1 :
日本@名無史さん:
くまー
r -、,, - 、
__ ヽ/ ヽ__
くまー ,"- `ヽ, / ● l )
/ ● \__ (● ● i"
__/ ●)  ̄ )"__ "`;
.(_i ● ' __, '"  ̄`'(___/.i⌒i
丶_ ,i⌒i,,_(_/ ● i ̄ ̄ )_|__
__, '"  ̄ ヽ! ● ●) ミ~ ̄_● ヽ)
くまー (_/ ● i ∪ / ⊂{● | くまー
l ●( _●) (  ̄)- / -' i
/ヽ、 |∪l T i ● '")
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
2 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:16:54
3 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:17:23
このスレ何気にファンです
. .☆ ./\
. /\ /┴┬\ ☆
,,....,,,,.../ パ \,,/┴┬┴┬\ ../\....▲...,,,,,,,,,,,,,,,,,,
___ ::::::;;;: :: ::::::. :::::;;;;;;;; ::::::::::;;;;;;;;;; :::;;; :::
/i_¶____il\__:::: :; ;:::: :; ;:::: :; ;:::: :; ;:::: :; ;;;; :::;;; :::
//Φ Φi_| ヽ:::: :; ;::::/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/人 Д /,,_|. :: :; < パトラ様もエジプト支持
て,,,Шて,,_ノて_人:: :; ; \_________
:::::: ::::;;;:::: : :::: :::: ::::::;;;;;;;;;::::::::: :; ;:::: :; ;:::: :; ;;;; :::;;; :::; :
5 :
九州ですが:2006/11/13(月) 23:32:38
前、変なところで終わっちゃったのよねー。大人気のスレにようこそ。
おてやわらかにね。
6 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:07:15
何気にハングルとイントネーションがそっくりなのは東北のズーズー弁だよね。
「です。」のことを「ンダ。」って言うし
日本語の「○○してください」は「○○セヨ」これは関西弁の「早せよ〜」みたいな命令形
やっぱなんかある?
横レスでした
7 :
九州ですが:2006/11/14(火) 00:33:52
明日の仕事に備えて寝る前に一言
ですよね。でも特に京都の上がり下がりのイントネーションが似てるらしくて、
韓国の人が自分の国にいるみたいだって言ってましたもん。
僕も特に大田{テジョン}の抑揚が京都のお公家が喋ってるのかと思うくらい
似ていた、というのが実感ですね。それではグッドナイト。
8 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:50:46
京都弁に限らず関西弁は奇妙なアクセントだからね〜
韓国といえば韓国か
9 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 03:04:16
前スレでウラルアルタイ語の話が出てたけど・・・・・
1、10万年前〜7万前:アフリカから言語を持ったホモサピエンスがユーラシアに出る。
2、前6万年前ころ:南方経由でアジア全土に旧モンゴロイドが広がる。
3、前4、5万年前ころ:中国北部から、新モンゴロイドが南下して、旧モンゴロイドが東南
アジア、チベット等に押し出される。
こんな感じの流れで、日本には4万5000年前ころに南方から旧モンゴロイドが来る。
新モンゴロイドは1〜2万年くらい前に北海道と朝鮮の両方から入り、両者の混血が生じる。
言語的に見ると、文法は、北方系(新モンゴロイド)でウラルアルタイ語に属する。
しかし、語彙の面では朝鮮、アイヌとの共通性がごくわずかであり、共通祖語からの分岐と
言える状況になく、むしろ、南方系の影響の方が若干強いが、日本の独自性が最も強い。
日本語の形成は、ウラルアルタイ語からの独自発展と南方系、中国、朝鮮とのクレオール
ではないかと思われる。
この分野はあまり分かっていないが、大体こんな感じと思っている。
10 :
九州ですが:2006/11/14(火) 06:37:49
中国雲南の影響も否めないと言うのもやってましたし、ポリネシアあたりの影響かは
知らないが、日本語とポリネシアぐらいなんですって母音を響かせる言語というのは。
「ありがとう」とか。英語などは子音を響かせるんですよね。
11 :
九州ですが:2006/11/14(火) 06:46:03
言い忘れてたけど、言語の骨格ともいうべき文法などは朝鮮と出所が一緒で、
それが元も住んでた縄文人の言葉と、南方や、雲南から日本列島に渡って来た
人々の言葉が入り混じって、古代の大和言葉が形成されていったんでしょうね。
では、お仕事ですので後ほど。
12 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 07:08:48
では、音の出せない人はどのようなアクセント?
13 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 16:28:51
高地性集落というのは、やはり九州からの攻撃を監視するために
作られたものだろう。
九州にはほとんどないらしいから。
14 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:01:18
>>13 常識範疇
誰か違う見解示す馬鹿でもいるのか?
高地性集落というのは、やはり九州からの攻撃を監視するためのものではありません。
なぜなら、高地性集落がつくられたころは、まだ神武が東征してないからです。
16 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:21:22
>>15 東征は二度
だから高地性集落のピークも二期にわかれるのではないか?
17 :
九州ですが:2006/11/14(火) 18:43:37
高地性とまで言えるのかどうかは知れないが、九州の集落も、
敵が攻めて来たときすぐ分かるように、四方が見渡せる見晴らしのいい高台に
造られているようです。前スレで誰か言ってたが、吉野ヶ里は、
北部、つまり海に向けての防御体制をとってるように見えるんですよね。
魏と同盟を結んだのは、呉を挟み撃ちにする為、という説があります。
呉が倭国に奴隷狩りに来たのでは。と誰か言ってましたが、
それを警戒してのこともあるんでしょうか?
18 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:45:46
高地性集落の年代と範囲も、少し争いがあったような記憶。
1、瀬戸内海の西の高地性集落は東よりも古い。
2、築造は150〜200頃(この点は学者によって違う?)
3、高地性ではないが、同時代に全焼して再興していない集落もあり、皆殺しになったとされている。
4、のろしがあり、連絡に使われたであろう。
5、普段住んでいた平地からは数時間かけて登る位置にある。
6、一般に防御的施設とされている。
時期を150〜250位に広げれば東遷説に有利だが、九州説でそれをいう人を知らない。
ニギハヤヒが200頃に天下ったとすれば良いのか?
19 :
サガミハラハラ:2006/11/14(火) 19:01:53
高地性集落について
第一次高地性集落 弥生中期後半〜弥生後期初め
BC65年ころ〜AD50〜100年
この時期は北部九州の三郡山地東方に居住する部族が西のカメカン族の圧迫を受け、瀬戸内海に侵攻していた時期です。
委奴国の倭国統一により、侵攻は収まり、高地性集落も沈滞しました。
20 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 19:02:05
>>7 関西弁より名古屋弁の方が似てるでしょ。
また、関西イントネーションは広島あたり迄ある。徳島はほとんど関西弁だし。
21 :
九州ですが:2006/11/14(火) 19:28:07
>>20 うーん 名古屋弁はまだナマでは未体験ダァー。以前、うちの父が以前言ってたには、
日本全国の方言が飛び交う中で、名古屋弁だけが、みんな大笑いだった。とは
聞いた事があるけど。あれは弥生人の言語というより縄文系の言葉じゃない?
22 :
九州ですが:2006/11/14(火) 22:02:28
あら、そろそろ座が温まって来たところで、前スレで言われた事を
説明しようと思ったら、なんだったか解らなくなってしまった。
確か、言語の形成と、人種の遺伝的区別を、時期を全くえ弁えずに、
ごっちゃにした様な質問だったような。僕は前スレの見方を知らないんだよね。
23 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:05:18
じゃー関西人が半島を支配していたということで解決ですねw
24 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:26:10
ところで、九州説の皆さん、畿内説も敗退したしてしまいました。
残るは九州説論者ばかりです。ズバリ、あなたの邪馬台国比定地を
教えてください。
僕はとりあえず、阿蘇の近辺としておきます。
25 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:32:54
だから言っているだろ 宗像市稲元
委奴面土inamoto≒iamato邪馬台
”y”と”i”の発音は同じなのだw
26 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/14(火) 22:54:18
>>24 >ズバリ、あなたの邪馬台国比定地を
教えてください。
対馬・壱岐を含む九州と四国
28 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:56:42
29 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:02:17
>>28 参考資料
何故か日本語の下手なアメリカ人に日本語で話をすると英語ぽいイントネーションの日本語になるw
31 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:09:05
>>22 「ギコナビ」で検索してダウンロードすればOK。
てゆうか、普通のネットの状態で2ちゃんしてる人は少数派じゃないの?
32 :
九州ですが:2006/11/14(火) 23:11:55
>>24 あー、そうなんだ。じゃやっぱり僕に歴史感が滅茶苦茶で、支離滅裂というのは
負け惜しみだったんですね。おかしな事聞く単純な考えの持ち主達だとは
感じてましたが、前スレあんな終わり方ってないですよ。仕事に行ってる間に
弁明の余地も無く1000まで言ってたんだから。僕が間違ってるような感じで。
読む人が読むと解るんでしょうけどね。でもまだ油断できません。
ちなみに僕はちょっと迷ってます。甘木あたりか、{フミ国を宇美町として}か、
水行を入れて有明海を渡り、宮崎の方へ向かうのかで。でもやはり、クコチヒコ
はクナ国の長官だったというのは変わりませんが。
33 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/14(火) 23:13:29
北九州説の欠点
奴国に2万戸、投馬国に4万戸、邪馬台国に7万戸
1戸に6人が住んでたとすると、これだけで72万人の人口があることになる。
しかも卑弥呼は1000人の召使を抱えてたという。
非常に大きな生産力、富の集積がイメージできる。
北九州の狭い地域にこれだけの人間が住め、また穀倉地帯が卑弥呼の時代にあったとは思えん。
少なくとも国家として認められた邪馬台国の同盟国全体なら、帯方郡以上くらいの大きさは
面積上あったはず。
むしろ鹿児島を除く全九州が、邪馬台国の同盟国で税金を集めてたと考えるのが常識。
34 :
九州ですが:2006/11/14(火) 23:25:18
>>33今と昔は確か数の数え方が違ったんでは?
記憶では一億が今の一千万くらいじゃなかった?
36 :
九州ですが:2006/11/14(火) 23:38:39
>>35 いらっしゃったようで。お待ち申しておりました。
でも明日仕事が速いのでお先に休ませていただきます。
言語と人種の関係はここでも何人かが言ってるように、
そんな単純ではありません。それに、ご指摘の後半部分は
私の言葉ではありません。違う人とごちゃ混ぜになっておられます。
それではみなさんおやすみなさい。以上。
37 :
:日本@名無史さん :2006/11/14(火) 23:45:56
九州説となえてる奴って九州と中国地方の人間か在日カルト信者だけなんだよねwボソッ
38 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:54:52
39 :
九州ですが:2006/11/14(火) 23:59:15
>>35間違えまくりだっただろw
など人聞きの悪い。マキムクとカラコ鍵を間違ったくらいでしょう。
おたくこそ、歴史観がバラバラで単純にしか考えられないのかと思いました。
言語は、有史以前からあるもの.我々は歴史学者に委ねるしかない。
そこに人がどのように流れてきたのか、かなり複雑なはず。
どの学説とも異なる奇妙な意見を言うそっちこそ、事実と大きくかけ離れている事を
知らねばなりません。おたくの考えってどういうんでしたっけ。記憶にも無いけど。
それより今度こそもう寝ないと明日が大変。
40 :
:日本@名無史さん :2006/11/15(水) 00:18:01
>>38 壁|・_・)ノ <やあ、宗教ってそんなに楽しいの?
41 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 05:50:11
>>33 恵也さんへの質問ですが、ある説に依ると、吉野ヶ里が伊都国で、貴方が言ったように
水行するため、筑後川から舟に乗って有明海に出て真っ直ぐ南下し、熊本県南部から
宮崎方面に向かうという説があるんですが、最大の疑問は、西都原古墳近くに
環濠集落が見つかってるのかどうかです。その説もクコチヒコが菊池の人だったらしいことは
異論がありませんでした。{うちの祖母も、昔、菊池のことをクコチ、と確かに発音してました。}
位置関係は後々述べますが。それで北部、南部と揺れている訳です。
42 :
河童虫:2006/11/15(水) 07:30:23
狗古智卑狗
(狗)(古)(智)(卑)(狗)
という漢字。
(狗)の意味と
(古)の意味と
(智)の意味と
(卑)の意味と
(狗)の意味が
倭語を形容し、摘漢字を当てたもの
43 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 11:19:28
>>41 私も狗奴国のヒコミコ=神武が、主流派の王族(北部九州)を倒して、畿内への遷都を
したという考えですが、狗奴国の範囲は、南部九州の広い範囲と考えています。
東征伝説では、畿内近辺でしか戦闘が行われていないので、吉備、出雲等の地域と連携して
主流派に対抗していたという考えです。出雲はクニ譲りで王族が配備されており、吉備も同じ。
伝統的主流派王族(北部九州) 対 新興王族(南部九州、出雲、吉備等)
というのが狗奴国と邪馬台国の戦いで、新興王族の盟主である狗奴国のヒコミコがヤマト国の
後継者の地位を獲得し、畿内への東征は旧勢力の最後の兵力を追い落とした(壇ノ浦の戦い)
のようなもので、ヒコミコ(神武)は、旧主流派や他の新興王族の本拠地に遷都することを嫌って
空白地の大和に遷都したという見方です。
44 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 12:41:24
>>43 なかなかの見識だと思いますが、「狗奴国のヒコミコ=神武」というのは
邪馬台国の後身が神武、と位置づけている私とはちょっと違います。でも、菊池は
伝統的に、何かしら突出してますよね。現在復元中ですが、大和朝廷の山城、ククチ城が造られたり、
南北朝時代には足利尊氏に従ったり、その後も菊池は滅びても子孫を残すように
全国に散らばって、今でも全国の菊池氏が一同に会する催しがあるらしいのです。
ちなみに西郷隆盛も菊池氏の出身ですが、案外おたくの言われる通り全国を席巻したのかも知れません。
45 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/15(水) 16:22:31
>>41 >西都原古墳近くに環濠集落が見つかってるのかどうかです。
環濠集落は見つかってないようですね。
防衛用の環濠は北九州から、東の方向に伝わっていったようで・・・・
むしろ俺は、確認はされてないようだが日本最古の鉄が発見されたとか、中国皇帝から
与えられた領主の印「殻璧」が宮崎で発見されたという話から、卑弥呼の時代の賑わい
が存在していた宮崎に興味がある。
この当時は、中国や朝鮮からの亡命者らが多数、日本に移住していたと思ってます。
また沖縄方面からの文化の伝達もあったと思うし・・・
その技術が宮崎で花開き、軍事力が格段に進んで神武東征までなったんじゃないかな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
宮崎県の串間(鹿児島県境の海岸)から周〜漢にかけて皇帝が諸侯に与えた「穀璧」という
玉器が江戸時代に完全品で発見され国宝となっています。直径33.3cmです。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf08.html
46 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 16:26:42
菊池にある隈府はクマソの拠点でしょ、菊池氏が居構えたのは
隈府でしょ、そしてその隈は大字小字で
西九州一帯にある。クマソとは筑肥の民そのものでしょ。
47 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 16:33:01
筑肥地域の同質性は堅固なもので、
薩摩も日向、琉球も
本州四国豊国に比べると断然
筑肥に近いわけ。
それは縄文時代から一定の同質性があるわけ
その筑肥地域がそうまで対立するとは思えない。
48 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/15(水) 16:49:36
49 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/15(水) 17:16:52
>>47 >それは縄文時代から一定の同質性があるわけ
縄文時代からなんて、チョッと分からんけど鹿児島は、明治維新では幕府の隠密対策という
面から方言が九州でも極端に変わっていたという。
大昔から独特の血統を伝えてきた可能性は確かに存在する。
俺は、クマソも隼人も狗奴国も同じ地方:鹿児島の集団だと見る。
むかしは人吉地方も勢力圏だったのかも・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%A5%B2
50 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 17:40:03
あなたのご出身、居住地はどこですか?
西九州一帯と鹿児島の共通点は本州関西四国地域に比べ
極めて大きくとても北西部の九州人が鹿児島より
関西本州人に近いとは考えにくいんです。
ですから、南九州人と北西部の九州人が
異質であるかのごとくそういった言動には
憤りを感じます。
51 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 17:49:44
南九州と北部九州があたかも別民族かのごとく
言われてるのって腹立つよ。
現地人にとっちゃ山口なんかより福岡(旧豊前除く)
と鹿児島は方言とか似てるし同族意識も極めて高い
ニガゴリもがめにも食べるし食文化も似てる。
こんなに似てる地域がいがみ合うなんて考えにくい。
鹿児島人は北西九州一帯に住み着いてとけ込んでるし
52 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 17:56:28
鹿児島の大隈だけど福岡、佐賀には大字大隈が
確認できるだけで2つはある、隈地名は知ってるだけで
旧筑前筑後の福岡佐賀に20はあるだろ。
これだけとっても福岡(旧豊前除く)と
肥前肥後薩摩大隅が
同族というのが読み取れちゃうよ。
どうして関西人とか関東人は九州を分断したがるのか???!
腹立つ!氏ね
53 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:04:21
西部から南西一帯の伝統的九州人は
関西四国人とか関東人とか
その文化とか嫌いだし、言葉が違うし同族意識がない
正直、本音で異民族的な感覚があるわけそれは漏れに限らない本音。
大分小倉以東の人は異民族とさえ本音では思ってるわけ
だって方言とか言葉、語感、習慣違うんだもんね。
そういいう人に同族認定されたり勝手な解釈されると
すごくかんに障るわけよ。
54 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 18:07:45
私はクナ国が後のクマの語源になった、と考えてきた。邪馬台国がその北にあると考えて甘木あたり。
クコチヒコはクナ国の長官の名だからククチ、つまりキクチが、クナの中心。熊襲は人吉などに多数の横穴を掘って
とても原始的な生活をしていた感がある。縄文人の部族が生き残っていたのではないか。
しかし熊襲の穴というのは北部九州には殆ど聞いたことが無いのでもし住んでいたとしても
早いうちに駆逐されたと思われる。クナ国は鉄の武具を携えた邪馬台国に戦闘を挑むくらいの強敵。
クマソとは別で、邪馬台国同様、鉄文化の弥生人のクニだったと考えられる。
宮崎邪馬台国説は可能性だ。クナ国との位置関係は逆転だが、やはりキクチがクナ国になっている興味深い説もあるのだ。
55 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:08:39
筑後国風土記逸文みても畿内人との根深い確執が記述してあるよ。
とにかく関西人とかとは西九州薩摩人は一切同族じゃないの。
虫ずが走るほど全てが嫌い。ハッキリいわせんな!
56 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:23:54
>とても原始的な生活をしていた感がある。
証拠は?すでに縄文後期には建造物集落が誕生してるよ。
そんな横穴にすんでるような浮浪者集団は今も昔もいるさ。
57 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:29:51
隈府菊池地域ががおそらくククチの居た場所だと思うけど
その前はその北一帯にいたと思うよ。
それこそ七隈、雑餉隈
小隈、乙隈、干隈近辺までね、この地域は東からきた
卑弥呼集団に制圧されたけど本来はククチと同族の一団だよ。
そして卑弥呼は八幡宇佐近辺の集団さ、
言語が九州のではないから直感的にそう感じるさ。
58 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 18:32:25
長いので前半です。
元々、日本列島に住んでいたのは縄文人。それも大陸と地続きの時代、
シベリアあたりの大陸から渡って来た者、東南アジアのラピタ人などもイースター島
までたどり着いたというから、ポリネシアからも列島にも来ただろう。中国も北方系、
南方系様々な文化を、現代日本は受け継いでいる。
それらが混血したのが縄文人であり、時代が下って、新モンゴリアンの、
弥生人が北部九州を中心に日本各地に移り住むようになる。
その中で鉄器を持った北部九州の弥生人集団が、武器で劣る他の集団を圧倒していった。
続く。
59 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:34:53
ちがうね、北部西部の九州人は東に広がってない。
関西人とは全く異人種、関西東北人は出雲人の末裔!
遠賀流域以東に関西人出雲人が侵入した形跡が濃厚
60 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:37:52
須玖土器も装飾を復活させ沖縄にまで流通させている
これも九州沖縄が同族である一つの証拠。
関西東北四国人は西九州人とは一切無縁の存在。
同族認定されたら虫唾が走る!
61 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:47:25
筑後地域を関西人が襲ったとあれば
同族同士の確執とか言って屁理屈こいてるヤシがいるけど
その戦いの事実はあっても、他は妄想でしかない、詭弁そのものだよ。
ストレートに考えるなら関西四国人は九州人とは犬猿の仲だし
それは大昔も今も変わらない。
そらが内部からみた本音!
内部ではそう思ってるのに関西人と同定されたらすげー腹立つわけね。
62 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:55:29
九州の弥生時代は遠賀流域以東で始まるわけね。
これは関西出雲人の侵入ルートと一致してるわけ
そしてこの地域は関西中国弁とそっくりなわけ。
63 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 18:58:06
>>58続き
>>58の最後の二行はちょっと先に行き過ぎとして、弥生人の、渡来の、
ウエーブは、時を隔てて幾度にも及び、中国の黄巾の乱が、北部から
時代が下ると揚子江を中心とした南部で多発し、難民をはじめ様々な
階級の人々が新天地を求めて日本各地に流れ着く。
次第に縄文人は、南北に追い詰められ、或るは戦い、或るは融合しながら、
次第に日本列島は弥生人に席巻されていく。遺伝子がアイヌと沖縄が
近いのは、日本列島の元々の住民だったからである。
九州も縄文人の特徴である、丸顔にどんぐり目、を受け継いでいる。
また続く
64 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 18:59:37
トキワ(常和)という出雲神話の地名も
遠賀流域以東にある。
これも遠賀流域以東に出雲関西人が侵入した形跡の一つ。
西九州の天神なんて
関西人黒田とか有馬が関西人道真祀ったとかそういうのがばっかりだよ。
元々、この地域には別の信仰があるんだよ。
65 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 19:16:37
>>63の続き
九州でも、弥生人が北部九州を中心に移り住むようになる。
その中で鉄器を持った北部九州の弥生人集団が、武器で劣る他の集団を圧倒していった。
その代表が、邪馬台国である。ちらっとアンポンタンの人の 文を見たけど
どうしようもないね。社会科0点。うちわけ日本史0点。世界史0点。
66 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 19:21:28
いや、いや今まで
関西人が作り上げた社会科日本史の常識が
覆されつつあるのさ。
0点は上等。
甕棺地域、九州沖縄貝の道は
本州政権とは全く違う政権だったのさ。
67 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 19:34:20
遠賀川式土器が九州の弥生時代のスタートという説が有力なわけ。
68 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 19:34:58
アンポンタンさんは急に参加されて、変わったご意見をお持ちのようだけど、
どちらから来られたんですか?まさか「我は高天原から来たりしものなり」
のたぐいですか?
69 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 19:39:28
そうか?
>>68あなたは何処出身?
九州人なら関西人と同族認定されると
虫唾走るのは
別に変わってもなんでもないよ。
70 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 19:46:01
>>63 遺伝子の点にちょっと一言。
遺伝子とかでの分類は色々種類があり、多くの発表がなされている。
遺伝子そのものに加えて、血液型、骨格、耳垢とかの分類も出ている。
発表ごとの結論がまちまちで、どれを信用すればよいのかよく分からない。
しかも、発表する側の「意図」がありそうな感じのものもある。。
だから、そういった分類については、対象(どの遺伝子かなど)を特定して議論した方がいい。
できればソースも出して欲しい。
71 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 19:46:07
虫唾走る という言葉を知ってるだけでたいしたもの。
ちなみに 虫唾とは何でしょう。
72 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 19:48:12
>>71 むしず ―ず 【虫酸】/ ―づ 【虫唾】<
胸のむかむかしたときに、口に逆流する酸っぱい胃液。
>>71 それあなたも質問に答えて何処出身?
73 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 19:52:21
沖縄とアイヌが遺伝的に近いというソースは
漏れはみたことないけど
ソースあったら提示してくれよ。
74 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 19:59:36
>>70 どうぞご自身でお調べを。大学出てるのなら概要は既に
ご存知で然るべきかと。勿論おたくの言われる様々な事を加味しなければ
より正しい結果は出ては来ないですから。ここはあくまで邪馬台国スレ。
私が遡って説明したのは、邪馬台国の成り立ちに関わると思われるからであって
遺伝学が本筋ではないし、より専門的になると私も解りません。
大まかな通説を述べたまでです。
75 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 20:01:04
大保BAL合戦は
菊池の南朝と少弐(藤原)の北朝の戦い
まさに、魏志倭人伝の再現だったんと思うね。
76 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 20:02:55
>>74 おいおい、質問に答えず
勝手な妄想垂れ流して工作してんの?
77 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 20:11:28
逃げた?
これだから関西四国人(=東北関東人)は・・・
78 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/15(水) 21:49:02
>>50 >西九州一帯と鹿児島の共通点は本州関西四国地域に比べ
>極めて大きくとても北西部の九州人が鹿児島より
>関西本州人に近いとは考えにくいんです。
なんでそういった結論になるのか中身を出しなさい。
福岡と鹿児島の方言が似てるとか、ニガゴリとか食文化が似てるとか
書いてるけどどの程度実際に調べて、確認した事なんだい?
俺はこれでも、大牟田市で育ち熊本市に行き、親戚や友人もたくさんいる。
熊本のド田舎の方言でも、それだけで喋られたら理解に一苦労する。
しかし鹿児島のド田舎の純粋な方言で喋れられたら、俺にはたぶん理解不能だ。
これは薩摩藩が意識的に、幕府の隠密を排除する為に行ったという話を聞く。
そこまでの緻密な計算と郷土愛が明治維新を成功させたんだよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
明治時代の警視庁巡査は、過半数がこの県の貧乏士族の出身であった。
明治維新で先輩がたくさん出世したのを見ているから、東京に出る者が多く、郷里
の先輩もまたよく彼らを引っ張って、動き口をさがしてやったのである。
当時、警視庁の巡査は薩摩弁を使わないと人から馬鹿にされたほどで、戦前の警官
を象徴する「オィ、コラ」は、元来鹿児島弁であって東京のことばではなかった。
http://www.euc.co.jp/ken/ken46.html 宮崎県南部から鹿児島県にかけては、以上の二つの方言とは全く違う言葉が話されている。
そして、よそ者の耳には、南部宮崎の言葉も鹿児島の言葉もさして違わない。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-2.html
継体天皇陵に何か出ましたっけ、無知なわら氏にも教えてけろ
80 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:04:39
>>78 漏れが鹿児島出身で福岡に住んでるからだよ。
接続詞の「の」や「に」の使い方も同じだし
言語の基本構造は同じ。
筑肥と薩摩は本州より断然にてるし、
宮崎は佐賀弁とイントネーションがそっくりだよ。
81 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:12:59
>>78 >俺はこれでも、大牟田市で育ち熊本市に行き、親戚や友人もたくさんいる。
生まれは何処?もしかしてあっちの人?
しかし、熊本の田舎言葉が理解できないって・・
本当に九州の人?
82 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 22:19:00
僕はこのアンポンタンとか言う人に答えたのではなく、前スレでの続きで
説明を要する部分に答えただけ。いちいち相手をしてるわけではありません。
正直言って僕はこの人が言ってる意味がよく解りません。
どなたか少しでも彼の言ってる事が、理解できる方、どうか私の代わりにどうぞ。
明日が早いので休ませて頂きます。あしからず。
83 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 22:22:50
>>82 常識的だけど九州人にしかわからないことを話してるから
関西人のあんたにはわからないんだよ。
84 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 22:35:55
知ってる?
京へ筑紫に板東さ
韓国もへだよwww
京都人=完国人www
85 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 22:38:14
>>83 関西人?僕のどこがどう関西人なわけ。
だからどこの文を見てそう思ったかが不明。九州ですが で出でるのに。
九州人同士でこんな変な会話するから、本当の関西人がニヤニヤして
喜ぶわけよ。
86 :
アンポンタンの敗北濃厚www:2006/11/15(水) 22:47:53
じゃあ、最近の研究結果とかもよく読みなさいよ。
国立民俗学博物館の見解も土井が浜の弥生人が
本州人の直接の祖先という見解を取ってるし。
石棺、木簡文化圏も共通してる
甕棺地域の人間が東に広がってる証拠は今のとこは無い。
須玖遺跡に見られるように甕棺地域の人間は
奄美沖縄に広がってる証拠らしきものはあるが
87 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/15(水) 23:04:28
>>86>>国立民俗学博物館の見解も土井が浜の弥生人が
本州人の直接の祖先という見解を取ってるし。
そんな事否定してないでしょう。弥生人は日本各地に渡ったとかいてるでしょ。
一説では弥生時代に600万の当時の人口のうち、400万弥生人がいたというから、
各地の祖先になってもおかしくない。
>>甕棺地域の人間が東に広がってる証拠は今のとこは無い。
甕棺文化は広がらない。吉備、出雲の古墳文化は北部九州より大きく優れていたから
東征の過程で、それを吸収して、発展し、木かく木棺墓ひに落ち着いたんですよ。
それらを総合してあの大古墳文化がが畿内に出来るわけよ。
もうこの説明は明日ね。明日早いし。
88 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:15:16
>>78 ヘボ恵也 ◆o4NEPA8feA はどのスレ行っても恥さらしだなw
89 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:29:13
90 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/15(水) 23:45:33
>>41 >クコチヒコが菊池の人だったらしいことは 異論がありませんでした。
それはどうだろうか?
クコチヒコというのは、狗奴国の指導者の役職名じゃないかな?
俺は卑弥呼にまで個人名ではなく、役職名の可能性を認めてる。
今の日本でも、天皇陛下の個人名アキヒトよりタダの天皇で言ってる。
卑弥呼も陽巫女:太陽を神としそれに使える巫女の説がある。
会社の社長に対して個人名より「社長」の一言で呼びかけてしまう。
それに国の名前は、権力者の考えで簡単に変化してしまうし、いろんな複数の名前さえある。
清→中華民国→支那→チャンコロ→中華人民共和国→中共
大韓帝国→朝鮮→チョン→大韓民国→韓国
ビルマ→ミャンマー
アメリカ→米国→USA→ヤンキー
世界で焚書があったら、これらが同じ言葉であると2000年後の子孫が、判るだろうかね。
あなたのやってる行為は、歴史という高速道路で目も見えないのに歩いてるようなもの。
似た言葉に囚われる行為は、結論の出ない無駄な行為に思えて仕方がない。
91 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/15(水) 23:55:59
>>64 >これも遠賀流域以東に出雲関西人が侵入した形跡の一つ。
逆もいえる。
遠賀川流域の人間が「出雲関西に侵入した」形跡の一つ。
92 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:03:40
狗奴国の場合は、王が卑弥弓呼で官が狗古智卑狗。
狗古智卑狗をキクチヒコと呼んで菊池を連想するのは無理があるような気がする。
国の名前でも、王の名前でもないわけだから。
不弥国の場合、官は多模だけど、これを気にする人はいない。
また、伊都国でも奴国でも官の名前を気にする人はいない。
93 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:11:01
甕棺の場合は、佐賀の吉野ヶ里とか福岡平野あたりが有名だけど、
これは甕棺の後期に属する。後期になるとこの地域で非常に多くなる。
しかし、発生期は熊本県宇土市以北でだいたい均等に見られた。
ただ、遠賀川の流域では見られない。
遠賀川以東はちょっと違う文化圏なのかもしれない。
94 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:14:15
鹿児島の弥生時代の遺跡からは、畿内との交流した形跡もあり、完全に
独立していたという状況ではないと最近の考古学の研究からわかってきた。
つまり、隼人は畿内の弥生の文化を受け入れた上で、自治的なサークルを
作り大和に対峙したきた訳。
95 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:18:06
九州は出雲関西人以前に韓国との方が交流深いでしょ。
96 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/16(木) 00:25:14
>>65 >その中で鉄器を持った北部九州の弥生人集団が、武器で劣る他の集団を圧倒していった。
正確に言ったら、鉄自体は貿易で簡単に手に入る。
鉄を大量に安く高品質に「加工する手段」を手に入れるのが難しい。
軍事力では大切なのは、武器のほかにそれを上手く運用する戦術と経済力、政治力
等たくさんある。
その総合力が軍事力
ーーーーー(引用開始)−−−−−
人間が作った「人工鉄」ではなくニッケルを多量に含む「隕鉄」と言う自然鉄
であった。しかしこの「隕鉄」の他に「人工鉄」も存在するかも知れないが、人間の手によっ
て鉄が生産されたからと言って石や青銅からすぐ鉄に移行する訳ではなく、それらに優る
材質となる技術的能力が高まるまで待たなくてはならなかった。
アナトリア高原に出現したヒッタイト帝国(紀元前1650年頃〜前1200年)が、最初
に人工鉄を作り独占したとされるが、定かではない。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/higasiajia.html
97 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/16(木) 00:32:21
>>81 >生まれは何処?もしかしてあっちの人?
生まれは広島。
大牟田は幼稚園児の頃から住んで育った少なくとも3代前までは純日本人。
熊本には母方の親戚がいて、よく遊びに行ってた。
まあ大牟田でも都会の方にいたけどね。
98 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/16(木) 00:38:25
>>86 >石棺、木簡文化圏も共通してる
石棺や木棺というのは、宗教的流行でどうにでも変化するもの。
今の日本人に火葬がほとんどになったけど、昔はそのまま生める土葬だ。
おかげさんで、今のお墓には火の玉がめったに出ない。
むかしは土葬だから、身体が腐敗しリンが燃え火の玉がよく出てたという。
99 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:38:58
鯨りょう一郎という人の「邪馬台国はどこですか?」という本には
岩手県にあると書いてありました・・
100 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:52:14
>>94 鹿児島県の肝属平野は宮崎と共通するものがある。同じような文化圏といえる。
延岡平野も同じで、この3つの地域には土器にも共通性があるらしい。
神武天皇は、兄弟3人で東征に出かけた。
五瀬命はなにやら延岡を連想させる。稲飯命が肝属平野とすれば、
狭野命は宮崎。
勝手にこの3つの地域が連合して東征したのではないかと考えている。
101 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/16(木) 00:53:40
下の引用文では、個人の名前なのか公的な職名なのか、断言は出来ない。
奴国と不弥国では、同名がある。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
東南の方に百里行くと奴国に着く。官を馬觚(しまこ)という。副官を卑奴母離という。
東へ百里行くと不弥国に着く。官を多模(たも)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。
投馬国に着く。官を弥弥(みみ)という。副官を弥弥那利(みみなり)という。
邪馬壹国に着く。女王の都である。官を伊支馬(いきま)、次官を弥馬升(みます)という。
狗奴国がある。男子を王としていて、狗古智卑狗(くこちひく)という官がいる。
倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は卑弥弓呼とは前から仲が悪かった。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
102 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/16(木) 01:04:49
103 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 01:21:59
>>87 弥生時代に600万人ってありえない
通説で鎌倉時代並だよその数字
桁が一桁違う
104 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 02:31:58
>>103 鬼頭氏の研究をもとにした話ならば60万だな
ちなみに縄文時代晩期は7万5000程度という
105 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/16(木) 11:54:48
>>101 『狗古智卑狗不屬女王』
この文章が初歩的な筆法であることに、まだ気付かないようですね
【文を錯うるを以って義を見わす】
【一字を以って褒貶を為す】
106 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 15:31:28
>>104 倭人伝に書かれている国のうち、戸数の書かれているのは8カ国。
その戸数を全部足すとちょうど15万戸。
これだけでも60万人を優に超えると考えられる。
狗奴国を始め名前の書かれている国も20カ国ほどあり、
そのほかにもたくさんの国があると考えられる。
魏志倭人伝に書かれている国の戸数には誇張がある。
邪馬台国の七万戸は、後の平安京よりはるかに多いと思われる。
恐らく、当時世界一の人口だったとも言われる江戸時代の江戸に
匹敵する人口だろう。
107 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 17:11:22
108 :
日本@名無史さん :2006/11/16(木) 17:21:53
>北九州の狭い地域にこれだけの人間が住め、また穀倉地帯が卑弥呼の時代にあったとは思えん。
>少なくとも国家として認められた邪馬台国の同盟国全体なら、帯方郡以上くらいの大きさは
>面積上あったはず。
>むしろ鹿児島を除く全九州が、邪馬台国の同盟国で税金を集めてたと考えるのが常識。
いくら何でも、九州の筑紫平野の規模を無視した記述です。
吉野ヶ里があれだけの規模を誇っても、まだ筑紫平野のほんの一部でしかない。
筑後川が第1級の河川で流域は肥沃な土壌でうるおっています。
昔も、今もそうです。ただ昔は有明海がもっと内陸にきていたと思われますが・・・
109 :
日本@名無史さん :2006/11/16(木) 17:50:51
110 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 18:20:14
>>106 要領の得ないレスだな
で、どのくらいだと言いたいんだ?
111 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 20:16:00
親魏倭王の金印は箸墓古墳に入ってるよ。でも、宮内庁が管轄していて
発掘できないんだよね。
112 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/16(木) 21:13:55
>>103 >弥生時代に600万人ってありえない
ありえないと断言するところからして馬鹿確定。
そんな昔の人口なんてものの推定する方法なんて怪し過ぎ。
江戸時代の人口は、1石を1人の人間が1年食べるお米の量だ、なんて仮定で
人口を推定してるんじゃないかな。
お米を食べなくても生きて行けるんだけど、そんな事も知らないのかね。
こんなバカ推定値を出す学者連中なんて・・・・
113 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:32:53
>>112 間違いなくありえない数字だから
ありえないと言ってるんだが
114 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:31:56
>>112 福岡の新しい地図はもう買ったかい? へぼくん
115 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/16(木) 22:34:36
>>90卑弥呼も陽巫女:太陽を神としそれに使える巫女の説がある。
知ってます。私も気が引かれる説ですが、それを言ってしまうと、取り止めが無くなるんで、敢えて言わないんです。
日御子、つまりアマテラス伝説を彷彿とさせるでしょう。神話と重なって、やはり想像がメインになりますから。
>>96正確に言ったら、鉄自体は貿易で簡単に手に入る。
その集団が、他を圧倒していったのでしょうね。ここでは相手は、主に縄文人です。勿論他の弥生人集団もいたでしょうが、
その中でも、とりわけ鉄を手に入れ易い、または優れた殺傷能力のある武器を持ったものが渡来し、他を圧倒したとでも
言いましょうか。
116 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:46:10
九州説だと、邪馬台国時代の本州(東海あたりまで)の統治はどうなるのかな。
1、北部九州以外に統治権は全く及んでいない
2、西瀬戸内や出雲までは、提携的な弱い統治
3、西瀬戸内や出雲までは、統治
4、畿内まで提携はあったが統治はなし
5、畿内まで統治していた。
6、畿内、東海まで統治
私は、4〜5の間くらいのイメージ。畿内に対しては王族(ニギハヤヒとか)を派遣したり、
土着の豪族から嫁をもらったり(生まれた子をその土地に派遣する)して、徐々に支配を
強めていくという段階であったと考えています。
117 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/16(木) 22:56:41
>>103 僕が以前読んだ本ではもっと多かった。確か800万のうち600万が弥生人と。
手を加えて意図的に減らしたんですが・・・。中国の雲南が、確か6千万か
8千万かくらい。読んで自分もびっくりしましたけどね。
もし沢山生まれても寿命が短かったんじゃないですか。
30までも生きられないでどんどん死んじゃうというか。
異論はあると思いますが、記憶に残るくらい驚いた。
118 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:19:02
119 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:19:38
>>116 魏志倭人伝によると、女王国に属していたのは対馬国、一支国から邪馬台国
まで戸数の書かれた国が8カ国。その余の旁国が斯馬国から奴国まで21カ国
で合わせて29カ国。奴国が2つ出てきているからこれが同じ国とすれば、
全部で28カ国。
だから、けっこう広いんじゃないかな。しかし、九州の半分くらいが妥当では
ないかと思う。
しかし、改めて倭人伝を読み返してみると、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
と書いてある。
つまり、女王国より北はその戸数・道里を略載することが出来るが、
その余の旁国は遠く絶えていて詳細を知ることが出来ない。
なんだか、迷わせる表現だなと思う。
120 :
太国:2006/11/16(木) 23:21:58
卑弥呼がアマテラスだとか 神武=崇神 だとか言ってる人のは、あたかも
オーストリアがオーストラリアだとか間違えてるのを彷彿させられて滑稽だ。w
zzzzzz・・・・・・・・
121 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:46:35
>>110 畿内説の人は、倭人伝に書かれた邪馬台国の戸数7万戸は、九州では
ありえず、近畿地方全部を考えると成立するという。
しかし、畿内説の学者も、近畿地方全体を一国と考えても遠く及ばないと
言っている。
では一国はどのくらいの範囲か?
邪馬台国の時代よりもずっと時代の下った江戸時代でも、一つの国は
それほど広くない。たとえば、畿内だけでも、大和、山城、摂津、河内など
けっこうたくさんの国がある。
弥生時代かあるいはそれに近いような時代のこのような狭い国に7万戸という
数はありえない。だから、倭人伝はどういう理由か知らないが、かなり
誇張して書いてあるというわけである。もっとはっきり言えば嘘だと思う。
ちなみに、鉄道唱歌というのがある。その中に、「九州一の大都会、人口5万人」
というのが出てくる。これは明治時代の熊本市である。
明治時代は、熊本市が九州で一番人口が多かったらしい。
しかも、5万人に過ぎなかった。
122 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:16:11
噛み砕いた説明ありがとう
やはり倭人伝を引き合いに
当時の人口を考えるのは危険ですね
123 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:27:22
↑簡単に納得するバカ
124 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:31:13
今日も妄想を膨らませる厨房の巣窟になっているようです。
125 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:31:21
>>117 寿命が短いのとまかなえる人口とはあまり関係ないんでは?
大雑把に言うと人口ピラミッドの形が違うぐらいだと思うけど
いずれにしてもご自身でびっくりするような説を根拠で
さらっとレスするのは感心しないなあ
126 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:38:05
127 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:57:11
128 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:59:13
厨房が喧嘩をしているようです。
129 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 02:15:41
130 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 02:33:15
131 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 05:42:08
邪馬台国を弥生時代に含んでいるレスと古墳時代に含んでいるレスが居る気がするんだが
気のせいかな?
魏志の倭人伝は240年ごろの状況を書いたものだったと思うが、丁度弥生時代と古墳時代の境目
くらいかな。古代日本の人口爆発の途中の時期じゃないかね?
あとパッと見た感じ
>>129-130は書き手の時代の区切り方が違うだけでデータは同じじゃ?
ほとんどに鬼頭氏の影が見えるし・・・
132 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 05:58:22
たぶん元になってる数値は2種類
133 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 08:26:02
弥生の人口推計は大雑把なもので、
まあそれくらいが妥当じゃないか、程度の結論でいいのでは?
少なくとも言えることは、投馬の五万戸、邪馬台の七万戸などを
九州島の中に押し込めてしまう九州説の議論は無理がある。ということ。
134 :
日本@名無史さん :2006/11/17(金) 09:05:05
倭人との接点に1大率を九州の伊都国にしかおいていない。
もし、大和説をとるなら、大和地方に1大率をおいて、交流
するのが、外交の常識でしょう。
伊都国が邪馬台の入り口か港湾の拠点で、そこと帯方郡と頻繁
に交流していることを考えると、九州説を考えるほうが妥当でしょ。
伊都国のすぐ南には、肥沃な筑後平野が開けており、吉野ヶ里の遺跡
も発見されています。また、最近は甘木方面に吉野ヶ里の規模を上回る
川端遺跡も発掘されており、今後の発掘が期待されます。
135 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:19:26
一大率は太宰師。
九州各国が独自の外交をしないように監視するために大和から派遣され、
手紙や荷物を検査しているのだ。
そもそも5万戸とか7万戸とかあてになるのか?
東を西にしたり一ヶ月を一日に自分の都合よく改変するおまいらが
137 :
日本@名無史さん :2006/11/17(金) 12:52:00
一大率とは、魏から派遣された外交官です。
倭人ではありません。
138 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 13:19:30
ちゃんと読もうね。
139 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 13:46:44
>>137 >〜です。
歯切れよく言い切ったね。では、根拠を提示願おうか?
140 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/17(金) 16:23:41
>>121 >弥生時代かあるいはそれに近いような時代のこのような狭い国に7万戸という
>数はありえない。
一戸に6人いたとして42万人。
このくらいに国なら、江戸時代にならざらに居たんじゃないかね。
加賀100万石は100万人が居たのだろうし、島津75万石、熊本54万石。
それを人口がありえないという神経が分からん。
あなたはバカ学者のありえないとか言う、中身のないタダのスピーカに過ぎん。
今の熊本県の人口は180万人、宮崎県で120万人。
この過疎化の日本の田舎にこれだけの人間が住んでるんだ、十分余裕がある。
人口5万人とか言うのは、極狭い範囲の大昔の熊本市の人口だろう。
都会とは周りの田舎から人口を引き抜いて、巨大化するもの。
今の熊本市は65万人居ます。
宮崎県西都市は3万人くらいだけど宮崎県の大きさに、邪馬台国7万戸42万人があった
としたら余裕がある。
そして熊本県付近に投馬国5万戸30万人なら、余裕綽々だよ。
その点、北九州説じゃあまりにも場所が狭すぎる。
141 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 16:32:14
吉野ヶ里の住居は何戸?
142 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/17(金) 16:55:43
>>129 >奈良時代を基準として、
小山修三氏の遺跡数からの推計は、前提が信用ならん!
これじゃ遺跡が全部発見されてるという前提がなければ、屁みたいなもんだ。
県によって遺跡に対する取り組みにも差があるし、未だに未発見の遺跡もたくさんあり
大規模に工場を作ろうとして遺跡が見つかってるを、知らないのかね?
特に九州では古墳を壊すと祟りがあり、長生きできないという伝説がある。
その為、古墳を壊さないように畑や田んぼを開墾してる。
遺跡の数で人口を推計するなんて、1000年は早い暴走行為!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この場所に配送センターを構築しようとしていたのはある大手の飲料水メーカーである。
このメーカーは、最初神埼工業団地にセンターを構築する予定だった。
それが吉野ヶ里の発見により移転を余儀なくされ、次に建設を始めた平塚工業団地でも
遺跡にぶち当たった。しかも同じ環濠遺跡にである。
このメーカーにとっては不運というか幸運というか、歴史ファンからすればありがたい
会社である。
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html 火山のくに鹿児島では、火山層の下から、「東高西低の縄文文化」という常識がくつが
える遺跡の発見が最近相次いでいる。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page1.htm
143 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/17(金) 17:02:08
>>131 >古代日本の人口爆発の途中の時期じゃないかね?
本当に人口が爆発してるのかい?
ただその時期での、遺跡や古墳が大量に発見されただけの事を、人口に結びつけた暴論。
多数の人が古墳も作らず、遺跡として残されるような大きな集団になってなければ関係ない。
144 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/17(金) 17:08:05
>>136 >そもそも5万戸とか7万戸とかあてになるのか?
俺は当てになると思う。
魏からの使節団に、投馬国や邪馬台国の役人が教えた数字だと思うけど、デマを教えて
役に立つとは思えん。
国家機密なら教えないで答えなければいいのだし、これから仲良くしたい大国魏に対して
嘘を教えるなんて考えられん。
日本がアメリカの大使に対して、嘘を教えて仲良くしてもらおうなんて思わんだろう。
145 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/17(金) 17:11:20
>>137 >一大率とは、魏から派遣された外交官です。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。
諸国は指令館を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、
国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。王の使いが魏の都、洛陽
や帯方郡や韓国から帰還した時、また、郡の使節が倭国へ行く時はみな津
で文書とか送り物とかを点検し、不足や食い違いがないようにしてから女王の
もとに運ばせる。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
146 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:18:25
>>137 一大卒が魏または帯方郡が派遣した高官だとしたら、狗奴国との争いのとき、
もっと活躍してもいい、わざわざ張政がやってくる必要はない、という考えも
有力だと思う。
147 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:25:21
刺史のようだと書いてあるんだから、一大率は倭国独自の制度。
148 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:32:19
>>141 吉野ヶ里遺跡の人口は1000人と言われている。しかし、発掘された当初は
500人と言われていた。それでも、古代では立派な都市国家だとされた。
古代の人口は、発掘された遺跡の住居跡の数から割り出しているので、
そんなに見当違いの数は出てこないはず。
住居跡の密度から考えてその程度と考えたのだろう。
現代の感覚で古代の人口を考えるのは間違っていると思う。
149 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:36:51
やれやれどんな数字を持ってきても
そんなもん信じられんでは議論にもならんなw
一体どの数字ならだいたいOKなんだ
江戸幕府成立時期の1200万もだめなのか?
明治政府樹立の3300万は?
事によっちゃ今の1億2000万も否定する気かもなw
150 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:50:21
私は、邪馬台国時代で120〜150万人が九州にいたと考えています。
奈良時代くらいになると、人口推計がある程度信用できるようになるところ、
>>129によれば、600万人前後。
邪馬台国時代以降に人口爆発を想定しないので、邪馬台国時代の日本の人口を
450万人くらいと見ています。水稲が紀元前5Cに遡るという点からは、急激な
人口増加は考えにくい。その時代以降に多数の渡来人が来たという事実もない。
これに対して、畿内説は日本(または九州)の人口を少なく見ることにより九州説の
批判材料にしようとしていると見ています。畿内説は、朝鮮征伐とかを認めず、
古代における朝鮮からの人口流入を想定している感じがするが、無理スジ。
対馬、壱岐、伊都国、奴国は地域が分かっているが、これを基準に考えれば、
他の記述も九州説で十分整合する。整合しないという考えの方が(?)です。
151 :
日本@名無史さん :2006/11/17(金) 17:51:04
一大率は帯方郡から派遣された高官にすぎないのだから、狗奴国との争い
に活躍しないのは、ある意味当然です。
もしも、一大率が大和からの派遣役人だとすれば、諸国がそんなコッパ
役人を何故、恐れるのか分からない。
この諸国とは、卑弥呼を共にたてた構成勢力のはずです。
卑弥呼自体には、軍事的要素はなく、諸国に担ぎ上げられた女王にす
ぎないのだから、恐れる理由が分からなくなりませんか?
また、大和の勢力が北九州に及ぶほど強大であれば、当時の魏への貢物
が生口6人とか班布2匹2状などという貧弱なものである筈はないと思わ
れます。
戦国時代の豊臣秀吉でも、九州征伐に苦労してるのに、この当時に
大和勢力が九州に力がおよんでいたと解釈するには無理があります。
152 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 18:11:04
>>150 >奈良時代くらいになると、人口推計がある程度信用できるようになるところ
ちなみにその人口推計で奈良時代九州の人口約55万人とされています
別に畿内説を支持したいわけではありません
153 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 18:45:32
7万戸はあてにならんな
女抱かせて一桁間違えてもらったんだろう
最大にして効率的な防衛手段だなw
そんなところだろう
154 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 19:29:07
万単位のいい加減な数字を鵜呑みにする方が浅慮。
これだから倭人伝原理主義者は…。一字一句正しくないと気が済まないらしい。
同時期の中国大陸の人口と比べても、邪馬台国七万戸は途方もない数字。
155 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 19:38:01
また、短里説とかいって、倭人伝の里数と実際の距離を比べて、
「魏晋朝は短里が使用されていた」とか言う。
現在の地図を見て分かる、その正しい距離を、
魏使はいったいどのようにして計測したと言うのか?
当時の測量技術、ましてや異国の地にあって、正しい距離が分かったとは思えない。
案内役の倭人に聞いた数字を適当に記載したと考えるべきだろう。
156 :
:日本@名無史さん :2006/11/17(金) 19:43:10
この関係のスレって明らかに毎度九州説に誘導してるヤシが5人ほど居るよね。
発掘チームの関係者なんだろうね。
まあ、九州説といえど倭人伝と完全に一致することなどあり得ない
=つまりどこかは誤謬として訂正せざるをえない
ということは認めたということでイイのかな?
それなら、九州説は倭人伝の記述と全く矛盾しないと言い張ってた
頃に比べるとたいした進歩なのだが・・・・
158 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:02:17
>>152 そこら辺は日本国内での配分の争いと見ればいい。
九州説だと、
1、畿内への遷都に伴い大規模な移住が生じたことを考慮すべき。
2、邪馬台国時代と奈良時代とで九州では遷都の結果、人口が減少している。
とか色々言えそう。安本はそう書いてた記憶。
正直、誰がどうやって作ったのか分からない統計を元に議論するのも気が乗らない。
出土物みたいに形がないし、伸縮可能なもので、イデオロギーが入りやすい。
一応、>>150のように600年時点で600万人くらいと考えている。
159 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/17(金) 21:32:07
>>148 >古代の人口は、発掘された遺跡の住居跡の数から割り出しているので、
>そんなに見当違いの数は出てこないはず。
十分見当はずれになります。
吉野ヶ里みたいな極小さな住居跡から計算できる人口には、見当違いはないと思うが
集まっていない、バラバラに住んでる人口は全く判らん。
逆にいえば、交易が発達した集団の部落は補足出来るが、自給自足の生活をしてる
バラバラに生活してる連中は、そんなやり方では全く補足できん。
東京の八丈島に居たことがあるけど、凄い辺鄙な場所でも人が生活してる。
そんな場所にたくさん人間がいるから、全体の人口は多くなる。
小笠原はその点、人間がいる場所が極端に集まってる。
これは人工的に、お金を入れて道路などのインフラを作り、人を集めた為に出来た現象。
邪馬台国の時代には、そんな人工的手段は使ってないはずで、八丈島タイプ。
速いもの勝ちで、人のいないところに家や畑を作ったものの権利にしてたはず。
そのタイプじゃ遺跡数では人口は出ない。
160 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:52:48
>>158 >正直、誰がどうやって作ったのか分からない統計を元に議論するのも気が乗らない。
それを言うなら倭人伝の記述こそ
誰がどうやって作ったか分からんだろう
にもかかわらず倭人伝の統計は全面的に受け入れんですか?
161 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:06:08
>>158 慶長5年の九州で125万人とあります
これも国内の配分の争いのせいでしょうか?
または遷都による人口減少のせいでしょうか?
あるいはイデオロギーのせいでしょうか?
162 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:31:55
>>157 九州説にもいろいろあるだろうけど、倭人伝が全て正しいと思っている人は
少ないだろうと思う。特に数字の部分は怪しい。あまりにもおおざっぱな
数字だし。
以前、明の時代の文献だったか、日本の戦国時代の記録が出ていたけど、
あれなんかは、文献のどの部分が正しくて、どの部分が間違っているかを
知るにはかなり参考になる。
たとえば、木下藤吉郎は薩摩の出身と書いてあったけど、これを読んで
中国の文献は間違っていて当てにならないとは思えない。
木下藤吉郎という重要人物がいて、織田信長の家来になったという大筋は
しっかりとつかんでいるからである。藤吉郎の出身地など小さなことだと思う。
魏志倭人伝も小さな部分は間違っているけれども、大筋では間違って
いないという考えである。
つまり、戸数や里程・日程は小さな部分である。
畿内説の人間は、木下藤吉郎が薩摩の出身と書いてあるから中国の
文献は全く信用できないというわけでこれのほうがおかしい。
163 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/17(金) 22:32:48
>>134また、最近は甘木方面に吉野ヶ里の規模を上回る 川端遺跡も発掘されており
凄いですね。どんなのが出るか楽しみです。甘木にも女王がいましたよね。
何とか言う。やめつ姫でしたっけ。案外あの辺が邪馬台国だったのかも。
柳川にも、やまと町という町名があるそうですが、
いつごろからある町名でしょうか?古いんでしょうか。
164 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:37:35
165 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/17(金) 22:46:06
>>さあ、私はコピーしただけなので。詳しくありません。
166 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:35:44
川端遺跡とか甘木の八女津姫とか知識の無いバカが妄想だけ語っても
信用ないな
167 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:37:08
いずれにしても朝鮮人=京都人は朝鮮人で
九州人とは無関だろ。
あんな長い奇怪な顔そうないし
168 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:40:01
九州では遠賀川流域以東に朝鮮人(京都、出雲人)の
入植があったと考えられる。文化圏、遺物が同じ。
169 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:40:55
田川の香春岳なんてそもまんまですね。
辛国神。宇佐の辛島
170 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:46:31
関西人の代表格京都人なんて顔みてみー
あんなのと同族なんて死んでも嫌だ
>>162 >倭人伝が全て正しいと思っている人は少ないだろうと思う。
ところがそうでもないんだな、これが。過去ログ漁ればわかるよ。
172 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 00:06:00
必死になってる奴はそれで食ってる
あるいは食おうとしてんだろうなあ。
いい加減な記述という事に落ち着いちゃうと
おまんま食えなくなるもんな。
まあ、いろんな本が書けるからねえ
おいいしいもんなあw
173 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 01:50:37
>>170 山城信吾、幸田來未、ガクト、ボニーピンク、オセロ中島などですね。
そろそろ別の話題に・・・前スレぼ鏡の話の続き。
>>118 の鏡の分類を見て、画文帯と三角縁は時期がかなり重なっていると考えを変えた。
前は、画文帯の時期のあとに三角の時期と考えていたけど・・・
1、両者は鏡の形式として連続性・同質性がある。
2、画文帯のみ出土の墳墓が存在することは、伝世を否定する根拠になる。その考えだと、
両者混在での出土は両者混在での流通があったと見るのが自然。
3、三角も出土状況から、製作年の違いが推測でき、伝世をおおむね否定できる。
4、三角は多種多様で、「商品多種取り揃えてございます」状態。その中に画文帯があっても
全然不思議ではない。画文帯も多種多様。
5、画文帯の大半と三角の全部を日本製と考えるなら、製作年の重複は問題とならない。
三角の舶載説は検討の対象にするのも馬鹿馬鹿しいので無視した。
175 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 02:33:44
誰がどんな計算で出したか分からない統計は信用できないって・・・
出典まで出してるんだから引用もとの本読めよw
176 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/18(土) 04:48:50
>>166川端遺跡とか甘木の八女津姫とか知識の無いバカが妄想だけ語っても
これ以上のことはなんにも書いてないが 、そちらの説自体何も解らない。
他人に対して、知識の無いバカの妄想呼ばわりする前に、自説を書くべし。
吉野ヶ里遺跡という物証と、甘木にはそれを上回る規模の遺構が見つかってるらしいが、
その事実を超える根拠というのはいったいなんだ?
想像より文献のほうが確かであり、倭人伝に符合する、環濠集落などの大規模なな遺構などの
物証は、それ以上に確かなもののはず。やめつ姫という女王の存在も大きな証拠となる。
>>166 を書いた人は、それ以上の証拠を示すか、出来なければ発言を撤回して、
謝罪すべきだろう。それが出来なければ、この言葉はそっくりそちらにお返しする。
なお、川端遺跡という名称は、
>>134 をそのまま写し取ったもの。
177 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 07:22:12
>遺構が見つかってるらしいが、 >
>その事実を超える根拠というのはいったいなんだ?
らしいが、?
あんたバカ??????!それに
川端とか甘木のやめとかデタラメいうやつが
主張する資格はなにもないだろ
178 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 10:42:21
>>160 >それを言うなら倭人伝の記述こそ
>誰がどうやって作ったか分からんだろう
それははっきりしてる。
魏から晋に禅譲された政権の役人(陳寿)が魏の公文書などを調べて
邪馬台国に関する情報を書いた物。
陳寿が生まれたのが、西暦233年で卑弥呼が魏に朝貢した238年には5歳ころだった。
同時代の著者による記録といえる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
陳寿は蜀の国で233年に生まれ297年に65歳で亡くなっています
邪馬台国の女王の卑弥呼とほぼ同時代の人です
179 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 10:46:16
>>161 >慶長5年の九州で125万人とあります
中身なし!
どこのどんな記録に書いてあるのかくらい出しなさい。
島津75万石、熊本54万石で合計、130万人くらいが1年間生きていけるお米は
作られてるんだぜ。
何でそれより、人口が少ないんだよ?
180 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:52:02
だから、本丸は箸墓古墳。
調査できないのをいいことに九州論者は言いたい放題だね。
181 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:58:33
我々が見ている三国志は宋代の物。
米が毎年同じ石高取れないし、米を全て食料として消費する訳ではない。
182 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 12:28:56
>>179 大部分大阪蔵屋敷に輸送してから換金してると思うんだが>米
183 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 13:42:29
邪馬台国の位置の確定。
●平壌〜ソウル(帯方郡)から960km(12000里)
●上海(会稽)の東方
この魏志倭人伝の2つの記述で簡単に確定する。
この2つの条件にピッタリ合うのは鹿児島市であるけど、南に敵対国の狗奴国が
あったとするとこの北の宮崎市が邪馬台国の中心地と思われる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
帯方郡から女王国にまで一万二千余里ある。
この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
184 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 13:56:30
>>181 >米が毎年同じ石高取れないし、米を全て食料として消費する訳ではない。
人間が生きてて、お米を全量消費してると考えると一応の目安にはなる。
豊作や冷害があったとしても、今の日本の生産量の変化をみるとダイタイ90%
〜110%の範囲に収まります。
だから遺跡の数から推測するトンチンカンな人口よりは、はるかに信頼性がある。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
一般的に作況指数と言った場合には、水稲についてのものを指すことが殆どである。
米においては、流通価格を決定する入札や、翌年度の生産目標数量の決定など、経済
的、政治的な判断に当たっての重要な指標となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E6%B3%81%E6%8C%87%E6%95%B0
185 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 13:58:51
>>182 >大部分大阪蔵屋敷に輸送してから換金してると思うんだが>米
換金しても、最終的には人間のおなかに入ってるはず。
日本には、それだけの人間がいたという根拠にはなる。
186 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 14:43:03
>>185 いや、日本の人口に関してはそうだが九州の人口の話じゃないの?
大阪に行っちゃった米を九州人が食べるわけじゃないだろうし
江戸時代にも京、大阪、江戸という消費都市もあるわけだしね
藩によって税率も違うし領内にどれだけ米が残ってるかは簡単じゃないよ
石高(しかも面高)で九州の人口出すのは少し乱暴じゃないかと思ったんだけど
ちなみに薩摩に関しては77万石ってのは米高じゃないから、他藩なみの米高で計算すれば37万石程度だよ
あそこはシラス台地多いから米作りに向いてない 人口の4分の1が武士階級だし(郷士は農作もするが)
まぁそれについては、九州全体の人口考えるだけなら実高のほうが上回る藩(熊本とか)も
あるんだけど
九州って米以外の諸々の収入ひっくるめて石高にしてるところも有るみたいなんだよねぇ
例えば薩摩は琉球が12万石扱いだし奄美の砂糖とかも含まれたかな
187 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 14:53:14
正直、どう考えても大和=邪馬台国で近畿としか考えられないのだが……。何を論争してるのかよく分からない。
188 :
太国:2006/11/18(土) 14:57:07
ご迷察。w
189 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 15:02:08
>>180 >調査できないのをいいことに九州論者は言いたい放題だね。
九州の古墳もほとんど調査されてないよ。
西都原古墳群で300個くらい古墳があっても、お金や宮内庁の都合などで大部分が未発掘。
卑弥呼の古墳は直径30mくらいの、円墳で石室などの郭のない一般的な古墳。
しかも魏が健在な頃に死んだから、鏡はともかく金印は一緒には埋葬されてないでしょう。
後継者の台与だと、15年後くらいなら生きてる間に魏が滅んび、その可能性はあるけど・・・・・
今の考古学じゃ、たとえ卑弥呼の古墳を発掘しても、まず気が付かないでしょう。
だから未来の子孫に任せるべき!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
地下式横穴墓、横穴墓など、311基のさまざまな古墳で構成された全国有数の 大古墳群で
ある。古墳の大部分はいまだに発掘をされておらず,謎を残している。
http://miyazaki.daa.jp/saitobaru/
190 :
太国:2006/11/18(土) 15:10:26
191 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 15:30:25
192 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 15:30:55
>>186訂正
表現が微妙になったが、琉球と奄美はあわせて12万石だな
あの書き方だと別々に見えるかもしれん
193 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:01:24
>>191 その引用文、「で、」で前後がつながって無くないか。
1石が1人が1年で食べる量だとしても、どこで誰が食べるかなんてわからんだろうに、
何の説明も無く10万石の藩の領内に10万人いるって話になってる。
領内で生産と消費が完結してる時代ならともかく、
江戸程度に流通が発達した社会ならその10万石の藩に10万人なんて原則はなりたたんて。
江戸時代の藩なんて借金だらけで、米を売った代金がそのまま差し押さえられることもざらだし。
引用もとにもそのあたりは特に説明ないみたいだ。
>搾取されて麦、粟、ひえ、などで暮らす人々もいるわけだから実際は違いがあるが。
ってのも、米と人口のバランスは既に崩れていると捕えるのが普通じゃないか。
と不思議に思ってHP見てみたんだけど、コレ書いた人何者?
このHP海軍とかミリタリーばっかりなんだけど。マニアのページなんだろうか。
194 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:01:59
>>178 どうやって統計をつくったかの話してるんだろw
195 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:04:23
>>187 俺はどう見ても大和=邪馬壱国はこじつけにしか見えないが
197 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:10:51
大和を「やまと」と言うのはこじつけだと思うが。
198 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:16:19
「やまと」と呼んでた国が確かに三世紀にあって、それがのち
「和をもって尊しとなす」が敷衍されて
大和という字が当てられただけの話だと思うが。
実際のところ、奴国の二万戸を超えるような遺跡が、九州島からは
発見されていないことに問題がある。
江戸時代の石高とか出して、無理矢理なコジツケ。
200 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:24:06
>>186 江戸時代の島津は通常玄米で量る石盛を何故か籾高(籾米)で量ると幕府に届け認められた。
籾米は通常の石高の基準になる玄米に脱穀すると半分しかない。
そのため他藩と同じ基準で石高を求めるとほぼ半分になる。
同じことは他に福井藩あたりがやってる。
何故こんなことをするんだか知らんが、参勤行列にせよなんにせよ幕府に届け出た石高に
見合った負担に耐える必要があるから、実収入の倍以上の石高を申告している島津は
本来の収入に見合った負担の倍の負担を負わなければならない。
しかもその金は参勤道中や江戸など、自国の領外で消費するから藩から金が出て行くばかり。
そのせいで藩政改革前の島津は諸侯の中でも特に借金だらけだ。
だからこそ幕末の斉彬なんかは藩政改革や密貿易に精を出すことになるんだが。
201 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:28:17
>>179 だから寛永以降の話だろそれ
寛永以降なら400万人となってる
慶長5年が分からないのか江戸時代の人口推移の知識が無いのか知らんが
アフォですか?
202 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:30:40
>>199 というか古代から江戸時代までにどれだけ生産力が向上してると思ってるんだろうか
二毛作やら牛耕やら鉄製農具やら水車やら
他にも千歯こきだのなんだのかんだの
邪馬台国の時代以降に伝わったり発明されたりした新技術だけでも枚挙に暇が無い
203 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:31:56
204 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 16:34:31
>>193 >江戸程度に流通が発達した社会ならその10万石の藩に10万人なんて原則はなりたたんて。
流通が発達するとは、目安は何?
農民が85%なら、そんなに流通が発達してるなんていえないと思うけど・・
今じゃ、農民や漁民の第1次産業は5%くらいのもの。
それが85%もある江戸時代を流通が発達してるとは、どんな頭の構造をしてるのか??
ーーーーー(引用開始)−−−−−
1998年全産業の就業者人口は6514万人となり、第1次産業は5.3%、第2次産業
は31.6%、第3次産業は62.8%と第3次産業の伸び率が高い。
http://www.media-line.or.jp/igu/j/a/worldprint.html
205 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 16:37:24
>>194 >そんざん既出の
>>130だろ
>過去レスよめよ
その根拠が当てにならんといってるの。
どうやって日本の人口統計を出したのか、根源的思考があなたには欠如してる。
206 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:38:34
おまえなぁ、江戸時代の京都大阪江戸の米消費を支えたのは各国からの蔵米だろうが
生産力が全く無い消費都市が成立する時点である程度の流通は確立してるんだよ
というかお前は蔵屋敷というものを知っているのか?
207 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:40:01
208 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 16:40:09
>>197 >大和を「やまと」と言うのはこじつけだと思うが。
俺もそう思う。
邪馬台と書いてヤマトと読ませるのなら分かるけどね。
卑弥呼の後継者 台与をトヨと読むくらいなんだから。
209 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:40:32
210 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:42:03
つーか日本の地方と都の間での物流に限れば租庸調の時代からある
211 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:48:49
江戸時代は北前舟やら菱垣廻船やらもあるな。
それ以外にも大阪や江戸などの消費の多い都市には全国から特産品が集まってる。
江戸とかで売ったほうが領国より高い値が付くからな。
回船問屋も増えたがそれだけじゃなく藩が大型船を定期的に運行して江戸に特産を運ぶこともある。
>>183 > 邪馬台国の位置の確定。
> ●平壌〜ソウル(帯方郡)から960km(12000里)
> ●上海(会稽)の東方
> この魏志倭人伝の2つの記述で簡単に確定する。
> この2つの条件にピッタリ合うのは鹿児島市であるけど、南に敵対国の狗奴国が
> あったとするとこの北の宮崎市が邪馬台国の中心地と思われる。
> ーーーーー(引用開始)−−−−−
> 帯方郡から女王国にまで一万二千余里ある。
> この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
短里の件は置いておくとして『上海=会稽』は無理だな。
三国〜南北朝期の「会稽郡」は、概ね今の浙江省の位置にあたる。
それに原文は「会稽東冶」だ。
これが「東冶県」のことであれば、その位置は今の福建省域に入る。
それを無理やり気味に長江河口の上海に置き換え、
さらに、倭地側でも鹿児島と宮崎を置き換えている。
つまり、上海と鹿児島が共に北緯31度帯に入ることは事実だが、
それは、宮崎が会稽東冶の「正に東」にあたらないことの証明ともいえるw
213 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:50:08
>>205 倭人伝の7万戸の統計の根拠こそまったくの謎だぞw
誰がどうやって統計出したかすら分からん
にもかかわらずこちらは何故全面的に受け入れるんだ
笑わせんなよ
214 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 16:52:57
>>199 >江戸時代の石高とか出して、無理矢理なコジツケ。
江戸時代にならないと、穀倉地帯でもお米の生産高がよく分からないから
仕方のない選択。
卑弥呼の時代の生産高も、穀倉地帯として九州ではお米の生産をしてたはず。
極端な差があったとは思えない。
むしろ水の便がよく、土地が肥えてたら権力者にとっては欲しい土地というべき。
鹿児島の火山灰のシラス地帯にさえ、石器時代から人は住み着いてたんだぜ。
定期的に川が氾濫する、デルタ地帯ならもっと人は住み着きやすい。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
日本国内で旧石器時代の生活遺構がこれほどまとまって出土したのははじめてであり、
明らかに旧石器時代に南九州では既に「定住化」に向かっていたことが窺える集落跡
http://inoues.net/ruins/mizusako.html
215 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 16:54:52
216 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:00:11
倭人伝の7万戸のためなら
今の人口さえも根拠があてにならんと
言い出しかねない勢いだなw
217 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 17:00:33
>>201 >寛永以降なら400万人となってる
中身なし!
あんたは「なっている」と言えば、ソースもなしに信じる馬鹿に過ぎん。
どこのどんな書物に、どんな計算方法で載ったのかくらい分かって書き込みなさい。
あんたの脳みそは根源的思考力ゼロ!
218 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:02:42
219 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:06:48
220 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:07:48
害基地に何言っても無駄
221 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:13:49
>>214 石器時代にいくら住んでても縄文時代には関東方面に行っちゃってんじゃん
列島が大陸につながってた時代からどれだけ気候環境が変化してると思ってんだ
縄文時代中期からですら晩期までに平均気温が2度も変わってるんだぞ
1万3000年もずれた話は要らん
それにシラスに米は合わんと(ry
222 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:14:35
おまえは本1冊の内容をこのスレに書き込めというのか・・・
223 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:30:58
おまえは九州のたった一つの遺跡の記事を持ち出しただけで
>卑弥呼の時代の生産高も、穀倉地帯として九州ではお米の生産をしてたはず。
>極端な差があったとは思えない。
>むしろ水の便がよく、土地が肥えてたら権力者にとっては欲しい土地というべき。
>鹿児島の火山灰のシラス地帯にさえ、石器時代から人は住み着いてたんだぜ。
>定期的に川が氾濫する、デルタ地帯ならもっと人は住み着きやすい。
とまで言い切り、日本中の遺跡を検討した研究成果を完全否定するのか
どんな頭だ・・・orz
224 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 17:37:38
225 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 17:40:01
>>213 >倭人伝の7万戸の統計の根拠こそまったくの謎だぞw
それは使節団の方が、邪馬台国の役人に聞いて書き残したものだろう。
投馬国の戸数は投馬国に役人に聞いたもの。
それ以外には考えられんだろう。
226 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:43:00
227 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:44:35
>>225 だからこそなんでそれを無条件に信じられるんだ???
228 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/18(土) 17:52:27
229 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 18:01:19
いやだから、なんで自分が根拠に遺跡を持ち出すのはよくて他人の研究は否定するのだと。
結局君も遺跡があるから九州に多くの人が住んでたはずだって言ってるだけだろう?
鬼頭氏をはじめとする研究者たちがその程度のことを検討して無いとでも言うのか?
正直、もうメンドクセーよ
230 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 18:15:55
>>225 つまり役人が桁を一桁多く申告したわけだ
で、見て見ぬ振りしてもらう為に女抱かせたな
俺ならそうする
これで国力が簡単に十倍にアップだ
232 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 20:34:55
233 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/18(土) 20:41:57
>>225 主張は大体賛同出来るけど、数の数え方は、今と昔は大分違わない?
確か、今の数の100分の1だったと思うけど。800年前の日本の人口が9億人という
文献がある。
234 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/18(土) 21:41:07
>>189 >鏡はともかく金印は一緒には埋葬されてないでしょう。
金印は、魏王朝が存在するかぎり効果するからね
235 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 22:35:18
>>229 詳しく知っているわけではないが、弥生時代の人口は次のように推定される。
まず、一つの集落の住居跡を数えて戸数を出す。それに、一戸に住む人間の数
を推定して乗じることにより、集落の人口を推定する。
同じように他の集落の人口を推定し、その地域の集落の平均の人口を出す。
次に、集落の密度から、その地域の集落の数を推定し、集落の平均人口を
乗じてその地域の人口を割り出す。
だから、正確な数ではないが、選挙の出口調査と同じようにだいたいの数は
つかめるというわけらしい。
したがって、卑弥呼の時代の日本全体の人口は、100万人をかなり下回るだろうと
推定される調査結果を受け入れるべき。
倭人伝に書かれた国の数は狗奴国を含めて30カ国。これは魏に使いを送った国だから、
実際にはもっとたくさんの国があったと思われる。
つまり、畿内説であろうと、九州説であろうと、邪馬台国の七万戸はありえない
と考えるべきだろうと思う。
238 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/18(土) 22:56:11
卑弥呼の墓は、一般的な古墳だった。古墳を巨大に造る技術は確か出雲。
神武の東征があったとして、出雲で大国主命が国を譲って、
変わりに超巨大な神殿を造って貰って神主になり、邪馬台国連合に加わった時、技術も吸収した。
そして畿内を征服したとすれば畿内がが古墳時代にいきなり大型古墳を出してくる事の説明がつく。
出雲の造墓技術があったればこそ、その後の巨大古墳時代が畿内で花開く。
台与の墓は、金印と共に箸墓古墳に眠っているのかもしれない。
239 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:08:17
240 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:20:47
あの
お引取り(死)になっと思い・・・ppp
241 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:35:01
242 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/18(土) 23:37:27
>>235卑弥呼の時代の日本全体の人口は、100万人をかなり下回るだろうと
推定される調査結果を受け入れるべき。
は少なすぎだと思う。未発掘の遺跡や、そのまま発展し、遺跡の痕跡を
残さないものや、クニの中心集落だけでなく、そのクニの勢力下にある集落も
含めると、相当数あったと思う。現在見つかっているものだけで、推定するのは
無理があると思う。
243 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:37:47
本気?
244 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 00:00:01
ずっと秘密だからヒミコというのかと思ってた人、挙手のこと。
245 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 00:04:07
まあいずれにしても誤差はかなり出てもおかしくない
場合によっては200〜250万人ぐらいまでいく可能性はあるかもね
でもそれ以上とするのはかなり無理があるんじゃないかな
246 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 00:06:49
委奴=アイヌ(人、男、夫)→イヌ
マト(妻)
イヌマト→ヤマト
247 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 00:27:54
>>242 >未発掘の遺跡や…。
だから、見つかって調査した集落の密度から、発掘されていない集落の数を
推定するわけだよ。
248 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 01:03:25
>>247 そう来るだろうと思ってました。でもそれは難しいと思うのは、
奈良、平安時代であっても、都こそ立派な建物が立ち並んではいたものの、
田舎に行くと旧態全とした竪穴式住居が広がっていた。という事は
人々の暮らしはそのまま継続されている事が多いという事。
吉野ヶ里のような未開発での発見は珍しく、大抵は、都市、町村などに
変わっており、鎌倉、江戸期にかけて、文献に残らずに、跡形も無く消え去っていった
集落とのばらつきが大きいと思う。縄文人も当然まだ住んでいたし、
弥生遺跡だけでは、推定が難しいと思われる。
249 :
245:2006/11/19(日) 01:16:41
>>248 まあそれも当然見込んで出してるんだけどね
いずれにしても誤差はかなり出てもおかしくないけどね
250 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 01:52:08
こら!おまえら役人だろ
251 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 01:52:39
邪馬台国って大分やろ?
宇佐神社か神宮か知らんけど、卑弥呼が真ん中に祀られてんねやろ?
左右に、応神天皇と神功皇后ちゃうの?
ところで、応神天皇と神武天皇が同一人物ってホンマなん?
252 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 02:01:37
違う。ジャワだよ。ジャワタイ国。
南に一ヶ月以上も行ったら着くよ。
253 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 08:22:48
>>251 おっ。やっとそれに触れるお人が現れた。比売大神の事を言ってんでしょ。
前スレで話したけど立ち消えになったままで終わってしまって。
あの比売大神もまた卑弥呼候補として捨てがたい。
古代中国の発音で、卑弥呼はぺメハ。奈良時代以前は、はひふへほ を、
ぱぴぷぺぽ、と発音してたから、比売はヒメに近い。姫の語源かもしれない。
卑弥=姫、と。この人は荒れ果てた神社の出で、そこは宮内庁が封印してる。
なぜか四拍手で祀られてる、怨霊のような存在なのよね。
でも宇佐神宮では真ん中に祀られてる不思議な存在。
宮司さんの話では、宇佐近辺に降臨したらしく、NHK で見た比売大神の像は
当神社には無いとの事だった。謎は深まる一方。参拝の人たちが
卑弥呼なんでしょー。と聞く人が多いんだって言ってた。TV の影響か知らん。
254 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 08:25:14
また振り出しの高木マニア
255 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 08:28:15
それにしても厨房レベルの低〜い会話が続くな。
256 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 09:09:47
弥生時代の遺物による年代測定など学者の見解によって大きく分かれる不確かなものより、
古い伝承を受け継ぐ神社の神などをもっと詳しく調べた方が確かかも。
鳥居などというのも弥生の発生とされるし、神社の建築様式も東南アジアにそっくりなのがあるから、
かなり古い時代に、日本列島に移り住んだ人々が、伝えたと考えられるし。
何らかの伝承の持つ意味が全く根拠のないものだとは考えられない。
257 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 09:37:40
捏造した河童のミイラを大真面目に伝えてるようなレベルの「伝承」の信憑性よりマシじゃあるまいか>年代測定
258 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/19(日) 09:43:34
>>256 >かなり古い時代に、日本列島に移り住んだ人々が、伝えたと考えられるし。
何らかの伝承の持つ意味が全く根拠のないものだとは考えられない。
(あ・い・う・え・お)(イチ・ニィ・サン)(ヒ・フ・ミ)
でも研究したら
そして
「八雲」・・・その2
【八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を】(記)
八雲立つ出雲八重垣けふまでも昔の跡は隔てざりけり(九条良経[続古今])
八雲立つ出雲八重垣ひまもなくめぐみにこめよ君がよろづ代(源家長)
八雲立つ出雲八重垣かきつけて昔語りを見るぞ畏き(後嵯峨院[新後拾遺])
これらを解明できれば先行き明るくなるよ
江戸時代や明治時代に創られた伝承も多いしね
260 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 09:57:27
>>242 >未発掘の遺跡や、そのまま発展し、遺跡の痕跡を残さないものや、
そればかりでなく文化や思想の影響もある。
戦国の英雄武田信玄はお城を作らず「人は城、人は石垣、人は堀」という思想を
持っていたという。
そんな国の人間は、遺跡の痕跡が残らず人口はゼロなんていうトンチンカンな統計
になってしまうのが、このバカ学者の統計法。
特に卑弥呼以前は古墳なんてほとんど作る思想がなかったんだからな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「人は城なり」
と言って、お金をかけて
城を造ろうとはしなかった。
その分、年貢を減らして、
領民を潤わせるようにした。
http://www.happy365.jp/z51.html
261 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 09:59:04
>>257 応神天皇を祀ってる宇佐神宮と、河童伝説のある神社と一緒にしてるわけ?
例えば熊本県だったら阿蘇神社はかなり古い、そこの分社として、あちこちに
神社があるわけ。出雲大社なども大国主命のクニ譲りで立ててもらったとすれば
弥生時代の発祥ということになる。そこいら辺のちょっとした神社ではなく、
天皇が参られる、宮崎神宮のように由緒ある神社の事を言ってるわけ。
262 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 10:15:12
>>258 >>10>>58で僕が言ってるように、人々が日本列島に渡ってきたのは、
かなり古い。大陸だけでなく、東南アジアやポリネシアあたりからも。
建築、言語、食べ物などで幅広い影響を示す。
言語はウラルアルタイ語をベースに縄文人の使っていた言語が混ざり合った
ものでしょう。母音を響かす音というのは世界広しといえども日本語と
ポリネシア系の言語だけだというから。
263 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 10:24:52
>>253 >あの比売大神もまた卑弥呼候補として捨てがたい。
俺は比売大神は台与やその後継者候補と思う。
卑弥呼の遺体は西都原古墳の300近い円墳の1つじゃないかね。
あまりにも古墳が集まりすぎてる理由に、卑弥呼の遺体を埋葬してる可能性が大きい。
卑弥呼は超能力者として、中国にまで伝わったほどの人間。
日本の最大の超能力者としては弘法大師空海が居られるけど、この方が眠ってる高野山
は今でも山自体が霊場になり、大金持ちは大金を払って高野山にお墓を持ちたがる。
豊臣秀吉を初め、日本のそうそうたる有名人が、高野山にお墓を持っている。
おかげでお墓だらけの山になってしまってるけど、西都原古墳でも同じ現象が生じたん
じゃないかな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
弘法大師だけでなく、織田信長、豊臣秀吉、春日局、加賀前田家、越前松平家、
赤穂浪士の浅野内匠頭、毛利家、上杉謙信、明智光秀、石田光成、伊達政宗、武田信玄・勝頼、
親鸞上人、紀伊徳川家などの歴史上有名な人物の墓標や供養塔が約2kmの区間に渡り立ち並んで
http://yaccyann.maxs.jp/koya/
264 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 10:36:42
>>260は
【イメージ刷り込み法】
論証でなく、状況証拠による心証の積み重ねで読者を誘導し、ことに視覚的なイメージを提供することは
、受け取る側に固定観念を植え付ける
【別な話法】
「ごもっともな」内容の関係ない話を長々とする。
【悠意的帰納法】
都合のいい例だけ拾って「法則」をでっち上げます。
読者が思いつきそうな「例外」は、前もって除外する理屈を掲げて例示しておきます。
【勇気ある挑戦者法】
自分を、権威によりかかった内実の無い「定説」への、英雄的挑戦者に仕立て上げます。
学閥の批判なども交え、異説を唱える自分を無視することを「アカデミズムの偏狭さ」と指弾し、
時には弾圧をほのめかすなど、権力の不当さの話にすり替えます。
【ダブスタ法】
学者非難の裏では、HPの多様引用
彼はこれらのテクニックを組み合わせ、自分の優位性を正当化する詐欺的な行為
265 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 10:47:00
>>263 まあ、比売大神が祀られている、という事実だけでは、卑弥呼が宇佐近辺に
邪馬台国をひらいていた証拠にはならないから、やっぱり九州のどこか、なのかな。
やっぱり穀物の多く取れる平野の広い筑紫平野か、宮崎平野のどちらかでしょう。
266 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 10:51:48
九州説は水行十日をどう説明するのか?
267 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 10:54:45
倭国に牛馬は居ないと書いてあるが、実際は縄文時代から牛馬は存在する。
二種類の猿が居ることになってるが、居るのは日本猿一種類だけ。
産物は海南島と同じと書いてある。
魏の時代の1里は434.2メートル。計算して地図と比較してみよう
269 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 10:55:58
270 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 11:07:43
まあ井戸端会議くらいの気持ちで話してんだから、お気楽にどうぞ。
昔、パットン戦車部隊というのがあって、その部隊長が、
「私は北アフリカのこの場所で、過去に、カルタゴ軍と戦った」と
言ったらしいんだが、考古学には直感というのは凄く大事みたい。
ここに間違いないというような。それもある程度学問の裏づけがあってのことだけどね。
やっぱり歴史はある意味ロマンだから。人間は古今東西考える事はそうは違わない。
そこいくと作家などは、人を見る眼が、たけているから、
人間そのものに光を当てていくところに想像力が優れていると言える。
271 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:10:53
>>270 理論なき直感は盲目なり。直感なき理論は空虚なり。カント
経験から来る直感と電波とを一緒にされてもなぁ
273 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:17:12
>>270 俺は歴史がロマンともマロンとも思ってない。
今、ここにいる自分たちの問題だと思う。直感でそう思う。
274 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 11:18:05
275 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 11:23:59
>>266九州説は水行十日をどう説明するのか?
吉野ヶ里を伊都国と仮定して南下し、筑後川を下って有明海に出て、
水俣あたりまで水行で南下し、再び上陸して、陸路、宮崎方面へと
向かうという説がある。
276 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:34:25
>>270の
>昔、パットン戦車部隊というのがあって、その部隊長が、
「私は北アフリカのこの場所で、過去に、カルタゴ軍と戦った」と
言ったらしいんだが、
この意見も
【関係ない話法】による
ごもっともな」内容の関係ない話を長々とする。こんな方法が説得の手口として有効なのかと疑いたくなりますが、
他のテクニックと上手に組み合わせることによって意外な効果を生みます。
に、類似する手段の一つと考えられる。
277 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:40:22
>>260 おまいの主張がよっぽどトンチンカンだよ
278 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:41:38
>九州ですがさん
邪馬台国は当時の中国語でなんと発音したのですか?
279 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 11:48:33
>>274 卑弥呼は鬼道といって、{ものの本に依ると、鬼道とは道教であると書いてあるらしい}
シャーマニズムだけではない宗教にのっとっていた。ある程度の予知能力は
あったかもしれない。大陸で頻発していた黄巾の乱の影響だろうね。
>>278 当然ヤマトに決まってる!!11!!1
と根拠無く信じてると思う
281 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 12:24:03
>>275 前原伊都国説を脱却している点はものすごく買える。
282 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 12:26:14
卑弥呼の即位と黄巾の乱はほぼ同時です。影響はなかったでしょう。
283 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 12:27:55
邪馬台国発見の新たな展開は、前原伊都国説の否定にあると思います。
284 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 12:41:56
>>265 >やっぱり穀物の多く取れる平野の広い筑紫平野か、宮崎平野のどちらかでしょう。
筑紫平野ではあまりに伊都国に近すぎるし、投馬国や邪馬台国の人口が少なくなってしまう。
少なくとも投馬国や邪馬台国は非常に大きな土地が必要。
30万人とか40万人とかが集団で住むとしたら、熊本54万石の穀倉地帯や、宮崎の飫肥5万石
ちょと小さく分割されてるけど、その辺をひっくるめないと土地が小さすぎる。
魏と国交を結んだ邪馬台国が、当時の魏の大きさに比べあまりに小さすぎるよ。
少なくとも邪馬台国本土は宮崎県全体くらいじゃないと、あまりに見劣りがする。
魏が朝鮮半島の半分を占領してたとしても、九州の福岡県の筑紫平野の極一部じゃ、チョット
格が違いすぎ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
魏、蜀、呉の三国時代について説明した150ページには当時の地図を紹介し、高句麗初期の
領土に当たる地域を魏の領土として明記した。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/17/20040817000079.html
285 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 12:55:05
>>266 >九州説は水行十日をどう説明するのか?
有明海の三角付近投馬国まで来るのに水行20日、それから10日水行して上陸、九州横断に
陸行1ヶ月かかったの。
有明海には小さな船しかなく、魏の使節団はバラバラになって三々五々貨物船や漁船に
乗せてもらい移動した為に時間がかかってしまったもの。
これが戦争とかだったら、船員に有無を言わせず船を没収できるだろうが、親善の為の
使節団だから船員の都合に合わせて、小さくなって片隅に乗せてもらったもの。
おまけに宴会や、講演会みたいな事も途中で行ったろうしね。
のんびり親善交流をしながら、異動すれば当然な時間と思う。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
南へ水行二十日程で、投馬国に着く。官を弥弥(みみ)という。副官を弥弥那利
(みみなり)という。五万戸余りある。
南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に着く。
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
286 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 12:58:25
>>285 >おまけに宴会や、講演会みたいな事も途中で行ったろうしね。
いつの時代と勘違いしてんだよw
287 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 13:05:58
>>270 >「私は北アフリカのこの場所で、過去に、カルタゴ軍と戦った」と
俺は十分に可能性はあると思う。
俺は生まれ変わりを99%信じてる人間だが、ほとんどの人間は過去世を
完全に忘れるけど、中には思い出せる人間もいる。
まあどの道、同じような人生を繰り返してしまいそうだけどな。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
高僧が亡くなると、同僚や弟子だった他の僧侶たちが「転生者探索実行委員会」
とも呼ぶべき組織を結成し、生まれ変わりを探し出して、幼少のころから高僧
となる特訓を施し、あとを継がせる制度が、連綿と続いている。
http://world-reader.ne.jp/renasci/now/s-tanaka-000131.html
288 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 13:20:37
>>279 >シャーマニズムだけではない宗教にのっとっていた。ある程度の予知能力は
>あったかもしれない。
俺は競輪で予知能力はあると思ったよ。
でもその内に悪魔のササヤキと区別がつかなくなってしまうけどね。
むしろ卑弥呼にあったのは、人の病気を治すヒーラーの能力と、読心術、透視能力
みたいなものが大きかったんじゃないかね。
それがなければ国の指導者をまとめ上げることなんて出来ない。
弘法大師みたいに水脈を感じれる能力もあったかも知れん。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
語学堪能、字がものすごくうまく、有徳の僧侶で、頭がよく、死んだ人間もよみがえら
せるような医学にも通じ、温泉や清水をずばり掘り当て土木工事の指揮もとり、予言を
的中させ、おそらく超能力者で・・・。
もうはっきり言って弘法大師はスーパーマンである。
http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/nousyo.html
289 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 13:33:39
>>286 >いつの時代と勘違いしてんだよw
時代は関係ないだろう。
いつの時代でも親善訪問となったら、宴会や講演会はつき物だろう。
朝鮮から江戸幕府への親善訪問は、半年くらいかけて幕府は100万両くらい使って
行ってるぜ。
諸外国の最新情報を手に入れるには、金を使わんと出来はしない。
しかし凄い人気だったんじゃないかね、当時の弥生人にとっては朝鮮通信使以上だろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「絵を請う人々が昼夜寄り集まり、その苦しさは堪らないが、その喜びも禁じえない」
17世紀に朝鮮通信使に同行して日本に行ったある画家の記録である。
http://nida.seesaa.net/article/26946300.html
290 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 13:36:26
つうかさ。あなたの言い方は、まず北九州説ありきで、そのあとに
長くかかった理由を埋めていってるだけじゃないか。
いや、別に俺も頭から北九州説を否定してるわけじゃないけどね。
291 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 13:52:22
>>282 >卑弥呼の即位と黄巾の乱はほぼ同時です。影響はなかったでしょう。
ここでいう卑弥呼と、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼は別人でしょう。
そう考えないとあまりにも、卑弥呼の寿命が長すぎる。
その何代目かの陽巫女だったとしたら分かるけど・・・・
西暦250年頃に死んだ卑弥呼は、184年の黄巾の乱で即位してたら60年以上の
長期政権だから、考えられん。
魏志倭人伝の卑弥呼は当然、60年前の黄巾の乱くらい知ってるよ。
同じような宗教的行為で人を動かした連中なんだから。
それにこういった激務じゃ10年くらいが良いところだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
太平道とは、この字の通り太平の世の中を目指した道を進もうと考えてつくられた宗教である。
信者を集めるために医療奉仕を無償にしたため人気は急激に上昇して言った。
http://www.biwa.ne.jp/~ayukama/tyudoku/sko.html
292 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 13:59:05
リニューアル恵也説
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
しくは2日とし 1日平均5km進むとする。
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
八代平野も領土とする)
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→宮崎市・・「ここが邪馬台国」
(ただし卑弥呼の居住は西都市で、岡上に霊場を作ってた)
>>292 古代の地図とか見ても分かるが、当時、現在のように正確には、
地点間の距離を計測は出来なかったし、していなかったのだろう。
直線距離なんかよりも重要とされたことは、
「ある地点からある地点まで行くのに何日かかるのか?」ということ。
曲がりくねった道、峠や川越の難所などを考えれば、実際の直線距離が
分かったところで、現実の生活の役には立たない。
試しに考えてみれば、
「君たちの自宅から、通っている高校や中学までの直線距離が何キロか」
を把握している人間がどれだけいるだろう?
必要なのは「何分かかるか?」だ。
294 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 14:35:39
>>293 誤った解釈の元に作製された地図なら当然の結果だな。
魏志倭人伝の距離を北史がそのまま受け継いでいる状況をみると、後世実測した形跡は見られず、文章解釈に左右される地図作製の様だ
295 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 15:37:50
>>293 >地点間の距離を計測は出来なかったし、していなかったのだろう。
計測をしてたからこそ、帯方郡から邪馬台国まで12000里とかいう数字が出たの。
日数で計測してもあるけど、それは使節団の速度によって無数に出てきてしまうよ。
天体観測で現在位置を知り、目的地に行ってたのは大昔からの船乗りの常識。
現代人にはそんな仕方は、非常識になってきたけどね。
ただし現在地は、魏志倭人伝では1000里単位の精度しかなかったようだ。
邪馬台国が会稽の東だという記述も、天体観測技術を持ってなければ書けない記述。
六分器のない昔から、伝わってた科学的技術があったはず。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
伝統航海術において、重要な道標とされるのが星や星座です。古代ポリネシア人は、
毎夜船から星の位置や軌道を観察しながら航海を続けました。
http://www.gohawaii.jp/history/hokulea/hokulea03.html 1世紀頃のアジアは、モンスーンを利用した航海術が発達し、海上交易が活発化した。
当時、エジプトのアレキサンドリアで記された『アリュトラー海案内記』や古代インド
の文献には、マレー半島が「黄金島」「黄金の土地」「黄金州」という名で登場する。
http://rakuen2000.com/history_malaysia.html
296 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 15:41:37
>>293 >必要なのは「何分かかるか?」だ。
目標のない海上では、船の速さより重要なのは現在地だ。
現在地が判らなければ小さな島まで、「何分かかるか?」なんて論外の話。
297 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 15:53:19
魏使は、政治的圧力で司馬懿の功績を多大に書くことを要求された。
政敵の曹真が、大国・大月氏を朝貢させたという功績に対抗するため。
対呉戦略に有効であったとするため、実際より南に、戸数を莫大に捏造。
この捏造だらけの魏使の報告書を鵜呑みにしたのが、陳寿であって、
そのまま正史に載せてしまう。
永らく日本列島は、実際より南方にあるとされた。
>>296 実際航海で現在地が正確に分かったのは何世紀か知ってるか?
コロンブスだって緯度のみを頼りに航海してたんだぞ。
299 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:02:40
>天体観測で現在位置を知り、目的地に行ってたのは大昔からの船乗りの常識。
現代人にはそんな仕方は、非常識になってきたけどね。
ただし現在地は、魏志倭人伝では1000里単位の精度しかなかったようだ。
邪馬台国が会稽の東だという記述も、天体観測技術を持ってなければ書けない記述。
六分器のない昔から、伝わってた科学的技術があったはず。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
伝統航海術において、重要な道標とされるのが星や星座です。古代ポリネシア人は、
毎夜船から星の位置や軌道を観察しながら航海を続けました。
この引用は、
【イメージ刷り込み法】
論証でなく、状況証拠による心証の積み重ねで読者を誘導します。
ことに視覚的なイメージを提供することは、受け取る側に固定観念を植え付け易く、
このテクニックを上手に使うことで強固なビリーバーを作り出せる 。
【関係ない話法】
「ごもっともな」内容の関係ない話を長々とする。こんな方法が説得の手口として有効なのかと疑いたくなりますが、
他のテクニックと上手に組み合わせることによって意外な効果を生みます。
【摺り寄り論法】
『Aであることも考えられる』から説明を始めて、論証ではない「関係の無い話」を間に挟んで長々とした後に
『Aの可能性が高い』と繰り返し、
二、三の該当例を示して、今度は『A以外の可能性は考えられない』『Aなのである』と、繰り返して言い募っていく論法です
突き詰めれば、根拠を伴わない単なる推測文なのだが
これらの用法を屈指することにより、飾り付けだけで誘導されてしまうおそれあり
300 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:06:34
>>297 >魏使は、政治的圧力で司馬懿の功績を多大に書くことを要求された。
政敵の曹真が、大国・大月氏を朝貢させたという功績に対抗するため。
対呉戦略に有効であったとするため、実際より南に、戸数を莫大に捏造。
この捏造だらけの魏使の報告書を鵜呑みにしたのが、陳寿であって、
そのまま正史に載せてしまう。
永らく日本列島は、実際より南方にあるとされた。
松本清張からの引用ですか?
301 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:10:04
>>293 >古代の地図とか見ても分かるが
何時の時代の何処の地図見ているのか?
302 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 16:26:37
>>292 三世紀の考察に、十七世紀の引用とは
それを指摘できない住人たちはそれ以下のレベルか?やれやれ
303 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 16:28:27
>>297 >対呉戦略に有効であったとするため、実際より南に、戸数を莫大に捏造。
遠い12000里も離れた場所の人口で、たかが7万戸40万人くらいの国家が
戦力的に捏造するほどの人口かね?
当時の魏の1割程度の人口なんだけど、大きな軍艦で応援に来てくれるとでも
考えたのかな?
軍艦どころか、やっと鏃に鉄を使ってる程度の邪馬台国なのに。
まあ、現在の日本は中国の人口の1割程度なんだからちょうど同じくらいの割合というべき
ーーーーー(引用開始)−−−−−
人口ばかりでなく制度的にも他の二国を圧倒していた魏のことだから、きちんとした資料
があるのだろう。こうしてみると、三すくみとはとても言えないが、呉・蜀が連合する
限り魏が圧倒的に強いとも言えない。
http://www.asahi-net.or.jp/~si7h-frym/jinkou.html
304 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 16:35:17
>>299 >突き詰めれば、根拠を伴わない単なる推測文なのだが
馬鹿だねあんた!
根拠はポリネシア人はハワイに行き、中国の艦隊がアフリカまで遠征していたという
事実があるだろうに。
それから推測するのを「根拠を伴わない単なる推測」とどんな頭で結論できるのかね。
あんたは日本語読解力さえ無い、日本人失格の馬鹿に過ぎん!
>>303 事実誤認も甚だしい。
邪馬台国7万、伊都国5万、奴国2万だろ、倭人伝によれば。
他にも国があるみたいだし。なぜ7万だけになるんだ?
あと、邪馬台国の重要性を考慮したから、大月氏と対等な親魏倭王を
与えたわけだろ?
当時の中国大陸は相次ぐ戦乱で人口が激減、異国人を内地に積極的に
入植させていく。結果的に五胡十六国に至る混乱を呼び込んでしまうのだが。
呉の孫権も倭人狩に大軍を送るくらいだから、当時倭は大国という認識があった、
と考えるべき。
306 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 16:50:38
>>302 >三世紀の考察に、十七世紀の引用とは
古代科学は現代に受け継がれてきたけど、全部なくならないで受け継がれたわけじゃない。
とくに天文学や、石の加工技術なんてどれだけ受け継がれたんだろう。
凄い山ノ上に大きな石を積んでる建築物も日本には存在する。
重機を使っても一苦労するような山上なんだぜ。
3世紀には17世紀より科学が劣ってたなんて言えないよ。
外国なら南米のマチュペチュの遺跡や、ナスカの地上絵など失われた科学にたいする
根源的思考があんたにはなさそうだ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
平原に無数の直線や幾何学模様、そして100以上の図柄に18個の植物や動物の絵が
描かれているのが、有名なナスカの地上絵です。
http://www.nishikawatravel.com/t_nazline.htm
307 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 16:57:46
>>305 >他にも国があるみたいだし。なぜ7万だけになるんだ?
邪馬台国だけで7万戸だが、邪馬台国の同盟国まで入れたらもっと多くにはなる。
しかし邪馬台国だけでも国家としてのまとまりは弱いもの。
卑弥呼が死んでから、1000人も内乱で死んだというしね。
でも呉が倭人狩りを行ったって、台湾の事かい?
台湾に倭人はいたのかね・・・・
308 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 17:01:46
>>304 >馬鹿だねあんた!
根拠はポリネシア人はハワイに行き、中国の艦隊がアフリカまで遠征していたという
事実があるだろうに。
何時の時代の話なの?
その話と倭人伝の何処に繋がりが?
309 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 17:07:07
>>306 >古代科学は現代に受け継がれてきたけど、全部なくならないで受け継がれたわけじゃない。
とくに天文学や、石の加工技術なんてどれだけ受け継がれたんだろう。
凄い山ノ上に大きな石を積んでる建築物も日本には存在する。
重機を使っても一苦労するような山上なんだぜ。
3世紀には17世紀より科学が劣ってたなんて言えないよ。
外国なら南米のマチュペチュの遺跡や、ナスカの地上絵など失われた科学にたいする
根源的思考があんたにはなさそうだ。
だから、この引用と邪馬台国の何処に因果関係をもとめるのか?
全て間接的な引用により、さも結びつきがあるかのように誘導しているにすぎないのでは?
310 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 17:12:17
>>282 184年、張角は新しい社会「黄天」をうちたてようと、信徒の農民約30万人をひきいて反乱をおこした。
Microsoft (R) Encarta
黄巾の乱の混乱で新天地を求め、日本列島に渡ってきた数多くの大陸難民や、
色々な階級の人々がいる。卑弥呼が、女王になった後、人々に姿を見せなくなった事や、
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の入り口が真っ直ぐ東南を向いているのは、
道教の影響とされる。影響が無いなどあり得ない。
311 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 17:16:09
>>306 >根源的思考があんたにはなさそうだ<
根源的思考の有無を議論しているのではない。
そのような関係ない話題を持ち出して話をそらさないように
312 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 17:16:40
>>283 前原の事は肯定も否定もしてないが、後者ならなぜ否定なのか。
313 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 17:20:47
>>310 >黄巾の乱の混乱で新天地を求め、日本列島に渡ってきた数多くの大陸難民や、
色々な階級の人々がいる
そのような史料事実はありませんし、考古学的にも証明されていませんけど
論証できますか?
314 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 17:24:15
>>312 前原ならすぐ否定できる。
前原なんて地名何処探しても当時の文献に名前がない
315 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 17:31:40
>>297 捏造なら魏志倭人伝の記述のような、土人にちょっと毛の生えたような
貧弱な記述でなくて、まだましなことを書きそうなもの。
良くも悪くも有りの儘に書いてしまったとしか思えん。
316 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 17:43:14
>>313 310 に書いてるでしょう。道教の影響が見て取れると。これは卑弥呼一人が
知っていた事というより、ある程度クニに浸透していたことを示すもの。
倭人も集団で、大陸で活躍していた。なお疑問のこの文章は
NHK の邪馬台国の特集であった内容を、そのまま書いたもの。
であった
317 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 18:08:49
>>314前原なんて地名何処探しても当時の文献に名前がない
そんなの当たり前。当時の文献に名前がない のなら、東京だって無い。
明治に生まれた土地の名だから。当時の名称と一致したらだれも苦労しない。
一目で邪馬台国の位置が解る。ヤマトを大和と書くのは当て字。
あくまで倭の国々の連合体が大倭{だいわ}。つまり=大和{ダイワ}であって、
大和をヤマトと呼ばせる何らかの出来事があったのだろう。
東海林をしょうじと読むのも、しょうじ、という土地に住んでいる、とうかいりんさん
だったのが、東海林をしょうじと称するようになった。時代とともに名は変わる。
318 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 18:25:11
>>316 >310 に書いてるでしょう。道教の影響が見て取れると。これは卑弥呼一人が
知っていた事というより、ある程度クニに浸透していたことを示すもの<
道教のどのあたりが、影響しているのかの提示が必要でしょううに
>なお疑問のこの文章は
NHK の邪馬台国の特集であった内容を、そのまま書いたもの。
であった<
それで NHKの邪馬台国特集では結論が出たのかね?
どうせお茶を濁す形で番組は終了している事は予想できるが、
その様なあやふやな番組を根拠提示されても、混乱を招くだけと思うけど
319 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 18:33:51
>>317 >そんなの当たり前。当時の文献に名前がない のなら、東京だって無い。
明治に生まれた土地の名だから。当時の名称と一致したらだれも苦労しない。
一目で邪馬台国の位置が解る。ヤマトを大和と書くのは当て字。
あくまで倭の国々の連合体が大倭{だいわ}。つまり=大和{ダイワ}であって、
大和をヤマトと呼ばせる何らかの出来事があったのだろう。
東海林をしょうじと読むのも、しょうじ、という土地に住んでいる、とうかいりんさん
だったのが、東海林をしょうじと称するようになった。時代とともに名は変わる。
【関係のない話法】
「ごもっともな」内容の関係ない話を長々とする。こんな方法が説得の手口として有効なのかと疑いたくなりますが、
他のテクニックと上手に組み合わせることによって意外な効果を生みます。
【挙証責任転嫁法】
「Aである」という自説を主張するに当たってAであることを証明せず、さりげなく、自分がそう考えるに至った契機のみ挙げておく程度に止めます
次に、予想される反論「Aではない」を掲げ、これを論破してみせて、 「Aである」ことが否定できないことを以って自説の証明であるかの如く飾ります。自分で考えた「予想される反論」ですから論破するのは簡単です。
駄目押しに「彼らは、定説の根幹を揺るがす重大な問題提起に対して、満足な反論も用意できないまま放置しておきながら、依然として定説を信奉している。」とでも挑発的に結んでおけば効果満点。
この二つの偽法に当て嵌まりそうなレスだな
320 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 20:07:35
>>319 何回も同じことを書くので言うが、
他人に説明する時、比喩でもって解りやすく説明するのは普通、茶飯事にしてる事。
会話は意思の疎通の手段に過ぎない。何が言いたいか主旨が伝わりさえすればいいのであって。
話す側と聞く側との呼吸とでも言うか、だから聞く耳を持たず、初めから猜疑心や悪意を持って、
心の中で人も話をはねつけながら聞いていると、おたくのような理屈付けとなる可能性もある。
その姿勢は反省して直さないと、社会生活に支障を来たす事があると思う。
変わり者の、ひねくれ者、としか人に見られなく、相手にされなくなってしまう。
319本文のような事を色々考える暇があったら、邪馬台国がどこにあったのかくらい考えてみたら?
ここはそういうスレなのだから。おたくの自論は聞いたことが無い。
321 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 20:18:34
>>319どうせお茶を濁す形で番組は終了している事は予想できるが、
その様なあやふやな番組を根拠提示されても、混乱を招くだけと
お茶を濁さない結論をおたくが出せるかが問題でしょう。
ひとつ、あやふやな根拠で、混乱を招かない結論とやらを伺おうか。
おたくと違って聞く耳持ってますから、私の提示した論に異論があるなら、
堂々と書けばいいんじゃない。言葉尻を取ってるだけなら、相手してる暇は
無いね。
322 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 20:40:09
>>311 >そのような関係ない話題を持ち出して話をそらさないように
あなたに話題なんてあるのかい?
323 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 20:46:02
>>321 >お茶を濁さない結論をおたくが出せるかが問題でしょう。
ひとつ、あやふやな根拠で、混乱を招かない結論とやらを伺おうか。
貴方に振ったものを相手にすぐに転換しないのね
根拠のない意見ならチラシの裏で十分、推測意見をいくら並べたところで無駄なレスを増やすだけ
古代史学に推論レスは無用ということだ
推測レスの反論に推測レスで返すなんて言語道断的行為
私も
>>323の意見に、多少同意する所があるよ。
全て完璧とは言わないが、徐々に推論レスを減らしていく努力はすべきかと……
何時まで経っても
推論レスのぶつけ合いでは、何も見出だすことはできないから
参考意見とし、記載しておきます。
325 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 21:06:06
>>315 >良くも悪くも有りの儘に書いてしまったとしか思えん。
確かに刺青をして100歳くらいまで長生きしてるとかいうのは、行った人間じゃないと分からん。
100歳というのは、2倍暦のせいだとは思うけど空想じゃ書きづらい。
お米の買出しに行ってる国があるとか、潜って魚やアワビを採ってるなんて行ってみた人間が
いないと書ける言葉とは思えない。
牛、馬、虎、豹、羊、カササギが居ないという断言は行かない人間には出来ない。
喪にふくしたら10日間も肉を食べないとか、埋葬が終わったら沐浴をするとか
生姜や山椒、ミョウガを食べないなんて、想像じゃ書けない。
これらは宮崎まで陸行1ヶ月苦労して自分で歩いて、庶民の生活を見てこそ書ける言葉。
使節団は卑弥呼には会えなかったようだ。
いろんな断りの言葉が書いてある。たぶん凄いお婆さんだったんだろうな。
326 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 21:10:35
>>314 >前原なんて地名何処探しても当時の文献に名前がない
あんたね、そんな探してもいない事をさも、探した振りして書くもんじゃない!
卑弥呼の時代の文献て、何が今の世界に残ってるのかさえ知らない知ったかぶり人間じゃないの。
俺に分かるのは、同時代の陳寿がかいた魏志倭人伝くらいのもんだけど、他にあるのかい?
327 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/19(日) 21:15:22
>>325 >確かに刺青をして100歳くらいまで長生きしてるとかいうのは、行った人間じゃないと分からん。
100歳というのは、2倍暦のせいだとは思うけど空想じゃ書きづらい。
⇒列島の様子が判らない漢人が読み手のはずだから、二倍歴を認識出来ない漢人に、註訳無しでストレートに
採用記載はしない
328 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 21:17:35
>>323 おたくには、なんか道理が通じないようだ。人の批判をした時点で
自分はどう考えるか、その場ではっきり示せと言ってるんだから。
結局色々言ってるけど、空っぽ。こんな文書くほうがくだらん。
329 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/19(日) 21:24:08
>>326 横レス失礼
>あんたね、そんな探してもいない事をさも、探した振りして書くもんじゃない!
卑弥呼の時代の文献て、何が今の世界に残ってるのかさえ知らない知ったかぶり人間じゃないの。
俺に分かるのは、同時代の陳寿がかいた魏志倭人伝くらいのもんだけど、他にあるのかい?
三国志魏書の原文を対象にした場合、同時代に『魏略』が逸文として存在しているよ
そこには伊都國の記事もある
330 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 21:30:33
331 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 21:38:28
>>323 >古代史学に推論レスは無用ということだ
あんたは馬鹿!
古代史学に現代まで残ってる確実な文章・遺跡なんてタカガ知れたもの。
推論なしでは、議論は全く進みはしない。
332 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 21:42:18
>>318それで NHKの邪馬台国特集では結論が出たのかね?
どうせお茶を濁す形で番組は終了している事は予想できるが、
その様なあやふやな番組を根拠提示されても、混乱を招くだけと思うけど
教育番組が調べたのをこのように信じないなら、少数意見派は、もっと、ものが言えなくなる。
まず、いい加減なことを放送はしないし、色んな学説を吟味して、通説を選んでるはず。
333 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/19(日) 21:48:58
>>329 >同時代に『魏略』が逸文として存在しているよ そこには伊都國の記事もある
逸文とは無くなった書物という意味だろう。
それを存在してるとは不思議な文章だ。
なくなった書物がたくさんあるのは判りきった事なんだけどね。
そんなまた聞きみたいな文章は、証拠価値は格段に下がってしまうよ。
本物を書き写した物じゃないんだから。
334 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 21:53:30
>>331 >あんたは馬鹿!
古代史学に現代まで残ってる確実な文章・遺跡なんてタカガ知れたもの。
推論なしでは、議論は全く進みはしない。<
あんたはもっと馬鹿。あんたの狭い自己見識だけで物事を語るなかれ
推論段階のヘタレスレならチラシの裏に纏め、論証として書き込めばいいだけだ
それが学問板だぞ
あんたのレスは典型的井戸端議論
335 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/19(日) 22:06:04
>>333 >なくなった書物がたくさんあるのは判りきった事なんだけどね。
そんなまた聞きみたいな文章は、証拠価値は格段に下がってしまうよ。
本物を書き写した物じゃないんだから。
俺としても魏略を正史レベルにまで引き上げてはいない
しかし、逸文とはいえ貴重な同時代作品であることは確か、ましてや
魏書の原文が残ってない今の時点では
魏志倭人伝にしても、十二世紀に版本として『紹興本』が一番古いのだから
原文を直接写したとは言えない。
あくまでも参考意見としての横レスだから
336 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 22:13:34
>>330 >>331 へえー。それは知らなかった。天帝地皇って道教の思想だったんだ。
「推論なしでは、議論は全く進みはしない。」 その通りで、邪馬台国自体、
文献などを元に推理するしかないと思うんだが、
>>323の考えがさっぱりわからん。
337 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:13:41
>>332 >教育番組が調べたのをこのように信じないなら、少数意見派は、もっと、ものが言えなくなる。
まず、いい加減なことを放送はしないし、色んな学説を吟味して、通説を選んでるはず。<
まず君に必要なことは古代史の(いろは)から学ぶことだな。文献にしろ、まずは疑う事を第一歩とする。
338 :
サガミハラハラ:2006/11/19(日) 22:17:09
私の邪馬台国論をひろめるには、NHKにとりあげてもらうのが一番いいと思っています。
どこかにツテはないでしょうか。
339 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 22:29:06
>>337 この人相手するのやめない?邪馬台国の話が出来ないし。
確かに稚拙な議論かも知れないが、それで切磋琢磨出来ればいいんだし。
元々井戸端会議みたいなモンで。そんなに専門的に追求したければ、
考古学スレに行けば?馬鹿馬鹿しいので僕はもう相手しないけど。
340 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:48:40
>>340 そういうお前の存在自体が馬鹿馬鹿しい。
親が泣いてるぜ。
341 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 22:49:14
>>338 一人一説と言われるくらい邪馬台国を論ずる人は多いから、
どうしても数多くの中の一意見としか扱われない。
機運が盛り上がったら、ひょっとして、NHKあたりに取り上げられるかもしれない。
でも、このスレみたく、色んな意見がぶつかってる現状を知ったら、NHKも
やり難いかもね。実際、NHKの番組内容を僕が記憶してる限り書いたけど、
全てこのスレで否定されてるようだし。変な人の意見は除いて。
混乱の元は、畿内説考古学者の測定年代変更でしょう。
342 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:50:49
↑少しは勉学にいそしむべきでは?数学が苦手だと社会で通用しないよ。
343 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:54:53
邪馬台国と関係ない馬鹿話はやめろよな
でも、邪馬台国って、本当に大昔から議論がたえないよなぁ
個人的には九州説が正しいと思うんだが決め手が無い。
344 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/19(日) 23:17:04
>>343 決め手はあるがなんだかんだ言って信用しないだけ。
前に書いたように、邪馬台国の葬制は、有棺無槨 棺あって槨無し
これに該当するのは北部九州であり 木槨木棺墓の畿内は該当しない。
これだけで畿内説は敗れてるんだけど、なんにも反論出来ずに、
変な詭弁ばっかり言ってくる。 結局は主張の本筋を違えずに、
ポイント攻めでいったほうがいいと思う。沢山知っていても、それにまた
疑問がついて回る。まさに、過ぎたるは、なお及ばざるが如し。に等しい。
345 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:01:02
最近の
>>339って、ちょっと天狗じゃないかい?
自分の意見が絶対正しいと勘違いしているし、自分がスレの中心何だとタカピーになっているよね
>この人相手にするの止めない
だって
346 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:05:55
347 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:09:46
>>339 >元々井戸端会議
学問板じゃないなら、お友達(VIP)呼んで楽しく行こうね。
>>339も井戸端会議と宣言したことだし、
348 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:14:04
邪馬台国のあった場所論争は井戸端つうか、もっとほかの真実を
隠すための煽りネタだな。
349 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:25:45
恵也 ◆o4NEPA8feA は理屈が多くて友達いないだろうな・・・
もちろん40歳過ぎても童貞な訳だが・・・
唯一の趣味と言えば、帰宅後の2ちゃんねる。
いろいろなスレに出没するも、あまりの馬鹿さかげんに秒殺されるが屁理屈で食い下がる。
しかし、また秒殺の繰り返し。なんともあわれな男だ。
恵也 ◆o4NEPA8feA 様出没板でも立てようかな。
350 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 06:01:02
>>349 江戸時代と弥生時代の区別が付かなかったり。
日本と海外の区別が付かない人間は相手にせんでいいよ。
挙句の果てに古代からの歴史の中で、技術の衰退はあっても発展は無いという
前提を暗黙に働かせてる部分もあるし。
というか九州説の人間から見てアレはどうなのさ?
考え方が恣意的過ぎるし、あんなのを九州説の主張として考えるなら
九州説の主張の信憑性なんて毛ほども評価できんぞ。
論理性のカケラも無い主張や、前提が狂ってる論理展開が目に付きすぎる。
俺は九州だろうが近畿だろうが邪馬台国が日本に実在したならどっちでもいいが
彼の主張を九州説の標準とするなら、九州説を主張する人間に疑問を感じざるを得ない。
近畿説の信憑性は別問題としてもね。
351 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 06:21:08
>>350 ところどころ言葉の使いかたが違うような気がするけど気持ちはわかる
言いたいことには概ね同意・・・かな
352 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 07:01:11
>350
九州説などという以前の問題。
学びて思わざればすなわち暗く、思いて学ばざればすなわち危うし。
彼は子供が包丁を持っているみたいだ。
まともな議論が出来ない雰囲気になっているから、まともな人がいないように
見える。
353 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 13:35:54
九州説は、近畿が日本の中心だったってことに、やっかみ持ってる今の中央(東大派)の
でっちあげだ。
354 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 13:52:00
九州説なんて永久に日の目を見る事の無い傍流ですから
355 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 14:11:09
じゃなんで、天照は九州に降臨したの?
別に近畿の山のどこかでいいんじゃない?
356 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 14:25:22
騎馬民族だろうが渡来人だろうが、東進したことに代わりはないからだろ。
357 :
太国:2006/11/20(月) 14:45:13
>>353 >>354 昔は畿内でも、現代では日本の中心は東京ではないか?
当時は畿内が中心でも、それより以前は九州が中心的役割だったのだ。
江戸時代、徳川幕府が江戸で君臨していたときに、畿内のほうでは天皇が君臨
していたわけだ。同様なことが、畿内で天皇が君臨していたころ(神功を含む)
九州では女王国の卑弥呼が君臨していたのさ。
女王国が畿内にあるんなら、当然天皇と卑弥呼は地図上では目と鼻の先の
近距離にある。ならば記紀に女王国の情勢があさって外国の倭人伝以上に記述
がなされるはずだ。しかし殆ど記述がな〜い。となれば、倭人伝に情報が行き
やすい九州に女王国があったことは非常に合理的位置としてうなずける話だ。
女王国とは日本にあったんだから本来は記紀にその詳細が記載され、大陸の
古文献のほうが無記述でなくてはならない。ところが現実はその逆で、皮肉にも
倭人伝のほうに女王国の詳細がある。つまりだ、女王国は九州にあったからだ。
自分の家の日記に書かれるべきことが、数件向こうの他人の家の日記に自分の家
の内部の出来事が詳細に書かれている。これが記紀と倭人伝の記述の不審な
事柄なのだ。
358 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 15:00:10
>>337 >まず君に必要なことは古代史の(いろは)から学ぶことだな。
あんた、説教癖は嫌われるよ。
俺に言わせたら、いわゆる専門家という方でも古代史になったら素人と
タイシテ変わらん。
素人に反論できないくらいの知識を集めてから、説教とは出来るもの。
あなたは専門書から洗脳をされただけで、十分な知識があるとは思えないけど。
洗脳を受けると、中身を書けないくせにスローガンだけしか喋れない。
北朝鮮の方を見て、あなたには分からないかね?
自覚症状が無いのが怖いのだけど・・・・
359 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 15:51:44
恵也さんの方が正しいと思う。
こと、古代史にかんしては、色んな説はあるが、その説のどれを
信じるかは自由だし、その意見に対して、高慢な説教をたれる人
こそ、どこか頭のネジがおかしい。
その意見の反論は良いが、人格否定は論外。
360 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 15:57:39
361 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 15:58:15
三国志が書かれた時には魏・呉・蜀の三国は無いので、意図的に倭国を大きく見せる必要は無い。
三国志が誰の為に書かれたかを考えれば、中国で使われていない短里で表記される理由は無い。
362 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 15:58:41
うん、同感。
個人攻撃して高慢な説教を垂れる余力があるなら、
自説を述べろと。
363 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 16:07:31
>>350 >挙句の果てに古代からの歴史の中で、技術の衰退はあっても発展は無いという
あんたの誤解。
天文学も歴史の中で発達した面もあるが、失われてしまった面もあると書いてるの。
今の天文学者は星が地球から遠ざかってるとか、遠くの星を研究する手段は持ったが
六分儀なしで、現在地を調べる手段はなくしたのじゃないかね。
魏志倭人伝にはその手段を持っていた人間が居たとしか考えられない。
郡から韓国まで7000里とか、郡から邪馬台国まで12000里とかはそれなしでは考えにくい。
364 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 16:10:45
>>350 >論理性のカケラも無い主張や
あなたに論理を理解できるだけの「知恵」が無いだけの話。
他人に責任を擦り付けないように!
365 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 16:15:59
魏の1里は、434.2メートル。
12000×434.2=?
366 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 16:24:12
>>361 >三国志が誰の為に書かれたかを考えれば、中国で使われていない短里で表記される理由は無い。
三国志の魏志倭人伝は、魏の禅譲国である晋の役人が作ったもの。
だから晋のために作ったといえるが、魏志倭人伝の中には短里で計測した距離がある。
狗邪韓国→対馬→一大国(壱岐)を1000里+1000里と明記してある
これは現在の地図から160kmと確定してるのだから短里で表現した文書というべき。
現実に短里で書いてあるのに「理由が無い」とはどういう意味なんだろう???
ーーーーー(引用開始)−−−−−
それから初めて海を渡り、一千里余りで対馬国に着く。・・・
・・さらに瀚海という名の海を南の方に千里余り程渡って行くと、一大国(一支国)に着く。
367 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 16:27:53
>>365 >魏の1里は、434.2メートル。
魏の時代に「全部の国民」が長里を使っていた証明は出来るのかい?
魏志倭人伝の中に、チャンと短里で距離を書いた場所があるのが見えないメクラかな。
368 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 16:39:39
>現実に短里で書いてあるのに「理由が無い」とはどういう意味なんだろう???
それは「現実より脳内の妄想を信じる部族」だから。
369 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 16:50:26
>>313 >そのような史料事実はありませんし、考古学的にも証明されていませんけど
あんたが考古学を勉強した専門家なんて思えないけど・・・
むしろ世間知らずのニートみたいな感じだ。
戦争が起こったら、負けたほうの民族の指導者連中が大移動するのは考古学じゃなく
現代の歴史を知ってる人間の常識。
戦争はお互いに殺し合いをして、相手に憎まれてしまうのが世の常というもの。
ベトナム戦争でもアメリカに味方した指導者が、無理して手に入れた船にテンコ盛りで
難民が乗って逃げ出した事実さえ知らない歴史音痴じゃないの。
指導者はダイタイお金持ちだから、船を手に入れて希望者から金を集めて乗せベトナムから
大急ぎで逃げ出したけど、ベトナム政府の歴史にはほとんど載ってないだろう。
だから中国や朝鮮の歴史には載りにくい記述。
敵対国のアメリカや日本の歴史には大々的に載せてるけどな。
北朝鮮の崩壊を怖がってるのは、中国と韓国なんだよ。
国家の急激な変化は、難民がたくさん出てしまうのは常識なんだけどね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
乗船したのは206人。ボートにギッシリの難民が詰まった、衝撃的な「ボートピープル」である。
食料は2日で尽きた。水は一日、小さなコップ一杯。なくなるとエンジンから滴る水を飲んだ。
海には、難破した密航船の難民の死体が何体も浮いていた。
http://www.janjan.jp/world/0302060724/1.php
370 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 17:32:41
陳寿は誰の為に書いたと思ってるの?
マルコポーロの東方見聞録とは違うんだよ。
公式文書に短里を使うと思う?
それこそ自分勝手の妄想でしかないよ。
371 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/20(月) 17:50:42
ぱちぱちぱちぱち。九州説の常連の皆さんの反論に敬意を表します。
内容はともかくとして、舌鋒鋭く、相手の痛いところを見事に突いてるとこなんざ、さすが。
僕なんて相手の程度があまりに低すぎて想像もつかず、反論するより戸惑って、
頭の中でハテナマークがいくつもつくばかりのところを、見事に論破されています。
畿内説は玉砕ってとこ? 私ってちょっと天狗??
372 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/20(月) 18:09:08
>>369あんたが考古学を勉強した専門家なんて思えないけど・・・
むしろ世間知らずのニートみたいな感じだ。
その通り。国内が何らかの原因で乱れたり、戦争が起これば、自分の財産や、
家族みんなの命を守る為、国外に脱出する人々が多くいるのは、寧ろ当然といっていい。
実際に多くの学者も指摘するところだ。人口が多く、倭人も大陸で活躍していた中国から倭は
そう遠くない。それを、「証拠はありますか?」ときた。
歴史の常識も知らないのかと、呆然としてしまう。
373 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:16:37
>>357 相変わらずどー仕様も無く頭の悪いやつだな。
374 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/20(月) 18:34:04
>>373 >>357女王国が畿内にあるんなら、当然天皇と卑弥呼は地図上では目と鼻の先の
近距離にある。
の部分は同意見だけど。 大和朝廷の直接の先祖が、邪馬台国、卑弥呼なら、
先祖として祀り上げて然るべきなんじゃ。堂々と大神宮を建てて。
今の天皇も、卑弥呼がご先祖という事で、参拝に行かれると思うが。
375 :
太国:2006/11/20(月) 18:56:10
>>374 おっしゃっている意味がちょっと分かりかねますが・・・?
孝明以前の天皇はま〜ず総てと云っていいくらい、伊勢神宮の参拝は禁じられ
ていて出来ませんでしたよ。
376 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 19:19:28
>>358 >あんた説教癖は嫌われるよ
あんたは存在そのものが、既に嫌われている。
377 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/20(月) 19:43:46
>>375 「同意見だけど。」で切って読まないと。
おたくの意見は、邪馬台国と大和朝廷が、同じ畿内にあったら、という仮定なんでしょ。
僕は、もし二者が同じだったら、から始まってるだけの違い。
昔は軍部が邪馬台国は天皇家とは無関係として、教科書で教える事さえ禁じていたが、
今は、天皇がご先祖に参拝されるんじゃない?伊勢や宮崎神宮みたいにして。
卑弥呼が天皇家と直接繋がっていたのなら、軍部も皇紀2600年などといって
天皇崇拝のプロパガンダに卑弥呼を使ってもおかしくないし、天皇も
参拝なされたでしょうに。それに何より、卑弥呼が、大和朝廷の直接の先祖なら、
大和朝廷から崇め奉られて、今でも神社に祀られていてもおかしくないのに
そうでないのは一体どういうわけだろうね。今の天皇も参拝なされたでしょうに。
という内容でした。
378 :
太国:2006/11/20(月) 20:06:20
>>377 卑弥呼が天皇家の直接の先祖? そうなりますと卑弥呼は天照大御神だと主張
するつもりですか? 前者は神武以後の人物で後者は神武以前の人物ですよ。
それは成立しないですな。もし貴殿のいう先祖だとしたら記紀になおさら詳細
に記述が載りますよ。それを貴殿はどうやら卑弥呼を日神としてしまうから
記載があるではないか? と云うつもりなんですかな? 雰囲気が似通って
るからといって同一とかの習合をやるのは八幡のやぶ知らずに行きつきます。
オーストリアはオーストラリアではないんですよ。
貴殿の言う同じだったらとは ヤマタイ→ヤマト ということを言いたいの
ですかね? かなりの方々がその矢印の推定にとび付くんですよ。
それは間違い、迷推理の始まりですよ。京都は東京都ではないんですから。
379 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/20(月) 20:26:52
>>378 377本文をよく読んでみて。卑弥呼が天皇家の直接の先祖 を肯定してるように見える?
380 :
太国:2006/11/20(月) 20:31:56
>.379
おぉ、そうじゃないんですか?
381 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/20(月) 20:39:01
>>380、「卑弥呼が、大和朝廷の直接の先祖なら、 大和朝廷から崇め奉られて、
今でも神社に祀られていてもおかしくないのに そうでないのは一体どういうわけだろうね。
今の天皇も参拝なされたでしょうに。」と書いてるでしょ。
と言う事はだ、卑弥呼が天皇家の先祖として祀られている事実は無いから、
イコールではないと言う事を、言いたいわけよ。
382 :
太国:2006/11/20(月) 20:42:36
はいはい。
383 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 21:01:36
384 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/20(月) 21:40:34
>>377 >それに何より、卑弥呼が、大和朝廷の直接の先祖なら、
大和朝廷から崇め奉られて、今でも神社に祀られていてもおかしくないのに
そうでないのは一体どういうわけだろうね。
流石に職業を先祖とする輩はいまいて。
卑弥呼職を演じた輩が先祖なら判るが。
385 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:00:31
最初は生駒葛城山系とかに降臨した始祖王伝承が、
ヤマト王権の版図の拡大で、倭国全体を網羅するような神話が作られた。
卑弥呼=アマテラス(アマテル)だろう。
天皇家にとって禁忌だった理由は、直系の先祖じゃないからだろう。
神武は傍流。
だから、仏教に宗旨替えしたときにも慎重に伊勢にお伺いを立てたし、
卑弥呼のいます地かどうかは不明だが、仏教先進地である宇佐ととも
に、政変の度に両地が登場する。で、結局応神信仰とともに、近畿天
皇家に仏教を導入して八幡神が天皇の最も近しい宗教となった。実際
圧倒的に参拝回数が多い。
おそらく宇佐八幡は、応神・神功により神仏混合されリニューアルさ
れたヒメ大神=卑弥呼が祭神だろう。でもって、古形のアマテル信仰
の伊勢の方は、慎重に隔離され、捨てられて禁足地にされた。
私の勝手な推測だが、間違ってないと思う。あくまで「当時の事情」
で卑弥呼の存在と天皇家の関係も判断すべき。
387 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:47:37
宇佐八幡は最初、地元の夫婦神だったのが、
8世紀に神功応神の母子神信仰が加わり、リニューアルされた、
と見るべきだろう。
少なくとも、記紀編纂時には、宇佐神宮はまったく省みられることは
なかった。宇佐神宮の隆盛はあくまで8世紀以降の話であって、それ以前に
皇室に対し影響力があったというのは妄想に過ぎない。
388 :
太国:2006/11/20(月) 23:09:21
>>386 卑弥呼≠アマテラス 両者を習合すれば失敗だよ。
389 :
流行語大賞ケテーイ!:2006/11/20(月) 23:46:01
あんた説教癖は嫌われるよ 。あんた説教癖は嫌われるよ 。あんた説教癖は嫌われるよ 。あんた説教癖は嫌われるよ 。
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390 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 02:29:08
>>387 >少なくとも、記紀編纂時には、宇佐神宮はまったく省みられることはなかった。
間違い!
記紀の中で神武天皇は東征の為、最初に宇佐神社で祈願しておられます。
神武天皇のコースも知らない妄言、省みないという言葉は間違い!
45歳で東征を決心
宮崎県日向→大分県宇佐→福岡県北九州→広島県安芸→岡山県吉備→大阪府河内→
転進して和歌山県紀伊→熊野→3本足のカラス→吉野→大和 (137歳で死亡)68歳かな
391 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/21(火) 05:40:15
>>384 女王、卑弥呼 と言うぐらいだから、女王が職業、卑弥呼は名前でしょう。
それが後のヒメミコの語源になったかどうかは知らねども。
男王が立つと国が乱れ、女王を立てると国が治まった、とあるから、
力で諸国をねじ伏せたのではなく、頼まれてなった、
今でいう雇われマダムみたいなもん?
392 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/21(火) 07:56:57
393 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 08:25:38
>>391 >女王、卑弥呼 と言うぐらいだから、女王が職業、卑弥呼は名前でしょう。
確かにその可能性も大きいが、大国魏の立場から、魏の言葉で女王、倭の言葉で陽巫女
という可能性もある。
韓国が天皇の事を日王というそうだが、日王天皇と並べて書く可能性もある。
また別の可能性だが魏が誤解していた可能性も存在する。
日本では言霊信仰があり、最高指導者の名前を直接呼ばなくて他国の方から聞かれたら
戦前であれば普通の人は、天皇が最高指導者と答えるでしょう。
それをヒロヒトだと名前を答える日本人は極少数じゃないかな?
ーーーーー(引用開始)−−−−−
日本人の映画作家ではないから、昭和天皇ヒロヒトをこのように
描くことが出来たのであろうか。
http://plaza.rakuten.co.jp/cinemaopensaloon/diary/200610240000/
394 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 08:37:27
395 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 08:52:32
>>390 宇佐「神宮」の話をしてるんだが。
確かに宇佐は古くより畿内王権と関係が深く、
前線基地のような役割を果たしていたとは思うがね。
恐らくは、当初宇佐神宮は、紀にも出てくる宇佐津彦・姫を祭る
地方社だったんだろう。
三輪にしろ伊勢出雲にしろ、天皇家が最重要視した神社の謂われは、
全て記紀に記載されている。
大神氏が、筑紫に伝わる神功応神伝承を持ち込んで、リニューアル。
その時に倭人伝を参考にしたのかもしれない。
当時の政府公式見解は卑弥呼=神功だったんだし。
396 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 09:41:48
卑弥呼が女王になった経緯とその前の倭国の大乱については中国のいくつかの
書物に出てくる。
桓、霊間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主、有一女子名曰卑弥呼、年長不嫁、
事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王 …後漢書
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國乱、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、
名曰卑弥呼…魏志倭人伝
漢末、倭人乱、攻伐不定、乃立女子爲王、名曰卑弥呼 …晋書
漢霊帝光和中、倭國乱、相攻伐歴年、乃共立一女子卑弥呼爲王。弥呼無夫壻、
挾鬼道、能惑衆、故國人立之 …梁書
霊帝光和中、其國乱、逓相攻伐、歴年無王、有女子名卑弥呼、能以鬼道惑衆、
國人共立爲王 …北史
桓、霊之間、其國大乱、逓相攻伐、歴年無主、有女子名卑弥呼、
能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王 …隋書
倭国の大乱の時期について、後漢書や隋書には桓、霊間と書かれている。
桓帝は西暦147年から166年まで在位。霊帝は168年から188年まで在位。
だから、桓、霊間というのは、147年から188年までとなり、かなり広い。
一方、梁書や隋書には、霊帝の光和年中と書かれている。
これは西暦178年から183年。
これらからけっこういろんなことを考えることが出来る。
397 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 10:15:05
みんな同じ書適当に写しただけなんじゃね?
398 :
日本@名無史さん :2006/11/21(火) 11:14:59
>>397 そういう貴方は何を参考にするの?
結局、文献か考古学の発見資料しか
手がかりはないんだよ。
399 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 11:16:06
それと何参考にするかの話は別
400 :
日本@名無史さん :2006/11/21(火) 12:42:55
詭弁
401 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 12:51:14
>>397 >みんな同じ書適当に写しただけなんじゃね?
他人の本を写しただけで、本人の思想とは思えん。
特に神社の神さんに関しては、いろんな名前をお持ちだから何がなにやら分かりはせん。
大国主命・大国主神・大物主神・大穴牟遅神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神
これらが全部同じ神さんの別名だなんて、ホンマかいなと思うよ。
しかし神さんを天皇家の先祖天照系統と、それに征服された怨霊で祟られる大国主命系統
とには分けられそうだ。
宇佐神宮はその点、どう考えても天照大神の系統を祭ってあるところ。
第1代の神武天皇、第10代の崇神天皇、第15代の応神天皇のころに、宇佐神宮にも戦禍が
及んでいろんな変化はあったようだが天照大神系統には変化が無い。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
一之御殿には、「八幡大神」こと「応神天皇」が、二之御殿には、「比売大神」(ひめのおお
かみ)こと「三女神」が、三之御殿には、応神天皇の御母である「神功皇后」が祀られています。
http://www.livedo.net/tabi/61.html
402 :
日本@名無史さん :2006/11/21(火) 13:02:00
出雲と宇佐が共に、2礼4拍1礼とは奇妙な一致ですね。
403 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 13:39:16
>>402 >出雲と宇佐が共に、2礼4拍1礼とは奇妙な一致ですね。
確かに俺もそう思う。
しかし祭礼方法なんて、子孫は教えられてその通りやるものだし神様がやって欲しいよう
にするのが人間の身としては、最良の方法だろう。
だから俺はキリスト教関係に行けば、周りの信者に合わせて十字を切って行ってるし八百万
の神さんを信じてたら気楽にお参りできる。
一神教の信者や創価学会の方は、お葬式のときは大変だろうね。
4拍は死に通じるという、言霊信仰があるようだけど俺は信じてないから気楽なもんだ。
卑弥呼が250年頃死んだのは、皆既日食により恐怖心に駆られた民衆が惨殺したという話
もあるけど、それが関係してる。
弥生時代から戦争が始まったというけど、大国主命も卑弥呼も惨殺された可能性もある。
そして祟りが酷かったものだから祀ってその怨霊を鎮めてもらったので、4拍になったのかも。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
頭蓋骨のない遺体である。首の骨の途中から無くなっているから斬首されたものに違いない。
弥生時代になると全国各地から矢や槍の刺さった遺体が多数見つかる。戦死者の遺体だと考
えられている。
http://www.human.mie-u.ac.jp/~koukogaku/archeologue/arche/Archeologue01.htm
404 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/21(火) 13:48:16
二礼四拍一礼は、出雲・宇佐の特異ではなく、弥彦神社も(二礼四拍一礼)
405 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 14:29:16
>>403 >皆既日食により恐怖心に駆られた民衆が惨殺したという…。
倭人伝の最後の部分にこのように書いてある。
訳すと、
倭女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は、素から仲が悪かった。
そこで、使いを(帯方)郡に送り、互いに攻撃している状況を説明した。
張政は、詔書・黄幢を難升米に授け、檄文を作り、これを告諭した。
つまり、攻め合わないように諭した。
そういうわけで卑弥呼は死んだ。(卑弥呼以死)
大いに冢を作った。径は百歩あまり、奴婢百人あまりを葬った。
男王が立ったが、国中が不服で千人あまりを殺しあった。
卑弥呼の宗女(一族の女)壱与、年齢13歳を王にすると国中が
定まった。
卑弥呼の死について書かれている文献はこれだけ。
つまり、これから考えると、狗奴国との争いが原因と考えるのが普通だと
思う。
406 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 14:50:49
ついでに396について。
これらの文献は、出典は一つではないと思われる。
倭国の大乱の時期についての記述が一致していないからである。
しかし、全てに共通しているのは、2世紀後半の倭国に大規模な戦乱が
あったこと。しかもかなりの長期間にわたったこと。
そのあとに卑弥呼という女性が女王になったこと。
したがって、卑弥呼は少なくとも60年。ひょっとしたら70年くらいは
女王でいたこと。
政治手法として、「鬼道を用いて民を惑わしていた」こと。
鬼道というのは、怪しげな術という意味だが、では怪しげな術とは何かと
いうと、良くわからない。中国ではなじみのないものだったらしい。
日本書紀を読むと、倭迹迹日百襲姫や神功皇后が、陶酔状態になって
神の声を伝えるという場面がある。たぶんこれではないかと思う。
407 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 16:12:22
>>405 >張政は、詔書・黄幢を難升米に授け、檄文を作り、これを告諭した。
翻訳文によってずいぶん印象が違う。
俺には卑弥呼が狗奴国に殺されたとは読めない。
むしろ戦争の最中に「卑弥呼がタダ死んだ」のでとしか読めないな。
狗奴国に殺されたのなら、そのように書くと思うけど・・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
郡は、塞の曹幢史(そうえんし・国境警備の属官)の張政らを倭へ派遣して皇帝の詔書
と黄幢を難升米に与え、中国が仲介にのりだしたことを、回状をつくらせて触れまわらせた。
この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、
男女の奴隷を百人以上殉死させた。
遣塞曹幢史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之
彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
408 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 16:22:57
>>405 >卑弥呼の死について書かれている文献はこれだけ。
文献といっても皆既日食の年号をだしてる論文も「文献」じゃないのかい?
ーーーーー(引用開始)−−−−−
「元東大教授で古天文学の斉藤国治氏、歴史作家の加藤真司氏の研究を、東京理科大学勤務コン
ピュータ工学の橘高章氏、産能大学教授で数理歴史学の安本美典氏が検証の上、西暦247年と
248年に2度も続けて皆既日食が北九州地方で観測されたという。」と伝えている。
この意味する所はこうである。卑弥呼が死んだのは西暦248年と考えられている。その前年
に皆既日食があった。卑弥呼の死はその後だから、日食のため卑弥呼が殺されたという見方も
出来る。そしてその後もう一度日食が来る
http://inoues.net/nyumon/wa13.html
409 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 17:11:57
久しぶりにのぞいてみればあれだけ倭人伝の記述に固執していた人が・・・
410 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 17:18:41
>>407 >俺には卑弥呼が狗奴国に殺されたとは読めない。
そんなことは書いてはいないだろう。
「狗奴国との争いが原因」と書いている。殺されたのなら殺されたと
はっきり書く。
「卑弥呼以死」を「卑弥呼もって死す」と訳し、狗奴国との争いが原因で
死んだと考えたわけ。つまり、心労かな。
ただ、先にも書いたように卑弥呼は女王になって少なくとも60年。
かなり高齢だったので、いつ死んでもおかしくはない年齢だった。
411 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 17:20:36
>>406 >鬼道というのは、怪しげな術という意味だが、では怪しげな術とは何かと
>いうと、良くわからない。中国ではなじみのないものだったらしい。
そうでもない。
道教と関係のある術者だったというべき。
卑弥呼が当時の先端技術である道教を知らない巫女とは思えない。
自分自身の飯の種なんだから。
病気を治すとか、占い、天文学、透視術とかいろいろあると思うが・・・
漢を滅ぼした原動力になった道教を、卑弥呼が知らないなんて考えられん。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この張魯は、道教の教団(五斗米道)を創始したと伝える張陵の孫である。治病を主とした五斗
米道(後に天師道ともよばれる)の流れをくむ張魯の母が「鬼道を以て」、 「常に往来」した
というのは、張魯が漢中の地を占領し、張脩を殺して五斗米道の政権を樹立したこととあいま
って示唆にとむ。p79
▲張魯が督義司馬に任じられたのは二世紀の末であって、彼は五斗米道教団の基礎をかためた。
『魏志』の張魯伝には、そして行路者のため宿泊施設である義舎を設け、 義舎に置かれた義米
肉は必要に応じて食べることができたが、もしも過多の食をすると「鬼道」によって病気にな
るとされた
http://www5b.biglobe.ne.jp/~NOTO/obitona.htm
412 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 17:27:47
>>410 >「卑弥呼以死」を「卑弥呼もって死す」と訳し、狗奴国との争いが原因で
>死んだと考えたわけ。つまり、心労かな。
それはあなたのツタナイ怪しげな漢文知識に過ぎん、修行がタリン!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
以(すで)に死すと読んで、張政が来た時すでに卑弥呼は死んでいた事になる。
以(それにて)死す、と読め卑弥呼は殺されたのだという見解もある。松本清張がこの説
に賛同して広く世間に広まった。作家の井沢元彦も卑弥呼は殺されたとする。
しかし中国人の歴史家、謝銘仁、張明澄の両氏は 以死 は、死んだので という程度の意味
しかなく、卑弥呼の死に、少なくとも倭人伝上では疑問はないとする
http://inoues.net/nyumon/wa13.html
413 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 17:32:28
>>408 安本説というか、東遷説の根幹は、天照大神=卑弥呼となる。
記紀を読めばわかるように、天照大神が岩戸に隠れると、
高天原も葦原中国も真っ暗闇になる。
真っ暗闇を文字通りに受け止めたのが日食説だろう。
さらに、安本氏はそれが九州で起きたといいたがったわけだろう。
しかし、記紀には、常夜つまり、夜ばかりがずっと続いたとある。
一瞬の出来事である日食とは異なる。
さらに、萬の災いがことごとに起こったとある。
つまり、高天原が暗くなったのは、比喩的な表現で、倭人伝の
卑弥呼が死んで跡継ぎがいなくなり、1000人あまりを殺しあったと
あるのを、暗くなったと表現したとするのが妥当だと思う。
天照大神=卑弥呼には賛成だが、日食と結びつけるのはないと思う。
もう一度言うけど、卑弥呼の死と日食を結びつけるのは、=天照大神だから。
414 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 17:41:09
>>412 やれやれ、
君には知識がない。だから、インターネットで手当たり次第に引用する。
手当たりしだいだから、全く整合性がない。
畿内説のものを引用したり、安本説のものを引用したり、全く関係ないものを
引用したりする。
しかも、インターネットで見つけたことを吟味することもない。
だから、目についたものを信じてしまう。
漢字を調べるときは、漢和辞典で調べること。
自分で訳してみること。
415 :
太国:2006/11/21(火) 18:13:39
いろいろ考えたが、鬼道っていうのは道教じゃぁないと思う。
魏志倭人伝の著作者側は道教の本場の中国人だ。彼らの道教を卑弥呼が奉って
いたのならば、もっと他の書き方をしているだろう。
うちらの国の宗教をやっているとかいう説明書きがあろうはずだ。単に宗教を
やっている意味の書き方だから、日本本来のか、卑弥呼特有の神さま事とかでの
意味であろう。道教ならば卑弥呼の国ではうちらの国の宗教を信奉しているとか
の、書き方の中につっこみの説明があるのが自然ではないのか?
まぁ「魏」という漢字は『委』と『鬼』だから、委国の鬼道をやってる者から国
の名にしたんだとか、魏の国名から卑弥呼が魏国の鬼道を真似て神事をしたの
だということもないわけではないが? 後者の場合ならば鬼道は道教だったと
いう論が出て来てよいことになる。だが、説明文があって然りではないのか?
416 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 18:27:54
ヤフーで、吉野ヶ里 柱 間隔 で検索したら2m20cmが出てきた。
倍にすると440cm。さて、どう説明するのかな?
417 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/21(火) 18:42:06
>>405そういうわけで卑弥呼は死んだ。
ではなく、このころ、卑弥呼は死んでいた。と読むのが普通だと思う。
第一、卑弥呼は女王になった後、人前にも姿を見せなくなっており、
女王が{これは初期道教の影響とされるが}戦闘に巻き込まれて死ぬなど、
あり得ないからだ。
418 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/21(火) 18:53:10
>>406 鬼道とは黄巾である、とはっきり記した文献がある。つまり、初期道教のことを指す。
とはいえ、神がかりのような、シャーマニズムと、チャンポンにしてたと考えてるが。
419 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/21(火) 19:24:58
>>413しかし、記紀には、常夜つまり、夜ばかりがずっと続いたとある。
一瞬の出来事である日食とは異なる。
これはあくまで神話。アマテラスが、つまり太陽神を思わせるこの方が、
天の岩戸に隠れる、と高天原も葦原中国も真っ暗になる。事自体あり得ない。
親から子、子から孫へと、解りやすく、面白おかしく作り話をしながら、
そこに何らかの歴史的事実や、示唆を含ませて伝承させていくもの。
日食をモチーフに話を膨らませたものと言える。
420 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 20:11:18
日食は、10分で大きいのは終わる。初めから終わりまでは正確には
数時間かかるけど。神々が集まって、会議する時間はない。やはり、
これは、火山とみるべき。陽ー日ー火とすり替えがおこなわれてるのでは?
421 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 20:23:36
卑弥呼って卑弥までが名前なの?
呼はナニナニと呼ばれていたということを表していて
名前そのものではないんでしょ。
ヒミが名前でそれは後のヒメ・姫になっていったの?
422 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/21(火) 20:30:47
>>420、
火山の爆発、とすれば、日照不足で、穀物が実らず、
{夜ばかりがずっと続き、 さらに、萬の災いがことごとに起こった}
の説明とはなるが、そのころどの山が噴火し、どれだけの火山灰が降ったなど、
地質学などの調査で解ると思うんだが。
423 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/21(火) 20:50:23
>>421 呼、と書くからといって 呼称を指すとは言えない。
ただ、卑弥と書いて、古代中国の魏の発音では、ヒメ
に近いから、女王をヒメと呼んでいたのか、ヒメがこの人の名で、
後に、お姫様の語源となったのかは、どちらかでしょう。
424 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 20:55:11
卑弥呼=アマテラス、倭国乱=天岩戸神話を無根拠に結び付けるの
はどうか?と思うがな。仮定や飛躍が多過ぎる。
425 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 21:04:56
>>424 そう思わない香具師は日本書記の精神に反する
>>425 アホか。日本書紀のこと、殆ど知らないだろ
427 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 22:05:01
>>414 >畿内説のものを引用したり、安本説のものを引用したり、全く関係ないものを
>引用したりする。
当たり前だろう。
俺は畿内説でも安本説でも無い良いとこ取りの、宮崎が邪馬台国という恵也説だ。
それから言っておくが、漢和辞典をあまり信用しないように。
漢字はすでに日本語であって、中国語じゃない。
中国語は日本にとっては外国語なんだぜ。
田中角栄総理が、日中条約を結んだときに「迷惑」という言葉を使った。
日本語の迷惑と中国語の迷惑とは内容に隔たりがあるのに、プロの翻訳者がそのまま使ってしまい
大騒ぎになったことがある。
中国語の「迷惑」とは、日本語でスカートに水をかけた程度の「失礼」という意味。
くれぐれも用心して中国語を翻訳するようにしておきなさい。
中国語はあくまでも外国語なんだよ!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この間わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて,私はあらためて深い
反省の念を表明するものであります。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPCH/19720925.S1J.html
428 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 22:25:39
>>415 >うちらの国の宗教をやっているとかいう説明書きがあろうはずだ。
あなたは宗教を全く知らないのじゃないかい?
実体験が全く感じれない。
俺の体験から言うと、活動的宗教は他宗教であろうと修行法や人の治療法、洗脳法など
宗教組織に必要なノウハウはすべて取り込んでいる。
しかし死んだみたいな葬式仏教は別だけどね。
卑弥呼の時代にも、卑弥呼の鬼道が活動的なものであるなら、黄巾の乱を起こした道教の
ノウハウを取り入れてない可能性はない。
まあ、俺が少しは知ってる宗教的なものは、沖ヨガ、佐保田ヨガ、オーム真理教、禅宗
の各派、四国88ヶ所徒歩遍路、阿含宗、真言宗、断食道場・・・
でもどこもホンノチョッとしかしなかったけどな。一番影響を受けたのは沖ヨガかな。
しかし修行法はよく似通ってるよ。
従兄弟が統一協会に入ったけど、ここでも修行として断食や粗食をやっていたと聞く。
創価学会とここだけは俺は遠慮してる。
429 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/21(火) 22:53:52
>>421 >卑弥呼って卑弥までが名前なの?
呼はナニナニと呼ばれていたということを表していて
名前そのものではないんでしょ。
ヒミが名前でそれは後のヒメ・姫になっていったの?
『卑彌呼』(ヒミコ)
『卑』→卑しい
『彌』→遠い場所 太陽
『呼』→呼ぶ
(卑しくも、太陽を呼ぶ)
【ヒミコ】←ヒミカホの転(言化/カ)
『ヒ』⇒日(光) 『ミ』⇒太陽(丸い存在) 『カ』⇒気 『ホ』⇒発
『カホ』⇒気発(司る)
(光る太陽を司る)
430 :
太国:2006/11/21(火) 23:04:19
>>428 はは〜ん? では卑弥呼は道教の太上老君を本尊的に祀ってでもしてたのか?
それとも元始天尊か? 三清か〜?
違うか? ならば鬼道だから金角銀角か〜?www
431 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/21(火) 23:05:39
>>427 >それから言っておくが、漢和辞典をあまり信用しないように。
漢字はすでに日本語であって、中国語じゃない。
中国語は日本にとっては外国語なんだぜ。
オイオイ。その当てにならない辞書使って読み下されている、サイト和訳を引用するとは、
とんだダブスタだぜ
432 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/21(火) 23:21:03
【事鬼道能惑衆】
彼女が神職として最大の力を発揮するのは天体現象(皆既日食)の時期。彼女の役目は
「隠れた太陽を呼び戻す」
下界を支配する王でさえも「神の力」の前では成す手もない。
歴史的に見ても、一統独裁王権社会で「神の使者」として王と神の間に位置し、絶対的地位を
確立した。
確か、日本書紀の中にも(一定の期日の間に空を見上げる)という記載があったような?
>>395 >大神氏が、筑紫に伝わる神功応神伝承を持ち込んで、リニューアル。
>その時に倭人伝を参考にしたのかもしれない。
八幡(ヤハタ)とか、邪馬台を意識してるよね。確かに。
宇佐の赤塚古墳の存在から考えても、宇佐がヤマト王権の故地というのは
無理がある。
むしろ、マキムク発の前方後円墳の祭りを早くから受け容れた、
ヤマト王権の同盟国と見るべき。
ヤマト王権の九州進出の尖兵としての役割が宇佐にはあったのだろう。
434 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:27:30
日本書紀には、第33代推古天皇崩御時の日食より前に、日食の記事は
ない。1つも。崩御時は、別にして第34代から第41代持統天皇まで
10個の日食の記事はある。起きてない日食も含めて。
435 :
太国:2006/11/21(火) 23:31:35
>>434 上段
この天文現象は極めて説得力がある。推古崩御だったな〜?それでこの天皇
あたりまでの代は等倍暦を使用していたのが分かってくる。
436 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 00:28:42
第33代までは、古事記がある。古事記は、ここで終わってる。
何故、古事記があるのか?なぜ33代でおわってるのか?
答えは1つしかない。第33代までが架空の天皇。
推古天皇は、女帝である。隋書には、王の妻。
くいちがってる。
437 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 03:57:38
33代推古天皇は、30代敏達天皇の皇后でもあるから間違いともいえない。
438 :
太国:2006/11/22(水) 06:46:16
>>436 答えは他にもある。菊花御紋章は十六弁があり、各天皇が座としてこれを支配
する。さらにDXな菊花は十六の2倍の32弁があり、各花弁の座は各々各天皇
が支配する。32座に菊花御紋章の中央の1個の丸が(この場合が履中天皇)支配
座として加わる。これが古神道のやり方。つまり合計は
32+1=33
だから古事記は33代で終結するのである。答えが一つなどとは貴殿の思考の
大間違い。
440 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 08:51:52
菊は、人体で言えば、肛門である。しわが16あるのでは?
各自、数えてupしよう。
441 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/22(水) 10:02:37
>>433 >宇佐の赤塚古墳の存在から考えても、宇佐がヤマト王権の故地というのは無理がある。
あんたね、昔のバカ学者の話を素直に信じるものじゃない!
宇佐と畿内のヤマト王権とどちらが先に出来て、どちらが鏡を与えたのかは判らんのだよ。
同じ型から作った鏡が出てきたということくらいしか判らんのに、何で畿内が与えたなんて
決め付けるんだろうね。
ほんとに昔の学者はバカとしか言えん。
442 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 10:30:50
バカ学者の妄想の産物である短里を信じてる人間が何をいってるんだか。
443 :
太国:2006/11/22(水) 10:37:57
>>439 お前の古代史の見聞知識が稚拙で狭小だからそんな言動が出るんだ。w
712年の太安万侶が科学などカヂっているか〜? 笑止千万。www
444 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/22(水) 10:54:31
怨霊に追い回された天皇を基準にして、過去にハシゴをかけると天照大神はいつ死なれたのか?
第50代桓武天皇:西暦806年死亡
天皇の平均在位期間を10.88年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。
806−(50−X)*10.88=西暦死亡年
806−(50−1)*10,88=273年・・・第1代 神武天皇
806−(50+3)*10.88=229年・・・皇祖 天照大神
247年・・・ 卑弥呼死す
まあ、18年の差くらいなら十分に同一人物だった可能性はある。
それに当時の天皇は先頭に立って、反対派を征伐していた天皇としては危険な任務の時代。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。
用明天皇の活躍年代586年を起点として、一代10年づつ古代にさかのぼれば、各天皇の
大略の活躍年代がえられる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
445 :
太国:2006/11/22(水) 10:55:58
えられない。
446 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 11:02:57
>>444 相変わらず平気でトンチンカンなことを言ってんだなw
447 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 11:35:31
神功皇后が卑弥呼なら、次の応神天皇が、女王トヨでないといけない。
それでも、日本書紀 信じますか?
448 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 11:50:28
男王→卑弥呼→男王→トヨ→?
449 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 12:20:47
>>444 1代10年位という統計値は基本的に正しいとしても、これで細部までの正しさが
保証される訳ではない。常に±30年くらいの誤差がありうると考えた方がいい。
現に、欽明天皇(29代)の前後で始点を分けると、そのレベルの誤差が生じる。
2〜9代までの天皇の在位期間が他の年代のよりも短すぎることにも違和感がある。
450 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 13:06:31
宇佐神宮は卑弥呼の墓だよ。
451 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 13:07:23
いやこいつの場合は結論ありきだから
全部後付け
都合のいい物を選んでるに過ぎない
自分の世界で遊んでたい奴なんだよ
452 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 13:11:55
卑弥呼=日向
453 :
日本@名無史さん :2006/11/22(水) 13:33:14
卑弥呼が日向なら、神武東征に出てくる筑紫の日向とは
筑紫の卑弥呼に会いにいったことになる。
うむ、なるほど。
卑弥呼は筑紫にいたのか
454 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/22(水) 14:04:25
>>449 >2〜9代までの天皇の在位期間が他の年代のよりも短すぎることにも違和感がある
2〜9代までの天皇に比べ、神武天皇の話が記紀に多すぎるからこんな推定になったもの。
神武天皇は、実際にはこんなに長い在位期間じゃないと思うよ
455 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 14:36:03
>>413さんに賛成
確かに、日食が2年連続で起きているし、畿内は部分で九州は皆既の日食。
古事記の記述も日食を思わせるものがある。
しかし、日食の時間帯が日没前でインパクトが弱い。
日食を抜きにしても、太陽神信仰のアマテラスの死を、卑弥呼のとダブらせることは
可能なのでとくに日食を重視する必要もない。
456 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:05:22
しかし無視するには、あまりの偶然・・・ 日食。
457 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:32:54
卑弥呼が太陽信仰の巫女だというのは、君達の大好きな倭人伝に載ってますか?
458 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:51:41
卑弥呼は、元祖天才ストリッパ〜
「能惑衆」
459 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/22(水) 22:19:01
460 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 22:24:48
>>459 よお!へぼ
今日もひきこもってがんがっているな!
461 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 22:33:48
考古学上、畿内マキムクで創始された前方後円墳祭祀が、
各地に伝播していったのは間違いなく、その体制の成立こそが
大和朝廷の前身に他ならない。
九州東遷とかはもはや成立し難い状況。
神武東征伝承だけが最後の砦だが、その肝心の伝承自体が
内容から考えて5〜6世紀頃の成立と思われ、まったく当てにならない。
ご愁傷様。
462 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/22(水) 22:43:43
>>457 >卑弥呼が太陽信仰の巫女だというのは、君達の大好きな倭人伝に載ってますか?
卑弥呼は日巫女という日本語が、中国語の発音で表記されたもの。
卑弥呼は鬼道を行って人の心を奪っていたという倭人伝があります。
この鬼道の中に自然崇拝の太陽信仰が入るのは常識的なこと。
むしろ宗教の原点と言っていい。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
身近にある大きな存在といえば、それははるかに高い山々であり、深く豊かな森、生命を
潤して余りある大地、風を吹かせ雨を降らせる天の恵み、そして圧倒的な光の主である
太陽などの大自然でした。こうした人間の理解を越えた存在に、恐れと感謝のしるしを
捧げる行為が宗教の原点にあります。
http://www2.big.or.jp/~yba/Real/q27.html
463 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/22(水) 22:46:53
卑弥呼が、アマテラスでは無かったとしても、卑弥呼に日食が何らかの形で関わった伝説があれば、
勝者の大和朝廷側のプロパガンダとして、本朝の神話として取り込んでしまう事もあり得る。
卑弥呼の日食伝説が無かったとしても、天岩戸に太陽が隠れること自体、作り話。
では、どこからその作り話が生まれたのか、天岩戸伝説は、日食である可能性は、その他の可能性より高く、
卑弥呼の死んだ年に、日食があったとすれば、両者をまずくっつけるだろう。
そして、大和朝廷の先祖と太陽神と結びつける事で、権威付けを謀ろうとするかもしれない。
464 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/22(水) 22:58:27
>>461 >畿内マキムクで創始された前方後円墳祭祀が、
>各地に伝播していったのは間違いなく
どうして畿内マキムクで創始されたと考えるの??
畿内であるなら銅鐸文明でなければならず、鏡文明のマキムク遺跡とは全く異なってる。
マキムク古墳から銅鏡は見つかるが、銅鐸は見つからん。
突然マキムク遺跡が発生したと考えるより、九州の鏡文明がマキムク遺跡を占領して
花を咲かせたとみるのが常識で、あんたは非常識。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
銅鏃6、鉄片、鋼鏡(径39.7cm)。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maki01.htm
465 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/22(水) 23:14:24
マキムクの古墳は突然発生している。早くから、古墳の造成技術の高い出雲、吉備の
文化流入が無ければ不可能。
466 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/22(水) 23:26:42
465は誤解しないように。畿内の大型古墳が出来るには、
発展の経過というものが必要。しかし、畿内にはそれが見られず、
古墳時代にいきなり大型の古墳を出してくる。
古墳の技術は畿内ではないところで、発展したと思われる。という
ことも意味している
>>466 吉備も筑紫も、古墳築造はイキナリ始まってるんだよね、これが。
468 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:52:53
>>461 1、マキムクは空白地に人工的に作った都市。
2、しかも、竪穴式住居がほぼ皆無であるなど、周辺地域とは隔絶している。
要するに、畿内に異質な集団が大挙して到来したことは「絶対に」間違いない。
3、その集団は、九州の鏡崇拝の文化を畿内にもたらした。
4、その鏡は、北部九州中心の分布がある後漢鏡とは違う分布の鏡であり、時代的に
前者の後に後者(画文帯、三角縁等)の時期が到来したことは間違いない。
5、画文帯は北部九州からは出土しない。魏志で重視された伊都国からも出ない。
要するに邪馬台国時代から相当離れた時期に画文帯が始まった。
6、邪馬台国時代の鏡と後の時代の鏡とは、これで区別可能。
7、ホケノ山古墳の追葬は、同族の子孫が古代からの言い伝えに従いなしたもの。
ならば神武東遷の言い伝えも同様に存在して記紀に記載されたとの推測が成り立つ。
8、畿内説は「神武東征は皇国史観であり、軍国主義である。」という左翼イデオロギーが
強く、それ故、九州説を頑として否定する。その結果、1枚も日本から出土しない三角縁
の大半を舶載鏡と主張するなどのカルト宗教的な教条主義に陥っている。
9、「畿内説=左翼イデオロギー」という実体は、ほとんどの畿内説論者に当てはまる。
469 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:03:49
でわ、九州説=右翼なわけ?
470 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:06:18
471 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:07:24
箸墓が卑弥呼の葬られた古墳だとの説がありますが。
前方部は後の時代の後付で元々は円墳であったとの説だったように思います。
472 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:10:20
↑すごくいい加減なこと言ってる馬鹿発見。
473 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:12:07
古墳の定義はどうなっているんだろう。
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は紀元前の築造のはずだから、古墳とは言わないのだろう。
特定個人の墓を古墳というとの説も聞いたことがあるが、横穴式石室の場合は
追葬もあるし。
辞典のよると、どうも前方後円墳の出現以降を古墳と呼ぶらしい。
つまり、時代によって古墳と墳丘墓を区別するらしい。
畿内の古墳を中心に考えているようだが、なんかわかりにくい。
474 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 00:13:48
>>468 史実に基づいており、いちいち納得出来る。
早くから、古墳の造成技術の高い出雲、吉備の 文化流入があって初めて
畿内のの巨大古墳は可能となった。
475 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:18:23
>>474 それがどーした。死ねよ糞豚。ブーブーうるせぇなぁ
476 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:19:28
古墳の最初は吉備の楯築。その後、東瀬戸内地域に拡散していき、
最終的に箸墓で前方後円墳が完成。
筑紫とか日向で古墳が築造されるのは、あくまでその後の話。
東遷とか言う奴は、この厳然たる事実を完全に無視している。
神武東征伝承が根拠とか、アホらしい事は言うなよ。
477 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:23:10
478 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:29:16
>>468 2は完全な思い込み。
少なくとも、大規模な戦乱の痕跡は畿内では発見されていない。
マキムクが突如造られた計画都市であったのはそうだが、
それは征服戦争のような外部から強制されたものではなく、
内部の成熟、政治的解決により大同団結がもたらされたと見るべきだろう。
倭人伝言うところの「女王共立」だな。
周辺環濠集落の環濠が一斉に埋め立てられることもそれと符合する。
マキムクが征服者の都ではない。
征服したばかりの旧敵地の真っ只中に、堀無しで住む馬鹿はいないだろ。
479 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:35:32
>>468 3の鏡崇拝については、平原王墓はかなり異質。その後に続かない。
そもそも破鏡は、庄内・マキムク型の頃は見られるが、布留・前方後円墳体制
には採用されなかった。
鏡崇拝が九州発というのは動かせないが、播磨でワンクッションあって、
畿内に導入されたと見るべきだろう。
そもそも、前方後円墳自体が各地の葬送儀礼のパッチワーク、いいとこ取りであって、
殊更鏡にだけ注目して、九州の影響を過大に論じるのはナンセンス。
480 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:37:03
宮崎県の西都原古墳群の81号墳からは、土器棺が見つかっている。土器棺は、
弥生時代に見られる埋葬方式で、この棺やそのほかの出土状況から
81号墳は、3世紀前半の築造とされた。
3世紀前半というのは、奈良県の最古級の古墳と同じかそれよりも古いと
いう意味である。実際の年代は疑問だと思う。
ちなみに、81号墳は、全長52mほどの纏向型の前方後円墳。
前方後円墳の発生を畿内と断定できるものかどうか?
481 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:39:49
ところで九州人は東征があったと考える人が多いんですか?
漏れは九州人ですけど関西人と一切関係があると思いたく
ないので東征なんてなかったと考えてたいです。
ここで緊急アンケートを採ります。
東征肯定説の方はどこ出身か答えてください。
482 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:43:04
>>468 4は意味不明。
5については、画文帯を一括りに書いて煙に巻いているんだな。
分かってて書いてるんだろうが
中国製が確かな画文帯も、紀年鏡があって、邪馬台国に近い時期に製作
されたことは確か。
なんでも国産にして、不都合を糊塗しようとするやり方は止めなさい。
483 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:46:38
>>480 マキムク石塚より古いかどうかだな。
宮崎のは、そんなに古くなかったと訂正されていたぞ、確か。
484 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:49:43
>>468 7の神武東征伝承の解釈は、直木孝次郎が詳しい。
読んだことある?
8、9は訳の分からない被害妄想。反論する気にもならない。
気色悪い奴だな。
485 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:54:20
ついでに、宮崎市の生目古墳群の古墳もかなり古い。3世紀の築造と言われる。
しかも、1号墳(墳長136m)は、古墳時代最古期と言われる箸墓古墳の
半分の大きさに設計した相似形とされる。
逆に、箸墓のほうが2倍の大きさに設計した相似形と言えるかもしれない。
いやだから、マキムク石塚より古いかどうかが問題なんであって。
487 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:05:02
>>486 それをいうのはなかなか難しい。
だいたい、前方後円墳は、畿内で出来て全国に広まったと言う前提で
この時代が考えられてきた。
年代は土器で計るが、宮崎と畿内で同じ土器が出ても、遠く離れたこの二つの
土地で同じ年代と言い切ることは出来ない。
宮崎の古墳のほうが纏向よりも古いと言う結論を出すのは、
天動説が地動説に変わるようなもの。
めったなことはいえないが、その可能性も考えられるというしかない。
488 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 01:05:59
>>476 >最終的に箸墓で前方後円墳が完成。
箸墓古墳と大分の3世紀末に作られた前方後円墳:赤塚古墳、宮崎の3世紀中ごろ作られた
西都原古墳群81号古墳と、どちらが古いかは断定なんて出来ないよ。
そこまで測定技術は発達してませんから。
むしろそういった古墳形式が日本で流行していた時期があったということくらいは言えるがね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
西都原81号古墳:後円部の長さ約33m、前方部が約19m前方部が短くばちの形に開いた
纒向型前方後円墳
宮崎大学の調査で2005年5月18日までに、国内最古級と確認された。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm
弥生後期の畿内に大型墳丘墓がないと言う奴が多いが、
大型の嚆矢である吉備や出雲にしても、その出現は後期末であって、
マキムク石塚と、そう時代は変わらないんだよな。
九州東遷説が幅を利かせていた頃の名残なんだろうが、
殊更弥生後期の畿内を過小評価する発言が目立つ。
特に年配の人。
最近の若い研究者は皆、弥生後期に中河内・大和による畿内経済ブロックの
形成を想定していて、それが庄内以降のマキムク、ヤマト王権に繋がる
と考えている。
旧態依然の九州東遷説とか、言ってる人はまずいない。
大体、マキムク搬入土器に九州系が殆ど無いことからも、九州が
積極的にヤマト王権に参画していたかも疑問。
九州過大評価から脱却して、もっと他の地域に目を向けるべきだろう。
東海、丹波、阿波讃岐など。
特にマキムクの立地から考えて、東海の影響が大きかったと思われる。
>>488 宇佐に、赤塚以前に古墳があるのか、と。
突然出来た赤塚があるだけの宇佐と、庄内から続いているマキムクと、
どっちが先かは火を見るより明らか。
491 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 01:17:17
>>478 >征服したばかりの旧敵地の真っ只中に、堀無しで住む馬鹿はいないだろ。
逆だよ!
征服した相手の反抗心が、無くした証拠として防御の意味の堀を埋めさせる。
降参したとはいえ敵の環濠集落の中に入って、少数の兵士が枕を高くして眠れはせん。
安心して眠れるのは、敵の居ない離れた土地で味方ばかりで集団で集まって居ればこそ。
豊臣を滅ぼした徳川家康も、大阪城の堀を埋めるのを条件に兵を引き上げて休戦してます。
堀があれば敵はまた、攻撃して不利になったらまたまた逃げ込むかも知れん。
「寄らば大樹の陰」は征服者としては無いほうが良い。
492 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:19:32
>>489 >マキムク搬入土器に九州系が殆ど無いことからも、九州が
積極的にヤマト王権に参画していたかも疑問。
土器を作らないタイプの人たちがやってきたと言う考えも出来る。
493 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:23:46
494 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:26:52
>>491 また平気でトンチンカンな事言ってるな
ひとりで遊んでろ
495 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 01:34:56
>>478 >少なくとも、大規模な戦乱の痕跡は畿内では発見されていない。
あなたは戦乱の痕跡として、どんなものを期待してるんだい?
1700年前の戦争で、戦死者を適当に埋めた遺骨でも出てくると期待してるのかな。
日本の酸性の土では骨はほとんど溶けて土になってるぜ。
石室を作り石棺に入れて古墳の中で、丁寧に保護されてるのなら骨は残るとは思うけど・・
たった400年位前の関が原の合戦の遺骨さえ、関が原に遺骨なんて残ってないのじゃないかね?
セイゼイ石碑に残されて、凄惨な合戦があった事を知るのが関の山。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
大坂にて妻を自害させられた細川忠興が石田三成を激しく恨み、笹尾山に陣を敷いた石田本隊
の左翼で猛将として知られていた島左近に対して全軍挙げての突撃体制をとって戦闘を繰り返した話、
http://web1.nazca.co.jp/sekigahara/sekigahara_kosenjou_main1.html
496 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:37:56
恵也って、友達いなさそうだな。
497 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:38:46
この糞スレまだ続いてたのか。
ニートが集まってくだらない議論で時間をつぶす低俗スレ。
お前らニートはクズだからさっさと死んでくれ。
498 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:41:04
>>495 死ねよ、低能!
しっかり親孝行しろよ、禿
499 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:46:02
恵也は畿内説が送り込んだ工作員
わざとつっこみ所を織り交ぜる厄介な奴
500 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 01:47:25
>>479 >殊更鏡にだけ注目して、九州の影響を過大に論じるのはナンセンス。
鏡に霊力があるとして、3種の神器にしてるのは大和朝廷。
畿内に大和朝廷が生まれたのなら、鏡を大切にする過去の痕跡があるはず。
しかし畿内で昔から大切にしてたのは、銅鐸だ。
邪馬台国ではワザワザ鏡を魏に頼んで、100枚も銅鏡を贈り物に貰うほど大切にしてた。
畿内から出てくる銅鏡は、三角縁神獣鏡という製造技術は優秀だが中国ではほとんど見られない
巨大な銅鏡を、中国製だと強弁する偽贈り物。
その点、九州からは本物の魏以前の中国製の銅鏡が出土してる。
501 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 01:57:40
>>489 >弥生後期に中河内・大和による畿内経済ブロックの形成を想定していて、
誰もそれは否定してない。
だからこそ、神武天皇も奈良県を占領するのに苦戦をしたんだよ。
大阪で押し返されて、和歌山まで遠回りして奈良県に進駐したんだぜ。
それなりの畿内経済ブロックの形成があり、大きな軍事力が存在した証拠。
その経済ブロックごと全部を神武天皇は手に入れたから、九州の天皇家
以上の経済力、軍事力を作り出し
アメリカがイギリスを凌駕したのと同じ現象。
502 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 02:07:16
前方後円墳の始まりは畿内だろうね
九州説畿内説関係なくね
503 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 02:28:44
>>490 >庄内から続いているマキムクと、
庄内土器は西暦300年頃からの、大阪、奈良や北九州で発見された土器だろ。
卑弥呼の邪馬台国より50年くらいは遅れそうだけどな。
人によってはもっと早いと言ってるようだけど・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良の
かぎられた地域にしか分布しない。
これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm
504 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 02:34:00
505 :
モモモモモモモ:2006/11/23(木) 02:50:04
邪馬台国の場所は私が引っ越すたびに変わる。
506 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 02:55:03
>>495 骨が残ってなくても鏃とかでも分かるよ。
北部九州じゃ甕棺の中に骨が残ってるよ。
507 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 03:23:23
>>503 庄内の最古様式のが九州から出てますか?
508 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 03:56:44
>>505 お国自慢も絡んでくるからな
地元の観光収入にも影響あるんだろうな
ユーロじゃ中世巡礼者引き寄せるのに
平気で聖遺物かっぱらったり必死だったしな
恵也は西都原で卑弥呼まんじゅう売ってる奴だったりしてw
邪馬壱→邪馬台→ヤマタイ→ヤマト→天皇家
という半コックもびっくりな説を信じてる人たちが集うスレはここですか?
510 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 04:41:55
>>478 神武東遷は大規模な戦乱とは考える必要はない。
九州説でも本州には、王族(ニギハヤヒなど)を派遣して地固めをしていたと
考えれば、戦乱の主体は北部九州での主導権争い。
勝った勢力が畿内の「残党狩り」をしたというのが、神武東遷と考えれば良い。
「残党狩り」が終わったのだから、環濠の埋め立てはむしろ当然。
纏向にも環濠は必要ない。
511 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 04:50:19
>>482 中国製が確かな画文帯?何それ?
とにかく紀年鏡は全部中国鏡というのが、畿内説の考えだけど、それ無理。
画文帯同向式はほぼ全部日本で出土、1枚のみ楽浪郡。
それでも紀年があれば中国製というのは三角縁でも繰り返される愚論。
「紀年の画文帯」と「紀年の三角縁」だけは舶載という畿内説最終ラインは
成り立たない。両者は一連の流れの中で製作されたことは明らか。
三角の全部が日本製と考えるなら、画文帯も中国から持ち込んだごく一部を
除いてほぼ全部日本製と考えた方が筋が通る。
512 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 04:52:45
>>510 環濠が消滅するのは一斉であって、徐々にではない。
何らかの劇的な政治的変動があったためと考えられる。
九州に固執するのは止めろよ。
513 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 04:58:19
>>484 直木孝次郎はさんざん読んだ。
「神武東遷を認めることは皇国史観だ。」と言いすぎるのが玉にキズ。
あの世代は、そういったイデオロギーが強すぎる。戦前の教育の反動だから
仕方がないかもしれないが、あの世代は学説の大半が反天皇制的に過ぎる。
「王朝交代論」の系譜は、イデオロギー抜きには理解不能。
記紀が後世の捏造というのは、その後の発掘で覆された過去の考え。
神武天皇稜が近世の捏造とか、当たり前のことにこだわり過ぎ。
514 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 05:09:54
ニギハヤヒまで九州側にするんで
却ってめんどくさい事になってんな
何かそれなりのこだわる理由があるのか?
裏切ったって書いてあるんだから確固たる理由がないならそれでいいんでは?
北部九州の主導権争いってのも思いつきっぽいな
具体的に見えてこない
515 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 06:22:19
神武東征神話の亡霊。
畿内説はそう言って、東遷説を封じ込めてきたらしい。
しかし、その言葉に敏感に反応する戦争体験世代はもう少ない。
脅し文句が通用しない世代には、東遷説しかないのだ。
516 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 07:30:39
畿内説は九州説の人間が、殆ど寝静まった後、今まで殆ど論破され終わった事を
再び持ち出して蒸し返しているが、今までの内容をよく読み返してから、その上を行く
反論をしないと堂々巡りの繰り返しばかり。
畿内説は、百歩譲って中立の立場で読んだとしても、事実に反した、道理にあわない事ばかりで、
到底納得いくものではない。
517 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 12:36:33
>>506 >骨が残ってなくても鏃とかでも分かるよ。
戦場の中の鏃なんて、見つけれんでしょう。
卑弥呼の時代は鉄の鏃が使われてたと、書いてあるし戦場の鉄の鏃はチョッとな?
甕棺の中の遺体にあれば、見つけることは出来てもその当時の畿内では、甕棺の
中に入れる葬式はなかったようだから無理だよ。
北部九州では甕棺が流行してたようだけどね。
518 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 13:02:26
>>508 >恵也は西都原で卑弥呼まんじゅう売ってる奴だったりしてw
俺は育ったのは、福岡県の大牟田だが今は、高知県の四万十市。
饅頭なんて関係ないぞ。
高知市なら少しは古墳もあるけどね。
519 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 13:08:13
>>512 >何らかの劇的な政治的変動があったためと考えられる。
神武天皇に畿内が征服されたとき、と考えればすべてうまく行くよ。
九州王朝に占領されたのなら劇的変化だろう。
520 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 13:57:50
>>512 弥生後期後半から末ころ、ほぼ時を同じくして環濠が一斉に埋没するのである。
唐古・鍵遺跡では大量の土器が環濠に捨てられ、埋め立てられている。
土器は意図的に捨てられたらしく形をとどめるものが多い。
奈良盆地では弥生後期後半に、なにか大きな社会変動が起きたと考えられる。
それが神武の東征に依るという考え方がある。征服されて、土器を放棄させられたのであろう。
521 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 14:28:30
>>482 中国製が確かな画文帯も、紀年鏡があって、邪馬台国に近い時期に製作
されたことは確か。
画文帯鏡は、卑弥呼とは時代の違う古墳時代の古墳から出土する。畿内説は、
伝世鏡というが、日本に伝世鏡の風習は無い。死後世界を照らす信仰が鏡。
死と同時に、被葬者の頭付近に置いて、死者の安全な黄泉の国への旅路を助けるもの。
中国からの出土は僅か80枚。日本出土150枚よりはるかに少ない。
倭人が当時大陸で活躍していた事を考えると、倭人が持ち込んだ物と考えた方が自然。
年紀鏡は、日本で呉の職人か何かが、同じ形でいくつも作った為、三角縁神獣鏡の年号を
参考にした為とと思われる。{両方とも呉の様式で作られている}
倭では信仰の対象。年代は、正確でなくて良く、めでたいことのあった、記念年でよい。
522 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 15:55:50
畿内説が論破された、ってどういう頭の構造をしているのか?
どう論破されたのかを、具体的にご教授願いたいものだ。
523 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:58:46
卑弥呼には関係ないと思うけど、九州の人間は確かに「九州の独自性」をよく口にする。
これの根拠つうたら何だ?
524 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 17:07:58
マキムクに九州の影響を探す方が難しいのだが。
525 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 17:41:05
>>522畿内説なんか初めから成り立たないのだから論破されるわけないよね。
526 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:04:52
日本の歴史は東西対抗戦がデントーだからなー
527 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 18:15:16
>>522 画文帯鏡の事は、
>>521で説明しているが、その他は
邪馬台国畿内説を議論するスレ7 を読めば解ります。
「どういう頭の構造をしているのか?疑いたくなる」のはこっちでしょう。
前スレは読まないで同じ事は聞いてくるは、
>>521 には直接反論してないで、
「どう論破されたのかを、具体的にご教授願いたいものだ」などとは言ってくるはで。
酒でも飲みのみ酩酊してレスってるのか、からかってるのなら解るが。
528 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:34:07
日本国内のケンカもデントーだよなー
529 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:50:57
>>527 それは論破じゃなくて、お前の思い込みだろ。アホらしい。
530 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:58:17
例えば、古墳時代の始まりを勝手に卑弥呼の時代と遠く離れているとしている。
で、古墳時代以降に出土する画文帯は国産とか寝言を言っているんだよな。
そのお前の思い込み実年代観(妄想)は、どういう思考回路でもたらされたものかを、
ジックリ伺おうじゃないかw
倭人伝を読む限り、邪馬台国は九州にあったとしか思えないから、とかか?
531 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 19:53:17
倭人伝からいくと、むしろ近畿だろう。
532 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 20:17:25
>>529,530に
誰か僕の変わりに解りやすく説明してやって。
夕食にちょっと高級ワインを飲んじゃって今ちょっといい気分でいるから。
ちょっと覗いたらあいも変わらず反論は、「思い込み」だの妄想」だのといつものパターン。
九州説の方、誰か変わりに、このワカランチンに教えてあげて。面倒だろうけど。
533 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:25:12
そのまえに、弥生終演と古墳時代始まりの定義をきちんと設定しなければならない
そこがはっきり区分されないから、食い違いが起きるのでは
534 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:33:47
末櫨→イトを東南と言っているのだから倭人伝の南は実は東、
あとは瀬戸内海で、ヤマタイは近畿
535 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:41:31
536 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:45:14
意見の食い違いの最たる原因を探れば
全て(妄想VS妄想)の構造が起因するのでは?
537 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:48:51
>>534 >末櫨→イトを東南と言っているのだから
そんな事言ってないよ
それに、「末櫨」ってなに?「末盧」だろう。
538 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:52:25
355 :日本@名無史さん :2006/11/18(土) 21:30:49
魏志倭人伝に記載されている邪馬台国はどこにあったのだろう?
「邪馬台国の女王、卑弥呼の死後、男子の王が起つが、国治まらず
宗女トヨが起つ。」と倭人伝にはある。
卑弥呼の替わりが勤まるほどのビッグネーム「トヨ」。
もちろん、その痕跡を歴史にとどめていないはずがない。
畿内にそれを思わせるものはあるだろうか? 私の知る限りではない。
では北部九州ではどうだろう。「トヨ」といえば「豊の国」「豊玉比売」、、
そう、宇佐神宮がある。
「魏志倭人伝にある邪馬台国」は、北部九州にあったと考えるのが自然である。
↑こんなカキコをみつけたのですが、皆さんはどう思われますか?
539 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:53:50
九州説が妄想と叩かれるのは、考古学無視(無知)だから。
文献解釈なる訳の分からん妄想垂れ流し。
540 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:03:42
>>538 >「トヨ」
この時点で全てペケ
「壹與」が「トヨ」に見えるようじゃ、重傷の投稿者かと
541 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:05:15
>>539 なら、考古学板がありますので、そちらに誘導
542 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:06:05
543 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:09:35
544 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 21:12:55
>>527 >酒でも飲みのみ酩酊してレスってるのか、からかってるのなら解るが。
いや俺だって、ビールを飲み赤ワインを飲みいい気持ちでカキコしてんだ。
他人のことは言えない!
でも、だからこそ気楽にエゲツない言葉が使える。
545 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:21:04
546 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:23:52
547 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:24:50
>>541 そうやって考古学から逃げ回っていても、何も変わらないぞ。
548 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:26:24
>>546 あなたは魏志倭人伝が書かれた頃の魏の国に
いたんだ。すごいねえ〜。プッ!w
549 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 21:27:57
>>532 >九州説の方、誰か変わりに、このワカランチンに教えてあげて。面倒だろうけど。
このワカランチンはここで、お囃子をしてるだけの方。
その証拠に全く「内容の無い」反論しか出してないだろ。
名無史の分際なんだし、内容のある反論だけお相手するのが、大人の対応。
世の中には準文盲と言う、脳細胞がスポンジ状態になった抜け殻人間がいる。
マトモに対応するだけ無駄。
こいつ等は、宗教的信仰心に似た信念の固まりになってる。
そのくせ学歴とプライドだけは、人一倍持ってるから始末に負えない。
550 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:29:43
551 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 21:34:28
>>534 >末櫨→イトを東南と言っているのだから倭人伝の南は実は東、
いや違う。
末盧(唐津)から東南なんだから小城町、山の中の町だし、戸数が1000戸というのも
ぴったりする。伊都国は大きな町とは思えない。
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km
韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→宮崎市・・「ここが邪馬台国」
(ただし卑弥呼の居住は西都市で、岡上に霊場を作ってた)
552 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:39:49
>>550 それは「壹」は「臺」の誤写・誤刻からの発想
壹與は臺與であるというところからの発展形が「トヨ」 台與
553 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 21:39:51
>>537 >>末櫨→イトを東南と言っているのだから
>そんな事言ってないよ
魏志倭人伝で言ってるよ!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。官を爾支といい、
副官を泄謨觚・柄渠觚(せもこ・へここ)という。千戸余りある。代々王がいるが、
みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。
東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國
郡使往來常所駐
554 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:45:24
>>553 >>>末櫨→イトを東南と言っているのだから
>そんな事言ってないよ
魏志倭人伝で言ってるよ!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。官を爾支といい、
副官を泄謨觚・柄渠觚(せもこ・へここ)という。千戸余りある。代々王がいるが、
みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。
東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國
郡使往來常所駐
じゃあ、ここに書かれている(五百里)の起点と着点は?
555 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:46:33
倭だってほんとに「ワ」かい?普通「イ」じゃねえの?
556 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 21:54:14
>>538 >では北部九州ではどうだろう。「トヨ」といえば「豊の国」「豊玉比売」、、
>そう、宇佐神宮がある。
俺はその可能性が大きいと思う。
しかし卑弥呼は宮崎にいたと思う。
卑弥呼の残虐な死で、それまでの権力者たちの相互自滅で漁夫の利を得たのが、霊能者トヨ
をかかえてる宇佐の豪族と見る。
その為、この地方を「豊前」「豊後」と書くようになってしまった。
古墳時代の遺跡でも、西都原市に次ぐ古墳群を宇佐地方は持っている。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
前方後円墳を中心に、このように多数の周溝墓が集中する遺跡は大分県内ではここだけである。
九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群(約320基)に次ぐ。
http://inoues.net/ruins/usafudoki.html
557 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 21:57:30
>>555 >倭だってほんとに「ワ」かい?
正確な倭語音表記は(ウア)これが転(言化/カ)し、(ワ)に
漢語表記が(倭)
558 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:01:12
宇佐も西都原も、古墳造りは九州最古と言ってもよいが、畿内マキムクより新しい。
奴国と一緒で、ヤマトの古墳文化をいち早く採り入れた
九州島内の親ヤマトの国々だったのだろう。
559 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 22:03:27
>>549 そうそう。今までも誠実に対応するだけ無駄だったもんね。
論破されて、最後はいつも 馬鹿だの、死ねだの、言って終わる。
未だになんにも答えてなくて、その割りに、これで何回蒸し返すか解らない。
同じ事の繰り返しには飽き飽き。549文はとても言い当ててると思うよ。
畿内説でも、も少しレベルの高い連中もいるんだろうけど、
ここに出る畿内説の人間は酷いね。ほんとこんな事いいたくないが、
畿内説の人間からも相手されなくて、かき回してる感じ。さすが先祖からしてどっかの国の血筋?
560 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:03:57
>。「トヨ」といえば「豊の国」「豊玉比売」
豊をトヨと読むようになったのは後世のこと(縁起)
元から口伝された読みは、(豊前/ ブゼン)(豊後/ ブンゴ)で
【豊=ブ】
561 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 22:06:07
>>539 >九州説が妄想と叩かれるのは、考古学無視(無知)だから。
あなたに考古学の造詣があるようには思えないがね。
この文章力をみても、屁みたいな文章しか書けない実力じゃな。
考古学の権威も落ちたものだ!
あなたみたいな大学教授が、考古学の権威を地に落としたんだぜ。
神の手とか言う偽考古学者をノサバラセたのもあなたみたいな方だ。
税金で食わせてもらってるのだから、少しは責任を感じなさい!
神の手のおかげで、日本の旧石器考古学は全滅したのじゃないの?
世間知らずのボンボン大学考古学教授というか、何というか・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
神の手の足跡(ソクセキ)
http://www.asahi-net.or.jp/~XN9H-HYSK/godhand/siryou/asiato.htm
562 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 22:09:23
>>540 >「壹與」が「トヨ」に見えるようじゃ、重傷の投稿者かと
その字だけじゃなく文献には「臺與」の字も残ってるはずだけど・・・
新しい漢字では「台与」と書くんじゃないの?
563 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:12:43
さて、ここに参加する住人諸君の意見を聞きたいのだが
このスレは、妄想「サイト君とNHK君」に委ねて、新しいスレに引っ越すというのはいかがかな?
564 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:17:42
>>562 >「臺」の新しい字が「台」
そうは簡単に行かないのが現実
「臺と台」では、使用される内容に違いがあるからだ。つまり用途により使い分けされていたと、言う訳さ
565 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 22:20:24
僕もトヨが豊玉ビメだと考えてる。
日本書記には神武の東征があったとしているが、それを否定するだけの
更なる文献を示さない限り、無かったとする根拠は無い。
神武の東征で、遠征軍に加わった吉備の古墳文化が、畿内に伝わり、
畿内でさらに発展した古墳文化が、全国に広がっていったのであって、
矛盾は無い。九州の古墳文化が遅れているのはそのため。
566 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:25:09
>>530 倭人伝には、壱岐や対馬まで女王国に属していたとある。
つまり、畿内説に立てば、3世紀始めには、奈良県の邪馬台国が、九州まで
統治していたということになる。
しかし、4世紀の大和政権は、丹波や越前、吉備・東海に四道将軍を
派遣するなど近隣の地区でさえ四苦八苦している。これは矛盾である。
また、邪馬台国は狗奴国との争いに苦労しており、そんな邪馬台国が九州まで
統治していたということも考えられない。
しかし、邪馬台国を九州と想定すればそのような矛盾はない。
つまり、歴史学的には、圧倒的に邪馬台国九州説ということになる。
そこで、畿内説は、倭人伝に書かれた「銅鏡百枚」を持ち出し、
三角縁神獣鏡がその鏡であり、その鏡が圧倒的に多く分布する畿内こそ
邪馬台国だと言い出した。
歴史学の九州説に対して考古学の畿内説を強調する手段に出たわけである。
しかし、三角縁神獣鏡魏鏡説は今や風前の灯である。というか、もう消えて
しまった感がある。
567 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:26:56
つづき
考古学の畿内説としては、そのまま黙っているわけには行かない。
そこで、卑弥呼の時代を古墳時代に含めてしまおうという手段に出た。
卑弥呼の時代はすでに古墳時代であり、そのまま大和政権に連続するというものである。
しかし、そのためには定説を覆す必要がある。以前の定説は、
古墳時代は4世紀に入ってから始まったというものだったからである。
この年代観については諸説があり、畿内説のような年代観に疑問を持つ人もいる。
最も大きな問題点は、土器に絶対編年が可能かという点である。
よりどころの一つになっている年輪年代は、調べれば調べるほど疑問が
多く出てくる。最低限でも、基本的なデータは公表すべきだと思う。
また、放射性炭素による年代測定は、諸外国でもそうだがいまだに
信頼性に乏しい。
庄内式の開始時期を早くすることは今や畿内説の唯一の根拠だが、果たして
これが正しいのかどうかは今後を待たなくてはならないと思う。
568 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 22:28:33
>>558 >古墳造りは九州最古と言ってもよいが、畿内マキムクより新しい。
マキムクより新しいとなんで断言できるの?
古墳の年代は、古墳の堀の跡に埋められた少しばかりの土器の欠片や、埋葬品、木片を
調べて年代を出してるんだろう。信頼性はあるの???
それを新しいとか古いとかいうのは、議論を水掛争いに持って行きたいからかな。
すべての土器や、埋葬品、木片を出して年代をいうのが常識。
あなたのは非常識。
どこにでも口ばかりの非常識人間は居るね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の
箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm
569 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 22:36:25
>>559 >未だになんにも答えてなくて、その割りに、これで何回蒸し返すか解らない。
南京大虐殺で鍛えられたからね。
こいつ等の中には、負けて悔しいのか他人の日記の捏造までする猛者がいる。
用心するように。
田中正明氏は、南京大虐殺で死刑にされた松井大将の日記を自分だけしか
オリジナルを持ってないから大丈夫と思ったのか、書き加え改竄し凄いぜ!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
しかし、田中氏のしたことは、ただ単に、日誌に、もともと無かった文章を挿入しただけ
ではありません。
田中氏は、自分が挿入した文章に、
編者注 南京占領から十日を経た外人記者団との会見において、松井大将が「南京虐殺」
に関する質問を受けたという様子が全くみられない点、注目すべきである。
という、「編者注」をつけています。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/7kaizan-2.htm
570 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 22:44:22
>>563 このスレは、皆真面目で立派ですよ。他所のスレに比べて優等生。
それぞれ主張は違うけれど、こっちも勉強になる。
おたくたちがまともな反論さえすれば、誠意を尽くすのは吝かじゃない。
スレの決まりの条に、前のスレを読むように、とあるでしょ。
でないと同じやり取りを、何度も蒸し返した格好で、繰り返すから。
スレのエチケットを弁えてくださいと言ってるのだから。
改めてくださーい。
571 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 22:52:00
>>566 正論しかも、謙虚。
我々はこのような意見をこそ大事にすべきだろう。
572 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 23:11:02
>>570 >このスレは、皆真面目で立派ですよ。他所のスレに比べて優等生。
それぞれ主張は違うけれど、こっちも勉強になる。
おたくたちがまともな反論さえすれば、誠意を尽くすのは吝かじゃない。
スレの決まりの条に、前のスレを読むように、とあるでしょ。
でないと同じやり取りを、何度も蒸し返した格好で、繰り返すから。
スレのエチケットを弁えてくださいと言ってるのだから。
改めてくださーい。
では、これからは推論抜きのまともな学問しようか?
推論は机上に留めるべきだ
573 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 23:12:08
土器編年も知らんアホはレス書くな
「三角縁神獣鏡魏鏡説は今や風前の灯」てのは本当か?
岡村秀典みたいな人はすでに異端なのですか?
575 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 23:13:06
>>560 >豊をトヨと読むようになったのは後世のこと(縁起)
いい加減な事を書いてあるね。
誰が書いたのか知らないけど、その誰かさんはそんなに昔に生きていて覚えてたのかい?
豊をトヨと読むのは日本風の読み方で、訓読みという。
豊をブと読むのは中国風の読み方で、音読みという。
いつからトヨと読むようになったのかは、判らないというべき。
720年頃できた記紀では、豊玉比売(トヨタマノヒメ)として神武天皇の祖母で叔母とされてます。
歴史的には完全にクリアしてるぞ。
576 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 23:23:05
>>564 >「臺と台」では、使用される内容に違いがあるからだ。つまり用途により使い分けされていたと、
まちがい!
当用漢字として臺は使用されてません。
異字体として台が現在は使用されてます。
意味は両方とも、一段と高い平たい面のことをいう
577 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 23:26:28
>>530「古墳時代の始まりを勝手に卑弥呼の時代と遠く離れているとしている」
さっき酔っ払っていた時、変な事言ってたようなと読み返せば、やっぱりだった。
すり替えもいいとこ。かってに近づけているのは畿内説の方。
「古墳時代以降に出土する画文帯は国産とか寝言を言っているんだよな」
畿内説は、画文帯が、卑弥呼の鏡だと言い始めてるが、古墳時代の鏡であり、
しかも、伝世鏡など作り話。呉の様式の鏡である事、大陸でたった80枚しか
出ない。日本では150枚。このどこが中国製といえるのか、何の説明もせず、
寝言、妄想と言ってるだけ。大陸で作られたものもあるという説もあるが、
いずれにしても、呉の様式で作られた鏡であり、魏の鏡ではない。
つまり、卑弥呼の鏡では無い。
578 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/23(木) 23:33:48
>>572では、これからは推論抜きのまともな学問しようか?
じゃ今までおたくは、まともじゃなかったわけ?寝るころになってから。
推論は机上に留めるべきだ
おたくは推論と、自明の理の区別もつかない人?
感情的な言葉づかいはやめよ
580 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/23(木) 23:41:22
>>575 チョット横レスするよ
>豊をトヨと読むのは日本風の読み方で、訓読みという。
>豊をブと読むのは中国風読み方で、音読みという。
因みに「豊」をブと読むのは正確には誤りです。ブと呉音読みするのは「豐」の文字であり、現在は「豊」の一文字で片付けているが、以前は全くの別字
です。
「豊」の音は(ホウ)
訓は(ゆた‐か)
「豐」の漢音は(ホウ)呉音は(フ・フ・ウブ)
●常用漢字の世界でだけ、豊は、豐の新字体として扱われている。
581 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 23:42:05
582 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/23(木) 23:48:27
>>572 >では、これからは推論抜きのまともな学問しようか?
あんた、学問なんてした事の無い素人でしょう。
推論の無い学問なんて、俺は聞いた事がない!
583 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/23(木) 23:53:47
>>580の続きだが
ご存知の様に、(豊前・豊後)は「豊=ブ」と読む
(豊と豐)の過去の経緯を勘案すると、
現在使われている(豊前・豊後)の文字は以前(豐前・豐後)からの変形と読む事も可能な訳で、それを決して否定出来る
ものではない。と言うことです。
だから
>>578安易な
>いい加減な事を書いてあるね。
……そんなに昔に生きていて覚えてたのかい?
等と言う発言は軽々しく書くものではないと考えます。
(豊・豐)は、古代史の常識レベル問題だよ。
584 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 23:56:32
>>577 実年代を確定してるみたいな言い方をするんだから、それなりの根拠
があるんだろ?
古墳時代の始まりの実年代は西暦何世紀のことでその根拠は?
早く言ってみろよ。
>>583 >(豊・豐)は、古代史の常識レベル
なのですか? うーむ。
>>582 推論語るなら最低限、論証ぐらい付加しろといってるの。
それが出来ないなら公表するな
587 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:05:00
>>566、
>>567 同意
あと、鯨面文身とかの魏志の風俗記事も南方的要素が強いんだよね。
この点は九州説でも問題が残る。畿内に東遷してから風俗が急に変わったという
感じがする。風俗の面では継続もあるけど、断絶も少なくない。
武光誠がこの点を指摘して、九州の邪馬台国が畿内とかの連合に成敗されたと
みているけど、畿内ではそれくらいに変化しているのも事実。
私は、狗奴国のヒコミコが北部九州を制圧して邪馬台国を畿内に東遷させて、吉備
とかの新興勢力を重用していった結果、風俗面での大きな変化が生じたと見ている。
588 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 00:09:36
>>585 私も以前(二年前)に、恥をかきました。
今では懐かしい思い出
>>587 イレズミ埴輪等の分布は列島全土で出土してるような。
畿内だけ少ないのだっけか?
590 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:22:12
大和朝廷こそが狗奴国だったんです><
591 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:31:48
邪馬台国は京都です
592 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:34:23
倭迹迹日百襲姫命は崇神十年に死にました
にわかにキナ臭くなって、四道将軍が派遣され畿外が平定されるのはその直後です
大和朝廷で崇神が造船命令を出すがの崇神十七年です
つまり、畿内から船を使って行く支配地域が四道将軍派遣後に出来たと云う事です
その地域は何処が相応しいですか?
四道将軍は船を使ってません
つまり、四道将軍の派遣先の国が、それまで服従させていた諸国を大和朝廷が直接統治する為に
船が必要なのです
これを合理的に考えれば、吉備以西の諸国です。
これらの国と直交する為には陸路では遠すぎるのです。
崇神紀の四道将軍記事に史実性はあるのですか?
昔受けた講義で考古学じゃなくて文献の先生も、
史実とは考えにくいとかいってたような記憶がある
594 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:41:48
つまり邪馬台国は吉備だったんです><
狗奴国が邪馬台国の「南」として書かれるのも
倭奴国が倭の極「南」界として書かれるのも
シナ人の地図では南だと思ってる日本地図は、実際は東なんです
方位が90度ずれてるんです
邪馬台国とはは倭の中心位置に共立された女王が統治する吉備だったんです><
オオビコって実在したのかなあ。
オオビコ伝承が実在したのは確かだろうけれど
596 :
四道大将軍:2006/11/24(金) 00:52:38
四道将軍派遣記事とは邪馬台国の親魏倭王卑弥呼を拘束した、
狗奴国=大和朝廷側の軍紀物なんです><
邪馬台国が何処が相応しいかを考えるから、九州だの、畿内だの意見が割れるのです
狗奴国が何処が相応しいかを考えれば、一気に畿内が浮上するのです
そして邪馬台国は吉備と演繹されるのです。
ですから3世紀後半に突如として大和に首都機能が増強され、巨大古墳群出現時代が出現するのです
古墳は王権の地位の正当性を誇示しているのです
耳の穴をかっぽじいてよく聞いて下さい!
邪馬台国は狗奴国に戦争で負けたんです><;
それってMAJIDE?><
598 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:55:13
以下><禁止↓
599 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:55:30
邪馬台国は出雲。
国譲りの神話を出すまでもなく、邪馬台国は日本先住民の王国だった。
だからヤマタイのオロチ
まじめにやれよおまいら
601 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 01:27:51
倭奴国が筑紫の奴国で、倭奴国が本当に倭の極「南」界なら
倭の範囲は対馬〜奴国で終わりだ
その範囲にだけ嘗て百を数える国があったと云う事になりそうだが
それは不合理的解釈だ
後漢書で倭の極「南→東」界の倭奴国
‖
三国史で邪馬台国(吉備)の「南→東」の狗奴国
‖
記紀で神武が「東」征した事になってる大和朝廷(大和)
これなら合理的だ
602 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 01:45:27
邪馬台国は宇佐
八幡=ヤハタ=ヤマタイ、比売=ヒメ=ヒミコ
近くの耶馬は邪馬台の名残
603 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/24(金) 06:17:08
>>584 3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、
6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている
と言う説が一般的だろう。卑弥呼が死んだのが248年頃、卑弥呼が死んで、
100年前後たった古墳から出土する画文帯鏡は卑弥呼が、魏王に貰った鏡とはいえない。
魏王が、親魏倭王の称号を与えた卑弥呼に、敵対していた呉の様式で作られた画文帯鏡を
与えるはずが無いし、卑弥呼時代の年号入りの画文帯鏡が見つかったとしても
倭には伝世鏡という風習は無いから、呉の職人が倭にあって作ったのだろうという
言う答えが導き出される。この場合、年号は正確でなくともよいから、卑弥呼の
銅鏡100枚の年代にあわせたと考えられる。このことを妄想と言っているのかは知らんが、
先程も言ったように呉の様式の鏡であり、いずれにしても卑弥呼に魏王から、
絶対に送られるはずの無いしろものである。80枚くらいが中国で出たからといって、
中国製説は成り立たない。150枚出ている倭で作られたとどうして思えないのか、
それはひとえに、銅鏡100枚という卑弥呼の鏡と結び付けんが為である。
古墳の築造年代を遡らせても無理。
604 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 06:53:23
邪馬台の読みは元々「やまと」 。何故現在ではあえて「やまたい」 と
読ませているのでしょうか?
あまりにも恥ずかしかったからだろ
ハンコックも裸足の妄想だからな邪馬壹国=ヤマト理論は
606 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 09:31:22
周〜隋 6尺で1歩、300歩で1里。
唐〜清 5尺で1歩、360歩で1里。
尺の長さは、その時代・国で微妙に違うが、短里が中国で使われた事は無い。
倭人伝の記述が自分たちに都合が悪いからと、九州説論者が作り出したのが短里。
畿内説論者が南を東に捻じ曲げるのと同じ。
607 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 09:48:49
>倭人伝の記述が自分たちに都合が悪いからと、九州説論者が作り出したのが
短里。
というよりも、正式な1里=434mを使えば、朝鮮半島から九州まで
合計で3千里、つまり、約1300kmにもなってしまう。
実際の距離は200kmほどで、これはどう見てもおかしい。
だから、200km/3000=67mという風に考えるのも一理ある。
608 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 09:56:10
倭人伝の記述に期待しすぎ。
距離以外にも、おかしな記述が多々ある。
609 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 10:26:02
帯方郡からは船で倭にくるのだろうが、その当時でも航海術
や天文学は発達しており、特に北斗七星の位置を間違えて
航海するようなことは、即生命の危機になるので、方角を
間違えることは絶対ありえない。
畿内説の人は、常識はずれというか、机上の空論者が多い。
610 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 10:35:29
>>609 それを言うなら距離を間違えることだってありえないとも言えるだろ
611 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 10:39:54
卑弥呼が貰った銅鏡は位至三公鏡(いしさんこうきょう)が可能性としては一番大きい。
魏で流行してて、魏の首都洛陽からの出土品の3分の1がこの鏡だという。
それが何で三角縁神獣鏡を、中国製だと京都大学系の考古学者は言い張ってしまったのか。
日本の大学制度に大きな原因がある。
学問の自由の為に、教授に極端に大きな権限を与えてしまい、人事面、金銭面で異論が言
えなくなって洗脳が行われた為じゃないかね。
特に三角縁神獣鏡を「漢鏡」と証明もなしに名付けてしまった大チョンボのせい。
科学者として最低限の節度があるのなら「精緻な芸術的銅鏡」と名付けるべきだった。
「漢鏡」なんて言ったものだから、本人も自己暗示にかかってしまい京大関係者のほとんどを
洗脳してしまった。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の銅鏡のうち、三分の一がこの位至三公鏡でして、数量
ではベストワンです。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku236.htm
612 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 10:42:52
残念ながら、昔は距離を正確に把握する技術はまだない。
畿内論者のヘリクツはいつも、人に上げ足とりが多いね。
613 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 10:53:53
>>583 >(豊前・豊後)の文字は以前(豐前・豐後)からの変形と読む事も可能な訳で、それを
>決して否定出来るものではない。
俺はそんな否定はしてない。
人が言ってもいないことを、言ったかの様に脳内妄想するのはタイガイにしなさい。
614 :
サガミハラハラ:2006/11/24(金) 11:37:52
>>612歩測と腹時計がありますよ。
今だって1時間ぐらい歩いたから、4kmぐらい進んだろう、というでしょう。
>>609 当時は夜間の航行などせんよ。
それに、基本的に陸地・島影を見ながらの航海。
だから、高い山があって目標を見ながら航海できる半島−対馬間は普通の記述で、
高い山がなく出発時に目標が見えない対馬−壱岐間にわざわざ“瀚海”という名前が書いてある。
星なんかみないし、羅針盤もなく方位は必要ない。
616 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 12:28:11
>>613 あくまで横レスの参考意見だ。
それほど気にする事もあるまいて。それに、あのレスの為に君の評価が変わるわけじゃあないだろう。
617 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 12:43:26
>>607 >だから、200km/3000=67mという風に考えるのも、一理ある。
絶対にない。
一度モノサシから外れた数値は使えない。距離はモノサシあっての数値です。
618 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 12:43:48
夜間の航海とは、言っていないし、当時は方位に関しては
中国の文献に詳しくのっている。
決して北の方角を間違うことはない。
島影を見ながらとあるが、島影があっても、方角を間違えると
生命にかかわるので、方位間違は当時の船人でもまず、しない。
619 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 12:46:04
>>609 >その当時でも航海術や天文学は発達しており、特に北斗七星の位置を間違えて
>航海するようなことは、即生命の危機になるので
俺もそう思う。
方向を間違えて記載するなんて、書き間違い以外には考えられん。
北極星の角度をみると、緯度がわかります。
赤道直下だと北緯0度で、北極だと北緯90度になる。
だから邪馬台国は上海の東だという記述は、上海の北緯を知ってる人なら誰でも断言できる。
12000里という距離は、天文学にもっと詳しい必要があるがね。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
計其道里當在曾稽東冶之東
620 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 12:58:53
>>619 書き間違いなら、後世同じカキコをしている史書編纂者が気付く筈だよね
621 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 12:59:48
>>615 >それに、基本的に陸地・島影を見ながらの航海。
タダの脳内妄想。
ポリネシアの人たちがハワイまで行っていたのに、なんで島影なんかが使えるものか!
俺はマグロ船にのり、南極大陸の側まで行ったことがあるが海とは基本的に島影は見えん。
はるか遠くに島影が見えたとしても、それだけじゃ現在地なんて全くわからん。
あんたの話は小さな船の漁師で、近場だけの漁をしてる人だけに通用する航海法だよ。
昔の方々は、あんたの小さな知能より、はるかに偉大な知能をしておられる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
古代のポリネシア人たちは、六分儀、クロノメーター、方位磁針といった航法器具を用いずに、
数千キロメートルに及ぶ遠洋航海を行っていたと考えられているが、この航法技術は現在では
その一流派が域外ポリネシアのタウマコ島に残存するのみである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2
622 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 13:03:06
>>617 >一度モノサシから外れた数値は使えない。距離はモノサシあっての数値です。
魏志倭人伝の中にモノサシが既に書いてあるのが見えないのかい?
●1里は何kmと計算すべきか?
倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km=80m
623 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 13:12:13
昔の中国の地図には、日本列島が90度時計まわりに回転している地図があるのをご存知か?
624 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 13:18:33
>>620 >書き間違いなら、後世同じカキコをしている史書編纂者が気付く筈だよね
1冊の原文が残っていれば気が付くけど、コピーした文章だけを見てる
史書編纂者には気がつけない。
昔は1冊の本の値打ちは、現代の本の値打ちとは桁外れに違ってる。
まず、史書編纂者は1冊だけのコピーした文章しか読めなかったでしょう。
今の世の中でいえば、ピカソの絵が100億円もするというがほとんどの方は
コピーや写真でしかみれない様なもんだろう。見るだけで一苦労せんとイカン。
それじゃ書き間違いなんて気付けもしないよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
パブロ・ピカソが描いた恋人の肖像画が3日、ニューヨークで競売にかけられ、
事前の予想の2倍近い約9522万ドル(約108億円)で落札された
http://wachi.seesaa.net/article/17385145.html
625 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 13:27:17
>>623 >昔の中国の地図には、日本列島が90度時計まわりに回転している地図があるのをご存知か?
いろんなトンチンカンな地図があるのは知ってるよ。
しかし90度回って正確な、日本列島地図なんて見た事がない。
地図製作者が、中心地は正確に書けても、はるか遠くの異国を適当に書いた地図を
バカ学者先生が偏見から、日本列島が90度回転してるなんて我田引水した見解だろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
国土地理院が所蔵している古地図等の地理史料一覧です。
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/kotizu-0.html
626 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 13:35:51
>>622 君が認める認めないは別として、モノサシとは
以前魏尺の写真を見せたと記憶するが、
まず、その「サシ」を現代のサシで測り現代の「度」に直す。それが尺=24pの値になる。
次に、文献にて中国の換算単位を調べる(律暦志か大唐六典がいいかも)
さすれば、当時の単位構造が判り、それに現代の24pを当て嵌めればいいだけです。
《これが基本》
これを外れた値は、どんなに優れた計算でもペケなのです。
・このポイントをしっかり押さえているのが【畿内説】
・しっかり無視し、独自路線を歩んでいるのが【九州説】
627 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 14:02:21
畿内説の人が東を南とする根拠の1つに、九州を一番上にして、
本州・四国がしたに書いてある古代地図を頼りに東を南に
間違えたとしている。
その古代地図によれば、九州が日本の中心として捉えている
古代人の感覚を無視している。
九州以外は倭の下にぶらさがった地域の認識しかないと思うが。
628 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 14:35:27
>>626 >当時の単位構造が判り、それに現代の24pを当て嵌めればいいだけです。
前提が間違ってます。
「魏尺の写真」とやらが本物であり、しかも魏の時代と書かれた晋の時代に中国全土で
「正確に守られてた」という2つの証拠が要ります。
この1700年昔の証拠がなければ、あなたの話は砂上の楼閣。
629 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 14:55:30
九州説の人は、邪馬台国≠ヤマトなわけだったら、
邪馬台国は何と発音するのかご教授願いたい
630 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 15:13:46
>>628 写真の真偽を調べる前に、故宮博物館へ行き、自分の眼でしっかり確認する事を希望します。
それにて偽物と鑑定し、
そう御報告下されば幸いですし、私のレスも取り下げ致します。
宜しく鑑定願います。
私はあくまで本物という前提の元に意見を述べていますのであしからず。
632 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 15:59:05
会稽、東冶の東に邪馬台国があるとか、一年中暖かいとか、産物が海南島と同じなどといった記述で、
陳寿が倭国を南に伸びた国だと思い込んでいたと考えられる。
633 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 16:13:09
>>630 >写真の真偽を調べる前に、故宮博物館へ行き、自分の眼でしっかり確認する事を希望します。
自分の目で見たら、真偽がわかるという代物じゃない。
1700年位前に生きていた人間なら、判るかも知れんが、ただ眺めるだけが関の山。
634 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 16:20:52
魏使はどうやって正確な距離を知ることが出来たの?
魏の時代より後の時代の地図を見ても、正確な測量技術が無かったのが判ると思うけど。
635 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 16:30:47
>>629 九州説でも、邪馬台をヤマトと呼ぶ。
それが東遷説の一つの根拠でもある。
636 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 16:31:58
>>632 >一年中暖かいとか、産物が海南島と同じなどといった記述で、
そんな事は書いてないだろ、いい加減な事を書くなよ。
作者の陳寿は、魏の使節団の日記などを自由に見れる立場だったから、そこから
抜き出して書いたのが「産物や耳、朱雀(海南島)」の記事。
思い込んで書くというのは間違い!
耳、朱雀という国では武器の弓が、邪馬台国とよく似てるという意味だろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
武器には、矛、楯、木弓などをもちいる。木弓は、上が長く、下は短く、鉄や骨の矢じりを使う。
(海南島の)耳や朱崖などの都と同じである。
兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃所有無與耳朱崖同
637 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 16:47:15
>>634 >魏の時代より後の時代の地図を見ても、正確な測量技術が無かったのが判ると思うけど。
地図の製作者と、魏の使節団とはまったく別。
魏の使節団がそんな、日本の地図を作るはずがないだろう。
魏使の正確な距離といっても、誤差の範囲が1000里という大雑把なもの。
狗邪韓国や、邪馬台国では空の星を見て天文学から帯方郡からの距離を出してる。
7000里とか12000里とかいう、大雑把さで精度が悪かったのが判るだろ。
地図というものは、測量技術だけでなく多くの人間が海岸線まで正確に測り、記録し、編集
してこそ出来上がるもの。
だから日本の地図は日本人じゃなければ、正確には製作できない。
魏使がチョコット来て、日本地図を書けるものじゃないよ。
中国の地図はその点、魏の時代でも中国人はずいぶん正確に書いてあるだろう?
>>618 夜間じゃなきゃ北斗七星は見えないだろ。
ついでに北極星も南十字星も見えない。
>島影を見ながらとあるが、島影があっても、方角を間違えると
島影が見えてたらそれに向かって進めばいいだけ。
方角(島影の方向)を間違ってはいけないが、方位はいらない。
639 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 17:51:22
>>635 基本的に地名というのは動かないと思うが……
640 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/24(金) 18:18:23
陳寿は文章による地図を作成
641 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:09:47
末盧→伊都→奴。
正しくは北東であるところを、南東と90度間違って書いている倭人伝。
東を南と90度間違ってても仕方ない。
642 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:13:18
九州北部の地図を見ろ。
北松浦半島が西にあって、東松浦半島が北にある。
あとは推して知るべし。
仁和寺の行基図も90度間違っている。
何か意味があったんだろう。
643 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:18:37
>>603 >3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、
>6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている
大体合っている。俺は布留0は3世紀半ば頃だと考えているが。
しかし、3世紀後半から布留開始なら、卑弥呼の死とそんなに離れていないんでは?
何かよく分からない反論だな。
>>642 >北松浦半島が西にあって、東松浦半島が北にある。
それはだな、あのあたりはいろいろあって、
松浦郡が佐賀県と長崎県の二つに別れ、
さらに佐賀側が東と西に、長崎側が北と南に分かれたので、
現在の配置になってるだけだよ。方位とは関係ない。
東西南北の松浦郡が出来るのは明治以降のはなしだしな。
645 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:20:48
646 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:24:15
そもそも、伊都を前原市、奴を博多、不彌を宇美に考えるのは、
畿内説の考え方。
宇美から水行で瀬戸内海を通り、吉備(投馬)を通って大阪湾へ至る。
647 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:28:02
確かに末盧が松浦で、伊都が糸島ってのは、できすぎな気がするな。
倭人伝見て、あとからつけた地名だったりして。
>>645 納得するしないは勝手だが、それが事実だからしょうがない。
649 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:33:54
>>648 長崎の北にある松浦だから北松浦だったら、東松浦は佐賀県の西にあるから西松浦にならね?
650 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/24(金) 19:35:32
>>643 卑弥呼の死と、古墳時代の始まりが接近してるイコール、古墳時代の古墳出土の
画文帯鏡こそ卑弥呼が魏王に貰った100枚の銅鏡説の否定が中心。
651 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:39:34
>>566-567 なかなか興味深く読んだので反論します。
>4世紀の大和政権は、丹波や越前、吉備・東海に四道将軍を
>派遣するなど近隣の地区でさえ四苦八苦している。これは矛盾である。
そもそも、記紀の四道将軍の記述を真実であると思い込み、更には勝手に
4世紀という実年代を与えている。まったく反論の根拠となっていない。
>邪馬台国は狗奴国との争いに苦労しており、そんな邪馬台国が九州まで
>統治していたということも考えられない。
>しかし、邪馬台国を九州と想定すればそのような矛盾はない。
はあ? 何故そうなるのかまったく意味不明。論理的に文章を書いている
つもりなのか、この人は。
>歴史学の九州説に対して考古学の畿内説を強調する手段に出たわけである。
この辺り、事実誤認があるよね。そもそも昔は、考古学的に九州説が優勢だった
んだよ。それがここ10年20年で変わってきた。
はっきり言えば、畿内説のドン小林の言う実年代観が否定され、原田とか九州の学者が
言っていた実年代観が正しかったと。
要は、昔は相対年代しか分からず、適当に実年代を付与していたのだが、
考古学の新発見やら進歩で、過去の実年代修正を余儀なくされた、ということ。
ここの九州説の人間は、未だに小林の実年代観を持ち出してるけどね。
652 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:43:53
>>648 >それが事実だからしょうがない
こんな物言いがありだったら、推論など意味をなさず何でもありになってしまう。
653 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:51:47
651つづき
>しかし、三角縁神獣鏡魏鏡説は今や風前の灯である。というか、もう消えて
>しまった感がある。
そんなこたあない。未だに魏鏡特鋳説は言われているよ。
そもそも国産説の根拠も、「日本からしか発見されない」だけ。
だから特鋳なんだけど。
中国鏡でない根拠も提示出来ないし。
>考古学の畿内説としては、そのまま黙っているわけには行かない。
>そこで、卑弥呼の時代を古墳時代に含めてしまおうという手段に出た。
なんかこの辺りの書き方、気色悪いんですが。
陰謀史観めいた、被害妄想患者のような雰囲気を感じさせる。
一度、考古学のシンポジウムとか参加してみたら?
こういった訳の分からない「畿内説学者の捏造」とか考えなくなるよ。
あと、卑弥呼の墓として径百余歩の塚を造ってるんだから、古墳時代と
考えても自然な気がするがね。古墳時代じゃないという思い込みが
君にはありませんか?
654 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 20:14:30
653つづき
>最も大きな問題点は、土器に絶対編年が可能かという点である。
「土器の絶対編年」の意味を教えて? どういう意味?
併行関係のこと?
年輪とC14については、成果待ちの状況。どこまで精度が上がるのか?
については確かに疑問だが、別に畿内説が捏造してるわけじゃないんで。
そもそも、実年代推定の根拠自体が圧倒的に少ないから。
ただ、小林の無根拠実年代観にすがりつかず、もうちょっと最近の研究を
読んだ方がいいよ。
>庄内式の開始時期を早くすることは今や畿内説の唯一の根拠だが
庄内開始時期は、私自身は2世紀半ばと考えているので、他の畿内説の
人ともかなり違うでしょう。
九州説の根拠は何? 倭人伝を読んだ感じが、九州っぽいから?
ただ北部九州は結構寒いから、あの習俗は南九州のように思えるけど。
>>649 早い話が、東松浦は唐津、西松浦は伊万里なんだよ。
両方とも市になって郡から抜けてしまったからさらに妙なことになってたけどね。
まあ、今となっては平成の大合併でほとんど唐津と伊万里に吸収されてしまったが。
まあ、ネットで見つかるものとしてはヰキぐらいで勘弁してもらおうか。
探せばどこかに詳しいサイトがあるはずなんだが中身はメモして残してあるが、
アドレスは忘れてしまったのだよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%83%A1 > 1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法制定に伴い、長崎県松浦郡を
>西松浦郡・東松浦郡・北松浦郡・南松浦郡に分割した事で発足。
で、この前に最初は長崎県と伊万里県ができている。
その後いろいろあって長崎と佐賀を合わせた“大”長崎県が出来て、
この“大”長崎県が1978年の郡区町村編制法が制定された際に再び
長崎県と佐賀県にわかれ、それぞれの県内で松浦郡が二つに分かれた。
656 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 20:56:16
>>641 >正しくは北東であるところを、南東と90度間違って書いている倭人伝。
伊都国をどこに考えるか、奴国をどこに考えるのかを書かなくては屁みたいな文章。
中身なし!
657 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 21:03:41
>>642 >北松浦半島が西にあって、東松浦半島が北にある。
センターをどこに取るかによって、全く違うだろ。
長崎県の最大の都市長崎市から見れば、北松浦半島は完全に北。
北松浦半島の松浦市から見たら、東松浦半島は完全に東の半島。
それで何かおかしいかい?
名前なんて人が多く住む土地の権力者が、勝手に作るものだろう。
658 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 21:08:49
>>657 詭弁だ。通常は、全体の地域名称があって、それの分割された方角で
東西南北を分け合うのが普通。センターなどどこでも任意に置ける点を
設定して説明するなんて呆れてものが言えない。
659 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/24(金) 21:18:58
>>653そんなこたあない。未だに魏鏡特鋳説は言われているよ。
そもそも国産説の根拠も、「日本からしか発見されない」だけ。
違います。三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている。呉は、魏と敵対関係。
景初4年鏡に、徐州産の銅を使ったと銘じてある。しかしこのころ
徐州は魏ではなく、呉の領土。中国からは、鏡はおろか、型も出ていない。
景初4年など無い。従って、中国の考古学の権威も、
呉の職人かなんかが、倭国で作ったものだろう。と判じている。
660 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 21:55:04
>>658 >センターなどどこでも任意に置ける点を設定して説明するなんて呆れてものが言えない。
地図を見て適当に書いたけど、センターは必要だよ。
長崎県松浦郡を4個に分けたようだ。
北松浦郡は松浦市などだが、南松浦郡は五島列島のこと。
東松浦郡が唐津市で、西松浦郡が伊万里市。
方向に文句があるのなら明治11年のお役人様に言いなさい。
東西南北は明治時代なら、よく判っていてから命名したと思うが・・・・
はっきり言えば杓子定規な名前なんて、お役人にとっては重要な問題じゃない。
なんでも名前さえ付けてあればそれで十分合格。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法制定に伴い、長崎県松浦郡を西松浦郡・東松浦郡・
北松浦郡・南松浦郡に分割した事で発足。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%83%A1
661 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:02:45
そんな馬鹿げた命名の仕方がありなら、どこの地名も何の手がかりにもならんな。
それとも、長崎だけか。方向感覚もない適当チンな阿呆ばかりそろってるのは
662 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:11:38
>>653 いろいろあるけど、まずは三角縁神獣鏡から。
三角縁神獣鏡は、すでに600枚近くが発掘されている。
未発掘のもの、すでに人知れず発掘されてしまったものを含めると、膨大な
数になる。森浩一氏などは、50000枚は作られただろうと言っている。
このように数が全く合わない。
そのほかにも、大きさが違う。中国製にしては大きすぎる。
文様も魏ではなく呉風。
中国の学者も呉の工人が日本に来て作ったものといっているくらいだから。
魏がこのような鏡をよその国にやるわけがない。
また、黒塚古墳の発掘を見ればわかるように、卑弥呼が魏からもらった鏡に
しては扱いが粗末。棺の外に大量に置かれている。
しかも、手で触ったあと、つまり手馴れもないし、紐を通す穴に紐を
通した痕跡もない。つまり、作ってすぐに埋葬された。
卑弥呼の鏡だったら、こんなことはありえない。
というわけで、黒塚古墳の発掘責任者河上邦彦氏さらに畿内説の石野博信氏、
菅野文則氏も口をそろえて、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではなく、葬式の
道具だといっている。
つまり、葬式のために作られた鏡だというわけである。
もともと畿内説の人が、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと言い出した頃も、
年代が合わなかった。そこで、伝世鏡理論などが出てきたわけだけど、
これを無理やり卑弥呼の鏡にしようとしたと考えるのも仕方がないと思う。
もともと無理があったのだと思う。
663 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:14:55
そうか!卑弥呼は、ひみつのアッコちゃんだ!
>>658 詭弁も何も事実なんだが。
明治初期はもともと郡は地理区分でしかなくて行政区画ではなかったからね。
廃藩置県で無数の県ができてそれが数ヶ月後に統合される。
その時に地理上の区分の松浦郡は長崎県と伊万里県という二つの行政区分に分割されたんだ。
それが1878年の時までひきずったんだね。
だいたい、
東松浦=唐津
西松浦=伊万里
北松浦=平戸
南松浦=五島
だからはじめから東西南北なんかには並んでない。
どう回転させたところで東西南北にはならないよ。
665 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:24:20
だったら、魏志の方向だってあてにはならない。
どっちも役人の手によるものだろ?え?違うかい?
>だったら、魏志の方向だってあてにはならない。
そうだよ。だから何?
667 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:40:18
だから南に固執しての九州説は意味をなさない。
方角を間違えるわけがないって言うバカがいたからさ。
668 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:46:28
>>651 崇神天皇が4世紀の人物というのは、だいたい常識と思うが。念のために言うと、
倭の五王の讃と思われる15代応神天皇または16代仁徳天皇が5世紀のはじめ
それから遡ると、11代崇神天皇は4世紀の人物となる。
これはいいのかな?
しかも、崇神天皇の実在性はほぼ確実といわれている。
日本書紀には、その頃のことが詳しく書かれている。
「神々をお祀りして、災害は全てなくなった。けれども遠国の人は
また王化に預かっていない。そこで、将軍を四方に遣わして教化を
広めたい」と。
そのために四道将軍が派遣された。
つまり、崇神天皇のときには、丹波でさえまだ支配下になかった。
そう考えるのが妥当なような気がするのだが。
これはそれなりに根拠のあることなので、もしも、違う、2世紀のうちには
九州まで支配が及んでいたというのなら、その根拠をそちらが示すべき。
ちなみに、2世紀というのは、倭人伝に、「伊都国の王は代々女王国に属して
いるという記述があるからである。
669 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:46:59
670 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:48:18
>>668 コピペ貼るしか能がねぇのかよ、このタコ!死んじまえ、禿
671 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:52:03
日本書記にある記述を信じる前提で話すなら、日本書紀のすべてを信じるべきだろう。
672 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 22:56:37
>>668 >崇神天皇が4世紀の人物というのは、だいたい常識と思うが。
いや、もうこの辺りの決め付けが。
本人がそのことに気づけていないのだから仕方がないが。
崇神を4世紀という根拠は何?
まさか天皇陵が、とか言わないよね。
673 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:00:09
>>668 庄内甕の奴国での生産が始まっていることからも、庄内の頃には、
奴国は畿内の影響下にあったと考えられるだろう。
674 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/24(金) 23:03:55
要するに、倭人伝の記述が示す通り、畿内説も、伊都国、奴国、フミ国
までは、九州説とほぼ東へ同じ方角に進むのに、南方向の投馬国が、畿内説の場合、
南を、東と読み替えて、畿内に邪馬台国があったとする事がおかしいと言ってるわけじゃないの?
日本列島が逆さまの地図は見たこと無いが、それだと壱岐、対馬に着かず、
大分あたりに着くわけかな?
675 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:07:30
結構エライ先生でも、
「……と日本書記にあることからも明らかである」なんて書くからな。
何が明らかなんだか、って思うときがある。
いや、エライ先生だからこそか
676 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:09:28
677 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:10:58
>>672 根拠は書いたはずだが。
そちらこそ、崇神天皇が4世紀でないという根拠を書いていないが。
678 :
太国:2006/11/24(金) 23:11:49
>>668 余の2倍年暦等の計算からだと崇神の時代は3世紀半ばを得た。
崇神天皇は11代ではない、10代だぞ。
なお倭の五王は各天皇にあらず。
679 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:15:10
680 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:21:59
>>678 >なお倭の五王は各天皇にあらず
それはあなたが九州王朝説だからですよ。
武が宋に送った上表文を読んだことある?
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
北のかた海を渡って、平らげること九十五国」
これは武が大和にいた証拠だと思うが。
681 :
太国:2006/11/24(金) 23:22:53
>>680 それは神武以前の貴重な記録だ。よく考えろ。
682 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:22:55
>>677 >崇神天皇が4世紀でないという根拠を書いていないが。
4世紀という根拠がないからだよ。
実年代を簡単に使うのも、大丈夫かこの人?と思うし、
記紀の記述が根拠と言われてもねえ。
そもそも崇神以降が正しいという根拠が無いし、
自分の都合のいいように、記紀の記述を抜書きしてるだけなんだよね。
こういった訳の分からない記紀私的解釈を根拠だと言われても、
こちらとしては当惑するだけ。
683 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:23:07
ヤマタイ論争は、説つうより、最後は信仰に近いものがあるなあ。
684 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:27:21
>>682 >4世紀という根拠がないからだよ。
それは全く理由になっていない。
4世紀という根拠がないということは、4世紀かどうかわからないという
こと。つまり、4世紀の可能性もあるということ。
なのに、4世紀を否定するのは、自分の妄想を信じているからに他ならない。
自分のほうが都合の良い解釈をしていることに気づいていない。
685 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:29:08
>>518 変なやつと思っていたら、どうりで生まれたことこがwwwww
686 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:30:09
>>518 福岡市ににある峠の名前なんか知らないで当然だな。
687 :
太国:2006/11/24(金) 23:31:15
>>684 計算したら、崇神即位237年 同崩御259年 垂仁即位260年
688 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/24(金) 23:34:16
これは朝鮮人が、パクソンコウの戦いに勝った事を誇示して日本を踏みつけてるの図じゃない?
朝鮮には朝鮮半島を男性器の形に見立てて、朝鮮を男とし、日本を女とする思想があるらしいけど。
朝鮮半島が大きすぎるし、なんとなく朝鮮がだらりとした男性器のようで、日本が、レイプ
された女みたいな構造になってるよね。そんな思想があるみたいよ。
現実を書いたんじゃないと思う。
689 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:36:11
>>684 いやさあ。その文章、そのままお返しするよ。熨斗付きで。
お前が「崇神が4世紀」というのを根拠に、畿内説は有り得ないと
最初に書いたんだろうが。
その根拠自体が「その可能性もある」じゃあ、そもそもの根拠足り得ない。
「あれを書いたのは別人です」とか逃げるなよ。
690 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:39:27
>>688 それはいいんだが、列島が90度回転してるところだよ。問題は。
691 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/24(金) 23:42:24
吉野ヶ里遺跡が発見されてすぐ、まだ田んぼしかなかった当時、屋台を出して
卑弥呼まんじゅう売ってたおじさん、お元気ですか
692 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:48:07
>>689 崇神天皇は4世紀の人物だと思う。
それは倭の五王から遡って計算するとその可能性が高いと言った。
だから、個人的には、崇神天皇は4世紀の人物と考えている。
しかし、仮に崇神天皇が3世紀の人物だとしても言っていることは同じになる。
つまり、3世紀の崇神天皇は、丹波、越前、東海、吉備を支配していない。
なのに、邪馬台国は九州の伊都国や対馬国、一支国まで支配している。
言いたいことはこれで、大和政権の前身といわれる邪馬台国のほうが
大和政権よりもはるかに広い地域を支配しているのは不自然ということである。
これは、邪馬台国が大和でなく、九州なら説明がつくということなのである。
693 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:49:42
>>692 お舞の脳内で完結しているだけだが。死ねよ禿
694 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:54:19
>>693 確かに、書いていて気づいた。
邪馬台国を大和政権の前身と思わない人もいるわけだ。
畿内説も様々、九州説も様々。
なかなか難しい。
695 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:59:29
畿内説は、批判するだけで自分の意見を言わない。
まず、自分の意見を書いてから批判すべきだと思う。
そうでなければ、反論の仕様がない。
的外れなことを言うという批判があるかもしれないが、
それは畿内説の人が自分の意見をはっきり書かないからだと思う。
崇神の実在と
崇神紀の記述の真否は別の問題
697 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:03:03
崇神、四道将軍は会津始めどこかしこに伝説残ってるし
実在はしてたでしょうね。
692は説得力あるよ。
698 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:06:50
>>696 崇神+四道将軍の存在まで否定されたら
邪馬台国だって本当にあったかどうかさえ怪しい。
邪馬台国は所詮、中国史書数点のみだが四道将軍は
日本の至るこ所に伝説残ってるし。
699 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 00:09:42
700 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:09:59
安○始め朝○系の京都人の説は所詮自分の都合のいいことしか実在は認めない。
701 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:19:29
>>700 こういう言い方させることこそ日本書記の根源的害悪だな。
702 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/25(土) 00:20:36
そうそう。
>>692の人の真面目な主張には誠意で答えるのが礼儀だろう。
色んな説があって当然だし。あんまりピントはずれなのより、よほどいい。
703 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:24:34
九州にあったのなら、多分、読み方は
イモタイ国だろう。
704 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:24:48
>>702すげー皮肉たっぷり
そんなにあんたはえらい人なん?
705 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:25:59
安○、朝鮮人京都人は所詮自分の都合の良い説以外
実在認めないよ。
706 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:26:31
707 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:27:08
708 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:27:54
悪いが安○って意味が分からん。
709 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:33:58
結局、ウリナラの説以外認めないという
朝鮮人や京都秋田人の血が濃いヤシが自説以外の批判を受け付けない。
710 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:51:36
朝鮮女のマンコは臭いらしい。
711 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 02:05:28
>>692 だから大和朝廷は狗奴国だったんですYO!
>>699 このサイトは遺跡博物館めぐりの際、
よく活用させてもらってるけど、
根っからの九州説の人のサイトではあるね
>>683 皆、邪馬台国=大和政権がドグマになってるからな
>>697 崇神紀にある四道将軍だが、
>崇神、四道将軍は会津始めどこかしこに伝説残ってるし
その、どこかしこで残ってる伝説とは風土記ですか?
書記の記事と風土記の記事は…。
つまりおおわくでは同じ歴史観で書かれた記事ではないのかな?
常陸国風土記は若干の問題を残すが、
書紀原資料を共有していたとすれば一応クリアであろう。
出雲国風土記の編者は確実に書紀を読んでいるらしいという説もある
>>695 畿内説は、批判するだけで自分の意見を言わない。
わかるけど、九州説の人は物語をつむぎすぎるんだよ。
畿内説の人は逆に、物語をつむぐこと自体に慎重なのではないの?
716 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 06:19:55
>>699 そこの同笵鏡分布図の画像をよく見て下さい
つまり魏から鏡を貰えなかった狗奴国の大和朝廷が自己鋳造鏡を配って廻ったと云う事です><
崇神軍は吉備までしか遠征してないのに、
吉備以西の瀬戸内北岸の国にも同笵鏡が広まってるのもそう云う意味です
これは崇神17年記事の船を作る話と同じです
17年記事は崇神の支配地域が遠方の沿岸部にまで拡大したと云う意味です。
漢籍では邪馬台国まで海路で日数が示されています
北九州から邪馬台国は海路で行けるんです。
船で行くべき距離なんです。
つまり、邪馬台国だって当然も交易用の船を持っていただろうと云う事です。
しかし、大和朝廷は崇神17年になってから造船命令を出すんです。
四道将軍の遠征にしたって陸路なんです。
内陸の大和朝廷は交易用の船なんか持って無かったんです。
邪馬台国は大和朝廷ではないのです。
つまり崇神十年〜十七年に滅ぼされた
畿内から海路で繋がってる地域の国が邪馬台国です
つまり吉備が邪馬台国だったんです
耳の穴をかっぽじいて良く聞いて下さい
大和朝廷の狗奴国に、吉備の邪馬台国は負けたんです><
717 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/25(土) 06:32:31
>>690 ところでこの地図は何世紀頃書かれた地図なわけ?
これだと壱岐国、対馬国、マツラ国、伊都国、奴国、の位置関係は
殆ど南へ何里、南へ何里、と記載されるのでは?
倭人伝ではちゃんと、そこんとこ東へ、東へとなってるよね。
朝鮮半島ではいざ知らず、当時の中国の地図は、というか方向はかなり正確では。
指南、といって、必ず南を指す機械があったり、方向が間違ってては、
三国時代の熾烈な戦いは勝ち抜けないから、相当進んでいたと思うよ。
朝鮮半島南端から対馬は見えるし、めがけてくれば、より安全だ。
少なくても、九州に上陸した後、方向はとても正確に記載されていると思う。
718 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 06:41:34
九州までの地図と、本四の地図は別の人が書いた、別々の地図だった為に
くっ付けて解釈する時に間違ったと考えると合理的ですね><
719 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/25(土) 06:54:03
日本ではまともな地図も無い時代に九州、四国、本州までが
殆ど正確な形をしてる事に逆に恐怖を覚えるよね。
江戸時代も地図は外国持ち出し禁止で、しかも稚拙な地図だったし。
720 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/25(土) 07:44:30
721 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 08:26:49
>>720 混一疆理歴代国都之図。1402年に李氏朝鮮で作られた。
畿内説が「南」は「東」の間違いであるとする根拠としてよく利用された。
でも、これは7世紀に日本で作られた行基図をそのまま取り入れたと思う。
北海道が書かれていないことなど、行基図とよく似ている。
行基図が出来たころは、地図で北を上にする習慣はなかったから、
九州を上にした行基図もあったらしい。
それをそのまま取り入れたから、南北に連なる形になったとも思う。
>>715 邪馬台国論争の場合は、自分なりの物語を作る必要があると思う。
少なくとも、西暦57年つまり、建武中元二年に倭奴国が、朝貢し、
漢の光武帝から印綬をもらったあたりから4世紀くらいまで。
邪馬台国はここだと念仏のように唱えても論争の価値がないわけだから。
畿内説も邪馬台国前後の歴史観は持っているだろうと思う。
しかし、畿内説は変わりすぎる。言葉は悪いが、挫折するたびに新しい
物を作っているように見える。
だから、どのような歴史観を持っているか教えてもらわないと、論点が
かみ合わない。最低でも、卑弥呼をどのように捕らえているのかを示して
もらいたい。
記紀で卑弥呼はどのように位置にあるのか、それとも、記紀には全く登場
しない人物なのか。
東遷説はだいたい天照大神と卑弥呼を同一視している。そうでなくても、
年代観はそのあたりになっている。
九州王朝説も卑弥呼は大和政権と全く関係のない人物としており、
明快だと思う。
しかし、畿内説はその点がわからない。だから、畿内説の年代観が
つかめない。はっきりさせるべきだと思う。
伝統的には、倭迹迹日百襲姫や倭姫だが、中には持統天皇というのも
見たことがある。これでは論点がかみ合わない。
722 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 08:37:08
>>721 記紀での卑弥呼の位置は倭迹迹日百襲姫命です
723 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 08:51:50
日本書紀の年代観は
神武即位57年
懿徳即位107年
崇神十年247年
崇神崩御267年
こう成りますね、ネタ抜きなら
724 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 09:01:24
>>722 それは箸墓から来ているのかもしれないけど、倭迹迹日百襲姫は皇女で
あり、魏から「倭王」と呼ばれるのはふさわしくない。
倭国の大乱に相当する事件もないし、狗奴国に相当する国と争った様子も
ない。また、亡くなった後、大規模な戦乱が起きた様子もないし、
あとを継いだ壱与に相当する人物も見当たらない。
というわけで、違うと思いますが。
725 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 09:17:51
箸墓は崇神十年の位置に記載されて居ますが、この年は計算上西暦247年の3/3期です
日本書紀製作者達は、箸墓古墳の被葬者と
漢籍での邪馬台国の女王を同一視して設定している事が明らかになりました
しかしこの事は、以上のように設定されているからと云って、
倭迹迹日百襲姫命が、正に歴史上の卑弥呼である、と云う事の証明を意味しません
あくまでも、日本書紀の製作者達がその様に「設定」して記述した
と云う事以上でも以下でもありません
これは邪馬台国論争とは独立した事実です
例え九州説だろうが、吉備説だろうが、畿内説だろうが、
日本書紀がそのように「設定」されているのは疑いようのない事実です
ですから、「日本書紀の年代観が掴めない」と言ってるととれる質問には
日本書紀の年代観は
神武即位57年
懿徳即位107年
崇神十年247年
崇神崩御267年
と設定されていると答えられますが
それが歴史的事実を意味するかどうかは別の問題です
726 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 09:33:32
>>692 >それは倭の五王から遡って計算するとその可能性が高いと言った。
世界一のお墓を持ってる第16代仁徳天皇の死亡期日西暦427年を、事実だとしたら第10代
崇神天皇はいつ頃死んだのか。
天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。
427−(16−X)*10=西暦死亡年
427−(16−10)*10=317
神が付く天皇の時代は激動の時代で、政権が移動した時期という。
植民地として機能してた畿内が、崇神天皇のときに経済的にも軍事的にも九州王朝から
独立できた時期なんだろう。
畿内王朝での、独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンといえる人物。
その後で、九州王朝を飲み込んでしまったのは、第15代応神天皇417年死亡。
727 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 09:35:13
計算間違い訂正
>>692 >それは倭の五王から遡って計算するとその可能性が高いと言った。
世界一のお墓を持ってる第16代仁徳天皇の死亡期日西暦427年を、事実だとしたら第10代
崇神天皇はいつ頃死んだのか。
天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。
427−(16−X)*10=西暦死亡年
427−(16−10)*10=367
神が付く天皇の時代は激動の時代で、政権が移動した時期という。
植民地として機能してた畿内が、崇神天皇のときに経済的にも軍事的にも九州王朝から
独立できた時期なんだろう。
畿内王朝での、独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンといえる人物。
その後で、九州王朝を飲み込んでしまったのは、第15代応神天皇417年死亡。
728 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 09:44:41
>>716 >つまり魏から鏡を貰えなかった狗奴国の大和朝廷が自己鋳造鏡を配って廻ったと云う事です
いやむしろ畿内王朝が、自己鋳造鏡を同盟国や反抗して欲しくない国にゴマスリの為に
配って回ったといえる。
その当時の政治権力、軍事力のランクを示してる図だ。
729 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 10:02:33
>>716 >漢籍では邪馬台国まで海路で日数が示されています
漢籍ってなんだ、意味が分からん。
しかし邪馬台国も船を持ってたのは事実。
倭人伝でも、東と東南と南に大海原が存在してて、その向こうに人が住んでるという
話を邪馬台国の人間から聞いてると書いてあります。
船がなければ、そういった噂も行き来もできませんからね。
宮崎なら大海原はあるが、岡山じゃ大海原とはいえない。
宮崎から東へは高知の足摺岬、南へは種子島、東南へは小笠原列島が存在してる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ人種である。
その南には小人の国がある。身長は三、四尺である。女王国から、四千余里はなれている。
また、裸の国や、黒い歯の国があり、東南の方角に船で一年ほどでいける。
倭の地を参問(人々に問い合わせてみる)してみると、海の中にある
島々の上に絶在していて、くっついたり、離れたりして、周旋すれば五千余里ほどである。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在有東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲之上或絶或連周
旋可五千餘里
730 :
太国:2006/11/25(土) 10:02:47
>>725 3/3期とは何でしょうか? 崇神10年は240年と算出しましたから、貴殿のとは
7年差か?
>>726 仁徳崩御は419年の計算になったから、8年差か? その317っていうのは何か?
年月日だって? それで月日まで算出可能なのか?w 本当には思えないが?
>>727 367とは何かい?」
731 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 10:10:26
>>718 >九州までの地図と、本四の地図は別の人が書いた、別々の地図だった為に
地図というものは、信頼できそうないろんな地図を参考に最後に書いた方が全責任を負
って書くもの。
自分で全部測量して書けるものじゃない。
だから、最後にくっつけて書いた人間がその地図を作ったというべき。
732 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 10:28:44
>>719 >江戸時代も地図は外国持ち出し禁止で、しかも稚拙な地図だったし。
いや江戸時代にはすごく正確な地図をつくってたよ。
現在の地図とほとんど変わらん。
伊能忠敬の功績は凄いよ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
幕府の重要機密扱いをうけた「伊能図」にかわり、赤水図は、明治期を迎えるまで日本図
の主流として刊行されつづける。
実測と天体観測によって赤水図とは比べものにならぬ正確な図形と経緯線を示した伊能図が、
江戸時代において代表的日本図となりえなかったのは、幕府が伊能図を秘蔵し続けたからであった
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/inou/1-6.htm
733 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 10:47:07
734 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 10:49:12
生没年元年末年記事で云うなら、247年の9月〜12月相当と云う事です
百済関係のように外事記事だと認めれば、247年1〜12月相当ですが、
討論の流れ上、書紀の倭迹迹日百襲姫命の没年設定の話を扱ってるので範囲を制限しました
まぁ、どちらの意味でも十年に限れば単に247年と言ってもズレて居るとは言えません
735 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 10:54:28
>>721 >九州王朝説も卑弥呼は大和政権と全く関係のない人物としており、
俺は関係はオオアリだと思ってる。
しかも政治・軍事的権力が、宮崎→宇佐→奈良に変化したと思ってるが、
経済的には北九州→大阪に続いたと思ってる。
736 :
太国:2006/11/25(土) 11:01:10
>>734 最上段
1年を前中後と3分した後期の意味ですか。
〜を使用していますが、3倍年暦の設定をなさっているんですか?
〜の書き方で紀の記述になってはいないと思いますが?
>>725は、貴殿の言い分だと、紀の編纂者側は畿内説を取っていたというわけ
ですか?
737 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 11:02:18
>>730 >367とは何かい?」
崇神天皇崩御が西暦367年という計算。
魏志倭人伝にヒコ・ヒメの名前が一つも無い件について
739 :
太国:2006/11/25(土) 11:04:37
>>735 まだ卑弥呼は神武以前の姫だと倒錯してるのか?
卑弥呼と大和政権とはあんまり関係はない。交流が殆ど無いという意味で・・・。
740 :
太国:2006/11/25(土) 11:07:36
>>737 いやぁ〜、そんなに詰まらん筈だ。もっと古い。
741 :
玲奈:2006/11/25(土) 11:44:43
邪馬台はやまとと読みなさい。
宮崎県にありまして近畿に移動をした人の方が朝廷をつくったでした。
742 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:46:36
どうかんがえても宇佐だろ いい加減にしろや
743 :
玲奈:2006/11/25(土) 11:49:02
何を言っていますか?
卑弥呼は接続助詞をつけますとひのみこでした。
744 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 12:03:15
まぁ、所謂三倍年暦だか三倍年だか三倍暦だかで良いんじゃないでしょうか、呼び方としては
日本書紀を作った人達は、畿内説で作っていたかもしれないですが
卑弥呼の墓畿内説と云う考えがあったとしても、邪馬台国畿内説まではどうでしょうね
これを持って日本書紀製作者が邪馬台国畿内説とするなら、
57年の倭奴国も畿内説で、107年の師升等も畿内説で書いたと云う事に成るかもしれないです
畿内だと断定してたのか、
畿内ではない事を知っているのに、一元史観や実在の人物達の威光を頼る為にこう云う基準で作ったか、
畿内であるかどうか知らずに、利用したのか、
どうでしょうね
まぁ、マジレスで言うと年代設定上、同一視してるぐらいまでですかね。安全ラインは。
ネタレスなら断定し捲くってオモシロ展開と行きたいです><
結局は考古学上の箸墓の築造年代に掛かりますよね
これが4世紀のものなら、日本書紀製作者達の「陵墓比定」が間違ってる事になりますし。
3世紀なら、720年に出来上がった日本書紀の製作者に近代考古学的知識なんて無い訳ですから
そこが正に、247年没のとある被葬者の墓であると、核心をもって記述したと云う事でしょうか
書紀の箸墓の記録位置はそう云う設定に成っている訳なんですから
ですから、一つだけ宮内庁から許可を貰って開ける事が出来るなら箸墓しかありません
しかし、畿内説を取ると箸墓の陵墓指定が永久に解除されないので、証明不能のパラドックスの発生で無限ループです
そこで、、、
卑弥呼は箸墓に被葬されてるが吉備の王で、
大和朝廷の王じゃないから、宮内庁は箸墓を陵墓指定を解除して内部調査させて下さい><
この作戦で行けばバッチグーですよ皆さん><b ぐー
745 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 12:18:07
俺も宇佐だと思う。
魏志の風俗部分読む限り、当時の倭は原始的で、列島半分にもなる広範囲の中央集権、統一国家を
持っていたとはとても思えないことから邪馬台国版図は小さかったと思うのが第一の理由。
そこから演繹して、魏志の水行日数は、月を日と間違えたのに賛成。とにかく水行累積30日はありえない。
ただ東を南と誤記しているとは思う。水行は有明海でなく、玄界灘→周防灘だろう。
その後の日本書紀にある東征については、邪馬台国系でなく、渡来人系が近畿に至った経路だと思う。
実際に武力支配だったかは別にして。ただしょっぱなの日向→筑紫の北上は実際は
半島→筑紫の南下の裏返しか、あるいは、かの南郷村(高千穂に近い)に
一時腰を休めた渡来人が北上したかだと思う。後者の説だと、一部で言われているように
確かに高天原というのは、大陸になってしまうが。
746 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:12:14
考古学的に言えば、邪馬台国の場所は分からないが真実。
しかし、畿内マキムク王権の成り立ちは大体分かってるから、九州東遷説とかが
ないことは明白。マキムクに九州の影響は殆ど無いし。
古代史において、九州やら鉄やらが過大評価され過ぎているのが原因なんだろう。
747 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:14:28
>邪馬台国の場所は分からないが真実
日本語、変。
邪馬台国の場所は分からないが現状
だろ
748 :
玲奈:2006/11/25(土) 13:26:06
あなたも駄目です。
わからないのが現状でしてのが抜けているでしょう。
それで宮崎県でいいでして西都市の近いところを探しなさい。
749 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:28:27
九州東遷説ってのが如何に根拠が無いかは、記紀の恣意的解釈やら、
神話を強引に史実であるかのように扱うことからも分かる。
宇佐神宮とか8世紀に出来た神社を根拠にする辺りとか。
卑弥呼の時代から500年も離れているのに。
東遷などは無かった。九州が畿内王権に服属したのは、磐井の乱以降とまでは
言わないが、かなり後代に至ってからだろう。
4世紀末〜5世紀くらいか。
そういう意味で言えば、九州王朝説とも近い。
初期畿内王権が有力豪族の連合政権であり、大王は彼らに共立されているに
過ぎないこと。
強大な大王権力が達成されたのは5世紀後半以降、雄略の頃という認識を
再確認すべきだろう。
750 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:50:35
>>729 この一年余りかけていく南の裸の国・黒い歯の国ってインドネシアとかポリネシアの
辺りだろうな・・・卑弥呼の時代にそんな冒険をしているとは驚きだね
ーーーーー(引用開始)−−−−−
女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ人種である。
その南には小人の国がある。身長は三、四尺である。女王国から、四千余里はなれている。
また、裸の国や、黒い歯の国があり、東南の方角に船で一年ほどでいける。
倭の地を参問(人々に問い合わせてみる)してみると、海の中にある
島々の上に絶在していて、くっついたり、離れたりして、周旋すれば五千余里ほどである。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在有東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲之上或絶或連周
旋可五千餘里
751 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:56:32
>>745 昔のヨーロッパの船がアフリカの希望岬から北上したように
鹿児島まで南下してから、陸沿いに北上して宇佐辺りに辿りついたんじゃ
ないかと思う、とふと思いついた。
それなら水行の長さも説明がつくし、南下も説明がつく。乗ってる人間は
途中の北上は気が付かないだろ・・・。
熊本・鹿児島それから宮崎・宇佐、この順とか?
752 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:57:16
753 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:01:26
>>749 東遷などは無かっただとか、何の根拠なく自分の理論に無理矢理
こじつけてることが丸見えだぞ
754 :
玲奈:2006/11/25(土) 14:03:03
最初の南下がわかる人でしたら途中の北上もわかるです。
755 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:06:42
>>749 >宇佐神宮とか8世紀に出来た
建物が8世紀に建築されただけ。
いくつもの古代神社のうえに再築されてんだよ。古墳も宮内にいくつもある。
宮内庁は知っている・・・
757 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:11:53
それはナイチョです
758 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:13:56
>>755 そりゃそうだろ。
もともと、ヒコ・ヒメを祀る地方社だったのを、
大神比義が、天皇家に縁のある神宮に造り替えたんだから。
宇佐神宮は記紀から完全に無視されてる。
伊勢にしろ出雲にしろ大三輪にしろ、由緒があり国家造成に大きく
関わった神社については、全て触れている記紀が完全に無視してる。
宇佐神宮の権威が作為されたのが記紀以降、八世紀以降なのは明白。
>>758 なんで記紀に書かれず、八世紀以降に権威が作為された理由を考えてみたかい?w
760 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:22:50
つまり日本(やまと)と宇佐(邪馬台国)は別系統だったと?
761 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:25:00
>>753 マキムクに九州勢力の入植があったという方が、何の根拠も無いこと
だと思いますが。
九州系の土器が殆ど出土しないことからも、畿内王権の初期メンバーの
中に、九州勢力はいなかったと考えた方が自然。
記紀で言えば、崇神の頃に、吉備丹波東海越が畿内王権に参画。
筑紫が入るのは景行の時か。少なくとも吉備とかよりは遅れる訳だ。
国造本紀を見ても、筑紫や豊の国造家の殆どは成務の後裔とされている。
崇神以前の吉備丹波東海越とは、畿内との関わり、同族化はかなり遅れる
と見るべきだろう。
762 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:26:19
763 :
玲奈:2006/11/25(土) 14:30:25
邪馬台はやまとと読みなさい。
764 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:31:47
マキムクってよく出す奴がいるが、何だ。マキムクって?
765 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:32:05
>国造本紀を見ても、筑紫や豊の国造家の殆どは成務の後裔とされている
これは間違い。適当なこと書くな。
しかしまあ、言ってることは大体合ってると思うよ。
766 :
太国:2006/11/25(土) 14:43:29
>>764 景行天皇の宮があった所ですよ。天皇は九州火の国行幸をされてますから、
その土産wでもあれば、マキムクに九州のブツが出土しても成る程ということ
があるだろう?
767 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:46:54
>>357の
>女王国が畿内にあるんなら、当然天皇と卑弥呼は地図上では目と鼻の先の
>近距離にある。ならば記紀に女王国の情勢があさって外国の倭人伝以上に記述
>がなされるはずだ。しかし殆ど記述がな〜い。となれば、倭人伝に情報が行き
>やすい九州に女王国があったことは非常に合理的位置としてうなずける話だ。
>女王国とは日本にあったんだから本来は記紀にその詳細が記載され、大陸の
>古文献のほうが無記述でなくてはならない。ところが現実はその逆で、皮肉にも
>倭人伝のほうに女王国の詳細がある。つまりだ、女王国は九州にあったからだ。
>自分の家の日記に書かれるべきことが、数件向こうの他人の家の日記に自分の家
>の内部の出来事が詳細に書かれている。これが記紀と倭人伝の記述の不審な
>事柄なのだ。
これが正しい見解だと思う 記紀に宇佐の記述などあるわけない。
768 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:50:17
769 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:50:21
770 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:54:13
771 :
玲奈:2006/11/25(土) 14:57:31
>>770の人は太陽や星を知らないのと思いまして昔の旅人はもう少し賢いでした。
772 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 15:21:57
怜奈は日本人じゃないみたいだけど何人なのですか?
773 :
太国:2006/11/25(土) 15:23:38
>>744 なんだか優柔不断を想う回答ですねぇ〜?
3倍暦かそうじゃないのか? 答えになっていない。
774 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 15:37:56
記紀の編者は、倭人伝の伝える卑弥呼が誰のことなのか分からなくなっていた。
で、120年間違えて神功を卑弥呼としてしまった。
なぜこのようなことが起きたのかと言うと、王朝交替で皇統が正しく伝わって
いなかったから。
応神の時と継体、更には蘇我馬子の時に大王位の簒奪があったのだろう。
775 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 15:40:09
俺は逆で卑弥呼が誰だか分かっていたけど、強引にねじまげたのだと思う。
776 :
太国:2006/11/25(土) 15:41:26
>>774 記紀のどこに 神功=卑弥呼 とした箇所があるんかい?
777 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 15:44:49
ただ、魏志倭人を見たら、記紀のなかにどれが卑弥呼だと探すのはあると思う。
そのときに誰か「らしい女」がいないとまずい。という意味で卑弥呼だよん、と
それとなく匂わせたのはあると思うな。
記紀編纂のときにもう魏志倭人伝は入手されてたからね。
とりあえずえらそうな女がいたらみんな卑弥呼ねw
779 :
玲奈:2006/11/25(土) 16:11:26
記紀編纂とひのみこの時代の間の時間を考えるのがいいでしてあまてらすやひのみこのときの記述の記録がないのも考えたらいいです。
正しく伝わるのはずは無いですので少しの言い伝えと適当の想像と捏造でしょう。
780 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 16:30:38
太国さんは二倍「暦」と使った為に、某研究家さんからイロイロ突っ込まれてた訳なので
暦の研究まで対象にしてる訳じゃないんで、成るべく立ち入らないように気を付けてる訳ですが、
太国さんが云わんとする処の3倍暦で構わないと思いますよ
細かい事を云う人が居なければ解りやすく3倍暦とザックリ言っている処です
だたし神武元年は太国さんが言われてたような西暦1年じゃない訳です
神武元年の実年代設定年は57年です
これは複合的な拘束条件を全てクリアしますから間違いないと思います
781 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 16:34:01
782 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 16:39:01
>>779 ちょっと違うと思うな。記紀はかなり「筋の通った」捏造だと思う。
(矛盾や齟齬のある記述が多いのは知っているが)
「想像」という言葉を照応させる部分は少ないと思う。
むしろすべて正当化の捏造に帰納できると考える。
783 :
玲奈:2006/11/25(土) 17:15:25
そうですか。
それでとても昔の天皇の年齢や地位の期間の年数は書いたものがない時代で500年以上の昔は全然わからないのが本当ですので最初から駄目ですので参考にするのも駄目でしょう。
100年の人が8年かもしれないでして40年の人が20年かもしれないでした。
784 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 17:28:00
>>783 冗談抜きで、あなたの日本語よく分からないんだけど……
785 :
太国:2006/11/25(土) 18:58:54
>>780 >細かい事を云う人が居なければ解りやすく3倍暦とザックリ言っている処です
何ですか貴殿は誰か、2ちゃんのスレ人らを怖がっているんですか?w
複合的拘束条件でクリアと申しておられますが、これまたどんな厳しい条件で
57年と定まったんですか?
貴殿の自信で実年代の57年のほうは怖くないわけなんですな?
786 :
唐松山:2006/11/25(土) 19:36:02
はじめまして ‘増し‘暦 は如何ですか?
垂仁天皇と景行天皇 の世継ぎ のときの ‘増し‘
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ
ホ37195 コソコホサシヱホ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
ホ37212 ...トトセぶり...
ホ38005 うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ アメスメラギの トシヤソヒ ...ミカザリを タミにをかませ
ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ
垂仁90年夏6月(秋 会稽で開かれる市)に出発した タジマモリ 約10ヶ月後 翌年3月に戻ってみると 景行2年に成っていました。
暦では 10年ぶり... トコヨの暦は皇帝が変わっても変わらないのに 我が暦は...
たたねこ 本当の暦を知る。
九州では、1年が365日であることが知れ渡ってきた 倭国乱れる の時代です。
787 :
太国:2006/11/25(土) 19:56:09
>>780 貴殿は漢委奴国王が神武天皇だと主張してるのかい?
788 :
四道大将軍:2006/11/25(土) 20:04:48
いえいえ、私は何も。ただ、
日本書紀の製作者達は、そう云う年代に合うように意図的に日本書紀を設計している
と言ってるだけです
因みに、日本書紀の製作者達は、漢委奴国王の金印が志賀島で発見されるとは思ってなかったんじゃないですか
789 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/25(土) 20:12:08
>>721 の人、なかなかのインテリやね。
北を上にする地図というのは、今では常識のように思われてるが、昔はそうではない。
それにあれは十五世紀の李氏朝鮮の地図。古代中国の方向感覚の方が正確だと思う。
790 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 20:16:36
791 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/25(土) 20:47:55
>>790 話せばながーい物語。たった昨日の
>>627 から始まった話なのかな。
昨日の昼のレスなのに、160レスも進んじゃって説明し難いので、遡って読んでちょうでゃあ。
792 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 20:51:28
正式な首都になったことがなくて、常に通り道でしかなかった
九州人のコンプだな。九州説は。ww
793 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 22:04:01
>>758 天孫降臨の物語に豊玉比売がでてくるでしょ〜?
無視されてるどころか、神武のばあちゃんとして
登場してんじゃん。w
794 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 22:22:22
その社の祭神が記紀に出てくるのと、その社が出てくるのは別の話だと思うが?
795 :
太国:2006/11/25(土) 22:58:03
>>780 >>788 どうして57年が神武元年との確信を抱いたんだろう?
回答になっちゃぁいないや。 優柔不断マンだな。
796 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 23:44:37
>>777 日本書紀の年代観は実際とはかなりずれている。
神武天皇の年齢は127才。崇神天皇は120才。垂仁天皇も140才という具合
かなり引き伸ばしていて、神武天皇の即位を紀元前のかなり早い時期に
設定していてわけだから。
そのずれた年代観で行くと、卑弥呼が魏に使いを送った景初3年(倭人伝
では景初2年)は、神功皇后39年になる。日本書紀は、卑弥呼と神功皇后を
同一視してはいないが、同時代の人物と考えている。
しかし、神功皇后が実在したとしたら、第14代仲哀天皇の皇后だから、
15代応神天皇、16代仁徳天皇のちょっと前の時代で、西暦400年頃の
人物と考えるのが妥当だと思う。
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼と壱与の姿は、日本書紀や古事記の天照大神に
酷似している。天照大神と卑弥呼を同一視することは、高天原と大和の
政権を結ぶものとして、神武東征があり、容認できないことはわかるが、
やはり、これが一番ぴったりする。
797 :
玲奈:2006/11/25(土) 23:47:56
ひのみこですので当然でしょう。
798 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 23:50:33
>>725 >倭迹迹日百襲姫命が、正に歴史上の卑弥呼である、と云う事の証明を意味しません
倭迹迹日百襲姫命は、7代孝霊天皇の皇女だとすると死なれたお年は
427−(16−X)*10=西暦死亡年
これに8代の人間だったとして
427−(16−8)*10=西暦347年
まあ、卑弥呼が死なれて100年後に死なれた方が箸墓古墳の埋葬者。
4世紀中ごろの前方後円墳だろう。
橿原考古学研究所の馬鹿学者が変な事を言い出してはいるけど、昔の学者がマトモだよ。
発見された布留0式土器にも佐原真の考えにならピッタリだしな!
ーーーーー(引用開始)−−−−−
箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。
http://inoues.net/club/hashibaka.html
>魏志倭人伝に書かれた卑弥呼と壱与の姿は、日本書紀や古事記の天照大神に
酷似している。
そうなのかなあ? 感じ方の問題レベルじゃないのかな。
似ているようでもあるし似ていないようでもある。
800 :
太国:2006/11/25(土) 23:53:33
>>796 アマテラス≠卑弥呼
神仏習合のようなことはストップして、習合しないのが正解。zzzzzz・・・・・
卑弥呼がホトをついて自死したって妄想には惹かれなくもない
802 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 23:57:51
>>739 >まだ卑弥呼は神武以前の姫だと倒錯してるのか?
ナカナカ俺の考えが理解できない低知能の方のようだ。
神武天皇は卑弥呼の後、4代目の権力者。
血統が繋がってれば、卑弥呼のヒイヒイ孫くらいのお方だ。
卑弥呼が死なれて、40年か50年して死なれた権力者が神武天皇。
803 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:01:32
記紀の神話なんてほとんどが権威付けのためのでっち上げなんだが、
ここで困るのがチュンゴーの魏志倭人伝の存在だ。
ヤッポン国内の過去データなら、弾圧すれば抹殺できるが、大国チュンゴーに
当国の過去の記述があるのは、はなはだマズイ。
つうことで卑弥呼らしき女を何人か紛れ込ませた。
あとは後世の阿呆が適当にリョーシン的に解釈するだろう。
これが真相
804 :
玲奈:2006/11/26(日) 00:02:38
神武の人が古いでして宮崎県から東へ行きましたので倭国が乱れましてそのあとでひのみこが宮崎県に残った方のやまと国に生まれたでしょう。
よくわかってなくて書くが
卑弥呼の鬼道ってどういうものだったのかな?
銅剣銅鐸を放棄して、鏡&前方後円墳とかに移行したヤマト国家の宗教と
まったくちがうものだったのかな?
806 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 00:26:40
>>745 >とにかく水行累積30日はありえない。
ありえる!
魏の使節団は、親善のために来た連中で慌てる必要はない。
邪馬台国からの使節団が生口10人を置いてきたんだから、最低でも100人くらいの
規模で人員を組んで魏へ行っただろう。
その返礼で、大国である魏が使節団を送るなら150人にはなる。
朝鮮でさえ江戸時代に親善の使節団を、400人も日本に送ってんだから。
荷物運びだけじゃなく、親善の為に天文学者、小説家、科学者、武官、芸人など
いろんな人間が見せびらかしながら、休むたびに地元の人間と交流を持ちのんびり
歩き、港により、しかも小さな船でバラバラに分乗して水行したことだろう。
戦争じゃないのだから貨物船も漁船も、徴発じゃなくお金を払い頼み込む方法だろう。
片隅に小さくなって乗せてもらうのじゃ、時間がかかるのは当然のこと。
沿道の住民にとっては一生のうち1回も見れない、大見世物なんだからな!
どこでも引き止められて大変だろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
兵庫での接待記録によれば、四百名を超える通信使一行を歓迎するために動員された
船は七六五隻、接待などに動員された人は、尼崎藩だけでも一万人を超えたという。
・・・・・・・・・・・中には護衛の対馬藩士にわいろを贈ってまで取り次ぎを求め
た者もいたらしい。自作の詩の講評を求める者、子どもの命名を頼む者、朝鮮事情に
ついてあれこれ聞く者、こういった人々に応対し、申維翰たちはしばしば眠れぬまま
朝を迎えたようである
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/tuusinsi.htm
807 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:31:13
>>806 「ここで、なんで30日もかかったか、と私が訊きますので、
みなさん、それに答えてください。はい、楽さん」
という感じの回答だな。
808 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 00:43:29
2−3世紀の中国の船って
史料のこってるのかな
810 :
玲奈:2006/11/26(日) 00:48:46
江戸時代と比べましたり沿道の住民が呼び止めるを言いましたりお金を払いましたり時代を考えるのがいいです。
811 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:51:24
812 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 01:00:33
>>749 >宇佐神宮とか8世紀に出来た神社を根拠にする辺りとか。
今の宇佐神宮が建てられた時期が8世紀という意味。
第45代聖武天皇が神宮の建物をたて、宮司を任命したという意味でその前に
そこの神宮を敵対勢力の宮司として戦禍に巻き込み、滅ぼしてた可能性が大きい。
拝礼の作法や、天皇家の世継ぎの問題で、天皇が特使を宇佐神宮に派遣した事といい、
謎が多すぎる。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
奈良の近くには伊勢神宮がある。ただ「神宮」とのみ言う場合、これは伊勢神宮を指す。
なぜなら、伊勢神宮こそ最高神アマテラスオオミカミを祀っている神社だからだ。
ところが、清麻呂は伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かう。万世一系が途絶え
るかもしれないというお国の一大事であったはずである。
http://www.h3.dion.ne.jp/~abesan/jingu.html
813 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:17:43
江戸時代に、菱垣廻船という江戸と大阪を航行する船があったらしい。
帆船であり、逆風でも進めるらしく、古代の船と比較は出来ないが、
平均的な日数は、32日。速いもので10日。遅い場合は、2ヶ月以上かかった
らしい。
まあ、千石船(150トン)と大きさも全く違うから、参考にはならない。
814 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:22:22
>>808 それは畿内の古墳文化が西都原に伝播したんだろ。
ベクトルの向きが逆。
九州説の連中も、最低限この辺りを認めなきゃ話にならんぞ
>>805 卑弥呼の鬼道は、道教の影響を受けた新興宗教のようなものだったんでしょう。
で、神獣鏡を重要視して大量に輸入した。
畿内説で卑弥呼とされるヤマトトトヒモモソ媛は、鳥飛び(トトビ)
であって、脱魂型のシャーマンだったんだろうと言われている。
>ところが、清麻呂は伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かう。
アホ過ぎ。「宇佐神宮が道鏡を天皇に」という神託を出したからだろ。
817 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:29:53
伊勢と宇佐じゃ知名度が段違いだしなあ
818 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 01:30:59
>>749 >九州が畿内王権に服属したのは
その前に、畿内王権が九州から独立した時期がある。第10代崇神天皇のとき。西暦367年頃
九州が畿内王権に服属したとき・・・ 第15代応神天皇のとき。西暦417年頃
ーーーーー(引用開始)−−−−−
また、彼が宮殿をかまえた地が三輪山(奈良県)の近くである磯城だった事から三輪王朝
ともいいます。
彼の治世は近隣に将軍を派遣し、勢力圏が拡大していったようです。しかし拡大といっても
西は丹波(兵庫県)東は越の国(福井・石川・富山・新潟?)までだったようです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~j-sheep/jp/sujin.html
819 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:33:11
820 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 01:35:13
>>750 >この一年余りかけていく南の裸の国・黒い歯の国ってインドネシアとかポリネシアの
>辺りだろうな・・・卑弥呼の時代にそんな冒険をしているとは驚きだね
この記事は魏の使節団が邪馬台国の人間から聞いたまた聞きを、そのまま書いただけのもの。
信頼性はないが、邪馬台国から東南方向にも大海原が広がってたのは事実だろう。
だからこそ、宮崎が可能性は大きい。
821 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:39:58
宮崎みたいなところなわけないと思う九州人w
一番文化度低い土地だよね。
822 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:41:10
>>820 おまえの言い分こそ信頼性がないと思うんだが・・・
弥生時代の祭祀遺物で鳥に関するものは多いですよね
記紀神話においてもヘビ、ワニ(サメ)、シカ などより
鳥についての記述がもっとも多いように思われる。
>ヤマトトトヒモモソ媛は、鳥飛び(トトビ)
824 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:45:25
>>816 アフォ過ぎ・・・呆れてものが胃炎
>「宇佐神宮が道鏡を天皇に」という神託を出したからだろ。
逆だよ、逆。宇佐は何も出してないw 宇佐は道教を天皇にするなという
神託をだしたんだよ。
>>816に限らず自分の理論を通すために史実を歪んで解釈するやつが
多すぎる。勉強不足なだけかもしれんが
826 :
玲奈:2006/11/26(日) 01:49:02
宮崎はいいでして年などが駄目です。
>>826 おまえはまず日本語を勉強してからかけ。
日本語もできないくせに何いってんだ
弥生時代の祭祀遺物で鳥に関するものは多いですよね
2005年新発見考古速報展示にて
裳裾をたくしあげ、女陰をまるだしにした埴輪(宮崎、百足塚出土)を見て、
天岩戸神話が日向に関係してるのかなと、ちらりと思いました
829 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 02:05:42
>>758 >宇佐神宮は記紀から完全に無視されてる。
バカか!
字が読めないのかね。
神武天皇は日向に出て、宇佐神宮に滞在してから北九州に行ったんだぜ。
むしろメインの立場というべき。
少しHPの作者とは考えが違うけど・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
45歳で東征を決心
宮崎県日向→大分県宇佐→福岡県北九州→広島県安芸→岡山県吉備→大阪府河内→
転進して和歌山県紀伊→熊野→吉野→大和 (137歳で死亡)68歳かな
紀元300年前後、全国的な小国分立状況のなかで、呪術支配から脱すべく新天地を
求めて東征の途につき、賛同する宇佐と筑紫勢力を加えて、瀬戸内海を通って近畿地
方へ向かったと考えるべきでしょう。
http://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper36.html
830 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 02:05:53
前方後円墳のような、特異な墓が、邪馬台国にあったとしたら、
葬制に関心を寄せている魏の使者は、絶対記述すると思う。
倭国大乱の時代、殆ど吉野ヶ里のように、環濠集落の中に、墳丘墓を造ったのでは?
前方後円墳は、上が平らで、埴輪をぐるっと並べた様相をしていると教わったが、
そんな記述も倭人伝に無いし、国同士戦っていないだけで、緊張感のある中、
無防備に、平野にデーンと大古墳を造るとは考え難い。畿内の大規模な古墳は、
倭国がまとまり出してから、ある程度安定期に入らないと出来ないと思う。
従って、前方後円墳は、卑弥呼の時代まで遡らないか、
もしくは前方後円墳が無い所に邪馬台国があったかのいずれかだと思う。
831 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 02:13:39
>>821 奈良だって古墳があるだけ。
その意味じゃ宮崎に近いものがある。
今に限って言えば、奈良より宮崎のほうが人口が多い。
九州のどこかだとは思うが宮崎ではないと思う九州人は多いと思う
833 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 02:55:32
九州や新羅にも胡散臭い巫女らしきものはいたのだろう?
母系社会では要用に良くあることだ。
崇神が絶対王権を確立する以前の社会たるや想像も容易だろう
卑弥呼はマキムクにいたのさ。
ヤマトトトモモソヒメで孝霊の娘が其れだ。
ちゃきちゃきの隼人に成り下がった
崇神がヤマトに上ってく来くころにはお役ゴメンのお払い箱さ。
邪馬台国、九州説は大昔にすでに脂肪、ざんねん。
834 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 02:56:59
>>816 >「宇佐神宮が道鏡を天皇に」という神託を出したからだろ。
何の関係もない新興の格下の神社が、天皇家の跡継ぎに”神託だ”としても無視されるのがオチ。
天皇家と関係がある神社だからこそ、無視できなくて特使が派遣されるまでになったというべき。
835 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 03:02:35
>>821 >一番文化度低い土地だよね。
その文化度の低いジンギスカンのモンゴルに中国軍は負け、世界征服まで成功したんだよ。
文化度の高かった京都の平家が、文化度の低い鎌倉の源氏に負けてしまったの。
文化度と軍事力とは一致しない。
836 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 03:20:42
824 :日本@名無史さん :2006/11/26(日) 01:45:25
>>816 アフォ過ぎ・・・呆れてものが胃炎
>「宇佐神宮が道鏡を天皇に」という神託を出したからだろ。
逆だよ、逆。宇佐は何も出してないw 宇佐は道教を天皇にするなという
神託をだしたんだよ。
825 :日本@名無史さん :2006/11/26(日) 01:47:48
>>816に限らず自分の理論を通すために史実を歪んで解釈するやつが
多すぎる。勉強不足なだけかもしれんが
いや、本当にこのスレのレベルも低いな。
呆れて物も言えない。
最低限調べてから書き込めよ。
モノ言ってるじゃん。
批判するのにソースなしとは最低限調べてもないね。
どうしようもないな、全く・・・。確かに呆れてものがいえんwww
レベルの低さはスレだけじゃない。板全体、いや2ch自体かな。
まだ勉強中の子供やアマチュアだらけ。いやなら二度と来なければいい。
>>837 お前のレスのレベルも低いことを忘れんなよww
厨房にはうんざりだな 全く・・・
>>839 調べるどころか教科書レベルだよwwwwww
中学から出直して来い
843 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 07:09:14
日曜になると暇人で引っ掻き回すのがいつもの恒例で入ってくるけど、
今回は前レスのような変な終わり方はしないようにしよう。
今回のスレは沢山人も入ってきて賑わって楽しかった。ここに来る殆どの人が真面目で、
他のスレに比べても一番じゃないか。最近の日本の出来損ないを創る学校教育を受けたにしては奇跡の人々。
でも、「奇跡では無い」人間がまた入ろうとしている。
西洋の識者に依ると、後500年は世界的に見ても人間の出来損ないが生まれるんだと。
ここのスレの真面目な人々よ、「人は人、自分は自分」でいこう。
「人の振りみて我が振り直せ」でいこう。
煽りや釣られただけのレスは周りに迷惑なだけ 誰からも尊敬されんよ
845 :
耶馬溪:2006/11/26(日) 07:30:57
天照大神=卑弥呼説がでるほど、女王国と呼ばれるほどの権威のあった「女」。
耶馬台国というなら少なくとも、卑弥呼の時代に活躍した女の卑弥呼候補あげてみろ。
宇佐の比売神以外におらんだろ。
宇佐神宮の比売神のレベルで祭られてるほどの強大な女性が他にいるかい?
「いや、全く女王の伝承などないんですが古墳とか鏡がたくさんあるんで・・・w」って?
それはおかしいと思わんといかんよ。女王国ではない強大な国があっただけだ。
ちなみに国東(比売神の出身)・宇佐近辺の遺跡・文化レベルをみても当時の勢力を
考えて魏志倭人伝で無視されるレベルではない。飛ばしてどこの「女王」国にいくんだ・・・
耶馬溪の「耶馬」は、ただの偶然かいな・・。八幡もヤハタやヤマタといったりするのは、まあオマケだな。
畿内説とか・・・もう、論外。
耶馬台がヤマトと発音で大和!!これ以外何も言えない人たちですから
847 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 07:41:46
でも比売大神についてあと少し詳しいことが解ればねぇ。
宮司さんに聞いたら、ここら辺に居たとしか・・・。
以前NHKで見た大神の像はどこにあるんでしょうか。
どっかのうらぶれた神社に祀ってあったとか。
宮内庁がなぜ、こんなところを封印してるんでしょうか。謎だ。
848 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 07:58:40
>>846 倭が変じて和になって、大倭がつまり大和になったと思う。
あくまで だいわ。大日本などと同じ。
これをどうしてヤマトと称するようになったのか、
勿論、邪馬台国は九州以外に無いし、邪馬台は魏では、ヤマトに近い発音。
ヤマトというのは九州の国の名で、それを日本全体を指す大わこく
に当て字した。何が起こったのだろうか。
849 :
太国:2006/11/26(日) 08:09:03
>>802 お前の説じゃぁイザナギは神武と卑弥呼の間の世の人物ということになる。
4代も離れてるとなれば、お前のやり方からすれば1代が10年位の(単純なww)
計算だからな。そういうことになるではないか?
この前から、イザナギの不合理については回答が出来ないようではないか?
つまりお前の説はイザナギのことで破綻してるのだ。
卑弥呼は仲哀〜神功〜應神あたりの時代の九州の姫で、断じて神武以後の姫では
ない。お前がここらのスレ有コテハン者では最もマズイ論者だ。
こんなデムパを撒き散らすな。一般の方まで信じてしまったらと考えると、
ネガティブ度は大きい。
>>803 マズイならば紀に武烈の悪業も隠匿するはずだが、真面目に記載がされている。
つまり、君の言う真相とやらは君のでっち上げだゾ。
たかが数人の女を紛れさせることなぞやったって効果が薄い。まだ他の手をやる。
利害が甚大な場合にイカサマをやることはある。中国の倭人伝に載るくらいで
女を入れこむなどとは? やるならもっと徹底してやるものだ。
>>833 卑弥呼はマきムクなんぞにはいないよ。いたのはオシロワケだ。
卑弥呼がそこにいれば、記紀に大きく詳細に女王国の姿が倭人伝以上に書かれる。
それがないのは九州にいたからだ。
850 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 08:25:20
>>847 確かに、応神天皇と神功皇后を左右に従えて、中央に鎮座する比売大神とは
何者だろうと考えるけれども、これは宗像の三神である可能性もある。
宇佐神宮にも、「神代に三神の比売大神がご降臨になったこの宇佐の地に、
約千四百年前の欽明天皇32年、応神天皇の御心霊が始めて八幡大神として
あらわれになり…」とある。
宗像三神というのは、天照大神と須佐之男命の誓約のときに生まれた
奥津島(おきつしま)比売、市寸島(いちきしま)比売、多岐津
(たぎつ)比売の三女神。
市寸島比売は、美人の誉れ高く、後に弁天様といわれるようになったらしい。
宗像三神を祭神とする神社は、宗像大社、広島の厳島神社などがある。
航海の安全を祈願する神様といわれる。
宇佐を邪馬台国に比定するには、宇佐神宮だけでは足りないような気がする。
851 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 11:27:59
a
852 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 11:28:44
昔他のスレにレスしたが
大和に対する伊勢神宮
山門に対する宇佐八幡
伊勢に王国は無かった
宇佐に王国は無かった
畿内やら九州やらで荒れるのなら間とって吉備説でいいじゃん
854 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 12:22:36
>>849 >つまりお前の説はイザナギのことで破綻してるのだ。
イザナギはただの天照大神のお父さんに過ぎん。
それに重々しい格式を持たせるために、架空の神話を作っただけの話。
実在したのは、天照大神の種馬になったお父さんというべき。
だから俺の説には、あんたの話は全く蛙の面にションベンしてる
程度の生ぬるいだけの話。
855 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:30:45
いや、それを言うなら姫路だろう。
邪馬台国のときはもう稲作はできてたわけで、
姫路はとびきりいい米がとれるからな
それと姫路=卑弥呼だしな。
856 :
四道大将軍:2006/11/26(日) 12:37:31
安本理論の年代特定論は破綻していますので
安本理論の域を出ない恵也さんの理論も破綻しています
857 :
太国:2006/11/26(日) 12:38:36
Pupupu!
じゃぁ、天之御中主神はどうなるんだ?w
それにイザナギに神話をくっつけたと言ってるが、アマテラスにもそれがくっつ
いている。ならばどちらも架空の人間としなければおかしい。神話は架空で人物
は実在などとはあんたの恣意的な文献からの拾得物方法であり、勝手気ままな
取捨選択だから、好きなオカズのみ食べて嫌いなオカズは残して食べない滅茶
苦茶料理の論が君の正体なわけだ。そんな論は絶対認容できない。
卑弥呼をアマテラスとするのは、大国主神を印度の大黒天と習合するようなこと
であり、古代史論の世界でこういうことをやるのは失敗へ陥る典型だ。
858 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 12:44:59
>>850 後に宗像三神になったかどうかは別として宇佐近辺の出の人であることは確かでしょう。
ただ単に男の神の妻とかいう説もあるが、それではなぜ4拍手なのか説明できない。
宇佐近辺の出という意味も解らない。その後、あちこちの神と結びつけて、
一地方の神から、もっと広い範囲の神へと広げて解釈する事はあり得る。
まず卑弥呼と離して考えてみた方がいいかもしれない。
859 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 12:48:25
邪馬台国を考えるときは、その名前が最も詳しく載ってる魏志倭人伝を外してはありえない。
そして昔の方が大変勉強したはずの天文学の知識なしで読むことは、地図を持たずに旅を
するようなもの。
迷子になるのが当たり前というべき。
「邪馬台国は上海の東に位置する」という言葉は値千金。
分度器の中心に穴を開け、紐を通して錘をつければ現在地の北緯が調べれる。
北斗七星の先にある北極星の「水平面からの角度」を調べれば、現在地の北緯が求められる。
上海の東なら、日本では鹿児島か宮崎が邪馬台国の本国としてはいいところ。
星の名前さえ知らない、マトモに倭人伝を読めないバカ考古学者だからこそ畿内説という
妄言を吐くんだろう。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
計其道里當在曾稽東冶之東
860 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:49:08
>>857 続き (
>>854)
生ぬるいのはお前の10年にこだわる単純計算だ。そんなんで古代天皇の
実年代が解明できれば、みんな苦労はしない。
断じて卑弥呼は神武以前の姫ではなく、アマテラスと習合はできない。
861 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 12:50:03
>>856 >安本理論の年代特定論は破綻していますので
どこがどう破綻してるのか説明してください。
862 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:52:34
つか、魏志倭人伝自体、又聞きっぽいし、適当に書いたんじゃないの?
そういう意味では掘り下げても大したものは出てこない気もする。
それなら、記紀のほうが、精神的な意味で出てくるものは多い気がする。
少なくとも書いた人間がマジになって書いたのは記紀のほうだろう。
たとえ、それが史実でないにしろ。
863 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 12:54:33
>>857 >アマテラスにもそれがくっついている。ならばどちらも架空の人間としなければおかしい。
あんたは、世の中は白と黒でしか出来てないとでも思ってる単細胞か?
架空の物語を作るにも、事実の土台の上に装飾をして面白おかしく物語を組み立てるもの。
物語の中から、土台になった事実を見つけ出すのが「大人の知恵」というもの。
あんたは子供の知恵しかもってない!
864 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:57:21
>>317 禿しく亀レスですが、私が思うに、
「倭」とは魏がヤマトにつけた名前 例えるとJapan
「やまと」とはヤマトが自らを呼んだ名前 例えると日本
ではないでしょうか?
ある時期から、倭という文字が「ちいさな香具師ら」という意味である事を
知り、倭の替わりに和をあて、さらに大の字をつけて「大和」とし、
これをやまとと読むようになったのではないでしょうか?
例えると「大Japan」と書いて「にっぽん」と読ませるようなもの。
もちろん、やまと(おそらくは「山門」)の使節団は自らを「ヤマト」と
名乗ったわけで、その音に「邪馬台」という漢字をあてたのでしょうが、
それにあきたらず「倭」と命名したのでしょう。中国というのは今も昔も
根性わるいですね。(苦笑
865 :
太国:2006/11/26(日) 12:58:59
>>863 それがお前さんの恣意的な拾得物論ではないか?その取捨選択は恣意的でなく何
か合理的方法でやったのか? と質問する。
そうでないと、恣意的選択であり、いいとこ取りの論理の展開でダメダメだ。
866 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 13:29:01
>>860 >そんなんで古代天皇の実年代が解明できれば、みんな苦労はしない。
そんな簡単な事がわからんから、バカが苦労してんだよ。
在位期間が古代では平均10年くらいだった事をあなたは否定するのかい?
飛鳥・奈良時代の天皇の在位期間は、ダイタイ信頼できるという。
第31代用明天皇587年崩御
第50代桓武天皇806年崩御
219年間で20人の天皇が代わっておられる。
あなたはこの事実さえ認めないのかい?
ーーーーー(引用開始)−−−−−
退位の時期などを歴史的事実として信頼できるのは、第31代用明天皇ごろから以後である。
用明天皇からあとの天皇の在位年数などは、『古事記』と『日本書紀』とでも一致している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/10nen.htm
867 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 13:45:29
>>862 >つか、魏志倭人伝自体、又聞きっぽいし、適当に書いたんじゃないの?
いやマジになってかいてます。
作者の陳寿氏は、魏の禅譲国である「晋の役人」で平和的に政権交代した為、魏の公文書が
焼失しないで晋が手にいれ、陳寿氏はその機密文書を役人として見ることが出来ました。
陳寿氏は生まれて5歳のときに、卑弥呼が魏に貢物を持参した時です。
卑弥呼と同年代の人間と言える。
同年代の人間が、公文書として魏志倭人伝を残したもの。
その点、記紀が作られたのは、卑弥呼が死んで500年くらい経って、口伝を書き記した書物。
信頼性は天と地の差があります。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
陳寿、字は承祚(しょうそ)、巴西郡安漢県の人である。若い頃から学を好み、同郡の[言焦]周
(しょうしゅう)に師事し、蜀に使えて観閣令史となった。
当時は宦官の黄皓の権力が絶大で皆が意を曲げて黄皓の言いなりであった。しかし、陳寿は
一人節を曲げなかったが為にしばしば懲罰を受け降格させられた。
父親の喪中に病になり、女中に薬を使わせたことで(当時の儒教道徳としては、自分の身をすり
減らしてでも喪に服さなければならず、病気だからといって薬を使うなど言語道断だったらしい)
郷党の貶議を受けた(郷党による人物評は昇進や降格・罷免に非常に大きな影響力があり、本に
よっては追放とするものもある)。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zhenshou.html
868 :
四道大将軍:2006/11/26(日) 13:53:52
安本理論や同類の論者の基本的な間違いは
代数と没年を注目して、それに依存しようとする事です
ある年代の天皇の実年代の概算を求めるなら
先ずは天皇の世代数と生年に注目しなければ成りません
天皇N代当たりの累積在位年数にしても
結局は一世代あたりの累積生年差に依存するからです
5c〜8cの天皇が一代10.88年と云う情報では時代を遡って実年代を特定する事は出来ないのです
安本理論では単に一代十年に当て嵌めて、
基準になる天皇の数を浪費しているに過ぎません
安本先生は世代モデルを作った事が無いんじゃないでしょうか?
安本理論のような根拠で系図操作を行なってはいけないのです
邪馬台国の会での安本理論の資料を見ても
横軸に世数を取って居ますがこの方法は間違いです
天皇に限らず人間は大よそ一世30年前後です
天皇の一代平均在位が15年になるのは、一世あたり2代で継承をしているからです
天皇の一代平均在位が10年になるのは、一世あたり3代で継承をしているからです
安本理論では単に一代約十年であると根拠にしている訳ですから、
この事は本来的には天皇の代数の側を記紀の3倍にして主張しなければならないのです
にも関わらず、天皇の数だけは全て合っているとする為に、特定の基準代から理論値の1/3程度しか遡らなくなるのです
869 :
四道大将軍:2006/11/26(日) 13:55:30
訂正
誤:横軸に世数を取って居ますがこの方法は間違いです
正:横軸に代数を取って居ますがこの方法は間違いです
870 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 13:59:27
>>864 >それにあきたらず「倭」と命名したのでしょう。中国というのは今も昔も根性わるいですね
いや、倭というのは日本全体の事を指した言葉でしょう。
邪馬台国というのは、日本の中の有力国の名前。
南米の有力国ブラジルと、南米を混同しないのと同じ。
混同したら話が通じなくなるよ。
倭という言葉は紀元前11世紀頃から使われ、西暦700年頃に日本という言葉になりました。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前
の701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされている。
以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD
871 :
玲奈:2006/11/26(日) 14:03:14
古代天皇の実年代は知るのは無理でして文字の記録が無いの500年前の正確な年数はグリオがいても難しいでして駄目でしょう。
それでひるめの天照大神を実在の人でモデルを探すでしたらやまと国のひのみこで自然でしょう。
872 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 14:13:16
>>865 >その取捨選択は恣意的でなく何か合理的方法でやったのか? と質問する。
それさえ判らんから、あなたは未だに子供の知恵しか持ってないというの。
自分なりの合理的と思える方法を、自分で考えて持ててこそ大人といえる。
あんたはまだ子供。
まあ、それだけじゃ人情味がないから俺なりの方法を少しは書いておく。
天照大神じゃ、ここでは生臭いから旧約聖書のモーゼの奇跡を例に取ると。
モーゼがエジプトから逃げ出すときに、エジプト軍に追われて海を割って逃げたという。
こういった奇跡がないとは思わんけど、俺の育った有明海は干満の差が10m以上ある。
それから考えると、干満の差を利用して逃げれたのを大袈裟に聖書で取り上げた物語だろう。
モーゼがエジプトから逃げ出したのは事実と考え、奇跡は干満の差を利用した逃走法だとみる。
これを合理的方法という。
あなたにはまだ無理な思考法かも知れん!
873 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 14:19:13
>>864 倭というのは、確かに中国からの呼び名だろう。
当時100余国あって、ムラからクニへと発展し、互いに戦争を繰り返しており、
それぞれが、自分の国の名で、自分が王として君臨してたわけだから、
対外的には、おのおの自国名で通していたに違いない。
そうでないと、倭国の中のどのクニを指してるのか不明だからである。
倭人が、この頃から、自らをヤマトと呼称していたという確証は無いから、
外国から倭だと言われれば、そう受け止めざるを得なかっただろうし、
日本がある程度クニがまとまった時点で、倭というのを国名にし、和と変えて、さらに統一した証として
大和=だいわと書き、大陸からの呼び名を嫌って、国産のヤマトという由緒ある名を付けて、そう呼んだ。
ヤマタイがヤマト、説には異論もあるが、邪馬台とかいて魏の発音でヤマトということからも、
同一の名だと思われる。ただしこれが畿内の大和かというと、そうではなく、
純和風にして当時対外的にも名が通っていたので、大和をヤマトというに至ったものと考えられる。
今の大和地方を邪馬台国のあった場所と考えるものではない。
874 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 14:36:34
倭は韓国の発音ではウェ。(ちなみに韓国人の日本人に対する蔑称は倭奴(ウェノム))
これは中国の何音ではイと発音する。例の金印は倭でなく委(イ)である。
日本は古来より自国をイ、あるいはウェ、イェと発音していたかもしれない。
今でも韓国は日本のことをイル(日)と発音する。
これは日(ヒ)かもしれない。
875 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 14:39:29
>>868 >先ずは天皇の世代数と生年に注目しなければ成りません
間違い!
記紀がどうやって伝えられてきたのかという「一番大切な性質」を無視した暴論。
記紀は口伝えに伝えられたものを、西暦720年頃にやっと文章にしたもの。
口伝で正確に伝えられるものは天皇の生年月日じゃありえない。
正確なのはセイゼイ天皇の名前と、功績くらいのもの。
どんなに記憶力のいい人間でも、面白くもない生年月日なんて覚えれるものじゃない。
天皇の歴代の名前くらいなら、記憶力のいい人間なら正確に覚えておれるよ。
俺の親戚に第1代天皇からヅラヅラと唱えてくれた方がいる。
しかし生年月日をヅラヅラっと唱えれる方には会った事がないし、常識では考えられん。
たとえ覚えてる方がいても、根気よく聞く気にもならんだろうな俺は。
頭から遠慮さしていただくよ!
信頼できそうなのは、歴代の天皇の名前くらいのもの。
功績の方は、記憶力のいい人間でも何天皇だったか混同するでしょう。
少なくとも、宇佐説とか甘木説などの「九州東遷はない」ことは
はっきりしてるだろ。
このあたりを認めないのは一部の人間だけ。
まともな根拠も提示出来てないし。
877 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 14:44:57
>>868 >天皇に限らず人間は大よそ一世30年前後です
意味がわからん。一世とは、寿命の事か、大人になってからの生きた年数か?
それをあなたは大昔の事なのに、どうやって調べたんだ?
>>842 宇佐八幡宮神託事件でググるなり、続日本紀を読みなさい。
宇佐の神託を利用して道鏡が天皇位を望むことが書いてるから。
高校(中学?)でレベルの低い教育を受けたんだね、哀れ。
879 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 14:54:08
記紀は基本、口伝じゃないとオモ。
基本は百済三記と旧記、帝記(いずれも現存せず)
口伝部分は少ないと思う。もしかしたら大陸から入手した
ギリシア神話や聖書も参考にしたかもしれない。
だいたい稗田阿礼自体に超人的な能力を
付与してること自体が怪しい。もちろん文字、本のなかった時代の人が
われわれ現代人より記憶力がいいのを含みおいてもだ。
880 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 14:57:09
>>871 >文字の記録が無いの500年前の正確な年数
これはたぶん間違いでしょう。
中国や朝鮮からの帰化人が多数、日本に入ってきてたんだから少しは中国語ででも残せたはず。
でも保存技術がない事と、大和朝廷にとって都合が悪いから焚書にされたりして闇に消え
たんじゃないかな。
旧約聖書みたいに、大切にしてた方がいて、非常に運がよければ残ってる可能性もない
わけじゃないけど・・・・
ーーーーー(引用開始)−−−−−
そしてこれらの死海文書は、一般にはイエスの生まれる少し前の時代の文書だと現在考えられている
http://www.dma.aoba.sendai.jp/~acchan/DSS/Intro.html
881 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 15:15:20
>>876「九州東遷はないことは はっきりしてる」
この文は、日本書記の記述に反するもの。
神武東征は、ある程度具体的で、ただ単に神話として片付けられない、
真に迫るものがある。。なぜそのような記述があるのか深く検証もせず、
文献に残された意味合いを考えもせずに、決め付けてはいけないと思う。
他に証拠が無ければ文献を重んじるのが道理。少なくともこのスレに出る
人を納得させられるだけの、理屈付けが欲しい。
882 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 15:37:23
>>879 >だいたい稗田阿礼自体に超人的な能力を付与してること自体が怪しい。
記憶力にいい人間は確かにいる。
お釈迦さんの言われた言葉(お経)も記憶力で残されたものです。
2500年位前には、言葉はあっても文字はなかったんじゃないかね。
それでお釈迦さんが死んでから、お釈迦さんの言葉だとして間違った
お経が氾濫したために、すぐ後でお弟子さんが500人集まって整理して
口伝で覚えたのが「阿含経」だという。
これを第一結集といい、100年後にも再度集まってチェックしてこれを
第二結集という。
文書化されたのは死後300年以上は後だといわれてます。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
仏教経典が書写されたことを伝えている最初の記録は、紀元前1世紀頃の
スリランカ(セイロン) です。
http://panna.zive.net/bukkyo/bukkyo_bk03.html
>>881 >神武東征は、ある程度具体的で、ただ単に神話として片付けられない、
>真に迫るものがある。
神武東征のどこがリアルなのか?
出発地が日向。大阪湾に至るまでは、単に航路の地名を列記しているのみ。
兵站とか、リアルな行軍の記述は皆無。
で大阪湾に着いてからの記述がリアルになる。
恐らくは、畿内建国神話が下地にあり、倭国全体の神話に引き伸ばすために、
日向〜大阪湾の部分を追加したのだろう。
もしくは、応神の東征の記憶があったからかもしれない。
884 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:18:01
>>883 神武東遷の物語は野間岬から始まるのではなかったでしたっけ?
私は野間岬より北が神武が出発した頃のヤマトの勢力範囲ではなかったかと
思うのですが。
885 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:21:29
更に言えば、畿内王権の最初がマキムク。
三輪山山麓に最初の大王がいたことは確実。
記紀で言うところ、三輪山山麓に初めて宮を造った崇神が、
最初の大王と考えるべきだろう。ハツクニシラスとも呼称されているし。
初期畿内王権の権威の象徴が三輪山。
三輪山は神南備山として、後世に至っても特別視され続けた。
イワレ彦の名前がついた磐余にしろ、イワレ彦の即位した橿原にしろ、
初期古墳が見当たらない地域。
神武東征伝承自体をそのまま史実と見ることが非現実的だということは
分かったかな。
欠史八代とかは無視し、神武は史実であったとする。
こんな都合のいい取捨選択は、九州東遷説(九州説じゃないよ)の輩の
特技なんだな。
887 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:29:05
さしずめ記紀の成立も、こういった憎しみあいの産物なんだろうな
888 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:29:48
>>885 神武は美和の大物主の娘を奥さんにしています。
ようするにマスオさんなわけです。私は神武の古墳が作られた
とすれば三輪ではないかとおもいます。
(何故かこの美和の大物主は10代崇神天皇によって祟り神として
三輪山に祭られるわけですが。)
889 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:39:57
>>888 >私は神武の古墳が作られたとすれば三輪ではないかとおもいます。
記紀にそうは書かれていないよな。
東遷説の連中が言うように、もし欠史八代が架空とした場合、
神武=崇神になるのか。
それにしても、東遷説の反論の根拠が「神武伝承」だけとは
情けない。
890 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:44:45
>私は神武の古墳が作られたとすれば三輪ではないかとおもいます。
記紀にそうは書かれていないよな。
って、そうは書かれてないから「おもいます。」でそ?
>三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている。
画文帯と三角縁って、殆ど同じで、縁が三角かどうかの違いだけ。
画文帯が呉の様式っていいたいの?
>徐州は魏ではなく、呉の領土。
魏の領土だろ。
892 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 16:48:48
>>883 応神の東征は聞いたことが無い。それに神武は陸行したという立場をとっている。
ある程度具体的と言っただけで、現実的とは言っていない。それも本文の、
奇想天外な作り話と比べての事。神話の中にも、真実が隠されていたりする。
神話は、親が子へと、子から孫へと面白おかしく実際にあった出来事などをおり混ぜながら、伝承させていくもの。
東征など語らず、畿内に神々が降臨したとすれば済むところを、
わざわざ九州の山の中という辺鄙なところからきたなど、地元出身でないことをなぜ、
天皇家の歴史として遺し、伝承させていく必要があったのかが一番の謎。
894 :
太国:2006/11/26(日) 16:54:49
>>860 コテハンが抜けました。それがしの書きこみです。
>>866 当然それは肯定はできない。だいたい明治、大正、昭和を眺め較べたって全然
数字が合っていないのは歴然としている。用明〜桓武の自説に都合のいい箇所
のみ取り揃えたところで、それ以前もそうだったとはまったく言えない。
それが明治以降は人類が長寿で古代は短命だったから、これは例としては当ては
まらないなどとこの前主張していたようだが、武内宿禰の長寿などを考えれば
そんなにに短命だったと結論付けるのは間違いのもとである。
10年という浅はかな単純計算で結論しても、イザナギのあたりへ遡ればその
論理がおかしいことは目に見えていて、大半のスレ人の失笑を買うだけ。w
895 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:55:24
邪馬台国は宇佐ですpupu
896 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:55:30
>>891 知らないで言わないように。魏の領土ではありません。
中国はその頃日本と違い、歴史がはっきりしてる。
897 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:55:34
>>892 畿内王権も地方政権だったころは、「畿内の山に始祖が降臨した」みたいな
シンプルな建国神話だったんだろう。
おそらくはニギハヤヒ神話がそうだったんじゃないか。
全国規模の大王権力になるにつれ、倭国全体を包括した神話が必要とされた。
倭国全体を統治する王権の正当性を主張しなければならないから。
898 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:57:28
ハッタリのオンパレードだな
899 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 16:59:07
ここで南九州を一生懸命となえている人がいるが
宮崎や鹿児島はありえないと思うね。魏志倭人伝の耶馬台国内の描写のなかでの
方位の記述が滅茶苦茶になるだろ。
宮崎と鹿児島で東に海を隔てて国などない。東北に四国があり
東南に何もない。太平洋ひとりぼっち状態だよ。
自分が宇佐・国東にこだわるのは倭人伝の耶馬台国の描写も合ってるからだ。
東に愛媛があって晴れた日には海の向こうに見える。
東南に下れば太平洋に出て一年すりゃポリネシアの小人や歯の黒い島に着くだろw
(真南には行けない。陸に引っかかる)
この描写が見事なまでにバッチリだ。この部分の合致を考える場合は大分県辺りしかない。
ただ宇佐神宮の場所で断定するつもりはないけどね。比売神は国東の出身だし
もうちょっと広範囲に考えるべきだろうと思うよ。例えば日田なんかも水路の
発達で交易が発達していたぐらいだから、古代から栄えていたと考えられるし
901 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:01:28
>>897 だったんだろう、恐らくは、じゃなく、何か文献は無いんですか?
ニギハヤヒは、大阪平野にいたとTV では聞いたけども。
902 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:04:44
こうして空想を撒き散らしながなシコシコやるバカだけが凝縮されていく
903 :
太国:2006/11/26(日) 17:05:17
>>872 まったく譬えがあさってのほうへ向いていておかしな限りだ。
結局あんたの恣意的論理で、人物は実在だが人物の行動は神話で付加させられた
もので事実でないなどと言い回して自己の論理の必要部分のみを取り出し
のうのうと自己の論を肯定している。こんなんだったらどんな論理でも肯定でき
てしまう。君の論はここのスレでは有コテハン者で最悪の評価だ。w
896 名前:日本@名無史さん :2006/11/26(日) 16:55:30
>>891 知らないで言わないように。魏の領土ではありません。
中国はその頃日本と違い、歴史がはっきりしてる。
はいはい。
宇佐神宮神託事件にしろ「徐州が魏の領土でない」にしろ、なぜこういう
不勉強な奴は、こういう書き方をするんだろう。
少し調べてから書き込めば、恥をかかなくて済むのにな。
徐州の件は、九州ですがも、自分が間違ってましたと認めてるだろ。
畿内などありえないね。
東にまっすぐ瀬戸内海を南下と勘違いして船で横断かな?w
途中の重要な国々や島を飛ばしまくって畿内へ一直線か・・・
南から太陽が昇って北に沈むのを見てびっくりしたって記述がないぞ、オイ
906 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:09:17
>>901 状況証拠の積み重ねって事も世の中にはあるだろ?
文献はないか?って井沢元彦にけなされそうだな。w
「大阪平野にいたとTVで聞いた」ならそれもりっぱな文献じゃないか。w
そもそも記録文献の類いって、都合が悪いと残らなかったりかきかえられたり
するだろ?欠史八代のように。
907 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:12:31
>>君の論はここのスレでは有コテハン者で最悪の評価だ。w
って、太国がいうなよ。www
あ、受けねらいか。これは正直スマンかった。
>>904 >>659で、九州ですが、が確かに書いてるな。
九州ですが、は責任持ってフォーローしてやれよw
909 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:15:09
太って奴は頭ガチガチの単細胞だということが文脈から読取れる。
>>896 NHK大好きの九州ですがに限らず、このスレで自信満々に書いてる奴は、
かなり適当に、酒飲みながら書いてるから。
基本的な知識も欠如してるしな。
だからまともな議論にならない。
あんまり信用しちゃ駄目だよ。特に「九州東遷」とか言ってる人は。
911 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 17:22:51
>>904徐州の件は、九州ですがも、自分が間違ってましたと認めてるだろ。
スレのどこにも一口も言ってない。嘘までついて恒例の終わりレスでの蒸し返しで、
自分達が優位に立つとでも思ってるのか?魏の時代の徐州は、魏ではなく呉というのは、
広く知られてる事実。中国の考古学の権威も断定していた。何十年も自分はこの説を曲げてはいない。
以前見たNHK特番でも、その通りの説だった。どうして否定などするものか。
知っててわざと言ってるとしか思えない。 でも無駄だ。真実は変わらない。
912 :
太国:2006/11/26(日) 17:22:55
>>909 ガチガチって言ってるが、なに、恵也の10年計算を単純だと思わないのか?
913 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:28:55
太国がいうなよ
914 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/11/26(日) 17:34:52
>>912 また最低の人種が入り込んだ。出来る限り相手しないでいようね。
どうせ、ひっかき回すだけなんだから。それしか能が無い。
915 :
太国:2006/11/26(日) 17:35:54
>>913 どうだ恵也のいう10年説はおかしいと思わないか?
あいつのは有コテハンでは0点に近い論理だぞ。
916 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:37:17
日本史板のコテハンは自分がバカだということに気づいて欲しい。
917 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/26(日) 17:38:09
>>889 >神武の古墳
天照大神の子供、ニニギの命の古墳は宮崎にあります。
天照大神の孫、政権から落ちコボレタ海幸彦の古墳も潮嶽神社として宮崎にある。
神武天皇の父を祀る神社も、鵜戸神宮としてある。
しかし東征したという神武天皇自身の古墳は、宮崎には無いようだ。
ーーーーー(引用開始)−−−−−
潮嶽神社は全国で唯一、海幸彦を祀る神社です。
http://www.pmiyazaki.com/ushiodake_j/
918 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:38:41
徐州が呉の領土というソース出せ。ていうか、普通にグーグれば分かることなのにな。
919 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:39:53
920 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:48:09
九州ですがへ
徐州が呉の領土だと言い張るなら、もし間違えていた場合、
「九州です、あほですが」にコテハンを変更すること。
いいな?
921 :
九州です、あほですが:2006/11/26(日) 18:12:04
922 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:13:09
なぜそんなに徐州にこだわってるの?
923 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:18:13
>>922 徐州、徐州と人馬は進む〜
徐州居よいか住みよいか〜
って歌を知らんのかーツ
924 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:20:28
>>922 スレを正常運営するためにも、明白な誤りは誤っていると指摘しなければいけない。
一応学問板だしな。
九州です、あほですがは逃亡したか。
以後、ちゃんと「九州です、あほですが」を名乗れよw
926 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:28:30
問題なのは、九州ですが、が誤りを指摘されたのにも関わらず、
まともに調べもせずに反論したことだよね。
まあ、本人も反省してるみたいだし、これくらいで許してやろうよ。
927 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:29:15
>>924 >一応学問板だしな。
最近カキ出したんだが、そうだったの!
928 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:58:06
929 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 19:02:11
ほらみろ、女囚にこだわってるから糞スレになっちまった。
931 :
九州ですが ◆cdEg7T5ias :
>>920 まあー低能児らしい反論だこと。こういうことよん。地図もあったが今は不明。
後漢時代に徐州の南に属する江都・儀征、さらに南の丹陽付近に古代の銅鉱があった。
三国時代にはこの徐州の北部が魏の領域となり徐州と言われたが、銅産地は含まれていなかった。
上記銅鉱のあった江都・儀征・丹陽は呉の領域であり徐州とは言われなかった。
要するに、徐州の北部が、魏の領土ににかかっていた訳よ。そこには銅鉱は昔から無く、
今でいう徐州の、銅を産したところは南部の、当時、呉の領土で、徐州とは言わなかっただけの話。
銅を産するかどうかが、話のの主旨であって、銅鉱が無いところがいくら魏にかかって
いたとしても、何ら意味を成さない。当時、徐州は銅を産してはいなかったで、十分通じる話でしょ。
なになに、重箱の隅でもつつくように、話の揚げ足を取って、鬼の首でもとったように。
まあ、可哀相な脳みそだこと。