1 :
神様:
どおせ何も結論出ないの承知のうえで さぁ書き込め
妄想するなと言っても無駄だろう。
とにかくスタートだ 書き込め〜
前スレなんて知りたいヤシが調べればいい 俺は知らね
2 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 22:11:13
2ダ
3 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 22:14:18
打算
4 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/27(月) 22:22:40
あれ?いつもの目印のくまは?
結論が出たら、このスレ、なくなっちゃうよん。
「僕は、吉野ヶ里遺跡が、邪馬台国だと思います。
だってこの前、おじさんがひみこまんじゅう売ってたもんっ。」
という妄想よりかマシなら何でもいいんじゃないんで消化?
5 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 22:27:40
しもた・・・・・orz
8 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/27(月) 22:39:23
スレも新しくなったので、基本から
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑・・・
ここに書いてある「東南」、どおして東南なのか理論的に答えられる住人はいるかな?
9 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/27(月) 22:42:30
>>5 ぜひ新作のクマの絵をお待ち申しております。僕も結構気に入ってるんで。
10 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 22:49:07
>>5 同じく、スレ立てようとしても「このアクセスでは立てられません」とか
いうのが出た。
>>4 吉野ヶ里遺跡の人々は、庄内期が始まる頃、土器を環濠に捨てて
どこかに引っ越した。最盛期は、弥生時代後期。
甘木市の平塚川添遺跡も同じような歴史をたどる。
熊本県の北部・菊池市?の「うてな遺跡」も同じ頃、環濠に大量の土器が捨てられた。
近畿地方も似た状況らしい。
つまり、庄内期の始まりのあたりで日本には大変動が起きた。
11 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/27(月) 22:50:31
邪馬台国、ドンと来い!! 7 (どうでもいいが実は8)
深いっ。このズレが、邪馬台国時代にもあって、年代の矛盾を生んでるのでは
ないでしょうか
12 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 23:07:16
糞チョンの恵也は死んだか?
>>10 庄内併行期は吉野ヶ里は丘陵の麓に居住区が移動していたという話があるが。
丘陵の上には庄内から布留0ぐらいの前方後方形の墳丘墓があるから、
近くに誰かが住んでいたのは間違いないと思うが・・・・
あそこは県教委の発表が信用できないから何が本当なのかいまいちわからない。
14 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 00:19:05
日本人の10人のうち9人はチョンです・
15 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 00:21:03
>>13 テキトーなこと書いてんじゃねえ、このインチキ野郎。死ね、糞ジジイ
>>13 県教委の発表で信用できるところなんてありませんよ。
17 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 02:38:40
くまー
r -、,, - 、
__ ヽ/ ヽ__
くまー ,"- `ヽ, / ● l )
/ ● \__ (● ● i"
__/ ●)  ̄ )"__ "`;
.(_i ● ' __, '"  ̄`'(___/.i⌒i
丶_ ,i⌒i,,_(_/ ● i ̄ ̄ )_|__
__, '"  ̄ ヽ! ● ●) ミ~ ̄_● ヽ)
くまー (_/ ● i ∪ / ⊂{● | くまー
l ●( _●) (  ̄)- / -' i
/ヽ、 |∪l T i ● '")
18 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 02:50:30
>>14 顔みりゃわかるよ。皇族とか見てみ。妙に彫りが深い顔立ちだろ。九州の顔だよ。
自分は九州だが、東京に初めていったとき大都会だから美男美女が
集まってるんじゃないか、と思ったら体も小さくて貧弱だし 8割くらいが
「朝鮮人か!?」っていうような顔のブスばっかりだったんでびっくりしたなあ、もう。
>>14 地域によってはそうだろ。名古屋とか大阪なw
ただ前の皇后(なんだっけ、淳香か?w)がすべてを打ち消すほど激しく強烈朝鮮顔だったね・・・
19 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 03:25:49
>>8 九州だからだろ。本州部分は倭じゃないと思っていたとかね。
20 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/28(火) 04:33:03
21 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/28(火) 05:04:27
ん? ちょっと読んだが逆じゃなかったっけ?
皇室つまり、お雛様顔が、大陸系でのっぺりしてるんじゃ?
旧モンゴリアンの縄文人顔は南北に追いやられて、アイヌと沖縄に。
この両者が、遺伝子がそっくりで、近畿地方が、朝鮮にそっくりで。
熊襲や、蝦夷は元々、この縄文人の血を受け継いでいて、たびたび
征服者の近畿によって、征伐されていた。征夷大将軍とかそこから生まれた。
新モンゴリアンは、瓜実顔の細い目、平安貴族も、眉と目の間の狭い、いわゆる
彫が深い顔を嫌って、征服者にならって、眉毛を剃り、わざわざ目から離し、上の方に
書き直した。色白に見せる為、真っ白に塗った。これを高貴な顔立ちといったそうだ。
九州は旧モンゴリアンの血が強くて、丸顔のどんぐり目、かわいい子が多い。
本州に入ると、細い顔の人がいきなり増える。
とりわけ昔から近畿地方ははひどかった。今は大阪のおばちゃんになっている。
あの下品さも、どことか共和国そっくり?
そうはいうけど、のっぺりじゃなく意外に濃い顔だよね・・・皇族。
数代前に濃い顔の姫がいただけかもしれないけどさw
23 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/28(火) 08:31:52
>>993 >銅の産地は呉国になってからこそ、徐州とは言わないが、呉の国が、政治レベルで決めた事であって
三国時代の徐州は、魏に大虐殺されてその後に劉備と呂布が守り、最終的には魏に、命からがら
追い出されてますので、呉の領土になったとは思えない。
銅の産地は、鉱脈がいろいろあり簡単に途切れる事があり、この時代の徐州に銅の産地がなかった
なんていう証明は出来ないよ。
24 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 08:33:11
25 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 08:33:38
前スレの続きだが、倭人伝で不彌の後、水行南について。
筑後川を遡上したというなら、投馬邪馬台はどの辺りになるの?
当時の奴や伊都を上回るような遺跡があったっけ?
26 :
神様:2006/11/28(火) 14:31:47
お前ら漢文嫁ないんか?
あれほど推測するなと言ったのにぃ〜
『南至投馬國水行二十日』であって『南水行二十日至投馬國』じゃあないだろうにぃ〜
たくぅ〜っ
27 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:34:03
九州説を採っているヤシらって皆仲悪いなあ
こんな紛争だらけのDNAが存在するところに
邪馬台国があったなんて到底想像できないなあw
ヤマトで決まりだ、確信した。
28 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:39:34
九州説同士が仲が悪いのは、お互いオラが国だと思ってるからでしょう。
29 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:40:26
なんじゃそりゃ
30 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:46:12
残念だが関西人のあの御下劣さは九州人と朝鮮人に由来する。
31 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 15:52:42
東北人の来るところじゃないぞ。空気読めよ。
32 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:07:15
鯨京一郎の本では邪馬台国は岩手の八幡平になってたな。
邪馬台国は蒲田
34 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:46:15
場所は知らんが山田国だと思う。
35 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/28(火) 19:42:50
>>22>>24 実は僕もそう思うんだけど・・・。明治天皇とか。
やはり大陸人とはどこか隔絶した南方系顔立ちというか。
36 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/28(火) 20:03:54
>>26 神様宛て
そうそう、そうでした。その解釈だったんで、僕は福岡の甘木説だったんですが、
あるホームページに変わった説があって、そういう解釈も有りなのかなーなんて
影響されました事を、懺悔いたします。
37 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:19:31
俺に言わせれば、南方系の顔だからその祖先は南方から来たなんて
チャンチャラおかしい。
38 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/28(火) 20:45:38
>>23 資料をどうぞ。
魏の徐州に銅産地は含まれない。(王仲殊:中国社会科学院考古研究所)
後漢時代に徐州の南に属する江都・儀征、さらに南の丹陽付近に古代の銅鉱があった。
三国時代にはこの徐州の北部が魏の領域となり徐州と言われたが、銅産地は含まれていなかった。上記銅鉱のあった江都・儀征・丹陽は呉の領域であり徐州とは言われなかった。
晋により三国が統一されると徐州も統一されて再び銅産地が徐州に含まれるようになつた。
39 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:51:45
>>26 南は南だろ。南じゃないとしたら、畿内説でもOKになる。
40 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:54:14
俺はおそらく記紀編纂に当たって皇室を神の直径子孫とするために、
不協和音になる邪馬台国はその証拠もすべて葬られたのだと思う。
41 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:54:54
いや、中国人の南(ナン)さんだったのかもしれない。
42 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:03:19
>>40 紀に卑弥呼=神功皇后説が載ってるの知らない?
43 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:08:07
知らないが、魏志倭人伝は記紀編纂時に入手されていたので、
まったく無視するわけにもいかなかったのではないか。
このようにWo ist Yamatai nation?状態になってるのが
一番、邪馬台国を葬った者のほくそ笑むところなのかもしれないと推定。
44 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/28(火) 21:14:12
>>40 そうかも。戦時中、北京原人の化石を軍部が持ち出した、という説もあるよね。
日本優位の万世一系を汚すものとして、跡形も無く・・・。
そうでない事を祈るしかない。
45 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:17:56
うーん。宋書の倭の五王とかも、記紀にはまるで載ってないしな。
倭の五王が都合悪い理由は何だろう?
都合が悪いから載せなかったというより、実際よく分からなかったからと考えるべきでは?
46 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:19:40
>>42 神功皇后なんてありえない。卑弥呼は結婚してないし。
47 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:26:31
実際のところ、紀編纂者は卑弥呼=神功として、実年代不明な
初期ヤマト王権の頃の定点として用いてる。
もうひとつの定点が神武即位年。
少なくとも紀編者は、邪馬台国を誤魔化そうとした訳じゃなく、
卑弥呼=神功を積極的に利用してたっぽい。
48 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:28:55
>>45 いや、やはり万世一系の天皇ということで、記紀編纂時に神話が溶解できない事象は
列島の過去は故意に切り捨てられたという方が当たってると思う。
49 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:31:29
>>47 俺は神話と事実をごちゃ混ぜにし、
あるようなないようなにして迷宮入りさせたんだと思う。
50 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 22:46:33
邪馬台国は畿内にあったんだよ。
九州説はインチキ。
51 :
太国:2006/11/28(火) 22:48:46
うあっはっは! www
迷推理の者どもがあふれているな。www
これでは明智探偵にはなれない。
52 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 22:51:42
53 :
太国:2006/11/28(火) 22:53:11
>>52 お前ま〜だ畿内説が恋しいんか? ハハ!!ww
54 :
神様:2006/11/28(火) 22:53:58
>>36 気が付いただけでも十分価値あり これからの精進をきたいします。
>>39 >南は南だろ。南じゃないとしたら、畿内説でもOKになる。
もう一度原文の復読を希望します。
55 :
神様:2006/11/28(火) 22:56:22
>>49 >俺は神話と事実をごちゃ混ぜにし、
あるようなないようなにして迷宮入りさせたんだと思う。
神話と事実の区別が出来るのか?
56 :
太国:2006/11/28(火) 23:11:17
>>52 お前はこういう考えなんだろう?wwwww
ヤマタイ→ヤマト→大和→考古学+畿内説
ハッハッハッ・・・ お前は、上のような考えでいる単純な頭脳だろう?www
これでは明智小五郎にはなれないんだよ。
57 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:16:43
58 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:22:31
再度。
畿内説を前提にすれば、大概の文献はおかしなことばかり書いてある。
これは文献がおかしいのではなく、畿内説がおかしいのだ。
59 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:27:43
畿内説、九州説関係なく、倭人伝はおかしいんだけどね。
それを盲信できる奴がうらやましい。
60 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/28(火) 23:44:22
>>8 >ここに書いてある「東南」、どおして東南なのか理論的に答えられる住人はいるかな?
帯方郡は今の平壌〜ソウルにあったという。
そこから東南だと、福岡〜鹿児島の範囲が倭人が住むところ。
これを見ても、魏の使節団が邪馬台国を旅行したときに天文学より現在地を確認していた
ものと思われる。
帯方郡の北緯と東経を知り、旅行箇所の北緯と東経を知ってこそ言える表現方法。
常識的には魏の首都:洛陽を基準に考えるべきなのに、帯方郡を基準にしてるのが面白い。
魏に滅ぼされた公孫氏の天文学がそれだけ発達していたのだろうかな。
今はイギリスのグリニッジという箇所が基準になってるけど・・・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使早譯所通三十國
和訳:倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいる。山の多い島で、国や村で成り立っていて、
もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、今は使者や通訳など
通ってくるのは、30カ国である。
61 :
神様:2006/11/28(火) 23:51:00
62 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/28(火) 23:51:40
>>25 >筑後川を遡上したというなら、投馬邪馬台はどの辺りになるの?
筑後川を利用して、有明海にでて三角港の近くが投馬国。
もっと南の芦北から九州横断して宮崎市が邪馬台国。
63 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:52:28
>>60 そんな極当たり前の事を・・・
でも倭人伝は間違いなんだよ
知っててわざと間違って書いてるだけだからw
64 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:52:54
>>60 それって、はたから見ても理論とはほど遠い。
65 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/28(火) 23:59:24
>>26 >『南至投馬國水行二十日』であって『南水行二十日至投馬國』じゃあないだろうにぃ〜
俺にはあなたの方が、中国語の素人に思えるけど・・・・
中国語を日本の漢文調で、無理やり理解しようとしてる感じだ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
東南至奴國百里
東南の方に百里行くと奴国に着く
南至投馬國水行二十日
南へ水行二十日程で、投馬国に着く
66 :
神様:2006/11/29(水) 00:10:25
>>65 レス否定して於いて引用文掲載する罰当たり者が
しっかり自分で中国語の解釈でもせんかの〜
67 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 00:41:50
>>38 >後漢時代に徐州の南に属する江都・儀征、さらに南の丹陽付近に古代の銅鉱があった。
これを王仲殊氏はどうやって確認したんだろうね。
徐州の範囲を書いた「確かそうな」魏の時代の地図でもあったんだろうか。
この当時の魏は朝鮮の公孫氏を占領し、帯方郡と命名した直後。
卑弥呼が死んだのが248年。その12年後263年に魏が蜀を滅ぼし、その2年後265年に魏が晋になり
呉まで滅ぼし中国全土を統一。
激動の時代に徐州の範囲を確定した、信頼できる1700年くらい前の地図があるとは思えない。
それも銅鉱山まで網羅した史料が中国に残ってる筈がない。
だからこの部分は王仲殊氏のハッタリで断言してる!
王仲殊氏はそのソースを出してないだろう。
日本には江戸時代1600年から別子銅山というのがあったが、1970年頃まで稼動させてる。
側に立川銅山というのが昔にあってよく揉めていたと言う。
その場所の特定なんてあなたに出来るかい?
たった400年前の事なのに、地図上の特定なんてナカナカ出来る事じゃない。
それを1700年昔の激動の時代の徐州の廃坑になった銅山を、地図上の特定なんてそら無理だよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
別子銅山は、西条藩の立川銅山と接していたことから、鉱区の境界紛争がたびたび発生していました。
http://www.niihama.info/kyubesshi/kyuubesshi.htm
68 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 00:53:14
>>66 >しっかり自分で中国語の解釈でもせんかの〜
それは中国語に自信がある方に任せるべき。
俺みたいな日本人が、日本流で無理に解釈しても迷路にハマるばかり。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
魏志倭人伝にはいろんな和訳がありますが、誤訳の解説も多いようです
このあたりに邪馬台国論争の混乱の原因があるように思えます
また魏志倭人伝の全文を紹介せずに、自説に都合のいいところだけ取り出して解説して
都合の悪いところは無視する、あるいは誤訳、曲解するという解説も多いようです
魏志倭人伝の原文は、「倭人在帯方東南大海之中依山」のように句読点の無い漢字の羅列です
魏志倭人伝に出来るだけ忠実に、原文どおり和訳してみました
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
>>38 王仲殊は中国の鏡の専門家だが、邪馬台国畿内説。
彼の結論は、呉で製造された画文帯と同じ工人集団が、畿内に呼ばれ、
三角縁を製造したという説。
これって、「景初4年」紀年鏡の説明をしてるだけだよな。
画文帯が中国製。三角縁は卑弥呼と同時代に製造されたと認めている。
後代に日本で三角縁が製造されたとかは言ってない。
筑後川で、「南に水行」の説明はないだろ。
どうやったらそういう土地感覚になるんだ?
福岡平野に注いでる河川で、水行30日もかかっていく場所って一体どこ?
倭人伝のフミ国からの行程記事は、九州説に立っても、結局説明出来ない。
71 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 01:42:06
73 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 03:31:32
>>70 畿内説って何にもないんだよな、説明できるものが。
魏志倭人伝の記述とも何も一致しない。
悲しいことに、他人のの説のケチをつけて自己満足で九州じゃないから畿内っていう
ことしか書けない。いきなり畿内まで全部飛ばしていくわけないだろ。アフォか・・
74 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 03:34:32
>>70 筑後川は支流が熊本まで続いている。
つまり海側から九州中部の内陸部まで水路をつかっていけるんだよ。
土地感がないのはおまえだろうがw
75 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 03:37:24
筑後川が九州で重要な水路だったことはケチのつけようがない。
内陸部の人間なら知ってるぞ。
だから水路に川の説をもってきても不思議はない。
とりあえず畿内はないね。水行も陸行も説明できないうえ、倭人伝と
何も描写が一致しない。くやしかったら引用部分をもってきてどこが
畿内説になるのか説明しろ
>>74 意図的にボヤかせて書いてるなw
海側って有明海のこと?
それじゃあ、水行東だべ?
君の思う、フミ、ツマ、邪馬台がどこかをはっきりさせなさい。
話はそれから。
77 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 03:42:28
あと前のスレの終わりにかいたが、距離計算されてない。
日数でしか書かれてない。なんで距離がでないかというと、距離で説明しようが
ないから日数にしたんだろ。山脈超えて曲がりくねった川を人力でいくんだから。
あるいは途中にいろいろ周ったが書く価値がないから全部とばして
「ここまで何日」そういう書き方にしたんだろうよ。
じゃなきゃ距離でかくに決まってる。
>>73-74 いい加減、倭人伝原理主義は流行らないと思いますが。
倭人伝にも誤りがあると認めた上でこそ、九州説にも復活の可能性が
あるのではないでしょうか。
それと畿内説に対する過剰な敵愾心が気になります。
単なるアラシさんなら放置してもいいでのですがね。
お互い古代史愛好家というマイノリティなら、
そんなに感情的にならず、マッタリいきましょうやw
79 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 03:48:00
自称「天領地」wの日田は筑後川の丁度、中流。
ちなみにここは温泉が豊富なところで
耶馬日田英彦山国定公園というところもある。耶馬溪もある
名前からしても怪しいよ
80 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 04:08:53
たった今気がついた・・・(大汗
筑後川じゃなくて、筑紫川。 「筑紫川」のつもりでずっと書いてたんだよ。
混乱させたひとたち、申し訳ない。筑紫川は福岡から始まり、南下して九州の中部と通って
熊本までつづく。筑後川とも繋がるんだよ。
>>80 君の思う、フミ、ツマ、邪馬台がどこかをはっきりさせなさい。
話はそれから。
82 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 04:22:14
>>78 この2chにおいてこの言いかたが癪に障ったのならもうしわけないが正論だろう。
「流行」とは?
ひとの言い分にケチをつけて議論を逸らそうとしているようにも読めるんだが?
君の「九州説にも復活」なんかも相当訳のわからない言いかたなわけで。
もう一度いうよ。畿内説のかたは九州説にただケチをつけるのではなく、倭人伝で
一致する部分を引用からもってきて頂けませんか。
自分の読む限り畿内説とは何も一致しないので。豪族の墓が見つかるたびに鏡を数えて「卑弥呼の墓」
騒ぎにはうんざりしている派ですのでね。
83 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 04:25:43
>>80 え〜っと。またケチをつけるためだけに待っている畿内説さんですか?
地図を読んでからw反論をまずお願いしますよ。
あと、貴方が筑紫川が水路として成り立たないという反論。
貴方の思う フミ、ツマ、邪馬台がどこかをはっきりさせなさい。
それからやっと、貴方が九州説にケチだけつけて=畿内説という方向に
もっていこうとする荒しでないことが証明できますよ。
話はそれから
>>83 フミ=宇美町 投馬=吉備(鞆) 邪馬台=大和マキムク
はい、じゃあ次は君の番ね。
筑紫川じゃないという反論は、それを読んでからにします。
君の仮説を明確にしてくれないと反論もできないでしょ?
85 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 04:34:32
>>78 自分は「原理主義」などではない。
水路の説明をしようとしているだけだ。
南下する水路と 距離でなく日数で書かれている説明のある「一論」だよ。
完全にできたら決定だろうw。ちなみに倭人伝の方位が全部正確だと言ってない。
しかし旅行している本人が東に進む船上から南下と記すなど在りえんと思う。
所持する地図が不正確なせいで、描写が不正確になることはおおいに在りえると思う。
そんな感じだよ。
つじつまが全部合うところなんてないのは誰もが百も承知だろうに・・。
自分は合わないところを妄想物語で埋めるほどにも想像力がないんでねw
>>82 なんか喧嘩腰だね〜 余裕がないと言うか。
倭人伝にも明らかな間違いがあるし、本当に一字一句正しければ、
今頃、邪馬台国の場所は確定してるよ。
君が倭人伝だけで邪馬台国の場所が分かるというなら、
具体的に倭人伝をどう読んで、邪馬台国の場所がどこなのかを
主張しなけりゃならんでしょ。
それが出来ない、単なるアンチ畿内説の人なら、そこまで高度なことは
求めませんがねw
>>85 ていうかさ〜 減らず口を叩く前にさ、早く不彌、投馬、邪馬台の比定地を書き込んでよ
…って言っていいですか?
88 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 04:54:22
早朝に何ムキになってやり合ってんだかw
しかし、筑後川氏の邪馬台国比定地がどこなのかは気になる。
最新の九州説で有力なのは、一体どこなんだろ?
>>88 こっちは夜で朝じゃない。時差があるんでね。 いや、一晩中起きている人は仕事ないのかな?
>>87 全く、話そらすしか脳がないんか・・・ 行間よめ。
しつこいから書くが、まず自分の考えではフミは宇美
しかし
>>84みたいに町じゃないでつw宇美川とかあるんであの一帯広い部分で「国」
投馬はね、南にいきゃいいんだから海の南下で宮崎・鹿児島、川の南下で熊本この辺りだろ。
決定せなあかんの?
邪馬台国は宇佐・国東方面だが山間部の国定公園や耶馬溪に「耶馬」の地名があることから、その
山間部海岸部ふくめてかなり広い地域。
>>86 >>87 気になってもういちどインターネット。
案の定、同じ人物の速レスしつこい書き込みw ただの煽りには呆れるね。
もし一日置いての返答だったらどんな荒らされ方をしていたもんだか・・・
人様には仕事や生活があるんだよ。
君みたいに一晩中インターネットつなげるほど暇じゃないのでね。では又。
あぁ、もう一度 再確認。自分が言いたいのは 「筑紫川」
・・・のつもりで筑後川と書きつづけて混乱させて申し訳なかった。
しかし筑後川も大きく大分まで繋がるんだが(言い訳)
92 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/29(水) 06:08:38
>>69 話の焦点はこれらの鏡が卑弥呼の鏡かどうかというところなので、下記。
資料1 三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている
中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。
そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。
資料2 画文帯(がもんたい)神獣鏡は、朝鮮半島よりも、かつて呉が存在した長江流域でたくさん見つかっているから、
やはり呉の鏡といわなければならない。少なくとも、魏の本土では全く見つからないのである。
資料3
問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである
魏の皇帝の名のもとに敵国様式の鏡を贈ったり、まして敵国の職人を派遣するなどということは考えられないのである。
資料4 三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡といった呉様式の鏡は、卑弥呼の鏡ではない。
これに敷延して、画文帯は「日本で150枚、中国では僅か80枚しか出土せず、倭人集団も中国で活躍していたので、
倭人が持ち込んだもの、と僕は考えている。
>>89 >投馬はね、南にいきゃいいんだから海の南下で宮崎・鹿児島、川の南下で熊本この辺りだろ。
>決定せなあかんの?
>邪馬台国は宇佐・国東方面だが山間部の国定公園や耶馬溪に「耶馬」の地名があることから、その
>山間部海岸部ふくめてかなり広い地域。
筑後川氏の説は、畿内説以上に倭人伝の行程記事と相違があるのだが。
博多から宇佐に行くのに、なんでわざわざ熊本やら宮崎・鹿児島へ
行かなきゃならんの?
倭人伝によれば投馬から邪馬台へも南下なんだが、宇佐は
南九州より更に南ってことですか?
偉そうな書き方するから、もうちょとマシな仮説を期待したのだが。
俺が馬鹿だったよ。
>>92 >問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである
>魏の皇帝の名のもとに敵国様式の鏡を贈ったり、まして敵国の職人を派遣するなどと
>いうことは考えられないのである。
王仲殊も論証したとおり、黄初年間の画文帯は、孫権が呉王として魏に
臣下の礼をとっていたころに製作されたと。
おそらくは遼東の公孫氏を通じて、倭国に入ってきたのだろう。
95 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 07:26:49
>>86 >本当に一字一句正しければ
>君が倭人伝だけで邪馬台国の場所が分かるというなら
・・・
>>82にはそんなことを書いてない。焦ってそんな解釈するより
自説の根拠をさっさと述べたまえ。
>>95 君は筑後川くんかい?
君の説に対する反論を
>>93書いたけど、それに対する反論は無し?
まず、そこから書いてよ。
僕の主張は、倭人伝の「水行南」は九州説も取扱いに苦労してる
だからね、あくまで。
君はそれに反論があったんだろ。
ちゃんと「水行南」を合理的に説明して頂戴な。
>>93 俺もガッカリww
ということで宮崎だな。
98 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 08:02:56
投馬国が筑後川の南岸、八女まで含む。久留米も含むかな。
邪馬台国が熊本県の山鹿・菊池・阿蘇のどこか、あるいはその一帯。
99 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 08:05:50
筑後川はどうやら逃亡したみたいだな。
>>96 だから投馬は決定してないって書いてるだろう。
決定できたら本当に決定打だよ(劇藁 だから扱いに困ってるがそれは君の説もおかしいだろ。
しかも北九州から南下は何でもありで九州全県でるんで全部いうのもあんまりだしね。
たとえば東がわに海を南下すれば佐賀や長崎があり、あるいは別の川でそちら向きに
南下した可能性もあるね。また距離をかいてない。
ここがポイントだと思うね。日数なんで、その距離を分析する行程を判断できない。
「水行南」は筑紫川を利用した水路の可能性を一論としてあげてるって書いてるだろう。
ちなみに君の フミ=宇美町 投馬=吉備(鞆) 邪馬台=大和マキムク
なんだこりゃ?wってなるだろ? 投馬が吉備で水行20日
なのになんで邪馬台が水行10日陸行30日でこの配置なんだよ。
しかもすべて東向きで南下は間違いってことなんだろ・・
>>99 平日に朝の8時に仕事の支度もないとは可哀相なやつだな。
速レスないから逃亡とはお前がただの荒らしだろ。
そういう幼稚な書き込みをつづけるから畿内説は何もないって
馬鹿にされるんだよ。さっさと自説を展開したまえ。
102 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 08:21:50
だからさあ筑後川くん。君は「水行南」の解釈に九州説も苦慮してる、
ってことを認めるわけね。
実際君は、邪馬台国の場所の仮説すら提示出来てないんだからさ。
あと、君のような輩をアンチ畿内説という。
他説の批判ばかりで、自説のことはお留守。建設的じゃないよな
>投馬国が筑後川の南岸、八女まで含む。久留米も含むかな。
>邪馬台国が熊本県の山鹿・菊池・阿蘇のどこか、あるいはその一帯。
確かに九州の東側があまり出てないんだよな。そっちに南下の可能性も
十分あるのに。
投馬は水路だけで着く。しかし20日かかる。
耶馬台国は水行が10日しかできないが陸行30日必要であり、山が多い。
なのに着いた先に海があり、その海の向こうにさらに国がある。
完全に位置関係と行程の辻褄をあわせるのは至難の業で想像しかない。
だからこそ、距離でなく日数で書いているのがポイントだと思うんだよな。
直線距離ではかれない行程があったということだろう。
>>102 >他説の批判ばかりで、自説のことはお留守
全部読み返せ。 お前のことだろwwwww
>>102 残念なことに日本語の能力をまず・・というしかない。
水行南に「九州内陸部まで筑紫川を南下」という「説」を出してるんだ。
そこから(そこは誰もが解釈次第)山脈を陸行、ついた耶馬台国に海がある。
いろいろな説が展開できる。
そこがポイントなんだよ。
それを自説ゼロでいちゃもんつけてるのは誰だ?過去レス読み返せ。
多分お前なんだろうが、ただ茶化すだけの幼稚な畿内説の人間がいるんだよ。
フミ=宇美町 投馬=吉備(鞆) 邪馬台=大和マキムクww さっさと説明しろ。
あと倭人伝に畿内説との一致部分がない、というのは認めるしかなさそうなレスだね。
しかし、邪馬台国の場所は分からないが、「畿内以外のどこか」というのは余りにお粗末だな。
もうちょっと自分の意見をまとめてから書きなよ。
そうしないから、畿内説に簡単に揚げ足を取られる。
「畿内以外のどこか」など どこにも書いてないが・・・。被害妄想か?大丈夫かい?
畿内説に簡単に揚げ足を、といっても畿内説自体に何の説明がない。
それを指摘しているというのに。
こんなん見つけた・・・・ここで荒らしている人と同じかな?
☆マキムクは邪馬台国でモモソが卑弥呼☆
1 :ヤマトモモソヒメ :2006/01/14(土) 18:55:01
九州馬鹿しつこいよ
マキムク遺跡が邪馬台国なのは考古学的常識で学会の多数派
祭壇跡も出とる!!!!
第一どうやって小さい九州に7万戸と5万戸の人口を支えれるか?
日本の最初の首都マキムク
九州説などアマチュアの変人の戯言
それを九州人と朝鮮人と左翼が結託して喚いてるのが九州説
日本人なら関西説だよな!!
反論があれば何でも受け付けて論破してやる
馬鹿九州説かかってこいやっ!!!!!!!!!!!!!11
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真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
マキムク説氏が倭人伝を否定するのに必死なのは立派な理由がある。
マキムクには倭人伝の記述と違って海もなく、方位もすべてが違う。
魏志倭人伝から読み取れる海辺の南国の雰囲気も、奈良の盆地からは程遠い。
魏志倭人伝の存在自体を否定しないと主張できないんだね。
どうして彼らが数々の遺跡をいちいち邪馬台国と卑弥呼に結びつけようと必死なのか。
本当にその根拠が知りたい。
お前、畿内説にからかわれてるだけだぞ。落ち着け
111 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 09:26:19
倭人伝が全面的に信用出来ない以上、他の根拠が必要。
考古学しかないわな、普通に考えれば。
何故それを素直に認められないのだろう。
筑後川氏も倭人伝を全面的に信じないと言ってるし。
筑後氏は考古学について、どの程度知ってるの?
112 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 09:51:14
>103
いつも言っている事だけど、倭人伝に書かれている邪馬台国の七万戸、
投馬国の五万戸は当時の日本の人口から推定するとありえない。
これは、倭人伝の記述を全面的に信頼するのは危険という意味で言っている。
つまり、数字的なものは信頼性に乏しい。
距離にしても、出てくるのは千里。五百里。百里だけ。
日数にしても、十日、二十日、一ヶ月。
こんなきりのいい数字ばかりがあるわけがない。
しかし、倭人伝の記述が全く信頼できないかというとそうでもない。
少なくとも、帯方郡から九州に辿りつくまではあっている。
距離については、狗邪韓国から対馬までの千里などで問題になっているように、
あまりあてにならない。しかし、方向はあっている。
距離については信頼性に乏しく、方向はだいたい合っていると考えるのが良いと思う。
女王国の東に海を渡ること千里で…という表現は、女王国を倭国と考えること
でいいんじゃないかと思うけど。
宇佐については、宇佐神宮の比売大神は、宗像の三女神らしい。
宇佐神宮のホームページにはっきりと書いてあった。
http://www.usajinguu.com/Frame.html
距離を正確に測定する技術が当時あったとは思えんが
方角を間違えて航海するなどありえないからね。
114 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 11:08:35
しかし、本にするときに方角を間違えることはありうるからね。
115 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 11:14:41
>>70 >福岡平野に注いでる河川で、水行30日もかかっていく場所って一体どこ?
水行30日といっても、小さな丸木舟に200人くらいの使節団がバラバラになって
しかもみやげ物等を見せびらかしての、親善のための旅。
ユックリユックリの旅は当然だろう。
なぜ有明海の水行:千代田町→三角港(不弥国→投馬国)に20日もかかったのか。
有明海の北から三角港までの時間としてはたしかに長すぎる。
江戸時代の朝鮮からの国使は400人〜500人規模の集団だったという。
卑弥呼からの朝貢で、生口だけでも10人魏に行っている。
魏からの使節団が少なく見積もって半分の200人だったとしても、一度に
乗る船なんて西暦240年に有明海の中で航行していたとは思えない。
小さな貨物船や、漁船を船員に頼み込みチャーターして三角港まで20日。
友好の為の宴会や、学者らとの交流、船のピストン輸送などいろんな雑用
を片付けた上での日数であり、使節団の日記で20日かかったと見るべき。
なぜ純粋な航行日数じゃないのかというと、その日数が使節団員の日記から
読み取れなかったと思われる。日記にはすべてが書かれてるわけじゃない。
陳寿が読み取ったのは千代田町(不弥国)を出発して、次の三角港(投馬国)
を出発するまでの日数だけを水行と表現したもの。
116 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 11:20:11
しかし博多から宇佐へ行くのに、南、南と書くかね。
西都原とか熊本とかならまだ分かるが。
117 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 11:28:06
>>103 >だからこそ、距離でなく日数で書いているのがポイントだと思うんだよな。
でも最終的には12000里(帯方郡→邪馬台国)960kmと距離でだしてるし
邪馬台国は上海(会稽の東治)から東の位置と書いてます。
118 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 11:30:58
>>112 >投馬国の五万戸は当時の日本の人口から推定するとありえない。
その推定が怪しいの。
自分で推定方法を考案してから、出直しなさい!
119 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 11:50:15
>>118 少なくともあなたより
比べ物にならない程
信頼できる割合が高いw
120 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 11:58:01
九州説の筑後?筑紫川野郎は客観的に頭ガチガチのバカだと思う
しかも短気で負けん気が強く自分が全く見えていないと来たもんだ、
そもそもこんな奴に邪馬台国の比定地など探れるはずが無い。
・・と思った人は多分僕だけじゃないでしょう?www
121 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:03:17
考えるな!感じるんだ!
122 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:03:40
>水行30日といっても、小さな丸木舟に200人くらいの使節団がバラバラになって
しかもみやげ物等を見せびらかしての、親善のための旅。
ユックリユックリの旅は当然だろう。
つーかソースきぼん
123 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:07:29
いいからソース出せよ!
つーか妄想ならそこまでカッカしなくても良いのでは?
124 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:26:06
みやげ物を見せびらかしてって、送られた陽も子に見せる前によそに見せビラか誌っていいのですか。
現代では、先にもらった人にとどけてから、その人の了承の下に公開するものですけれど。
125 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:33:34
>>123 ウスターでしょうか?トンカツでしょうか?
126 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:37:26
特に伊都から邪馬台への行程、水行十日陸行一月がよく分からん。
西日本の弥生や古墳時代で、沿岸部から歩いて一ヶ月もかかるような場所に
拠点集落は見当たらない。
大体、この時代、陸路がそれ程整備されていた訳じゃなく、水運が大きかっただろうし、邪馬台の都も、
どこかの水系近く、物資集積が容易な場所であっただろうと思う。
水行十日陸行一日の間違いか、水行十日もしくは陸行一月と
読んだ方がいいんじゃなかろうか。
127 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:39:14
大体、七万戸は大袈裟にしても、大人口を扶養するためには、
大河川下流域の平野部に国があったとしか考えられないよな。
沿岸部から一月かかるような山間部に、当時それ程の人口がいたとは思えない。
特に西日本では。
128 :
神様:2006/11/29(水) 12:39:53
お前ら少しは妄想抜きで学問しろやぁ〜
せっかく立てたスレが台なしだよ。
妄想したけりゃ妄想限定の別スレ立てろ
…スレ主権限行使…
129 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:46:54
君たちは、仕事における「えいや!」という言葉を知っているか?
130 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:16:31
魏使は帯方郡の太守。
任地に帰るついでに倭国まで足を延ばすという感じ。
伊都国までしか行かず。
131 :
神様:2006/11/29(水) 13:27:23
132 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:41:42
神様なんて名乗ってるおぬしこそ罰当たるぞ
133 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:49:10
水行十日陸行一月は、郡から邪馬台国までの総日数であるということは既に
昭和40年代に発表されていたことです。
これについての反論はあるのですか。
134 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:52:27
発表されたら即正しい。これすなわち皇国史観主義者の思考なり。
>>132 なら お前がスレ主になれ 。さあ新しいスレ立てろ(ホラ)(早く)
136 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:57:43
>>133 まあ、そういう説もあるのは知ってるよ。
その読み方でも矛盾は解消する。
しかし、伊都の水行二十日との繋がりがおかしいような気がする。
あと、何故、伊都→邪馬台だけが距離の記載がないのか?
どれ位離れているかが、皆目分からないのは、それまで執拗に行程を
書いていた魏使にしては、不自然な気がする。
(倭人は距離を日数で測っていたそうで)
137 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:59:08
>>133 既にy掲示板では相手にもされないくらいの低迷です。
138 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 13:59:34
「水行」は「みずぎょう」と読むんだよ。10日間滝に打たれるってことなんだよ。
まあ、そうやってミソギをしてから邪馬台国に向かうっていう、当時の習慣だな。
139 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 14:04:01
>>136 「夷人は里を知らない」か?
では、「歩」は知っていた。否定できるか?
140 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 14:11:01
>>136 古く漢代以前からの中国との交わりがあった結果の詳細だろうなあ
〜世紀のスパンの交流から正確な距離をもともと知っていたと言うだけ。
筑紫以降の行程は、つまりは一言で言うと倭人以外は良くワカランと。
そういうこった。
141 :
神様:2006/11/29(水) 14:20:57
倭人伝に書かれている日数と、夷人が里数を知らず日で表していたことをリンクさせ、倭人よりの伝聞と片付けてしまう安易さ
倭人の伝聞なら「倭人日」から文章は始まる。
142 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 14:36:57
143 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 14:38:41
>>141 あったま固いなコイツw
安易もなにも、逆に里数を正確に記する必要性ってあったのか?
大掛かりな測量をヤルことの必要性って一体なんだったんだろうね〜
おしエロ。
144 :
太国:2006/11/29(水) 14:39:28
145 :
神様:2006/11/29(水) 15:05:09
宗主国としての義務
日数表示は里数表示困難箇所を補う手段。
一日行程分は度量衡にて表示されているので、里数でも日数でも同じ事。
方角と定則里程があれば、おおざっぱな地図がかけるから便利だ。
実に合理的な考えだな。
146 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 15:11:23
へ〜義務なんだ
とにかく筑紫までの行程は持ちうる情報で事足りるな
それ以降は行程は我々もよく判らない未知の場所アルね。
こまったアルね〜
倭人いわく大凡20日〜 それから大凡10日〜 大凡一ヶ月〜
と聞いたことを適当にメモリながら行ったアルよ。
やっぱ、これでしょう?w
147 :
神様:2006/11/29(水) 15:31:29
まっ 何を言ったところで妄想人には敵わない。夢が無数に沸き出してくるからな
>>147 2ちゃんでマジレスすること自体が無謀
>>146のスレ、冷静に眺めて見れ。
何の根拠もないただの捨てレスだぞ
149 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 15:59:58
神様を名乗ってる割に全知では無いらしいな。
魏使は帯方郡の太守。
150 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 16:23:34
>>神様
おいおいステコテ盛り沢山のお前に妄想呼ばわりされる筋合いはねえよ
おまい、妄想神は万の神なんだろう?ボケも兼ねて便利でいいなあ?w
151 :
神様:2006/11/29(水) 16:37:36
>>149 >魏使は帯方郡の太守
自らか?代理か?
意味が違ってくるぞ
根拠提示も忘れずに(代理の場合はその限りにあらず)
152 :
神様離脱:2006/11/29(水) 16:46:59
>>150 なら、お前に今からスレ主任せる ガンガレよ
153 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 17:05:06
>>68 やはり倭の気候風土は西日本のことを描いてるね
風俗もまんま西日本(九州に限定したものではない)
154 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 17:09:20
刺青などの風俗は倭全域にあったんだろう
刺青をしたその当時の埴輪が畿内からも出土してるし。
気候・風俗≒九州 はあまりにも胆略的杉かな。
155 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 17:12:34
156 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 17:37:03
>>154 そういえヴぁ
邪馬台国が九州に所在したものと考えるようになったのは、郷土愛が影響したからだ
とか暴露したバカな学者が確かいたな。
ちなみに、おれは九州人だか畿内説が一番説得力があると思う。
157 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:10:05
確かに、総日数説には、弱点がある。
だからといって、それ以上に弱点の見られる水行十日陸行一月(更に水行二十日をくわえる説もある)
を加える説を主張する根拠はなんであろうか。
この行程論は矛盾だらけで、こじつけ論に終始しているではないか。
158 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:15:37
妄想するなと言っても無駄だろう。
とにかくスタートだ 書き込め〜
↑
warota
その妄想に挫けるスレ主
何かちがくね?www
159 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:47:11
畿内説の人たちは、「神武東遷」神話をどう解釈してるの?
160 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:17:15
俺は邪馬台国卑弥呼系と、神武は別系統だと思っている。
神武は渡来人系(の東征)だと思う。ただ、記紀に見られるような軍事的東征は脚色だと思う。
161 :
神様:2006/11/29(水) 19:18:53
馬鹿らしいと思うかもしれないけど最初からやり直すか?
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從
郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國
其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰ji[冠凹脚儿]馬觚副曰卑奴母離
有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳[革是〕可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百支國
次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國
次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里
162 :
神様:2006/11/29(水) 19:30:26
これも必要だな
韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里
有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
163 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:39:37
羅針盤が発明されたのは11世紀。それまでは、正確な方位など知る由もない。
164 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:07:46
ええーっ。ちょっとちょっと。
165 :
太国:2006/11/29(水) 20:10:31
北斗七星から北極星をみつければ、古代でも分かるんじゃないかい?
南半休なら南十字星から方位は知れると思うが?
166 :
太国:2006/11/29(水) 20:11:30
訂正
×南半休 ○南半球
167 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/29(水) 20:24:01
168 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:27:35
あのさあ、あなたが東京から広島へ旅行した事を手紙に書く時、
「東京から新幹線にのって、5〜6分で品川、また5〜6分で新横浜、で、次に広島についた。」
と書く??普通、名古屋や京都大阪は飛ばさないよね?
何がいいたいかというと、
>>161には、畿内に邪馬台国があったとすると、記載されて
しかるべき吉備(瀬戸内海経由)or出雲(日本海経由)が見当たらないんじゃないかと思う。
169 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:52:03
神武東征が創作されたのは、磐余に宮があった頃、恐らくは継体の時期。
継体の直接の祖先・応神の神格化が起こり、応神をモデルに神武東征が創作された。
日向三代が記紀に加上されたのは、応神が日向出身のヤマト王権の簒奪者であったため。
170 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 20:59:02
>>103 >完全に位置関係と行程の辻褄をあわせるのは至難の業で想像しかない。
だか〜ら宮崎市なら、その至難の業が完成するの!
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→宮崎市・・「ここが邪馬台国」
171 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:02:56
上陸後、西都原まで陸行一月はかかり過ぎじゃないでしょうか?
172 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:03:00
水行二十日=水餃子を二十日食べたの意
173 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:05:05
でもさあ、宮崎には「ヤマト」という地名は無いんじゃないの?
あと、神武が出発したのは野間岬だし。
174 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 21:10:08
>>112 >こんなきりのいい数字ばかりがあるわけがない。
精度の問題だろう。
星の観測から現在地を割り出せば、当時の観測精度・理論が程度が低いのは当たり前。
日数にしても、十日、二十日、一ヶ月。 というのも記録した日記の複雑さから、陳寿が
判りやすく大雑把に書き留めたと見るべき。
親善の為にノンビリノンビリ、しかもバラバラに移動した証拠というべき。
175 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:13:13
>>173 応神はあくまで簒奪者であって、ヤマト前方後円墳体制を引き継いでいる。
ために特に巨大な前方後円墳を築造した。
176 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:17:59
177 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 21:22:11
>>122 >ユックリユックリの旅は当然だろう。
>つーかソースきぼん
俺はチャンとソースは何度も出したはずだが・・・・・・
朝鮮の使節団通信使が同じように「親善の為」の国家使節団。
半年もかけて、100万両のお金を使ってノンビリ江戸まで行ってます。
こんな集団じゃ、スピードを要求するなんて無理!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
それ以上に驚いたのは、やはり沿道の人々のほうだった。通信使一行だけでも大変な数なのに、
護衛と接待のためについた日本側の人員がさらに延々と続くのである。通信使の到来は、徳川
幕府にとっても、権威を強く印象づける絶好の機会であった
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/tuusinsi.htm
178 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 21:28:29
>>130 >伊都国までしか行かず。
邪馬台国まで行かなければ、帯方郡から邪馬台国まで12000里970kmとか
上海の東が邪馬台国なんて出せはしない。
行ったからこそ天文学で出せたんだよ。
俺みたいな、天文学の素人でも現在地の緯度くらいは出せるぜ。
北極星の角度が北緯なんだから、簡単だろ、現地にさえ着けば。
179 :
太国:2006/11/29(水) 21:28:45
>>169 それは君が創作したというのが正解でないのか?w
180 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 21:31:40
>>133 >水行十日陸行一月は、郡から邪馬台国までの総日数である
これは間違い!
水行10日は投馬国から10日水行し、陸行1ヶ月で九州横断して邪馬台国に到着の意味。
九州王朝「倭」を滅ぼした畿内政権が「大倭」を名乗ったんだよね?
名を貰ったと記紀に書いてある。倭建命の父は景行天皇だから
4世紀前半までは「倭」の邪馬台国は九州にあった。
183 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:51:26
全部違うな、入れ墨してんだぜ?
邪馬台国はアメリカ大陸で、そこに棲んでいたのはインディアンだ。
インディアンにイアマトイ族ってのがいたんだよ。
インディアン嘘ツカナイ。
184 :
181:2006/11/29(水) 21:54:36
誤爆・・・ごめん
185 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 22:01:04
ーーーーー(引用開始)−−−−−
>>145 >一日行程分は度量衡にて表示されているので、里数でも日数でも同じ事。
軍隊の何よりもスピードを大切にする集団の日数と、親善を目的とする集団の日数とは
距離は同じでも、全く違うよ。
明智光秀が豊臣秀吉の電光石火の「軍隊の大移動」で敗れたのを知らないのかね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
翌日には羽柴秀吉は姫路にまで到達しておりあせった明智光秀は越後・上杉に援軍を要請し
ている。明智光秀が織田信長を討ってからの数日間は明智光秀は味方を増やすことに全てを
そそいでいて俗に言う「3日天下」の間、彼は必死であった。
羽柴秀吉の進攻は早く、あっという間に京に舞い戻って来た。迎える明智軍は味方になる者
も少なく1万6千人くらいであったと言われている。これに対し羽柴秀吉軍は途中で仲間を増
やし、総勢4万人近くいたと言われている。両軍は山崎にて対峙し戦闘になる。
http://www2.ocn.ne.jp/~atjyo/Kako_Odai/Txt_Honnouji_no_hen.htm
186 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:43:21
>>185 >ーーーーー(引用開始)−−−−−
何時の時代の引用使ってるんだよ
これじゃあ主のぼやきもやむとこしらずだな
187 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:51:58
>>171 日本書紀の景行天皇のところに、九州巡幸の記述がある。
熊襲を征伐して、帰路につく道筋なのだが、次のようになっている。
18年3月 宮崎県の児湯郡を出発。
最初に夷守(宮崎県小林市)に到着。
4月3日、熊の県(熊本県球磨郡)に到着。
4月11日、芦北に到着。
5月1日、八代県の豊村(現在の宇城市?)に到着。
6月3日、高来(島原?)経由?で玉杵名邑(熊本県玉名市?)に到着。
6月16日、阿蘇。
7月4日。筑後の国三毛(三池)
7月7日。八女。
という具合。
恵也説はこの逆を辿ったもので、道筋としては信頼性があるかも。
しかし、けっこう日数がかかっているものだと思う。
特に、水行の場合は、思った以上にかかるのかもしれない。
188 :
神様:2006/11/29(水) 22:55:45
>>180 >陸行1ヶ月で九州横断して
他のレス否定した後の妄想書き込みだけは謹んでくれないか
189 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 23:09:56
>>188 >他のレス否定した後の妄想書き込みだけは謹んでくれないか
妄想かどうかは、倭人伝を自分の目で読んだ後でカキコしなさい、
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
八代平野も領土とする)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南
ーーーーー(引用開始)−−−−−
南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に着く。女王の都である。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
190 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 23:12:50
>>186 >何時の時代の引用使ってるんだよ
邪馬台国時代の引用なんて、日本語で存在してるとでも思ってるのかい?
なければ次善のもので我慢して、イメージを作るのが大人というもの。
あんたはまだ子供!
倭人伝が観光目的で書かれたというのは独自だな。
192 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 23:31:01
>>183 >全部違うな、入れ墨してんだぜ?
今だって入れ墨してる時代遅れがいるだろう。
ヤクザモンが多いようだが、これはタダの日本人の流行に過ぎん。
こいつ等は痛さを我慢して、一人前の男になったつもりの自己満足に過ぎんけど、
卑弥呼の時代は鮫や悪霊に襲われないための呪いだったんだろう。
あんただって、そんな信仰を信じてたら今でもやるんじゃないかね。
つい最近の第2次大戦でも、千人針とかいってその布切れを持ってたら弾が当たらず
生還できると本気に信じて持って戦地に行ったのが日本人。
元々が迷信深いのが日本人かも知れん。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
千人針というのは白晒しの生地に千人の女性が赤い糸を通した針で縫い差しして結び目を付ける。
http://www2.biglobe.ne.jp/~ufodo/seiseki/doc09.htm
193 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/29(水) 23:49:16
>>187 >特に、水行の場合は、思った以上にかかるのかもしれない。
水行でも、陸行でも国品級の親善の為となったら思った以上に時間はかかるもの。
むかし小笠原の母島にいたときに、今生天皇が皇太子として来られた。
母島の側に、ヘリ空母が3隻?待機していてビックリしたけどそこまでの緊急事態に備えた
準備までしている。
おまけに皇太子の車の後ろを、村長さん始めエライサンが金魚の糞みたいに高級車が付いて走ってる
邪馬台国に魏の使節団が来るとなったら、大昔のエライサンも同じように金魚の糞みたいなものだろう
軍隊や独り者の旅とは全く違うよ。時間が異常にかかって当たり前。
小笠原では小学校にも、皇太子夫妻が来てくれたぜ。
小学生に何か話しかけておられたが・・・
194 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 00:03:31
>>163 >羅針盤が発明されたのは11世紀。それまでは、正確な方位など知る由もない。
羅針盤は大発明ではあるが、むかしは天体観測が非常に盛んだった。
高松塚古墳でさえ、天井には星座が書かれてたんだぜ。
天空が北極星を中心に回ってる事くらい、船乗りならみな知ってただろう。
日が東から出て、西に沈む事くらいもな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
キトラ古墳の天文図は、古墳に明確な星座を描いたものとして高松塚古墳に次いで
わが国で二例目となります。
キトラの天文図は、外側の東に日像(太陽)、西に月像(月)を表現し、天の北極
を中心として、一年を通して一度は見える星座の範囲全体を示した円形星座です。
http://www4.kcn.ne.jp/~yukiharu/kodai1_kitorakofun.htm
195 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 00:06:31
>なければ次善のもので我慢して、イメージを作るのが大人というもの。
あんたはまだ子供!
人はそれを妄想と言う。
しかしアンタはそれを否定する。しかしそれを世間は認めない。だからアンタは移動する
そしてまた移動する。アンタはそれを論破と言う。しかし世間は認めない。
そしてまたアンタは移動する。しまいにゃアンタのスレ出来る。
196 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 00:19:22
>>194 ならなんで江戸時代まで地図の方角が狂ってたんだろうな?
197 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 00:20:31
>>192 >あんただって、そんな信仰を信じてたら今でもやるんじゃないかね。
俺はジョークを言っただけで、入れ墨を蔑視したことは何も言ってないのに
なんで「あんただって」と批判口調で言われるのか分からない。
恵也 ◆o4NEPA8feA 氏に謝罪を要求する。
198 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 00:24:30
>>195 >しかしアンタはそれを否定する。しかしそれを世間は認めない。
アンタはタダの臆病な根性なし!
あんた個人が認めれないのを「世間は認めない」と多勢の架空の世間の後ろに隠れたがる。
あんた個人に世間とやらの思考が判るわけがなかろう。
相手の目に見つからない様に、人の後ろからしか文句が言えないアンタは臆病者!
199 :
こてはん:2006/11/30(木) 00:28:33
おい!恵、おれは
>>195じゃないぞ。
ややこいから、俺も小手反つけよう。
謝罪せよ。
200 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 00:32:12
201 :
こてはん:2006/11/30(木) 00:34:59
>>200 こいつ無視しやがって最低のオカマ野郎だな。
202 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 00:36:01
>>197 >「あんただって」と批判口調で言われるのか分からない。
文章は面白く毒を入れて書かないと屁みたいなもの。
生きた文章を書く為だ、そのくらい我慢してくれ。
203 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 00:36:12
>>200 日向峠もわからんやつが地図をカタルーナ。
オームタのいなかもん
204 :
こてはん:2006/11/30(木) 00:39:36
じゃあ生きた文章書け!てめえのは百科事典引用程度で想像力がケツジョしている。
地図がなぜ北が上になるかと言えばだな。
太陽の視点から見るからだよ。
日本は、言うまでもなく日出処にあるから、太陽からの視点が
日出処、すなわち東からということになるわけだ。
どうだ。このぐらい飛躍したほうが面白いだろうが。
ボケたれ
みなさん、どうでしょうか。
2ちゃんねるのいろいろなスレで、ヘボ 恵也 ◆o4NEPA8feA が屁理屈こねまわしています。
それは、私達が相手をするからつきあがっているんではないでしょうか?
完全スルーで、そのスレで本来かたるべくことを語りませんか?
別に 恵也 ◆o4NEPA8feA の理論がなくても一切私たちの議論には影響はないかと思いますが、いかがでしょうか?
いいかげんで悪循環はたちきりましょう。
それともうひとつですが、以前に恵也を探せ!というスレがありました。
ここでヘボ恵也出没報告が多数あり撃退をしていました。またスレを立てますのでがんばりましょう。
207 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 00:48:41
>>167 しなん、ってこういう字書くんだね。この頃既に磁石があったが、こんな形だったのね。
乳母車に乗って指差してる人形の指南はは知ってたけど。
水行の方角は正確に解ったとしても、実際、遣隋使などの時代の立派な舟も、海流
や、風向きに左右されて、なかなか、目的地に着かなかったことを考えると、
中国の当時の進んだ船でもどうだろう。あっち行きこっち行きして、大幅に
日程がずれたりしたんでは?よって、大まかな日数で書いていると思うんだが。
ただし僕は重複して距離と日数を書いたと思ってるけどね。
208 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 00:57:42
209 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 00:58:36
「昔は上を北とする原則はありませんでした。」 というのは正解です。
色んな説を戦わせるにより、真実がみえることもあるので、とにかく全員の主張が、有意義と見ます。
210 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 01:03:31
>>208 ※ くれぐれも、公式な資料としないでください。ほんのお遊びです…
という前書きが振るってる感じ。
211 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 01:09:53
建物が一番でかいのは間違いなく出雲大社だな。
あまり大きさが分かる写真がないのだがな。
212 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 01:17:15
>>211 平安時代ごろまで、地上40mほどの大神殿が残っていたという文献が
ありますよね。何回か立て替えられたとされているけど。
大国主命が、国を譲った代わりにこの神殿を建ててもらって神主に修まったまったという
言い伝えがあります。
213 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 01:24:51
高さは古代48m、神代96mが伝説として残っているらしいが、今でも十分でかい。
現在の本殿は24mだが、それでも確かに他の日本建築より俄然「高さ」を感じさせる。
先住民(とその神)を後から来た者らが奉ったというのは、実際、事実に近いと思う。
それが邪馬台国かどうかは分からないが……
214 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 01:29:18
>>211 >建物が一番でかいのは間違いなく出雲大社だな。
出雲大社は、でかいじゃなくて高いだろう。
宇佐神宮も面積は大きかった。半端じゃなかったよ。
−−−−−(引用開始)−−−−−
かつて16丈(48m)の高さがあったということを裏付けるものとして、平安時代の書物『口遊
(くちずさみ)』が挙げられます。
その中で、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記されています。
これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、それぞれ1番出雲大社本殿、2番東大寺大仏殿、
3番京都大極殿を指しています。
http://www6.pref.shimane.jp/kodai/shinden/sd02.html
215 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 01:33:17
でかいとも言えるし、高いともい言える。両方だ。
宇佐は建築的にはかなり落ちる。小さいし、新しすぎる。
本殿は国宝だったが、1850年ぐらいの再建だ。
216 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 01:39:08
>>214 バカ、「雲太、和二、京三」は高さのことだとは、まだ立証されてない。
神社、寺社、宮殿の順序に並べただけとも言われている。
217 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 01:39:40
>>215 >でかいとも言えるし、高いともい言える。両方だ。
でかいとは体積のことを言う。・・東大寺大仏殿
高いとは背の高さだ。・・・・・・・・出雲大社
面積とは神社の広さだ。・・・・・・・宇佐神宮
218 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 01:42:00
>>217 おまえは本当にバカだな。
でかいでも高いでもいいが、「神社建築」の話をしてたんだろうが。
219 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 01:44:27
だいたい、神社建築は仏像のようにでかいものを複数体入れる器ではないでから、
物理的に寺社建築に比べたらずっと小さい。
その中で、江戸時代以前に建てられた神社建築では出雲大社が最大ってこと。
寺社建築なら東大寺金堂以外、出雲大社よりでかいのなんていくらでもある。
220 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 02:46:02
エジプト説の概要を教えてください
221 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 02:50:49
陸行一ヶ月は山脈をいくつも超えたんだろう。
それで説明がつく。お前らの想像でいってみろ
222 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 05:40:28
「水行なら20日、陸行なら1月」で、
山陽道を1ヶ月かけて行ったという解釈で何の問題もなかろう。
なぜ邪馬台国関西説を執拗に否定するのかね?
223 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:00:22
クヤ韓国からフミ国までは、通った国名を逐一記述しているのに、陸行一月もすすんでいるのに、途中の国の記述がないのはどうして。
224 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:08:25
>>200 >>209 古地図見れば、日本が歪んでたり
大陸や半島と比較して方角が狂ってるのは一目瞭然だろ?
東西南北をしっかりと、ずれて書き込んでいる地図もある。
地図ってのは芸術であり、政治に重要なものであり、権威的なものだろ?
それが殆ど狂っているのだから、司南があろうが、曲がりくねった道や海流のため、
正確な方向は理解されていないと考えるのは妥当。
それから、陳寿が西都原までを里や歩で書かず、陸行一月と書いた理由もなく、
使節団がユックリユックリ行ったとだけ主張しても説得力は無いな。
西都原は時代が下った古墳しかないし。
225 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:25:17
>>223 邪馬台国は、邪馬(やま)・山戸の山国だから
山脈を歩いてそんなに時間がかかったんだよ。
途中にどの国も寄ってないじゃないの?
いわゆる中継点にある町々を寄りながらとかな。
226 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:31:39
あのね、倭とは島国なのですよ。
山の中に卑弥呼の都があったとしても、都に近い港に上陸したら、そうたいした日にちはかからないよ。
それからよく地図のことをもちだすけれど、当時極東の地図なぞあったのですか。
例としてあげられる地図も、日本のところは、ずっと後世の行基の地図ではないでしょうか。
227 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:32:00
>>224 当時の地図を参考にして書いたなら方位は間違っていて当然だと思うわ。
しかし間違った地図と自分の位置関係を考えながら進んだら目的地にはつかないわな。
228 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:35:08
>>226 山の中の都とはいってないよ。言葉足らずだったのかな。
山脈を陸行一月して着いたさきが港町だったとしてもおかしくない。
出発点によるだろう。
229 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:41:09
もし
>>222風に解釈すれば、水行で10日で着くところなんだけど陸行では1月もかかるところなんだよ、とか。
内陸部から行けば1月、船つかえば10日。しかし「或いは」位の断り書きが
つきそうなものだと思うんだが。
230 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 10:22:47
>>222 >「水行なら20日、陸行なら1月」で、
それじゃ、噂話を陳寿氏は書いたのかい?
俺は実際に行った使節団の公文書を元に書いたと見るけど・・・・。
水行も陸行も使節団の大きさや、目的の差によって日数はいろいろ書けるだろうに。
そんな仮定の話を書くようなシロモンじゃないよ、倭人伝は。
231 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 10:36:10
>>224 >大陸や半島と比較して方角が狂ってるのは一目瞭然だろ?
外国で作った古地図が、日本に関してはいい加減に書いてあるのは当然の事だろう。
実測して書いた場所と噂で書いた場所と混同しちゃだめだよ。
日本のマトモナ地図が出来たのは、伊能忠敬まで待たないと駄目だろう。
しかし魏志倭人伝の方向や距離とは、関係ない話じゃないの?
これは実際に行った使節団の実測距離や、天文学からの位置の特定を団員が行ったもので
古地図でのいい加減な日本地図とは全く別物。
政治に重要な日本地図とは、伊能忠敬が作ったような実測したごく一部の地図だけだ。
あなたが適当に書いたような日本地図なんて、誰も重要なんて思わんよ。
地図にもピンからキリまであるのを知らないのかね。
232 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 10:56:10
>>224 >それから、陳寿が西都原までを里や歩で書かず、陸行一月と書いた理由もなく、
書けなかった理由はあるよ。
使節団の日記に書いてなかったから。
不弥国からの記述が、全て日数になってる。
このことは、不弥国の出発時から天候が悪く星を観測して位置の特定が出来なくなった為。
1箇所の位置の特定が出来なければ、その後の旅は星を観測しても全部距離は書けない。
書けるのは最終目的地の邪馬台国に着いてから、帯方郡からの距離を書くくらいのもの。
西都原古墳には3世紀の古い古墳も存在してます。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の箸墓
古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。
http://miyazaki.daa.jp/saitobaru/
233 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 10:56:23
>>229 「或いは」の断わり書きもないが、「の後」とも書かれてないから、どちらの読みも可能です。
しかし、ふつう
「ゴルフ場までクルマで1時間、電車で40分」と書かれてあった場合、クルマを降りたあとさらに電車に40分乗るとは解釈しない。
このことからもわかるように、これは「或いは」の意味で読むのが常識的な判断では?
>>230 もちろん陳寿本人が邪馬台国に行ったわけじゃない以上、資料をもとに作文してるわけですよね。
そしてそのような場合、ふつう、資料となるテキストは1種類ではない。陳寿の机の上には何冊もの資料の山があったはずです。
そして、陸行テキストと水行テキストがあったから、陳寿は並記したのではないでしょうか。
もちろん水行より陸行のほうが時間がかかる。てゆうか陸行した一行は、ほとんど「川口浩探検隊」状態だったのではないでしょうかね。
234 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 11:07:04
>>226 >山の中に卑弥呼の都があったとしても、都に近い港に上陸したら、そうたいした日にちはかからないよ。
都に近い港に上陸できなかったんだよ。
宮崎が卑弥呼の都としたら、南には鹿児島の敵対国狗奴国があったし、北には中国地方や四国の
邪馬台国の敵対国の海賊の危険性が大きくて、使節団を誘導できなかったんだよ。
貿易ルートも宮崎→熊本→福岡→韓国のラインが発達してたんだろう。
海賊や山賊の心配のあるルートは貿易ラインとしては出来ないからな。
235 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 11:31:01
>>231 当然? 何故だ?
他国であろうと、貿易や外交官の派遣のために、
優れた地図は正確に書いてあり、大切に保存されて当然だろう?
そういうものが1つも残らず、方角の間違ったものしか残っていないのだから、
古代の人間は、現代とは違う方向感覚を持っていたと考えるのは妥当。
>>230 目的の差はマチマチだろうが、
ユックリユックリ行った時の記録だけを参考に、
三角湾から西都原の残り僅かな距離を陸行一月と陳寿は記述をしたのか?
可能性の殆ど無さそうな仮説だな。
236 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 11:32:22
>>233 >「或いは」の断わり書きもないが、「の後」とも書かれてないから、どちらの読みも可能です。
常識的には「の後」と書かれている。
現代の交通事情と全く違い、その時は案内されるままに使節団は旅をし日記に書いたはず。
通訳も、邪馬台国の人間に言われるままを使節団長に伝え、そのままのコースを旅し日記に書く。
言葉も地理も全くわからん場所で「歩いたらとか船だとか」選択の自由が使節団にある筈がない。
ゴルフ場の話は、地元の人間で言葉も地理もすべて判った人間だけに通用する話。
陳寿が参考にした書類は、タイシテないと思うよ。
最初に邪馬台国に行った使節団の記録が主で、後の戦争での仲裁をした張政らとは目的が違うし
安全に行けたルートは変更しないのが常識だと思う。
宿の手配や、船の手配、運搬の人夫の手配など一度でも経験があれば、担当者も楽だし地元も楽。
安全面での心配りも経験ルートなら危険ヶ所もわかるしね。
237 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 11:39:46
>>235 >そういうものが1つも残らず、方角の間違ったものしか残っていないのだから、
実測地図じゃないだろう。
大昔の日本じゃ、測量する技術もなかったんじゃないかな。
噂話を地図にして概略で旅するしかないよ。
大昔の日本地図、実測してなければ間違ってるのは当たり前。
238 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 11:48:14
>>235 >三角湾から西都原の残り僅かな距離を陸行一月と陳寿は記述をしたのか?
100kmの芦北→宮崎市までの九州横断が僅かな距離かね。
大集団で歩いて行くんだぜ、車もないし狭い小さなグニャグニャ曲がった道なんだよ。
俺は四国88ヶ所徒歩遍路をしたが、登ったり降りたり、道なき道を迷子になったり、食事や洗濯、
直線距離で100kmといったら僅かじゃないよ。
239 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 11:53:36
水行十日陸行一月の間の記述がない件について、
魏使は不弥国までは詳細に記録したが、そこから先は面倒になったので、略載
した、でいかがでしょうか。
240 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 11:59:37
>>223 >通った国名を逐一記述しているのに、陸行一月もすすんでいるのに、途中の国の記述がないのはどうして。
途中に大きな町がなかったせいだろう。
伊都国でも1000戸人口で6000人くらいの町だけど、九州横断じゃセイゼイ500戸
くらいの小さな村しかなかったんだよ。
使節団を歓待してくれても、国として独立してるわけでも長官がいて村人を指図してるような
大きな町がなかったんだろう。
しかし阿蘇山の方では、むかしの古墳がずいぶん残ってるから、バラバラには人が住んでたとは思うよ
ーーーーー(引用開始)−−−−−
1つ長目塚から銅剣、銅鏡等が出土しました。地元では古墳を壊した人は病気になると恐れられています。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/kohunn.htm
241 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 12:33:50
移写しまくったから一月は一日の誤字だという可能性も捨てきれん
其れだと吉備(5万戸=大国)まで水行20日、そこから生駒連山麓まで
まで入組んだ大阪湾まで水行10日、あとは陸行一日程度で邪馬台国に到着。
242 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 12:37:49
水行十日陸行一月は、やはり文字通り読めない。
大体、水行の後、港のあるクニがあった筈で、そのクニの記述が
無いのはおかしいと思う。
港も邪馬台の管轄で、そこから女王の都まで陸行だったと解釈しても、
邪馬台国の領土が広大過ぎることになる。
少なくとも九州に、そのような巨大な国は無い。
日本語と外国語のギャップが如実に現れた様だな。
244 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 12:53:32
>>242 >大体、水行の後、港のあるクニがあった筈で、そのクニの記述が無いのはおかしいと思う。
投馬国の南の港だけど、俺は投馬国の港だったと思う。
そう考えないと投馬国5万戸30万人というのが、当時の人口としては少し多すぎる人口に思える。
一つの国に一つの港だけしかなかったというのは、チョッと変。
邪馬台国の領土も俺はあなたが考えてるよりは、はるかに巨大だったと思う。
朝鮮の公孫氏の領土や、魏の領土を考えそこと対等に付き合える国なら宮崎県くらいの
大きさの領土くらいは持ってなければ釣り合わない。
その位の大きさの国家なら7万戸42万人の人口が邪馬台国にあったというのも、すんなり
納得できる人口である。
西暦250年頃の人間の生産力を考えると、そのくらいの国土は必要。
245 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 12:58:54
>>241 ごちゃごちゃ言い訳じみた推測よりも、よほど説得力がある!
広大であっても当時のクニに概念は集落を巨大にした程度。
246 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:05:06
大体7万戸や5万戸と記載どおり素直に信じるヤシっているか?洩れは信じない。
247 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 13:06:06
248 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:10:42
(会稽の東治)ではなく、(会稽、東冶)。
原文は冶なのに、訳文は治にしてあるね。
249 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 13:12:16
>>242 >少なくとも九州に、そのような巨大な国は無い。
どうやって1700年くらいむかしの九州に、巨大な国がないと断言できるの?
文章か何かの記録が残ってるとでも言うのかね。
詐欺師の特徴
よく判らない事を、さも自信がありそうに適当に断言するのが特長。
250 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:13:48
南だと認識していたのだろう、そのままの記載を信ずればそうなる。
結局は強引にさも真実かのように主張すればするほど自分で墓穴を掘ることになる
いい例だろう。
251 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:15:07
吉野ヶ里の規模は?
252 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:25:17
弥生後期の宮崎に50万もの人々の営みがあったと聞いて、飛んで来ますた!w
253 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:43:08
ペテン師め逃げやがった
邪馬台国は大国でいいよ、
畿内全域に7万戸42万人を承認する。
だから出てこいよ。
254 :
神様離脱:2006/11/30(木) 13:44:53
このスレも妄想爆裂・時代錯誤の坩堝と化した様だし、今宵あたり『文献重視』の新スレを立てたいと思うが
住人のご意見はいかに?
255 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:46:05
神様=恵也
アホですね〜www
256 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:46:42
プだろお前?
257 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:49:58
ここは自作自演で盛り上がってる一人の青年を
生温かく見守るスレです。
258 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 14:16:19
259 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 14:34:00
>>252 >弥生後期の宮崎に50万もの人々の営みがあったと聞いて、飛んで来ますた!w
宮崎県には西都原古墳群から宮崎市の生目古墳群など、たくさん存在してます。
これだけの古墳を残せる人間が集まっていた証拠。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
1号墳(墳長136m)は、古墳時代最古期(3世紀後半)の大王墓である奈良県、
箸墓(はしはか)古墳の半分の大きさに設計した相似形とされる。
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/
260 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 14:49:17
たんなる共同墓地か霊園地
261 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 15:29:29
>>259 神武東征、皇軍発祥地、近辺にある神社は全て天孫系
邪馬台国を彷彿とさせる神事に関するものは何かありますか?
畿内には三輪山がありますね、伊勢神宮も比較的近いですよ、
オオタタネコに祀らせた理由は何だったんでしょうね?
262 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 17:45:36
宮崎には、天孫降臨の地といわれる高千穂が二つある。
どちらが本当かについては、本居宣長も相当に悩んだらしい。
古事記伝には、どちらとも決め難いと書いてあるらしい。
北部にある西臼杵郡高千穂町には、天岩戸神社があり、天照大神が祀られている。
高千穂神社には、三毛入野命その他の神様が祀られている。
三毛入野命は、神武天皇の兄にあたる。東征のときは、兄弟四人で出かけたが、
地元では、三毛入野命は、高千穂に舞い戻ってきたという伝説があるらしい。
ちなみに、神武天皇は四人兄弟の末っ子になる。
南部の高千穂の峰周辺には、霧島六社権現と言われる6つの神社がある。
現在は5つらしいが、これらは全て邇邇芸命または神武天皇を祀っている。
邇邇芸命に相当する人物は、この二つの経路のうちのどちらかから、
日向にやってきたと思っているのだが。
263 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 19:32:31
陸行一月。
山道やらの難所を踏破したとして、一日平均移動8キロくらいに見積もる。
×30で総計240キロ。直線距離で大阪・名古屋間くらいか。ありえね〜。
少なくとも九州島内で収まる話じゃないな。
しかし、東海地方が邪馬台ならいい線かも。
264 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 19:50:10
言ってしまえば、古墳時代は、どれだけ大きい前方後円墳が造れるかが、
そのクニの大きさの証明。どれだけのマンパワーが動員出来たかを測定出来る。
奴にしろ、宇佐、西都原にしろ、河内大和連合には敵わない。
265 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 20:13:27
水行十日陸行一月、なんて、卑弥呼と同時代の、三国志の中にどれだけでも出てきそうだけど。
その解釈と同じ解釈でいくのが一番いいんじゃないかな。当時そのままの細かい表現とかが、
知れると思うんだが。日本の学者は、あまり中国の学者の説を用いたがらない気がする。
日本の学者の思い上がりか。
266 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 20:26:16
>>265 まあどういう読み方をしようが、陸行一月を九州島の中に収めようというのは無理だな。
267 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 20:40:05
>>266 しかし基本は違えられない。伊都国に一大率が置かれた、という事は、
女王国から、あまり離れてはいないと考える。女王への献上品など積荷などの検査を、
受け、魏の使いも必ず伊都国へ寄る。又、奴国が、女王国との境としている事からも、
九州以北は考え難い。
268 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 20:46:24
>>267 九州ですあほですが、の邪馬台の比定地がどこかは知らないが、
北部九州は倭人伝の行程記事から考えて、有り得ないだろ。
どんな無理矢理な読み方をしてるか知らないが。
269 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 20:58:37
>>268 お、また、なんにも知らずにおいでなすった。
自郡至女王國萬二千餘里
和訳:帯方郡から女王国にまで一万二千余里ある。 とあるではないか。
伊都国までで、道程の九割を使っている。全体の距離の一割しか残されてはいないのに、
畿内など遠くへいけるわけが無い。
270 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 21:05:46
>>261 >オオタタネコに祀らせた理由は何だったんでしょうね?
オオタタネコは九州朝廷から独立した崇神朝廷の傀儡。
畿内を征服した神武朝廷から革命を起こし、九州朝廷から独立を果たした第10代崇神天皇
に頼まれた大国主命の子孫。
第1代天皇の神武天皇が九州朝廷の援助を受けて畿内を征服し、植民地化したのに対し
第10代天皇の崇神天皇が経済力でも、軍事力でも充実し九州朝廷から完全独立したもの。
しかし疫病が蔓延して、大国主命のせいにして子孫オオタタネコを見つけ出して宮司にし
三輪神社で祀らせたところ疫病が止まっただけの話。
271 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:12:00
>>264 そう。畿内にも魏志倭人伝が書かれた頃、大きな国があったのだよ。
その国の王が「大国主」(大物主やオオナムチともいうよね。)。
その畿内の王に招かれてはるばるヤマトから畿内に入ったのが神武。
何故招かれたのかというと、招いた大物主がヤマトの力を自らの勢力拡大
に利用しようとしたからだろうが、おそらくは、神武が魏から「倭王」と
認められていたからだろう。
272 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:16:22
末ロ国の記述がある。つまり、水行から陸行にかわる上陸地点の国名。
次の方位がある。しかし、陸行1月の起点国名も方位もないのは、同じ
ところから同じとこへ行くと解釈できる。つまり、投馬国から南に水行
すれば10日、陸行すれば1月で、邪馬台国につく。なぜ、ここが2つ
の方法かいたかは、距離単位を後に知らせるため。つまり、水行10日
と陸行1月は、同じ。さらに、不彌国から邪馬台国までは、水行30日
で、水行1月で陸行3月とかんがえられる。で、ここで隋書をみると
夷人里数を知らず、はかるに日数でする。南北3月行でおのおの海に
いたる。九州の南北は、今の地図帳で調べると300km。つまり、
陸行1月は100kmでさらに、それは水行10日である。
逆に、陸行1日で30km進めるとすると90日では2700kmに
なる。九州は南北300kmではみだすが、博多から奈良までは500km
でこれも距離はあわない。博多から南に2700km行くとインドネシア
超えるのでは?これは明らかな、誤り。つまり陸行1日は30kmでは
ない。陸行1日を3kmとするとあう。で、この仮定は、ただしいと
言える。
273 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 21:20:35
274 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 21:26:35
>>266 >まあどういう読み方をしようが、陸行一月を九州島の中に収めようというのは無理だな。
朝鮮からの通信使は6ヶ月かけて江戸と朝鮮を往復したんだ。
魏から送る使節団の初めての旅なら、九州横断に1ヶ月かかるのは常識だろう。
豪族に呼ばれたら歓迎会や宴会にも出ないといけないしな、親善が目的なんだから。
275 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:30:52
>>262 神々は九州高千穂の峰に下っている。
まあ、神々とはいえ、神武の祖先だから人間だろう。
人間だから、天から降ってくるわけはない。おそらく、苦労して西から(熊本平野or筑後平野)
高千穂の峰に登り、そして東(宮崎平野)に下って行ったのだろう。
日向に下った神々がなされた事は嫁取りだ。この神話は九州山地の東西で人的交流が
あった事をいっているのだろう。
276 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 21:34:32
>>267 >伊都国に一大率が置かれた、
見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦
下戸或二三婦婦人不淫不to[偏女旁戸]忌不盜竊少諍訟其犯法輕者沒其妻子
重者滅其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使
大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
これの何処に伊都國に一大率を置くと書いてあるんだい?
277 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 21:36:02
>>269 >伊都国までで、道程の九割を使っている。全体の距離の一割しか残されてはいないのに、
使うというより、距離を積み上げたのじゃなく帯方郡からの直線距離だよ。
天体観測による直線距離だから、1万2000里なんて区切りのはっきりした数字が出たの。
積み上げ方式で足し算をした数字なら、1000里ではなく100里の単位になってるはず。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
東南の方に百里行くと奴国に着く。官を馬觚(しまこ)という。副官を卑奴母離という。
二万戸あまりある。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
278 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 21:41:45
>>276 ほいっ資料
自女王國以北特置一大率儉察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣
京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯
和訳:女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。
諸国は指令館を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、
国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。王の使いが魏の都、洛陽や帯方郡や韓国から帰還した時、
また、郡の使節が倭国へ行く時はみな津で文書とか送り物とかを点検し、
不足や食い違いがないようにしてから女王のもとに運ばせる。
279 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:42:26
北部九州説の輩は、不彌から後の距離を縮めようと必死で笑える。
一日三キロって何?延々一ヶ月山道を歩いたの?
で、辿り着いた山間部の邪馬台って、いったいぜんたい、北部九州のどこなんだろうね。
280 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 21:45:05
>>272 >水行すれば10日、陸行すれば1月で、邪馬台国につく。
1ヶ月もかかるなんて、200人の人間が文物を見せびらかせ、宴会と説明会で1ヶ月かかるのと
1人の人間が大急ぎで歩いた1ヶ月の距離とは全く違うだろう。
常識で考えれば、200人くらいの使節団が船で10日かかり、それから歩いて宴会や説明会や行列
をしながらノンビリ地方の豪族とも名刺交換して1ヶ月かけて邪馬台国に着いたと読むべき。
281 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 21:51:23
>>272 夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海
其地勢東高西下
簡単に解釈すると
【夷人は里数を知りえず日を持ってはかる。その国(倭国)域は東西五月で移動でき
(筑紫⇔関東)南北三月(関東⇔東北)で移動でき各海に至る
その地勢は東が高く西に低い】
九州限定の地勢ではない これは隋書だ。
282 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 21:54:41
>>277 たとい直線距離を書いたにしても、そんなもの、正確な地図の無い時代に、
頭の中に地図が思い浮かぶ人も、いない中で、何の参考になるかな?
例えば、宮崎から、熊本までの道のりを聞かれて、九州山地を突っ切って、
直線で何百キロです。なんていう?曲がりくねった道と、おたくも言ったように、
道路の距離で言うんじゃない?あるいは日数で。
283 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 21:57:17
>>278 特置一大率⇒ 自女王國以北
伊都國⇒ 常治
違いますね
284 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 21:57:37
>>272 >陸行1日で30km進めるとすると90日では2700km
アンタ実際に歩いた事がないのじゃないの?
マラソンで目一杯頑張って走って、世界一の人間が42.195kmを2時間以上かかんだぜ。
魏のエライサンを1日何時間歩かせるつもりだ。
時速4kmの速歩で歩かせて1日8時間32km、地図上の直線距離だと10kmは歩けないよ。
見せびらかせて行列を作り、ノンビリ歩いたら直線距離で4kmが良いところだ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
全校生徒のリレーで42.195キロを1時間58分15秒で走り、男子マラソンの世界
記録2時間4分55秒を破った。
http://dionysus.exblog.jp/1702822
285 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 22:07:43
>>284 >時速4kmの速歩で歩かせて1日8時間32km、地図上の直線距離だと10kmは歩けないよ。
見せびらかせて行列を作り、ノンビリ歩いたら直線距離で4kmが良いところだ。
この発言は主観的なものですね
一日五十里(大唐六典より) 時代の経過を考慮しても約四十里での換算調整値となりますね
286 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 22:10:12
>>283ここは一大率の説明のくだり。
一大率は、伊都国に常置されている。と読むのが普通だと思う。
女王国より北には一大卒が置かれていたので、自ずと、女王国はそれよりも南
という事になる。
287 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 22:19:02
>>281 >九州限定の地勢ではない これは隋書だ。
その隋書は誰が、どんな史料を見て、いつごろ書いたんだい?
少なくとも魏志倭人伝のような、旅をした方と同時代の作者が書いた書物じゃないだろう。
隋書は西暦600年ごろで、卑弥呼が死んでから300年以上は経ってる時代遅れの書物。
288 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 22:28:20
>>286 >女王国より北には一大卒が置かれていたので
ね、一大率は自女王国の北であり伊都國ではありませんね
伊都國には(常治)とは書かれていますが(常置)とは書かれていません
それに伊都國設置ならワザワザ自女王國以北特置の文は余計な駄文になりますよ
自女王国以北が伊都国イコールなら
その証明も求めなければなりません
289 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 22:30:58
>>285 >一日五十里(大唐六典より)
俺が書いてる距離、1日直線距離4kmということだろう。
魏志倭人伝の釜山から壱岐まで2000里は160kmなんだから、1里は0.08kmだよ。
俺の手伝いをしてくれるのかい。
有難うよWWWWWWW
290 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 22:36:35
>>287 >その隋書は誰が、どんな史料を見て、いつごろ書いたんだい?
少なくとも魏志倭人伝のような、旅をした方と同時代の作者が書いた書物じゃないだろう。
隋書は西暦600年ごろで、卑弥呼が死んでから300年以上は経ってる時代遅れの書物。
そんなこと聞いてどうするの?調べる気になりゃ貴方にも可能ですよ
>隋書は西暦600年ごろで
自分で私に尋ねて600年頃と答えを先に答えることないでしょうに
>時代遅れ
時代遅れの史料が役にたたないことの根拠を述べて下さい
否定しといてほったらかしでは後々困りますので
291 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 22:39:41
>>288 >ね、一大率は自女王国の北であり伊都國ではありませんね
アンタ馬鹿じゃない?
それともネジが1本抜けた脳みそをしてるのかな。
どう見ても俺には、一大卒は伊都国にいるとしか読めない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。
諸国は指令館を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、
国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。
292 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 22:41:54
>>289 >俺が書いてる距離、1日直線距離4kmということだろう。
魏志倭人伝の釜山から壱岐まで2000里は160kmなんだから、1里は0.08kmだよ。
俺の手伝いをしてくれるのかい。
有難うよWWWWWWW
(ものさし)から外れていない考えなら、吝かではありません。
しかし、ものさしから外れた考えなら否定します
293 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 22:42:10
>>288 ね、一大率は自女王国の北であり伊都國ではありませんね
何でそこを、伊都国が女王国の北にあると考えられないのか。伊都国から見れば、
女王国は南方面にあるはず。それに、常に治む、は常に置くとそう大して変わらない。
伊都国にいるが、と二重の表現の様なのは、次下の文にかかってるから。
294 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 22:44:45
>>290 >時代遅れの史料が役にたたないことの根拠を述べて下さい
あんたね、300年前の事を書いたものというと、赤穂浪士の討ち入りかな。
そんなむかしの事を、現代の若者が今頃書いてそれを信用するのかね。
常識のある大人なら、赤穂浪士の事を正確に書いた書物なら、300年位前の書物を
調べるものだけどね。
又聞きのものを、素直に信用するのはよくないぞ。
295 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 22:46:45
>>291 個人的な主観を述べる場合にはそれ相当の根拠提示願います
>にいるとしか読めない。
(常置)と(常治)の区別はつきますよね?先文にて(特置)もあることだし
296 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 22:49:13
>>292 >しかし、ものさしから外れた考えなら否定します
馬鹿のモノサシじゃ屁みたいなもの。
理解力のない屁が否定しようと、俺には関係ないご自由にしなさい。
297 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 22:57:36
>>293 >何でそこを、伊都国が女王国の北にあると考えられないのか
考えるとか考えられないとかの問題ではありません(自女王国以北)と書いてあるだけですから
これに自己考察を加えるには、この一文だけではなく多岐に渡るさまざまな記載との整合性が求められますが
>常に治む、は常に置くとそう大して変わらない
その発言には大変興味ありますので、どお変らないのか解説願います
>二重の表現の様なのは、次下の文にかかってるから
前文が後文にかかるならそれと判る文字がある筈ですので、その文字を教えてください
298 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 22:58:05
>>295 >(常置)と(常治)の区別はつきますよね?
アンタには言葉の根源的理解力がないんじゃないの。
常置とは、常に設けておくという事。
常治とは、常に治めてるという事。
一大率という検察官みたいな役人を置くというのと、置いて治めてるというのと内容は同じ。
少なくともアンタは自分に理解できる言葉に直しイメージを作り、根源的理解をする癖をつけなさい。
自分でイメージも理解もしてないで、他人に説教するのがアンタの欠点。
299 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 23:00:07
特置、というぐらいだから、特に邪馬台国連合各国の監視に、目を光らせていたのだろう。
それと、常治の伊都国とは、ニュアンスが異なる。・・・にいるが、と見たような事を言っている。
実際、大陸からの使者は、必ず伊都国に滞在したとある。
「一大率は伊都国にいるが」から下段は、伊都国で、使者が、実際見たか聞いたかした具体性のある文章に
なっていく。そのためダブった表現になっているのだ。
>>269 >帯方郡から女王国にまで一万二千余里ある。 とあるではないか。
>伊都国までで、道程の九割を使っている。全体の距離の一割しか残され
>てはいないのに、畿内など遠くへいけるわけが無い。
これもよく聞く反論だが、フミ以降、ツマ、ヤマトまでの里数が不詳なのに
どうやって陳寿は総トータルが分かったのか、という疑問が残る。
おそらくは、である。
水行一日の進行距離を30里、陸行のそれを20里くらいだと常識的に考え、
それで概算したんじゃなかろうか。
30里×30日+20里×30日=合計1500里。
それまでの合計が10700里だから、大体12000里になる。
301 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 23:03:28
>>294 >>時代遅れの史料が役にたたないことの根拠を述べて下さい
あんたね、300年前の事を書いたものというと、赤穂浪士の討ち入りかな。
そんなむかしの事を、現代の若者が今頃書いてそれを信用するのかね。
常識のある大人なら、赤穂浪士の事を正確に書いた書物なら、300年位前の書物を
調べるものだけどね。
又聞きのものを、素直に信用するのはよくないぞ。
それダブスタですよ
貴方の信用している魏志倭人伝 今、覗き参考に出来る版本はいつの?
>常識のある大人なら
ここには無用の表現ですね
302 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 23:08:17
>>296 >馬鹿のモノサシじゃ屁みたいなもの。
理解力のない屁が否定しようと、俺には関係ないご自由にしなさい。
そろそろ逃げ出しますか
『馬鹿』と暴言を使うようになりましたから無理ですね
303 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 23:15:30
>>299 >一大率は伊都国にいるが
違うでしょ。一大率は伊都國にて常治でしょう
(一大率は伊都國にいるが)では【一大率居伊都國】という文になるのでは?
304 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 23:22:31
>>298 >アンタには言葉の根源的理解力がないんじゃないの。
常置とは、常に設けておくという事。
常治とは、常に治めてるという事。
一大率という検察官みたいな役人を置くというのと、置いて治めてるというのと内容は同じ。
少なくともアンタは自分に理解できる言葉に直しイメージを作り、根源的理解をする癖をつけなさい。
自分でイメージも理解もしてないで、他人に説教するのがアンタの欠点。
ごめんなさい
今日はその様な、関係ない話は遠慮しておきます。
305 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 23:27:44
>>302 ちょっと待ってよ。僕たちは議論しあってるのであって、おたくの言ってる
「>(常置)と(常治)の区別はつきますよね?」 の説明はなんにも出来てないし。
もっとお互い落ち着こうよ。貴方だって、昔からの常連じゃない。
この恵也って人も、大勢から、馬鹿だのチョンだのとなじられても、めげないところが、
教わるところかもしれないよ。お互いに論を戦わせるのは当たり前だと思うよ。
おたくだってじぶんの説を曲げちゃだめだよ。すこし説明が足りないところが、
誤解を生んでるんじゃないかな。よく説明してくれたら、もっと理解しあえると思うんだけどな。
306 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 23:29:37
さてと
そろそろ寝ますか
今日はどうもありがとうございました。
307 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 23:29:39
恵也は1週間毎日粘着しるな
308 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 23:31:49
>>300 >これもよく聞く反論だが、フミ以降、ツマ、ヤマトまでの里数が不詳
倭人伝での合計距離は、末盧国までの距離が1万里、不弥国まで10700里で不詳ではない。
これは帯方郡→狗邪韓国→末盧国→不弥国と折れ線を足し算した値。
帯方郡→邪馬台国の直線距離は12000里960kmというもの。
309 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 23:34:46
>>303 >一大率は伊都國にて常治でしょう
アンタ自分で何のイメージも持ってないで文章を書き連ねてるでしょう。
もっと誰にでもわかる、日本文にしなさい!
310 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 23:34:50
>>306 傷ついちゃだめーっ。明日仕事がんばろうね。お互いに。
相手を猿だと思えば腹も立たないというでしょう。
311 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 23:37:28
上のほうで書いてた人もいるが、邪馬台国東海説なら、
水行10日陸行1ヶ月を説明できる。
つまり邪馬台国とは大和河内・東海の大連合政権であって、
魏使は大阪湾から上陸して奈良盆地へ。初瀬川沿い(現在の近鉄大阪線)を
通って、陸行1ヶ月をかけて卑弥呼のいる伊勢神宮に漸く到着したのだろう。
マキムクの搬入土器に東海系が多いこと。
マキムクの立地が、瀬戸内海より内陸交通に向いていること(現に、九州の
影響は殆ど受けていない)。
庄内開始時の環濠集落の環濠一斉埋め立ては、伊勢方面の集落のそれとも
連動していることなど。
東海と畿内は古くから銅鐸を祀る、共通の文化圏であったと考えられること。
畿内=東海連合を窺わせる事象は多い。
>>308 ごめん。何言ってるか全然分からない。
陳寿はどうやって12000里を割り出したかの話なんだが。
313 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/30(木) 23:51:55
プラムさんは、恐らく、僕と恵也さんの、二人の質問を受けて、疲れ果てたんじゃないの?
こんなどうだっていいような論議で、心を傷つけられたら絶対に駄目だって。
貴方の心の方が大事なんであって。プライドを傷つけられる事もあるかもしれないけれど、
お宅紳士過ぎるもん。もっと「このくそったれが」と思ってキーを叩くくらいの気持ちが無いと。
やさしすぎ。僕なんか、風邪引いて、今、38度近くあるけど、
なにくそーってパソコンに向かっています。もうねるけど。
新しいドン来いのスレが立つたび、プラムさんとか常連が入ってくると、
あり難いし、頼もしいといつも感じてる。
「人は人自分は自分でいきましょう」おたがいにね。
314 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/30(木) 23:59:20
>>310 全然気にしてないよ
たまにはこう言う議論もいいもんだよ 他所へ行けばこの何十倍も強烈な議論が待っていて
私の知識なんて
最低レベルにも満たない状況
ほんの数秒で漢籍が長文で飛び交うからついて行くのがやっと 一々暴言気にしていたら神経やられる
では お休み
315 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/30(木) 23:59:30
>>310 >相手を猿だと思えば腹も立たないというでしょう。
人間が本当に感情的になって腹が立つのは、自分で気がつかない欠点を突かれた時。
事実だからこそ腹が立ってしまうもの。
架空の嘘ばかりなら、あきれるだけで全く腹なんて立たん。
独裁者ヒットラーが、喜劇俳優のチャップリンを毛嫌いしたのもその理由。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
チャップリン自身がユダヤ人だ、ということ。罪もないユダヤ人を虐殺している世の中で、
ユダヤ人が面と向かってヒットラーを弾劾するこれほどの作品を作ったというのは、まさ
に命がけ。すぐに抹殺されて当然なはずです。本当に偉い人です。
http://www.h6.dion.ne.jp/~mfans17/THE_GREAT_DICTATOR.html
316 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 00:03:58
317 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 00:05:21
>>314 よかった。くだらないやり取りでいちいち傷ついてたら、身が持たんもんね。
心の中では、邪馬台国なんてくそ食らえ、ぐらいでいいんじゃないの。
318 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 00:10:49
>>312 >陳寿はどうやって12000里を割り出したかの話なんだが。
帯方郡からの直線距離を魏の使節団が天体観測で出してると、俺は見てます。
なぜ帯方郡→邪馬台国を12000里(短里として960km)と計算できたのか?
当時は天文学が非常に発達してたのは知られてる。
高松塚古墳にも天空図が書かれていたという、今じゃグチャグチャにされたが。
ポリネシアの人はハワイまで海を旅するのに、星を利用して位置を知り行かれた。
以外と位置の確認は易しいもので六分儀みたいなもので、北極星の角度を測れば
90度から引けば緯度が出る。
太陽が出るときの故郷の恒星の角度との差がわかれば、故郷からの経度がわかる。
北極星の角度に、帯方郡と7度の差があったとしたら1度が111kmだから南北
に約800km離れてる事になる。
経度の差が5度あったとしたら、1度が100kmとして(経度は少し小さくなる)
東西に500kmはなれてることになる。
帯方郡と邪馬台国の直線距離は√800二乗+500二乗=990km
結論::邪馬台国は宮崎市と推定できる。
319 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 00:18:09
>>317 >くだらないやり取り
心外だな。
今日みたいなやり取りが、日常行われている事を感じてもらいたかったのに
私にはほんの初歩的事しか出来ないけれど、コテハン付けてる以上は
必要事項だし、必要認識だけは身につけて於かないと、いつ何時集中砲火を浴びるか知れない。
コテ付けた宿命だな。
320 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 00:31:57
>>315 事実だからこそ腹が立ってしまうもの。
確かにそうだが、繊細な感情の人もいる。その相手の立場に立って考えると、
何でもないことに傷ついていたりするから、配慮も要ると思うよ。
僕もあまり考えないから、言ってるんだけど。
そういう人は、また違った観点を持っていたりするから、なおざりには出来ない。
321 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 00:44:44
>>319 「こんなどうだっていいような論議で、心を傷つけられたら絶対に駄目だって。
貴方の心の方が大事なんであって」の続きで、
論議自体を否定してるんじゃ無いんだから。
自分が傷つくくらいなら、本末転倒で、全ては枝葉であり、自分のなすべき事が、
他にいっぱいある、という事が言いたいの。でもおたく元気そうだから、ま、いいか。
>>318 だから、その経度はどうやって測ったんだよ。
お前さあ、何回も同じ間違い自信満々に書くなよ。
323 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:17:43
倭人伝など信用できんといいながら、都合の良い部分だけ信用して引用して
都合の悪い部分は間違っている、と無視して相手を攻撃するのは
畿内説論者も九州論者も同じ。
ただ単に自己満足の妄想の世界だよ。被害妄想に陥るのだけは気をつけやw
324 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:40:37
>>311 そのマキムクと畿内・東海連合をどうやって邪馬台国に結びつけるのか説明頂きたい。
その時期にすでに瀬戸内海を超えて九州まで統治してしていたと?
九州の影響が見られないのは交易などなく対立していたからだろう。
しかも君の説は倭人伝の水行陸行を証明しようとしているけど間違いの可能性は考えないのかな。
まず方向からして間違っているという前提なんでしょ?
北九州から東海へ行くのは、朝鮮半島へ行くよりより長旅だよ。疑問だらけで、すまんが
かえって畿内マキムクはないな、と確信した。サンクス
325 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:42:26
長旅をしても、せいぜい最終地点は出雲とか広島あたりだろう。
四国とかねw
326 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 02:38:15
距離が書かれてない以上、日数で距離を測るのは不毛。どうして休みなく
移動しつづけたと想定できるんだ・・・。
水行陸行を1月以上に渡って長距離を移動したなら、その途中には何十もの国々が
あるはず。
邪馬台国以外の記述されている国々よりもっと書くべき国があるだろ。北九州は
詳しくてあとは(ry ってのは相当不自然。なんか辻褄の合う妄想を期待したいね。
つーか、航海について何か書いてもよさげ。
初めのほうは海を渡るってはっきり書いてるのにね。
328 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 07:09:41
じつは書いてあったけど大人の事情でアボーンされたとか。
329 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 07:16:17
>>327 だから以前から言ってるように、行程記事は伊都迄それ以降は規模測定による記事
330 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 07:41:17
331 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 07:46:37
皆さん日数に執着しているようですが、倭人伝には郡より邪馬台国までは万二千余里と明記されております。
半島部は7千余里海峡部は約3千余里よりですから、マツロ国からは邪馬台国まではそう遠くなりません。
332 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 07:55:25
>>331 >邪馬台国まで萬二千餘里
女王国までが萬二千餘里。この辺きちんと整理しないと後こまるよ
333 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 08:37:46
>>329 渡る大海島々多しぐらい書いてもいいでしょ。
中国人にしたら島だらけの瀬戸内海を横断するんだから
珍しい光景だと思うけど。
334 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 09:15:38
いわゆる魏志倭人伝は、3世紀の終わり頃、晋の陳寿が編纂したもの。
一方で、評価の高い歴史書に後漢書があり、これにも日本のことが書かれている。
後漢書は、倭人伝よりも100年以上後の5世紀に宋の范曄が編纂した。
あとから出来た後漢書が先に出来た倭人伝のまねをしているかというと、
そうでもない。両書は微妙に違うのである。
たとえば、倭人伝には、「邪馬壹國(邪馬一国)」「東治」とあるが、
後漢書では、「邪馬臺國(邪馬台国)「東冶」となっている。
このように見ると、後漢書のほうが正確なような気もする。
倭人伝の場合は、「一大国」と出てくる壱岐も実は「一支国」だと言われて
いて、誤字がけっこう多いようである。
両書で決定的に違うのが狗奴国。後漢書では拘奴国。
倭人伝では、女王国の南にあると書かれている。
一方、後漢書では、『自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王』
つまり、女王国の東に海を渡ること千里で拘奴国に至る。倭種であるが、女王に
属さず。
どちらを信じるかで考え方が大いに違ってくる。
どちらが正しいのだろう?
335 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 09:21:12
>>333 >瀬戸内海を横断するんだから
ダメだよ 推測や自己の主観取り入れたら
共通的な話が成り立たなくなるから
(仮に伊都から考えると)
●伊都から女王の国まで距離にして残り約千五百里
●伊都付近から女王の都まで(投馬経由)で、水行三十日・陸行一月(計六十日)
単純に、この二つを満たす図形は何?
(千五百里は投馬を経由していない)
336 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 09:25:57
>>331 君が何と言おうと、水行30日陸行30日かかるんだから、かなり遠いだろ。
普通に考えて。
フミからヤマトまでの残り1300里にしても、換算すれば数百キロなんだから、
少なくとも北部九州は候補地から消える。
倭人伝の日数は、距離を日数で測る倭人から聞いた数字だろうから、
ゆっくり歩いたとかの言い訳も違うように思う。
魏使日記からの抜粋にしては、数字が揃い過ぎ。
やはり、里数が分からない代わりに、どれ位離れているかを、
倭人のように日数で表記したとみるべきだろう。
337 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 09:30:23
>>324 いやだから、逆に九州の方が畿内の影響を受けてるんだよ。
奴国の庄内甕生産とか那珂八幡古墳とか知りません?
338 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 09:36:49
>>311 >大阪湾から上陸して奈良盆地へ。初瀬川沿い(現在の近鉄大阪線)を
>通って、陸行1ヶ月をかけて卑弥呼のいる伊勢神宮に漸く到着
近鉄大坂線w 天王寺からの乗り換えだったよね。四天王寺に一度行ったが本当にガッカリしたなあ、あの時はもう。
ところで地図を見りゃわかると思うけど、君のいう大阪湾上陸して奈良盆地までの距離は、
九州の内陸部から海岸部まで(自分の思うところの宇佐・他の方にとっては宮崎などw)より
短いくらいだよ。
つまり投馬の位置によるが・・九州の西側辺りとして、川で中心部までいって
内陸から東海岸部までの距離は君の推定にのっとったとしても陸行1ヶ月は普通に
かかるわけだよね。九州説は必死で距離を縮小などと言っている輩がいるが
なにも縮小などされてないことがよ〜くわかるはず。
九州説の水行は川か西海岸南下で説明がつく。 あ〜スッキリした!
339 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 09:40:51
>>238 もっと長い韓半島の距離を陳寿は里で記しているが。
それから言えば、100kmでも僅かな距離と言える。
しかし、なぜ日向灘側から来ないんだ?
あと、朝鮮通信使
>>189は、将軍が交代した時にしか来なかった。
しかも、費用がかかり過ぎるという事で、松平定信に縮小され、打ち切られた。
そんな特例を根拠に陳寿が日数を記したと考えるのは不自然。
>>330 鞆の浦なら、わざわざ陳寿が記した理由も分る。
340 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 09:43:33
>>334 (イキ)も(一大)も(一支)も 同じ
(イキ)=倭語音
(一大)(一支)=倭語音を基本にした、形容・漢語表記。一大 一支の違いは、編纂者のセンスの違い。
341 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 10:33:40
同道巡りだな
おまいら日本地図を九州から舐めるように見てみろよ
瀬戸内の水行は東に南に北にと訳ワカメだぜ
大海原の渡海と違って簡単に方角はつかめないだろう。
あと陸行1月な、高千穂峰って知ってる?天の逆矛の高千穂な。
麓のセンターから逆矛のあるてっぺんまで地図で確認したら
直線距離で大凡2km、その距離に加え高低差700m勾配は常に20°以上
岩石がゴロゴロして道なき道を進まなきゃてっぺんにたどり着けない、
そこをのんびりと休憩をとりながらまさに恵也の思い浮かべる使節団並の
移動スピードで登ったとしても3時間足らずで着くんだな。
そこで一日を9時間ほど費やしたと考えて、6km。
陸行をアノ高千穂峰並の難所の続く道のりだったとしても6kmは確実に進む
古代の山道≒獣道を想像しながら俺は思ったね、幾らなんでも其の倍は進めると
つまりは一日で10km以上、一ヶ月だと300km以上、まぁ九州では到底考えられん。
そういう結果に至りました。
誤字だね。
342 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 10:38:27
半島、マツロ国間はざっと二百数十キロで、3ないし4日かけてすすんだ(手漕ぎ船では洋上停泊は不可能ということは実験航海で立証ずみ)
とみられるから一日平均60ないし70キロを進んだこととなる。
水行10日では600ないし700キロ進むことになる。残り千五百里どころではないだろう。
343 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 10:41:04
>>322 >だから、その経度はどうやって測ったんだよ。
緯度はそれでも判ったのかい?
経度は帯方郡では、日の出る時間には恒星の位置は日にちによって水平からの角度は決まってるの。
恒星の角度の差が、邪馬台国と帯方郡の経度の差なんだよ。
だから帯方郡でのデータがあって初めて測れるもの。
判らないかね?
344 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 10:41:44
>>341 投馬が九州の西なら、東側に徒歩か川しかないとして普通に一月かかるだろ。
山脈だらけだし。
それはおいといて・・・
一月毎日ひっきりなしで徒歩300kmwwwww 無理無理無理
途中で数人死ぬぞ。そんなことできるか(劇爆
途中で数日休んだり歓待されるだろ、当然。誰かみたいに
見せびらかしの旅とはいわんが・・・w 悪いが魏のお使いさんを
そこまで歩かせるとは思えんよ!
345 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 10:45:40
>>323 >畿内説論者も九州論者も同じ。
恵也説は、倭人伝をほとんど信用してるぞ。
邪馬台国に着いてからの、住民から聞いた海のかなたの小人の話などはともかくとしてね。
宮崎が邪馬台国としたら、ほとんどの部分がすんなり解釈できる。
346 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 10:46:03
>>344 言っとくけど休憩だらけだぞ、早い奴だと一時間を切るらしい。
347 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 10:53:05
>>337 ですから、
>>311で言われている河内・東海の大連合政権とやらがあったとして、いや何か国が
あったのは確かでしょ。それがどうして邪馬台国となるのか、その考えの根拠が知りたい。
だって東海の海岸沿いお伊勢さんに卑弥呼がいて、九州まで統一政権だったと?一月かけて山越えなきゃ
大阪湾にもたどり着けないような孤立した場所でか?しかも旧伊勢神宮跡は京都市内だぞ。
女王国の東に大海越えて、倭国がまだあるって・・・瀬戸内海を水行30日もかけた大航海のあとで
繋がった小さな伊勢湾みながらいう台詞かよ・・・。説明が全然つかないと思う。
348 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 10:54:03
>>326 >水行陸行を1月以上に渡って長距離を移動したなら、その途中には何十もの国々があるはず。
1ヶ月間を九州横断陸行と考えれば、何十もの国はない。
同じような山と、同じような部落、そこでの歓迎会くらいで国家としての組織は存在できない。
家も何百戸とまとまってる町もないのじゃないかね。
セイゼイ数十戸の人間がまとまった部落じゃ、通訳を通してたいした事は書けないよ。
349 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:06:25
筑紫〜吉備〜大和を水行30日の後一日の陸行で説明できるな。
実に単純明快、とって付けた理屈もいらない。あっぱれ!
350 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 11:06:50
>>334 >どちらが正しいのだろう?
後漢書は100年後だからね。
陳寿の魏志倭人伝は、卑弥呼が死んだ頃に著者は5歳で同時代のものといえる。
今から100年前の1900年頃は、朝鮮を併合しようとしたり、日清戦争や日露戦争の
頃なんだろう。
あの頃の事を書くとしても、生きてる人間もいないし書物からの丸写しが関の山でしょう。
同時代に著者が生きた、魏志倭人伝の方が信頼できるよ。
原書から書き写したときに、誤字を書いた可能性はあるけどね。
351 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 11:10:08
>>345 >海のかなたの小人の国
なんじゃそれは?
352 :
太国:2006/12/01(金) 11:12:56
>>350 邪馬壹國 卑弥呼の女王国
邪馬臺國 倭の五王朝の国
双方は別物です。これが真の正解なのである。
353 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:22:05
>邪馬壹國 卑弥呼の女王国
>邪馬臺國 倭の五王朝の国
>双方は別物です。これが真の正解なのである。
なんじゃそれは?
理由くらい言えよ、この妄想人
354 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 11:22:10
>>336 >魏使日記からの抜粋にしては、数字が揃い過ぎ。
確かに揃ってはいるけど、200人近くの使節団が先遣隊は先に行って本隊の宿舎や、食事
運送などモロモロの段取りを整え、大きな町では集団で行進は出来ても、途中じゃバラ
バラでしょう。
大きな船もなかったろうし、山登りじゃ5人くらいのグループにならざるを得ない。
やっと着く人間もいるし、また同時に出発する人間もいるし時間も適当な書くから、揃っ
てしまうのが当然だよ。
355 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:26:54
”倭人は距離を里で計算できず、日数でいう。”と。
あ〜あ、原始的な国だなぁと呆れる。
でもその「日」が個人差関係なく一定の距離を指す単位で使われてたら?
例えば、「あそこは10日の距離でつ」と示されるが速い人によっては7日で着き、
人によっては12日かかるとか。ただ単に原始的な倭人の、距離を示す単位。
想像(実験)スピード × 日数 の計算での距離は危険。絶対に出ないね。
それにしても、中国人に文字があって倭人に文字がなく倭人伝に頼るしかないとは
なんとも情けない・・・・金印だって読めなかった宝の持ち腐れだな
356 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:30:37
ホリエモンの弁明を見ているようだw
はいはいお疲れ〜、としか掛ける言葉がない。
357 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:39:53
>>349 その吉備から大和までの東の航海も「南下」と呼ぶ。
ありえないね。目の前から太陽が昇るのに南下と思うわけ。
しかも、実際は東北方向だよ。
緯度がどんどんあがって九州から離れて気温もさがっていくというのに。
北九州から始めて、奈良盆地や東海を「温暖」などと一言で済ませないよ。
奈良盆地の人間も冬に裸足で生野菜を食べるのかい?死ぬぞ。試してごらんよ。今がいい季節だ。
残念だが全然あっぱれじゃない・・・。
358 :
太国:2006/12/01(金) 11:45:33
>>353 ナゾナゾと行こう。何故か? お前さんが考えるんだ。ww
さあ昼飯喰いに行こう〜。
359 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:46:48
>>357 紀州は方角的には東南にあたるな、しかも温暖ときたもんだ
其の上、広域な領地を有する大国の邪馬台なら
比定地の範囲にスッポリ収ま地域と考えてよい。
あっぱれだな。
360 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:49:09
陸行1日は3km:1mが何故1mなのか?1mは、短い、あるいは、長い
の論争は意味がない。距離単位なのだから。
隋書:使者は、九州の東海岸に着く。で、次は、馬で向かえがきてる。
その人名?官名?から難波とみられるので、大阪に上陸して馬で都に
入ったとおもえるので、都は奈良と仮定して、奈良から西日本を統一
したとする。まあ、秦国の問題があるが。博多から奈良までは500km。
5月行なら1月100km。南北は、熊野から若狭湾より、九州の
南北が長いので、南北は、九州の300kmを3月行とすると、1月は
100km。あう。300年差があるので、同じとはいいきれない。
しかし、投馬国から邪馬台国まで南に水行も陸行もできるのは、南北に
海岸がある場所である。地図で九州の東海岸で南北なのは、延岡市から
宮崎市までの日南海岸75kmである。これが陸行1月の長さといえる。
100kmとは、異なるが。当時の測量考えるなら、まあ、同じでは?
361 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:49:16
>>356 それは東海マキムク論者にいってやれ。
邪馬台国の根拠がない。
362 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:56:18
>>359 和歌山?上陸したのは和歌山か?東北に進み大阪に上陸して
陸行だと言ってなかったか?
大阪湾まで東北方向だろうが。だんだん基地外じみてきたな。
魏志倭人伝に合わせるために無茶苦茶言っていいと?奈良は極寒の地だぞ。
つまり、畿内論者も魏志倭人伝に話あわせるために必死ってことだな。
崇拝者はどっちだよ。ただし、方角だけは全部間違いでww
363 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:00:13
別に一つの論としていいじゃんかよ?おもえ「も」だろ?w
はよ飯食って鯉やwww
364 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:22:02
ひとつだけはっきりしてんのはな、
投馬と女王国だけ渡一海とかかれてない。海渡ってなんかいないんだよ。
まず原文読んでみな。原文読んでから返事してな。
他は全部、「全部」、海岸水行か渡一海って書いてるんだよ。
女王国の東向こうを説明するにも大海と表記。
又聞きだろうが本人が見たんだろうが、わざわざ大つけてんだよ。
投馬と邪馬台国だけ、ただの至水行。瀬戸内海の大航海に海の表記なしだぞ。
海を越えてないのは間違いないね。同じ大陸の証拠だよ。
中国人にとって水行は湖と川。ただ水行の表記は渡海とは別物だよ。
>>364 隋書琉球国伝
流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至.
流求國は海島の中にあり、建安郡の東で水行五日でつく。
>中国人にとって水行は湖と川。ただ水行の表記は渡海とは別物だよ。
破綻しました。
366 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:07:35
陸づたいに船で航行することを水行だと思っていたが、これって間違い?
367 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:12:15
船で航行するが正解。
368 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:25:12
369 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:26:02
つーか瀬戸内海は両岸を見渡せる箇所が幾つもある
まるで大河のようだ、とは全然おもわなんだか?
370 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:26:37
水行 = 川か湖 湾内移動
渡一海 = 海を渡って別の大陸・島に行くこと。
至東渡大海 = 東の大海を超える
海岸水行 = 海岸に沿って船で移動(海は超えない)
魏志倭人伝の中の水行の書き分け。いやあ、猿でもわかる単純明快だ。
距離は3世紀倭人言うの日数だからね、当てにしちゃバカだよw
371 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:28:42
ダメだこりゃ・・・
372 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:32:59
宇佐神宮のホームページ読んでたんだが、老人向きに大きな字を使ってるねww。
「社伝」によると比売大神は 天照大御神(あまてらすおおみかみ)と
素戔嗚尊(すさのうのみこと)のウケヒだと主張。
宇佐島からアマテラス=卑弥呼 → スサノオ → トヨ=比売大神?
http://www.usajinguu.com/A_Yuisyo/Himeno.html いやぁ・・・
とりあえず、比売神ってトヨっぽい感じ?
トヨになってから国が安定して繁栄したらしいしね。
373 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:43:23
>>372 宇佐神宮の由緒書き読んだ?
比売大神は多岐津姫命、市杵嶋姫命、多記理姫命の三女神と書いてある。
374 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 13:49:52
>>364 >水行の表記は渡海とは別物
偉い。 うんうん
375 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 13:52:19
376 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 13:54:17
>>364 >中国人にとって水行は、川と湖
これを書かなきゃ「もっと偉い」のに…
漢籍いっぱい読んで「水行」と、検索してみなさい。
377 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:56:51
バカで少数派なほど必死になりがち、しかも声がデカイ、ネトウヨ・ブサヨ・ザイ・B区、之定説。
378 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 13:58:53
末盧国が唐津だとすれば、伊都国が前原なのは相当不自然になる。
壱岐からみれば、唐津も前原も同じような距離なのに、
どうして直接伊都国に行かなかったのか。
わざわざ、唐津で船を下りて前原まで歩く理由がどこにあるのか。
また、奴国を福岡市付近とすれば、これもおかしい。
地図を見ると、唐津から前原までの距離と前原から福岡市までの距離は
だいたい同じくらいなのに、倭人伝には五百里と百里で違いすぎる。
不弥国を宇美町とするのもおかしい。海は港町ではないから、
ここから水行は出来ない。
やはり、倭人伝の記述は有明海に出たことを示していると考えたほうが良い。
だから、伊都国も前原ではなくなる。
もし、邪馬台国が近畿地方とかだったら、「女王國東渡海千餘里、復有國、
皆倭種」のように「海を渡る」の一言がありそうな気がする。
379 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 14:01:39
>>378 >海は港町ではないから
宇美は港町でないから、の間違い。
380 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 16:34:57
邪馬台国は明石だよ。
山ほど鯛が捕れるっていったら明石に決まってるじゃん。
381 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:16:12
九州はありえん、そんなんもん幼稚園生でも分かる。
382 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:56:01
>>361 おいおい。根拠の無いのは九州説の方だろ。考古学では畿内で確定してる。
「倭人伝解釈なら九州」とか言う、いい加減な奴がいるから、「九州説も倭人伝を
都合良く解釈してるだけでしょ?」と教えてやってるわけ。
例えば、宇佐にしても方角が全然合わないのに、未だに
固執してる奴がいるよな。
で、そんな奴に限って、畿内説の倭人伝解釈は無茶苦茶とか言う。
お前らの方も無茶苦茶だよ、と。
宇佐説の最大にして唯一の根拠が、八世紀の宇佐神宮。
まともに相手にする気も起こらない。
まだ西都原の方がマシ。
383 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 18:04:49
そういえば、筑後川の書いてた行程も酷かったな。
博多から宇佐へ行くのに、わざわざ鹿児島回り、って。
こういうのを本気で書く奴は、どんな頭の構造をしてるんだろ?
まだ恵也の方がましだな。
384 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 18:26:29
よく言われるひとつの推測として、魏使は邪馬台まで
行っていないのでは?と。
もしくは筑紫まで行った人の記録と、大和まで行った人の記録を
合体させて書かれたのが倭人伝ではないか、と。
大和まで行った魏使は、クニの官職名と、かかった日数だけの
簡単な報告書しか書かなかった。
おそらくは何らかの特命を帯びて急いでいたので、
ゆっくりとした国内観察が出来なかったのではないだろうか。
そうとでも考えないと、それまでの詳細な記述が、突然アッサリに
変わる理由が理解出来ない。
385 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 18:33:08
少なくとも、宇佐説は、畿内説と同じくらい、倭人伝の行程解釈が無茶苦茶ということで。
宇佐説他の九州説の皆さん。
もう少しマシな行程解釈を提案してみて下さい。
386 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 18:54:55
まともな行程記事の復元をやってるのが恵也一人という事態が、
九州説の没落・惨状を物語っている。
自身はろくに比定地を提示せずに、畿内説の倭人伝解釈は無茶苦茶と、文句ばかり。
自説を書けば、その文句が自分に返ってくるのが怖くて何も書けない。
更に酷いのは、単なるアンチ畿内説の輩。筑後川とかが最たる例。
自分はまともな考えも持ち合わせていないのに、他人を批判することで、
自分が偉くなった気になっている。悲しい輩。
387 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 19:36:35
>>384 魏の使者は、確かに女王国まで行ってないかもしれない。卑弥呼は人前に姿を見せない。
伊都国が邪馬台国連合の一つという事は定かである。そこから畿内にかけて、
バラバラに邪馬台国連合の国が点在していたとしたら、当時の倭国の大半を占める。
当時一国が郡ぐらいの大きさだった事を考えても、伊都国の近隣に、集中していた、と考えるのが普通。
そんな広い範囲を、監視して回るのは難しい。誰かも言っていたが、南方向の投馬国をなぜ
南と表記しながら、太陽の出る方角、東へと向かっていけるのか。
388 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:38:03
っていうか、畿内説の香具師も行程記事の復元なんてやってないじゃん。
>>386って、馬鹿?
389 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:42:52
もし、魏の使節が畿内まで逝ってたとすれば、後に神武が東遷する際に
たどった道とほぼ同じ道を逝ったんじゃないかと思うのだけど、神武は
どれくらいの時間をかけて畿内へ逝ったの?
そして神武も立ち寄った吉備の記載が無いのは何故?
390 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:46:19
分からない仕事なのに、しめきりが近づいたとき、でもそなんなに火急に厳密でなくてもいい場合
適当なこと書くって君たちも今日、やったんじゃないのか?
391 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:46:21
>>386はなあ、自分自身の事を自嘲の意味をこめて書いているんだよ。
解ってやれ!w
>>388 やってるじゃん、一応。
ツマ=吉備、ヤマト=大和
畿内説は、倭人伝の記述に誤りが多いという立場だからさ。
正直、倭人伝解釈だけの議論には飽き飽きしてる。
間違いが多いとされる史書を基準に議論したところで、
決着はみないだろうし。
君も、倭人伝には誤りが多いという立場?
「誤りはそれ程無い」と言うなら、具体的に行程解釈してもらいたいものだ。
恵也程度には。
393 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:53:48
>正直、倭人伝解釈だけの議論には飽き飽きしてる。
>間違いが多いとされる史書を基準に議論したところで、
>決着はみないだろうし。
これには禿げしく同意です。^^
>>388 倭人伝は誤りが多いという立ち場の畿内説の人間に、
行程記事の解釈を求めるのは、違うだろ。
倭人伝の行程記事がある程度正しいという人間にこそ、その行程記事に
出てくるクニがどこなのかを説明する義務があると思うんだけどね。
まあそれで、筑後川氏は自爆→逃亡した訳だがw
395 :
太国:2006/12/01(金) 19:57:34
>>392 誤りとはヘンが「言」でツクリが「呉」の文字であり、『呉』の国の言葉だと
いう漢字構成になる。陳寿は魏の国の人か?ww 呉の国とも関係があろう?
396 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:58:43
まあ、確かなのは、邪馬台国という国がある程度の力を列島で持っていたってコトだよね。
俺は、日本が一種の第一次鎖国状態になって内政をまとめ日本と号したときに、
魏志倭人伝の「邪馬台国」から「日本(やまと)」という国号を取ったと思うんだな。
397 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 20:06:38
>魏志倭人伝の「邪馬台国」から「日本(やまと)」という国号を取ったと思うんだな。
「ヤマト」とそいつらが名乗ったから「邪馬台」と倭人伝に書いたんじゃないの?
魏の連中は「倭人伝」とあるように「倭」という別称をもちいていたんでそ?
398 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 20:11:40
>>389 そうそう。吉備は、巨大古墳の土木事業が、進んでいて、明らかに、九州などとは
文化が違う。出雲もそう。今でも文化の違いに目を見張る事があるのに、
当時お互いの文化交流が、今ほど盛んではなく、独自の文化が、花開いていただろう。
魏の使者も、中途中途で、食べ物などを調達したり、船旅も夜間の危険な
航海はせず、陸に上がって、九州との食べ物や、風俗の違いを、見聞きしただろうに
何一つ記述が無いのはおかしい。水行十日、陸行一月、もかけながら、
宿泊した国の名ぐらい書き残せっての。そう思わない?
普通の郡使は伊都に留まり、わざわざ邪馬台国まで行っていない。
彼らは割りと気軽だったようで、色々国内見物やら倭人の葬式に参加も
していたようである。
特命を帯び、卑弥呼と会う必要があった張政と梯儁は邪馬台国へ
行っただろうが、急いでいたので国内の記述は詳しく書けない。
フミ以降が簡略されているのも、そのせいだろう。
400 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 20:25:12
え〜、「水行十日、陸行一月」がいそいでるの?
401 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 20:28:05
402 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 20:29:53
403 :
小手反:2006/12/01(金) 20:34:11
>>397 >「ヤマト」とそいつらが名乗ったから「邪馬台」と倭人伝に書いたんじゃないの?
そこなんだよ。でも、どう見ても、邪馬台国と大和朝廷は別種とも思えるのだな。
日本書記は、完全に大和朝廷が、ずっと昔から列島に居たと主張してるわけだが、
そのとき、外国の文献、すなわち魏志倭人伝に異なる記述があったら困るっしょ。整合しないから。
幸い魏志倭人伝はこのスレで論争されてるように記述が曖昧だから利用価値があった。
それで、「邪馬台国」ってかつての支配王国の名を引用して日本(やまと)として、
あとで倭の読みにも「やまと」の音を演繹していったのだったんじゃないかなと。
404 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 20:51:01
>>403 そんな事は世界では常識かも、イギリスではケルト系ブリトン人を駆逐して、
アングル人、サクソン人が侵入したにもかかわらず、自分達をブリティッシュと
いまだにいってるし、それがフランス移住して、ブルターニュという地方の元になってるし。
イタリアって確か、古代ローマに滅ぼされた、エトルリアが語源じゃなかった?
405 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 20:52:11
>邪馬台国と大和朝廷は別種とも思えるのだな。
同感です。私は魏志倭人伝に書かれている「邪馬台国」が九州に存在した時期に
「大国」が畿内にあったのではないかと思っています。もちろん「大国」の主は
「大国主」です。
406 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 21:11:52
>>405 大国主命は、出雲の人じゃないの?国譲りの伝説で有名な。
代わりに地上48mもの大神殿を建ててもらって、宮司になった、とある。
実際、大神殿の大柱の後が発掘されている。
誰かが命は四拍手で祀られていると言ってたから、大和朝廷側の人ではないわな。
407 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 21:24:27
そう。大国主は出雲の人です。と言うよりは、「出雲出身の人」というべきでしょうか?
畿内には、神武を九州から招いた勢力が国をつくっていたはずです。その畿内の「大国」
を造ったのはもともと出雲から来た勢力だったのではないでしょうか?
だからこそ、神武たち九州勢力に国を乗っ取られてしまった後、その「国譲り」の代償
として、ふるさと出雲に「大社」が建てられたのだとおもいます。
408 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 22:17:50
今日、大神神社の近くの談山神社に行って、
帰りに大神神社のかつての秘仏や安倍一族の寺社を見に
山道でバスを途中下車したら、
午後なのに東に太陽があると錯覚してしまった。
自分だけじゃなく、同行者もそうだった。
方角なんて太陽が出ていても見誤りやすいものだ。
月ほど劇的な変化がある訳じゃないしな。
ちなみに大神神社やこの辺りが、
狭義のヤマトだと高らかに主張していたな。
410 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 22:25:08
>>399 普通の郡使は伊都に留まり、わざわざ邪馬台国まで行っていない。
俺は行ってると思う。
使節団は卑弥呼に会えないで帰ったとは思うが、行ってなければ帯方郡→邪馬台国の
距離は星を見てしか出せない。
また上海の東という言葉も書けない。
411 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/01(金) 22:30:58
>>403 >邪馬台国と大和朝廷は別種とも思えるのだな。
別種じゃないよ、鏡や刀を大切にしてる種族で、系統的に続いてる。
畿内での鏡王朝の前の、銅鐸王朝とは系統が違う。これは別種だ。
しかし、邪馬台国と大和朝廷とは鏡で繋がってる同種。
412 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:36:47
>>411 当時、鏡と刀を大切にするのは、どこの誰でもそうだったんじゃね?
何を根拠に断言しているのか知らないけど。
413 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/01(金) 22:43:42
>>407 神武東征に関して、畿内で、大規模古墳がいきなり出てくる背景には、
吉備の古墳土木技術が不可欠だったと思うし、ずっと以前聞いた話なので、
うろ覚えで、申し訳ないが、前方後円墳の上部は平らで、円筒埴輪を並べた
のは出雲の風習か何かで、円筒埴輪の発祥も、確か出雲だったような。
それらが結集した格好で、畿内の古墳文化が花開いたと聞いたのを覚えてますが。
正確でしょうか?
414 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/01(金) 23:18:58
>>410 >距離は星を見てしか出せない。
新たな谷本氏たんじょうか?それとも古田氏の再来か?
太陽の次は星かい? 周(骨卑)算経かぶれになって机上の空論と現実を
取り違えぬように ガンガレ
八尺棒でも用意するか?
415 :
太国:2006/12/01(金) 23:38:38
>>408 ふむふむ、そうかそうか? なかなか勉強していてこの点は good だ。
有難う。間違い(誤りw)無いな?w
>>411 女王と大和朝廷の天皇とは人的には別種。双方が皇統ではない。
天皇は一系無窮であって、女王の系統も同種なら二系になってしまう。
断じて二系ではない。つまり別である。
416 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 00:09:58
恵 あるところですごいことになってるぞ大丈夫か
417 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 00:23:24
しかし、中国の日本に対する認識なんて、長くほとんどおとぎ話みたいなものだった。
列島が90度反転時計回りに反転している地図も山ほどある。
俺は九州説、畿内説のどちらにも、今のところ組してないが、どっちゃにせよ南は東の誤りだと思う。
418 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 00:35:54
419 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 00:38:42
でも日本書記によると邪馬台国は畿内だね。
(´-`).。oO(どこまでネタなのかわからない最近のこのスレ・・・・・)
421 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:11:02
>>382 畿内説は方向が滅茶苦茶 宇佐は元は比売大神の国東にある神社だよ
君は大和マキムクトンデモ論者かい?w伊勢神宮の歴史を勉強しようねw
そのうち偉そうに人前で喋って大恥じ書く前に。
アマテラスを祭った京都の神社を移しただけで、伊勢にはなにもない。
祭った神さんがアマテラスだからといって伊勢=卑弥呼=アマテレス〜 か〜www
東海と大和が連合政権だったなんて唖然な脳内。歴史を勉強しなさい。
君は執拗に煽っているので、相手してほしいのが丸見えなんで気の毒だが
トンデモ論者とわかったからにはちょっと・・・なw
これでここで煽ってばかりの畿内説者がなかなか自説をいわなかった
のがよ〜〜くわかったよ。いや理由ってあるものなんだな。
422 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:13:23
>>383 投馬の位置は決定してない。なんでそんなに必死なんだ?
423 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:17:43
2chのいうのは書いたもの勝ちってところがあるからね
あまり深く関わらないほうが身の為だよ
424 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:22:47
>>423 ・・・・いやあ、なんか必死で煽ってるみたいだったからさw
返事してやらなきゃ可哀相かなって・・
425 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:36:19
邪馬台国論争って、位置がよく問題になるけど、どっちにしろ
その後の歴史とどうつながるのかが知りたいね。特に大和朝廷
との関わり。
関わりがあるの? ないの?
426 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 01:42:43
ないんじゃねーの?
427 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 02:29:46
>>425 直結だろ。
「邪馬台国」は「やまとのくに」と読むのであって、「ヤマタイコク」なんて読みは戦後の間違った読み方。
428 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 02:38:24
>>427 戦後の読み方などというのはいい加減な説
ヤマの発音部分が同じだけで違う国名の可能性もある。
大和は当て字だということを忘れないように。
429 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 02:40:06
そのうち明治神宮が邪馬台国だったって出てきそうだよね
430 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 02:43:35
>>428 倭人の発音を聞いて,漢字を当てただけだよね。他にも似た国名だらけだもん。
畿内説は自説を提示しないというが
そこが考古学に重きをおく畿内説論者の特徴なのではないでしょうか?
432 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 02:51:09
それは詭弁
>>419 >でも日本書記によると邪馬台国は畿内だね。
卑弥呼の倭王偽僭説が、記の歴史観だったのではないでしょうか?
>>422 だって、実際そうじゃん。
九州説でまともな比定地を提示してるのは恵也だけ。
あとは「畿内じゃないどこか」というアンチだけだろ。
情けない。
435 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 04:06:59
2chがすべてか・・・
>>373 社伝は伝説・神話としての話
由緒書は一応史実のつもりの書。名前は地名からとってあるだけ
>>431 倭人伝無視で考古学重視の畿内説というもをぜひ読んで見たいね。
過去レスを振り返ると鏡や年代では九州論者に次々と論破されているよう
だけれど。
倭人伝重視の方向違い妄想ルートで自己完結してるアレwみたいなのじゃなくて
ちゃんとしたやつね。
>>434 まともな比低地とかいう発想自体が情けない
439 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 05:12:00
倭人伝は後に編纂されたものだから旅行記とは少し違う...一度きりどころか
何度もいってた倭に詳しい人間があれこれまとめたものだと解釈すべき
ところで
>>8 アトラスで見ると帯方郡から見て東南がまさしく九州島
距離からいっても出雲の存在からしても北に伸びる本州島の存在を知らない
訳がないだろう。
彼らにとって、倭はまず伊都が入り口でそこから邪馬台国までが知りうる存在。
邪馬台国の東の大海を渡ったことはなく、その先も島が有り倭人がいることだけは
知っている。そこで東南部分に限定。
440 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 05:43:01
邪馬台国の「台国」は尊称ではないか?
台城(皇居のこと)、台閣(現代の内閣みたいなもの)、台府(行政機関)
などという語もある。
「女王の都するところ」すなわち「台国」であり、それが邪馬(やまとyamat)という地名だから「邪馬台国」なのでは?
441 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 05:52:46
あるいは「対馬」を「つしま」と読んでいる以上、「邪馬」も「やしま」と読むべきかも。
「やしま」といえば大八島、つまり日本国のことですよね。
「やしま」の「台国(首都)」、これが邪馬台国なのでは?
・・・やっぱし、妄想かなあ。
442 :
サガミハラハラ:2006/12/02(土) 08:31:50
対馬の語源は対(ツイ)の間です。
北島と南島が同じ大きさで並んでいるでしょう。これを対になっているといいます。
間は居間客間土間などの住居の間と同意であり、対になっている国とか地域という意味です。
443 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 09:14:35
>>437 九州説は考古学の本流を否定しなければ成立しないからな。
必死に難癖つけて、突っ込みどころがいっぱいなどと言ってるけど、
裏返せばそれだけ畿内説の根拠が多いって事。
444 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 09:25:47
九州説の投馬国・邪馬台国の比定地候補として、こんなのはどうだろう。
投馬国が三潴(みづま)郡。邪馬台国が山門(やまと)郡。
現在の地名で言えば、投馬国が久留米市の南西部、邪馬台国が瀬高町あるいは
八女市付近。隣り合っていることになる。
地名からいくとこれになるかな。
不弥国から水行の意味がわからないのと、距離がちょっと近すぎるかなと
いう欠点があるけど。
まあ、一つの意見として。
>>441 う〜ん・・・
宇佐周辺の耶馬のつく地名はは全部「やま」と読むから
山=ヤマ=耶馬 でいいんじゃないかと思う。耶馬溪は「ヤバ」というけどね。
あと八幡もヤハタ、ヤバタ、ヤマタとか結構いろいろ話によって読み方がかわる。
>>443 過去レス読む限り、な「考古学」畿内説に九州説のひとたちが
考古学と歴史学の両方の知識をもとに紳士的・誠実に即効、反論したのに対し
そこにある畿内説の人間は「アフォか」「死ね糞豚」「妄想」などと
いうだけ。完全に論破されている。それからの返答文もすべて野次と学問には関係ない
「そんな証拠がないから、こっちが悪いという証拠もない」という詭弁に終始。
こんな2chでも誠実に答える博識九州勢・吉備説者に対し、ブチ切れるしかない畿内派。
同じレベルで議論できる畿内派は、少なくとも2chには存在していない。
あ、ちなみに自分はさっきロムっただけです。
>>446 何処を読んだらそうなるのかと小一時間(ry
>>446 九州説が相手にする価値も無い安本説や本居宣長などを繰り返すので、
一部の畿内説論者がまともな反論をする気力も失せて
そういう態度を取ったところでも見たのかな?
>>373 記紀の天孫降臨の部分に宇佐の豊玉比売として
でてきます。
450 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:22:21
>>446 当たっている。ここの畿内説の人は自分の意見を言わない。
>>443にしても、「裏返せばそれだけ畿内説の根拠が多いって事」
といいながら、その根拠は全く示さない。
是非、根拠が出てくることを期待したい。
451 :
太国:2006/12/02(土) 10:25:39
>>443 もともと 考古学とかで、玉(倭人伝)王(記紀)より飛車(考古学)をかわい
がるで、一見科学のメスを正規に入れている論者だと誇っているようだが、単に
考古学の名の衣装をかぶっているだけの変装なのだよ。
その彼らは、迷推理の
ヤマタイ→ヤマト
考えが脳内の奥に設定、蓄積されて、次いで
ヤマト→大和→(考古学+)畿内説
と強信して抜けられずにはまってしまい、明智小五郎にはなれぬ連中なんだよ。
ヤマタイ→ヤマト の思いこみはかなりの者がひっかかって、失敗に至るのさ。
452 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:28:44
>>433 日本書記の神功皇后のところに、「魏志倭人伝」に書かれてある
なんちゃらはこれのことである。って書いてあるんだよね。
少なくとも、書記の編纂者が卑弥呼は神功皇后なんだよーんって
思わせたがってるのは明らか。それが事実かどうかは別にしてね。
女王でなく皇后にしたのは、天皇家は基本、男系(武力系)だという自負なりが
あったからじゃないのかな。この辺の政治的思惑は、今の女帝論とも通底していると思う。
453 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:30:55
邪馬台国は耶馬溪?
454 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:31:41
耶馬溪に七万戸も入らないよ。
>>450 畿内説から根拠が出てないのなら、
九州説からどうやって反論が出たというのかね?
矛盾してるよ。
456 :
太国:2006/12/02(土) 10:38:17
>>452 ちっとも明らかでない。
だいたいなんちゃらでは何だか分からない? 神功39年のことかい?
編者らが卑弥呼は神功皇后であると紀に記述があれば、明らかであると
言えると主張できようが、そんな記述はないはずだ。そういう記述がなく、
編者の心を読み取ることは明らかにはできぬが、合理的他の記述、文献と
かから推察するは当然可能であり、そのやり方、取捨選択で読み取れたか
否かを判別することになろう。
458 :
太国:2006/12/02(土) 10:43:40
>>457 それは当然 ちっとも ではないか。君らは観音菩薩がマリアさまだと
して、これが明らかだとか言ってるのと似てるぞ。w
宇佐の山門という説ですが・・、前から指摘されているように、現在の宇佐神宮は
もともとは国東の比売神を祭っているものです。
他国と比べて人口が圧倒的に多いことや海に関する描写が多いこと、発音から想像するに山国
ですから宇佐だとしたら山門郡だけでなく、当然国東や山脈の続く内陸部
海側の平野部、ひょっとして大分を通りこすほど超大国だったのではと・・・
関係ないようですが、あの辺りは活火山が多く温泉が海に流れ込むので、川も海も
魚介類が異常なまでに豊富、稲作も非常に盛んなので地元民は
地元の野菜・米・魚で間に合いまして、他県から食料の調達が茶葉以外に
全く必要ありません。 このことから古代に人が多かったのではないかと・・
ただ気になるのは・・・柑橘類も非常に豊富で非常に好まれていますが、
倭人伝ではみかんの一種を食べないと記述がありますね。ここがひっかかります。
460 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:49:25
>>456 おい、耳かっぽじってよく聞けよ。
魏志倭人伝
「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献太守劉夏遣吏将送詣京都」
日本書記巻九 神功皇后
「魏志伝。明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝……」
これ見たら、日本書記の編者が卑弥呼を神功皇后と思っていた、あるいは
思わせようとしたのは確実だろうが。
今一度、念を押すがそれが事実かどうかは別だ。
461 :
太国:2006/12/02(土) 10:56:25
>>460 それは取捨選択の当否が合理的で納得できれば、思っていたとの可能性が出て
くることは言えるが、ちっとも明らかではない。再度言うが可能性はあろう。
編者が思っているとの論にはなるから、その主張は相当の参考にはなる。ただ
それだけじゃぁ推察に留まり、明らかまでは言えない。
462 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:57:28
>>ふとくに
それにな。日本書記に編者が
「魏志云卑弥呼此神功皇后也」
なんてガキの嘘みたいなこと書くと思うか?
日本書記編者は魏志の邪馬台国は大和朝廷と別系だったから
日本書記内においては、邪馬台国はさらりと処理せざるを得なかったと俺は思うんだがな。
463 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:57:31
>>449 豊玉姫(古事記では豊玉毘売)は、古事記でも日本書紀でも、海神の娘と
なってますね。ニニギノミコトの子であるヒコホホデミノミコト(山幸彦)
が海幸彦とのいさかいのあと、船で海神のところに行くわけだけど、
その海神の長女が豊玉姫。豊玉姫は、ウガヤフキアエズノミコトを生みます。
ウガヤフキアエズノミコトの子が神武天皇なわけです。
宇佐とは関係ないみたいだけど。
464 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:58:54
>>462 じゃあ、なんだ。おまえは俺の主張の内容ではなくて、俺の「明らか」と言った
ドラスティックな言い方が気に入らなかったわけか?
465 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:59:42
466 :
太国:2006/12/02(土) 11:01:42
>>462 だから、そう書いてあれば明らか、明白との論は強く言えるよ。
ないんじゃぁ、いろいろ資料、文証等を集めて論じ、それが合理的であれば
あるほど、可能性は強まる。
467 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:07:02
468 :
太国:2006/12/02(土) 11:12:27
>>464 気に入るとか入っていないとかではない。
明ら、明白とは、とりわけ証拠などを持ってこなくてもなるほどと言える位
のことではないか。裁判で被告も原告も裁判官らも一致してそうだと言って
くれる位ならば明白と言えるわけさ。
幾何学の証明でも明らかならばやることはないし、明らかでないことは証明せね
ばならない。それがなんちゃら〜とかでは明白、明らかとは言えない。
たとえば平成天皇は平城天皇ではない。これは証明はいらんだろう? こういう
のが明らかと言えるんだよ。感情的になったんじゃぁ駄目だ。誰だって否定
されれば頭にくるやも知れぬが、そんなことで怒ってはならんぞ。
469 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:14:02
>>468 言葉使いの話がしたかったら他のところ池。バカ。
470 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:16:59
ここですか?読みかじりの知識を書き並べて、悦に入ったり、ケンカしたりするスレは。
471 :
太国:2006/12/02(土) 11:17:53
>>469 言葉使いだと? だから率直に言うと、明らかとは証明が必要がないこと。
明らかでないとは証明が充分必要になる。
>>444 あ、君のは宇佐の山門郡じゃなくて八女の山門郡か・・(汗
って今思ったけど、ヤマトと発音するところは日本中の至るところに
点在してる。山門郡、山戸町、山都村・・・・ひょっとして大和は山都なんて
地名を大和に変更だけかもしれんよ。奈良の山中なら有りえる。
>>470 >ここですか?読みかじりの知識を書き並べて、悦に入ったり、ケンカしたりするスレは。
そうです。いやなら来るな。出てけ。二度と書くんじゃねーよ。
474 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:21:21
>>470 そうですよ。あなたのようにチャチャを入れる人の来るところではありません。
476 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:27:48
>>472 現在の地名というよりも、福岡県の三潴あるいは山門は、延喜式(10世紀)
に載っているのです。つまり、1000年以上続いている地名です。
>>421 アマテラスを祭った京都の神社を移しただけで、伊勢にはなにもない。
京都の神社の意味が分からない。
筑後川は、また変な本読んでるの?
478 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:32:52
>>475 あなたが示したホームページの一番下の『戻る』を2度押してみたら、
由緒書きが出てきますよ。
>>446 >考古学と歴史学の両方の知識をもとに紳士的・誠実に即効、反論した
ないないw 安本HPの妄言丸写しして失笑をかっただけだろ。
庄内甕が九州発とか、画文帯の殆どが後世の国産だとか。
なぜ、こうまでネット情報しか見ないんだろう。
本屋とか図書館へ行けば、もっとまともな情報が読めるのに。
>博識九州勢・吉備説者に対し、ブチ切れるしかない畿内派。
物凄い自己正当化だな。笑わせてもらったw
本気でこんな被害妄想があるんだったら、2ちゃんは止めた方がいいよ。
専門医に相談すること。ネタなら構わないが。
あと吉備説の人なんていたっけ? 楯築墳丘墓とかを卑弥呼の墓とかを
言ってるの?
480 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 11:44:24
>>437>>446 よくぞ読破されました事に敬意を表します。そしてその通りです。
初めて読む人にも、正直そうとしか思えない内容になっています。
畿内論者が、「九州論が、比定地もろくに定められず」というのは詭弁で、
「他説争っている」事実こそ、九州内に女王伝説などや、
倭人伝に符合する、地域の多さを物語っているのです。
481 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:57:14
>>479 >本屋とか図書館へ行けば、もっとまともな情報が読めるのに。
それでは、どうしても自分の見たい本に目が行ってしまう。
偏った本ばかり読むことになってしまう。
>あと吉備説の人なんていたっけ?
いたよ。もう少し意見を聞きたい気もするが、少数派なので孤立してしまう
みたいだなあ。
でも、吉備説の人の意見もちゃんと読んでますよ。吉備説の人、ご心配なく。
>「九州論が、比定地もろくに定められず」というのは詭弁
事実だろ。宇佐と西都原、甘木くらいか。
それぞれが、ちゃんと倭人伝の行程記事に合わせて説明できるのか?
(恵也のは何度も読んだので、書かなくていい)
出来ないなら、倭人伝に基づいた畿内説批判自体、諸刃の剣になるよ。
倭人伝には誤りが多い。これを前提に、考古学>倭人伝で
考えていくべき、というのが俺の立場だから。
>>481 それでも、安本ホームページを読むだけよりは大分マシだろ。
あとNHKしか見ない奴もいたな、確かw
現在の考古学の成果について、自説に都合が悪いから、端から全否定。
まともに読もうともしない。
これが学問的態度と言えるのかどうか。
あと、吉備説は検討の意義はあると思う。
直弧文とか円筒埴輪など、畿内前方後円墳体制に多くの影響を与えている。
庄内甕も吉備の技術がかなり導入されてるみたいだし。
484 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 12:08:07
>>322 >だから、その経度はどうやって測ったんだよ。
言葉足らずだったからもう少し追加する。
帯方郡が基準になってるから、ここにはそれなりの天体観測のデータはあったと推測する。
具体的に恒星である北斗七星を例に取ると、これは北極星を中心に1日24時間で一回りしてる。
ヒシャクの先端α星という恒星と北極星を結ぶ線と水平線との角度は、太陽が出る寸前の時
基準点である帯方郡では月日によって一定になってる。
そのデータさえあれば、邪馬台国での角度との差が経度と直結するわけだ。
たぶんここで5度くらいの差が出てるはず。よって経度が5度*100km=500km
という計算結果、経度方向に500km離てるというわけ。
(頭の真上を回る0等星アークトウルス星だと、もっと簡単に測定できると思うけどね)
485 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 12:15:21
>>479 >本屋とか図書館へ行けば、もっとまともな情報が読めるのに。
あんたね、そこで洗脳されたようだけどだからといって正しい論理とは限らない。
単にオラガマチの偏見から、論理を組み立てた可能性も十分ある。
486 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 12:22:45
>>483 >倭人伝には誤りが多い。これを前提に、考古学
馬鹿としかいえない。
倭人伝の方向や距離を誤りが多いなんていったら、倭人伝の証拠価値がなくなってしまう。
ごく一部の方向や距離の書き間違いというのなら、あり得るが南を東と間違えて一杯書く
なんて常識では考えられない論理。
学問以前の問題!
>>485-486 そうそう。色んな説を読んだ上で、取捨選択することが大事。
だから本屋か図書館へ行けと。
俺も一応、安本の説も読んだよ。
>倭人伝の方向や距離を誤りが多いなんていったら、倭人伝の証拠価値がなくなってしまう。
まあ、そういう結論になるね。
3世紀の倭の政治状況が分かる一等史料という扱いでいいのでは?
方角やら距離、戸数など間違いが多く、アテにしない方が賢明。
488 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:35:13
>>483 都合の良い本ばかりしか読んでいないから、多分、安本説もよく知らないん
でょう?
庄内式の開始時期については、だいたい西暦200年頃から、300年頃
まで意見が分かれている。
吉野ヶ里から邪馬台国が見えると言った吉野ヶ里遺跡発掘責任者の高島忠平氏
は、西暦300年説らしい。だから、吉野ヶ里遺跡と卑弥呼の時代は重なると
いうわけだった。実は吉野ヶ里遺跡が急激に衰退するのは、庄内式の開始時期の
頃らしい。
しかし、庄内式の開始を西暦200年頃とする畿内説の一部の人の意見では、
吉野ヶ里と卑弥呼は重ならない。
土器に実年代をつけるのは難しいが、それを間違えると、かなりおかしなことに
なるわけである。
畿内説は、庄内式の開始を西暦200年頃に設定することによって
成立する。しかし、これは一部の人の意見なのである。しかも、かなり
新しい説である。どうして遡ったのだろう?
しかも、庄内式を古墳時代と考えるのも実は意見が分かれる。
弥生時代と考える人もかなりいるのである。
畿内説の考古学はかなり都合の良い(身勝手な)考え方をしていると思う。
>南を東と間違えて一杯書く
>なんて常識では考えられない論理。
真っ直ぐな一本道ならそうだろうね。でも実際は違うし。
九州説では、魏使を一ヶ月間山歩きさせたことになってるらしいけど、
曲がりくねった山道とかを歩いてて、方角を見失わないなんてことが
あるのだろうか?
あと福建の東という思い込みがあって、東を南に訂正した可能性も。
司馬懿の功績を過大にするために、対呉戦略上、倭が重要であると
思わせるため、実際より南にさせたなど。
史料解釈は、頭から信じるんじゃなくて、色々な角度から考えるべきものだよ。
>>484 >太陽が出る寸前の時
>基準点である帯方郡では月日によって一定になってる。
>そのデータさえあれば、邪馬台国での角度との差が経度と直結するわけだ
まったく意味がわからない。
まさか、帯方郡と邪馬台国の日の出時刻が同じと考えてるんじゃないだろうな。
491 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:49:27
>>489 方向ということでいうなら、畿内説では絶対に考えられないことがある。
「女王国の東に海を渡ること千里で、また国がある。皆倭種である」と
いう文章。
近畿地方の東に海を渡っても国はない。北でも同じ。
しかし、九州なら考えられる。
492 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 12:51:48
>>483 >直弧文とか円筒埴輪など、畿内前方後円墳体制に多くの影響を与えている。
古墳時代に、日本中がお互いに影響しあった事を誰も否定はしてないよ。
特に古墳の関連技術は、大流行したたんだし畿内に巨大な古墳が多いからここから
日本中に影響を及ぼしたちうのは常識というべき。
しかしここで論議してるのは、古墳が大流行する極初期の邪馬台国がどこだったかという事。
卑弥呼の100歩(30mくらい)の円墳がどれかという問題。
この程度の大きさの円墳ならザラにあるからね、日本には!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
(長歩)で考えると4メートル以上の幅となり畦道としては広すぎると思わ
れます。 通常あぜ道は人が一人通れる程度と考えれば80センチメートル弱で十
分と思われます。このことは、1歩が25センチメートル程度の短歩の存在を示唆して
いると考えられます。・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
春秋・戦国時代、1日に千里を行く馬が名馬とされました(千里馬)。これを長里で
考えると500キロ前後となり、現実の話にはなりませんが、短里ならば80キロ程度と
なって現実感が出てくるように思います。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page003.html
まず朝鮮に住む人間が本州部分を知らないわけがない
朝鮮半島から九州に船で向かうときに九州と東北に伸びる本州島の両方が
はっきり見える。地図の正確性なんかともかく、本州島が南に伸びたと思って
たなんて言い訳は通用しない 航海時の方位測定は彼らにとって命がけ。
進行方向を間違えたりはしないよ。
>>488 高島忠平氏と安本氏しか、そんな実年代観は言ってないよ。
かなり異端の二人を出して、そちらの方が正しいとゴリ押しする
のはどうかと思うが。
そもそも、その二人の実年代には、何の根拠も無いことを知ってる?
高島氏は吉野ヶ里を、安本氏は平塚川添を邪馬台国だと強固に
信じていて、それに都合のいい実年代を主張してるだけ。
そんなもので、他説を批判されてもねえ(君がだよ)。
495 :
太国:2006/12/02(土) 13:02:41
>>482 考古学っていうのは近代出来た文説の類で、倭人伝というのは古代にできた文説
である。後者は誤謬を含んでるとは言え考古学より古代に関しては具体的知悉度
が多いと考えている。さらに考古学でさえ今後に定説を変える可能性がある以上、
考古学も誤謬を含んでいると観るべきである。
かようなことで、女王国に関しては 倭人伝>考古学 とする考えをとる。
20日位前の記事で臥海は、超古代史で白亜紀の次、第3紀と第4紀を変更させ、
パラオジーンとネオジーンに組換えて期間までも改正している。このように超古代
の考古学とやらがいい加減に出来ていることの証左でもある。
これからも考古学はクルクルクルクルと内容が流動的に変化しそうなので、
これを文献より重宝するのは失敗の始まりとなる。
496 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:03:42
>>489 >曲がりくねった山道とかを歩いてて、方角を見失わないなんてことが
>あるのだろうか?
>あと福建の東という思い込みがあって、東を南に訂正した可能性も。
陸行1ヶ月の九州横断では方向は書いてないだろう。
実際に書くには、天気が1ヶ月全部良くないと、方向を書くわけにはいかない。
「会稽の東治」が福建省にあるというけど、これは上海の「会稽の東治」の連中が
晋の時代に、呉を占領して福建省を支配したときに名付けた地名じゃないのかな。
上海の「会稽の東治は、三国志演義でも臥薪嘗胆の話でもずいぶん有名な場所。
だからこそ陳寿は有名な場所を判りやすく例えに出したんだろう。
>>493 だからさ。何度も言ってるんだけど、
そこまで倭人伝の記述が正しいと言い張るなら、
その「正しい」倭人伝の記述から、邪馬台国の場所を割り出してよ。
出来ないってことは、方角とか距離を間違ってるからでしょ?
498 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:08:24
>>490 >まさか、帯方郡と邪馬台国の日の出時刻が同じと考えてるんじゃないだろうな。
間違い!
天体図から現在地を調べるには、正確な時刻が必要。
日の出の時間によって、時計代わりにし天体図の回転から現在地を調べる手法なんだよ。
まあ、これほど正確な時計はないでしょう。
>>496 >陸行1ヶ月の九州横断では方向は書いてないだろう。
は? 書いてるだろ。倭人伝に。
>天気が1ヶ月全部良くないと、方向を書くわけにはいかない。
普通は案内役の倭人に聞くだろうけど。
>「会稽の東治」が福建省にあるというけど
実際、倭人伝に書かれている風俗は、かなり南方系。
緯度的には合ってるな。
しかし北部九州は結構寒いし、この辺りにも、倭人伝の間違いがありそう。
500 :
太国:2006/12/02(土) 13:12:48
>>495 訂正
× パラオジーン ○ パレオジーン
501 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:14:24
>>493 >進行方向を間違えたりはしないよ。
俺も方向では古代人は、めったに間違いはしないと思う。
現代に人間よりははるかに、星の運行や占いなどで詳しかったんじゃないかね。
特に旅行では迷子になったときには、絶対に必要なのが方向だ。
俺も熊本で夜、迷子になった時に車から出て北極星を見つけて帰ってきた。
今の人間で北極星を何人の人が見つけ出せるだろうか?
>>498 >天体図から現在地を調べるには、正確な時刻が必要。
だから、邪馬台国にいる魏使が、経度の違う帯方郡の正確な時刻を
どうやって知るんだよ。
>>501 魏使がわざわざ方角を確かめながら進んだとは思えないが。
案内役の倭人の言う通り歩いただけだろ。
言われたとおり歩くだけなら、方角が分からなくなるのも無理は無い。
504 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:22:44
>>494 >そもそも、その二人の実年代には、何の根拠も無いことを知ってる?
間違い!
あなたがその根拠を知らないだけの話。
根拠もなしに、どうやって実年代を出すんだい?
下のHPは安本氏の系統の奴のようだけど、少しくらい読んだ書いたらどう?
ーーーーー(引用開始)−−−−−
炭素14年代法よりも高精度であるとされる年輪年代法でも、得られた木材の伐採年代と、
文献や土器などから得られる年代との差は、下表のように整合しない事例が多くある。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm
505 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:24:32
>>494 以前は、西暦300年頃が定説だった。古墳時代も4世紀に入ってから。
だから、卑弥呼がもらったと仮定した三角縁神獣鏡と出土した古墳とは
年代が合わず、伝世鏡理論が出てきた。
しかし、一部の学者(寺澤氏と石野氏くらいかな)は、庄内式の開始時期を
相当に遡らせた。
多分、西暦200年頃というわけだろうと思う。
三角縁神獣鏡がだめになって、それしかよりどころがなくなった今となっては
策略かなとも思う。
これはなぜだろう。どういう理由で遡った?
ちなみに、たしか高島氏は、八女付近が邪馬台国だろうと言ったのを
聞いたことがある。吉野ヶ里とは言っていない。
506 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 13:24:39
>>449 興味深い発言です。宇佐に祀られているのは豊玉ビメかもしれない。
三女神のうち、一つは卑弥呼かといわれるから、{トヨ=とよたまひめ
として}卑弥呼ではなく、トヨなのかも。
九州には他にも女王が幾人もいた、とされるから、まとめて合祀しているとも考えられる。
507 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:29:48
中国から見たら、日本なんて明治以前は何のとりえもない屁みたいな国だったという事実が
すっかり抜けているな。日本国内の方角がどっちだろうが知ったこっちゃない。
というノリだったんだよ。魏志倭人伝なんかも。
今の中国の地図でさえ、日本列島なんか端っこのほうで歪曲して
「これが日本かよ。やめてよ」みたいな感じなのに。
508 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:30:49
>>497 >その「正しい」倭人伝の記述から、邪馬台国の場所を割り出してよ。
何回出したら気が済むんだ。
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
しくは2日とし 1日平均5km進むとする。
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
八代平野も領土とする)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→宮崎市・・「ここが邪馬台国」
509 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:36:04
>>499 >は? 書いてるだろ。倭人伝に。
それならアンタが原文を出してくれ。
案内人に九州の山奥で方向を聞いても、屁のツッパリにもならん。
山奥じゃ川や山に沿って、逆方向にだって歩くんだよ。
宮崎だったら黒潮がぶつかる所だし、日本でもずいぶん暖かいところだろう。
お米の2期作だって出来るのじゃないかね。
ここじゃマイナーだろうが、自分は南=伊都or帯方郡からみた
国の方位, 距離(日数)も伊都or帯方郡からの投馬、邪馬台国それぞれの
記述だと分けて解釈してる派なんだよね。決め手がないんだが
原文読んだ感じで。和訳じゃなく。
だから実は投馬の位置はどうでもいい・・・熊本辺りじゃないかと思うんだが。
しかも自分は書いた本人は投馬と邪馬台国には行ってないと思うんだな、これが。
伊都周辺なんかには実はよく行ってて観光したり接待受けて倭には詳しい。
あとは、女王国にレギュラーの遣いや地元の官史なんか呼んで報告させて
編纂した。そんな感じ。大体さ、貢ぎまくり魏の遣いに倭王が面会しないとは
おかしいと思う。ま、一論・・
>>505 >これはなぜだろう。どういう理由で遡った?
いや、もうこのスレか、前のスレとかで何回も書いたんだが…
馬○にも分かるように分割して書いてやるから、よく噛みしめて読めよ。
@そもそも小林行雄が、倭国大乱終結と弥生後期の始まりを同時期と考えていて、
弥生後期の始まりを2世紀末。古墳時代の始まりを3世紀末〜4世紀初頭と
考えた。
安本とかが言ってる、実年代の根拠とはこの程度のもの。
続きはまた後で書くよ。
512 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:40:28
>>502 >経度の違う帯方郡の正確な時刻を どうやって知るんだよ。
日の出より正確な時計があるか!
帯方郡の日の出と、邪馬台国に日の出と時間が全く違うだろう。
だからこそ、その間に天体が回った角度が経度の差になるんだよ。
その差が5度くらいあるからちょうど20分、邪馬台国が時間が早い。
513 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:47:18
>>506 >九州には他にも女王が幾人もいた、とされるから、まとめて合祀しているとも考えられる。
その可能性もあるが、俺は卑弥呼は一人じゃないと思ってる。
西暦200年の前にも卑弥呼の字が中国の古文書にもあったというし、それだと60年以上在位して
いないといけないので、この時代としては不自然。
台与も卑弥呼の1人に過ぎないのじゃないかな?
>>458 記紀の編者たちや、その時代の人間にとって、
卑弥呼が畿内の女王であるというのが常識であったと言うのは
記紀の記述から十分に考えられる。
これでいいか?
あと、古代に観音菩薩がマリアさまだと言った人間がいるのか?
スレ違いだからどうでもいいが。
515 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:51:21
対馬が「つしま」だから、邪馬が「やしま」つうのは面白い。
それで邪馬台国が宮崎なら、宮崎県の県木がフェニックス(椰子)だしな。
それに魏志には邪馬台国は温暖と書かれているから、なんとなく南国を想像するもんな。
奈良は結構冬寒いよ。
516 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 13:55:31
>>507 >中国から見たら、日本なんて明治以前は何のとりえもない屁みたいな国だったという事実が
間違い!
それじゃ、何で元は日本に2回も大船団を組んで攻め込んできたんだい?
むしろ昔から倭寇という名で、中国や朝鮮の周りを荒らしまわってた日本人連中を抑える為に
日本の中央政府の力を借りたかったようだぜ。
警戒もしない港湾都市を、突然重武装した倭寇が襲い貿易製品から全部、かっぱらわれたら
国家としても見過ごしは出来んでしょう。
追いかけようとしても他国に逃げ込んで生活してる日本人じゃ、戦争になるから攻撃も出来ん。
大昔から倭寇には苦しめられてたようだぜ。
>>512 その頃の時代の人間は、世界は平らな四角形だと思ってたそうだぞ。
北東に韓半島や満州があるから、倭は南東に伸びていると思われてたんだと。
あと、陳寿は長里を使っていた。
倭人伝では韓半島や玄界灘が大きくなってしまうので短里だと誤解されているが。
よって卑弥呼の墓も、百余歩で、九州には存在しない100m以上。
殉葬も、それくらいでなきゃ出来ないだろ?
518 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:02:01
>>511 それは違うだろう。
佐原編年も弥生時代を西暦300年頃までとしていた。
年代が遡ったのは、年輪年代が関係している。
池上曽根遺跡の神殿らしき建物が年輪年代法で紀元前52年と出た。
これによって、確信を得たように年代を遡らせる人が出てきた。
慎重な人もいたわけだけど。
しかも、池上曽根遺跡の場合は、伐採されてすぐに使われたとされた。
しかし、その後の年輪年代の結果は都合の良いように解釈されている。
法隆寺五重塔の心柱などは100年のづれがあるのに、保管されていたと
解釈された。正倉院の宝物では370年の誤差がある。
伐採されてすぐに使ったと解釈したり、370年経って使ったと解釈されたり
したらたまったものではない。
年輪年代については議論の余地がある。
>>512 だから、帯方郡の日の出時刻を、邪馬台国からどうやって知るのか、
と書いているのだが。
分かり易く書けば、魏では時計が既に発明されていたの?
520 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:02:49
>>516 倭寇が中国にとって問題になるのと日本が屁みたいな国と考えるのは矛盾しないと思う。
それと元寇については、むしろこの長い歴史の中で中国(モンゴル王朝だが)が攻めてきた
稀に見る例というほうが当たっているのではないか?
むしろその元にしても、チンギスハンから三代目にしてようやくの日本遠征だったのだから
後回し……いな、どうでもいいような感じに見られてるというほうが的確だと思う。
モンゴルのヨーロッパ大遠征だって元寇の30年前なんだぜ。
522 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 14:04:38
>>510 >貢ぎまくり魏の遣いに倭王が面会しないとは おかしいと思う。
これは卑弥呼が若い頃は相当の美人で、プライドの高い女性だったんだろう。
それがシワクシャのお婆さんになってしまったものだから、憧れの魏の使節団には会うのに
気後れして、断るために誰にも会ってないとか口実をつけたもの。
女性だから洋服やオシャレに気を使ってたんだよ。
魏の専門家の人間が行かなければ、邪馬台国を上海の東だなんて書けないよ。
523 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 14:07:13
>>511 >小林行雄が、倭国大乱終結と弥生後期の始まりを同時期と考えていて、
なんでそう考えたんだい?
そこから始めないと屁みたいな文章。
アンタの脳みそが屁なんかな?
524 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:08:46
>>521 放射性炭素による年代測定法はもっと誤差が大きい。
外国でも、年輪年代によって精度が確かめられるくらいだから。
名前はいかにも科学的で精度が高いと思われがちだけど。
525 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 14:10:16
>>514 >卑弥呼が畿内の女王であるというのが常識であったと言うのは記紀の記述から十分に考えられる。
どこのどんな記述から「十分考えられるのか」がなければ屁。
あんたも屁の仲間かな?
526 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:12:41
>>522 誰にも合わなくなったのはおばあさんになったというより、もう死んじまったのを
隠してたというほうが当たってると思う。
527 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 14:13:50
>>482 原文をよく読むと伊都国までの描写は、使者本人が体験したように詳しく、
その後は、人から聞いた話のように雑になっているので、どうも伊都国までしか行っていないと思われる。
故に、投馬国への水行二十日は地元の人が、舟で、言った場合を又聞きしたものであろう。
それと、帯方郡から女王国まで一万二千余里。そのうち、くや韓国まで、七千里、
九州上陸で約9割がてら使っている。女王国は伊都国からそう遠くではない。
水行十日、陸行一月は全道程を復誦したもの。クナ国の長官、ククチヒコの名が出てるので、
熊本県菊池がクナ国、伊都国に一大率がいたので、女王国はその南にある。
奴国を邪馬台国連合国の境である、としていて、東の海を渡ると、そこにもまた倭人の住む島がある。
これらの事から総合して、甘木から八女にかけてのどこかだ、というのが簡略的に言って、
九州ですが、の説ですが。
528 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 14:17:09
529 :
太国:2006/12/02(土) 14:17:44
>>514 一応、相当程度ありうるかも知れない。なぜなら、編者と言ったって、ただ一人
じゃぁあるまい。まさか舎人さん単独ではないだろう。つまり編纂するくらい
だから多勢ということが言える。正確な数は分からんがね?w
ということは、その連中の中に卑弥呼が畿内の女王ではないのか?と思った輩が
どのくらいかは知らぬがいたであろうことは推察できる。
観音菩薩とマリアさまとは、これはたとえ話だよ。古代にそう言った人間がいる
かいないかということを言ってるんではないわけ。
530 :
517:2006/12/02(土) 14:20:38
先に書いとくが、ギリシャの知識人は、球体だと知っていた。
531 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:20:44
>>516 「倭寇」については、別の見方もある。
当時、明は鎖国政策で自由貿易を禁止していたため、日本と交易していた人々が、
「倭寇に奪われた。」とウソの報告を役人にしていた可能性も高い。
事実、明が海禁政策をやめた年が倭寇終焉の年である。
あと、一般的には前期倭寇のみ日本人で(中期と)後期は中国、朝鮮人が主体と
されているが、前期が日本人という確証も実はない。伝承のみである。
実際は、海禁政策のなかで武装船による交易が行われ、一部で略奪があったと
見た方が良い。
倭寇は日本と中国の研究者で見方が大きく異なることにも注意。
532 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:21:31
播磨の斑鳩寺に、聖徳太子のものと言われてる地球儀があるじゃんよー。
533 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 14:23:48
>>517 >その頃の時代の人間は、世界は平らな四角形だと思ってたそうだぞ。
平らだと思ってても天体図がその周りを回ってると考えれば、同じ論理が出来る。
もちろん、帯方郡ばかりじゃなく洛陽やいろんなところで天体観測をしたたんだろ。
観測値の違いから、距離と角度の相関関係に気付くのは当然のこと。
534 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:24:14
>>531 その線だろうな。日本が問題にされてなかった国だったつうのは、確かに
日本人としては面白くなくところがあるが、事実は認めないと真実には到達しない。
535 :
sage:2006/12/02(土) 14:25:33
しかし、このスレのコテハン連中は、狼少年のように引っ掻き回すだけで
確固とした主張を持ってないように見えるんだが。
536 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 14:29:34
>>482 卑弥呼の鏡と畿内説が唱える、三角縁鏡、画文帯鏡もことごとく、論破済み。
しかし、畿内説はもっと早い段階で破綻している事を自覚せねばなりません。
「其死有棺無槨封土作冢・・・」と。つまり、
和訳:死ぬと棺に入れるが墓室のようなものは無い という事。
有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
木槨木棺墓の畿内は該当しないのです。
537 :
太国:2006/12/02(土) 14:29:53
>>529 そうか。記紀の編者たちが書くくらいの当時の常識を、
九州に似た地名があるとか、倭人伝の記述が九州ではないかという理由で
否定しようとしてるわけだ。
それで、記述どおりに辿って、どこが邪馬台国という事になった?
それとも、少しは記述と違う場所に比定した?
539 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 14:30:33
>>517 >あと、陳寿は長里を使っていた。
陳寿の書いた魏志倭人伝から出した里は「短里」なんだよ。
韓国から壱岐までは、確定した距離なんだから。
あなたは、どうして長里を使っていたと考えたんだい?
それに直径30mの大きさを、あなたは知らないのじゃないかな。
作ろうとしてごらんよ、バカデカイぜ!
あなたの家の何倍くらいだろう・・・・
540 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:32:11
>>536 では、そこでうかがいたい。
君がそこまで勝利を主張する北九州説が一般に認められない理由は何と考えるか?
541 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:39:23
>>540 九州説が、一般に認められているかいないかは別として、
一つ言えるのは、橿原考古学研究所みたいなマスコミをうまく利用する
広報担当の機関がないこと。
542 :
太国:2006/12/02(土) 14:39:40
>>538 何だか混線してるようで、言っている意味が分かりにくい。
編者の中には可能性として、そういう奴がいた可能性はあるだろうと
いうことで、余の論とはこれまた別だ。
記紀に記述は殆どないだろう。ただ神功39年のがそうらしいという
ことだ。記述が0に近いということは、畿内に九州女王国の情報が
少なかったから猫の額ほどの判然としないその記述で終わっている。
もし女王国が畿内にあるんならば、記紀に倭人伝以上に卑弥呼のなりふり
朝廷との付き合い等が多大の載るだろうが〜。
それとも卑弥呼が神功皇后だというのか?w そうじゃないよ。
これがマリア観音の習合論で、お粗末。ww
>>536 何時、どう論破した?
三角鏡の多くが国内産でしたという意味の無い批判しか見た事がない。
あと、温暖で、有棺無槨というのは、
倭地の事であり、邪馬台国のみを指しているのではない。
これも何度も言われてるのに、
九州説派は、かき回す事しか出来ないのか。
544 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:43:20
>>542 暴論だな。
膨大な歴史書の中で、僅かな部分であっても、
0ではなく、正式に書かれたものだ。
0ではない。
編者やその時代の人間は、
邪馬台国が畿内であるとしていたと考える根拠に十分になる。
545 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:43:28
>>541 それは、畿内説には公的機関のバックアップ=国家規模の黙認があるのに
北九州説には、それがないと解してよいか。つか、あんた九州さんかい?
546 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:47:10
>>ふとくに
おまえも本当にバカだな。
俺が言ったのは、日本書記が卑弥呼を神功皇后と「見せかけている」ってことだ。
「卑弥呼が神功皇后」とは言ってねえよ。
547 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:47:31
>>545 横レスでした。でも、物言わぬ専門家には評判が悪いよ。
マスコミを利用しすぎるって。
>>506 まず自分は宇佐の比売大神はトヨだと思う。卑弥呼でなく。
邪馬台国が本当に安定して繁栄したのはトヨの時代だと思うんだよね。
そういう感じの記述も見られるし・・。
あと宇佐近辺の豊前・豊後の地名とか、大分をトヨの国と呼ぶこととかね。
トヨが女王だった名残みたいな気がするでしょ。
まず何より、「豊」って漢字をトヨと発音すること自体、当て字だから。
で、実際は卑弥呼よりトヨ時代のほうが凄かったんじゃないかな、と思う。
豊玉比売と、宇佐の比売大神の伝説はなんか合致する部分もあるし。
549 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:56:09
>>547 そうですか。でもマスコミが流すことなんてお上の暗黙の了解の上でのものばかりでしょう?
そうすると広報力の弱い北九州説は、たとえ史実であっても
万世一系の天皇が今も日本の国体の根幹なのだからお上にとってははなはだ都合の悪いことである。
だから公的バックアップも、してもらえない。
だから北九州説は史実なのに近畿説を完全に駆逐できないのである。
この解釈でいいのかな?
550 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:00:57
考古学では畿内。
倭人伝解釈のうち、方角では九州。距離では畿内。
畿内の優勢勝ち
551 :
太国:2006/12/02(土) 15:01:07
>>544 まだそんな畿内説に郷愁を覚えているのか?w
それ以外に女王国らしい記述が記紀のどこにあるんだ? 畿内なんかにあるわけ
がない。倭人伝は日本の文献でない遠い大陸の文献であり、詳細に女王国の記述
が書かれている。記紀は日本の文献であり地図上で目と鼻の先の位置にくる
畿内説の女王国肯定論にしては猫の額ほどの著しく少ない記述ではないか?
これは女王国が畿内にはなく畿内から遠方の九州にあって卑弥呼の情報が畿内に
流入せず、お粗末な一点的記載に終わってしまったということである。
女王国が九州ならば、大陸に卑弥呼の情報が出て行きやすく、当然倭人伝に
記述できるくらいの内容が得られる。畿内からは畿内近隣より遠くなるため、
畿内には卑弥呼の情報が遠方のため物理的に得られにくい。
自分の家の貯金、会計の額、内容がだ、自分のほうは1行〜数行の記載しかなく
遠くはなれた他人の家のノートに多大な行、項目で詳細に自分の家の会計内容
が悉く知られているというのが、卑弥呼、女王国の古代史の状況なんだよ。
何故だろうか? 日本にある女王国だから日本の文献に詳細に記載がされるべき
であり、外国の文献には0か0に近い状態の記載しかないというのが自然な
成り行きではないのか? ところが皮肉にも事実は逆ではないか。
これは女王国が九州にあったことを意味しているのだ。
552 :
太国:2006/12/02(土) 15:03:09
>>546 そんなことではないだろう。誤魔化すな。明らかだとあんたは主張
したんだろうが。明らかではないということだ。
553 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:03:11
>>539 お得意のネット検索で、いくらでも出てくるだろ?
倭人伝だけ見れば短里に見えるが、三国志をちゃんと読めば長里。
それを無視して、いつまで短里を押し通すのかという事だ。
>>551 大好きな記紀に書いてあるんだから認めなって。
そして、邪馬台国が九州にあったなんて、記紀には書いてないだろ?
555 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:07:14
>>552 どうしておまえは、おれの「明らか」って表現ばかり上げ脚とるの?
そもそも、もういちど言うが俺は
「日本書記が卑弥呼を神功皇后、つまり邪馬台国が畿内にあったと見せかけているのは明らか」と言ってるので
「卑弥呼が事実として神功皇后であったこと、つまり邪馬台国は畿内だった」と
言っているのはないのだぜ?俺は畿内説派でもないんだぜ。
556 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:08:28
ああ、今思い出した。古代の中国でも日本は東北の方角にあり。
とされていたんじゃなかったっけ。、
557 :
太国:2006/12/02(土) 15:08:38
>>554 じゃぁお前の大嫌いな記紀に、畿内にあったと書かれてるのか?ww
558 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:09:50
>>549 公的機関といっても、奈良県立だから。
必然的に、肩入れするのは畿内説。
日本全体的な観点というわけでもないし。
559 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:10:59
>>556 >>540の質問は答えてもらえないかい?まあ別にいいけど。お上への反逆になるもんな?
それは君の精神のどこかに亀裂を入れる可能性があるもんな。
560 :
太国:2006/12/02(土) 15:12:35
>>555 明らかって言うのは、論ではそんな簡単には言える語句ではあるまい。
証拠がいらずに通る論ならば、明らかって軽く言えるがね。
あんたの言う見せかけっていうのでは、明白とは言えない。
どうしても陰謀論に逃げ込みたいみたいだね。
もっと現実をみなきゃ、のび太君!(AA省略)
562 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:14:55
>>540 「さーなんでしょうねー。考古学的に信憑性が薄いからかもしれませんね。」
とでも答えればご満足? ノン、ドマージ。残念でした。
「出ました。いつものすり替え反論」というのが本音。
563 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:15:00
>>555 じゃあ、明らかって言葉はやめて、可能性が大って言えかえればいいだけの話だろ?
そう訂正するにはやぶさかではないよ。
それをなんで必死になるのか正直分からない。どこか君の痛いとこをついたのかもしれないな。
564 :
太国:2006/12/02(土) 15:17:21
>>563 その両者は意味がちがうわけだ。まぁ大かどうかはわからんが、さっき言った
とおり、相当程度の可能性はあろう。編者連の中にはそう思った輩がいたこと
はありうるだろうな?
565 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:17:29
>>562 それじゃ、答えになってねえよ。
すりかえてなんかいない。真実事実が通らないとき、現在的問題がそれを
阻害していると次に考えるのは当然ではないか?その阻害している現在的問題は
何と考えるか?と伺っているだけなんだが。何を君がニヤニヤしているのか分からない。
566 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:18:29
現実を見なくちゃならないのはそちらだよ。スネオ君。
567 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:19:34
>>564 だったら、そのセリフ、梅原猛とか古田武彦とか日下公人とかに言ってやれ。
あいつらもしょっちゅう推測なのに「明らかである」とか「われわれはついに真実に達したようである」
とか書いてるぞ。
568 :
太国:2006/12/02(土) 15:21:58
>>567 古田先生の関連書等にそんな内容があるのか?
ならばここにちょっと出してたもれ。どんなんだろう?
書は、余の家のどこかに入りこんで見つけにくいのでな。
569 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:25:43
>>543 いい加減な事を言う前に、スレをよく読んでからにしなさい。
あれほどスペース使ってやり取りしたのに、急に横から入ってきて掻き回さないように。
570 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:26:18
古田なんかちょっと斜めに構えてるふりしてるが、政府の太鼓持ちだろう。
571 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:29:08
>>569 本当におまえも自分に都合のいいことしかいえない奴だな。
だから、九州説が正しくても定説にならねえんだよ。
572 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:30:48
>>543[倭地の事であり、邪馬台国のみを指しているのではない。]
それに何ー?このお粗末な文。それだったら、倭国の中でもいよいよ
畿内だけが違いますよ、という逆証明じゃんかいな。
>>569 「九州です、あほですが」の頭の中だけでは、決着済みらしい。
おめでたい奴だな。やれやれ
574 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:35:08
>>547 横レスだろうと正しい事は言わなきゃ。全くの同意見。
畿内の学者ずーっとみてて、実感。
575 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:35:18
>>562 それと被害妄想のようだから言っておくが、俺は畿内説派ではない。
むしろあんたが、畿内説を論破した、って豪語してるのを素直に受けて
では、なぜ、畿内説を完全に駆逐できない理由は何と思うかって訊いただけ。
それを
>「出ました。いつものすり替え反論」というのが本音。
とは失礼千万。九州はそういう奴が多いのか?
「九州です、あほですが」の根拠って、
「NHKで言っていた」
「NHKが、そんないい加減なことを言う筈がない」
だったからな。
いや、本当に、何て言ってやればいいんだろう。
言葉に詰まるよw
577 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 15:37:53
九州は、モンゴルに蹂躙され、ポルトガルに蹂躙され、常に中央(畿内)を
外国から守る捨石的バッファーにされてきた歴史があるからいろいろと
被害妄想が強いのでしょう。
578 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:47:18
>>565 またいつもの手口。本レスは
>>536にあるのに、愚にもつかない引き伸ばし策で、
時間稼ぎ。元に戻るのが面倒になってそのうち諦めるだろうという、いつものパターン。
それよか一気に次レスで、536、572の答えを聞こうか。
579 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/02(土) 15:51:55
邪馬台国は近畿だよ
581 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 15:59:33
>>559「では、そこでうかがいたい。
君がそこまで勝利を主張する北九州説が一般に認められない理由は何と考えるか? 」
こんなあほな質問に答えられるかっての。これをすり替えという。
「木槨木棺墓の畿内は該当しない」のたった一言にさえ反論できず、延々と無駄話。
挙句に、「では、そこでうかがいたい。
君がそこまで勝利を主張する北九州説が一般に認められない理由は何と考えるか? 」
ときた。もう一度言う。畿内は、倭人伝の記述と符合していない。
>>581 だから九州の風俗を書いたと何度も書いてるでしょ。
伊都滞在中の郡使が、倭人の葬儀に参加したんだよ。
583 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 16:18:12
「有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
木槨木棺墓の畿内は該当しない。」
畿内説、さあ、答えなさいよ。くだらない質問はするが、まともな事には
何も答える事が出来無い畿内説のエリート諸君、さあどうぞ。
584 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 16:26:48
>>582 はあ? 九州の葬制は書いたが、畿内の葬制は書かなかったとでも?
大間違い。特に葬制には大変関心を寄せている。魏志韓伝なども詳しく
一つ一つ違いを書き分けている。そんな大きな違いを見過ごすなどあり得ない。
>>584 見逃すも何も、フミより後は殆ど記載してないのだが。
586 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 16:38:03
>>585 まあ僕は魏使は、伊都国までしか、行かなかっただろうという立場だし、
伊都国あたりの事でしょうね。それがなにか?
587 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 16:45:04
>>581 なんであほらしい質問といわれるか分からない。
九州ですがの女性的な軟弱さが出たな。その答えに。
もうここは九州ですがの個人スレだな。くだらねえスレだ。
まあ、北九州に邪馬台国があったということなら、極めーてせまーい支配権の国
だったつうことですね。それこそ、歴史に影響は与えてないんじゃない?
589 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 16:58:30
横レス失礼。
鎌田原遺跡(弥生墳墓群)に関し、九州ですが氏の見解を聞きたい。
ついでに…。
檍1号墳については、恵也氏の見解を求む。
径百余歩(150メートル)の古墳が九州にあるのか、と小一時間。
591 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 17:12:34
>>587 さっきその返答をしようと書いたが、あまりの馬鹿らしさに消したのに。
僕が集大成ともいえる自説を延々と書いて、自分でもこりゃ自信作と
満足しているところに、「では、そこでうかがいたい。
君がそこまで勝利を主張する北九州説が一般に認められない理由は何と考えるか? 」
などと聞かれたら、からかってるのかと思うじゃない。
ただでさえアノ、「九州ですアホですが」のワレは、粘着なのに、おたくは
名無しで区別がつかない。 アノワレの自作自演かと思った。
592 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 17:14:41
>>527 >人から聞いた話のように雑になっているので、どうも伊都国までしか行っていないと思われる。
これは2つの理由があると思われる。
1つは良田がないとか、海に潜るとかなんて最初にいろいろ書いたら同じ事を書く気がしなくなった
魏の国を見てきた人間にとって、最初は異国だから自国と異なってる事がよく目立つ。
慣れたら「又か」という事になる。
もう一つは、伊都国は外務省兼警察みたいなお役所だ。
伊都国を訪問してから以降は、使節団がいく場所には連絡がゆき渡り「接待漬け」と「質問漬け」
になってしまいノンビリ日記を書く暇がなくなってしまったこと。
朝鮮の通信使の場合も、同じような質問を何度もされ、有力者を通して面会を頼まれゲッソリし
てる絵師の日記が残ってます。
あらゆる邪馬台国の職人は当時の世界の最先端技術を学ぼうとして、使節団に群がったんじゃないかね
天文学者から鍛冶屋、医者、大工、土方まで若くて知識欲に燃えてる連中はホットカナイでしょう
めったに会えない最先端知識なんだから、賄賂を使ってでも会いたがるよ。
593 :
名あり:2006/12/02(土) 17:21:54
「九州ですアホですが」のワレ本人ですが。
あなたは自分の言ってることが明らかな間違いでも、すぐに認めない
謙虚さに欠けるからですよ。
で、適当に書き過ぎ。もうちょっとちゃんと調べてから書いて下さい。
595 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 17:27:43
>>527 >水行十日、陸行一月は全道程を復誦したもの。
時間的には逆じゃないかね。
それに投馬国には水行20日かかるという、表現があるけど・・・
北九州説で帯方郡から邪馬台国までの、水行と陸行なら水行がはるかに多いはず。
それも海から側の国に行くのなら、使節団に重労働させない為にも船便を使うはずで
無理して歩かせるとは思えない。
唐津に着いたら、その船便で前原に行くだろうし、博多にも行くだろう。
そして邪馬台国のすぐ側までその船を使うはず。
歩かせる距離は、相手に対する礼儀上も最短距離を使うと思うけど・・・・
奴国は博多から有明海まで抜ける大きな国だったと思う。
それだと人口的にも合うし、山口県以北はよその国して境になる。
>僕が集大成ともいえる自説を延々と書いて、自分でもこりゃ自信作と
>満足しているところに、
そんな満足の出来るような文章を、お前が書いたことがあったか?
レス番で教えろ。
>>恵也へ
時計がない魏使は、邪馬台の経度を知ることは出来なかったでいい?
自分の明らかな間違いに気づいたかな?
598 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 17:34:24
>>531 >明が海禁政策をやめた年が倭寇終焉の年である。
倭寇というのは、対馬や壱岐の田畑が少なく貿易しないと生活が成り立たない土地の
人間が貿易に行っても門前払いを食ったから、仕方なしに海賊行為をやったという。
この仕組みがあるときには、自然発生をするんじゃないかね。
又倭寇に対する恨みで、元寇の来襲のときに対馬や壱岐はエライ目に会ったようだぜ。
599 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 17:35:41
>>588 そうですよ。そしてヤマトという言葉だけ、日本全体を指す地名になった。
あくまで、九州の一地方のことだった。
歴史に影響は与えているかどうかは、捉え方によるでしょう。
600 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 17:48:36
>>543 >あと、温暖で、有棺無槨というのは、 倭地の事であり、邪馬台国のみを指しているのではない。
夏も冬も生野菜を食べて温暖というなら、九州だろう。
奈良県じゃ盆地だし真冬じゃ、生野菜食えるかね。
宮崎県なら黒潮が当たるところだから、食えると思うけど。
有棺無槨というのは、旅行の途中じゃなくて、邪馬台国について落ち着いた状態で見たはず。
旅行してる国賓に対しては、葬式への参加をさせないと思うぜ。
たぶん卑弥呼の死んだときに、葬式に参加した魏の重要人物が書き残した記事だろう。
タダの身分の低い人間の葬式に、そんな国賓は呼びはしない。
601 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 17:50:09
>>592 接待漬け?? 倭人伝の記述を見ると、魏使はとても自由に
見聞して回ってる印象があるけどね。
602 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 17:51:42
>>553 >倭人伝だけ見れば短里に見えるが、三国志をちゃんと読めば長里。
三国志のどこに何と書いてあるから長里なんだい?
それがなけりゃ屁みたいな文章。
603 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:52:01
糸島から陸行一ヶ月なら宮崎、鹿児島、それ以上の距離なもんだから、
「半島も陸行したんだよ」と強弁しなければならないところが九州説の泣き所
「倭人伝を読めば九州に違いない」なんて事は言えないよね
604 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:00:43
「ヤバい」の語源は「邪馬台国」なのではないですか?
いま「ヤバい」の語源としては、明治の初期に極道・裏社会の人たちが官憲(国家権力)のことを「ヤバ」と呼んでいたからだってことが定説になってるんですけど。
もっとさかのぼれば、邪馬台国の継承国家である大和朝廷権力ことを大昔から裏社会の人たちが「ヤバ(邪馬)」と呼び続けていた可能性を否定できない。
古い日本語は、表社会よりもむしろ裏社会のほうに残っていることが多い。
不良が使う「マブい」なんて言葉も、古代までさかのぼる、ずいぶん古くて由緒のある日本語だといわれている。
この仮説(妄想?)が正しければ、邪馬台国は大和朝廷と直結するから、畿内説が有利になるね。
605 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 18:01:05
>>597 >時計がない魏使は、邪馬台の経度を知ることは出来なかったでいい?
理解力がないね!
下の回答で、理解できないのかい。
日の出より正確な時計があるか!
帯方郡の日の出と、邪馬台国に日の出と時間が全く違うだろう。
だからこそ、その間に天体が回った角度が経度の差になるんだよ。
その差が5度くらいあるからちょうど20分、邪馬台国が時間が早い。
606 :
太国:2006/12/02(土) 18:01:11
>>603 一月っていうのは30日のことではないようだ。
これは当時2倍暦か3倍暦を使用していたので、実質上は1/3か1/2で
あり、多分14日か15日くらいであろう。
水行10日とかかれば、10日が1ヶ月なんだよで、水陸双方10日の意味
もあるかもしれない。つまり10日も1月も同等の時間だったという可能
性がある。余は成務〜仁徳世を(仲哀世は等倍暦)3倍暦と算出したが、
九州のほうは倍暦でも3倍とは断定できず、2倍暦やもしれない。
>>605 だから、帯方郡の日の出時刻を、遠く離れた邪馬台国で、
どうやって知ることが出来たのか、と書いてるんだよ。
608 :
太国:2006/12/02(土) 18:10:50
プラムさん
どうだね?
>>606 の考察は・・・? 女王国は九州にあったことは毎回余が
書きこんでいて、貴殿もある程度は余の論の同意してるんではないか?と
思っているが、これから陸行一月とは実質的に14日か15日、あるいは10日の
日数であり、九州説をとれば当時2倍暦か3倍暦をやっていたとの確信が深まる。
609 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 18:22:08
>>595 帯方郡から、女王国まで一万二千里、のうち、クヤ韓国までが七千里、
だから、当然陸行が長いでしょう。朝鮮半島から対馬は見えるから、
めがけて来ればいいし、まつろ国で上陸したとある。
魏使は、伊都国どまりで、後は、聞いた話しなので、このように書いたんであって、
忙しくてもたったそこ何行の事、大事な記録を、かまけるとは思えない。
投馬国へ水行20日とあっても、女王国までの距離は不変だから、逆算すればいい。
どう考えても自身で言ったのではなく、倭人に聞いた水行の日にちを
そのまま記したと思われる。
610 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:32:58
両兄のお目にとまらなかったようなので(
>>589)、もう一度。
鎌田原遺跡(弥生墳墓群)に関し、九州ですが氏の見解を聞きたい。
檍1号墳については、恵也氏の見解を求む。
よろしく。
611 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:33:08
なんでこのスレ盛況なの?
612 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:40:07
古代中国の習慣では服属の証拠として地図を提出するってことになってる。
自分の国の地図を提出するってことが他国への服属を意味する。
卑弥呼は中国に朝貢して服属したのだから、当然、地図を提出したわけです。
しかも、当然、その地図は日本人が作成した地図なわけです。
すべての問題の根源はここにあります。
陳寿氏は、北九州地域までの地理は中国人の航海日誌にもとづいて書いている。
北九州地域から邪馬台国までの地理は、日本人作成による地図にもとづいて書いている。
ここでグチャグチャになった可能性がある。
当時の中国には現代同様、北を上にして地図を書く習慣があったが、日本人作成の地図はそうなっていたのか? 南が上の地図だったかもしれないし、それを中国人は北が上と誤解したかもしれない。
北が上になっていたとしても、陳寿が「いや、違うかもしれない」と恣意的解釈をしなかったか?(中華思想。中国が世界の中心であるためには日本列島はもっと南になければならない)。
こういう問題があって、魏志倭人伝の方位里程は矛盾をきたしているわけです。
だから、まあ、方位はアテにならないと思ったほうがいい。この指摘は九州説にはマイナスポイントだろうが。
613 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 19:03:49
「 鎌田原(かまだばる)弥生墳墓群は、県指定の史跡で、今からおよそ2,100年前につくられた弥生の墳丘墓です。
中心にある木槨墓(もっかくぼ)は、日本国内最古で最大級のもので、朝鮮半島西北部の楽良文化の影響が認められます」
墓の事に関して言えば、九州には早くから渡来した人も多かったろうから、個別的には朝鮮半島の墳墓の
進んだ様式を受け継いでいるものがあっても不思議ではない。
子供じみた例えだが、明治時代初期、みんなまだ、着物の人が多い中、洋館建てに住んで、洋装の人も少しはいたのと同じように。
ここは元々、渡来系の人を先祖に持つ集落なのでは?
資料が少ないし、それくらいしか解りません。もう少し調べないと。
614 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:06:29
ご見解、ありがとう。
615 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 19:10:46
>>614えーっ。見解だなんて恥ずかしい。この程度かと思わないで。
詳しく知らなかっただけなんだから。
616 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:35:20
郡より女王之所都までが万二千余里ならまだしも
郡より女王国に至るが万二千余里なんでしょ
「女王之所都」と「女王国」は、どっちが邪馬台国の意味かと取れば
女王之所都=邪馬壹(台)国とすべきでしょ
つまり女王国とは邪馬壹(台)国の女王の直轄国を意味する、包括概念
女王国≠邪馬壹(台)国
だから郡より万二千余里が修辞句ではなく、正に万二千余里だったとしても
郡より万二千余里の場所に、邪馬壹(台)国が在る訳じゃないでしょ
617 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:41:41
これを九州論者も固定プラムさんだか誰だったかは
女王国が卑弥呼が居る首都の事で、邪馬台国こそが包括概念であると
180度逆さまに読み替えるんだよね
これって陸行一月を誤魔化して相手を説得する為のトリック解釈でしょ
だから九州説ですら倭人伝に根拠なんてないんだよ。
特に、陸行一月からは最も在り得ない、北部九州説は
それなのに、北部九州説には倭人伝には根拠があって、それ以外は倭人伝に根拠がないなんてペテンもいい所でしょ
618 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 19:52:43
>>616[つまり女王国とは邪馬壹(台)国の女王の直轄国を意味する]
とは具体的にどこの事だと思うわけ?
おたくの言う、女王国、と邪馬台国、と女王の都とするところ
の具体的な国名はどこだと思うわけ?自分もよく解らずに、言ってんじゃないの?
619 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:17:11
直轄国なんて、ないのかもね。
「中国が承認した政権」ってだけのことで、実体がほとんどない可能性すらある。
現代の国際政治でも、よくあること。
620 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/02(土) 20:27:38
太国さん
中国漢籍に記載された日数に、その可能性は“ゼロ”あくまで読者は「漢人」ですよ
倭人からの伝聞なら「倭人日」 倭で語られる地名なら「名日」の書き出しで始まる。最低限の中国漢籍ルールかと
伊都国での記述を読めば、伊都国は
「女王国」に統属しているのだから
伊都国自体は、「女王国」の部分を形成して居ない
女王境界までと書いているんだから
つまり斯馬国〜奴国まででしょう、女王国に含まれるのは
そして狗奴国は女王に属して居ない
これを女王国に属していないと同義と取るなら、伊都国と同じ扱い
女王
622 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:31:07
伊都国と同じ扱いと云うのは、狗奴国も勿論女王国の一部ではないと云う事
623 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 20:32:21
>>606 >これは当時2倍暦か3倍暦を使用していたので、
間違い!
邪馬台国では2倍暦を、お米の二毛作のせいで使っていた可能性はあるけど
冬の寒い魏で使っていたという話は聞いた事がない。
624 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/02(土) 20:36:02
たまにはROM専いいかも
オモシれ〜っ
625 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:42:16
>>621 統属ってなに?不属ってなに?
教えて。
626 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 20:43:48
>>607 >だから、帯方郡の日の出時刻を、遠く離れた邪馬台国で、
>どうやって知ることが出来たのか、と書いてるんだよ。
どうも言ってることが判らん。
基準となる帯方郡の、日の出の時刻、北斗七星のα星と北極星の線が、水平線となす角度
さえデータとして持ってたら、邪馬台国での日の出の時刻にその角度を調べたらいいの。
このデータを魏の使節団は持ってたから、邪馬台国の帯方郡からの離れた経度を出せたの。
日の出の時刻というのが時計の代わりになるんだよ。
627 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:46:49
しかし、邪馬台国がどこにあろうが、全体の歴史の流れからはずれているので
邪馬台国論争は木を見て森を見てないって印象を受けるな。
だから後段で女王国より北に、一大率を措く話が出てくる訳でしょ
女王国ではないから一大率が設置されるんでしょ
それは幕府にとっての六波羅探題だったり、朝廷にとっての大宰府だったり
その類の機能でしょ
伊都国にも狗奴国にも王が居るんだから
邪馬壹(台)国にすれば並び立つ存在だったら困るわけじゃない
狗奴国の場合なんかは現に圧迫してくるし
伊都国がその機能の割には人口が過少なのは、戦争に負けて国(土地)が分割されたからじゃないかな
元々奴国と同一だったんじゃないの。
生産力が低いから伊都国は従順なだけでしょ
629 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 20:58:17
>>609 >クヤ韓国までが七千里、だから、当然陸行が長いでしょう。
狗邪韓国は陸行と書いてあるのかい?
見たことがないけど、俺は水行だと見てる。
「帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って水行しながら韓国を通り、南に行ったり
東に行ったりするうちに、倭から見て北岸にある狗邪韓国に着く。」
と書いてあるように、海岸沿いに狗邪韓国についてその距離が7000里560kmだ。
狗邪韓国を釜山と考えると、帯方郡(平壌〜ソウルの間)はちょうど直線距離で560km
http://local.google.co.jp/
>>602 >恵也氏
こんな簡単に調べられる事を自分で調べる気がないのなら、
邪魔だから遠慮してくれる?
631 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:22:19
黒田氏の新説聞いてきた。
世有王、皆統属女王国、(中華書局より)代々王ある。皆、女王国を統属する。
つまり、伊都国王が1番だと。だから、邪馬台国などいかなくていい。
物も伊都国の津で下ろしてる。そして「大倭」は、近畿の大和政権がおいた。
邪馬台国から大和ではなく。大倭から大和になった。邪馬台国時代の
中心は、近畿で矛盾はない。しかし、邪馬台国は、伊都国の南だから、
九州の南にあった。伊都国より田舎でいい。だれも卑弥呼などあてに
してないから。で一大卒は、中国がおいた役人だそうです。
倭人在ではじまるように、まだ、国ではないのでしょう。倭国在
ではない。これで解決ですね。すべてうまくよいとこどりした理論。
632 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 21:28:55
>>621 「邪馬壹国に着く。女王の都である」と言ってるから、女王国に属してるかどうか
イコール邪馬台国連合かどうか、なんだから。
女王国と女王国に属してる国は邪馬台国か、邪馬台国連合かの違いなんだから。
633 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:29:22
>>572 どこをどう読めば、逆証明になるの?
阿蘇山の上が寒ければ、そこは倭國じゃないと言ってるのと同じだぞ?
鹿児島や宮崎は火山灰で稲作が出来ないから倭国では無いのかな?
それに、曹操は蜀の山椒以外の珍味は集められたとさ。
野菜くらい河内から運ばせるのも簡単だろうよ。
江戸時代でも庶民は初鰹を痛んでいても無理して刺身で食したらしいしな。
それよりは少し離れた場所の生野菜を食すのは遥かに容易い事だろう。
>>557 畿内にあったと書いてるんだろ。
神功皇后が邪馬台国の卑弥呼だと匂わせているんだから。
そして、九州にあったと読めるところはない。
635 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 21:41:08
>>621 女王国に何カ国かが名を連ねてるような言い方してるが、どこにそんな事書いてある?
奴国が女王国との境と言うのは、あくまで、邪馬台国連合かそうでないかを言いたかっただけ。
江戸時代の譜代、外様じゃあるまいし。約30カ国が連合し、卑弥呼を女王と立てたら、
国が治まった。のであって、その区別しか書かれていない。
どこにも書かれてないことを創り出さないように。混乱の元。
636 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:41:09
二万戸の奴国なんて、韓伝の基準で云えば大国の規模だよね
これが斯馬国〜奴国の奴国と同一なのかどうか
この規模なら本当は此処に北部九州の王者(盟主)が居るべきなのに
それらしい記述は寧ろ伊都国にある
しかし魏略逸文では伊都国に戸万余
二つに割れたと考えるのは、それなりに可能でしょう
北部九州の王者は伊都国奴国と考えるべきでしょう
北部九州の考古学上の遺物は伊都国奴国を中心とする勢力のものであって、
邪馬台国が倭の盟主になった事による者なんかじゃないよ
陸行一月なんだから邪馬台国は北部九州の王者では在り得ない
考古学上の遺物を次々に邪馬台国北部九州説に結び付けたがるけど
それじゃあ、陸行一月を誤魔化す為に
倭人伝を意図的に歪曲して解釈してるんだから
それじゃあ何でも邪馬台国と結び付けたがるレベルの邪馬台国畿内説論者と同じだよ
九州説論者で、畿内説に対しては「倭人伝を無視してる」と言った口で、
「自分達だけは倭人伝に合ってる」と言ってるも同然の輩は畿内説論者よりよっぽど酷いね。
最低でも北部九州論者は「倭人伝の記述を畿内説論者並に否定しています。」
と言わなければならないよ。陸行一月の辻褄が合ってないんだから。
そして「私も倭人伝の内容を、捻じ曲げて解釈していますので。
南部九州論者や畿内説論者、出雲論者、吉備論者に対して、
自分の事を棚に上げて『アイツラは倭人伝の記述を無視している』なんて決して言いません」
ぐらい言ったらどうなの
637 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:53:43
「卑弥呼=中国人」説が出てきたとしても、誰も否定できないという現実。(もちろん肯定する根拠もないが)。
魑魅魍魎跳梁跋扈だね。古代史w
638 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:55:03
>>631 そりゃあトンダモな詐欺にひっかかったなぁ‐
暮れに詐欺とは
来年は良いことあるからしっかりな
639 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:56:53
>>631 その説では、「倭国大乱後、宗女トヨが起つ」をうまく説明できるの?
九州にはトヨの名残と思われる「豊玉比売」や「豊前、豊後という地名」が
あるけど、畿内にはなにかある?
640 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 22:03:34
>>629 クヤ韓国までの水行は、海岸沿いが殆どを占めてたのかな?そして初めて海をわたるのか。
全体が一万二千里だから、どっちみち、殆どの道程を伊都国あたりで消費する。
どこを陸行したんだろう。
641 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 22:03:53
>>610 >檍1号墳については、恵也氏の見解を求む。
少し礼儀知らずの方のようだ。
普通、他人の見解を聞きたいのなら、自分はこういうデータでこう思うが
この点について、あなたはどう思われますかというやり方になると思う。
それをデータも何も出さずに人を使い自分で調べて回答しろと、タダで他人の
労働を強制する礼儀知らず。
まあ俺も礼儀知らずだから他人のことを非難は出来ん。
檍1号墳は墓室を作り、箸墓古墳の7分の1の同じ形式。
これらを作った技術者が、畿内にスカウトされて7倍の大きさの箸墓古墳を作ったと見る。
経済力の差が技術者を引っ張っただろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
調査によると、檍1号墳は長さ51メートル。形状はホケノ山古墳と同じく前方部が短い
「纏向(まきむく)型」だったとのこと、そして、この檍1号墳からは3世紀末〜4世紀
前ごろの木製墓室、木槨跡が確認されています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kohun.htm
642 :
太国:2006/12/02(土) 22:05:25
>>620 貴殿はそちらの研究は白眉だから貴殿のいうことが正解の可能性は強いかな?
ただ女王国は魏にあるんじゃなくて日本にあるんだから、北九州上陸の後は
魏の暦でなく日本側の暦だから,中国人用に書かれた倭人伝でもそんなた易く
否定できるのか? と考えてしまうわけですな。
女王国が3倍暦使用の国なら、とにかく一月は10日になるわけで、余も倭人伝
の正確性は高度だが、完全無欠なものではないだろうから、魏に伝わったとき、
気紛れと言えばここのスレ人にかなり文句は出ようが、まさか日本の暦法の
記載でじゃないのかと想うわけです。貴殿のおっしゃるとおり、魏人用の書き方
があったでしょうが、それは原則としての意味で、何かの理由でそうじゃない
可能性があるんじゃないかな?と考えすぎと言われればそれまでですが、まぁ
そう想ったりしています。
魏の時代はまたはその直前の時代等、中国側は2倍暦等を使用はしてなかっ
たんでしょうな?
日本古代は1年が1日だったんではないんですか? 記には
「日子穂々出見命は、高千穂宮に坐ますこと五百八十歳」
とあり、こんな長寿は考えにくいことから、179万年余の紀の記述を眺めて
そう思うわけです。365日が超古代では1日の割合だとすればこのような膨大
な年数もそういうことかと考えています。数十年前は1$は360円でしたが、
今では100円台ですか?詰まって来ております。
中国の西遊記の記述を見るに、天上の1日は地上の1年だとかの話です。天孫
降臨以前の日本はこんなんだったかな? 中国も倍暦法だったんではないのか?
と考えが頭をよぎります。
643 :
太国:2006/12/02(土) 22:07:29
644 :
太国:2006/12/02(土) 22:09:43
>>634 書いてると匂わせるとは意味が全然ちがう。
そういうのは書いてるではなく〜お前さんが「嗅いでる」んだろう?w
645 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/02(土) 22:11:57
>>633「有棺無槨というのは、 倭地の事であり」と言ってるようだが、
じゃ畿内は倭地じゃ無いわけ? と言えば解る?
646 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:19:59
このスレ品がないね。
647 :
太国:2006/12/02(土) 22:34:46
648 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:36:13
649 :
太国:2006/12/02(土) 22:40:50
>>648 だいぶ寝言を言ってるようだな。ww
お前、もう一度目を皿のようにして記紀を読むんだな。
畿内にあったなどとは書いてない。お前が「嗅いでいる」だけだろう。wwwww
650 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/02(土) 22:44:36
太国さん
>日子穂々出見命は、高千穂宮に坐ますこと五百八十歳」
な〜るほど
ちょっと頭の中を切り替えるだけ
今、太国さんの頭の中には (580歳)しかし記述は(五百八十歳)
これを数詞だけ抜き取ると(五・八)(イヤ)(ゴヤ)(イハチ)(ゴハチ)などが考え
られますね
すると 1792470余歳は? なんてね・・・・・・・
651 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:48:24
いや〜、今夜は太国節炸裂ですねー。
あんまりやっちゃダメよ〜ん。「欠史八代」みたいに糞スレに
なっておわっちゃうから。w
652 :
太国:2006/12/02(土) 22:53:39
プラムさん
まぁ、さっきの件は貴殿のいうとおりの可能性が高いようです。
それがしのは想いつきに近いですから、ちょっと成立は無理かなと考えます。
あきらめにくいですが・・・。w
数霊とか五十音言霊にご興味があるのですか?
「日奴国死なれ」と数字はよめますが〜? まぁ何とも?です。
お休みなさい。zzzzz・・・
653 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 22:59:41
都の見取り図とかがあれば、どっちを北に書いてるかが判りそうだが
そう云うの史書にあるかな。
655 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 23:10:35
>>633 >鹿児島や宮崎は火山灰で稲作が出来ないから倭国では無いのかな?
稲作が出来ないなんて、鹿児島や宮崎の人はパンでも食っていたと思ってるのかい?
あまりデマを飛ばさないように!
656 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 23:14:48
>>636 >しかし魏略逸文では伊都国に戸万余
逸文とは、無くなった書物。
そんなものを持ってこられても・・・・
657 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:18:01
658 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 23:19:01
>>640 >全体が一万二千里だから、どっちみち、殆どの道程を伊都国あたりで消費する。
直線距離なら余裕で宮崎になる。
九州横断に1ヶ月で十分だろう。
659 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:20:51
660 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:20:58
恵也の話は邪馬台国と直接関係ないことが多いがチョンである証拠は?
661 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:22:23
>>658 また、くだらない豆知識か。
閑なニートは時間があり余って困っているんだな。
662 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 23:31:44
663 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:41:05
>>653 だいぶ昔、古地図集みたいな本で2世紀ころの地図をいくつか見たことがあるのだが、・・残念ながら本も売り、書名も忘れてしまった。
しかし、ぶっちゃけ「君子南面」だから、首都の地図を描くときは北を上にしなければ皇居が図のてっぺんに来ないわけで、それは非礼にあたる。
いきおい、国全体の地図を描くときも北が上、と。そーゆー話しではないかな?
664 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/02(土) 23:43:04
665 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:51:39
今日、読んだ本にこういうことが書かれてた。
中国と古代日本では方位観が大きく異なる。
中国では天は一点で動かないので動かぬ北極星を「太一」として基点とする。
ところが日本では動く日に基点を置く。
666 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 00:31:35
667 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 01:05:49
確か中国でも古代から「北」を(上)と表現
東西で言えば「上」は(東) だから舞台でステージ向かって右を(上手)
668 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 01:42:37
669 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 03:58:22
>>612 九州説だが
>>612の見解はあってると思う。そうだとしか思えない。
ただし伊都から滅茶苦茶、とまでは思えないね。方位は大体の位置だろ。
伊都から畿内だとどんな原始的な馬鹿でも東方の海を越えてだとわかる。たとえ倭人でも、だ。
伊都から南下とかくには南下した方位、と考えてのことだと思うね。
原文を読むと著者は投馬、邪馬台国にはいってないと思うね。
大体、貢物なんかはすべて伊都で一大率がチェックして届けさせるんだろう?。
多分1,2度金印とか重要書類届けにいっただけで魏の使いはほとんど伊都から
出たことないね。そのときの記録で邪馬台国の位置や距離を出したんじゃないだろうか。
日本はともかく中国の方位や距離の計算はかなり進んでいたはずだし、
本州の存在をしらないわけがない。
あと自分はその距離を(投馬水行20日、邪馬台国水行10日陸行一月)
著者が計算して出した帯方郡か伊都からの距離だと思う。
しかし伊都からと思えない理由に、著者が帯方郡から邪馬台国までの距離を出していること。
伊都から水行10日陸行一月だったら、帯方郡から邪馬台国までの距離が短すぎる。
670 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 04:02:16
あと風土についての記述だが、倭全部をあらわしていることだ。
帯方郡からすれば九州は温暖の地。
しかも書いてあるように邪馬台国の東の大海の向こうに倭人がいながら
行ったことがないとすると、魏の倭人伝というのは
伊都から投馬・邪馬台国と周辺国までのことだけ。つまり九州のこと
だけだ。
>>612 あと自分の見解をつけくわえたいが、倭人が地図さしだしたとは思えないww
文字もなく、距離も測れず、日数でしか言えない文明度で地図つくれるか?
紙なんかないぞ。モノかく道具などない。数百年後まで歴史を口伝で伝える文化だよ。
地図も当然、口伝。著者が邪馬台国の距離や方位をだしたのは使いをやって測定させたんだろ。
倭人伝のためか、皇帝に報告するためだと思うね。それが役人どもの仕事ってもんだろ・・
672 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 07:15:28
>>669>>670>>671の人の{誰か知らないけど}見解が一番事実に基づいると思う。
魏使は、女王国にも行ってないと思うのは、たとえ卑弥呼に会えなかったとしても都の状況が
あまりにも詳しく書かれていないこと。記述のメインに持ってくるのは、女王の都の事でしかるべきだ。
聞いた話だけでまとめたとしか思えない。倭国の地図は口伝、常識。
殆どの人は、漢字が読めない。当然ひらがなどころか、文字が無かった。地図の表記などとんでもない。
ちょっと気になったので、
>>617に反論
大阪湾から畿内までの平野ばかりの距離を地図で見てください。
北九州説より短いんだけど〜〜www(咳々w
畿内説のさぁ、「陸行一月は九州島じゃ小さすぎておさまらない」説は
九州島より遥かに小さく平野続きの畿内に、更におさまらず、陸行一月の説明つきまへ〜〜んw
あとちゃんとした地図見てね、
>>617さん、九州の険しい山脈続きの地理、平野だらけで山も低い畿内
つまり陸行一月を九州島にさえおさまらない膨大な距離とした場合、畿内説同時破壊(涙
>>617さんは、そんな矛盾に気づかないアフォwだと思えないので、ひょっとして東京説かな?
明治神宮がアマテラス祭ってるそうなんで、そのうち東京説のかた出てくるかな〜なんて思ってたんだよw
674 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 08:07:36
>>672 本気でそのような解釈しているなら もう一度原文読み返す可きだろうな。
あれでは一つも賛同出来ないよ
675 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 08:16:27
大体、帯方郡から地続きのクヤ韓国まで行くのにも海岸沿いを南にいったり、東に行ったり
して着くひとたちが、倭に来て一ヶ月も歩くなど考えられない。
それこそ倭は四方を海に囲まれた島国なんだから。近くまで、船で行けって。
676 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 08:29:53
>>674 どこが賛同できないのか、はっきり言わないと。一日こんなことばかり
考えて生活してるんじゃないんだから。結構忙しいんだから、てみじかにね。
677 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 08:32:54
>>661 >閑なニートは時間があり余って困っているんだな。
暇すぎるので、いい暇潰しだ!
678 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 08:42:58
>>667 おっ、逆手にとって見事な切り替えし。
時におたく、どっかのスレでだいぶやりあってたって?誰か心配してたけど。
僕は心配しなかったよ。おたくのああいえばこういうは右に出る人いないもん。
679 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 08:44:44
>>637 >「卑弥呼=中国人」説が出てきたとしても、誰も否定できないという現実。(もちろん肯定する根拠もないが)。
卑弥呼が魏に滅ぼされた公孫氏の系統という話は読んだ事がある。
公孫氏の強大な軍事力を目のあたりにしてるのなら、公孫氏が滅ぼされてすぐに魏に使節団を
送ったとしても不自然じゃない。
邪馬台国の軍事力を少しでも高レベルにしようとすれば、国家指導者として当然の反応。
680 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 08:59:50
>>675 >近くまで船で行けって
そのくらいの理屈、中国人にも解る
でもそうしなかった
そして九州も島国だ
それは編纂者も知っているみ〜んな承知のうえで、水行三十日・陸行一月とカキコした。これは魏時だけではなく漢時からの記録でもある
681 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 09:00:31
>>612 >古代中国の習慣では服属の証拠として地図を提出するってことになってる。
あんたね、あんまりいい加減な事書かないでくれるか!
古代中国といっても、伝説の時代を除いても紀元前2000年の夏の国からでさえ4000年の時代がある
その間にどれだけの王朝の栄枯盛衰があったことか。
卑弥呼の時代の1800年前の日本には、文字もなければ地図を作る習慣さえあったとは思えん。
紙や筆の存在さえ証明されてないんだろう。
そんな大昔の魏の公文書が残ってるはずもないだろうに。
発展途上国だった国だった文字もない国家がどうやって地図を提出するんだよ。デマとしか言えん!
682 :
太国:2006/12/03(日) 09:06:21
陸行 一月か〜。
どこかの日本の旅行の参考書で読んだことがあるが、国内の話で、第1日目の
日程の計画の後、第2日目移行の計画においては、疲労が出てくるから初日と
同一視せずに徒歩においては2倍の時間をかけろという話であった。
こういうことは倭人伝の日程でも長くなればなるほど疲労が蓄積して行くのが
常であり、女王国に到達するのに想ったより時間がかかり、たとえば半月で
行けるところ1ヵ月で到達したなどとはありうるはなしである。
場合によっては3倍もかかっているのかも知れない。
そんなんだから、九州においては一月が長すぎだとは必ずしも言えない。
683 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 09:20:49
>>669 日数で書かれている国には、帯方郡や魏の使いは行っていないかもね。
隋書にこんなことが書かれている。
魏時 訳通中国 三十余国 皆自称王 夷人不知里数 但計以日
つまり、未開国の人間は、里数を知らない。日を以って計るだけ。
不弥国までは行っているが、その先は行っていないとなると、これはどうなる?
684 :
太国:2006/12/03(日) 09:21:17
>>612 >>681 九州あたりだけの地図なら出来るかも知れないが日本全土はまだ無理だろう?
それも可能性に留まる。
>>681 日本がどうして文字がないとわかる? 記述があっても九州全域で無文字だ
ったとか、畿内を含めて無かったとかは、まだ早計であろう?
記述した奴は目前の人間らの無文字を記録してこの国はそれが無いと思って
しまっただけで、早計に過ぎた記録だということになる。無文字との断定は
記述があってもまだまだするべきではない。
朝廷は二毛作を奨励していたのか?
685 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 09:21:31
>>672 >魏使は、女王国にも行ってないと思うのは、たとえ卑弥呼に会えなかったとしても都の状況が
あまりにも詳しく書かれていないこと。記述のメインに持ってくるのは、女王の都の事でしかるべきだ
つまり主観だろう 行ってないと詳しく書かれないに相関関係はないよ
>聞いた話だけでまとめたとしか思えない。
ここでも頭の中の出来事を参考にしている
>殆どの人は、漢字が読めない。当然ひらがなどころか、文字が無かった。地図の表記などとんでもない
この部分だけは否定しないけど、漢字が読めないというのはどうかな?否定までは出来ないと
686 :
太国:2006/12/03(日) 09:23:51
>>682 訂正
× 第2日目移行の計画においては
○ 第2日目以降の計画においては
687 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 09:35:05
>>682 そうかねぇ。古代インドでは距離をあらわすのに、王の軍隊が、
一日に、行軍する距離を、一ユージョナ、とかぞえていたから、同じ歩幅で、
同じペースで、計算しないと、早かったり遅かったりすれば、
それで距離を出したんだから、目安にならないんじゃない?
陸行一日も、当時の平均的な大人が一日に、歩く距離でしょう。
あくまでそれがものさしだった。
688 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 09:38:50
>>679 >卑弥呼が魏に滅ぼされた公孫氏の系統という話は読んだ事がある
それ、漢文の薄識を利用した詐欺的(トリック)な解釈だよ
689 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 09:48:51
>>671-
>>672 倭人に地図が作れるはずがないなんて、決めつけはよくないよ、決めつけはね。
たしかに倭国の民は無文字社会に生きていて、民は地図も描けなかったろうが、
倭の高官のほうは漢字の読み書きはもちろん、中国語会話も軽くこなし、地図なんかも作成できるインテリだよ(と漏れは妄想してる)。
だって、そうでなければ、
・中国と公文書のやりとりをして外交使節も送っている(漢字や中国語の知識なしには不可能)
・30ヵ国を広域支配している(地図もつくれないようでは不可能)
などのことが説明できない。
倭の高官はインテリだったのだが、彼らはどこで学んだのか?
そのヒントは、魏志倭人伝に出てくる「生口」にある(と漏れは妄想している)。
「生口」とは、中国がわから見ると「人質」、日本がわから見ると「留学生」といって性格の存在。
帰国生口が高官として邪馬台国などに登用されていたのだろう。
もっとも地図については陸地測量能力に限りがあるので、海図に近いものだったかも。倭人伝の記事を読んでると元資料は海図っぽい感じがする。
690 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 09:56:01
>>685 しかし、女王の都に来たという明確な記述も無い。女王にお会いしたというのも無い。
そこで、女王への献上品を差し出して、女王からこのようなお言葉があり、
女王から、魏王への、これこれ行いう貢物ををお預かりする、年号何々、何月何日、と
卑しくも女王ですよ。これくらい筆記するのが礼儀でしょう。それが無いのが、
行ってない証拠。
691 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 09:58:03
>>672 >たとえ卑弥呼に会えなかったとしても都の状況が あまりにも詳しく書かれていないこと。
俺はずいぶん詳しく書いてあると思ってる。
邪馬台国に行ったからこそ、その北にある国をいろいろ聞けて九州の東海岸を北上して
ズラズラと何十カ国も国名を出して境界の「奴国」で終わってる。
ここで西海岸の使節団が辿ってきた末盧国や不弥国、投馬国などが出てないのが面白い。
木綿の布を頭から被り、たばねて結び縫う事がないとか、蚕から絹を作る場面とか、牛、馬、虎、
豹、羊、カササギが住んでないとか又聞きで判るものじゃない
冬にも生野菜を食べ、家には部屋があって分けられてるとか、父母、兄弟が別に寝るとか、嫁さん
は庶民でも2〜3人持ってて、食事を手で食べてるし、その席次には男女、親子の区別がないなんて
話は、エリートのお役人様同士で話してて判るものではない。
植物の種類もずいぶんたくさん書いてある。植物学者も参加してたんだろう。
これらは自分の足で歩いて、いろんなところで泊まり、飲食をしてこそはじめて書ける話で、陸行
1ヶ月があってこそ出来る事。
たしかに文明都市であったはずの邪馬台国の都の様子はないけど、魏の都を知ってる使節団にとり
都市の格としては落ちてて、たいして珍しいものじゃなかったのじゃないかね。
見慣れない珍しいからこそ書く気になるもの。
692 :
太国:2006/12/03(日) 10:01:55
>>687 戦争の時とか、中国の皇帝からいついつまでに戻ってこいとかの命令が出て
いるのならば急速を要し、貴殿の言うことのほうに論が傾く。
そんなことではなく、普通に一行が旅すれば、途中休憩も入れるし、さっき
言ったとおり、第2日目以降は順次疲労が蓄積していくから、1日の行程が
半日とかになることは言えると思う。
>>680 何?水行30日陸行一月って。フミから邪馬台国まで?
自分の解釈では伊都・あるいは帯方郡からの別々の距離。文体変わりすぎ。
投馬まで水行20日。
邪馬台国まで、水行10日陸行一月。
しかも邪馬台国までの、この表記は 水行なら10日、陸行なら1月というようにも
解釈できる。一月も当然30日でないと可能性がある。
これは和訳ではなく、原文を読んでの感想。つまり解釈の仕方はたくさんあるということ。
だから、まあ、君とは只単に解釈の違いなんだろうね。
694 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 10:25:46
>>689 その可能性は殆どゼロに近いね。最初の遣隋使が、煬帝に謁見したとき、
倭国とはどのような国か、と聞かれて、倭人は何と答えたか。
日本神話さながら国が出来たいわれから滔滔と語ったそうな。
煬帝をはじめ、場にいた連中はあいた口がふさがらなかったという。
後で、煬帝は、側近に、「倭人には、よく教え諭して、早く国づくりが出来るよう
指導してあげなさい。」と言っている。遣隋使でさえこの程度。この時、あまりの未開さに
日本は国と認められなかった。まして、弥生時代に、倭人に地図が表されたなど考えられない。
それは進んだ文化のなせる事。需要も無い。
695 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:30:04
>>645 全く解らない。
何を言ってるんだ?
>>655 芋でも食ってたんじゃないか?
あと、地図ぐらい簡単なのでも出すだろ?
生口を差し出して役人に来てもらって
保護してもらおうとしてるんだから。
>>689 「生口」って奴隷だと思うけど? 犯罪者の家族かなんかで。肉体労働させたり
扱き使ったりする為の。
30数国といっても、1国は一町村ぐらいの単位のものもある時代だよ。
>高官のほうは漢字の読み書きはもちろん、中国語会話も軽くこなし、地図なんかも作成できるインテリ
なら、そんなインテリ高官による、ちょっとした文書や中国語の知識、紙をつくる技術など
でてきてもいいと思うけどな。日本には全く文字がなく、紙もなく、口伝でしかない時代が
数百年もつづく・・・自分は日本人なのでこれをいうのは非常に不快だが、
当時の魏の人間から見て倭人というのは、今の日本人からみてのインドネシア原住民が
もう少し服を着てどうかなったような、そんな程度の文明だったと思うんだな。
自分の見解では、邪馬台国が畿内で九州にまで統一政権が及んでいるような、
そんな朝廷でもすぐにできそうな大国状態ならさ、文字もあって、マシな地図もつくったり
できるような国だったと思うけどね。(つまり逆説でもある。)
697 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 10:42:36
>>692 だから、実際に計ったんじゃなくて、おおよそこの程度かかることを、
倭人から聞いて、記録したんだと思うよ。
698 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:43:49
>>644 匂わせるでも書くでも同じだな。
記紀の編者は神功皇后が卑弥呼だと言いたいのだから。
そして、神功皇后のいた畿内が邪馬台国となる。
699 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 10:57:36
>>693 漢文は確かに、したったらずで、漢文だけだと色んな意味に取れたりする。
それを補う為、語尾のイントネーションの違いによって、意味合いを変える。
今でも表記は同じ漢文なのに、語尾の変化が5種類もあって、ちょっと間違うと全然通じない。
というのをTV で やっていた。
>>689 海図だけは 絶 対 にないと思うね。特に畿内説の場合。
海図つくれる技術があるほどにまで造船技術が発達していないよ、畿内は特に。
大和は他の地域より造船技術が遅れていた。海がなかったためだと思われる。
造船技術は九州や広島辺りだよ。内海に小島が多く、渡海を思いつきやすい。内陸は
山ばかりなので地上を行くより船で移動したほうが楽な場合も多いからだ。
>>698 君は記紀を全部信じるんだね。
皇紀2600年なんだから当然だよね。
考古学を重視するならまず必須!の記紀。ウムウム
702 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 11:40:35
>>675 >倭は四方を海に囲まれた島国なんだから。近くまで、船で行けって。
敵対国の沿岸を、危険を犯して国賓の連中を案内できんでしょう。
南には狗奴国がいるし、四国や山口県は邪馬台国連合国じゃないんだから。
境界領域というものは、海賊が出て貿易さえ落ち着いて出来ない地域。
そんなところを国賓の連中が金銀財宝を持ってウロウロしたら、猫の前でカツオ節を
振り回してるようなもの。
当時の記録はないけど、1000年後の倭寇ならあるよ。
少なくとも制海権の外には案内はしない。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
倭寇の規模は、4・500人から、2000人、最大規模は1万数千人ということになる。
実際人数が記録されている場合でも、最大規模で、千数百の騎馬隊と数千人の歩兵を擁して
いるので、この推測はあたっている。
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/2-17.htm
703 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 11:42:18
>>697 >倭人から聞いて
倭人から聞いたとする「倭人日」のカキコはないのよ。倭人伝は漢人の書
しかも、役人の記録文書(特に行程文章は)
倭人の意思が入り込む余地は皆無
倭人伝解析に一番混乱を与えているのは、それら皆無な推測域にデコレーションを加えケーキに仕上げ
どさくさ時期のクリスマスイブに投げ売りするからだよ
704 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 11:49:41
倭人伝なんてテキトーに書いたんだと思う。
705 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 11:50:47
>>687 >陸行一日も、当時の平均的な大人が一日に、歩く距離でしょう。
使節団が、ノンビリ親善の為に文物を見せびらかして歩いた距離というべき。
又聞きの平均的な大人の歩く距離なんて、話す相手で千差万別にならざるを得ない。
邪馬台国から東南方向に船で1年かかるとか言う話さえ、又聞きだったら確実に出てくるもの。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
また、裸の国や、黒い歯の国があり、東南の方角に船で一年ほどでいける。
倭の地を参問(人々に問い合わせてみる)してみると、海の中にある
島々の上に絶在していて、くっついたり、離れたりして、周旋すれば五千余里ほどである。
706 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 11:53:11
>>699 日本語と中国語にギャップがあるのは致し方ない。中国は「文字」を主体とした「文字文化」方や日本は、音を重視した「音文化」
だから「アイウエオ」の様に、(一音一字)に文字は構成されている。
707 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 11:57:19
>>689 >倭の高官のほうは漢字の読み書きはもちろん、中国語会話も軽くこなし、
>地図なんかも作成できるインテリだよ(と漏れは妄想してる)。
高官にはそんな奴がいたとは思うけど、人数が少なすぎる。
それじゃ国土を調査して「正確な地図」を作るのは不可能。
文章くらいは中国語で書けるけどな。
調査もしないで適当に書いて出すかい?
それじゃ、高官が書くとしては国家の信用に関わりそうだ。
708 :
太国:2006/12/03(日) 11:59:21
>>698 いゃぁ〜同じではない。全く違う。
それでも同じだというなら、俺の書きこみがお前のPCから匂ってくるだろう
が? そんなはずはない。だいたい当時の紙か木の板とかで書いてそこから
匂ってくるだなんていう考えは大デムパだ。wwwww
それとも白檀とかの香木か?ww それで、畿内だとの判別はつかな〜い。
す〜ぐ、精神病院で診察を受けるのを勧める。
709 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 11:59:49
なんか博多か熊本っぽい。
なぜなら、このふたつの地域の人間は俺の知る限り妙に郷土へのプライドが高いからだ。
このようなプライドを持つのは他に俺の見る限り京都と大阪だけだ。
京都はいうまでもないが、大阪も一度は天下人が住み、間違いなく首都だった時期があるのだ。
そう、つまり支配権を持った首都人のプライド。これが共通点だ。
710 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:06:42
ちなみに、これほど九州説×畿内説がケンカするのもそのプライドが
ぶつかった結果と見る。
711 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 12:14:00
倭人伝が悠意的に書かれた文だって? トンデモない認識だな!
文字文化の先進国史書を、異質な音文化のヤシがクレーム付ける 馬鹿馬鹿しさ
「歴」と いう文字は、日本語「レキ」 (へる・ふる)と 置き換えられた瞬間に、文字ではなく「音」へと形を変えている。
その辺を理解できないで、単に、受験用漢文形式で読み下す馬鹿さかげん
既に常識を逸脱した行為。その読み下出された文章を後生大事に崇拝するヤシ
ヤレヤレだな
好い加減学生的解釈は止めようぜ
712 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 12:22:15
>>690 >女王から、魏王への、これこれ行いう貢物ををお預かりする、年号何々、何月何日
そういった記録は当然あったと思うよ。
でも陳寿の書いた魏志倭人伝はそんな事を書くためのものじゃない。
文章がダラダラと長くならないように簡潔に、付き合いのあった邪馬台国の実情を
正確に書くためのもの。
この使節団は卑弥呼が送った使節(難升米と都市牛利)を一緒に連れてたのじゃないかな。
卑弥呼が送ったお土産に比べて、お土産の量が多すぎる。
1匹とは2反だから、俺の経験だと木綿でも1反5kgはあったから1匹10kg以上はある
下の記事だけでも1トンだぜ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
茜色のつむぎを五十匹、紺青の織物を五十匹などを与えて、汝がもたらした貢ぎ物に報いるとしよう。
>>710 噛みついてくるのは九州説側で、畿内説側はやむを得ず火の粉を払ってる状態なんだが。
畿内説専用スレつくってもわざわざ荒しに来るからな。しょうがないんだよ。
ここも本来は畿内説限定スレだったんだが。
九州説は九州説で勝手にやってればいいのに。
714 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 12:34:07
>>696 >「生口」って奴隷だと思うけど? 犯罪者の家族かなんかで。肉体労働させたり
>扱き使ったりする為の。
タダの奴隷なら卑弥呼と一緒に埋められた「奴婢」という言葉を使ってます。
「生口」というのはむしろ、日本の知識を喋る留学生だと思う。
それでないと、魏としてもタダの奴隷じゃタイシテ使いようがない。
労働力だけの人間なんて、魏は公孫氏を攻め滅ぼしたばかりだし奴隷には困りはしないと思うが・
逆に言えば、魏の皇帝にとっては国民全部が奴隷みたいなもんだし、たいして欲しいとは思わないよ。
715 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 12:38:44
>>696 >そんなインテリ高官による、ちょっとした文書や中国語の知識、紙をつくる技術など
>でてきてもいいと思うけどな。
インテリには字を書くことは出来ても、紙や筆を作る技術は全く別物だ。
現代のあなただって、紙を作ろうとしたら10年くらいかかっても作れないのじゃないかな。
理論を知ってても、材料を集めて製品を作るというのは全く別物。
職人でなければ判らない知識は無数にある。
716 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 12:43:53
>>696 >自分の見解では、邪馬台国が畿内で九州にまで統一政権が及んでいるような、
魏からの科学技術の移入で、邪馬台国の国力が大きくなり、その子孫が奈良まで侵攻したと思う。
卑弥呼の死後、内乱になったのは明治維新での西郷隆盛が乱を起こしたようなものだろう。
激動の時代の後に、軍事力が異常に増強できたんだろうな。
717 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 12:44:32
>>712 不平等交易は朝貢交易の常識。
王朝のプライドと威信が、その交易には詰め込まれているのでは
言わば属国となる代償
交易だけを見れば、これほど美味しい交易はないからね。
だからなりふり構わず朝賀に訪れる
しかし、そこには(一対一)のルールが存在
それが 列島では邪馬台国であり卑弥呼が総責任者(金印)だよ
718 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:46:55
>>712 >卑弥呼が送ったお土産に比べて、お土産の量が多すぎる
そんなものだよ。中国は世界一の大国と信じていたから、貢物を持って
やって来た国には、その何倍ものお返しをして大国の威信を示す。
生口は、日本からすれば奴隷だけど、中国にすれば貢物、と考えるのが良いと思う。
だから、中国では奴隷じゃなくで、相当大切にされたと思う。
719 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:55:35
>>713 確かにこのスレでは九州説のほうが必死になってる印象を受ける。
その態度は不快なときすらあるのは認める。
720 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 13:29:25
季節はずれのお花畑
721 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 13:34:07
>>708 たしかにPCのこちらにも匂ってくるな。
お前が精神病を患ってる事はな。
記紀の編者たちは、神功皇后が卑弥呼であり、
神功皇后がいた畿内が邪馬台国だったと書きたかった、
云いたかった、伝えたかった、匂わせたかった。
これが事実だ。
722 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 13:52:20
>>721 >記紀の編者たちは、神功皇后が卑弥呼であり、神功皇后がいた畿内が邪馬台国だったと書きたかった、
そこまで書くのなら1300年前の西暦700年頃作られた記紀はすべて、原文で読破してるおられるのだろう。
俺なんかはたった120年前の大日本国憲法でさえ、読もうとしても半分くらいしか理解できん。
あなたは記紀の編者たちが書かなかった気持ちまで、匂いを感じるほどに読み込んだのだからね。
それだけの力があるのなら、ぜひ大日本国憲法を少しくらい解説してくれ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養
シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/dainihonnkokukennpou.htm
723 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 14:00:49
>>719 >生口は、日本からすれば奴隷だけど、中国にすれば貢物、
それでは同じ文章の中で「生口」と「奴婢」と2つの言葉を使用してるんだい?
言葉の意味が違うからこそ作者は、使い分けをしたと見るのが常識。
あんたは非常識。
724 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 14:20:12
>>721 では何故、記紀の編者は、わざわざ倭人伝の記述を書き込んだんだ?
うっかり書いてしまったのか?
そうでは無いなら、そう伝えたかったからに決まってるだろうが。
それ以外に、どう解釈の余地があるんだ?
小学生レベルの問題だぞ?
九州説は小学生レベルか?
725 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 14:42:36
726 :
太国:2006/12/03(日) 14:52:58
>>721 お前、本当に精神病院に行ったほうがいい。何でもお前のPCが匂うそうだ
から・・・・・。これは大変だぞ。どんな匂いがPCからしてきたのだ?
「事実だ」と言ったって、証明がなければ一般の者らは信用はしてくれない。
だろう」ならばまだいいが、「だ」では何故だか論をはり証明が必要。
匂わせたかったとかは、お前が匂わせたいんだろうが。ww
編者全員がそんなことをしたかったのかは、そのくらいの話では認容はできない。
727 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 14:53:31
>>693 >しかも邪馬台国までの、この表記は 水行なら10日、陸行なら1月というようにも
>解釈できる
無理だよ。
今の船と違って水行は、風待ちといって天気に左右される非常に予定の立てにくい乗り物。
風の方向でスピードも違うしそれで10日なんていっても、当てにはならないよ。
むしろ水行で10日かかり、陸行で1月かかったと見るべき。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
江戸時代には、数多くの船がこの付近で難破したと言われ、その当時から下田港やこの白
浜海岸は風待ちをする船がたくさんいたと考えられます。
http://izu-shirahama.jp/picture/umi/kazemachisen01.htm
728 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 15:15:19
>>726 では、記紀の編者たちは、
神功皇后が卑弥呼ではなく、
神功皇后がいた畿内が邪馬台国だったと書きたかったわけでも、
云いたかったわけでも、伝えたかったわけでも、匂わせたかったわけでもなく、
何の意図を持って、
倭人伝の記述を書いたのか説明してくれ。
お得意の思いつきの仮説ででも、
説明できるのであれば云ってる事を認めよう。
さあ、どうぞ。
729 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 15:32:27
>>724 >では何故、記紀の編者は、わざわざ倭人伝の記述を書き込んだんだ?
ワザワザ書き込んだんじゃない。
魏志倭人伝が書かれて500年近く後の編者なら、文化人の常識の一つとして若い頃に
中国の歴史を学べば、無意識の知識として刷り込まれてる。
無意識に書いたといえる。
だから倭人伝の記述とずいぶんと違った表現内容になってるだろう。
730 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/03(日) 15:56:36
>>729 >では何故、記紀の編者は、わざわざ倭人伝の記述を書き込んだんだ?
ワザワザ書き込んだんじゃない。
魏志倭人伝が書かれて500年近く後の編者なら、文化人の常識の一つとして若い頃に
中国の歴史を学べば、無意識の知識として刷り込まれてる。
>何故?
則天武后に笑われる
731 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 15:59:49
>>729 無意識に書けるほど、当時の知識人にとって
神功皇后が卑弥呼で、邪馬台国が畿内である事は
常識だったと云う事でいいのかな?
732 :
昨日のジョー:2006/12/03(日) 16:14:05
>>731 いや、そうではなくて、日本書紀は大和朝廷中心説だから、日本書記編者=天皇派にとって
魏志に言われている古代支配国、邪馬台国も、近畿だったんだって恣意的に思わせたがってた
ってことだと思う。実際に邪馬台国が畿内にあったかは別の話として。
つまり政治的作為ってことです。
733 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 16:16:58
>>703 誰か言ってたように倭人は日数でしか距離を表せない。
里で示したところまでが、漢人の実測で、後は倭人の日数による距離計算と
合わせて、換算した部分もあると思う。倭人の意思が入り込む余地は皆無
などという事は無い。倭人のことは倭人に聞くが一番早い。
734 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 16:27:43
>>705 だから、それじゃ何日掛かったかの基準にはならないでしょう。
当然足の早い人遅い人、子供、年寄り、色々いる。
それじゃ何日掛かるか人によって様々で、日数換算不可能。だから、
基準の陸行一日が、どれ位までいけるかをまず定めておき、
年寄りは遅いから、2日掛かるとか、判断の元にするわけよ。
735 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 16:46:48
>>732 と言う事は、日本記は、畿内説で書かれているが、
歴史を捏造したものだと九州説派は言いたいのかな?
736 :
昨日のジョー:2006/12/03(日) 16:52:53
いちいち「邪馬台国は畿内」って思わせるようなことを書くってことは
実際は「邪馬台国は畿内ではなかった」ってことじゃないかな。
割り込みすいません。
古事記日本書紀を原文(訳つき)で読みたいのですが、
おすすめの本ありますか?
738 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 16:58:23
>>733 >里で示したところまでが、漢人の実測で
それなら帯方郡から邪馬台国まで1万2000里だから、邪馬台国に行ったことになるが
これも実測した事になるのかい?
天体測量でなら、当然出来るけどね。
739 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 17:20:17
>>738 どれだけ掛かるかの日数を倭人から聞いて、およその距離をはじき出したか。
魏使が来たのは、倭人伝の人が初めてじゃないから、今までの資料で調べ、
漢人の間では、それが常識になってたんでしょう。そんな色々な要素が混じって、
記載の元になってると思う。どれか一辺倒ではないと思う。
741 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:46:29
原文で読みたい理由は何?
742 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 17:50:37
つか、ここは邪馬台国スレだから。記紀のこと言われてもすれ違い。
743 :
太国:2006/12/03(日) 17:58:31
>>728 それはお前から言い出したことではないか。お前が証明も無しに文面が匂って
くるなどと、大デムパを性懲りも無く言い出した(匂い出したか?w)張本人
ではないか?当然お前がその匂うとやらいう臭いの元が糞の臭いか詩集なのかw
香水の臭いなのか他の荷負いなのか、それを担わねばならんだろうが?www
それとも証明なしに明らかな荷負いで終わりか〜?
あまり笑わせるなよ。wwwww
744 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 18:17:38
>>743 匂うとか、何か知らないけどキリないのでは?
745 :
昨日のジョー:2006/12/03(日) 18:18:40
いや、だから日本書記は、卑弥呼=神功皇后と匂わせているってことを指摘してるだけで、
誰も日本書紀を楯にとって「だから邪馬台国は畿内なんだよ!」とは言ってないよ。
ちなみに俺は
>>728氏とは別人です。
746 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 18:46:21
もう、太国は、精神病患者という事で良いのでは。
747 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 18:57:18
昨日のジョーさんに1票。
陸行1日は3kmって言ってるのにまだ、わからないのかな?
九州説の連中も、倭人伝のみの議論に限界を感じてるみたいだし、
以降、考古学>倭人伝で。
一旦倭人伝から離れた方がいいだろう。
畿内マキムク王権と邪馬台国の関わりについて。
邪馬台国東遷説は論破された観があるけど、反論はありますか?
749 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 19:02:31
>>745 神話は伝説の人物を本とは関係ないのに結びつけちゃったり、色々創作する。
「卑弥呼=神功皇后と匂わせている」ことで、同一ではないにしろ、
一考する余地があるのでは。といってるんでしょ。
お互い言い争うほどの事じゃ無いんじゃない?
この両者が、同一か別かの問題だけではなく、なぜその様な記述になったのか考える
事自体面白いと思うけど。別の事実が浮かび上がってくるかも。
750 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 19:20:14
倭人伝の陸行がどうとか
やれ短里がどうだとかは
正直、別スレ立ててやってもらいたいくらいだ
何度同じ様な事言ってんだと
しかも不毛な話になりかねんのに
751 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 19:41:57
>>747 陸行が一日3キロだって?w
魏使の一行がカゴなどに乗ってゆっくりゆっくり旅をしたとは思わないほうがいい。
まず、魏使とは文官であるか武官であるか? 間違いなく武官だろう。
得体のしれない野蛮地域である倭国への使者なのだ。危険な任務の探検隊である。ならば中国軍の精鋭を含む武官が派遣されたと見ていい。
イメージとしては、アスリートのように鍛え上げられた肉体、グリーンベレーや特殊部隊なみの屈強さ、忍者のようなタフで強靱な精神力をもった武官たちだろう。
そうした人たちであるから、陸行一日といえば50キロくらい歩くことなど楽々やってのけたはずだ。
中国の役人=のんびりと悠長に旅をする、なんてのは固定観念だよ。
752 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 19:46:00
要は、倭人伝の記述による畿内説批判が無効だということ。
九州説も含めて総ての説が、倭人伝を何らかの形で自説に都合良く解釈、
「読み換え」をすることで、初めて成立していることを認めなければならない。
あくまで考古学が基本。
それを基礎にして倭人伝を「解釈」していくことが、求められる姿だろう。
753 :
太国:2006/12/03(日) 19:56:22
>752
記紀に殆ど無記述なるは畿内説の破綻に決定的である。
神功39年くらいじゃぁスズメの泪。
考古学じゃぁ「邪馬○国」の名も「卑弥呼」の名もでてきやしない。
こういうのが王より飛車を可愛がるということになる。
考古学などはクルクル言うことが変動しており、走馬灯のようで信用は疑問だ。
例のパレオジーンとネオジーンの取替えがその証拠。今度は星8個で行くとさ。
754 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 20:14:50
>>752 みんな土日ぶっ続けのやり取りで、疲れ果ててんの。
やっと風呂に入り、ゆっくりTVでも見ながら、明日への生気を養おうと
してるんだから。今頃こんな事言われてもねぇ。みんなが寝静まった後出るこうもりみたい。
反論もほとんど無い一人舞台で自分の好き勝手に飛び回って・・・ああねむい。
755 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:17:18
756 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 20:17:49
と思ったらまだ元気な方が・・・。お任せしましょう。
757 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:21:06
そんな態度じゃあ、もし九州説が正しくても誰もついていきやしねえぜ。
そろそろ、自分に何が欠けてるか再考してみたら?
758 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:27:38
倭国の地方行政官を卑狗(卑しい犬)などと呼んでいる文献が信用できるわけがない。
魏志倭人伝なんて、いいかげんなもんだよ。
やはり考古学の成果にてらして、邪馬台国=関西とするべきだろう。
759 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/03(日) 20:39:21
>>757 みんな疲れてるから、少し休んで明日に備えた方がいいよ、とみんなを
気遣ってるんだから。あまりみんなを疲弊させないようにね。
760 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:43:05
>>748 えっ? どのへんが論破されてるの?
っていうか、「邪馬台国東遷説」の定義は??
761 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:46:43
>>759 みんなって誰と誰のことだ?皇国日本を守護するため日夜働いている
サラリーマン諸君のことかww
762 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:03:09
>>750 考古学語りたければ「考古学」板へ行ってくりゃれ
それともなにかい?考古学板とは異質の理論を語ってくれるのかな?
考古学はスレ違いどころか板違い
763 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:08:56
群馬台国と邪馬台国は似ている
764 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:14:23
東遷説は記紀論拠。
記紀は畿内説。
考古学は畿内説。
九州説クマッタ。
765 :
太国:2006/12/03(日) 21:22:09
>>754 ちとも困らん。畿内だったら、地図上で目と鼻の先だ。ならば隣国、すぐ
お隣りさんに女王が君臨してます。陛下、交渉をしましょうか? との
ように女王国の詳細が卑弥呼のなりふりがにじみ出るくらい多大な
記述があって、倭人伝を見ずともよいし、どっちかの論争も置きやしない。
殆ど書かれてないんだから畿内から遠方の九州にあったことは容易に
知れる。
766 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:22:22
>>762 まるで、
「日本古代史にの解明には、考古学は全く不要!」
と言ってるみたいだ。
そんな態度で、歴史が本当に判るのだろうか。
767 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:25:16
古代史にの → 古代史の スマソ
>>760 >っていうか、「邪馬台国東遷説」の定義は??
九州勢力が畿内マキムクに東遷して、ヤマト王権を樹立した、という仮説。
気をつけて欲しいのは、九州説とは別ということ。
769 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:41:08
>>762 倭人伝の行程の話以外は
考古学しか無いのか?
やれやれ
770 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:57:13
>>753 引用は39年だけでなく、他の年にもありますよ。
スズメの泪とか、もう止めた方がいいのでは?
771 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:58:18
九州説者のジレンマは、九州説だと、日本書紀を否定しなけりゃならないところに
あるんじゃないかな?つまり九州説だと、自動的に反天皇、反日本ということになるってこと。
772 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:09:35
773 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:37:23
>>769 >倭人伝の行程の話以外は
>考古学しか無いのか?
>やれやれ
いや、他にあるなら教えてくれ。
775 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:14:37
>>774 自分で調べろ、禿。 無理なら死ねよ、低能
>>775 無いってことだな。
ていうか、本当に無いし。
宇佐神宮とか記紀とか、500年くらい離れたものを根拠とする奴は、
どうかしてる。
777 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 23:18:15
778 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:19:11
>>776 どうかしてるのは貴様の脳みそだ。貴様を生んだ親の顔を見てみたいぜ。
779 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 23:22:22
>>739 >魏使が来たのは、倭人伝の人が初めてじゃないから、今までの資料で調べ、
魏使は初めてでしょう。
後漢からは、日本に来た可能性はあるけど記録には残ってないのじゃないかな。
>>778 もうちょっとまともな事を書いて下さい。
あなたが品性下劣な人であることはよく分かりましたから。
781 :
太国:2006/12/03(日) 23:24:26
>>770 よしよし、じゃあ「他の年」では具体性が足りないので、どの天皇の何年に記紀
の記載がみられるのか? いくつ位ある? 卑弥呼とか邪馬○国とかそう書かれ
ているのか?
そのどっちだかも判然としないような文面では、まずあることにはならんぞ?
782 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:24:53
うじ虫恵也 出現!!!
783 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:25:39
784 :
太国:2006/12/03(日) 23:26:38
>771
自動的だと? 君の私動的考察ではないのか?w
>>779 魏の前に公孫氏と、邪馬台国は通交してる。
たぶん、公孫氏の役人が倭に来てるでしょう。
787 :
太国:2006/12/03(日) 23:30:07
788 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:32:58
ここは、「罵り合いスレッド」ですか…
とても学問板とは思えないです。うぅ…(泣)
789 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:33:02
だってさ。九州説の中には、邪馬台国→九州王朝説ってのがあるじゃんよー。
そして壬申の乱は九州王朝×大和王朝の対決ってことで、大和が勝ったから
日本書紀をあんな風に書いたと。特に「法隆寺は移築された」の米田氏なんかは
そう唱えているわな。日本書記によって九州王朝はその存在を抹殺されたって。
ということは、日本書記は九州王朝を本質的に認めてない。すなわち、
邪馬台国が九州にあったことも認めてないといえはしないか?
日本書紀はあらかじめそういう罠を仕掛けてあるんではないか?
>>788 アラシで日頃の鬱憤を晴らすような、哀しい人たちがいるということ。
社会的に不遇なんだろうけどさ。
相手にしないように。
791 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 23:36:22
>>751 >まず、魏使とは文官であるか武官であるか? 間違いなく武官だろう。
両方でしょう。
お土産の布だけでも1トン以上のものじゃ、荷物運びだけでも大人数。
しかも高価な品物じゃ武官の連中も、当然たくさんいるよ。
外交関係なら文官じゃないと勤まらん。おまけに通訳もたくさん要るだろう。
こんな集団で移動してて、毎日歓迎の宴会や説明会みたいなものやってたら
地図上の直線距離で1日4kmがいいところだろう。
792 :
太国:2006/12/03(日) 23:38:21
>>789 大和が勝ったんなら、紀に勝利宣言すればいいことだ。負けてもいないのに
文面を無にすることはなかろう。勝ったぞと書き、勝てば官軍だからそう記載
すればいいことだ。書かれてないのは、畿内から九州が遠方のため情報が
畿内に入ることが少なく、で、記述があまり無いわけだ。
793 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:38:45
荒れてるね。
考古学の成果である出土品と、倭人伝に記述されている動物や物産、
魏への贈り物などを比較してみたら。
794 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:42:48
>>792 >大和が勝ったんなら、紀に勝利宣言すればいいことだ。
ごもっとも。米田の「法隆寺は移築された」は胡散臭いと思ったので
ちょっと疑問を呈したのだ。
第一、大宰府にあった移築される前の観世音寺の中門の絵も法隆寺と同じ
偶数間だと米田は主張しているが、どう見ても奇数間だし。
795 :
太国:2006/12/03(日) 23:48:30
>>794 どうもどうも〜。
九州王朝は、崇神〜文武世頃の間、九州にあったもので、女王国はその氷山
の一角であるというのがそれがしの見解です。
お休みなさい。zzzzzzzzz・・・・・
796 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 23:51:14
>>776 宇佐神宮を知らなさすぎ。邪馬台国に繋がる巨大な存在だよ
天武天皇から和気清麻呂まで真実を知ってた人少なからず
798 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/03(日) 23:58:02
>>758 >倭国の地方行政官を卑狗(卑しい犬)などと呼んでいる文献が信用できるわけがない。
言葉の発音で当て字にしたんだ。
記録を残してくれただけで俺は感謝したいね、魏の連中に。
アメリカを米国とお米の国みたいに表現したって、全く失礼じゃないよ。
それとも亜米利加国と表現しないと信用できないかな。
799 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:04:22
>>771 >九州説だと、日本書紀を否定しなけりゃならないところに
屁みたいな文章。
あんたは、日本書紀を全く読んだ事もないヘタレだろう。
読んでいれば、日本書紀の「・・・」の部分が九州説と矛盾してるという
表現になるはず。
読みもしないでよくこんな言葉を吐けるものだ、感心するよ。
こんな屁みたいな連中には!
800 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 00:09:04
801 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:17:04
>>776 >宇佐神宮とか記紀とか、500年くらい離れたものを根拠とする奴は、
>どうかしてる。
500年経っても痕跡みたいなものは残ってるはず。
今から500年昔といえば、室町幕府の屋台骨がぐらぐらして戦国時代に入る頃。
その頃の痕跡ならたくさん残ってると思うけどね。
802 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 00:17:32
>>800 相手に対し感情的な表現をすることにより、自分の立場の優位性を表現する『自己防衛的手段』
そのような方法でしか己の保身を保てない『ちょっと可哀相な奴』 温かく保護してあげようよ
歳末だし
助け合い月間だぜ
803 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:20:27
>>785 >魏の前に公孫氏と、邪馬台国は通交してる。
ここは魏と戦争して滅ぼされてるから、公文書は燃えて残ってないでしょう。
そんなのは参考には出来んよ、どこのお役人でも。
804 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:36:19
>>790 >日本書記は九州王朝を本質的に認めてない。すなわち、
>邪馬台国が九州にあったことも認めてないといえはしないか?
日本書紀は皇室の正当性を主張してるけど、皇室が九州から出てきたことを主張してます。
すなわち九州王朝説を間接的に認めてるといえる。
神武天皇の東征を見てごらん。
45歳で東征を決心
宮崎県日向→大分県宇佐→福岡県北九州→広島県安芸→岡山県吉備→大阪府河内→
転進して和歌山県紀伊→熊野→吉野→大和 (137歳で死亡)68歳かな
805 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:38:34
>>793 >考古学の成果である出土品と、倭人伝に記述されている動物や物産、
>魏への贈り物などを比較してみたら。
興味があるなら、自分でやるのが大人の対応。
あんたはまだ子供!
806 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:41:17
>>800 >なんでそんなに感情的になるかな。
知ったかぶりして、中身のない奴には鳥肌が立つ!
807 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 00:45:34
>>797 >宇佐神宮を知らなさすぎ。邪馬台国に繋がる巨大な存在だよ
俺もそんな感じがする。
でも応神天皇の頃に、戦渦に巻き込まれ焼き払われたんじゃないかね。
そして新しく宮司を任命して建て直したのじゃ・・・・
808 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 00:45:52
>>804 日本書紀では、確かに皇室の祖は九州だ。
しかし、邪馬台国は神武のあとに持ってきている。
神功皇后のときに魏志を引用しているし、年代を追ってもそうなる。
だから少なくとも邪馬台国から九州王朝へというのは日本書紀は否定している。
>>803 >ここは魏と戦争して滅ぼされてるから、公文書は燃えて残ってないでしょう。
相変わらず。恵也は無知だな〜
直接魏と戦闘があったのは、遼東の襄平城。
攻城戦の最中に帯方郡は魏に属している。
>>710 九州説で九州育ちだが邪馬台国論争とは全く関係の無い場所、母親が代々奈良の家で祖父母の実家は
奈良と和歌山またがる。大学は京都で6年住んだし一応関西もかなり詳しいつもり。
だから邪馬台国が奈良盆地だったとしてもお国自慢は関係ない。しかし
そうとは思えないこと要素が多すぎる。古代に強大な国が存在したのは間違いなく
そこの古墳を掘っても邪馬台国に結びつく理由がない。
だから畿内説は倭人伝のルートなんかを無理やりつくって繋げようとしてるんだろ。
それでも九州説とおなじく陸行1月が説明不可能。北九州説より陸行が短い。
しかし他の記述は全部無視ね。だって間違いだらけで全面的に信用できない本だからw
と、その理論でいけばルートも意味無し。
奈良の盆地の冬がどれだけ厳しいか・・w 和歌山は別に暖かくない。
しかも伊勢は関係ないよ。 どういう経緯で建てられたかはっきりしているし観光客なんかが
幻想もちすぎ。まず三輪とか、他に歴史的にいえば住吉もある。
811 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 03:16:48
>>808 九州王朝♪というのこそ妄想
そんなの九州人でさえ幻想などもってないのでスルーしる
宇佐神宮自体は立地を考えて建てられたものだとしか思わない。しかし
それにしても面積がかなり広いな。古墳群もあるし、周りの地名も邪馬台国関係に
一致しすぎる・・。
だからといって あの周辺の狭い地域を絞るのもどうかと。豊国と呼ばれる
部分はかなり広いし、耶馬の地域も山間部に通じて広い。
社伝とか言う部分を読むと、大分県の南部の山や宮崎のことも書いてあるし
比売大神は卑弥呼というよりトヨに思えるので、宇佐説の邪馬台国候補地はかなり広い部分に
言えるんじゃないかと。 国東を含むのは間違いないと思うね。
日向という地名や旧名が「君さき」(君は天皇を指す)ということを考えても。
813 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 06:42:18
>>804 恵也は、九州王朝説を全く知らないらしい。
九州王朝説は、東遷説とは全くの別物で、邪馬台国は大和政権とは関係ない。
九州王朝説は、古田武彦によって提唱されたもので、7世紀末まで
大和とは全く別系統の王朝が九州にあり、大宰府(太宰府)が首都で
あったとする説。その王朝の前身が邪馬一国(邪馬台国)というわけである。
だから、倭の五王も九州王朝の王ということになる。
大化の改新によって、大和の豪族がクーデターを起こし、九州王朝に
取って代わった。まあ、これで九州王朝は終わることになる。
古田説は、学会では全く認められていないといっていい。
でも、この説を支持する人もけっこういる。大国さんのように。
814 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 07:56:25
>>781 神功紀三十九年、四十年、四十三年に魏志倭人伝、六十六年には晋書を注
に引用。
邪馬台国とか卑弥呼とか出てこなくても、倭人伝からの引用は明らかであり、
書記の編者が畿内説に立っていることは解る。
解らないのは太国だけだな。
815 :
太国:2006/12/04(月) 07:59:49
九州王朝は崇神世から文武世のころ、九州に存在した朝廷とは別の王朝であり、
女王国はその氷山の一角であります。恵也氏の言う神武のころに九州王朝があっ
たのかとなれば、古史古伝のウガヤ朝70数代ということになるんです。
あったとすれば、これは崇神世以降の九州王朝とは別物です。
つまり神武〜開化の世には九州王朝はありません。当然王朝に成長する前々段階
くらいの集合状態の族はあったでしょうね。
816 :
太国:2006/12/04(月) 08:05:45
これから朝飯なのであとで読ませてもらうが、
明らかって言うなれば論争が減るだろう?
明らか、明白というのは、証明する必要がないと基地外等以外の一般人、
通常人が軽く認容するくらいの確かさが必要だぞ。
そうでないならば、貴殿の独りよがりで明らかではなく、貴殿の勝手な
結論、恣意的なもので、競技の3段跳び以上の飛躍であり滅茶苦茶に
直結する。
817 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 08:25:21
九州東遷説、ていうのは、要は畿内説と九州説のおいしいとこ取り。
少なくとも宇佐説は、いい加減に止めてくれ。根拠がないにも程がある。
倭人伝でも考古学でも。
宇佐周辺の地名や発音だけでさえ十分候補地としてふさわしいし
宇佐神宮と朝廷の繋がりなども見逃せないね。
>>817は他に根拠のある場所を上げてくれないかな。確かに宇佐は
他を圧倒していて、反論者にはおもしろくない部分があるかもね
倭人伝と考古学による根拠がある君の比定地を教えてくれよ
ぜひ聞きたいね。
>>813 確かに大宰府とか甘木辺りは凄すぎる。(スレ違い?w)
しかし王朝説とともかく、東遷説ってのは確かにおいしいとこどりの
ご都合説な気がする。
辻褄あわせるためになんか説をつくらなきゃいけないときがあるんだろ。
宇佐が神功皇后祭ってるんだけどw?
熊襲倒してくれてアリガトだってさ。
それより伊都に一大率を置いてるでしょ。
自分は大宰府となんか関係ありそうな気が・・、いやあくまで
気なんだけどさw
>>817 >少なくとも宇佐説は、いい加減に止めてくれ
ここはまさに本音がよく出てますな
822 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 09:26:56
>>814よ
日本書紀巻第一神代上第六段一書第三の条を読みなさい。
宇佐の比売大神はここで登場する。
823 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 09:37:38
>>808 >しかし、邪馬台国は神武のあとに持ってきている。
日本書紀に「邪馬台国」の事が神武のあとに書いてあるなんて嘘だろ。
俺にはどう読んでも邪馬台国とは読めん。
アンタの妄想じゃないの?
824 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 09:39:49
いい加減、考古学重視の畿内説が聞きたい。
畿内説者、まず何か考古学の畿内説を書いてみろ。
825 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 09:53:29
>>809 >攻城戦の最中に帯方郡は魏に属している。
間違い!
あなたが知ってるのは、遼東の襄平城での戦闘であり、帯方郡がどんな状態であったかは
判らないというべき。
記録に残らなかった小さな戦闘がたくさんあるのは常識。
その中で敵に渡したくない書類がたくさんあるのは、第2次大戦での日本軍が終戦のドサクサに
大慌てで書類や写真を燃やしたのを知らないのかね。
俺が責任者でも、戦後の戦犯追及を考えれば大慌てでドンドン焼却するぜ。
仲間の命に影響するからね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「陸軍の機密文書と重要書類は、保持している者が焼却せよ」と命令を追加。
翌16日、海軍省軍務局長が主な指揮官に向け、「敵の手に落ちたとしても、
帝国にとって外交上不利にならないもの」を例示。捕虜のリストや死亡記録は保
持するように指示し、暗にほかの文書の処分を求めた。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/books24.htm
>>824 九州説の考古学だしてからじゃないと言えないとか
返ってきそう...
827 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 10:39:08
>>824 以前の教科書では、弥生時代は600年。それを200年づつに区切って、
前期、中期、後期としていた。
前期が紀元前300年に始まり、後期は西暦300年に終わる。
そのあとが古墳時代だった。つまり、古墳時代は、卑弥呼が死んで50年ほど
経ってから始まるとされていた。
しかし、そういう考えでは、卑弥呼の時代には畿内には何もない。とくに鉄が
ない。鉄は武器としてだけではなく、道具としても有用で、これがあると
ないとでは国力に大きな差が出てくる。
だから、東遷説などが出てくる。発展した九州の国が大和にやってきて、
大和朝廷を築いたということが考えられるわけである。
突然の纏向遺跡の出現などがそれを裏付ける。
しかし、近年になって、古墳時代の始まりが遡った。畿内説の人の
年代観では、古墳時代は西暦200年頃に始まることになった。
つまり、卑弥呼の時代はすでに古墳時代ということになる。
となると、邪馬台国が畿内にあっても不思議ではなくなる。というか、
その頃の大和の勢力と大和朝廷は古墳でつながることになり、
邪馬台国東遷説の可能性はなくなる。
まあ、畿内説が一番意識しているライバルは、東遷説ということかな。
828 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 11:05:45
>>813 >大化の改新によって、大和の豪族がクーデターを起こし、九州王朝に
>取って代わった。まあ、これで九州王朝は終わることになる
九州王朝説をよく知らないのは確かだけど、大化の改新で九州王朝が終わったというのは
古田武彦氏の説なのか、それともあなたの説なのかどちらだい?
倭の5王を九州の王様と古田氏は考えてるようだけど、俺の説とはずいぶん違う。
倭の5王は大和朝廷だよ。
俺の説は、第15代応神天皇のときに九州王朝は完敗したと見てる。
だからこそそれから仁徳陵みたいな巨大な古墳を作れる税金を全国から集める事が出来た。
大化の改新はそのずっと未来200年後の出来事だろう。
また邪馬台国から神武天皇系の大和朝廷と九州王朝が成立したと見てる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/whatskyuusyuu3.htm
829 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 11:08:09
>>814 >邪馬台国とか卑弥呼とか出てこなくても、倭人伝からの引用は明らかであり、
>書記の編者が畿内説に立っていることは解る
全く判らん!
判るのはアンタの脳内が故障してる事だ。
830 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 11:22:19
>>816 しかし、何か説を立てるとき「……ことからも明らかだ」という言い回しはよくある。
たとえば、昨日読んだ米田良三の「法隆寺は移築された」(邪馬台国=九州王朝説)では
むすびに有名な万葉歌の「あおによし奈良の都は咲く花の匂hがごとくいまさかりなり」
を引用して、この歌は「跡形のなくなった大宰府都城にあって(倭国の諸建築物を移築して)
今が盛りの奈良の都と対比しての歌であることは明らかである」
と言っている。確かにこれだって「明らかである」という言葉使いとしては
間違っていると思うが、これは歴史推理では頻出する言い回しとして、歴史推理に
親しむ者にとっては、
>>816の言うようなニュアンスも含めて慣れた言葉だと思う。
なのに大国氏の反応はその言葉使いに固執している。ちょっと尋常じゃないと思う。
831 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 11:32:43
>>829 俺は邪馬台国九州説に賛成だが、
日本書記が天皇でない神功皇后の巻を特別に設けていること
神功をシムコと読ませていること
ここで魏志倭人伝を引用していることから、
神功皇后を卑弥呼と読み手に思わせようとしているのは理解できるけど。
832 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 11:36:47
>>817 >少なくとも宇佐説は、いい加減に止めてくれ。根拠がないにも程がある。
>倭人伝でも考古学でも。
根拠はありすぎだよ。
俺は宇佐は卑弥呼の時代には、宮崎を首都とする邪馬台国本土の端のほうだったと見てるが
卑弥呼の死亡後、台与の時代に首都になったと見てる。
古墳も一杯作られてたようだし、天皇家が世継ぎの問題で宇佐神宮に指示を求めたというの
が大きい。
俺はトヨの古墳(円墳)だったら、金の印鑑が出てくる可能性があると思ってるよ。
魏が晋になった時点で印鑑が公文書として関係なくなるからな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
6基の前方後円墳を中心として、周辺に展開する円墳や方形・円形周溝墓など約120基で
構成される。
http://inoues.net/ruins/usafudoki.html
833 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 11:54:49
宮崎には馬が居るね。
後、冬でも生野菜を食べると倭人伝には記述されてるのに、
鹿児島で越冬するナベヅルに関する記述が無いね。
834 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 12:03:30
835 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 12:15:38
>>827 >畿内説の人の年代観では、古墳時代は西暦200年頃に始まることになった。
チョッとこれはどうだろう??
古墳のお濠をさらって見たら、土から土器の欠片が何個か出てとかいう話だろ。
それとか使い回しをした巨木から作った木棺の、年輪とか炭素14が古かった
なんていう話じゃ信用ならんよ。
土器の完全体が何十個も古墳の盛土の中や、墓室の中から見つかったとか
使い回しをする可能性がない、小さな古木の年輪や炭素14ならわからん訳じゃないけど
あまりに酷い年代遡上。
これじゃ、科学的精神の欠片もない!
836 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 12:31:23
>>830 >親しむ者にとっては、
>>816の言うようなニュアンスも含めて慣れた言葉だと思う。
間違い!
ここじゃ、全く内容のない言葉を理由にして「明らかである」と使ってる。
「跡形のなくなった大宰府都城にあって(倭国の諸建築物を移築して)今が盛りの奈良
の都と対比しての歌」
というように、具体的理由を前に持ってきたら日本語として使える。
>>814や
>>452のどこに明らかだという具体的理由を書いてるかい?
第三者には全くわからん脳内妄想を理由に出して、屁みたいな文章。
文章力は小学生並みだ!
837 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 12:40:00
>>833 >宮崎には馬が居るね。
今は、大陸から輸入されたり欧米から輸入された馬の子孫がいるんだろう。
卑弥呼の頃は馬も牛もカササギもいなかったんだよ。
俺は鹿児島は狗奴国で、宮崎を邪馬台国と見る。
両方とも冬でも暖かいから、路地で作った生野菜を食べれるでしょう。
奈良じゃまず無理、寒すぎる。
838 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 12:57:33
>>831 >神功をシムコと読ませていること
誰がシムコと読ませてるのか知らないけど、シムコとヒミコが何で同じなんだ?
ずいぶん違うだろう。
神功皇后の解説が長いのは、血統が絶えた可能性があるほどの激動の時期の主役だったからだよ。
旦那の第14代仲哀天皇の不審死、子供の第15代応神天皇の異常に長い妊娠時間。
しかも新羅遠征を主張した神功皇后と、熊襲征伐をしようとした仲哀天皇の確執。
そして結局、仲哀天皇が死んだ状態で未亡人が新羅征伐をやったんだぜ。
激動もいいところだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉
大神のお告げを受けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%93%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
839 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:19:30
牛や馬は、縄文時代から居るんだけど?
昨日のNHKで大分が映ってたの見たけど、みんな厚着してたね。
今日の天気予報では、近畿より九州のほうが寒いみたいだけど。
840 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:28:17
>>836 そこまで強弁するのは独善だ。話にならない。
>>838 シムコとヒミコ、第一音のシをヒと発音するのは江戸っ子などもそう。
互換性はないとは言えない。
841 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:31:56
逆だ。江戸っ子はヒをシと発音してしまう。互換性はある。
俺は九州説だし、少しはその意見に耳を傾けないでもなかったが、
そこまでヒステリックに言われると不快である。
842 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:42:15
そしたら比売とヒミコのどこに共通点があるんだとも言えるんじゃね?
豊後とトヨもしかりだ。そのていでいけば、ローマ教皇選出会議の
コンクラーベだって、天正少年使節が、誰を主使とするか根競べで決めたのを
ローマ教皇が感じ入って、コンクラーベと名づけたとかも言えそうww
843 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:43:11
まあ、いいや、このスレはもう見るに値しないと分かった。
845 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/04(月) 13:52:01
風邪のため仕事を早引けして気になり、ドンこいを開いて見れば、やっぱり。
ゴミ箱に捨てる価値も無い畿内説の逆襲の数々。九州説の皆さん、あんなもの
水洗トイレに流して参りましょう。「考古学で言えば畿内説。」と豪語しながら、
その中身については何一つ説明出来ない体たらく。改めて、空っぽで、
矛盾だらけの論である事を、自ら、晒しているに他ならない。
畿内説が、帳尻合せに古墳の年代を遡らせようと躍起になればなるほど、
別の矛盾が出て来る。嘘を隠す為また嘘をつく、の繰り返しが畿内説の根幹を
なしているのです。
846 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:56:15
畿内説を攻撃しているというより、自分たちの意見にちょっとでも違う
気に食わなかったら攻撃する。非常に不快。九州ですが=恵也=太国、一人三役は
非常に汚い。独善主義者。
847 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 13:57:04
>近畿より九州のほうが寒いみたいだけど
>近畿より九州のほうが寒いみたいだけど
>近畿より九州のほうが寒いみたいだけど
禿同〜
当然、3世紀も近畿より九州のほうが寒かったと思うわ。
南国の畿内にはサボテン園や椰子の木がたくさんあるしね。
近畿じゃデパートで売っているコートが、九州のより薄手で短いんですってね。
849 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 14:07:06
851 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/04(月) 14:08:56
>>830 僕はこの人が言ってる意味、解る気がする。みんな大なり小なり同じ事
やってるんじゃないの?邪馬台国、卑弥呼の墓が発見されるまでは、
全て仮説に過ぎない。自説を自信持って主張する裏には、他説に対して
「いくらなんでもそりゃ無いだろう」という思い込みがある。
852 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 14:12:33
>>840 >シムコとヒミコ、第一音のシをヒと発音するのは江戸っ子などもそう。
ここで問題になってるのは関西、九州だけどな。
それに大昔の確かめられない発音を問題にしたら、限度がなくなる。
ドンドン変化していく方言の互換性なんて、大昔の方言をどうやって確かめるんだね。
853 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 14:16:30
>>846 >気に食わなかったら攻撃する。非常に不快
暇潰しに槍玉に挙げる快感が忘れられないんだよ。
悪かったな!
ただし、他人の名前でレスを書いたことはないよ。
854 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/04(月) 14:18:40
>>846 お言葉ですが三人とも全くの別人です。よく意見も対立します。
もう何スレも前からの人たちで、僕は少し後から、参加しました。
アクは強いですが、面白い持論を展開する人達でもあります。
おたくは紳士的な人ですね。言われた事をあんまり真に受けない方が
いいと思いますよ。それでないと神経が持ちません。
855 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 14:30:54
>>851 >邪馬台国、卑弥呼の墓が発見されるまでは、
それはまず無理。
金の印鑑も、卑弥呼が死んだときは公文書に押す為にも残しとかないといけないから
直径30mくらいの円墳に一緒に埋めたとは考えられん。
このくらいの円墳なら、日本全国には無数にあるし、遺骨が老婆だとしても無数にある。
卑弥呼しか可能性がないものとして、特定し発見するのは無理でしょう。
遺骨は女性の老年としか出てこない。
西都原古墳だが遺骨の写真が見れます。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
菓子野地下式横穴墓群 女性 老年
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/kotu/srchcapt.php4
856 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/04(月) 14:31:18
>>850 そうですね。
>>827さん。畿内説でこんな真面目な人初めて見た。
畿内説と言えばいつも死ねだの、クソ馬鹿だの、罵ってばかりで、話にならないのが
多い中で、自然と言い返すことが身についちゃったのかも。
ご無礼をゆるしてね。これにこりずにね。
857 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 14:38:20
みんながせっかく妄想を爆裂させて楽しんでるんだから、妄想への反論もヒネリがないとオモロくないよ。
誰でも書けるような初歩的なことを書いて妄想を論破してるだけじゃねえ。、、アクが強いっていうより、野暮すぎるねえ。
858 :
太国:2006/12/04(月) 14:48:09
恵也と一緒にされちゃぁたまらん。別人だぞ。
>>814 これは倭人伝からの引用は明らかかどうか分からんが、充分引用した模様だとの
理由にはなる。ただこれで畿内説にはならんだろうが。
>>830 それは各説、読んでみないと適否の語だったかは判明しない。
あっちがそういう文章を使ってるから自分もそうするんだはいいが、それは
明らかでなければならない。明白でもないのに他がしてるから俺もするでは、
向こうでもみんな酒を飲んで運転してるから俺だっていいだろうと言ってる
ようなもので、そういうのの許容は出来ない。
>>828 倭の五王は当時の各天皇にあらず、九州の別王朝の王である。
名前が殆ど一致してない。恵也と俺との名が一致してないし、利害甚大で
ちょろまかしたんでない限り別人と解釈するのが正論である。
せいぜい、幼武尊の「武」の字があうくらいで、そんなのならいまの世でも
いくらでも例がある。五王は天皇ではない。
九州説同士でも、それぞれ説が違ってかなり対立するよ。(説が)
というか、九州自体が一国にまとまるなんて有りえない。
だから自分は九州王朝ってモノが信じられない。あっても極めて短命なはず。
吉備→九州北部移動 はあると思う。宇佐家の口伝には旧都は吉備だった
という内容があるそうです...。
860 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 14:58:01
>>842 >そしたら比売とヒミコのどこに共通点があるんだとも言えるんじゃね?
比売はヒメと読むんだろう。今の言葉でいえば姫の意味で女性に対する言葉。
台与が神社に祀られて、文字のない時代にトヨヒメとされたのなら、現在、豊比売
として残ってたとしても自然な感じだ。
むしろ卑弥呼はヒミコで日巫女に通じるんじゃないかな。
太陽に仕えるお嫁さんという意味で自然だと思うが。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
女性のシャーマンのこと。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D6%E0%BD%F7
>>859 >宇佐家の口伝には旧都は吉備だったという内容があるそうです...。
訂正。この書き方だとまるで自分が直接聞いたみたいだ
別の某スレで読んだだけ(^^);
153 :日本@名無史さん :2006/07/30(日) 21:04:13
吉備が古の古都と宇佐家口伝にかいてあるそうだ、時期は紀元前、さて誠か?
>>831 そういや、倭国にH音は無かったというのを聞いた事があるな。
863 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 15:09:46
>>859 >自分は九州王朝ってモノが信じられない。あっても極めて短命なはず。
俺は長かったと思う。
第1代神武天皇が奈良県を占領して、九州王朝に税金を納めて第10代崇神天皇が
独立されるまでは、完全に九州王朝は存在したと思う。
第15代の応神天皇が九州王朝を征服した時点で、勢力関係は逆転し九州王朝は
分裂しここで無くなったかもな。
卑弥呼から応神天皇まで、西暦200年〜西暦410年頃まで200年間は続いたと思う。
徳川幕府でさえ300年というから200年なら続いた方じゃないかね。
864 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 15:21:10
865 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 15:34:03
866 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/04(月) 16:10:02
>>864 >結局、恵也も精神病なのか?
精神面において、実生活に影響が出て生活に都合が悪くなった人間を精神病という。
だから俺はこれには該当しない。
867 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 16:21:20
まず、実年代を無視するとしてw
畿内マキムク王権の成り立ちは大体分かっている。
九州勢力の東遷などという形跡は見当たらない。
外部の影響は見られるが、東瀬戸内、吉備、東海など。
九州についてはむしろ、畿内古墳文化を受け入れている側。
宇佐の赤塚にしろ、筑紫の那珂八幡にしろ、西都原にしろ、
マキムク石塚よりは大分遅れる。
九州→畿内ではなく、畿内→九州。
最低限、この程度は理解しといてくれないと。