邪馬台国畿内説を議論するスレ6

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858日本@名無史さん:2006/10/30(月) 10:05:42
三角縁一仏三神四獣鏡は国産でないと思うけど。
859日本@名無史さん:2006/10/30(月) 11:08:31
>>850
都合の悪い記述を枝葉扱いにするな。

考古学的な根拠も無く都合よく解釈し、
他説の学者を侮辱していい気になるな。

東の海は何処だ?
860日本@名無史さん:2006/10/30(月) 12:33:19
実際、倭人伝、方角間違ってるからな。マツラから伊都とか。
861日本@名無史さん:2006/10/30(月) 15:42:53
>>860
間違っていない
862日本@名無史さん:2006/10/30(月) 15:45:11
一大率が伊都に置かれたと解釈している時点で
(>_<)
863サガミハラハラ:2006/10/30(月) 15:48:30
私も、倭人伝はまちがっていないと断定します。
間違ったのは日本の学者の解釈です。伊都国は前原ではなく、多久市です。
864日本@名無史さん:2006/10/30(月) 16:16:09
まちがってないなら東の海は?
865日本@名無史さん:2006/10/30(月) 16:17:15
>>863
>>861ですが
伊都は現在の糸島半島です。
866日本@名無史さん:2006/10/30(月) 16:22:41
>>864
豊予水道
867サガミハラハラ:2006/10/30(月) 16:25:58
>>864東の海は瀬戸内海西部です。瀬戸内海東端の現近畿地方は魏人にしられていなかったのでは。
>>865前原とは糸島半島のことを意味します。そこは斯馬国があったのです。
868日本@名無史さん:2006/10/30(月) 17:09:04
>>867
斯馬である理由は?
869日本@名無史さん:2006/10/30(月) 17:29:18
どっちみち志摩の地名だけ頼りに、思い込んでいるだけだから
870サガミハラハラ:2006/10/30(月) 18:56:17
九州はいくつかの間(マ)に分けられて(倭人伝では馬であらわしています)いました。
北部九州のほとんどが邪馬で、その中の一国(といっても北部九州の覇者である)が壱(イ)国で邪馬の壱国ということで、邪馬壱国と称しました。
北部九州の一角に斯馬があり、その中の一国がイ(リッシン偏に台)土国(後に伊都国と間違えられる。)でした。このイト国を邪馬壱国と区別するために
斯馬のイの国と称しました。そして現在この斯馬の地名だけが残りました。そこは糸島という地名として残っています。
871九州ですが:2006/10/30(月) 19:12:28
とにかく、邪馬台国畿内説も、九州説も両説ともに奴国、フミ国までは意見が一致している。
倭人伝では、奴国を、女王国との境となる、と言い、南へ行くと投馬国、とあるところからみて、
瀬戸内海方面を指して言ったのではないか。当時のクニは郡ほどの大きさ。邪馬台国連合は30カ国であり、
伊都国から近畿地方にかけての広範囲に点在していたとは考えにくい。
伊都国に置かれた一大率の役人がが監視のために掌握できる範囲、北部九州に30カ国あったと考えるのが
自然だろう。
872日本@名無史さん:2006/10/30(月) 19:37:27
>>870  伊都国の名前の由来なんて、単純に「糸」の国でいいんじゃないの。
麻、綿、倭絹なんかを扱って、加工業者の仲介や、鉄、銅との交換とかをしていたであろう
貿易の中心地だった訳だし。
873サガミハラハラ:2006/10/30(月) 19:37:34
だから伊都国がまちがっているから、その後の国の比定もまちがっているのですよ。
874日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:01:33

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875日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:04:39
倭人伝原理主義の巣窟だな、ここは。

>>871
>とにかく、邪馬台国畿内説も、九州説も両説ともに奴国、フミ国までは意見が一致している。

末盧国から伊都国への方角が間違ってることは認めるんだな?
876恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:30:23
>>841
>ヤマタイ→ヤマト→大和→畿内説+(考古学)

ヤマタイ→ヤマトというのは十分に可能性はある。
邪馬台国と卑弥呼の後継者:台与(トヨ)と読ませてることを考えるとヤマトコクと
発音した昔の方はいたと思う。

だいたい大和とかいてヤマトなんて読ませるのを考えたら、邪馬台と書いてヤマトと
いうのは常識というべき。

神武天皇が日向から宇佐神宮→北九州→広島→岡山→大阪→和歌山→奈良に遠征をし
たというのは事実というべき。
日本書紀に嘘が半分といっても、半分は事実だ!
よって西都市の邪馬台の植民地が、奈良の大和というべき。
今のアメリカがイギリスの植民地だったのと同じ事。
877恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:31:19
>>841
>必ず女王国の記事が記紀に詳細に載る。が、しかし内容はほぼ0に近く、

間違い!
記紀の最初に天照大神の名で、高天原は統治された女王国だと明記され残ってるよ。
天照大神の子孫が九州を平定し鏡を祭らせて、その後の神武天皇のときに奈良を
征服させたもの。

卑弥呼と台与と2人の巫女で、天照大神という説もある。
俺は卑弥呼の前にも、同じような巫女が何人か居られたと見る。
さもないと新羅本記の西暦173年の卑弥呼の記事との整合性が取れない。

それに卑弥呼は日巫女(ヒミコ)の中国表記で、日本名は日を祭祀する巫女の役職。
台与も日巫女という役職についた個人の名前に過ぎない。
天皇個人のお名前を生きておられる時には呼ばずに、天皇としか呼ばないのと同じ事。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
天石窟(あまのいわや)に入る前の女神を初代天照大神、天石窟から出て来た女神を
2代目天照大神とすれば、卑弥呼(ひみこ)は初代天照大神であり、台与(とよ)は
2代目天照大神であるということになる。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono701.htm
878恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:32:06
>>845
>愛弟子らのマスコミを巻き込んだ派手なパフォーマンスに

たしかに畿内派はパフォーマンスは上手い。
旧石器考古学で神の手を使って、教科書にまで捏造データを載せたほどの能力を持つ。

小泉総理並みの天才的パフォーマンス能力というべきだが、イカンセン根源的思考能力を持ってない。
国内には通用しても、世界に通用する能力じゃない!
権威に弱いのは日本人の体質なのかね・・・・

ーーーーー(引用開始)−−−−−
当初段階で考古学界が検証を怠ってきたこと、その間に次々と驚異的な業績が重ねられ権威
となったことからその後はもう逆らえなくなっていたこと、裏面には学閥的対立・考古学会
の閉鎖的な体質もあったと言われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%96%B0%E4%B8%80
879恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:33:20
>>847
>東の海?それが邪馬台国の位置を調べるのに何の関係が?

魏志倭人伝には、邪馬台国から東へ1000里海を渡ると倭人の国があり、南へ4000里に
小人の国があり、東南方向に船で1年くらい行くと裸や歯の黒い連中がいるという。

だから東と南方向には、広々した海がなければ辻褄が合わない。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ人種である。
その南には小人の国がある。身長は三、四尺である。女王国から、四千余里はなれている。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
880恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:34:02
>>850
>地図も無い時代に、海を渡って航海が出来た事こそ驚きに値する。長年の知恵や経験を
>頼りに風や潮の流れ、天候そして季節によっての差、などを読むエキスパートが居たに違いない。

それは確かに居た。
いたからこそ、人類は世界中に繁殖できたんだよ。
柔らかい木のバルサ材や、パピルスという稲ワラみたいな物でさえ、長い航海が
出来る船を作れるのが人間。

歴史に残るはるか悠久の昔から、人間は航海学や天文学には詳しかったんだよ。
今ではその学問が消えてしまったけど・・・・

ーーーーー(引用開始)−−−−−
ペルーからイースター島まで8000qを101日間かけて航海した。
インカ帝国以前のティワナコ文明とポリネシアの石の文明との共通点を発見し、南米から
ポリネシアへの文化の移動説を実証する為だった。
http://kazahi.hp.infoseek.co.jp/syasin_Kon-Tiki.html

・湿地に生える。
・紀元前2400年頃(4400年前)のエジプトで、
この茎からパピルス紙を作った。これが紙の起源。
茎の髄(ずい)の部分をうすく裂き、
横に広げて縦に伸ばす。
英語の「ペーパー(paper)」の語源はこのパピルス。
http://www.hana300.com/papiru.html
881恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:34:59
>>853
>伊都国{佐賀県糸島郡}に一大率が置かれている。

糸島郡というのは、確定してない。
伊都国が糸島半島なら、魏の使節団は最初から伊都国に上陸してるはず。

ワザワザ末盧國という人口2万4000人くらいの港による必要はない。
遠路はるばる来た使節団に遠回りをさせるという失礼を、邪馬台国が行えるとは思えない。

むしろ伊都国は、監視する強力な行政組織を持ってるくせにたった6000人くらいの小さな王国。
しかも上陸してから500里(25kmくらい)も歩かないと着かない町。
糸島半島に伊都国があったとは思えない。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
和訳:陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。
882恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:35:40
>>857
>画文帯国産は流石に無理があるだろ。

全く無理ではない。
日本では銅鐸という、非常に高度な技術がいる銅鋳物をつくる技術があった。
それに画文帯神獣鏡は日本で発見された数の方が、中国発見数の2倍くらいある。
日本で特に霊験があるとして、流行していたというべき。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
これまでに、日本から150面ていど、中国から80面ていど出土している。
日本からの出土数のほうが、はるかに多い。

日本から出土しているもののなかには、日本で作られたものがかなりあるとみられる。

中国では長江の流域など、南東部から出土することが多い。朝鮮の楽浪郡にあたる
平壌などからも、数は多くないが出土している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/sinnzyuukyou.htm
883恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:36:29
>>857
>紀年でその古墳の年代を決めるというのが無理筋。

俺もそう思う。
今だってブランド品だというだけで、品質をロクに見れないで有難がる連中が多い。
当時は中国産というだけで、値段は格段に高かったんじゃないかね。

それなら国産で少し丁寧に作って、隅っこに中国産の名前だけ入れる連中はいっぱいいるよ。
偽ブランドに誤魔化されるド素人が、日本の考古学者には多すぎる。

世間ズレしてない純粋培養された、象牙の塔の温室育ちバカの弱点だろう。
日本の考古学者なんて、生き馬の目を抜く商売人の世界には通用しないモヤシ人間が多すぎる。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
ここ数年前から、海外で日本製時計(SEIKO)の偽物が出回っておりロレックスの偽物
数に匹敵するくらいの量が出回っているそうだ。

外観はほぼ本物と変わらない為に、メーカー側は3年前よりスケルトンに切り替え中身の
ム−ブメントが見えるようにし、ムーブメントで判定ができるように改良された。
http://ameblo.jp/buster/entry-10005081187.html
884恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:38:08
>>854
>結論が出るのは100000年後くらいだと思われ

俺の論理じゃとっくに結論は出てる、あんたが10万年の時代遅れなだけだよ!

●韓国→対馬間の距離50kmが1000里となってるので1里=0.05kmとする

●山道を超える場合、実測距離を書いてあるとし、地図上の直線距離を勘案し30里=1kmとす

韓国50km南→対馬50km南→壱岐(一大国)50km→唐津(末盧國)20km東南
→富士町(伊都国)5km東南→佐賀大和(奴国)5km東→吉野ヶ里(不弥国)80km南
→宇土(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→西都市(宮崎県)・・「ここが邪馬台国」
885恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:39:11
>>859
>他説の学者を侮辱していい気になるな。

ド素人の俺にさえ、ミエミエの脳みそしか持ってないからそんな考古学者は侮辱される。
当たり前の話のどこが悪い。

しかし俺はDIONを接続業者にしてるので、よく書き込めなくなる。
あなたはどこの接続業者を使ってるの?
886恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/30(月) 20:40:00
>>858
>三角縁一仏三神四獣鏡は国産でないと思うけど。

どんな理由でそう思うのかくらい書かないとね。
理由もなしに勝手に思われても、文句のつけようもない。
887日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:57:18
>>884 あんた今度は何時頃よそのスレへ逃げ出すの?
    今日のDAYサービスは楽しかった貝?
888日本@名無史さん:2006/10/30(月) 21:04:02
>>881
>伊都国が糸島半島なら、魏の使節団は最初から伊都国に上陸してるはず。
>>江戸に用事があっても出島に上陸するアホな外人  だな、お前の考えは
889太国:2006/10/30(月) 21:19:11
>>876
京都は東京都ではな〜い。だから ヤマタイ→ヤマト としちゃうのは早計。
こんなのがダメ例はいくらでもある。
宮崎県は宮城県ではない。愛媛県は愛知県ではない。福井県も福島県ではない。
さらに鹿児島神宮は鹿島神宮ではな〜い

>>877
高天原は邪馬台国ではな〜い。あんたの言い分なら邪馬台国が大和だということに
なるから高天原が大和、つまり畿内だということとなる。これは大間違い。
残念ながら天照大御神は神武よりもっともっと遠い以前の超ミス・ユニバース級
の美姫で安藤美姫さんには似てない、また浅田真央にも似ていな〜い。
卑弥呼は神武以降仲哀、神功の時代の九州の姫で時代の段差は日神と格段に
離れている。これを同時代に決めこむ君は、君の先祖が君だと結論してるよう
なもので、もうメチャクチャとしか言いようがない。w
890九州ですが:2006/10/30(月) 21:45:00

>>875
何をもって間違いだと? マツラ国=松浦市とでも考えているから、そのような過ちを犯すのだ。
マツラ国=松浦郡、伊都国=糸島郡だ。勿論、マツラ、イトの勢力範囲は今とは多少違っているかもしれない。
そんな事は古今東西歴史上何ら不自然ではない。今でも町村合併で、失われる古名もある事を考えれば、
今ある地名で判断するしかないが、たとえば東松浦郡の玄海町あたりにマツラ国の中心集落があった場合、
{時代とともに中心地は変わる事もあっただろうが}東南の方角に行くと、糸島郡に二丈町に達する。
この付近にイト国の中心集落があったと考えると、方角は間違いではない。正確な位置は学者でさえ特定出来ていないのが実情だ。マツラで九州に上陸し、奴の国博多までの間のどこかにに伊都国があったことは多くの学者の認めるところである。
当時は、方位磁石も無いなか、少しくらいの方向の勘違いはあったかもしれないが、
今となっては大体その辺だったと想像するしか、証拠がはっきりと示されるまではないだろう。
このような質問をしてくる側は、こちらの説よりもさらに信憑性の薄い、奇想天外な論を展開してくるのではないか。


891日本@名無史さん:2006/10/30(月) 21:47:10
>>833
>本州は当時、文化面でも軍事力でも全く格下だったの。
>広大な銅鐸文化圏ではあるが、科学技術吸収力や軍事力が格段に劣ってたんだろう。


>>882
>日本では銅鐸という、非常に高度な技術がいる銅鋳物をつくる技術があった。


一晩で、意見が変わるやつだな。
ネット検索して、自分の間違いに気がついたか?
巨大銅鐸は、現代でも作るのが難しい高度な技術だ。
魏の使者が本州の勢力を無視するとは思えんな。

よって、九州説を取るなら、クナ国=畿内王権という考え方を受け入れたほうがいい。
これ以上恥をかくまえに。
892調査:2006/10/30(月) 21:53:20
自作自演ですね、此処は・・・
893九州ですが:2006/10/30(月) 22:32:23
>>881
ワザワザ末盧國という人口2万4000人くらいの港による必要はない。
遠路はるばる来た使節団に遠回りをさせるという失礼を、邪馬台国が行えるとは思えない

何らかの事情があったのではないか。港では荷物の検査などもあっただろうし、
海上では海が荒れだしたり、常に危険を伴う海上、とりわけ夜間の航行を避けて早めに上陸したり、又は、
「伊都国には帯方郡の使者は必ず寄る」と書かれているから、その前にマツラで
上陸し、長い航海の疲れを癒す為、酒宴が設けられたとも考えられる。身奇麗にした上で、
翌日、シャガのようなものに乗ったり、馬に乗ったりしながら、イト国へ向かい、一大率で正式な歓迎を受け、
その後、再び乗り物に乗って、邪馬台国へ向かったのではないか。

894日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:41:00
九州説の根拠の無い決め付け発言が鬱陶しい
895太国:2006/10/30(月) 23:17:53
俺実は・・・キノコが好きなんだ・・・今年も既に食べたんだ・・・釈迦はも食べたからいいだろ・・・

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896日本@名無史さん:2006/10/30(月) 23:24:33
>>890
>たとえば東松浦郡の玄海町あたりにマツラ国の中心集落があった場合、

唐津湾から上陸→前原(伊都)が普通考えられるルート。
わざわざ遠回りになるそんな所に上陸はしない。アホらしい。

>当時は、方位磁石も無いなか、少しくらいの方向の勘違いはあったかもしれないが、
>今となっては大体その辺だったと想像するしか

いい加減、倭人伝原理主義、捨てたら? 見苦しいよ。
倭人伝にも間違いがある。当時の測量技術などを考えれば当たり前の話。
絶対間違いがないという思い込み、信仰が、君の目を曇らせている。
897次スレのテンプレ?:2006/10/30(月) 23:28:55
邪馬台国畿内説を議論するスレ7

邪馬台国畿内説論者同士で議論を深めませんか。どうも、
九州論者が入ってくると話が拡散して、何時まで経っても
同じ処を堂々巡りしてしまうように感じます。


関連スレ
畿内王権の成立とその前後の過程
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1160892510/

過去スレ
邪馬台国畿内説を議論するスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1139060494/l50

邪馬台国畿内説を議論するスレ2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1142344411/1001-1100

邪馬台国畿内説を議論するスレ3
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149768938/

【九州説】邪馬台国畿内説を議論するスレ4【厳禁】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1154677516/

邪馬台国畿内説を議論するスレ5
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1159583462/

邪馬台国畿内説を議論するスレ6
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1160799871/
898日本@名無史さん:2006/10/30(月) 23:35:18
どうやっても九州説は入り込んでくるから無理。
といっても、畿内説側もさんざ九州説スレに乱入してるから同じ穴の貉だが。
899日本@名無史さん:2006/10/30(月) 23:40:32
九州説可の早業で 今日も走らすニートバイ〜♪
900九州ですが:2006/10/31(火) 00:23:58


>>896
小学生の邪馬台国研究じゃないんだから。去年、吉野ヶ里に行ったが、暫く前まで倭国大乱といって戦乱の続く時代だった為
環濠集落といって、二重の堀をめぐらし、高見櫓を配置して敵に備えるという物々しさが感じられた。
内陸の少し高くなった見晴らしのいい所で、敵に攻められにくい場所に集落は造られているため、どちらかといえば
交通に不便な場所であることが多い。外国と交易する為、港に海に向けて集落を発達させた訳ではない。
港町など、この時代、ありえないことだ。世情は安定してるとはいえ、いつでも、不測の事態に備えて、警戒していたはずだ。
今の世情と同じと考えれば、わざわざ遠回りする必要ないなど、その様な発想が出るのかもしれないが。
その前に初歩的なミスしてない?上陸したのはマツラだと記してある。
倭人伝は唯一の邪馬台国の資料だから、拠所にするのは当たり前。それをしないのが間違いの元。
倭人伝を離れておたくが自分勝手な想像をいくら膨らませようとおたくの勝手だが、幼稚な作り話で、人を煩わせるのだけは
説明してあげようという人のいい自分にとり、疲労がたまるので迷惑している。
おたくの幼稚な言いがかりこそ、何の根拠も示していない、妄想でしかないと思わない?
なぜその様な説なのかが、全くどこにも無い。根拠があって、理の通ることを言わないと人は誰も信じてはくれない。

901日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:33:32
>>900
長文書く前にさ。日本地図見てみろよ。
呼子上陸なんて言ってるの、かなり少数意見なのだが。

902九州ですが:2006/10/31(火) 06:37:16
だから大昔のマツラ国のどこでもいいが、どこかにに上陸して東南の方向に伊都国の中心あったと考えられる、
というのが言いたい事であって、呼子なんて言ってない。
>>890でも たとえば と言ってるだろう。
903太国:2006/10/31(火) 06:46:07
>>895
お前はニセ犬王!
904日本@名無史さん:2006/10/31(火) 07:07:51
>>900

吉野ヶ里遺跡、行ってきたのか。

だったら、教えてもらおう。600年の歴史のある吉野ヶ里は、
どうして3世紀末に衰退してしまったのだ?
905サガミハラハラ:2006/10/31(火) 07:53:54
>>904
私が代わりにお答えいたします。
もともと卑弥呼は吉野ヶ里にいたのですが、3世紀中ごろ、引越し(遷都)をしたのです。
この件はあまり信じられていないのですが、ほんとうです。
906日本@名無史さん:2006/10/31(火) 07:54:29
>>905

>卑弥呼は吉野ヶ里にいたのですが
>卑弥呼は吉野ヶ里にいたのですが
>卑弥呼は吉野ヶ里にいたのですが
>卑弥呼は吉野ヶ里にいたのですが
>卑弥呼は吉野ヶ里にいたのですが
907サガミハラハラ
そうです。今復元されていますが、あの北内郭の中にお住まいになられていたのです。