937 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 12:07:00 ID:k1npIoDD
>>934 なるほどね、よくわかりますよ。
で、喜六郎事件も信長の仕組んだこと、とまで言うとオカルトですがそういう説もありましてね。
他の兄弟との待遇の話ですが、当時はやっぱり強いものに家督をつがせたいわけでしょう。
複数の自分の子供を信秀がどうやって処していたか、これはまた別に検証すべきでしょうね。
つまり、結論言うとさらにオカルトで申し訳ないけど信長は自分が嫡統でないことを知ってて
織田家乗っ取りをはかった、これは1577の広信殺害から始まる、最後が信勝だましうち、
叔父も兄弟も全部信長にやられた、という説で。
ちなみに前にも書いたけど信秀葬儀でどうして信長があんな無礼な行動を取ったか、それは
葬儀によばれてなかったからではないだろうか、実際庶長子信広の記述もない、
これもよばれてなかったのではないだろうか、それに怒った信長が、なんていうといかにも
現代劇ですがうつけだったら十分にそういう行動取ったのも理解できそうで。
さらに平手自害も信長のした非道な行動を知ってたのではないか、そういう風に続きます。
受け売りなので反論というか詳しい人に聞いてみたいところ、というわけで。
スレチで申し訳ないが。
938 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 12:37:14 ID:w192PaAz
信長公記の「稲生合戦」の「御袋様」と書かれている前後の原文を知りたいな。
この時代なら御袋様とあると「側室の生母」という意味で使われていたから
信長の生母は側室=土田御前は側室、という可能性もでてくる。
信雄分限帳にある「大方殿様」は信秀の正室であって、信長の生母ではないと
いうことになるかもな。
正室腹に男子がいれば文句なく嫡長子が家督相続する。
でも側室腹にしか男子がいない場合は、長子優先に納得できないやからもでて
私利私欲に走る側近の意向でお家騒動が起きて来るんだと思うんだ。
家光や政宗みたいに正室同腹でもおきるぐらいだから。
そう考えると信長は側室腹の長子であったために、当初は庶子として
自由に育てられ(うつけと呼ばれるような自由奔放な言動)、
途中から正式な嫡子となったので、反対勢力が内部からでてきたのかもしれない。
939 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 13:25:27 ID:5QChId4D
>>938 すると、信長は当初は庶子として織田家を継ぐ予定がなかったが、
途中で嫡子となったというわけか
その場合でも父の正室の養子になる手続きがいるわな
それでは公記が、信長に養母と実母がいると書かなかったのはなぜだろう?
少なくとも濃姫が嫁いだ時点では織田家の跡取りは信長
正統な後継者でもない若造に、道三も嫡腹の姫を嫁がせたりはしない
信秀葬儀の喪主は後継者信長だろう、
そこまで否定したら、当時の史料も公記も嘘っぱちになる。
940 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 14:24:54 ID:w192PaAz
>>父の正室の養子になる手続きがいるわな
普通はそんなことしないよ。
側室腹のまま家督を相続するケースの方が圧倒的に多い。
正室と養子縁組しなきゃその資格を得られないというのは
信忠が濃姫の養子になったので、それが一般的と誤解している人が多い
だけで、実際は嫡子になるために養子縁組をしたのではなく
別の意図からだと思う。濃姫の養子にしなくても決定権は信長にあるわけだから。
それに世継ぎがいなくて親族の子供を養子にする時は
奥方ではなく当主の養子にするだけでOKだったよ。
信長と濃姫が婚姻した時はすでに家督は信長に譲られたのだろうということは
もちろんそう思ってるよ。信秀葬儀の喪主は信長だと思ってるよ。
他に該当するような喪主はいたの?
自分もあくまで臆測を述べただけ。
「御袋様」と表記してあるとどうしても当主の正室をさす言葉じゃないから。
うちうちでそう言うことはあっても、信長公記は公の文書なので
そのような表記をするかとても違和感があったので。
戦国大名なんて実両親さえも不詳のものも多く、父親だけでもはっきりしている
信長はましなほうなんだよね。実母が土田御前じゃない、もしくは正室の子じゃ
なかった、としてもなんの不思議もないけど。
941 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 15:25:40 ID:k1npIoDD
信長が庶子としても、その年上に信広がいるのではなかったっけ。
ほんで信秀葬儀の喪主は信長なの?
疑うようで悪いがそうではないような。
信長庶子とするならそうなる可能性が高い。
では誰かというと信勝ではなかったのかな。
庶子から正式な嫡子になったのではなくて、単に嫡統信勝を殺して織田家を乗っ取った、
そういう理解が妥当にも思う。
ちなみにいったんは許した信勝をどうしてあんなだまし討ちしたかと言うと、同じ年に
かわいいかわいい長男信忠が生まれたから、という説明がある。
つまり分家である自分が本家を乗っ取っても、自分がその織田家を継いでいける、そういう
立場になったから、というのね。
公記は嘘なのではなく、牛一はそのあたりの事情を知ってて書きたくても書けない、
なので首巻でいろいろ日付まちがいやあやふやな表現、創作的表現をしたというように感じる。
そしてそれは濃姫の記述がないことにも応用できると思うんだな。
やっとスレにつながった。
942 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 16:56:16 ID:w192PaAz
>>941 濃姫との婚姻時に信長が織田家当主あるいは嫡子でなければ
濃姫は信長に嫁がなかったと思うよ。信勝が嫡子だというなら道三は
信勝に嫁がせたはず。道三としては織田家とただの姻戚になるために
濃姫を嫁にだしたのではなく、織田家の家督相続者に嫁がせることに
意味があったはずだから。
なので信長が信秀葬儀の喪主であったことはまず間違いない。
信長が庶子であったのなら諸兄である信広に出自において何か問題があって
スルーされたか、信広は信正同様に信秀の庶子認定すらしてもらえない
立場だったのかもしれない。
それから信長公記は牛一が信長に仕える前のことは関係者から聞いた話や
噂話をまとめたものなので、幼少期の信長のうつけぶりや
葬儀でのエピはそんなに信憑性が高いとは言えないと思うし、
その頃の織田家の詳細なことは知らなかったと解釈したほうが自然。
濃姫の記述がないのは、意図的に書かなかったとかじゃなく
書く必要がなかったからじゃないの。濃姫が政治に介入してきて
織田家にとって欠かさぬ人物なら登場してきたかもしれないけど
普通に奥方の奥向きの仕事しかしていなかったら、
信長公記の史料としての性格上書かなきゃならないほどの重要性はない。
信長の戦略や戦歴、業績、信長のエピソードがメインの史料だし、
それ以外の織田家の女性に関する足跡だってないに等しい史料だし。
943 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 17:03:49 ID:aOK0qBpl
脳姫
944 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 17:34:51 ID:RQ+880Mp
>>942 信長公記自体、信長の表向きのことがメインだしね。
蒲生氏郷の家臣の子が書いた「勢州軍記」には信忠を
濃姫の養子にしたという記述もあるし、「言継卿記」の
壺の一件もあるから、少なくとも信長が美濃を平らげて、
義昭を奉戴しようとした時期までは存命だったと見ていい
んじゃないか?
945 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 17:40:32 ID:z6u33u05
道三には娘も大勢いただろうけど、土岐の血を引く正室の産んだ娘なら
政略結婚の駒としては大事な存在だっただろう。
それを家督も継げない庶子に嫁がせても道三としては意味ないよな。
946 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 18:39:52 ID:zGIIuEjr
>>944 いつまで存命だったかは本当に謎だよね。
諸説あって、それぞれ納得がいく部分と矛盾を感じる部分がある。
ただ信雄分限帳の「安土殿」は濃姫と考えるのが一番自然じゃないないかと
思うんだ。当時の女性にとって住んでいた場所で呼ばれていたのは
ステータスシンボルで、城の名なら城主夫人となって
女性にとって最高のステータスだったんだ。そうなると
安土殿と呼ばれるのに該当していた女性は濃姫以外考えられない。
信長や信雄の未婚の姫に知行が与えられることはないし、
安土城に一時期居住したという信雄の夫人は御内様で別にいるし、
知行の高さと名称から信長の正室だった女性以外
考えられないんだよな。
ただその後の安土殿の消息がぷつっと消えてる。
すぐに出家して、自ら俗世間から離れてひっそり余生を過ごしたのか?
ということになるんだけど、それもどこかひっかかるね。
947 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 19:22:26 ID:MM5Q7BwI
>>941 信秀の後継者が信勝で、信長が本来庶子だったというほうが様々な問題が発生します。
それは「なぜ尾張の他の勢力は、信長と戦って信勝と戦わなかったのか」ということです。
信秀死後背いた鳴海の山口親子と戦った(懲罰戦争)のは信長です。清洲や岩倉と戦った
のは信長です。三河における有力な味方である水野氏が今川に攻められたとき、救援に
かけつけて村木を攻めたのは信長です(道三から援軍をもらってまで)。信秀の財力の
源とされる津島や熱田を押えていたのも信長です。これらの点は、単に公記だけでなく
一次史料から確認されることもたくさんあります。
で、信勝が信秀の本嫡で後継者だったというのなら、これらの織田弾正忠家の危機の
間、なにをやっていたんですか?
それから、あなたは牛一が書きたくても書けない事情があって筆を曲げたと主張して
ますが、一体その事情とは?ちなみに牛一がそれまでの記録をまとめて公記という
書物に編纂したとき、すでに織田家は権力者の座が滑り落ちて、まったく無力な一
小名が数家存続しているという状況で、信長本嫡の家すらのこっていませんでした。
もう一度聞きます。牛一は何にはばかって、信長の過去を改竄する必要に迫られたと
いうのですか?
948 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 19:57:26 ID:RQ+880Mp
>>941 そもそも斎藤道三がわざわざ娘を庶子になぞ嫁がせるかということ。
信勝が嫡男ならば、信勝のほうにこそ、道三も信秀も濃姫との縁談を
まとめるだろうし。そこについて納得のいく説明を賜りたい。
949 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 20:10:36 ID:Oz3uuYo4
ただでさえ評判の悪い信長が庶子だったら濃姫が嫁ぐわけないだろ。
950 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 22:51:42 ID:D86xBBB6
まぁ信長が庶子にしても、嫡男扱いであったという事には違いないと思う。
じゃなきゃ濃姫は信長には嫁がないで、織田家跡目の誰かに嫁いだだろうから。
951 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 00:52:56 ID:PhOdFKIp
お袋様=側室の生母というのはどうだろうか?
正室であっても、子供を基準に記述する場合、生母という意味合いだけで
お袋様と書く事は当時でもあった。
お袋様が、側室にしか使われない訳ではない。
信長から見て生母である場合、公記に関していえば、
正室か側室かは問題ない箇所であると思うが。
952 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 01:04:07 ID:PhOdFKIp
>>938 信長公記の「御袋様」の箇所
「信長の御袋様、末盛の城に御舎弟勘十朗殿と御一所に御座候によって、
村井長門・島田所之助両人を、清洲より末盛へ召寄せられ、御袋様の御使として、
色々様々御詫言にて御赦免なされ、勘十朗殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、
御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり。」
つまり、信長の御袋様が側室か正室かはこの際置くが、
勘十朗信勝と同腹であった事は、この一文から推測できる。
953 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 01:34:12 ID:6Nsxelc5
いつからか信長生母=土田御前が当たり前のように言われるようになってたけど
信秀の正室や信長の生母もよくわからないんだよな。
954 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 07:01:07 ID:xRGWRERq
ここは本編よりカットオフ好きな荒らしが多いスレだな
955 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 13:07:07 ID:pmgh9eg+
ところで質問です。信秀の正室あるいは信長の生母として「土田御前」の名前が
でてくる史料ってなんですか?少なくとも公記には御袋様とはあっても名前は
ないようで。
956 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 16:52:55 ID:avzfEA3F
武功夜話
957 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 18:59:54 ID:KKklJvKa
よく考えたら信長が正室の長男である、と明確に示す史料ってないのか?
信長公記の「御袋様」だと正室腹、側室腹、両方とれるな。
信雄分限帳の大方殿様は信秀正室に間違いないだろうが、信長生母では
ないかも?ということになる。もしかしたら
みょーに知行の多かった御局が信長生母なんじゃない?
信雄の実祖母にあたるわけだし、信長の生母ということで奥で
丁重に扱われていたのかも。
958 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 19:19:54 ID:pmgh9eg+
>>957 公記には「嫡男織田吉法師殿」とある。さすがに側室腹で嫡男はないと思うが
959 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 19:33:42 ID:KKklJvKa
庶子であっても嫡子がいない時で、後継者と認められれば、
嫡男と称されたよ。信忠だって庶子だけど、嫡男として
家督を継いでる。
信長の生母がどこそこの○○氏で、と明言されているものもないし、
濃姫が嫁いだ15才頃には嫡男であったことは確実だけど、
正室腹であったかどうかは確定するだけの材料に乏しいな。
960 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 21:40:53 ID:vUjOnRsC
叔父信光と謀って清洲城を乗っ取ったのも信長。
信勝が嫡男なら清洲に入城するのも信勝のはずだが。
ところで自分も信長が叔父や兄弟を殺しつくしたと
する本を読んだことがある。
それによれば秀孝の死、浅井朝倉と戦って死んだ
とされる信治、長島の一揆攻めで死んだ叔父信次、
同じく庶兄信広などはすべて信長による暗殺だという。
確かに公記にも長島の戦死者は名前を挙げず
「御一門歴々討死」とあるだけでこの書き様は不審と
言えば不審だ。
一般には信長が殺した近親は兄弟では信勝のみ、あとは
叔父信光が怪しいとされてるが。
961 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 22:35:21 ID:vUjOnRsC
連投だが、自分が殺した信勝の遺児を大事に育てさせて
有力な一門武将にしているくらいだから、この説は自分も
信じていないが。
信澄への厚遇を見ても、信長が信勝を殺したのは本意では
なかったとも考えられるし。
別の話だが、谷口克広は普通信長の弟とされる信時は庶兄の
秀俊と同一人物で、その死に信長がかかわっていたのではと
している。これは肯定できるかもと思う。
962 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 09:02:38 ID:eQ0a9G+5
>>952 信長の御袋様が信秀正室だった場合とそうでない場合でまた
信勝と同腹かどうかは解釈が違ってくるかも。
正室なら騒動を最小限に治めようと仲裁に入っただけということも考えられる。
後家の権限で織田家のために兄弟、家臣間の諍いを好まず、穏便に治めようと
信長を説得したのかもしれない。同腹の可能性も高いけど
この場合信勝が自腹の子でなくても立場上そうしたんじゃないかな。
信長の生母が側室ならやはり同腹ゆえに血の縁で信勝の命乞いをしたという
解釈が自然だと思う。いくら信長生母であっても側室の立場で
家のためにお家騒動に介入して、自分の子供でもない
信勝の命乞いをするというのは不自然だ。
963 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 12:23:51 ID:Vp6yesI1
>>960 信長が、信光、信時を殺したという根拠は?
964 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 12:37:57 ID:kus/rXR8
>>947 自分の説ではなくあくまで他人の説なので聞かれて答えるのも変ですけど
織田家危機の時はまだ信勝は子供で実戦経験が少なかったからではないですかね。
信長は戦国武将としての片鱗を見せて庶子ではあっても多くの兄弟の中でも
年上の方ですし、自分が織田家の中での地位を築くためにもそういう行動を
取ったのは十分理解できる気がします。
もう1つ、牛一が何にはばかって、というのはまさに、信長は嫡統ではなかった、という事実を
秀吉に対してはばかった、というように説明されてました。
分家信長が本家に謀反簒奪しかも調略だましうちなんでもありのひどいやりかた、
これでは秀吉の主君としてはさすがにそのまま記述は出来ない、つまりそのくらい
他にもひどいことがあったのでしょうか。
例えば平手の自害をも説明しています、つまりあれは信長を諌めるためではなく
庶子なのに嫡統を主張し始めた信長を説得できなかった、そういう織田家全体への
面目と言うか責任のため、というようにね。
長男だったかが馬を譲らなかったのも信長が正嫡ではなかったから、というようにうまいこと
話をつなげてます。
オカルトなのでうまく反論してもらえるとこちらも助かります。
スレチで申し訳ないので、どうして道三が濃姫を信長に嫁がせたか、こちらにも
行きたいですね。
965 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 14:25:21 ID:6vFByQzH
>>どうして道三が濃姫を信長に嫁がせたか、
当時の美濃国守と尾張の織田家庶流の織田家との
力関係を比較しても、縁組として成立させるには
信秀の嫡子が婿でなきゃ成立しないよ。
仮に信秀>道三という力関係での婚姻なら、濃姫が人質みたいな
立場での輿入れとなるだろうから、その場合は嫡子ではなく
他の庶子の信長の弟たちになってもおかしくないだろうけど。
信秀が生前中に家督相続はされているだろうし、庶子であろうが嫡子であろうが
信秀の意向で家督を相続したのだから、もし家督問題がおこるとしたら
信秀生前中におこっていたんじゃないか?
家臣の反対が多く家臣団が分裂するほど反対があれば無理に信長を
嫡男にすることもなかったろうし、いくら年少とはいえ嫡子がいたのなら
年長の庶子よりも家督相続権は優先される、普通はね。
側近がきちんとしていれば、年齢より正嫡性を優先させることに問題はないはず。
すでに家臣も承諾の上、信秀から家督を相続していたのに、
親族を暗殺してその地位を維持したというのは不自然に思える。
牛一が秀吉にはばかったという点も不自然かな。
どちらかというと、秀吉に気を使ったのなら、信長の欠点
を強調していたと思う。
現に比叡山の焼き討ちや虐殺の規模などはかなり大げさに書かれていることが
後年の調査で指摘されてるしね。
そうすることで秀吉政権を正当化することにもなるから。
もし正嫡性がなく、力ずくで家督を奪ったというのが事実なら
牛一は秀吉のご機嫌取り?もあってそれを書いたと思うよ。
966 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 19:23:34 ID:GtoAHFja
>>963 まず谷口氏の著書を読め・・・と言いたいところだが、
信光の死は以前から他の研究者の間でも言われてきたことで、
その死が信長にとって都合が良すぎるので信長の関与が
疑われている。公記にも「上総介殿御果報」とあるし。
信時(秀俊)についてはその犯人が罪を問われることもなく
織田家に居残っているのが怪しいとしている。
普通なら処刑されるはずではないか。
967 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 20:28:08 ID:3Xa9vvfo
>>966 信光についてはそんなに都合がいいか?という疑問がある。当時の信長の状況では、
信光は一族の有力者にして信長の強力な味方。清洲織田は片付けたが犬山も岩倉も
まだ健在。東は今川が鳴海まで手を伸ばし、西は今川と組んだ長島服部党が蠢動。
こんな状況で信光を消すことに何のメリットがある?たしかに将来的なことを考え
ればわからなくもない。もし信光が長生きした場合、信長と対立することになった
可能性は私も否定しない。そういった未来の観点からすれば、信光が早死にした事は
信長にとって「果報」だったろう。しかし天文二十三年の時点では、信光の死は
信長にとってはメリットよりもデメリットの方が大きいのではないかと思う。
信時(秀俊)についてはたしかに怪しい。が、根拠は下手人が処刑されていないことと、
信時が「利口な人」と公記で評価されていたからというだけというのは、可能性は否定
できないというレベルで、説得力には少々欠ける。さらに処刑についても、当時の信長
には角田を処分する力がなかったという説もある(角田が守山衆の有力豪族だったことは
公記にも確認される)。無理に処分を下そうとして謀反を起こされたらどうなるかという
不安。また一説には信時が同じ守山衆の坂井に肩入れして、その結果角田のクーデターが
勃発したという事情を鑑みてのやむをえない措置だったという可能性もある。
ちなみに谷口氏の著作を読むと、角田がその後も織田家中に仕え続けたかのような
印象を受けるが、実際には角田は信勝謀反の際に信勝に加わり、稲生で戦死したとする
記述もある。別段、信長がその後角田を使い続けたというわけでもない。
968 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 21:07:13 ID:qweHJ3xr
>>967 主旨にはおおむね納得だが、
犬山の信清と対立したのは岩倉を落とした後だよ。
岩倉攻めには信清は軍勢を出して信長に協力している。
969 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 21:30:03 ID:3Xa9vvfo
>>968 そうでした。あと親信長の親父と反対派の息子が対立して、結果親父が城を
出奔して実権を握った息子が信長と対立したんでしたっけ。
>967に付け足すと、信時死亡後に守山城主に据えられたのは、前城主だった信次。
稲生合戦の時に信次は信長派か、せいぜい中立。にもかかわらず守山衆の一員
である角田新五が信勝についたのは、両者の関係を物語っているといえまいか?
970 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 21:38:17 ID:naNOBH5L
そういや信光の死因については痴情のもつれという説も見た事が・・・。
971 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 21:49:50 ID:Vp6yesI1
>>966 信時が殺害されたのに、犯人の角田が家臣の有力者であるために処罰できない。
つまりこの時期の信長はまだまだ国人領主の盟主であり、後の独裁者にはなれていない。
一族の協力は不可欠な状態。
だからこそ、信行の謀反も一度だけは許した。
信時は、「利口な人」と評価されていたという。
信長も仲がよく、期待していたかもしれない。
守山城は、前城主の信次が秀孝死亡の関連で逐電したために動揺している。
そこへ庶弟の信時を城主にすえたばかりだ。
この段階で、信長が信時を殺すという理由がない。
信光については、牛一が、信長に疑惑をかけていたために、あんな書き方(御果報)になったと思う。
実際には、領土分割の密約などあったことが真実とは考えられない。
信光は、信長にとっては父の死後、有力な支持者で協力者。
その死は痛手だったはず。好都合ではない。
また、信長が庶子で、織田家を乗っ取ったというが、
一族である信光、信次、信時、みな信長を総領として従っている。
名前は忘れたが、信長の大叔父に当たる人物も、信長を心配している手紙を残している、とどこかのスレで見た。
972 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 21:59:01 ID:Ej5tSE46
信長庶子説の一番の根拠って、信秀正室が土田氏なのに
土田氏以外の小嶋氏や六角氏が信長生母として史料に残されているから
出てきた説だと聞いた事がある。
信長生母として土田氏が記されたものが、当時の史料にないからな。
しかし、土田氏が正室であったとする根拠である武功夜話があのざまじゃ
本当は庶子説をひねり出す必要は無くなったともいえる。
だが、一度庶子説が出てしまうと、生母からという部分を無視して
庶子説が一人歩きし始めたというのが、真相だと思う。
だが、武功夜話には信長生母も信秀正室も土田氏であるのに、
信秀正室だけ残されて、信長生母の方をスルーしたのは
信秀の正室織田大和守達勝息女が離縁された以降の継室が不明だからなんだろうか?
973 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 22:06:52 ID:nYA9Ba7j
>>965 最後のとこだけちょっと質問したいけど、やっぱり信長の部下だった秀吉の手前は
その主君をよりよく表現するほうが普通ではないですかね。
その素晴らしい主君を討った逆臣光秀を討った、忠臣いうことにもつながるしね。
ところで秀吉が信長の下についたのはいつぐらいでいいのかな。
もし1554前後というのなら秀吉自体が信長の叔父兄弟皆殺しに加担してることにもなる。
なのであくまで推測だけど、牛一が首巻ではそのあたりをぼかしている、というのも広義の意味で
成立するようにも思える。
974 :
人間七七四年:2007/10/29(月) 22:30:07 ID:nYA9Ba7j
>>972 信長庶子説は自分の知ってる限りはブコウヤワとかはあまり関係ないです。
公記にも明確になってないし、要は信長は誰の子かもはっきりしないですよ、ぐらいが出発点で。
>>971 その信時を殺す理由がない、なんですけど、信次逐電は信長と気脈を通じていた、というのはどうでしょう。
つまり信長は信時をワンポイントで守山城主にすえたわけで最初から信次をほとぼりがさめたら
呼び戻すつもりだった、と。
そして呼び戻した1月後に信勝が兵を起こす、これは信長が季考、信時を殺したことに気付いた、
そのようにも解釈できるように思います。
ちなみに、信次逐電の理由は信次が信勝の報復を恐れたためではないか、信長信勝は別腹で信勝と季考は
同腹、さらに信勝が嫡統とするならばこれも十分考えられるような。
個々の死の理由はいろいろ考えられるでしょうが、そのすべてに信長がからんでいる、又は利用した
というのも最終的に信長が信勝を殺すことによって織田家を実力で把握した、ことにつなげると案外
成立しそうな説だとは思いましたね。
そしてその根本にあるのが、信長庶子、男の兄弟はない一人っ子、そこからすべてははじまった、とまるで
小説なんですけどね。
975 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 00:46:19 ID:INW7ppfp
>>974 小説としても、ひねりも何もないつまらない話になりそう。
短期間におじと弟が何人か死んでる~、全部信長が殺した、、なんて、単純すぎる。
そんなに簡単に身内を殺して、家臣や国人衆が付いて来るのか?
この時期の信長の苦労をないがしろにする暴論だ、許せん(w
信光と信時、秀孝の死因は、前に別スレに書いたから省略。
976 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 00:56:52 ID:Mf1KABKm
でもなんで、信長ってやたらとすぐ人を殺したとか言われるんだろね。
これも徳川の捏造が原因か?
濃姫だって、信長が殺した説唱えている人いまだいるし・・
977 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 02:51:39 ID:cKCj+XNF
徳川以前に既に秀吉が織田家乗っ取ったあとに
信長を狂人扱いしてますがな
そして光秀寄りの側近が多かった徳川時代に
明智軍記なるものをこしらえて
光秀の母親見殺しetcといった極悪人像も定着していった
978 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 03:14:04 ID:v3FSyl6a
>>974 で、なんで信時殺しの下手人である角田新五が、稲生合戦で信勝側についていたの
ですかね?これも信長の差し金で、信勝を内部から裏切って敗北に追い込むための
間諜、埋伏の毒だったんだよ!すべては信長の陰謀だったんだ!とでも主張しますか?
(それだと、なんで信長の陰謀を察知して挙兵した信勝が信長の手先を悟っている
角田を受け入れたやら)
あなたが想像で説を展開するのは勝手ですが、はっきりいって
信長は庶子 信長はそのため一族を殺しまくった
という結論ありきで、その結論に導くために想像を加えまくって論を展開している
だけです。それでは自分以外の誰一人も納得させる力はありません。
だいたい陰謀論を展開するのなら、信長に強力している一族の有力者(信光は信長と
示し合わせた上で清洲の陰謀を実行、信時も信長の差し金で守山城主へ)が次々と
死んでいるのは反信長勢力の陰謀、つまり弟信勝の差し金だったんだよ!くらいも
成立するでしょう。むしろ、この方が勝手な根拠のない想像を加えて考察するより
はるかに通りがいいと思いますが?
979 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 08:05:06 ID:eoFWwYMq
>>973 秀吉には織田宗家を事実上滅亡させたという負い目があるでしょ。
三法師を早々になおざりにして、信長の息子達を支配下においての
秀吉政権だったから、信長そのものを否定したいという暗黙の
空気はあったと思う。
正嫡性もなく、下克上で成り上がった残虐の限りをつくした暴君信長、
という庶民へのイメージ定着に信長公記が利用された、という印象もなくはない。
信長への敬意が秀吉にもあったのなら、残虐シーンは最小限にカットさせたり
名君と思われるように編集させたと思う。
光秀や一族の処遇は徹底してたけど、騒動がおさまってからは
関係者の末裔が不遇だったということもないので、秀吉や家康は
内心光秀に感謝してるという解釈してる専門家もいる。
でも信長が悪人と思われれば思われるほど光秀に庶民の同情が集まって
人気があったから、残りの関係者一族を優遇してあげただけ
じゃないだろうかとも思えるけど。
信長が庶子であったかどうかは生母の出自がきちんと判明しない限り
確定は難しいけど、どっちにしても嫡男として信秀から家督を譲られた
ことは事実なのだし、庶子であったところで正嫡性は立派にあったと
解釈すべきだろうな。その後の身内のごたごたは織田家に限らず
どこの家でもある話なので、そのごたごたの原因が全て家督のからむ
問題ばかりではないと思う。
戦国期なんて、はしかや肺炎ぐらいであっさり死んでたわけで、
そういう急死が「暗殺」「一服もられた…」と伝わって、犯人は信長だろう、
となっていったという根拠薄のものもあると思うけど。
980 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 08:07:36 ID:cKCj+XNF
吾妻鏡で頼朝が悪人にされてるのと同じだな
981 :
たられば君:2007/10/30(火) 09:30:55 ID:gCGPK1FG
いつになったら帰蝶の話題が出てくるのかな
982 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 11:45:31 ID:yj+ooUId
>>978 そうなんですよね。
自分の説ではなくてそういう説があって、詳しい方がどのように否定するのかぜひ
教えて頂きたかったわけなのですよ。
元から井沢ではないですが学会等からは無視されているわけなのでとても勉強になります。
もしよろしければ、定説ではない、根拠がない、想像でしょ、というのを承知の上で
いろいろお聞きしたいと思いますがどうでしょう。
例えば信光、信時、季考の個々の死因は十分に理解できます。
ただこんな短期間にある程度関連づいてまとまって死んでる、その結果信長が織田家を把握
そして天下をも手中に収めようとする。
その手法は戦争が強い、というよりかは調略、謀略、そういった戦国特有の戦術を駆使したことは
このスレの皆様なら十分ご承知のこと。
なので陰謀論と言いますか信長の出自、さらにうつけとしての振る舞い、そういったかなり遡るところから
信長の人生と言うか人間性というか教えていただくことにとても関心がありまして。
織田家内紛は確かに時代的にはよくあることなのですが、その後の行動を見ていても
個々の内紛をバックにうまく立ち回って織田家を把握した、それは事実ですがその一歩先まで
推測することはどこまで可能なのだろう。
そのあたりが出発点となっています。
どうかご理解のほど頂けたら、と思います。
983 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 12:06:55 ID:yj+ooUId
>>979 ふむふむ。
信長を否定したいという暗黙の了解、ですか。
どちらかといえば宗家を滅亡させた負い目から元主君を名君と表現する、そんな感じを
想定してました。
叡山攻めの誇大表現にしても、当時としてはそれは悪ではなく反逆の徒をより多く殺した
みたいに逆に良い方向で表現したのかな、みたいに。
当時としては下克上で成り上がる、残虐の限りをつくす、そういうのは100%マイナスイメージ
だったのでしょうかね。天下統一した秀吉を褒めるのならそういう成り上がり信長は
逆に評価されてたぐらい、なんてのはいいすぎですか。
でも秀吉はその後継者でしょうし実際にその信長の命に従ってたわけですからね。
話戻して当時の庶民は信長を悪人とか思ってたのでしょうかね。
それより光秀を三日天下なんて評価してなかったぐらいではないのかな。
秀吉、家康が光秀に感謝してる、からおかしな黒幕説が広まってますが、やっぱり秀吉、家康
からみると一生部下だったかもしれないのに、天下取りのチャンスを与えてくれたのは直接間接
光秀だったので、感謝、というかラッキ、ぐらいには思ってたでしょうね。
で、はしかや肺炎で死んだのも信長のせいにされてる、ですけど、事実はどうあれそう思われている
ということが重要である、なんて言ったら井沢100%ですね。
半分冗談ですけど、父親の葬儀であんな振舞したら「あいつは危ねぇ、いつかなんかやらかす」
と絶対に思われてたでしょうね。
親類の葬儀であるんだ、見たこと・・・お寺の人に文句言われた・・わし・・
984 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 13:32:00 ID:FHMYxlsV
江戸時代の光秀の人気は絶大でしたよ。
江戸歌舞伎の影響だけど。
光秀を苦労人、糟糠の妻だけを愛し、耐え難きを耐え、しのび難きをしのび、
最後に爆発、あえない最期…
という脚色で上演されていたそうです。
江戸庶民の人気有名人が一位が家康、二位が秀吉、三位に光秀、という
説もあるそうで、信長はかなり悪役だったようです。
信長公記は牛一が秀吉に仕え秀吉の命で書き上げたという背景を考えると、
秀吉が読んで不快にならない程度の上げ下げの
手が加えられていることは想像できるので、全部が全部事実である、
という前提での考察は難しいだろうけど、率直に書きにくいところは
牛一なりに含みのある書き方をしているとも思われるので、
あれこれ推測していくのも楽しみの一つだとは思ってる。
985 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 14:08:13 ID:v3FSyl6a
>>984 描きにくいところってなに?
仮に信長が側室腹で本嫡を排して下克上で家をのっとったのだとして、それが
秀吉にとって都合が悪いことってなに?
むしろ信長がそういった悪人なら、その悪人の家を排して(息子や孫に対する扱い)
自身が代わって天下人となる大義名分になると思うのだが?
>あれこれ推測していくのも楽しみの一つだとは思ってる
楽しみは人それぞれだが、根拠がなければ個人の妄想でしかない。
それと公記の記述のみをもって牛一がどうこう言うが、信長を正室腹とする
史料は公記以外にもあるし、残されている一次史料をみても信長でなく信勝を
正嫡とするような記述は見当たらない。このような現状を無視して公記のみを
取り上げて、しかも公記にすらはっきりと記述されていないようなことを想像
で導いて結論を出しても、なんの説得力もない。
こういうとき陰謀論者は「権力者が都合の悪い史料を廃棄させたんだよ!」と主張する。
しかし例えば徳川は二世紀半におよび天下人の座にあり、その間都合の悪い文書を
処分するような動きもあっただろうが、それでも家康やその後の歴代将軍の都合の
悪い文書はけっして少なくない量が今に残されて歴史学の材料にされている。
なのに、織田信長だけは都合の悪い史料を完璧に抹殺したとでも言うんですか?
986 :
人間七七四年:
>>それと公記の記述のみをもって牛一がどうこう言うが、信長を正室腹とする
史料は公記以外にもあるし、残されている一次史料をみても信長でなく信勝を
正嫡とするような記述は見当たらない。このような現状を無視して公記のみを
取り上げて、しかも公記にすらはっきりと記述されていないようなことを想像
で導いて結論を出しても、なんの説得力もない。
私は↑のようなことは考えたこともないので、これこそ貴方の妄想。
私が主張してもないことを勝手に決めつけ、思い込みで責められても迷惑。
歴史の楽しみ方は人それぞれで、それについても文句をつける筋合のことでも
ないだろうと思うけどね。第一「戦国時代」スレのカテゴリーは趣味でしょ?