1 :
日本@名無史さん:
君が爺さん、婆さんから聞いた、リアルな実体験話を
皆に聞かせるためのスレッド。
歴史上の有名人との接触
歴史上重要な出来事に関わった話
先祖が英雄で、身内しか聞けない話
その他、どうでもいいがおもしろい話
こんなところかな
個人的には黒船から日露戦争までの時代の話を聞きたい
とあるスレのご希望により立てさせていただきました。
2 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 04:00:28
ネタとして明日、爺さん婆さんに聞いてみるのも可w
喜んで話してくれる事でしょう。
3 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 04:29:14
子供の頃にお歯黒をしてるおばあさんを見た事あるぞ
80過ぎても虫歯が無いし全部自分の歯だと自慢してた
おそらく明治後期に生まれた人だと思う
俺の死んだ婆ちゃんは明治37年生まれ〜
婆ちゃんの前で夜に口笛を吹くと怒られた〜
あと、真言宗以外のお寺で拝むと怒られた〜
服装は常に和服で洋服を着ている姿を見た事は一度もない〜
婆ちゃんの兄弟の名前はみんなカタカナの2文字の簡単な名前だったさぁ〜
もっと婆ちゃんに昔話を聞いておくべきだったと後悔しているのさぁ〜
5 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 07:26:53
大正生まれのおじいちゃんがいます。
スレが大正の話までとしてあるのでスレ違いですが、すみません、ちょこっと質問させてください。
おじいちゃんから昔の戦争の頃の話をもっと聞きたいのです。
ですが、おじいちゃんにとっては、戦友を亡くしたりしてて
辛い思い出まで混じっているから、きっと話していると
いろいろ思い出して悲しい時ときもあるんじゃないかって思って・・
そう思うとこちらからは、どうやって質問したらいいか分からなくなります。
だから、すごく大まかなことしか知らないまま。
今年で86のおじいちゃん、まだまだ元気でいてくれます。
皆さんだったら、どうやって昔の戦争体験を聞きますか。
(86年の歴史に生きてきてるって、素ですごいなと思います。
人生経験の先生としても、色々そういった話をしてたいんだけどな・・。
今の核家族の日本って、とてももったいない損失してると思います)
6 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 07:35:45
うちの爺さんは戦争に行ったとき病気で入院し、
本当は治ったのに、体温計をこすって仮病でさぼって
たと自慢してた。
7 :
5:2006/11/06(月) 11:29:43
どうせ仮病(笑)で数日だけ伸びても、近いうちにまた戦場に出なければいけないのは分かってのこと。
誰もが家族が待ってるのだから、生きて帰らなければならない義務をもってる。
それでも、一度戦場に出れば、がむしゃらに生きようとする一方で覚悟もまた持っている状態になるんだろう。
そんな中で、あなたのお爺さんが無事帰ってきてくれたから、あなたがいる。
立派な自慢ですよ^^
8 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 11:59:38
/ ̄ ̄ ̄\
ミミミ 丶
ミミ /一◎-◎-)
(9 U (_ _) )
| ∴) 3 ) お金よりカキコミ 誰かして〜〜〜エ
/ \_____/
/ | | / |
/ | | ヽ |
/ l | ) |
__/ | ⊥_ x_)| _________
⊂ ̄| `ーヽl_l_l.} ヽl_l_l.}  ̄⊃ \
⊂ (、`ーー、ィ } ̄` ノ ⊃ \
⊂_ `ー、、___/`"''−‐" _⊃ I \
⊂_______⊃ D D \
9 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 12:24:04
ほんじゃなかなか良スレっぽいので、あげ銭
爺さん婆さんの子供のころは、いまのような目覚まし時計で
はなくて、一家に一台のぜんまい鳴り物時計使用。
こんこん音がするけど、間隔が等しい音でうるさくないので、
よけいに眠くなるwだけどそれすら使わなくても起きれる。
おれはむり。目覚まし時計なかったら毎日ちこく。
昔の人って自力で起きれちゃうからすげー。
俺の友達のおじいちゃんは第二次世界大戦で銃弾を2発浴びながら生還したって自慢してた
子供の頃に傷痕も見せてもらった
とても頑固なおじいちゃんだったな
そのおじいちゃんが飼っているフナやコイを勝手に砂場で川を作り泳がせたら怒られたっけ
確か、俺が18ぐらいの時に亡くなった
もちろんちゃんと葬式にも顔を出した
11 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 16:10:19
元嫁の3年前に92歳で亡くなった新橋育ちのばあちゃんは、
若い頃に銀座でミルクセーキを初めて飲んで、
世の中にこんな美味しいものがあるのかと思ったって言ってたなw
12 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 16:25:14
>>6 うちの爺さんは大陸は広くてひたすら逃げ回ってたから助かったって言ってたな
でも、幼い孫には聞かせられない体験したんだと思う
太平洋に行ってたらきっと死んでたとも言ってた
13 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 16:45:00
大正後半から昭和初期の話だが、うちの曾祖母は小卒後、地元の県立工業学校で自動織機を学びながら働いてて、
当時としては貴重な技術だったため、小学校の校長と同じ給料を貰ってたとさ。
数ヵ月に一度は実家に田畑を買ってやったと言ってた。
歳にして13〜だから、今の時代じゃ考えられんな。
俺なら田畑を自前で所有して、零細農家から買ってきた娘を小作兼妾として囲ったなw
おじいちゃんやおばあちゃんが子供の頃には幕末生まれの人と会話をした可能性があります
遠いようで近い幕末
何か幕末のエピソードがあったら教えてください
15 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 16:58:28
爺さんの親父は戦好き
爺さんの名前は平和な名前
16 :
13:2006/11/06(月) 17:02:00
そういえば、曾祖母の曾祖父or祖父は徳川慶喜の鷹狩、釣り、カメコ活動の際に色々と案内してたそうな。
その繋がりで葵紋付きの刀や提灯等々貰ってて、曾祖母が小さい頃はそれらを纏って慶喜さんごっこをしてたと言ってたw
親戚の子が学校で喧嘩になった時に、その刀を持って報復しに行ったとも言ってたなw
昭和頃に任侠だったおじさんは普通に刀を持ち歩いてたけど、何も言われなかったと。
他にも色々あるけど、総論として今より法律が緩いなと感じる。
17 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:45:05
>>16 リアル葵の御紋スゲー
それって今じゃ重要文化財モノだよね
18 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:49:41
爺さん婆さんに戦争の話を聞き込む方法
これはもう、真面目に
「俺らの世代は悲惨さを分かってないから、どれだけのものだったのか、
俺の今後の人生のために教えてくれ」と
膝を突き合わせて聞くしかないでしょう。
そういう態度に爺さん婆さんグッと来るはず。
俺は全員他界したから、聞けるのが羨ましいよ
>>17 どうだろ?
十本近くあったくらいだから、安いのじゃないかな?
一本は実家にあるらしいけど、残りは戦時中に供出したみたい。
他の品はほとんどが台風で屋根ごと飛ばされたと言ってたw
とりあえず来年に金を持って行ってみようかと思ってるがw
ちなみに他スレで書いた、大塩平八郎の子孫説がある家だからあまり信用は出来ないw
>>18 レス有難うございます。がんばってみます。
うちのじいちゃん、第二次大戦中の当時は18歳だったけど赤紙来なかったな。
うちの仏壇には直接ご先祖じゃない方の位牌があります
大変珍しい苗字で幕末を生きた方
一人息子を彰義隊で亡くし、その方が亡くなってお家断絶になってしまったそうです
その為、親戚筋だった祖母が(すでに嫁に出ていたので苗字は別)位牌を引き取ったとか
父は子供の頃、祖母に連れられ上野の彰義隊史料館で
「この戦争で亡くなったお前の親戚だよ」と亡き息子さんの名前を見たそうです
他にも父方の曾祖父の明治期の写真とかが残ってるのですが
大半が年月不明のものなので一度年代とかも調べてみたいです
携帯からなので改行変だったらすみません
明治の世になって、天皇さんが京都から東京に在所を変えるのに
とにかく貧しくてお金がなかったとかで、当時ものすごい額の御寄付をしたとか言ってたよ。
あと天皇の藩塀だとかなんとかで、東京まで行かされたっていってた。
24 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:05:41
>>22 義のために死んだことが、残された一族の誇りになるんだ
ということがよく分かる逸話ですね。
先祖を大事にする気持ってそういうところから生まれるのか、
初めて分かったような気がする。
>>24 大陸で戦病死した曾祖父の最後の地に改名したおいらも誉めてクレクレ
ウチの婆ちゃん末さん(78・薩摩人)の祖父が西南戦争で火縄銃を持って戦に行っていたと聞いたことがある。
その当時で火縄銃って本当かな?詳しい人教えて。
それから婆ちゃんのお友達、春さん(80・佐賀人)の実家は庄屋だったらしくて江藤新平の逃亡している時に
かくまった事があるとか言ってましたね。
確か西郷どんの軍の武器は旧式のが多かったって本に書いてあったような
江藤さんは斬首されて晒し首の写真が残ってますね…
28 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:24:37
良スレの予感
29 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:38:26
ウチのヒイヒイ爺さんの兄が神風連だったそうだ。それに感化されたヒイヒイ爺さんは死ぬまで電気水道ガス電話ラジオを拒否した生活をしといたとか。
30 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:07:05
ヒイヒイ
ハァハァ
神風連の乱にも参加してたの?神風連の乱では殆どが戦で死んだか処刑されたらしいけど
ひいひいじいちゃん兄はどうだった?
しかしこの当時の若者は頑張ったんだなぁ。新政府と作った方も新政府から弾かれた方も。
>>29 興味はあるのだが、神風連の詳細しらない。
よければ説明してください。
33 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:57:14
31才のおれでも、ひいひい爺さんは天保生まれ。
俺の爺さんが子供の頃は当然生きとった。いろんな話も聞いとるやろう。
(爺さんからいろいろ聞いときゃよかった・・・。)
ま、我々に置き換えると、祖母、祖父から太平洋戦争の話をよく聞いた!
程度の事なんやろうけど・・・。(俺らが80、90になった時、孫の世代が
「俺の爺さんが若かったころ、特攻隊の生き残りがまだ生きとったらしい!
とか、硫黄島の生き残りがまだ生きとったらしい!みたいな・・・。」)
明治生まれも、もうほとんどおらん。俺ががきの頃は年寄り=明治生まれで
明治10年代の生まれとかとも会話したもんや。今のうちにいろいろ聞いとけよ!
ところで、君らの好きそうなネタ!君の生まれた年の日本最高齢者は・・・?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E9%87%8D%E5%8D%83%E4%BB%A3
34 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 22:06:06
うちの爺さん今も生きてる戦艦大和生き残り兵です。
うちの母の祖父母は農家から分家して夫婦で大荷物を担いで歩いて城崎から
京都まで出てきて色々苦労しながらもそこそこ成功して本家の子弟も呼び寄
せたそうです。
うちの祖母ちゃんが子供の頃曾祖母ちゃんから聞いたらしいんだが。日露戦争の時に玄界灘からドーンという音が何回も聞こえて来てなんかと思ってたら日本海海戦の艦砲射撃の音だったらしい。
37 :
OPS:2006/11/07(火) 23:42:00
祖母の祖母から聞いた日露戦争の話なんですが
祖母の祖母は最初から勝てる見込みは日本になかったっといっていますし。
日本が勝てたのは東郷さんのおかげっといっていたようです。
当時の一般庶民が、歴史的事実をどう認識していたか
すごく興味があるので、このスレの方向性いいとおもう
ロシアの自爆だった気がするが
赤間氏が書いた新撰組の本で、子孫や地元の住民の話をまとめた本があります
かなり面白かった
>>37 えっ?その話を詳しく聞かせて欲しいです。一般の人たちは日露戦争は負けると思っていたの?
当時の新聞とかでは勝利を疑って無かったようだけど。(新聞だから当たり前なのですが)
ただ一般の人はマスコミに踊らされるものだから、負けると思っていたのが信じられない。
行きつけのバイク屋の爺ちゃん。我が親父の元世話役だった。
陸軍の整備教育を受けたことが大の自慢。
「一式戦(ハヤブサ)、九七重(爆撃機)で教育を受けた」から始まって、
百式重では人が沢山事故死した(高速で飛ばないと危険な殺人
爆撃機だったらしい)とか、三式戦(ヒエン)はラジエターに直ぐ穴が
開いて大変だった(配管の取り回しが悪かったらしい)とか、
語らせたら一時間は喋り捲る。ハ103号の整備マニュアル
コピーを渡したら大変に喜んでくれた。
街で一番古いホンダのバイク屋で、今でも現役整備士。
ソーイチロウさんから直に受け取った表彰状など多数あり。
俺の死んだばあちゃんは戦争の話とかよくしてくれたけど、俺がまだ小さかった&当時はあんまり歴史に興味なくてほとんど覚えていない…
俺の爺さんは戦後シベリアから生還した。
婆さんは空襲で爆弾が落ちてきて死んだと思ったら
肥溜めに爆弾が落ちて不発だったらしい。
間一髪俺がいるんだな。
45 :
OPS:2006/11/08(水) 19:56:53
>>45 ここなら取り寄せできるみたい
http://myshop.7andy.jp/myshop/baragaki ちなみに本の内容はたくさんあるから書ききれないけど、赤間さんが新撰組や新撰組にゆかりのある土地に行き、子孫の方や地元の方の話を紹介しています
近藤勇の生まれた家や子孫を取材したり、近藤が処刑された場所を詳しく調べたり、近藤が処刑された時にお世話した人の話、近藤のお墓の話
沖田の臨終の場所の特定、他の隊士の話もたくさん載ってます
47 :
46:2006/11/08(水) 22:45:43
あ、本の名前は新撰組女一人旅です
大正時代婆さんの爺さんが役所の退職金に馬を貰った、とても利口な馬で
農作業中よく脱走したが晩飯時にはちゃんと家に帰ってきたそうな
49 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 04:13:25
その馬は日本の在来馬なのかな?
日本の在来馬を見てみたいなぁ。
50 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 04:19:27
51 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 08:12:47
気持ち悪いスレだな・・・
52 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 10:40:12
↑
お前の人生がな
53 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:12:57
幕末生まれの人って気性が荒い?
子供の頃にちょっとでも悪さするとよく殴られたって話を聞いたんだが
54 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:41:12
わしらが子供の頃(50年ほど前)にはまだ幕末生まれの人間が生きていて
大企業の会長などをやっていたものじゃ。
わしらはそれを見て江戸時代の人間がまだ生きていると思って仰天した
ものじゃった。
1960年代の高度成長以前はまだ江戸時代の続きのような雰囲気が濃厚に
残っていたが、日本が豊かな社会になって急速に江戸時代は遠くなった。
日本史は1960年以前と以後に分けられると思うほどの変化じゃった。
今の日本はフランスで言えば第2共和国、第3共和国時代にあたるの
じゃろう。
昭和中期位まで親父ってのは恐いもんだよ
こぶしが飛んでくるのは当たり前、悪さすると木に縛られたりとかな。
56 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 21:51:52
爺さんから聞いたじゃなくて、爺さんのボヤキスレになっちまったなw
俺も昔は親父にボコボコ殴られたな。
まだ工房だが。
近所の娘は中二の時に漫画ばっか読んでたら祖父に怒られ、
パンツ一枚で何時間か庭の木に縛りつけられてたよ。
塾の隣の家だから皆で観察してたな。
父権が強すぎるとこういう輩もいるんだろう。
娘をパンツ一枚
それなんてエロゲ?
俺の爺さん、というか先祖の話
元々は初代島津家の後見役として鎌倉から鹿児島へ行き。
江戸中期の島津家のお家争いに巻き込まれ、左遷させられた。
それから没落はしたが、子孫はかなり増えたらしい
と、盆正月での一族の話題だw
>>56 大歓迎!ご年配の方々がいらっしゃったら、どうかいっぱい書き込んでください。お願いします。と、私は1じゃないけど・・
61 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 16:22:05
ご年配の方にカキコしてほしいなら年代別板に宣伝に行くとかすれば
結構書いてもらえるかもよ
62 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 16:36:17
そんなことしなくても爺さんはたくさん居るだろ、この板にはw
63 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 16:47:17
うちのヒイヒイ爺ちゃんは佐賀藩お抱えの力士
関取にまでなって大金手にして料亭をいくつか出して妾も抱えて食いつぶしたらしいw
そのおかげで高等教育を受けさせてもらえた爺ちゃんは立派に満鉄系の工場に就職したらしく満州で工場長に
しかし終戦で地獄の満州引き上げ、そこで婆様があぼーん
地元に戻ってきて小学校だか中学校だかの校長を務めるもすぐに爺ちゃんもあぼん
中学生のオヤジは集団就職で名古屋に
って感じだな
64 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 17:25:34
65 :
57:2006/11/10(金) 17:31:32
>>58 孫だよ。
かなり衝撃的だった。
昔はよくあった事なのかな?
>>65 別段珍しいことじゃないかと。
というか、今が幼児虐待がポルノが如何とか五月蝿過ぎ。
昔はこういうことはしても、テレビを賑すようなアレなことはそれほど。
現代がアホを生み、アホが師匠になって今に至っているというか。
67 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 17:45:21
ここは今を憂うスレなのか?
ならば諸悪の根源は団塊世代にあり。
漏れ今29歳だが
ガキの頃、冬は毎日のように素っ裸で庭の柿の木に縛り付けられたよ
どこの家でもそう言うものなんだな、安心したよw
69 :
57:2006/11/10(金) 17:59:21
>>66 でも普通に同級生なんかの目にも触れるわけで、さすがにマズイでしょ。
お仕置きなら性的な事も仕方無しで、セックルもアリなのか?
もちろん男なら全裸で放り出しても問題無いわけだが。
>>68 うちは団地だったから、ベランダから宙吊りにされたなw
家から追い出された時は、他人に見られないように戻るのがスリル満点だったww
70 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:03:10
俺のジイサンは90近いのにまだピンピンしてやがるw
71 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:55:53
ご存命のうちにいろいろ聞いとけよ
72 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:59:02
73 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 19:04:50
>>71 そうだな。
ジイサンは今はええ時代じゃと言ってるな。
ただ、美しい山河や動物が損なわれていることには、
反省と不満があるようだ。
既に他界した祖父は明治45年生まれなんだけど
母経由で太平洋戦争に従軍した話を聞いたことがあって、
「小笠原付近で自分の乗った船の前後の船は撃沈されたが、自分の船だけはなんとか
助かった。その後終戦を迎えた。」
という簡単な話であるんだけど、これだけじゃ祖父がどういう軍団に属していて、
どの船に乗っていたかなんて分からないよね…
明治、大正の町並みって、今とは激変だろうな。
ど田舎で列車が走るだけでも感動しただろうし
沿岸部は、コンクリ堤防が無く眺望は最高だったろう
ただ道が舗装されてないのは痛いね
そういうどうでもいいが激変の風景みたいなものを
聞けたらいいなと思うね。
俺にはジイジいないから聞けないが
76 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 19:42:55
>>74 軍の令状とかそのあたりが残ってたりしないか
近代史スレとか軍板あたりのが詳しいかも
77 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 19:43:28
近代史スレじゃなくて近代史板だた
78 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 19:51:07
民族学の範疇かも知れんが、婆さんは狐にだまされる話を
リアルに信じている節がある。
79 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:19:16
大正生まれの漏れの親戚のじいさん。
特攻隊の訓練で鹿児島の鹿屋で終戦迎えたそうな。
じいさんの数人前までの隊員がみんなアボーソして、じいさん曰く
「あと数週間終戦が延びてたらアボーソしてたな…生死なんて人間にどうこうできるもんじゃない」
スンゴイ重みのある言葉
ちなみにじいさんがリア消防の頃はそのへんのメカもの(時計、チャリ)を片っ端からバラしまくってたくらいの機械好き。今も精密機器の製造会社を自営でやってる。
最近は携帯電話のアプリを自作しようと挑戦中…携帯バラしてますorz
節じゃなくリアルに信じてるな
81 :
:日本@名無史さん :2006/11/10(金) 20:23:08
女ほど騙されやすい生き物はいない。
>>74 各県の県庁に行けば(行かなくとも問い合わせれば)
祖父殿の「兵籍簿」を手に入れられる。
本人か配偶者、または三親等内の血縁なら問題ない
ただ、都道府県によっては一部しか見せてもらえないところもある
海軍の兵籍簿は厚生労働省にあるので陸軍よりは
紛失などの恐れはないだろうと思うので参考にされたし。
83 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:40:27
84 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:36:05
>>83 筑後の守、池袋に出没しても違和感ないなw
86 :
1:2006/11/10(金) 22:03:23
予想外に面白くなってますねw
>>79 僕らって、現代の技術が進んだせいか、
どこかで過去の人よりも今の方がレベルが上、みたいな錯覚があると思う。
でも79の爺さんの話や他の話を読んでると
技術や便利さを得た分、人間として懸命さがたりないような
変な感じがしてる。。
今の自分だったら戦争体験の時点で鬱になって立ち直れない気がするし orz
うちのじいちゃんは蒲田にあった撮影所の話をよくしてたな。
あと、死んだあとに、川崎重工に勤めてて、優秀だから戦時中もすぐ呼び戻されたと聞いた。
高学歴とも聞いたことないし、家で機械を弄ってるのさえ見たことないのでかなりショックだった。
89 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 04:10:47
91 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 06:13:29
12月4日新撰組ファンならみる【燃えよ剣】原作:司馬竜太郎(時代劇ちゃんねる)でやるぜ!
92 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 09:02:12
司馬竜太郎
いいスレですね。
でもさすがに昭和の話が多い・・・。
で、私もひとつごめんなさい。
先ごろ亡くなった知り合いのおばあさん、4人子どもがいるけど、
長男とえらく折り合いが悪い。
太平洋戦争の頃、医師をしていたご主人と満州に渡り、
そこで長男を含む子どもを持ったらしい。
終戦のドサクサ前に帰国を果たせたそうだけど、その後の
長男との仲悪さに「満州においてくれば良かった」と愚痴ってました。
でも、実際そういうことになったら、どれだけ辛いか、必死で探したか・・・。
94 :
OPS:2006/11/11(土) 17:29:26
95 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 19:37:35
ネタを垂れ流すのはかまわんが
ネタを信じ込む厨は痛々しいね
96 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 21:03:59
97 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:09:46
爺さん婆さんから聞いた日清日露第二次の話ってスレは無いのか
うちはみんな死んでしまってるから聞く相手が居ないんだが
98 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:13:22
戊辰も入れてもいい
99 :
日本@名無しさん:2006/11/13(月) 01:04:53
私の親父の婆さん、つまり私の曾婆さんだが、
田舎では大正の初めごろに電化されて電球がつくようになったとか。
そうなったときの曾婆さんの一言「ああやっとランプを磨かなくて済む」と。
まあ磨くまではよいが、煤が手や服につくと取るのが面倒だしな。
そんな手で炊事洗濯をするわけにもいかんから、さらに大変だ。
100 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 09:19:02
どうでもいい話だが
幕末の武士の写真てなんでヒゲ生やしてないんだ?
101 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 09:53:30
明治時代の髭は欧米人の影響だ
江戸には髭生やす習慣はあまり無いな
居ないことも無いかもしれんが
102 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 10:05:36
ヒゲは戦国時代までは武士の象徴で付けヒゲつけてるやつもいる(秀吉)
が、江戸の始め頃、土井利勝が何故かいきなりヒゲを落として登城した
家康の落胤とも噂され、一代で身を起こし老中、大老に上り詰めた人物だけに、
周囲が真似をしていつのまにかヒゲをはやす習慣が廃れたという説がある
家康と顔が似てるのを気にしてヒゲを落としたとも言う
103 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 10:28:38
あ、なんだ
江戸時代の武士はヒゲ生やす習慣がなかったのか!
時代劇見ながらヒゲ生えてない武士なんて邪道だと思ってたオレが邪道だったか
104 :
日本@名無しさん:2006/11/13(月) 10:52:29
正保2年(1645)、大小刀の寸法、髪・頬髯の制を定める。
要するに風紀の為だが、これを切欠にエラそうな髯が衰退した。
でも従者は「髯奴」というくらいで、(頬)髯がないと貫禄が無いと
言われもしているが(笑)
105 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 11:25:19
御家人とかにはヒゲ面も結構居たと思うんだ
106 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 13:21:55
それは余裕が無いだけじゃあるまいかw
曽祖父(鹿児島生まれ)が「せごどん(西郷隆盛)は本当は(西南)戦争をしたくなかったんだ」と言っていた。
あと、せごどんは鹿児島に帰ってきてから、川で着物を洗濯し、それを木に干して、
乾くまでその木の下で昼寝をするような呑気な生活を送っていたそうだ。
鬼女板に書いたけれど、伏見宮博英王は、杉並区にあった別荘に200羽も鶏を
飼っていて、1日に16個も卵を食べていたそうだ。
109 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 14:18:02
普段服を一枚しか持って無かったとか だから洗ってるときはいつも褌
これは鹿児島に帰ったときだけじゃなく、着る服が無くて会議に遅れたことも有ったらしい
110 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 14:48:28
百年前…親戚の親戚の親戚に明治天皇がお泊まりになりました。
今は石碑が建ってます
111 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 00:49:12
死んだ爺さんはノモンハンに従軍して無傷で帰ってきたが、
(今ではソ連側の資料で双方大損害であることが明らかだが)
当事者として感じたのは、
「これだけ装備に差があって勝てるわけがね〜」
だったそうです。
もう一方の爺さんはビルマから復員したが、死ぬ間際はうわごとで
「上官殿ォ〜!我々はお国と銃後を守らねばならぬ〜!」と何度も叫んでいた。。。
おそらくフルメタルジャケット的新兵教育を受けたのがよほど辛い経験
だったと思われる。
あと、さすが軍隊にいただけあって俺のおもちゃのピストルを
指でくるくる回してホルスターに入れるのが巧かったw
幕末でも明治でも大正でもない話ですまそ。
俺が10才の時に死んだヒイ爺さんは、日露戦争開戦時に東京で学生してたが
第二軍第三師団(名古屋)の兵士として出征し、遼陽や奉天で戦っている。
大学の同級生の多くも志願したが、第三軍(旅順攻撃)に配属された
東京・北陸・四国・北海道出身者のほとんどは戦死したそうだ。だから
「乃木のせいでいい奴らが沢山死んだ」と乃木大将の事をひどく嫌っていた。
陸軍の兵士だったのに、海軍の東郷元帥のことを神のように崇めていて、
客間に東郷元帥の御真影が飾ってあった。
太平洋戦争時は「東條みたいなキチガイが起した戦争に勝てる訳がない」と
公言して、非翼賛候補を応援したり、自由主義者を家に匿ったりしたから、
警察に呼び出されたり、私服警官が家の廻りをウロウロしたりしていたそうだ。
もし在郷軍人会の役員じゃなかったら逮捕されていた。
でも戦後は在郷軍人会の役員してたのが仇になってパージ食らって、
共産主義者から吊し上げ食らってたそうだ。「折角戦争が終わったのに、
特高の嫌がらせよりも、アカの嫌がらせの方が陰湿だ」と嘆いていたそうだ。
朝鮮戦争が始まると今度はアカの連中がパージ食らって、ヒイ爺さん達が
復活し、昭和30年頃までは町中が落着かなかったらしい。
116 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:51:13
うちの祖父はいまだに戦時中の悪夢にうなされる
明治生まれの亡くなった祖母は自分の事をオレと呼んでいました
118 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 19:00:01
>>115 わかる。
まだ日本男児の気概が残っていたんだろうな。
俺の母の爺ちゃんの話で戦時中でもそういう男気のある日本人がいたことは聞いているし。
119 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 20:08:26
大正生まれの死んだ婆ちゃんは大阪のど真ん中に住んでたスーパーお嬢様。昭和の初期に宝塚観劇に日参し、神戸の外人が経営するケーキ屋やチョコレート屋に買い物に行っていたそうだ。
戦時中は別荘に疎開し、そこでもすき焼きやアイスクリームを食べていたという。弟は家にある砂糖や水飴を持ち出して、それを餌にナンパ三昧だったそうだ。
現代と変わらない生活をしていたが、死ぬまでヒトラーとムッソリーニは日本に味方をした素晴らしい人達だと言っていたのが、時代を感じる。
120 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 20:18:23
親族じゃないんだけど、大学のゼミの教授の恩師のお爺さんは桜田門外の変を目撃したそうです。めちゃくちゃ寒い日だったので、襲う方も襲われた方も、手が震えて刀が全然抜けなかったので、見ていて面白かったそうです。
井伊直弼もほとんどされるがままに首を切られて持って行かれたそうです。
121 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:27:15
120>
幕末いいね〜!桜田門外の変!
まだ150年たってないんだよね。俺の爺さん(明治40年生まれ)
が若い頃は当時を知る人がいっぱい生きてたと思うと、江戸は遠くに
なかりけり。やな!(ちなみに俺31歳が生まれた1975年、まだ江戸時代
生まれが、かろうじて数人生きていた!)
122 :
日本@名無史さん :2006/11/14(火) 21:32:19
123 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:25:44
友達のひいじいさんが桜田門外の変で、井伊を襲った一人。
友達の苗字が『芹澤』だから、多分『芹澤』というのだろう。
井伊のお付は刀を布の入れ物に入れていて、その紐を解くのに手間取っていた。
だから襲った側の圧勝だったみたいだよ。
勝負って案外そんな所で決まるんだな。
124 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:27:34
そうそう、徳川慶喜の乳母が、芹澤という侍の母親か何か近い親戚らしい。
125 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:46:19
泉重千代以前の長寿日本一だった人に、「小林やと」というお婆さんがいた。
この人は弘化3年(1846)出生で、同い年には、徳川家茂、和宮などがいる。
昭和39年(1964)に死去。118歳。
>>115 波乱万丈だなw
ちょうど、
日露から太平洋戦争跨いで終戦後までを生きた世代の人ってぜったい面白い話ゴロゴロ持ってるよな。
酸いも甘いも経験してるっつうか。
>>119 船場のこいさんってやつかな。
当時砂糖は貴重品だったし、毎日宝塚観劇となると本当にお嬢って感じだね
128 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 00:03:04
弘化3年(1846)生まれで昭和39年(1964)に死去か!
俺の定年まぎわの父親、就職活動しとる頃やな・・・。
ちなみに最後の江戸時代生まれ泉重千代は1986年まで生きとった。
泉重千代の前は「河本にわ」文久3年(1863)から昭和51年(1976)。
昭和51年(1976)ちゅうたら、をれ、生まれとるやないか!
そこまで長寿でなくても、志賀直哉が昭和46年、武者小路実篤が51年まで
生きてたというのも何気に感動する。
志賀直哉の没した年は「仮面ライダー」や「帰ってきたウルトラマン」放送中、
実篤の没した年は「ゴレンジャー」放送中。
で、志賀直哉の場合、幕末に二宮金次郎の弟子で維新期に相馬藩の重臣だった祖父の
薫陶を受けて育ってるわけで、そんな人が昭和46年まで健在だったってのも面白い。
>>123 いわゆる「桜田十八士」のなかで生き延びたのは
海後磋磯之介と増子金八のみ。
明治生まれの一番最後の人でも、いまや94歳。
明治も完全に歴史の彼方に去ってしまったな。
133 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 01:42:30
>>132 その日本開闢以来の激動の時期に生きた人々が、
いまや世界一の長寿大国のトップランナーだと言う点が
実に不思議で興味深い。
死んでいった周囲の人々の分までも命を永らえているかのようだ。
俺たちはそこまで長生きできるかどうか疑問だからね
134 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 02:21:42
>>123>>131 「桜田十八士」が正しいのなら
関鉄之介、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人、広岡子之治郎、黒沢忠三郎
斎藤監物、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介
海後磋磯之介、杉山弥一郎、岡部三十郎、広木松之介、増子金八、有村冶左衛門
「芹澤」はおらぬ
本当の話なら苗字が変わったんじゃないか
135 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 03:13:21
>>123 桜田十八士は、自刃したり傷がもとで死んだり斬刑になったりで
海後磋磯之介(1903年死亡)と増子金八(1881年死亡)以外は翌年くらいまでに死んでる
襲撃の関与者では
金子孫二郎、高橋多一郎、高橋庄左衛門、有村雄介、佐藤鉄三郎、川崎孫四郎
小室治作、大貫多介、山崎猟蔵、島男也竜雄、小野寺慵斎、宮田瀬兵衛
が居るが、ほとんどが自刃、獄死、斬首
例外は追放刑の佐藤鉄三郎(1915年死亡)
ちなみに彦根藩側も全員、戦闘や傷で死ぬか無疵で帰邸したことを咎められ斬首だ
ただ襲撃関係のメンバーが20代〜50代まで居て、結構歳の人間も多いから子孫自体は居るかもな
おれの爺さんが大正のうまれですが、聞いてほしいこととかある?
ところであたりさわりない話ひとつ:
よく昔の川は本当にきれいで、どこでも魚が取れたって言っている
他の爺さんも揃いに揃ってみな全くおなじことを言うから
今の爺さんたちの目には、現在の環境汚染が相当に際立って映るのだろう。
137 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 11:33:55
>>135 実は彦根藩士のなかに一人だけ寺に逃げ込んでそのまま坊主になり生き延びた人が居る
138 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 17:03:43
大正生まれのうちの爺さん、戦争中は潜水艦にのってました。今でも酔っぱらうと当時の事を話ます。
追い詰められて、音をたてて敵にみつからないよう真っ暗な艦内の中、ただ耐え忍ぶ恐怖。
聞こえるのは敵がおとす機雷の爆発音だけ。極限の状態で思い出すのは母親の顔だったそうです。
こういった体験を自分の子供達に伝えていくことも、僕らの大切な役目だと考えます。
>>138 Uボートの別名は鉄の棺桶。
日本軍のはそれに輪を掛けて酷かっただろうね・・・。
140 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:14:03
山県有朋や松方正義と話したことのある人が生きている可能性はあるな。
141 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:31:47
>>136 朝鮮人の密入国の状況、乱暴ぶりを聞いてほしい。
142 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:41:19
陸軍の戦車部隊にいた祖父晩年まで整備の鬼だったそうだ。祖父の愛車はエンジンルームの中まで塵一つなくピカピカに輝いていて、陸軍でそうやって仕込まれたからと、さも当然のように語っていたらしい。
143 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:47:04
>>136 あなたのおじいさんの幕末の好き志士、嫌いな志士を聞いてください
144 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:50:55
極貧の集落に育った爺さんは、自分が尋常小学校で首席だったので、集落で唯一高等小学校に進学したのを死ぬまで誇りにしていた。下士官で勲章を貰ったのも自慢だった。
今ではどのくらいすごいことなのか図り知れないが、すごいことだったんだろうな。
>>140 うちの婆ちゃんは91才だが、東郷平八郎と会っている。
どういう理由か、婆ちゃんが通っている女学校に来たそうだ。
生徒を代表して婆ちゃんが「閣下、揮毫して下さい」と言ったら、
気軽に一筆書いてくれたそうだ。それは今でも学校にあるらしい。
何か御言葉があるかと期待していたが、最初から最後まで一言も発せず
声は聴けなかったそうだ。最初耳が聞こえないのかと思ったが
「揮毫して下さい」と言ったら直ぐに書いてくれたので、
聞こえてたはずだとのこと。
146 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 19:59:38
オレの曽祖父は大工だった(祖父も)。
その曽祖父が横浜の本牧に、ある政治家の肝煎りで遊郭のようなものを作り始めた。
ところが準備万端整えて建て前までしたのだが、突然打ち切りになった。
曽祖父は引くに引かれず仕方なく最後まで作ってしまったらしい。
曾祖母はそれいらい政治家のことが大嫌いになった。
その政治家とは尾崎咢堂である。
147 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 20:15:13
>>146 貴重な話をありがとうございます。
素晴らしい!!
148 :
日本人 :2006/11/15(水) 20:40:56
明治生まれのツネバーさん死ぬまでノーパンだった。
>>145 薩摩隼人だからな、尋常じゃないくらい無口なんだろうw
150 :
日本人 :2006/11/15(水) 21:55:04
小泉前首相。旧姓鮫島という薩摩隼人。よくしゃべった。
明治30年代生まれだった祖母は洋服を「簡単服」と言っていました。
キセルで煙草をばんばん吸っていました。
153 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 02:28:11
簡易服
ある意味なるほどと思った
154 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 08:21:01
戦前は新潟でも指折りの金持ちだったという知人(70歳前)の叔父さんの家は、
新潟でも一番の大店で、長岡にあったそうだ。米騒動のときに
貧民が押しかけてきて、蔵の中に米がまったくなかったのを怒って放火し
屋敷は炎上したそうだ。米がなかったのは貧民に無料提供していたためだという。
その知人のお母さんも長岡出身で当時3歳、近所の家が炎上するのを覚えていて、
後にその知人の家に嫁入りし、「あの家の親戚だったのか」と驚いたとか。
その嫁入りは信濃川を延々と嫁入り道具を積んだ船が続き、有吉佐和子の
「紀の川」の冒頭のようだったと覚えている高齢者もいたそうだ。
富山でも富農の家が放火され、米騒動というのは実際には暴動だったとか。
この間の「そのとき歴史が動いた」は米騒動を美化していて、
全然あんなものじゃなかったと、その知人は怒っていた。
155 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 09:13:06
証言スレなら東亜とかに逝けよ
あからさまな電波を突っ込んでも荒れるんだから
156 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 09:50:12
俺の曾祖父さんは日露戦争に出征した時、上官が負傷して動けなくなったのを
背負って後方の基地まで運んで助けたそうな。
その事が手柄になったそうで、金鵄勲章と報奨金(当時で100円もの大金)をもらったそうな。
実際にその勲章を見た事あるんだけど、普通に上官助けたぐらいで金鵄勲章なんて凄い物もらえるものなのかな?
かなり上の人物を助けたのかな???
157 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 10:11:13
俺の爺さんは童貞だった。
ほーーー。
>>156 金鵄勲章といってもピンキリ。
勲五、六等なら、状況次第では貰えるんじゃないか。
160 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 20:25:02
157>
せっかく荒らしのない良スレだったのに・・・。(ま、これでこそ2ちゃん!)
145>
東郷平八郎か!すごいな!薩摩藩士として薩英戦争にも参加しとるし、
当然戊辰も・・・。(悪く言えば、倒幕の志士の端くれやが・・・。)
たしか、昭和9年まで生きていたはず!そんな人と会話した人がまだたくさん
生きているなんて、不思議なもんや!
161 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 20:33:44
>160
ちなみに、158も連帯責任で同罪!
それにしても、139年前は、まだ江戸時代!
この国の発展はすごいよね!
162 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 20:38:01
俺の爺さんも童貞だった。
163 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:06:50
>>154 その事件で被害を受けた人にとってはそうだろ。
戊辰戦争で、官軍に火を点けられた町の人たちはいまだに薩長軍は強盗だと言ってるし
164 :
:日本@名無史さん :2006/11/16(木) 21:29:30
関東じゃ有名な話だけど、薩長が日本中で嫌われてる本当の理由は九州や中国
の強盗まがいの在日部落民を戊辰であちこちに移住させたから。朝鮮系パチ屋
やサラ金やヤクザは皆その系統の移民。
165 :
:日本@名無史さん :2006/11/16(木) 21:38:25
まさに隔離地域というかパンドラの箱・・・。
166 :
:日本@名無史さん :2006/11/16(木) 21:52:32
>160 東郷平八郎って幕末のときには名前も出てこないぞ・・
薩英に参加してたってマジですか・・初めて知った。そんな昔の人だったか。(べ、勉強します)
169 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:25:17
昔ばぁちゃんからこんなしりとり教えてもらった
ニッポンノ→ノギサンガ→ガッセンス→スズメ→メジロ→ロシヤ(ロシア)→ヤバンコク→クロバタキ→キン〇マ→マケテクヤシヤチャンチャンボウ→ボウシ→シリノワレメハジュウモンジ→ジイのアタマハハゲアタマ→マンジュウイッチョウ→チョウセンニ
ときどき解読不可能だけど(うろ覚え)日露戦争の歌だよな?
170 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 02:14:58
薩長の最大の罪は、明治期以後江戸の町並みと文化を完全に破壊しつくしてカケラも残さなかったことじゃないだろうか
171 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 07:17:21
俺は廃仏毀釈やら城郭の打ちこわしやらの文化財破壊が・・・ってスレチガウ
五重の塔でさえ売りに出したんだもんな。馬鹿過ぎだよ
>>170 関東大震災と東京大空襲で、江戸の街並は灰燼に帰した。
京都は1985年頃まで古い街並がよく残っていたが
バブルの地上げで見る影もなくなった。
174 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 12:20:10
チュンやチョンの民度の低さを笑うやつがいるが、
程度の差こそあれ日本もたいしたことないな。
下がいない分、上もまったくいないからな。
>>173 京都の惨状は世界的に有名らしいね。何故あんなに貴重な文化を破壊したんだ!ってさ。
アメリカのメル友に嘆かれた事ある。作り話じゃなくて。
176 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 14:43:03
京の街並みの近くに高層マンションも建ってるし
>>175 米軍も、京都と奈良は文化遺産保護のために爆撃しなかったからな。
戦争でも守られた文化遺産を、不動産屋やヤクザが次々に破壊しても
見て見ぬ振りをしているんだから、解同採用枠のある京都市役所らしいよw
178 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 15:34:58
>>177 その文化遺産保護ってのは本当なんだっけ?
>>178 湾岸戦争やイラク戦争でも、ウル、バビロン、ニネベといった遺跡を
米軍は爆撃しなかったから、良い悪いは別にして国民性だろう。
>>179 でも占領政策で博物館、美術館放置で石油プラントのみ大事に保護して、
貴重な文化財や書物、骨董品が根こそぎ盗難にあってしまったんだよな。
爆撃の選別は建前で占領政策が本音のように思えた
181 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 20:07:18
薩長人=朝鮮人には文化は全く理解できなかったのです
廃仏毀釈はひどいよなあ
あれで貴重な自然もたくさん破壊されてしまった
183 :
:日本@名無史さん :2006/11/17(金) 21:05:59
川崎や新宿、渋谷にもやつらが居座ってしまった。
男の居なくなった戦後も土地不法占有したり、女犯しまくったし。
>>182 神社の御神体が仏だったり
神を拝む寺があったり
現世利益(密教)の神社があったり、
もう教義がグチャグチャだったからな。
今でもそれほど余り状況は変ってないが。
185 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:53:30
耶蘇でもないのにクリスマスを盛大に祝うのは日本人だけ
>>185 トルコはイスラムの国だが、
欧州の影響が強く、クリスマスは盛大に祝う
>>182 自然は破壊されてない。戦後の復興時と、それ以上に自然は自然のままが1番!と言う馬鹿な自然保護を訴えてる今が一番酷い。
>>187 工工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
熊楠の努力知らんのか
>>188 製材業について詳しく調べてみるといいよ。
その結果、鳥も動物も棲まない死の森が多数できたわけだが
191 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 08:26:00
まぁどうだか知らんけど
とりあえずスレ違いだと思うんだ
192 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 08:32:22
爺さんの戯言だ、そっとしておいてやれ。
193 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:23:38
>>186 イスラムではキリストも予言者の一人だが・・・
194 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:37:16
すれ違うってば
廃仏毀釈もあったが、神社統合も酷いもんだ。
あれのお陰で鎮守の森が無くなったり、地元民に親しまれていた社が無くなったりな。
んで田舎の婆ちゃんに話を聞きたかったが、大正生まれだから幕末明治大正の話は聞けなかった。
聞けたのは、爺ちゃんが海軍呉工廠の職員で大和建造の工員だったとか、
第二次大戦での昭和20年の呉空襲で港にいた軍艦が次々に爆撃され哀しかったって事ぐらいだった。
スレ違いスマソ。
>>193 ←このヴァカは、イスラムの国全てで
クリスマスを祝うとでも思っているのか?w
アラブの国じゃクリスマスは祝わないよ。
イスラムではトルコぐらい。
197 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 15:15:21
198 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 17:50:42
>>196←このヴァカは、何一人で勝手に決めつけて一人で発狂しているんだ?
人が言っていないことがそんなに可笑しいのか?
可笑しいのはお前の頭だ
馬鹿同士仲良くしろよ
ちなみに第三者には両方ともに朝鮮人並のオツムの持ち主にしか見えないよw
馬鹿は別の板に移住してくださいねw
185 :日本@名無史さん :2006/11/17(金) 21:53:30
耶蘇でもないのにクリスマスを盛大に祝うのは日本人だけ
これは明らかに間違い。
間違いを指摘された198は、逆切れしてしまった
201 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 19:56:23
>>200 キリストはイスラムと全く無関係ではない。予言者の一人とされているからイスラム教徒が敬意を払うのは全く不自然というわけではない。
仏教や神道とキリスト教は何か関係あるのかな?
あなたが信じているカルト宗教では大ありかも知れないがw
202 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 20:17:39
>>201 スレタイ嫁。
爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正の話 その1
× 予言者
○ 預言者
>>165 ばあちゃんから日清戦争の歌を聴いたことがある。
「にっしんだんぱんはれつして おにの〜」までしか覚えてないが、全部聞きたかった
>>201 しつこいぞ。お前の言う
「耶蘇でもないのにクリスマスを盛大に祝うのは日本人だけ」
は、明らかに間違い。
間違い指摘されたからって逆切れするな。チョンコか?
自分の間違いを認めろ。
205 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 01:31:10
>>195 ぜんぜんスレ通りの内容ですよ。
軍艦が空襲で沈没するのが悲しかったという、
その時代の視点が平凡でも、今の世では確認すべきことだから
近藤勇の処刑の場所は板橋の馬捨て場で当時は川が流れていたらしい
207 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 04:15:45
たんなる情報ではなく当時の人間の息吹を感じる「人」の証言こそがこのスレの趣旨と思う
208 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:35:56
>>207 同意
少々事実とのギャップがあっても、一つの物語として聴きたいね
明治生まれの俺の爺さんが父親(俺のひい爺さん)から聞かされた話だが、
ひい爺さんは西南戦争に従軍していたらしい。西郷軍には戦国時代の鎧兜姿や
火縄銃を持って従軍した兵士がいたそうだ。そこらへんに腐乱死体が転がっていて
悪臭がひどかったとか聞かされた。
あげ
211 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 02:16:01
世の中あっという間に変わる。
戦争は嫌だね。
212 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 07:27:05
他スレから拾ってきた
第二次の話だけどね
玉音放送が15日だから本当にぎりぎりだな
41 :日本@名無史さん :2006/11/17(金) 08:22:11
うちの祖父は軍属で樺太に派遣され、8月14日に引き上げたそうだ
終戦の混乱で帰宅が遅れ、家族が心配していたところある日の真夜中に帰ってきたらしい
祖母は深夜に目覚めたら枕元に祖父が立っていたので、死んで夢枕に立ったのかと思ったそうだ
祖父は帰宅まで8月16日のソ連侵攻を知らず、その後シベリア抑留があったことを知ったときには
正直肝が冷えたと言っていた
213 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:50:48
なぜか西南戦争ものが多いな
語らなきゃという文化が残っていたからかなー
個人的には満州や東南アジアなどで生活した体験談とかも聞きたいね
214 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:59:40
あげ
祖母から聞いた歌が「クロポトキンの首をとり〜」
日露戦争時にはやった歌の一部らしい
216 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:40:33
うちの曾祖母が明治生まれだからいろいろ聞いてみるかな
217 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:20:50
>>215 お手玉しながら唄うヤツだろ
漏れは母親から聞いたorz
ゲキレツランパン破裂して
日露戦争始まった
とっとと進むは日本の兵
さっさと逃げるはロシアの兵
クロポトキンの首を取り
東郷元帥万々歳
だったな。1行目は意味不明。なんでクロポトキンをやって東郷が万歳なのかもわからないし。
うちの婆ちゃんのお手玉の歌はこれだった。
もちろん全然意味が判らなかったが、
ガキの時にさんざん聞いたから耳から離れない、今でも歌える。
文部省唱歌だったんだな。
旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所は何処水師営
庭に一本棗の木 弾丸あともいちじるく
くづれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍
219 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 02:17:17
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を思い出すな
220 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 09:43:27
うちの死んだ爺さんは明治30〜40年ぐらいの生まれだが、学校を
出てから海軍に入隊するまでの間、帯刀してたらしい。曽祖父が60
ぐらいの時に生まれたそうで、その曽祖父は西南戦争で薩摩軍に参加
した郷士だったらしい。都城の戦いで負傷し、西郷隆盛と涙の別れを
したと聞き、色々調べたが、そんな史実はなかった(笑)
それと、話題の手毬歌だが、僕の聞いたのは、こうです。
にっぽんの 乃木さんが 凱旋す
すずめ めじろ ロシア
野蛮国 クロバタキン 金の玉
負けて逃げるは チャンチャン坊 棒で叩くは犬殺し
シベリア鉄道長けれど 土瓶の口からはきだせば
バルチック艦隊万々歳
221 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:58:17
220>
すごいな!あんたの曽祖父!
おそらく天保とか弘化の生まれちゃうか!
もろ江戸時代をしっとる世代や!薩摩藩士か?
ちなみに俺の曽々祖父は、明治になっても新政府
に抵抗した備中松山藩士!田舎侍やが、俺は誇りに思っとる!
222 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 11:34:34
良スレあげ
223 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 11:53:22
うちの母方はそれほど裕福な家庭でもなく
昭和のはじめだというのにうちの母親は奉公に出されている
小学校には通えたが奉公先の赤ん坊のお守りをしていたのでロクに授業など受けれず
いまだにアルファベットは読めない
スレ違いだと思いますが昭和の時代でもこんな感じです
224 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:15:48
>>223 あんまり関係ない話ですが、戦前の教育を受けた人って
小学校ぐらいしかでてなくても、字がきれいな人が多いですよね。
やっぱり学ぶ機会が少ない分、それだけ授業にも身がはいっていたのかな。
225 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 16:17:08
明治生まれの亡くなった祖母も小学校4年ぐらいまでしか通ってなかったみたい
おれも婆さんからいろいろ話を聞いたけど、
印象に残ってるのはほんと差別が凄ぇな昔は。
橋がかかってる場所のこっち側と向こう側では別世界、
例えるなら白人居住地と黒人居住地みたいな差別があったらしいな。
地方や集落により様々だろうけど、
今の時代もてはやされる双子ちゃんは、
犬畜生みたいな捉え方で、生まれてすぐ・・・してたと聞いたな
特に男と女の双子は心中したもんの生まれ変わりで
最も忌み嫌われたらしいなぁ
227 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:24:26
じいさんが大正4年生まれ。
生まれつき病弱で小学校には6年中5年しか通えなかったけど、算数(数学)と
習字が得意だったそうな。あと
>>226にもある通り、じいさんの生まれ育った
中国地方某村でも双子はあまり歓迎されていなかった。ただし幼児死亡率が
高かったため、里子に出したり間引いたりという惨いことはせず、どちらか一方を
1年か2年若く戸籍に登録させたそうだ(母方の祖母の姉もこのケース)。
228 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:28:11
うちのひいおじいちゃんは空襲で亡くなった。
当時の蘇我は川鉄があったからよく空襲にあったらしい。
空襲警報が鳴って、急いで近くの防空壕に入ったんだけど
その防空壕は狭くて、まだ子供だったおじいちゃんとその兄弟を押し込み
自分は入れなくて、外にはみ出ていたらしい。
そこに爆弾が命中。おじいちゃんやひいおばあちゃんは助かったけど
ひいおじいちゃんは亡くなった。
会ったことも、見たこともないひいおじいちゃんだけど
子を思う親の愛はすごいなって思って、涙が出た。
あと、おばあちゃんに聞いたんだけど
終戦の直後も米軍の飛行機が飛んでいて怖かったらしい。
しかも林の中とかに隠れていないと、米兵士に連れて行かれる。と言っていた。
貴重な話を聞けるこの時代に生まれてよかったと本当に思う。
229 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:45:14
ばあさんが明治生まれ
本家の娘が高等女学校に逝ってて、許婚がいたのに好きな東大生と駆け落ちしたそうな
それで学問をすると不良になると、ばあさんの家では男は中等学校まで、女は尋常小学校までしかいかせてもらえなかった
母親の爺ちゃんは明治初め生まれ。まぁ俺にとっては曾爺ちゃんだな。
爺ちゃんの家は四国の何処だか忘れたが結構な地主の長男だったらしいが遊び人だったそうな。
そんな爺ちゃんが九州に遊びに行った時に知り合って仲良くなって好きあった娘さんが、顔も知らない歳も
離れた人と結婚しなくてはいけなくなったそうで、爺ちゃんとその娘さんは結婚間際に夜逃げしたそうだ。
んでその娘さんと結婚して各地を点々としていたそうだが夜逃げから半年後に四国の実家に帰ると
実家の土地の山が一つ売られていたんだそうだ。理由は娘さんの結婚相手に対する侘びに必要な金を工面
する為に売ったんだそうだ。んで爺ちゃんは父親に勘当され家を追い出されたんだが、まぁ世間体を考え勘当
したんだそうで、その代わり結構な金額を手切れ金?としてもらったそうな。
その後爺ちゃんは遊び癖が治らず遊んでばっかだったそうだが、遊びで手に入れた金と婆ちゃんの働きで5人の
子供を自分の様な遊び人とは無縁の立派な人に育て上げた。
だけど死ぬまで遊び癖は治らず金は入っても直ぐ出て行くみたいで、死んだ時の遺品がひょうたん一個だけだったそうな。
豪快な生き様だとは思うが、マネはしたくないw
長文スマン
231 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 09:33:08
うちの母方のおじいちゃんは徴兵されたが身長が足りなくて
兵隊じゃなく船の調理係として採用されたらしい。
でも行く途中の船が爆撃され上陸もしないままあぼーん。
フィリピンのミンダナオ島沖です。
ばあちゃん当時25歳で4人の子供を抱えた未亡人になってしまった。
でも散々苦労して4人をちゃんと育て上げました。
親戚も多かったからみんなから助けてもらってたみたいだけど。
でも私が1歳の時に62歳の若さで亡くなった。
乳がんだけどちょうど私も生まれて忙しくしてたから病院に行けなかったらしい。
(自主的に病院に行く人じゃないらしいけど)
おかんは今でもその事を悔やんでるけどおばあちゃんは愚痴とか人の悪口とか一切言わなかったらしい。
晩年はたくさん孫がいて幸せだったんじゃなかったのかなと思う。
あとうちの親父が長崎の原子雲を見たと言っていたが福岡の内陸部の筑後川沿いの村から見えたのかなー?
近所で大騒ぎになったそうです。
232 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 15:16:46
俺の婆さん(90歳。ご存命!)が子供の頃、近所に住んでいた老婆は
(天保以前、ひょっとして文化、文政生まれくらいか?)
少女の頃、打ち首になった自分の父親の首をフロシキに包んで、家まで
持って帰ってきたらしい。「ミニにたこができる」ほどこの話を聞かされた。
233 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:51:52
234 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 00:09:03
ドラマティックな人生のほとんどが世の中の流れの影響受けてるんだと再確認。
だからこそ戦時中などは心の中にしまってあるドラマ多いんだろうな。
それを聴きだして世に出してあげる役目だな、このスレは
235 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 00:38:41
俺の爺ちゃん
若い時、本田宗一郎の知り合いで
本田宗一郎がバイク屋を始める時に
一緒にやらないか?と誘われたが
金にならないからと言って断った
爺ちゃんの見る目無し!
236 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:10:24
>>235 ウ ホ ッ ! や ら ま い か ?
237 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:11:00
当時本田家の近所(赤坂?)では「スピード狂のオヤジ」扱いだったらしい
世界を変えるのはいつも奇人変人
凡人はその後をついていくだけなのだ
明治生まれの俺の祖母は戦争中に近所の人を田舎の実家に疎開させて食料とかも世話してたからみんなに感謝されたって俺に自慢げに話してた
>>239 いい祖母さんだな。その祖母さんの子孫としての誇りを持って生きろよ
241 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:54:03
良スレには、荒らしの入る余地がないな!全く・・・。
俺の父親(昭和40年入社。来年春定年予定)が新入社員の時、
ひいきにしてもらってたお客さんの家には、まだ慶応生まれの
爺さんが生きていて、会話もしたらしい!維新から97年後の
1965年の話。ほんと、時代の転換点やったんやな〜。
242 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:05:26
この板では全然盛り上がらないだろうが、オレが入社した時、職場で再雇用されてはたらいていたおじいさんが元海軍の航空整備士。
プロペラが後ろに着いた飛行機が飛ぶのを見たって・・・・それ震電だろ
243 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:13:10
税所篤の縁者がタイフォされた。
明日のトップニュースだ。
とんだ政争の巻き添え。
244 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 02:48:34
うちの母親桂太郎が韓国の小さな幼皇帝日本に招き京都の街連れて
あるいてイルのみてあぁもうすぐ合併だなぁ、と思ったそうだ。
おやじは日清戦争でチャンコロやっつけろと幼少の身ながら町を練り
歩いたそうな 今でも変わらんナァ
246 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 03:41:33
100年も前か。あんたも結構な年だな
247 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:48:58
父からのまた聞きの話だが、
うちの爺さんかひい爺さんは、幼いころの与謝野晶子のご近所さんで、
与謝野晶子は近所では「あの子と遊んじゃいけません!」なんて言われている
不良娘だったらしい。
248 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:08:08
249 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:07:22
明治〜大正〜昭和〜平成〜4世代を生き抜く力
250 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:52:13
>>247 ま、今では当たり前だがその頃恋愛結婚なんてふしだらな事やったんだからな
40年前にジーパン履いて歩き回るようなもんだよ
251 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 17:13:26
うちの曽祖父曾祖母はお互いの顔を結婚式当日まで知らなかったらしい
父方も母方もそう言ってるから「結婚は家同士で行う」って意識が強かったんだろう
そんな曽祖父ですが、はっちゃけた伝説が多いらしく親戚からは割りと白い目で見られてたそうな
北関東の片田舎から東京の下町に出てきて店おこしただけで結構大変なことと思われてたらしい
(大正期の話ね)
その夫婦の娘(=ばあちゃん)とこに婿入りしたじいちゃんは
太平洋戦争時に大陸で戦ってきたんだそうだが
非常に体格が良いので兵隊に甲種合格したのが自慢
自分が小さい頃、一緒に風呂入ると肩やら鎖骨やらの傷見せてきて
「こっから鉄砲の弾が身体ん中入ったんだ」
と教えてくれたっけな
50年くらいたってようやっと摘出手術受けてたけど…
ばあちゃんは随分前に死、甲種合格のじいちゃんも今じゃ半身不随
とりあえず死ぬまでは優しくしてあげたいと思います。
うちの祖父は関東軍で、終戦でシベリアに抑留され復員したのは昭和24年。
その時うちの親父は5歳で、写真でしか自分の父親を知らなかったから
写真とは変わり果てた父親から「お父さんだよ」と言われても実感がなく、
見知らぬおじさんだと思って逃げてしまったそうだ。祖父も辛かっただろうな。
シベリアの収容所では全員が栄養失調で、毎日のように戦友が死んだそうだ。
夕べ「おやすみ」と言い合った仲間が、朝になったら死んでいる。
「こんなところで死ねるか、絶対に生きて帰ってやる」と強く思いつづける事で
生き抜いた、と言ってた。8年前に死ぬまでロシア人を呪っていたよ。
祖父の口グセは「ロスケだけは信じるな」だった。
子供の頃、婆ちゃんが字が読めないということに気付いたときは、
ちょっと厳粛な気持ちになった。
254 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:18:58
>>253 明治生まれの俺の婆ちゃんも漢字はあまり読めなかった
小学校は4年ぐらいまでしか通えなかったみたいだし
255 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:25:27
爺さん婆さんの話って時系列がゴチャゴチャになってるし人名とか固有名詞も適当だから困る
256 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:41:16
うちの曽祖父は、天誅組と戦った。
マジで凄い。
257 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 05:47:45
>>256 それは凄いですね
良かったら詳しく教えてください
258 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:22:05
曾祖母は乗馬となぎなたの名手で、大変なお転婆娘だったそうです。
で、おとなしい曽祖父(従兄妹にあたる)に嫁として押し付けられたそうです。
おそろしく気が強くプライドの高い女性だったとか。
昔は同族結婚ばかりしていたみたいですよ。
259 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:20:51
明治生まれの祖母は英語読めたけど当時としては珍しいのかな?
260 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:15:00
死んだ祖父の親戚見たことないなあって思ってたら実はお妾さんの子供だったらしい
親がこの前ポロッと言って、あんた知らなかったっけ?と言われた
旦那はけっこうな大店の主人だったらしい(妾は子供三人生み、贅沢な生活ができてた)が…
調べたいが病床の祖母には聞きにくいorz
でも今聞かないと知ってる人いなくなるだろうしなあ…
262 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:22:05
曽祖父はクリスチャンになって(元は曹洞宗)、ピアノを弾きながら賛美歌を歌っていたそうです。
表紙が子羊の皮の大きな聖書が残っています。
伊達男だったので、英国直輸入の生地で洋服をあつらえさせていたそうで、
当時は洒落ていたという帽子も残っています。
元は武士でした。ずっと昔に郷里から取り寄せたという戸籍が士族になっていますし、
郷里には親戚もいるし、県とか町の郷土史みたいのにも苗字が出ているそうです。
家宝はないので傍流だったんでしょうが、明治維新後にうまく転身できたんですね。
子孫はパッとしないですけどw
明治生まれのうちの爺ちゃんもクリスチャンで、
子供の頃からカナダ人宣教師に教わっていたから英語が出来た。
戦後、米軍が進駐して来たら引っ張りダコになったが
通訳の仕事は板挟みになるから嫌だ、と言って嫌がっていたそうだ。
ただ、うちの親父曰く「爺ちゃんの英語は変だった。学生時代、
家で爺ちゃんに英語を教わっても、それを学校で話すと英語の先生に
間違いを指摘されて混乱した。aをアじゃなくて、エと読んでいた。
でも爺ちゃんが進駐軍の将校と早口で喋っている姿は何度も見ているし、
我々のジャパニングリッシュじゃなくて、本当の英語だったんだろうな」
とのこと。ちなみに爺ちゃんには子供が4人、孫が7人いたが
誰も英語はモノにならなかった。英語を教えるのは苦手だったみたいだ。
>>261 戦前にお妾さんになる女性が多かったのは、
女性の就職機会が極めて少なかったのと、
社会福祉制度がほぼゼロに近かったため、
女性が男性に依存せずに生活してゆくことが
難しかったことによるものでしょう。
もちろん人生の幸福は本人の価値観によるものですが・・・
>>264 それは関係ないんじゃないか。
今のように女性の就職機会が多くて、
社会福祉制度があっても、
妾になる人はいくらでもいるよ。
うちの曾祖父
晩年はボケてしまって、隣家の囲炉裏端に座って隣人が帰ってきたら「よくいらっしゃったなあ」とか言ってたそうだ
徘徊老人のはしりだな
>>265 本番ありの風俗やAVにいく女性も増えてるね。
不景気にも関係あるんだろうけど。
バブル期でも風俗に行く女性はいっぱいいたから
景気より手っ取り早く大金が稼げるってのが大きいのかもね
>>262-263 うちはひい爺さんの代に田舎から出てきたけど、檀家にしてくれる寺を探すのに苦労したらしい。
なんとか小さい寺に引き受けてもらえたけど、最後まで見つからなかったらクリスチャンになってたかも。
ちゃんとした葬式を出してもらうあてがないまま死ぬのが物凄い恐怖だったらしいね。
誰か明治30年〜45年頃の話を聞かせて
271 :
OPS:2006/12/26(火) 19:13:27
うちのひいばあちゃんは明治35年(1901)生まれ、でもって話好き。
四国の生まれだが8歳のとき蝦夷開拓移民団で北海道へ
17歳で四国に帰り大阪へ奉公に
そこで結婚した。
北海道へ行く時の船は四国から、下関 金沢 新潟 函館 と(江戸廻船!)ルートだったそうな。
途中で日露戦争の大砲の音を聞いたといってた・・
北海道の開拓はものすごかったが若かったのでおもしろかったとか
クマの話や馬橇に乗るのは病人の出たときだけだったって。
結婚したら米騒動、
鈴木商店や三菱(大阪)の倉庫の周りを
銃剣つけた兵隊さんが囲みその周りを竹やりのおっちゃんたちが囲んでいるのを目撃したらしい。
「男が俵もって逃げるのを見てたら、
ほいねぇちゃん・・いうて米ぎょうさん地面にこぼしてくれて、
おおきに いうて手ですくうて前かけいれて・・」と話し出すときりがない・・・
ばあちゃんの小さいころすでにおばあさんだった人から
エエジャナイカ参りの話を聞いて「昔はむちゃしたんやなぁ」と思ったそうです
99まで生きて2000年没
それでは・・・
おばあちゃんのうち(下町の長屋)には太平洋戦争中もでかいユニオンジャックがあった
これは、日英同盟のとき町内会で購入したもので
日の丸とぶっちがいにして家の前に飾った
大きな木綿の布なんて戦争中は貴重品だったけど
「柄が柄やから、買出しの風呂敷にも使えん」
仕方がないので、押入れで布団を包んであったそうです
みんな1945年3月の大阪大空襲で焼けた
275 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:32:20
婆さんが子供の頃、決して刃物を使ってはいけない厳しく言われた時刻があった
(6時から7時だった気がする)。と言うのは、この時刻に何代か前の先祖が
切腹したかららしい。
なぜ切腹させられたかというと、勘定役だった先祖の部下が仕事中にうまの合わ
ない同僚を刀を抜いて切り殺したそうだ。その場にいた人たちは、先祖も含めて
クモの子散らすように逃げ出してしまった。江戸時代後期になると武士も結構軟
弱になったてたのだろう。
その士道にあるまじき行為を咎められ、上司としての部下の管理責任も問われ、
先祖は謹慎を命ぜられた。処分は近親だけだったが、それを恥じて切腹したらしい。
蜘蛛の子散らしたように逃げる武士たち
ちょっと微笑ましいな
幕末に流行った「ええじゃないか」の逸話が聞きたい
ええじゃないか参り うちのおばあちゃんの話
明治の終わりごろすでに年寄りだった人からの伝聞
(at 徳島県北部)
最初はどこから始まるんかわからんのやけどな
道を行列でひとがくるらしい
おなかがすいたら、
人のうちの台所(だいどこ)に大勢で勝手に入って
そこにあるもん勝手に食べるんやて
文句ゆうたら
「ええやないか、ええやないか、なんでもええやないか」
それだけ言うて、ほかにはなんにもしゃべらへん
人数の勢いで食べたら出て行くねんて
大勢で入れる台所やから大きな家でそんなとこは
しゃないなぁ・・ってことになるらしい。
(徳島だから)船も「ええやないか」でどやどやのったら
乗せていってくれたんやて。
お伊勢さんのそばまで行ったらもう歩かれへんほどの人で
おまつりみたいやったそうな
「帰りはどうしたん?」(by孫)
さぁどうしたんやろなぁ
とにかく、返ってはきはったらしいで、四国まできたら
お遍路さんのお接待もあるさかいねぇ・・・
こんな話です。(あたしと母とで思い出した分のみ)
あんまり話が面白いのでうちではテープにとったものがあるのですが、
昔のオープンリールなので再生ができん。
>>278 >昔のオープンリールなので再生ができん。
それってすごく惜しい!
伝承館とか博物館とか?そういう側でも聞いて見たいんじゃないかな。
貴重だと思うよ。
>>278 大学かどっかの研究機関なら涎垂らすぐらい欲しいんじゃないか?それ。
278です
じつは私も少し関係のある分野にいるのですが
ええじゃないか参りについては曾祖母も伝聞ですので
あまり資料価値はない様に思うのです
むしろ、米騒動は彼女が実際に経験したものですし
いち庶民の事件への受け取り方の例として意味があるかもしれないとは思っていました
ちなみに、うちの父の家は商家で、米騒動のときは襲われて逃げたほう
店を閉めて表戸に筋交いを張り、
二階の物干しから裏の家の屋根に逃げたそうです
表戸はすぐに壊されたそうですが
「いつも来てくれるお客やのに、顔色が変わってた、」
「ああ○○はん・・って名前呼んでも聞こえへんみたいやった」
「引いてはまた戻ってきて波みたいになんべんも入って品物もっていった」
曾祖母は母方でこちらは米の高騰で
一ヶ月近く米櫃がほとんど空だった状態を経験してます
上に書いた鈴木商店倉庫の話はそのときのもので
「あのおっちゃんはええひとやった」
「あのときほど男が頼もしかったことはなかった」
「銃剣つけた兵隊さんもなんもせえへんかった」
「目ぇそらして見えへん振りしてたで、しゃぁなかったんやから」
これはおもしろいとおもいました
>>281 父方の話は父方の大叔父の話です
曾祖母と同世代
283 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:59:38
嫁の母親の曽祖父は、寺の坊主だったが志願して兵になり、
武士の資格を手に入れた。
戦争では鉄砲玉を身体の中に食らったまま戦い、それでも
生きて帰って来た。
そのおかげで、嫁の実家は「会津武士の末裔」をいまでも
誇りにしている。
284 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:57:54
皆、じいちゃんばあちゃん大事にしろよ・・・
つい最近知ったんだけど
曾祖父が満州国の関東軍司令官だったらしい
満州かあ…
身バレするぞ
287 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:26:34
貧乏の子沢山ってやつで、うちのじいちゃん、十四人兄弟の末っ子。
一番上のお兄さんとは親子くらい年が離れてたらしく
早くに両親がなくなってからは戸主になったそのお兄さんに育ててもらったんだそうな。
去年じいちゃんが90歳で亡くなって相続関係のために戸籍を取り寄せたんだけど
見てみたらなかなか面白かった。
じいちゃんは八男で、仲の良かったらしい六男の話は生前聞いたことがあったんだけど、
七男の話は聞いた事が無かった。戸籍を見てみたら七男は四歳で亡くなってたよ。
昔の戸籍は手書きで味があるね。文字が読みにくくて解読に時間かかったがw
今回初めてひいじいちゃんの名前を知ったんだが、それ以前のご先祖様についてはわからなかった。関東大震災で焼失しましたって書いてあった。残念。
>>287 本家や菩提寺に行ったら過去帳とかあるかもよ
289 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 01:39:14
幕末から明治初期生まれのひいひいじいさんの話です。
話の時代は明治中頃から大正あたりにかけてその人は何でも秋田を拠点に材木商で相当稼いだらしい。
宮城県北部にある家は元々農民(郷士?)の家柄だけどその人がどんなつてで商人になったかは不明です。
地元にもどってからよく着流しに紋付き羽織と流行りの帽子を被って近所を堂々とあるっていたらしいです。
一時は村一つほどの土地をもっていたのに博打に手を出しおかげで没落。なんとかうちのじいさまあたりで持ち直したけど(^_^;)
しかし一だいでそこまで家をもり立てた先祖は尊敬してます!
着流しに羽織に 帽 子
明治の流行だったのかな
明治生まれのおばあちゃんは自分の事を「俺」って言ってた
292 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 07:23:15
ウチの田舎では今でも女の人も「オレ」だよ
293 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 07:57:06
大正生まれの故人はとにかく物が無かった。食料の調達が
大変だったといってた。
それから、何かにつけありがたい、ありがたいと言ってた。
感謝の心は大事だね。
西南の役時、周りはうちの先祖の畑だった。
(元地方豪族なんで土地だけはやたらある訳で)
そりゃー畑にゃ死体や弾丸が転がって処理に苦労したそーな。
田原坂を通ると必ず金縛りに合うんだけど超迷惑(`Д´)
>>290 どちらかというと大正時代に流行ったような
296 :
山下健三:2007/01/24(水) 03:17:01
幕末の話なんてのはないけど
昔の人はすごく早死にですぐ病気にかかっては死んでいったと言うよ
じいさんの戦争中の話だったら幾度も聞いた
兵隊には小遣い以上の給料が貰えたんだって、それで好きな本やお菓子を買って
楽しみにしていたらしいよ
あと、ビルマ・シンガポール・中国を転戦して
誇らしげに語っていたな
満州の中国人は日本人とすごく仲がよくて
日本人の親切な配慮にすごく喜んでいたそうだ
別に中国や朝鮮で差別らしきものがあったとは語っていなかったな
297 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 04:24:46
298 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:47:43
299 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:13:42
子供の時に夜に口笛を吹くと明治生まれのおばあちゃんに怒られた
オナニーすると婆ちゃんに起こられた
>>299 ♪真夜中に一人吹く 口笛を 叱ってくれる 人もなく
という歌謡曲を覚えていますが、水木しげるによりますと
妖怪を呼ぶという伝承があるからだということだそうです。
302 :
藤原南家工藤氏34代目:2007/01/28(日) 00:07:30
こんなスレッドあったんだな、今日知ったよ。それでは俺が聞いた本物の話を。
20年ほど前に97歳で亡くなった祖母(明治25年生まれ)が、そのまた祖母から聞い
たと言っていた話。
@自分(祖母)のばあやんの頃にひどい飢饉があって(たぶん天保の大飢饉のこと)、普段な
ら普通に道端に生えているはずの草までが食べ尽くされて一本も無かったと言っていた。
A昔、大地震があって、すごい揺れのために善光寺の軒が地面についたということだ。
Bやはりその地震の時に、善光寺の裏手から大きな火柱が上がったのを見たそうだ。
今から25年ほど前に亡くなった近所のおじさんが言っていた話。
@自分の祖父が子供の頃、官軍が石村の道(今の長野市豊野町石)を通って進んで行った
のを見たそうだ。そしてしばらくすると大道橋のあたりからパンパンという鉄砲の音が
したんで、屋根に上って眺めていたと言っていた。
こういう話って、やっぱ貴重だよね。
みなさん、ちと情報拝借。
みなさんの爺ちゃん婆ちゃんのお名前で、ちょっと変だ?ってのありました?
誰か「ケサクマ(爺)」「ケサカメ(婆)」の意味というか由来みたいなのをご存知の方は
いらっしゃいませんか?
こんなところにごめんなさい。存命中の明治生まれの方がもしもいらっしゃったら
訊ねてもらうことってできないでしょうか・・・
よろしくお願いいたします。
あいかわらず日本語下手だな
どこの国の人だろう
305 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 09:54:30
306 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:50:13
うちの祖父は生まれつき病弱。
太平洋戦争のとき志願したけどイランといわれてとても悲しかったそう。
祖父の弟は健康で180センチ以上の大男だったからもちろん兵隊になれた、
兵隊さんたちが行進をしてくると必ず一番前で(兵隊は背の高い順だから)祖父の自慢だったらしい。
でも南の島で戦死、遺骨は帰ってきていない。
その祖父のお父さん(この人も180以上、地元相撲では必ず勝っていた力もち)は、
日露戦争の時、敵に撃たれた味方の兵隊を助けた功績でいくつか勲章をもらっている。
助ける時に手を撃たれていて、その銃弾はずっと手に残っていたそう。
307 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:02:08
祖母は一応武士の家系。
刀狩りの時、埋めて隠すような者がいた中、祖母の家は正直に全て出したといっていた。
武士の家系でしかも長女という事もあり、厳しくしつけられたようで、
小さい頃はあれこれ良く注意された。
筋が通っていたから不満ではなかったけど。
308 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 23:51:05
武士の家系なのになんで隠さないといけないんだ?
ほんとだw 変だね
310 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 00:42:07
廃刀令と刀狩間違って書いてるようじゃ・・・
312 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 01:48:18
それまで大事にしてきた刀(身分的特権)を取り上げられる武士達にとっては、まさに「刀狩り」って
認識だったんじゃないかな?
武士の家系だから隠す家もあったと思うよ。
それまでの身分的特権だしね。
うちの父方の祖先は隠したんだけどね…。何でも廃刀令の時に一番大切な刀は所有する山に埋め隠し
二束三文のどうでもいい刀を届け出し、その後掘り返し秘蔵してきたそうな。
だから今も本家の家にあるよ。俺の父が三男だからうちの物では無いけど。
刀を戦争の時に国に出さなかったの?
非国民なんじゃ
315 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 04:22:52
武家の人っておでんとか食べるんだろうか
ガキの頃本物の焼夷弾の筒を爺様に見せてもらったことがある。
それだけ。
我が家は先祖代々一生童貞の家系なんだ
奇遇だな。俺んちもだよ
もう、母方も父方も祖父、祖母ともに死んでるし
もともと空襲があまりない地域に両親がいたからあまり聞く事ないけど。
父のお父さんは関東軍で父は満州生まれ。
お父さん(祖父)は生粋の職業軍人で最後は少佐。
前線に出ない部隊にいたけど、最後は病死でした。
お父さんの出身地の名士には名前が載ってます。
どこの家にもあるんだろうけど、遺留品がたくさん。
満州の女優さんと撮ったらしき写真。処刑した人の写真(´Д⊂
勲章、短刀、杯など。
の妻の祖母は戦争中でもいい暮らししてたらしく
おうちにマヨネーズとかあったそうな。(戦後かも知れん)
母方のお父さん(祖父)はどうやら兵役審査で落とされた様子
(もしかして、長男だったらというのもあるかもしれないが)
村で一人だけバイクを所有し、珍走団してたそうなwww
そのほかの親戚の男子達は殆ど南方で戦死。
父のおかあさんは俗にいう「はいからさん」でその後
粋な姉御風でキセルでタバコを吸い、父達を良く叱り飛ばしてたそう。
320 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 01:19:26
321 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 01:58:05
>>262 後漢書には次のように書かれている。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見
これを素直に読むと、倭国王帥升等が生口160任を献じ、請見を願う、
となる。
どうして帥升自身が行ってはいけないのかその理由のほうが聞きたい。
どこの誤爆だよw
12年くらい前にいた会社(小さい海運会社)の社長(当時70代)が
226事件の時に出兵してたそうだ
下っ端で雪の中ずっと見張りだけしてたらしい
詳しく聞けばよかった
324 :
家系:2007/02/06(火) 20:57:54
うちの家は安土桃山時代から続いてるらしい、その性の本家なんだって。
確かにじいちゃんちの周りには同じ性の人達が密集してるわけだ。
じいちゃんちの蔵には天保何年って書いてある古い木のお札がいくつかあった。しかも、戦時中の軍刀があったし。メッチャ錆びてたけど。
じいちゃんの弟は満州で戦死したんだって、仏壇の前には出兵前の写真があった。確か左胸に幾つか勲章を付けてた気が…。それと先祖(じいちゃんのじいちゃんのぐらいの世代)の写真も仏壇の上に立て掛けてある。
あと逸話だと思うがあの名将、武田信玄が訪問してきたらしい。
何げに自分の家の歴史を調べるのは面白い。
おまえがエロいことだけはわかった
326 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 22:31:34
327 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:13:48
同じ性の人達が密集してるわけだ
328 :
日本@名無史さん:
西郷隆盛がイモを喰って死んだという説は割と流布してたらしいw