1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 11:46:03
またバカがスレを立てたか
3 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 12:51:23
畿内説は、
捏造之塊。大嘘八百。日本之恥。
阿呆集団。低脳馬鹿。勉強不足。
夜郎自大。竜頭蛇尾。馬鹿丸出。
妄想三昧。根拠薄弱。犬猫同等。
九州説厳禁は取ったのか?太国!
大変だな1人何役もすると、
バレバレだけど。
ここもメチャクチャな九州説スレにしたら
5 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 14:30:11
畿内説は、
捏造之塊。大嘘八百。日本之恥。
阿呆集団。低脳馬鹿。勉強不足。
夜郎自大。竜頭蛇尾。馬鹿丸出。
妄想三昧。根拠薄弱。犬猫同等。
大詐欺師。偏差値零。偽装大好。
研究怠慢。知能猿並。無知蒙昧。
大非常識。気違炸裂。大田舎者。
6 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 14:38:16
園児以下。
7 :
太国:2006/09/30(土) 14:52:09
>>4 だから、ニセ者が大勢来てるせいだ。余は二十面相ではないぞ。
この頃、賑わいの有コテハンの連中が居なくなったので黙っていたいのだ。
8 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 17:18:02
邪馬台国所在地論争より、畿内王権の成立・発展を議論した方が、
荒れなくていい。
倭人伝原理主義、アンチ畿内説、考古学無視厨などとの議論は無意味だ。
9 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 17:25:39
畿内王権の萌芽をいつの時代とするか。
弥生後期、唐古鍵や見る銅鐸の時代の畿内地域は、首長墓の発展が
見られず、政治的空白を言う研究者もいるが。
10 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 18:23:57
どの太国も、太国程度の事しか言わないし、文章がまるっきり下手なんだ。
太国で文章が上手くて、矛盾の少ない証拠立てた話が出来れば、
ソイツが本当のニセ者だろうね。
だけど最低レベルのニセ者は、本物との違いを確認出来ないよなwwwww
11 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 18:26:44
>>9 弥生後期、広域物資流通を円滑に機能させるため、各地域で首長連合が
形成されるようになる。
各地域の首長たちは共通のシンボルを共有することで連合の証とした。
畿内・東海の銅鐸、北部九州の広形銅矛、中部瀬戸内の特殊器台、
山陰の四隅突出型墳墓など。
>>10 お前、ツマラナイから消えろよ。
他に相手になってくれる人がいないのか?
w
13 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 18:43:17
>>11 著書の丸写しカキコはやめれ 、つまんねぇ
>>13 いやいや。
議論を始める叩き台としては有効だよ。
異論や反論があれば、述べればいいだけ。
>>11 > 弥生後期、広域物資流通を円滑に機能させるため、
ここの因果関係が創作になっている。
仮説としては悪くないが、表現が断定的すぎる。
> 各地域の首長たちは共通のシンボルを共有することで連合の証とした。
証としたのか、結果的にそうなったのかはよく分かってない。
結果的というのは、例えば婚姻関係によるもの、単なる流行など。
「連合の証」だと政治主体の意図を強く感じさせる言葉ですが、
どうしてそうなったのかは分かってない。
>>9は考古学的事実を言っているのだが、
>>11は妄想でそれに答えようとしている。
16 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:06:30
>>15 批判ばかりじゃなく、あなたの自説の展開は?
古墳時代に入って、突然各地に王権が生まれた訳ではないでしょうしね。
17 :
太国:2006/09/30(土) 20:30:04
>>10 2ちゃんくらいで、証拠証拠って騒ぐな。負けそうな刑事被告人じゃぁあるまい
し、いろいろ論を張り討論を重ねればいいことだ。矛盾が少ないだと・・・?
お前畿内論者か〜? 甚だしく矛盾に満ち満ちているぞ。文が上手は関係ない。
畿内のどのへんにあったというんだ?言ってみろ。
18 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:31:56
九州を通過せずに出雲経由で文化が流れてきたので大和の方が先に発展しました
おくれてた九州はそのまま流刑地に昇格しました
19 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:32:37
大和川水系にて、庄内初めに突然巨大な王権が生まれた、っていうのは無理がある。
それまでの弥生後期に富や人口の蓄積があったと考えるべきだろう。
大和川水系が豊かであったからこそ、そこにマキムク王権(初期ヤマト政権)が
誕生したと。当たり前の話を敢えてややこしくする必要はない。
事実、ヤマト政権は永らく大和川水系より離れることが出来なかった。
20 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:34:41
>>17 >文が上手は関係ない。
流石だね
自己過信と指摘される人間は、弱点が多過ぎて、周りも自分も、無視することを常態化する事で、成り立つんだって。
21 :
太国:2006/09/30(土) 21:45:21
>>20 逆だろうが?ww
論に勝てないから、上手がどうのこうのとか、また枝葉末節で突くとか、あげく
の果てはビシリと言われ、歯が立たないから文意が何を言ってるのかチグハグ
だとかメチャクチャだのとか文句をつけるのがお前のイカサマの常道だろう?
22 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:47:49
>>17 >文が上手は関係ない。
>畿内のどのへんにあったというんだ?言ってみろ。
文才が溢れて抑えきれないみたいだねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
23 :
太国:2006/09/30(土) 21:48:48
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
24 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:52:26
>>21 まず読めないんだけど ちゃんと書いてくれ
それにお前が勝った事あったのか?
証拠なしでどうやって勝ったんだ?教えてくれ!!!!!!!
25 :
太国:2006/09/30(土) 21:54:34
証拠か?ハハッ、それがお前が追い詰められた証拠ではないか。ww
26 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:56:02
?
27 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:58:18
はじまったな
馬鹿の
>>25コメントの意味を誰か通訳してもらえませんか?
28 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:59:20
29 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:00:12
30 :
太国:2006/09/30(土) 22:01:17
>>27 お前のは何が何だかさっぱり分からない。それはUFO語か〜?
UFOの畿内だけで通じる語なわけだな〜?ww
31 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:27:55
実際のところ、首長同士が、「連合しましょう」なんて合意して連合したと考える必要は無い。
広域で物資が流通していたということで、断定できることと言えば。
需要と供給の関係で、間に物資を運ぶ商人が存在し、
商人が安全に国を巡ることが出来ていたということだけ。
連合とまでは行かなくても、敵対さえしていなければ、OK。
そして、商人がある地域からある地域へ物資を運んだとき、
「この壷は、煮炊きが良く出来る」「この銅鐸は面白いから気に入った」という人気が出れば、
それが流行となって広まる。
人気のあるもの、珍しいもの、実用的なものは、連合とかと関係なく広まるもの。
首長同士が連合したという証拠にはならない。
しかし、商人が安全に移動できる国同士は敵対関係になかったことは事実であり、
それは自然と友好関係に発展し、王族同士の婚姻という結果をもたらすであろう。
連合という意識はそこから芽生えるものである。
32 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:35:09
2世紀の畿内では、銅鐸文化があった。
これは、同じ銅鐸を好むもの同士の、国同士の友好を示すものであろうが、
「連合」という形にはなっていなかったろう。
墳墓の形が同じ地域は、首長同士の婚姻が行なわれ、
祭祀形態の共有化が行なわれたと考えられる。
前方後円墳が生まれたときは、大和を中心とした王族が、
一気に多くの地域との婚姻関係を結んだということである。
これにより、始めて「連合」という意識が生まれただろう。
問題は、なぜ、大和を中心とした王族が、
一気に多くの地域との婚姻関係を結ぶことになったのか?ということであろう。
33 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:39:29
なぜ、大和を中心とした王族が、
一気に多くの地域との婚姻関係を結ぶことになったのか?
日本書記には、祟神天皇の代から、大和を中心に周辺の国から王妃を迎えている。
前方後円墳が広まった時代と、祟神天皇の時代がよく一致するということは言える。
しかし、記紀には、なぜ「大和を中心に周辺の国から王妃を迎えることになったのか?」
ということまでは書かれていない。
34 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:40:08
31-33 太国語だな
35 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:45:02
なぜ大和を中心に周辺の国から王妃を迎えることになったのか?
逆に言えば、周辺の国が、そろって王族の娘を大和の王に嫁に出したということ。
大和と、より強固な関係を築きたいという思惑があったことは確かである。
つまり、祟神天皇より前から、大和とは、より強固な関係を築きたいと思わせる国だった。
それは、唐古・鍵遺跡にみられる王権だったろう。
まだ、堀が埋められる前であるが、争いの痕跡はなく、
国同士が緊張していたとまでは言えず、友好関係を探り合っていた頃だったろう。
36 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:55:43
ひとついえる事は、唐古・鍵遺跡からは、九州の文物は多く出土していないことである。
これは、唐古・鍵遺跡が、畿内を中心とした交易で栄えた国だったと結論付けしてよい事である。
ずっと後の時代まで言えることである。
まずここで、邪馬台国東遷、神武東征などという話は虚構のものとして排除されなければならない。
ただ、ここまでは、大和が邪馬台国であったという証拠も無い。邪馬台国は九州にあったかもしれない。
37 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:00:53
ここまでは、大和が邪馬台国であったという証拠も無い。邪馬台国は九州にあったかもしれない。
だが、当時の日本列島で考えれば、交易範囲は、畿内を中心とした経済のほうが、
九州よりも大きかったという事実だけは、認めなくてはならない。
38 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:09:59
>なぜ大和を中心に周辺の国から王妃を迎えることになったのか?
不徳にさん何処にそんな証拠あるなのかな?
39 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:11:18
>>38失礼
×不徳にさん何処にそんな証拠あるなのかな?
○不徳にさん何処にそんな証拠あるのかな?
40 :
太国:2006/09/30(土) 23:12:44
>>38 お前はもう一度2次方程式の判別式でも再勉強するんだな?w
41 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:14:09
さらに、認識しておかなくてはならないのは、土器の流通範囲である。
庄内土器が、九州〜畿内の間を移動していることはよく知られているが、
東海土器は、さらに広範囲に拡散している。
東海を中心に畿内、北陸まで拡散していることはもちろん、九州まで拡散している。
土器の拡散の様子だけを見れば、経済の中心は濃尾平野ということになる。
そして、東海から見て畿内は、より西方との交易ルートの窓口となっているのだ。
東海にとって、畿内と友好関係を結ぶことは、大変有益であったことは間違いない。
42 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:14:15
>>40 やっぱりみんな太国さんの自作自演なんだwww
肯定しましたね。
43 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:15:39
ばかは
語るに落ちまくっている
44 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:16:25
どうしてこんなに解りやすい人なんでしょうか?
45 :
太国:2006/09/30(土) 23:17:58
>>42 お前は本当にどうしようもない奴だな?見分けもつかないのか?
お前のような奴が畿内説病に感染するんだ。ww
46 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:22:45
東海と畿内が、大変親密だったことは、
記紀に書かれている、孝昭天皇が、尾張から王妃を迎えていることからもわかる。
東海は、古代から、積極的に畿内との友好に力を注いでいたと考えられる。
47 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:24:01
48 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:26:30
49 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:27:05
言葉しらないよな?
親密は対等な人同士の使い方だよ。
50 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:28:30
王妃を迎えたから親密なのか?何処に親密と書いてある?
51 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:31:44
他は親密じゃなかったのか?
52 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:32:19
>>47 第5代孝昭天皇は、尾張連の祖の世襲足媛を后妃にして、第6代孝安天皇を産ませてる。
畿内説を語るときは、基本情報。
53 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:33:04
54 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:34:18
さて、一説には、古代はイリムコ制で、女王が支配していたという説もある。
尾張系の女王が誕生したということを匂わせる記述は面白い。
これ以上の言及は避けることにするが。
55 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:35:17
>>52 あの欠史八代だけど、本当にいたと思う?
このスレの住人の人もそう思う?
あ・・・・・すまん1人だけで自作自演スレだったね。
56 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:39:19
>>54 避けるんじゃないんだろ
妄想だけだからだろ
57 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:39:50
>>55 欠史八代だから、尾張と畿内が親密だとは言えないって?
継体天皇の后妃は、尾張目子媛って言って、安閑天皇を産んだけど、知ってる?
58 :
太国:2006/09/30(土) 23:40:36
>>55 津田病の末期患者だな?w どっから、いたことにすりゃぁいいんだ?
59 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:41:59
>>57 知ってる
だからそれは欠史八代が存在した証明になるのか?記紀の記述かな?
60 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:43:03
おい何処が親密なんだ!
61 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:44:58
>>59 証明をする気は無いが、
王朝が変わったという説もある祟神天皇、応神天皇、継体天皇すべて、
尾張系の后妃を娶ってます。
親密といっても差し支えないのでは?
62 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:47:05
尾張の連じゃなかったか?名前が尾張だけど、
本当に親密に尾張に住んでいたのか?
親密に尾張に住んでいたのか?
63 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:48:34
東海は親密なんだって、
天皇の友達みたいだな。
64 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:49:21
応神天皇の后妃は、仲姫命
仲姫命の母は金田屋野姫命
金田屋野姫命の父は建稲種命
建稲種命の父は乎止与命=尾張氏の祖
天皇家の血には、かなならず尾張の血が入ってるんだよ。
65 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:50:33
そらし方が有名人にそっくりだな
66 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:54:36
いつもながら、
どっからでも突っ込めるザル型レスがお得意だな。
67 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:54:42
文献派の諸君。
尾張氏が神と崇めているのが、天照国照彦天火明尊。
またの名をニギハヤヒともいう。
記紀では、神武に国を譲ったという人物だね。
神武が来る前は、ニギハヤヒ=尾張氏の祖が大和の王だったと、記紀も認めているんだよ。
ここまではいいかな?
68 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 23:56:00
じゃあな バイバイ
>>31 もともと「商人」という言葉そのものが、
敵対している国家間であっても、行き来をして経済活動する人たちを指す。
商が滅亡して流浪した人たちのことを指す言葉だから。
国家に属してないので、国家の敵対とは無関係。
現代の総力戦スタイルの戦争観に毒されているのでは?
>>55 欠史八代については、何も分からないということ以外言えることがない。
(近辺豪族との姻戚関係は除いて)
欠史だからいなかったと言うことはできない。逆も同様。
70 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 00:02:36
尾張国一ノ宮 真清田神社の御祭神は、天火明命。
つまり、天照国照彦天火明尊を祭っている神社ということは知ってるね?
でも、実際に真清田神社が祀ってるのは天火明命ではなく、
天照大神だっていうことは知ってたかな?
ウソだと思うなら、ちょくせつ神社に行って聞いてみるといい。
真清田神社では、天火明命と、天照大神は同一神という認識でいるからね。
きちんと文献を調べてる人たちにとっては、
天皇家の祖神、天照大神が東海系の神ということは、異論の無いところなんだけどね。
もちろん、異論をはさむことは構わないよ。
71 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 00:07:23
天照大神が成立したのは、
壬申の乱で、東海勢力の援軍を求めるために、天武天皇が祀ってから、
という説もある。
これをもってしても、もともと天照大神が天皇家の祖神ではなく、
東海勢力の神だったということも言える。
72 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 00:10:48
ここまでで言えることを、ひとつまとめてみよう。
邪馬台国は、九州にあったという主張をするのは構わないよ。
畿内にあったという決定的な証拠も無いからね。
でも、卑弥呼が、天照大神のモデルになったと考えるのは止めた方がいいね。
天照大神は、東海系の神ということは、様々な文献から類推できることだからね。
73 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:14:53
九州には、女性を葬った100mクラスの古墳が見つかっている。
熊本県宇土市の向野田古墳。阿蘇市の長目塚古墳。
これは人骨が出土しているから明らか。つまり、九州には、女性を王とする
習慣があった。天照大神も九州である可能性はある。
もう一つ。崇神天皇のところに四道将軍が出てくる。北陸、東海、吉備、
丹波を征服させるために派遣された将軍である。
つまり、この地域は崇神天皇の支配下にはなかったらしい。
ところが、邪馬台国の女王・卑弥呼は、壱岐や対馬、九州の伊都国までも
かなり古い時期から支配下においている。
畿内説からすると、なんか矛盾しているとは思わないかな?
邪馬台国九州説でかつ東遷説を考えると矛盾はないけど。
>>73 紀の編纂者は卑弥呼=神功と考えているから、矛盾はしてないわなw
記紀を軽視する気はないが、そんな文章で論証になっていると
本気で思ってるのか?
>>31 一体何が言いたいのやら。
弥生後期を通じて各地域で王権が発達。連合で広域化していったということに
異論があるの?
76 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:40:34
>>74 卑弥呼の支配する地域について書いてあるのは魏志倭人伝。
つまり、現実に3世紀に、北部九州は邪馬台国(卑弥呼)の
支配下にあったと考えられる。
記紀に書かれている崇神天皇は、記紀の年代感に基づくものだが、
崇神天皇が4世紀の人物と言うのは常識。
とにかく、崇神天皇から神功皇后までの記紀の記録に九州に兵を
派遣したとか、征服したとかいう話は出てこない。
景行天皇も当たり前のように、九州に行き、日向に宮を構えている。
抵抗する勢力もない。
崇神とか景行とか神功とかふつうに議論してるが
記紀に残存する王統譜をもとに「史実」を語るスタンスは
最近の文献史学では、再び強く否定されているような気もするのだが。
大王A、大王Bとしか言えないのではないか? 少なくとも雄略以前については。
(雄略も若干の疑念は残るが)
78 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:22:20
>>77 まあ、天皇と名乗るようになったのは天武天皇からだから、それまでは
大王(おおきみ)のほうがいいかもしれないが、天皇のほうが
わかりやすいんじゃないかな。
畿内説は都合が悪くなると、記紀の史実性に触れるけれども、
畿内説も記紀を重要視していることには変わりない。
日本の文献と言えば、記紀以外にはないわけだから。
箸墓も日本書紀に倭迹迹日百襲姫の墓と書いてあることから、
女性の墓ということはひょっとして卑弥呼では?
と連想したのだろうし。
>>76 つーか、記紀には、激しい戦闘で大撃破、完全征服って話が皆無じゃん。
正直、その論拠は全くのナンセンス。
>>78 私は今のところ、記紀が語る王統譜は6世紀半ばから8世紀初め(成立時)にかけて
挑発的な云い方をすれば「捏造された歴史」であるという考えです。
ただ、まったくのゼロから捏造されたのでなく、素材は史実の反映を受けて
いたのだろう、そういう伝承を使用したのだろうと思います。
ただ、ヒミコが記紀でいう某とか、オキナガタラシヒメが海外の史書でいう
なにがし、とかいう議論にはどうもなじめないのです。
それから箸墓ですが
あの地(大市)に巨大な墓が何百年も前に作られたことの言い伝えは
何百年後も残っていたのでしょう。二上山から石を運んだハナシは考古学的にも
どうやら合致するようだし。
ただそれが記紀でいうヤマトトトヒモモソビメの墓だとする根拠となると
やはりつらい。モモソヒメかもしれぬしミマキイリヒコかもしれぬ。
あるいは全く記録に残らぬ、とある雄かもしれぬ。
ただそれは記紀の文脈では解題不能だと思ってます。
それはともかく
記紀上のモモソヒメの特異な扱われ方については強い関心持ってます。
82 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 03:43:22
>>79 6世紀、継体天皇のとき、筑紫の君・磐井の乱がある。
これは大和朝廷が総力を挙げた戦い。物部麁鹿火を総大将とし、
それでも足らずに、大伴金村までつぎ込んだ。
それでも五分五分の戦いだったとされる。
確か、磐井は、肥の君と豊の君に援助を求めたが、断られたらしい。
もし、両者が加勢していたら、継体天皇の側が負けていたに違いない。
つまり、九州は非常に強力な地域であった。
なのに、それまで大和朝廷と九州の勢力が争ったことは全く書かれていない。
記紀には大和朝廷の征服、戦いの記録が数多く書かれているが、九州との
争いがあったとしたら、大戦争になったはずで、書かれていないはずがない。
つまり、なかったと考えるほうが自然だと思う。
なぜなかったかというと、大和政権は九州の出身だからである。
記紀にはそのように書かれている。
>>82 6世紀の磐井の乱をもとに
3世紀の畿内王権の出自を語るのは無意味ではないか?
>>82 > 記紀には大和朝廷の征服、戦いの記録が数多く書かれているが、九州との
> 争いがあったとしたら、大戦争になったはずで、書かれていないはずがない。
>
> つまり、なかったと考えるほうが自然だと思う。
そんな妄想には付き合えないわ。
記紀に書いてあることを、少しなりとも考慮して考えるのはまだいい。
記紀に書いてないからないはずだってのは出鱈目だ。
85 :
太国:2006/10/01(日) 08:15:42
>>80 捏造する理由は何か?
>>84 >記紀に書いてないからないはずだってのは出鱈目だ。
まあそれはそうだ。ただ畿内に近い場所での重要史実的なものがあれば、見逃す
はずはない。遠距離ならば情報が畿内に来にくいので重要でも書かれてないこと
は多分にある。スズメ蜂に刺されるのは、通常巣の真近に近寄るからだ。
遠くにいれば刺される可能性は薄くなるからな。
ご本家日本の記紀に女王国の記述がなく、遠い中国の赤の他人に相当する倭人伝
に記述があるのは、女王国が九州にあったことを物語っている。考古学を
持ち出さなくても分かることだ。本来は記紀に卑弥呼の記載があり倭人伝に記載
ないのが筋のはずが、逆という皮肉な状態にあるのは九州説が正ということだ。
86 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 08:40:49
>>82 >もし、両者が加勢していたら、継体天皇の側が負けていたに違いない。
このへんも、妄想だな。
加勢して勝てるなら加勢すればいいだろう。
加勢しても勝てないから加勢しなかったんだろ。
磐井は、肥の君と豊の君に根回しもできないほど脆弱な勢力ということだよ。
87 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 08:45:33
>>85 太国論はさすがに妄想の極地だな
>ご本家日本の記紀に女王国の記述がなく、遠い中国の赤の他人に相当する倭人伝
>に記述があるのは、女王国が九州にあったことを物語っている。
倭人伝にも記紀にも九州とは書いてないのにね 証拠のつもりなのか?馬鹿なのか?
88 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 08:46:20
>>85 魏志倭人伝だけを読む限り、九州説も認められなくもないが、
邪馬台国が東遷したとか、卑弥呼が天照大神だとかは、何の根拠も無い話だってことは認めろよ。
89 :
太国:2006/10/01(日) 09:24:13
>>87 お前は畿内のスズメ蜂がどうやって支邦にいる中国人をさせるのか聴いて
やるよ。それとも何か〜?UFOに蜂をのせるのか?ww
お前、巨大生物の島の見すぎだな?ww
90 :
太国:2006/10/01(日) 09:30:39
>>87 間抜けな蜂搭乗の機内説を信じるお前の頭がどういう構造なのか想いやられる。w
卑弥呼≠アマテラス
91 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 13:06:30
89-90
やっぱり馬鹿だったみたいだな、
しかし読めないレス書くってのは、
オナピーで自分だけが気持ちいいって事だろ?
92 :
太国:2006/10/01(日) 13:26:49
>>91 う〜ん?? これは何て句茶目茶なんだ? 理解するのに千年かからせるのか?
もしかしたら、これはUFO語かぁ〜?ハハッUFOの「機内」でのみ通用
する文句なわけか〜?ww
93 :
太国:2006/10/01(日) 13:32:13
だいたい女王国が畿内にあるんなら、記紀に倭人伝以上に記述がある筈なのは
自明さ。それがまるっきり無〜い。考古学がどうのこうのより、ここが重要だ。
94 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 13:39:49
>理解するのに千年かからせるのか?
何語?何弁?
>記紀に倭人伝以上に記述がある筈なのは自明さ。
なにが言いたいの?
どうしてそんなに馬鹿レスなの?
95 :
太国:2006/10/01(日) 14:02:25
>>94 お前が「機内」にのみ通用するUFO語を叫んでいるからだ。
もっとましな言葉を使え。糞味噌語ではないか。はやく地球語をマスターしろ。w
太国は「邪馬台国九州説」ってことで自分で結論出してる訳だから、
このスレに参加する必要がないのでは?
97 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 15:15:27
98 :
太国:2006/10/01(日) 15:40:30
>>97 何だか? は、それはお前に尋ねてるんだよ。w
>>98 頭大丈夫か?死なないと直らないんだろうな・・・
100 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 18:20:14
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、
>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって
>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。
このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。
72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?
本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w
奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。
(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。
101 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 18:35:57
ここは文系のスレだから
最低でも通信簿3以上の人しか来ちゃ駄目だよ!
作文が0点の人は、オタクスレに要った方がいいよ。
102 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 19:40:55
マキムク王権の成立過程について議論した方が良さそう。
マキムクを造った勢力とは?
103 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 20:31:35
>>101 僕はたまに2だったけど、
殆ど3っだったよ。
大丈夫かな?
104 :
太国:2006/10/01(日) 21:32:42
>>99 すぐ救急車を呼んでもらい、精神科へかけつけろ。
もう脳内が台無しのようだからな?ww
105 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 22:14:36
「脳内が台無し」
おかしいと思わないのか?
106 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 22:18:38
ここは文系のスレだから
最低でも通信簿3以上の人しかレスするのは禁止だよ!
>>104の人は通信簿が1だろうから、来ちゃ駄目だよ。
オタクスレが待ってるよ。
107 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 22:23:07
>精神科へかけつけろ。
これも可笑しいwwwww
108 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 02:30:38
天照大神は卑弥呼である。
正確に言うと、岩戸に隠れるまでが卑弥呼。
岩戸を出てからは壱与ということになる。
ともに女性であり、ともに夫がいないなど、
中国の書物と記紀とが驚くほど似ている。
もし、卑弥呼が天照大神でないとしたら、他にふさわしい人物がいるだろうか?
魏から『倭王』と呼ばれて不思議でない女性が他にいるかな?
109 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 07:48:59
110 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 08:37:08
天照大神に、過去に存在したであろう女性祭祀王のイメージが投影されていることは、十分に可能性はある。
ただそれだけのこと。
神話の中に、安易に史実性を求めるのはどうか?記紀の編纂者ですら、神代と人代を区別して捉えているのに。
111 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 12:27:36
天孫降臨は北方系、国生みや天岩戸は南方系とか、比較神話学などの考察も必要だろ。
記紀を重視する以上はな。
ここの自称文献派(九州説)はそのあたり、きちんと勉強してるのか?
112 :
サガミハラハラ:2006/10/02(月) 12:27:55
中国の書物とどこが驚くほどにているのでしょうか。
ともに女性で夫がいないだけでは、なんの証拠にもなりません。
あなたの思考の根源には、記紀と中国の史書にはかならず同一のものがあるという思い込みがあるようです。
113 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 17:56:41
日向の風土記にニニギの天孫降臨が語られている部分がある。
少なくとも八世紀初頭には、天孫降臨の場所は宮崎県という認識が出来ていた。
「筑紫の日向」という文句をとらえて、日向三代を無理矢理筑紫に持っていこうという輩がいるが、まったく根拠がないことを理解した上で。
114 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 17:57:40
日向の風土記にニニギの天孫降臨が語られている部分がある。
少なくとも八世紀初頭には、天孫降臨の場所は宮崎県という認識が出来ていた。
「筑紫の日向」という文句をとらえて、日向三代を無理矢理筑紫に持っていこうという輩がいるが、まったく根拠がないことを理解した上で。
115 :
サガミハラハラ:2006/10/02(月) 18:52:41
AD40年代の天孫降臨ですが、実際は多くの神々が新征服地に移動(降臨)していった(北は新羅から南は鹿児島まで)のですが、
やがて彼らはほとんど滅んでしまい、降臨したという伝承も、ごくわずかとなってしまいました。
そのわずかに残った伝承が、宮崎(投馬国)にのこっていたのです。それを記紀の編者はニニギの降臨地だと間違えたわけです。
116 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:02:04
外人は次から次にやってきましたが、すべてが栄えて子孫が増えました
そして関東へ移住していったので残った部族は古い方の移住者で新羅系と倭人です
117 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:15:12
天上の神が自らの子を、地上の支配者として山上に降臨させる神話は、
北方の建国神話に広く見られるモチーフ。
天孫降臨を、単純に渡来人の倭国入植と解釈するのは、余りに浅はか。
118 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 21:02:43
天孫降臨なんて、天皇家も信じてないことを議論しても無駄。
日向三代の陵墓を天皇家が参拝したことは無い。
説得力も無いんだなwwwww
120 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 21:56:10
>「筑紫の日向」という文句をとらえて、日向三代を無理矢理筑紫に持っていこうと
いう輩がいるが
クシフルダケまで書かれている以上そう読むのが普通だろw
>日向三代の陵墓を天皇家が参拝したことは無い。
それを言えば、伊勢神宮だってほとんどないよ。
121 :
太国:2006/10/02(月) 22:03:09
>>120 後段
そのとおりです。孝明天皇以前は禁です。それは古神道の法則を皇家が厳格に
守っているからです。これからの天皇は代々、当分の間、特段の事情のない限り
参拝を行うでしょう。本来は明治天皇も禁なのですが、次代への先行で参拝を
したものです。
122 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:03:59
プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国
プラム=馬鹿 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国
プラム=太国 プラム=馬鹿 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国
プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国
プラム=太国 プラム=太国 プラム=馬鹿 プラム=太国 プラム=太国
プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国 プラム=馬鹿
プラム=太国 プラム=馬鹿 プラム=太国 プラム=太国 プラム=太国
123 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:20:27
>>120 >それを言えば、伊勢神宮だってほとんどないよ。
伊勢神宮は、天皇家とは関係ない。
そもそも「伊勢神宮」が出来たのは、壬申の乱以降のことだ。
124 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:45:27
>>112 けっこうたくさんあると思うけども、まずは一つづつ。
景初2年か3年に、卑弥呼は魏に使いを送る。
帯方郡が落ちたことに危機感を持ったのかもしれない。
しかし、卑弥呼の使いは、狗奴国との戦いについて帯方郡に
報告に行っている。そして張政がやってきた。
張政は戦いの仲裁にやってきたと考えられる。
つまり、狗奴国は強敵であり、卑弥呼は魏に援助を求めたとも
思われるのである。
これは卑弥呼が、魏から軍旗である黄幢をもらったことからもうかがえる。
そしてその頃、卑弥呼は死んでいる。
一方で古事記によると、須佐之男命は、伊邪那岐の尊に高天原から
出て行くように言われる。須佐之男命は、天照大神に事情を説明しようと
高天原に上っていく。天照大神は、須佐之男命が高天原を奪うために
やってきたのだと考え、戦いの準備をする。
そこでいったんは、天之安の河原の誓約により和解をする。
しかし、須佐之男命は、高天原でわがまま放題、大暴れする。
裸の馬を天照大神の機織小屋に投げ入れ、これに驚いた機織の女が死んでしまう。
それをみて、天照大神は岩戸に隠れてしまう。
魏志倭人伝と古事記が似ていると感じるかどうかは個人差があると
思うが、両者を並べて見ると、何かが浮かび上がるような気がする。
125 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:53:15
>>124 まったく同意できない。
妄想したけりゃ、チラシの裏か、自分でサイトでもつくれ。
>>124 >景初二年か三年に
>>景初二年六月と書いてあるだろう(帯方郡通過)
127 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:06:49
>>125 ではもう一つ。
岩戸を出てからの天照大神には、それまで全く登場しなかった人物が
付き添う。日本書紀に皇祖と書かれている高皇産霊尊である。
天照大神と同格の人物として描かれている。
梁書あるいは通典等には、これを説明するかのような文章がある。
卑弥呼が死んで男王が立つ。国中服さず。卑弥呼の宗女壱与を女王とする。
その後また男王が立つ。中国の爵命を並びて受ける。
卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、
其後復立男王、並受中國爵命
128 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:08:29
>>126 魏志倭人伝には景初2年とある。
しかし、景初3年の間違いと言う説がけっこう多い。
なぜだか自分で調べてみると良い。
129 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:20:02
130 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:24:10
>>128 そんな化石みたいな事言ってる奴は養老トンデモだけだよ
既に解決済み
131 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:26:15
>>129 いや、景初2年6月には魏はまだ帯方郡を手に入れていなかった。
日本書紀にも景初3年と書かれている。
132 :
太国:2006/10/02(月) 23:29:20
卑弥呼≠天照大御神 時系列が滅茶苦茶。
133 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:41:02
>>132 これは、安本説に詳しいが、初期の天皇の年齢は以上に大きい。
たとえば、日本書紀によると、神武天皇の年齢は127才で、在位期間は76年。
こんなことは常識では考えられず、誇張があると思われる。
そこで、確実にわかっている天皇の在位期間の平均を初期の天皇に
適用し、天照大神まで遡らせると、卑弥呼の時代と重なっても何の不思議もない。
134 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 00:06:41
>>131 後世の史書にも書いてあるだろう『始遣使』と
『初遣使』じゃないんだよ景初三年は
それに
公孫氏滅亡前に郡は魏に落ちている(調べれば直ぐ判る)
>>133 安本説は怖くて読んだ事ない身として質問だが
景行が息子ヤマトタケルの孫の孫だったか、
カグロヒメを娶ったという系譜は
安本理論だとどうなってるの?
>>120 >>113の最初の方、ちゃんと読んでるか?
少なくとも、記紀編纂の頃には、北部九州という認識は無かったんだよ。
それは何故か?説明できるか?
クシフル岳は、朝鮮半島の首露神話と同じ。そもそも特定の地名ではなかった
と考えるべき。
137 :
太国:2006/10/03(火) 07:10:38
>>133 当時は2倍暦等でやっていた可能性が大。従って誇張はほぼない。
紀では立太子、即位、崩御等は日付まで記述がある。誇張だったらそこまで必要
もなく、具体的には年までくらい書くあたりで止まればいいことだ。
たとえば、神武〜開化の代などはそれらの記録の日数が月の全部と言っていい位
数字が月前半の記述に終始している。これは何を意味して、何を物語っているの
か? 知れてくるさ。当時は2倍暦等をやってたんだよ。いまの半年が当時の
1年分なのだ。だから矛盾、誇張は回避できる。
江戸時代なんか1刻がいまの2時間で2倍の数字に相当するようにだ。
孝安天皇のみ即位が月後半の記載になってるが、別本だとそれを打ち消し 1/7
と、やはり月前半になってるそうだ。
そういうわけで、貴殿の 日神=卑弥呼 は時系列の不一致で不成立。
つまり 日神≠卑弥呼 が正である。
138 :
太国:2006/10/03(火) 07:12:52
>>137 日数の話は紀の記録だ。別本とは紀の別本ということだ
139 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 08:02:03
情報量が少ないやつほど、すぐにA=Bとしたがるからな。
140 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:08:49
141 :
太国:2006/10/03(火) 10:20:58
??
142 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:34:39
歴史は作られるので、歴史家になりたくない、考古学家になりたい
143 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 11:07:53
>>140 おまえは、卑弥呼=アマテラスなんだろ。
思考が単純すぎるんだよ。
だから、騙されてトンデモ本なんて買ってしまうんだ。
安本とか逆説とか、考古学に疎いやつをターゲットにして、
適当にロマン溢れることを書いて儲けてる最低のやつらだ。
おまえは、「カモにされてる」だけなんだよ。
144 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 13:07:17
>>143 カモにされる心配をするなら考古学のほうだろうな。
考古学の資料は自らは語らない。
語るのは人間。
考古学者が年代を言うときは、その人がどのような年代感を持っているかを
考えなければならない。一人一人年代感が違うと思ったほうがいい。
邪馬台国関係で問題になる庄内期の始まりの時期も決まっているわけではない。
畿内説関係のものばかり見ていると決まっているように思えるかもしれないが。
145 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 13:22:24
天照大神と卑弥呼を同一視する説は古くからある。
邪馬台国論争のさきがけとなった白鳥庫吉もそうだが、
著名な和辻哲郎をはじめ、けっこう多くの学者がその説を支持している。
もちろん、天照大神と卑弥呼を同一視するのは邪馬台国東遷説につながる。
ちなみに、考古学は変わり過ぎ。こんなに変わると
またいつ変わるのかと心配になる。
都合が悪くなったら変えればいいでは困る。
また、邪馬台国問題に首を突っ込みすぎる。
146 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 13:32:51
前にも書いたが、魏志倭人伝には、伊都国の王は代々女王国に
属しているとある。その時期は、3世紀前半。
九州にあった伊都国が、恐らく2世紀から邪馬台国に属していたことになる。
邪馬台国畿内説でこのような支配関係を考えるのは時期的に困難。
147 :
太国:2006/10/03(火) 14:00:23
>>145 臥海はくるくるくるくる言うことが替わるのさ。9個が8個だとかね。
今後もそうだろう?w
149 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:17:28
>>145 >都合が悪くなったら変えればいいでは困る。
間違っていた証拠があればすぐに変えるのが「科学」だ。
邪馬台国東遷説のような宗教と一緒にするな。
150 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:23:18
科学か・・・。
いろいろ科学的手法を使ってるのは
知ってるよ。
でも、今のところこの邪馬台国の
位置論に関しては、科学的な思考
をしているとは思えない。
作業仮説とかデータとの符合とか
全然分かっていない。
もしもそれらが分かっているなら、
邪馬台国がどこだとはいえないはず。
「分からないとはっきりいうべきだ」
と言う考古学者が増えたら、
科学らしくなったと思うけどなあ。
151 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:26:37
>>145 和辻哲郎も最終的には畿内説に転向したのだが。
邪馬台国はあくまで実在した国なんだからさ。あくまで考古学の範疇。
天孫降臨やら天照大神、神武東征とかとは違うから。
>>146 庄内開始は二世紀半ばまで遡る可能性あり。まあ、どうせまたすぐに反論してくるだろうが、一応書いといてやるよ。
152 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:35:55
>>150 まともな考古学者は、邪馬台国のことは話したがらない。
畿内にあった可能性が高いとは思っているだろうが。
正直、近年の考古学の発展で、邪馬台国所在地論争は無意味になっている。
こだわってるのは九州王朝説(古田)とか邪馬台国東遷説(安本)とかの非科学的な人たちだけ。
このスレも、畿内王権の形成過程とかに論点を置いた方がいいだろう。
153 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 20:11:16
>>148 言い過ぎと言われても、神話学で普通に言われていることなんだが。
日向が天孫降臨の場所に選ばれたのも、古くから太陽信仰の盛んな地域だったからだろうし。
もともとは畿内の霊峰(おそらくは生駒山)に降臨して、大和の支配者になったという神の子の伝説が
単純にあったのだが、ヤマト政権の版図が拡大するにつれ、倭国全体を包摂するような始祖王伝承が必要とされたのだろう。
ただ、現在の天皇家のルーツが九州にあったことまでを否定するつもりはない。
154 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 20:32:40
外人が次から次にやってきて国が成立していった年代が分からないので、コロコロ変わるのは
仕方がないので修正につぐ修正で歴史書を書き換えていくのがなんで悪いの
155 :
太国:2006/10/03(火) 20:37:18
変える自体は悪くはない。ただくるくる変わるから信用がおけないと
いうことだ。つまり権威意識過剰に信頼はおけず、変えるたびに権威は
地に落ちるわけだ。
いったい、誰に対して言ってるの?
言ってる内容も理解出来ないし。
157 :
太国:2006/10/03(火) 20:44:01
臥海の言ってることがクルクル変わることだよ。
しかし実りの無いじさくじえんを証拠も無く続ける有名人の目標はお山の大将だけなんだろうね!
159 :
太国:2006/10/03(火) 21:00:31
>>158 論説のほうを言え。俺の枝葉末節の個人批判したってしようがないぞ。
クルクル変わる臥海の批判は、重要な個所だ。一般大衆がブレーキなし
に信じてしまうからだ。考古学が畿内説を支持するような輩等を批判して
るんだよ。文証は出しているだろうが? 自作自演などやってられない。
お前のはまるで明智探偵に「真犯人だ」と指で指されたその当真犯人の
ようだな。明智小五郎に、ついには「証拠をみせろ」ってほざくのに
そっくりだな。ww
太国をからかうのは、スレを無駄に消費するだけだから止めろ。
可哀想だし。
161 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 21:21:13
>自作自演などやってられない。
バレバレでもこれです
あと太国君、比喩表現はもう少し上手に使おうね、今学期も通知表が1になっちゃうよ。
162 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 21:23:30
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、
>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって
>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。
このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。
72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?
本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w
奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。
(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。
163 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:02:46
考古学的には邪馬台国は存在しない。
古墳も同じ。文献があるからこそ、だれだれの墓と言うことが出来る。
したがって、まともな考古学者は邪馬台国について語りたがらない。
と言うか、語ることは出来ない。
164 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:08:37
>>163 完全な間違い。
古代史を語る上で、考古学は必須。
誤りの多い文献の、どの部分が正しいかを判断するのには、
考古学というツールしかあり得ない。
165 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:16:03
>>164 中国の文献がないと仮定した場合、発掘調査や遺物の研究だけでは
邪馬台国の名前は出てこない。遺跡にしても、たとえば唐子・鍵遺跡
などのように、地名から名前を取ることになる。しかも、その遺跡が
全国的に見てどのような位置づけになるかわからない。
考古学的に邪馬台国は存在しないと言うのはそういうこと。
古墳の場合も、発掘調査をしても被葬者の名前が書いてあるわけではない。
166 :
太国:2006/10/03(火) 22:27:38
>>161 バレバレだって?お前どうかしてるんじゃないか? 今の場合は
余が無字名が化けたようなことはやっちゃぁいないよ。それは少しは
やったことはある。論を大きく言う時はコテハンだからね。
それでもそうだと言うお前は落第神だ。ww
>>164 この者も飛車(考古学)を唯一の武器だと考えている。滑稽だ。
余なんかはよろしく飛車落ちで充分指せるぞ。
167 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:32:46
>>166 ここは、畿内説を議論するスレなんだが、
なんで粘着してるんだ?
168 :
太国:2006/10/03(火) 22:34:08
ソーだろうよ。畿内説を間違いだと論じるわけさ。
畿内説の可否のスレだよ。
>>165 そんな当たり前のことを書いて、何が言いたいの?
170 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:45:14
>>169 考古学的には畿内説という言い方をする人が多いが、
それはおかしいと言うこと。
>>170 考古学的に畿内説の可能性が高いのは当たり前だろ。
別に空想の国の話をしてるわけじゃないんだし、
少なくとも3世紀初頭には、北部九州にも影響力を及ぼしていた、
マキムク王権が誕生している。
172 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:46:02
>>171 >少なくとも3世紀初頭には、北部九州にも影響力を及ぼしていた、
>マキムク王権が誕生している。
九州説の輩は、このことを認めた上で九州説を主張してるのか?
1、認めてない
2、認めるが、邪馬台国は九州にあった
どっちだ?
173 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:57:10
>>172 認めてはいない。
邪馬台国がそんなに早く九州を掌握していたら後の大和朝廷の立場がない。
邪馬台国畿内説を取ると、九州まで支配するすごい力を誇っていた一方で、
狗奴国に対しては魏に援助を求めるというチグハグな状態になる。
邪馬台国畿内説は、歴史の発展の過程を無視した机上の空論に過ぎない。
174 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:01:14
要するに、邪馬台国は九州にあったから、伊都国を従属させることが出来た。
そう考えるのが歴史学の常識なのだ。
>>175 考古学のこと、詳しくないみたいだが、どこまで分かってるのか?
そんなんじゃ、説明のしようもないよ。
176 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:15:55
>>173 引っかかったな。
おまえが間違ってるところは、考古学と文献をごちゃまぜにしてる所だ。
>少なくとも3世紀初頭には、北部九州にも影響力を及ぼしていた、
>マキムク王権が誕生している。
これは、「考古学」が導いた見解である。
邪馬台国の所在は、無関係。
「認めてない」なら、「考古学」を用いて否定すべき。
それなのに、
>狗奴国に対しては魏に援助を求めるというチグハグな状態になる。
などと「文献」を持ち出して「考古学上の見解」を否定した。
これは議論ではない。
ただの無知からくる感情論だ
もう一度言うが、「認めてない」なら、「考古学」を用いて、
考古学が導いた見解を否定すべきだ。
庄内期になにやら列島全域的なまとまりってのが
畿内に生まれつつあったってことはオッケー?
↑このまとまりがかの国の文書にしるされた
ヤマタイコクでなくてもかまわん
178 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:31:32
>>177 OKだろ。
むしろ、畿内王権そのものについて語り合いたいところだ。
179 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:33:07
考古学について全く知らないわけじゃない。
畿内考古学の柱は、以前は三角縁神獣鏡魏鏡説だった。
しかし、これは徐々におかしくなってきている。
黒塚古墳の発掘で、畿内説の人も三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと
言う人が多くなった。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡は、手馴れもないし、紐を通した形跡もない。
つまり、作ったものをそのまま副葬したと考えられるのである。
三角縁神獣鏡は葬具だ、つまり葬式のためにつくられた鏡だと言われる。
卑弥呼の鏡ではなくなったと考えてよい。
畿内考古学を支えた三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないとなると、
あとは、古墳の築造年代を遡らせる以外にない。
卑弥呼の時代には大和にすでに古墳が出来ていたことになれば、
少なくとも邪馬台国東遷説の可能性はなくなる。
近年、古墳のできたとされる時期が遡ってきてその思惑どうりになってきた。
箸墓は卑弥呼の墓だという説が出てきたのもその過程の一つである。
しかし、土器に実年代をつけるのは難しい。だから、もともと土器の編年は
相対編年だった。一つ一つの土器に古いものから順番を付けるということ
だったのである。
邪馬台国論争に考古学を持ち込むためには、実年代をつける必要がある。
今の畿内考古学は、邪馬台国畿内説に都合の良い年代がついている。
しかし、これは妥当かどうかは難しい。
学者によってかなり年代の付け方に差があると思われる。
180 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:39:52
>>179 古田や安本に騙されてるな。
考古学は、古代の様相を明らかにする学問であって、
邪馬台国畿内説を証明するための学問ではない。
>邪馬台国論争に考古学を持ち込むためには、実年代をつける必要がある。
考古学者は、邪馬台国論争はしない。
むしろ、九州説派が、考古学を持ち込んで九州説を証明しようとして、失敗してるのを、
被害妄想に凝り固まり、「畿内説派の考古学者が実年代を捏造してる」などと、
考古学を誹謗をしてるだけだ。
古田や安本がバカなだけなんだよ。目を覚ませ。
181 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:40:17
>>176 都合の良い考古学を絶対視するからおかしなことになる。
以前は纏向遺跡の誕生は、4世紀になってからと言われていた。
考古学は変わるものなのだよ。
遺物があるから物的証拠などと思ってはならない。
遺物を解釈する人間が、言葉は悪いが、勝手に解釈するものなのだ。
だから、解釈する人が変われば結論も変わる。
さらに、たった一つの発掘でそれまでの常識が完全に覆ることもある。
あまり、考古学を絶対視しないことだ。
182 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:42:47
>>181 >さらに、たった一つの発掘でそれまでの常識が完全に覆ることもある。
あたりまえだろ。
証拠に基づいて、見解を変えるのが「学問」だ。
宗教とは違うんだよ。
183 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:49:57
>>180 三角縁神獣鏡については、邪馬台国畿内説の考古学的な柱だと言われた。
しかし、以前は、三角縁神獣鏡の出土する古墳の年代と
卑弥呼の時代にはずれがあった。
そこで、伝世鏡という考えが示された。
つまり、三角縁神獣鏡は、大切な鏡だから、しばらくは保管し、
その必要がなくなったときに埋葬されるようになったと言うものである。
こんな考古学的に証明されない理論を作ってまでも、
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にするために年代をあわせたのである。
考古学者が邪馬台国論争に口を出さないと言えるかな?
日本の考古学には失敗はいくらでもある。
たとえば、石器の捏造事件など。
184 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:51:53
>>182 だから、考古学を絶対的なものと考えてはならないんだよ。
古田の人と
安本の人がやたら戦闘的なのがちょっとね
別にアカデミズム至上主義ではないが
彼らと彼らの信徒のものいいのなかに
なんというか
真実に対する謙虚さが感じられないんだなあ
>>149 > 間違っていた証拠があればすぐに変えるのが「科学」だ。
全然違う。
間違っていたことがはっきりすれば、
その仮説は捨てなければいけない。別の説に変えるのではない。
右往左往して、珍説を唱え出すようじゃ駄目。
>>152 橿原の人たちも結構こだわっていると思うが…
それに考古学者の話をしているのに、
古田、安本の名前が出るのはおかしい。
安本はHP見ると、かなりテンパっているように思うが、
類似地名の位置関係の相似の話や日蝕の話はおもしろかった。
188 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 03:01:57
189 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 07:05:47
>>188 そのページの一番最後のコメント
>樋口隆康氏の頭脳の構造はどうなっているのであろうか。
こうした汚い発言が出てくるあたり、安本氏の品格が疑われる。
190 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 07:28:46
畿内説の立場の考古学者でも、
名指しで九州説を批判するようなことはしない。
そんな下品な畿内説の考古学者は聞いたことが無い。
真面目な考古学者は、土器編年などの地道な作業を積み重ねて、
日本全体の古代の姿を明らかにしてきた。
その結果、マキムクが重要な位置にある遺跡だとわかってきた。
九州説は、自説に都合の悪い考古学を否定するだけで、
考古学全体の成果については無視している。
マキムクの年代も日本全体の土器編年から導かれたもの。
それを認めないというのであれば、考古学を全否定していることに等しい。
九州説は、考古学が捏造だと言うなら、
九州説も独自に土器編年を作成してみればいい。
もしかしたら考古学上の新しい見解が見付かるかもしれないからな。
そうでなければ、文献を考古学で傍証出来ないことが悔しくて、
考古学は捏造ばかりだと、だだっ子が噛み付いてるだけにしか見えない。
>>179 黒塚のは「手馴れ」どころかバリ付いてるだろ。
ただし京大系の古鏡学者だって、
何でもかんでも魏から授かった鏡と言っていたわけではないぞ。
192 :
太国:2006/10/04(水) 08:22:25
どうしよういもないだろう? 何と言っても文証は出ている。
マキムクに女王国があるのなら、当然記紀に倭人伝以上に女王国の記述が残る。
それがなく遠い中国の赤の他人の書いた倭人伝にその詳細が書かれてある。
本来は本国の記紀に倭人伝のような記述があるべきだ。それが皮肉にもない。
以下のとおり
近隣日本の古事記日本書紀 詳細に記述なし
遥か遠い外国の魏志倭人伝 詳細に記述あり
これを眺めればもうどちらが正解か一目瞭然、考古学などなくてもはっきり
している。女王国は九州にあったのだ。逆だったら畿内となろうがね?
>>171 これは余の勝手な研究で完全ではないしまだ何ともだが、2倍暦等の論で
景行世はマキムクの時代だが、実年代で 景行立太子 270年 同即位 292年
を算出した。つまり3世紀だ。これだといまのところ矛盾はない。
>>181 臥海はクルクル変わるから考古学も変わるだろうな。
193 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 08:35:06
>>184 ほとんど難癖に近いな〜
この世の中に、絶対なんてもの、そうはないだろ。数式くらいか。
考古学を絶対視してる訳じゃなく、考古学くらいしか方法がない、
と言ってるんだよ。
文献は恣意的解釈に陥り易く、それだけをいくらやったところで無意味。
九州説の人も、自説を考古学で補強したらいい。
まあ、それが出来ないから、考古学否定に繋がるのだろうが。
九州説の考古学批判って、オカルトの理屈だよな。科学を絶対視するな、みたいな。
195 :
太国:2006/10/04(水) 09:56:56
>>193 無意味は甚だしく言い過ぎだ。文々スズメ蜂に刺されるのは巣の真近に
行くから刺されるわけだよ。遠けりゃぁ刺される可能性は薄くなる。
こんなことは言わずとも分かるものだ。
196 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 11:25:55
>>196 >考古学的
>>まず君には考古学的とは、どのようなものを指すのか定義して貰わなければならない。
そうでないと、レスした内容と君の要求とがすれ違いをおこす恐れが生じる。
折角の投稿が無駄にならない為にも是非
君の手によって、定義の提示を願おう。
198 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 14:02:02
199 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 14:10:54
>>192 だから、邪馬台国の女王・卑弥呼は記紀に天照大神伝説として残っている。
日本の古代史上最も有名な女性である卑弥呼。
記紀の神代の部分で最も輝く女性である天照大神。
この二人が同じ人物である可能性が一番高い。
これは畿内説にとって都合が悪いのは当然だが、
九州王朝説にとっても都合は良くないかな?
200 :
太国:2006/10/04(水) 14:29:51
>>196 考古学を過信しすぎだ。それは当然参考にすべきであるが主導権を渡したまま
安穏で放置し、検討を怠れば失敗は目に見えている。
>>192のとおり、考古学がなくても距離の考えで九州の結論が自然に出る。
距離の理屈は一種の物理学だろうがね?
>>199 卑弥呼≠天照大御神
時代が断層あって別人だ。それは卑弥呼が日神に則って神道(特殊神道の鬼道)
をお手本式にやっていたことは充分ありうるぞ。
201 :
太国:2006/10/04(水) 14:39:40
今日はサンケイ新聞の一面にだったか、卑弥呼の鏡を収納する袋の織物を造る
とかで、奈良だと思ったがそこの女性教授が写真入りで載っていた。
新聞側が言い出したのか教授が言い出したのかは分からぬが、勝手に鏡と卑弥呼
を付会していている。彼女らはこれだけ話が先行しているのだ。
202 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 15:25:54
>>201 世間の認識はそんなもの。
今九州説を言ってる連中が死ねば、九州説自体がなくなるだろう。
>>196はどおした
考古学的定義をコンビニ迄買いに行ったのか?
それにしても遅い、実に遅すぎる対応だ
204 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 15:39:38
なんだ、このアホな煽りは。
205 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 16:24:24
>>203 キャンキャン吼えるな負け犬が。
例えばだな、庄内式土器を例に挙げれば、
古い時代の弥生土器(A)から、庄内式土器に発展していく過程が、
技術的、時系列的に説明できるならば、
弥生土器(A)が分布する地域から庄内式土器が発明されたと考えられる。
これが考古学の考え方だ。
もし、安本のように庄内式土器が北九州発祥を考えるなら、
庄内式土器に発展する過程の古い土器を北九州から見出さなくてはいけない。
しかし、そんな土器は北九州にはない。
安本はずる賢いから、それを知りながら、素人を騙しやすいように、
まるで次元の違う地名の類似性と絡めて庄内式土器は北九州発祥だと喧伝している。
サギに近い犯罪のようなものだ。
206 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 16:32:25
北九州と畿内の地名の類似についてコメントすれば、
その類似した地名が、何時付けられたのか?
3世紀に付けられたなどという証拠は、どこにも無い。
3世紀の地名が現代までそのまま残ってると主張したいなら、
魏志倭人伝に出てくる多くの国々の名前もそっくり残ってるはずだろ?
実際は、ほとんどの国名が失われて、現代の地名から類推は不可能。
それなのに、北九州と畿内の地名だけが、
3世紀からそっくり残ってたと、どうして立証できるのか?
個人的考えで言えば、大宰府が置かれた頃に、大和の役人が大和にならって地名を付けたのだろう。
207 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 17:10:02
よく、「卑弥呼=天照大神=九州の女神」という九州派がいるが、
北九州・壱岐・対馬の神は住吉神社・宗像神社のような、
ワタツミ系海神と見るべきではないのかな?
宇佐神宮は、渡来人系の神と考えられている。
まして、比売大神が太陽神だったという伝承は聞いたことが無い。
九州のどこにも日本を代表する太陽神を祀る神社は無い。
もちろん、あると言うのであれば聞かせて欲しい。
208 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:52:12
>>205 >>古い時代の弥生土器(A)から、庄内式土器に発展していく過程が、
>>技術的、時系列的に説明できるならば、
畿内説ではそれは可能なのか?そもそも、畿内の特定地域(神武東征神話に関連する地域
が多い)からしか出土しないから、畿内説では前提も存在しない。
>>196の引用する先にもあるけど、庄内式の分布の中心は北部九州。
北部九州では広い地域に分布している庄内式が畿内では特定地域からしか出土しない。
分布の中心が伝播の中心というのが、普通の考えだと思う。
209 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:07:55
>>208 >分布の中心が伝播の中心というのが、普通の考えだと思う。
考古学は、そんな単純な考え方はしない。
北部九州に拡散してる庄内式土器の土が、どこの地域の土だと思ってる?
考古学の視点は、土器がどこの土を原料に焼かれたか、形だけ真似て現地の土で壷を焼いたか、
そういう細かいとこまで検証していく。
結果、畿内で庄内土器が生まれたということは、動かし難い事実なんだよ。
210 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:07:59
>神武東征神話に関連する地域が多い。
適当なこと書くな。
211 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:12:35
>>209 回答になっていないww
>>考古学の視点は、土器がどこの土を原料に焼かれたか、形だけ真似て現地の土で壷を焼いたか、
>>そういう細かいとこまで検証していく。
その検証の結果はどうでしたかww
畿内で生まれた庄内式が畿内では広まらずに北部九州で広まったのはどうしてなのww
逆だと、すごく分かり易いねww
212 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:13:33
庄内土器の話は、九州説が圧倒的に不利だから、止めた方がいい。
無知を晒すだけだし。
他の方面で活路を見い出すべき。
213 :
太国:2006/10/04(水) 20:37:01
214 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:51:43
>>211 >その検証の結果はどうでしたかww
庄内式土器が九州発祥だとか言ってる人は、安本先生だけになりましたね。
他にいる?
215 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 21:30:16
基本的に放射年代測定を無視した土器年代しか考えない池沼の考古学会
ではどうにもこうにも。安本だけじゃないし。
>>192 おまえは引っ込んでろよ。九州派にとっても迷惑。
雑団塊?
217 :
太国:2006/10/04(水) 21:45:52
218 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 21:52:01
>>215 東京都国立博物館編集発行の「日本の考古 ガイドブック」にも、
庄内式土器は近畿地方で成立とあるんだが。
いっぺん、東京都国立博物館にクレームでも出したら?
税金で池沼な本つくるなってさ。
219 :
太国:2006/10/04(水) 21:58:52
>>215 お前は手ぬるい九州説の証明を考古学であくせくやってたんだろう?
そういうのもいいが、同胞を引っこめとは何事だ。
なら言うぞ。お前のやり方じゃあ、女王国の所在などはお嬢さんが箸
を握る以上に重たい業だ。笑わせるな。ww
お前なんかは重量以下の序の口に毛が生えたくらいだ。
えらそうなことを言うんじゃねぇ。
220 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 22:07:03
お前は手ぬるい九州説の証明を考古学であくせくやってたんだろう?
そういうのもいいが、同胞を引っこめとは何事だ。
なら言うぞ。お前のやり方じゃあ、女王国の所在などは卑弥呼さんが箸
墓に眠る以上に重たい業だ。笑わせるな。ww
お前なんかは重量以下の序の口に毛が生えたくらいだ。
えらそうなことを言うんじゃねぇ。
221 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 22:19:27
>>219 太国へ宿題が残ってるぞ。
207 :日本@名無史さん :2006/10/04(水) 17:10:02
よく、「卑弥呼=天照大神=九州の女神」という九州派がいるが、
北九州・壱岐・対馬の神は住吉神社・宗像神社のような、
ワタツミ系海神と見るべきではないのかな?
宇佐神宮は、渡来人系の神と考えられている。
まして、比売大神が太陽神だったという伝承は聞いたことが無い。
九州のどこにも日本を代表する太陽神を祀る神社は無い。
もちろん、あると言うのであれば聞かせて欲しい。
222 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 22:40:47
実のところ、文献解釈で事実に近いのは
九州だし、考古学解釈で事実に近いのは
畿内だよ。でもどちらも、近いだけ。
事実とはどちらも異なるということに
なかなか気がつかないのかな。
当時の北九州と畿内の文化圏を結んだのは
四国だよ。文献と考古学どちらの解釈も
うまくいくようになるとは思わないかなあ・・・。
まあ、思いたくない人が多いことは確か。
ちなみに倭人伝の国名はかなり残ってる。
ただし、中国原音による音訳は、倭音のように
一音一音を区別できたとは限らない上に、
日本語側で外来語を受容するために音韻が
不安定だった。そういったことを慎重に考えて
おかないとだめ。
聞き取った英語を自分が音訳するときを考えること。
こたえは東四国。賛同者は少ないけど。
http://www.geocities.jp/yamatai4/
223 :
太国:2006/10/04(水) 22:59:24
>>220 じゃぁ、うぬは手ぬるくねぇそうだから、コテハン付けてやってくれよ。
聴いてやるからさ。おめえの論じゃぁ、強力がな臥海の論はまあ無理
だろうなぁ?w それとも何か?同じ文章を少し変えて書きこみか?
みんな見てるからマネは一発で分かるぜ。
224 :
太国:2006/10/04(水) 23:05:07
>>221 貴殿は九州派なのか畿内派なのか?
なぜそんな質問をみんなに問うのか?
余は比売大神を日神などと言ってはいないぞ。
225 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:36:06
>>214 というか庄内式土器に焦点を当てて論じる畿内説もいなくなった。
庄内式は、畿内ではいくら掘っても特定の地域からしかでtこない。
この結果は、庄内式の始期を遡上させて流通期間を長く見る畿内説には不利。
流通期間が長いのに、畿内では一部でしか使われなかったというのは、説明不能。
一方、九州では掘れば掘るほど新たな庄内式出土地が生じて、北部九州での
広域分布が裏付けられる。
いまや庄内式は、三角縁神獣鏡国産説と同様に、畿内説のアキレス腱の一つ。
226 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:42:34
宇佐神宮には、比売大神は宗像三女神と書いてあったが。
227 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:47:34
228 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:50:43
まあ、宇佐神宮がでかくなったのは8世紀始めの隼人の乱以後だから。
隼人征伐のあと、災いがたくさん起きたので、隼人の霊を慰めるために
宇佐神宮は建て替えられたらしい。もともとは小さな神社だったらしい。
229 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:57:40
>>225 庄内0とか古いタイプが、北部九州から出土してるのかと。
実際のところ、庄内の頃の北部九州では在来系が多く、徐々に
庄内式が増えてくるんだがな。
いい加減、恥さらしは止めろ。
231 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:24:43
その宮崎の庄内式?は怪しいな。
北部九州でも畿内並みにまともな庄内式が出るのは福岡平野だけだが
232 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:43:09
この頃の土器の画期的な変化として、弥生式土器から庄内式さらに布留式
とあるわけだが、記紀を参考にすると、饒速日命さらに神武と画期的な
変化が重なるような気がするのだが。
233 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 00:58:49
時代的には祟神だろ。
234 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:00:25
>>230 ソースある?
畿内説は庄内式の年代を根拠にする人が多いけど、庄内式を掘り下げて
年代区分や九州との差別化とかを論じている人は知らないんだよね。
重要な根拠なんだけど深く論じていない気がする。
ここで議論するのはいいことだよ。議論をやめろというのは筋違いだね。
235 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:03:28
庄内土器を知らないアホ九州説(九州説の人、全員じゃないよ)が退場したところで、
本論に戻そう。
畿内王権の誕生・成長の過程について。
王権の主体勢力は? 記紀などの記述との整合性など。
237 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:08:54
>>235 その対応はストレートに畿内説の敗北宣言だよ。
疑問が出されてもスルー。
「邪馬台国が畿内か九州かは問題ではない。ヤマト王権の成長過程が問題だww」
たしかに、最近の畿内説の雰囲気はそうだね。
>>237 実際のところ、疑問の意味も分からんのだが。
久住とか読んでるの?
239 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:32:42
庄内土器を知らないアホ九州説(九州説の人、全員じゃないよ)が退場したところで、
本論に戻そう。
畿内王権の誕生・成長の過程について。
王権の主体勢力は? 記紀などの記述との整合性など。
240 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:37:16
ところで西九州南九州一帯に集中的にみられる
隈の地名はなんですか?
やっぱ熊襲の名残?
福岡市の東区以東、大分県の日田以東にはないようだけど・・・
241 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 02:38:18
>238
久住猛雄 「北部九州における庄内式平行期の土器様相」『庄内式土器研究』19 庄内式土器研究会 1999年
久住 「三世紀における筑紫の土器」『シンポジウム邪馬台国時代の筑紫と大和』奈良県香芝市二上山博物館 2005年
など。
庄内式を本当は知らない九州説論者はこれらを読んでから考え直せ。
242 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 07:23:36
>>241 その本どこで手に入りますか?
amazon には無いみたい。
243 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 07:33:19
前者は任意の研究会の同人誌みたいなもの。後者は博物館での販売。いずれも一般流通はない。
もしかしたら考古学の講座のある大学の図書館で大きいところにはあるかも。
考古学の専門書、専門誌は、東京なら六一書房、西日本なら北九州中国書店が同人誌も含め広く扱っている。この二つはググッて出てくるはず。
244 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 07:49:42
その前に、何故ここに考古学厨がうようよしてるんだ?
考古学存分に語りたければ考古学板あるだろう。そっち行けばいいじゃん
245 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 08:02:08
アホ
ヘタに考古学資料を都合よく利用している椰子等がいるからだろ
246 :
太国:2006/10/05(木) 08:10:55
考古学板に「邪馬台国」のスレがあったんだが、いまは無いよね?
247 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 08:16:56
それはあなたのような考古学を知らないDQNを招いて荒れるから廃止されたのだが。
248 :
太国:2006/10/05(木) 08:23:51
いや〜1001まで継続してたよ。そのあとスレのことをいったんだよ。
どうせお前じゃぁ、相手方をとことん窮地に追いやる論など7回生まれても
出来っこないだろう? 凡人だからな?ww
249 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 08:32:30
考古学も含めて「歴史」なんだが。
当時の文献が少ない以上、考古学に比重が高くなるのは当たり前の話。
250 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 09:34:16
卑弥呼みたいなしょぼい奴が機内王権の女王であってたまるか。
邪馬台国は九州にあったしょぼい地方政権に決まっている。
所詮は九州の二流国家だ。
251 :
太国:2006/10/05(木) 10:04:28
>>249 気持ちは分からんでもない。自然の成り行きかも? でも
女王国が畿内ならば、記紀の編者側はその詳細の記述を落とさないと観るべき。
書かれてないのだから、九州は理にかなう位置。
252 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 10:19:46
考古学も含めた歴史を無視して、でたらめかも知れない本とか書き物だけを
振り回してるからもめるので、その中で特に証明とか言ってるヤシはそら嫌われるよな
10日水業1ヶ月陸業とか1000里とかゴロ合わせのいい数字ばかり書いてる時点で
あやしいと推察するのがまともな方法で
253 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 10:53:04
254 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 10:58:08
255 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 12:42:55
太国は九州王朝説なのか?
256 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 14:15:16
マキムクと邪馬台国を結び付けるものって何?
257 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:11:15
>>256 畿内の少数集団が生み出した庄内式土器が、北九州一帯にまで拡散している。
土器の移動は人の移動を意味し、庄内式土器を携えた大和の役人が北九州入りし、
北九州広域を大和の支配下に置いたということである。
その当時の日本には邪馬台国という連合国があったとされるので、
大和が邪馬台国だったと考えてよいだろう。
258 :
太国:2006/10/05(木) 15:12:41
259 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:18:23
庄内式土器は、煮炊きに使うもので、壁が薄く非常に壊れやすい。
これを持ち運ぶためには、丁寧に扱わねばならず、
気楽に農民や商人が抱えていくというわけにはいかない。
当時の倭国でも技術の高さから量産が出来ず、希少な土器で、庶民には手に入らなかった。
よって、大和の高級官僚の生活必需品として、
北九州に派遣される際に丁寧に運ばせたものである。
大和の高級官僚は、北九州一帯のクニグニに散らばり、支配地として監視の目を光らせていた。
260 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:23:29
庄内式土器は、畿内より東には広がらなかった。
東には、濃尾平野を中心として東海土器がもてはやされていた。
現代でも窯業が盛んであるように、
当時でも東海土器は量産が可能で、庶民に親しまれていた。
さらに東国の人々も、東海土器を好んで求めるようになった。
261 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:39:07
東海土器の人気の様子は、
北陸のほうでは、デザインを真似て、
東海土器もどきの土器を独自に焼いていることなどからもわかる。
一方、庄内式土器は、模倣が難しい。
これが、庄内式土器が高価で、限られた者しか所有できなかった由縁である。
262 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 17:17:53
東海土器もS字カメは技術的に量産は難しいが。
またまともな庄内式、特に真正の庄内カメは北九州一帯には無いが。福岡平野だけで、しかもたくさん出てくるのは一部の遺跡だけだが。
そういう意味では大和や河内の一部での分布に似てはいるが、肝心の伊都国には少なく、単純に大和の派遣官なんとかとは結びつかない。
適当なことは言わないように。
263 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 17:21:17
特定の土器様式の広がりがイコール特定の政治的勢力の支配領域とするのはあまりに単純すぎ、怪しい考えであり、だいたいの場合まともな証明を伴っていない。
264 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 17:26:29
東海もどきが多数東国に広がるように、大和の庄内布留もどきなら西日本に広がっている。
しかし東国でも技術的に模倣が難しいS字カメの分布は限定される。庄内もどきは西日本、北九州一帯にあるが、庄内カメは一部にしか無い。
265 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 17:32:12
河内型庄内や播磨型庄内は高級官僚かよw
266 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 19:16:03
>>254 ついさっき、本屋に平積みされてたのを買った。
ざっと見た限りでは、柳田、寺沢、村上、石野あたりは、今まで書いたことの繰り返しか。
まあ、シンポジウムだから当たり前か。
325 名前:名無しって何ですか?:2005/12/27(火) 07:14:19 ID:YevwbuuZ
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竹石 圭佑
(1986〜 愛知県名古屋市)
在日中国人の両親を持つ為か、日本語のアクセントがおかしい時が多々ある。
小学生の時に万引きで補導されたらしく、その頃から既に歪んだ性格であった考えられる。
中学・高校時代…意中の女子には露骨にちょっかいを出して気を引こうとし、また、その時の言動は挙動不審で相手に好意があることがミエミエな為、非常に痛々しい。
でしゃばりで、なぜか偉そうな態度をとっていたが、不良学生相手にはビクビクしながら機嫌をとっていたという不可解な面も併せ持つ。
また特に自分より力の弱い女性教員や女子生徒等を格好の的としていたので、その様な人間には異常に高圧的な態度をとり、馬鹿にし、いつも幼稚な悪口や悪質な嫌がらせを考えて楽しんでいた。
相当な目立ちたがり屋で「地球は自分を中心に回ってる」という性格。しかし、何の能力・才能の欠片もなく、ヘラヘラしていただけなので精神が不安定だったとも考えられる。あだ名はダメ石(何をやってもダメなくせに口八丁なので)→デメ石(非常に出目金に似た顔なので)。
愛知県の底辺の大学に通ってるが、名古屋大学医学部を目指しているらしく、医学生になった自分を日々妄想している。
余談だが、KAT-TUNの田中聖をライバル視しているらしい。
268 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 19:22:13
庄内土器の出現とは一体何だったのだろうか?
列島規模の広範囲で見つかりながら、畿内大和川水系でも偏在するという矛盾。
布留式との関係は?
初期ヤマト政権の性格を考える上で、キーポイントとなるのではないか?
269 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 19:30:48
二上山のシンポジウムの本が学生社から出たが、庄内式について詳しく書いてある久住や青木の原稿は割愛されている。まあ彼らは元の資料集で紙上参加でパネラーではなかったが。
しかし討論や各人の発言は当日の資料集の内容が元になっているので興味のある人は見るべし。
ついでに来週土日にこのシリーズのシンポジウムがあるらしい。今度は大和と阿波讃岐播磨とか。
270 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 19:32:03
10月14-15日ね。
271 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 19:37:09
土器は単に残り易いから目立つだけ。
王権とかと絡めるのはやり過ぎではないか。
272 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 21:58:42
その通りなんだが、実物見ないと信用しない非科学的な馬鹿ばっかだかんね、考古学会や
古代史学会なんて。「ものがあるだろ、ほれみろ」っ感じ。内心は冷ややかに見てる人も
多いんだけど。
273 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 23:20:23
またジサクジエンか。
274 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 23:42:37
何が言いたいの?
275 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:06:41
庄内式九州発生説はやはり無理?
無理
277 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:12:02
典型的な土師器は布留式であり、庄内式土器は弥生式土器と布留式土器の
間を埋める土器という性格らしい。
邪馬台国関係では、庄内式を古墳時代の始まりと言うのが大勢らしいが、
これを弥生時代に含める説もあるらしい。
278 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:21:36
続き。
つまり、庄内式を持って古墳時代の始まりとすれば、その時期が重要になる。
たとえば、西暦200年に庄内式が始まったとすれば、倭人伝の卑弥呼の
時代はすでに古墳時代ということになる。
そうなると、卑弥呼の後の東遷は考えられなくなる。
逆に、庄内式の始まりを西暦260年かあるいは270年とすれば、
邪馬台国の東遷またはそれに類する出来事を想定できる。
50年かそこらの年代の差がけっこう大きいわけである。
いわゆる倭国の大乱の時期の問題も絡んでくる。
つまり、畿内説は、倭国の大乱の時期を庄内期の始まりと考えるのだろうと思う。
個人的にはちょっと無理しているように感じるのだが。
279 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:28:46
ていうか庄内式を3世紀後半開始という根拠が無いだろ。
2世紀後半まで行くかはともかく、庄内式開始は200年前後で問題ない。
三角縁を除外しても製作年代がおよそ分かる中国鏡と土器型式との対応、新古の順番から言えるが。
時代区分なんか、考古学者に任せておけばよろし。
ただし、用語で混乱しないように注意する必要はある。
281 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:46:33
>>279 上にも書いたように、庄内式の開始時期が西暦200年頃とすれば、
畿内説にとっては非常に都合がいい。
しかし、もともとはもっと遅かったし、今でも学者によってその時期は
異なる。いったい何を根拠に、西暦200年頃という数字が出てきたか
興味のあるところである。
もう一度言うけど、庄内期が西暦200年頃に始まるのは
畿内説にとっては非常に都合が良い。
282 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 01:08:43
何を根拠にって学史を勉強しろと。
だいたい、古墳開始が300年頃とした小林説に対して、古墳時代開始が早くなると言い出したのはむしろ九州の考古学者。橋口、柳田ほか、古くは原田大六。
別に畿内説に都合がいいとか悪いとかいう演繹法で年代が導かれたのではなく、中国鏡の編年、年代と土器型式との対応から帰納的に導かれたものだ。
逆に庄内開始が3世紀後半とする根拠は無い訳だが。
283 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 01:09:56
プラの匂いがw
284 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 02:01:11
畿内に阿蘇山は無い!!!!!!!!!!!
285 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 02:11:11
記紀に卑弥呼の事が書かれていない、
だから畿内に邪馬台国は無かったのだ!!!!!!!!!!
286 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 02:13:05
どうだ参ったか畿内厨ども!!!!!!!
287 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 02:27:28
>>282 それちがう。原田大六は「考古学者」ではない。
あと、柳田は九州(西新式)に関して言っている。彼は伊都国東遷論。
邪馬台国東遷論だと畿内説の猛反発があるから彼なりに配慮している。
庄内200年開始は、石野、白石とかの畿内説のごく一部だけ。
寺沢は260年頃。彼は畿内説だが邪馬台国の東遷も「あり得る」という立場。
庄内開始は、300年〜350年とするのが畿内説の伝統的見解(直木、和田等)
しかし、これだと邪馬台国時代に鉄器で九州が圧倒的優位にあり、庄内式の時期
にそれが畿内に移ったという考古学的事実に反するという弱点があり、畿内説の
一部が庄内式の開始年代を極端に遡らせたというのが正しい経緯。
直木は鉄器の九州優位については、「自分は文献史学者だから考古学的検討は
していない。」と書いて、無視し続けていた。他の畿内説も同様に無視し続けた。
ここら辺の経緯は、『古墳時代を見直す』で村上恭通が書いている。彼は、上に
出てきた『邪馬台国時代のツクシとヤマト』でも鉄器の東遷というニュアンスで
書いている。
考古学のほうの書き込みも初心者にはたいへん参考になります。ところで
文献史学、なかんづく記紀批判のほうの最前線はどのようになっているのかな?
初心者なりにかじってる限りでは、記紀の帝紀的部分成立の新旧仮説とか、
井上氏や直木氏らの時代からさらに飛躍した
新鮮な議論がされているようにも思えるのですが、まだその全体がよくわからない。
ただ「卑弥呼や「台」与が記紀では誰か?」みたいな、
あるいは「高天原族とは、出雲族とは何か?」みたいな議論は
すでに最新の文献史学の世界では、ほとんど問題とされていないのでは?
と感じてならんです。
289 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 05:16:54
天照大神は明らかに畿内にはいません。また、天照大神=卑弥呼であれば、
その次には神武東征があります。つまり、天照大神と卑弥呼を同一視するのは、
邪馬台国東遷説そのものなのです。
だから、邪馬台国畿内説としては絶対に容認できないわけです。
九州説でも、いわゆる九州王朝説は、邪馬台国の東遷を考えていないので、
やはり反対の立場です。
邪馬台国東遷説は、昔からある説なのですが、
戦後はあまり口に出来なかったそうです。記紀は神話であり、神話を事実の
ごとく口にするのはタブーだったのだそうです。
神武東征神話の亡霊だと批判されるのが怖くて、邪馬台国東遷説を言いたくても
言えないかなりつらい時代があったようです。
まあ、畿内説としてはもっての外というわけですが、十分に考えられる説では
ないかと思います。
>>289 ていねいなレスに感謝しつつも
自分の文章力ダメダメなおかげで
すこし話がずれてしまいまったかもしれない。
記紀、とりわけ「系図」全般において
舒明帝あたりで1からの捏造が行われていたのでは…
なる仮説に衝撃受けた初心者です
291 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 06:11:12
>>289 >天照大神は明らかに畿内にはいません。
九州にもいないけどね。
292 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 06:23:45
>>291 日本書紀や古事記の神代の部分には、出雲や日向は出てくるが、
どうしてその中間に当たる部分が全く出てこないのだろう。
そこのあたりが高天原とも考えられる。
293 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 06:27:22
>>290 畿内説は、間違いや捏造を前提にしなければ成り立たないのかな?
294 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 07:15:17
寺沢は庄内開始は220年頃としていて、最近は少し遡る可能性も言ってますが。260年は寺沢の布留0開始の年代説。
柳田は北九州の資料を基礎にしつつも、土器の移動から見た平行関係から、畿内の庄内式開始を200年前後としてます。それに庄内式前半までは北九州以外の中国鏡は比較的少ないけれども、それらを検討して弥生後期から庄内の年代を決めています。
これは寺沢も同じですが。
また確かにDQNな部分も多いが、原田大六はれっきとした考古学者だが。『日本古墳文化』『日本国家の起源』『邪馬台国論争』や報告書『沖の島』『続沖の島』などを読め。原田の存在は小林行雄との論争や鏡の研究など学史上重要な存在だが。
295 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 07:16:57
>>284 >阿蘇山
>>これはマズイヨ
>>決め手に全く使えない
296 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 07:24:23
土器の併行関係、交差年代法って知ってるか?
北九州の西新式が併行するのは庄内式だが。搬入された庄内が西新式と一緒に出るが。また庄内式の新しい型式段階から北九州で在地生産されて西新式と一緒に出る。この意味分かる?
西新式だけ200年開始で、庄内式が300年開始って、そりゃありえないだろ。柳田はちゃんと畿内編年との併行を表につけている意味が分かるかな?
庄内開始が300年って何時の説だよw
297 :
太国:2006/10/06(金) 07:28:41
298 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 08:03:11
考古学と歴史学が融合しないとタイムマシンに乗って古代の証明書を取ってこいと言ってるのと同じですよね
299 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 08:08:14
>>296 やはり土器の編年に実年代はそぐわないんじゃないかな?
古いものから順序を付けていくことはできても、実年代をつけるには
基準がないような気がする。
寺澤編年も一説によると、弥生時代の終わりを西暦200年頃とし、
須恵器の登場を西暦400年頃と見て、均等割して出しているらしい。
編年も相当に揺れ動いているみたいだし。
基準になるかもしれないと思った年輪年代法も、まるでブラックボックスで
いまいち信頼性に乏しい。
たとえば、庄内式の土器の開始時期について納得いく説明の出来る人いるかな?
300 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 08:24:41
画期になる時期の土器様式の年代比定にはそれなりに根拠がある。
途中直接に年代が分からない土器様式は前後の年代の分かる土器様式から推定する。
庄内式前半=西新式前半には中国鏡で2世紀末以降の型式が出土し始めるが、3世紀中頃以降のは出土しない。3世紀中頃以降は布留0以降に出土する。また庄内式以前は北九州の後期後半に2世紀の中国鏡が出土する。
つまり各土器様式の時期に出土する中国鏡のうち新しい一群の年代がその土器様式の年代となり、また前後の土器様式での中国鏡の出方で検証している。
そういう訳で庄内式=西新式に平行は200年前後開始と推定されている。
また楽浪郡の土器が北九州に出土するので、楽浪郡の年代の分かる墳墓の土器と比較して、西新式が3世紀、後期後半の下大熊式が2世紀というのは問題ない。
301 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 08:36:38
>>299 弥生後期開始が一世紀なのは、確定してるだろ。
ちなみに君の嫌いな年輪の結果とも合ってる。
庄内土器が一定期間継続したことが分かってる現在、
庄内開始を300年とみるのは無理がある。布留の期間が無くなってしまうがどうするのか?
小林行雄は古墳時代開始を四世紀として、伝世鏡説を唱えたが、君もそれを支持するわけ?
302 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 08:40:12
アホにものを教えるのは疲れる。
ロクすっぽ学説史とか知らずに、適当に反論してるだけの奴だしな。
年輪年代法によって、
実年代を検討することが、視野に入ってきたのでは?
ただ年輪のマッチは統計学的な手法で検討されたもので、
再検討や新しい資料が出てくることでずれる可能性がないわけではない。
もちろん、資料が保存されているので、再検証可能。
304 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 14:58:40
庄内甕が九州発だとか、庄内開始が300年だとか、考古学音痴ばっかりだな、九州説は。
考古学の限界は当然あるが、はっきり分かってる部分もある。
それをゴッチャに論じたって意味ないだろ。
305 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 15:01:23
306 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 15:23:54
>>299 小林行雄が弥生後期開始を2世紀末としたから、古墳時代開始は長らく4世紀初めとされていたんだよ。
多分知らないだろうけど。
307 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 15:24:42
記紀には卑弥呼の事が書かれていない、
だから畿内に邪馬台国は無かったのだ!
308 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 15:42:48
畿内に阿蘇山があるのか!?
無いだろう!
阿蘇山があるのは九州です!
だから邪馬台国は九州なのです!
俺様って天才!
309 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 17:00:58
>>308 >阿蘇山
>>九州?畿内?
これ漢語だぜ。
いきなり古代漢人に阿蘇山と書いても判る訳なかろうに、もう少し中国漢籍読んでくれよ
そこらそこらに「阿蘇」は登場するぞ
そう言えば、身近なところで「阿蘇羅」という呼吸の神様も居たっけ
310 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/06(金) 17:25:37
阿蘇山は九州にしかないのだぁぁぁ!
畿内にはないのだぁぁぁ!
邪馬台国は畿内にあらず!
311 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:03:36
>>294 ちがうよ。原田大六は、「古代史家」と呼ぶ方が正確だよ。
寺沢が260年を布留0開始としているのは、そのとおりだった。
柳田の土器編年は、鏡の編年と整合するのか疑問。彼は、平原を200〜250年としている。
鏡の埋納の変化をみていると、大雑把に分けて
A、中国鏡(邪馬台国時代に中国で流通していたもの)のみがある年代。
B、A + 画文帯神獣鏡
C、B + 三角縁神獣鏡
という感じで、A→B→Cと分けられる。
庄内を200年頃とすると、BとCの一部が200年頃に遡ることになるが、これはちょっとおかしい。
Aの時期が遡りすぎる。
特に、柳田の平原遺跡の年代観だと、平原から三角縁神獣鏡が出ているべきということになる。
平原で日本製の超大型の鏡が出ているけど、三角縁がないのは不自然。
312 :
太国:2006/10/06(金) 18:16:00
313 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:27:18
314 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:31:06
原田大六は古代史家でもいいが考古学者でもあるのは間違いないが。
柳田は平原は200年頃と言っているが。三角が入らないのは当然な訳で。平原の報告書を見ろ。
315 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:37:59
3世紀の中国鏡の内容分かってるのかよ。三国鏡を?
三角を除外しても、画文帯とか2世紀に出現して3世紀前半に盛行している訳だが。
また仮に三角が日本での生産としても、紀年や他の中国鏡との関係から3世紀中頃から後半の生産なのは間違いないが。いわゆる倣製三角はもっと新しいかもしれないが。
316 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:42:00
イタい安元信者は、学生社『シンポジウム三角縁神獣鏡』、福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』を読んでから来てくれ。
317 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:50:54
安本信者も、今まで自分がいかに騙されていたのか、漸く分かったことだろう。
見ていて哀れだったが。結果的には本人にとって良かったのかもしれない。
318 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:58:49
安本信者が撃沈したところで、話を元に戻していいでしょうか?
>>268について考察したいんだけど。
319 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 19:42:34
このスレでは、一人で連続してレスするのが流行りか?
約1名が連続レスを繰り返しているのが前から気になっていたんだけど・・・
てゆうか、せめてもう少し文体変えくれw ネタにしか見えんwww
320 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 19:44:46
321 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:00:02
>>315 画文帯は、中国でも出土しているけど出土量の大半が日本。
たぶん、中国製とのちに踏み返したりした日本製とがあると思う。
ただ、画文帯は、邪馬台国時代の終わりごろか終わった後に日本に来た感じがする。
画文帯なし(もちろん三角縁もない)の遺跡のグループがある。
紀年だけでは決め手にならない。鉛の同位体比とか材料の違いが確認されないと
紀年での区別論には納得できない。
>>321 >日本に来た感じがする。
「感じ」って何? 妄想?
323 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:18:41
踏み返しの根拠は?
来た感じって?w
踏み返しがあっても中国鏡だよ。紐孔の位置で分かる。確実な中国鏡と確実な日本製鏡は紐孔が違う。
324 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:19:40
中国でも画文帯は大量に出てますが何か?
325 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:23:50
紀年だけでなく鏡にも型式学法による編年があり紀年で検証している訳だが。
安本信者もいい加減、安本説がオカルトであることに気づけよ。
327 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:43:07
相手の些細な落ち度を粘着して叩く。
自分が一段上の人間になったつもりで集団で叩いてるのみるとマジで引くわ。
おまえらこそ何様?って感じ。
328 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:48:02
>>327 >些細な落ち度
何言ってるんだ? 落ち度を叩くっていう問題じゃないだろ。
道徳論に摩り替えるな。
不勉強な奴が我が物顔でスレに参入してくると、正常な議論の妨げ
になるんだよ。
ここは学問板だしな。
また、安本説とかきちんと否定しておかないと、また騙される人間が出る。
330 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 21:07:17
>>322 歴史の議論は所詮は、仮説の可能性を高くするもの。感覚主体が当然。
むしろ、安易に断言する方がおかしいのでは?
>>324 で、日本と比べてどっちが出土量が多いの?
>>325 それでは絶対年代は分からない。ここで紀年を用いるのはトートロジー。
>>326 安本説をついでに紹介してくれ。
レスを一つにまとめてくれ。もしかして書きながらムカムカして書き足しているのか?なら、すまんw
ただ、知らないソース(文献)がレスに出てたら、たいてい読んでるから、そっちの方向から書いて
みたらどうか。俺は結論はどうでも良くて、自分が納得できればそれでいいという考えだから。
332 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:07:55
紀年以外に年代の分かる墳墓(漢墓)での出土状況や、他の遺物、例えばやはり紀年のある漆器との供伴とか、常に検証されているが。これが考古学的な型式学の方法。
333 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:08:51
感覚主体って、実証を否定してどうするw
334 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:14:02
まあ画文帯は湖北省顎城=呉の都だけでもかなり出ていますが。
中国の鏡の拓本集や図録にも良く乗っているよ。
中国の画文帯神獣鏡については上野祥史氏が集成して系統や型式を細かく検討した論文が京大の『史林』にある。
>>330 >俺は結論はどうでも良くて、自分が納得できればそれでいいという考えだから。
そう思うなら、まずもう少し専門書を読むところから始めたら?
336 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:20:03
>>330 結論はどうでもよくてといいながら、
また安元説を紹介してくれと知らばっくれておきながら、
言ってることは安元説への固執なのは明白なんだがw
書いているのは一人じゃないよ。
確かにムカついて連続レスしたのもありますがねw
夜郎自大になるのは若者の特権。
そう叩いてやるなよ。
ここに紹介があったいくつかの専門書を探して読むことだな、確かに。
ネットの情報だけで済むと思わないようにしてほしい。
>>327 ああ、引くなら引いたままにしといて。無理に来なくていいから。
340 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:26:46
>>329 確かに「我が物顔」ってのが問題だな。もう少し謙虚さがあれば。
彼も安本の被害者の一人に過ぎないんだよな…
>>338 「邪馬台国」でgoogle検索して、2番目に安本のHPが出るのも問題。
何も知らない人間は騙されてしまうよ。
342 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 22:40:27
268 :日本@名無史さん :2006/10/05(木) 19:22:13
庄内土器の出現とは一体何だったのだろうか?
列島規模の広範囲で見つかりながら、畿内大和川水系でも偏在するという矛盾。
布留式との関係は?
初期ヤマト政権の性格を考える上で、キーポイントとなるのではないか?
>>330 >安本説をついでに紹介してくれ。
君の言ってることの殆どが安本説。
分かりましたか?
344 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:10:55
邪馬台国東遷とか言うからディベートに負けるんだよw
チンチンからウンコがドップン
346 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:23:00
安本信者が撃沈したところで、議論を元に戻してよろしいか。
347 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:25:26
中国鏡が年代を決定する根拠になりうるかな?
年代決定の比較的精度の高いものとしては、貸泉しか思いつかないが。
大和政権が九州から来たという考えは昔からある。
たくさんある根拠の一つに、大和政権が弥生時代の九州から続く、
鏡文化を持っていること。
逆に、青銅器として畿内中心に発達した銅鐸は記紀にまったく登場しない。
また、突如にして歴史の舞台から消えている。
ついでにそれほど詳しいわけではないが、安本説について
ちょっと説明すると、これは邪馬台国東遷説。
福岡県の甘木地方の地名と大和の纏向の地名が類似していることから、
甘木地方が邪馬台国であり、その邪馬台国が東遷して大和政権になったという。
また、記紀に書かれていて、異常に長い年齢になっている初期の天皇の
在位期間を、後の記録の確かな天皇の在位期間から推定することにより、
天照大神は卑弥呼の存在した時期に一致するというもの。
そのほかにもあるが、それほど詳しくないのであまり突っ込まないように。
いずれにせよ、邪馬台国東遷説は、非常に有力な説だと思う。
記紀にも神武東征が書かれているわけだし。言っておくが、神武東征を
書いたのは九州の人間ではない。大和朝廷なのである。
なお、僕の書いていないものも僕が書いたように思われているふしがある。
固定のIDを使っていないから仕方がないが。
348 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:30:52
>>347 こいつ、正真正銘のキ○ガイか、壮大な釣師のどっちだ?w
349 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:35:34
>>347 ああ、思い出した。
君、前スレか前々スレにいた貨泉を知らなかった人だね。
350 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:42:07
役立たずのバカ共が、くだらない議論をする便所スレはここですか?
351 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:46:49
>>349 たぶんそれは違うだろう。
もう一度書くが、邪馬台国が畿内にあったとしたら、古事記も日本書紀も
神武東征など書く必要はないだろう。天から奈良盆地に直接降りてきて、
日本全国に覇権を広げる歴史書を作ればいい。
なのに、大和朝廷は、自分たちの先祖の神武天皇は日向からやってきて、
大和にいた長髄彦を滅ぼし、橿原の地で即位したと書いている。
これは事実だからそう書いたと考えるほうが妥当だろう。
畿内説を唱える人の気持ちもわからないではないが、客観的に事実を
見つめようとする気持ちがないとだめじゃないかな。
>>347 余りにアホな文章なので、縦読みかと思ったが。
違うのか?
>>351 君のお陰でスレが盛り上がってるのは認めるけどね。
ただ、このスレの住人は、こんな盛り上がり方は望んでないんだよ。
釣りのつもりなら、いい加減に止めてくれないか。
354 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:50:58
誰にも相手にされない馬鹿が、知ったかぶりをして悦に入るスレはここですか?
355 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:56:57
地名の一致は偶然性と恣意的な抽出を排除できていないし、実際は新しい地名も含む。
また斉明天皇の朝倉宮で逆に移動したこともあり得る。
いずれにしても邪馬台国の移動という解釈しかできないとは言えない。
九州の鏡文化が古墳に引き継がれているというのは賛成してもいいが、甘木のような周縁ではなく伊都国が問題だろ。
伊都国東遷説ならもう少しまともだったが。
しかしそれも古墳が九州だけの要素ではないから単一勢力東遷説は無理がある。
畿内大和の単純自生説も今では怪しいが、といって九州の単一勢力東遷説も無理。
356 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:57:47
>>351 神武東遷が事実だった可能性は認めるよ。
ただし、邪馬台国時代より100年以上昔のことだろうがね。
おまえは、邪馬台国時代より後に神武東遷があったと言いたいのだろうが、
庄内式土器の存在がそれを否定しているんだよ。
神武東遷に歴史にロマンをもとめるなら、邪馬台国時代より昔のことと考えろ。
邪馬台国が九州にあったと信じたいなら、神武東遷は作り話だと考えろ。
両立は無理だ。
357 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 23:59:08
原田大六説ならいいの?
>>347 藻前の言う年代の根拠は何だよ。
何もないだろw
359 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:02:28
ここは畿内説の人のための掲示板だから、そろそろ退散しましょう。
書き込んだのは3日か4日くらいだったかな。
ではさようなら。
360 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:04:06
お前プラムだろ!
361 :
359:2006/10/07(土) 00:04:26
安本説なんて、本気で信じてる筈ないじゃん。
お前ら釣られ過ぎw
362 :
330:2006/10/07(土) 00:05:17
>>347 は俺じゃないよ。文体が違うから分かる人には分かると思うけど。
分からない人には、『ジェークスピアは誰ですか』(村上征勝)を推奨。
>>347 弥生時代に北部九州に権力の中心があってそれが畿内に移ったという
流れは認める人は多いと思う(寺沢、柳田、村上恭通とか)。問題はその時期。
畿内説は、邪馬台国時代の前として、安本は後とする。
あと、征服(東征)なのか、単なる移転か、逆に畿内が征服したのかという点。
俺は、畿内説が庄内の年代を遡上させた根拠に「なるほど」と思えないし、不利な
議論(鏡の同位体比とか)を避けている点も気になる。
ただ、安本説にも腑に落ちない部分がある。画文帯が280年以降という材料の
産出地の指摘もこれだけでは弱いと思う。
あと、安本説を叩き台に出しただけで過剰反応する人は、何かのシマウマなの?
まあ、煽りながら議論するのも楽しいけど、ソースが出てこないとつまらない。
363 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:06:02
漸くいい流れになってきたので、このまま話を進めましょう。
マキムク王権の成立のプロセスについて。
365 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:12:41
>>356 最後に一言。
以前は土器の編年に年代はついていなかった。
たとえば、畿内第V様式と言うのは何年くらいなんだろうと思った記憶がある。
当時の学者も、だいたい○世紀くらいですかね、みたいな言い方しかしなかった。
ところが、最近は10年単位で実年代を付している。
これを考古学の進歩と言えるのか、考古学者の良心と言えるのか。
庄内式の開始は50年違えば、全く異なる様相になる。
それを言い切ることが考古学者の良心とは思えない。
366 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:22:55
>>365 まず、九州説を唱える考古学者を探してみれば?
居ればだが。
>>365 実年代を10年単位で確定、なんて言ってる考古学者って、本当にいるの?
なんか君は、いつも自分の頭の中で組み立てたバーチャルな「敵」と
戦っていた気がする。
だから最後まで議論が噛み合わなかったのだろう。
とりあえずお疲れ。
二度と戻ってこなくていいから。
俺も暫く離脱するわ。
マキムク王権誕生の話になれば、また戻ってきます。
369 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:32:47
鉛同位体は畿内説に有利でも不利でもない。
土器様式の実年代は10年単位というのは大袈裟で、実際は20、30年の誤差はみんな分かってながら各自の立場で蓋然性を競っている。
しかし50年はずれない。例えば箸墓が250年とする説と270、280年説がある程度。
370 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:37:56
>>363 マキムクから始まる畿内説というのは、やっぱり納得できない。
ヤマトは、鉄器の普及では畿内の中でも「特に」遅れて普及した地域。
このことは村上恭通も『邪馬台国時代のツクシとヤマト』(この本、昨日
買ったけど、思ったより良かった。)で述べている。
ほかの地域(河内とか)を経由して、マキムクという「空白地」へ移動した
という議論ならまだいいと思うけど。
371 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:42:57
物分りの悪い奴だな、この低能野郎!!
372 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 00:47:41
ここは畿内説を「議論」するスレじゃないの?
「畿内説マンセー」しかダメとか言ってたら議論にならないよ。
373 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 01:03:05
いやだからといって邪馬台国東遷説しかないというのはちょっと。
村上や寺沢は単なる東遷説ではないし、柳田は邪馬台国東遷ではなく伊都国東遷説。
他の論者もマキムクや初期ヤマト政権の成立については、昔ながらの単純な畿内自生説はむしろ少なくなって、外部「諸」勢力の何らかの関与や大連合を認める人が多くなっているが。
だから筋違いの批判。
374 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 01:27:00
>>370 だからさあ、マキムク王権成立の<プロセス>を議論するならいいのではないの?
375 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 02:26:38
奈良へ行くと考古学者の派閥意識の強さに驚かされる
マキムクの学者は唐古のこと無価値みたいに言うし逆もしかりで
唐古を無価値みたいにいう論旨ってたとえばどういうのん?
377 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 07:19:53
いやいや現場の教委の発掘担当者は10年単位で特定してるよw
要するに学問ではなくて、官僚的な報告書作成の問題www
でもってそれを根拠に学者が更に妄想という、誤謬のスパイラルになってしまっている。
更に、それを根拠にした箱物行政で儲けようとする土建官僚。
天皇陵が発掘できない、自国の歴史すら封印された「先進国(笑)」
それをいいことにたかが土器や古墳ごときで横行する「科学的年代比定」
これは一体どこの北朝鮮ですか?
378 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 08:02:50
普通に考えて、吉備・播磨の東遷としか。
379 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 09:27:18
>>377 で、藻前は何をしたんだい?
実際はろくに勉強もせず、物も知らず、研究の進展についていけないだけだろう?
じゃなかったら具体的に批判したら?
380 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 09:36:02
安本厨のアホさは、神武東遷と邪馬台国九州説が考古学的に両立する
と思っているところだな。
それはともかくなんでここの安本厨は、原田を否定するんだろうね。
安本と同様「神武東遷」を主張してたことを知らないかね。
たかが土器、といっている時点で何も分かってない素人まる出し。
型式学とか交差年代法とか分かってるのかよと。
土器様式の型式学的細分単位として結果的に10年単位に細分している人もいるが、そういう人は実年代比定は慎重だったりする。
また天皇陵掘っても大勢は変わらないよ。なぜなら、天皇陵で盗掘されて中味が分かっているのが少なくないこと、また天皇陵治定から漏れた大王墓級古墳の調査がいくつもある。また天皇陵も埴輪や土器は判明してるのが多い。
天皇陵を掘ってないから云々とか研究の現状を分かってないな。まあ掘ってみたいけど。
>>380 原田は一応、考古学者としてはまともで、また九州説には厳しく批判的だったからな。
原田の説を紹介すると、伊都国など玄界灘諸国に比べ田舎の甘木が邪馬台国だとかいうウソがバレるから。
そういえば安本自身が原田や柳田を引用しない。
まあ柳田の編年表から畿内との平行関係を切り取って引用したりするが。
384 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 09:52:14
安本信者は自信の年代観の根拠を示せないで筋違いな批判をしてるだけだな。
ツマンネw
385 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 10:07:02
九州と畿内が同時に栄えていて仲間だったが、仲間割れをおこして大和の勢力が交代したので
九州は捨てられたという、証明を取ってきたい
386 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 10:30:29
何じゃそりゃw
意味不明
387 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 12:24:58
余が本物じゃ!
邪馬台国が畿内では無い証拠!
★記紀に卑弥呼の事が書かれていない!
★畿内に阿蘇山は無い!
太国はスルーで
389 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 13:04:51
390 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 13:12:55
余が本物じゃい!
391 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 13:35:42
記紀に卑弥呼の事が書かれていないのはどう考えてもおかしい!
だから邪馬台国は畿内では無い!
それに畿内には阿蘇山もない!
園児でも解る事!
邪馬台国は沖縄です!
俺様って大天才!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!だねっ
392 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 13:45:15
沖縄に阿蘇山があるんだねw
393 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 13:51:09
間違えました北海道でした!
俺様って天才だねっ!
394 :
太国:2006/10/07(土) 14:28:27
本物のIDはどれよ?
ていうかスレ荒らしの自作自演じゃないの?
396 :
太国:2006/10/07(土) 14:38:55
余は北海道なんで主張していないぞ。そいつは大ニセ王!
397 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 14:42:30
余が本物じゃ!
やっぱり佐渡島でいいや!
398 :
太国 ↑:2006/10/07(土) 15:56:21
ニセ大王!
399 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 16:04:33
記紀には卑弥呼の事が書かれていないから邪馬台国は畿内では無い!
畿内に阿蘇山は無いから畿内が邪馬台国である筈が無い!
すっげーアホな理屈だね!
400 :
太国 ↑:2006/10/07(土) 16:05:26
ニセニセ王
401 :
太国 ◆jvBtlIEUc6 :2006/10/07(土) 16:15:27
余が正真正銘!大天才の太国です!間違いない!
402 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 16:48:21
太国は確信してるようだし、議論の場に出てくる必要がないのでは?
正直、太国と議論したいと思ってる人間は誰もいない訳だし。
403 :
太国:2006/10/07(土) 17:06:57
なるべく迷惑にならねようにしたい。しかし、ニセ者こそこっちの迷惑だ。
404 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 17:35:11
>>381 >また天皇陵掘っても大勢は変わらないよ
馬鹿なの?親でください
ほう、天皇陵を掘ってどうなるのかな?今までの説が全てひっくり返るとでも?
まあ古墳研究のことは知らないんでしょうが。
なぜ大勢が変わらないかという理由も書いてあるが理解できないみたいですね。
406 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 19:38:47
箸墓掘れば、山程三角縁出てくるだろうから。
それは想定の範囲内だが。
箸墓に近い特殊器台を持つ播磨の権現山51号に古い型式の三角縁が5枚あるし、多分箸墓よりは少し新しいが大和中枢には黒塚に三角縁が大量にある。
また準大王墓級の桜井茶臼山も、盗掘されていたが、残片から言えば三角縁が10枚ぐらいはあっただろうし。
もっとも箸墓は三角縁以前という説も最近はあるが、これは賛同者がさすがに少ない。
いずれにしても、築造時の土器や特殊器台は判明しているから相対編年上の位置は動かない。
408 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:05:15
>>374 庄内開始200年を前提とする畿内説は、庄内土器の時期に畿内の鉄器が北部九州に
追いついたとして、このころに東遷したとするけど、この考えにも問題が残っている。
北部九州の王権が畿内にすぐに移ったのではなくて、ある程度の期間をかけて、畿内に
拠点を作って、十分な準備をしてから東遷したと考えれば、東遷の時期が遅くなる。
確かに、このように考えていくと、現時点では畿内説か九州説かが問題ではなく、
マキムク王権の成立プロセスの検討が重要という考えになるね。
409 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:13:45
まあそれは大和岩雄説
邪馬台国九州説の最後の可能性だな。
ただし、伊都国や奴国以外の九州に、この両国に匹敵して、かつ従えさせるような力がありそうな地域や遺跡がどう探しても無いんだが。
410 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:23:34
畿内説がみんな九州東遷を主張してる訳じゃないし。
九州説は、九州でもっとも栄えている場所が博多とか春日とか前原っていう
玄海灘に面したところだってことで異論がなくなって消滅したんだよ。
魏志倭人伝に即して考えるかぎり、邪馬台国が博多湾岸ってことはありえないからな。
412 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:50:40
九州全土がかつて熊襲か隼人の土地だろう
筑紫国の熊県なんてのも日本書紀にあるくらいだし
日向国にはない。
413 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:56:32
107年に倭国王帥升が後漢の安帝へ生口160人を献じているが、おそらく総員300人以上の
朝貢団だったと思う。そう考えると、この時期に徴税制度などである程度しっかりした軍を組織
していた権力が北部九州にあったということになる。
200年頃とされる平原王墓なども王権の存在を裏付けている。
200年頃に北部九州に王権があったとすると、畿内に拠点のようなものを持っても、その地盤を
捨ててすぐに移転したとは思えない。北部九州が没落した可能性もあるが、吉備とか出雲とかの
近場を征服ないし提携してから畿内に移った可能性もある。
200年以降の王権については、その所在地と、マチの大きさは必ずしも関連しない(例:鎌倉幕府)
という考えもできるので、200年で九州王権が終わりともいえないと思う。
ただ、平原遺跡については柳田以外はほとんど述べていないのは、気になる。
414 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:56:45
玄界灘沿岸は特殊で、副葬品には見るべきものがあるが、大規模な集落などは
見つかっていない。しかも、栄えたと思われる時期は古い。
吉野ヶ里で有明海沿岸が注目されたが、玄界灘沿岸よりも
こちらのほうが規模が大きいのは事実。
弥生後期の鉄器の出土では熊本が群を抜いている。
量も質も並ぶべきものがないといわれる。
吉野ヶ里に匹敵するような大規模な環濠集落もいくつかある。
古墳という観点から言えば、宮崎が九州では圧倒的。
重要な古墳群がたくさんある。
このようにみてみると、九州の時代の移り変わりが見えるような気がする。
415 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:01:19
九州沖縄は縄文時代弥生時代通じて
一つの国、ヤンバル文化圏
416 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:02:11
けっこうまともな論者が多いね。
電波九州説の連中が消えるのをじっと待って耐えていたんだろうな。
(まだ若干おかしなのも残っているが)
>>400 そのとおりだね、ただ「東遷」という表現を使うとまた変なのが跋扈しだすよ。
北部九州諸国が纏向創生に無関係だったのかどうかとの、いわゆる「影響の有無」を論じるのなら良いと思うけど。
少し前の畿内説は「無関係または敵対」ってのが有力とされていたが
最近では無関係ではあるまいと見る向きが多いし
北條氏が唱えた東海労働力説にしても濃尾平野の混乱による難民説と組織的関与説が伯仲しているしね。
ましてや阿讃、吉備、出雲、播磨、丹後、北陸、出雲から南九州や四国西部(特に土佐)の関与時期についてなど
議題はまだまだあるはずだしね。
それと創成期の纏向を「王権」と呼ぶべきか否か、箸墓(布留0)以降と見るべきかなどもある。
そのうち時間が取れたらおいらも参加させていただきますよ。
>>414 春日から博多近くまで道路が整備されてたこととか知らないの?
吉野ヶ里程度は田舎集落ってことが明らかになったことも九州説が捨てられた理由の一つだよ。
418 :
太国:2006/10/07(土) 22:05:31
>>416 携帯電話の強力なデムパを飛ばし、記紀に書かれないようひそかに
倭人伝の中国側に連絡をとればいい。
419 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:06:55
>>413 倭人伝には、卑弥呼の70年から80年くらい前に男子の王がいたとある。
この男子の王が帥升と考えられる。倭国の大乱は卑弥呼が女王になること
により終息する。つまり、倭国の大乱は跡継ぎ争いと考えられる。
同じような状況は卑弥呼が死んだあとにも起きる。跡継ぎをめぐり、
混乱し、1000人余りを殺しあったとある。
倭国の大乱は畿内説の人が言うような種類の戦争ではなかった。
すなわち、邪馬台国は帥升のときに倭国を支配する国として登場した。
倭国というのは、歴史的には九州の一部を指していたと思われる。
420 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:11:33
>>419 >倭国の大乱は畿内説の人が言うような種類の戦争ではなかった。
これがさっぱり?なのだが
基本的に畿内説(つーか現在の考古学をはじめとする古代史)は
冷戦的対立や小競り合いはあったかもしれないが、東西分かれての大戦争などなかったと見ているのだがね。
しかも最近明らかになってきた2世紀後半からの急激な東海のクニグニの再編成などは、まるで無視ですか。
>>413-414 玄界灘沿岸の大規模遺跡=三雲遺跡、比恵・那珂遺跡、須玖岡本遺跡。
いずれも吉野ケ里の数倍の規模。
三雲遺跡には楽浪系土器が大量に出土。須玖岡本には青銅器工房群がひしめいている。最古の鉄器工房もある(赤井手遺跡)。比恵・那珂には道路が整備されている。
また平原遺跡は柳田以外にも寺沢ほか言及されていますが。松木や福永も一応言及している。
意図的に言及しないのは近藤義郎御大ぐらい。
>>419 107年は倭国は九州あたりでいいが、2世紀から3世紀にかけて倭国が広がったと考えれば別にいいだろ。
423 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:21:52
>>420 >最近明らかになってきた…。
畿内説は変わりすぎるのが問題。
なぜ変わるかというと、仮説が頓挫するから。
都合が悪くなって変わらざるを得なくなる。
唐子・鍵遺跡が見つかったときは、畿内説は大喜びした。
この大環濠集落の人が纏向遺跡で大和政権を築いたのだと。
しかし、唐子・鍵は掘っても掘っても石器しか出てこない。
これでは変えざるを得ない。
要するに、畿内説という仮説そのものが間違っているわけで、
こんな仮説を持っている限り、畿内説はどんな説を作っても都合が悪くなり
いくらでも変わっていく。永遠に変わり続ける。
>>417 >>吉野ヶ里程度は田舎集落ってことが明らかになった
伊都国奴国に比べればであって、纒向以前の唐古よりは中国都城の影響がある分(七田忠昭氏)、都会的なんだが。
>>春日から博多近くまで道路が整備されてたこととか知らないの?
大元の久住論文にはそこまで書かれていない。比恵・那珂とか拠点集落内に道路が整備され都市的だと指摘しているだけ。
集落の間の道路については今後の可能性という論旨。
誰がそこまでオーバーに言っているの?
426 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:31:22
>>421 平原遺跡については、当初は王墓と認めない見解もあったし、王墓と認知され
るようになった後も、あまり議論されていない感じがする。
柳田は、それまで後漢鏡とされていた鏡の一部が日本製であることが「証明された」と
理由を述べて言い切っているけど、これに対する意見、反論を知らない。ここも気になる。
柳田自身が「瀬戸以東の研究者は、北部九州の墳丘墓を無視する傾向にある。さらに、
弥生終末の平原王墓について議論されることは、希である。」と書いてる。
『邪馬台国時代のツクシとヤマト』(71頁)
まあ言及はしても評価が小さいということはあるな。
というのも古墳直前にああいうのが九州にあると畿内自生論者の系譜の人は困るから。
だから論者によっては岡村氏とか、鏡の古い特徴だけを見て、後期前半とか古くして、古墳祭祀のルーツに無関係としようとしている。
でも福永氏とか松木氏は、渋々かもしれんが一応弥生終末と認めている点は資料に対して誠実だと思う。
428 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:38:01
>>423 >永遠に変わり続ける
それが古代史学、いや歴史学の必然の姿なのだが…
君は歴史学に向いていないのではないか?
柳田氏は、平原遺跡の大型内行花文鏡だけでなく方格規矩鏡群まで日本製としているが、さすがにこれには反論もあると思うが。
430 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:39:07
一応、まともな議論になってきたな。
431 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:44:12
>>429 平原出土鏡のややこしいところは、これが「個人所有」ってところなんだよね。
これに関しては一概に大六氏だけを責める訳にはいかないし
まあ、研究したくとも手を出しにくいってのはあるね。
ところで平原の大型内行花文鏡を「拡大コピー」と見る考えは
みんなの中ではデフォなの?(電波九州説は置いといて)
これはもう前提として考えるべきだと思うが、どうだろうか?
432 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:45:07
>>429 平原遺跡で見つかった数十枚の方格規矩四神鏡は中国製といわれてきた。
個人的にもずっとそう思ってきたのだが、何かで中国の学者が
『こういうものも日本では中国製と言うのですか』と言っているのを
読んだことがある。
どうも、中国製ではないらしい。
433 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:46:13
柳田が後漢鏡の一部や超大型鏡を日本製としていることは、畿内説にとっても有利な
面がある。それまでの畿内説は、三角縁が全部日本製だとすると、その技術は4C以降で
ある、という錯覚(信仰?)があったような感じで、三角縁日本製説を否定していた。
けど、柳田の前提に立てば、全部日本製でも紀年が正しいということもありうる。
だから、これに対して、畿内説側が消極的なのは少し不思議。
434 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:47:08
>北部九州の王権が畿内にすぐに移ったのではなくて、ある程度の期間をかけて、畿内に
>拠点を作って、十分な準備をしてから東遷したと考えれば、東遷の時期が遅くなる。
平原とマキムクの年代は非常に隣接している。よって却下。
見苦しい九州説の悪あがきは止めろ。
>414
>界灘沿岸は特殊で、副葬品には見るべきものがあるが、大規模な集落などは >
>見つかっていない。しかも、栄えたと思われる時期は古い。
>吉野ヶ里で有明海沿岸が注目されたが、玄界灘沿岸よりも
>こちらのほうが規模が大きいのは事実。
安本厨ってのはどうして見え透いたウソを言うのかね。
>407
>基本的に畿内説(つーか現在の考古学をはじめとする古代史)は
>冷戦的対立や小競り合いはあったかもしれないが、東西分かれての大戦争などなかったと見ているのだがね。
>しかも最近明らかになってきた2世紀後半からの急激な東海のクニグニの再編成などは、まるで無視ですか。
これも何の根拠もない大嘘。この時代の高地性集落の配置は、戦国期の山城に次ぐ。
九州、山陰、吉備の王権の表象や祭器が倭王権下でもある程度残存したのに対して畿内
では村落単位の祭器にすぎない銅鐸が廃絶されていることから、政治的に劣位な形で
倭王権に組み込まれたことが明らか。
>>431 今は個人所有では無いが。国宝までになったから別な意味で面倒くさいかもしれんが。
>>431 中国にもいろんな意見の学者がいる。
銘文とか見れば中国製と考えるのが筋。
平原の方格規矩鏡が日本製だと、その後の鏡が不明なのが解せない。
また中国にも文様の崩れた方格規矩鏡はある。
436 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:50:09
退散すると言ってた九州説の人は、結局居残ったんだな。別にいいけど。
ただ、畿内説に対する怨念というかルサンチマンは止めてくれないか。
読んでいて不愉快。
畿内説といっても色々ある訳で。個々具体に批判してくれれば。
最近買った『ツクシとヤマト』だけで話をするのはやめれw
438 :
太国:2006/10/07(土) 22:53:02
九州説をデムパなどと言うと、「デムパ畿内説」を赤裸々に吐露。
太国は議論ができないのでこのスレには出入りしないでもらいたい。
440 :
太国:2006/10/07(土) 22:55:54
出来るよ。
441 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:56:41
>>437 柳田は『伊都国を掘る』とかの単独で書いた本の方が詳しいけど、
新しい本の方が入手し易いと思ったのと宣伝を兼ねてますww
あと、みんなが前提として読んでおけば、その分荒れにくくなると思う。
442 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:58:38
>>434 おーい、俺407なんだけど、あんたと俺の見解は同じだよ。
そうは読めなかったかな?
あんたの畿内集落の過小評価は若干気になるが
俺も自生説論者でもないし、そう手当たりしだい噛みつかんでくれw
>>436 多分「アポロは月へは行っていない」論者だとか「買ってはいけない」信者なんかが
異常なまでに攻撃的なのと同じなんだと思うよ。
つまり正常な思考が出来ないから誰にも相手にしてもらえず
追い詰められて攻撃的に成らざるを得ないんじゃないかな。
一種の心の病だと思う。
443 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:59:14
>>436 ちょっと言い残したことがあったものでね。
ところで、鏡と言えば、すごいものがいくつかあるねえ。
日田市から出土したとされる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡。
串間市から出土したと言われる穀璧。
こんなすごいものをもらった人物は誰なんだろう?
さらには、熊本県の球磨地方から金メッキされた画文帯神獣鏡?も出ている。
444 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:00:06
445 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:00:45
>423
>畿内説は変わりすぎるのが問題。
>なぜ変わるかというと、仮説が頓挫するから。
>都合が悪くなって変わらざるを得なくなる。
今時九州説の考古学者なんてのはほぼ存在しないことを知らんのか。
それに確かに近畿の学者の言うことは大きく変動しているが、九州の学者は
80年代くらいからはほぼ一貫している。
446 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:04:23
>>441 基本的にほとんどの参加者は古代史マニアか研究機関所属だとおもうので
そのあたりは普通に読んでいそうなものなのだが
何冊かのデムパ本を読んだっきりで無謀にも話に加わろうとする輩がいるから荒れるんだろうね。
マニアならマニアらしく資料にお金をかけなさいよと、切に思う。
>>440 太国さん、まったく話について来れないじゃないw
447 :
太国:2006/10/07(土) 23:06:56
>>442 >アポロは月へは行ってはいない
ふ〜ん? どうやって記紀にも書かれない女王国の情報が中国へ行ったのか?
と想うわけだ。月よりは近いがねぇ〜。
448 :
太国:2006/10/07(土) 23:09:06
今夜は「アルカード」の友人「大神男」の夜か? 満月だよな〜?
449 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:09:47
>>445 京都府立大学元学長の門脇禎ニって人は九州説らしい。
考古学者かどうかは知らないが、この人がこんなことを言っていた。
邪馬台国九州説を唱えて以来、地元では何かにつけてチクリチクリと
やられると。
九州説の考古学者といえば、森浩一氏とか奥野正男氏とかいるんじゃないかな?
基本的におれらは現在ある事実に基づいてもっとも蓋然性の高い解をを求めているんで、
その基本となる事実が変われば、考えが変わるのは当り前なんだよな。
ありもしない絶対を求めて不可知論の闇に迷いこんでもしょうがないし。
451 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:16:04
すみません
暫く前からちと遊んでます。 邪馬台国って議論してますか?
ここの奴って1人?
452 :
407:2006/10/07(土) 23:22:32
453 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:25:14
>>449 門脇サンは考古学者じゃないし、純然たる九州説でもないよ。
モリコー先生も九州説とは言い切れない。
奥野サンに至っては民間の好事家レベルの門外漢ですよ。
そのチクリチクリは一種のギャグだと思う。
邪馬台国を引き合いに出さないと調査発掘すらままならぬ自治体も確かにあるからね。
>>443 球磨の鍍金鏡や日田の金錯鉄鏡は後期古墳出土と推定されているのだが。
それにしても凄いものだけど。
ただ時代的に金銅冠とかとそんなに価値は変わらんのではとも思う。
むしろ一貴山銚子塚古墳の鍍金方格規矩鏡の方が大型鏡だし、鏡重視の時代でもあるし重要。
串間市の穀璧はちょっと他の考古学的資料状況と懸け離れすぎ。
弥生時代?に付近に大きな勢力がいた証拠は無いし。
石棺らしきところから鉄器とかと一緒にでたと箱書(記録)されたていたと思うが、その割に鉄錆が付着していない。
本当に出土したものなのかも含めて議論の対象にしにくい代物だ。
455 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:29:04
>>407氏
ごめんごめん、引用している香具師のアンカーが間違ってるんだね
(そろそろ2chのアンカー引用ぐらい覚えて欲しいものだ)
と、いう訳で、おいらは420でした、申し訳ない。
>>453 奥野正男はプロの考古学者じゃないが、三角縁神獣鏡の編年の基礎を作った功績は認められるべきなんだが。
これは京大系の学者も論文で学史に引いている(岸本直文氏等)。
少なくとも安本よりは百倍マシと思うが。
457 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:35:07
門脇貞二は文献史学者だが。ただ一応やっぱり純然たる九州説だろ。
「地域国家論」の立場で九州説を考えている。大和国家は別に存在したという説。
考古学者はほとんど畿内説だけど、文献史学者は今でも九州説が意外に多い(以前より少なくなったようだが)。
平野邦雄とかその総帥という感じか。
458 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:38:18
>>442 では、大和朝廷の作った古事記や日本書紀で神武東征が出てくるのは
どうして?大和朝廷成立の最も重要な部分だと思うが。
こんなことを書かなければならなかった必要性はなんだろう?
さらに、記紀の天照大神伝説と、中国の書物に現れる卑弥呼の様子が
酷似していると考えるのも十分ありうる。
この二つから邪馬台国あるいはその一族の東遷が導かれるのも
自然の成り行きになる。
これは正常な思考だと思う。はなから受け付けない方の思考の方が異常だろう。
むしろ伊都国の東遷でもいいんじゃないの。原田大六みたいに。
邪馬台国の東遷じゃなきゃいけない理由はない。
原田説が正しいかどうかは別として。
460 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:44:55
アマテラスに卑弥呼をはじめ古代の祭祀女王が象徴的に神話化しているという話は分かるが、神話は神話である以上、史実そのものとして解釈する方に問題が有る。
邪馬台国のことでなければいけないというのはちょっとついていけない。
安本信者は古田信者と潰しあいしてるだけでいいよ。
462 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:52:21
>>458 一応文献史学の立場からレスしておこうか。
>神武東征が出てくる
応神期(ホムダワケもしくはそれに該当する勢力)が存在したとしてだが
神武伝承はその時期以降に成立した可能性が高い。
また天武期にストーリーの整理がなされた可能性も大いにある。
卑弥呼とアマテラス、更には神功も同様。
最大の問題は(これは主に遺跡や発掘資料からだが)
「その一族の東遷」…これが邪馬台国であれその他(例えば狗奴国)であれ
大きな勢力が畿内に移住した形跡がまったくない。
あちこちの勢力が大同小異の結果、纏向を開発したことを示す遺物はわんさか出ているが
これらから、3世紀に北部九州の任意の勢力が移住や征服を敢行したとは到底考えられない。
463 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:55:15
いまどき征服やら集団移殖やらを唱えている奴は、ちゃんと資料を読んでいるのだろうか?
もしかして出土品すら見たことないんじゃないか?
征服はともかく、纒向の成立と発展は各地からの集団移植という説はしうると思うけど。
唐古は唐古で継続してるし、纒向の地はもと、ほぼ無人の荒野、各地の祭祀要素が集まっている、各地の土器が出るなど、諸国に共立された王の基盤はまさに諸国だったのでは?
新造都市だと思うが。
465 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:03:41
>431
>平原出土鏡のややこしいところは、これが「個人所有」ってところなんだよね。
>これに関しては一概に大六氏だけを責める訳にはいかないし
>まあ、研究したくとも手を出しにくいってのはあるね。
また安本厨らしいウソだな。詳細に研究されている。「伊都国を掘る」くらい読め。
>柳田が後漢鏡の一部や超大型鏡を日本製としていることは、畿内説にとっても有利な
>面がある。それまでの畿内説は、三角縁が全部日本製だとすると、その技術は4C以降で
>ある、という錯覚(信仰?)があったような感じで、三角縁日本製説を否定していた。
超大型鏡は国産で固まっているんだが。
少しは勉強しろ。
筑備雲播讃阿丹河の連合王の都
東日本への進出と交易網整備の拠点
467 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:16:54
>>464 だから各地からの集団移植はありうるが
どこか任意の一地域のみからやってきたという形での移殖(東遷とか)は考えられないってことを言いたいんじゃない?
事実そのとおりだと思う。
468 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:18:07
>>462 それを考えるなら、応神天皇よりも継体天皇のほうかな。
記紀を作った時代の天武天皇は、越前出身と言われる継体天皇の
直系になるわけだし。
だからと言って、越前が天皇の出身地になったわけではない。
応神天皇のときに物語の筋が作られたと言うのも確かなことではない。
まあ、応神天皇の場合は九州出身もありうるけど。
東遷の遺物の根拠としては、銅鏡の出現で十分。
銅鐸の消滅もある。
纏向遺跡の出現も突然の出来事と言えるし。
大きな変化は確かにあるはず。
それから、弥生時代の九州では、甕棺あたりでも棺の中が朱で塗られていた。
奈良県の古墳から出てきた棺も同じかな。
近年になって急速の遡った庄内式の開始だけが畿内説の根拠と
言えなくもない。
気になるのは、日本書紀にある饒速日命。神武天皇に滅ぼされた長髄彦は
饒速日命に仕えていたとされる。
その饒速日命は、天磐船に乗って高天原から下ってきたらしい。
その時期は当然、神武天皇よりも早い時期になる。
>>近年になって急速の遡った庄内式の開始だけが畿内説の根拠と
>>言えなくもない。
言えねえよ!
他にもあるだろが。
>>東遷の遺物の根拠としては、銅鏡の出現で十分。
>>銅鐸の消滅もある。
単純すぎだな、藻前、、、、、w
470 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:24:46
>>468 銅鐸の消滅は、3世紀の変動つまり邪馬台国とは無関係だと何度言えばry
第一、三遠式はどう説明するつもりかな。
朱は王権の発生にはまったく証明にならんよ、絹と同じで。
471 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:25:51
>>468 上のほうで誰かが言ってるが、ちゃんと資料を読んでから書いたほうがいい
472 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:27:55
>>470 では銅鐸の消滅はどういう理由で起きた?
他の弥生青銅器祭器も消滅するがな
474 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:35:36
>>470 ムラの祭祀からクニの祭祀に移行する段階で姿を消したという仮説しか、今は言いようがないがね。
ただし
>>473が指摘しているように、もし何らかの征服勢力による強制終了ならば
先に銅矛、銅剣勢力がそれに滅ぼされ、続いて東海の三遠式が滅ぼされ、最後に畿内が滅ぼされたことになるが
君は騎馬民族説論者なのかいな。
>>474 銅鐸の近畿式の後半は近畿式と三遠式が統合されたものだよ。
476 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:45:47
銅鐸は、墓からはもちろん住居に近いところからも出土しないらしい。
そういうわけで、銅鐸は祭器であり、使わないときには土の中に埋めていた。
そして、そのまま忘れてしまったと、畿内説では言うらしい。
お得意の最近の説では違うかもしれないが。
自分の考えでは、鏡を崇拝する人たちがやってきて
銅鐸を差し出せと言った。溶かして鏡を作るためである。
宝物である銅鐸がそんなことになったらたまらない。
だから、人里はなれた土の中に埋めて隠した。
そういう風に考えている。
勝手な推測だが。
477 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:49:53
かなり勝手な推測だなw
古墳出土の国産鏡と銅鐸は鉛同位体が違う傾向だが。
銅矛の消滅とかどうするよ。むしろ銅鐸より消滅が遅いかもよ。
478 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:58:40
如国、伊都国の王族支配が、平原王の死去(200年頃)後に崩れて、倭国大乱となり、
九州諸国の共立という形で、王権の象徴(巫女女王)と王権所在地がツクシに移り、
宮崎、熊本とかも含めた九州広域の王権が誕生した。
その一方で、出雲、瀬戸内、吉備等を征服や外戚関係により徐々に取り込み、纏向に
それらの地域の人々を集めて、畿内、東海を取り込む政策を進め、銅鐸文化を弾圧し、
鏡信仰を普及させ、平原王墓にある掘立柱を神社信仰へと昇華させた。
卑弥呼が「親魏倭王」に封じられた後には、その権威を錦の御旗として、畿内をも取り込み、
その後には、既に送り込んだニギハヤヒの手引きにより畿内への王都を移動させた。
とすれば、畿内説と同じ考古学基盤で九州説が成り立つ、というのはアリ?
479 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:01:39
>462
>大きな勢力が畿内に移住した形跡がまったくない。
>あちこちの勢力が大同小異の結果、纏向を開発したことを示す遺物はわんさか出ているが
>これらから、3世紀に北部九州の任意の勢力が移住や征服を敢行したとは到底考えられない。
これも大嘘だな。倭王権の王権祭祀の中核は、北九州。平原の再報告書くらい読め。
それにマキムクが急に造成された人口都市であることは橿考研の連中が再三述べている。
それに誇張されている吉備の影響は、実際は布留期以降。吉備や山陰も当然倭王権には参加
しているだろうが。
480 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:25:54
>477
>銅矛の消滅とかどうするよ。むしろ銅鐸より消滅が遅いかもよ。
また、ウソをいう。
庄内くらいまであるし、銅鐸のように存在自体が忘れ去れらた
ものとは同一視するのは論外。
銅鐸と北九州の武器型祭器の消滅、埋納の相違点については、
柳田が詳細に論述しているので読むこと。
481 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:29:29
>476
>そして、そのまま忘れてしまったと、畿内説では言うらしい。
>お得意の最近の説では違うかもしれないが。
寺沢らが終末期の銅鐸の破砕について、強調しているのを知らんのかと。
二上山のシンポでも触れていたはずだが。
482 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:52:29
このスレの九州説、レベル低いなー
簡単に否定されるような発言ばかりじゃないかw
483 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 06:52:33
銅矛は須玖で庄内平行まで作っているし、対馬あたりでは古墳初めまでありそうだから、消滅が意外に遅いのは事実だよ。
これをどう解釈するかは別だが。
ただ銅鐸の下限も本当はよくわからないけど。近畿式銅鐸の後半の生産とマツリの中心はどうも近江だから、大和にマキムク王権ができてもしばらくは旧来の銅鐸のマツリのネットワークが併存したかもしれないし。
484 :
太国:2006/10/08(日) 07:46:42
>>482 記紀に女王国の記述がなければ、何を言おうと畿内説はUFOの機内で成立
する話だ。畿内にあるなんてまともに信じているのか?w
485 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 08:04:56
近畿式銅鐸より、三遠式銅鐸が先に消滅したって、どういうことかね?
486 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 08:19:09
事実として、古墳時代には鏡が主流になった。
鏡が日月を意味するなら、銅鐸は大地を
豊かにさせる祭器だったとかという解釈は
あるかも。銅鐸を埋めて大地に鳴り渡らせて、
作物をどんどん成長させるといった考え方。
そして、信仰の対象が大地から日月に移行
したというのは、分かりやすい構図。
銅鐸信仰から脱却できた先進的な一族が、
畿内政権につながるリーダーとなったのだろう。
487 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 08:47:01
すると、先に三遠式銅鐸を捨てた東海勢力が畿内政権を作ったのか?
488 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 08:52:34
では、畿内政権につながる先進的な一族は
どこにあらわれたのか?
どの一族がもっとも早く銅鐸信仰から脱却し、
日月を意味する鏡を獲得し、さらには畿内政権の
中枢を担うようになったのか?
畿内周辺の地域から舶載鏡を獲得できるような勢力
による文化の伝播は、非常に早いと考えられる。
(征服ではなく、文化の伝播)
つまり、20〜30年刻みの前後関係を考慮すべき
微妙な問題である。
さて、どこが一番早いのか?
489 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:00:24
そうなると、美濃・尾張が主導したということになるんだろうな。
490 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:05:23
>486
銅鐸は単なる集落の祭器。鏡ってのは権力者の威信財。
位置付けが全然違うものなので銅鐸が鏡に意向したなんてのは説明がおかしい。
そもそも弥生時代の畿内は、権力者の威信財が存在しなかったところなんだが。
491 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:07:01
あのな銅鏡重視は北部九州でとっくに始まっていたんだが。それに東海も瑞竜寺山が例外的に後期にあるが、後は銅鏡の導入時期は大和と変わらない。
492 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:12:56
神武はまず東海に侵入し、拠点を築き、背後から大和に侵入した、らしいw
493 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:24:57
銅鐸が消滅は銅鏡の導入とは必ずしも直接関係するとは言えないよな。
先に銅鐸が無くなる吉備や出雲で銅鏡がすぐに出てこないし。楯築や西谷、赤坂今井のような大権力者さえ持たない。
銅鏡に関する思想をすぐには受け入れなかったとしか言えない。
また墳丘墓の登場が青銅器と交代的とする意見もあるが、出雲の四隅の初め頃はまだ青銅器あるだろうし、丹後には近畿式銅鐸の末期があるから赤坂今井と併存する。その前の大風呂南の段階は銅鐸最盛期だし。
だから、青銅器→墳丘墓という図式もウソくさい。もちろん銅鐸→銅鏡も怪しい。
494 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:49:13
5様式の終わりから庄内式初め。
平原は墳丘はしょぼいが大型鏡、大量の中国鏡、大量の玉がある。
楯築は鏡は無いが巨大な墳丘、大型の木郭、大量の朱、多量の特殊器台・壺のマツリがある。
西谷も巨大な墳丘と多量の玉、各地から供献された土器のマツリがある。
赤坂今井はやはり巨大な墳丘と大量の玉、多量の鉄器、各地の土器がある。
大和には何も無いよな。
495 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 09:55:43
では、なぜ大和が政権所在地となったのさ?
そこが問題だ。
496 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 11:09:44
魏志倭人伝の前提
●韓国→対馬間の距離50kmが1000里となってるので海路では20里=1kmとする
●陸路では最近まで日本では1里=4kmで海路1海里=1.9kmなので10里=1kmとする。
●歩く距離に関して、四国88ヶ所徒歩遍路(藤井寺→焼山寺)を参考に昔の方は健脚
と考えて直線距離3kmを1時間で進むと見る。1日8時間歩いたとして20km
これは個人で歩く場合で、大量の高価なお土産や魏の国威高揚の目的、その警備や
先遣隊と本隊を別けることを考えると、5分の1の速度1日4km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日とし1日平均5km
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
●数百人規模と思われる使節団が移動するには、食料、休憩から大きな都市、港を経由したもので
国威掲揚の意味でも、金銭の代わりになるものを与えて、礼儀正しく、金持ちの振りをし、方向
距離に関しては正確に記録したメモが存在してて、それを参考にして著者は書いた。
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角を投馬国とす。
韓国50km南→対馬50km南→壱岐(一大国)50km→唐津(末盧國)50km東南→小城(伊都国)10km東南→佐賀(奴国)10km東→大川(不弥国)80km南→三角(投馬国)→芦北に上陸130km→高鍋(宮崎県)・・・・・「ここが邪馬台国」
−−−−−(引用開始)−−−−−
魏志倭人伝に出来るだけ忠実に、原文どおり和訳してみました
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
497 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 11:22:44
伊都国が小城なんかに持っていく点で終わっているw
大川なんか当時ほとんど海の底だし、、、
遺跡は無視ですか、そうですかw
投馬国の三角から宮崎はどう見ても「南」じゃないが。
結局、倭人伝の記述通りだとどっかで矛盾するんだよなw
>>485 鎌倉幕府とか江戸幕府とか、
既存のしがらみのないところに(都とは別に)大きな政権が出来ることはよくあること。
東遷について考古学的な根拠はないと思うが、
(文化的な影響があったことははっきりしているけれど、政治的なことは不明)
それは家康が江戸に移った根拠を(文書発掘抜きの)考古学に求めるようなもの。
だから東遷説がありえるなんて言うつもりはない。
東遷説は、時期を卑弥呼と台与の間とすることが多く、
仮説にしては期間が狭すぎて、学問的な検証が難しいと思う。
説として唱えるのは無理がありすぎないか?
逆にはっきりとした否定も難しい。
500 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 11:48:48
東遷説は卑弥呼共立時という説もあるが。原田大六とか。
501 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 11:50:17
東遷説が「ありえない」とは言えないんでしょ?
だからとんでもがのさばるんだからねえ。
503 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 12:45:41
マキムクの突然の造営をどう考えるか。
最近有力になってきているのが、大和川水系、東瀬戸内地域の首長たちが
大同団結してひとつの国になった、という説。
倭人伝に記される七万戸という邪馬台国とはこの国のことだろう。
実年代で言えば、二世紀半ばのこと。
504 :
太国:2006/10/08(日) 12:47:08
ww
505 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 12:54:36
弥生時代を通じて、先進の筑紫から後進の大和への、
人・物・技術の流入は継続的にかなりあったことだろう。
皇室氏も、わざわざ「九州から来た」と言う以上、
ルーツを探れば九州である可能性も十分あると思う。
506 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:01:40
>>503 2世紀半ばというのは早すぎだろ。マキムクがまだ無いが。2世紀末かそれ以降。
それにそれら地域が大同団結した証拠が無いが。
507 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:13:36
ただ、北部九州→畿内への移動が、十年二十年の短期間で起きたこととは到底思えない。
国や勢力がそう簡単に移動出来るものじゃないことは、歴史を見ても分かること。
想像するに、マキムク王権とは初期鎌倉幕府のようなものだったのではないか。
頼朝は担がれただけで、実体は関東武士団の連合政権。最終的に北条の一人勝ち。
この場合、頼朝=卑弥呼前の男王(奴国出身?)、北条=畿内有力豪族。
私は、卑弥呼は吉備出身じゃないかと思う。
508 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:27:23
鎌倉幕府は、関東武士団が中央からの介入、搾取に対して立ち上がったもの。
東国は東国で勝手にやると、中央からの独立を企図する。
昔の将門や平忠常なんかと方向性は同じ。
朝廷に代わる権威として、源氏の貴種を擁立した。
朝廷=玄界灘グループ、幕府=大和川水系+東瀬戸内地域と読み替えれば、
そのままマキムク王権成立過程の説明にならないか。
509 :
太国:2006/10/08(日) 13:40:40
マキムク王権は景行の統治。
510 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:43:57
神武、応神、顕宗・仁賢、継体など、外部から迎えられたと思わせる大王は多い。
鎌倉幕府の摂家将軍や皇族将軍などと類似する。
古く、大王は群臣から推戴されることで、初めて大王となることが出来た。
ヤマト政権の実体とは畿内有力豪族の連合体。天皇とは天皇霊の依代に過ぎなかった。
皇室が一氏族として台頭するプロセスは、雄略頃より始まり、天武で完成する。
511 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:53:51
卑弥呼共立前の男王とは倭王であって、実質は伊都国王では?
平原が問題だが卑弥呼共立後の世世「伊都国王」の一人の祭祀王かと。
平原の女王没後に祭祀権や外交権も卑弥呼に一本化されたとか。
512 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 14:16:32
>>511 私も昔はそう思っていたが、箸墓以前の石塚やホケノなどの王墓の
存在がある以上、仕方がない。
513 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 14:36:28
いや卑弥呼共立が2世紀末、平原は3世紀初め。石塚は庄内初めよりは少し下がるから3世紀前半のどこか。
ホケノは土器からすると箸墓より古いとは必ずしも言えないみたいだし。
箸墓は248年頃にするにはまだしんどい気がする。トヨの墓かと。
卑弥呼の墓はまだわからないけど勝山あたりが怪しいかと。
514 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 14:40:11
オオヤマト古墳群には特大、大中小の各前方後円墳がある。大王墓のみの一系ではない。マキムク古墳群も同じで、全てが大王墓という訳ではないでしょう。
515 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 15:10:32
>>497 >大川なんか当時ほとんど海の底だし、、、
>遺跡は無視ですか、そうですかw
大川市付近の港湾都市という意味なんだよ。
海の底ならその側に、大きな港だった場所があるだろうに。
516 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 15:17:31
>>498 >投馬国の三角から宮崎はどう見ても「南」じゃないが。
三角から南の芦北に上陸し、九州を横断して宮崎なんだよ。
芦北からどの方向に行くとは記載されて無いだろ。
九州横断となったら、方向はアチコチに変わるから書くわけにもイカナイし
それを距離で書くにも道なき道じゃ、歩幅で測るわけにもイカン。
だからそこからは日数で書いて方向も書けなかったもの。
517 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:21:16
勝手な東遷説から勝手に言わせてもらうと、日本書紀にある饒速日命が問題。
これが大和に最初にやってきた。それが庄内期の始まり。
年代的にはいろいろ問題はあるが、壱与の時代、高皇産霊尊の時代と思う。
次に神武がやってきた。これが布留期の始まり。
年代的には4世紀になってから。
なお、神武天皇は崇神天皇の分身と考える。つまり、同一人物。
大和に着くまでが神武天皇でそのあとが崇神天皇。
記紀では、大和についてからの神武天皇については何も書かれていないし。
>>496 それが一番倭人伝の記述にあっていると思う。
ただ、投馬国は三角ではなく考古学的遺物の豊富な宇土市付近。
芦北を港として使うのも景行天皇以来の伝統だし。
しかし、天照大神=卑弥呼と考える立場としては、卑弥呼が日向にいても
良いものかどうか…。それが悩みの種。
518 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:28:57
>>517続き。
饒速日命がやってきたのを3世紀の初めとすることも出来る。
神武を3世紀後半とすることも出来る。
しかし、日本が動き始めたのは、壱与の時代だと思う。
どうしてもそこから離れることが出来ない。
519 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:43:53
>>516 投馬国から「南」じゃないの?
倭人伝の方角に忠実にと言いながら、都合がいいなw
だいたい伊都国が小城とか言う時点でスレ的には話しにならない。
520 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:47:05
>>515-517 遺跡で検証できないな。
また倭人伝と地図だけで邪馬台国を探す輩が出てきたな(嘲笑)
521 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:50:10
>>520 一応、邪馬台国の位置が書かれているのは魏志倭人伝だけ。
それを参考にするのが基本だと思う。
もっとも畿内説にとっては都合が悪いことは確か。
何せ『南』と書かれているから最初から畿内説は成り立たない。
522 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 16:18:52
ハイハイw
宇土に投馬国なら邪馬台国は鹿児島の指宿あたりにしてくれw
523 :
太国:2006/10/08(日) 16:29:34
>>517 忍法分かれ身の術か? 伊賀か甲賀か?
そういえば孫悟空も腕の毛を抜いて分身の法を使うな。w
524 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 16:34:55
>>512 ところが、こんな意見もある。
≪纏向石塚古墳・ホケノ山古墳を含め纏向墳墓群または纏向古墳群は、言われるような「最古の古墳群」や「箸中山古墳以前の古墳」である証拠はなく、
…(中略)… いま僕たちに与えられた材料からは、箸中山古墳に並行してあるいは「直」後に築造された、一群の小形ないし中形前方後円墳とするほかはない≫
──近藤義郎『前方後円墳の起原を考える』 2005 青木書店 P268
どう判断すればいいのかな? 近藤・石野両先生に徹底討論してもらう?
525 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 16:51:59
近藤先生は土器がいまいち得意じゃないからな。
ホケノは箸墓と同時期かもしれないが、石塚や勝山、矢塚は箸墓より古いと思うし、大概の論者はそうしている。
526 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 17:14:28
箸墓を最初の古墳にしたい近藤は、まあそう言うだろうな。
なにしろ、吉備東遷説だからw
実際、吉備=大和連合が成ったのは布留0期。庄内期の前方後円墳は確かにある。
527 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 17:36:54
528 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:22:34
ちょっと南に行ってその後西へ行くのが「南」でいいなら畿内説もありじゃんw
港そのものは発見が難しくてもその後背の集落は見つかるはずだが。
だいたい伊都国を小城にして前原を無視する時点でアウトw
529 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:24:04
>>527はもう少し専門書を読んでから参加してくれ。頼むわ。
530 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:24:30
九州説を語りたいなら、他のスレいけよ。
棲み分けも出来ないのか?
スレ否定になりかねないが、
俺は邪馬台国が九州にあろうが、大和にあろうがどっちでもいいな。
それより大和や本州の発展史に興味がある。
黥面文身なんて書いてある文献の連合国を、
どっちにするかで"南"、"西"にこだわる論争なんて馬鹿げてる。
黥面文身なんて薩摩の風習が紛れ込んだくらいしか理解しようがない。
532 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:56:19
>>531 黥面文身の土偶は日本中から出てる。
九州だけの風習という根拠はどこにもない。
533 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 19:13:08
>528
その後西へ→その後東へ
訂正スマソ
534 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 19:37:22
アズミ眼と言われる位だから、東夷(アズマエビス)=縄文時代からの風習なのだろう。
ヤマト政権ではある時期より、刺青の風習が蔑まれるようになる。
恐らくは中国文化の影響であろう。
古くから中国に遣使していた玄界灘沿岸部の諸国は、
比較的早い段階で、刺青文化から脱していただろうと思われる。
535 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 19:44:19
中国王朝に承認された北部九州から見れば、畿内、東海は蛮族だから。
黥面文身してるのも頷ける。
536 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 20:13:03
>>534 思われるってか?
結論は欲しくなくて、書き込みだけがしたいだけ?
537 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 20:29:39
唐突に話題を振るけど、魏志倭人伝の次の有名な記事について、ディスカッションしようよ。
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」
僕は、卑弥呼女王のお墓(冢)はきっと大きな古墳──おそらく前方後円墳──だろう、と思ってるんだけど。
畿内説の皆さん。どう考えているのかなあ。
(九州説さんの意見はあまり聞きたくもないけどね^^;)
538 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 20:47:14
100分の墓は小さいのでどこかわからない
539 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 20:52:50
なんでこんなに無駄な書き込みが多いんだ?
議論する気もなくて、自慢したいだけだって、馬鹿野郎
540 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:01:10
>>536 結論?
倭人伝の頃、北部九州は刺青の風習は無かっただろう、と言ってる訳で。
541 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:02:33
542 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:09:07
>>541 ちゃんとした反論を。こっちも暇じゃないので。
543 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:13:56
!を多用するのが、プラム・クオリティ
544 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:13:59
325 名前:名無しって何ですか?:2005/12/27(火) 07:14:19 ID:YevwbuuZ
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/::. /""" """\ ヽ
|::〉 ●" ●" |
(⌒ヽ |) ←セロイwwwwww
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ヽ \____/ /
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竹石 圭佑
(1986〜 愛知県名古屋市)
在日中国人の両親を持つ為か、日本語のアクセントがおかしい時が多々ある。
小学生の時に万引きで補導されたらしく、その頃から既に歪んだ性格であった考えられる。
中学・高校時代…意中の女子には露骨にちょっかいを出して気を引こうとし、また、その時の言動は挙動不審で相手に好意があることがミエミエな為、非常に痛々しい。
でしゃばりで、なぜか偉そうな態度をとっていたが、不良学生相手にはビクビクしながら機嫌をとっていたという不可解な面も併せ持つ。
また特に自分より力の弱い女性教員や女子生徒等を格好の的としていたので、その様な人間には異常に高圧的な態度をとり、馬鹿にし、いつも幼稚な悪口や悪質な嫌がらせを考えて楽しんでいた。
相当な目立ちたがり屋で「地球は自分を中心に回ってる」という性格。しかし、何の能力・才能の欠片もなく、ヘラヘラしていただけなので精神が不安定だったとも考えられる。あだ名はダメ石(何をやってもダメなくせに口八丁なので)→デメ石(非常に出目金に似た顔なので)。
愛知県の底辺の大学に通ってるが、名古屋大学医学部を目指しているらしく、医学生になった自分を日々妄想している。
余談だが、KAT-TUNの田中聖をライバル視しているらしい。
※注 これは自分の知っている範囲の竹石圭佑の情報であり、全てではないと思われ。
545 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:17:45
刺青の習慣を無くすのは難しい。
刺青は魔除けだから、事故があれば責任を追及され村八分にあったりする。
もともと、刺青を持たない渡来人集団が多く入植してこないと、
刺青の習慣はなくならない。
北海道のアイヌの刺青がなくなったのも日本人が移民したからだし。
そうしたわけで、大和で刺青が消えたのは、渡来人が入植してきたから。
大和を開拓したのは、田道間守のような渡来人だったはず。
渡来人の王は、自分を倭人と詐称するようになり、九州から来たことは認めた上で、
九州の南から天孫降臨したという伝説を作った。
546 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:32:40
すでに北九州にはナ国があったので、渡来人集団は九州で王にはなれなかった。
そこで渡来人集団は、北九州を素通りして、直接畿内を開拓した。
これが唐古鍵、マキムク。
渡来人がもたらした技術が、庄内式土器である。
渡来人は鉄を必要以上に有り難がる習慣が無かったので、
鉄は必要な量だけ確保し、消費された。
547 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:38:28
渡来人が、日本の王朝を作ったというと、拒否反応をする人が多い。
しかし、歴史は歴史として向き合わなければならない時代に来ているのではないか?
邪馬台国論争が、九州か畿内か決着がつかないのは、
みな、渡来人が天皇家の祖だったことを認めたがらないからだ。
はっきり言えば、邪馬台国は畿内。
クニを運営するという渡来人の知識がなければ、連合国など出来ない。
たとえ邪馬台国が九州にあったとしても地方政権にすぎない。
その後、畿内の渡来人政権と合併した。
548 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 22:20:15
>>528 >だいたい伊都国を小城にして前原を無視する時点でアウトw
あんたね、何を重視して書いてんだ?
魏志倭人伝なら港に着いて(東南方向に50km)行かなくちゃいけないんだよ。
唐津に着いたら北東方向、呼子町に着いてたら真東に行かんと駄目なんだぜ。
あんたは失格アウト!
何を重視するか、いわゆる世間常識は止めて基本だけは重視しようね。
549 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:22:20
>>548 >何を重視するか、いわゆる世間常識は止めて基本だけは重視しようね。
こいつも文章書けない、有名人のコテハンかwwwwwwwwwwwwwww
550 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 22:24:09
>>529 >
>>527はもう少し専門書を読んでから参加してくれ。
あんたが専門家なら専門書を大切にするのは当然だが、偏見に捕らわれるマイナス面がある。
俺は専門家じゃないから、偏見には無縁だ。
専門家と話したければよそに行きなさい。
エセ専門家さん!
渡来人と帰化人の違いとか
なぜ「帰化人」用語が避けられるようになったのか。
そもそもこれがわからん
552 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:27:04
>>550 >あんたが専門家なら専門書を大切にするのは当然だが、偏見に捕らわれるマイナス面がある。
文章も内容もおかしい。
553 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:46:36
>>550 いや専門書はいいから、国語の教科書読んだら。
554 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:48:27
>>500ゆうめいじんだいかつやくだ
555 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:51:12
555げっとしました 有名人さん 国語の教科書大切にしてね
556 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:02:10
>>548 宇土から初め「南」に行ったからその後が東でも「南」でいいなら、
あんたの論理でも、例えば呼子から最初少し東南に行けば(実際唐津方面は東南)、その後東の糸島に行っても初め「東南」だから「東南」となるがw
また対馬から壱岐は東南なのに「南」になっている。
倭人伝の方位は絶対的ではないのだ。どうしてもどこか矛盾する代物ということだが。
557 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:05:32
>>548 >東南方向に50q
>>もう少しお勉強してからカキコしようね
その50qってなに?
どこからそんな数値を
558 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:05:36
>>546 唐古には韓半島系や中国系の遺物がほとんど全く無いが。
朝鮮系無文土器一つとして無いが。
唐古に九州を素通りして渡来人が行ったとかいい加減な妄想に過ぎないな。
559 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 23:10:35
>>532 >九州だけの風習という根拠はどこにもない。
むしろ倭に刺青を、厄除けとして流行してた風習というべき。
それが先進国の魏の人間には珍しくて大袈裟に書いた程度のもん。
アイヌの方にはずいぶん長く流行したようだが・・・
日本人を西洋人がメガネをつけ、カメラを持ち、猫背で、がに股と表現するのと似たようなもの。
ただそんな人間が多くて、記録に大袈裟に書いただけ。
土偶はマジナイで魔よけの象徴として、そういう信仰があるから書いたのじゃないかな。
また土偶には文様が付いてないのもあるし、文様を刺青と見るか衣服とみるかで見解は異
なるだろうし、断定は出来ん。
−−−−−(引用開始)−−−−−
最も古いの土偶は三重県にある縄文時代草創期の粥見井尻(かゆみいしり)遺跡から出土している。
長さ4.5cm、幅1.5cmの小型の爪形文土器で、頭部はないが、乳房が表現されれてい
ることから人型であることは明らかだ。
この種の土偶は関西の神並遺跡などからも出土していて、押型文タイプと呼ばれている。その変形
は、愛知や北陸に広がりを見せる入海・天神山タイプに引き継がれている
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_04_24.htm
560 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:16:44
弥生土器の文様に人面画があり、入れ墨表現があるが。こういう絵画土器が各地にある。
九州だけの風習でないのが明白。
もう少しよく調べてから書いたら?
561 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 23:17:06
>>537 >僕は、卑弥呼女王のお墓(冢)はきっと大きな古墳──おそらく前方後円墳──だろう、と思ってるんだ
マジメに読んだら直径が100歩(50mくらい)の円墳だろう。
それでも当時は大きいもいいところだよ。
作るのを考えたら巨額な金額ががかる。俺の実家の墓は1m真四角だ。
562 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 23:30:54
>>556 >宇土から初め「南」に行ったからその後が東でも「南」でいいなら、
俺の文章をマジメに読んでないでしょう。
宇土じゃなくて、三角から南に水行10日だから30kmとして芦北、芦北からの方向は
倭人伝には書いてない。
ただ陸行1ヶ月、逆に言うとここでは方向が書けないほどウロウロした証拠。
まあ、九州を横断し1700mの山を登らされたのじゃ当然だが・・・
563 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:31:34
「歩」というのは単なる歩幅ではなく当時の単位だが。
わかっているの?
564 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:34:57
>>562 ほとんど詭弁だな。投馬国から「南」なんだろ?途中で勝手に方位変えるなよw
呼子から唐津は東南だ。さかし唐津からの方角は倭人伝に書いてないよなw
プラム、名前を変えてまで、何ノコノコ出てきてるんだ。
566 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:36:52
この恵也って阿呆なんとかしてくれw
567 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:37:52
なるほどプラムかwアホラシw
568 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:43:49
>>534 入れ墨表現の絵画は弥生後期の北部九州にもある。
だいたい倭人伝に倭の水人に入れ墨があるというのは玄界灘沿岸のことだろ。
569 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 23:44:38
>>557 >その50qってなに?
>どこからそんな数値を
俺が前提とした文章の
>>496を見てくれ
最後の真鍋は、古墳群などを見ると西都市に変更したほうがいいかな??
すごく大雑把な地図を見て推測し、真鍋ってあったもんだからツイ書いたんだけど・・・
570 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 23:49:24
>>563 >「歩」というのは単なる歩幅ではなく当時の単位だが。
根拠はどこにあんだ?
俺は字面通りに解釈したんだけど、当時の単位と思うなら現在の単位に直して書け!
571 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:50:01
やっぱり今までの研究や考古学資料を無視、いや全く知らずに、倭人伝と地図上だけでやってるのねw
ダメダコリャw
572 :
太国:2006/10/08(日) 23:51:14
飛車落ちで充分だ。w
573 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:54:18
>>570 本当にそんなことも知らないの?
酷いなそりゃw
当時(後漢から三国)は一尺が23〜24センチ、一歩は6尺で約140pなんだが。
ちょっと調べれば分かる。
574 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:56:21
恵也さんは専門書とは言わないから、概説書の二、三は読んできてくれ。
575 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/08(日) 23:56:44
>>545 >刺青は魔除けだから、事故があれば責任を追及され村八分にあったりする。
へそ曲りはどこにでも居るもの。
こんな事で強制なんて、他人に対してはできるものじゃない。
それに魔除けは個人に対して効果があるんだよ。
国家みたいな大きな事には、その指導者が当たるもの。
576 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:57:14
>>569 その説は考えたことがある。
西都市には、男狭穂塚という卑弥呼の墓にふさわしい古墳もある。
帆立貝型の古墳で、径も150m超。百歩よりも大きい。
しかし、どうもこの古墳を3世紀まで遡らせるのは無理らしい。
日向の古墳群で最も古いものは、大淀川河口近くの生目古墳群で、
これは大和の古い古墳と同じくらいの時期に造られたらしい。
形も似ており、宮崎と大和にはつながりがあるのではないかと見られている。
しかし、昼にも書いたように、卑弥呼=天照大神と考える立場としては、
邪馬台国を日向に比定するのは難しい。
天照大神は高天原にいた。日向にやってきたのは天孫の邇邇芸命だからである。
577 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:02:43
>>570 歩は長さの単位。一歩は六尺。
これは時代によって多少異なるが、魏の時代の一歩はだいたい1.45mくらい
だったと思う。
最近の検討だと、日向の古墳は一時極端に古く考えられたほどには古くならないようだ。
墳形からマキムク級と言われた西都原81号も、発掘したら土器はそこまで古くならないということらしい。
ソースは九州前方後円墳研究会『前期古墳の再検討』
まあ以前は全部5世紀以降と言われたのは誤りで、前期古墳も多いのは確かみたいだが。
なおオサホ、メサホは埴輪から確実に5世紀前半で4世紀にすらならない。
579 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:15:56
>>578 西都原の台地のふちにある古墳はかなり古いと言われている。
81号墳は3世紀はじめと言う説もあるらしい。
ただ、土器は地域によって異なる場合があり、同じ土器でも同じ時代とは
限らないから断定するのは難しい。
男狭穂塚・女狭穂塚もはるか昔に宮内庁の管轄になっていて
調査が全く行われていないから、これも良くわからないと思う。
宮崎では西都原よりも生目古墳群のほうが古いらしい。
生目1号とか墳形だけなら箸墓くらいまで古くなるかもしれないが。
しかし日向は柄鏡形にしても纏向形にしても、思ったより古くなかったりするからわからないけど。
邪馬台国というのはきついな。
しかし都萬(ツマ)神社という古い神社があるから投馬国ってことはないか妄想してみる。
581 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 00:20:54
>>547 >クニを運営するという渡来人の知識がなければ、連合国など出来ない。
知識とは学ぶもの。
渡来人の血が行うものじゃない。
邪馬台国は魏に対して生口という方を送っている。
これは奴隷では無く、邪馬台国への案内人であり、通訳、大使、留学生、エリート官僚候補でもある。
若い適応力のある人間を送ったと思うよ。
この生口出身者たちが、その知識でタマタイ→ヤマトにして近畿まで勢力下に抑えてしまったの。
イギリスがアメリカを征服し、アメリカが経済発展して今ではアメリカが主導権を握ってる。
それと同じ現象が大和朝廷でも起こって、近畿が主導権を握ったんだよ。
旧態依然としてたら腐敗するからね。
西都原81号は土器の平行関係からかなり新しくされてたよ。もともと3世紀前半というのは石塚と似た墳形だから最大限古くした場合の話。
伴う土器が出たらその検討に従うしかない。
生目は大型古墳は相対的に西都より古いのが多いが、西都原にも規模は劣るが平行する古墳があるとされている。
しかも西都原81は生目より古いとされていたのが意外に新しくなった。
なおオサホやメサホは埴輪がかなり知られているので5世紀前半という推定は確度が高い。周囲の陪塚の内容やメサホが履中陵の1/2規格の設計ということも矛盾しない。
583 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:27:28
>>547 渡来人とはいったいどこの誰?
朝鮮半島は、馬韓・弁韓・辰韓の部族社会のようなもの。
そのあとの新羅・百済になっても日本に人質を差し出し朝貢するような国。
このように状態の朝鮮が日本の支配層になれるはずがないし、
そのような状態の朝鮮を通り越してやってくる勢力があるはずもない。
生口が留学生という説もあったが今は普通に奴隷という説が一般的。
生口が帰って来たという記録も見えない。
実際の歴史では、宮崎などまったく無力かなと思ってたが
こないだの『考古巡回展]で、
ムカデ塚(6世紀前半)出土、
「スカートたくし上げて陰部を見せる女性埴輪」見て
ちょっとびっくりしました。
アメノイワヤト神話って、実は6世紀前半には
宮崎あたりでは存在してたのかな? とか。
>>560 それって、線刻人面付土器?
あれって何だろうね。
・それほど数が出てない。
・骨が入っている。
・一(壺棺再葬墓)遺跡に一個か?
どうして刺青表現がある壺形土器は少なくて、
壺棺だと刺青表現があるんだろう。
倭人伝の全員やっている風習と思える記述から、
薩摩隼人の神事への関わりへの変貌は一体?
587 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:34:38
>>582 古墳の形ではなく、出土した土器から3世紀前半とされたはず。
それが変わったかどうかは知らないが、西都原古墳群のHPでも、
5世紀初頭をさかのぼらないと見られた築造開始時期は、
現在では3世紀中〜後半の可能性まで、1世紀以上さかのぼった。
さらにその上限はさかのぼろうとしている。
と書かれているしね。
http://miyazaki.daa.jp/saitobaru/ まあ、もう少し様子を見てみようっと。
>>583 古代の「質」って現代的な意味での人質とはかなり違うが。また百済は3世紀以降は中国系の遺物がかなり出たり、1kuの土城が築造されたり(風納土城)、単なる部族社会とは言い難い(初期国家段階か)。
まあ何でも渡来人からという説明はおかしいだろと言うのは分かるが。だからといって無理やり韓国が日本より劣っていたというのはどうかな。
韓国が日本に文明を教えたニダと言うチョンとある意味同じ発想で言い合っても仕方ない。朝鮮マンセーも嫌韓厨も歴史の理解には不要で有害だ。
589 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 00:42:35
>>573 >当時(後漢から三国)は一尺が23〜24センチ、一歩は6尺で約140pなんだが。
ちょっと調べれば分かる。
調べ方が判らん。
根拠があるのかい?
寸法は時代により、場所によりずいぶん変化したという。
ここで使ってる歩が140cmというソースは何?
−−−−−(引用開始)−−−−−
こうして定められた量制も、時とともに変化し、10合が1升という決まりは同じでも、
1升の量自体が地域によって異なるようになりました。
当時の税金(年貢)はお米ですから、計る枡が大きければそれだけ多くの年貢が
徴収できます。そうした権力者側の都合で、1升の基準となる枡の大きさが次第に
変わっていってしまったのでしょう。
http://www.naozane.co.jp/okome/tani.htm
>>587 ソースに出した資料集を手に入れてみな。
当初の発表はあれだ、多分、破片の接合が不十分だったり墳形から古いはずと思ってたから土器の中で古い特徴があるものにだけ注目したんジャマイカ?
591 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:49:00
>>588 朝鮮半島の歴史書と言われる三国史記でも、朝鮮半島が日本より優位に
あったという記録はない。
日本に関連する記録と言えば、日本(倭国)が攻めてきた。どうしようという
記録ばかり。勇ましいものは一つもない。
中国の文献にもどこかの勢力が日本を攻めたという記録はない。
まあ、本当の意味で根拠のない話と言うことになる。実際、根拠が示されたのを
見たことはない。
古代は日本よりも朝鮮のほうが進んでいただろうという『妄想』が
出発点になっていると思う。
>>589 中国の歴史書だから中国の単位変遷を調べてくれ。
それと邪馬台国に関する概説書の二、三と漢や三国時代に関する古代中国史の概説書を読んでくれ。
ネットにはあるかもしれないが、無い情報も多い。確実なのは自分で本を探して読むことだ。
593 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 00:55:16
>>584 >生口が帰って来たという記録も見えない。
日本には帰ってきても記録は残らん。
日本の最古の記録というと、日本書紀や古事記になるのかな?
そんなところには書かれるようなもんじゃない。
594 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:58:38
学者が編纂した辞典なんか信じられるか
という猛者がそろってるからなぁ・・・・・
>>591 倭国は好戦的で半島に派兵したのは事実だな。韓国側は三国抗争で海外派兵する余裕は無かっただろう。
ただ実際は軍事的に支配はできていないことも考古学的に明らか。
ミマナとされる加耶に前方後円墳は無く、墓制も土器も倭と全く違う。
土器だけで言えばロクロ成形の陶質土器という穴窯による硬い焼き物を早くに作っている。これは5世紀初めに倭にやっと伝わり須恵器になった。
文献史学では韓国の学者も倭の派兵は認めているが、むしろ百済や加耶諸国の派遣争いに軍事力が利用されていたと考えられている。これは日本の学者もだ。
もちろん倭は見返りに鉄資源を入手している。
あと韓国だけ部族段階で国家形成が無かったというのは明らかに間違いなので。
もう少し勉強してくれ。
597 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 01:11:24
>>584 卑弥呼の時代から400年くらいして、日本書紀が出来てるんだね。
20年で1世代変わるとしても、20世代も昔のことだぜ。
これじゃ、生口のキロクなんてキくらいも残らんよ!
598 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 01:12:58
日本書紀にも百済から五経博士が来たとかあるし、仏教公伝もそうだが、日本の文明化に韓国からの影響があったこと自体は否定できない。ただし何でもかんでも朝鮮からというのも間違いだとは思うが。
599 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 01:14:11
600 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 01:18:03
>>597 同時代史料に基づく中国の歴史書の倭人伝、倭国伝にも記録が無いだろ。
それに文脈的に生口の記述は中国皇帝への献上物だから、留学生とか後の遣唐使みたいなものというのは違和感がある。
601 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 01:21:42
>>597 だったら記紀には3世紀の頃の話は伝わって無いということだなw
記紀の記述は邪馬台国時代の説明には使えないということだねw
記紀の成立時期とか、ここにいる香具師の多くには常識だからいちいち言わないでもよろしい。
恵也とか言う阿呆の相手は疲れたよw
俺はもう寝る。
604 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 01:28:54
漏れも疲れたわ。
恵也みたいな椰子向けに邪馬台国初心者スレとか誰か立ててくれw
気が向いたらまた明日。あとはよろしく。
スレ違いだが、その記紀についてのリンク先の内容意外に面白いな。
実際のところその説の正否はどうなんだろう。
606 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 06:08:59
この恵也とかいう馬鹿、プラムと芸風がそっくりなのが気になる。
607 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 08:48:50
>>606 このバカレス三昧で、有名人の自作自演以外に考えられないよな、お前が○○○だってことも解るぜ!
608 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 09:43:02
>499
>遷説は、時期を卑弥呼と台与の間とすることが多く、
なことはアマチュアを除いて考古学者は、誰もそんなことは言ってないが。
>説にしては期間が狭すぎて、学問的な検証が難しいと思う。
>として唱えるのは無理がありすぎないか?
>にはっきりとした否定も難しい。
考古学的に、弥生時代の畿内には広域の権力はないと証明されている。
そんなところに平原の直後にいきなりマキムクという人口都市が造成される。
その王権祭祀は、主体部については、平原そのままだ。
考古学的に東遷以外に考えようがないと思うが。
ともかく、「このような時期に平原がある意味をどう理解するのか」という
柳田の質問に自生論者はまともに回答できていない。
>ただ、北部九州→畿内への移動が、十年二十年の短期間で起きたこととは到底思えない。
>国や勢力がそう簡単に移動出来るものじゃないことは、歴史を見ても分かること。
マキムクと平原は近接しているので、倭王権成立は、短期間の間に起きたとするしかないな。
でなけりゃ2重首都とでも解釈するしかない。
609 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 09:51:31
>524
≪纏向石塚古墳・ホケノ山古墳を含め纏向墳墓群または纏向古墳群は、言われるような「最古の古墳群」や「箸中山古墳以前の古墳」である証拠はなく、
…(中略)… いま僕たちに与えられた材料からは、箸中山古墳に並行してあるいは「直」後に築造された、一群の小形ないし中形前方後円墳とするほかはない≫
──近藤義郎『前方後円墳の起原を考える』 2005 青木書店 P268
近藤が一生を掛けて作った学説の中核は、特殊器台を介した首長霊継承
だから、特殊器台のかけらもない石塚等の初期古墳が特殊器台が存在す
る箸墓等の前にあっては都合が悪いわけだ。平原のことを書かないのも
同様の理由だろう。
だから、そんなありえない年代論を振りかざしてるというだけ。
もちろん、そんなヨタ話をまともに受ける学者はほとんどいないが。
610 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 09:59:12
>587
>それが変わったかどうかは知らないが、西都原古墳群のHPでも、
>5世紀初頭をさかのぼらないと見られた築造開始時期は、
>現在では3世紀中〜後半の可能性まで、1世紀以上さかのぼった。
>さらにその上限はさかのぼろうとしている。
注目すべき古墳群であることは確かだな。節操がない学者がいたら
もっと大宣伝してそうだ。
611 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 10:10:27
>596
>ミマナとされる加耶に前方後円墳は無く、墓制も土器も倭と全く違う。
>土器だけで言えばロクロ成形の陶質土器という穴窯による硬い焼き物を早くに作っている。
>これは5世紀初めに倭にやっと伝わり須恵器になった。
半島東南部の前方後円墳は無視かよ。伽耶地域にもそれこそ弥生時代から強い影響があったことは
考古学的に明らか。もちろん、技術や政治的段階について、半島が日本よりおくれていたというの
はウソだが。
>文献史学では韓国の学者も倭の派兵は認めているが、むしろ百済や加耶諸国の派遣争いに
>軍事力が利用されていたと考えられている。これは日本の学者もだ。
>もちろん倭は見返りに鉄資源を入手している。
「軍事力が利用」なんて言い方は現在の状況を反映した「政治的配慮」
でしかないよ。それになこと言ったら、「イラク戦争やアフガン戦争は、
現地勢力がアメリカの軍事を利用」とも言えるわな。
意味のない議論だね。
「見返り」というのも文献があるわけじゃないしな。
613 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 10:37:30
ここの住民は安本説の正否についてなんで議論しないんだ。
614 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 10:44:33
>>611 韓国で前方後円墳があるのは半島東南部の加耶ではなく、西南部の全羅南道、いわゆる馬韓地域南部だが。
しかも時期は5世紀末から6世紀前半に限られる。倭系遺物も出るからまさに倭人の墓という説も韓国の中でも有力だ。
ただし、なぜその時期にできたという点については、単純ではない。
百済の南下、加耶諸国の衰退と新羅の強大化の中で倭と全羅南道諸国が連携したとか、逆に百済の南下政策で倭百済同盟の下、在地勢力を牽制するために倭の勢力を移植したという説もある。
いずれにしても倭王権がそこを直接支配したというのは難しい。なぜなら在地諸勢力の間にモザイク状に分布していたり、前方後円墳の石室が倭中央の畿内型ではなく九州型だったりする。
敏達紀に倭王の臣であり百済の臣でもあった火葦北国造日羅の話が出てくるが、当時の国際関係、諸国の関係は単純ではない。
615 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 10:49:47
>>600 >それに文脈的に生口の記述は中国皇帝への献上物だから、留学生とか後の遣唐使みたい
>なものというのは違和感がある。
中国語の違和感があなたに判るのかい?
翻訳した人間の器量・偏見で、そんなものはどうにでもなる。
タダの奴隷なら俺には魏にも邪馬台国にも、たいした役には立たない。
別の奴隷状態になった人間でも間に合わせれるし、富国強兵の役にも学問の発達にも役に立たん。
江戸時代や明治時代には丁稚奉公というのがあった。
給料もなしに働き、ご主人が何年かたつと独立させて店を与えたりしたという。
生口もご主人が知識を蓄えた時点で、本人の希望で、嫁さんを貰い魏に止まるも良し、日本に帰
って故国の役に立つのも良しいろんなケースがあったと思うぜ。
俺は生口を中堅官僚や鍛冶屋・建築屋などの技術者の子息で、若くて賢い人間だったと見てる。
昔の人間がなぜ、長くて危険な距離を大金をかけて生口に旅をさせ中国詣でをしたのか根源的
思考がタリン。
−−−−−(引用開始)−−−−−
その年の十二月、皇帝から倭の女王に詔が下される。
「親魏倭王卑弥呼に詔を下す。帯方郡の太守の劉夏が、使いをよこして汝の大夫難升米と、
副使の都市牛利(としごり)を送ってきて、男四人女六人の奴隷と、斑文様の布二匹
二丈献上するため、都へ到着させた。汝のいるところは遥か遠いにも関わらず、わざわざ
使節を派遣して貢ぎ物を持ってこさせた。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
>>614 > 単純ではない。
普通に九州王朝だろ?
俺は畿内説だが、天下布武はずっと後、
それこそ五世紀くらいに下ると思っている。
617 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 10:58:07
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、
>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって
>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。
このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。
72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?
本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w
奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。
(^^)恵也って誰かの文章能力と同等レベル?まともな文章にした方がいいよ、可哀想になってきた。
618 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 10:59:27
加耶に日本から行っているのは古墳前期ならまず倭系土器、古式土師器がある。しかしこれは直接交流している近くの北部九州沿岸のものが大半。
土器なら逆に加耶系だけでなく馬韓地域のものが壱岐や玄界灘沿岸で大量に出ている。西新町遺跡なんかすごい。
しかしこれらはどちらかというと相互交易の結果だ。
鏡などの青銅器や玉、石製品など宝器あるいは威信財がもたらされているが、例えば倭では鏡が第一に重視されるが、加耶ではそこまでのものではない。
加耶の首長墓では陶質土器と鉄器の大量副葬が第一で、倭系威信財はそれに彩りをつける第二のアイテムだ。
文化が全く違う。
だから倭軍がいて加耶を支配していたというのはまずない。
619 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:03:20
なお倭軍の半島出兵自体は三国史記にもあるし、倭対新羅や倭百済同盟対高句麗とか大加耶倭同盟対新羅とか戦争はあっただろうが、日本書紀で言うような加耶支配は考古学的にほとんどありえない。
>>615 ふつうに奴隷として使役すれば役立つだろうが。
また中国皇帝にしたら、当時の中国から見て世界の辺境の人間を所有していること自体が中華思想のプライドを誇示し権威の象徴だった。
621 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:27:15
>>611 青銅器技術、鍛冶技術、製鉄技術、製陶技術(須恵器)は確実に朝鮮半島南部から来ている。これは否定しようがない。
また6世紀に日本で製鉄が確立するまでは鉄資源は朝鮮半島に求めていた。その確保は倭王権にとって死活問題だっただろう。
しかしただで鉄が手に入る訳ではないから、平和的には倭独自の青銅器や玉類といった宝器を持って軍事力の提供(新羅や高句麗の圧力への対抗)を条件に加耶の首長と交渉して鉄資源を求めたり、より日常的には南北市テキ(米偏の漢字)で穀物と交換していただろう。
しかし関係がこじれたら派兵して強奪を試みたこともあっただろう。新羅とはしょっちゅう関係がこじれたということだろう。
しかし派兵はあったようだが倭が支配に至った考古学的証拠が無いのも事実だ。
622 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:34:39
生口の話はどうでもいいだろ。本筋と関係ない。
623 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:37:45
恵也=プラムに言ってくれ
624 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:38:05
>>621 「国家的支配」を考えるのはおおげさだろ。
軍を常駐させた「砦」を築いて維持しただけのものでも、昔は「日本府」と呼んだかもしれん。
625 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:54:16
倭系の砦は全く発見されていないが。
朝鮮総督府がそういうのを探したが見つからず、今の韓国の大規模発掘ブームでも見つからない。
秀吉の出兵の倭城が多く現存するのとは全く異なる。
あと韓国の考古学者の大部分は日韓の一部のナショナリズムとは無縁で、日本系の遺物や遺構が出てもふつうにオープンだ。前方後円墳や横穴墓にしても倭人の墓説がふつうに言われている。
626 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 12:13:35
結局、半島の倭軍は、対新羅の一部を除くと、倭軍独自の行動というよりは、対新羅や対高句麗の同盟軍として、百済軍あるいは大加耶軍、金官加耶軍の一部であった可能性が高い。
なお高句麗好太王碑の記述については、好太王の軍事的成果を顕彰、賞賛するために、敵であり打ち破った遠国の倭の勢力を実際以上にオーバーに誇張して書いているというのが最近の日韓の学者の定説だ。
例えば「帯方界」で高句麗が戦ったのは、倭の独自軍というよりは倭軍を引き連れた百済軍だっただろう。というのは倭系の砦や駐屯地が全く発見されていないからだ。
例えば高句麗の南下で百済領内に高句麗軍の砦が発見されたりするのとは全く異なる。
627 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 12:17:42
日本府はヤマトミコトモチだが、せいぜい外交代表部、大使館領事館程度のもので、大宰府のような統治機関とはかなり異なるだろう。
628 :
:(・。・):2006/10/09(月) 12:18:42
出鱈目ばっかりだな
629 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 12:29:49
考古学的証拠に基づく日韓双方の学者ね最近の共通見解ですが。
日韓の共同歴史研究会でも、秀吉がからむ中世史や近代史は双方のナショナリズムがどうしても出てくるのでなかなか意見の一致を見ないが、古代史は比較的一致する部分が多いのだが。
>>619 > 日本書紀で言うような加耶支配は考古学的にほとんどありえない。
「日本書紀で言うような」ってどういうこと?
具体的なことはほとんど書いてないけど?
欧州の貴族みたいな支配階級交流があっても何の不思議もないけど…
631 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 12:52:27
日本書紀には、任那を天皇のミヤケとする記述、神功の加耶七国平定記事がある。
前者は三国史記の記述と合わないのはもちろん、考古学的証拠に合致しないから日本書紀の一方的主張。
後者は干支を繰り下げて429年とし、さらに主語を百済とすれば、三国史記や考古学的状況や日本書紀自体の他の部分の記述と矛盾しないとされている。
詳しくは山尾幸久や田中俊明の著作を参照してくれ。
間違っても安本ばかり読まないように
632 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 12:58:20
威信財の交換や墓制の相互影響はあるから、言われる通り、貴族間、首長間の婚姻を含む交流はかなりあるだろう。
しかしそれは支配被支配関係とはいえない。
633 :
(・。・):2006/10/09(月) 13:12:49
634 :
(・。・):2006/10/09(月) 13:16:50
へ
635 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 13:52:07
>>621 明らかな間違いがいくつかあります。
製鉄技術については、朝鮮と別系列なので、日本独自か中国から直接かの
どちらかです。村上恭通とかが何回も述べていることです。
製陶技術についても、昔は私も朝鮮からの技術移転かと考えていましたが、
弥生時代〜古墳時代を通して、朝鮮からの移転が認められません。ただ、
380年〜400年頃に新羅から人質が来たときに伝わった須恵器以降には、
朝鮮の影響が認められると思います。逆に言うと、それ以前は少なくとも
系列が分かるレベルの移転さえ無い。
朝鮮の鉄を入手した経緯については、任那の前身となる地域からタダで入手
していた可能性もあります。交換としても、ヒスイとかヒノキとかもあります。
あと、生口(奴隷)との交換もありえます。
636 :
(・。・):2006/10/09(月) 14:21:41
an?
637 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 14:46:53
製陶技術はわざわざ(須恵器)としたように須恵器について言ってます。
ただ弥生早期に、黒斑の付き方が縄文土器と異なることから、朝鮮無文土器の野焼き法が伝わった可能性があり、粘土の積み方やタタキ技法は無文土器の影響です。ただしこれは須恵器のような技術の全面移転ではなく、技術の一部導入ですが。
また須恵器は、韓国の各地の陶質土器と比較すると、新羅にはあまら似ていなく、金官加耶と全羅南道の要素の融合なので、言われるような説はおそらく成り立ちません。
日本の韓国系軟質土器から見た渡来工人の故地も加耶と全羅南道系であり新羅ではありません。
須恵器出現の年代も、最近は4世紀末とする説もありますが、日本の学者も含め、韓国の学者も5世紀前半、430年頃とする説が主流です。
また加耶の鉄を倭が入ってタダで取っていたという根拠は無いでしょう。
市で交換したり買っていたということです。
だから鉄との交換財については私が書いたこととほとんど同じですからいいですが。
製鉄技術ですが、村上氏の記述は、慶州つまり新羅の製鉄遺跡資料との比較ですが、最近は百済の製鉄が分かって来たので、百済は中国系の技術を導入していて、倭へは百済経由ということかと。
対高句麗や対新羅の倭百済同盟を考えれば当然ですが。
638 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 17:28:32
>>620 >ふつうに奴隷として使役すれば役立つだろうが。
それじゃ王様のプライドだけの奴隷で、屁のツッパリにもならん。
むしろ生口を洗脳し、魏の文化に感化させ、邪馬台国に帰っても親魏派として政治に影響力を
持ってもらった方が何百倍も役に立つ。
今の日本にも米国留学して、日本の政治、経済、言論界で親米派の方がずいぶん多い。
総理大臣の安倍晋三氏まで留学組だ。
この方たちはアメリカとの大きなパイプを持ってるだろ、現実を見なさい!
639 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 17:41:05
リニューアルして再度 魏志倭人伝の前提
●韓国→対馬間の距離50kmが1000里となってるので20里=1kmとする
●山道を超える場合、実測距離を書いてあるとし、地図上の直線距離を勘案し30里=1kmとす
●歩く距離に関して、四国88ヶ所徒歩遍路(藤井寺→焼山寺)を参考に昔の方は健脚
と考えて直線距離3kmを1時間で進むと見る。1日8時間歩いたとして20km
これは個人で歩く場合で、大量の高価なお土産や魏の国威高揚の目的、その警備や
先遣隊と本隊を別けることを考えると、5分の1の速度1日4km
●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
風を待つという待機もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日もしくは2日とし
1日平均5km
●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし宇土を投馬国とす(宇土は当時島?)
韓国50km南→対馬50km南→壱岐(一大国)50km→唐津(末盧國)20km東南
→富士町(伊都国)5km東南→佐賀大和(奴国)5km東→吉野ヶ里(不弥国)80km南
→宇土(投馬国)40km南→芦北に上陸130km→西都市(宮崎県)・・「ここが邪馬台国」
−−−−−(引用開始)−−−−−
魏志倭人伝に出来るだけ忠実に、原文どおり和訳してみました
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
640 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 17:55:07
>>635 >あと、生口(奴隷)との交換もありえます。
生口と奴隷は意味が違う。
魏志倭人伝の本に、邪馬台国から送った「生口」と卑弥呼の墓に一緒に殺されて埋められた「奴婢」
の2つの表現が書いてある。
2つの意味が違うから、同じ本の中で「生口」と「奴婢」が使われてるもの。
下のHPの著者も混同してるようだが・・・・
−−−−−(引用開始)−−−−−
彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
和訳:この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、
男女の奴隷を百人以上殉死させた。あらためて男王を立てたが、
国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
プラムは自分で立てたバカスレに帰れ。
642 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:23:49
越からも大量の鉄器が出土してるよな。
玄界灘だけじゃなく、若狭湾にも直接鉄器が伝来したルートがあると思う。
出雲神話でも、ヤマタノオロチから剣を手に入れた話があるし、
ヤマタノオロチとは、越のことだしな。
四隅突出墳墓が成立した時代のことだろう。
すると、邪馬台国時代〜マキムク直前の時代ということになる。
643 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:01:26
恵也もプラムも太国も・・・・・名無しでも・・・・・どうしてレベル低いの?
644 :
(・。・):2006/10/09(月) 19:34:47
恵也も妄想だけだな
645 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:08:02
最近投稿者のIP見ても、プラムの投稿を見かけないんだが
何を根拠にプラムと書き込みするのか、意味不明
スレを荒らしたい椰子の策か?
646 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:20:37
>>637 たしかに、言われてみると意見の相違はあまりないですね。
須恵器については、新羅から人質が来た時期(380〜400頃)か、百済から人質が来た
時期(400以降)に、付き人らが一緒に来て伝わったという考えなので、400以降で百済系
ならありうることだと思います。
製鉄技術については、中国から直接伝わったとすると、一部の技術が欠落して中途半端な
技術伝播になるので、百済との類似性が認められれば、そのとおりかもしれません。
ただし、私は今のところ、基礎技術は伝来だが、応用を日本でしたため独自性があるという
考えです。
647 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:22:11
>>642 若狭湾方面にはその時期の朝鮮半島系土器は全く出てこないと思う。
だから大半は九州経由の間接的交易かなと思う。
あるいは出雲には半島系土器が少し出るから出雲経由かもしれないが。
恵也は何か勘違いしているが近代以前の中華思想は面子や大義名分が第一なんだが。
清が近代化が遅れて列強の進出を許したのも旧来の中華思想の面子から抜け出せなかったのが一因だが。
>>646 いや須恵器は百済系でもありません。
百済にまだ支配されていなかった全羅南道の土器工人と、加耶の一部の金官加耶の土器工人がやって来たようです。
器形の類似いや酷似で言えます。百済中枢の土器はかなり違う様式で、それならまだ新羅が近い様式です。
むしろ4世紀までは強国の金官加耶が新羅や高句麗の圧力で5世紀前半に弱体化し、金官加耶からの亡命集団や難民があったとも考えられいます。
また全羅南道の工人の渡来も百済の南下政策による玉突き的な亡命や難民と考えらるのも一案でしょう。
その百済の南下政策の背景には百済と高句麗が戦争があり、百済が押されている状況がありますが。
650 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:48:19
>>646 人質について来て云々という説にこだわるのは止めた方がいいと思います。
651 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 21:06:20
ぷぷぷ・・・・ぶわっはっはっふわっはっ・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ぶぶぶ・・・・
652 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 21:32:04
>>647 名無しであろうとコテであろうが、IPは同じ そのくらいは判るよな
653 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 21:42:59
>>648 >恵也は何か勘違いしているが近代以前の中華思想は面子や大義名分が第一なんだが。
あなたは1700年昔のことを「中華思想」の一言で区分けしたい単細胞のようだ。
当時の魏は三国時代で、一歩油断すれば国家滅亡の危険性があるバランスの時代。
面子や大義名分も内容を伴ってこその言葉。
内容の無い面子や大義名分を重視しだしたら、権力者の腐敗の始まり。
今の日本の検察庁はそこまで腐敗してるようだぜ。
負けに腐敗した方の検察庁を庇ったのが小泉総理!
「中華思想」というより「権力者思想」というべき。
歴史は今を見れて役に立ってこその歴史学。
今の役に立たない歴史学なんて屁みたいなもの。
−−−−−(引用開始)−−−−−
検察当局が過去のウラ金作りを認め、国民にきちんと謝罪すれば、最終的には評価が
高まったと思います。それを首脳陣は判断ミスで徹底的に隠した。真実を追及しなけ
ればならない検察としては一番やってはいけないことをしてしまったのです
http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2003_07_02/content.html インタビューする予定になっていたある人物が、
直前になって会うために用意していたホテルに
来れない状況になってしまったからです。
なぜか?
それは私に会う予定の数時間前に大阪地検特捜部に
逮捕されてしまったからです。その人物というのは今日の夕刊から
派手なニュースの主人公になっている、大阪高等検察庁の公安部長、三井環氏(57)です。
http://www.1101.com/torigoe/archive/2002-04-23.html
654 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 21:46:44
あのな人を単細胞という前に、
当時の尺や歩を知らなかった歴史素人は誰だよw
恵也=プラムは確定。
中国史を全く知らない素人が何言ってるんだか(嘲笑)
恵也=プラムがいなくなるまでスレ休止だな
658 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 21:54:45
>>646 >私は今のところ、基礎技術は伝来だが、応用を日本でしたため独自性があるという考えです。
独自性の無い製鉄技術なんて、存在するものかね???
どこの技術者だって、独自性は常に加えるのが常識。
卑弥呼の時代にでさえ、邪馬台国では矢じりに鉄を使っていたんだからな。
それを刀にする技術力というなら、当時は欠けていたかも知れん。
しかし基礎技術という点では、卑弥呼の時代にも存在してたと思う。
−−−−−(引用開始)−−−−−
木弓は、上が長く、下は短く、鉄の矢じりを使う。(海南島の)耳や朱崖などの都と同じである。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
>>646さん、恵也=は相手にしないことにしましょう
660 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:02:06
「引用開始」とかプラムと同じだな
本筋でない話に粘着し、自分の不勉強を棚に上げ人をあげつらう。倭人伝と地図上だけで妄想を展開し、学史を全く無視し強弁する。
少しはマシになればいいのに恵也=プラム。
まともになれないからプラムなんだろうがw
662 :
恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/10/09(月) 23:08:04
>>654 >当時の尺や歩を知らなかった歴史素人は誰だよw
あなたは今でも歴史の素人。
尺とか歩とかいう単位だって、単純に信じるのは馬鹿に過ぎん。
豊臣秀吉による検地までは日本でも、諸国の単位がバラバラに変化して絶対数字が判らなく
なっていたんだぜ。
欲が絡めば単位だって、適当に変化させるのが人間の業。
魏の時代の長さの単位で歩というのがあるそうだが、俺はまだその数字を信用してない。
ソースを俺は見てないからだ。
メートル法でさえ、1mを規定する為のワザワザ見本メートル原器を作り博物館に飾った
のを知ってるかい?
欲があったら権力者はすぐ、基本ルールの長さまで変更するのが本能。
だから卑弥呼のお墓が直径50mなのか、140mなのか結論はでてない。
−−−−−(引用開始)−−−−−
地球の子午線一周の4000万分の1を1mとしたことになります。
そしてこれをもとにメートル原器というものが作られました。
http://www.hokuriku.ne.jp/fukiyo/math-osy/meter.htm
663 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:31:00
271 :太国 :2006/10/09(月) 23:08:07
余は麻雀はやらない。
お前は「地獄の道犬師」か〜?ww
2朝並立をあざ笑うとなれば、お前は猫の額の知識だと明智君に笑われるぞ。
お前はせいぜい個人攻撃しかできないようだな?無能の論無しだろう?
それに、よりにもよって神社・仏閣板でわめくなどとは、まさに神社仏寺内で
神官僧侶を大声でののしるようなもので、少しは慎んだらどうなんだ?
もっとも、過去に余に大負けを喰っていた犬国さまか?w
ハハッw、そう言えば犬国の称号を授与されたそうではないか?ww
これだけ制止を振り切って平気でやるとなると、お前はチョンじゃあるまいか?
と思考するんだがねぇ〜? アリランマン君? どうだい?
魏時度量衡
一尺=約24pは不動です。
日本の1尺は30cmだけど・・・・
666 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:41:49
>>621 >また6世紀に日本で製鉄が確立するまでは鉄資源は朝鮮半島に求めていた。
弥生後期の熊本県阿蘇では、すでに近辺で取れる褐鉄鉱(リモナイト)を使い、
製鉄が行われていた。また、原料を朝鮮半島で入手したとしても、
別に何と言うこともない。現在でも鉄の原料は外国に求めている。
隋書には、次のような文章がある。
新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
朝鮮半島経由でやってきたものも多かっただろうが、これを見ると、
当時の日本はかなり先進地だったことが伺える。
>>665 >日本の一尺は30p
>>邪馬台国関連には直接関係ない話
669 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:51:41
>618
>鏡などの青銅器や玉、石製品など宝器あるいは威信財がもたらされているが、例えば倭では鏡が第一に重視されるが、加耶ではそこまでのものではない。
>耶の首長墓では陶質土器と鉄器の大量副葬が第一で、倭系威信財はそれに彩りをつける第二のアイテムだ。
>から倭軍がいて加耶を支配していたというのはまずない。
日本国内ですら倭王権の軍隊が各地に駐留していたなんて考古学的証拠はほとんどない。
だいたい倭王権の勢力範囲は、前方後円墳や威信財の分布で推測するのが普通なのだが。
そもそも倭王権は豪族連合(と推測される)であって、軍隊が駐留しないと勢力範囲
でないというようなヨタ話は論外。
>625
>倭系の砦は全く発見されていないが。
そんなものは、日本国内でも見つかっていない。
倭王権の勢力範囲は、前方後円墳や威信財の配置で推測するのが通常。
半島地域だけそういうダブスタを設けるのは政治的配慮以外の何者でもないんだよ。
>製鉄技術については、朝鮮と別系列なので、日本独自か中国から直接かの
>どちらかです。村上恭通とかが何回も述べていることです
なことは、言ってないだろうが。
大陸にはありえない原始的なものとはしているが。
670 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:57:21
>>639 宇土市や城南町、もっと広く見ると八代あたりまでは
古代のかなり重要な地域だと思う。
火の国発祥の地と言われるから、倭人伝の5万戸は?としても、
投馬国としてもふさわしい土地と思う。
邪馬台国はあまり限定せずに、宮崎平野といったほうがいいのでは?
個人的には邪馬台国の位置として宮崎平野に疑問を持っているけども、
倭人伝の記述に可能な限り忠実にという意味では、それが一番だと思う。
倭人伝の記述ではどう解釈しても畿内には行き着かないから、
畿内説の人は邪馬台国までの行程・日程の議論を避けたがっているふしがあるけども。
>>661 >自分の不勉強を棚に上げ人をあげつらう。
あなたは本物の勉強をしてるのかい?
ただの先人の知識の丸暗記を、勉強だとでも思ってるのじゃないかな。
672 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:08:10
>>668 そこまで自作自演して何が楽しいの?
どうしようもなく心が病んでいるとしか思えない。
携帯とPCを交互に使ってIPを変えてるんだろうが
発信アドがまるっきり同じじゃないw
で
>>671なんかプラムフレーズ全開だぞ
せめてもう少し文体を工夫したらどうなんだろうんねぇ。
>>669 よく文脈見ろよ。
砦ぐらいあればいいと書いた椰子がいた訳だが。
次にまず加耶に前方後円墳無いよな。
倭に当時、4世紀だが、陶質土器の大量副葬無いよな。鉄器の大量副葬も加耶ではある程度の首長墓に普遍的だか倭では大王墓級のメスリ山とか僅かしかない。
倭では鏡や石製品が前期古墳で最重要だが加耶は必須アイテムじゃない。
だいたい加耶でふつうの木郭は倭では珍しい。墓制があまりに違う。
前方後円墳体制の外だろが。
またそもそも倭の中の前方後円墳の分布の意味についても諸説ある訳だが。
>>669 倭系威信財があるから倭王の勢力範囲という単純論理なら、加耶系の鉄製品を持つ古墳は金官加耶の勢力範囲だな。
前期の短甲や一部の鉄器は加耶系。また筒型銅器の最近の傾向からはこれも加耶系。前期倭王権は加耶の支配下かよ?違うだろ。
また中期後期古墳は、大加耶系、新羅系、百済系の威信財が倭で広く分布するが、その場合例えば新羅系の装身具のある古墳や地域は新羅の「勢力範囲」か?
国内の威信財分布とは違う体外的な王どうしの親交がある訳だが。
プラム=恵也の自演漫才乙w
>>666 阿蘇の褐鉄鉱だが弥生に製鉄できたかどうかは意見が分かれいる。もしできていても肥後あたりの弥生末前後の地域的状況で、全国に鉄を供給したような状況にはない。
また隋書だが倭が先進国というより珍品が多いということじゃないのか。
677 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 02:06:13
>>670 宇土といえば、宇土で取れるピンク色した阿蘇凝灰岩も興味深い。
畿内の大王クラスの棺にも使われている。
宇土のピンク石の利用は5世紀後半から。邪馬台国時代と無関係。
また宇土の前方後円墳系列も4世紀前半以降。
679 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 09:05:44
日本の一尺は30p ではなくてどれくらいにしておきましょうか
恵也あらためプラムです。よろしくお願いします。w
682 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/10/10(火) 10:50:56
683 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 13:47:56
プラム=恵也がいなくなるまで、離脱するので、後はよろしく。
684 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 14:09:30
↑
永久に離脱してろよ
685 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 14:10:20
(]]]])
686 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 17:01:37
プラム=恵也が来ると、このスレの本来の議論が止まってしまう。
プ=恵は自分で立てたスレがあるんだから、そこに棲息すればいいのでは?
687 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/10/10(火) 18:18:08
>>686 それは誤解だ
間違った認識の元に行われる議論は、無意味の一言に尽きる
それを修正するレスをカキコしたまで 修正されれば消え去るのみ
ここに常駐するほど暇ないのでね
IP
ずっと一緒だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
689 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/10/10(火) 18:27:00
>>688 IP覗いている君なら
ダブハン使用していないこと判るよな
690 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:07:06
>>687 正直、議論にならないのでね。
誤りを指摘しても改めず、自説を繰り返すだけで議論が噛み合わない。太国にも言えることだが。
691 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:17:14
邪馬台国は九州でいいから、畿内王権の話をしようよ。
692 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:17:50
ここは議論の場であって、自説を垂れ流す場所じゃない。
そういうのは自分のホームページでやりなさい。何か変なの作ってたよね、確か。
あとさ、自分が相手にされないからと、
邪馬台国関連スレを乱立させた責任もあるよ、君には。
そのスレで、思う存分、自説を展開したら?
まあ、その結果閑散スレになり、寂しくてここに来たんだろうけど。
693 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:34:00
で、畿内の話だが、
鉄器については、出土が少ないのであれば、少ないということで問題ない。
王権誕生と鉄器の多さを結びつけるのは無意味。
事実、鉄器が少ないのに、畿内王権が誕生したのだから、事実を優先すべし。
土地の開拓にしても、奈良はもともと湿地だから、石器で十分開墾できたはず。
もともと鉄の無い時代が長く続いていたのだから、鉄器が無くても十分やりくりできたはず。
多少の鉄器もあっただろう。
が、鍛冶屋なんて、奈良に2,3軒あれば十分だろ。
毎日、大量の鉄をトンテンカンしなければならないほど、鉄不足とは思えない。
鉄が必要なのは木を加工する時くらいだ。
どうしても必要な農具などは、九州から買えばいい。
鉄器より加工品のほうが、よほど安く手に入るし、現実的。
奈良は古墳時代まで湿地帯だった。だから、奈良の中央部には古墳が無い。
唐古・鍵〜マキムクあたりで、湿地の農地化が急速にすすみ、
農地を求めて周辺から多くの人々が移住してきたのだろう。
アメリカ大陸にヨーロッパ人が移住したように。
その比率は、搬入土器を見ればわかる。
マキムクの搬入土器の場合、
約半数の49%が東海系の土器で、北陸系と山陰系が17%、
河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、近江系5%、西部瀬戸内系3%、
播磨系3%、紀伊系1%となる。
九州?シラネ。
694 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:55:14
>>693 なる程という部分が多い。
大和中央部の湿地帯の東側周辺部に集落が生まれ、
その集落を結んだのが山辺の道になる。交易を通じて親密になり、やがてひとつのクニになった。
このクニが初期ヤマト政権の母胎になったのは、おそらくそうなのだろう。
695 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:00:27
伊都国の近辺にあったとすれば、必ずそこまでの距離が書かれていたはずです。
『(帯方郡より)水行20日にて投馬(出雲)国に至る。そして陸行すれば1ヶ月で、(主に)水行すれば10日で邪馬台国に至る。距離は1万2千里ぐらいある。』と解釈されます。
つまり、陳寿の編集ミスにより日本人は古来より様々な誤解をしてきたのです。
魏志倭人伝を読めば邪馬台国が九州に無いことは確定だろ
696 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:03:47
>農地を求めて周辺から多くの人が移住
これもおそらくそうなのだろう。
彼ら移住者たちが、初期ヤマト政権の中核を担ったことも想像に難くない。
この図式って、二百年後、同じことが河内湿原で行われているよね。
ヤマト政権っていうのは案外、そういった農地開拓集団。
もしくは、ひとつの壮大なプロジェクトだったのかもしれない。
697 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:04:59
紀伊の堅田遺跡前期環濠集落跡から、
国内最古の青銅器の鋳型(ヤリガンナ)が見付かってる。
銅器のヤリガンナでも、それなりに実用性があったんだろう。
698 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:11:18
>>693 その搬入土器の割合はず〜っと昔の円グラフから
引っ張り出してるんだろうけど、今では明らかにおかしいよ。
だいたいそのグラフのもとになった土器の個数からいって、
パーセント単位で出していいようなものなのかね?
で、阿讃系は0%ですか。東四国派にはつらいな。
699 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:13:02
>>698 確かに20年以上前のデータだけどな。
新しいデータを知ってるなら、教えてくれよ。
700 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:23:19
>>699 橋本氏かその周辺が作ってるんじゃない?
慎重にやると時間はかかるだろうけど。
「大和・マキムク遺跡」の座談会で、
「いまものすごく増えているのが阿波の土器
・・・四国系土器で括っていたのがほとんど
阿波系で、讃岐系1点に対し阿波系10点」
とか言ってるんだから、その割合はありえない。
701 :
696:2006/10/10(火) 20:30:05
で、結局何が言いたいかと言えば、庄内初期の大和に突然王権が生まれた訳じゃなく、
弥生後期を通じて人口増加、富の蓄積が行われた結果としてなのだろう、ということ。
マキムクの地がなぜ都に選ばれたかと言えば、そこが一番豊かだったから。
702 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:31:13
>>400 割合が、ありえないって言っても、搬入土器の多さは、
四国と四国以外じゃ、その差は歴然だろう。
東海系より、阿讃系の方が多くなったりしてますか?してませんね。
703 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:34:26
>>702の
>>400は、
>>700のアンカー違い。
>>701 >マキムクの地がなぜ都に選ばれたかと言えば、そこが一番豊かだったから。
君としては、四国勢力が弥生後期にマキムクに素地を作ったというわけ?
証拠はあるの?弥生後期の四国系土器が多いとか?
ひく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・い
705 :
696:2006/10/10(火) 20:45:30
東四国を、私はそれほど過大評価していません。あくまで畿内経済グループの一員程度で。
見る銅鐸の出土状況からも、古くから畿内と親交はあったと思います。
マキムク誕生以降、三角縁が出ないなど、畿内からの冷遇が見られますが、
それは、新たなパートナーとして吉備が選ばれ、阿讃地域の地位が相対的に低下したためと考えます。
706 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/10/10(火) 20:55:06
>>693 心配御無用
このレベルでは常駐する意味無いし、他で元気にやっているから
余りの酷さに お節介がてら訪問しただけ
ではまた酷くなったら(何時も酷いけど)
>>672 >携帯とPCを交互に使ってIPを変えてるんだろうが
>発信アドがまるっきり同じじゃないw
何の意味か全く分からん!
心が病んでるのはあなた自身じゃないの?
発信アドとかいってるけど、自分自身で確かめて
自分自身の検索能力を確認してから書き込みなさい。
脳内妄想もタイガイにしておくように。
708 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/10/10(火) 21:10:07
>>707さん
無駄だよ
ここの連中に何言ってもムダ。ネタなんて何でも良いのさ
何かアラ見つけて馬鹿にしたいだけだから
言ってもムダ
709 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:11:25
そっくりだね(^^)
あの人とあの人とあの人 あの馬鹿の方がよかったのかな?(^^)
710 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:25:15
あの人とあの人はいつも一緒に出てきて、一緒に去っていくもんね。
これでジサクジエンがバレないなんて思ってるなんて…
正真正銘の知能障害でつか?
711 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:31:57
そうでつね 知能障害だよね(^^)
712 :
彼都:2006/10/10(火) 22:23:41
僕も、プラムに生み出された別人格の一人です。
713 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 22:33:08
一応ローカルルール
・PUは来てもスルー
・文献・考古を絡めた話題を作るのが王道。文献の解釈にだけ集中したい人は
「邪馬台国はどこですか」スレへドゾー。
・体系的に自説を書きたい人はHN付けること。
714 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:05:36
あと馬鹿は攻撃する!
715 :
713:2006/10/10(火) 23:11:18
716 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:11:42
ホケノは、萩原周辺の墓制との関連で
阿波関係の人を埋葬してると考えられてますね。
それから、ある種の布留の拡散の担い手は阿波の人。
舶載画文帯の優品がいち早く埋葬されたのも萩原や阿王塚。
鏡って、枚数じゃなくて質が重要なんだけどなあ
これくらい証拠あれば、何があったか
分かりそうなものだけど。
分からない人は、近いうちに面白い遺物がでてくるから、
それからようやく気づいてください。
717 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:16:46
>分からない人は、近いうちに面白い遺物がでてくるから
本当ですか。期待して待ってます。
画文帯については畿内中心に出土してますから、余り阿讃地域を強調するのは
どうかと思いますが。
718 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 00:55:26
搬入土器の意義については、過去、一度議論になったことがあったよね。
なぜわざわざ、遠方から畿内まで重い土器を運ぶ必要があったのか?
マキムクの現地で製作すればいいじゃないか、と。
結論は忘れたけど、搬入土器を単純に、外部勢力の入植と考えるのはどうか
と思います。
土器が僅かだけど九州が無関係とは思えない。逆説的だが。
720 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 01:12:30
>>719
勿論無関係じゃないと思いますよ。
鏡信仰は明らかに北部九州の影響ですし、奴国の那珂八幡古墳も
庄内期築造であって、開始期のマキムク型ですから(最古じゃないですけれど)。
搬入土器を、米や発酵食品など保存食を、地方からマキムクへ運ぶ器と
考えれば─
北部九州は食料よりもっと高価で搬送に便利な鉄製品や
鍛造技術を輸出したために、搬入土器が殆ど発見されないとも言えます。
ただ、伊都国ヒラバルの信仰はかなり特殊なので、伊都国とマキムクが友好的で
あったかどうかは疑問に思います。
むしろ、マキムクに反抗した最後の女王だったんじゃないでしょうか?
邪馬台国九州説の可能性が残されているとすれば、ヒラバルじゃないかと思います。
721 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 01:29:43
>搬入土器を、米や発酵食品など保存食を、地方からマキムクへ運ぶ器と
>考えれば─
大体それで合ってると思う。
あと、塩と海産物を追加。
万葉集に詠われる「御食国」は伊勢・志摩・淡路。
あとは若狭とかが有名。
ヤンバルの方が可能性高い
723 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 06:02:53
万葉集で、九州から何かモノを買ってるとかってあった?
防人を送ってた歌はあったと思うが。
>>695 >(帯方郡より)水行20日にて投馬(出雲)国に至る。そして陸行すれば1ヶ月で
根本的に間違い!
どうやって陳寿が倭人伝を書いたのかの、根源的思考がない。
役人として、後世の人間が邪馬台国に行くための参考資料として「魏から邪馬台国に行った使節団」
の日記を調べて役人の仕事として書き記したもので、船で行けば何日で歩けば何日とか言う又聞きの
噂を聞いて記したものではない。
そんな又聞きの噂を書いてたら、後世の人間を迷子にする事はあっても邪馬台国に案内する役には立たん。
記録としては
●西暦240年の、魏皇帝が邪馬台国に与えた、詔書や金印を持たせ邪馬台国に派遣した使節団。
●西暦245年の、魏皇帝が難升米に与えた、黄色い旗。
●狗奴国との紛争で仲介させた張政が、邪馬台国に言ったときの記録
それらの人々の記録を参考に、邪馬台国に行く案内地図として書いたのが倭人伝なんだよ。
邪馬台国に行った事もない陳寿に出来る事は、当時現存してた記録を調べ正確に書くことで
「タラ・レバ」とかいう又聞きの噂を書き残すようなことは考えられない。
>>695 >距離は1万2千里ぐらいある。』と解釈されます。
この1万2千里というのは全行程であり、倭人伝にでてくる個々の距離を合計すると1万7百里になり
その差1300里が距離を書いてない間の推測距離と考えられる。
1300里を、20里を1kmとして計算すると65km
九州を横断するだけの距離にしかならないけど、まあ著者が山勘で書いただけの数字だろう。
726 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 10:34:00
ガイドブックまるまる信じて旅行するやつはいないよ。
普通は、現地の人に「海を渡りたいけど、船はいつでるか?」という話から始めるだろう。
「何日分の食料がいるか?」にしても天候に左右される話だから現地の人に聞くのが早い。
方角にしても、まっすぐ南だとか東だとか直進できるわけない。
途中には山あり谷あり川あり海ありだ。迂回すれば距離は倍に伸びる。日数も延びる。
現地の人に聞きながら案内してもらうのが確実。
>>726 >現地の人に聞きながら案内してもらうのが確実。
現地の方に聞き、案内人兼通訳に使われてる生口に先導させて移動しながら日記を書いていくもの
必要に応じて雇う事もあっただろう。
それでも現地の方の話を、そのまま日記に書いても屁のツッパリにもならない。
使節団が自分の身で確かめたことを日記に書き、その日記を参考に陳寿が倭人伝を書いたもの。
魏が何かのときに、邪馬台国を助けたり征服したりする時にも使えるだろう。
邪馬台国が援軍を求めたらしいけど、魏の軍勢がそこまで行くかどうかの目安にもこれらの日記は
利用されたはずだが結局、援軍は送られなかったようだ。仲裁人として張政という人を送ったが。
たしかに邪馬台国まで行く軍勢の費用だけでも莫大なものになりそうだよ。
倭人伝を読んだら、俺が魏の皇帝でも遠慮させていただく。
728 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 11:49:58
>使節団が自分の身で確かめたことを日記に書き、その日記を参考に陳寿が倭人伝を書いたもの。
伝聞伝聞じゃ、正しく記録されるわけないだろ。
支離滅裂だな
>>727
729 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 12:00:12
日本列島の古代国家が近畿の勢力を中心に形成されたことは古墳のあり方からも
確かな事実である。この矛盾を説明する手段として、「東遷説」が戦前から和辻哲郎
らによって唱えられてきた。しかし最近の弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての
土器の移動に関する研究の進展の結果などからも、九州勢力の東遷は考え難い。
報告者は、朝鮮半島東南部の鉄資源や中国鏡をはじめとする先進的文物の輸入
ルートの支配権を北部九州勢力から奪取するため、近畿から瀬戸内海沿岸各地の
勢力がヤマトの勢力を中心に連合したのが、広域の政治連合形成の契機になった
ものと考えている。こうして成立したものが邪馬台(ヤマト)国を中心とする倭国連合に
ほかならない。また最近では、定型化した大型前方後円墳の造営年代が3世紀中葉
すぎまでさかのぼるものと考えられるようになり、古墳造営の背後にある連合政権
としてのヤマト政権も、邪馬台国連合からストレートに繋がるものと考えられるように
なった。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/164.gif
>>726 >方角にしても、まっすぐ南だとか東だとか直進できるわけない。
一定の方向に移動する場合は、記録できるよ。
船の移動にはダイタイ方向が書いてあるだろう。
陸の移動方向では最初、北九州の頃の「不弥国」まではダイタイの方向がつかめていたようだが
九州横断の項には、全く書いてない。
俺の考えでは真東の最短距離を移動したと思うけど、現在の正確な地図を見ても又、今の広い
国道でさえ南東に行ったり北東に行ったり場所によっては真北になったり何度も入れ替わってる。
それも1ヶ月もウロウロしたのでは、方向感覚も無くなる。
よってこの部分では方向を使節団が書かなかったのは当然のこと。
>>728 >伝聞伝聞じゃ、正しく記録されるわけないだろ。
言葉は正確に使いなさい。
著者の陳寿はお役人として書いたのだから伝聞じゃなくて、使節団の日記などが現存してたもの
からの調査というべき。
伝聞とは人から話を聞いて書くことで、書類を自分で調査して書くことではありません。
お役人の調査資料を伝聞の伝聞というのは、完全に間違い!
>>729 >土器の移動に関する研究の進展の結果などからも、九州勢力の東遷は考え難い。
土器の移動と九州勢力の東遷とは、ほとんど関係がない。
土器の流行の移り変わりというべきで、政治権力の移動とは別問題。
たとえたら絵の流行みたいなもので、数千年後にピカソの絵が大量に日本のお金持ちの墓から
発見されたから、日本はスペインの政治権力が及んでいた証拠とするようなもの。
文化の影響と、政治権力の影響を同一視してるオバカナ論理!
>>678 >また宇土の前方後円墳系列も4世紀前半以降。
宇土の古墳は、宇土の人口の多さの証明。
卑弥呼の時代にもその大量の人口を養えるだけの、平らな農業地帯があったと見るべき。
投馬国に5万戸の家が建ってたというから、20万人くらいはいた事だろう。
それだけの人口を養える平らな土地で、緑川河口のデルタ地帯で、交通の要所とすれば宇土
ならバッチリ合う。
邪馬台国でさえ7万戸、28万人くらいの都市だったんだからな。
734 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 13:47:45
>>729 大和邪馬台国時代日本最大前方後円墳の建設後、鉄廷という製鉄原料が
沖ノ島・瀬戸内経由近畿に流れるようになる。従来の壱岐・伊都国ルートは
大和の厳重な監視下鉄の流れが止まってしまった。この経済効果はとてつも
なかったことであり、やがて大和の本格的九州制圧が開始される。
735 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 14:11:24
九州は大和邪馬台国に制圧された
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten3yamatai.htm しかし弥生時代にあれだけ多くの鏡を出土した伊都国地域では、古墳時代以降の鏡の
出土は激減します。比較的大量の鏡を出土した一貴山銚子山古墳は4世紀後期の古墳
であり全くの畿内型古墳です。従って伊都国はヤマト政権成立後、早い段階に征服
されたか、もしくはその中核が大和に移動したと想定できます。糸島地域では御道具山
古墳を初現に、前方後円墳が築造されますが、この地に前方後円墳が出現したことが
非常に重要な意味を持つことだと考えています。纒向型前方後円墳の成立過程より
推察すれば、前方後円墳が「大和政権の墓制」であるとの蓋然性は高く、その前提
に立てばこうした前方後円墳の成立はその地域勢力がヤマト政権と同盟関係を築い
たか、あるいは支配下に組み入れられたかとの見方が可能となります。
736 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 14:21:11
卑弥呼がもらった鏡は、画文帯神獣鏡だと思う。
画文帯神獣鏡は、畿内のほうがよく出るしな。
737 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 14:27:02
楽浪の画文帯神獣鏡を共有するホケノヤマ、鳴門萩原等の阿讃播到着はその
約半世紀前に楽浪を訪問した倭面土国帥升使節団との間に何らかの政治的
軍事同盟のようなものがあったのではないか。
738 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 14:33:51
卑弥呼の好物とされる鏡は多分画文帯神獣鏡であり、大和の鏡作りは
これを基に銅鐸、銅剣等から三角縁神獣鏡を作り始めるのであろう。
739 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 14:40:01
楽浪勢力は神獣の辟邪の意義は十分に承知しており、葬送儀式として卑弥呼に
伝えたのではあろうが、葬具としての鏡の分配、古墳建設指導による国土統一
というシステムを推進したのは遠賀川・周防灘方面の勢力であったのではなかろか。
740 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:09:14
妄想の垂れ流しはやめようぜ
741 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:37:04
画文帯神獣鏡は、魏の敵国である呉の鏡と言われるしね。
三角縁神獣鏡も呉の影響を受けた鏡らしい。
742 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:57:20
鳴門萩原の付近に阿波国の古社大麻比古神社があるが、古代の忌部氏に縁りの神社
であり、ホケノ山もこうした系統であることは大いに考えられる。卑弥呼の鬼道はこうした
画文帯神獣鏡集団の教義を取り込んだのかもしれない。
743 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:11:47
>>738 景初の詔に出てくる「汝好物」は、ふつう「汝の好む物」と読める。
すると、卑弥呼が生まれてこのかた、もし一度も一枚たりとも「鏡」というものを見ていなかったら、「好物」という表現はあり得ないのではないか。
つまり卑弥呼はすでに、銅鏡に対する違和感を持たない土地柄に育っていた、そして、
「ねえ、もっともっと銅鏡、いただけませんか〜♪」
と魏帝におねだりした──、そう考えられないだろうか。
744 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:30:47
>>743 いろいろ鏡がある中で、特に画文帯神獣鏡を、絶版になっていたら鋳型から起こしてでも
欲しい、というようなうるさい注文であったのでは。内行花文鏡よりは難しいと思うがね。
745 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:39:10
>>741 だからなに?
魏の鏡で、卑弥呼の鏡と想定される鏡ってどれだい?
それに、呉の鏡といっても、敵国の宝物は略奪することはあっても、
毛嫌いして捨てるようなことはないよな。
敵国の宝物であるからこそ、所持することがステータスになることもある。
746 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:42:45
>>744 画文帯神獣鏡を、(景初の使者派遣以前に)卑弥呼は、すでに見知っていた──ということですか?
747 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 17:04:44
>>746 いくら古代人でも、踏み返しレプリカ程度は残せるもんね。神獣・辟邪の能書きが
鬼道の一部だとしたら、例えば黒塚の葬儀の後でもお経のようなものだからどこか
で保存されていたと思うな。
748 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 17:29:15
方格規矩四神鏡が卑弥呼の鏡だという人も多い。中国の学者もそうではないかと
言っていた。この鏡には、尚方作鏡と書かれているものが多い。
尚方というのは、王室専用の工房のこと。
方格規矩四神鏡というと、玄海灘沿岸で大量に見つかっている。
しかし、平原遺跡の20数枚の方格規矩四神鏡は日本製らしい。
柳田康雄氏がそういう見解を出したといわれている。
日本ではかなり古くから鏡作りの高度な技術があったと思われる。
そのような日本に魏がくれる鏡というのはいったいなんだろう?
普通の鏡をやったのでは魏の威信にかかわるような気もする。
三角縁神獣鏡は魏鏡ではないだろうし、中国製の方格規矩四神鏡もまとまって、
大量には見つかっていない。
卑弥呼の墓に全部副葬されたのか、それとも諸国の王や臣下に分けられたのか。
倭人伝には、銅鏡百枚は、もらったものの最後のほうに書かれている。
あまりたいしたものではなかったのかもしれない。
>>729 白石説ね。白石氏は、九州の情報に疎いと思う。他の近畿の学者でも言わなくなった大和の九州制圧という単純モデルをまだ言ってる。
寺沢氏などの畿内自生説批判無視だし。
マキムク型にしてもその祭祀型式の諸要素が全く大和に無いのにね。その辺りも説明無いし。
鉄の入手ルートを奪取とか全く根拠ない。村上氏の批判も黙殺だし。
朝鮮半島の交易ルートを九州勢力を排除して奪取という割には、朝鮮半島系土器がこの時期畿内に全くといってもいいぐらい出ないんですが。
ごく僅かはあるけどね。
畿内が九州を飛び越えて公孫氏と結んだとかいうけど、楽浪土器なんかな畿内で全くないでしょ。おかしいでしょう。ところが一方、伊都や壱岐では庄内平行までたくさん楽浪土器出てるみたいですが。
少なくとも庄内に入ってから急に減ったとか無いでしょ。
要するに単純に畿内が九州を制圧したとかいうのはダメでしょう。
750 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 17:44:21
武力は関係ないだろ。
経済の中心が大和に移っただけ。
当時の経済は、何を中心に動いてたか?
鉄では無い。
米だ。
>>736 >画文帯神獣鏡は、畿内のほうがよく出るしな。
邪馬台国が魏から貰った鏡は100枚プラスアルファだ。
今まで近畿地方から出た神獣鏡だけでも、それをはるかに凌駕するだろう。
むしろ邪馬台国が貰った鏡を帰化した中国人技術者や日本の技術で、日本製の神獣鏡を作り大量
に流通させたと見るべき。
その当時、神獣鏡がお金持ちの間で持てはやされて、死んでからも悪霊のお守りとして高価な
値段で取引されたとしたら俺だって、研究して作ってやるよ。
種子島から伝来した鉄砲でさえ、高価な値段で取引されたら50年で世界有数の鉄砲保持国にし
朝鮮にまで出兵し、中国まで征服しようかと言うほどになってしまったんだぜ。
卑弥呼の時代から古墳時代が始まったとしたら、100年後くらいの仁徳天皇のお墓にだって日本
製神獣鏡をどれだけでも作って入れれるぜ。
神獣鏡は邪馬台国の位置決定には、全く影響しない!
これらが多く出たのは、近畿に経済発展があり大規模な古墳が権力者に流行していたというだけの話
−−−−−(引用開始)−−−−−
三角縁神獣鏡は国内で、古代中国製の画文帯(がもんたい〉神獣鏡や画像鏡をスタンプのよう
にして鋳型を作り、その周囲に三角の縁を付けて作ったもの。
今回の黒塚古墳の鏡は、画像鏡の文様に国内特有の笠松文様が加えられているため、中国製の
鏡を元に鋳型を作って、さらに国内で文様を付け足したとみるべきだ。としている。
http://www.begin.or.jp/sakura/kurotuka3.htm
752 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 18:42:31
>>751 おまえ、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の区別もつかないのか。
哀れだな。
753 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 18:48:48
単純な畿内自生説も、北部九州の東遷説も、どちらも違うようだ、ってのが、最近の流れ。
このスレの住人の殆んどがそうだろう。その先の議論をすべきでは?
北部九州や吉備の影響を強調するより、東海や東瀬戸内に着目することになるだろう。
754 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 19:24:27
畿内勢力を一固まりとするから見誤る。
大和川水系、淀川水系、紀ノ川水系の三つ巴だっただろう。
紀氏の台頭は五世紀以降。同族とされる葛城氏の勃興と同じ時期。
つまりこの頃まで、紀ノ川水系はヤマト政権に完全には服属していなかったと見る。
紀ノ国こそ狗奴国だったのではないか。
755 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 19:46:34
マキムクの造営状況を見る限り、何らかの政治変動があったとみるのが自然。
唐古鍵中心だった畿内の政治体制に、庄内開始期に激変があったのだろう。
記紀で最初に三輪山山麓に宮を造ったのが崇神天皇。ハツクニシラスと呼ばれ、始祖王に相応しい。
崇神が外来系の簒奪者であったとするなら、どの地域の出身者であったのか?
おいおい、
恵也=プラムはスルーだってw
757 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:21:54
>724
邪馬台国の所在については文献からは、やはり『魏志倭人伝』から求めるしかないでしょう。
しかしこの倭人伝には問題があります。このいくつかの報告書をまとめて編集したものだからです。
しかも編集をした陳寿は内陸部の蜀の人で倭人については殆ど知識がなかったと思われます。そして倭人伝は『三国志』の中では余談的な部分で本筋とは関係ありません。
つまり作者がどこまで気を使ってこの編集をしたのか判らないのです。特に文章のつなぎ合わせに問題があるとおもわれます。
報告書には次の6つが考えられます。
a伊都国まで行った使者の書いたもの。そこまでの詳しい道のり他が書いてあります。
b239年に邪馬台国まで行った使者の報告書
c248年に邪馬台国まで行った使者の報告書
d249年以降に邪馬台国まで行った使者の報告書
e倭国には行っていないが帯方郡の使者の書いたもの。
fその他
まずaについては陳寿は実際に報告書の簡略版を見て書いたと思われます。内容のディテールが詳細だからです。
bcについては見ていないはずです。事件の肝心の部分が省略されているからです。結局この頃倭国に何が起きたのか具体的に判りません。
dこれも見てないでしょう。外交記録の簡単な記事のまとめを見たようです。
eについては邪馬台国の前史が書いてあったのではないかと思われます。同国までの日数が書いてあったのかもしれません。
fもし地理誌のようなものが図書館にあれば風俗の部分を書いたのかもしれません。しかし単なる風説をそのまま文章にした可能性もあります。
結局aとbcdが一緒になったものにeとfを加えてアレンジしたと考えられます。
いずれにせよ倭人伝の編集にはあまり時間を費やさなかったと思われます。
758 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:37:25
卑弥呼が鏡を好物としたのは、その前の世代
の王がすでに素晴らしい鏡を獲得していたから。
リアルに素晴らしい鏡を見ているわけだよ。
同じような鏡(白銅鏡)を獲得したくて、
楽浪あたりに使者を送ったということでしょう。
上に書いてる人、なかなかよい直観ですな。
じゃあ、楽浪あたりから3世紀初めにに素晴らしい
鏡をもらったのはどこかってことになる。
確実に、そのあたりの鏡といえるのは、萩原の鏡。
なぜなら楽浪出土の鏡の踏返しであることは、
割れ傷から明らかだから。
そのうえ、銅質も上等だし、優品といえるできばえ。
阿王塚では、2枚でてる上にこれまた上等なできばえ。
3世紀初めあたりで、そんなとこ他にあるかね?
魏はきっと卑弥呼が欲しい鏡を特別に作ってあげたんでしょう。
画文帯の景初三年銘、黄金塚の鏡のオリジナルってのが
あるとは思わない?
759 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:00:09
萩原の画文帯、実物かレプリカ見たけど、そんなに凄い鏡に見えなかったが。何より小さいし。
平原はどう考えますか?
呉滅亡後に三国志が編纂されている以上、
倭国の戦略的価値は殆どない。
資料の寄せ集めで適当に書いてるだろ、陳寿は。
762 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:49:35
古代は小国を乗っ取るのが多かったので、力のある強い部族がやってきて簡単に追い出された人は泣く泣く不便なとこに移住した
763 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:51:40
平原遺跡の鏡は全部人為的に割られていたらしい。
また、武器の類がないらしい。だから、女性ではないかという人もいる。
しかし、明らかに女性が埋葬されている古墳からも立派な剣が出ている。
このあたりに鍵があるような気がする。
765 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:26:55
>>764 はははは。
やっぱり、画文帯神獣鏡が何か知らなかったか。馬鹿なヤツ。
767 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:31:39
>>766 おまえ、三角縁神獣鏡が、どうして「三角縁」と呼ばれてるかも知らないんだろ?
768 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:33:02
太国早く返事しろよ!!!!!!!!
769 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:41:51
太国朝からずっとここに居ただろ何処行ったんだ?
770 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:17:21
>>749 同意。白石さんは、完全に突き抜けているね。
現時点での考古学的事実や議論レベルを無視して、ひたすら自説だけを平気で
書き切る勢いは凄いと思う。
寺沢、石野とかは、「この人は自分の考えが正しいと思って主張してるんだろうな。」
という感じがあるけど、白石とか樋口とかは、「ちょっと違う。」と思う。
学者ってのいうのは人生を賭けて真理を求める人種だと思っていたが、その真理が
「事実」ではなくて、「思想」になっているという観がある。
771 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:23:15
相変わらずくだらねぇ議論を続けている馬鹿どもがこの板に粘着しています。
太国早く返事しろよ!!!!!!!!
773 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 08:28:49
当時の状況から考えて、大和が筑紫を制圧したとかはあり得ない。その逆もそう。
倭人伝にあるように、倭国内は緩やかな連合形態が暫く続いたと見るべき。
大王権が専制化するのは、挙国一致で高句麗南下と戦い始めて以降だろう。
774 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 09:35:36
どうして倭が高句麗と戦う必要があるんだ?
答え:倭国が百済の傀儡政権だから。
775 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 09:36:44
776 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:22:55
楽浪の画文帯神獣鏡をもつ積石墳集団が東部瀬戸内海に入ってくるには、コースから
いって先ずは唐津博多を通過したと見て当然だと思う。沖ノ島にいた勢力が対馬から
沖ノ島経由で関門方向に招くという手もあっただろうが。その集団が唐津博多に何の
影響も残さなかったと言うのが不思議だ。これは沖ノ島・河内シーレインが唐津博多
に対抗して、あるいは、軍事的対立のさなかに確立され、そのシーレーンの中で楽浪
のシャーマン集団が日向経由、東瀬戸内海に到着し、これが邪馬台国乃至は纒向
建設に一役買ったということではないか。
777 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:29:31
あれほど支石墓、甕棺墓その他で先進地帯であった北部九州がなぜ古墳文化の
後進地帯に変化するのかを考ええると、仮に戦闘の痕跡がないにせよ軍事的緊張
の下に北部九州の葬送儀礼が抑圧、忌避され、近畿を起源とする神獣鏡・前方後
円墳の影響下に入ったと考えるのが順当ではないのか。
778 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:43:07
邪馬台国時代今の北九州空港辺りにできた石塚山古墳と言うのはそれを中心として
瀬戸内海東部を支配した幻の王国の存在したことを物語る。この近辺の神社古跡の
名称には御許・大元というのが多い。神武関係の神社も多い。倭面土国の倭はオと
読めるし、面は四方の山々のモとも読める。現代北京官話ではくしくもウォーモントゥ
国となる。倭面土国帥升の洛陽訪問こそ後の沖ノ島の占有につながり、シーレーン
の確保が加美久宝持方面との連帯につながったのではないかと思う。海幸・山幸
の話はこれを下に作られた叙事詩であろう。
779 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:56:37
倭面土国帥升の活動を抜きにして楽浪の画文帯神獣鏡集団の大挙
渡来と言う事実は考えられないのである。
780 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 11:59:05
107年にはまだ神獣鏡はほぼ皆無に近い。2世紀末から型式も多様化し量も増える。
沖の島航路が重要になるのは祭祀の始まった4世紀半ば以降。
石塚山は一代限りで、最近の研究では前期初めよりは新しい。
東四国には楽浪土器や韓式が全く無く、独自ルートで北九州を経由せずに楽浪と交渉したとか無理。
古墳初め前後の九州の遺跡の様相は、急に衰退したという状況は全く無い。
782 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:25:00
倭面土国王は超ど級の国際政治化であり、先祖的には唐津博多宗家につながる
ようではあるが、基本的に九州東岸はそれ以遠の縄文系とのつながりの強いところ
で、早くから稲作文化をいれ、多くの渡来要素を吉野ヶ里に抱えるオオシホ(凡肥国)
とは一線を画す民族性がったのだろう。オシホミミの東遷の途中でニニギが生まれる。
ただ唐津・奴国は鹿児島から青森に至る裏日本沿岸部を縄文以来一万年近くも支配
してきた安曇海人族であり、縄文時代には一時諏訪辺りが中心であった。その歴史的
影響力を発揮すれば邪馬台国を包囲し、殲滅できる。しかし、列島の半分が弥生時代
にはいり、関門・近畿方面に隙が生じて邪馬台国建国を許す羽目となった。
鏡重視の葬送儀礼自体が九州起源だが。
平原のは割竹木棺だし、棺の内外での副葬儀礼や、鏡で遺体を囲むとか、前期古墳につながる。
変化する部分もあるが、全く違うというのはおかしい。
破砕鏡にしても九州から広がり、畿内の一部を含む西日本に布留初めまであるが。萩原や綾部山も破砕鏡だが。
鏡式は違うが儀礼は同じ。
>>782 がいやまん、だろ?頼むから論拠不明の妄想の垂れ流しは止めてくれ
785 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:37:06
786 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:41:55
>>781 沖ノ島は先ず最初武力による制圧、給水施設、食料・商品倉庫などが作られ、
その後時代を経て宗像神社の一部としての祭祀施設ができるのであろう。
そういった時間差は自然であり、初めに祭祀施設ありきでもなかろう。
だから根拠無いだろw
2世紀前半に神獣鏡はほとんど無い。
倭面土国王との表記は誤りの可能性があるが。
単に倭国王が原型という説も有力だし、2世紀前半の状況からは実質伊都国王というのが定説。
妄想は止めてくれw
沖の島の調査報告書を読めw
妄想爆発だなw
北巍の例?時代がムチャクチャだなw
論拠の無い妄想は却下
791 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:53:15
792 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:00:54
>>781 >東四国には楽浪土器や韓式が全く無く、独自ルートで北九州を経由せずに楽浪と交渉したとか無理。
やはり、壱岐と、玄界灘沿岸部で調度品は内地化し、阿讃播に移動か。
>古墳初め前後の九州の遺跡の様相は、急に衰退したという状況は全く無い。
この間の事情は海幸山幸の通りで、出雲もいることだし、ニニギの宗家でもあるし、
仲哀の時代まで白銅大型鏡は渡していないし、まー、王権は禅譲か。
793 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:09:15
>>783 >鏡重視の葬送儀礼自体が九州起源だが。
畿内はこれを踏襲したが、差をつける必要があった。だから神獣鏡なんだよ。
>平原のは割竹木棺だし、棺の内外での副葬儀礼や、鏡で遺体を囲むとか、
前期古墳につながる。
これこそ甕棺に代わった畿内のものなんだよ。
794 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 14:59:40
平原被葬者は卑弥呼1世、魏使は伊都国において卑弥呼共立の話を聞いたんだろう。
高木の神と言うか、柱を拝んでいた。イツキ、斎宮の語源は木を祭ることではないか。
イスケヨリヒメ、イチキシマヒメこの辺から来たんだろう。三輪神社にヒメタタラヒメという
名があるがこれは姫の霊を祭る姫ではなかろうか。平原の鏡が割られているのはその姫
の霊をその場所にとどめず箸墓方面に移動させたのではなかろうか。姫は摂津から単身
赴任であらせられてのかもしれない。ヒメタタラヒメからアマテラス誕生までは後一押し
の感じがする。
平原の頃に畿内に割竹木棺なんかほとんど無い。近畿北部はあるが別の文化圏。
だいたい平原の頃はカメ棺はすでに主流墓制ではない。カメ棺が中心だった弥生中期からすでに一部の有力者の棺に割竹木棺がずっとある。
>>791 「開けていた」ことと王権の起源や存在は別の話だが。全く答えになってないし。
>>793 畿内出土の神獣鏡は2世紀末以降の型式を含むのだが、3世紀半ば以降しか出土しない。
また畿内でも神獣鏡以外の内向花文や方格規矩もたくさん出ますが。
神獣鏡だけが特別扱いされている訳じゃないが。
>>794 相変わらず妄想爆発ですねw
798 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 15:36:52
考古学は解釈の介入する余地が大きすぎる。
歴史の大筋はやはり文献に求めるべきだと思う。
799 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 15:37:11
>>795 割竹、舟形が九州から始まると言う証拠でもあるのか?
800 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 15:40:46
>>797 卑弥呼が神獣鏡だけを特別扱いしなかったなんて真っ赤なうそだよ。逆に、したんだよ。
801 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 16:12:17
>>798 文献は弁論、考古学は物証、判決は物証による。
802 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 16:20:14
>>796 ウーン、だが、あのへんには都とかの地名もあるし、関門海峡を抑えられると言うことは
パナマ、スエズのような戦略的位置だしね。第六感だよ。
803 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 16:23:23
六連と言うのはスバル、スメラミコトとも関係があるというしね。沖ノ島から苅田あたりは
要衝の地、長門ではないかな。
>>795 九州から始まるかどうかは知らんが、あるのは事実。
比恵墳丘墓、須久岡本墳丘墓(王墓の隣)、吉武など。
>>800 例えば下池山では倭製大型内向花文が別室で埋納。ホケノや桜井茶臼は神獣鏡以外に内向花文が多い。椿井大塚は棺内にあったと推定されるのは画文帯神獣以外に内向花文や方格規矩で、なぜか内向花文だけ粉々の残りで破砕鏡の可能性がいわれる。
その他、初めに大型倭製鏡の対象になったのは内向花文。
初期ヤマト政権は神獣鏡「だけ」を重視したのではない。
>>802 ミヤコはミヤケやミヤッコのは転化の可能性もある。石塚山などある程度の勢力がいたのは事実だが、中心的役割を演じた地域である証拠はないでしょう。
まあ根拠が第六感に相手する漏れもあれだがw
>>798 古墳時代までは文献の記述が限定的で、かついろんな意味で怪しいことが多いから考古学の成果をまずは優先するべき。
特に4世紀以前は。
沖の島と苅田町とかどういう地理感だ?w
いよいよ支離滅裂だが
806 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 18:45:44
>>804 卑弥呼は葬儀と言う政治経済上の目的のために神獣鏡を好んだのであり、
内行花文と言うのは政治的に王権のシンボルつまり三種の神器の一つではとされる
もの。用途は違う。神獣鏡と言うのは葬儀用消費財として作られるものだから伝世には
不向きで、今の花輪のようなものでしょう。「なぜか内向花文だけ粉々の残りで」・・・これは
よくわからないが、現在も女性の葬式では鏡を割って納棺しますが、古代人は石器を
割って分有する習慣があったといいますので、これかもしれませんねー。仏舎利のよう
なもんだと下手に貰っても大変だったのかな。
萩原や綾部山の神獣鏡は破砕鏡だが
神獣鏡だけ葬儀用とか、はぁ?
どんどん論がおかしくなっているんだが神獣鏡だけ伝世しない?
神獣鏡でも古い型式が新しい時期に副葬とかあるが。
千葉の古墳では三角縁神獣鏡が6世紀の古墳副葬の例あるし、中期古墳出土ならそう珍しくはない。
808 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 18:52:28
画文帯は、畿内を中心に出土する、最初の舶載品。
その意味で、おのずと他の鏡と重要度は違ってくるかと。
庄内期のマキムクに鏡好きの王権が誕生していたとするならば、であるが。
三角縁が布留以降である以上、庄内の鏡は画文帯と見るべきだろう。
809 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 18:55:06
文献が殆んど無いから、考古学重視になる、と何度言えば分かるのか。
庄内期に畿内から出る画文帯っていくつある?
ホケノは布留0に下るという説も強い。仮に庄内でもホケノだけ。2、3枚しかない。
三角縁と同じく、画文帯の大部分は布留0以降な出て布留1〜2の出土が多い。
しかも小山田氏の研究では実際は3世紀半ば以降の新しい型式のものを含むという。
だから三角縁と同じ頃にもたらされたのが大半と見るべき。他の鏡式もあるし、単純に庄内=画文帯とかは言えないよ。
811 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:14:23
庄内の古墳自体が少ないからね。そりゃ副葬されることもないでしょう。古墳自体が無いんだから。
あと「庄内に鏡好きの王権が…」と但し書きをつけたのに理解されてないみたいで。
鏡好きの王権なら、当然鏡を掻き集める→出土が多い、という単純な図式です。
812 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:28:00
内行花文を三種の神器と考えてる人、意外に多いんだね。
ヤタなんて、単に「大きい」って表現なんだが。
>>811 だからなおさら庄内=画文帯とは言えないじゃん。
庄内期は他の鏡式も多いし。
また庄内期は古墳らしい古墳はまだ少ないが、鏡副葬の文化が広がる。北部九州を含め小規模墳墓に鏡が出ているが、画文帯主体とかいい難い。
814 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:36:22
815 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:36:24
>>805 対馬・壱岐・伊都国
対馬・沖ノ島・六連・苅田
対馬・沖ノ島・見島・出雲
対馬・沖ノ島・見島・隠岐・因幡
山幸、帥升、の返さなかった釣り針とは沖ノ島ではなかったか。
816 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:45:46
>>807 頂戴した方が伝世鏡にしてはいけないと言うこともなかろう。ただ、紐を通す穴とか
雑にできていたらしい。神獣の意味は死人を守ると言うことだとおもうが、勲章のような
価値もあったのかもね。
畿内に鏡が集積され出すのは庄内後半からでしょう。
経由地の北部九州と深い関係になり朝鮮や中国へのルートが開かれるのはその頃。
鏡好きになったこと自体が北部九州との高度な関係性のあらわれかと。
庄内前半には畿内に鏡を集めだした証拠がない。
庄内後半から集めだしたならちょうど、布留0から爆発的に鏡を服葬しだすことが説明できる。
なおホケノは主体部の半分は荒らされていた。実際、伝ホケノという内向花文と画文帯がある。
その画文帯は調査出土のものより型式が少し新しく、小山田氏編年だと3世紀半ば近い。
819 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:59:53
820 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:18:24
>>817 庄内後半から鏡を収集したってことは、それまでマキムクは北部九州の影響を受けてなかったってこと?
ちょっと無理があるんじゃ…
821 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:22:01
とりあえずは参加者の共通認識として、畿内説の立場であっても
白鳥内藤論争あたりの「南」は「東」の誤写だとか
白石センセなどの鉄の簒奪ルートと西征だとかの自生説や
樋口センセや近藤センセの庄内開始時期や初期古墳開始時期の年代観や
東遷説(柳田説による北部九州影響説は別)などは
多くの物証を基にした各論文によって否定されているとの認識でおkだよね。
寺沢説(吉備影響)、石野説(阿讃影響)、柳田説(北部九州影響)が3大説で
これに赤塚説(東海影響)がややトンデモっぽいが、
2世紀後半の東海再編成の可能性は否定できないので何らかの影響はあっただろうってのが
最近の纏向創設に関するトレンドってことかな。
あと広瀬センセじゃないけど、何らかのトリガーが存在したはずだとの仮説や
半島動乱による輸出入ルートの混乱や渡来人などによる新技術の流入が
弥生後期後半から顕著になってきたことに対する帰結の結果だと。
大まかなモデルはこれでいいかな?
補足があればヨロ。
>>820 マキムクという新たな大きな集落が出来たこと自体は列島中央部の交易システムの再編成なので北部九州が無関係とは考えにくいが、庄内カメの九州(の一部)への波及など直接的に関係してくる物的証拠は庄内後半から。
またマキムクが作られ始めの頃は北部九州の大集落や朝鮮半島系土器の出方を見る限りは大陸との交通関係もすぐに変化した証拠は無い。
>>819 阿波出土の鏡だけが綺麗で立派とか単なるご当地自慢じゃんw
ところで卑弥呼がもし2世紀末に即位してたら、3世紀半ばには凄い高齢すぎじゃね?
実は卑弥呼は倭女王の称号、職名で、何代かいたとかありえないのだろうか?
例えば一代目が平原で2代目から畿内に移って纏向の古墳に入っているとかないだろうか?
>>822 はあ、成程。
畿内王権に、北部九州は途中参加したと。
確かに、その見方が正しいのかもしれない。
しかし畿内王権は、運河の掘削など鉄製品が無いと困難な大土木工事も
始めてるし。
筑紫からじゃなければ、畿内王権はどこから鉄を輸入をしたの?
826 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:48:48
>>823 邪馬台国論争って、今のところご当地自慢
にすぎないでしょ。ぜんぜん論拠ないし。
とはいっても、私は阿讃出身じゃないけど。
萩原、阿王塚の舶載画文帯が、たぶん庄内期
副葬でしかも質がよい。それは事実。
では、他の地域のご当地自慢の一品を知りたいところ。
宝物を持っていたところが、有力な勢力というのは
普通の考えかただから。
でも、布留0以前だと、どうですかね。
布留0以降は、阿波人が拡散しはじめるから、
結構いろいろでてくる。それだけの話。
破鏡を輸入してるくらいだから、鏡は実用品としてより、
呪術的意味合いの方が重視されたのだろう。
乱反射する大型の鏡の方が、セレモニー(前方後円墳祭祀)に相応しく、
喜ばれたのだろう。と
>>824 ヒラバルとマキムクの祭祀には断絶があるから、それは無理。
829 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:01:28
ご当地自慢の例。
北九州でこんなスゴいのがでてきたー。
北九州が邪馬台国だあ。
畿内でこんなスゴいのがでてきたー。
畿内が邪馬台国だあ。
阿讃でこんなにスゴいのがでてきたー。
阿讃は畿内に近いから、畿内に有利だあ。
(おいおい)
830 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:08:03
>>824 考古学の範疇からは若干外れるが、その可能性は大いにあるし誰も否定していない。
つーか、そこまで判らんってのが正しい見解かな。
それどころか真の意味(宗教的にも政治的にも)で「女王」だったのかどうかさえ断定できない。
むしろ女王と認定したのは魏であって、それまでは宗教者のトップ(いわゆる祭祀王的存在)だと倭国連合内では認識されていたとの説も有力だ。
その魏の認定をめぐって、狗奴国が異を唱えたとの見方もできる。
というのは、一昔前の縄文弥生史観が「敬虔かつ純朴な信仰者」だったのに対して
「新技術や新思想を積極的に導入する飽くなき貪欲さ」をモットーとしていたのではないかとの見方が
宗教的遺物の推移からはっきりと見て取れるから。
特に弥生終末期から古墳前期前半に関しては
下手すれば10年単位で各地同時に様々な変遷を繰り返したのではないかとしか思えないほどバラエティに富んでいる。
単純に矛の勢力だとか鏡の勢力だとかが抗争したとかは、すでに考えにくくなっている。
831 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:08:20
14Cの意味も知らない 無知なあなた
たった一人でご苦労様
団塊が去る10年後はやっと世界基準かな
君も楽しく逝きなさい
>>830 >考古学の範疇からは若干外れるが、その可能性は大いにあるし誰も否定していない。
いやいやw 誰も否定していないは言い過ぎ。
径百余歩の墓とは、普通、前方後円墳祭祀と考えられます。
ヒラバルのマキムクへの影響は否定しませんが、あくまで一要素としてであって、
前方後円墳祭祀とは分けて考えるべきでしょう。
本当はよく分かってないのは藻前w
最近問題が噴出しているというのにな
早傘氏のサイトでも見ろ
834 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:17:26
>>828 纏向の祭祀にもいくつかの断絶があると見たほうが良いのじゃないか?
布留0などはそのうちでももっとも大きな転機だった可能性も否定できない。
祭祀形態の変遷から各地の参加時期を推察するやり方もあるが
見方を変えれば、どこが勢力を持った時期なのかのいわば政権抗争の証ともとれる。
それらが幾重にも交錯した挙句、結果的に「マキムク人」とでも呼ぶべき
最大勢力が誕生し、各々の故郷を凌駕したというケースも十分に考えられる。
それが原始大和朝廷なのかも知れないし、その後もまた政権抗争を繰り返して
応神、継体、天智、天武などがその時代時代の覇者だったとの可能性は高いよ。
蘇我氏なども(トンデモ説じゃなくて)一時期朝廷内で天皇家を遥かに凌駕する権力を有していたのは確実みたいだしね。
835 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:22:12
>>832 >誰も否定していないは言い過ぎ
うーん、言い過ぎだったような気がする。スマソ。
ただ俺は東遷説論者では決してないが
「今のところ初期纏向に北部九州は無関係」とも言い切れないのではないかとの立場なんですよ。
このスレには「平原が纏向の元だ」と強固に主張するアンカーの変わった人も常駐してますが
そこまで過激ではないけど…まだ言い切れないなってところですね。
>>770 >「事実」ではなくて、「思想」になっているという観がある。
そんな自称学者という奴は、どこにでも居る。
こいつらは資料を読んでも理解力が追いついてない「準文盲」という連中。
それも大学教授という地位を得てるのまでいるが、たしかに素人受けはする。
中身は屁だが・・・・
−−−−−(引用開始)−−−−−
「明らかになった」という断定の材料は、誰が切り抜いたのかも、いつのものなのかも、
何新聞なのかもわからない、一片の新聞記事の切り抜き、ということであるようです。
どうも氏は自分の「発見」に舞い上がってしまったようで、他の史料に全く登場しない
「中華民国政府顧問の・・・ベイツ博士」という表現に対して、いろいろな史料から多
面的にその正当性を検討する、という当然の手続きを、すっかり失念しています。
http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html
837 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:25:00
プラム注意報発令です!
皆さん、一切無視してください!
>>825 いや鉄は筑紫経由しかない。
朝鮮半島系土器の出方などから加耶で鉄を大量に買い付けて列島で売りさばいているのは北部九州
だからマキムクのはじめから無関係ではないと
北部九州もはじめは大消費地が出来た(あるいは作らせた?)つもりが、「中心地理論」でそこに物資や人、力が集中してしまい、主客逆転したのではと。
ただし、北部九州の力が急に低下したのではなく、大陸との交通はまだ北部九州との協力関係が第一であったと。
北部九州には出雲を中心とする日本海交易ルートも顧客であって、畿内だけと交渉してたわけではないし。
>>834 葬送儀礼にも流行り廃りがあって、その全てを政権交替に結び付ける必要はない。
庄内期に東瀬戸内、北部九州の影響を受け、布留期に吉備の影響を受けたに過ぎないと。
>>828 断絶ばかり強調するのはおかしい。
むしろ共通点が多い。前の方にそういう具体的コメントがある。
一部が変容したと見るべき。
平原と纏向の相違を断絶と評価するなら畿内後期弥生社会と纏向も全く断絶だろうな。
841 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:33:59
あ
の
〜
ニートの人達は、自己主張しか出来ないの?
あ
た
ま
が
ふ
じ
ゅ
う
だ
か
ら
にーとなんだね
836の
恵也は、
プラムです!
こいつのおかしなレスや煽りには一切付き合わないこと。
皆さん、注意しましょう!
とにかく無視です。
841も
プラムです
皆さん、
プラム登場ですからしばらくまた停止しませんか?
844 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:41:46
>>839-840 なるほどね、流行り廃りは当然あっただろう。
ところで「断絶」とまでは思ってないのだが…
共通項の多さは当然無視できないし。
相違点から形成プロセスを推察するしかないってのが現状だと思う。
という訳で共通項を無視している訳ではないということだけは判って頂きたい。
一般論だが、それらからもっとも蓋然性の高い仮説を提示していくってのが学問だからね。
だから新事実によってそれが否定されても、また新たに構築しなおせば良い。
一部の参加者は、それが「不誠実」だとか「いい加減」だとかなじるが
本来学問というものはそういうものなんだと考える。
845 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:44:44
どの書き込みがぷなのかは一目瞭然だし
全員知り抜いているだろうから、無視すればいいと思う。
もし誰かが引っかかってしまったら、教えてあげればいい。
言っておくが他説の排除じゃないぞ。
単なる”荒らし対策”だから、そこのところを間違えないようにな。
846 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:52:47
でさ、もうすぐ900超えるし
前のようにちゃんとしたテンプレ作ったほうが良いんじゃね?
基本的にここは邪馬台国云々とは無関係の「畿内(纏向)王権の成立」を論ずるためのものだし
その中で自生説でも東遷(影響)説でも、各地集合説でも
自説の要約を2〜3レスほどで論者が作成して貼り付ければいい。
昔の「邪馬台国は大和朝廷に・・・」ではそうやってループを防いでいたんだし
今ならまともな参加者が多勢を締めているので、荒らし(ぷ)対策になると思う。
847 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:59:25
>>843 全くの別人だよ。妄想専門だとニートになると云う話を聞きますが、本当でしょうか?
849 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:02:45
850 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:03:01
とりあえず、二上山シンポが近日開催な訳で。
参加者のリポート、お願いします。
俺も、行ければ行くわ。
851 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:05:07
それ仕事した振り?
むしろここでまともな議論しているのは大学生や院生、埋文業界の人が多いだろうな
むしろニートはぷとか恵とか月=がいとか太でしょう
853 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:06:17
>>852 これはニートの書き込み方 主張が強いwwwwwwwwwww
ハイハイ、ニートと思っておけばw
じゃあね、おやすみ
855 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:12:40
>それらからもっとも蓋然性の高い仮説を提示していくってのが学問だからね。
当たり前の話だよな。
古代史で決定事項なんて、恐ろしく少ない。
断定口調で書いてる奴はア○。謙虚さが必要。無知の知って奴だな。
857 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:13:46
ここにはエキサイトした人しかいないね。
やっぱニートだよ
858 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:21:34
1人が怒ったら誰もレスしなくなった、
大学生や院生、埋文業界の人は何処に居るんだ?
朝から必死にレスするのは、やっぱりニートがたった1人だけなんじゃないのか?
859 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:25:02
解りきった事云うな
なんか哀しい奴だね。プラム…
自暴自棄にならず、世間に迷惑を掛けず、生きていって下さいね。
誰にも相手にされず、自暴自棄になる奴って、
典型的な犯罪者予備軍だよな。
プラムはこのスレでは全く必要とされていないのに、なぜやって来るのだろう?
日本のどこかに プラムを待ってる人がいるかもしれないから、
そこへ行ってくれたらいいのに。
どこにもいないから、ここに来るのか?
>>849 いろんな人が書き込んでいると思うが、なんで848が朝書いた人だと思うの?
>>858 これだけ高度な内容を書いているのは間違い無く院生や業界人がいる。
しかもいろんな意見が飛び交っているから複数いるだろうよ。
漏れも業界人ですが。
プにはそのレベルが理解できんみたいだがw
841,847,849,851,853,855,857-859はほとんどプラム=恵也の自作自演だろ
おっと、漏れも反応してしまった。気をつけよっとw
邪馬台国スレでも、自分のトンデモは棚にあげ、トンデモに真面目に対応して反論していた人たちに独りで書いているんだろ!と妄想していた椰子がいたな。
もちろん、それはプ○ムですがw
864 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:46:16
>>863 へたくそすぎる
プラム以外が複数居る事すら解らないの?
一人ぼっちで可哀想だね?
>>864 はあ?漏れは今日、863ではじめてカキコしたがw
そりゃ複数いるよな
まともな書き込みがプ以外だろがw
この流れだと本筋以外のカキコはたいがいプラム
>>860-862の言う通り
866 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:52:28
プラムは太国だよ
太とプは別人と思うが。内容が違いすぎ。
もし同一なら相当の分裂症か多重人格だな
868 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:55:13
869 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:56:12
>プラムへ
わざわざ自分が馬鹿にされている場に、ノコノコ出てくるのはどうだろうか?
そういうものとは一定距離を置くのが大人の嗜み。
自分が認めて貰えないからと駄々をこねるのは、精神年齢が低い証拠。
プラムもいい大人なんだし、そのあたりの大人の流儀をそろそろ身につけて
欲しい。
871 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:57:40
釣りかよ
やっとプもおとなしくなったか?
おっと、油断は禁物だw
全くの別人だよ。妄想専門だとニートになると云う話を聞きますが、本当でしょうか?
874 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:09:35
まあプのことは兎に角、900を超えた辺りで次スレを立てて、
このスレで良かった内容を貼り付けていきましょう。
安本信者とのディベートも一応決着がついたことだし、
同じことを繰り返していては、議論が前に進まない。
>>874 とりあえず、次のスレ名とテンプレを考えてはどうですか?
あと誰かここまでの各説の要約を
次スレ名は「畿内王権の成立とその過程」みたいな地味なのがいい。
考古学音痴の邪馬台国馬鹿が参入しないためにも。
878 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:27:53
邪馬台国は九州だよ。議論の余地なし。
ここはバカが集う便所の落書きスレです。
プラムは自分の立てた馬鹿スレへ帰れ。
それがこのスレの住人の総意。
ひとりしか居ないけど
つーか、JISレいらないんじゃね
その3つのスレはすでに死んでいるので。
わがまま言うな。使い切れ。
いや、その3つは関係ないレスで埋まっているのでスレを新調したほうがよいかと
>>882 上と下の二つは兎も角、真ん中のは使えそうだな。
まあ、余り残ってないけど。
888 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:06:14
>>877 考古関係者にとっては、邪馬台国の位置なんぞ
もうどうでも良い話なのは周知の事実なので
そういったタイトルが良いだろうね。
ただ
>>882があげたスレのうち
【庄内〜】畿内王権の成立・ぱーと5【〜布留】
これも元々そういう趣旨だったのだが、九州厨(特に安本関係)に荒らされまくったんだよ。
あの連中は「安本なんてシラネ」とか言いながら、そっくりそのままの主張を連呼し
どれほど無視しても粘着するから困ったものだw
ひっそりsage進行でやったほうが良いと思う。
それと邪馬台国ネタ厳禁ということで。
自説根拠は基本的に各種論文(ソース明示)か出土物などの具体的なものに限るってルールも必要だろう。
>「ぷ」
あんたも粘着度では相当なものだが、指摘されているようにあんたいい大人なんだからもうやめなさいよ。
多数の相手が「たった一人」にしか思えなくなっている時点で、かなり心が病んでいるよ。
内容からして同じ畿内説でもかなり違うのが判らないのだろうかね?
あんたのプロフィールが嘘ではなく、本当に40歳過ぎの社会人なのならば
同世代として真面目に、かつ最後の忠告をしておく。
家族のためを思うならば、本当にあっちの世界にいってしまう前にもうやめろ。
しばらくネットから遠ざかって、精神のリハビリに勤めるべきだ。
本当に取り返しがつかなくなるぞ。
それなら、
>>882の三つは誰か責任をもって削除依頼かけろ。
俺は再利用に一票。
890 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:13:28
>>877に賛成。3つのスレは、もう荒れまくってて、いまさら参入したくない。
【律令まで】は、広すぎて、ポイントが絞れない。
また【弥生畿内勢力から倭王権樹立へ】では、何か前提に先入観が入ってしまっている希ガス。
891 :
888:2006/10/13(金) 00:19:19
俺、削除依頼出しとくよ。
乱立は確かに見苦しいし、日本史板の全住人も苦々しく思っているだろうから。
ただ荒らされた挙句に消えちまったが
「邪馬台国はどこですか?」(文献重視の歴史暗号推理的活劇スレ)
「邪馬台国は大和朝廷になったのか?」(考古事実を基に最新説を検証するスレ)
この2つが機能していた頃の様に、完全に住み分けするってのが荒れない為の現実的路線だと考える。
892 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:21:44
スレタイに「邪馬台国」を入れちゃうから、荒れてしまうんだ。
議論ので中身で必要なら、倭人伝の記述が出てきても構わないけど、
タイトルそのものに「邪馬台国」を入れるのは、もう、よそう。
893 :
888:2006/10/13(金) 00:25:49
>>889 【律令まで】は視点は良かったんだよ。大和朝廷の成立と課程には
3世紀だけじゃなく4〜8世紀までの文献と遺物の分析が必要だってのは間違いないから。
ただ、あなたの言うように【弥生畿内勢力から倭王権樹立へ】と同様
実は九州王朝説が独自の史観を展開するために立てたスレなので
ぶっちゃけ学問板にはそぐわないシロモノなんだよね。
そういう意味から、一旦リセットして一からやり直すってのがベターだと思う。
894 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:29:22
スレ名から「邪馬台国」が消えると過疎スレになる。というか、その実例が
>>882 安本説に対しても、理論的に「分かりやすく」反論すれば、面白くなる。
罵倒とレッテル張りでは、相手も納得しないしスレも荒れる。
というか約1名が過剰反応して、連続レスを繰り返しているのは、痛々しい。
・・・・・まあ、とにかく、ソースで反論していけば良い。
あと、古田説、白石説とかにも寛容に対応しようよ。
895 :
889:2006/10/13(金) 00:38:40
>>891 じゃあ、よろしく。大方、そういう意見みたいだから従うよ。
896 :
888:2006/10/13(金) 00:40:06
そろそろ落ちるので
タイトル案1「畿内王権の成立とその過程」
(タイトルに邪馬台国を入れない)
内容のローカルルール
「倭人伝」「邪馬台国」「記紀」などはどうしても必要かつ必然性がない場合には触れない。
自説展開はソース明示(論文、提唱者、遺物など)
事実と仮説をはっきりと書き分ける(混同や妄想や想像に終始したものは説と見なさない)
「根拠はないが、俺はこう思う」とかいう類のものは、別スレで行い、ここには書かない。
特別ルールとして、コミュニケートや議論を目的としない一方的な書き込みは
住民から複数の苦情があった時点で書込み禁止とする。
もちろん具体的な拘束力はないが、どういう性格のスレなのかを提示するためには必要だと思う。
(2ちゃんの他の板でも同様の方法を取っている)
あと、また補足ありましたら宜しくです。
897 :
888:2006/10/13(金) 00:51:45
>>894 安本説支持者の全員がそうだとは言わんが
ここで粘着する安本信者は
>理論的に「分かりやすく」反論すれば…
どんなにそうやっても、都合の悪いところは無視したり話をそらすんだよな。
前に「邪馬台国畿内説を撃破する」っていう安本の本のどこが間違っているかをかなり具体的に挙げていた一連のレスが
邪馬台国関連スレのどこかにあって、興味深く読ませてもらったのだが
それに対する安本信者の反応は、傍目にも気持ち悪いというか痛々しかったのを覚えている。
こういうことを書くと何だが
現代の畿内説は誰がどうみても主流であることは間違いないので
(もちろん全部が全部正しいとはハナっから思っちゃいない、当たり前だ)
金持ちけんかせずとばかりに、自ら罵倒に乗り出す香具師ってあまり見かけないんだよね。
むしろ相手の挑発に乗らないように自制を呼びかけるってな方向で行こうよ。
それが可能なら、スレ内容に邪馬台国を絡めても良いとも、ちらっと思う。
でもスレ名に邪馬台国をつけるのは、新たな(すでにいるやつらは仕方ないが)変な連中を呼び寄せる可能性が高いので、リスクを低下させるためにはさけた方がいいかと。
899 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 01:20:11
>>896タイトル案1「畿内王権の成立とその過程」だが、ちょっとコトバ足して、
「畿内王権の成立とその前後の過程」
ではどうだろう。
(案1に「前後の」を挿入)
箸墓古墳の築造に至るまでの過程は、確かに興味シンシン大問題。で、大いに論じたいと思うが、
俺的には、その後の列島各地での古墳築造のありさまも、かなり気になる。
4世紀(川西編年の2期あたり?)も議論の対象としていいよ──という意味で「前後の」を挿入してみたんだが、どうだろう。
邪馬台国畿内なんて全く無理。
日本でしか出てこない、三角縁神獣鏡がどんなに沢山近畿に出てこようと、邪馬台国
には関係ない。
銅鏡では九州のほうがはるかに多いし、鉄の矢じりなんて、近畿からは全く出てないんだろ。
平原遺跡というのがあるというけど、唐津にも何らかの遺跡は存在するはず。
前原市より唐津市の方が人口は2倍くらい現在住んでるのだから、卑弥呼の時代にも多数の
人口は居たはずだ。
第二の原田大六氏が出てこないかね・・・・
−−−−−(引用開始)−−−−−
鉄は消えてなくなるのではないかという佐原真先生のお話がございますけれども、「魏志倭
人伝」に書かれているのは鉄だけではありません。
他の遺跡、遺物のこともたくさん書かれています。そのほとんど全部が九州の方がずっと
有利になっていると思います。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu4.htm
>>894 >スレ名から「邪馬台国」が消えると過疎スレになる
それは保証したる。
邪馬台国が無ければ俺は全く興味がない。
卑弥呼が天皇家の祖先の可能性があるから、興味があるだけの事。
902 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 07:47:26
佐原真。この人は、弥生時代には豚はいなかったというのが持論だった。
ところが、弥生時代の遺跡から豚の骨が出土した。
「いやあ、ある時代にあるものがなかったと言うのがいかに難しいかが
良くわかりました。」と釈明。しかしそのあと、「だから、弥生時代の
大和に鉄がなかったと言うことも難しいのではないでしょうか」だって。
なんか違うんじゃないかと思った。
>>901 分かった。邪馬台国は外すから二度と来ないように。
904 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 08:28:36
>>900 >前原市より唐津市の方が人口は2倍くらい現在住んでるのだから、
>卑弥呼の時代にも多数の人口は居たはずだ。
下の行は君の言う通りかもしれない。私も、なんとなく、そんな気がする。
だが、この上下2行に見られる君の立論の仕方は、受け容れられない。
たとえば21世紀の──つまり現在の、唐津市と東京都心23区の人口とを、比較してみたまえ。
そして両地域を、3世紀までさかのぼって、想像してみたまえ。
自分の立論に「何か」が欠けているのに気付かないか。
>>901 「邪馬台国」がスレ名に無いスレッドに、君は今後、参加しないのか。
905 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 08:35:34
考古学ガチガチなのもどうかと思うが。
個人的に、搬入土器の考察や鎌倉幕府との対比は、読んでいて面白かったし。
急がないと、そろそろ落ちるよ
907 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 09:23:28
多少の仮説はあってもいい。
ただ、記紀神話や魏志倭人伝をからめて空想するのは辟易する。
908 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 10:01:07
>>804 >まあ根拠が第六感に相手する漏れもあれだがw
古代史にはミクロの論争は不要。だが、マクロを誤ってはいけない。大筋ですなー。
このスレでは白石さんを云々する人がいるが、国立歴史民族博物館の到達している
情報を上回ることは基本的に、いや、世界的にも難しいのだ。要するに金なんですよ。
C14の年代測定装置のようなものに国がどれだけ支出できるかということね。
しかし、漏れは吉村さんのような国に頼らない考古学者も尊敬するねー。
また、日本、世界には無名の考古学者も多い。橋本さんの友、石原軍団の苅谷俊介
さんなんかもそうだ。・・・ロマンというのは美だよなー。
ところで、ロマンチックな脱線になるが、トヨタマヒメには日和佐の海がめの産卵を見る。
すなわち、東四国にも何かあった。が、その女王はタマヨリヒメにと代替わりする。
神武の祖、山幸、後漢書に言う倭面土国王帥升は東四国となにかある。萩原と。
909 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 10:09:59
漏れが畿内説なのはオカルトではなく、科学万能を信じているからで、オカルト的に
言えばそれも一種の精神異常だ、科学は瞬時に変化するのだからと言われれば
その通りです。もしか、一夜にして畿内の古墳を一切トラックで九州に運ぶ将軍様
のようなものがいれば、漏れもいちころで九州説になります。
>>904 >たとえば21世紀の──つまり現在の、唐津市と東京都心23区の人口とを、比較してみたまえ。
根源的違いがある。
今の東京は、流通業や金融業の第三次産業の集積地。第三次産業でたくさんの人間が生活できる
それに対し卑弥呼の時代のメインは、農業や水産業の第一次産業で、第三次産業は発達してなかったぜ。
その点、前原市も唐津市もメインとする産業は似たようなものだろう。
邪馬台国に興味が出てきたから参加しただけで、小難しいだけの話には興味はない。
>>907 >記紀神話や魏志倭人伝をからめて空想するのは辟易する。
神話にしても倭人伝にしても事実のごく一部が、記録として残されたもの。
その上に肉付けして行かないでは、歴史の値打ちが無い!
ガチガチの資料至上主義者には、辟易する、
913 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 12:06:35
>911 に同感、ちんじゅを読み解くとか言ってるヤシは文面がすべてて
文面が正確と言う妄想の上に立つことを忘れてるような、事実しか書かれてない言い方でへきえきする
恵也はスルーだろw
915 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 14:17:10
>>910 >それに対し卑弥呼の時代のメインは、農業や水産業の第一次産業で、第三次産業は発達してなかったぜ。
それなら、鉄器の無い畿内が邪馬台国でも問題ないわけだが。
>>915 >それなら、鉄器の無い畿内が邪馬台国でも問題ないわけだが。
邪馬台国には鉄の矢じりが存在してました。
畿内での古墳では、全く発見されてません。
だから邪馬台国では第二次産業の、規模は小さいとしても鉄の製造も行ってたんだろう。
品質は悪かったかも知れんが、矢じりとしては大量に作ってたんだろう。
−−−−−(引用開始)−−−−−
木弓は、上が長く、下は短く、鉄の矢じりを使う。(海南島の)耳や朱崖などの都と同じである。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
917 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 15:10:17
>邪馬台国には鉄の矢じりが存在していました。
>>そんな事何処で調べた?
918 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 15:42:29
>>916 安本のくだらん説にいちいち反論するのもバカバカしいが、
おまえの幼稚なレベルにあわせて優しくレスしてやる。
魏から来た一行は、最初に訪れた倭国の土地、つまり九州の風俗について、
こまかく記録したというだけのこと。
九州の武人が鉄の矢じりを使ってたのを見たというだけのことだろう。
では、「木弓は、上が長く、下は短く」について、九州の武器だという証拠はあるのかね?
香川県から出た銅鐸には、そのような線刻画が残されているが、
香川県も邪馬台国の候補地と考えてよいのだね?
920 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 16:07:57
畿内説といっても全部同じでないように、東遷説も同じではない。
安本説もその一つに過ぎない。東遷説=安本説とのレッテルを
貼るのは、畿内説=白石説と言うのと同じである。
故意と思っていたが、案外、無知なのかな?
>>918 >九州の武人が鉄の矢じりを使ってたのを見たというだけのことだろう。
間違い!
むしろ武人というより、邪馬台国の人々の衣服や生物に関する部分に書いてある言葉だし
骨の矢じりまで言及してるから、猟師らが昔から使っていたというべきだろう。
銅鐸のことを知ったかぶりして「そのような線刻画が残されているが」なんて書いてるくせに
はっきりそんな木弓とか上が長いとか、断言できるような絵じゃないだろ。
少しは本物を見てからカキコしなさい!
知ったかぶりもタイガイにしな。
−−−−−(引用開始)−−−−−
上の絵は、銅鐸に描かれた絵を一部、切り取って並べたものです。それぞれ、持っているもの
に注目してください。「工」の字の形をしています。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20060818
>>921 取り消し!
読み飛ばした、やっぱり武人だ。
924 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 17:00:41
>>919 これは惠也氏の方が正しい(珍しく?)。
『魏志』(三国志)の著述の頃までには、倭ではすでに鉄鏃を使っていたのは確実で、認めなければならないと思う。
だが、惠也氏の、次の2行のうち、下の行の言い方は、まるで理解に苦しむ。
>邪馬台国には鉄の矢じりが存在してました。
>畿内での古墳では、全く発見されてません。
畿内古墳からの鉄鏃出土例は、いくらでもあるのではないか?
925 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 17:59:22
926 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 18:10:17
>>924 安本のサイトしか見てないんだよ。
で、他人からつっこまれると自分で検索してみるが、
つっこみの意味がわかってないからトンチンカンなレスを返してくる。
>>926 ×安本のサイトしか見てない
↓
〇安本のサイトを書いている。
928 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 19:57:00
けいやとか言う人は見たことがないのですが学識があるのですか
自作自演も疲れるな・・・・・普通の人なら学識あるとは絶対思わないよ・・・・・芝居もレベルも低いからねwwwwwwwwwwwwwww
>>924 >畿内古墳からの鉄鏃出土例は、いくらでもあるのではないか?
畿内古墳では勘違いしてたようだ。
これも訂正させてもらう。
郷数は多いくらいなのに学者によっては九州の半分以下、酷いのになると8分の1しか発見されて
無いという報告がある。
−−−−−(引用開始)−−−−−
銅をとりましても鉄をとりましても、あるいは鉄鏃をとりましても絹をとりましても、数から
いえば九州の方が畿内に比べて圧倒的に有利だと思います。畿内の方がわずかに有利なのは、
三角縁神獣鏡と銅鐸ぐらいだと思います。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu4.htm
>>928 >けいやとか言う人は見たことがないのですが学識があるのですか
ありません!
初心者ですので・・・
932 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 21:51:10
弓もいいけど、よく言われるのは矛の方。倭人伝には「兵は矛を用いる」
とある。矛といえば九州を中心に分布するもの。
なお、記紀にも矛はよく登場する。しかし、銅鐸はまったく登場しない。
天照大神が岩戸から出るときに重要な役割を果たすのは鏡。
記紀の神代の部分の舞台が九州ではないかと言われる理由はこんなところにもある。
933 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 21:52:38
>>930 引用ソースは安本サイトだろうし、そのサイトの引用元は
奥野正男の「鉄の考古学」なのだが
労作ではあるが、90年出版なので残念ながらデータが古いんだよ。
出土品は、鉄や銅も含めて90年代以降に相当数が発掘されている。
もちろん全国からだ。
だからその資料はもう使えないんだよ。
しかし俺の論理だと魏志倭人伝が非常に合致してる。
●20里を1kmと考えると、邪馬台国(宮崎県西都市)は会稽(上海)の真東となってるけど
たった20km北にあるだけだ。異常なほど一致してる。
●諸国を監視してる軍事都市伊都国(富士町)は、邪馬台国(西都市)の北90kmに位置する。
倭人伝の記述通りになる。
●東へ50km(実際は100km)で高知県足摺岬
●東南方向の遠くには小笠原諸島がある。
●南へ200kmには、種子島が存在してる。
結論::邪馬台国は西都市に決定!
−−−−−(引用開始)−−−−−
また魏志倭人伝の全文を紹介せずに、自説に都合のいいところだけ取り出して解説して
都合の悪いところは無視する、あるいは誤訳、曲解するという解説も多いようです
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
>>933 >出土品は、鉄や銅も含めて90年代以降に相当数が発掘されている。
>もちろん全国からだ。
そこまで断言するなら、ソースを出しな!
ケチンボサン。
纏向のデータもアップデートしてくれないかな
937 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:14:52
>>935 ソースってあんた…そんな事も知らんと「ここだ!」とか言ってるのw
「日本の首相は安部だ」とか書いたらソースを求められたような気分だw
せめて他の参加者と話が通じるレベルになってから書こうよ、な。
938 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:17:22
>邪馬台国(宮崎県西都市)は会稽(上海)の真東となってるけど
>たった20km北にあるだけだ。
どこの世界地図だw
思いっきり海のど真ん中だよ!
939 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:23:10
>>937 どっちかっつーと、ガンダムスレに散々書き込んでおきながら
「で、シャアって誰?そんな奴いるのならソースだせ」って言ってるようなものだな(実話)
みんな恵也はスルーだろ?
昔の西都厨なみに酷いなこりゃw
スレごとに恵也とプラムを使い分けとか、こいつ尋常じゃないんだからさ。関わったダメよ。
まともな議論にならないんだからさ。
邪馬台国の卑弥呼は、当時の皆既日食を予言できず恐怖に駆られた連中に
殺されたという話もある。
−−−−−(引用開始)−−−−−
その笑い声を聞いた天照大神は「いったい何事?」と少し岩戸を開けて様子を見ようとしました。
すると天宇受売神が「あなた様よりもっと尊い神様がいらっしゃったのです」といいます。
そして天児屋命と布刀玉命が鏡をそばに寄せますと、そこに映った自分の姿が輝いて見えます
どんな神なのかと思い、もう少しよく見ようと岩戸をもう少し開けますと、そこで控えていた
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出し、
布刀玉命(ふとだまのみこと)がサッとしめ縄を渡して中に戻れないようにしました。
かくして高天原に光が戻ったのです。
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/amaterasu.htm −−−−−(引用開始)−−−−−
当時の先進国である魏にとっては異様に思えた。「告諭」の内容は、軍事的才能のある男が
王となるべきだというチャイニーズ・スタンダード(当時のグローバル・スタンダード)を
押し付けたものだったと想像できる。247年3月24日、皆既日食の日に卑弥呼は殺された。
http://www.nagaitosiya.com/a/mikado.html
942 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:47:09
恵也は、ある意味純粋なんだよ。
だから、安本にころっと騙されてる。
俺は安本に怒りを覚えるね。
純真に古代史にロマンを感じてるやつをダシに使って、
嘘八百の本を書いて儲けてるんだからな。
真面目に考古学を学ぼうとする人には迷惑でしかない。
安本を潰すにはどうすればいいんだ?
943 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:51:17
騙される香具師がアホなんでほっとけ
それと自作自演おつかれさん
944 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:55:33
>>942 彼は、邪馬台国は西都市だと言っている。
安本氏の甘木とは違う。
なんだか、ここには他人の考えを理解できない人が多い。
また、自分と違う意見の人はみんな同じ人物だという人も多い。
それは自分の無学・無能をさらけ出した意見なのだよ。
読めばわかるだろうと言いたくなる。
945 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:00:27
自作自演は、やめろと。
946 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:02:02
なるほど、
>>944は、恵也か。
わかりやすいな。
947 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:25:57
>>945 >>946 なるほど、畿内説はあなた方のような人に支えられているんだ。
畿内説は不滅だな。
948 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:32:54
そんじゃま、次スレの用意でもしますか。
>>888と
>>899の案に従って
「畿内王権の成立とその前後の過程」のスレタイでいいんじゃないかと思う。
基本的に邪馬台国については語らないということでね。
949 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:43:08
「畿内王権の成立とその前後の過程」
2世紀末頃、大和纏向の地に誕生したと目される畿内王権。
その成立と発展の過程を考察するスレです。
自説はソースを明確に、出来ればステハンでもいいのでコテを使ってもらえれば
各人の主張が把握しやすいので、これを推奨します。
また、倭人伝や記紀などの文献資料はそれが確実視される事項しか扱わないものとします。
文献をどう解釈するかや邪馬台国の位置を探るスレではありません。
もちろん荒らし行為厳禁です。完全スルーよろしくお願いします。
こんなのでどうですか?
950 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 01:03:43
>>949 スレタイから「邪馬台国」の字が消えて、スッキリしました。いい感じだと思います。
これで少しは嵐がおさまってくれれば。。。
ただ、その下数行の説明(惹起文句?)には、正直、すこし違和感も感じます。
まあ、最終的には、
>>891さんか
>>949さんが判断して新スレ立ててもらって結構ですが、
いちおう別案として出しておきます。少しなりとも参考にしていただければ嬉しいです。
*******************
「畿内王権の成立とその前後」
大和盆地に誕生したとされる初期畿内王権──。
その成立と展開のプロセスを考察するスレです。
自説を述べるときは論拠をきっちりと、またデータや他説などの引用に際しては典拠を明確に。
倭人伝・記紀などの文献資料を扱う場合は、恣意的な解釈に陥らないよう注意しましょう。
ここは考古学板ではありませんが、考古学の成果をふまえての日本史議論なら、大歓迎です。
今後に課題とされるような問題点も大いに話し合って、良スレ目指して進めていきましょう。
もちろん荒らし行為厳禁です。完全スルーよろしくお願いします。
*******************
タイトル案は、畿内説、邪馬台国、女王国、卑弥呼、後漢、三国志が入らなくても、
マキムク、箸墓、ホノケに関わる畿内王権という趣旨がわりやすいのがいいな。
952 :
950です:2006/10/14(土) 01:27:03
>>950です。
ローカル・ルールのところが、かなり
>>949さんと異なりますが、
要するに、考古学のことしか書けないようなら、考古板でやるべきだと。。。そういうことです。
つまり、「日本の歴史として大和王権をどうとらえるか」が、私の最大の関心事なんです。
そうでないと、日本史板でやる意味がない。。。
嵐行為に辟易されている多く皆様も、きっと同じだろうと思っています。
953 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 02:16:28
<<<戦後古代史学会の歴史>>>
戦後の古代史学界は、戦前の皇国史観への過剰な反発とマルクス主義に基づいて
反天皇制の思想性の強い説がもてはやされた。
1、記紀は後世の捏造である。
2、天皇の血筋は何回も断絶している(三王朝交代、河内王権etc)。
3、欠史8代は実在しない。応神天皇、神功皇后とかも実在しない。
4、朝鮮征伐も捏造である。
5、任那日本府も実体に基づかない。
6、継体天皇は王朝交代により即位した。
など、今では継承者が激減している学説に熱中して、「空白の50年」を浪費した。
そのうちの一つが、<7、神武東征は捏造であり、畿内王権が邪馬台国に成長した。>
というもの。この自生説も今では絶滅寸前。
その一方で、弥生時代では北部九州の鉄器が畿内を圧倒しているという事実が60年代
から言われてきたのを、畿内説は長期間にわたり無視ないし否定し続けてきた。
(その後、古墳時代の遡上という反論に出たのが今の畿内説。)
安本は、このような左翼史観全盛の時代に「マルクス主義はほら話だ」と言って、反論を
始めたという学説史上の意義は否定できない。奥野の「鉄の考古学」も畿内説が無視し
続けてきた事実をまとめ上げたという重要性がある。
今の畿内説もの昔からのマルクス主義の影響は否定できないし、鉛の同位体比とか平原
遺跡とか、不利な証拠は無視するという悪癖もそのまま。
安本説に対しても、このスレでは理論的な反論がほとんどなく、罵倒とレッテル張りに終始。
・・・・・安本説排除で「引きこもりスレ」にしてもしょうがない。
次スレでは、思い切り反論すればいい。
>>953 コピペ転用かもしれないが。古代史学の世界では
とっくの昔に安本説の誤りが指摘されているんだよね。
だから一部のアマチュア以外まったく支持者がいない。
ここの住人も、次スレで君らに付き合う気はなさそうだから
安本説の誤謬や反論を論じたければ、別にスレを立てるかどうかしたほうが良い。
わざわざまったく相手にされないと判っている場所に、のこのこ出てくるなんて惨めな真似をするくらいなら
ここはここで放っておいて、自身でスレ立てしてやってみてはどうかね。
そうしたら何か書いてくれるかもしれないだろう?
>>953 論破されて逃亡した筈の安本信者が復活してきたか。
>>953 とんちんかんな勘違いが多すぎるぞ。
自生説というのは、君が言うような内容ではない。
また安本の東遷説は破綻したが、柳田の提唱する北部九州影響説は
畿内説の中でも主流のひとつだ。それと
>継承者が激減している学説
君が列記した各説は、どれもこれも極端なものばかりで、継承者どころか支持者も居ないようなものばかりだよ。
文献考察するなら三品や佐伯をまず読め。
津田すらもきちんと読みもせずに批判しているのが見え見えだぞ。
考古なら石野、寺沢、柳田、出来れば北條、村上、広瀬あたりの主張はきっちり把握しておけ。
最低でもこれらを読んでから書かないと、ますますあさっての方向に行ってしまうぞ。
957 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 04:09:30
>>954、
>>955、だからその言い方がダメなんじゃないの。
具体的な議論をしようよ。できればだが・・・
>>955、自生説の白石にはモロに当てはまっている。
柳田は、畿内説に不利な面が多い。平原とかが無視されがちなのも事実。
畿内説が遡上した当初の根拠であるC14や年輪が破綻して、今は柳田説の一部のみ
を有利に援用しているだけという感じもする。あと、列挙した人もほとんど読んでる。
名前を列挙するだけじゃなくて、具体的な反論が欲しい。権威に盲従ですか。
>>953に列挙した説が「踏み絵」となり、中堅、若手の障害になっているのも事実。
森公章、水谷千秋とかもいるが「踏み絵」には慎重だね。
>>957 いやさ、その安本説とやらを検証するためのスレじゃないと言いたいんじゃねえの?
だから別にスレ立てろって言ってるように読めるがね。
目的別の棲み分けは2chの基本だから、お互いのためにもそうしたほうがいいんじゃね?
959 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 06:02:24
「邪馬台国九州説・神武東遷説を検証するスレ」
というのを立てて、徹底的に安本を批判たらどうよ?
デンパを隔離できるんじゃねえの?
960 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 06:45:55
>>956 >安本の東遷説は破綻したが…。
それは、東遷説そのものは破綻していないということ?
安本氏の東遷説が破綻したというのはどういうこと?
具体的に言ってもらわないとわからないな。
あなただって、畿内説はとっくの昔に破綻していると言われても
納得できないでしょう?
もっとも畿内説の場合は、三角縁神獣鏡を始めとして破綻の連続だけど。
なお、文献を考察する場合は、文献そのものを読まなくてはならない。
人の色眼鏡を通して文献を読んだつもりになってもだめだよ。
>>960 藻前、ただのかまって君だな
無関係の場所でいちゃもんつけていないで
自分でスレ立てて思う存分やれよ
>>960 庄内開始を西暦300年とか言う時点で、安本説は破綻しちまってるんだが。
「安本」という言い方が嫌なら、「邪馬台国東遷説が」と言ってもいいよ。
なんか、畿内説を一纏めにして攻撃・被害妄想する傾向があるけど、
そのあたりは、あなたの師である安本とそっくりだなw
畿内説にも色々あって、それぞれに一長一短あり。その弱点を指摘してくれる
なら、次スレでも歓迎するよ。
ただ、同じことを繰り返し書くだけなら(事実、君はこのスレではそうで、議論に
ならなかった)、もう来なくていい。君の主張は大体分かったし。
>>942 >真面目に考古学を学ぼうとする人には迷惑でしかない。
あなたが偏った考古学とやらに洗脳されて、自覚症状がなくなってるだけのこと。
象牙の塔の中でオナニーに夢中にならないようにしなさい。
学問とは人のお役に立ち暇潰しになり、興味をもたれてこその学問。
あなたの考古学とやらは、重箱の隅を突くだけで象牙の塔の外に出たら屁みたいなもんだ。
964 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 08:57:00
>>960 >もっとも畿内説の場合は、三角縁神獣鏡を始めとして破綻の連続だけど。
「三角縁神獣鏡が国産で、卑弥呼の鏡じゃないから、畿内説は破綻した」
なんて議論は20年前に終わった話。
おまえのソースは古すぎる。
いまは、土器編年で語られるべきこと。
もっとも土器の重要性なんておまえの知能レベルじゃ理解できないだろう。
>>948 >「畿内王権の成立とその前後の過程」のスレタイでいいんじゃないかと思う。
それなら良いでしょう。
邪馬台国はあくまでも、魏志倭人伝に明記された西暦240年頃の日本にあったはずの国家。
その頃に畿内でも九州でも多くの有力な国家があったというだけのことだ。
しかし邪馬台国を追求したければ、場所を明記されてる魏志倭人伝を離れるのは邪道!
966 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 09:00:09
>>965 はいはい、邪馬台国は追求しないから、帰ってくれ。もう来るな。
邪馬台国を追求する気が無いってスレ案にはっきり書いてあるじゃんw
藻前、八百屋でコーヒー注文するタイプだな
968 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 09:50:34
いや、突然会話に割り込んできて
「今、私の悪口言ってたでしょう!」って叫びだすタイプだろう
969 :
月光仮面:2006/10/14(土) 10:39:47
970 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 11:06:40
今晩には二上シンポの報告も入るだろうし、そろそろ次スレ、立てた方がいいのでは?
971 :
月光仮面:2006/10/14(土) 11:11:40
古墳の起源について・・・
「この葬式で若者たちは「飛躍」する。だとすると彼らがもっとも活躍したのは170年
以降でしょう。彼らは大乱を治めるために活躍したのです。楯築と西谷で突然墓を
大きくし、葬式という一大イベントを起こし、それがそのまま大乱回避のための仕掛け
にもなったのではないか。」
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/ml/izumo2.htm 大乱回避のためと言うのも優れた見方ですねー。で、その大乱と言うのは
漏れは、九州が楽浪に応援を頼んだんじゃないかなとおもうんだが、どうかなー。
972 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:34:21
>>962 僕の考えと安本説は違う。安本氏の邪馬台国までの行程・日程に対する
考え方には納得できない。だから、甘木はないと思っている。
また、自分の考えでは日向をかなり重視しているので、その点でも違う。
年代観も違うと思う。実は安本説について詳しく知っているわけではないが。
畿内説をひとまとめにして攻撃するなと言いながら、自分は東遷説を
ひとまとめにしている。なんかおかしいんじゃないか。
>>960 三角縁神獣鏡魏鏡説は20年前に破綻している?まあ、それはいえるかもしれない。
その頃の土器の編年について調べてみたらいい。
その頃、畿内考古学者の若手が、根拠もなしに箸墓はもっと古い、とか
言いはじめた。
三角縁神獣鏡が破綻したら、次は土器の編年を遡らせる手段に出るだろう。
これは30年前から予想されていたことだった。
973 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:02:39
>>972 >三角縁神獣鏡が破綻したら、次は土器の編年を遡らせる手段に出るだろう。
「土器の編年を遡らせる」って、どういう意味?
ねえ、教えて教えて。
974 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:51:10
>>972 君の言ってる「畿内説」批判は、安本の言ってることばかり。
ていうか、安本のホームページ見ながら書いてるでしょ?
975 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:03:28
要するに、倭人伝を読んだ印象から「邪馬台国は畿内では絶対にありえない」と思い込む。
→畿内説に対する反論をネットで探し、安本を読み、そのまま書き込む。
っていう流れか。
976 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:10:53
何でもネットで探すのではなく、たまには図書館や本屋へ行けよ。
あと、安本の言説を利用する以上、彼の本もちゃんと読んであげて。
いかにいい加減なことを言う人物か、よく分かると思うし。その上で彼の発言を引用すべきだね。
>→畿内説に対する反論をネットで探し、元ネタが安本であることも知らないまま、そのまま書き込む。
もありかと・・・・
978 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:33:06
>>972 東遷説をひとまとめに否定してないよ。
あくまで「邪馬台国東遷説」を、だ。
違いは分かるよな?
979 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 19:56:09
安本は同世代の古代史学者(直木とか)に比べれば、数段優れているとは思う。
ただ、それは同世代の畿内説側がサヨク思想に汚染されていただけともいえる。
安本の言語学的分析は優れていると思うけど、畿内説は無視。
安本は金属考古学とかの資料も公表しているけど、畿内説はこれも無視。
畿内説側が出した反論のスプリング8が破綻しても、これも無視。
記紀の解釈も安本独自の説が色々あるけど、これも無視。
畿内説の土器編年に対する批判も、無視。
後漢鏡の出土分布のデーターも、無視。
畿内説の人達って、学者として、という以前に人間としてどうなのよ。とは思う。
ただ、安本説の弱点が庄内開始300年にあることも事実。
これを支える画文帯280年以降という根拠(原料出土地)も確実性が今ひとつ。
原料分析が正しいと仮定しても、産出年代が正しいとは限らない。
まあ、畿内説は同位体比データーからして、無視し続けているが・・・
けど、今の畿内説が年代遡上の根拠としてきたC14や年輪年代もいまいち。
土器編年もこじつけ感があるし、1型式が長くなりすぎる感じもする。
現時点では、土器は柳田説が年代遡上の根拠として頼りになりそうだけど、前提となる
西新の年代そのものの確実性が今ひとつ。仮に、西新の年代を認めても、卑弥呼の時代
のあとに庄内式が畿内に伝わって、畿内の一部に普及した頃に布留式に変わったという
考えを排除できる確実な根拠が無い。むしろ、庄内式の分布からは畿内説は分が悪い。
などと色々考えているが、安本説を出しただけで、過剰反応するのもどうかと思う。
↑大本営発表、乙
981 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 20:39:56
982 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:02:02
安本説の古代帝王10年説は正しく、天照は卑弥呼の投影という説も正しい。
隋書には、神武以前の王(尊)は全て筑紫の国に在す。と書かれていました。
これは記紀よりも古い「日本紀」をよりどころとしているためです。
記紀をよりどころとしていれば「天照は高天原国に在す。となっていたはずです。」
しかし邪馬台国は畿内にありました。
理由は、またの機会に
983 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:15:18
三角縁神獣鏡魏鏡説の破綻や鉄器が畿内にないことを無視する畿内説っていったい何よ。
安本への罵詈雑言しか書けない畿内説は終わってるな。
次のスレッドではまともな議論を期待したいものだな。
984 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:24:09
コピペ推奨
<<<戦後古代史学会の歴史>>>
戦後の古代史学界は、戦前の皇国史観への過剰な反発とマルクス主義に基づいて
反天皇制の思想性の強い説がもてはやされた。
1、記紀は後世の捏造である。
2、天皇の血筋は何回も断絶している(三王朝交代、河内王権etc)。
3、欠史8代は実在しない。応神天皇、神功皇后とかも実在しない。
4、朝鮮征伐も捏造である。
5、任那日本府も実体に基づかない。
6、継体天皇は王朝交代により即位した。
など、今では継承者が激減している学説に熱中して、「空白の50年」を浪費した。
そのうちの一つが、<7、神武東征は捏造であり、畿内王権が邪馬台国に成長した。>
というもの。この自生説も今では絶滅寸前。
その一方で、弥生時代では北部九州の鉄器が畿内を圧倒しているという事実が60年代
から言われてきたのを、畿内説は長期間にわたり無視ないし否定し続けてきた。
(その後、古墳時代の遡上という反論に出たのが今の畿内説。)
安本は、このような左翼史観全盛の時代に「マルクス主義はほら話だ」と言って、反論を
始めたという学説史上の意義は否定できない。奥野の「鉄の考古学」も畿内説が無視し
続けてきた事実をまとめ上げたという重要性がある。
今の畿内説もの昔からのマルクス主義の影響は否定できないし、鉛の同位体比とか平原
遺跡とか、不利な証拠は無視するという悪癖もそのまま。
安本説に対しても、このスレでは理論的な反論がほとんどなく、罵倒とレッテル張りに終始。
・・・・・安本説排除で「引きこもりスレ」にしてもしょうがない。
次スレでは、思い切り反論すればいい。
985 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:31:31
>>979 安本氏の年代観からすると、庄内期が西暦300年頃に始まるというのは、
必然的かもしれません。高島忠平氏も同じような意見ですね。
関川尚功・橿原考古学研究所員も同じような年代を考えているらしい。
逆に、石野氏や寺澤氏は、3世紀始めに始まると考えているらしい。
以前は、庄内期は、西暦300年頃に始まるというのが定説だったけど。
現在でも、なかなか決め手がないというのが現状でしょう。
畿内説の場合は、3世紀初頭に始まったと決め付け、それだけをよりどころに
しているらしいけども。
ちなみに、箸墓が作られた時期についても、いろんな説があるようです。
菅谷文則氏は3世紀中頃、白石太一郎・石野博信氏は3世紀後半、
田辺昭三・関川・安本氏は4世紀中頃、斎藤忠・元東大教授は4世紀後半
という具合だそうです。
考古学は物的証拠ではあるが、その解釈は人間がするもの。
いくつかの説の中から都合の良いものだけを取り出すのは間違いですね。
986 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:37:04
ここは考古学と古代史学の違いも分からんのがいるな。
ミラーの噺は考古学板でやっとくれ
史学はあくまで文献から真相を探る探偵の仕事
考古学は証拠を発見する警察の仕事
安本ホームページ丸写し乙
988 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:45:44
歴史学=賢い探偵(チョイモテ) 考古学=間抜けな警部補(チョビヒゲ)
歴史学=ホワイトカラー 考古学=ブルーカラー
次スレどれで立てるか決めたほうがいいぞ
いくつか出てる案のうち
990 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:05:28
l
991 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:08:36
>985
>安本氏の年代観からすると、庄内期が西暦300年頃に始まるというのは、
>必然的かもしれません。高島忠平氏も同じような意見ですね。
高島氏や関川氏も安本と同意見なのにここのアンチ安本の考古学オタは
無視すんだよね。所詮、素人オタなんだよね。
>高島氏や関川氏も安本と同意見なのに
うそ
あきれてあいたくちがふさがらない
安本は知らないと言ったのに
書くのは安本の主張だけ
995
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997 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:53:18
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このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。