1 :
名無しでおじゃる:
戦国の世の公家について話し合いましょう。
一条家・一色家・九条家・鷹司家・四条家・日野家
二条家・山科家・近衛家・西園寺家・宇都宮家
花山院家・三条家・中御門家などなど
天皇即位の資金も得られぬ朝廷で公家衆は何をしていたのか?
まさか蹴鞠や和歌ばかりをしていたとは思いませんが・・・
2 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 20:07:23
に
3 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 20:48:05
今川氏真は武家なのか公家なのか?
4 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:08:21
今川家は立派な武家です
5 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:09:47
公家と武家のガチンコ戦ってあったんでか?
6 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:17:00
一色???
7 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:25:06
今川氏真て武家出身なのに蹴鞠の達人だったのか?!
あらためて氏真を尊敬・・・
8 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:34:37
一瞬、戦国公衆WCって見えた
公家は意外と強い
・文人貴族の末裔である。
・歌が好きで、『古今和歌集』や『新古今和歌集』を愛読した。
・私家集もある。連歌も巧であった。
・蹴鞠もやっていた。
・大成される前の茶や立花にも手を出しており、能も舞っている。
・『源氏物語』や『徒然草』も愛読していた。
しかし、氏真と違って文化人のイメージがない毛利元就。
11 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:41:02
大江広元って公家より武家になりたかったんじゃね?
だから息子達を武士にしたと
12 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:53:11
>>1が宇都宮を公家としていることに誰も突っ込まないのは何故?
13 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:04:51
14 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:41:16
>>11 逆だよ。
広元は公卿になって堂上公家の家格を手に入れたかった。
しかしすでに受領階級になりつつあった大江氏出身の彼には朝廷内では
出世の見込みがなかった。
だから自分自身は頼朝にスカウトされて鎌倉へ下ってもそうした思いは消えず、
その執念からのちに長男の親広を土御門通親の養子にした。
通親の養子になれば、朝廷内で公卿に出世するのはそう難しい
ことじゃないからね。
しかし親広は承久の乱で後鳥羽に加担して流罪となり、その可能性はなくなって
しまった。
15 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 16:32:22
関白・山科言継が尾張の織田信秀に蹴鞠を教えたり
和歌を一緒に読んだりしたのは聞いた事あるが・・・
16 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 16:42:57
結局江戸時代になるまでみんな公家衆になりたかったんでしょ?
>>10 氏真は残念ながら戦国武将として評価できる実績がないので、
余技である蹴鞠が目立ってしまう。
元就は戦国武将としての実績が凄まじいので、誰も余技にまで
目を向けないw
余技のレベルが佐々木道誉くらいになればまた別なんだろうけどねw
18 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 17:12:57
氏真はちゃんと京都に引きこもらずに領地にいたじゃん
19 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 17:31:28
氏真は今川家の正当な後継者だぞ!
今川家は足利家に次ぐ名門の武家。
元就ごとき下賎とは違う!
>>39 戦国時代に血筋の良さ誇ってもねえwwww
22 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 17:35:39
23 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 17:37:46
伏波将軍
>>17 まあその通りなのですが、この板や三戦板でもあまり取り上げられないので。
佐々木道誉は、面白い人物なのに今は知名度が低いのが残念。
『平家物語』はともかく、『太平記』は知られなくなりましたね。
下手をするとこれらや小栗判官、甲賀三郎より洋モノの方が知られている。
自国の文学世界ぐらい、知っておきたいものです。
しかし、義元の鉄漿や輿(許可制)が否定的に捉えられる風潮はどうか。
実力以外に、許化された笠や輿が権威として働いていた時代ですからね。
>戦国時代に血筋の良さ誇ってもねえwwww
というレスも出ていますが、血筋や権威「も」重要な時代。
最後に死んだというだけで、扱いが悪すぎるのと、貴族的というとマイナス
イメージ(堕落など)で考えられるのは改められるべきです。
北条の家中でも、上方由来で鉄漿をつけていたのに、今川や大内の例を挙げ
て「貴族化したから堕落して滅んだ」のだという言説が多い。
貴族的・文化的である自体はマイナス要素ではないし、必要でもあった。
>>15 天文2年7月に下向して、蹴鞠や連歌を織田や熱田大宮司の家の人間に伝
授した時の話ですか。『言継卿記』によれば至れり尽くせりで。
25 :
名無しでおじゃる:2006/04/06(木) 21:01:05
26 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 21:03:53
風流じゃのう
27 :
17:2006/04/06(木) 21:29:38
>>24 そもそも信長が所望して氏真に蹴鞠を所望したんでしたよね。
信長の性格からして悪意じゃなくて、好意と好奇心で氏真の蹴鞠技を
見たかったのでしょう。
あと、大内は確かに義隆本人は尼子攻め失敗後武から離れた嫌いが
あるので、軟弱化したという側面は否定できない部分がありますが、
義元に関しては全然軟弱化なんてしてないですよね。死の間際だっ
て太刀しかないのに、槍でかかってきた服部や毛利相手に大奮闘
してますしね。
当時の武将が出陣に際して化粧してたこと、そして義元クラス
になると化粧の中にはお歯黒もあることが知られてないんで
しょうね。
28 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 21:44:55
29 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 21:47:06
>>16 戦国時代の公家は武家になりたがった人が多いよ。
近衛前久・信尹父子が好例だな。
>>27 >義元クラス
「クラス」という点が重要なのですが、「古い無能で退廃した勢力」が「新
しい肯定すべき勢力」に駆逐されたのであり、それが正しいのだという、
歴史とは別の「歴史観」がある様に思います。
公家は退廃、武家は質実剛健として、後者を贔屓する風潮もある。
新井白石らが近世に喧伝し、近代まで持続した歴史観らしいのですが。
大内も公家との接触は尼子攻め失敗以前からありましたが、それ以前には
むしろ積極的に行動しており、備後を中心に勢力を拡大している。
公家との接触自体があるまじき失敗だったのだ、というのは先入観。
>29
武家になりたがったというより、地位の向上の為に外に向けて動いたという
か。近衛家の立場からすれば、やはりあるべき姿は摂家のそれでしょう。
31 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:42:49
>>15 山科が関白って・・・。
あんた根本的に日本史わかってないでしょ?
32 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:50:31
公家文化に浸る(今川などのように)のが悪とみなされるのは、
やはり平家の印象があるのかもしれないな。
平家というか、『平家物語』の印象ですね。特に斎藤の台詞。
実際には富士川には斎藤は従軍しておらず、夜討の最中に水鳥の羽音に驚い
て逃げ出したという事実もない。
「奢ったから」平家が敗れたのだという物語作者が創り上げた虚構の中での出来
レース。それが、後に武士の本分を忘れたとかいう話になってくる。
どういう風の吹き回しか、この間の「その時歴史が」でも少しやっていた通り。
連投失礼。それと、室町幕府が鎌倉や江戸の幕府に比べて脆弱であったとい
うのも、「京文化・公家文化は駄目だ」というのに一役かっていそうです。
朝廷(後白河院)→平家→朝廷(後鳥羽院)→室町幕府
で、「やっぱり駄目だ」と。『吾妻鏡』を愛読して鎌倉に倣っていた家康以降
の時代にこの手のイメージがどんどん強化されていった。
35 :
寒:2006/04/07(金) 00:27:40
>>24 朝倉孝景(義景の父のほう)も、
その経歴に「塗輿御免(許可されたよやっほー!)」と輝かしく残っていますよね。
お神輿わっしょい。
で、
>>10 ・弓は小笠原流免許皆伝
・武士の嗜み、犬追物まで大規模に主催しちゃって
・和歌の教養も高く、貴族たちの列席で曲水の宴まで主催しちゃって
・蹴鞠の素養もあったらしく
・連歌師とも親交があり
・記録によると、相当の財力があったらしく
・前関白の娘を妻に持ち
・では直接軍を率いればといえば、一向一揆の大群を粉砕し
・部下に率いさせた軍は、あの織田信長をとことん窮地に追い込むこと数度
そんな朝倉義景も、文武共にもう少し評価してあげてくださいませ。
36 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 03:17:53
で一色って?
37 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 06:38:25
38 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 10:48:02
伏波将軍
39 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 11:16:10
伏波将軍BBSかCHATに来い!!
40 :
名無しでおじゃる:2006/04/07(金) 16:17:46
近衛家と島津家は古くから交流があったとは聞き及んでいますが・・・
島津家は源頼朝公が守護地頭を任命した時から薩摩の田舎にいるそうですね
どちらの家も公家と武家との違いはありますが歴史の古い家なので
その分、付き合いも古かったのだと思います。
たしか島津家と相良家を和睦させたのも近衛家ですし
後年、近衛信尹様は薩摩に3年間配流となりましたが自ら望んで行きましたし
とにかくも・・・公家も武家と交わりがあった事は事実ですね
41 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 17:32:26
大永7年の桂川の合戦で、日野の誰かが討死していなかったっけ?
42 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 18:00:42
島津はもともと藤原摂関家の家来。
関ヶ原のあと、島津の家臣をかくまって島津が取り潰されないように家康と交渉したのが近衛前久。
家康は源氏、徳川を名乗るのに前久に世話をしてもらっていたので恩があった。
43 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 22:25:50
島津荘はもともと近衛家領荘園。
44 :
名無しでおじゃる:2006/04/07(金) 23:30:23
近衛家の権威恐るべし!
しかし逆に権力はなかったりするんでしょうね・・・
名ばかりの官位役職の売買をしたりと公家も悲しいものです。
45 :
17:2006/04/07(金) 23:34:01
>>44 でもね、近衛家は倒幕に際しての薩摩の朝廷工作の窓口になった
からね。こうしたつながりは何百年も続くんだよね。
ねえねえ、土佐一条は?
47 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 23:52:21
島津氏は単に島津庄の地頭であるだけでなく、領家である近衛家の元で
庄務全般を請け負っていたらしいから、中世の頃から持ちつ持たれつ状態で
あったといえる。
48 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 23:54:12
伊予西園寺家もはずせないぞ
49 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 01:46:45
伊勢北畠氏・飛騨姉小路氏・土佐一条氏のことを俗に三国司などというが、
南北朝期から現地に土着している北畠氏・姉小路氏に対して、応仁の乱以降に
現地に下向した土佐一条氏は成り立ちが異なる。
成り立ちという点に着目すれば、むしろ土佐一条氏よりも伊予西園寺氏のほうが
北畠氏や姉小路氏に似ているといえる。
50 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:29:40
51 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 22:08:15
「三国司」というのは単なる語呂合わせの俗説で書いてある本によって顔ぶれも異なるんだよね。
伊勢北畠と飛騨姉小路は確かに「国司」(受領とは違いむしろ知行国主に近い)だが、ほかは説によっていろいろ入れ替わる。
伊予西園寺は南朝の残党という意味で確かに伊勢北畠や飛騨姉小路に似ているな。
土佐一条はあくまで土佐に荘園を私有していたのを根拠地に変えたもの。
規模は小さいが播磨の下冷泉、加賀の勧修寺、若狭の土御門、因幡の日野なども同じパターンだ。
もっともこれら4家は武家化したとまでは言えず京都との間を往復していたようだが。
>>51 もう荘園の年貢がまともに送られてくる御時世じゃ
なくなってたからね。自ら領地に赴いて年貢確保する
公家は結構いたろうな。で、中には武家化するのも
いたろう。
53 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 22:25:53
>>51 伊予の西園寺は、京都にいる西園寺本家が伊予の知行国主ではある。
54 :
海王:2006/04/09(日) 12:43:26
島津家久の死因?
55 :
海王:2006/04/09(日) 12:45:09
伏波将軍答えろよ。
56 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 14:29:37
57 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:03:54
九条政基が和泉に下向した理由は年貢のためとかじゃないよ。
人殺して勅勘喰らったんじゃなかったか?
山科言継の息子も勅勘喰らって大坂に逃亡したよね?
59 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:08:06
九条政基が殺したのは唐橋在数。
菅原は藤原に殺される運命かw
61 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 02:02:07
もともと九条家と唐橋家は家礼関係にあるけどね。
62 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 07:12:06
金借りて返さないから督促されたのを逆ギレして殺したんだよな
63 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:04:42
担保は何だったのだろう?所領の年貢?
64 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 16:06:31
てか自分より格下の公家から借金するってどういうことなんだろ?
当時は九条家より唐橋家のほうが裕福だったのかな?
>>64 室町時代になると、格下が才覚で裕福だなんてざらだろうてw
しかし逆切れ殺人カコワルイw
唐橋は九条の家礼だし、家格も低いから日ごろ何かと都合よく使われてたんじゃないの?
金策とか。
で、借りれるあてがなくなったから仕方なくなけなしの金を自腹で貸したが返って来ない。
ぶちキレて九条邸に乗り込んだら殺されちゃったと。
まあ想像だが
67 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:02:21
唐橋「へっへー、トンさん借りた物を返さないのはドロボーといいまっせ。こちとら慈善事業で貸してるわけではおまへん。九条のトンさんだからお貸ししたでっせ。返せないならおヒーさんを売り飛ばして返しなはれ。」
68 :
じぇふ@6:2006/04/10(月) 23:18:19
伏波将軍、スレを立てたのはいいが、レスが少なすぎなんだよ。
糞スレを立ててしまった将軍に栄光あれ!
69 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 23:24:41
70 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:33:07
唐橋在数の殺害は計画的殺人だよ。
九条邸にやってきた在数を九条政基・尚経父子が2人がかりで殺害した。
最初から殺すつもりだったらしい。
71 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:57:23
詳しく
ウィキに「唐橋在数」が本日新規UPされた件について
ここの住人なんじゃないの?(・∀・)ニヤニヤ
73 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 02:17:00
74 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 02:30:17
>>72 確認してきた。
しかしちょっとこれ日本語おかしくないか?
>唐橋家の一族である菅原氏の一族は猛烈に抗議し、政基、尚経父子は勅勘を受け朝廷への出仕を止められた。
75 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 08:49:28
近衛前久が地方巡業をしたのも、困窮した公家衆の生活資金を送ってもらうため摂関家筆頭としての責任感で逝ったのかな?
76 :
海王:2006/04/11(火) 09:44:19
名無しでおじゃる=伏波将軍だよ〜ん!!将軍、キサマ「益山の戦い」の質問に答えられなかったという事でお前は薩摩失格のようだな・・・。フフッ。
>>77 なんか、強いお相撲さんについて歩いている好事家みたいな
感じだよね、前久の大名巡りw
79 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 14:14:14
山科の地方巡業は資金集めのため。
近衛のは関白たるもの実際の政治にコミットしないと朝廷は落ちぶれる一方という危機感。
尊皇の志を説いてまわったりね。
近衛家には四段の箪笥があって、それぞれ仁義礼智となっている。
仁には歴代の天皇が作った茶匙、義には公家が作ったもの、
礼智には大名、武将、茶人が作ったものが入っている。
有名な戦国武将のものもある。
誰が集めたのか気になるところ。
80 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:11:03
公家が家芸で金稼ぎを始めるのも戦国期からだね
81 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 19:47:18
82 :
海王:2006/04/11(火) 20:12:16
おいAM
83 :
名無しでおじゃる:2006/04/11(火) 21:40:58
名無しでおじゃるが、戦国と言えば徳川家康に決まってるだろう。
そもそも、私は島津が今まで愛していたが、ケロロ>島津になってしまった。
今日も妹者を見て自分を慰める日が続く・・・。
僕は何で今まで島津を愛してきたのだろうか。
84 :
海王:2006/04/12(水) 00:16:38
おい少し落ち着け。お前今日学校でもうケロロ飽きたし。とか言ってなかったか?もしや嘘か?
85 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 00:27:22
86 :
海王:2006/04/12(水) 00:30:01
おめ何だ?
87 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:18:47
近衛前久と二条晴良って仲悪かったんでしょ?
88 :
海王:2006/04/13(木) 19:05:50
将軍の筋肉痛治りやがった・・・。
89 :
名無しでおじゃる:2006/04/14(金) 20:26:28
何か、手前の立てた愚スレが荒らされておるような
我がスレの治安が乱れて行くのを見るのは実に忍びない・・・
おまけに麻呂の偽者まで出るしまつ。
ただ公家について知りたかっただけなのに〜!!
90 :
名無しでおじゃる:2006/04/14(金) 22:06:18
ナヌ??ワレはもともと「名無しでおじゃる」という名前なんだが・・・。
そもそも、誰だっけな??このスレはほとんど見てないと言ってた
スレを立てた張本人は・・・。立て逃げか??
息子自慢の将軍、ガンガレ!!
91 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 02:58:33
>>1 成り上がりもの に妾の供給。
娘を産ます種馬。
92 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 21:12:43
93 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:57:02
それもあるし、信長支持か義昭支持かでも一時期対立していたような。
94 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 23:00:42
>>91 結局、血しか価値がない連中だったということか
大学で公家史の研究をしてるけど、案外研究者が多いことには
びっくりした
96 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 13:08:48
>>95 公家は消えるべき存在でしたよね?
少なくとも鎌倉時代以降は
97 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 17:01:09
>>95 やっぱメインになるのは五摂家筆頭近衛家の歴史なの?
98 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 17:08:45
99 :
95:2006/04/21(金) 17:36:47
>>96 そうは思わんね
>>97 そうでもないよ
山科とか三条とかも色々研究されてる。
100 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 20:25:45
近衛家は陽明文庫が使えるから研究がしやすいんだろう
101 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 20:45:52
公家で研究が進んでいる家=歴代当主の日記がたくさん残る家。
102 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 20:53:11
>>99 公家がいたせいで武家も公家も没落したと思ってるんですが。
で、残ったのは天皇家だけと。
103 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:31:38
104 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:24:24
公家の武装は承久の乱で禁止されたの?
105 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:29:18
公家の武装が禁止されたのは秀吉時代以降。
106 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 04:06:59
>>105 公家侍だったら江戸時代でも召抱えているが?
公家の所領の軍事警察の行政権が剥奪されたという意味なの?
107 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 04:17:59
京都の行政権は足利義満のときに完全に朝廷から奪取されたらしい
108 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:21:27
>>107 奪取というより朝廷にそうした権限の実態がなくなってしまったから
武家側でやるしかなくなったというレベルのものだと思うよ。
109 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:22:26
110 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:25:58
>>106 ここでいう武装は、公家やその従者の個人レベルでの帯剣のような武装の
ことではなく、集団としての軍事力を保持のようなことだと思うよ。
もっとも江戸期だと個人レベルでも公家の鉄砲所持は禁じられていたようだが。
検非違使廳と国衙の機能の移行という事であれば、義満の時代ですね。
112 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 02:05:10
江戸時代の朝廷、公家所領の行政は誰がしてたの?
全て京都所司代がして、朝廷・公家の家来は口出しできず?
113 :
海王:2006/04/25(火) 21:48:53
キサマのせいでまだ腕がいてぇ
114 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:36:22
115 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:36:39
>>112 当然口出しなんてできないよ。
もともと江戸時代の村落は村民の自治が徹底していたしな。
そもそも所領といってもある程度地域的なまとまりのある領地を持っていたのはごく一部の公家だけ。
ほとんどの公家はあちこちの村にバラバラに配置された徴税権を少しずつ与えられていただけだ。
ひとつの村が何軒・何十軒という公家の「所領」に分割されていることも珍しくない。
年貢米はいったん全部二条城の幕府所有の米倉に収められて所司代からまとめて支給された。
116 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:34:20
>>115 近衛の伊丹なんかも所司代が行政権もってやってたの?
117 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:35:40
天皇御料地、公家領の住人から勤皇の志士が出るなんてことはなかったの?
118 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:37:59
旗本も知行地の徴税権だけで行政権無し?
119 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:42:08
すでに室町くらいの段階で公家領荘園の直務なんてほとんどない。
120 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:43:03
公家はナマケモノ
勤皇の志士
なんてーのは、別に本来「勤皇」なんかどうでもよくって
現状に不平不満のある奴が
反発・改革・革命の大義名分として掲げただけで・・・
あとは単なる時代のブーム
たまに「染まっちゃう」バカもいただろうけど。
70年代とかの学生に似てるな。
なんか看板つけとかないと「ノンポリ」とか言われてwww
>>121 昨日その世代の教師から言われたわ、それw
123 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 10:32:02
反幕府は下級公家だったらしい。
近衛、西園寺は親幕府。
124 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 10:33:42
鎖国は恐れ多くも神武天皇がお決めになったわが国古来の法である。
>>121
125 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 13:39:34
江戸時代の西園寺って影薄くない?
やっぱり西園寺が一番存在感を発揮したのは鎌倉時代かと。
126 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:57:41
西園寺がいちばん存在感を発揮したのは昭和時代だろ。
127 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 22:10:24
>>125 江戸時代は京都所司代に呼び出されて一方的に幕府の言い分を伝えられるというのが多かったからね
128 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 22:26:13
京都所司代=在日アメリカ軍
朝廷=日本政府
129 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 22:39:19
朝廷はもはや自ら行政やる能力や意思さえも無くなっていただろう
>>128
130 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:02:55
131 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:11:32
132 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:28:01
鎌倉時代の西園寺は代々天皇の外戚みたいな感じだからね。
それでも摂関家にとって代わる(あるいは閑院流が五摂家と同格の地位を獲得する)ことがないのは、すでにこの時期には公家の家格の固定化が進んでいたからってことかな。
133 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 21:45:29
西園寺家の権力の源は武家伝奏を世襲して幕府との窓口になったからだよ
134 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 21:57:58
武家伝奏と関東申次の区別もつかないような厨は邪魔だからどっか逝ってくれよ。
135 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:00:25
>>132 公家の家格の固定化はもっと早いよ。
藤原忠実が鳥羽天皇の摂政になるとき、天皇の母方の叔父である藤原公実が自分が摂政になることを望んだが、閑院流は摂関になれる家柄ではないということで退けられている。
136 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:03:19
室町期に日野流が皇室や足利将軍家と縁戚になって
俄かに幅を利かすようになった理由は何なのかな?
名家なのに大臣まで昇進してるし。
137 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:03:50
138 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:07:56
鎌倉期の西園寺家は関東申次として幕府と結び、
摂関の九条、二条、一条を抑えて朝廷の実権を握って数代に渡って
太政大臣を歴任したんだから、公家の家格になどこだわってなかった
のではないかと思う。
139 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:10:45
まあでも公実の子の実行は太政大臣まで昇ってるね。
これが無ければ閑院流から清華や大臣家を多く出すという事
はなかっただろうね。
140 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:12:07
公家は武士に諂うことで利権獲得という文字通りの寄生階級。
おこぼれにもあずかれなかったものが南朝とか反幕府。
141 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:15:51
でもさ
西園寺公宗なんて謀反の疑いで処刑されたりしてんじゃん?
コイツラってめちゃくちゃエライ貴族なわけだろ
それなのに処刑されたりさ、どういう精神構造なんだろうな・・・
俺にはさっぱり分からんのだが
そんな平安の藤原氏もそうだけど身内同士で権力争いしてどうすんだろうね?
何が目的なんだろう??
今みたいに金があったら何でも買えるわけでもあるまいし
どういう力学が働いてんだろうね
決して現代みたいに欲望が突き動かしてるとは思えないんだけど
143 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:37:44
武士と違って自ら地方開発せずに、地方武士から寄進された荘園の相続権めぐって陰湿な内ゲバだろが。
内ゲバ鎌足
内ゲバ不比等
145 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:40:50
>>141 西園寺公宗の処刑は事故みたいなものだろ。
それに南北朝分裂後の北朝では西園寺家は普通に復権してる。
146 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 21:33:17
>>145 公宗の子の実俊というのは武家執奏になって、朝廷で彼に逆らえば罪だ
といわれるほどの権勢を誇ったようだ。しかし、せっかくお家再興を果たした
のに、子が早逝し孫の代には義満に実質的に北山第を奪われた。
やはり朝廷にとっての最大の敵は義満だったのか。
147 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 21:59:15
てゆうか醜い殺し合いは武家のほうがはるかに酷いでしょ。
徳川忠長も切腹させられてるじゃん。
農民からの搾取も武家のほうが酷い。
寄生してると言ってもいい。武家だって自分で労働してるわけ
じゃないんだから。農民の子孫達が武家に勝手な親近感持つのって、
通俗ビジネス本やドラマの悪影響のせいなんだろうか。
148 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 22:18:12
>>147 フィクションの世界では武家=ヒーロー、庶民の味方。
歴史的真実は武家=残忍・陰湿な支配者、庶民の敵。
大衆は真実には興味ないから、真実を書いても商売にならんのよ。
百姓一揆の話なんてまずドラマにならんもんね。佐倉宗吾とか、
松本城の天守閣が農民の怨念で傾いた話とか。
149 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 01:30:31
一宮氏って公家だったよな
150 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 01:37:27
151 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 01:51:58
>>146 朝廷が義満を敵視or危険視していた証拠ってあるの?
152 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:40:02
>>151 ないな。
むしろ公家たちは義満の簒奪政策に積極的に協力している。
153 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:50:29
公家は武士と違い精巣に負けても出家という平和な文明人です。
154 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:51:57
そうそう、武家も公家も節操のない連中が多い。
公家の多くにとって天皇は利用するだけの存在。
勤皇の公家ってのもいるが、内実はどうなんだろう。
155 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:54:27
勤皇の公家も幕府にこびるよりは天皇をかついだほうが得だ、という連中が多いな
156 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 22:20:52
どなたか戦国期の公家について詳しく
書かれている本を教えていただけませんか?
157 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 00:39:44
>>148 同感。ある意味、ブタに歴史はない。ある意味ねw
159 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 08:38:31
>>156 池享「戦国・織豊期の武家と天皇」がおすすめ
手抜きマンション事件の犯人たちは、姉歯には直接具体的に違法なことをしろとは言っていないかも知れない。
しかし、鉄筋の量を減らせ減らせとアネハに迫り、もう無理だと言っている人間に無理に減らさせた。
建築家なら、それは即強度不足になることは分かっていた筈だ。
しかも、鉄筋の量を減らしても強度は維持できるなどと言いながら、具体的にどうすれば良いか
姉歯には全く示していない。勿論、その方法も本当は知らなかったのだろう。
唯、鉄筋の量、コンクリートの量を減らせとばかり迫れば、とんでもない物が出来ることを知りながら、
姉歯が勝手にやったんだみたいな構図を作ろうとしていた様だ。
そんなことで責任逃れ出来ると思っていたらしい。
これ天皇がしたことと同じだね。
そしてその後右翼が天皇をかばってる言い分とそっくりだ。
「天皇はそんな指示はしていない。軍隊が勝手にやったんだ」
天皇制は日本社会の不正の根源だな。
天皇制を残しておく限りは、日本から不正は無くならないだろう。
不正は日本の文化であり伝統なんだから、偽造マンションの被害者は諦めなさい。
スレの趣旨もワカランとは厨はむごいわねw
162 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 21:17:44
>>160は辛い人生を生きてるんだよ。みんな、彼の悲しみをわかってあげようよ。
>>160 「へぇ、民族学校ではそう教えるんだ」と思った。
164 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 19:31:15
まんが「公家侍秘帖」では
日野西家も所領持ってたことになってるがうそ臭い
165 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 20:41:14
166 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 21:47:20
阿野廉子の阿野家は公家として生き残ったの?
167 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:20:44
>>166 旧公家(羽林家)出身の阿野子爵家がその子孫だろうが。
常総平氏スレはちょっとアレなんでこっちで質問。
上のほう、今川や朝倉に許された輿やなんかの話がありますが、常陸平氏が府中の青屋祭や鹿島の大祭(御軍祭・御船祭)のときに許されてた格式ってのは、どこらへんにランク付けされるんですか?
「大使役に際し、常陸大掾は勅使に准じ衣冠を正し、四方輿に乗り、鹿島社神官の列席のもと、神殿に昇ることを許された。祭使に当る地頭は、臨時に大掾の官に補された。」(『茨城県史中世編』)
「年々官位ニヨラズ、位官ノ装束ニテ冠ヲ用、青屋ノ祭ヲ摂行ス、大掾ニ替テ是ヲ行フ、立傘、打物、袋黒ラシャ、紐、紫、房付、白袋参内傘、馬先ニ用、金紋調度懸、紫幕、同紫三ノ白馬、紫ノ厚房、此則大掾世々家ノ規ボトス。」(「芹沢家譜」)
『鹿島長暦』から多少捕捉すると、「大掾大使たり、目官小使として、共に勅使に准じ」ってところでしょうか。
系図なんかに書いてあることをまるっと信用するのは問題あるでしょうが、よろしくお願いします。
169 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 01:06:09
>>169 養子は入ってるかもしれんが、阿野子爵家は阿野公廉、実廉の家の系統だろう?
公家
には入らないかもしれないんだけど、江戸時代の滝口武士に
「豊臣氏」がいるんだkど。
誰だこいつ・・・
172 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 15:40:43
いるね。
漏れもだいぶ前から気づいていて気になっていた。
「地下家伝」で調べればわかるんじゃないかと思うんだけど何しろ高くてね・・・
173 :
寒:2006/05/02(火) 17:47:07
わたしもどっかのDATA系なHPで見たことあります。<滝口豊臣
でも、いまざっと探しても見つかりませんでした・・・
「秀吉に貰った」のでしょうかね。
滝口というと豊臣姓木下氏の事だと思うけど、「地下家伝」では出自まで
は載せてないので何とも言えませんね。
通字も「秀」の様ですが、地下人の家系なんて戦国武将並に信用ならない
ですから。
175 :
寒:2006/05/03(水) 00:05:23
系図先生がきた!
>>174 まさにそれです。
うーむ、そうっすか。わからないですか。
でもさすがに朝廷勤めですし、「豊臣朝臣木下氏」なんて大胆な行動を江戸時代に!
・・・となると、さすがになにかしらの由緒はあるのではないでしょうか?
でも出自まではわからないんですよね・・・。
江戸のいつごろ名前が出てるんでしょう?
176 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:45:30
豊臣朝臣で木下の名字を名乗った家ならほかにもいくつかあるが。
大名では豊後日出25000石の木下家と備中足守20000石の木下家。
旗本でも何家かあるようだね。
177 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:46:39
179 :
寒:2006/05/03(水) 02:00:46
>>177 わたしが見たDATA系のHP、そこです。
ナゾですなー
1843年だと、余計にわからんですね。
これが江戸初期なら
「なにかしらの由来もなく名乗れる時期ではない」となるのですが。
滝口の武士=地下だから、
>>176氏のような大名筋とかじゃあり得ないと思いますし。
あれそういえば木下家って、他の大名家にありがちな「分家して旗本」っているんですか?
旗本木下家があったとして、木下家ぐらいじゃ高家扱いとかならないんですか?
うむー???
まぁ、わざわざ「分家して地下官人」ってのも変ですよね。あり得ないか・・・。
連休の宿題です。休み終わるまでに提出するように。>ALL
180 :
寒:2006/05/03(水) 02:18:47
旗本の不良息子が滝口に厄介払いされたとか?
>>177 身人部とか下毛野なんてのもいるのか。すごいね。
182 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 08:15:38
>>180 「マシ」がどういう意味かによるが、経済的には300俵の幕臣のほうが
マシなんじゃないの?
183 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 09:21:00
滝口の武士=北面の武士?
184 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:48:58
滝口と北面は別だよ。滝口は禁裏勤務、北面は仙洞勤務。
185 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:54:07
186 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:16:22
仙洞ってどこ?
187 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:35:38
南面の武士というのも居たの?
188 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 19:40:41
院の御所
189 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 00:33:34
190 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 00:34:59
>>184 でも別に院御所以外の邸宅とか寺院とかの警固でも北面とかっていうよね。
191 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:39:29
六波羅探題が京に駐留軍としていた頃、彼らはどうしていたの?
御所のぐるりも関東弁話す連中がやってきて取り囲んでいたの?
>>180-190
192 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:12:17
当時の閑院内裏や土御門内裏は、六波羅探題とは別の場所ですが。
193 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:22:57
公家は京に在住する掟があったのか?
なんか一行質問厨がわいてるが。
195 :
庶民:2006/05/06(土) 02:59:16
>>193 ないよ。でも公家の存在意義は朝廷 でもってそれは京都にあるから必然的に公家さんは京に集まるわな だから京の郊外や奈良でも田舎扱いしてるし
196 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 03:10:27
京都行ったら京都御所行こう! GWは一般開放されて見れる筈。案外、小さい。でかい城壁建てて庶民から身を守らなにゃならんかった他国と違い日本は良いね〜と朗らかな気分に浸ってみて
>>196 大名は城壁に囲まれた家に住んでいたが。
外国でも大した壁に囲まれていない宮殿なんぞ腐るほどあるが。
百済んウリナラマンセーだな。
>外国でも大した壁に囲まれていない宮殿なんぞ腐るほどあるが。
例を挙げて。ほれ。
199 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 02:07:41
ヴェルサイユ宮殿
シェーンブルン宮殿
サンスーシ宮殿
つか、ヨーロッパの宮殿ってまともな壁で囲まれてないのが大半じゃないのか?
201 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:07:11
都市ごと城壁で囲んでるよ。
202 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:14:15
203 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:33:23
仙洞御所=現在の御所?
204 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:34:39
光源氏は道長がモデル?
205 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:41:30
名門(言わずもがな当時は藤原氏しか無い)の娘でない女人から生まれたので親王宣下をもらえず放逐(賜姓)された悲劇の主人公、
ということで、作者はアンチ藤原氏の立場か。
竹取物語も、讃岐の造の田舎娘に、権門勢家の貴公子が、入手不可能な結納品を要求されて弄ばれるという筋だから、
作者はアンチ藤原氏の立場だと思う。
206 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:40:40
>>205 源氏の作者知ってる?作者の主人知ってる?
207 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:42:37
別に母親が紀氏や橘氏でも親王宣下の例は多々あるが。
208 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:52:37
204
いや違う 上皇用の御所だよ 歴代ずっと住んでたわけじゃないけど
>>206 為時も宣孝も名門ではないだろう
それをいうなら彼女が誰に仕えたかを言うべきだな
210 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:08:45
211 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:31:53
為時の祖父は中納言・藤原兼輔(堤中納言)だが、
その子の代で受領階級に没落してるね。
兼輔の従兄弟、三條右大臣こと藤原定方の子孫の一派が、
のちの勧修寺流。勧修寺流の堂上の新家に堤家(子爵)という
家があり、この家名は平安の昔の堤中納言に因んだものか。
>>210 同意。厨房の巣窟2ちゃんねるでも、これほど低脳なレスを発見することは珍しい。
213 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:44:11
214 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 19:38:55
井沢の説
215 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:50:15
おお!井沢先生先生の御説なら間違いであるはずが無いな。
これに反対する奴は全員反日ブサヨ、マルクス儒教かぶれだ。
216 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 09:24:12
公家から商人と縁組は無い?
217 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 09:29:33
218 :
庶民男:2006/05/09(火) 16:05:32
京都の商人で角倉とか有名だけど公家から嫁迎えたとか聞かないな 誰か詳しいやついないか?
219 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:39:28
富小路家
220 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:42:43
221 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:11:35
222 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:17:55
松下幸之助は公家華族の娘と結婚?
223 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 23:00:28
>>222 そんなら、三洋は公家の会社ですかい。
本当は婿養子に新華族のいらん息子をもらっただけ
224 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:47:28
,r';;r" |;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;
,';;/ /;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;
l;;' /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',;;;;;;;
. ,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;iソノ
ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、l
| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;;;;;;;;/ l |
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. l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
', i、-----.、 `''"i`'''l
. ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
ヽ ヽ〈 i| Vi゙、
゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
. ',.' ,  ̄ , ' ノ /./ ヽ,
. ヽ.  ̄´ / ,、 ' / / \
ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙ /
,、 - '''´ | ヽヽ /,、ィ /
やっと待った甲斐があった!この二階堂盛義が224ゲットじゃ!
225 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 02:55:29
公家出身の現職国会議員はゼロ?
226 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 11:21:59
公家の直系子孫じゃ0人ジャマイカ?
先祖に公家の血が入っている人は何人かいそうだが
たとえば名門出身の麻生フロッピーとか
(詳しく調べてないので本当に公家の血が入っているかどうかは不明)
227 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:06:14
>>225-226 公明党の池坊保子議員がいる。
華道の池坊家に嫁いだけど、実家は梅渓という源氏系の公家。
爺さんとお父さんが貴族院議員。
228 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 21:21:18
梅溪家は村上源氏。
徳川家治生母の実家でもある。
229 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 11:28:58
公家⇒高家の家なら若干ある
230 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:25:17
>>196-193 亀レスだが、室町期には御所を築地塀ではなく、
武者走りのついた城壁で囲む計画があったような。
231 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 01:39:10
age
232 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 13:48:12
233 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:33:08
今川家
静岡県の公式見解では室町期は公家。
江戸期は高家。
234 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 16:37:36
>静岡県の公式見解
県の公式見解でも間違いは間違い。
昇殿も許されず三位以上の位階も持たない者を公家と呼ぶことはできない。
235 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 16:40:03
>>229 「公家⇒高家」というのは正確ではないな。
公家の子弟で、家を継いだり新家を起こしたりできなかった者が旗本として取り立てられて高家に任じた例ならある。
旧守護大名の家が没落して高家になったように、堂上公家の家がそのまま高家に移行した例はない。
236 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:25:44
237 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 19:07:29
大沢家
238 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:49:10
細川元首相には公家の血も入っているだろう。
主流は武家であるが。
239 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 02:24:37
六角家
藤原北家日野流。公家烏丸光広の次男六角広賢を初代とする。
徳川家綱に召し出される。石高は2000石。
240 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 02:56:26
>>238 それをいうなら、上流武家で公家の血が入っていない(公家と縁組をしたことがない)家のほうが珍しいだろう。
241 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 18:49:05
武士はお姫さまフェティな香具師だったから。
242 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 18:50:14
かつて自分たちをあごでこきつかっていた公家の娘を立場が逆転して組み敷くときの快楽と言ったら
243 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:09:34
公家の直系絶滅てマジですか?
245 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:16:42
246 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:18:12
北條伸作
持明院基久は戦国公家には入らんか?
248 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 00:48:13
>>242 さすがに戦国期くらいで大名クラスの武家なら、公家に顎で使われた経験はないだろう。
249 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:39:03
公家が権力をもってたのって鎌倉初期くらいまで?
250 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:45:22
251 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 11:13:38
>>242 源平時代の頃の武士だったら、そうだろう
252 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 11:44:50
源平後で武家が確立したわけじゃないだろ
公家の子分である武士ってのがある意味下克上みたいな感じで
公家になれるチャンスがあるというだけの世界になっただけ
江戸幕府でいろいろ法度が整ってからがくっきり公家と武家が分けられるんじゃないんか?
253 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:21:45
武家(武門の家)の出身者は、例え昇殿を許されようと、
官位的に公卿になろうとも、公家ではなく武家と見なされます。
254 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:34:18
「武門の家」とは?定義あるのですか?
255 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:55:22
農家(百姓の家)の出身者は、例え昇殿を許されようと、
官位的に公卿になろうとも、公家ではなく高家と見なされます。
合ってるだろ?
253は間違ってるよw
256 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 18:35:02
秀吉は公家の落胤と僭称しただろ
>253
今も武家と公家は区別されてるよ。
愛子の誕生の時に弓もってびろ〜〜〜〜〜〜〜んて前田と徳川の当主が。
近衛の当主なんかご機嫌伺いくらいで何も役目無し。
258 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 04:41:42
武官は六衛府とかの官職をさすんじゃないのか?
公家の羽林家の官職だから武家じゃないだろ
公卿と諸大夫とを分けるみたいな?
それにしても意味ワカラン
261 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 00:30:04
>>259 確かに羽林家は、そういう官職を歴任することを昇進ルートとする家だけど、
かといってそういう官職に武家が任官できないというわけではない。
262 :
日本史@名無史さん:2006/07/01(土) 17:23:39
今さら気づいたんだが、羽林家にせよ清華家にせよ殆どが藤原北家の末裔出身だった
幼い頃に日本史の授業とかで、藤原家は平安期にその栄華を極めたとか言われても
たいして実感湧かなかったが、こうして見てみるとなるほど凄いもんだと改めて思った
263 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 18:16:22
清華家だの羽林、名家だのといっても
所詮は鎌倉以降は没落して
お稽古事の家元が存続しているようなものだが
264 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:56:35
むしろ名家は鎌倉以降に家格が上昇した家だと思うが。
265 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 21:55:44
名家が羽林家と完全に同格と見なされるようになるのは室町くらいから?
266 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 23:07:44
持明院基久って誰?
267 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 02:13:38
268 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 13:42:11
>>266 公家なのに何故か大坂の陣で豊臣方に加わって戦死した人。
269 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 14:40:59
でも戦国期なら、公家が戦争に参加したり戦死したりすることは珍しくもなんともないと思うが。
270 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 14:59:55
公卿達は智謀に富む、そして静かに温順しい。之は大和民族の特徴である。
熊襲族は所謂隼人で勇敢であるが乱暴である。
熊襲族は立替に使はるべき種族であつて、統一は矢張りおとなしい大和民族でなければ出来ぬ。
ババアの悪夢、再びスレッド
272 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 09:43:21
公家と武家
似たようなのを二つ作って名門だのなんだのやったこの二重支配構造が
日本の歴史の深みでもありわかり辛くしている面でもあるのかねえ
273 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:51:00
寺家を忘れてまっせ!
【衣冠】大掾大使・目官小使、共に勅使に准じといっているので、大使は公卿勅使に准じた?
【四方輿】四方を開け放つことのできる輿。
【立傘】日傘。
【打物(袋黒ラシャ)】太刀を黒い羅紗の袋に入れた?
【紐(紫・房付)】
【白袋参内傘】室町時代、守護大名が幕府から免許された「白傘袋毛氈鞍覆」の白傘袋と同じ?
【金紋調度懸】弓矢を飾った台。
【紫幕】ぐぐっても神社しかヒットせず。
【紫三ノ白馬】白馬または葦毛の馬。
【紫ノ厚房】馬が前掛けのようにつけているもの。
>>168ですが自分でどんなものかだけは調べてみました。
(鞍についての記述が一切ないけど、輿に乗るからいらないのかなあ)
これは格としてはどうなんでしょう。
275 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:05:48
むむ
276 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 18:57:35
荘園からの年貢が激減し、牛車を輿に変え、奉公人をリストラし、戦国大名に娘を差し出して、経済援助を受けても、中下級の公家は相当辛かったはずです。
どうやって生き抜いていたのですか?
277 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 19:17:31
それは秘技!家伝の芸能文化の伝授ですがな
大内、朝倉あたりへ行ったの有名ですな
278 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 22:30:16
ぎょうさん、儲かったんでっしゃろか?
ほなら、地下はどないでっしゃろ?これこそほんまにヤバいんとちゃいまんの?
279 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 23:18:17
でもドサクサで公家になった竹内家ってのもあるし、
それなしにしたたかに生きていたのかもしれない。
280 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 23:40:52
あと摂関家の一条家が土佐の荘園に下って戦国大名化したのあったな
本家は京に残ったけど
281 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 10:37:02
竹内さん言うたら、清和源氏でっしゃろ。如何なる経緯で公家として認められはったんやろ。武門として生きてはった頃もあったんとちゃいまっか?
282 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 20:59:31
>>281 同じ清和源氏である足利将軍家の推薦によって、地下官人から堂上公家に昇格。
283 :
日本@名無史さん:2006/07/27(木) 21:23:57
いつ頃まで、日常的に牛車を利用していたのでおじゃるか、教えてたもれ。
284 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 13:10:44
室町くらいだと、ほとんどの公家は牛車なんて自分の家では持ってなくて、
儀式とかで必要なときだけレンタルしてたって聞くけど。
285 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 14:06:49
街路での牛車同士の競走なんてのもあったらしい
人を2人轢き殺した「駿牛」とかいたそうで
バクチのタネにもなってたみたいだよ
286 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 20:59:18
室町時代に既にレンタカーがあったとは、驚きだ!
287 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 21:03:39
役人か 獄殺裁き人
288 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 00:19:49
289 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 01:15:30
290 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 01:04:44
>>288 自前で持っている裕福な人から個人的なコネで借りてくるだけだろ。
291 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 23:32:12
292 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:12:54
293 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 04:31:14
>>285 くらべ馬なら聞いたことがあるが、くらべ牛なんてあったの?
294 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:28:23
競馬(くらべうま)
競牛(くらべうし)
295 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 03:19:42
>>181 下毛野氏嫡流の調子家あたりは地下のなかでも結構有名なほう。
296 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 20:41:59
秀吉の甥と淀殿の妹の娘が嫁いだのは九条家だっけ。
どんな意図だったのかな。
298 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 12:25:20
>>296 豊臣家の親族を父とし、徳川将軍の正室を母とする姫の嫁ぎ先として家格的な釣り合いを考えた結果じゃないの?
普通に考えて。
299 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 08:13:33
種違いとはいえ、次期将軍の姉だからでしょ。
300 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:41:11
正しくは胤違い
301 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 06:19:31
302 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 05:22:21
室町幕府は御家人制を採用していません。
初期は一応御家人観念があったんじゃないの?
鎌倉幕府体制の復活が一応旗印だから。
御家人制度はとっていないが、鎌倉幕府や江戸幕府との対比をする都合で、
狭義では将軍家の近習や奉公衆などの幕府官僚
広義では+五山僧侶や武家伝奏などの何らかの形で幕府・将軍に奉仕していた寺社や公家、その他非武家諸勢力
を、「室町幕府の御家人」階層と規定する学者はいるらしい。
305 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:25:13
公家や寺社を御家人というのは無理がない?
306 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 07:01:30
広橋家などの一部の公家は「室町殿家来」と文書に見え
武家伝奏の職に任じられた。
室町将軍は清和源氏だが、清和天皇以来生母が藤原氏である伝統が長く、
特に室町将軍は大内氏など一部を除いて将軍生母はほとんど藤原氏だった。
したがって藤原氏氏寺・氏神の南都興福寺、春日大社とも縁が深かった。
無数にある興福寺別院が囲っていた僧兵や私兵が「室町殿」の「家人」を自称して
いてもおかしくはない。
307 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 07:15:30
南都と呼ばれた大和国ではそのほとんどの地域に対して興福寺が影響力を持ち、
興福寺は「大和守護」を称していた。
興福寺の無数にある別院を幾つか取りまとめて頭角を現したのが
戦国大名の筒井順敬を輩出する僧侶戦国大名筒井氏。
同じく「相府出入」と幕府近時の来歴がある伊勢新繰九郎も
幕府官僚の家系伊勢氏の出自であることを名乗りにしていた。
大名家臣や守護代といった将軍の陪臣ではなく
元来将軍家直臣であるという点を強調したかったのではないだろうか。
308 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 10:00:00
>>306 その辺の公家の多くは基本的に近衛家等の摂関家とも家礼関係にあり、
足利将軍家のみと家礼関係があるわけではなかった。
むしろ足利将軍家が朝廷内で摂関家と同格かそれ以上の地位を得ていく過程で
摂関家と家礼関係にある公家(基本的に名家クラス)を将軍家の家礼として
借用してきたような状態だろう。
しかし彼らの所領なんかは多くは摂関家荘園の中から宛われており、
将軍家専属の家礼でないどころか、彼らと将軍家の関係が土地を紐帯とした
御恩と奉公の関係なのかは限りなく怪しい。
また後世、足利将軍家が没落しても、彼らの大部分は朝廷に仕える公家として
存続し、将軍家の末路とは別の道を歩んでいる。
まあ確かに将軍生母の大半が藤原氏というのはそうだな。
足利将軍で生母が藤原氏じゃないのは、
2代義詮(生母:桓武平氏)、3代義満(生母:紀氏)、14代義栄(生母:多々良氏)
くらいか。
あと正式な将軍にはなっていないが、堺公方こと義維(生母:清和源氏)がいるか。
309 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:58:55
>>308 義満期あたりなら、太政大臣の家礼というのもあったかもしれないが。
310 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:22:10
義満が太政大臣の時期だって、レンタル家礼に変わりはない。
311 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 05:30:03
>>302-304 山城国では建武3年国人層を新しく山城国御家人として侍所の指揮下に置き、
将軍直轄の軍事力に組織しようとした。(『国史大辞典』御家人の項)
ともあるから西岡衆=御家人と思ったけど違うの?
誰か素人に教えてください。
312 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:15:35
家礼てなんですか?
家臣とは多少違うんだけど、昇進とかで口利きして貰えるかわりに色々奉仕するギブアン
ドテイクというか。派閥の子分って思えばいいかも。
かなり不正確です。
>>312 安部龍太郎『神々に告ぐ 上・下』に出ている。
315 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:39:39
家礼=家来=けらい
316 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 08:04:10
「かれい」じゃないの?
317 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 11:21:56
318 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:47:00
たしか九条政基の家令が菅原氏(唐橋家だったかな?)で、
政基とトラブって当主が殺されたりしてる
319 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 12:13:39
唐橋在数だろ。
政基の日根庄下向の直接的なきっかけは、この一件で政基が勅勘を蒙ったこと。
まあ殺害の理由は在数に借金をしていてその返済が苦痛になったかららしいが。
ただこの事件が起こらなければ、政基は京都を離れなかったので、
『政基公旅引付』が書かれることもなかったといえる。
殺生関白政基
321 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:23:29
>>310 義満時代を有職故実の常識で語るのは如何なものか
管領細川政元に政基は澄之を養子に出していたけど、武家に公卿が養子を
出すっていう事例は珍しくないか?武家の子女と公家の子女の婚姻はまま
あるけれど・・・
323 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 02:17:57
あれはたぶん、澄之の生母と将軍義澄の生母が姉妹だから、政元が強く希望したってことでは?
324 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 15:53:51
堂上家の人々も戦国時代には揃って男色を愛好したのでしょうね?
ビンボな公家にとって、美少年獲得なんて困難だったんじゃないの。
美形は少数だから、金と力のある階層に集まるんだよ。
って、何でも男色と繋げたいのな、アンタらって。
326 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:05:24
裕福な公家にとってはどうでもいい。
327 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 09:57:37
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
夕刊フジや産経よりははるかにましだが・・・。
329 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:41:02
>>322 細川政元と九条政基って、どっちも「まさもと」で非常に紛らわしい。
しかも細川京兆家の通字の「元」は、初期の頃は「基」であったことを考えると
余計ややこしい(政元の祖先である細川頼元の初名は頼基)。
330 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 01:23:10
細川の嫡流は京兆家、斯波の嫡流は武衛家っていうんでしょ?
畠山の嫡流は何ていうの?
特に独占してた官職は無かったの?
331 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 02:11:48
確か修理大夫だったと思う。
332 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:20:36
畠山で修理大夫なのは、宗家じゃなくて能登守護家(匠作家)。
333 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:37:47
畠山本家の官途ってたいていは衛門督とかだから、強いていうなら金吾家?
あんまそういういいかた聞かへんけど。
334 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 02:37:35
衛門督には他の家は任官されなかったの?
分裂後は尾州家、河内家と呼ばれたけど。
336 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 18:03:42
尾張守、河内守を代々名乗ったの?
337 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 17:43:39
鷹司家についての質問です。
鷹司忠冬が死去してから鷹司信房が家督継承までの間は断絶?
338 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 17:57:26
鷹司家は断絶多いよな
養子相続してもすぐ断絶
339 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 06:32:38
ですよね。
何で鷹司忠冬が生きているうちに養子を取らなかったんでしょう?
鷹司家って魅力が無いのかな?
340 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:38:07
吉田司家は公家出身ですか?
341 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 09:00:34
>>335-336 尾張守は、分裂前からの畠山本家の官途。
室町時代の畠山本家の当主の官歴を見ると、たいていは若い頃に尾張守になり、
その後、右衛門督あたりになっていることが多い。
342 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 09:39:22
土佐一条家は長曾我部改易後に不明になっているけれど他の大名に流寓していた
公家の人はどうなったのですか
>>342 土佐一条家は他の大名に流寓していたわけではないのだが・・・
他の大名に流寓した公家の運命は様々
京都に戻ったのもいれば、
流寓先の大名が滅亡して巻き込まれて殺された者とか
そこからもまた逃れて別の所へ逃げた者も
344 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 10:35:37
>>343 >流寓先の大名が滅亡して巻き込まれて殺された者とか
それって大内義隆が死んだ事件だろ?
大内もそうだけど
確か今川に寄寓していて、氏真が武田に攻められたときに巻き込まれて死んだ公家がいたようないなかったような
346 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 10:34:19
桶狭間から8年後でも、まだ駿府に残ってた公家なんていたの?
寿桂尼の縁で、それなりに残っていたはず。山科言継の義母(寿桂尼の姉だったと思う)
は、確か駿府滅亡の時に巻き込まれて亡くなったんだと思う。
今川滅亡は、寿桂尼が亡くなって数ヵ月後のことだから、皆いなくなるという時期では
なかったんでしょう。
348 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:22:34
そのくせ山科言継って信長と仲良くしてるよな?
裏切りじゃね?
巻き込まれて死んだっつーか、逃亡先の伊豆で病死だったような・・・。
350 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 16:36:24
>348
山科言継と義母はなさぬ仲で仲が悪かったんじゃね?
山科言継が信長におもねったというより
京の情報通として信長が言継を重宝して招いていたような気がする。
351 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 16:50:33
近衛先久・今川氏真・山科時継ぐ・菊亭晴季・・・
おもねるのは公家の特技。
352 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:15:24
今川氏真はいつから公家になったんだ?
義元の代からじゃね?
355 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:13:09
公家というのは、三位以上にコンスタントに昇進できる人達です。
義元も氏真もそうじゃないだろ。
356 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:21:20
室町幕府歴代将軍や江戸幕府歴代将軍は
かなり高位に上れたがやっぱり公家じゃないよな
公家じゃないかどうかは官位ではない
357 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:33:54
必要条件か十分条件かだろ。
359 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 15:48:14
僕の名字は日野といいますが最近日野という名字が公家だということを知り
興味があり調べましたが、日本史に疎く全く分かりません
自分はそれとは一切関係ないと思います。が、本当の子孫はどういう人なのか知りたいと思います
どなたか詳しい方いらっしゃいませんか?
361 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:50:04
違いがいまいち分かりません…WW
362 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:56:10
>>360 公家=堂上=公卿身分に代々上れることが保証されている家
武家に対する広義の公家は地下含めて廷臣一般。
さすがに仕丁の類は含まないと思うけど。
狭義の公家は堂上ほぼ一致。
364 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 03:36:35
堂上公家=公卿身分に代々上れることが保証されている家
で正解。
365 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:21:10
堂上公家=公卿身分に代々上れることが保証されている家(武家除く)
だな。
>>364だと尾張家とかも含まれてしまう。
366 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 00:48:09
堂上「公家」と言ってるんだから、そもそも「武家」は含まれてない。
歴史の前に日本語勉強しろ挑戦人。
367 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 12:05:45
公家侍秘録6巻が出たらしい
368 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 03:03:40
尾張家とか言い出す以前に武家の例を挙げるなら将軍家だろ。
369 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:56:39
371 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 11:16:14
保守
372 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:39:50
373 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 18:16:30
>>368 徳川は、さておき、足利将軍家は公家じゃないだろうか?。
清華クラスだと思う。
近衛大将で、大臣になるものも出る家柄だから清華でいいんじゃない?。
斯波武衛家や細川京兆家は平公家クラスだと思う。
374 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 19:51:40
四辻
公卿にならないんだから平公家ですらない
地下家の収入ひでぇな。地下家筆頭の中原押小路家で50石くらい。
足軽二人分しかねぇよ。どんな暮らしだったんだろ。
地下家の収入ひでぇな。地下家筆頭の中原押小路家で50石くらい。
足軽二人分しかねぇよ。どんな暮らしだったんだろ。
色んな役得があったから蔵米取りの平公家よりはよっぽどいい暮ししてたよ
江戸時代はそれこそなんとでもなっただろうけど、
戦国時代なんぞ、どうしたんだろう。娘売り払ったとかやっぱりあったのかね?
>>379 信玄の嫁みたいな、戦国大名へ娘を嫁がせるということは実質上の人身売買。
高貴なお姫様をくれてやる代わりに、経済援助をしろということだからね。
381 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:36:32
>>378 蔵米取りは収入が安定してるから
かえって低い石高の領主より良かったはず
382 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 11:26:36
>>373 足利将軍も徳川将軍も大臣を拝命した者が多かったけど、
朝廷とは独立した立法府、行政府、軍事府を持つ組織(幕府)のトップであり、
朝議や朝廷の行事に一切参加しない大臣だったのだから、
将軍を公家と呼ぶのは違うような。
383 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 18:22:58
一条家二条家三条家
官務の片割れ大宮家は娘を大内家の側室か何かにしてなかったけ。
385 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:43:02
公武合体派閥の公卿
七公卿落ちの公卿は長州に逃げ出しのさ
386 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:48:15
公家は公家同士の内部派閥がありました。
武家は武家内派閥にわかれてます。
>>381 現実には遅配や強制借り上げなどで不安定さは同じ
388 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 01:11:24
>>382 足利家は朝議や朝廷の儀式に参加できるときは参加してたよ?
足利と徳川は同じ将軍といっても違うと思う
389 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:09:29
>>388 たしかに・・・
徳川は・・・さておき
足利は源 頼朝と同じ武家貴族だよね
朝議にも参加してるし・・・
390 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:39:31
>>387 どうしてお前はどこのスレでも否定的なレスを付けたがる?
391 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 18:36:16
実生活に不満があって、色んな物が・・・たまりまくってるから?
392 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 20:58:02
天文15年 1546年
大納言 三条西実澄
中納言 四辻季遠
左大臣
右大臣
内大臣
大納言
中納言
参議
これが公卿のクラス
393 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:15:38
参議 下級公卿
395 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:38:58
>>394 初耳
下級公卿って何だ?
参議をバカにしたら
それ以下の、その他大多数の公家はどう表現するんだ?
>395
本来の意味での公卿(大臣と大中納言、参議、三位以上)を前提にすれば、
参議は「下級公卿」でしょう。
実際上卿の資格はなかったと言いますし。
下級公卿・・・w
398 :
宰相!:2008/06/25(水) 18:15:58
>>396 四位や非参議を、あえて下級の公卿というなら分かるが
参議は立派な中級の公卿の役職だと思う
>四位や非参議
四位参議や非参議三位以上じゃないと意味をなさないですよ。
単なる四位はいかなる意味に置いても公卿ではないです。
それと非参議には参議足りうる経歴の人を指す用例もあるようです。
つまり四位中将とか、四位弁等の公卿でない人を含みます。
まあ一般的には公卿(位階の面で)でまだ参議にならない人を指すことが多いようですが。
参議経験者も非参議に該当してそう言う用例もあるようですが、
この場合は前参議と言う表現の方が普通のようですね。
400 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 18:43:25
>>398 参議は立派な中堅公卿です。
まだ、参議の下に役職がある公卿が存在していたので。
>>392 公卿は武家より身分が高く上座に座る。
各地の武将クラスは下座に座るのが武家の習わしである。
401 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 19:56:25
織田陣営に参陣した公家衆はしょせんお飾りなんだろうけど
具体的な兵力(数人?数十人?)とかどんな甲冑を着たのか
とか旗指物は?とか・・・なんか文献ありません?
>>401 そうだよ、公家を見下していたのは戦国武将でただ一人織田信長ぐらい。
黄金の安土城建た。安土城の横に見下す二の丸は 朝廷や公卿を見下す為に建られたとされている。信長は全国統一はしていない。
>398
えー、四位で参議でない「公卿」って、どういう立場の人でしょうか。
後世の「公家全体の俗称としての『公卿』」と混同していませんか?
404 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 14:19:25
>>402 そうですね、信長は朝敵ですね。
のれにひきかえ足利義昭や羽柴秀吉は皇室に対する
崇敬の念が厚い。
准后と摂政関白
上座は摂政関白ですか?
足利義昭は前大納言でもありますね。
405 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 16:55:22
信長が朝廷に不遜だったとする証拠は反証が容易に出来るものばかり。
政治能力はねこそぎ奪うつもりだったのだろうが、
本願寺の時みたいに政教分離対策の一環でしょうし。
>>402 >>404 信長が公家に不遜であった、朝廷を軽んじていた、との発言をよく目にするが
いったい何を根拠として言っているのだろうか。
ましてやただ一人と断定する根拠を知りたい。
純粋な疑問なのでご回答ねがえると幸いです。
安土の建築から勝手に空想してるんだろうね
409 :
407:2008/06/29(日) 09:24:55
>>408 ご本人の回答がまだないですが、私も空想か決め付けの類ではないかと思ってます。
山科言継卿記を読んだことあるのかしらん。
少なくとも山科卿に対する信長の態度は「見下していた」それとは到底思えません。
ましてや「朝敵」などと。
もし信長が「公家を見下し」「朝敵」であるのなら、
京都付近の守護大名、たとえば三好とか細川なんかの方が
よっぽどですけどね。
410 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:02:44
>>407>>409 そうですか、信長も天皇を畏れて尊敬していたんですね
所詮信長も、天皇の一家来なんですね
私も信長の、変な評価に癖々していたところです
だいたい信長は、ただの右大臣にすぎませんから
皇族以下の身分
いや、そういう意味じゃなくてね・・・
412 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 01:10:57
413 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 05:08:22
信長の馬揃えが朝廷に対する威嚇というなんて与太話とかもう笑うしかないw
普通に考えて逆だし、ただ脅したいなら回りくどくて信長らしさがない。
414 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 05:24:42
信長は朝廷に邪心はなかっただろうけど、
暦問題などで公家が不満に思ったのは事実なんだよな。
これを無理に結び付け「信長朝廷対立説」が生じた。
信長の思想に権威に対する敵意や野心はなく、それが旧弊や野心により、
あらぬ姿と化していたら是正を求めるだけだね。
信長を相互に支援しあって来た朝廷よりも遥かに危険だった
本願寺を禁止して弾圧するようなことすらしていない。
暦問題でさえ、公家の方が痛い理由で閏月とかを変更していた訳だが。
信長と山科言継との関係なんて、公家の持つ伝統権威に対して
単なる利用という意味以上のものを感じるしね。
言継が三河に下向する際に岐阜の信長を訪ねた時の信長の態度などは
「信長朝廷見下し説」「信長公家見下し説」を一蹴するようなものだ。
417 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 11:12:57
>>416 そんなことはないんじゃない?
信長は自分勝手の気分屋なんだろう
足利義昭のときもそう
すぐ気持ちが変わるんだよ
418 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 19:04:53
でも近衛前久と信長はマブダチだったんでしょ?
「富士山みたいんだけど」「おまえは邪魔だからくんな」ってのも
本気で嫌いだったんじゃなくて仲良かったから言えたことだってきいたし
鷹狩仲間
420 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 21:09:20
なんだワゴレとかいわれてたから仲悪かったのかと思ったらじゃれあってっただけなのか・・・
認めた相手はとことん引き立てる
その代わり敵と無能は徹底的にたたく
423 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:04:31
織田の武田討伐には信長の要請で近衛が同行しているんだから、
わごれ云々の逸話は事実ですらないだろう。
424 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:24:33
公家は強い者の味方みたいなイメージがあるが,近衛前久なんて信長のことを本当はどう思っていたのだろう。
悪くは思ってなかっただろう
死後何十年も後に追悼句会を開く位には
信長=朝敵、とか信長は公家を見下していたwとか
断定的に言ってた人はどこに言っちゃったの?
せめてその根拠を聞きたかったのにさ。
半世紀以上破れ築地の中での暮らしに甘んじてきた公家たちを
再び日の当たる所に連れ出してくれたのは信長だしなあ
普通に感謝くらいはしてたんじゃないの?
428 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:52:03
>>426 まあまあ
あれだけ公家もいれば,下手な歌を詠むだけのバカもいただろうし。
信長は,家柄ではなくある意味実力で右大臣まで昇っているし,その官位をも
ってすればので,家柄だけの中下級公家を見下すことがあっても,むしろ当然
だろう。
もっとも,そうでない聡明で教養等のある公家や,意のままに動く利用価値の
ある公家はそれなりに遇しただろうし。
それもあなたの想像
歴史に携わる人ならせめて史料から分かること以外について
あまり想像を交えない方がいい。
信長が天皇や公家を蔑ろにしたという意見も、
信長が既存の権威を全否定していたという根拠のない想像から派生したもの
>>428-429 まあまあ
でも信長と公家が険悪とする証拠がないというか、
よく言われるような本能寺の変の原因となるほどの対立があったとすれば、
それは必ず何かの形で残るはずなんだけれど、
それがまったくないんだよね。
せいぜい「信長無理なり」だけでしょ。
でもつきあいの長い人が無理を言うことは多々あるし、この一文だけで対立説を唱えられても、ね。
俺らだって「うちの兄貴は無理をいう」とかこぼす時があるわけでw
それと信長が権威だけで生きている人たちを軽蔑する性格と見える言動もないな。
信長が軽蔑し憎悪するのは権威がなすべきことから外れた人々ぽい。
そうすると権威を権威らしくしていた信長の行動に朝廷や神仏への不敬はない。
まあそんなところだろうね。
朝敵なんて言葉を用いているお方もおられるyおうだが
歴史ソースはすべてトンデモ本か脳内なんてこたないだろうねw
ぶっちゃけ、その方がネタとして面白いから。
吉良上野が悪党で今川氏真が馬鹿じゃないと困る連中がいる。
433 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:02:13
あげ
434 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 10:40:06
近衛前久のように,信長の陣に従軍した公家がいたそうだが。
万石級に取り立てられる公家はいなかったのだろうか。
万石級の領地を持った戦国公家って,三国司くらいですか。
436 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:15:04
公家の三条家と武田信玄は親族関係です。
上杉謙信が近衛前久を関東公方にしようとしてたっていうのは本当なんだろうか
それはない。
総理大臣が道州制後の四国知事になるとかいうレベルの話。
関白のまま関東にくだり、関白として謙信の行動を正当化することで支援していたんだろ。
九条稙通って摂津で何しとったん?
セックス。
441 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 01:46:54
鳶に鯨肉さらわれたのは山科言継卿だっだよね
442 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:31:46
443 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:45:26
近衛前久の叔母が足利将軍家に嫁いでおり、
14代、15代将軍は前久のいとこ。
また、前久の妻は若狭武田氏の娘。
前久の養子が羽柴秀吉で、
前久の実の娘前子は秀吉の養女。
いろんな公家がいたもんだ。
前久は異色だね。武家になりたかったみたいだし。
445 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 19:45:56
一条房通はもっと知られていい
>>444 目指してたもののイメージとしては,武家というよりも,公家貴族化する前の豪族かな。
蘇我氏とか,大伴氏とかの時代の。
447 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 02:39:47
zip集めてたんじゃない
公家は死穢を忌み嫌って戦を避けたと言われていますが,戦国時代には公家も従軍してますよね。
正親町中納言季秀など陣参公家衆とかいうのもあったようですが,死穢を忌み嫌う思想はどうなったでしょうか。
時は戦国だ。公卿であれ風習に固執しない者がいたとしても不思議ではなかろう。
一条家は、武家になったとずいぶん下げずまれて、宮中の地位があやうくなったとか。
公家の中には,室町将軍家から地頭に任じられた家はなかったのでしょうか?
公家の中には,室町殿の家礼同然に仕える家もあったと聞きます。
それなら,室町殿から御恩・所領として地頭職を与えられると思うですが。
それとも公家は,地頭ではなく,本所にしかなれなかったでしょうか。
家礼の御恩・奉公は所領の授受は関係ないような。
義満くらいの独裁者になると,お気に入りの公家に所領(地頭職?)を与えそうなんだけどなあ。
公家に地頭職とは失礼千万。
公家には領家職だろ。
っていうか、公家を地頭ってすごい発想だなw
地頭って基本的に領主じゃなくて管理人だぞw
鎌倉後期だと、ごっちゃになっていたようだけど。
南北朝の混乱期になると収益さえ取れれば領家だろうが地頭だろうが構わなくなっていった。
458 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 22:35:48
ほんまかよ
459 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 22:33:33
ある有名大学の教授が最近いってたんだけど
室町後期は上級武士は公家化してた(一般武士達は公家と同じく見ていた)という見解。
かんたんに言えば、摂関家みたく足利家は将軍家、細川家は京大夫家(京兆家)というように
朝廷の官職を世襲する公家の一つだったという見方なんだけど
最初はバカにしてたんだけど調べれば調べる程
なるほど・・・・・と思うようになった。
守護代以下からみれば、守護(とくに足利一門の守護)は公家そのものだ(と言ってもいい)。
で何が言いたいの?
461 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:40:47
>>459>>460守護は公家で
守護代以下が武士だと言いたいんじゃないの?
官位上は上級武士は下級な公家と変わらないと・・・・・・・
462 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 21:48:15
平清盛も源頼朝も公家なわけだが。
463 :
日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:12:46
以前に三国司の話題が出ていましたが、わたしは土御門家に興味があり、福井県へ遺跡を見に行ったついでに
郷土史の資料が多くある福井県の県立図書館に先日行ってきました。
なんと「土御門家は若狭国司」だったのです!。
南北朝期から室町前期にかけて数代若狭守に任じられており、その縁で室町後期に若狭に下向したとのことでした。
どちらが先か分かりませんが寮領(泰山府君祭の為の知行)からだけの縁からの下向だと思っていたので驚きでした。
四国司と言っても過言ではないですね。
464 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 15:06:46
>>459 もともと武家も朝廷の官位制度の中に組み込まれた存在だったから。
そういう意味では天皇の家臣=公家だわな。
江戸幕府の歴代将軍が朝廷から内大臣〜太政大臣の職をもらい、
肖像画を描かせるときには、公家が朝廷へ出勤する際の制服である
束帯姿で描かせているのもその例だろ。
そもそも武家と公家の区別なんか無いからな。
466 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 23:32:46
武家と公家が分離されたのは江戸時代以降
467 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 23:45:59
近衛、わごれは中仙道をのぼりませ
468 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 22:25:47
大内んとこで陶の反乱の巻き添え食って斬り殺されたり
京都におっても盗賊にボコボコにされた公家とか
なんかかわいそうやな。
469 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 22:32:12
確かに。ただ時代を象徴してるよね。
死の間際なんかどういう態度で臨んでたのか気になるわ。l
470 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:33:58
>>465 同感。
江戸時代の高家なんて、まるで公家だよな。将軍一族も公家だ。
南北朝〜戦国の北畠(東北・三重)や一条(高知)や西園寺(愛媛)は
まるで武家だ。鎧装着や官職では分けられない。
471 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:46:46
今も徳川と前田が武家の代表らすいけどさ、なんか意味あるの?
>>471 皇室行事で侍役を呼びたいときに意味があるらしい。
愛子様誕生直後の「鳴弦の儀」で徳川宗家の当主と前田家の当主が弦を鳴らして「オ−」と言って魔除けをしたそうな。
473 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:02:45
徳川と前田は同じ会社(日本郵船だっけ?)に勤めていたので顔なじみ。
474 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:24:54
そんなことはどうでもいい。
あと、アイコごときに様つけんな、ボケ。
475 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:36:52
愛子たん(;´Д`)ハァハァ
極右と極左はある意味で仲良しさんだから
479 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 20:30:58
剣をとって戦う武闘派公家
烏丸少将三樹男
烏丸少将は弓も使うよ。
忍者に襲撃されても返り討ちにして服部半蔵も烏丸少将に
斬り殺された。
あと小太刀やなぎなたの使い手の公家もいた。
そこらへんのヘタレ武士よりよっぽど強かった。
>>481 >服部半蔵も烏丸少将に
>斬り殺された。
ソース教えて。ここ、いちおう学問板なので。
483 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 20:37:18
時代劇の話題にマジレスするのはなあ…。
484 :
482:2010/01/19(火) 01:08:38
>>483 ああ,そうなのw
教えてくれてありがとう。その「時代劇」見たことなかったもんで。
失礼致します。
一つ質問があって参りました。
現在、勘解由小路在富という公家について調べています。
陰陽道の宗家・賀茂氏嫡流最後の当主です。
お聞きしたいのは、天文年間前期に彼がどのような行動をしていたか。
詳しく調べたいので、文献も教えて下さると助かります。
一応『公卿補任』『歴名土代』には目を通したつもりです。
一応、wikipediaによれば北条氏綱の元に身を寄せたとありますが、これの出典は明示されておりません。
それでは、皆様よろしくお願いします。
>>485 誰か、勘解由小路在富で論文を書いた人がいた気がするが思い出せない。
487 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:34:50
へえ。
488 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 13:17:04
いま陰陽道ってどうなってるの?
489 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:28:44
滅んだだろ。
>>406 政教分離とか痛いなぁ
本願寺とか武力も政治力もそのままだが。
秀吉が援軍求める程度には。
491 :
日本@名無史さん:
なんで