戦国大名の失策を語るスレ3

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1日本@名無史さん
スレタイの通りです。

001〜100・・・竜造寺家
101〜200・・・大友家
201〜300・・・大内家
301〜400・・・尼子家
401〜500・・・関東公方+両上杉家
501〜600・・・里見家
601〜700・・・最上家
701〜800・・・南部家
801〜950・・・徳川家

951以降のレスは次スレの戦国大名を選出ということで。


前スレ

戦国大名の失策を語るスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1124340863/

戦国大名の失策を語るスレ2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140275025/

竜造寺家からよろしくお願いします。
2日本@名無史さん:2006/11/13(月) 14:19:56
2着
3日本@名無史さん:2006/11/13(月) 17:42:50
この面子じゃすぐ落ちるな
4日本@名無史さん:2006/11/13(月) 19:56:18
>>1

>>3
とはいえ、メジャーどころは出尽くしたしな
それ以外だと、芦名、石山本願寺、室町幕府ぐらいで
知名度的にはドッコイだろ


5日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:11:52
龍造寺の失策は…隆信が馬にも乗れないくらい太りすぎてしまった事
6日本@名無史さん:2006/11/14(火) 02:42:13
蒲池氏謀殺も失策だったような
7日本@名無史さん:2006/11/14(火) 11:12:10
沖田畷は長篠以上の惨敗
隆信と四天王全滅って何じゃそりゃ
8日本@名無史さん:2006/11/14(火) 11:42:37
赤星離反はまあ当時としてはよくある話だし
離反や下克上に過敏になる背景も分かるけど
なんとかならんかったかな
9独身ホモ貴族:2006/11/14(火) 12:37:46
衆道が主従の結束を固める。
10日本@名無史さん:2006/11/14(火) 17:34:01
11日本@名無史さん:2006/11/17(金) 11:27:47
さすがに龍造寺だとネタないな。
隆信戦死がすべての没落の元なのは議論の余地ないからね。

大体、島津の釣り野伏せなんて上方の戦慣れした武将なら引っかからないような
単純な戦法でしょ?仙石秀久は引っかかったけどさ。
12日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:46:10
明の大軍も引っ掛かったのでは?
13日本@名無史さん:2006/11/17(金) 18:31:33
単純な戦法とは言っても、
クマ様じゃ家久に勝てるイメージがまったくないのは俺だけ?

確か島津は海路から援軍に来たんだよね。
海上封鎖とか出来なかったんだろうか。
14日本@名無史さん:2006/11/17(金) 19:16:18
単純=効果が薄いって訳でもないと思うが
伏兵戦術自体はよく聞くし

>>13
海上封鎖できるほど
領国が固まってなかったのではないだろうか
筑後でも離反勢力が出ていたみたいだし
15日本@名無史さん:2006/11/17(金) 19:39:57
【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153105213/
16日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:24:23
>>13
> クマ様じゃ家久に勝てるイメージがまったくないのは俺だけ?
それは「信長の野望」のやりすぎでは?

それはともかく海上封鎖と言っても当時は沿岸航法だから、
島原半島を勢力圏に入れておかないといけない。
その島原半島に勢力を持ってた有馬が島津に寝返ったのだからどうしようもないよ。
17日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:31:20
>>14
村上水軍も同じような「釣り+待ち伏せ」をやってたし、
真田昌幸が城まで釣ったあと篭城戦で撃破するのも原理は同じだから、
ありがちな戦法だったのだろう。

ただ物見を怠って地理不案内だったり地形みてもピンとこない人は(つまり戦慣れしてないということだが)
引っかかったのだと思う。
18日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:49:22
どっかの国の話だが城壁から戦を見ていた民衆が敵の逃走振りを見て伏兵がいる
のを感じ取っていたが実際戦っていた将軍は気づかずまんまと引っかかったという

敗走してる(と思われる)敵を勢いづいて追撃してるときに止めようとしてもなかなか
止められるものでもないのでは
19日本@名無史さん:2006/11/18(土) 11:22:19
>>18
それも含めて武将の技量なんだろうね。
特に九州あたりだと鎌倉時代の個人戦の伝統が色濃く残ってただろうから、
誰かが追撃すると我も我もで収拾不能になりかねない。
20日本@名無史さん:2006/11/18(土) 11:27:38
あー、でも龍造寺隆信が戦死したということは軍の先頭部にいたということで、
統御不能というか、結局本人も引っかかったのだと思う。
21日本@名無史さん:2006/11/18(土) 11:57:39
>>20
沖田畷の場合は弓鉄砲による混乱を収める為
陣頭指揮を執っていたら討たれたっぽいので
追撃戦で制御不能って訳ではない気がす

まぁ、大軍の展開できない湿地帯に誘い込まれて
伏兵にやられてるのだからその時点でアウトな訳だが

22日本@名無史さん:2006/11/18(土) 22:24:09
>>21
混乱の収拾なんて部下にやらせればいいのにね。
長宗我部元親が若い頃「将たるものの心得は何か?」と家来に聞いたら、
「将は先を駈けぬもの、退かぬもの、と聞いております」と答えたそうだが、
この場合まさにその通りだ。

23日本@名無史さん:2006/11/19(日) 19:55:46
>>22
そこが急ごしらえ勢力の悲しいところかと
一族(鍋島含む)以外でこれといった
譜代の家臣がいなかったのでは
四天王もどちらかというと現場指揮官といった感じだし

24日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:10:11
ちょっとスレからずれるが、なんでフロイスはこいつのことを日本のカエサル
なんて評したのかが不思議。
25日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:17:43
隆信、佐賀に残って鍋島直茂を総大将に据えて出陣させれば良かったんだよ
26日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:28:44
>>25
それで直茂戦死で龍造寺家安泰か。なかなかヤルなw
意外と遠征軍使ってそのままクーデター起こしたりして。
27日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:38:55
むしろ直茂に責任押し付けた隆信死後の竜造寺一門は
それなりの領地貰ってぬる〜く過ごしてたと思うけどな。
直茂は厄介事押し付けられて乗っ取りの汚名まで着せられた
被害者とみることもできなくない?
28日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:32:03
>>27
化け猫騒動のネタにもされたんだっけ?

そういえば、隆信の曾孫が幕府に竜造寺氏の復権を訴えた際
鍋島の正当性を支持したのが竜造寺氏の分家だったって話があったっけ

今更余計なトラブル持ち込むなってところだったのかも
29日本@名無史さん:2006/11/21(火) 02:01:27
>>26は冗談として鍋島直茂は結構誠実だったと思うな。
こういう場合って主家は放逐になる場合が多いし。
旧主家が捨て扶持もらって家臣になった大名って他にあるかな。

30日本@名無史さん:2006/11/21(火) 10:24:50
織田は?
31日本@名無史さん:2006/11/21(火) 14:59:54
まぁ隆信の息子自体が鍋島政権をヨイショしてんだから、
どーしょーもないワナ
32日本@名無史さん:2006/11/21(火) 15:55:35
>>29

織田家での斯波守護家とか黒田家での小寺家とかすぐに思いついたが
33日本@名無史さん:2006/11/21(火) 21:08:25
主家がNo1の家臣に禅譲しちゃうケースってなさそうで結構あるんだね
豊臣→徳川みたいに主家を根こそぎ滅ぼしちゃう方がむしろ例外なのか?
34日本@名無史さん:2006/11/21(火) 21:27:25
守護が下克上されてなし崩しに家臣になるってパターンは結構あるね
35日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:47:48
>>33
一族郎党皆殺しってのはあまり無いかも

前政権の支配基盤なんかもそれなりにあるだろうし
一族の中でも、従順な者をお飾りにして
それまでの体制を、ある程度引き継ぐって方が
全部打ち壊して最初からってよりやり易いのではないだろうか
36日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:51:23
在地勢力を弱めてその有力家臣を独立させ直臣下にするというのは秀吉はよく
やっているね。立花とか小早川とか
家臣側ももともとは独立した勢力だったのだから、たまたま竜造寺主家交代
だっただけなのでは
参勤交代に耐えかねて鍋島家臣になった諫早家の方が珍しいのでは
37日本@名無史さん:2006/11/22(水) 09:01:57
>>33
ねぇちゃんと嫁さんの姉と妹のオマンコで結局生き残った京極なんかも、
浅井に領土はとられたけど細々と生き残っていたかと
38日本@名無史さん:2006/11/22(水) 12:35:55
穴働きってわけか
39日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:41:40
>>32
家臣による御家乗っ取りで、主君と家臣が入れ替わるって話でしょ?
上杉家と長尾家なんかが近いのかもしれない。この場合、長尾家出身の謙信が「上杉」を名乗ってしまったが。
織田信長と斯波義銀は独立勢力だった信長が織田信友に追われて助けを求めてきた斯波義銀を政治的に上手く利用した感じだし、
黒田家での小寺家は織田・豊臣政権下で出世した黒田が没落した小寺を助けた感じだからどっちも微妙に違う。

家臣による御家乗っ取りとは例えば土岐家と斉藤家とか、浦上家と宇喜田家みたいなケースかな。
40日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:51:29
>>39
管領細川家と三好家も近いかね
41日本@名無史さん:2006/11/23(木) 17:23:07
>>39
考えてみりゃ織田と豊臣もそうかな。
柴田を潰したり、信孝自裁させたり、信雄や徳川と対立したり紆余曲折あったが、
三法師が織田家嫡流と見なせば三法師が豊臣に権力を譲り家臣の列に加わった、とも考えられる。
42日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:01:14
>>39
今川と徳川もな。品川なんて名乗っても今川の本家だろ。
43日本@名無史さん:2006/11/24(金) 16:57:13
今川徳川はちゃうだろ。
徳川は今川政権下で力を伸ばしたわけじゃない。
従属させられてたのが機を見て独立、打倒し、
のちに旗本として拾ってやったわけだから。
44日本@名無史さん:2006/11/25(土) 03:42:33
龍造寺の場合、そもそも一門がほぼ全滅してたからねぇ。
まぁ家兼が馬場の策謀を上手く封じていれば、
そもそも隆信が家を継ぐ事無く・・・。

その場合、龍造寺があそこまで勢力広げられたかどうか分からないけど。
45日本@名無史さん:2006/11/26(日) 20:25:43
鍋島ではなくても、隆信の弟が残ってるのにね。
家来に頭下げなくても・・・
46日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:06:19
政家が猿吉に嫌われていたみたいだし、気に入られていた直茂に
とりあえず任せた方がと考えたのじないか?
大友みたいに改易されるのはもった嫌だろう、でそのままなし崩し
で逆転してしまった
47日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:08:55
>>45
次男も三男も他家に養子に入ってるし、難しかったのではないかな
一応、家種自身も努力はしていたみたいだが
朝鮮の役で戦没しちゃったしな

政家に隠居を命じたのは(直茂の工作があったかもしれないが)秀吉だし
江戸初期には一門が、(本音はどうか分らんが)鍋島氏の相続を支持していたわけだし

と、鍋島をフォロー
48日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:51:57
もとは肥前の1国人領主
ゲームなんかじゃ天文年間から大名だったりするみたいだけど
実質は肥前の一部を支配するただの小領主だったのだから
成功した部類だとは思う
49日本@名無史さん:2006/12/25(月) 01:46:39
国人衆の謀殺は離反を招いたとは言え
その間は全体として竜造寺家は強大化しているから失策とは呼ぶべきじゃないかな?
50日本@名無史さん:2007/01/10(水) 15:25:51
沖田畷がすべてだな
51日本@名無史さん:2007/01/10(水) 22:55:38
たまにはあげ
思った以上に進まないな
52日本@名無史さん:2007/01/27(土) 05:43:05
おげ
53日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:15:39
保守
54日本@名無史さん:2007/02/07(水) 21:35:07
少弐による一族壊滅が無かったら
55日本@名無史さん:2007/02/07(水) 22:22:45
逆に一族壊滅があったからこそ
隆信が出てこれたとも言える
56日本@名無史さん:2007/02/07(水) 22:34:25
そういや隆信は直系じゃ無かったな

龍造寺胤栄も都合よく死んでくれたし
57日本@名無史さん:2007/02/08(木) 13:44:29
元就や直家や経久には及ばないものの
かなり酷い状況からのスタートなんだよな
最初は数万石程度でしかないだろ
58日本@名無史さん:2007/02/08(木) 18:28:57
隆信や直家は純粋にゼロからというんじゃなくて、
一回外からズタボロにされたのを継いだ状態からだから、
旧家臣とかへのコネもあるだろうから、元就・経久に一段劣るかな。
そのコネも有効なのは元の大きさまでだけど。
59日本@名無史さん:2007/02/08(木) 18:32:33
経久はもともと守護代だぞ
60日本@名無史さん:2007/02/08(木) 23:26:09
>>57
一時期、蒲池氏の下に逃れていた時は
300石とかじゃなかったっけ?

元就や経久より、スタート時の状況は悪い気がする
61日本@名無史さん:2007/02/08(木) 23:44:48
>>60
そんなもんだったな
でも蒲池の支援で旧領を奪還してからがスタートと考えてもいいんじゃない
でもまあ特別に低い段階からのスタートで
最大肥前大半肥後北半分筑後大半筑前一部豊前一部となったから
討ち死にしていなければ元就に並ぶぐらいの成長率を示していたのに
62日本@名無史さん:2007/02/16(金) 14:19:18
ゲームでは評価が低すぎるよな
道三なんかよりも悪い状態から始まって
道三を上回る勢力になったと言うのに
最後が駄目で戦死なのもいっしょなのに
63日本@名無史さん:2007/02/16(金) 16:00:08
>>62
全般的に戦闘は高いけど知力(政治)はチョットって
設定が多いねぇ
最近のゲームだと智謀とかが高めに設定されてるらしけど

古いゲームだが、天下統一というシステムソフトのゲームでは
軍事13政治7(最高値は16)
ちなみに、他の武将は
宇喜田直家 軍事8政治13
斉藤道三   軍事15政治15
鍋島直茂   軍事13政治13
島津家久   軍事15政治5
64日本@名無史さん:2007/02/20(火) 02:05:06
それほど軍事に優れていたのかな?
今山は別としてあとは中小土豪相手以外に
大勝といえるような戦はあまり無いと思うが
相手が大友だからでもあるが


智謀と言うか謀略に優れた武将なんじゃない
65日本@名無史さん:2007/02/20(火) 08:54:24
「肥前の熊」って渾名からくるイメージだろうね
タイプ的には宇喜田直家に近い気もするけど
ゲームとかのグラだと、厳つい髭ダルマの風貌なので
どうしても、謀将というより、猛将に思えてしまうし
66日本@名無史さん:2007/02/20(火) 14:55:11
やってることも直家に近いよな
殺しまくり
67日本@名無史さん:2007/02/20(火) 16:31:19
龍造寺隆信の閨閥関係て見えにくいね
お母ちゃん(慶ァ尼)と娘(玉鶴、秀の前)が目茶目立つ。
奥さんとか側室とかの出身はどれくらい分かっているんだろう。
68日本@名無史さん:2007/02/20(火) 19:19:00
>>67
正室は龍造寺胤栄の未亡人だったと思う
69日本@名無史さん:2007/02/20(火) 21:21:49
それで本家を継いだのか
70日本@名無史さん:2007/03/01(木) 19:46:01
過疎なのでもし沖田畷で戦死しなければどうなっていたか?

あと鍋島って竜造寺時代の功績は鍋島のものとなり
竜造寺の失策失政は鍋島が関わっていない止めようとした
最後は鍋島を嫉妬から遠ざけたみたいに書かれているが
やっぱ佐賀藩が自分に都合の言い様に改竄していそう
71日本@名無史さん:2007/03/02(金) 23:21:34
まあその辺は仕方が無いかもしれんな
ただ竜造寺家も存在しているから
あからさまな捏造は少ないんじゃないかと思う
72日本@名無史さん:2007/03/02(金) 23:27:51
しかし伸びないな
たまにはage
73:2007/03/02(金) 23:47:56

今川義元って、上洛してどうする気だったんだろ?

そもそも「信長を撃破通過」だけでは尾張とか統治しきれないと思うけどどうなん?
そのあと、斉藤とか六角とかをどうするつもりだったんだろ?
上洛はガセ?ただの尾張占領軍?

で、上洛したとして、どうするつもり?

1、「オレ足利だから」と将軍になる。
2、三好長慶パターンで、副将軍とか管領とかなって→A、大内のようにそのまま滞在 B、凱旋帰国
3、関東管領とか関東公方とかなって帰国。
4、「東海探題」とかわけわからない役職貰って帰国。


ナゾだなお歯黒さま。
74日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:00:33
>>73
確実に言えることは、お前はまず>>1を嫁ってことだけかな
75日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:15:16
もう少し隆信に慈悲の心があればな
筑後の制圧もより楽だったと思う
76日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:17:28
どクソマイナーな竜造寺じゃこれ以上語りようがないからしょうがないんじゃね?
名門シリーズ畠山みたいに、スレが消えるぞ。
77:2007/03/03(土) 00:20:45
>>74
龍造寺さんに対しては「突出したらダメぇ」としか言えないですよ。

そのあとの大友さんには「ムジカってマジかよ!?」としか・・・
78日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:22:15
>「ムジカってマジかよ

誰が上手いこと言えとry
79日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:22:51
>>73
そもそも上洛しようとしてたというソースあるのか?
80日本@名無史さん:2007/03/03(土) 01:03:03
>>70
>過疎なのでもし沖田畷で戦死しなければどうなっていたか?

豊臣政権下では普通に生き残りそうだけど
御家騒動で江戸初期には改易になりそう
81日本@名無史さん:2007/03/03(土) 01:17:36
>>70
秀吉に突っ張って、蹂躙されて終了。
頭下げるタイプじゃないだろ。
82日本@名無史さん:2007/03/03(土) 04:10:45
>>100まで竜造寺か
次回から100レスあるいは1ヶ月で切り替えにしたほうがいいかも
83日本@名無史さん:2007/03/04(日) 00:16:29
伸びないな
84日本@名無史さん:2007/03/04(日) 14:50:04
秀吉に降伏したとして肥前と筑後ぐらいかな貰えるとしても
逆らって降伏したとしたら肥前の一部と言った所か
85日本@名無史さん:2007/03/04(日) 20:33:40
戦死しないで逆に勝っていたとしても
あの一戦で島津が滅び訳じゃないし
結局秀吉がくるまで三竦みのままかね
>>84
筑前は絶対取り上げられそう
86日本@名無史さん:2007/03/04(日) 20:53:52
>>85
大友氏は既に左前だったし
仮に勝っていたら、九州の北半分は押さえられたんじゃないかな
87日本@名無史さん:2007/03/05(月) 20:29:40
>>85
仮に島津と大友を倒して九州統一できたとしても、最後に待っているのは羽柴兄弟による蹂躙だろうからなあ
どう転んでも結果はあまり変わらなそうだ。

次は大友か・・・伊達と並ぶ失策の宝庫だな。
88日本@名無史さん:2007/03/06(火) 02:22:08
>>86
この時期の大友は既に豊後と筑前の一部というところか
秀吉に助けられても豊後しか残らなかったのは当然か

>>87
さっさと降伏していれば肥前と筑後ぐらい貰えたんじゃないかと思う
抗戦したら明への遠征を考えてる秀吉にとって北九州は重要だから
結構削られそうだな
89日本@名無史さん:2007/03/06(火) 06:45:38
なんだ、この糞スレw
3ヶ以上かかって、100スレにも達していないじゃん。
龍造寺などマイナーだから無理もないがw
90日本@名無史さん:2007/03/06(火) 11:26:37
マイナーだからってより、ネタが少ないからだろうな
筑後経営の失敗と沖田畷の敗戦ぐらいしかないし
竜造寺氏の失策、というより隆信の失策だが

残り10で言うのもなんだが
鍋島氏も一緒にしたらもう少し伸びたかな?
91日本@名無史さん:2007/03/06(火) 12:14:03
猫かw

つか、鍋島氏は「戦国 大 名」とはちょっと違うような
戦国時代に於いては肥前国人の一人で龍造寺氏ご家門の一人?という扱いだし。
92日本@名無史さん:2007/03/06(火) 14:42:54
ならあえて隆信のおじいさんのはなしでもしますか
93日本@名無史さん:2007/03/06(火) 15:21:12
沖田畷じゃね?
隆信の戦死で有力家臣達が次々に敵陣に玉砕突撃
94日本@名無史さん:2007/03/06(火) 15:56:27
1578年の段階じゃ大友に従って日向に出兵している程度の存在だったのに
そこから5年ほどでよく頑張ったとは思うけどね
政宗より拡大速度が早いと思う
それほど大友にとって耳川の敗戦は痛かったのだろうけど
95日本@名無史さん:2007/03/06(火) 16:28:26
鍋島も失策と言うほど失策ないし
関ヶ原でちゃんと東軍についていれば多少加増があったかもしれないとか?
96日本@名無史さん:2007/03/06(火) 17:33:12
竜造寺は78年の段階じゃどんぐらいの勢力だったの?
97日本@名無史さん:2007/03/07(水) 01:31:00
ゴメン
こんなとこでなんだが
過去スレ、伊達の失策ってどんなことが挙がってたか教えて下さい
98日本@名無史さん:2007/03/07(水) 01:51:04
>>96
肥前一国ぐらいだったはず
とはいえ、南部、西部の大村、有馬、松浦といった辺りは
面従腹背といったところ
99日本@名無史さん:2007/03/07(水) 07:32:51
にゃあ
狭路に大軍とは兵法の基本に反しますね。
100日本@名無史さん:2007/03/07(水) 08:41:55




     結論:竜造寺はマイナー


     結論2:>>1の縛りはスレ過疎の原因に




101日本@名無史さん:2007/03/07(水) 10:37:00
ああ、次はネタの宝庫大友氏だ・・・

やっぱり一番の失敗は当主が本気で耶蘇教にはまったことだろうか
102日本@名無史さん:2007/03/07(水) 10:48:46
次は大友氏ですか

・宗麟のキリスト教への改宗
・今山合戦での大敗
・耳川合戦での惨敗
・文禄の役での敵前逃亡
・関ヶ原合戦


結構あるな
103日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:07:02
スレが過疎化するので、期間限定にしたら?
3/7〜4/7の1ヶ月で100レスいかなかったら、自動的に次へ移るとか。
104日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:52:12
人がゴミのようだ
105日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:59:51
      ,..-‐−- 、、
    ,ィ":::::::::::::::::::;;;;;:ii>;,
   /:::::::::::::::;;;;;;;;iii彡" :ヤi、
   .i::::::::::::;:"~ ̄     ::i||li
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   .|:::i´`   `‐-‐"^{" `リ"゙
   ヾ;Y     ,.,li`~~i    ・・・それは私だ。宗麟のユートピアはムシカだ。
    `i、   ・=-_、, .:/
       ヽ    ''  :/
       ` ‐- 、、ノ
106日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:04:01

      人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人
    Σ                           て
    Σ  びっくりするほどユートピア!        て人__人_
    Σ         びっくりするほどユートピア!      て
     ⌒Y⌒Y⌒Y)                          て
             Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒
 _______
 |__       ヽ(゜∀゜)ノ
 |\_〃´ ̄ ̄ ヽ..ヘ(   )ミ
 | |\,.-〜´ ̄ ̄   ω > (∀゜ )ノ
 \|∫\   _,. - 、_,. - 、 \ (  ヘ)
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107日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:21:55
ムスカキタコレ
108日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:54:20
つーかどうせ江戸時代には立場逆転するんだから
早いところ、立花家に国譲って臣従してれば良かったんじゃないのwww
109日本@名無史さん:2007/03/07(水) 14:02:18
豊後の人は大友宗麟を英雄視したがるけど
どう考えてもこいつはただのDQNで、
勇猛な家臣に恵まれていたから北九州を制覇できただけの話だろ
110日本@名無史さん:2007/03/07(水) 18:46:27
なんていうか…まだ血縁者が有能だったら何とかなったかも知れなかった
111日本@名無史さん:2007/03/07(水) 22:53:26
>>109
家臣を束ねるのが君主の仕事だろ。
112日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:10:24
江戸時代には大友氏は、辛うじて旗本として拾われて
立花氏は中規模の大名だよね?

江戸城中とかで出会ったら、どうしてたんだろうw
113日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:45:05
>>112
格式や官位は大友のほうが上だった
114日本@名無史さん:2007/03/08(木) 07:52:11
柳川藩歴代当主は従四位下だったみたいだ。
が、大友氏は江戸時代そんなに官位高かったのかな?
足利一門とかでもなし、そんなに優遇される程のものでもない気もするが
115日本@名無史さん:2007/03/08(木) 10:46:49
>>112
旗本って言っても>>113のいうように高家なわけで
ただ、拾われた後で直系は一回断絶、一時期お取りつぶし状態になっているのが何とも。
その後復帰できたのは、
義統の側室が後水尾天皇の乳母だったり、娘が東福門院の侍女だったりして
朝廷方面から根回しをしたから

>>114
つ 自称「頼朝の末裔」
116日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:54:48
>>114
従四位上が何人かいて、高家肝煎にも選ばれたのもいる

鎌倉時代から豊後の守護勤めてきた家柄だし
名家と言ってもいいんじゃない?
117日本@名無史さん:2007/03/09(金) 12:01:44
宗麟以前の大友氏が何やっていたのかがよくわからん

宗麟の父・義鎮が宗麟とは不仲で廃嫡を企んでいたりとか
武田信虎・信玄の関係と似ているのか?
118日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:44:12
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   ヾ;Y     ,.,li`~~i    ・・・先祖代々企んでいたのだよ。
    `i、   ・=-_、, .:/
       ヽ    ''  :/
       ` ‐- 、、ノ
119日本@名無史さん:2007/03/10(土) 08:16:24
>>117
祖父、曽祖父は一族の争いを収めたり、大内氏の介入を退けるなど
領国を固めた名君と言われてる

親父の方はちょっとアレで、二階崩れの変もそうだが
菊池氏に養子(=弟)を送り込んで乗っ取ろうとしたが
肝心の弟との仲が悪く、結局弟と争う事になるという
見事な失策をやっている
120日本@名無史さん:2007/03/10(土) 15:41:08
宗麟も高橋氏と立花氏で失敗してるな
121日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:32:44
>>102
今山合戦での大敗は捏造の可能性が大だけど
他にも一時期豊前奪われたり
筑前の諸将に離反されたり

他にも耳川後に内乱起こしたり

戦術的に弱い気がするな毛利にも戦場では勝てずにいたし
戦略で勝ったから問題無いけど
122日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:50:35
あげ

戦国大名には付き物の結婚政策についてみていきましょうか
やっぱり宗麟の話になってしまうのですがw
奈多氏と結婚したのは失敗だったのか?田原親賢みたいな疫病神まで付いてきたし。
123日本@名無史さん:2007/03/12(月) 19:06:27
>>122
田原親賢の重用は一概に失策とは言えないし
耳川の敗戦も田原に責任があるかは非常に怪しい

田原家は豊後でもかなりの勢力で田原庶家の田原親賢を取り立てる事で
田原総領家を牽制する目的もあったはず

ちなみに田原親賢が失脚して田原家がまた一つにまとまったら田原が反乱起こした
まあ一つにまとまったことが原因ではないにしても田原親賢が失脚していなければ
反乱は起こせなかった、起こせたとしてももっと早期に鎮圧することが可能だったかもしれない
124日本@名無史さん:2007/03/12(月) 22:03:25
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   ヾ;Y     ,.,li`~~i    ・・・我が理想郷にカモンなのだよ。
    `i、   ・=-_、, .:/
       ヽ    ''  :/
       ` ‐- 、、ノ
125日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:57:39
筑前豊前肥前とやたら離反されやすいな
統治システムが駄目過ぎたんじゃないか?
126日本@名無史さん:2007/03/13(火) 08:56:45
落ち目になるとアッサリ見放されるのは
どこも似たようなものと思われ

特にあの辺は大内、毛利、竜造寺といたし
127日本@名無史さん:2007/03/13(火) 09:32:20
128日本@名無史さん:2007/03/13(火) 21:32:34
>>126
竜造寺はそもそも大友の一家臣でしかないと思うが
あと大友が豊前筑前に進出したのは大内滅亡後
129日本@名無史さん:2007/03/13(火) 22:14:46
龍造寺は>>1-100の持ちネタではなかったのか(w

それはともかく、龍造寺は当初は少弐氏の家臣という扱いだったのでわ
130日本@名無史さん:2007/03/14(水) 00:12:49
>>129
竜造寺はもと少弐家臣で大内家臣となり
大内滅亡後は大友家臣だから、どうしても大友の時にも出てくると思う

竜造寺も60年代後半の毛利の調略受けて秋月高橋筑紫らと共に離反した国人の一人だけど
その後また大友に降伏して77年には日向方面への出兵を命じられる書状が残っていたと思う
131日本@名無史さん:2007/03/14(水) 14:09:34
>>130
今山の戦いで独立したのかと思ったけど違ったのか
132日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:24:21
竜造寺に限らず秋月みたいな勢力をもう少し強力に統制できなかったのかね
北九州は毛利の影響あったけど常に敵対していたわけじゃないし
大内が滅んでから耳川まで20年ぐらいあったのに
133日本@名無史さん:2007/03/16(金) 00:23:44
毛利がいたからこそ強固な支配を行って国人衆の反発招いて
また毛利に介入されては困ると思って名目上の支配で我慢したのかもね
134日本@名無史さん:2007/03/16(金) 07:31:40
今川麻呂(義元とも呼ばれた)が 馬にも乗れなくて
桶狭間で逃げ遅れて、討ち取られたのは情けない
135日本@名無史さん:2007/03/16(金) 08:54:27
>>134
ハイハイそうだね情けないね


> 文禄の役での敵前逃亡
何と言ってもこれが最大の失策だと思うんだが
これ位で改易は、幾ら何でも厳しすぎるんじゃまいか
136日本@名無史さん:2007/03/16(金) 10:17:11
>>135
>これ位で改易は、幾ら何でも厳しすぎるんじゃまいか

見せしめの為ってところじゃないか
ついでに恩賞の土地も確保できて秀吉的には一石二鳥って感じで

とはいえ、関ヶ原での義統の対応を見ると
これが無くても遅かれ早かれ改易になりそうだが
137日本@名無史さん:2007/03/18(日) 04:29:57
義統は秀吉の九州侵攻でもヘマをやらかしたな

そういえば宗麟の弟は大内家最後の当主で
息子は大友家最後の当主か
138日本@名無史さん:2007/03/18(日) 05:22:54
秀吉に日向の地も大友家にあげるよっていわれたのに
固辞したのも失策だよね
139日本@名無史さん:2007/03/18(日) 10:21:53
>>87
> 次は大友か・・・伊達と並ぶ失策の宝庫だな。

それは、大友に対して余りにも礼を失していると思われ。
140日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:53:29
>>132
秋月文種には、茶碗を献上しろと言っていた。
事実上、臣下の礼を執れということなんだけどね。

結局、信長みたいに気に入らない家臣や他家をどんどん
取り潰したりできるのは、例外だと思う。
141日本@名無史さん:2007/03/18(日) 20:42:15
毛利が尼子を相手にしてる間にしっかり豊前筑前の支配体制を築くべきだった
142日本@名無史さん:2007/03/19(月) 17:41:39
>>141
でもまあ、その頃、竜造寺はようやく独立、
島津も大隈の肝付と小競り合いしてたしな
これでいいや感はあったと思う
143日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:20:29
何事も手ぬるかったのがすべてなのかorz

ところで「二階崩れの変」は 大 友 氏 としては失策にならないのかな。
宗麟としては「うしし」な結果になったのは確かだが。
144日本@名無史さん:2007/03/21(水) 14:27:48
>>143
>宗麟としては「うしし」な結果になったのは確かだが

宗麟黒幕説とかあるね

でも、三男で、しかも側室の子が跡を継いだら余計に混乱した気もする
失策は失策だが、最小限の被害で食い止めたってところかと
145日本@名無史さん:2007/03/21(水) 14:58:01
変の直後に、入田親誠が失脚、粛清されて、
吉岡長増が再登場しているし、家臣団の思惑も
あったんだろうけどな。
146日本@名無史さん:2007/03/25(日) 14:41:25
今山の戦いの後の大友と竜造寺の関係はどうなってるの?
147日本@名無史さん:2007/03/29(木) 22:26:29
200迎えないうちに4月7日に次の大名に進みそうだね
148日本@名無史さん:2007/03/29(木) 22:27:01
あげておこう
149日本@名無史さん:2007/03/30(金) 14:40:37
大友って源氏なの?
150日本@名無史さん:2007/03/30(金) 16:40:12
>>146
再度大友に服属したんだと思う
151日本@名無史さん:2007/03/30(金) 19:00:53
>>149
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/otomo_k.html
豊後の戦国大名として、北九州一帯をその勢力圏とした大友氏は、
源頼朝の庶子を祖とする所伝が伝承されてきた。しかし、最近では
大友氏の初代能直は古庄(近藤)能成の子で、中原親能の養子に
なったのだという説が有力になっている。中原親能の養子となった
能直が中原氏を名乗らなかったのは、すでに相模国大友郷を所領
として、その土地の名をとって大友氏を名乗っていたからだという。

だそうだ。
152日本@名無史さん:2007/03/30(金) 22:52:46
>古庄能成

こいつ何者?
153日本@名無史さん:2007/03/31(土) 14:02:40
大友の場合親族や家臣の裏切りで語ることたくさんあると思うのだが
154日本@名無史さん:2007/04/05(木) 00:42:01
国衆の離反はやたら多いな
豊後でも宗麟の治世中に何度か騒動起きているし
よく信長が家臣に離反されまくりなどと言う人がいるが
そんな比じゃないだろ
支配範囲だけは広いけど
155日本@名無史さん:2007/04/06(金) 06:48:04
今日で大友ともお別れか
156日本@名無史さん:2007/04/06(金) 09:30:33
大友ソリーン!
157日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:57:49
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       ` ‐- 、、ノ

158日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:41:11
次に行くとか言ってる人、後のことを考えてるのか?
繰上げになって順々に進んだら、徳川家の後が余りまくる。
それに、新しく来た人が>>1読んで混乱しまくる。どうするつもりだ?

それに、 大 友 氏 でスレが伸びないのなら、他の誰だと伸びるというのか?
159日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:16:03
ま、次の大内、尼子でスレが劇的に伸びるかというと
そうでもないだろうしな

スレの伸びだけなら島津part2とか伊達part2の方が伸びるだろうけど
それはなんか違うと思う
160日本@名無史さん:2007/04/07(土) 17:22:41
余ったのはまたそのとき考えればいい
161日本@名無史さん:2007/04/07(土) 20:37:52
だから、話題指定してあるのがそもそも間違い。

好きなときに好きな話題を出して、それに乗っかる形が自然。
宗麟に興味がなければ、見た瞬間「どうでもいい」と思って当分来ないだろ?



結論:>>1がクソ
162日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:42:10
それぞれ単独スレはあるんだし、失策に限定して語るから面白いんだろうに。
大体、パートスレでグデグデになるなんてよくあること。
次スレがあるとして、期間限定やレス短縮はちゃんと考えとくべきだな。
大友がこれ以上進行しなさそうなら、今のうちに決めておくのもありだけど。
163日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:46:15
そういう話は前スレで言って欲しかったな

3スレ目だとマイナー&中小増えるし
進みが遅くなるだろうなってのはあったけど
1が糞はないだろ
164日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:18:57
陶が毛利に負けてなかったら両者とも地域統一に邁進していったのかねぇ
165日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:19:38
両者=大友・陶(大内)ね
166日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:48:37
大内は少弐滅ぼして
筑前豊前に加えて筑後肥前持っているから
大友がとれる範囲は・・・
最も大内義長は宗麟の弟だし
筑前の立花とかは大友庶家だった気がするから
その内一体化するかもしれないし
今川北条みたいに成長していくかも
167日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:49:57
そういえば
未だに
・宗麟のキリスト教への改宗
・今山合戦での大敗
・耳川合戦での惨敗
・文禄の役での敵前逃亡
・関ヶ原合戦
この辺があまり話し合われていないな
国衆への対応とかが中心で
168日本@名無史さん:2007/04/11(水) 07:09:31
自作自演でスレ伸ばしているのが哀しいな。
169無名鹿さん:2007/04/11(水) 07:54:25
戦国大名ごとに名無し名を考えて
全員、名前欄に書くようにすればわかり易いんじゃまいか
↑こんな感じで
170名無鹿さん:2007/04/11(水) 07:55:31
↑こっちの方がよかったかな
171日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:07:28
     ,..-‐−- 、、
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172日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:48:15
>>167
筑後は、大友方だな。
蒲池をはじめとして大友との付き合いが深かったよ。

大友義長の代には大内と和解、一時、資金援助もしたらしい、
そして、大友義鑑の代には、大内と話がついて、豊前・筑前・
肥前には大内に優先権を認め、大友に豊後・筑後・肥後の優先
権を認めるということで、話がついていたみたいだな。

173日本@名無史さん:2007/04/12(木) 02:13:24
・宗麟のキリスト教への改宗

これについては、最近、必ずしも失策とはいえないん
じゃないかと考えるようになった。
>宗麟のキリスト教への改宗が評判が悪い理由の一つは、
江戸時代・寺社関連の資料が、非難していることだ。
言うまでもなく、江戸時代は禁令だからその時代の資料が、
批判的なのは当然だ。
そして、より大きな理由として耳川の合戦後に家臣団の引き
締めのために、寺社の領地を取り上げて家臣に分配していた
ことがある。
現実問題として、鉄砲の大量使用のためには、南蛮貿易での
硝石の輸入と硫黄の輸出をやめるわけにはいかないわけだ。
キリスト教へ改宗しなかった島津・松浦へは、南蛮貿易が
激減していった事からすれば、止むを得なかったのかと思う。
174日本@名無史さん:2007/04/12(木) 10:30:57
昔の騎馬隊なんてものは無くてちっちゃい日本馬に騎馬武者がまたがって敵の近くに着いたら降りて戦うって
よく聞くけど、
モンゴルと戦ったり朝鮮とかと戦ったりした時に大陸の馬の強さ、かっこよさを見て戦国時代までに
輸入しなかったんだろうか?
雄と雌がいれば繁殖も出来るわけだし、それに武田の騎馬隊、上杉の騎馬隊って呼ばれる物が一部意外みんな徒歩
っていうのも信じられん、騎馬隊無しでなんで戦国以降騎馬隊騎馬隊と騒がれたのか。
足軽のあの長い槍も大陸馬の騎馬隊が無かったら生まれてないだろと
でかい城と凄まじい人口を揃えてた日本が馬を輸入できないとか矛盾があるだろ

江戸幕府で刀狩同様戦力になる大陸馬が徹底的に馬肉にされたり、馬具没収廃棄されて
馬がいた証拠もなくなったとかは考えられないの?
175日本@名無史さん:2007/04/12(木) 13:31:43
>>174
品種改良なんて考えは当時ないでしょ
それに継続的に馬匹を輸入するのも大変
元寇は一時期で、しかも渡洋作戦だったからそもそも騎馬が目を引くほど多数いたかも疑問
結局自前の馬で賄うのが一番ってことになる
それに江戸期ですら蹄鉄のような技術が無かったんだ
馬に無理させられる環境でも無い
176日本@名無史さん:2007/04/12(木) 15:50:45
>>174
そもそも武田軍が「たくさんの馬」を動員できていたか疑問。

・余剰生産力の乏しい、貧乏国家にそんな余力あるのか?
・古代の「牧」は所詮古代の話だろ。
・武田軍は「四散して撤退、野山を勝手に退却、決められている地点で再集合」という
 特殊な移動(撤退)法を採用していたらしいのだけれど、
 馬連れてそれができるのか?

っていうかモンゴル馬は、日本の馬とそう変わらんぞ。
177日本@名無史さん:2007/04/12(木) 17:00:00
1、牧場で馬を増やす
  ↓
2、優秀な馬は軒並み戦場へ送られる
  ↓
3、残った駄馬で繁殖
  ↓
 (2に戻る)

っていうことの繰り返しだったので、遺伝的に優秀な馬が残らなかったとかいう話を、
何かの本で読んだことがある
178日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:37:21
>>177
年々時代が進むに連れて馬が小型化しているという話しを聞いたことあるな

って大友あまり関係無いし

話し変えて
耳川
あのまま城を包囲して島津主力と対峙して
一万田や阿蘇なんかの別働隊の侵攻を待つ方がいいと思うんだが
豊後から南北に長い日向の兵站が厳しかったのかもしれないが
179日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:36:25
>>178
肝心の別働隊が肥後から一ヶ月近く動かなかったしなぁ

別働隊の主力には日向攻め反対派が多かったというし
家臣の反対を押し切って出兵した手前、とりあえず勝利が欲しかったのでは
180日本@名無史さん:2007/04/13(金) 16:36:00
>>173
でも深入りしすぎたのはやっぱり失策かと
フロイス日本史見る限りでは、モノホンのキリシタンだったみたいだし。>宗麟

ところで、「宗麟」は出家後の名前なんだよね。
宗麟的には、心の中で仏教とキリシタンのかねあいはどうなってたのだろう。
181日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:22:55
     ,..-‐−- 、、
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    `i、   ・=-_、, .:/
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       ` ‐- 、、ノ

182日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:01:22
>>180
出家の後に洗礼を受けてるのだから
キリスト教>> 越えられない壁 >>禅宗と思われ
183日本@名無史さん:2007/04/14(土) 03:12:44
>>180
宗教が絡む場合フロイスは信用できない
184日本@名無史さん:2007/04/14(土) 13:43:11
フロイスはちっとでも反キリスト教の素振りを見せた香具師はボロカスだけど
宗麟に関しては最初から最後まで500%ぐらい美化してるからなぁ
やっぱりディープなキリシタンだったんじゃ
185日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:42:42
そうとも言えないと思う。

>>173
>そして、より大きな理由として耳川の合戦後に家臣団の引き
>締めのために、寺社の領地を取り上げて家臣に分配していた
>ことがある。

具体的に言えば、万寿寺・英彦山・宇佐八幡だが、万寿寺は坊主だけで150人を
有する大寺院で、焼いた寺の跡地は柴田礼農に与えている。もちろん、寺領も
没収。
英彦山も当時は大勢力だったのだが、座主の後継問題で、秋月側と見られた
ために焼き討ち。
宇佐八幡についてその神領を横領していたのは、もともとは奈多鑑基。実子の
田原親賢も手を焼くほどだった。

こうやって見てくると、純粋に宗教心からやったといえるのは、ほとんど無いん
じゃないかな。

186日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:02:52
>>181
だからお前はムスカ。
宗麟はムジカ。
187日本@名無史さん:2007/04/17(火) 23:56:39
文禄の役での敵前逃亡
何を考えていたのだろうか?
個人の能力はゲームみたいで嫌だが
義統はやはり無能なのだろうか
188日本@名無史さん:2007/04/20(金) 10:59:43
>>187
志賀の献策ですよ
189日本@名無史さん:2007/04/20(金) 12:03:39
>>187
軍議で黒田の陣に出向いてる際に
大軍襲来、小西軍全滅の噂で留守部隊が勝手に引き上げたとも

とはいえ、義統は他にも九州征伐、関ヶ原とやらかしてるからな
190日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:19:44
関ヶ原は仕方が無かったと思う
やっぱ最大の問題は耳川か
結局それ以降は内乱離反ばかりで桶狭間後の今川並に弱体
191日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:01:17
耳川は起こるべくしておこったと思う
192日本@名無史さん:2007/04/24(火) 18:22:16
宗麟も義統も指揮を放棄
何を考えていたのやら
193日本@名無史さん:2007/04/24(火) 18:23:38
大友の全盛時代は何年?
194日本@名無史さん:2007/04/25(水) 01:46:12
>>192
それは、正確ではない。
耳川の合戦時の宗麟の本陣よりさらに後方に義統の本陣が設けられ
ていて、迅速な指揮が出来なかったというのが、真相だ。

耳川の合戦時の大友氏の指揮命令系統は、宗麟→義統→家臣と云う
順序をたどって出されていた。実際に判断を下すのが、宗麟でも
必ず義統が下したという体裁を整える必要があった。
なぜならば、一応宗麟は隠居したということになっていたから。

もともと大友氏は、加判衆・方分・城督など権限を細分化・体系化
した現代の官僚制にも通じる体制を採っていた。

これが、平時ならばともかく、迅速な判断を下さなければならない
戦闘時に大きなマイナスになったというのが、大友氏の失策だな。
195日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:33:53
>>194
なぜ義統の本陣がより後方に?
196日本@名無史さん:2007/04/25(水) 13:26:37
理由は分からない。

本陣を設営する適当な場所が、他になかったのか、
出発と進軍が遅れたのか、はたまた消極的だったのか。

197日本@名無史さん:2007/04/26(木) 00:42:35
もう大友も終わりなので〆に何かコメントを
198日本@名無史さん:2007/04/26(木) 03:19:06
・加判衆・方分・城督など権限を細分化・体系化した体制は、平時は特定の個人が
巨大化する可能性を低め、反乱の可能性を低めたり、人材の育成などのメリットも
大きかった。しかし、迅速かつ果断な判断が求められる時に大きな欠点となった。

・一族や御下り衆・他姓衆・豊後国外の直参衆・国人衆などに対して、大友家当主の
権限の強化を図ることが十分には出来なかった。宗麟の代には、ある程度、達成され
たもののあまりにも緩やかな改革だった。

・兵農分離に関しても、もっと進めるべきだった。貿易の拡大と寺社領の整理で資金
を捻出すれば、出来たと思う。
199日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:28:21
     ,..-‐−- 、、
    ,ィ":::::::::::::::::::;;;;;:ii>;,
   /:::::::::::::::;;;;;;;;iii彡" :ヤi、
   .i::::::::::::;:"~ ̄     ::i||li
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   ヾ;Y     ,.,li`~~i    ・・・わたしの王国に永遠あれ!!
    `i、   ・=-_、, .:/
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       ` ‐- 、、ノ


200日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:33:46
ムシカキタコレ
201日本@名無史さん:2007/04/26(木) 17:36:35
大内の失策は

月山富田城攻めとその後の義隆
先代は上洛中に尼子・武田らに離反されたところか

義長時代の陶の失策も大内の失策に含めてもいいかな
202日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:23:33
先祖がいかがわしい癖に勢力持ちすぎて
将軍家から目つけられた
203日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:40:18
応仁の乱従軍
家督争い
少弐攻め 博多周辺支配強化
上洛    日明貿易の大義名分習得
安芸攻め 失地奪回
少弐攻め 博多周辺支配強化
吉田城攻防戦救援 毛利救援
月山富田城攻城戦 尼子殲滅

陶謀反 謀反
宗像家督争い介入 多数派工作
杉攻め 私怨
吉見攻め 反乱鎮圧
折敷畑の戦い 毛利討伐
厳島の戦い 宮尾城攻城
陶杉内乱 私怨
毛利周防長門侵攻 大内殲滅
204日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:42:12
>>202
戦国時代から離れてない?
義隆の時代にも将軍義晴から上洛要請あったらしいよ
205日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:57:01
大内は単に、

”いわゆる戦国時代”を迎える前にピークが過ぎていた

ってだけでしょ。
栄光が永遠には続かなかっただけで。
206日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:07:34
月山富田城攻城戦での敗北が大きかったと思う。
見通しが甘かったということか。
207日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:21:24
そうだね


義隆の時代では月山富田城攻めだよね
戦勝祈願しながらゆっくり行軍して長期の遠征になり内部から裏切りが出て嗣子まで失ってしまって
政治に関心を失って武断派と文治派の対立を生んでしまった
頼れる親族がいなかったのも痛いね
もうひとつは陶の謀反が察知されたときに詰問で止めたことか
繊細でお人好しの人だったんだろうね

義長の時代では実権を握ってたのが陶晴腎だったから?
厳島の後は内藤隆世ががんばったけどもうどうしようもないね・・・大友が本格的に介入出来て五分あるかどうか
208日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:19:22
月山富田城攻めの後も毛利を初め配下の豪族に重臣の娘を養女にして
婚姻政策で関係強化を図ったりして遊んでたわけでもないんだけどね
209日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:27:59
でも尼子は、よく本拠地まで攻め込まれても巻き返せたなあ。
210日本@名無史さん:2007/04/28(土) 12:37:48
>>209
戦略縦深が浅いから、堅い本拠地で迎撃するのが一番理にかなっているというのもあるんじゃないか
攻撃は最大の防御というイスラエル戦法やるわけにもいかないだろうし
211日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:07:55
輝弘はどうなるんだろう
あれも失策になるの?
212日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:57:35
山口侵攻は、完全に大友家の都合だし、輝弘にしたって
成功するとは思ってなかっただろう。とは言っても、毛
利の主力が門司近辺に張り付いている状況以上の好機は、
無かっただろうし。(実際に無いんだが)

やって後悔するよりやらないで後悔する方が悔いが残る
って言うし、止むを得ないと思う。

213日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:35:27
輝弘は覚悟の上の賭けだったのか
この戦いで山口は完全に灰燼に帰してしまったね
214日本@名無史さん:2007/05/18(金) 08:58:41
ageとくか

大内の失策といえば
すべて大内義隆に集約されるような気がするが
215日本@名無史さん:2007/05/18(金) 15:42:00
毛利が、月山富田城を落とせたのは、以下の理由らしい。

・石見銀山からの収入で、攻城軍の軍資金を賄えた。
・月山富田城の周囲にある城、砦を落として、補給線を断った。
・尼子からの離反組に対する扱いが、硬軟織り交ぜた巧みなものだった。
・尼子は、新宮党を失う等、中核となる家臣団が弱体化していた。

まあ、毛利は、大内の失敗から学んだわけだが、尼子からの離反組に対する
扱いが甘かったというのが、失策といえば失策かも。
216日本@名無史さん:2007/05/18(金) 16:50:30
>>215
その後の尼子再興軍の侵入のこと?
217日本@名無史さん:2007/05/18(金) 20:10:28
すまん、書き方が悪かった。

大内の月山富田城攻めの時、尼子からの離反した国人の扱いが
あまかったという事。すっかり信じ込んじゃったからなあ。
218日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:29:21
それでもあの戦いで尼子軍にまだ余力があったからこそ山中らが出雲を席巻できたと思うがどうだろう
219日本@名無史さん:2007/05/20(日) 20:41:59
陶隆房と相良武任を仲違いさせてたのは杉重矩であってる?
220日本@名無史さん