠征軍に従っていながら小山会議の後唯一西軍についた
田丸某っていう小大名いるみたいなんだけど、こいつだれ?
まさか会議中にみんなが家康に付くって騒いでる最中に、二万石程度の小大名が、
「俺は毛利・石田軍に付くんだぁ!」とかメンチ切って出て行ったわけないけど、
まわり東軍の大名だらけでどうやって出て行ったんだろ。
あとこいつ、関ヶ原の後いびられたのかな。
426 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:13:09
大坂の陣の時にも九州の小大名が唯一豊臣に味方したな。
>>425 司馬遼太郎『関ヶ原』を嫁。
史実をどれだけ反映しているかは知らないが。
>>428 やはり筋を通した人物は、ちゃんと雇ってくれるんだよな。
主馬くんもそうだし。
>>418 増田も拉致って出陣しておけばよかったのでは?
431 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:41:21
そうだな長束を留守居にしてれば安心かも。
432 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:55:08
【前回選挙前】
, - ,----、
(U( ) サラリーマン大増税は行いません!
| |∨T∨ 郵政民営化だけで全て解決です!
(__)_) どうか自民党に投票お願いします。
↓
【選挙勝利2日後】
↓自民党
∧_∧ サラリーマン大増税するのなんて解ってただろw
( ´∀`) 勝っちまえばこっちのもんwww口約なんて破る為にあるんだよ!w
( /,⌒l ギリギリまで税金絞り取ってやるからしっかり払えよ底辺どもwwwww
| /`(_)∧_0.
(__)(´∀`; )⊃⌒⊃ ←国民
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【2007夏選挙前】
, - ,----、
(U( ) 消えた年金対策はしっかりやります!
| |∨T∨ 責任取らせます。給料下げます。
(__)_)
↓
【選挙勝利後】
↓自民党
∧_∧ WE法案を早速導入するのは解ってただろw
( ´∀`) 反対しても強行採決するから無駄無駄www
( /,⌒l ついでに消費税も10%に上げるからしっかり払えよ奴隷どもwwwww
| /`(_)∧_0. は?消えた年金・・・?なにそれ。領収書持ってこいボケwww
(__)(´∀`; )⊃⌒⊃ ←国民
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
工作員は巣に帰れ!
434 :
岐阜中納言:2007/07/19(木) 00:53:09
大地震お見舞いあげ。
435 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 18:28:29
ドドドドドドドドドドドド!! |其| _ |不|
|疾| _ .|侵| |動|
|如| |其| .|掠| |如| コッペパ〜ン
|風| |徐| |如| |山| ジャム塗ったらアーンパーン♪
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|如| |火|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |林| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄(_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚)|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ(  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
||` || ( | ( |(´⌒(´ ||` || ( | ( | (´⌒(´⌒;; (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
436 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 19:08:37
筋を通してなくても脇坂、朽木とかは領土を守ったな。小川、赤座は改易だが、
その対応の違いがわからん。ただの好き嫌いとか?
でも石田とか大谷の旧臣はどうなったの?
島とか蒲生とかは戦死したけど、名のある武将はそろって討ち死に?
蒲生は備中は死んだけど
郷舎は生き残って蒲生家に帰参したはず
蒲生郷舎は年齢からしても関ヶ原に参加していないと思われ、
>>436 改易されたり浪人になっても取り立ててくれるってことでしょ。
橘や松野なんかそのケース。
裏切って加増されても世間からは評価されない、秀秋なんぞはそう。
脇坂、朽木なんぞ小身過ぎて相手にされず。
>>436 脇坂や朽木は事前に藤堂と接触があったらしい。
小川や赤座はそれがなかった、というけど・・・・・
やっぱり好き嫌いもあったかもね
ちなみに、朽木や脇坂は子孫が譜代大名にまでなってたりする
441 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 12:40:14
えーっ、蒲生郷舎は関ヶ原にいなかったの?
司馬の影響で、序盤に負傷した島に代わって郷舎が石田隊の前線を支えてたと思ってた。
ほかにも蒲生郷舎を石田隊も前備えとして書いてある本とかサイト多いし。
さすが氏郷から蒲生の姓をもらった武将だなぁと思ってたのに。
じゃあだれが石田隊の前備えを支えていたの?
前野忠康、横山喜内
443 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 17:08:20
若江八人衆でぐぐって見ると良い鴨。
郷舎は関ヶ原に出陣して左近と並んで前備えじゃなかったっけ?
横山喜内=蒲生備中だったっけ?
445 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:00:55
横山喜内=蒲生備中だったっけ?>そう
ついでに、前野忠康=舞兵庫だったりもする。
蒲生郷舎については諸説あり良く解らないんだよ。
446 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:56:09
>>422 誰あたりを想定しているのか知らないが、
ただの毛利家の一族だけでは押えきれる保証がないでしょう。
後世から見ると関が原で一日で実質的に勝負がついてしまったのを知っているから、
何が何でも兵力を集中しなければならなかったのに、という話になるが、
長期戦も考慮するなら、大坂を押えるのはかなり優先度の高いことですよ。
関ヶ原での敗報が入るまでの輝元は良くやってたと思うよ。
普通に考えれば打てる手は打っていたんじゃない。
西軍から東軍に内通みたいな話はよく聞くけど、
東軍から西軍に内通していた大名っているんで
すかね? 結局東軍の勝利で、西軍内通とかは
歴史の闇に葬られている気がします。
449 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 23:46:42
だろうね、伊達が停戦交渉してたのは聞くけどね。
>>448 ウィキペに書いてあった事だから本当かどうかしらんが、
堀秀治は西軍とも接触を持ってたらしい。
加藤清正などもまともに動き出したのは大勢が決してからだって言う
452 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 01:05:09
朽木って京極の庶流だっけ
454 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 01:26:52
>>448 加賀井重望、加藤清正、前田利長、伊達政宗、堀秀治
加賀井は水野勝成の親父を殺した奴か。
それに九鬼や真田みたく両軍にわかれる例もあったからな
456 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 07:08:26
上杉は、最上領侵攻にあたって伊達に最後まで中立を保って欲しいと願って
いたのは間違いない。ところが9月中旬頃から、伊達は妙な動きを開始する。
南部領岩崎城への画策と並行して、積極的な最上支援に出てくる。
(伊達政景の援軍派遣)これは、直江兼続が予想外に最上に苦戦し、膠着状態に
陥っている状態を見て、上杉に揺さぶりをかけてきたといえる。
これは上杉軍には「想定外」の事態だった。
>>450 堀の話は真実だろ、手紙が見つかったはず。
448の言うように都合の悪い書類は抹消されたと見るべきだし、
家康にしてもそこら辺は目こぼしせざるを得なかったんだろう。
458 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 09:40:57
>>456 伊達の援軍は形だけで殆んど戦っていない。
にしても余計な神経は使わざるを得なくなっただけ餓え過ぎにはマイナス。
459 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 09:52:36
>>453 信用の問題ではなく輝元とその指揮下の軍勢がいなくなっても、
大坂を押えておくことが出来るとは限らないということ。
大坂城には家康に近い片桐とか二股をかけていた増田とかもいたからね。
>>459 そんなに大坂が反毛利だったとは考えられない
3万の軍でも抑えられないほどだったのか?
461 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 12:00:30
輝元と3マンの軍がいるから抑えられてるんだろう。
出陣したらどうなるか解らないてことでしょ。
そんなに東軍よりだったとは初耳だ
であれば敗北は必至じゃないか
家康は大大名・野戦の名手・律義者とネームバリューがすごいからね
東軍よりは大坂城に何万いたのか?
465 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 14:54:02
youtubeに関ヶ原の戦いの動画upしてください。たのんます
466 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 16:47:58
>>462 もちろん、敗北は必至とまではいかなくとも情勢はかなり不利だよ。
家康への弾劾文に署名し本来なら西軍首謀者一人であるはずの増田長盛からして、
家康に密かに書状を送って内部情報を漏らしているし、
秀頼側近の中でも重要な位置にいる片桐且元は家康派で、
事実どんな功績があったかいらないが関ヶ原後家康から恩賞を得ている。
結局関ヶ原の戦いは家康対三成あるいは毛利等との戦いであり、
決して豊臣対徳川の戦いではなかったわけだから、
西軍がある程度の圧力を持って大坂を抑えていない限り、
大坂が東軍方になってしまう可能性は十分にある。
だから総大将自ら大坂をしっかり押えるのは至極妥当な戦略。
もちろん、前線の三成らにすれば今のこの合戦に負ければ何の意味もないとも思うから、
輝元に前線に着て欲しいと願うのもまた当然なんだが。
>>463 野戦の名手っていうのは家康自らが流した噂だと思うな。
もしくは江戸時代に御用軍学者らの褒めたたえがそのまま現代に生きているだけみたいなね・・・
ただ、あの時分、前田利家亡き後、戦国時代の厳しい時期をよく知っている大名だと思う。
自力で領国統一や、信長の同盟者として一緒に闘ったりしている。
なんせ、信玄と戦った経験を持っているんだから・・・
468 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 17:41:05
自ら流すまでもなく長久手の戦いという、
秀吉に勝ったとまでは言えなくとも十分に一矢報いた戦歴があるから、
豊臣政権時代から野戦の名手ってことにしておかないと、
秀吉自身の格好がつかなくなってしまうよ。
>>466 それはともかく大坂には3万以上の東軍派がいたということか
そうであれば3万の抑えが必要というのも尤もな論理だが
470 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 18:00:29
>>469 徳川よりの者の兵の数が問題なわけではないのよ。権威と正当性の問題。
万が一にも豊臣家の側近連中や奉行衆から東軍を支持するような声明でも出されたら、
西軍の正当性は一気に失われ、最初から不確実な連合軍だった西軍は崩壊しかねない。
つまり西軍が押さえ込まなければならないのは東軍派の兵の動きではなく、政治的な行動そのもの。
それを押さえ込むには、十分な威嚇として大老輝元の存在とそれなりの兵力が必要だろうということ。
兵数で押さえ込めば何とかなるだろ
具体的に東軍が3万もいたのかい?
472 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 18:24:10
>>471 東軍よりの者だけで3万もの兵力は確実になかっただろうが、
別に最初から兵を従えて対峙しているわけではなくて、
政治的な行動を封じ込める為の威嚇に必要な兵力だから、
同数の兵力があれば良いとかそういう話にはならないんだよ。
>>472 政治的な力が必要と言うことで有れば
特に兵は必要ではない
3万はいらなかったんじゃないか
>>473 輝元個人には大老としての権威はあっても、存在だけで他者を制するような政治力はない。
物理的な「力」としてそれなりの兵力は必要だよ。
権威ある大老の輝元が大兵力とともに在城しているという圧力によって、
相手の行動そのものを封じ込めなければならない。
まあ、3万がどうしても必要だったかはなんとも言えないが、
東軍よりの人間が全部でどのくらいいるかなんてはっきりわからないから、
どれだけの兵力で十分かということも事前には分からない。
>>466 突っ込みどころ満載だな。
>家康への弾劾文に署名し本来なら西軍首謀者一人であるはずの増田長盛からして、
>家康に密かに書状を送って内部情報を漏らしているし、
とりあえず、増田の書状に内部情報として価値のあるネタは書かれていない。
風説・噂話の類だよ、あんなものは。
ああいう立場のものが、
決起したという事実を通報しただけでもえらいことだと思うが。
政治的な意図があったのでは?
秀吉による長盛評は「剛の者」だったはず。
当時の奉行衆を現在の高級官僚のイメージで評価するのは危険。
478 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 19:56:35
それにしても増田はナニがやりたかったのか全然わからんな。結局切腹だし。
でも輝元が3万持ってこなかったとしても、立花たちの1万強が間に合わなかったとしても、
毛利秀元以下の諸隊が関ヶ原でちゃんと雪崩れ込んでれば、小早川を待つまでも無く
東軍は総崩れだったと思う。あの部隊は東軍の退路を絶てる位置に陣取っていただろ。
数からいっても池田や山内如き蹴散らすのも苦も無かったはず。
戦国時代はどんな合戦でも、退路を絶たれた部隊は浮き足立って壊滅するような戦だよね。
吉川広家はホント馬鹿だな。いくら内通してても西軍の総大将が無事に許したら家康もしめしがつかないだろうが。
あと広家に同調してた福原って、本当にあの小早川隆景や吉川元春と共に四宿老といわれた福原貞俊?
>>477 一方の陣営に属しながら、
敵対する陣営にも多少といえども情報を送るなんて事の政治的意図は、
普通に考えて内通、せいぜい二股をかけようとした位しかないと思うが。
秀吉も人を見る目がないってことはもちろんないだろうが、
家康のことを律義者と言ったりもしているし全面的に信用するわけにはいかないでしょう。
480 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 23:44:15
>>478 関ヶ原って今考えると不完全燃焼だった武将が多いよね、
あの時こうしてればって、悔いだらけな気がする。
>>479 秀吉一流の褒め上げて人を使うって感じでしょ。
>>474 実際にはそんなに権威だけでどうこうなるということはない
権威だけならば家康に勝てないからな
3万は多すぎだと思うが、おまえの説だと5万で足りなかったかも知れない
どうみても東軍があそこに3万もいたとは思えないが
輝元の作戦としては大坂を押さえることで錦の御旗をえることがあったのは事実じゃないかな。
当初の迅速な対応でそれは達成できたし、一時的には家康を窮地に追い込んだとも言える。
絶対的悪手とは言えないが、決戦場に当主がいないことで
毛利としては分離してしまったのが痛い
3万の兵も結果的に幽閉に
484 :
金吾秀秋:2007/07/23(月) 04:33:07
いよいよ夏本番だね(´・ω・`)
>>483 関ヶ原が決戦場になるなんて誰も予想してないんじゃないの。
>>481 あのね、別に大坂城内の家康派がはっきりと西軍と対立していて、
その兵力が3万だったから西軍も3万の兵力を大坂に置いておく必要があった、
なんてことは誰も言っていないのよ。
まず、豊臣政権内の抗争である以上権威や正当性はとても重要な要素になる、
東軍も西軍もより多くの豊臣政権下の大名を味方に引き込まなければならないわけだから。
そしてあなたも言っているように、権威という面では輝元は明らかに家康に劣る。
だから、輝元が大坂に入城し、大坂に残っていた3奉行がこぞって家康を糾弾している、
つまり豊臣家は輝元や西軍を支持しているように見える状況をどうしても作らなければならなかった。
もし、大坂城内にも家康派がいて明らかに西軍と対立しているなんて状況になってしまえば、
その段階で西軍側の正当性は一気に失われ、西軍自体の存在すら危ぶまれてしまう。
西軍としては万が一にもそのようなことにならないように、
つまり家康派だということを明らかにする事すら出来ないように押さえ込まなければならない。
そのためには、大老輝元の存在とそれなりの大軍という相当の威圧力が必要だったということ。
>>483 それは関が原でそれもたった1日の決戦で、
勝負がついてしまったことを知っているからこその結果論。
>>486 3万は多すぎると言っているのがわからないのかい
もし相当な軍が必要と言うことならば5万だって足りないかもよ
その辺はどう考えているの?
輝元が必要だってことならば吉川も必要かもよ
それよりも安国寺もいるかもね
>>487 幽閉にしたのは事実だし当主が後方にいたのも事実
結果としてはそうなったし、3万と当主がいる必要性がない
>>488 もちろん足りなかったかもしれない。
というか、実際に家康派の動きを完全に押さえ込めたわけではないから、
結果から言えば現に足りなかったと言える。
しかし、前線にも兵力と指揮官が必要なのは当然だし、全てを大坂におく訳にはいかない。
それらを考慮した上で配置だっただけのこと。
>>489 ではどのような方法で大坂を押えておくことが出来ると?
>>490 もし本当に足りないと思っているのなら
毛利全軍を大坂に集結させておけばよかったではないか
前線に兵力と大将が必要なのは明らか
大坂を抑えるという意味が不明だが軍事的に東軍に支配されないのならば充分
1人ではNG
もし秀秋が毛利家の養子になってたら毛利一門日和見も裏切りもなかったかな?
結局の所、金吾を内通の疑いで捕らえてしまえば良かったんだよ。
軍議の席に呼び出してさ、島津はそれを主張したしな。いや、アイツは殺せって言ったんだが・・・w
494 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 17:28:06
軟化の軍記物にそんな記述があったよ、
金吾を南京しようとしたが警戒して出てこなかったハズ、
大谷は金吾を殺害しようとしてたとか、
あくまで軍記ものだけれんどね。
>>491 毛利全軍を大坂に集めては前線が崩壊するでしょうが。
前線も大事だが大坂も重要だというだけのこと。本当にこの程度のことが分からないの?
大坂和押える意味については、
>>486で長々と書いてある。
>>495 前線崩壊するわけない
するというならば何故3万も集めたのか
大坂を抑えるには多すぎるし当主は不要と言っているのがわからないのか
497 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 03:15:41
大将は前線に出てくるべきだったが
(そんなに大阪が不安なら代理として秀包か秀元に3万付けて大阪城においときゃいい)
輝元って自分で軍の指揮とったことほとんどないし、案外そっちの方が不安だったんじゃね。
昔は隆景、元春、元清おじさんとか従兄弟の元長くんとかがなんとかしてくれたし。
実際、関ヶ原の後家康たちが大坂に進撃してきた時充分余力があったのに、さっさと逃げたし。
>>496 大老である輝元がいなくてどうやって抑えるの?
高々毛利家の一族や家臣に奉行や秀頼の側近を抑える権限なんてない、
そんな事をすればただの越権行為、
西軍の行いは政権を私しようとする謀反だという東軍の主張を実証してしまうだけ。
それから、毛利全軍が大坂にいても前線が崩壊しないって、
何をどう考えればそんな事が言えるのか、そんなに前線に余裕があるなら、
なおさら輝元本隊を動かす必要はないって事になると思うが?
もちろん実際にはそんな余裕はなかったわけだけど。
499 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 11:54:41
三成・小西・大谷あたりが大阪城に残って、輝元を出陣させりゃ良かったんだよ。
そうすりゃ負けても再戦は可能。
500 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 12:19:46
東への兵力は実際十分だったはずで家康の西上が急だったので兵力を集中できなかっただけだろ。
東軍もそれは一緒で秀忠が間にあっていないから算数的には問題なかったはずだな。
大坂の毛利軍は京・大坂の抑え、前田への警戒などもある。
しかし、上杉の兵って思った以上に弱かったな。
最上程度に手こずるとは・・・やはり謙信って名将の元でなければ
駄目だって事か。直江は口だけ番長だしな。
上杉は人材の数に比べて領土が広すぎた感があるんだよな
>>499 豊臣家中枢に近いそれらの武将ならそれも可能だったかもね。
しかし、その方が戦力が落ちてしまうような気が猛烈にするが。
後輝元軍が負けてしまったら再戦は、仮にやっても勝ち目はほとんどないでしょう。
もともとそいつらだけでは無理だと言うことで輝元を担ぎ出したわけだから。
>>499 毛利が負ければ終わりだよ、本気で書いてるのかなあ。
三成・小西・大谷の挙兵じゃ誰もついてこないよ、
ついでに言えば関ヶ原で負けた後の大坂籠城も無理、近江に拠点のある石田らは再起不能だし
領国に帰った長宗我部も東軍に寝返るよ、鍋島はもちろん島津だって条件闘争で東軍だろう、
もっとも大坂に籠城する構えをもっと見せてうまく和睦する方法はあったかもね。
505 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:17:47
>>504 島津や立花は強硬に大阪籠城を主張したが?
>>505 島津や立花は強硬に大阪籠城を主張したが?>
島津義弘は豊久や部下を死なせてしまったこと、立花宗茂は不完全燃焼の意地じゃない。
でも島津なんかは国許では義久が実権を握ってるし本領安堵を家康が約束すれば問題なし。
宗茂なんかは籠城するかもしれないけど戦局を変えるほどの力は無いでしょう。
結局は本領安堵で開城するしか無いんじゃない。
関ヶ原で西軍の半数が消滅した今となってはどうしょうも無いね、せめて西軍が普通の負け方
なら瀬田当たりでもう一戦できたかも。
507 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:42:16
輝元を担ぎ出したわけだから>輝元は主犯なわけだが。
そもそも越後から会津に国替えされたばかりだしな>関ヶ原の上杉
動員兵数は増えても肝心の兵士の士気とか錬度とかかなり落ちてたんじゃないかな
だろうな。移封前の越後勢の方が上杉は強かっただろう。
510 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 17:50:22
>>506 吉川の裏切りに怒り狂ってブチ切れた輝元が篭城したとして、
・関ヶ原にいた西軍
吉川ほか裏切り重臣→切腹・蟄居で毛利の戦力半減。
石田、小西→部隊壊滅の上領国に戻れず消滅。
大谷→部隊壊滅、本人戦死。
島津→義弘篭城するが兵がいないので戦力にならない、義久が本領安堵と引換えに東軍に鞍替え。
長宗我部→帰国後、本領安堵と引換えに東軍へ。
長束→領国で篭城後開城降伏。
小早川ほか四将→当然東軍へ。
宇喜多→領国へ、明石と合流し部隊再編し再起を計る。
大垣篭城軍→半分は裏切って東軍へ半分は全滅。
・その他
鍋島は当然東軍へ、
前田が近江に侵攻、
田辺城攻撃の西軍、四分五裂で消滅。
てな感じどうやって戦うのかなあ。
>>510 鍋島は当然東軍へ、とか書いてるが兵力が減ったとはいえ
毛利が本気でやる気になったらそれでも8万前後の兵力がいるんだぞ?
その中で「じゃあ俺は東軍へ♪」なんて言い出せる奴がいると思うか?w
むしろブチ切れて篭城した方が
毛利、本領安堵されそうだな
家康と直接交渉でグダグダの談合
三成や五奉行に責任を押し付け本領安堵
513 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 21:32:21
まぁほとんど尾張人と三河人の戦いだよね
愛知県が今の日本を支配してるのも納得
水が良いのかな
世界的な日本人ってほとんどが尾張か三河の血脈だし・・・・
何言ってんだお前・・・
515 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 23:14:33
>>512 確かに大阪城に秀頼を擁して8万の軍勢が篭城すれば東軍が倍以上いたとしても
なかなか難しいだろうな。毛利が本領安堵されたらいつか難癖つけられて
幕府に滅ぼされそうだが
516 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 23:29:31
豊臣が本気で毛利と組んで戦う気がなければ無理だろ。
考えてみれば太閤に豊臣を託されたのは利家と家康だよね。
だから豊臣内にも利家派と家康派がいたんじゃないかな、
利家が死んだ後は家康派の独断場、
それを一部の奉行と輝元が軍事クーデーターを起こしたような感じじゃねえ、
豊臣は毛利と運命を共にする気なんかないだろ、ある意味厄介者だよ。
そんなんで戦えるかねえ。
それに大坂は包囲しといて安芸を付かれたらどうするんだい、大坂に8万も集めたら
本拠は2万もいないだろ、
良い和睦条件を探して退去がおちだよ。
>>511 毛利はその時点じゃバラバラ、秀元、元康、秀包なんかは訳が解らないハズ。
大坂城で輝元が裏切り者を断罪して再起をかけるしかない。
鍋島は西軍主力とは本々距離を置いていたから、西上してくる東軍と合流すればノープロブレム。
>>498 大老と言ったって、秀頼を自由にできるわけじゃない
奉行を抑える権限だってないだろ
もし抑えているなら西軍の行いは政権を私しようとする謀反だという東軍の主張を実証してしまうだけ。
自分で3万いなくても関係ないって言う主張なんだろ?
しかも3万で足りてるかどうかわからないんだろ?
>>516 何言ってんだ?関東や東海道を無視して西進したら
上杉や佐竹はどーすんだよ?w
大体、毛利が健在で籠城主張するくらい好戦的になったら
宇喜多だってまだまだ戦えたんだぞ?毛利・宇喜多だけでも
かなりの勢力だよ。
宇喜多は無理だろ
軍がいない
>>519 東海道に敵はいないだろ、関東の佐竹は西軍が健在の時でも中立、家康が江戸から出陣しても中立、
今更西軍に味方するわけない。
上杉も今更何もできないよ、伊達も真面目に戦うだろうし奥羽で味方になる大名はいないだろ。
>>518 五人の衆頼み申し候・・・秀吉は大老に後を託したんだが
>>519 九州からも如水、加藤、島津の連合軍が攻めてくるよ。
予め関ヶ原で東軍を迎え撃とうと取り決めてあったわけでもなく
ましてや関ヶ原で戦えと自分が命令したわけでもなく
総大将なのに自分が居ないところで配下の諸将が勝手に関ヶ原で戦うのを決めて(14日大垣城軍議)
そして翌日朝から早くも実際に決戦しちゃってしかも大敗しやがって(15日関ヶ原本戦)
あれよあれよという間に気付いてみたら配下の諸将が散り散りになって敗走してきてる
こんな状況に置かれたのが西軍総大将の輝元
輝元の立場に立ってみりゃこんな状況でいったいどうしろと
ヤル気なくなるでしょ普通
関ヶ原で決戦するっていう勝手な判断自体が間違いだったんだよ
事情を良く知らずに布陣図見ただけの、たかだかドイツの1軍人が西軍の勝ちと言ったから、この判断は間違ってなかったとか
そんな単純なもんじゃないって
大垣で暫く様子を見て、東軍が大阪城到着するだろうと
確信したらのんびりと行軍して、大阪の兵力と合わせて東軍挟撃すれば
勝ち目は充分あったはず。
>>525 堅固な要塞が築かれていた関ヶ原での大戦が、現地の勝手な行動になってしまう?
>>525 輝元は総大将じゃなくて担がれただけか、やる気無し
格から言えば総大将だけどね
>>518 秀頼を自由になんて出来ないだろうが、大老なのだから奉行への影響力くらいある。
ただし輝元は家康・利家に比べると格下だし政権内での実績も少ないから、
ただ自身がいるだけで奉行を抑えることは難しかっただろう。
だからこそ、具体的な威圧力として兵力が必要になる。
よって大老である輝元と3万の軍勢がともに大坂城にいる必要があったと言っているのだけど?
だれが3万の兵がなくても関係ないなんて言ったの?
>>529 担がれただけというのは後からの抗弁だよ、実際は主催者側。
>>528 本来政務を執るはずの家康が太閤の遺言を破ったから大老の資格無しと
いうのが西軍の主張。
>>525 大垣城は小城で大軍が入れないし、包囲されれば南宮山との連絡も分断されて殲滅
される可能性が高い。
関ヶ原への移動はより防御に適した地への陣地変えであって決戦のためではない。
伊達が本気になったら、上杉なぞは成実にチンチンだろうな。
いや、当時の成実は出奔中か?
>>533 それはネタ、古いよ君。
少し休みたまえ。
>>530 ではなぜ3万の兵が必要なのか、5万必要だったかも知れないだろ
なぜ3万なのか?
奉行への影響という点なら三成は放置でいいの?
>>531 主催者が何で前線に出ないの?
とうぐんの主張だと西軍は賊になるが?
てか大垣には西軍主力の大軍が入ってたジャマイカ
しかも、関ヶ原敗退後の小部隊しか居なかった大垣城を東軍は
力攻めで落とせなかったんだぞ?w
>>536 同じ事を何度も言わせないでくれ。前線にも兵力は当然必要。
後はどちらにどの程度配置するかの判断に過ぎないよ。
そして大坂や奉行を押さえる必要があるといったのは、
正当性を確保するのが重要だから。
三成は自分で対家康への決起を企画した人物、
今更彼が毛利や西軍の正当性をあえて否定するはずがないから抑える必要もない。
>>535 ああ、軍記の誘引策という意味でなく、陣地移動した西軍を直ぐに追撃し、
決戦を行ったという意味ですよ。
何しろ、陣地異動した理由が家康着陣ですから、その動揺を見て取った
家康がこのまま攻めれば結束力に乏しい西軍は崩壊するという判断で
陣地んい篭った西軍相手に決戦を選択したのでしょう。
>>534 上杉が本気になったら、伊達は岩出山に引きこもるようだぞ。
本庄一人にコテンパンなんだから、本軍が来たら約260年早くドンゴリアンと呼ばれるようになる。
>>540 3万の根拠
なぜ3万なのか
5万かもしれないし、1万かもしれないだろ
なぜ3万なのかい?
判断だということなら5万でも10万でもいいわけだろ
よく考えてみてくれ
三成が暴走しないとは限らないだろ
事実総大将でないなら好き勝手にしてるぞ
545 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 10:45:45
>>539 大垣は小城
西軍は大垣城周辺に布陣していたと思われ。
>>538 城外の西軍が敗北すれば史実どおり内応が出て簡単に落城するよ。
>>543 だから、3万だったのはその時の判断だって。
大坂にも兵が必要だし、当然前線にも必要だ。
もちろん可能なら5万でも10万でも欲しかっただろうが、
そこまで前線に余裕が無いから3万にしただけ。
別に良く考える必要なんてないと思うが?
>>544 身内がそこまで信用できないとは思わなかったのでしょう。
本来なら三成以上に信頼すべき相手だったわけだから。
>>543 というか、3万もいらなかったといえる根拠は何かあるの?
>>549 3万の根拠なんてないんじゃないの
あるのなら言ってということなんだけど
ないってことだよね
質問がわかりますか?
あいまいに3万ぐらいってことにしたってこと?
>>549 吉川はともかく小早川って人物を理解してますか?
吉川は改選前から西軍派という認識?
>>551 もちろん、3万で多すぎた根拠も少なすぎた根拠もない。
だから大坂の兵を少なくして前線に送れば良いとも言えないでしょう?
>>552 彼については認識が甘かったかもね。
しかし、再三言っているが小早川を抑えることも重要でも、
同じように大坂を抑えることも重要だから、
輝元が簡単に大坂を離れるわけにもいかない。
大阪城内には豊臣軍だけで8万はいることをお忘れか
>>554 そんなにいたの?
もしも事実なら秀頼の側近や奉行に親家康派がいる状況で、
3万の兵ではいかにも心許ない。
かといってこれ以上前線から兵を引っ張ってくるのは無理だっただろうから、
正にギリギリの配置ってことになると思うが。
大坂城に8万って常備ではありえない兵力だな
そんなにいたら徳川に喧嘩売ってると思われそうだな
七手組の1万は最低居ただろうが
豊臣の本城だからな。常備軍でなくとも、5万近く居てもおかしくはないな。
城に詰めているのは1万やそこらだと思うけどなあ。
559 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 22:53:56
560 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 22:57:11
そもそも家康には天下を取ろうなどという意思はあったのか?
執権や管領のような立場で権勢をふるおうと考えていただけではないのか?
だとすれば毛利、石田らの西軍蜂起は豊臣政権下での覇権争奪戦にすぎない
561 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 00:14:36
家康が権勢を振るいだしたのに危機感を持った輝元と奉行の蜂起だよ。
>>558 女だけで大阪城には1万人いるんだぞ?w
>>553 だったら少なかったのかもよ
あと小早川を抑えるために、輝元+数万が必要だったでしょ
あるいはもっとね
>>559 城内にある程度収容できるだろ
史実では内応していないが?
>>564 だから結局、大坂から兵を割けばよかったという結論は出せないでしょうが。
>>566 だから3万必要だったという結論にはならないでしょ
あと小早川、吉川らの動きや決戦ということを考えるとなぜ総大将がいないのかということになる
3万必要だとは言えないってこと、資源は有効ってことなんだけど
秀頼と西軍の総大将およびその軍勢が一緒にいるのが大事だな
輝元勢が合流したら、ただでさえぐだぐだの西軍は増える戦力より減る戦力のが多そうだ
>>567 別に3万必要だったなんて結論をいうつもりはないが?
>>553でいったとおり多すぎたとも少なすぎたとも言い切れない、
だから単純に大坂から兵を割けばよかったとも言い切れないってだけのことなのだが。
あと、3行目の意味が全く不明なんだが、どういう意味?
>>569 3万必要だとは言い切れないってことでいいのかな?
>>569 3万と輝元が必要だと言ってなかったか?
>>570 何べんもそう言っているだろうに、
しかしそれなりの軍勢は必要なのは明らかで、3万も必要なかったとも言い切れないから、
単純に大坂の兵を関ヶ原にもっていけば良いとも言い切れないってこと。
>>571 確かに3万という数字で言ったこともあったが、必要と言えるのは輝元と相当数の兵力。
3万という数字を使うのはただ単に史実ではそうだったといわれているから。
当然、その相当数の兵力がどうしても3万だったとは言い切れない、
しかし同様にもっと少なくても良かったとは言い切れないのだから、
単純に大坂の兵を関ヶ原へ割けば良いなんてことも言い切れないということ。
>>565 城内にある程度収容できるだろ>
かなりの子白、仮に1万入場できても場外の主力が壊滅すれば終わり。
史実では内応していないが?>
本戦で負けた後、水野の誘いで秋月、相良、高橋が内応して他の城将を謀殺。
福原のみが孤軍奮闘するが開城。
574 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 21:19:06
3万入城すればどうか?
それに入城するのであれば当然主力が城の良いポジションに入るが?
>>572 最初は3万と輝元が必要だと言っていたよな
もっと必要だったかもしれないということでいいのか?
>>575 そうだよ、すでに
>>490でそう言っているのだが。
あと、別に3万という数字に特にこだわっているわけではないということも、
>>474の段階で述べている。
>>576 1万必要だったかも知れないし5万かもしれないということでいいか?
>>577 1万ではさすがに少なすぎて、家康派を抑えこむことは出来なかっただろうが、
3万がどうしても必要だったとはいえないし、
豊臣家を完全に抑えたといえる状況でもなかったのだから、
もし可能なら4万でも5万でも欲しかったのも事実だろう。
>>578 1マンガ少ないとすればなぜか?
例えば東軍派と思われる人数が5000人はいたということか?
>>579 東軍に通じていた増田長盛の石高が20万石、100石3人役で計算して兵6000。
他に片桐且元は石高自体は1万石だが秀頼の傅役として豊臣家の旗本に影響力があったと思われる。
そして、
>>486で言ったように西軍に必要なのは、
彼らがもし動いた時に対抗することではなく、その動き自体を封じることだから、
十分な威圧となりえるだけの兵力差が必要になる。
最低でも2万やそこらは必要でしょう。
それで、あなた自身の考えはどうなの?
あなたの問いには、
相当数の兵力は必要だが、それが3万だとは言い切れない、
もっと少なくてよかった可能性もあるし、
逆に可能ならより以上の兵力も欲しかっただろうと答えた。
それに対するあなたの意見はどういうものなの?
>>580 片桐に豊臣政権での力が無かったのは、関ヶ原後を見ても解る。
>>580 増田は東軍と通じてたけど、実質はほぼ西軍だろ
通じてたっつーても西軍に対してめちゃ不利な事をしたワケでもないし
東軍に対しても有益な寝返りや働きをしたワケじゃない。だから改易されて
切腹だしな。増田東軍説?みたいのは半ば都市伝説に近いよ。
密書ちょっと送ったくらいで。
>>580 既に反論がたくさん出ているが自分以外は全て敵と仮定すれば
膨大な兵力を拘置しなければならなくなる
そのことを理解しているのか?
また増田は6000も大坂城においていたのか?
>>581 家康との交渉という大任を任されたのに力がないとは?
彼が最終的に放逐されたのはその交渉の結果が淀殿らの意にそぐわなかった為で、
最初から力がなかった分けではない。
実際当時片桐よりも有力な秀頼の側近がいたなら例えばそれは誰?
>>582-583 密書なんて送っていれば立派な内応だし、
西軍の兵士すら増田の内応を噂しているような状況で目が離せるわけがない。
>>584 あなたはもういいから、いい加減自分の意見を書きなさい。
>>585 密書送れば内応なんて正気なのか?
大坂全部敵なのかい?
>>585 論理破綻しているから、書き込みを控えた方がいいのでは?
あるいは三戦版に行くとか。
>>586 少なくとも警戒しなければならないのは当然でしょう。
それから誰も全部などとは言っていないが、
大坂にも家康よりのものがいるから、
それを抑える必要があると最初から言っている。
>>587 例えばどこら辺が?
>>588 具体的に増田を抑えるとして、増田は何千人?
>>585 交渉?大阪の陣の前の話しを言っているんだろうな。
その頃には、大阪方で豊臣を真に心配してくれて、尚かつ実力者と言える人材が欠如
しまくっていた(浪人の集まりが軍議の主メンバーなのを見ても解る)
それに関ヶ原当時だって、家康に問罪使として行ったのは坊主と殆どお飾りの
3中老ですよ?w
>>585 ということは吉川、小早川らも内応していたということか?
>>589 だから3人役で換算して6000。
>>590 それで、関ヶ原当時で片桐より有力な秀頼の側近だったのは誰?
>>591 正にそうだと思うが。
>>592 では吉川、小早川を抑えるために数万必要になるが?
6000も動員していたということは臨戦態勢だった?
>>592 お前は側近の意味を辞書で引け、童子にそんなもんが居るわけねーだろ
豊臣を動かしてたのは五奉行だし、その中でも三成を含む近江派だ。
>>592 秀頼派の兵力は毛利を除いて0ということか?
西軍派も0?
>>593 無論その通り。吉川については事前にどこまで怪しんでいたか分からないが、
小早川は露骨に怪しかったし、出来ることなら何らかの方法とっておきたかっただろう。
しかし、大坂を確保しておくこともきわめて重要。
輝元は二人はいないし両方を完全に抑えるだけの兵力なぞないのだから、
両方を抑えきることが出来なかったのは致し方ないだろう。
>>595 側近という言い方がおかしいとしても傅役であるのは間違いない。
秀頼の傅役が豊臣家に影響力がないとでも?
そして、もし本当に豊臣を動かしていたが三成を含む近江派なら、
なぜ豊臣家は明白に西軍につくと言わず、金銀や兵糧すら西軍に提供しなかったのか?
>>596 上記の通り秀頼の傅役である片桐は家康に近いし、
長束や大谷といった三成に近い奉行は前線に出ていたから毛利を除けば極めて手薄。
というか、あなたは聞くことしか出来ないのかい?
加えて言えば、
>>593 戦時下に一方の側として城に篭っているのに臨戦態勢でないはずがないだろう。
>>594 片桐がどの程度影響力を持っているかにもよるし、
そもそも3万という数字にどうしても拘っている訳ではないとも既に言っている。
>>595 奉行が力を振るっていたのは秀吉存命のころ。
死後に豊臣を動かしていたのは五大老筆頭の家康、
特に前田利家の死後はほとんど独占状態。
>>597 お前何も知らなすぎ。西軍(増田長盛だが)はちゃんと西軍に対して兵糧・金銀は送ってるし
工作活動でも使ってる。織田信勝にも白金2000枚も送ったぞ。
>>600 西軍が西軍にって当たり前のことだが?
今は豊臣家がどうだったかという話ですよ?
はぁ?増田が自腹切ったとでも思ってるのか?
>>597 結果的には増田より小早川を信用したということか?
大坂を取る方が決戦より重要なのか?
>>602 はぁ?と言われても、豊臣家が西軍を積極的に支援してはいないという話だから。
増田のその後については家康に評価されるような行動を取れなかったからでしょう。
そして当初から言っているように輝元が大軍とともに大坂にいたのは、
増田らに家康よりの行動を取らせないためなのだから、
増田の件についてはそれが成功していたということを示しているだけだと思うが。
>>603 大坂の重要性は明らかだが、決戦になるかどうかなんてのことは事前には分からない。
このことも、何度も何度も言われていることですよ。
>>604 6000+αを完全に抑えるのだから2万くらいは最低でも必要でしょう。
無論3万必要だった可能性もあるし、もし可能ならもっと兵力が欲しかったでしょう。
で、あなたは人に物を聞くことしか出来ないって事で良いのかい?
馬鹿をスルーするのは2ちゃんのマナーです。
これ以上、構わないでください。
>>605 決戦になるかどうかわからなかったのか?
誰の判断か?
+αとは?
西軍派いないというのことか?秀頼は東軍なのか?
2万の根拠は?
>>605 論理が破綻していて、こっちの言うことは聞かないだろ
あんた自分で3万必要だって言っていて今度は2万か
3万不必要もも自分から言ったんじゃなくて追求されて言い始めたんじゃないか
今回の2万も根拠をちゃんと言ってくれよ
まあ結局、その時代にいた輝元の3万って判断がいいんだろうね
>>605はスルー推奨だな。こりゃ駄目だ。
三戦板でも相手されなそうw
上のは参照は
>>576>>580でした。
>>608 どこの理論が破綻しているのです?
大坂城にも家康に近いものがいて、
それをを抑えることが重要だから安易に輝元やその軍の大坂から動かすことは出来ない。
という、至極単純で真っ当なことしか言っていないと思いますけど?
馬鹿をスルーするのは2ちゃんのマナーです。
これ以上、構わないでください。
>>613 軍を動かすことが出来ないのなら、なぜ毛利が他に出ていったのか?
って堂々巡りだがな
>>615 伊勢や近江畿内にも徳川方の城があるし、徳川の先遣隊は早い時期に尾張まで来ている。
その状況で毛利軍全軍を大坂城に貼り付けておくことなんて出来るわけないでしょうが。
大坂には大老輝元と必要と思われる兵力のみを残し、ほかは前線に送るほうが合理的。
というか、何で動かせないなら毛利全軍全て動かせないし、
動かせるなら輝元も含めて全て動かせるという発想になるのか理解できないのだが?
>>616 ただ何万必要か算出根拠がないわけだから5万必要かもしれないということだろ
吉川だって必要かも知れない
>>617 いや、だから史実では3万くらい必要だろうと判断して残しただけでしょう。
輝元にそういう判断が出来た、何万残せば良いか分からないから全軍で大坂にいる、
なんて事をするほど輝元も優柔不断ではなかったというだけのことだと思うが?
で、あなたの言いたいことは、
何万必要なのか進出根拠がないから全軍で前線に出るべきだったというものなの?
それとも全軍で大坂城に居ればよかったと?
>>618 俺のいいたいことは
もし輝元が総大将ならば輝元は大坂にいるべきではない
敵が3万もいない状況で3万を遊ばせておく余裕はなかった
監視するというのならばむしろ小早川、吉川らを監視すべきであった
>>619 吉川は事前に疑っていたかどうか分からないからなんとも言えないが、
小早川は監視すべきだったのは確かにその通りだろう。
しかし、大坂城にも監視すべき存在はいた。
家康に密書を送っていて、兵士らにまで怪しいと言われていた増田に、
家康に接近していて戦後恩賞も得ている片桐。このことは理解していただいているよね?
その上で、それでも前線に出るべきだったと?
>>620 総大将であるならば出るべきだ
密書を送っていたというのならば小早川らも同様
大坂には親秀頼の部隊がいるだろう
622 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 01:30:29
変な日本語。
夏だからねぇ。
623 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 09:15:10
>>621 そもそも関ヶ原の戦いは豊臣対徳川の戦いではないから、
親秀頼だからといって西軍につくとはいえない。
現に福島とかだって親秀頼だっただろうが東軍だし、傅役の片桐も家康側。
そして小早川も出来れば監視するべきだったということは、こちらも認めている。
しかし輝元は一人しかいない以上両方を自分で抑えることは出来ない。
出来れば両方抑えたかっただろうが、それが出来ないなら、
一大名の小早川よりも大坂を抑えているという大義名分を優先したのは、
けっしておかしな判断ではなかったと思うよ。
>>624 そうすると秀頼は中立なのか?
であれば西軍の毛利がいるのはおかしいということになるが?
あくまでも豊臣政権内の抗争だからな
>>625 中立というか、積極的にはなにもしていない。
東軍も秀頼に対する恩顧のため、という建前だから。
「小山評定」でググレ。
>>625 既出だが西軍も東軍も秀頼の側だと主張しているんだよ。
西軍は秀頼の為に動いているからこそ、総大将輝元が秀頼と同じ大坂城にいて、
輝元は秀頼を助けているということにしているし、
東軍はそれは不法占拠で無理やり秀頼を抱え込んでいるだけだと解釈している。
そういう状況だからこそ、大坂をしっかりと抑えて、
奉行に家康側の人間がいるとか、秀頼の傅役が家康よりだなんてことが、
明らかにならないようにしなければならない。
>>628 中立の城に入って居座ったら侵略行為なのだが?
630 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:37:19
631 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 14:07:10
もちろん大阪城は重要ではあるが、秀頼を擁しているということが最大の利点。
輝元は淀君がなんと言おうと、秀頼を擁して大阪城を出陣すべきだった。
もし、秀頼を擁して3万の軍勢で松尾山に陣をとり、「千成ひょうたん」
を掲げれば、関が原では豊臣恩顧の大名は、助さんに葵の印籠を出された悪代官ような状態。
いづれ、立花隊や小野木隊など3万を越す軍勢も駆けつけるしね。
632 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 14:10:16
秀頼を大坂から出すのは太閤の遺言に叛くことになるのだが。
秀頼が何で前田・上杉を討てなんて思うんだ?
前田なんて、秀吉の友人又左の家で豊臣の本当の重鎮だぞ?
家康の秀頼や豊臣のためなんてのは、自分の天下取りのための
口実だってのは馬鹿でも解る事だろう?前田からとった人質のお松だって
自分の人質にしちまったじゃねーか。
それだけ豊臣の中で家康の力が強かったってことだろ。
誰だって秀頼の意思じゃないことはわかってるだろうけど
どこの大名もわざわざ敵にまわすようなことしないさ。
だからそれが家康個人意志にすぎないって言ってるんだよ。
淀や幾ら幼いとはいえ、秀頼だって前田がどんな家で上杉がどんな家で
徳川がどんな家で・・・ってな事は帝王学みたいなもんで教育されてんだろ。
関ヶ原が豊臣の内紛だろ?って言ってる奴がいるが
家康=天下狙い
西軍=その阻止派
じゃないか?
>>634の言うことは解るよ?ようするに、250万石の日本最大の
大名を敵に回すのはこえーってのが心情だろうさ。
>>635 会津征伐時の豊臣政権の意思=家康の意思なんだよ。
だって、太閤の遺言により政権の運営は五大老に任され、その五大老は
前田利家死去・上杉毛利宇喜多は国許で、家康のみ専権を振るえる状況にあったんだから。
家康は自分の意思を豊臣政権の命令として実行できる立場にあったわけ。
上杉征伐軍(東軍)は形式上はあくまでも豊臣家の正規軍であり、
西軍蜂起後も自分たちが正規軍であると主張し続けた。
一方石田三成らは家康がいなくなった大坂城に入り、
専横を極めた家康を糾弾する文書を発行して、こちらこそが豊臣家正規軍だと主張した。
これに対して秀頼の周辺はどう反応したかというと、
どっちにも表立っては味方しなかったと、そういうこと。
じゃあどうして西軍が大阪城に入城出来たんだ?
家康寄りだったら、籠城してでも入れなかったと考えられないか?
本音は西軍よりだったから入れたと考えるのが妥当じゃないか?
>>629 だからこそ、実は中立だって事を明らかにしないようにしなければならない。
>>637 それなら逆になんで西軍よりだと明言もせず、兵糧や軍資金すら提供しなかったのかね?
家康よりだといっても5万だの6万だのの毛利軍に徹底抗戦するほど、気合の入ったのはいなかった、
逆に積極的に西軍に肩入れするようなものもいなかったってだけのこと。
要するに中立的な立場だったということ。
だいたい関ヶ原の頃の豊臣家(≠豊臣政権)の意思なんてあってないようなものだから。
そもそも意思を表明できる人物がいない。豊臣家を指揮する人物がいない。
秀頼は幼少だしこの頃の淀殿はそれほど発言力が強いわけじゃないし、
かといって家臣団も片桐且元を筆頭に小者ばっかり。
確かにそもそも秀吉死後の体制は、
前田利家が豊臣家の意思を代弁し、徳川家康が豊臣政権の政務を代行して、
互いに掣肘しあうというようなものだったから。
前田利家の死によって実質的に「豊臣家の意思」を表明できる者はいなくなってしまっている。
あえて言えば家康が豊臣の意志だな
豊臣というか淀らは反家康だったろうが
>>637 輝元もそこは馬鹿じゃないよ。
表面上は家康が不在になって秀頼を護る大老がいなくなったので、上坂して欲しいという
奉行の書状で入城する形にしている。
しかも迅速に大坂に入って親家康派や家康の留守居が変な動きが出来ない様にしている。
安芸に居る時から反家康を表明して挙兵したとしたら大坂には入れないよ。
ここまでは輝元と奉行の作戦勝ち。
>>642 最近は親家康が淀で親石田が政所説が有力なんだが。
ただそこで西軍と表明すれば、秀頼を人質にとったということになる
実質そうだったが
家康の増長を認めることが何の利益になるのか?
>>644 ねねが三成寄りなのは養女の件などで最近よく言われてるけど
淀が親家康ってのは具体的にどういうところがそうなの?
>>647 利益はないけど逆らえないから仕方がない。
>>648 養女の件って知らないんだが、どんな話し?
>>648 妹が徳川家に嫁いでるから親近感があるとかじゃね? 元々淀は政治的存在ではなかったんだから。
うーん・・・淀と妹の逸話って殆どないし
俺は何となくだが、あまり仲が良かったとは思えないんだよな。
豊臣・徳川だからどっちが↑だ!みたいに
どちらかが嫉妬してる状況にあったんじゃないか?とかね。
>>651 三成の娘を北の政所が養女にしてたってこと。
逆に淀殿が三成を贔屓にしていた証拠はなにも無い。
>>653 嫁と舅じゃないけどそういう風な話にした方が面白いからね、庶民受けする。
側室同士で杯を争ったとか、北の政所を蔑ろにしてるとか、まともな資料には存在しないわけ。
>>653 淀は江の娘を養育してるし、秀忠との子の出産を祝う手紙も送ってる。
江のほうも淀が創建した養源院を再建してるところから
少なくとも表面上は不仲ではなかったと思う。
淀が親家康ってのは北政所の親三成との対比としてかな?
>>654の言うとおりこの人俗説ばかりが有名で
関ヶ原時の家康との関係はどうだったのかよくわからん・・・。
淀殿「秀頼きゅん以外の事なんてぶっちゃけどうでもいいし」
信繁「うっわーちょーゴーマーン」
>>655 秀忠夫妻は何気に豊臣と仲良かったりする。
家康が先にアボーンしてれば徳川対豊臣は起きなかったかも。
秀忠が恐妻家ならば豊臣攻めはなかったかもな
そうなると家康死後に天下分け目
秀忠もそこまで情に流されはしないと思うけどね。
でも秀頼の命は助けたかもしれないかな。
秀忠は恐妻家というより秀吉夫婦に可愛がられてたからね。
実の親父より愛情を感じたんじゃないかな。
ではなぜ裏切らなかったのか
千姫に死ねといったのは講談かな
豊臣に嫁いだなら豊臣として死ねと言ったとか
駿府記や本光国師日記なんかには千姫の助命嘆願を認めそうになった家康に対して
秀忠は強硬に処刑を主張した、と書いてあるそうだが
秀忠が親豊臣って根拠あるの?
>>663 秀忠は保科正之誕生に狼狽える面がある一方で、情を捨てて冷徹な判断もできるタイプなんだよな。
その割りにねねのおねだりをキイテ家康に怒られたりもしてる。
666 :
岐阜中納言:2007/08/15(水) 23:50:45
酷暑あげ。
667 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 09:20:35
そういや金吾を見ないな。
熱中症で倒れたかな、(―人―)ナム−
金吾「チョメチョメ」
669 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 01:51:33
秀忠じゃ、大坂城は落ちなかったと思うよ。
秀忠のもとに大軍は集まったろうけど、諸大名の信頼がないから。
長期化して勝手に帰国する大名も出てきそう。
670 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 11:46:31
秀忠は政治手腕には長けていたけど、軍事的には実績がないからね。
家康をAクラスとすると秀忠はBクラス
>671
イースタンリーグ(2軍)ではない、という意味か?
上田攻めの失敗が元凶なんですかね。
それにしても何故、真田は紀州九度山、浅野家預かり程度ですんだんですかね? 島津は例外として、宇喜田は島流しだし、他大名に比べて、処分が軽いような気が… 信幸の戦功にしても、そんなに大ではない気がするんですけど…
>>674 信幸の戦功というか、信幸はそもそも小松姫を娶った徳川家康の婿(小松姫は
本多忠勝の娘だが、家康の養女として嫁いだ)なわけで。
婿殿の実父・昌幸と弟・信繁に反してまでの戦功と引き換えに助命を嘆願され
ては、受け入れざるを得なかったのでは?
676 :
675:2007/08/21(火) 04:10:01
あと、実は真田氏は譜代大名であったからってのも関係あるかも。
即ち、真田昌幸は豊臣政権時に徳川の与力であったため、その後家康を裏切る
事がなかった信幸の立場は、関が原以前から家康に従った(正確には従った
わけではないが)大名という事になり、譜代大名となったわけ。
実際、真田は帝鑑間に詰める家格だった。
関係ないけど真田太平記で本多忠勝が真田親子の助命嘆願をするシーンは良かった。
>>674 宇喜多が重いだけでしょう。
長宗我部なんか京で浪人していたそうだし、
真田への処分が特に軽いとは思えない。
679 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 19:55:34
宇喜多は軽すぎ。
打首獄門が妥当だった。
>>678 長宗我部など殆ど何もそれらしいことできんまま改易だったからな
>>679 まあ、関ヶ原直後に捕まってたら殺されたかもな。
ただ、秀家自身秀吉の猷子で五大老だったということに加え
戦後数年経って島津が匿って、前田も助命嘆願したはず
なんで、そこらへんの政治的配慮があったんだろう。
681 :
金吾秀秋:2007/08/23(木) 00:25:13
暑い毎日も、もうすぐ終わりだね(´・ω・`)
まだだ まだおわらんよ
683 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 04:27:54
家康使番「合い言葉は、山に山。賽に賽」
福島正則「山に山。賽に賽」
家康使番「合い言葉は、山に山。賽に賽」
黒田長政「山に山。賽に賽」
家康使番「合い言葉は、山に山・・・」
藤堂高虎「賽に賽」
家康使番「合い言葉は・・・」
京極高知「山に山」
家康使番「賽に賽」
684 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 09:11:23
>>675 あくまで石田、大谷、闇黒寺が起こしたことにしたかったんだろう。
685 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 11:09:03
▼関ヶ原の2週間後、近江の大津城にて、戦後処理を決める東軍諸将の寄合いがあった。
徳川家康「皆よく集まってくれた。まず細川忠興殿から連絡があり、丹後田辺城を囲んでいた
小野木公郷を打ち破り、父の細川幽斎殿を救出したそうじゃ」
諸将「おお、それはめでたい!!」
福島正則「あとは九州と上杉、そして上田だけでござるな」
家康「九州は如水殿と清正殿が、上杉は伊達殿と最上殿が鎮めてくれるだろう。問題は上田じゃ。
さて、誰か上田城を陥すものはおらぬか! 上田城を陥した者には信州40万石をやるぞ!」
▼顔を伏せる諸将。徳川正規軍3万8千が陥とせなかった上田城を陥すのが至難の技であることは、
皆わかっていた。諸将は既に大きな戦功を挙げ大幅加増は確実で、もう危ない橋を渡ることは
避けたいのが本音だった。その時、後方にいた真田信之が、静かに家康の前に進み出た。
家康(苦虫を潰したような顔で)「・・・・・真田信之か・・・」
信之「上様にお尋ねしたき議がござる。上田城を陥せば信州40万石を頂けるというお言葉に
間違いはございませぬか?」
家康「・・・・・・・・・確かに、そのように申した・・」
信之「では、私が上田城を陥してみせましょう。そしてお約束の信州40万石と私の沼田3万石、
併せて43万石を上様に返上しますので、父真田昌幸と弟信繁の命ばかりは何とぞお助け下さい!」
徳川秀忠「ならん!ならんぞ信之! 真田親子にどれだけ煮え湯を飲まされたと思っているのじゃ、
真田親子は八つ裂きにしてくれるわ!」
信之「(這いつくばりながら)上様、武士の情でござる! どうか父と弟の命だけはお助け下さい!」
▼本多忠勝がすっと立ち上がり、真田信之の横に座る。
忠勝「上様、私からも真田昌幸、信繁親子の助命をお願い申し上げます」
秀忠「忠勝、そなたまでも! ならん! ならん! 絶対に助命はならんぞ!」
家康「正純、どう思う?」
本多正純「天下は未だ平ではありません。大人しく開城できるなら、それにこしたことはないかと」
家康「・・・・・・・よし信之、上田はそなたにやろう。沼田もそのままじゃ。その代わり昌幸と
信繁親子は高野山で坊主、上田城は破棄じゃ。これで文句なかろう、大人しく開城させよ」
信之「有難きしあわせ。信之この御恩は生涯忘れませぬ!」
▼秀忠、悔し泣きに泣き崩れる。
朝鮮の役でコニタン恨んでたやつもいるから
そのガス抜きだろうな。
690 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 11:40:06
>>685 刑部は乗り気じゃなかった。それにしてもよく戦った。それと.この
人につけられた与力.戸田盛政 と平塚為広 は本当によく戦った。なんで
だろうね?
692 :
金吾秀秋:2007/08/28(火) 02:10:11
満月が美しい夜だね(´・ω・`)
693 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 00:33:13
秀吉の妻のねねが家康に三成を討てと手紙を書いたらしいよ
694 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 01:13:11
脳内妄想小説でつか。
慶長の役は、小西の二枚舌が原因だからな。
明側の講和に関わった奴は、死罪になった。
秀吉はなんで小西斬らなかったんだろうな
小西斬ったら石田も斬らないといけないからか?
>>696 それもあるだろうけど、自分の無理な命令を遂行できないことを知ったからじゃない。
698 :
金吾秀秋:2007/09/04(火) 01:58:04
木の葉が少し黄色くなってきたね。
秋だね(´・ω・`)
>>696 秀吉も少しは素に戻った部分があったんじゃないか?
後は小西くらいの大名になると、処分も難しいだろうなぁ。
>>699 小西クラスは何も問題ないと思うよ。
その気になれば50万石だろうが関係なく減封除封してるからね。
ただ、小西の行動が私欲からの嘘じゃないし、三成なんかも関わっているだろうしそういうことじゃないかな。
701 :
金吾秀秋:2007/09/06(木) 22:28:38
小西は何も問題ないんだぜ(´・ω・`)
コニタン・・・
703 :
岐阜中納言:2007/09/09(日) 23:44:16
あげ。
そうだな小西は悪くないな
半島なんか占領してもしょうがないし、明と泥沼の戦争してたら日本滅んでたよ
山室恭子女史の「黄金太閤」では小西の外交は秀吉を欺くための狂言じゃなく、
むしろ秀吉本人が民衆や配下の武将に見せる対明強硬姿勢と、
外交ルートを駆使して妥当なところで手打ちしたいという融和的な姿勢を使い分けてたって推論してたな
いうなれば秀吉公認の二枚舌外交だったわけで、それなら処分が罪に比べて異様に軽かったのも納得できる
706 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 20:24:10
今日の中スポはコニタン特集です。
707 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 22:55:43
書き込みよろしく
思い込みでも勉強に成りますから。
708 :
岐阜中納言:2007/09/25(火) 12:56:28
連休あげ
709 :
岐阜中納言:2007/10/01(月) 23:04:52
秋の長雨あげ
710 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 21:51:48
豊臣から徳川に寝返る時って使者かなんか出すのかな?
「今日からは徳川軍なんで、ひとつよろしく」とか
金吾の場合はそうだな。
712 :
金吾秀秋:2007/10/03(水) 05:55:48
衣替えした(´・ω・`)?
713 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 09:15:32
した。
714 :
;:2007/10/03(水) 13:44:45
よく金吾の押さえに脇坂 小川 朽木 小川 なんかを置いたな。どうせなら
脇坂 小川 を刑部のもとにおいて 平塚 戸田 を金吾の押さえにおいて
おいたほうがよかったのに....
715 :
;:2007/10/03(水) 13:45:31
よく金吾の押さえに脇坂 小川 朽木 小川 なんかを置いたな。どうせなら
脇坂 小川 を刑部のもとにおいて 平塚 戸田 を金吾の押さえにおいて
おいたほうがよかったのに....
金吾の押さえ
717 :
岐阜中納言:2007/10/13(土) 23:58:24
あげあげ。
718 :
金吾秀秋:2007/10/15(月) 03:50:02
野山の紅葉が美しい季節になってきたね(´・ω・`)
その時歴史が動いた。
銀を制する者は天下を制す
〜毛利一族の戦い〜
面白そうだね。
720 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 12:14:31
関ヶ原前後における徳川の支配力ってどうなんでしょう?
戦前に前田を押さえ込み、戦後に毛利・上杉を大幅に減封させた点かなりの実力と思えるけど
実際は徳川以外の軍勢で勝利を収め、豊臣も温存。
なんで各大名はそこまで卑屈になったんでしょうか?所詮北条氏に代わる程度の勢力だったのに
300年の幕藩体制を築けたポイントは何でしょう?将軍職に就いたから?
それとも朝鮮出兵で徳川以外が疲弊してたから?
やはり関ヶ原の勝利が大きいでしょう
関ヶ原前は一応数の上では敵の方が多いですが
戦後は徳川以外の軍勢で勝利を収めたにもかかわらず
いわゆる譜代や、一門に所領を大盤振る舞い
秀吉生前は所詮北条氏に代わる程度だったかもしれませんが
戦後は圧倒的な力が有ります
やはり豊臣がうまく割れたのが大きいかと
徳川対全豊臣になった場合、大方は豊臣につくだろうから
徳川は圧倒的不利に
723 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:51:12
>>720 そんなに卑屈になってはいませんよ。
関が原では豊臣恩顧大名しか活躍しなかったので、豊臣恩顧大名の所領は大幅増加、
500万石を越えてしまいました。
また、家康が将軍になってからも、諸大名の多くは江戸と大坂に参勤して、
豊臣家の勢威は衰えてはいませんでした。
家康は、豊臣恩顧大名と秀頼が結びついて挙兵することを恐れて、名古屋城や駿府城の大普請をしたほどです。
徳川が完全に独裁的支配権を得るのは、豊臣家を滅亡させた後です。
関が原後も知行宛がい権は秀頼にあり、論功行賞で得た知行は家康が秀頼に取り次いだものでしたが、
家康が将軍に就任して知行宛がい権が将軍の手に移ったのが大きいでしょう。
724 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 22:10:03
そもそも関が原の戦死者なんて数百人だろ。
負けたからって何で西軍の大名は徳川のいうこときくの。
石田光成が捕らえられたからって何が負けなの?
725 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 23:04:10
西軍は元から統率力が低い烏合の衆だった。
まして旗頭にするべき豊臣自体が親徳川の風潮が強い。
あれだけのた大敗北でまとまりは完全に失ったといってよかろう。
かえって東軍は家康を将に統率が取れ、大勝利の余韻を受けてる。
日和見の連中も勝ち馬に乗るべく東軍に加担するだろうし
この東軍に逆らうという行為が事実上天下の軍を相手にするような
戦に等しいわけで
西軍としても逆らわずに生き残りを図るのが賢いといえるのでは?
>>719 秀吉没後に豊臣への銀の献上量を3倍に増やしているとは、
やはり毛利の動きは興味津々だな。
>>724 毛利が戦うといえば、さらに戦いは続いた可能性も
毛利がいないとなるともう核となる部隊がいない
毛利は本領安堵と騙された
>>727 戦えねーよ。
可能性なんて言葉のロジック使うなよな。
730 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 21:57:02
それは総てあなたの思い込みです。
731 :
金吾秀秋:2007/10/27(土) 18:37:12
秋も深まってきたね(´・ω・`)
732 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 23:09:52
毛利が戦う気があれば大変なことになっただろう。
が、はじめからやる気が感じられない。
仕方なく西軍についたという感じ。
島津は、国境を固め、家康が攻めてくれば断固として戦う姿勢を見せた。
そのため、領土は安堵された。
毛利がいかに間抜けかがわかる。
733 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 00:45:14
>>724 数百人って何を根拠に言ってるの?
普通に考えれば、島津だけでも千人以上死んでるんだが
>>732 毛利にやる気がないって・・・
安濃津では吉川以下、大奮戦しましたが無視ですか。
>>733 島津の死者が千人以上というのは新説?
>>734 >>732は文脈からして主戦場たる関ヶ原とそれ以後の毛利家の行動を言って
いますね。
前哨戦での大奮戦は領土大削減の理由になっただけでは?
736 :
金吾秀秋:2007/10/28(日) 10:01:15
漏れ様も大奮戦したんだぜ(´・ω・`)
オマイら笠谷和比古の新刊『関ヶ原合戦と大坂の陣』でも読んで勉強しろよな。
あらかた旧説はくつがえされてるぞ。723だって笠谷説の受け売りだろうが。
「国家アンコウ」も案の定ひっくり返されたな
738 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 22:16:36
上野の博物館でやってる大徳川展、今日みてきたが良いね。
東京に住んでいる人は絶対行くべき。
関ヶ原や大阪の陣で家康が使った馬印や甲冑の
実物を目の前にすると、やはり感慨ぶかいものがある。
(ついでに、光圀所蔵の葵の紋つきの印籠なんてのもあるww)
あと美術に興味のある人は、
唐物の茶入の「新田」と「初花」(だったと思う銘間違えてたらすまん)
これだけでも充分行く価値はある。
背後に伊達がいるのに上杉と石田で家康挟み撃ちにできんのかってずっと疑問だった
741 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 19:48:19
小早川に対する「問い鉄砲」って本当にあったの?
743 :
日本@名無史さん :2007/11/03(土) 14:14:18
>>740 佐竹が本気になればできないことなかったかも? 三成は佐竹にも期
待してたはず。しかしながら.親父が親家康で.内部が一致せず.たいした
動きはなかった。
744 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:23:04
質問です。
どうして宇喜田秀家は斬首を免れたのでしょうか
746 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 22:50:18
他のふたつは?
748 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 09:31:15
749 :
金吾秀秋:2007/11/08(木) 00:44:12
実は、漏れ様も助命に動いたんだぜ(´・ω・`)
750 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 17:22:06
秀家くんとは兄弟だからね、
秀家くんは最後まで秀秋くんを信じてたよ。
751 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 07:03:22
秀家はなんで秀秋にしたがって大谷を攻めなかったの?
秀家くんは、個人的に家康君が大嫌い。
喧嘩に負けた後、家康君から「謝るなら許してやるやっても良いよ」と
言われたけど、謝らずに離れ小島での貧乏暮らしを選んだくらい嫌い
だった。
753 :
金吾秀秋:2007/11/11(日) 03:04:37
家康すきだぜ(´・ω・`)
秀秋くんは家康が何で好きなのかな。
秀家くんは「負け」が嫌いなだけなの
756 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 09:14:02
秀家くんは豊臣が好きなの。
秀秋くんは「負け」が嫌いなだけなの。
757 :
岐阜中納言:2007/11/27(火) 16:16:13
紅葉あげ。
758 :
岐阜中納言:2007/12/11(火) 09:23:52
インフルエンザあげ。
759 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 01:07:03
760 :
岐阜中納言:2007/12/27(木) 17:28:06
師走あげ
761 :
岐阜中納言:2008/01/07(月) 09:21:55
おめあげ
戦後の論功賞で、家康は西軍大名の没収地だけでなく豊臣家の直轄地もだいぶ分け与えているけど、豊臣家からは抗議とか無かったのかね
200万石が65万石に削られている時点で西軍扱いじゃない?
同感
関ヶ原の時点で豊臣はほとんど徳川の傀儡で特に徳川大勝でなすがままに
もっと研究されていいテーマだと思う
最初からそれが狙いじゃないの、上杉討伐だけでも豊臣家から恩賞をださせるでしょう。
いやいや、だから、西軍諸将の領地を没収して勲功があった武将に分け与えるのはわかる。
しかし、建前だけでも主家である豊臣家の所領を勝手に分け与えるっていうのはどうかと言うことなんだ。
淀君あたりからクレームこなかったのかね?
淀君の呼び名はイクナイ、そのころはそんなに発言力ないよ。
>>767 うん、淀君は幕府におもねって前右大臣の生母を遊女と同レベルに引き下げた呼び方だから良くない。
淀ならいいの?
いまいち誰かわからなくなるな
770 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 06:34:54
淀殿もしくは淀の方
淀だけだと地名や川の名前と混同されるんだそうだ。うぃき情報だけど。
>>766 家康は豊臣政権の大老。上杉毛利宇喜多前田は家康の謀略で謀反人扱い、秀頼の代理として政をするのは家康しかいないから何でもできる。
それに加藤や福島ら秀吉によって大名となった武将の所領が増えてるしね。豊臣にしてみれば蔵入地が減っても彼等武将は豊臣のもの、という気楽な感覚だったんじゃないの。
大老も家康一人で実務担当の奉行が全滅、
淀や秀頼はお飾り、豊臣内部も片桐の様な親家康派が横行、
豊臣子飼い大名も自分の領地が増えればOK、
歯止めが利く訳が無いよ。
前田利長は大老であっても、家康と正信の謀略で豊臣から謀反扱いされたから、もはや豊臣政権で何も出来ん。
上杉景勝・・・謀反ありとみなし征伐対象
毛利輝元・・・西軍総大将で、家康と敵対=秀頼に楯突いたことと同じ扱い
宇喜多秀家・・・西軍についた=家康に歯向かう謀反人
そもそも母親を人質に送った時点で、前田は徳川の犬だわな。
本多家から前田家に監視役ともいえる家老が入り込んだわけだし。
前田も関が原に西軍参加して勝てば、戦後処理で人質は何とでもなるのに馬鹿だな。
領地を広げるチャンスだったのに・・・。
つか宇喜田は前田誘わなかったの?
それとも誘ったけど断られたの?
778 :
日本@名無史さん:2008/01/25(金) 23:38:39
柴田勝家との合戦で秀吉がやったように、土木工事で街道を封鎖して東軍が前進できないようにすればよかったのでは?
そしてひたすら攻め疲れさせる。
木曽長良川は足止めにもならんかったのう
毛利は何がしたかったのだろう?
781 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 15:45:39
>>780 輝元の狙いは家康の覇権を阻止して、
西国の仕置きは毛利であることを認めさせることじゃない、
だから家康と雌雄を決する必要はなかった訳。
だけど家中は不統一、784の言うように安国寺あたりは家康を打倒しなければ
毛利の安泰は無いと考えていただろうしね。
>>786 大坂へ上坂する際の輝元の御前会議では意見は割れていたが輝元が即決。
吉川の裏工作は輝元が和睦のパイプの為に指示していた可能性あり。
関ヶ原での不戦は吉川の独断だったようで後に一族から糾弾される。
つまり吉川があふぉだったってことでOK?
>>787 >大坂へ上坂する際の輝元の御前会議では意見は割れていたが輝元が即決。
>関ヶ原での不戦は吉川の独断だったようで後に一族から糾弾される。
ソースplz
京大阪に出張りやすい場所で120万石、
僕たちのことは気にせずほっといてね、は通用せんわな
791 :
sage:2008/01/30(水) 01:28:32
>>789 あちらの板で詳しい議論と資料が出てたから過去スレ読むといいわな。
>>790 秀吉が東国の仕置きは家康、西国の仕置きは毛利に任せるって言ってたんじゃない、
それが家康の独裁に進む恐れが出てきたんで、毛利も動いたんでしょ。
NHKその時では銀山の権益の事を言ってたけど、毛利としては天下を望んだんじゃなくて、
元就の残した遺産を守るための行動だったんでしょ、そこが消極的な動きにしか出れなかった
最大の理由じゃないかな。
>>791 あちらがどちらかは知らないけれど戦国板の関ヶ原スレには
>>789で質問したソースはなかったよ。
つ、過去スレ
佐々部一斎留書
今度NHKか
盛り上がるな
795 :
岐阜中納言:2008/02/25(月) 09:12:46
春一番age
796 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:39:29
>>794 その時・・・福島も加藤も平凡なでき棚。
797 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:58:01
何故、石田は徳川が上杉と戦って消耗するまで待てなかったのか
頭が悪すぎる。
>>797 上杉があっさりつぶれたらどーするんだよ
800 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:01:22
>>797 秀家の挙兵も三成より早いのだが。
最大勢力の秀家が勝手に戦ってつぶれるのを指くわえてみてるか、
それとも秀家が東軍に行くのをただ見送るのか、という話になるわな。
801 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:38:26
>797は結果論から言えば正しいかもしれないが、
実践ではより多くの味方を引き入れることが常識。
徳川と戦うなら上杉の大軍を味方につけたほうがいいに決まってる。
802 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 21:02:39
豊臣秀頼vs徳川家康
>>797 高台院と親しい連中が、軒並み東軍に回ると想像出来なかったんだろ。
嫌われ者の自覚もなかったw
前田・黒田・池田・加藤・福島、この五家だけが西軍に回るだけでも、大幅な
兵力差が生じる。
それを見て、西軍に回るものも出てくる。
実際には、そうならなかった。
それが、三成の誤算。
805 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 23:32:44
皆、豊臣の手下が徳川に寝返り
806 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 10:03:32
みんな家康より三成の方が嫌いだったんだよw
807 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:42:02
>>797 企てがいつバレるか心配だったんだろう。増田あたりなんぞ家康に三成の動き怪しいよと
内報してたくらいだから上方情勢は茶屋なりを経由して家康にリアルタイムに入っていたと思われ。
また何か理由付けして討伐に行かずとも急に理由をつけて三成成敗のために取って返してくる可能
性もあった。待ってたら三成のほうがジリ貧になってたと思われる。
808 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 21:43:42
>>803 では秀家の早々挙兵の理由がわからないぞ?
家康につくために兵を挙げたのを三成が引き止めて西軍にすると考えるか、
秀家がいち早く打倒家康の兵を挙げたのか。
いずれにしても三成が何もしなかったら、
秀家は単独で戦うか東軍につくか、どっちにしてもいい結果にはならない。
>>804 まだそんな愚説信じてるのかよ。
宇喜多秀家は北政所の養子。
三成の三女は北政所の養女。
北政所の側近孝蔵主の親族は全て上杉勢。
北政所の生家木下一族はほとんどが西軍。
浅野はもともと反徳川。
加藤・福島と北政所は関ヶ原の戦い前後仲が良くなかった。
>>808 北政所に関しては大河、小説を鵜呑みにするボケが多くてイクナイ。
810 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 03:12:28
>>807 増田長盛らの行動は、やはり二段階に分けて考えるのが
自然だと思う。最初は、大谷刑部と石田三成らのみでの謀議の段階。
増田長盛がこの2人が謀議してますぜ、と家康に注進しているのと同日に、
豊臣三奉行(石田と浅野以外)は毛利輝元にも、事態の収拾を頼むと
上洛要請をしている。つまり、どっちかに肩入れするというよりは、事態の沈静化を
図るべく行動している。
あと、小山評定の段階では家康は件の「内府ちがひの条々」の内容を知らなかったのではないかと
笠谷和比古は指摘している。
>>808 福島正則と高台院とは殆ど会った記録が無いというしね。
>>810 奉行と輝元の動きをどう見るかだよね、
西軍決起までに気取られナイためにも思えるし、
何にしろ推測だけどね。
小山評定の段階>これも議論の分かれるところ、
知っていて隠したという説もあるし。
812 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 12:38:00
>>810 家康と三成の仲裁に毛利中納言を担ごうと増田や奉行は考えてたと?仲裁するには
毛利だけでは力不足で朝廷工作もいると思うがそちらの方面への工作はしてなかったのだろうか?
813 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 20:35:46
>>804 では三成じゃない誰かが西軍を組織すればよかったんだな?
君は誰が適任か挙げてくれたまえ。
そして三成がそこまで嫌われたのに西軍に人が集まった理由を説明してくれ。
豊臣の威光は却下だぞ。徳川だって秀頼の代理人で軍を動かしているんだから。
815 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 21:15:36
やはり秀次事件が関が原にも響いてるよな。。。あの事件で豊臣家の譜代が壊滅してしまった。
秀吉としては、秀頼を潰されると思ったんだろ
実例は枚挙に暇がない
ifになっちゃうけど見てみたかったね
イケイケドンドンで良くも悪くも基本的に明るいバカな日本
織豊期までの日本について書かれてる書と江戸後期あたりの風習などを
記した書だとまるで別人種のような気がするよ
ある本だと
侍商人バブルが農民の疲弊をもたらし
結果倹約派の大名が天下を取ったということだw
まあ元禄なんかも相当のバブルぽいし
江戸時代は諸外国と比較して自律的に繁栄したようだ
>>815 似たような事件は徳川にもあるよ。
信康事件、
長安事件、
その後家康は長生きしたから影響が出なかっただけでしょ。
身内の争いや家臣団の粛清なんて珍しくないんじゃないの。
それに秀次事件のせいで豊臣家臣団が割れたわけでもないいんじゃない。
秀次をターイホして腹を切らせたのは正則
逆に三成は秀次の家臣を召抱えたりしている、
一説では秀次と秀吉の仲を取り持とうとしたともいうから
関ヶ原の東西分けには関係しない気がする。
他方で秀頼が生まれないで円滑に秀次が豊臣家を次いでいたほうが
家康につけこまれる隙は少なかった気がするな。
>秀次をターイホして腹を切らせたのは正則
これは違うんでは?ただの検死役じゃ無いの?
それ言ったら秀次やその重臣を取り調べたのは三成たちだし
>>819 信康事件は信康だけ、長安事件は家臣だけ
秀次事件は一気に双方をやってしまった分、影響がでかく
豊臣家の血縁・家臣層が薄いのがそれに拍車をかけた
こうしてみると徳川家の家臣層の厚さは凄いわ
信康の時には秀康秀忠が生まれてるし長安の場合は後継者争いってほどでもないし
>>817 まあそんなやり方はすぐに破綻する
江戸みたいな超長期政権はどっちにしろ無理だから
現代の日本人に影響を色濃く残すような時代にはなりえないだろう
外征に次ぐ外征で勝ち続けないともたないだろうが
一発目であれだからな
>>822 信康事件は信康だけ>岡崎派と駿府派の対立との話もあるからね。
長安事件は家臣だけ>これも家康と秀忠の勢力争いの一面も無視出来ないんじゃない。
>>823 信康の時には秀康秀忠が生まれてる>秀次の時には秀頼生まれてるし
長安の場合は後継者争いってほどでもないし>これは家臣団の勢力争いの
一面があるでしょ、本田対大久保だから家康がいなければ豊臣の二の舞じゃない、
>>826 >岡崎派と駿府派の対立との話もあるからね。
それについては大疑問だが、あったとしても家臣は死んでないぞ(精々、小姓連)
>これも家康と秀忠の勢力争いの一面も無視出来ないんじゃない。
これも同じく、家康は秀忠を殺していない
秀次事件で重要なのはこの跡継ぎとその家臣の双方を殺害・処分した点にある
元々、人材的地盤の弱い豊臣政権においてこれは大ダメージ
家康は秀忠を殺していない>秀忠への警告だろうな、秀忠は秀次より賢かったんだろうけど
秀忠周辺では長安事件の遺恨は根深かったんじゃないかな家康が死ぬときっちり仕返ししてる
秀次は逆に自分への支持固めに奔走して輝元や吉政に秀吉にちくられて立場をさらに悪くしてる、
忠輝はどうなったんだっけ?
秀頼の場合、秀次と年齢差があったために
本気で潰しにかかった場合、関白・秀次に潰されかねない
家臣までというのはやり杉
女もね
忠輝は改易流罪、家族も処刑はされていない
秀次が関白のままだったら結局秀頼と対立して戦争じゃないの
秀頼は成人したら関白を譲れと言うだろうし
秀次は故太閤から後継指名されたのは自分だと主張するだろうしね
それで秀次が秀頼を殺せば
後世の人は何で秀吉は秀次を生かしておいたのかっていうだろ
結果を知ってるから言えるだけの話だよ
ただ秀頼が幼かったために家康につけいられる隙が出来たってことだろう
そういう意味では秀頼が生まれた時点で豊臣は終わってたのかもね。
秀頼が成人するまでの時間をどれだけ有効に使えるかだな
秀次が?
関ヶ原の時点で、秀頼は自身の意見を表明できなかった
当主としてみなされていなかった
835 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 12:58:39
意見表明はできないけど上杉征伐は秀頼の命令の形じゃないの
836 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 13:06:43
?
豊臣の命令という形式だが
秀頼の命令ではなかった
838 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:04:39
仕切っていたのが家康だから、家康の意思=秀頼の意思と言う形式になってしまう。
福島正則なんかが東軍についたのは三成嫌いもあるけど、
豊臣家の意思に従ったということにもなるんだよね。
司馬小説に毒された連中が「三成憎しで東軍荷担」みたいなこといってるけど、
もしそうだとしたら正則や清正は感情優先で恩義を捨てた超馬鹿者ってことになる。
839 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 11:57:42
>>838 池田輝政 細川忠興 黒田長政 藤堂高虎 とかは旗色のよいほうに
味方したんだろうが.加藤清正や福島正則が家康に味方したのは解せない。
裏切りだ
加藤や福島が家康に味方した事はおかしくない
例え秀頼が戦場に出てきたとしても、動かないだけで積極的に西軍荷担はしなかったと思う
現代の感覚は江戸時代に作られたモノだから、同じに考えない方がいい
加藤清正、黒田長政、蜂須賀家政・・・このあたりは朝鮮出兵以来石田三成らと対立してきた層。
とくに後者二人は、三成襲撃の主導的な立場にいた人。
関が原合戦は端的に言えば、秀頼を奉じて政権を執るものは誰かという争いだから、裏切りとか云々と
いうほど簡単なものではない。もっとも、藤堂高虎あたりは家康に覇権が移るだろう予測してたろうが。
ただ、朝鮮出兵のときには、補給役で前線に出てないような福島正則が(三成ですら負傷している)
あそこまで派手に反三成で行動したかは少々解せないが
843 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 01:18:50
加藤は恩賞次第で西軍に付いても良いって言ってなかったっけ
それに東西の決着が付くまで九州でも余り動いていない
黒田や藤堂は確信犯だと思うけど福島が何の遺恨があるのか不明。
>>843 たしかに清正は大勢が決するまであまり積極的に動いていないよね。
輝元からも誘いがあったようだし。このあたり、意外と食えない人だという
印象を受ける。
蜂須賀については、家政は大坂にいたから西軍といわれるようだが、実際は
大坂に逼塞させられた状態で、家臣団も豊臣氏の馬廻に編入のうえ、阿波は
毛利の管轄している状態になってしまったらしい。
>>844 清正、如水、義久は、大乱になる可能性を見越していたのかもな
讒言?kwsk
家康は関ヶ原戦後すぐ、天下人としての文書発給を行っている。
それまでの五大老としての文書でなく、秀吉と同じ文書形式である。
これにより家康は自分が天下人で、秀吉の後継者であることを諸大名に知らしめたのである。
849 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:29:33
>>848 福島が家康につくことが豊臣家のためだと信じたわけだ。
のちの歴史を知っていれば西軍につくところだろうが、
でも三成が天下人になっていたところで、
本当に秀頼を大事にしていたかなんて誰にもわからねえしよ。
>>849 三成が勝ったところで彼=天下人になるということは無いだろ。仮に関ヶ原で東軍を壊滅させることが
できたとしても、もちろん三成や奉行衆、秀家あたりの政権に占める比重は増すだろうけど、それ以上に
毛利の動向に注意しなければならなくなると思う。
三成は秀秋に秀頼が成人するまで関白にするっていって引き込もうとしたんだろ?
三成は馬鹿だからほんとに関白にしてぐだぐだな政権になりそう
秀秋が関白になったところで、実質は三成か毛利が仕切ることになる
勝ってしまえば後はどうにでもできる、家康かて約束をまんま履行してない
854 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 18:38:11
金吾よりも毛利が厄介になりそう。
あと、戦国板で話題になってたが、秀元と立花が抗戦を主張した話の出展て何だろう?
855 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:44:27
あげ
856 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 18:35:36
てか立花・他が関が原に間に合ってたらもっとおもしろくなってたな。あとは三成
が頭下げて島津に指揮を頼むとか。
857 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 18:50:29
家康の鎖国政策で、日本は世界から遅れた。
信長が生きていれば・・・
鎖国なんてしてねーし
861 :
健吾教kウ祖 ◆nxCnFY2L2. :2008/03/31(月) 22:22:31
小早川マリンはどうした!
862 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 20:33:25
>>858 北朝鮮かミャンマーのような国になっていただろうよ
863 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:12:02
864 :
岐阜中納言:2008/04/18(金) 09:21:55
大雨あげ
865 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 22:16:17
誰だっけ?西軍で
東軍に突っ込んで逃げた武将
866 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:28:10
確か島津
867 :
金吾秀秋:2008/04/29(火) 12:54:57
>> 854
まったく、やっかいな毛利には、こまったもんだぜ(´・ω・`)
868 :
金吾秀秋:2008/04/29(火) 13:03:40
金吾生きてたのね。
870 :
金吾秀秋:2008/05/04(日) 07:32:05
今年ももう5月になったね(´・ω・`)
三成が家康になびいたらまた面白かったのにな。
(´・ω・`)毛利秀元遅いよ怒るのがさそれを南宮山でやれ!
872 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 20:25:31
ところで、関ケ原以前、宇喜多・小早川は相互に何かやりとりとかはしてないの?味方になれとか。
子供の頃から秀吉の元で育ったのは金吾と五もじ(豪姫・宇喜多秀家室)だけで、姉弟同然だよね。金吾はまだ小さかったから、2人が別々に暮らしていたわけではないし。
秀吉が、土産を北政所と金吾と五もじに買った、なんて秀吉の手紙は読んだことがあるのだが、金吾・五もじが仲良かったとか、あるいは悪かった、といったものは当時の文書も、現代の研究でも見たことがない気がするのだが。
結構重要事項な気がするような。
873 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:54:28
でも立花が間に合っていたら、中山道の秀忠軍も間に合ってたんじゃないかな?
>>872 金吾が裏切った時に秀家は逆上したらしいから、それだけ信頼してたんじゃないの
信頼してるだけで何の工作もしないのが秀家らしいかも
>>873 秀忠は無理、ムリだし、本隊はもっとムリ、
別に秀忠のせいじゃないし、もともとムリ。
なんか皆「金吾はぁゃιぃ」と思ってるのに
秀家だけ「んなわけねーよwwww」と言ってて
周りは呆れてたみたいな逸話もあるよな。実話かは知らんが。
というより秀忠隊は本隊じゃない
秀忠隊の本隊だよ、史実では本人は殆ど身ひとつで到着
もう少し生きていればと思う武将
1秀長
2前田利家
3小早川隆景
秀長や利家はよく言われるけど
隆景が生きてたら毛利はどう動いていたんだろ
個人的には武田信玄や上杉謙信が生きていれば〜なんていうのよりは
大勢に影響が出ると思う
隆景は毛利の勢力維持が基本なんじゃないかな。
とすれば秀吉亡き後の有力大名寄り合いの存続を望む気がするから、
史実の輝元と同じで家康の勢力伸長は望まないでしょ。
むしろ隆景なら家康が勝つ可能性が高いと思って
家康につく可能性もあるんじゃないだろうか?
勿論輝元を説得して
どっちにつくかは毛利家中の政治だから、広家との多数派競争の結果による。
隆景自身の判断も、三成・増田との親疎や家康との同格意識によって影響されると思うので、
単純にどっちに付くかは想像できんわな。
家康との同格意識>隆景存命の頃は西の毛利、東の徳川で同格意識強い、
隆景が死んだときに輝元が毛利の扱いが軽くなると嘆いた話もある。
隆景存命なら家康との力の差は小早川家の分も含めて殆ど無いのでは。
広家との多数派競争>広家と隆景では比較にならないのだが。
>隆景が死んだときに輝元が毛利の扱いが軽くなると嘆いた話もある。
はいソースソース。
885 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 15:16:57
ソース厨
キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!
歴史系の板でソース厨なんて言い方はじめてみた
887 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 17:14:16
ソース厨はじめて
キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!
>>886 関ヶ原は厨率高く小説や漫画を史実と思い込んで語る馬鹿が多いから、こういうのには触れるな危険。
889 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:39:01
触れるな危険厨
キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!
はいソースソース>荒れるもとな表現いくない。
ソースを知りたいならそういう聞き方しないとね、全員がソースを提示しないと
発言出来ないのもどうかと思うし、マッタリ位が良いよね。
いや聞き方としてはマトモだったと思う
ソースがないならロジックや考察でもいいからあるのか?
偽造捏造当たり前、小説講談を事実みたいに言う輩、こういう人間は出典聞かれるのを極端に嫌う。
いいすぎだろう、だれでもうろ覚えはあるよ
うろ覚えでは発言するなとでも言うなら
書き込みするときには全て出典を書かなきゃならんよ
学会じゃあるまいし
うろ覚えでレスするなと誰も書いてないよな。
ソースや論拠聞かれて答えられないのを、まったり発言出来ないにすり替えするのが悪いのだろう。
それは論拠がないのを誤魔化してるようにしか見えないから。
みんな落ち着けよ。
お前さんの言うことは間違っちゃいないけど、口の利き方に注意ということ。
正論を言っても、とげとげしいのは荒れるもとだからな。
勿論出典を挙げられるように心がけるというのは基本だけどな
>>895 良いことを言うね、
はいソースソース。>なんて書きかたはそんな話知らないけどってことだろうから
自分はそういう話を知らないからソースが解れば教えてくれって書けばいい、
歴史板を自負するならその位の物言いはするべきだと思うよ。
別の板でも資料に詳しい人がいてためになったりするんだけど、その人は言い方が
キツイのでケンカまがいになって肝心の話が解らなくなったりもする。
煽りにきてるんじゃないなら、お互いに気持ちよく書きコしようよ。
むうまともな言説だ!!!
珍しいぞ
898 :
金吾秀秋:2008/05/13(火) 00:50:13
漏れ様も、気持ちよく書くからね(´・ω・`)
いや、ソースがないことわかりきってんじゃん。
だから「出せるもんならソース出してみろよ(プ」って意味に決まってるだろ。
実際出せてないしw
900 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 13:16:12
プ野郎煽るなバーカ
901 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:54:33
↑
くやしいのうwくやしいのうw
902 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 10:22:15
毛利輝元が関が原に出陣していれば西軍が有利だったと思う?
秀元が動いていれば西軍がかっていた。広家が家康を信じたのが悪い。家康の思う壺だ。
904 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 22:09:46
>>903 秀元と広家の部隊配置が反対だったら良かったの?
905 :
金吾秀秋:2008/05/15(木) 03:05:58
漏れ様は動いたんだぜ(´・ω・`)
906 :
岐阜中納言:2008/05/15(木) 09:15:53
五月晴れあげ
ここは新潟人が伊達をこき下ろすスレですね、わかります
908 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 07:22:54
伊達はなんで劣等なの?
909 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 07:32:49
上杉は伊達に完敗してるから無理もない。白石で700人、
福島で300人、1000人近い武将が討ち取られているわけで。
ある意味、最上戦より痛手を負っている。
後年、悔しがった地元作家が脚色し捏造してるがw
1000人近い武将>武将が1000人も(゚д゚;)マジスカー
911 :
金吾秀秋:2008/05/19(月) 23:33:19
漏れ様が3人(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)
912 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 11:41:21
金吾が1000人(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!
913 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 17:20:13
↓
くやしいのうwくやしいのうw
とことん糞スレだね
o(^-^)o
915 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 10:05:37
↑
くやしいのうwくやしいのうw
916 :
岐阜中納言:2008/06/01(日) 18:53:27
六月あげ
917 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:25:37
関ヶ原合戦のあと京都から西には徳川系大名がひとりも配置されていないってことだけれど、これはどうよ?
西は豊臣のものってことなのか・・・
源頼朝と同じく、先ずは足元を固めてからということでしょう
つまり、大坂の役は承久の乱に対応するということ
対東国の最前線が大坂の豊臣ってこと?
当初は豊臣政権との並存も考慮していたのかもな
あまりやりすぎると豊臣系が怒る
充分やりすぎだとは思うが<豊臣本領の削減
>>921 対抗勢力の核という点では正しくそのまんま
空気読まずに開戦したのも
秀頼の直轄家臣は大坂衆と呼ばれているが、その知行地は摂河泉だけでなく西国一円に広範囲に分布していたということらしい。
ちょうど幕府の旗本領地の分布形態と似ていたということだ。
925 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 16:23:28
>>924 伊勢などにも豊臣氏の家臣の給地があったというしね。
関ヶ原から大坂の陣前までの豊臣氏は、単純に立場逆転というには
難しいんだよな
笠谷説に対する反論ってあるのかな?
笠谷説に反対する人間は多いけど、
中味のある反論というか、根拠をもった反論というのはあまり見られないね
ということは、関ヶ原後の徳川・豊臣による東西分割統治という認識が
定着していくのかもしれないね。
上杉や前田も徳川が統治したのか?
ありえん
>>926 秀忠本隊説は備の構成と解釈を勘違いしまくってる
本陣備(第一家康隊、あれは複数の一手とすべき)が防御にしか役に立たない
というのは長久手の戦功を全面否定することに等しい
>>928 でもそれなら家康が命令した天下普請に西国大名も参加してんのや
名古屋城普請に豊臣家も参加するよう誘ったっていわれるあたりはどうなんの?
分割統治じゃなくね?
豊臣家は統治行為って何してたの?
上薄着は途中まで豊臣を立てているから投獄は徳川統治ではない
家康隊も秀忠隊もそんなに変わらんよ
そもそも家単位が基本で、統率武将によって構成を変えるのは無理
元々、秀次事件後の誓詞で家康は坂東の公事を委任されている
そういう意味で家康の招聘を拒否した上杉は遺命違反となる
遺命違反は婚姻違反で家康もたくさん
>>935 その点については一応、家康は頭下げてるのでそれで終了している
終了というか横暴を誰も止めることができなかった
まあその時点で終わっているわけだがね
違反しても謝れば何でもできる
勝手に呼び出して来なければ成敗
謀反の疑いをかけて成敗
>>937 まぁ、それは視点の違いかと
一応、これ以降の家康の行動は他者の行為への対応という形を取ってる
そういう意味では取り合えず筆頭大老の自身の権勢がどの程度かを確認
する試金石の様なものだったのでしょう>婚姻
>>930 笠谷氏は秀忠隊を「本隊」と呼ぶなと言ってる。「本隊」はあくまで家康隊だと。
勘違いしてるのはむしろ930
>>939 「つまり会津遠征の初発から関ヶ原合戦の全体をとおして徳川の主力部隊を率いていたのは
家康ではなく、嫡子の秀忠の方であったということである。」
戦争の日本史 関ヶ原合戦と大坂の陣 笠谷和比古 P81より
>>938 うーん
何度も婚姻してるんで確信犯でしょ
過ちではなくて
>>940 この表記が正しいとしても、本隊がどちらかは不明
秀忠隊を本隊とするのが自然だろうが
>>941 確信犯でも謝って、それで手打ちだから
それに婚姻が過ちとはいってない(家康は言っているけど)
>>942 実際は特にどちらかが主力ではないのに、笠谷氏が
勘違いした備の解釈で秀忠隊を主力と判断している
ということ
>>943 遺命に違反しているのは事実
過ちではないのなら、何か?正しいと言うことか?
だからあの発言からは、どっちが本隊を指しているかわからないが
普通には秀忠隊を意味するだろうということだよ
>>944 あやまったからそれで良しという考え
発言については私は笠谷氏が秀忠隊が主力という
考えは違うだろと言うことを言いたいだけ
>>945 謝ればそれですむというは違うよ
それなら殺人でも何でもやり放題
家康の場合確信犯
947 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:44:15
930は長久手の戦いと関ヶ原とをごっちゃにしてるようだが、それが間違いというか勘違いのもと。
長久手の時は、家康自身が徳川の主力を率いて戦っている。先方は榊原。
同盟軍も基本的には織田信雄軍だけでシンプル。
関ヶ原合戦では先方をつとめる秀忠軍が3万人以上の軍隊できわめて強力。一万石以上の大身武将も多い。
しかもこれが脱落してしまった。
関ヶ原では同盟軍も豊臣武将が多数あって、兵力も徳川軍をしのぐほど。
結果、家康の軍隊からは先方配備として井伊・松平忠吉の二部隊しか出せず、それ以外の徳川軍は形成観望するだけ。
これでも長久手と関ヶ原が同じだってか?
結果、戦後の領地配分では徳川の取り分は全国の三分の一だけ。
京都以西はあらかた豊臣大名で、徳川大名はゼロ。
関ヶ原合戦でいかに徳川軍が働いていなかったかの証拠。
家康率いる徳川隊がいかに無力であったということの証拠。
↑
なんか言ってること滅茶苦茶なんだけど。
10万に迫る兵力を動員した関ヶ原の合戦で、本隊からどれほどの兵力を前線に出したら満足するんだ?
まわりは家来でもない同僚大名ばかりで本陣手薄にできるわけねーだろ。
井伊・忠吉前に出しただけでも十分すぎだろ。つーか前線混雑しすぎで配置する場所ねーし。
しかもろくに戦功あげてない徳川が戦後分不相応な大封を手にしてる。
なぜか?それだけ徳川が強力だという認識が諸大名にあったから。
肝心な決戦で役立たずだったら誰もそんなことに納得しない。
総大将たる徳川の仕事=後方の本陣で諸大名を指揮、督戦すること。
つーか西国が非徳川系大名だらけになったのは、徳川が東国から彼らを追い出したからだが。
徳川が強力だったからこそそんなことができた。
>>947 部隊構成の観点でいってる
戦国の軍隊は数百人規模の備を基本とし、それを複数束ねたものが一手、
それを更に複数束ねたものが・・・という感じ
長久手の場合は先鋒は大須賀・榊原らをそれぞれ一備とした一手
家康本隊、井伊隊、信雄隊がそれぞれ一手
関ヶ原は各大名が一手級で、万以上は一手を複数持つ形と規模は大きく
なってるが基本的構成は変化なし
因みに万石級は単独で備を完結できる。しかし、それ以下の石高でも寄騎
同心制で備を編成でき、秀忠隊は前者、家康隊は後者の割合が高いだけ
何故そうなったかは単に北に大名が多く配されていたからで、秀忠が上杉の
備えと中山道を通り、制圧することから当然の構成
後、関ヶ原で家康本隊が殆ど戦闘しなかったのは南宮山への備えと戦闘正面
が取れなったから
>>946 確信犯だろうがなんだろうが、手打ちにしたらそれでけりつけというのが建前
本音は知らんが、そういうのは感情だしね(無論、それが重要だが)
>>947 秀忠軍を強力としているが、家康軍が強力でない理由は?
>>950 だからそれで許されるならやりたい放題ということだよ
人を殺したり金を強奪しても謝ればちゃらということなら秩序は保てない
三成たち西軍ががんばって落とせず家康はいらだっていたという。
それでも家康本陣から応援部隊が前線に送られた形跡は無いようだが。
>>954 そもそも前線部隊として松平忠吉隊、井伊直政隊が最初っから分離してあるわけだが。
>>952 井伊・松平(忠吉)も合わせて5名だろう。
うち2名は正規の軍隊をもってないことが判明してる
>>953 政治なんてそんなもん
とりあえず、形式が整ってれば後は力
>>954 家康自身が前線直後まで、来とりますがな
>>953 いや謝って大老奉行が戈を収めたんだからそれでおしまいだが。
現代で言えば判決が下ったのと同じこと。この上何を望むんだ?
>>958 そりゃ何か機会があるたびに謝罪と賠償を
>955
井伊は先遣隊だけれど、松平忠吉隊は家康本隊からの分離配備だろう
>>962 金吾なんかを頼らずに、自軍の兵力を使えば簡単に済むはなし。
金吾を頼らざるをえないのは、自軍の兵力が頼りにならないことが分かっているから。
>>963 秀忠隊の大名は12名。すべて正規軍隊を率いている。
その他に本多忠勝の正規軍も秀忠隊に属している。
石田隊は家康本体と交戦したのでは?
>>967 だから戦闘正面がとれんのだよ
小早川の位置は正しく横撃
それに家康の戦力が頼りにならん根拠は?
>>967 自分の兵力を投入するつもりだったんじゃないか
金吾が動かなければ
徳川軍が頼りないのなら、石田隊なんかもっと頼りにならないが
972 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 09:12:56
>>970 石田隊はしっかり闘っているが、徳川隊はただ見てるだけw
973 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 09:18:13
頭デカ男死ねよ 頭デカ男死ねよ 頭デカ男死ねよ 頭デカ男死ねよ
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>>969 > それに家康の戦力が頼りにならん根拠は?
近代的な軍隊で例えれば、秀忠の連れているのは師団単位で数個。家康が連れているのは井伊・松平忠吉を除けば独立
大隊が数十個。
指揮結節で言えば、秀忠軍司令官の元に本多・酒井・榊原師団長がいて、さらに大久保・牧野など小部隊の連隊長が
いて、さらに独立大隊(万石以下の旗本)がいるということで各階層は指揮能力の限界範囲内で業務ができる。
一方家康軍司令官の元には、井伊・松平忠吉師団以外は単独で作戦をこなせない独立大隊ばかり。いかに家康が有能
でも、有機的に攻勢を取るにはすぐ下の単位が細かすぎる。
もっと単純に例えれば、10万石の一大名の軍と5000石の旗本20名の連合軍では合戦したらどっちが勝つかって話。
>>947 ただ見てるだけだからw
だいたい家康本隊3万とか言ってるけど本当にそんな人数いるのか?
>>974 そりゃ平時と戦時の部隊構成をごっちゃにしている
前にも書いたが戦国時代の基本構成は数百人規模の騎馬武者・足軽・兵站等を編成した備
10万石級でも3程度の備で構成されてるし、数千石級でも寄騎同心制で備を編成できる
更には1つの備しか編成できない1〜2万石級の大名に寄騎同心制の備を相備でつけて一手に
もできる
以上より、石高の大小で戦力の優越は断じれない
>>972 後ろに味方がいるという事は重要
突破されても大丈夫という安心感が生まれる
>>975 それはそうです
あれは単純に家康蔵入地100万石に三人役しただけだから
実際は江戸を出た時に二万五千、東海道や岡山に残した諸隊や忠吉を引くと
概ね、一万五千から二万といったとこかと
979 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 19:55:47
家康はかなりうろたえていたようだが
>>979 あの人、直ぐにうろたえて直ぐに冷静になる人です
981 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 20:32:59
それでまた直ぐうろたえる
>>972 だって監督だからw
闘わなくても勝てるしw
983 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 20:44:32
蔚山でも関ヶ原でも決勝点を入れた金吾の戦術眼は確か。
佐和山での攻城戦もバッチリ。名将秀秋!!
冷静な時は冷静な指示するから周りもそれを聞く
うろたえてる時は腹切るとか、爪噛むとか、当り散らすとかだから
戦況には影響しません
>>978 忠吉は別口
そんな話をすれば、他もそれぞれ国元とかに兵が必要だが?
>>983 監督は家康ですが
家康が司令塔でロングパスを金吾へ
金吾ボールを持ち込むが大谷に奪われる
そこへ4将が乱入し1:4
ごおーーーーる
東軍Vゴール
>>985 知ってる。
家康隊の中味は農民から徴発した夫丸ばっかw
そいつは戦国の軍隊全てに言えるな
>>990 そうそう
どこの軍隊も変わらない
100%職業軍人の大名っている?
三成・秀家の軍隊 ― 闘える軍隊
豊臣武将の軍隊 ― 闘える軍隊
家康の軍隊 ― 闘えぬ軍隊
三成・秀家の軍隊 ― 朝鮮で疲弊し、急遽百姓をかき集めた軍隊
豊臣武将の軍隊 ― 朝鮮で疲弊し、急遽百姓をかき集めた軍隊
家康の軍隊 ― 温存された天下最強の軍隊
995 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 21:25:12
家康の部隊は夫丸でつじつま合わせをしなかったら、とても2万5千なんて数字は出てこないだろう。
秀忠隊が3万強だろう。関東地方の譜代大名たちの城の城番の兵士。結城秀康の指揮下にある上杉・佐竹連合軍に対する防衛軍。
江戸城の留守部隊。さらに明け渡された東海道筋の10城の城番。
これだけ兵隊を配備したあとに、どれだけ家康が引き連れられるまともな軍隊が残ってると思うか。
三成・秀家の軍隊 ― 闘わされる軍隊
豊臣武将の軍隊 ― 闘えぬ軍隊
家康の軍隊 ― 闘わない軍隊
998 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 21:33:59
age
999 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 21:34:24
age
1000 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 21:34:30
宮本武蔵は刀を踏みつけ足を怪我するしな
1001 :
1001:
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