1 :
サガミハラハラ :
2006/12/15(金) 12:19:36 2倍年暦の専用スレを立てろという希望が多いので再建することにいたしました。
前回は05年の3月に鄭声(旧字)之氏によってたてられたのですが、そのなか
から一部を再録します。
1:05/03/05/07:28:33
テンプレがわりのコピペ
441;日本@名無史さんー以後名無と表記
春秋暦=2倍暦の話。
春秋年(暦)は我が国に元嘉暦が渡来する以前に使われていたと考
えられる。これは春分秋分のころの満月の日をもって「年の初め」
とするもので、「魏志倭人伝」に見えるハイ松之注に「魏略に曰く、
其の俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年季となすのみ」[16]
とあるのは、三世紀ごろの我が国の春秋暦のありさまを述べたもので
あろう。太陰暦が導入されて以降、春と秋の「年の初め」の儀式は次
第に正月と盆(七月)の行事に九州されていった。民俗学者の柳田國
男は「盆と正月とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭」
[17]であったと言っている。春秋年の豊富な例は記・紀に見えている
古代天皇の宝算である。そのいずれも四五歳から一六八歳であるか
ら、一年に二回歳を取ったと考えれば、合理的な数値であろう。こうし
た考えは、すでに明治十三年にイギリス人ウイリアム・ブラムゼンが表
明している[18]。『日本書紀」は安康三年以降に元嘉暦を使っている
ので、それ以前の紀年には春秋年(暦)が使われていたとおもわれる。
http://www.h2.dion.ne.jp/ 〜taki99/kodaisi02htm.htm
2 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 12:46:35
念暦w
3 :
サガミハラハラ :2006/12/15(金) 12:54:45
はい、みおとしました。
4 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 12:56:43
まじで、二倍年暦の研究をして 記紀の解明をしないとな... 一応、学会では2003年には発表されたんだろう? 今まで何をしてきたんだか...
5 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 12:58:29
2003年に何が?
6 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 13:00:39
伸びねーよこんなスレ。スレタイ間違ってるし意味わかんねーもん
7 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 13:04:21
>>5 記紀の時代は、倍年暦だったというやつ。
学会が公式に発表したと思うが、全国メディアはあんまり報道しなかったな。
でも、関西のローカルだったら、そのニュースやっていた。
やはり、関西のことがメインだからね、記紀の話は。
8 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 13:18:10
おー、やっとバイキンスレ…、い、いや、バイレキスレが立ったか。 めでたし、めでたし。
9 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 13:21:51
倍年暦は最近、研究が始まったばかりだから。 これからはだな。 日本書紀だけじゃなくて、古事記の干支没年も倍年暦だし。
10 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 19:18:08
クソスレ立てるな
11 :
太国 :2006/12/15(金) 20:13:22
近隣スレの「邪馬台国は大和朝廷になったのか?part21」に、2倍暦等表を断続 にて>411〜>499までに作りましたので、ご覧下さい。
12 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 20:42:01
神武天皇の即位年は、干支を意識したものだから信じられないが (そもそも、彼は皇帝というよりは、三輪山の一領主で人生を終えた) 古事記、日本書記を倍年暦で計算して また、日本書紀の仁徳天皇の即位が、神功皇后の生存期間を 卑弥呼にぶつけるためにやったことを考慮して計算したら 一応、紀元前106年の日向の国で産まれたことが分かった。(誤差はあるかも?) いつ即位したのは分からん。というか、彼はただの地方豪族。 だから、日向からの遠征前に即位したみたいな訳の分からんこと言ったんだろう? ちなみに、崇神天皇の在位期間だが、西暦206年から240年だ。 彼が生まれたのは、西暦156年。 マキムク遺跡の古墳が3世紀後半だから、彼の死後 古墳が作られるのと見事に合点が行く。
うーんとですね、156〜240なら宝算85歳。 それじゃあ長過ぎるって感じがするでしょ? 神武元年をAD57年にして崇神年間まで三倍区間で良いんですよ 且つ神武〜崇神で計7世代
14 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 23:24:23
サガミハラハラさん来てくれって感じ。 本当に雄略天皇の在位期間って合っているのか? あれじゃ、古事記の彼の年齢124歳と整合性とれないじゃん。 二倍暦で換算しても、倍くらい誤差がある。 日本書紀だと一致するんだけど... 本当に古代の日本の官僚たちは、かなりの馬鹿だ!
15 :
太国 :2006/12/15(金) 23:30:12
サガミハラハラさんのは五王の一人を雄略天皇に当てて論を展開して いるようですが、あれでの紀年構築はうまくないです。 このため、より上代の数字に多少の誤算は免れません。
16 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 23:32:44
日本書紀と古事記って 通常暦の開始時期の天皇が違うのか? というか、頭の中が混乱する。 一番、良いのは墓を暴くことなんだけど だいたい、日本の気候だと遺体なんて めったに残ってないんだよね。
17 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 23:39:24
>>15 ただ、雄略天皇の子供の数とか
彼の跡を継いだ息子が妃すらおらず崩御したのをみると
サガミハラハラさんの設定した年数は説得力がある。
彼は日本書紀も古事記も全て総合的に換算しているみたいだが
古事記の雄略天皇の寿命124歳をばっさり切った理由を聞きたい。
雄略天皇というのは30ちょっとで崩御したみたいだね、計算したら。
じゃあ、古事記のは倍年暦ですらない。どうよ?
18 :
日本@名無史さん :2006/12/15(金) 23:46:58
古事記の著者は雄略天皇を倍年暦を考慮して計算するつもりだったんだけど 日本書紀の年齢を2分の1にするのを間違えて 逆に2倍にしちゃったんじゃないのか?w とにかく、記紀の年数を調べようと思ったら、編纂者の計算間違いも考慮しなきゃ。 日本書紀の年代ミスというのは、仁徳天皇なんだけど、これは確信犯でやっている。 何故なら、大勢で編纂した正史だから。 しかし、古事記のほうは、少数の人が書いたものだから 割と正直だが、計算間違いもしでかしていると考えるべきだな。 というふうに、日本書紀と古事記の違いを考慮しなきゃいかん。
サガミハラハラと畿内論者のコラボレーションは見る価値なし
20 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 00:11:29
サガミハラハラは一人で書いたのか? それとも、複数でちゃんと計算してやったのか? いや、マジで計算がややこしい。 そりゃ、計算ミスしそうになるよ。 当時はアラビア数字なんて無かっただろうしw
21 :
サガミハラハラ :2006/12/16(土) 08:14:46
日本書紀の在位年に関しては雄略天皇の初めのころまでは2倍年暦です。 年齢に関してはまちまちで、普通暦と混在しているものもあります。古事記日本書紀でもことなっています。 ですから古事記の雄略天皇の年齢124歳は2倍年暦で在位年は大体普通暦です。
22 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 08:45:52
サガミハラハラ、トリップをつけろ。 それと、あんたが歴史学の権威ではなかったら 歴史学や考古学のえらい人に 自分の意見を直接、述べよ。
23 :
太国 :2006/12/16(土) 09:19:41
>>21 雄略世は等倍暦、つまりいちおう普通暦でここは同意。
>>21 サガミハラハラよ、おまえの説では
雄略天皇は、倭王武ではなく、倭王康になるぞ?
どうなっているんだ?本を回収したほうが良いんじゃね〜のか?w
25 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 16:08:06
倭人伝が書かれた当時2倍年暦だったとすれば、 「船行1年」は、「船行6カ月」、 「船行10日陸行1月」は、「船行5日陸行15日」ってことなのか???
>>25 あと、「船行10日陸行1月」
は、1月は1日の間違いなのでは?という説もある。
27 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 16:28:16
>>25 倭人伝では四季では無く2季だと言っているだけなのに、
なんで年が2倍になるのだ?
お前らちゃんと漢文勉強しろ。
28 :
太国 :2006/12/16(土) 16:31:33
>>25 その話をしたんですが、プラムさんは否定的でした。
可能性あると思いますがね。
どうも昔は 6ヶ月で1年、一ヶ月が15日だった可能性が強いんでしょう? 記紀でも、15日以降が出てこないんだよね...
>>27 魏略でね「倭人は四季を知らない、春耕秋収で1年と見なす」と
続けさまに言っている。
あと、日本の記紀には15日以降が出てこない。
それって、1ヶ月は15日までだったんじゃね〜の?というお話。
31 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 16:42:40
んじゃ2陪年暦確定ですね
32 :
太国 :2006/12/16(土) 16:43:37
>>29 かなり可能性はあります。ただそれは欠史8代までが1日〜14日まで
で(15日も可能性あり)、崇神世になって16日以降の日が出ます。
しかし紀の後代での記述のほうでは下旬の記述が著しく少ないんです。
その理由のおおまかな理由として、たとえば現今では午後2時は14時
とする2通りの方法があって、2時はうんと使用して14時を少しのみの
使い方だとかすると理が通ってくるように、何らかの事で下旬の不使用
か、使用してもある理由で使いたがらなかったとかいうことになります。
33 :
太国 :2006/12/16(土) 16:46:07
>>29 あと神武世でも1回、例外でしょうが下旬の記述があったはずです。
何かそれだけ特段の理由があるんでしょう? 謎を解く鍵ですか?
34 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 16:53:17
35 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 16:54:32
36 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:03:10
自演大好き太国だもん仕方ないじゃんw
37 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:11:32
38 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:18:07
船行10日と陸行1月が正解。
39 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:29:27
倭人伝の記述が2倍年暦ならば 九州説がかなり有利になる事は間違いない
40 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:36:02
↑ なわけねーだろボケカス!
41 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:36:45
船に3回乗ったナミヘイだとすればサザエさんとカツオくんとワカメちゃん の誕生に見事に合点が行く。
中国人いわく、あの旅行者は、直接 邪馬台国とやらは行っていない。 せいぜい、奴国どまりで伝聞を聞いただけ。
マジレス。自演ではない。 自分は、倭の五王に関しては 太国と見解が違う。
44 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 17:49:05
>>42 伝聞を聞いたんだよ、水行二十日と十日の計一月、
それを聞き間違えて計一月を陸行一月と思い込んだ。
9臭だと、間違いなく太平洋上に出てしまう
となると、やはり機内でしょうな。
45 :
日本@名無史さん :2006/12/16(土) 18:40:04
>船に三回乗ったナミヘイ
>>41 根拠の提示求む
一説によるところナミヘイは大のバック派、一度も乗っていないとする説もある。その娘でもあるサザエ、彼女は騎乗位派
46 :
太国 :2006/12/16(土) 22:48:46
742 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:34:56
天照大神とは誰か
>天文学者によると、BC138年、158年、247年、248年、454年に
>日本で皆既日食が観測されたというのである。
http://www.nagaitosiya.com/a/amaterasu.html 743 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:36:44
>>742 安本は、247年、248年って騒いでいるけど
もし、本当にアマテラスが実在の人物をモデルにしたものなら
BC138年のが一番、可能性ありだな。
48 :
太国 :2006/12/17(日) 15:05:54
雄略天皇の宝算は日本書紀では62歳、古事記では124歳であり、記のほうは紀の 2倍になっている。このことは雄略の世が等倍暦の世であったことを示す論拠 になりえる。これは記は1年が半年計算だったということを意味している。 しかもこの天皇世の記事を紀で調べてみると、佛伝以前の記事には 非常に少ない5月、6月の記述がある。 しかし何故か記述は1日〜20日までであり、下旬の記事が全くない。だから 1ヶ月が20日だったんではないか?と以前から勘ぐっていたが、これだと 1年が18ヶ月余あったこととなるし、13月〜18月の月というのは聞いたこと がない。ということは、18月まで作る暦だったんではなく、何らかの理由で 下旬を無にするか、無にさせる事柄があったんではないか? との考えに傾く。 そうなってくると、たとえば下旬は物忌みで活動を避け静かに日々を送る毎日 であったんだろうとか、そんなところではないのか? あと5月、6月の記事があるのは例えば景行の世もあり、この天皇世も下旬の 記事がまるでない。やはり神道での物忌みなのかと想いにふける。なお景行世 は2倍暦をやっていたとそれがしは観ている。
古田氏以外でも二倍年歴を主張している研究者っているの?
>>49 というか、今日の研究者の中では
当たり前になりつつある。
問題は単に二倍年暦だっただけじゃなくて、
一部では改竄があるということ。
これに関しては、年代に関しては素直な古事記との
両方で考えていくしかないわけだな。
51 :
太国 :2006/12/17(日) 19:37:33
>>49 確か 栗原薫氏→「日本上代の実年代」の著者だそうだ。これは持ってないが。
52 :
太国 :2006/12/18(月) 07:08:01
>>49 日本書紀の新年代の解読」山本武夫著 持ってないが・・・。
53 :
太国 :2006/12/18(月) 09:36:45
>>50 改竄したと言ってるが、舎人親王らがその文書偽造に関与したという具体的
根拠はいずれに有るのか?
54 :
サガミハラハラ :2006/12/18(月) 22:36:34
前のレスから。 7:名無し:05/03/05 12:52/28 63名無し05/02/05 21:35:11 311名無し02/12/01 19:15 あのー、「二倍年歴は古田信者の妄想」だから否定する人が多いようなので、一言。 古田と関わりなく、古気候学の研究者ではかなり有力な説です。二倍年暦。 山本武夫が「雄略以前は二倍年歴」と仮定しないと、年輪年代法で出てきた古気候と 記紀の古気候記事が一致しない(二倍年歴)なら一致する)という論文出してますわ。 今人に課してて、正確な内容はあげられないけど。 朝倉書店の『気候と文明』シリーズの監修している人ですから、電波ではないですよ。
55 :
サガミハラハラ :2006/12/19(火) 08:12:23
7092倍年暦03/09/29 03:02 過去ログに書きましたが、古気候学の山本武夫が 『年輪年代法で検出された古気候と、記紀の古気候記事が一致しない。 しかし、雄略以前を2倍年歴と仮定すると一致する」という論文を出しています。 1978刊行:『気候と文明・気候と歴史』(気候と人間シリーズ)に収録。 朝倉書店『気候と文明』シリーズの監修者であり、古気候学の世界では認められた学者です。 歴史学でも、「いわゆる2倍年歴について」という論文があったはずです(今掲載誌確認できず)。 神武の時代が二倍年歴か?と言う問題と、 二倍年歴が実在したか?と言う問題は別なのに、意図的に混同しているようにしか 見えません。
>>55 崇神以前は、やはり、ある程度の創作があるのか?
ああ、それとサガミハラハラさん、トリップつけたほうが良いですよ。
あるいは、Seesaa(ひとつのID・メルアドで複数ブログ作れる)
とかでブログ作るとか...
じゃないと、サガミハラハラさんに成りすます人が出てきます。
57 :
サガミハラハラ :2006/12/19(火) 10:01:46
ご忠告ありがとうございます。 トリップのつけ方わすれてしまいました。 どなたか教えてください。
58 :
日本@名無史さん :2006/12/19(火) 19:06:54
「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」 四季という概念を知らない。「春の耕す時期」、「秋の収穫する時期」という概念で1年を計算している。 1年を今でいう春夏と秋冬の二つの期間に分けているというふうにしか採れない
それ、四季を知らないじゃなくて暦を知らないってこと。 で、中国人が正月と4つの節で一年を区切る代わりに 倭人は春の耕作と秋の収穫で一年を区切っているということなので、 2倍年暦でも何でもないよ。
60 :
サガミハラハラ :2006/12/19(火) 21:46:33
65名無し05/02/05 22:09:55 山本武夫は2倍暦「も」御都合主義的に使っているだけで、 彼の年代改訂には一貫性がないよ。 それに日本書紀の数字をいじれば正しい歴史がでてくると きめつけてるところは完全に電波だろう。
61 :
太国 :2006/12/19(火) 21:53:38
>>60 サガミハラハラさん
それの 「も」 に、「 」 があるのはどういう意味でしょうか?
62 :
サガミハラハラ :2006/12/19(火) 22:09:14
名無しさんの文をそのまま転載いたしました。 私も確信はできません。
63 :
太国 :2006/12/19(火) 22:28:13
サガミハラハラさん >60 >62 なんだかその者は、2倍暦の研究家の苦労を知らない具体性が少い批判をして いるようですが? こういう連中の批判は的を射ることもありましょうが、そういう批判はいいと して、じゃぁお前はどのように古代天皇の超長寿を説明するのか? とかの問いにはイカサマ的回答か、無言でオシマイかのいずれかにて逃げるの があやつらのやり口のようです。 それにこの文の「も」で、いささか変わり者で若い経験が充分でない奴に みうけられますが、その後は続きのような文面はなかったんですか?
苦労は尊いが、思い込みだけでやってる 客観性も持たない、使えない、ぺらぺらの研究で、 謙虚さもなく押し付けがましく 苦労してると言われても共感できんよ。
65 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 02:13:27
まったくだぜ
どこの国でも、最初はわりと二倍年暦から始めるらしいね。
普通、人間というのは、日照が秋分と春分で分けられるというのを
最初に気がつくらしい。
>>66 鋭い見方だ!自分もそうかな?と思う。
68 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 03:29:25
>どこの国でも、最初はわりと二倍年暦から始めるらしいね。 そうなの?
69 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 04:01:11
つーかアマテラスの子ってスサノオが産んでるじゃん ウケヒによってお前の子は私の子なんて理屈おかしいぞ
70 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 04:14:45
要するに、現在の天皇家は 本来は男性であった天照大神を女神にするという必要に迫られたわけだ。 つまり、天皇家の男系・万世一系は、そこから始まったことにする必要があった。 それ以前に分かれた家系については、天皇家から別系統にする必要があった。
71 :
太国 :2006/12/20(水) 07:50:52
>>64 >>65 じゃぁ、お前さまらは容易に紀年の構成が出来る口ぶりだから、ここに
その論を書きこめ。苦労なしに楽々やれそうなでかい言い草のようだからな。
待ってるぜ。
72 :
サガミハラハラ :2006/12/20(水) 13:58:44
前スレの続き 名無し05/03/05 13:02:46 狭野05/02/17 18:20:15 書紀には、古代の天皇の在位年数が60年を基本数としてかかれている。 雄略帝までの18世代の平均が63.3年であり、崇神帝までが63年、垂仁帝から雄略帝ま でが63.5年と、どこで切っても60年を大きく上回ることはない。 その理由としては2倍暦が有力だと思うと前スレで述べたが、 ただしこれは、「そのように在位年数を決めた」ということであり、「2倍暦で倍に伸びた」とい うことでは全くない。
73 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 14:21:31
サガミハラハラさん 雄略天皇に関して、古事記は124歳、日本書紀は62歳の記述からして、それがし はこの天皇の世を2倍暦とみなし、古事記のここの記述は1年を半年計算と していたと思う、とその考えなんですが如何でしょうか? 言うまでもなく 62×2=124 だからであります。それが真実となりますと、 貴殿は雄略天皇世の途中で倍暦変更があったと主張してますが、それだと この等式の成立にはなりそうもなく、一見するとその説は破綻しているよう に感じますが、何か特段の理由があるんでしょうか? それがしは倭の五王は各天皇とは全くイコールとはしていません。これをやって いる限り、紀年の組み方は不合のほうに当選確実と観ていますが。
74 :
↑ 太国 :2006/12/20(水) 14:23:26
>>73 失礼しました。コテハン抜けてしまいました。それがしです。
75 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 15:07:59
古事記の年齢を二倍暦でやると48,6歳になる
76 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 15:12:43
サガミハラハラは、垂仁天皇の没年までの測定で 熱くなっていたが 今度は神話の世界で熱くなっているな。
77 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 15:40:05
普通の知性なら天智以前の天皇を語るのは馬鹿 天皇家の嘘を信じての辻褄合わせだから事実とは乖離している
78 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 15:41:30
>>77 そういうのをマルクス史観という。
戦後の記紀研究は、最初からそういうふうに言い切って
記紀の研究を封じ込めてきた。
79 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 17:13:58
はて、日本書紀に62歳の記述なんてあったかな
80 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 17:24:08
78曰く、学界はマルクス史観なんだそうだ 通説もマルクス史観 皇国史観以外はマルクス史観だってさ マルクス史観の意味も知らない史学の素人が 神道の宗教敵歴史解釈 を正しいとして皇国史観をとらない99%の日本人にレッテル貼り
81 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 21:05:34
>>80 おまえはアホか?
神道の宗教的歴史解釈なんて賛成していない。
特に、高天原は、九州南部ではなくて
近畿地方の金剛山高天台のことだと思うし...
82 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 21:19:48
>>81 およっ!?
鳥越説だな、なんと珍しい。
おれは葛城王朝説は捨てたけど、鳥越先生は、なんとなく今でも好きだな。
で、きみは倍暦をどう論じるのだ?
詳論キボ。
83 :
太国 :2006/12/20(水) 21:40:58
>>79 編纂者側に当時等倍暦と2倍暦の二つの暦法が込み入って行われていたと
して、紀の記述の雄略誕生から崩御まで算出すると数え62歳になるという
ことです。
紀の允恭天皇7年12月に曰く
「大泊瀬の天皇を産みはまふ夕に適り、天皇始めて藤原宮に幸したまひき。」
同 雄略23年8月7日に曰く
「大殿に崩りたまひき。」
上の文から数え62歳が計上出来ます。
近隣スレ「邪馬台国は大和朝廷になったのか?part21」の>429>426参照
皇紀か(西紀)で歳を確認されたい。
85 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 21:45:31
>>82 あの〜葛城王朝説じゃありませんw
葛城氏というのは、神武王朝誕生以後に
皇室から分派した皇別氏族でしょうが?
86 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 22:05:31
ふんふん確かに
87 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 22:28:13
鳥越氏の意見とは違いますね、 最近、2ちゃんに貼られている金剛山高天台が高天原は。 葛城氏がここを勢力圏に置いたのは 神武天皇の即位以後で、神武天皇の後胤で臣籍降下した 葛城氏が重要な任務を任されただけでしょう? 鳥越氏が言っている説は、三王朝交代説で 旧皇族の竹田くんが反対していましたねw
葛城氏を「神武天皇の後胤で臣籍降下」というのは 間違いだとはいわないが、どこかしっくりこないものがある
89 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 23:35:58
>>88 記紀の系図を信じればね。葛城氏も蘇我氏もそう。
実際、神武天皇の後胤は、大臣になれた。
神武以前とか、皇統以外の氏族は、最高位は大連。
戦後、反皇国史観から、そういう記述は全部否定されたけど
彼らは大臣の位についていたから、一応、皇別氏族だったんでしょう。
じゃあ、ないと大連が最高位だか。
物部氏とかは神武以前だから、大連。
中臣氏は、別氏族だから、大連。
こういうのが全部なくなったのは、後に権力を握った藤原氏のせい。
系図で分かりやすくすると スサノオ(宇佐の王)━(数代)━┳神武天皇 ┗━━(数代)━━卑弥呼
91 :
サガミハラハラ :2006/12/21(木) 12:03:03
コピペの続き 11名無し05/03/05/ 13:03:28 204サガミハラハラ 05/02/18 19:29:28 >203 安本美典氏は、次のような論文を紹介した。 「貝塚茂樹氏編集の『古代殷定国』(みすず書房刊)には、次のように記されている。 ーート辞では、われわれの『今年』『来年』と同じ使い方で、『今歳』『来歳』ということがある。 この『歳』を、陳氏は年のこととせず、半年の『季』をさしていると考えるのだ。一年は、陳氏 によれば、禾季(上半年、すなわち後世の春夏)と麦(下半年)とにわかれる。−−−ト辞の『春』『秋』は それぞれ禾季と麦季にあたる。そして『今歳』や『来歳』は今来、来季のことで『歳』は 半年単位のシーズンをさしているのだと。ーーー」 というわけで、殷の時代の中国では2倍暦が使用されていたらしい。殷末に箕子が朝鮮に行き、 殷の文化を伝えたのである。 ところで古代の日本は中国や朝鮮からの文化や文明を輸入し使用していたのである。 よって2倍暦も輸入され使われていたと結論づけられるのである。
92 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 12:33:55
>>91 もう倍年暦に関しては、賛成ですね。
それに普通、最初に暦を考え付くとしたら
四季ではなく、二季で考える。
問題は、倍年暦でも説明がつかない数箇所だけ。
神代、神武のころは、置いといて
まず、いけるところか数えなおすしかない。
ところで、サガミハラハラ氏は、雄略天皇の年代について
どうお考えですか?
93 :
太国 :2006/12/21(木) 14:48:39
>>91 サガミハラハラさん
その結論ですが? 逆に日本から大陸へ輸出したとも考えられますがね?
この点、どうなんでしょうか? 輸入だとする根拠があるんですか?
94 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 15:20:20
みんな長い寿命のようで仲哀天皇は早く死んでるのは一致してるな
95 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 16:00:42
自分は二倍年暦が輸出か輸入かは別として 人間が最初に気がつく暦ってのは 四季ではなくて、二季で1年だと思うんですよ。 天岩戸の神話も、暗闇と光ですし... あれは、日が暮れるのが早い時期と、日が暮れるのが遅い時期があることを 表しているんだと思う。
96 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 17:46:16
学問板とは思えない低レベル
97 :
サガミハラハラ :2006/12/21(木) 17:52:09
そうですか。では学問板まであなたの力で高めてください。 この件はこれからの日本古代史研究に大きな影響を与えることになります。この研究によってあなたの名声も高まること請け合いです。
98 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 19:23:41
>>97 そうですね。日本の古代史研究を深めようと思ったら
この倍年暦研究によって年代測定しないと始まらない。
まず、そこからが始まりだと思います。
じゃ、ないと、邪馬台国も神武天皇も天照の研究まで進まない。
とにかく、サガミハラハラさんの本を楽しみにしています。
99 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 21:41:53
普通に邪馬台国以前の暦が残っていたとは思えんのだが・・・
100 :
日本@名無史さん :2006/12/21(木) 21:47:41
普通が此処では通じない 所謂意図ある歴史解釈と意図に沿った事実の選択と加工が此処で行われている
>>91 >殷末に箕子が朝鮮に行き、
殷の文化を伝えたのである。
箕子って実在したのでしょうか?
>>100 いーんじゃないの。信者さんとの間で楽しんでもらえば。
「邪馬台国はなかった」「逆説の日本史」とかと違い、他に与える影響なんて皆無だし。
103 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 08:15:30
このスレでの意図とは、真実の追求です。
104 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 11:30:28
二倍年暦の解明は古代史の解明にとって重要ですね。 垂仁天皇までは解明が進んでいるみたいですが... そこから前の解明が進むことも重要ですね。 古代の神話の時代の解明 アマテラスは男性で高天原(畿内南部の高天台)で家督を継いでいたが 跡取りの子供が居なくて、弟のスサノオ(須佐で分家していた)に家督を奪われるのを恐れていた。 で、兄弟は争ったみたいだが、最終的には仲直りして その弟の子供の一人を養子に貰ってたみたい。 スサノオの須佐は現在の宇佐で、神武天皇もそこの出身でその子孫。 西暦1〜2世紀頃、神武はその須佐(宇佐)分家から 畿内(高天原)本家に婿養子に入った。 また、須佐(宇佐)は山戸の州都であり、その山戸は 後に魏志では邪馬台国と言われている。 西暦3世紀の邪馬台国は、高天原(畿内南部の高天台)本家の 宇佐分家の王朝であり、卑弥呼はそこの巫女だった。 宇佐(須佐)は、男王が政治をし、巫女が祭祀をする、政教分離体制を整っていた。 魏志に出てくる邪馬台国の時代は、スサノオや神武より後の時代。
105 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 15:54:47
とにかく、サガミハラハラさんの本が楽しみだ。
106 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 17:00:56
なぜ、成務天皇の在位期間が水増しと分かったのか?
107 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 18:00:25
サガミハラハラさんの 神武が西暦120年ころって、どういう理由からですか? 垂仁の没年を西暦314年と仮定すれば、 その先を倍年暦だったと仮定して計算したら 神武は紀元前の人になってしまうんですけど... ということは、神武〜崇神の間でまた年代を操作しているだろうと いうことが分かったのですか?
108 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 18:54:08
古事記の孝元天皇と開化天皇の年齢って 天皇の在位期間とごちゃくちゃになってないか?
109 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 19:02:41
安康以前の在位年は二倍年暦であるとはいっても、綺麗に二倍年暦になっているわけではありません。仁徳帝の時代は22年の水増しがあり、 成務天皇は在位60年といわれながら、実際は7〜8年しかありませんでした。 崇神天皇以前も同様綺麗な2倍年暦ではないとおもわれます。 スイゼイ即位を160年と仮定して、垂仁崩御314年の間、10代154年で1代平均15.4年となり、天皇の1代平均として無理はないでしょう。 神武120年代即位は私の史観の根幹をなすものです。 これが崩れることは、史観の組みなおしをいみします。
110 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 19:16:58
>>109 >神武120年代即位は私の史観の根幹をなすものです。
>これが崩れることは、史観の組みなおしをいみします。
それって、どういう意味ですか?
最初から全部やり直し?
それとも、あくまでも崇神以前だけやり直し?
また、神武さんをその年代に設定した理由をお教えください。
本は買いますのでw
111 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 19:19:33
夢想スレ
112 :
太国 :2006/12/22(金) 19:45:14
サガミハラハラさんは倭の五王を当時の各天皇と盲目的に信じて結論付け、 これで紀年を組む根底としていますが、五王は天皇ではないので、安康、雄略 以前の殆どの天皇の年代がそれだけで数十年はズレてしまい、失敗です。 少なくともかなり前からサガミハラハラさんには忠言していたのですが、 当人はイコール説を過信しており、理論の崩壊は目に見えるようです。 なお待ってたんですが、どうも拙者への質問の回答もないようで失望してます。
113 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 20:14:11
>>112 サガミハラハラさんは、別に綺麗に
倭の五王と天皇を合わせているわけではないですよ。
サガミハラハラさんが出した応神天皇〜雄略天皇の間の即位・崩年は
倭の五王の使者が来た年数を綺麗に算出したわけではないと思います。
114 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/22(金) 20:17:04
>>112 例えば古事記の
仁徳没年干支丁卯(427年)の3年後
→430. 1 ★倭國王遣使獻方物。
同、履中壬申(432年)の6年後
→438. 4 ☆以倭國王珍爲安東將軍。
同、反正丁丑(437年)の6年後
→443 ★…倭國竝遣使獻方物。
同、允恭甲午(454年)の6年後
→460.12 ★倭國遣使獻方物。
安興没年干支は不記載
→477.11 ★倭國遣使獻方物。
こう云う感じで古事記と宋書が
一定間隔でズレてる事は考えられないでしょうか?
宋書の蛮夷伝と帝紀を同期させて考えた場合の、
・済死丗子興遣使貢獻の460年 - 済の最初の遣使443 = 済の治世17年
・古事記の、19代・允恭没454年 - 18代・反正没437年 = 允恭治世17年
ピッタリ17年ずつですが如何でしょうか?
115 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 20:42:32
サガミハラハラ氏は、 一応、垂仁の没年までは、二倍年暦と若干の補正で考えたけど それ以前の天皇に関しては、かなり独自の史観で 無理を通したんじゃないのかな? 神武天皇が120年代の即位なんて、どう考えても無理だよ。 崇神から神武までギュウギュウだ。 普通に考えれば、最低でも紀元前1世紀内は突き出してしまうよ。
116 :
太国 :2006/12/22(金) 21:02:42
>>114 そういう数字の一致というのは結構起こりうるものなんですよ。
それがしの神武即位が実年代で紀元元年っていう主張も、正直言って
たまたまやってったらそうなったということで、まだ証拠が少ないし
結論を特定できません。
あの倉西の婆さんも120年のズレだったでしょうか? だいぶ記憶が薄れて
きたので数字がそれだったか、彼女の書を新たに読まねば心配ですが、あの
人は確かその数字をピッタリだとか主張し真だと主張してたことに、今回の
ことは同様的に準じると思います。
つまりそれらの数字のピッタリというのは、こういう研究をしてると度々
起こるもので、そのピッタリが黄金の数字に見えますが、実はそうでなく
真鍮であったということなんです。みどもも今まで数字の一致などはノートを
見せて示してあげたいが数えきれずあるんです。だからそのピッタリに
はまって真を得たなどと思わないほうが賢明です。
ですから、みどもも 神武即位=実年代紀元元年 などと云ってますが、
ピッタリの語は表に出していません。今のところ、おっかなびっくりこれが
正かな? と半信半疑的に主張してるに過ぎません。完全にひっくり返され
る指摘が不動ならば撤回するしかありませんので。うまく一致してたら
それがしも狂喜しますし、その気もあるわけですが・・・。w
ところで
、
卑弥呼の女王国が 邪馬壹國
倭の五王の国が 邪馬臺國
とするのが、みどもの見解です。
117 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 21:05:53
>>112 質問みおとしたようです。どのスレの何番だったでしょうか?すみませんです。
118 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/22(金) 21:08:07
神武即位が120年で、垂仁崩御が314年なら、経過年は194年 書紀では神武元年BC660〜AD70で、経過年は729年 ざっと3.75倍差ですね 神武即位が130年の場合は3.96倍になります サガミハラハラさんは3倍説を認めて居ないので 2倍で消費可能分との差は全て虚構年扱いで片付けていると思いますが 実際はどうなんでしょうね
119 :
太国 :2006/12/22(金) 21:10:59
>>117 サガミハラハラさん
>>73 >>74 と
>>93 です。前者はコテハンぬけましたがそれがしです。
他スレも質問しましたがだいぶ時間が経ってますので、どこだったか忘失です。
120 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 21:19:15
すみませんでした。雄略帝については、日本書紀紀年法がついに解明されたのスレの
>>513 にかきこみました。
スレ違いでした。
>>93 については、一般的に考えると、大陸から日本へだとおもわれ、私もそう思います。
121 :
太国 :2006/12/22(金) 21:25:41
>>120 サガミハラハさん
無理強いのようで失礼しました。あちらの>513を覗かせてもらいました。
疑念は残りますが、適正回答だと思います。
122 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 21:31:18
123 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 21:33:22
私の史観の根幹はAD57年の金印授受においています。倭国が金印をもらったのは、出雲もふくめた倭を統一できたからだとみています。 となると、統一に時期は40年から50年にかけてとみることができます。(金印が貰えたのは武帝のお見舞いへの褒美とも考えられるが、 統一していたことは条件であったろう)。朝鮮の三国史記に40年代に王があちこちに降臨していることから、 これが、倭国の高天原からの降臨のことであろうと判断しました。 其の時にニニギの命は0歳であったことから、人間の結婚や寿命を考えて下ってくると、120年代が神武の東征の時期となります。 拙著の「卑弥呼の登場 明窓出版刊 1500円」に三国史記の部分はありませんがのっております。(三国史記の件は本を発行してから見つけました。)
124 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 21:37:17
>>123 サガミハラハラさんは、高天原って、どこだと考えたんですか?
125 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 21:38:30
崇神5年の大飢饉の記述も気になりますね。 これは年輪調査で、ある程度 分かるような気がするんですけど...
126 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/22(金) 21:42:57
まぁ、太国さんの紀元元年説の場合は、書紀製作者サイドには作為性が認められず 太国さんサイドに倍率適用区間に作為性が認められるので本当にタマタマだと思いますが
127 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 21:48:48
年輪年代測定方法で、1世紀〜4世紀くらいのいつに 大飢饉らしいものがあったのか知りたい。 崇神5年がいつぐらいなのか?分かるわけで。
128 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 22:03:32
私が考えている高天原は佐賀県背振山地です。山地の中央部は高原がひろがっています。 周辺に記紀伝説の地名があり、ニニギノ命の伝承があります。
129 :
サガミハラハラ :2006/12/22(金) 22:07:32
>>121 どうもスレをあちこちとみていたり、じっくり考えてみようとおもっているうちに、どんどんすぎていって、答えそこねとかもありました。どうもすみませんでした。
130 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 22:08:49
>>128 私が考えている高天原は、奈良県金剛山高天台。
それに関しては、サガミハラハラさんと全く違う。
あと、邪馬台国の否定地は大分県の宇佐です。これも
サガミハラハラさんとは全く違う。
これらに関しての理由は、また違う機会に書きます。
しかし、垂仁天皇までは、結構、サガミハラハラさんと同じ考えですね。
131 :
太国 :2006/12/22(金) 22:40:29
>>126 倍暦適用はいろいろ統計をとったり、前後の記述に無理はないか?
生物学的におかしくはないか?→例えば10歳あたりでもう子供を設けたとか。
一見表を眺めて窮屈が見え見えでおかしくはないか?とか。
まだ100歳を超える長寿の状態ではあにのか?とか。
かなり検討はしたつもりです。
132 :
太国 :2006/12/22(金) 22:42:55
>>131 訂正
×状態ではあにのか?とか ○状態が残ってないか?とか
133 :
太国 :2006/12/22(金) 23:08:22
≪崇神世が3倍暦のようだとの考察。≫ 崇神1年(1年は元年)と同2年、同3年とを区分けし、各々の数字に3を 加えていくのを毎回繰り返して行き、三表の区分けする。 紀の記録の月数を追って三表に配分すると 【元年基点表】 元年 1月 2月 4年 10月 7年 2月 8月 11月 10年 7月 9月(2回) 10月(2回) 【2年基点表】 8年 4月 12月 11年 4月 17年 7月 10月 62年 7月 65年 7月 68年 12月 【3年基点表】 3年 2月 9年 3月 4月 12年 3月 9月 48年 1月 4月 60年 7月 69年 8月
134 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 23:12:52
前から思うんだが、考古学や歴史学と 地質学などとの協力関係って 出来てないのか?
135 :
太国 :2006/12/22(金) 23:26:41
>>133 続き
三つの表の各々の月数の統計は
1年基点 2年基点 3年基点
1月 1 1月 0 1月 1
2月 2 2月 0 2月 1
3月 0 3月 0 3月 2
4月 0 4月 2 4月 2
5月 0 5月 0 5月 0
6月 0 6月 0 6月 0
7月 1 7月 3 7月 1
8月 1 8月 0 8月 1
9月 2 9月 0 9月 1
10月 3 10月 1 10月 0
11月 1 11月 0 11月 0
12月 0 12月 2 12月 0
136 :
日本@名無史さん :2006/12/22(金) 23:37:18
考霊36年 富士山噴火=>崇神5年 大凶作 誰か、年輪年代法の詳しいサイト、知りませんか? 以上のことを調べたいのです。
137 :
太国 :2006/12/22(金) 23:52:46
>>133 >>135 続き
>135表を眺めると
1年基点の1年、4年、7年、10年・・・・・の年数となる列は3月は別として
4月、5月、6月が0で紀に記述が見られない。
2年基点の2年、5年、8年、11年・・・・・の年数となる列は
1月、2月、3月が0で紀に記述が見られない。
3年基点の3年、6年、9年、12年・・・・・の年数となる列は
10月、11月、12月が0で紀に記述が見られない。
このことから推察できることは、1年基点の
元年、4年、7年、10年・・・・・の年は4,5,6月の三ヶ月を空亡月として
その三つの月が無く、1年が12ヶ月のところ9ヶ月で1ヶ月が14日制の
実質の1年が 9×14=126日 であっただろうと思うのである。
その間ある月は1〜14日、ある月は15〜28日など互い違いかどうかは
これからの研究にかかるが、そんなようなやり方だったろうと考えている。
2年基点も同様でこの場合は1,2,3月が空亡であり、3年基点も同様
10,11,12月が空亡月であったということである。これを3年ごとに順繰りと
繰り返して年を過ごしていたのであろう。
3倍暦だから
126×3=378日 で 378−365=13 の行き過ぎの閏月が14日に1日不足で
可能となる。
実際紀の記述は14日の2倍の28日まであり、現今の午後3時が15時でも同等
の意味であると同様、月後半の28日までの数字もこんな感じで使って
いたのかも知れない。
太国氏は著作出版予定はないのですか?
139 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 08:13:30
>>101 箕氏の実在は100%間違いありません。
史記にでており、歴史上の人物ですし、中国史ではそれほど古い時代の人物ではありません。
140 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 08:40:42
なぜ成務天皇が水増しだとわかったのか。 せい務天皇は紀では在位60年としるされています。普通暦で30年となります。 これが水増しであることですが、 仲哀天皇没を355年におきます。在位9年ですから、即位は352年となります。成務天皇の崩御は351年となります。 仲哀天皇は26歳で死んだので、生年は329年です。仲哀が10歳にもならぬのに父のヤマトタケルの命が死んだといいますから、 ヤマトタケルの没年は337年ごろとみられます。ヤマトタケルの死後も景行天皇の治世なので、景行の治世は340年まではあったとみることができます。 そういすると、成務351年没で景行340年まで生存ですから351−340=11でこの時点で成務治世年水増しがわかります。 かようにして各人の年代をおっていくと、成務即位345年とでてきます。
141 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 08:57:32
>>140 たしかに、成務天皇に関しては、前後の天皇の在位期間とか年齢から判断して
無理があるだろうなと思ってました。
142 :
太国 :2006/12/23(土) 09:57:10
3倍暦があったとするならば、無理は解消に向かうと思います。 この天皇世は3倍暦であったと観ています。そうでないと竹内宿禰の寿命が 100歳を超えてしまいまして、2倍暦でも同様の意味で考えにくいです。 成務の時代は サガミハラハラさんは 水増しがあった。 それがしは 3倍暦をやっていた。 との見解違いがあるわけです。
143 :
太国 :2006/12/23(土) 10:07:53
>>138 2倍暦3倍暦に関して、出版のことを考え巡らしたことは多々ありますし、
現在でもそんなことを想うこともしばしばです。
ですが、それがしは紀年は素人のカジリなので、実際は本気にやろうとまで
心が進んでいません。素人的でよいとか条件が似合うならば可能性はあります。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
145 :
太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144 紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
146 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 11:21:29
武内スクネは百年以上生きたものとおもわれます。 景行6年うまれと仮定すると、普通暦で3年で景行元年が315年ですから317年うまれとなります。 仁徳50年に最後の記事となっていますが、仁徳50年は在位期間から比例配分すると仁徳 治世12年となります。 仁徳元年は411年ですから治世12年は422年となります。 422−317=105となり105歳となります。現代人でもはっきりと受け答えできる のは105歳ぐらいですのでこれでOKであると考えます。
147 :
太国 :2006/12/23(土) 11:33:11
>>146 そうしますと5代に竹内宿禰は使えてきたわけですが、5代の各天皇が
2倍暦で、みな相当の妥当的寿命で収まるということですか?
5代が全部ではないでしょうが、各々の天皇の代に水増し年が挿入されて
いたということですか?
想うに、いろいろ部分的に水増しがあるとすれば、どんな紀年の組み方でも
矛盾は解消しちゃうように感じますが、あまりにも水増しの程度が多くて
疑問には思わないですかね?所々水増しでは恣意的に思えます。
それともそれを納得させる合理的根拠、論をお持ちなんですか?
148 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 12:09:40
>>146 サガミハラハラさん。
仁徳の治世は12年?
あなた、そんなこと言ってましたか?
たしか、仁徳の治世は2倍に水増ししていて
本当の治世は22年?くらいだったと言っていた筈...
あなたも、数字がゴチャゴチャになってませんか?
149 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 12:16:35
>>146 サガミハラハラさんよ、あなたも自分で言ってて、
数字がゴチャゴチャになってないか?w
あなたは、前にこう言ってたw
仁徳の治世は12年じゃない!あなた計算が間違っているよ!!
↓
679 :サガミハラハラ :2006/12/15(金) 13:15:28
応神天皇と仁徳天皇の間は応神天皇崩御410年春、空年があって411年春が追う神天皇在位最終年、411年秋仁徳天皇即位となります。
仁徳天皇の在位期間には、神功皇后を卑弥呼の年代に持ち上げるために、2倍年暦で44年普通暦では22年の虚構年(水増し年)がはいっています。
150 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 12:38:18
書き間違えました。仁徳50年は普通年では12年頃にあたるということです。 治世という語の使い方の間違いです。すみませんでした。
151 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 12:43:59
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
153 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 12:56:39
サガミハラハラさん、本を書くに当たって ちゃんと計算が間違ってないか 誰かに確かめてもらった? じゃないと、その間違った計算で本を書いている可能性がある。 なんせ、複雑だわな、この計算はw アラビア数字のない古代の人も頭の中、 ゴチャゴチャになったんじゃないの?
154 :
太国 :2006/12/23(土) 13:01:33
≪垂仁世も3倍暦のようだとの考察≫
垂仁1年(1年は元年)と同2年、同3年とを区分けし、各々の数字に3を
加えていくのを毎回繰り返して行き、三表の区分けをする。(
>>133 と同様)
紀の記録の月数を追って三表に配分すると
【元年基点表】 【2年基点表】 【3年基点表】
元年 1月 8月 2年 2月 10月 3年 3月
10月 11月 5年 10月 15年 2月 8月
4年 9月 23年 9月 10月 27年 8月
7年 7月 11月 30年 1月
25年 2月 3月 26年 8月 10月 39年 10月
28年 10月 11月 32年 7月 87年 2月
34年 3月 35年 9月 10月 90年 2月
37年 1月 99年 7月 12月
88年 7月 100年 3月
155 :
太国 :2006/12/23(土) 13:23:27
>>154 続き
三つの表の各々の月数の統計は(
>>135 と同様)
1年基点 2年基点 3年基点
1月 2 1月 0 1月 1
2月 1 2月 1 2月 3
3月 2 3月 0 3月 2
4月 0 4月 0 4月 0
5月 0 5月 0 5月 0
6月 0 6月 0 6月 0
7月 2 7月 1 7月 1
8月 1 8月 1 8月 2
9月 1 9月 2 9月 0
10月 2 10月 5 10月 1
11月 2 11月 1 11月 0
12月 0 12月 0 12月 1
156 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:32:27
1年基点 2年基点 3年基点 1月 2 1月 0 1月 1 2月 1 2月 1 2月 3 3月 2 3月 0 3月 2 4月 0 4月 0 4月 0 5月 0 5月 0 5月 0 6月 0 6月 0 6月 0 7月 2 7月 1 7月 1 8月 1 8月 1 8月 2 9月 1 9月 2 9月 0 10月 2 10月 5 10月 1 11月 2 11月 1 11月 0 12月 0 12月 0 12月 1
157 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:41:28
【元年基点表】 【2年基点表】 【3年基点表】 元年 1月 8月 2年 2月 10月 10月 11月 3年 3月 5年 10月 4年 9月 7年 7月 15年 2月 8月 23年 9月 10月 11月 25年 2月 3月 26年 8月 10月 27年 8月 28年 10月 11月 30年 1月 35年 9月 10月 32年 7月 37年 1月 34年 3月 39年 10月 90年 2月 87年 2月 88年 7月 99年 7月 12月 100年 3月
158 :
太国 :2006/12/23(土) 13:43:36
>>154 >>155 続き
>>137 と同様
三ヶ月記述が連続して0の月は、1年(元年)、2年、3年とも総てが
4月、5月、6月の月になっている。この3ヶ月の間は紀の垂仁の文には
記述がまったく無いということなのである。
ということは、毎年毎年が4月、5月、6月 の三ヶ月間を空亡の月として
使用しないで、3月から7月へ直結して暦を運用していたと推定できる。
現今のアパート、マンションが、104号室を欠けさせて室番をとる如くである。
そして1ヶ月が14日間であるのは崇神世と同様であり(
>>137 ) 、15日以降
の月の使用は特別な事情の無い限り使用しなかったのである。ここの
ところが崇神世との違いであろう?
それは垂仁の紀の内容では、15日以降の月後半の記述がたった1回しかないこと
でうなづける。(垂仁4年 9/23 狭穂彦の反乱 のみである。)
おそらく現今での午後2時が14時と同等で二種類の時間の表現法をやって
いるのと同類のことなのであろう? 不吉な事件とかは、月後半の日数で示し
ていたのだと推定している。
159 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:47:27
1年基点 2年基点 3年基点 1月 2 1月 1 1月 2月 3 2月 2 2月 3月 2 3月 2 3月 4月 0 4月 0 4月 5月 0 5月 0 5月 6月 0 6月 0 6月 7月 2 7月 2 7月 8月 3 8月 1 8月 9月 2 9月 1 9月 10月 5 10月 3 10月 11月 2 11月 1 11月 12月 1 12月 0 12月
160 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:49:36
これ凄く脈がありそうですね 太国さんはもう日本書紀の全年間で調べましたか?
161 :
太国 :2006/12/23(土) 13:54:22
>>154 >>155 訂正
ちょっと間違いました。
垂仁100年(3/12)は3年基点でなく、元年基点でした。
>>155 の 1年基点の3月 ×2回 ○3回
3年基点の3月 ×2回 ○1回
162 :
太国 :2006/12/23(土) 14:02:04
>>160 全年間は、やってないです。というのは等倍暦と断定できる舒明以降は
かなりやってはいますが全部ではないです。
手前のほうはだいたいは、充分統計等は、やっています。
しかし月の統計、日の統計のほかに、他の角度からの統計もできますから、
とことんではないです。w
163 :
太国 :2006/12/23(土) 14:14:53
>>159 征東大将軍さん
これのみ3年基点が書かれてないようですが、貴殿は垂仁世を2倍暦と観て
いるわけですな?
164 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 14:33:10
垂仁〜成務が特に悩みどころなのでちょっと試してみました。 垂仁紀までは三倍区間であるほうが、治世年間的にも 標準世代モデルとの一致性に措いても筋が通ってると思うんですが、 そうすると景行以降を二倍区間と考える必要があるだろうと。 しかしそれでは武内宿禰の寿命を考慮すると、 景行元年から三倍区間が始まっている方が良い筈であるし 等と考えて迷ってる訳です
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
166 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 15:08:22
>>128 :サガミハラハラ :2006/12/22(金) 22:03:32
>私が考えている高天原は佐賀県背振山地です。山地の中央部は高原がひろがっています。
>周辺に記紀伝説の地名があり、ニニギノ命の伝承があります。
二倍年暦とは話が違うけど
みなさん、高天原と高千穂を同一視していないか?
サガミハラハラさんも含めて...
高天原と高千穂は名前は似ていますけど全く違いますよ。
高千穂に降臨したのは、ニニギノ命(アマテラスの孫)でしたが
高天原のほうは、アマテラスやスサノオが降臨したところです。
高千穂は九州のどこか(佐賀県か?宮崎県の北端か?など)だと思いますが
高天原のほうは奈良県御所市の金剛山高天だと思う。
167 :
太国 :2006/12/23(土) 15:15:05
>>164 征東大将軍さん
景行世はそれがし2倍暦と観ております。同天皇世を3倍暦と考えると
日本武尊の寿命が12歳行くか行かないかという年齢となり、ちょっと少ない
とは思いませんか? 3倍暦だと16、17歳位で丁度いいです。
なにせ日本童男と云われるように、日本武尊は少年で死亡したということです。
等倍暦だと32歳でなにか不審性がない年に思えましょうが、それだと竹内宿禰
の寿命が100歳を超えてきて考えにくいのです。
それで日本武尊のエゾ、九州への征伐話は、少年の日本武尊を強力な配下が助力
して辺地へ行ったということなのでしょう。景行天皇はかなり日本武尊の日常の
なりふりが尋常でないので、騒ぎでも起こされたら大事だと心の中でそう
考えていたんだと思います。だから天皇の己れから遠く隔離したい意図が
あったからだと、そう考えております。
168 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 15:42:32
>>167 うーんそうですね。日本武尊の寿命が短くなり過ぎる感じですよね
では景行の
>>154 >>155 のような区分けの結果はどうでしたか?
二倍特有の出現パタン等が見られましたでしょうか?
169 :
太国 :2006/12/23(土) 16:03:31
>>164 征東大将軍さん (
>>167 )
すでに宣化と開化世との等倍暦、2倍暦の理由を、それぞれどこかのスレ
ニ書きこんでありますが、景行の『景』の文字には「日」の字が1個しか
ありせん。宣化の『宣』のウカンムリの中は、二日の「二」を分断した
形象のなので、宣化世からは等倍と考えるということです。
つまり『宣』は、開化の大日日尊の2倍暦の示唆と観ている二つの「日」
を「二」の分断にて否定していることであり、開化の『開』にも「日」が
二つあるのが知れます。
しかし景行の『景』の文字は「日」が1個しかなく、これは景行の世は
2倍暦なのかと考えてしまうこととなりますが。この字の「日」の下に
あるナベブタの『亠』は、号を命名した者が隠しとぼけてる秘のもので、
実は『亠』は『ニ』を隠匿している形象なんです。だから景行は号に
『二』があり、2倍暦の時代だということが露見するのです。
ナベブタの上部の点は故意に点として縮めているもので、横に引き伸ば
せば『二』になるからです。
景行天皇は根来の忍びの祖の系と、それがしは昔からそう観ています。
さらに先述のように崇神、垂仁世のように月数の表をしらべますと、
3ヶ月連続での空亡月群というのが、三表での元年基点では無いこと
(2年基点はあり)が表を作れば一目瞭然で判明するのです。
それでそれまでの二天皇世で行われていた3倍暦は景行世で
やめたようだとわかり、かつ日本武尊と武内宿禰の年齢の不具合が
おかしくならないと観られる暦は 2倍暦 だと結論するわけです。
170 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 16:09:40
(年-月/月) 元年基準 二年基準 1-7 2-2 3-2 4-2 12-7/8/9/10/11 13-5 17-3 18-3/4/5/6/7/8 19-9 20-2 25-7 27-2/8/10/12 28-2 40-6/7/10 43 51-1/8 52-5/7 53-8/10/12 54-9 55-2 56-8 57-7/9/10 58-2 60-11
171 :
太国 :2006/12/23(土) 16:35:50
征東大将軍さん いずれにしろ仁徳とか雄略とかあのへんの天皇以前、神武からそれらの天皇世 まで、一直線、単純にその全部が2倍暦あるいは全部が3倍暦などという 論拠では(等倍暦も含めて)必ずと云ってよいほど、どこかに日本武尊や 武内宿禰の寿命が不具合だとか生物学的におかしいとかとの矛盾が出て解決 するのは困難の、破綻が到来します。 これを解決するには、水増し、挿入とか讖緯説、60年120年繰り上げ下げとか の論に行き着くか、それがしのように各天皇世で倍暦変更があったと観るか になって来ます。 2倍暦として考えた、景行世の奇数年、隅数年表二つを眺めましたが、欠の 月は各々多少ありますが、ほぼランダムで何とも?です。 云えることは、いずれの月日数を調べても下旬の数字がただの一回もないと いうことです。1日〜20日までしかありません。21日以降は0です。 詳細を調べますと、15〜20日まではほぼ総てが九州行幸還幸の記事に限ります。 (景行54年 9/19 天皇マキムク行幸とかはあります。) ですから、天皇の旅行の時はまず月後半の数字になるのであります。これは 当時九州が月後半の数字を常用していたか?とも推察できましょうが、通常時は やはり1〜14日までで1ヵ月としていたと、そういう考えに至ります。 すると半年のうちに12ヶ月埋まることとなって来ます。半年182日として 14×12=168日 182−168=14日 で閏月が成ります。 やはり景行世は2倍暦との感をぬぐえません。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
173 :
太国 :2006/12/23(土) 16:46:54
>>167 訂正
× 3倍暦だと16,17歳位で丁度いいです。
○ 2倍暦だと16,17歳位で丁度いいです。
174 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 16:48:52
×12-7/8/9/10/11 → 〇12-7/8/9/10/11/12 ×57-7/9/10 → 〇57-9/10 1年基点 2年基点 1月 1 1月 0 2月 3 2月 5 3月 1 3月 1 4月 0 4月 1 5月 1 5月 2 6月 0 6月 2 7月 3 7月 3 8月 3 8月 3 9月 2 9月 2 10月 3 10月 2 11月 0 11月 2 12月 2 12月 1 1年基点 2年基点 3年基点 1月 0 1月 0 1月 1 2月 4 2月 2 2月 2 3月 0 3月 1 3月 1 4月 0 4月 0 4月 1 5月 2 5月 0 5月 1 6月 1 6月 0 6月 1 7月 3 7月 0 7月 2 8月 0 8月 2 8月 4 9月 1 9月 0 9月 3 10月 1 10月 1 10月 3 11月 0 11月 0 11月 2 12月 0 12月 1 12月 2
175 :
初心者 :2006/12/23(土) 16:51:05
歴史マニアが多いですな〜ww
176 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 17:28:05
うーん、では日の統計でのパタン出現まで視野に入れなければなりませんね ただ、それが正しいなら、この年間はもともとは純粋に1〜14日までで編まれていて 15〜20日の記事は後から書き足した痕跡をワザと残している と云う事でしょうかね
177 :
太国 :2006/12/23(土) 18:59:06
>>176 その可能性はあります。またいろいろと〜類推?
別々の原書の内容をストレートに記述したために、そうなったのやも知れません。
片方の原書は通常の14日までの記述でもう片方のそれは24時間制の譬えの
ように、倍の28日までの記述方法であったとか?
さまざま考えられるんではありませんか?
178 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 19:11:28
>>153 実は一番心配しているのはそのことなのです。
今まで銀座駅前大学や横浜歴研、神奈川歴研、東アジアの古代等の研究発表で発表したのですが、何の論評もされず、わからないという反応しかありませんでした。
ですから、計算は大丈夫かといわれても、多分としかいいようがありません。
出版してから、足し算がまちがっているとか8から4をひいたら3じゃなくて4だろう。とかの苦情が殺到するのではないかと苦慮しております。
間違いが見つかりましたら、手紙、ファックス、2ちゃんねるでご連絡ねがいます。
179 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 20:05:23
>>174 の抽出が合ってるなら、景行紀の3ヶ月連続空亡月群は3表分類での
1年基点で、「11月、12月、1月」と見れば三つ続きじゃないですか?
この年間は「11、12、1」「2、3、,4」「5、6、7」「8、9、10」でセットだとすると
2年基準では4月を飛ばして「5月、6月、7月」で三つ続き
3年基準はナシと
うーん、まぁ他の天皇でのパタンと照合しないとこの正否はちょっと解らないですね
180 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 20:32:41
>>178 >今まで銀座駅前大学や横浜歴研、神奈川歴研、東アジアの古代等の
>研究発表で発表したのですが、何の論評もされず、
>わからないという反応しかありませんでした。
どういうことですか? あんまり共感がえられなかったの?
それとも、計算がややこしくて、みんな「?」になったの?
あと、
>>166 だと
高天原と高千穂は、名前が似ているけど、全く違うところだそうです。
自分も、高天原と高千穂、ごっちゃになってました。
でも、こういう人、意外に多いんじゃないのかな...
言われてみれば、高天原は畿内の可能性が強くて
高千穂は九州の可能性が強そうですね...
でも、この場合って、紀元前に一度、日本全国規模の連合体が
出来ていたということですかね?
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
182 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 20:44:37
サガミハラハラの案って、信じられないなと思ったのは 神武天皇のところだな。 あれだけ、倍年暦で計算しようとしたのに 最後の最後に限って、神武天皇のところで、 ちゃんと記紀を年代を解明しようとせず、 適当に中国史書と金印で、無理やり神武を合わせようとした。 サガミハラハラは甘い、甘い。本なんて立ち読みで十分だ!
183 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 21:05:43
垂仁以前についての記紀の年代での検証はまだおこなっておりません。これからです。その検証の結果と 中国の史料による神武の年代がうまく接続できるかどうかはこれからの研究にかかっています。
184 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 21:32:31
>>188 本は買います。ただ、中国の史書と神武の年代を合わせるのは
悪いとまでは言いませんが、ちょっと...
まあ、他に何か資料があるのかよ?って言われれば、それまでですが...
だからこそ、古墳の発掘とか、年輪年代測定方法とかで
出来るだけ調べるべきだと...
185 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 21:40:14
2倍年暦は一般には全く新しい理論なので、それを受け入れる下地がないために、ほとんどのかたは何をいっているのかわからないようです。
186 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 21:41:42
>>185 それって、受け入れられていないというよりも
まだ新しくて、これから?ってことですか?
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQ
188 :
太国 :2006/12/23(土) 21:57:12
>>179 征東大将軍さん
1年基点で
景行4年11月(マキムクに都をつくる)があり、三ヶ月連続は無いです。
太国ってこんなに○○でも 生きていて楽しい?
190 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 22:00:19
そうです。2倍年暦の研究は専門在野を問わず、これから始まるのです。 私の本はその叩き台となるのです。
191 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 22:01:51
年代の合わせ方の問題なんですよ
サガミハラハラさんは帥升と神武は同時代と言っていますが
帥升と同時代なのはAD107年即位元年の懿徳で
建武中元二年=AD57年倭奴国の遣使と同時代が、AD57年即位元年の神武でしょう
>>188 ホントだ、すいません。見落としです
192 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 22:15:39
サガミハラハラさんは垂仁没を314年と決定する前提に 崇神没は258年はそのまま使っていたと思いますが それでは垂仁の治世年間が長過ぎやしないですか? 雄略没年を古事記没年の489以前である書紀没年479年に そのまま従う事以上の不審点です
193 :
サガミハラハラ :2006/12/23(土) 22:31:46
垂仁没の前提は崇神ではありません。 景行紀の検討から315年ごろと算出し、住吉大社年代記の干支を2倍年暦とみて、垂仁没314年をだしました。 垂仁の即位年はまだ検討していません。
194 :
太国 :2006/12/23(土) 22:32:51
それがしは崇神没は259年と観てます。近いですね。
195 :
太国 :2006/12/23(土) 22:35:17
314? 315年ですか? 長いような気がします。
196 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:36:01
197 :
太国 :2006/12/23(土) 22:39:08
>>196 説明は長くなってしまいます。1度年表を見て下さい。
「邪馬台国は大和朝廷になったのか part21」に倍暦表を出してます。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQ
199 :
太国 :2006/12/23(土) 22:42:54
>>196 同スレpart21 の >411〜>499 に断続的に表があります。
200 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:43:40
ところで太国さんは古神道の最高権威なのですか?
201 :
太国 :2006/12/23(土) 22:47:46
>200
モノを出せばそうなります。なるべくここのスレの話をしましょう。
甘餓鬼(
>>198 )はシカトして下さい。ww
202 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:50:41
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144 紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
203 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:51:53
204 :
太国 :2006/12/23(土) 22:54:36
205 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 22:55:27
そうでしたか? サガミハラハラさんはT類やU類との切り換えを行なったりしても 住吉大社神代記の崇神と垂仁の没年干支を古事記と同等と断定して扱っている所までは良い訳ですよね? 古事記二倍年暦説で垂仁没年が314年である正しさは、 同一文献に崇神と垂仁の没年干支が記載され、且つ崇神の没年干支が古事記と同一 であり担保されているんじゃなかったんですか?
206 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:55:52
207 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:57:51
208 :
太国 :2006/12/23(土) 23:00:36
>204は 紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。
209 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:02:36
>>208 文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ
>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?
210 :
太国 :2006/12/23(土) 23:08:28
>>209 そんなことを言える柄か〜?
↓
お前の文の上半分は読点が無いではないか?
いらぬことよ。
211 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:11:07
生齧りといっている人の返事に、 出版が出てくるとは、 凄い文章センスですよ!
212 :
太国 :2006/12/23(土) 23:13:05
>>205 実年代314年は日本武尊の没年と観てますが・・・。
213 :
日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:36:16
ここのコテは、 太国に付き合えるんだから、 総て自作なんだろうなw
214 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 23:44:17
私が以前に検証した時に、確か崇神没年を258春年にした場合の 二巡目の辛未年が314秋年だったと思うんですが記憶違いでしょうか? サガミハラハラさんが垂仁即位年に付いて回避するのは、 そのまま古事記の崇神没年干支年が何時であるかに 言及しなければならないからじゃないんですか? サガミハラハラさんの説には疑惑が沢山あります。 仁徳の在位年数を比率で出す算出方法と、 武内宿禰の寿命を決め打ちして生年を逆算しているところです。 本当はそう云う論理展開は成り立たないんじゃないんですか? 予め別の拘束条件から導かれた仁徳在位年数と武内宿禰の寿命を持ち出して ソコから逆算して見せるのは不当なロジックなんじゃないですか? サガミハラハラさんは、そんなロジックで景行元年を求めた訳じゃない筈ですよね サガミハラハラさんは、古事記二倍年暦説で 崇神没年干支年から垂仁没年を算出して、その次の半期を景行元年にした筈ですよ 仁徳の辻褄も武内宿禰の辻褄もそこから計算した筈です しかしサガミハラハラさんは垂仁の治世年間が長過ぎる事を知っているので 垂仁元年が明らかになってしまう、崇神の古事記没年に付いて言及したがらないんです そう、雄略の古事記没年干支年の時のように サガミハラハラさんの説が理解されないのは、計算の繁雑さだけでなく、そう云う不正行為を隠蔽している事が真の原因でしょう
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQ
>サガミハラハラさんの説が理解されないのは、計算の繁雑さだけでなく、そう云う不正行為を隠蔽している事が真の原因でしょう つか紀年法じたいが理解されにくいという現状
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144 紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
203 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:51:53
>>201 >>202 紀年のほうは生かじりなんですか?
204 :太国 :2006/12/23(土) 22:54:36
>>203 でなければ出版を手がけますよ。
206 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:55:52
>>203 出版をしたことがあるんですか?
207 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:57:51
>>204 何の分野の本を出版したんですか?
208 :太国 :2006/12/23(土) 23:00:36
>204は
紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。
209 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:02:36
>>208 文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ
>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?
211 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:11:07
生齧りといっている人の返事に、
出版が出てくるとは、
凄い文章センスですよ!
太国の敗退の巻
218 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 05:00:05
崇神5年の飢餓と、年輪年代測定方法がどう結びつくかで 二倍年暦が確かになる。
219 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 07:28:31
自分は、57年の奴国と107年の倭王は 無理に天皇に合わせようとするべきではないと思う。
220 :
太国 :2006/12/24(日) 07:30:37
サガミハラハラさんは、なにかいじくりすぎの感がある。 とくに水増しというのは1〜2回ならまだしも、それ以上水増しがあったと いう状態ならば、論自体に疑念が出てそれがぬぐえなくなる。つまり、これは どうか〜? の想いにひたる。 荒氏の餓鬼の丸、コテ無パンがわめいてきましたのでシカトして下さい。以前 余にコテンパンにやっつけられ、奴はうらめしやの泣き餓鬼になっています。w
221 :
サガミハラハラ :2006/12/24(日) 08:26:26
>>205 確かに住吉大社年代記ではそうですが、それをそのまま鵜呑みにするわけにはまいりません。一つ一つ検証する必要があります。
で、まだその検証はおこなっておりません。
222 :
サガミハラハラ :2006/12/24(日) 09:00:49
>>214 崇神没年の候補の一つに、古事記干支U類での258年春年があります。垂仁没年314年秋年は辛未年です。
これでは垂仁治世が60年近くになってしまいます。非現実的と私は考えました。
前にいろいろ書いたのですが、中途のものが多く、いろいろ考え検証し、最初のものと異なっていることが多いです。
集大成は今度の出版の中に記してあります。
垂仁即位年と崇神没年はほぼ同時ですので、垂仁即位年をきめると同時に崇神没年がきまりますが、そのことはまだ検証しておりませんので、
今回は回避いたしました。
なにぶん最近2倍年暦のことが論議研究されはじめているようなので、ぐずぐずしていると先を越されそうなので、
ここで出版としたわけです。
武内スクネの件はあくまでも、景行紀の傍証としてもちだしたものです。
仁徳紀を比例して105歳と仮定して当てはめてみたところ、偶然というか
それが真実であったからでしょうかドンピシャリとあてはまったわけです。
理解されないのは前に書いたように、新しすぎてうけつけられなかったからです。
223 :
サガミハラハラ :2006/12/24(日) 09:10:43
>>222 訂正お願いいたします。
ぐずぐずしていると先を越されそうなのでを
ここで私の愚説を述べ、何らかの参考にしていただけたらと思い
としてください。
62)2002.8.26 弥生時代へ
琵琶湖の湖南地域に邪馬台国の主勢力があったとする推理があります。
滋賀県の守山市・栗東市一帯で近江富士を望む地域です。
野洲町・大岩山からは1〜2世紀に東海勢が作った「三遠式」と
近畿勢の「近畿式」銅鐸が混在するように24個出土している。
この推理を組み立てているのは次の点です。
紀元前三世紀...丹後・扇谷遺跡の鉄屑ー中国との交易が推定される
紀元前一世紀...丹後・奈具岡遺跡の玉類加工していた大規模集落
針などの鉄製工具も大量に出土している
紀元前後...若狭湾ー琵琶湖北西岸地域…塩の道として機能し鉄製品の交易ルートか
滋賀・熊野本遺跡の高地性集落で大量の鉄が出土
土器の交易と重なる鉄の交易ルートー琵琶湖の湖南経由か
紀元一世紀前半...丹後・三坂神社墳墓群の中国製太刀ー朝鮮半島では鉄の技術低い頃
当時、鉄の交易先は東海・北陸方面と考えられている
紀元1〜2世紀末...湖南の伊勢遺跡群などの都市ともいえる大集落群
http://www.geocities.jp/arashiyamabungaku/tango6-6.html
225 :
サガミハラハラ :2006/12/24(日) 09:18:50
>>220 紀の編者がいじくりすぎたから、それを元に戻すためにあれこれと組み立てなおさなければ
ならないのですよ。綺麗に2倍年暦にならんでいるのなら、こんなに苦労しませんです。
>>225 唯一の希望は、古事記のほうは淡白だけど
まあ干支没年に関しては、素直に記述していることですか?
(誤記はあるでしょうが...)
それで、日本書紀を探るしかないと...
出来れば、失われた天皇記などの書物が出てきてほしいですね...
最近、衛星探査などで、地表に隠れている人工遺跡を探る技術とか
発展しているわけですから、それで、いろいろ遺跡が発掘されると良いですね。
丹後地方なんかでは、紀元前1世紀の鉄とか前漢の鏡とか
これまでの考古学の常識を覆すものが発掘されているし、
物部氏とか海部氏の遺物なんかでは、どうも天皇家は
皇統譜を操作していたみたいだし...
(どうも一族同士の関係で操作した形跡があるらしい...
これは発覚したところで、今の天皇家には全くリスクは無いように思うのだが...)
ここは他のスレよりも比較的まともに思えるので質問させてください。 古田氏の九州王朝説を骨子に見ていくと このスレの主題はじめ、五王の問題や白村江以後の問題など、 いろいろと納得できる点が多いのですが、 そのあたりの古田氏の評価ってどうなんでしょう? 細かいところで異論反論があるのは当然としても あまりにも評価が低い(DQN扱いとか)ので以前から気になってました。 やっぱ「東日流外三郡誌」なる偽書を掴んだせいで、 それまでの研究・考察の成果も落ちちゃったってことでしょうか? だとしたらある意味被害者と言える気もするのですが。 関係者でもなければ信者でもありませんが、一ファンとして気になってました。 他のスレで訊いてもまともな見解はいられなかったもので。
228 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 12:31:00
根本的に事実無根の記紀に歴史を合わせようとするから符合しない 大和朝廷の痕跡は4世紀以前では出ていない 支配には意思の伝達手段としての文字が必要であり形として残らねばならない 20〜30の寿命では口承による伝承は100年も持たない また1世代の伝承でさえ語り手と聞き手の想像による差異が内容を変えてしまう
やっぱり自作自演確定だねw こんなに文章が弱い人達が集まりますか?ふつう(太国の真似)!
230 :
太国 :2006/12/24(日) 13:06:23
>>227 だから、古田先生の言う九州王朝はおおむね正解ですよ。
卑弥呼の女王国 邪馬壹國
倭の五王朝の国 邪馬臺國
こういうことですよ。双方が九州にあったんです。
津軽が間違いだとしても、九州もそうにはならないわけで、
当時二つの王朝が九州に並立して存在したの真です。
231 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 13:17:06
>だから、古田先生の言う九州王朝はおおむね正解ですよ。 藁
なんかさ、安易に「王朝」みたいな言葉を特別視しすぎていると思う。 中世だとさ、大友家とか島津家も九州王朝にいえるしね。 でも、彼らは一方で、畿内の朝廷や幕府と主従関係も結んでいたし、また、 彼らの遠い親戚が日本全国にいたし、また他の地域の諸侯とも姻戚関係も結んでいた。 その何か...これが「王朝」でこれが「王朝ではない」という 言葉に対して、あまりにも大きくなりすぎているのが 古代史の研究での解釈だと思う。 最近、言われているように、畿内王権と九州王権の指導層が 親族関係にあったというのも、中世みたいな関係が出来ていたともいえる。 それにしても、王朝以外にも何か、別の言葉とかないか?
233 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 17:36:27
>>230 太国さんよ今度は古田説かw
論がメチャクチャだよなお前w
しかも古田さんからも発展してるみたいだし、
証拠あるのか?www
234 :
↑ 太国 :2006/12/24(日) 17:38:47
コテ無パン 倭留を懲らしめ一筋に〜 苦難の道も恐れない〜♪
>>234 お前の自作自演には、
いつも証拠は必要ないみたいだしなwww
>>232 >中世だとさ、大友家とか島津家も九州王朝にいえるしね。
言えねぇダロ。
237 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 17:45:45
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144 紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
203 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:51:53
>>201 >>202 紀年のほうは生かじりなんですか?
204 :太国 :2006/12/23(土) 22:54:36
>>203 でなければ出版を手がけますよ。
206 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:55:52
>>203 出版をしたことがあるんですか?
207 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:57:51
>>204 何の分野の本を出版したんですか?
208 :太国 :2006/12/23(土) 23:00:36
>204は
紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。
209 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:02:36
>>208 文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ
>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?
211 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:11:07
生齧りといっている人の返事に、
出版が出てくるとは、
凄い文章センスですよ!
太国の敗退の巻
サガミハラハラさん、 107年の倭国王・「帥升等」って、全部、人名じゃないでしょうか? 「シシト」と読むように思います。どうでしょうか? 実は、これと近い名前の天皇が一人居ます。 第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)です。 実は、あなたの倍年暦で計算で、欠史八代の天皇を計算したら 孝安天皇の在位期間が、83年〜133年になるんです。 (計算間違ってたら、ごめんなさい) どうでしょうか? あなたは欠史八代には、違うやり方を適用しようとしていますが、 むしろ、愚直に崇神天皇以前も倍年暦で計算したらどうですか? 107年の倭国王・「帥升等」は、前の57年の奴国王と違って 倭国王というふうに認定されていることに意味があります。 後漢書に「倭面土國王」とあり、ヤマトの国王と読めるかもしれません。
987 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 18:57:49 やっぱり、邪馬台国って畿内じゃないのか? そういうふうに思えてきた... 卑弥呼(ひみこ)=御真津比売命(みまつひめのみこと) 台与(とよ)=豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)初代・斎宮。 狗奴国は熊襲かもしれんが... ということは、当時の大和王権は、畿内〜北九州まで 一応、緩やかながらも連合体を構築していたんじゃないのか?
サガミハラハラさんの倍年暦補正計算で算出したら 西暦230年〜264年が崇神天皇の在位期間。 (計算間違っていたら、ごめんなさい) これを信じるのなら、記紀では崇神天皇5年に飢餓が起こったということだから 倍年暦で補正したら、西暦233年くらいに飢餓が起こった。 ちょうど、その時代に卑弥呼が邪馬台国の国王になっている可能性がある。 つまり、飢餓のせいで、即位間もない崇神天皇が妹の御真津比売命に 祭祀政治をさせた可能性がある。 台与(とよ)というのは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)で 初代・斎宮になった人物じゃないのか? 107年の倭国王・「帥升等」シシトは、 第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)の可能性あり。 孝安天皇の在位期間(サガミハラハラさんの倍年暦で83年〜133年) の可能性が高い。 サガミハラハラさん、あなたの倍年暦計算を 崇神天皇以前は、日本書紀の即位期間を信じて愚直に計算してみるべきでは? 問題は57年の奴国王の金印ですね。これは、どういう意味を表しているのか?
241 :
太国 :2006/12/24(日) 19:40:41
卑弥呼は崇神より後代の人物ですな。 なお不良らしきものがこのスレに来て蠢いていますので、シカトされたい。w
>>240 マキムク遺跡って、祭祀政治の根拠地という印象が強いみたいだね。
つまり、崇神5年の飢餓の影響で大困難になり、
若い崇神は、妹を巫女とした祭祀政治を始めた。
この妹のことを卑弥呼といった。
また、飢餓の困難さが、マキムクという祭祀都市を建設し
前方後円墳という宗教的要素が強い古墳の始まりとなった。
それでOK?
>卑弥呼は崇神より後代の人物ですな。 それは難しいでしょうね。 記紀のトリック(繰り返し)に騙されています。 何度も登場する神であり天皇を、伝承にて確認なさった方がよろしいですね。 有名な伝承にヒントがありますよ。しかも其其断片もある。 貴方の得意な想像は幾ら長けても、納得する方が少ないですが、伝承は不動の為説得力を持ちますからね。 いかがでしょうか?
今、日本書紀をちょっと読んだけど 崇神の妹で、巫女をやっている人が登場する。 彼女の名前は御真津比売命(みまつひめのみこと)... んで、疫病で多くの人が餓死しているのとか... あと、その妹の場面では、遠い蛮族が謀反を起こしていて それを、この巫女やっている妹が悲しんでいるとか... この遠くにいる蛮族って、狗奴国(熊襲)じゃないのか? あと、年輪年代法では、この3世紀というのは 飢饉があったのでは?と言われているらしい。 でも、こういうのが分かったのって、全部 サガミハラハラさんの倍年暦+一部補正方法のおかげだ。
245 :
太国 :2006/12/24(日) 21:54:23
>>243 それは大間違いですね。神功39年の卑弥呼らしいかすかな資料は伊達では
ありません。神功の世の前後のころの姫です。
着の編者らが卑弥呼を神功皇后だろうとして挿入した記事ではありません。
そのころ九州にいた女王ということを編者らは原書で気がついていたという
ことです。貴殿のは時系列の錯誤をして失敗ですよ。
246 :
太国 :2006/12/24(日) 22:09:20
少しづつ、絞られてきてないか?
ただし、
>>239 の卑弥呼は倭迹迹日百襲姫だと思われ。
248 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/24(日) 22:33:08
249 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 22:51:52
みんな、いろいろ言っているうちに 徐々に修正されていきながらも、絞られてきたんじゃないのか? こりゃ、ここ5年以内に空白の歴史が埋まると思う。 箸墓=卑弥呼の墓は確定。 ただし、記紀に書いてある孝霊天皇の皇女ではなく 妊娠した年齢から言って、孝元天皇の皇女だと思う。 孝霊天皇の皇女と孝元天皇の皇女は名前は殆ど似ているし... 記紀の編纂者がゴチャゴチャになったんじゃないのか? あと、107年の倭王・帥升は、 倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト) おそらく、第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト) サガミハラハラさんの倍年暦を崇神天皇以前も 愚直に計算していったら、この天皇になった。
250 :
太国 :2006/12/24(日) 22:54:41
確定はしてないでしょ。
251 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 22:56:59
>>248 よい線までいった。ただし、ちょっと違う。
まず、57年の倭奴国王は、無理に天皇にあわす必要は無いと思う。
たしかに、この国王は金印を貰ったが、この国王は倭国全体の王とは認定されていない。
あくまでも奴国の王としてだ。
サガミハラハラさんの倍年暦だと、孝昭天皇(41.5-82.5)だ。
よって、畿内の天皇家は関与していない。
あとは
>>249 を参考に。
252 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 23:04:23
>>250 自分は今まで、邪馬台国は九州で、別に畿内王権があった説だったけど、
でも、今はちょっと、邪馬台国=畿内王権じゃないのか?と思っている。
というのは、サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にあてたら
107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
と一致したから。
あと、崇神天皇のところで、飢饉が起こって、
遠い蛮族に謀反を起こされるというのが出てくるが、おそらく狗奴国の謀反だろう。
また、崇神は叔母に祭祀を頼んで宗教の力に頼る記述が出てくるが
この叔母こそ卑弥呼じゃないのか?倭迹迹姫命だ。
記紀には倭迹迹日百襲姫命で崇神の大叔母の名前が書いてあるが
名前が似ているから記紀の編纂者もゴチャゴチャになったはず。
あるいは、途中で入れ替わったのかも。
なんせ、妊娠したわけだから、年齢から考えてね...
253 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 23:11:26
>>245 神功と卑彌呼はまるで一致するところがない。
馬鹿馬鹿しい。
254 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 23:49:33
>>253 自分もそう思う。たしか、サガミハラハラ氏は
日本書紀の編纂者は、倍年暦だったことを考慮しないまま
無理に卑弥呼と神功をすり合わせたらしいな。
卑弥呼は、どうも崇神天皇の大叔母か叔母だろうね。
サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。愚直に。 57年の漢倭奴国王が金印。これは、その名称のごとく 倭国全体の王ではなく、奴国の王の可能性が強い。 また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな 立場で任命されたので、金印を貰えたのではないだろうか? サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、 孝昭天皇(41.5-82.5)の時代であり、奴国王は、天皇に黙って、 使節を送ったのではないだろうか? 107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト) =第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5) 崇神天皇の時代(230.5-264) 崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。 そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。 倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ) この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。 実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは 崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。 また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、 はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。 畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。 崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。
256 :
鄭聲之 :2006/12/25(月) 01:55:08
まだやってたんかいw
257 :
太国 :2006/12/25(月) 07:57:53
>>253 馬鹿馬鹿しくはないですよ。紀の編者は神功39年に卑弥呼らしい記事を挿入
したのは 卑弥呼=神功皇后 との先入観から書き入れたのではなく、
当時の時代に女王が九州に存在していたことを各原書等から把握して神功39年
に位置させたもので、少ない記事ではあるが、これは揺るがせません。
上の等式は成立はしませんが、神功の時代に九州に女王国があったことは
不動ですよ。神武の時代に卑弥呼がいてその娘、血族が卑弥呼だと主張するの
ならば、魏志倭人伝には女王国とかの記述などはしないはずで、天皇国とかの
その名称に近い国名で記述がなされてるはずです。紀の神武の時代に畿内に
女王がいたなどとの記載はまるで無いではありませんか。
これは神武の世に卑弥呼がいないことを意味していますよ。女王などの天皇に
匹敵する女の勢力があった記事など、全く記紀の神武世の箇所にはありません。
サガミハラハラさんの二倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。 57年の漢委奴国王が金印。漢委奴国王は、その名称のごとく 倭国全体の王ではなく、委奴国(伊都国)の王の可能性が強い。 また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな 立場で任命されたので金印を貰えたか? あるいは偽者なのか? これより約200年後の魏志倭人伝には、邪馬台国(やまと王権?)の対外出先機関が 伊都国にあったというふうに書かれていたから、そういう重要な関係上 伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。 サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、 孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。いずれにせよ、漢委奴国王は天皇ではないと思う。 107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト) =第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5) よく、 倭国王・帥升(すいしょう)と教科書では覚えたが、これは間違いである。 崇神天皇の時代(230.5-264) 崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。 そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。 倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ) この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。 実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは 崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。 また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、 はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。 畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。 崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。
>>258 サガミハラハラさん、これで、ほぼ正解じゃないですか?
神武は西暦2世紀の人物ではありません。
260 :
太国 :2006/12/25(月) 10:07:12
>>257 漢委奴国王は天皇ではないと思う。同意。
しかしながら、 倭迹迹姫命≠卑弥呼 である。
これが等号で結ばれるならば、紀の神武のところの題名『神武天皇』は廃され、
まるっきり違った題名の『卑弥呼女王』として紀に載ることになる。
>>260 邪馬台国の「台」は、「たい」と読まずに「と」と読んだほうがよい。
よって、邪馬台国(やまとこく)と読むべき。
邪馬台国(やまたいこく)は間違い。
台与も「とよ」と読む。
おそらく、祭祀都市マキムク宮や前方後円墳の登場は
崇神5年の疫病と飢餓の発生が大きい。
そういう切欠から、崇神天皇は、
叔母の巫女による祭祀政治に頼ったのだと思う。
狗奴国(くとこく)は、九州の宇土半島にあった国だろう。
記紀では、崇神のところで、飢餓の発生で全国で反乱が起こって
遠いところで蛮族が反乱を起こしたとか言っているから
この狗奴国(くとこく)のことを言っているのだろう。
>>260 おまえ、神武=崇神とでも思っているのか?
二人は全く違う人物だ。
263 :
サガミハラハラ :2006/12/25(月) 10:28:55
まだ神武以降のことは詳しく考えておりませんが、もろもろのご意見参考に させていただきます。
>>263 サガミハラハラさん、崇神天皇以前も
あなたの倍年暦を、日本書紀の即位年代に
素直に適応したほうが良いと思う。
近年、崇神天皇の祖父の孝元天皇の皇子の一人の名前が書いたものが
発掘されているから、欠史八代もいたのでしょう。
邪馬台国(やまとこく)は、畿内のマキムクにあって
畿内から北九州まで押さえていたように思う。
>>258 魏志倭人伝には、帯法郡の使節をむかえる迎賓館が
伊都国にあったと書いてある。
よって、57年の「漢委奴国王」というのは
漢の委奴(いと)国王と読むべきだろう。
266 :
太国 :2006/12/25(月) 10:47:00
>>262 さっきの文をよく読め、どこに余が 神武=崇神 などと主張した。?
そんなことは言っていないぞ。そのようなホモ論説は否定されするべきである。
神武≠崇神
が正である。これは別人だ。
267 :
太国 :2006/12/25(月) 10:49:18
>>261 ヤマタイをヤマトなんぞと読んで、大和にするんでは古代史の明智小五郎
にはなれんぞ。ww
古事記の著者は、年代に関しては正直だけど それでも勘違いで間違えた箇所がある。 それは、孝元天皇と開化天皇の寿命を 即位期間と間違えて書いている。 これは悪意ではなく、勘違いであろう。 これによって、日本書紀との整合性がとれなくなったw まあ、古事記も日本書紀も、どちらも間違いを犯しているw でも、古事記が発見されて良かったな。 日本書紀だけでは、とてもじゃないけど、解明できなかった。 あと、年輪年代法では、3世紀に飢餓が起こっていることが 分かっているらしい。ちょっとソースは忘れたが... 崇神、卑弥呼(崇神の叔母)、マキムク宮、前方後円墳の誕生と、 飢餓・疫病の発生は密接にかかわっている。
>>267 おそらく、邪馬台国(やまとこく)とは
かなり広範囲に影響力を保持していたのだろう。
感覚的に、室町時代前期の足利政権だ。
ただし、常に諸侯が各地で謀反や反乱を起こしていた。
近世の徳川政権でも、直轄領(天領)、親藩、譜代、外様 というふうに各地域が色分けされていた。 そういう意味で、古代の畿内の邪馬台国(やまとこく)は 北九州に直轄領(天領)を持っていて、 反乱を起こしていた狗奴国(宇土半島にあった国)の鎮圧に当たっていたのでは? 熊襲という蛮族の国の可能性が高い狗奴国の押さえには 邪馬台国(やまとこく)が直接、睨みを利かせねばいけなかった。 だからこそ、そのあたりに直轄地を持っていた。 そうじゃないところは、ある程度、自治・半独立が認められていた。 近世の徳川政権下の外様大名みたいにだ。
271 :
太国 :2006/12/25(月) 11:02:52
古代史の初心者が最初にひっかかりやすいのが ヤマタイ→ヤマト→大和(ここで研究が進んで、次)→畿内説 そして最初のこの先入観が根付いて脱却できないほどの強信となり、 最後までこの考えの失敗からなかなか眼を覚ますことが難しくなる。 哀れこの上もない。
>>271 自分も、あなたと同じように考えた、当初は。
よって、あなたと同じような主張を繰り広げていた。
でも、今はそうは思わなくなってきている。
やまと王権の統治政策というのは、日本全国の
国々を、直結国・自治国というふうに色分けしていた可能性が強い。
実際に、平安時代なんかでも、全国の国々を
上国、遠国、大国などに分けていた(延喜式の格)
これは、古代からの日本の統治スタイルで、国々に
格付けをして、互いを監視させる仕組みで、
鎌倉時代は、御家人・非御家人・守護・国司
室町時代も、足利幕僚・非足利幕僚
徳川時代も、親藩・譜代・外様
これは昔からの日本の統治スタイルである。
よって、魏志倭人伝には、崇神天皇の周りみたいな
人物が出てくるのに、方角は北九州みたいな記述にあった。
記紀でも記載されているが、崇神のやまと王権は
狗奴国の反乱で、それを抑えるために
九州に軍を出動させて、そこに臨時の軍府を置いていたと思う。
魏の将軍は、それを見に行った可能性が強い。
273 :
太国 :2006/12/25(月) 11:36:31
女王国が畿内ならば、陳寿さんらはついでに天皇国の記述も並行して 倭人伝に載せるはずだよ。 これから昼飯だ。あとでな。
274 :
日本@名無史さん :2006/12/25(月) 14:21:49
妄想だらけの砂上の楼閣みたいなスレやな。 アマチュアがプロに馬鹿にされるわけだw
275 :
太国 :2006/12/25(月) 14:23:11
妄想というか、かなり確信を突いてきた。 これって、サガミハラハラさんが 記紀の実年代への修正の研究がうまくいったからだろう? あとは、年輪年代測定法で、崇神5年を詳しく調べるだけだ。
>>251 いいえ、日本書紀の制作サイドの人間は、
実年代のAD57年と書紀のBC660を合わせて原点にしている筈です
2倍ではなく3倍で計算して見て下さい。そうすると
実年代のAD57年中に、書紀のBC660、BC659、BC658
実年代のAD107年中に、書紀のBC510、BC509、BC508
実年代のAD247年中に、書紀のBC90、BC89、BC88
この様に配分されます。つまり
神武元年BC660即位=AD57倭奴国遣使
崇神十年BC88倭迹迹日百襲姫命没=AD247卑弥呼没
彼等はこの様に漢籍上の列島史と合わせて日本書紀を設計した筈ですよ
彼等が列島史上でもっとも古い年次記録であるAD57年を神武元年=日本建国年に
しようと考えた、としても動機としては十分でしょう
それにサガミハラハラさんの説で314年から逆算して虚構年を認めずにそのまま2倍とすれば、
神武元年は紀元前になる訳ですよね。
>>251 さんは孝昭天皇をそのまま(41.5-82.5)としている訳ですし。
海部氏が宮司の籠神社(元伊勢と言われる神社)所有の 伝世鏡に邊津鏡(前漢鏡)と息津鏡(後漢鏡)があります。 海部氏勘注系図には、天祖がこれを火明命(=饒速日命)に授け、 更に火明命が邊津鏡を子の天香語山命に分け授け・・・ 等と云う旨があります 先代旧事本紀では天香語山命が高倉下命であるとしています 高倉下命は日本書紀の神武天皇即位前紀にあるフツノミタマの剣を皇軍に授けた熊野の高倉下の事です。 ですから神武と天香語山命は同世代で、 その一世代前の火明命(=饒速日命)が息津鏡(後漢鏡)を持っていた。と云う事に成ります つまり後漢鏡を火明命(=饒速日命)が授かってないといけないので 神武が紀元前などとすると辻褄が合いませんし 光武帝がAD25〜57で神武がAD57〜なので とするとやはり57年までに火明命(=饒速日命)が存在していたと見るべきでしょう 以上のように、神代と人代の切り替わりが一世紀である事が 息津鏡(後漢鏡)と火明命(=饒速日命)の関係からも裏付けられます
>>277 >神武元年BC660即位=AD57倭奴国遣使
57年の漢委奴国王が金印。
漢委奴国王は、漢の委奴国(伊都国)の国王という意味。
これより約200年後の魏志倭人伝には、邪馬台国(やまと王権?)の迎賓館が
伊都国にあったというふうに書かれていたから、そういう重要な関係上
伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。
いずれにせよ、漢委奴国王は天皇ではないと思う。
こういうコピペをみつけた
漢委奴国王は、「漢(かん)」の「委奴(伊都)国」の「王」という意味。
↓
100 :日本@名無史さん :2006/12/25(月) 21:54:08
>>60 中国王朝の慣例から言うと金印等の国王への印綬は主国・従属国・役職(王)
であり、勝手に三段に読むのは日本の学者だけ。
他の国に送られた印綬をみてみれば明快である。漢>委奴>国王としかこの印
綬は読めない。
281 :
太国 :2006/12/25(月) 22:43:33
履中天皇、反正天皇世が2倍暦なる理由 天皇の号の頭文字は『履』であるが、倍暦に関係する「日」の文字が一つしか ないのがわかる。だから、愚直に考えれば「日」二つならば2倍暦に想いが 当然行くが、ここは否定して間違いに走りやすい判断のところなのである。 よく考えれば『履』の左上部分に死体を意味する「尸」があり、 これは「日」の再生(二度の生)を無にする屍の意味合いのものであり、 やはり2倍暦でないように見受けられるが、「尸」の右下部分に 「日」の字を回復させたい「復」が「日」とともにある。これは死の「尸」 を覆したい第二の「日」の再生をさせんがための強調の黙示であるのだ。 つまり文字の「日」は一つなるも、『履』は二に復する2数を示唆する、2個 の「日」を消極的に教えているのである。 このことは、履中の世が2倍暦を施行する意味なのだ。さらに反正の御名も 蝮の水歯別命で、その頭文字もなにかしらツクリが共通している。反正世も 2倍暦という示唆の御名である。ここの二天皇世は短い時代だが2倍暦であり、 そうすれば真の紀年の構築に至りうる。
>280 それも古田氏が主張してる点だよね。 学会でもそういう方向になってんの?
283 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 00:14:25
>>255 ありきたりの意見を長々とありがとうございますw
>>283 ありきたりの意見だけど...
結局はそういうことだろう...
「念」暦には叶わないよ
286 :
太国 :2006/12/26(火) 05:56:31
>>281 神武、崇神、神功、應神のように「神」の字のつく天皇らの世は3倍暦だな。
「日」の字のことだが、号でなく御名のほうによく 日本・・〜・・尊 など
の「日」は直接関係ないようである。
287 :
太国 :2006/12/26(火) 06:21:33
>>281 ここの主張は1点疑「念」が見つかりました。w
従って、あとで撤回致すやも知れません?
その理由はいずれ・・・・・・・・・。
288 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 07:31:07
いよいよ煮詰まってきましたな
289 :
太国 :2006/12/26(火) 09:07:32
>>287 >>281 の論の疑念が解消しました。やはり、あれで間違いないと考えています。
疑念というのは、履中天皇の即位から皇位は初めての兄弟継承が行われ
たわけですが、履中、反正と允恭において、允恭は等倍暦と観てますから、
兄弟継承の途中で倍暦の変更などやったのか? むしろ残り兄弟の允恭まで
一緒の、同じ倍暦で臨むのが自然ではないのか?
となれば、履中から允恭までの兄弟総てが2倍暦で終始か等倍暦で終始かの
いずれかの選択を取ったんではないのか? と、こう考えていましたが、熟考の
結果、
>>281 の考えが真であるに至ったものです。理由を書けば辞書のように
厚くなる位論を重ねねばならないので、論はいったん保留せざるを得ませんが、
履中、反正では2倍暦を行い、允恭に至りて兄弟ながら2倍を取りやめ、等倍暦
に以降したということです。(
>>281 のとおり)
290 :
古田二世 :2006/12/26(火) 11:18:14
古田一世は数々の画期的ともいえる真説を書紀に発表しそれなりの評価をも得て、日本古代史研究上不滅の功績を残し、学術的にも 大きな功績を残しそうになったのであるが、東日流外三郡史というとんでもない偽書にひっかかり、それまでの功績を一瞬のうちに 灰燼に帰すこととなった。その結果、日本古代史研究は急速に交代し、昭和40年代以前の学説が幅をきかせるようになった。 今では古田説によればと注釈をつけると笑殺されるありさまである。 しかし、正しい説もあるのであるから、彼の説と言わずに自説として発表したほうがよいであろう。 いってみれば、彼の説はいってみれば、草刈場であるといえる。はやいもの勝ちともいえる。
291 :
太国 :2006/12/26(火) 11:22:12
九州王朝と津軽は別。後者はマズクても前者はほぼ正解。 倍暦の論もどうぞ! さあ昼飯、いったん終了。w
292 :
古田二世 :2006/12/26(火) 11:26:08
>>290 訂正
書紀を初期 交代を後退 いってみればを一つ削除
293 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 15:35:29
二倍念力
>>290 サガミハラハラさんにも、古田の二の舞になってもらいたくない。
いいせんまで言っているのだが、
最後の最後で道を踏み外してほしくないと思う。
絶対に「こうだ!」って断定せずに、
一つの良い説くらいにとどめておくべき。
とくに、倍年暦に関しては、なぜ、日本書紀の編纂者は
仁徳天皇と成務天皇の箇所は改竄したのか、その有力な説を
いくつか提起しておくべきだろう。
あと、サガミハラハラさんの最後の危険性は
あれだけ根気よく垂仁天皇の没年まで算出しようとしていたのに
最後の最後になって、「自分の史観だ!」という思い込みで
道を踏み外して、神武の即位年代を出そうとしたこと。
また、神代の部分に関しては、神話学の分野だから、
へんに介入しないほうが良いだろう。
まずは、神武までの測定に全力を出す。
295 :
サガミハラハラ :2006/12/26(火) 19:41:16
ご忠告ありがとうございます。 私の史観、今後の研究次第では大きく変更する場合もあります。 学問研究は日進月歩、常に真理にむかって進み続けます。
>>295 本を楽しみにしているよ。あなたの本を買う。
自分もあなたの本を参考にして、自説に役立てたい。
少なくとも、神武以降は、記紀の編纂者は人代としたわけだから
神武以降は何とかしたい。
神武以前は、神代なので、比較神話学とか、また違う分野が入ってくるから
とりあえず、後回しにしたい。
良いですか? サガミハラハラさんが垂仁の没年までしか出せないのは 基準点である崇神の没年を出すと、垂仁の治世年間が長すぎる事が露呈してしまうからですよ。 明らかな不審点が発生するので、話をそこで打ち切るしかないです 基準点に使った崇神没年と、算出年である垂仁没年の差が56年にもなってしまうのです。 これでは明らかにおかしい訳ですよ ですからそれ以前の年代には「史観では〜」等と言ってこの問題の言及を回避しなければならないのです。 それに虚構年を認めずに314秋年から単純に書紀に依存して2倍だと計算しても、 垂仁の治世年間は五十年弱にもなります。この事だけでも、これは不審だと考えなければなりません
298 :
太国 :2006/12/26(火) 22:13:10
安寧、懿徳世が2倍暦の理由 理由を総て書きこむのはなかなか大変だが、簡単なもの一つを拾い出してみる。 号の安寧だが、これは孝安天皇の『安』の字と清寧天皇の『寧』の字で構成 されている。孝安の世は3倍暦で清寧の世は等倍暦の使用である。 つまり安寧の号は3倍暦と等倍暦の各々の天皇の号の組み合わせであり、 一の天皇世で二種類の暦法は使用しないとの考察から、安寧とはこの二つの暦法 を否定する号だという黙示となる。3倍と等倍の二個の号が各々欠けた号が 安寧の号字なのである。 ということはこの二つの暦法以外の暦法を使ったんだということであり、それ は2倍暦を使用するという意味なのである。懿徳は先述したことがあるが、 もう一度説明すると、『懿』はヘンが「壹」であり(邪馬壹国とはここの 件は無関係)ツクリの上部は「次」になっている。結局壹の次だよという示唆 であり、所長、次長の「次」でナンバー2を意味している。 懿徳も2倍暦で行くとの号だということが理解できるのだ。
299 :
サガミハラハラ :2006/12/26(火) 22:14:52
征東大将軍様、図星です。 けどそのうち解決しようと思っています。
ずっと前に、仁徳天皇の水増しは 倍年暦を考慮せずに、神功皇后の在位年代を 卑弥呼に合わせるためにやったというのを聞いたんですけど、 では、成務天皇の在位期間の水増しって 何が目的だったんですか?
301 :
太国 :2006/12/26(火) 22:50:22
>>298 検討
安康世はどうなんだ? との疑問が浮かぶが、この天皇世は孝安の3倍暦と
違い等倍暦であり、また安閑はどうなんだ? とのことに指摘が行き着く。
安閑世は2倍暦であり
>>298 の考察は強引だとの反論を生む。
だからいったん先の論は保留としたいが、w 安寧も孝安も言わずと知れ
た欠史八代だから、近親性を観た孝安の「安」の意味としたい。w
>>297 あなたの言うとおりだ。
垂仁天皇の在位期間を倍年暦だったとして補正すれば
彼の在位期間は50年弱になる...
崇神天皇没年と垂仁天皇没年の間を、古事記の干支没年で考えたら
ちょうど区切りが良いのが、56年の差ということになるのか?
うんじゃ、この6,7年のズレは何なのか?
崇神天皇の頃って、飢饉で社会不安があって、
皇室出身の巫女による神権政治や、
宗教的な都市マキムク宮の建設、
宗教的な前方後円墳の建設が開始された都市だから
何か、これが関係しているのか?
303 :
サガミハラハラ :2006/12/26(火) 22:59:57
成務天皇の水増しの理由? そういえばそれ考えなかったな。なんだろう。
304 :
太国 :2006/12/26(火) 23:01:55
垂仁即位 260年 同崩御 292年 と算出ですが・・・。
崇神天皇と垂仁天皇のずれって、巫女政治と関係ないのか? たしか、崇神天皇の娘が初代斎宮で彼女が台与(とよ)だとか... 今後、研究課題だな...
306 :
古田二世 :2006/12/26(火) 23:10:37
皆さん台与といっていますが、壱与が正しいですよ。ですから台与(トヨ)をもとにした、豊国台与由来説はなりたちません。
Wikiで気になった箇所を拾ってみる。 『日本書紀』から主な事績を拾い出してみる。 崇神天皇3年(紀元前95年)、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。 即位してまもなく疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。これを鎮めるべく、 従来宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命(台与か?)に託して、 笠縫邑(現在の檜原神社・奈良県桜井市)に祭らせ、 その後各地を移動したが、垂仁天皇25年(紀元前5年)に 現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。(詳細記事:元伊勢) 崇神天皇48年(紀元前50年)、豊城命(豊城入彦命・豊鍬入姫命の同母兄)と 活目命(垂仁天皇)を呼びどちらを皇太子にするか決めた。 その結果、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。 崇神天皇68年(紀元前30年)、120歳で崩御。(『古事記』では168歳)
Wikiで気になった箇所を拾ってみる。垂仁天皇編。 皇后は初め狭穂姫であったが、兄の狭穂彦(さほひこ)が叛乱を 起こしたので、皇后は兄に従って焼死。 その後、丹波から日葉酢媛を迎えて皇后とした。 また、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託し、伊勢神宮を興したと伝える。 日葉酢媛が薨じた時、野見宿禰(のみのすくね)の進言に従い、 殉死に替えて土偶を葬ったが、これは埴輪の起源説話として著名。 狭穂彦王(さほひこのみこ、生年不詳 - 垂仁天皇5年(紀元前24年)10月没)とは、 記紀における皇族(王族) 垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。 叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。 この「狭穂毘古の叛乱」は、『古事記』における最も物語性の 高い記述とされる。
>>307-308 以上のことから、崇神天皇から垂仁天皇の間では
社会不安、皇族内の対立・紛争、宗教的な変化など
いろいろとあったもよう。
>>307-309 サガミハラハラさんの感想を期待。
崇神と垂仁の間にも大きな虚構年がある可能性大。
崇神では30年分、垂仁では47年分が連続で記事が飛んでますから 倍暦や等倍での虚構年を認めるなら此処でしょう
記紀によると、垂仁天皇って、古墳に殉死者が埋めるのを禁止するかわりに 埴輪を埋めさそうとした最初の天皇なんだよな。 考古学的には、3世紀中葉〜後葉になって 前方後円墳の周りに埴輪が出てくる。 だから、垂仁もこのへんの天皇だというのは確か。
>>311 虚構年の定義は分からんけど
崇神天皇から垂仁天皇への皇位継承は
すんなりとは行っていないということだろう?
単純に虚構年を入れたという解釈よりは
この間の皇位継承がすんなり行ってなくて
混乱したというのが、後世の年代換算の混乱の原因になっていると思う。
崇神天皇の末期に次期天皇を誰にするのか?という問題があったし
その垂仁の兄の同母妹は、初代斎宮の女性だし、
また、垂仁天皇の最初の皇后が、兄(彼も皇族出身)と計って
謀反を起こすという、ただならぬ混乱があるし...
日本書紀では、崇神天皇から垂仁天皇まで すんなり皇位が継承されたような干支即位年が設定されているが このへんは信用できない。 少なくとも、垂仁天皇の初期は、一族同士の ただならぬ権力闘争が勃発している。
大きく飛んでるところ。 崇神天皇十七年〜崇神天皇四八年 崇神天皇四八年〜崇神天皇六〇年 垂仁天皇三九年〜垂仁天皇八七年
○崇神・大彦の活躍した年代
古事記によると、崇神の崩御した年の干支(崩年干支)は戊寅(ぼいん)という。
これが318年か258年か議論されたが、
田中卓氏は「住吉大社神代記」のなかに、
次の垂仁天皇の崩年干支が辛未(311年相当)とあるのを発見し、
「崇神の崩御=258年」説を確認した。原さんもこの説を支持。
258年といえば、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなった
248年からたった10年後。卑弥呼と崇神は同時代の人物になる。
http://www.begin.or.jp/sakura/sinpo01.htm
>>316 この人は倍年暦では計算してないが、
住吉大社の神代記では、垂仁天皇の干支没年が判明している。
ああ、今、初歩的なことに気がついたw 紀元0年って、存在しなかったんだw いや〜紀元1年からなんだよねw このへんの計算ミスも やらかしてしまったのかもw ああ、うっとおしいw
319 :
太国 :2006/12/27(水) 08:01:45
履中、反正世が在位期間が短いし、允恭世はそれが長いようだということから、 前者が等倍で後者が2倍暦ではないのかと思ってしまうほうに考えが傾くで あろうが、そうではなく前者が2倍暦で後者が等倍暦なのである。 紀から、允恭天皇は自己への医療をよくやっていたように伺える。だから 在位期間が長く保持できたのであろう。
320 :
太国 :2006/12/27(水) 08:13:47
>>316 卑弥呼−−→・←−−崇神 というH説は大間違い。
卑弥呼は神功の世の前後ころの九州の人物。
紀元1年をまたぐ年数計算 これって間違いやすい。
322 :
太国 :2006/12/27(水) 11:30:29
雄略世が等倍暦の理由 雄略4年に天皇が一言主神という人物に遭遇して いるが、これは1倍暦即ち等倍暦の黙示のようである。 また同年から他の倍暦でやってたのを雄略4年から等倍暦に変更したとかの 意味ではなく、当然雄略元年から次代の天皇元年の前年までが等倍暦で 行く意味であろう。途中から倍暦変更はしないと思う。
サガミハラハラさんという人が年代を出そうとしているけど 自分も年代を出そうとしているんだけど、 紀元の年代の出しかたってややこしい。 小数点で出すと、たとえば 紀元345.5年と出すと、これは 345年なのか、346年なのかで、頭が混乱するし、 紀元前のまたぎの計算だと、紀元0年というのがなくて 紀元1世紀の前が、紀元前1世紀だから、やたら、ややこしくなる。
まぁ、 99-47で52、 311-258で53ですから n倍とかではなくて、倉西さんみたいに等倍の多列並列構造だった って方向かもしれません 唐松山さんが言う「増し」も、等倍の多列並列構造と同じですね
サガミハラハラさんの本、高そうだな... 彼の過去の450ページくらいの本って 2万円超えているじゃん... もっと安く出来ないのか...
日本書紀に書いてある出来事の年表が載っているサイトってないの? 倍年暦補正していないままの... それを元に自分も倍年暦補正してみたい。
327 :
太国 :2006/12/27(水) 23:28:34
>>298 綏天皇が立太子となったのは 皇紀42年1/3 であるが、
安寧天皇の即位が 皇紀113年7/3 であり、月日数に注視すれば両者には
ピタリ半年の差があることが分かる。
このことが、それがしが紀年に興味を持つ始まりになった。このへんの世の
天皇は総てと言ってよいくらい1月即位が殆どである。なのに安寧のみは
なぜか7月即位だということである。(かろうじて例外は開化であろう。)
このことを思案して、安寧世は2倍暦の世と観るようになって行った。
開化も並外れて11月即位ということは、安寧にひっかけて特異な月の即位と
見せて、安寧と同様2倍暦世の黙示ではないかと考えるようになった。
このことは、いまも考えが変わらない。安寧も開化も2倍暦の時代と観る。
>>327 単純に昔の天皇は、何年には分かったとしても
何月に即位したかまで分からなかったのでは?
だから、一月即位ということにしたんだろう?
でも、開化天皇くらいは、何月に即位したかまで分かったんだろうと思う。
329 :
サガミハラハラ :2006/12/28(木) 19:34:44
崇神天皇没年の古事記干支の戊寅は二倍年暦では一類273年、303年、333年。 ニ類は258年、288年、318年です。 ちなみにわたしが考えている垂仁天皇の没年の314年はU類です。
330 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 20:24:07
開化、景行、成務の3人は在位年数がぴったり60年 実在はしたと思うが、本当に即位したのか? 疑っているのは私だけですか?
日本書紀の年代操作区間の天皇の治世年数(在位年数ではなく)は、
対称関係を取る為に加算(減算)して調整した後の値なので、綺麗な数字になっているだけです
ですから、書紀のn倍暦論の立場を取るなら、実年代の年代列を算出するには
最初に減算(加算)してから割り算を始めなければならない筈なんです
>>331 二類は古事記二倍年暦論で崇神没258春年が戊寅になる年代列で
一類は古事記二倍年暦論で成務没351秋年が乙卯になる年代列
で良かったと思います
333 :
サガミハラハラ :2006/12/28(木) 22:38:48
古事記干支には、西暦に当てるとき二種類あるのです。 T類 U類 351年春 甲寅 甲申 秋 乙卯 乙酉 成務天皇崩御 352年春 丙辰 丙戌 仲哀天皇即位 秋 丁巳 丁亥 仲哀2年 353年春 戊午 戊子 仲哀3年 秋 己未 己丑 仲哀4年 となります。十干は同じですが十二支が異なります。
334 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 22:44:06
>>332 こうは考えられないかい
開化・・ネコ族
崇神・垂仁・カサカ・オシクマ・・・イリ族
景行・成務・・・・・・・・・・・・タラシ族
仲哀・・・・・・・・・・・・・・・タラシ族
神功・・・・・・・・・・・・・・・ネコ族
開化と景行・成務が即位していなかったら応神の正統性が成り立たない。
神武〜崇神までの年代は分からないけど 崇神は3世紀前半〜中期 垂仁が3世紀中期〜4世紀初頭の人物だというのは 古墳などの発掘状況からもよく分かる。 だから、垂仁は314年没、崇神は258年没でOKだと思う。 日本書紀で、崇神〜垂仁間は、合わないみたいだけど、 日本書紀は、いろいろ虚構年を設けてしまったわけだから 混乱が生じていると解釈するしかない... 57年の漢倭奴国王に関しては、後漢書では「倭」なんだけど 発見された金印では、「委」になっている。 でも、これだけ言えるのだろうが、「倭の奴国」とか「委の奴国」というふうに 分けて読んではいけない。 おそらく、「倭奴国」か「委奴国」なんだろうね。 ところで、後漢書って、いつ書かれたんだ?
>>335 後漢書は、書いてる内容は後漢の時代だけど
書かれた時代は、倭の五王よりも後の時代の可能性が高い。
中国史料で日本について記述してるもので
それが書かれた年代までピックアップしたサイト
ないかな?
いや、これだけ古代史について語っているサイトが多いのに
史書の原文について、日本のものから中国のものまで
まとめたサイトが殆ど無い。
57年の金印を貰う前って、立て続けに 半島の国々も、後漢から印綬を貰っているんだよね。 その延長線上で、委奴国も金印を貰ったくさい。 「委」か「倭」かどっちが正しいかは 実際に発掘されたのが「委」だったから、「委」のほうが 正しいんじゃないのか? 後漢書というのは、日本の名称が「倭」だと固まったずっと後ころに 書かれたものだから...その影響をたぶんに受けている。
記紀の仲哀天皇の章で 天皇家の祖先が、伊都国王から、いろいろ(三種の神器とか?) 譲り受けたみたいな記述になっている。 よって、畿内に居た天皇家は1世紀〜2世紀にかけて 北九州の伊都国から外交権を奪った可能性がある。
339 :
太国 :2006/12/29(金) 19:09:52
允恭天皇世が等倍暦の理由 紀の記述を見ると、允恭と宣化とは即位がともに12月なのに、何故か即位日数 が書かれていない。ここの共通点のことと、他の理由から、双方の時代が 等倍暦であったと、それがしは観ている。 編者側は困っていたのだ。文書偽造は国家のスキャンダルになろうし、やる、 関与するわけには行かない。これがために日の確定を渋り、保留とせざるを得 なかったのである。それは紀の原書類に2個の即位日の異なる数字があったため で、いずれが真の日数なのかが分からず、彼らは混迷し続けたものである。 彼らは倍暦を知っていたか否か、その点は分からぬが、原書群には等倍暦のと 2倍暦等のと2種類の記述がされていたわけで、その判別も出来なかったのか、 選択を避けて、月数の記載までて停止としてしまった。こういう事である。
340 :
太国 :2006/12/29(金) 19:48:41
>>339 続き
紀の 允恭4年9/28 の文
『詔したまひしく「・・・・・各探湯(クガタチ)せよ。」とのりたまひて、
味橿の丘の辞禍戸のサキに深湯瓮を坐えて諸人を引き赴かしめて、「実を
得る者はおのづからに全く、偽れるはかならず害はえむ。」とのりたまひき。
・・・・・実を得る者はおのづからに全く、実を得ざる者は皆傷つく。』
もの凄い! 手を熱湯にぶち入れて真者は何でもなく偽者は大火傷を手に負う
という判別をする、超手厳しい行事の記事の文なわけなのである。
これはだ、イカアマは完璧に排除し、真のみを金剛のように保持するという
決意の具現なのだ。 〜ということは、
ここの 9/28 の日数はデタラメがないぞ、真そのものであるぞとの赤裸々な
文証なのだ。28日が事実、当時この世で嘘偽りなくその日が存在して、1ヵ月
が4週間の28日分で暦を現実に使用したという、力強い意思の文面なのである。
28日は真の日数の示唆なわけである。
結論はここで出た。1日〜28日まであったということは、允恭の時代が等倍暦
を使用したということであり、1ヶ月を丸々(他だし28日間)現今に近い状態で
使用していたという事である。28日だから閏月が生まれる。
原書群の作者の一部は等倍を、他の作者は同じ記事を2倍等でそれぞれ記載
していたために、紀の編者らはこの併用に戸惑って日の記述をあきらめたと
いうことであろう。現今の時間表記が午後2時と14時とが同等で両用できるの
と同様、これと似たようなことである。
なお允恭4年には姓氏を正した記事までもある。
341 :
太国 :2006/12/29(金) 19:50:03
342 :
太国 :2006/12/29(金) 19:53:03
>>340 訂正 すみません
× (他だし28日間) ○ (但し 28日間)
垂仁天皇は3世紀後半が活躍の舞台だった人物 その理由 ↓ 3世紀中葉〜後葉になると、畿内に出現した前方後円墳に 特殊器台形埴輪およびそれとセットをなす特殊壺形埴輪が新たに出現している。 この特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪の分布の中心は吉備から畿内へと移動しており、 その出現に際しては畿内側の役割が大きかったものと推察されている。 なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、 前方後円墳に特殊器台形土器・特殊壺形土器が採用されていることは、 吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。 日本書紀垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)(出雲国出身)が 日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、 これを埴輪の起源とする。
344 :
太国 :2006/12/30(土) 07:37:11
>>343 垂仁即位 260年 同崩御292年
それがしの計算とほぼ合ってますね。あと>339>340のとおり、允恭の時代を
等倍でやらない論は失敗のもよう。
345 :
日本@名無史さん :2006/12/30(土) 11:35:40
>>339 允恭が等倍暦だとすると
古事記は1/2暦なのか?
346 :
太国 :2006/12/30(土) 13:21:14
>>345 1/2暦っていうのは2倍暦の反対のことか?
古事記がそういう暦法だっていうことは考えていないが、没年干支っていう
のは何らかの参考にはなろう。だが、紀のほうが正解と観ている。
おまえら、暦をいろいろ操作しすぎ。 普通に、雄略天皇の途中から暦が変わったんだろう? よって、そのことを考慮すれば、おのずと年代は割り出される。 古事記の干支没年はほぼ正直とみている。 逆に、日本書紀の場合は、具体的に年代を出そうとしたために 神功皇后を無理やり卑弥呼に同質させようと 改竄して、後世の人間が混乱してしまっている。
348 :
太国 :2006/12/30(土) 14:07:37
>>347 舎人親王が改竄とやらを為したとかいう文書偽造に関与したそ論拠は?
というか、古事記の干支没年は 曖昧な年代だから、あんまり操作する必要が無いが 日本書紀の場合は、明確に年代を出そうとしたから 中国の史料との整合性が取れないと色々 まず〜と考えて、操作している。 その一つが女王卑弥呼の記述だった。 男王なら、数ある天皇の誰かにすれば良かったが 女王だったから、そういうわけにはいかず、無理して 神功皇后に合わせようとした。しかも、過去は倍年暦だったことを 考慮せずにだ。 古代史の年代は、古事記の干支没年を基に、 日本書紀の記述なども参考にして、割り出すしかない。 その場合、天皇の在位期間だけじゃなくて、それぞれの天皇の 生存期間まで割り出すべきだ。じゃないと、 日本書紀のどこが改竄しているか分からないのだ。 仁徳天皇の在位期間が改竄されていたのが分かったのは、 応神天皇と仁徳天皇の生存期間・在位期間の四つを見比べて 仁徳天皇の在位期間が不自然だったから分かった。
350 :
太国 :2006/12/30(土) 17:48:38
合わせるんだったら、神功皇后は卑弥呼であると書いてあるよ。
不自然だというのは君の論理に破綻がひそんでいるからで、改竄にはならない。
しかも
>>340 なぞはどう考えるんだ?
この板はもしか 養豚場でつか?
豚バラ一キロのお客様〜 お持ち帰りのご準備できました
355 :
太国 :2006/12/31(日) 15:00:38
>>354 あまりそれを言わないで欲しい。というのは、それを喚き出したのが
余のニセ者であり、思い出して刺激するとまたニセ者の荒氏をやってくる。
豚さんもたまにはお外で遊びましょうね。 豚臭いと嫌われるよ。 ブー
豚さん頭のまんなかがとろけてますね(^^)
太国さん頭のまんなかがとろけてますね(^^)
360 :
日本@名無史さん :2007/01/02(火) 02:53:49
サガミハラハラさんは、古事記の干支没年も 最初の頃は倍年暦だったというけど、 当然、最初の頃は、通常暦だった中国の干支が入ってくるわけだから 干支も中国にあわせたものだったはずだよね。 それについては、どう考えているわけ?
361 :
サガミハラハラ :2007/01/02(火) 07:55:20
おそらく干支が入ってきたとき、倭国では半年で一年なのだから、干支も倭国では半年で一つとしようと考えたものと思われます。 このような錯誤はときたまみられ、一昔前の日本でも名前を英語表記するとき、英語では名+姓であるからとして、 名を前に姓を後ろにしていたことがあります。
この板はもしか 養豚場でつか?
はい 豚だらけでつ。
364 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 00:05:43
サガミハラハラに出てきてほしい。 自分の最近の説は、邪馬台国の前身は、邪馬国で、そこの王権が 九州の大半を制覇したように思う。 この邪馬国が存在したのが八女で、その近くには山門郡が存在している。 山門とは、邪馬国の入り口という意味で この国が九州全域を統治するにおいて、博多のほうにも山門という地名が出来た。 ちなみに、天皇家の出身地は投馬(つま)国で、 宮崎に存在したいた国家。ここの官には、ミミという名が多くて特殊だが 神武の前後の人間には、ミミという名が多いから その当時の天皇家の流行の名だったのだろう。どうよ?
365 :
サガミハラハラ :2007/01/04(木) 12:01:50
九州はいくつかの馬(間=居間客間土間などの間と同じ意味)にわかれ、北部九州が邪馬で其の中にあったのが邪馬の台国です。 都は惣座、吉野ヶ里そして小城と移動しています。 天皇の出身地は福岡氏で、宮崎説は紀の編者の誤認によるものです。耳川はタギシミミ等人名の尊称と同じであるが、これは、紀が神話当の舞台としたことから、誰かが あやかってミミ川としたか、偶然であったろうと考えます。
366 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 12:12:55
それにしても、何故 投馬国と邪馬台国の都だけ あういう「水行○日、陸行○月」みたいな書き方になったんだ? 普通に、○里て書けばよいじゃん、他みたいに。
367 :
サガミハラハラ :2007/01/04(木) 12:16:57
どうも、陳寿の参考にした資料が複数あったようなのです。
結局、サガミハラハラさんは、 投馬国、邪馬台国、狗奴国を どこにあったとしたのですか?
日本史板の常識 コテ=馬鹿
370 :
太国 :2007/01/06(土) 11:10:29
【繼體世の日数の統計表】 1日 3 11日 1 21日 0 2日 0 12日 0 22日 0 3日 2 13日 1 23日 0 4日 2 14日 2 24日 1 5日 3 15日 0 25日 0 6日 1 16日 0 26日 1 7日 2 17日 0 27日 0 8日 1 18日 0 28日 0 9日 2 19日 0 29日 0 10日 1 20日 0 30日 0 月前半の記述が殆どである。繼體の時代も倍暦をやっていたのが濃厚である。
371 :
日本@名無史さん :2007/01/06(土) 12:04:14
↑ ないから
372 :
太国 :2007/01/06(土) 12:53:41
>>370 24日というのは、繼體天皇が即位前に楠葉宮へ行かれたときの1/24であり、
数少ない下旬の記述が残存しているわけであるが、この天皇世が倍暦使用をして
いたと観るときに宮行きは即位前であることから、おそらくは先帝(武烈)の
世の異なる暦法の名残りと観られ、それがしは先帝は等倍暦だったろうと考察
していることから、24日の日付はうなづけるものである。
数少ないうちのもうひとつ、
26日は百済の武寧王の太子が死亡した體繼7年8/26のことであり、同世が倍暦
使用であってあちらが(おそらく通常の)等倍暦使用のことから、ストレート
記載にて下旬の記述になったのであろうと推察している。
あちらの文献記録が下旬になっていて、当時の日本では繼體世が下旬のないこと
での別暦法使用から断層ができ、日の数字は一致させることが出来なかったので
あろうと感じとれる。
日本史板の常識 太国=馬鹿
>>372 九州王朝肯定派が、
継体の楠葉宮とか2倍年暦検討するのか?
何を拠り所に肯定しているか、さっぱりだねw
375 :
日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:59:36
354 :日本@名無史さん :2006/12/31(日) 14:56:55
>>351 養豚場に見えませんか?
355 :太国 :2006/12/31(日) 15:00:38
>>354 あまりそれを言わないで欲しい。というのは、それを喚き出したのが
余のニセ者であり、思い出して刺激するとまたニセ者の荒氏をやってくる。
www太国又語るに落ちてたよwww
私は荒らしをやってますって書いてあるぞ!
376 :
太国 :2007/01/07(日) 07:17:50
>>374 九州王朝があったことと繼體のこの件とは相互の関連はうすい。
君は倭の五王が当時の各天皇だと思っていて武烈の次代の天皇だから、双方に
影響があったと考えているんだろう? 五王は天皇ではない。
百済の記事は畿内から九州より遠い大陸からの当時の情報ではあるが、
肯定の論にからむことはありえるが、これでその論を押し進めるものでもない。
377 :
太国 :2007/01/07(日) 07:59:07
>>372 佛伝以前の天皇の即位は1月が非常に多い。これは1年の最初の月であるから、
ナンバーワンというものが朝廷の優先性につながるし、しょっぱなというのを
重んじることから先頭の月の1月を即位にあてるとするのはうなづける話である。
だから1月でない月に天皇が即位するのは、何らかの事情があったと推察したく
なる。たとえば垂仁と反正は1/2即位で双方が同一月日で1月即位だが、成務と
仁賢は1/5即位で同様、明確なのは神武、應神、顕宗は同様に1/1である。
安康は12月即位でへぇ〜と驚くし、武烈などは11月の即位である。
ところが、繼體は即位が1月でない2月で、日まで調べれば2/4であり、これは
懿徳と即位月日が同一である。このことから懿徳の2倍暦に因んで繼體世も
先帝とは異なる2倍暦を選択したからではないのか? との感を深くしたの
である。先帝の武烈は11月即位であったが、これは2倍暦の世の開化の即位と
同月であり、武烈の崩御11/11にあっては開化の即位11/12の、月日上での1日
手前の日だという事が分かる。それで武烈崩御の翌日からは流動的ではあるが、
繼體の世とみなすことが云える。翌日とは11/12だから、このことで繼體世は
開化と同様2倍暦の時代だったろうと推定した。それは今も考えが変わらない。
354 :日本@名無史さん :2006/12/31(日) 14:56:55
>>351 養豚場に見えませんか?
355 :太国 :2006/12/31(日) 15:00:38
>>354 あまりそれを言わないで欲しい。というのは、それを喚き出したのが
余のニセ者であり、思い出して刺激するとまたニセ者の荒氏をやってくる。
www太国又語るに落ちてたよwww
私は荒らしをやってますって書いてあるぞ!
379 :
太国 :2007/01/07(日) 10:06:12
>>377 武烈崩御の 11/11→11/12 という翌日移行から 1→2 という日付の一桁目
の動きで 1倍暦(等倍暦)→2倍暦 を黙示したのではないかと考えている。
>>340 から想うことは、等倍暦の允恭世に熱湯に手をつっこむ壮絶な「探湯」と
いう、偽を選別し真を確保する行事がおこなわれており、その日が28日で
あることから1ヶ月がまるまる4週間あったという等倍暦の使用を確信したが、
手を熱湯につっこめば真っ赤にヤケドをするのがオチで、深考するに繼體天皇
のお后は名を手白香皇女という。この名は手が芳しく綺麗に白い手であったよう
でその名がつけられたのかと想うが、このほうは熱湯につっこんだばかりの手
の意味と反対のようで、これが繼體の皇后の名とすれば、允恭の等倍に反して
他の倍暦を使用するぞとの示唆だったのではないかと推察している。
允恭世と違う倍暦となることから、それに因んで皇女の名をつけたのかも
しれない。
>>370 の表と
>>372 から、下旬の二つの日の特異さを認容して別物と
すれば、あとは総ての繼體世の記述が1日〜14日までの月前半の記述で埋まっ
てしまうのが分かる。よって、当時は1ヵ月が今の2週間に相当し、
1年が実質上の半年になり、2倍暦をやっていたことがなおも濃厚になるのだ。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
381 :
日本@名無史さん :2007/01/07(日) 12:46:36
こんにちわ Q2倍年暦を提唱している人って、 結局記紀の時間は間違いだと、 認めているんですよね?
382 :
太国 :2007/01/07(日) 13:11:00
>>381 片方的にはそのとおりだ。なぜなら記紀双方では寿命の数字が
違っている。記はまぁ間違いが多いだろう。ただ倍暦に参考になる
数字とかがひそんでいるようだから、研究の参考になる。
紀は記の後に成立したもので、記の成立過程の反省検討の上成ったもの
で、記の誤りを修正しているからこちらのほうが正解である。
恵也氏は記紀が人間の頭脳内に置き留めたものだから、あてにならない
旨主張しているが、記は太安万侶が稗田阿礼の脳からの発露で成立させ
たものだから、この点同氏の云う歳の数字が間違いである可能性は
相当程度認容できる。しかし同氏は紀までが当時の何某の頭脳からの
発露で成ったものだから記と同様に数字がからきし出鱈目であるとは
云いすぎであり、紀の文は「一書に曰く・・・」の記載に終始し、当時
多数の紀の原書があって記述したものだから、信用性は多大である。
しかしながら、紀の「 」の書きこみは神武以前の神代がほぼ全部で
あるから、神代関係の数字は多様性のもので確定しにくいものの、
神武即位以降はそうでなく紀のほぼ全域にわたり年月日は日の数字まで
記載されている箇所が大半であり、立太子、即位、崩御等整然と記述
されているところから、信用性は(津田病患者の脳以外はw)充分で
あり、史容疑の初代名人から幾代続き残される紀戦の紀譜が不動のように
正確なる記載と認容できうる。超長寿の記載は倍暦のため矛盾がない。
つまり恵也のいう紀が口答のみで記録がない頭の記憶から出来た書だと
いうのは、これこそデタラメなのである。
ども なんだかんだ言っても間違いを認めている史書の、 その他の部分を、都合よく盲目的に信用されてもね〜、 全く説得力がありませんよ太国さん。 どうしてそんなに都合良く出来るんですか? 偉い先生の受け売りなだけでしょw あと文章キチンと書くべきですよ。
384 :
太国 :2007/01/07(日) 14:01:56
>>383 およそ大なる利害関係がなければ、舎人が文書偽造に関与するとは認め
難い。よく欠史八代を増加させたとか、その辺の天皇を超長寿にしたとか
云われるが、たった8代増加させたくらいでは利害の埋め合わせには
少なすぎる数であり、偽造決行には至りにくい数字である。
八百長をやるには、例えば背後に極めて多大な金が動くとかで、
何としてもイカサマをしたいとかの利害甚大なるある何かがあってこそ、
はじめて八百代とかの代数伸長をやる筈である。
君も津田病の軽度の患者に思えてくるが、イカサマをする相当な根拠
を出してからそういうことを云ってくれ。
>>383 にそれがないぞ。
さらに超長寿ばかりはイカサマの記載だとは云うが、編者側はそんなに
一見してデタラメと思える記載をそんなに当たり前に書くだろうかと
いうことを考えた場合、八百長をやるなら一見して第三者に発覚しない
ようにやるはずである。紀の数字の寿命は一見してべらぼうであるから
そんな300歳とかの数字のイカサマでは舎人が間抜けすぎる。警察の
前で捕まえて下さいと泥棒をやるようなもので、稀にそんなトンマは
いるものの、考えられる可能性は極めてうすいと云える。
385 :
日本@名無史さん :2007/01/07(日) 14:07:19
何もかも太国さんは都合がいいんですね、 私には改竄史書は改竄史書にしか写らないけど、 太国さんも間違い認めてれば一体何処証明する必要があるんです、 気は確かですか?
386 :
太国 :2007/01/07(日) 14:22:47
>>384 続き
超長寿ということは一見して現代人の寿命を見れば、とても考えにくい
ほど極端であり、表面からみれば馬鹿じゃないかと思うくらいにイカサマだと
考えたくはなる。しかしこれほど舎人らがトンマな発覚を伊達や酔狂で
行ったのかと考えたとき、八百長にしては巧妙性がまるでないから、どうやら
何らかの特段の事情がそのへんにひそんでいると観るのが、冷静な考えで
あるのだ。ではそれはいったい何か? 知れたこと。2倍暦等をやっていたから
長く見えるだけで、紀の1年は現代の半年分であり、短縮可能が露呈して来る。
な〜んだと、今の人間の寿命と大して違いはないということなのである。
かように矛盾は解消されて行く。つまり偽造ではない。
紀では、欽明2年3月 帝王本記から
「今は古今を考へ覈りてその眞正に歸す。」
と、事実だぞと記している。
387 :
太国 :2007/01/07(日) 14:29:31
>>385 この
>>386 の「 」の文は逆に観れば、失礼だが貴殿の改ざんだとかこそが
出鱈目だという編者側の強い意思の文なのだ。
388 :
日本@名無史さん :2007/01/07(日) 14:36:41
この人ホントに馬鹿だねw
389 :
唐松山 :2007/01/08(月) 10:04:09
「今は古今を考へ覈りてその眞正に歸す。」 全く 同感 現実に記録を執った時点の記述をそのとうりに著す で... 何で掛け算なの? 違う? 日にちを 間引いた 季節を 間引いた それで 百姓出来ますか 米は 作れますか
390 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 15:26:03
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、 結局記紀は間違いだと認めているんですよね? 間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・ ちょっとおかしくね!
391 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 15:49:47
空白の4世紀の隠された事実は天皇陵にある。 調査を拒む理由は?本格調査の前に事前調査をやる。 そこで天皇に都合の良い結果が出そうだと判断すれば大々的にアピールして本格調査。 だが天皇に都合の悪い事実が出そうなら調査は拒否する。 そして事前調査で当たり障りのない処だけ限定的に開放する。 懸念されるのは事実の隠蔽が破壊に変わること。 都合の悪い資料を破壊してしまうこと。 我々は物語を研究しているのではない。 事実を知りたいのだ。 記紀や黄表紙等を研究している人もそれとは別に事実は事実として認めて欲しい。
392 :
太国 :2007/01/08(月) 15:58:36
たとえばA陵を発掘したとする。そこから出てきた物がAかA以前の時代 のモノと認容できれば、これは信頼がおける。 しかしA以降の時代の物が出たからといって、Aではなく後世の時代の陵 だろうとは云えまい。なぜなら、建造されて長期間時間が経過したと して、その間に某時代の者らが陵にはいり、お供物的に物品を置いて 祭礼等をやるだろうし、ならばそのお供物的物品は、出来た陵より後世 に陵内に搬入したものと考えられるからだ。
393 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 16:00:20
394 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 21:47:36
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、 結局記紀は間違いだと認めているんですよね? 間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・ ちょっとおかしくね!
二倍年暦で謎のなのは 崇神天皇に関しては、月の15日以降も出てきて この時代は、一倍年暦だったのでは?と思わせるんだよね。 もし、そうなら、日本では一度、一倍年暦を導入して 再び二倍年暦に戻したことになる。
396 :
太国 :2007/01/09(火) 22:25:38
允恭世が等倍暦の理由〜続き
>>319 >>339 >>340 (訂正
>>341 >>342 )
雄略天皇は允恭7年の誕生、清寧天皇は允恭33年の誕生である。
清寧は雄略の子であることからして、このことから允恭世が通常暦(等倍暦)
でやってたとなると、清寧は雄略が26歳の時生まれた皇子ということとなる。
ところが允恭世が2倍暦の時代だと仮定すると、雄略が13歳のときに清寧が
生まれたことになる。これでは生物学的に考えて絶対不可能とは言えまいが、
あまりにも子供ができる歳にしては早過ぎるきらいがあるわけで、2倍暦使用
の考えは遠のくという他はない。3倍暦ならなおさら成立しないわけで、
やはり允恭の時代は等倍暦であったというのが至当なのである。
紀の允恭7年には雄略の誕生の記載があるも、探してみたが清寧の誕生が何時
だったかの記述はないらしく、どうやら水鏡に41歳、神皇正統記には39歳と
あるということで、このへんから清寧の誕生年を決めたのではなかろうかと
想っているが定かではない。まずその文献だとは想う。
そういうことから清寧の誕生年を一般には444年としているようだが、拙者の
倍暦の計算からは、白髪皇子の誕生は458年、幼武尊にあっては432年が正と
観ている。
397 :
太国 :2007/01/09(火) 22:38:41
>>395 すでに崇神の世の前の綏の時代で1倍年暦をやっています。
太国さんも、記/紀王統譜はすべて事実だと考えられているということで オーケーですか? 実在しなかったスメラミコトはゼロということでしょうか。
399 :
太国 :2007/01/10(水) 07:21:02
>>398 古史古伝にそこはもほぼ同じ書きこみですよ。神功皇后を天皇に扱っているとか
かの違いも少しありますが、いなかったならば、どれかに大きな欠とかの相違が
あってしかりです。古代天皇の並外れた超長寿の記載により不実在とする論を
言い出すならば、それ相応に最もだとは思いますが、倍暦の理が分かれば何の
ことはない、現代人とあんまり変わらない似通った寿命だったということで
矛盾は解消しますから、この点も不合理はありません。
400 :
太国 :2007/01/10(水) 08:13:12
>>396 清寧は御名を白髪武廣國押稚日本根子尊といい、稚児の時からか頭髪が白く、
「稚」の字は大泊瀬幼武尊(雄略)の「幼」の字に相対しているが、「白髪」の
文字と「幼」を比較すれば、雄略は若く清寧は老人との想念が頭に浮かぶ。
手白香皇女(繼體の后)は手白髪皇女とも書き、清寧の名から関連付けてこの
御名となったのかも知れぬが、清寧世も允恭世とともに等倍暦と観てるところ、
どうも浦島太郎と玉手箱を連想してしまう。皇女の御名の手と白髪は身体の別
の場所にあるも、何かこの皇女も年をとって一寸老齢にでも見えたのかと
考えすぎをしてしまうが、その御名は現実の肉体の衰えという意味よりは、
浦島の帰郷時の玉手箱の煙によっての瞬時の白髪老人化した説話を示唆して
いるような気がする。つまりだ長い年月に見えた等倍暦法も2倍暦となれば
半分の短期に縮小するわけで、皇女の御名は2倍暦の黙示ではなかっただろう
かと思えてくるのだ。
玉手箱を連想する「師木津日子玉手見尊」とは安寧天皇の御名であるが、安寧
は2倍暦の時代と拙者は見ている事から、玉手箱の煙からの浦島の白髪の連想
となる手白髪皇女の時代とは、安寧の時と同様2倍暦をやっていたと考えて
いるのだ。すなわち繼體世は2倍暦の時代と結論している。
白髪皇子は「稚」の字がある為まだ倍暦への短縮はなく、(繼體の后の)
手白髪皇女の時代になって2倍暦への浦島短縮をしたと考えるべきである。
401 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 16:29:52
↑ すっげー妄想プッ
402 :
太国 :2007/01/10(水) 19:56:58
>>401 なんなら、お前の自論を書いたらどうだい?
解説できるのか? どうなんだ?
403 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 21:06:30
魏志倭人伝には、狗奴国の「狗古智卑狗」が出てきて これを「クコチヒコ」と読んで、菊池彦と解釈しますが これはは間違いです。 魏略では、「拘右智卑狗」になってて、 これは「コウチヒコ」と読んで、河内彦と解釈します。 これが正しいです。 崇神天皇やモモソ姫に謀反を起こした崇神の叔父の武植安彦が 河内彦(河内の長官)をやっていたので、 拘右智卑狗とは、武植安彦のことです。
404 :
太国 :2007/01/10(水) 21:09:15
>>403 崇神の時代には、卑弥呼の女王国は畿内にも九州にもないよ。
405 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:47:13
>>404 崇神天皇の時代は卑弥呼の時代。
倭国王帥升等の時代(107年)は、孝安天皇の時代。
406 :
太国 :2007/01/10(水) 23:06:43
>>405 神功39年の記述は伊達ではない。卑弥呼の時代は神功世の前後のあたり。
倍暦だと神功39年は365年と計上。
帥升は崇神垂仁のあたりの時代。
崇神垂仁が107年前後なんですか?
408 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:24:26
>>406 帥升は間違い。帥升等(ししと)が正しい。
第6代・孝安天皇(おしひと)さんがそうでしょう?
よって、孝安天皇は西暦107年に中国へ使節を派遣している。
崇神さんが卑弥呼の時代。四同将軍派遣、武植安彦の謀反、モモソ姫の急死が
240〜250年代に起こった。
409 :
太国 :2007/01/10(水) 23:29:10
>>407 景行世かもしれません。107年は疑って然りでしょう。
>>408 そのくらいの字の合いでは別人と観てます。
卑弥呼は神功前後の世で、神功39年は倍暦計上で365年です。
410 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 00:00:14
>>381 >Q2倍年暦を提唱している人って、
>結局記紀の時間は間違いだと、
>認めているんですよね?
俺は記紀に書かれたデーターについては何か拠り所のある資料から使われていると思っている。
しかし、記紀の作者達が誤った(わざと間違った?)編集をしたと思っている
しかし、太国のようにご都合主義一点張りで再編集するのは論外と思っている
疑って然りでしょうとは倭国王帥升等の年代の側を移動させちゃんでしょうか? 今までの言動から察しますと
412 :
太国 :2007/01/11(木) 14:07:38
>>411 帥升は九州王朝の始まりのころの王(か将軍)ですよ。同朝が始まったのは
崇神世のころで、おそらくは帥升は崇神〜景行世あたりの九州の人物ですよ。
成務世に重なる可能性もあります。
欠史八代間の九州はとりわけて王朝があったためしはなく、神武と前代の
ウガヤ朝とかで九州は埋まっていましたが、ウガヤ朝は終わり狭野尊も畿内
へ移り、八代間頃は九州は空き部屋的状態であったということです。
その空白の後、新たに九州に新王朝的なものが興り、帥升はそのころの人物
だということになります。
413 :
太国 :2007/01/11(木) 14:31:29
欠史八代間は際立ってその記述が月前半に終始し、立太子、即位、立后、崩御、 葬儀総てにわたり1日〜14日の月カレンダーの前半2週間の数字になっている。 つまり15日〜30日の記述がまるでなく、ここが驚くべき空白のスペースになって いる。正月の推理探偵の映画番組で金田一耕助の「悪魔が来りて笛を吹く」を たまたま観賞したのだが、金田一探偵は某紙の記載内容から欠陥たる空白を 発見し真犯人を発見した内容になっていた。これといま述べた紀の空白とは 何か似通っていないか? そこにだ、紀の暦法の秘密が見え隠れしている。
414 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 18:24:33
というか、きみら なんで、そう明白に言い切れるわけよ? 帥升等がどういう人物なんて、何とでも言える。 記述が少ないわけだから。
415 :
太国 :2007/01/11(木) 20:05:05
>>413 現代では15日〜30日があるから、その時間に撮影するよう機械を自動的にセット
できるならば、当然あとで再生すればその間の風景とかがよみがえる。
これは現代の意味であって、記紀の佛伝以前の世では、とくに欠史八代間では
そこにタイムマシン的で笑い話になろうかとは思うが、当時ビデオ撮影等が
できたと仮定すれば、当然1日〜14日までは通常に撮影、再生可能だが、
うしろの15日〜30日は被写体が何も写っていない虚無の状態になる。
「月光仮面 第4部 幽靈党の逆襲」では黒くて何も写っていないフィルムが
事件解決の重大な糸口になり、幽靈党はこれを取り戻そうとやっきになる物語
内容であった。かようなことは現今でもあり、今日は某殺人事件のTVの報道
で、アパートマンションの上部の防犯カメラの映像に被害者が写っていないこと
から某人を追及しているケーサツの捜査の話を解説しており、某人の
説明とカメラの被写体の無の矛盾を突いて自供を得たのであるようだ?
八代間の日捨退の無い月後半の無記述を、それがしらは恵也や
>>401 らに突き
示して、彼らの説を崩して成立しないことを追求しよう。
416 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 21:25:01
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、 結局記紀は間違いだと認めているんですよね? 間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・ ちょっとおかしくね! キチンと読んで、キチンと返事下さい。
>>416 魏志倭人伝のとうりに行くとめちゃくちゃな所に出て行きますね
418 :
本田 :2007/01/14(日) 10:49:42
日本の建国は、670年。 >★「三国史記〜新羅本紀」 > 文武王10(670)年、倭国、あらためて日本と号する。 > 自ら言う。日出る処に近い、以て名とする。 以後(統一新羅は)、倭を「日本」と表記した。
419 :
本田 :2007/01/14(日) 11:04:27
420 :
本田 :2007/01/14(日) 11:11:32
>>419 文武天皇の姓は、統一新羅の皇帝の姓と同じ金だと思うよ。
>>416 二倍年歴は、むしろ忠実に読もうというスタンスです。
対して、欠史八代というのは、戦前においては絶対的存在であった
天皇なかんずく初代神武ですら架空の可能性ありという革新的側面が
あって、歴史的意義はあったのですが、そこから無限に拡大解釈さ
れて、タブーがなくなった戦後には、終いには全部架空説まで出現
するに及んで、結局それは絶対視する戦前の右翼とコインの表裏で
しかなかったというわけです。
記紀を読むについては、文献史学者によっていろいろと方法論があり、
その全てを一言で表すことは不可能ですが、歴史のリアリズムという
重要な部分をスルーするかどうかで、江戸や明治の国学者と同根に陥
るかどうかの線引きがあるのは今でも事情は変わりません。相変わら
ずの訓固注釈の腐れ儒者タイプもたくさんいますからw
この場合、まず前提とするべきなのは、「天皇の系譜」という重大事
を簡単に不比等や天武や馬子・・・等の個人が捏造出来る物かどうか
ということです。八百万の神々=各氏族祖先ですから、それを統べる
天皇の系譜に誤りがあるはずがない。
特に初代神武の冒険譚は非常に興味深く、地政学的問題その他、高い
信憑性を持っていると思われます。兄三人が敗死するという情けない
部分もむしろリアルですよね。
また、研究によって日本だけでなく世界中で古代人の年齢が不審なこ
とがわかってきたことから、一人記紀研究の枠に収まらなくなってき
ているのが現状です。決して恣意的ないいとこどりではありません。
ただ、神武を徹底的に神聖視した戦前の亡霊を狂人視して笑い飛ばす
ぐらいの事物の相対化というのは大事ではあります。大国さんみたい
な人も未だに大手を振って歩いているわけですから。
422 :
本田 :2007/01/14(日) 11:44:26
>>420 文武天皇以前の天皇は、
新羅の王族出身の舎人親王が日本紀(日本書紀に非ず。)を編纂する時に、
文武天皇の先祖(つまり新羅の王族)や倭王達に、
死んだ後に天皇を追尊号をおくって、
天皇したので、
日本紀や、日本紀の対抗資料(偽書)の日本書紀の記述は、
歴史書では無く建国神話と考えたほうが良い。
423 :
太国 :2007/01/14(日) 11:47:30
>>421 お前のようなバットマンは両派からの嫌われ待つ男だ。w
古神道の最高権威はお前などは一蹴だ。www
424 :
本田 :2007/01/14(日) 11:55:52
>>422 ×死んだ後に天皇を追尊号をおくって、
○死んだ後に天皇を追尊号としておくって、
まあせいぜい私をターゲットにして憂さを晴らせばいいよ。 でも、日本史板のレベルががた落ちなのにあんたが一役買ってるのは 間違いない。まあ何を言っても無駄だろうが。
426 :
本田 :2007/01/14(日) 12:10:11
>>418 >★ 「旧唐書」
> 日本国は、倭国の別種である。その国が日の昇るところにあるので、日本と名付けた。
> あるいは、倭国は自らその名の美しくないことを嫌い、日本と改めたという。
> あるいは、日本はもと小国で倭国の地を併せたという。
427 :
太国 :2007/01/14(日) 12:10:21
>>425 だいたいお前は左党をなめ過ぎでいるため、
好黒嗜感(ブラック・コーヒー = 古神道)が苦くて飲めないから
膳を下げろと文句を言うわけだ。
お前の頭は少し危険な歯層の状態にあり、お前の健全だった餌舐める質
象牙質はかなり、リトマス史見紙を赤化する強酸政の論理で穴ー空き
の進行化が続いている。これを押しとどめるには強力な円旗政物資を
代入して忠倭し、危険な史想を回避させねばならない。ww
428 :
本田 :2007/01/14(日) 12:45:56
>>422 だから新羅王(姓は金)と倭王(姓は多(大)、金、余、阿毎など)が時間的に並列に存在する期間もある。
ちょうど南北朝時代みたいに、
南朝の天皇(姓は藤原か余(百済王氏))と北朝の天皇(姓は足利)が時間的に並列に存在したように。
別に左翼でもないです。 古代史学=古神道でもないし。
430 :
太国 :2007/01/14(日) 12:54:55
>>429 だったらなんで撤退しろなどと言うんだ? あのとき俺は
普通ならあそこまで言わないが、あの笑いとばすトンデモを懲らしめるには
亀田氏のように徹底して論のパンチをぶちかますのだ。
お前はその妨害をしてるようなものではないか?
431 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 13:30:39
なんだこの文章w
432 :
本田 :2007/01/14(日) 14:12:50
>>425 > でも、日本史板のレベルががた落ちなのにあんたが一役買ってるのは間違いない。
日本史板の議論が低レベルなのは、
建国神話に過ぎない日本書紀や古事記を歴史と勘違いしてる人が多いから。
日本書紀や古事記の話題は、
日本史板では、
考古学の裏付けにのあるものだけにして、
その他は、
神話板でしてほしい。
433 :
本田 :2007/01/14(日) 14:35:36
>>432 古事記は、日本を含む統一新羅の建国神話。
舎人親王の日本紀は、日本の建国神話。
作者不明の日本書紀は、日本紀の対抗資料(偽書)。
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34 太国さんと、九州王朝大好きさんは、 九州王朝肯定派なの? コテもジョークだと思ってたよw 冗談はさておき、 一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい? 359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20 文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
本田は在日韓国人。 よって、彼のことは無視するべき。
本田は、在日朝鮮人。 彼の阿呆説は、無視しよう。
437 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 21:39:02
349 :日本@名無史さん :2007/01/14(日) 20:39:00 ■志羅紀の地理的位置■ 『後漢書』の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。 また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。 『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。 さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は倭と界を接す」とある。 「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」 これは興味深い記録である。 ・辰韓は北にある。 ・弁韓は辰韓の南にある。 ・弁韓の南に倭がある。 この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。 辰韓=ワイ人の国(後の新羅)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。 弁韓=倭人の国。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。 倭=弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。 こういうことだ。 やはり、志羅紀と新羅は別の国だったのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが 証明された。 天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された 先祖の祖国=志羅紀(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
438 :
日本@名無史さん :2007/01/14(日) 21:54:41
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34 太国さんと、九州王朝大好きさんは、 九州王朝肯定派なの? コテもジョークだと思ってたよw 冗談はさておき、 一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい? 359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20 文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
439 :
太国 :2007/01/15(月) 22:44:42
征東大将軍さん 調整の件 調整がある可能性は否定しません。当時の閏月も一種の調整でしょう。 拙者は月の欠損をアパートマンションの104号室のことをたとえていろいろ 3倍暦等を論じましたが、ある無コテの人が云ってましたが、年の空白が あるような箇所が紀にあるとのことで、これを年の欠損だと言われてくれば 貴殿の調整(大きい気がしますが?)の論も遠回しで失礼ですが、否定 出来る根拠は拙者には今のところありません。
440 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/16(火) 00:22:53
ん?
441 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/16(火) 00:25:03
論点は書紀は最後に治世年間を加減算で弄ってると云う事なので 今のところ「3倍適用後に最後に調整した」、でも構わないですけどね
そりゃあ、神話にどんなに有り得ない事が書いてても、 完全に否定できる根拠なんてないよな。 昔の人間は300年以上も生きてたかもしれないし。
2:ごくまれな反例をとりあげる
444 :
太国 :2007/01/17(水) 20:04:07
実年代 128年 孝安天皇 即位 161年 同崩御
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34 太国さんと、九州王朝大好きさんは、 九州王朝肯定派なの? コテもジョークだと思ってたよw 冗談はさておき、 一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい? 359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20 文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
446 :
唐松山 :2007/01/19(金) 19:51:22
増し でみると 日数まで計算できるんですが 崇神 年度 誤差 閏 年目 0日 元年正月壬午朔 0日 元年二月辛亥朔 4年目 -1日 1回 四年十月庚申朔 7年目 -1日 2回 七年二月丁丑朔 7年目 -1日 2回 七年八月癸卯朔 7年目 4日 3回 七年十一月丁卯朔 8年目 2日 3回 八年十二月丙申朔 9年目 -1日 3回 九年三月甲子朔 9年目 -1日 3回 九年四月甲午朔 11年目 -2日 4回 十一年四月壬子朔 12年目 -2日 4回 十二年三月丁丑朔 12年目 -3日 4回 十二年九月甲辰朔 16年目 -3日 5回 四十八年正月己卯朔 16年目 -2日 5回 四八年四月戊申朔 23年目 0日 8回 六十年七月丙申朔 25年目 0日 8回 六十二年七月乙卯朔 26年目 -2日 9回 六十八年十二月戊申朔
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、 結局記紀は間違いだと認めているんですよね? 間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・ ちょっとおかしくね! 返事ちゃんとできないの?
>>447 俺は素人だが、質問の意味がよくわからないぞ。
記紀が合ってると信じてる人が2倍年歴を提唱してるんじゃないの?
天皇の功績の書かれていないのが欠史八代で、
提唱するようなものじゃないんじゃないの?
素人というよりも 読解力に問題があるよ まさか小学生じゃないだろw
450 :
唐松山 :2007/01/25(木) 18:25:09
記紀の 年の干支は 増し があるので 完全に無視する事 日々の干支は、9割以上の確立で正しいと思います 日々の干支で 割出すと そこそこの 暦ができます よ 特に 天皇に成ってから浅い年については、非常によくマッチする 10年を過ぎると 年の干支に 増しがみられ 太子を立ててから死亡までは、 増し ばっかリ。
451 :
日本@名無史さん :2007/01/25(木) 18:44:49
>>447 それくらいの研究は世界中
どこでもやっているのさ。
記紀が間違っているとか何とか言って
全否定する馬鹿は、日本のマルクス主義者しかいないわけで。
452 :
唐松山 :2007/01/25(木) 19:09:38
崇神 歴年 年度 誤差 閏 歴日 174年目1年度-2日65回63619壬午1.1.1 174年目1年度-2日65回63648辛亥1.2.1 177年目4年度-1日66回64977庚申4.10.1 180年目7年度0日68回65834丁丑7.2.1 180年目7年度-1日68回66041甲辰7.8.1 181年目8年度0日68回66484丁卯7.11.1 181年目8年度0日68回66513丙申8.12.1 182年目9年度-1日68回66601甲子9.3.1 182年目9年度0日68回66631甲午9.4.1 184年目11年度0日69回67340癸未11.4.1 185年目12年度0日69回67694丁丑12.3.1 185年目12年度0日70回67901甲辰12.9.1 195年目22年度0日72回71265戊申48.1.1 195年目22年度2日73回71385戊申48.4.1 196年目23年度-3日74回71853丙申60.7.1 198年目25年度-2日75回72592乙卯62.7.1 199年目26年度0日76回73125戊申68.12.1 太陽暦との誤差は、+−2ヶ月位 崇神174年より 164年の方が 誤差は、少ない。 上記のように 崇神なら 12年までは 干支が合う これらの所も 一緒に 掛け算の対象にする 合理的説明ができますか?
453 :
日本@名無史さん :2007/01/27(土) 10:26:13
日本書紀で月が15日以降まで 出てくる天皇って、だれだれ?
454 :
日本@名無史さん :2007/01/27(土) 10:32:14
月日の記述も数字ではなく干支だね。
455 :
太国 :2007/01/27(土) 11:34:48
>>453 欠史八代の天皇らは1日〜14日までの記述しかない。
崇神と仲哀は15日以降の記述が結構あるし他にもいるが、15日以降の記述は
大半が少なく、下旬に至ってはほとんどが猫の額ほどの記述しかない。
456 :
太国 :2007/01/27(土) 11:42:11
これは佛伝以前の天皇らのことです。佛伝以降は上旬も中旬も下旬もいずれ も記述が多くあります。
二倍年暦と九州王朝 矛盾しない思考! どうすればできるの?
458 :
日本@名無史さん :2007/01/27(土) 12:54:59
九州王朝(邪馬台国が盟主)は存在したのは290年頃までです。その後は大和朝廷に飲み込まれました。
459 :
日本@名無史さん :2007/01/27(土) 13:00:02
460 :
太国 :2007/01/27(土) 15:43:44
>>457 九州王朝で倍暦を使用していたかどうかは、何とも? です。
可能性はあるでしょう。なにか具体的資料があるのでしょうか?
大和朝廷は倍暦使用ですよ。ただし仏教伝来の以前です。
神功39年は実年代で365年で、同66年は374年です。
>>455 垂仁天皇の記述も15日以降があるよ。
誰か、そのへんを詳しくまとめているサイトとか知らないかな...
462 :
太国 :2007/01/27(土) 22:58:53
記紀で注目される15日以降の記述... どの天皇は15日以降が、どれだけ出てくるのか、 分かりやすく纏めたサイトとか ないものか? 雄略天皇以前で15日以降が出てくる天皇の箇所は 年代を倍に引き伸ばすことによって 実質的に四倍暦みたいになってしまっている可能性大か?
464 :
太国 :2007/01/28(日) 20:35:10
目下、計算のところ、実年代は以下のとおり算出しました。 神武誕生 B.C.52年 同立太子 B.C.37年(15歳) 同即位 A.D.1年(52歳) 同崩御 A.D.26年(77歳) 同葬 A.D.27年 綏即位 A.D.30年
むしろ時期によって倍暦も一年暦も混在して使用されたとか
466 :
太国 :2007/01/28(日) 22:21:11
>>465 そのとおりです。言い忘れましたが、神武即位〜同崩御までは3倍暦でやって
おり、即位前は等倍暦でやってました。
即位から崩御までの紀の記事を調べるに、その全部が1月〜4月までの記述に
終始し、驚くなかれ5月以降は使用しないという、1年が現今の4ヶ月で実施
していたのがどうやら真のようです。
5月〜12月の原本が焼失等で無に帰したため、編者らが記述できなかったのか?
といったんは考えましたが、そうならば神武即位元年から、たとえば20年くらい
の記述に留まり21年以降が全く記載がないとかになるべきですが、崩御まで途中
31年と42年、また崩御の76年の記述があることからどうやら欠本でもなさそうだ、
少ない中で重要の記述のみ残っていたからではないかと考察し、そうなれば当時
は1年が4ヶ月しかなかったらしく、3倍暦をやっていたと考えています。
では何故、5月以降を暦で不使用の空白にしたのかといえば、おそらくは
高天原の暗黒、混乱時の五月蝿なす状態が不吉とみて5月以降を無としたか、
さらに五瀬命が5月に戦死したことを神武天皇はそうとう衝撃をうけていたよう
で、凶月と定め5月以降に断を下したということです。かつ五瀬命の御名も5数
があり、なおさら兄の死の悲しみを深くし、5を凶と決めたのでしょう。
神武即位前が等倍と判断したのは、そこの紀の記載の日数の頻度が12ヶ月分
の全月においておおむね月数がそんざいし、日の数字も下旬が少ない嫌い
あるも、まあまあ上中下旬全域に渡っているような状況から等倍と考えました。
>神武即位〜同崩御までは3倍暦でやって >おり、即位前は等倍暦でやってました。 何でそんな面倒臭いことするんだろ? 意味わかんね。 >では何故、5月以降を暦で不使用の空白にしたのかといえば、おそらくは >高天原の暗黒、混乱時の五月蝿なす状態が不吉とみて5月以降を無としたか、 >さらに五瀬命が5月に戦死したことを神武天皇はそうとう衝撃をうけていたよう >で、凶月と定め5月以降に断を下したということです。 たまたま何も無かったから5月の記載がなかっただけだろ。 >かつ五瀬命の御名も5数があり、 >なおさら兄の死の悲しみを深くし、5を凶と決めたのでしょう。 無茶苦茶ですがw ていうか、兄貴の名前が凶って決めるって、失礼過ぎるだろw
468 :
太国 :2007/01/28(日) 23:07:12
>>466 続き
神武即位〜同崩御の間が3倍暦で5月以降虚無の空白のところ、神武崩御の後
の葬儀の記述が同年9月になっており、5月以降の月の使用があるように見受
らけれますが、これは次代の綏世が再び等倍暦に戻したためであって、
綏世のみは即位年から等倍にしたのではなく神武崩御後すぐに等倍に戻して
しまったためです。9月としたのは、前代の3倍暦の名残りを勘案したためか、
1月、5月(←これは不使用)、9月と、現今の1年は当時の3年分に当たり、
4ヶ月の初っ端の先頭月が9月に回ってくるのにちなんだと考えています。
綏の時代が等倍だったとのもう一つの理由は、この天皇の崩御がこのへんの
世では滅多にない(あとは五瀬命戦死のみの)5月に崩御していることが
この暦法特定の根拠であります。それほど紀には(佛伝以前では)5月の記載
は少ないものです。5月の記述があるということは、3倍での先頭月ではあり
ますが、5月不使用のはずの使用は、結局12ヶ月使用なる通常の1年があったと
そう考えてよいからです。
>>467 この時代、統一された暦を一貫して使う方が大変だったのかなと妄想中
そこまで文化が成熟してなかったのかもね
中国の影響を受けた時期の天皇は一年暦を使おうとしたろうし、農祭事の色濃い時期には倍暦とか・・・
現代人には理解しがたい理由も、その時代の人には重要な事であったかもしれん
太国氏が倍暦や三倍暦にこだわるあまり、ややこしい辻妻合わせに陥ってるように
見える部分もあるが・・・一貫して一年暦が使われてたと考えるのも難しいような
気がするんだよなぁ・・・
さらに古事記編纂時に異なる暦の辻妻合わせをしてたとしたら、もはや不可解の
極致になるのも無理はないような・・・
まぁあくまで妄想の範疇だけどねww
常々疑問なんだが、古代に2倍暦3倍暦を使用していたという記録が後世に伝わっているのだろうか? 単なる推論だけでは誰ーも信用しないよ。
古代に2倍暦3倍暦を使用していたという記録 はあるらしい。だからやっかいなんだ
それはどういう文献なの? 続日本紀とか、もちろん正式な記録だろうね?
473 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 03:23:20
古田は三国志を誤読して2倍年暦なんていうアホな発想を抱いたようだが、 他にもあるのかそんな馬鹿が。
474 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 03:32:59
>>473 スレ全部読め
日本書紀には16日以降の日付が極端に少ない
これは15日で1月になる暦があったんじゃないのか
こういう疑問から議論が進んでる
古代史なんて僅かな遺物や文献や伝承を、想像で組み上げていくパズルみたいなもんだからねぇ 「アホな発想」や脳内妄想も完全に除外は出来ないのさ トンデモ説も数十年後には定説になってるかもしれんし
476 :
太国 :2007/01/29(月) 06:36:51
>>466 【神武即位〜同崩御 までの紀の記述】 1月〜4月迄で5月以降が無い。
神武元年 1/1 即位−−−−−−−−−−−−−−→1月
同 2年 2/2 国造、県主を定める−−−−−−−→2月
同 4年 2/23 鳥見山で天神を祀る−−−−−−−−→2月
同 31年 4/1 巡幸−−−−−−−−−−−−−−→4月
同 42年 1/3 神沼河耳尊 立太子−−−−−−−→1月
同 76年 3/11 崩御−−−−−−−−−−−−−−−→3月
477 :
細国 :2007/01/29(月) 09:39:01
後世に事実ではなく想像を書いた書物を本物として語るのは苦労が多すぎる
478 :
細国 :2007/01/29(月) 09:42:39
>469 鎮守の筆法ににてるね
>>477 >>478 もう古事記や日本書紀から魏史倭人伝にいたるまで、どこをどう事実と捉えて
いいか分かんないからねぇ・・・
まぁそういうのも含めて古代史の面白いトコと言うことでw
どこの誰に筆法が似てるか知らないが、私は古代史を少しかじっただけのド素人
だから
所詮は想像や妄想の範疇を抜け出せないレベルの人間ですw
480 :
所謂 :2007/01/29(月) 10:59:58
一つ大事な事を忘れていませんか? 『所謂一月十五日』 この註訳が無い限り永久妄想入決定。
100%正確とは言えないが 基本的には史実を書いてると思う
482 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 11:44:48
>>481 史実=事実とは限らないから、まぁややこしい話になるわけでw
当時の編纂者がデタラメ書いてるわけではないとは、分かっちゃいるんだけどw
483 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 12:07:54
>>474 アホらしい、日本書紀の特に古代の紀年は信用ならないというのが定説じゃん。
484 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 13:20:40
>>483 定説はあくまで定説
時代の流れでコロコロ変わると
485 :
日本@名無史さん :2007/01/29(月) 13:22:18
いまやその定説を崩そうという人たちがいます。 しかもかなり理論的に武装した説を持ち出してきています。 定説が崩れさるのは時間の問題であると思われます。
>>482 今だって噂やら陰謀論を唱えたり
その人物が何を考えてるなんかなんて分からんし
正確に事実を書ける人なんかいないと思う
古事記は起きた事実はしっかり書き記してると思うね
神代は伝承ぽいが
>>485 どのような定説を崩そうとしてるの?
487 :
所謂 :2007/01/29(月) 13:44:20
一般に伝承=作り話と受け止められているのなら、『真実は伝承に有り』だろうな。 悲惨な過去を面白おかしく脚色し語り継げば、その話は後世まで民に受け継がれる。 真実っぽいほど眉唾ぽい
スサノオは謀反を起こして追放されたって所かな
489 :
太国 :2007/01/30(火) 22:27:58
神武天皇誕生がB.C.52年となれば、クレオパトラはB.C.51年に 女王となったそうで、彼女のほうは神武より少し古い時代の人物 だということが分かってくる。
490 :
太国 :2007/01/30(火) 22:30:15
492 :
太国 :2007/01/31(水) 15:52:38
>>491 欠史八代の月後半の記述の空白を、あいつに問いただそうと考えて
いたところですが・・・・・。
493 :
太国 :2007/01/31(水) 20:20:15
>>483 以下は、欠史八代間の日本書紀の日数の記述の表である。
これを君はどう思うんだ? 2倍暦等でないなら、どういう意味だ?
これでも当時は1ヶ月が2週間だったんではない、と言い張るのか?
【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数の統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 1 18日 0
5日 3 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 4 23日 0
10日 1 24日 0
11日 3 25日 0
12日 4 26日 0
13日 2 27日 0
14日 7 28日 0
(但し紀に孝安即位は27日とあるが、別本では7日の記述であり、
別本を採れば全ての日数が14日以内に収まるのが容易に見て
とれるため、別本を正と観るべきである。)
太国さん・・・1人ぼっちで大変だねw
太国は阿呆。 古代がある時期は二倍年暦だったのは認める。 ただ、太国みたいに、暦がころころ変わりまくる説に関しては おもいいきり胡散臭さを感じるんだよ。 なぜ、そのようにするか説明しなきゃいけない。
497 :
太国 :2007/02/06(火) 20:44:32
>>496 2倍暦だと武内宿禰は143歳の寿命だから、まだまだ長過ぎて一般
の信は頂けない。だから3倍暦があったとする論のが合理的である。
5代と神功に遣えて3倍暦での計上は、大半の3倍暦論者でも
だいたい105から110歳あたりだと云うだろう。
みどもの計算では111歳を算出した。
どうして古代で暦法を変えることをするのかって? イザナミの呪い
を避ける為の朝廷の工夫だよ。だから
1500:1000=3:2
の3と2で、黄泉の国の呪殺をコントロールしたかったのだろう。
499 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 22:10:48
4世紀以前に天皇家の痕跡はありません。 4世紀に日本にやってきた集団が大陸文化に染まった大和政権をつくり 現在の天皇家は天智天皇の叛乱によって蘇我大王家から政権を奪ってからのもの。 大和朝廷は日本古来のものを蔑視し侮蔑的な当て字をしている。(熊襲・土蜘蛛等) 大陸的なものには侮蔑的表現をしない。 これが大和朝廷の価値観を現代に教える。
◆ 我が将来に無防備宣言。将来の日本をも無防備にする存在。ニート・引きこもり・フリーター ◆ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (6 (_ _) )< ボキュは金持ちなんだ!もっと優しくしろよ! |/ ∴ ノ 3 ノ \_______________________ \_____ノ,, ∩_ /,|┌-[]─┐| \ ( ノ 付き合いは金だけだけど・・・お先真っ暗って言うな! / ヽ| |賊 国 | '、/\ / /
501 :
太国 :2007/02/06(火) 22:46:28
>>499 痕跡は記紀等に書いてある。さらに全国の神宮神社にいっぱいある。
精神科へ行って診てもらえ。
>499 流れを見ずにレスするが、 熊襲・土蜘蛛を例に出すなら「蝦夷」のほうがピッタリだろう。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
504 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 23:11:56
やっぱ2倍念力はスゴイな
ねーんりき しゅーちゅう ピーキピキ ドカーン! たーちまち おつむが だいふーんかー
506 :
日本@名無史さん :2007/02/13(火) 23:55:03
UP
507 :
日本@名無史さん :2007/02/14(水) 01:13:08
>>497 宿禰ってカバネじゃねえか
武内宿禰が三百年生きたってのは
徳川将軍が三百年生きたと言うようなもの
508 :
太国 :2007/02/17(土) 21:31:51
征東大将軍さん お尋ねします。 帥升の時代を孝昭天皇の世と主張してませんでしたか?
509 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/19(月) 19:54:48
>>508 少なくとも昨年11月以降はどのスレでも
倭國王帥升等を懿徳天皇と同期として書き込んでいる筈です。(;^_^)ノたぶん
但し、このスレで前に書いた様な「調整」の問題で
後々は倭國王帥升等は懿徳天皇と同期じゃなかった!
と云う事になるかもしれないですね。
まぁ、崇神天皇の五世代上の世代の天皇と同期だと思って下さい。
510 :
太国 :2007/02/19(月) 20:05:33
>>509 これは貴殿の主張のほうがほぼ正解だったということです。
お見事です。拙者は卑弥呼を神功の世の人物として固定して計算
していたから、こちらが間違いです。
現段階では帥升を孝昭の世の人物とみてますが、前代の懿徳世
にもかかっている可能性を捨てていませんので、そうなりますと
論が貴殿と近くなります。
511 :
唐松山 :2007/02/19(月) 20:42:41
干支の暦が出来ました。
512 :
日本@名無史さん :2007/02/19(月) 20:44:40
陸行1ヶ月も現在になおすと15日間になるということは出雲が邪馬台国なんですね。
513 :
唐松山 :2007/02/19(月) 20:48:15
歴年 年度 誤差 閏 歴日 陽暦差 月齢 崇神天皇 12年目 -7年度 -22日 4回 4674日 -4.0日 10.01月齢 十月丁巳朔辛酉。舟師東征 16年目 -3年度 -18日 6回 6213日 15.0日 12.12月齢 十二月癸巳朔丙申。遂撃長髄彦 17年目 -2年度 -21日 6回 6269日 0.7日 2.02月齢 春二月壬辰朔辛亥。命諸将練士卒 17年目 -2年度 -22日 6回 6298日 0.3日 3.00月齢 三月辛酉朔丁卯。下令曰 18年目 -1年度 -21日 7回 6830日 19.5日 8.01月齢 秋八月癸丑朔戊辰。天皇当立正妃 19年目 1年度 -22日 7回 6977日 7.8日 0.99月齢 春正月庚辰朔。天皇即帝位 34年目 16年度 -20日 11回 12409日 -39.0日 0.94月齢 四十二年春正月壬子朔甲寅。立皇子 37年目 "000 -19日 13回 13591日 -11.8日 2.96月齢 七十六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩 38年目 1年度 -16日 13回 13889日 -20.0日 1.05月齢 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯
514 :
唐松山 :2007/02/19(月) 20:49:11
58年目 -1年度 -12日 22回 21420日 29.0日 7.08月齢 其年七月癸亥朔乙丑。太子即天皇位 59年目 1年度 -11日 22回 21863日 18.2日 10.08月齢 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申 66年目 1年度 -10日 24回 24166日 0.5日 2.07月齢 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子 66年目 1年度 -10日 24回 24343日 0.5日 8.06月齢 元年秋八月丙午朔 80年目 1年度 -10日 29回 29243日 -6.5日 0.99月齢 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。 106年目 1年度 -5日 38回 38722日 -24.0日 0.98月齢 元年春正月乙酉朔辛卯 136年目 1年度 2日 50回 49709日 5.5日 1.03月齢 孝霊天皇元年春正月壬辰朔癸卯 155年目 1年度 5日 57回 56648日 4.8日 1.01月齢 孝元元年正月辛未朔甲申 176年目 1年度 10日 65回 64327日 13.5日 1.05月齢 開化天皇元年正月庚午朔癸酉、
515 :
唐松山 :2007/02/19(月) 20:50:08
195年目 1年度 16日 71回 71239日 -14.2日 1.11月齢 崇神元年正月壬午朔 206年目 12年度 16日 76回 75521日 14.0日 9.11月齢 十二年九月甲辰朔 226年目 1年度 18日 83回 82574日 -2.0日 0.95月齢 垂仁 元年春正月,丁丑朔 253年目 28年度 23日 94回 92497日 29.7日 1.97月齢 九十年春二月,庚子朔 255年目 "000 25日 94回 93355日 9.8日 7.03月齢 九十九年秋七月,戊午朔 255年目 "000 22日 95回 93529日 36.3日 11.92月齢 冬十二月,癸卯朔壬子 256年目 "000 23日 95回 93620日 27.5日 3.00月齢 明年春三月,辛未朔壬午 歴年 年度 誤差 閏 歴日 陽暦差 月齢 景行天皇 253年目 1年度 24日 94回 92646日 31.3日 7.02月齢 景行 元年秋七月,己巳朔 254年目 2年度 25日 94回 92883日 21.0日 3.04月齢 二年春三月,丙寅朔 255年目 3年度 25日 94回 93207日 9.2日 2.01月齢 三年春二月,庚寅朔
516 :
唐松山 :2007/02/19(月) 20:51:16
256年目 4年度 25日 95回 93591日 28.0日 2.02月齢 四年春二月,甲寅朔 256年目 4年度 25日 95回 93857日 28.5日 11.03月齢 冬十一月,庚辰朔 259年目 7年度 27日 95回 94832日 -3.7日 8.04月齢 十二年八月乙未,朔 259年目 7年度 26日 95回 94861日 -4.2日 9.02月齢 九月,甲子朔 259年目 7年度 27日 95回 94950日 -3.7日 12.04月齢 十二月,癸巳朔 264年目 12年度 27日 97回 96515日 0.5日 3.03月齢 十七年春三月,戊戌朔 265年目 13年度 28日 97回 96899日 -10.3日 4.04月齢 十八年夏四月,壬戌朔 265年目 13年度 28日 97回 96929日 -9.7日 5.05月齢 五月,壬辰朔 265年目 13年度 28日 97回 96958日 -10.2日 6.04月齢 六月,辛酉朔癸亥 265年目 13年度 28日 97回 96988日 -9.8日 7.05月齢 秋七月,辛卯朔 266年目 14年度 28日 97回 97401日 -21.0日 9.04月齢 十九年秋九月,甲申朔 267年目 15年度 28日 98回 97578日 -2.7日 2.03月齢 廿年春二月,辛巳朔 267年目 20年度 29日 99回 97757日 28.8日 7.09月齢 廿五年秋七月,庚辰朔 269年目 22年度 30日 99回 98318日 6.8日 2.09月齢 廿七年春二月,辛丑朔 269年目 22年度 30日 99回 98554日 6.8日 10.08月齢 冬十月,丁酉朔 270年目 23年度 30日 100回 98702日 25.5日 2.09月齢 廿八年春二月,乙丑朔 271年目 24年度 26日 100回 99200日 10.7日 6.96月齢 四十年秋七月,癸未朔 271年目 24年度 27日 100回 99289日 11.2日 9.97月齢 冬十月,壬子朔 271年目 25年度 27日 100回 99319日 11.8日 10.99月齢 五十一年春正月,壬午朔 272年目 25年度 29日 100回 99586日 2.0日 8.03月齢 秋八月,己酉朔 273年目 26年度 28日 101回 99881日 20.3日 5.02月齢 五十二年夏五月,甲辰朔 273年目 26年度 29日 101回 99940日 20.3日 7.02月齢 秋七月,癸卯朔 274年目 27年度 29日 101回 100324日 9.5日 8.02月齢 五十三年秋八月,丁卯朔 275年目 28年度 29日 101回 100708日 -1.3日 9.02月齢 五十四年秋九月,辛卯朔 276年目 29年度 29日 102回 100885日 17.0日 2.02月齢 五十五年春二月,戊子朔 279年目 ???? 30日 103回 101978日 14.2日 2.03月齢 五十八年春二月,辛丑朔 281年目 ???? 30日 104回 102982日 22.2日 11.03月齢 六十年冬十一月,乙酉朔
517 :
唐松山 :2007/02/19(月) 20:53:37
暦は、景行から精度が増している。
518 :
唐松山 :2007/02/19(月) 21:33:12
歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 綏靖天皇 38年目 1年度 -16日 13回 13889日 -20日 1.05月齢 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯 55年目 20年度 -14日 20回 20119日 1日 1.02月齢 二十五年春正月壬午朔戊子 歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 58年目 -1年度 -12日 22回 21420日 29日 7.08月齢 其年七月癸亥朔乙丑。太子即天皇位 59年目 1年度 -11日 22回 21863日 18日 10.08月齢 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申 61年目 3年度 -12日 23回 22335日 25日 1.06月齢 三年春正月戊寅朔壬午 64年目 6年度 -10日 23回 23399日 -7日 1.09月齢 玉手看天皇十一年正春正月壬戌 65年目 7年度 -10日 24回 24107日 12日 12.07月齢 三十八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。 歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 9 66年目 1年度 -10日 24回 24166日 1日 2.07月齢 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子 66年目 1年度 -10日 24回 24343日 0日 8.06月齢 元年秋八月丙午朔 66年目 1年度 -10日 24回 24373日 1日 9.08月齢 元年(干支誤)》九月丙子朔乙丑 67年目 2年度 -10日 24回 24491日 -10日 1.07月齢 二年春正月甲戌朔戊寅 67年目 2年度 -10日 24回 24520日 -11日 2.05月齢 二月癸卯朔癸丑 76年目 11年度 -12日 28回 27824日 6日 1.94月齢 二十二年春二月丁未朔戊午 78年目 13年度 -10日 28回 28741日 -14日 8.99月齢 三十四年秋九月甲子朔辛未
519 :
唐松山 :2007/02/19(月) 21:34:38
歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 綏靖天皇 38年目 1年度 -16日 13回 13889日 -20日 1.05月齢 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯 55年目 20年度 -14日 20回 20119日 1日 1.02月齢 二十五年春正月壬午朔戊子 歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 58年目 -1年度 -12日 22回 21420日 29日 7.08月齢 其年七月癸亥朔乙丑。太子即天皇位 59年目 1年度 -11日 22回 21863日 18日 10.08月齢 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申 61年目 3年度 -12日 23回 22335日 25日 1.06月齢 三年春正月戊寅朔壬午 64年目 6年度 -10日 23回 23399日 -7日 1.09月齢 玉手看天皇十一年正春正月壬戌 65年目 7年度 -10日 24回 24107日 12日 12.07月齢 三十八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。 歴年 年度 誤差 閏 歴日 月齢 9 66年目 1年度 -10日 24回 24166日 1日 2.07月齢 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子 66年目 1年度 -10日 24回 24343日 0日 8.06月齢 元年秋八月丙午朔 66年目 1年度 -10日 24回 24373日 1日 9.08月齢 元年(干支誤)》九月丙子朔乙丑 67年目 2年度 -10日 24回 24491日 -10日 1.07月齢 二年春正月甲戌朔戊寅 67年目 2年度 -10日 24回 24520日 -11日 2.05月齢 二月癸卯朔癸丑 76年目 11年度 -12日 28回 27824日 6日 1.94月齢 二十二年春二月丁未朔戊午 78年目 13年度 -10日 28回 28741日 -14日 8.99月齢 三十四年秋九月甲子朔辛未
520 :
太国 :2007/02/19(月) 22:43:19
唐松山さん 征東大将軍さん 3年狂ってポカしてました。 兼「古田武彦の多元的古代史観」の>394からの回答 紀の神功39年の記事は崇神即位の237年ではなく、239年でした。 かなり具体的に話始めたら長くなりますので、簡潔に説明しますが、 紀の神功39年の卑弥呼と思われる記事は、ストレートに西暦をあて て行きますと239年になることは周知のことと思います。 神功の時代は3倍歴と主張するものですが、そうでないと竹内宿禰 の寿命が285歳になるし2倍暦でも142歳で考えられないほどの 超長寿になり、合理性を欠くことから3倍歴しか考えられないと 判断したものです。これは黄泉の国でのキミニ神の千五百産室と 千人絞殺宣言から 1500:1000=3:2 の比率で、古代朝廷が 3倍歴と2倍暦との採用を決したと、こう考えております。 このことから神功世を3倍歴時代としますと、神功39年は実年代で 239年からはぐれてもっと後代になり、365年に相当してきます。 ところが中国ではどうやらあのころ倍暦をやっていた兆候はなく、 だれもが否定していてありうることではないそうで、魏の側では 通常歴でやってますから一緒に倍暦による後代の世に 移行することはありえず、時代の短縮はないことになるから、倭人伝 から採った魏関係の卑弥呼の記事も後代への移行はできず、通常歴の ままでの考えで事を決めねばなりません。 だから 神功39年=239年 はストレートに時代をあてて行って よく、紀の神功39年の記録は紀での崇神7年(〜9年)の亀卜と 大物主神等祭祀の時代にあたることが真になります。これから 景初元年=崇神即位元年=実年代237年 が判明しました。 宇佐神宮で應神神功と並べて祀られてる比売大神こそ應神神功の時代 の人物です。いままで 卑弥呼≠比売大神 としてなかったのが盲点 でした。比売大神はその頃の九州王朝のお后ですよ。すみません。
521 :
唐松山 :2007/02/19(月) 23:11:27
ご返答 感謝 これから 景行までの天皇の年齢割出しに入りますが 軽く見ただけですが、いい線いきそうです。 中国は、まだ信用できるのですが 百済、新羅 日本ほどではないが 伸びている気配あり
522 :
いろいろと問題の多い『安本流数理』 :2007/02/20(火) 11:38:25
523 :
サガミハラハラ :2007/02/24(土) 22:44:49
上に参ります。
524 :
太国 :2007/02/24(土) 23:25:55
エジプトの語はまぁ〜デムパ的なるも 『干支』(エト)と『2時』(フジ)の二字(フジ)に分解される。w 常世の国はエジプトだったのか? 何とも?である。 紀の記述に【非時】関係の記述は、垂仁→景行の常世国帰りのタジマモリ の果と履中の盃の花の話がある。 景行と履中は2倍暦の時代であることが知れて来る。
525 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/25(日) 00:52:58
>>510 記紀系譜の天皇の世系に決定的な矛盾を出さずに
あれこれ計算すると、確かに孝昭と同期になると思います。
一世約三十年説での年代算出でもそうですし、
記紀系譜を破壊しない前提でのn倍歴年代算出でもそうなるんだと思います。
ただし、太国さんも最終的には私の結論と同じように、
天皇の世代重複を認めるんじゃないかと思います。
その場合は倭國王帥升等は孝昭の一世代上の天皇と同期になる筈です
記紀での天皇系譜は神武〜崇神で計十世代としていますが
現時点での私の計算では神武-崇神は計七世代程度しか許されません。(神武元年はAD57)
先代旧事本紀での氏族伝承は神武〜崇神で7世代です
現・記紀系譜を10世代系伝承とすると、先代旧事本紀は7世代系伝承と定義出来ます
しかしひょっとすると誤謬と思われる五世代系の伝承が正しいかもしれません
他の氏族系譜の資料集めが進んでいないので、余りハッキリとした事が言えないのですが
もし、5世代系伝承が相当程度確認でき、それが原型ならば
当初の初代天皇の治世想定年代は一世紀後半〜二世紀前半程度になる筈です
しかし、それが日本書紀での当初の設計上の神武元年かと云えば、
即ちそうだと言えるかどうかとは別の問題だと思います
526 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/25(日) 01:33:18
>>520 うーん、崇神元年を237年と同期にすると、進行年を等倍としても
崇神十年で247年、或いは248年と微妙に同期しないんですけど
その辺りの考えは如何でしょうか?
日本書紀を作ってた人間はイロイロ小細工をしてる訳ですけど
本来的には倭迹迹日百襲姫命と卑弥呼は同期させて作って居たと思いますが。
私が想定している現・記紀以前の系図上の年代でも同じですし。
虚構上の卑弥呼の年代である神功紀で、
漢籍を引いてアレだけの真似をして擬似餌を捲いた書紀の編集者が
真の卑弥呼の年代と同期である崇神紀でまで、
卑弥呼没年とシンクロさせてないとまで考える必要はないと思うんですけど如何でしょうか?
古事記で箸墓の話が書いていないのに、書紀には書いてある理由は
この真の年代を挿入する為なんかが考えられると思うんですが。
本当に誰にも永久に誰にも知られたくない事なら、日本書紀は書かなかったんじゃないかなぁーっと。
ま、それが史実そのものかは勿論別ですが
それからもう一つ、アチラで
>比売大神は宇佐神宮では應神天皇と神功皇后とくっついて祀られ
>ており、崇神天皇、御間城姫とともに祭られていませんので、
>両者は同一ではないでしょう。
と貰いましたが、
私は「卑弥呼と比売大神とは同一人物」としたのではないですよ。
冒頭の「両者は同一の方ですか?」の問いに「同一の方ですよ。」と云う事です><b
527 :
太国 :2007/02/25(日) 20:36:34
>>525 >>526 倭の五王を当時の各天皇と見立てていることがズレとか重複の要因じゃぁ
ないでしょうか? とにかくイコール説はどれもこれも間違いと観て
かかるべきです。比売大神は盲点でしたよ。
古神道での『卜事』で神功世の前後重要人物の女性2人がいるのを確認して
いますので、比売大神と卑弥呼の等号はないとしています。さらに仁徳以前
に兄弟継承とかは無いとの、これも『神卜』操作の結果で、ありえんです。
528 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/25(日) 21:33:00
いいえ、崇神代までは記紀と同等で構わないですし、 ですから倭の五王の比定によってズレが左右される訳では有りませんよ 問題は崇神から神武までに限定した話です。 うーんと、太国さんの『卜』が何ナノかは解りませんが、 >比売大神と卑弥呼の等号はないとしています。 えぇ、比売大神と卑弥呼が等号だとは思いません >さらに仁徳以前に兄弟継承とかは無いとの これは、もし兄弟継承がなければ、欠史八代に天皇と呼べない人物が 天皇としてが挿入されていると云う事になります。 十世十代の現・記紀系譜が、 年代引き伸ばし作業後の改変系譜である事自体は否定出来ないと思いますので。 私は太国さんが何れかの段階で、同世代継承の可能性までは認めるんじゃないかと思って居ます
529 :
太国 :2007/02/25(日) 22:19:38
>>528 欠史八代というのは、古事記の神武以前の神々発生の説話に準じて成るべき
皇位だということです。記の各神は通常は8神ずつ系列になっているのが多々
あるわけで、それだけ皇家は8の数字にこだわるのはです。五男三女神も結局
8神なわけで、例外と云えばミソギハライの条の12神とかがありますが、
それは理由があっての特別なときであり、神武の次が8代ならば9代には
なりえないということです。ですから1代分不足だとおっしゃるならば、
どこかに計算間違えになる考察があるということになります。
そこを今一度吟味検討すべきですよ。
530 :
太国 :2007/02/26(月) 22:04:10
神武天皇の立太子=B.C.37年=高句麗建国元年
531 :
日本@名無史さん :2007/02/26(月) 22:54:13
神武天皇は初代ですから皇太子であったことはありません。
532 :
太国 :2007/02/26(月) 23:03:27
>>531 日本書紀の神武天皇の条の冒頭に
「神日本磐余彦天皇・・・(中略)・・・年十五にて立ちて太子と為りたまひ」
倍暦計上から
>>530 となる。
紀を読んでないな。ww
533 :
日本@名無史さん :2007/02/26(月) 23:08:04
紀のうっかりミスです。
534 :
太国 :2007/02/26(月) 23:18:37
どういう点がミスなのか? zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・
535 :
唐松山 :2007/02/27(火) 18:08:38
歴年 偏差 閏 歴日 陽日差 月齢 雄略天皇元年 ゆうりゃくてんのう 396年目 51日 145回 144707日 -20.5日 2.97月齢 元年春三月,庚戌朔壬子 此処まで出来た。
536 :
太国 :2007/03/01(木) 15:23:05
宣化以前の古代は即位して、元年を立てるごとに倍暦を変更して使用して いたのであろう。先帝の倍暦を継続して使用したこともあったと想っている。 倍暦が同じでも暦法のやり方が異なる場合もあったのかも知れない。
537 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 21:23:15
神武天皇の墓が発見されれば全ての謎は解ける あるなら奈良県 見つけたら日本名誉賞 あるならなw
538 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 21:43:11
『日本書紀』天武1年7月23日 神日本磐余彦天皇の陵に馬及び種々の兵器を奉った。
540 :
サガミハラハラ :2007/03/02(金) 22:09:17
>>537 神武天皇の墓ならもうわかっている。日本名誉賞でもなんでもない。
畝傍山の北東部の丸山がそれである。
ただし、現在はいってもなんにもない。
幕末から明治初の混乱期に陵のシセツは取り払われている。
愚考するに、陵にあった石碑等は陵の下に埋められているのではと思う。
陵の4分の1ぐらいはけずられて、其の土で施設を覆いうめたとみている。
541 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 22:33:29
542 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 22:34:10
>>540 何もなくても年代は特定できるんじゃないか?
543 :
サガミハラハラ :2007/03/02(金) 22:39:27
土をかぶせて埋めたは、掘れない(宮内庁の管轄)ので推測です。 丸山の件は本当です。ただ物証がない。(埋まっているのではということです。)
544 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 22:54:38
>>543 物証がないんじゃ
違うかもしれないじゃないか
>>538 七分ものビデオ、見る気がしない。
要約しろよ。
546 :
日本@名無史さん :2007/03/03(土) 10:44:40
垂仁紀では、彼の在位99年間に次に挙げる年に記事があります。 元年A・二年B・三年C・四年D・五年E・七年F 十五年G・二十三年H・二十五年I・二十六年J・二十七年K・二十八年L・ 三十年M・三十二年N・三十四年O・三十五年P・三十七年Q・三十九年R・ 八十七年S・八十八年T・九十年U・九十九年V 干支の繰上げを行っているので60年以降の年(S・T・U・V)は マイナス60年になります。記事の順序は、 ABCDEFGHIJKLSTMUNOPQRV合計三十九年間 干支の周期を繰上げているのが、明らかです。
547 :
唐松山 :2007/03/03(土) 14:44:51
歴年 誤差 閏 歴日 陽日差 月齢 226年目 18日 83回 82574日 -2.0日 0.95月齢 垂仁元年 春正月,丁丑朔 258年目 23日 95回 94297日 3.5日 1.93月齢 九十年春二月,庚子朔 258年目 24日 96回 94446日 5.0日 5.97月齢 景行天皇 元年秋七月,己巳朔 垂仁は、 ほつま に拠ると 90年7月死亡 9年増し と書かれています。 書紀の干支「日の干支) 一致
548 :
太国 :2007/03/03(土) 22:08:44
古田先生が武寧王墓誌を調べて王の没年に改刻の跡を見つけたので、遡っての 王誕生 461年=雄略5年 は崩れる可能性が出てきた。つまり、『癸卯』523年 なるところ、『甲辰』524年だというわけである。 こういう改刻があったということは、日本の2倍暦が原因ではないのか? 王は 日本で生まれているのであり、日本の暦法で墓誌を書いたのではあるまいか? 繼體世が2倍暦ならば、523年は実年代529年の前半の半年、524年は同年の後半 の半年に相当する。2倍暦真相のの氷山の一角が見え隠れ、出て来た感がする。 拙者の倍暦計算で行けば、孝靈年間の一時期は中国の靈帝の時代に当たって いる。奈良県天理市の東大寺山古墳から靈帝の中平年間の鉄刀が出土しており、 その銘文に干支が書かれている。つまり欠史八代の時ころ干支が日本で使用 されていた可能性が捨て切れないのだ。
549 :
サガミハラハラ :2007/03/03(土) 22:37:35
>>544 物証がないは間違いはやとちりでした。
物証は丸山の丘です。ほかに、古事記日本書紀等の書籍があります。
550 :
サガミハラハラ :2007/03/03(土) 22:42:59
>>544 物証がないは間違い早とちりでした。
丸山の丘が物証です。他に古事記日本書紀の書籍があります。
551 :
太国 :2007/03/03(土) 22:56:11
>>548 かようなことから、倉西氏の論は心配停止状態が懸念される。
552 :
太国 :2007/03/04(日) 10:10:49
>>548 武寧王墓誌と東大寺山古墳出土の鉄刀銘文をみると、双方に五月の文字がある。
武寧王墓誌では
「〜百済斯麻王年六十二歳癸卯五月朔七日・・・」
鉄刀では
「中平□□五月丙午造作支刀百練清剛・・・」
前者に関して、紀の繼體の条には五月の記述はなく他の月の記述は1月〜
12月まで全部出揃っている。もともと紀の記述には五月の文が著しく少なく
何らかの理由があると勘ぐりたくなるのである。ただ全く無いわけではなく、
ある場合はそれなりの意味があるのだろう。
神武が畿内に入っての戦いで、兄の五瀬命が五月に戦死したことが事の発端
なのではないのか? 古代人は迷信深く、神武も戦うとき日を背にして勝利を
治めているが、神武の縁起担ぎが後代に影響を及ぼしているのではないかとの
思いが強くつのる。高天原の暗黒も五月蝿なす状態にあり、兄の御名にも五が
あることから、朝廷は五月を忌み嫌っていたのではあるまいか?
ということで、ただの一つも五月の記載のない繼體の条に対して、準日本人の
武寧王没年が五月記載ということは、墓誌の当初の記載が百済の通常暦だっ
たが、あるとき日本の2倍暦を知ってか誤解か誤認と観たか、後で2倍暦での
同年の後半に相当する翌年干支に改刻したのが真相なのではあるまいか?
さらに倍暦での孝靈世、靈帝の中平鉄刀も五月の書きこみであり、欠史八代は
綏崩御以外五月の記述が紀にないことから、そこに何らかの思惑が見てとれる。
553 :
唐松山 :2007/03/04(日) 11:03:40
4月、5月は、田圃や麦の取り入れで忙しいから つまらん 政治や戦は、 後にしてくれ。
554 :
太国 :2007/03/04(日) 11:16:36
>>553 核心が意味不明で何やら分かり兼ねます。
555 :
太国 :2007/03/04(日) 11:18:43
http://travel3.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1160214983/ 684 :太国 :2007/03/03(土) 21:54:43
余=拙者=みども=それがし
分かったか〜低能ども!
691 :日本@名無史さん :2007/03/04(日) 10:44:29
>>694 神や仏の余りって意味だよ
だから大名クラスは使った
プラ国クラスじゃねw
693 :日本@名無史さん :2007/03/04(日) 11:23:58
そもそも使う階層が違う事から気付かないとね、
太国は越前守とか云われるような、
古代から使われる神別階級のつもりなのかもしれませんが。
694 :日本@名無史さん :2007/03/04(日) 11:26:46
神別階級なら神道体系なんて当然持ってるよw
558 :
唐松山 :2007/03/04(日) 12:20:37
春=政治の季節 詔 夏=農業の季節 及び新暦 秋=収穫 冬=戦 四道将軍は、冬の戦です。 景行の戦 初回 越年 丸2年=5月あり
559 :
太国 :2007/03/04(日) 12:31:08
紀の景行世の記述には、5月が2回あります。
560 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 12:42:12
561 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 14:12:01
>>559 太国さん、貴方は自分自身の事なんて呼ぶんでつか?
562 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 16:06:34
>>559 太国さん、貴方は自分自身の事を「余 」って呼んでいまつね?
563 :
太国 :2007/03/04(日) 17:10:16
>>552 訂正
× 同年の後半に相当する翌年干支に改刻
○ 同年の前半に相当する前年干支に改刻
《説明》
原刻が『甲辰』524年 改刻が『癸卯』523年
前者が実年代529年後半の半年 後者が実年代529年前半の半年
564 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 17:41:38
565 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 17:46:38
>>563 太国は何様のつもり?
どっかの高貴な血でも引いてるのか?
子孫でも役職付かないと名乗っちゃ駄目なんだよW
皇太子だって朕って言わないからねW
566 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 17:59:10
>>563 太国さん、
今じゃ天皇だって「私」です。
貴方は神の余りなら、
一応神の仲間のようです。
凄く偉いんですね?
567 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 18:25:59
568 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 19:41:20
>>563 太国さん自分自身の事なんて呼ぶんでつか?
569 :
日本@名無史さん :2007/03/04(日) 22:35:36
570 :
太国 :2007/03/05(月) 14:35:13
>>552 >>563 武寧王墓誌の干支の改刻が行われたのが、お妃の埋葬された529年の可能性が
高いという話だから、523年と524年は余の説での実年代529年に一致している。
ということは王が没した直後に墓誌ができ、その干支『甲辰』(524年=実年代
529年後半)を改刻して『癸卯』(523年=実年代529年前半)とした。
つまり実年代529年に同年半年前の記述に書き直したということになるのである。
余は繼體17年は2階暦使用と観て、実年代529年と算定している。
571 :
太国 :2007/03/05(月) 14:42:29
572 :
太国 :2007/03/05(月) 15:05:29
>>570 はいささか間違い?
525年(『乙巳』)に墓誌を立てたというから、実年代530年前半にこれが現実
に立てられたもようのようだ。となれば改刻は同530年後半あたりか? と
推定を変えたい。これでもお妃の埋葬後の翌年で、あまり狂っていないと想う。
573 :
太国 :2007/03/05(月) 20:42:38
>>552 一点間違いがありましたので訂正。
繼體世は5月の記述がなく他の月は全部出揃っていると申しましたが、7月も
ないようです。その他の月は全部記述が揃っています。
年が行って目がかすんだりすることがあり、見落としがありました。
574 :
日本@名無史さん :2007/03/05(月) 21:31:58
大国さんは
>>546 の、垂仁在位干支1順増しは何故認めないんですか?
575 :
太国 :2007/03/05(月) 22:16:17
>>574 バカ野郎!
そんな妄想信じるサルがいるか?
576 :
太国 :2007/03/05(月) 22:19:25
>>574 認めない? う〜ん、まぁそうだね。紀の編者は文書偽造の故意犯ではないと
考えてますよ。以下の文は、俺たちはイカサマはしないです。真に戻すのが
本旨ですと言っていますよ。
紀の欽明の条
「帝王本紀に多に古字あり。撰集する人しましまかはることを經、後の人習ひ
讀みて、意を以ちて刊(けず)り改め、伝へ写すこと既に多なり。
遂にたがひまよふことを致し、前と後と次を失ひ、兄弟かたたがひなり。
今は古今を考へ覈りてその【眞正】に帰す。」
確かに神功39年等は、彼らは2倍暦を失していた者が大半であったようで、
等倍暦に当てて記入したような様子であり、これらはやむを得ぬ間違い
だったということであります。
577 :
太国 :2007/03/05(月) 22:21:57
口の悪いのはニセ野郎です。
578 :
太国 :2007/03/05(月) 22:32:56
いちいちニセ認定するなら、トリつけてくれ マジでウザイ
579 :
太国 :2007/03/05(月) 22:34:16
お前『狭国』とかのコテにしろ。
580 :
太国 :2007/03/05(月) 22:36:09
これでは誰が誰か判らない。
581 :
太国 :2007/03/06(火) 00:46:47
馬鹿どもは太国さんに成り済ますのを直ちに止めよ。 太国さんは成り済ましなど相手せず、研究成果を発表されたい。
582 :
太国 ↑ :2007/03/06(火) 07:34:19
『少国』とか、別のコテにしろ。
583 :
日本@名無史さん :2007/03/06(火) 21:04:50
>>576 俺は、編集者は、明らかな嘘はついていないと思うが、証拠の無いものは、
都合のいい様に解釈したと考えます。
584 :
太国 :2007/03/06(火) 21:53:58
証拠がない? どういうのがだ?
585 :
太国 :2007/03/06(火) 21:57:29
586 :
太国 :2007/03/06(火) 22:01:12
ニセ者よ。『太口』とかのコテに変更しろ。迷惑だ。 いま論の聞き取りをやってるから、邪魔すんな!
587 :
中国 :2007/03/06(火) 22:01:47
ウザイぞ!
588 :
太国 :2007/03/06(火) 22:03:50
589 :
太国 :2007/03/06(火) 22:09:40
>>584 証拠がない=当時の伝承では正確な年月が欠けていた
590 :
日本@名無史さん :2007/03/06(火) 22:12:44
垂仁時の記事は39年の後、80年間すっぽりと抜けている。 日時のデータが干支しか残っていなければ、間に60年入れても一向に構わないわけだ。 他の天皇についても、即位当初は毎年のように事件が起きるが、大体10年以上経つと 事件は何十年に一回程度の頻度しか起きない。 起きた月のデータだけでなく、年のデータも集めてみれば明らかに不自然なのが 分かるだろう
591 :
太国 :2007/03/06(火) 22:17:08
何故、プラムさん等のニセは出なくて、余のニセばかり出るのか? 嫉妬か〜
592 :
太国 :2007/03/06(火) 22:20:27
593 :
太国 :2007/03/06(火) 22:23:32
594 :
太国 :2007/03/06(火) 22:24:59
>>590 80年間だと?そうじゃないだろう。39年の次は確か87年の記述だから
87−39=48 だぞ。
それに当時は3倍暦の時代だから
48÷3=16 で実質上16年間だからそんなにおかしくはない。
だから60年抜けるなんていう考えはしなくてもすむ。だいたい60年
も在位があるなんていうのはそんなにないだろう。昭和天皇なんかは
それだがね。
確かに原書群の遺失、焚書等で抜けがある可能性はあろう。
595 :
太国 :2007/03/06(火) 22:43:32
>>589 正確な年月を書くとこんなふうに→(
>>493 )数字が全部 1日〜14日 と左へ
寄るのか? 宝クジを買うと0〜9の数字のところ稀にはあろうが、全番号
が0〜4までに簡単に集合するのか?
596 :
日本@名無史さん :2007/03/06(火) 22:48:22
崇神時代事件年 元年、2年、3年、4年、5年、6年、7年、8年、9年、10年、11年、12年 17年、48年、60年、62年、65年、68年 明らかに12年以後手抜き
597 :
太国 :2007/03/06(火) 23:07:12
>>596 崇神の時代は3倍暦です。以下のとおり
(68−65)÷3=1年
(65−62)÷3=1年
(62−60)÷3=8ヶ月
(60−48)÷3=4年
(48−17)÷3=10年4ヶ月
(17−12)÷3=1年8ヶ月
一個長いくらいで、そんなにおかしくないだろう。
598 :
太国 :2007/03/06(火) 23:12:28
>>596 なかなか面白い。他の天皇の例はどうか?法則性はあるんだろうか?
599 :
日本@名無史さん :2007/03/06(火) 23:28:50
神功時代事件年 元、2,3,5、13 39、40、43、46←これら倭人伝からの引用 47,49,50,51←これら百済関係の記事 52,55,56,62,64,65←これら百済記からの引用 66←起居からの引用 69 没 実質13年までしか記事が無い
601 :
日本@名無史さん :2007/03/06(火) 23:38:32
神功事件簿録 元、2、3、4、5 13←歌会 39、40、43、46←倭人伝からの引用 47、47,49,50,51←百済関係 52,55,56,62,64,65←百済記からの引用 69 没 実質5年間しか記事が無い
602 :
太国 :2007/03/06(火) 23:50:47
>>599 神功47年は確かに百済関係だが、百済からの朝貢で神功が喜んだとの
記述とかがあるし、50年も喜んだとある。
(47−13)÷3=11年4ヶ月 で、目くじら立てておかしいとするものでもない。
603 :
太国 :2007/03/06(火) 23:52:56
『神』の字の号の天皇(神功を含む)は3倍暦です。 zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
604 :
日本@名無史さん :2007/03/07(水) 00:11:22
在位年数60年以上の天皇は、干支が1周期繰り上がっていると考えて良い 神武、開化、崇神、垂仁、景行、成務、神功、仁徳 そうすると、百済記との120年のずれも説明がつく。 この中の開化、景行、成務は60年調度の在位年数なので実際は即位して いないと考える。 歴代天皇で他に在位60年調度の天皇はいない。 zzzzzzzzzzzz・・・・・・
605 :
太国 :2007/03/07(水) 00:25:50
景行は最初の九州統一王です。 zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
606 :
太国 :2007/03/07(水) 07:45:58
>>604 君は恣意選択のし過ぎで、そういうんだったらいくらでも説明がつく。
当時は倍暦だったから、120年ばかりズレたとしても然るべきだ。
>>605 こっちは邪魔のし過ぎだ、ニセ者王
607 :
太国 :2007/03/07(水) 08:29:08
608 :
太国 :2007/03/07(水) 10:22:07
消えろ。ニセ野郎!!
609 :
太国 :2007/03/07(水) 10:45:14
本物の振りはやめろ!
610 :
太国 :2007/03/07(水) 11:53:42
いっそこのスレ全員、名前欄を太国にしたらどうか。 つまらん揉め事より、学問的議論をしよう。
デタラメ王のニセ帝王! 退け!!
612 :
太国 :2007/03/07(水) 14:29:54
>>610 不本意だけど、当分そうしよう
これ以後、偽物認定やその反論禁止ね
大ニセ王!!
614 :
太国 :2007/03/07(水) 20:25:50
615 :
日本@名無史さん :2007/03/07(水) 20:48:38
>>605 同意
開化⇒・・・・⇒神功(ネコ氏)丹後系
崇神⇒垂仁⇒忍熊(イリ氏)大和
景行⇒成務⇒仲哀(タラシ氏)筑紫
この辺は並列です。
616 :
太国 :2007/03/07(水) 20:51:51
倍暦の計算から、奈良県天理市の東大寺山古墳出土の鉄刀の銘文の 「中平□□五月丙午 造作支刀 百練清剛・・・・・」 は中国の靈帝の年号であるも、これが日本の孝靈天皇の御世に相当することが 知れて来た。ということは、欠史八代の時代にすでに干支が日本に流入して いた可能性が出てきたということになる。日本の連中とりわけ朝廷の学者連は、 これを何と読むか後漢の使者から聴くことになったろうから、干支の計算も覚え たことは濃厚となろう。 中平年間は実年代で185年前後となり、2世紀にすでに朝廷の取り巻きがとう に、干支の計算と理解とが出来ていたということが言えて来るのである。
618 :
日本@名無史さん :2007/03/07(水) 21:34:02
世界史の中で、1年を6ヶ月にしたり、4ヶ月にしたりコロコロ暦を変える 国というのは存在したのですか?
>>618 マヤ文明がいろいろな暦法をやっていますから、初期の暦法が進歩し、併合的
に別暦法を付加しながら後代に変化して行ってマヤ滅亡時まで増えて来たんでは
ないでしょうか? なにしろ、イニシャル・シリーズでしたか、バクトゥン、
カトゥン・・・・・キンとかの長期暦に加え、短期暦、略暦、変則暦、月齢暦
など、他にも暦法があるようで種々雑多です。日本の場合はまず併用は少なか
ったかと思いますが、崇神世などで併用の可能性の時代もあったと考えています。
去年でしたかTVの「世界不思議発見」という番組で、紀元前2772年以降の古代
エジプトはマヤの変則暦(ツォルキン暦=1年が260日)に似て、1年を265日
でやっていたとの放映がされていました。現今は通常の1年が365日でやって
いますから、コロコロまでではないが、暦法を変えていたことになりましょう。
620 :
日本@名無史さん :2007/03/07(水) 22:24:08
マヤで色々な暦があったのは、 多様な栽培植物に対応していたのではないでしょうか? これは同時進行で存在していたのであって、 暦の長さをたえす変更していたのと違うのでは? 暦の長さを変更するメリットも意味不明だし
>>620 逆に観れば、古代マヤも古代日本と暦法が違うでしょう。あなたは古代マヤが
古代日本と暦法が同一でないと現メキシコ、ホンジュラス人に古代マヤ暦を
疑って追及してるのと似たようなもんじゃないですか?。
各国個性があって、暦法も独自性は多量に各国持っていますから・・・。
言いたいことは、古代の日本マヤエジプト等の暦法はみな違いはあれど、現代の
暦法とはかなり特殊で異なっているものと充分主張が出来うるということです。
624 :
日本@名無史さん :2007/03/07(水) 23:13:07
>>623 トリップつけていただきありがとうございます。
どれが本物か分からなくて困ってました。
いくら警告しても止めようとしないので、付けることにしました。
627 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/08(木) 08:08:01
>>620 マヤで、栽培目的とかの暦法は通常暦なるハアブ暦だと思います。恵也はそれ
ばかりを強調して、マヤの神々の暦法、占いでの暦法とかを無視してひたすら
自説を有利に導く片手落ちの説明ばかりをしています。農耕関係の暦法もあっ
たことは確かですが、独特なる民族の神々とか迷信的のような考えからの暦法も
あったのが正でしょう。
628 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/08(木) 18:21:49
>>617 から、干支が欠史八代の時代にすでに朝廷で使用されていたようである。
開化天皇はオオヒヒの御名であるが、ヒヒとは猿の仲間であろうし狒々と書かれ
るところ、干支では「申」に相当しており、開化の即位が『甲申』の年という
ことは、干支の使用を示唆したい為に御名を猿名としたと考えている。
629 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/08(木) 20:09:53
オオヒヒノミコトが立太子となったのは皇紀468年だが、この年の干支は 「戊申」であり、やはり『申』が関わっているのが解かる。
630 :
日本@名無史さん :2007/03/10(土) 00:19:58
>>619 流石は太国先生!
自説に合わせて時間の方を調整するのですね。
正に逆転の発想。
ヨッ 下町のアインシュタイン
ヨッ 昭和のコペルニクス
ヨッ 副大統領
631 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/10(土) 08:17:40
>>630 当時は即位に合わせて倍暦変更を朝廷がやっていたということだ。但し例外も
ある。そして先代の暦法の影響も捨て去っておらず、重復的併用もやって
いた時もあったようだということである。
いまのところそう考える以外に仁徳以前の天皇らの超長寿を合理的に説明
するすべは、記紀が年数を無理に60年とか120年とか代入させてできて
いるイカサマ文書だとしての主張しか出て来ない。
それともお前はかような超長寿をもっと合理的に説明できうる他の論拠を
持ち合わせているのか? お前の批評は具体性がまるで無いではないか。
持っているなら披露してみろ。それが出来なければ、お前の批評は現代教育
を受けた頭からの古代の作法をからかいながら否定するだけの精神構造で
しかなく、死ぬまでお前は超長寿の秘密を解くことあたわずである。
よく冷水で顔を洗ってこい。
632 :
日本@名無史さん :2007/03/10(土) 08:54:54
こよみって何のために施行してたの?
633 :
日本@名無史さん :2007/03/10(土) 09:28:20
その四条通りの南を何と言うのだ」とお尋ねになる。そこで「綾(あや)の小路と申します。」とお答えすると、 「ならば錦(にしき)の小路と言うことにしよう」と仰せられた. 渡来人系の名前に錦織とか綾織とかがあるので思いつきと違って渡来人の名前をパクッた
634 :
日本@名無史さん :2007/03/10(土) 14:49:59
635 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 14:46:43
古事記の崩御年のみを信頼出来るデータとすれば、2倍暦を使わなくても 矛盾の無い値になると、思いますが・・・・・ 倭の五王も仁徳〜雄略でほぼ矛盾が無くなりますが・・・・・・・・ 学会の方はこれが定説ではないでしょうか? 崇神以前のことは検証できませんが・・・・・・・・・ やはり『魏志倭人伝』の内容がこれでは説明つかないので『書紀』で改変、改悪 したと考えのが正しいと思います。 つまり卑弥呼は天皇家の人物ではなかったのです。
>>635 最下段はどうやら正解、同意だ。
倭の五王は各天皇ではない。サガミハラハラさんと倉西さんはこれで
失敗した。二人は各天皇だと考えて論を組み立てたからもう奈良苦行き。
臥海を信用しちゃあダメだよ。記の崩御年は参考程度、役立つ時はある。
それに雄略5年固定を信用しすぎているから、さらに論の道がそれてる。
637 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 16:15:12
>>635 古事記と倭人伝を検証すれば次の結論に行き着く
1.邪馬台国は九州
卑弥呼は筑紫の女酋長にすぎない
2.邪馬台国は大和
開化以前には、大王を凌ぐカリスマの卑弥呼と台与が居た。
古事記では都合が悪いのでその辺の歴史は検閲時に全てカット
江戸時代以来この2説の論争が続く
638 :
サガミハラハラ :2007/03/11(日) 19:20:26
太国さんへ。 別に失敗していませんよ。 古事記干支2倍年暦論発見により、倭の5王の年代確定、大成功ですよ。
639 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 19:48:43
書紀としては卑弥呼は田油津媛と神功皇后なんだよな
640 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/11(日) 19:50:00
サガミハラハラさん 大成功とおっしゃっておられますが、倉西さんも同じくそう思っているはず でしょう? 倭の五王がま〜だ当時の各天皇だと想っておられるんですか? 毎回云うようですが、五王が天皇ではありません。古代史においてはイコール としたらもうそれで自滅です。 それに例の嶋王の墓誌もチェックを怠っておられるでしょうし、さらに神武の 即位前が通常暦なのは即位前3年の記録がほぼ各月に渡っており、日数のほうも 各年を見れば、少ない嫌いあるも下旬も許容以上の記事がみられることから これが真だと考えますが・・・。
641 :
サガミハラハラ :2007/03/11(日) 20:28:11
即位前3年の記録とはホツマツタエに載っているのですか。 ならば私の専門外です。
642 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/11(日) 20:39:05
紀に載ってますよ。ホツマのことではないです。
643 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 20:41:04
秀真は明治初期の作品
644 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 21:03:02
でも不思議と、書紀の年代記より 60年以上の在位の天皇から60年を引き(干支繰上げ) 40年以上の天皇の在位を半分(2倍暦)にすると古事記の年代記に大体符合する その方程式で神武元年まで計算出来るんじゃないの?
645 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 21:23:18
景行・欽明などの加上の天皇を除かないと
646 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 21:42:39
景行は架空じゃなくて、九州の豪族だと思うが
647 :
サガミハラハラ :2007/03/11(日) 21:56:53
>>642 ホツマ?
プッ!!
お前そんなトンデモ信じてるの?バカじゃねーの?
イイとよ控除のような実質天皇も加えないと
649 :
日本@名無史さん :2007/03/11(日) 22:42:06
そいつは入れなくてもイイトヨ!
>>647 サガミハラハラ
ホツマを信じるのは馬鹿ですか?
なぜそう思うのかマジレスよろしく
651 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 03:44:17
推古即位592年 大正退位1926年 その間天皇94人 平均在位年数 14.2年 初代即位まで遡ると 西暦123年 粗サガミさんの推定と同じになる。
652 :
サガミハラハラ :2007/03/12(月) 07:12:51
いえ、私には難しくてわからないということです。
653 :
サガミハラハラ :2007/03/12(月) 07:17:38
専門的にくわしく研究すれば理解できるのでしょうが、私の研究には それ以外の資料でなんとか足りている状態だということです。
>>652-3 サガミハラハラ
>ホツマ?
>プッ!!
>お前そんなトンデモ信じてるの?バカじゃねーの?
>私には難しくてわからないということです。
>専門的にくわしく研究すれば理解できるのでしょうが、私の研究には
>それ以外の資料でなんとか足りている状態だということです。
君はホツマは詳しく研究していない。とすればトンデモかどうか分からないはず。
バカとののしる資格もない。プッと笑う資格もない。
以上を理解して反省できたか?返答を望む。
655 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/12(月) 10:04:40
プッ は、サガミハラハラさんのニセ者ではあるまいか?
656 :
サガミハラハラ :2007/03/12(月) 10:47:46
>>656 サガミハラハラ
650はこうだ
>
>>647 サガミハラハラ
>ホツマを信じるのは馬鹿ですか?
>なぜそう思うのかマジレスよろしく
それに対して
>>652 >私には難しくてわからないということです。
>>653 >専門的にくわしく研究すれば理解できるのでしょうが、私の研究には
>それ以外の資料でなんとか足りている状態だということです。
もしサガミが647を読んでいないとしたら、唐突に「ホツマを信じるのはバカですか」と問いかけられた時点で不審感をいだく。
だから「バカだとは言っていない」等のレスになるはずだ。
いまさら偽物などと主張してだれが信じるのか?
それに「難しくてわからないということです。」は647の釈明以外には意味が通じない。
つまり647はコテをはずして中傷しようとしたが、失敗してコテが残ってしまったとしか読み取れない。
このままでは君の説は、もう誰も相手にしない。このやりとりは記録されている。
この板の住民の信頼を取り戻すには、全てを認めて謝罪するしかないと思うが。
きみの誠意ある返答を待つ。
>>655 太国さんがそうフォローされるのなら、今回はこれで追求をやめます。
何もかも分かった上で許された太国さんに敬意を表します。
658 :
サガミハラハラ :2007/03/12(月) 14:01:57
いや、本当に私のとんでもない不注意です。いきなり、「ホツマ云々」を聞かれたと思い、
>>647 を確認せずに、以下のような返答になったわけです。
「難しくてわからない云々」は、そんなことはないということを言外にあらわそうとしたものです。
が、結果的に
>>647 に答える形になってしまいました。いや、ほんと
>>647 をみおとしたのです。
重ね重ねお詫び申し上げます。
659 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 21:01:25
>いや、本当に私のとんでもない不注意です。 コテの有る無しはちゃんと確認しましょう。 いつまでも言い訳するのはみっともなく、PTAにも受けが悪いと思うのでこの辺で良いのでは? コテ有る無しで本音と建前を使い分けるのが、 2ちゃんねらとしての至極真っ当なやり方と思います。
660 :
サガミハラハラ :2007/03/12(月) 22:22:09
何故私はケアレスミスをおかしたのか。(これはいいわけではなく、真相の追究です。)
>>650 での問いかけの前に、わたしは
>>641 においてホツマについて一言のべておるわけです。そして
>>647 については私の預かりしらぬところであるので、そのようなレスがあることは当然知らないわけです。
そこに
>>650 のレスがきたので、わたしは、
>>641 のレスに対する問いかけであると無意識のうちに勝手に判断し、云々と回答したわけです。
ですから、そこに行き違いが見られ、誤解を生むことになったというわけです。
661 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/12(月) 22:32:36
サガミハラハラさん ニセ者は以前拙者にもニセ者としてさんざん暴れまくった野郎だと思います。 今回拙者が止律符をつけたのでニセのイタヅラができなくなった為に、拙者を 遠回しにからかいながら貴殿の止律符が無いことに乗じて、貴殿にニセの イタヅラをしに来たんですよ、きっと! よければ貴殿も止律符とやらを付けたほうがいいでしょうな。
>>661 心中お察しします。心の大きな方ですね。
太国さんの気持ちをくんで、サガミなんとか氏は鳥つけるべし。
今回も鳥があれば問題なかった
663 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 22:54:31
>>660 それが事実なら、2ちゃんはあなたには無理。基本中の基本が出来ないのなら、いずれまた他の方々に迷惑をかけます。
本当に申し訳なく思っているなら、2ちゃんは引退して下さい。
664 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 22:58:26
教鞭をおかれたとは言え、かつては人の道を説いたこともあるでしょう。 教え子たち、両親、そして御自身の良心に対して 「ウソは言っていない」 と言えますか? オレはこの答えで判断したいです。
665 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 23:02:53
納得いかない
トラブルのおかげで
>>644 での俺の秀逸な意見が華麗にスルーされている
666 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 23:39:26
>>660 正直見苦しい。
ケアレスミスではない。ミスとすれば重大なミス。
普通の会話ができる人はそんなミスはしない。
そんな重大なミスをおかす人は、ここに来ないでほしい。
恥を知れ。恥を知ったらどうすればいいか、自分で考えろ。
くどいようだが、見苦しい。
667 :
日本@名無史さん :2007/03/12(月) 23:56:36
サガミハラの株、大暴落 太国の株、意外に高騰
668 :
日本@名無史さん :2007/03/13(火) 00:15:05
>>666 まるむしでしゅー
.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!☆
669 :
サガミハラハラ :2007/03/13(火) 07:15:23
何度もいいますが、
>>647 を見落としたのです。(自分でかいたものではないので、ゆめやそんな内容のインチキ
レスがあるとは思ってもいない。)嘘はついていませんよ。
670 :
日本@名無史さん :2007/03/13(火) 14:47:24
>>669 サガミハラハラ
トリをつけるか、日本史板に二度と現れないかどちらか選択せよ。
はなはだ迷惑である。
671 :
日本@名無史さん :2007/03/13(火) 16:39:45
>サガミ 過去にもあんた後藤幸彦(自分のことだな)の著書はお勧めだなどと しれっと書いていただろう またその内容が小城市役所からも支持されているかのような嘘も書いたな 実際は教育委員会所属のプロなどには一言も挨拶せず 商工課(つまり町おこし)を通して郷土の歴史に関する本として、単に置かれているだけだっただろ 懲りずに未だに嘘を書きまくっているのか、情けない奴
672 :
サガミハラハラ :2007/03/13(火) 17:46:19
小城市役所からも支持されているかのようなことは書いたことはない。 あるというならご提示願いたい。
言い訳する前に謝罪するか鳥つけるかどちらかにしろ
674 :
サガミハラハラ :2007/03/13(火) 19:38:29
言い訳ではない。提示していただきたいといっているわけです。
えらくサガミハラハラさんにからんでいるが、過去に何か不満があったのかね?
676 :
日本@名無史さん :2007/03/13(火) 21:21:56
>>サガミハラハラ トリップつけるか、引退するかしてくれ。 つけられない理由があるなら述べよ。
677 :
サガミハラハラ :2007/03/13(火) 21:55:16
それよりもあなた、HNをつけてくれ。
678 :
日本@名無史さん :2007/03/13(火) 22:16:01
サガミハラハラって嘘ばかりついてるの?
679 :
サガミハラハラ :2007/03/13(火) 23:01:07
もう頭きた!貴様らみたいな知能が低い馬鹿の相手なんてしてられるか! オレ様の高尚な爪のアカでも煎じて飲ませてやりたいわ。
680 :
サガミハラハラ :2007/03/13(火) 23:10:10
>>677 トリップをつけないと偽物を防止できる。
これが君のメリット。
その代わり、君の発言は後で「あれは偽物だ」と言えなくなる。
これが我々のメリット。
だからトリップを付けなさい。
>>677 トリップをつけると偽物を防止できる。
これが君のメリット。
その代わり、君の発言は後で「あれは偽物だ」と言えなくなる。
これが我々のメリット。
だからトリップを付けなさい。
以上に訂正します。
682 :
日本@名無史さん :2007/03/13(火) 23:24:31
>>679 そんな言い方しなくてもいいじゃん
・・・てか、本気で腹立った
684 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 07:47:11
サガミハラハラさん 神武即位前はざっとこんな記事と日付です。等倍ですよ。 前7年 10/5 東へ征く 11/9 筑紫崗の水門へ行く 12/27 安芸 埃宮 前6年 3/6 岡山県 高島宮 前3年 2/11 難波 浪速国 3/10 大阪府 青雲白肩の津 4/9 龍田 5/8 チヌの山城の水門 五瀬命戦死 6/23 和歌山県 名草邑 熊野神邑 高倉下 八咫烏 8/2 兄狡弟猾 9/5 八十梟師 10/1 八十梟師を討つ 11/7 兄磯城等 12/4 ニギハヤヒ、ナガスネヒコ 前2年 2/20 土蜘蛛 八十梟師 3/7 八紘一宇 9/ 天香山の埴土で平瓦を作るり諸神を祀る 前1年 8/16 正妃を求む 9/24 ヒメタタライスズヒメ正妃
685 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 07:57:41
686 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 08:06:42
年についてですが、古事記では安芸に7年、吉備に8年とありますが、上記では安芸の滞在期間が短いのではないでしょうか?
>>685-6 サガミハラハラ
トリップをつけて下さい。
これは最後通牒です。
688 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 10:49:28
無理です。 そんなことしたら自演に失敗したとき言い訳できなくなりますので。
689 :
日本@名無史さん :2007/03/14(水) 11:00:49
古代では普通の計算などは数字で表示されていたが、暦は年月日すべてが干支で表示されて、 それの組み合わせが循環していくんだから、途中まで数えてまた最初に戻るなんて不自然な 事はやらないので2倍年暦は存在しない。 日本書紀編纂者の年代引き伸ばしに、なんらかの法則性がある可能性はあると思うが。
690 :
カナカナボウシ :2007/03/14(水) 12:45:16
2倍年暦ではどうやら干支も2倍年(30年で1運)だったようです。 月についてはともかく日については2倍であったかはまだ不明です。
告白します。嘘をついてごめんなさい。 こんなことで売れなくなるのはごめんです。 しかし本当は誰でもやっていることでしょう。 私だけ叩くのは間違いでは?
日本に干支が入ってきたのっていつ? そして、入ってきた当初から 二倍年暦だったの?
693 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 14:40:00
>>689 そんじゃ聞くが、
>>493 の表はどう説明するんだ? 1ヶ月が14日までしか
なさそうな状態だぞ。
>>692 中国の鉄剣が日本にあり、その銘文に干支があることから、まずその時代に
朝廷側が中国の使者に「これは何か」を疑問に思って質問してるでしょう。
だからその時代たる欠史八代の頃には、まず朝廷の利口な奴は使い方を知って
いたことになります。→(
>>548 >>552 >>617 )
日本書紀の在位年に関しては応神天皇の初めのころまでは2倍年暦です。 年齢に関してはまちまちで、普通暦と混在しているものもあります。古事記日本書紀でもことなっています。 ですから古事記の応神天皇の年齢124歳は2倍年暦で在位年は大体普通暦です。
696 :
後藤幸彦 :2007/03/14(水) 15:04:53
雄略天皇は、倭王武ではなく、倭王康になる
697 :
後藤幸彦 :2007/03/14(水) 15:08:17
雄略天皇に関して、古事記は124歳、日本書紀は62歳の記述からして、私 はこの天皇の世を2倍暦とみなし、古事記のここの記述は1年を半年計算と していたと思う
698 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 15:10:23
垂仁は西暦120年ころ 神武は紀元前の人 ということは、神武〜崇神の間でまた年代を操作しているだろうと いうことが分かった
>>692 言い忘れましたな、欠史八代のころすでに2倍暦、3倍暦を使用されています。
綏世あたりは通常暦ですよ。
>>686 サガミハラハラさん
古事記記述の安芸7年、吉備8年ですが、双方で神武は人生の1/5くらいの
年月を費やしたことになり、これから東征して国、都造りをするのにのんびり
し過ぎやしませんか? せいぜい居て1年がいいところでしょう。
そんな長く神武が重い腰を上げずに15年分も遊んでしるわけがないと思い
ます。だから記のほうは何らかの誤伝でしょうね? 紀を採るべきですよ。
700 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 15:12:14
雄略以前の在位年は二倍年暦であるとはいっても、綺麗に二倍年暦になっているわけではありません。垂仁帝の時代は22年の水増しがあり、 後醍醐天皇は在位60年といわれながら、実際は7〜8年しかありませんでした。 仁徳天皇以前も同様綺麗な2倍年暦ではないとおもわれます。 崇神即位を160年と仮定して、その崩御314年の間、10代154年で1代平均15.4年となり、天皇の1代平均として無理はないでしょう。 崇神120年代即位は私の史観の根幹をなすものです。 これが崩れることは、史観の組みなおしをいみします。
701 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 15:15:40
私の史観の根幹はAD57年の金印授受においています。倭国が金印をもらったのは、近畿もふくめた倭を統一できたからだとみています。 となると、統一に時期は40年から50年にかけてとみることができます。(金印が貰えたのは武帝のお見舞いへの褒美とも考えられるが、 統一していたことは条件であったろう)。朝鮮の三国史記に40年代に王があちこちに降臨していることから、 これが、倭国の高天原からの降臨のことであろうと判断しました。 其の時に垂仁は0歳であったことから、人間の結婚や寿命を考えて下ってくると、120年代が崇神の東征の時期となります。
>>699 3倍暦だと 15÷3=5 で、5年分ですね。
これでも滞在がまだ長すぎでしょ。
703 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 16:12:39
>>701 訂正します
最後の垂仁はニニギノ命、崇神は神武の間違いでした。謹んでお詫び申し上げます。拝。
704 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 16:28:55
>>700 訂正いたします。
1行目垂仁帝は仁徳帝の、後醍醐天皇は成務天皇の、崇神即位を160年は崇神即位を272年の、その崩御314年はその崩御288年の
崇神120年代即位は、神武131年即位の間違いです。
5行目の10代以降は削除してください。
謹んでお詫び申し上げます。拝。
705 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 16:33:35
>>698 訂正いたします。
垂仁は西暦120年ごろを垂仁は300年ごろに、神武は紀元前の人を神武は131年即位の間違いでした。
謹んでお詫び申しあげます。拝。
相模原原の本は 間違いなく売れません。 以上です。 はやく、教師の仕事についてください。 奴国の57年を神武と無理に関連させている時点で 安本の二の舞です。 57年の奴国と神武に何の関連性もありません。
>>701 :サガミハラハラ :2007/03/14(水) 15:15:40
>私の史観の根幹はAD57年の金印授受においています。
>倭国が金印をもらったのは、近畿もふくめた倭を統一
>できたからだとみています。
ここからして間違い。
奴国が金印をもらったのは、そういうこととは全く関係ありません。
奴国が金印をもらう直前に、中国が立て続けに
周辺の国王に朝貢を迫り、印綬を授けています。
よって、これは、中国の対外情勢の流れに沿った出来事であり
日本国内の情勢の流れに沿ったことではありません。
708 :
カナカナボウシ :2007/03/14(水) 19:17:07
「周辺の国王に朝貢を迫り、印綬を授けています」大事なことは金印を授受したということです。 どの国も金印をもらったわけではありません。 やはり、倭国の覇者であったからでしょう。
709 :
日本@名無史さん :2007/03/14(水) 20:37:25
太国さんへ 1年の長さが実際に天皇によってコロコロ変わったのではなくて、記紀を編集するときに 1年の長さが違う暦が色々な神社に残っていて採用した資料の違いにより各天皇の暦の長さ が違う、と考える方がずっと現実的では?
710 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 21:16:01
電波を相手するのは疲れます。 いいかげんに負けを認めましょう。
711 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 21:34:05
>>702 三倍歴なんて信じてるの?
バカじゃねーの?
私が考えている高天原は三輪山です。山地の中央部は高原がひろがっています。 周辺に記紀伝説の地名があり、ニニギノ命の伝承があります。
713 :
サガミハラハラ :2007/03/14(水) 21:56:29
>>702 3倍歴などではなく水増しです。普通の知能があれば分かるでしょう。
>>711 そのうち、古代もケイタイがな〜いなんてバカじゃぁないのか?
と言いだすんじゃないのか?www
>>713 あ〜ん? 水増しだとす〜ぐ解決、できあがるよぅ〜。www
即席加齢ライスのように簡単便利でいいねぇ〜。www
3倍とか2倍とか、その都度恣意的に解決するよりいいでしょう。 本気で3倍歴を考えているなら、脳みその点検をお進めします。
717 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 07:42:29
>>716 2倍暦と3倍暦は、神代のイザナギ、イザナミの黄泉の国での
千五百と千の産室絞殺の宣言から迷信深い朝廷が二神の不仲を静めようと
考えて
1000;1500=2;3
の割合から暦を案出したもので、この比率から2倍暦3倍暦を使用したもの
であり、古代人の頭内の作法が現代的に行わねばならないと言うのなら、
君は至急精神病院へ行って 古代のやり方=現代のやり方 と考える君の
脳内治療をしてもらうことをお勧めする。ww
コヨミは古黄泉であって、暦法は古代の黄泉の国の話に起因している。
君は 古代の暦法=現代の暦法 と考えている哀れな野郎だ。
そのうち 古代の法律=現代の法律 などと言い出すんではないのか?君は。w
718 :
サガミハラハラ :2007/03/15(木) 07:55:45
随分私の偽者が横行していますが、皆さん本物と偽者の区別つきますよね。
>>680 「サガミハラハラ」を消し忘れてまま書いてしまったのでしょうね。
話が矛盾していますよ。
719 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 09:39:49
暦は、日読(かよみ)。 暦に数字が使われるようになった時代でも干支が併記され、干支の循環はしている。 暦法の変化で日数に多少の増減はあるが、一年を二年とすることはない。 60は、10と12の最小公倍数。 何をしたか解からない人間の生年や没年が記録されてる事に不自然さを感じないの? 普通は、何年ごろかはっきりとは解からないけど、こういう人が居て、みんなの為に こんな事をしてくれたとか記憶され、伝えられていく物だと思うが。
>>719 ならば聞くが、
>>493 の表は以下のようだがどう解釈するのか?
1ヶ月が半月(2週間)分としているようではないか?ww
日 月 火 水 木 金 土
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14
721 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 10:58:19
だから、その数字に何の信頼性も感じない。
>>721 信頼性がないのはお前の脳内だ。
いいか、ランダムにやっては数字が全部左よりにはちょっとやそっとじゃ
ならない。記紀の編者が文書偽造をやるなら1日〜30日までまんべんなく数字
を放りこむはずだ。逆に寄っているからこそデタラメではない信頼が
おけるのだ。お前のは否定のための否定であり、いくら否定しても当時の古代
は1ヶ月が14日の2週間でやっていた重要な文証である。
否定するなら、信頼性のないという根拠を具体的に多数列挙し崩しただどうだ?
くやしかったらそうしてみろ。できないんだろう?w何も持ってなさそうで?w
それをしないで単に信頼性おけないは、誰でも言えるぞ。お前の津田病の脳内
の治療を早急にせねばなるまい。至急精神病院へ駆けこめ!!
>>718 本物と偽物の区別に自信がないので、トリップをつけて下さい。
心からお願いします。
724 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 16:10:59
アレキサンダー大王の生年月日は?
725 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 18:54:39
726 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 19:28:23
木簡の発見から実在説は認めるけど 暦は当てにならないと思う
>>725 年表か〜? ハハァ〜お前ここのスレで新入りだな?www
年表は「邪馬台国は大和朝廷になったのか Part 21」の
>411〜>499(訂正 >485)にすでに欽明世から逆算式に断続記載してある。
そこを参照しろ。
>>726 個人的気分で当てになるならないが決まるんじゃない。
当てにならないならば、その根拠を具体的詳細に説明してからに決めろ。
728 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 20:52:37
>>727 神武以外の8代は名前は伝わるが
実績は当時の人もわからなかった
暦も当てにならないだろう
崇神の時代に暦があったのか
あくまでも目安であり
これも微妙だな
729 :
カナカナボウシ :2007/03/15(木) 23:01:48
やはりサガミハラハラさんの説が正しいと思います。
730 :
サガミハラハラ :2007/03/16(金) 07:26:28
あったり前田のクラッカー 太国とかいう妄想基地外といっしょにするなっツーンだよw
731 :
日本@名無史さん :2007/03/16(金) 07:38:11
邪魔太国 不要説 に一票!
732 :
カナカナボウシ :2007/03/16(金) 07:38:27
私本物のカナカナボウシです。 はやくも私の偽者がでまわっていますね。
733 :
日本@名無史さん :2007/03/16(金) 08:33:42
>太国 明治の廃仏毀釈は神道まで飛び火して国家神道以外の神道諸流派は 廃絶に押しやられたことをしらんようだな。 古神道自体が幕末以降(明治以降と言っても過言ではない)に 修験道などをベースに再構成して作り出されたモノがほとんどなんだがな。 そんなもんに30年もの時間と労力を無駄なことに使うなんてアホ以外の何者でもない。 そんな時間があったら皇學院か國學院行って神主の資格でも取ってろよ。 四年間通えばそれ相当の階級の神職の資格もらえるんだからよ。 あ、そうそう、 日本書紀の神功皇后のところに「魏志倭人伝」の邪馬台国の記事が引用されているのは なぜだと思うか考えた事あるかい? あといきなり法華経の受記品がいきなり引用されていたりとか。 なんでだか一回頭を冷やして考えてみな。
734 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/16(金) 10:19:52
>>733 古神道が壊滅だと?ww
お前はま〜だ古神道を復古神道だとか国家神道とかにピッタリとさせたいよう
だが、全然そっちとは無関係だ。古神道の崩壊など地球が核崩壊だとかなら話
は別だが、そんなことは起こり得ない。古神道は悠遠の神代のそのまた昔、
神世七代のもっと昔の高天原が起源であって、他の神道と同類で考えるべき
ではない。修験道が入れば、もう神仏混交的であり、なおさら古神道ではない。
神職は神道関係で、余はタッチしていないし、余はそちらの権威者ではない。
神道の権威者は他に多数おられるだろう。これまた古神道とは一区画される
。
神功皇后は卑弥呼ではない。倍暦を考えに入れなかった紀の編纂者側が、故意
ではないが、いろいろ勘案したあげく女王国の記事を神功の時代だと思った
ようで、そのために神功紀に女王国の記事を挿入したということだと想う。
しかし、現実の卑弥呼の時代は神功世ではなく、倍暦の関係で崇神天皇の世の
前後だということが正解であり、卑弥呼は比売大神ではなく、後者は卑弥呼
より年代が後である。倍暦だと神功39年は崇神世での239年となり、崇神即位は
景初元年の237年である。
法華経の授記品のどこがどのように引用されているのか? お前はどこの
グループの者か?
735 :
日本@名無史さん :2007/03/16(金) 10:27:25
アレキサンダー大王の生年月日は?
自分のことを「余」とかいうなよ くせえよオマエ
>>732 知名度の低いコテにニセモノも本物もない。
トリップつけずにニセモノがどうのこうの言われてもウザいだけ。
738 :
日本@名無史さん :2007/03/19(月) 22:42:41
739 :
日本@名無史さん :2007/03/20(火) 21:11:45
大林賢栄のかいた 妄想本は 全く売れなかったそうですよ
740 :
カナカナボウシ :2007/03/20(火) 21:18:26
言語虫のような電波説が売れる訳はありません。 後藤幸彦氏のような鋭い説の本でも、あまり売れないのが現実です。
741 :
日本@名無史さん :2007/03/20(火) 21:37:12
後藤幸彦が売れると思う事態が可笑しいですよw
742 :
カナカナボウシ :2007/03/20(火) 21:40:19
>>741 太国の名無し発言ですね。卑怯なふるまいはやめましょうね。
ヨチヨチ、イイコデシュネー
まさか匿名で匿名を卑怯と言ってるの? プラ国わらわすなよw
744 :
カナカナボウシ :2007/03/21(水) 05:53:56
梓書院に大林賢栄著「私の邪馬壹国」 の売れ行きを聞いてみました すると○○○と帰ってきましたw 皆さんも聞いてみましょうw
746 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/27(火) 14:47:10
まぁまんまと一杯食わされていたのが高木彬光氏の説 卑弥呼=比売大神 で あったわけで、真はそうではなく両者は別人であったということである。 稀の稀には例外はあるも、古代史ではイコール説はすべて間違い失敗である。 この前は他の掲示板で女王国の所在を畿内か九州で論争したが、そのときの 有コテハン曰く〜畿内説を展開し、卑弥呼=神功皇后 を紀の書きこみとして 肯定的のように思えた。しかしこの等号が真ならば、景初年間が神功の世に相当 することになるから、後代の應神、仁徳がそれぞれ111歳、143歳の超長寿で あるをストレートに肯定せねばならない。中国は等倍暦だそうでこれは動かぬ から日本も同様として行けば 神功39年=239年 となり両天皇の超長寿を認容 せねばならぬこととなるが、まずこんな長生きは不可能に近く、倍暦を認めれば その矛盾は容易に解決するし、倍暦で 実年代239年=紀の崇神7〜9年=景初3年 ということになることから、卑弥呼は神功皇后ではないことが解かるのだ。拙者 は 崇神即位元年=景初元年=実年代237年 と観ている。つまり 比売大神≠卑弥呼≠神功皇后 が正解であり、前者は中者より後代の、神功〜應神〜仁徳世あたりの女である。 その有コテハン者は倍暦を否定しており、通常暦を支持強調していたが、神功 が卑弥呼だというなら両天皇の超長寿を倍暦でなく通常暦で説明できるわけで、 その論理を具体的に聴きたいものだが、このへんのスレには書きこむことは まぁないかも知れない? 通常暦では水増しとか以外説明は無理だと観る。
747 :
日本@名無史さん :2007/03/27(火) 20:34:25
2倍暦の欠点の一つに古事記ほかの年代記との誤差が説明出来ない事でR。
できる。よく考えろ。15年前の車にはカーナビがなかったが今のはある。 712年から8年後のは追加改正されている。
749 :
日本@名無史さん :2007/03/27(火) 21:22:19
古事記ほかの年代記との誤差を説明するために、2倍年暦を持ち出したのではなかったでしょうか?
>>749 余の場合は古代天皇の超長寿が不審なことから倍暦を持ち出したもの。
他にも理由があるがね。
751 :
カナカナボウシ :2007/03/27(火) 21:28:06
自分のことを余ってバカじゃねーの?
神日本磐余日子尊はバカなのか?
753 :
サガミハラハラ :2007/03/27(火) 23:11:01
>>752 バチ当たりなことを言わないで下さい。
太国さんらしくもないですよ。滅多なことを口にするものではありません。
754 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/27(火) 23:29:53
>>753 君はサガミハラハラさんのニセモノだろう。バチあたりは
>>751 だ。
zzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
755 :
サガミハラハラ :2007/03/27(火) 23:40:38
>>754 滅多なことで他人をニセモノ呼ばわりするものではありません。
>神日本磐余日子尊はバカなのか?
これはあなたが書いたのでしょう。神日本磐余日子尊に対して正式に謝罪をお願いします。
返答次第によっては容赦しません。
756 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 07:36:47
なにを言ってるんだい? きみは
>>751 を擁護するのか?
余が神武天皇をバカ呼ばわりしてはいないぞ。 お前はニセ者だな。
それとも、お前が
>>751 か?
あの文には疑問符→?がついてるんだよ。あいつが言ってきたらバカでないと
逆襲するのさ。お前はあいつはつつかないのか? 余をバカにしたいのか?
ふざけるな。余に謝罪してみろ!
757 :
サガミハラハラ :2007/03/28(水) 07:52:50
>>756 太国 ◆yVAs7uaYlY
>神日本磐余日子尊はバカなのか?
これは君が書いたのか?はい、いいえで答えよ。
758 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 07:57:15
そうか、はいだよ。それがどうした? 神武天皇はバカではないぞ。
759 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 08:34:18
アレキサンダーは文字を使っていたが、神武天皇はどうしていたのか? アイヌにはユーカラという物があるが、細かな年代までは判らない。
760 :
サガミハラハラ :2007/03/28(水) 09:08:57
>>758 太国 ◆yVAs7uaYlY
神聖にして侵すべからず存在に対して
>神日本磐余日子尊はバカなのか?
と疑問を表すことは適当だと考えているか?
これもはい、いいえで答えよ。
761 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 10:01:54
>>761 ならば私が代りに問う。
>>太国 ◆yVAs7uaYlY
神聖にして侵すべからず存在に対して
>神日本磐余日子尊はバカなのか?
と疑問を表すことは適当だと考えているか?
これもはい、いいえで答えよ。
>>762 テレ隠しはばれてんだから、「余」のつく名をバカと言ったお前の浅薄を恥
じてわびをしろ。いまから外出だ。午後までに地べたに手をついて皇宗に謝れ。
しなければ、お前はチョンかもしれんぞ?
帰ったら、お前の詫び状を読んでやろう。
>>762 テレ隠しはばれてんだから、「余」のつく名をバカと言ったお前の浅薄を恥
じてわびをしろ。いまから外出だ。午後までに地べたに手をついて皇宗に謝れ。
しなければ、お前はチョンかもしれんぞ?
帰ったら、お前の詫び状を読んでやろう。
>>太国 ◆yVAs7uaYlY
おまえ本当に古神道の権威か?神罰があたるぞ。
このスレは神も見てるかもしれぬぞ。
なぜ神日本磐余日子尊におわびしないのだ?
ちなみに
>>751 は
(天皇でもないのに)自分のことを余ってバカじゃねーの?
と読めなくもない。ならば不遜ではない。
しかしお前の
>神日本磐余日子尊はバカなのか?
これは不遜、不敬であることが明白。
私や751にでなくてよい。
神日本磐余日子尊にお詫びしてくれ。
同じく神をおそれる心を持つものと見込んでお願いしておく。
766 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 15:00:57
>>765 ふざけるな! お前は余の名誉に関わるバカと言ってる奴→
>>751 をなおざり
にして擁護し、こちらの揚げ足を取ってけなすことばかりに勢を出している。
まるで被害者を被疑者にスリ換えているようなものであり、その詭弁にだまされ
る余ではな〜い。お前の両親の顔が見たい、どんな教育をしていたのか〜?
そんなことでは、いずれ裏世界にはまるよくない性格になる。
それより倍暦関係の書きこみでもしろ!
>>766 太国 ◆yVAs7uaYlY
意地を張ってるようなので、君の代りに謝罪してあげます。
なおこの件に関しては、以後レス不要です。君はスレの内容に沿ってレスすればいい。
神日本磐余日子尊
太国 ◆yVAs7uaYlYの発言
>神日本磐余日子尊はバカなのか?
は神をバカなのかと疑問を呈したことが本意ではありません。
神でもない者が余を使うことに対して、バカと言われたことへの言い掛かりの意味です。
無知がなせる技であり、神を敬う気持ちがないわけではありませんので、どうかお許し下さい。
太国 ◆yVAs7uaYlYは彼なりに神をおそれており、
決して神日本磐余日子尊はバカなどと思っている人間ではありません。
本人は頭に血が上り、許しを乞う精神状態でないため、私が代ってあやまること、お許し願います。
768 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 19:40:12
>>767 ニセ者よ
あいつの代わりに余に謝罪するならわかるが、とんでもない奴だなお前は。
それはお前の作文だ。謝罪するのはお前のほうだ。
770 :
カナカナボウシ :2007/03/28(水) 20:01:30
太国って心底バカなんだね。
771 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 20:09:00
そういうお前はどうなんだ。
772 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 21:02:31
これはサガミハラハラの一本勝ちだな
勝ちたけりゃぁ、論で来い。
774 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 21:26:42
みじめよのう
論なしか〜?w そのほうが惨めだろうが。ww
誰か、神代系図が書かれたサイトを知ってないか? あれみたら、徳川幕府にたとえるのなら 出雲=三河・岡崎 大和=武蔵・江戸 大物主家=徳川宗家 物部氏=尾張徳川家 神武皇統=紀伊徳川家 アメノホアカリ=徳川義直 ニニギ=徳川頼宣 だったことが分かる。 神武天皇は、徳川吉宗のような存在だった。
罵りあいは他所でやれ
778 :
サガミハラハラ :2007/04/01(日) 10:04:19
現在日本書紀の紀年を研究していますがゆきづまっています。 紀では神武即位がBC660年となっていますがこれは、魏略の「自謂太伯之後」にあると考えます。 つまり、倭人である天皇の祖先は太伯の後裔であるということである。 そこで、紀の編者は、天皇の祖先を太伯に合わせようとした。太伯は殷代の人で、太王の息子で三人兄弟 (太伯、仲ヨウ、季歴)の一人であった。そこで、紀の編者はこの三兄弟とニニギノミコトの子の三人兄弟とあわせようとした。 ・季歴の息子の文王は、東周を起こしたという。東周はBC771年のことである。 よってホヲリノ(山幸彦)ミコトのウガヤフキアエズが文王の時代にあたると考えた。 そして以下の天皇の年代をきめていったのである。 これが神武即位がBC660年となった(辛酉年を選んだ)理由であるとかんがえた。 ところがである。正史では、東周を始めたのは代13世平王であり、季歴の子の文王は BC1058〜1034となっている。 私が、文王が東周を始めたと考えたのは、何かの本(書名等忘れてしまったが)に文王が東週をはじめたとかいてあったと記憶しているからである。 そこで、文王が東周をはじめたとかいてある書物(古文、現代の書でもかまいません)等や、上記に関したこと をご存知のかた、よろしくご教示ください。 (古史古伝のなかにはウガヤフキアエズは何代にもわたったとするものがあるが、 これも、太伯にあわせようとしたが、時代を正史どおりにするためウガヤを何代にもしたのであろう。 古史古伝の編者は天皇の系譜は太伯にあわせたとしっていたのであろう)
779 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/01(日) 10:15:29
>>370 と
>>372 から
繼體天皇の時代は1ヶ月が半月ばかりで2倍暦をやっていたことが察知
しうるが、これを否定、無視する論者はそれ以前の真の年代を策定できない。
780 :
八葉九界 ◆v/LK4luEPU :2007/04/02(月) 19:07:01
>>778 平勢隆生先生の本なんかどうでしょう?
しかしどういうわけかGoogleでもでてこないんで、
明日になればわかるのですが、
それでよろしければ。
781 :
サガミハラハラ :2007/04/03(火) 08:23:32
平勢隆郎先生ですね。ありがとうございました。
782 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/05(木) 19:56:24
欠史八代間の倍暦の文証→
>>493 1ヶ月が1日〜14日までの約半月しかない。
(詳細を検討すれば、綏の時代は等倍暦で例外)
>>925 >孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
>立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
>19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
>おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
まじで目にうろこの部分だな。
日本書紀の編纂者は改竄し忘れた部分か!?
上古代の日本は二倍年暦だが、
神武の即位年を干支の辛酉年(革命年)にするために、
欠史八代の部分を倍増させ(結果的に二倍年暦×2で四倍年暦計算に)
行き過ぎてしまった部分を神武天皇の在位期間を短くすることで調整した。
(だからこそ、日本書紀の神武の年齢は、古事記よりも10歳短い)
784 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/05(木) 21:56:50
>>783 革命年とやらにする必要がどこにあるのか? 中国の歴史に負けないように
代数を増やすなら、たかが8代くらいではメリットが薄い。やるなら200代〜
数百代と増加させて始めて効果が出てくるものであり、たかが1桁では、改竄
などの冒険は馬鹿や精神がおかしいとかでない限りありえないよ。
伊達や酔狂で、たった8代で中国に勝てるとは、極めて疑問ですねぇ?w
以下の文で、紀の編者らは、俺たちは改竄などやってない、自分たちは真摯
ですと、口をすっぱく言って書きこんでいるんだよ。
紀の欽明2年3月の文
「帝王本記に多に古き字あり。撰集人しましま遷易を得、後の人習い讀みて、
意を以ちてけづり改め、傳へ寫すこと既に多なり。遂に舛雜を致し、
前と後と次を失ひ、兄弟とかたたがひなり、
今は古今を考え覈りてその【眞正】に歸す。一往に識り難きは、且一に依り
て、撰みて、その異なることを注詳せり、他は皆これに效へ。」
785 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/05(木) 22:42:21
>>370 と
>>372 から、日本が2倍暦、半島が等倍暦を使用していたのが分かる。
この繼體の時代も1ヶ月が約半月の、1日〜14日までしかなかったのが動か
ない。つまり2倍暦だったということだ。
半島のは下旬の数字だから等倍暦だということになるし、もう一つの下旬の
数字は武烈世でのオホドの記録だから、先帝の時代はやはり等倍暦を使用して
いて、繼體世で2倍暦に変更したことがわかる。だから天皇が変わるごとに暦法
の倍暦を変更していたことの貴重な文証であり、変更をしないで継続的なやり方
もあったのである。
786 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/05(木) 23:21:27
半島側が日本の2倍暦を知っていた可能性がある。それは半島から出た武寧王
の墓誌の碑文の1年ズラしての改刻にある。2倍暦だから、1年ズレはどちら
でも同年になる。つまり当時日本の半年分が1年だから、改刻は実質上半年ズラ
した意味となる。1年の前半と後半との修正をやったのである。2倍暦が彼ら
に馴染まなかったか、間違えたかと思って変更したのであろう。
内容は
>>548 >>552 と
>>570 >>571 >>572 >>573 の武寧王の記述のとおり。
>>784 いやいや、日本書紀の編纂者たちは中国に対抗しようとは思ってないよw
ただ、神武天皇の即位年が、干支で辛酉年になることには拘ったと思う。
でも、普通に書いていたら、辛酉年にするのに無理があるから
欠史八代の部分は年代を倍増させて
神武天皇のところは逆に年代を短縮させて
神武即位年は、干支で辛酉年に持っていた。
788 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 07:15:55
何故、辛酉年にこだだらねばならぬのか? 特段の利害もないだろう? 君の脳内の勝手な考えですな。w イカサマというのは、大きな利害があるときにやるのが大半のはずだがねぇ。 それより「甲子」の年のほうがよっぽどスッキリお似合いではないのか?w
789 :
カナカナボウシ :2007/04/06(金) 07:19:26
なるほど、神武調整説ですか。わたしは、垂仁調整説ですが。
790 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 10:29:12
>>784 の下段の文は、紀の編者らの誓文と云うべきで、言い換えれば
60年とか120年とかの水増しはしてませんとの強い言葉である。だから、こう
いう水増しは、冷静な奴を説得することはできない。
朝廷の信仰の神道は半年目で大祓いの行事をやる。これが2倍暦の根拠の一つ
になる。
791 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 11:07:09
2倍暦を否定するなら、
>>493 と
>>370 (
>>372 )の統計表で、日数が
1日〜14日までしかないことの明快な説明ができない。
以下のカレンダーでは、もう1ヶ月が14日間の、1ヶ月が約半月分なるを
認容するほか合理的説明ができにくい。これは明白性がかなり濃厚に傾く。
↓
日 月 火 水 木 金 土
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14
中国人が知る必要があるとかないとかは、いくらでも左右へ揺れ動き、
決め手にはならず、自論の有利性を主張するための論までにとどまり、
役には立ちにくい。
792 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 11:08:38
2倍暦を否定するなら、
>>493 と
>>370 (
>>372 )の統計表で、日数が
1日〜14日までしかないことの明快な説明ができない。
以下のカレンダーでは、もう1ヶ月が14日間の、1ヶ月が約半月分なるを
認容するほか合理的説明ができにくい。これは明白性がかなり濃厚に傾く。
↓
日 月 火 水 木 金 土
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14
中国人が知る必要があるとかないとかは、いくらでも左右へ揺れ動き、
決め手にはならず、自論の有利性を主張するための論までにとどまり、
役には立ちにくい。
793 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 11:42:07
ITのからみか? 二重書きこみとなり失礼しました。 さて、それでは古代はいつも上のカレンダーのように1ヶ月が14日間だったの か? と考えれば、そうではない。 欠史八代後の崇神、垂仁の時代になると日に下旬の数字があり、1ヶ月が28日〜 30日ばかりでやっていたようである。しかしこの二天皇世は3倍暦の時代であり、 紀を調べると3年周期で1年の3ヶ月分が無であったらしい。無の月は周期毎に 違いがあり、これから3倍暦をやっていたことが推定できる。
794 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 13:52:24
九州王朝から、「筑紫」は『竺』の字と換えて「竺紫」でもいい。 『竺』は字の作りから『二』を有し、九州側の二倍暦使用を示唆しているように も想える。 『紫』は菫色とも云えるようで、英字で violet(倍王列島) と読めるのが 面白い。倍暦を想起する読みである。w
795 :
日本@名無史さん :2007/04/06(金) 20:22:03
>>794 >『紫』は菫色とも云えるようで、英字で violet(倍王列島) と読めるのが
面白い。倍暦を想起する読みである。w
要するになんとでもこじけられるといいたいのか?
ハハっ、冗談に噛み付いて来たわけだ。想起するのが面白いと言ったまでよ。
797 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 08:23:29
大祓いの儀式を行う時期が固定されたのは平安時代。 倍暦の証明にならない。
798 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 09:23:05
>>797 そのことは前から書きこみがあるから知ってるよ。固定されなかっ
時期もあったということは推定可能だ。記紀には祓いは黄泉の国の後にももう
書かれているよ。
>>493 はどう観るんだ? 答えてみろ。
799 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 08:51:13
神武の時代からその数字をどんな方法で記録していったの?
800 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 09:51:29
今朝の読売に対馬と倭人伝の記事があったが、その下に 「西暦元年1月1日は神武天皇の即位の日」大橋蛍火著 新風舎 とあったから、題名からおおむね自論に近いようだ。論の内容はだいぶ違う だろうが? 早速遠出して買いにいこうかな。
801 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/08(日) 09:59:55
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シンプーブックス
西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日
ISBN:9784289017683 (4289017681)
109p 19cm(B6)
新風舎 (2007-03-10出版)
・大橋 蛍火【著】
[B6 判] NDC分類:210.3 販売価:\1,050(税込) (本体価:\1,000)
BookWebの取扱い店舗には在庫がございませんのでお取り寄せになります。お取り寄せした結果品切れの場合もございますので予めご了承下さい。 ユダヤ人と日本人、そして西暦発祥の関係を大胆な発想で読み解いた神武天皇論・第二弾。
日本の紀元・世界の紀元
キリスト暦はだれが決めたか?
神武天皇暦は、ユダヤ人によって使われていた
ユダヤ人はどのような人たち
ユダヤ人と牛
続・ユダヤ人と牛
橿原宮は柏原宮ではなかったか
柏原の神武天皇社
神武天皇は実在した
神武天皇が実在していた証拠〔ほか〕
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4289017681.html
802 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 10:26:55
大祓いの儀式が固定化されてなかったと言うなら、 大祓いを年の区切りに行ったとは言えないね。
803 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 10:28:08
大橋蛍火さんて本名ですか? 学問書を偽名やペンネーム(すでに作家である場合を除く。松本清張等)であらわしている 本など信用できません。出落ちですね。
804 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 10:33:46
>>802 言える場合も可能性は相当ある。
4月野球の公式戦の前にオープン戦もあるし、その前にも野球規則の野球
はある。固定化はプロ野球の発足のようなもんだ。
805 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 13:03:05
>>800 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 09:51:29
>今朝の読売に対馬と倭人伝の記事があったが、その下に
どういう内容だったの?
807 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 15:46:15
どういう内容って、だからその記事のずっと下に新風社の出版書の広告が あったということだよ。その中の一書が余の論と似ているということだ。
>>807 いやさ、その「今朝の読売に対馬と倭人伝の記事」
はどういう内容だったのよ?
809 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 16:18:27
>>808 疲れるねぇ。「絶島の景観 古代彷彿」と題して地図2枚と対馬の写真1枚
で5段になって倭人伝の道程の解説から始まり、子供のころの禽鹿の径の様子
の小島対馬市教委課長の弁、和多都美神社に着いて対馬の地勢とその険しさに
言及し、対馬が日本の防壁と玄関だった事を白村江の戦いを述べ強調している。
あとは浅茅湾に突き出た城山の石塁の復元工事の話だ。
810 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 17:00:21
>>800 >>801 今買ってきて最初のほうを読んでいる。
図版はないみたいだが、読みやすいからいい。
811 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 07:46:41
神武の時代は神武誕生から同即位前年までが等倍の通常暦であり、即位後から 崩御までが3倍暦を施行していたのである。そして次代の綏で再び等倍暦 に帰したのが真相だと考えている。 古代では天皇の即位ごとに倍暦を変更していたのであり、それが垣間見え るのが紀の繼體の記録の即位前(武烈世相当)の繼體の記事からもうかがえる。 紀は神武の寿命を127歳と為し、記では137歳とある。何故かように10歳の記述 の隔たりが出来たのか? この秘密は拙論なら容易に解ける。即位前が等倍暦で あった事は神武の即位前3年の紀の記述からこう観たものであるが、神武誕生は B.C.51年で、等倍から即位前年までで51歳となり、即位は52歳だった事になる。 即位後は紀の記録が1月から4月までしかない1年が 1/3分 の状況が確認 できるわけで、5月以降がないのは神武が五瀬命の5月戦死等による衝撃から 避けたと想うものであるが、3倍暦的に即位から崩御までは実年代26年分(A.D. 26年の皇紀76年崩御)だから即位前の51数と皇紀数を和すると 51+76=127歳 の紀の数字を確認できる。ところが綏の等倍暦施行は即位からではなく、神武 崩御の直後に等倍を始めたのが例外的で、ここが他の天皇世と異なるところで ある。記の稗田阿礼の脳内からの137歳の記述は崩御直後、等倍3年余の綏 即位までの閑年数を記憶のズレで算入した誤であり、神武の崩御の年の1年計上 に綏即位前年迄の等倍暦3年分が加わって3倍の9年計上となり 127+1+9=137歳 の記の記録の数字が算出されることになるのだ。かように拙論には合理性が あることが、少しでも皆さんに解かってもらえよう。
812 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 10:08:30
神武崩御の翌年 27年(皇紀77年)に葬儀が行われたが、その月日は9/12 で、同即位後1月〜4月までしかないところ飛びぬけて9月の記述となって いることは、崩御と次代即位の間が通常暦に変わったことを物語っている。 先述のとおり神武の暦法に5月以降がない理由は五瀬命の戦死のことからで、 次代の神沼河耳尊の立太子が3日であるのは存命でいた兄弟の三毛入野命の 名を借りたものであり、尊の即位が8日なのは神八耳命の功績に依ることから、 その名により日を決めたであろうと想われる。
813 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 11:27:49
紀の179万余年の数字に「余』の字があるが、神武の御名の磐余彦にも「余」 がある。これを受けて御名の『磐』はイワ→五○の 50数 を示唆していると 観ている。同じハツクニシラスの崇神の御名も相対してか五十瓊殖尊であり、 これを意識したのか、やはり 50数 がある。 イワレは五○齢にして即位前が50余歳を黙示したのであろう。「余」はここ では数ヶ月と観て年齢的には1歳分と為し、51歳が出る。 磐余彦 → 50 五瀬命 → 5 三毛入野命→3 神八耳命 →8
814 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 21:00:01
815 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/29(日) 22:45:26
>>813 ともにハツクニシラスは、御名に 50 を持つか?
神武 五○齢彦尊
崇神 五十瓊殖尊
816 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/01(火) 17:53:00
このごろサガミハラハラ氏は繼體世以降も検討をするようになり、真摯な 態度が好ましい状況にあるが、かたや倉西氏はお脳が硬くて投影映画の劇が 忘れられないらしく、困ったウーマンの有り様である。
817 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/04(金) 22:38:16
稚足彦≠卑弥呼 宝塚男装ガールに非ず。
818 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 22:34:18
日本書紀研究家さんが男装の麗人にあこがれていたとはショックでした。 彼女を見る眼が変わりました。
あの人は他にも… 世子興=木梨軽皇子=雄略 武=清寧 酢香手姫皇女=推古
820 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 10:23:23
倭の五王を当時の天皇だと思っているわけで、その記録を編年に使用するから いつになっても年数が合わないで、あげくのはては木梨軽皇子を五王に合わせ ようとするトンデモの考えに至るわけだ。 彼女は五王が天皇ではないんではあるまいか?とのブレーキを怠って突っ走っ てしまったから、かような奇異的発想に至った。 それでもまだ間違いに目が覚めていないわけだ。120年とやらの数字を黄金の ように目が眩んでしまっており、実は真鍮だったと解かるのに長い年月が かかるだろう、いや、その信でもう手遅れかもしれない。
821 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 12:49:17
822 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 12:57:24
>>817 太国さん
わたくしは、宝塚歌劇を一度も見たことがないのです。
男装の麗人とは、どのようなものか、よくわからないのです。
例えば、日本書紀では、日本武尊は、童女の姿になります。
日本書紀の編纂者は、女装のファンだったのでしょうか?
そのようなことは、なかったのではないでしょうか。
わたくしは、学問的に、稚足彦天皇には卑弥呼が投影されている可能性が高い
と述べているまでです。
823 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 13:00:16
>>818 さん
>>821 と
>>822 で、述べましたように、わたくしは、男装の麗人には、あこがれておりません。
太国さんが、曲解して、そのように言っているまでのことです。
計算が正しいのは構成酔要素が恣意的だから そんなんで支持を得ようなんて自己客観視できていない証拠だ
825 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 23:59:45
古代史で、記紀とそれらを取り巻く古文書はよく干支年数を記述している。佛伝 のあたりでそれを触媒的にしたものか、このころの時代にいままで使用されて いた倍暦を完全に廃して、通常暦に変更した、というよりも、神武即位前真近頃 の時代の通常暦に戻したと云うのが本音であろう。 本来は欽明元年から戻す予定が観念的にもあったものの、宣化即位では2倍暦を やっていたものの、その翌年の宣化元年(536年)から通常暦に戻した。 がしかし、宣化元年から欽明元年(540年)までは通常暦なるも、暫定使用で あって本格機運ではなかったもののこれが大きく気に入り、仏教関係もあって か、改革の嵐は吹く時世から、翌欽明2年(541年)から半永久的に等倍暦の 本格運用時代とあいなった。かように等倍暦(通常暦)の暫定使用があっ た背景は、特別に神武崩御年から綏元年までは神武即位前に戻しての等倍暦、 綏2年からその戻した等倍の本格使用での(綏の総ての)通常暦の時代と なったことに相対し、回想して、宣化朝廷の賢臣らの判断の発揚だと思われる。 このように綏の暫定時期にちなんで宣化元年から等倍に再び戻す暫定年間を 経過して、その本来の使用を欽明2年(541年)以降としたものである。 そこで各々等倍暦で 宣化元年 536年 26年 神武崩御 537年 27年 同 葬儀 仏伝 538年 28年 欽明即位 539年 29年 手研耳命討伐 欽明元年 540年 30年 綏元年 欽明2年 541年 32年 綏2年 双方の1桁の年数が合致しているに注目されたい。 541年を本格的通常暦の始点としたもう一つの意義は、この年が辛酉年 だからである。紀の記述の採用年たるB.C.660年の辛酉に則っているのである。 また、真の神武即位と思われる紀元元年も辛酉のとしである。
826 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/09(水) 00:02:43
>>825 訂正
× 32年 綏2年 ○ 31年 綬2年
827 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/09(水) 07:23:10
828 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/09(水) 23:02:15
>>825 541年が辛酉年のB.C.660年に則っているというよりも、辛酉年の皇紀元年
に則っていると云ったほうがより直接的であろう。欽明朝廷は宣化世に於いて
等倍暦に戻したことと、それ以前が倍暦を長くやっていたことを時代が数年
しか経過していないことから、ある程度は宣化即位前に採用していた倍暦が
いかようなものだったか暦法把握の長老的人物から聞き及んでいたことは
間違いないと思う。
ここで辛酉というのも(拙者が最初に云い出したんではなかろうが)金光の
鵄鳥が弓にとまったことの因縁を想い、当時神武即位元年を辛酉年にて執り
行ったものだと推定している。
829 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/10(木) 22:13:55
>>825 (訂正等
>>826 >>827 )
>>828 から続き
伴信友、那珂博士らは神功紀の編年にあたって、紀の編者らが 60×2=120年の
時代の繰り上げをやったと主張し、その結論として中国の讖緯説を出して干支60の
倍数の1260年の引き伸ばしをやって一気に時代を基点たる皇紀元年に相当となる
B.C.660年の、辛酉の年への位置つけを彼らが計ったと発表したのであった。
これは果たして真なのであろうか? 余は120年の繰上げ説は肯定せざるを
得ないと考えるが、彼らの言う辛酉革命によるB.C.660年への編者らの構想
とやらは間違いだと思っている。そうではないのである。
最初、紀の編者らは古代の日本と半島、大陸側の編年による各々の対応年数
に著しく一致しないという不合理が、各原書を研鑚するに当たって歴然と
見え見えなので困惑していたのである。それの筆頭にあげられるものが倭人伝
の倭の女王の記述で、それがどこの時代に位置するものか幾度も仲間と討論
しても一定の矛盾と不明の点がそこにあり、解決するには至らなかった。
それではその編年による合致できない不合理の真の原因とは何であったので
かと問われれば、事は他でもない、半島大陸と日本側の暦法とが大きく性格が
異なっていた為で、それで各代の年数が一致しなかったということにあるのだ。
つまり半島大陸側は通常暦でやっていたのに、日本側は当時倍暦を使用して
いたから、あちらと日本の古文書の年代が著しく一致しないわけで、それを
見抜けなかったか、編者らはいずれも双方を同一的暦法の等倍暦での編年での
考えて行って行ったので多数の合わない数字が出てしまったということである。
830 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/11(金) 08:20:40
>>829 続き
とりあえず?と云えばうまい形容ではないだろうが、紀の編者らは半島、大陸と
こちらとを疑惑を持たずにか等倍暦たる通常暦で編年して行き、先ずは景初3年
が神功39年(皇紀899年)に相当だとして卑弥呼を神功の年代に記載を位置
付けた。当然卑弥呼が神功皇后だろうとする考えがあったことからであろうが、
逆に別人だろうとの疑惑も持っていただろう。しかし真は後者のほうで
あったわけで、卑弥呼の実年代は崇神世のころであったのである。
倉西氏は120年の繰上げたるこの年数を干支の2倍で均整化された美麗なる数字
だと重宝して、紀の編者達が年代の引き伸ばし構想をやったものだと考え、
應神某年(390年)と雄略某年、允恭某年、仁徳某年をそれぞれA列〜D列と
為して、これに記の崩年干支をvZ(←上下の一個の合字)列として彼らが
編年して行ったとの主張をしているわけだが、そういう美術的?構想が編者連
にあったものではなく、120年の繰上げとは彼らが日本の記紀等と半島大陸側の
古文献の不知の倍暦からの不一致を調整するために苦労して120年ズラしたの
だというのが本物の理由なのである。
831 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/11(金) 11:04:07
>>830 続き
紀の編者連が120年繰り上げを行ったという具体的核心的真の理由とは、あちら
と日本側との暦法があまりにも違っていて段差がある為に、彼らの倍暦の不知の
ことから双方の編年での調整がうまく行かず、さらに数字の記述方法が 一、二
、三・・・・・九、十、百、千・・・・・ たる数字の漢字による直接の表現
記述はさておき、原因はこれと兼ねて半島大陸で広く典型的に行われていた干支
での間接的な古文献の数字表記に求められる。前者の場合は一見とっつき
易いもののせいか、少数字の ±凾w年 とかでのあちらとこちらの古文献の
年代は矯正し易く、算用漢数字は簡明な視覚のため近接の上下の年代のズレに対
して誤認性もさほど顕著に見えにくく、錯覚というか近接の1,2年とか、さら
には5,6年とかあるいは外れて9年、10年とかの数字選択の修正にての編年は
先入観で容易に採る可能性があろうから、大数字の120年とかの修正もやれば出来
ようが、算用漢数字のみだったら紀の繰上げの年数の記載はこんな感じでの少な
めの修正式で紀の文面の要所要所に取り入れて決めて行ったであろうとこう想う。
ところが古文献にうんと使用されていたのが干支での数字記載であったから、
その乙酉とか甲寅とかは一見して視覚的に硬い感じが否めず、いかめしくて
紀年の修正にあっては隣なる甲申と丙戌、癸丑と乙卯あたりならば修正の誤認が
あまり感じないようだから採用するだろうが、三つ四つ隣の干支になってくれば
先の算用漢数字記載法より著しく間違いのようにどうしても見えてしまうようで
隣接数字への修正案は採ろうとしずらくなり、結局は同一干支となる60年先
の年が正解ではないのかとの数字の飛び跳ね的考えが彼らの脳内に座りこむ。
832 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/11(金) 12:17:30
>>831 続き
それで60年が正解年でなければ次いで出て来るのは120年先であり、なおその
後の180年、240年とかが真の編年の数字の候補になって来るのが事の成り行き
であった。算用漢数字のほうは視覚がやわらかく融通が効くように見えるの
が、干支表記法の庚戌等の漢数字は表見的に厳格さが文字に滲み出ているため、
数字が編年のための小さい矯正でもストレートに大きく間違いをしでかして
いるように見えてしまうから、同干支の数字に再び回って来る60年後の60の倍数
のみが彼らには真年数とみなせる数字だったのである。
この理由で、倍数の中の120年とは完璧ではないものの、紀の記載にあっては
種々の調整が効く小康状態を保てる数字として最後の決断と認容を行い、
これを紀に記述したものである。要するに干支での編年の調整は60年毎にしか
せざるを得なかったということなのだ。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命 卑弥呼と台与の間に短期間だけ即位した男の王=大田田根子命 台与=豊鍬入姫命 卑弥呼の男弟=卑弥呼の即位時は孝元天皇 239年の時点では開化天皇 442年くらいから崇神天皇 狗奴国の男王・卑弥弓呼=武埴安彦命 難升米(239年、卑弥呼が魏へ使わした大夫)=梨迹臣(崇神時代の中臣氏の先祖) 都市牛利(239年、卑弥呼が魏へ使わした次使)=丹波大県主・由碁理 伊聲耆(243年、卑弥呼が魏へ使わした大使)=彦五十狭芹彦命
834 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/12(土) 23:46:28
倉西氏はA列の延長紀年とやらで二人の應神天皇を探偵小説のように論じて、 第二の應神をウジノワキイラツコだと云い、論理の進展へと至っている。 拙者はもう見ていられないといった感じだ。 こういう論述に事が進行したということは、よくよく冷静に歩みを止めて 考えれば、前方よりも今まで来た後方を遠眼鏡で返り見るべきで、道を間違え たと〜ハッと覚って、今までの説のどこかに失敗があったのではないかと バックをするべきであったのだ。同説は奇策過ぎて間違いの醸成だと思うのだ。 紀の神功五十五年の記述には百済の近肖古王の没年だとあり、あちらの文献 からその年は375年だそうである。神功五十五年とは日本と百済がともに 等倍の通常暦をやっていたとすれば255年に当たるわけで、 375−255=120年 で、紀の編者連が干支により年代の修正を企てたのが想起されるが、拙者の 倍暦論では、実年代375年とは 【神功皇后崩御】 の年に相当するのだ。 編者連はどこかの当時の文面でこのことを知って、困惑していたであろう。
835 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 08:00:42
>>834 続き
紀の編者らは神功五十五年の375年が神功崩御年に相当してるという古文献の
原書群を見つけていて他の原書群と年代が一致せず混迷していたか、暗に紀の
神功の条に崩御のことからか、すり寄せるように記述を挿入したのであろう。
次いで紀の翌神功五十六年、つまり376年は百済近肖古王没の翌年にて、あちらの
古文献と照合でこの年王子の貴須が即位するわけだが、神功五十六年は256年で
376−256=120
なることは、
>>834 と同様紀の編者連の干支からの年代調整であるが、拙者の
倍暦計上では376年は 【應神天皇即位】 の年に相当するのだ。
このことが編者連は原書群の中にかような記述あるものを見ていて、年代の
不一致の調整を考えながら紀の神功五十六年に位置付けて記述したのであろう。
つまりだ、百済の近肖古王の没年とは神功の崩御の年だったわけであり、さら
に王子の貴須が王になったのが應神即位年だったということである。その
ことを正ではあるまいかとして、暗に紀の神功五十五、五十六年に記載して
おいたのであろう。
836 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 10:33:57
>>835 続き
紀の神功六十五年に於いて、百済の沈流王の没年と阿花幼少にして辰斯が王に
立ったことが記されているが、神功六十五年は265年なるも半島の文献から
その王が立った年は385年に相当するという。そこでまたも
385−265=120年
の干支のズレから、紀の編者らが干支60の倍数により史実を調整したことが
知れる。この実年代385年とは天皇の寿命を等倍暦として当てていった場合は
297年に相当するのだ。言い換えれば、皇紀957年対応の西紀297年が実年代で
385年となる、真は紀での應神二十八年に位置していることとなる。
ところがここの297年を実年代とした場合は、倭人伝の陳寿の没年に合致する。
それで紀の神功六十五年の辰斯即位の記述は、次年になる神功六十六年の倭の
女王の晋へ朝貢云々の紀の記述と隣接させたい編者らの意図がうっすらと感づ
き、見えて来る。実年代として297年が陳寿没となることとは、彼らが保有する
原書群の中に通常暦と不知の倍暦との双方の書があって交錯した結果、編者らが
かような記述の挿入へと事が運ぶ因となったものと拙者は思考する。
837 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/13(日) 13:42:17
太国さん
単に120年ずらしただけでという考えでは、応神元年を390年、雄略5年を461年として、
実際に経過した72年間に対して、応神元年から雄略5年までの紀年数の合計が192となり
ちょうど、120年加算されていることを説明することはできません。
プラス・マイナス120年構想が設定されていると想定したほうが、
きれいに説明できます。
HP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/ )の
歴史学コースの日本書紀紀年法入門にて、プラス・マイナス120年構想について説明しておりますので、
ぜひ、ご覧になってみてくださいませ。
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 16:06:49
倉西氏が生まれる前だったと思う。そのころはまだテレビもモノクロだったか、 あるチャンネルで「忍者 石川五右衛門」という連続忍術映画をやっていたが、 最後のころに、五右衛門の親方なる藤林長門守の正体が百地三太夫(藤林と 三太夫とは逆だったか?)であったという驚愕の終結に至ったドラマを 見てうなったことがある。 かようなことは、こういう忍術映画や探偵小説の中では面白おかしく行われ るわけであるが、現実の古代史においてこういうことはよっぽどのことがない 限り採用するべきではない。成吉思汗が源義経だとかいうのは、これのみあり うるか?とも考えたりしてはいるが、今のところ肯定の証拠には至らないので、 史実の論で本格的にイエスの肯定までは出来ていない。 倉西氏は第二の應神天皇をウジノワキイラツコとしてA列とやらの延長紀年の 論を述べているが、こういうことはやめてブレーキ・ペダルを踏み、事の原点 へいさぎよく戻って失敗を修正すべきだあろう。
839 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 17:36:51
>>836 続き
話は一歩手前に戻り神功六十四年の紀の記述を考えよう。この年は264年であり、
百済の貴須王が没し沈流王が即位したとあるが、半島の文献によれば【384年】
に位置しこれが実年代となる。先述にならって
384−264=120年
で、やはり紀の編者連の120年の調整が為されている。
時代は降下し、紀の應神二十五年(皇紀954年、294年)に百済の直支王が没し
幼少の久爾辛王の即位を伝えている。半島の文献では直支王没、久爾辛王即位
の年は実年代にて420年となっている。ところが
420−294=126≠120年
となり、干支の倍数から6年外れた126年の数字が算出されて、不可解な結果
に至るのである。何故こんなことが起こったのであろうか?
紀の編者連に何らかの思惑があったからだと考えざるを得ないのだ。実は拙者
の倍暦計上では 420年は 【履中天皇即位】 の年と算定できる。先の神功
崩御(
>>834 )と應神即位(
>>835 )の計上を受けて編者らはこんな真似を
したのだろう。半島の文献を見ずに、紀から拙者の倍暦計算による應神二十五年
とは驚くなかれ、実は【384年】の計算結果を得るのである。その年は上述の
とおり、百済の貴須王が没し沈流王の即位年に合致した結果に至る。
つまりだ、これは拙者の神功、應神世の3倍暦と、それより後代の倍暦論が真で
あることを裏書きしているものなのである。
840 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/13(日) 23:21:21
倉西氏はD列とかに於いても第二の仁徳天皇を創作し、先の第二 の應神天皇をも創作して、これだと江戸川乱歩もビックリする ほどの二人一役の連続で探偵小説的であり、これではまっとうな 論から大きくかけ離れて行ってるというのが、冷静に考えれば 自明に分かる。 この前は成務が卑弥呼であるという宝塚男装女性様の論述をして おり、かようなやり方を恣意的にやるならばどんな不合理な説 でもみんな合理的に説明ができてしまう。これではうまくない。 彼女の云うA列〜D列等での論述はうまいところのみの種々の 付け足しであり、通常このようなツギ貼り説はいいとこ取りで、 こういうのは何でも不合理が合理的になるうまい話であるから して、説の不利の部分の切除によって成るもので、そうしなけれ ば説が成り立たないものであることから、完璧にダメなる方法で あると結論付けたい。 彼女の各おいしい処だけ料理してご馳走となるように一見想える この論法は、基点の年がおおむねしっかりしてのお説であるから まぁ完璧にダメだという最悪性はないだろうし、基点年付近の 年代はわりかし真に近似してくるという次善のものにはなるで あろう。それでも、基点の年から遠くなってくる年代はかなり真 から外れてその誤差は大きくなるのを逃れられない。
841 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/15(火) 08:09:34
倉西氏はC列とやらで、反正天皇崩御による殯を著しく遅い允恭五年に執り行わ れたことを不審としてありえないとの主張しているが、これもそんなにおかしな ことではないと思う。深夜別スレで箸墓の築造の短縮法が論じられていたが、 反正のそれは履中の崩御による在位期間がそれまでの天皇のと異なり、前例が ないほどえらく短かったこともあり、さらにその葬儀と、次代の反正の即位と またもや短い崩御の二の舞によって、仁徳、履中とで近接での再度の殯と なる先帝二人崩御の暗いニュースの記憶が抜けきっていない時に、再三の殯を またもや連続ですぐにおっ始めるんでは、疲労困憊もあっただろうしやりきれ ない想いでいたわけである。 だからひととき休息を兼ねて不幸ばかりの継続を打ち切りたく、心が晴れて きた頃を見計らって、今までの先例よりも数年遅れて殯を行ったものである。 だから在位の短い天皇崩御の継続が続く状況では、允恭五年の執行はむしろ 当然であったと云うべきである。
842 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/16(水) 08:16:42
そういうわけで、基本的にはごく当たり前の平凡な理由があるかどうか確かめ て考えれば、まず真が見えて来る。猜疑心を持つことも結構だが、度を過ぎると 軌道が外れてまともな論ではなくなる嫌いが出やすい。 確かに記紀には不審が露骨の個所があるから、そういうところはかような態度 での真実の発見は必要であるが、露骨に至らないいささかおかしい位での猜疑心 の燃焼は、論説の過ちにたどり着く。 たとえば記と紀とでは天皇の崩年に合理的にありえない数字の開きがあるわけ で、さらには生物学的に明確に不合理な天皇の超長寿の記述もあり、こう いうことは不審だとしてしっかりとその原因を追究すべきであろうが、単に 允恭五年の殯が遅いから疑念を持ち、論を展開するのは考えすぎの感があり、 そこからの論の進行は歓迎できるものではない。 他によく一般がやるものでは、仲哀の頓死が武内大臣とか應神あるいは神功 の関与の殺人だとか、八代間の史実の抜けがとたんに実在しないに結論を導く などは、そこんところの不審性とかは彼らの強調の発露からの跳び跳ねに よる論説であり、考えすぎの典型に近いものであり、乗らないほうがいい。 允恭の殯の遅き理由は應神前の各天皇の崩御からの殯が天皇以外の者にとって 生涯一回位しか経験できない国家的大事であり、それまではせいぜい仲哀の崩御 くらいしか近接の年代での例外はない。それも9年の隔たりが成務の崩御から あるわけで、允恭の殯の場合は、まず仁徳崩御に始まり、そこから立て続けに 履中の崩御、反正の崩御と国家的不幸なニュースによる弔いの儀式がやりきれ ないほど短期に連続してあり、精神的に追い込まれて疲労困憊していたためで、 数年という一定の間いやな想いの暗雲を振り払う意味での分断、休息を為し、 頃合を見ての数年経過後の允恭五年、もう精神状態が回復してついていけ るだろうと考え、その年に殯とあいなったもので、不審性はうすい。かように ごく普通の理由を見出せば出来事の真が見えてくるのである。
武内宿禰に関しては、数代居たという説が有力だな? まあ、数代いたとしても、2〜3代か? 宿禰というのは、名前ではなくて、姓の名前だろう? よって、感覚的にいうと、武内大臣みたいな感じ。 よって、当時の豪族には、宿禰がついた名前が多い。 当時は世襲制だから、武内氏にも、宿禰が世襲されていたはずだし。
844 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/18(金) 07:27:51
武内宿禰に関しては、紀の仁徳五十年の条に彼のことを 「汝こそは国の長人 云々」 とあり長寿の人物との説明があるから世襲ではない。かれは5代と神功の世に 仕えているから、倍暦計上から実際の寿命は111歳だ。エジプトのラメシスU世 は92歳だから、ごくまれに100歳以上が出るようだ。
>>844 日本書紀か古事記の記述で異なってくるな。
846 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/18(金) 19:48:08
>>818 >>822 今朝の読売新聞には早稲田大学での邪馬台国論争についての掲載があった。
中に九州説の鉄鏃の記事などがあり、ほぼ半面掲示で紹介されていた。
そのわきには関東出土のクリスタルの玉の製造の反町遺跡と、勾玉の話の記事
で飾られていたのが印象に残る。
さらに同面の左下部を見ると、宝塚ガールの退団と男装の麗人役の話の記事が
小さめにある。w 記事を書いた者は2ちゃんのこのへんのスレをよく読んで
いるみたいだね。w
847 :
日本@名無史さん :2007/05/22(火) 10:11:27
妄想だけども、日数が14日までしかないのは二十八宿の前半の月が満ちていく数字だけを使い、 後半の月の掛けていく数字を縁起が悪いと避けたのではないだろうか? その14の数字を適当に選ぶか、籤を引いて決めてたものだと思う。
848 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/22(火) 11:08:45
>>847 その考えはおおざっぱだがありうることである。紀の記述をみれば月の中日以降
の記述が少ないのは日数自体はあったが、朝廷も人民も月後半を忌みとして
活動を控えていたことは相当程度云える。イスラムもそういう日が何か〜
じっとしてる日とかがあるんじゃないの? だからそういうことは考えられ
るわけで、そのため月後半の記述が必要なこと以外じっとしていて
その部分の記録が少ないんだろうとは肯定できうる。
ただ、欠史八代の紀の日数の統計表だが、1日〜14日の記録で月後半が全て
じっとしている消極日々だったのか、あるいは倍暦と思われて来る14日まで
しかなかったのかということだが、崩御の日とは故意の日付を決められるもので
はなく偶発的に生じるものであるから、八代間全ての崩御は1日〜14日迄
収まっているということは、月後半がなかったと観るのが正解である。
ただしその中でも例外はあるやも知れない。綏の時代は等倍暦の使用
だったので、30日まであった可能性が大きいと観ている。
要は、崩御が全部月前半にあるのだということにある。
850 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 08:11:25
記紀を読むにあたって、少々の疑念を誇大視せず、はじめはまぁ一般的に ありふれた場合を想定して物事を考えるほうが軌道逸脱の危険性が少ない。 いったん外れてある処まで思考が進むと、場合によってだが、後戻りできない くらいに強信して凝り固まって客観的に失敗なのが見えなくなってしまう。 干支による120年とかの編差から那珂博士のようにいっきに1260年とかの故意の 紀の編者らの引き伸ばしを確信して、臥海の連中の頭脳までもコンクリート建造 状態にしてしまう失敗を醸成したのである。 何のことはない。紀の編者連がそんな引き伸ばしをやろうとしたものではなく、 真は干支のいかめしい二個の漢字にあるわけで、半島大陸側と日本との古文献 の年数の違いがあまりにも大きいために、干支の漢字の左右近隣移動では違い が歴然として誤調整となるのが見え見えと感じ、誤差修正を同一漢字の60年 と60年の倍数を真に近いと視認したから120年とやらのズレをこさえた訳である。 じゃ何故あちらと日本の年代が大きく不一致になるのだろうかと先に考えるべき で、それはむこうと日本の暦法が格段に異なっていたからだということに帰着 されるのである。これはそんなに複雑な理由からではなく、日本が個性的に倍暦 を変更して暦法をやっていたからで、それだからむこうとこちらとの文献の年数 が大幅に合わない要因なわけである。
851 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 14:43:26
あのう、2年ぶりでこのスレッドにやって来た者です。 サガミハラハラさんが見ておられましたら、 西暦201年の日蝕の話題は結局どのように帰結したのか教えて下さい。 実は、そのことについて重要な事を、お話ししたいと思っています。
852 :
サガミハラハラ :2007/05/27(日) 15:56:38
2年ぶりですか?それはお久しぶりです。 201年の日食と神功皇后の関連ですが、次の項目が解決の鍵となります。 @ 弥生時代のある時期に和歌山県の御坊市(小竹)で日食があり、アズナイの罪の伝承ができた。 A 皇后が和歌山県御坊市にきた。 B この二つの事実が一緒になり、皇后が和歌山に来た時日食があったとされた。 C 和歌山の日食はアスキー社製ステラナビゲータによると201年にあったと出た。 D 三国史記新羅本紀に201年に新羅で日食があったとある。(ステラナビゲータで確認済み) E 日本書紀の編者は皇后の摂政元年を卑弥呼の年代の200年ごろにしようとかんがえていた。 F そこにこの和歌山の伝承と新羅の記事をみつけた編者は早速それにとびつき、皇后の摂政元年を 201年とした。 とまあこうなりました。 今出版の2校を添削中です。新事実があれば書き換えます、よろしく。
853 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/27(日) 16:09:04
倍暦での201年は孝元天皇の世と計上しています。
854 :
サガミハラハラ :2007/05/27(日) 16:23:31
私の計算では考安天皇の御世となります。かなり近いですね。
855 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/27(日) 16:42:07
近いのでおおいに結構ですね。なおいっそう研究しましょう。
856 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 18:31:32
早速のご回答ありがとうございます。 以前、ここを読んだときには、三国史記の記述、すなわち 奈解尼師今六年 春二月 加耶國請和 三月丁卯朔 日有食之 大旱 録内外繋囚 原輕罪 つまり、漢の建安六年三月朔日に日食があったという前提で、天文計算により 確かに、西暦201年3月22日に日食があったということを議論していたと思います。 実は、三国史記のその記述は、間違いなのです。 三国史記の記述は、後代なってから、漢の誤った記録を引き写したもので 実際には、奈解尼師今六年、つまり、建安六年の三月丁卯朔 には 日食などおこっていないのです。 というより、この日付は存在しないのです。
857 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 19:21:42
858 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 19:28:33
その答えは、
http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/hhb02.htm 校勘記に
三八二頁九行 六年春三月丁卯朔日有食之 集解引錢大マ説,謂五行志作 「十月癸未」。
按:推是年二月丁卯朔,日食可見,「三月」乃「二月」之誤,今改,與通鑑目録引本志合。
ならびに
http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/hhb12.htm 校勘記三三七一頁 十一行 六年(十月癸未)〔二月丁卯〕朔 獻帝紀作「三月丁卯」。集 解引洪亮吉説,謂「十月癸未」應作 「三月丁卯」,此因下文十三年而誤。
今按:建安六年 三月丁酉朔,無丁卯,十月甲子朔,非癸未,推是年二月合朔丁卯,八月合朔甲子,即時暦七月晦,均有日蝕可見。足證志月日倶誤,獻帝紀「三月」則為「二月」之訛,今據以改正。
どうです校勘記にちゃんと書いてありました。何が言いたいのかよく分からない方は、
http://yso.mtk.nao.ac.jp/~tanikawa/eclps/Gokan.htm 古天文計算の谷川清隆氏のサイトを見て下さい。
つまり、後漢書の記載する、干支を分析してみると、
A.D.201.3.22には日食はおきなかった。それは、3.21のことである。
つまり、谷川氏の後漢書の日食記事分析でも上の校勘記と同じ記述をしているわけです。つまり、三月朔の干支は、丁酉になり、三月の(1日)が=201.4.20になるということ。
二月朔は丁夘(1)=201.3.22 だから、これは本来春二月とする記事を、献帝本紀で三月に書き誤った物だということです。
つまり三国史記の記述は、三月に丁卯は存在しないのです。
後漢書を後代にそのまま写したのは明らかです。
このことは、また別の問題を引き起こします。
当時の中国や日本の暦では、日食が起こったのは、三月一日ではなく、二月一日のことだったのです。
神功皇后が行動したのは二月のことであったと主張される方には重要な問題の筈です。
しかも、その日食が実際に起こったのは、天文計算によりその一日前の、正月の晦日であったと言うことです。
どうですか、神功皇后の旅行日程に影響を与えませんか?
859 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 19:36:01
実は、私は谷川氏とは別人ですが、古天文計算の論文を書いていた者です。 二年前にお話ししようと思っていたのですが、自分の論文との兼ね合いからお話しできないでいました。もう少し詳しいお話しを、直接メールでお話しできれば良いと思います。
860 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/27(日) 19:39:20
倍暦計上で201年は孝元の時代である。同年は神功の時代ではない。 ところで古代天皇と神功世とかのそのころの時代は欠乏たる架空月があること が多分にあり、単に1年がまるまる12ヶ月(+閏月)とかあると考えて計算 をやると失敗に至る。各天皇世の空亡月を正確に知悉しなければオール失敗に 近い。そして空亡月を確定するのは今の古文献の量では極めて困難であろう。
861 :
サガミハラハラ :2007/05/27(日) 21:25:56
日食の件ありがとうございます。 三国史記の日食記事は間違いということですね。
862 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 02:19:58
はい。新羅で実際に観測したものではありません。 もし、実際の観測ならば、二月朔日と誤らなかったはずです。 三国史記の、日食の記述は、中国の史書を丸写しにしているもので、 実際には起きなかったのにあやまって中国の史書に記載された日食や、 実際に起こった日食で、史書に誤記が有る場合も、誤記をそのまま引き写している 箇所が多くあります。 つまり朝鮮半島で実際に観測したわけではないと言えます。 しかしながら、西暦201年3月21日に日食が起こったことは間違いないのです。
863 :
唐松山 :2007/05/28(月) 22:29:22
858さんへ 中国語ができそうなので 神 元 皇 帝 諱 力 微 . 元 年 , 歲 在 庚 子 . あたりの話 其 年 , 神 元 不 豫 . 烏 丸 王 庫 賢 親 近 任 勢 , 先 受 纫 瓘 之 貨 , 欲 沮 動 諸 部 , 因 於 庭 中 礪 鉞 斧 , 曰 : 「 上 恨 汝 曹 讒 殺 太 子 , 欲 盡 收 諸 大 人 長 子 殺 之 . 」 大 人 皆 信 , 各 各 散 走 . 神 元 尋 崩 , 凡 饗 國 五 十 八 年 , 年 一 百 四 歲 . 道 武 即 位 , 尊 為 始 祖 . 年104歳に 見えてしょうがない できたら 訳してください。
864 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 01:09:58
865 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 08:22:38
1里と西洋の1哩とはその距離が違うのに同一幅で測定していたんでは、これは 合うはずがない。こういうように1次元的単位があちらとこちらと異なようにだ、 4次元的年が大陸半島と日本の歳と異なっていることは充分考えられる。そう 観る理由は当時を語る古文献の年数がいくらやっても少誤差ならいいとしても、 大きく合わないということは、向こうとこっちの暦法に一定時期大いなる相違 があったと肯定せざるを得ないのだ。 つまり当時日本側が倍暦を使っていたから合わないわけであり、それも神武 から欽明のころまでずっと同一倍暦をやっていたのではなく、暦法を時代の 経過において、わりかしころころと暦法変更をしていたものであり、そういう 意味では複雑そのものである。単純に要点を言えば簡単にも倍暦の使用で あったわけで、こみいるところは通常暦に会わせて2倍、3倍暦の混交運用 であったというわけで、ここから事態は複雑だと知るわけである。 そういうことで、2倍、3倍暦の多用に加え、その使用にあたって欠損月を 採用していることが多分にあり、たとえば5月、6月が無いとか閏月もあるし、 かようなわけで、二種の倍暦と空亡月があるから、1年をまるまる12ヶ月とか 通常の暦法の考えで日食計算を神武の世まで遡らせて計算しても合うわけが ないのである。201年は神功世ではなく孝元の時代なのである。
866 :
翩翻紅血衛生巾 :2007/05/29(火) 12:56:59
851.856.857.858.859.862.864を投稿した者です。以後投稿するときには、「翩翻紅血衛生巾」と名乗ろうと思います。 >863さん 私は中国語はわかりません。 >太国さん 私は、201年を神功皇后の時代とは思っていませんし、二倍年暦そのものを認めていません。
867 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/29(火) 14:08:39
認めてない理由をどうぞ。
868 :
唐松山 :2007/05/29(火) 20:29:39
864さん 有難うございました。 さて 本当に104才なのか? 長子(太子)は、何才で殺されたのだ 孫も居ないようだし??
869 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/31(木) 09:35:41
>>866 回答がいまのところない。認めてないと主張しているわけだから当時通常暦
だと堅く思って翻さないんだろう? ならば通常暦で古代天皇の超長寿を当たり
前だと考えてはいないと推量するから、やはり勝手なある意図に基づく編者らの
イカサマとか水増しだとか彼は考えているんだと思う?
そうであれば日食の数字などはイカサマと水増しでなおさら真の年月日は雲霧
の中で、ご当人はなおさら天体現象は合うことは不可能に近く、201年を調べ
たところで暖簾に腕押しの労力の徒労だろう?
紀の内容を見るに、まず欠損月をやっていたのは間違いないと考える。それは
現代アパートでの104号室を作らない建物があるのと似たようなものだな。
神武即位から崩御まで5月以降は存在しなかった。そして崩御直後に5月以降
の存在する通常の暦法を採用して通常に戻している。それを12月まるまるある
と信じて日食を調べても、それは失敗に至るのだ。
870 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/31(木) 09:44:53
古代の暦法は確かに農事を重視してのことにこだわってたと思うのは正攻 法的考えで否定はできない。ただそれだけが全てではなく、朝廷は古神道 の信仰からそれに基く暦法はやっていたに違いない。マヤ文明なんかも そうであり、彼らの信仰するマヤの神様からの暦法を使用しており、当然 農事関係での暦法も彼らはやっていた。 換言すれば、古代日本と古代マヤは占いという超神秘的な行事を実行 するに神事と並行しての暦法ということがかなり重視されたと余は 観ている。占法と暦法は車の両輪のごときであったのでだろう。
871 :
翩翻紅血衛生巾 :2007/05/31(木) 13:52:36
太国さん 二日ぶりに覗いて見ました。理由を問われていること自体、 気が付きませんでした。 この問題を専門的に研究されている、太国さんには申し訳ないのですが 私が、前回ここを覗いたのは、今回最初に申したとおり二年まえの事なのですから、 研究に対する意気込みが、貴殿とは全く違いますので、あしからず。 さて、認めないと言った理由なのですが、単に客観的に言って 二倍年暦を「認めるにたる理由」が、私には、いまだ不十分だと感じている からに他なりません。ただそれだけのことです。
872 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/31(木) 15:51:07
まぁ信用しろっていうのが無理だということだな。回答は「不十分」位以外しか 書いてないから抽象的だが、倍暦論述はそんなに見てないのかも知れないな。 当人が倍暦を拒否できる自信があるのだろう? それで、つまり通常暦で 天体の動きをソフトで古代に遡らせて今までのように把握するのに気が変わらん のだろうな? 紀の数字を詮索することでは、紀の内容が充分であれ不充分で あれ、彼と余とは同一条件にある。 余の考えだと、行く先は失礼のようだが彼は失敗すると思う。
873 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/02(土) 08:19:14
たとえば彼は
>>493 表なんかをどう考えるんかいな?
不十分だと抽象的な回答なので倍暦のどこがありえないのかという具体性な
指摘がないので、こちらとしては検討することができない。
紀の資料等位では、天体現象を確定するにはこれこそ不十分ではあるまいか?
要するに資料不足なのに当人は計算してかような不十分でも、余が回答云々
などと言い出さなければ、おそらくそのままこれだと言い出すように行くんでは
あるまいかな?
874 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/02(土) 15:50:14
そんな馬鹿な〜w と、おそらく言い出すであろうのが、古代の暦法のやり方 だということが余はどうやらうすうす気付いて来てはいる。 そのくらい当時の暦法のやり方は現代人がそんなことありえないと言うであろう が、単純さを持ちながらもなかなかどうして、込み入っていたらしいのである。 だからその説を主張しても、誰でも一足飛びではとてもとても信ずるようなわけ にはいかんだろうというのがいま余が痛感している頭中の想いである。 長らくよくよく紀の記述を読むに、彼らが実に行っていた暦法の氷山の一角が何 かしらおぼろげながらも見えるようで、心の中でうなりながら体感している。 たとえば安寧天皇の時代だが、紀の少量の記載を幾度も眺めながら思うに、 この時代はどうやら元年に1月〜6月が無かったようなのである。つまり正月が 当時は7月であり、6月以前を欠損月として無にしていたのである。 それまでの先帝崩御の年までの暦法を大幅に改革して、即位のとたんに、7月 から暦が始まるように同月を初頭としていたらしい。驚くなかれ、1年 が7月〜12月迄の正味半年分とし、これで2倍暦をやって行ったようで、翌年は 逆に1〜6月までを取ってこれを使い、後半の7月〜12月を無の欠損月として暦 から外していたらしい。現代では信じ難いことが古代には行われていたのである。 これが安寧世の2倍暦法の驚異のやり方であるようだ。
875 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/02(土) 20:15:47
>>874 安寧世は実年代計算で
@ 奇数年は 7月〜12月のみ
A 偶数年は 1月〜6月のみ
で、他の月は空亡で無と為して2倍暦をやっていたのである。つまり○数字は
紀の安寧元年(皇紀113年) 安寧即位(7/3) 安寧1年→@ A.D.63年
同 安寧三年(皇紀115年) 皇后立后(1/5) 安寧2年→A 同 64年
同安寧十一年(皇紀123年) 立太子年(1/1) 安寧6年→A 同 68年
同安寧三十八年(同150年) 安寧崩御(12/6) 安寧19年→@ 同 81年
(紀の記述 ↑)次代の懿徳世は別式の2倍暦になりそうである。
ウワッハッハ!!wwwww
>>874 とここは USO だよ〜〜ん。
>>493 から1ヶ月が14日しかないならば、
>>874 とここは成立しにくいのだ。
ただ言えることは、
>>493 の表は8代分だから、統計にするには各1代のみを
考えると、1代ばかりで5個位の事象しかないから、8代まとめてだと大筋
ではおおざっぱでの肯定できうるが、1代ずつだと例外の可能性が事象寡少でも
起こりうる。その場合、某天皇世は統計の網をくぐりぬけて1月が下旬の30日
あたりまであることが起き得る。その場合が正のみ、ここの論が成立する。
876 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/03(日) 18:23:41
魏略に「春耕秋収」とあり、これが古代の倍暦使用の文面だというそうな? 欠史八代の開化の「春日の伊邪河宮」(あるいは率川宮)とは田畑に農作の水を いざなう、ひきよせるとかの宮名であり、大日日尊の二日を線引きなしで くっつけると『田』の字になる。さらに春耕の「耕」の字はツクリに『井』が あり、井戸水を引水して農事を行う意味が見て取れる。 八代の世、1年が実質半年の倍暦とかは行われていたのか? 田の『畔』は ツクリが半年を示唆した文字か重ねてヘンのほうは接着の分断二日の二倍暦の 示唆なのかと、まぁ想像をたくましうしている。w 開化の「春日宮」名と田畑への水の導引は魏略の文の春耕を暗示し、孝安の 「室の秋津島宮」名は同文の秋収たる倉室への農作物の集めを黙示しているよう に伺える。魏略の文は、八代の世のこの双方の宮名を当ててもいるのだろうか?
877 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/05(火) 07:49:32
繼體世の日数統計表(
>>370 説明→
>>372 >>377 >>379 )からすれば、
倉西氏の 雄略5年=461年固定説 はどうやら間違いだったと観てよく、
繼體世は1ヶ月が現今の半月分までしかなかったということである。そして真の
紀の雄略5年とは後代繼體世等の2倍暦から475年になるのである。その差は
475−461=14
「體」に字のツクリの『豊』はトヨ(十四)と読めて、1ヶ月=14日たること
を示唆した号の文字であろうと想えて来る。上の等式も結果は14である。
ここで似た読みにトシ(年、歳)←十四がある。これも14数を隠しているよう
に見えてくるが、十と四とを切り離して考えたとき、 四+六=十 となり、
四月に半年の六ヶ月を足すと十月になるという理屈がトシの二文字で
あり、かように黙示的に表現されておるのがこの語である。
878 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/05(火) 09:41:18
年 トシ(十四)の十と四の差の六ヶ月とは1年の半分であることから、この 文字でも読みで2倍暦の隠匿が見てとれる。
879 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/05(火) 22:01:15
>>878 倉西さんは繼體即位元年を、通説もそうなんだろうが507年だと
思っているんだろう?
真の繼體即位元年は倍暦のため、もう少し後代に降下し521年で
あるからして、
521−507=14年
の差があるのは雄略5年のときと同じである。
ということは、繼體の先帝の武烈からより先代の雄略年間までが
通常暦(等倍暦)でやってたということの意味となる。
880 :
日本@名無史さん :2007/06/06(水) 01:50:09
なんかさぁ。酔っぱらいに絡まれてるみたいだよ。
881 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 08:29:26
>>879 続き
今度は月を考えると、ツキの「ツ」は某神道関係者の説明だが、ツツイヅツの
ツであり、イツツつまり五つを意味して5の音韻である。「キ」はキクリヒメ
(菊理媛)のキの意味で、キクリはククリ(九九理)にして九月九日の菊の節句
の数字にして、キは9を意味している。
かように「月」の語は5と9の数字を保有しており
9−5=4ヶ月
たる三倍暦を月の言葉は黙示していると観たい。当時の1年が現今の4ヶ月分、
つまり三倍暦法の隠匿がこの語にあるのだ。
882 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 00:02:18
誰か太国の子守をかってでよ! ってかんじもするのだが。 で、太国さん。 仲哀は通常暦なの? 生きてる間は月前半しかないと思う。 死んですぐ20何日だからの記述があったかと思う。
883 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 07:43:53
仲哀天皇の時代は通常暦法でやっていたようです。その理由は、この天皇の世が 2倍暦だとすると、神功皇后は應神をわずか11歳で産んだことになり、生物学的 には肯定しにくいことになります。だから2倍も3倍暦も考えられないもので あり、通常暦でやっていたと観るのが相当なのです。 仲哀が即位して何故倍暦を不採用としたのかと云えば、成務が11日に崩御して、 普通なら先帝崩御の日に合わせて即位の日を定めるだろうかと考えたとき、拙者 は否定したくなるのですが、どういうわけか仲哀は同数の11日に即位を強行 しており、自分の皇后も即位の年あけの11日に立后させるほど仲哀は11の数字 にこだわっているのです。 これはどういうことかと深考すれば、神武崩御が11日だったことと成務も同じく 11日崩御だったことを兼ね会わせて仲哀が11日即位を強行したようで、神武の 崩御直後に次代の綏が神武の3倍暦法を廃し通常暦の戻した過去の事例に 則って、仲哀が自分も通常暦にしようと判断したのだと思考しています。 それで神武の「武」と成務の「務」は天皇の同音の号とさせたく、名づけた者が そう画策したんではあるまいかと思うし、同音でも別漢字なのは神武崩御は即位 直後に通常暦に戻したが、成務崩御の場合は年あけて仲哀即位年に同暦法に 戻しているという相違点からかと考察しています。 20日以後の日の崩御とは仏伝以前は反正と顯宗であり、2倍暦時代の反正はその 崩御日を次代に暦法を変更した允恭の通常暦法の数字で書かれたものでは ないかと考えるもので、顯宗の場合は通常暦の時代ですから20日以後の崩御でも おかしくはありません。
884 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 07:56:53
失礼。だいぶ自分の倍暦研究の時間が経過したので記憶が遠のいていますが、 顯宗の20日以後の崩御(25日)の件は、反正以外は仏伝以前は下旬崩御の記録 はないことを拙者が着目して、顯宗の時代が通常暦だと見破った一つの点だと 思い出します。
885 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 20:16:23
>>883 訂正 上段4行分
11歳になってしまうのは3倍暦と仮定したときでした。。2倍暦ですともう
2歳位増えて13歳位になりそうです。これでも年少で成立は無理のようです。
他スレで余のことを釈明していた無コテがいたが、当方は倍暦否認を認めて
いません。否定して、
説明できるなら
>>493 の統計表と、こうなるはずのカレンダー
>>720 (
>>791 )
を、倍暦でないと強硬抗弁する相手に通常暦で言い分が立つことを証明すべき
だろう。抗弁だけで合理的説明をした奴は今のところ一人もいなかったぜ。
立派に説明ができるなら、それを出すべきだろうネ?
887 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/16(月) 17:39:59
他スレで倍暦を否認していた無コテがいたが、以下の表の数字が全部左寄りに なって、1ヶ月の日数が何故1日〜15日までしかないのか? 他の方法で 合理性ある釈明をするべきだろうが。どうせできないから音なしの構えで 無コテ得意の逃げの一手だろうな? このとおり倍暦の文証はある。 【日本書紀の應神の条、日数統計表】 1日 3 16日 0 2日 0 17日 0 3日 2 18日 0 4日 0 19日 0 5日 1 20日 0 6日 2 21日 0 7日 0 22日 0 8日 1 23日 0 9日 0 24日 0 10日 2 25日 0 11日 0 26日 0 12日 0 27日 0 13日 1 28日 0 14日 1 29日 0 15日 1 30日 0
888 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/18(水) 15:13:03
関連スレで倍暦から通常暦移行を、あるいは通常暦から倍暦移行を恣意的だとか
批評している方がおられるが、主導権は天皇、朝廷にあり任意に暦法を変更
できる実権があった。つまり当時の天皇、朝廷は恣意的に暦法を変えることが
可能であり、それは可能と言ってもすぐすぐ変更の繰り返しを重ねることは
国の問題において混乱が多大になろうから年がら年中取り替えばかりをやるもの
でもないだろう。w がしかし、即位ごとに心機一転のため、暦法の変更を
やることは不自然なものではないと考える。
その文証が
>>370 (解説
>>372 )の紀の繼體の条の日数統計表である。
繼體の時代は2倍暦を履行しており、一部の特別な例外を除いて全記事が月前半
の1日〜14日である。そして特別な例外として下旬に位置する二つの記事は、
当時通常の暦法をやっていた半島の王子の死亡の記事と先帝武烈世の末期の
繼體即位直前の繼體ご自身の活動記事である。
前者は半島が通常暦だから月後半があるのは当然であり、残り一つの武烈世の
記事が何ゆえ月後半に存在するのかを考察したとき、先帝の時代が通常の暦法
であり、繼體即位により倍暦への暦法変更が行われたとの結論に到達しうる。
つまり通常暦→倍暦の移行が行われた数少ない貴重な文証なのである。その後、
宣化欽明の時代に至って、倍暦→通常暦へと恒常的となる現行暦法の時代に
入って行くのである。それはおそらく仏教伝来が大きな起因になって
いるのであろう。
889 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/18(水) 16:11:10
>>370 の繼體紀の表から、拙者が
>>372 >>888 で主張した二つの通常暦の特別の
記事を除いて作表すると以下のようになる。これは当時倍暦が営まれていたの
だということを如実に物語っている。これを見ると
>>887 の應神世の日数表と
同様に、各日数は月前半しかない。應神の前後の時代、その神功と仁徳
の条には月後半の記述があるが、それでも倍暦は可能である。このことは
各天皇(神功を含む)の時代時代で倍暦の運用が違うのだということが認識
できるものである。
【紀の繼體の条の日数統計表】
1日 3 15日 0 29日 0
2日 0 16日 0 30日 0
3日 2 17日 0
4日 2 18日 0
5日 3 19日 0
6日 1 20日 0
7日 2 21日 0
8日 1 22日 0
9日 2 23日 0
10日 1 24日
11日 1 25日 0
12日 0 26日
13日 1 27日 0
14日 2 28日 0
890 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/19(木) 08:08:45
征東大将軍さんは21年の数字を古文書からあぶり出した。それがどれだけの
ものか? まだそれがしとしてはわかりにくいし論評できないが、なにかしら
その21数が有力な根拠があるとモノになるというか、論に勢いがつくだろう。
拙者も2倍3倍暦の使用に於いて、朝廷の信仰からの黄泉国の千人絞殺千五百
の産室の割合比ではないかとの論拠を挙げた。
21 と言えば朝廷がこの数を重宝していたとする節がある。それは紀の
仁徳の条で・・・
この時代の日数統計を調べたところ1日〜21日までであり、それ以降30日まで
の記述が仁徳紀にはまるでない。いろいろ考えた末の結論のおおまかを言うと、
この時代は1ヶ月が21日の3週間で運用されていたもようである。第4週を
欠亡週として使用しなかったということなのだ。さらには月にも欠月を挟んで
3倍暦で日々を送っていたとの結論に達した。
これはにわかに信じ難いことだが、現代の暦法とは大違いだったということ
である。倉西さんは應神紀(
>>887 )の月前半のみの記述に対して、前後の紀
の条には月後半があるから倍暦は肯定できない旨との反論をしていたが、仁徳紀
は確かに月後半はあるが、4週目がないのを吟味検討していないようだ?
この時代は1ヶ月が21日間の欠月での3倍暦を行使していたのである。
891 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/20(金) 07:54:06
以下のように、第4週以降がない。 【紀の仁徳の条の日数統計表】 1日 3 8日 2 15日 1 22日 0 29日 0 2日 0 9日 1 16日 1 23日 0 30日 0 3日 2 10日 1 17日 1 24日 0 4日 0 11日 1 18日 1 25日 0 5日 2 12日 1 19日 0 26日 0 6日 2 13日 0 20日 0 27日 0 7日 2 14日 0 21日 1 28日 0
892 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/20(金) 21:55:27
皇紀前3年、神武天皇を助けた3本足の烏の説話がある。サッカーの紋章にも なっているほどで、神武勝利のシンボル的動物?であるそうな。 この3本足という奇異は何を意味するものなのか? 実に3本も足があったの か? 深考したものだが、これは神武即位後に3倍暦法を行うとの黙示なので はあるまいかと想うのである。 ところでこの前、倍暦なら半年ごとに干支は変わるのかとの質問を受けた。 拙者はそうだとの回答をしておいたが、さらに考えを巡らしたが、もしや 通常の暦法の干支と、消極的ながら倍暦での異なる巡りの干支を秘としながら にて、双方の使用があったのではないかと考えを改めている。 紀による神武即位はご存知のとおり辛酉年だが、2倍、3倍暦(通常暦を含む) を行使した拙論での計算による同即位の干支年は何になるのか? その回答は→ 同一なる『辛酉』年に一致したのである。
893 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/20(金) 23:45:48
紀によれば、崇神天皇即位は甲申年であるが、拙者の倍暦遡り計算の結果に よれば、『丁巳』年と出た。この年が景初元年である。 崇神紀では蛇(巳)と三諸山の神話らしき記述があるが、これは倍暦での干支年 が3倍暦行使の時代での『丁巳』年の即位であることの黙示ではあるまいか? zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
894 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/21(土) 23:40:09
余の倍暦計算によれば、 稲荷山鉄剣のほうの明文の辛亥471年はワカタケルの 雄略元年 となった。 七支刀銘文の泰□四年を 泰始四年 と観れば、この年は468年で、倍暦での 安康元年 の計上となった。 つまりともに天皇元年となっている。 後者の銘文の旨王の「旨」が王名でなければ、王は穴穂王ということの可能性 がある。王名ならば当時の九州の豪族級の王ということになろう。当時まだ九州 には倭の五王朝があり、これのように一文字の王名はあっても当然だからだ。 九州の王の刀が畿内にあるのはおかしくはない。前者の鉄剣も畿内の雄略名での 関東出土であり、同名と観てよい江田船山鉄刀も畿内でない九州であったのが そのおかしくない例である。ただ余はまだ泰始四年と断定したわけではない。 太和四年の可能性もまだ充分残っている。上の後者の話はまだ参考の域にある。
895 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/22(日) 17:16:39
【神武〜仁徳の崩御日数表】 神武 11日 左表のように最下段の仁徳以外は全て、月前半の 綏 10日 崩御であることが一目瞭然で分かる。(但し天皇 安寧 6日 でない 神功は17日崩御 であり、これのみは 懿徳 8日 いまひとつの例外である。) 孝昭 5日 以上のことは何を物語っているのか? 孝安 9日 通常暦の時代はあったろうが、かなりの時代で 孝靈 8日 月後半を不使用とした、1ヶ月が30日にかなり 孝元 2日 満たない倍暦の行使をしていたと充分言い得る。 開化 9日 欠史八代の天皇は総てが月上旬崩御である事は 崇神 5日 注目すべきであり、倍暦の根拠のひとつになる。 垂仁 14日 仁徳以降の天皇は月後半崩御が増えて来る。 景行 7日 成務 11日 朝廷の各行事とかは時日の変更変動が出来 仲哀 6日 うるから月前半に日程を持って行く事は可能 應神 15日 ではあるも、崩御という人の死亡は変動が効か 仁徳 16日 ないから、月前半に日数がこんなに集中させる 事は不可抗力から考えてありえない。
896 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/23(月) 08:11:34
昨今、近隣関連スレで 21数 についてかなり論じられているのを知った。 仁徳世は21日での3週間で欠乏月を設定し、3倍暦での運用をやっていたと それがしは観ているが、古神道的見地からの考察では(学術的には通用しに くいが)五十音言霊がものを言う。朝廷の2倍、3倍暦の行使は黄泉国の 1000対1500の岐美両命のトラヴルに因があり、その数字の比が2:3になること から、これら二種の倍暦を通常暦を肯定しながら暦法を編んで各時代を変遷 して行ったと考えている。 美命は黄泉戸大神とも言われるが、この神名は4/3戸(ヨミド)のことで 4と3の間に戸(敷居)を挟んで分断する意義を有するものかと拙者は考察 している。コヨミ(古黄泉)の行使に当たって4週と3週の間を分割して4週目 を除け、3週のみの3・7の21日での暦法採用を仁徳天皇が許容したものかと 推測をしている。3・7とは三七戸(ミナト→水戸)を示唆し、水戸神の速秋津 日子神、速秋津比売神を想起するが、要は黄泉も水戸も水に関連している。 仁徳の宮を「難波宮」いうが、波は水のことであり、イザナミ命のナミがこれ である。天皇は1ヶ月が21日での流転を考えたと想っている。
897 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/23(月) 11:50:54
紀での欠史八代間においては、その日数記録は全部第一第二の週の14日間に終始
している。つまり15日を欠いた月前半がその総ての記録内容なのである。
確かに孝安即位のみはたった一つ下旬記述なるも、紀の別本ではこれまた7日の
上旬になっており、やはりその月前半に収まることになる。
さらにその八代間においての崩御記事に関しては、全部が月上旬であるのが
>>895 からも一目瞭然である。崩御という死亡時日はある日突然やって来る的
なる不可抗力たる事実であり、予定変更される筋合いのものではない。
かように不可抗力的不動の記事が全部と言っていいくらい月後半が無い
のは、当時1ヶ月が30日なかったことを物語っていると云うほかはない。たま
たま稀に月後半の崩御記録のあるのは次帝の世の暦法日数にあわせたで若い
日数のはずをそのまま月を変えず日数延長したための記録とかであり、こう
やると崩御記事でも日数を変更可能なことから、凶事の日数を月始めに位置
させない特別の変更記録であろう。
丁度夕方の6時は18時に書き換えが効くようにである。
898 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/24(火) 21:27:32
見え隠れする倍暦の神秘、真実。 應神世の前後の時代が月の下旬を(ほんの少しね)有し、應神世は月上半分 のみで下旬が無いということは、この事実が氷山の一角のごとくに倍暦行使の 一部が露見しているのだということを遠回しに直観できる。 倉西さんは海面下の大氷塊を無として覗おうとしないだけ。
899 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/25(水) 21:29:37
去年だったか、倉西氏は書きこみで卑弥呼を成務天皇だと主張していた。それ を読んだそれがしは倉西氏にそれをおおっぴらに言わないほうがいい旨忠告を したのである。臥海で論説を述べる身分ともあろうお方が一聞して気がおかしく なったような桁外れに考えにくい論説を平気で書きこんでいることから、一時は 気がへんになったのかいなと思うくらい突飛な論ではあった。 じゃぁ何故このように突拍子もない説をとりわけ大きな根拠が現れたんでも ないのに、彼女はこれを主張したのかということを後々考えてみたもので ある。彼女は宝塚の男装ガールにでも憧れているようで、一定の日時の経過後 まではそれがしもそんな考えでこのことを忘れていて、何ら検討、思考を深く してはいなかった。 その後、再度その論説を想起し出して、次第に彼女がなにゆえあんな並外れた 論説を呈上して来たのか次第に分かるようになって来た。簡単にいえば、彼女 の論には無理があって、その成立のためには成務の時代に畿内に卑弥呼が いなければならないという考えを持ってたようだ。それが記紀に明確に女王 らしき人物がいないことから再三再四考えた末、牽強付会に近い妄説の 卑弥呼=成務天皇 説を持ち出したようなのである。 このことは客観的立場で冷静に考えてみれば、彼女の論説の中に取り返しがつか ない何らかの失敗があったということを物語っている。だから彼女はその等号を 考えたときに、ああこれは自説(←彼女の論説)が間違っているんだ、として踏み 留まって、逆戻りして論の間違い探しをやるべきだったのである。つまり 振り出しに戻ることがそのときの最善手だったのだが、いまでも彼女は迷路の 真っ只中の自分がいることを全然気づいていないのだ。〜哀れである。
900 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/25(水) 22:00:24
>>899 続き
ということは、倉西氏は神功39年を自説の編年において成務の時代に相当
していると思っているようだ。そこからあの等号論が生み出たのであろう?
拙者の倍暦計算では、 神功39年=崇神3年=紀の崇神七年〜九年=239年
となる。という事は 崇神即位元年=237年=景初元年 ということになる。
901 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/25(水) 23:17:33
【紀の神功皇后の条の日数統計表】 1日 1 16日 0 17日が2個ある以外月後半がない。 2日 1 17日 2 それは神功崩御と太子が角鹿から来たと 3日 1 18日 0 いう記事、これのみである。 4日 0 19日 0 それ以外は月前半にある。紀の条で月後半 5日 0 20日 0 もしくは月下旬の記述は、凶事とか旅行 6日 0 21日 0 とかの地方がかかわる記事が割かし多い。 7日 1 22日 0 繼體紀の2個の例外と同様に神功紀も2個 8日 2 23日 0 の例外のみ月後半所在ということになって 9日 0 24日 0 あい似ている。倍暦が濃厚であろう。 10日 1 25日 0 神功世も欠亡月の空白を作って3倍暦を 11日 0 26日 0 行使していたと思われるのだ。 12日 0 27日 0 13日 0 28日 0 14日 0 29日 0 15日 1 30日 0
902 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/26(木) 10:35:19
903 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/27(金) 22:56:20
稲荷山鉄剣の銘文の辛亥年は倍暦計上で 雄略元年=471年 だと思う。 繼體世等の2倍暦で通常暦計算と違い、14年後代へズレこむ。 允恭〜武烈は通常暦の時代であり、このため雄略元年でも14年差が続いている。 雄略元年=457年 の通説は誤りだと観る。倉西さんの 雄略5年=461年 確定説は失敗。
904 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/28(土) 09:40:31
関連スレから・・・ 紀は複雑多重構造体であるという論があるが、片面的 には肯定せきうる。 倉西氏はそれを踏まえて一心不乱の研究から紀の120年断層を見つけ、さらには 紀の編者連の年代引き伸ばしによるある意図の構想があったとして、各列を 設定して崇神即位を西紀91年と為し、成務世あたりが紀の神功39年たる239年と 考えて、卑弥呼=成務天皇 説を打ち出した。 この論理の展開には氏の考え方に欠陥があり、120年の間隔差をまるで黄金風呂 のような美麗で洗練された金ピカの数字と目はくらみ、舎人らの紀年構想を 主張しているが、これは早計的考察であり、そうではなく、事の真相はうちら 紀の研究者と同様に年代確定が不明になってその調整がつかぬまま混迷していたので あり、それで小康状態を選択して神功39年等の挿入での書きこみとなったという ことが本音なんである。 その年代是正においては干支を合わせるのに1回で60年移動することから、 2回で120年、3回では180年・・・ と60数追加減での矯正となるために、 そのうちの120年を選んで年代調整をやったということが本当のところである。 つまり紀への取り組み方の精神状態はうちら編年を試みる者と同程度であり。 違いは彼らが原書群でありうちらは記紀であるくらいの違いである。 かようなわけで、舎人らに構想での年代操作があるものではなく、われわれと 同様年代闇雲の状態が彼らにもあって困惑していたために、干支での60の倍数年 による同一干支を修正に用いたということが真相である。 彼女は倍暦を否定してるから、崇神即位が91年に行き過ぎてそこから成務が宝塚 男装ガールのような牽強付会まで事を進めてしまった。これは間違いである。
905 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/28(土) 09:43:26
>>904 訂正
× 肯定せきうる ○肯定できうる
906 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/28(土) 14:46:16
うちら紀年の研究をしている各々方は皆真の神武即位はいつだったのか? 崇神 即位はいつごろか? そして紀の神功39年に当てた卑弥呼の真の年代はいつ なのか? ということに関心があるわけで、研究のし始めは暗中模索で事を 探って行くのが誰でもであろう。同様にして舎人親王らも神武即位はいつに なるのか? 崇神はどうだろう? 倭人伝の記述はどの天皇世に当たるの だろうか? 等々苦心惨憺分からん分からん?で会議を開いて原書と古事記を 机上に置き、数字が2桁3桁になるくらい論議をやったことだろう。 その結果、これが説明がわりかしスムーズにいくようだとの小康状態の論が まとまり、神功39年に卑弥呼の記述を入れたり記の崩年干支を翻して、日数 まで入れることが出来て、立太子即位立后崩御等の記述を確定して紀を編纂して 行った。余はそのように紀を彼らは編纂したんだろうと思っている。 が、しかし卑弥呼の記述を神功紀に入れたことを検討してみると、残念ながら 間違いであったわけで、真の神功39年は崇神3年(紀の崇神七年〜九年) であったことが余の研究結果であり、崇神3年=239年=景初3年ということ が理解できている。これだと畿内に出土する景初3年銘の鏡は崇神2年の天皇 の同床共殿の鏡の施策からの畿内住民への波及による各祭祀での鏡であったと 考えが行き、九州の卑弥呼への鏡ではなく合理性は高いと考えている。
907 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/28(土) 15:15:49
関連スレで、拙者の神武の見解が論議されている。 倍暦計上からそれは以下のとおりとなっている。 神武誕生 B.C,51年 同立太子 B.C.37年 同 即位 A.D.元年 同 崩御 A.D.26年 同 葬儀 A.D.27年 綏即位 A.D.30年
908 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/29(日) 11:33:48
花火大会ではないが、昨日から論評人氏と征東大将軍氏とで火花を散らしたよう な叩き合いの書きこみ口論中で驚いている。 論評人氏は以前は女王国畿内説だったが、なにか?倉西氏の倍暦有可能性論を 読んで九州説を肯定し始めたそうである。何故彼女のこの説明から九州説に 方向転換となるのか?? 皆目分からん次第である。 征東大将軍氏は紀から崇神十年は247年と断定してるそうであるが、そうなると 崇神世が通常暦計算ならば崇神元年は248年となるはずであるが、倍暦を肯定 してるのであろうか?? 倍暦計算では崇神元年は何年になるのか? これも わからん次第である。
909 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/29(日) 12:34:49
>>906 訂正 最下段から3段目
× 通常暦計算ならば崇神元年は248年となるはず
○ 通常暦計算ならば崇神元年は238年となるはず
910 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/29(日) 14:51:42
拙者の計算によると 崇神10年=246年 であるが、 紀の崇神十年=崇神4年=240年=正始元年 の計算結果になる。
911 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 15:00:56
太国、選挙逝ったか? たまには部屋から出ろよ。
912 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/29(日) 16:58:16
紀の仲哀の条の統計をとっているが、気が付いた点を云うと、 下旬は相変わらず記述が少ないが、崩御までの記録では次代の神功、應神、 仁徳と同様、日数は1日〜21日内に収まる事が分かった。その直後神功が摂政 皇太后に立つまでの短い期間にも紀には神功らの活動記録がある程度あり、それ を眺めると22日以降の第4週の記事が紀にずらりと書かれている。そしてその 活動とは神功らの筑紫とかへの遠出であり、かようなどこか地方に行く時は だいたい月後半とか第4週目とかの記事が多くなっている。そのほかでは凶事も 月後半が多いのだ。勿論月前半にも旅行関係の記録はあるにはあるが・・・。 これはどういうことを意味するのかと考察するに、普通の日は仲哀の時代は 月前半か第3週目までの1日〜21日までのカレンダーで日々を活動していたが、 月後半とか22日以降とかは物忌みの日的で活動を消極的にし、率直に言えば お休みの機関だったということであろう。それが何か事が出来たりで遠出を必要 としたいとかの特別の事情のときは月後半とか下旬とかだい4週目でも積極的に 活動を強いていたということのようである。 しかし不活動ではなくて即位年から暦法変更で月後半とか第4週目とかをカット して暦を行使していた時代もあったようである。應神の場合は月後半をカット して1ヶ月を15日の半分とし、さらには月の空亡をも設定して3倍暦を行使して いたと余は結論しているものである。
913 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/29(日) 17:04:08
>>912 訂正
× お休みの機関 ○ お休みの期間
× だい4週目でも ○ 第4週目でも
914 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/29(日) 21:23:06
>>907 神日本磐余日子火々出見尊の
立太子 B.C.37年 甲申 ←高句麗建国年とのことである。
即位 A.D.元年 辛酉
これは通常暦での干支なるも、余の倍暦計算でもどちらも同一干支に一致する。
915 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:43:34
倉西氏は臥海の定説におんぶしてばかりいて、もしや定説に誤りがないかとの 用心をしなかったから大きく軌道をズラしてしまった。 應神即位が390年だというのは疑ってかかるべきだと想う? 拙者の説は376年 と倍暦計算で出たが 390 − 376 = 14年 の差がある。どうやら嶋王の時代あたりのみ、百済は倍暦を14年間だけこの王の 時代特別行使していたようだな? 彼は日本人のようなもんだから成る程だな。
916 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:53:03
臥海とかあちらとこちらの学者らが倍暦の可能性を忘れて年代の比定をやって いたから定説に語が生じたわけのようだ? 14年差ができてしまう。 嶋王が倍暦をしていたとなるとそれがしの年代はピタリと合うようだ。
917 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:54:58
(訂正) × 語が生じた ○ 誤が生じた
918 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 17:41:28
関連スレで論評人氏がいろいろ批評をしている。 倉西さんの説が崩れてそれがしの論が立ったとしても、自説は彼女の批評によっ て矛盾を解消して行って成ったものだから彼女の功もあるわけで、拙者独りで 出来たものでもない。この点、倉西さんには感謝している。 だが前スレで彼女は拙者が暴言の某有コテの手助けをしたと勝手に思いこみ、 出て行けとかのことで拙者に無実を着せたのを今の今まで謝ろうとしていない。 かようなことは非常に腹が立つことであり、まぁ彼女はとぼけているのか、 それとも拙者が当時目の上のたん瘤で邪魔な存在だからお払い箱としたかったの か、まだ判明はしていないのだ。 話かわって、論評人氏は拙者に倍暦の計算方式を拙者が教えたくないのか露わに していない旨を意見しているが、何もそんな隠し立てをしているものでもない。 少なくとも倉西さんと東征大将軍さんの数式よりはやさしいはずであろう。 2倍暦と3倍暦は以下の式で計算するのが誰でも分かるはずだ。 y=2x , y=3x 問題はいずれを基点とするのかということと、拙者の説は即位ごとに倍暦を 変えてるというものだから(但し先帝の暦法を続投したときもあるようだ)、 その接続年のやり方がどのようにするのかということと、あとは例外なことも 少ないがあるわけで、前者は恒久的通常暦の始まる欽明元年(西紀1200年)から 逆算して時代を神代へ向けて計算すればいいことだ。 中者の件は倍暦は2年あるいは3年でひと組(実年分の1年)だから現今の1年 の1/2か、1/3か2/3( +余り)の経過のときの天皇崩御で、分子の数字が倍暦 での年数となり、その年はその分数で現今1年未満を(余りは捨てず含み、斬れ るまでの日数を経過させる)斬って、その切れ目から即位年として倍暦を変えて 行くものとなる。分かりにくいもののようだから、再度質問せられたい。 後者は神武崩御3/11の場合でこれのみは4/1から4/1でなくなり、暦法が通常暦 での1/1となる。そのまま次帝世は通常暦を行使となる。 あとはどの天皇世がどの倍暦を使用していたかということの質問があろう。 ちょっと待っててね。
919 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 18:19:36
>>918 訂正
× 4/1から4/1でなくなり ○ 5/1から5/1でなくなり
通常は先帝から次帝へバトンタッチするときに暦法が変わるのであるが、さっき
の暦法接続の説明はわかりにくいだろうから神武崩御の例で説明すると、
崩御の3/11では実年分の分数1/3は50日位日数不足でまだ0/3の分数の状態で
あるから暦法(神武即位〜崩御は3倍暦)は4月末まで変わらずに日々が経過
し同末で3倍暦の1年がおわることになり、ここから年が繰り上がり次年と
なる。余り日が分数の切れ目まで経過してこの場合は実年分の1/3となり、
3倍暦の1年となり、ここでは5/1が1/1となって翌年に年が変わる。
神武の場合は崩御から次帝即位まで3年の間があり、普通は即位から暦法変動
するが、神武崩御の後は特別で次帝即位を待たずに通常暦に変わるのである。
神武世の即位後〜崩御は3倍暦なのはその間は1〜4月までしか記録がないこと
で分かる。単純な3倍暦をやっていたようである。
920 :
YAP? :2007/07/31(火) 22:45:01
何故単純な2倍年暦(一年365日を、春耕・秋収の一歳二年とする)、或いは完全な太陰暦で、 29,5日を2ヶ月(大の月15日、小の月14日)としてその12ヶ月を1年とする一年177日 の暦法は、だめなのだろう。 3倍暦や4位暦が入り乱れる暦法など古代人もわかりにくくて困っただろうに。
921 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 23:02:20
>>918 >>919 神武は即位前は通常暦法ですが、即位後は先述のとおり3倍暦を行使して
います。崩御後に再び通常暦に戻り次帝の綏世はそのまま通常暦でやって
います。他の欠史八代のうち「孝」の号の付く天皇世は3倍暦でその他の天皇
の世は2倍暦の使用です。
「神」の号の天皇世は神功を含めて3倍暦世です。崇神〜仁徳世は景行仲哀世
以外は3倍暦で、景行は2倍暦、仲哀は通常暦の時代です。このように各天皇
の時代は神武崩御の時以外、即位にて暦法変更をしてるのです。
以後は履中反正は2倍暦、允恭〜武烈は通常暦、繼體〜宣化世は2倍暦法です。
欽明世以降は恒久的通常暦の時代となります。
太国さん、1・・貴殿は金印が国内で発見される可能性が有ると思うか。 2・・仮に金印が九州で発見されたとしたら九州は邪馬台国と考えるか。 3・・同上 畿内 同上 畿内 同上 。 4・・蘇我家滅亡の折に、朝廷側が運良く運び出して火災消失を免れたと記されている書物があるが 直後に行方不明になってしまった。それが見つかったら何らかの手がかりになると思うか。 邪馬台国研究に役に立つと考えるか。 「国記?(紀)」だか「帝紀?(記)」だかと言う書物を指す。蘇我家滅亡時に殆どが火災で失われたが 一つだけ火災消失を免れた書物が有るらしい(ウィキペディアで読んだ)。 5・・邪馬台国(やまたいこく)が倭(やまと)を経て大和(やまと)と呼び名が変化したと考えるか。 邪馬台国の「台」を「と」と読めば(やま「たい」こく)でなく(やま「と」こく)とも読める。 6・・中国古代の上古音では、邪馬台国、卑弥呼、台与を「やまたいこく・ひみこ・とよ?(いよ?)」 と発音するのか。上古音をそのまま中国文字に当てはめたと聞いているが。 7・・そもそも倭人の倭ってそんなに悪い漢字なの? 「倭」の偏は「人偏」だよね。未開人種に使用する割には「人」は良い待遇だと思う。 蛮族の「蛮」は「虫」だが、倭は「人」だよ。日本でも蘇我「海豚」「馬子」「蝦夷」は 滅亡した後の書き方で本来は違ったと聞く。又、宇佐八幡宮の御信託事件で配流された人達も それまでの漢字の書き方を剥奪されて「虫」とか「汚い」だとかの漢字の書き方に改められたと聞く。 だから倭人の「倭」は「人偏」だから良い待遇だと思う。当時の超先進国である中国から見れば 日本は東夷の蛮族で遅れた未開人種との認識でも無理は無いから。
続き 8・・神武天皇も真っ青の長生き人物の竹内宿禰の正体は如何に考えるか。 宿禰は役職名なのか、一人の人物なのか、伝説なのか。 9・・上記の4番に書いた書物が存在するならば、紙に書かれているのか木簡に書かれているのか。 10・・神宮皇后に当てはまるとされる人物は誰か。又、三韓征伐を行ったのか。 11・・現在学会では邪馬台国の所在地はどちらが有力なのか。又、金印が発見されたとしたら 発見された場所を持って多勢・無勢を覆せる程の力を持てるのか。 どういう事かと言えば、学会有力地域で発見されればその地域が邪馬台国だが、 学会で無勢となっている地域で発見されたとする。その場合は学会有力地域勢力を覆せる程の 世紀の大発見になるのか。つまり、此れで持って邪馬台国所在地論争の終焉を意味するのか。 12・・予知スレで古代出雲大社の現存する柱を使用して、復元がなされると予知した人物がいたがそれは可能か。 古代出雲大社に使われた柱が現在に残っているから、その柱から古代出雲大社の規模を計算出来るので復元されると 予知した人物がいるので質問した。
924 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/01(水) 10:47:28
>>922 1 金印の国内の発見? それはありうるだろう。現に1個出てるしね。
2,3 どっちで出ようと女王国は九州だよ。金印は可動性のものだから
発見場所が女王国だとは必ずしも云えない。
4 出た文書によりますよ。うまく当たれば手がかりとかになるわね。
5 そういう変化での国名ではないと思うな。ただ京都と東京都の都市名の
酷似性からして、場合によっては何らかの関連までは否めないがな。
6 中国読みは余のテリトリーデはないので回答の立場ではないが、そこん
ところが分からなくても女王国が九州か畿内かの判別はできうる。
7 余は悪いとかの主張はしたことはない。だから回答するまでもない内容。
もっと暦法に関係のあることを書きこんでもらいたい。ここはそういうスレだ。
925 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/01(水) 15:01:47
>>923 8 5代の天皇と神功に仕え寿命は記紀では倍暦計算で最長の111歳だ。
エジプトのラメシスU世は92歳だったそうだし、半島にも長寿王がいたね。
関連スレ(日本書紀紀年法がついに解明されました Part5 >594)
でも唐松山氏が魏本紀第一で104歳の例を出している。
紀の仁徳50年の条に宿禰のことを 汝こそは国の長人 とあり、
彼の長寿の記述がある。大臣が役職名であり宿禰は違うだろう。
一人の人物よ。
9 紙か木か? そういうことは分からんがね。w
10 神功は神功だよ。w 三韓征伐はあったろう。デタラメを書いても大した
メリットはない。雄略武烈の悪業が書かれてるんだから虚偽を書く必要は
あるまいが。
11 臥海はだいたい畿内説だという話だな。だがそれは間違いさ。金印は先述
した通り可動性あるから、出土地が女王国とは断定できない。現に江田船山
の鉄刀の雄略の銘文が畿内でなく九州から出ている。刀剣も可動性の物よ。
終焉? どうなるかね?w
12 復元したときの絵があったじゃないかい? だから可能だろうね。
926 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/02(木) 23:04:38
倉西さんは 1 臥海が倍暦の可能性を気づかずに古代史の編年をしていた欠陥となりうる 不備を、もしやと思わず鵜呑みにして確定紀年を作ったから失敗した。 2 勝手に卑弥呼の女王国の畿内説を決めこみ、有力なる九州説を無視して 論を組み立てて行ったから、宝塚男装ギャルのような結論をして失敗した。 3 倭の五王を当時の各天皇と結論して、もしや天皇ではなかった場合の過ち に対して点検もせずに編年して言ったので失敗した。 4 紀の120年の差を黄金の数字とぬか喜びし、舎人らが神武即位等の年代を引き 伸ばして、その年数を基としたの紀の年代の創作構想があったと思いこんで しまい、120年の断層等とは舎人らの編年調整に苦しんだため、干支60年の 倍数が年代あわせに使用した数字だということに気つかずに論を重ねて しまい、それで失敗をした。
927 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/03(金) 22:43:53
「西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日」(大橋蛍火著 新風舎) を読んだが、論の核心の記述が少なく得るところはあまりなかったな。 題名に恥じない記述でやってもらいたいね。 臥海とか学者らが読んで、骨がちょっとでいいから無いとお話にならないね。
928 :
日本@名無史さん :2007/08/04(土) 02:48:05
>6・・中国古代の上古音では、邪馬台国、卑弥呼、台与を「やまたいこく・ひみこ・とよ?(いよ?)」 >と発音するのか。上古音をそのまま中国文字に当てはめたと聞いているが。 邪馬台国は 「ヤマドゥコク」と呼ぶそうです。
929 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/04(土) 22:00:42
卑弥呼の女王国名は「邪馬壹国」が正解。古神道のウラゴト(卜事)に於て、 神武以前が数字の1の時代であり、綏からは2の時代に入り、時代区間の 区分けがある。「邪馬壹国」の『壹』とは、1の時代が過ぎてしまったが、 ぶりかえして特別に1の時代を行使する、その意味を強めるための数字の国名。 「邪馬臺国」は倭の五王朝の国名。
930 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/05(日) 08:35:27
>>915 あれからいろいろ考察したが、14年間の嶋王時代の倍暦の使用は一見して矛盾
があるのが分かった。百済の通常暦と当時の繼體世の2倍暦との兼用での古文献
に何らかの誤記が存在したことから、相違が出るのはそういう暦年比定の結果
ではあるまいかと想定している。嶋王は日本人だからあるときは日本の2倍暦
をあるときは半島の通常暦を使い分けしていたのかも知れない。古田先生も墓誌
を現地へ行って見て碑の干支の1年改竄を見つけ、百済には二種の暦を使って
いたと説明しているそうである。これは拙者と見解、性質は違うが、拙者も
二種類を使っていたとの考えを捨て切れていない。
自説が矛盾に見えるのは、
>>370 表
>>372 >>379 の見解から紀の百済太子の死の
記述で百済が通常暦を行使していたのが否定できないためである。そこで嶋王
が日本人とも云えることからの兼用あるいは年代比定の学者らの過ちがあったの
ではないかと考えるようになった。
倉西氏は臥海の説におんぶして疑う気持ちがからきし無く、應神元年を390年
と確定したが、それでも拙者の疑念は捨て切れない。彼女も強調するとおり、
紀の記述で應神即位元年は干支が『庚寅』だと主張し、拙者の376年「丙子」と
相反しているわけだが、繼體即位は通常暦計算だと「丁亥」で2倍暦では
「辛丑」年になる。ところが真に倍暦があったして古文献の誤認があったと
為し、繼體即位を「丁亥」でなく倍暦での「辛丑」と取り替えて通常暦での
507年の干支として時代を逆算して行くと、376年での應神即位元年はやはり
『庚寅』なり、これでも紀の應神即位元年の記述と一致するのである。つまり
拙者の疑念のとおりで、紀の編者らは半島古文献、原書から拙者の計算のほうで
記述した有可能性が説明できている。
931 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/05(日) 10:20:59
>>930 倉西氏の臥海の定説で確定だとか言う年数では繼體即位のほうは507年であり、
殆んどの研究家学者連はこの説に依処してより古い年代を定めて論を張って
いるわけであるが、これは
>>370 表からの考察からまず、間違っているようだ。
507年即位は2倍暦では521年であり、前者は「丁亥」年であるが後者の計算
だと「辛丑」年になる。紀の應神即位元年は『庚寅』であり彼女は半島の古文献
を信用して390年年を確定紀年として安心したように論を進展させてはいるが、
拙者の倍暦計算での應神即位元年は376年で「丙子」と出て紀の記述に違えて
いるようだが、先述のとおり繼體以降に2倍暦が存在したとして繼體即位507年
の干支「丁亥」を同即位の2倍暦での干支「辛丑」へ学者らの誤認と観て取替
え、507年を「辛丑」として武烈崩御以前を総て通常暦で逆算して行くとどう
なるか? 拙者主張の應神即位元年376年の算出干支は紀の記述と同様『庚寅』年
に一致したのである。やはり應神即位元年376年説は崩れないのである。
932 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/06(月) 09:11:54
うちらが真の年代はどれなのか? 神武即位の真の年はいつか? 原書の各天皇の年代のいずれが本物なのか? 実に倭の女王はいつの時代か? などとそれぞれ現代の各人が迷妄状態で考察しているのと同様、舎人親王とその 取り巻きは紀を編纂するときに各天皇の大半が超長寿なことと半島大陸の 古文献と原書との年代の不一致、断層が格段に目立つことにて困惑していたのが 真相だと思ってよい。那珂博士らは年代の引き伸ばしがあったと主張しているが、 そのようにならざるを得なかったということであり、故意に大陸の古い歴史に 負けないために引き伸ばしたものではないし、そういう年代拡張の構想を持って いたものではなく、各古文献の年代調整が完璧に出来難いために間に合わせの 小康状態で紀を編纂したものである。その調整の典型的なものが120年という 干支60の倍数であり、各断層を整合させるため干支が一致できる60の倍数で 終止符を打ったということである。 舎人らが混迷していたのは、現代のうちら研究者とほぼ同じ精神状態だったと 考えるべきで、引き伸ばしの構想というものは無く、年代の調整のために 時代が拡張したようになってしまったというのが事の真相なのである。
933 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/06(月) 22:50:28
Wikiの「日本書紀」の項目の「紀年論」の解説には 2倍暦説は紀の相当個所全部の時代において通用せず合理性がない旨の論述で この説を遺棄しているが、全部が通用しなくたって一部の時代で暦法変更して これを行使していた可能性はあるわけだから、上っ面の矛盾とかを見てこれを 門前払い的に否定するのは、判断の誤謬と観てよい。 さらに120年のズレとかは朝鮮関係の文献のみの適用のもので他には通用しない 旨の解説のようででこれを軽視しているのか、先の遺棄否定は全部において会わ ないから2倍暦は駄目だと大幅に視角を拡げての否定で、ここの120年のズレは 古文献を狭小視覚の制限からの否定のようで、結局は恣意的な取捨選択をして の論評としか思えない。 アマチュアを舐めているのか? 2倍暦と干支の段差を、齧った程度での幼稚で ズサンな判断からの解説に想えてならない。
934 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/06(月) 22:52:48
訂正 × 会わないから ○ 合わないから
太国さん、ちょっと教えて下さい。 | 507年即位は2倍暦では521年であり、前者は「丁亥」年であるが後者の計算 | だと「辛丑」年になる 「辛酉」年じゃないのでしょうか? 初歩的な質問ですみませんですが...
936 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 07:35:50
>>935 そのころは繼體のみが2倍暦行使の時代ではないということです。その後代の
安閑宣化までが2倍暦でして、以後欽明世から恒久的通常暦の時代になるわけ
です。貴殿は繼體世のみを2倍暦として干支を当てはめたからそうなったんでは
ないですか?
937 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 08:08:01
逆算ですから、倍暦の数字干支は下からとって下さい。 540 庚申 540 庚申 欽明元年 用明誕生 石姫立后 539 己未 539 己未 欽明即位 宣化崩御 538 戊午 538 戊午 佛伝 敏達誕生 537 丁巳 537 丁巳 536 丙辰 536 丙辰 宣化元年 橘仲皇女立后 535 乙卯 534 甲寅 535 乙卯 宣化即位 安閑崩御 春日山田皇女立后 533 癸丑 534 甲寅 832 壬子 531 辛亥 533 癸丑 安閑即位 繼體崩御 ・・・・・・・ 507 丁亥 521 辛丑 繼體即位 手白香皇女立后
938 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 21:38:41
他スレで云いすぎたいうだが、倉西さんは確か限定的2倍暦肯定論者だと 思ったが〜? 彼女に同スレで今文句が出たが、前ありうると云ってたよな??
939 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 21:43:40
サガミハラハラさん。このごろ長コテハンでわずらわしい感がしますが、 なにか、うかれておられるようで・・・? 何かあったんですか?w それはいいとして、次スレの容易を願います。
940 :
日本@名無史さん :2007/08/09(木) 22:15:39
941 :
オージョニー ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ :2007/08/09(木) 22:32:12
別にうかれておりませんが、あったことといえば、今度今はやりの熟年離婚をすることになったことと、 東京の日野に引っ越すことですか。 引越したらHNかえることになりますか。 日野市民の歌になにか言い文句あるかどうか。 次スレ、どなたか作ってください。
942 :
日本@名無史さん :2007/08/09(木) 23:31:02
フトクニの日常 朝起きて前日書き込んだスレをチェック
943 :
日本@名無史さん :2007/08/09(木) 23:31:46
フトクニの日常 朝起きて前日書き込んだスレをチェック
944 :
935 :2007/08/10(金) 01:24:21
太国さん。レスありがとうございます。
>>936 貴殿は繼體世のみを2倍暦として干支を当てはめたからそうなったんでは
いや、違うのです。単に、継体紀に「元年春正月辛酉朔甲子」とあったので、
何でかなあと思ったのです(なので "初歩的な質問" と書いたのです)。
あの、継体紀のあたりっていろいろややこしいとこですよね。私のレベルでは
まったくちんぷんかんぷんですが、気長に確認してみます...
945 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/10(金) 10:04:16
>>944 あのぅ・・・説明不足の点があったのでちょっと書きこみますと、宣化の時代は
2倍暦は途中で途切れて暫定的通常暦法を行使していると観ています。
即位のときは2倍暦でしたが、宣化元年でそれになります。その後そのまま
恒久的通常暦となったようです。理由は完璧ではなくちょっとらくな説明は
できにくいですが、佛伝の影響が恒久的通常暦になった因でしょうが、
2倍暦をやっていたのをいったん取りやめ、経過した1〜2年分の2倍暦法を
取りやめて、その分の2倍暦を通常暦に戻して元年時から修正運用して行き戻し
たのではあるまいかと推察しているところです。いったん2倍暦をやていたのを
期間がそんなに経過していないので、すでにしていたこの暦法は抹消と為し、
1〜2年前の元年時から通常暦にみなし改変し施行して行ったかと考えます。
だからこの短期間二つの暦法が行ったり来たりで重複した状態だったかと
考える次第であります。
倉西さんは地域時代限定的2倍暦肯定論者か優柔不断の2倍暦あったかも知れ
ない肯定論者兼無かったかも知れない否定論者なる両論の境界線上をさまよって
いたかの想いでして、全体的には狭小不確定性の肯定兼否定論をぶらさげながら
の強い否定論舎だということが彼女の脳の実態ではなかったでしょうか?
まぁ何を言おうと、メインの主張は±120年有構想は確かでして、拙者としては
そういう舎人親王らの構想などは無いとする立場にあり、先述しておきましたが
彼らもうちら研究者と同様迷妄状態で、彼らは原書と取り組み、年代の大幅な
ズレでの調整に良作がなく、誤を避け真を取る為には次善である小康状態の
間に合わせで終止符を打ったものであり、年干支の誤修正は60年にて同一干支
での一致ができうることから60倍数での最も合いそうだと思われる120年修正を
して真に接近させようとしたとするのがそれがしの主張であり、残念ながら
紀からその接近は果たされてはいなかったと想うものです。
946 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/10(金) 10:07:40
訂正 × 良作がなく ○ 良策がなく
947 :
935 :2007/08/11(土) 02:41:27
えー、太国さん。
>>937 の表を書いて頂いたおかげで私のようなアホにも何となーくですが
2倍暦のイミがわかったような気がしてきました(あくまで感覚として
わかっただけで、本当に理解するにはずっと遡って検証しないといけない
ですが...)。
お手をわずらわせてしまいまして申し訳ないです...
948 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/11(土) 14:04:48
「住吉大社神代記」に 崇神天皇没年戊寅の年 在位年数六十八年 とあるが、みどもの倍暦計算から没年は1年違いの259年 己卯 と出だ。 同計算から在位年数は即位 237年から 259−236=23年 であるが、3倍暦のことから 23×3=69年 となり、同文献の記述とやはり1年差となる。文献のほう は通常年としての計上なのだろう。とにかくかなり一致しているね。
949 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/08/11(土) 14:28:22
太国さん
>>932 などを読む限り、日本書紀の編纂事情の考察に関しては
私と太国さんは類似した意見のようですね。
私の場合はやや倉西さんに好意的な視点ですが。
で、話はかわりますが、
日本書紀における「一書にいわく」の注釈ですが
歴史に埋もれがちな古代ほど多数の注釈がつくのは理解できますが
なぜか神功皇后などのあたりにも多数あるんですよね。
その、注釈の多寡なども編纂事情を推理する傍証になり得ませんか?
私はそんな気がしてなりません。
950 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/11(土) 14:46:26
ああそうですか? 前後の天皇の条よりありますか? とにかく仲哀あたりからそろそろ 外国古文献の資料が在庫だったんではないでしょうか? それともその 注釈条は日本限定の文ですかね? もっと古代よりも原書が多くなって 来たということでしょうか? いずれにしろ貴殿のおっしゃる推理の傍証 にはなりうると思いますね。 年代引きのばしの件ですが、神武の即位年の正確な(干支?)原書を しっかり持っていて、そこのみはキチンと曲げずに固定して皇紀元年を 固めて記録したようです。ところが倍暦だからものすごく伸びて、 より上代年に行ってしまったことになったのだと考えます。
951 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/11(土) 15:51:39
>>948 続き
通常暦計算の崇神の在位年数において、
69−23×2=69−46=23年 から、計算では 23×2=46年 の3倍暦で
の追加になっている。
「住吉大社神代記」では
垂仁天皇没年辛未の年 在位年数五十三年
とある。みどもの倍暦計算では、垂仁即位元年=260年 同崩御=292年 を
算出している。辛未年との差は19年で一致してないが、この天皇世も崇神と
同様3倍暦法であることからして、在位年数は
292−259=33年 であり、3倍暦から通常暦では 33×3=99年 になる。
ここで住吉大社神代記の在位年数 53年 との差は
99−53=46年
となり、崇神世の3倍暦でのはみ出し年数と一致する。
これは何を物語っているものなのか? 同神代記の記録者側が崇神か垂仁の
在位年数が大きすぎるとかそのへんの不自然さに疑問を持っていたので、
この46年分を動かしたか変更したとかで減らしたようで、そのへん
が真であろうと感じている。
952 :
唐松山 :2007/08/11(土) 21:01:26
951を 読んで 19年と 46年 この差に注目 私は、現在 朔日 で 計算しているのですが 19年は、 暦法の19年7閏 で良いのでは と思いますが 46年−19*2=8年 この8年が 実は、景行と成務の間に 暦の閏の廻しで 丁度8年有るんです。 景行43年 皇暦773年から 閏年43、46、49、52、54、57、60年に成ります 成務3年から 閏年3、5、8、11、13、16、19年なんですが 一見なんの異常も見られないが 19年7閏法からすると ここに8年分の 空白、齟齬が生じてしまうのです この8年を無視すると良さそうなもんですが そうすると 私の 歴年推測に合わない 8年を入れると 丁度に成るんです。
953 :
唐松山 :2007/08/11(土) 21:03:00
参考 成務天皇からの 閏の廻し 神武から同じだと 閏年は、2,5,8,11,13,16,19年目ですが 3,5,8,11,13,16,19年目 の方が良く合う 神武からの廻しで 丸8年の空白と同じに成ります。 仁徳、履仲の空白は、私の間違い ごめんなさい。 まず 以前 発表した 暦日の式 暦日=INT(INT((G2*365.25+100)/29.5306+0.3)*29.5306)+8305 G2=皇暦 神武元年1月朔=8777日 狂いは、1日か30日 皇暦(年)を打ち込んでください。 成務天皇元年より皇極天皇元年まで 511年186634日 増しは、152年55517日 と見ます 皇極天皇元年1月朔=西暦623年とすると (合わせ場所 舒明天皇9年三月,乙酉朔丙戌,日蝕之=西暦618年4月10日と見ます。) 垂仁天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 に成ります 次 景行の増し 38年13880日 そうすると 治世22年 垂仁の増し 76年27759日 同じく 治世23年 崇神の増し 43年15710日 同じく 治世25年 (崇神と開化で増し95年 開化治世8年) これに西暦を合わせる ただし 先の8年を“実”とみて成務に加える。 成務=西暦256年より 景行=西暦234年より 垂仁=西暦211年より 崇神=西暦186年より 以上のように成りました。 なお 神武元年は、西暦34年と見ています。
954 :
唐松山 :2007/08/11(土) 21:30:40
訂正 ×垂仁天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 ○ 成務天皇元年=623−(511−152)=西暦264年−8年=西暦256年
955 :
日本@名無史さん :2007/08/11(土) 21:43:50
>西俣さんはこう語る。 >「生野周辺も、古代から農耕や機織、土木建築、漢字、仏教など先進技術や文化を >伝えた渡来人によって築かれた土地です。ところが、約1500年後の1910年から >日本の朝鮮半島支配が始まり、多くの朝鮮人が出稼ぎに来て、過酷な労働に携わる。 >その後も創氏改名や強制連行、戦後もひどい差別が続きます。 >お世話になった民族にこの仕打ち。ヨン様もいいですが、歴史と現状を広く知ってもらい、 >大阪から本当の国際化を目指していきたいですな」 日本人が古代・中世に、朝鮮人のお世話になったことは一度も無いんだよね。 誤解してる人が多いんだけど、古代日本に移住した渡来人は、朝鮮人じゃあないんだよね。 ぜんぜん無関係な別種の民族なんだよ。 半島南部の韓人(からびと)と呼ばれた倭人系民族と、楽浪郡が滅びた後、難民として日本に来た 漢人たち、それが渡来人なんだよ。 いわゆる「百済系渡来人」とか、「コマ系渡来人」と呼ばれている帰化人は、 そのほとんどが楽浪郡系の漢人なんだよ。朝鮮人は一人もいないんだ。 楽浪郡の漢人や半島南部の倭人系民族、日本列島の倭人と対立していたワイ族こそが 朝鮮人の先祖なのであり、とうぜん、ワイ族は古代日本には移住していない。 「朝鮮人にお世話になった」という主張は、歴史認識の誤りから生まれる意見だ。
956 :
日本@名無史さん :2007/08/11(土) 22:44:25
>>955 だから、ソースをしめさんか?あほうか?
957 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 00:41:03
二倍暦を主張する人たちって フェルマーの大定理を証明しようとしたアマチュアにそっくり 伝説時代の天皇のありえない長寿を合理的に説明したいという情熱からくるんだろうけど
2倍暦って、田植えの年と稲刈りの年が交互にやってくるわけ? アフォくさ
959 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 07:12:44
もともと2倍年暦は中国から(殷時代)来たようです。 中国では春に麦の収穫、秋に高粱や粟、稲の収穫と年二度の収穫があります。 ですから春収、秋収となるのですが、日本では麦作が発達せず、結果、魏志倭人伝に記されたように、 春耕秋収となったわけです。
960 :
唐松山 :2007/08/12(日) 12:32:43
殷時代の暦が引き伸ばされている事は 其のとうりだと思いますが 単純に 2倍 と見るのはどうか 月齢 太陰暦との相性がよくない 私は、19年7閏 を 適せん差し込んだ と見ています これだと 暦として非常に相性が良く繋ぎ目が判りません。
961 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 12:33:58
>>959 魏志倭人伝???
魏略逸文じゃなかったか
それにそういうのは単なる日読みで暦とはいわん
962 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 12:52:30
>>960 >適せん差し込んだ
意味がよくわからい
963 :
唐松山 :2007/08/12(日) 13:44:09
朔を 基本として見ると 全て元年1月朔として、判らない所は推定 西暦 治世 治世日 歴日元 増し 神武天皇 36年 19年間 8033日 8777日 57年 空白(タギシミミミコ) 3年 1093日間 神武の治世日に含む 綏靖天皇 58年 14年間 5108日 37629日 19年 安寧天皇 72年 5年間 1830日 49677日 33年 懿徳天皇 77年 11年間 4017日 63556日 24年 孝昭天皇 88年 26年間 9480日 76343日 57年 孝安天皇 114年 26年間 9509日 106642日 76年 孝霊天皇 140年 19年間 6939日 143909日 57年 孝元天皇 159年 19年間 6940日 171668日 38年 開化天皇 178年 8年間 2923日 192487日 52年 崇神天皇 186年 25年間 9125日 214399日 43年 垂仁天皇 211年 23年間 8417日 239234日 76年 景行天皇 234年 22年間 8032日 275409日 38年 朔の廻し8年 この8年暦日に含まず 成務天皇 264年 4年間 1447日 297321日 57年 仲哀天皇 268年 3年間 1093日 319587日 5年 神功皇后 271年 37年間 13524日 322510日 33年 応神天皇 308年 24年間 8771日 348084日 19年 空白 2年 応神の治世日に含む 仁徳天皇 332年 87年間 31776日 363794日 履中天皇 419年 6年間 2184日 395570日 増し は、19年7閏を基本とし 6940日か6939日 安寧、懿徳は 2人で3回 57年 開化、崇神 及び仲哀、神功も 同様 成務 以下は、これから 再度検討します
964 :
唐松山 :2007/08/12(日) 13:45:18
世継ぎを検討する 先の書き込みより 天皇の世継ぎを検討すると 誕生日が最も妥当だと思われる処 孝昭天皇は安寧天皇の子供であり懿徳天皇元年誕生が想定されます そうすると 孝昭天皇誕生は、西暦77年と言う事で 天皇名 誕生西暦 即位才 生世継ぎ 死亡才 孝昭天皇 西暦77年 12才 18才 33才 孝安天皇 94年 21才 22才 47才 孝霊天皇 115年 26才 34才 45才 孝元は 孫 孝元天皇 148年 12才 18才 31才 開化天皇 165年 14才 18才 22才 崇神天皇 182年 5才 20才 30才 垂仁天皇 201年 11才 18才 34才 景行天皇 218年 17才 21才 39才 書紀の記事にあまり対応させていませんが 世継ぎは、 可能 ついでに ほつま伝の作者 たたねこ の年齢を推定すると 崇神元年 西暦186年頃の生まれ 成務元年 西暦256年頃まで活躍 256−186+1=71歳 可能な年齢
965
970
971 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :
2007/08/12(日) 22:25:35 >>930 >>931 >>937 >>945 前半
繼體即位は通説では507年(丁亥)のところ、2倍暦の行使があるのなら即位は
521年(辛丑)になる。いままでの学者らからこういう通説が成ったのであろう
が、2倍暦の考慮を不用意にも忘れ編年したのであろうからさらに上代は無理
なる突合せでの年代確定が行われたのやも知れない?
そこで先述にて507年を2倍暦での干支(辛丑)に取り替えて、そこから上代は
全部通常暦式で干支を当てはめて行ったとするとき、これでも紀の應神即位元年
が『庚寅』(376年)に一致したわけであるが、(376年のほうは倍暦のである)
この逆算遡りを続けて行くと、みどもの倍暦計算での 成務崩御 342年 は
「丙辰」 と出たが、これは古事記の崩年干支 『乙卯』に、これまた倍暦での
崇神崩御1年違いだったのと同様、ここでも1年違いの結果が出たのである。
(342年も倍暦のである。『乙卯』は341年となる)
だから稗田阿礼はこのカラクリを自ら知っていたか、当時伝わっていたこの
カラクリを知っていた者からの中継ぎでの記憶の吐露の内容なのであろう?
これから、阿礼の記憶の崇神の崩年干支と成務の崩年干支の入手経路が双方
別々であったのかと推定している。ただ両者のカラクリをどちらも知って共有
いた情報とかであれば、別々ではなくなるが・・・?