クリスマスに立てたのか湯名人は暇だなwww
スレたてた人乙!
第二巻をずっとロムらせてもらったよ。
信長、濃姫、生駒その他の側室の事実関係がはっきりしてきた。
率直な感想だが、生駒が信忠の生母には疑問を感じるようになった。
生駒って我々が思うよりもはるかに織田家にとって存在感のない
側室だったよう思えてきた。生駒家だけがその功績を残し、
さらに第三者が武功夜話で従来の生駒像を定着させていったイメージだな。
5 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:59:09
重複してんだろ。いい加減にしろ。
織田厨は信長のみならずかみさん贔屓もウザイんだな。
しかも編集人の主観入りまくりのwikiを参考にってもうねw
オナニー討論したいだけなら戦国板でやりゃいいのにさ
信長最愛の恋人といわれた生駒も晩年寵愛したというお鍋も子供を3人産んでるけど
その後ばったり産まないのはなぜだい?
単純に信長と床をともにしなくなったということなんだと思うんだけど、
寵愛が深かったということと矛盾してないか?
子供を3人も多く産んだから、この二人への寵愛が深かったと
思われていただけ?だったりして。
>>6 Wikiに文句をいえば?ここでそんなこと書き込まれても迷惑なんだけど。
>>7 生駒やお鍋を信長が寵愛したって、何を根拠に言ってるの?
その認識もはや古杉
男子を産んで側室の仕事が終了したら、お床入りも終了しただけのこと。
>>8みたいな文盲レスが付くとはヤキがまわってきたか?
のっけからいやに荒れてるな。
いやならこなきゃいいのに。
結局みんな濃姫好きなんだね。
いやなら戦国板でやればいいのに。
結局濃姫好きの人たちって勝手なんだね。
そもそも類が信雄生母と断定はできてないはずだぞ。
武功は嘘だ、土田弥平次の後家でもない、
と生駒に関しては謎が多いままなのに、
類が生駒だとどうして断定できるんだ?
生駒と推測される女性が生駒家に偽装工作されている可能性があるな。
生駒マンセーの最近の傾向は、生駒は弥平次の後家ではないので、
信忠の生母になんの矛盾もないんだ、って言い張る。
生駒家の家系図で婚姻関係がはっきりしてるのに。
それでいて、信忠、信雄、五徳の生母である根拠が生駒家の
家系図に記されているから、なんだよ。
一級史料でないにしろ、書いてあるんだから無視できないだろうと
むきになってくる。
ずいぶんご都合主義だよな。
>>12 類と断定できないというのは、言い過ぎだと思うね。
類というのは生駒家に伝わっている名前だからだ。
しかし、武功夜話で吉乃が前面に出てきてしまったので、
類という名前が無視されているだけの話。
また、信雄生母と限らないというのは貫あげにくい。
生駒家で類と伝わる、生駒氏女は、なんで信雄が喪主をつとめたというんだ?
信長は、何故信雄を通して久昌寺に知行を与えてるんだ?
信忠に関しては、確かに当時の史料で関係を直接示唆するものはない。
だが、信雄の生母が生駒氏女だというのは、特に疑う必要はないと思う。
>>15 間違いです
>貫あげにくい×
考えにくい○
生駒マンセーも濃マンセーも傍から見れば同じレベルでご都合主義。
濃以外の話題は遠慮と言いながら指摘されれば信長に関することだから
何たらと都合よく信長を使うのだから人のことはまず言えないだろ。
マンセー同士の叩き合いがしたいなら他板へ逝け。
そして二度と史板にこんなスレ立てるな。
18 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:51:44
>>6 某信長好きサイトの知人数人と飲んだ時にこのスレのことが
話題になったが内容に関してみんな冷笑してたぞ。
正室も側室も懸命に生きて信長を支えたのだし、信忠の側近が
美濃関係者が多いというのは確かなことで、生母が誰だろうと
別に史実がひっくり返るわけでもないのになってね。
>>15 よくしらんが、その久昌寺の墓は確かに「類」のものなの?
つまり、後年「これはどうやら家系図によると信雄の母親の墓みたいで
該当するんはたぶん類さんの墓だから」とかなんとかで、類さんの
墓ということになっちゃっとか?
濃姫の墓もそんな感じじゃん。
消去法でこれは濃姫以外考えられない、ということでとりあえず
そうなってるけど、決定的なものってないのでしょ?
>>18 生駒家子孫にとっては命がけで守るべきことなんだろ。
生駒家にとって織田家嫡男の生母が生駒だというのが
唯一の自慢話だったんだから。
武功夜話が偽書なんだから、生駒が信長の最愛の女性、
なんていうのも作り話。
嫡男生母が最後の砦だもの。必死なわけだよ。
21 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:35:14
>>20 必死というが生駒家の末裔と直接会ったり話したりしたことあるのかよ。
塩川のところみたく堂々と言っているなら別だが。
>>18 リアルで2ちゃんのスレの話なんてしてるのかよ。
キモイ
濃姫の話しようぜ
>>18 濃姫好きだからといって、ほかの女性を馬鹿にしすぎだよね。
側室たちだって>懸命に生きて信長を支えたのだろうし、に同感。
信忠だって「母の出自が低いコンプ者」呼ばわりされたり気の毒だ。
彼は織田家の家督をついだ者として死んでいったのだし
閨閥事情がどうあれ、歴史が変わるわけもなし。
新スレ立つ頃には、必ずスレを立たせたくなさそうな人間が荒らしにくるのはなんとかならないものか
関連スレの多さを見てもわかる通り他にも議論できる場が
いくつもあるのに新たに個別スレを立てるからやられるということに
なんで気づかないのかと。
前スレの進行からしてお濃の話だけしたいからなんていう寝言は
もう完全に通用しないよ。
側室といえども、ここの一般庶民に可哀想がられるほど身分は低くはない。
変な哀れみをかける方が逆にバカにしてるように思える。
生駒の墓の横に柱がたってて、戒名と『吉乃の墓』と書いてある。
『吉乃の墓』とある時点で、断定材料は武功夜話だとわかるし、
そうなると墓の信憑性も怪しいなと思ってるよ。
生駒家に類という女性がいたのは事実だとしても、
はたしてその女性が信長の側室になったのか、どうかは
推測の域をでていないと思う。
側室になったのは生駒家のまったく別の女性だった可能性もある。
そもそもあの墓は後年建立されたものだしね。
それと信雄が喪主になったというけど、生駒が亡くなった当時は
まだ8歳。喪主をつとめたのは本当か?と疑問だった。
だいたい久昌寺って『久昌寺縁記』で「吉乃を失った信長殿は、
小牧山城の望楼に登り、はるか西方、小折新野葬地に向かい、
涙して佇む日が多かった」なんて伝えているところからして
怪しい寺。
>>28 吉乃、とあるということは久昌寺縁記って武功夜話が作られてから
付随して作られたものってこと?
>>29 あれ?しらなかったの?久昌寺縁記って偽書だよ。
生駒って織田家嫡男生母のわりには戒名も墓も粗末だよね。
秀忠生母のお愛の方は死後秀忠が「宝台院殿松誉貞樹大姉」と
謚名をしたり、埋葬されている寺も徳川が全面的に保護してる。
信雄の生母の墓でもあるのに、織田家に関するものが何もなく
生駒カラーのみというのも不思議なもんだ。
ちょっとスレから逸れるけど、
大河ドラマや著名小説の流行にともなって
実際の名でもないのに「○○の墓」と標識がたったり
ただの供養塔を墓と宣伝して観光地になったりする。
困りものだよね。
>>31 信雄自ら自分は信忠と同腹の生駒の子だ、としきりに強調していたわりには
生母に対して配慮がないね。
>>31 ごめん、一行目はそうだよなと同感もするけど
しぼんで衰退した織田家と、全国支配を遂げた将軍家の墓建立と
同じ次元で語れるものだろうか?
秀忠は時代の施政者将軍職であり、
その母として寛永年間に従一位を贈られたような宝台院の墓を
同じように考えるのはちょっとね。
>>34 いや一例として思い浮かんだのがお愛の方だったから。
同等までとはいえないけど、信雄の系統は現代まで続いているのに
初代の生母の墓が織田家のカラーがまったくないのも不思議だなと思って。
将軍ご生母なみとはいかないまでも、織田家の家紋のはいった
生駒だけ別格の墓かと思いきや、生駒家当主たちと横並びの普通の墓石って
ちょっとな?と思ったんだ。
信雄もほんの短い期間だけど100万石大名だった時期だって
あったわけだしさ。
濃姫の話をしようぜ
大大名だった頃は安土殿が側に居て
実の母の墓に手をつけるような状況じゃなかったんじゃない?
フロイスの本だと、信雄と信忠って、ごっちゃに育ってるみたいだったから
生駒女の死後、生駒女の子供達は濃姫が後見してたんだろうと思ってた。
まあ、実際に面倒を見るのは乳母だろうけど。
御料地があるはずなのに更に知行与えているし、以外に信雄と濃姫は親子らしい関係だったのかも?
前スレで、国中往還認可状が本物なら永禄3年9月に奥を下がっていると考えている人が居たけど
そんな早い時期から奥を下がって居たんだとしたら、生駒氏のこと、母親って実感はなかった
かもしれないね。
乳飲み子置いて奥を下がったとしたら、産後の肥立ちが悪くて一時帰郷のつもりが
病が癒えずそのまま奥を下がってしまったとかなのかな。
って、推論に推論を重ねるとどんどん事実から遠ざかっていきそうだけど。
墓に全く手を加えていないなら、あまりにも早い別離の為に、
お腹様としての敬意は払いつつも、親子の情のとなるとピンとこなかったというのも
ありえなくは無い気がするね。
その墓の主とは信雄はなんの面識もなかったからだよ。
もし本当なら総見院に墓を移してもよさそうなもんじゃないか?
信高とお鍋は親子仲良くいるぞ。
信忠・信雄・五徳の墓もあるんだから、生母の墓がいっしょでも
信雄の代になっていたら誰も文句をいうものもいなかったろうに。
お鍋の墓は明らかに後日移転したような墓じゃないか?
一人だけ墓石の系統が違うから。
「新説・生駒の謎…墓が語る400年後の真実」だな。
>>信雄と濃姫は親子らしい関係
でも信雄も生駒が去って、数年後には北畠家に養子にだされているから。
そこで嫁をもらってるし、濃姫と親子の情を結ぶほどの
時間も機会もなかったと思うよ。
信雄が北畠に行ったのは12、3歳ぐらいだっけ。
生駒が五徳を産んで間もなくに奥を下がって、その後濃姫が面倒を見ることになったんだとしたら
10年ほどは一緒にいたことになるから、そこそこ交流はあったかも。
実子にとっても生駒がその程度の存在だったとしたら
信長にとったらさらにそれ以下の存在価値の女性だったということになる。
類は弥平次と結婚し、後家になってから
出家して39歳で亡くなって葬られ、それがあの墓。
信雄の生母は武功の話とはまったく関係ない生駒家の女性で
信長の側室としてあがり、何らかの理由で
側室を下がることになったあとに誰かと再婚したので、
生駒家に墓がないのでは?
生駒家に伝わる家伝書の類でそのへんがごちゃごちゃになっている
可能性もあるんじゃないかな?
久昌寺縁記が信長に関することが捏造なんだから、寄進されたとか、
信雄が喪主だとかいう箇所も捏造ではないとは言い切れない。
諸悪の根源が武功夜話ということだな。
あの話にこじつけるために史実がゆがめられてしまったわけだ。
織田信雄分限帳の一番最初が「生駒式部少輔」だし、信雄と生駒の関係はあるんだろうがなぁ。
そういえば、分限帳には久昌寺の名前はないよな。
生駒の菩提寺だから、信雄が与える必要はないけど。
信雄(茶筅)が喪主だったって言うのは、久昌寺縁起に載ってるか?
久昌寺縁起には「吉乃」とか吉乃を「信長の室」と書いてあるんだよな。
武功夜話の柱骨になっている偽書の一つじゃないかね。
茶筅が喪主だったとかいう話は縁記の中ではなく、久昌寺の別史料
に載っていたと思ったが、縁記にも載っていたのかもしれん。
久昌寺の生駒の墓は後年配置換えされてああいう並びになった。
その際墓石も建立しなおしたということだ。
いくら信長側室だったとはいえ歴代当主の並びにあるというのは本来ありえない配置。
生駒を生駒家当主なみの配置にしちゃうあたりが久昌寺の計算高いところだな。
生駒を商業化しているのは生駒家ではないんだよ。
生駒家の子孫にしてみれば武功のような偽書のせいで
史実と異なる生駒像を語られるのも、先祖に対する侮辱さ。
久昌寺縁記って公に開示されてんの?
伊勢湾台風の時どっかの家の倉から見つかったとかっていうんじゃないだろうな?
久昌寺縁記って武功夜話の中でしかみないな。
久昌寺縁記では〜のように記されている、みたいな補足説明的なかんじで
武功の信憑性を高めるために作られた偽補足用史料?じゃないかい?
48 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:42:53
濃姫の話をしようぜ。
偽装と捏造でつくられた生駒像だったんだ・・・
こうなりゃ嫡男ご生母というのも本当に怪しい。
濃姫の話をしようぜ。
永禄元年6月に、信長が津島天王祭に連れて行った御簾中は正室の事だと思うんだが、
この時の祭りは、何か特別だったんだろうか?
記録に残ってるのは、この年だけだと思うんだが、何故この年だったんだろう?
丁度、信賢が叛旗を翻した時期だろ?
>>41 その説を全部を鵜呑みにはしないけど、
仮に類と生駒が違う人物だったら、信忠・信雄・五徳の生母であっても
なんの矛盾は生じないから、この3人の生母であったというのは
本当だったと思うんだよね。信雄だってすぐに露見するような嘘でたらめを
主張するわけもないよ。(別に生駒に特別思い入れはないけど)
生駒家の家系図って主要人物しか残されてなくて、女子が
ほとんど記されてない。類の妹あたりだったんじゃないか?
>>50 この時代で大名夫妻がともに祭りを楽しむことが珍しいことで
なければ単なるレジャーだったんだと思うけど。
異例のことなら、何かしら意味のあることだったのかもしれないな。
御簾中という表現は貴人の妻に対する呼称だから間違いなく
この時点では濃姫を指すと思う。同じ年に濃姫の依頼と思われる
道三の肖像画が常在寺にあるから。
御台やこの御簾中という呼称を側室にも用いたのだろうと
ここのスレでも主張している人がいるけど、このような
記録を作成している人物は当時ではかなり教養が高いはずなので
そんな適当な表記はしないよ。
なんか古文を思い出したな。
主語がないことが多く(特に源氏物語)、尊敬語、謙譲語で
相手が誰だか推測したり、状況を判断したりしなきゃならんかった。
天皇にしか用いない言い回しとかあったな。
後年まで残るような史料を書くような人物なら
確かに教養を疑われるようなあやふやな言葉づかいはしないだろうな。
なんで信孝の生母の身分が低いから兄弟の順序まで後にまわされたんだ?
生駒氏だって当時は全然たいしたことないじゃん。
嫡男と同じ母を持ったからというのはまったく関係ないような気がするんだが。
嫡男生母が信長死後も生きていて、実家とともに勢力を持っていたというなら
まだしもさ。
身分が低いからって言うのは、信雄側の文献からだから
単純に、信雄が清洲で生まれたので、生まれて数時間後には
織田家中で周知されてた。
そこに後から報告が来たから、三男でいいやってことになったんじゃ?
その時点では信孝の生母はどういうわけか清洲の城内にはいなかった、つまり
公に側室の披露もされてなかった、という意味で生駒より身分が低い、みたいな
感覚で思われていたかもしれないけど。
たぶんそういう立場で生まれた子供は扱いも低く、信雄が優先されちゃったん
だろうな。実子に名を連ねられただけでもラッキーだったかもよ。
清洲会議って目くそ鼻くそ会議だな。
しょせん身分の低い側室同士の子供が足の引っ張り合いで跡目争い。
生駒が嫡男を産んだと言い張っても、信雄は周囲の誰からも認められなかった。
自分が兄だと言っていた信孝も見方は勝家だけ。
正統な当主になったのは、信忠の名もしれん側女の産んだ怪しげな3才児。
事実上織田家を傀儡に実権をとったのは、さらに怪しげな百姓出身の男。
信忠の奥向きのことをしっかりせずに、正室も娶らなかった
信長の大失策。
生駒が正室だ、と信雄が生駒家の家系図を偽造してもまったく
意味がなかったんだな。みっともねぇな。
藤原紀香は平家の血を引くから挙式には12単を着ると
いうことだ。親が在日だというのは誰もが知ってるのに。
出自にコンプがあるやつほど自分の家系図や先祖を高貴なものに
飾りたがるもんさ。
生駒家は土豪あがりの馬借などの商家。
そこそこ財力はあっても武家としての格式は低い。
信雄も信孝もどっちもどっち。
まぁ信雄がアホだったために、信孝みたいに死に追いやられる
まではいかんかっただけのことだな。
>>50 津島天王祭は旧暦で6月14、15日に宵祭、朝祭りをしていたそうだ。
本能寺直後の天正十年の祭りでは、信長が乗る予定だった車を素車にして
お渡りってことにしたようだね。
永禄元年(弘治4年という記載みたい)も、信長は女房(漢文の方では「御簾中」)を
連れて行ってるから、年間行事として楽しんでたようだし、ある程度、行動予定の
中に入っていたのかもしれないね。
信賢が信長に敵対したのが5月、はっきり落ち着いたのが7月の浮野の戦後だった
はずだから、尾張国内が揺れている時だしね。
勝長(信房)が信忠の与力だから、優遇されていない、単なる信忠の家臣という
書き込みを、とあるとこで見たんだが、自分は勝長が信忠の与力というのは、
信長直属で、信忠の下につけられたという意味で受け取っていたんだが、
信忠直属で、誰かの下につけられていたのだろうか?
信忠直属であれば、確かに単なる信忠の家臣だが、信長直属で信忠の下であれば
単なる家臣ではないと思うのだが?
>>62の
>単なる家臣ではないと思うのだが?
は、
単なる信忠の家臣ではないと思うのだが?
です。
>>63 単なる家臣とそでない家臣の違いがよくわからんが。
とりあえず、当時の与力の定義はこうだったらしい。
【戦国時代織田家では、自らは一国又は半国を領する大名であっても、
その地方を治める部隊長の加勢者として軍事的・政治的に指揮下に
入る者もそう(与力)呼ばれた】
信忠の支配下に置かれたことには変わりないと思うが。
>>62 勝長が織田家に戻り、元服した頃は、織田家はもはや敵なし状態。
信雄&信孝あたりが元服した頃に比べたら処遇が全然違っていて
当たり前だよ。だから嫡男以外の兄達に比べたら優遇されているように
感じるだけっしょ。
濃姫の話しようぜ。
小見の方が明智光継の姫なら、祖父は美濃守護だった土岐成頼だし、
土岐家とのつながりは義龍よりも小見の方の産んだ濃姫の実弟たちのほうが
強かったと思うが、なぜに美濃国の旧土岐派の連中は
それこそまぎれもなく土岐の血をひく弟達を手にかけた義龍を
支持したんだ?
それと濃姫は美濃国守護の土岐家の血を引く母に持っていたので、
濃姫の子が美濃国の国主になった場合、道三の譲り渡し状により
信長が治めるよりも、より正統性があり、そういう理由もあって
信長があっさり信忠に美濃国を譲ったのでは?とも考えている。
実権はどうせ信長が握っているのだから、美濃を安泰に治める
ことが先決だったのではないかな。
道三が強引に美濃を奪った事を嫌っていたので、旧土岐派は
義龍が土岐頼芸の胤であるかもしれない事を利用したんだな。
もし、本当に頼芸の胤なら、より正当性があるってこと。
道三も美濃支配の為に、義龍の実父が頼芸かもという説を
否定せず利用していたようだしね。
あと、実母の深芳野が一色氏の娘だから、足利の血を引くってことで
将軍家により近いという事もあったのかもね。
信忠の美濃支配に関しては、これまでに見ない説だが
ある種の説得力があるね。
>>67 道三の姫として濃姫を盾にしたのではなく、土岐の血を引く姫である
濃姫を盾にしたということだな。
確かに美濃には反斎藤分子も多かったろうし、元々の支配者である土岐家の
正統性をだしたほうが治めやすかったと思うけど。
>>68 義龍の実父がどうのこうのは、江戸時代に庶民の勧善懲悪志向のために
創作された、という説があるよ。
主君を裏切った報いが主君の胤である嫡男に抹殺された、としたかったみたい。
義龍と道三が仲違いしたのは、反信長派の義龍と信長友好派の道三の
意見の相違から、親子喧嘩から始まり、そこへ旧土岐派の反道三派が
義龍をたきつけ、さらに道三への不満分子たちが
集まって、あんなことになったんじゃないかな。
道山が義龍の廃嫡をもくろみ、正室の子を嫡男にすえようと
画策したということだから、そのへんもやはり側室の子ゆえの
義龍のあせりみたいなもんがあったかもな。
「范可」という署名からも、道三を実父だと認識した上で
手をかけたことを戒めているようにも思うんだけど。
一般的にこの時代の婚姻関係は、女性は嫁ぎ先に入り込むのではなく
実家に属したままの認識で嫁ぎ先で夫と共同生活を営む、という感覚だった
そうだ。固有財産も認められていたし、けっこう女性の権利が強く
守られていた時代でもある。
濃姫は織田家が美濃国を支配することは内心複雑な思いでいたと思うよ。
壷事件の時に思わずそんな不満な気持ちがでて、信長に逆らって
斉藤家の味方をしたのかな、なんて思った。
折角美濃を少ない労力で手に入れたのに、壷如きで旧勢力と衝突し泥沼の内戦にはまり込むのを
回避したかったっていうのもあると思うんだけども。
壷を取られて斉藤の面々がそのまま大人しくしているとは思えないし(その場のノリで自害するとか言っちゃった訳だし)。
激昂して前後が見えなくなってしまっていた信長の目を覚まさせただけだと思ってた。
でも、確かに実家に気持ちが有ったというのも充分あり得るよね。
政宗も愛姫もすごい紆余曲折あったよね。
愛姫の実家の田村家がらみで、夫婦が本当に険悪になっていたのも事実で、
そのために子供ができたのが遅かったし。
田村家を政宗が乗っ取ったみたいになっちゃったからな。
でも関係が修復したら40才過ぎても愛姫は子供を産んでる。
政宗の母親も実家の最上家がらみでいろいろやってた。
伊達家と最上家で戦がおきそうになった時に
中間地点の小屋に鎧姿でなぎなたもって座り込みをし、
戦を止めさせたなんていう逸話も残っている。
濃姫が実家の名誉のために信長に逆らった(かどうかは確かじゃないが)、
のは、結果的に両家の和解のためのポーズだったんだろうから
それも正室の仕事のうちなんだろうな。
信忠の生母が崇福寺に埋葬されているというのをなんかの文献で読んだ。
もちろん生駒ではない別人で、法名も違っていた。
崇福寺に生母の位牌所を信忠がもうけ、寺の税金を免除する判物を
だしたりもしているそうだ。
そのあたりの詳細を知っている人いたら教えてください。
崇福寺って元々道三の祈願所として信長が保護した寺で
信長と信忠の遺品を「なへ」が送って廟にしてる寺か。
「なへ」は本当に小倉なのかな?
小倉がなんで道三の祈願所に?という気はするな。
だが、信忠生母の墓所があるのなら、そのくらいはするか?
>>73 信忠生母の件はわからないけど、天正5年6月に信忠が崇福寺に関する
判持をだしているから、そのことかな?だとしたら天正5年に生母が亡くなった
ということになるな。
>>74 お鍋は天正10年12月にも丹羽長秀あてにも手紙をだしてる。
信長死後早々に位牌所を設けたり、信長の重臣とのこういうやりとりから
お鍋が正室格でいた、という推測が成り立ったんだろうけど、
淀殿ぐらい権力があれば別だけど、ただの側室の立場ではちょっと考えられないな。
信長の遺品は安土城から持ち出したものだろうけど、側室の立場でそんなこと
許されるのか?という疑問もある。
署名は「な屋」だったから、濃姫の本名は「な屋」だったんじゃないか?
当時の信長閨房の中で、発言力を擁していた側室でいいじゃん。
でも信長死後親族の誰よりも早く位牌所をもうけ信長の供養をした女性が
あっさり秀吉に取り込まれていったというのも不思議な話だ。
結果的に織田家を売るような真似をしたわけだろ?
親族中心の一周忌には出席せずに秀吉が取り仕切った一周忌の
ほうに出席して母子の保身に走っている。
墓などをみても明らかに織田一族とは一線を引かれているし
信長最愛の女性というにはちょっと浅はかすぎる気がする。
手紙の主が側室お鍋の方だとなったのは、濃姫が信長が亡くなった頃には
離縁されたか、死んだかで、正室として存在しなかったということが
信じられていたからだと思うよ。
「な屋」なら「なへ」「なべ」ではなく、「なや」という名の女性だったかもしれない。
お鍋の方であると決め付ける根拠は何もないよ。
崇福寺に信忠の生母の墓があったとしても、信忠の系統は断絶したし、
生母が生駒だということになっているので無縁仏となってしまっているだろうな。
過去帳を調べればわかると思うんだけど、そういう情報を寺が個人に教えてくれるのかな?
永姫も生母では謎がある。
前田家関連の史料「本藩歴譜」には生駒が生母と記されている。
鶴林寺には生母の位牌や墓といわれていたものもあったそうだ。
なので久昌寺の吉乃とはまったくの別人ということになる。
永姫生母が亡くなったされたのは1618年という記録もある。
それとここの過去スレにあったと思うんだけど、
前田利家、信長、信長室(濃姫もしくは永の生母)、信忠、の供養搭が
瑞龍寺にあるが、この搭は寺伝では慶長18年の建立なので、
濃姫が亡くなった翌年に建立されたのは間違いないだろう。
>>79だけど、搭の信長室は濃姫に間違いないだろうという意味
類の話がデタラメなら、墓石に書いてあることも鵜呑みにできない。
生駒は信雄と永姫の生母だったんじゃないか?
永姫は信雄の子供を養女にもらってるしな。
82 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 22:01:06
永姫と信房の母親が一緒なんじゃないか?
信雄のアホが改易になった後は勝良は前田家に仕えている。
永姫を頼ったんだろう。
>>75 「な屋」がなんで鍋の事になったんだろう?
織田信長総合事典には「なへ」という署名で載っているのだが。
「へ」と「屋」は間違える様な崩し文字でもないよなぁ。
84 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 10:31:08
>>83 手紙の原文は「な屋」だよ。
つい最近まで濃姫は道三死後離縁、その頃病死、という定説に従って
その後の正室は吉乃、吉乃亡き後はお鍋、という定説があったので
当主の弔いを誰より早くやるのは正室(と思われていた)お鍋だろうから、
「な屋」は「お鍋」だ、と勝手に解釈されていただけだと思う。
でも濃姫が信長死後も生きていたのは寺の過去帳からも明らかだから
この手紙や丹羽長秀にだした手紙も濃姫が書いたものではないかと思う。
織田家と縁があって、岐阜で中立を保てる近場の寺に
とりあえず弔いを願ったのだろう。
85 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 10:38:46
>>79 「本藩歴譜」は近世編集の史料なので、史実と異なることがあっても
仕方がないと思う。
信雄の生母とは別人の生駒家出身の女性が生母である可能性が考えられるけど
生駒家関連の史料にはそのようなことは書かれていないので
その可能性は薄いかな。
生駒が信長の後室であると信じられていたので、永姫の格を高めるために
意図的にそう記したとも考えられるけど。
>>84 なるほど、そう考えると一番自然だね。
書状は丹羽長秀にあれほど上からものを書いている理由が分からないと
思っていたのだが、「なへ」ではなく「な屋」で、
鍋ではなく濃姫なら自然な書き方だ。
「おや子のきちう(記帳)をさせ申候」
など、身内でないと書けないね。
単なる側室が、信長信忠親子をそんな風に書くとは思えない。
しかし、言継卿記は昔から一次史料として研究されていたはずなのに
どうして、永禄12年の壷事件の信長本妻は無視されてきたんだろうな?
あれを読めば、濃姫健在は分かると思うのだが。
そして、それ以降各文献に出てくる、御台、北の方、本妻の事が
濃姫の事と分かると思うのだが。
>>84 岐阜県史の資料編が「なへ」になってるから
鍋の手紙だと信じていたよ。
一度岐阜県史を編纂したところに、原文は「な屋」で間違いないのかと
濃姫が信長死後生存していたと昨今いわれるようになった事を考慮して
「な屋」が濃姫の本名である可能性はあるのか問い合わせてみてもいいかもな。
>>86 言継卿記を読んでも、
信長本妻=濃姫、と断定はできないからじゃないかな?
それと、上のほうで誰かが書いていたけど、
壺事件のいきさつで、
「信長本妻」が、信長に対して対等の影響力を持っていたとは解釈できないと思う。
自害すると言ったのは、「信長本妻の姉妹十六人」
騒動を仲裁したのは、前後の記述から推測して、「しうとめ」
信長本妻の立場は明瞭でない。
まあ、おそらく「しうとめ」とともに仲裁したのだろうと思うけど、推測の域を出ない。
言継卿記を読んでも斎藤氏の名前は出て来ないからね。
一色義龍で出てくるから、パッと流し読みしたら、斎藤家周辺の話とは思わない。
言継卿記の壷事件が注目され始めたのは、武功以降だから、
武功で吉乃が正室扱いになったというのが定説になってしまったあと。
それ以前から注目されていれば、誰も濃姫ではないとは疑わなかっただろう。
定説を覆すのは、学閥などが絡んで、難しい。
武功夜話は偽書で、まともな論文の引用にはされないが、未だに、側室関連は
武功夜話の記述にそった説で終始しているから、言継卿記の信長本妻を濃姫だと
認定するには、その武功夜話にそった信長の奥関連を、最初から潰さなくてはならなくなる。
90 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 17:03:01
武功が偽書であるということは現在の生駒家子孫ですら認定してるよw
>>88 影響力はともかく斎藤一族出身が信長本妻であったのは文面から確か。
義龍の後妻が斉藤家ではない他家の壷を所有するはずはないし、史料にある
斎藤氏は佐藤忠能のことなら彼は斉藤家の家臣だ。
それと濃姫が信長に嫁いだことも事実。
濃姫が亡くなった、離縁されたというのは、武功のために後年辻褄合わせに
推測されていただけ。
素直に濃姫が壷事件の時の本妻であったということでいいのでは?
ただ言継は直接関係者から聞いた話なので日記に書き記したけど
その他の史料にはないから、大騒動というものではなかったと思うよ。
>>90 信長本妻の兄弟女子16人が自害するといい、
国衆17人と女子の男を合わせて30数人が切腹すると言ってる訳で
合わせて50人近くの騒動であるけれど、他の史料にないから
本当に極々身内ですませた騒動なんだろうな。
佐藤は言継が岐阜に滞在中に佐藤入道とか、国衆佐藤紀伊守入道などの表現で
言継卿記に度々出てくるから、佐藤忠能の事でまず間違いない。
92 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 18:01:44
>>91 死ぬのなんのもダチョウ倶楽部の「訴えてやる」レベルの本気度だと思われ
ところで「しうとめ」のところに信長が訪れたのも含みがあったかも。
「しうとめ」が小見の方なら祖父は美濃守護だった土岐成頼。
道三後家であり、土岐の出身でもある小見の方を手厚く扱うことは
美濃統治にプラスになるだろうからさ。
城に呼ばずにわざわざ訪ねて行くあたりが心憎いな。
>>90 生駒家子孫も認定はしているが、史学界では未だに信長の奥関係は
武功にそう形だから、言継卿記の信長本妻を、史学界で濃姫だと
いう流れに持っていくには、今ある定説を覆して行く努力が
必要だろうと
>>89で書いたつもりなんだ。
94 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 19:33:16
やらせ発掘の藤村氏と武功夜話がかぶるよ。
史実を歪曲することって犯罪じゃないけど、かなり悪質。
関連する史実の検証もややこしくなる。
>>92 >死ぬのなんのもダチョウ倶楽部の「訴えてやる」レベルの本気度だと思われ
実際そうだったんだろうな。
当の佐藤入道は前日にも前々日にも言継のところにフラフラ来てるし、
切羽詰まった状態だったら、そんな出歩いたりしないだろう。
96 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:00:02
>>95 俺もそう思うな。
勝手にイメージを膨らませて一族みんなが信長に詰め寄っていると思ってたけど、
実際は信長ぬきのところでそのぐらいの勢いで盛り上がっていただけかも。
意外とあっさりと騒動はおさまったのかもしれん。
ところで正月暇だったので例の「御台平産」の件を検証してみた。
信長は上洛後すぐに岐阜にもどっている。その後永禄12年1月5日に
三好3人衆が義昭の居所の本圀寺を襲撃したので、知らせを受けて
再度京都にむかったんだ。それからけっこう長く京都に滞在し
義昭のために二条城を普請したり、ルイス・フロイスと会見してる。
最初の上洛は上洛戦というくらいだから戦闘中でもあるのに臨月近い妊婦である
御台を連れていくというのはどう考えても不自然なんだよね。
でもその出産の話が事実なら御台と子供は岐阜に戻り、
御台は一度戻った信長と再度京都に随行したのではないかな?
10月に出産したから、2度目の上洛の時は心身ともに回復してるから
御台を慰安旅行がてら連れ出しても不思議じゃない。
今度は戦が目的ではなく、義昭警護と京都の治安維持がメインだから
御台を随行していてもなんら問題がないと思う。
永禄12年の2月29日の「公方様御台様〜」が信長御台であることはほぼ間違いないだ
ろうしね。
調べたところによると当時の大名の奥や側室達の楽しみは四季折々の者詣や
遊山、湯治、花見、茶会だったそうだ。思っていたより外にでてレジャーを
楽しんでいたようだし、なんといっても京都は女性の憧れの地であったらしい。
御台が夫の上洛に便乗して京見物をしたがったとしても不思議じゃないんだ。
97 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:47:37
>>96 本当は信長が宿泊中に美濃から「御台平産」という知らせがとどいた、
だったりして。そのへんの事実関係がわからないのでいつのまにか御台も
宿泊していたことになったのかも。
めでたい出来事と、不慮の事件、仏の神秘、をMIXして大衆の
興味や関心を惹いて、信心をあおるために大げさに脚色して
いると思う。
でも超有名人の実名いりで捏造まではしないだろうから、その時に「御台平産」は
あったと思うんだけどね。
>>96 自分も、その事は考えたなぁ。
だが、上洛戦の時はゆっくり京に進軍してるんだが、
正月は3日で雪の中を駆け通して驚かせる程のスピードだったらしい。
戦の時に同道しているなら、無防備に供を付けて戻すより、
信長の本陣と一緒に行動する方が安全だと思う。
正月も、あとから呼び寄せたでもいいが、そっちの方が考えにくい気もする。
御台の寝所に近付かせないようにというのも、赤ん坊がいたからと考えた方が
自然じゃないかと思うのだが?
生後随分経って、岐阜に連れ帰ったから誰の子供か不明であったとする方が、
記録に残ってない辻褄は合う。
もちろん、信忠との兼ね合いで、生母を曖昧にしておいたと考えた場合だが。
99 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 22:05:50
>>98 >>御台の寝所に近付かせないようにというのも
これは三好の襲撃もあったように京の町にまだまだ不穏な空気があったために
お触れをだしただけじゃないか?「公方様御台様」となっているから。
最初の上洛で一緒に京都に行ったのなら、いったん信長だけが先に岐阜に帰ってしまったのが
疑問に残るんだよね。信長が再び京に来たのはあくまで三好衆の襲撃があって、
その後長居したのは二条城の普請を自ら指揮したからだし、三好の事件が
なければ京都にまた来なかったかもしれない。
信長が先陣で京に行き、今度は長く滞在するということで後から
御台が子供を乳母に預けてのんびり京都にのぼったかもよ?
どっちにしても、「近江國輿地志」と寺の記録、史実が一致する点が多いので
御台平産の話はけっこう信憑性がでてきたよね。
100 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 22:13:35
信長は襲撃の知らせを受けて通常3日かかる行程を2日で京都に到着したそうだ。
突然の知らせで右往左往して大急ぎで駆けつけたそうで、途中凍死するものまで
でたということだし、輿に乗った御台を連れては絶対無理だと思う。
>>99 >「近江國輿地志」と寺の記録、史実が一致する点が多い
そうか?
寺の記録に関しては、永禄11年の記録は「近江國輿地志略」に
書かれているもの以外は出てきていないと思ったが……。
寺の出火の記録の事か?
それとも安産柿の事か?
だが、永禄12年の、御台が京にいる事と合わせて考えると、
一概に合致しないとは確かに言えないんだよな。
個人的には道三の13回忌の年のうちに、御台が京の妙覚寺に
行きたかったという事で、永禄11年の9月同道説を押したいところだ。
102 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 22:16:10
>>93 学界にはサヨ系のキチガイが沢山いるから、そんなアホどもは相手にするな
ここは日本史板であって、小説板ではない
卑劣極まりない極悪書の事なんか、もう二度と持ち出すな!
103 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 22:30:35
成菩提院の記録では永禄11年8月7日、9月21日(この時御台出産か?)、
美濃へ帰る途中の10月27日に泊まって、その後150石の寺領を寄進したとある。
宿泊中に火事があったので寄進をしたとも思われるけど、安産を感謝して
寄進したともとれるな。
9/21と10/27は信長公記の記述とも一致するな
105 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 10:20:53
当時美濃から京都まで3日あればついたのか。
もっとかかるのかと思ってた。
8月7日にも信長が成菩提院に宿泊しているなら、この時に出産したのでは?
あるいはこの寺は常宿にしていたというからもっと以前に泊まった時のことかも
しれない。強引に上洛戦の時の宿泊とくっつけなくてもいいように思えてきた。
出産は出産で上洛戦とは関係なくあって、その後
永禄12年の2月頃信長が京都に長居するということで単独で濃姫が京都に来たのかも
しれないし。
「近江國輿地志」の御台出産の箇所に永禄11年ということは
書かれていなけど、翌年永禄12年の2月に「公方様御台様」の箇所から
濃姫が京都にいたから出産の時期は上洛戦の時だ、と推測しただけなんでしょ?
8月7日は浅井長政に会いに行った時だから京都は関係ないな
8月7日に長政に会った時の話は、浅井三代記に詳しいが
御台が一緒に行っていた記述はないな。
遠藤喜右衛門が暗殺しようとしたのを
浅井長政が止めたという話が載っている。
200人くらいの軍勢しか連れていなかったとか、
14〜15人程の小姓しか側に連れていなかったなど載っている。
108 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 11:49:11
濃姫と明智光秀がいとこだと最近知った。ほんとびっくり
109 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 12:03:19
>>105の説のように、永禄11年の上洛時にこだわらなければ
勝長以外でも濃姫の実子である可能性のある子供たちがでてくるんじゃないか?
>>108 従兄妹同士というのはかなり眉唾。
光秀の実父が誰だったかは謎のまま。
教養の高さから身分がそんなに低い出ではないだろうことぐらいしかわかってない。
未亡人になった生母が明智の男性と再婚した、という説もあるし出自は永遠に謎
のままだろうな。
そういえば、光秀が鉄砲の武器商人だったんじゃないかという説を
ヤフトピに書いてた人がいたな。
信長は鉄砲とその技術が必要だったので、
明智の出ではないのを分かっていて、
滅亡した妻の(生母の)実家である、名門の明智をそのまま名乗らせたのかも。
>>109 上洛戦にこだわらなければ、他の子供の可能性はあるだろうが、
成菩提院の場所からして、定宿にしたのは永禄11年の浅井長政面会後だと思うんだよな。
実際、信長が、それ以前にその近辺にのんびり泊まった記録がないからな。
また、他の記録に火事が永禄年間だったと出ていたはずなんで、
永禄は13年4月23日までだから、11〜13年までで可能性のあるのは
勝長と秀勝くらいか。
しかし、秀勝の生母は、書状が残っていて、とても正室のものではない。
姫ならば、他にも可能性はあると思うのだが、秀子くらいになるのか?
11年以前の永禄年間の生まれなら、冬姫という事も考えられるが、どうだろう?
112 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 12:33:54
冬姫ビンゴかもよ。
蒲生氏郷に嫁がせ、身内として信長も取り立てていたし、
冬姫夫妻が安土城と目と鼻の先にある日野城に住むようになったのは
偶然ではないかも。
信雄改易後は庇護されていた信長に母や妻子だちはそれぞれの
実家や母方実家を頼っていったようだけど、その間の濃姫の
所在がわからなかった。
でも冬姫を産んだのなら蒲生家の庇護を受け、その近くに居館が
あったのかもしれない。
113 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 12:42:56
>>95 この佐藤忠能は信長に寝返った報復で娘が斬首され晒されてんだよな。
その姫の怨念が例の幽霊団地騒動の元凶だったそうだが・・・
元主君の斎藤家の名誉のために腹を切るのなんのと
騒いでいる場合ではないぞな。
でも、佐藤忠能の養子に斎藤新五郎がはいっているから
斎藤家のためってことになるんじゃないの?
古戦場の怨霊とか、歴史出来事の怨念とか
霊障の原因としてもっともらしく聞えるらしいから
霊能者とやらにとって、歴史って便利な存在だよな。
116 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 15:19:34
あの幽霊団地の除霊の番組みてたが、こんなところにつながっていたとは
びっくり。そういえば、信長がどうたらこうたらという説明もあったが
まったく気にしないでみていた。
斎藤忠能の娘が父親のせいで殺され、晒し首になったというのは
本当のことだったの?
逸話の類いだから分からんが、
信長のすすめで、濃姫の弟を養子にしてるし
何らかの尽力なりがあって、優遇されたんだろ。
118 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 16:01:27
佐藤忠能は堂洞城攻めの時に嫡男の右衛門をなくしていて、
もし伝説が本当なら娘もそんな死に方をしてまで犠牲をはらって
織田家に降りたので、信長が斎藤新五郎を養子に斡旋したんだろうな。
119 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 16:33:19
おれは
>>73がずっと気になっているんだけど。
もし本当なら信忠は信雄と同腹ではなくなるし、
そうなると生駒に間することがこれまで以上に
否定される流れになるな。
崇高寺に足を運べば教えてくれるのかな?
ついでにお鍋の署名の件もオリジナルが寺にあるのだから
「なへ」か「な屋」のどっちが正しいのか、ぐらいは教えてくれないかな?
自分も気になる。
原文が「なへ」ではなく「な屋」なら、鍋とは別人の可能性も出て来る。
鍋認定された時代は安土殿の事も知られていなくて、鍋が正室代わりとされていたので、「な」がつくなら鍋だろうと安直に判断されたんだろう。
安土殿の本名に近づいたかも知れないと思うと、少し興奮してしまった。
121 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 18:42:43
>>121 「な屋」なのに(なべ)になっちゃってるね。
これは鍋が書いた手紙であるという思い込みからなのかな。
123 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 19:19:51
「おなべ」の本名が「な屋」もしくは「なや」ということはないのか?
124 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 19:53:04
言継日記にはお鍋の方のことを「前右府妾御ナヘ」とあるので、
周囲からは「おなへ」もしくは「おなべ」と呼ばれていたことは確かだろうな。
でも当時の身分のある女性がある程度の年齢になれば本名で呼ばれることはなかった
と思うんだけど。
秀吉の鍋宛の書状など、全て「なへ」となっているから、鍋は「なへ」だろう
「小倉なへ」な
127 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:18:59
>>125 それなら崇福寺の手紙の主はお鍋のはずがない。
やはり濃姫なんじゃないか?
それならすっきりする。
「うへのいはいしゅ」(上の位牌所)と「上」に様をつけてないのも不思議だった。
信孝も天正10年12月に崇福寺あてに判物をだしていて
「上様御墓所たる上は」としているのに。
身内で信長に「様」をつけずにすまされるのは、親と正室だけじゃないかな。
それに信孝も崇福寺を信長の菩提寺と認めていたぐらいだから、
ある程度権威のある立場の女性が位牌所を設置しなければおかしい。
側室の立場のお鍋が信長の親族が誰もしていないのに早々に
崇福寺にあんな書状をだすのは疑問だった。
丹羽に宛てた手紙の内容も濃姫が書いたものならすべて合点がいく。
ごめん、このレスが不愉快な人はスルーして下さい。
単純な感想なんだけど、
濃姫以外の妾室たちの事跡をみな否定へと走っていないか?
今まで差出人はお鍋だと信じ込んで疑ったこともなかった。
あの手紙の差出人がお鍋だと認定された理由って何だったんだろう。
130 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:46:41
>>128 正室と側室とでは役割も立場も違うから現代人の感覚だと
結果的にそう思われてしまうだけのことだな。
>>129 濃姫が道三の死後離縁された、もしくは生駒があらわれるあたりで
死んだ、ということがまことしやかに信じられたからだと思う。
濃姫が信長死後も生きていたという前提だったら、あの手紙を書いたのは
信長の御台だった濃姫だという推測のもとに、濃姫の手紙、となっていたはず。
そんでもって、濃姫の本名はな屋だった、ということになっていただろう。
ただ道三死後離縁されていたと信じられていたのはそれなりに根拠があったと
思うんだよね。生駒のことは別として、当時の婚姻制度は政略結婚だったので
両家が対立したら離縁して妻が実家に返されるのが当たり前だったから。
義龍と対立したことで、濃姫は離縁されて然るべき、という認識から
そういうことになっていたのかもしれない。
131 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:54:04
>>128 妾室を否定しているのではなく、思い込みから生じた
誤った認識を正しているだけです。
132 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:57:22
なや姫か・・・
奇蝶姫のほうがよかったな・・・
でも、なや→なあ→のお→のう、と変換して「お濃」と呼ばれるようになったとか?
>>130 信長の奥関係がしっかり研究された事って、
武功以前ってなかったと思うんだよね。
美濃の譲り状について記した道三の遺言状にしても、
言継卿記の壷事件にしても、信雄の分限帳にしても、
話題になるようになったのって、ここ最近だ。
村井貞勝と光秀と朝日日乗が書いた、
例の御台の寝所に近づけさせるなという文書の
御台というのは、公方は御台を娶っていないはずだから、
信長の御台の事ではないか?と
いうのを20数年前に何かで読んだが
その時だって、濃姫とはされていなかった。
結局、斎藤家とは対立したという、単純な図式でのみ
濃姫の事が語られてきて、義龍は兄だが父親の敵という
特殊な関係は無視されてきたんだろうな。
134 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 21:16:13
>>133 >>斎藤家とは対立したという、単純な図式でのみ
厳密には濃姫の実家の斉藤家の道三チームとは同盟関係のままで、
義龍チームと対立したわけだからな。
しかし信長は道三のために援軍に行ったり、譲り渡状の存在もわかって
いながら、濃姫が離縁されたという説になんの疑問をもたない歴史家たちって
不思議だな。
自分の持っている桑田忠親の著作に
「信長側室おなべ自筆黒印状」が挿図(写真)で載っている。
137 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:28:45
道三チームなんてねぇだろバカ。
139 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 10:49:07
>>134 史料に濃姫には子がなく妾の産んだ子を養子にした、とあるのに早々に
死んだの離縁しただのといって、生駒が事実上の正室だったという説に
なんの矛盾も感じなかったのかな?というのも疑問だ。
140 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 11:27:33
>>127 6月6日の頃って信長の首も遺骸すらも見つかっておらず、諸侯の間では
「本当に信長は死んだのか?」と思われていた頃。
御台である濃姫が側近の話などから信長の死を確信し、位牌所を設置したことで
信長の死が公に認められた、とも解釈できる。
逆をいえば、側室の立場のお鍋が勝手に信長が死んだ、と認めるような行為は
できないだろう。政局を左右する問題でもある。
御台である濃姫が信長の死を認めたので、それに追随するように
信長乳母の養徳院やお市の方が法会を行ったんだろう。
信長の遺骸が見つかっていない以上、どこかで生きていた可能性もあったわけで
御台が亡くなったことを認めなければ大徳寺の葬礼だって行うことは難しかったろうさ。
葬礼の最中にひょっこり信長がぼろぼろの姿で現れたら面白かったろうな。
141 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 12:27:50
>>140 >>葬礼の最中にひょっこり信長がぼろぼろの姿で現れたら
秀吉が信長にぶった切られ、そのまま秀吉の葬式になったろうな。
142 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 12:45:48
でもさ、お鍋の方が信長の寵愛を受けていたというのは事実だよね?
3人も信長の子供を産んでるし。
他の側室で子供を二人以上産んだとされるのはとりあえず生駒だけだし、
この二人はやはり信長の寵愛を受けていたといってもいいんじゃないかな。
もちろん二人が正室格だったということには同意はしないけど。
生駒がいた頃は濃姫は20代でまだまだ現役だったけど、
お鍋がきた頃はさすがに褥の回数も減っただろうから、そのあたりも
お鍋が寵愛された理由かもしれないな、と想像してみた。
やはり、御湯殿の上の日記で
「信長にて焦がれたる」と見染められた
「あこゝ」が後年の寵愛が深かった気がする。
144 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 13:19:36
「あこゝ」ってどこの誰?
「あこゝ」は三条西身枝の娘
一次史料である「御湯殿の上の日記」の
天正九年三月六日のところに、信長が見初めて
側室にした様な事が書かれている。
三条西身枝× 三条西実枝〇
147 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 17:10:50
天正9年3月10日に信長は安土へ京都から下向してる。
この時西条の娘をお持ち帰りしたんだな。
でも三条西は織田信長の後援で大納言に任じられているから、
偶然姫を見初めたということは考えられず(公家の姫が顔出してふらふら
出歩くことはまずない)、出世の見返りに信長に娘を差し出したんだろ思うけどね。
この三条西女がもし信長の子供を産んだとしたら
徳大寺実久室あたりだと思う。生まれたのは信長の亡くなった前後あたりで、
時期的にぴったりだし、徳大寺は同じ藤原摂家系統の家柄だしな。
148 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 12:04:43
>>147 信長が亡くなったあとは、妻妾はそれぞれの実家に身を寄せたものも
いるだろうから実家に帰って、そこから徳大時家に嫁がせたのかもしれないな。
この婚姻にはなんの政治的な背景がないから、秀吉はなんにも絡んでなさそうだ。
お鍋の崇福寺への書状や丹羽へのあのような書状は不自然だもんな。
ただ濃姫が信長が亡くなった時に正室であったということが100%事実である、
という確証がなければ、濃姫ではない別人の後室が書いた書状であった、
ともとれないでもないな。その後室の名前が「な屋」だったとか?
お鍋のその後を見る限りお鍋が後室に格上げされていた、
なんていうことだけはないだろうな。
頼朝像だと思われてた肖像画だって、実は足利直義像かもしれないようだし
お鍋の書状だと思われてたものが、実は違う人が書いた書状って可能性もあるのかもね。
な屋さんが、土田御前だった可能性って無いのかな?
信長の妻妾と伝えられてるから、妻妾の中で論じる方が自然なんだろうけど
文面だけだったら、土田御前もありえるような気がするんだが。
信長公記などに見られる、本能寺の描写を考えると
な屋さんが濃姫で、信房が濃姫実子なら、信房がスルーされているのが謎
151 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 17:25:56
>>150 信房濃姫実子説は、永禄年の出産に限定し、なおかつ無事に成人した
という前提での話だから。
出産はしたけど夭折した可能性は当時の乳幼児の死亡率を考えたら50%以上ある
わけで、生まれたのは姫だったということだって当然ありえる。
信房の子が後継者候補にすらあがらず、御台の後見を受けることなく、
その子孫は前田家に仕えたというのだから、濃姫実子説はないと思ってる。
濃姫の後見があれば、勝良が三法師を押しのけるだけの支持は得られたと思うよ。
安土桃山あたりまでの武家では後家の権威は思いのほか強かったと
女性史関連の文献に書いてあったしな。
152 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 17:30:55
>>150 いわれてみれば土田御前でも可能性ありだと思う。
母親なら「上の位牌所」という書き方も納得。
どっちにしてもな屋がお鍋の方という線は絶対ないような気がする。
153 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:42:02
しかし丹羽長秀にあてた手紙はのんきすぎるんじゃないか?
天正12年12月は丹羽は信孝攻めのために陣取りしていた最中。
てんやわんやの時に「そのうち崇福寺にでもきてくれ」といわれても
返事に困ったろうにな。
154 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:20:00
お鍋(小倉)の書いた書状で「な屋」と著されたものは
他にもあるんだろうか?
自分が知っているものは「なへ」「ナヘ」なんだけど。
155 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:13:35
吉乃がらみだと濃姫よりもちょっとでも下におかれる書き込みがあると
アンチがはりついてくるけど、お鍋だといいわけか?
お鍋萌えっていないのかな。
同じ後家で信長の子供を複数もうけた
寵妾なのに、どこが違うんだ?
156 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:28:52
あのマムシの娘の美濃の姫より寵愛された、というあたりが萌えるのだろう。
それと嫡男の生母、というあたりで織田家にとってなくてはならない存在だと
勝手に思い込んでいるようだ。
お鍋の場合は競争相手がいないし、子供も話題性が乏しく興味がわかないんだろうな。
信長は生母に愛されずにいたが、生母と親戚の吉乃を愛して
人から愛される喜びを知ったから、
母性を感じさせる年上の後家好きになった。
だから、信長は吉乃のかわりに後家のお鍋を寵愛した
なんてことを、本気で言ってた人もいたから
お鍋は吉乃のスペア扱いってことなのかもね。
まぁ、歴史のHowToモノでも、そんな論調で書いてたりするから
アンチっていうか、本気でそうだと思い込んでる人もいるんだろ。
158 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 08:02:35
>>157 吉乃だって(プッ
大河ドラマ好きの馬鹿は大河ドラマ板へ行け!
アンチの心理を考察してるだけの人に対して
その突っ込みは、読解力の無さを
露呈してるだけで、無様だぞ。
あとsageを覚えてくれ。
160 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 10:07:36
生母に愛されないので年上の生駒に母性を感じて云々かんぬんて
まったく説得力ないよね。
大名の嫡男なんて物心つくまえに正室が産んだって親から引き離されて
養育されるのが慣習なんだから、大名は全員信長と同じ境遇で育ってるのに。
子供は戦略の駒であったから女性は愛玩具ではなく駒を産む道具、
と割り切って子作りに励んだから、生駒もお鍋もその中の一人に
過ぎなかったと思う。多少身体の相性が他の側室よりもよかったとかは
あったろうけどさ。
家光だって生母に疎まれて乳母育ちだけど、側室に母性系の
女性を選んでないぞ。お万の方は尼僧だったくらいだから中性的だったろうし。
お万の方みたいに、公家出身でしかも子供を産んで
ないのに大奥の支配者になり、親族も厚遇されているのは
家光のなみなみならぬ寵愛がなければ不可能なので家光最愛の女性
といえるとは思うけど、生駒やお鍋は子供の数だけが根拠のような気がするな。
161 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 11:24:07
正室のポストが空いたら側室の中で一番愛されれば正室の後釜になれると思ってるから
生駒後室、お鍋後室説が消えないんだな。
現代人の感覚で戦国時代の婚姻制度を語ろうというのがそもそもの間違いだな。
162 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:07:05
>>73 1571年元亀2年6月11日
信忠が奇妙丸の頃に崇福寺へ「信長判形」により一切の諸役を免除する判物を
だしている。元服前の奇妙時代に判物をだしたのはなぜかと思っていたけど
生母の埋葬や位牌所の設置に伴なうものであったのかもしれない。
天正5年の判物はちょうど7回忌あたりの頃。
法要をしたことによる便宜だったか?
ここをロムってよかったよ。
思わぬ生駒とお鍋の新説にめぐり合えた。
それと濃姫の本名が「な屋」であるかもしれないという説もかなり
インパクトがあった。
163 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:56:02
>>153 丹羽長秀に宛てた手紙がどうして崇福寺に残ってんだ?
164 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 10:18:30
>>154 秀吉のお鍋への手紙の宛名も「小倉なへ」なんだって。
どう考えたって「な屋」と「なへ」は別人だと思うんだけど。
>>164 秀吉からお鍋に宛てての手紙の宛名は、列記すれば次のようになる。
天正11年8月朔日(1日)「小椋鍋殿」
天正12年11月10日「御なへの御かた」
天正19年10月21日「おくらとのへ」(同日同じ宛名で2通。別内容)
毛利輝元、宇喜多秀家、徳川家康の連名からの書状では
慶長4年12月朔日(1日)「小倉殿」
言経卿記
「前右府妾御なへ」
ただ、「へ」の変体仮名の「扁」の崩し文字は「屋」の崩し文字に似ているそうだ。
166 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 11:32:19
>>165 少なくとも「安土殿」と呼ばれていた事実はないわけだな。
信雄の分限帳の「安土殿」は信長正室ではなく、正室格となっていたお鍋であった
なんていうことをいっていた歴史家もいたからな。
への変体仮名の件を確かめるためにも元の書状をみたいが、
どこかにその書状の写真はないもんかな?
167 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 11:37:25
「へ」の変体仮名は「遍」「邊」「弊」「倍」。
ちなみに「や」は「夜」「耶」「屋」。
>>166 お鍋は天正11年から秀吉に知行を与えられているから
(
>>165の天正11年8月の書状の内容が、その知行について)
天正13〜14年の記録である、信雄の分限帳に載るとは思えないな。
安土殿とお鍋は別人だろう。
お鍋を安土殿と言っていたのは、分限帳の記載年代が知られていなかったからと
考えれば納得は行くが、既にその説が一人歩きしているきらいはあるな。
>>135が持っている本に載っている写真では、どのように見えるんだろう?
気になるな。
確かに
>>167の書いている様に、「へ」は通常「遍」で「扁」はほとんど見た事がないな。
うちの変体仮名の辞典には「篇」は載っているが、「屋」の崩しとは明らかに違う。
だが「遍」の方は似ていると言ってみれば、言えなくはない様な気もしなくはない。
169 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 12:49:27
分限帳に載っている安土殿は信長正室は間違いない。
ただその正室が濃姫というので確定でいいのかな?
分限帳の安土殿は、他の女性の記載方法などから見て
安土城の「女主」であるというのは確定だと思う。
そして、それはお鍋ではない事も間違っていないと思う。
「女主」が誰かという事になると、濃姫と確定ではないが、
言継卿記の壷事件を精査すれば、斎藤家親族の女性が
正室であった事は間違いない。
斎藤家で、濃姫以外に信長の正室になった女性は知られていない。
馬場殿は、濃姫が生きているから、叔母姪の間で正室側室なんて駄目だから
信長にはやらんと言われているくらいだからな。
もっとも、信憑性の高い文献ではないので、馬場殿の存在自体「?」だが。
永禄11年の上洛以降、信長の動向は公家衆の日記や記録に出てくるが、
側室に上がった公家の娘の話みたいなのも出てくるのに、
正室が変わったとか亡くなったという記述はないから、
おそらく正室が変わっていないと考えるのが妥当。
そう考えると、壷事件は永禄12年だから、
「女主」が濃姫の可能性が高いとなる。
そんなところだろう。
武功夜話で吉乃が正室になったなどという、おかしな説が出てきたせいで
濃姫がその時点で死んでいたとされたのが、
それ以降の文献に出てくる御台が誰か分からないとされた一番の理由だし
吉乃死後、秀吉絡みで有名だったお鍋が正室代わりだったなんてことになったのだろう。
171 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 14:33:11
>>170 そうだよな。冷静に検証すればそれ以外の可能性はないよな。
ところで武功が広まる以前は濃姫はどういう扱いだったんだろう?
ゆるぎない正室の立場という認識だったのだろうか?
172 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 15:23:44
>>165 秀吉の鍋への手紙はひらがなで「なへ」なの?
>>171 そもそも、武功以前は、信長の御台の記録がある文献自体が知られていない。
武功で、側室が正室に取って代わるなんておかしいだろうと考えた人間が、
色々な文献から御台や本妻や北の方の記述を見つけてきたんだ。
あと、岡田正人氏が、養華院殿要津妙玄大姉を発見したのが大きかった。
174 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 15:48:56
>>173 サンクス。養華院殿要津妙玄大姉が信長御台とかかれていたのは
総見寺の過去帳だったよね?これはもう紛れもない事実だろうな。
実際、武功夜話で吉乃が正室になったとされる以前に、
信長御台と書かれている文献群が、広く知られていたら、
特に言継卿記の壷事件などが、有名であったら、
御台が誰か分からないなんて事にはならなかったんだろうか?
それでも、武功夜話で吉乃が正室になったって事になって、
濃姫と思われていたが、濃姫ではなかったとされていたんだろうか?
それとも、吉乃が正室代わりで、濃姫は別居させられていた
岐阜に信長が入ったら、吉乃も死んでるし、岐阜にいる斎藤一族達の
親戚の力で復権したみたいに言われてたとか?
そういえば、壷事件が知られ始めて、武功がまだ真実を書いていると
思われていた頃に、そんな説を言っていた人がいた様な……。
あれは誰だったかな?
自分としては、何故「武功夜話が真実を書いている」という事になったのか
という事の方が、興味があるんだけどね。
普通に史学部出身程度のリーマンである自分でも、読んだ瞬間に
「戦国期の常識も知らんのに、戦国期の文献を創作するなんてチャレンジャーだな」と
思ったものだがな。
176 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 16:13:34
「久昌寺縁起」なんてもっとたち悪くないか?
思いっきり「吉乃は」なんて書いてある。
この縁起をもとに武功が創作されたような気もするんだよな。
創作したと思われる最右翼は津田応助。
江南市周辺の郷土史家で、系図研究と制作をしていた人物。
178 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 17:51:39
系図研究してるんなら、生駒氏息女と土田弥平次を結びつけるのも簡単ってことか。
製作もしてるなら、その手の書式にも詳しいだろうし。
しかし、戦国期の奥の常識はなかったと・・・。
179 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 17:59:55
>>175 型破りな信長だから、奥の常識なんか守らなかったとでも思ったのかね?
家族に関しては、超保守的なのにな。
信康に嫁がせた徳姫以外、自分の実の娘は賭けに出る事なく、
安全な近しい人間の元に嫁がせているくらい、保守的なのに。
まして、潔癖だったと言われる信長が、奥の乱れに繋がる様な
奥の規律を乱す様な事をするわけないと思うがな。
吉乃を寵愛して、濃姫を遠ざけて別居なんかしてたら、
信長は寧々にあんな手紙を書けないだろう。
そのまま、わが身に降り掛かる批判の答えなんだからな。
180 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 18:31:21
>>系図研究と制作をしていた人物。
金もらって先祖が農民の家系に強引に祖先を源氏にくっつちゃう仕事みたいの
してたんだろうなw
生駒家の家系図が都合よくかかれている理由もわかった。
生駒が「信長室」と堂々と書いてあるのもうなずける。
>>160 旅行に行ってたので、亀なレスだけど。
前々から思ってたけど、時代の流れで世情も奥向きの体制も
また規模も違う徳川大奥を持ち出す人、ちょっと違うと思う。
>お万の方は尼僧だったから中性的
出家の身なので脂粉の匂いを感じさせなかったことはあろうけど、
大奥資料本での作家の推測をそのまんま使うのもどうかな。
戦国乱世とは事情も全く異なるのにさ。
>>172 「小椋鍋」の「鍋」は漢字。
「御なへの御かた」の「なへ」はひらがな。
「鍋」を「な屋」とは読まないから、
崇福寺の書状が「な屋」であった場合別人が書いた事になるだろうな。
「な屋」ではなく「な遍」や「な篇」だったりしたら、
鍋の可能性が高くなるって感じか。
直接崇福寺の住職にメールで聞いてみるかな?
183 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 10:01:50
お鍋の墓はお粗末だな。
信高が高家に取り立てられ出世したので、そのおかげで
生母として信高も埋葬された織田家の菩提にいれてもらったってかんじ。
どうみても、信高の亡くなった後か同時期にどっかの墓から移転されたんだろうな。
石が粗末なのは同じ敷地内なのであえて正室と差をつけたのか?
>>183 お鍋の墓は江戸期に子孫によって作られたというのを、
前スレか、他の濃姫スレで読んだ事があるのだが、
これは事実?
事実なら、総見院のお鍋の墓がある場所に、
お鍋の墓ができる前に、誰の墓があったのかが
気になるのだが。
土田御前か、もしくは濃姫が生んだ姫辺りじゃないかと
思っているんだが……。
土田御前の墓って、見つかっていないよな?
>>184 たしか土田御前の墓は三重県津市にあったはずです。
信包建立だったかな。
186 :
185:2007/01/17(水) 16:19:06
自分でググって調べました。津市の四天王寺だそうです。
ついでに戒名は「報春院花屋寿永大禅尼」ということで、
上で「な屋=土田御前」説を出している方がいましたが、
可能性ありそうですね。
187 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 16:30:58
お鍋の方も諸説あるんだけど、こういう説もあるよ。
小倉左近大夫良親の息女で、本能寺の変後に実家の小倉に帰って親元にいたそうだ。
「近江輿地志略」「淡海温故録」参照。
ちなみに小倉賢治の室で切腹後どうのこうのは後年の創作話と考えた方がいい。
小倉家出身だったので、小倉なべ、と名乗っていたのだろう。
本能寺の変の時お鍋の長子である信高は大垣城主の氏家氏のもとで養育されていたこと、
安土城内の信長の親、妻妾、子供たちは蒲生家の保護のもと近くの日野城に
避難しているのに、お鍋が日野城に避難せずに実家にいたことから、
お鍋は安土城の奥で公認されていた側室ではなかったのではないかと考えられる。
坂氏同様に城内におかれず、安土城下もしくは、居館を与えられていたのではないだろうか。
ただ実家のある小倉は滋賀県で安土とは遠いので緊急時の避難先にはちょっとリスクが
高いので不自然さは残るが、とりあえず日野城に避難して落ち着いてから
実家に逃れたとすれば不思議はない。
お鍋は濃姫たちと行動を伴にした様子はなく、信雄に庇護されていた痕跡もない。
秀吉の取立てによってお鍋が表舞台にでてきた経緯から、
正室の息のかかっていないことから、信長の男子をもうけた側室を
秀吉が利用したのだろう。
お鍋が正室格といわれてきたのは崇福寺への書状が根拠だったんだ。
あたかも正室クラスのがだす命令書だし、家臣の丹羽にもあのような指令を出せる
立場なのは安土城内でも相当権力のある女性であるはず→お鍋は正室格、
となっていただけ。
もしお鍋の書状でないと判明したら、たんなる側室以外の何ものでも
なかったことになる。
188 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 16:38:25
>>185 そうだ、信雄改易後土田御前は信包の元に身を寄せたんだよな。
なので信包は土田御前腹だと言われているんだった。
信包を信長が厚遇していたのはそのためだったのかもな。
公記をみても常にbRの扱いだし。
>>185 ありがとう。
戒名からすると、「屋」が入っている事から、土田御前の可能性があるね。
濃姫と言われている戒名は「養華院殿要津妙玄大姉」か。
奇妙丸の「妙」が入っているなぁ。
帰蝶は奇蝶とも言われるし、組み合わせると「奇妙」
偶然だろうが、縁を感じる。
単なる呟きなんで、スルーして下さい。
190 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 17:50:47
>>189 確かに「屋」が入っているが、「や」の崩し文字と考えると、
「屋」が本当に本名に使われたかどうかは不明。
また、戦国期にはまだ、名前の字をとって法名をつける事が今程
普通の事とはなっていない。
信長の子供達も、「巌」という字は織田家の法名の決まりだったから
入っているが、名前の一字は入っていない。
(信房=勝長には巌も入っていないが)
入っているのは永姫くらいだと思われる。
191 :
190:2007/01/17(水) 18:04:14
あ、でも、「な屋」が土田御前ではないと否定している訳ではないよ。
あの書状なら、正室か土田御前のいずれかが可能性が高いからね。
あと、土田御前の法名だが、通常戒名部分に名前の一字は使われる。
土田御前の場合、「屋」が使われているのは道号部分だから、
そこもちょっと疑問だと思う。
織田信長事典ならお鍋の辺りのコピーもってたなと思って、
資料を引っ張り出して来て見てるんだが……。
小さい写真で、コピーだから黒ずんでいるのと、
おまけに下半分が上下逆さまになっていて見えにくい。
それに、黒印とかぶっているのでよく分からん。
「遍」の崩しにも見えるし、「屋」の崩しにも見える。
ttp://www.imgup.org/iup317071.jpg.html パス:nou
>>193 黒印の直前のくるんとした文字だよな?
あれ、「な」の崩し文字じゃないか?
「奈」の崩し文字があんな感じだ。
天正拾年六月六日 奈(の崩し文字)(黒印)
という風に見える。
戦国期の女性は、名前の頭一文字で署名をすませる場合も多々あったから
「奈」一文字でもおかしくはない。
「桃山時代の女性」を所持しているけれど
黒印にかぶっててよくわかりません。
>>193 見えている該当の文字だが、「遍」の崩しにしては
最初、一回止めてから左下へ線が延びているので
少し違う気がする。
「屋」という気もするが、違うという気もする。
「奈」の崩し文字としても、一回止めている部分が気になる。
が、署名の一文字目である事も間違いなさそうだ。
「遍」であろうが「屋」であろうが、一文字目に来る場合
鍋の訳はないので、「奈」の崩し文字で、黒印部分に
「へ」と分かる字がくるんだろか?
拡大して見ている限りでは、定かではないな。
「六日」を「な」と読み間違えて、
該当の字を二文字目としたのかな?
198 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 11:03:04
手元の本に
>>193と同じ消息の写真があったのでよくよくみてみた。
「奈」の崩し文字と「六日」が似てるので、なんの疑問も持たずに
ずっと「奈遍」と書いてあるのかと思ってたよ。
でもよくみると六月六日で墨が薄くなっていて、次の字を書くときに一度墨を
付け直したため、問題の字は前の字よりも濃い。
なので上の字とは一度間隔をおいていることから、上の文字とつながってはいないな。
それと正方形の印の下にはもう一文字あるようにはみえないけど、
問題の字の一部がかぶっていると思う。
可能性としては非常に簡素な変換仮名なら問題の字の下に書かれているかも
しれない。(「い」とか「こ」とか)印にかくれて見えなくなっているかもしれないな。
オリジナルの消息文をみればそのあたりはわかるはず。
この問題の文字は「な」の変体仮名でメジャーなあたりの「奈、那、難、名、南」
はどれもちがう。
ぱっと見一番近いのは「遍」あるいは「豪」かなとも思ったけど、
いかんせん変体させている上に、字には個人の癖もでるし、勝手に簡略化してる
可能性もあるので判読は難しいな。
「な」ではないことは確かなので、なべが書いたものではないのでは?
名前の最初の一文字を手紙などで署名することはあっても、あとの一文字は
ないよ。
専門家に鑑定しなおしてもらいたいな。
199 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 11:44:57
おぉ!
すごい検証がされてるんだね。
お鍋ではない、としたら濃姫なのか土田御前のどっちか、あるいは
それ以外の信長に関わる女性なのかが気になるな。
もしお鍋が一緒に日野城に逃れたとしたら正室を差し置いてそんな
命令書をだしたり、勝手に位牌所を設置したことが解せなかった。
お鍋が正室と行動をともにしていないなら、今度は安土城内にいなかった
ことになって、お鍋が信長の寵愛を受けていた、ということと矛盾が生じる。
でもこの書状をお鍋が書いたものでないならそのへんの疑問が解消されるよ。
一文字だけの解読だけなんだから、この消息の検証は簡単といえば
簡単なことなんだけど……
これ、正室以外の女性の排斥運動?
単純に、鍋の書状とされている書状の署名の鑑定。
202 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 12:02:49
>>200信長公御正室濃姫さまのスレだから当然じゃんw
子産みマシンの側室が立場をわきまえるスレでもあるww
200はごもっとも。
201は感じ悪。
こんな時間にあっという間に反応あるのが愉快。
>>203 鍋の書状とされている書状の、署名鑑定以外の何なんだ?
そんなに感じ悪かったか?
>>198 自分には「間」の崩し文字に似ているように見えた。
門構えが、上の一旦止めているのと合致する気がしたんだが。
崩し字が読めないので鑑定には加われないが、六月六日の部分の墨が薄いことだけはわかる。
>>205 確かに、上で一旦止めているのが門構えの特徴に似てるな。
「遍」も「屋」もまず止めないからな。
そうすると「間」は「ま」の崩し文字だな。
208 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:01:03
209 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:02:58
210 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:03:38
211 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:13:11
「間」なら「おまあ様」あたりかね?
なんだか、段々混乱してきたぞ。
ちょっと整理してみるか。
・「六日」の崩し文字が「な」に見えることから「天正拾年六月な〜」とされてきたか?
・問題の字と「六日」の間には一文字分空間があり、墨も付けなおしている事から
署名の一文字目と考えられる。
・黒印にかぶっている部分は問題の字の一部か?
・だとすれば、れっか、したごころ、にょうなどか?
・問題の字は、上が「つ」のように一旦止まっている事から門構えの可能性あり。
・現状候補として上がっているのは「遍」「屋」「豪」「間」
ところで、黒印というのは個人の物なのか?
鍋個人の黒印なんだろうか?
それともこの書状にしか出て来ない黒印なのか?
>>204 間違い。
ごもっともは201で、
感じ悪は202でした。
>201さん、ごめんなさい。
>>208 現代でも署名のはじにかかるように捺印したりしますが。
214 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:31:04
>>213 とりあえず
>>208には>>今でもそうらしいだけど
とあるので、そんなの承知の上と思われw
215 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:32:12
つうか、
>>213のほうがよほど感じ悪いんですけど。
いちゃもんつけに来てるの?
これって寺にお鍋の書状として伝わってたのかな?
意外と、元々は信長正室書状って伝わってたりしてな。
正室代わりだったのは鍋って言うのが常識だった時代もあるし、
「六日」の崩し文字見て、
「お! 「な」だ!! 信長正室なら鍋が正室代わりで安土城にいたはずだから鍋の書状だな!!」
なんてことになったのかも知れん。
218 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 15:32:05
>>217 消息文が発見されたのがいつの時期かで違ってくると思う。
濃姫死亡説・離縁説が通説となってから発見されれば、晩年の寵妾だった誰かのもの、
署名にそれらしい文字もあるのでお鍋だろう、となったのかもしれない。
でも濃姫死亡説などなければ署名をしっかり検証したろうから、
今我々が論議することもなく専門家に解読されそれが濃姫の本名という
ことになっていただろうな。
内容から側室がだしたものであるとは考えられないけど、濃姫の命を受けて
お鍋がだしたんだろうと推測していた歴史家もいた。
署名を自分の目で検証せずにお鍋が書いた、と先入観を持ってしまうと
そういう無理矢理なこじつけ論になってしまうんだな。
女性書簡の研究は進んでいないからね。
220 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 19:20:53
秀吉は豪姫にあてた手紙で「五もし(五もじ)」と書いているけど、
これが豪姫の本名だったということ?
そうだとしたら「豪」という名は何なの?
濃姫の濃みたいな呼び名からの当て字かな?
または、豪が本名で、それに「五」を当て、
女性の使う接尾語である「もし(もじ)」を付け加えたかな?
「もじ」は付けた言葉を美しく言いたい時につけるから、
豪の事を美しく品よくしたってことじゃない?
222 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 19:49:55
222
223 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 19:52:38
>>220 そのまんま「五」が名前で「いつ(姫)」とでも呼んでたかもしれないよ。
一文字名は珍しくない。
ねねだって本当は「ね」だけ。
漢字に関しては後年の当て字だから、史料によって
何パターンもあったりするだけだから、「五」→「豪」と
勝手に変えられたという可能性のほうが高い。
224 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 19:56:02
なんだ「もじ」は接尾語だったんだ。
勉強になりやんした。
226 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:29:21
>>225のWikiを読んだら、
>>徳川秀忠の正室崇源院(名はごう)が姉の常高院に宛てた消息でも
「五」と自署している。
とあるので、豪姫の本名は「ごう」であることは間違いなさそうだ。
ということは、お鍋は「なべ」と本名がわれているので、
解読不明の文字が「な」であるならお鍋の可能性が大なんだな。
「な」以外の文字なら濃姫の可能性大だが、フルネームは
そこからは推測不可能ということになるわけだ。
お鍋か否かが判明するだけでもかなりの発見だけど。
>>223 >ねねだって本当は「ね」だけ。
その件に関しては、225も言っているとおり
桑田忠親の推論が必ずしも正しくないということが
わりと普及しているだけどな。
>後年の当て字
いや、色んな例があるけど、
みな自分の名でさえ平気であて字を使ったりしているぞ。
NHKの歴史番組担当者は、桑田忠親と角田文衛の論争を知らないんだろうな。
で、どこかで「ね」一文字の手紙を見て、桑田と同じ恥をさらしている。(笑
229 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:07:07
署名の文字は通説の「きちょう」の「奇」や「帰」でもなさそうだな。
その他濃姫本名は「ききょう」「こちょう」説があったけど、どうだろう?
六月六日のあとの字は、少なくとも「な」には見えないよね。
232 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:00:44
>>232 上の点が繋がったとしたら、門構えかもと思う「つ」の様な形になるかも?
「帰」は全然似てないかと思ったけど、
>>230ので調べると確かに似た感じの字があるね。
これを「なへ」もしくは「な屋」と読むのって
上の小さい部分を「な」だと解釈してるってことか。
236 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 08:41:35
物置から浅野内匠頭の史料=江戸時代の数千点見つかる−兵庫
(時事通信社 - 01月18日 23:10)
忠臣蔵で知られる浅野内匠頭に関する古文書など数千点が
兵庫県相生市の民家の物置から見つかり、寄贈された同県たつの
市立龍野歴史文化資料館が18日、一部を公開した。
同資料館などは「赤穂浅野家は断絶したので、史料は極めて少なかった。
江戸幕府の職制を研究する上でも貴重だ」としている。
見つかったのは、相生市の旧庄屋の当主三木尚子さん宅。
初代長重から4代目の長矩(浅野内匠頭)までの本家赤穂浅野家と、
分家の若狭野浅野家の史料が物置に眠っていた。
濃姫に関する史料もこれから発見される可能性もある。
期待しよう!
237 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 10:20:12
>>232「廉」に似てるなら「簾」じゃないか?
「御簾中」は正室の意味だから、信長正室ということで「簾」
を用いていたとか?
238 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:12:09
>>235 この一塊で一文字だから、「なへ」ということ自体ありえない。
「な」は「奈」の変体だと間延びしたひらがなの「ふ」に似ていて、
「六日」と書かれているところと似てるんだ。
そのあたりから「なへ」(下の変体文字を「遍」とでも読んだのかも)と
解釈されていたのかもしれない。
でも一番可能性が高いのは、寺伝の「この2通はお鍋の方の手紙」という話を
のを信じ、そういう先入観でみていたから署名のことなんてさほど
気にせずに歴史家がそれを前提に容認してきたからだと思う。
実際問題「手紙を誰が書いた」なんてどうでもよく
「いち早く崇福寺で信長の位牌所の設置がされた、信長公縁の寺である」
という事実の証明さえできれば寺側はよかったんだろうな。
>>237 「御簾中」という言葉は公家以外でも武家の正室にもすでに使用されて
いた時代だから、ありえなくはないかな。本当に「簾」だったらだけど。
秀吉も豪にあてた手紙では「大かう」と書いていたし、名前以外を署名に用いる
ことはあっただろう。
239 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 12:45:49
淀殿の署名はどうなってるんだろう?
茶々?茶?
それとも最初の一文字をとって知?とでも?
今回崇福寺文書を調べていて、
>>73の書いていると思われる、
信忠の判物を見つけたんだけど。
天正5年6月に出している。
生母かどうか分からないけど、「當寺爲久庵慶珠位牌所者」という一分がある。
「久庵桂昌」の当て字で「久庵慶珠」って書いてるんじゃないのか?
ただ、自分は法名の当て字なんか見たの初めてなんだが、
当て字を使う事あるのか?
それに、崇福寺が生駒類の位牌所になってたという記録って
見た事ないんだが。
それとも、似た法名だから、生母が一緒ってことになったとか?
同じ側室で、こんな似た法名になんかするかな?
信雄とは別の、生駒家の女性の可能性があるとか?
241 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:53:03
「久庵桂昌」と「久庵慶珠」って似てるな。
確かにこのあたりで信忠生駒生母説がでたのかもな。
ただ信忠の生母とは書いてないんでしょ?
織田家に縁のある女性の位牌所をもうけたのかもしれないな。
生駒は織田家に縁のある寺に葬られたのではなく生駒家の菩提寺に
埋葬されてる。この「久庵慶珠」は織田家の息のかかった寺に埋葬され、
織田家の新当主から寺に免税などを認めているあたり、久昌寺に埋葬されている
女性は織田家とは係わり合いが薄く、むしろこの慶珠のほうがそれこそ
信忠、信雄、五徳の生母(同腹説が事実なら)かもしれない、と思えるけど。
武功夜話に登場する吉乃の話がでたらめで、モデルになった類のことも確かな
ことはわからず、後家になった話も嘘だというなら、そういうことになるのでは?
久昌寺のいってることは「久昌寺縁起」を創作しちまったことで
まったく信用できない。
242 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 20:57:36
どっちの法名にしても信忠の生母でもある信長側室にしては
お粗末だな。生前出家した戒名のようだけど、せめて
諡号でもっと立派な戒名をつけたりしないのか?
可能性としては二つあると思うんだ。
一つは、「久庵慶珠」という法名の女性が信忠の本当の生母で、
元亀2年に亡くなって、それで元服前の奇妙のまま、
崇福寺に制札を出し、七回忌の法要で、また制札を出した。
これは、信雄が茶筅のまま生駒類の喪主をつとめたのと合致するやり方。
嫡男の生母の弔いとしては、格式として矛盾がない。
もう一つは、生駒類が亡くなって葬られた時は、まだ美濃は攻略出来てなかったから、
生駒家の菩提寺である久昌寺に葬られたが、美濃攻略後、元亀2年に、
織田家の方では、奇妙の生母の位牌所を崇福寺に新たに設け、
生駒家の方での位牌所はそのままにしていた。
新たに崇福寺に位牌所を作った時に、法名の道号部分を久庵のままで、
戒名部分を慶珠に変更したという仮説。
ただ、美濃攻略して、崇福寺が織田家の菩提寺になったのは永禄10年9月の
信長が禁制判物を出している時だと考えられるから、
なんで元亀2年までそうしなかったのか、
そして、天正5年の判物の意味は?という疑問が出てくる。
印象としては、上の説の方が納得出来るんだが、
あまりに法名が似過ぎているから下の説も捨てきれない。
244 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 08:33:31
なんかますます生駒が信忠を産んだとする説に無理が生じてきたな。
信雄が生駒の喪主をつとめたのに、生駒の位牌所設置を信忠がやったというのは
不自然だ。それに信忠は濃姫の養子になったので生母とは一線を引いていた、
という従来の説に矛盾がでてくる。
やはり信忠と信雄の生母が異なっていた、ということなんだな。
二人とも現役の側室のままなくなったのではなく、いったん下がってから
仏門に入っていたようなので、二人とも未亡人だったのは事実かもしれない。
境遇も戒名も似ていたので、同腹説が信じられてきたとも考えられる。
245 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 10:24:57
これで信忠と信雄の同腹説が完全に消えたな。
依然信忠生母が誰だったのかという謎は残るが。
246 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 11:12:58
信忠の生母は信忠が濃姫の養子になった時点で奥から遠ざけられたのかもな。
信長も寺ごとに異なる戒名だし、「久庵桂昌」と「久庵慶珠」が同一人物で
あってもおかしくはないんだけど、その場合まったく違う戒名をつけるだろうからな。
粗末な戒名はちょっと解せないけど、正室も生存していたし、立場上
立派な戒名をつけることをはばかったのかもしれない。
248 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:48:27
249 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:18:08
>>248 よっくみたけど、刻印の文字は署名の変体文字と同一の文字じゃないか?
下の方に横線がある。
自分は「簾」を縦長に崩した場合が一番似ていると思う。
「廉」だと、点を繋げた場合、「つ」みたいになる部分が一つ多くなる。
251 :
250:2007/01/20(土) 21:23:44
あ、多くはならないのか、点を繋げると「廉」と似るかも。
勘違い、スマソ
252 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:31:57
「廉」なら読み方は「レン」「かど」「やす」「い」。
濃姫は「きちょう」ではなく「いちょう」だったとか?
253 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:17:29
>>252 「やす」か「れん」が本名でそのまんま署名したのでは?
全員がいつでも一文字署名をしていたというわけではないからさ。
変体仮名が「廉」だったらの話だけど。
254 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:44:29
とりあえずおまいら論文発表でもしろ
>>254 だよね。
ここのみならず戦国板然りヤフーの方でも同じようなことを
よく見かける最近の状況には正直萎える。
信忠生母は濃姫という話題や生駒以外の信忠生母に関するは話題なんて
2ちゃんで火がついたた話なのにさも昔からあった逸話とまで書いて
あってちょっとね・・・。
256 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:23:12
自分は濃姫好きだし、そりゃ濃姫が大切にされてた(かも)とか
子供生んでた(かも)という説があるならそれはそれで嬉しいけど
最近の流れはなんか怖いと感じるんだけど・・・。
妄想と願望が入り混じった意見など色々あって、2ちゃんのスレの話題としては結構面白いよ。
それ以上でもそれ以下でもないと考えればいいのに。
せめてまとめサイトとか作れたらいいんだけど。
2ちゃんの中だけの話じゃないから指摘されてるというのに
相変わらず自己都合よく解釈するそのオメデタさはもはや才能
2ちゃんの中でない話をここで指摘されても一体どうしろと?
両方に出入りしている人間への忠告かと。
263 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:06:59
要するにここにいる濃姫ヲタは三条ヲタと同列ということか。
戦国板にも同じスレがあるなら続きはそっちでどうぞ。
>>248 パッと見、「ゐ」に見えたりしたんだけれどやはりわからないなあ
うーん・・・やっぱり廉かな。
やめなよ。反発している人の意見も一理あるのは確か。
それにスレタイに書いてあるお約束事を見事に破っているのは
ここの住民であるのも確か。だからつけこまれるんだよ。
それでなくても姫系スレは嫌がられる傾向にあるんだし。
じゃ、2ちゃん以外で語るときは気を付けてねってことで。
2ちゃんの中でも気を付けてね。
わざわざ史板でやり続ける必要があるスレじゃないから
270 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 07:34:53
良いだろ面白いよ。
おそらくヤフーの本人達が書き込んでるんだろうがね。
271 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 10:26:15
前スレに明らかにヤフーのトピ主の女が登場していたのが笑ったなw
オレ様に論破され、逆切れして去っていった。
272 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 10:45:48
ハイハイ、それは良かったね。
273 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 11:49:49
う〜ん、よかった、よかった。
自称生駒の子孫の女ね。
274 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 11:59:10
鍋の手紙とされていた手紙の署名は明らかに「なへ」とはかかれていない。
その検証をすることがおかしいか?
何の疑問をもたずに「鍋の手紙だ」と信じる方がおかしくないか?
側室たたきでもなんでもないのに、難癖つけるだけの
投稿ならやめてくれないかな。迷惑だよ。
275 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 12:58:11
ローカルルールだけじゃなくスレタイに書いてあることすら
満足に守れないくせに何を偉そうに言っているんだか
>>274 全く問題ないと思う。余計なのはスルーしていこう
だから論文発表でもしろよ。
278 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 14:19:36
>>274 検証が悪いのではないと思う。
ただ、仮にここで「はい、これは鍋じゃなくて、○○のお手紙でした」って
結果が出ても世間的にはいつまで経っても鍋の手紙。
なのにここではあたかも公で認められているかのようにそれを「鍋のものじゃない」
と断言するような発言が多くなる。
濃姫出産した可能性がある、生駒が信忠生母ではない可能性がある、
あくまでもここで議論されたに過ぎない事なのに、ウィキペディアやその他で
さも公然の事実のようにそれを書いている人がいるのが問題だと思う。
自分も濃姫は好きだけど、ここでの論争をよそで書いたりするのは
正直どうかと思うしね・・・。
所詮2ch内でおこった話題なだけだし、世間的には認められてるわけでもない。
よそでも吹聴したい、認められたいのなら
>>277のいうように論文でも書けばいいと思う
wiki、その他で書く場合、その論の根拠となる理由を書けばいいと思うけどね。
例えば信忠の生母に関しての考察も、通常の正常分娩の妊娠期間が
人によって100日だったり500日だったりはしないんだから、
充分説明になり得る。
武功夜話にこだわらなければ、生母を否定する物でもないという説明もあるしな。
もっとも、吉乃の項目の、生母説の考察は、生駒氏息女生母説の否定よりも、
武功夜話が偽書だと言う証明のうちの一つだと思って読んでいたが。
鍋の書状にしても、ここであろうが、他所であろうが、色々な画像とともに
検証する分には、いいと思うね。
誰かが「屋」だと言って、ただそれを実際に見ないで、勝手に話を作る訳ではないからね。
ここで言うのは良くて、他所で言うのは駄目というのは、ここでの話題をここだけで収めて
他にその説の可能性を流されては困る人なのか?と、勘ぐられるだけだと思う。
世間的に、未だに武功夜話が本当だと思っている人が、大勢いるからと言って、
武功夜話が本当の事を書いているとは、ここにいる人間は誰も思わないだろ?
それは、検証されておかしいと思える点を、きちんと認識しているからだ。
特に、ここで言うなら、濃姫と、吉乃についての記述は、年代矛盾からおかしいと
誰に対しても説明出来る人は多いと思う。
武功夜話の事もそうだが、根拠を示して説明出来るなら、何をどこで言っても
構わないんじゃないのかな?
妄想と言われないだけの、説明を出来るならね。
280 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 15:20:05
>>279 だからその考え方が一般的に認められているかどうかっていうのが
一番の問題なんだと思うよ。
例えば一般的にはいまだに濃姫は死亡して、生駒が正妻になったとか
信忠・信雄・五徳の生母であり、信長の生涯で一番愛された女性という説が
主流だよね。
いろんな文献を読めばそれが違う可能性が高いという事実があっても
それはあくまで一部の中でそういう定義になっているだけで
世間じゃやっぱり武功夜話の方が正しいんだよね。
武功夜話とここでの検証の違いは、論文として発表されたり
出版物として紹介されていないから。
あくまで「ネットに流れた噂話」に過ぎない話を、さも当然のように
語られているから問題なんだと思う。
どっちが本当だとか、どっちが正しい、どっちが嘘、そんな問題は
特に大きな問題じゃない。
世間的に発表しなければあくまで「妄想」に過ぎないって話。
「ネットで流れた噂話」程度に過ぎない話題をさも当然のように
wikiやらその他に広めるのはどうかと思うだけ。
論文書いてそれが新設になれば別にかまわないと思うけどね。
歴史的にみてそっちの方が面白いし。
誰も書くのは駄目なんて言っていないだろ。
要は三条夫人の次はお濃かよ(by三村風)って感じで
ウザクなりだしているってことなんだろうな。
そういえば前々スレあたりで酒井だかの家でお濃の本名はなべと
伝わっているとかいう書き込みがあった時は全く相手にしないというか
むしろバカにしていた感があったレスの方が多く付いたにも
関わらず、今はあの書簡はなべのものじゃない、濃か土田かもという
流れになっているのが何ともこのスレ住民の特徴を表していて
おもしろい。そういうミクシーよろしくな性質が災いしていると
いうことにいい加減気づいた方がいいとも思われ。
そう言えば、以前に濃姫の本名はなべって説が出てたな。
当時はそれはないだろと思ったけど、とんでもに思える説でも
切り捨てちゃダメなんだなとよくわかったw
そういうとんでも話でも語れるのは2ちゃんぐらいなんだから
ここで語るのはいいと思うけどね。
違う所に書き込む時は妄想語りじゃなく根拠のある説にすればいい。
283 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 17:17:19
立派な肩書きを持った学者の学会での発表はまさにここで繰り広げられている
ようなもんばっかりだよ。
断片的な史料をくっつき合わせてものすごい妄想たくましい自論を論文にして発表する。
濃姫論争はそれなりの一次史料の裏付けもあるしかなりまし。
武功レベルの眉唾論を堂々と発表している学者を多数知っているし
ここの論争を頭ごなしに否定する前に一度学会に出席してみたらどうだ?
いろんな学説の発表があってびっくりするぞ。
284 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 17:29:54
>>275 「なべ」ではなく「濃姫」ではないのか、という検証ですがなにか?
>>283 武功がなければ生駒正室説や生駒家あっての織田信長みたいな
学説を発表しても眉唾もので誰にも相手にされなかったわけかw
秀吉誕生も生駒家のおかげだなんて欲張りすぎだしなww
急に論文論文と逆切れしている連中はなんなんでしょうね?
2ちゃんをどう利用しようと個人の勝手。
気に入らなければわざわざこなけりゃいいじゃん。
285 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 17:54:20
>>281 君があの署名を「なへ」と読めるならそう思うだろうね。
どこがどう「なへ」となるのかぜひご教授願いたい。
ところで急に荒れ出したのはなぜだ?
Yahooと連動したとたんのような気がする。
ウザイからだろ
>>283 自信満々で断言するような書き方をしている人がいるからじゃないの?
>>285 前も濃姫関係のこと書いてたブログが叩かれてたし、
そういうのが気に入らない人がいるんじゃないの。
289 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:10:59
>>287 そんな書き込み方このスレに限らないじゃん。
290 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:12:51
追放されたバ○ンが一人で荒らしていると思われ
いつもの吉乃ageの人じゃないの?
吉乃の事、少しでも普通の側室だった風に書くと、
凄い勢いで食いついて来る人が、
一人か複数か知らないけど、いるからなぁ。
鍋の事だけ話題になってる分には、気にしてなかったんだろうけど、
信忠の判物の内容で、また生母説に疑問って話が出たから
食いついてきたんだと思うけど。
自分の気に入るような書き方する人ばっかりじゃなくても仕方ないだろ。
濃姫に関係することを書かれるのが嫌なのではなく
書き込んでいる人間の性質が叩かれてんじゃね?
同じ濃姫サイトでも叩かれもせず平和なのもあるのだし。
あからさまな孫受け、もしくはソースは2ちゃん状態なら
叩かれても仕方なし。
294 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:20:24
>>288 正妻を僻む癖があるのは自分が妾腹腹で生まれたか、父親が
愛人のもとに行ったきりで捨てられたかの境遇なんだろうか?
295 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:25:55
>>291 そっか、忘れてたがそのネタでてたね。
明らかに信忠の生母の戒名が生駒と違うことがわかっちゃったし、
それで食いついてきたわけか。
なっとく。
吉乃ageの人って生駒の子孫なのかな?
Yahooのトピ主もそうだけど異常。
生駒家にとって信長の寵愛を受けていた側室が先祖にいた、
ということが最大の家宝なのだろうか?
生駒はたんなる側室の一人で信忠の母でもなければ
織田家から捨て置かれて寂しく死んでいった、
なんていうことを絶対認められないんだろうな。
個人叩きしたいなら他所でやれば?
297 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:43:43
暇なんだろうね。
それと無知。
ってか濃姫マンセー気味な自分が見てても
最近ここ気持ち悪い書き込み多いよ。。。
鍋の書状と言われていたものの検証は
濃姫と無関係とも言えないし、その事には誰も文句言ってないと思う。
ただここでの話をよそでしている人がいるともにょる。
お前が考え出した事じゃなく、2chソースじゃんか。。。と。
よそでここで得た知識ひけらかすようなマネはみっともないと思う。
気持ち悪いなら見ないしかないよ。
自分の思うような書き込みばかりになるなんてことはないだろうし。
自分が思うような書き込みばかりになる云々というなら
反発レスだってあってもいいではないかな。
他の人も言っているがそういう勝手さがけむたがれるんでは?
ここの奴らはここで調べたこと、話し合った事をさも当然の事のようにとらえ、
それを外部にもらしているから反論者が出て来るんだと思う。
例えるなら特定キャラスレ、もしくはファンサイトだけで盛り上がってれば
いいだけなのにそれを公式設定と履き違え、よそにまで自分の脳内妄想を
書き込むってところか・・・。
ここでの話し合いがあってるわけでもないので、wikiなどへの書き込みは
正直控えたほうがいいのではないかと思った
要するに、ここでの話をさも自分の説のように他で語られるのが嫌ってことか
あ、wikiってことは生駒についての書き込みのことか
>>302 自分の説というか、ここでの話を公然の事実のように語るのが
どうかと思うだけなんだけどな。
信忠の生母が生駒じゃないなんて話ここでしか出てない話題だろ。
実際それを詳しく紐解いて調べた学者もいないわけなんだし
断定してよそに書き込むのは痛いなと思う。
305 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:18:32
>>298 それなら見るきゃいいじゃん。
わざわざコメントしなくてもいいのでは?
特定の人物を限定してのスレッドなんだから偏っていて
当たり前。それがいやなら「お姫様」や「戦国時代」などの
アバウトなスレにいけば?
306 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:20:07
>>304 >>実際それを詳しく紐解いて調べた学者もいないわけなんだし
武功夜話の偽書を証明する本を書いた人はすでに指摘していたと思うけど?
違ったっけ?
前から思っていたけど、先に他のサイトなどで書いている書き込みを
引っ張ってきて、ここに書き込む人がいて、その後で、先に書いてた人が、
ここの書き込みを引っ張ったって非難されてるのは、あったからな。
wikiの生駒の書き込みは、wikiの方が矛盾点指摘してたのは先だったからな。
信忠の生母説は、後だったけど。
信忠や秀信の所で森の名を出してあるのもどうかな〜。
塩川女の墓所関係から森じゃないかという話ももとは2ちゃんだし。
論文書けと言っている人達も、結局他所にまで書いて根回し?みたいな
ことをするぐらいなら学会で発表してみろってことなんだろうし。
学会では資料提示も無いトンデモ説も飛び交うみたいだから
確かに発表してみるとおもしろいかもね。
>>305 偏っているのは誰も文句言ってない気がしますよ。
ここでの話題をよそに持ち出すなっていうだけなような・・・
ここで最初に話題に上がった話もあるし、
よそのHPやwikiで最初に話題に上がった話もある。
よそで先に話題に上がったものまで、
2chの話題を孫引きしていると、
非難している奴がいるのも事実。
結局匿名なんだから、どうしようもないさ。
このスレの丸パクリでいいから誰か発表してみて
>>312 是非、見てみたいね。
学会じゃなくても、何か公に出せば面白いんじゃないかと思う。
ここで非難している人間(私の含め)は別にここの説を非難しているわけじゃなよ。
ファンサイトみたいなノリになってて、さらにその脳内妄想をよそで語っている人が
いるから、ちょっとそれは・・・って思っているだけだと思う。
314 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:31:51
生駒に関してもまだまだ研究の余地はあるよ。
加賀藩の「本藩歴譜」では永姫生母は「生駒氏」とある。
でもその生母の墓から亡くなった命日が生駒では矛盾が生じるし、
永姫の誕生は生駒の死後ということにもなってしまうので
間違いとされてスルーされている。
ちなみに永姫生母は法名「春誉妙澄大姉」で元和4年3月3日没(慶長16年7月8日説もあり)。
生駒が類でないとすれば永姫の生母が生駒氏である可能性は充分考えられるし、
信雄と同腹だったかもしれない。信雄の姫を永姫は養女にしてるし。
武功夜話の吉乃が架空の人物だったのだから、
生駒の検証だってきちんとされるべきで
生駒の立場が濃姫と比べてどうだ、なんていう不毛な論争は意味がない。
まずは歴読あたりにでも書けばいいんじゃないのか?
316 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:33:19
317 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:36:45
この中の人で、是非。
318 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:37:22
>>314 永姫の生母が生駒氏なら久昌寺にある墓石にしっかり信忠・信雄・五徳
の生母、とある類さんは誰なんだ?ということになるな。
もっとも墓石は後年伝承をもとにつくったんだろうけど。
信雄系は現在もいるのなら、墓の主とDNA鑑定すればはっきりするのか?
Wikiは明らかにここのスレとタイアップしてるなw
荒らしが大挙押しかけてきたのもわかった。
あれを読んだ初心者は誰も生駒を信忠生母とは思わないわな。
一段落ついたかな?
署名の件だが、黒印の印影で名前が分からないだろうか?
自分は、崩し文字は「廉」が一番近いと思ったが
印影は「廉」ではないように思う。
>>319 濃姫スレなんだからいい加減信長スレでやれば?
321 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:41:40
織田家、徳川家、前田家に生駒の血が嫡流で続くはずだったかもしれない?って
すごいことだな。(永も生駒の子なら)
322 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:49:34
>>321 でも信忠→親子でお切腹
信雄→改易二度、流刑、流浪後、波乱の人生で孫の代で落ち着く
五徳→信康お切腹で子供たちとも生き別れ
生駒の子供達に焦点をあてたほうがドラマティックで面白い。
323 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:50:33
>>320 わからないやつだな。「廉」が濃姫の名前の一部か本名そのものかもしれない
という検証でもあるんだよ。
324 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:13:21
生駒が信忠生母でないといういろんな証拠もでてきてしまい、
こうなったら2ちゃんの閉鎖を心から願っている生駒マンセーが
多数いるんだろうな。
それで全て振り出しに戻り、生駒が信長最愛の女性で嫡男信忠と
信雄、五徳の生母で、濃姫なきあとの正室であった、となれる。
そうそうWikiの削除依頼しなきゃね。
でも閉鎖後にしないとダメだよw
325 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:30:46
「廉」に見えるのは、それこそ「農(濃)」じゃないのかな。
326 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:49:19
>>324 そういう考え方の奴のがあんまりいないと思うけど・・・。
そういう考え方、性格悪いよ
逆に濃姫好きが叩かれる原因自分で作ってどうするの?
学会ってマユツバでも発表しておkなんだね
ちょっと信じられない。
このスレの住人で現役大学生とか教授とかいないのか?
誰か発表してみてくれよ
329 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 21:14:29
>>328 科学系や化学系は実験による考察になるから嘘は発表できないけど
(実験結果を捏造した研究者は過去にはいたけどその世界から抹殺された)、
歴史は限られた史料と推論が主だから、はっきりいって説は無限大。
「信長の棺」「光秀天海説」なんかはまるで推理小説みたいだけど
もそれなりの一次史料や物的証拠などを挙げているので
まったく違うという否定材料もなく、信じる信じないは別としてまかり通る。
藤村教授は偽装発掘をしたので、あっという間に歴史が何万年か変わったけど、
史料一つで一夜にして通説が覆ることがあっても当然。
濃姫は処女嫁だから、信長から愛された。
生駒は非処女だから、心の底からは愛されなかった。
男はみんな処女が好きなんだよ。
331 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 21:17:18
>「信長の棺」「光秀天海説」なんかはまるで推理小説みたいだけど
もそれなりの一次史料や物的証拠などを挙げているので
おいおい正気かい?良い病院紹介しようか。
332 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 21:53:52
>>331 よ〜く読んでみたか?一次史料の都合のよいところを
ピンポイントで抽出してつなぎ合わせて自説をかためてんだよ。
>>330 民俗学的にみると昔は処女の方が忌み嫌われたり
女性として完全に認めてもらえなかったり。
江戸時代より前までの話だけどね。
334 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:17:23
>>332 「風聞(噂)」や「憶測」、一次史料にも色々あるからね。
それを指摘すれば否定できるだろ。
335 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:18:15
>>330 今だってそうじゃん。
妻は処女、浮気相手は床上手がいいに決まってる。
でも浮気相手が孕みやすい体質なのは大問題。
336 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:20:57
>>334 光秀=天海説の本を何冊か読んだが、読み終わるとすっかり
その気になってしまう。東照宮には確かに桔梗紋があるしなぁなんてね。
だから歴史は面白いのかもしれない。
337 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:23:03
自分の性的傾向を過去の偉人に重ね合わせて語るのはやめてください
このスレになってからのすべての濃姫寄り意見の推測に
疑問をもつ人たちが風穴をあけてくれて良かった。
濃姫のスレだからといって偏りが目立ちすぎだ。
同一人物が書き様かえて長々と問答してる風も感じるしね。
このスレになってからというか、以前から定期的にこんな状況になってたけどな。
戦国時代(仮)板の濃姫スレが閑散としてるのは
IDが出るせいなのだろうと思っている。
341 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 08:33:07
>>338 そこ落ちちゃって閲覧できないんだけど…どうやったら見れるんだろう?
>>濃姫のスレだからといって偏りが目立ちすぎだ。
というか、今までの検証が濃姫が死んだ、ということが前提だったために
濃姫に該当すべきところが生駒やお鍋と勝手に思われていただけなのでは?
例えばお鍋の書状にはどこをどう読んだってお鍋の署名はないぞ?
強引に濃姫にもっていっているのではなく、お鍋の書状とするほうが
強引で無理があるのではないか?と指摘しているだけだろうに。
今までの検証の根底が覆るわけだから、いっせいに側室の存在が否定され
る傾向になるのは当然の事だと思うよ。自分は別に濃姫贔屓ではないけどね。
342 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 08:42:45
おーい、チンカス野郎ども。精液だせや
正室を贔屓、とか側室を贔屓ってなんだか変だなあと思うのだけれど。
好き嫌いでしかものを語れないのかね
>>343 贔屓の反対は否定か?正室についてちゃんと調べてみようと思うことが
側室否定か?
なんでこんな流れになったんだ?お鍋の書状と言われているものについて
検証していたはずなのに。
>>341 >濃姫が死んだ、ということが前提だったために
ここでの推測が少し偏っていないか?との疑問レスにたいして
すべてこの言い方がついて回っているんだね。
少々強引な議論も、それを掲げればOKみたいな。
濃姫は若くして亡くなったという説が周知されすぎて
正室不在という奥向きが広く認識されていたので、
「濃姫の事跡がみな側室たちにすりかえられていたのでは」
と、いうような疑問が生じて
その検証がここで行われていることで良いんだよね?
でも中にはただの側室叩き(あえて叩きと言う)や
無闇な存在否定を感じるレスも多々見られたよ、私感だけど。
自分は側室贔屓でも濃姫否定派でもないけどね。
346 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:12:43
>>343 よくロムってる?側室を卑下するという意味での否定ではないよ。
これまで濃姫ではなく生駒やお鍋だと思われていた史料のできごとが
やっぱり濃姫だったんだな、というこれまでの認識の否定。
側室ではありえないことを「正室格の側室がいた」などという強引な
説をもちだしたりしてたけど、あまりに不自然で無理がありすぎた。
正室が存在したんだから、それまでの解釈がすべて否定された、というだけ。
死んだ、と公然と書いている文献はたくさんあったよ。
生駒が正室だったというこじつけのために強引に死亡説がでたというだけ。
離縁説は道三の国譲り状があるので信長が離縁できる立場ではないので矛盾が生じ
死亡説をとるしかなかったんだろう。
ただ美濃攻略後は濃姫が史料に登場しないから、そういう説がでてきたという
側面もあって、実際は史料に正室を示す内容のことはけっこうあるから、
関心の薄いことで研究自体がすすんでいなかっただけだろう。
哀しいかな、やはり贔屓の引き倒し・・・
348 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:17:53
生駒や鍋のことと思われることがいつお濃だと認められたんだ?
希望推測したいなら戦国板でやれよ
349 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:21:00
>>345 ちょっと違うかな。
>>ただの側室叩き(あえて叩きと言う)
ではなく、武功夜話たたきが根底にある。
捏造された側室像を検証するうちに正室が持ち上げられ、側室が叩かれている
ような印象になってしまったんだよ。
叩かれていると感じるのは生駒だけでしょ?
お鍋に関しては冷静に検証していると思ったよ。
署名という物的証拠があるから、無謀な叩きにはなりようがない。
350 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:24:05
>>348 それじゃ、濃姫がいつ亡くなったか、あるいは離縁されたのか、
史料に御台の存在を示す言葉があれだけあるのに、消息不明だとする
根拠をご教授くださいな。
それと喧嘩ごなしならそれこそあなたこそ戦国版へどうぞ。
不愉快ならこなきゃいいじゃない?
351 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:25:24
またまたバ○ン登場と思われ
側室たたきにはかならず登場
>>349 崩し字や当時のお鍋の所在を推測、周囲の状況も考慮して、
冷静に平明に論じてる人もいると思っているよ。
でも、最初から「側室のくせに越権行為」的な思考ありき、
又は鍋の存在位置真っ向から否定レスもあると感じたよ。
>署名という物的証拠があるから、
それはここではまだ未解読で不明な部分だよね。
古文書読解の専門家の意見でも用意されないと何とも言えないな。
353 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:42:43
>>352 >>最初から「側室のくせに越権行為」的な思考ありき、
又は鍋の存在位置真っ向から否定レスもあると感じたよ。
例えばどのレス?
荒らしはスルーしろよ。そんなの常識だから。
354 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:13:03
>>353 >>最初から「側室のくせに越権行為」的な思考ありき、
つか、信長の生死が定かではない時に勝手に位牌所なんて定めちゃったら
信長に対しても失礼だろっつうの。政局の混乱を招くようなことに
なりかねんのだぞ?
信長の配偶者ならいいんじゃん。そういう決定権をもってるわけだしさ。
側室って無位無官な立場なわけだし、その家の家来達は臣下の礼をとらない存在。
お鍋が単独でやったことなら大それたことしてるよ。
ただだれかが正室に託されてやったのだろう、みたいな解釈をしていたから
それを信じてたけど、よく考えたらそんな必要はないわな。
355 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:15:07
ところで分家は最近見当たらないが落ち武者か?
356 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:28:12
>>350 何をキレテんだ?
断言的な言い回しをするから突っ込まれる。
>>354 も少し落ち着いた文章を書いたらどうか。
ところで
>側室は無位無官な立場
それは肯定するとして、
無位無官という言葉尻に引っ掛かって聞くけど
信長正室が官位を持っていたという記録も無いよね?
358 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:42:00
>>357 正室は官位など必用ないだろう?その家の正室という立場で全てを保証されてるし
当主と同格扱いされたから。
>>358 なら、無位無官などという言葉を比較に用いる必要もないかと。
というかだんだんプロ三条夫人贔屓と同じになってきてるよね。
彼女(達かも)が言わんとしていたことで三条夫人お濃を三条夫人に
生駒を諏訪御寮人に、鍋を油川夫人に置き換えるとわかりやすい。
361 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:58:55
正室は当主と同格の権威をもつ立場なので家に間する発言権も強く
家臣への権威も当主同様にあった。
ゆえに、正室があのような手紙をだしても自然な行為。
しかし無位無官のなんの織田家内で公に権威を持たない側室の立場であのような手紙を
だすのはあまりに不自然。側室であってもせめて公に身分が高いなどの立場
なら丹羽に出した手紙も多少は納得してもいいけど。
ということをいいたかっただけ。
ごめん余分な言葉が入っていたので書き直し。
というかだんだんプロ三条夫人贔屓と同じになってきてるよね。
彼女(達かも)が言わんとしていたことでお濃を三条夫人に
生駒を諏訪御寮人に、鍋を油川夫人に置き換えるとわかりやすい。
363 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 12:59:44
いいかげん側室贔屓の連中も立場をわきまえて真実を受け入れろ
>>360 上手く捉えているとも、少し家中の事情が違うとも、
何とも言えない比喩。
「円光院三条夫人」にならって、織田家研究者のうち誰かが
「養華院濃姫」とか「安土殿濃姫」という風な著作を出版するとかね。
岡田正人氏にこのスレを読んでもらって感想が聞きたいw
ここで叩いている人全てが側室贔屓というわけじゃないでしょ。
明日は自分の首が飛ぶかもしれない時代、正妻も側室もお互いの立場を
尊重しあって家中をおさめていたんじゃないの?
時には正妻が側室を支え、時には側室が正妻を支え、うまく役割分担を
していたんじゃないかなと思うよ。
366 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 13:15:30
ちょっと誤解している人もいるみたいだけど、もし濃姫なりの正室が
信長の死を認め位牌所を設置したあとに、お鍋などの側室が
別の寺院に位牌所をもうけたとしたらさほど問題にはならないと思う。
岐阜以外の信長縁の地などのその側室が入魂にしている寺などに
依頼するのだって構わないんじゃないか?死に方が死に方だし
葬儀が行われたのがかなりあとだし。
ただあの時期に公然とやった、というところで側室では合点がいかない、
ということだから。あと長秀の手紙の内容も。
側室の分際でお鍋が位牌所を設けたことをですぎてるのなんのと言ってるのではないよ。
少なくとも自分はそういう見解。
濃姫の承諾の元で鍋が出したという見方もできるかも。
>>363 >側室贔屓の連中
なにをもって側室贔屓と目するのか不明瞭だけど、
濃姫の生存や正室の立場を否定するようなスレも見当たらないよ。
369 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 13:20:50
>>365 正室と側室だって当主と家来同様の主従関係が根本にあったろうから
確かに支えあってはいたろうけど、対等のそれとはちょっと意味合いが違うかな。
側室はなんといっても子供を産むのが仕事だからね。
子供を産んでも30才を超えた側室は暇を出されたという家もあったわけで
もっと淡々とした関係だったんじゃないか?
370 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 13:24:17
>>368 側室贔屓の連中とは、いつまでたっても正室と側室の立場の違いを認識をせずに
両者は同等であるべきという考えに固執している人たち。
あるいは、当主の愛情を得て嫡男を産んだ側室のほうが正室よりも優ると
信じて疑わないやから。
372 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 14:32:11
臣下の礼で思い出したが、大名の家で当主に臣下の礼をとらないのは正室と
その親だけだったそうだ。
と亡くなった江戸時代研究家のなんとかさんが言っていた。
>>369 30越えで褥下がりって江戸時代の大奥じゃん
374 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 15:19:25
側室って長期間に渡って複数の子供を産むケースって珍しくない?
生駒にしても3人産んだら打ち止め。
大名家奥にはよりよい子孫を残すためにいろいろ制約があったんだろうか?
期間については正室も同じだろ。(例外もいるが)
それに奥向き都合なんて家々で異なる。
武田家の場合、油川夫人は比較的長期間にわたって
複数子供を産んでいたようだが。
376 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:02:16
伊達の愛姫やお江与あたりもかなり長期にわたって子供を作ってる。
濃姫の「御台平産」が事実なら婚姻後20年近くたってからの出産になる。
正室には夫としてのおつとめ義務みたいのがあったのかな。
けっこうハードジョブだったかもw
377 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:08:30
妊娠というのはいくらがんばってもできない時はできないし
できる時は一発でも的中するものだからな。
子供の数でどうこういう切り口は全くのナンセンス。
月のうち、祥月命日やその他諸々で忌み日があり、
その日は、同衾出来ないから、それ以外で、
正室や側室の生理、妊娠などを避けてローテーションを
組んでいるはずだから、それほど夜に関しては
ハードという事も、通常はないと思うのだが。
ただ、武将によってはローテーションを組んでいなくて
その日の気分で相手を決めることが普通だったり、
また他には、側室を閨に呼ぶのは正室の生理期間中だけなんて、
江戸期の奥制度とは違い、その辺色々だから、
信長がどうだったかって事につきるだろうなぁ。
379 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:15:00
生駒の場合は産後の肥立ちが悪い、ということだったけど
あのネタは武功か・・・
10男6女を産んだ三好さんみたいな女性が正室になったら天下無敵だったわけだな。
>>379 産後の肥立ちが悪い以前に、信長はそれすら知らなかった事に武功はなってる。
それが創作か、真実かは分からないが、生駒が生前出家している事を考えると
徳姫出産後、何らかの理由で奥を下がり、出家したのかもな。
信長の側室は、姫を生んだ後、身分の低い女性だからという理由で、
家臣に下げ渡された側室もいた記録がある。
子を産んでいない側室なら、記録に残ってないだけで、結構そういう事があったかもね。
別に、その当時、信長に限らずそういう事はおこなわれていたそうだし、
道三も、土岐頼芸の側室だった深芳野を下げ渡されてるよね。
あまり、側室に寵愛なり、子供なりなどが偏らないように、調整していたのかも。
381 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:42:11
認知されない信長の隠し子(とわれる面々)
織田信正(生母は塙直政の妹「直子」)
生駒直勝(生母は森可成長女)
乙殿(生母は信長侍女OR濃姫侍女)
岡部又右衛門の養女(生母は熱田中瀬村の『猫の目』といわれた女)
松姫(生母不詳)
>>380がいっているのは、生駒直勝。身ごもったまま家臣の吉田直元に
下げ渡された。吉田姓から生駒姓になったのは天正末期。
隠し子かどうかは定かではないが、実在の人物。
382 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:44:25
ごめん、乙殿も懐妊中埴原常安に下げ渡された側室の子。
のちの雅楽介。
383 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 16:49:15
松姫の母は武田松
なるほど。もしやと思っていたが本能寺の黒幕はやはり信忠か。
熱愛する姫を父親に寝取られたらそりゃ殺したくもなるな。
>>384 信玄ざまぁ〜みろプギャー(AA略と言いながら
種を植え付けていたりしてw
>>381 いや、自分が想定したのは岡部又右衛門の方だったんで
姫って書いたんだが。
生まれてから、母子揃って下げ渡されたというのは、
張州雑志に書いてある。
まぁ、逸話の類いだがね。
生駒直勝の生母が森可成の長女というのは、検証されていなかったように思ったが。
しかし、不思議なんだが、大正末期に生駒姓になったのに
なんで吉田直勝じゃないんだろう?
387 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 17:08:35
一応まじでフォローいれとくけど、佐渡相川遊女の始まりは
この信長息女とされた「松姫」という伝説があるそうだ。
本能寺の変後比丘尼となって佐渡に渡ったんだとさ。
ちなみに信忠室についてもこんな話がある。
北条氏直に信長の姫をもらうという約束があった。(武田滅亡で焦った氏政が
三嶋神社輿入れを急ぐ願文をおさめている)
本能寺の変後信忠家臣の多賀内蔵丞が伴って小田原へ下向したという。
でも氏家が婚姻をしたのは家康の姫の督姫。
その逃げた姫は氏直婚約者ではなく信忠室で、
北条氏の姫だったのでは?という説もある。
天正8年の同盟の時に二重の婚姻関係を結んだのでは?という説だ。
388 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 17:13:23
>>384 いやむしろそれをどこかで知った家康がやったんじゃね?
おのれ・・・信玄公の愛娘をよりによってといった感じかと。
389 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 17:13:39
>>386 大正じゃないよ、天正だよ!
7才で初めて信長と謁見を許され、その時に生駒姓を賜ったが
実際改姓したのは天正末年、と『生駒文書』にある。
なんで生駒姓?とかなり疑問は残る。
もしかしたら、生駒の家系に信長の血が流れていると思わせるための風説の流布
とも思われるけど。
天正末期に改正したんなら、信長じゃなく、
本当は信雄に生駒姓を名乗るように言われたんじゃないの?
信長と謁見そのものは、してたかも知れないけど。
間違えた。
改正×
改姓○
>>387 佐渡といえば金山、金山といえば甲斐、甲斐といえば武田
武田にいた金山衆のいえば大久保長安、大久保長安といえば八王子
八王子といえば信松尼・・・・w
というお遊びは兎、彼女の墓所は早川にあるお寺に墓所があったと
相模国風土記には書いてあったな。確かに北条氏の姫の方が
しっくりくるんだがなぜか両家共に婚姻事実の記録がない。
この点は松姫と状況が同じだね。
393 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 17:44:41
でも氏直の許婚の姫は本能寺の変の時安土城にいたなら
濃姫たちと一緒に日野城に逃れないのは変だな。
信忠の家臣をともなっていたということは、
岐阜城にいたのだろうか?
それならやはり信忠室という可能性もあるけど。
でも当時岐阜城にいた三法師は前田玄以に保護されて
清洲城へ避難したし、とりあえず一緒に同行するよな。
わからん。たんなる自問自答になってしまった。
>>389,384
とりあえず、生駒直勝が信長の落し胤かどうかはともかく、
生母が森可成の長女ってことはないんじゃないの?
森家と言えば、信長にとってかなり重要な側近一族。
わざわざ長可の嫁を池田の娘から娶るように、
信長直々に働きかけたくらいだからなぁ。
恒興の長男元助には、斎藤道三の娘か孫を娶らせているくらいだし
その相聟に選んでいるくらいだから、ほぼ一族に準ずる程、
頼りにしてた家だぞ。
本能寺で一緒に死んだ小姓の顔ぶれからも、いかに重用していたか分かる。
そんな家の娘を、下げ渡すとは思えないがな?
可成の正室の娘じゃなく、側室腹だったとしても、少し疑問なんだけど。
>>394 抜けた。
>恒興の長男元助には、斎藤道三の娘か孫を娶らせているくらいだし
>その相聟に選んでいるくらいだから、ほぼ一族に準ずる程、
の、2行の間に
「娶らせる時、濃姫の養女として娶らせたという逸話も聞いたことがある。」
というのを入れてくれ。
信忠室に関しては北条関係にらしき姫が見つからないんだよね。
養女だったとしても記録が残ると思うけど氏政にも氏直にも
そういう養女はいないし。
>>394 森家であっても下げ渡す時は下げ渡すんじゃねーの?
信長に預けていたわけじゃなく側室としてあげたわけだから。
森家で思い出したが、
>>309で書かれている、信忠室の森家の女性という説は
某学長が、我が御先祖の塩川鈴姫が三法師の生母だと言い出す前は
ごく普通にあった説の一つ。
墓所が一緒だし、墓所である来迎寺は、森可成が葬られている事で
信長の焼き討ちを免れたという事で有名な寺だからね。
塩川氏女説が出てきても、しばらくは森氏女説も並列して書かれていた物だが
いつの間にか塩川氏女説だけになってしまったな。
>>397 吉田直元が深芳野を下げ渡された道三くらい、
信長や織田家にとって目立った働きをしたならともかく、
そんな功績も知られていない家臣に下げ渡す身分かな?と思うが。
それこそ、身分が低く下げ渡されたというならともかく、
それなりの身分である森家の女性なら、もう少し上の功労者に
下げ渡すと思うのだが。
信正生母の直子だって、別に下げ渡された訳じゃなく、
信正だけ養子に出されているんだし、それも織田一族にだ。
塙直政よりは、森可成の方が重鎮じゃないのかな?
400 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 18:33:37
御落胤説はあくまで説。
森の女が側室だったかどうかも定かではないし、中条も同様。
側室下げ渡は珍しくはないけど、火種を残さないようにせめて
子供がいないかどうかを確認してからじゃないか?
孕んでいたら戦略の駒になる大事な子供だ。何人いても邪魔にはならんだろうし。
北条氏直許婚のことだけど、三嶋神社の輿入れ祈願文の話が事実なら
どの姫がその許婚だったんだろう?なんで両家ともに記録がないんだ?
401 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 18:41:47
でも松姫婚約のことも織田家関連の史料に書いてあるものあるか?
婚約レベルでは破談も珍しくないとかで書き残さないのかな?
確かにね。
森可成の娘が側室になっていたとしても、それは極めて自然。
ただ、下げ渡しとなると、その相手が疑問ってだけだから、
まぁ、逸話の一つとして聞いておくよ。
403 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:15:10
ここまで自演大好きな輩が多く集まるスレも珍しい
で、
>>400 三嶋大社の祈願文は本当もなにも現物が三嶋大社に現存してんだよ。
きちんと氏政の自筆で花押も押してな。
そのくらい知っとけよ。
404 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:39:25
405 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:42:27
406 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:42:31
オマエモナー
>>1-406 ここ数日よく上がるから何かと思って覗いてみたけどなんか凄いね。
正直なところ、自論を勝手に説と言ってみたり、mixiーみたいなノリで
進行していきたいならそれこそ戦国板でやった方がいいと思うよ。
三戦板が史板から分離した事情を考えれば、史板で戦国ネタが盛り上がるのを
嫌う人がいてもそれはおかしくないことでこうなるのも仕方がないかな。
408 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:16:11
>>407 2チャンの利用法を勝手に定義つけてんじゃねぇよ。
どう利用しようがこっちの勝手だろ?
>>408 そうでした。ここは匿名掲示板なのでローカルルールをいくら設定しても
最終的にどう利用するかはその人の勝手でしたね。
でしゃばったことを言いまして失礼しました。
ここって仕切り屋さんの多い板だな。
学問関係の板ってこういうもんなのか。
多分根本にあるのはそういう問題ではないんじゃないかなと思われ。
う〜ん、史板にしてはレス進行速度が早すぎる=省略みたいに
思われてんじゃないの?話題もループだし。
>>407 どう利用しても人の勝手だけど、
個人的にミクシーやファンサイトみたいな
馴れ合いの場所で2chを使うのは何だかな('A`)
そういう馴れ合いの展開が好みならミクシーにも
濃姫スレあるんだし、そっちでやったらいいと思う。
どうせ住人そのままかぶってるでしょ?
ここってそんな高尚なところか?
414 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:26:51
書きたいことがんがん書いておけ!
そのうち閉鎖なんだから・・・
>>413 高尚っつーか、馴れ合いの場所になってるのが
モニョルって話じゃないか?
俺もここ最近あがってて見たらどこの同人サイトのノリだよww
と思ったしw
手紙の検証あたりは面白かったが。
>>415 要するに、ミクシーやファンサイトにいるのと同じ人達が
ここでも馴れ合ってるんじゃないかと疑ってるってこと?
そういうことにだろう。ついでにヤフーも付け加えておいてくれ。
ヤフーにいるtで始まるIDの奴は発言内容からしてここ住民の可能性大。
418 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:16:16
けっこうけっこう、あがってるね。
どこかの濃姫スレは完全に終わってる。
ついでに分家もな。
盛り上がるのは大いに結構。
よけいなレスはスルーすればよろし。
419 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:19:31
生駒玉砕。
お鍋撃沈寸前。
正室アンチが急にわいわいうるさいわけだにゃ。
>>417 そういうのを嫌がってたわけね。
でもそういうのと全然縁のない人間も見てるんだけどな。
>>416 どう考えてもそうだろうな・・・。
あとwikiに書き込んでるのもここの住人でFAだろうし。
とりあえずここで出たまだ希望をこめた予測に過ぎないことを
よそでベラベラ鼻高々に語るのはやめてほしい。。。
なんつーか、世間から見たら「はぁ?」な事をさも当然にように
吹聴しているのも痛いし、そんなこと知ってる自分に酔ってるのが見え見えで
こっぱずかしい気持ちになるからな・・・
ほんとに自問自答は多いと思うぞ、ここ。
閑散としてるときは閑散なのに、一気に長文で盛り上がる。
やけに意見が一致する。
松姫のことも、北条と織田の縁組のことも
過去の関連スレで話題になったことばかり。
今さらなことで盛り上がるのも特徴だな。
今、ヤフーの掲示板見てきた。。。
ここで出た内容まんまコピペしてあるに等しいじゃん、あれ。。
ここでの検証はあくまで「かもしれない」の域を出ないものだし
(もちろん今までの定説もですが)
どうにかしてここでの話を一般化したいのかもしれないけれど、
あくまでネットで広まった噂に過ぎないわけだし、いろんなところに
コピペ状態で書き込むのはどうかと思うよ、、?
一般化してない単なる「妄想」の域をまだでない話題なんだし、
ここだけでおとなしく会話しませんか。。。?
>>422 ここでの話題をどうにかして一般化したいっていう奴がいるんじゃないのか?
生駒の子孫とやらが必死で信長の最愛の妻は生駒御前だったと言っていたように、
何がなんでも濃姫の正室としての立場をかっこたるものとしたい奴がいるような気がする。
少し前に武田に人質行ってた信長の息子が優遇されてて、濃姫の出産話題も出てきて
もしかしたら息子かも?みたいな展開になったけど、
その時も話題を投げかけた奴はそういう流れにしたくて自作自演してたんじゃないかって
話題が出てきていた。
今回も大なり小なり、自作自演は多いと感じる。
じゃなきゃここまで同意連呼の長文検証は行われないと思う。
松姫や織田と北条の話はこの際関係ないだろ
大河ドラマ見てる延長で日本史板も覗いてる程度の者にとっては
ここは意外なネタが多くて楽しめるから続けて欲しいんだけどな。
ここって例のブログやってる女性の
脳内妄想書き散らしの場所に思えてきたな・・
428 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:57:38
ここの話題もネットの情報もソースを探せばみな同じ史料なわけだろ?
それをコピペもなにもないさ。
信長の本だって何百冊でてるだろうけど、ほとんど同じようなループネタ。
しかし定期的に荒られるのはなんでかね?
>>426 濃姫はもとより齋藤家のさの字も出てこない風林火山を見た人が
武田・今川・北条スレよりここを覗くってなんか不自然
そこのブログ、
>>427みたいに定期的に攻撃する人間がいるね。
粘着されて大変だな。
>>429 今年の風林火山だけ見てるわけじゃないよ。
藤真利子の濃姫や菊池桃子の帰蝶だって見てたし。
松阪慶子のは記憶にないのが残念。
信長には濃姫、義経には静御前がいいと思ってるけど
三条夫人にはこだわりはない。
リップサービスであっても信玄には三条夫人とも書いて欲しかったなぁw
434 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:11:40
三条夫人といえば紺野美沙子・・・
初登場の時の公家まゆ、白塗りの恐ろしい顔が忘れらない(ぶるぶる)
いまだに三条夫人といえばあのイメージだ。
でもあの当時の女性の化粧法って武家・公家関係なく
そんな感じだったみたいだよ。眉毛も抜いちゃうし。
江戸に時代が下ってもそれは同じ。
>>430 ミクシーの濃姫コミュに書かれているまんまが
ここの内容。しかも長文。口調も一緒。
全ての疑問にレス。
最初は「この人すごいな」と思っていたけど、
ここまでくると、いい加減自演だと思えてくる。
437 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:16:36
しかもお歯黒してんだよ。
おとろちぃ。
>>424 それは感じる。
濃姫に、ほんとに恨みも何もないけど
何だか振興キャンペーンはられてるような印象がここにもあった。
「その文書だって実は濃姫なんじゃない?」
「信長から優遇された○○の生母はきっと濃姫!」調が目立ちすぎ。
少しでも異を唱えると、側室厨と断定されたり
「正室と側室の立場もわからない無知」の一辺倒で
それが嫌で書き込みを遠慮する人もいたのではないか。
濃姫ヲタ同士の内ゲバって感じ
>>438 >それが嫌で書き込みを遠慮する人もいたのではないか。
それまさに私だったり・・w
濃姫は好きなんだけど(多分戦国女性で一番)
信長夫人に関わる全てが濃姫って事を言われると
「おいおい、さすがにそれはないだろうw」と・・・。
ただ自分は単なる歴史好きってだけで大した考証も出来ないし
何回か「さすがにそれは濃姫に結びつけ過ぎじゃないか」と書き込んだところ
「生駒厨乙」やら「バ○ンまたきたのかw」とか言われた事が・・・。
匿名だからね、いろんな人がいるんだろ。
三条夫人を愛してる女性もヤフに書いていた。
他の板でも頑張っていたっけ。
正室擁護って、女に多いのでしょうかね。
自分は既女だけど、正室も側室もみな愛すべき乱世の女性だよ。
ひとかどの大家の正室に納まってもいいような家の娘でも
家の浮沈で側室になったり、
家内で実権をもつ正室でも側室に敗北感をもつ人もいたろうし、
妻妾の社会的立場の相違はじゅうじゅう理解してるけど、
みな必死に戦国を生きてた女たちだ。
それを同じ女が差別したり貶めたりするのが、不思議だ。
>>435 ちょっと前にやってた「大奥〜華の乱〜」のお伝@小池栄子がまさに
そんな感じだったよw
眉毛そって(?)塗りつぶしw眉毛なくてすごい怖かったw
>>442 正室も側室も人としては平等だけど、身分の違いはどうしようもなくあって
対等の立場ではないと思ってるよ。
それが差別だとは思わないけどね。
>>440 自分もバ○ン認定されたなぁ。
それも、ここだけじゃなくIDの出る戦国板の方でまで。
違うと言った所で、匿名だから証明もできないから、
そのまま放置したら、尻尾巻いて逃げたみたいに言われたし。
思い込んでいる人間は、自分の中でFA出てるんだから、
どう言っても無駄なんだろ。
ミクシーとかヤフーまで見てる濃いヲタ同士の確執ってやつですか
447 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:32:49
つかいい加減スレチな書き込みをチャット感覚でやるのやめてくれる?
迷惑だって気がつけよ。
そんなやつらが何言っても説得力がねぇよ。
スレチというなら鍋や生駒の話題も十分スレチ
信長が絡んでいる良いなんていう寝言はヤメテネ
正室と側室ってあの時代じゃ言い方悪いけど
「伴侶」と「子産みマシーン」くらい差があるものだとは思っているけど
それにしてもさすがに、
嫡男産んだの→濃姫
手紙書いたの→濃姫
男子産んだの→濃姫
・・・と何から何まで濃姫に結びつけるのはいかがなものか。
冗談で「もしかしたらそうかもね〜w」程度で押さえておけばいいものの
マジっぽいし、さらにヤフーやら他のところにまで飛び火させるのが問題かと。
450 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:36:10
バ○ンていたね、そういう人。どうしたかね。
生駒男爵の自称末裔なんじゃないかね、HNからして。
生駒ネタにはすごい食いつきだったしな。
451 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:40:56
嫡男産んだの→濃姫・・・どこでそんなレスがある?教えてくれ。たぶんない。
手紙書いたの→濃姫 ・・・鍋ではないのは署名から明らか。では誰だ?濃姫?
という推測の域だが、どこか無理のある推測か?
男子産んだの→濃姫・・・御台平産の史料があるので出産はしたらしい。でもそれが
信房だと主張しているのはほんの一部で、姫や夭折説
もでてるんですけど。
452 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:42:19
アンチが必死なのはそれだけ反論の余地がなくなってきたからだよ。
相手にすんなよ、しょせんやつらは負け犬さ。
>>450 そういうことは最悪板でやれば?
あとバロンさんは別に変な人には思えなかったけどな。
食いつきというより打倒生駒みたいな流れを止めようとしていたり
なんでもかんでも濃姫優位になりそうな流れを変えようとしていた
ようにも思えるし。
義龍に関係した一條氏女の話でここの住民が軍記ものはなんだとかんだと
追い出しにかかっているのは見ていて鳥肌だったけどね。
>>452 もうそういうのやめてよ・・・・・・・・・
あなたみたいな人の書き込みで荒れるんじゃない。
釣りなのか、それとも真性なのかしらないけど、
濃姫スレでちょっとでも自分の意見が通らないからって
違う意見出した人をアンチ扱いしないで。
そもそもこういう流れになったのだって、排他的な書き込みが
実際あったからなんだし、荒れるもとになるような事書かないでよ・・・・
455 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:47:08
>>451 書簡について鍋のものではないのは確かと断言するということは
それだけ自信もあるのだろうから学会で発表しろよ。
楽しみにしてるぞ。
456 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:47:14
>>453 バロンさん乙!久しぶりw
結局どこの一条さんかは教えてくれないままでしたね?
457 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:49:13
458 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:49:48
ごめん、全く崩し文字が読めない俺だが
>鍋ではないのは署名から明らか。
これはもう100%確定なのか?
墨が飛んで文字が消えてたりする可能性や、
そういうものがある限り、素人目でぱっとネットや雑誌の写真見た程度で
断定なんて出来るもんじゃないと思うんだが。
個人的にそういう鑑定って本物の書状を虫眼鏡?でじっくり見たり、
場合によっては機械で調べたりしてはじめてわかる問題だと
思ってるんだけど・・・ネットや本の写真程度で判別できるもんなのか?
つーかしていいの?w
459 :
453:2007/01/22(月) 23:50:13
予想はついていたけど私も認定されちゃった・・・orz
460 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:51:07
461 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:53:00
>>458 Yahoo掲示板のほうでものっすごくはっきりうつしてくれてるよ
みてごらん
>>459 こっちも想定内の展開に笑ったよ
>>459 気にする事ないさ。
この前から断定的口調で書き込んでる変な人なんだろ。
濃姫ヲタを装ったアンチに見えるくらいだから、放置しよう。
463 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:56:04
すっごいレスがのびてると思ったらほとんど不毛な荒らしだったのね。
今度は何が原因?松姫?生駒?
464 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:58:31
>>463 今度も生駒みたい。
たぶん、信忠が生母の位牌所を崇福寺にもうけ、その生母の戒名が
生駒と違っていた、ということで火がつきだしたと思う。
それがいつの間にかお鍋のことにも点火してしまい、
いつものようなありさまです。
465 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:00:08
>>461 いや、ものすっごくはっきりうつっていたとしても、
本物を調べないままネットの画像なんかで「あ、これ鍋じゃない」とか
判断してもいいものなのかね?
ぶっちゃけネットの画像ならいくらでも修正可能っしょ?
アップしてくれた人がそういう事しているって言うんじゃなくて
やっぱり歴史モノを調べるなら本物を見なきゃ確定は出来ないんじゃないか?
>>463 不毛っつーか、荒してた?人が言いたい事は、
ここで出たまだ確定もしていない話題をよその掲示板やら何やらで
あたかも本当の事のように吹聴するのはどうなんだっていう話だった。
えーっと・・多分荒していた本人なんですが
(荒してたつもりはないんですけれど)
別に生駒は全く綺麗さっぱり関係ないです。
むしろはっきり言ってしまうと生駒は好きじゃないので
別に生母だろうと単なる側女だろうと、どっちでもいいです。
ここでの話題がヤフーやミクシーや、wikiなんかに
確証を得られないままの状態なのにさも当然のように書かれていたことが
「おいおい、先走りすぎだろう」と感じただけなので。
なんか新しい知識を知って誰かに言いたくてたまらない人がいるんだろうな、と
思えてしまったので・・。
467 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:03:59
>なんか新しい知識を知って誰かに言いたくてたまらない人がいるんだろうな
これはありそうwwww
中二病かw
468 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:06:29
>>465 そんなことあんたが気にせんでもよろしい。
顔も知らない赤の他人の書いていることを鵜呑みに信じたとしたら信じる方にも問題がある。
>>458 最終的な判定は現物調査だよ。
おっしゃるとおり消えている部分やうまく修正や加筆されている場合も
ありえなくはないので、書簡内容にもよるけど今回のような場合は
事情が事情だけに多方面からかなり詳しく調査されると思う。
ちなみだけど、昨年本能寺関係で上杉景勝の書簡が発表されたけどこれも
実は発見されてから2年間という調査期間を経て発表された。
そのくらい本来の調査期間というものは書簡一枚でもかかるものなんだよ。
すごいレス伸びてるな。
それこそ自作自演じゃないのかと思うぐらいw
471 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:11:18
例えばここで書いてあることを断定口調でどっかの歴史もののサイトでみたとしても
まずそれが事実かどうか調べるよ。信じる信じないはそれからの問題。
こっちの知らない情報が知ることができたらそれはそれでうれしい。
事実と違うことでも、関係ないことでも検証する楽しみもある。
自分のしらない視点での意見はむしろ感謝するけどね。
人はそれぞれだからあまり自分の価値観を押し付けないで欲しいな。
その結果荒れているんだからさ。
472 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:11:45
まぁ・・・・・ここで出た希望含めた想像の範囲内だった話題を
ヤフーでそのまま書き込んだりすると、正直「濃姫好き」を
ひとくくりで「空気読めない痛い奴ら」みたいな扱いされる可能性は否めんな。
三条夫人の時もそうだったが、一部の人間が暴走したせいで
その他の三条夫人好きが迷惑をこうむった。
濃姫好きな気持ちはわかったから、あんまり暴走するなよ。って事でいいんジャマイカ?
>>451 あいかわらず、無理やりな追い込みだねw
ヤフー読んできたけど、あの生駒子孫のトピ主に
武功夜話は創作と納得させているだけでも凄いとは思ったな。
「でも」「そうかもしれないけど」と
トピ主が抵抗してたけど。
475 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:14:26
濃姫好きは生駒好きよりマシだと思う。
生駒好きはもう空想ファンタジーの世界を語るだから嫌だ。
476 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:15:13
477 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:15:59
>>474 >>武功夜話は創作と納得させているだけでも
そんな馬鹿いまだにいるの?
>>477 あのトピ主は、「吉乃が誰よりも一番信長に愛されたんです」と
ホームページまで作ってる有名人だから。
自分も、トピの最初の方で書き込んだ事あったけど、辟易して逃げた。
480 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:20:03
>>479 そんな馬鹿がまだいるんだ。すっかり脳内吉乃常態なのかな?
>>471 全く自分が考えもしなかった意見を見付けると新鮮でいいよね。
482 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:21:28
>>477 世間一般ではいまだに
信長最愛の女性は生駒
ですよ。
>>480 馬鹿と言ったら可哀想かもね。
生駒「吉乃」の子孫なんだってさ。
誇りなんだろ。
484 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:22:18
このアンチの群れが今度はYahooの書き込みに殺到したら
そのトピ主発狂しそうだなw
そんなことはない。少し被害妄想入ってない?
司馬や山岡作品のおかげで信長とお濃は仲睦まじい夫婦と
思っている人も少なくないよ。
486 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:24:07
>>483 だって生駒吉乃なんていないじゃん。やっぱり馬鹿だよ。
個人叩きなら別のところでやれば?
488 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:26:33
ドラマになると両極端になるよね。
吉乃オンリーか濃姫オンリー。
でも濃姫は本能寺で信長とともになぎなたでたたかい、矢を渡し、最期をむかえる
と信じている人多いぞ。微笑みながら亡くなるお濃に覚悟を決める信長で決まり。
489 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:26:48
なんか最近荒れ気味で嫌になってきたよ・・・・・
信長の最愛の女性が吉乃か、そうじゃないのかなんて
当の信長に聞かなきゃわからないじゃん。
そう思っている人がいてもいいじゃない別に・・・
私は濃姫が大切にされてたらいいなって思うけど、
本当の事なんて信長に聞かなきゃわからない事なんだし、
吉乃が一番愛されていたって思ってる人がいても別にいいじゃない。
逆に何で吉乃が愛されていたって事が嫌なのかそれがわかんない。
いいじゃん、べつに。そう思いたい人だっているんだし。
子供2人も生ませた以上ある程度の情あった女の人なんだしさ・・・。
あ〜、でもその山岡濃姫の最期は美しかった。
491 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:28:13
>>490 ドラマ化で涼風まよがやってた時は・・・('A`)
>>485 去年の大河で本能寺のシーンがあって濃姫も本能寺で死ぬ設定だったんだけど
ブログなどでは、濃姫はとっくに死んでてこの頃一番寵愛されてたのは吉乃
本能寺で一緒に死んだのは吉乃のはずなどという意見が結構あったりしたw
494 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:31:48
濃姫好きは武功夜話にあるように生駒が正室のような立場で信長の寵愛を一身に受け、
信長が生駒の死を悲しみ久昌寺の方を眺めて夜な夜な涙した、なんていうのは
嘘だ、と指摘してるだけさ。
一度生駒は生駒できちんと検証したらどうかね?
武功のせいでかなり人物像が歪んでいる。
本当に類がモデルだったのかも怪しいし。
>>493 一部のブログの反応=世間一般なのか。そりゃすごい罠
>>495 世間一般なんてどこに書いてるんだよ。
妄想力すごすぎ。
497 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:35:34
山岡濃姫はちょっと賢すぎ。
まるで千代状態だ。
498 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:36:03
>>495 今一般的に出ている信長関連の本
(信長の秘密とか、そういう初心者が簡単に読める考察?系)
ではいまだに「信長の最愛の女性は吉乃」って出ているよ。
ここの濃姫スレを見つけて、晩年まで大切にされてたって説が今は
また盛り返しているんだなと嬉しくなって大きい書店まわったけど
出ている本の9割が「信長の初恋(もしくは最愛の女性)は吉乃」となっていた。
>>489 誰が最愛の女性かなんて信長にしかわからないよな。
与太な憶測だけど、信長当人にもそんな順位意識なかったりしてね。
誰が一番の寵を得ていたかなんて、歴史の大勢にも影響しないし。
でも、誰々こそ信長に一番大事にされていたとの主張のあとに
他の女性の否定がつくのは痛いんだな。
>確証を得られないままの状態なのにさも当然のように書かれていたことが
って、お鍋説だって確証のないのに、さも当然のように書かれてたことなんだけどね。
ダブスタの典型だね。
>やっぱり歴史モノを調べるなら本物を見なきゃ確定は出来ないんじゃないか?
現物見たら確定できるなら自分で調べてから反論すればとしか言いようがないな、
>469氏の示す如く簡単じゃないけどね。
確定するまではどんなものでも、広狭あれど調べられる範囲で論述するしかないでしょが
この前見た深夜番組では、信長は熟女好みにされてたな。
503 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:42:17
>って、お鍋説だって確証のないのに、さも当然のように書かれてたことなんだけどね。
だったらまぁ・・・学会で発表しろって話じゃねーの?w
お鍋だ、お鍋じゃないの差はぶっちゃけ「公の場で発表したもの」かどうかなんだし。
同じ土俵に上がらない以上「脳内妄想」にすぎないし、
それをネットでまことしやかに広めている奴もいるし。
>>498 それを信じる信じないは読み手が判断することだから
そういう本が多いからといって生駒が最愛の女性と認識されていると
いうことにはならないんじゃないかな。
505 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:43:26
山岡氏の作品では確か信忠、信雄、信孝の生母がみな違う側室だったような気がする。
彼は生駒最愛説を払拭して創作したのかもね。
506 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:45:43
>>504 「歴史が好き」程度で歴史関連の本を読んでいる人間は
小説の設定なら「フィクション」と思っても
そういう考察本なら信じてしまう人って多いかと。
ここの住人ほど世の中の歴史好きはコアなわけじゃない。
507 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:50:01
>>504 淀殿だってかなり悪女のイメージそのまんまの本ばっかり。
ねねに喧嘩をうったという黒ユリの話は創作だし、秀頼の胤も当時の奥の制度からいって
秀吉以外は考えられないらしいのに、どの本をみても秀吉の子???ばっかり。
三の丸と杯のことで言い争ったという話もまったくの創造話なんだってさ。
いくつもの本で書かれているから事実であるという認識はやっぱり違うんだよね。
世間一般ってことなら、一番有名なのはやっぱり濃姫だろう。
でも豆知識本とか読んでる「歴史好き」が、実は最愛の人は吉乃なんだよと
その一般層に豆知識を教えちゃったりするんだよなw
509 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:59:09
うちの時代劇好きの親父は吉乃の存在すらよく知らんかったぞ。
読み手がどう判断するかなんて読んだ本人しかわからないこと。
そんなに生駒が最愛の女性だったということを言われたり
書かれたりするのが嫌なら自分で本を出すなり論文発表するなり
すればいいだけ。他人がどう思っていようとも自分が
濃と信長は仲睦まじい夫婦だったと思うならそれでいいじゃん。
武功夜話アレルギーみたいなもんだな
ヤフーに中2病クン出没
>503
学会で発表しなければ脳内妄想だといってるようにしか読めませんが、
正直理解の範疇を越えます。どの学会も、学会そのものはオープンな
組織であってトンデモに近い発表を行う演者は数知れずなので、学会
発表それ自体が論証の正当性や優越性を示すものではないですね。
学会報告にこだわるなら、貴兄の推奨する学会報告を論証の質の論証と
共に提示する必要があるでしょう。
本スレに限ると、信長の死まで御台として存在していた濃姫(と思しき
女性)が良質の記録にあるのに対し、生駒吉乃は武功夜話にしか存在
しない、その事跡(正室に近い側室だの後室だの)は信ずるに価しない
ことの論証には成功していると思いますね。
>>505 山岡が作品を書いてた頃には生駒最愛説なんて影も形もなかったと思うが。
>>513 こちらの以前のレスにも、>トンデモに近い発表 とか
学会の発表内情について説明してくれた同様なレスがありましたが
513さんも何かの研究団体や学会組織に参加している人なんですか?
やはり、戦国関係?
>>513 2ちゃんの中だけで成功しても意味ないんじゃ。
所詮2ちゃんなんだから。
それでよしとするなら話は別になるけどさ。
第一、最近では武功は偽書だとする風潮が強いんだから
信ずるに価するものかどうかなんて今さら感さえ感じるが。
517 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 08:13:55
確かに武功アレルギーってあるかもな。
518 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 10:00:54
学会で発表する=公認され史実と認証されるわけじゃないよ。
権威ある学会なら単独で発表させてもうなんてまず無理。
この世界も学歴派閥があいかわらずすごいからね。
新しい説の認証を得るには大家の皆様の太鼓判をいただかないと無理。
マスコミにでるような人物は似非、本は難読な大学の教科書になるようなもの
しか認めない、出身大学は、どの先生研究室で何年ただ働きしたか、
どの先生の論文のお手伝いをしたのか、ということで実力が決まる世界さ。
このスレのいろんな検証をどっかの研究室の下っ端の助手が見つけ、上司に報告し、
それなりの検証をしてくれ、信憑性が高いということになれば、
新説として公認を受けれる可能性はあるかな。
その場合そのトップの教授なりの名前で発表されその人一人の手柄になるけど。
学会の内幕なんてものじゃなくて抄録見れば良くも悪くも玉石混交なのは判ります。
いま手元にある例では科学史学会で偽書の東日流外三群史に依拠した報告がされたことがあります。歴史の学会が例外っ訳じゃありません。
>東日流外三群史
何もそんな例出さなくてもさwww
521 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 22:35:48
>>511 自分も最初山岡信長から入り濃姫が妻としての立場ある書き方だったので
それに影響され、その後武功夜話を知り吉乃が最愛の女性だったと
読んで割とショックだった。
その後武功夜話は嘘だとわかって、それ以来武功夜話アレルギーに。
最近このスレを知って、濃姫の地位が「妻」として保障されていた可能性があると
知り嬉しい反面、何だか武功夜話ブームの時のように
吉乃が濃姫になっただけで(歴史的に紐解いて確率高いと言えども)
何か濃姫をたてまくってる気がしてそれが何かなぁ。。。という感じ。
濃姫が妻として大切にされていたことが事実なら嬉しいんだけど、
でもそんなうまい具合に濃姫マンセー(と言うと言い方悪いけど)な
歴史になるのかなぁと疑心があったりもする。
つーかさ、こういうスレ自体の評価よりもさ
崇福治に春日局が結構足を運んでるんだけどこれどう思う?
位牌に関する文書の署名が見るからにお鍋の方じゃないらしいのに
お鍋の方と伝わってるのに関係在ると思う?とかさ
そういうことを話したいんだよね・・・・・・。
まぁ濃姫の存在を消すとするとあの時期しか無いわけだけどさ。
家康の時期なら、織田遺臣の気持ちを逆撫でて特に得になることもなし
時代が下れば、織田の威光なんてものの数ではなくなるわけだし
ちょうど端境期ではあるけど
でもそうだとしても、春日局がそういうことしたい理由とか気持ちがわかんね。
でも崩し字に慣れてるはずの昔の寺の住職が、お鍋の方と伝えたのは
故意に、そう伝えた可能性も考慮に入れる必要もありそうなきがするんだけど
どうよ?
寺にお鍋の書状だと伝わってたの?
単純になへ=お濃、鍋=小倉ってだけじゃねーの?
勝長と違いお濃の場合は存在を消すとか大げさなことじゃなくて
たまたま似たような名前で混同されたとかな。
本能寺の頃の生き残りなんて江戸時代に入った頃は岐阜にはほとんど
いなかったんだし。
濃姫の場合は春日局というよりねねの方が何か関係していそうに思う。
なんで? ねねさんが実権持ってた時期はまだ濃姫生きてるよ? 生きてる人間の存在消すなんてできんの?
それに高台院一押しだった西軍に秀信がついてるし、高台院が濃姫と政治的に対立していた可能性は考えにくい。
>516
>2ちゃんの中だけで成功しても意味ないんじゃ。
>所詮2ちゃんなんだから。
Wikiなんかにも反映されてきていますね。2ちゃんだけではない。
そうなると学会で報告しろとか本書けとかいう人が出てきたから、
別に学会発表それ自体が優越性を示すものではありませんよ、
論述の評価はその論旨によりますよと提示したのが513の趣旨で、
いわば当たり前のことを言ってるだけですから。
>第一、最近では武功は偽書だとする風潮が強いんだから
>信ずるに価するものかどうかなんて今さら感さえ感じるが。
それは貴君が偽書であったという結果から見ているからではないですか?
そう思っていない方も相当数いらっしゃように数々のレスからは見受け
られますし。
そのwikiに書き込んだのがここの人間の可能性が高いから
指摘されてたんじゃないの?
wikiは書こうと思えば誰でも書けるしそれについてWiki側が
きちんと調査するわけでもないよ。
>520
わかり易い例かと思ったものでW。
ちなみに東日流の場合も、同様に偽書性の検証は、なつかしのパソ通フォーラム
でも行われていました。学会で偽書性が検討されたことは殆どなかったと思います。
この手の怪しげなものは史料として用いず黙殺することが研究者の姿勢だそう
ですので(私はこの姿勢は誤っていると思いますが)。
ですから、2ちゃんであっても武功夜話関連のノイズを除去した上で、
濃姫に関しての情報を補填してくれたこのスレには素直に有り難く思ってます。
530 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 01:33:45
>>527 武功が偽書とわかった上でレスしてる奴の方が多いと思われ。
わかった上でさらにダメ押しして遊んでたように俺は感じたし
悪意満々にも見えた。
>528
貴君が言ってるのがどこのどの記述か判らないので一般論ですけど
誰でも書けるのだから、Wikiの規定守っている限り、別に構わないでしょ。
偽書性が明らかな文書による記述は訂正されるべきで、それをだれがやったのか
についてこだわる理由が判らない。
>>529 学会が意味ないものならば通史と称するものも崩壊して
日本史界も崩壊するからこれからは言ったもん勝ちの
学問にかわっていくことになるな・・・。
>530
見えちゃったのならしょうがないですね。
私には見えませんでしたけどってなりますけど。元々乏しい中身がなくなり
ますので、この類のレスはこれで終わります。失礼
>>532 極端な話だけど、明治天皇はすり返られたため天皇の血は
ひいていないという話も認められる可能性があるっていうこと?
535 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 02:09:38
話が飛び杉w
536 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 10:21:12
>>522 崇福寺七世慶甫和尚が姻威関係にあったというから、その縁で足を
運んだだけだろ?元々崇福寺は稲葉一鉄と縁が深いからその縁もあったろうし。
春日局と一鉄は二重の姻戚関係があって一鉄は義祖父にあたってる。
>>530 武功が偽書なのは承知の上だけど、濃姫ばかりが脚光をあびる
ような展開も納得がいかんのだろう。
気持ちはわからなくはないけど、荒らし行為を煽るような書き込みは
勘弁してもらいたい。
537 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 10:42:53
>>524 でもお鍋は秀吉からの手紙や言継日記から本名は「なへ」であることは間違い
ないよ。小椋(小倉)は実家の姓だよ。
「小椋鍋殿」「御なへの御かた」「おくらとのへ」「小倉殿」「前右府妾御なへ」
と署名が残ってるから。
538 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 12:42:16
もし濃姫の本名も「なへ」であったら、なんで崇福寺の手紙が
側室お鍋と断定されてんだ?とてもそうにはみえないけどもし署名が「なへ」なら
内容や状況からやっぱり正室なへが書いた、という結論になるんじゃないかな?
それでもこの手紙は側室なへだ、と思わせる説得材料はなにもないよな。
織田信孝は天正10年12月21日に崇福寺あてに判物をだし、
「崇福寺を信長の御墓所」と定め、保護を認めている。
その信孝を攻めるために同時期岐阜に戻ってきた丹羽長秀への崇福寺の
保護を求めている手紙のことを考えると、濃姫なりお鍋なりが
信孝にも同様の手紙をだしたのかな、とも思った。
それをうけて信孝が判物をだしたのかなって。
539 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 13:17:46
>>538 信孝が大徳寺総見院の墓は信長御墓所と認めていなかったのはわかる。
540 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 14:59:19
濃姫依頼説はなかなか面白いね。
というのはもし濃姫だったら大きな意味を持つと思うんだ。
正室である濃姫が依頼した位牌所であるということは
崇福寺にある信長の墓こそが本家本元の墓、という意味合いになる。
なので濃姫をはじめ信雄、信孝なども総見院の葬儀に出席しなかったともとれるし。
遺骨のかけらすらないわけだから、骨があるないは関係ないわけだし。
鍋が位牌所を依頼し、その後も丹長にあんな書状をだしておきながら
総見院の葬儀に出席したことって矛盾してないか?
541 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 15:15:39
いつ説に昇格したんだ?
542 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 15:32:24
>>540 『妙心寺史』には、天正11年6月2日に信長公夫人主催で妙心寺で
一周忌を執り行ったと記載されているから、基本的には濃姫としては
妙心寺が信長菩提寺、という位置付けだったんじゃないかな。
崇福寺にはあの混乱期の暫定的な供養所ということで位牌だけを安置していた
のではないかと思う。
それとお鍋の方と信孝は天正12年12月の段階なら秀吉がらみで仲がいい関係とは
思えないのでお鍋が定めた位牌所を認めるような判物をだすとは
思えないなとは思った。
543 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 17:09:03
崇福寺は妙心寺派の末寺。
暫定的に末寺で弔いをし、その後信長と
縁の深い妙心寺で正式に菩提を弔うつもりだったとか?
お鍋は大徳寺の葬儀にも一周忌にも出席しているので
そう考えるとお鍋が位牌所をもうけたり、
長秀にあんな手紙をだすのは不自然だな。
544 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:44:52
>>542 秀吉も大徳寺で同じ日に一周忌やってんだろ?
その日にぶつけるってすごい勇気・・・
お鍋は大徳寺のほうにでてるってことは完全に濃姫に喧嘩売ってんじゃんw
喧嘩って訳じゃないだろ。
息子達の行く末を考えれば、
秀吉に庇護を求めたんだろう。
正室との確執よりも、
我が身、我が子可愛さだと思う。
546 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 20:35:08
信孝母も打算があって息子の暴走を止めなかったのかもな。
あわよくば織田家の後継者になれるかもしれないわけだしな。
547 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:04:33
素朴な疑問なんだけど、丹羽は信孝攻めで岐阜にきたんでしょ?
鍋にしろ濃姫にしろ信長の墓がどうのこうのと言う前に、
そのことについて何も触れないのかな?
秀吉に取り込まれた鍋なら黙認だろうけど、
濃姫だったら一言思いとどまるようにとか、今回のことはとても残念だとか
書いても良さそうだけど。
>>544 >喧嘩うってんじゃんw
言葉のあやだろうけど、憶測で不適切な発言かと。
549 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:19:53
濃姫の立場をここは高く見ている感じだけど
自分はそこまで権限はなかったんじゃないかと思っている。
勿論、信長が生きている間は正室の地位にいて、
織田家のファーストレディだったとは思う。
他の側室達とは全く違う次元の人だったとも思う。
ただ、信長の死後そこまで権限持っていたかというと
何となく納得できないな・・・。
信長が生きている間もきっと、女主人ではあったけど
自己主張するわけでもなく、ごくごく一般的な女性で
奥を取り仕切っていただけじゃないのかな。
信長の死後、濃姫の名が出てこないのも多分ひっそりと暮らしていたからじゃないのかな
もし織田としても重要な人物で力を持っているのなら、
豊臣の正室・ねねのようにその後の文献にも出てくるでしょう。
信長の生前も正室に地位を与えたという話はないし(知行地はあったね)
別に表立って行動している事は何一つない。
名前が出てきても「信長と御台様は・・・」というように夫とセット。
生前も死後も、表舞台に出ないでひっそりと生きている人だったんじゃないだろうか。
このスレでも、濃姫は政治的なことには口を出さない人だったんだろうって意見が多かったような
煽り屋キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・* !!!!!
553 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:44:02
信長死後の文献にねねのように登場しないのは、
織田家が実質嫡流で途絶え、信雄以下息子達は政治の表舞台から
姿を消したからだよ。
安土桃山までの正室はかなり権威のある存在で
きちんと嫡流で続いていけば後家の権力はかなりあって
廃嫡する権限すら持っていたんだよ。
当主が亡くなり嫡男が幼少であれば後見人として女当主として
采配をふるう権限もあったし。(岩村城主の遠山夫人みたいに)
女は政治の道具という固定観念があるから意外だけど本当みたいだ。
ねねが文献に登場するのは有名大名とコネクションが強かったのと、
なにより秀頼の代になっても豊臣は徳川と二分する大大名だったから
だろうね。
もしねねが秀頼を養子にして幼少の頃から母親として接し、秀吉亡き後に
後見人として大阪城にいたら、誰も大阪城に大砲をむけることもできず、
外堀も内堀も埋められる事もなく、徳川の天下統一は難しかったんじゃないか?
554 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:45:57
>>553 つまり側室淀殿の子のままでは後継者の正統性がないと・・・
>>553 確か秀頼と高台院の仲は良好だったはず。
淀どのも高台院には礼を尽くしているし、
高台院も淀どのを気遣いしていたようだけど・・・。
秀頼も高台院を母親として(義理だけど)慕っていたようだし
高台院も秀頼を気遣う文を送っている。
一般的に言われている茶々がねねを追い出し、
自ら豊臣の実験を握り、ねねは日陰者になった(徳川についた)というのは
後世の作り話らしいよ。
>>549 みんなで仲良く濃姫について語っているのに
水差すようなこと言うのやめてください!
濃姫をそんなに下に見たいならこのスレ来なければいいでしょ!
557 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:56:29
養子というか、秀頼はねねの子供なんだが。
淀の方はお袋さまではあっても親権者ではない。
この辺の解釈は難しいが、
側室は正室の出産を代理する者と考えると
授乳や子守の代理者である乳母と立場的には同じだ。
また急にレスが多くなったなw
559 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:00:15
自作自演が多いんでしょう。
560 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:02:36
確か秀頼はねねの子供だよね。
淀はあくまで「お腹さま」なだけで
「かかさま」はねねだった気がする。
豊臣の家系図的にいうと、秀頼は秀吉とねねの間の子供である感じか。
この時代男と婚姻関係にあるのは正妻のみで、側室は正室の公認愛人であるだけ
だった気がする。
561 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:04:10
>>555 でも武家の慣習を無視して嫡男の秀頼を正室の手に渡さず淀殿の手元に
おいたのは事実。捨の時はねねが手元で育てていたのに。
淀殿にせっつかれたのかしらないが、このことが豊臣の滅亡を招いたといっても
過言ではないぞ。ねねが大阪城を出て淀殿にあとを譲ったのは秀吉の遺言に従ったということだから
秀吉最大の失策といえような。
562 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:08:40
>>560 正室の子というよりその家の子、という感覚かな。
563 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:13:25
三法師が清洲会議で秀吉の強引な後押しがなければ後継者と認められなかったのは
やっぱり生母がらみでなのかな?
信忠に正室がいて、その正室の実子やきちんとした後見ができる立場の女性だったら
まったく問題なく後継者になれたのであろうか?
秀吉も馬鹿だよね。
ごり押しなんてしないで、信長夫人である安土殿を味方につければ
安土殿が養子としたり、もしくは嫡孫と認めれば
あれだけ苦労しなくてもよかったのにね。
柴田勝家やお市だって、信長正室であり当時の織田家では
トップクラスの地位にある人間の言う事なんだから聞くのに。
565 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:22:03
>>563 このスレではそう結論ずけられそうだな。
566 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:27:26
>>564 見方につけたくてもついてくれなかったのだろうさ。
でも濃姫的には信忠系統が家督を継ぐことに異存はなかったのでは?
信忠は養子にした嫡男だったんだから。
しかしお市も思い切ったことをしたもんだ。
当時の柴田って60才過ぎてたんじゃないか?
お市はまだ35才だっけ?まだまだきれいだったろうに。
ところで一般的には柴田に嫁いだとなっているけど
柴田はあの年で正室はいなかったのか?
普通に考えて側室として送り込まれたと思うのだけど。
568 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:38:06
>>566 うろ覚えですまんが、確か正室がいた。
その他側室も何人かいた。
確か勝家とともにみな自害したとなんかの史料にあったような気がする。
お市と正式に祝言をあげた、という記録はないんじゃないか?
というか、濃姫は信長死んだ後の織田家に興味あんまなかったのでは?
もし今言われているように子供がいないのなら子供の将来を考える必要もなく、
長年連れ添った夫も死に、養子縁組した嫡男も死んだ。
もう後はひっそりと余生を過ごして趣味(あったかどうか知らないけど)とかを
エンジョイしつつ夫の冥福を祈り写経の日々だったんじゃないのかなぁ?
夫の生前も歴史の表舞台に立ってどうこうって女性ではなかったようだし
ひっそりとごくごく親しい身内や侍女たちと暮らしていたんじゃないかと思えてならない。
>>551 >549の文章を読んで、生駒厨とは思えない。
濃姫の立場を充分にわかっての発言に思えるけどね。
>>556 どこが、濃姫を下に見てるんだよwww
水を差しにきてるのはアンタでしょ。
と。
さては570=551=556だな
574 :
570:2007/01/24(水) 23:26:04
575 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:35:37
どっちが上だ下だとくだらん論争するならまじに戦国板でやれ。
正室だろうと側室だろうと織田家に貢献したのは間違いない史実だろうが。
>>575 わざとやってるんだろうから何言っても無駄
577 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 08:31:45
>>575 どっちが上か下かなら答えはでてる。
どうあがいたって正室には側室はかなわん。
側室が生んだ子供も正室の子と認知され、取り上げられて
奥を出ていけと言われたら文句一ついえずに従うだけ。
そんなの常識だろうに。
それと正室は家同士の問題で嫁いでくるから誰でもなれるものではない。
両家の友好関係を守ることができるのはその正室となった女性に託される。
でも側室は子供さえ産めばいいのだから誰でも構わない。
身分も不問。
そのあたりだって全然貢献の意味合いが違うんだけどね。
濃姫がいても齋藤家との友好関係は守れなかったけど?
579 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 09:53:28
>>578 斎藤道三との友好関係は守られてたじゃんw
婚姻による同盟関係は一代限りの友好条約だって知らないの?
580 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 10:33:46
>>578 義龍との友好関係はなかったが、濃姫がいてくれたおかげで誰に遠慮する
ことなく美濃をゲットできた。織田家にとっては濃姫の功績は∞
581 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 10:53:39
>>561 >>秀吉最大の失策といえような。
家の存続に失敗したという点では確かに武家にとって致命傷な失策だったね。
そのへん武家出身でない秀吉の認識の甘さだったと思う。
秀吉は「血」にこだわったんだろうな。側室腹とはいえ織田、浅井の血をひく
姫の産んだ子は高貴なものだ、みたいな。
確かにねねは足軽クラス出身だけど、豊臣家にとってはたとえ秀吉のかつての主筋である織田や
の血を引く淀殿よりも、正室ねねのほうが諸侯にとって重きを置かれる
存在だったのに。
家康はその点をよく認識していたよね。
だから慇懃無礼に淀殿のことを扱っていて、ねねのことを正室としてたてていた。
家康の作戦かな、とも思ったけど当時の武家の慣習からすればそれが
当たり前のことだったのかもしれない。生母とはいえ正室が生きているのに
側室の立場で女城主のごとく采配をふるう資格はないわけだから。
583 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 13:55:28
>>577とか
>>581とかの書き込みをみてまた正室アンチの連中が逆上しそうだな。
今晩また大騒ぎだな・・・・・
おれは信忠生母と思われる崇福寺に墓所があった「久庵慶珠」のことをもっと
詳しく知りたいね。唯一ループネタでないのはこれだけだ。
いい加減自演厨基地外は失せろ。
585 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 14:22:08
>>584 君こそ早く失せて戦後版に失せなよ。
信忠の生母が生駒でないと確定しちゃうのがまずいの?
こんなに早く反応しちゃってw
586 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 14:53:44
ん?戦後板なんてあったっけ?
587 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 15:13:13
三条夫人と比べるのが好きな人とか
側室の身分が低いと言うのは差別の人とかは
まだ来ないんですか
589 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:21:01
側室の身分が低いなんていうのは差別でもなんでもないよな。
そういう常識を認識できない人はこないでほしい。
590 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:39:58
キンモー☆
591 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:56:54
ところでWikiには
>>結婚当初は、鷺山城で生まれ育った事から、「鷺山殿」と呼ばれていたようだ。
と濃姫を紹介しているが、濃姫が育ったのは稲葉山城で嫁いだ後の
1554年に道三が家督を義龍にゆずり、鷲山城で隠居してるんだけど。
たぶん濃姫は鷲山城なんて入ったことすらなかったと思うよ。
なので結婚当初は「岐阜山殿」と呼ばれていたと思う。
592 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:28:04
濃姫の呼び名や本名に関しては私も興味あるな。
嫁いで来た時は、美濃御前や美濃の御方様と呼ばれていたのかな、と思っていたり。
(ソースも根拠もありません)
「濃姫」という名も諸説あるけど「美濃出身の高貴なお嬢さん」という意味で
信長がつけた云々というものもあるし。
ちょっと前に書いた気がするけど(戦国板の方だったかも)
家臣や侍女には「御方様」「奥方様」で良かったんだろうけど
信長は何て呼んでいたんだろう。
住む場所によって名前は変わっていただろうから、公式の呼び名(?)は
小牧どの、安土どの等になるんだろうけど、さすがに夫の信長がそれを
呼んでいたとも思えないし・・・。
一般的に知られている「濃姫」から「於濃」なのか、
それとも親からもらった幼名(?)で呼ばれていたのか(帰蝶or胡蝶?)
はたまたあだ名大好き人間の信長が勝手にあだ名つけたのか・・・。
593 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 08:37:54
>>591のWikiの修正を誰か頼みます。
鷲山城と岐阜山城の説明を読む限りやはり矛盾がある。
濃姫の本名はなんだったんだろうな。
濃姫本人の書簡が現存していないので不詳のまま。
もしお鍋が書いたとされる書簡がお鍋のものではないとなれば濃姫だった
可能性が大なので、署名から名前の一部なりが判明するだろうけど。
594 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 10:42:39
>591濃姫が嫁いだのが天文18年なら確かにそうだね。
その頃、鷺山城は土岐頼芸がまだ居た可能性がある。
しかし岐阜山殿はイタダケナイ。
この時期に岐阜は無い。
どうせなら稲葉山殿でしょう。
595 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 10:58:45
確かな史料に稲葉山と記されている訳ではない。
比較的古い物に記されている名では井口城、金華山城、がある。
とすれば井口殿、金華山殿か?
「天文十八年二月廿四日、
尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。
帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ」
と美濃国諸旧記に出てくるからな。
嫁ぐ時点の呼び名からの推測なのかもな。
美濃国諸旧記にはおかしな記述も多いが、
全面否定すると、2月24日という婚礼の日も、帰蝶って名前も否定する事になる。
鷺山殿という名前もそれなりの理由があって書かれているんだろうけど
いつの時点でそう呼ばれていたかは、美濃国諸旧記だけでは分からな。
大体、濃姫は鷺山城で正室だった訳ではないんだから、
美濃にいる時に呼ばれていたなら、
鷺山城に誰も正室がいない状態で住んでいたとしか考えられない。
尾張に行ってから呼ばれたなら、鷺山城から嫁いだから、そう呼ばれていた
というくらいの理由しかないだろう。
美濃国諸旧記の中にも、生母の小見の方は稲葉山に輿入れしたとなっている。
鷺山城が出てくるのは、道三が最期に住んだという事くらいしかないんじゃないか?
598 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:28:27
>>597 確かに「美濃国諸旧記」にはおかしな点が多く信憑性を疑問視されているのは
事実。ただ武功夜話よりもはるかに客観的な記述な書き方なので意図的に
捏造しているというよりも、編纂する時にきちんとした史実を検証
しなくて、伝承の類をそのまま書き記したためだと思う。
小見の方も濃姫輿入れ後にすぐに亡くなったとあるけど、壷事件後に
「姑」のもとへ出向いている記録があるし、詳細なところではかなり
いい加減なのは事実だと思うけどね。
599 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:27:45
大亀だが、署名の文字は「兼」ではないだろうか?
例のデータベースでみたら似ている文字もあったが。
600 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:47:49
現在、会社の女(B子)と不倫中なのだが、色々と考えさせられるね。
本妻(A子)との仲は完全に冷え切ってるとは言え、
B子の「子供が欲しい」要求は、どう考えても無理な訳で…。
最近、家にも帰ってない訳で…。
601 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:27:14
>>600 妻は婚姻後に購入した不動産、株、などは潜在的に共有する権利を有する。
専業主婦であっても夫の給与の半分の権利もある。
結婚後の預貯金の半分も妻に権利がある。
離婚時の財産分与はきっちり半分もっていかれることを覚悟しよう。
さらに
>>600の場合は不倫ということで有責配偶者となって
妻への慰謝料も発生するだろう。
なお別居期間中妻が無収入であれば夫は婚姻費用の支払い義務がある。
子供がいれば養育費込みなので婚費はかなりの額になり、それは
離婚成立の前日まで発生する。支払いを拒否すれば裁判所の
強制執行も免れず、給与差し押さえ等の処分もあるので気をつけるように。
ちなみに弁護士費用は依頼費が30万円〜50万円、裁判所への出頭費用が
その都度3万5千円〜4万円、交通費、郵便費用別途必要、さらに
成功報酬等も発生する場合がある。
A子のところに戻って目を覚ませ。
B子へ慰謝料を払う方がはるかに安くてすむぞ。
スレ (´∀`( ´∀`) チガイ
603 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:56:37
というかここは自演練習場所だからどうでもいいよ
美濃国諸旧記で分かるのは、美濃国諸旧記が書かれた頃は、
「濃姫」という呼称が一般的ではなかったという事だけだと思う。
「濃姫」は江戸期の歌舞伎から来てると聞いたことがあるが。
605 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:11:59
そういえば昔、「鍋」という名前は信長が付けたものというのを
読んだ事があるなぁ。信憑性はさっぱりだけど。
その筆者は「小倉女の顔が鍋の底のように黒かったから多分鍋とつけたんだろう」
とか書いていましたが・・・・・・w
606 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:35:29
信長御台の出産の件ですが。
結婚後18〜19年経っていて、まだ閨を共にしていた…という事は
ちょっと信じがたいような気はしなくもない。
(あの時代若い女はいくらでもいるのに言い方悪いけど
長年連れ添った古女房をわざわざ夜伽相手に選ぶ事もないし)
でも、伊達政宗の正室・愛姫も41歳で出産しているので、
あの時代年齢重ねても閨を共にする夫婦は多かったのかもしれない。
秀吉もねねに「久々に会うんだし、一晩中語り明かして一緒に寝よう!」と
言う書状を送っているので、秀吉ねね夫妻がヤったかヤらないかはともかくとして
同衾したりするのは普通だったのかも。。。?
607 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:48:59
>>606 濃姫は輿入れしたとき14才といわれているから、19年たっていても
まだ33才なんだからばりばりOKだと思う。
608 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:50:09
>>606 濃姫は輿入れしたとき14才といわれているから、19年たっていても
まだ33才なんだからばりばりOKだと思う。
609 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:22:22
>>605 お鍋の方が母性的な女性だったので信長が台所道具の名前をつけ寵愛した、
という説をおれもどこかで読んだ。
610 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:29:24
ここの内容、全部Yahoo掲示板の書き込みまんまじゃないですか、、、
あそこで語られた事を、ここでさも自分の意見のようにしてる人恥ずかしくないんですか?
ちゃんと一言「ここで見た事なんだけど」って断ってから書くならまだいいけど
何で人の調べた事を自分の手柄のように扱うの?
私もお鍋って名前は信長が付けたと何かで読んだ気がするけど
その根拠って何なんだろう?
濃姫も信長が付けた呼び名で呼ばれてたのかな。
612 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:56:00
五徳とか茶筅とか杓とか、そういう名付けが信長らしいと、
歴史作家の人々歴読とかに書いているのは良く読むよ。
で、そういうふざけた名をつけられたのも側室の子だからだと、
側室の子だから粗略な名をつけたのだと、
このスレで誰かが言ってたな。ここらしい見解だwww
信長らしい愛情のこもった名じゃないのかという意見もあるのに。
戦国のDQNネーム
615 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:55:25
>>613 自分は奇妙や茶筅が愛情あるとは思えないし、
かといって、坊丸とかが愛情あるとも思えないw
多分「どっちも何も考えず、直感で決めた」が一番信長らしいと感じる。
「変な顔・・・奇妙でいいや。名前」
「お、生まれたばっかなのに髪ふさふさw 茶筅ゆえそうじゃね?w」
多分その程度の直感で決めてそうな気がする・・・
616 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:48:42
>>610 それ逆なんだよ。
ここでの検証をそのまんまYahooで書き込まれてるの。
嘘だと思うならどっちの検証が先か日付を調べてみなよ。
ただね、誰の検証も手柄もなにもないと思うよ。
ここでの検証は問題提議でしかなく確定したわけでもない。
歴史オタの間では2ちゃんなどで論議される以前から
ループされていたネタかもしれないしね。
ここでの検証があっちこっちに広がって盲目的に信じていた
誤りなどが再度見直されるきっかけになったらそれでいいじゃんw
617 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 10:52:15
ここってさ、本来濃姫を語る場所なのに
濃姫の地位向上(手紙は濃姫が書いたものとか、濃姫の出産など)
に関わること以外伸びないよね。
濃姫話題なら何でも雑談していいんだから、
今回の本名のこととかだって今までのレス量考えれば
もっと伸びててもよさそうなのにな。
なんか「信長夫人」のした事と言われたこと、全て
濃姫に当てはめる行為以外基本的に興味ないのかね?
618 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:07:57
>>617 >>なんか「信長夫人」のした事と言われたこと、全て
濃姫に当てはめる行為以外基本的に興味ないのかね?
信長夫人といわれる立場は濃姫だけじゃん。
その信長夫人がしたことと言われたことが、全て濃姫がしたことと
認識して何がわるいんだい?
信長夫人のしたことを側室がしたこととするほうが
よほど無理矢理で不自然だと思うが?
619 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:14:30
>>618 別に認識する事が悪いわけじゃないよ。
ただそういう話題で「濃姫はやっぱ正室として云々」という
いい加減ループな話題にしか食いつかないのは何故だろうなと
不思議に思っただけだよ。
濃姫好きなら、たとえ答えでないものだとしても
本名とかに食いつきいいだろうに。
620 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:37:35
>>619 それってここにくる連中がずっと常連ばっかりなら、という前提だよね?
いつも同じオタやアンチばかりが常駐しているわけではないし、
新参者が同様の傾向になっていくことを繰り返しているだけなのではないか?
濃姫好き新参者にしてみたらずっと吉乃やお鍋を後室だと信じさせられていた
わけだし、そうでないということが史料などで実証されると興奮して
偏ったリアクションになるのもわからないではないよ。
濃姫好きといっても濃姫のどこに興味があるかは人それぞれだし、
正室と側室の定義もわからず同調したり非難している連中もやっぱり存在するし、
書き込みに統一感や自分の気に入る書き込みを要求するのはまったくのナンセンスだね。
本名の件は自分はとても興味がある。
お鍋と思われていた書簡がどうやら別人。
もし濃姫であれば署名から濃姫の本名がわかるかも。
信忠の生母は生駒ではなく「久庵慶珠」という女性の可能性が考えられる。
というのは歴史関係のサイトではどこでも見当たらない話題だったよ。
これはあなどれない考察だよ。
621 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:55:15
信忠の生母が生駒でなく慶珠さんなら兄妹もこういう組み合わせだったのかもよ。
信忠&五徳が同腹(久庵慶珠)→離縁後信忠の元に身を寄せていた
信雄&永姫が同腹(久庵桂昌)→前田家の史料に生駒が生母とある
信雄の姫を永が養女に迎えている
622 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 12:03:49
ふと三国志の呉夫人を思い出した。
『生駒女』に該当する側室は本来二人いた…という説はどうだろう。
生駒姉妹で信長の奥へ上がり、例えば姉は信忠と五徳を産み妹は信雄と永姫を産んだ。
そして二人しばらくして奥を去り出家。
戒名も似ているし可能性はあるんじゃないかな。
ソースはないけどw
623 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 12:18:36
可能性は否定できないよね。
姉妹でなくてもたまたま生駒家から親族関係にある側室が二人でた、
ということは考えられる。
ただね同時期に二人も生駒家から信長の側室になったなら生駒家に伝わる史料に
なにかしらの記録が残っていると思うんだけど。
624 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 12:27:35
お市は長政と別れて姫達を連れて信包のもとに身を寄せていた。
土田御前も信雄改易後信包の元に身を寄せて余生を過ごしたから
信長、信包、お市、は土田腹だったと見解する専門家もいたな。
姉妹等親族が同時期に側室になるって古代ではよくあったんだろうけど
戦国の頃にもあったのかな。
姉が亡くなった後に妹がとかならありそうだけど。
626 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:17:34
>>625 古代では天皇家と蘇我家や摂関家のように天皇家と血縁関係を強くもつことが
家の繁栄の象徴で、また天皇家も婚姻関係により嫁の実家の強いサポートが
必用な関係だったからね。
戦国大名で姉妹で側室にあげた大名っていないんじゃないか?
非人道的な行為でもあるから武家ではそんなことしないと思うけど。
非人道的!?
別に戦前とかでも普通にあったけど……。
名家でもなんでもないが、ウチの親戚でもそういうのざらざらあるけどなぁ。
後妻が姉妹だと、先妻の子を大事にしてくれるんよ。それが一番大きい。
あとはしきたりとか似てる家を探すのがメンドイとかそんなしょうもない理由。
あ、生きてる時に同時に上げることなんね。恥ずかしいまちがいをしてしまった・・・・・・。
629 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:12:28
>非人道的な行為でもあるから武家ではそんなことしないと思うけど。
非人道的って・・・・・・。
今の価値観で当時の行動を考えちゃダメでしょ。
姉妹どんぶりが非人道的なら、そもそも「腹は借り物」って
考え方そのものが非人道的でしょ。
630 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:40:13
古代だって近親婚は当たり前だけど同腹の兄妹の性的関係は
絶対タブーで、関係がばれると「畜生」と罵られ社会的に抹殺された。
側室制度においては「借り腹」はまったく問題ない行為だけど、
姉妹や母娘と関係を持つ、というどんぶりはタブーだよ。
現代人の感覚だとどれもこれも非人道的な行為だけどさ。
秀吉が冬姫を側室に望んだというのが本当で、実現していれば姉妹どんぶりだな。
しかも冬姫と三の丸殿は姉妹かつ養母娘でもある。
632 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:54:50
秀吉はお市と3姉妹全員側室にしたかったろうにw
冗談はさておき、かつての天皇家では自分が産んだ皇子に自分の実妹を
入内させて世継ぎを一族でかためたするのはよくあることだったよね。
古代の天皇家では異腹の姉妹を妻にしているケースはよくあったし、
その子供同士の婚姻もあった。
血族結婚は流産や夭折してしまうことが多く、
不具者のまま長生きする事ないということでそういった
血族婚のデメリットよりも、血縁を濃くすることで保証される
一族の繁栄を優先していたようだ。
夭折せずに成長できた場合は優性遺伝で優秀な逸材がでてくることもある
メリットもあったようだし。聖徳太子なんかがその最たる例なのかな。
戦国期になると大名クラスでは婚姻制度が他家との政略結婚がメインだし、
側室も政略的な意味合いであがってくるケースが多いから
濃い近親婚は意図的にしなかったようだね。
むしろ閉鎖的な地域の庶民あたりはかなり濃い近親婚を
していたようだね。戦後までそういった地域は一部にあったようだよ。
633 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:42:06
一定の話題じゃないとここ盛り上がらないよね。
>>620 このスレ覗いて書き込みするのは常連だけかと。
新規さんは多分ほぼいないと見て間違いないと思う。
634 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:11:46
>>633 その証拠は?
たんなる臆測ってことないよね、そこまで断言するならw
635 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:16:11
>>632 >>戦後までそういった地域は一部にあったようだよ
あったよ、うちの父方の実家の近くにあったB地区。
637 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:51:25
>>634 一定の話題になると盛り上がるところかとw
639 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:23:22
>>638 話題は気に入らないも何もない。
むしろ面白いことが発見できていい。
ただそれが自作自演多い事を感じ取ると何かむなしくなるw
640 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:28:45
>>639 なんで自作自演だと思い込んじゃうんだろう?
他の同調者のすべてを自作自演と思い込みすぎなんじゃないか?
戦国版で同様のことをぼやいているのは君か?
自作自演叩きの自作自演がバレバレだが。
641 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:41:46
>>640 どっちもどっちだとは思いますが、自演は明らかだと私も思います。
というより、濃姫出産話題を出したあたりから武田に人質に行っていた息子の
話の流れはそういう風にもって行きたかったんだろうなというのがありありと見えます。
っとまぁこれだけだと荒し同然なのでちょっと話題を。
この時代政略結婚が主流だったわけだけだし、現代の夫婦感情やらと一緒にしては
いけないんだとは思うのですが……。
この時代の武将に「恋愛感情」とかあったんでしょうかね?
例えば濃姫=安土殿で大切にされていたとしても、能力主義の信長の事だから
「こいつは出来る女だから、奥治めるのに役立つ」という理由で大切にしているなら
それは恋愛感情とは違うと思うし。
本当のところは信長に聞いてみなきゃわからない事ですがw
何かこの時代の武将の行動見ている限り、秀吉以外は女房に惚れているという
感じじゃない気がするんですよね。
どっちかというと、恋愛感情はお小姓へのものがそんな気がw
642 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:47:23
>>640 戦国板で言ってるのも私だよ。
だって2chだけでなく、個人サイトのBBSやヤフー、ミクシィ
濃姫関連全てに同じ話題コピペされてるんだもん・・・。
いい加減自演かと疑いたくもなるよ。。。w
自分がそうやって斜めから見てるから、何でも歪んで見えるんじゃないの
644 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:02:41
そうそう、ひねくれてるよね
自作自演も偏ってるけど、何でも自作自演と決め付けるのも偏ってる。
まさにどっちもどっちって奴か。
646 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:05:48
っていうか、自作自演だと何か都合が悪いの?
都合悪いのって生駒厨だけだと思うんだけどw
世間では正しい歴史を求められてるのに、何故濃姫>生駒の図が
出てくるのを嫌がるの?
生駒が正室になれないとそんなに不満?ww
自作自演って、少なくとも下げるの知らない人のはよく分かるよ。
自分で釣って、釣られたフリして荒らしてりゃ、そら荒れるよな。
意図が見え見えだから、激しくもにょる。
一体何人が2chを見ているのかと思っているのかな。
別々の人間がそれぞれ別々にコピペする事だってあるだろ。
大体、2ch発祥と言ってる意見だって、それ以前にカキコされてる
別の掲示板なんか、知ってると、馬鹿じゃね?って思う事もある。
なんつーか、アレだ。
このスレは腐女子の同人サイトか?って思うな・・・。
キャラやらカップリング論争でもめているのと同じように見えるw
歴史物の同人サイトまであるのかよ。
いろんなサイト見てる濃いヲタが多いみたいだから、面白そうなネタをこっちにも持ってきて。
生駒ネタは荒れるので他ので。
>>650 いや、自分が言ってるのはここでの論争が
腐女子の同人サイト並だな、という事ねw
でも歴史ものの同人サイトはあるw
652 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:52:08
>>641 庶民ですら恋愛結婚は難しかった時代だからね。
恋愛感情がなんたるか、がわからなくて一生終えた人も多いだろうな。
ただねねに宛てた手紙を読むと女性に意外と優しい一面があるので、
正室&側室にはモテモテの信長だったんじゃないか?
653 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:01:53
あのねねに宛てた手紙も、本当にねねを思って不憫で書いたものか
「よーっし、ここで部下の奥方の点数稼いどけば、後々役にたつだろw」
という打算で行われたものかは・・・・・・どうなんだろうねw
個人的には前者であってほしいけどw
現代における恋愛感情かどうかは微妙だけど、
ガラシャに対する細川忠興の感情も熱愛としか呼べないよね。。。w
40近く(もしくは40過ぎ)まで同衾している夫婦や
ラブレターに近い書状が残っている夫婦はそういう感情が多少はあったんだろうと思う。
654 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:25:30
>>653 濃姫を京都に何回か連れ立っているし、御料所を賜ってあげたりしているので
冷え切った夫婦ではなかったと思う。結婚当初の立場が斉藤家>>>>>織田家
で、結婚後もしばらくは舅のバックアップに助けられたから、実は信長は嫁には
頭が上がらなかったりして・・・
ガラシャは忠興嫉妬説は疑わしいそうだよ。
ガラシャは光秀謀反後幽閉され、重度のノイローゼになって自分から
部屋に閉じこもるようになり、自害しないように見張りをつけていたらしい。
忠興には側室もたっくさんいたし、通説通りに妻ばかり熱愛した殿様というわけでは
ないらしい。後室をもたなかったのもガラシャを愛していたからなんて
いわれているけど、実際はもう政略結婚の必要もなく、あえて室をもつ
必用がなかったからというだけだろうね。ただガラシャに幽閉後も子供を産ませてるし
(妻はノイローゼだっちゅうのに)、実はキリスト教に寛容だったので
ガラシャに愛情がないことはなかったろうな。
655 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:06:53
>>632代々続く近親婚で奇形になって鼻がなかったという武田の家臣がいなかったか?
なんでも武田家との縁組が慣習だったそうなんだけど。
小説の話だったかな?
656 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:56:43
江戸時代の奥事情(と言っても大奥のみだけど)は色々調べたけど、
戦国時代の奥のことなんてみんな何で調べたの?
ここで言われている「戦国時代の奥だとこれは当たり前」とか
普通に書かれているけど、自分には知らん事ばっかりで置いてけぼりくらってる気分だ。
ちょっと読んでみたいんだけど、皆何でそういうのを知ったの?
657 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 20:00:14
「女性史」のジャンルで中世あたりに重点を置いているものを探すといいよ。
俺もこういうものを読むまでは昔の女性は家の犠牲になってかわいそうだ、と
勝手に思い込んでいたけどそうでもないんだよ。
こういうのを読んでから戦国ものを読むと見方も変わってくるよ。
658 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 20:35:50
>>656 大奥制度と基本ラインは一緒だと思うな。
戦国→正室は他家との同盟関係のために送られる使者
大奥→正室は公家との融合のために送られる使者
戦国→側室は正室の借り腹&人質&献上品で正室に統括される
大奥→側室は正室の借り腹オンリーで正室を頂点とする大奥の組織に取り込まれる
659 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 20:45:43
>>657-658 ありがとうございます。
調べてみる。
でも、大奥だと正室がトップとは名ばかりで、
実際は大奥取締りや子供を生んだ側室が権力を握り
正室は閨を共にすることすらほとんどなかったそうだけど。
戦国時代は正室の管理のもとで側室はおかれていて
それは名実共に守られていたみたいだし・・・。
戦国時代では守られていた奥の仕組みが、江戸になり大奥という一大組織になると
どんどん崩れてきたって事なんだろうか。
660 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 21:03:15
>>659 権力を持てるのは子供を産んだ側室ではなく、世継ぎを産んだ側室。
それも権力を行使できるのは世代が代わって我が子が将軍についてからだから。
それまでは取り締まり役のにらみの下でおとなしく従うだけだ。
正室は名前ばかりとはいえ、将軍亡き後も前将軍の御台ということで
次の将軍も恭しく扱ったし、将軍生母であっても前御台の上座に座ることの
許されないから、やっぱり正室の権威はご生母様よりあったよ。
30才で褥辞退は正室も側室も一緒だったからそのへんは平等かな。
それと意外だけど子供を産んだ御台所は6人だったかな。
子供が世継ぎになれたのは江与だけだったけど、あとは夭折してしまったり
姫しか産まれてない。そこそこ褥をともにしてたってことでしょう。
ただ戦国時代は正室は家のことにがんがん口出ししていたから
政治に一切の介入がなくなったことが大奥の御台と戦国のそれとは異なる。
他国の大名夫人も参勤交代で結婚当初から人質生活だから、戦国時代とは
事情は大きく変わったろうね。
江戸城の将軍家大奥を考えると、見誤る気がする。
敢えて比較するなら、江戸期の諸大名家の奥制度と比較するのがよろしいかと。
数日前からこのスレ見れなかったんだけど、
なにが起こってたの?
663 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 15:31:48
人大杉規制長いな
664 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:06:56
江戸期の諸大名家の奥も参考にならないし、比較にならないかと。
参勤交代で正室と嫡男は江戸屋敷にいたし、国元に側室がいた人も多いから
正室をトップとした奥制度ではないと思われ。
ちなみに大奥で御台は確かに肩書きの上ではトップだし、
一応敬意は払われているけど、お飾りになっていたパターンも多い。
御台が大奥を動かしていたわけではないし、戦国時代と江戸時代は
全く異なる奥文化だったと思ったほうがいいと思う。
>>646 >正しいことを広めてナニが悪いの?
ハハハハハ
なにロングパスしてんの…
私も前の話を掘りかえしたかった所なので人のこと言えないけど
信忠が位牌を置いた久庵慶珠と生駒女の戒名は似すぎているので
双方信長の側室とすると、やっぱり時期的なものだけでは
信忠の生駒女生母説は否定できないと思うんだけど、どうだろう
生駒女が生母なら、信長は生駒女の喪主を信雄にするなど
信忠と生駒女を、意図してかそうでないかは別にして、切り離している
で、信長の意向に軽く逆らって生母の位牌を置いたとしたら
その年が信忠が美濃を実質的に掌握した年と見ていいんでは
667 :
666:2007/02/05(月) 23:42:10
崇福寺に宛てた書状が濃姫のものだったとすると
崇福寺の位牌所も墓石も信長と一緒というのも濃姫が差配した可能性が高い訳で
実母同然に育ててくれたと想像される濃姫に遠慮がなかったのか、など
疑問はつきない訳だけど
生母に拘らず、信忠の曾祖母とみた方がすっきりしそうなんだけど
そういう見方は無理なんかな
小見の方の母親とか、明智まで織田当主が拝みに行く訳にも行かんしって
位牌所設置した可能性ってないのかな?
>>666 >信長の意向に軽く逆らって生母の位牌を置いたとしたら
>その年が信忠が美濃を実質的に掌握した年と見ていいんでは
判物の内容からして、位牌所おいたのは天正5年じゃなく、
もっと以前じゃないかな?
奇妙のまま判物出してる元亀2年においたんじゃないか?
元服前に判物出してるのは、生母の喪主だったからと考えれば
違和感はないけど、それだけに限定する必要はないな。
墓所はなく、位牌所だけなら、生駒氏息女の可能性もあるけど、
岐阜に移ってすぐならともかく、何年も経ってからって言うのが不思議だ。
元服して信重になったから改めてなら分かるけど、奇妙のままだしな。
>生母に拘らず、信忠の曾祖母とみた方がすっきりしそうなんだけど
>そういう見方は無理なんかな
>小見の方の母親とか
小見の方の母親なら、いくらでも斎藤家や美濃の縁者がいるんだから
信忠がする必要ないよ。
岐阜に縁者達が設置した位牌所に、拝みにいけばいいだけ。
小見の方の母親の没年月日って、解からないものなのかな?
どこで調べれば解かるんだろう? やっぱ寺かな?
斉藤家の面々なら、信忠が美濃のトップなんで岐阜の廟は信忠が設置しろって
言い出しかねない印象があるんだけど。
一スレ目の引用なんだけどさ、ちょっとバロンさんの文で気になる文面があって
>55 名前:バロン曽志崎[sage] 投稿日:2006/10/03(火) 04:00:57
>信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
>例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
>とある。
>ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
>あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
>好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
>るかもしれないというレベル。
永禄11年て、美濃に入ったばかりの頃だよね。
群書類従本織田系図がどの程度あてになるのか解からないんだけど
実際に永禄十一年に信忠の元服に関するイベントがあったのだとしたら
信忠を元服させ三郎と名乗らそうとしたけれど、斉藤家の反対で叶わず
信忠の元服を引き伸ばすことにした(その間に美濃の統治を固めるつもり)
というのが、ありそうな線なんだけど。
で、時間稼ぎしている間に三方が原の戦いがあって窮地に陥り
諦めて斉藤家当主の名前の九郎が入った勘九郎にしたと。
道三と同じ新九郎にせず、道三の父の名にしたのは、親心かな
新九郎は、道三は我が子に殺される、義龍は親殺し・早死にと、ろくな運命を辿った人が居ない。
まぁ結構強引な案なんだけどさ
群書類従本織田系図が、伝聞にすら基づいていない可能性もあるのかもしれないし
それにしても、5年間、九郎の名前を空席にして粘っていとしたら斉藤家の執念凄すぎる。
というか、むしろ理解不能。
何の脈絡もなく九郎と名づけた方がいっそすっきりするんだけど
「勘九郎」であるからには斉藤家と無関係な可能性は低そうだよね。
一人で長文書くばっかりしていい加減ウザがられてそうなんだけど、もう一つ蒸し返し
於坊と於次が双子で濃姫の実子なんじゃないかって説が
於次のお袋が正室らしくない行動をとっているために却下になったことなんだけど
双子が生まれたら、一人は別の人の子とするんではないかな。
結城秀康は双子だったらしいけど、双子の片割れは家康に認知さえされなかったし
いかに革新的な信長といえども、双子をそのまま公表はできないんじゃないかと。
双子が生まれて、慌てて濃姫付きの侍女にでも手をつけていたことにして
その人が於次のお袋と公表して、だけど生まれた子供の後見は濃姫がしますなんて
言い出しすことも有り得そうな (あくまで濃姫の子で双子という仮定に立った場合ね)
於坊は健康、於次は生まれつき体が弱いけど
そういうのって生まれた時の体重差が最後まで響いていることも多いし
言いにくいことだけど、お手つきの子と公表されるとしたら於坊ではなく於次の方だと思う
お袋と公表された人もそれなりに於次の面倒見るだろうし
お袋と養観院が別人で、養観院=養華院の可能性も捨てきれない気がするんだけども
>>670 実は、自分もそれは考えた。
ほぼ同じ推理。
双子だったら、離して育てるから早い時期に片方侍女へ。
もう片方は、2人の顔がすごく似てるのが分かり始めた、まずい!!
ってことで遠山家へお預け、後々東濃を支配したら、
正室実子ってことで戻すかって気楽に思ってたら、そのまま武田へ人質。
こりゃ、どうせ生き延びても、武田マンセーに洗脳されてくるだろうから、
素直に信忠を嫡男にしとくかってなかんじの流れを推理してたぜ。
や、双子だったとしても、信長は顔が似ているとか気にしないんじゃないかな。
多分建前が「双子じゃない」ことになれば、充分だよ。
専制君主が双子じゃないと言い張っているのに、そこを指摘するような
向こう見ずな家臣はまず居ないだろう。
於坊を遠山に養子に出すのもかなり嫌がってるし、離して育てようと思っていたかも謎。
養観院=養華院=濃姫だったのなら、離して育てる意志は無かったと受け取った方が
自然なんじゃないかな。
信忠が養子で、於坊、於次が実子だったとしたら
遠山夫人が於坊を養子にといったのが、双子っていうことで足下見てたから
養子と実子の間で、どっちに継がせるか揺れている信長に
実子の方出せと言ったと取れなくもないのか。色々深いな。
濃姫の子だったとしたら、於次は一応お手つきの子となっているけれど
正室の子というのを、秀吉に上手く利用された形になるのかな。
秀吉が、本能寺後早々に蒲生氏郷についてもらえたのも、冬姫の同母弟の於次のお陰だろうし。
信忠を嫡男とするかどうかについては、於坊が武田に取られる前にあった初陣(小谷城攻め)で
その時織田が一箇所に集められる最大動員数を突っ込んでいて
内容も割と無理のない戦い方になっているし、もうこの時点で世継ぎ確定かと
盛大に具足初めを祝いたかったんだろうけど、浅井が挑発に乗らなかったので
ちょっと空振り気味かなww
ともあれ、於次が秀吉の中国攻めの中で信長の立会いもなく初陣したのとは対照的だと思う。
つーか、信長は信忠と他の子区別しすぎ・・・・・・。
色々と総合するとやっぱり、於坊、於次が濃姫実子だったなら
信忠も実子の可能性が高いんじゃないかな。(濃姫に若君なしって表記が嘘になる訳だし)
信忠を取り巻く斉藤家の動きが、信忠養子で、於坊・於次が実子とすると解せないし。
信雄の「信忠と母が一緒」という主張は信雄の後見をしたのが濃姫だったからと考えられないこともないし。
両方実子と考えるか、もしくは寺で生まれた子は姫か早世と考えて勢州軍記を信用するか
どちらかなんじゃないかと。
いい加減我ながらウザすなので、これで語るのはラストで
671には失礼なレスつけてて心苦しいし。
根拠といえるようなものはないんだけど、信忠と信房は同母兄弟のような気がする。
信房があのタイミングで帰ってきたのは、1581年7月までの信長と信忠の不和が影響していると思う。
4ヶ月間目通りも許さず、帝に仲裁まで頼んでようやく収集した、お家の大事。
ここに、信長が帰還を熱望している勝長を投入したら、きっと親子で戦い始めるはずと踏んでの
勝長の送還ではないかと。
それに、後々まで勝長を甲斐に置くことに対して不安があったろうとは思う。
上杉の御館の乱で、勝頼が北条側の景虎の支援をやめ、景勝支持に転じたのは
勿論、景勝の財力も魅力だっただろうけど、縁戚関係にある後継者候補を押しのけて
実家の勢力が強大な養子に肩入れするのに抵抗があったというのもあるんじゃないかな。
勝頼も織田家の息子を抱えていることで、内側から切り崩される可能性はゼロではなかった訳だし。
(重税で嫌になっている家臣達に織田に寝返る名目として利用されたり、色々)
で、信房が織田に帰ったら
正月行事や左義長を盛大に執り行う織田の年間スケジュールを考えると最速で、武田攻め決行。
帝に仲裁を頼んだ不和は、能やらなんや、意味不明な原因だったのに
信長の援軍を待てとの命を無視して武田攻めを決行した結果が、家臣団が揃い踏みしている中での
「天下の儀も御与奪」ですよ。
もう、はめるつもり満々だったとしか。
仮に本当にフェイクだったとして、信長、信忠、どっちの発案だったかは解からないけれど
家臣団が本気にしたら家が瓦解しかけかねない策に乗ったか、発案したとしたら
信忠にとっても、信房の織田家への生還は、悲願だったんじゃないかな。
信房が織田に帰ってきてからは、いつも一緒にいる感じだしね。
>>673 >671には失礼なレスつけてて心苦しいし
自分は、
>>673ほど、真面目に考察して書き込んだ訳じゃないんで
気にする必要なんかないさ。
於坊、於次双子説面白い。
信忠とも同母だったら、色々納得出来る事もあるが、
残ってる文献を考えると、そこまではなと思ってしまうがな。
信忠が、生駒生母ではないと考えた方が、
しっくり来る事が多いんだが、ちょっと上で出てる
久庵慶珠の事をもう少し調べてみたいものだ。
電波がdjと聞いてdできますた!
ここって相変わらず○作○演の長文スレなんだね・・・
677 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 03:20:45
678 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 17:33:17
もっと電波を!!
又かの説を蒸し返して、次にくるのは同意レス
人物の思考思慮までに及ぶ妄想憶測・・・
我田引水には呆れるばかり。
680 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:07:48
何か面白いネタないの?
自作自演が一休み中なので再びの過疎化
682 :
673:2007/03/03(土) 23:56:32
面白いネタかぁ。
気になってることといえば、神戸三七信孝の通称の由来が3月7日生まれって嘘クサクね?くらいかな。
よくよく考えると信雄の通称は三介、信房は皆知っての通り源三郎で
信正の通称は残念ながら見つけられなかったので除外すると(弱)
信長存命中に元服した息子達の通称には信忠を除き全員三の文字が入っているんだよね。
信正はわからないけど、他は信忠以外三の文字が入っていて、信忠が菅九郎、でも家督はさっさと譲っている、と、
この状況をみても、信忠に三郎と名前をつけられないので、せめて他の子に三の文字が入った通称をつけてみましたと
考えて良い気がする。
その中でも信雄と信孝は「サン」と音読み、信房は「三郎」の文字が入ると、差が見受けられるよね。
通称って、後世から見たら小さいことに思えるけど、両親や、一部親戚などはずっとその通称を呼び続ける訳だから
信長にとっては結構大きいことだったのかと、信長の息子達の名付け方を見ていると思う。
そして、信孝の三七の「三」が、三郎の「三」由来とすると、信孝が3月7日生まれの可能性は低い。
(本当に3月7日生まれで、3月と三郎の三を、駄洒落宜しく引っ掛けて見ましたというのも、有り得るとは思う)
3月7日生まれでないとすると、誕生日由来が通説になった理由、ありえそうな線は信雄or信雄系が後から
三介の三は三郎の三、三七の三は3月7日生まれの三と、差別化を計ったとかかな。
単に変な通称だから、3月7日生まれだったんじゃね?ってことに落ち着いた可能性の方が高いか?
さておき、信孝の3月7日生まれが後付で言われ始めたことだとしたら
信雄の誕生日も三月末ではない訳で、妊娠時期からの生母の類推は止めたほうが良いのかも。
(言いだしっぺが意見ひるがえして申し訳ない。戦国に嵌った当時は今以上に大胆だったなぁ・・・・・・。)
683 :
673:2007/03/03(土) 23:57:06
つーか、自作自演なんかせんよ。バカらしい。
あぼんしたい人が多いなら鳥つけるけど、電波も飛ばしつくしてネタ切れを起こしているのでもはや意味ないかも。
ループっていうけど、一度書いたネタは二度は書かないよ。
王様の耳はロバの耳的な感覚で、一旦口に出したことで満足してるから。
しょうもない妄想でも、全くどこにも言わないでいると結構ストレス溜まるんよ。
今回はどんだけ叩かれてるかなと、ガクブルしつつもワクテカしてたんだけど、ちょっとやりすぎたのね。
電波長文書きすぎて、真面目な学者さんは、カキコミしずらくなってたのかな。マジ申し訳ない。
674さんは温かい対応ありがとうー。
以前は昼間のレスが多かったから、学校から書き込んでる人も結構いたんじゃないかな。
ちょっと前まで人大杉規制で2chブラウザなしじゃ書き込めなかったから
人が減っちゃったんだろう。
685 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 03:54:09
>>682 子女の名のつけ方についてのその意見は憶測ということでOK?
信長の子女への命名は、わりと直感的、または適当、ひらめき、
などという意見もあったよな。
幼年期の通称から何かを掴もうというのは、正当なこともあるけど
ただのこじつけ思いつき意見に過ぎないこともあるよな。自慰
>>683 >真面目な学者さんは、カキコミしづらくなってたのかな
自作自演に呆れて、いなくなったのと違うか。
687 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:02:56
とりあえず他人の意見を自分の意見のように語る某女はカキコ禁止
688 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 11:31:21
>>684 自分は昼間暇な主婦が書き込んでるんじゃないかと思っていたがw
大学はもう休みだから学生もいないし、
何より、年単位契約の非常勤が、
この時期いないからな。
今1番濃姫について研究している学者を教えてくれませんか
もしくはそういう人のいる大学とか
久昌慶珠の位牌の件だけど、奇妙時代、信長の判形で元亀二年六月11日に位牌所設置の
ことに関する判物をだし、その6年後の天正5年六月に崇福寺にまた信忠の名前で
税金免除等のことで崇福寺に判物を出している。6年後の同じ月なら月命日が
命日からかっきり七回忌にあたる。久昌慶珠は信忠の生母で、生母を弔ってのことと考えるのが
一番自然だと思う。
当時の武家の葬儀は、配偶者や親が喪主を務めることはせず、息子が喪主を
する慣習だったから、実子の信忠が喪主を務めたのだと思う。祖母の小見の方が
亡くなったのなら、実子である濃姫の弟がするべきことであって、他家の織田家の
信忠が喪主をすることは100%ない。
信忠生母に関しては、奇妙時代からの側近の誰かの実家の女性だと思う。
信雄は生駒家、信孝は坂氏と母方叔父の岡本氏が側近につけられているし、
母方の親族が必ず側近にいるはず。信忠の側近が誰だったのかはわからないけど
一般的に美濃出身者が多いということだから、恐らく美濃衆の誰かの息女が
生母で、そのこともあって崇福寺が菩提寺になったということも考えられると思う。
生駒家と信忠の接点がまるでないから、生駒が生母という線は絶対にないと
思ってる。別に側室腹の嫡男だからといって、生母とその実家を切り離す
ことはしなかったはず。する必用もないし、むしろ家(側室の実家)の反映の
ためにと忠誠心を持ってその子を盛り立て仕えてくれるから、ありがたい存在。
それから、お次、お坊双子説はないと思う。
当時は貴人であっても、間引きは当たり前。
不吉な多産児は生まれてすぐに「死産」ということで間引かれたか、
すぐに片方は寺に預けられて厄払い。
妊娠後に身内に不幸があったり、妊娠した月、出産予定月が忌月などだと
あっさり堕胎薬で堕胎していたくらいだから。
縁起をかつぐ武家が多産児を二人とも実子にしておく可能性はまずないな。
でもこのお次は秀吉の手紙から誕生したのは永禄11年ごろなのは間違いない。
勝長もそのあたりであると思われるから、年が近いのは事実で、秀吉の養子に
だされたお次が兄であったのは間違いない。嫁にいくのも、養子も年功序列だから。
>>691 小見の方腹の濃姫の弟って義龍に殺されたんじゃなかったっけ?
>>693 異腹でも斎藤道三の息子が濃姫を頼って織田家に仕えていたから
筋からいったらその息子が喪主をするだろうな。
>>692 縁起を一笑に付し、魔王を称した親バカの信長が、子供を間引くのもまずないと思う。
合戦時に、信長の兜をうっかり北向きにおいてしまった小姓もお咎めなしだし。
信長非人間的な迷妄を嫌いだし。武田や上杉は大名自ら奴隷売買を仕切っていた頃に
奴隷商人を死罪にしてるような人だし。
双子説については迷宮入りで良いんじゃないかと。
>>695 親ばかとか関係なく当時の慣習なんだから必要があればしたよ。
やんごとなき家では明治期過ぎてもそうしてたんだから。
間引かない場合は男子二人の場合は大きくて丈夫そうな方を残して
片方は即行寺か他家に養子。男女なら男を残し女子は尼寺行きが多かったようだ。
身分の高い家は畜生腹を忌み嫌ったため。
身分が低く貧しい家は食い扶持が増えることを嫌って間引き。
産婆の仕事はお産の手伝い+間引き稼業。
ルイス・フロイスが嘆いていたほど当時の日本では当たり前の慣習。
子供は乳幼児は神様の授かり者だからその頃亡くなっても天にお返しするという
大義名分もあって、罪悪感なしにできたそうだよ。
身分の高低に関係なく乳幼児の頃亡くなると墓をつくる慣習もなかったし。
信孝の生年月日は永禄元年4月4日、幼名は「勘八」という説もある。
信雄より遅く生まれたので弟とされた、という単純なオチかもしれん。
生母の出自がどうのこうのというが、当時の生駒家と坂氏では
互角どころか、神職であったという説が事実なら半商家であった
生駒家より武家としての格式は上だと思う。当時の神職は武家の世襲で、
神職でありながら武家として大活躍した千秋家や名門諏訪家もいたし。
出自云々で信孝がコンプを持つことは考えられない。
客観的にも弟だから、ということによる年功序列の差別しか見えんし。
生母がはっきりしているだけ、そこそこの出自である証拠なんじゃん?
年功序列の差にしては、信雄と信孝って差が大きくないか
>>698 そうか?
天正10年5月には信孝に讃岐を与える朱印状を与えているし、四国の三好康守
の養子にすえようとしていたことを示す史料が残っていて、
本能寺の変がなければ信長は信孝を四国支配の中心に据えようとしたのではと
推測されるよ。
馬揃えの段階まで信雄と信孝の処遇の差を決めるのはどうかと思う。
>>699 それは信孝自身が頑張って信長の信頼を得たからという印象なんだよな。
スタートでは差を付けられてたんじゃないの。
>>700 >>スタートでは差を付けられてたんじゃないの。
それは信孝が弟だから当たり前だと思う。
信孝と秀勝となるともっと差が激しい。
信孝は神戸家の養子ながら織田家一門扱いだけど、秀勝は完全に羽柴家に
あげっぱなし。
兄との処遇に露骨に差をつけなければ兄弟間の争いを生むし、信雄、信孝に限った
ことではないと思うけど。
秀勝は年が離れてるからね
昭和天皇の片割れは尼寺にいたんじゃなかったっけ?
>>703 三笠宮が男女の双子だったので、女子のほうが生後すぐに寺に預けられた
ということらしい。男女の双子は特に忌み嫌われるそうだ。前世で心中した
男女の生まれ変わりと信じられていたみたい。
信忠生母→久庵慶珠、菩提寺は崇福寺
信雄&永姫生母→久庵桂昌、生駒氏、菩提寺は久昌寺
信孝生母→坂氏、人質→処刑
信吉生母→お鍋の方、小倉氏、菩提寺は総見院
というのは確定なんだね。
信忠生母は確定じゃない。
一次史料に生母は記載されていない。
久庵慶珠にしても状況証拠だけだ。
久庵慶珠が久庵桂昌の別の法名かもしれない。
崇福寺は位牌所となっているだけなので、
菩提寺かどうかも分からない。
>>706>>久庵慶珠が久庵桂昌の別の法名かもしれない。
でも久庵桂昌が亡くなってずいぶん経ってからわざわざ位牌所をもうけ、
別の戒名つけてもらったとするなら戒名のグレードアップさせないか?
せめて院号づらいつけてあげるだろうに。
それと桂昌の喪主は信雄がやったのに、位牌所の設置を信忠がやるのって
矛盾してないか?それなら最初から長男である信忠が喪主を務めるはず。
本当なら位牌所の設置も喪主を務めた信雄がすべきだと思う。
しかも信雄は当時伊勢が本拠地だったから永姫のように自分の地元で
生母の菩提を弔うのが普通だと思うが。
坂氏の出自のことだが、坂氏は北伊勢の有力者であった神戸氏、関氏、
鹿伏兔氏の一族。けして出自が低いという認識はなかったはず。
事実上の後見人だった岡本氏は信孝の生母の母方実家にあたるそうだが、
岡本氏は尾張津島四家七党の一つで、長くその地に土着していた豪族。
少なくとも生駒家と比べて見劣りするような出自ではないし、むしろ
伊勢においては信孝は血筋が認められた出自であったはず。
北畠に養子になったのも信孝が一族の血をひくということから、ある意味
妥当な縁組だし、関盛信が信孝を軽んじたという話も、関氏が一族の宗家に
あたるため北畠家を格下にみていた、というだけのことだと思う。
関家にしてみたら、北畠氏も坂氏も分家庶流になる。
信雄と信孝は単純に先に生まれたのが信雄だから信雄が兄だった、という
だけではないかね。
久庵が一緒で戒名が似ているからといって同一人物と考えるのは早急。
同じような境遇、身分の女性でしかも宗派は違えど同じ禅宗の寺がつけた戒名なら
道号が一緒ということは珍しくない。
崇福寺の過去帳があれば一発でわかることだ。
崇福寺はこの時代の書簡の類がけっこう残されているので、過去帳もあるんじゃないか?
>>707 >北畠に養子になったのも信孝が一族の血をひくということから
神戸氏のまちがいかな?
生駒氏の葬儀で、信雄が喪主だったってのもホントかどうか
>>710 一般的に『久昌寺縁由』といわれる『嫩桂山久昌寺縁由』によると
「永禄九丙寅の年五月十有三日信長公の令妻疾に罹りて小牧山の城に掩葬する
終焉の嘱命によって雄山和尚を請ひ小折之西新野の地に荼毘す骨を収めて
龍徳寺に像塔し専ら冥福を薦す法諱を久庵桂昌大禅定尼と号す時に
信長公哀慕聯々として同穴の思ひあり信雄卿に命じ長く桂昌の幽趾
を修めんが為に丹羽郡五明村六百六十石を以て龍徳寺の厨料と為す
且つ朱章両通を賜附し不易の証契となす故に桂昌禅尼を以て中興開祖
と為しまた龍徳寺を改め嫩桂山久昌禅寺と号す」
とあるんだ。
偽書『久昌寺縁起』とも違う史料らしいが、この史料をきちんと
検証した本とか誰か知ってる?
このオリジナルはどこに保存されてんだ?
>>707 坂氏女は北伊勢でいち早く信長に恭順を示した坂氏からの証(人質)だったのかも。
>>711 素朴な疑問だが
>>永禄九丙寅の年五月十有三日
とあるが、武功夜話には吉野は「永禄寅年(九年)九月十三日死去」
とあるんだけど、命日が違うの?
>>小折之西新野の地に荼毘す骨を収めて
この時代は土葬じゃないか?
確か火葬による葬儀はお江与の方が初めてだったとどこかで読んだが?
火葬の一番古い記録は700年の道昭じゃなかったか?
仏教では、荼毘に付すのは普通だから、日本じゃ火葬は普通だぞ。
神道では火葬は残虐ってことで土葬だが。
お江は、当時は身分の高い人物は火葬にしなかったから、
将軍正室なのに火葬にされたという事で、毒殺説が出た。
生駒くらいの身分なら、火葬でもおかしくない。
>>714 仏教伝来で火葬が流行ったが、一般的なものではなかった。
かなり身分が高い人物限定で、一般人は墓すらない。
その後火葬が好まれた時代もあったが、主流はまだまだ土葬。
江戸時代初期の頃には貴人の葬儀には土葬が好まれるようになり、
増上寺の徳川将軍、正室、側室を墓移転に伴う検証の時、全員土葬であったことが
確認されている。
しかし遺体の損傷が激しい時や、伝染病などの時は土葬にされたそうだ。
江与は一説によると全身に発疹があったというので、毒殺説もあるけど
何かしらの伝染病で亡くなったために火葬にされたのでは?
生駒はどうかな。
あの時代に普通に亡くなったのであれば土葬だと思うけど。
>>しかし遺体の損傷が激しい時や、伝染病などの時は土葬にされたそうだ。
土葬→火葬の間違いでした
武田家の正室の三条夫人も火葬だったらしいから、
生前仏門に入っていた人は火葬だったりするんじゃない?
生駒も戒名からして生前出家だったらしいし。
でも歴代将軍御台所も側室も土葬なら、仏門とかは関係ないんじゃない?
将軍が亡くなったあとは妻妾は在家だろうけど剃髪して仏門に入るし。
『嫩桂山久昌寺縁由』って誰も見たことないし、検証されたこともない。
久昌寺に伝わる寺伝で、門外不出のようだ。
よくあるように江戸時代後期に編纂された寺伝書の類だと思う。
もしくはその存在はまったくないのかもな。武功夜話の元史料は
まともに検証されたことがないんだから。
信長が歴史的有名人である、という既成事実がなければありえない寺名の改名。
だから改名の由来も後年の創作話だと思われ。
だいたい久庵桂昌という戒名の女性も実在の人物だったのかも怪しい。
信忠生母の久庵慶珠と久昌寺を強引にくっつけて創った創作上の戒名かもしれない。
>>707信雄側の主張は、生駒は嫡男の生母だから坂氏よりも格が上、という意味で
本来の二人の出自のことは関係なかったんじゃないの?
ニュアンス的に信雄はより織田家嫡流に近い、ということを強調したかっただけのように思う。
実際はまったく関係ないし、諸侯からの理解は誰からも得られなかったようだけど。
Wikiの織田信忠を読む限り信忠生母が生駒という線は完全に消されてる。
すでに生母は「久庵慶珠」と編集されてるしなw
偽書武功や久昌寺の胡散臭さから、信忠の生母である久庵慶珠を
モデルに勝手に久庵桂昌という女性を作り上げたんじゃないかとさえ
思えてきた。
だいたい生駒が3人の子供を産んだのなんのというのは前田文書と
久昌寺の伝承でしか確認されてないんだろ?
722 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 08:40:04
>>721 久庵慶珠は信忠側近の美濃衆の誰かの息女ではないかとWikiに書いてあるね。
ちなみに信忠幼少期からの側近て誰?
側室腹の場合、若君の側近筆頭とかが生母の親族だったりするんじゃないか?
723 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:52:28
幼少時からなら齋藤新五だろうな。
側近とまではいかないが池田の息子上二人あたりも
そうだったかもしれん。
元助は最初の嫁が道三縁の女子で信長の養女として嫁いでいるし
(濃姫がすすめたという話もあるらしい?)輝政は清洲城からこっち
尼崎に行くまでほとんど行動を共にしている感じ。
彼は生まれが清洲城という話もある。
斎藤新五なら、濃姫の同腹の弟と言われているから
やはり斎藤家周辺の女性か?
池田家の息女なら、未だ残っているような家なんだから
何の史料も残っていないとは考えにくい。
元助の最初の正室は、濃姫と引き換えに道三の側室になった
信長の妹の娘という説があるな。
信長の姪であり、濃姫の妹であれば、系図の複雑な関係が納得できる。
>>724 「伊勢家系図」によると伊勢貞良室は信長御台所の妹となっていて、
その間に生まれた姫は濃姫養女となってから元助室になっている。
道三側室になった信長妹の姫は畠山昭高室の方だよ。
「両畠山系図」の昭高の項に「信長の養女が昭高の嫁」となっていて、
「畠山家記」の昭高の項に「信長の姪聟(むこ)」となっているので
まず間違いないと思う。
信忠生母の考察は興味がある。
信忠の誕生後からすぐ側近になった家臣団を知りたい。
美濃衆が多いというけど、具体的に知っている人がいたら教えてください。
岐阜の崇福寺に位牌所が設置された(恐らく葬儀の場所でもあったと思うけど)
あたりで、信忠生母の実家は崇福寺が菩提寺だったということも考えられるかな。
>>725 畠山昭高室だったか。
勘違いすまない。
伊勢貞良室は、光秀の娘という説や、松永久秀の娘という説もあるからな。
何人か後室を娶ったのかも知れないが、21歳で亡くなっているので、
そんなに何人も娶ったかどうか……。
元助は永禄2年生まれなので、婚姻は元亀に入ってからだろうな。
濃姫の養女になっているという事は、少なくとも元助婚姻の時期までは
濃姫の足跡はうかがえるという事になり、言継卿記の後も
生存がわかるという事になるのか。
727 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:20:12
>724
それがな〜池田家は輝政より前の代までの史料が
あるようでないのか実情なんだよ。
出世頭である輝政ですらわかっていない部分が
結構あるから女子ともなるともうお手上げに近い。
研究しようにも関係しているのが徳川に皇族だから
むやみに進められないという話も嘘か真かは
知らんがなくはない。
(嘘臭くても)濃姫遺愛の品とか、念持仏とか
伝・濃姫奉納の品とか
見事なまでになーんにも残ってないのは何でー?
729 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 08:39:01
信長=濃姫だからw
この二人は途中で入れ替わってんだよ
岐阜の斎藤家菩提寺の常在寺に濃姫寄進(といわれる)の道三の肖像画があるじゃん。
当時は死後に肖像画を書かせたし、道三の肖像画を菩提寺に寄進できる立場の
斎藤家の人物といったら濃姫ぐらいじゃないか?
>721
>だいたい生駒が3人の子供を産んだのなんのというのは前田文書と
>久昌寺の伝承でしか確認されてないんだろ?
阿波蜂須賀家に仕えた生駒氏(家長の子孫)の記録でも
家長の妹が三人生んだことになっている。
詳しいことは『生駒家戦国史料集』に。
>>731 その記録では、永姫は誰が生んだ事になってるんだ?
信雄が主流になった時に、織田家と徳川家に近しい二人を同腹にしたのなら
その後の記録はすべて、それに準拠するようになるだろうな。
前田家の永姫は無視して、自分の家の嫡流である信忠と
天下を取った徳川家につながる徳姫を同腹にしているところがいやらしいな。
>733
図書館で読んだだけだから永姫のことが載っていたかまでは憶えていない。
生駒家長の妹が生んだのは信忠、信雄、五徳の三人という扱い。
『生駒家戦国史料集』は『織田家雑録』あたりを参考に
江戸期に生駒家でまとめた史料なんだろう。
前田家に嫁いだ割には実母が分かっていない永姫
子供がいるいないはでかいなあ
>>736 自分で検証したわけではないけど、このスレを読んだ限り
金沢に久昌寺を建てたというあたりで、生駒氏が生母であるのは間違い
ないと思う。でも信雄生母の生駒と同一人物と決めつけるのは性急かも。
>>730 >当時は死後に肖像画を描かせたし
追善供養のために死後に縁者が依頼することは当然だけど、
寿像といって生前に描かせることも、昔は多いよ。
その道三肖像には由来書きや寺伝等が伝わってないのか?
>>738 常在寺の寺伝では道三肖像画は信長北の方寄進とはなっている。
道三の肖像画を描かせ寄進した信長北の方は濃姫以外いないから
濃姫寄進ということになるな。
ここのスレの影響だろうか、生駒、信忠、信雄、五徳、信孝あたりのWikiの内容
修正がすごいんですけど、素人は信じちゃうと思うけどいいの?
740 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:28:38
いいわけねーだろw
大河板とか見てるとwikiの鵜呑み、多いよね。
おいおい、それは小説ネタだろ、とか
その説はまだ検証もされていない与太説なのに・・・
と、思うことしばし。
亡くなった時点で子が現存してるのなら、
故人の遺愛の品を菩提寺におさめたりするものだけど。
ま、ネットの情報を鵜呑みにするやつなんて恥をかくだけだから
修正すればいいんじゃないか?
それが知らぬ間においらもマインドコントロールされてどこをどう
修正したらいいのかわからない。
が塩川の娘が継室→側室に修正されていたがもどしたほうがいいんだっけ?
塩川の娘は、側室という認識だろ。
正室として婚姻していないから継室のほうがありえなす。
大体、三法師の母親は塩川の娘で確定していない。
学長が怪しげな史料だしてきて主張しているが、
昔は墓の場所から森の娘といわれていたんだぜ。
塩川娘が本当に側室だったという史料はあるんだっけ?
その史料も学長宅の家伝書の類だっけ?
ところで秀信は死後の法要とか供養はやってもらっていたのか?
墓はよく紹介される道端にぽつんとあるあの墓だけのようだけど、
菩提寺はどこになるの?
お鍋も高畑女になっているが、
書状の宛先見ると、高畑のままでいいのか?
せめて、書状の宛名は小倉という事くらいは
併記すればいいと思うのだが。
秀吉がお鍋あての手紙に「小椋鍋」と書いているので、
小倉氏出身で、小倉(椋)殿、おなべ殿、と呼ばれていたのは間違いないはず。
高畑に嫁いだ説と、同じ小倉氏に嫁いだ説もあるけど
どっちにしても通説のように「高畑氏から小倉なんたらに嫁いで、
夫が信長を助けたために切腹させられ、気の毒に思った信長が子供と一緒に
面倒をみた云々」はまったくの捏造話。
もしかしたら高畑氏の側室もいて話が混同したのかもしれないな。
以前、歴史雑誌で「高畑氏は小倉氏の一門」というような記述を見たことがある。
何か根拠あったのかな。それとも昔からおなべの出自に疑問を持っている人がいて
無理矢理つじつまをあわせたのだろうか?
信忠の子の三法師の母は塩川氏らしい。
もうこれでいいじゃん。
たいして歴史的に意味のない事だしさ。
高畑よりは小倉だよな
塩川氏が信忠の側室で子供を産んだ事は事実であっても、その子が三法師だったという
確証はないんじゃないか?次男のほうだったかもしれないし、長男を産んだが
夭折したとかさ。
史料も文献も無いんだから検討しようもない罠。
西山文書みたいな面白い捏造、また出てこないかな。
755 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 20:24:10
信長の生母も土田御前でない説もあるし・・・
それにしても織田家の当主が3代続けて
生母がわからないなんて・・・
こんなばかなことがあるのだろうか。
しかも信長の場合は、側室の子供でなくて
正室の嫡男なのに・・・ひどすぎる。
いくら奥向きの事は記録に残さない家柄だったとしても
あまりにも・・・
家康だって、信玄だって母はわかってるのに・・・
>>755 信長の場合は安土城もろとも信長に関する史料が焼失したのではないかと思ってる。
信玄の場合は三条夫人の実家も名家であったから。
信玄の姫達の生母に関しては確定できない姫もいるよ。
家康みたいに嫡流の子孫がきちんと残っていれば、信長も信玄も妻子に関する
史料を残してくれたと思うけど。
757 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 20:45:12
>>7 信忠の母は生駒の方でいいんじゃね?
姿が消えているのは、早世したから。
たしか、「信長公記」に「(信長が生駒の方を)いたく惚れられ」
って記述があって、信長が看病したらしい。
信長とは再婚で、信長より年上だったらしいけどね。
濃姫は、のちに織田の家督者となった信雄の嫡母
(生みの母ではなく、父の正室の意味)
として、織田家滅亡後、庇護を受けている。
しかし、豊臣秀吉の正室ねねが実子はないものの、
秀吉死後、豊臣家の家督にあれほど口出ししているのに対して、
同じく織田信長の正室である濃姫が、
信長亡き後家督に一切口出ししていないことも不自然な感じがする。
戦国大名の場合、君主が死ぬと、その正室が家臣団を率いて、
次なる家督相続者の地位が確立するまで政治をみるものだが。
逆に言えば、それがなかったからこそ、織田家の家督を巡って戦いが起こるのだが。
>>757 生駒のことが書いてあるのは信長公記じゃなくて武功夜話じゃないかい?
Wikiの織田信忠の項目をみると、それなりの根拠をもとに生母を検証してるよ。
濃姫が嫡孫と決まった幼い三法師の後見をしていないのは不思議に思ってる。
名ばかりとはいえ三法師の背後に信長御台がいるのといないのとでは
三法師の扱いがまるで違ったと思う。特に三法師はまだ3才と幼く、
生母は正室ではないし、きちんとした立場の女性の後見役が必要だったはず。
信長御台だった濃姫こそ、その役になるべきだろうに。
濃姫がすでに亡くなっていたのか、後見をしたくてもできない状況だったのか???
759 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 21:36:08
う〜ん。でももし濃姫が早くに亡くなっていたとしたら、
総見院にある信長御台とあるあの墓は一体誰?
それとも濃姫は早くに亡くなっていて
信長が新しい御台を迎えたのか?
新しい御台を迎えたとしても
側室が正室に上がったとは考えにくいから
信長の正室ともなればそれなりの家柄でないと
つりあわないだろうし。
もしそれなりの家柄の人を新しく御台として迎えたのなら
記録が残っててもいいはずだしね。
それにしても信長の生母にしても正室にしても
謎だらけだよね。
個人的な意見だけど、あの「信長公記」を書いた
大田牛一とかいう人、信長の記録をまとめるのは
いいのだけど、戦や政治の話ばかりでなくて
どうして信長生母の事や正室のこと、せめて
信長の子供たちの生母が誰だったかとかぐらい
記録に残してくれればいいのに。
760 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 23:16:26
濃姫が三法師の後見をしないのは確かに不自然。
っていうか、信忠生前から三法師を見てたって人は誰なんだろう?
信忠は正室がいなかったし、三法師は庶子扱いだったというから、
きちんとした後見はされてなかったのかな?
不思議に思うのは信長の跡継ぎで、大事な嫡男だった信忠に正室を
娶らせなかったのはなぜだろう?
どこかのスレで、信忠の正室は西国の大名と同盟を結ぶために、
そのポストを空けておいたのではないかというのだが、
信長にそんな気があったのだろうか?
実際毛利討伐にも、四国討伐にも出かけるつもりだったのだし、
同盟を結ぶならもっと前におこなっているのではないか?
四国討伐が本能寺の変の原因ではないかと最近では言われているし。
信忠に関しては武田の松姫を迎えるつもりだったとか言われているし。
考えれば考えるほど、よくわからない。
>>760 >武田の松姫を迎えるつもりだったとか言われてるし
それはやはり信憑性が確実でない系図をもとにした、
物語的展開を望む憶測の域をでない説かと。
創作世界的にはロマンのある展開だけどね。
>>760 自分なりの見解だけど、
>>信忠生前から三法師を見てたって人は誰なんだろう?
信忠生前は三法師を嫡男認定していないから、嫡男人事はしていないはず。
一般的な大名の庶子同様に、乳母に預けられ、まだまだ乳母中心に養育されていた
だけだと思う。幼少だし庶子ということで、特別な後見もいなかったはず。
>>大事な嫡男だった信忠に正室を娶らせなかったのはなぜだろう?
松姫の破談後は武田と再縁する必要性もなくなったし、信長の目下の
目標は西国統治だから、西国攻略の一環で同盟を結ぶ必要がでてくる
時のために信忠の正室のポストをとっておいたと考えるのが
一番自然かな。 庶子であっても男子が産まれたから後継ぎ問題は
自分達が一緒に亡くなるという想定外の出来事が
きなければとりあえずクリアだったから婚姻を急ぐ必要もなかったろうし。
それと北条氏が信忠正室であったという説があることはある。(信忠室の墓が小田原に
あったとする史料もある)
>>信忠に関しては武田の松姫を迎えるつもりだった
戦国大名の婚姻は政略結婚で、恋愛結婚なんて頭の片隅にもない時代だから、
松姫の境遇に同情した信忠が側室として庇護しようと思った可能性は
あるかもとは思うけど、実際は破談後はまったく接点なく終わった二人
だと思う。松姫は賢婦だし、たくましい女性だから、信忠室になっていたら
織田家嫡流は絶えずにすんだかもなとは想像してます。
763 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 12:00:14
確かに、信忠と松姫は結ばれて欲しかったな〜
松姫の輿入れがあったなら、武田家も滅亡しないですんだろうし。
それにしても信忠にはもっと長生きして欲しかったな。
>>763 >結ばれて欲しかったな〜
そういう素直なキボンは可愛い。
しかし、松姫の輿入れがあったなら云々は、
その時点から歴史展開が変化する、IF話に突入するので
所詮わからないことだと思います。
765 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 12:45:03
濃姫が三法師を後見しなかったのって、やはり信雄や信孝、お市の方など、
親族が反秀吉派だったからだと思う。
信長の死後、秀吉が信長の弔い合戦をやったのは、それなりに評価してたと
思うけど、秀吉の発言権が日増しに強くなっていって、
織田家を乗っ取られるのではないかと、重臣であった勝家なども
反対したからではないかな。
その証拠に秀吉主催の葬儀には出席せず、親族中心の葬儀を別におこなって
いるのもそうだし、そうこうしてるうちに、秀吉と織田一族の争いだけで
なくなり、信雄と信孝の兄弟争いなど、織田家はぐたぐたな状態に。
濃姫はそれを見てるのがいやになり、早々と出家したとかじゃないかな。
秀吉だって、信長の大事な家臣だったはずだし、秀吉とは犬猿の仲だと
言われている勝家にしても、尾張統一前から信長を支えてきたのだし、
なんで争うのかなって思ったのだと思う。
でも濃姫が78歳まで生きたとしたら、信長の死後、30年後だし、その間
ひっそりと暮らしていたのだろうか。本能寺の変後の濃姫の生活ぶりに
ついてとか、何か記録が残っているものってないのだろうか。
濃姫って、本能寺の変後はどこで暮らしていたの?
766 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 12:48:07
松姫が信忠の室になっていたとしても、武田は滅びたと思う。
武田勝頼には、戦国の世を生き残っていく才覚がなかった。
織田信忠も、有る意味同様。
父信長自刃を聞いて、本拠地安土城へ逃げ込み明智をせめるでもなく、
父とともに死のう、と思う信忠が、父亡き後、
秀吉や家康に食いつぶされずに生き残れたかは疑問。
信長が天下統一の過程で死んだため、織田家は日本全土の支配者ではなかったしね。
松姫は生涯未婚を貫いたが、松姫の姉見性院(武田信玄次女)が晩年、
将軍秀忠の落胤保科正之を養子にして、武田家の家督と位牌を継がせている。
767 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 13:05:09
>>765 たしかに、お市は反秀吉を明確にして、柴田勝家に再嫁しているね。
ただ、その場合でも、なぜ濃姫の姿が歴史上に出てこないのかが気にかかる。
主君をなくした織田家にとって、濃姫は織田家をまとめる中枢の人であったろうし、
反秀吉で三法師の後見に反対した、という史料でもいいから、出てきても良さそうなものなのに。
徳川家康が政権をとるために秀吉の正室おねを厚遇したように、
本来なら、濃姫が織田家の今後をどうしたいかによって、随分歴史は変わったと思うんだよね。
濃姫は本能寺の変後、最終的に織田家の家督を継いだ信長次男織田信雄のもとで、
織田家の女性たちとともに暮らしていたと思われる。
(『織田信雄分限帳』の「安土殿」)
信雄のもとには家族、父の嫡室であった濃姫はもちろん、
信雄の妹で松平信康室であった信長の長女五徳などもあったみたいだ。
>>766 保科正之の養育には信松院も関係しているのだが。
また、一時は武田幸松丸という扱いをしたかったのだろうが、
実際に家督相続の事実なんてあったか?
>>768 ないよ。
武田家は海野に養子にいった次男の直系が武田姓に復帰を許され、
幕府から事実上の信玄直系を認めてもらって武田家は高家になり、大正時代に
政府から武田宗家と正式に認められた。
濃姫って三法師擁立が反対だったのかな?
信忠の義母なら嫡孫三法師は孫同然。濃姫にとって一番の拠り所となる存在。
他家の養子になっていた信孝、信雄に織田家の家督が行くほうが納得がいかないと
思う。三法師擁立派自己利益のための秀吉のごり押しという通説だけど、
武家ではどんなに幼くても当主の長男のほうが、庶流になる当主の弟たちよりも
家督相続の権利は強かったから、そんな無理を押していたとも思えない。
諸侯の賛同を得られたのも当然だし、信孝、信雄も承諾せざるを得なかったのも
そういう事情を理解していたからだと思う。
信孝が秀吉と対立していくのは、家臣団の反秀吉派の中心に祭り上げられたからで、
その先には自身の織田家の家督相続という願ってもない機会を得たからでしょ。
>>767 五徳は秀吉の都合で信雄の元へやられたり京都にやられたりしている。
信雄の元にいた時期でも、基本は秀吉方の人質みたいなものだ。
濃姫も、輿入れ時の化粧料や、永禄11年に信長が用意した御料所という
個人財産を持っているし、信雄に干渉される事もなく悠々自適だったとしても
不思議ではない。
分限帳に出てくる600貫文だけでも、現代の額に換算すると
少なく見積もって6000万円ほどになるそうだからな。
>>765 濃姫が反秀吉の立場なら逆に三法師の後見役をやったと思う。
三法師のバックに彼女がいれば「秀吉の好きにはさせない」という
圧力をかけられるし、信長葬儀、法要の際に三法師を抱いていたのは濃姫で、
秀吉の膝の上に抱かれるようなことにもならなかったはず。
信雄・信孝兄弟の争いも避けられ、家臣団が離れることなく、
信長系織田家宗家が残った可能性もあったよ。
>>769 >ないよ
そうだよな。そんなん聞いたことも無い。
自身ありげに長文されると、一瞬ハァと思う。
2ちゃんで流布している大正〜昭和の武田正当子孫調査話は、
たぶん自分が書き始めたのが最初だよん、
大久保長安事件連座逸話も、自分が初出したんだろうな。
773 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 14:24:38
濃姫が三法師擁立に賛成だったか、
反対だったかは、議論のわかれるところですが(なんせ史料がない)、
この家督争いの重要事に
なぜ正室濃姫が歴史の表舞台から忽然と消えていたと思われますか?
それが一番なぞなのですが。
>>773義元母やねねみたいなケースが特殊で、正室に関することが
詳細に史料に残されている方が珍しくないか?
特に濃姫に関しては実家はないし、織田家は秀信で絶えているんだから。
776 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 15:25:06
>>772 2ちゃんねるに誰が最初に書き込んだとか、
全部の板回ってそんなこといちいち調べてんのか?
2ちゃんねるの書き込みが全部事実でもあるまいし。
うぬぼれてる奴、はァ?と思う。
777 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 15:37:27
>>775 あれほどの重大事なのに、豊臣秀吉も柴田勝家も、
主君の正室に判断を仰がなかったなら、変だ、と思ったまで。
濃姫の晩年の史料がないことについては、たしかに残らないケースもあると思うよ。
>>774さんのように、
斉藤家滅亡かなんかの折りに、出家してしまっていたなら、まだ話はわかるよ。
でも、夫である信長が存命であるのに、正室が出家してしまうケースはレアかもしれない。
本能寺の変後、尼寺で速攻出家、家督のことは知りません、ていう感じか?
もっとも、義元母や秀吉正室おねのように、出家後も口出ししていた例もあるが。
>>777 江戸時代あたりまで病気などで余命いくばくもない、となると
配偶者がいても出家してしまうケースはあったよ。
>>777 そのあたりの濃姫の不審さが、濃姫黒幕説の根拠でもあるのかな?
幼少のお世継ぎの背後にいる先代当主未亡人の○○院、というイメージが
強すぎるのかな。当主生前から政治に一切介入することなく一生を終える正室の方が
多いんじゃないかなと思う。ねねやまつ、千代は当主とともに
家を盛り立てていったから、当主死後も家内で信頼と権威を持つに至ったため
夫の死後も政治に口出しできる立場にあったのだと思う。
能姫は信長生前はまったく政治の表舞台にでてこないのに、信長死後急に
織田家内を仕切るなどということはしないのでは?
>>780 そうかな?
天下人の正室でありながら、信長公記にすらほとんど書かれない濃姫、
その存在感の薄さは、やっぱり傑出していると思うよ。
政治はともかく、奥向きのことも一切やらなかったということなのかな?
余程内気で表に出るのを極端に嫌う性格だったとしても、
部下の夫人たちとの交流もなし・・・ってちょっと考えられないが。
782 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 20:31:33
確かに信長の死後でも、信雄の庇護のもとにあったとしてもなんらかの
記録とか様子がうかがえるようなものが、表に出てきてもいいと思う。
徳姫でも、秀吉の命で住む場所を変えたりとか、色々記録があるのでしょ。
なぜ濃姫にはそれがないのだろう。秀吉に翻弄されたりとか、なかったのかな。
それともよほど、地味でめだたないタイプの人だったのかな。
まあ、もともと織田家では、あまり女性に関しての記録は残さない家だったと
いうことだから、仕方ないかもしれないね。
織田家では目立つ女性自体、少ないしね。
信長の生母でさえ、誰かはっきりとしていないのでしょ。
一応、土田御前ということになってるけど、それも推測の域を
出てないのだし。
信長公記では濃姫に限らず信長の奥がらみのネタは
誰それの母は○○氏、という記述以外ないに等しいから
濃姫に限らずあれだけ大勢子供がいたわりには信長の奥がらみのネタが少ない。
これといった事件がなかったので、妻妾が登場しないとも解釈できる。
あちこち史実と違う箇所が目立つけど「明智軍記」では桶狭間後の宴会で
「次は美濃、舅殿の敵討ちをしましょう」と信長にせっつく家臣たちに
感謝して濃姫が酒やあわびを振舞ったという記述があるし、
宴会での話は創作であるとしても、書かれた当時は濃姫が道三死後も生きていて、
信長の北の方であったという認識だったと思う。
784 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 20:51:09
>これといった事件がなかったので、妻妾が登場しないとも解釈できる。
確かに、信長の場合は他の大名と違って、正室と側室が揉めたり、
子供の待遇などのことで争ったりなどという話も聞かないしね。
側室にしても、子供の数を考えると、かなりいたようだし、それにしては
なんの事件も聞かないから、正室も側室もみんな仲良かったのかな。
信長の場合、特定の誰かを贔屓したり、可愛がったりとかせず、みんな
同じように接していたのかもね。
仲良かったのかな?
濃姫って本当に謎だよね。
でも総見院で「養華院は信長御台」として
公開している以上は、総見寺の織田家過去帳以外にもそれなりの
根拠があるのでは?たしか総見院がらみの史料には養華院は「信長寵妾」と
あるという話もどっかで読んだけど、それなら総見院が養華院の墓を
信長御台の墓と認めるのはおかしな話だ。
>>785 大徳寺の特別公開にいったけど、
「養華院は濃姫の墓ということでいいんですか」の問いに
「はい、そう聞いてます」程度なんだよね。
お寺の当事者ってのはそういうトコわりと適当な面もあり、
信長についての事ならまだしも、
妻についての関心はあまり無さそう。
色々と究明すべき点があるという意識はみえなさそうだね。
武将本人ならともかく、妻についての研究は影が薄いもんだし。
787 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 00:46:36
系図研究家の市川香舟という人が、こんな講義をしています。
「織田信長の正室は美濃の斉藤道三の娘だったと出ていますが、
この方がいつ結婚したかという正確な記録はありません。
信長公記にも出ておりません。
そしていつ死んだのか別れたのかということも出ておりません。
しかしある本によりますとずっと長生きして寛永まで生きたという説も
あるのです。しかし私はそんなに生きるはずがないと思っています。
というのは最後には斉藤道三は自分の子供に殺されますよね。
斉藤家は信長の敵になるわけです。
ですからいつまでも敵の家の娘を自分の奥さんにしているのはどうも
考えられないのです。いったん返したのではないかという人もいます。
斉藤道三の娘なんですが、この人を濃姫と言っていますが実際には名前が
分らないのです。帰蝶とか書いてありますけれど、これは60年後70年後に
書いたものに出てくるのです。濃姫というのは美濃の姫と言う意味ですからね。
そしてつい最近の研究では2番目に結婚した生駒家宗の娘がいます。
家宗の娘から信長の嫡子である信忠信雄、長女の徳姫が生まれています。
この方は側室であっても正室の座を与えられていたのではないかと言われています。
そしてこの人はとても美人だったんですね。生駒家宗の娘はいったん嫁に行って、
夫が死んだので帰っているのです。そこをちょうど織田信長が通って、
今の江南市で出会ったのです。
そこに生駒屋敷といってお城みたいな大きな屋敷があったのです。
そこでこの生駒氏は馬借を手広くやっていたのです。
生駒家宗の馬借としての財力を信長は利用しています。
有名な前野家古文書という文献がこのあたりを詳しく述べています。
788 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 00:51:44
続き
生駒家宗の娘は3人の子を産んでからすぐ亡くなってしまいます。
29歳かあるいは39歳かで亡くなります。信用できる尾張徳川藩に
残っている文書によりますと、そのときあの剛毅な信長が生駒屋敷
に向かって涙をながしていたと言います。
かれは彼なりの人情があったということなのでしょうか。
先日織田信長の正室だった帰蝶(濃姫)の生存を検証するという一文
がある雑誌に載ったのです。それには泰厳相公縁会(たいげんあいこうえんかい)
名簿というものがありまして、その中に慶長17年7月9日信長公御台、
養華院殿要津妙玄大姉という記載があります。
また大徳寺の塔中の中に総見院というのがあります。
これは織田家の菩提寺です。それの石塔には養華院殿要津妙法大姉、
信長公御寵妾なりとあるのです。さて正室なのか妾だったのか、
そして養華院殿要津妙法大姉が帰蝶であったかどうかははっきりして
おりません。このように文書というものは相反するものが出てくるのです。
正しいものはなかなか分らないということです。」
これってホント?
この人の主張することって、誰かの説を鵜呑みにしてない?
>そしてこの人はとても美人だったんですね
本人を見たことあるのかよw
>>788 >>石塔には養華院殿要津妙法大姉、信長公御寵妾なりとあるのです
石塔ではなく、総見院の過去帳だったか法要の記録だったかに
そう記されている。
それと斉藤家は信長の敵とういのも正確には違うぞな。
道三は信長と同盟関係のまま亡くなった。
その時点では織田家には関係のない斉藤家のお家騒動の果てのこと。
その後信長が美濃攻略をはじめるのは、国譲状もあっての
実力行使だから、濃姫を美濃にみすみす返すわけもないわな。
仮に濃姫が実家に帰された、あるいは亡くなっていたとしたら国譲状の効力もなく
むやみに戦をしかけるわけもなく、美濃衆があれだけ一致団結して
織田家に協力しているわけもない。
根本的に前田文書を鵜呑みにしている段階でこの人の主張は説得力がなく却下。
791 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 06:55:23
>そしてつい最近の研究では2番目に結婚した生駒家宗の娘がいます。
これって、側室でなく正室になったってこと?
馬借の娘が信長の正室になれるんだったら、
三法師の生母が信忠の正室でもよかったんじゃない?
でも実際は三法師の生母は側室で、
三法師は庶子扱いだったのだから。
ちょっと言ってること矛盾してるよ。
792 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 07:12:47
いち研究家、しかも講座ともなると
どの程度のレベルの聴衆かもわからないのだし、
突っ込む気もない。
矛盾の指摘をする甲斐のある有名人でもないんだろうし。
>>信用できる尾張徳川藩に残っている文書によりますと、
そのときあの剛毅な信長が生駒屋敷に向かって涙をながしていたと言います。
このことについての記載は「嫩桂山久昌寺縁由」。
常識で考えても徳川藩にそんな文書があるわけないじゃんw
しかもこの「嫩桂山久昌寺縁由」なんてまったく胡散臭いったら
ありゃしない。生駒の墓の方を眺めて涙した、なんて…?
正室だったら家の仏壇に位牌があるだろうに。
久昌寺がらみの二つの史料は生駒正室、信長最愛の女性、ということに一貫性が
ありすぎて胡散臭いんだよ。嫡男生母というわりには何年も病身なのに捨て置かれて
いたとか、茶筅が喪主だったとか(奇妙の生母なら長男の奇妙が喪主だろ、普通)
矛盾だらけのことも平気で書いてある。
「信長公記」も主観入りまくりのところはあるが、そこを切って捨てれば
そこそこ信用できそうな箇所もあるが、前野家文書や久昌寺がらみのものは
それすら見いだせない。
>>793 「嫩桂山久昌寺縁由」じゃなく、一般に良く出てくる「久昌寺縁起」の方だったはず。
「嫩桂山久昌寺縁由」の記述で、久庵桂昌が出てくるのは、寺の名前を変えた時の
いきさつと、実子の信雄を通じて寺に加増された事くらい。
話がそれるが、公記の暦寺焼き討ちや虐殺の話も大げさに書かれているようだね。
最近の調査によると当時延暦寺は当時そんなにたくさんの建物がなかったことが証明され
せいぜい本堂と本殿ぐらいを焼いたのでは?という話だ。
大虐殺したわりにはそれだけの人骨の発見もされないとか。
話が大げさに伝わったということもあるだろうけど、
主観というより秀吉の圧力に屈したのかもしれない。
信長残虐、暴君説が定着したのは江戸期。
その信長を討った光秀は英雄視され、歌舞伎の題材にもなってる。
織田家衰退とともに、本能寺の変を正当化する流れになっていったんだろうな。
>>794 そうだった、訂正ありがとう。
ついでに「嫩桂山久昌寺縁由」のその部分の引用貼り付けておきます。
「永禄九丙寅の年五月十有三日信長公の令妻疾に罹りて小牧山の城に掩葬する
終焉の嘱命によって雄山和尚を請ひ小折之西新野の地に荼毘す骨を収めて
龍徳寺に像塔し専ら冥福を薦す法諱を久庵桂昌大禅定尼と号す時に
信長公哀慕聯々として同穴の思ひあり信雄卿に命じ長く桂昌の幽趾を
修めんが為に丹羽郡五明村六百六十石を以て龍徳寺の厨料と
為す且つ朱章両通を賜附し不易の証契となす故に桂昌禅尼を以て
中興開祖と為しまた龍徳寺を改め嫩桂山久昌禅寺と号す」
ちなみにこういう説もあるそうだ。
「嫩桂山久昌寺の名は吉乃の方と信長が愛をはぐくんだ生駒屋敷に、
嫩の桂二株があり、久しく昌えたことから「嫩桂山久昌寺」と名づけらた」
どっちもどっちだけど。
>>796 >「嫩桂山久昌寺の名は吉乃の方と信長が愛をはぐくんだ生駒屋敷に、
>嫩の桂二株があり、久しく昌えたことから「嫩桂山久昌寺」と名づけらた」
これって、「久」庵桂「昌」って法名からとって「久」「昌」寺にしたという説を
真っ向から否定していないか?
生駒氏息女の法名は死亡時本当に「久庵桂昌」だったのか?という疑問に繋がる。
そもそも寺が改名する時は大規模な修理、改修があった時や、
高僧が招かれたとか、それなりに納得できる理由がある。
元々生駒家菩提寺であったのに、当時全国的にはまだまだ無名だった
織田信長の側室、しかも城を下がった信長の元側室が埋葬されたぐらいで、
寺が改名するというのは不自然すぎる。
寺ぐるみの売名に利用されている信雄生母は気の毒だよ。
799 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 12:32:49
>信長残虐、暴君説が定着したのは江戸期。
確かに信長に関しては江戸時代でかなり捏造されているよね。
ドラマでよく出る話では、光秀の母を死に追いやったとか、
折檻していたとか・・・
信康と築山殿の切腹を命じた話とか・・・
比叡山焼き討ちや、本願寺との争いも一方的に信長が悪者にされている。
かなりの暴君だったかのように伝わっているけど、
本当にそんな暴君だったのかな?
信長のことを調べれば調べるほど、そんなひどい人だったようには思えない。
本当はもっと優しい人だったんではないか?
やはり長い徳川時代にかなり捏造されてしまったのだと思う。
最近の信長人気は、今までの反動がきているのだと思う。
当時の一向宗徒は現代でいうテロリスト集団に近いもんがある。
宗教を理由に自治をせまり、庶民に対しても無法なことをやっていたのは事実。
抵抗を続けた結果制圧されたことに善悪の判断を下してはいけないと思う。
>>799 >>本当にそんな暴君だったのかな?
戦国時代時代までは暴君だったり、無能な当主だと、家臣は簡単に離反して
敵方に寝返ってしまい、家の存亡の危機を招く危険があったので
暴君が当主であることはありえない。
それに暴君の素因があったら当主になる前に先代や家臣の反対で廃嫡されてしまうよ。
浅井親子の髑髏をはくだみにした話は本当なのかな?
蔑む目的ならそんな手間隙かけずに晒し首にしとけばいいと思うんだけど。
803 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 14:47:21
>根本的に前田文書を鵜呑みにしている段階でこの人の主張は説得力がなく却下。
前田文書って読んだことないけど、そんなことが書いてあるの?
生駒娘が信長最愛だったなんて、なんでわかるのかな?
信長の側室だった人自体、全員が判明しているわけでもないのに。
なにを根拠にいうのか。
<そしていつ死んだのか別れたのかということも出ておりません。
<しかしある本によりますとずっと長生きして寛永まで生きたという説も
<あるのです。しかし私はそんなに生きるはずがないと思っています。
対象的に、濃姫のことは資料がないにもかかわらず、
かなりマイナスの捉え方をしてる。
なんで、別れたとか死んだとかいう記録のないのに、別れた死んだと
いうことにしたいのか、いまいちよくわからない。
生駒娘に関しては、美人だったとか、正室になったとか、そういう資料が残ってないことでも
プラスに妄想してるくせに、濃姫に関しては、まるで正反対の内容。
これはちょっと公平に資料を基にして論じてるとはとても思えない。
804 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 16:10:00
「信長公記」にはあまり信長の妻妾の事が書かれてないので、「武功夜話」を読んでみた。
「武功夜話」は生駒の方(武功夜話は名を吉野とする)をかなり持ち上げていて、
戦に明け暮れる若き日の信長の姿に、家臣団が有事に生駒の方の3人の子をどうやって逃がそうか、
なんて相談しているシーンもあるのだけれど、それでも生駒の方を正室だとはいっていない。
(「武功夜話」は信長が生駒の方に手をつけ長男、次男を生ませたのは濃姫を娶る前であり、
それを斎藤家には隠して濃姫を正室に迎えたとする。濃姫輿入れの正確な年は分からないが、
美濃を盛んに攻略した父織田信秀の在世中であると考えられ、信長10代半ば〜後半か。
一方、長男信忠、次男信雄が元服したのは信長39歳のときで、両者はどう考えても信長20代の子。
濃姫の輿入れが先で、生駒の方を側室にしたのが後だと考えられる。
以上の事からも、信長死後数十年を経て成立した「武功夜話」は史料的価値は「信長公記」に比べ
劣るとされるのだが、流布している濃姫の名帰蝶も、この史料に書かれているもの)
美濃との同盟で輿入れした濃姫に比べ、生駒の方は家格で著しく劣る。
また生駒の方に死別歴があり、信長が二度目の夫であったこと、
生駒の方と子供が長らく実家の生駒屋敷に住み、
子供が信長の本屋敷に引き取られるのはずっと後のことであることを考えると、
生駒の方が正室となった可能性はきわめて低い。
>>803 前田文書=武功夜話という意味だと思う。
前田文書群はきちんと専門家に検証されたことはない。
確か小和田氏?は史料そのものは見たことがあるらしく、
ぱっと見た印象では江戸後期のもの、と結論づけていたのを
どこかで読んだ。
久昌寺がらみの史料を元に作成したら生駒に関してはあのような内容になるのは
当然だろう。もっとも久昌寺がらみの史料の検証もすべきところではあるが。
>>805 >前田文書=武功夜話という意味だと思う。
前野家文書を間違えている訳?
どうりで話しが通じないと思っていたよ。
永姫絡みで、加賀の前田家の文書群の中に
そのような事が書かれているのかと思い込むところだった。
>>804 まさかと思うが、武功夜話は「信長編」じゃないだろうな?
現代語訳は、かなりかたよっているから、読むなら元のを読めよ。
808 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:05:28
武功夜話は偽書だと判明しているんだよね。
なのに未だに 信長最愛の人は生駒の方で、正室扱いだった〜
なんて説を唱える人が多いのはなぜだろう。
自分みたいな素人でも、あきらかに武功の話は矛盾してると
わかる内容なのに・・・
久々に上がっていると思ったら
また発作が始まっていたのかW
江南市にツアー客が訪れ、金をおとしていってくれる。
武功夜話様様さ。
吉乃の墓は突然できたんだよ。
以前はあの場所に吉乃の墓なんてなかった。
類が生駒といいだしてるけど、本当は違うということも生駒家でも久昌寺でも
知ってるんだよ。そこんとこはスルーして、かたくなに類=吉乃としてるわけ。
>>810 確かに寺の看板であるはずなのにあの墓の並びは不自然極まりない。
信長などとはまったく関係ない生駒家女が突然吉乃に祭り上げられたのかも。
812 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:49:54
>石塔ではなく、総見院の過去帳だったか法要の記録だったかに
そう記されている。
養華院は安土總見寺に所蔵される織田家の過去帳『泰巌相公縁会名簿』では
「御台」で大徳寺サイドの『大仙院文書所収養華院七佛事記』や
「総見院過去帳」では「寵妾」「妾」という記載になっているらしいけど、
これってどっちがホントなの?
寵妾だとすると、該当するような側室はいるのか?
814 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 23:07:59
>>812 どっちも本当。
どういうわけか、養華院に関して両説あるということ。
でも肝心の総見院が養華院を信長御台(濃姫)と認めているのだから、
総見院にそのへんのこと聞きたいね。
安土総見寺は信長が建立し、織田家から代々住職を迎えていたというから、
(今は違うだろうけど)、織田家過去帳の信憑性は高いのではないかな。
816 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 08:32:17
そうだよね。やっぱり濃姫以外考えられないよね。
織田家一族の墓として、総見院に葬られていることからも、
信長の正室は濃姫だけだったということだよね。
お鍋の方の墓も総見院にあるけれど、後年移転されたものだそうだし。
養華院の石塔に「信長公御寵妾」と彫ってあるとどっかで読んだし
信じていたけど違うの?
もっとも石塔にそんなものが彫ってあれば観光客が違うって気がつくか?
>>816 お鍋の方の墓はなんだかひどいよね。
ひとつだけ形態が違って、自然石。
織田家一族としての扱いを受けていないじゃん。
嫡男生母でもない側室はしょせんあんな待遇そされていたってこと?
そういえば晩年信吉が没落した後お鍋は実家の小倉家の庇護は受けられなかったのか?
将軍家と比較にはならないだろうけど、増上寺の徳川菩提寺だと
将軍、正室、将軍生母の側室まで埋葬されているから、
嫡男生母ではない側室は同族としての扱いをされないのではないか?
石塔には養華と彫ってあるらしいけど、一般人には読み取れないぐらい
彫が浅くなっちゃってるんじゃなかったか。
>>815 総見院の認識。
「こちらが正室濃姫の墓でございまーす」
コレだけだから。
>>819 将軍家との比較・・・というより、
時代の違い、奥向き体制の違いもあるので
比較するのは・・・
823 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 04:40:27
この間、苺が食べたくなったので、近くのスーパーへ行ったところ、
岐阜産いちご「濃姫」という苺が売られていた。
思わず近寄って見たところ、値段の書いてある上の方に
「信長の正室と同じ名前がついています」
と書かれてあった。なにもわざわざここまで書かなくても・・・
と思ったのだけど、今の信長人気にあやかってか、
それともこのスーパーには熱烈な濃姫ファンがいるのかなと思って
なんだか嬉しくなった。
>>823 戦後版のスレタイ【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
の意味がようやくわかった。感謝感謝。
養華院のことだけど、『泰巌相公縁会名簿』での「信長公御台」という
記載が公になる前はどういう扱いだったの?
総見院サイドの記録では明らかに「寵妾」と記載されているから
もし信長公寵妾の墓、とされていたとしたら
他の寺の過去帳の記録を鵜呑みに急に墓の主を変えていくのも変な話だな
とずっと疑問なんだ。
825 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 08:49:51
確かに、疑問だよね。
総見院ではいつ頃から濃姫のお墓と認定しているのだろう。
でも織田一族の墓として、総見院にあるのだから、
他の側室の一人とはちょっと考えられないな。
本能寺で信長が死んでから、他の側室たちは実家へ帰ったか、
秀吉が引き取って自分のものにしたわけでしょ。
他家へお嫁にいった人もいるし。
秀吉に協力したお鍋も今は総見院に墓があるわけだし。
ちょっと思ったのだけど、濃姫とお鍋って、亡くなった年が一緒で、
時期も1ヵ月ちょっとぐらいしか変わらないのだよね。
だとしたらお鍋のことと、濃姫のことがごっちゃになって書かれてしまった
ことはないかな。
826 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 10:16:36
養華院の七佛事記は「大仙院文書」という書籍に所収されているようです。
施主はなかったようで、喪主は龍光院江月和尚だそうです。
なんか、寂しいですね。養華院が濃姫なら実子の子孫がいなかったので、
こうなってしまったのでしょうか。
でも斉藤家の家系図では、信長と濃姫の間に女の子が生まれているように
記されているものがあると聞きました。
すると姫はいたのでしょうか。それでも早世したのでしょうか。
以前にどこかのスレで、基本的に喪主を務めるのはその生母の長男だと
聞いたことがあります。だとすると、実子の息子もなく、養子の信忠は先立たれ
たために、濃姫の七佛事記はお寺の関係者ということになったのでしょうか。
もし、濃姫に娘がいたとしたら、この娘が喪主を勤めることはできなかったので
しょうか。
織田家の過去帳では、「御台」とあるのに、総見院の過去帳では、「妾」
になっているのは、個人的には織田家衰退とともに、
仏事なども疎かにされ、そのあたりの真偽が曖昧になってしまったから?
というスレを見たのですが、私もそうかもと思っていますが、
どうなんでしょうね。
ちょっと話が戻るが、信長の妻子の記録が少ないという話なんだが
中世の女性史の文献をあれこれ読んだところ、その頃の大名家では
正室と側室の立場の差が歴然で、たとえば正室が出産するとなると
出産前からあちこちからお祝いが届いたり、菩提寺が安産祈願をはじめたりと
大騒ぎだったそうだ。男子だとそれはもう家中をあげての祝い事になった。
一方側室の場合は男子が産まれても、お祝いするムードはなく、たんたんと
報告されて終わり。継承問題が絡む場合のみその子の存在価値がでてきたそうだ。
姫を出産すると、たとえ正室が産んだ場合であってもお祝いムードもなく
側室の出産同様スルーに近い感覚だったという。
戦国期も室町のそれを引きずっていると考えると、どの戦国大名家も
側室腹の生母に関する詳細が不明瞭なのも当然となり、ましてや
姫の誕生年、生母問題が諸説でているのも当然ではないだろうか?
この問題を別の見方をすると、子供を産まなかった正室、
姫しか産んでいない正室は、家伝史料に足跡を残すことがないのも
当然ということになるのではないかと思える。
>>827の続き
大名正室が政治に介入する例としてねね、まつ、などが有名だが、
彼女達の方が珍しい例で、政治の介入をせずに奥向きのことのみに
専念した結果歴史の表舞台に登場していない、戦国大名の正室の方が
多数いるはずである。
ねねなどはたまたま秀吉やねね本人の消息文が残っていたこともあって
実像が明らかになったが、多くの場合足跡を示す消息文が残っている
ことが珍しいので、歴史の表舞台から消えている、まったく存在が
確認できない、と錯覚されてしまうこともあるだろうと思う。
それと濃姫が「亡くなった」「離縁された」というのは、たんに
配偶者がいなくなったという個人的なことではなく、「同盟関係が消滅した」
「道三と縁が切れた」という政治的な問題である。なので、少なくとも
美濃攻略までに濃姫が亡くなった、離縁したという
重大事件を史料に残さないわけはないと思っている。
もし、その時期までに濃姫と何かしらの理由で別れてしまったとしたら
その当時の信長の立場であれば他国の息女と即行縁組し、同盟を結ぶはずで
そうなれば、そのことが必ず史料に残っていたはずである。
以上の考察から濃姫は信長生前中は正室の立場をまっとうしたと
思っているが、養華院が濃姫かどうかは確証を持っていない。
しかし信長死後30年以上経っているのに織田一族と同じ菩提に埋葬が許され
ていることからも、側室である可能性は非常に低いとは思っている。
もし側室であったとしたら、正室待遇が許される立場、
つまり嫡男生母であったか、せめて隣りに埋葬されている五徳の生母であった
という可能性なら考えられるが、この二人の生母が養華院である
ということを示す史料が何もないことから、その可能性はないだろうと思う。
>>828の補足
信長再婚説に懐疑的な一因として、濃姫との婚姻により
当時の慣習から斉藤家から家臣が何人のつき従い
そのまま織田家内で美濃衆として仕え、重用されていた。
もし濃姫が早い段階で亡くなった、離縁したとしたならば
嫡男信忠の側近を美濃衆が多く占め、美濃衆がそのまま織田家に
とどまっていたことに矛盾する。
また後室を娶ったのであれば、斎藤家同様その姫に実家から
家臣を付き従えさせたはずであるが織田家家臣団に
ある時突然どこかの家の家臣達が大量雇用されていた
という記録はない。
したがって後室説はありえないし、濃姫が亡くなったという
説にも懐疑できなのである。
>>826 江月和尚は大徳寺では当時春屋宗園和尚や沢庵和尚と並ぶ高層。
そういう立場の和尚自らの喪主というところに意味がありそう。
もし養華院が濃姫でないなら、この和尚と親族関係にある女性が
信長の側室になっていて、死後この和尚の計らいで織田家菩提に
入る事になったとか?
この江月和尚は津田宗及の息子だから、政治的なからみはなさそうだけど、
宗及は経済力と茶道を通して信長と親しく接触していたから、
あれこれ献上したついでに娘も献上した可能性もあるかもしれない。
津田氏がらみの女性なら喪主は江月和尚がしなくても身内の誰かがやるでしょう。
秀吉もいないことだし、誰に憚ることもない。
832 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 14:25:12
それにしてもなぜ肝心の総見院が、養華院のお墓を濃姫の墓としているのか、
理由を知りたいですね。
ホームページで見たところ、年に2回ぐらいしか一般公開されていないみたいだし、
吉乃の墓として売り出している生駒菩提寺みたく、
商売に利用しているとも思えないし・・・
本当に謎ですね。
そうだよね。信長親子の菩提を弔うために建立されたのが総見院だから、
はっきりいって濃姫の墓があってもなくても寺の営業的にはまったく問題ないよ。
大仙院文書の史料は埋もれてしまって、寺伝で代々「養華院は信長公御台様の墓」
ということになっていたんじゃないかい?墓そのものより、
総見院の対応が一番謎だよ。
養華院が亡くなったのって、信長死後30年たってからか。
その頃になっても、織田家の一員として葬られてるんだから
それ相応の地位にいた人としか思えないよね。
お鍋は子孫が後に移したみたいだし。
とりあえず晩年は京都にいたんだな。
京都なら濃姫は妙心寺との縁の方が深いと思うが、
妙心寺には濃姫の位牌なり、供養搭なりはないのかね?
836 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:53:09
徳姫も晩年は京都にいたみたいだし、
濃姫とも交流があったのかも知れないね。
徳姫もなぜか嫁ぎ先の徳川家のお墓に入らず、
実家の織田家の菩提寺に入っているのだから。
837 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 18:01:20
徳姫が織田家の菩提寺に葬られているということで質問ですが、
徳姫の夫松平信康は、どちらに葬られているのでしょうか?
徳川の菩提寺(寛永寺)ではなかったような・・・
ご存じの方、教えてください。
>>837 調べたところ以下の墓所があるようです。
岡崎の大樹寺…松平(徳川)家の菩提寺・歴代将軍の位牌あり
二俣の清瀧寺…家康により建立・信康の遺骸埋葬
新宿の西念寺…服部半蔵が建立した供養等あり
徳姫は関ヶ原後、松平忠吉から化粧料をもらっているし(家康の命によるものだと
思われるが)、姫を二人家康の元に残しているから、徳川家の方にけっこう
史料が残されてるんだよね。
Wikiを見ると最近の考察では五徳生母も不詳となっていて、もし生駒でなければ
濃姫が生母で、二人で京都で隠遁していたのかな、なんて思ってみたり。
総見院の墓は隣同士なんだよね。
ふと思ったけど、信雄分限帳にある安土殿って濃姫ともとれるけど、
五徳以外の信長の姫である可能性もないか?
嫁ぐ前の姫とか、嫁いだ姫の化粧料とか。
信長御台であったのに五徳より少ない化粧料なのは不思議なんだ。
分限帳は信雄からもらっている化粧料だから、濃姫なら輿入れ時に道三からもらった化粧料と
信長に永禄11年にもらった御料所があるから、それと合わせると岡崎殿より多いと思われる。
個人資産である化粧料は、当主でも口出しできないものなので、分限帳当時の天正13年なら
濃姫が維持している可能性が高い。
その後家康の時代になってから、全国の土地について割り振りが決まった時に、
召し上げられたかどうかの方が気になる。
842 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 08:44:27
信雄の分限帳の化粧料に関しては、最高の貫高である御局のほうが濃姫では
という説もあります。子の徳姫よりも貫高が低いのは不自然だし、「局」は
城の妻子が居住する空間をそう表現する場合もあるので、安土城の局の長で
あった正室のことを示していると解釈できなくはないです。
信雄の身内の女性で、公家出身で高貴な身分の女性はいないはずですし。
そうなると安土殿というのは恐らく丹羽長重室あたり?(輿入れに際しての
化粧料とか??)安土城は1585年までは織田宗家の城として機能しています
から、結婚当初丹羽室が安土殿と称されても不思議はありません。
姉である徳姫より低い貫高なのも納得がいきます。
信雄の庇護下には自身の室や姫なども大勢いたところに母親や信長の妻子も
加わったので、分限帳ではこういう表現になったのではという臆測も成り立
ちます。
千貫は現在で換算すると1億程度といわれていて、その他濃姫は御料所なども
持っていたので貫高的には妥当ラインだとは思います。
843 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:21:15
もし召し上げられたとすれば、1600年に起こった関が原の後ですかね。
実際信雄は石高減らされているのですよね。
その時に濃姫の分も取り上げられたかどうかですよね。
でも濃姫が家康に化粧料を召し上げられることってあるのですかね。
信雄や秀信が西軍に着いたから?
でもそれって濃姫の責任になるのかな?
こういう場合ってどこまで責任を負わされるものなのかな?
>>842 丹羽長重室なら安土殿と呼ばれていても不思議はないな。
五徳は秀吉からも家康からも優遇される立場でいたから
安泰だったろうけど、濃姫が迫害される立場でもないはず。
理由もなく召し上げるとも考えられないな。
化粧料はわからないけど、御料地に関しては管轄が違うので
生涯濃姫の固有財産だったんじゃないの?
そのへんの記録とかって残ってないのかな。
もし養華院が濃姫なら、信長死後出家してすぐに「養華院」と名乗ったはず。
でも養華院がでてくる書簡の類も史料もまったくない。
妙心寺の一周忌の施主も「信長公夫人」となっているけど、
本来なら「○○院」と記載されてしかるべきのようにも思うんだが。
死後すぐに出家したとは限らないと思うが。
当主が死んだからと言って、必ずしも出家しなくてはならない訳ではない。
当主の亡くなった正室側室の出家の強要は大奥制度が出来上がって以降。
>>846 強要ではなく、武家の慣習として一般的ではない?
名だたる大名夫人はみな当主亡き後すぐに出家してるじゃん。
濃姫みたいにある程度年齢がいっている女性なら特にそうだったのでは?
>>847 一般的なのは確かだな。
もっとも、それを言い出すと分限帳に「大方殿様」で載っている土田御前も
報春院という名での記録は残っていないから、その程度のものだろうという事になる。
>>832 >>833 大徳寺総見院は、濃姫の墓に関しては無関心だと思う。
単に、岡田氏の調査を受けているだけでしょう。
織田家墓所公開も、「京の○○の旅キャンペーン」の
一貫ですし、「濃姫の墓」をミモノとして宣伝もしていない。
キャンペーン中にはボランティアガイドさんが説明を行うけど
「秀吉が定めた」信長廟所、信長木像、茶の寺としての総見院の
説明が主で、墓所はただ案内するのみ。
また、墓所を熱心に見学する見学者はあまり居ない。
一般墓所の拡張のほうに関心はあるようで(ま、現代の寺だから)
織田家墓所のぎりぎりまで、販売墓域の整備をしています。
光秀の女房も謎が多いよね。
ひろ子は後妻というし、亡くなった後に光秀が誰かと再婚した説もある。
ひろ子のことも〜と言われている、だから確定じゃない。
一応そう伝わっている墓はあるようだけど。
ガラシャの生母というけど、二人の強いかかわりを示す痕跡もない。
濃姫に限らず旦那が突然いなくなり、家が断絶し、実家もないとなると
女性の痕跡がまったく消えてしまうもんのかな。
信雄分限帳に載ってる信雄内室は誰?
北畠氏の千代御前は北畠乗っ取りの時自害したというし、
継室といわれている木造具政の娘?
852 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 21:57:55
どうなんだろうね。
旦那が死に、実家がなくなっても徳姫みたく、時の権力者とかかわりを
もっていればなんらかの記録なり、痕跡なりがつかめると思う。
でもこれといって付き合いがなければ、やはり記録には残りにくいもの
なんじゃないかな。
濃姫の御料地や化粧料が、関が原の後、どうなったのかは気になる。
もし、信雄や秀信などの件で家康に召し上げられたのなら、なんらかの
記録があるのじゃないかな。そういう記録が残っていたらその頃までは
濃姫が生きているということと、足跡が少しぐらいわかると思うけど、
そんな記録が残っていないのかな?
この時代の貴人の女子はまだまだ実家とワンセットだからね。
通い婚みたいに、実家の屋敷の一部扱いよりは独立性を持っているように
みえるけど、まだまだ実家の附属品。
実家も嫁ぎ先も子供も全部失った女性はそんなに安穏とした生活はできなかった
と思うけど。頼りの信雄もあのざまだしな。
ひっそりと忘れ去られていた信長御台の葬儀が行われ、
世間に知れることなく総見院の信長の側に埋葬された、
というのはありえることだとは思うよ。
信忠が死んで、信雄が頼りってところがつらいよな。
855 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 07:32:31
確かに信雄って、時代を見る眼が全くないというか、あまりにも馬鹿すぎる。
唯一評価できるのは、現在まで子孫を残しているという点だけ。
でもまだ秀吉の時代は、秀信なども安泰だったから大丈夫かなと思うけど、
家康の時代になってからは、信雄も秀信もさんざんな目にあっている。
関が原では、生き残った信長の子供達はみんな西軍についているんだよね。
家康は信長の時代から、唯一同盟者であり最大の協力者だったのだから、
もうちょっと時代を見る目をもってればね。
逆に信長の家臣だった人達はほとんど東軍についている。
信長が偉大だっただけに、信忠や勝長以外の子供達が全然それを受け継いで
ないことが残念だよね。まだせめて信孝だけでも健在だったらまた違ったのかも
しれないけど。
>>855 弟の分際で兄を凌ごうと野心をだし、結果的に織田家の衰退を早めた
信孝を評価することはできない。信長生前の功績もしょせん有能な家臣団の
働きによるもの。それも信長の息子でなければその家臣団の大将になれる
だけの器があったかどうかも定かではない。
信孝流を自分の代で断絶させた彼は武士としては信雄より劣るといわれても
仕方がない面もあるぞ。家の存続こそ武士のつとめだからな。
お市を勝家に斡旋したのは実は秀吉。
そう類推できる書簡が残っている。
勝家を身内にすれば家督相続はともかく、織田家一門の
最大勢力になれるとなめてかかったのが信孝が甘かった。
秀吉は織田家家臣の古株勝家をたてるふりして油断させ、
ちゃくちゃくと自分の地盤固めに精を出していたということ。
すでに秀吉には織田一門での自分の地位などよりも、
天下掌握のことしか眼中になかったろう。
お市になんぞさほど執着はなかったわけだよ。
天下をとれば織田の姫なんぞいくらでも手に入るし実際そうしてるし。
858 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 09:27:51
いや、何も信孝が秀吉より優秀だったとは思ってない。
ただ秀吉の能力を見抜き、早めに降伏なり協力なりしていたら
織田家の断絶は免れたのではないかと思ったまで。
信孝は親の七光りだということを理解することができなかった。
自分の力を過信しただけ。
あと、信雄と仲が悪かったのも災いしたと思う。
859 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 09:40:12
>>856 信孝って、実は信長の次男だったけど、母が卑母であったために、
生駒の方を母とする信雄の弟に位置付けられ、三男にされたって、マジ?
そういえば、北条時宗も次男だったのに庶兄を超えて長男と称されたというし、
そういういきさつがあったから信雄にはむかった、って読んだんだけど。
>>859 生駒家よりもきちんとした先祖が溯れるだけ坂家のほうが生駒家よりも家柄はよいよ。
坂家は坂氏は北伊勢に精力を誇った関氏の庶流であたる鹿伏兎氏の
さらに庶流にあたるので、けして生駒氏に見劣りするような家柄ではないよ。
そのこともあって信推すよりも先に同じ養子縁組で関氏一党だった神戸家に
送られたはずだから。
それから信雄の生母が事実上の正室格だったから信雄が次男となったという話も
でっちあげだろうな。兄である信雄に逆らったことの正当性を
もたせるための作り話だと思ってる。
時宗は正室の長男だし、庶子にどれだけ兄がいてもやはり後継者となれば
一番の優先権があったろうし、時宗同様正室腹の弟宗政よりも
さらに格下の扱いだったのも仕方のない事だな。
861 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 10:28:01
>>860 次男信雄と三男信孝は、同じ永禄元年(1558年)生まれというのはほぼ確定しているけれど、
具体的に何月何日生まれというのは確証されていないね。
ひとつ違いの兄信忠と合わせて3人同時に元服を行った(信長公記)記事もあり、
信長がこの2人を特別区別していた感じもしない。
僅差で誕生したというのがもし事実なら、互いに子供の頃からライバル視していたのかもしれないね。
「勢州軍記」だと信孝贔屓で信雄がけちょんけちょん。
秀吉のこともどこか偏見の目で書いていることが読んでて分かるし、
信孝が清洲で生まれなくて坂氏の母方親族にあたる岡本氏の屋敷で
生まれその後報告に行ったので送れた云々の話もちょっと疑問がある。
熱田から清洲なんてゆっくりいっても半日あれば余裕で着く距離。
20日なんてかからないし、信長の側室が岡本氏の屋敷にいることも
あり得ない話。このあたりも、信孝が信雄より先に誕生した説を
裏付けようとする創作エピかな、とも思ってみたり。
863 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 11:06:09
>>862 正室の濃姫は、美濃から嫁いで以来、
信長の本屋敷にあったことには依存がないけれど、
信長の側室たちって、どこにいたのかな?
生駒の方に関しても、里の生駒屋敷で出産した説があるけれど、
お産のときだけ里に帰っていたの?
信長は側室たちを本屋敷に呼んで、濃姫らと
同居していたのかどうか、って話なんだけど。
もちろん、のちの安土城には呼んでいただろうけどね。
戦国期の側室は人質の意味合いでおくりこまれてくるものがほとんどだから、
城の奥に閉じ込めておく事に意義があるわけで、実家に返すということはありえない。
また側室が他の男性と接触しかねないような可能性が生じると胤問題がおこるので
それもありえない。生駒屋敷出産の話はまったくの捏造話で、信忠、信雄は清洲で
産まれたと史料に残されているよ。
865 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 13:07:47
>>864 清洲で生まれたとしているのは何の史料?
煽りじゃなくて、参考までに。
>>862 20日遅れたと書かれているのは、「余吾庄合戦覚書」
こっちは信雄べったりの史料。
「永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。是三七信孝。次ハ中将信雄卿也。」
「勢州軍記」には
「三男信孝坂息女腹也。與信雄同年同月誕生。日数少信孝先也云々。」
とあるだけ。
産後すぐに亡くなってしまうかどうかを観察して、お七夜までに報告したと考えれば
問題はない範囲の遅れであろう。
>>864 「寛政重修諸家譜」
>>866 その後に「 しかし信孝の母は熱田の神主岡本の宿所にいたので
誕生を伝える人がなかった。後日岡本が清洲に行きこれを伝えた。
岡本太郎右衛門尉はこの神主の息子である〜」とあるはず。
桶狭間戦勝祈願の際、信長は爆走して熱田神社まで3時間あまりで
ついたというので、普通なら半日あれば着くと思われ、男子誕生となれば捨て置けない
大事ということで、とりあえずはその日のうちに報告をするのが信長への
当然の義務ではないかと思う。
それが20日もあとの報告は大げさにしても、数日でも遅れることはありえないと思う。
誕生後数日したら亡くなったということになっても、ある意味当時の新生児の
死亡率を考えたら当たり前のことだし、そのことをとやかくいう前に
報告が遅れたことのほうが咎められると思うがどうだろう?
>>867 嫡男でもない子供、正式に城に入っていないが
そこそこ身分ある家とはいえ伽係の女性に生まれた男子に
そこまで一大事と思う事はない。
嫡男と庶子はそれだけ違う。
>>867 日本には、父親がお産に付きそう風習もなかったし、
それほど子供の誕生に父親が執着したりもしなかった。
嫡子誕生なら、お祝いに駆けつける人もいただろうが、
庶子はいつのまにか認知される程度だと思われ。。。
濃姫が養華院なら、確かに信雄から化粧料もらっているみたいだが、
当時の女性は実家とセットなんだろ?
なら、息子がいなかったようだし、信長死後、斎藤家の方で
面倒を見てもらった可能性はないだろうか?
871 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 19:16:21
信長生母の話ですが、「津嶋大橋記」によると、
信長母、号御大母、美濃国藪田小嶋日向守信房女也。とあります。
あと、信雄と信孝ですが、信孝誕生之事。元来二男也云云。
二男信雄、生駒半左衛門妹腹也。永禄元戊午年誕生。三男信孝、坂息女腹也。
信雄、同年月誕生日數少、信孝先也云云。雖然、
信孝母儀、在熱田神司岡本宿所也。後日、岡本参清須城、言上之故為三男也。
とあります。
信長の生母は小嶋日向守信房の娘で、信雄より信孝の方が先に生まれたが、
信孝の母が岡本氏の屋敷に居たため、報告が遅くなったので三男になったと
あります。ちなみにこちらも信忠の生母については、信忠妾腹也。弘治三丁巳年誕生給。
是御臺御養子也。としか記載されていません。
ということで、「津嶋大橋記」が正しいとすれば、信長生母が土田御前というのは
覆されることになります。
872 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:23:09
wikiの信忠、信雄、五徳、生駒あたりがここでの考察まんま書かれてるな・・・。
あくまでここでの予想にすぎない事をあっちゃこっちゃで書くなよw
873 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:29:20
>>872 ここの連中には馬の耳に何とやらだから言っても無駄だと思われ。
>>869 民俗学の分野でみると執着してないとは思えんが…。
>>872 ならば、疑問を持った人間が、史料を元に書き直すべきである。
wikiは誰でも編集できるものだ。
史料を元にした考察であれば、現在書かれているものと反する内容でも、
記載して問題ないだろう。
反対に言えば、史料を元にしていれば、今の考察も容認されるであろう。
史料の記載がない勝手な推論であれば、(要文献)を付け足しておくだけでも良いだろう。
「津嶋大橋記」ってどんな史料?
876 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 08:54:40
そういえば、以前、
歴史読本 平成十七年二月号 p147
「なお、土田御前の出自に関しては、清洲の土田氏、近江六角氏家臣の土田氏
や六角氏氏族の山内氏など諸説あるが、『津島大橋記』には、美濃国藪田の
小嶋日向守信房の女とある。『干城録』にもこれを裏付ける記述があるほか、
信長は岐阜在城の時、藪田村に住したという記録もある。
他にも那古野氏と推測できる記録もあり、土田氏という説は今後見直す余地が
あると思われる。」
という記事が載ったのを思い出しました。
おそらく「津島大橋記」というのは、吉野より津島に移り住んだ武家の
大橋家の軍記であると思われる。
大橋、岡本、山川、恒川の四家があり、新田家の四家といわれている。
また、同じく吉野より供奉した公家の庶流は、堀田、平野、服部、鈴木、
真野、光賀、河村の七家があり、津島七党(七名字の衆)といわれる。
信長の祖父、信定の津島支配の足がかりとして、娘おくらを津島の軍事力の
要であったと思われる新田家の四家の一つである大橋清兵衛重長のもとへ
大永四年(1524)に政略により嫁がせている。
また、桶狭間の戦いにおいて、信長は、清洲城に本隊を留め置き、
最も信頼の置ける元々の家臣団である勝幡衆・津島衆のみを引き従え、
必死の気構えで大博打とも云える奇襲を実行したのである。
信長の馬廻り役服部小平太一忠は津島衆の一人であり、今川義元の膝に
一太刀を加え、毛利新介が首級をあげたことは有名である。
877 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:43:15
ウィキって確か自論自説を書き込んではダメっていう風にならなかったっけ?
878 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:49:41
Wikiは、きちんと史料を基に考察しているのだから、とやかく言われる筋合いはない!
大体史料の裏づけも無く、勝手にでっちあげた捏造文書を基にして、それが
さも真実かのように触れ回っている人に言われたくない!
間違っていると思うのなら、正しい史料を基に検証してほしい。
879 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:51:28
>>879 あのさw
武功まんまの書き込みなら言い訳か?w
いくら世間的に周知でも武功に影響受けた説はアウトだろうがw
882 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:18:41
>>880 いやwそうは言わないw
自分も武功まんまの説が定説になるのはちょっとな、とは思ってたから。
ただここで出た話が速攻でよそで流れるのは
なんか必死すぎて痛々しいと思うだけだなw
なんていうか・・・初めて知った知識をばらまきたい厨房みたいな奴が多いなと
思ってちょっともにょるだけだw
>>882 かんけーねーよw
実朝暗殺黒幕三浦説だって最初は女流作家が言い出したじゃん
今はその説も有力だし
2ch初の説だってどーなるかわかんないだろw
884 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:52:03
なんか、生駒マンセーが必死ですな・・・
吉乃が信長最愛のという説も否定され・・・
信忠生母という砦も壊され、
信長生母は土田御前という説にまで疑問符???
が付く文献が出まくり〜出まくり〜
もう後がないですな・・・
生駒家に都合よく捏造文書を作ってもだめだったわけだ。
捏造するならもっと調べてからしないとね。
いや〜だけど、真実はひとつしかないからね。
885 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:55:13
>>884 自分のこと(
>>882)言ってる?w
ちなみに自分は生駒厨でもなんでもないよw
実際濃姫厨って言ったほうがいいくらいの脳みそは持ってるつもり。
ここで議論されてる事をあちこちで吹聴している行動が痛いって思うだけだ。
内容についちゃ別に間違っているとは思わないよ。
ちょっとばっかり色眼鏡が過ぎるなとは感じるけど。
ここで出た意見、別のところに書いてあったなと思う説もあるので
すべてここが最初という訳ではないものもそこそこ含まれていると思う。
信孝生母の考察は、2ch以外で見たのが最初だったな。
↓↓↓ほれ、888を取りな↓↓↓
>>868-869 それなら信雄生母の生駒氏も側室なのだから、信雄が後に生まれたのに兄になれた、
ということに矛盾がある。庶子に関して無関心であったことには同意だが、
それなら信雄が優遇される理由はない。
単に産まれた順番どおり兄弟の位置付けがされたと考えるのが一番自然ではないかな?
戦国期では正室腹であっても兄弟の順番は庶子を通りこして兄にされることはなかったよ。
後継者の優先順位とそれとはまったく別問題だから、信長同様正室腹の弟が
庶子を押しのけ家督を継ぐのはどこの家でも普通だった。
土田氏信長生母説はかなり前から疑問だった。
生駒家との養子縁組の話も眉唾だ。
それぞれに接点がなさすぎるんだよ。
津島七党の一つが信孝が誕生したという岡本家。
信長の祖父の代から織田家とは諍いの多い豪族集団だったから、養子縁組、政略結婚
円滑な関係を築いていったことはありえる話。信孝生母の坂氏は岡本が母方
実家にあたるということだし、坂氏は信長が狙っていた北伊勢関一党の家系。
坂氏が側室になった背景には政治がらみの理由があったのかもしれんな。
>>888 坂氏が側室になった背景には政治がらみの理由があったのかもしれんな。
それしかないでしょ。
当時の側室は人質と同義語。
生駒にしても信清がらみの人質だろう?
秀吉だって側室のほとんどが政略がらみの人質。
890 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:09:06
当時の文献などを見ると、ほとんどが信孝が本当の二男で、信雄は三男って
書かれてる。それも信孝が岡本氏の屋敷にいた関係で、報告が遅れて三男に
なったって話も。
しかもフロイスの日本史にも信孝はニ男って書かれてあったような・・・
まあ、信長にとって嫡男以外は二男でも三男でも同じだったろうから
先に報告があった信雄をニ男、信孝は三男でいいやってなったんだろうけど。
でも信孝の母親の坂氏が、政治がらみで側室になったっていうのはたしかに
そうかも。そうだと不明とされている信忠の生母も、政治的なからみがあった
可能性もあるよね。だけど当時の文献にはなぜか信忠の生母は記されていない。
本当に広く知られなかったのだろうか。何か記録が残っていないのだろうか。
二男、三男の生母は記されているのに、嫡男の生母は記されないなんて・・・
正室に男子が生まれないため、側室を薦めるとなると、
たいてい一人目は正室の息のかかった、侍女や縁者がなるからだろ。
信忠が、真の意味で正室の仮腹からの誕生なら
(政治がらみの側室も仮腹扱いだが正室からの信用度的に劣る)、
その生母は政治がらみの人質というよりも、
奥における正室の思惑がらみと考える方が妥当。
>>当時の文献などを見ると、ほとんどが信孝が本当の二男で、信雄は三男って
書かれてる。
当時の文献といっても、信長公記をはじめそれ以外の史料は信長死後
かなり経ってから編纂。ソースが間違っている可能性もあるので
同じ記載が多いからといって必ずしも正しいとは限らない。
それに真偽を確認していない又聞きや噂などをそのまま書いている箇所もあるはず。
>>二男、三男の生母は記されているのに、嫡男の生母は記されないなんて・・・
史料に生母の記載が残っていたのは、生母を明らかにするためというより、
信長の側室が誰かを記すことで、当時の信長の家臣たちや近隣諸国との力関係を
はっきりさせるためという目的もあると思う。少なくとも生駒家と坂家(岡本家も)は
信長の支配下にあったということがわかる。
史料に信忠の生母が「妾」としかかかれていないのはそういうアピールの
必要性のない女性だったから。つまり政治的背景のない立場で側室にあがった
女性だろう。普通に考えたら正室の侍女あたりの可能性が濃厚。
893 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:48:04
なるほど、そう考えると納得がいくね。だとすると他に生母が判明しない
勝長なども、政治的背景のない立場で側室に上がった人が母親なのかな?
信長って滅ぼした家の息女を側室にとかしなかったよね。
関係をもった人は身近な人が多かったというから、政治がらみでない立場
の人が多かったので記録に残らなかったのかも。
信忠母は文字通り借りただけの腹だったんだろうな。
美濃から一緒に来た濃姫と縁続きの侍女あたりが産んで
すぐに正室の子として育てられたとか。
この頃って、どうしても嫡男が必要な状況になってたのかな。
895 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:15:45
濃姫が嫁いで来てから7年近くも子供が生まれなかったとは考えにくい。
濃姫が全く孕まなかったら、もう少し早く側室なりおくと思うし。
濃姫が妊娠したが、途中流産したかあるいは、男子が生まれたが早世
したかのいずれかだと思う。あるいは生まれたのが姫だったとも考え
られる。
いずれにしても嫡男候補はいなかったと考えられるな。
道三が亡くなって、美濃を譲るという遺言状をもらったので、跡とりも
いないのはまずいということで、本格的に側室を入れて子作り始めたと
考えられるね。
濃姫の記録が少なすぎるという意見もあるけど、お市だってあれだけ波乱万丈の人生
を送り、歴史的有名人の信長の妹、長政、勝家の妻だったのに本名や生母も不詳
のまま。お市の足跡を直接示すようなものは辞世の句以外何も残ってない。
信長死後数年以内ならまだしも、信長死後30年も経ってなくなってるし、
しかも織田家が本流は絶え、信雄その他は細々生き長らえている状態だったし、
世間から忘れ去られていた存在だった濃姫の足跡を示す史料がないのは当然じゃないかな。
ところで以前京都のどこかに濃姫が老後を過ごしたという館だったか、庵だったかが
あったという話を読んだけど、誰か知らない?もしかしたら
徳姫だったかな?
897 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:04:26
「国取り物語」を借りてきてダイジェスト版を見たのを思い出したけど、
道三って、美濃を乗っ取るまでは京都で油売りをしてたんじゃなかった?
美濃の国主となってからもちょくちょく、京都へは帰ってたようだし・・
その時の京都のお店を、道三の縁者なりが継いでた所に、濃姫は晩年
いたってことはないのかな?
898 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 05:11:14
小説ヲタ発見。
899 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:03:55
>895
信長には十人以上の弟達がいたし、
正室に子がないからといって、すぐさま側室と言うわけではなかったと思うよ。
将軍家や戦国大名、天皇家でも、弟や甥が家を継いだ例は多い。
この時代、側室の子が家を継ぐ事はもちろん肯定されていたけれども、
側室を置く事が強制されていたわけではない。
逆に、正室に嫡男があっても側室を置く大名はいたわけで。
正室は同盟のための大事な駒だから、母子ともに死亡率の高い出産は控えさせたというのも考えられる。
勝頼に嫁がせた養女が、出産が原因でなくなっているし、出産時の母体の危険は、
別に珍しい事でもはかったからな。
実際に駒の一つである正室が死んでしまうと、同盟関係も危うくするし、武田と織田はそれで同盟が途切れたしな。
正室の身の安全のための借腹制度でもあるから、嫡出がいなくても正室としての役割を果たせるならそれでいい。
常識のように語られるが、敵対したから即実家に帰すという事もないし、
信長の場合は、義竜とは同盟していなかったが、その義竜と敵対した道三と同盟していて
美濃の譲り状ももらっているし、正室は道三側の駒のまま使えるし、奥を取り仕切らせ続けたんだろう。
信長の女関係の乱れた噂や、奥のごたごたなんか、ほとんど伝わっておらず、それが潔癖な信長のイメージになってるが
反対に、奥がしっかりまとめられていて乱れていなかったから、信長にそういう噂がなく
結果的に、女に興味がないとか、潔癖なイメージが作り出されたと考える事もできる。
あれほど子供を作ってて、興味ない訳ないんだがな。
901 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 12:49:06
ん〜でもそんなに濃姫を大事に思うなら(同盟関係維持のため)なら、
なおさらもっと早い時期に側室なりを入れて子供を作るのではないかな?
それが濃姫が嫁いでから7年近くも全く子供なしだとは考えられない。
しかも最近になって、「御台平産」の記事があったということは
(これが事実なら)全く子づくりをしていなかったとは考えにくい。
きっと避妊に失敗したんだよw
903 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:26:36
戦国時代に避妊なんてことあったのだろうか?
子供ができたら間引くのが当たり前みたいに言われていたと聞いたが。
だけどそれぐらい濃姫が大切にされていたという事だろうか。
それで身重なのに上洛戦の時に一緒に連れていくぐらい心配だったんだろうか。
子供が無事生まれるか心配というよりも、濃姫の体が心配だったのかもしれない。
だとすると、ますます濃姫離縁説は否定されていく流れになるな。
どう考えても生駒を正室にするメリットよりも、濃姫をこのまま正室にとどめて
おくメリットの方が大きいと思うし。
生駒マンセーを唱える人は、生駒家の財力が必要だったから生駒が正室になった
などとほざいているが、信長が他の大名よりも経済的に有利にたったのは、
信秀の時代に津島の湾と熱田の湊をおさえたことが大きかったといわれている。
まあ、尾張の石高が多かったのもあるだろうが。
そんなことも知らないで信長の歴史を語るなといいたい。
生駒厨も濃姫マンセー派も、
我田引水、貶めあいしてることに気づけ。醜いぞ
905 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 06:53:33
>>903 現代の恋愛脳で当時の出産やら結婚やらを考えないほうがいいと思うぞw
906 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 07:26:56
永姫についてなんだが、信雄と母親が同じだとすると
永姫誕生は1562年〜1566年の間ということになる。
(利長との年齢を考えて)
だとしても永姫が1562年生まれだとすると、嫁ぐ年齢が遅すぎる気がするし、
逆に1566年に生まれだとすると、信雄との年齢差が開きすぎる気がする。
本当に信雄生母の没年は1566年なのだろうか。
それとも信雄と永姫の間に別の子供が生まれたのだろうか?
また、信雄生母が永姫を生んですぐ亡くなったとすると、39歳という年齢
だし、ちょっと高齢出産のような気もする。もう少し早く奥を下がっても
いいのではないか?
永姫の母は生駒氏だが、信雄の母の生駒氏とは別人だったはず。
別人説は、武功夜話で永禄9年になくなったとされたから
永姫生母と伝わる人物は、前田家では元和4年没なので
別人しかあり得ないとなっただけ。
武功夜話の没年などが全く間違ってるとか、生母とされる人が
一緒に前田家についていった乳母などの可能性もあるので、
一概に別人とはいえない。
母とは別の女性のために、わざわざ金沢久昌寺を作るとも思えないがな。
>906
一定の年齢がくると寝所を辞す風習があったのは、江戸城大奥くらいで、
この時代の女性はかなりの高齢でも子供を産んでいるよ。
子供と子供の間の年齢があくこともある。
子だくさんとされた前田利家の正室まつ(芳春院)は、
一人で11人の子を産んでいるし、愛情が全くない側室だったならともかく、
戦国時代に途中で寝所を辞す風習があったとは思えない。
910 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:49:16
それだとやっぱり永姫生母は生駒で確定ってことでいいのかな?
晩年に前田家に招かれているという永姫生母らしい人も、乳母の可能性も
ありなんかな?
911 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:22:36
信雄と永姫が同母だったとして、晩年前田家へ招かれたというのが引っかかる。
永姫が気を許せる愛娘であったからといって、その生母が、
最終的に織田宗家の家督を継ぎ、織田家ゆかりの女性たちの面倒を見ていた
実子信雄の元を去り、他家へ嫁入った永姫のもとへ身を寄せる理由がない。
前田家へ迎えられたのが永姫の生母ではなかったか、
もしくは永姫の生母は信雄生母とは別人であり、永姫生母は、
実子である永姫のもとへ身を寄せたと考えるなら自然なのだが。
招かれたのか、元々ついて来たのかは意見が分かれるところで、
元々輿入れとともについてきていたら、乳母の可能性が高い。
信雄が女性達を庇護している状態で、金沢にあとから招かれる理由も分からないんだがな。
例えば、同一人物ではなくとも、同じ生駒出身の女性だったら、
金沢に行くのも不思議な話しになる。
金沢久昌寺を建立したのと、現在生母とされている人が、
金沢久昌寺に葬られたのが同時だとは伝わっていないしな。
瑞龍寺の方の石塔は慶長18年建立のようだし、
17年没の養華院も(寺が違うので法名は変わっていると考えられるし)
合わせて弔ったとしても自然なんだが、金沢久昌寺の
永姫生母と伝わる人物に関しては、墓所も位牌も残っていないらしいから
実際の没年も経緯もよくわからないとしか言いようがない。
913 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:02:04
金沢久昌寺に葬られたのが永姫の乳母だとしても、なぜそれが永姫の生母
として伝わってしまったのだろう?その変が疑問。寺の過去帳には永姫
生母と書かれてあったんだろうか。それにしては位牌もないなんてちょっと。
それに生駒の没年が1566年だとすると、加賀に招かれるのはおかしいし。
生駒の葬儀の時に信雄が喪主をつとめたらしいのだが、それって生駒関連の
文書以外に載ってるのかな?
なんか本当に謎だらけだよね。
武功がなかったらここまで話がややこしくならなかったのでは?
このスレ、何だか素っ頓狂に他時代と比較したり、
すぐに、江戸城大奥の慣習を出す奴とか。
歴史一般の時代時代ごとの知識が欠如してるのが居る。
変
>>913 後年まとめられた前田家の文献に永姫の母の話しが、逸話の一つとして残っている。
大体、金沢久昌寺が建立されたのが慶長15年、前田家に伝わっている母とされる女性の没年は元和4年。
通常、嫁いだ娘の元に身を寄せるような事は考えにくいし、建立された時点で
久庵桂昌は亡くなっている事は寺伝に残っているし、永姫生母が、信雄生母の生駒とは別の生駒氏なのか、
乳母などの母代わりの女性の事なのかもよくわからないとしか言いようがないな。
過去帳は調べていないので知らないが、寺では墓と位牌は不明との事だ。
確か、金沢久昌寺は建立された場所から移転しているので、その辺りで不明になったんじゃないかな?
916 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:44:53
永姫の母は生駒でFA?
ウィキに新たに追加しとくけど・・・いいかなぁ?
>>916 生駒氏以外の名前は全く伝わっていないし、伝わっているのが信雄系じゃなく
前田家の文献なので、生駒氏なのはFAだろうが、それが信雄と同母の生駒氏かは
まだ研究の余地があるというところじゃないだろうか?
918 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 06:53:43
919 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 11:43:13
>914
ヒント:厨のオナヌースレ
しまいにウィキすら我が物同然感覚だから
始末が悪過ぎ
すみません
「御台平産」についてお聞きしたいんですが出典はどんな書状でしょうか?
>>920 近江國輿地志略の成菩提院の項
元ネタは、成菩提院の史料なんだろうが、
成菩提院史を始め、各種文献が門外不出。
仏教系の大学の教授辺りで、成菩提院に残された史料の研究している者もいるが、
天台宗の学問所としての記録関連に絞られているため
現状、近江國輿地志略内の記述以外では確認できない。
>>921 ありがとうございます
前後の文章はわからないんでしょうか?
前スレが見れないので質問厨ですみません
>>922 近江國輿地志略は江戸期に完成した官製地誌。
成菩提院の項は、成菩提院の歴史を書いてある。
家康の出した御掟書の全文が載っている、
納められている仏像、文献の簡易な一覧も書かれている事から、
成菩提院内の資料を元に書かれた項という事が伺える。
信長については短い項目中に2カ所記載が出てくるが、
どちらも同一の時を指しているかと思われる。
「然して後永禄年中織田信長当寺に止宿の節俄に舞馬の変に遭ぬ。 」
「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。
時に護摩堂より失火。しかるに深砂王の書像及慈恵大師の書像飛來つて、
庫前の柿樹にかかる。ここにおいて火鎮る。
爾来諸民此書像に安産をいのり、且柿木を裁断してかへる。 」
「舞馬の変」とは火事の事。
>>915 >> 金沢久昌寺は建立された場所から移転しているので、
その辺りで不明になったんじゃないかな
移転したのは永姫生母と言われている春誉妙澄大姉が埋葬されたという
鶴林寺。移転の時に墓や位牌も一緒に移したとされているのだが
確認できないそうだ。戒名が院殿号でないし、永姫生母にしては
ちと格下の戒名ではあるけど。
永姫生母と信雄生母の生駒が親戚関係にある他人である可能性はあると思うよ。
信雄生母の生駒が側室にあがったのはどう考えたって信清がらみの人質なんだから、
信雄生母が体調を崩して奥を下がるに際して生駒家で代わりの人質を差し出したとも
考えられる。(生駒家がそこまで信長にとって危険かつ重要なポジションだったかは
大いに疑問だが)
金沢久昌寺を建立したのは久庵桂昌の菩提を弔うためというより、母方の生駒家
を旧跡するために生駒家の菩提寺であった久昌寺と同じ寺名の寺を建立した
のではないかと思ってる。
前田藩には生駒家の家臣も多く、生母がらみで輿入れの時に永姫に付き従ったとも
考えられるし、信雄の姫を養女にもらった際に信雄の家臣であった生駒家のものが
付いてきたのかも知れないが、加賀に土着した生駒家一族たちのための菩提寺の
ために建立したとも考えれないだろうか?
どういう理由にせよ、金沢久昌寺が永姫が建立したということは事実であるし、
そこに生駒家とのかかわりを無視することはできないと思う。
話が溯るけど、養華院の墓の件だけど、大抵の大名家では
側室の墓は一族とはちょっと離れたところにまとまってあったりするよ。
そう考えると信長死後30年も経っているのに織田家の一族の菩提に葬られた
養華院は信長正室以外考えられないんじゃないかな?
墓石の形状も一族みな共通している五輪搭。
お鍋の方の墓石が違うのは側室ということであえて区別をしている
としか考えられない。
>>どういう理由にせよ、金沢久昌寺が永姫が建立したということは事実であるし、
そこに生駒家とのかかわりを無視することはできないと思う。
同意だが、ではなぜあの生駒家が永姫つながりのことをアピールしないのだろう?
金沢久昌寺の件も本家の尾張久昌寺側もあの寺の性格上宣伝して然るべきの
ような気がする。生駒一族が前田藩にいたこともわかっているが、例えばそこに
土着した生駒家が「永姫は我が一族が生母なり」と史料などを残していても
よさそうなもんだが・・・
928 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 08:22:51
このループのしつこさは三条厨を抜くな…。
こうもくどかったり他所でも同じようなのを
見かけるとさすがに閉口する。
>>928 だったらいちいち来るな。
いちいち書き込むな。
本当は興味津々のくせに。
930 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 10:35:59
少し批判されたらそういう解釈と煽りとしか
受け取れないって可哀相なお人ですな
だから厨房ってあしらわれるんだろ
少しは客観的な視点思考を持てって
図星だな
933 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 12:40:01
意見する人間は即バロン認定かよ…
どこまでアホなんだ
生駒の立場が危うくなると
>>928とか
>>930みたいなのがでてきて
スレを荒らして、強引にお茶お濁して話題をそらそうとする。
こっちのループのしつこさに閉口だよ。
言っておくが生駒の立場なんて自分はどうでもいいんだよ
むしろ昔からお濃好きで最愛の女性は生駒だったという
話が全盛期の頃は自分もよく頭にきたもんだ
だかな…、今のこの状態を冷静に見つめ直してみろ
かつてお濃好き達が辛酸を舐めて悔しい思いを
していた状況とほぼ一緒じゃないか?
しかも始末が悪いことに信忠や永姫にまで
それを波及させている。まるで目には目を歯には歯をのように
自分達が嫌だと思っていたことと同じようにやって
何が嬉しいんだ?やられたからやりかえせなのか?
このままいくとかつての三条好きによる騒動で
他の三条好きが変に誤解され迷惑をこうむったように
他のお濃好きが迷惑する可能性が大になるんだよ。
そういうこともきちんと考えろ
信忠や永姫に波及というが、普通に史料の検証じゃないのか?
当時の一次史料の検証から、確定かと思われた説が覆るのは
武功で生駒最愛の人説が出て、当時の一般的な常識を無視して
作家や功名心にかられた一部の史家が濃姫早死説離縁説を出したのとは
全く違う話しだと思うがな。
>>935 なら具体的に永姫や信忠の新説に対して、ここがこうだからありえないとか、
説得力のある反論史料を提示するとかすればいいじゃん。
それを提示してから、なおも矛盾を解消せずに自説にこだわり続ける
書き込みが続くなら、君のいっていることも理解できるけどさ。
938 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 16:13:12
別に生駒をたたいているわけではないけど、武功もそうだし前野家文書もあまり
にも史実との矛盾点が多いので、生駒継室説が間違いとわかったから、
これまで通説だった生駒信忠生母説や、徳姫生母説なども検証されて当然
という流れになると思う。永姫生駒生母説なども前田家の文書から出てきて
いるんだし。それなのに、そういう話題になるとけちをつけてくるのは、
資料を検証されて困ることがあるとしか思えない。
生駒生母説が正しいと思うなら、きちんとした史料を出すなりしたら?
三条好きとか濃姫好きという問題ではなく、史実をあまりに無視した創作話が
あたかも史実であるかのように認識されていることに納得できないだけ。
本当にどうだったかなんてタイムマシンでもないとわからないけど
僅かな史料から推理したり妄想したりしながら、
通説の影に隠れちゃったことなどを探りたいな。
こんな史料があって、こう想像できるなどの意見は大歓迎。
>>927 >ではなぜあの生駒家が永姫つながりのことをアピールしないのだろう?
現在、生駒氏の信長最愛の人説を標榜しているのは、別に生駒家ではないからだろ。
各種文献が創作された当時は、徳川幕府の世の中だし、武家の嫡流とか血筋が大切だった時期。
だが、武功夜話に関しては、生駒家は偽書と認識していたはず。
武功夜話は生駒の縁者で家臣の前野家の末裔の吉田家から見つかったとされる文書だから。
また、加賀に土着した生駒家がそのような史料を残さなかったのは、
おそらく、その当時に、生駒氏が信長の側室として特別だったという認識がなかったから。
永姫を生み、同腹か異腹かは現在では分からないが、信雄も生駒家の女性が生んだ
という事実しかなかったんだろう。
武功夜話を創作したと推測されている人物は、江南市周辺の歴史や逸話に詳しかったが、
加賀藩史まで知らなかったのだろうし、寛政期までに信雄と同腹は信忠と徳姫とされてしまったから
江南市周辺では、永姫の事など全く知られていなかったんだろう。
創作したとされる人物も、亡くなって40年になるし、まさかネットでこうも簡単に
一次史料が閲覧できたり、情報を検索できるようになるなど思いもせず、
よく携わっていたという、家系図制作と同レベルのノリで作ったんだろう。
江南市近辺の、別の偽書にも関わっているらしいが、先祖顕彰物語を依頼されて作っただけのつもりだったのかも。
死後20年も経って出版されるなど、思いもしなかっただろうし、矛盾点を検証されるなど
予定外だったんだろうな。
>>941 >各種文献が創作された当時は、徳川幕府の世の中だし、武家の嫡流とか血筋が大切だった時期。
少し表現が舌足らずで、おかしかった。
寛政譜などの、信雄と信忠、徳姫が同腹とした家系図などが制作された当時は
徳川幕府が絶対の世の中で、武家の嫡流や血筋、また徳川家との繋がりが大切な時期だった。
だからこそ、嫡流である信忠、徳川家と繋がりのある徳姫を、織田家として主流となっていた
信雄の血筋としては(信高の血筋などよりも、より上位である事を示すためにも)同腹とする必要があった。
そして、それは、その当時の武家としては、間違った事をしていた訳ではないということ。
>>935 だから粘着なのはアンチ三条てめぇだろうがw
甲斐の山猿の女の争いなんてどうでもいいんだよwうせろw
信忠→久庵慶珠
信雄・永姫→生駒氏
五徳→不詳
とそれなりの歴史の大家が言い出せばそう書き直されるだろう。
でもこれが在野の研究家ではだめなんだよな。
五徳に関しては信雄改易後秀吉の指示にしろ生駒家所領に移り住んだ事、
五徳の化粧料管理を従兄?にあたる生駒利豊が務めたというのだが
このあたりから生母が生駒という説はまだ払拭できないけど。
945 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:23:28
ここで考察されている事は確かに正しいのかもしれない。
資料的にも矛盾はないのかもしれない。
生駒がいつまでも信長最愛の女性であった、正室になったなどという
信憑性のない話題がのさばり続けているのはいけないのかもしれない。
ただ、ここで話題に上がったことをウィキやヤフーなんかで
嬉々としてまんま吹聴する行動が痛い。
別に内容には何の問題もないと思う。
ただ即座によそに吹聴する行動が痛いと思う。
まとめサイトでも作ってみたらいいんじゃないか?
>>944 それだけ五徳と生駒の繋がりがあるなら、
五徳は生駒腹でいいんでね?
別に信雄と兄妹にしても矛盾がないんだし。
永姫の生年と生駒の没年を考えると、永姫は生駒家の別の女性っぽい。
ここで考察した本人が他所で書いているのかも知れないし、
他所で書いている事を読んで、ここに吹聴しているのもいるかも知れない。
匿名なんだから仕方がないんだろうな。
だが
>>945は、何でもここで一番に考察されていると思いすぎていると思う。
ここから流れる事ばかりじゃなく、ここに流れ込んでくる物もあると思うよ。
定期的に現れる荒らしも、まともに史料を検証して出てきた事が
意に添わない事だから、荒らしていくんだろうというのは見ていて思う。
過疎板とはいえ、ロムってるのはかなりの人数じゃないのか。
ゲームとかで興味もって調べてたら、自分の知らなかった説があって
嬉しくなってそこら中に書き込んじゃう知ったか厨房だっているだろうし
ここで怒ってみても、そんなのどうしようもないだろ。
もう荒してる奴とかうざいから、
誰かもうウィキに書き込んで文句言わせないようにしないか?
そうすればもう喚いても無駄だろうしさ。
>>950 >wikiに書き込んで文句いわせないようにしないか
どうしてそういう乱暴な方法を思いつくのか?
やめときなよ。
永姫と信雄のつながりの濃さに比べると徳姫と信雄はまったくといっていいほど
つながりはないんだよなぁ。もっとも前田家は信長没後秀吉からも
家康からも信頼され、信雄を凌ぐ出世をしたから信雄のほうからコネクションを
求めていったのかもしれないな。
ところでまた荒れ気味だけど、もともと2ちゃんの主旨はスレタイにあった話題を
好き勝手に書きこんでOKだよ、というレベルのもの。Wikiなんて勝手に修正できる
わけだし、信憑性なんてまるでない。(参考程度にはなるけどな)
そういうところに何を書き込もうが、推測しようが、憶測しようが、勝手ではないかな?
運営する側がそれを良しとしているんだから。
それが気に入らないというならスルーすればいい。
文句があるなら運営者側に言うべきだと思うのだが?
こちらで何を書いても絶対改まる事はないから、荒れるだけ不愉快。
無駄な書き込みはもうやめて、自分の主旨に即したスレを作成するか
臆測厳禁、妄想厳禁のHPでも作って語り合ったらどうかな?
953 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 10:49:27
ここで話題になってるぶんにはよくて、他でここで出た説を書き込むのは
よくないっていうのは書き込まれたら困る内容だからとしか思えない。
歴史なんだから、今現在有力とされている説だって、新しい説が出てきて、
それを検討してそっちが有力となることも多々あるわけで。
なのに今ある説だけが真実で、新しく出る説が間違ってるとは言えない。
だからさ、ウィキとかに直接書き込むんじゃなくて、
まとめサイトでも作って、2ちゃんで議論中のものとして
リンクを張ればいいじゃないか。
955 :
953:2007/05/11(金) 11:22:14
956 :
954:2007/05/11(金) 11:23:08
ごめん名前欄間違えた。
957 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:20:09
それにしても濃姫関連スレが荒れるのは、
濃姫の存在を亡きものにしたいというアンチが
いるとしか思えない。
そういう人がスレを荒らすんじゃないの?
残されている史料を基に検証してるのに
検証している内容を他で書くなとか、他で吹聴するなとか、
おかしい。
生駒が最愛の人で正室になったって信じたい人がいるのはわかる。
でも史料にある記述や、信長の行動を見て判断すると、史実はそうじゃないよって
いうこと。それを書くのがなぜいけないのか?事実出ない間違ったとはっきり
している内容が書かれているほうがおかしいと思うのだが。
生駒マンセーしたい人は、専用スレでも作ってそっちでやったらどう?
こちらのスレに出没しては荒らしていく行為もどうかと思う。
史料の原文のみを載せるのは良いけど、
そこからの推測をウィキに書くのはダメ。
そろそろ次スレの準備を始めようよ。
まとめサイト制作には私も賛成だけど、
どういうふうに作ったらいいのかまったく検討がつかない。
誰か慣れてる人にお願いしたい。
> なお「〜マンセー」など、明らかな誹謗中傷の言葉を慎み、
>>957 厨だのマンセーだの、
そういう断定的な括りの言葉を使うのは止めて欲しい。
真面目に検証を述べている者まで
そういう風な考えを持つ輩と思われそうで迷惑。