1 :
日本@名無史さん:
3 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:28:20
____
/ \
/ ─ ─\ 今年もあと1週間だお・・・
/ (●) (●) \
| (__人__) | ________
\  ̄ ./ .| | |
ノ \ | | |
/´ | | |
| l | | |
ヽ -一ー_~、⌒)^),-、 | |_________|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄ | | |
/ ̄ ̄ ̄\
/ ─ ─ \
/ (●) (●) \. 俺はこの一年間何をしていたんだろう
| (__人__) | 2chで浪費した莫大な時間を何か有意義なことに使っていたら・・・
\ ` ⌒´ /
/ \
4 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:44:41
>>3 てなことを言う人もいますが、他人の言説に触れることも、大事だと思われます。
他人のレスがヒントになって、考えが深まったり、
新たな知識を得ることも、なきにしもあらず、です。
この、シリーズ11スレ目では、これまであまり議論されなかった次の2点について、
大いに議論し、できれば年内決着、全員で乾杯!を目指しましょう。
1 邪馬台国はどこにあったか。
2 邪馬台国は、その後どうなったか。
5 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:55:01
最近、日本書紀を読み返しているけど、日本書紀には「一書にいう」として異伝を多く伝えている。
これは各氏族の伝承をそのまま書いているとしか思えない。
その当時の人々は記紀を読んで、「ウチの先祖はこの頃から天皇家と係わり合いがある。」とか
「ウチの祖先は神武東征に一緒についてきて戦ったんだ。」とかの言い伝えを誇りにして自慢して
いたはず。つまり、書かれた当時は記紀の所伝の大半は事実に基づいていると考えられていた
ことは間違いない。
戦後のマルクス主義史観は記紀を後世の捏造と見て、多くの天皇の実在性や神武東征を否定し、
書かれてもいない王朝交代を何回も肯定したりと、異常な時代もあったもんだなあと思う。
マルクス主義史観ってのが具体的になんなのかわかんねーんだけど・・・
言ってる意味はなんとなくわかるが正確に定義して正確に
伝えようよ・・・
一言でいうなら戦後は戦前の皇国史観を否定した
輩の説を無批判に受け入れてるだけで
日本人の鵜呑み根性は根っから変わってないと
いうことだろう。
7 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:05:04
日食は、この本がいいです。『日本朝鮮中国 日食月食宝典』渡辺敏夫著
雄山閣
8 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:06:16
9 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/24(日) 22:07:32
>>6 >日本人の鵜呑み根性は根っから変わってないと
そんな連中がなんと多いことか、2chを見てるとよく判る。
ただ理由も書かずに断定ばかりする鵜みたいな連中!
書かないのじゃなくて書けないのかも知れんな・・・
記紀の歪曲的な解釈(自説に都合の良い解釈)
大正時代とか昭和初期の情報が無い時代ならわかるが
インターネットがこれだけ広まった2006年でさえ
この大正時代の人の説や考え方から
一歩も進んでない人が殆どなのは本当に
信じがたい驚異。
日本人の鵜呑みの心は根深いものがある。
>>5おまえと
>>9おまえが一番、鵜呑みだよ。
どういうデータと理屈そう言い切れるんだよ!
12 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2006/12/24(日) 22:25:33
>>6 確かにマルクス主義史観だけでは判りにくいですね。むしろ、反皇国史観と
した方が正確。ただ戦後は歴史学会全体をマルクス主義が席巻していたもの事実。
>>8 私は津田はマルクス主義ではなかったと思っています。
津田は戦前は皇国史観に都合の悪い見解を主張して発禁処分を受けるも、戦後は一転して、
天皇陛下への敬愛を述べる論文を出したり、朝鮮征伐を認めて朝鮮を卑下するかのような
論文を出したりして、その時々の主流派への反抗心も強い。
この、多数派に与して言説を述べるのを嫌うところが津田の良い点であると考えています。
戦後に津田学派を自称する人たちは、多勢でもって言論をなす点で津田学派の資格はない。
ただ、津田の難点は、山片蟠桃の見解を引き継いでいるにもかかわらず、自分の論文では
山片蟠桃の見解を全く引用しないという学者らしからぬ振る舞いや、古典的な合理主義に
基づいて文献批判を述べているところでしょうか。
13 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:26:46
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
1,邪馬台国と大和朝廷は同時代にある
2,邪馬台国と大和朝廷は同時代にはない
A,邪馬台国は九州にある
B、邪馬台国は畿内にある
1A、1B
2A、2B
こういう組み合わせがあるということを全く理解していない。
高校の順列組み合わせを知らない
中卒が多いんだよね・・
強烈な先入感にとらわれているのか洗脳されているのか
他の考えというのを一切受け付けない
大正時代の思考で急停止してるバカが多すぎる。
>>14 何がどういう理由でバカなの????
理由を具体的にいえよ
俺にはなんの根拠も無くバカと言い張るおまえの方がバカにしかみえない。
俺の見た限りこの中のコテでは
太国が一番、史書、遺跡から遠く離れていないし
理論にも一貫性をもってるみてるが。
18 :
太国:2006/12/24(日) 22:44:33
19 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:44:33
20 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/24(日) 22:50:04
あらーちょっと油断していたら、もうドン来い11がっ。
ああ、またもや九州ですがの無駄なレスで消耗され11がっ。
22 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:03:09
しかし、倭人伝の読み方は相変わらず進歩がないが、
考古学の発見、検証は今もあるし、これからもあるわけで、なんか
これからは近畿の遺跡が発見されるにつれ、とにかく卑弥呼の時代に
かなり力をもった元締め的存在が近畿に居たということは固まってきそう。
23 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:06:42
>>22 九州は、新遺跡発見が難しい、ということ?
それとも、九州は、発掘調査が不活発ということか。
>>22 そうそれ!それは九州説の漏れは事実として受け止めてる。
>>15で超ド初級の組み合わせ問題をみればわかるよう。
九州に邪馬台国があっても畿内の大勢力の存在を
否定しているわけでは決してない!2A
>>23 それはわかんないけど
おまえが何となく頭が悪いというのはわかる。
26 :
23:2006/12/24(日) 23:11:08
基本的には漏れは太国や高天原奈良説の人とほぼ似てる。
邪馬台国当時、畿内にはすでにスーパーパワーが存在していた。
28 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/24(日) 23:14:39
[日本人の鵜呑み根性は根っから変わってないと ]
正しい事を鵜のみにするのならともかく、間違った事を鵜呑みにするから始末が悪い。
結局正論では勝てない敗北者の証明に他ならない。
>>28 >[日本人の鵜呑み根性は根っから変わってないと ]
>正しい事を鵜のみにするのならともかく、間違った事を鵜呑みにするから始末が悪い。
>結局正論では勝てない敗北者の証明に他ならない。
は?何が正論か具体的に言わないと意味が無いだろ?
おまえのムダーなレスで又無駄な時間と電力が消耗される。
30 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:17:11
邪馬台国は本当は邪馬国だ!
魏の人に国の名前を聞かれたら「邪馬たい」と博多弁で答えた。
つまり邪馬台国は博多にある!間違いない(最近みなくなった人の形相で)
31 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/24(日) 23:22:41
>>29 お前の5行こそ全部無駄。批判を恐れて説が言えない臆病者。
悔しかったら邪馬台国の場所はどこかぐらいのことをいってみい。
ニニギが降臨した九州の地は隼人の勢力圏だった。
ニニギの天孫の血は薄められ、
神武自体は
天孫のクウォーターでしかありませんでした。
神武の母は太宰府の宝満神社に玉依姫として祀られています。
その天孫がどこからきたか。
それは出雲神話に答えがあります。
そうタカムスビノカミです。
邪馬台国がどこかなんてのは脇を固めてからでも遅くはない。
先に何の根拠もなく邪馬台国はここだ!と
断言するから嘘800ならべ
大嘘ツキ、ペテン師
呼ばわりされることになる。
34 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:27:20
>>23 発掘っても、奈良なんかは掘ったらなんか出るし、出たら工事ストップだからみんなおっかなびっくりなんだよ。
建築主が。だから積極的発掘ってのは大和もあまりない。九州は知らんが。
ただ思うんだけど、邪馬台国がどちらにせよ、伊勢神宮みたいな掘っ立てだったら
基礎なんか残ってねえ=大規模遺跡なんかでねえんじゃねえかな。
それにすごくいい土地ってのは上に次の建物かぶしちゃうからね。分からなくなる。
石山本願寺跡に建てられた大坂城みたいに。まあ、これは文献あるから分かるわけで。
35 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:29:30
36 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/24(日) 23:35:10
ひょっとして、ここのスレに登場する畿内の方々は、奈良県邪馬台国で村おこし同好会の皆さんですか?
37 :
34:2006/12/24(日) 23:39:28
何か、君はひねくれてんじゃない? 俺、昔奈良で仕事しただけだよ。
それに畿内説者でもなんでもないんだけど。
38 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/24(日) 23:45:58
>>37 奈良の人なら、邪馬台国まで九州に持っていかれたらいよいよ何にも無くなって
かわいそうだなーと、ふと感じたものですから。
でもおたく九州説?僕の書き込みを無駄だとか言ってる人でしょ?だったらどうかしてるんじゃないの?
39 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/24(日) 23:46:22
>>974 >戦いにすぐに役立つはずの武器提供の記述がないのだろう?
>本当にノボリとか檄文しか、くれなかったのかな?
緊急に安く送れる運搬手段がなかったから。
ノボリや檄文なら護衛まで入れても、5人くらいでも即送れるけど鉄刀1000口
なんていったら、重さだけでも1トンはある。
人力で運ぶんだぜ!
「村おこし同好会」・・・・この言い方は侮蔑的。
全国で、地域の活性化へ向け頑張ってる村おこしの人々も傷つける。
41 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:48:17
>>38 はあ?何言ってんの?被害妄想になってるぞ。
42 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/24(日) 23:53:18
>>41 被害構想になるわけ無いでしょう。もともと九州説が勝ってるんだから。
43 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:54:13
44 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:54:23
>>39 ま、それは分かる。
郡側にしても、武器の備蓄が潤沢にあったとは思えんし・・・。
恵也、時にはええこと言うな。w
学歴は超ド初級の組み合わせも知らない中卒
思考回路は大正時代のエセ学者の鵜呑みで
急停止状態。
これじゃいずれ袋小路
46 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:57:12
47 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 00:01:05
>>45邪馬台国が、九州以外の別地域と考える人は、おめでとうございます。
保育園卒業です。
48 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:51:12
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1166152776/ 202 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:50:41
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144 紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
203 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:51:53
>>201 >>202 紀年のほうは生かじりなんですか?
204 :太国 :2006/12/23(土) 22:54:36
>>203 でなければ出版を手がけますよ。
206 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:55:52
>>203 出版をしたことがあるんですか?
207 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:57:51
>>204 何の分野の本を出版したんですか?
208 :太国 :2006/12/23(土) 23:00:36
>204は
紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。
209 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:02:36
>>208 文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ
>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?
また太国コケマシタ。
49 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2006/12/25(月) 01:17:29
>>5 で伝承のことについて書いたのでついでに。
平安時代初期の『新撰姓氏録』では、大和から出た氏(三輪、倭直とか)は「地祇」に
分類され、高天原起源は「天孫」、「天神」に分類されている。
しかし、畿内の氏の約1200のうち、「地祇」はたった30(2.5%)でしかない。
(宝賀寿男の「『神武東征』の原像」参照)
つまり、圧倒的多数の氏族が九州起源を自称していたという事実が存在する。
あと、神武東征に敵対した氏族が「天孫」、「天神」になっているのは、ニギハヤヒ等が
先に天下っていたという伝承の裏づけになる。
物部の「先代旧事本紀」は、東征に追随した物部の各氏族を列記している。
以上、普通に考えれば、九州からの支配層の移動があったことは文献上は明らか。
サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。愚直に。
57年の漢倭奴国王が金印。これは、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、奴国の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので、金印を貰えたのではないだろうか?
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代であり、奴国王は、天皇に黙って、
使節を送ったのではないだろうか?
107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
崇神天皇の時代(230.5-264)
崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。
そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。
また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。
崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。
51 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 05:32:32
>>39 それに、いつ敵になったり味方になったり、翻るかわからない他所の国に、
わざわざ武器をくれてやるお人よしなんていないんじゃないの?
武器商人として売るんならともかく。
52 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 06:08:20
そういえば、プラムさんがあんまり出てきてないね。
前スレで珍しく低脳相手に腹を立ててたもんね。
気にしなくていいんですよ。あんなの僕なんて人間だとは思っていない。
糞バエがブンブン飛び回ってるとしか。糞バエが出てきて、プラムさんが
出てこないのは本末転倒ですよ。畿内説など、傍論は色々言うけど、結局、フミ国からの方角を、
南ではなく、東に方向転換しないと成り立たない説。大体それ以上一歩も進めない説なんだから。
それで、考古学軽視だとか、地図が90度ずれているとかいってくるがネタは全部ばれている。
それ以外でガタガタ言ってくる変なのは、残念ですが保育園卒ならず、フーリッシュアカデミー行きの
直行バスに乗った方がいい。
53 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 06:18:09
それではお仕事なのでゴメンなんしょ。
そういえば、「攻撃されても次の日、何食わぬ顔で出てくる」と前スレで
僕のことを言っていたのがいたけど、馬鹿に遠慮して引っ込んでしまう人なんて
この世には誰も居ない。
>>49
>しかし、畿内の氏の約1200のうち、「地祇」はたった30(2.5%)でしかない。
>(宝賀寿男の「『神武東征』の原像」参照)
???????????????????????????????
>つまり、圧倒的多数の氏族が九州起源を自称していたという事実が存在する。
なんか理論の途中がすっ飛んでない?
どうしてそういうデタラメな論理を
言い切れるわけ?
そもそも天孫が天下った九州は
隼人の生息地だったんだぜ。
九州に天応家の元みたいな家系がいるとおもうか?
大分の辛島とかはたしかに畿内と深遠だけど
自説の押しつけはやめよう。
元々近畿人と九州人は全く違う民族なのだよ。
物部は銅鐸、鈴木 出雲族
九州は豊前大分の宗像や遠賀の物部勢力が有名だが
他は畿内から降臨したもの以外いない。
55 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 07:38:56
>>54は馬鹿の典型。
てめえはなんの論証もせずうんこを書き殴ってるだけの癖に
人のことをでたらめとか平気でいい放つ。
幾ら何でもありスレとは言え学問板でよく恥ずかしくないな。
お前の書いてることは無茶苦茶だよ。
サガミハラハラさんの二倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。
57年の漢委奴国王が金印。漢委奴国王は、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、委奴国(伊都国)の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので金印を貰えたか? あるいは偽者なのか?
これより約200年後の魏志倭人伝には、邪馬台国(やまと王権?)の対外出先機関が
伊都国にあったというふうに書かれていたから、そういう重要な関係上
伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。いずれにせよ、漢委奴国王は天皇ではないと思う。
107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
よく、 倭国王・帥升(すいしょう)と教科書では覚えたが、これは間違いである。
崇神天皇の時代(230.5-264)
崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。
そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。
また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。
崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。
サガミハラハラさんの二倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。
57年の漢委奴国王が金印。
漢委奴国王は、委奴国(伊都国)の王の可能性が強い。
最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので金印を貰えたか? あるいは偽者なのか?
これより約200年後の魏志倭人伝には、
邪馬台国(やまと国、「台」は「と」と読むべき、「やまたいこく」は誤った読み方)の
対外出先機関が伊都国にあったというふうに書かれていたから、
そういう重要な関係上 、伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。漢委奴国王は天皇ではないと思う。
107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
倭国王・帥升(すいしょう)と学校では習ったが、これは間違いである。
帥升等の「等」は「〜など」という意味ではなく、帥升等で「シシト」と人名である。
崇神天皇の時代(230.5-264)
崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。
そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。
また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、
この蛮族は狗奴国(宇土半島に拠点、熊襲とことか?)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。
崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。
58 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:11:59
>>38 九州ですがは、関西人は皆畿内説だと自動的に思ってしまうようだ。
59 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:20:17
妄想だらけの砂上の楼閣みたいなスレやな。
アマチュアがプロに馬鹿にされるわけだw
60 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 15:44:40
>>56漢委奴国王は、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、委奴国(伊都国)の王の可能性が強い。
それは無いでしょう。なぜなら、
1、伊都国は伊都と言う文字を使っている。わざわざ解り難い委奴と書く必要は無い。
2、首長国、属国、などの順に、大きい方から小さいほうへ漢、倭、奴、となっている。
3、漢の委奴、とするならば、大事な倭が抜けている。当時、「倭」という諸外国にも通じる
国名を抜かして国間でやり取りする公式文書にも押印される印を渡す事などあり得ない。
あくまで漢に対し「倭国」なのであって、漢の委奴だけなら、どこの国だか、解らない。
当時の、中国を中心とする世界では、あくまで「倭」で通用するのだから。
61 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 15:55:54
>>60 もう少し「倭と倭国」の違いをはっきり認知しような!
これ、宿題
単に「倭」では、日本列島の事とは区別出来ない。
62 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 16:18:27
九州ですが様へ
前スレから、あなたのレス934を、一部引用させてもらいます。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165678635/934 >遺跡の遺物から九州と、出雲、畿内との交流が指摘されているが、
>それは、少なくとも邪馬台国時代の事ではなく、それより時代が遡るか、下ったかのいずれかの時代の交流によってである。
これは、どう読んでも、
「北部九州と本州との交流は、以前にも以後にもあったが、邪馬台国時代だけは途絶えている」
の意味にしか、受け取れません。
そのようなことを主張している考古学者が、おられるのですか?
なんという本を読めばいいのか、教えてください。
63 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 16:58:58
マツカ
64 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 17:24:04
>>62 それはね、以前、邪馬台国畿内説を議論するスレ10のなかで、老教授、
というコテの人が言ってる事。、一応教授、と言う事で引用してるんだけど、勿論僕は
それが正しいかどうか解らない部分ではあるが。
文「倭人伝において邪馬台国連合内にあるとされている伊都国などが通説通りの比定地であるならば、
本州各地との強い結びつきがある事と矛盾するのではないか」という部分。
何かへんちくりんな文章だけど、 「各地との強い結びつきがある」は伊都国の事と考えられるので、
一応考古学者として、用いている。真偽は不明。
65 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 17:51:33
>>61プラムさん
当時、倭という統一国家は無いから、同一文化圏の呼び名だと思います。
中国では、漢国といわずに、漢と言うのに対応して、倭と言う名を使ってるのでしょう。
自分は、倭、でも倭国、でも同じ意味で使っています。当時の漢などからの日本の呼び名は
あくまで 倭であり、倭国と呼ばれるようになるのは、もっと時代の下った、大和朝廷によって
統一された後のことではないでしょうか。
66 :
日本@名無史さん :2006/12/25(月) 17:57:36
北九州だけにある神籠石の分布をみると、
対馬、前原、武雄(佐賀)、帯隈(佐賀北部:吉野ヶ里の近く)
八女(山門郡)、朝倉、筑豊(頴田町)、行橋
の八箇所がその所在地である。
このスレに登場する、甘木説、山門説、宇佐説のいずれも該当
するが、畿内説には該当しないことになる。
ただ、神籠石がいつの時代のものか諸説があるそうです。
2世紀から3世紀であれば、有力ですが、古墳時代のものと
すれば、畿内に何故ないかの説明が出来なくなる。
もう少し、資料を調べます。
67 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:57:40
>>64 @ちゃんとした書物は、お示しいただけないのですか。
A九州ですが様は、
「邪馬台国時代には、北部九州と本州との交流ない」
とお思いだからこそ、前スレのあの箇所(
>>62参照)をお書きになったのでしょう?
違う、とでもおっしゃるつもりですか。
68 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 18:17:13
>>65続き
そこで疑問に思うのは何故伊都国などに国が付けられているのか。
想像ですが、クニと呼ばれる単位の性格が、漢字の「国」に対応していた為ではないか。
中国は、多民族の、緩やかな集合体であり、総称としての国名があり、又、氏族の名を国名にしたり
していた為、漢国とはいわなかったのではないか。
>>67 空想家ってのはね。自分に都合の悪いことは無視するのだよ。
70 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:31:50
>>36と
>>38を見れば分かるだろう。もう九州ですがが
畿内人か、畿内説か知らないが、近畿に個人的な恨みを
持ってるのは明白だ。特に上記の二つのスレは明らかに過敏な反応だ。
71 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 18:38:09
>>67「邪馬台国時代には、北部九州と本州との交流ない」
そう思っていますよ。少なくとも倭人伝を読む限りにおいては
自由な行き来があった様に思えないから。
72 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:48:44
私もそう思っています。
中国地方は通行できなかったとおもわれます。
この地方の豪族は近畿九州どちらにも属さず、排他的であったと思います。
73 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 18:51:36
>>70 無いとは言えないね。大阪で昔、両手にカバンを持って道に迷い、ズラーッと
並んだタクシーの運転手に目的地を何人にも聞いたが誰も教えてくれなかった。
知ってるのに乗せたくない{近いから}ので教えなかったと知って、それから大阪人を
毛嫌いするようになったかな。でもうちの父は京都に30年住んでて、一昨年死んだけど、
周りの人からも慕われて大事にされてたみたい。だから京都の人には深く感謝してる。
以上、悲しい個人事情でした。
74 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:03:22
>>73 あらあら、お可哀想に。なめられやすいんだろ。
>>73 つか、そんなぐらいで恨みを持つなんてスケール小さすぎ。
76 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 19:18:48
人間、何に恨みを持つか分からない。昔見たシドニーシェルダンの推理小説を
ドラマ化したものでは、親切な職場の上司が、実は主人公を殺そうと狙っていた犯人だった。
その理由は、昔の自分を見ているようで我慢できなかった。というもの。
たったそれだけの理由で?と、思ったものだ。
大阪でタクシー乗せて貰えなかったから、邪馬台国は畿内には無いという理論ですか
今までのあなたの意見の中で一番説得力ありました。
78 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 19:21:39
>>74 それはおのれが、人の善意につけこむ性格だからだよ。
79 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:23:01
だから俺が言ったろう。
「歴史とは現代史である。もっと言えば自分史である」
とな。
80 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 19:25:04
>>それはどうも。分かっていただけて光栄です。
ところでおたくは、このスレではどういう主張をお持ちですかな?
81 :
古代史トーシロー:2006/12/25(月) 19:28:55
>>57 倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い
この説の場合、何故、中国の史書に卑弥呼、臺与の名がでてくるの?
崇神天皇がでてくるのが普通じゃないかなあ。
82 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:30:39
ひとつ、九州ですが氏に申し上げたいのだが、あなたのそんな頑な態度と意見に
ここで拒否反応、攻撃しているのは一人じゃないんだよ。
なんかいつもあなたは、相手が一人みたいに言うが。
83 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 19:32:35
>>81 おたく古代史トーシローと名乗ってはいるが、よほど
>>57さんより
専門家かもよ。
84 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 19:41:43
>>82 邪馬台国についての説はどうした。といってもそちらの説に欠けるのは常識。
まず常識を弁えた説を立てられることを望むかな?
こちらはいつも馬鹿に言い聞かせるようなつもりで書かなけれがならない。
85 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:52:13
>>84 おまえの説はなんだ?と訊いておきながら、
>そちらの説に欠けるのは常識
って、もう言ってるのはムチャクチャだと思うが?
86 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 19:58:50
>>85そうそう。聞いておいて、コテンコテンに打ち破ろうかなと。あ、いっちゃった。
人がいいんだから全く。
87 :
古代史トーシロー:2006/12/25(月) 20:03:13
>>83 箸墓の年代測定に問題があるか、あるいは被葬者が間違っているかどちらかとしか
思えない。纏向遺跡が崇神、垂仁、景行天皇の有力な勢力地だったことには変わりはないけど。
むしろ、邪馬台国畿内説にとっても、280年以降の古墳としたほうが合理的だと思う。
88 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:03:24
まあ、いいや。いちおう、九州ですが氏の勇気ある
>>73のレスに敬意を表して
俺も自らの勇気ある邪馬台国に対する意見を言おう。
分からない
いや、マジで。
89 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:05:48
>>88 おまえ良い奴だな・・・
来年のクリスマスはきっと一人じゃないさ
90 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 20:09:03
おたく達、結局、邪馬台国に関する主張らしいものは何も持ってないんでしょう。雑談ばかりして。
何の目的でここのスレに居座っているんだか知らないが、ここは真面目な人のスレ。
用が無いなら、雑談スレは他にいっぱいありますけど。
91 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:13:54
>>90 いやいや、そんなことはない、邪馬台国を現代人の感情論から見るのも
有意義である。だから、私はあなたの本音を高く評価したのだ。
この言葉を送ろう。
「僕は意地悪なんじゃない。他人の自己満足を許しておかないのが僕の優しさなのだ」
三島由紀夫「天人五衰」より
92 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 20:17:09
93 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:24:19
>>89 いや、ハイグーシャはいる。そろそろ怒られるから猿。
94 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 20:25:17
>>56倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
面倒だから、引用だけ。
『古事記』では、「天の服織女見驚きて、梭に陰上(ほと)を衝きて死にき」とある。素戔嗚尊の乱暴で「天の服織女」が死んだということになっているが、
この天の服織女は天照の分身と考えられる。
この箇所を根拠にして、陰部を箸で突いて死んだと伝えられている倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が天照大神、さらには卑弥呼であり、
倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が「卑弥呼の墓」だと主張する人もいる。しかし、倭迹迹日百襲姫は、孝霊天皇の皇女にすぎず、皇祖的性格を持っていない。
95 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 20:52:38
>>65 九州ですがさん レス遅くなりました
>当時の漢などからの日本の呼び名は
あくまで 倭であり、倭国と呼ばれるようになるのは、もっと時代の下った、大和朝廷によって
統一された後のことではないでしょうか。
帝国の史書にて正式に(倭國)と認知されたのは【宋書 倭國伝】から
「倭王武」が宋王朝に上表して初めて正式に
【宋書 倭國伝より】
興死、弟武立。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
順帝昇明二年、遣使上表曰:
「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬kwan[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、
王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道kei[之繞旁右經]百濟、裝治船舫。
96 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/25(月) 21:11:57
>>95プラムさん
詳しい資料有難う。宋の時代ですか。そんなに後だったとは。
97 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 21:15:10
>>95 宗というと五世紀くらいだね。
受験中に聞きかじった倭の五王の事かな?
99 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:51:05
>>87 >箸墓の年代測定に…(中略)…むしろ、邪馬台国畿内説にとっても、
>280年以降の古墳としたほうが合理的だと思う。
「としたほうが合理的」のとこ、引っかかる。
畿内説だから〇年が合理的、九州説だから×何年が合理的、なんて
本末転倒とちがうか。
古墳の実年代は、古墳そのものをよく研究して、考古学的方法で決めるべき。
100 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:54:08
>>60 中国王朝の慣例から言うと金印等の国王への印綬は主国・従属国・役職(王)
であり、勝手に三段に読むのは日本の学者だけ。
他の国に送られた印綬をみてみれば明快である。漢>委奴>国王としかこの印
綬は読めない。
101 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2006/12/25(月) 22:01:04
>>97 そのリンク先、ちょっと説が古すぎるのと、左翼的見解に傾きすぎですね。
特に、「名実共に冊封体制から離脱したのは明治維新以降と考えられる。」は無理ありすぎ。
>>95 の引用をしているプラムさんの意見とは異なるとは思いますが、一応チェック。
(反対の考えとして)
1、邪馬台国は「親魏」の国であって、「臣魏」の国ではない。
2、日本側の国内記録では中国の冊封は受けていない。外交儀礼として中国が自国内で「いばる」のを
放置していただけ。
3、遣隋使の時代には、対等の立場での国書を隋に送っている。
4、遣唐使の時代には、日本国内では天皇は唐の使者に対して「臣下の礼」を拒んで、押し通した。
記録の上では、日本国内で、日本が中国の王朝の使者に臣下の礼を取ったことは一度もない。
5、倭の五王の時代には、中国は日本に対して朝鮮の大半の統治権を認める称号を何回も与えたと
中国の史書にある(
>>95参照 )のを、事実ではないとするリンク先の思想も古すぎ。左すぎ。
記紀や三国史記にある征伐記事や人質記事は遺跡、墓誌などにより裏付けも取られている。
102 :
古代史トーシロー:2006/12/25(月) 22:07:05
>>99 古墳の実年代は、古墳そのものをよく研究して、考古学的方法で決めるべき。
その通り。スマン。
>>60 中国が伊都国という文字を使ったのは、3世紀の魏志だ。
57年の金印の段階では、委奴国だったんだろう?
104 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 22:15:51
105 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:18:42
>>102 >その通り。スマン。
お解り頂ければ重畳至極。べつに謝らんでもよろし。
106 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 22:47:55
>>101 奴国さん
初心者の方に「冊封」とはどんなことか 概略を掴んでもらえばいいだけ 別に意図する事はありません
>そのリンク先、ちょっと説が古すぎるのと、左翼的見解に傾きすぎですね。
特に、「名実共に冊封体制から離脱したのは明治維新以降と考えられる。」は無理ありすぎ
ま、見方の問題かと 事実は墓の中現代人が各々の感覚で捉えればいいことかと
>1、邪馬台国は「親魏」の国であって、「臣魏」の国ではない。
→ 印綬(名目は関係ないと)の下賜段階で既に「臣」同様かと
天子は一人だけです。
>2、日本側の国内記録では中国の冊封は受けていない。外交儀礼として中国が自国内で「いばる」のを
放置していただけ。
→和漢籍のコメントはゴメンナサイ
>3、遣隋使の時代には、対等の立場での国書を隋に送っている。
→日本側からすればそうでしょう。しかし、帝国側からもそれを認めて初めて成り立つ
言い分ですね
>4、遣唐使の時代には、日本国内では天皇は唐の使者に対して「臣下の礼」を拒んで、押し通した。
記録の上では、日本国内で、日本が中国の王朝の使者に臣下の礼を取ったことは一度もない。
→これも、国内記録だけの片手落ち
>5、倭の五王の時代には、中国は日本に対して朝鮮の大半の統治権を認める称号を何回も与えたと
中国の史書にある(
>>95参照 )のを、事実ではないとするリンク先の思想も古すぎ。左すぎ。
記紀や三国史記にある征伐記事や人質記事は遺跡、墓誌などにより裏付けも取られている
→私は思想の(し)の字もない、超無思想家
奴国さんは 思想に敏感すぎ
三年ほどここで投稿しているが、思想云々を言われたのは初めてです。
チラシの裏認定プラムに思想はありません。
107 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2006/12/26(火) 00:27:53
>>106 ご丁寧なレスありがとうございます。
私の考えは、冊封とか中華思想というのは、基本的には中国における国内事情ということです。
高句麗でも日本でも隆盛期には自国を「中華」とみなすような尊大な思想があったという意味では、
各国ごとにその「中華」思想の度合いが違っていたに過ぎないと考えています。
中国が周辺諸国を冊封して、国内では蛮族を従えたと考えていても、相手国はまた別の考えであり、
とくに実力の及ばない遠方の国では、中国国内における外交儀礼に過ぎないと受け止めていたに
過ぎないから、これを外交上の上下関係と見る必要もないと思います。
日本が、中国から「倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍」という称号を
授与された形になっていても、事実だけを見れば中国はその地域における日本の支配権を認めたに
過ぎず、自国内や衛星国に対する体面上で統治権を授与した形にしたと見ることもできます。
この支配権の追認をもって、日本が中国の冊封体制に組み込まれたと見るのは無理ではないか
と考えています。冊封はあくまでも中国内部での考えに過ぎません。
中国の「中華」は、高句麗、匈奴を攻めあぐね、異民族に何回も支配された中での「中華」に過ぎません。
故に各国ごとの「小中華」とは相対的な違いに過ぎないという考えです。
ちょっと、
>>107を訂正。
>>95 の「倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍」は
日本側の自称ですね。このときは、中国は、百済を除いて認めていますね。
百済は日本に朝貢して、貢物や王族の人質を差し出すも、中国ともうまく付き合って
日本と中国の間でバランスをとって、うまく立ち回っていますね。
あと、冊封体制が東アジアの国際秩序になっていたことは、私も否定していません。
ただ、日本はその秩序を利用していたという側面が強いという考えです。
109 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 03:00:52
>>100 それだったら漢の倭だけで、当時で謂う世界に通じる印となる。
伊達政宗が日本国王、と名乗ったように、事実とは違っても対外的に方便として、
このような手法を用いることはむしろ、当然の事として行われている。
どっちにしろ、倭という名称をはずす事は常識からいってもありえない事だ。
110 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 03:21:34
>>99 それはいうまでも無く当然のこと。
「邪馬台国畿内説にとっても、280年以降の古墳としたほうが合理的だと思う」
は、
>>87さんが個人的な意見を言っているだけで、とんでもない誤りというわけではない。
葬制に、大変興味があった魏使が、前方後円墳の、不思議な形を邪馬台国で、見聞したのなら、
それを記しているのが当然であるにも拘わらず、出てこないということは、
この時代にはまだ造られておらず、魏使が見なかったか、畿内の箸墓などが、
邪馬台国とは文化が違う為、つまり邪馬台国では無い為、記せなかったかの
いずれかとなり、箸墓などの前方後円墳の年代を遡らせる事は、畿内説にとって
有利な展開にはならないと思うものである。
111 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 03:25:59
>>103 だから、何度も言うように、もし例えそうだったにしろ、倭、という
当時の日本を表す文言を退かして印を造る事は考え難い。
112 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 03:48:56
>>106「初心者の方に「冊封」とはどんなことか 概略を掴んでもらえばいいだけ」
ここに出てくる初心者というのは話の前後からして私の事ですか?
冊封がどういうものだかくらい知っています。奴国さんの107、108と同じ感想を持ちましたが、
魏が、邪馬台国と結んだのは、魏の側にも、呉の勢力を挟み撃ちにし、
封じ込めようという思惑があったと考えられる事から、はっきり言って冊封という考えは
魏にも倭にも無いと思います。緩やかな朝貢とでも言いましょうか?
ある意味の同盟関係だったのでしょう。今の日米関係を彷彿とさせます。
詭弁や煽りが畿内説の特徴だからな。年代法のごまかしもそう。
あまりまともに相手にしないほうがいいぞ。
114 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 04:37:04
>>113 それは重々思うけども、叩いとかないといけないしねえ。難しいもんだ。
同じレベルで相手になってるのではなく、放置して好きなようにさせたら、
放置した人の責任でもあるから。僕が余所に行ってた間に、
「88 :日本@名無史さん :2006/12/25(月) 20:03:24
まあ、いいや。いちおう、九州ですが氏の勇気ある
>>73のレスに敬意を表して
俺も自らの勇気ある邪馬台国に対する意見を言おう。
分からない
いや、マジで。 」
などというふざけたのが入り込んで来ちゃった。
元々ここのスレはいい人が多く真面目なスレ。腐った反対分子は、叩いて、
このスレからみんなで追い出し、出て行ってもらおう。
115 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 07:15:46
116 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 07:41:01
>>114 >このスレからみんなで追い出し、出ていってもらおう。
私は賛成出来ない。
今年の夏の様な惨劇はごめんだからな
117 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 07:49:57
そんなことより、
>>103が 言うように、サラリと
委奴→伊都の発言が出る辺りを徹底的に究明していく姿勢が、ある可き姿ではないかと
>>103には それなりの説明を
求めたいと考えます。
同じ漢字表記で 何故これほど文字の違いが出るのか?
118 :
古田二世:2006/12/26(火) 08:13:17
委奴=伊都は、音韻の関係から否定されています。イとヰの違いと、都はタと発音します。
この否定から、委と奴を分けて倭の奴国の国王という読み方に移行したのです。
委奴は伊都(糸島)ではない。だから倭の奴刻と読み那の津のある博多であるとなったのです。
これを暴論といいます。
>>118 >都はタと発音します。
何処でタと発音するの?
120 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 09:43:48
>>118 かな文字のない三世紀当時の音を、平安期確立されたとする音の表記区分(イとヰ)を当て嵌めてしまうのですか?
(イとヰ)の区分は、その時代に必要とされる為に生まれたモノ
それを、文字表記すらない当時に当て嵌めてしまう無謀さを指摘したい。
古田説の根底は、この様な無謀で成り立つモノなのか?
121 :
古田二世:2006/12/26(火) 10:43:08
倭の文字の発音は中国でのお話です。日本の構成の発音にあてるのはおかしいのです。
122 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 11:00:42
>>121 >倭の文字の発音
何時の時代の話しですか?
123 :
古田二世:2006/12/26(火) 11:23:04
AD57年の時点の話です。
124 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 11:38:58
>>123 >AD 57年当時 ?
確かに、後漢書に「印綬」の文字を確認出来ますから、大陸から文字が列島に入っていることは否定しません。
しかし、それと倭の発音の何処が結び付くのです?
125 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:07:40
倭と委はヰで互換性があると思う。漢字文化圏ではよくある話だ。
ちなみに韓国人の日本人に対する蔑称は倭奴(ウェノム)
俺も伊と(委、倭)とは根本的に違うことに賛成。
126 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:09:36
俺は邪馬台国の位置を分かってるぞー!
などと言うほうが狂人っぽい。
127 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 12:10:35
単なるこじつけでしょうね。
倭奴 を伊都国にしたい一念から、発想されたのだと思います。
気持ちはわかりますが、断定するのは良くないかと思います。
私は・・・思うでいかがですか?
128 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 12:11:46
>>125 何故賛成するかの理由、聞かせてくれないか?
129 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 12:14:33
>>126 >狂人っぽい
何故だか理由を聞かせてください。
130 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:15:38
断定する人間ってのは、「分からない」って状態の不安に耐えられないんだよ。
悪く言うと「すぐ腹をくくる」
幸福な狂信ってやつは戒めないとね。
131 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:21:58
>>128 その理由を書いたつもりなんだが……。まあいい。
伊はひらがなの「い」で発音は「i」だ。「wi」とは明確に違う。
この違いは現代では音便現象によりなくなったのはご承知だろう。
古代人がこの区別を明確にしていたと考えるのが自然だろう。
つまり母音だけの「伊」と、半子音を伴った「委、倭」とを混合するのは
可能性は低いと考える。
132 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 12:46:55
>>131 勿論(伊、委、倭)の文字は違う。
そして、かな表記(イ、ヰ)も違う
(i)は音として発声出来るが、(wi)の(w)単独では無声音
(wa)でも解るように、「ワ」は(ウ+ア)の合音、よって「ヰ」を音(wi)として発声するなら(ウ+イ)の合音だよ。
音は母音(a,i,u,e,o)が付加しない限り発声に至らないから
>古代人は明確に(イ、ヰ)を区別していた
そんな事はない
(ゥィ)の合音発声が不可能で有る限り(イ、ヰ)は、表記区分に過ぎない。
(平安期)漢語発音に合わせる為の苦労でしょう。
当時の日本人がどんな言葉で話していたか。
考えるだけでワクワクしてくるよ。
134 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:51:12
>>132 あなたの言ってること前半はまったく意味が分からない。
wiという発音が不可能、存在しないと言っているのか?
だったらお笑い草だぞ。
後半の平安期の漢語発音にあわせるためとはいったい何のことか?資料を示してくれ。
135 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:57:14
わりい、もう昼休み終わりだ。もう、俺の負けでいいよ。さらば。
136 :
古田二世:2006/12/26(火) 12:58:15
イとヰの区別については古代においては、それほで厳しくはなかったとおもいます。方言もあるでしょうし。
因幡、出雲、石見、壱岐、伊都、糸島とイとヰがいりまじっていますが、もとは倭の意味であったともおもわれますが、方言や時代をへたり、漢字表記になるときに分かれたのでしょう。
137 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 12:59:20
邪馬台国の話を勝ち負けで論じること自体おかしいと
思います。
論争は文字通り戦いでしょう。真実はどこか知らないけどね。
139 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 13:17:58
>>136 古代の音も現代の音も
基本的なモノは余り変化ないと考えますよ 訛り云々は別として 時代の変化によって多少のニュアンスはあれども、口から出される音は、口形の著しい変化がなければ変わらないと、言うこと。
私達は、表記されたものから古代を判断しているから色々な考え方が生じるが(表記は如何様にも変化可能)
音声には限界がある。
(ヰ、ゐ)に、キチントした音声区分があるなら
(を、わ)の様に、現代にも残る。
140 :
古田二世:2006/12/26(火) 13:39:01
つい最近まで残っていました。
をについては、文法上のこっていますが、音としては「お」と区別がありません。
141 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2006/12/26(火) 13:44:09
委奴国=イト国とすると、倭面土国は「倭のイト国」となるのでしょうか。
前者は魏志に「奴国」とあるので、「倭の奴国」とした方が無理がないと思います。平凡ですが。
後者は、倭国王と倭面土国王との互換性からは「ヤマト国」のほうが意味は通じるのですが、やはり
発音では苦しい。「倭のイト国」は発音ではヤマト国より「マシ」ですが、意味的には「ヤマト国」の
方がいいと考えています。
伊都国には、平原王墓などの裏付けがあり魏志でも特別視されているという点でこれを重視する考えも
もっともですが、魏志では奴国2万戸に対して伊都国千戸とあり、人口的には奴国の方が有力で奴国でも
王墓が発掘されていることや、魏志で末尾に「奴国」が付く国名の国々を奴国から派生した国と考えれば、
当初は「奴国」を中心に発展して、「倭国」になったとしたほうが良いと考えています。
142 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 13:49:33
>>140 (ワ)も(を)も、発声共通は、最初に(u)の発声をしながら次に(a)や( o)を発声する。
すると「ワ、ヲ」の音となる。
(ヤ、ユ、ヨ)も、(i)との組合せ(合音)だよ
>>141奴国さん
「ヤマト」の音は、「ヤマタホ」からの転訛
絶対に、「ヤマタイ」からは転訛しない。
144 :
古田二世:2006/12/26(火) 14:01:09
倭面土はイメンドとよみます。
所在地は糸島郡の付近ということでおちついています。
146 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 14:15:03
>>144 倭面土がどおして糸島なの?
糸島をどおして漢人は、「倭面土」と書いたの?
(倭面土)の意味はなに?漢字で有る以上意味が発生するよ
例え倭語表記であったにしても、読み手は漢人
倭語を知らない人は沢山いるから
147 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 14:32:50
>>145 では
説明宜しく
音声言語学の本は読んだ上での発言
肝心な所が抜けた、間抜け本だけど
>>147 国際音声記号でぐぐれ。
uといいながらaと発音するのが日本語の「わ」なんて言うなんて
中学生の知ったかぶりだぞ。
149 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 14:44:26
>>145 言語学に自信が有るようだから
何故『至』の文字は“かな表記”訓(いた‐る)(い+た)る なのか?を説明してくれ
何故(あた‐る)じゃダメなのかも
宜しくお願いします。
150 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 14:57:03
>>148 学校で習う知識は、それが例え「〇」であれ「×」であれ、習得しないとそこに落第と言うペナルティーが発生する。ググるモノが全て「〇」と思う勿れ
>>148も、自信が有りそうだから
>>149を説明してくれ
宜しくお願いします。
倍年暦補正で、卑弥呼と崇神天皇の時代がかち合う。
しかも、記紀の崇神の記述が、卑弥呼の記述とかち合う。
年輪年代測定方法で3世紀中葉ぐらいに飢饉があったことが分かっており
崇神5年の飢饉とかち合う。
また、マキムク宮という祭祀都市が作られた経緯が
飢饉による社会不安が大きな原因で、その結果
崇神天皇が親族の巫女による神権政治をしたことが記紀の記述で分かっている。
前方後円墳も、そうい社会不安の結果の宗教的意味が合ったことが分かっている。
記紀には、崇神時代に、飢饉による社会不安の波及で
遠い蛮族の地で謀反があったと記してあり、
それが、卑弥呼と狗奴国の戦いとかぶる。
卑弥呼が崇神天皇の叔母だったことが分かり、
邪馬台国=大和王権で、かなり全国規模の政権だったことが分かってきた。
邪馬台国の中心部はマキムクである。
152 :
太国:2006/12/26(火) 18:00:22
まったくかち合わない。
154 :
太国:2006/12/26(火) 18:10:09
>>153 神武と卑弥呼とをHさせたいのか? 神武←−−−→卑弥呼 か〜?ww
時代錯誤もはなはだしい。
155 :
太国:2006/12/26(火) 18:12:16
はは〜ん。 神武−→ ←卑弥呼 か〜?ww
卑弥呼はもっと後代の姫なの。
156 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:17:12
卑弥呼は姫でなく女王。
157 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:18:17
女王に即位する前は姫でないのか? 男か〜?
158 :
↑ 太国:2006/12/26(火) 18:19:39
それがし
159 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:28:11
女王に即位する前は姫
なんて誰が断言できる?
チベットのダライ・ラマは国王になる前は王子じゃねえだろ?
女王は元姫なんてイコール的過程ではない。
>>154 太国はアホ。
何もそんなことは言っていない。
卑弥呼は崇神の叔母。で、西暦3世紀のこと。
神武は紀元前1世紀の即位。
卑弥呼と神武は世代がぜんぜん違う。
とにかく、おまえら、憶測で語りすぎ。
もっと、記紀を素直に読め。
162 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:47:56
>>161 君のコテハンを考えてやった。その主張を略して
キキスナ
ってのはどうだ?
163 :
太国:2006/12/26(火) 20:13:32
>>159 厳格にはそのとおりだ。w
>>160 だって、かち会うとか言ってるんだろ?
叔母は九州に住むようになったのか? どこに資料があるんだい?
まさか畿内だとか言い出すのか? そんなら、倭人伝に女王国の外周に天皇国
があるとかの記載があって然りではないのか? そてともその余の傍国か〜?w
164 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 20:35:03
プラムさん。僕は言語学には詳しくないですが、どう考えても、漢の委奴 では無いと思います。
絶対に倭、と言う呼称が入ってないといけない。世界では倭で、十分通用したのですから。
奴国王だから、奴国、と言う文字が入っているが、世界には通用しない。通用するのは倭、の文字です。
当時倭という国は無いから、地域を指しますが、外国では、奴国王を、倭王と呼んだかも知れない。
それには多少のおべっかも入ってるでしょうが。
それに漢の委奴、となれば、完全に漢の属国を意味します。又、
状況証拠として、ナノ津の沖、志賀島から見つかっている。
この島全体をを、奴国が聖域として扱っていた事は想像に難くない。
165 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 20:50:54
>>164九州ですがさん
>僕は言語学には詳しくないですが、どう考えても、漢の委奴 では無いと思います。
絶対に倭、と言う呼称が入ってないといけない。世界では倭で、十分通用したのですから。
これは言語学とは別 「倭」は世界で通用って?
西暦1C〜2C頃世界で通用したのですか?
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弱い者いじめは最低と言いつつ、赤ちゃんを殺す母親(そして無罪判決(笑
狙撃は女子のほうが強い。男は、ノイローゼになってやめてしまうが
女は何人殺してもノイローゼにならない。そして、骨盤が安定しているため
ナチスの拷問で、女の拷問の残虐非道さを見て、拷問をしていた男達もひいたという
拷問しながら楽しそうに笑みをうかべていたそうだ。罪悪感や引け目が無い
・有史以前が女尊男卑の時代だったことを指摘したのは、スイスの学者バッハオーフィン
アマゾン女族の女王は、法律を定め、女には従軍させ、男たちには卑しい奴隷の仕事を課した
男児が生まれたら、脚と腕を不自由にして、戦えなくした
・王位継承権が女性にだけあったという事実だけから考えて、古代エジプトでは女性権力が非常に大きかった
男女平等どころか、かなり女性上位の社会であった
・日本でも卑弥呼が女王
・昆虫などにいたっては、オスカマキリはメスに食われる
女は虐げられてきた?父系社会など人類の歴史から見ればほんのわずかな期間に過ぎない。むしろ・・
167 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 21:07:04
>>165プラムさん
当然ここでの世界に通用の意味は、邪馬台国が関連していた中国、そして
中国に朝貢していた各国のことを指しています。中国とは儀、呉、蜀、です。
168 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 21:07:52
>>164 【漢委奴國王】
これは漢から下賜された正式な印 この印に(倭)という国名でない文字は使用
されません「委奴」の部分は(国名)でなければならないのです。
だから、総称である「倭奴」や「倭」の文字は刻まれません。
これは篆刻なのです。
169 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 21:15:35
>>168 では一体この篆刻は何と読み、どういう意味があるのでしょう。
学校でもそう習いましたが、それは間違いと?
170 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 21:16:20
そして、卑彌呼に与えた破格の「親魏倭王」の称号は決して「呉」を牽制する意味では
ありません。遥か彼方の蛮夷の島国が呉の牽制役になるとは考えていません。
倭には、もっと相応しい役目が用意されていますから
171 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 21:25:58
>>170 では邪馬台国の卑弥呼などという蛮夷の島国の女王に、親魏倭王という称号を与える事が魏にとって
何のメリットがあるのですか?先程、「これは漢から下賜された正式な印 この印に(倭)という国名でない文字は使用
されません」といわれたけど、卑弥呼の親魏倭王の印はどうして、倭の文字が入っているのですか?
172 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/26(火) 21:29:25
>>117 >委奴→伊都の発言が出る辺りを徹底的に究明していく姿勢が
馬鹿じゃないの?
邪馬台国でさえ10人くらいしか送れなかった生口を、倭奴国は160人も、日本から漢に
送れる強大な大国家。
それに比べ、伊都国は人口がたった1000戸:6000人くらいの邪馬台国の為の官僚国家。
国家の規模が違うのさえ、全く気がつかない程度の知識しかない低脳児に過ぎん。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「漢委奴国王」金印は、57年に倭奴国王が授かった印章である、
ということについては、異論はありません。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-5.htm
173 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 21:37:05
>>169 >では一体この篆刻は何と読み、どういう意味があるのでしょう。
学校でもそう習いましたが、それは間違いと?
学校では「漢の倭の奴の国王」と学びましたか?
私は授業サボり常習者 忘れちゃった〜
「漢の倭の奴の国王」でしたら「旧文部省」の馬鹿たれですね
漢委奴國王=カンイナコクオウ さ〜て(記・紀)を研究している人ならピーンと
きたはずです。
そう、イナとは【日を成す(支配)】
漢語「委奴」= 委=ゆだねる 委=夷 篆刻です。
174 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/26(火) 21:37:07
>>123 >AD57年の時点の話です。
なんか怪しげな説だ。
2000年くらい昔の中国語の発音が、どうやって現代に判ったんだろう・・・
今でさえ中国では、北京の発音と広東の発音はずいぶん違うという。
大昔の発音をどうやって再現したのか、そういった根源的疑問が残るよ!
175 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 21:50:10
>>171 >親魏倭王の印はどうして、倭の文字が入っているのですか?
「漢 委奴 國王」
「親魏 倭 王」
「倭奴國」は固有の国名では無いから代名詞的に「倭を形成する国の“主”」
という意味で記録される事はあっても金印に「漢倭奴“國王”」刻印される事は有り得ないという事。
そして(漢委奴國王)の金印は、絶対にAD57年の印綬ではないことを付け加えておきます。
176 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 22:16:23
>>173 でも九州国立博物館の展示でも確か漢の倭の奴国王となっていたと思うよ。
あれもいいかげん?
177 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 22:18:06
>>171 >では邪馬台国の卑弥呼などという蛮夷の島国の女王に、親魏倭王という称号を与える事が魏にとって
何のメリットがあるのですか?
勉強を兼ねて「魏書と後漢書」の韓傳 根気よく読んでみることを進めます。
178 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 22:21:23
>>172倭奴国は160人も、日本から漢に 送れる強大な大国家。
だからこそ、金印を与えられたのかも知れない。
179 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 22:28:01
>>176 >でも九州国立博物館の展示でも確か漢の倭の奴国王となっていたと思うよ。
あれもいいかげん?
【漢委奴國王】と刻んであるものをどうしたら【倭】と読めるの?
お役所繋がりの思惑たっぷりジャン
漢和辞典でも【委】と【倭】は別物 旧文部省のプライドもあるし、いまさらか?
解釈する側に判断をゆだねたカタチだな
後は九州さんの判断だよ
私の場合たまたま、日本史なんて興味なくサボっていたことが幸いしたよ
180 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 22:43:07
>>173漢委奴國王=カンイナコクオウ
と読むのがよく解らない。奴国=那の津、とは博多の古い呼び名であり、
那の国王 という意味で読むのが一番自然では?あまり細かく一字ずつ
分析しても、漢字一字一字には多角的な意味はあっても、連なっていると、
一字の元来の意味合いが変化して、全く別の意味になったりするから、
元々持っている漢字の意味をそのまま用いて、解釈してはいけないと思うんだけどね。
181 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:45:02
>>180 >漢和辞典でも【委】と【倭】は別物
そりゃ別の字だから当然でしょう。でも表意文字としての意味は近い。
禾は垂れ下がるだから、どちらも女みたいになよっとしているってあったよ。
あとはこれに人偏がついているか否か。委が元字でそれに人偏あてて
東の列島の呼び名にした可能性なきにしもあらずだな。
どっちにせよ、やや侮蔑的な感じがあるな。
182 :
太国:2006/12/26(火) 22:47:10
食用豚と言うな!鑑賞豚と言え!
183 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 22:50:17
>>180 >奴国=那の津、とは博多の古い呼び名であり、
那の国王 という意味で読むのが一番自然では?あまり細かく一字ずつ
分析しても、漢字一字一字には多角的な意味はあっても、連なっていると、
一字の元来の意味合いが変化して、全く別の意味になったりするから、
元々持っている漢字の意味をそのまま用いて、解釈してはいけないと思うんだけどね。
先ほどもカキコしたように、このカンイナコクオウの認識のもとに(記・紀)の考察すると
私の言ってる意味が理解できるよ・・・・・・たぶん?
184 :
太国:2006/12/26(火) 22:53:22
185 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 22:54:56
>>181 >やや侮蔑的な感じがあるな。
帝国から見れば 蛮夷の地域だから仕方ないかも
天子はこの世でたった一人 あとは全て天子の下部
186 :
太国:2006/12/26(火) 22:56:16
>やや侮蔑的な感じがあるな。
天子の豚肉
187 :
太国:2006/12/26(火) 22:57:20
豚肉がうるさい!
188 :
太国:2006/12/26(火) 22:58:56
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉を調理するぞ!
189 :
太国:2006/12/26(火) 22:59:37
190 :
太国:2006/12/26(火) 22:59:44
プラムさん ニセ者は書きこみの中身で判別できます。
191 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 23:00:58
>>186 >天子の豚肉
天子の豚肉より 黛 ジュンの「天使の誘惑」がいい
192 :
太国:2006/12/26(火) 23:01:01
肉汁たっぷり
193 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:01:37
豚臭いな
194 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:02:42
プラムさん ニセ者は書きこみの肉で判別できます。
195 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 23:02:54
>>179 後漢書に
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
(建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。
倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす)
倭奴國 倭國之極南界也 「倭の奴国は、倭国の極南界なり」
と読めるから、ちゃんと倭、奴国、と書き分けられている、尚、
奴、は漢代はドとか、トという発音では無かったことが解っている。
196 :
太国:2006/12/26(火) 23:03:44
豚豚豚豚 うるさい!
197 :
太国:2006/12/26(火) 23:04:18
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉を加熱調理するぞ!
198 :
太国:2006/12/26(火) 23:05:00
プラムさん ニセ者は豚馬鹿です。
199 :
太国:2006/12/26(火) 23:06:12
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉をころもを付けて揚げて、甘酢がけにするぞ!
200 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:06:29
なんかハム会社の宣伝マンがまぎれこんでるな。
201 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:06:59
「倭の奴国は、倭国の極南界なり」は「奴国は倭国の極南界なり」でいいんじゃない。
倭が二つかさなる変な文章だよ。
202 :
太国:2006/12/26(火) 23:07:52
ハム会社は豚肉なのか?
203 :
太:2006/12/26(火) 23:09:30
ニセ者王よ。消えろ!
204 :
太国:2006/12/26(火) 23:09:52
それがしのニセ者です。注意願います。
205 :
太国:2006/12/26(火) 23:10:30
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉を加熱調理するぞ!
206 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:11:46
ぶたばら痛いですねw
207 :
太国玉:2006/12/26(火) 23:13:28
「豚肉」の言葉を書いているのが、それがしのニセ者です。
208 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:14:18
塩茹でにするぞ! 豚野郎!
>>207 IDがないからわからないや。
アレ付けてくれると助かるんだが・・・
210 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:15:25
ハム会社はどうしますか?
211 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 23:15:49
>>201 何故「倭奴国」を(倭の奴国)とし、それ以上にすすまないの?
「倭奴」は漢語、倭語にすれば(ワナ)
212 :
太国:2006/12/26(火) 23:16:51
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉をころもを付けて揚げて、甘酢がけにするぞ!
213 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:17:59
ニセ者は書きこみの倭国で判別できます。
214 :
太国玉:2006/12/26(火) 23:18:25
鳥腐は井上遠慮です。ww
猪八戒消えろ!
215 :
太国:2006/12/26(火) 23:19:10
この野郎 ぶたばら高い!
216 :
太国:2006/12/26(火) 23:19:51
ニセ者王よ。消えろ!
217 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 23:21:01
>>211 倭奴国という国がどこにあったのですか?
218 :
太国:2006/12/26(火) 23:21:02
豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚・・・・・・
うるさい!
219 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:21:46
ハム会社はどうなったんだ?
220 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:23:15
黛 ジュンの「天使の誘惑」もどうなったんだ?
偽者よ。なぜおポーク話で荒氏をやるのか?
迷惑だからやめろよ。
222 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:24:43
豚野郎! 上手い
223 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:26:28
ぶたばら上手いですねw
224 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:26:49
ちなみに「倭奴」は今でも韓国人の日本人への蔑称だよ。
発音は「ウェノム」
ポーク君も太国も迷惑だ!
226 :
太国:2006/12/26(火) 23:28:46
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉を加熱調理するぞ!
227 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:30:14
このスレではひれカツ提唱するのか?
228 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:31:10
そうだよ ぶたばら上手いよ
偽者のやつ、何でこんなに豚肉にこだわるんだろう?
230 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:32:05
でしょ ぶたばら上手いでしょw
ポークの何処が悪いんだ?
232 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:34:12
上手い安い早いから!
○旨い
×上手い
234 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:35:32
ニセ者は鳥肉嫌いです。
235 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:37:01
ひれカツ反対!
236 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:37:47
旨みと甘み
237 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/26(火) 23:38:20
>>217 >倭奴国という国がどこにあったのですか?
「倭奴国」と言っても(総称)だよ
「倭」=列島
「奴」=中心的な(形成)
「国」=範囲(支配地域)
『極南界也』
AD57年に朝貢した『倭奴國』は列島の最南部に位置した
詰まり 現九州
『極南界』とは九州の南部ではなく もっとワイドな列島の南部の意だよ
238 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:38:23
ぶたばら痛いですねw
ポークの何処が悪いんだ?
240 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:42:26
肉汁の多い日だった
241 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:44:40
豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚・・・・・・
うるさい!
242 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 23:45:11
朝鮮で倭奴というのは、ただ単に、倭のやつ、というような意味じゃないの?
倭奴という国の存在が明確でない以上このような名の国の存在は信じられない。
243 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:45:46
豚上手いね
244 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:46:25
考えてみれば邪馬台国ってすごいよね。
丸木舟で荒海を渡り戦乱の遼東半島を裸足で横切り魏国までたどり着いたんだから。
その時貢物として差し出した粗末な布を見た魏国の人達はどう思っただろうね。
そして下賜した高度な技術を使った絹織物を持ち帰った邪馬台国の使者が、次に来た時にはその高度な織物技術を自分のものとして同じ織物を持ってきた時はどう思っただろうね。
金印がもらえたのはやはり邪馬台国がそこいらの周辺蛮族とはランクが違うと感じたからかな?
245 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:46:27
ぶたばらどうなる?
246 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:47:01
豚はもう辞めろ!
247 :
太国:2006/12/26(火) 23:48:01
豚やろう!迷惑だ!
248 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:48:34
豚足食うぞ!
>>244 当時の船ってどんなんだったんだろう?
三重県かどっかで舟形の埴輪が出て結構立派な船だったけど、
同じような船かな?
250 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:53:50
豚まで言うな
251 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:55:19
肉亥
252 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/26(火) 23:55:21
>>237 だから、「倭の奴国は、倭国の極南界なり」 というのは倭というのは、
今の日本にあたり、倭のナ国は、そのもっとも南に位置する。みたいな意味でしょ。
253 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:56:10
ぶたばら上手いよ
254 :
太国:2006/12/26(火) 23:57:36
これ以上豚肉はやめろ!
豚肉を加熱調理するぞ!
255 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 00:03:13
>>252 >そのもっとも南に位置する。みたいな意味でしょ。
違う
列島の範囲内で南に位置する地域(九州)
256 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:05:28
>>249 埴輪の船ね!
俺も見たことあるよ
時代が古墳時代より数世紀遡るから同じって可能性は低いかな?
もしかしたら逆にそこそこ航海技術は発達してたかもね
オセアニア系の海洋民族も日本人の祖先の一部ならありえる話かもね
257 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/27(水) 00:05:29
258 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2006/12/27(水) 00:12:52
朝鮮半島を下っていくとどんどん気候が温暖になって、日本に着くとさらに温暖になる。
ソウルは冬は−10度とかは当たり前の寒さで、平壌(楽浪郡)はもっと寒い。
それに引き換え、日本は温暖なので、朝鮮半島をどんどん「南下」して、その先に倭国
があるという認識を持っていたというところまでは、同意できるのですが・・・
あと大国さん、「偽者が出た。」という前にトリップ付けましょう♪
259 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 00:13:12
260 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:18:20
>>252 倭人伝には、「その余の旁国」として21カ国が書かれているが、最後に書かれて
いるのが「奴国」。その南に狗奴国があるとなっている。しかし、奴国は戸数
などが書かれている部分にも登場する。伊都国から東南に百里、戸数二万戸の
国である。同じ国なのか違う国なのか微妙なところ。
倭国の極南界と書かれているのは後漢書。倭人伝をみて書いたからこうなったと
いう説もあるらしいが、後漢書には、狗奴国(拘奴国)は、東に海を渡ること
千里にある、となっている。
なかなか難しい。
261 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 00:20:54
ありがとうございます。やはり低いですか。
当時の人がどんな船でどんな気持ちで中国へ航海したか・・・
考えるだけでワクワクします。
263 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:44:40
奴国重出いいですね。国名のみの21か国は、邪馬台国からUターンして、
奴国までもどってきた。いいですね。奴国は、博多とすると、その南の
狗奴国は、熊本県。邪馬台国は、宮崎でもいいし。南端と最南端は、
違う。南端の北にも南端は存在する。
264 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 08:58:58
>>263 >邪馬台国からUターン
そんな記述は有りませんよ。記載通りに行けばそのまま過ぎると、奴国に戻り一周したのでしょう。
つまり、この諸国20国の区間が謎の1500餘里区間と、なりますね
265 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 10:31:50
《奴国》を基点に
↓
(南至投馬国水行二十日)
↓
《投馬国》
↓ ↓
↓ (南至邪馬壹国)
↓
↓
(水行十日、陸行一月)
↓
↓
《女王之所都》
↓
《斯馬国》
↓
↓
(略)
↓
↓
《烏奴国》
↓
↓ここまで1500餘里
《奴国》出発点・終点
《奴国》→(投馬・女王都・諸国20国経由)→《奴国》
一周の総距離
水行30日+陸行一月+1500餘里
これが九州島の規模です。
マキムク遺跡の考古学的な分析だと
ここって、祭祀都市であって、住居あとが見つかってないんだろう?
あと、前方後円墳もここから始まっている。
そうだよな、たしか。
記紀では
崇神天皇の記載では、飢餓や疫病が蔓延していて
叔母の巫女による神権政治とか始めたとある。
また、崇神の時、飢餓などによる社会混乱の影響で、各地で反乱が起こっていたが
なかでも、遠い地の蛮族の反乱の記載がある。
これって、狗奴(くと)国=宇土(うと)半島の反乱じゃないのか?
崇神の次の垂仁天皇の時、古墳に埴輪を埋めるようになったと書いてあるが
ちょうど、3世紀後半ぐらいから畿内で埴輪が見つかるようになる。
マキムク、卑弥呼、崇神
全部、繋がってくる。
>>258 「認識」ww じゃなく、実際に行った人間が暖かいと思ったからそう記述したんだろ。
その辺りの記述は割と詳しいから、認識=想像ではないね。絶対。
ただ編纂記であって、一旅行記ではない。だから当時のたくさんあった倭国に関する
書物を一応地位のある人間がまとめたんだと思われる。だから
書き方が点々としたり、いきなり漢字の置き方の規則が変わって
まるで別人の文章のようだったり、別の時代に付け加えたような感じがする。
>>262 >当時の人がどんな船でどんな気持ちで中国へ航海したか・・・
命がけ。海賊に襲われたり台風とちょっとした嵐なんか一年で何十もある。
この時代より数百年以上先でも命からがら中国に
渡っていたことを忘れんなよ。水行を軽軽しくお天気の良い日に穏やかな海で
スイスイ渡っていたとでも思っているような馬鹿が多すぎ。
しかもどこも安全で友好国だと前提のような。
>>268 そうですね。
さらに航海技術の発達した鑑真も何度も失敗してますからね。
270 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:21:40
>>267 しかし、船の準備に時間がかかるやら、海賊が出るやら、再三宴会や講演会があるやらなどと
いうことを勘定に入れて正史に記述するだろうか?
それとも、日本(倭)に行ったら、船の準備や海賊や宴会に時間がとられるから
それを計算に入れておくようにと書き残したかったのだろうか?
271 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:25:54
272 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:28:29
鑑真和上曰唐至倭国水行十年
273 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 14:14:27
倭人伝には、持衰という記述がある。航海の時に禁欲の生活を送り、
航海が成功すれば、すごい褒美をもらえるが、失敗すれば殺されてしまう。
当時の航海がいかに大変だったかがわかる。三国史記には、日本が攻めてきたと
言う記録がたくさん残っているけれども、その時期は初夏あたりに集中している。
波の穏やかな季節を選んでいるということかな。
とにかく、古代の航海技術からすれば、外海は大変だったのだろう。
>>272 それが記録に残っているのなら、鑑真は、4回ほどだったか渡航に失敗して
いるから、水行というのは、それを含めた期間ということになる。
なんか面白い。
274 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:32:39
275 :
599:2006/12/27(水) 15:36:22
でも朝鮮から難破すると島根鳥取に簡単に不時着するらしいぞ
276 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:51:16
昔は難破ってのはよくあったみたいだね。
無事に目的地に着くより難破で着いたほうが多かったりして。
277 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 16:01:02
羽衣伝説も日本海が本来の舞台だとか?
278 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 16:55:08
晴れた日は、韓国の釜山から対馬が見える。
対馬からは、壱岐が見える。
壱岐からは、唐津・伊万里・博多方面が見える。
古代は、何も見えない外洋に船で漕ぎ出す人がいただろうか。
呉の国の海人族や海賊は普通、台湾や沖縄までは来ているだろうが、
九州となると、まとまった集団で渡海するとは考えられない。
また、下関の海峡は流れがはやく、古代船では海の難所で、そこを
船で航行する危険をおかすことはない。
畿内説の人は伊都国は福岡の前原で畿内の邪馬台国の出先だと妄想
するが、下関の海峡を考えると論理矛盾している。
むしろ、天智・天武の頃の丹波・丹後が伊都国とするのが妥当と思われる
が、邪馬台国時代の丹波・丹後地方は無視しているのか、遺跡がないのか
分からないが、理屈にあわないことを無理やりこじつけているような気が
してならない。
279 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 17:59:58
280 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:06:41
>下関の海峡は流れがはやく、古代船では海の難所で、そこを
>船で航行する危険をおかすことはない。
難所なら乗り継ぎという方法もある。でも、それでも航行不能という
ほどのもんかいな?それだったら明石や鳴門はもっとすごいぞ。
むしろ、渡海させるなら古代だって下関〜門司間が一番近いんだから
渡し舟はバシバシ通ってたと思うがなー。
と言っただけですぐ私を畿内説のバカと決め付ける奴がいそうww
>>280 いや難所は難所だ。でも難所だからと言ってそこで常に航行が途切れるのは
ちょっと希望的予想が入っているとは言えるかな。確かに乗り継げばいい話ではある。
282 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:39:16
283 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:47:14
関門海峡は平家物語の壇ノ浦の戦いのことでもわかるように、
潮のながれが逆転します。だから進みたい方向に潮が流れているときにそれにのって通過すればよろしい。
284 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 19:13:16
Uターン:これこそ、邪馬台国問題で一番重要な箇所です。これが、
理解できれば、論争が終わる。
なぜなら、岩波文庫の25ページの図をみればわかる。邪馬台国までが
12,000里。邪馬台国より先に倭の国は無い。
285 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 19:45:22
>>284 岩波文庫もってないので、意味がよくわからん。
もうすこし詳細キボ。
286 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 20:33:38
>>284 >Uターン:これこそ、邪馬台国問題で一番重要な箇所です。これが、
理解できれば、論争が終わる。
説明キボン
287 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:43:31
せ、せ、説明キボンヌ。 (;´Д`)ハァハァ
288 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:10:08
タイホウグンから狗邪韓国までが7000里。倭の端から端までが、周旋
5000里。タイホウグンから邪馬台国までが12000里。つまり、
邪馬台国は、倭の端にあった。だから、その先に21か国を置くとはみだす。
だから、邪馬台国でUターンしたとすれば、辻褄があう。また、一大卒など
は、邪馬台国の北だけみたのは、邪馬台国が最南端だったから。21か国
は、魏志では北以外と書かれてるが、これは、陳寿が誤解したためとして、
ここを無視して21か国を北におけば、奴国問題も戻ってきたとできる。
また、旁国も脇の国なら南、南ときたときの脇は、北、北になる。
北部九州と東九州が逆L字形に卑弥呼連合として、熊本県など、西九州
を狗奴国連合として、南北でなく、東西で対立したとすると魏志の文書
によくあう。九州の中心は阿蘇など山で、実際は、吉野ヶ里あたりが、
両国の前線では?
は、はやく説明をッ…、(;´Д`)ハァハァ
スマソ。289取消、
291 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 21:27:38
>>288 >タイホウグンから邪馬台国までが12000里
思い込みはいけませんよ。
12000余里は 郡⇔女王國です。
292 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:30:11
>>291 じゃ、女王国が最南端てことか?
どうも俺、お二人の意見、よくわからん
294 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 21:42:14
>>293 >じゃ、女王国が最南端てことか?
なんで?じゃ、女王国が最南端てことか?
295 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:55:50
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、
次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、
次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
この「次有××國、次××國、・・・・」は、これらの国々が一直線上に
並んでる、てことじゃねえよな。フツーそんなにうまいこと国は並ばんだろ。
議論の途中でワリィが、ちょっと確認。
296 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 22:05:19
>>295 一直線ではないけど
ほぼコース上に並んでいると解釈できるよ
だから『次有・・、次有・・』と
それに、『此女王境界所盡。 』の『此』は奴國だけを対象にしているのではなく
(自女王國以北)に位置する(次有・・・)が対象だろう。
297 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/27(水) 22:31:53
>>296 次、次、・・・と言うのは、並んでる順序じゃなくて、ただ単に、
30カ国上げるとしたら、の意味なんじゃないの?
実際に、壱岐から、邪馬台国までの道程では次、とは言っていないし。
ランダムに団子状にくっついていたと思うよ。
298 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 22:42:01
>>297 >次、次、・・・と言うのは、並んでる順序じゃなくて、ただ単に、
30カ国上げるとしたら、の意味なんじゃないの?
実際に、壱岐から、邪馬台国までの道程では次、とは言っていないし。
ランダムに団子状にくっついていたと思うよ。
では、同じ編纂者による(韓傳)の 一日馬韓、二日辰韓、三日弁辰のような
書き方でいいんじゃないかい?
299 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 22:47:12
>>297 >邪馬台国までの道程では次、とは言っていないし。
それに、あの道行文章は略載されていない文章だろう。しかし、この諸国
に付いては『戸数道里可得載』と断り書きまで付いた文章だよ
300 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/27(水) 22:55:22
>>298 さあ。どういうわけか次有伊都国ではなく、邪馬台国連合30カ国の方に、
次、と出てくるから、常識的に言うと、30カ国並んでいる、もしくは、
道すがらにある、というのは、考え難いと思う。
301 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 23:03:42
>>300 九州さんがそう考えるのは、全て細切れ状態で考えているからだよ
伊都國の記事には何てかいてあったかな?
『東南陸行五百里到伊都國』
この何処に(次有)などの文言を挿入するのかな?
『行』は一方向への移動を表す、表現方法だよ。
302 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 23:12:39
九州ですがさんは 私と違い基礎教育をきちんと学んできた様だから
文章もじっくり読みこなせば 半年も掛からず基本的な解釈が出きるように
なるよ 今は、読み下し馬鹿本による先入観強すぎ。
303 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 23:17:53
九州ですがさん
暇な時自分なりに解釈してみて?
『陸行や水行』と『東行』の(行)の違い
304 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:27:50
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、
次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、
次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
横レス。すまそ。
プラム氏の言う通りこれらの国々がほぼコース上に並んでるなら、
いまの地名との類似で、国々の場所が割り出せねえか?
3字以上の国名は、手がかりになりそうに思えるが。
已百支國、好古都國、華奴蘇奴國
305 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 23:40:03
>>304さん
参考までですが、
玄界灘沿岸地区を手始めにどうですか? 因みに私はやりませんが、不可能では
ないと考えますよ
306 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:41:34
>それに、『此女王境界所盡。 』の『此』は奴國だけを対象にしているのではなく
>(自女王國以北)に位置する(次有・・・)が対象だろう。
これが、邪馬台国問題の解決を邪魔した、思い込みです。
ほとんどの人がまちがえたとこ。邪馬台国を指す。だから、狗奴国は、
邪馬台国の南としてしまった。しかし、奴国とすれば解決できる。
つまり、そのが、奴国を指すと仮定して読むとすんなり、狗奴国が決まる。
21か国を指すと仮定すると、うまく比定できない。ゆえに21か国を
指すという仮定はあやまり。
307 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/27(水) 23:50:27
>>306 >>それに、『此女王境界所盡。 』の『此』は奴國だけを対象にしているのではなく
>(自女王國以北)に位置する(次有・・・)が対象だろう。
これが、邪馬台国問題の解決を邪魔した、思い込みです。
ほとんどの人がまちがえたとこ。邪馬台国を指す。だから、狗奴国は、
邪馬台国の南としてしまった。しかし、奴国とすれば解決できる。
つまり、そのが、奴国を指すと仮定して読むとすんなり、狗奴国が決まる。
21か国を指すと仮定すると、うまく比定できない。ゆえに21か国を
指すという仮定はあやまり。
それって完全な一人相撲ですよ
うまく否定できないのは、解釈が甘い(間違っている)からだとは考えないのですか?
308 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 00:20:57
>>278 >古代は、何も見えない外洋に船で漕ぎ出す人がいただろうか。
十分考えられる。
五島列島の大坂部島では、縄文前期の洞窟で牛の骨が見つかってる。
こんな小さな島に日本最古の牛の骨が見つかったのは、大陸との交易があったのじゃないかね。
沖縄の海底遺跡も、大陸だけでなく九州との交易を考えないと存在する理由がわからんようになる。
外洋を自由に行き来した交通の要所だったからこそ、現在まで残るほどの大規模な町があった証拠。
大昔のシンガポールというべきだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
最低部まで7〜8m降りる。その奥はかなり広く、池があった。真っ暗な洞穴のあちこちに
ライトを設置して始められた調査で、数多くの土器片や人骨、獣骨が発見された。
土器は、隆線文土器であり、縄文前期と鑑定されたようである。また、獣骨は牛のもの
と鑑定された。
http://www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/newsletter4-6.htm 海底遺跡やその周辺、スタジアム・石舞台・その他新しい海底遺跡様構造物や珍しい地形
をこのページでご覧下さい
http://www.yonaguni.jp/iseki-syasinsyu.htm
309 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:25:14
>>304 それ、どっかのHPで最近見たな。地図上の図示で
初心者の私は当時の日本に21ヵ国あったことすら知りませんでした。
邪馬台国だからと軽い気持ちで覗いてみたら皆さん(ブタバラは除く)博識で顔から火を吹く思いです。
休みの日にでも図書館で自分なりに調べて見たいと考えております。
・・・近所の市営図書館は小さいからどの程度資料があるかが問題です。
311 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:37:11
>>309 できればそのリンク張ってほしいが、
きみがお気に入りしてなかったわけだから、
さぞかしトンデモページの類だったんだろな
312 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:39:03
313 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 00:40:55
>>288 >倭の端から端までが、周旋 5000里。
周旋とは一回りしたらという意味だろう。
端から端だと縦横の長さが普通違うのが当たり前だから、こんな表現はしない。
それにこの部分は、倭人からの又聞きを書いただけのもの。
魏の使節団が測定したりして、確実な数値は前半部にまとめてあります。
周旋::ぐるぐる回る事
314 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:51:51
周旋は、めぐりめぐってです。1周では長くて2500里では?7000に
2500里足しても9500里。12000里と合わない。
これ女王の境界のつくるとこ。:21か国が境界に面していたとでも
おかんがえですか。
また、奴国がなぜ記述されたかの説明が必要。
対馬、一大は、海の中の目印。末ロ国は水行から陸行の変更点。伊都国は
郡使の常にとどまるところ。不彌国は、陸から水の変更地点。投馬国は
陸行の変換地点。邪馬台国は卑弥呼の居るところ。奴国は必要ない。
ただし、狗奴国説明のためだしたとするとうまく説明つく。
ここも11になってる。ここに長くいる人の考えは間違ってることを
証明してる。
315 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:52:42
316 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:53:32
>>304 已百支國、 みはし
好古都國、 はくと
華奴蘇奴國 かなすな
317 :
311:2006/12/28(木) 01:03:34
>>312 サンクス。
しかし凄い説だな、これ。ww
邪馬台国は宮崎なのか。ふーん
318 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:17:22
>>317 狗奴国が熊本で邪馬台国の北にあるのがね……。
投馬国は長官名が弥弥(みみ)って読むなら耳川のある日向側とも
思ったことあるんだけど、確かにそれじゃ陸行一月にあわないわな……
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。
旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。
鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。
また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
↑魏志倭人伝だよ。何かコメントよろしく!
320 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 01:19:32
>>314 >2500里足しても9500里。12000里と合わない。
足す事が根源的間違い!
12000里とは帯方郡から邪馬台国までの直線距離。
7000里とは帯方郡から狗邪韓国までの直線距離。
321 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 01:25:57
始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。千余戸有り。
又南に一海を渡ること千余里、一大國に至る。
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。
東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
これじゃあ解らんわな。しかし、邪馬台国は畿内にある!
323 :
大阪府民:2006/12/28(木) 01:34:28
>>319 ごくろはん。そやけどあんちゃこっちゃ切りまくりでんな。
神奈川、東京とか関東の方とかは、邪馬台国論争なんか
つまらんのと違いまっか。
おれも初めは 卑弥呼=天照大神説とって宮崎思ってたよ。魏志倭人伝そのまま読むとなんとなく宮崎になる。
しかし、詳しく研究していくとだな、機内になるんよ
325 :
大阪府民:2006/12/28(木) 01:37:29
>>322 なんや、記載の順番はどーでもよろし、と思とりなはるのか。
326 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:39:11
>>318 まあ、今のところ邪馬台国はどこか論は、どこか合わなくなるパズルのようなものなんだよな。
畿内説は方向が違うからありえないって言う人がいても
末廬→伊都→奴が、松浦→糸島→博多なら、ここでもう倭人伝は方向誤記してるんだよな。
だから、ここで九州説者は、伊都は糸島では絶対ないと主張せざるを得なくなっている。
北九州なら水行に強引な説明がなされるが、なんか倭人伝のはほとんど原始人並みなので
そんな版図はないのだからやはり北九州連邦だったのだという気もする。
宮崎だと行程は一番無理が少なく説明できるが、周辺21カ国と狗奴国が
南にある感じだから、南に行き過ぎだ。
とにかく、どの説もどこか合わないところがある。
その部分は夢想的な説明をしないで、合理的説明ができるまで勉強するか
正直に「そこは分からない」と言うべきだろう。
今は神奈川なだけで、出身は九州。
卑弥呼の謎にハマってる一人ですかね。
328 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:41:37
>>327 卑弥呼が女じゃなかったら絶対こんなに神秘のベールで魅惑されることが
なかったのは同意
329 :
大阪府民:2006/12/28(木) 01:45:07
九州ご出身で畿内説とはお珍しい。
卑弥呼ハンには一度会うてみたいでんな。
ほならわて休みますさかい、あとよろしゅうに。
えっとね・・・名無史さん、方向が違い言ってるが。
魏の使いが方向を間違えて報告したからでしょ。
距離は間違えないでしょうよ
トヨタン・・・
同感!しかしやっとの想いで解き明かした!
333 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:49:13
>>329 そんなことないよ。俺は関西だけど、北九州かなあって今は思ってる。
ただ、九州人のナショナリズムで北九州って主張してる奴がいるので
正直、いやな気持ちになる。
334 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 01:52:07
>>330 それも逆のこと言う人がいるんですよ。
方向正解、距離間違いってね。それについての議論は千日手になっている。
台与の話も少ししましょうか。
豊の国、大分のどこかで豊姫の歩いた道てのがあったような・・。
まあそれはいいとして、台与の後に立った男王が台与と並んで中国の爵命を受けた。
この人は九代開化と思ってる。
以上、反論ある人はどうぞ遠慮なくいって!
初め私は、天照大神をとって九州説でしたよ。
調べていくと畿内になるんです!
だからそのまま読むと宮崎になるんよ。
そのまま読まずその人の立場に立てば距離は間違えるはずがない!
魏の使いは倭人と一緒に邪馬台国へ行ったはず・・
338 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 07:35:19
>>319 >何かコメントよろしく
沢山ありすぎだから
少しずつ 指摘しようか?
339 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 07:45:05
>>326 >周辺21カ国と狗奴国が 南にある感じだから、南に行き過ぎだ。
狗奴国が南にあるとは書いてあっても、周辺21カ国は方向を書いてありません。
奴国が南限という記事は、魏志倭人伝が書かれて200年位した後に後漢書でチョコット書かれた
ガセネタというべき。
後漢書の著者は、今から200年前の江戸時代の記録を調べて、噂に過ぎない話を知ったかぶり
して事実かのように書く程度の著者だったというべきだろう。
その点、魏志倭人伝の著者は同時代の人間で、しかも平和的に禅譲された晋という国家の役人。
国家の公文書や機密文書に直に触れる事ができる、数少ない人間の一人だ。
味噌と糞を似てるからといって一緒にはしないように!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
魏志倭人伝は魏の後継の晋の国の著作朗という官職にあった陳寿が、書いた書物
で正史ですから、信頼性が高いとされています
陳寿は蜀の国で233年に生まれ297年に65歳で亡くなっています 邪馬台国の
女王の卑弥呼とほぼ同時代の人です
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
340 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 07:52:10
>>339 かなり無責任な話だな
>ガセネタ
史書をガセネタとするなら、主観をもって判断とせず、キチント理論付け又は根拠の提示をすべきでしょう。
341 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 07:59:51
それに、「周旋」の解釈も目茶苦茶
一周なら「周」だけで充分間に合うし、「旋」の文字が付随するのだから
一周出来る「折り返し」と意訳すべきだろう。
342 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 08:02:53
>>330 >魏の使いが方向を間違えて報告したからでしょ。
そんな役人だったら首になるでしょう。
魏は朝鮮の公孫氏を攻め滅ぼし、日本にも衝撃を与えてしまった当時の新興国家。
今の日本のお役人様みたいに、ぬるま湯に漬かった感じの腐敗役人じゃ即、本当に
首をハネラレて見せしめになってるよ。
方向を間違えて報告するほど、天体観測さえできない程度じゃ責任者として出世はできん。
魏の創始者:曹操はその点凄く信賞必罰が厳しい方で学問も非常に重要視したという。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
今の警察署長のような職務を遂行した。曹操は洛陽北部尉に着任すると、違反者に
対して厳しく取り締まった。
その任期中に霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩(けんせき)の叔父を夜間帯刀の禁令
を犯したとして捕殺した。
このため、曹操を疎んじた宦官などは、曹操追放を画策したが理由が見つからず、
逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
343 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 08:22:30
>>340 >主観をもって判断とせず、キチント理論付け又は根拠の提示をすべきでしょう。
提示しているのに、あなたには理解できないようだ。
著者の立場、生存時期、書物の作成時期等が理論の根拠なんだけどね。
書いてなかったかい?
魏志倭人伝の著者陳寿については詳しく書いたけど、後漢書の著者は1人ではない。
書いたのが200年以上後の事だし、書きかけの途中に死亡しておまけに「続漢書」という
書物と劉昭が混ぜ合わせた書物。
後漢書はただの時代劇小説というべきで、信頼性では天と地の差がある。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
未完成であった。そして范曄は書き終えないまま劉義康擁立事件に関ったことで処刑された。
後に南朝梁の劉昭が未完成『後漢書』に東晋の司馬彪が書いた『続漢書』の志を合刻した。
現在伝わるのは後述の李賢注に『続漢書』の志を合刻した北宋代の版本が元である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8
344 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 08:39:34
>>341 >一周なら「周」だけで充分間に合うし、「旋」の文字が付随するのだから
漢の時代ころから、文章には韻を含めて書くのを教養のある人間の証拠とした。
抑揚をつけて相手に話しやすく、理解してもらい易く文章を書くのを上の人間という。
周も旋も回るという意味。
教養の無いあなた見たいな方が三角縁神獣鏡を、中国人が書いたかのように文字を入れたんだろう。
韻を含める為に、いろんな操作を言葉に付け加えるのは常識。
−−−−−(引用開始)−−−−−
この三角縁神獣鏡は、方格規矩四神鏡の後に現れたにもかかわらず、銘文の韻律
はひどいものである
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
345 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 08:49:22
>>322 >これじゃあ解らんわな。
そんな翻訳じゃ日本語になってない。
ド素人の日本語風漢文読みというべき。
漢文は外国語である事を忘れないように!
346 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 09:19:52
周旋もわからないのでは、話にならない。
図書館 岩波文庫がいいですよ。青の401かな?多分、どこでもあると
思う。これは、過去の研究もだいたい押さえてるのでいい参考書になる。
347 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 09:46:42
>>343 >著者の立場
>生存時期
>書物の作成時期
これらが根拠の材料と成り得るなら、百納本はどうなるんだ?百納本としている段階でガセか?
紹興本や紹煕本の立場は全てガセネタか?
普通、内容判断からそれらの審議に携わるべきではないのかい?
己の価値観、それも主観による判断にてガセとすることは極めてナンセンスな行動とは思わんかね?
自己主張も結構だが、少しは学問板としての機能を重視してくれないか。
348 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 09:47:45
岩波文庫は手軽だがさすがに古すぎる。
最低限、佐伯有清の『魏志倭人伝を読む』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー 上・下)ぐらいは嫁。
ついでに、学史を押さえるという意味で同じ佐伯の邪馬台国論争 (岩波新書 新赤版)も嫁。
352 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 11:16:20
>>347 >普通、内容判断からそれらの審議に携わるべきではないのかい?
あなたには、難しい言葉の知識はあるようだが内容に対する根源的理解力がない。
理解力の無い中で、知識ばかりを詰め込んだ知恵なき幼稚園児。
物の役にはたたん。
俺はこれでも特許や実用新案を申請し、少しでも役に立つものを作ろうとしてる人間だ。
役にも立たない砂上の楼閣みたいな知識は、有害無益。
もう少し本当に役に立つ知恵を獲得しなさい。
353 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 11:27:19
>>352 幼稚園児でも何でも構わないが、それより
ガセネタの根拠と貴方の特許に関する自慢話の何処が結び付くの?
詰まり、特許を持っていると言う話がしたかった訳か?
それなら以前にも聞いたよ。
マジ凄いことだ。頭が下がる
354 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 11:30:54
355 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 11:35:13
>>353 >ガセネタの根拠と貴方の特許に関する自慢話の何処が結び付くの?
根源的思考力の無い人間には、特許なんて取ろうとも思わないだろう。
本当に役に立つ思考法を考えようともしない、あなたみたいな「形式主義者」なんだから。
先人が考えてくれた、マニュアルに従ってしか思考できない形だけの考え方。
その点、俺は実質主義者だ。
お前等、喧嘩するな(笑)
それより君等の邪馬台国問題に関する認識を聞こうじゃないか!
357 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 11:48:44
>>354 >くだらん著書よりはかなり役にたつよ これと、漢和辞典ならびに国語辞典が有れば十分だ
猫に小判!
理解力もなしに我流の「砂上の楼閣を作る」だけの無駄な行為。
現代中国語を理解できる素養を付けてから、古代の中国語に挑戦しなさい。
さもなければ「、」も「。」もない中国語に翻弄されて(日本風漢文読み下し文)の中で
迷子になってしまうよ。
形容詞の表現が、どの名詞にかかってるのかさえ理解できないのじゃないかね。
タダのド素人じゃ!
−−−−−(引用開始)−−−−−
都合の悪いところは無視する、あるいは誤訳、曲解するという解説も多いようです
魏志倭人伝の原文は、「倭人在帯方東南大海之中依山」のように句読点の無い漢字の羅列です
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
358 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 11:50:51
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
しくは2日とし 1日平均5km進むとする。
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
八代平野も領土とする)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→宮崎市・・「ここが邪馬台国」
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
359 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 11:58:06
>>357 主観と自己主張重視の君が言うと逆効果で有る事を先ず理解しなさい。
主張と行動のアンバランスのギャプにまだ気付いてないようだから。
君は勘違いしてる。まあ、自分も初めは宮崎思ってたが・・・
現在の地図を見ながらだと確かにそうなるよ!俺もそうだったよ。
ほかの人も皆、宮崎思ってる人多い。しかしだな、魏の使いは倭人の案内により
邪馬台国へ行ったんだよ。帰りは迷ったはず。始めて行く倭国、迷わないほうがおかしいよ。
よって方向が違うてことに行き着く!
卑弥呼は誰だ?ていう題名作らない?誰かよろしく!
362 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 12:21:46
>>359 >主観と自己主張重視の君が言うと逆効果で有る事を先ず理解しなさい。
効果とは目的があって、その達成のために役に立つという意味。
俺は暇潰しの目的だから、逆効果なんて言葉は意味が無い。
こんなところにもあなたの根源的理解力のなさが露呈してる。
言葉はイメージを伝える非常に不完全な道具。
あなたにはその肝心なイメージを作る力がない様だ。
363 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 12:23:29
>>339 >狗奴国が南にあるとは書いてあっても、周辺21カ国は方向を書いてありません。
倭人伝によれば
女王国より北は、その戸数と道里を載せることができるが、
その他は遠いので詳しいことは分からない。
そして周辺21カ国の国名列記だから、その南に狗奴国だから、
文面そのものは、周辺21カ国はすべて南と断言できないが、
南方向を中心とした北以外の方向だと見て取れる。
それを否定する文書偽造説は、ただ宮崎が邪馬台国という結論に固執したいからに
他ならないように見受けられる。(だからと言って宮崎ではないという断言できないが)
それを後人が文書偽造したと言うなら(写本時の誤写とかもないとはかぎらないのは道理)
それについてもっと説得力のある根拠を提示する必要があるのではないか。
何が発掘されれば、邪馬台国の決め手になる?
365 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 12:27:48
>>360 >邪馬台国へ行ったんだよ。帰りは迷ったはず。始めて行く倭国、迷わないほうがおかしいよ。
魏志倭人伝には迷ったなんて書いてあるのかい?
あなたのタダの想像だろう。
魏の使節団は日本に来たときに、卑弥呼から送られた10人の生口の内、何人かは連れてきたはず。
道案内や通訳、日本の役人との折衝など諸々の仕事に活躍した事だろう。
その為にこそ語学的才能のある若い記憶力のいい連中を生口としたはず。
彼らがいなければ言葉さえマトモに通じなかったでしょう。
366 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 12:29:41
>>364 やっぱ卑弥呼の墓じゃね?百枚の銅鏡もあるけど、これはやはり分散してるだろうしなあ。
卑弥呼への親魏倭王の金印または難升米等への銀印が発見されたら決め手となる。
368 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 12:36:04
>>367 まあ、それもあるが、印鑑は持ち運びできることをお忘れなく
369 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 12:39:03
>>362 根源的理解力云々を指摘する前に、自己主張に対する後始末をつけてくれ
貴方は後漢書のガセ性を主張し、ガセで有ることの理由を主観的にのべた。
しかし、これでは完全な片手落ち
ガセの理由を述べたなら、次にガセでないと判断した時に起こるうる矛盾点を指摘し、その検証結果を述べその結果が、「ガセ」と
判断するのが筋じゃあないのか?
貴方がよく引用するWEBサイトも、その信憑性についてのコメントがないのは何故かな?
恵也ちゃん 魏志倭人伝には迷ったなんて書いてないが、迷ったわかるんだよ!
魏書通り読み手が辿っていくと宮崎辺りの海になりわけわからくなる。
おれとあなたの理解力の違いかな?頭の問題だ!
371 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 12:43:53
>>363 >南方向を中心とした北以外の方向だと見て取れる。
逆だよ。
北方向の(邪馬台国連合なら)その戸数と道里を書けるけど(一応国名だけ書くと)・・・・
と続けて邪馬台国の側の国から北に向けて国名を列挙してあるの。
それ以外の国は、仲が良くないから戸数も道里もほとんど書けないの。
アメリカを中心とした西側諸国なら、日本人にも軍事力や国防費は調べれるけど敵対国の
東側諸国の情報は軍事的理由から公表されてなかったのと同じ事。
今の中国の国防費でさえ、西側諸国からは信用されてない。
情報がわかるのは「同盟国同士であればこそ」なんだよ。
魏志倭人伝には当面の危険な国:狗奴国の戸数さえ書いてないだろう。
俺は魏志倭人伝には非常に正確に書かれてると思ってる。
後漢書は酷すぎるが、戦乱の世で公文書も焼却された200年後に書いた文章じゃ仕方ないよ。
372 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 12:44:06
そのへんの印鑑と違うんだよ。
親魏倭王の印が発掘されたとこが邪馬台国でいいんやない?
374 :
古田二世:2006/12/28(木) 12:51:31
ところがね、この金印、266年の壱与の晋への貢献の際中国へもっていって返したという説があるのですよ。その
証拠というのが、親魏倭王の印影が存在するからです。
375 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 12:51:56
>>371 >北方向の(邪馬台国連合なら)その戸数と道里を書けるけど(一応国名だけ書くと)・・・・
>と続けて邪馬台国の側の国から北に向けて国名を列挙してあるの。
論外だと思う。周辺21カ国は邪馬台国の東とか西、北西とかも考えてもいいが
>北に向けて
というのは曲解どころか暴論である。
376 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 12:53:10
>>368 >卑弥呼への親魏倭王の金印または難升米等への銀印が発見
卑弥呼が死んだときには、魏も健在な時期で金印も使われていたはず。
それでは一緒に遺体と埋葬するわけにもイカンだろう。
卑弥呼の後継者台与が死んだときなら、魏から晋に変わってるから台与の墓には埋葬の可能性はある
台与は大分の宇佐神宮の側だと見てるので、そちらからは出てくるかもな。
−−−−−(引用開始)−−−−−
なぜこんな田舎に、これほどの規模のものがあるのか。
また、全国八幡宮の総本山となった理由は何か。
これは考えてみれば不思議なことであって、なぜこれほどの影響力を持ち得たのか、という
ことを説明したものには、未だお目にかかったことはない。
http://www.h3.dion.ne.jp/~abesan/jingu.html
377 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 12:54:12
378 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 12:59:01
『略載』
(省き載せる)
文章に『略載』とカキコする以上、「省かれ」た内容ならびに、その省かれた内容による結果として「載せられた」内容が必ずカキコしている。
詰まり
ここで省かれたモノは、その前文にて記載された
(戸数、道里、可=規模)であり、その結果記載された内容は 後文に記載されてる『次有斯馬國…』にあたる 国名だけ記載されたモノです。
漢倭双国王の金印は返さなく親魏倭王の金印だけ返したのですか?
すごい見解ですね!
>>372 略したのを載せるか、
載せるのを略すかのどっちかかな?
381 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 13:05:56
>>379 金印よりも 封泥の方が決め手としては強いかも
382 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 13:10:19
>>378 可はできる(can)だよ。漢文じゃ、可と不可は重要ポイント
女王国以北其戸数道理可略載
は
女王国より北(今まで来た過程)はその戸数と道理をだいたい記すことができる
であって
女王国より北はその戸数と道理を略して記す。
ではないよ。これでは意味が通らない。
封泥は知らない。教えてください
それと宇佐神宮が豊の墓、十分ありえます。
384 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 13:15:44
>>370 >魏書通り読み手が辿っていくと宮崎辺りの海になりわけわからくなる。
どうして海まで行ってしまうのか書いてくれ。
意味が分からん!
俺はちょうど海岸の近くで止まったんだけどね。
海岸の側であれば、大きな河の三角州もあるし農産物は大量生産をしていた事だろうし
種子島や、沖縄、四国などからの船との貿易もあったことだろう。
邪馬台国から東や南の国の記事は、魏志倭人伝にも不正確だか書いてあるしね。
鉄砲が伝来した種子島から、大坂に伝わったのは凄く短時間だったという。
しかも豊臣秀吉の頃になると、世界でもトップクラスの鉄砲保持国になったと聞く。
大昔から太平洋岸にもそれなりの交易ルートは存在したんだよ。
卑弥呼の時代の漢文の文章が残っていれば凄いと思うけどな。
しかし保存技術もなかったろう。
−−−−−(引用開始)−−−−−
わずか数年の間に2挺の鉄砲がたちまち66カ国にひろまり、諸国の鉄匠はその製法を
身につけるにいたったことを思えば、わが種子島はまことに鉄砲の発祥地というべきだ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaze_k/special-02.htm
385 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 13:17:45
>>382 漢文でもこれは地理記事
『可』の字意を調べてごらん。そして
何故(べき)と訓じられたかもね
それに、何故(カ)なのかも
(許可、可能、認可……)
始めて読んだ時、宮崎・鹿児島辺りの海にたどり着いた記憶がある。
使者の立場になって辿っても宮崎の陸になる。
距離重視の考えでいくと福岡辺りになる。
もし使者が迷わなかったのであれば読んでるほうもこんなに迷うことと思う。
387 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 13:30:32
>>375 >北に向けて というのは曲解どころか暴論である。
そうでもない。
女王国より北に・・・・と書き、列挙した最後が奴国で終わり女王国の境界だと明記されてる。
しかも奴国は魏志倭人伝の最初ころに書かれていた国。
その国:奴国からから邪馬台国に行くまでには、南に水行20日とマタマタ南に水行10日を
要したほどの旅をしてる。
奴国はこの200年前には後漢に生口160人を送った、北九州の大国で卑弥呼の時代でさえ2万戸
約12万人の人間を擁していた北九州の端の国。
だからこれは、女王国から北に向けて書かれた文章と読むべき。
−−−−−(引用開始)−−−−−
次に奴国(な)がある。ここが、女王国の境となる所である。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
388 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 13:30:45
みなさんに質問
邪馬台国はどこで卑弥呼は誰と思ってる?
390 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 13:36:35
>>382 反対意見は歓迎するけど、私の解釈ではどのような不都合が生じるかも述べてくれないか?
そして、なに故『可』が(can)なのかも説明してくれ
『可』=が 規模(範囲を把握する)
で有ることは、過去レスにて何度も主張している事なので省かせて貰うよ。
391 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 13:40:53
>>386 >使者が迷わなかったのであれば読んでるほうもこんなに迷
こんなにコンガラガッたのは、魏志倭人伝をド素人が能力もない癖にいい加減に誤訳した為。
それもわが村が邪馬台国としたがる「さもしい根性」のさせる業。京都大学教授が諸悪の根源。
素直に読めば素直に判るように書いてあります。
392 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 13:42:07
>>385 残念だけど俺の漢和辞書には
「可」はカギ型にドノを詰まらせて発音するところからきたとある。
言葉の意味は「できる」「よい」とかの意味で物理的な意味は書いてないな。
第一この倭人伝の一行だけでいきなり「可」を「できる」以外の意味で
使うのは唐突だろう。
393 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 13:43:28
神武天皇を、第50代桓武天皇(781年〜806年)を基準にしてハシゴをかけてみる。
第31代用明天皇は西暦585年に即位してる。その間221年を20人の天皇が即位した。
1人当たりの平均即位年数は
221/20=11.05年
傾向として安本氏の天皇の平均在位年数グラフを見ると5世紀から9世紀にかけて
1.36年延びている。100年間に0.34年だ。
用明天皇と桓武天皇の中間地点は696年
神武天皇が300年頃の即位だとすると、中間地点は553年
中間地点の差が143年ある。
143/100*0.34=0.486
11.05−0.49=10.56
これを平均在位年数として計算すると
初代の神武天皇の死亡年は
806−(50−1)*10.56=289
天照大神の死亡年は
806−(50+3)*10.56=246
卑弥呼の死亡年は西暦248年
2年の差とは驚くべき一致度ピッタリ。
394 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 13:45:04
>>380 >なに故『可』が(can)なのかも説明してくれ
英語の助動詞の意味ではないが、「可」は「できる、よい」の意味ってことに
なんで説明なんていらないだろう。
395 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 13:53:36
>>387 奴国だけ確かに二回出ているね。しかし、そうなると、他の末廬や伊都が
周辺21カ国に出てこないのは不可解。
「奴」の字は倭国の国名に多用されているから写本時の誤写、脱字とも解釈できる。
邪馬台国の時代は大和朝廷が発足する直前とみるべき。
397 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 13:55:21
みんな知ってた?
聖徳太子が小野妹子を遣わして隋の煬帝と対等外交をした話は有名だよね。
実は聖徳太子の度胸とか世界情勢の認識不足とか色々言われてるけど本当は聖徳太子以前から大和朝廷はそういう外交姿勢だったんだよね。
「宋書」には倭の五王が高句麗よりも上の爵号を要求しそれをもぎ取ったとかかれてます。
当時の大中華帝国に対して周辺の少数民族がこのような要求をするなんてとんでもない話でありその要求が通ったのはこれ以外にないんだよね。
これは何を意味するかというと、日本の歴史学界は自虐史がデフォで文明はすべて朝鮮半島から伝わったと決め付けられてる。
だから自虐歴史学者にとっては当時の大和朝廷(倭国)が精強で大中華帝国からも一目置かれてる存在だと説明がつかなくなり都合が悪いんだよね。
そして貴重な歴史資料である「宋書」の記述は無視され教科書には載らないんだよね。
だけどこの部分を抹消したばっかりに聖徳太子の行為がまるで浮いた存在になってしまったんだ。
本当はもっと前から外交姿勢は一貫性があった。
聖徳太子が強行だったとか井の中の蛙だったとかいう話は的外れなんだよね。
歴史を捻じ曲げると必ずどこかで矛盾が生じる。
みんなも学生の時に「おかしいな?」と疑問に思った歴史事実がたくさんあるでしょ?
恐らくそれは自虐歴史学者などの捏造や抹消が原因だと思うよ。
きみは何が言いたいのだ?
399 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 14:01:52
>>392 漢字の意味は前後の文章にて意味が確定する事は解るよね だったら
これは地理記事だよ
そして、(戸数、道里)と来て次に「可」と書かれてある
当然「可」の文字の本来持っている(口=範囲、¬=把握する)をもととした(規模)と解釈しても
何等不都合ではないだろう。
戸数、道里、規模 それらを得略載(省き記載するを得る) だよ
何か矛盾あるかい?
学校や辞書では『可』の文字をそこまで深く追究学習することはないからね
それに、誰も教えてくれない
それから先は、自学次第なんだよ。
だから余計な考察は誰も敬遠
400 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 14:03:14
>>399 訂正。「可」は「ある」って意味だってよ。今、人に聞いた。
401 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 14:03:44
要するに日本史に関しては教科書だからって妄信する必要は無いって話だよ
教科書には捏造された部分や意図的に抹消された部分が多々ある
だから日本史は自分で学べば学ぶほど新しい発見がたくさんあって面白いって事なんだよね
特に邪馬台国〜飛鳥時代までは捏造部分が多いからそういうダウト探しは楽しいよ
恵也 ◆o4NEPA8feAの自作自演には
うんざりだ。
403 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 14:09:22
>>399 ソース。俺も今日、図書館年内最終日で今から行くから「広漢和辞典」でも
調べときます。
要するに、畿内の邪馬台国が
一大率を北九州に設置して
伊都国、奴国などの九州の諸国を監視していたということだろう?
卑弥呼は崇神天皇の叔母、邪馬台国の本拠地も畿内。
405 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 14:12:48
>>390 >『可』=が 規模(範囲を把握する) で有ることは、過去レスにて何度も主張
>している事なので省かせて貰うよ。
主張さえすれば「証明できた」とでも思ってるんだろうね。
根源的理解力のないお方には「糠に釘」かも知れんけど・・・
タダの個人的妄想と証明を混同してる程度の方だ。
>>393 :恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 13:43:28
おまえの計算がデタラメ。
神武天皇が実在していた天皇なら、紀元前1世紀くらいの人物。
崇神天皇は紀元3世紀の人物。
邪馬台国と卑弥呼がかぶるのは、畿内の崇神天皇の政権。
407 :
太国:2006/12/28(木) 14:16:55
>>406 卑弥呼が神武以前、神武ころ、双方間違い。卑弥呼は神功の前後の時代。
卑弥呼の墓はいったいどこなんだ
そして邪馬台国は?!
古代史の謎を解き明かせ!
409 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 14:19:16
>>392 『許可』
『許』=ゆるす
ゆるすだけでは何を許すか解らない、だからその理由を「可」の文字にて補足するわけ。
『可』=範囲の把握
無制限ではなく、限定された(把握)された“あるモノ”の範囲を 許す
と、この様に『許可』の文字に 意味が発生するんだよ
反論受付ます。
祟神王朝の4,5代前くらいでしょう
411 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 14:23:52
>>395 >他の末廬や伊都が 周辺21カ国に出てこないのは不可解。
全く不可解じゃない。
文章は長くならないように簡潔に書くのが基本。
ここで末盧国や伊都国を書き足しても、見苦しいだけの蛇足になるだけだ。
ただでさえ21カ国をダラダラ書いてるのに、読む人間を飽きさせる文章になる。
端の境界国さえ二重に書けば、常識人なら理解はする。
俺は末盧国の西側にも邪馬台国連合が存在してたと思ってるが、そこまで書く必要も
公文書としてはないだろう。
案内した生口は、魏の使節団が上陸した国のあたりには、敵対国のない安全な地帯を選んだはず。
末盧国の周りも邪馬台国連合でないと、重要人物を案内するには危険すぎる。
412 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 14:24:47
>>405 単純な非難レスは止してくれ 先程から人格攻撃と捉らえられてもやむなしとするレスが続いてる様だか、
このスレを
以前の様な『荒れスレ』にしたいと願っての挑発行為か?
その様に願っていての思惑なら 考えてみることは
決して吝かではない。
だからさ、おまえら記紀をちゃんと読め!
神武天皇が卑弥呼と同時期なら
その後の天皇の寿命から考えて、世代間数がギュウギュウで無理があるんだよ。
在位期間だけで平均するのが、いかに馬鹿げているか?
在位というのは、天皇によって、即位する寿命もマチマチなわけで。
そんなもん平均して、何になる?
しかし、それぞれの天皇や皇族の生存期間と世代数は
ある程度、平均が出せる。
というか、もっと古事記の干支没年を調べてみろ!
そういうことちゃんとしないから、学界の権威やマスコミからは
北九州説なんて、相手されないんだ!
414 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 14:27:10
>>409 「可」は「ある」、第三国の英語に仲介してもらうなら「be」
「can」はむしろ、「能」「あたう」だな。これについては訂正したい。
で
「許可」で言うなら、
あなたの説の
「限定された範囲を許す」ではなく、
「ある(存在する)ことを許す」のほうが自然だと思う。
「許可」という言葉に、限定された範囲を対象としたニュアンスはない。
恵也 さんは文章長すぎる だれもみんよ
邪馬台国の場所は畿内でもう決着ついてるんだよ
416 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 14:29:43
>>397 >大中華帝国に対して周辺の少数民族がこのような要求をするなんてとんでもない話
>でありその要求が通ったのはこれ以外にないんだよね。
アンタは詐欺師。
アンタにそこまで中国の古代文献を調査できるほどの「知恵」があるわけないだろうに。
たぶん詐欺師の文章をそのまま丸のまま信用したノータリンだろう。
幼稚園児並みの知恵の持ち主というべきバカ!
こんなバカがなんと多くなった事か、日本人として情けない。
なんでいまさら九州説なんだ。30年前やないんだよ 疲れる
418 :
太国:2006/12/28(木) 14:30:20
女王国は九州だよ。女王国の脇に天皇国があるとの記述は、伝に無い。
馬鹿がまた一人いた 邪馬台国の所在地いってるのになんで女王国がでてくるんだ。
420 :
太国:2006/12/28(木) 14:35:51
邪馬壹國が卑弥呼の国。邪馬台国は卑弥呼の国にあらず。
素人=九州説 詳しい人=畿内説 にわかれるっぽい
422 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 14:39:09
>>399 >学校や辞書では『可』の文字をそこまで深く追究学習することはないからね
あなたに深く追究学習できる知恵があるとは思えん。
深く追究するにはその考えが間違ってないのか、そのたびにいろんな文献からチェック
する作業があってこそ出来る難しい行動なんだよ。
それが行われなければ「砂上の楼閣」に過ぎないというのは世間の常識。
あなたにはその”常識さえ持ち合わせてない”としか思えん。
自己流の妄想解釈にしか過ぎず、それでは深く追究なんて夢のまた夢。
九州説を唱えている安本氏の平均在位説は
記紀の天皇の記述や年代を細かく調査することを放棄してしまった
適当な似非数学的暴論だわな。
なんか、約30代の天皇のことを、それぞれ調べるのは難しいので
適当に平均在位って感じで出してみました!みたいなw
でも、この約30代の天皇の継承関係は
直系継承だったり、傍系継承だったり、全く一応ではない。
そんなもんに平均在位なんて出せるわけないじゃん。
記紀の研究では、
干支没年と寿命しか出していない古事記は
少なくとも、干支没年に関しては正直で正確性が高い、
寿命に関しては、8代目・9代目の天皇の寿命を在位期間を
ゴチャゴチャになっているのでは?って感じ。
意思を持って改竄したのは、日本書紀のほうで
おそらく最初は古事記と同様、正直にやっていたが
対外関係で中国関連の記述で、卑弥呼という女王と整合性が取れないから
神功皇后を無理やり一致させる必要があった。
でも、実際は、崇神天皇の叔母で巫女で、政治に関与していた女性が
卑弥呼その人だったと。
これまでの記紀の年代研究での失敗は、日本書紀だけじゃなくて
古事記のほうも、途中から暦が変わっていた、
そのことを考慮して、研究しなかったということだな。
424 :
太国:2006/12/28(木) 14:39:50
記紀に卑弥呼と天皇の交易、戦争、朝貢等の記事がまるでな〜い。
双方が近隣でないからだ。女王国は九州の所在であり、論は不動である。
魏志に書かれた邪馬壹國は現在みな呼んでる邪馬台国だよ
邪馬台国(邪馬壹國)は畿内にあった。もう決着済みのこと素人がほじくってるだけ
426 :
太国:2006/12/28(木) 14:42:48
>>423 舎人親王が文書偽造の改竄に関与した相当の論拠は?
427 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 14:43:52
>>414 >「ある(存在する)ことをゆるす」………
>限定された範囲を対象としたニュアンスはない
ジョーさん
自分で“限定された範囲”を作り出してる事に気付きませんか?「ある(存在する)」と、定義付けした段階で 範囲の絞り込みを自然に行っていることを
>>424 卑弥呼の弟と思われる男性が政治を行っていた。
崇神天皇は叔母の巫女の占いを参考にして政治を行っていた。
この時代、疫病や飢饉などの社会不安で、祭祀政治の力が強まった。
マキムク宮の建設や前方後円墳の建設も、そういう社会情勢が背景にあった。
崇神天皇の時代、娘の巫女を伊勢神宮の初代斎宮に任命している。
429 :
太国:2006/12/28(木) 14:47:30
>>425 女王国は九州所在で決着済みである。
天皇と近隣の畿内にあるというのならば、記紀に天皇と卑弥呼の交流関係等が
倭人伝以上に詳細が書かれるはずだ。それが0と言ってよいほど無い。
これは卑弥呼の国が遠方の九州にあったことを意味する。
これで決着済み。
430 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 14:51:28
>>406 >神武天皇が実在していた天皇なら、紀元前1世紀くらいの人物。
その根拠は日本書紀と古事記くらいだろう。
それも中途半端に信じ込んで、自分に都合よく操作した上の数字。
この記紀は、年代に関しては信用が全くないのさえご存知じゃない様だ。
信用がないのなら全く別の理論から類推するのが、学問的対応。
旧石器の捏造男の関わった遺跡は、すべて調査が無かった事にして調べ直すのが学問的対応。
100歳以上の長生きする天皇が、大昔の衛生観念や医療水準でゴロゴロいるはずがないだろうに。
即位年数だけでも怪しすぎるよ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
歴史日報では、そんな天皇を神武から今上にいたるまで全て網羅して略歴を紹介し
「天皇史」から日本史を学びます。
http://www.sakai11.jp/rr_rekidaitennou.htm
431 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 14:52:51
>>422 >あなたに深く追究学習する知恵があるとは思えん。
思う思わないは貴方の自由だからかまわんが
思わん理由をカキコし、証明の提出ぐらいはしたらどうだい。
同じ様な内容のコピペ繰り返してないで
それで 後漢書のガセ証明は出来たのかね? 話しはぐらかさずに 証明してくれよ お手並み拝見したいんだから。
それとも単なるハッタリか?
432 :
太国:2006/12/28(木) 14:53:17
太国さん
天皇一族の正当性を証明するべく発行された記紀で記事が無いのは当たり前のことかもしれん。
それとニギハヤヒ・神武とか知ってるのかな?
各豪族の代表が争うように島国である倭の中心、畿内に集まったんよ。
434 :
きのうのジョー:2006/12/28(木) 14:55:34
>>427 残念だが
>>427のレスは全然何が言いたいのか分からない。
とにかく「可」の字についてはあとで「広漢和辞典」で調べときますよ。
>>426 古事記のほうは、昔からの言い伝えを何の疑問ももたず、
淡々と書きうつしている。正確な年代も出さずに、干支没年みたいな
曖昧な数字しか書いてないから、あんまり改竄する必要が無い。
日本書紀は古事記と違って、外国の文献を多く多用して作成している。
日本書記の本来の目的が外国人に日本を主張する意味があったから。
年代も正確に出そうとしていたから、外国の記述と整合性がとれないと困るわけで。
そのために、日本書紀の編纂者は
卑弥呼の記述に対しても、過敏になったのだろう?
そんな女王は日本には居ませんでした!って...
で、神功皇后という 応神天皇の子供だった時代に執政をしていた
女性皇族に目が行きました。
仁徳天皇の在位期間を倍増させれば
この女性皇族を卑弥呼と時代だけでも一致させることが出来るから。
ちなみに、記紀によると、崇神天皇の叔母は、
卑弥呼よりも大分前の人間なので、改竄して合わせようがない。
でも、日本書紀の編纂者は、凄い勘違いをしていた。
古来の天皇の時代は、暦が違うから。そのことを全く考慮していませんでしたとw
よって、暦の違いを考慮せずに、神功皇后と卑弥呼を合わせるという暴挙に出たために
後世の歴史家たちが大混乱する羽目になりましたと。
>430
自分も神武が実在したのなら1世紀くらいの人物おもってるよ
437 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 14:57:51
>>413 >その後の天皇の寿命から考えて、世代間数がギュウギュウで無理があるんだよ。
俺の計算じゃ全くギュウギュウにはならん。
平均在位期間が約10年という前提だけで、あとは何も前提条件も何もつけてないのが俺の理論。
あなたは何か他の方の文章を丸写しして書いてんじゃないの?
普通それをカンニングというのだけどね。
俺なんかはそんな行動を毛嫌いするが、あなたの得意手かい?
439 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 15:00:47
大国へ
古代の人物に(カミもそうだが)、「またの名」が多くあったことは
キミも認めるだろう。「またの名」が、記紀の片方にしか
出ていないケースもある。
だとしたら、卑弥呼には「またの名」があったかもしれない、と
考えてみることは、けっして非常識ではないと思う。
卑弥呼は、記紀には「またの名」で登場しており、「ヒミコ」名の
ほうでは記載されてない可能性も、全くゼロとは言い切れないだろう。
440 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:01:01
>>417 >なんでいまさら九州説なんだ。30年前やないんだよ 疲れる
バカか!
マスコミの多数派が正しいとでも信じてるのかね。
神武天皇は紀元前1世紀か1世紀かくらいじゃないのか?
でも、最近は紀元前1世紀かな?と思っている。
442 :
太国:2006/12/28(木) 15:02:47
>>433 外出時間が近づいてきたので簡単に書くが、
畿内の隣国に卑弥呼の国があるんだから、記紀の記事に書かれて然るべき
である。書き漏らさなくてはならぬ利害甚大な理由など見あたらない。
だいたい太平洋戦争で日本が負けたことだって歴史の教科書に赤裸々に
書かれてある。負けて都合が悪いから歴史書に書かれぬはずはない。
数歩譲って負けが都合悪いならそこだけ抜かして、女王国の所在と
悪口を書いておけばいいことだ。しかし記載はない。
これは女王国が遠方の九州にあったことを物語っているのだ。
まもなく出かけるので、反論を書いておけば、帰宅してから応じるよ。
443 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 15:02:52
>>440 いろんな本読んで調べていくと畿内にいきつくはず!自分も初めは九州説を信じてた。
天照=卑弥呼 でもこれって違うんだよな
445 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:04:59
>>423 >記紀の天皇の記述や年代を細かく調査することを放棄してしまった
記述はともかく、年代が信用性がなければ、年代は全部捨てて考えるのが常識。
中途半端な人間の考え方も、半端な年代の取捨選択も下の下というべき。
>>442 記紀に書かれるべき事だが書けなかったが正解かな。
倭の女王が天皇一族じゃなかったなら書けないでしょ?
>>440 なんで邪馬台国時代にマスコミがでてくるんだ!馬鹿か?
>>444 自分もはじめは、九州説を信じていたw
でも、最近はほぼ畿内説で固まっている。
卑弥呼は、崇神天皇の叔母。
大和王権(邪馬台国)は、北九州に一大率を置いて
伊都国、奴国などを監視していた。
そんなさなか、九州南部の宇土(うと)半島で、
狗奴(くと)国が謀反を起こした。
記紀には、崇神天皇の時代、飢饉などの社会不安に乗じて
遠い地で、蛮族が反乱を起こして、大和王権の頭痛の種になったことが
記載されている。
449 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:14:32
どちらにせよ、ほぼ畿内説で決まりだな。
マスコミも考古学の権威も、それで一直線だ。
九州説がいくら叫ぼうが、今後、だめ出しになる
発見があるだろう。
こういう不毛な議論ははやく収束させて、次の研究をするべき。
451 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:18:51
>>425 >邪馬台国(邪馬壹國)は畿内にあった。もう決着済みのこと素人がほじくってるだけ
大昔の事が簡単に決着なんてつくか!
タイムマシンでもあればともかく、バカの妄想が永遠に続くもの。
記紀のいうことを全て信用してはいけない。
確かにそうだ。
しかしだ。
太国や恵也や安本のような21世紀の人間の憶測のほうが
もっと信用できない。
そういうことだよW
記紀の天皇が嘘っぱち!? しかしだ、
21世紀の太国や恵也や安本の迷走のほうが
もっと嘘っぱちだ。
453 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 15:22:30
恵也へ
キミも記紀の記述の不正確さを認めるわけか。
それならば天皇の平均在位年数などを計算して
論じること自体が、全く無意味ではないか。
というか、邪馬台国=畿内説が決定的になる発掘が
今後、10年以内にあるだろう。
ちなみに、狗奴国は、熊本の宇土半島以南にあった国。
>>448 うーん ほぼ言ってる事は正解だが・・。卑弥呼イコール、モモソ姫または地方豪族の娘で迷ってる。
前者では記紀で消す必要がないし、後者では巨大な墓が見つからない。
>>451 大昔のことは書類、研究結果などによってその時代がどうな風だったか
ある程度わかるんだよ。タイムマシンてあんた子供かい?w
>>455 自分も、モモソ姫か、別の皇族女性かで迷っている。
モモソ姫というのは、崇神天皇の大叔母で、
彼女の年齢から考えて、妊娠して陰部に箸を突き刺す事件なんて起こりにくい。
実は、崇神天皇の大叔母と叔母は非常に名前が似ている。
崇神天皇の叔母の年齢なら、妊娠して自殺する事件はありえる。
よって、初期の卑弥呼と後期の卑弥呼は別人じゃないか?と思う。
倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももひめのみこと)・崇神天皇の大叔母
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)・崇神天皇の叔母
>>452 452さんいいこというね(笑)
まあ調べていくと行き着くところは同じってとこか
>>454 狗奴国は畿内より南。てかどこかはまだ特定できておらず。
459 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:36:59
>>432 >超長寿は2倍暦等で解決済み。
2倍暦は証明された理論じゃなく、単なる仮説。
仮説で天皇の寿命を説明したら、少しは天皇の長寿命が現代人にも説明できそうだという
議論に負けた人間の、最後の中途半端なオナニーみたいなもの。
人間、アキラメが肝心だって習わなかったかい?
あなたみたいな中途半端なアキラメの悪い人間の事を「女の腐ったような奴」というのだよ。
そういえば徳島で、逃げた嫁さんを諦めきれずに追い掛け回して刺し殺して亭主が居たな。
あんな人間にならないように用心
>>458 狗奴国については、畿内よりも南だが
それが九州南部なのか、はたまた、別に地域かは分からない。
和歌山の熊野なんて、どうよ?とも思うし
名古屋周辺はどうよ?とも思う。
ただ狗奴(くと)国という名称から考えて
宇土半島だろう?と思ったわけで。
記紀の、遠い地の蛮族の謀反というのが、
九州南部の遠い地だろう?と考えてみた。
>>457 卑弥呼は170年頃〜248年頃迄?確かに長すぎる。
しかし、70〜80年男王立てたが服さず、共立されて卑弥呼が治めたんだから、
同じ一族のモモソ姫より他の豪族てことのほうがありえない?
まあここで悩んでるんだが・・
462 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:52:29
>>447 >なんで邪馬台国時代にマスコミがでてくるんだ!馬鹿か?
畿内説の連中がどんなにマスコミ操作術に長けてるのか知らないバカか?
古墳の周辺の溝の中から出た土器で、簡単にマスコミを使い築造年代をサカノボラセる
バカ専門家がなんと多いことか!
でかいスピーカを持ってるだけの、広報専門家とはいえても考古学専門家とはイエン。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
周辺の溝やその外側の堤状の盛土から出土している。古墳の周辺から、それよりも古い
時代の遺物が出土することはいくらでも有りうる。
従って、墳丘の外部から出土した土器類のみから古墳の築造年代を断定するのは危険である
http://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper21.html
463 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 15:54:36
戦国時代においても、畿内勢力の影響はほとんど九州には
およんでいない。
まして、関門海峡は大内氏が押さえていた。
畿内の銅鐸文化中心の民が、海を超えて関門海峡を制圧していたのか。
九州はそのころ、鉄剣・銅矛・銅剣文化の中心ですよ。
畿内説厨は、常識がないとは聞いていたが、ここまでとは知らなかった。
この当時の古代船はくり船が主で、まとまった船団はありません。
陸路は河川で寸断され、橋はかかっていない。
どうやって、九州に勢力を伸ばすのか、
>>461 それに関しては、今後の検討課題だな。
崇神の叔母って、大叔母のモモソ姫と違って
記述があんまり無いんだよね...
どちらも、「卑弥呼」と中国語圏の人に読み間違いされそうだから
そうかな?と思ったわけで。
>>461 >しかし、70〜80年男王立てたが服さず、共立されて卑弥呼が治めたんだから、
あと、この70〜80年というのも、二倍年暦だったとして計算しなきゃね。
だから、35〜40年くらいってね。
466 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 15:58:57
>>454 >それならば天皇の平均在位年数などを計算して
>論じること自体が、全く無意味ではないか。
確実に判る天皇の在位年数が第31代用明天皇ころからなんだよ。
そこからハシゴをかけて、神武天皇らの年代を類推するのが俺の説。
安本氏とは、それでも手法が少しは違うけどね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
即位、退位の時期などを歴史的事実として信頼できるのは、第31代用明天皇ごろから以後である。
用明天皇からあとの天皇の在位年数などは、『古事記』と『日本書紀』とでも一致している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/10nen.htm
>>465 そうか、そうかw
言われてみれば、そういうのも二倍年暦で
計算している可能性が高いなw
468 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 16:25:20
恵也へ
いや、そういう意味ではなく、用明天皇以前についての
安本氏の史料の扱い方や考え方が恣意的ではないか、ということ。
恵也は
>>449で
>記紀は西暦700年頃に、記憶やなくなった文献から適当に書いた書物なんだからね。
>400年前の事件をどれだけ正確に書けたことだろう。
と書いただろう。
用明天皇以前は、在位年数だけじゃなく、記紀記載の天皇系譜(=代数)そのものも
不正確で信用できない、という意味を込めて、恵也は書いたんじゃないのかね?
恵也 ◆o4NEPA8feAがいかに叫ぼうが
負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
邪馬台国=畿内説は
学界の権威・マスコミの間で主流になっている。
皆は記紀でいう日本書紀しかみてないのか。古事記読んでみな。
471 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 16:41:10
>>469 学界の権威が一番うさんくさい。
マスコミは戦前、軍部が企てた事変をいっせいに賛美した
張本人で、どっちにもころぶ。
このスレを見ていて、恵也さんが正しいとは思わないが、
胡散臭い学界の権威やマスコミに擦り寄っていない点は
評価している。
472 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 16:41:27
いいや、一番胡散臭い安本氏に拠って立ってるんじゃ台無しだな
石器の捏造をやった藤村は
学界の権威でも何でもなんくて
いわゆる安本氏と同じ愛好家だった...
学会の権威主義は問題。
しかし、それよりも問題なのは
考古学や歴史学を金儲けの道具とする自称専門家たち。
いわゆる考古学や歴史学は専門外の分野なのに
趣味だけで語る歴史愛好家たち。
石器捏造の藤村や平均在位説の安本がそれと同じ部類を人間。
476 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 16:58:43
>>474 学界の権威って、実際に何の根拠の権威ですか?
学歴か、論文か、人柄か、学界の派閥の長(オサ)か、
そんな人物が、未だ未解明の邪馬台国論議に結論づければ
それが正しいのか?
日本人の欠点のお上意識丸出しの批判はやめませんか?
477 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 17:08:12
>>461 >卑弥呼は170年頃〜248年頃迄?確かに長すぎる。
むしろ卑弥呼とは地位の名前だったんだろう。
日巫女の解釈を間違えてるのじゃないかね。
朝鮮の新羅本記に出てくる西暦173年の卑弥呼と、魏志倭人伝に出てくる西暦248年に死んだ
卑弥呼とは人間が別人で、地位が同じ指導者というべき。
今でさえ日本では天皇陛下のことを、個人名では呼ばない慣習がある。
昭和天皇の事を個人名のヒロヒトと呼んだりしたら、天皇を嫌いな人間と思われてしまうくらいだ。
478 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 17:19:55
>>468 >記紀記載の天皇系譜(=代数)そのものも不正確で信用できない、という意味を込めて、
>恵也は書いたんじゃないのかね?
そこまで疑ったら、神武天皇や天照大神までハシゴをかける手段がなくなってしまう。
俺の前提条件は記紀の年代記述は、信用ならない西暦600年ころ以前は年代無視。
信用が出来そうな31代用明天皇以降の時代から、過去にハシゴをかける手法。
天皇家の歴代の方たちまで、適当に省略したり、付け加えたりしたら死なれた歴代天皇に
対する不忠の臣に、記紀を書いたお役人はなってしまうよ。
無意味な年代を覚えるのは人間には難しいが、歴代の天皇名を覚えるのは以外と優しい。
正確に口伝で伝えれる可能性は十分ある。
479 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:22:28
>>477 >昭和天皇の事を個人名のヒロヒトと呼んだりしたら、天皇を嫌いな人間と思われてしまうくらいだ。
これはまったく恵也の言う通りだ。スレに参加してるみんなも異存はないだろうよ。
恵也も、時にはこんな鋭い分析ができるんだから、もちょっと古代史でも・・・・(w
480 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:42:47
>>478 >そこまで疑ったら、神武天皇や天照大神までハシゴをかける手段がなくなってしまう。
「ハシゴをかける」という表現に、恵也や安本氏のみならず、
倍暦論者たちのホンネ、というか、願望が、如実に現れていると思う。
願望で無理にハシゴをかける必要はなかろう。
そんなことで実年代を算出しても、「願望の実年代」でしかない。
流れが感情的になって来てますが、畿内か九州かは私からすればどちらももっともに聞こえます。
それぞれの説を支持している皆さんはずばり何県辺りが怪しいとお考えですか?
学校ではどんな形で教えてる?邪馬台国ね
安本氏の平均在位説は、卑弥呼を天照大神に無理やり
関連付けするために、導き出そうという手法だろう?
だから、あんな可笑しな結果になる。
最初から、自分たちの願望があって、そこへ無理やり
摺り寄せようとするから、無茶苦茶な年代になる。
はやく、あういうカルトは葬り去るべし。
そりゃ奈良県でしょう 三輪山付近
とにかく、安本氏の学説は
学会では、殆ど相手にされていないから、それが幸いだ。
ほとんど、カルト扱いになっている。
少し前ならPCソフトの誤差が出まくりの皆既日食を元に
無理やり、アマテラス=卑弥呼論をぶちまけていた。
でも、それは間違いだった。安本氏はどうするんだ?
486 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:56:37
安本やるなら古田みたいに別スレ立てろや ボケがっ
487 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:19:28
>>482 >学校ではどんな形で教えてる?邪馬台国ね
邪馬台国の記述部分をウエブで公開してる教科書、ひとつだけ知ってます。
今からリンク調べて、20分後ぐらいにレスしますね。
でも、全然大したことなかったと思うよ。期待しないで。
489 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 19:04:02
お待たせ。リンクみつけました。
つくる会(新しい歴史教科書をつくる会)編の『新しい歴史教科書』(扶桑社発行)です。
中学校社会科用。下にリンクしたのは、昨年度までの版のようです。
ご承知のように、つくる会には批判矢の如し、採択率も最低ですが、
教科書の中身半分をウエブ公開してるのは、なかなかよろしい。(笑)
http://www.tsukurukai.com/05_rekisi_text/rekisitext_index.html# 第1章原始と古代の日本 >2.古代国家の形成 >東アジアの中の日本 に、
「邪馬台国と卑弥呼」が出ています。クリックしてみてください。
赤い◇は、本文とは別囲いのコラムで、「神武天皇の東征伝承」とか、
「日本武尊と弟橘媛」とかがあり、つくる会ならではのもの、ですね。
490 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 19:42:58
>>485 反安本でも構わんが、具体的、理性的に書けないのか?
逆に、お前がイタイ。反論できずに泣き叫んでいるように見えるぞww
>>489 489さん ありがとう
新しい教科書には神武東征や日本神話も載っててびっくりです。
私が子供のころは習っていない。ほかのみなさんもそうではないですか?
492 :
489:2006/12/28(木) 20:19:40
>>491 つくる会の教科書だけの特徴でしょう。びっくりしなくても…。
他社の教科書はおそらく以前と大差は無く、神武東征や日本神話などは、
決して載せてないと思います。
神話も神話として時系列順に載せるべきだよな
494 :
太国:2006/12/28(木) 20:29:35
>>423 無理やり一致したとかいうのは勝手な結論。神功39年の記述は、そのころ
九州に女王国があったことを把握した編者側が確信をもって挿入した記事。
卑弥呼が崇神の叔母なら、倭人伝の記述は女王国でなく天皇国とかいう国名で
男子が神道をやっていたとかいう記述になるに決まっている。女王国などと
いう記述の仕方にはなりっこない。w
495 :
太国:2006/12/28(木) 20:33:27
>>428 崇神の叔母が卑弥呼ならば、なぜ倭人伝は女王国のとなりに天皇国があると
いうような記載をしなかったのか? おかしいではないか?w
496 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 20:34:38
>>489 神武東征やヤマトタケルもあるが、コラムには「出土品から歴史を探る」で
考古学の重要性や、科学的な年代測定のことにも触れている。
あんがい、良い教科書ではないか、とも思われ。
497 :
太国:2006/12/28(木) 20:47:26
>>435 紀の編者側が苦労したことは十分言える。
紀の欽明2年3月の文
「今は古今を考えあなぐりてその眞正に帰す。」
とあり、勝手に卑弥呼と神功皇后とを合わせるとかいう暴挙とはこの言葉と違う。
つまりだ、神功39年の記述は伊達の文ではなく、その時代に卑弥呼が九州に
いたという確信文面であり、これを他の時代に移動させることは許されない。
498 :
太国:2006/12/28(木) 20:49:33
>>439 またの名は何というんだ?w 勝手に決めんなよ。鬼面なよか〜?w
499 :
太国:2006/12/28(木) 20:52:16
>>446 いや〜書けるよ。評判よくない武烈天皇の悪事だって書いているんだよ。
500 :
太国:2006/12/28(木) 20:54:59
>>448 卑弥呼が崇神の叔母なら倭人伝に、女王国というより天皇国とかで記述が
なされる。だいたい卑弥呼は崇神の世の人物ではない。神功のころだ。
501 :
太国:2006/12/28(木) 20:58:05
>>450 九州で決着はついている。臥海やマスコミの虎の威を借りるということは
王より飛車、竜王を可愛がる君のたくらみだ。ww
そろそろ邪馬台国問題解決しよう 皆あつまれ
503 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 21:03:45
プラムさんと、きのうのジョーさんのやり取りですが、
「戸数や道のりは簡単に記載」の文に対して、得可キ。又は、得可カラズ。
と掛かるんだから、「可」一文字の意味だけ追及しても、全く意味を成しません。
>>500 卑弥呼が神功の時代の人いう根拠をのべよ
505 :
太国:2006/12/28(木) 21:04:09
>>452 あんたは王より飛車を可愛がる人間。紀力はつかないぞ。ww
>>503 それはどこの記事ですかね?もっと詳しくかいてください
507 :
太国:2006/12/28(木) 21:08:21
508 :
太国:2006/12/28(木) 21:11:02
>>459 あんたの10年説はデタラメノ極致。仮説どころか妄説。ww
きみはずいぶん前の記事みてるのかww
510 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 21:20:57
503続き
そして、略載とは、要点に略して載せる事が出来る、のであり、いわゆる、戸数、道のり、であり、伊都国や、奴国等です。
倭人伝は正史なのだから、プラムさんが言うように、「省いて載せる」わけにはいきません。
省く、ことが出来るのは、読む側にも周知の事実であってこそ出来る事。
倭人伝がその様な存在だった事は考え難い。
511 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 21:23:30
>>483 >最初から、自分たちの願望があって、そこへ無理やり
>摺り寄せようとするから、無茶苦茶な年代になる。
アンタね、数学的理解力は皆無じゃないの?
数学は落第点で苦労した方でしょう。
その点、俺は数学では点数が良くて、楽して稼がせてもらった方だ。
安本氏も統計学では、高校時代から齧りはじめた天才的な人間。
あなたに理解できないからと、人の悪口言うのは止めときなさい、みっともない!
あなたじゃ、高校時代からの統計学への興味なんて全く持てないのじゃないかな。
丸暗記する受験勉強で精一杯だろう。
俺の眼から見ても、安本氏の統計学は「本物の役に立つ」学問だよ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
高等学校の先生が、ひとつのしっかりとした専攻をもつ学者で、その分野で活躍して
おられる方であるということは、ひとつの刺激であった。
この刺激は、第二の転機をもたらした。入試の勉強に追われながら、私は、むさぼる
ような気持で、推計学(推測統計学)の本を読んだ。
http://yamatai.cside.com/yasumoto/watasi.htm
512 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 21:27:21
>>484 >少し前ならPCソフトの誤差が出まくりの皆既日食を元に
日時の誤差が出るにしても、皆既日食がその頃に九州であったのは事実でしょう。
だからこそ天照大神が洞窟に隠れた神話が生まれたんだぜ。
恵也 ◆o4NEPA8feA、太国が何を叫ぼうが
マスコミや学会の畿内説で決定の流れを止められない。
恵也の統計学の無知ぶりは、放置しておけ。
素人を騙す数学的理論にはウンザリ。
>>512 いや、だからさw、その頃
九州では皆既日食は観測されなかったんだよw
NASAのページをいって、みてみいw
誤差があったら、全く皆既日食は見えないw
縄文時代は東北が栄え、弥生は外交からか九州が栄え、古墳時代はヤマトだよね?
弥生後期の邪馬台国は畿内できまり!意見ある人は遠慮せずいってね!
>>512 日時の誤差じゃなくてw
皆既日食の見える経路があって、それに誤差があったのなら
その時代、全く皆既日食は、日本では観測されてないw
たしか、その時代、皆既日食が観測された場所は
海の上か中国だったはずw
安本氏も、皆既日食が
その時代、観測されなかったことを知って
それがPCソフトの誤差を考慮しない結果だと知って
たしか、ばつの悪い思いをしているはずw
>>515 きみは、卑弥呼時代の天皇は誰だと思う?
前に海部氏の系図を持ち出していたように思うが...
でも、あれだと年代が合わないし、
また、別サイトだと、あれは系図に明らかに
無理がある改竄が見られていたと思う。
邪馬台国の遺蹟なり墓なり発掘されないかな。
案外すでに発掘されていて、他の集落や他人の墓と認定されていたりして。
520 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 21:45:06
>>485 安本説は、疑問な点もあるが、理に適った事も言っている。
寧ろ畿内説の学者の方が、物の怪のような論を持ち出すようだ。
皆既日食のエピソードは、何も卑弥呼と同時代と考えなくとも十分説明できる。
例えば、ハルマゲドンの発想は、隕石の衝突が、人々の記憶に、まだ残っている時、
ある一定の地域の伝説となり、それが旧約聖書にとりこまれたという説もある。
卑弥呼の記憶と、皆既日食の記憶が結びついて、アマテラスの天岩戸の話が作られた
としても不思議ではない。
>>520 皆既日食って、ほんの数分の出来事が
あんなふうに神話になるのか?
それに、卑弥呼の時代に、皆既日食が観測されなかったのは
確かなんだから、その時点で安本氏の説は
そこで既に破綻してしまっている。
卑弥呼時代はちょうど欠史8代の時と重なる。
年代は古事記の「祟神318年即位」とみて、卑弥呼が活躍したのは
天皇家5〜7代目くらいかな。
勘注系図は無視できない。
よって、卑弥呼は地方豪族の娘が妥当!地方といえどもあのニギハヤヒ系の娘だ。
十分ありえる話。まあ、ももそ姫も外せないが・・
523 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 21:56:29
安本さんの西日本新聞の掲載記事で、こういうのがある。
「有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
木槨木棺墓の畿内は該当しない」
この時代北部九州は、甕棺墓の全盛期であり、棺をそのまま埋めていた。
畿内は、ホケノ山古墳も、木槨木棺墓。ここを邪馬台国と位置づけていた畿内説
の学者はいなかったのかな?
524 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 21:56:37
>>522 崇神天皇の没年は258年。
きみとは畿内説では意見が合うが、崇神天皇の没年に関しては意見は合わない。
ちなみに、畿内で古墳に埴輪が出没するのは3世紀後半からだが
記紀には、垂仁天皇が、古墳に生きている人を殉死のために埋めるのを禁止して
代わりに埴輪を埋めることにしたと記載があり、ぴったりと合う。
崇神天皇の没年が258年、垂仁天皇の没年が314年。
>>524 神武から現在の今上まで、万世一系をひそかに信じる人多いと思いますよ。
ありえない話ではないから
>>523 :九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 21:56:29
>安本さんの西日本新聞の掲載記事で、こういうのがある。
>「有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
>木槨木棺墓の畿内は該当しない」
だからさ、魏志倭人伝の作者は、北九州どまりだったんじゃないのか?
彼は邪馬台国の本部までは行っていない。
だから、倭人伝の作者は、北九州しか見てなかったように思う。
>>524 そういう憶測でものを考えない。
だから、九州説の人間は馬鹿にされ
今日は学会やマスコミからも相手にされない。
529 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:05:57
日食はほんの数分の出来事であるが、人間は恐怖におちいると、その時間がとてつもなく長くかんじられる。例えば、
救急車を呼んだときの時間の長さや、ハワイで飛行機の屋根がとばされあわやというときある乗客はほんの数分だったが
、何時間にもかんじられたといっていた。
神功皇后の元年に和歌山で日食があったが、それは何日間もという表現になっている。
ちなみにこの和歌山県御坊市の日食はAD201年に起こり、神功皇后の元年(201ねん)のこととなっている。
畿内にある邪馬台国王権は、
北九州に一大率を設置していました。
そこで、九州諸国を監視下においていた。
ちなみに、魏志倭人伝の作者は、邪馬台国まで直接は行っていません。
彼が直接訪問したのは、北九州までです。
神武・崇神・応神 神功 なぜ『神』のつく贈り名を与えたのか
卑弥呼との関係は?!
532 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 22:08:30
>>521 当時は稲作の出来不出来が、人の命を左右する時代。
太陽信仰は、その象徴的存在であり、卑弥呼は日の巫女という説もある。
その太陽に異変が起きた事はゆゆしきことである。さらに、
「それに、卑弥呼の時代に、皆既日食が観測されなかった」と言うのは
はっきりしていない。学者によって違う。結論が出ていない。
533 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 22:08:55
>>529 みな古事記は読まずなぜ日本書紀ばかり読む?!
明らかに古事記と日本書紀では年代があわない。
>>531 何か象徴的なことをしたからじゃない?
その贈り名は、日本書紀の編纂者がつけた名だから
その当時の価値観が働いていると思う。
神武天皇は、現在の王統の最初の天皇。
崇神天皇は、祭祀都市マキムクを作ったり、
前方後円墳の魁だったり、アマテラスを宮中から出して
伊勢神宮に祭ったり、また初めて全国の戸籍をとろうとしたりして
日本全国の統制力を強めようとした天皇。
神功皇后や応神天皇は、本格的な初めての海外進出を果たした天皇で、
また、崇神までの祭祀体制から、軍事的な体制へ舵を切った天皇。
537 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 22:14:29
>>503 >プラムさんと、きのうのジョーさんのやり取りですが、
「戸数や道のりは簡単に記載」の文に対して、得可キ。又は、得可カラズ。
と掛かるんだから、「可」一文字の意味だけ追及しても、全く意味を成しません。
『可』の文字を理解していないから 読み下し馬鹿に拘るんだよ(受験漢文とは違う古代漢文だよ)
(戸数、道里、可)でワンセット
先に記載したものを、改めてここでまた「記載することができる」等と念押しする馬鹿な編纂者はいない
第一、私が言い出すまで「可」一字にこだわりを持ったことが今までありましたか?
>>532 天文板で聞いたら、一笑されたww
あれは、PCソフトの結果で、まあ普通に
皆既日食は観測されなかっただろう?どう考えてもwだってww
>>533 4人の候補車がいるが誰も当てはまらないのでは?!
年代も作者の都合に無理やり当てはめてるみたいだし
540 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 22:18:58
>>527 この文章は、理が通っていない。、魏志倭人伝の作者は、北九州どまりだったとしても、
「有棺無槨 棺あって槨無し」と記している以上畿内もまたそうであるべきなのに違っている。
つまり、畿内は邪馬台国ではないか、もしくは、木槨木棺墓の古墳などは、
時代の下った、邪馬台国時代のものではないかのいずれかである。
541 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 22:21:19
>>503 >「戸数や道のりは簡単に記載」
簡単に記載したと意訳した以上、詳しく説明した個所は用意されているのかな?
簡単に記載と書かれた以上、読者は必ず詳しく書かれたものを追求するもんだよ
さあ何処?
542 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 22:23:30
>>530 >魏志倭人伝の作者は、邪馬台国まで直接は行っていません。
>彼が直接訪問したのは、北九州までです。
魏志倭人伝の作者:陳寿は日本にさえ来た事ないでしょう。
しかし魏からの使節団は邪馬台国まで行ってます。
行かなければ「邪馬台国が上海(会稽)のちょうど東だ」なんて星の観測もしないで書けはしない。
それに長い旅行時間がなければ、当時の日本人の生活習慣や、植物、動物に観察するチャンスがない。
だから使節団は行ってると思われる。
−−−−−(引用開始)−−−−−
この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
・・・・・・・・・・
稲と麻など繊維をとる植物を栽培したり、蚕をに桑を与えて糸を紡いで、絹糸や綿糸
などを作る。牛、馬、虎、豹、羊、鵲などはいない。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
このスレ、凄い喧嘩になっているなw
まあ、もうじき、この邪馬台国論争は終止符が打たれるよ。
何故かとは言えないが...
まあ、畿内説でほぼ終止符がうたれる。
九州説は事実上のノックアウト。
崇神天皇については、3世紀初期〜3世紀中期の人だ。
544 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:26:49
>>540 九州ですが氏は、木槨を使用した弥生〜古墳期の墓を、いくつ知ってる?
>>542 中国の軍人が見学に行ったのは
畿内王権の狗奴国(宇土半島)攻め。
邪馬台国は一大率を設置していたのが分かっている。
まあ、大和王権の九州探題みたいなのに
行ったということだな。
546 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 22:28:00
>>537先に記載したものを、改めてここでまた「記載することができる」等と念押しする
念を押したのではありません。「記載することができるが」の文の前に、
このように と言う文が略されているんです。つまり、後の追加説明になっている。
勿論このように、とは、その前の文、伊都国などの、戸数、距離、などを指します。
どうやら邪馬台国の時代は天照・素戔鳴〜祟神までで間違いなさそうだな
>>543 意地悪しないで、何故なのか言ってくださいよ。
俺以外の人みな指摘されるよね
おれは絡みづらいのかい
>>548 俺も543さんと同じ意見だ。
調べて最後に行き着くところはそうなるんだよ
551 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:34:04
>>547 天照大神は邪馬台国時代だが
須佐の王は委奴面土国の時代
552 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:34:28
まあな、漏れは元々宇佐説だったがどうも畿内の方が
分があるように感じてきた。
崇神が3世紀前後はほぼ決定みたいだし、そうなると
チャイニーズの勘違いという見方の方が自然だべさ
553 :
太国:2006/12/28(木) 22:36:04
>>504 根拠はもう述べたではないか。もっと言及すれば、先述のとおり
紀には天皇に関して不名誉な記録が書かれている。武烈天皇の超不良行為は
かなり具体的に紀に記述がある。ずっとさかのぼれば、アマテラスの弟の
スサノオの乱暴もちゃんと書かれてある。
さらに紀の欽明2年3月に
>>497のとおり実に真正を重視しているかが分かる。
それに紀は神功から應神、仁徳世の記述になってから、いままで記録の月日
まで記載していたところ、急に月までに止めて日数までの記事がえらく少なく
なって来ている。これはここのへんから外国の古文献が多く存在していたらしく
照合がうまく行かないことでえらく苦労をしたからであり、完全に日数まで
書いたら誤記になろうと恐れたためで、失敗を回避するために日の記載を
あきらめ月までの記述で辛抱したということである。
神功39年の記述は年までしか決めておらず書かれていないことは、用心に
用心を重ねたわけであり、その連なりで景初3年6月とここでは月までの
書き方がある。日まで書かないということは、逆にこの年数の信用性を増し、
編者らが卑弥呼と神功を無理に合わせようといたものではない。そうなら
日まで書く位やってもいいはずだ。舎人親王が文書偽造に関与していない
ことが日の書き損じで認容できうる。
ということは神功39年の記載は充分信用できるもので、不動と観てよいのだ。
554 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:36:21
でもそうすると卑弥呼って畿内の誰なのかってことになるだべさ。
それとも卑弥呼は畿内王権の宇佐出張所の誰かか?
そういう考えも捨てがたいべあ
>>551 その二人は同じ時代に生きた人だよ
天照の若いとき素戔鳴はお爺さんだけどね
>>552 あはは 同じだ!最近まで宇佐説とってたが少し無理があるんだよね
祟神は4世紀じゃないの?
557 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 22:40:10
>>546 >念を押したのではありません。「記載することができるが」の文の前に、
このように と言う文が略されているんです。つまり、後の追加説明になっている。
勿論このように、とは、その前の文、伊都国などの、戸数、距離、などを指します
それはへんですね〜
対馬も壱岐も奴も不彌も 戸数や道里だけではなく規模もカキコされているのに
陳寿はそれを無視したのですか?
九州さんの解釈だと戸数と道里だけですよね?
558 :
太国:2006/12/28(木) 22:40:39
>>513 止める止められないは女王国の位置に無関係であ〜る。
畿内に女王国があれば、外様の大陸の倭人伝より以上に親藩の日本の記紀に
卑弥呼の国の全容が記事として載るわ。w
559 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 22:40:42
>>541それは最初に気がつくところ。
「自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」
自女三國 が、餘旁國 に対応し、
以北 が、遠絶 に対応し、
可得略載{かとくりゃくさい} が、遠絶不可得詳{おんぜつふかとくしょう} に対応します。
>>556 考古学的に見たら、垂仁が3世紀後半の人物。
記紀に、垂仁が古墳に埴輪を埋め始めた天皇だと記載されているが
ちょうど、畿内の古墳に埴輪が見つかるのが
3世紀後半のこと。
よって、崇神天皇は3世紀前半の人物。
実際、年輪年代測定法では、3世紀に飢饉が起こったことがわかっているが
それも崇神5年の飢饉と、祭祀政治・マキムクの建設と結びつく。
561 :
太国:2006/12/28(木) 22:43:18
>>522 まったく重ならない。卑弥呼は神功の前後の時代の人。
熊野大社や伊勢神宮あたりに卑弥呼が祭りを司っていた。
・・・というのはないか。
563 :
太国:2006/12/28(木) 22:46:01
>>524 それはとんでもない大間違いだ。
あんたに天下をあげるぞと招請がきてるのに、上の天皇の悪口を書くわけが
ない。
564 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:47:10
卑弥呼、豊・・・
これはどうみても豊国とおもっちゃうだべさ。
565 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 22:47:35
>>557九州さんの解釈だと戸数と道里だけですよね?
とは言ってないでしょう。
「戸数、距離、などを指します。」
のように「など」と入れています。
566 :
太国:2006/12/28(木) 22:48:38
>>525 拙者は 崇神崩御259年 の計算です。
567 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 22:48:55
>>546 で? 戸数・距離を記載できるが略された地域ってなに?
>>562 アマテラスを伊勢に最初に祭ったのは
崇神のときで、崇神の娘が初代斎宮。
570 :
太国:2006/12/28(木) 22:51:28
>>533 まったく卑弥呼とアマテラスとは時代の断層があり、別人であ〜る。
571 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:52:51
天テラスは新しい神で元々は
出雲のタカムスビノカミの子孫だろ
天テラス
572 :
太国:2006/12/28(木) 22:57:08
>>543 女王国はもう九州に本決まり。記紀に女王国の畿内での活動の記録はない。
573 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:59:04
どっちにしても九州説と畿内説が融合しつつあると思う。
アンポンタンのアホな妄想はヨソにw
574 :
太国:2006/12/28(木) 23:02:59
>>560 2倍暦等の算出で
崇神即位 237年 同崩御 259年
垂仁即位 260年 同崩御 292年
となりました。ほぼ一致します。 お見事。
>>569 崇神の娘が壱与で卑弥呼が祭りを司った場所に伊勢神宮が・・・
ごめんなさいただの妄想です。
576 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 23:05:38
>>567で? 戸数・距離を記載できるが略された地域ってなに?
前にも説明したはずですが、略というのは、「地域」に掛かっているのではなく、
略して記載する国の概要に掛かっています。
略載、{略して記載する}。略とは、{要・略・広}の略、であり、
さわりとでも言いましょうか、要点です。だから、言い換えると、簡単に記載する。
と約されるのです。
577 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 23:05:40
>>565 >とは言ってないでしょう。
「戸数、距離、などを指します。」
のように「など」と入れています。
で?「など」とはどの部分かな?
578 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 23:12:28
>>576 >簡単に記載する。
と約されるのです。
だから、簡単に記載すると書かれたのだから
そこには必ず 簡単に記載されたものと 詳しく書かれたものが存在するだろう?
だから、それらはなに?
「自女三國」は解ったから「自女王國」の場合はどうなのよ?
579 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:12:55
>>555 唐書だと天照大神の前がスサノヲになっている
つまり卑弥呼共立前の男王の時代
天照大神の次世代のニニギと大国主8世が同世代ということからして
スサノヲ=帥升
天照大神と同世代の須佐の王は7代目あたりか?
580 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 23:14:12
>>577 広義においては、伊都国の例で言うと、
「陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。官を爾支といい、
副官を泄謨觚・柄渠觚(せもこ・へここ)という。千戸余りある。代々王がいるが、
みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する」
まで入るでしょう。「遠くにあるため、詳しく述べる事が出来ない」の逆といえます。
581 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 23:19:46
>>559 >「自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」
自女三國 が、餘旁國 に対応し、
以北 が、遠絶 に対応し、
可得略載{かとくりゃくさい} が、遠絶不可得詳{おんぜつふかとくしょう} に対応します。
でも九州ですがさんは賢い
「自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」
これを理解するのに私は三年掛かりました
「自女王國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」
これは一年ほどだっったが
>>579 唐書て日本歴代の王がのってるやつですか?
たしか、初代 天御中主尊・・・・イザナキ、素戔鳴、天照大神、て載ってたような。
何かの本にその天照は「ニギハヤヒ」のことは指すて書いてあったような・・
記憶が定かではありません・・調べたほうがいいでしょう
583 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 23:26:04
>>580 >広義においては、伊都国の例で言うと、
「陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。官を爾支といい、
副官を泄謨觚・柄渠觚(せもこ・へここ)という。千戸余りある。代々王がいるが、
みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する」
まで入るでしょう。「遠くにあるため、詳しく述べる事が出来ない」の逆といえます。
で? 伊都國以外は遠くにある為そこまでは詳しく書けないのかな?
584 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 23:27:48
>>581 プラムさんは努力家です。
正月休みに、プラムさんが言われた漢文に挑戦したいと思いますが、
一番簡単そうなのにしたいです。
>>544 >九州ですが氏は、木槨を使用した弥生〜古墳期の墓を、いくつ知ってる?
答えがない。どうしてだ?
587 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 23:32:28
>>584 後は、それぞれにクニの事情が詳しく書かれているのところは、
女王国とはそう離れてないと思って差し支えないと思います。
588 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 23:34:53
589 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/28(木) 23:37:55
>>583 申し訳ありませんが、明日も仕事ですので、
又明日、お手合わせをお願い申し上げます。
>>566 その話は聞いたことある。自分も疑問におもってた。
でもそれだと無理がありませんか?
台与が祟神より後の人だとは思わないし、大和朝廷は祟神から考えてる。
591 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 23:45:34
>>559 >「自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」
自女三國 が、餘旁國 に対応し、
以北 が、遠絶 に対応し、
可得略載{かとくりゃくさい} が、遠絶不可得詳{おんぜつふかとくしょう} に対応します。
九州さん
「其余旁國」の「其」は「自女王(三)國以北」に掛かります。
旁國とは 遠絶(国交のない)地域
「自女王國」が理解できないと絶対に「自女三國」は理解できません。
自女王國の難易度を (1)とした場合、自女三國の難易度は (100)です。
正月休に最適な漢籍は「後漢書の韓傳と倭傳」です。
これが理解出きれば卑弥呼の謎は解けますよ。
>>587 それは間違うとおもいますよ。
はい、畿内支持派です。
593 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/28(木) 23:52:15
>>587 >後は、それぞれにクニの事情が詳しく書かれているのところは、
女王国とはそう離れてないと思って差し支えないと思います。
主観を述べることはやめよう
たった一言の主観発言が、今まで述べてきた全てを台無しにすよ。
594 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/28(木) 23:52:37
595 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:52:59
昼寝してたら、もう夜だ。邪馬台国は、どこかと考えて宮崎とすると、
21か国と狗奴国の場所がなくなる。でも、日本の伝承では宮崎が
天孫降臨の場所。邪馬台国にふさわしい。
で21か国がどこかとみると、邪馬台国の北以外とあるので、南にしてきた。
でも、邪馬台国は、倭国の最南端。その南に国はない。魏志で矛盾を
おこしてる。そこで、以北略載の記事は、陳寿が誤解して加筆したとして
21か国を邪馬台国の北にすると、従来の矛盾が消える。端的に言うと
奴国重出。もとに戻ってきたとする。さらに、博多の南に狗奴国と
うまくおさまる。距離も陸行1月=75km=水行10日で、あう。
21か国を邪馬台国の南とすることは、かまわない。事実、そう書いて
ある。でも、そうすると、邪馬台国がみつからない。つまり、いままでの
論争がそれを証明している。だから、ここで視点を変えて21か国を
北において読んでみるといいということ。邪馬台国論争は、岡本健一さん
のがいいですよ。佐伯さんのとかは、レベルひくい。
596 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/29(金) 00:00:04
>>548 >意地悪しないで、何故なのか言ってくださいよ。
これは意地悪じゃありません。
結論だけがすべての単細胞に過ぎない。
アメーバを人間扱いしても答えてはもらえないよ!
597 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:01:06
>>595は、宮崎説ぽいけど、その論は大きな矛盾をはらんでいるよ。
ひとつは女王連邦のど真ん中に狗奴国が出現する点。
もうひとつは視点を変えて北において読むということは、
松浦(末廬)→糸島(伊都)を東南と間違っていることをたてに
やっぱり南と東を間違えたという畿内説の突破口を作ってあげてしまうという点だ。
598 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:03:38
畿内説を裏付ける地図もあったなそういえば
日本列島の一番北に伊都国、松浦がる
バカなチャイニーズの地図w
599 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/29(金) 00:12:58
>>563 >あんたに天下をあげるぞと招請がきてるのに
文章の表面しか見れない馬鹿タレ。
建前と本音の世界を知らない世間知らずか、お前は!
安倍晋三氏が総理になった時にさえ、安倍派の連中が担いで運動したけど
派の人間の一部の言動を大袈裟に文章を残せば、同じような記述になるのが
判らんのかね。
権力者は針小棒大に記録を残す事で、歴史を改竄してんだよ。
それをそのまま信じてしまうとは、幼稚園児並みの世間知らず!
600 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/29(金) 00:20:56
>>587 >女王国とはそう離れてないと思って差し支えないと思います。
間違い!
女王国に行くときに通過した国だから、直接に使節団が相手の国から見聞きした証拠。
マトメて書いた21カ国は最後の奴国を除いて、邪馬台国の役人からの又聞き。
601 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:22:46
>>582 スマソ 唐書× 宋史日本伝の間違いでした。
初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、
其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。
次は天八重雲尊。 次は天彌聞尊。 次は天忍勝尊。 次は贍波尊。
次は萬魂尊。 次は利利魂尊。 次は國狭槌尊。 次は角魂尊。
次は汲津丹尊。 次は面垂見尊。 次は國常立尊。 次は天鑑尊。
次は天萬尊。 次は沫名杵尊。 次は伊弉諾尊。 次は素戔烏尊。
次は天照大神尊。 次は正(哉)吾勝速日天押穂耳尊。 次は天彦尊。
次は炎尊。 次は彦瀲尊。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
602 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/29(金) 00:42:16
>>600女王国に行くときに通過した国だから、直接に使節団が相手の国から見聞きした証拠
僕も前から何度もそう言ってるでしょう。さてはレス見てなかったな。
ここはおんなじいけんです。
603 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:43:47
604 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 02:03:40
>>601 宋史日本伝というのは始めて聞いたけど、かなかな面白い。
西暦1000年頃できたのだろうか。
家畜に、水牛・らくだ・羊あり、サイ、象が多いというのはどこかと
間違っているなあ。
しかし、歴代天皇については正しいようだ。問題は日向三代より前。
「尊」を使っているから日本書記から引用したのかと思ったけど、
どうも違うらしい。伊弉諾尊、素戔烏尊、天照大神尊、吾勝速日天押穂耳尊
などは日本書紀と同じ文字を使っているけれども、日向三代はかなり異なる。
とくに、神武天皇の父親のウガヤフキアエズノミコトは彦瀲尊となっていて
かなり変。また、日本書紀にはいない神様が多数登場する。
神武天皇の「即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。」
と書かれているが、周の僖王は紀元前681年から紀元前667年の人物。
これもどこから出てきたのやら。
仲哀天皇を「鎮國香椎大神」というのもなんか意味ありげ。
とにかく、出典が何なのだろう。
うむ ひさびさにみた
>>604 神武天皇の即位元年の干支に関しては
もしかして真実かもね。
ただし、その時代にあっても、過去に倍年暦だったことが
忘れ去られていたのかもね。
神武天皇の即位年が周王の時だと、すんなり言っているし...
あと、仲哀天皇に関しては、悲劇の天皇というイメージが
その頃、出来上がってたんだろうね。
応神天皇の出生に関しては、倍年暦で見たら
仲哀天皇の死後、6ヶ月での出生だから、別に不思議ではないが、
当時は、過去に倍年暦だったことが忘れ去られていたわけだから
疑惑の目で見られていた。
607 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/29(金) 07:47:05
倭人からの見聞なら「倭人日」
これ、常識
608 :
太国:2006/12/29(金) 07:56:41
>>590 どういう無理があると言うんだ?
壱与は神武以後の人物。君は舎人親王らの文を信じないのならば、陳寿も
信じないとはならんのか?w いつも片方のみ信じられないか?ww
609 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 08:21:37
狗奴国は、熊本中心の西九州。卑弥呼連合は、東九州と北部九州の逆L字形。
熊本囲むように対立していた。真ん中に狗奴国をおくのではないですよ。
文献にはないけど、熊本は、呉から技術取り入れた可能性がある。だから、
強かった。
あと21か国を邪馬台国の北にするのは、自説に都合がいいからだけではなく、
魏志にある意味書いてあるからです。郡から邪馬台国まで12000里。
倭は端から端まで5000里。つまり、邪馬台国は倭の端にある。だから
21か国は、南でははみだすのです。魏志で矛盾起こしてる。魏志の
どちらかを信じるかの問題。ここらへんは、岩波文庫の25ページの図が
解りやすい。邪馬台国論争の本で、こういう図がない。
あと、海は、方位間違えにくい。でも、距離は計りにくい。陸では、
道がまがりくねってるので方位まちがえやすい。でも、歩数かぞえるとかで
距離は測りやすい。これを逆に利用して、水行は、距離は正しいけど、
方位を間違えたとするのは、どうですか?水行20日も日がのぼる
のを20回みて、これは南に間違いないと記述するだろうか。
魏志倭人伝の種本は魏略で、
魏志倭人伝の記述が怪しいのは、仕方が無いらしいな。
よく、後漢書とか、後漢書時代のことを書いているみたいだけど
実は書かれたのは、ずっと後で、倭の五王の時代よりも後だったとか...
611 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 09:22:11
>>604 出典は「王年代紀」
日向三代の名前については日本書紀をよく見るべし
甲寅は神武東征出発の年
仲哀は香椎宮の祭神
612 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:02:44
>>609 倭人伝の鵜呑みはやめとけ。10日、20日、一月。
キリが良すぎ。
嘘くさい。ただ単に、原始倭人の単位かもしれん。
613 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/29(金) 10:03:46
>>610 >魏志倭人伝の種本は魏略
そうであることの証明してくれ
>>613 証明してくれって...
魏志倭人伝には、魏略からの引用って
書いてあるじゃんかw
記紀にしても魏志倭人伝 も完璧な物ではないな。
記紀は7世紀後半から八世紀前半の物で時がたちすぎている。
また国史の性格上当時の政権のために若干脚色されている。
魏志倭人伝の方は参照した資料がどうあれ辺境の蛮族のために正否を深く調べたとは思えない。
616 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/29(金) 11:55:26
>>614 そんな事何処に書いて有るんだよ?
後世付け足された部分なら有るけど な!
617 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:46:09
三国志は晋の陳寿の撰。のち南朝宋のハイショウシが補注をつけたものが
今に伝わっているそれ。
東夷伝のハイショウシ注も「魏略」(逸書)を引用している。
と俺の手元の本には書いてるな。
写本なんか何度くらいやったんだろうな?
618 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/29(金) 12:53:06
619 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 15:02:44
>>619 なんか、それも大分後になって
適当って感じだよな。
621 :
日本@名無史さん :2006/12/29(金) 16:20:27
日向じゃなく、筑紫の日向です。
筑紫とは福岡・佐賀の筑前・筑後、肥前あたりの地名であって
大分・宮崎は筑紫ではありません。念のため。
622 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:31:39
>>621 原典は唐書と宋史は一緒じゃなか?
唐書の方は写筆している内に上古の尊の名前は省略しちゃったみたいだが・・
623 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:34:52
>>612 陸行1月=75km=水行10日が当時の倭人の距離単位。
>>621 昔は、九州全体を筑紫島と言っていたけどな。
>>622 唐書のほうは、倭王には姓が合って
阿毎氏だから、おそらく、海部氏のことを書いたんじゃないのか?
あと、倭国は、昔は倭奴国(本当は委奴国か?)で
東に居た日本国が併合したみたいなことを言っているし...
記紀の仲哀天皇のとき、伊都の国王の祖先が
天皇家に、三種の神器を思わせるものを譲ったぽいことを書いているから...
なんというか、最初に中国との外交権を保持したのは伊都国だったけど、
後から畿内からやってきた天皇家が奪ったみたいな解釈じゃないのか?
626 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 17:12:36
唐書の原典は恐らく帝紀
高天原時代の神話を筑紫時代としているから
古事記より古いものには違いない
628 :
日本@名無史さん :2006/12/29(金) 17:17:16
>>624 九州の由来
九つの州からなる島、その州のひとつが筑紫州です。
629 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 17:22:18
新唐書では神武は筑紫城から大和に移ったとあるな。
中国の認識は九州島=筑紫島だったかしら。
>>628 違う。最初は九州全体を筑紫島といった。
九つの州からなる島で、その一つが筑紫州というのは
ずっと後だ。
とにかく、もっと原文を読み込まないと分からん。
日本のだろうが、中国のだろうが。。。
でも、これらを買い揃えようと思えば、結構な値段になる。
図書館にいって、借りなければいけない。
こういうの、ネットで無料に公開すれば良いのにな。
手ごろの値段で売ってある解説者は、
それぞれの著者の思想が偏っていて、どれもこれも駄目。
632 :
日本@名無史さん :2006/12/29(金) 17:40:33
九州が筑紫島?
そんな記述は、余りみたことないが、文献を教えてくだされ。
イザナギが黄泉の国からの禊をしたのも、筑紫の日向の橘だし
神武東征のときに、1年間立ち寄ったのも、筑紫の日向です。
日向ではなく、筑紫の日向であるところが、面白いとおもいませんか?
633 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 17:47:03
>>632 古事記の国生み 筑紫嶋
日本書記の国生み 筑紫州
634 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 17:48:42
卑弥呼は朝鮮人です。
アハハ
637 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 18:38:34
朝鮮人って倭人の一種らしいですよ。
朝鮮朝鮮やかましー
639 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:08:44
卑弥呼は日本人
天皇は朝鮮人
卑弥呼は卑しくない
邪馬台国は邪(よこしま)ではない
640 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 21:10:45
卑弥呼は半島から渡ってきた部族の子孫
天皇は生粋の倭人の子孫
>>608 >>525>>526に反論!
古事記を信じ、中国史の倭の5王を参考に、
十五代応神、甲午(394年)没
十六代仁徳、丁卯(427年)没
十七代履中、壬申(432年)没
十八代反正、丁丑(437年)没
十九代允恭、甲午(454年)没
二十一代雄略、己巳(489年)没
二十六代継体、丁未(527年)没
とし、十代祟神、戊寅、没年を考える。(258?318?378?)
もし、258だとしたら応神から136年前になるので少し長いし不自然。
私の計算だと5代前で38〜62年間とし318が妥当では?
みなさんどう思う?
それはなぜ?
それはなぜ?
644 :
太国:2006/12/29(金) 22:47:12
>>641 倭の五王は現段階では参考にするのは無理。何となれば
倭の五王≠当時の各天皇
>>641 きみは、応神天皇から崇神天皇までを
安本氏と同じ平均在位説で考えたのか?
また、古事記の干支没年も途中以前は
倍年暦だったことを考慮してないのか?
646 :
太国:2006/12/29(金) 22:48:46
>>641 倭の五王は現段階では参考には出来にくい。何となれば
倭の五王≠当時の各天皇
>>647 サガミハラハラさんの意見だと
倭の五王は、畿内王権の王だけど
綺麗に五代の天皇に当てはまるわけじゃないみたいだし...
649 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:11:04
>>645 安本がどうのこうのよりも、崇神天皇と卑弥呼を同時代と考える年代観の
方がおかしいと思うのだが。安本氏の年代観がおかしいと批判しても
崇神天皇と卑弥呼が同時代ということが正当化されるわけではない。
崇神天皇と卑弥呼を同時代とする根拠は?
650 :
太国:2006/12/29(金) 23:14:25
>>647 各イコールとしたから、もう合わない。誤計算そのもの。
五王は天皇にあらず。
邪馬台国=ヤマトの原型もしくはライバルです!
邪馬台国問題ははじめ、卑弥呼=天照大神で
はじめ九州説をとってましたが、どうやら卑弥呼=地方豪族の娘で
畿内説のようです。
ニギハヤヒ大王に代わるヤマトへの養子縁組としてイワレヒコ
(神武天皇)が東征を始めましたが途中、
長髄彦の反逆に遭いながらもニギハヤヒ大王を
国の守り神とすることを条件に初代王 神武が即位したのです。
いったんは統一国家に向けうまくいくかと思いましたが、
すい靖、以降の大王では国中が服さず(倭国大乱)、
共立された地方豪族の娘(ニギハヤヒ系)、卑弥呼によって国中が収まり。
最終的には豊姫がまとめたんでしょう。
豊姫を経て、大和朝廷の初代王、ミマキイリヒコ(祟神天皇)から
徐々に天皇家によって天下統一されていったようです。
652 :
太国:2006/12/29(金) 23:16:44
>>651 卑弥呼≠天照大御神
女王国は九州所在。卑弥呼は神功の世のあたりの人物。
>>648 ぼくは、倭の五王の年代はどうでもいいおもってるんですよ。
それより邪馬台国の卑弥呼。
卑弥呼の活躍した年代が知りたくて祟神の没年を計算したまでですから
>>649 ぼくは祟神が活躍したより少し前と思ってます。4,5代前くらいかな
>>650 ぼくは、倭の五王の年代はどうでもいいおもってるんですよ。
それより邪馬台国の卑弥呼。
卑弥呼の活躍した年代が知りたくて祟神の没年を計算したまでですから
サガミハラハラさんは、垂仁天皇の没年が
314年だといっていますね。
よって、崇神天皇は、それよりも前になる。
>>657 あなたはサガミハラハラさんて人が垂仁天皇没年、 314年と
いえば信じるんですかね?何か根拠みたいなのがあるはず
垂仁天皇は3世紀後半が活躍の舞台だった人物
その理由
↓
3世紀中葉〜後葉になると、畿内に出現した前方後円墳に
特殊器台形埴輪およびそれとセットをなす特殊壺形埴輪が新たに出現している。
この特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪の分布の中心は吉備から畿内へと移動しており、
その出現に際しては畿内側の役割が大きかったものと推察されている。
なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、
前方後円墳に特殊器台形土器・特殊壺形土器が採用されていることは、
吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。
日本書紀垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)(出雲国出身)が
日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、
これを埴輪の起源とする。
どんどん ご自身の意見をいってください
663 :
古代史トーシロー:2006/12/30(土) 08:31:01
>>641 応神天皇は朝鮮の史料からほぼこの時代で確定でしょうね。
没年干支が正しいと仮定すると妥当だと思います。
崇神天皇3世紀説は怪しい。すると、箸墓の実年代も…
664 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:54:43
>>641 じゃあ一大率は誰が置いたんだ?
崇神以外に候補がいるか?
665 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:14:52
>>631 宗書・隋書には邪馬台国には「阿蘇山あり」とはっきり書かれてるから。
666 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:15:26
日本書紀無批判につかってますが、卑弥呼は倭の女王です。魏志には、
ふせい無し。夫も子供もいない。つまり血統の断絶を証明してる。
万世一系ではない。神功皇后を卑弥呼にするなら、ここらへんの日本書紀
はデタラメといえる。それより前が正しいとするのは、難しい。
667 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:15:35
日本書紀無批判につかってますが、卑弥呼は倭の女王です。魏志には、
ふせい無し。夫も子供もいない。つまり血統の断絶を証明してる。
万世一系ではない。神功皇后を卑弥呼にするなら、ここらへんの日本書紀
はデタラメといえる。それより前が正しいとするのは、難しい。
>>664 魏書を読むと連合国家のTOPの人間てことになりますよね?
卑弥呼か、男弟なのか、記載ないので私も解りませんが・・
669 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:31:10
>>665 隋書に出てくる阿蘇山は、あくまで倭にありで、邪馬台国かどうかは分からない。
>>666 失礼。確かに男系のみによる相続ではないので、万世一系ではない。
しかし初代から現在まで血のつながりはあると思います。
きみら「日本@名無し」やなくちゃんと名前つけましょう。
同じ人が言い合ってる思ってしまう(笑)
誰が誰かわからんなるし
672 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:43:35
ところでなんで神奈川県民は「てにをは」を省略するんだ?
神功皇后は卑弥呼とは関係ない。
ここにホロン部が紛れ込んでないか?
675 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:11:48
>>665 本当? 原文禿しくキボーンヌ!
あ、邪馬台国は、魏が倭と呼んだ地域の1国だと思ってます。
>>674 ていうより臺与とのほうが関係ある。
神功皇后の祖先が・・・
677 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:18:53
>>675 有阿蘇山
が原文。ただし、しつこいがそれが邪馬台国にありとは書いてない。
678 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:29:16
>>677 そうなん?
じゃあ、邪馬台国は北部九州で決まりじゃん!
679 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/30(土) 14:41:56
>有阿蘇山
列島の様子を知らない漢人読者は「阿蘇」のカキコに何思う?
680 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:42:06
>>678 だから倭にありで、邪馬台国にありとは書いてない。
隋書は7世紀の編纂だぞ。
681 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:44:22
有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以為異,因行禱祭。
だな。
682 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:05:10
漢文、苦手やねん。誰かよみくだしてやー。
あっそぉ
684 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:07:48
お〜い、山田君! 神奈川犬民の座布団全部もってけ!#
685 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:17:36
だから天皇が阿蘇周辺にいたといいたいのかー!
686 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:20:28
阿蘇山というのがあって、突然天まで噴火する。これは異変とされ祈祷祭祀が
行われる。
>>682 阿蘇山有り。その石、故無くして火起こり、
天に接する者、俗を以って異と為し、因って祷祭を行う。
(阿蘇山がある。そこの石は故無く火柱を昇らせ、天にまで接する。
俗人はこれを異なことと思い、よって祭祀を執り行っている)
688 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:28:31
噴火のときには、あまり近寄らないほうが・・・
689 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:31:20
阿蘇山は玉垂宮のあるところ
総本山は久留米、大善寺玉垂宮。
火祭り、鬼火
690 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:32:17
肥前、肥後、筑後はほぼ
同一の言葉、文化を持つ
同一文化圏。
691 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:33:02
防災スレじゃないんだけど
692 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:47:31
おお、まさに阿蘇山のある(見える)国こそが「火の国」(ヒのクニ)。
その祭祀をとり行うのが「火の巫女」(ヒのミコ)よのう。
693 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:00:20
違う!阿蘇山は当時、大和にあり、後に移動したのである! 巻向こそが邪馬台国だ!
694 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:00:47
>その石、故無くして火起こり
ヒキリギネのような火起こしの道具つかってゴシゴシ頑張らなくても
阿蘇山では自然と火が生じる・・・・それが古代人には神秘的なことであった、
そういう意味だろう。「故無くして」を解釈するなら
695 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:04:01
あはは 山が移動するなんてすげーぇ(笑)
697 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:07:09
コノハナノサクヤビメの出産
コノハナノサクヤビメは一夜を共にしただけで身篭った。
それを聞いたニニギは、「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」と言った。
コノハナノサクヤビメは、「この子が国津神の子なら、産む時に無事ではないでしょう。天津神の子なら、無事でしょう」
と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時になって御殿に火をつけた。
天津神の子であったので、無事に三柱の子を産み終えた。
火が盛んに燃えている時に生んだ子をホデリ、
火が弱くなった時の子をホスセリ、
火が消えた時の子をホオリ、またの名をアマツヒコヒコホホデミという。
この話なんて、いかにも火を吹き上げている阿蘇山をイメージさせますよね。
また天津神の子なら、火の中でも無事、のくだりもいかにも「天津神」の古郷
を示唆していると思わないかね、金田一くん。
おまえら、憶測でものを語るな。
ちゃんと、古事記の干支没年を基に年代測定しろ。
699 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:12:44
だから、「古事記の干支没年」が、藤原不比等の命令で当時の官吏
が干支を参考にしながら筆をなめなめ創作したものと思わないかね、
金田一くん。
700 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:12:45
日本の伝承にはダイダラボッチというものがある。山はプレートテクス理論上、移動するのである。
>>699 じゃあ、おまえの21世紀の思いついた憶測と
どっちが真実性があるんだよ?
というか、古事記の干支没年は
年代を出しているわけないんだから、あんまり操作する必要が無いが
日本書紀の場合は、明確に年代を出そうとしたから
中国の史料との整合性が取れないと色々
まず〜と考えて、操作している。
その一つが女王卑弥呼の記述だった。
男王なら、数ある天皇の誰かにすれば良かったが
女王だったから、そういうわけにはいかず、無理して
神功皇后に合わせようとした。しかも、過去は倍年暦だったことを
考慮せずにだ。
古代史の年代は、古事記の干支没年を基に、
日本書紀の記述なども参考にして、割り出すしかない。
その場合、天皇の在位期間だけじゃなくて、それぞれの天皇の
生存期間まで割り出すべきだ。じゃないと、
日本書紀のどこが改竄しているか分からないのだ。
仁徳天皇の在位期間が改竄されていたのが分かったのは、
応神天皇と仁徳天皇の生存期間・在位期間の四つを見比べて
仁徳天皇の在位期間が不自然だったから分かった。
703 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:24:22
伊豆大島の三原山も火山だが、御神火(ゴジンカ)て言葉がある。
阿蘇でやってた祭祀は、阿蘇山の火をもらってくる儀式だったのでは?
今でも、神社で火をもらってきて、それを種火として雑煮なんかを
料理して食べると、とても良いことがある、なんて風習は、
全国各地にいっぱいあるよ。
「御神火」でぐぐってみたら?
いちいち、一人の天皇ごとに、在位期間、生存期間
それぞれの天皇が、何歳で即位したか、
また、父親が何歳の時に産まれた子供なのか?
細かく算出していかねばならない。
非常に面倒くさい作業だ。サガミハラハラさんみたいに
本でも出してやらないかぎり、やる気が起こらない作業だ。
でも、これをやらないと永遠にわからない。
705 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:27:38
>>701 では、君の妄想、
いや、推理を聞こうじゃないか。
金田一君。
706 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:29:38
畿内説だと破綻するな。近畿地方に有史来、噴火とている山自体がみあたらない。
>>705 >>702>>704を見てみい。
古事記の干支没年というのは、〜年というふうに年代を出しているわけではない。
しかし、日本書紀の場合は、〜年というふうに明確に年代を出そうとしたために
中国の史料との整合性がとれないと不味いので、
年代を操作する必要があった。
詳しくは
>>702>>704
708 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/30(土) 16:42:12
>>708 古事記の干支は、後付じゃない。
いや、きみらが記紀の研究を封じ込めようとしている
朝鮮系の工作員だというのは分かっている。
が、無理だ。もう、国家で記紀の研究が始まっているから。
710 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:59:09
>>706 だから、隋書は阿蘇山があるのは倭で、邪馬台国とは限定するように書いていないつうの。
むしろ、隋書だと、九州説は不利になる。
711 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:04:47
随書は7世紀の書物で筑紫という表記が初めてあり
その東に端王国あり華人に似ると衝撃の記述がある
これ初めて知ったのは1年前
どうりて、愛媛、北Q、大分に八幡の地名が多いわけだ。
712 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:14:39
>>711 ただ、それもさ。対馬→一支→竹斯→秦王国(中国人と同じ)を東に行くの連続で書いているから
わけが分からないんだよね。そのくせ竹斯より東はすべて倭って書いているし。
713 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:12:57
岩波文庫の魏志に隋書も倭の五王もでてるよ。500円くらいだよ。
買うといい。阿蘇山は出てるけど、南北3月行、東西5月行だから、
奈良から西が統一されたとみるほうがいい。まあ、九州の1部に違う
王国があるみたいではある。阿蘇山が、近畿から移動したので、その
跡が奈良盆地って、なるほどと思う。ちなみに、奈良県っていまでも、
墓地がないんだって?信じられない。
714 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:23:56
715 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:24:12
716 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/30(土) 18:27:27
>>709 >古事記の干支は、後付じゃない。
いや、きみらが記紀の研究を封じ込めようとしている
朝鮮系の工作員だというのは分かっている。
が、無理だ。もう、国家で記紀の研究が始まっているから。
正月前なのに悪いモノでも食ったのか? マンガの読みすぎ
718 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:52:04
阿蘇山が移動?日本書紀は、正しい?どちらが、正しいの?
719 :
太国:2006/12/30(土) 22:14:47
>>656 だいたい卑弥呼とアマテラスとは時代が違う。
前者は神功の世あたりの九州の人物で、後者は神武以前のもっともっと古い
時代の人物だ。
卑弥呼は九州でなく畿内にいたのなら、地図上では朝廷と女王国とは目と鼻の
先だ。いわば天皇のいる隣国に女王国があったということになる。
だから女王国卑弥呼の実体が、遠い外国の倭人伝以上に詳細に記紀に
載るにちがいない。それが猫の額ほども、女王国がどんなんだという記載が
見られない。知れたことよ、女王国が畿内から遠方の九州にあったからだ。
九州なれば大陸に近いから日本のうちらの記紀に記述がなく、中国の
倭人伝への情報が入りやすいのが当然だ。
720 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:51:49
>>719 神功が卑弥呼と同時代だとすると
仁徳の在位87年を信じなければならない
頼むよジョーダンはマイケルだけにしてyo
721 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 00:08:11
笑えるw
723 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:06:50
邪馬台国は、宮崎だろう。日本書紀など、どうでもいい。魏志で説明
できればいい。
奴国を博多とすれば、その東の海岸、南に行くなら、宮崎だろう。
724 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:32:29
>>723 魏志によれば奴国は末廬から見て東南なんだぜ。
南に行くならと言うが、その呈で行けば、瀬戸内海をルンルンと行っちゃうんだが。
725 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:44:32
>>723 宮崎は注目に値する場所だと思うが、ここに注目すると、畿内説の人にして
みれば神武東征に直結してかなり面倒なことになる。
一方で、北九州説にしても穏やかではない。
要するに、北九州説と畿内説の両方から疎んじられることは、合理的で
あっても日の目を見ないことになるし、逆に、両方にとって都合の良いことは
なんかおかしいんじゃないかと思っても定説になる傾向がある。
その一つが伊都国=前原説かな。
726 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 07:03:22
>>711 端王国は広島の呉だろ。呉が滅亡した時に、華人が暖流に乗って大挙、移民
したのだ。呉服もここから来ている。
727 :
太国:2006/12/31(日) 07:04:55
>>720 話の具体性が足りない〜。
仁徳は神功の時代よりも2代、後代だ。卑弥呼の時代が終わった後あたりで、
ねばならないの考えは必要が薄い。
仁徳世は3倍暦の時代であり、在位は29年の計上だ。そんなにおかしくはない。
728 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 08:54:31
>>602 >僕も前から何度もそう言ってるでしょう。さてはレス見てなかったな。
>>587ではそう言ってないだろう。
あなたは女王国の側の国といってるが、俺がいう通過した国とは内容が違う。
女王国に近いのは、むしろ斯馬国(しま)の方だと、俺はイメージしてる。
729 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 09:06:46
>>692 >その祭祀をとり行うのが「火の巫女」(ヒのミコ)よのう。
たしかにその可能性もあるけど、それだと天皇家との関連がなくなるだよな。
やはり「陽の巫女」(ヒのミコ)のほうがすんなり考えれる。
古来、九州では日ではく
火や水を祀ってる
地域が多い。
久留米、熊本あたりがそうだ。
太宰府も玉依姫のころは火だったと考えられている。
731 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 09:28:58
>>724 私は、連続式だから、伊都国から東南 奴国としてる。陸行は、前人
みえないくらいだから、道がまがりくねり、方位間違えやすい。それに
くらべ、水行は、方位はわかりやすいのでは?距離は、わかりにくいけど。
水行の方位を南から東にかえると5箇所くらいかえないと。以北略載とか、
以北一大卒とかを。倭人からもいろいろ聞いてるはず。また、水行20日
をそのまま信じるなら、20回の日の出みて、これは南だとまちがえるかな?
水行を南とすると、何も矛盾おきない。末ロ国から伊都国の東南を間違い
としたほうが、全体からみてしっくりいくのでは?
>>725 神武東遷は、720年にできた日本書紀等の記述。卑弥呼は250年ごろ
として、日本書紀から、卑弥呼を論じるには、無理がある。やはり、魏志
でつめるべきでは?伊都国は、前原で私も同意してるのですが。
北部九州と近畿説でおそろく100年以上論議してるのでは。決着が
つかないのは、両説が間違ってる証拠では?どちらかが正しいなら1年も
あれば決着する。解のないところで解を探しても見つからない。つまり、
邪馬台国は、近畿、北部九州以外とみるのは、いかが?
732 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 09:29:43
>>724 >魏志によれば奴国は末廬から見て東南なんだぜ。
末盧国は人口が4千戸24000人くらいの小さな港町。
奴国は衰弱したとはいえ、2万戸12万人くらいの大国なんだよ。
博多から有明海に抜ける北九州では「大きな領土を占めていた」と考えれば理解できないかな?
奴国は邪馬台国以前から中国と交易があり、生口という留学生を160人も送っていた国家なんだぜ
卑弥呼はたった10人の留学生しか、中国に送れなかったけどね。
あなたは領土の大きさを無視してる。
自分の邪馬台国の比定地は超広いよw
豊前(国東・宇佐・中津)・豊後・高千穂の3つ。つまり大分全域と宮崎北部。
これで天岩戸伝説から比売大神まで完全網羅w、で同じ文化圏。
そんな広いわけない、と思うでしょ。でも倭人伝の7万戸という数字を比べりゃ
他の国に比べて超大国だったと思う。しかも宇佐は九州一の荘園持ちだったし
超大国でもなけりゃ30数国も支配できないと思うから。
筑紫も相当怪しいが、豊前と文化圏が違うからな・・なんらかの形で
繋がっていたとは思うが。
>>730 大許山の遺跡は明らかに太陽信仰の跡だよ
735 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 09:43:43
>>727太国
>仁徳世は3倍暦の時代であり、在位は29年の計上だ。そんなにおかしくはない。
あなただったら「どんなトンデモ話」でも”合理的に説明”できる才能がある。
適当に倍暦を2倍にしたり3倍にしたり自由自在だ!
それなら旧約聖書のアダムは900歳で死んだというけど、30倍暦でも適用するかい?
クリスチャンは環境変化のせいにして”合理的に説明”をして信じ込んでおられるが・・・・
あなたも信仰者の一人なんだろう。
−−−−−(引用開始)−−−−−
アダムからノアまでは年齢が900歳、ノアの息子から400歳から200歳になり、
アブラハムからは100歳台に落ち着いてきます。
ノアの時代に寿命に影響を及ぼす生態系の大変化、地球規模の環境変化があったと推測できます。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~baptist/souseiki15.htm
736 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 09:59:25
>>731 >陸行は、前人みえないくらいだから、道がまがりくねり、方位間違えやすい。
確かにその可能性はある。
俺は当時の長距離の方向確定には”星による測定”が行われていたと信じてるけど
「帯方郡→狗邪韓国7000里」とか「帯方郡→邪馬台国12000里」の単位が1000里に
なってるのを見ると、測定誤差が1000里の大雑把な精度だったと思われる。
末盧国から伊都国の場合、500里と短く星による測定ではないかもしれん。
朝の出発で太陽を見てダイタイの方向を教えてもらい、曲がりくねった道では方向
感覚は完全に狂ってしまう。
渡り鳥や犬なら狂うことはないというけど、人間じゃな。
先般相見英咲氏の「倭国の謎」を拝読しました。
若干疑問を感じるところもありましたが、
目からうろこの内容が多く、大変感服しました。
氏はこのスレではトンデモなのでしょうか?
また関裕二氏、武光誠氏、大山誠一氏の著作も愛読していますが、
彼らもこのスレではトンデモなのでしょうか?
(大山誠一氏はスレ違いですかね)
738 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/31(日) 13:01:48
>>728 僕は
>>584で、
「それぞれにクニの事情が詳しく書かれているのところは、
女王国とはそう離れてないと思って差し支えないと思います。」 と言っているが、
クニの事情が詳しく書かれているのところは とは、伊都国などの、魏使が通過したであろう
クニのことをいい、ランダムに書かれているクニは、団子状になっていて、魏使が通過したわけでは無い、としているが、
おたくの説とは食い違っていたっけかいな。それではよいお年を。
739 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 13:21:26
>>732 違うやん。何が理解できないかなだよ。俺が言ってるのは
>>723の矛盾。
末廬→奴国は東南にあると書いてあって、末廬=松浦、奴国=博多なら、
この東南は方角間違いだから、次に南に行って邪馬台国というとこだけ、
方角を信じるのは恣意的解釈だってこと。文の理だよ。俺が指摘しているのは。
恵也氏の悪いところは、人が帰納法の論理を話しているときに
いきなり演繹法からとって返してきた発言すること。はあ?てなもんだよ。
741 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 13:33:22
>>739 >方角を信じるのは悠意的
どこが?
全く矛盾しない文章だろう。
742 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 13:44:49
>>738 >クニの事情が詳しく書かれているのところは とは、伊都国などの、魏使が通過したであろう
俺のイメージでは伊都国は、邪馬台国本国から離れすぎてるから一大率という監視機構を
おく必要に迫られたもの。
すぐ側なら、そんな二重手間をかけて行政機構が混乱するような真似はしない。
大和朝廷が大宰府に九州の監視機構を置いたり、徳川幕府が京都探題をおいたのと同じ理由。
離れすぎてて、しかも経済的にも軍事的にも強い場所には監視機構を置くものだ。
よって伊都国からははるかに離れた場所に邪馬台国本国は存在してた。
743 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 13:45:39
744 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 13:49:23
>>726 >端王国は広島の呉だろ。呉が滅亡した時に、華人が暖流に乗って大挙、移民
>したのだ。呉服もここから来ている。
あなたの話で信頼できるのは呉服の語源くらいのもの。
あとは妄想と噂とデマで組み立てた空想小説。
詐欺師の特徴は、信頼できる話に確認できない話を判らないように渾然と混ぜる事だが、
あなたにはその資格十分がある。
745 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 13:50:25
746 :
太国:2006/12/31(日) 13:53:19
>>735 終戦後では確か 1$=360円 だった。現在では1$が100円台か200円台
に下がっている。変動相場制っていうのか、拙者は経済の専門家でないので
こんな言い方だが、1年=365日 が現代の暦法なるも、紀に記載の天皇の
時代のころでは1年が100日台の180日でやっててもおかしくはない。
もっと超古代では1年が1日だったということもありうる話で、西遊記では
天上の1日は地上の1年に相当している。天孫降臨の超古代も、1年が1日
だったのかも知れないのだ。
古代マヤ文明でも、長期暦、短期暦、変則260日暦、月齢の暦、略暦等多種多様
であり、そういう古代の日本においても、多彩に暦法を変動させて実施して
いたということは充分うなづけるものである。全くおかしくはない。
747 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 13:56:31
>>737 >目からうろこの内容が多く、大変感服しました。
それを洗脳という。
本物の知識の吸収なら、その概要を簡単に記するくらいの内容がなくてはいけない。
北朝鮮の拉致被害者らが帰ったときにも、北朝鮮のスローガンみたいな事しか言えなかったのを
覚えてないかね。
今はやっと洗脳が解けて、少しはマトモナ内容のあることを喋りだしたようだがな。
あなたの文章では北朝鮮の宣伝文句によく似た、内容ゼロの著者の宣伝だけだ。
748 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 14:16:20
>>746 >多彩に暦法を変動させて実施して いたということは充分うなづけるものである。全くおかしくはない。
根源的思考が全く感じれない。
何のために暦が作られたのか、あなたは考えた事がないのじゃないかね。
暦は農作物の時期を決定して、豊作祈願をするために作られた科学的数字なんだよ。
今のお百姓さんも田植えの時期から間違えないように(間違えたら破産する)旧暦や新暦を
調べて農作業を決定してる。
むかしの太陽暦は1年を365日と計算して、誤差を計算してなかったので年数が経つにしたがって
暦が狂ってきたという。
正確な暦というのは国家指導者が、何よりも大切にしたものという。
だかたこそ日本の最高権力者だった足利義満が、中国の臣下という形でも国交を回復したのも
正確な最新鋭の暦、欲しさからなんだよ。
その当時の農作物の収穫量は、国を指導する人間の最大の関心事。
いまは1ドル=119円くらいだがこれは、需要と供給:投機できまる数字。
根源的理由が全く違う。
749 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 14:23:56
>>727 仁徳在位年数を87年から29年にしたら、神功の在位も60年ほど引き上げられ
卑弥呼と同時代じゃなくなるじゃないか
あんた 終わってるyo
>>749 うーん、洗脳ですか。そうなんですかね。
洗脳された人は洗脳されていることに気がつかないといいますから
私には分かりかねます。
邪馬台国と欠史8代のところの解釈なんて斬新だと思ったんですけどね。
スレ違いになりますが倭の五王の当たりも納得できる内容でしたよ。
神武の東遷理由とか雄略の宮の辺りは甚だ疑問ですがね。
751 :
太国:2006/12/31(日) 14:36:26
>>748 暦が農作で決定したということは相当程度ありうるが、天皇中心での大和朝廷
では、何と言っても当時は古神道という天皇の神事がものをいう。
これは江戸時代でも士農工商で農耕より刀のほうがものを言うのと同様な
ことで、大祓いとか記紀の神代の由緒からにて暦法を決めたということが
農事よりも優先的で確かである。大祓いは6月末と今日のような日に行われ、
この区切りで当時は1年が半年計算であったということが濃厚なのだ。
それでも士を廃し、士農工商の農で決定したというならば、次の文
崇神62年7/2 この日、天皇は初めて農事を薦めている文証がある。
7月2日は現今の1年の後半の初日の次の日である。これは君の農事優先
の論と自説とが矛盾せず、違いは2倍暦(同暦法の開化世の名残り)が
存在してもおかしくないことにあり、その文証がこれなのである。
752 :
太国:2006/12/31(日) 14:41:55
>>749 神功世において、卑弥呼の時代も繰り下がる。つまり後代のほうになる。
固定的に観るとおかしくなる。心配はない。
むしろ87年も在位があるほうが、仁徳の寿命が軽く100歳を超え、おかしい。
753 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 14:48:18
>>751 神事の起源って農業じゃないの?
確か日本書紀で天孫降臨の際ニニギは稲を渡されたよね。
大嘗祭や新嘗祭は穀物を神に捧げて豊作を祈るでのは?
754 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 14:48:56
755 :
太国:2006/12/31(日) 14:50:59
>>754 なぜだ? 通説にこだわると真が隠れるぜ。
756 :
太国:2006/12/31(日) 14:57:15
>>753 もっと先があろう。そこんところは儀式的で固定要素が強いが
もっと神代を遡れば神事らしきことは多少なりともある。
岐神の禊祓いなどは日神出生前のことで、このとき12神が成っている。
記紀の他の記述は8神ばかりだが、ここのみ12神なのは暦法の12ヶ月
と関わるようで、しょっぱなの神が突立船戸神(月経つ船戸神)で
あることからも、それがうかがえる。
757 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/31(日) 15:02:39
>>726 引用
「呉服」というのは語源的には「呉織」で作られた服という意味で、「呉織」
とはその名の通り中国の呉の国から伝わった製法で作った織物という意味です。
「呉織」は訓読みして「くれはとり」とも読みますが(「ハトリはハタオリの
音便)、綾模様のある絹織物を指します。しかし後世には一般に絹織物で作っ
た服を全て「呉服」と呼ぶようになりました。(綿や麻の和服は「太物」)
広島の呉とはなんにも関係が無い。
巻向遺跡でなにか卑弥呼に関する発掘ってないよね?
760 :
太国:2006/12/31(日) 15:17:27
>>759 ほかに年代の詳細数字が多数書かれている確たる古文献があるんかい?
761 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/31(日) 15:26:02
>>660 前方後円墳、埴輪は、葬制に大変関心を寄せていた魏使にとって、格好の題材。
しかし倭人伝に全くその記述が無いのは不自然。これは、前方後円墳、埴輪のセットが、
邪馬台国には無かった、もしくは、時代が、くだって出現したもの。
故に、魏使は見聞するよしも無かったのである。
762 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 15:39:49
>>761 正月休みゆっくりできる時間があったなら
柳井の茶臼山古墳と近くに浮かぶ祝島でも調べてみたら
また来年もヨロシクです。
>>760 日本国の正史である六国史の一つ「日本書紀」が君の言う「年代の詳細が書かれ確たる古文献」
に該当する。日本人は海外、中国史よりも自国、国史の年代を信じるべきじゃないのか?
しかし日本書紀に書かれてる年代がめちゃくちゃ(笑)
君の質問に対する答えは「ナイ」というしかない。
古事記、中国史をお薦めする。
764 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/31(日) 16:00:10
>>762プラムさん
ちょっと調べました。
「4世紀から6世紀頃の柳井から平生にかけての低地は
かつては海峡であり、航海する船に自分達の権力の大きさを
誇示する目的で茶臼山古墳の被葬者に関係する王たちの
古墳が作られたようです。」とありますね。
こちらこそ来年もよろしくっ。
日本書紀の年代がめちゃくちゃといっても、界王拳は反則だ!
あれはマンガの世界。
766 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 16:31:53
>>764 >「4世紀から6世紀頃の柳井から平生にかけての低地は
かつては海峡であり、航海する船に自分達の権力の大きさを
誇示する目的で茶臼山古墳の被葬者に関係する王たちの
古墳が作られたようです。」とありますね。
あの古墳はかなり古いと思うよ
たぶん考古学会がビビルくらい なんて考えながらの考察も面白い
767 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 16:43:57
>>757 >(「ハトリはハタオリの 音便)
ハタオリから転(言化)し、「ハトリ」にはならない
「ハタホリ」からの転(言化)にてのハトリならありえるが
768 :
太国:2006/12/31(日) 17:12:20
>>763 その六国史とやらは、神武即位とか崇神即位とかは何年の記載になって
いるのか? 記紀記載の時代の年月日のことだよ。記紀記述より後代の天皇世
はここでは直接関係はうすい。
君の頭のほうが滅茶苦茶になってはいないのか?
769 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 19:34:34
>>739 魏志では、
末廬の東南に伊都国、その東南に奴国とある。
末廬を松浦として、
>>723のように奴国=博多と言うのなら、
魏志は東北東の方向を東南と表現していることになる。
ここまでユーシー?博多を奴国とした場合だよ。
そしたら次に南に行って邪馬台国という魏志の記述を
そのままなんで「南」って読むのに疑問を感じないのさ。
論理的に矛盾じゃないか。ユーシー?
結果、邪馬台国が宮崎だとしても奴国が佐賀市あたりだったら
方角のスジは通っているから俺も指摘しないよ。
もう一度言う。文の理(ことわり)の話をしてるわけ。
ユーシー?
771 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 20:01:59
>>769 松本清張の小説に「点と線」がある
貴方の主張は「線」
しかし、陳壽がかきこしたのは「点」
772 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:09:43
横レス失礼
プラム氏は柳井茶臼山古墳を
かなり古いとみておられるようだが
いつ頃のものか、お考えを承りたい
773 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:14:51
>>770 もういい そっとしておいてやれ
K1でも観てろ
774 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:20:04
>>761
畿内説のいうように邪馬台国が大和にあったというなら、阿蘇山ではなく
二上山や三輪山、奈良盆地や河内湖の話がでてくるはずだ。
鬼道ではなく、太陽祭祀の様子や銅鐸のような特出すべき文物の描写があ
ってしかるべき。
>>772 二世紀終〜三世紀初
受け入れられる数値じゃないので、お笑い程度に受け取ってくれ
776 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:25:40
>>774氏へ
他人様がおやりになる事ゆえ
必ずしも貴殿の望み通りには
まいらぬであろう、と存ずる
777 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:27:57
778 :
九州出身:2006/12/31(日) 20:43:32
迷走してるみたいだな
>>777 今年最後のラッキーナンバーGET おめでとう。
あの数値は
被葬者の推定死亡年を重視した数値だよ
780 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:51:15
>>771 何の説明にもなってない。衒学的なこと言ってごまかそうとしているだけだな。
781 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 21:08:38
>>780 自分でジックリ考えるのもいいもんだよ
区間行程距離の基本は「線」ではなく「点」
(発点から着点)までの距離をカキコしているわけで
一本の「線」にるように、着点の全てが次の起点となるような 絶対的な条件付きではない事を言っているんだよ
その辺はゴネないで理解してくれよ
782 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:11:45
>>781 方向の話をしているんだ。たぶらさかないでほしいな。
東西南北は「相対方向」でなく「絶対方向」だ。
ちなみに俺も「点と線」は読んでるぜ。
783 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:12:22
たいして面白くなかったけどな。
784 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 21:22:26
>>782 紙に東南方向に延びる二本の
線A→B と 線C→Dを平行にひき
点B 点Cを結ぶ方向は「北東」じゃないのかい?
785 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:23:29
786 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 21:42:34
東南陸行五百里到伊都國の着点 と 東南至奴國の起点は同じポイントではない
と、言うこと
同陸域内に区間行程距離着点を設ける場合、点を必要とする為
「至/範囲」ではなく「到」を使用し、伊都国域境界に進行方向がクロスする地点にポイントを求めたわけだよ
この部分は 簡単な筆法による技法で書かれているから 単純ではないのさ
787 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:44:14
方向はどこ行っても同じだ。何の話してるんだ。
788 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/31(日) 21:46:14
>>787 もう少し漢籍沢山読んで勉強しなよ
まだまだ無理だよ
789 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 22:22:13
>>788 君はグリコのオマケの磁石で方角の見方でも勉強するんだな。
卑弥呼の墓が前方後円墳かどうかについては
ちょうど、マキムクの経緯からいって、
その分かれ目なんだわな。
卑弥呼の生存中の頃は、まだ前方後円墳は存在していない。
また、崇神天皇の生存中もまだだ。
おそらく、彼らの死後以降に、前方後円墳が始まったと見たほうが良い。
だから、魏志の記述でも、前方後円墳については
微妙な時期なんじゃないのかな?
当時の中国人の日本列島の方位に対する認識は
魏志以外では、それ以後に書かれた後漢書にヒントがかくされている。
後漢書では、倭奴(元々は委奴か?)国は、倭の最南端にあると言っている。
おそらく、この国は北九州のあった奴国か伊都国かのどちらかだろう。
その国のことを倭の最南端だと言っている。
また、当時の中国人がみた日本の土地感は、日本海側からみた
逆向きにしたもので、これは、中世くらいまでの日本地図にも書かれている。
>大陸から見た日本<
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-5.htm
792 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 22:53:17
漢文で「径」は、ぜんぶ「円の直径」て意味なの? 例外なく?
793 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/31(日) 23:51:03
>>751 >7月2日は現今の1年の後半の初日の次の日である。
あんたね、崇神天皇の時代の文章が、現代日本文であるはずがないだろ。
漢文で残されてるのは常識。
もともとの原文を出して、それに対するあなたの翻訳文を出してカキコしなさい!
794 :
太国:2006/12/31(日) 23:58:00
>>793 あんたもってないのか? 日本書紀を?
こっちは歳が行って、目も衰えて難字多い原文書きは苦労するんだよ。
そこを開いて数行だろうから、よく読め。
あとは明日相手にしてやるよ。zzzzzzz・・・・・・
795 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/01(月) 00:16:59
>>775 >二世紀終〜三世紀初
>受け入れられる数値じゃないので、お笑い程度に受け取ってくれ
理由もなしに、古墳の築造年代を古くする馬鹿!
それを有難がる
>>777氏は、もっと馬鹿で幼稚園児並みの知能!
796 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 00:22:42
恵也先生!
明けまして
おめでとう
ございます
日本@名無史さん 太国 プラム 九州出身 神奈川県民 九州ですが
きのうのジョー 奴国 太国金玉 太国玉尊 太国玉 太 古田二世
古代史トーシロー とりあえずまとめ これでほぼ決定! ほか
>>769 伊都国への方角は、間違えただけでしょ。だから、南も間違えた。
っていうのは、無理。5箇所の方位かえないといけない。さらに、東の
倭種の説明もこまる。また、距離的に近畿ではとおすぎる。
方位と距離を変えれば、確かに近畿になるけど。
>>791 それは説得力がある。
16世紀ごろまでの中国や朝鮮の古地図には
日本列島は南北に長く広がっていると認識されていた。
そして、その中国人の日本観というのは、日本海から見た
逆さまの地図だった。
また、日本海には対馬海流が激しく流れており
人力で南へ東南へ意識して漕いで、ちょうど日本海側の海岸線を
渡れる感じである。
おそらく、投馬国というのは、出雲か但馬か丹波のほうである。
邪馬台国は畿内である。
799 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 02:52:09
日本が90度曲がった地図も有名だが、
今日、本屋で、西が上になった日本地図を見た。
唐招提寺のものだ。行基図とは逆なわけ。
これは、唐招提寺だから、中国に敬意を表わして
中国を上にしたのではないかって書いてあった。
ちなみにその本は邪馬台国に関する本じゃないよ。
800 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/01(月) 02:56:24
おめでとうございます。
>>792 「徑」は(最短距離)
上徑、中徑、下徑、圓徑、方徑、周徑、道徑
これらの熟語を見れば解ると思う
「徑」の文字に円の概念はない。
801 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/01(月) 02:58:30
おめでとうございます。
>>792 「徑」は(最短距離)
上徑、中徑、下徑、圓徑、方徑、周徑、道徑
これらの熟語を見れば解ると思う
「徑」の文字に円の概念はない。
おみくじぐらいやれ
803 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/01(月) 03:05:56
いい年でありますように
804 :
本田:2007/01/01(月) 06:04:48
>>791 > 当時の中国人の日本列島の方位に対する認識は
> 魏志以外では、それ以後に書かれた後漢書にヒントがかくされている。
> 後漢書では、倭奴(元々は委奴か?)国は、倭の最南端にあると言っている。
朝鮮の最南端だと思う。
> おそらく、この国は北九州のあった奴国か伊都国かのどちらかだろう。
> その国のことを倭の最南端だと言っている。
805 :
本田:2007/01/01(月) 06:06:22
>>798 > おそらく、投馬国というのは、出雲か但馬か丹波のほうである。
投馬(ツマ)国は薩摩。
806 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 10:04:46
おめでとうございます。
>>799 最古の行基図とされる仁和寺のものも
混一疆理歴代国都之図の制作年代に近い
1305年のものと言われていて、
それも九州が上に書かれている。
行基図が東西南北が正しく書かれていると確認できるようになるのは、
江戸時代に入る頃からのようだ。
正しいも何も、北を上にする決まりがなかったと思われ
新年あけましておめでとうございます
今年こそ邪馬台国の遺蹟が見つかると良いですね。
神武東遷は、宮崎の邪馬台国と近畿の政権の血統を統合するための作り話。
810 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 18:16:25
人力で動く船に乗って、九州から日本海沿岸を通って、
出雲や丹波へ行こうとした場合、
どういう感じなのかな?
誰か詳しい人、居ますか?
812 :
【吉】 :2007/01/01(月) 18:46:13
dou?
813 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/02(火) 06:45:06
>>811 >人力で動く船に乗って、九州から日本海沿岸を通って、
>出雲や丹波へ行こうとした場合、
俺はカヌーのツアーによく参加していて、海でも少し遊んだ事があるが
1人乗りくらいの舟じゃ、海岸が見えなくなるようなところに行く気はしなかった。
しかし冒険心がある変わり者の奴なら、それなりの準備をしてやるだろうな。
太平洋をたった一人で、6m足らずのヨットで太平洋を横断した堀江謙一氏みたいな
人間も日本人の祖先にはゴマンといるだろう。
邪馬台国の時代なら、魏が蜀と呉に完敗した海戦ではずいぶん大きな船を使っていたようだ。
馬まで乗せていたというからね。
日本国内はともかく、大陸から日本に来る連中は、ずいぶん大きな船を使っていたように感じる。
−−−−−(引用開始)−−−−−
1962年マーメイド号による、太平洋単独航の成功時は、あまりにも奇跡的な快挙であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%AC%99%E4%B8%80
814 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/02(火) 08:19:02
ドンと来い邪馬台国御一同の皆様、
新年 明けましておめでとう御座います。
>>798 当時は地図を北を上にする習慣が無かっただけで、
例え南北を逆にしようとも、北は北であり、当時の中国には必ず南を指すという
指南、という方位磁石のようなものが既にあり、方向を間違うなど考えられない。
第一、方向を誤るようでは、魏呉蜀、の三国が激しく戦った、戦乱の時代を勝ち抜く事が出来ない。
赤壁の戦いなどは、水上戦であり、舟が方向を過つ事など致命傷。陸上戦も然りである。
従って邪馬台国当時の魏使を乗せた船が、大きく方向を誤ったとは考えにくく、かなり正確に近かったと考えてよい。
それは、上陸してからも同様である。
815 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/02(火) 17:14:34
816 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/02(火) 17:43:16
>>815 えー今年もよろしく。
指南というのは僕も指南車だと思っていたけど、かつてプラムさんから
そのホームページで指摘されたのは、何かスプーンみたいなものだった。
からくりはどうなってるかよく解らなかったけど。
817 :
四国説:2007/01/02(火) 18:31:38
ソロモンの財宝とかの電波は置いておいて、四国説はどうよ?
・そのままの方角で行けば、四国に一番近い
・いざなみが最初に産んだのは淡路島、次に四国
・お遍路、霊場としての位置づけ
・大嘗祭の服を織る一族がいる
・神獣鏡
自分は、四国にあったような、気がしてる。
818 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:15:34
四国には道後温泉があるよ!
豚さんのお言葉はブーブーブーでいつも同じだからわかりやすいね(^^)
820 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/03(水) 00:21:49
>>816 おめでとう
形はどうであれ、確実に南を指し示す道具が有ったということがだいじなのです。
>>818 道後温泉どころか「サンライズ瀬戸」が高松止りではなく
松山まで行っている 驚きの一言
821 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 00:51:45
>>813 魏志倭人伝には、邪馬壹国から更に東方に水行した果てに黒歯国・裸国等の
国々も記されている。黒歯国はお歯黒の習慣があったハワイ、その東にある
裸国とは北米大陸と中国では考えられている。
なぜなら1975年以降、カリフォルニア州南部でダイバー達が中世の中国船の
石錨が20個も既に海底から発見され、中には1000ポンドもの重量のある大型
船のものも含まれている事。
サンフランシスコ北部のマリン郡、ドレーク湾の海底から中国の磁器片が数
多く出土している事。
アメリカ南西部のズニ河流域に居留するアーシウィ人を探検したスペイン人
が、彼らが桃の栽培をしていると記録している事。(桃は元々ユーラシアが原
産で北米大陸にはなかった)
また、新大陸には鉄器はなかったとされているが、マリン郡のエステロ遺跡の
貝塚からは古代中国の鉄釘等の鉄器が出土している事。
鄭和はアフリカまでいったが、太平洋にも中国の船団が交易をしていた事が序
々に判明しつつある。華僑は古くから太平洋を活躍の場にしていたのである。
>>806 天子のいる九州を上にしたという可能性もあるのでは
823 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/03(水) 12:08:52
>>821 >黒歯国はお歯黒の習慣があったハワイ、その東にある
>裸国とは北米大陸と中国では考えられている。
なんか無責任で卑怯な話だ。
中国人13億人もいるのにそんな筈がない、中国の誰が考えてるのかを書くべきだろう。
それに石錨にしても、年代や国籍がどうやって判ったかさえアヤフヤなデマ話だよ。
その他の話も、すべて邪馬台国畿内説より、はるかに怪しい御伽噺。
824 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/04(木) 10:42:11
>>821 資料をどうぞ。
「我が国の奴国王が西暦57年に金印を授かったほど昔から、周辺諸国の中国詣(もう)ではある。
しかもそれらの情報を、歴代の史書は、先行の記述にならい、繰り返し繰り返し記録して続けているのである。
勿論、それ故に誤った記事が幾世代にも渡って、王朝が変わってもそのまま誤って記録されている可能性も大いにある
いずれにしても、そうやって集め記録した周辺諸国の情報の中に、背の小さな民族や、年中裸で居る民族や、
歯を黒く染めた種族のことが昔から知られていて、代々それらの国々を「倭国」の近くにあると誤解していた可能性もあるのである。」
のだそうです。
825 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/04(木) 12:40:59
明の建文4年(1402)に朝鮮で作られた、「混一疆理歴代国都之図」(こんいつきょうりれきだいこくとのず)
について資料をどうぞ。
この図は明代に製作されたにしては若干稚拙なようである。宋・元・明の時代には、中国の対外貿易は相当
な発展を遂げていたはずであるし、元代にはインドシナ半島にも交易の範囲を拡大していたことが文献に残っている。足利
幕府も対明貿易を行っているし、琉球王朝政府による華南交易も盛行している。東南アジアの状況は、宋・元・明を通して
中国人社会にはかなり把握されていたはずなのに、この図では、本州に近い海中に東南アジア諸島が描かれていている。
学者達の見解に依れば、大琉球の西にある琉球が台湾で、三仏斎はスマトラ東南のバレンバン、琉球の南にある羅利は東南
アジアの島国羅刹だという。まるででたらめである。
826 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/04(木) 12:49:39
>>824に続いての資料をどうぞ。
「黒歯国」については、その字面から、歯を黒く染める風習を持った民族で、
やがて日本にもその風習は移入され「お歯黒」として近世まで存続していたという意見がある。
台湾原住民の間には、ビンロウ(檳榔)を噛む風習があったと言われ、恒春(ホンチュン)半島の懇丁(ケンチョウ)では、
石棺墓の人骨からビンロウを噛んだ跡が発見されている。ビンロウを噛むと歯は赤黒く斑になり、
この斑を取るため歯を一様に黒く染めたのではと言われる。沖縄や南西諸島にはビンロウ自体がないため、
「黒歯国」はそれより南の台湾ではないかと見られている。また台湾原住民族の間では小人伝説があるとも言う
827 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/04(木) 17:03:51
>>826 >「黒歯国」については、その字面から、歯を黒く染める風習を持った民族で、
むしろ邪馬台国には、字面から見るとその当時に少数だがお歯黒の人間もいたんじゃないかな。
魏の使節団は、東南方向に1年航海するとお歯黒や裸の国が存在すると書いてるが、邪馬台国の
人間からの又聞きにすぎないけど、大航海して東南アジアやポリネシアから来たからこそ、伝
わった言葉。
そのお歯黒は酒を造るときの、唾液を混ぜるのに避けられない職業病みたいなものだ。
邪馬台国では酒をたしなむという表現があるが、そのときに山葡萄などの酒ならお歯黒になる
人が存在することになる。
お歯黒が日本の明治初期のような大流行はしてなかっただけの話だろう。
−−−−−(引用開始)−−−−−
当時の酒造り方は「口醸(かもす)す酒」製法であった。山ブドウ、
モモ、杏等を材料に果物を歯で咬み、壷に入れて唾液で発酵させた。
さぞかし女性の歯は果実の渋で黒くなったに違いない。すなわち、
これが”働く女性の美しさ”として習慣となったと考えられると述
べておられます。
http://www.geocities.jp/dentopia21/fkanetuke.html
828 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 17:21:52
平安貴族も高貴な方は、お歯黒していました。
日本民族の風習にも、お歯黒の風習をもつ部族が
いたらしいことは想像できる。
829 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 00:49:52
>>821 セントラルオクラホマ州立大学教授・許輝教授『オルメク文明の起源』
テキサス・クリスチャン大学所属研究員マイク・シュー教授「甲骨文字発見シンポジウム報告紀要」
東京大学 大林太良名誉教授「新旧両大陸間の文化交流」『世界考古学大系』第一五巻』
中国船石錨については、サンジェゴ大学教授のジェームズ・モリアテイとローランド・ホイネにより
ロサンゼルスやカリフォルニア州南部の沿岸海底で見つかったドーナツ状の石製品を調査し、それが
古代中国の航海者が用いた錨もしくは石臼であるとの見解を発表した(一九八二年十月十五日付新聞
各紙、他)。
中国の石鐘健博士はこの石製品と中国側の出土品を詳細に比較し、それは前二千年紀から前千年紀に
かけて、浙江省を中心に活躍していた越人の船団が残したものであると発表。石氏によると、越人が
用いたのと同じ石斧が南太平洋の島々やエクアドルで出土しており、彼らの船団の航路が中国から両
米大陸にまで延びていたのは明らかだという。
また、鉄釘等の鉄器はサンフランシスコ北部のマリン郡から現在も出土しており、成分純度分析から
既に中国南部を産地とする製品であると判明しているが、完全な形の日本製の槍先についてもカリフ
ョルニア州から出土している。
中国文献でこれまで太平洋渡航の痕跡と判断される諸説について
1、中国古代の地理書『山海経』にアメリカの地理が混入しているとする説。
2、秦代の方士・徐福が東方の平原の王になったという伝説について、その平原をアメリカに求める説。
3、『梁書』などに出てくる倭の東方の国「黒歯国」「裸国」「扶桑国」等をアメリカに求める説。
4、五世紀の僧・法顕がメキシコもしくはエクアドルに漂着してアメリカ大陸を探検したという説。
830 :
河童:2007/01/05(金) 01:32:00
倭人伝に東南アジアやポリネシアとは、流石2ちゃんだな。
スケールが違う。
『妄想も
ここまで来ると
芸術品』
831 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:40:26
以前、TBS「世界不思議発見!」放映でカリフォルニア版「万里の長城」が
あったのはサンフランシスコから内陸に入った丘陵地。
土地の人もその存在に気づかなかったと言っていたが・・・
>>825 その出鱈目な地図が、中国の出鱈目な方向感覚を現している。
コンパスなどでは邪馬台国は探せないということだな。
833 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/05(金) 19:43:13
>>832 これは中国の地図では無く、朝鮮で作成された地図である。
>>814で言った様に、三国志の戦乱の世に方向間違いなど無かった。
この地図が稚拙な作りになっているだけである。
835 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/05(金) 22:28:18
要するに、、「混一疆理歴代国都之図」(こんいつきょうりれきだいこくとのず)
が逆転した地図であるとして、邪馬台国への方向を90度転換して、畿内の方に持っていこうという
目論見はもろくも崩れ去ったといえるわけである。
方向が間違いないということは、フミ国の南の投馬国は、畿内の方向ではなく、九州を南下することになる。
836 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/05(金) 22:28:52
要するに、、「混一疆理歴代国都之図」(こんいつきょうりれきだいこくとのず)
が逆転した地図であるとして、邪馬台国への方向を90度転換して、畿内の方に持っていこうという
目論見はもろくも崩れ去ったといえるわけである。
方向が間違いないということは、フミ国の南の投馬国は、畿内の方向ではなく、九州を南下することになる。
837 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/05(金) 22:30:33
何で最近このスレこんなにアクセス悪いの?
838 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/05(金) 22:36:55
839 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/05(金) 22:58:28
>>835から、
>>838は書き込みの調子がおかしくなって、間違って入ったものです。
何らの目的を持ってはいません。
840 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:28:32
16世紀以降に下るが、大航海時代にアリューシャン〜北アメリカ西海岸を
探検したスペイン・オランダ・イギリス船から夥しい数の難破日本船の報
告がなされている。
1794年にロシア船がアリューシャン列島のウナラスカ島で日本の難破船を
発見している。
1837年にコロンビア河河口で座礁した日本船を米ハドソンズベイ会社のロ
ナルド船長が発見している。
これらの日本船海難事故の包括的調査を最初に行ったのは1853年に日本政
府の顧問として働いていたチャールズ・ウォルコット・ブルックスによっ
て行われ、カリフォルニア科学協会から1876年に出版され、1613年〜1876
年の間に北米大陸に漂着した60隻の日本船について詳細に調査それている。
難破船は以下の地域から発見されていた。
アリューシャン列島・・・8隻
カムチャッカ沿岸・・・6隻
アラスカ・・・2隻
オレゴン・・・2隻
ハワイ・・・2隻
ブルックス島・・・2隻
その他(サンディエゴ・アカプルコ・ヌートカサウンド・サンボニト・クイーンシャルロット・セドロス・プロヴィデンス・ステープルトン・オーシアン・ラドローン島他・・・各1隻
その難破船から合計293人の乗組員が発見されており、うち222人の生存者が救出されている。
漂流期間の判明している15隻の平均漂流期間は7ケ月であった。
ワシントン大学名誉教授ジョージ・クインビーはこのブルックスの調査を元に、西暦500年〜
1750年までの間に187隻余りの日本船が北米に到達したと推論できるとしており、西部海岸か
ら出土する「ヨーロッパ起源ではない」鉄器の淵源を日本に求めている。
日本書紀には654年に男女2組が太平洋から658年には男2人女4人が太平洋
から日本に漂着している記述がある。
太平洋の両岸がまったくの断絶を示すものはない。
841 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 00:02:43
東南アジアのラピタ人がイースター島にまで辿り着いたというが、
その幾千倍の人が、犠牲になった事だろう。
要は、倭人伝の黒歯国などが、どの遠隔地まで比定出来るか、であり、
近くに比定すれば邪馬台国は、九州の南北のセンター線より東側にあった可能性が高い。
842 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 00:16:20
太平洋に面した宮崎で、エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ
縄文土器群が発見されてるね。
エクアドルのバルディビア土器とは、スミソニアンのエバンス博士により縄文土
器とそっくりの文様を持つ土器だと1965年に発表されたもの。バルディビア土器
文明が唐突に始まっている事から、縄文人が太平洋を渡り移住してきたのだと主
張している。しかし、バルディビア土器にそっくりの文様を持つ縄文土器は、九
州の熊本の土器に限られ、わずかに鹿児島などで発見された土器との類似性が認
められる程度だった。
縄文人が、太平洋を渡り南米にまで到達していたとすると、黒潮に乗って移住し
たに違いない。しかし、黒潮に乗って太平洋を渡ったのならば、何故、太平洋沿
岸からバルディビアの土器と似た文様の土器が発見されないのか。この点がこれ
まで最大の謎だった。宮崎でバルディビア土器とそっくりの文様を持つ土器が確
認された事により、この最大の謎が解明されたと言えるだろう
バルディビア土器と酷似した縄文土器が発見されたのは跡江貝塚遺跡で、1961年
地元の研究家により発見され県の史跡に指定されていた。
跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているがアカホヤ
層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで土器が埋まっている事から約6300年
前の喜界島大噴火まで続く土器文明であると言う。
843 :
東四国のひと:2007/01/06(土) 05:46:02
844 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 06:20:18
>>830 河童さんへ
妄想って僕の書き込みに言ってるのなら妄想ではなく、
そういった資料もありますよという提示に過ぎないことを知るべきでしょう。
この説を自分が支持しているわけではありません。
845 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 06:29:48
まあお正月が間に入って話がのびーっとなりましたが、
東の海を渡ると倭人の国がある。の記述の比定地は四国であり、
四国の西に位置する場所こそ邪馬台国である事を、実証しているわけです。
846 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 06:59:26
>>829 >中国の石鐘健博士はこの石製品と中国側の出土品を詳細に比較し
あなたの出した話は上げ底だ。
ここで必要なものが全く書いてない。
俺はこんな知りもしない大学の先生の名前や、博士の名前じゃない。
ロスの海底のドーナツ状の石製品の写真や、中国側で出たという出土品の写真。
それと品物の在庫場所。
あなたはこの話を自分でチェックしたのかい?
ネットの時代だから、中国の石鐘健博士、ジェームズ・モリアテイとローランド・ホイネ
とかいう方がどんな方でどんな実績を持ち、何の博士なのかくらい調べてからカキコしな!
石鐘健で俺が調べたところ、ネットで引っかかったのはあなたの書いてる記事だけ。
中国の文献や中国のネットにさえ全くない。
日本でもよく博士号や大学教授の名前で、南京大虐殺を調べた方がマスコミに出てくるが
全く専門外で、語学の専門の方らがチヤホヤされてテレビに出、嘘八百を並べておられる。
あなたの話もそれと同類の話だろう。
あまりにも中身のない上げ底製品のお話。
847 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 07:14:16
>>840 >日本書紀には654年に男女2組が太平洋から658年には男2人女4人が太平洋
>から日本に漂着している記述がある。
俺にチェックできるのはこの記事くらいだが、日本書紀のどこに書いてあるんだろう。
俺は聞いたことがない。
あなたの話は確認ができない話が多すぎる。
よってアンタは落第!
848 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 07:20:08
>>842 >太平洋に面した宮崎で、エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ
>縄文土器群が発見されてるね。
これも写真を出さないと、なんともいえない。
こんな話は、ソックリと書いてあっても偏見から書いたものが非常に多い。
そのくせ難しい言葉の羅列で、俺みたいな単細胞を幻惑させて迷路に導きやがる。
一番肝心な事、バルディビア土器とかいうものと、縄文土器の写真を出してからにしな!
849 :
親切な842:2007/01/06(土) 09:09:12
850 :
河童:2007/01/06(土) 11:29:16
>>844 九州ですが さん
>そういった資料も有りますよ
どのような資料でしょうか?
日本史板の常識
コテ=馬鹿
852 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 15:44:10
>>842 >バルディビア土器と酷似した縄文土器が発見されたのは跡江貝塚遺跡で、1961年
>地元の研究家により発見され県の史跡に指定されていた。
あなたは自分では、全くチェックしてない「あなた任せ人間」でしょう。
跡江貝塚遺跡とやらをネットで検索しても、土器の発見なんで出てこないぜ。
公的な場所で出てきたのは石器と人骨の一部で、縄文土器なんて個人が発見したと証して
個人的に持ってるものじゃないかね。
それも発見日時や具体的発掘場所や証人もいない、証拠価値に疑問がある代物。
話が大袈裟なだけで中身なし!
853 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 15:56:04
>>恵也 ◆o4NEPA8feA
見苦しい。馬鹿コテは逝ってよし。
854 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 16:02:10
>>849 >あと、日本語文献とグーグルしか使えない奴は役に立たないよ。思考停止
根源的思考力のない人間には、どんなに英語文献が読めようと、考古学的文献を見れる立場に
タマタマ恵まれていても、宝の持ち腐れ。
そういえば南京大虐殺でテレビに出てた東中野修道教授も、英語の文献や中国語の文献を
読んでトンチンカンな理論構成をして、南京大虐殺を幻だと言われておられたな。
あなたも根源的思考力に欠陥のある自称専門家人間じゃないの。
東中野教授は、東ドイツ社会主義の研究や吉田松陰の研究では専門家ではあっても、
過去の歴史的事実を調べる歴史学の専門家じゃありません。
−−−−−(引用開始)−−−−−
誰が切り抜いたのかも、いつのものなのかも、何新聞なのかもわからない、一片の新聞記事の
切り抜き、ということであるようです。
どうも氏は自分の「発見」に舞い上がってしまったようで、他の史料に全く登場しない「中華
民国政府顧問の・・・ベイツ博士」という表現に対して、いろいろな史料から多面的にその正
当性を検討する、という当然の手続きを、すっかり失念しています。
http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html
855 :
太国:2007/01/06(土) 16:08:14
恵也氏は頭脳明晰、学がありすぎて逆に失敗をす拾うわけだよ。
用心にこしたことはないが、これにおいては今のところ「参考にする。」
って言えばいいわけだ。あとでおかしければ、そのときでも批評すればいいさ。
程度の軽い津田病患者らしいな?w
856 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 16:09:40
>>849 >話は有名なんだけど、君はしらないんだね。ふ〜ん。
悪いがあなたの紹介してくれたHPは、ついさっき自分で見つけ調べて書き込みしてる。
その縄文土器がどこに展示してあるのかさえ判らないのじゃないかね。
俺は個人所有のものと見てる。
跡江貝塚遺跡で検索しても、公的なところの出土品として縄文土器は俺の検索範囲では
出てこない。
よってアンタは落第!
857 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 16:57:30
根源的思考力のない人間⇒恵也 ◆o4NEPA8feA
謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!にしろ、このスレにしろ、
唯の粘着じゃない? ま、前からそうだが。
>>849 あいつはねこの板の厨房あらしなので無視して進めてくださいね。
◆スレッドに書き込むときの注意◆
●レスを付ける時はレスを全部読んでからにしましょう。
既出の話題をむしかえすと、議論の妨げになります。
●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
858 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 20:19:50
おっ。コテのみんなが新年そうそう元気だ。うれしいなあ。
859 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 20:32:53
860 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 20:45:55
>>857 恵也さんは知識が凄いですよ。ただ反論を恐れず、主張がはっきりしている為、
反発を招きやすいだけで、僕は好きですよ。切り口が。
彼のは読んでいてなにかこうスカーッとさせてくれる。
太国さんも、自分の説を堂々と貫くので、勇気があると思います。
でも、実証が困難なのが、難点ですね。
プラムさんはお忙しいのでしょうか?病気でもしてなきゃいいのですが。
861 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:47:46
みんな病気だろうが、ここのコテは。
862 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:02:57
邪馬台国がどこかは決定的なことは分からない。
でも、近世の朝鮮通信使が一つのヒントだ。
彼らは瀬戸内海の港を各駅停車して、京城から大阪まで
行きが40数日、帰りが70数日だった。
そこで、これを念頭に考えてみる。
中国帯方郡(ソウル)〜釜山から水行したら、どこへ行きつくかな?と考えたら
対馬海流の影響で、まっすぐ南へ行く様な感じでも、流されて
出雲あたりに行き着くんだよね。
そこで、だいたい、20日あたり。そこが投馬(ズマ?)国か。
人口5万戸といえば、当時の大家族から考えたら、およそ50万人くらいか?
となると、戦国時代の尼子氏が、出雲・伯耆・因幡・美作あたりの所領で60万石。
で、そこから水行10日、陸行一月のコースといったら
若狭か丹波の沿岸から入って、そこから徐々に陸行して畿内南部へ入るぐらいのコース。
邪馬台国7万戸ってどれくらいよ?と考えたら
戦国時代の石高で、大和・河内・和泉で83万石。
なんで、投馬国と邪馬台国だけ、あういう違うような書き方をしたかだだ。
863 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 21:04:11
>>861 >みんな病気だろうが、ここのコテは。
病気とは実生活に影響するほどの苦しみを、本人に与えるから病気と名付けてるの。
ここのコテで生活に悪影響があるほどの精神病患者はいないんじゃないかな。
むしろ名無史さんで神経症とかになっておられる方が多いようだ。
コテを付けれる位の自信家なら、そんな繊細で神経質、かつ多勢の人の後ろで隠れて発言
したがる神経の持ち主は、少ないだろう。
コテの連中は、ただの熱中したがる暇な人間だよ。
日本史板の常識
コテ=馬鹿
865 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 21:32:19
>>863 むしろ名無史さんで神経症とかになっておられる方が多いようだ。
コテの連中は、ただの熱中したがる暇な人間だよ。
笑わせていただきました。僕も同感です。
866 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 21:34:05
>>862 >対馬海流の影響で、まっすぐ南へ行く様な感じでも、流されて
>出雲あたりに行き着くんだよね。
根源的ミスがある。
魏の使節団が、南の方向を目指して船を進めたと書いてあるわけじゃない。
真夜中の星空が常に見えたり、ジャイロが卑弥呼の時代に存在したならともかく
可能性としては昼間なら磁石くらいのものだろう。
磁石による方向指示は、磁鉄鉱などの鉱床がある場所では全く役に立たない。
また磁石を使ったというのは、もっと時代が下がるという。
あなたに真昼間に、そういった現代的な道具もなしに南の方向が判るだろうか。
魏の使節団ともあろうものが、星空の見える真夜中にだけ旅するはずがない。
現代科学を知ってるあなたでも出来る旅の仕方を考えなさい。
よってアンタは落第!
−−−−−(引用開始)−−−−−
ジャイロスコープの非常に古典的なもの。回転軸が一定の方向で保たれている。
http://www.s-graphics.co.jp/tankentai/news/gyroscope.htm
>>864-5 ここは2ちゃんであります。2ちゃんのデフォは名無しですよ。
868 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/06(土) 22:15:39
>>867 今度からは是非堂々とお願いします。
ところでおたくは畿内説ですか?ネーミングからしてそのようですが。
869 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/06(土) 23:58:34
>>862 >彼らは瀬戸内海の港を各駅停車して、京城から大阪まで行きが40数日、帰りが70数日だった。
俺は朝鮮通信使が、江戸まで往復半年180日かかったという記事を読んだ事がある。
あなたが書いた京城から大坂まで40数日って、何回目の通信使なんだね?
下のHPでは8ヶ月、240日往復にかかったと記されてるぞ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
通信使一行は朝鮮国から約450人、案内・警護する対馬藩は藩主以下約800人、道中では各藩から
接待・警護等で2000人を超える人々が動員され、八ヶ月前後の日数をかけて江戸を往復したそうです。
http://www1.ocn.ne.jp/~mori58ma/Tsushima/text/Yokoso2.html
870 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/07(日) 00:03:52
>>860 九州さん
>プラムさんはお忙しいのでしょうか?病気でもしてなきゃいいのですが。
「正月ぐらいはのんびりとほどほどに」 と、いうことで
871 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:38:16
>>846 829だが、知りたいのならご自分でどうぞ。1から10まで与える必要はあるまい?
ネットで拾えるのなら君が拾えばいい。小職は849氏のように「親切」ではない。
そんな教えて君サービスに期待する程度で落第等と勝手に小職を評価するのは君
の自由。別に知る必要もあるまい。
知りたい奴は自分で探すのが道理。小職はこの掲示板に趣味で書いてるだけだ
から。知識というものがタダでもらえて、タダで教えてもらえるという考えで
は大学が潰れるからね。正規の論文として読めたいのなら、それなりのところ
へ行き、それなりの対価を払い、自ら入手すればいい。
君の知りたい北米西岸の中国製石錨・鉄製品については、カリフォルニア大学バ
ークレー校の人類学科のE・W・ギフォード(当時:人類学博物館主事)・ロウィー
博物館、サンディエゴ大学のジェームズ・モリアテイ、ローランド・ホイネ等が
発掘・収集し、現在「アメリカ自然史博物館」「フィールド博物館(シカゴ市)」
等に展示収蔵されている。"日本製の槍"は別の博物館である。
HPですべての収蔵品を掲載してるかは関知しないが。
石鐘健教授が個人HPを持っているかは知らない。談話程度の内容で石錨の比較画像
HPを作る者はいるだろうか? それもインターネットも普及前の話である。折江省だ
から広東語でもう一度調べてみるがいいのでは。暇人なんだろ?君は。
北米の先史時代の禁忌・謎とされているのが北米西部〜南西部から出土する「ヨー
ロッパ起源でない鉄器」「窯焼技術を知らなかったネイティブインディアンが焼い
た釉薬土器」「大航海時代以前にネイティブインディアンが所有していた中国銭・
銅鈴」等である。
邪馬壹国が大陸(魏)・半島との鉄の輸出入を独占し、呉からの交易ルートがなかっ
たのだとしたら倭国内部での地位と出雲系との関係も説明がつく。
そして古代太平洋を横断する「鉄の道」があったかもしれない事を魏志倭人伝は示
唆している事になるだろう。
872 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/07(日) 10:30:52
>>871 >829だが、知りたいのならご自分でどうぞ。1から10まで与える必要はあるまい?
俺が教えてもらいたいから書いてるとでも思ってるのかね、アンタ?
教えて「クレクレ病患者」には俺は辟易してるけど、アンタのはトンデモ話「丸写し病」
自分でチェックしたわけでもないのに、トンデモ話を書いた雑誌をそのまま信じて知った
か振りをしたいだけの世間知らずの学生だろう。
世の中にはゴッドハンドという異名をとった旧石器時代の捏造男さえいるもの。
この場合は毎日新聞記者が、やっとこさ捏造現場をビデオに取り写真を突きつけることで
表沙汰に出来たんだよ。
表沙汰になってない捏造男は何百人もいることだろう。
ゴキブリを1匹見つけたら、30匹以上のゴキブリが家にいるという。
あなたも空想ばかりしないで、少しは世間の嘘を見分けるくらいの大人になりなさい。
873 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 11:30:01
>>871古代太平洋を横断する「鉄の道」があったかもしれない事を魏志倭人伝は示
唆している事になるだろう。
うーん。さすがにこのくだりはちょっとねえ。太平洋横断したといっても漂着に近かったんじゃないかな。
小動物でも木切れに乗っかって、とんでもない遠方まで、流され、そこで又繁殖した例も多いようだ。
昔の航海は海流、季節風などの条件が整っていた時期限定だったのかもしれない。
日本の場合も、ラピタ人、華南人、越人などが黒潮に乗って漂着し、縄文人を形成していったのだろう。
日本語が同じアルタイ語系であるにも拘わらず朝鮮語と大きく違うのは、子音と母音の響きの別。
日本語は、ポリネシアなどと同じ母音の響く言語。初期の縄文時代は、多民族で構成されていた。
余談だが、初めて四国に行った時、東南アジア系の顔をした人がいるのに驚いた記憶かある。
明らかに九州人の顔立ちとはまるで違ってる人がいた。
874 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:03:34
日本史板の常識
コテ=馬鹿
875 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 12:36:26
>>544 :日本@名無史さん :2006/12/28(木) 22:26:49
>>540 九州ですが氏は、木槨を使用した弥生〜古墳期の墓を、いくつ知ってる?
まだ答えてませんでしたね。
あくまで木槨木棺墓である畿内のホケノ山古墳を、邪馬台国の葬制とは違うという事で否定している部分であり、
卑弥呼の墓は、木槨木棺墓だったという説は、まゆつばもの。葬制は伝統であり、突然和式が様式に変わったりはしない。
魏使来倭の時代には北部九州では甕棺墓が全盛期を迎えており、その他の墓も墓室の無い倭人伝の記述に合致する。
以前、北部九州にも木槨のある墓があるではないか、という人がいたが、墓の年代をずらしたりして詭弁。
876 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 14:23:08
>>875 の木槨木棺墓については、安本氏が指摘している事でもあり、
畿内説者が、安本氏に対して、過度に反応し、敵意をむき出しにするのも
彼のこの論等が、畿内説に引導を渡すものであるという事を熟知しているからでありましょう。
以来、この説に異論を挟む者は無く、依然として破られていない事の一つとなっています。
彼のすべての論を肯定するわけではありませんが、少なくとも、この点に限っては正論であり、
一言にして、邪馬台国畿内説の迷妄を破って九州説正し、との決着を付けるものとなっています。
877 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/07(日) 15:48:46
>>876 >彼のこの論等が、畿内説に引導を渡すものであるという事を熟知しているからでありましょう。
確かにそれはいえてる。
人間が感情を高ぶらせて怒る時には、自分の気づかない欠点をモロに指摘されたときに生じるもの
畿内説の連中には、決して認めれない倭人伝の文章が「死ぬと棺に入れるが墓室のようなものは無い」
という言葉だろう。
878 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/07(日) 16:11:06
>>876 >邪馬台国畿内説の迷妄を破って九州説正し、との決着を付けるものとなっています。
平原遺跡の2号墳が直径10mくらいの円墳で、築造が西暦200年〜250年
木棺で長さ1.7m、巾0.7m。
卑弥呼の古墳は、直径30mくらいと推定できるからこの形式と同じようなものだろう。
今までまったく古墳を作ってなくて、突然こんな30mもある古墳を作るとは考えれ
ないので、このくらいの古墳を作っていた技術的実績の上で30mの古墳を作ったんだよ。
だから直径10mの古墳は、卑弥呼以前に気軽に作っていたお墓の流行と見るべき。
−−−−−(引用開始)−−−−−
溝から土器片が出土しています。この土器と2号墓付近から出土した土器を参考にすると、
墓が作られた年代は弥生時代終末から古墳時代初頭(西暦200年〜250年前後)にか
けてと考えられます。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html
879 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 16:32:59
>>878恵也さん
全くそう思います。向こうのスレでは邪馬台国に決着とか言ってるけど、
実はここの時点で、畿内説は完全に終わっているのですよ。
880 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 16:43:11
魏の役人の伊都国滞在記の限界だな
881 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 16:54:57
>>880 違いますよ。それを言うなら「魏の役人の伊都国滞在記の限界」なのではなく、
これに答えられない畿内説に限界があるのでしょう。
でもおたく{伊都国滞在記}とかいって僕の説をよくしっているみたいね。
882 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:12:30
九州ですがの説なぞ知らん
伊都国滞在記なら伊都国までの習俗だろう
883 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:15:23
>>875-876 中国人にとっての槨って
中国皇帝の巨大な墓みたいな巨大な部屋みたいなものだろう?
そんな中国人が見たら、日本の槨って、槨の内に入らない
ちっぽけなものだったということだろう?
884 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:20:32
そんなものどこまで本当か分かったもんじゃないよ。
遠い国の話なんてみんな適当だ。
885 :
河童:2007/01/07(日) 17:23:51
886 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 17:36:18
>>883ならびに
>>881 これは槨の定義の問題だな。
日本の墓制だけを対象にした定義と、帝国の墓制を取り込んだ時の定義ではかなり違いが有るだろうから
そこで“九州ですが”氏に質問だ
貴方の説の基準は、国内墓制だけを比較しているような傾向であるようだが、
何を根拠に「国内」だけに範囲を絞るのか?
倭人伝は帝国側の書物ですが。
887 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 17:59:21
>>882 それそれ。それが聞きたかったのね。失礼しました。でも、よくよく考えてみようではありませんか。
たとい伊都国までの記述だとしても、倭国全体のことだとしても、棺あって槨無し、の記述に畿内は合ってないと思いませんか?
888 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 18:06:17
>>883 それでは倭国には槨のある墓が皆無という事になってしまう。
しかし、隋書倭国伝には、はっきりと、「墓を造るに棺槨をもってす」
とあり、きちんと書き分けられているのですよ。
889 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 18:12:06
>>884 魏使は、葬制に一方ならぬ関心をよせていて、倭人伝のほか、魏史韓伝、
魏史扶余伝なども、墓のありようを詳しくいちいち書き分けている。正確にです。
>>888 その発言はあまりにも悠意的であり、尚且つ誘導性を伴うのではないか?
隋書の参考史料と、魏書の参考史料では、時系列で違いが有り、それを比較することは極めて安易的ではないか?
891 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 18:28:42
>>886かっぱさんへ
帯方郡、楽浪郡は、いわば朝鮮の中の中国の領土というようなもので、そこには
当時の漢の様式が凝縮されており、同時に朝鮮様式に触れる機会も多かった。
私が>888で触れたように、倭国だけではなく、近国の葬制にも魏史は詳しい記述を残していて、
さらに隋書倭国伝のように、古い文献を基にしながらも、時代に即して葬制を記しているので、
倭人伝は信用できる文献だということを証明していると思います。
892 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 18:34:43
>>890 中国人が、槨というものを、どのように捉えていたかを証明する為の、引用です。
三国時代と、隋代ではそうは違いが無いと思うからです。
893 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 18:52:56
>>892 >三国時代と、隋代ではそうは違いが無いと思うからです
違いがないとする理由はなんでしょうか?
894 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 19:22:31
>>893かっぱさんへ
葬制の伝統はそうはころころ変わりません。私が>889で言ってるように、
倭人伝と同時代の「魏史韓伝、 魏史扶余伝なども、墓のありようを詳しくいちいち書き分けている」
のであり、その中に、棺、槨などを書き分けてあること、木槨木棺墓が、朝鮮半島を淵源とすること、
などから、倭人伝の記述は信憑性が高いのです。
895 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 19:31:38
東方見聞録みたいに、伊都国見聞録にでも改題すれば良いんだよ
魏の役人はマルコポーロと五十歩百歩だろ
896 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 19:34:01
>>894 九州ですがさん
え〜とですね。倭人伝の信憑性が確認出来る事と、時間の経過した隋書の記載のどの辺りが参考になるのでしょうか?
それに、魏書の対象範囲と隋書の対象範囲の設定はいかがでしょうか?
897 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 20:06:23
>>896 倭人伝の信憑性が確認出来る事
答え
「倭人伝と同時代の「魏史韓伝、 魏史扶余伝なども、墓のありようを詳しくいちいち書き分けている」
のであり、その中に、棺、槨などを書き分けてあること」
>時間の経過した隋書の記載のどの辺りが参考になるのでしょうか?
答え
葬制の伝統はそうはころころ変わりません
木槨木棺墓が、朝鮮半島を淵源とすること、
特にこの2つ目は、中国から見て外国である朝鮮半島の事。
そこから倭国に伝播したと考えられるので、中国から見て、同様の文化に映るはず。
倭人伝には、「棺あって槨無し」、隋伝には、「墓を造るに棺槨をもってす」 という
明らかな違いがあることが、前史書の丸写しではない事を、表している。
898 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 20:56:03
>>895 後漢書に記載されている光武帝紀の倭奴国朝貢記事(AD57年)、
安帝紀の倭国王帥升の生口160人献上記事は、陳寿の三国志の魏志
倭人伝の卑弥呼の生口の数の比ではない。卑弥呼以前の分立国家期に
邪馬台国より国力のある王国がなかったという証拠はない。
邪馬台国以前にも卑弥呼の墳墓よりも巨大を誇った者がいても何も不
思議もない。使通する国は邪馬台国だけではなかったのは中国側文献
の通り。
逆に邪馬台国は遠方の中国の新興国である魏に、何ゆえ使いを送らね
ばならなかったを解明すべきである。
後ろ盾を欲するものは普通、弱者なのだから。
葬制の伝統は簡単に変わるケースがひとつある。それは支配者の交代
である。支配者の信ずる神・支配者の信ずる官僚精度・支配者の信ず
る世界観、それが古代にあって絶対のものであった。
たかだか1国が数百・数千レベルの文化・習俗は戦乱淘汰で消滅した
であろう。
また日本は大陸・半島から常に最先端の土木建築技術・絵画装飾技術
・葬制慣習を「学ぶ」立場にあった。
先端技術・統治制度・衣食住の習慣はすべて大陸・半島からもたらさ
れ不可逆性がない点から考証すべきであろう。卑弥呼の使いが帰国後、
見聞した中国の葬礼の棺槨の造営を日本でマネたのは至極普通だ。
899 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 21:03:52
>>897 九州ですがさん
倭人伝記載の“槨なし”とはどの地域を指すのか?
また、隋書倭国伝の“棺槨あり”とはどの地域を指すのかと、言うことですよ。
900 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 21:11:58
>>899かっぱさんへ
槨なしとは北部九州、棺槨あり”は、畿内に隋使が来て見聞したと考えられます。
901 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 21:32:18
902 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 21:35:55
903 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 21:37:15
>>895 魏の使いは確かにそこまでしかしれない。しかし中国では漢の頃から既に
日本周辺からさまざまな文物の流れがあったことが科学院では知られてい
ることが分かっている。
例えば紀元前500年頃に書かれた「爾雅」に綸草・組草として綸布(昆布
)が既に記録されており、中華食材の中の伝承として黄海沿岸でも獲れるが
東夷の地に産するものが極上とされていました。
それらは黒竜江経由で津軽海峡からもたらされていました。日本の平安時
代中期の頃までには航路が開発され、中華船は小浜・十三湊まで交易しま
した。後に室町時代に琉球王国経由で広東・南越へも昆布の販路は広がり
ました。
もともとは中華で珍重され、大陸で取れない北方の宝、ほたてを求めての
探索が良質の昆布の発見につながったといわれているのです。
904 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 21:45:58
>>902 >まあそうでしょう
リアル考古学に対し、『まあそうでしょう』の意見でしょうか?
文献はそれほどもろいものですか?
905 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:00:37
魏の役人が伊都国どまりだったのは伊都国王こそが九州の王者だったから
つまり邪馬台国は九州の王者ではない
906 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 22:09:12
>>904「リアル考古学」
ってなんなんでしょうか。僕はかねがね考古学があまり信用出来ないと思っています。
新発見などにより、次々と説が変わって、当てに出来ない。証拠を示す当時の文物が一度に出揃うのは無理というもの。
それに比べて文献は、何らかの事実を指し示す、羅針盤といえる。
日本の考古学も、中国や、韓国の学者と足並みを揃えて、邪馬台国の研究を、して欲しい。
勿論、九州説、畿内説も合同で。そうすれば、もっとまともな史実が浮かび上がるはず。
「まあそうでしょうね。」 という返答は、こちらの曖昧さを表現しているのではありません。
おたくが次に何を言わんとするのかを想像して、そういう言い方になったのであり、
言い換えるなら、「そうですが、なにか」に相当します。
907 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 22:17:54
>>906 『リアル考古学』
見たもの全てであり、そこからの考察はリアルではありません。
『リアル文献』
書いてあるものだけが全ての世界であり、それ以外の考察は必要としない
908 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 22:25:10
>>906 >考古学は次々説が変わる
余計な考察をするから
Aという遺跡から鏡が出土しても、それはAという遺跡の鏡なのです。
それ以外の何物でもないのです。
909 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:30:04
隋書 東夷傳
> ?委國在百濟新羅東南水陸三千里 於大海之中依山而居 魏時譯通中國三十餘國皆自稱王
> 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海
> 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
後段は取り合えず良い
中段だ、「夷人不知里數但計以日」。つまりコレはこう云う事だ、
「コイツ等は里数なんかシラネェーから、〇〇〜××まで何日みたいな書き方は全部夷人が言ってる話で
オレ等はそれを書いてるだけ。勿論里数良く知ってる文明国のオレ様達が実際にちゃんと行った範囲なら
△△〜☆☆まで何里って書いてるんだけどな」
これが支那人の記述原理だろ
魏の役人は邪馬台国へは行ってない
910 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:37:03
そんな訳ない!
911 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:40:48
きっと倭人に狭い箱に入れられて何日も目隠しされたまま連れていかれたんでしょ?
912 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 22:45:12
>>907 なんか言ってることが良く解らない。
そういうのは言葉尻を取った屁理屈ですよ。
「>見たもの全てであり、そこからの考察はリアルではありません。」
だなんてありを得ない。考察が無いと、犬や猫に考古学的価値のあるものを見せるのと同然であるし、
「書いてあるものだけが全ての世界であり、それ以外の考察は必要としない」
もあり得ない。考察があるからこそ、文献も、考古学も意味を成す。
いうなら、妄想や想像だけを膨らませば、と言い換えた方がいい。
913 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:50:39
魏のお役人さんは実際に行ったんだけど
投馬国と邪馬台国に関しては里数の測り方を忘れちゃったんだろ
身分の安定した公務員にはよくある事
914 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:52:47
漢以降の国使として皇帝の使節が遣わされる場合、最低でも正使・副使、使衛・
尚書・使旗手等の他、測量・文物の目利きや下賜品の荷役がつき30〜40人程度
になる。倭は島国なので使船もついたろうから水夫もあわせれば80名程度だろ
う。
国使は皇帝の代理であり、皇帝の玉璽がついた封書を使い先の相手に直
接届け、その返書をもらってこなければならなかった。
戦乱や災害等の結果、途中で引き返す場合には書・下賜品も持ちかえら
なければならない。相手から返書をもらえない場合(文盲・未開)は、そ
の奏上を尚書が記述し、印綬を頂きもらうのが慣例である。
将旗等の旗を授ける場合も、これに準じる。
915 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 22:52:53
>>909 何故、夷人は里数を知らないんだ?
いいかい
夷人は里は知らないが、帝国側は里数も日も知っているということも事実なんだよ
日で書かれている事が全て倭人ではないということ
それを無視してはいけませんよ
916 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:53:24
そのお役人さんはウッカリ者さんですね><
917 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:58:24
>>908 日本の考古学者は、捏造だらけなのでまったく信用できない。
918 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:02:23
支那人が知っているのは里数の測り方であって、測った里数じゃない
測った里数を知っているなら魏志の時点で書いている
実際にどちら全部知って居る場合は現地へ人が送られて全部測定出来た場合だけ
魏志の草稿段階でその情報はなかったから書けなかった
919 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/07(日) 23:07:14
>>912 それは違う
考古学に信頼を持てないのなら一切考察から削除す可きかと
でなければ、ダブスタあるいはご都合的な取得となるからです。
920 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:12:50
中国は元々、大陸国なので、地上の測量技術にには強かったが、海上の島嶼
国家の「領土」の表現方法が少し難しかったのでは?
同じ海でも海流や潮の流れ、風向きで行きと帰りが同じ日数の行程で行けな
い。日本の江戸時代の北前船でも上り・下りは異なる日数行程だったからね。
921 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/07(日) 23:19:56
>>919 具体的にはどういったことを言ってるのか不明。
大体僕は考古学の年代測定にはそう深く踏み込まない。
でも、凡そどれくらいかの参考年代を指し示さないと、これまた説の立てようが無い。
具体例をどうぞ。しかし残念ながら、今夜はお寝みの時刻がまいりましたので、
又ご縁があればまた、まみえましょう。
922 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:20:11
彼等は支那の役人だ
末廬までの海路を里数で書いている以上、海路だろうが陸路だろうが
実際に行ったなら範囲なら里数で通せない理由はない
923 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:23:35
女王国の東の倭種の国を里数で書いてるから、女王国も行ったんだYO
924 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:26:05
>>873 漂着した難破船の遺物を見ただけで、鉄器や釉薬土器を1から作れるの?
大量の中国銭って何の為にインディアンは貯めてたんだ?
925 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:27:46
やっぱり船に乗ってる時にそのウッカリ者のお役人さんが里数を測るのをウッカリ忘れてたんですね><b
926 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:30:39
まあ、暇つぶしだな
927 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:35:43
女王国以北の道里をスルーしているのに、女王国の東を書くなんて連続性が断絶している
928 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:36:57
だからウッカリハ兵衛が原因何だYO
929 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:41:15
同じ船じゃないと何里進んだか測れ無いんだよ
魏の連中は松浦で下船してるだろ?つまり邪馬台国への船は倭人が用意した別の船なんだよ
だから里数が出せなかった
930 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:42:16
普通に考えて、もし、九州説の人が推定しているところぐらいに
邪馬台国が存在するのなら、
投馬国と邪馬台国だけ、あういう書き方をしないんだけどな。
普通に、不弥国のあとも、何里って書くだろう?
伊都国からすぐ近くなんだから、九州説の通りなら。
魏志倭人伝の著者は、直接は邪馬台国には行っていない。
ただ、中国人の中には、直接、邪馬台国に行った人もいて
その人から伝聞話を聞いたんだろう?
当時の中国人にとって、水行は、南に進んでいても
対馬海流に流されて、自分たちの感覚以上に東南へ突き進む。
しかし、いったん、上陸したら、ある程度、方角は理解できたんだろうな。
海の上では、なかなか正確な距離や方向ははかれない。
投馬国と邪馬台国だけ、違うような書き方だったとのは、
明らかに、それより前の記述である国々とは、遠く離れたところに存在したから。
墓の形態に関しては、中国人の中でも見た人によって印象が違うかったはず。
卑弥呼の墓を見た中国人と、後漢書東夷伝のネタ元になった中国人とでも
日本の墓に対して違う感覚を持ったはず。たとえ、同じような墓の形式だったとしても。
931 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:42:56
>>868 >今度からは是非堂々とお願いします。
意味不明です。私はいつも堂々としているつもりです。
>ところでおたくは畿内説ですか?ネーミングからしてそのようですが。
もともとは畿内説です。今は狗奴国東進説です。
933 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:47:23
>>929 女王国の東の里数を千余里としてるなら
その論法なら女王国まで直接魏の船が着てそこから同じ船で東に渡ってる筈なんでしょ?だから里数が出せた
934 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:49:25
投馬国と邪馬台国の人口も、一つの大きな
目安になる。
奴国が2万戸というのは、ほぼ20万石くらいだから
まあ、博多平野ぐらいにあったのは、大きさからも分かる。
しかし、投馬国5万戸、邪馬台国が7万戸というのは、正直に悩む。
この2カ国を筑後平野に収まらすことは出来ない。
投馬国は、南へ水行20日、邪馬台国は、南へ水行10日、陸行1月だから、
この両国は適度に離れているんだろうけど。
だとしたら、この両国の規模くらいの国を、
狭い九州(博多以南の九州)の中に離して設置させることは無理だ。
南にある国として、狗奴国もあるわけだし...
935 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:53:19
>>933 でも、その東の倭種の国については
あんまり分かってない感じなんだよね、魏の人はw
936 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:01:44
どんな解釈だそうが、古文書の、ましてや外国のものなんか梨の礫さ。
937 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:01:47
大体「海路」で里数なんてどうやって測るんだよ?
それって要するに元々「陸路」で役人が測った距離を知ってるから
魏志の中でも郡より、狗邪韓国まで7000余里とか書けるんだろ?
狗邪韓国〜対馬〜壱岐〜松浦が、距離に関わらず1千里なのは
船で一つ渡る度に、そこで一泊してたんじゃねぇーの?
海の真ん中じゃ海流で流されるんだから、船行は安全性を考えれば昼間だろ?
だから船行1日=1千里でソコは簡略化して計算したんだよ
この間の狗邪韓国〜対馬、対馬〜壱岐、壱岐〜松浦の一千里の換算の誤差が大きいんだよ
そう考えると、邪馬台国までの水行十日陸行一月って云うのは
魏の役人は陸路では邪馬台国まで行ったことがなくて
実際に測ってないから、何里あるかは書けなかったって云う事になる
それで海路で行った日数の水行十日を書いたんだよ
だから女王国の以北の里数が書いてない
陸行一月って云う情報こそが倭人からの伝聞
魏の役人が実際に陸路を使ってたら里数が解ってて書いてる筈なんだから
女王国から東の国も魏の役人は船で行ったんだ
これで全て説明が付いた?
938 :
河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/01/08(月) 00:01:56
>>930 >普通に考えて、もし、九州説の人が推定しているところぐらいに
邪馬台国が存在するのなら、
投馬国と邪馬台国だけ、あういう書き方をしないんだけどな。
普通に、不弥国のあとも、何里って書くだろう?
伊都国からすぐ近くなんだから、九州説の通りなら。
書かない。
区間行程はあくまで郡使通常往来の行程記事【郡使往来常所駐】と記載されている。
>魏志倭人伝の著者は、直接は邪馬台国には行っていない。
ただ、中国人の中には、直接、邪馬台国に行った人もいて
その人から伝聞話を聞いたんだろう?
そのような妄想考察が混乱の原因かと
939 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:06:20
邪馬台国論争って、ほとんど宗教対立と一緒だな。
お互いの思想同士が、ものすごく憎しみあっている。
こんなもんは、所詮、学問や研究のひとつだから
もっとお互い仲良く出来ないものかね。
はっきりいって、両方の意見とも、何とでも言えるから
きりがないんだよ。
940 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:07:37
941 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:13:45
魏の将軍とかその周辺の中で、邪馬台国にも行ったし
卑弥呼の近親にも会った人もいる。
しかし、魏志倭人伝を書いた著者は、それらの人物とは別人。
魏志倭人伝を書いた人が全て、倭で体験して書いたものではなくて
そういった他人の情報も織り交ぜて書いている。
おそらく、卑弥呼の墓を目撃した中国人は
魏の中でも偉い将軍クラスとかだから、
中国の皇帝の大規模な墓とかも目撃したことがあって
それから見たら、邪馬台国の王の墓なんて、小規模だったんだろうね。
いや、中国の皇帝の墓は、なかに一つの宮殿があるぐらい凄いからw
942 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:15:38
>>939 同意。冷静に見たら、このスレの意見もほとんどが茶番劇だ。
943 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:19:22
むしろ邪馬台国論争に見る、日本国内の対立「副題:日本国内の異民族の歴史」
みたいな本でも誰か書けばいいのに。
944 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:26:16
>>937 そうだよなw 普通、海の上でどうやって距離を測るんだ?w
そこからして、間違いが起こっている。
また、魏志倭人伝を読むと、
不弥国までは一つの流れがあるけど、
投馬国、邪馬台国からは、明らかに書き方からいって
それ以前の国々との流れが断絶している。
945 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:39:49
南至投馬國水行二十日なんかも陸路で魏の役人が実測してないから
こう云う書き方なんだ
何故なら陸路で行くには遠いから
邪馬台国へ船で行くのも遠いからだろ
そうすると北部九州はないんじゃないの?
しかも投馬國に関しては陸行の距離が書いてないから
倭人も北部九州から陸路では行かなかったんだろう
でも水行二十日って云っても補給しないと行けないから
そこまで行く間には魏に通じてない国が幾つか点在はしてたって事が考えられるかな?
取り合えずまとめると
「水行」で里数の基準は、陸行で測った値とイコールであり
予め陸路で距離を測定している場合にのみ里数を書けるのであって、
実際に水路(海路)での里数を測定している訳ではない
「渡海」などは、1日を1千里として換算しているのであって、
実際に海路(水路)での里数を測定して書いている訳ではないし、実測はそもそも出来ない
倭人は陸行での日数は知っている
これでいいかな
946 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/08(月) 01:25:20
>>945 >取り合えずまとめると
「水行」で里数の基準は、陸行で測った値とイコールであり
予め陸路で距離を測定している場合にのみ里数を書けるのであって、
実際に水路(海路)での里数を測定している訳ではない
「渡海」などは、1日を1千里として換算しているのであって、
実際に海路(水路)での里数を測定して書いている訳ではないし、実測はそもそも出来ない
倭人は陸行での日数は知っている
これでいいかな
間違いなく却下されるでしょう。
947 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 01:29:27
>>945 あと、もう一つの注目なのは、投馬国と邪馬台国の人口。
投馬国が5万戸、邪馬台国が7万戸。
当時は、奈良時代の戸籍から推測するに
一家族で10人くらいはいる大家族だから
それから推測して、投馬国は約50万人、邪馬台国は70万人。
戦国時代の石高として考えれば、投馬国は50万石、邪馬台国は70万石。
これぐらいの大大名を九州のどこに入れるかだ。
奴国は2万戸だから、約20万石くらい。
戦後時代の筑前が34万石だから、博多沿岸の奴国はほぼ当たりだろう。
じゃあ、それよりも以南で、どこに投馬国と邪馬台国を入れるか?だ。
魏志の書き方だと、投馬国と邪馬台国はそこそこ離れているだろう?
だとすると、九州の中に、この2カ国を当てはめるような土地・平野など存在しない。
日向は戦国時代で12万石程度だ。もし、
日向のうちにこれらの国を当てはめようとしたら、
その国は日向一国に治まらないから、当然、薩摩・大隈もあわせた領域にしないといけない。
でも、そんなことしたら、南の狗奴国をどこに当てまめればよい?
いずれにせよ、九州説の中でも有力な 邪馬台国=筑後平野 は無理。
948 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/08(月) 01:37:31
>>947 その意見はあまりにも単純な比較。 三世紀と八世紀の住宅事情のカキコがなく、単純比較されている。
949 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 01:59:31
鍋島藩(佐賀)、立花藩(柳川)、秋月藩(甘木)で70万石
そうか、筑後平野か
出雲は尼子(山陰)で50万石だから、そんなもんか、納得だね。
950 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 02:04:55
>>949 そうだよな。出雲(いずも)=投馬(ずま)の可能性がある。
で、邪馬台国だけど、もし、筑後平野に邪馬台国があるのなら
不弥国や伊都国から陸路で何里って書くんじゃないのか?
そんなに遠くないわけだし...
951 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 02:06:53
>>948 住宅事情が時代によって急速に変化したのは
近代人、現代人の価値観だろう?
たしかに、現代人はここ50年、100年で
全く違う世界くらいに変化したけど
前近代というのは、成長率が低い社会だから
3世紀も8世紀もそんなに変わらないだろう?
952 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2007/01/08(月) 04:49:55
>>932「ここは2ちゃんであります。2ちゃんのデフォは名無しですよ」
に対して言ったものですが。
「今は狗奴国東進説です」
ほう。それは興味深い。ゆっくり聞きたいがもうすれも950超えてますね。
仕事から帰ってもまだ書き込めればいいですけど。
953 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/01/08(月) 07:40:54
>>881 >でもおたく{伊都国滞在記}とかいって僕の説をよくしっているみたいね。
その説の欠点は、邪馬台国が上海の東に当たるという記事で否定される。
邪馬台国に魏使が行く事が出来なければ、どこの東なのか測定する事は現在の科学でも不可能。
954 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 07:50:32
>>934 「万戸」は中国の三国志の時代の人口単位なのか、住宅単位なのかは、魏志倭人伝
の全体をなす三国志全体の表現から再調査すべきだと思う。当時の里の単位、径何
歩という表現についても、現代や、日本国内の度量衡に簡単に当てはめるのは、と
ても危険な行為だと思う。
955 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 08:19:45
>>827 お歯黒は仏教と同じ頃、僧侶によってもたらされた。
それ以前の古代の人骨からはその証跡はみつかっていない。
日本に伝わったのは6世紀頃、鑑真からもたらされたと言われており、
正倉院にもその品がある。
956 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 08:49:09
陸行1月=水行10日=75km。
不彌国から邪馬台国=水行30日=225km。
邪馬台国は宮崎市。or式です。
957 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 08:59:24
日本人て、1500年前さえ何もわからないのですね。
958 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:08:39
ここは中学日本の歴史レベル程度でレスが進行していますが、何時までこの状況が?
959 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:19:41
>>956 日向の国って、戦国時代ですら12万石だよ、たったのw
邪馬台国が収まるには小さすぎる。
日向だけじゃなくて、鹿児島あたりを支配下にしないと無理。
しかし、それだと狗奴国をどこに持ってくるのだ?
960 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:21:57
>>955 『使驛と驛使』『使譯と譯使』が違うように、『歯黒と黒歯』は意味が違うだろう。
貴方の言っているのは『歯黒』倭人伝の記載は『黒歯』 いいかげん気付いてくれ!
レベル落ちる一方だから
961 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/08(月) 10:26:53
962 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:44:19
963 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:03:22
あの二人は半島民だ。相手にするな
朝鮮民族九州征服説。