1 :
日本@名無史さん:
地味に盛り上がりを見せた前スレの2代目です。
2 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 14:49:34
将軍、摂関、太政大臣がいた場合
公の場で偉そうに出来る順は
摂関>太政大臣>将軍ってことでOK?
まぁ、摂関と太政大臣は兼任って場合が多いけど。
3 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:48:31
太政大臣>摂関>将軍かなとも思ったが。
4 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:56:30
一般庶民の認知度で行けば
将軍>摂関=太政大臣
官位とか宮中序列だと
摂関>=太政大臣>>>将軍だな
まあ江戸時代には将軍が摂関を呼び捨てにしたり摂関が将軍に敬語
使った文章があると何かで読んだ気がするけどうろ覚え
5 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 17:11:17
まあ将軍の岳父が摂関であるケースも多かったしね
近衛モトヒロみたく婿にエバれたのは特別な例だけどさ
室町期の摂家のほうが小さくなっていたと思う
6 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 17:14:52
良スレ続編乙
7 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:34:55
社長>常務>部長>次長>課長>係長ってな感じに
明確な上下関係っていうか
官職にはこれにはないのかな。
前スレって三職推任スレのことか?
趣旨が違うだろ?
9 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:37:56
あるが、摂関、太政大臣、征夷大将軍は令外官で、
いわばプロジェクトマネージャーみたいな職だから上下をつけにくいといえばつけにくい。
兼任も大いにあるし。
太政大臣は令外官じゃないですよ、欠員でも良い官ではあるけど。
あ、太政大臣は則闕だっけか。失礼
12 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 20:18:36
13 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 00:03:40
征夷大将軍は暗殺されたりするからイヤだな
関白はさすがに殺されないしな
そういや井沢元彦の本読んでて思ったんだが
藤原氏の怨霊って居ないのかな?
世界的な知名度では将軍がダントツか。
するたんとかつぁーりとかふぁらおに近いか。
15 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 00:51:06
時代にもよるが、平安時代なら太政大臣になりたい。
なんといっても太政官の筆頭だもんな。実権もバリバリあるし。
摂政関白も魅力だが仕事は天皇の補佐だしどうせなれるのなら
補佐役の摂政関白より天皇の方が…
将軍、将軍だけはいつの時代でもなりたくない。
16 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:52:30
>>15 平安中期には太政大臣はすでに名誉職で実権はないよ。
摂関期には太政官じたい機能してないし
17 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 13:52:33
太政大臣なんか元々名誉職だろ?会社で言えば名誉会長兼相談役みたいな。
実際は左大臣が太政官の筆頭今で言う社長。
18 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 15:36:35
名誉職というか
適任者がいなければ設置しなかった。
下賎なオレならどれでもありがたくいただく。
20 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:21:58
確か摂政って現在の皇室典範にもあるんだよな。
関白はないけど。
最近では昭和天皇がやったとか。
昭和天皇危篤の際には今上天皇が事実上の摂政だったって話。
秀吉は農民あがりでそんな官職を勤めていたのか。
21 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:49:04
摂政は最高法規である日本国憲法の第五条で定められている。
22 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:29:48
>>2-4 摂関は就任の際に普通は一座宣旨を貰うので、摂関≠太政大臣の場合でも、
朝廷内での序列は摂関>太政大臣。
義満以降は、摂家自体が事実上将軍の家来になっているわけで、官位云々は無意味で
しょうね。>2-4
24 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 03:08:08
関ヶ原合戦前、三成が秀秋相手に関白を餌に味方につけようとして約束したみたいだけど
そんな約束、ちゃんと守れたのかね。
25 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 15:43:39
摂関家が足利、徳川将軍家から下の字をイミナとして貰っている時点で
力関係は明らかだよね。
公的にどうかはしらんが。
26 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:30:37
二条家が特にひどかったな。
ほとんど毎回、徳川将軍家の諱名を貰っていた。
27 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 00:38:11
形式上、将軍は朝廷から任命されている官職だから
公では天皇の補佐役である摂関より格下
今さら初歩的なレスだなw
29 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 15:52:56
摂関と将軍は置かれたポジションわかりやすいけど、太政大臣だけはなんかわかりにくい。
実権あったりなかったり、名誉職だったり
30 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 17:12:12
左大臣兼内覧が最強といってみる
江戸期は摂政関白が一番だろうけど
摂関と内覧が併置されたときの上下関係とか職務権限とかどうなるんですか?
それとも特に決まってなくてそのとき状況次第でしょうか?
水戸光圀は権中納言。しかも隠居後の贈官。
全然たいしたことないのに妙に偉そう。
33 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:27:26
摂関内覧併置時代は俺は専門家でも無いから忠通 頼長時代位しか知らない。
実権を取り上げられた摂関と格は下だが実権ある内覧って感じだけど確かに
興味ありますな。
34 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:30:39
鎮守負傷軍や清々将軍、政党将軍とか将軍職沢山あるがどうして
征夷大将軍だけなんだろ?
幕府開くのなら蝦夷じゃ無くても良さそうだが。
35 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:36:24
摂関で内大臣と太政大臣なら摂関内大臣の方が上だと聞いたしそうだと思う。
特に清華相手の摂家なら納言の摂家嫡子が大臣の清華を見下したとも・・・
一つ疑問なのだが太閤が太政大臣になった場合、その子で摂政右大臣あたりは
どう接していたんだ?
摂関でも太政大臣は長生きしないとなれないしね。
36 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:19:05
>>34 確か、元々は近衛大将の別名だったものが、
右近衛大将だった源頼朝が征夷大将軍になったので、
それ以降征夷大将軍の別名となったお思った。
37 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:26:53
>>35 太閤って事は、前関白だよね。
既に関白になって、かつ、名誉会長的な意味合いで、
太政大臣になったのなら、きっと、位階も一位クラスでしょう。
それに、運がよければ准三后も贈られてる可能性も大。
なら、摂関右大臣の息子より上でしょう。
但し、実権はわからないけどね。
後、同じ太閤でも氏長者かどうかによっても違うんでわ?
38 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 07:27:15
>>34 鎮守府将軍は出羽陸奥の兵を指揮する現地司令官。
征夷大将軍は都から軍を率いていく遠征軍の司令官。
藤原秀衡も鎮守府将軍だったことから頼朝はさらに指揮権が広い征夷大将軍を望んだのだろう
南北朝期の南朝側には征西大将軍・鎮守大将軍がいて、幕府もどきを開いてた。
どうしても征夷大将軍じゃないといけないわけではないようだ。
頼朝はずっと征夷大将軍だったわけじゃないし、
頼家は最初は近衛中将で幕府の首班だった。
実朝になって初めて跡を継いですぐに征夷大将軍。
少なくとも鎌倉初期は惣追捕使・惣地頭であることが重要であり、
将軍とかは肩書き程度だったようだ。
なんか頼朝は将軍になりたくなくてすぐに辞任したとか言う学説まであるし。
惣地頭は頼家が危ないって時の相続案で東国と西国の分割案がでてたから、
惣追捕使の方がコアなんだろうと思う。
無官の道長と摂政頼通じゃあどう考えても道長の方が上だな。
大殿ってやつは官職関係ないもんな。
まあ天皇の外祖父と外叔父とじゃ権威が全然違うってこともある。
42 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 09:56:32
征夷大将軍神話って大体室町時代に出来上がってると見ていいかもわよ
尊氏は妥協と闘争の結果肩書きだけだけど
鎮守将軍→征東将軍→征夷大将軍って段階を踏んでるな。
44 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 10:20:23
鎌倉時代は少なくても征夷大将軍頼朝では無く右大将頼朝の肩書きだったよな。
承久の乱の時も右大将の恩云々と政子が喚いたし。
まあ右大将兼大納言、征夷大将軍ともすぐに辞任した訳だが。
将軍の中では頼朝、尊氏って官位低くない?二人とも大納言。
鎌倉将軍で大臣は確かに実朝しかいないが低すぎ。
職制上明らかに上部・下部機関の関係にでもない限り、
官職だけで上下を厳密にするのは難しいんじゃないか?
どうしても位階も加味した序列になるんじゃないかな。
名目上の王の存在ゆえにそれを名乗れない実質的王のための肩書きとしての征夷大将軍。
官僚機構の中に位置づけられ(その地位は決して高くない)職務権限も定まっている官職
としての征夷大将軍。
この実質と名目の乖離が面倒なところだな。
鎌倉中期には将軍自体が名目上の王になってしまうというややこしさ。
実体として征夷大将軍は概ね四位以上であればよく、せいぜい大納言クラスまでが就任す
る職だった。実朝なんか五位で就任(例外?)。
朝廷内の公的な地位はあまり高くないってのが難しいよね。
そういえば子供が任官するケースはままあるが、
女性が納言や各部の少弼やらに任官されるケースはあったのかな。
男系が絶家して養子もまたない場合、公家はどうなるんだろう?
48 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 13:18:03
公家の場合でも普通に断絶している家とかあったよな
まあ養子には困らんと思うけどw
少なくとも公式には表向きの官に就任した女性は存在しません。
まあ千何百年の間に一人くらい男で通した女性が居た可能性はゼロではないでしょうが、
仮に居たとしても大変なスキャンダルですから公式の記録には残さないでしょうね。
平安中期までは普通に世代を経るに従い徐々に官位低下→自然に没落、が通常パターン。
平安末期あたり以後の家格が固まってからは、割り込みも難しいけど、
一度家格が定まってしまえば簡単には没落しない。
なにかの事件で失脚とか、戦国期等に経済的に没落して蓄電・失踪ってところか。
一条教房は土佐へ逃げちゃうし、近衛前久は全国放浪してるし、
家格さえ決まってればなんでもアリだな。
52 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 16:13:13
近衛と九条に別れたの迄はわかるがその後、近衛から鷹司、九条から一条二条と
別れたのは何故なんだろ?摂関家多くなったら摂関に就ける可能性低くなるのに。
最高家格の公家がほぼ同格の分家を認めるなんて武家じゃ考えられないな。
武家なら完全にランク落とすだろ?御三家みたいにさ。
53 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 16:41:47
松殿が続いていたら、こんなに分立しなかったかもね
なんか九条が親子げんかと、親のひいきで先に分裂して、
近衛もじゃあうちも分家できないと不公平(3対1だと近衛流が不利)
だって感じだったって聞いたけど。
鎌倉幕府の執権が摂関家の力を分散させることを目的として、分立させた
となにかで読んだことがある。ソースは貼れません。
江戸幕府による東西本願寺みたいなものと理解していた。
56 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 22:54:03
理想は左大臣兼内覧兼左近衛大将(随身が付いてかっこいい)
57 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 00:51:46
将軍が実質的王というならば
将軍の下に摂関、太政大臣を位置付ければよかっただろうにと思うが、そうもいかんのか。
実権の弱い摂関、太政大臣がなんで実質王の将軍の上にいる。
58 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 01:26:21
>>57 将軍は日本の99%を仕切る王だがあくまでも1%以下の公家社会の臣下
99%の中では王であり君主だが1%の中ではあくまで下賤の武家の長に過ぎない。
だから太政大臣や摂関よりは官位が下のこと多いって事じゃない?
将軍はあくまで武家だからね。
まあ権力が強いときには大臣を兼ねて最上級公家としての資格を得ることも出来たが。
59 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 01:51:23
天皇の存在がそういうわかりにくい上下関係を作ってしまうのか…
60 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 09:25:16
幕府といっても律令制度を打ち崩すほどのものではなく
その補強的役割というか主導権争いの一環としての存在なんだよね
お公家さん政治にうんざりした地方政権を担っていた武士が自分達でしっかりした政権を作っただけで
別に天皇に取って代わるとか摂関にとって代わるとかそういうものじゃなし
今までずっとやってきててそれが摂関の命令という形にしておくのか将軍の命令という形にしておくかの違い
日本では天皇に限らず名目上のトップって多いな。
失敗しても実権者が失脚するだけで変動を最小限に押さえるための知恵?
その代わりに社会が変化せず外部に遅れをとる可能性もあるけどね。
62 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 12:45:28
たかが分家に摂家の家格やるなよ・・・・羽林か名家で充分。
百歩譲って清華。
と思うの俺だけ?
っていうかな。
明治以前の日本には、トップだの官職だのに限らず、
形骸化した機関を廃止するという発想がそもそもない気がする。
64 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 13:04:42
発想がないんじゃないんだよ
廃止するためにはそのための思想や概念が必要で
それを作ったりパクったりすることをしてこなかったからなんだ
いいのか悪いのかだね
>>64 菅原道真って日本的文化から見ればよっぽど異色の人だったんだろうね。
当時なら一種の精神異常に見えたかも知れない。
>>65 摂関期にいちばんそういう気風が生まれたので、道真とかのじだいはそうでもないんじゃない?
むしろ「朕が未来の先例」と豪語した後醍醐こそ基地外じみていたと思われ
67 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:03:05
この三つの官職のうちどれか一つを選べというならば。
関白だ、関白にさえなってしまえば。
もう…もう誰も私に命令など出来なくなるぞ。
>>33 他に一条兼香が病気の時に息子の道香が内覧になって復帰後も内覧続投という例もあるが、これも親子だから参考にならんか。
69 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 10:11:47
>>66 白河も同じ様な事を言ったが、向こうはきちんと力の裏付けがあったもんな。
70 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 11:16:53
菅原道真ってなんか大改革しようとしてたの?
菅公の呪いで死んだ左大臣時平がNHKで再評価されたのは面白いね(もてすぎてスキャンダル多かったらしいが)
72 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 12:53:09
征夷大将軍になって禁中並公家諸法度を制定。武家の官位は公家とは
別に定める。ここからは家康はやらなかったが、自ら正一位関白太政
大臣を兼ねる人事を行う。これで完璧じゃね?
73 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 13:32:20
正一位は事実上、最高権力者が死んだ後貰う官位。
生前貰った者も数人いるが異常な君寵によるもの。
74 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:11:54
力もねぇ摂関や太政大臣に命令される将軍職なんて
頂いてもしょーがねぇ。
中臣連鎌子→藤原鎌足(614〜669、56歳。小徳御食子の長子)、大織内大臣(669、56歳)
藤原朝臣武智麿(680〜737、58歳。贈太政大臣不比等長男)
従二位(734、55歳)→右大臣(734、55歳)→正一位左大臣(737、58歳)→贈太政大臣(760)
葛城王→橘宿禰諸兄→橘朝臣諸兄
(684〜757、74歳。敏達皇子難波親王の四世孫、贈従二位栗隈王の孫)
(従四位下治部卿・摂津大夫美努王の子)
従二位(739、56歳)→正二位(740、57歳)→従一位(743、60歳)→左大臣(743、60歳)
→正一位(749、66歳)→橘朝臣(750、67歳)→致仕(756、73歳)
藤原朝臣仲麿→藤原恵美朝臣押勝(706〜764、59歳。贈太政大臣武智麿の第三子)
従二位(750、45歳)→紫微内相(757、52歳)→大保(758、53歳)→藤原恵美朝臣(758)→
従一位(760、55歳、二階)→大師(760、55歳)→正一位(762、57歳)→誅殺(764)
藤原朝臣永手(714〜771、58歳。参議房前次男)
従二位(765、52歳)→右大臣(766、53歳)→正二位左大臣(766、53歳)→従一位
(768?769?、56歳?55歳?)→正一位(770、57歳)
藤原朝臣不比等(659〜720、62歳。大織冠内大臣鎌足次男)
従二位(704、46歳)→正二位(708)→右大臣(708、50歳)→贈正一位太政大臣→贈淡海公
藤原朝臣宿奈麿→藤原朝臣良継(716〜777、62歳。正三位参議宇合次男)
内臣(771、56歳)→従二位(774、59歳)→内大臣(777、62歳)→贈従一位
藤原朝臣魚名(722?721〜783、62歳・63歳とも。贈太政大臣房前五男)
従二位(777、56歳・57歳)→内臣(778、57歳・58歳)→忠臣(778、57歳・58歳)→
内大臣(779、58歳・59歳)→正二位(781)→左大臣(60歳・61歳)→流罪(782、61歳)
鎌足の大織冠(正一位相当)は死の直前だが、前後の時期には二位以上相当さえなく、
家柄からいっても非常な君寵といえよう。
武智麿も死の直前、これは当時の聖武天皇は藤原氏におんぶにだっこだから当然か?
諸兄は、単なる重臣に対する厚遇と思われる、しかし棚上げみたいな感もある。
仲麿はまあ非常な君寵に間違いない。正確には叔母光明皇后の寵愛だが。
永手のは光仁天皇の擁立の老臣に対する厚遇だろうな。
不比等はなっても良いんだけどな、間に合わなかったのか、遠慮か?
良継はもう少し長生すれば、魚名は失脚しなければ、生前正一位の可能性はあったよう
にも思うがやや微妙?
その後はさほど重みのある重臣自体が不在。
冬嗣はもう少し長生きすれば可能性有り。長生きの緒嗣は冬嗣を越えられなかったのか?
源常は四十歳前と早死にすぎる。
良房は当然なるべきなのなっていない。年齢も七十近く生きてるのに。
少なくとこのころまでに生前正一位を避ける習慣が生まれたのだと思う。
77 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 20:27:19
大織冠を余豊ショウも貰ってることってどういうことなんだろうな・・
鎌足とコイツしか貰ってないんだろ
どう考えても同一人物だよな
78 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:14:13
藤原良房はなぜ側室を迎えなかったのだろうか・・
種なしで娘も本当は父親が違うとか言う話が・・・・・・
>74
>力もねぇ摂関や太政大臣に命令される将軍職なんて
将軍の命令に逆らって出奔、免職になった関白がいましたね。
「摂関制の成立と展開」米田雄介著、吉川弘文館より
内臣
中臣鎌子(645〜669、以後内大臣、669没)
藤原房前(721〜737没?)
藤原仲麻呂(749?〜750)
紫微内相の前に内臣だったのではないか?(757年4月14日付内臣宣有り)。
内侍宣の間違いの可能性有り?
藤原良継(771〜777、以後内大臣、777没)
藤原魚名(778〜778、忠臣778〜779、以後内大臣→転左大臣)
内臣類似
藤原真楯(748〜749?)、詔特令参奉宣吐納。
藤原百川(778〜779没)、内外機務莫不関知。
藤原縄麻呂(779〜779没) 式部卿百川薨後。相継用事。
藤原種継(784〜785没)、中外之事皆取決焉。
准摂政
多くは元摂政の関白への処遇。1019年の頼通が初例で、1300年の二条兼基まで11例有り。
他は初例である967年の実頼、第二例の1015年の道長、最終例の1846年の鷹司政通の3例。
内覧
@摂関不在時、A摂関在任中
イ大臣・納言、ロ前摂関、ハ現職摂関に類型
@イは、通常関白補任の前提。鎌倉時代以後の例外は、近衛尚通(江戸幕府の介入)と一条房
通(理由不明)。
なお後醍醐時代は、摂関を置かない方針で前関白3名が左右大臣で内覧となっている。
@ロは、頼通を含め3例、摂関不在時に経験者を任じたもの。
Aイは、11例。何らかの理由で摂関足り得ない場合の単なる処遇、摂関候補者が急病で余
命幾ばくもない場合、摂関が実権を喪失した場合、頼長のごとき政治的任命、前関白への
単なる処遇等種々のパターンがある。
Aロは、道家のごとく実質的に摂関以上の権力を有した場合が多い。
Aハは、前摂関が内覧の場合に、摂関を内覧としたものだったが、後には前摂関が内覧でな
くても任命される場合が多くなってきた。もっとも実質的には無意味で、内覧でない関白
も権限に違いはない。
元禄年間までは天皇代替わりがあると改めて内覧となっていたが、以後は一度任命されると
そのままになった。
江戸時代末期になると官職でないため幕府の介入を受けない内覧が政治的に利用された。
氏名 任命時の官職 任命年 任命時の摂関 備考
1 藤原時平 大納言 897 不在
2 菅原道真 権大納言 897 不在
3 藤原兼通 権中納言 972 不在 摂政藤原伊尹辞任
4 藤原伊周 内大臣 995 関白藤原道隆 道隆病中の間
5 藤原道長 権大納言 995 不在 関白藤原道兼死去
6 藤原道長 左大臣 1011 不在 三条天皇即位の為更新
7 藤原頼通 前関白 1067 不在 頼通関白辞任
8 藤原師実 左大臣 1075 不在 関白藤原教通死去
9 藤原忠実 権大納言 1099 不在 関白藤原師通死去
10 藤原忠実 関白 1121 同人 関白に内覧の権を復置
11 藤原忠通 内大臣 1121 不在 関白忠実辞任
12 藤原忠実 前関白 1132 関白藤原忠通
13 藤原頼長 左大臣 1151 関白藤原忠通
14 藤原兼実 右大臣 1185 摂政藤原基通
15 九条良経 左大臣 1202 摂政藤原基通 基通の氏長者停める
16 九条道家 前関白 1231 関白九条教実
17 近衛兼経 前関白 1242 関白二条良実
18 二条良実 関白 1242 同人 関白に内覧宣下の初例か?
19 二条良実 前関白 1265 関白一条実経
20 二条良実 前関白 1267 関白近衛基平
以後省略。
84 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:59:05
どの官職が最も偉いのかになると面倒くせーなぁ。
将軍、摂関、太政大臣の中で
最も女にモテた官職はどれなのかだったら簡単なんだけどな。
これならサルでもわかる。
85 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 09:49:28
>>84 どの役職であれめったに好きな相手とは結婚できんぞ
摂関と征夷大将軍の兼任って確かいないよね。なぜだろう?
こういうことを研究している人っているのかな?
研究者にとっては当たり前すぎて研究対象外?
87 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 10:56:25
朝廷と幕府ってどっちが統治能力高かったんだろ?
制度上は中央集権的な朝廷が高いんだろうが実際ちがくない?
律令制と封建制ってどっちが進んだ文化?
中国朝鮮はずっと律令制できて封建制度育たなかったよね。
日本の場合、律令制、封建制と進んだ後、明治維新で中央集権に戻ってるし
88 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 11:28:19
>>87 資本主義は封建制の解体過程から生まれた。
よって、一度封建制を経験しないと、資本主義は育たない。
89 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:32:30
>>88 それは欧州限定のお話であってなぜかは欧州史を学ばなければならんわな
どうでもいい話でごめんね
>>86 鎌倉幕府と江戸幕府は関東が本拠地だから、天皇を直接補佐する摂関に
ならないんでしょう。室町幕府は義満が違う野望を持っていた。
91 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:18:28
92 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:19:15
そりゃそうだ
だって資本主義を定義したのがマルクスなんだもん
>>86 語弊を承知で例えるならば、関白太政大臣とは元内閣総理大臣が
天皇の補筆を兼務するようなものです。これは現代人にとっても
あまり違和感を感じない地位でしょう。
しかし摂関と征夷大将軍を兼任するとしたら、まあ強いて例えるなら
朝鮮総督が天皇の補筆を兼務するようなもの。これはどうでしょう。
違和感を感じるのではないでしょうか。
というのも、征夷大将軍は軍事権の行使者に過ぎませんし、思い切り
拡大解釈しても「代官のようなもの」。しかも「治まっていない地域
限定の代官」に過ぎないからです。
しかし(太政)大臣は違います。全ての官のトップであり、領土全てに
対し権限を行使できる存在です。
征夷大将軍というものの限界がここにあります。
ここを超越するには、足利義満と同じような考えを持つしかありません。
でなければ、秀吉のように初めから関白太政大臣を選択して将軍を
考えないか、あるいは徳川家のように内大臣を兼務して関白を考え
ない手段しかありません。
94 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:23:01
明治が鎌倉の終わりなんです
>>93を要約すると
「出先の長と本庁の幹部の違い」だね。
そもそも摂関は天皇の側近という職務。
その点では近衛大将も変わらない。
征夷大将軍や鎮守府将軍は出先の長だから、原義から言うと兼務はおかしいんだよね。
秀吉ほどの権力者でも摂関のその性質には妥協して、
京(のはしっこ)に住んだしね。
早いとこ関白辞めて太閤になっちゃいたい気持ちも分かる。
太政大臣はあれかな?いわゆる「位打ち」枠だったのかな?
則闕の職ってことである面では摂関より見栄えもいいし
その割に実権はあやふやで、うるさい名望家を収めておくのにちょうどいい。
名望家の側でも摂関と違って京に常駐でないから損はない。
96 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:03:53
秀吉が太閤になったのって
秀次に関白を早急に引き継ぐことによって豊臣家の天下を世襲させるためでしょ
秀頼が生まれてから少々歯車がくるってしまったが
>>87 朝廷には軍隊がないからね。強制力をもたなければ誰もいうことをきかないし。
しかも徴税権も早くに失っている。
98 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:13:49
朝廷が権力を失っていく背景ってのが実に面白い日本的なんだよね
代理代理でどんどん実権が末端に移動していく
結果組織的下克上で武士が台頭してくるわけだ
99 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:20:40
その繰り返しで権威と権力がべっこにあると
100 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:40:53
武士政権が出来上がっても同じだな
結局中央は何もしないから代理代理で権力が末端に移動していき
結果組織的下克上でありえないくらい下層からの人間が天下を取ってしまうという
101 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:01:16
武家政権確立以降の朝廷にとっては洛中の外は夷の地って事でオッケー?
102 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:15:04
考えると秀吉は凄いな。
百姓上がりで関白/太政大臣+権力バリバリとは。
下賎な官職、将軍になる必要なんてねぇ。
103 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:36:26
関白より摂政のほうがいいな。
104 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:39:50
摂政は天皇小さいからやりたい放題
105 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:45:08
朝廷の治まらない地を治めるのが誠意大将軍!
朝廷の治める地は江戸時代で10万石位か?
直轄3万、隠居1万、公家5万?
初歩的な質問でスマンけど
官人の手当って、何で(米?土地?貨幣?)、
どのくらい支払う仕組みだったんだろう?
初期ヤマトも徴税はしてた訳だから無給ってことはないよね。
107 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 17:07:37
税金徴収は鎌倉〜安土桃山時代以前は基本が銭納だったような
かといって市場経済に貨幣が流通していたというわけじゃないけどね
それ以前とかだと租庸調とかのお話なんだろうが
108 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 18:00:25
京都朝廷は皇位継承順位について武蔵守、得宗家におうかがいをたてた。
権力順位、武蔵守>天皇
>>75 いるんだ。てっきりお稲荷様だけだと思ってました。
110 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:13:51
得宗家はあくまで陪臣だからなあ。。。日本史異常権力構造の極地だよね。
官位も4位でしょ?
111 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:21:22
武蔵守? 相模太守じゃないの
112 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 12:02:02
武蔵守は連署だった気がする
113 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:58:34
暇だから信長の野望やってたら、
我が信長さんは
上総介→尾張守→従三位参議→中納言(従三位如元)
→従一位太政大臣→正一位関白
だったと思う。確か。
位階がかなり飛び級してるな。。。
強豪国になってからいきなり猟官運動始めたから。。。
史実の秀吉もそうだから、摂政を経ない関白はあってもいいんだよね?
太政大臣を辞して関白って流れはよくわかんないな。
太政大臣って閑職でしょ。
114 :
↑:2007/01/27(土) 22:29:52
バカじゃねえの?
115 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 01:40:37
>>113 ゲームでは最高官職は将軍でいいな。
関白とか太政大臣なんて官職をゲームに加えたら
どれが最も偉い官職なのか混乱するから。
ゲームは子供もやるわけだし、そこはわかりやすく作らんとな。
まぁ、そんたけこの3つの官職はわかりにくい。
ゲ ー ム の は な し は 戦 国 板 で や れ 。
>>113 天皇が成人しているのなら摂政はいらんから。
118 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 06:45:17
一応、将軍も鎌倉以降は天皇の子孫にあたる源氏の流れを組んでいる者ではないとなれないわけで。
結局、権力者なんてずーと公家で回していたようなもんだ。
>>114 別に馬鹿なはなしはしてないぞ。
>>113 その通りで、太政大臣を辞して関白という流れは普通ありえない。
そもそも全く別の官職だから。
しかも左・右大臣の経験がないのに太政大臣に就くなど、ほぼ前例が無い。
平清盛と豊臣秀吉くらいじゃないかな。
秀吉の場合は、まず関白になってから太政大臣に任じられている。
太政大臣になったのは後陽成天皇即位式当日のことだそうだ。
関白としての功績を称える意味での名誉称号扱いだったといえる。
でもまあそもそも、摂政関白は太政官の首席(太政・左・右大臣)で
ないとなれないもので、内大臣から武家関白(この時点では、
まだ内大臣を兼務していた)ということだけでも、秀吉は異例中の異例。
その点信長は、右大臣の経験があったから太政大臣になるのは無問題。
尤も、事実は近衛前久の辞任や三職補任問題で、例外が発生する余地も
ありえたのだが。
120 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 07:57:30
太政大臣なんて官職、実質いらねぇよな。
常設ではないにしろ、なんでこんな官職を残しておいたんだろ。
>>120 「実質」はいりませんがね、太政大臣も必要な職なのですよ。
皇家に上皇、軍に元帥、会社に会長や相談役があるように。
そもそもトップは、二十年三十年もやっていられるものではないのです。
仮にやれるくらいのタフな人だったとしても、「老害」とかいわれる悪影響を
及ぼすもの。逆に言うなら、そこそこ若いうちしかできないんです。
その後の受け皿として、太政大臣は必要なのです。
トップにとってはいざというとき相談できる立場(地位)の人として。
あるいは周囲/部下の不興を買ったら祭り上げられる場所として。
政治闘争解決の手段としても、この地位が不必要であるとは思えません。
ご本人にとっても、トップの経験を生かしてトップの相談相手になれる場所(地位)。
また組織の制約からある程度自由に動ける立場になれますから、各界との
付き合いにも何かと便利なんで。
123 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:07:20
>>119 そもそも内大臣から摂関って秀吉以外にも結構いるのだが?
124 :
113:2007/01/28(日) 15:13:00
113≠119
スレ止まったから裾野が広い話題を提供しようとおもっただけなのに…
125 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:20:50
得宗家が鎌倉将軍から上のイミナを貰って通字の時の下に付けるのってどういう意味があるの?
時頼、時宗みたいに。
普通、主君より貰った字は上に付ける物だと思うが。
>>106 律令制度で行くと下っ端(六位以下)は布の類と鍬、五位以上はそれプラス田を支給。
四位以上(規定上は改訂後、本来は三位以上だけ)はさらに特定の家が支配下に入り、
そこからの税を直接もらえる。
摂関が左大臣になりたいんだけど、長老が左大臣に居座ってて、しかも落ち度がないから
首にもできないし、とか言うとき太政大臣になっていただいて、左大臣になる。
とかいろいろ便利に使えるから。
日本の場合政争もあまりはっきり決着つけないことも多いよね。
唐の左右僕射がちょっと似てるかもしれない。
菅原道真は見事に飛ばされたわけですが。
藤原道長だって外戚になるために一族と競ってるし。
得宗は若くて出家するってことももあるけど五位止まりも多い、
他の北条一門の方が官位が高い(四位)場合もけっこうある。
貞時は四位だけど、これは平頼綱の子の助宗が
自分の官位をあげたかったためではないだろうか。
主人が五位なのに執事の子が五位ってわけにはいかないだろうし。
得宗は若くて出家するってことももあるけど五位止まりも多い、
他の北条一門の方が官位が高い(四位)場合もけっこうある。
貞時は四位だけど、これは平頼綱の子の助宗が
自分の官位をあげたかったためではないだろうか。
主人が五位なのに執事の子が五位ってわけにはいかないだろうし。
>>126 その鍬を使えば下級官人も私有農地が持てますね。
というか、鍬の私有といえばそれしかないというか。
三位以上の遇し方といい、律令時代から土地の私有や税の私徴は半ば公然としたものだったってことですかね?
132 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 09:40:21
それこそ本音と建前の世界だわな
北条家嫡流歴代の最高位階
義時従四位下、泰時正四位下、貞時従四位上、時頼・時宗・高時は正五位下
時宗・貞時・高時には昇進パターンがあり、
左馬権頭→執権または連署→相模守
武蔵守・陸奥守・相模守は、執権・連署及び就任予定者の官で、陸奥守は武蔵守より格上。北条一門で四位になれるのは、得宗家及び執権・連署就任可能な主要分家の要人。
ところで本来嫡子じゃなかった時頼はともかく、時宗はなんで宗時じゃないんだろう?
徳川歴代将軍の官位昇進は異常。
極官はまだしも先例があるけど、生まれついての将軍の場合の初叙が無茶苦茶。
家光の従三位を先例に最高従二位、つまり尾張・紀伊の極官と同じ。
一世源氏だって普通は四位、嵯峨源氏に従三位が確か一人。
徳川の威勢恐るべし。
ちなみに摂関家でも従五位上(現職摂関の孫だと正五位下)
135 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 10:44:44
そりゃあんた
事実上日本の国主なんだから当たり前だろ
それはそうなんだけど足利は歴代五位から、
なんで徳川は一歩を踏み出したんだろう?
>>134 江戸時代の武家の官位は公家の官位と別枠だから、
単純には比較できない。
138 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 11:43:56
摂関家の場合は5位から累進して二十歳位で大臣なるよ。
30歳位で摂関になって上がり。
年齢で行けば将軍家よりもはるかに若く大臣になれる。
それに比べたら徳川は最初は大納言から始まるけど襲名後、内大臣に
なってからは昇進スピード異常に遅くなる。
家督継ぐまでは何歳になっても内大臣なれないし。
右大臣になるのに10年以上、左大臣は後期には殆どいねー
139 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 12:11:10
大臣は武家官位の枠外だから、
そもそも大臣は「なった」という事実が大事な時代だから、数日交代で複数が内大臣を持ち回りした例もある。
初叙年齢の言語道断な低年齢化や昇進レコードの更新は奈良時代に既に始まってるんだけ
ど、一世源氏を除く臣下の場合初叙位階の上昇は漸進的で五位以下に止まってるんだよね。
つまりその後の昇進がどうあれとにかく最初は五位以下っていう牢固な原則があった。
なぜ徳川に至って初めて四位の壁を超越して一気に三位まで行っちゃったんだろう?
おまけで一門や有力大名の一部に四位スタートもいるけどね。
一門とはいえあくまでも家臣である尾張・紀伊が年取ったら三位の場合が有るってのが、
原因だろうか?少なくとも家臣と同格異常ないと駄目だとか。
141 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 16:40:15
確かに太政大臣は祭り上げにうってつけの官職だよね。
無任所の顧問、相談役みたいな。
ちなみに家康の主な官職は員外官ばかり。
内大臣や太政大臣も職掌が特にないし。
近衛大将と右大臣くらいかな?
朝廷の独任的重職って言ったら。
142 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 17:01:05
あかさたなはまやらあかさ あかさたなは テスト
143 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 18:06:20
尾張紀伊の家督時官位は従三位左近衛権中将
144 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 18:16:13
摂家の序列は近衛>九条その後はどうなるん?
145 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 19:04:43
藤原良房はなぜ側室を迎えなかったか?
各家いろいろ主張はあるだろうけど、
公家社会の認識は近衛>>>九条>他三家だろうな。
近衛だけはいくつか特別待遇が有ったらしいから。
>>145 女嫌いで年下趣味だったとか?基経は養子と言うより稚児だったとか?
なんて答えを期待してるんですか?
148 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 19:33:27
近衛だけは別格だよ。
殿上元服できるのは公家の中でも近衛だけ。
他は一緒じゃないの?
ウィキの著述では九条流の嫡流は一条だけど皇別摂家が近衛と一条だけ
だからって九条よりも上って事はねーよな。
後、足利の官位昇進は清華に準じていると認識してオッケーかな?
日本(律令制の日本)てあれですか?
建前上、「ローマ帝国」が続いてきた欧州のミニチュアみたいなもんなんですか?
150 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 20:03:58
江戸幕府関係が最初から高位であまり昇進しないのは、
実は儀式が面倒くさい&官位昇進の礼金をケチった。だったりして。
151 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:05:33
なんか新年の挨拶関係でも内容は忘れたけど近衛だけの特別待遇があった。
152 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:52:56
徳川と北条と同じような東国の田舎の土豪出身なのに、官位に対する態度が非常に対照的。
何でだろう?
153 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:59:08
五摂家筆頭近衛家 それは------
臣下として天皇家に最も近い家柄
日本最高の貴族
154 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:05:37
とりあえず、荻外荘は椿山荘や雅叙園や叙々苑みたいに開放しろよ。
近衛前久が本能寺でシロだっていうのは散々裏が取れているだけどな。
156 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:45:44
>>152 徳川は将軍であり武家の棟梁。
執権北条はあくまでも幕府の中での大老に過ぎない。
朝廷から見たらあくまでも陪臣。
陪臣武家は普通公卿に列せられることは無いよ。
157 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:47:32
>>153 そうだね。
結局、藤原忠通の嫡子が近衛家祖で三男が九条家祖だから、天皇家や宮家との外戚関係が一番色濃いのは嫡流でしょうね。
>157
>結局、藤原忠通の嫡子が近衛家祖で三男が九条家祖だから、天皇家や宮家との外戚関係が一番色濃いのは嫡流でしょうね。
その時代はまだ長男か三男かで決定的な差がつく時代じゃないと思いますが。実際、
九條流だけが残って、近衛が松殿と同じように没落していてもおかしくはなかったわ
けだし。
後世でも氏長者その他は持ち回りな訳だし。近衛家を意図的に引き上げて利用しよ
うとした、信長〜家康あたりの思惑が大きいんじゃないでしょうか。
159 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 23:15:52
頼通以降はだいたい長男優先がはっきりしてるけどな
160 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 23:48:52
>>158 それも理に叶ってると思うし正しいかと。
私が言ってるのは、卵が先か鶏が先か的議論になるので、なるべく簡潔に述べると、長子優先と前例主義が重なってしまったってことです。
結果が出てしまえば、どちらも同じなのですが、基実と兼実の年齢差は確か6歳かと。
現代で換算すれは9歳は離れた間柄。
関白に補任も年長の基実が先であり氏長者もしかり。
これが近衛家のみならず宮中の前例です。やはり、早い方が優先としてみなされるのかと思います。早ければ、権力中枢で更なる既成事実化、つまり前例や慣行を築けることは物理的に容易かと考えます。
調べていなく恐縮ですが、近衛家と九条家は同時期創設でしょうか?
161 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 00:05:41
いやっほー
162 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 11:54:32
こうして時代で比較してみると面白いね
同じ官職なんかでも意味合いが全然違うし
その都度改革されていて同じ武士政権と一言では呼べなくなるよね
163 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 18:31:18
【コーヒーたいむ】
さだまさしが関白宣言してから、その後世の中から関白って言葉が失せました。
その代わり殺生な事件が多発してます。これは摂政復活を暗示してるのではないかと。妄想。
されど今の皇族をみればまんざら…。
164 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 18:43:06
議院内閣制を廃止して摂関を復活させよう
血筋の悪い人によい政治ができるわけない
165 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 19:30:39
一条は、皇后になった人多いよね。
166 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 20:18:58
征夷大将軍と太政大臣、どっちも最初の数人以外は当初の目的と違った使われ方をした。
167 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 20:26:28
日本の場合、このあたりの高官に府官が居ないのは本家に比べた特徴かな。
向こうは国家の正式な官職だが任命権は長官(最高級大臣や将軍)にあるって言うのが
割とはやってた。
まあ日本がまねする時代はちょうど下火だったんだけどね。
168 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 20:54:11
日本は『和』を一番とする国だから、皆仲良くポストの持ち回りが争いを防ぐ最善の方法だと体得してるんだよ。
令外官は、つまりその論理的証明じゃないかな。
それなりのコンセンサスがついたポストならば、役割はその時勢の解釈でどうにでもできちゃうし。
今でも似た様なこと永田町あたりでやってるから。
169 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:02:37
俗な日本人論はつまらん
171 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:26:50
>>169 それでは、俗ではない君の講釈を拝読しましょう。
172 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 11:14:34
これらが実際に選択肢として選べた人間って信長・秀吉・家康くらいか?
173 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 13:15:52
義満は無理だし頼朝はそれ以前に亡くなったし
事実上信長と秀吉だけじゃないか?
家康は選択肢が限られていたと思うし
174 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 01:16:44
藤原良房
『源氏物語』の主人公のモデルとも言われている。
嫁さんは、嵯峨天皇の娘潔姫(もちろん一度臣下にくだされて源氏姓となっているが)。
嵯峨天皇は、自分の娘をやるほど良房が気に入ったわけだが、どこに引かれたのか。
答え。顔。それほど美しい貴公子だったそうな。光源氏のモデルと言われる所以である。
世の中にはいるんですねぇ。「家柄も良く」「頭も良く」「顔も良い」という人類の敵みたいな奴が。
175 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:24:04
そうかそれでか、普通なら長男の長良の方を選ぶのになぜ良房だろうと思ったんだ。
同母兄弟なのに変だと思ったよ。
>「家柄も良く」「頭も良く」「顔も良い」
性格は悪かったようだが、おそらく北家嫡流歴代で一番の悪人。
彼の男系子孫が居ないのは幸い。
176 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 09:44:52
まさに華麗なる一族
177 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 09:49:28
そのころはまだ長子優先では無かったと思われ
178 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 09:52:56
さすがに同母兄弟だと長子有利だったんじゃないか?
179 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 13:24:36
太政大臣に棚age
180 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 16:05:39
>>178 はるか後世、後の徳川家光だってあぶなかったじゃないか。
同母弟を実の両親が贔屓したがために。
181 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 16:10:07
大田区立郷土博物館
http://inoues.net/museum2/ohtaku.html 東京都大田区田園調布1丁目にある多摩川台古墳群。多摩川の丘陵地帯に分布するこの古墳群は、
我が国でも近畿を除けば屈指の古墳群である。
江戸時代までは、「狐狸の住む板東平野」として蔑視される関東地方だが、この古墳群を見ると、
渡来人たちはしっかりとこの地方にも根を下ろしていたのが窺える。
>>177-178 確かに一般解ではそうだし、兄のほうが昇進も早かろう。
だが、あの時代のあの世界だから、天皇の寵愛を受けるかどうかで違ってくるぞ。
183 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 17:22:46
長子継承に正式になったのって江戸時代からとかか?
平安貴族などは母親方の家柄によって父親が同じでも全然出世は違うよね
通婚だからってのもあるんだろうけど
多少時代が経って武士の時代になっても正室腹の長子が基本的に継ぐことになるよね
もし庶子ならば正室の養子という形を取って跡を継ぐとか
184 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 19:24:34
なんにせよ良房は嵯峨天皇の構想を全部自分の利益のためにぶちこわした。
結果論としては嵯峨天皇は人を見る目がなかったと言わざる得ないだろう。
185 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 20:02:11
186 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:35:12
摂政になりたいなぁ。
絶対に摂政になりたいの。何がなんでも摂政になりたい。
いつか摂政になれる日が来ないかなぁ。
187 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 18:30:23
摂政といえば今や女の子の憧れの職業だしね。
人気職業ランキングではアナウンサーやキャビンアテンダントを抜いて堂々のトップらしいね。
188 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:02:13
春ですね
189 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:24:05
やはり臣下で史上最高位についたのは豊臣秀次だよな。
摂政と関白を同時に兼ねたのは彼だけだもんな。
摂政関白豊臣秀次、うーむすごい。
あと女性しかも外国人で摂政になったのは玉藻さん、
実は人間でさえなかったてんだから、これまた空前絶後だね。
190 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:30:48
191 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 19:36:03
摂政との合コンはハードルが高いよ。でも万が一摂政と付き合うことになったら男としてはステイタス性が高い。
192 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 20:23:20
関白は失政しても政治責任は取らなくとも良いでおk?
193 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:15:50
院政もそうだが藤原摂関政治ってさあ、どうやって朝廷内で権力取ったかが重要なだけで
政治的に何をやったかってあまり語られていない希ガス。
平安後期って歴史的な意義あるのか?
194 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:19:51
日本史上天皇を除く最高権力者リストかあ
摂関 太政大臣 将軍の他に執権と近代の内閣総理大臣、他に何があるだろ?
195 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:25:25
そんなこと言ったら戦後の日本政治だって意味ないよな。
196 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:38:23
日本史上天皇を除く最高権力者リストかあ
摂関 太政大臣 将軍の他に執権と近代の内閣総理大臣、他に何があるだろ?
197 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:46:41
そもそも摂政との合コンなんてあんまりないよね。
198 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 22:39:39
誰か実際に摂政と付き合ったことある奴いる?
199 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 22:41:08
誰か実際に摂政と付き合ったことある奴いる?
200 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:08:15
201 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:13:48
>>199 いるだろ過去には。
宮家の女王と付き合ってる奴は今でもいるだろ。
202 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:50:07
どうせ摂政になるなら普通の摂政ではなくカリスマ摂政かスーパー摂政を目指したい。無理だろうけど。
貴重な良スレがまた、さほどの造詣を必要としない妄想レスで埋められて行く
内容がしっかりしててコンスタントに伸びる史板最後のスレだったが
ここもバカ→伸びる、まとも→止まるパターンになるなら諦めもつくから他の板探すからいいわ
204 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 00:40:39
料理が得意な摂政とお付き合いしてみたいな。
205 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 14:41:03
性位
206 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 16:56:54
摂政と出会うチャンスなんてめったにないな。
207 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 17:22:08
折衝
208 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 17:46:49
スタイルがいいだけじゃ摂政にはなれないんだな。
209 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:24:35
摂政養成学校とかに入らないと摂政になるのは難しいのかな?
210 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:43:00
↑
受験落ちたのか…可哀想だが来年もある頑張れよ!ビルからは絶対落ちるなよ!
摂政になるのは学校行こうが合コンしようが無理だぞ。
家柄と運と能力が必要だ。それ以上に今は法制化されないから根本的に無理だぞ。この位知らなきゃお受験失敗しても仕方ないよな。悪いことは言わない、予備校の手続き早くした方がいいぞ。
面白いか?
212 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 13:41:52
バカにとっては面白いのだろうな。
213 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 16:23:58
同じ位階相当でも太政官と神祇官では格が違ったらしいよな。
明治以後の神祇官は事実上国学者の隔離棟だったから当然だが。
ちなみに、陸軍とかでは同じ少尉格でも部隊付兵科士官と余科ではやはり格が違ったものだそうだ。
214 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 16:31:20
軍隊はというか自衛隊かは今でも格の違いは随所にあるぞ
普通の自衛官と技官との差とか
司令部と現場の差とか
職種の差とか
俺は格下でいいから仕事がラクで責任も軽い地位でいいよ
神祇伯はいいよね。
百官の筆頭にして大した仕事もないし権力もないから1000年も世襲。
217 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 07:00:13
ある意味プチ天皇
218 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 07:28:14
おまえらキモイな
219 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 11:57:57
室町将軍でも従4位ぐらいなのに
安土桃山になんで武家で中納言とか内大臣とか
高官職が増えるのか。
220 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 12:41:05
秀吉の財力政治力だろ。
221 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 12:59:27
室町いっぱいをかけて貴族荘園が横領されまくったからな。
というか、地元のライバルと私有地を争ううちに貴族への付け届けが忘れ去られたというか
222 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 13:08:06
畿内の荘園保護を打ち出したのが秀吉
223 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 13:52:54
>>219 幕府を開かなかった秀吉は、鎌倉・室町幕府にあった幕府の役職に代わるステータスとして朝廷の官職を与えたから。
224 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:44:55
>>223 それはわかるけど
なんで公家にはその官職を与えなかったの?
225 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 08:53:36
>>224 公家が機能してなかったから
秀吉がやったことは思惑云々おいといて朝廷でも下克上をやったんだよ
前例無視で大大名に官職を割り振って事実上の統治機構にしようとしたわけだ
家康がその後住み分けをして公家の保護をしてるのさ
226 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 13:32:11
>>225 秀吉が武家に官位濫発させたのは事実だが、
朝廷を統治機構にしようとしたわけじゃないだろ。
武家の統制に官位を利用しただけ。
228 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 14:17:38
>>227 それを統治機構と呼ぶのではないか?
序列を官位ベースで考えるわけだろ?
一部に言う「秀吉の王政復古」ということでいいのですか?
豊臣体制が続いていたら日本の歴史の来し方も違っていたのだろうか?
>>228 一例で足りると思うんだが、
たとえば加藤主計頭が財政担当者の長だったわけじゃないだろ
231 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 17:45:41
話がかみ合ってない議論はよせw
摂関とか大臣とかって、直属の官房とか事務局の類がないっていうのは、
一つの特徴じゃないだろうか?
少納言局は太政官の事務局であって大臣の事務局じゃないしね。
つまりブレインや手足がないってことで、日本の貴族はやはり弱体だったのでは?
233 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 19:50:13
しかしまあ人大杉とは摂政ですね、本当に何とかならないものでしょうか?
早く征夷を見せて欲しいものです。
234 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:22:58
百姓あがりの秀吉に
関白とか太政大臣とかの官職をくれてやって
武家にポンポン、朝廷の官職を与えてやって
公家はどう思ったのかな。
王政復古と思ってたんだろうか。
大名諸侯の序列を官位によってつけることと、
統治機構を朝廷とすることは全く別。
官位はあくまで格付けであって、統治機構そのものは「豊臣家」が担った。
236 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:47:11
亭主関白ゆめの夢、女房関白わしゃ殺生(摂政)
237 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 23:06:23
238 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 19:53:20
SE姦家はお盛んです
239 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 20:46:08
おお
240 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 00:41:08
家光って梅毒で死んだって昔本で読んだ記憶がある。
嫌だったろうな女達は。あっ家光はバイセクシャルだったから、小姓も嫌だったろうな。
241 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 00:53:23
坂本竜馬もそうだったんだろ?
どうもアンチにより嫉妬、もしくはネガティヴキャンペーンにしか思えん
242 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:35:52
摂家を調べようとwiki見てたらさ
「九条家は九条流の嫡流ではない」
「一条家は天皇家から養子をもらっており、そういう例は近衛家と二つしかない」
「よって一条家が嫡流だ」
って書かれてたんだけど・・・
wikiってそんな根拠のない理由で書いてもOKなの?
例えば近衛家が断絶したとき女系の細川家が継いだだろ?
なんで天皇家や宮家から養子をもらわなかったんだ?
上記の理屈だと「近衛家は近衛流の嫡流じゃなくなった。なぜなら細川家から養子が入ったからだ」
って書かれてもおかしくないよね?
ちゃんと取材して書いて欲しいよ。
243 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:46:52
Wikiなんて飾りです
244 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 12:50:34
ウィキも2chも玉石混淆。
245 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 13:38:10
近衛家が断絶したとき女系の細川家が入ったのは戦後の話だ。
一平民にすぎない。
246 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:29:08
大河板で風林火山の
三条夫人の話が出ていたんだけど
公家の中でも格が違うというレスがあったが
どういう意味よ。公家は公家だろ。
247 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:45:51
そりゃあんた清華家の娘さんだでねえ
248 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:59:37
関白と征夷大将軍を兼務した歴史上の人物はいないけどもしいたとしたら最強だっただろうね。
249 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 18:14:56
最強でもないだろ
問題はその権力基盤のほうだからな
役職なんて飾りです
>>248 それだったら親征した雄略天皇が史上最強だろう。
人臣じゃないのは内緒だが。
251 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:21:29
摂家・清華・大臣家・平堂上の区分は厳然としてあった。
平堂上のなかでも羽林・名家・半家の別はあったが、
羽林と名家はほぼ同格のようだ。むしろ羽林内部の差の方が大きい。
つまり名家の上位>羽林の下位って感じ。
半家はかなり落ちる。
しかし平堂上内部では旧家と新家の差もかなりあるようで、
出来星の羽林と由緒正しい半家ではどっちが上か微妙かも?
252 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 21:27:14
清華以下は表向きはあくまでも直臣だが、実質的には半分摂家の家臣で両属状態みたいな
感じらしい。というわけで摂家と清華の間には越えられない壁がある。
大臣家はかなり落ちて、少なくとも江戸中期以後の官位昇進では羽林や名家の上位数家と
区別されていない。
とくに羽林の最上位4家と大臣家は、旧家のうちしかるべき家に包括されている。
253 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:23:58
大臣家っていう割りには
ここから大臣があまり誕生していないような。
将軍と関白じゃ相当官位が違いすぎるだろ
256 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 10:52:57
いくら貴族が没落したとはいえ
甲斐の片田舎の権力基盤もあやしい武田家に清華家の娘が嫁ぐとはなあ
257 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:09:48
>>252 江戸期以降の話しな。
清華の中でも摂家の門流となっている家とそうでない家がある。
源氏の久我・広幡、藤氏の中でも三条・徳大寺は、門流となって
いないようだよ。
258 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:19:40
259 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 13:15:11
家格形成期(平安中期〜鎌倉初期)に大臣足り得たのが大臣家。
その後に権力者に取り入ったりして大臣になったりして先例を作り、
時々大臣を出せる羽林や名家もあるけど、
家格は一度定まってしまうと簡単には動かないから。
摂家はよほど早死にしない限り大臣にはなれるが、
清華でも大臣になれない場合はあるし、
それ以下はなかなか空きがないということらしい。
260 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 14:20:26
調べたけど
三条家って家格毎に3種類あるんだな。
中でも三条西家ってのが三条家の中では最も
格式あるみたいだ。
家格は転法輪三条家が清華、三条西家が大臣家だが?
262 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 15:37:50
そして武田家と婚姻関係を結んだのは転法輪三条家(清華家)なんだな
三条西家は知行高が転法輪三条より高かっただけだよ。
家格とは関係ない。
ヒストリーチャンネルの「徳川家康と徳川幕府」はしょぼいw
265 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 16:55:56
>>263 なにいってんだコラ!
知行高は大いに家格と関係あるだろうがっ!
摂家筆頭の近衛家は
公家中最高の知行高3000石だぞ。
266 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 17:04:54
前田家の100万石に比べたら酷い格差だなw
267 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 17:17:33
3000石あれば貴族生活はかなりラクチンだと思われますが
参勤交代があるわけじゃなし
養う家臣もいるわけじゃなし
268 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 18:09:42
江戸時代の摂家は現職摂関でなくても人事に発言権があるから、
やはり公家社会では怖い存在だったんだろう。
269 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 18:13:25
家格と知行高は関連があるが、完全に同調しているわけではないので逆転現象も多い。
さすがに摂家より知行高が多い平堂上はないが、清華や大臣家より多い家は何軒かある。
なので知行高が多い=家格が高いではない。
むーん。
鎌倉公方流の喜連川氏は実質4500石で10万石の家格だから、藩財政は火の車みたいだな。
江戸時代の公家って楽チンなの?
271 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 20:27:34
楽なのも有ればそうでないのも有ります。
新家の30石公卿とかは同心クラスなのに格式落とせないからド貧乏。
領地がある家の場合は表高と実高が乖離してる場合もあるし、
近衛家は実収1万石とも言われ非常に裕福だったらしい。
一条とか鷹司あたりは表高も近衛の半分程度で、実高もたいしたことがなく、
摂関に成ったときもらえる給与がかなり魅力だったらしい。
あと家業で免状を出したりして相当儲かる家もあった。
新家30石三人扶持はかわいそうだよね
273 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 22:08:12
あと娘を裕福な大名家に送り込めば、援助もあったらしい。
特に御台所を出した摂家・宮家なんかは特に優雅な暮らしができたのでわ。
また寺社伝奏を持っている公卿も僧官を取り次ぐとリベートもあった。
蔵米の公卿は、儀式に着ていく衣装がすべて自家でまかなえず貸衣装で挑んだとか。
274 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 22:33:52
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r―、-、 tj、 t苙、 ,ィ苙ア lノ
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l !"´! ヾ! ,.ィ竺t:、 リ
l l l 人.'´三`' /l f'^i-、__
| | |,. ―- 、_r≦´、、 `'ー' " ト、 {゙ヽ丶ヽヽ
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ト、_.| l / ̄`ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::`'ー-一'::::〈::ヽ ゙', 、_ ',
ノ `'ー‐(⌒ヽ ノ l::ヽ:::::::::::i::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ:ヽ ゝ -‐ァ
,! __,,.. -r-、`'ーr'´ ノ、:::ヽ::::::::l!:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヾヽ ;'
l ヽ_,.ノ /::ヽ}::::'i,::::::|l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ丶、_,. -‐
{ -‐' ´ ̄ソ /::::::::::::::::|l:::::||::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l!:::::::::::ト-
ttp://www.nicovideo.jp/watch/ut49jki2kpq7c 東方軍 VS 陰陽軍 の戦い 琴姫の役
275 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 23:02:56
>>273 ま、武士でも登城前に質屋に寄って質入れしている裃を借りてから登城するのもいたしね
276 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 14:47:09
結論:近衛家に生まれていればよかった でOK?
277 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 18:15:24
次男以下だと30石公卿にところに養子にやられたりして、
まあ摂家とかは普通は坊さんにされるからそんなことはないようだ。
表向き結婚できなくてもかまわなければそれもいいかも。
278 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 18:49:34
>>271 近衛は酒造地の伊丹を領していたのが大きいかも
279 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:25:04
>>277 貧乏公家に養子に行くくらいなら、門跡寺院に入って美少年の小坊主を侍らせているほうが極楽だ
280 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 01:00:44
いつの世も貧乏って必ずあるんだな…
281 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 11:45:46
江戸時代は下手な農民よりも支配階層の方が貧乏な時代だからなあ
282 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 22:46:15
何の為の支配者層なんだろうな
名誉や地位だけでは生活は厳しいよな
臨戦体制のままだから貧乏になるのは当然。
284 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:46:46
上級公家や皇族の嫡男以外は門跡寺院に入って出家しないとダメだから
辛いね。伏見宮系なんか抹消して江戸時代に宮家増設していたら今、こんな事にならなかったのに・・・
一生童貞、結婚も出来ないって俺は嫌だ。
まあ世俗で貧乏曝すよりも格式の高い寺院でお坊さんやっていた方が家の体面は保てるのだろうが・
285 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 01:07:42
尼門跡の方が勿体ない希ガス
286 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 07:17:21
>>284 いやいや、世の中のことには全て建て前と本音というものがあって、坊さん達も実際は・・・・
287 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 08:19:41
当時医者と城坊主も坊主頭だった。
そこで僧侶が遊郭に行く場合どちらかに化けるのだが、
城坊主の方がもてたそうだ。(付け届けで金があるから?)
まあ京都の場合は医者に化けたんでしょうね。
288 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:37:14
公家石高
寛文5年1665 慶応元年1865 ※小数点以下切捨、50石以下は現米
『摂家』
近衛 1797石 2860石
九条 2043石 3043石
二条 1708石 1708石
一条 1019石 2044石
鷹司 1000石 1500石
『清華』
久我 700石 700石
三条(転法輪) 269石 469石
西園寺 597石 597石
徳大寺 410石 410石
花山院 715石 750石
大炊御門 200石 400石
菊亭(今出川) 1355石 1355石
広幡 500石
醍醐 存在せず 300石
289 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:38:00
『大臣家』
中院 300石 500石
正親町三条 200石 200石
三条西 502石 502石
『閑院流』
正親町 352石 352石
滋野井 180石
姉小路 200石 200石
清水谷 200石 200石
四辻 200石 200石
小倉 150石 150石
河鰭 150石 150石
阿野 478石 478石
橋本 200石 200石
花園 150石 150石
裏辻 150石 150石
梅園 150石 150石
山本 150石 150石
大宮 130石 130石
武者小路 130石 130石
風早 30石3人扶持
押小路 130石
高松 30石3人扶持
園池 30石3人扶持
藪 180石 180石
西四辻 30石3人扶持
中園 130石 150石
高丘 30石3人扶持
290 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:38:35
『花山院流』
中山 200石 200石
飛鳥井 928石 928石
難波 300石 300石
野々宮(野宮) 150石 200石
今城 181石 180石
『中御門流』
中御門(松木) 341石 341石
持明院 200石 200石
園 186石 180石
東園 180石 180石
壬生 130石
高野 150石
石野 30石3人扶持
石山 30石3人扶持
六角 30石3人扶持
『御子左流』
冷泉(上) 300石 300石
冷泉(下) 150石 180石
藤谷 200石 200石
入江 30石3人扶持
291 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:39:34
『日野流』
日野 103石?(1037石?) 1053石
広橋 600石(子息250) 850石
烏丸 954石 954石
柳原 202石 202石
竹屋 180石 180石
日野西 200石 200石
勘解由小路 130石 130石
裏松 130石 130石
三室戸 130石
外山 30石3人扶持
豊岡 30石3人扶持
北小路 30石3人扶持
『勧修寺流』
甘露寺 200石 200石
葉室 183石 183石
勧修寺 708石 708石
万里小路 390石 390石
清閑寺 180石 180石
中御門 200石 200石
小川坊城 180石 180石
芝山 100石
池尻 50石3人扶持
梅小路 50石3人扶持
岡崎 30石3人扶持
穂波 30石3人扶持
堤 30石3人扶持
292 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:40:26
『四条流』
四条 180石 180石
山科 300石 300石
鷲尾 180石 180石
油小路 150石 150石
櫛笥 183石 183石
西大路 100石 100石
八条 150石
『水無瀬流』
水無瀬 631石 631石
七条 150石 200石
町尻 30石3人扶持
桜井 30石3人扶持
山井 30石3人扶持
『高倉流』
高倉 812石 812石
堀川 180石 180石
樋口 200石 200石
『二条分家』
富小路 200石 200石
293 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:19:10
『村上源氏』
六条 265石 265石
久世 200石 200石
岩倉 150石 150石
千種 150石 150石
梅渓 150石 150石
愛宕 130石
東久世 30石3人扶持
植松 130石
『宇多源氏』
庭田 350石 350石
綾小路 200石 200石
五辻 200石
大原 30石3人扶持
滋光寺 30石3人扶持
『王氏(花山源氏)』
白川 200石 200石
『清和源氏』
竹内 187石 187石
294 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:20:17
『菅原氏』
高辻 200石 200石
五条 171石 171石
東坊城 301石 300石
唐橋 182石 182石
清岡 30石3人扶持
桑原 30石3人扶持
『平氏』
西桐院 260石 260石
平松 200石 200石
長谷 30石3人扶持
交野 30石3人扶持
石井 130石
『清原氏』
舟橋 400石 400石
伏原 230石 230石
沢 30石3人扶持
『安倍氏』
土御門 177石 177石
倉橋 150石 150石
『大中臣氏』
藤波 172石 1000石
295 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:20:55
『卜部氏』
吉田 769石 760石
荻原 1000石 1000石
錦織 30石3人扶持
藤井 30石3人扶持
『丹波氏』
錦小路 30石3人扶持
『大江氏』
北小路 60石
『維新後の堂上取立』
松崎(甘露寺分家) 30石3人扶持(慶応3年10/24(1867)列堂上)
北小路(大江氏) 30石3人扶持(慶応3年11/20(1867)列堂上)
岩倉(村上源氏岩倉分家、具視の三男) 40石(明治元年6(1868)列堂上)
玉松(閑院流山本家分家) 30石3人扶持(明治2年1/19(1869)列堂上)
若王子(四条流山科分家) 30石3人扶持(明治2年2/21(1869)列堂上)
296 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:27:27
新家の標準らしい30石3人扶持は別として、200石、180石、150石、130石
が多く、このあたりが標準的なんだろう。
あと300石と100石もきりがいい。
半端なところは家自体に加えて領地自体に由緒があるんだろうな。
摂家の中でなぜか二条だけが加増なし。
とりあえず消滅した家はないようだし、大幅な減封もないようだ。
297 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:40:57
平堂上の新家はどうも200石が最高らしい。
正親町三条は大臣家以上の中で極端に少ないのはなぜだろう?
平堂上での500石以上は旧家の中でも一門の嫡系とか新道関係が多いようだ。
298 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 12:26:20
宮家の江戸時代初期の石高分からない?
幕末なら分かるんだけど。
299 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 17:47:52
残念ながら手持ちの本だと華族と公家しか載ってないので皇族である宮家は不明。
300 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 18:36:26
301 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:40:56
ここは公家スレか?
302 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 22:00:03
公家スレってわけでもないけど最近公家の収入の話が出てたから。
江戸幕府は朝廷の統制に摂家を利用、その見返りなんだろうか摂家は上記の200年で平
均5割領地が増えている。ただしなぜか一条は約倍、二条のみ加増なし。
摂家は現任摂関以外でも公家人事に関与していた。
摂家以外の公家にはこれが大きい訳で、人事権を持つ相手に頭が上がらないのはいつの時
代も変わらない。
徳川は摂家さえ押さえて(飴と鞭)おけばまあある程度の統制が効いたってことだね。
303 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 09:48:17
>>293 >『王氏(花山源氏)』
>白川 200石 200石
これに神祇料100石が付いた
304 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 09:52:32
>>295 >荻原 1000石 1000石
「荻」原じゃなくて、「萩」原。
「荻原でも萩原でもどっちでもいいじゃないか」 byふかわりょう
とは言わせん!!
305 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 11:02:38
>>303-304 神祇料は知ってましたけど家領の表として作ったんであえてはずしました。
注記くらいはして置いた方が良かったですかね。
萩原だったんですか?ずっと荻原だと思ってたんで確かめもしなかったです。
どうもご指摘ありがとうございます。
伯王家って王氏扱いだったのか。王号は単なる慣例で源氏だと思ってた。
307 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 15:31:45
>>306 神祇伯在任中のみ王号を称した。
神祇伯任官前、辞官後は、源朝臣。
萩原 荻原
309 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 15:50:51
310 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 14:42:47
摂関よりも将軍の方が宮中序列上なのか・・・
官位よりも権力が上って事だね。
家茂上洛の時はどうだったんだろ?
家茂上洛の時は「幕末の宮廷」によるとずいぶん待遇が落ちたらしい。
「お気の毒なことでした」って談話にあったような。
語り手は一条家の家臣の人。
312 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:24:20
伯王家が単なる白川子爵になったのは納得がいかんな。
せめて、王にしてやればよかったのに。
313 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:36:30
>>310 1862年に文久の改革で変わったからね。
家茂上洛は1864年
314 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 22:29:40
315 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 22:35:18
>>93 明治以降で言うのなら朝鮮は反乱を起こしたわけでも征服したわけでもないから、
遼東半島守備隊から派生した満州の関東軍司令官が征夷大将軍だろ。
板垣征四郎、戦後の戦犯だな。
事実上軍民両方の実権を握り統帥権を公然と犯し事変と詭弁して開戦した。
正しく征夷大将軍だよw溥儀は傀儡同然で武家政権が圧倒した頃の天皇家と
同じ立場だろ。
そういえば将門も単なる謀反人だったなw
317 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 20:11:39
>>312 そりゃ無理。
王号つったって神祇伯に付いてたようなもんだし。
花山源氏というマイナーな存在でありながら堂上の家格を維持できただけ御の字。
伯家神道自体が吉田神道に負けて衰退してたって事情もある。
確か最初は三条源氏かなにかがライバルだったよね。
319 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 23:10:16
>>242 勧修寺家が勧修寺の嫡流じゃないのは確かだが。
320 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 23:13:02
理由を付けると師輔の子孫が九条流と言っても九条家を嫡流と呼ばないのと同じ事。
321 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 23:21:46
そもそもウィキの「摂家」の項目に「摂家は皇族か摂家からしか養子を迎えることが出来なかった」とあるのだから、摂家が必要に応じて皇族から養子を迎えるのは当たり前じゃないの?
322 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 23:24:58
>九条家を嫡流と呼ばない
これは誰が言ってるの?
wikiにしか書かれてないんだけど
ていうか情報源はどこよ?
なんの本に書かれてるんだ?
323 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 00:38:23
>>322 そういう意味では無いと思うぞ。師輔の子孫が九条流と呼ばれる事もあるが
師輔の子孫の嫡流は近衛という説が強いとかそういう意味じゃね?
家名と流派を混同しているだけと思われ。
近衛流なんていう言葉はあまり使わないでしょ?
324 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 20:24:51
九条兼実の末裔を括るとしたら、九条家は嫡流だろうけどね。
325 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 21:40:34
現実的な話しとして、徳川将軍家と関白や摂政の着座はどっちが上座になるの?
326 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:59:01
上下関係が付かないようにみんな輪になって座るらしいよ
327 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 07:35:09
>>325 形式的には摂関家。ただし、将軍が太政大臣を兼任していれば別。
328 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 09:59:29
329 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:02:48
>>325 >>328は、つまり
左大臣大御所秀忠→将軍右大臣家光→近衛関白左大臣→一条右大臣
の順。関白左大臣よりも将軍右大臣のほうが上座。
330 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:55:49
江戸時代の摂関は幕府によって朝廷内統制のために改めて創設されたようなものだから
将軍より下なのはしょうがないというか当たり前のような。
戦国時代の摂関家は天皇とほとんど縁がなかったそうだ。
官位をもらっている以上没交渉ってことはないだろうが、
殆ど参内もしなかったらしい。
天皇の周りのいるのは少数の近習公卿だけ。
最後にはその連中もあまり寄りつかなくなり女官だけ。
332 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 22:41:14
道長のような摂政ならいいね。
>>331 殺生関白政基みたいに天皇から勘当されちゃうのもいたしね
334 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:03:12
歴代の摂関でもっとも権勢を誇ったのって誰ですか?
道長
336 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:22:44
秀吉
337 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 20:32:15
頼通が最強だと思う。半世紀も摂関の地位にいたんだから内覧のみの道長は足元にも及ばない。
天皇を廃立した基経じゃないのかな?
良房も好きかってしたけど、皇太子しか廃立していない。
>>337 長けりゃいいってもんじゃない。
道長は一上として太政官を主導するため、わざと内覧に留まった。
(摂関は陣定に出られないため)
摂関の地位にこだわって、その実、権力が弱く院政を招いた頼通は所詮ガキ。
摂関家の衰退は頼通死後の頼通系と教通系の争いが原因って説もあるみたいね。
341 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:22:13
所詮道長は摂関になってないんだから50年も摂関の地位を守った頼通はある意味すごい。
342 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:32:49
>>331 近衛前久なんか現任の関白のまま、
越後行っちゃうしな。
摂関なんてヴァカでもなれる
344 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:47:09
>>331 戦国時代は、立后も立太子(南北朝期から)も中絶しちゃうんだよね。
つまり、皇后(中宮)は摂家から出る場合が多いわけだから、天皇家と摂関家が
血縁的に疎遠になってしまってる。
>>341 道長は、関白はやってないけど、摂政はちょっとやったよ
まあ世間で言うところの馬鹿程度なら摂関は勤まる。
精神的または知能的廃人ではさすがに無理。
征夷大将軍は廃人でも大丈夫そうだ。
346 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:11:50
このスレ的には
頼通>>道長なの?
347 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:26:23
刀伊入寇での無能ぶりを考えると秀吉のほうが最強
348 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 00:15:23
>>345 征夷大将軍は、幼児でも知障でもなってるからね。
ちなみに
摂政の最年少は12歳(木曽義仲のクーデター時の松殿師家)
関白の最年少は16歳(二条院の時の藤原基実)
摂政12歳って摂政の意味ないよなあ
あれは親父が事実上の摂政だから。
しかし十二歳といっても数え年、つまりは小学生相当の年齢が摂政なんだよな。
351 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 15:22:58
道長も摂政辞めたあとは太閤と呼ばれてたの?
352 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 16:55:13
「小右記」には太閤って書いてある。
353 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 17:51:30
前関白が太閤でしょ?
摂政の場合も太閤なの?
354 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 18:15:27
摂政や関白の経験者が太閤じゃなかったの?
356 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 19:50:49
今太閤って今いくよのこと?
こういうものはいつか例外とか拡大解釈とか出てきがち。
うろ覚えだけど、誰だったか前関白で次の関白が他人なのに特に太閤とされた例が有った
と思う。
359 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 00:27:57
>>350 むしろその後無官のまま生涯を送ったことが悲惨だな。
太閤【たいこう】
摂政、または太政大臣の敬称。前摂政、関白、前関白についても称された。
出家すると禅閤。
361 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 07:46:10
>>344 院政期に摂関家が確定してからは、摂関家はそれほど熱心に天皇との婚姻には取り組んでない。
362 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 08:27:46
太閤 整理するとこうなります。
太政大臣・摂政の敬称。
子に関白を譲れば太閤と称します。
特に五摂家成立意向は、親から子へ関白に就任しないケースが多く
内覧の宣旨が出ないと太閤とは言いません。
これがなければ、前関白と称します。
363 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 11:05:57
摂政殿下
365 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 14:14:09
>>349-350 後鳥羽院 数え3歳
摂政松殿師家 数え12歳
後白河院政は停止中
安徳天皇(数え6歳)は平家と共に西国在国
>>362 まとめ役を買って出るなら、まず正しい日本語を書け。
>>364 関白は官でなく職、太閤は職でさえない。
本来は単なる敬称、後代になると肩書きとは言えるかも。
もしかすると待遇ではあるかもしれない。
368 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 16:44:11
>>367 ん、ちょっと分からないんだが官ではなく職とはどういうこと?
369 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 17:27:17
摂政関白経験者に対する敬称に過ぎない。
370 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 18:13:51
371 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:07:51
道長は摂政を半年位しかやってないの?
>>370 Thanks
俺は二官八省とか言うぐらいだから、官=行政機構、(官)職=行政機関と理解してたのだが、
そうでもないんだな。
中国だと官は機関の方だね。対比的に吏がいる。
律令日本には吏っていう行政用語あったのかな。
なんかモヤモヤとした疑問が出てるんだけどその疑問が何だかが、俺バカだから分かんねw
太閤は制度ではなく有職故実の世界だから、有力な説はあっても定義はなく、
別の使い方をしても本来的には誤りではない。
そのため現職関白を太閤と呼んだ例もあり、西宮記にそういう例がまとめてあるそうだ。
前例主義の公家社会では慣例化してしまうと事実上の制度になってしまうけどね。
376 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 11:27:34
このスレは勉強になる!
377 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 19:01:33
現職の摂関を太閤などと呼ぶ事は絶対にない。幕末34余年に亘って関白を独占した鷹司政通でさえ、
辞任後にやっと長期在職間の功を持って、特別に太閤の称号を許されている。
太閤は官職唐名に類するもので、元々は個人レベルの雅称であり、当然定制はない。
従ってその時点では現職関白を太閤と呼んでも本来的には間違いではない。
しかしそのうちに元関白で現職関白の父である人を太閤と称するコンセンサスが生まれ、
さらにそれが慣例化してしまうと、自然にそれ以外の使い方は消滅した。
しかしそうなってもあくまで慣例的照合にすぎず、本来は勅許を出すようなものではない。
さらに時が流れ江戸時代ともなると、慣例=先例と制度の区別が事実上消滅し、本来太閤
と呼ばれるべきでない人を特に太閤と称するような倒錯さえ生じた。
近衛大将の唐名を幕下と称し、征夷大将軍頼朝が右大将でもあったことから転じて将軍も
幕下と称されるようになった。
柳営(中国の故事による将軍の別名)は通常征夷大将軍の唐名だが、当初は当然のことだ
が将軍専用の唐名と言うわけではなかった。
このため内大臣一条兼良が近衛大将の時に柳営と称したところ、足利義持が見とがめて後
小松上皇に訴えたため、兼良は一時引きこもることになった。「兼宣公記」
こうして以後柳営は将軍専用の唐名となっている。
太閤に関してはそのようなエピソードは伝えられていないようだが、似たような経緯があ
ったのかもしれない?
>>378 ハナから99.9%までわくわくしながら読んで、最後の1文字にがっかりした
380 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 20:49:37
>>378 ニュースソースは「官職要解」やね。ほぼ丸写し。
381 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:57:40
そういえば、源氏長者や藤原氏長者なんかも、元々はそれぞれの氏族の中で
勝手に決めていたものだけど、鎌倉期くらいから天皇によって宣下されるものに
変わったんだよね。
勝手にじゃなくて、最も高位の者。
わらしべ長者は和良師部の最も高位の者
>383
童部氏じゃなかったか?
鎌倉時代になると摂関家執事も低年齢化して親とかが実務を見たりしているそうだ。
第二次大戦でも司令官を差し置いて参謀が好きかってやってたし。
日本の役職と言うものはなんでも形骸化してしまう定めなのだろうか。
386 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 10:24:11
摂関の執事ってどういう家?
門下の堂上公卿? それとも地下諸大夫?
平安後期あたりだと弁官コースの家の出身で四・五位の頃に務めるそうだ。
公卿に昇進すると執事をやめるらしい。
家格が固まった以降の堂上中の名家と系譜的には繋がる家系。
388 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 13:26:08
幼少関白だけは秀吉でも実現することはできなかったわけだな
389 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:14:27
>>382 保元の乱の直前における忠通と頼長はどちらが高位ですか?
390 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:59:09
>>360 左右大臣や内大臣クラスでも太閤・禅閤っていわない?
391 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 17:00:33
生前に正一位をもらった人って歴史上何人いるの?
>>391 藤原鎌足、ただし正確には大織冠(正一位相当)
藤原武智麻呂(南家の祖、鎌足の孫)
この二人は公式には死の直前と言うことになっている。
本当はもう死んでいたが生きていることにして叙位の可能性有り。
橘諸兄、藤原仲麻呂(武智麻呂の次男、後謀叛誅殺)、藤原永手(北家、鎌足の曾孫)
この三人は叙位と死亡にかなり間があるので間違いなく生前。
女性はよく知らないけど、男性は以上五名だと思う。
>>389 1149年に頼長が従一位になってる。
忠通の位階は確認してないけどどう考えても従一位なのは間違いないから、
乱直前だと位階は同じだと思う。
394 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:13:34
あっそうなの?平安からせいぜい鎌倉時代までしか意識になかった。
396 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:54:04
>>393 位階が同じ場合は、先にその位に昇った人のほうが上席なのが原則だよね?
397 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 00:54:13
従一位左大臣と正二位関白内大臣はどっちが上なの?
摂関が一番上なのだろうけど位階ではどーなるんだり?
398 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 02:50:22
摂関の場合は就任と同時に一座宣旨を受けるから、他の官位に関わらず臣下の最上席になるんだろ。
豊臣秀次は一の人ではなかったようだが。。。
400 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:33:40
関白なのに殺されてしまう人だからなぁ、秀次さんは
他にも関白で殺されてしまう人っていたっけ?
俺は五位くらいでいい
402 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 10:44:48
摂関・征夷大将軍の官位についてちょっとだけ考えてみた。
摂関は本来は太政大臣相応の職だったから、相当位はないのだが一位相応と想定されてい
たのだろう。
とは言え太政大臣も二位でなることがあったし、左大臣以下で摂関になることも当たり前
になってきたので摂関は通常従一位または二位がなる職と言えよう。
例外、兼通は従三位のまま関白になったらしい、その後急激に位階を上昇させてはいるが。
最低でも公卿である必要はあっただろうし、実際現職大臣か大臣経験者がなっているから
従三位は下限なのだろう。
征夷大将軍も相当位はないんだけど、設立時は四位あたりがなるものだと想定されていた。
その後官位自体のインフレに伴い征夷大将軍にふさわしいと考えられる位階も上昇の傾向
はあるが、といって五位でなれないと言うわけではなく実例もある。
やたらに位階が上昇したのは江戸幕府になってから。
しかし考えてみれば、摂関や征夷大将軍にして正一位って人は一人も居ないんだな。
ところで准三宮って何人居るんだ?
406 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 23:39:54
豊臣秀吉って正一位じゃなかったっけ。
407 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 00:01:39
>>406 それはガセネタです。
奴も贈正一位です。
408 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 02:00:47
藤原道長が好き。
409 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 13:14:40
じゃあ
藤原鎌足
藤原武智麻呂
橘諸兄
藤原仲麻呂
藤原永手
三条実美
の6人?
410 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 17:39:39
>>405 准后は沢山いるよ。
藤原良房から九条尚忠まで222人います。
内訳は摂関准后が38人、皇族准后が62人、後宮准后が51人、
僧徒准后が57人(内、皇族が16人、非皇族が41人)、
その他が14人(男性6人、女性8人)となっています。
その他14人の男性6人てのは平清盛、北畠親房、足利義満、足利義政、足利義視、
足利義昭です。足利義教は僧侶であった時に准后となっているので、
その他には含まれていません。
ずいぶん多いんですね。
しかし足利は多く例があり、徳川はなし。
徳川家の将軍は准三宮以上だったってことなのかな?
なにか徳川将軍とそれ以前は質的に違うような気がしてたけど、
こういうところもその現れなのかな?
412 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 22:26:37
>>410 >後宮准后が51人、
これは、側室だけど息子が即位→女院号宣下→准后宣下
のパターンだけじゃなくて、
孝明天皇のお后のように、本来中宮になってもおかしくないのに、
准后に留められた人も含んだ数?
413 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 22:36:07
正一位は基本的に贈位階です。
ああ、旧日本軍の「元帥」みたいなもんか。
>414
元帥は基本的には生きている人が任命されるもんですが。
あましイイ例えでなかったな。
「死後に追贈」が似てると言う事でなく、相応する職務がない名誉階級みたいなモンかという意味だったのだ。
もっとも山本・古賀両長官の例から、大将は殉死してもそれ以上偉くなれないから
死後に「元帥」の称号が与えられると思っていた事がある。
417 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 19:24:33
内覧任命で摂政棚age
418 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 01:52:40
徳川家は嫡子は大納言、将軍になって源氏長者淳和奨学院別当内大臣正二位
長生きしたら太政大臣迄出世可能と年齢問わず決まっていたけど足利家の場合の
叙位昇進はどういうコースだったの?左馬頭から太政大臣までっていうのが極官なのだろうけどさ。
419 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 09:55:48
元から嫡子だった場合、元服後に5位から始まって将軍就任後、普通に生きていれば40歳位で
大臣になれる位じゃない?
足利の場合、摂家よりも遅いが清華よりは早いレベルだと認識している。
10代以降は在位が極端に短くて大納言まですら義昭しかいないが。
でも准三后なんだよな義昭って
421 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 12:52:44
422 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 02:32:30
>>419 在位じゃなくて在職ね。
でも義稙あたりは最終的に従一位までいってなかったっけ?
義澄・義晴・義輝なんかの場合は、在職期間がさほど短いわけではないが、
将軍になったのがかなり幼年で、なおかつ若くしてその座を追われたり死んだり
しているから、全般的に極官が低めなんだと思う。
>>420 義昭は最終的に豊臣政権下でも身分保障されているから。
423 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 06:55:43
朝廷も、征夷大将軍の地位を相対的に下落させる為に「征蛮大将軍」だの「征戎大将軍」だのを設置すればよかったんじゃない。
南朝は征西大将軍だの鎮守大将軍作ってますね。
425 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 10:32:03
大臣家で希、清華の当主ですら半分位しか大臣になっていないのだから足利はそれと同等、以上の
家格はあったんじゃ? と思ってみる。
426 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 10:43:16
適当にマジレス
>>423 案外いいかもしれない。
律令はやはり大陸の影響を受けているから文官が上の扱いを受けてることは否定できない。
親王家や摂関家なんかが武官職(勿論それなりの権限がある)を経験する慣例になってたら歴史が変わったかもしれない。
むしろ源平の争いの時期に、先例のある征西大将軍・鎮西将軍・征東将軍あたりをいかして、
平家が征西大将軍または鎮西大将軍、源氏が征東大将軍、奥州藤原氏が鎮守大将軍
とかにしとけば、相対化できたかも。
428 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 11:32:10
懐良親王は征西大将軍やってなかったかのう
429 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 11:42:25
じゃあ俺も
>>423にマジレスするけど複数の武官職を並立した場合
結局潰しあいで武家は統一されるんじゃないの?
摂関家を将軍にしても下向して土着化しないかぎり単なる飾り物になるだろうし
土着化した場合は摂関家としての権威は失われる。
まあ考えてみると義家は源平氏両方の棟梁なんで、これを超える権威を作るのは難しいな。
431 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 21:58:23
天皇も安東大将軍だった。
432 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 00:41:36
>>423 出羽国成立後の律令国家は、陸奥の住民を「蝦夷」、出羽の住民を「蝦狄」と
呼んで区別していたようだから、「征狄大将軍」はあってもよかったかもね。
>>424 鎮守府将軍は別に南朝が新たにつくった官職というわけではない。
>>425 義満以降の将軍は元服の形式などの点では摂関と同格。
親王の形式とされる義嗣は別だが。
>>426 摂関家の子弟は近衛府系の官職を経験してない?
これも一応武官系のはずだけど。
>>428 懐良親王のは「征西大将軍」なの?
単なる「征西将軍」だと思ってた。
433 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 05:06:31
国師とか大師は摂政関白より上か
434 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 11:53:21
>>432 摂関家の任じられる羽林職にどんな「権限」があるというんだ?
別に、武士政権の力の源が「将軍職」にある訳じゃないだろ。
木曽義仲、守良親王だって征夷大将軍だったじゃん。
436 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 12:57:12
>>435 将軍職だけにあるわけじゃないってのはその通り
しかし将軍職についてくる権限は結構強いのも事実
まあ実際に鎌倉幕府が成立する過程を見ればわかりやすいんだが
侍所と政所と問注所を設置することによって政権基盤ができるわけだが
平氏を中央政権から追い落としてさらに守護、地頭の任命権を得られるようになって
初めて政権運営が可能になったわけだ
だがしかし、それらは頼朝が征夷大将軍だから得られた特権によるものではないというのが面白いところだ
まあこれらの整備をしたころには征夷大将軍ですらないしね
まあそれ以前の政治が権門政治だから区分けはしにくいと思うが
わかりやすいのは頼朝の子孫が途絶えてもこれら統治機構が機能していれば
どんな将軍が来てもちゃんと運営できていたでしょ
437 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 13:19:18
政所は本来的には三位(公卿)以上の者が自分の家における家政機関。
鎌倉幕府の場合、頼朝が公卿身分になった段階で公文所の政所への改組が
行われた。
足利尊氏の場合は、建武政権下で既に公卿身分だったので問題なかった。
438 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 13:39:52
素人目からは征夷大将軍が強いのではなく、征夷大将軍に任じられる家が強いように
思えるのだけれど・・
439 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 13:48:05
太政大臣・摂政・関白?
流れを読まずに、鎌倉公方って何者?
本来の幕府の職名としては関東管領ですよね。
いつから公方になって、執事が関東管領になったの?
鎌倉公方の時期の正式な職名はあるの?
単に自称ないし敬称で正式には関東管領のまま?
>>440 ちょ。中学生?
鎌倉幕府と室町幕府がごっちゃになってるよ。
>>440 あーオレのほうがアホみたいなレスしてるw
鎌倉公方=鎌倉府の長官
関東管領=鎌倉公方の補佐
京都の将軍-管領の鎌倉府版ね。
鎌倉公方は足利氏、関東管領は上杉氏
443 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 12:31:27
鎌倉公方とか鎌倉府という用語自体、室町時代に実際に使用されていたものではなく、
後世の学者が便宜上使っている呼称(歴史学上の用語)にすぎない。
建武政権の陸奥将軍府とか鎌倉将軍府も同様。
444 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 15:06:38
鎌倉公方は当時の史料上に出てくる用語だと思ったが。
鎌倉公方に対応させて京都の将軍のことを京都公方と言っている例も関東には存在する。
ただ正式には「関東府」「関東公方」というべきだろうが。
激しくスレ違いだけど、織田秀信が東軍についていた場合どうなるんだろう?
まあ彼にはそう言う決断は出来なかったと思うが、万が一そうした場合。
この場合徳川家としては取りつぶす理由がない、
むしろいくらかは加増せざるを得ないだろう。
そうすると過去の経緯から言って客分的存在になるそれなりの勢力が残ってしまう。
律儀を標榜する家康としては理由なしに恩人の孫を取りつぶすわけには行かない。
さてそうすると婚姻関係を結んで准一門化あたりが落としどころか?
継承権はないけど御三家並みの家格の家になったりして。
史料に出てくるのは鎌倉殿じゃないの?
447 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 21:53:46
>>445 秀頼と同じで難癖着けられて改易されただろう。
448 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 23:10:12
日本史の授業では摂関政治のところで「政所」「侍所」のことを教えない。
だから鎌倉幕府のところでいきなり武家政権を頼朝が組織したように錯覚する。
>>448 武家政権を組織したのは頼朝で間違ってないよ。
政所は公卿の家政機関だから三位以上だっけ?は設置できるけど、侍所は摂関期に出てくるか?
450 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 01:36:29
>>446 鎌倉公方のことを「鎌倉殿」と呼んでいる史料はいくらでもありますよ。
ただ「鎌倉殿」以外の呼称で呼ばれることも普通にありますよ。
京都にいる足利将軍だって史料によって
「室町殿」「公方様」「御所様」「大樹」など様々な呼ばれ方をしますからね。
451 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 08:48:06
>>445 激しくスレ違いだが
普通に高家にされて終わるだろ
452 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 11:00:02
岐阜13万石が30万石位に一端加増、難癖付けられて改易、高家でオッケー?
マジスレ違いだな。
453 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 11:29:27
侍所は政所とともに公卿の家政機関。ただし摂関職に就くと侍所は蔵人所に名を改められる。
454 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 11:45:57
ちょっとすまぬ
スレの流れからして征夷大将軍ってあまりすごくなさそうに思えるんだが
頼朝って別に征夷大将軍にならなくてもよかったってことか?
だとしたらなんでなったん??
それがなければ尊氏も家康も征夷大将軍なんて名乗らなかったわけでしょ?
>>454 関東武家の…というよりも、義家公以来の武家源氏の夢を叶えるには
征夷大将軍の地位を得る以外に方法がないのではないかと思われるが。
456 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 12:28:02
河内源氏の権威付けってこと?
権威付けは近衛大将になった時で十分なされてるんじゃ?
権威付けだけなら近衛大将で十分だし、源頼政の後を継ぐ格好でもいいはず…
459 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 17:58:02
関東武家の棟梁という意味では征夷大将軍のがいいんかねえ
征夷大将軍て持節将軍だろ。
天皇の代理として配下の軍や支配地域の全権を任せられるって事だろ。
近衛大将は親衛隊長だからンナ権限ないんでないの?
@足利高氏→尊氏(従五位下讃岐守貞氏の子。1305〜1358、54歳)
従五位下治部大輔(1319、15歳)→従五位上(1332)→鎮守府将軍(1333)→従四位下
左兵衛督(1333、29歳)→従三位武蔵守(1333、29歳)→正三位→参議(1334、30歳)→
従二位(1335、31歳)→征東将軍(1335)→権大納言(1336、32歳)→正二位征夷大将軍
(1338、34歳)→権大納言辞任(1343)→贈従一位左大臣(1358)
足利直義(従五位下讃岐守貞氏の次男。1306〜1352、47歳)
従五位下兵部大輔(1326、21歳)→左馬頭(1333)→正五位下→相模守(1333)→従四位下
(1334、29歳)→従四位上左兵衛督(1338)→従三位(1344、39歳)→辞任(1349)→出家
(1349)
征夷副将軍(1338、33歳)とも、贈従二位とも
足利直冬(正二位権大納言・征夷大将軍尊氏の庶長子。1327〜1400?、74歳?)
右兵衛佐(1338、13歳?)→従四位下宮内大輔→鎮西探題(1349、23歳?)→総追逮使
(1353、27歳?)
A足利義詮(正二位権大納言・征夷大将軍尊氏の第三子。1330〜1367、38歳)
従五位下(1335、6歳)→正五位下(1344、15歳)→左馬頭(1344)→従四位下(1346、17歳)
→参議・左中将(1350、21歳)→従三位(1356、27歳)→征夷大将軍(1358、29歳)→
武蔵守(1359)→権大納言(1363、34歳)→従二位(1363、34歳)→権大納言辞任(1365)→
正二位(1368、38歳)→贈従一位左大臣
足利基氏(正二位権大納言・征夷大将軍尊氏の子(次男とも)。1340〜1367、28歳)
従五位下左馬頭(1352、13歳)→左兵衛督(1359、20歳)→従三位(1364、25歳)
B足利義満(贈左大臣義詮の子。1358〜1408、51歳)
従五位上征夷大将軍(1368、11歳)→従四位下参議・左中将(1373、16歳)→従三位
(1375、18歳)→従二位権大納言(1378、21歳)→右大将(1378)→馬寮御監(1379)→
従一位(1380、23歳)→内大臣(1381、24歳)→左大臣(1382、25歳)→蔵人所別当→
院執事(1382)→准三宮(1383、26歳)→右大将辞任(1384)→左大臣辞任(1388)→左大臣
(1392)→左大臣辞任(1393)→太政大臣(1394、37歳)→太政大臣辞任(1395)→出家(1395)
足利氏満(基氏の子。1359〜1398、40歳)
関東管領(1367、9歳)→従五位下左馬頭(1373、15歳)→従四位下左兵衛督(1380、22歳)
→従三位(1392、34歳:公卿補任には見えず不審?)
C足利義持(太政大臣義満の子。1386〜1428、43歳)
正五位下左馬頭(1394、9歳)→左中将・征夷大将軍(1394、9歳)→従四位下
(1395、10歳)→美作権守(1396)→正四位下→参議(1396、11歳)→従三位(1397、12歳)
→権中納言(1397、12歳)→正三位(1398)→従二位(1400、15歳)→権大納言
(1401、16歳)→正二位(1402)→従一位(1402、17歳)→右大将(1406、21歳)→馬寮御監
(1407)→内大臣(1409、24歳)→右大将辞任(1412)→内大臣辞任(1419)→
征夷大将軍辞任(1423)→出家(1423)
足利満詮(贈左大臣義詮の次男。1369〜1418、50歳)
従五位下(1377、9歳)→左馬頭(1380)→右兵衛督(1380)→正四位下(1402)→参議(34歳)
→従三位(34歳)→参議辞任(1402)→権中納言(1403、35歳)→従二位権大納言(35歳)→
出家(1403)
贈従一位左大臣とも?
足利満兼(氏満の長子。1378〜1409、32歳)
従五位下左馬頭(時期不明)→関東管領(1397、20歳)→従四位下左兵衛督(没時)
足利満貞(氏満の次子。?〜1439)
従五位下左兵衛佐(時期不明)
足利義嗣(太政大臣義満の次男。1394〜1418、25歳)
従五位下(1408、15歳)→正五位下左馬頭→従四位下(15歳)→参議(15歳)→左中将→
従三位(1408、15歳)→加賀権守(1409)→権中納言(1409、16歳)→正三位(1410)→
従二位(1411、18歳)→権大納言(1411、18歳)→正二位(1414)→出家(1416)
贈従一位とも?
D足利義量(内大臣義持の子。1407〜1425、19歳)
正五位下右中将(1417、11歳)→征夷大将軍(1423、17歳)→従四位下(1424、18歳)→
参議(1424、18歳)→正四位下(1425)→贈従一位左大臣
足利持氏(従四位下左兵衛督満兼の子、1398〜1439、42歳)
関東管領(1409、12歳)→左馬頭(1410、13歳)→従三位左兵衛督(1420、23歳)→出家
(1438)→自殺(1439)
足利持仲(従四位下左兵衛督満兼の次子、?〜1417)
従五位下右衛門佐(1411)
E足利義教(太政大臣義満の四男。1394〜1441、48歳)
出家(1408、15歳)→大僧正→准三宮→天大座主(1419、26歳)→従五位下左馬頭
(1428、35歳)→従四位下(1428、35歳)→参議・左中将・征夷大将軍(1429、36歳)→
従三位権大納言(36歳)→右大将→従二位(1429、36歳)→右馬寮御監(1430)→従一位
(1430、37歳)→内大臣(1432、39歳)→左大臣(39歳)→殿上別当・院大別当(1432)→
右大将辞任(1433)→左大臣辞任(1438)→殺害(1441)→贈太政大臣
F足利義勝(左大臣義教の長男。1434〜1443、10歳)
従五位下(1441、8歳)→正五位下左中将・征夷大将軍(1442、9歳)→贈従一位
足利成氏(持氏の子。1434〜1497、64歳)
左馬頭(1449、16歳)→従四位下(1451、18歳)
G足利義成→義政(左大臣義教の第二子。1435〜90、56歳、1436生55歳とも)
従五位上(1446、12歳)→正五位下侍従(1447)→左馬頭(1448)→征夷大将軍(1449、15歳)
→従四位下参議・右中将(1449、15歳)→従三位(1450、16歳)→権大納言(16歳)→
従二位(1450、16歳)→従一位(1453、19歳)→右大将(1455、21歳)→右馬寮御監
(1456、22歳)→内大臣(1458、24歳)→左大臣(1460、26歳)→右大将辞任(1461)→
准三宮(1464、30歳)→左大臣辞任(1467)→征夷大将軍辞任(1473)→出家(1485)
足利政知(贈太政大臣義教の三男。1435〜1491、57歳)
出家→従五位下(1457、23歳)→左兵衛督→従三位(1475、41歳)
足利義視(左大臣義教の十男。1439〜1491、53歳)
出家→浄土寺門主→従五位下左馬頭(1464、26歳)→従四位下(1465、27歳)→参議
(27歳)→従三位権大納言(1465、27歳)→従二位(1466、28歳)→正二位(1467、29歳)→
解任(1468)→出家(1489)→贈准三宮(1491)
H足利義尚(左大臣義政の子。1465〜1489、25歳)
正五位下左中将・征夷大将軍(1473、9歳)→従四位下(1474、10歳)→正四位下(1475)→
参議(1475、11歳)→従三位(1476、12歳)→正三位(1477)→従二位(1479、15歳)→
権大納言(1480、16歳)→従一位(1483、19歳)→右大将(1485、21歳)→右馬寮御監(1486)
→内大臣(1488、24歳)
I足利義材→義尹→義稙(権大納言義視の子。1466〜1523、58歳)
従五位下左馬頭(1488、23歳)→従四位下参議・右中将・征夷大将軍(1490、25歳)→
征夷大将軍辞任(1493)→参議辞任(1501)→従三位権大納言・征夷大将軍(1508、43歳)
→従二位(1508、43歳)→出奔(1513)→帰京(1513)→征夷大将軍停止(1521)→贈従一位
太政大臣(1535)
J足利義遐→義高→義澄(従三位左兵衛督政知の子。1480〜1511、32歳)
出家→従五位下(1493、14歳)→正五位下左馬頭(1494)→征夷大将軍(1494、15歳)→
従四位下参議・左中将(1502、23歳)→従三位(1503、24歳)→出奔・参議辞任(1508)→
贈左大臣?太政大臣か?
K足利義晴(贈左大臣?(太政大臣か)義澄の子。1511〜1550、40歳)
従五位下(1521、11歳)→正五位下(従五位上とも)左馬頭→征夷大将軍(1521、11歳)→
従四位下参議・左中将(1522、12歳)→従三位権大納言(1530、20歳)→右大将
(1546、36歳)→征夷大将軍辞任(1546)→贈従一位左大臣(1550)
足利義維→義冬(義澄の次子。1509〜1573、65歳)
従五位下左馬頭(1527、19歳)
L足利義藤→義輝(右大将義晴の子。1536〜1565、30歳)
従五位下(1546、11歳)→正五位下左馬頭→従四位下征夷大将軍(1546、11歳)→参議・
左中将(1547、12歳)→出奔(1553)→殺害(1565)→贈従一位左大臣(1565)
M足利義親→義栄(義澄の孫、義維→義冬(義澄の次子)の子。1538〜1568、31歳)
従五位下左馬頭(1566、29歳)→征夷大将軍(1568、31歳)
N足利義秋→義昭(贈左大臣義晴の次男。1537〜1597、61歳)
出家→従五位下左馬頭(1566、30歳)→従四位下参議・左中将・征夷大将軍(1568、32歳)
→従三位権大納言(1569、33歳)→出家(1588)→准三宮(1588、52歳)
足利政氏(成氏の子。?〜1531)
従四位下左馬頭
足利晴氏(政氏の孫、高基の子。?〜1560)
河内守(1528)→従四位下左兵衛督(1549)
足利家歴代将軍の官途の特徴(独断と偏見)
初任は位は従五位下から正五位下、官は左馬頭が多い。
五位→従四位下→従三位と言う昇進が通常で、中間の位階は普通飛ばされる。
正三位・正二位も飛ばされることがある。
左馬頭→中将(左右ともあり)→参議→権大納言→内大臣→左大臣→太政大臣(義満のみ)
で、権中納言は普通飛ばされる(義持は例外)。右大臣にもならない。
少将にはならない、右大将に成ることがある。
かなりの年数同じ官位で、その後中間を飛ばして昇進することが多い。
前将軍の死後でも、後継者があまり若年だとすぐに将軍に成らないことがある。
左馬頭は将軍就任予定者の他関東管領=鎌倉公方就任予定者、将軍の庶子・弟も任ぜら
れることがある。ただしそれ例外は原則任じられない。
九代義尚以前と十代義稙以後で官位昇進に関しては明らかに家格の低下がみられる。
律令制が崩壊した状態では名分にすぎないけど
征夷大将軍には関東での徴兵権がある。
独立傾向の強い関東武家を統帥するには良い名分だから。
>>467 11代以降は源氏長者にすらなれなかったしな。
470 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 00:00:42
征夷大将軍は近衛大将と違って全権委任があるから頼朝にとっては必要だった。
近衛大将で名をとって征夷大将軍で実をとったってことですね
472 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 09:33:55
本来の征夷大将軍の権力範囲ってのは確かに関東なんだが
鎌倉幕府で守護・地頭という名目で関東武士を日本全国に配置した
つまり関東武士の棟梁という名目がそのまま天下を意味するという意味を持つようになるわけだ
473 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 13:56:14
散々官位には興味を持っていなかったとされている織田信長
彼は上洛後から着々と昇進を続け1574年に参議となるととんとん拍子に出世する
まあ事実上天下人なんだから当たり前と言えば当たり前なんだが
長篠合戦後すぐに権大納言、その直後に右近衛大将を兼任
翌年内大臣になりさらにその翌年に右大臣になる
さて、ここで注目
1577年に右大臣兼右近衛大将ということになる
翌年これを返上するに至るわけだがここでいろいろな憶測が現代にも残る元凶となる
なぜここで右大臣兼右近衛大将を返上したのか?
近衛前久が工作をし関白にさせる準備だったのではないか
またこれが本能寺の変に繋がるのではないか
だが忘れないで欲しい
右大臣兼右近衛大将、つまり大臣大将を欲して認められなかった藤原信頼を思い出しはしないか?
信長は見事にその大臣大将に就任したわけだ
そして達成した直後もういらないとばかりに投げ出しているだけに見えはしないだろうか?
蘭奢待を切り取った時のように天下人としての振る舞いの一つとしての大臣大将就任をしたかっただけなのではないか?
すると本当に信長は官位に興味を持っていない人間だったのか?
本能寺の変に繋がるかもしれない関白就任説もこう考えるとあまり説得力がなくなってしまうんではないか。
474 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 20:25:20
>>472 守護地頭制度は鎌倉が作ったものじゃない。
足利氏は短命とまではいわないけどどうもあまり長命な家系ではないな。
なんと言っても殺害・自殺等非業の死をとげた人が多すぎ。
一応自然死になっていても殺された可能性がまじめに検討されている人も多いし。
畳の上で死ねた人も早死にが目立つ、割と長命(60代)なひとも居るけど、
特に長命と言う人は見あたらない。
これ人数なら80近く生きた人が居そうなものだが、70以上は不確実な直冬だけ。
むしろ直冬・義昭・義維等流浪の人の方が長命なのも何だかなあ。
わりと平穏で多少は長生きしたのは義満と義政くらいか?
476 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 23:22:56
足利は政情が不安定だから短命なだけだろ。
477 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 01:53:17
まだ鎌倉時代の将軍は日本の王とはいえんな。京都に比べて遅れてるし。
だから将軍=日本の王となったのは義満以降だな・・と思ったが
鎌倉公方がいたか。
478 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 02:44:59
官位歴を察するに足利の家格は摂関就任出来ないことを除けば摂家よりも少し遅い程度か?
479 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 08:46:18
480 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 19:44:37
>>479 地頭を設置したのは平氏政権の頃。
つまり、守護地頭制は朝廷が作ったもの。
頼朝は既存の守護地頭制度を核として武家政権を形成してる。
もっとも鎌倉幕府がより整備を進め、全国的に展開したのは間違いないけど。
守護地頭制ってのは朝廷にとって邪魔な制度ではないんだよ。
その証明は承久の乱がよく挙げられる。
後鳥羽上皇は執権北条義時追討を守護地頭に呼びかけてるしね。
482 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:09:12
ウィキペディアの徳川家達の項に「従一位左大臣」とあったが、これは間違いではないのか?
483 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:51:25
女性の官位を調べる方法が分からない。
後宮職員令の外命婦としての待遇になるのだろうが
いまいち分からない。
従一位になったのも桂昌院だけで正しいの?
二位クラスはどれくらいいたの?
源倫子も従一位。
486 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:12:58
>>482 どう考えても間違い。
幕府が滅亡して静岡藩主になったときの徳川家の立場や、家達の年齢からいっても、
「従一位左大臣」はありえない。
幕府全盛期の綱吉、吉宗が右大臣だったのに、朝敵藩の一藩主であり幼児の家達が
いきなり左大臣になれるわけがない。
ちなみに明治初期の家達は「徳川新三位中将」と呼ばれ、勝海舟からも「三位様」と
呼ばれていた。
487 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:16:50
家達の官位は歴史に多少の知識があれば、絶対におかしいと気づくはずの記述なのに、
誰もがスルーして訂正しようとしないのは、単に面倒くさいからなのか?
日本史板の人間なら、静岡藩知事時代の家達が「従一位左大臣」などと思うものはいない。
政府首班の三条実美ですら、この時期は「右大臣」でしかない。
すみやかな訂正を希望する。
488 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 12:04:03
Wikiはだれでも訂正できるんだから気がついた方がどんどん変えた方がいいかも
ここに書くよりよほど効果的ですよ
490 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:31:52
ウィキだけではなく、世界帝王事典の徳川氏の項目でも「従一位左大臣」とあった。
おそらくウィキに家達のプロフィールを投稿した人間は、こっちを参考して間違えたんだろう。
しかも、ウィキの左大臣の一覧には、島津久光の前任の左大臣が家達とあるし・・・
もうアホかバカかと・・・
坂巻芳男著「華族制度の研究」第11章華族の特権によると、
爵位には叙位の特権があり、公爵は64歳で従一位となるから
従一位にはなっていると思われる。
ちなみに侯爵は七二歳、伯爵八〇歳、子爵八八歳、男爵九六歳、
つまり有爵者で長生きすれば誰でも従一位。
492 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 10:51:17
土地私有が認められて武士が台頭してきて
その武士の代表が清盛で
でも清盛が公家化したから支持を失って頼朝が出てきて
頼朝も公家化しそうだったから将軍自体を形骸化して
土地の分配が不満だったのと天皇家の後継でもめたので混乱期になって
どさくさに紛れて尊氏が幕府開いたけどやっぱし京都で公家化してきて
鎌倉公方をいただいておれたち武士だもんねーとか自己満足してたけど
中央で管領家跡継ぎ争いが全国規模での騒乱になって
あんなアホには付き合ってられんとその子分たちが台頭してきてアホな親分追放していって
信長が京都でやりたい放題の振る舞いをしてなんかよくわからんが光秀に殺されて
織田家の主導権争いを秀吉と勝家で争って秀吉が勝って
もう武家制度も公家制度もぐちゃぐちゃになってしまって
秀吉が死んだ跡に家康がもう一回制度決めなおして
で、結局だれが一番偉いんだ?っていうスレが現代に立つのか
493 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 23:25:13
494 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 01:05:34
>>484 だから
女性の場合は従一位になったかどうかという、典拠が分からない。
家達の話と同じで、下手をすると水掛け論になってしまう。
いちおう前近代の男性なら、公卿補任で分かるのに。
495 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 01:08:04
だいたい律令位階制では
親王二品と臣下の一位が礼制でほぼ対応するんだから
それ以上に位置づけられる一品内親王と同様に、
一位の女性がいてもそれほど奇異ではない。
496 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 01:10:48
家達の場合は亡くなったときに大勲位大綬章をもらっている。
今の普通の内閣総理大臣・両院議長とほぼ同待遇。
もともと公爵なんだし、それほど厚遇されているという感じはしない。
貴族院議長を三十年もしたなら、大勲位を生前にもらっていてもおかしくない。
武家官位と公家官位は別。家康か秀忠の頃にそのように決められ、
以後、『公卿補任』に武家は載せられなくなった。
498 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 11:05:19
家達の官位については、
位階 従四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
官職 左近衛少将→左近衛中将→麝香間祇候→貴族院議員→貴族院議長
よって、明治初年においては従三位左中将=「徳川新三位中将」であって、
左大臣などではけっしてありえない。
499 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 11:06:05
ウィキの訂正よろしく。
500 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 11:08:02
大河ドラマでどの子役が演じたとか、どうでもいいくだらんことを編集する前に、
まず官職の明らかな間違いを訂正しろよ>ウィキ
501 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 20:37:49
くだらない妄想だけど、秀頼が義直か忠長あたりを養子にとって大阪城を明け渡して大名
としての豊臣家を嗣がせ、実子を公家にして清華あたりの家格となるって言う選択肢はな
かったのかな?
まあ大名家の方は家光に取りつぶされそうな気もするけど。
503 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 23:53:42
兄貴分の結城秀康が長生きしてりゃそういう調停がもしかしてあったかもなw
504 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 03:17:04
家康はどんな提案もNOだろうな。淀君だってNOだろう。
もしそれがまかり通るなら秀康が元気な時に、豊家生き残りのポジティブシンキングがあっただろうね。
505 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 08:29:04
秀頼は大坂から大和に移れとか、淀を人質に江戸に出せとか要求したのは家康だろ。
506 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:12:56
>>480 地頭はともかく守護の設置は頼朝以降じゃないの?
それに地頭に関しても、本来的には荘園の下部組織として自然発生的に生まれた
荘官の職の一つであって、朝廷が組織的に作ったというような性格のものでは
ないはず。
平氏政権期にはこうした各地の荘園の地頭たちの部分的な組織化は図られた
形跡があるものの、これを全国的に組織して鎌倉幕府の一機関に位置付けたのは
頼朝だと思うよ。
507 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 22:26:10
まだウィキの家達の官位が直ってないわけだが。
508 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 23:02:17
>>507 おまいが直しに行けば解決するだけのこと。これ以上スレ違いのレスするなよ
509 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 23:14:32
将軍家相続人の官位に関する話題だから、スレ違いではない。
510 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 23:27:07
ここでWIKIのことギャーギャー言っててもしょうがないべ。
直ってるか直ってないかこのスレに関係あるんか?
>>506 つっか、頼朝が全国規模で乗っ取ったというべきか。
512 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 10:59:05
鎌倉幕府以降の扱いって結構難しいんだよね
律令社会ではダメだったんでその対抗としての武家社会でしょ
しかもしばらくは東西で分裂国家の様相もあるし
まあそれは室町でも鎌倉公方が必要なくらいだしねえ
513 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 14:27:30
武家政権は律令制に対抗するものとして生まれたわけではない。
514 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:32:34
律令の原則なんて朝廷でも放棄してるわけだが。
515 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:41:41
武士は自然発祥のヤクザでしょ
516 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 08:54:48
自然発祥のヤクザが地方に仕事をしにきていた貴族の血を入れて権威化?
それとも地方に来ていた貴族が現地で作った子供がそのままヤクザになった?
517 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:48:40
>>515 「逆説の・・・」に影響され過ぎ(いや自分も好きだけどさ)。
源氏なんて典型的な京武者じゃん。
それに「自然発生」っていうけど、
かつての国造とかの地方豪族が、軍団制になってみんな武力放棄したと思う?
519 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:26:19
520 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:27:57
>>518 なんですぐ「みんな武力放棄したと思う?」っていう風に極論を言いたがるんだ?w
中学生か?
専門家ですら武士の発生に対して結論は言えないんだぞw
武士の発生なんて色んな理由があるんだ
源氏って武士の棟梁だろ?貴族の話をすりゃフツー藤原氏とか出てくるじゃん。
つーかスレタイ征夷大将軍だろ。君の言う武士は源氏抜きか?
>>520 極論言えるほど武士の起こりについてなんか知らないぞ(というか疑問だらけ)。
律令以前の軍制についてだって具体的にはよく知らない。だから?付けたんだよ。
522 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 23:40:24
まだウィキの家達の官位が直ってないぞ。
どいつもこいつも目が節穴のグータラだらけだな。
だから自分で直せばいいだろ
524 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 07:35:33
525 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 07:43:09
歴史板の住人って、受身だねえ。
526 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 09:18:05
藤原氏も十分武士化してますが
527 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 17:36:48
摂家将軍なんてのもいたな
528 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:37:58
鎌倉将軍は4代以降は歴史的に無視して良い存在じゃね?
将軍職全うしたの一人もいないし。
529 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:07:13
>>528 それは違うな
別に何をやったかとかが大事じゃないんだよ
日本史における権力移譲の原則というか原理というか
「権力の拠り所」を示す上でも歴史上大事な出来事だよ
むしろ政治家が何を行ったかを暗記するより大事なこと
530 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 15:03:05
いい加減、ウィキの家達の「左大臣」というのを訂正してほしいな。
間違った記述を放置するのは歴史版住人として見過ごせないだろ。
だから自分で直せよ
532 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 20:12:48
火中の栗を拾う者なし
533 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 12:17:48
誰か、直せよ。日本史板住人の程度が知れるぞ。
程度が知れるのはうんこ事典のほうで
日本史板は関係ねえよ
535 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 12:58:52
>>533 だから自分で直せよ。投降ブロック受けていてもIPで直せるんだから。
俺たちはその程度の間違い全然気にならない。
気にならない=面倒くさい
そういえば九条流の宗家が一条家だとかいう電波は誰か治した?
最近wikiなんか見る気もおきね
そう言えば鎌倉9代将軍の死って自然死で間違いないの?
義栄って病死?自殺?
540 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 03:26:58
>>538 毒殺説はなくはないが詳細は永遠に不明。
541 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 11:28:12
9代将軍なんていたっけ?
542 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:31:00
鎌倉9代、足利15代、徳川15代は常識以前の知識かと。いや、厨房クラスは知らないかな。
543 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:12:47
>>542 DQN厨房クラスにとっては鎌倉は最初の3代を知っていればいいほう。
544 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:51:59
鎌倉の将軍は1・2・3・摂家・皇族としか習わないよ
545 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:06:36
546 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:10:20
惟康は皇族将軍?源氏将軍?
一般的に言う源氏将軍は清和源氏限定じゃないの?
548 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 22:02:44
鎌倉時代は清和源氏限定って発想はなかったんじゃないかな。
549 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:06:22
一般的って言ってんのに・・・
550 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:21:25
鎌倉の北条氏は征夷大将軍ではなく摂政でそ?
551 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:08:23
鎌倉時代の人々の“一般的”な認識で、将軍が清和源氏限定ということは絶対にない。
552 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:45:45
一般的にって中学で日本史習った程度の人位の意味で使ってるんじゃないかと
553 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:20:16
中学校に「日本史」という科目はありません。
そんなに屁理屈言うなよ。
普通に文脈読めば、社会って授業枠の中の日本史って話だろ。
だいたい私立の中学じゃ普通に社会じゃなく、日本史って枠で教えてるぞ。
555 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 02:56:51
>>554 それでも通知表の上では「社会」として処理されますよ。
556 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 03:09:39
てゆうか英語や数学ならともかく、日本史等の地歴科目を中学段階から
先取りする私立って多くは中堅以下。
東大に2桁合格者を出すような学校の多くは、中学段階ではむしろ
教科書から離れたオリジナルの手作り的な授業をすることが多い。
これは社会だけでなく理科にもある程度いえる。
要は、中学段階では知識の詰め込みよりも、それぞれの科目に対する学問的な
興味を持たせることに主眼を置き、大学受験対策は高校からで十分という発想。
しかしこれを可能にするためには、生徒の側が基本的な知識の詰め込みを
中学受験段階で既に済ませており、なおかつ大学受験のための勉強は高校から
始めても十分に間に合うようなアタマでなければ意味がないので、できる学校は
自ずと限られるわけだが。
俺の出た6年一貫校は東大に毎年30人送ってたが
中学から日本史って科目名だったなあ
ゆとり教育期にはどうなってたか知らんけど
559 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:27:15
巣鴨かな?
560 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:25:59
東大に二桁合格って言ったって、征夷大将軍の
ひとりも出してないような学校h^なんてマダマダ
562 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:11:44
いや、東大出ても摂関職や征夷大将軍には就いた人はいないわけで……
征夷大将軍は清和源氏でならないという主張。
というか家康の時代では主張と言うより圧倒的現実なわけだけど、
尊氏の時点では将軍は清和源氏じゃないって方が現実。
なんと言っても1219年の実朝死去から尊氏の将軍就任まで約120年、
当然清和源氏の将軍の存在をこの目で見た人間なんて多分生存していない。
むしろ将軍は親王であるべきって概念が生じても不思議はないような?
であるにも関わらず、なんでこの主張は一般に受け入れられたんだろう?
尊氏やその一党にとっては都合の良い主張だから彼らが主張するのは当然だが、
周囲がその主張を受け入れたのはなぜだろう?
同時代だと護良親王が征夷大将軍になってたな
565 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:56:42
平氏は天皇家を潰そうとしてたから、源氏が平氏を潰した。
だから、征夷大将軍は源氏しかなれないとゆうルールが、
もう源頼朝の時代からつくられた。
平氏や秀吉は絶対に征夷大将軍にはなれなかった。
実際、秀吉や平姓の北条氏は摂政までしかなれなかった。
まっ摂政も征夷大将軍も同じようなものだけど。
566 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:07:50
>>558 表向きは日本史でも、文部省に対しては別の科目名で処理しているよ。
567 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:11:02
>>563 清和源氏限定というわけではないが、惟康を親戚降下させて源姓を名乗らせた
背景として源氏将軍の復活を意図したい一派が当時の幕府の中にあったという
見方もある。
そういう意味では、武家政権のトップは本来的には源氏将軍であるほうが
望ましいという発想が皆無ではなかった可能性はある。
あくまで可能性の域だが。
568 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:25:14
摂政と征夷大将軍の役職の内、あなたはどっちを選ぶ?
ってなったら、おいらは摂政だな。
だって征夷大将軍って征夷って文字が付くんだもん。
570 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 08:55:31
単純に現政権であった執権に対する対抗策が源氏将軍待望論だったんだろうし
源氏将軍の中でもやはり武家の棟梁としての印象が強い清和源氏の将軍を望んだであろうことは
前スレとかでも結構展開されていた論調でしたね
571 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:56:44
一応将軍が存在するけど執権が実質的な君主で良いの?
572 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:16:03
そりゃそうだろ
執権がやりたい放題できるのは将軍がお飾りだからってことになって
なんでお飾りだって考えれば中央から降ってわいてくるだけだからってことになって
じゃあ将軍もう一度担ぎなおそうぜとなったときに条件を詰めていけば頼朝回帰になるのと
当時ある程度の実力を持っている武家である源氏となるわけで
足利かなあという選択肢になってくる
まあこれおれの妄想なんだけどね
573 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:20:20
足利って他のご家人と比べてそんなに抜きん出た家格だったのかなあ?
結果将軍になったから後付の様な気もするが。
574 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:27:36
時の執権との繋がりが深かったのと
清和源氏内では領地開拓に成功して羽振りが良かったのが決定打なんでね?
575 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:00:14
足利氏は北条時政の代から北条家と縁戚関係にあって、北条には忠実な御家人だった。
鎌倉幕府内での地位も新田氏よりはるかに高かった。
576 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:01:19
平賀朝雅とか鎌倉初期にいた有力な源氏一門の大半が消えたから必然的に
足利氏かなくなったって感じじゃない?
577 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:58:23
源希望の存在が確実なら源氏の嫡流なんだがな。
9条は改憲してはならない。日本の為にならない。
日本人ではない朝鮮総連や民団でさえ、日本を心配して改憲への反対運動を行ってくれている。
私は日本人だが、「改憲すべき」などという者は、日本人として彼らに恥ずかしいと思います。
Q.中国から身を守る為、戦争に対する抑止力が必要では?
A.前提から間違っています。そもそも、中国は日本に派兵しようと思えばいつでもできました。
なぜなら、日本は9条があるため、空母や長距離ミサイル等「他国を攻撃する手段」がない。
つまり、日本に戦争を仕掛けても、命令をだした幹部の命や本国の資産は絶対に安全なのです。
にも関わらず、中国は、今まで攻めずにいてくれたのです。
Q.日米安保も絶対ではないのでは?
A.いえ、絶対です。
知り合いの韓国人の評論家もそう言っていますし、私も同じ考えです。
そして日米安保が絶対なら、日本を攻める国はなく、改憲の必要はありません。
米国と戦争をしたい国はないからです。
Q.9条が本当に平和憲法なら、世界中で(日本以外に)1国も持とうとしないのはなぜか
A.誤解を恐れずに言うなら、日本以外のすべての国が誤っているとも言えます。
「敵国に反撃できる手段を持つ国は攻められづらい」というのは、誤った負の考え方です。
(もっとも韓国や中国の軍に関しては、日本の右傾化阻止の為でもあるので例外ですが)
さらに日本の場合、隣国が韓国・中国・ロシアと、GDP上位の安定した国ばかりです。
【改憲】ゼンガクレン老闘士、国民投票法案廃案訴え 国会前集結 「ゲバ棒が杖になっても」
ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1174412397/l50 【広島】憲法9条遵守を訴え 武器を持たない妖怪「ねずみ男」に扮した男が全国行脚
ttp://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1175835543/l50
>>567 関白の外孫で親王宣下を受けなかったと言うのはそういう意味があるのか?
580 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:54:43
基本的に嫡流という考え方が間違ってるだろ
当時は長者的な考えだろ
一族内でだれが一番権力を持っているかってのが重要なはずだぞ
血統的には今で言う直系みたいな考え方より母親の実家の力の方が重要だと思うんだがな
鎌倉幕府打倒は、建武の親政とリンクしているから
源氏新将軍待望論は、ないんじゃないの?
建武の親政の失敗から武家政権待望論が出て、
うんじゃ、幕府+将軍だよねってことになったんだろうけど、
そのときの有力者がたまたま、足利だっただけじゃないの。
582 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 08:59:14
まあ足利に関しては結構偶然の産物であることは否定しにくいなw
なにせ大混乱期だし
前政権での位置取りと尊氏の立ち振る舞いで得た地位だろうからなあ
583 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 11:08:06
最有力御家人ではあったけど主君として君臨できるほどの家格では無いよな。
鎌倉中期以降って源氏の有力者っていうのは重みがあったのか?
足利当主の官位も初期は4位結構いたけど中期以降は5位下でしょ?
>>583 建前は源氏の作った政権だしね。
それに、現実として尊氏は天皇や武家に一定以上の支持を
受けていたのだから、相応の重みはあったと思われ。
ぬきんでた家系ではないけど、他に適当な家もなかったてところなのかな?
源氏=武家の棟梁でなくて、そのときの武家の実力者=武家の棟梁じゃないの
征夷大将軍という役職の解釈からなんだけど幕末時に将軍が攘夷を実行する
権限ってあったの?
>>587 将軍は軍事権を統括していたのだから、作戦や軍事行動には当然アリ。
しかし外交権となると話は別。朝廷の意向は無視出来ない。
開国のときに限らず、元寇でも勘合貿易のときでも口を挟まれているし。
589 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 07:52:27
外交を扱う場合は、将軍より武家関白という立場が一番だな
590 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:27:09
鎌倉幕府最後の将軍って、幕府滅亡から数ヶ月後に京都に送られて死んでるけど、
なんか怪しいよな。
一応、自然死らしいけど、あまりにもタイミングよすぎる。
591 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:34:47
鎌倉武家の官位で言えば中級公卿が将軍、4位が執権と北条有力一門、たまに足利みたいな名家
従5位下が普通の最有力御家人でしょ?
殆どが無位無官。
592 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 18:57:55
>581
足利尊氏に促されて鎌倉幕府から離反した武家も多い。
彼らにとっては後醍醐が幕府否定の天皇親政を始めたことのほうが青天の霹靂で
あったと思うよ。
普通にそれまでの鎌倉時代と同様の、朝廷と幕府の二重統治体制が続くと
思っていただろうからね。
なぜか得宗は四位にならず正五位下どまりで比較的若年で出家してしまうことが多い。
まあ歴代の寿命を見れば特に後半はあまり長くないわけだから、
出家は病弱のせいかもしれないけど。
まあ公卿はともかく正四位上までは望めばなれたんだろうけどね。
他にも四位はそこそこ居るからたいしたステイタスにならないってことかな?
当時でも七位のくらいはちゃんとあったんだけど、武士はなぜか六位以上からスタート、
そうでなければ無位無官のままで絶対に七位にはならない。
また官は判官以上でで主典にもならない。
こういうのが不思議なところだな。
594 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:03:43
>>588 通称鎖国は幕府が独断でやってるんじゃないの? 開国だって幕府がや
ればいいものを勅許なんか求めるから訳がわからなくなった。
595 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 03:35:36
>>594 単に鎖国or開国の決定のために勅許を求めたわけじゃない。
条約を結ぶかどうかというような異国との国家的な外交交渉を含んでいたから
勅許を求めた。
鎌倉幕府が蒙古の国書の扱いをどうするかを巡って朝廷に伺いを立てたのと
同じ理屈だろう(まあ結果的に朝廷の意向に沿ってはいないが)。
もっとも足利義満のときは、義満自身が朝廷も牛耳っているような
感じだったから、伺いを立てる必要もなかったのだろう(朝廷の意向なんか
聞いていないが、平然と文筆業の公家に国書の草案を書かせたりしているし)。
そういう意味では、幕府に独断で外国との外交交渉ができる力があれば(その
交渉内容に対する批判を威圧してねじ伏せられれば)、朝廷に伺いを立てる
必要もなかったのかも知れないが、結果的にそれは無理と判断したからこそ、
勅許によって、正統性を得ようとしたってことだな。
596 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 16:40:15
そもそも開国するかどうかを っていう話は鎖国否定によって崩壊したんか?
アメリカと条約を結ぶかどうかを朝廷にお伺いたてたんか?
597 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 10:50:35
9代将軍傀儡親王を殺しても意味無いと思うが。
それよりも九条頼嗣が父親と同じ年に京都で死んだ方が気になる。
598 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 10:55:51
意味がないというが一応幕府のトップだしな
時期が時期だしな
599 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 13:54:26
後醍醐に不満を持つ者が旗頭に祭り上げる可能性は高い。
600 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 16:49:42
600だからな
亀頭かとおもた
603 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 11:11:47
俺なら関白になりたい。
一番責任無さそう
>>603 でも帝のお仕事を全部チェックするんだぞ?
もし仕えた帝がウザいバカだったらどーするアイフル。
なら、そのときはオレが帝だ。
込み入った話は全部、関白に任せる。
>>605 でも関白のご指導ご勘当を毎日受けるんだぞ?
もし仕えられた関白がウザいクソジジイだったらどーするアイフル。
そこで典侍あたりを関白に任用、つまり女房関白。
無責任な関白とやる気のない帝
最低だな。そりゃ武家も蜂起するって。
綸旨をも 臨時の人事に 任せられ 近侍転じて 答辞をば待つ
611 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 23:08:33
>>609 何もやってなかったんじゃなくて
連中は詩を読んでたんだよ
それが立派な政治だった
612 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 23:11:30
征夷大将軍 「また執権が過労死だってさ」
太政大臣 「えー、MAJIDEで?」
関白&帝 「働きすぎってこえーよな。」
院 「それより、おめーら、明日の歌会絶対来いよな。無礼講だぜw」
614 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 03:09:58
>>602 戦前は西園寺公宗の話は一切タブーだったんだってね。
まあ最後の元老西園寺公望のご先祖が後醍醐天皇の暗殺計画に関与してたなんて、口が裂けてもいえないわな。
貴族が色恋と詩歌管絃ばかりやってたと本気で思ってる人って
やっぱりいるんだねえ‥‥
まぁ強烈なイメージだしな。
まあ江戸幕府は詩歌管弦だけさせたかったみたいだけどね。
618 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:56:33
>>614 でも、公望の実際の先祖は北朝の天皇なんだがな。
征夷権大将軍を任命すれば相対化可能?
鎮守権副将軍なんてのは居たらしいから権大将軍もあって良いじゃん。
本当に征夷をやってるときは指揮系統の混乱を招くだけどけどね。
620 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:50:14
>>618 でも鎌倉〜南北朝期の西園寺家は皇室との縁組が多いから、公望は女系を通じて
それ以前の西園寺家の血も引いているわけだがな。
622 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 05:28:59
足利直義の征夷副将軍って正式な任命なの?
平氏側の征夷大将軍って正式な任命なの?
625 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 10:17:14
摂関で言う内覧みたいなものか?
つーか、坂上田村麻呂が最初の征夷副将軍だろ。
正確には「征夷副使」だが、
翌年に「征夷大使」が「征夷大将軍」になるので副使も副将軍になるはずだ。
>>614 タブーじゃないよ。
右翼が西園寺を叩くのによく使ったネタ。
>>593 朝廷と必要以上に関係を持ちたくなかったんだろう?
本来の幕府の朝廷への干渉はあくまでも朝廷が幕府の管轄に手を出さないようにするのが主目的で室町幕府や秀忠以後の江戸幕府とはそこが違う。
629 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 21:37:52
>>623 直義は尊氏の将軍宣下と同日付で左兵衛督になったから世間が副将軍と勝手に呼んだだけ。
西園寺公宗と公望には血のつながりは無いですよね?
途中で他家から養子が入っているはず。
天皇は、誰が天皇を任命するの?
634 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 04:12:15
血が繋がっていようがなかろうが、帝の暗殺を企てた者と同じ家名を名乗り、
その者の家の祭祀・名跡を継承しているからには、叩くネタの根拠としては十分。
635 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:52:45
天皇を任命って。。。
637 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 11:02:16
天皇の代かわりは、前の天皇が次の天皇を呼んで、三種の神器を渡すんだよ。
前の天皇が思いがけずなくなった時は、形式上、死んだことを伏せて、
三種の神器を急いで次の天皇のところへ運んだ。
普通は皇太子が定まっていたから。
明治以降は死を伏せる必要性もなくなったけどね。
638 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:48:01
譲国の儀だろ。
後光厳即位の際に問題になったやつ。
天皇が西園寺公望をいじめるときのネタは「公の琵琶が聞きたい」だったらしいね。
>>635 任命じゃなかったら、なんていうのですか?
>>636 普段もそういう感じなの?あなた
匿名掲示板だからといって、こういうことを普通に言うやつは醜いね。
641 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 20:36:44
律令体制下においては天皇を任命することはできない。
下位者が上位者を任命することはできないから。
強いて言うなら推戴というのが適切だと思うが。
次代の天皇を実質的に決定してるのは誰かってのは時代によって違う。
治天の君たる天皇家の家長だったり、現天皇だったり摂関家だったり幕府だったり。
642 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:53:40
>>639 嫌いだったらしいからね。
徳大寺家から養子に行って、西園寺家の家業である琵琶の練習をさせられたとき、
「琵琶などつまらぬ」と愚痴ったら、
家臣に、「お台所に触ります」と窘められたとか。
それだけ、琵琶の家元としての上がりが大きかったんだろうな。
>>640 636ではないが、学問板であまりに稚拙な発言すると煽られる。
2ちゃんねるのお約束って奴だ。
で、さらに釣られてそんなふうに食って掛かるとますますいじめられるよ。
きみ初心者っぽいから、老婆心まで。。。
636ではないが635なんだなw
645 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 08:37:27
おれが635だぞ
日本語の意味を知らんと日本史の意味も履き違えてしまうから気をつけるとよろしい
まあおれがバカにしたようなレスだけじゃなくて
ちゃんと補足までつけてやれば634君のプライドを傷つけずに済んだと反省はしている
どうでもいいけど、少なくとも帝国憲法までは、
朝家の「推薦」に基づいて天照大神か邇邇芸命あたりが
天皇を「任命」する形式だったんじゃないの、一応
「中国の皇帝から任命されますたwww」なんて答を
好むタコもいそうな問題でさ
まあ634がそういった次元のことを訊きたかったかどうかはわからんが
多義的な質問を相手に、意図を明らかにするより先に
勝手に635みたいに言っちゃうのも要反省なのは確かだね
641はだいぶんましになったけどさ
(もちろん一番要反省なのは634だが(と書いておかないと
635のプライドが傷付きそうだからね))
647 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 09:18:31
648 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 09:33:46
>>646 天照大神か邇邇芸命が任命・・・
さすがにそれは違うと思われ・・・
帝国憲法にそんな条文ないし。
646を読んでどうして
> 帝国憲法にそんな条文ないし。
という反応が返ってくるのか一瞬理解に苦しんだが、
「帝国憲法までは」を「帝国憲法も含めてそれ以前は」と
読んじゃったのか
まさかそんな読み方をする奴がいるとは思わなかったが
650 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 10:06:57
>649 細かい所に突っ込む奴だな。
「帝国憲法も含めてそれ以前は」と読みなおしても、
天皇の任命に関して、天照大神や邇邇芸命の名を入れた
宣名が作られたことは一度もない。
天皇が毎朝祖先をおがんだところで、
天皇の任命とは一切、関係なし。
これで良い訳か?
> 「帝国憲法も含めてそれ以前は」と読みなおしても
だからそう読んだらいかんと言っているのだが・・・
すばらしい日本語力だな
しかし戦前でも、
天皇の統治権が天壌無窮の神勅に由来することを
否定したら左翼扱いでえらい目に遭わされたわけだが
楽しいか?
645みたいな厨をからかうのも
2ちゃんねるのお約束って奴だ。
654 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 11:01:42
へー、神様が天皇任命権を持ってるんだ
へー
つ「王権神授説」「易姓革命」
高校の教科書にも出てこないか?
656 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 11:54:15
それと任命権は別
そうだな
字が違うもんな
あ、「命」は同じだw
658 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 14:14:05
ぼちぼち本題に話を戻そうぜ
江戸時代は将軍、それ以前は摂関がいいとして
太政大臣ってなる必要はなさそうだ
659 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 14:17:24
>655
それはいずれも中国古代王朝の思想。
日本史と世界史の区別がつかない馬鹿がいる。
もう少し勉強しなさい
661 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 16:03:09
突っ込みどころとしては王権神授説は中国のモノではないというところか
なんでおまいらはそんなに罠を仕掛けたがるんだ?
「帝国憲法までは」だと憲法入るだろ普通。
663 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 00:40:06
100まで数えろって言われて99で止めるヤツっているか?w
664 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:59:38
>>658 >江戸時代は将軍、それ以前は摂関がいいとして
意味不明。
665 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 01:00:40
>>661 そりゃ話題が続いてスレが盛り上がるためだよ。
666 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 01:01:47
667 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 01:12:32
668 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 01:28:02
ドウテイ扱くチンポー
♂マンコ定刻チンポー
671 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 11:21:53
征夷大将軍に任命されたいんですがどうすればいいですか?
まず実力(武力でも経済力でも人気でもしゅだんは問わない)で日本を制圧。
アメリカの了解だけは取り付けておくこと。
憲法を廃止し律令復活。
ここまでくれば就任の希望をほのめかすだけで任命してくれます。
673 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 13:35:23
出自は問われませんか?
家系図はありますがたいして歴史上の偉人もいませんが大丈夫ですか?
源氏将軍というのは中世以後の慣習に過ぎませんから大丈夫です。
もし気になるようでしたら伴氏か坂上氏か文室氏などの系図を準備されると良いでしょう。
じゃあ俺新皇
将門降臨ktkr
677 :
武陽陰士:2007/05/12(土) 01:35:36
678 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:04:44
一条兼香から道香への親子関白継承があるが、
公式の立場はどちらが上になるのだろうか?
防衛大を優秀な成績で卒業。
統合幕僚会議議長になったら、職名を征夷大将軍に変えてもらう方が遙かに簡単。
自衛隊の仕事は「攘夷」そのものだから名に違わない。
もっとも自衛隊は「軍」でないそうだから、「征夷大将」の方が実現の可能性は高い。
統合幕僚会議ってもう存在しないけどね
じばっだ!思わず書いちまったい。
まあ本来、非軍事政権の武官のトップはその程度の偉さなんだがな。
682 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 08:55:22
防衛大学出身の制服組トップってのもまた稀なんだけどね
> 職名を征夷大将軍に変えてもらう
の部分に一切つっこまないお前らの優しさに濡れた
>>682 「防衛大出ても制服組トップになれるのは稀」と書いたほうがいいぞ
ここ10何年、統幕議長、統合幕僚長はもれなく防大出だからね
その前も殆どが陸士か海兵だし
685 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:44:21
皇族ではないのですがぜひとも摂政になりたいです。どうすればなれますか?ちなみに藤原氏の子孫でもありません。
憲法及び皇室典範改正について与党と折衝してみてはいかがでしょうか?
687 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 17:27:57
朝廷の官職っていうのは全て「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」の
四等官なんですよね?
そうすると太政官の場合は、太政大臣が「かみ」、左右大臣が「すけ」で
いいんでしょうか?
太政官はちょっと特殊できれいに当てはめられないんですよ。
一般的には大臣以上が長官、大納言が次官、弁と少納言が判官、外記と史が主典。
太政大臣が長官で左右大臣が次官、大納言と弁は品官みたいなもの、少納言が判官って
説も有ったかと思う。
中納言や参議は令外官だから除外。参議は官って言うより職だけど。
>>678 兼香は太政大臣になったから一応、親父じゃないの?
691 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:05:11
ヒント:一座宣旨
692 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:11:43
>>689 「左大臣」の「左」、「右大臣」の「右」にはともに「すけ」という訓がある。
また「左」「右」にそれぞれ人偏がついた「佐」「佑」も同様に「すけ」と読む。
そう考えると左右大臣は次官じゃね?
693 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 12:27:56
しかし、それだと長官に当たる太政大臣が臨時職ということと辻褄あわなくなるが?
大臣号の歴史を見ると、
大和王権には大連(大伴、物部)、大臣(蘇我)という大王を補佐する高官の役職があったが、
大連を称する大伴、物部氏の失脚により、蘇我氏が呼称した大臣が最高職ということになり、
孝徳朝ではこの大臣職が左右に分けられて左大臣、右大臣の呼称が初めて現れる。
太政大臣という官職が登場するのはこれらのずっとあと。
左大臣、右大臣が太政大臣を長官と考えての次官であるならば、
長官たる太政大臣の呼称がもっと早く歴史上に登場するべきなんだが。
左大臣が一上、いなけりゃ右大臣。かれらが長官。大中納言が次官。
弁官局では弁が判官、史が主典。少納言局では少納言が判官、外記が主典。
岩波獄令の解説嫁
獄令第25条
凡そ公坐相連は、右大臣以上、及び八省卿・諸司の長を、並びに長官とす。
大納言、及少輔以上・諸司の弐を、皆、次官とす。少納言・左右の弁、及び
諸司の糺判を、皆、判官とす。諸司の勘署を、皆、主典とす。
内大臣はどうだろうね?
皇極以前の大臣は「おおおみ」でまだ職としての性格ははっきりしていないよ。
一方、孝徳以降は「おおまえつきみ」で、連姓の豪族が任じられるなど、姓とは明確に区別されている。
単に左右に分けたわけではない。
697 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:18:15
698 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 17:55:04
>>678>>690 >摂政、関白、准三后(前関白)、太政大臣、左大臣、右大臣、
>准三后(門跡)、親王、前関白、前太政大臣、前左大臣、
>前右大臣、内大臣、前内大臣、准大臣、従一位、本座宣下、
>権大納言、前権大納言、権中納言、前権中納言、
>参議、前参議、正二位、従二位、正三位、従三位・・・
>のように大臣から参議までは位階よりも官の順を優先、
>正四位以下は官の順よりも位階を優先した。
http://www.mikado.name/tosyokuge.html
残念、内記は中務省の品官です。後世になると大内記は菅原氏の独占。
700 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:07:20
史や外記は地下官人だけど、内記は堂上公家なんだよね。
701 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:09:34
准大臣は官なのか? 公卿補任は散位になってるけど
703 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:57:13
でも儀同三司という唐名があるよ。
704 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:57:58
>>699 中世以降の大内記は、東坊城家の世襲だっけ?
ここは一体‥‥
>>695 内大臣は令外官
>>694 >>699の言うとおり
職員令第3条
中務省。卿一人、大輔一人・少輔一人、大丞一人・少丞二人、大録一人・少録三人、
史生二十人。侍従八人。内舎人九十人。大内記二人・中内記二人・少内記二人。(後略)
>>701 准大臣は待遇。まさに儀礼の格式が三司すなわち太政大臣・左右大臣に同じ、の意。
706 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 01:54:22
>>704 少なくとも幕末は菅原姓6家の持ち回りだそうだ。
収入になるから独占は許されなかったとのこと。
708 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 11:05:19
>>705 藤原伊周が就任した儀同三司は?
儀同三司は、内大臣の下、大納言の上に位置づけられ、
左大臣、右大臣、内大臣を三司としているように思うのだが。
太政大臣、左大臣、右大臣を三司としてない。
儀同三司は唐名で正式な呼称ではないです。
本来は後漢で三公(太尉・司徒・司空)に準ずる待遇として生まれたもの。
南北朝(中国の)・唐のころになると本来の意味を離れてかなり価値が下落。
一応復活して大臣に準ずる座次で閣議に参加できることになった伊周が、
唐かぶれのかっこつけで自称したのが始まり。
と言うわけで三司は本来は日本の大臣とは関係有りません。
現代では征夷大将軍にはなれんのだろうか
>>679の寝言並のなり方が一番簡単ということから推して知るべし
712 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 10:18:21
総理大臣と太政大臣ってどっちが偉いの?
713 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 10:40:43
ハンガリーのホルティ摂政みたいに国王不在の国での民間人摂政の例もあるから、
いずれ天皇家が断絶して大空位時代になったら民間人摂政もありうるかも。
714 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 10:59:13
不謹慎かもしれないが
もし天皇家の断絶かもしくは女系になって求心力が落ちてしまった場合
日本でも大統領が生まれるのか?
女系の場合は無問題
断絶などによって天皇が存在しなくなったら
憲法第1章が空文化するので新しい憲法が必要になるかな
その場合元首の規定を明文化する必要に迫られそうだが
今だって「元首なし」説とか「三権共同元首」説とかあるくらいだから
必ずしも大統領が必要になるとは限らない
716 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:38:30
しかし、日本国憲法が作られる際、
国王がいるイギリスを参考にして内閣総理大臣としたんじゃなかった?
憲法草案を出した当のアメリカは直接選挙の大統領制だし、
同じくアメリカと軍事同盟を結んで庇護下にあった韓国も国王制を廃止して大統領制をとった。
個人的には、たとえ天皇制があったとしても、国民が直接選挙できる大統領制、あってもいいと思うんだが。
日本の天皇はイギリスの国王のように政治に意見できるわけでなし、世襲貴族による貴族院も存在しない。
717 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:45:56
大統領と一言で言っても本当に君臨するだけの元首的意味合いの大統領から
実際に行政府の長としてバリバリ指揮を奮う大統領までいろいろあるんだがね
日本の場合は天皇陛下を国家元首としていただいているので
その天皇陛下が首相を任命(まあ議会の承認が必要だが)するわけだ
これを議会の承認でなく国民の総意を持ってとすれば首相公選制度になるんだが
「あってもいい」かどうかなら知らんよ
>>715は天皇制が失われてしまった場合に
制度として大統領制が不可避かどうかの話だから
> 日本の場合は天皇陛下を国家元首としていただいているので
諸説ある、って言っとけよ
720 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:49:28
>>717 ん?
現行の日本国憲法は国民主権だよ。
天皇を国家元首としているのは
大日本帝国憲法のほうのはずだが?
721 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:49:57
諸説ある
722 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:59:20
日本国憲法が国民主権だから日本の国家元首は日本国民という主張をしたいわけではないよな?
>>720 元首と主権者は別概念だろ
大統領が元首だが国民主権の国なんて
いくらでもあるぞ
724 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 12:01:28
元憲法下で明確な元首規定がないからという話だろ?
ただ対外的には国王的立場でいらっしゃる天皇陛下が当然のように元首待遇だし
首相だって任命しているんだから元首であるということは諸説の有力な一つだな
一応、首相が元首というのが通説だろうけどな
726 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 12:57:12
しかし首相というのは本来元首から任命されるモノだろう
今現状の日本で首相を元首というのはそれほど通説ではないと思うんだが
727 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:05:19
その天皇自身が、
内閣の指示にしたがって、国事行為を行うべしとされているのだから、
意味ないが。
天皇が内閣に指示してるならともかく。
729 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:27:45
・首相
・合議体としての内閣(実質的には、その長である首相)
・国権の最高機関である国会(実質的には衆院議長か)
後の二者は最高会議幹部会議長とか最高会議議長をイメージしてくれたら、
わかりやすかろう。
730 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:29:43
小泉時代は首相が限りなく大統領に近づいた時代だったな。
首相=元首 天皇=大統領の就任式に立ち会う牧師 みたいな感じ?
731 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:39:21
こうやって考えると憲法改正って9条云々よりも先にだれが元首かを決める方が先なんじゃね?
732 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:57:00
サルコジかっこいいし、日本も大統領でいいよ。
733 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:59:49
>730
天皇は大統領になれんだろ。
世襲の大統領なんて、いらね。
734 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:14:22
>733
730は
天皇=大統領
とは言ってない
735 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:25:52
730のいう
>首相=元首 天皇=大統領
ってどういう意味?
736 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:32:02
文章の切り方がわからんのはゆとり教育の弊害か?
まったく他人のおれが呼んでも
天皇=大統領の就任式に立ち会う牧師
って書いてあるように思うのだが
首相を元首としてその統治権を神から与えられたものとするための
宗教的補足としての存在ってことなんだろ?
737 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 15:00:34
> 首相を元首としてその統治権を神から与えられたものとするための
> 宗教的補足としての存在ってことなんだろ?
その「神から」が比喩だとしても、首相が
日本国とその主権者たる国民から統治権を委ねられるに際して
その2つの象徴である存在が司祭の役割をする、
という理解はいい線行ってると思う
何たって、この国は神の国ですからw
739 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:09:15
あらためてこの国は元首がだれだかはっきりしない不思議な国ということがわかりました
740 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 19:02:09
対外的には完全に国家元首として振舞ってるし、国内的にも国事行為は元首としての行動。
国政に関する権能を有さない元首がいたとしても何ら問題ないわけで
法に明示されていなくても天皇が国家元首と考えるのが自然。
日本国憲法の成立過程を考えても、政治的な実権を剥奪されただけで実権を伴わない立場については
明言されてないものの帝国憲法における立場を継承したと考えるのが自然だと思う。
君には自然でも憲法学者達には自然でなかったのであった
学問をメシの種にしてるのは屁理屈こねるのが仕事だからね。
常識だけで良いなら学者なんて存在価値ないし。
743 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 19:24:13
> 屁理屈こねるのが仕事だからね。
学者の論理を屁理屈と退けるなら
学問板も要らないしね
史学なんか新説のための新説って多いよね。
過去の説を追認するだけでは名が上がらないからしょうがないんだろうけど。
745 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:04:13
もう俺が元首でいいだろ
象徴なんて思ってるのは我々だけ。
外国人はエンペラーで元首だと思ってる。
外国人が日本について無知なのはしょうがない。
イエヤス・トクガワがエンペラーだったと思ってるくらいだし。
まあ今いきなり天皇は元首じゃないなんてことになったら国際問題になるなw
他国の国家元首からの親任状を国家元首じゃないオッサンが受け取ってることになるし
日本の大使は天皇というオッサンからの親任状を他国の国家元首に奉呈してることになって
実に失礼極まりない話しだ。
749 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:42:43
まあ、そういう外国側の無知と誤解をあえて正そうともせず、
逆に誤解を放置というか助長させて外交儀礼上は元首扱いしてきたのは
歴代の政府と自民党なんだけどな。
750 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:49:11
>日本の大使は天皇というオッサンからの親任状を他国の国家元首に奉呈してる
憲法上は、日本の大使の信任状は内閣が出してる。天皇は認証してるだけ。
外交使節派遣の主体は形式上・名目上も内閣自身であって、天皇は第三者として
「これは日本政府の派遣した外交官にまちがいないよ」って認証してるにすぎない。
ただ、信任状に御名御璽をのせることで、あたかも天皇が派遣してるかのような
錯覚を内外に抱かせている。
自民党は憲法改正して天皇を元首とするのが党是だろ?
共産党が共産主義をやりませんというのと同じくらいありえないだろう。
天皇はエンペラーでしょw
権能が制限されても君主制は君主制なんだが。
それを制限君主制(立憲君主制)というわけなんだよ。
いかに君主権を法と民主政治で制限するかというのが
近代立憲制の最大の課題の一つと言ってもいい。
日本国憲法の定める政体は、
君主権力を究極まで制限した、
近代の制限君主制の一つの完成形であって、
日本の天皇は
「世界で最も進化した立憲体制の立憲君主」ということになる。
大統領をこの位置に近づけたドイツのような例もあるわけで、
君主制に限らず、「象徴元首制」とでも言うべきものは
世界の民主政体の一つの雛型のようなものとも言える。
アメリカのように、もちろん拒否しても民主政治は成り立つけどね。
>>741 すでに「天皇は元首かどうかを論ずるのは無意味に近い議論」
というのが憲法学的な通説となっているんだが。
754 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 14:33:35
それは結論を出すことから逃げているだけ。
70年代の百科事典とか法学書では、もっと断定的に天皇は元首じゃないと書いてた。
755 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:27:31
>>707 官務(大史)や局務(大外記)も収入になるけど、これはその収入自体を
それぞれ小槻氏(壬生家)や中原氏(押小路家)の知行の一部と見なした上で、
世襲になっていたんだよね?
756 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:31:14
>>716 戦後の日本は、国政に関してはイギリス式の立憲君主制&議院内閣制だが、
地方自治体においては、首長と議会との関係は、ほぼ大統領制と同じような状態。
757 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:41:14
>>725 首相というのは一般的には、国家元首によって任命される行政府の長。
三権分立の原則においては、行政府の長である首相は、立法や司法のトップとは
同格だが、国家元首はそれら三権のそれぞれのトップのさらに上に
位置付けられるべきもの。
そのような立場に該当する者は、日本の現状においては天皇しかあり得ない。
>>717 アメリカ型の大統領は、国家元首が行政府の長を兼ねている状態。
まあ国家としてのアメリカ合衆国が成立した頃だと、欧州の多くの国でも、
国家元首である国王が、行政府の長でもあるのが自然な形態だったので、
アメリカがこういう国体になっているのは、不思議ではない。
一方ドイツなんかの場合は、大統領は立憲君主制における国王と大差ない
儀礼的な国家元首で、行政の権限は全て首相が掌握している。
758 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:46:37
>>754 その頃は、学者の世界でも一般社会でも、ちょっとサヨクっぽいことをいうと、
それだけで物事をよく知っているインテリ風に見えて、もてはやされるような
風潮があったから。
759 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 19:09:56
逆にいまは社会が右傾化して、ウヨっぽいことを言うほうがもてはやされるから、
2chねらー推奨の天皇=元首説もあてにならない。
>>755 菅原各家のうちで他家を押しのけて独占するほど力のある家がなかったんだろうな。
確か大内記の場合は大名の位記とかを書くと礼金が貰えるってことだった。
公家は礼金払う金がなくて位記自体貰わなかったらしい。
761 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:14:08
官務や局務は平安後期から世襲傾向が出てくる。
こういうのを官司請負制っていうんだよね?
762 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:15:19
>>759 今の社会が右傾化しているように思えるのは貴方がブサヨクだからです。
763 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:39:45
十分に右傾化してるが
764 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:44:24
右傾化というのはなかなか面白い言葉だな。
今までの左よりから見れば「右傾化」はしてるわな。
右傾化してるのは確かだろう
明らかに右に向かっている最中だ
だがまだまだ左だけどな
あと2ちゃんでは右っぽいことを言いたがる風潮があるのも確かだろう
767 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:45:16
軍靴の響きが高くなってくるようでコワイヨ〜
768 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:52:59
ネットの右傾化はね今までのサヨクっぽい風潮への反発なのさ
右というより反反日、反自虐史観、反サヨク、反マスコミ
そこから反反自民、反反米、嫌反戦、嫌特亜
行きすぎるとただの自民マンセー、アメリカ様様、戦争バンザイ、嫌中嫌韓厨房になっちゃうこともあるが
で、征夷大将軍やらの話は?
770 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:28:01
お好み焼き食べ過ぎて腹が痛い
771 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:51:06
腹かっさばいて、いますぐ死ね
772 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 01:08:24
で、
>>761に戻って官司請負の話だけど、征夷大将軍も特定の家系に世襲される
ってことは、官司請負の一種かね?
まあ、歴史的に右傾化が行き過ぎてブサヨク化するケースもあるけどな。
国家総動員体制や大政翼賛会は一種のアカのパロディだし。
だから、大政翼賛会を支持する右翼と違憲を唱える右翼に分裂した。
幕府役職って世襲が基本なのかね
>>753 おいおい、まさか我が国が君主国、立憲君主国などと言うんじゃないだろうねw
我が国は王国ではないし、もちろん帝国でもない。
776 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 09:44:34
象徴天皇を持つ議会制民主国家、立憲民主国としか表現のしようがない。
立憲君主制と共和制の折衷というか、君主制の名残をとどめた共和制というか、
いずれにせよ曖昧な政体。
777 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 10:04:50
>>774 世襲化してしまったほうが、特定の家にその役職に関する行政文書が一括して
蓄積されていくから、何か判断の難しい事案に突き当たった場合に、過去の
先例や判例を調べやすいという利点はあったといわれるね。
江戸幕府の場合は上級職(布衣以上)は基本的には世襲ではないですね。
まあよく役につく家筋とそうでない家筋は有ったようですが。
4、5世代で3人くらい同じ役につくとか。
与力とか同心とかは建前は一代限りだけど実体は世襲。
その他雑多な下級職は与力と同じか建前でも世襲とか有りますね。
将軍様って言うまでも無く世襲だよな?
それでも朝廷からなんか証みたいなのもらってたんだろうか?
将軍宣下って知ってるか?
慶喜は宗家を相続してからしばらくは将軍になってないことも知ってるか?
781 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:43:07
江戸時代は興味ないからしらん
興味ないなら初めから聞くなよ。
鎌倉幕府の将軍は世襲じゃないことは知ってるか?
783 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 17:53:26
今や国民の統合の象徴は金。
金さえちらつかせれば天皇や宗教がなくても国民はまとまる。
>>780 じゃあ、幕府内の役職についてはどうなんだろうか?
これも世襲みたいだが。
>>784は特にというか室町幕府のそれについてね。
786 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 18:26:33
江戸幕府の役職は林大学頭とか高家のように特別な技能で仕えている者以外は
完全な世襲というわけではない。
老中などの幕閣にしても、就任できる家格や身分が決まっているというだけで、
特定の家系が代々老中やってたわけではない。
まあ、棚倉と福山の両阿部家は他家に比べて任命の頻度が突出しているが。
787 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 19:04:43
>>786 高家というのは、家格としての意味と役職としての意味があるから、
前者の意味では世襲だが、後者の意味では世襲ではない。
表高家(役職に就いていない高家衆)には世襲でなれるが、
必ずしも奥高家(役職に就いている高家衆)になれる訳ではない。
788 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:24:22
武家の官位がわかりません。
将軍は二位(右大臣)、10万石級譜代が従五位
勘定吟味役が六位と、これくらいしか見たことありません。
老中とか、牢屋奉行などはどれくらいだったのでしょうか。
あと、町奉行所の与力などの御家人にも官位はあったのでしょうか
どなたか教えてください
一応制度が固まって以後は、老中は従四位下侍従、京都所司代も従四位下侍従、
大阪城代が従四位下とかの一部例外を除いた残りの大名役は概ね従五位下。
と言うより元々大概の譜代大名は従五位下なので、必然的にそうなるだけか。
旗本役だと町奉行・勘定奉行等の最上級職が従五位下で官位があるのはここまで、
感情吟味役とかは正式には位階はなく、布衣という資格で、
これは六位相当と言うことになっている
ところで管領とか摂関みたいに数家で回り持ちって言うのも世襲って言うの?
牢奉行は普通ならお目見えになるような格だけど不浄ってことでお目見え以下だったような。
当然官位などに縁はない。
与力とか御家人も官位と縁はないですね。
遠国奉行とか大目付とかあのクラスだけが官位授与の対象。
792 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:27:27
>>790 管領は最初から3家のみの持ち回りで固定化されていたわけではなくて、
結果的にほとんどが3家出身者だったってだけのような気もする。
御内人って侍身分だよね。
あれって北条宗家の身分が上昇したから家臣である郎党の身分も上昇したの?
それとも身分上昇後に侍身分のものを家臣にしたの?
両方あるとすればどちらが主?
795 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 13:12:32
こういう議論見てても思うんだが
本当に日本人は天皇になろうとはしないんだなw
796 :
788:2007/05/21(月) 13:22:31
武家の官位について
ご親切に教えていただきましてありがとうございました。
所司代や大阪城代は結構高いんですね。
あと、官位は八位、初位などもあるので、旗本の下のほうとか
該当するのかって思っていましたけど、五位までと。
本(入門書?)読んでも記されてないので、わからなかったんですけど、
いやはや、その道のプロの方に感謝します。
797 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 13:35:02
>>796 江戸時代は公武問わず、八位、初位の叙位は無い。
七位の下官人は、朝廷出入りの菓子屋とか餅屋とかの町人身分。
一一世紀くらいから後になると、朝廷の方でも正六位下より下の位階はあまり叙位してい
ないようです。
下級官人のうち本来官位相当があったものは、初位相当でも正六位上。
それ以外府生・史生の類は七位の位階を持っていることがあったようです。
江戸中期くらいの地方神官で正六位下とか従六位下とかの位階を持っていることがあった
のでこのころまでに下級位階が復活したのかもしれません。
江戸末期の下級官人は普通六位以上、一部七位もあり、史生は商人が献金してなるもの
(一部例外有り)で七位。
八位は幕末頃に復活したらしく衛士とかそう言う下級職用。
初位は実例がないようです
799 :
796:2007/05/21(月) 13:57:19
ご教示感謝します
ありがたく生涯、知識とさせていただきます。
雄山閣「江戸幕府役職集成」、小学館「日本史の社会集団4大名」
青木書店「江戸時代の官僚制」、平凡社東洋文庫「幕末の宮廷」
新人物往来社「歴史読本増刊大江戸おもしろ役人役職読本」(多分後に本になっている)
吉川弘文館「中世公家と地下官人」、吉川弘文館「近世武家社会の形成と構造」、
東京大学出版会「近世大名家臣団の社会構造」、吉川弘文館「中世武家政権と政治秩序」
平凡社東洋文庫「幕末の宮廷」、吉川弘文館「近世公家社会の研究」
つくばね社「資料が語る江戸期の社会実相100話」
>>795 君主になんかなりたがるやつは頭がおかしい。
課長にすらなりたくないらしい現代日本の高校生の方が人としてはまともだろう。
802 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 14:21:38
>>800 すべて手帳に控えさせていただきました。
歴史版は敷居が高く、素人は相手にされないだろうと思ってました。
感謝に堪えません。
早速、書店、図書館に行ってきます
追加
吉川弘文館「平安王朝の宮廷社会」
下級位階の消滅について詳述されている。
804 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 14:32:40
>>801 ここ数年の話だけじゃなくてずっと昔からこうだったのかな?
805 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 23:17:29
>>800 続群書類従完成会「近世武家官位の研究」も忘れちゃいませんか?
806 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 03:06:07
>>793 高が没落しなければ、それ以外の足利一門出身者が執事になることは
あり得なかっただろうし、執事になる人が足利一門にならなければ、
執事が管領に改組されることもなかったのではないかと思う。
807 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 19:38:53
>>793を読んで室町時代にも高家があったのか?という疑問を持ったのは俺だけじゃないはず・・・
>>806でやっとわかったw
>>807 関係ないが、仮名手本忠臣蔵だと吉良の代わりに高師直かなんかが悪役じゃなかったっけ?
809 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:51:42
810 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 05:39:40
811 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 13:21:26
武家なんだから、○○家ではなく○○氏というべきだよな。
ただ高氏なら分かりやすいかというと・・・。
812 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 13:25:24
>>811 それなんて武内宿禰?
になっちゃうなw
今度は足利高氏と紛らわしいと。
814 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:36:21
日本史板なんだから、氏と家名(苗字)の区別は、
ちゃんとしようよ
平家物語
>>813 そんな高基と改名しているんだから大丈夫だろう。
と、ぼけてみる。
分かればいいじゃん。
>>816 足利義高(足利義澄)の一文字を貰って「高氏」か。
そう言えば、足利政知って義政より年長なのになんで弟なの?
820 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 04:00:59
>>819 庶子だから。この時代にはよくあること。
821 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 04:01:56
>>814 公家の家号と武家の苗字の区別もちゃんとしたほうがいいな。
822 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 10:35:38
御所が絶えれば吉良が継ぎ吉良が絶えたら今川っていう室町時代の言葉があるけど
足利一門の家格は斯波がダントツで吉良今川はその次じゃなかった?
管領家になったことで権力の代償として細川、畠山と同列の家臣筋の一門に落ちたの?
斯波が管領になるにあたって執事が管領に格上げされたのは有名な話だが。
823 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 10:52:20
>>822 それ江戸時代の講釈とかの話じゃね?
吉良とか今川は討たれる側だからその前の前フリとしてのキャラ付けだと思うんだが
824 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 11:25:26
吉良今川に江戸時代の御三家と同じに有事には将軍継承権はあったのか?
とてもあったとは思えないが。
斯波の意識としては細川ごときと同列の執事・管領になるなど家格が落ちたという
感覚だったらしい。
吉良は親類扱いの家の中では一番家格が高かったのは事実らしい。
細かいことは忘れたけど、新年の挨拶の際に親類一同は他と区分されていて、
その中にも数段階の差があり吉良は最上級だった。
ただそれと継承権云々は別の問題だろうな。
今川は完全に家臣扱い。吉良の継承権くらいは有ったかもしれないけど、
将軍家云々はおそらく今川のプロパガンダだな。
826 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 17:19:47
今川には吉良の継承権すらないだろ
827 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 19:53:45
吉良、石橋、渋川は一門扱いで「殿」つきで呼ばれる。
ほかの守護大名とは明らかに別格。
>>823 ヒント:吉良・今川は松平(徳川)に領土を奪われてその手下に成り下がった。
829 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 20:43:01
たしか鎌倉時代に足利の領地は、本拠の足利のほかに大きなところでは、
奥州と三河にあり、奥州を治めたのが斯波で三河を治めたのが吉良なんだよね。
それでこの二氏は足利宗家の家来じゃなくて、足利姓を名乗り、幕府御家人だったとか。
830 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:22:24
成立事情的には畠山も鎌倉幕府の御家人として掌握されていたと思うけどね。
831 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 00:24:17
>>829 畠山氏も東北地方との繋がりは深い。
畠山氏の最有力の被官である遊佐氏は苗字の地が出羽にある。
832 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 09:59:41
遊佐未森age
833 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:45:10
管領になったことによって結局斯波の家格は落ちたの?
吉良 石橋と比べて。
834 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 23:12:38
石橋や吉良って守護になったっけ?
835 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 23:16:55
石橋は本来的には斯波の分家だからなぁ。
>>834 南北朝期にはなってる。
836 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 06:41:16
継承権のありえる家系はせいぜい鎌倉公方家位じゃ無いのか?
吉良今川レベルは完全に単なる一門レベルだろ?
基本的に鎌倉期に別れた家には本家継承権無いと俺説。
837 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 09:02:20
今川は一門衆なのか?
吉良のさらに分家だろ?
838 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:16:00
一門守護扱いにはなっているはず。
839 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:18:52
鎌倉後期の霜月騒動の際に、吉良氏の祖先の吉良満氏は安達泰盛方に与して
死んでいるが、今川氏の祖先の今川国氏は逆に幕府から恩賞を貰っているので、
この段階で今川氏は吉良氏の分家という扱いではなくなっている可能性が高い。
840 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 08:48:42
今川スレが荒れたからといってここで今川スレの続きですか?
まあ今川絡みの話しは嫌いではないからいいけど
841 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:24:56
じゃあ質問だが
今川焼きと 今川氏はかんけいあるのか?
842 :
wikipediaだが:2007/05/29(火) 23:06:17
江戸時代末期に江戸の神田今川橋近くの店から売り出されたためにこの名がついた。戦国大名の今川氏とは無関係である。
843 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:19:55
義元の大好物で 戦場にも今川焼き屋台を連れて行ったから
ということではないのか
844 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:58:44
俺は今川焼氏が発明したのかと思ってた
845 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 00:04:29
杉並区の今川あたりで屋台が出たのがはしりかとおもっとった
846 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 08:25:10
その地名の今川が実は江戸時代になってからの今川屋敷付近にあるからとついた名前だとかで
まったく無縁ではない!
と主張されている意見をみたことがある
847 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 12:40:52
江戸時代に将軍家が右大臣、右大将に就いているとき
公家は将軍家と別に右大臣や右大将に就くことってあったの?
やはり大臣、大将は定員通り1名しかなれなかった?
848 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 13:08:15
左大臣は定員2名だったはず。
849 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 13:18:46
>>848みたいに定員2名と言ってしまうと
間違いとも言い切れないが誤解を招くよね。
公家から最大1名、武家から最大1名、
ゆえに最大で2名ということ。
そりゃそうと
>>849の訳がどうしてわざわざ
公家と武家の順を逆にしてるのか不思議。
851 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 15:10:17
>>849 禁中並公家諸法度のその条文は知っていたが大臣クラスは別ものか気になりました。
江戸期の左・右大臣就任者一覧でも探してみな、
将軍と公家が同時期に重複して就任してるのがわかるよ。
853 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 17:42:17
>>851 別物じゃないよ。
で、武家の官位は1620(元和6)年以降、公卿補任に記載しなくなる。
鎌倉幕府が御家人は原則官位持ちってことにしてたら、
その流れで室町幕府も少なくとも奉公衆以上くらいは官位持ちで、
そうすると布衣じゃなくて六位だったんだろうか?
855 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:13:44
>>853 別じゃないだろ大臣は。
そもそも大臣になれる武士は徳川将軍だけの筈だし。
856 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:15:24
太政大臣に至っては摂政・関白・徳川将軍のいずれかを経験しているものしか任命されなかった。
857 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:39:17
859 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 00:46:54
>>858 従一位のところにある源秀忠、従三位のところにある同義利[直歟]、同頼将[宣歟]も武家だね。
あと源政宗って誰だ?
伊達政宗っぽい気もするが、伊達氏は藤姓だよね?
・・・しかしそれにしても、武家は将軍も含めて全員散位か。
まあ前参議正四位下のところに名前がある連中は、参議だったのはみんな関ヶ原以前だろうから当たり前といえば当たり前か。
860 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 03:29:43
散位だって前大臣とかなら格式的に大臣と大差ないし(そもそも武士が朝廷儀式に出ないし)。
ただ、個人的には家斉の太政大臣期の補任とかがあるとより分かりやすいのでは?
と贅沢をほざいてみる。
861 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 07:05:55
武家の官位ってのは、名前だけのイミテーションというか紛い物?
>>861 まがい物じゃなくて、
実際に公家と武家がどこかで出会ったり、
手紙をやりとりしたりする時には
ちゃんとその官位に従って格式とか席次がきまると思われ。
しかしまあ公家側からすれば、
「本当に藤原だか源だかわからん奴らに官位もクソもあるか。
これはただのリップサービスだよ。」
とは内心思ってただろうがな。
863 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 07:57:01
>>859 > 源政宗
伊達政宗が将軍家から松平姓を受けていたってことはない?
適当な思いつきを言ってスマソ
865 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 10:29:44
公卿枠が武家に奪われなくて公家としては歓迎だったみたいだけど
同時に武家に対する官位授与権が無くなって朝廷の実入りが減ったらしいね。
織豊時代は武家が公卿になりすぎて公家側は相当困ったらしい。
江戸期に公家身分になれる家は徳川7家と前田位だからもうどうでも
良い感じだったんだろうけど武家も国司名乗るけど本物の国司は京都にいた
らしいね地下の諸大夫レベルでさ。
866 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 13:31:55
>>863 そういえば大河ドラマ「葵 徳川三代」で家康は臨終の間際に
「伊達、島津、前田に松平姓をあげるように」と言うシーンがあった。
このドラマは脚本がジェームス三木なのである程度、信頼性が高いと
思う。
867 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:11:17
歴代摂関で一番の実力者は藤原頼通?
868 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:12:55
>>863 伊達に限らず有力外様は、松平を貰ってる。
古地図を見ると、伊達の江戸屋敷は「松平陸奥守」
となっているし。
869 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 19:46:33
松平陸奥守源政宗
すいません松平の名乗りを許されると自動的に源賜姓になるんですか?
872 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 21:57:20
>>871 「藤原姓の松平」とか「大江姓の松平」なんてありえんだろ?
松平姓を貰うと、もれなく源姓がついてくると思われ。
873 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 21:59:37
>>871 ならない。
苗字と本姓は別扱い。
松平苗字を与えられていても、伊達は藤原氏、毛利は大江氏、前田は菅原氏。
なお江戸幕府に先立つ豊臣政権では、麾下の諸大名に対して
羽柴苗字の授与と豊臣朝臣姓の授与が別々に行われており、
ここでも苗字と本姓は別という意識が明確にある。
876 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:17:39
単なる誤記か、活字にするときの写し間違えじゃないの?
>>859が既に指摘しているが、徳川義直が「義利」、徳川頼宣が「頼将」に
なっている辺りからして、底本の精度もあんまりよくなさそうだし。
まあ公卿補任を書いている公家側からすれば、武家の人名なんて大して興味も
なかったってことだな。
逆に武家の方も本姓なんか飾り程度にしか認識していなかった可能性はある。
源でも藤原でも気にしていなかったたりして。
878 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:25:13
>>875 武家については、初めての公卿昇進の年でも、詳しい経歴は書かれないんだね。
あと、国史大系本ではどうなってる?
879 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:35:22
徳川に追従する意を示すために松平姓を受けたと同時に
源氏に変えたんだろう。
>>876 さすがに「氏」の写し間違いはありえないだろ?
880 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:37:26
>>877 > 逆に武家の方も本姓なんか飾り程度にしか認識していなかった可能性はある。
確かに大抵の武家はそうだったんだろう。
その中で、本姓をかなり気にしていたのは
やはり上杉と毛利(と、本物のw 源氏の細川・佐竹とか)だと思われる。
上杉は断固として松平は貰わなかったわけだな。まあ当りまえだが。
毛利も最後まで大江姓で通している。これも当然だ。
882 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:42:04
>>877 家康がその時の政治状況によってコロコロ、氏を変えているから
この頃はそんなに本姓に拘りはなかったかもな。
883 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:54:19
現職の関白の近衛前久が諸国を遊び歩いているとき、
他の四摂家のひとたちは文句を言わなかったの?
そりゃ言いましたともさ。
885 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 00:06:43
「松平を貰ったら『源姓』になるのか」という話が当時でていた、という話があったよう
に記憶しています。(出典は失念)
で、最終的に「松平の称号を下賜されたからといって、改姓するということにはしない」
と整理したとか。
886 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 01:43:10
まあ公卿補任の武家関連記事は全体的にいい加減だからな。
室町くらいだと、他の記録などから従三位に上った可能性が高いのに
何故か公卿補任に記載のない人物とか結構いたりするし。
887 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 01:45:26
>>865 >良い感じだったんだろうけど武家も国司名乗るけど本物の国司は京都にいた
>らしいね地下の諸大夫レベルでさ。
公家や地下官人の受領名は、室町以降は原則として権官しかいない。
実態があるわけないから当たり前だけど。
888 :
峻:2007/06/01(金) 02:13:58
江戸時代初期に、後陽成天皇の皇子の男系DNAが、五摂家すべてに行き渡ったために、御堂関白道長の血筋は、絶えてしまったことか、武士や庶民に知られなかったことが、原爆投下、敗戦への遠因なのです。
889 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 02:17:05
>>885 松平は源姓ではなく、在原姓か加茂姓。
家康が松平から徳川に替えたのは、松平が源姓ではなかったから。
890 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 03:00:00
見事に噛み合ってないレスw
891 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 03:03:47
892 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 06:46:14
>>888 それはない。
なぜなら、その後一条・二条・九条の三家が断絶して鷹司系に乗っ取られている。
まあ、本家の鷹司にはその後皇族が入ったわけだが。
893 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 08:37:00
鷹司も当主不在が長かったから、その間に取り潰せばよかったのに。
相対的に他の四家は家格が上がる。
894 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:40:26
>>892 >>888も無茶苦茶だが、あんたもおかしい。男系で言えば、江戸時代を通じて直系の相続は五摂家ともに途絶えている。
これは当然の事で、二百数十年もの間、親・子・孫と直系の子孫のみで相続していくのは到底無理である。
必然的に養子相続と言う事になるが、さすがに摂家では、摂家中に養子候補が無い場合、
皇族から迎える事になり、近衛家と一条家が後陽成天皇の皇子を、鷹司家は閑院宮直仁親王の皇子をそれぞれ
養子に迎えており、王孫となっている。九条家も鷹司家から養子を迎えていて、これも王孫である。
ただ二条家のみが、初代良実いらい一度も皇族からの養子を迎える事なく、藤原氏の血統を守りぬいている。
江戸時代二条家も3度他氏から養子を迎えている。
康道(九条幸家の子)、綱平(九条兼晴の子)、宗基(九条幸教の子)の3人である。
しかし、幸家は父兼孝が二条晴良の子で二条家の出。
兼晴も鷹司教平の子ながら、教平の祖父信房は二条晴良の子でやはり二条家の出。
幸教も祖父が兼晴で、綱平の甥とこれまた、二条家の出。つまり、養子の血統を辿れば全部二条家のものである。
このように、二条家は江戸時代を通じて一代とて皇族の血を交えず、藤原の血統を伝えている。
したがって、鷹司系に乗っ取られていると言うのはナンセンスである。
だいいち、鷹司家も江戸時代には、二条、近衛、一条そして、最後に閑院宮から養子を迎えている。
895 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 13:32:38
>これは当然の事で、二百数十年もの間、親・子・孫と直系
>の子孫のみで相続していくのは到底無理である。
井伊直弼みたいな部屋住みを置いておけば、直系は無理でも男系
の血統でつなげられたかもね。出家させないで厄介とする。
896 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 17:08:00
将軍家も御三家も大抵の国持大名も、江戸時代を通じて傍系相続で男系を維持している。
女系に変わった上杉やアカの他人になった黒田や蜂須賀は例外的。
897 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 19:08:19
>>887 堂上家の諸大夫・侍でも守や介を名乗っている。
鳥取藩の足軽の息子だった歌人香川景樹も徳大寺家に仕えて、介から守になった。
官位で言うと
御三家・御三卿&前田>摂家諸大夫>島津・伊達・井伊以下
=参議以上>散三位>四位以下
武家の官位は周知の通り非常に低い。初任はかなり高い場合もあるが。
前田・島津・伊達・井伊は三位参議、国持クラスで三位中将、老中で四位中将、
小大名でも従四位下くらいでも罰は当たらないと思う。
899 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:08:48
非常に低いっていうか。
古来、三位なんていうのは殆ど、神に近い雲の上の人々に与えられる位で
その人が死んだ場合には、皇太子や内親王が死んだ場合と同様に
それを「死」と呼んではならず、「薨」と言わなくてはならない。
当時の感覚では従四位下とかでも、「非常に高い位」だったと思われ。
でも従四位下じゃ地下人だけどね
901 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:39:53
>>896 佐竹なんかは室町段階で女系に変わっているが、これはもっと例外的な事例。
中世以前だと一般的に、女系を介していても異姓養子はあまり好まれないが、
戦国期に戦国大名間での政略的な異姓養子が横行した結果、異姓養子に対する
抵抗感がそのものが社会全体的に弱くなった感じがする。
>>899 室町守護家とかでも、三位に上るのはかなり例外的で、三管領クラスで四位が
基本だからな。
一般に麻呂のイメージがある今川義元だって実際は四位止まり。
902 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:42:00
麻呂って言葉を出すな
904 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 03:42:14
905 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 08:02:54
堂上家は、順調に昇進すれば晩年までには三位以上になることが保証されている家をいうね。
906 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 08:03:49
逆に官務の壬生家とか局務の押小路家とかは、五位・四位に上っても地下扱い。
907 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 08:14:33
公家の官位ってのは江戸時代までには、インフレ起している感があるね。
大伴家持の従三位中納言と、江戸時代の堂上の三位とでは
重みがはるかに違う。
江戸時代っつか
鎌倉時代で既にインフレ起こしてるな。
大伴旅人の正二位大納言・家持の従三位中納言と
藤原定家の正二位権中納言とでは、既に雲泥の相違。
909 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:02:55
武家の官位で上級公家に匹敵するのは徳川将軍家くらいだと思われ。
御三家で雨林家レベル、前田で半家以下
1620年で公卿総数39名、それが17世紀後半になると100名近くに増加し、
18世紀以降幕末までだと100名以上、150超えるときもある。
17世紀末頃から神官の公卿が誕生し、幕末に至るまで増加していく、最後は30名以上。
まあ現任公卿はポストに限りがあるからあまり増えてないけど。
など考えると国持大名の従四位上下・少将侍従程度ってのは低すぎるよな。
新井白石だったかが武士は位階じゃなく勲等でも与えろって言ってたな。
さしずめ官位を貰うのは将軍と世子、嫡孫くらいで、
あとは御三家・御三卿で勲一等・二等、国持以上が三等・四等、
その他が五等・六等くらいか。
直参は六等以下小十人くらいが勲十二等。
>>910 武家の官位が低すぎるんじゃなくて、
堂上公家が多くなりすぎて、
摂家でも清華家でもない平公家の官位が、高すぎるんだよ
913 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 18:49:16
>>908 インフレ兆候はむしろ院政期から出ている。
914 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 19:11:33
>>904 違う。
堂上=公卿+殿上人(四位・五位で昇殿を許された者+六位蔵人)
公卿になれば自動的に昇殿が許さるのが原則だが、
三位になっても許されない場合がある。それが「地下の上達部」。
壬生や押小路が長生きしたり、功があったりして特に三位になった場合なんかが
それだね。
>>910 16世紀末から18世紀初頭にかけて、新家の設立が相次いで、
堂上家が60弱から150余りに増えてるからね。
両局はわかるんだけど、諸大夫とか社家の三位ってのも地下の公卿って言うの?
三代将軍って官位の面ではエポックだな。
実朝、初の大臣。義満、初の太政大臣。家光、初の従三位大納言初任。
家光以後の将軍家世子の初任って以上に高いよね。従二位〜従三位で大納言。
いくら生まれついての将軍とは言え、五位スタートの家康・秀忠とは極端な断層がある。
これ以前だと嵯峨源氏(一世)でひとり従三位があるけどあとは四位以下。
それも一世源氏か親王の子で、通常の臣下だと摂家でさえ五位。
まして大納言直任なんて前例がない。
ものすごい横紙破りで、逆に大名の官位は比較的低く抑えていて、
それだけ差を付けようとしていたんだろうけど、
しかし官位という同じ土俵にいる以上、観念的には同等者中の第一人者に過ぎない、
と言う考え方が生じるのを防げなかったわけか。
権威の利用は諸刃の剣。って改めて言うほどのことでもないけど。
917 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:13:12
30年くらい将軍職についてて実権もバリバリあった5代綱吉や8代吉宗が
右大臣どまりだったのはチト意外。
918 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:21:28
>>917 しかも正二位止まりだしね。
武家官位が員外とされてからは将軍家にとっては官位なんかどうでもよかったんだろうけど。
919 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:57:55
吉宗は太政大臣への推挙の話は出ていたが実現前に死んだとかだったような。
>>914 平田家みたいに地下官人だが職柄で昇殿を許されているのもあるが
出納って昇殿出来るの?
922 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 02:26:53
>>921 出納が昇殿できるという話は初めて聞いたw
923 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 02:30:43
今ふと考えたんだが
清涼殿が雨漏りしたり破損したりすると修理しなきゃならんよな
そしたら修理のために清涼殿に上がった大工や左官は昇殿したことになるのか
大工も堂上?
はぁ?
926 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 13:25:19
>>915 江戸時代後期の公卿補任をみると、散位の欄に荒木田とか渡会が出てくるよ。
>>917 家光には太政大臣の話しがあったが固辞(父と祖父に遠慮)。
家綱には左大臣の話があったが固辞(父に遠慮)。
で、家綱以降右大臣止まりが慣例になるけど、それを破ったのは家斉。
将軍現職のままで太政大臣は、この人だけ。
この人は一橋家からの養子だし、幕藩体制が弛緩して来た時期だから、
将軍家の権威向上を図ったんだろう。
927 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 13:35:20
ああ、大きな勘違い
平田の昇殿は院だったorz
スマン
三催中壬生は昇殿できた。六位蔵人になるから。
「幕末の宮廷」だと従五位下左大史を辞して蔵人になり、その後また左大史になって四位
まで昇進、左大史辞任後に正三位昇進ってことらしいけど、それって一度五位から六位に
降位ってこと?
あと堂上でも下位の方は必ずしも公卿昇進が可能と言うことでもなかったようだ。
まあ潜在的には権利があったんだろうけど。
つまり官位だけで言うと両局以下の堂上もいたってことか。
929 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 14:22:05
ちょいと質問、頼朝は右近衛大将になったわけだが
武官の最高位って右近衛大将なの?左近衛大将なの?
それともどっちも変わらんの?
よく頼朝が武官の最高位である右近衛大将になったと言ってるけど
じゃあ格上である左近衛大将の立場は?と思ったわけで。
930 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 15:17:01
>>929 左大将が上。
左大臣が右大臣より上なのと同じ。
左大弁が右大弁より上なのと同じ。
自分でも
>格上である左近衛大将
と買いてるじゃん。
931 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 15:32:19
>>930 いや、俺がいいたいのはそこじゃなくて
良く目にする頼朝がなった右近衛大将が武官の最高位っていう
記述はあってるのかって所なんだけど。
まあ厳密に言うと「最高位」ではないんだろうが、右中将→右大将→内大臣→右大臣というように
左右にシフトせず昇進していくのが普通みたいなので、右でも実質頂点といって差し支えない
んじゃないの?家康は左大将→内大臣→右大臣だけれど、これはポストの都合かな?
左右大臣は制度上左大臣が上位ですが、左右大将の場合は制度上は上下はなく同格です。
しかし実際には右大将から左大将に転ずる例は多々ありますが、逆は確かなかったと思い
ます。
これは日本が影響を受けた時期の中国の官職が左を尊んだ為、日本でもそれに習ったとい
うこともありますし、左右近衛府の前身である近衛府と中衛府の関係も影響しているもの
と思われます。
右近衛府の前身である中衛府の方が、左近衛府の前身である授刀衛(後近衛府)より歴史
が古く藤原仲麻呂の勢力が強かったため、彼の失脚後近衛府より官庁としての格を落とさ
れた(長官以下の相当位が近衛府>中衛府だった時期がある)と言う経緯があります。
その後両府の官員の相当位は対等になりましたが、従来の経緯から左上位だったようです。
左大将は摂家専用。
935 :
929:2007/06/04(月) 18:46:15
返答サンクス。
>>934 頼朝当時は摂家専用だったのか。
納得しました。
936 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 19:33:04
武家政権になってからの公家の「武官」って意味があったの?
近衛府なんて軍楽隊みたいなもんでしょ
938 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:32:12
少将以上は堂上家の単なる肩書き、将監以下は楽人や舞人用の肩書き。
院の随身も将監以下の肩書きを持っていたが、随身自体存在意義不明。
衛門、兵衛とかは?
941 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:53:02
武家政権って言っても鎌倉幕府のうちは検非違使は実質的な活動をしていたので、
衛門権佐(=検非違使佐)等衛門府の官は完全に意味を失ったわけではない。
といっても衛門佐は上級公家の若年時の肩書きにすぎないし、
衛門尉もただの肩書きの場合が多いけど。
兵衛府の官が一番形骸化が激しい、上から下まで単なる肩書き。
>>941 アレはむしろ意図的に就かされたのでは?
945 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:26:51
946 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:57:39
豊臣秀吉が、将軍・摂関・太政大臣の三つのうち好きなのを一つ選べと言われて、関白を選んだんだよな。
947 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:02:54
官職は左右のあるものは必ず左が上位となる。少将・中将や大納言など、
複数いる官職の場合は、位階順や任官順で序列を決める。これは官僚組織の宿命だろう。
左大将は近世においては、ほぼ摂家の独占だが、中世には清華家クラスの左大将任官が、
多く散見される。特に14世紀前半は顕著で摂家以外で左右の大将独占というのも珍しくない。
しかし、近世は幕府の朝廷管理方針の中で、摂家の権勢は隔絶したものとなり、
大臣、大将も摂家任官の偏重が目だってくる。
大将も摂家の独占が珍しくなくなってくるが、その中で、約2年に亘って奇跡のように、
清華家か左右の大将を独占した時がある。
天和2年(1682)鷹司兼煕の辞任のあとを受けて、今出川公規が左大将に任官、
右大将の花山院定誠と共に、貞享元年(1684)近衛家煕が左大将になるまで、
清華家が大将を独占したのである。
天和2年は摂家の大納言は近衛家煕が16歳、九条輔実が14歳とあまりにも若年のため、
涙を呑んで左大将任官を断念したんだろう。
後は、例外的に明治元年の三条実美の左大将があるのみである。
948 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:24:52
949 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 01:25:33
次スレはいくつで立てる?
950 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 05:14:32
951 :
950:2007/06/05(火) 05:17:14
なお、体裁は初代に戻してみました。なお、メール欄に「答え」を仕込んであります。
うわ、なんか糞スレっぽい1になったね
953 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 09:17:36
むしろ今の流れだと官位官職総合スレが必要なんじゃないか?
954 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 12:30:16
ついでに今の公務員のやつらを官位でおきかえた
場合のスレとかやってくんねえかな
>>954 お前バカじゃねえの、ってよく言われるだろw
956 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 14:18:57
>>950-951 あの段階では誠仁親王は既に成年に達しているんだから、仮に正親町天皇に
譲位を迫って誠仁親王を即位させたところで、摂政はないと思うが。
まったくだ
意味がわからんよ
マジで糞な1乙
958 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 14:33:58
とりあえず糞スレは無視して作り直しといてね。
959 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:01:51
960 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:51:34
官位総合なら僧位僧官や郡司とか秋田城介なんかの地方官、また女官も対象に含められる
961 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 16:01:35
サッカーの城は秋田城介の子孫で平姓
962 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 19:35:58
本能寺の変が起こらなかったとして、その後に誠仁親王が史実通り若年で死んで
後陽成天皇が即位したとしたら、信長が摂政の線もアリ?
・・・でも史実で秀吉が後陽成天皇の関白になっていることからすると、それも
無理そうだな。
963 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 20:22:18
964 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 20:23:26
>>962 信長は平氏だから清盛を真似て太政大臣狙いだったのでは?
源平交代って言っても、そもそも北条って本当に平家?どこぞの馬の骨じゃないの?
966 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 21:04:42
>>965 北条はそんな家系が分からなくなるほど昔ではないだろう。
967 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 21:14:08
968 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 21:26:09
>>964 太政大臣になる可能性はあったとは思うけど、その場合、清盛よりもむしろ
足利義満の先例を念頭において自らを治天の君に類似した立場に持っていく
可能性もあり得る。
そして誠仁親王を即位させれば織田政権はひとまず完成形になる。
>>966 結構微妙だと思うよ。
平直方から時政に至る系図すら確定していないし。
969 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 21:37:21
そう言えば、千葉常胤は平忠常の曾孫だと言われてきたけど、それも怪しいという話があったな。
970 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:28:32
あと、本能寺の変は三職推任の返事をさせないために起こしたという話があった気がする。
北条氏は確かに直方の子孫。
但し時政の家は庶流なため、彼へ至る系は不明。
972 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 01:59:26
なるほど
973 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 03:33:27
>>971 時政の甥とさせる時定の系統が本来は嫡流だったという説か。
その説に依拠したとしても、時定に繋がる系統も途中の系図は不明確なわけだが。
974 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 04:52:25
時定の子孫は御家人となったの?
975 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 05:08:09
北条が平氏なんて本気で言ってるヤツがまだいるのか。
つか、スレタイ読めよw
978 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 09:13:41
979 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 14:48:40
age
981 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 19:58:11
北条は自称平氏
徳川の新田は信憑性ほぼゼロ。まともに取り合う必要なし。
織田の平家も信憑性ゼロ、藤原はあるいは正しいかも。忌部かもしれない。
北条の平家は自己申告通りかもしれないけど断定できない。検討の余地有り。
どれも出自を確定できないと言う意味では出自不明だが、信憑性のレベルに差はある。
って感じじゃないの。
983 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 20:17:17
じゃあ足利の源氏は?
984 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 20:49:08
>>983 本物
だからこそ諸国の武士が尊氏に従った
足利まで疑ってしまうと佐竹・武田・伊達あたりでも信用できないよな。
中央とずっと繋がりのあった家は信じて良いと思う。
在庁官人だの地頭・荘官レベルだったことがある家は怪しい。
986 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:11:52
家康が東国支配、あるいは征夷大将軍への担保として源姓を称したというのは理解できる。
しかし、信長が平氏を称したからといって、太政大臣を目指したというのは腑の落ちん。
家康が新田系を名乗ったのって
足利とその係累である今川、吉良あたりへの挑戦・否定みたいな意味はあったのかな
988 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:54:24
家康は吉良とも今川とも親戚関係ですよ。
>>987 ま一般にはそう言われているようですが。
なんかスレタイ関係なくなってきたな
ま、残り少ないし次スレもいらんな
例の糞スレは使うなよ
996 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 12:57:50
age
997 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 12:59:17
>>990 って謂っても次スレ今から立てても重複扱いだろ
998 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:00:27
総理大臣の前身が太政大臣
999 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:19:14
糞スレと化して終了か
1000 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:28:45
1000なら相武紗季とニャンニャン
1001 :
1001:
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