1 :
順瓦琉:
実際、武田家は生き残ることが出来たのでしょうか。
自分的には義信が自害したあたりで既に死亡宣告が
出されたように感じるのですが・・・。
3 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 22:27:18
4 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 20:43:55
5 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 21:23:33
高家として
存続出来たのだから
まだ、いい方なのでは?
信勝が勝頼を追放して領国経営方針を転換
後は上杉景勝と同じ方法で秀吉に取り入れば…
7 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 02:54:18
武田が滅んだから信長と信忠が同時に京都にいたわけで
本能寺で信長死んだだけじゃいずれ武田は滅びるんじゃない?
9 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 21:53:00
10 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 11:40:10
私の名は安田義●
家紋は丸に抱きオモダカ
先祖は長野⇒岐阜⇒京都と流転
武田安田家の子孫である。
残ってるでしょ武田家
15 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:36:55
誰?
16 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:42:10
だれ?
17 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:10:41
18 :
:日本@名無史さん :2006/11/07(火) 21:36:56
>>1 うん、オラもそう思う。今川との関係有ってこその武田。
信玄が後継ぎ判断誤ったせいで、外様みたいな有力家臣が他に流れた。
>>17 さすがは信玄、死してなお400年の間、よくぞ信長を謀った
20 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:03:40
藤田信吉や上条政繁みたく武田信清も景勝を見限って家康に走れば
織田や木下みたく2万石くらいの江戸大名で存続できたんとちゃう?
大久保長安事件が乗り切れれば・・・
21 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:25:19
武田に限らず、北陸道を上杉、東山道を武田、東海道を北条
っていう盟約ができれば三家とも生き残れたというか違った状況になった気がする。
22 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:44:29
さっさと松姫を信忠のところにやって
姻戚関係を結んであとは徳川家と同じように
同盟とは名ばかりの実質家来として忠勤に励む。
23 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:28:16
>>22 義信ならまだやりようはあるが、勝頼がやったら政権が崩壊する。
家康の息子の信吉が継いだけど嗣子なく絶家。
佐竹と武田は同系列だが。
公演のご案内をさせて下さい。
内容は、松姫を中心に巡っていくお話でございます。
歴史が好きな方、
武田一族がお好きな方は、きっと楽しめると思います。
◆市民劇場八王子夢座第四回公演◆
『みすず刈る』〜松姫哀歌〜
■場所■
八王子市芸術文化会館 いちょうホール(小ホール)
■日時■
平成18年
11月17日(金)
1回目:開場13:30〜
2回目:開場18:30〜
11月18日(土)
1回目:開場13:30〜
2回目:開場17:30〜
※各回30分後に開演
■料金■
前売り/当日共2000円
ご連絡、お待ちしてます。
[email protected]
27 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 07:55:30
信勝が上杉家に亡命
そして、本能寺の変の後に、一揆を指揮して高崎あたりに拠点をつくる
北条と講和して、徳川を叩き失地回復していく
28 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 07:57:45
信勝亡命の時に、勝頼の後妻の北条氏康娘も連れていき、
秀頼死亡の後に、義母と結婚する
そうすれば北条と同盟しやすい
29 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 16:57:53
30 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 13:36:45
でも武田家って女性の当主が着いた事あったよな?
ってことは武田家の男系は断絶したと言うことだろ
31 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 13:42:40
32 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 16:13:45
てか、鎌倉時代からの嫡流という意味では信玄以前に
既に一度途絶えている罠。
鎌倉からの嫡流は途絶えたけど男系でつないで新たに彼を
嫡流にしたが結局信勝で第二次武田の嫡流も途絶えた。
33 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 17:36:51
>>29 にもあるように、信玄の子孫は2系統ある。
二男、信親(別名を竜芳)の家系
七男、信清の家系(現在の米沢武田氏の祖)
途絶えてはいない。
35 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:40:47
だから嫡流は絶えたけど傍流が生き残ったんだろう?
そういうこと。
37 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:39:28
>>36 その竜芳の系統は柳沢の子孫にとってかわられたがな
38 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:59:42
とってかわられたから何だというのけ?逸見のあんちゃんよw
そもそも新羅三郎義光(武田氏祖)が傍流(源頼義の三男)
竜芳の家系について色々いうと、三条夫人ヲタや
武田○○会に親しいとかいうお人が怒って出てくるよん。
三条ヲタ粘着君乙!
三条ヲタ同様おまえもウザイから消えろ!
42 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 16:13:59
信玄が長男義信を誅殺した時点で 甲斐武田は終わってた
あとは、自動滅亡
家来扱いの勝頼が当主になったって、誰もまともに言うこときかんよ
勝頼は諏訪から来た余所者だから
>>41 うむ。ヲタにしても家臣団末裔にしても竜宝の家系については
怒っているどころか意見しているのすら見たことないしな。
小説やらドラマに苦情をいれてるってのを良く書きこんでたけどね。
きっとその人は周辺人物なだけかな。
45 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:17:59
>>37もっと詳しく
柳沢の子孫にとって変わったのと、3、4代前に女性当主がついたのとは関係があるのでしょうか?
46 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 01:57:30
御館の乱で景勝に与して北条の怒りを買い、織田、徳川、北条と
三方から攻め込まれる形を作ってしまったのは明らかに失策だったな。
あそこで景虎に味方してれば甲相越という鋼の結束が生まれていた。
そして背後を気にせず織田との戦いに専念できる体制が作れれば、
本能寺の結果次第では反抗の可能性もあっただろう。
47 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 02:00:06
戦国大名として存続することはできなかったとしても、あと何年か延命する事は出来たであろう。
>>46 北条が巨大化しすぎるんじゃないか?
姻戚だったとしても北条の下風にたつことになる
まあ、あんだけ無茶やって国力疲弊させれば滅びるかどっかの下について生き残るしかないか
>>46 そういう意見はよく見かけるし確かに失策でもあるんだが…
かといって、あの時の北条の態度を見ると勝頼が景勝に
ついてしまったのは仕方なしという感じも否めないし
仮に景虎についても史実どおり景勝が勝ってしまったら?
景虎が勝っても甲相越が結べなかったら?という可能性もある。
50 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 14:06:19
この時期武田と北条は同盟組んでただろ。
51 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 20:04:41
長篠での武田軍の死者千人織田・徳川が六百人。
たいした事ねーべ?
52 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 12:47:35
ooooo
53 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 03:21:58
武田は勝頼に勝気がありすぎた事が原因。それと真田昌之の言うことを聞かなかった事。信玄弟信繁があっさりしんじゃった事。
54 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 03:29:46
人材とかあんまり関係ねえよ。
武田に限らず兵站と新しい軍事技術への関心のなさが滅亡を
招いただけだろ。鉄砲そろえて軍農を分離してと、織田が
やったような程度のことをやるだけで誰だって覇者になれた。
55 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 03:58:16
>>53 確かに小説とか読むと真田昌幸の献策は神算鬼謀の如くズバズバ当たるな
まあ創作に過ぎんだろうが
昌幸は戦略眼には優れてないからな
戦争は強いし、調略・謀略は上手いけどな
57 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 07:44:53
昌幸は武田の軍師的役割にあったわけじゃないしな
58 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:21:11
最後は、外様の真田よりも、古い付き合いの小山田を頼ったのが間違いだった。
真田と一緒に上田に籠城すれば、二、三年は持ちこたえたかもしれない。
上田に籠城するのは不可能だろう。
真田を頼っても交渉の道具にされて首チョンパは確定的。
60 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:04:58
真田昌幸は1585年の第一次上田合戦で二千の兵で一万の徳川軍を迎え撃ち、
三千の死傷者を出させるという大勝利を挙げている。
1600年の第二次上田合戦の例もあるし、真田の守る城は恐らく落ちないだろう。
上田ならぬ上杉にも近い吾妻方面で再起図るという話ならあったらしい勝頼
結局小山田との二択でポシャッたぽいが
>>60 信長がキレたときはどいつもこいつも例外なく皆殺しになってるし
その信長率いる10万の遠征軍相手ではいくら真田でも単独では無理かと
意外と長篠以後でも、勝頼が反省さえすれば、生き残る目はあったと考える。
最終最大の分れ目は、越後の跡目争い。北条との団結を堅くし、上杉景虎
支援のまま、景勝の援助要請を蹴ればよかった。北条武田同盟を堅持、当然
越後は景虎派が勝つので、越後甲斐関東が安全圏になる。内政を整え、織田
徳川同盟に対して外交懐柔する。北条との同盟が密なら、織田徳川も慎重に
なるし、北条と同盟していれば家康へのチャンネルも残る。
ネックは、北条が武田を切り捨て、織田徳川と通じて越後・関東から攻め入る
ことだが、史実でも攻め込み甘くて信長の機嫌損じてるくらいだから可能性
は低そう。景勝支持でハッキリ北条も敵に回すより、良策。
63 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:27:41
御館の乱の時って金二万両与える代わりに手を出さないでくれっていう取引じゃなかったっけ?
だな、籠るなら岩櫃だよね。あそこは山深いからな。にしても、沼田
取られたら押し込められるだけ。やっぱ北条はじめ敵だらけにしちゃった
甲府陥落直前まで来ちゃうとかなり生き残るのはキツイ。その前に
なんとかせんとw
66 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 15:47:23
>>65 上杉の動向に、全てがかかってくるわけでして。
67 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 16:18:58
1582年の武田で信長の野望やりたくなってくるな
信長が本能寺で死に、秀吉が台頭することが分かってりゃ凌げばいいんだがw
真田が持ちこたえられたのも、しばらく秀吉家康という二重権力構造の間
を泳いだから。勝頼をかくまってたら、織田は全力で潰しにかかっただろう。
甲斐に織田徳川がひしめいてるなか、上杉が味方したかは疑問だな。
>>62 てかてめーの弟が絡む上杉家内のごたつきが一段落してもいないのに
佐竹とけんかしに行った氏政の態度に激しく不信を抱いたから
景勝についたんじゃないのけ?ドライな見方をすればこれって
見捨てたようなもんだろうて。
岩櫃に篭城し時間を稼ぎ、織田・上杉・北条・京都以西の状況を見極めて
外交交渉/倅の信勝を上杉or同族の佐竹に亡命させる。
>>68 そう考えると結局、当主の人物の器になっちまうなしかし。信玄・氏康
の次世代は、どっちもどっちかw 一応、景勝>>勝頼>氏政ってとこか。
72 :
71:2006/12/08(金) 22:20:51
73 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:01:49
>>71 景勝が勝ちゃんの位置にいたとしても、
滅亡がダサい降伏か、どっちかしかないわな。
なんか小学生みたいだけど、「隣の信長が化け物過ぎた」んだよ。
現実的に言って、あんだけ国力差があったらもうどうしようもないって。
74 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 00:19:17
結局穴山を初めみんな裏切った。まあ、他家を継ぐはずの男だったわけで、
かつては同僚だしね。
>>73 いやいや、ちゃうよ。国力差はあるけど、なんでガチに真っ向勝負せな
いかんのよ(外交センスのなさ)。そもそも国力更に落としたのも、勝頼
の無理な外征と、内政おろそかにしたせいじゃん。丹波の波多野一族と
か位置的にほぼダメなとこはあるけど、信長の執着は京周辺及び西に
あり、武田家の元規模と支配国なら、裁量次第で充分生き残る道はあったよ。
76 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:38:29
だね。いくら戦国乱世とは言え、あれだけの家臣団の層も厚いそこそこの
大国が、信玄没後僅かで消え去ることじたいが異常。天目山に至る過程
も、見放され方が尋常じゃないよなw どれだけ勝頼が浮いてたか分かる。
77 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 16:38:33
当時の甲信の主従関係は、まだ 鎌倉時代と一緒
なんじゃないの?
78 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 18:29:40
>>75 ガチで真っ向勝負した好例に、「信長vs今川義元」がありますね。
そうでもしないと「国力差」という決定的な敗因は埋められません。
外交センスっつーたって、「服従」しかないわけでして。
服従が許されるのは、小勢力だけです。
80 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:31:57
武田軍は中世軍、兵農未分離、制圧した城の女などは強姦していたようだし
それに対し織田軍は近世軍、専業武士だし軍律も厳しかった
諸豪族の連合体の武田では、近世軍の織田軍に勝てる可能性は無かった
機関銃で武装の織田米軍に竹槍で向かっていく武田軍みたいなものだ
81 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:05:23
>>78 天下取らなあかんスレじゃないだろw 桶狭間時と違って、周囲の上杉・
北条は反織田で結束する可能性は充分あったっつの。その理屈だと、秀吉
がローラー作戦で全ての大名潰さないかんやん。上杉も伊達も、転封され
たろうが、恭順してればおそらく北条も残れたんだよ。つまり、勝頼の
裁量次第だよ。今川上洛途上にあるちっぽけな当時の織田と武田は違うよ。
つまり服従しかないわけで
83 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:02:49
信玄がしんだ後に謙信は武田家にお悔やみ申し上げますって手紙出してたし、謙信はどっちかっつったら金沢の方(七尾や御山御坊)を集中的に攻めていたので、上杉はあまり気にしなくても良かったのでは?
>>83 「お悔やみ申し上げます」という使者を甲斐に派遣
使者の仕事
→本当に死んだのか確認
→で、家中の雰囲気はどうなってるか確認
→武田家臣中の織田シンパと連絡
→織田領〜甲府までの道中を(軍事行動に備えて)再確認
→領民の動向確認
などなど。
ヌルいもんじゃないんだよ。
85 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:33:59
>>82 分からんやっちゃな。国力即破滅じゃねぇし、当主の政治力も重要なんだよ。
小牧長久手から、大阪夏の陣までの家康の駆け引きを見ろ。あれだよ。
一度恭順して生き残り機会を伺い、最後に勝ったのは家康だ。勝頼なら
小牧長久手で滅ぼされとるわな。
家康が勝頼の立場でも、滅ぼされてるわな
思い込みだから、何言ってもムダなようだ。長文書くだけ損だからもういいわw
つか
>>85がいちばんオレ正義な思い込み厨臭いです
89 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 04:16:26
まあ当主自ら有無の一戦を行えば、桶狭間のように国力差があっても
勝つ可能性はあるわけで。
つか勝頼を保護せず、本能寺後にまんまと徳川に甲斐信濃をさらわれた
北条が負け組
91 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:50:10
つか、武田が織田、徳川、上杉が織田(柴田軍団)と対峙しているからこそ
安全だったのに、それにきずかない北条。
>>90 北条、信濃の結構なところまで踏み込んで占領してるぞ。
確かに勝頼ないしは武田家の人間を積極的に保護して、
それを前面に立てて侵攻すればよかったのに・・・とは思う。
93 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 09:13:52
>>90 本能寺があることなんて予想できないのにあの状況で勝頼を保護するなんて有り得ない。
そんな真似をすればそれこそ武田攻めのあと織田家の侵攻を招きかねない。
それにむしろ当時は武田と敵対していて織田よりの立場なんだから。
できないことはないわな。
そこをうまくやれれば、なんとかなった
なのにできなかった。それが北条の能力の限界
95 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 10:25:00
いや、できない。
やるメリットもない。
96 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:33:22
上野掠めとったんだからいいじゃん
>>95 メリットがない?はぁ?
徳川は、武田の名前を利用して占領政策しているぞ。
>>97 それは本能寺の後の政治状況での話。
甲斐征伐の時点では信長が健在なので、北条家としても甲斐に触手を伸ばそうなんて考えないだろ。
そうなると北条家が勝頼を保護することに意味はない。
まして3ヶ月に信長が殺されるなんて想定外なわけだし。
また来たのか思い込み大将
100 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:49:58
きみの世界では、きみが正義だよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
102 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 19:18:29
つか
勝頼ってプライド高そうだから保護も拒否すんじゃねw
103 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:20:21
それ以前に北条も武田攻めに加わってるんだから、
そこに保護を求めるなんてしなさそう。
104 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:58:05
中身の無いレスだな。武田攻めに加わる事になった背景を考えろよ。
105 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 04:47:22
信長が本能寺で遊んでたのは、武田が滅亡して安心してたから
武田が滅亡しなければ、本能寺の変はありえない。
106 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 10:29:57
本能寺が起きないんじゃ勝頼を保護しても使い道がないな。
だいたい攻め手が敵総大将を保護するなんてしないし。
107 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 10:33:03
>>104 北条が武田攻めに加わった動機を考慮したらなおのこと保護するなんて有り得ない。
甲斐征伐後再興されても北条の傀儡だし考えても無意味では?
史実でも高家として残ってるし、あくまで戦国大名としての存続を考えるスレでしょうが。
109 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 10:56:42
じゃあこのスレも終了。
おつかれさーん
112 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:41:07
おつかれ〜
思い込み大将がキレた
なにこの流れ
115 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 17:41:48
116 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 18:29:09
118 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:01:19
梅雪が品なければ、一応甲斐源氏支流だし再興できたかな? 河尻の死後に征め入ってさ。
家老は惠瓊(無理?)
119 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:57:38
120 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:37:13
>>24信吉は武田を名乗っていたけど、相続したのは穴山だ。
だから
>>118、もしかすると、水戸徳川家が穴山になっただろうな。
>>118 安芸武田は安芸武田で、復興してくれないと。
前、他所のスレッドで聞いたことあるんだけど(武田スレ?)
安国寺○万石のとこの、例えば関が原にやってきた家臣団って、
・毛利から派遣
・旧安芸武田家臣団
どっちなんだろうな。
後者なら軽く萌える。
>>98 織田との対立は本能寺以前でも想定するべき
北条夫人なら保護しても何ら問題ないし、
保護しておけば、黄梅院の息子の誰かに武田を継がせて
甲斐信濃を攪乱できた
本能寺が起きなくても役に立ったことは明らかで、やっぱ北条は無能
123 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:11:06
>>122 なぜ織田との対立を想定する必要がある?
信長健在の状態で甲斐信濃を攪乱した日にゃ侵攻を招くのは明らか。
氏政も秀吉の場合と違って信長に対してはちゃんと戦力差を理解して恭順の姿勢を示してる。
妹の勝頼夫人の件も戻すつもりなら同盟破棄の段階で返還させるのが筋だし、
武田滅亡時のような状況では例え妹でも、他の例を見てももはや見捨てるのが普通。
それにたしかに手元に武田縁者を置けば役立つかもしれないが、メリットより
そのことで織田との関係を損ねるデメリットのほうがはるかに大きい。
あなたの論は北条が嫌いなのか無能と決めつける点から入ってるので変なことになってるぞ。
氏政の子は信玄の外孫なんだから勝頼夫人がいなくてもいいわな。
いざとなりゃ誰かに武田を名乗らせりゃいいし。
その場合の名前は武田氏信か?
直接自分の身内を送り込んだほうがやり易いだろうね
>>122 別に、黄梅院の子に武田姓を継承させなくても
統治はできると思うけどね。
>>123 >恭順の姿勢を示してる。
初耳です。
マジでソース希望。
>>125 越後で大失敗をry
>>124 氏晴
>>126 統治はできるだろうけどより強固にするなら
武田姓を名乗らせた方がいいような…。
大義名分も成り立つ。それに黄梅院は正妻腹だから。
130 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:10:08
黄梅院の菩提寺が家の近くにあるぜ
寺跡地けどな
当時の石垣があるだけだ
131 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:47:29
>>127 信長に馬を差し出したりしたことじゃね?
あと武田攻めの時に同調したこととか。
>>129 晴は足利義晴からの拝領だから晴信一代限り。
北条の通字「氏」の下に武田の「信」で決まりだろ。
織田秀信みたいにさ。
太田氏資
猪股氏邦
136 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 15:16:32
織田勝長
137 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:43:01
織田勝雄
織田無道
139 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 11:19:42
織田信倫
140 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 21:24:48
無道は絶倫
141 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 21:33:05
初鹿野美濃守、跡部山城守など高級旗本に起用された武田旧家臣もいる
信玄の子供で目がみえない人生き残ったよね!
143 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 21:44:38
>>141跡部家って、老中水野忠邦の愚弟が養子に入ったんだよな。
145 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:29:29
跡部良弼、町奉行、大目付、留守居などを歴任し、最後は若年寄。
旗本として栄達をきわめた男だ。
>>145 でも若いのに年寄り呼ばわりされたんでしょ?
若ハゲだったのか?
147 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:09:11
信玄が長男義信を討ったのが間違い。
伊達政宗の親父を見習って、
実権を捨て、武田を去るべきだった。
そうすりゃ、武田家は残っただろう。
148 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:52:56
武田家は残ったろう
全裸で
149 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 08:23:33
伊那丸がお家再興
150 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 10:27:48
山国の勢力争いと、外部からの柔軟な情報・物資不足で必然的に解体しただろ
151 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 10:31:32
常陸國勝田の武田郷で悪事を働いて京の藤原朝廷から甲斐の山国へ左遷された時に、清和源氏内での地位争いから、既に外れた阿保氏族、徳川の為にたてまつられ過ぎ。
152 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 10:33:54
武田家家臣(地侍?)の私の家系は武田家滅亡後信濃の国の名主を勤めましたが・・・
武田家が存続していた場合は侍として生きていたのでしょうか?
153 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 23:35:53
信玄の子、仁科盛信の男系子孫は現在まで存続してる、というのを立ち読みした歴史系の本で見た記憶がある。
154 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 04:57:22
善光寺はどうなったんだろう。
155 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 08:19:27
武田家の名跡は滅んだが、武田軍団はそっくり家康に拾われて
井伊家に付属させられた。赤備えまで継承。戦国版M&Aだな。
156 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 12:58:52
うちは拾われなかった・・・Orz
157 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 13:25:52
今川や武田の旧臣はたいてい徳川に吸収されてるよな。
旗本の朝比奈とか曲淵とか跡部とか。
158 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 01:47:32
信玄公が健康であっても、次々とやってくる織田の軍勢を前に家臣が離反し結局滅亡の憂き目をみることになったのではないでしょうか。実利優先の当時の国人層を抑えることは1人の有能な人物だけの器量では挽回できないと思います。
159 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 17:16:10
信長の軍も、経済力をバックにしている以上は補充が無限ではないし、それ以前に圧倒的な負けを数度
経験すれば指揮官クラスの士気が衰えて積極攻勢自体が困難になる。そこに各方面の前線付近の自領内の
日和見勢力が付け込んで反旗を翻せば、織田軍も終わりじゃないか?
160 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 17:58:47
確かに生産性が高い織田領国であっても限界点はあるとは思いますが、織田軍相手に戦いを何回も仕掛けられるほど武田領国にしっかりした経済基盤があるとも思えません。
161 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:54:58
信玄が家康を脱糞させたときやら、信玄の好敵手の謙信が柴田をボコった時のようなワンサイドゲームを
何度か繰り返すのは無理ではなかっただろう。それに、織田側に積極攻勢の意志が持てない以上、イニ
シアチブは武田側が握り続けられたはずだ。信玄がカリスマ的存在として生きている間は。
162 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:05:19
信長は信玄在世中、しきりに政略結婚で機嫌を取り結ぼうとしていた、
信玄が長生きしていれば、信長は信玄の姻戚の一人、同盟者の一人に
とどまっていたんじゃないか?
信玄を打ち破ろうという考えはなかったと思う、に同意。
163 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:07:33
武田軍が短期間のうちに織田軍に連戦連勝しない限り最終的には織田軍に負けていたのではないでしょうか?間歇的その都度勝ったとしても戦いのない期間に織田方が体制を立て直してしまうのではないかと思います。
164 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:20:39
信玄がいる限り政治的な切り崩しは困難なわけで、織田軍が地の利を得た武田軍に攻勢をかける余地が
あったかどうか。織田側も他の方面軍の戦闘が終結すればやがては圧倒的な戦力差が生じるだろうが、
そうなれば武田側も外交で家を守ろうと画策するだろう。
武田家の目標が天下統一でなく家の存続である以上、問題なのは軍事力よりも政治力だろう。
165 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:52:10
全国制覇を考える信長にとって甲信東海地方に存在する武田氏を存続させておく可能性は低いのではないでしょうか。政治的連携で信長を包囲し圧迫しようとしても長期間包囲を持続させるには経済力に裏打ちされた求心力がなくてはならないのではないでしょうか?。
166 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 20:11:18
信長はそのつもりだったかもしれないが、きっと上杉その他に対しても同様の考えだっただろう。
168 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 21:24:21
家康を三方が原の合戦で撃破した後、信玄が生き続けて西上を続けていれば当然信長と衝突する。鉄砲はまだ無かった織田軍は尾張人の集団で、三河人集団の家康軍より弱い。信長も服属または滅ぼされていた可能性が高い。
169 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 21:33:42
もし〜だったらの仮説以前の空想話で、可能性も糞もない。
駿河信濃上野を差し出し、織田に服従。もしくは設楽原後のまだ戦力のあるときに遠州に出兵し乾坤一擲の勝負。
171 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:36:44
土着の国人領主層の連合体である武田領国を当主の一存で縮小・再編しようとする事は武田氏自滅に直結しかねない非常に危険なことなのではないでしょうか?本国以外の領土を織田に差し出すことは旧体制を引きずる武田家にはそもそも不可能なことなのではないかと思います。
172 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:39:31
歴史にifは禁物という常識的な観点に立ってしまったらこのスレは成り立たない
173 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 10:08:02
大坂方面で、滅びた名族の苗字名乗ってる家は在チョンと決まっている。
174 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 11:22:56
>>173 名族って六角とか山名とか斯波とか?
北条、上杉、武田、小西、とかのこと?
175 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 09:41:55
柳沢家から養子がはいってるのが
納得意かねぇ。
武田の別系統を高家にすればいいのによ
176 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 10:26:24
>>175 それでもまだ柳沢は甲斐源氏の支流だし、マシでは?
北条など幕末で伊達(堀田)の血筋に変わった上層化の会長だぜ
まあ、江戸期まで存続した大名の大半は藩祖の(先祖代々の)血筋じゃないわけだがw
177 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 11:56:04
>>174 豊臣を名乗ってる在チョソがいるがwwww
>>176 阿波藩士になった北条(伊勢)や、
旗本の北条氏(綱成系統)はそのままじゃないかな。
・・・大名じゃないけどな。
178 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 22:29:48
柳沢からの養子のあと、遠山家からも養子が入っているようだ。
179 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 05:49:43
>>176 島津、前田、伊達など、外様の国主クラスの大名はほとんど藩祖の男系子孫だが。
黒田、蜂須賀、上杉などの例から、江戸大名の血筋は藩祖と関係ないと言われがちだが、
大半の大大名は分家や男系の親族から養子を迎えている。
>>175 竜宝系譜を高家にするのに活躍したのは柳沢吉保だからね。
いったんは零落した名家と、(元はその家臣の)新興の勢力家、
持ちつ持たれつ、お互いに利用しあってたんだろうから
仕方ないんじゃないの。まあ、どうでも良いけどね。
ただ2ちゃん内で、武田現当主に親しいとか言ってる奴や、
正室三条厨が「正統武田家が残るのは三条のおかげ」とか
検討違いを平気で言ってるのはこそばゆい。
正しくは、「柳沢吉保のお蔭」だろーが。
>武田の別系統
信玄の側室腹別系統は、旗本や上杉の家臣として立派に生きてたが、
竜宝系はそれができなかった。
181 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 11:25:50
上杉景勝の奥さんは信玄の娘。子孫残ってないの?
182 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 11:32:42
信玄の娘との間には、
子供はいなかったよ
>>181 上杉景勝正室の信玄息女・菊姫に子はいない。
跡目の生母は側室の四辻氏。
その景勝と菊姫を頼ったのが、信玄七男の信清。
上杉家の家臣となり、系譜は維新まで米沢藩に続いた。
明治期に武田家正統を決めるさいに、竜宝系とともに
最後まで審査に残ったが、側室腹ということもあって却下。
184 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 01:57:27
信長の養女が正室で 嫡男はその息子 信長と結んでれば天下取れた可能性は高い
勝頼ばーか ばーか
はあ?
186 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 02:23:06
ひい?
187 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 06:34:01
ふぅ・・・疲れたぜ
188 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 15:17:01
ふぅ・・・お前らのクソレスでスレがパンパンたぜ
189 :
152:2007/07/07(土) 18:37:49
何故うちは徳川家からお声が掛からなかったのか・・・・・・・・・・・
190 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 06:10:10
甲斐信濃には、江戸時代以降に作られた武田家関係の偽文書が溢れていて、まともな研究も困難な状態らしい。
本当に武田家の家臣だったのかどうかから疑うべきじゃないか。
191 :
152:2007/07/08(日) 06:47:52
>>190まあ、偽文書は徳川家臣団でも同じようなものでしょ。
江戸初期から名主等勤めていたのが一番の証拠だと思っているのだが・・・
自分の苗字は地元では有名で戦国期、城主であり武田の家臣であることは
郷土史でも有名。ただ、自分の直系先祖に関しては確かに確認の必要がありそうですね。
一応、鑑定では本物と言われたのですが鑑定家信用ならないからな・・・
>>152 おたくの詳しい家系なんて知りもしないし、
どの程度のお名主様かも知らないが
家康は天正十年という早い時点で武田旧臣から起請文とって
家臣団に組み入れている。
その史料も残っているよ。
先祖は単に積極的に帰属しなかったとかも考えられるぞ。
>江戸初期から名主等勤めていたのが一番の証拠
それが=元武家だった確かな証拠とはなるまい。
(江戸初期の名主等に、帰農した武家が見られるのは多いけどね)
>地元では有名で、戦国期城主であり
城主まで勤めた身分なら、各種の武田家臣団辞典に名があるんだろうね。
感状や書状くらい残ってるんでしょw
も少しお勉強してみれば、嘘か誠かおいおいわかってくるよ。
>鑑定家信用ならないからな
ほー、どういう鑑定家に見せたのやらwww
>郷土史でも有名 な家柄なのだったら、ちゃんとした
郷土史編纂に携わる学者に見せればいいじゃん。
ちなみに、甲斐の人は何でも信玄(武田家)に所縁を求めたがるよな。
放蕩鍋とかな
>>193 信玄(武田氏)いがいによりどころが無いからな
196 :
191:2007/07/11(水) 01:19:28
197 :
191:2007/07/11(水) 01:39:01
198 :
152:2007/07/11(水) 02:11:00
>>193なるほど・・・。自分で調べたのですが慶安年間に死亡した先祖の戒名が
OOOO居士でいわゆる笠付き墓石なので地元では当時有力者だったのでは?と思っています。
城主に関しては私は直系の子孫ではないと思われます。小さなお城ですが
武田家に攻められ落城、以後武田家に仕えたとの記録が郷土史に残されて降りまして
その地域にいくつか存在する同姓の名主家の一つです。
鑑定についてですが郷土史家に鑑定してもらいましたが・・・
199 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 14:14:20
>193
そういうお前さんもかなりの勉強不足なんだが…。
信玄や武田なんておらっちには
関係ねーべよと思ってる人間もかなり
いるのが実状
200 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 16:55:33
おれんちは依田(蘆田)だよ
201 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 19:39:31
東京・埼玉・神奈川あたりにも武田浪人で帰農したという伝承がある家もけっこうあるな。
まあ軽い身分だったか大した武功もなくて主取りに難渋したのか。
志村とか松本とか岩崎とか栗原とかが多い感じだな。
202 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 19:43:33
関西人だが、武田信玄の子孫だという書付があるw
うちの先祖となっている人は、10歳くらいで死んでるんだがorz
203 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 20:26:12
十歳でも射精&受胎するとは、さすが甲斐源氏!
御旗・楯無の御加護だな
>>202 武田信之のことか。でも、一説には生きてて上総武田氏を継いだ
ともいわれてるからな。あるいはそうかも知れんぜ
205 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 16:28:07
>>204 更に書くと、勝頼が何故か長男で、信之本人は天目山の戦いの後に畿内某国に移り住んだことになってるorz
202、かなり胡散臭そうな書付だと思うが、
世間によくあることだから、気にしないで生きなよ。
207 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 08:07:40
>>206 大正時代くらいには家系図作成業者も、客が喜ぶように必ず有名人の家系に繋げていたようだしね。
地主くらいの家なら大抵偽家系をでっち上げていたようで、職場の同郷の人は、後醍醐天皇の末裔と
いうことになっているんだとさ。
民俗学者の赤松啓介が当時の業者側の事情について書き残しているけど、まさにこの人のフィールド
ワークの地域だからなあ。
うちは〜の家系 とかいうのはもうおなかいっぱいよ^^
tesuto
>>201 通りすがりだが少し気になったので、
> 東京・埼玉・神奈川あたりにも武田浪人で帰農したという伝承がある家もけっこうあるな。
多摩などには、確かにそういう家もあるようだ。
> 志村とか松本とか岩崎とか栗原とかが多い感じだな。
上に挙げられた中の少なくとも二家には、武田とは直接関係の無い大きな一族が存在する。
それらの一族については残念ながら全くの見当外れだろう。
おそらく分からんだろうが、もそっと調べてみたらよい。
御免
赤備えはしっかりとひこひゃんに
継承されましたのでご安心をw
212 :
211:2007/07/20(金) 08:39:06
ひこにゃんの間違えでした
213 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:16:13
ひこにゃんは今年限りの命ですよ?
214 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 16:30:00
滅亡時の離反は見苦しいな。
一門が当主の首争ってる修羅地獄
215 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:18:25
で、ひこにゃんの首は誰が獲るのか。
216 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 11:17:17
>>216 呼ばれたから来たが、多摩地方にはいると言ったはずだ。
身近なものだと、姓氏系家系大辞典にも記述はある。
それとは別に、世の中にはwikiごときでは調べられない、表に出ない(出さない)事柄が沢山あるという事を分かってほしかったのだが。おそらく、フィールド・ワークでもわからん事実が山ほどある。みな、口が堅いでのう。
では此れにて、御免
218 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 18:24:07
義信に男子はいなかったの?
義信には子がいませんでした。
220 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 14:23:44
甘利明けいさん大臣が甘利とらやすの子孫
らしいから大丈夫
221 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 14:41:41
電波
自演乙
225 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 06:06:18
アベ総理は勝頼みたいだな
安倍さんは側室の子でもないし
純粋培養のエリートコースだし
なんでそんな風に思うのか不思議。
227 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 13:32:19
この前の参院選挙が長篠っていうところか。
228 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 13:47:42
>226
安倍晋三は、安倍晋太郎の息子だが、
長男でなく次男坊
サラリーマンをやっていたこともあり、
途中からの政治家転身だからかな?
歴史人物を無理に現代人に例えるのってアホらし。
昔のオジサン雑誌のプレジデントの見出しみたいじゃん。
安倍晋三は勝頼というより豊臣秀頼かな
となると、小沢が家康かぁ
やっぱ取り消すw
231 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:49:59
ほう
元気甲斐
武田神社のちょっと下で二年ほど下宿したけど、
深夜一人でコンビニ行くのが恐かった。
幽霊は見なかったが、金縛りは月に二回くらいあったよ(’A`)
人に歴史あり
236 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 03:52:20
東京在住だが、何年か前の民放の心霊番組で
[天目山の怪!戦国武将の怨霊か?]
みたいなタイトルがついてて、楽しみに見てみたが
武田の壊滅とは無関係な、大正時代の火災犠牲者の怪!だったぞ。
238 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 00:13:33
遅レスだが
>>201 栗原は武田一門では?
勿論栗原の嫡流とは思えないけどね。
武田支族の栗原の流れだとしたら、甲斐では名門の内だぞ
239 :
堀田相模守正篤:2007/12/11(火) 11:48:34
武田神社付近に二年下宿したのは、私が相模原工学校二部定時制から山梨学院大学三年次に編入したからです
ふと思ったんだけど古典厩が第四次川中島で戦死しなければ
武田家はもっと長く続いていたような気がする
なんとなくそう思っただけだけど・・・
何気に信玄がガンだったと思うんだw 信虎が晴信を追放して信繁に
譲っていたら派手じゃないけど、普通に残ったんじゃないかと。
甲斐と南信くらいに小じんまりだから、普通に織田傘下に入ってさw
ループしてるが、
素直に後継者決めて死ねばよかっただけ。
以上。
243 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 19:33:00
上杉の「御館の乱」
この戦いで後北条氏と完全に敵対しなければ、逃げる先はあった。
244 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 02:53:08
御館の乱で景虎方に味方したとして木曾蜂起は起こらなかったのか?
北条の支援で甲斐は死守できるか?それとも北条家に勝頼父子達が落ち延びるか・・・?
北条としては甲州奪還の旗印として勝頼親子を匿うメリットはあるし
245 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:40:50
>>242 信玄は信勝を後継者に決めてたじゃん
勝頼を後見人にして
246 :
石田 三成:2008/03/24(月) 23:49:42
長篠の時点でアウト!歴代優秀な家臣を失いおまけに近臣はバカばかり。
跡部・長坂を取り立てたのも勝頼がダメな証拠。高坂弾正・真田昌幸をもっと
活用せねばならない。まあそうしても武田は織田信長を敵にしたところで
終っている。ただ上杉景勝も武田が滅亡したおかげで助かったとも言える。
織田信長はそれで気が緩んじゃたからね。
247 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:29:30
武田勝頼も歴史全体からみれば、死にどころ得て長く歴史にその武名を残すこと
ができて満足しているのではないかと思うね。武田滅亡の時に妙にジタバタして見
苦しい行動をしていれば、これほど長く武田家は悲劇的な中での英雄的な一族として
長く称えられてはいなかったと思えるもの。
>>245 >勝頼を後見人にして
まだそんな与太説を信じてる奴が・・・
ああ春休みか。
249 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 13:22:20
この辺りに桔梗餅っていう有名な和菓子があって、明智の桔梗紋が使われていたような・・・
250 :
152:2008/03/25(火) 21:21:54
色いろ調べて見たところ我が家や同姓の名主家はたまた近隣の旧家ことごとく
江戸初期は某藩の足軽(www)だったらしいですが元禄期からはみな庄屋に任命
されてるのですがどういうこと?
この「らしい」というのは古文書で足軽として各村の石高等報告してる書類が
残っているようですが・・・意味が分からんな。どういうこと?
251 :
152:2008/03/25(火) 21:33:59
あー、みなっていうのは言い過ぎ。訂正します。良く分からんのが多いので
村史も同じ場所の記述についても整合性が取れないものが多く・・・
難しいですね。
>>247 勝頼自身は長らくバカ殿扱いだったじゃん・・
それこそ武功もまるで無かったかのような言われようでさ。
253 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 12:10:15
次男龍宝の家系は途中で柳沢家から養子が入ったから信玄の血は受け継がれていないが、五男信盛の家系は養子無しで血筋が続いているから、こっちの方が本家でいいんじゃない?
七男信清の家系は養子入ったのかな?
254 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 22:43:27
信長に、「堪忍してください、堪忍してください」と言って全面協力すれば
領土はすべて取られても、命だけは助けてむらえた気がする。信長に自ら進んで
降伏して殺された例は意外に少ないもの。
255 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 05:30:47
>>249山梨県のお土産の定番。桔梗屋 信玄餅です。
家康によって武田旧臣は多く取り込まれたけど、晴信の血を引く人間については
敢えて無視していたのかな。
武田旧臣がひとつの勢力として家中に結集するのを避けるために。
>>256 過去スレに書いてないのか?
竜宝の子は大久保長安事件に連座して遠島になっていた。
それ以前に、武田の旧臣が蜂起して何かを起こすなんてことは
もう考えられないご時世だよ。
258 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 04:40:00
>>257 疑問なんだけど、今川は高家として復活させたけど、竜宝の血筋は武田として名乗れたの?
たしか名跡としての武田は家康四男、信吉が継いだが、子を残さず病死してそのまま断絶
したはずだけど、そのまま捨て置かれて竜宝の方はスルーされたのかな。
>>243 目先の金につられて景勝に味方するしなあ。
上杉を景信に跡目つがせて北条との関係を
強化すればよかったのに。
そもそも、勝頼の嫁も北条なんだし、事実上
戦国大名としては終わっている状態だし
自立は御館の頃にはすでにムリポ
信長に降参する時期も逃しているから
北条に組するしかないだろうによ。
>>244 一応、国なくても一門衆あつかいになるしねぇ。北条の嫁だし
武田は北条とは比較にならんほどの歴史を誇る名家でもある。
御館の乱の判断ミスがなければ十分いきのこれたっしょ。
少なくとも本能寺かそれに類する明智のクーデターが
おこれば織田政権が分裂してた。
そうなれば旧領の奪還あるいは北条の勢力圏になれたし
史実では家康との決戦が、秀吉と関東どころか、甲信越まで
かかえた北条・武田・上杉へたすれば家康まで与力になって
巻き返せたかもしれないのに。
261 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 21:32:37
そもそも御館の乱て勝頼が味方した方が勝つってこと?
武田家って1578年時点ではもう衰退してたんじゃなかった?
262 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 21:49:31
勝頼が、上杉家の家督争いである御館の乱で、
北条氏と、北条氏当主の実の息子である上杉景信の間を、
自軍を出して遮断した。
そのため、序盤は優勢であった上杉景信は包囲され、
関東に逃れようとしたが、越後と信濃(武田領)の国境地域で、
自軍の武将に裏切られて死んだ。
武田勝頼は
1.後北条氏による上杉景信への援軍を遮断した。
2.上杉景信の後北条氏への亡命も遮り、その結果上杉景信は死んだ。
この時以来、後北条氏と武田氏は仇敵となった。
263 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 22:34:53
武田勝頼が上杉景勝に味方しなければ、北条氏は信濃を経由して援軍を送れた。
上杉景信も国境で追い詰められず、関東で軍を再編成して捲土重来を期すことができた。
北条氏も、以後史実の如くに武田氏を滅亡に追い込むことに加担などしなかった。
武田勝頼は、御館の乱における上杉景勝支持で、
織田・徳川に対抗しうる唯一の可能性であった、上杉・武田・北条の提携関係を崩壊させた。
これが武田氏滅亡の決定打となった。
北条がどうこうってれべるでもないと思うんだが
あそこまででかくなった織田とぶつかって勝つのはかなーりきついぞ
265 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 22:58:28
どうせ重装備でも勝てないから敵前で裸踊りをせよ、ですか。
それでは存続の可能性はなおさらありません。
266 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 23:13:55
つーか、武田勝頼が史実通りの反織田・反徳川政策を続けてゆくなら、
御館の乱では、上杉景信への支持が必須だ。
それ以外の武田存続案なら、武田勝頼暗殺と新領主による織田氏への全面降伏がある。
ループしてるが、
素直に後継者決めて死ねばよかっただけ。
以上。
>>258 竜宝の子も孫も、はっきり武田を名乗っている。
幕府からすぐに取り立てられなかったのは、
書いたとおりで、
まず大久保長安と親しかった竜宝の子・信道は遠島となり島で死亡。
その子・信正も(竜宝には孫)そのまま長く島にあった事情から。
>>267 後継者、勝頼に決めていたじゃん。
>>264 すくなくとも、景信が越後を支配していれば
武田・北条・上杉の所領で経済的には織田氏に
対抗できるのでは?
もっとも、堺や京を織田氏がおさえているので
政治、経済的にはまだまだ優位にあるが、
すくなくとも景勝をチョイスするよりは勝ち目が
あると思う
270 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 19:13:00
景勝が、勝利した後に約束を守ると考えていたのだよ。お坊ちゃんだから。
(実際は景勝は履行不可能な約束を勝頼に行い、勝利後、全てを反故にするために武田と敵対した。)
271 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:06:57
武将としての技量は景勝と景虎どっちが優れていたの?
272 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:36:55
米沢武田は大久保長安の連座を回避できた。
直江勝吉(本多政重)の力によるものか?
だいぶ前の歴史読本に
信清の末裔の現当主が記事を書いてた
273 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:39:18
人気は景虎
実力は景勝
ジャマイカ?
>>269 >>260 のように小田原に逃げ込めるんで1582年以降の「存続の可能性」はあるけど
関東にしか興味なさげな北条では信濃甲斐は織田に獲られて勢力範囲は史実と大して
変わらなくなるんぢゃないの。
で、本能寺が起こっても北条は大して動かず信濃甲斐は徳川が押さえてこれまた史実
と大して変わらん展開になる。んで小田原の役で北条もろともオシマイ。上杉は残る。
275 :
274:2008/04/12(土) 02:53:54
小田原の役の前に、上杉が北条方なら家康もそう易々と信濃は獲れないし、北条が武田方
だと徳川とは敵対関係のままになるので、家康が小牧長久手で秀吉とぶつかるのは無茶かな。
あと真田も上田で頑張れたか微妙になるので、名胡桃事件→小田原の役の展開は無くなり
武田は大して変わらんが北条の運命が変わるってのはあったかも。
あるいは関東制覇のため勝頼の存在を無視して史実どおり徳川・北条連携が成立してれば
小牧長久手で秀吉 vs 東海関東甲信越連合になったかも?。
>信濃甲斐は徳川が押さえて
之疑問 あれはあくまで滝川が本能寺の変で領土を治められなくなったから瓦解し、
北条、上杉、徳川が争った結果、甲斐や信濃の武田縁の武士たちは結果的に徳川を
選んだだけの話だろ?
仮に北条に匿われていたら勝頼は確実に旧領奪回に動くよ。
滝川がいないし、穴山も堺から家康一行が逃げる途中で横死してしまうんだし、
勝頼が帰ってきたら、徳川よりも勝頼復帰をえらぶんじゃね?
>>272 竜宝の子の信道は長安の庇護を受けて親しい間柄だったが、
信清系はれっきとした上杉の二千石どりの家臣で自活できただろうし
長安と関係をもつ必要もなく、単に関連性が無かったんじゃないの。
信清と竜宝ってどちらが宗家かを巡って結構確執あったみたいだが、結局どーなったんだっけ。
まちがい
信清系と竜宝系ってどちらが宗家かを巡って結構確執あったみたいだが、結局どーなったんだっけ。
と訂正
280 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 07:28:49
>>279 確執があったかどうかは知らない。
ただ、最終候補に残ったのが信清系と竜宝系なのは確かだが。
武田家の民法上の正系認定については、東京帝大の調査陣が判定を下した。
・土橋治重著「武田武士の系譜」に詳細が載っている。
他スレでも何度か書いたことなんでもう書き飽きた・・・
>>276 本能寺が起こって勝頼の旧領復帰がなったとすると、
それまで織田に押されまくってたとしても甲相越連合の存在感は
それ以前とはかなり変わってくるね。
家康もあっさり甲相越側について秀吉に対抗、の展開か?
283 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 13:38:32
もし武田が復活できたなら、直接対戦していない羽柴ならともかく、徳川の存在は許さないでしょう。
徳川が滅んで、遠州あたりで武田と羽柴が対峙するんじゃないのかな。
北条が本気で支援すれば別だけど徳川を滅ぼすとこまではいかないんぢゃまいか?。
いずれにせよ武田復活なら家康の立場はキツイが、秀吉とくっつくか。
285 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 16:29:16
家康公は武田崩れの際、穴山の御家をもって新羅三郎義光公以来の名家を残す決断をされたのである。甲斐国巨摩郡をもって十五万石の大名として残した
286 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 18:17:31
その穴山梅雪を犠牲にして本能寺の変で生き残ったのが徳川家康。
武田にとっては徳川は不倶戴天の仇であった。
仁科家って江戸時代も続いてたのね。
てっきり盛信で断絶したものとばっかり。
子孫は現存してるの?
288 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 18:49:03
変な徳川礼賛が出たせいで場の空気がおかしくなった。
御館の乱で景虎を支持した場合、
勝頼が織田にやられて、北条領に逃れた後で本能寺の変が起こって復帰する、というスレの流れのようだが、
上杉・武田・北条で同盟を作ったなら、織田の武田領への侵攻自体起こらないんじゃないか?
同盟が機能してあと数年侵攻が遅れれば、本能寺の変が起こった場合、武田は命脈を繋ぐであろう。
創作小説刷れででもやれ
或いは戦国板ででもやれ
290 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 20:03:08
>>287 龍宝系と違って、一度も養子をとることなく旗本として明治を迎えました
子孫たしか大阪にいるはず
>>288 武田が弱体化してることには変わりないからなぁ。
この三国絡みの同盟は史実でも余り上手く機能してない。
北条上杉はそれほど本気で味方しようとしないんぢゃないか?
292 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 22:58:40
上杉は北陸で柴田勝家と戦闘状態なので、
武田が同盟関係にあれば、対織田では共同歩調を取ることになる。
北条の行動が読めないのだが、上杉景虎が家督を継いでいれば、
少なくとも織田の味方はしないだろう。
すると、武田勝頼は上杉景虎治下の越後に亡命かな?
>>287 八王子信松院で松姫の法事をしている盛信の子孫も居る。
少しは自分で検索して調べようね.
景勝は勝頼と対織田で共同歩調取ってたかな?。
ま、このシナリオだと景虎は勝頼に借りが出来てて、上杉が武田と
共闘する動機が高まってるってとこか。
プラス、大して力にはならんだろうが北条は味方で史実に比べれば
だいぶマシな状況だな(対徳川で北条も機能するかも?)
295 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 18:00:36
>>288 というか御館の乱で景勝の味方をしていればというカキコを
よく見かけるけど、北条は対佐竹も抱えていてあの時の
氏政の動きから勝頼が景勝についてしまったのも
無理はないと思うよ。
本気で北条が景虎を助けたかったなら俺は佐竹とけんかしてくっかから
後は武田さんよろしこなんて普通はしないだろ。
言い換えればその行動で勝頼は景虎は北条にとって捨て駒と
判断したんじゃないか?
仮に景虎が勝ったとてその後はどうなるかわからんとね。
296 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 18:10:56
反論したい、という意思だけで中身のないカキコは不要ですよ。
297 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 18:21:19
それだけ北条が信用していたのに、武田勝頼は裏切ったのだ。
だから北条の武田侵攻が苛烈になったのだ。
御館の乱で景勝を支持しなかったのが、武田氏を死に追い込んだ。
298 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 19:03:43
今でもそうなんだけど信用していたとしてもきちんと
礼や筋道、平たくいえば根回しはしないとね。
ただ、それが北条にはなかった。そして勝頼は不信を感じ
景勝についた。それだけなんじゃねーの?
これが氏綱や氏康だったらもう少し違う対応になっただろうけど。
299 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 19:34:57
約定がないなら尚の事、自らに有利な道を選ぶのが領主たる務め。
武田勝頼がその程度も考えない無能者であった、それだけのことなのだろう。
勝頼の中では景勝の方が有利と考えたのだろう。
景勝につこうが景虎につこうが生き残る術は
北条絡みではまずない。
結局北条相手にはかなり有利に戦いを進められたわけだから
真田や小幡辺りはまってましたってところだったかもな。
守りに出るとはいっても何もしないままじゃ国衆の求心力維持できなかっただろうから、
その点北条ならうってつけだったろう。
302 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 20:37:57
武田の存続の道を探っているのに、
後から後から武田をなんとしても滅亡に追い込みたい徳川恩顧カキコが出てくる惨状
>>300 本能寺後の混乱をここで駄弁られてるように予想できる筈もないから多分そうなんだろうが、
西でコテンパンにボコれれてるのに反対側に敵増やすこともないだろう>勝頼。
景勝の申し出はそんなにおいしく見えたのか北条が強くなるのを危惧したのかしらんけど。
国人衆の求心力維持といっても結果ボロボロになったし。
てか景虎に肩入れしてあっさり決着つけばいいが、北条のやる気なさだと
北でもゴタゴタして面倒だ。
あの時点では敵にするなら関東にしか興味ない北条ってとこじゃないの。
勝頼の判断ミスというより何かにつけてどんくさい氏政の限界感じますな。
無茶な仮定だけどこういう場面秀吉なら思い切った行動取っただろう。
国人衆の求心力なんか諏訪の姫との子でしかない勝頼にあるわけないじゃん。
木曾の妻子も血祭りにあげちゃうし、求心力ゼロ 甲斐武士の大半が最後には
そむいて、木曾どこか、小山田や穴山まで寝返るんだからさ・・・
306 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 01:45:21
国人衆の求心力に関しては持ち駒が少なかったから
仕方ないんだが盛信を甲府から離してしまったのが痛いな。
盛信は油川(川窪)の血筋も引いているから国人受けもいいだろうし
信玄でいう古典厩みたいな補佐の立場として近くに置いておけば
また違っただろう。彼は勝頼と違ってずっと甲府育ちだったわけで
勝頼は知らない水面下の人間関係とかもある程度は知っていたと思うしな。
大胆な発想だけど信勝は勝長くっつけて高遠に置いて
盛信を甲府に留めてなんてどうよ?
ふーん。
自分はずっと盛信贔屓だけどね。
確かに盛信の母は油川氏という武田家に近い血筋であるし
また周知の高遠城での奮戦は特筆すべきことではあるけれど
活躍についての史料は少ないし、
実際のところの能力の判断はうかつにできないと思っている。
>甲府育ち
彼がいつ仁科領に入ったかは確かまだ確定していないと思ったが。
天正3〜4年頃ではと言われているので
古府中にいたのは20才前後までと推測もでき、
その頃までに評定や軍議に参加していたかも謎なので
国人層やら譜代衆に影響力があったかも未知数の年代だろう。
盛信は好きだが、過剰に評価する気にはならない。
306のどこか過剰評価なのだと少一時間
俺の(私の含)盛信像を崩さないでくれタイプなんだろう。
別に高遠城での戦いのことなんて一言も書いていないのに
奮戦とか書くあたりね・・・。どっちが過剰評価しているのやらw
310 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 15:14:12
まぁまぁ落ち着け。
で、
>>306 史実でもご坊が返されるまで攻めてこなかったから案外名案かも。
ただ、どこまで信長の堪忍袋が持つかだな。
「坊よ、父のため織田のためじゃ。さらば」と信長が決断すれば
その時点で武田滅亡に大手がかかる。
盛信については未知数。ただ、せめて他の一門衆にある程度意見できて
それなりとした後ろ盾もあるしっかりとした補佐が必要だったのは確か。
そういう意味では盛信は最適材料。勝頼ともいい仲だったみたいだしな。
信頼していたからこそ仁科姓もあって高遠に置いたんだろうけど
それが裏目に出たともいえる。持ち駒が少ないからやむを得まい。
結局、信長同様に信玄も数こそ作っても子作り政策が失敗に近いんだよね。
ループしてるが、
素直に後継者決めて死ねばよかっただけ。
以上。
しかし盛信の全容は遥としているので、
実力はわからないというのは言えていると思うがな。
313 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 03:46:38
高遠には盛信以外にも勇将や信玄時代の勇将2世を置いたりしている。
高遠を甲斐信濃においてのかなりの重要拠点と定めての配置だったのだろう。
それに、そいつらをまとめるという意味でも
実力はわからなくても勝頼のすぐ下の親族としての立場からも重要拠点の城主として適任と思われ。
314 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 22:39:22
別に誰も盛信が高遠城主として不適任とは言ってないだろ。
要は甲府をがっちり固めるか対織田をがっちり固めるかだと思われ。
高遠饅頭でも食って少し落ち着け。
316 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 01:18:33
上の方で、盛信の実力がわからんだのっていう内容の書き込みがいくつか
あるだろ。
それに対する、俺なりの意見を書いたつもりだが。
おまえの書き込みはありがたく見るが、少し前のカキコをみたり流れを読むようにしないと駄目だぞ。
高遠でおもいだしたが、いつぞやのイラク三馬鹿の高遠何がしなる中年のプロ市民おばさんって
高遠発祥の人物なのかね。
318 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 17:07:04
武田勝頼の実家の諏訪氏が高島三万石で残ったのをよしとすべきである
319 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 18:34:26
>>318 諏訪頼重の叔父さんの家系だっけ?
ところで諏訪下社の大祝家である金刺氏や高遠氏ってどうなったの?
>>316 少し大人になったほうがいいよ・・・
いくら2ちゃんとはいえ、言葉遣いってもんがあるだろ。
321 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 20:01:55
大人気ないのは、周りも見ずに他人を罵倒していい気になっていたのに
批判されてキレた
>>320と思われ。
甲斐から別れて広島あたりに移住した方にくっついていったのがうちの本家
戦前まで陣笠以外にも槍とかあったそうだけどみんな供出しちゃったそうだ
323 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 00:02:49
>>320 316の言葉使いのどこが悪いとおまえは感じるんだ?
議論をするにあったって最低限の事をしろと言われただけだぞ。
出会い系サイトで知り合って、亀戸駅から青梅・奥多摩方面に
つれまわされて行方不明事件、あるじゃないですか
捜査現場でもある甲州市の柳沢峠付近にはまだ雪が多く残っている。
天目山景徳院あたりはそんなに山深いところでは無いけれど
旧暦の三月十一日頃というと、朝晩はまだ冷える時期だったんだろうね。
325 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 14:22:17
甲斐源氏の血筋にあらせれれる。ゆくえ不明の姫は、阿片を吸わされて一時的にラリってるだけじゃ
326 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 19:22:20
とりあえず盛信に関しては高遠城で寝返る者が
ほとんどいなかったという点は評価してよいのでは?
高遠でそうであったなら甲府ないし新府でもと
ついつい未知数ながら期待してしまうもんでないのけ?
>>324 スレチだが。
自分は多摩地区に住んでいて甲州道経由以外で
山梨へのドライブをよく楽しんでいるのだけれど
いつも松姫の逃避行のルート諸説が気になったりする。
結構山道で険しい峠であるのに、まだ春遅い山中をしかも幼女連れで?
かなり創作や伝説絡みの「お話」が残っているけれど、
ほんとのとこはどのルートを通ったか興味のあるところだ。
328 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 02:34:35
ただ、盛信には能力はなかったようだな。5万vs3千とはいえ、
一日ももたずに落城している。鎧袖一触というべきか?
それに比べて、高橋紹運などは、わずか763名で岩屋城を守り、半月あまり持ちこたえて、
5万の島津軍に甚大な損害を与えた(島津軍の死者3000人、重軽傷者6000人)。
越中では天目山で勝頼、信勝父子が自刃した、同じ3月11日に織田軍は上杉方の富山城の奪回に成功、
その勢いで柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政ら3万の織田軍は僅か2千の魚津城を包囲、
魚津城の場合は、1日も保たない高遠とは違い、3ヶ月あまり耐えて玉砕している。
盛信贔屓ではないけ織田軍2万の差はかなり大きいよ。
あと、諸説があるところだけど高遠城の戦いについては
盛信が門を開けたことで戦況が変わったという話もある。
なぜ開けたのかという謎も残るところだけどこれが本当なら
長く戦うというより玉砕覚悟だったじゃねーの?
信長公記でも高遠城に関しては偉く褒めているあたり
何かひっかかる。
330 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 13:41:03
>>329 玉砕覚悟で門を開けたとすればお馬鹿さんとしかいえない。
岩屋城や魚津城では玉砕覚悟なのは高遠城と同じだが、少しでも多く的に損害を与え、
敵の進撃をできるだけ長くSTOPさせる方針の元で、大友家と上杉家の危機はそれによって救われている。
戦力比で言えば、高遠と魚津ではそう違いはないが、岩屋城では敵は50倍以上だな。
大友は兎も角上杉の場合は本能寺勃発で救われた部分も大きい。
それに他の戦と比較しても仕方なかろう。
その背景や城の作りが全く同じ条件の下なら比較材料に
なるだろうがな。
高遠みたいな山城は守りが堅い分、その守りを突破されると
よほどラッキーなことがおきない限り崩壊あるのみという性質が
あるからな、一日で落城した理由の一つだろう。
それにしても高遠での盛信も二条城での信忠も最期はよくわからん
行動をとっていておもしろい二人だ。
332 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 17:42:32
331さん、お教えを。
信忠がどのような謎の行動をとったの?
ちなみに、盛信の場合は城門開門ということでいいんだよね?
>>332 光秀が本能寺を襲撃してから信忠の居る二条城へ兵を向けるまでたしか2時間ほどあるのにその間何してたの?ってことじゃないかな?
334 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 00:20:56
なる
勝頼一行の最後だって、甲陽軍艦はあてにならない部分も多く
(信勝の元服とかな。信勝はとっくの元服式をしているのに)
軍記物語では潤さらに脚色されてて実のところは良くわからない。
高遠城なら余計だろう。
336 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 03:42:14
信長公記にも(巻十五)
「武田四郎勝頼は、ひとまずは高遠城で織田勢を防ごうと考えていた。
ところがその高遠が思いのほかに早く陥落し、
中将信忠殿がすでに新府へ向けて進撃中であるとの報が様々に伝えられると、
新府在住の武田一門・家老衆は戦の支度などは一切行わず、
子女たちが避難していく中にまぎれて取るものも取りあえず逃亡してしまったのだった。
このため勝頼の旗本にはただ一手の人数さえもなくなってしまった。」
と書かれてるが高遠城が一日ともたず、あっけなく落城した罪は重い。
337 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 04:05:40
落城した罪というより臨戦状態にも関わらず
戦の準備もしていない連中がアホなだけじゃね?
景虎は川中島の割譲求めてたから勝頼にしちゃ飲めなかったんだろう。
国人離反で甲州崩れがもっと早かった可能性もある。
実際、本音じゃ景虎にしたかったんだろうけど寄り合い所帯の武田じゃ
そういう決断だせなかったのよね。
だとすると景虎も空気読めないヤツだな。どういう経緯?
景虎も景虎で自分を支持する国人衆へのリップサービスだったみたい。
341 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:16:01
景勝が勝頼の妹一筋だったのは美人だったから?
それとも勝頼を助けられなかったという贖罪の気持ち?
それとも女にあまり興味ない堅物?
マンコの具合がよかったんでしょう
343 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 07:41:26
景勝って一人しか子供いないし女に興味なかったんだろう
謙信同様に
子供がたくさん出来た場合を考えて
家督争いを危惧したというのはないか?
>>338 そう考えると上杉の仇敵で利害関係も絡んでいる武田に援軍を完全に任せた氏政の責任も重いよな
346 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 17:22:00
川中島・海津城は春日山に近接しているのだから、上杉にとっては
同盟を結ぶなら証拠として提供をしてもらいたいところ。
川中島にまで兵を向けた信玄公がKYだったんじゃないの?
>>306 >盛信は油川(川窪)の血筋も引いているから国人受けもいいだろうし
だからこそ、勝頼としてはなおさら盛信を甲斐においておけなかったというのはあるのでは?
>>326 高遠で離脱者がいなかったというのは、盛信の能力とか人徳という以前に、すでに逃げる者は
みな逃げ散ったあとだったからというのもあるんじゃないかと思う。
>>345 そもそも氏政は本気で助ける気あったのかも疑わしい。
勝頼が、川中島割譲要求を無視して景虎助けても、後でその問題蒸し返させる→勝頼断る→同盟破棄→史実以上のバッドエンド!
勝頼が、川中島割譲要求を蹴って景勝に付く→景虎あぼん→同盟破棄→史実エンド
勝頼が、川中島割譲要求を呑んで景虎助ける→後で村上義清の旧領辺りの問題を景虎に蒸し返させる→勝頼断る→同盟破棄→史実以上のバッドエンド!
・・・なんだこれ、全部勝頼死亡フラグじゃないかw
349 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 23:20:47
最後の選択で勝頼が断らなきゃいいじゃん
350 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 00:58:09
>>347 高遠での離脱者は逃げ散るもなにも最初からほとんどいねーよ。
盛信が命令してやっとこ逃げ落ちることにした家なら
いくつかあるようだが。
城への入口を織田側に教えたといわれる家もあるけど
その家以外は目立った離脱者なし。
あと中立なはずの寺も織田に協力した寺はほとんどない。
森がぶちきれて焼き討ちにしたからうちもされては困ると
従った寺はあるけどな。そこには森が諏訪大社から
かっぱってきた物を感謝と証として置いていったと
伝わる物が寺宝として大切に保管されているが、どこも
協力してくれなかったから本当に助かったよと
森が大感激したと伝わっているそうな。
これが=盛信の能力や人徳評価につながるわけじゃないが
高遠の攻防と甲斐での離脱者話をごっちゃにすんな。
351 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 02:11:53
>>350 >森が諏訪大社からかっぱってきた物を感謝と証として置いてった
弘妙寺が焼かれたのを見て兵糧を提供したのは遠照寺だな。
森軍が奉納したのは陣太鼓と鰐口。町の文化財指定を受けている
>盛信が命令しやっとこ逃げ落ちることにした家なら
いくつかあるようだが
>城の入り口を織田側に教えたといわれる家もあるけど
それは具体的に家名や理由など、どう伝わっているのだろうか。
何に載っている話なのか教えて欲しい。
「甲乱記」とか「高遠記集成」とか「晴清忠義伝」などの
「信長記」以降に書かれたもの?
それとも土地の伝承なのか。
352 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 09:17:14
家康公は、武田崩れによって新羅三郎義光公以来の名家が滅亡するのを大変痛ましく思い、穴山の御家を残しては如何かと薦め、穴山信君に、甲斐国の巨摩郡、山梨郡、八代郡23万石を安堵した
>>348 何だか頭剃って素直に信長の所に無条件降伏しますごめんなさいしに言った方がマシなような気がしてきたw
354 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 14:30:48
無条件降伏しようがしまいが
信長が武田家を生かしておくはずは
なかったように思える。
355 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 17:50:43
そこだ。
信長は今、都近くを攻め、朝倉・浅井などと闘っている。また石山本願寺・顕如も、信長と戦うよう一向宗に下致した。その者たちと力あわせ、信長を逆に囲めばよい。
戦とは、囲碁に似たりだ。囲もうとするものは、囲まれることに疎いものだ。
三河に強い一手打ち込めば、信長に、大いなる後顧の憂い生まれる。
将軍・足利義昭とて、いつまでも信長の勝手な振る舞い許さぬであろう
京までの道はチリひとつ無く掃き清め、鏡の如く美しくせねばならぬ。
我らの戦とは掃除することと心得よ!
357 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 18:57:59
>>351 横の者だけど自分でも少しは調べたら?と思いつつ
丁度名城をゆくという雑誌を読んでいたら書いてあった。
それによると松尾城主小笠原信嶺の案内で大手口近くまで
進めたと小和田が書いてる。出典は記述されてないから知らない。
盛信の命令でやっとこ落ちることにしたっていうのは
多分松姫(信松尼)関係を調べればわかるよ。
358 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 23:39:37
山梨県民にとってはどうかとは思うが、穴山信君とその一族がそのまま武田家の名跡を継ぐ
っていうパターンが一番無難といえば無難だったと思う。
血筋もむしろ勝頼より武田家嫡流に近かった訳だし。
359 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 00:01:25
「わが殿の申されるは、このたびの大打込にて勝頼さまの御運は尽きはてるでございましょう。
されば日本の武家の名流と申すべき甲斐源氏の棟梁のお家がこれに絶えること、口惜しきかぎり
であるとかように申されます。となれば、穴山の御家を残されては如何。穴山の御家は武田家の
嫡流にもっとも近く、この御血流をお残しあそばすことは、入道様(梅雪)にとっては御先祖へ
のご孝養かと存じます」
裏切りこそ正義であり、名家保存の道であると説いた。
「そうもあるか」
と、梅雪はすくわれる思いがした。
実際、本来の武田嫡流に近い血筋と言ったら
娘婿の穴山なんかより秋山とか逸見とか三枝なんだけどな。
ってかなり時代を遡るか・・・。
361 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 01:48:00
でも穴山は数代ぐらい続けて武田家から娘が入ってる訳だし、一番近いんじゃないかな。
だからこそ小山田と並ぶ山梨県民嫌われキャラなんだろうけど。
つうか、甲斐武田くらいの血筋家柄なんて、この時代特にぬきんでたほどのものでもないんだがな。
363 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 03:46:37
当たり前だ。問題は武田氏が甲斐国内では神格化された存在であるが故に、あらたに甲斐に進駐せんとする徳川氏が、武田の血筋を尊重する態度をとることが、
政略上、あずかって功を奏することを計算していたに過ぎない
364 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 09:40:35
>>361 穴山は嫌われキャラだが小山田は地元大月では英雄。
戦火から街を救ったのだ
>>357 >少しは自分で調べたら?
>351は自分の知っていることで>350の補足をしてるし、
少なくとも甲乱記とかの名を出して聞いてるので
ただの単なる「教えてちゃん」では無いじゃん。
>たぶん松姫関係(信松尼)関係を調べればわかるよ。
350が松姫とともにお落ちた家臣のことを行っているのならば、
それは、北島藤次郎氏の「信松尼公記」のなかに記載されている
従者らの名のことか?
むしろ変にいくつかの史料名を出したことで
史料探しの手間省きと思われたのかもしれないなw
松姫については知らないが該当しそうなのというとそれぐらいだろ。
367 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 21:03:43
穴山梅雪が家康と別行動をとらずともに三河に落ち延びていれば、関東移封後は井伊じゃなく、穴山をもって上野箕輪12万石になり、赤備え隊となり、彦根35万石の太守になる可能性もあったのに。
武田氏は近江彦根35万石の近世大名として存続可能性が高かった
>>364 まあ「世評と異なり地元では名君と尊敬されています」の一つだな。
小山田には「岩殿山かがり火祭り」があるけどw
穴山氏の絡むイベント町おこし祭りは無いとか?
富士川沿いには下部温泉やら金山やら身延山久遠寺やら
人を呼び込むネタが他に色々あるしね。
>>367 穴山梅雪については、
まず死亡の裏事情が明確にならないであろうので
何も言えないかな。
だいたい、家康の陰謀説ってのもあるくらいなんだし。
>近江彦根35万石ってのは何か根拠があるの?
もしも穴山勝千代が十代で死なずに成人していたら、
もしも武田信吉が二十歳そこらで死なずにいたら、
たらればの連続になりそう。
369 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 19:31:21
穴山って領地が南巨摩にあっのに居城はなかったの?ずっと府中にすんでいた?
370 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 20:33:31
駿河に江尻城を築いていたことまではわかったのですが。
371 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 20:42:56
穴山陸奥入道は信玄の命を受けて、駿河探題として、江尻城に本拠を置き、信玄没後も駿河国司と駿河を甲州化して完全武装。北条や徳川に睨みを聞かせた
しかし、長篠合戦では軍議を巡って諏訪勝頼と意見が合わず、勝頼に断らずに穴山軍は撤兵した。
その後は武田宗家と穴山氏の関係は微妙で、武田攻めでは徳川家康の周旋で、南巨摩郡15万石を安堵された。のち、隠居。
>穴山陸奥入道は信玄の命を受けて
穴山信君が入道になったのは信玄没後の天正8年
>江尻城に本拠を置き、信玄没後も
この書き方だと信玄生存時から江尻城に居たようにとれるが、
穴山信君が江尻城主となったのは天正3年。
信玄生存時に任されていたのは「興津横山の興津城」であって
江尻城では無い。
>諏訪勝頼と意見があわず
信君と見性院の夫婦が勝頼を「四郎殿」などど呼称していたことは
古文書などで見られるけれど、
このスレでわざわざ >諏訪勝頼 などど用いるのは適当ではないような。
>南巨摩郡15万石
その時代の15万石という根拠は?
河内地方(峡南地方)は富士川やその支流の氾濫を生かしての洪作地は
あるがほとんどは山間地で、水運業や和紙の生産は盛んであったろうが
米作はふるわなかったという印象を受けるが。
>穴山陸奥入道
>駿河探題
>のち、隠居
www
374 :
武田 裕美:2008/05/05(月) 22:19:07
失礼します。
あの・・・私、武田信玄の子孫なんですが・・・
ちゃんと存続してますよ^^;(滝汗)
ちゃんと祖母の家にも刀らしき物や、巻物もありますよ。
375 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:56:13
だからどうした。
>>374 >子孫は存続してますよ
子孫は存続していないなどど誰も言ってないけど?
竜宝系、盛信系、信清系・・・高家、旗本、上杉家家中で存続と
資料本にも載ってるし2ちゃん内でも普通に語られていることじゃん。
377 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 04:15:10
ここでの武田家存続とは、つまり大名家として、大きな組織としての
存続という意味でしょう。
378 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 07:30:12
然らば穴山梅雪縁の女を側室にして生まれた武田信吉が関ヶ原後、水戸20万石に移封され、ここに武田氏再興はなったと解される。(のち無嗣断絶、改易)
信玄公の遺徳は会津松平家と井伊家と真田家に確かに受け継がれているのでアリマス
380 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 15:53:53
>しかし、長篠合戦では軍議を巡って諏訪勝頼と意見が合わず、勝頼に断らずに穴山軍は撤兵した。
うちの先祖はこの長篠の戦の前後にどういうわけか?幡豆郡巨海(現西尾市)に
流れてる ということは穴山の配下だったのかもしれん 幡豆郡は吉良の支配下か?
徳川領に近いほうに逃げたということはコネでもあったか?その後は水戸系高松松平に
従って四国へ渡ったようだ なぜ幡豆郡に逃げたか?という点が今でも疑問だ
381 :
377:2008/05/10(土) 18:24:34
>>378 確かにそれは筋の通った解釈ですね。
一つ気になるのは、信玄の実子、竜宝の子や仁科油川の子は家康にも
存在は確認されていたはずなのに、あえて梅雪の子の夭折後に家康自身の
種に相続させた事実。これは信玄の直孫などに甲斐を継がせてしまったら、また
武田軍団が復活して天下が乱れる元になるとの配慮からでしょうかね。
武田家再興というのは所詮餌。パフォーマンスともいう。
おまえのせんぞなんてしったことか
384 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 01:45:06
武田の嫡孫ではだめだし甲斐を支配させるのもヤバい。だから穴山の関係者に生ませた男に甲斐からは遠い常陸を領有させた。
パフォーマンスにすぎないという非難もうなづける
378とか、過去レスでさんざん書かれてることばかり。
ループしてるな。
>>382 >>384 パフォーマンスといえば、内藤家に居候の身分のような信興を
柳沢吉保が今さらに保護して、今さらに高家に推したのも、
戦乱の世の頃の主家への恩返しというより、
自分の権勢や実権を誇示するパフォーマンスだったように思う。
柳沢は判断が難しいな。
そういう捉え方もできるが人を信じやすいお坊ちゃま綱吉を
うまく手玉にとり、ていよく引っ掻き回して将軍家の権威を
ある意味失墜させる。そして綱吉が死んだら自分もさっさと隠居。
将軍家の権威失墜とかつての主家の高家推挙。
徳川への復讐つうかあてつけみたいな感じにも思うけどな。
なんで徳川に復讐せなあかんの?
388 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 06:30:51
恵林寺の柳沢の墓が信玄の横にあるのを見ると
生前どれ位の力があったかが分かる。
自分では甲斐の正当な相続者であると思っていただろう。
>>387 徳川史観でみるとそうなんだが実際のところ
旧武田の連中が完全に徳川様〜だったのかというのは
正直疑問符らしいよ。
元々対立していたのも織田ではなく徳川だしさ。
長安事件の処罰が米沢にまで及んでいるのも一種の見せしめに
感じるな。結構武田旧臣の扱いに苦労してたんじゃないか?>>徳川
391 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:24:03
そのとおりで、玉虫という甲斐旧臣あがりは文句ばっかりいっていたため、大坂夏の陣で松平忠輝の軍監をつとめたが、松平勢が破れたため、玉虫を伊勢に追放し、「あれは玉虫ではない。逃虫ぞ」
>>385 かつての主でもある武田家を救い上げてやることも出来るんだという
権力の誇示に思えないこともない。造作ないことだったのだろうな。
393 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 12:38:31
天海は武田系のような気がするが、そういう説はないか?
天海は明智光秀だろJK
おれは忍者ハットリ君の子孫
最新50をざっと読んでみて
>371の明らかな間違いは勿論、
「駿河探題」とか「南巨摩郡15万石」が気になった。
371がまだ居るならぜひとも語句の説明をして欲しい。
398 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 21:52:52
>384
武田の出地が常陸だからでねの?
399 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:58:56
穴山陸奥入道が駿河を担当していたのは事実
400 :
571:2008/05/15(木) 23:08:26
穴山ははじめ武田信玄代行の駿河守護代・江尻藩主。のち南巨摩郡15万石格として徳川に臣従
>>399 その辺の経歴はとっくにみな承知していることだろう。
どこから「探題」という語が出てくるのか謎なのだ。
(探題という語句の意味は勿論わかっているけど)
戦国の世に「駿河探題」といい言葉は耳慣れない。
>>400 穴山梅雪のその経歴なんて、他の人のスレでちゃんと書かれてるよ。
>駿河守護代 >江尻藩主 こういう言葉はどこから出てくるのか??
その当時に「藩」という行政区分も疑問だし、守護代の意味も勘違いしてる?
また、山梨南部はとてもな山間部でお米できにくいだけど、
>15万石格 ってどういう計算なのだろう。
米だけじゃねえべさ農作物は
石高ってのは普通米の取れ高でいうもんだろ
404 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:01:45
いずれにせよ武田信玄は穴山陸奥入道をもって駿河の支配を担当させたわけだから、「駿河守護格」「駿河探題」「駿河国司」「駿河担当相」と言うことはおかしくないし、
また、信玄の藩塀として駿河江尻を拠点とした以上、「江尻藩主」と呼ぶことは史学者の通説であり、もはや異論の余地が無い
405 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:54:55
米だけじゃないからこそ15万石格という言い方になる
406 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:42:45
甲斐って表石高は何万石だったんだ?
404の言っていることって戦国期に用いられた呼称でもなく、
なんで江戸期の呼称を入れ込んでいるのだろう。
>江尻藩主 なんて特に・・・
江尻領とか江尻領主というのが普通なんじゃないのか?
藩という区分なんて戦国期には定まっていないのだから。
>>404 学者は大体「領」を用いる
穴山(これも本当は武田なんだが、区別のために…と断りをつけて用いている)領での公衆法度は…
みたいに
「駿河守護格はおかしくない」
というのは、お前の考えでしかない
どういう論拠でおかしくないのか論述しなければ、なんら意味のある文章ではない
学者の通説とまで言えるほど論文読み込んでいるなら、これぐらい分かってもよさそうなもんだが
411 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 15:32:28
「駿河探題」「江尻陸奥入道梅雪」
412 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 09:51:18
>>404 >「江尻藩主」と呼ぶことは史学者の通説であり、もはや異論の余地はない
すまん、自分は浅学なせいかそういう通説を見聞したことが無いw
>江尻藩 って、どこからどこまでの区域なんだ?
武田研究者や関東〜東海の戦国史を研究する学者はたくさん居るが
いったい誰がそんな呼び方をしているのか、教えて欲しいな。
藩なんて明治になってからの用語だろ
アホ
藩だの探題だの言っている人はただの嵐なのか?
416 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 22:35:29
司馬遼太郎が穴山陸奥入道は駿河探題だったって書いているんだよ!
なにこの厨スレ
418 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 14:29:04
司馬遼太郎こそたんねんに歴史を研究して緻密なる論証を重ねてこられたわけであるから、司馬遼太郎が穴山陸奥入道を駿河探題と呼ぶ以上、私たちはそれに習うべきである
419 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 18:11:30
學者のいうとおりであり、文網がなにをいおうが駿河探題の件は譲ることはできぬ
コテ出せよあばんできねーだろが
>>419 >文網
とはどういう意味なのでしょうか。
まさか「文盲」のことではありませんよね。
でも「江尻藩」と同様に学者の方々の通説では「文網」という語が
存在しているのでしょうか。
423 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 20:45:20
駿河探題かどうかは別にして、穴山が駿河支配の担当だったのは事実なんでしょ?
武田家内の役割としてだよ。
425 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:08:54
武田家における駿河地方担当を泊付けするために武田家内で駿河探題という呼称を私的にした程度であろう、どうせ
>>419 わざわざ旧字を使うなら、
普通旧仮名遣いにするだろよ
427 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:21:43
今川時代から駿河方面担当が穴山だったからでない?たしか相模方面は北条と武田の外交は小山田が「仲立ち」みたいな感じで
やってたそうだし
>>427 >駿河方面担当が穴山だったからでない?
すまんが、その件くらいはみなとっくに承知のうえで
「探題」という言葉の使用について疑問をもっているのだ。
429 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 02:28:25
あくまで武田家家中のレベルにおいてだが、駿河一国を担当していたんだから、駿河探題と呼んだってかまわないだろう。
学会の通説だとは言い過ぎだろうがね
430 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 09:45:15
当時の交渉は武田を例とすればこんな具合か?
信玄が今川との交渉を穴山に命ずる
↓
穴山は家臣の某(以下A)を今川家の重臣の某に派遣
↓
Aが今川側の重臣の家来と実務協議、場合によっては直接穴山が駿河に赴き重臣と交渉
↓
実務協議が合意、双方主君(両家の重臣)に報告
↓
穴山や今川側の重臣のそれぞれが武田・今川家当主に報告。両家、重臣と協議し最終判断
↓
武田家・今川家が正式な使者を出す、誓紙交換
431 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 14:13:00
武田の首都は甲斐。穴山じしん甲斐の名族だし、そこから穴山を駿河に派遣するわけだから、信玄は穴山に対し「お前は武田家の駿河探題だ」ぐらいのリップサービスはしたかもね
432 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:17:46
黒川銀山は穴山の差配だったか?穴山という姓からして金山、銀山の担当
つまり大蔵大臣の役目 勝頼の代にはオーナー穴山、雇われマダムが勝頼
オーナーが寝返ったので諸将がなだれを打って寝返ったということかな
433 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:40:51
ああ、あの穴山陸奥入道さえ寝返ってしまっているのだ。
434 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 10:51:43
ここは甲斐家限定ですか?安芸分郡守護の刑部少輔武田元繁様の譜代板垣繁任や伴繁清はお呼びではありませんか?
435 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 12:01:40
>>434 ちょっとスレチ。でも、板垣繁任って甲斐の板垣信方と同族ですね。
何かの本で、長篠の後に高坂が「北条の軍門に下り、駿河を割譲せよ」と進言したというが載ってたけど、実現していたらどうなったんだろうね。
確かに大分負担は減ったとは思うけど。
>>432 穴山氏の名のルーツは、富士川沿いでは無いよ。
それくらい簡単に調べられることだ。
金山の支配についても、基本的なことを勉強したほうがいい。
このスレ、なんでこんなにレベルが下がったんだろう
440 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 13:28:03
「甲斐性無し」という言葉は甲斐の国に関係あるのか?
441 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 13:48:37
いずれにせよ武田家中に於いては穴山陸奥入道をもって駿州探題としていた点は異論の余地があるまい
↑すっかり基地外が常駐してしまった・・・
信君が入道した年も知らないお馬鹿が、
>穴山陸奥入道 とかしたり顔なんだろ。
かわいそうな厨房だな。
444 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 18:05:55
>440
竹取物語の「貝なし」から
球根貴族が
姫に献上すべく
貝の入手に苦労して
けっきょく失敗したヘタレぶりに由来
「求婚」でしょうが。
でも、チューリップとか「球根」の貴族がいたら可愛いかも。
446 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 18:36:51
姫のリクエストは燕の小安貝?だっけ
447 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 20:12:49
燕の小安貝ってなに?
449 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 01:04:47
「前右府に信濃と上野を、
三河殿に駿河と遠州を
差し出す。
甲斐一国だけ安堵汁」
て言えば
織田(豊臣、徳川)傘下の国持大名で残れた
勝頼があれほど織田信長・徳川家康と敵対しているからには、
今更降伏しても遅い。
武田信玄死去以降に敵対を止めておくか、
後北条・上杉(長尾)と三者同盟を組んで織田・徳川と対峙するかしかない。
451 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 20:01:56
秀吉もあれほど敵対した
北条氏直に伯耆一国を
与えたようとしたし、
家康も上杉と直江に
置賜一郡と伊達・信夫二郡
与えた
信長も甲斐一国18万石
くらいくれるだろう
452 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 09:53:48
信虎は追放された後、子供作らなかったんですか?
453 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:35:27
大久保長安が急死しなければ
大名になれたかも
三人の性格も踏まえないでただ羅列しても意味がない
455 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 16:50:46
456 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 17:50:42
植えすぎに頭さげて
家臣同様にしてもらえば
真田みたいに大名で残れた
武田氏滅亡時の上杉は、柴田勝家の軍団に攻め込まれ、崩壊寸前でした。
上杉が後世に生き残ったのは、本能寺の変後の政治状況を上手く利用したからです。
(豊臣秀吉に従い、柴田勝家を後ろから牽制した)
つまり、上杉は当時の政治状況下では、弱小すぎて頼みになりません。
後北条を味方に引き入れない限り、武田の運命は滅亡しか残っていません。
その理論で行くと、崩壊寸前の武田が頼みにならない北条は
単独開戦に近い状態に成るんじゃない?
459 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:03:13
武田氏滅亡の頃の織田と後北条の仲は良好で、
織田からは、武田を後ろから牽制すべく助力を求める書簡が見つかり、
後北条の方からは、それらを快諾した上で織田信長を上位者と認定する書状を送っています。
つまり後北条にとっては、武田氏はもう崩壊すると考え、織田氏の一家臣として次を狙っていた、ということになります。
しかし、武田氏は崩壊しましたが、その後本能寺の変があり、これで後北条氏は判断ミスをしてしまいます。
上杉氏とは違い、豊臣秀吉とは提携しなかったんです。
460 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:30:34
北条は家康と甲斐で戦った後に同盟結んだからね
小牧長久手の合戦に援軍を出す準備をしつつ下野で宇都宮・佐竹勢と対陣した
つまり、本能寺の変がなければ武田氏に続いて上杉氏も滅亡、
北条氏が織田政権の重臣として政権入りをしていた、というわけです。
史実では、武田氏滅亡の直ぐ後に本能寺の変が起こり、
上杉氏が、柴田勝家との対抗上、豊臣秀吉に接近することでまさかの生き残り、
武田から上杉に宗旨換えした真田氏も、上杉氏の南の守り・北条氏への北からの牽制勢力として残り、
逆に、徳川家康に接近した北条氏が滅亡したのですが。
上杉氏の「御館の乱」以降の条件下での武田氏存続は、はっきり言って厳しいと思われます。
北条氏は御館の乱の後は織田信長と誼を通じ、武田・上杉両氏の滅亡を待ち望んでいる状況だったわけですから。
スレの上のほうで散々あげつらわれた北条氏の不実さも、元を正せば御館の乱における武田勝頼の裏切りが原因です。
ゆえに、もし武田氏滅亡回避の可能性があるとしたら、御館の乱で北条を支持するべきであったと思うのです。
462 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 03:22:47
勉強になる。
463 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:15:39
リアルに名字「甲斐」の者が来ましたよっと。
えっと、僕の父方の家系の御先祖様は、戦国時代の山梨の武士だったらしいです。その当時の本物かはわからないけど、祖父母の家には兜と鎧と刀も置いてあります。
もしかしたら武田さんとも何らかの関わりがあった可能性があるかも知れないですね?
464 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 22:07:12
>>461 裏切ったというより見限ったんだと思われ。
たいがいの名字なんて、好きかってに名乗れたもんだよ。
武田家の家臣団総覧に「甲斐」という名字で名のある将はいないし
また天正十年に家康の家臣になって旧武田家臣の起請文にも無いね。
ま、祖先が武士だなんて家はザラにあるし、そうだったんじゃないの。
名字は勝手に変えられるし、何百年前は違う名字だったかもしれないしね。
>>463 他の板にもマルチしちゃいかんよ。
ゆとり君の先祖自慢もほどほどにね。
苗字が甲斐ってwww
今の時代の「藤原」さんが、うちは高貴な家系ですのよって威張ってるみたいなもんだなw
もう少し歴史を勉強しろって
ちなみに、「藤原」さんは、東北の、先祖が不詳な人々が明治に競って付けた苗字です。
本当の藤原氏の子孫は、近衛・九条などの貴族系と、佐藤・安藤等の武家系がありますが、
「藤原」と名乗っている例はあまり聞きません。
「甲斐」姓は九州によく見られるものです。
>>463 透視の結果が出ました。
貴方の曽祖父が在日から帰化した時に、
甲斐という名字にしたようです(左右対称)
兜と鎧とかは戦後のどさくさに紛れて、阿漕な商売で
儲けたお金で買い漁った物です^^
471 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 19:39:46
472 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 02:45:56
今から勝頼公を天目山より救い出すんだがおまえらもこないか
今二万の軍勢が待機してる 今御坂城を制圧したところ まず勝沼館に本陣をおくつもり 上杉勢には信濃に進軍してもらう誓約とれた
473 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 03:46:46
「甲斐」はね、越前の守護代とかが有名でね、
あとは九州とかでね、昔は結構頑張っていたんだよ。
ってことで、山梨県とは関係ないのよ。
かつ、「滅びた名族」って分類。
つまりね、
「在日朝鮮人が騙りたがる苗字」に思いっきり該当するんだよ。
これマジレスな。
一度ちゃんと、自分のルーツや本当の名前について、
親に聞いたほうがいいよ。
sage
475 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:22:35
戦国ちょっと悪い話9
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240753114/ 141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/02(土) 01:19:27 ID:BJ+5Oubp
家康のいい話にするか悩んだが、戦国の非情な戦術ってことで。既出ならすまん
「武田のゆる鏃」
家康が武田のやり方をリスペクトしてたことは周知だが、中には嫌ったこともあった。
かつて武田に仕えていた横田甚右衛門を召し、武田の軍法を聞くうちに話が弓矢の事になった。
彼曰く、
「武田の雑兵弓は、鏃を矢柄に緩く巻いて放ちます。
鏃が緩ければ、敵に当たった際、抜いても鏃が肉に残り、そこから肉が腐って敵は悶死に至るのです。
さすれば敵は我が弓を恐れ、やがて武田の弓矢の前に立つ者がござらぬ道理であります」
142 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/02(土) 01:20:39 ID:BJ+5Oubp
それを聞いた家康は顔をしかめ、
「されば今日より徳川の士卒は、矢の根を固くして長く恨まれぬようにいたそう」
と言ったそうな。
以上、武田の現代戦における地雷に通ずるような非情な話。
武田が強かったのは、ひたすら戦の本質に徹したからなんだろうな。
信玄はほんと人間くさっているなw そりゃ諸国の将兵に人心えられないわなw
476 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 23:31:13
上杉景勝が武田信清を
吉川の岩国みたく
支藩にしていれば
大名武田家として明治までいけた
477 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 02:15:50
>>476 君は
>>456くんだね。
>>457以下を参照すること。
君のように457を無視して広告ビラを撒くように持論を張るのは、このスレを汚す行為です。
水戸の武田信吉が長生きして世継ぎがいれば
479 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 13:06:21
大久保長安の陰謀が成功したら
八丈島に流された武田親子が伊豆諸島を平定して大名になる
481 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:42:31
482 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 10:11:10
483 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 10:19:36
武陽陰士が文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
484 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 17:01:28
信長に降参
狸のポジション取って代わるのがベスト
それだと勝頼の治世全否定です
486 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 21:20:45
武田勝頼は、信玄から引き継いで滅亡するまで一貫して反信長だったので、
織田氏への降伏を考えるなら、勝頼が次代として引き継いで直後の段階しか、好機はないでしょう。
となると、武田は外征によって国威を示す傾向が信虎の代から強かったので、
史実における織田との敵対を行わないなら、どこか別の方向へ外征を行わざるを得ないでしょう。
南の徳川は、織田の同盟者です。
そのため、北の上杉か、東の北条を襲うことになるでしょう。
487 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 22:48:49
上杉は塩と黄金で二代に渡って
買収されとるから兵のモチベー下がりまくり
北条を攻めておけば後々
太閤はんのウケもよくなる
488 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 22:52:20
と思ったが
黄金と上信の領土割譲はもっとあとの話か
489 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 23:45:35
勝頼は隠居
信勝が信長に恭順
本能寺を待つ
本能寺の変による織田信長の突然の死と明智光秀の自立は突発的事件なので、狙って起こすわけには行きません。
491 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 00:17:16
信勝を上杉に人質に出す
本能寺後に北信濃回復
独立させてもらい14万石上杉の会津移動で30万石くらい太閤から貰う
信長が味方に寝首掻かれて死ぬのはほぼ必然なので、別に実行犯が光秀でなくてもよい
そうかもしれない
長いきしてたらもっと意外なやつに殺されたかも
武田信玄と奈良との関係を知っている方がいたら教えてください。
信玄は奈良から来たのでしょうか?
タブーなどもう時代遅れ。
真実を教えて。
おねがい。
496 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 05:17:14
うちのご先祖様は武田四名臣の一人ですが。
すいません。誤爆しました。上のは気にしないでください↑
夏きたる
499 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 22:13:43
元弘の乱、中先代の乱と連敗したのは信武?政義?
なぜ武田の支族が四国に行った?
秦氏系と関係ありなのか?
501 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 22:28:26
「一所懸命」のイメージで在地にしがみつく感のある封建領主も、土地が頂けるのであれば日本中ほいほい動きますよ。
平家が滅んだり、得宗北条家が滅んだり、戦乱がらみで恩賞もらってあちこち分家してますね、武田氏。
無論武田に限った現象じゃなく、当時の武士の普通の行動です。
The students then choose the project they want to work on. ,
503 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 00:48:07
甲斐武田より、若狭武田とか安芸武田のほうが本家筋に近いんじゃないのか
The first parameter identifies the location in nonpaged memory where the driver stores the head of the list. ,
会津大学学生の行動は、いつも気色悪い
武田も名門だな
507 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:47:44
そうやね
サステナブル
509 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 12:47:59
藤井ふみやって武田信玄の末裔だよな?
はっきりいっちゃえよ文献は嘘が多い。実際は信玄には男系13もの子供がいて女系は4人。長男は軟禁されていたが死んではいない。勝頼も天目山で自決はしていない。実際は身代わりがいて勝頼は最初東北に向かったが最後は甲斐に戻ったが領地はなく真田のとこで後世を過ごした
それから次男海野はともかく三男は戦死はしていなくて米沢には槍隊三男に、五男は家老筆頭信清の傘下に入って米沢武田家として繁栄した。勝頼の子は信勝以下すべて米沢武田の槍隊に入っていた。
信玄の長男は軟禁されていたが戦いには無縁で甲斐に武田の領地がなくなるまで全く放置され気づいたら時勢が変わっていてやはり縁が家臣たちから遠かったためにはじめは北(米沢)に向かったが頼る者が少なかったために西に向かって最後は不明。子供がいるらしい。
513 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:10:04
ほほー
514 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 18:19:36
実際のはなしは甲斐の家督相続の綾による武田家の宿命による。
信虎の時代武田晴信が駿河に信虎を追い出しその後今川領に信虎が
いるときに計画された武田晴信に反旗を翻す計画がされたらしい。
甲斐に密かに晴信追討の伝令が伝えられた。首謀者は信虎、今川義元
長坂源五郎、曽根周防守。飯富虎昌はこの計画には加わっていなかった。
武田家長男の武田義信にもこの話は密かに伝えられたが謀反の疑いは
事実無根でその首謀者たちの間では晴信追討の折に長男に家督を継がせる
計画だったらしい。計画は事前に発覚し1568年駿河進行は今川義元への
報復の意味があった。今川は甲斐を完全に取り込む計画を進めていた。一説には
今川の桶狭間の戦いも情報戦には武田晴信が織田に加担したらしい。
家臣たちにはこのことは混乱をまねくとして伝えられず極秘に首謀者は罰せられた。
長男は幽閉され密かに通じていた今川の娘である義信の娘とはすぐに離され
家督としての地位を失い、以降東光寺にて出家し心を入れ替えるように晴信から
命を受けたが以降甲斐の政治から遠く遠ざかり甲斐に織田軍が侵攻してきても
武田が領地を失ってからも気づかずに甲斐にいたらしい。最後は北にその後
九州に向かって余生を過ごした。
×義信の娘 → ○義信の正室
みんな北か南に向かってりゃ、世話ないよな。
517 :
日本@名無史さん:2010/06/12(土) 22:56:54
ほー
518 :
日本@名無史さん:2010/06/18(金) 14:02:52
上杉謙信の早い死が武田の滅亡を早めたとか
519 :
松平忠吉(家康四男):2010/07/04(日) 14:45:37
関ヶ原合戦後、穴山信君の血筋でもある家康五男・武田信吉が水戸20万石に封じられたが、家臣に旧甲斐武田の関係者はいたのか。全然いないなら武田氏再興とは言い難いであろう
520 :
日本@名無史さん:2010/07/04(日) 16:04:48
甘利神拳の継承者も甲斐源氏だろう
521 :
甘利明前行政改革担当内閣府特命担当大臣:2010/07/04(日) 22:55:28
甘利明前行政改革担当内閣府特命担当大臣
あまりにも長い・・・なんちて
小山田のとこへいく→史実
真田のとこへいく→1手土産になる
2真田奮戦するも全員討ち死に
524 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 20:24:55
駿河方面担当(武田家駿河長)の親族衆筆頭格の江尻領主・穴山玄蕃頭(のちの穴山陸奥入道信君) が裏切ったわけだから、既に内部から瓦解していたことは明らかである
信玄は死ぬのが早すぎたよなあ
あと20年生きてたらおもしろかったのに
526 :
日本@名無史さん:
ご指摘にもありますように、会長兼甲斐長が武田信玄。北信濃道方面参与が高坂昌信、諏訪・中信濃道方面総参与が武田勝頼、西上野道方面参与が内藤修理、副会長が穴山、木曾方面参与が秋山信友、婦人部長