マキムクの近くに三輪山があるけど、三輪山の祭祀が古いとしたら
その時代からの人がマキムクにどのように関わっていたのだろう?
802 :
日本史@名無しさん:2007/02/28(水) 20:00:41
治水だろ
蛇は川の謂い。
水耕に治水は不可欠。盆地南部に勢力を広げた
のは、なんらかの土木技術だろう。孝靈天皇の墓
所の位置はその業績をたたえたものと思うよ。
三輪と出雲とはよくわからない。つながりがあろうと
なかろうと水の鎮めなのは確かだと思う。
803 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 08:41:24
ヤマノベの道沿いの集落に住む人々にとって、三輪山は特別な山だった。
彼らは交易を通じて同族化し、弥生後期を通じた首長権力の高まりの中、やがて一つのクニにまとまる。
これが狭義のヤマト。
この最初のヤマト王は三輪山の神官を兼ねていて、大和川水運が陸路に切り換わる
東西交易の結接点という有利な地勢から、大きな権力を持つに至る。
804 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 12:19:36
>>803 その三輪山祭祀とやらが畿内王権には影も形もない。
あるのは全国各地の祭祀形式をごちゃ混ぜにした、畿内古来のものとはかけ離れたどこのものともいえない祭祀形態なのだが。
805 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 21:57:33
>>804 あなたの言う通り、墓制に関してはまさに寄せ鍋状態。
ただ「マキムク建設が、各地からの入植者が主体となった」という仮説には疑問を感じる。
葬送儀礼は伝播するものだし、必ずしも他地域からの大量入植やら征服などを持ち出さなくてよいのではないか?
つまり、新しく生まれたヤマト王の権威をゴテゴテと飾り立てるために、
各地の王墓の様式を採用、盗用したに過ぎないのではないか?とも考えられる。
むしろ各地の葬祭儀礼を寄せ集めたという点において、
大和は独自であったとさえ言えるのではないか?
806 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:05:47
墓制は、庄内開始時には各地から大和に集結し、前方後円墳が完成。布留以降、各地に拡散する。
この古墳時代開始の流れを見れば、各地から人々が集まり、大和に大王国が生まれ、
その大王権力が各地に波及したとのストーリーが正しそうではある。
>>806 各地域の人々が大和に来て、それぞれに土着したと仮定するなら、
第一世代は、故郷直伝の墓を造る筈。
実際にはそれが見当たらない。
あるのは各地域の特色をパッチワークしたマキムク型〜前方後円墳。
つまり、各地域の勢力が土着、その後連合してマキムク王権が誕生した
訳じゃない、と。
そのようなプロセスは無く、最初からマキムク王権が存在していたと考えるしかない。
808 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:58:33
三輪山信仰は縄文時代まで遡る。
奈良盆地(当時は湖沼)の対岸には二上山があった。近畿東海中国から
この山で採れるサヌカイトと金剛砂を求めて集まった。良質の石鏃の
石材は近畿ではここが中心だったからだ。
縄文時代からこの山周辺の物流を押さえた者は近畿・東海・中国の経
済的・政治的勝利者となりえる可能性があったのだ。
青銅器等の金属器が登場するまで、鋭利なサヌカイトは最も優れた利
器となりえたからだ。
しかし唐古・鍵に比べて巻向は比較的新しいのではないだろうか。
縄文時代から続く古い祭祀聖地に後から乗り込んできてた一団が作り
あげた感じがする。
三輪山の神を大物主として土着神扱いする天毎氏の氏族が到来したの
ではないか?
葛城の神、一言主も、土着神扱いされている。天毎氏は新参者、ニュ
ーカマーだったのだ。
809 :
一応九州王朝説:2007/03/02(金) 01:04:38
どっちかというと三輪山自体が禁忌な存在ですよね。
あそこの発掘が出来れば言うことないんだが、関西では
三輪さんは恐い、祟るという見方が未だにありますw
一般に、祟り神として祀られるのはそれ以前の被征服部
族の氏族神を封じ込める事ですが、三輪山の場合、山自
体が神さんなんですよね。よくわからない、不思議な所です。
810 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 07:48:54
蛇が出ると言われてる
811 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 08:41:37
>>809 記紀の記述で信用出来るのは継体以降、という前振りがあるでしょ?
記紀神話体系が大まかに出来上がったのは六世紀初め頃。
つまり、後世、父性原理が女性原理に取って換わる中、女系の三輪山神は一地方神に貶められた。
もしくは、もっと簡単に言えば、初期の三輪山系の王統が、他の王統に取って換わられたなど。
812 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:48:19
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
813 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 13:08:20
>>808 奈良県西部と東部を一緒くたに語るのはどうか。
大和国も、古くは大和と葛城に分かれていたようだし。
814 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 12:40:38
律令国家になる八世紀以降も、中央国家の主な権益は、租庸調より雑徭であったらしい。
つまり、古代は労働力さえあれば開墾出来る余剰地が沢山あったと。
古来より労働力>土地の時代が長らく続いたが、やがてその重要性は逆転する。人口増、めぼしい土地が開墾され尽したため。
土地>労働力となり、収穫量の多い土地をめぐって争いが起きる。荘園領主は武装化。
律令体制が崩壊、中世に至るという流れ。
新技術に伴って使用可能な土地が増えれば、
現代でも労働力>土地ってことかな。
816 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 15:47:35
>>811 いまでは誰も相手にしなくなった津田学派の残党か!
817 :
814:2007/03/06(火) 21:32:55
つまり、私が言いたかったこととは、
マキムク開始と共に始まる大土木工事、ってものは、
大王権力の誕生と不可分なんであって。
敢えて大土木工事を単独に考えて、その意義は?とか考えるのは不毛であろうと。
つまり、大王権力が生まれたからこそ、大土木工事が行われた。
818 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 21:35:24
>>816 津田左右吉というより、
記紀や倭人伝解釈は慎重であるべき、
ってのが、このスレのコンセンサスだろ
819 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 01:14:11
>記紀や倭人伝解釈は慎重であるべき
同意します激しく
>父性原理が女性原理に取って換わる中、
日本古代は双系性です。常識です。今時女系から男系へなんてマルキストでもいいません。
>荘園領主は武装化。律令体制が崩壊、中世に至るという流れ。
何十年も前の学説です。今では否定されています。
それから正確には在地領主と言うべきです。荘園領主といえば、
ふつう在京の本家クラスの皇族や貴族、大寺社を指します。指す
821 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 08:29:18
>>820 日本神話における男系女系の話は、スサノオとアマテラスのうけいの話で考察してたのがあったな。
神話ってものは時代とともに変遷していくものであって、ある時代のそれを切り取ったのが記紀。
日本神話が双方系で決まり、とか本気で書いてるのか?
822 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 08:35:46
>>820 あとさ。否定されてる、古いとかだけを書かれてもさあ。
「どのように否定」されてるのかを書いてよ。本当に理解出来て書いてる?
823 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:17:43
824 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:11:27
825 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:52:32
朝日新聞の今朝の1面見た?
826 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 03:33:28
827 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 06:21:27
「3世紀・奴国」からして既に意図的だよなw
>>827 何を今さらっていう記事だな。とっくの昔にわかってるやん、そんなこと。
830 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 16:42:27
今さらですが、長いスパンが一度に調査できたので、普及啓発のために公開したというところでしょうか。
ただ、この遺構の存在は意義が大きいと思いますが。
831 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 18:15:21
奴国が当時、マキムクに匹敵する強国だったのは間違いない。
ただ、伊都国とは別国で、ヒラバルの王統とは無関係みたい。
ヤマトと手を組んで、九州王の座を奪取したんだろう。
832 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:52:22
神武東征とは、戦国時代の幕開けだったんじゃないのか?
神武東征によって、日本が統一したのではなくて
むしろ、このことによて、畿内王権の統制力が崩壊し、
畿内王権が再び統制力を回復したのは孝霊天皇の時代まで
待たなければいけなかったと。
実際に、九州の神社とかは、神武天皇〜孝霊天皇の間は
天皇に関する伝承が残ってない。
つまり、この間は、畿内王権が九州における統治力が崩壊していたと見るべき。
おそらく、畿内の大国主の後継者がいなくて、誰をそれにするかで
九州の日向分家だった神武が、入り婿の座を勝ち取った話なんだろう?
>>832 神武東征自体、6世紀、イワレ地方に都があった頃の
大和朝廷で作られた始祖伝承だろ。
もっと踏み込めば、継体が即位した時に、自分の直接の先祖である
応神を神格化し、生まれたのが「神武」。
応神が日向と縁が深いのはその通り。
834 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:38:36
神武東征は移動しただけだろうな
836 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 11:22:17
>765
>三種の神器についての見解なら、教授の内容で概ね合っていると思うが。
>そもそも三種の神器っていう考え方自体、記紀以降だし。
全然だめ。いまどきよほどの化石でない限り、九州の影響を否定する
アホはいない。平原の再調査でも明らか。王権祭祀のみならず、神社
祭祀との関連も指摘されている。
しかし、3種の神器の概念が記紀以降って反論は笑えるな。
837 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 11:27:36
>あなたの言う通り、墓制に関してはまさに寄せ鍋状態。
>ただ「マキムク建設が、各地からの入植者が主体となった」という仮説には疑問を感じる。
>葬送儀礼は伝播するものだし、必ずしも他地域からの大量入植やら征服などを持ち出さなくてよいのではないか?
特に、東海系の搬入土器とともに、作業用具が大量に出土している。
搬入土器すべてがそうとはいえないにしろ、労働力の移動があった見るのが妥当。
>>836 >王権祭祀のみならず、神社
>祭祀との関連も指摘されている。
鳥居でも出ましたか?
839 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 12:53:42
>>838 たぶん
>>836は平原やホケノ山の柱坑を指してそう言っているのだろうが
実際何が建っていたのかまったく分からない状況で、それを鳥居だと勝手に決め付けただけ。
鳥居かもしれないとの見解はあるにはあるが、それは推論であって根拠ではない。
何よりも平原2号墓の副葬品が、剣・玉・鏡であっても
1号墓もそうだし同時代どころか以前も以降も、この3種だけで副葬品が成立している例は無い。
これでは偶然だとすらもいえない。
840 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 13:00:56
841 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 18:54:31
>839
>実際何が建っていたのかまったく分からない状況で、それを鳥居だと勝手に決め付けただけ
平原については、大柱や峠との関係を含めて、神社祭祀の関連性が指摘されている。
詳しくは柳田の所論を読むこと。
>この3種だけで副葬品が成立している例は無い
あたり前のことだが、それがどういうこの話とどういう関係があるんだ。
あいかわらず自生説化石の言うことは意味不明だな。
読んだところでそれが鳥居だと言う思いこみ以上のものは何もないのだが。
>>832 稚拙な考察だね
まず、神武以前も孝霊以後も、九州まで統制できるような
巨大な中央集権国家があるわけがない。
神武はただ少数の部隊を引き連れてやっとの事で奈良盆
地の南に拠点を作ったと言うだけ。
845 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 00:26:09
350 :日本@名無史さん :2007/03/18(日) 00:04:25
もし、魏志の247年が、日本書紀の崇神10年だったら
ちょうど、九州分家の神武が畿内王権に入って
数代の間は、日本は古代戦国時代に突入していたと思われるんだよね。
おそらく、畿内王権の統制力が弱体化したのだと思う。
で、孝霊天皇の代で、古代戦国時代は収束した。
その間に、奴国の金印とか、面土国王(吉野ヶ里国王)・帥升の
出来事があったように思う。
実際、九州の神社の伝承なんかでも、
神武天皇を最後に、皇室のことが姿を消し、
孝霊天皇の代で再び登場する。
そらく、その間は、九州が畿内から独立した状態になったんだと思う。
846 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 09:47:23
>842
平原については、神社祭祀、王権祭祀との共通性が明らかなので
その遺構についてはいわゆる鳥居である可能性は高いだろう。
別にこれがいわゆる鳥居でないとしてもその他副葬品や大柱から
共通性は明らか。
いまのとこ柳田の所説に対してまともな反論は出ていないしな。
847 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:14:48
古事記や日本書紀が書かれたのは7世紀もの後。つまり当時の生活習慣に合わせた
「神話」の「再構築」が数世代に渉り行われていたと考えられる。2〜3世紀の話
を稗田阿礼等が口伝で伝えたといっても、500年前の話を古老に聞いても信憑性は
当てにはなるだろうか。
7世紀当時からいえば、5世紀以後、馬が大陸から本格的に輸入されて関
東まで飼育が始まっていたし、鉄剣・鉄鍬等の鉄製品が本格的に庶民に広
がりつつあった。箸の使用などは聖徳太子以後に庶民に広まり、7世紀以
前に発掘されない。
神話は庶民に受けいられるには、日常生活とマッチしなければならない。
神武の頃には、考古学的に馬はいなかった。魏志倭人伝でも彼らは徒歩だ
ったと明確に記されている。戦略物資である馬を、魏の朝貢で知った倭人
が持ち帰ったのであろう。九州でポニーの骨が出現するのはそれ以降であ
り、本土では更に5世紀までまたねばならない。
しかし馬に慣れ親しんだ7世紀の庶民に神武が徒歩だったというには陳腐だ。
またスサノオの出雲の川の箸流れの説話にしても、7世紀の民衆を相手に
語る上での造作としかいえない。2世紀頃はまだ箸の使用すら伝来していな
い。小野妹子は中国の饗応で箸の使用に驚いて帰ったのである。
魏志倭人伝等と古事記・日本書紀の根本的な史料価値は、書かれた時代の同
時代性が著しく異なる点だ。
現代から500年前の戦国時代の伝承と記録の相違さえ100%解き明かせない日本
の貧しい史料文化をよく考えてみたまえ。
tesuto
849 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 15:50:32
巻向や唐古があるが、
桜井市や田原本町周辺の河川の状況について
卑弥呼のいた古代は、そのへんに河川や池があったのか
現在の考古学や地質学で、推測が可能でしょうか?
850 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 16:02:04
万葉集でも読んでみたら?
時代は下がるけど、いくらか参考になるかも。
>>849 ある程度は可能でしょう。
実際、掘ってみて河床だのなんだのってーのは確認されてるよ。
ただ、まだ調査面積が少ないので、当時の地図を再現するのは無理ね。
>>850 ほとんど参考にはならんだろう。
852 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 02:20:44
上古代の日本が二倍年暦だったと推定し、
崇神天皇10年を魏志の卑弥呼の没年(247年前後)とし、
神武天皇の即位年を革命年にするために
欠史八代の部分を二倍引き伸ばして、
結果的に通常暦の4倍(二倍年暦×2)になっていると仮定したら
神武天皇が生まれたのが、西暦50年前後で
神武東征は、西暦70〜80年代ぐらいで
神武没年が、西暦120年前後だと 推定してみた。
ということで、まとめてみると、
西暦50年前後、神武天皇が日向で生まれた。
西暦57年の奴国(福岡市)が後漢から金印。
西暦70〜80年くらいに、神武天皇は東征して
畿内本家の継承争いに加わり、畿内本家を婿養子として継承。
西暦107年ごろ、面土国(吉野ヶ里)の帥升が奴国を占領(金印は志賀島へ)
西暦107年に、面土国は後漢に奴国の戦争捕虜160人を連行して
金印を求めたが認められなかった。
西暦120年前後、神武天皇は崩御。
いずれにせよ、西暦50〜西暦120年の間は
畿内も九州も混乱期だ。
まともな計算も出来ないのか
854 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 12:20:32
デタラメが多いスレッドだな。
>75
>私も考古学的にも文献解釈的にも、トラブルと言いますか「両国間での戦争」は感じられません。
>「素より和せず」とは政治又は政策的対立を指していると考えます。
なことは、松木あたりが勝手に言ってるだけだが。
すくなくとも鉄製武器が完全に普及している後期に九州内では戦乱の
痕跡がないことから高地性集落の分布とあわせ、瀬戸内方面、後には
畿内での戦闘を想定することが妥当(橋口その他)。
>3)は纏向型といわれているものは古墳が定型化した布留0期以降のものが大半であり、
>『倭国大連合』の【誕生】の【突然性】を示すものではない。そもそも纏向に纏向型でないものがあるなど、
>纏向型という類型化そのものが疑問である。(
>>91)
>110
那珂八幡、津古生掛を知らんのか?
寺沢のいうマキムク型の設定が少々おかしいのは事実
(本人もみなおしたいとのこと)だがこういうものや
庄内が、布留0以前に少なくとも九州には拡散するの
は明らかだが。いつまで黴の生えた「古墳時代は布留0
=箸墓から」に固執してんだよ。
855 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 12:51:38
>鏡の崇拝は確に北部九州発。
>しかし、畿内の古墳のマツリ自体が各地の葬送儀礼のパッチワークに過ぎず、
>鏡だけを取り上げて、九州の影響が強いとかは言えないだろう。
また、デタラメを言う。
鏡(古墳時代前期と同様に大型内行花文鏡を頂点とする)を中心とする威信財
システムのネットワークのほかにも、割竹木棺、素環頭太刀、朱の大量使用、
玉器、鉄器の大量埋葬の起源は、すべて、北九州(一部、同様のものが山陰、
北近畿でも普及しているが。)さらに、神社祭祀との共通性については、柳田
が平原再調査でも言っているとおり。
逆に最近、近藤その他の近畿の学者が過大視している(ORしだした)楯築なんて
のは、副葬は全く違うし(そもそも劇的にしょぼくて、四隅の副葬の一形態
といってもいいようなもんだし)、特殊器台なんてのは布留0以降しか出ない。
そもそも特殊器台をやかましく言うんなら、ホケノ山の四国?かどっかの大型壷
についてもちゃんと評価すべきだな。これも供献土器なんだろうからさ。
>>855 >神社祭祀との共通性については、柳田が平原再調査でも言っているとおり。
穴が二つ並んでるだけだろう。
それに大柱の方は神社に結びつかないでしょうに。
九州説は余裕を持とう。
追い込まれているのは分かっているが...
390 :日本@名無史さん :2007/03/25(日) 12:33:10
鉄優位の九州だが、熊本県も福岡や佐賀に肩を並べる弥生の鉄の分布地域。
しかしそれはほとんど宇土市より北にある県中北部の弥生遺跡に限られる。
水俣とか人吉とかの県南部では、鉄の優位は認められない。宮崎・鹿児島もそう。
で上の方で、「熊襲も鉄があって強かった」みたいなこと言ってる人いたと思うが、
それは玉名や菊池や宇土など、熊本県中北部の鉄を出した弥生遺跡のことの筈。
しかしこの熊本中北部は、墓制で言えば甕棺分布地域にあたり、福岡・佐賀と同じ。
銅鏡・巴形銅器なども出るので、北部九州文化圏の一角と見た方がよい。
佐賀の吉野ヶ里とはおそらく舟で有明海を行き来し、密接な交流があっただろう。
だからもし筑後平野に邪馬台国を想定したとすると、熊本中北部の弥生遺跡群は
同じ甕棺墓を愛用するような友好国と見られ、敵対する狗奴国とは考えにくい。
同時に、記紀に記す熊襲も、熊本県中北部にいた部族ではないことを示唆する。
熊襲はやはり更に南の方の九州で、県南部の球磨地方から鹿児島辺りの部族と思う。
ただ鉄の優位は南部九州には認められないから、そこをどう説明するかだが・・・。
859 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 13:42:37
>856
大柱については、諏訪大社の大柱との共通性が指摘されてるが。
いやなら、学会誌で反論することだな。
大林くんの自作は確実です
なんでそんなにオタク語連発するのかw
本当に鈍感だよねw
>>859 諏訪のは四方配置なんだけどなw
穴なら何でも善いみたいだね。
>いやなら、学会誌で反論することだな。
自分では議論に応じられないと言うことだね。
私は他人の意見を妄信してますって言ってるに等しい言い訳だね。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172000417/l50 571 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:35:20
プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
572 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/21(水) 13:39:36
>>571 >プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
意味わかんね? 四国説じゃないけど
四国を含む九州説だよ
573 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:39:59
ブラムも昔
東四国が邪馬台国だって宣ってたなw
覚えてるぜ!
574 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:49:11
俺も知っているよ
突飛な説に
突飛な馬鹿だから
当時居た奴は皆知っているよw
それに当時から大林と同一人物だと
ばれていただろうw
宣伝ならしっかり宣伝しろよ大林賢栄君
馬鹿だとだれも騙せないよ
おりゃてっきり赤っぽい馬鹿大王だと思っていたけど
恥かしいよ君!
404 :日本@名無史さん :2007/03/25(日) 14:34:32
狗奴國の官は
魏志では、「狗古智卑狗」
魏略では、「拘右智卑狗」
どっちが正しいかだ。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi4.html 普通、あういう木簡で字を記したものが後世に残る場合、
字が欠けることはあっても、字が突き出すことは無いだろう?
ということは、「狗古智卑狗」の「古」は間違いで
「拘右智卑狗」の「右」のほうが正しいんじゃないのか?
865 :
110:2007/03/25(日) 15:41:14
>>854 ものすごいロングパスにビックラこいた。
もう少し110前後のスレの流れを読んで書いてくれないか?
津古生掛は年代不詳。堀り当てた本人が一番悩んでるとかどこかに書いてあったな。
那珂八幡は庄内の終わりごろ。普通“倭国連合の成立”といったらもっと前だろ。
それと、“大半”と書いてるだろ。庄内に一つもないとは書いてないよ。
津古生掛はその数少ない候補の一つだが。
>「古墳時代は布留0=箸墓から」に固執してんだよ。
110前後のスレの流れとは全く関係がないはなしだが、
俺は庄内開始から古墳時代でいいと言う立場だ。
巻向を中心とした倭国連合の形勢って
西暦180年くらいまで遡れるらしいね。
弥生とか古墳とか、ただの時代区分の記号なんだが、
共通認識がないもの同士だと話がつながらないよな。w
868 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 19:43:12
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
869 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 21:27:11
ここも病気になりそうだな
870 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 13:01:39
871 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 19:58:26
>861
>諏訪のは四方配置なんだけどなw
>穴なら何でも善いみたいだね。
土廣形態の共通性が指摘されているだが。
全く同じでないから関係がないというのは妥当ではないね。
>自分では議論に応じられないと言うことだね。
>私は他人の意見を妄信してますって言ってるに等しい言い訳だね。
通常、おかしな学説(銅鐸配布、鉄は溶けた、戦争はなかった、岡村編年
など)に対しては、すぐに反論が出ているのが通常。
平原の再調査からすでに5年以上立つわけだが、これ以外にも、弥生週末期
であること、□鏡国産説なども含めて有効な反論は、考古学会からは一切で
ていない。これらが妥当な結論とみなされているということだ。
礎ってなんだっけ?
土台的な感じだっけか?
内辞書ないさー
悪いけど、おまいら、おせーれ
>>872 〔石据えの意〕
(1)建物の土台となる石。柱石。土台石。礎石。
「建物の―だけが昔をしのばせる」
(2)(比喩的に)物事の基礎となる大事なもの、あるいは人。
「事業の―をきずく」「国の―となる」
874 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 23:36:13
さあ、語れや
>>871 > >諏訪のは四方配置なんだけどなw
> >穴なら何でも善いみたいだね。
> 土廣形態の共通性が指摘されているだが。
> 全く同じでないから関係がないというのは妥当ではないね。
ようするにどちらも「穴」だってだけでしょう。
> >自分では議論に応じられないと言うことだね。
> >私は他人の意見を妄信してますって言ってるに等しい言い訳だね。
> 通常、おかしな学説(銅鐸配布、鉄は溶けた、戦争はなかった、岡村編年
> など)に対しては、すぐに反論が出ているのが通常。
それは、あなたに浴びせられている「他人の話妄信者」疑惑と何か関係のある話ですか?
> 平原の再調査からすでに5年以上立つわけだが、これ以外にも、弥生週末期
> であること、□鏡国産説なども含めて有効な反論は、考古学会からは一切で
> ていない。これらが妥当な結論とみなされているということだ。
穴の話しはどうしたんですか?
ようするに、ちょっとケチは付けてみたけど、ここで何か議論をするつもりは無かった、
そういうことですね。
それならそれで結構です。
876 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 00:19:01
どちらも穴というだけだろって、おまい、遺構図ぐらい見たことあるんだろうな、おいw
貴方の考えだと、穴の形、、それから類推し柱の立て方が
似ていれば関係があることになる。
つまり、が似ていれば電柱と旗塔も関連があるわけだ。
用途は違うが、ある意味では関連していると言える。
その程度の関連性でよいなら認めてあげますよ。
878 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 08:16:27
祭祀という目的が同じ
電柱と旗塔という全く違うものではない
祭祀のための柱・・・どこぞのトーテムポールとかもそうだな。
何でも関係ありなんだね。
880 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:30:31
原田大六の著作ぐらい嫁
トーテムポールとか明らかに無関係なだろ
筋違いだなw
881 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:43:34
>880
そいつは、素人だからほっとけよ。
882 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:48:45
まずは、
「東征は、3世紀以後には無かった」ということで誰も文句ないね?
考古学的にもありえない。文献にも無い。神武は紀元前の人。
「畿内王権は、古代から存在した」ということも誰も文句ないね?
考古学的に証明済み。文献にもニギハヤヒ政権があったとされている。
「3世紀以後、九州王朝は存在でき無かった」で、いいね?
考古学的にも否定。 文献にも熊襲征伐が繰り返されており、九州の独立性は無い。
このへんから出発しようじゃないか。
883 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:08:14
「九州の邪馬台国が東遷した」という説は除外していいね。
日本書紀には、神功皇后紀に魏志倭人伝の引用があるのだから、
文献を尊重すれば、残る選択肢は、二つだけ。
1、畿内に邪馬台国があった。大和朝廷に続いた。卑弥呼は神功皇后。
2、九州に邪馬台国があった。熊襲討伐で、神功皇后に滅ぼされた。
でも、文献を尊重すれば、1はありえない。
台与にあたる皇族が記紀に書かれていないからだ。
よって、答えは2。
それでは、畿内王権=大和朝廷について、存分に語らいましょう!
そうだったのかぁーー、がくうっっうっっ!
天照=卑弥呼でもいい?(俺の中で)
>>880 諏訪と平原だって大して違わんだろう。
穴と祭祀なんだから。
感情じゃなくて理屈で話せよ。
穴と祭祀だけの類似なら「認めてやる」つーてるだろう。
ただ、そんなものだけじゃ、それ以上の話しにならんだろう。
余りにも希薄な類似性を取り出して大業に言い張るから
反論されるんだよ。
>>885 このスレをたまに覗いていますが
<感情じゃなくて理屈で話せよ
と書いているあなたは、「理屈」だけで「知識」がまったくないと思います。どうも、勉強せずにひたすら無知な論難を繰り返しているように思われますが。
>>882 神武天皇は紀元前ではなく紀元1世紀くらいからじゃないのかな?
畿内王権の最初はマキムク。それ以前には、王権が誕生していた痕跡が無い。
ジンムという男がマキムクで即位した、というなら、
神武伝承も説得力があり、リアルだったのだが。
所詮は、神武はイワレ彦で、カシハラで即位したと記載されている。
磐余地域に王都があった、5世紀末〜6世紀初頭に創作されたのが、
神武伝承だろう。
神武のモデルは、継体の直接の祖先とされる応神。
蘇我氏の台頭で、蘇我氏の本拠地近くの橿原で即位したと改変された。
>>890 そういうのは、もう全く相手にされないよ。
神武天皇の東征というより出雲国譲り神話や日向3代への流れから出雲侵攻を主導した
高皇産靈尊の東征としたほうが
というか、おまえら、
記紀や風土記の神話
原文でちゃんと読んでないだろうw
だから、こんなにトンデモ解釈が出回る。
マキムクって読みずらいよね!
とくにマキが
895 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:10:08
>865
>ものすごいロングパスにビックラこいた。
>それと、“大半”と書いてるだろ。庄内に一つもないとは書いてないよ。
>津古生掛はその数少ない候補の一つだが。
これは失礼。ただ、まず、庄内期の北部九州と奈良県東南部にほぼ
同時に現れる対称性を持った現象(前方後円墳、庄内甕等)を重視
すべきだろう。布留期のそれは、あくまで拡大にすぎないと思う。
>110前後のスレの流れとは全く関係がないはなしだが、
>俺は庄内開始から古墳時代でいいと言う立場だ。
これも失礼。労教授のレトロな書き込みと誤解してしまったよ。
896 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:29:16
>875
>ようするにどちらも「穴」だってだけでしょう。
はあ、ぜんぜん違うだろ。土廣形態が同様で、878の言うとおり、
祭祀に関連する。鳥居と御柱との関係については、そのほか、伊勢
神宮の例もあげて解説されている。伊勢神宮との関係(超大型鏡)に
ついてはその他、森浩や原田の研究も引用しているが。これだけあっ
て、平原と神社祭祀が関係がない言い張るのはあまりに合理性がない。
だからこそいままで異論がないわけ。
>それは、あなたに浴びせられている「他人の話妄信者」疑惑と何か関係のある話ですか?
出て数年も経って誰も異論を唱えていない主張を引用しただけで
「妄想信者」呼ばわりとはあきれるね。そこまで否定したいなら
季刊邪馬台国あたりに投稿したらどうかね。
>>890 :日本@名無史さん :2007/04/07(土) 01:09:17
>畿内王権の最初はマキムク。それ以前には、王権が誕生していた痕跡が無い。
考古学だけでは、痕跡なんて分からんわなw
そもそも、王朝の痕跡といっても
どのへんくらいのもかは分からんから。
軍事基地の可能性が高い高地性集落なんかは
紀元前1世紀くらいには既に西日本を中心に広く分布しているわけだし。
898 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:35:31
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
899 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:39:49
↑基地外注意w
>>897 >考古学だけでは、痕跡なんて分からんわなw
だからといって、500年も後に書かれた記紀を根拠にされても、
はあ?なわけ。
考古学的な裏づけのない文献(というか神話)解釈は、恣意的になるから
慎重に行なうべきもの。安易な発言は慎むべき。
あくまで王権の誕生と、古墳の築造はリンクしているとみるべきだろう。
高地性集落はあくまで、各地の拠点集落の首長が、政治的混乱のため、
逃げ城として造った程度だろうし、それを広域の王権の証左だとされても
納得出来ない。