>画文帯が260以降というのは、前に散々書いたが、反論できていないね。
紀年鏡は無視するの?
神功皇后が九州山門の女首長の卑弥呼を殺したんじゃないの?
921 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 18:58:40
>>918 画文帯が260以降というのは、前に散々書いたが、反論できていないね。
それが畿内説に何か影響するとでも思ってるのか?
922 :
九州ですが:2006/11/12(日) 19:10:09
>>色々言ってる割に、誹謗注中傷してるだけで、実のある回答が殆ど無い。
私はNHKの方を信じるね。どこの馬の骨か分からない、怪しい人間の
いう事を信じろという方に無理がある。学者でさえ年代には様々な
説があり、定説というものが無いのに、おかしな少数意見など
信じられるわけが無いと思いません?殆ど教育番組を信じますよ。
おたく達の なんですって?学説と同等とでも思っていらっしゃるのかは
存じませんが、信じろといわれましてもちょっとねえ。
” >>神武東征が卑弥呼より後”だと、どこで解釈できるんだ?
ですかぁ?一応聞きますが、前だ、という証明はありますか?
923 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:10:33
>>919 紀年だけを重視するのも無理。
畿内説の一部は紀年のある画文帯と三角は舶載鏡という。
その上で、画文帯(180頃〜240頃)、三角(240頃〜)と年代を決める。
出土状況との不一致については、「伝世鏡」で説明する。
けど、画文帯同向式は日本でほぼ全部(楽浪で1枚のみ)という出土状況。
その中に紀年があっても信用性が低い。
三角も多種類あるけど、ABCのみ出土、CDのみ出土、DEのみ出土とかで時期の
分類が出来る。三角の紀年はDEの鏡(後期の鏡)。
この分類を認めずに伝世状況の違いとするのは無理。伝世論は出土状況の無視。
>出土状況との不一致については、「伝世鏡」で説明する。
ここ意味分からない。本当に分かって書いてる?
925 :
九州ですが:2006/11/12(日) 19:21:22
>>915 委奴をイトと読む説は知ってますが、たしか、吉野ヶ里がイトで、邪馬台国
へは筑後川から有明海に出て、南下し、宮崎の方へ行く道程だったと
思いますが、その説とはどこか違うんですか?
926 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:23:46
>>922 >” >>神武東征が卑弥呼より後”だと、どこで解釈できるんだ?
>ですかぁ?一応聞きますが、前だ、という証明はありますか?
後だという証明をNHKがしたのか?
927 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:29:22
>>922 とりあえず、神武東征は卑弥呼より後あとだと思うなら、
>>862の問いにすべて回答してもらおうか。
1、瀬戸内海を航行するのに、危険な中国・四国の勢力とは、何人くらいの集団を想定してるのだ?
2、その地域に住む危険な集団を平定するために、神武の軍勢はどれくらいだ?
3、四国を平定するためには、当然舟が必要だが、その舟の数は何隻だ?
4、舟は何人乗りで、排水量はどれくらいだった?
5、神武が瀬戸内海を平定するのに要した期間は?
928 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:38:14
俺は神武は卑弥呼より後だと思っている。
しかし927に答える必要はない
なぜなら、ホホデミとイワレビコは別人だと思っているので、実際あんな無茶苦茶
な作戦はありえない
929 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:42:33
>>928 東征はあった、でも戦略はわかりません、か。
寝言は寝て言え。
930 :
九州ですが:2006/11/12(日) 20:03:25
>>927 今からTV見ないと・・・。わたしゃ学者じゃないから解らないが、
再三引き合いに出すようで悪いが、NHKでは、陸行だったみたいよ。
出雲のときは大国主命がクニを譲る代わりに大きな神殿を建ててもらって
神主に納まり、吉備を平定した時は、円筒はにわだったっけ、異文化を
統合しながら、九州、出雲、吉備など平定した地方の軍隊を集めて大連合軍となし、
畿内へと向かった、としていたけど。とにかく見た番組では海を行った話しは無かったが。
それがなにか。
931 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 20:14:29
>>930 >出雲のときは大国主命がクニを譲る代わりに大きな神殿を建ててもらって
それ、神武東征のエピソードじゃないじゃん。
なんで都合よく文献をねじまげて納得できるわけ?
>とにかく見た番組では海を行った話しは無かったが。
おまえが、陸行説なのはわかった。
932 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/11/12(日) 20:18:08
>>915サガミさん
委奴は国名ではありません。倭語「イナ」を漢字に置き換え字意を持たせたものです。
(ナを委ねる)
ナ=中心的に形成(言意)
933 :
九州ですが:2006/11/12(日) 20:28:02
>>931 こっちが知るわけ無いでしょうが。神武というのは邪馬台国の卑弥呼死後の
勢力の事。
>>931神武東征のエピソードじゃないじゃん。
こんな幼稚な考えは捨てようね。
神武と祟神のエピソードが似通ってるのはなぜですか?
むしろ神武と景行のエピソードのほうが似通ってるといえなくもない
936 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:09:21
にてね〜(ツッコミ)
937 :
サガミハラハラ:2006/11/12(日) 21:13:12
吉野ヶ里が委奴国であるのは同じですが、伊都国は佐賀県西部の多久市(唐津の南東です)
です。邪馬台国は同じく佐賀県の小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内の桜ヶ岡です。
神武と崇神のエピソード どこが似通っていますか。
938 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:27:25
>>924 >>923を読めば分かると思うが・・・
画文帯や三角の紀年鏡の紀年は古い年代が書かれている。
しかし、画文帯も三角もほとんどは古墳から出土する。
紀年のある鏡も、最古級の古墳からではない。 だから「伝世論」に行き着く。
ただし、最近は古墳時代を200年頃からに遡上させることで、伝世の
不都合を回避させようとする見解もある。
>>924はその意図か?
ただ、遡上させると伊都国の年代と整合しない。
伊都国重視の倭人伝の記載を説明できない。
平原遺跡の鏡とも共通性がない。
狗奴国との戦争中に大型古墳を多数築造とかは、無理。
古墳時代を280〜300年頃からにしたほうが、全体の整合が取れる。
伝世をほとんど認めず、画文帯(280〜330)、三角(330〜)位に考えた方が
説明し易い。 これだと畿内説に不利だが。
応神だったorz
>>938 >ただ、遡上させると伊都国の年代と整合しない。
>伊都国重視の倭人伝の記載を説明できない。
意味不明。伊都国の年代というのはどうやって決めた?
>狗奴国との戦争中に大型古墳を多数築造とかは、無理。
狗奴国とは卑弥呼と折り合いが悪いと書かれているから、
卑弥呼の死後はどうなったかわからない。
というより、わざわざ卑弥呼と和せずと書いていることからすると、
卑弥呼以後は仲直りしたと考える方に理があるだろう。
大型古墳が多数作られるようになるのは箸墓以後。
したがって、箸墓が卑弥呼の墓であれ、それより後の墓であれ、
大型古墳が多数作られるようになるのは卑弥呼死去の後。
よって問題ない。
>狗奴国との戦争中に大型古墳を多数築造とかは、無理。
大いに塚を作る。径百余歩。殉葬する者、奴婢百余人。
倭人伝にも書いてるだろ、大きな墓を造ったって。
倭人伝原理主義者なのに、倭人伝を否定するの?
>>937 >吉野ヶ里が委奴国であるのは同じですが、伊都国は佐賀県西部の多久市(唐津の南東です)
まったく根拠ありませんね
943 :
九州ですが:2006/11/12(日) 21:52:06
>>938 とても理論的で納得いきます。
伝世になるといつ埋めるかの決まりが無いので、古い神社とかに
沢山奉納されて残っていてもおかしくないと思ってました。テレビでも、
鏡は信仰であり、その人の死後の闇を照らすという意味で、
その死とともに一代で埋めること、
日本のどこにも伝世の風習が残っていない事などをあげて、
伝世鏡には否定的な内容になってました。
944 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:03:52
>>943 >日本のどこにも伝世の風習が残っていない事などをあげて、
デタラメを信じるなよ。
籠神社には、古い鏡が伝世されてる。
普通は秘伝だから、表に出ないだけ。
945 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:04:50
畿内説が伝世鏡っていつの話?
今はむしろ、九州説だろ、伝世鏡を言ってるのは。
946 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:10:38
伝世された鏡もあれば、伝世されていない鏡もある。ただそれだけの話。
畿内説批判のつもりで伝世鏡説を叩いてる奴は、もっと勉強するように。
947 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:11:53
>>940 >伊都国の年代というのはどうやって決めた?
伊都国通信によると(200頃〜250頃) これは柳田説。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html 平原の年代については、色々あったみたい。
庄内式も出ていたけど、畿内の学者は古墳築造後に捨てられたと認めない。
伊都国の年代が200年以降になると畿内説に不利なのは明らかだし。
しかし、現在は、柳田説に対して、正面から反論して論争を挑むものもいない。
柳田も200〜250のうちの200年頃と強調するように妥協した。
畿内説も平原は無視、軽視でなんとかやっている。 こんな感じに見える。
>大型古墳が多数作られるようになるのは箸墓以後。
ホケノとかのレベルでも十分大型だよ。戦争やっている最中に人員を
動員してこの規模の古墳を作ったとかはあり得ない。
むしろ、狗奴国との戦争後に余剰労働力を動員したと見た方がいい。
948 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:16:34
もっとも伝世されてるのが、天皇家にあるがな。
949 :
太国:2006/11/12(日) 22:17:37
三種の神器。
950 :
九州ですが:2006/11/12(日) 22:18:18
>>944 あのね神社に何枚か伝わってる鏡なんかを言ってんじゃないの。
日本中に伝世した鏡があったら、少なくとも、奈良、平安の文献に出てきても
おかしくないでしょう。それも半端な数じゃないはず。
何年後に埋めると決まってないんだから。
何より鏡の伝世なんて943で言ったようにない。
>>947 >伊都国通信によると(200頃〜250頃) これは柳田説。
それってさ、庄内併行期だけどいいの?
供伴関係があるからもはや畿内だけを動かすことはできないのよ。
畿内の庄内を三世紀末から4世紀に動かすと『(200頃〜250頃)』も同じように
三世紀末から4世紀になるよ。
柳田は250年ごろから布留だから。
>>947 >戦争やっている最中に人員を動員してこの規模の古墳を作ったとかはあり得ない。
それは主観でしかないね。
狗奴国との戦争が全面戦争であったとはどこにも書いてないし。
953 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:34:11
>>871 >ようするに、高天原は朝鮮だといいたいわけね。
言ってもいない朝鮮を持ち出すのは卑怯だと思うけど。
記紀を読むと、高天原と出雲と日向の記述が大部分を占めている。
出雲と日向がどこであるかは明らか。
そうなると、高天原は、九州の西側ということになる。
福岡・佐賀・長崎・熊本のあたりが古代重要な地域であったにも関わらず
記紀の神代には全く登場しない。
それは、このあたりが高天原だったからに他ならない。そう思う。
>>952 >狗奴国との戦争が全面戦争であったとはどこにも書いてないし。
その前に、狗奴国と戦争したなどとも書かれていない。
955 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:37:22
書き漏らしたけど、大分も高天原に含まれるかもしれない。
956 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:00:36
>>953 他人の妄想を鵜呑みにする超低能発見!!死ねよ
957 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:03:17
この板で議論を続ける限り、結論は永遠に出ないのでは?っていうか、
結論が出ないのを楽しんでるよね。
958 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:04:02
>>951 そうだね。柳田は畿内の土器については、畿内説に妥協しているね。
平原では庄内移行期を200〜250と曖昧にしているようにも見えるけど、
著書では、正面から畿内を論じずに表で畿内の庄内を(200〜)にしてる。
本当は、平原が200年だと畿内の遡上年代とは出土物の共通性がないから、遡上派とは
相容れないはずだけど。画文帯が出土しないとか。
・・・柳田は、そうやって遡上派の人とも上手く付き合っているという感じに見える。
学者って、結構政治的なことに敏感なんだよね。
>>958 うまく付き合うも何も、同じものが一緒に出てるんだから同じ年代にしないとしょうがないでしょ。
で、片方上げればもう一方もあがらざるをえないという状況下で、
どちらの年代感が正しいかという論争をしてたわけ。
柳田は年代繰り上げ派の急先鋒で、そんなに古くなるはずがないと
畿内の土器研究者が反対して意見が食い違っていたというのが以前の経緯。
今おこっている畿内の年代繰上というのは、畿内の研究者が柳田の考えを
認めざるをえなくなってきているってこと。
960 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:18:31
>>959 そういうお舞には何の考えも無いな。死ね、低能!!
961 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:21:45
>>958 >>959 貴様らみたいな糞バカを生んだ母親はさぞかし後悔しているだろう。
せいぜい親孝行しろよ。低能!!
962 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:27:35
>>953 いさぎよく、邪馬台国は朝鮮人が九州に渡来して作った国だと認めたらどうだ?
そうすれば九州説はもっと信憑性が増すものを。
邪馬台国が東遷して大和朝廷になったなら、
朝鮮人が九州に渡来して邪馬台国を作ったという事実も認めないと。
963 :
九州ですが:2006/11/12(日) 23:37:47
>>)958
>>959 これなんかどう思う?面白いよ。
ホケノ山古墳からは庄内式土器や画文帯神獣鏡が出土しており、
邪馬台国時代よりもあとの時代の古墳と考えられる。
ホケノ山古墳の木槨の存在が、『魏志倭人伝』の
「棺あって槨なし」の記述と違っていることも、この古墳が邪馬台国時代
のものでないことを示している。
さらに、ホケノ山古墳だけでなく纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、
これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造であることを思わせる。
■ 庄内式土器の分布
北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎられた地域にしか分布しない。
これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm 上記はここより抜粋。
964 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:51:01
>>962 それはありえない。
倭人伝には、卑弥呼が共立される7,80年前には男王がいたとある。
西暦57年には、倭奴国の王が漢に使いを送っている。
朝鮮からある種の勢力が海を渡ったというのはどこにもうかがえないし、
そんな勢力が未開の朝鮮にあるわけがない。
朝鮮の歴史書といわれる三国史記にもそのような記述はない。
また、海を渡って日本を攻めるのは容易ではない。あの大帝国の元でさえ
不可能だった。
九州説と朝鮮を結び付けようとするのは、悪あがきでみっともない。
965 :
九州ですが:2006/11/13(月) 00:07:21
>>964 そうそう。でも以前に「日本人はどこから来たか」という本を読んだら、
遺伝子が一番そっくりなのは朝鮮半島、と近畿地方だった。
九州は旧モンゴリアンの血が強かったみたい。弥生時代に、何波にも
亘って、大陸からも人々が渡ってきたみたい。古墳時代にもそれは続いたんではないか。
前に聞いた事だが、大阪の難波っていうのは朝鮮語の日の当たる場所とか言う
意味なんだってよ。
966 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 00:16:39
>>965 これはなかなか難しい。
何かで見たけど、シベリアの人と日本人の遺伝子は近いらしい。
同じく、朝鮮人も近いらしい。
これはシベリアから共通の人が日本と朝鮮にやってきたことを示して
いるらしい。でも、日本にはアイヌのような民族もいた。
東南アジアや中国南部から南西諸島伝いにやってきた人がいたことも
確からしい。
また、山口県の遺跡から出土した骨は、中国の東北部あたりの人と
共通するらしい。
らしいばかりだけど、要するに、いろんな交流の結果ということかな。
でも、これは有史以前と考えたほうがいいと思う。
967 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 00:46:34
台はトという当て字もある。よって、邪馬台国はヤマト国とも読める。
>>965 その、データには信ぴょう性がない。なぜなら、近畿地方は全国から集まった
都市民で、単一の集団などないから。昔ながらの農村の集落の人のデータなら
わかるけど、村によって由来が色々ある。
マキムクには運河や上水道などの設備もあり、まだ、全てが発掘された訳では
ない。箸墓古墳などが宮内庁管理で発掘や調査ができない為、九州説論者に都合の
いいように解釈されてしまうという欠点がある。
968 :
日本@名無史さん:
>>965 >大阪の難波っていうのは朝鮮語の日の当たる場所とか言う意味
初耳ですが、多分ウソでしょうね。ワッソとかナラとかと同じで。
そもそも古代朝鮮語の実体が不明。日本語との類似性も低すぎます。
私は、日本語は日本で発展した言語を主軸として、南方系とのクレオールと考えております。
朝鮮、モンゴルの影響はわずかでしょう。