じゃあ、大伴の「大」?
937 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:12:59
>>934 信長が勢いだけで
実は天下を取ってないことに
何れ気づく
秀吉が天下統一し
秀吉が関白になる。
力関係はどうなっていますでしょうか?
奈良時代天皇 奈良時代郡司
江戸時代天皇 江戸時代将軍 江戸時代藩公 江戸時代代官 江戸時代庄屋
昭和時代陸軍大将 昭和時代陸軍大佐 昭和時代陸軍大尉
平成時代総理大臣 平成時代大臣 平成時代国会議員 平成時代知事 平成時代市長 平成時代町長 平成時代医師
例
平成時代総理大臣>平成時代大臣>平成時代国会議員>平成時代知事
>平成時代市長>平成時代町長>>昭和時代陸軍大将>昭和時代陸軍大佐>江戸時代天皇>江戸時代将軍>昭和時代陸軍大尉>江戸時代藩公>江戸時代代官>奈良時代天皇>江戸時代庄屋>奈良時代郡司>>>平成時代医師
よろしくお願いします。
民主主義になって身分の差は開いたのでしょうか?
つまり現代の支配者>中世の支配者?
それとも平等になったのでしょうか?
つまり現代の支配者<中世の支配者?
941 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:14:14
>>939 時代が違うのに力関係なんか生じるわけないじゃん。ヴァカ??
943 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:21:14
長橋局とか春日局とかっていうのには、それぞれ役割(職務)があったんですか? あるいは、単に位に応じた肩書きというか名誉職(?)だったんでしょうか?
田堵と名主の違いを教えてください
室町時代の女性の下着ってどんなのだったの?
あと、この時代の女性の名前ってどんなのがあったの?
947 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 09:46:27
博士はどこ?
>>770 遅レスだが、そいつらは家康の養子になっていないか?
949 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 18:26:21
いま平城京の勉強してるんだけど
南部七大寺って何?
国司が国免荘を増やしたわけを教えて下さい
953 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 14:40:15
今川義元が敗死した後、離叛した松平家広 (形原松平家)の息子が処刑されたと聞きました。
この今川家に人質になっていた松平家広の息子というのは、何という名前の少年だったのでしょうか?
ある人は「松平左近」だと言いますし、別の人は「松平右近」だと主張しています。
どちらが正しいのですか?
決してマルチではありませぬが、他のスレで問うても答えて貰えませんでしたので、
こちらにてお尋ねすることと致しました。
教えて下さい。
なにとぞ宜敷くお願い申し上げます。
日本が農耕社会であった時代はいつからいつまでですか?
955 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 14:16:01
小弓公方こと足利義明の妻って誰か知ってますか?
>>954 とりあえず俺的には地租改正
米が基準じゃなくなるまで
江戸時代の大名の陪臣で石高が特に高かった家老家には主にどんな家がありますか
万石クラス=大名並みの者だけでも教えてください
徳川御三家の付家老クラスが有名だな
犬山城の成瀬家とか
959 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 11:27:10
953番の質問に何方もお答えになれませぬのか?
もと゜かしき限りよのう。
960 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 16:42:49
955も同じ
961 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 17:01:55
>954
そもそも日本が農耕社会であったという認識自体が間違っています。
もちろん日本にも農民はたくさん居ましたが、商業活動も重要な要素であり続けています。
日本が農耕社会であったという考えは、百姓=農民という誤解に基づくものです。
江戸時代の古文書などを分析しますと、いわゆる百姓には、北前舟の船主のような現代で言えば総合商社の社長に当たるような人々も含まれているのです。
日本の社会は、縄文・弥生時代から連綿として活発な商業活動によって支えられてきたのです。
962 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 14:23:01
「お通」とか「お市」とか昔の人間には「お」をつけるけど、これって敬称
なの? 実際は「通」「市」とかいうふうな名前? それとも「お」を含めて
名前なの?
963 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 16:51:54
今川義元が敗死した後、離叛した松平家広 (形原松平家)の息子が処刑されたと聞きました。
この今川家に人質になっていた松平家広の息子というのは、何という名前の少年だったのでしょうか?
ある人は「松平左近」だと言いますし、別の人は「松平右近」だと主張しています。
どちらが正しいのですか?
決してマルチではありませぬが、他のスレで問うても答えて貰えませんでしたので、
こちらにてお尋ねすることと致しました。
是非にもお教え下さりませ。
重ねてお頼み致します程に。
歴史学博士、なにとぞ宜敷くお願い申し上げますぞ。
964 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:03:22
>962
「お」は敬称です。
965 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:11:39
>964
ありがとうございます。では、自分で名乗る際に「お市と申します」とは
言わないんですね?
966 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:18:06
>965
はい。そうです。
967 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:32:28
>963
おそらく、その問いに答えられる人はいないのではないかと思います。
そもそも右近とか左近というのは役所名にちなんだ名乗りです。
もちろん正式に任命された官職名ではなく、自称です。
仮名(けみょう)あるいは字(あざな)と言います。
本当の名前は諱(いみな)といい、これとは別にありますが、通常使われることはほとんどありません。
したがって、本名はなかなか伝わらないのです。
たとえば有名な高山右近なども、その本名については諸説あって結局はよく分からないのです。
ご質問の人物についても、おそらく歴史の中に埋もれて、今となっては知るすべも無いのではないかと思われます。
寺の過去帳などで発見されるといったことも、あまり期待できないのではないでしょうか?
968 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 14:46:23
誠に以て忝なうござります。
なれば此の松平右近ないし左近の諱を知る手だてとて無いと仰せで御座るか?
それとも何ぞ妙法ありて、その道の専門家に問わば、もしや判明する可能性も
あながち否定出来ぬとの御存念にござりまするか?
969 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 21:18:04
>968
可能性があるとすれば、地元の郷土史家などで詳しい人などが承知しているかもしれませんね。
あるいは、菩提寺が判っているなら、そこの古い記録もしくは墓碑銘などを当たってみるかでしょうね。
いずれにしても、暇と金が掛かる調査になりそうです。
現存する子孫がいれば、あるいは過去帳などから判明する可能性もゼロではないかもしれません。
きわめて小さい可能性だとは思いますけどね。
971 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 05:33:30
972 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 05:47:08
「松平左近」のほうが正しう御座りまするな。
973 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:50:03
江戸幕府の崩壊後の静岡藩の職制について分かる史料ってないですか?
974 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 13:24:32
質問お願いします。
徳川家の誰かが金山のある村の川に毒を流して村人を毒殺して村を消したって聞いたんですけど、話が実際にあるなら詳しく教えてくれますか?
975 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 14:31:06
>>974 そのような事件が実際にあったかどうかは知りませんが、可能性があるとすれば、大久保長安あたりが一番アヤシイですね。
ですが、おそらく小説か何かの創作された話ではないかと思います。
もし仮にそのような事件が実際にあったなら、その話が世間に漏れることはありますまい。
村を消すというからには、よほどの秘密があったはずですが、そうまでして隠さねばならない秘密があったとは思えません。
976 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 15:32:13
>>795 ありがとうございます。
詳しく知らないんでなんとも言えないですが、金山の金を独占するために麓の村を壊滅させたらしいです
977 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 18:00:45
徳川家の権力を以ってすれば、金山の金を独占するくらい簡単なことです。
わざわざ村を消し去る必要など無かったと思われます。
ここにいらっしゃる学者殿たちにお聞きしたい
江戸や戦国の武家に生まれた女性の口調はどのようなものでござりましたか?
なるべく地方別のなまりは考えない方向でお願いしまする
979 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 10:05:45
大石主税が念契を交わした京都の色子の名前は何といったのでしょうか?
読んだ本によって「相山幸之助」だったり「相川幸之助」だったり区々です。
出来ますれば、出典と共に御教示下さいませ。
何卒よろしくお願いします。
981 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 14:33:11
982 :
太閤:2008/12/20(土) 14:57:41
質問です
戦国時代の話です
斎藤道三は 息子の謀反で死亡みたいですが 何故ですか?
斎藤道三は大名にまでのし上がった男
美濃三人衆など有能な部下も居た
何故 息子の謀反などに負けたのか
何故 斎藤家の武将達は道三を助けなかったのか
後に美濃三人衆は道三の娘婿の信長に寝返ってます
そう考えると 道三の死は不思議に思います
詳しい方 教えて下さい
983 :
ベティ:2008/12/20(土) 15:06:53
死んだのだからしかたあるまい
984 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 15:42:32
>>982 息子の斉藤義龍が、道三が思っていたよりもはるかに有能な武将であったということでしょう。
道三があまり内政を省みること無しに戦争に明け暮れていた弊害をただし、かなりの実績を上げています。
30代半ばで早世してしまいましたが、義龍がもっと長生きしていれば、信長の天下盗りは無かったかもしれません。
もともと義龍は土岐頼芸の子であるという説があったのです。
その説を道三自身が利用して、土岐氏の家臣たちを取り込んだという経緯があります。
それゆえ、土岐氏ゆかりの有力な家臣の多くが義龍側についたようです。
また、この事件があったときには、道三は既に隠居の身で、斉藤家の当主は義龍でした。
家臣団の感覚から言えば、義龍こそが主君であったとも考えられます。
父殺しの汚名を避ける為に、義龍も後にこの説を利用しています。
義龍の実父が誰であったのか、真相を知る者は義龍の母親だけでしょうね。
985 :
太閤:
ありがとうございます
義龍が早く死ななければ 墨俣や 竹中&美濃三人衆など
寝返りは無かったかもですね
次にまたまた質問です
歴史好きの友達が
宇喜多直家が最強だと語ってました
天下を取るのに生まれた土地が悪いと 語ってました
自分は宇喜多直家がそこまで すごい武将だと言う知識は無いのですが
本当に そんなすごい武将なのですか?