1 :
誠意小将軍:
鎌倉幕府の創設者である源頼朝はもっと評価されてもいいと思う。
自分の一族に過酷な姿勢をとったがそのときにはある意味しかた
がないことであった。それよりも武家社会700年の礎を創った
重要な人物で日本の大恩人とも私は考えている。彼がいなければ
日本は荒れた時代がもっと長く続いたろう。
鎌倉幕府がいいくに(1192)創るといわれるのも示唆的だと
思う。
頼朝ファン、反頼朝派も武家社会について考えることのある人も
自由に語り合って見よう。
そう思うか?
4 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:57:13
義経は人気があるが頼朝は人気が無いな。
一族殺しが仇になったのかな。逆に義経は
悲劇のヒーローで過大評価かもしれない。
政治家としては頼朝が上、軍略家としては
義経が上と言うところか。結局、性格が噛
み合わなかっただけかもしれない。
5 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 20:05:33
頼朝は朝廷の忠実なる犬であることを誇っていたどうしようもない人物だからな…。
こいつのせいで後の将軍も犬となることが決定した。
6 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 21:29:35
頼朝は反日ブサヨ
7 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 21:42:22
時代になつく敏感犬
忠犬テンコロ
8 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:34:59
どうして頼朝はここまで人気がないのだろう。
そんなに悪者だったのだろうか。私にはそれほどとは思えないのだけれど。
9 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 00:09:31
10 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 00:20:22
頼朝は武士の保護を行っただけだからな
結果として武家政権とかに発展しただけだろ
歴史好きというか歴史オタク以外の研究者とかには評価低くなかった気がしたけど?
11 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 15:41:14
将門や清盛、泰時じゃ駄目なの?
>>8
歴史研究者の間じゃ、むしろ義経のほうが人気がない。頼朝の評価はそこそこ高い。
>>10 頼朝は武士の保護なんかしていない。むしろ武士の狼藉をとどめ、荘園制的秩序を保護したからこそ朝廷からも歓迎された。
本所と地頭の争論では、無条件に地頭のほうが罰せられるのが、承久以前の幕府裁判。
13 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 17:33:54
何を成したかを考えれば頼朝の功績は非常に大きいだろう。
日本史の中でも大きな変革があったが、その原点になったのが
頼朝の鎌倉幕府創設ではなかったかと思うよ。
誇張かもしれんが、これを境に日本は中国、朝鮮半島と違う社会体制
を進んでいったと考えてもいいのではないだろうか?
14 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 21:56:46
>>12 派閥争いからの解除ってのは武士保護に入らないの?
15 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:03:35
>>12 朝廷に平和的に公認させた独自武家政府を築きたかったんだと思う。
天下の政を都ではなく鎌倉で行うことに、
当時では驚くべき斬新性があった。
16 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 11:41:41
>>13 確かにかつての律令国家のような中国の模倣の体制でなく
全く別の支配体制になったこと、それを構築したことは、
頼朝の実績だろう。(それが良いものであったかどうかは
別として)ここから、新しい日本の歴史が始まった。
ということは
大化の改新
鎌倉幕府創設
明治維新
が日本史の3大イベントってことでよろしいか?
18 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 01:40:43
>>17 あんがいそうかもしれない。
あと、加えるとしたらモノ野辺と蘇我の戦い。
第二次世界大戦敗北かな。
人身の乱もな
20 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:45:30
日本史の大きな節目を創った男頼朝
女なら妻の北条政子か。
(いい、悪いは別として)
それは間違えないようだ。
21 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:27:03
夫婦そろって歴史を変えたんだよね。
もっと人気あってもいいのに
どっちもダークな面がつきまとうからなあ。
22 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 19:46:33
頼朝って実際どの程度リーダーシップを発揮してたのかな
実は全然実権なんか無かったとかって説は無いの?
なんか死に様は吾妻鏡でサラッと回想されてるだけだし息子たちはあんな事になっちゃうしで消え方が寂し過ぎない?
>>21 源平時代自体影薄いからな・・・鎌倉となるもっと(ry
面白いのになあ鎌倉。
24 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:01:24
安定期というか、大乱とか大事件が無いと一般的には取り上げられないからねw
御家人とかの栄枯盛衰話知りたいのになぁ
25 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:01:41
頼朝のイメージ
@やたらと信仰深い
@坂東武者を統率する武人的、京の官僚を使って政治をする貴人的な印象
鎌倉時代の御家人同士による戦いは面白いものもあるんだがな。
27 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 09:33:47
鎌倉幕府の権力はどれほどのものだったのだろうか?
初期は頼朝のカリスマ性に依拠して立てられた政権
だったのかもしれない。
28 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:18:49
源頼朝にカリスマ性はない!
ただ関東武士団に担がれた神輿に過ぎない。
100歩譲って少しはあったとしても大姫入内の件で完璧見捨てられた。
関東武士団にとって自分らを苦しめた朝廷に入り込もうとする
頼朝は裏切り者以外何者でもない。
頼朝は落馬という少し怪しげな死。
頼家、実朝は暗殺。
頼朝ら源氏将軍は利用だけされてあとは捨てられた可愛そうな人達です。
「日本の合戦」って買った人いる?値段高いなあ。
30 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:50:42
清盛は自力で天下を取った。
頼朝は他力で天下を取った。
だから頼朝は人気がない。
保元の乱
最大の功労者は義朝
32 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:57:11
33 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 13:45:05
>>30 そのように見えるだけでそれなりに苦労、努力はしていたのだろうけど。
徳川家康もある意味他力で天下を取ったように見えるけどそれも家康人気
が低い所以か。
34 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 14:18:21
>本所と地頭の争論では、無条件に地頭のほうが罰せられるのが、承久以前の幕府裁判。
裁判結果はそうだけど、この時期の幕府は判決の実力行使をしなかったので、
現実には地頭が勢力を伸ばし続けていた。
35 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 12:49:03
地頭は倒るるところに土を掴めと言うがそれほど欲張り?
36 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 14:37:49
>>30 戦争経験なら頼朝の方が豊富だけどね
指揮官としてはともかく
38 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 18:24:44
守護、地頭とよく並んで紹介されるけど役割や身分の違いはどうなの?
39 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 02:22:31
__,,,...............,,__、
.,,::'゙;'''""''゙''''゙゙""''ニ=;;;;..`.
lッ'゙ 頼朝 ゙;;;;;;::.,,
/´_,,,.. ..,,,_ ゙{;;;;;;;i
f''"゙ 、 . ' ゙゙゙"` 'i;;;f ヽ
l ;-。= .} =。-、 U |:;l .;:!
}  ̄ ;  ̄ 1{ bl 政子様万歳!!
!、 .,.,,,,、 ノ 、ソ
'i ' `゛ ` i;;;
ヽ _,.=ニニニ=__,、 l;;' _,,,.-―v、
i `¬―'´U ___ム ヾ、,: `ヽ
)`ー---― ' `ヽ、_ ,,.ソ
,ゝー――''''" : ~ヽ
! ! ,.' / ! ヽ.
! ::. ;! ; ヽ.
,| : :::... ,;" i
i : i
ヾ ,:'. ,; ノ ヽ
| ー 、 ,r',.:'" '/~~`ヽ、 :|
| ;:|`ヽ、__ヾ , /;;;;;;;:::"/! ヽ |
i ;:| ヽ ,| ヾ、 `) \ !、
! ;| | | ヽ :/ ヾ :i!
| ;:| ! ,:,i / .:| | :|
| :| | ,/,i ,.-'",;、 ,/ ! ;|
_ノ :| / ,! `ーー'" ノ i;
/rrrn ノ / / LLL,,,ノ
(,rrn_,,,ノ
頼朝は政子の犬
40 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 08:36:47
>>39 そうでもないと想うけどな。
自分で政治体制考えていただろう。
41 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 15:26:31
政子に弱いってイメージが強いからなあ
42 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:17:58
伊豆に流刑されていたおり、
北条政子の前に地元武士の娘に子どもを生ませていたが、
父親に殺された。
その武士は後にどうなったのだろうか?
43 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 17:12:44
頼朝に破れ助命されたが自害した。
>>43 伊東祐親たんのことか?地元に銅像が立ってるんだってね。祭りとかもあるみたい。
伊豆行ってみてーな。
余談だがマガジン連載の遮那王義経って漫画で伊東の姫との悲恋がしっかり描かれてたな。
素直に嬉しかったよ・・・八重姫もかわいかったし・・・政子も美人だけど。
伊東は尻つまみあう祭りがあるなw
46 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 18:35:59
>>44 日向の伊東氏の同族?
日向の伊東氏は、伊豆の伊東から発祥?。
47 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:46:36
頼朝が義経や兄弟を殺さなかったら、源氏の時代は長く続いたのでは?
結局は、北条の傀儡みたいなものか・・幕府の基礎を作らされて、暗殺されて・・かわいそっす
伊豆で震度5だってさ・・・蛭が小島は無事か!?
49 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 15:05:36
奥州藤原氏は幕府体制の先駆である。
幕府の本質は如何に朝廷の支配下でありながら
土地に土着し独立した政権を維持するか?であるといえる。
国司は任期切れで都に戻るが、奥州藤原政権はこれを実力で
土着したのである。
奥州藤原政権は朝廷の組織に組み入れられながら
好きにやっていけるシステムを模倣したといえる。
これを頼朝は模倣したのだ。
その後頼朝が必死に奥州へ討ち入ったのは
義家へのあこがれもあるが、陸奥軍政における
朝廷から既に与えられた独立的な特例的先例が欲しかったのである。
またその証拠保全の意味もあったであろう。
歴史学の権威 高橋克彦
50 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 14:20:33
>>49
なるほど。そうかもしれない。
北条政子が頼朝野恩を言ったときも土地を与えてもらったからだろうし
一所懸命は土地に執着するところから生まれたからだという。
何年か前まで続いていた土地神話はこのときに生まれた?
あまり関係ないけど歴史の権威と書いてるけど誰が言ったの。
あまりそのようなこと言わないほうがいいように思うけど。
51 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 21:11:24
>>47 むしろ義経を殺さなければ幕府は開けてなかったよ。と思う。
それにもともと頼朝は死ぬ運命だったし、よく続いたと思うよ。
52 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 23:15:00
>>51 兄弟が理解し合い新しいいい国を創ることもできたとも思うのだが。
鎌倉幕府と形は違う可能性もあるが。
53 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 06:52:46
だいたい、鎌倉幕府が開かれたのは1192年となっているが、
これも実は確かではない。
いろいろな説があるそうだ。
それに、頼朝にあれだけ武士が急に集ったのも不自然。
誰か黒幕か、それに匹敵する勢力がバックにいたのでは?
54 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:44:55
「急」に集まっては居ないだろう。
>>51 義経とか他の会ったこともなかった異母弟なんて他人同然のような希ガス。
平治の乱をともにした二人の異母兄(義平・朝長)についてはどう思ってたんだろうと思うことがあるが。
>>54 兵を集めるのには最初は苦労してたよな。北条家なんて小さいし。
よっぽどそんときの体制に不満のある奴も多かったんだろうな。
書きこみ数がおねだり追っかけ妻スレに負けてるぞーーーーー!!
貴種を担いだ
57 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 03:51:45
義経ってナーンか明かるいですね。
分かってないというか。思慮が足りないというか。
ノコノコ奥州迄行ってしまうし。
父親が同じなら自分は頼朝と同等の兄弟と思い込んでいるし。
頼朝にとって母親が違う上、美貌で父の愛人になった下女の生んだ腹違いの弟なんて「下僕の1人」でしかない、と思っていることが全く分かっていない。
こういう明かるさ?「ノーテンキ」ぶりも当時の日本人の感覚には無かったんじゃないかと思います。
普通、発想の違う人間って日本では社会から追われるのに(秀吉同様)義経は愛されているから天性の明かるい性格だったのかしら?
義経の実際の姿はチビでデッパらしいのにイメージとしては美男子で女にもてるタイプに変わってる。
虚像が愛されるスター性では日本1の男なのでしょう。
トクな人です。
58 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:12:34
義経は実際は独善的なところがあり他人の意見を聞き入れないところが
有ったようだ。自分は正しいゆえ責められるとは想わなかったのかも。
>虚像が愛されるスター性では日本1の男なのでしょう。
そのわりにお年寄りにしか人気ないのは時代なんかねえ・・・九郎。
60 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 13:10:58
義経の人気が下がったのは、義経の良くない面がクローズアップされてきた
からだろうな。逆に今まで無能扱いだった範頼が、最近はずいぶん再評価
されてきてる感じだな。去年の大河ドラマでも総大将らしく描かれていたし、
九州制圧や壇ノ浦での陸上からの攻撃などで義経をサポートして
平家討伐に大きな功績を残した武将として再評価されてきてるし。
電車男役者は大河に必要だったのだろうか?w
それと義経はちょっとぐらいワルまたはノーテンキなほうがカッコいいという風潮があるような気もするな。
63 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 22:49:00
いろいろな人物をわざと悪くしたりする風潮が有るんじゃない。
64 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 23:02:59
「幕府の開祖」ではないだろ。
家人の調停が必要だから鎌倉に常駐していたけど、
もっと長生きしていたら京都に移り住んだだろうし。
あれが幕府になったのは結果論であって・・。
65 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:39:09
>>64 長生きしていたらどうなっていたかはifなのでコメントは避けるが
結果的に武家社会、征夷大将軍を中心とする700年続く日本の体制を
創造したのが源頼朝であることは間違えではないのかい。
66 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:41:51
漏れはこの人は日本史上最高の政治力をもった人だった思う
67 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 02:07:50
日本最高かどうか分からないが斬新敵新しい政治形態を創ったのは確か。
独創性、開明性があったと思う。
68 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 11:19:11
日本の政治体制が抜本的に変化したのは史上4回、
大化の改新と鎌倉幕府開幕と明治維新とポツダム宣言受諾。
このうち外圧によって完全に強制的に行われたポツダム宣言を除けば、
実質的にはわずか3回。
もちろん、いずれも諸々の要素が絡み、深い経緯があってのことだから、
誰か一人の功績とするのは早計だが、
その一つの成立に主体的に大きく関与した点で頼朝の日本史への影響は計り知れない。
70 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 21:59:48
大化の改新って一言でいうと、どんな変化だっけ?
71 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:03:08
律令国家ができたんだよ。大宝律令とかができ、公知公民によって土地や人民はみんな国家のものになったわけだ。
72 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:35:14
律令国家が出来たのは、早くとも淨御原、普通は大宝以降と見るのが一般的。
大化改新なるものは、それほど前代と断絶していない。(公地公民も行われていない。)
そおゆう意味では鎌倉幕府も同じ。頼朝が開幕した最大の理由は、
当時の国家体制・経済体制・社会体制である、荘園制の維持。
転換点はむしろ承久、あるいは蒙古襲来に求めるべき。武家政権という意味でなら更に下る。
戦前・戦後もむしろ連続性のほうが大きい。現在にまで繋がる
我が国の官僚制の政治における優越性は、戦中の統制経済、
権力集中によって出来上がったものが、戦後も引き継がれたもの。
明治維新は、まあ、そうかな。しかしこれとて、最近は享保ごろに、その始点を求める説が多い。
73 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:36:13
武家社会開祖:源実朝
義経然り、義仲然り、空気の読めなさ加減が人に愛されるのでは?
頼朝は頭がよさそげな所が、鼻につくのではないのかしら・・・?
多少、おバカちゃんっぽい方が可愛げあったりする気がします
75 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:46:37
>>72 武家が、朝廷から半独立した全国統治機関を作った意義は大きいと思う。
当時は京都が唯一の日本の首都だったからね。平泉も奥州限定の地域首都だし。
76 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:49:42
それは一般民衆の感性だな。
研究者の中じゃ頼朝のほうが人気ある。
どころではなく、義経はヴァカ扱い。
義仲は、義経みたいにはヴァカにされてないみたい。
そんな、あなたに質問です。
源平関連で、面白そうな書籍探してます。
何かオススメありますか?
>>72 全てが変化するわけでも、変化が一時に起こるわけでもない。
そんな事は当たり前。
79 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:17:03
>>78 そんなこたあわかってるよ。
じゃあ、あんたは大化改新以降が律令国家で、鎌倉幕府以降が中世です、
なんて大声で言えるかい。
今どきそんな明治時代の学説みたいなこと言ったら笑われるよ。
いや、笑われもしないな、たぶん。憐れみの目をもって見られる。
80 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:31:46
律令国家は8世紀、中世は院政期から。
そんな分かり切ったことで喧嘩するな。
>>79 変化が一時の起こるわけでもないと言っているのに、
何で二行目以下の突っ込みになるの?
日本史においては頼朝の評価は高く、義経はかなり低い。
83 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:14:28
頼朝公はチョンの子孫藤原摂関から国を取り戻したウリナラ大和民族の恩人ニダ
84 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:20:59
義経様は大陸に渡ってちんこすは〜んとなり、日本男児の偉大さを世界に知らしめたウリナラ大和民族の英雄ニダ
85 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:36:01
ちんこすは〜んゎもんごりあ〜んニダ
86 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 15:40:51
頼朝って死ぬ時落馬したんでしょ?
87 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:28:12
その頼朝は梶原景時の言う事を信じていたな
88 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:32:18
流れブタ切りスマソだが 義経が頼朝にラブレターめいた手紙を送ったのは 本当?
義経はブラコン?
89 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:50:01
あるていど間違いなかろう
90 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:55:55
ラブレターって言い草は・・・・素敵だ。
腰越状なー。何かいてあったんだろな・・・
義経他、異母弟たちって、頼朝に対して、
「なんで母親が違うだけでテメーがでかい顔してんだよ」
とか思わなかったのかなあといつも思う。現代的な考え方かなあ?これは。
92 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 23:20:50
母親の出自こそが重要なのが古代中世の日本社会。
女性の地位が低下した江戸時代のほうが、吉宗が将軍になれたりする。
93 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 16:22:09
元始女性は太陽だった
と言った人がいたな。
頼朝の母は熱田神宮の宮司(従四位)の娘で正妻
義経の母は雑仕女とか。読んだような
95 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 02:51:26
新恩給与・本領安堵。ここに武家政権独立の要諦がある。
96 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:24:51
頼朝のことを引き上げたのは妻の政子?
恩恵を海よりも深く、山よりも高いといって
武士たちを従わせた。
何処まで本気だったか分からないが。
97 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:09:16
坂東武者にとっては本当に頼朝に恩義を感じていたのだろうな。
98 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:32:14
>>97 単に御輿として担ぐのに丁度良かっただけなのかもよ。
99 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:22:33
でも百年以上続き、元という世界最強の相手にも勝つには
本当の結びつきを頼朝が作ったとも思われる。
中国にも統一しても100続かない国もいくつかある。
強大に見えたソビエト連邦でさえ100年続かないと言うこともある。
100 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 15:21:08
頼光スレきぼん
101 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:00:14
新羅三郎頼光
102 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:37:07
>>99 漏れは頼朝ファンだが、
元寇はやはり北条氏の政策が大きく貢献していた
103 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:33:08
頼朝の功績は認めるが、晩年は娘を入宮させることにこだわりすぎて
ちょっと見っとも無い。
北条氏の方が純粋に武家政権の樹立を望んでいた。
104 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:41:55
所詮は島の部族社会なんだねー。世界は興味が無いし中途半端!1番悪いか?
>>100 頼光は、弓馬トレーニング不足の京武者。
もし義平が生きていたら、頼朝も出る幕なかったろうな。
義平は武名は高いが、駆け引きや政略はだめぽ
しかし、三浦一族や新田氏と姻戚関係を形成している点はあなどれないものがある。
三浦が姻戚は違ったな…
確か傅役?
頼朝の母、尾張熱田大宮司藤原氏。
義平の母、相模三浦氏。
嫡男頼朝。出自の差。
110 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 02:25:39
頼家・実朝・大姫・三幡の母、北条氏。
12世紀における東国武士の認識・・・三浦>>>>>北条
111 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 02:39:22
北条は伊豆だからな・・・
112 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 02:44:51
つーか頼朝は最初の蜂起ではボロ負けして命からがら逃げ出し
源氏の御大将という看板ひとつで各地の豪族を集めて鎌倉入りした
当然そこに集った房総武相各国の地侍の兵力が頼朝政権の基盤であり
北条は初期には頼朝の嫁の実家という以上の存在ではなかった
113 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 04:10:46
114 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 23:14:29
北条は頼朝の妻がいたから力を付けたの?
115 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 19:27:23
娘の旦那って事もあって真っ先に頼朝に着いたから、その後発言力を持ったんじゃないかなー。
何かの本で読んだ記憶では、頼朝が旗揚げした最初の戦いでは、頼朝の側近と北条家の兵が主力
だったはずだけど、100騎もいなかったと書いてあったような気がする。
116 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 12:01:16
もちage
>>94 頼朝の同母妹は受領階級(頼朝の隆盛で権中納言)の正室
義経の同母妹は左大臣の妾
118 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 10:38:27
>>115 義経の兵も百と少しだったような記憶がある。
119 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 10:43:35
武家政権の中で本州、九州、四国の全土を統一出来たのは頼朝、秀吉、家康ぐらいだよな?
>>119 寵童上がりが多いな。武士の宿命なんだろうけど。
>>119 足利将軍家の時は、最盛期の義満の時でさえ関東は関東公方がいて
将軍家が直接支配してたとは言えないし・・・
鎌倉・室町・江戸幕府の中では、足利将軍家の支配力が一番弱い。
戦乱が絶えなかったのも、室町時代だ・・・
122 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 05:23:00
>>119 明治政府が日本中を支配できたのは奇跡
本州の長州、九州の薩摩、四国の土佐がいたのが幸いかも
頼朝の時代に日本全体を市中に治められたのは更なる奇跡かも
史実の義経もそうとう食えない男だぞ。
頼朝はイケメンなだけまだマシ
白河院政開始の時点で実質的な武家社会でしょ。
125 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 18:14:24
>>124 院政期も源義朝や平清盛達は活躍したけど、結局上皇や天皇の意向には
逆らえる立場になかったからね・・・
やっぱり、義経の件で上皇に大きな借りを作って上皇にも意見を言えるようになってからの
頼朝から武家社会が始まったと言えるのでは・・・
>>125 「借り」じゃなくて「貸し」だったか・・・
127 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 18:34:46
どうして頼朝は、(平)政子と結婚したの?
>>127 政治的な意味があるとすれば、北条家の兵力が欲しかったから・・・
ぐらいしか思いつかんが。流罪地の近所にいるし・・・
まさか、純愛ってことはないだろー。
政子のほうはめろめろりんQ
政子は10歳も歳若の田舎娘だし丸め込めやすかったかもしれないが、
このころの北条氏は弱小だった説もあるし実は純愛だったかもしれんぞ。
だらだら14年ぐらいかけて4人も子ども作りゃあエロエロバカッポーだろw
男を武器にして天下を取れたやつって他にいるかな?
130 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 19:09:47
頼朝って、幕府開いて十年も立たないうちに馬から落ちて死んだんだっけ?
息子は修禅寺ヒッキーに歌ヲタだし
131 :
日本@名無史さん :2006/09/17(日) 19:55:27
いまの学説では広域暴力団源組の親分。源氏はやくざの頭。
132 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:04:30
>>129 当時の北条氏は伊豆の田舎豪族に過ぎないし
石橋山でもひとたまりもなく敗れた
頼朝政権の基盤は落ち延びて安房上総下総武蔵と回って
行く先々で従えてきた千葉党武蔵党の力だよ
北条氏の奇跡は頼朝没後そうした連中を
各個撃破で滅ぼしていったことだな
それには「頼朝の妻」北条政子のカリスマが役に立った
133 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:17:56
>>128>>129 「純愛」って思おうよ。
「結婚した」ってのは歴史的事実として揺るがせないが
「どう思って」二人が結婚したのかは結局わからんし、そのこと自体は歴史に影響を与えてないんだから
美しいドラマにしておこうよ。
俺だったらかなり年下で、気丈でカワイイ女の子にあんなことされたら、若いしどうせやること無い流人だし
一気に燃え上がるよ。
それくらい燃え上がる(萌えあがる?)男じゃないと、クールな判断力だけの男じゃ坂東武士もついて来なかったとおもうけどなあ。
134 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:17:57
そういや、あとで時政が頼朝かついで勢力つけようとしただの、
頼朝が北条の兵力あてにしたとかいうけど、
流人の頼朝と政子が結婚したのって
頼朝が北条の館に出入りしている間に政子とできちゃって
単に普通に子供できたからしゃーないかって感じなんじゃないのかとおもふ。
罪人の子供だから普通は抹殺されてもおかしくないんだけど、
時政に何か計算があったのかな。
136 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 00:32:34
そこまで計算はなかったと思うよ。
歴史は後から見ると、さも誰かが仕組んだようにうまい具合に流れているようにみえるけど
実際その時その場で生きている人間のほとんどは、先々どうなってゆくのかさっぱりわからない。
頼朝と政子が結婚した時点で、田舎の小地主、北条のオヤジにそこまで計算できるとは思えない。
単にかわいい娘が選んだ婿で、一応貴種だし頭も悪くなさそうだし、まあいいか、ぐらいじゃないかな。
>>131 まあ幕府も、律令に記載されてない非合法組織だからね・・・
武力でもって実質支配していたのを、朝廷に後付けで認めさせたって感じだ。
139 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 20:36:00
>>131 昔、何かの雑誌で読んだことには武士そのものが
もともとヤクザのようなものだったという。
だとしたら暴力組織が700年支配していたことになる。
しかし、善政を行った人もいるしヤクザとばかりいえないね。
田舎の一介の娘が、都から来た綺麗なオニーちゃんを追っかけてできたモノ・・・
それが鎌倉。
でも所詮は偶発的な出来ことだったんだろうな。歴史って不思議だ。
141 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 11:41:32
頼朝と北条とのつながりは
全部あとづけなんだろうな、と思う。
大体挙兵のときも、危なくなったから仕方なくって感じだし。
平氏倒して新しい政権を・・なんて考えはなかったんじゃないか。
>>131 近畿の左翼系学者が広めた説だそうな。
ただ流行は過ぎてる。
143 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:45:08
>>141 まあ北条家としては、頼朝の首を清盛に差し出して褒美をもらうという選択肢も
あったし、そうして当然でもあったんだけどね。
そうしなかったって事は、時政には平氏政権には後がない事を確信してたんじゃないか?
144 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:57:18
>>103 北条氏も武家政権の樹立を望んでなかっただろ。
あれが武家政権になったのは結果論。源頼朝のころは、
純粋に源頼朝のための家政機関だ。
145 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:02:29
>>137 幕府の存在そのものは、合法だろ。どの大貴族でも持っているただの家政機関だ。
ただ、その家政機関が頼朝の死後暴走し、非合法活動しまくったのは事実だけど。
146 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:17:07
別に頼朝が居なくてもいずれ武家の誰かが天下を取ったと思うが
東国に本拠を置いたのは評価できると思う。
地震だらけなのに
148 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:12:40
結局頼朝と政子が若さゆえにおかしたあやまちが問題なんだな。
>>145 律令は、明治維新まで生きてたけど結局幕府の存在を認めるような
文章は追加されなかったと思っていたんだがな・・・
現在でも日本国憲法に自衛隊を認めるような文章も無いのに
実質、自衛隊は存在していて必要とされているだろ。
法律をなかなか改正しないって悪い癖は、今に始まったことじゃないんだよ・・・
150 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 23:11:06
>>149 日本国憲法にも、家政機関を認めるとか禁止するとかいう規定はないよ。
151 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 02:55:58
慶応3年10月14日徳川慶喜が大政を奉還してからも
家政機関としての江戸幕府は続いたんだよな
トップ人事だけでも
慶応3年12月19日大河内豊前守正質が老中
同月30日酒井雅楽頭忠惇が老中
慶応4年1月10日立花出雲守種恭は老中格
木村芥舟が勘定奉行に任じられたのなんか慶応4年3月22日だ
遅レスだが
>>123 頼朝がイケメンって神護寺のヤツ見て言ってるの?
あれは頼朝とは別人の可能性があるんだがね。
153 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 21:12:42
頼朝義経で売り出し中のピシ沼先生。熊本大会発表はどうでしたか?
白旗神社にある頼朝像(木像だったっけ)は本物?
これは伝頼朝像(足利直義かもしれんが)より目が大きいのが特徴だよな。
そういやー時代ずれるけど清少納言は枕草子で「男は目が大きいほうがいい」と書いてたなあ・・・
まあどのみち政子が家出したいぃぃぃぃとか愛人の家ぶっ壊してまで独り占めしたいぃぃぃぃとか思わせるくらいの
性的魅力はあったとオモ。
155 :
日本@名無史さん:2006/10/19(木) 03:14:15
北条に乗っ取られちゃったけどね
156 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 03:41:41
北条が政権とってからの征夷大将軍はどんな人がなったにかな?
何か権限はあったのかな?
本当に子孫いないの?政子ー義時ラインでそんなにしっかりガードされていたの?
158 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 02:35:42
頼朝って暗殺されたの?
>>158 証拠はないが、暗殺と思われてもおかしくないタイミングで死んでるな。
自ら戦場に出て戦った事のある頼朝が落馬で死ぬってのも考えづらいし、
晩年、朝廷に接近したりして東国武士団に不信感を抱かせていたのも事実だ。
160 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 20:14:46
どうでもいいが吾妻鏡の回想的な部分にある
頼朝落馬、どれだけ信憑性があるのだろう。
他の同時代史料にはそんなことは書いていない。落馬の事実を
こと上げしすぎると思う。
もうひとつの付け加えとくと、吾妻鏡は北条サイドが作成した
史書。あんまり鵜呑みにするのはどうかと思う。政子の静御前
擁護もなんだかうそ臭い。泰時ヨイショも目につく。他にも
変なヨイショ、当てこすり(たとえば経時こきおろし、時頼ヨイショ
の記事)。そこいらを勘案しつつ読み解いていくの肝要かと。
まあ、まともな学者だったら当然の前提だろう。
161 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 21:14:00
《付けたし》みんな北条のことばっかりいうけど
頼朝生前においては比企氏の方がある意味重要でしょう。
頼朝にとっての比企氏の重要性が閑却されがちなのは、
無批判に吾妻鏡の記事を受け取りすぎているからでは。
頼朝の乳母。安達、伊東(頼朝の命を救った息子が一人いたね)などが
比企氏の婿(他にもいたが今ど忘れ)。そして極めつけ嫡男頼家の乳母夫。
頼家の正妻も比企氏だ。
あと、義経がどうとかこうとかいう変な大衆文学レベルの話はどうでもいいじゃない?
兄弟を殺しているやつなんてこの時代ゴマンといるよ。そんんなことを情緒的に
突いていたら、キリないよ。義経人気及び過大視は義経記のの流行とか、唱導文学とかの
せいもあるのでは。だれかこの辺りのこと、啓蒙的にかいつまんでレクチャー
してくれたらありがたい。まあ近現代は講談、大衆文学、テレビ、マンガの影響大
なんだろうが。大河ドラマなんて観て真に受けるのはどうかしている。あれは気休めの娯楽。
例:藤原泰衡(弟を殺す)、新羅三郎(兄貴の子供を殺)、北条時宗(異母兄貴を殺した)、
義平(叔父を攻め殺す)、平清盛(叔父)、源頼家(叔父を処刑)、藤原清衡(異父弟殺)、
畠山重忠(衣笠攻めで実の祖父を敗死させる)、源義朝(親父と一緒に弟たちも処刑)
近世例:武田晴信(長男を殺した。ついでにいとこも)、織田信長(同母弟、あと叔母
もだな。ついでに甥も加えとくか)。源義家(兄弟を殺してはいないけど、
晩年は同母弟とは物凄い確執だ。同母弟というのがミソ。いざとなれば殺すことだって
アリだと思う)。
他にいっぱいいるけど、まずはこれだけ挙げとく。
162 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 21:26:07
神護寺の肖像は頼朝像として個人的に好みじゃないな。
公家臭いよ。東国の王という感じが出ていない。
俺と同じ感想持っている人、いるかな?
163 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:00:45
武士ヤクザ説って、×横×先生とか関西系の学者の言い方ですね。
164 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:09:22
武家政権の開祖は平清盛だ
ただし、貴族化して堕落してしまったが
165 :
ラロシェフコー:2006/11/13(月) 23:16:05
平清盛は貴族みたいなものだから堕落はあたらないと思う。
一応当時も流布していた風説(白河の落胤説)もあることだし。
大体、彼が太政大臣になれたのもこの風説のおかげでしょう。
源義朝もみたく関東に基盤を置いてる訳じゃなし。清盛は伊勢平氏
という関西系の軍事貴族だからね。ただ地方の武士たちの権益を
汲み取れなかった(取る気がなかった)という意味では、貴族化した
武家政権とうはいえると思う。
*頼朝・尊氏・家康 戦力比較*
【戦術】
尊氏>家康>>>頼朝
(頼朝負けすぎだよ頼朝)
【戦略】
家康>頼朝>尊氏
(尊氏は戦闘に勝って戦争に負ける典型)
【政治】
頼朝>>家康>>尊氏
(武家開祖は伊達じゃない、尊氏叛乱多すぎ)
【カリスマ】
頼朝>>尊氏>家康
(家康は好かれる人には好かれるんだけどねぇ)
【幕府を開く過程での主なライバル】
頼朝:平清盛 平重盛 木曾義仲
尊氏:後醍醐天皇 楠木正成 新田義貞
家康:豊臣秀吉 前田利家 石田三成
(ちょww頼朝ショボスwww、尊氏はこのメンツでよく生き残ったわ)
167 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 01:36:33
頼朝は公家の血が濃すぎる。浮いてる。
政子と結婚してそれが解消されたな。
>>163 教徒系はそれほど問題じゃない。
電波流しは首大系。
169 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 20:55:49
すいません、「教徒系」は、「京都系」で分かるののですが、
「首大系」って何ですか?
170 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:19:16
閣下が改名した大学
171 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:50:46
なるほど言われてみれば確かに変わっていたんでした。
鳥津から酒徒という訳ですね。
そもそもどうして頼朝が蝦夷と戦う征夷大将軍に任ぜられ、
はるか後方の鎌倉で幕府を開き、
それが継続して存在し武士に対する管理組織になるのか
さっぱりわからないのですが
GHQみたいなものというのは分かるが。
戦う相手もいないのに、司令部を開き、鎌倉時代を通じて非常事態が続いていうこと?
筋道が異常だと思う。
173 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 21:14:11
頼朝はすぐに征夷大将軍を辞官している。
頼朝が欲しかったのは官位そのものよりそういう地位にあったことがあるという事実だけ。
なぜ鎮守府将軍じゃなくて征夷大将軍かというと、鎮守府将軍は奥羽の鎮守府に常駐して奥羽の兵の指揮権をだけ持つ。
征夷大将軍は京から朝廷の軍を率いて赴くから全国支配という点では征夷大将軍じゃないとだめだったのだろう。
>>172 頼朝が征夷大将軍に任じられる前から、実質関東を中心に武力によって実質支配してたわけで、
将軍に任じられたから幕府を開けたってわけじゃないよ。
頼朝が将軍に任じられる前に、侍所や政所(確か呼び名は違ったと思うが)といった部署はできていて
朝廷とは独立した形で、武家政権はスタートしていた。
頼朝が征夷大将軍に任じられたというのは、朝廷に頼朝の政権を認めさせたってことで、後々尊氏や家康も
このパターンをとるようになった。頼朝にとっては、官位は何でも良かったんじゃないかな。
175 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 23:01:04
頼朝の母は熱田宮司藤原季範の娘・由良御前だけど頼朝とは仲が良いのか?
里帰りした時に産んだって書いてあったけど、頼朝は母をどう思っていたんだ?
176 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 16:21:36
里帰りして産むのは当時の慣習
覇者にむごいエピソードはつきもの。
しかし同時にそれを補う美談・快談があるもの。
頼朝になにかイイ話はあるでしょうか?
178 :
武陽陰士:2006/12/10(日) 23:00:14
頼朝の同腹の弟は、頼朝旗揚げの時に平家に殺される。それを丁寧に、
平家を憚らず弔った法師がいた。後日、この法師に頼朝は褒美をやった。
同腹の弟のことはけっこう気にかけている。
あと、不遇の時に世話になった相手にはけっこう恩返しをしている。
頼朝の美談というのは探せば他にもないことはない。
179 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 02:17:04
北条氏の操り人形だろ。
落馬絶命も陰謀だったんじゃないの?
源氏の血が絶やされたし。
政子のお産の時に安産祈願の道を作る石を
もうそこそこ偉くなってたのに
他の連中と一緒に手ずから並べたってのが結構いい話
浮気もしたけどw
181 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:47:40
世界史人物事典だったか、外人が書いた本で唯一日本人からはよりともが載ってたな
なのに日本じゃ人気薄w
182 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:58:16
>>179 鎌倉幕府初期の北条氏の力はそんなに強くないよ
武力では武蔵相模房総の各地に盤踞していた武士団より弱い
むしろ頼朝の姻戚というバックボーンがあればこその立場
だから頼朝が死んだ時が北条氏にとっては最大の危機
以後他の有力御家人を各個撃破で崩していった
183 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:05:08
184 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:19:25
「鎌倉初期における北条勢力の過大視」史観ってのがあるよね。
一般には。私は、これが鎌倉素人を見極める指標としてるんだけどね。
185 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:53:41
>>178 長寿院落慶供養での一条能保室と範頼の
扱いの違いを見ればわかるよね
範頼は源頼兼、平賀義信より序列は下で
やはり異腹の兄弟は扱いが違う
186 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:29:51
嫡男から見れば異腹の兄弟は臣下だよな
話は違うがフビライにはモゲという同い年の異腹の兄弟がいて
しかも乳母の子だから一緒に育った間柄
モンケ死後の大ハーン位争奪戦でフビライのために大活躍してる
187 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:56:58
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
188 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:25:48
>>176 俺は頼朝が母をどう思っていたのか知りたいんだが。
189 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 12:37:00
>>188 当時、それなりの身分の人間はその字の如く乳母がお乳をやり育てた。
けっこう実母とは距離があったと思う。今の母子密着の核家族とは
まるで違う。
頼朝の子供である頼家が比企氏にベッタリで実母の政子とは少々
疎遠なのも致しかたないことという訳だ。
頼朝が母親のことをどう思ってたというのは、さしあたって
よくわからないとしかいえない。まあ実母だから嫌いじゃないことは
確かだろう。当たり前か。
190 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:15:54
>>188 >>188が言うとおり。当時の貴人は自分の兄弟より乳母の子供を信頼して側近として重宝する傾向にあるし
191 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:26:36
頼朝は日本人には人気無いんだよな。
と、いうか源平関係で人気あるのって義経だけか?
『日本人が好きな偉人100人』では、第二弾の美女編では
女限定に絞った甲斐あって、政子、静、巴がランクインしたけど
第一弾と、第三弾の天才編では、義経一人がランクインして
孤高奮闘しているんだよな(第一弾では21位、天才編は54位くらいだったか?)
おそらく第四弾の英雄編でも義経一人が頑張って源平合戦の面目を保つことになるだろうな
兄貴なんだから頼朝ももう少し頑張れよ
武家社会の開祖が100位にすら一度も入れないってのは情け無いぞ
192 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 19:14:03
NHKで最新の頼朝デッサン画がやってるぞ。
193 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 19:16:06
↑実朝とそっくりじゃん!
そりゃ親子ですからw
195 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:04:19
>>191 近代以降はあまり人気無いよな
中世から近世にかけては、武士からは人気というか、信仰に近い支持が強かったけど
皇国史観の影響かな?
別に頼朝とか尊氏って何も皇室を破壊しようとかした事はないよな。
個人的にヤバイのは足利義満だ。コイツは自分が自ら王を名乗って天皇を廃しようとしてたからなぁ。
だから頼朝や尊氏は別に嫌いじゃないよ。
197 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 20:07:16
>>196 義時は?上皇島流しにしちゃうのはまずいでしょ。
私は好きだけど。
198 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:35:33
結構いい
>>197 鎌倉時代はまだそこまでバリバリの皇国史観があったわけじゃない。
あと、摂関家以下有力公家はほとんど義時と通じるか無関心だったから単に保元の乱で崇徳上皇が流されたのと同じ位に扱われていた。
200 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 19:27:04
質問します。東国王権の成立は1192年の頼朝が征夷大将軍の任命を指標とされてきましたが、1185年の守護 地頭の設置を有力視する説がありますが、
皆さんはどのように見解しますか?
201 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 19:44:17
202 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 16:22:59
>>200 幕府の成立は守護・地頭を設置する権利を朝廷から得た時期でいいと思うよ。
これによって、頼朝の名で武士の土地を保障したり褒美を与えることが出来るようになった訳で、
いわゆる「御恩と奉公」の関係が成り立った。
侍所や政所といった組織も出来て、頼朝が征夷大将軍に任命されたのは
朝廷が後付けで頼朝の政権を認めたという事に過ぎない。
203 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:21:38
>>199 崇徳とは違うんじゃない?
武家が上皇島流しにするんなて前代未聞だよ。
南北朝時代の不敬な武士たち(師直とかね)の発生の淵源だよ、あの事件は。
義時だって内心ビビッてたんだからね。
義時だけじゃないかな。鎌倉方はみんなね。
204 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:25:53
不敬ってそんな観念はないぞ
天皇を廃位したりしていた平安貴族は逆賊ばっかりかい?
205 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:32:39
武家がどれほど見下された存在か、分からないかな。
平安に天皇を廃位したのは「ミウチ」だよ。
馬の骨じゃない。
相模守にしかすぎない、「受領」にやられたんだよ。
206 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:38:45
藤原氏を辿ると馬の骨
207 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:09:47
>>206 馬の骨というのは当時の公家方の見方。
俺のじゃない。
208 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 00:04:06
>>皆さんはどのように見解しますか?
こんな言い方始めてみた。
209 :
日本史@名無しさん:2007/02/26(月) 00:35:54
不敬という考え方はむしろありまくりでしょう
武士なんて無学で不合理な存在も信じまくり。
戦国武将でさえ朝廷の廃止など畏れ多くて実行した者は誰もいない。
信長が或いは、というぐらいですから。
江戸時代がどれほど迷信深かったかは我々も昭和、明治と祖父母など
を通じて知っていますが、まして今から900年も前の関東の田舎者ですよ。
軍事力では圧倒的でも、後鳥羽上皇が出てきたら雷に打たれて死んでしま
うのではないかとか、そんな連中ですからw
戦場ではそれなりのリアリズムはあったでしょうが、同時にいろんな縁起も
担ぎまくるし。
戦時中の「不敬」は、国家権力としてシンボライズされた天皇への叛逆、つま
り非国民という響きがあるわけで、社会的な権力関係に熟知した上での「恐
怖」だったわけですが、鎌倉時代はそれよりもっと自然神への畏れに近かっ
たと思いますね。
210 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 02:35:54
時代によって同じ物や事にも見方が全く変わる。
同じ時代でも立場、環境、利害等で見方が変わる。
だから対立も起こる。
しかし、それを知って理解しようとすれば道も
変わる。いい道が開ける。
211 :
武陽陰士:2007/03/11(日) 22:43:59
>>209 まあそうだけど。
その迷信に囚われた連中の時代、中世が私は好きだな。
すまない、徒し事をば書き込んで。
戦時中も、ほぼ仰るとおり。
いい道か‥。確かに。
212 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 13:18:43
もし 源義平が生き残っていたら、頼朝は源氏の棟梁になれただろうか?
殺し合いをしただろうね。悪源太が頼朝に従うとは思えないw
頼朝に、そんな根性があるとも思えないが
義平が、大勢力を作ってたら従うしかないだろう。三浦氏、新田氏という後援者もいるし
215 :
武陽陰士:2007/03/14(水) 23:47:45
>>212 そういうこと自分も考えていた。義平好きでさ。
>>213 だよね。
>>214 私は頼朝、けっこうやると思う。
嫡流だし、官位も持ってるし。政治力あるでしょ。
朝廷に対するコネは凄いよ。
216 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 12:44:43
平治の乱当時、頼朝は官位は持っていたが、馬にもろくに乗れないデブだったらしい
義平は官位はないが、武勇が天下に知れ渡っていた。
平家の天下になってなければ、義平は関東を中心とした大勢力を築き、源氏の後継者として
名を残していたに違いない。
頼朝は、京で宮廷にこびる軟弱者で終わっただろう
でも頼朝って関東の武士の既得権の代弁者として
いいように利用されて捨てられたような気がする
官位とか征夷大将軍とかもすぐに朝廷に返上しているし
その後の子供運命も悲惨だったよな、ようは用済みで捨てらたんだろ?
結果から見れば単なる神輿だけど
現実には貴種に対する関東武士の劣等感など色々あるんじゃない?
頼朝=源氏の嫡流というブランドは頼朝以外にあり得なかったんだろう。
親父は時代が悪かったし関東に拠点を置いていなかったけど時代背景から
考えりゃああれだけ頼朝に従う連中が関東で多かったのはやはり武力だけじゃない。
彼の血のカリスマ、そして個人のカリスマだろう。
もちろん頼朝個人の才覚は否定しない、あれは関東と京の両方を知らないと出来ない政治だ。
まあ頼家は無茶な政治やったし実朝は「官打ち」にあったわけだが
源氏三代は何か血なまぐさい、遺伝的なものを感じるな。殺し殺されすぎている。
返上したのは右近衛大将では?
京都に常駐しなければならないから返上しただけ。
頼朝が神輿に過ぎないって考えはもう古いんじゃない?
少なくとも頼朝は自分に逆らう者は源氏、家人に至るまで粛清した。
もちろん御家人に対するバランスコントロールを考慮しながら。
>>218 源氏は三代に限らなくても血なまぐさい。
つうか権力に携わる者は自然と血なまぐさくなるだけだ。
頼朝自身が猜疑心が異常に強かったことは否定しない。
北条は比企、畠山、和田、三浦ら有力御家人を滅ぼした。
安達は三浦討滅に主体的に関わったが御内人に滅ぼされた。
北条は結局御内もろとも族滅した。
単に盛者必衰ということだ。
ああ、征夷大将軍も辞任したんだっけ。
いつだかはっきり分からないけど。
まあ官位返上は頼朝が朝廷に取り込まれるのを回りが嫌っていたからね
伊豆平氏の関東の武士団達は
もらったって事実だけでいいんだよな、そこら辺のセンスは一流だよ
222 :
武陽陰士:2007/03/20(火) 23:17:26
>>219 ほぼ賛成。
>頼朝が神輿に過ぎないって考えはもう古いんじゃない?
ほんとう、そうだよね。
223 :
武陽陰士:2007/03/20(火) 23:19:35
>>216 為朝も勇猛だけど、義朝に勝ったわけじゃないでしょ。
まあ、ドラえもんの「もしもボックス」の世界だから、
詮無い論争になっちゃうね。
224 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 05:54:56
鎌倉頼朝?伊豆頼朝?
225 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 12:44:11
御門葉って、新羅三郎義光の子孫やら足利氏やら源頼政の子供やら、
頼朝と血縁の遠い連中ばっかりだが、なんで近親者を優遇しなかったの?
226 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 23:54:49
為義の直系卑属より足利や山名や義光の子孫が御門葉というのは、腑に落ちない。
227 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 07:51:47
豪快にスレが止まってるな。
228 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 16:52:23
鎌倉頼朝
>>128 都生まれの貴公子(プレイボーイで女泣かせ)の美男子に
田舎侍の小娘が夢中になってしまった。
ってのが実態じゃねかね。
頼朝にとっては政子なんぞ愛人A位のつもりだったんだろうが、
相手がその気になってしまったのと政治的な要因から致し方なく正室にしたんだろうな。
230 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 18:20:57
>>229 じゃ、なんで別れなかったの?説明がつかんだろ?
231 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 18:53:23
>>230 頼朝蜂起前後、北条氏は頼朝にとって殆ど唯一信頼できる同盟者だぞ。
今更分かれられるか。政子はバーサンになっても頼朝頼朝言ってるし。
232 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 19:46:38
鎌倉頼朝
233 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 22:57:03
北条政子は頼朝を大切に思っていたという説、
ただ利用していただけという説、両方あるけど
今となっては分からないだろうな。
234 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 08:46:58
伊豆頼朝
>>212 義平が生き残るためには、平治の乱で
父義朝を裏切って、平氏に恭順しなきゃ無理だろう。
そうなれば清盛に島流しならまだしも、
源氏嫡男として飼い殺しにされて
平>源の図式をずっと作られたつづけたらつらい。
そうなると坂東武者は義平見捨てて頼朝につくかもね。
その後義平が源氏に味方して平家破っても
範頼と同じ運命辿る様な・・・・
236 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 10:02:43
政子の母親未だに不明なの?
>>235 いや、信西殺してたら
降伏しても義平処刑確実だろう。
頼朝が助命されたのは当時まだ13歳だったことと
直接平治の乱にかかわってないから。
実際、義経、範頼以外の兄弟は斬られてる。
かといって義朝に逆らって
清盛や信西と手を結べる器とも思えんし。
>>237 >>実際、義経、範頼以外の兄弟は斬られてる
何言ってんだよw
かわいそうな、希義、全成、義円・・・義門もか?
240 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:15:35
頼朝は足利、山名、平賀など、血のつながりが遠い連中を御門葉にしたのに、
なんで範頼とか全成を一門扱いしなかったんだろう。
241 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:42:32
御門葉というのは、徳川幕府でいう御三家や親藩みたいなもの?
天皇家でいう皇族、宮家みたいなもの?
242 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:00:52
>>240 まあ簡単に考えつくことといえば、範頼・全成を厚遇することは、
政治的に危険、取って代わられる可能性がある、と判断した、という見方だよね。
曽我兄弟の敵討ちが範頼をかついだクーデターだったとする解釈もあるしね。
義経はいうまでもないし。
243 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:51:12
北条時政の平賀朝雅の擁立計画は、平賀家の御門葉という格式から考えれば、
けっして不自然ではないんだよな。
平賀も鎌倉幕府の制度では、頼朝の息子以外では将軍の有資格者なんだろ?
244 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 07:28:10
崩嬢魔詐子は 日本に不幸をもたらした
245 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:10:53
246 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 18:24:18
でも、男系でもっとも近い為義の子孫や義朝の子(頼朝の兄弟)が冷遇されている。
足利とか山名とか平賀とか、源頼政の子供とか、そんな連中の方が扱いが上って・・・
247 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 18:45:27
警戒しすぎて男系の近親を滅ぼしまくったから、源氏将軍の自滅を招いた。
スレチですが
魏の曹一族に似てると思った。
249 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 21:05:38
頼朝は、落馬した傷が原因で死ぬとは思っていなかっただろう。
頼朝は、自分の血統が三代で絶え、妻の実家である北条が政権を握るとは思っていなかっただろう。
頼朝は、その北条が京都から摂家将軍・親王将軍を迎えるとは思っていなかっただろう。
250 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 18:36:46
その詰めの甘さが源氏の自滅を招いた。
範頼、全成、義経、義仲の息子、こいつらを一門としてきちんと遇しておけば
北条ごときに乗っ取られることもなかったのにな。
希義の子孫とかいう土佐吉良氏は?
>>251 いや、全成とその息子を殺したのは、頼家じゃないか?
頼家が救いようのないDQNだって頼朝は分かってなかったのかな?
255 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 18:42:55
全成って実弟であり、妻の義弟でもあるのに、なぜ厚遇されなかったんだろう。
普通に御門葉に列しておいても問題ないと思うんだが。
共食い源氏
257 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 17:23:33
偉大なる頼朝の血統が絶えたのは残念だ・・・
258 :
武陽陰士:2007/04/21(土) 23:24:14
御家人たちの支持あっての頼朝なんで、
むしろミウチを冷遇(直系は別)することは、御家人の統制の
ためにもいいんだよ。別にこれは私の意見じゃなくて、まっとうな
現在の鎌倉政治史の研究者の認識だけどね。
頼朝は一門の利益を代表してるんじゃなくて、東国(主に)御家人の利益
を代表してるんだよ。「王」というのは支持基盤があってこそだ。
もちろんカリスマ性(源氏の貴種、そして頼朝自身の器量)も必須だが。
しつこいがこの認識は別の私のじゃない(もちろん私は賛成だが)。
おおかたの研究者の認識だ。
259 :
武陽陰士:2007/04/21(土) 23:33:28
>>254 景時を「見殺し」(やむを得ずだろうが)にしたのは不覚だけど
(BYジエン和尚)、そんなにダメじゃないと思うな。
吾妻鏡のは潤色が過ぎるよ(ついでにいえば泰時のヨイショもウンザリ
するけど)。将軍職の権力強化を頼家は目論んでいたと思うよ。
ある意味頼朝の遺志を継いでいるともいえるし。
最期は浴場で殺されたっていうけど、肉弾戦も強かったんだよ。
金のタマつぶされて身動きできないとこを殺されたんだから。
しぶとかったわけだね。
260 :
武陽陰士:2007/04/21(土) 23:44:03
>>242>>247 確かにそうなのだが‥。
>>251 頼朝に代わる「貴種」が出てくることになるのでは?
厚遇は諸刃の剣だ。
実際、義仲も貴種として北陸を暴れまわっていたし。
ノリヨリを担いだのかもしれないという仮説もある曽我兄弟は、もしかすると
甲斐源氏安田氏を担いでいたかもしれない。
いずれにせよ武家の棟梁の代わりはたくさんいる‥。
261 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 19:59:21
結局、源氏将軍は長続きしない宿命だったのか・・・
262 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:54:03
源氏の将軍が続いた方が良かったか、
それとも北条が執権として権力をもったから百年以上安定した政治ができたのか。
判断は難しい。(?_?)
263 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:33:32
源家三代以後、鎌倉幕府はなぜ滅亡まで摂家将軍・宮将軍を置かねば
ならなかったのか。
264 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 22:49:51
自分の保身のために 北条に魂を売った腑抜け
265 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 02:35:20
腑抜けに天下が取れる訳ないだろうが。
彼はしっかりとした人物。だから皆がついてきた。
政子が演説した時、皆がついてきたのも頼朝の人格ゆえ
保身でやっては出来ない。
266 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 17:27:39
全成くらい、万一のために温存できなかったのかね。
全成を殺したのは頼家の下知を受けた八田知家
>>263 貴種ではない北条氏では、正当性を主張できないから。
268 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 01:01:14
でも北条は平氏の一門じゃないの?
269 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 06:18:44
北条が平氏の子孫なんて系図上のデッチアゲで、実際はただの中小豪族だろ。
あと、たとえ桓武平氏の系図に本当に連なってたとしても、
賜姓の経緯からして源朝臣の方が平朝臣より家格が上と
されてたから無理かもしれん
271 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 09:37:45
源頼朝といえど、都の貴族からみれば、何ほどの血筋ではない。
源頼朝は、清和天皇の末裔とはいえ、数ある諸皇子の中で有力で有ったわけでもなく、
頼朝の先祖は、摂関政治全盛期、あの藤原道長にゴマをすって賄賂を送っていた
地方官(国司)程度にまで落ちぶれていた。
頼朝の地位は、祖父源義家の奥州征討の功績が認められての地位というべきで、
それがなければ、ただの国司の末裔。
板東においてすら尊敬されることはなかったと思う。
源氏将軍滅亡後、鎌倉幕府が摂家将軍を迎え、のちに親王将軍が迎えられたことは、
むしろ幕府権威が高まった故で、これらの将軍は頼朝よりも桁違いに血筋がよい。
頼朝が継承していた義家が築いた板東武士の基盤のみは北条氏が受け継ぎ、
将軍は頼朝以上の貴人を都から迎える、これが幕府が長続きした秘訣。
頼朝が挙兵できた理由は祖父義家の功績のたまもので、
けしてその血筋が頼朝より300年も前の清和天皇に行き着くからではあるまい。
272 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 13:11:08
>>271 じゃ、なんで室町幕府は、足利氏が将軍で安定したの?
273 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 14:02:28
>>272
鎌倉幕府を経て、朝廷の権威がなくても有る程度、武士政権が安定したことはいえるだろうね。
それを別にすると、室町幕府の場合、京都に幕府を開いた利をいかして、
外部から将軍を迎えるのではなく、その外戚政策で自ら公家に近づこうとした。
生涯を戦で明け暮れ、武力で政権を勝ち取った尊氏、義詮の時代を経て、
室町幕府が安定したのは3代将軍義満の時代といわれているけれど、
この義満の生母は、後円融天皇の生母のお姉さん。義満と後円融天皇は従兄弟同士。
義満以降、歴代将軍は京都の公家日野氏から代々御台所をいれていたけれど、
義満が日野氏の娘を入れたのは、後光厳天皇の寵姫日野資子の勧め。
日野家は北朝に近侍した藤原氏の一族だけど、後小松天皇の妃などを
排出していて、このころ天皇家とは姻族関係にあった。
のちに義満は日野家出身の妻を後小松天皇の準母として
臣下としては唯一の女院号をとらせ、皇族の扱いにまでしている。
鎌倉幕府のように、公家から将軍を迎えるか、
室町幕府のように、自ら天皇家と姻族関係にある公家と婚姻するか。
徳川幕府の御台所も、3代将軍家光以降、基本的に五摂家か宮家。
政権を武力で奪取した後は、血筋をほかで補っていた。
>>271 >>地方官(国司)程度にまで落ちぶれていた
落ちぶれてたというより、陽成天皇が廃位され皇統が光孝天皇系に
移り、宇多帝・醍醐帝へと継承されてった時点で既に清和源氏系に
都での栄達はありえんだろ 国司に任命されれば御の字の状況
じゃね?
「落ちぶれた」っていうより「最初からその位の家格」って事でしょ
受領で落ちぶれたっていうのもな〜
276 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 21:21:48
受領にすら任官できなかった○○王は沢山いるからね・・。
平高望(高望王)は比較的出世できたほうだろ。
277 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 21:42:27
>>273 がんばって説明しているところを悪いんだけどさ。
婚姻政策くらいはいくら武士がバカでも考えつく。
それが武家の権威の上昇をもたらすのなら、なぜ、鎌倉幕府は
その道を選択しなかったの?
幕府はやりたかったけれど、権威のない幕府と縁戚になるのを
朝廷が嫌ったためにできなかったというなら、循環論法になるよ。
平氏もそうだったけど、下手に朝廷と
縁戚関係になって、政治に口出しされると
厄介だとふんだんじゃないか?
また幕府が朝廷と婚姻政策すると
有力御家人も我先にとなるのも困ったと思う。
279 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 17:39:29
>>277 鎌倉幕府の北条氏は、のちの足利氏や徳川氏と違い、
源朝の権威に乗っかっただけで、武士団の棟梁ではなかった、ということがいえるだろうね。
北条氏は公家と縁組して血筋を高めるよりも先に、
政権を維持するために幕府御家人と縁組せねばならなかった。
北条氏の正室は、安達氏など幕府有力御家人から迎え、
北条氏の娘は、足利氏などの幕府有力御家人へ嫁がせている。
北条氏は幕府家臣団との縁組で成り立っていた政権で、
のちの足利氏や徳川氏のような圧倒的な武士の棟梁ではなかったとみるべき。
自らのの足元が固まれば、当然血筋を高める事も考えたかもしれないが、
その前に滅んでしまった。
280 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 17:56:24
>>274 そうそう。
源頼朝が武士の棟梁などといわれたのはあくまでも祖父義家の功績であって、
出自がものすごく良かったからではないってこと。
国司階級の家柄はそれこそたくさんあったし、紫式部も清少納言も国司の娘。
頼朝の地位は、先祖以来の武力で奪い取ったものであって、
頼朝の血筋によって幕府が開けたわけじゃないってこと。
複数の香具師が「祖父義家」って書いてるけど、頼朝の祖父って為義だろ
義家はさらにその祖父 それとも、その位遡った先祖はとりあえず「祖父」
とか言って纏めちゃう歴史用語?みたいなものが存在するの?
煽りとかじゃなくて、理系の門外漢なんで素で聞いてます あしからず
高祖父
為義は、義家の孫だけど養子という扱いだったから、曾祖父にも当たるのかな?
284 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 18:34:28
伝源頼朝像はそれが頼朝の像であろうがなかろうがわからんが
これほどの貴族的な風貌は珍しくすばらしい
>>284今ちょうど虫干しやってるね。明日までだけど。
来年こそは見たい。
286 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 22:25:36
NHKage
287 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 10:40:44
昨日のNHKのやつで、また頼朝のイメージ崩れたな。
名家のボンボンで猜疑心の強い腹黒い男って感じに言われてたな・・
288 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:13:51
富士川の合戦の頼朝軍が20万?
NHKは阿呆
為義は結局国司にさえなれなかったし、義家までの諸大夫から侍に家格が下落しかかっていたのではないか?で義朝はどうも為義の嫡子として扱われていなかった節もある。
となると義朝が上手く上層部に取り入っていなかったら、その立場は時代は違うけど将門
並(ただの土着武士)だった可能性もある。
となるととてもじゃないけど熱田大宮司なんかと縁組みは出来ず、頼朝自体誕生しない。
290 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:43:00
>>289 「河内源氏」全体で見ると、まだ諸大夫級だったと思う。
為義時代にも、河内源氏一族に受領がいる。
為義の家は完全に侍級に低下しているが・・。
291 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 05:42:01
73 :日本@名無史さん:2007/04/22(日) 20:33:45
源氏が関東武士團との関係をきづけたのは、
「頼義が平直方の女婿になった」
というのがでかい。関東は女系社会だからな。
鎌倉も直方に持参金がてら譲って貰った感じ。
292 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:35:10
結局は北条の操り人形だった頼朝
北条氏が天下を支配するまでの中継ぎとして利用されただけ
293 :
武陽陰士:2007/05/12(土) 09:39:59
>>292 それは北条中心史観だよ。
頼朝在世の初期鎌倉じゃ、北条なんて弱小だし優遇といったら頼朝の代官に時政がなったとかくらい。
比企とかのほうが重んじられてる。
頼朝が生きていたら北条は覇権握れなかったな
294 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 06:28:55
頼朝は北条一族と政子に暗殺された
これでOK?
295 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 08:21:29
>284
頼朝の貴族っぽい雰囲気は出ていたと思う。
当時の板東の人たちから見ると、頼朝は都言葉を話すなよなよした美男子だったんだろうなあ
政子はイメージ違ったけど。
>>294 実行犯が誰かは解らないが、比企氏以外の有力武士の同意は得ていただろうな。
和田氏と梶原氏も頼朝抹殺には反対だったかもしれないが・・
>>297 頼朝は晩年、娘を入内させようとしたりして朝廷に接近しつつあったからね・・
せっかく固まりつつあった幕府に、朝廷からの干渉が及ぶことを関東武士たちが恐れていたことは十分考えられる。
もともと関東独立国みたいな形で、朝廷の支配からの独立を目指してスタートしたんだから
頼朝のしようとしてることは、関東の武士に対する裏切り行為に写ったんじゃないか?
299 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 19:20:12
日本史オンチの私が先日鎌倉観光に行った際ガイドさんの
話でどこぞの山中に逃げた静御前はとらわれてしまったけど義経は
見つからず、、、と言ってたけど歴史的には
義経の最期は行方不明で終わってるの??
>>298 それは確かにそのとおりなんだけど、頼朝を殺すまでの強い動機になるのかな?
そこまで鎌倉政権は危機的情況にあったのかな?
特に北條にとっては、頼朝を殺すことがプラスだったとは思えない
>>297 頼朝は上西門院(後白河の同母姉)に蔵人として仕えていたし、上洛に反対した
上総介広常を粛清したり、安徳天皇の救出に気を遣ったり、義経謀叛でも後白河の
院政停止ではなく議奏公卿の設置にとどめたりと、最初からかなりの親朝廷派。
大姫の入内工作をしたからといって、東国武士がいまさら目くじらを立てることでは
なかったと思う。東国武士だって、朝廷から官位をもらっている者は多いわけで
朝廷との接近が、頼朝と東国武士の対立につながるのかな?
>>300 幕府発足当時は、政治機構というよりも朝廷に対する労働組合に近いものだったと思う。
頼朝は会社(朝廷)に対して労働者(武士)の意思を伝える組合代表みたいな立場といった方がいいと
思えるので、労働者達によって罷免されたと考えればいいんじゃないか?
今と違って、クビ=抹殺ということで・・
後を継いだ頼家や実朝も、武士の期待に応えられなかったから消されたということだろう。
幕府の土台が固まるのは、承久の乱で勝ってから。
そこから法律が整備されたり支配地域が広がっていったわけで、それまでは何時朝廷にひっくり返されるか
わからない状況だったと思う。
>>301 頼朝を通して、武士が官位をもらう事には不満はなかっただろう。
しかし、自分の娘を天皇に嫁がせるというのは、清盛も通った道で平家以外の武士の反感を買っている。
源氏が貴種とはいえ、自分たちより頭2つも3つも上に行くことは許せなかったんじゃないかな?
清盛の時代からも、離れてないしね・・・
頼朝は、受領に源氏一門ばかり推挙している(三河守・源範頼、駿河守・源広綱、
武蔵守・平賀義信、遠江守・安田義定、伊予守・源義経、伊豆守・山名義範、
相模守・大内惟義、上総介・足利義兼、信濃守・小笠原遠光、越後守・安田義資)。
頼朝にしてみれば、源氏将軍家を天皇の妃を出せる家格としてピラミッドの頂点に
位置づけ、その下に一門を配して一般御家人を統制しようとしたのかもしれない。
それが、一般御家人に不公平感を抱かせてしまったのかな?
>>304 多分そんなところだろうな。
そうやって推挙された顔ぶれ見ると、第2の清盛と受け取られても仕方ないだろう。
相変わらず、全成の取り分は無しか
307 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 07:50:28
名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/05/30(水) 12:30:02
源義平が存命だったら 実力で源氏の棟梁となった筈
頼朝は朝廷に使える下級公家あたりの扱い
もし頼朝が義平に反逆したら 頼朝は殺されただろう
ただ受領した御門葉の方々も徳川御三家のような特別な家格は与えられてなくて
単なる御家人だったワケですよね。
「十三人の合議制」の面々にも入れてないし(というか逆に排除された?)、
そもそも頼朝の死後も御門葉て存続してたんすか?。
(方々で勝手に源姓名乗られるのも幕府にとってはそれなりにキケンだったとか?)
正治2(1200)年(頼朝死去の翌年)に、北条時政が遠江守になってから
駿河守・三浦義村、上野介・結城朝光と源氏一門以外からも受領に任官される
ようになるので、頼朝の死後は源氏一門の特別扱いは無くなっている。
そもそも「十三人の合議制」は、将軍独裁を抑制するためのものだから、
源氏将軍家に追随して旨い汁を吸っていた源氏一門が外されるのは当然。
宝治2(1248)年、足利義兼の子・義氏が手紙のやり取りで結城朝光と
口論になり、幕府に「自分は『右大将家の御氏族』だから、結城よりも
格上のはずなんだ」と訴えて敗訴している(吾妻鏡)。この頃には、
源氏一門の優位は失われていたんだろう。
一門結束して対抗、なんてならんかったんだろうなぁ。頼家(比企能員)は一門とも
上手くいってなかったのか。
で、御門葉はもともと大した勢力があった訳でもなく(力のある武田信義はアボーン)、
受領させたとは言えそれなりに警戒もしてたろうし、東国武士団との釣り合いからも
それほどの力は与えられてはいなかった、というようなトコから足利家は一御家人と
として力を付けていったって感じ?。
311 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 14:21:41
源氏は身内の争いが伝統だったから 滅ぶべくして滅んだ
義家の後継争いで義綱とその子供達が殺され
保元の乱前後の争いで義朝が父・兄弟を惨殺し
頼朝は義経、範頼を殺し、実朝は甥の公暁に殺された
醜い一族だ
>>310 足利は、北条にすり寄っていったんかね。正室はほとんど北条からもらってたというし
>>310-312 確かに身内争いは源氏のお家芸だったが、頼朝は猜疑心強すぎましたな。
とはいえ東国武士団の神輿に過ぎなかったワケだし、将軍家を一門で支える
ような体制つくるのも難しかったろうね。
ところで頼朝死後一門の特別扱いは無くなったとのことだが(
>>309 )
足利は別として広綱の一族とかは没落?(一応清和源氏嫡流筋だよな広綱)
314 :
313:2007/06/04(月) 22:44:41
おっと広綱は太田道灌の太田氏か。それほどパッとはしなかったような。
安田義定、義資親子は謀反の疑いなどで斬首(1194年、1193年)
平賀は義信の子朝雅が伊賀、伊勢守護だったが「牧氏事件」で殺害される(1205年)。ただし将軍の線もあった。
大内は惟義に続き子の惟信も六ヶ国守護に遇されていたが「承久の乱」で滅亡(1219年)。
加賀美→小笠原は遠光孫の長経が「比企能員の変」(1203年)で処罰されるも「承久の乱」で復活。
山名は尊氏が挙兵した頃には「民百姓の暮らしをしていた」とな(難太平記)。
足利以外では鎌倉時代通じて羽振りが良かったのは小笠原くらいか
315 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 07:28:45
甲斐源氏を根絶やしにして 頼朝の言うがままの阿呆だけ残した
北条が実権を握れたのも 頼朝の粛正のおかげだ
北条の天下になったのは牧氏事件など、政子の存在も大きいんじゃね?
317 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:22:34
武家政権の開祖は平清盛公
318 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:29:12
いや平将門だろ!
統一政権は江間某女!通称北条政子!
どこの馬の骨とも知れない女が「子」を名乗れるんだぞ!
319 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:59:37
でも武士として武家らしい政治体制をおこなったのは
やっぱり頼朝が最初でしょう。
320 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:07:18
北条政→北条政子
と改竄されたのは いつ頃でしょうか?
まあ、小野妹子も男だしな
322 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 18:55:10
蘇我馬子も男だそうです。馬子にも衣装はこの人から
と言われてはいないそうです。
323 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 22:43:40
325 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:16:46
子がつく女性で古いのは中宮定子とかだが、平安末期に地方土豪の娘の名に
子はつかないだろう
つまり政子は政もしくはマサという女性が 後に自分の権威を高めるために
改名したか、もしくは死後に関係者が名前を改竄したかのどちらかだろう
326 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 15:16:18
政子という名前は朝廷から従三位をもらったときに親父の時政にちなんでつけた名前。
327 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 15:40:29
政子と名乗る前の名前は何?
足利義兼が上総介になれたのは、上総介広常がアボーンされたおかげだな。義兼にすれば
本拠の下野守になりたかったかもしれないが、下野は小山・宇都宮が頑張っているし。
広常・河越重頼・甲斐源氏と有力者を潰しまくった頼朝も、小山・宇都宮には手を出すのは
無理だったか。
329 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:14:20
>>328 広常は上総権介で足利義兼の上総介と異なるもので
正式に朝廷から任官はされていない。
義兼と同時に国守になった6人のうち義経の伊予を除く
5カ国は頼朝の知行国で義兼は名前だけの名国司で実際にどこまでの
権限があったかは判らない。
小山朝光って、頼朝のお気に入りじゃなかったっけ?
331 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:22:39
>>330 乳母の寒川尼の実子で梶原景時に次ぐ側近中の側近
「吾妻鏡」文治元(1185)年8月29日条によると、伊予も関東御分国になっている。
伊予守の前任は木曽義仲なので、義仲敗死後は没官領になっていたんだろう。
333 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:42:30
吾妻鏡の「皆是当時関東御分国也」は前段にある「是他五ヶ国事者」に掛かる言葉では?
前段の文章は義経と他の5人を区別しており伊予国については頼朝の知行国との断定は出来ないのか。
仮に知行国であれば義経失脚後の伊予守の後任を頼朝が選べるはず。
「玉葉」8月16日条では、「頼朝の申請により受領六ヶ国、皆源氏がなった」と
書いてあるので、伊予を他の五ヶ国とわざわざ区別する必要はないと思うんだが。
小山朝政は梶原景時の失脚で播磨守護職を獲得して、景時の与党・城長茂の
襲撃を受けるなど、景時追放に積極的に関与している。宇都宮朝綱は、平家の
侍大将・平貞能が降伏した時、頼朝の意向に反して保護している。小山・宇都宮
ともに、頼朝の統制に必ずしも従っていなかったのではないか?
頼朝が石和信光を重用して甲斐源氏を分断したように、同族の結城朝光や八田知家を
引き立てたのも嫡流に対する牽制で、頼朝が長生きしていたら小山・宇都宮も勢力削減
または粛清されなかったという保証はない。
頼朝なら功績があっても縁戚であっても、邪魔だと見れば迷わず排除するだろう。
336 :
313:2007/06/10(日) 06:56:49
>>309 >>313 >>330 のとおり朝政については特別扱いだったってのもあるかも>門葉の扱い
>>310 一門結束どころか叔父の全成は北条側に付いて武田信光にタイホされてる。
後の平賀朝雅同様北条時政に操られてたんだろうが(妻が政子妹)、個人的
にも野心があったのか、頼朝・頼家の扱いに不満があったのか>全成。
で、頼家の命により八田知家に斬られてるんだな(1203年)。
知家は十三人の合議制メンバーだった訳だが。
337 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 16:59:57
>327
この時代の女性の名前は難しいよ。
貴族の娘でも「姫」とか「大君」「中の君」「三の君」なんて呼ばれて、名前が出てこない。
藤原定子とか、藤原彰子とかという名前は、入内するときにつけられた名前。
実際には未婚のときは大姫(長女の意味)、入内後は女御、宮(中宮の意味)
なんて呼ばれて、定子さま、彰子さま、なんて呼ばれてないから。
男も、元服して官位をもらう際にはじめて名前をつけたから同じだが。
それまでは、三郎とか、五郎とか。元服後も、普段は官職名で呼ばれる。
頼朝と政子の長女は、吾妻鏡でも終始、大姫と呼ばれ、名前らしきものが登場しない。
庶民ならば名前はあったかもしれないがな。
白拍子(遊女)の静とか。
政子も、独身時代は大姫、結婚後は御台などと呼ばれていれば、
名前は必要なかったかも。官位をもらうとき以外。
駿河守広綱てそんなに手柄立てたっけ。
一ノ谷合戦の褒章らしいが、活躍したのはむしろ同時に遠江守となった安田義定
と、地元摂津の多田行綱っぽい。
父頼政はもとを質せば頼朝の敵方だったが、恩義を感じてた?。
(配流先の伊豆守として頼朝に便宜を図っていたとか)
広綱は頼政が討たれたときも伊豆に居たらしいから、頼朝とは長い付き合いだったのかも。
褒美に預かれなかった行綱て鹿ヶ谷の行綱だよねその後どうなった?
>>340 消息不明らしいね。最後まで恩賞とかに恵まれなかったとか
多田行綱: 摂津源氏(多田源氏)源頼盛の長男、弟に多田知実、能瀬高頼ら
平家の元で正五位下伯耆守
→後白河院鹿ヶ谷陰謀→密告(1177年)→安芸へ流罪
→義仲に呼応して摂津で挙兵(1183年7月)
→後白河院に付き義仲に敗北(同年11月)
→義経と一ノ谷参戦(1184年2月)
→「奇怪」なる理由で頼朝から勘当(1185年6月)
→摂津河尻で義経襲撃(同年11月)→以後不明
たしかに風見鶏だが、鹿ヶ谷密告は史実ではないとする意見も。
子の基綱は承久の乱(1219年)で上皇方に属して斬られたとな。
>>340-342 行綱の密告が史実でないとすれば、義経襲撃も院宣が出た後だろうし後白河院に
従って動いてたようにも見えますわね。
後に子の基綱も、幕府への恨みはあったかも知れないが上皇方に付いたと。
にしても義仲と京に上がった時ご褒美は貰えなかったのかえ?
いずれにせよ頼朝のように、東国における八幡太郎義家のような権威の拠り処も、
畿内の武士団を束ねてく才覚も無かった行綱ぢゃ大したことは出来なかった様で。
でなきゃ院と義仲がギクシャクしはじめた時やそれ以前にも、行綱にチャンスが
巡って来てたかも?
>>345 それより頼政らが平等院から伊豆へ脱出来てたら、平家追討の総大将は頼朝では無く仲綱だった?(ゲーム厨みたいになってきたがw)
>>346 当時の仲綱の官位は何?佐殿(前のだが、ないよりはまし)よりも高ければ、そうなるんじゃない?
>>347 位階は仲綱正五位下、頼朝従五位下だから仲綱が上
でも官職は仲綱の伊豆守(従六位下相当)より
右兵衛佐(従五位上相当)のが上だからややこしいね
ただ多分この時点では頼政等のほうが嫡流意識は強かったと思うよ
>>348 流罪だったなら剥奪だろうが、行綱は正五位下(従五位下とも)伯耆守=従五位下
相当でこちらも微妙ですね(多田源氏も落ち目で嫡流意識は強くはなかったのかな?)
>>348 以仁王の令旨も宣者は仲綱で(『吾妻鏡』)
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らの所
まさに早く清盛法師ならびに従類叛逆のともがらを追討すべき事
右、前の伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣す
頼信〜の流れが清和源氏嫡流とされるのは頼朝以降だろうね
八幡太郎義家は伝説化されてたにせよ
>>345 >>349 > 畿内の武士団を束ねてく才覚才覚も無かった行綱
西国は平家方が押さえてたってのもあったんぢゃない?
挙兵した近江・美濃、石川源氏はたちまち殲滅されてる。
静観してたのは卑怯だが(平家方だった?)取り敢えず正解ではないかと。
その後義仲が台頭して京に上るまでの間に地固めしておきたかったけど
その「才覚」は無かったか>行綱
353 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 15:55:03
この人、武人としての評価はどうなの?
乗馬とか武芸で弟の義経に劣ると思うけど
さすがに並以下ってことはないよね?
石橋山の戦いでは、自ら弓をもって戦い、かなりの戦果をあげた模様
当時の戦いでは、馬上から弓を撃つことは高等技術だったようで、当初は平家方につきながらも騎射の達人ということで御家人に加えられた者
も少なからずいるらしい
355 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 19:32:30
指揮官としてはどうなんだろう?
重要なところでは負けたり弟任せのような気がするのだが
356 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 20:16:34
頼朝は戦術は二流だと思う。
だけど政治家としては日本の歴史上でも有数の手腕があったと思う。
357 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 21:27:20
う〜ん、マンガ読んだ限りじゃ戦出たのは最初の方で
あとは弟がほとんどだな
358 :
、:2007/07/03(火) 23:47:57
北条氏の傀儡だったんじゃないのか?
359 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 00:12:23
頼朝の肖像画は足利直義。重盛像は尊氏。
>>344 頼朝は「勲功第一」とされながら上洛してないので行賞なしだったようだが、
行綱の場合はドサクサ紛れで挙兵しただけで(大した)働き無しと看做されたんぢゃろ。
ちなみに「平氏追討」論功行賞で受領したのは以下の源氏の面々らすい。
越後守(遷任)伊予守 源義仲
備後守(遷任)備前守 源行家
伊賀守 山本義経(近江源氏義光流)
遠江守 安田義定(甲斐源氏義光流)
佐渡守 葦敷重隆(尾張源氏満政流)
伯耆守 源光長 (美濃源氏頼光流)
>>354 石橋山の話は吾妻鏡や盛衰記、延慶本平家に載ってるけど後世の作り話かもしれない
平治物語の古い本には、平治の乱における頼朝の活躍が、何も書かれてないのに
新しい本になると頼朝関係記事として
・源家相伝の源太が産衣という鎧、鬚切という太刀を身に付けている
・六波羅先制攻撃を進言
・郁芳門戦で名乗りを上げ、2騎射落とし1騎に手負わせる
というように詳細に描かれてる
武家の棟梁が武芸まるでダメじゃ恰好付かないから、大分脚色された部分はあると思うよ
362 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 19:16:45
やっぱり頼朝ってほとんど親の七光りで実力は大したことなかったのかな?
寺に十数年も監禁されてりゃせっかくの才気も錆付くわなー
一方義経は山伏に鍛えられたとかなんとかで兄貴に差をつけたとか
富士の巻狩りでは、どんな成果をあげてたんだろうか?
頼家が大物を仕留めて、政子に伝令を出したとかはあるけど
364 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 23:44:59
>>361 平治の乱当時 頼朝14才
太りすぎて馬に上手く乗れず、逃亡途中で義朝一行とはぐれて
関ヶ原で平家に拿捕される
こんなデブに戦ができる訳がない。前線に出て行ったら即死だろw
365 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 23:49:43
>六波羅先制攻撃を進言
これは義平の進言
百歩譲って頼朝が進言したとしても、頼朝には指揮能力も戦闘能力もない
ただの足手まとい
>>362 前にも出てるが「武人としては」大したことなかったんぢゃないの。
それに爺さんに比べりゃマシだったが、親だって「七光り」というほど
には光ってもなかっただろ。
367 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 00:12:36
頼朝は京での朝廷や貴族との連絡係として育成された
このまま源平の争いが起きなければ、三流貴族もどきとして
平時平のような立場になっていただろう
368 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 09:51:54
>>365 源氏の棟梁って肩書きは当時にしてみればスゲェと思うんだが
敗北して没落はしたけど部下は散らばりながら力を蓄えてたわけだし
369 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 13:51:45
頼朝は 兄の義平、朝長が氏んだから嫡男の座が回ってきた
兄が存命だったら、頼朝は源氏棟梁には なれなかった
370 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 15:00:22
>>362 14歳のときはやせてたんじゃないか。
いくらなんでも、武将の子供が太りすぎて馬にも乗れずじゃあ、
親父も恥ずかしくて、家臣の手前、一緒に連れて歩けないから、
とっとと寺に入れるなり何なり、武将としての道を歩ませなかっただろう。
ただでさえ、頼朝は弟が多かったんだし。
371 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 16:09:37
俺の中では
義平>義経>頼朝
伊東祐親に殺されそうになったときに逃げおおせてるんだから、馬に乗れないとか、運動神経皆無とかは無いとは思うが
373 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:41:48
>>370 だから、頼朝は武将ではなく京都連絡係として育てられたんだと
何回言わせるんだ
374 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:01:30
>>364 義朝と一緒だったら、尾張で一緒に頃されていたかもしれないから
途中ではぐれたのは 幸運と言える
375 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:13:54
>373
だったら、出陣しなかったら良かったのに。
京都で妹と一緒に母方の家で育てられれば、
平凡な下級貴族としての生涯があっただろうに。
>>375 それは、義門と希義にも言えることじゃなかろうか
377 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:31:57
>376
頼朝は、武将ではなく京都連絡係だったという意見につけたレス。
頼朝以外の同母兄弟のことについては言ってない。
頼朝が京都の連絡係ならば、出陣する必要がない。
ところが、実際には、頼朝は14歳のとき、父親と一緒に出陣している。
武将として育てられたんじゃないなら、出陣しなくてよい。
378 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 21:45:52
>>377 一応、元服していたから格好つけに形だけ出陣したんだろ
参加することに意義あり!とか言われて
379 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 22:01:45
平治の乱で 源氏は期待していた東国武士の援助を得られず
平家に対して 少人数で戦わなければならなかった
だから 戦力としては全く期待できない頼朝も武装させて連れ回した
丸腰で隠れていて戦乱に巻き込まれて死ぬよりは ましだと思ったのだろう
380 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 22:16:10
政治力は義経より頼朝の方がすごいわけだな。少なくとも
武芸よりも教養に力を注いでたのは間違いないわけだし
>>369 > 頼朝は 兄の義平、朝長が氏んだから嫡男の座が回ってきた
どうかなぁ頼朝母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘、
義平母は三浦義明の娘(または養女で京都橋本遊女)。
で、実際の官職でも十三歳で右兵衛権佐(従五位上相当)に任官した頼朝と、
十八歳で左衛門少尉(正七位上相当)の義平じゃあかなりの差が付いていて、
義朝がどちらを跡取にしようとしていたかは明白。
ま、身内争いがお家芸の源氏だから義平が奪い取ってた可能性もあるけど。
それから義平が優れた武人だったことは間違いないのだろうが、きちんとした記録は少ないみたいね。
『平治物語』はあくまでも「軍記物」、義平は云わばそのヒーローとして「描かれて」いた訳で。
>>379 ちょっと違うだろ
義朝の下には後に鎌倉幕府樹立に貢献する東国御家人の多くが従っている
彼らの中には後に総勢2万騎とも言われる千葉氏などもいた
しかし東国武士は少数の軍勢しか引き連れていない
@反乱ではなく、クーデターを企図していたからこそ、大軍勢を集めなかった
A舞台が京都であるため、東国を基盤とする源氏は大軍勢を引き連れにくい
B舞台が京都であるため、畿内に勢力を扶植できていない源氏には不利
清盛と義朝が京都以東の東日本で戦えば、源氏の優勢は間違いないかと
384 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 01:29:25
なんか義平には「義」ってついてるから嫡子っぽく思えちゃうんですよね。
あと義平には関東を、頼朝❷は京都を任せたかったんじゃないの?
義平と朝長の母が遊女って言うが頼朝によって改竄されたんじゃ?
386 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 01:33:54
「義」や「頼」がついている源氏の庶子など腐るほどいる
自分の妄想はチラシの裏にでも書いとけ
>>381 >右兵衛権佐(従五位上相当)に任官した頼朝
頼朝が右兵衛権佐に任官された時期を知っての書き込みか?
右兵衛権佐になったのは、平治の乱のどさくさに紛れての除目
義平にも高位の官を与えようと 藤原信頼が言ったが
信頼が嫌いな義平は、戦で忙しいと言って辞退したらしい
388 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 08:32:59
>>381 >どうかなぁ頼朝母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘、
>義平母は三浦義明の娘(または養女で京都橋本遊女)。
平清盛とか平重盛なんか 母親の素性すらわからないのに
嫡男として出世してるぞ
平和な時代なら 母親の出自とか大きく影響しただろうが
戦乱の世は 実力第一
義平に頼朝が叶うわけない
389 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 08:40:17
>>388 清盛も重盛もいずれも先妻の子で、
後妻の子が嫡男にならなかっただけの話。
平重盛の母は高階氏で、
後妻の平時子より家柄は格段に良い。
>>365 義平の進言は、熊野詣に出ていた清盛勢を阿倍野で邀撃すべきだ、ということ
ただこれも古態本にはないから後世の潤色だろうね
細かいことを言ってスマン
こういう補追や潤色が加わって、
>>382の言うとおり、
義平が平治物語のヒーローになっていったんだと思う
391 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 11:50:18
頼朝が自分で戦に参加したのって
平治の乱(オマケ)、山木襲撃、石橋山合戦、富士川合戦、
奥州遠征くらいか
たいした戦してない
武将としては超三流
そのうち一回は大敗、命からがらだけど、
それでも天下草創にこぎ着けたんだから
超一流w
393 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 12:37:25
兵を率いる将しては2流もしくはそれ以下かもしれんが、
天下を取る人物というのは古今東西大体は、政治力>用兵術だからな
むしろ政治力に乏しく用兵術のみで勝ち上がる人物は、必ず限界が見えてくるわな
394 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 15:18:09
以仁王の令旨を捏造して 東国の支配権が頼朝に与えられたと
大法螺吹いて、現地武士を誑かした
今なら公文書偽造・同行使で死刑だ
>>389 >清盛も重盛もいずれも先妻の子で、
>後妻の子が嫡男にならなかっただけの話。
重盛の死後に正妻時子の子、宗盛が嫡男になった
つまり、清盛は正妻とか側室とかの出自よりも実力を優先させていたわけだ
源義朝が清盛と同じ立場だったら、最初から宗盛を嫡男にしただろうか?
396 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 18:07:06
>>393 やっぱり頼朝は武人としては兄と弟に劣るけど
政治家としてはその二人を上回るってとこかな
義平は義朝の関東在住時代に産まれた子供、
幼い頃から鎌倉で育った。
頼朝は義朝の京進出以降に産まれた子供、
幼い頃から都で育った。
関東における地盤を受け継いだのが義平、嫡子は都の頼朝少年。
398 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 18:11:34
>>395 勘違いしているようだな。
重盛の母は正室。
重盛の母高階氏が死んだので、時子は後妻に入ったわけだ。
宗盛は、重盛の死後、平氏の総大将になったが、嫡男ではない。
平家の嫡男は、重盛の子、六代。
重盛=側室腹、宗盛=正室腹ではない。
どちらも、正室腹。先妻と後妻の違い。
399 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 18:16:29
>>398 六代だが、訂正。平重盛の子ではなく、孫。
清盛ー重盛(母は高階氏)−維盛ー六代
重盛の系統である六代が嫡流。
400 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 18:26:08
このスレにはググるなりウィキペ見るなりすれば
分かりそうなことを、調べもせずに
誤った知識を真実だと思い込み
さらに妄想を織り交ぜてレスしてるドアホが紛れこんでるな
仮にも学問板なんだから、カスは戦国板にでも消えてくれや
盛り上ってるなw
>>360 義仲、行家は野心満々だったが、他の源氏四人はそうでもなかったのかね。
この時点では頼朝はまだ流人の立場だし平家も朝敵となったから、
(源氏の棟梁のみならず)武家の棟梁候補先頭集団に躍り出てた訳だけど。
402 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 21:33:23
義平=重盛 武家の棟梁
頼朝=宗盛 兄が亡くなったおかげで家督をもらったDQN坊ちゃん
403 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 21:46:42
>>398 重盛の子孫が嫡男だと?
もし平家が壇ノ浦で滅亡せず存続しても 重盛の系統に
嫡流が戻ることは ありえない
こいつバカ
404 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:03:43
頼朝は朝廷に仕える中で 人を騙したり脅したりして
自分の欲望を叶えるという悪知恵を身につけた。
そして伊豆での蜂起後、その悪知恵を活用して関東の田舎武士を
取り込んでいった
405 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:25:40
頼朝はおいしいとこどりだな。つくづく
406 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:38:35
田舎武士が字もろくに読めないことを いいことに
以仁王の令旨に
「関東は頼朝の管理に任せる」
と書いてあると大嘘ついてる
安達とかは読めるんでね?流石に、上総や足利、志田も
読み書き位は出来るがなw
409 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:52:57
用が済んで使い道がなくなれば、兄弟でも平気で殺す
頼朝は、源氏の狂気の伝統を見事に継承している
一族以外には寛大だよ。
猜疑心が強い人。
411 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 23:26:10
>>399 富士川の合戦で逃げ帰り 大将失格の烙印を押された維盛
源平の戦の途中でも逃げ出し 妻子を探しに逝って死亡
宗盛を上回る阿呆 維盛
こんな阿呆の子孫を嫡流と認める香具師は誰だ?
412 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 00:04:34
やはり武士は 日常的に鍛えられないと駄目になってしまう
平家の天下で、のうのうと育った宗盛や維盛が好例
頼朝も 京でずっと暮らしていたら、宗盛や維盛のような阿呆で終わってしまっていたに違いない
413 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 00:10:01
>>402 横槍いれて申し訳ないけど、頼朝は親父の義朝が認めた嫡男だよ。
義平だって、そんなことは承知しているさ。
周りもね。
414 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 00:19:04
武田信玄は長男を殺し、織田信長は叔父、叔母、同母弟を誅殺している。
その他、源義朝は幼い弟たちと実父を処刑(不本意だったろうが)、
徳川家光は同母弟を自害に追い込み、
まあ他にもいっぱいいるが。
こいつらはどうなんだ?
415 :
源義平:2007/07/07(土) 00:19:57
源氏の嫡男は俺だ
軟弱者の頼朝に源氏の統率はできない
親父の義朝が頼朝を嫡男と認めただと?
そんなこと俺は知らんぞ
まあ、俺が氏んだら頼朝を嫡男にするしかないが
416 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 00:20:24
義経は自業自得だが、範頼には同情する
417 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 00:23:13
>>404 頼朝の周りは身分は低いけど、キレ者揃いだよ。
頼朝というカリスマを頂いた一大プロジェクトという感じだ。
阿野全成の立場は・・・
419 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 00:29:14
頼朝なんて平治の乱で死んでればよかったんだ
そうすれば、征夷大将軍源義経が平泉幕府を開いていたかもしれない
>>415 義朝は京生まれだが、恐らく10代前半頃に関東へ追いやられた。
だから当時においては、為義の嫡子とは言えない。
義平は相模の人だし事情もちょっと違うが、置かれた状況は父に似ている。
仮に義平が父のように拠点を都に移した場合は、状況も変わってきただろうけど。
421 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 00:44:06
>>415 嫡庶の違いが分かってない君は、
現代ッコ。
中世、それも平安後期の価値観が分かっちゃいない。
君が義平の訳ないね。
右兵衛権佐だぜ頼朝は。
この官職を得た時から嫡男決定だな。
また、もともと生母の身分が違うんだしね。
そう朝長も官職はある。
義平はないはず。確か。ハナから嫡男のコース外れている。
奥州藤原氏の国衡みたいなものかな?
422 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 00:51:59
>>420 確かに一理ある。
義平に襲撃されて死んだ義賢は為義のお気に入りだ(好き嫌いだけじゃなく諸事情あり)。
義賢には官職もある。
義朝にない。
義平と義朝のアナロジー成り立たなくはない。
423 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:00:57
424 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:04:03
武陽陰士とかいうのは ただの知ったか君か
つまらん
425 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 01:13:51
ただ義朝は摂関家及び院に接近し、
父為義とは別に独自の行動を取っている。
結果、下野守という抜群の地位(受領)に就いたんだが。
これで義朝は自他ともに認める河内源氏の嫡流といえる。
義平が頼朝を越え嫡流を名乗るには、父義朝とは別行動を取らなければだめだ(義平は父にべったりだ)。
義朝頼朝をも拮抗もしくは凌ぐ官職も得なくては頼朝の上にはいけない。
義朝は頼朝を嫡男としているのだから、
義朝の下にいては嫡男にはなれない。
ただ義平に自力で
京に人脈を形成あるいは維持できる能力とコネ(人脈と同じ意味だから同語反復!)があるものなのか?
まあいずれにせよ仮定の話なので、
この辺りで止しておこう。
426 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 01:19:46
>>423 周知の事実じゃない?
くだらない指摘はよせ。
推論だが嫡男決めは朝長と頼朝のレースさ。
まあ私は最初から頼朝だと思うが。
義朝は頼朝の母親を重視して大切してるからね。
使える連中なのだよ、頼朝の実母一族は。
頼朝の貴種性における熱田大宮司家の重要性なんて
遙か昔から言われてることを、何偉そうに今頃ほざいてんだw
428 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 01:41:24
>>423 >>424 お前ら(それとも一人か?)バカだね。
考えたら、そりゃ平治物語が出典だろ。
軍記物語なんか鵜呑みにすんなよ。
あの除目のくだりはね架空と思われる人名もでてくるんだよ。
義平の逸話は嘘とみたほうがいいよ。
ちなみに当該箇所は岩波文庫版だと25ページ7行目からだ(今手元にある)。
もっと勉強しろっ。
軍記物くらい読めよバカ野郎。
しかし笑えるな。
アホさに。
429 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:51:23
430 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 01:51:49
>>387 ほとんど史料としては使えない平治物語にしか記載が確認できない怪しい話を得々と書く。
このくだらなさが2ちゃんねるだな。
頼朝の右兵衛権佐は臨時だけど正式の除目だよ。
義平が信頼(信頼も過大評価されてるな。信頼単独で官職を意のままにできる訳がない)
の申し出を蹴ったなんてホラ話だよ。
くれるんなら義平ホイホイもらってるさ。
もうちっと中世史を勉強したまえ。
431 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 02:01:13
>>429 私は国文学は素人なんで最先端の知見ではどうなのか分からないが、
平治物語も保元物語も作者は同じという説が有力だよ。
為朝と義平のキャラ同じでしょ。
私も昔通読した時、ごっちゃになった。
まあいずれにせよ、軍記物語に依拠した書き込みをマジに論拠としている輩には笑わせられる。
ただ軍記物語には留保付きで使える部分もある。
太平記もそうなんだが。
432 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 02:08:04
>>429 いや混乱してないね。
保元平治とも「官職やるよ」のくだりはある。
ただ保元はともかく、
平治物語の義平のくだりは嘘話なのは明白だよ。
為朝のとき違って、
一時的に小康状態があって、
そんとき臨時の正式の除目があったんだから。
保元の乱の為朝んときは除目なんかする暇ないよ。
433 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 02:14:14
>>427 バーカ。
義平がナンタラカンタラ
なんて阿呆な書き込みが(おまえじゃねーか?)あるから、
ウゼーけど言わずもがなのこと
書いたんだろうが。
てめーもちっとはマトモなこと書け
434 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 02:21:31
>>423 >>424 しようもねーバカくん。
これからも「知ったか」の武陽陰士が啓蒙しにくるのでよろしく。
つまんないイイ加減な書き込みすると、
今夜のように間違い指摘して笑い者にするんでよろしく。
ああ眠い。
くだらない時間を過ごした。
435 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 02:42:43
>403
本も読めない文盲が紛れ込んでるね
氏ねや
436 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 04:51:51
お、バカが再登場かw
脳内嫡流バカ
437 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 05:08:39
頼朝を伊豆に流したのが清盛の失敗だった
四国や九州だったら 頼朝が蜂起しても失敗したに違いない
438 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 05:20:28
義朝の嫡男が頼朝であることは明らかだし、
清盛の嫡流は内大臣宗盛だろ
>>401 >>360 四人とも早い時期に挙兵していて、そのこと自体相当な覚悟と野心が無ければあり得んとはおもうけど、
「武家政権樹立」のような構想は勿論(頼朝にも初めからそのような明確なビジョンがあったかは別だが)
余りそれ以上の「野心」は感じられまへんな。
・光長は従来の在京摂津源氏らしく素直に後白河院に仕えたんだろう。義仲の法住寺襲撃時院方で討死。
(行綱も院方だったが摂津に逃げ伸びた)
・重隆も義仲クーデター後解官されてるから院に仕えてたっぽい。
・義経は近江で敗れた後頼朝に伺候してるが上洛時点では義仲旗下。その後も義仲に付いてたようだが不明。
・義定は義仲追討軍で再上洛してるんで領国に戻っちゃったんだろう(院の許しは必要だったとはおもうが)。
義仲からは離反してただろうけど、行家のように直接対抗したりはしなかったと。
>>387 平治の古態本は義平、義平って強調してるわけでもないんだけど、
それだけに除目の部分は内容も短いし、義平も出てこなかったと思う。
古典文学大系の平治(金刀比羅本)には、為朝の故実を例に出して断ってる場面も出てくるけど。
441 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 09:06:32
土佐に流された頼朝の同母弟、希義は蜂起に失敗して平家に討たれた。
頼朝の配流先が伊豆だったことは、幸運だったことになる。
442 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 10:57:49
443 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 11:36:08
もし義平が存命だったらとか、もし平家が滅亡しなければとか
架空の想像しても埒が明かない。
史実では、頼朝が生き残り源氏の棟梁となって平家を滅ぼした
そして武家政権を確立させたが、嫁の実家に乗っ取られ、
頼朝の子孫は滅びた
444 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 11:47:08
>>442 金刀比羅本は古態本とは別のものだよ。
知ったかぶりハケ〜ンw
445 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 11:55:01
武陽淫屍は やはり知ったのDQNだったか
446 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 12:28:09
金刀比羅本は古態だよ。
古態云々は流布本の古活字本である渡辺文庫本のことかな?
どうでもいいが古態本の名称あげて欲しいね。
447 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 12:32:50
ここで書いてる人たちはウィとかネット上で、
参照してたこと書き込みしてない?
ウィなんてゴミなんだから金輪際止めてよ。
ウィを見てるというだけで、
バカ認定決まりだから。
まあ2ちゃんねるなんて、そんなもんだな。
448 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 12:41:25
>>444 平治物語は大まかに流布本と異本の二つの系統がある。
金刀比羅本は異本系統じゃ古態なの。
お分かりかな?
ウィには載ってなかったのかな(笑)?
449 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 13:20:42
私が2ちゃんねるに書き込みしている理由の一つは、
ウィとかグルかネット上のエセ人文科学を潰したいからだよ。
まあアジビラだ。
450 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 13:37:38
451 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 14:10:53
>>450 バカ。
やなこった。テメーのようなヒマ人じゃね〜んだよ。
まあ古態の意味が分かってないな。
一種類じゃないんだよ。
452 :
武陽陰士:2007/07/07(土) 14:17:24
>>450 校正も校閲もないウィなんて信じるのはバカだよ。
ついでにいえばパクった知識を勝手に書いてやがるだろウィ。
>>439 義仲の行った解官だけど、右衛門尉源有綱の名もあるね。
(上洛後は大内裏守護を命じられてたらしい)
頼政の孫で都落ち後も義経に随伴してた伊豆有綱だとおもうけど、
どういう経緯で上洛してたんだろ。
安田義定の道案内でもしてた?。
454 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 16:07:37
>>451 おや?
ウィとかグルかネット上のエセ人文科学を潰したいんじゃなかったのかな?
ヒマが無いんじゃなくて、怖くてできないんじゃないのかな?
で、そんなに俺をバカバカ言うんなら、古態をふか〜〜〜く説明してもらおうか。
罵り合いはどうでもいいけど
古態とやらに興味があるので解説wktk
456 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:23:44
武陽陰士の読みはブヨウインシでOK?
それにしても イタイこてはんだな
457 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:30:39
頼朝の功績
それは、清和源氏の直系を断絶させたこと
為義とか義朝とかは 側室をたくさん持って子沢山で源氏繁栄の基盤を築いた筈だったが
義朝が親兄弟を大量に殺し、頼朝も兄弟を殺戮して源氏を衰退させた
肝心の頼朝は 馬鹿政子に頭が上がらず、2人しか男児を残せなかった
そして その2人とも陰謀により消されて直系断絶
459 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:33:26
×武陽陰士
○無用印紙
即刻改名せよ
460 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:38:35
頼家は 長生きすれば 子供を20人以上作りそうな勢いだったが
途中で時政に殺された
実朝は種なし
461 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:42:10
ホント無用因子ってウザイな。
そんなに現実に不満があるんだらうか?w
462 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:26:13
不用陰唇はキモイ
>>457 希義と範頼には、あやしげな子孫がいるけどね
464 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 00:12:43
義平と朝長の母親がともに遊女という話は
嫡子でありながら、京都育ちで関東との関係が弱いことに引け目を感じていた
頼朝が二人を貶めるために作った、とここにも書いてみる。
鎌倉殿となった場合の義平にとって頼朝は京都にいて朝廷との橋渡しをする
貴重な味方となったと思うのだが。(でも平治の乱の後で生き残れるわけ無いな。)
465 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 00:15:22
都落ちのあと義平が京に討ち入らずに
関東に下って挙兵していればなぁ
多分関東武士も結構見方になってくれそう
>>463 義円もね。
>>453 有綱は前年に頼朝の命で土佐へ出兵してたので四国に留まってて上洛した
なんてコトは無いわな。
で、この土佐出兵ってのがよくワカラン。
頼朝も同母弟希義の死はいたく悲しんで大軍を差し向けたっていうんだが
戦略的重要性は無さそうだし、大飢饉で戦線は膠着してたが平家方優勢の
西国土佐まで有綱の軍勢はどうやって行ったのか。
467 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 07:40:18
義平や朝長が貴族の令嬢を母としていたのなら、
隠す必要もないと思うのだが。記録に残るし。
この時代の貴族の日記にすら母の出自がかかれていないのならば、
やはり卑母であった可能性は高い。
義経ら3兄弟の母常盤は庶民の娘であったらしいし、
(近衛妃藤原呈子に仕えた雑仕女(=炊事や掃除をする下級女))
かなり身分の低い女性とも交渉があったようだから。
それに比べると、頼朝らの母は出自が明らか。
>>467 院近臣でもある熱田大宮司家が母の頼朝と、関東武士の娘が母の朝長・義平の差だろ。
469 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:11:01
平治の乱の敗戦後、義平は飛騨の軍勢を集めて戦に備えていたが
義朝が死んだことが伝わると集まった兵は逃げ去ってしまったらしい
その後に義平は単独で京に潜伏して清盛暗殺を狙って捕まった
義平単独では 兵を動かすことは無理だった証拠
470 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:47:41
平治の乱で負けて逃亡する時、義朝は何故熱田神宮に行かず
長田のところへ行ったんだろうか
熱田神宮よりは長田のほうが信頼できると思ったんだろうか?
471 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 11:19:14
歴史書は勝ち残った頼朝に都合がいいように事実を改竄している可能性大
もし頼朝が石橋山で逝ってれば
「蛭ヶ小島頼朝wは 平家に反乱を起こしましたが失敗しました」
と教科書に一行だけ載ったに違いない
472 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 12:42:51
矛先はずれるけど側室腹の平重盛と正室腹の平宗盛、重盛長生きしていたら重盛系が
嫡流じゃないか?
義平と頼朝も双方健在ならどっちが嫡流になるのかは数十年経たないと
わからないべ?
義仲が天下を取っていたら義仲系が清和源氏嫡流に取って代わった筈だしね。
473 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:59:28
>472
平重盛は正室腹の嫡男だが?
平宗盛が嫡流になったことは一度もない。
清盛が重盛を後継者としたのは事実だが、重盛の母・高階基章の女が正室というのは
どうかな。高階基章は生没年未詳、摂関家の家司をつとめて右近将監になるのが
やっとの下級官人に過ぎない。鳥羽法皇の判官代として信西と並んで院庁の実務を
担当した能吏・平時信の方が明らかに格上。
>>474 重盛母の存命中は、時子はまだ清盛と結婚していない。
重盛母高階文章女は、時子と結婚していなかった頃の清盛の正室であり、
長男重盛は清盛の正室腹の嫡男であった。
重盛と宗盛には年齢差もあり、嫡男であった重盛を、
後妻に入った時子の子が追い越すのは不可能だっただろう。
時子は重盛が嫡男であることをわかっていて後妻に入ったのだろうと思う。
ちなみに、平時子の生母は、相当身分の低い女性であったらしい。
後白河に寵愛された建春門院とは異母。
476 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:10:34
重盛の母が正室だった証拠はあるんかい?
時子が正室になる前の妻だからって 正室だったとは限らない
正室をもらう前に 他の女に子供をバンバンw生ませた有名人だって
たくさんいる。伊達政宗とか豊臣秀頼とか
477 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:14:55
>>475 >重盛母の存命中は、時子はまだ清盛と結婚していない。
重盛の母の死亡年月日と 清盛と時子の結婚年月日が分かっての書き込みだよね
まさか、脳内でつくったお話とかではないよね
>>474 もう一点。
平氏と高階氏の結びつきの強さについて。
平氏と高階氏はいずれも院政期に院近臣として活躍、
清盛と基章女に限らず、婚姻関係を通じて近い位置にあった。
後白河法皇妃建春門院平滋子(平時子の異母妹)の乳母である若狭局は
平正盛の息女であるといわれ、法印澄雲(高階氏)
との間に丹後局(高階栄子)と建春門院女房となるその姉を儲けたといわれる。
のちに後白河寵女となる高階栄子(丹後局)は最初、
後白河近臣平業房(平清盛と父同士がまた従兄弟)の妻だった。
突いて良好
突かれて良好
バンバン藤原頼長
480 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:31:49
平重盛は平清盛の長男であり、清盛が嫡男として認めたが
清盛よりも先に死んだ
平時子は平清盛の正妻であり、平宗盛、建礼門院徳子の母であるが、重盛の母ではない
平清盛死後は、平宗盛が平家の惣領となった
はっきりしている史実は これだけ
481 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:42:42
源氏関係では
源義平は源義朝の長男であるが正妻の子ではない
源義朝は叔父の源義賢を父の命令で殺した
源頼朝は源義朝の正妻の子供であるが長男ではない
平治の乱で 源頼朝の父と二人の兄は死んだが、頼朝は生き延びた
源頼朝は 平治の乱最中の除目で右兵衛権佐(従五位上相当)に任官された
源頼朝は蜂起後、源氏の嫡男として振る舞った
これが史実
482 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:05:32
>>481 >源義朝は叔父の源義賢を父の命令で殺した
そうだっけ?
>>481 ×源義朝は叔父の源義賢を父の命令で殺した
○源義平は叔父の源義賢を父の命令で殺した
485 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:58:40
平重盛の母が清盛の正室だと言ってた香具師は逃げたのか?
486 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:14:43
徳川将軍家を見てみなさい
将軍正妻の子供で将軍になったのなんて、家光くらいだ
もっとも、正妻が男児に恵まれなかったせいだろうけど
487 :
武陽陰士:2007/07/08(日) 23:15:19
>>456>>459>>461>>462 ほっといてくんない?
批判されて苛ついてんのは分かるけどさー。
ネット上で知識を切り貼りしている奴、嫌いなんだよ。
周囲に生身のそういうバカいっぱいいてさ。
私も苛ついてる。
うん確かにうっぷん溜まってるな、
人文科学をネットですませる脳がカラッボ野郎のせいでね。
ま、君らがそうだな。
ウィとかグーグルで勉強するパーなんだから。
救えない。
もっと本を通読したまえ。
そして血肉となった知見を披露したまえ。
どうせどいつもこいつも保元物語平治物語も通読しちゃいないんだろ?
読まないで語るな。
書物とか学問に対する畏怖がないよ。
ていう感じで、これからも手すきのとき罵倒まじりの啓蒙をするからヨロシク(^_^)v
488 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:19:04
>>487 重盛の母が清盛の正室だったという史実はあるのかどうか
教えてくだされ
489 :
武陽陰士:2007/07/08(日) 23:29:00
>>454 君ははやっぱりバカだ。
残念ながら学問とは無縁の奴だということがわかる。
ネット上にあった国文学資料館の奴だと、金刀羅本は古態じゃないような書かれ方だ。
それはある意味正しいがある意味違う。
君は暇人のバカだから独立行政法人の研究者が言えば鵜呑みにするだろう。
しかし金刀比羅本を古態とする学説がある。
高橋貞一氏などがそうだ。
私は平家物語の覚一本の重要性を認識する者として高橋氏の説の支持者だ。
学説が一つネット上にあればホイホイ丸飲み。
自分で批判検証もできねー。ダミダコリャ。
岩波文庫をソースに出すような奴が偉そうにw
491 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 00:00:26
>>490 ウルセー書き込みで、手元にあるの岩波文庫板これだけったと断ったろ。てめーはどうせネットだけだろ?
何もないくせに黙れ。
それと岩波文庫にも底本として使えるイイのもあるぞ。
ハンパなクダラナイ茶々いれるな。
492 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:00:42
>>487 ちょっとちょっとwファビョるのにも程があるぞえw
もう少し落ち着きなさいってばw
493 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:01:45
>>491 >ウルセー書き込みで、手元にあるの岩波文庫板これだけったと断ったろ
たった一つのソースで、他人の考えは罵倒するんだ。
キミ、本当に大丈夫か?
494 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 00:04:04
↑今の書き込み、てにをはが変だった。
まあいいか。
私が書き込みするときは、ちゃんと留保なり断りなりをつけて言質取られないようにしてる。
ちゃんと読め、バカが。
496 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:05:46
>>489 >君は暇人のバカだから独立行政法人の研究者が言えば鵜呑みにするだろう。
ちょっと変えてみよう。
君は暇人のバカだからが手元にある岩波文庫板がそう書いていれば鵜呑みにするだろう。
・・・・・・・・・・・・
>しかし金刀比羅本を古態とする学説がある。
学説の一つを鵜呑みにして、それを他人に押し付けるのかい?
何度も言うけど、精神年齢が未熟すぎて見てらんないな。
>学説が一つネット上にあればホイホイ丸飲み。
学説が一つ自分の好きな本に書いてればホイホイ丸呑み。
鏡を一度よーーーく見てみよう。
497 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:06:39
>>495 何だか相手するのが面倒になってきた。
無視ですかね?
499 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 00:09:26
>>493 お前バカか?
ソースは一冊だけじゃない。
平治とか保元とかのテキスト周辺について関連本はけっこう読んでいる。
ただダイブ昔のことで、
今手元にあるのは文庫だけということさ。
だから正確には記憶で書いてる。
我ながらよく書いてると自惚れてるよ。
500 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:11:07
>>499 >ただダイブ昔のことで、
そんなあやふやなものでよく正しいと言いきれるね。
ホント呆れるよ。
>我ながらよく書いてると自惚れてるよ。
キミは自信過剰にも程がある。
一度自分を客観的に見てご覧?
現実世界での自分をね。
501 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:12:50
>>498 無知の知を知らない子供だからね・・・
まあ嵐っちゃあ嵐ですなw
502 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 00:13:33
平家物語の古態についての諸研究について調べろ!
私が平治の古態について高橋貞一氏の説を支持する理由が分かる。
あああとネットで調べるの止せ。
底が浅いクダラネー茶々入れられたくねーんだよ。
とにかく本読め、ネクラ野郎!
503 :
490:2007/07/09(月) 00:14:34
>>491 岩波大系、小学館全集、新潮集成、日本古典全書、その他いろいろな版
持ってるけど、岩波文庫は持ってないなあw
あんなもん一般読書人のためのものであって、論文執筆には役にたたん。
504 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:15:46
>>502 >平家物語の古態についての諸研究について調べろ!
何でキミの言うこと聞かなきゃならないのかなw
>私が平治の古態について高橋貞一氏の説を支持する理由が分かる。
理由を説明してみてよ。
頭が良いんだろう?w
>とにかく本読め、ネクラ野郎!
現実でもそういう態度なのかw
そりゃハブられるわなw
>>503 岩波大系・新大系の解説は反金刀本ですな。
506 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:18:44
>>503 次は「お前本当は読んでねーんだろ!」とか「岩波文庫は正しいんだよ!」
みたいな決め付けや押し付けが来る悪寒・・・・
507 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 00:21:38
>>496 私は中世文学素人だが、プリントアウトして研究者んとこもってけ!
アヤフヤといったが自信のあることだけ書いてる。
テメー学説ってのをネットで切り貼りするのと同んなじに考えるな。
だからマチガイばっか書くんだよ。
学問は血と肉なんだ。
しょうもねー学説はゲロがでるまで叩くんだよ。
テメーみたいなネクラ野がガタガタぬかすんじゃねー
ケッ
つまんねーガセばっか書きやがって。
508 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:25:07
>>507 >私は中世文学素人だが
専門の人間で無い癖に、他人に持説を押し付けるのかい?
ガキにも程がある。
>学問は血と肉なんだ。
キミの血と肉は随分薄そうだね。
>しょうもねー学説はゲロがでるまで叩くんだよ。
しょうもねー持説しか出さずにゲロが出るまで妄想か。
ご苦労なことで・・・
509 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:25:36
不用隠屍って中学の社会科教師あたり?
それとも高校の日本史教師とか
510 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:26:56
>>509 こんな精神年齢が低いヤツが教師とは考えたくもないですな。
リア中かと・・・・
511 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 00:28:48
>>495(苦笑)
確かに。
まあ罵倒いっぱいしましたが、
あんまし気にしないで下さい。
この掲示板が、賑やかになってくれれば
それにこしたことはありません。
もう眠いので寝ます。
また一、二週間後にお逢いしましょう。
グッドラック!
できれば来ないで欲しいんだが‥‥
513 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:37:48
514 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:49:54
//l// -−―‐- .
/ | ┼ __|___ / ´。゚。°/ ̄ ̄ヽ 丶
\ l d‐ | / / ∠_`i ″ // ̄`ヽ 」 ヽ.
. | 7_ , ' ニミi」{{∠∠ニ二 _ |i |i '.
_l,. ┐┼┴、 __ . / / . - _ .. -―- 、 `ヽ |l lj i
. /| l/ | ‐' / . / /´_ -‐''´ __ ヽ lj - 、!
/ \ / //´ _ -‐''´ .:.:.:. `ヽ,__| / , -、丶
| / ├─ i-<⌒丶 / { ー〈 :.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:__',___| /⌒ヾ|
| \ .. |__ |/`ヽ.__〉 i |\-\ .:. , ― 、.:./:::::::ー| |i ├- 、 | |
| _、__ __. > ,ハ ! ', :.:`ー'.:./.::::::::::し'.::::::::::::::| lj ) }ノ |
| -ゝ- .| | { / 〉 ', ', :.:.:.:.:.:.{:::::::::::::::::__:::::::::} r‐、_ノ ,′
| (´__ . |__| ゝ /} ', , :.:/⌒i, 一ァ'´ /⌒/ ヽ.___/
_ ‐一ァ { , ′ ′ V⌒l/ ′ /⌒ ′ /
) / //// ゝ / ヽ \ `ー―一´ / /
´ {_ ・・・・ {‐'´ ,. -―: 、 \` ̄ ̄ ̄ ̄ ! /:
//// \-‐ァ'.:.:.:.:.:.:. .:.\_ 丶、 __ '´ ヽ/ン'´/.:
・・・・ __V.:.:.:.:.:.:.:.:. .:./: : : \_/ / //.: .:. .:. .:.
|.:.:.:.:./.:.:/.:.:.:.:.:./ : / ̄ ̄| ∠ -‐ァ'´.: .: .: .:. .:. .:. .:.
/\!.:.:.:〈.:.:/.:.:.:.:.:.:. :. :.〈 ̄ ̄ ̄丶__/ /.: .: .: .: .:. .:. .:. .:. .:.
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515 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 01:21:50
広常は関東の独立を主張していた。確かに頼朝の
京都かぶれは否定できないが、京都の官僚
を連れてくるなど功績も大きい。義平が鎌倉殿なら
両者の主張を折衷したような独立国を建国できたか?
できへん、できへん。奴は京都の要素ゼロ。
頼朝だから折衷策をとれた。後年、京都的要素に傾いたのが惜しまれるが。
しかし、それは北条によって修正された。
517 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 07:57:45
もともと義朝自体が 義平のような存在から成り上がった
為義も義朝に家督を譲ったのは不本意で、機会があれば義朝を廃嫡して
他の子供に家督を譲ることを狙っていたに違いない
義平、頼朝とも存命だったら、家督争いが勃発して、義平が実力で勝っただろう
もしくは、頼朝が後の義経のような、義平の家来になって生き延びるかだ
違いない
だろう
519 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 15:38:27
義朝は 頼朝のほうを後継者にしたかったんだろうか?
平和な時代で朝廷での工作が中心なら頼朝でもよかったが、
戦では頼朝は役に立たない
520 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 16:05:45
頼朝は弟たちに平氏を討たせて動かなかったが、
だからといって戦闘ができなかったという証拠にはならない。
むしろ、嫡男なれば命を危険に晒すことなく、生き残ることを第一に考えたためかも。
父義朝の頃は、まさか武士が政権を取れるなどとは思っていなかっただろうし。
頼朝が戦闘能力皆無、能無しだったのならば、
義経追討の指揮はとれず、坂東武士も従わなかっただろう。
521 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 21:56:19
頼朝が直接義経追討を指揮したわけではない
取り巻き連中が仕切ったんだろ
本来なら その取り巻き連中は 義平の家来になっている筈だった
522 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 22:05:25
平治の乱で源義平は平重盛に
「嫡男どうしで勝負だ」
と言って右近の橘、左近の桜のまわりで重盛を追い回した
義平は自分が嫡男という自負を持っていた証拠
もし義朝が義平でなく頼朝を後継者にしようとしても 義平は納得しなかった筈
強引に頼朝をたてれば、義朝も頼朝も義平に討たれていた可能性が高い
523 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 23:17:45
>>503>>512 ここは国史の掲示板だ。
国文学の板じゃない。
>>503、お前の論文というのは中学生の自由研究か?
お前の挙げた本は岩波文庫と同格だ。
国文の院生レベル以上のダチはいないのか?
老婆心から教えてやろう。
専門にやるにはテキストお前の好きな多数派の「古態」だったら、『学習院本』と『陽明文庫本』の翻刻なり影印本をひもとけ!
お前の列挙した本では論文は書けない。
あと関連論文も読むことだ。
それと読んでもない本の書名をネットでひっぱって挙げるのはよせ。
ちゃんと読んでからいえ。
私が「国文学は専門じゃない」と
言うのは専門家に対する畏怖があるからだ。
専門家に読まれたときのことを
想定しているのだ。
君らのようにネット上で引いてきた事柄を「知ったか」で
得々と書き込むのは厚顔無恥だ。
511 名前:武陽陰士[] 投稿日:2007/07/09(月) 00:28:48
また一、二週間後にお逢いしましょう。
グッドラック!
525 :
武陽陰士:2007/07/09(月) 23:48:30
この板、嫡子のことで論争かまびすしい。
ところで「嫡庶なんて関係ない、実力さえあればいいんだ」
って感じの書き込みがある。
平安後期末期のこの時代にそんなことはない。
関東武士だって嫡庶が厳然と存在する。
それが崩れるのが鎌倉後期だが、まあここでは関係ない。
義仲も頼朝に嫡庶のことでゴリ押しされ義高(上横手先生の話だ)を人質に差しだし、
朝廷に対しても嫡庶の序列を言い立てて
義仲を代官扱いにしてしまっている。
確かに庶流からのし上がった甲斐源氏安田義定のような男もいるにはいるが…。
いずれにせよ当時は一種のカースト時代。
応仁の乱以降のメンタリティを平安後期末期の人々の内面に
見てしまうのは愚劣だ。
526 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 23:48:41
>>523 おかえり〜w早かったね。
>ここは国史の掲示板だ。国文学の板じゃない。
お前の持ち出した岩波文庫もそうじゃないのか?
>お前の論文というのは中学生の自由研究か?
お前の挙げた本は岩波文庫と同格だ。
お前論理的に反論できないからって、他人のソースをバカにするなって。
>お前の列挙した本では論文は書けない。
あと関連論文も読むことだ。
岩波文庫しか呼んだことないやつが偉そうにw
>私が「国文学は専門じゃない」と
言うのは専門家に対する畏怖があるからだ。
その割には、他人に対する敬意が無いな。
>君らのようにネット上で引いてきた事柄を「知ったか」で
得々と書き込むのは厚顔無恥だ。
そっくりそのままお前に返す。
527 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 23:58:38
おい1、2週どころか1日もたたないうちに復帰かよ、不用印紙
能書きたれてるだけじゃ つまんねえんぞ
528 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:01:40
529 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 00:05:18
>>526 お前バカか?
岩波しか読んでないでいいんだよ。
モノによっては研究者だって岩波を底本に選ぶ。ついでに言えば『太平記』は角川文庫がいい(校訂者が死んで中途なのが残念だが)
文庫だとダメだと思ってるトウシロウのお前が
論文云々なんて
口はばったいこというな。
テメーはなんも読んでないんだな。
バレバレだぞ。
しつこいがプリントアウトして研究者(国史国文両方だ)んとこいけ。
あと、どうでもいいが私がここに書き込むことで、
ネットから引いたものはタダの一字もない。
私はネットをこの世から無くしたいと考えている人間だ。
2ちゃんねるに片っ端から書き込み
しているのもそのためだ。
もちろんネットがなくなるなんてことはありえない。
トウロウのオノだ。
とにかくウィもグーグルも大嫌いだ。
私の書くもの私の人生の片鱗だ。
命掛けた読書の賜物だ。
530 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:06:14
不用印紙って偉そうにしてるけど、当然文学博士くらい持ってるんだろうな
>命掛けた読書
まじでアホか 氏んでいいぞ
>>529 >岩波しか読んでないでいいんだよ。
えっ?
533 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:12:30
ハハハ、不用印紙は小学校の国語からやり直せw
534 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 00:23:31
>>527 気が変わった。
ていうか、今日仕事中にこの掲示板のことが邪念となって気が散ったから。
では能書き書くぜ。
重盛は嫡子。重盛が死んで宗盛が嫡子となった。
官職の進み具合を見ると、重盛も宗盛もほとんど同じ。
年齢の若い分、宗盛の昇進は遅れたが、年齢比でいったら
宗盛のほうが早い。
もしあのまま平家が安泰だったら
宗盛系が嫡流ということで決まったろう。
皇統の係累である宗盛の未来は明るかった訳だ。ついでに言えば清盛の母は正妻とはいえないだろう。
継母の池禅尼がある意味正妻だ
(彼女の息子の頼盛の昇進は兄である清盛の弟たちより早い)。
だが清盛は白河ご落胤(真偽は定かでないが、当時そういう噂があったのは事実)
という生い立ちから太政大臣に昇進しても
反感は買わなかった。
母系の血、父系の血それぞれ重要視されて
いた事実に思いを致すべきだろう。
535 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:27:28
>>529 >モノによっては研究者だって岩波を底本に選ぶ。
じゃあ、モノによっては
>>503の出した文献も研究者は底本に選ぶんだな?
>お前の挙げた本は岩波文庫と同格だ。
↑こう言ってるもんね。
>あと、どうでもいいが私がここに書き込むことで、
ネットから引いたものはタダの一字もない。
岩波文庫から一生懸命引っ張ってきたモノですかw
>私はネットをこの世から無くしたいと考えている人間だ。
お前の主義主張を貫くと、世の中には甚大な被害が起こる。
お前中心に世界が回ってるんじゃないんだぞ?
536 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:31:09
>2ちゃんねるに片っ端から書き込み
しているのもそのためだ。
ス ゴ イ 迷 惑 だ よ 。 ソ レ
>気が変わった。
ていうか、今日仕事中にこの掲示板のことが邪念となって気が散ったから。
本当に・・・・本当に精神的に幼稚だな。
結局は、自分が否定されたことに腹を立ててここに来たんだろ?
自分を客観的に見てみろ。
537 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 00:38:58
>>457 伊東の娘との間に出来て殺されちゃった息子はまあ置いとくとして
頼朝には貞暁という妾腹の息子がいる。
実朝暗殺の後も存命。
ちなみに政子が画策した貞暁に対する将軍職継承を
断るために貞暁は自ら片目を抉った。
てな記録(怪しい)もある。
538 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:00:49
>>536 ははははは
お前バカだな。
引用するだけなら岩波文庫からする奴
史学プロパーの研究者じゃ普通だよ。
パーのお前は文庫じゃなけりゃいいと
バカみたく書名を列挙したが
岩波の大系なんか(新じゃない奴)
酷いんで有名なんだぞ。高市ナニガシって知ってるか?
こいつの専横で玉石混交。
ていっても分かんないよね。
ウヒャー(笑)お前文庫から引用しなきゃりゃ専門家だと
おもってんだあ(笑)
岩波文庫の『神皇正統記』なんか
よく底本にして引用されるよ。
しかし文庫だとダメってのはやっぱりバカ。
平治の論文作るのは軍記物中世文学の専門家だ。だけど大系じゃダメなんだよ。
パーのお前は国文の専門家のつもりでいったんだろ(しかし国史の板だぜここは。騙る(語る)に落ちたな。まあこれからは気取るな)?
なにが論文だよ(笑)
パーのためにちゃんと挙げてやったんだ。
ありがたく思え。
あとさ私書き込みしないときは一月以上しないよ。
イラつくよー
539 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:07:54
>>536 論文書けたかい?
(笑)
また来るぜ。
お前のパーなとこ指摘するんでヨロシク。
悔しかったら本読め。
太平記は角川版がオススメだ。
お前の好きな(笑)大系よりかいいぞ。
モノホンの研究者んとこ行ってこいバカ殿。
せいぜい怒れよ。
まああんまし学問的にマチガイはないんで
安心してくれ
ロムっているギャラリーの貴方。
しかし眠いな。
寝よ。
540 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:08:07
>>538 >引用するだけなら岩波文庫からする奴
史学プロパーの研究者
で、結局お前は何なんだ?
>パーのお前は文庫じゃなけりゃいいと
バカみたく書名を列挙したが
誰もそんな事言ってないし、様々な文献を提示したのも俺ではない。
決め付けやめてくれる?現実世界でもそうなの?
>岩波の大系なんか(新じゃない奴)酷いんで有名なんだぞ。
そんな酷いヤツをソースにしてるお前は何?
にしても、本当に朝鮮人みたいなヤツだな。遺伝子って恐ろしいねえ・・
541 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:10:53
>パーのお前は文庫じゃなけりゃいいと
>ていっても分かんないよね。
>ウヒャー(笑)お前文庫から引用しなきゃりゃ専門家だと
おもってんだあ(笑)
>しかし文庫だとダメってのはやっぱりバカ。
>パーのお前は国文の専門家のつもりでいったんだろ
>なにが論文だよ(笑)
自分で相手を設定してここまで妄想できるって、ある意味才能だな。
殺生と信仰 五味文彦
参考文献
平治物語 岩波 日本古典文学大系
平治物語 岩波 日本古典文学新大系
543 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:15:10
>>540 出たなチョウセンなんたら言説。
ネット右翼!
君の階層が特定できたよ(笑)
バーカ。
大系なんかソース(2ちゃんねるの奴らなんで出典っていわないんだ?)
にしてないさ。
読みもしないで書名あげるなよ。
平治なんかよんでねーだろ。
これからもつまんねーこと書くと小馬鹿に
すんぞパーくん
544 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:24:58
>>540 お前楽でいいよ。
ヒマだし。
チョウセンがなんたらって韓国朝鮮中国他外人なんて
社会にはいっぱいいるぞ。
私の友達にもいっぱいいるぜ。
お前のように何もしないでネットばっかやって
ネット右翼やれんのがうらやましい。
現実はお前のチョウセンなんたらじゃすまない。
ちゃんとお仕事していろんな人とつき合った方がいいよ。
外人なんかとつきあえないんじゃダメだよ。
それとも怖いのかな?(笑)
ああ面倒くさい。
とにかく忙しい。
お前と喧嘩すんのは不毛だが
ネット右翼だから潰すのも一興だ
545 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:26:04
>>543 >しかし眠いな。
寝よ。
これはどうしたwww
で、古態本について説明しておくれよ。
546 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:28:47
>>541 どうも勘違いしてないか?
お前が誰でもいいんだよ。
くだらないマチガイいってんだから前の奴と同じだろ
やだったらハンドルネーム使えよ。
しかし寝れなくなった。まずい
547 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:29:40
>私の友達にもいっぱいいるぜ。
やっぱり朝鮮人か。
生活保護もらってのうのうと生きれて良いねえ・・・
>ちゃんとお仕事していろんな人とつき合った方がいいよ。
四六時中ここに品性の無い書き込みをしてるお前に言われてもなあ・・
>外人なんかとつきあえないんじゃダメだよ。
朝鮮人とですかww
>ああ面倒くさい。 とにかく忙しい
面倒くさくて忙しいのにいちいち書き込みしてくる矛盾・・・
やっぱ口先だけの知ったか朝鮮人か。
548 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:30:41
どうせネット右翼レベルの奴が
誰でもいいさ。
バカにするだけだよ。
ウゾームゾーのお前の自意識なんか知るか
549 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:31:33
>>546 >お前が誰でもいいんだよ。
現実社会のストレスを発散できるなら誰でも良いと。
お前本当に部屋出てみたら?
>やだったらハンドルネーム使えよ。
しかし寝れなくなった。まずい
何でお前の言うことを聞かねばならない?
文脈も読めないようではねえ・・・
550 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:34:21
>>548 過剰な自意識の例
>私の書くもの私の人生の片鱗だ。命掛けた読書の賜物だ。
文献をやたらめったら引用するだけで、自分の考えなんか持っちゃいない。
命かけた読書?私の人生の片鱗?
知ったかの品性の無い書き込みがお前の「人生の片鱗」か。
ムダな人生送ってるな。
551 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:42:50
>>547 お前はレイシストか?
白人もいるよ。
ネット右翼を叩くのは宿願でね。
まあ朝鮮でもいいよ。
生粋の日本人だが私は別に何人でもいい。構わない。
でも、お前さ本当そういうネット右翼的言説やめたほうがいい
社会学者が分析するとお前の階層わかっちゃうよ。
ドイツでいえばネオナチに行く階層ね。
ま、私のこの攻撃性は多忙のせいもあるな。
地獄の忙しさなんだよマジで。
2ちゃんでテメーみたいなルサンチマンたらたらのヒマ人ネット右翼を潰すのはいいな。
どうせ学問なんか嫌いだろ。
お前の自意識なんかゴミだよ。
ゲロ箱みたいに空っぽ。
お前はヒマ人のネット右翼で日本人というのが
最後の拠り所なんだろ?ハハハハハハ
カワイソーに(苦笑)
552 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 01:46:37
ああ明日キツいな。
お前がネット右翼レベルじゃ罵倒相手にしかならんわ
もうちっと見識上げてこい。
あと五味氏のホンを挙げるな。
殺生じゃないが汚れる。
553 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:47:32
>>551 >ネット右翼を叩くのは宿願でね。
で、いつもアっというまにボロクソに負けるわけか。
>でも、お前さ本当そういうネット右翼的言説やめたほうがいい
社会学者が分析するとお前の階層わかっちゃうよ。
何でもかんでも自分の妄想通りに決め付けるな。
まあそこが朝鮮人らしいと言えばそうなるが。
>ま、私のこの攻撃性は多忙のせいもあるな。
地獄の忙しさなんだよマジで。
なるほど、自宅警備で忙しいと。
大変だね。
>お前の自意識なんかゴミだよ。
ゲロ箱みたいに空っぽ。
お前はヒマ人のネット右翼で日本人というのが
最後の拠り所なんだろ?ハハハハハハ
カワイソーに(苦笑)
他人を罵倒する際には、自らの負い目が現れると言うが、本当らしいな。
554 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 01:49:02
>>552 >お前がネット右翼レベルじゃ罵倒相手にしかならんわ
そのネット右翼レベルに反論できないお前の知的レベルもたかが知れるな。
>もうちっと見識上げてこい。
見識上げるために、古態本を具体的に教えてくださいw
555 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 02:00:20
学問やるには謙虚と傲慢が必須と
師匠に言われたんでな。
パーには傲慢だったよ師匠。
「バカにバカといって何が悪い!」
ってね。私、愛弟子だから。言動似ちゃったかな?
ま過剰な自意識云々は誉め言葉だな。
いろんなことやって頭最近混乱、
仕事おおいそがしの最近でな。
お前みたいな、知識人がよく論じるところのネット右翼
と罵倒合戦は気分転換に最適だよ。
私、仲の良いお友達にお前みたいなネット右翼と喧嘩したって自慢してんの(微笑)
もちろん今夜の合戦もおはなしするよ。
けっこー2ちゃん言説って知り合いの間ではよく話題になるんだな。
ちなみに私の友達はみんな2ちゃんねる嫌いだけどね。
お前の友達はどう?
ああごめん。いないよね。
さてマジで寝るとするか。
556 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 03:34:46
どうでもいいけどスレ違いな話は他でやれや童貞ども
だいたい1の問題設定がそもそも‥‥
十分評価されてるよ、頼朝は。
昨夜は不用印紙が 必死で書き込みしてたのか
ところで 重盛の母が正妻かどうかの情報はないのか
559 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 09:11:35
>558
高階基章女を母とする平重盛や基盛が生まれた1137−1139年、
清盛はまだそれほどの官位ではなく、基章女が正室であってもおかしくはない。
一方、時子腹の第一子宗盛が生まれたのは1147年、
時子が数え年20歳のときのことであり、
これより少し前、時子は17〜19歳ぐらいで清盛と結婚したと考えるのが妥当。
重盛や基盛が誕生したとき、時子はまだ幼く、清盛と結婚はしていなかったと見られる。
清盛の嫡男として活躍した重盛に、生母との交流の記録が一切なく、
重盛の外戚である高階氏一族が歴史の表舞台に登場しないことなどから、
重盛生母は正室だったが、重盛が幼い頃になくなった、
それは時子が清盛と結婚する前だった、と考えることは妥当だと思うが。
560 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 13:42:46
なんだ、脳内想像だけかい
重盛の母が正室だった証拠はないんだろ
上のほうで、正室、正室と粘着してたのは、ただの阿呆か
561 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:10:17
平清盛の妻で重盛の母だった女は、時子が正妻として嫁いできた時に
権力争いに負けて逃亡した
そして重盛には、母は死んだと告げられていた
これだって有り得ない話ではない
562 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:22:16
清盛が20代後半まで正室を娶らなかったというのも不思議だがな。
そんなに堂上平氏からの正室を熱望していたのならば、
時子でなくとも、ほかの女性と結婚すればよかったのに。
563 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:33:22
いや、時子とは1135年頃には既に結婚していて、子供ができたのが
時子が20才の時だった
というのも、否定できない
564 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:35:47
高階娘が死んでから時子が嫁いできたとか
高階娘が正妻だったとかいうのは 空想にすぎない
565 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:36:23
>563
仮にそうだったとしたら、
重盛はまだ幼く、能力などわからない、
重盛を嫡男扱いする必要などなかった。
それに、時子は最初は庶子にすぎなかった重盛が、
途中で自分の生んだ子を差し置いて嫡男になったりしたら、
相当もめたと思うが。
566 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:37:56
時子の結婚時、重盛母高階氏が生きていたことを
証明したら?
そうすれば、高階氏が側室だといえる。
567 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:45:50
清盛は重盛を自分自身の過去に重ねて、嫡男としたんだろう
素性の分からない母から生まれて嫡男となった清盛だからこそ
母の身分なんか問題にせず、長男で見込みがある重盛を後継者にした
568 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:48:00
>567
それも、妄想。
史料を出そう。
569 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 18:52:46
ここは妄想を競うスレだな
570 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:27:06
>>555 うっわ・・・・
あの後まだやってたんだ。
ヒマだねえ・・・・
571 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 22:44:48
これから毎日、自分自身の勉強の整理の為にも書くことにした。
ちなみに私が四日続けて2ちゃんねるに書き込むのは初めてだ(三日連続が最高)。
最近ここで正妻と嫡男について議論がかまびすしい。
これは調べれば論文が書けるくらいディープな問題だ。
はっきりいって正妻の問題は婚姻史を専門とした人が論じるのが妥当なくらい、調べれば奥深い。
この板では戦国江戸の正妻を事例として出してきた人間がいるが、
平安後期のそれと一緒にするのは大いに問題あり。
高群女史の婚姻史研究は古びてしまったとはいえ、
招婿婚が廃れてなかったこの時代の婚姻を
室町以降の婚姻イメージで捉えてしまったら間違いだろう。
もとよりこの問題は私の手に余る。
いや、そもそも2ちゃんねる向けではないだろう。
572 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:46:58
開幕から右に左に打ちまくり、 打線を引っ張っていた矢野が (12日)、左足小指付け根付近に痛みを訴えて東京都内 の病院で検査 を受けたところ、「左足第5中足骨の疲労骨折」と診断されたそうです
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| ガンッ!! | |
| ,l ヽ
| / /
| 从/ / |
| _.,/ , / lノ
|_ //__' , i
/ (_(_`/- ,_, ノ
/ ゝ( 丿
っっっっっっっつっっっっはああああいいいいい!!!
これまたこれまた!!きてるきてるあいいいいあああ〜〜〜!
ああああ〜〜〜〜〜〜ユートピア!!!!ああぁ〜〜〜〜ユートピア!!!
なるほどなるほどなるほど!!ああぁ〜〜〜〜〜なるほどなるほど!
あああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜これはどうも!!ああ〜〜〜いやこれはまたどうも!!
ぶっべっらっぽっぷっしっぴっぱっぴっぷっぺっぽっっっっをををおおおおおおをををを!?!?
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573 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/10(火) 23:39:57
この板で、義平をやたら言上げする人がいる。
その人の義平びいきは多分、武芸が優れている乃至戦争が強かったというイメージからだろう。
だが義平以上に戦争が強く武芸が強かった連中がいる。
何者たちであるか、諸君はお分りになるだろうか?
それは平民出身者で構成された、頼朝の雑色たちである。
文武に秀でた異能の頼朝直属の男たち。
卑しい出の彼らはどんな大役をこなしても表舞台には出られず御家人にもなれない。
武芸軍略に優れていたところで義平にはなれない。
彼らは下賤のものたちなのだから。
義平が少々勇猛で武に秀でていたとしてもその価値は源氏の御曹司に源泉がある。
個人の能力の価値は出自に左右される。
義平も自分が嫡子でないことくらい
母の出自と己の官職で分かるだろう。
そして父の意志(頼朝を嫡男視)。
平安後期は一種のカースト制だ。
親権の絶対性(御成敗式目も公権力より親権に優位を認めてる(22条は別))もある。
ソウリョウ制も鎌倉後期と違って崩れていない。
頼朝が肥満云々を言うが、当時の考えでは、それはむしろ貴人の風格を表すものだ(顔が大きい)。
戦争が少々強かった(それも源氏の御曹司である付加価値があるからだ)
くらいでは権益の錯綜する東国の覇者とはなりえない。
東国の王は、東国武士たちの権益に対する利益衡量者たらなければならない。
ところで義朝だが、一見義平に相似しているかも知れない。
だが無官の義朝には藤原忠実及び鳥羽院中枢に太いパイプがあった。
義朝は彼らの権威をカサに着た犬なのだ。
義平にカサに着る権威などあるのか。
義平が生き延びて暴れたところで、それはよくある東国の乱に過ぎないだろう。
義平を過大視する人は通俗小説の読みすぎだ。
あるいは戦国以降の感覚でモノを見ている。
平安後期の人間は権威に弱いのだ。
バサラとか下克上とかなどない。
574 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 00:12:44
>>571 いい加減みんなにウザがられてるの気付いたら?
知ったかさん。
575 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/11(水) 00:19:47
嫡男問題において相似した位置にあると思われる
義朝と義平には、実は生母の出自の身分に差違がある。
義朝の母は院近臣だ。
義平母の遊女説乃至三浦氏女説では、義平の生母の身分は義朝に比べかなり落ちる(身分重視はあくまで当時の見方だ。私は血統及び身分などというものには一切関心がない)。
もう一つ付け加えておこう。
義平を過大視する人は、義平が生き延びていたら東国武士団を組織していたのではと想像する。
これは難しい。
義平は余りに三浦党の息がかかっている。
母(あるいは乳母か?)の出自である三浦の色が濃いのだ。
三浦と対立していた豪族が多いのは諸君も御存じだろう。
ある意味無党派の、京下りの貴種である頼朝のポジションと今一度比較してみて欲しい。
ちなみに頼朝と婚姻したばかりのころの北条は弱小の土豪だ。
ついでにいえば頼朝生前も
北条が一番に重要視されていたわけでもない(嫡男頼家の乳父母と正妻は比企氏)。
一番などないというべきか。
タテマエにしろ御家人は鎌倉殿の前には平等というわけなのだし。
しかし頼朝は人使いが上手い。
頼朝が今少し長命であれば頼朝直系の将軍職継承も長く続いたろうが…。
576 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 00:41:03
義平が生き延びていれば、為朝と一緒に関東を蹂躙して
関東に独立国を建設していたかもしれない
これは あくまでも不用印紙と同じく妄想だがw
577 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 01:00:27
なぜ頼朝は京都かぶれにもかかわらず公家の妻を
むかえなかったか
弱小の北条の子が跡継ぎというのは当時としては変だ
578 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 01:09:57
こりゃまた凄い質問が・・・・・
何故 蛭が小島頼朝が蛭が小島にいたか御存知?
579 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 01:13:13
不用印紙が他スレでも大活躍だw
↓
名前:武陽陰士 ◆ATDF4vFZys [] 投稿日:2007/07/11(水) 01:07:20
文化年間に書かれた『世事見聞録』には、
江戸初期前期は農村に百人いたとしたら全員が働いていたけど、
現在(文化)は百人いたら五十人遊び暮らし五十人が塗炭の苦しみに喘いでいると
告発している。五十人が遊び暮らす五十人に収奪されていると著者は主張するのだ。
(以下、略)
580 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 09:24:14
頼朝が平家に勝って生き残れたのは、その時偶然強者が消えていたから
清盛が もう少し長生きしていたり、宗盛より優秀な後継者が平家を指揮していたら
頼朝一味は、平将門のように鎮圧されて消えていただろう
581 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 12:13:39
木曽義仲の活躍も頼朝に有利に働いた
しかし人質の子供(清水義高)を殺す頼朝は 酷い奴だな
583 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 22:17:17
武陽陰士さんに質問
1,嫡庶に生母の身分が関係していたとする御説だと思うが、
貴族の家には遊女が母親、という人がいるよね。
(例;徳大寺公継だか、息子の実基だか)これは何故ですか?
2,頼朝は鎌倉殿になったあと、なんで身分に相応しい正妻を
迎えなかったの?それとも北条氏は、大豪族だったの?
584 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 23:29:20
>>578 平家に勝った後はいくらでも新しい妻を迎えることは出来たはずだが。
舞踊は至るところに出没してますな
586 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/12(木) 00:31:11
>>585 そうだな。
しつこいが私はネットが嫌いだ。
2ちゃんねらーの独特の連帯感もない。
だから2ちゃんねる用語も使わない。下品だし。
ネットに浸かってない普通人(現代じゃ少ないな)が抱く真っ当な批判正論、
そして学問的な整合性のある議論なら聞くが、
あとは無視だ(デタラメ書いたらトラウマになるほど批判するかもしれんが。
まあ暇があって気がむいた時だな)。
おまえらも無視しろ。
こっちは書くだけだ。
読みたかなきゃ、「あぼーん(今だに意味が分からない2ちゃんねる用語)」するか、無視しろ。
私はアジビラを書いてるつもりなんだよ。
読める人だけに読んで頂けりゃそれでいい。
587 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 00:42:53
>しつこいが私はネットが嫌いだ。
2ちゃんねらーの独特の連帯感もない。
>>534 >ていうか、今日仕事中にこの掲示板のことが邪念となって気が散ったから。
>>555 >もちろん今夜の合戦もおはなしするよ。
けっこー2ちゃん言説って知り合いの間ではよく話題になるんだな。
>あとは無視だ
>>551 >ゲロ箱みたいに空っぽ。
お前はヒマ人のネット右翼で日本人というのが
最後の拠り所なんだろ?ハハハハハハ
カワイソーに(苦笑)
>>539 >お前のパーなとこ指摘するんでヨロシク。
悔しかったら本読め。
太平記は角川版がオススメだ。
お前の好きな(笑)大系よりかいいぞ。
モノホンの研究者んとこ行ってこいバカ殿。
せいぜい怒れよ。
2ch嫌い!僕は頭が良い!僕はすごく忙しい!
と言うワリに、いつもいつも2チャンネラーに批判されてはファビョって
品性の無い書き込みをする不要因子とは一体?
588 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 00:50:22
>デタラメ書いたらトラウマになるほど批判するかもしれんが。
ただファビョってるだけということに気付いてないようですww
589 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/12(木) 01:01:12
>>580 一理ある。
しかし頼朝政権は長期政権足り得る要素を持っている。
タダの軍事政権ではない。
在地領主の権益を守る制度・法などを充実を目指す政権だということだ。京の下級官人がブレーン。
奥州藤原氏は財力はあったが簡単に滅びた。
鎌倉軍が強いのは戦争に強い多数の武士たちを権益保護によって組織したからだ。
清盛在世でも平家が鎌倉方を滅ぼし得たか?
私は二大武家政権が生まれていたと思う。
ところで北条が滅びたのは単純にいって御家人の支持がなくなったからだといえるが(あくまで単純化して)
平家の落日もそれだ。
支持基盤がなければ失墜する。
武士団を組織できなければ大軍は組織できない。
以上、簡略ながら述べた。
590 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 01:13:40
>>589 >私は二大武家政権が生まれていたと思う。
院の存在を無視すればだが・・・
591 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/12(木) 01:16:45
>>583 よく反論するときに特殊事例を出す人がいるが、君がそうだ。
1は反証にならない。普通平安後期において(後期だけじゃないが)は
実母の出自が嫡子の決定要素なのは自明だ。
遊女と五位以上の家に生まれた家の娘、どちらが嫡子の実母としては有利か?
摂関家など見てくれ。
あと遊女を母とした天皇の子もいるが皇太子などなれるはずもないのは当然だ。
特殊事例を持ち出し反論してくるのが2ちゃんねるではよくあるのが不思議だ(前もやられた。)。
足利直冬も母の身分が低かった。ただ直義の養嗣子となったのだから、御の字か。
592 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 01:21:50
岩波文庫と不確かな記憶だけで書き込んでるお前が言えることかね?
>>589 >私は二大武家政権が生まれていたと思う。
と言っときながら、すぐそのあと
>平家の落日もそれだ。
>支持基盤がなければ失墜する。
>武士団を組織できなければ大軍は組織できない。
と続くんですか?
二大武家政権成立の条件はなんです?
清盛一人のカリスマで、鎌倉と日本を二分して二大
政権化するってことかな?
594 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/12(木) 01:49:23
>>583 北条氏が正妻だ。
平家に勝ったのは頼朝ではない。
権益擁護者たる頼朝を支持した東国武士たちによる勝利だ。
頼朝が政子にいかなる愛情を抱いていたかは、ここでは置いておく。
ただ仮に政子をさしたる理由なしに離縁ないし蔑ろにすれば、
御家人たちの支持は薄れる。
頼朝がやっているのは御家人たちの権益保護なのだ。
カリスマ性(後年の尼将軍は事実)のある政子を蔑ろにはできない相談だ。
北条は弱小在地領主(庶流説有力)で在庁(ありえないと北条氏研究の奥富氏はいうが)でもあったかもしれない。
いずれにせよ頼朝にとっては大事な手ゴマの連中だ。気は使っている。
まあ頼朝は御家人連中には気使っているな。
景時には汚れ役やらせてね。
あああと嫡子たる頼家の存在だ。
若気の至りで生まれた義平、直冬なんかとは違う。
頼朝も頼家を得たのはだいぶ年だ。
余談だが頼朝は直系の肉親に対しては愛情深い。
大事な嫡子の母である頼朝が捨てるはずもない(頼家が生まれたのは平家滅亡の前だ。一応)。
あと正妻という言葉にこだわりすぎている。
私もだけど、婚姻史の勉強を一からしてみようね。お互いに。
(私がこだわるのは母の身分で正妻云々じゃないんだ実は)
595 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/12(木) 01:55:00
>>581 そうだね。
ただ吾妻鏡は頼朝を刻薄に、政子を温情の人とする傾きがあるな。
吾妻鏡の記事に百パーセント依拠して語るのは厳に慎みたいもの。自戒を籠めて。
596 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:27:13
>>584 政子は頼朝の愛人の家を焼き払ったらしいぞ
そんな鬼嫁の目を盗んで 都から側室もらえる訳がないだろ
597 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:39:54
>>594 >あああと嫡子たる
こいつ句読点も ろくに使えないのか
ああああ な奴だな
(ぁが4つで アフォーw)
598 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 14:28:54
599 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 14:30:54
>大事な嫡子の母である頼朝が捨てるはずもない
こいつ頭大丈夫か?
と言うより こいつの国籍は何処?
600 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 15:48:15
今後は 「あああの不用印紙」と名乗るが良ろしかろう
601 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 16:30:09
, -=ミ;彡⌒`丶、
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::`丶
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
l::::::rィノツノtゝミン、ノノン、:::::::l
!:::::: '"^'"`~` ヾ( l::::::ノ
',::::j ==ュ r== 〈::::::j
fヾ}, ィ赱、 i i r赱ミ l:イ
lと', `"" ,l l `"" ,リぅ!
ヽ-ヘ ,ィ''。_。ヽ、 /_ン'
', / _lj_ } ,'
l、 ^' ='= '^ /!
l ヽ. `""´ ノ l、
_, ィ{ `' ― '´ }ヽ、
/  ̄ ¨丶ヾ`ーs一'´__ ¨ ´ ̄`ヽ、
/ ` 〃 '´ ヽ
,′ / l! ;
| j |D|! !
! / |S|!. 、/ |
l ! :2:. └ ' .:c:: ! |
l//" " } !
,ィー─--- 、//l ,′ !
〃 ,〉ー‐ァ'´/ l | イ .'
. /Y/ 〃勺 l | l i
602 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 18:25:17
603 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 18:42:41
能書きたれる前に、小学生の国語を勉強してこい
>不用印紙
604 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/13(金) 01:15:05
余は市井の大隠、武陽陰士なり。
幼少のみぎり習いし手習い今一度お浚いすべしと余に向け告ぐそなた、
推参なり、笑止千万の愚物なり。
余は古えのふみをばひもとき親しむこと茶飯なれば、そなたの如き電網の使徒たる凡下が賤しき罵り、宛として釈迦に辻説法の如し。
一昨日訪うべし。
現今、余の脳髄、或いは過剰の読書、或いは生計の術なる生業にかき乱されること日々尋常ならず。
忙殺まさにこのことなり。
豚児たるそなたの繰り言にかかずらう暇なし。
余、ただいま老婆心より電網にあでぃくとするそなたに有り難き託宣与わん。
無為徒食のそなた、余を範とし以て瞑すべし。以上なり。
さらば余はしたたか眠気あれば床に着かん。
605 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:20:16
出たな、あああの不用印紙
現代文では幼稚園児レベルだから 似非古文調で逃げたか
どっちにしろ 何書いてあるのか分からないのは変わらんな
606 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:52:57
>>604 >市井の大隠
2ch嫌いとかほざきながらいつも出てくるクセに、良く言うよ。
>推参なり、笑止千万の愚物なり。
そう思うんだったら推敲ぐらいしろ
>余は古えのふみをばひもとき
古え→古
お前が持ってるのは岩波文庫だけだろ?それと自身の不確かな記憶か。
研究者でもないクセに、「紐解き」なんて良く言えるものだ。
>そなたの如き電網の使徒たる
おお!使徒か!俺達はお前のような異教徒に福音を与える天使様なワケかw
>宛として釈迦に辻説法の如し。
お前はせいぜい声聞レベルだ。
いや、まともな反論もできずに罵倒ばかりだから、外道かな。
607 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/13(金) 01:59:00
>>605 バーカ。
文語も読めないで日本史語るな。
てめえの学力、その程度もないんだな(笑)
原典読んだことねーんだろ?
ははははははは笑わせるぜ。
何が似非古文だ。
私の文語は文法的に正しいのよ。
ところで今まで私が書き込みした文章が、時にテ二ヲハが間違っていたりブツギリの文だったりするのは、
恐ろしく疲れて(実は酔っていたり、半分寝てたり)いるからさ。
それでもって脳のデータベースをフル稼働してりゃ、酷い文章にもなるわな。
あとさ、てめえは古文とか現代文とかいう言い回し使うが、高校んときで頭止まってんのか?
文語とか口語とか言文一致とか、他に言い様があるだろう(苦笑)。
まあせいぜいガンバッテ勉強して私が書いた文語文の正確な意味でも読みとれや。
まだ意味、正確に読み取ってないんだろ(憫笑)。
こんなのも読めない奴じゃ、平治物語他ナンタラなんて偉そうにゴタク並べられねーぞ。
平治も何も実際には全く読んでいないのがバレバレだかんね。
ははははははは何かてめえとの泥仕合が面白くなってきた。
トラウマになるまでお互い闘うかい?
ふふふふふふふ
また今度な(笑)。
再バトルを期待して。
グッドナイトだ。
608 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 02:03:05
>現今、余の脳髄、或いは過剰の読書、或いは生計の術なる生業にかき乱されること日々尋常ならず。
→昨今、過ぎたる読書、或は業に疲れ果て、尋常ならざる気色也。
中学から古文学びなおせ。
>豚児たるそなたの繰り言にかかずらう暇なし。
忙しい忙しい言っておきながら毎日ここに来てるお前が、他人を罵倒する
ことができるのか?
>余、ただいま老婆心より電網にあでぃくとするそなたに有り難き託宣与わん。
ただいま→くどい。不要
有難き→お前は天皇一族か?
託宣→お前、神でもないクセに何ほざいてるの?
与わん→与えん
ホント、知ったかだな。
>無為徒食のそなた、余を範とし以て瞑すべし。
無為徒食はお前だろうにw
そなた→汝(なれ)
瞑すべし→学ぶべし
おま・・・・リア中か?
>さらば余はしたたか眠気あれば床に着かん。
さらば→されば
なあ、お前に聞くけど、したたかってまさか「強かなる」か?
609 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 02:05:44
>>604の書き込みを読んだ後、
>>607を見て思う。
コ イ ツ 本 当 に 中 学 出 た の か ! ?
正直、コテハンよりも
一行ずつ引用して煽りだけやってる奴の方がウザイ
こいつが出てきたら武陽側のレス内容も煽りだけになるだもん
つまらん煽り合いなぞこのスレに何の益にもならん
611 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 07:16:00
見る度に醜くなっていく ああああの不用印紙
なにが文語文だ
藻前の駄文は 少なくとも日本語ではないw
612 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 07:34:17
一般人?も原典読まなきゃならんのか?
不用印紙みたいに 日本史で飯食ってる訳じゃないから
そんな暇も興味も ないんだが
不用印紙って リアルでは30代くらいの図書館職員あたりか?
もし社会科の教員だったら 生徒が可愛そうだな
613 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 09:55:32
教師なんぞ、いい加減だよ。
所詮、地方の国立大学出ても、大した知識なし。
俺も、高校の担任が自費出版で出した詩集見て驚いた。
校内の教師仲間に売りさばいてたらしい。
普通「頼朝」を「よりとも」とは読まないだろ。「よりあさ」だよな、常識的に。
無意識にこんなカッコツケだから滅びたんだろ
615 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 12:53:18
ブヨブヨ(武陽陰士 ◆ATDF4vFZys と自称)必死すぎてキモイ
日本史の教科書に毛が生えた程度の話で遊んでるのに
たいしたこともない知識をひけらかして威張ったり
原典読んでないのはバカだとか、この板にいる奴は全員ブヨブヨと同類と思ってるようだ
全くリアル馬鹿としか思えない
616 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 13:04:09
社会科の教師なんて いい加減な香具師の成れの果て
俺の中学時代の社会科教師なんて、試験でエジプトとリビアの位置を間違えてて
俺が指摘してやったら 逆切れされた
617 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 16:05:52
おまいらモチツケ。
>>610の言う通り、無視すれば良い。
619 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 17:59:25
清和源氏の偏諱は「義」
頼義 - 義家 - 為義 - 義朝 - 義平
義の偏諱をもらえなかった頼朝は 嫡男失格
620 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 18:11:25
末弟で庶子の義経が「義」の字を持っていることを考えれば
意味ないが
621 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 18:37:27
義経が元服した時に 誰が名前をつけたんだろうか
父の義朝は とっくに氏んでた
義経は自称かw
622 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 18:41:22
鎌倉幕府を見ても、室町幕府を見ても、
嫡男が必ずしも先祖代々全く同じ一文字を受け継いでいるとは限らない。
意味なし。
623 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 18:48:00
北条傀儡政権は別にして、室町幕府の歴代将軍は
初代の高氏を除いて 名前に「義」がついてますが
624 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 18:55:19
今言っているのは、頼朝が将軍になる前の話だろう?
源義仲、その父義賢をはじめ、この一族には義の字が多い。
また、源頼政など、頼朝と同じ頼の字を用いた例も多い。
頼朝の嫡男の名は頼家。
源氏の嫡男は義の字を名乗る慣習があったのならば、
自分の嫡男にその字をつけたはずだが。
625 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:19:47
だから 源氏の嫡男は義平で
義平が氏んだから 頼朝が繰り上がりで嫡男になった
OK?
626 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:28:41
義平は出生では劣る、その分、
同属の新田氏から妻を迎えて補っていたような感じかな。
もっとも、父の義朝は、京の生まれで、京に思い入れがあった、
義平を関東に残して入京させなかった点、
京都生まれの頼朝に期待をかけていた節もある。
義平が嫡男ならば、どうどうと京都に引き取ってしかるべき。
627 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:07:27
京にいたら 頼朝のように軟弱デブになってしまう
関東で武芸を鍛えてから京で育てる予定だったんだろう
平治の乱で 関東から義平を呼び寄せた
もし源氏が勝っていたら、義平は京で宮仕えしたかもしれない
628 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:26:46
頼朝らの父の時代、貴族と武家は明確に別れていない。
義朝の活動の本拠地はあくまでも京であり、
保元の乱もまた治天の君を争うための戦いであった。
平治の乱の際の義平の無謀すぎる戦いぶりを見ると、
父義朝が生きて逃がそうと願うであろう嫡男とはとても思えない。
獰猛な義平は、あたかも義朝にとって、捨て駒であったかのようだ。
629 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:30:39
義朝も元は関東で育った田舎侍
それが いつの間にか京にお上りして成り上がった
そして武力で親兄弟を倒し、嫡流の座を奪い取った
義平も長生きしていれば 義朝と同じ道を辿ったことだろう
630 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:35:13
平治の乱のとき義平はすでに19歳、新田氏から娶った妻もいた。
都で宮仕えをさせようと考えたにしては、すでに遅い。
このとき、5歳年下の弟の頼朝は、
すでに後白河法皇と仲の良かったその同母姉上西門院の蔵人に就任、
早くも後白河近臣として今後活躍してゆくための下準備がなされていた。
父義朝の活動の拠点が京であり、武士が院近臣として発展したことを考えれば、
頼朝のために父義朝が用意した筋書きが、
嫡男にふさわしいものであったことがわかる。
19歳にして無位無官の義平では、遅すぎる。
631 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:38:28
父義朝にとっての嫡男は頼朝であったろうが、
もっとも、父の死後、義平が嫡男である異母弟頼朝を殺せば、
源氏の棟梁としてのし上がることはできたろうね。
もっとも、義朝の嫡男は頼朝だった。
頼朝の父親の代までは、
兄弟が殺しあって勝った者が家督を継ぐ、
戦乱の時代であったことは確かだろうが。
632 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:42:08
義朝が下野守に任官されたのは30歳時
その前の官位は知らんが
633 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:53:30
源義仲も30歳時に無位無官から 平家討伐の功で
従五位下左馬頭・越後守に任ぜられた
そして 従五位上伊予守、従四位下伊予守を経て、征夷大将軍に!
634 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:56:31
ついでに新田義貞も30歳まで無位無官だったが
北条討伐の功により 左馬助、播磨守、越後守、左衛門佐、左兵衛督を歴任し、
正四位下左近衛中将となった。
そして明治15年には正一位に
635 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 22:06:49
正一位の足利家子孫て誰よ
636 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 22:14:45
国賊足利に正一位は いない
637 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 00:35:25
638 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 01:26:23
さらばは、さあらばの略だ。アホ。
もってめいすべしの意味もわからんのか?
生業はなりわいと読む。
みんな文語で使う言葉だぜ。
639 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 01:33:21
>>608 お前どーかしてるぜ。
「なれ」なんて使いたくねーから使わないんだろうが。
「そなた」を古語辞典(時代別古語辞典、岩波の古語辞典でもいいぜ)で引け。
ご託宣もそれに合わせたものさバカ。
いちいち他の言葉に置き換えるな!
上から物いう文章、私は書いてんだアホ!
あと現今のどこがだめなんだ?
お前の古文の趣味は聞きたくねーぞ
640 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 01:37:02
>>608 どうでもいいが私は今年の四月からすべての書き込みを携帯から書いてる。
だから旧字旧仮名は使えない。
うち間違いもそれに関係する。
641 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 01:52:56
>>608 マジで君に言いたい。
持って学ぶべしではなく、持って瞑すべしだ。
この意味で言いたかったからだ。君はこの言葉をご存じないらしい。
或は一つじゃ変だ。或は〜、或は〜と書かなきゃだめだ。
強かは強かでよい。本来「したたか」は、「したたむ」から来てるから、強かは完全な当て字だが、私は漢字で書きたかった。
強くという意味を含意させたかったからだ。
そして、「さらば」。「さあらば」、「そうであるから」ということだ。
与わんは打ち間違いだ。結局誤りはこれだけだということになる。
あと旧仮名じゃないのが厳しいが。仕方ない。
ただ君は語彙力が乏しい。くだけた文語をもっと読んだほうがいい。
642 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:01:57
>>641 >「さらば」。「さあらば」、「そうであるから」ということだ。
「そうであるから」となるのは「さあれば」→「されば」。
「さらば」→「さあらば」の接続助詞「ば」は、未然形につく順接仮定条件。
こんなことは高校レベルの「学習」の事柄で、学問以前の知識に属する。
この程度のことすら知らない君は、君自身の言を借りるならば、
>ただ君は語彙力が乏しい。くだけた文語をもっと読んだほうがいい。
ということになる。
643 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:10:40
>>641 >強くという意味を含意させたかったからだ。
「含意させる」という用法は無い。それ以前に、「意味を含意させる」という
には笑ってしまう。「含意」とは「意を含む」、つまり「意味を含む」ということだ。
「意味を含意させる」という珍妙な表現だと、「意味」と「意」が重複してしまう。
「頭が頭痛」と表現するのと同じような基本的な誤り。
正しくは、「意味を含ませかったからだ。」となる。
644 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 02:21:07
>>608 ぶっちゃけて言えば、君は文語を多読してない。
江戸時代の文語なんかは最低限読んでくれ。
高校で習ったのが君の脳に偏見となって巣喰ってるな。
そうだ「現今」だが、なぜ「昨今」に置き換える?君の価値観は偏ってる。
現今で構わないのに。
「或は」も変だ。君は「男と女と」と書いたら、「男と女」が正しく「と」は余計とする茶々入れをするのか?
ましてや私のは文語だぜ。
そなたすべからく文語に親しむべし(「すべからくをすべてと思ってるのか?」なんて揚げ足よせよ知ったか坊ちゃん)。
私はネット落書のつもり(ここで「落書とはナンタラ」などという揚げ足が来そうだが。やめろウザい)で言葉を選んでいる。
それにしても君はやはり勉強が足らない。痛い人だ。
しようもない指摘は君が無知(それでも食らいつく知ったか知識と多少の根性は認めてやるよ(憫笑))だからだよ。
以て瞑すべし。(往生しろよアホってことさ、ドゥユーアンダスタン?)
追加、(前の書き込みで「以て」「持って」と書いしまったが揚げ足は取るな)
645 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:30:25
>>644 順接仮定条件の接続助詞「ば」すら知らない無知な君。
「意味を含意させる」という珍妙な表現をする無能な君。
そしてまた、
>すべからく文語に親しむべし
などと書いて、書き下し文における再読文字の処理の仕方すら知らない
無知蒙昧ぶりを晒した君。
須らく文語に親しむべし。
これが正しい書き下しである。
646 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 02:34:34
>>643 君の習得したツマンナイ高校国語なんかどうでもいいんだよ。
実際の用例(近世まで含めた古典ね)にあれば使用するのさ。
旧仮名だって無視して独自の仮名使い(典拠はある)を使用してもいいかなって思ってるくらいさ(私的な文章にね)。
あと今一つの揚げ足に対して反駁だ。「意味を含意」はおかしいというやつ。故障中、頭痛が痛いのたぐいだが、くだらないな。
古典にはそういう同語反復的な用例がたくさんある。
私は現代語でも語調が整えば構わない、と思っている。
君は語調って分からないか?
つまらないサカシラは馬脚を現しますよ兄貴(憫笑)。
647 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 02:39:09
バカらしい。
須くが再読文字だなんて誰でもしってることじゃない?
なんで仮名にしちゃいけないの?
本当、どうかしてるよ君。
648 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:39:11
>>646 何だ、君はただの自己中の劣等生か。
君には古典は読めないね。智慧が乏しいから。
649 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:41:53
>>647 >なんで仮名にしちゃいけないの?
君は反抗期の中学生か?
650 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:45:47
古典理解のためには佛教の知識が必要だが、武陽陰士にはその素養があるのか?
651 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 02:48:04
>>648 知恵(字が出ない)ね〜。
結局揚げ足取って馬脚を現した訳だ(笑)。
まあいいけどさ、受験に出ない古記録とか文学読みなよ。
諸橋大漢和も役立たずの読めない漢字が出てくる。訓が特殊。いや変。
仮名遣い(使いをさっき使用したが、これの揚げ足も取るのかい?笑)
実践的な読みをヤリたまえ。
高校国語なんか吹き飛ぶぜ。
652 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:50:35
>>651 >知恵(字が出ない)ね〜。
すぐに出るが。
では尋ねよう。「智慧」は佛教語だが、どういう意味かな?
653 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 02:58:30
>>649 すべからくをひらがなにしてはいけないというげんせつははじめてしった。
渋沢竜彦(漢字違うっていうた出ないんだよ)、呉なんとか(ともふさだがちょっとウザいからなんとかだ)も現今よくある、すべからくの誤用を咎めていたけど、漢字で書けってのは面白いな。
漢文脈のやつ(お経とか大半の古文書)は「須ク」だけどさ、そうじゃないのは平仮名で開いていいんだよ。
お分かりかな。
654 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 03:10:51
ああああの不要印紙
スレと無関係なことを延々と書き込んで得意になってる
やはり こいつは馬鹿だ
655 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 03:13:19
>>652 怒るぜマジで。
私は携帯からそれも古い機種から打ってる。ネットにつながったパソコン諸事情で今は使えないんでね。往生するよ。
知恵(しつこいがマジで出ない。ほんと言葉尻捕らえるの止せ。「ほんと」は「ほんとう」が正しいというのも止せマジでだ)は
一言で言えば、現象界の後ろにある道理を見極める心のはたらき。
ただこれじゃ大乗仏教(漢訳)のなかの位置づけを説明したことにはならない。
いろいろ長くなるんで厄介だ。
>>655 武陽さんよ、煽ってるだけの奴は無視して
せめて頼朝に関する自説を展開してくれよ
私はこの板の他のスレほとんど見てないから
他でどういうコテ活動してるかは知らないが
あくまでこのスレでは、揚げ足取りの奴よりは
一生懸命なんか書いてるあんたの方が好感が持てるわ
(煽りに乗っちゃってやり返してる時は別だけどね…)
657 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 03:19:27
658 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 03:23:12
携帯から書き込みだってさ
ハハハ、不要印紙は さしずめP2Pで情報漏洩して
パソコン取り上げられた場末の公務員か教師ってとこか
659 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 03:32:40
>>656 おっしゃる通りでした。
ここは頼朝に関する掲示板でした。
私自身ロムってても面白く読める掲示板で、
私たちの泥仕合は傍迷惑であったと反省致します。
これからは頼朝関連のことのみ書き込みする所存です。
追伸:中世の婚姻、遊女(白拍子)を生母とした貴族武士のことは、認識知見の不備を補うべく勉強中です。
今度レスします。
我ながら婚姻史に関して無知であったな、と今更ながら痛感致します。
それでは。
わかってくれて嬉しいわ
また次の普通の頼朝レス待ってるよ
661 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 08:01:39
源氏三大秘宝を頼朝に託したって言うのは本当なのか?
だったら異母兄がブイブイ言わせていても嫡男は頼朝だよな。
つか源氏の家宝って結局どこ逝ったんだ?
清和源氏の中では天皇家の三種の神器位、重要なものだったんだろ?
662 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 08:14:36
頼朝が頃した親族は
源義仲(従兄弟)、清水義高(従兄弟の子、娘の婚約者)
源義経(弟)、義経の男児(甥)、源範頼(弟)
まだいますか?
663 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 08:18:49
叔父の行家も頼朝に やられたと言える
664 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 11:09:58
>>662 間接的な殺害である義経も含めるのなら、衣川で義経に道連れにされた幼い娘とその母である妻女河越氏(おそらく河越女)も。
あと遠い親族(遠すぎるが)の甲斐源氏安田父子。
源氏一族に対する猜疑心の強さは異常だけど、根は懐の広い寛大な人。
>>661 刀は新田義貞が持ってたよね>鎌倉で奪った?(その後は知らん)。
>>662-663 志太義広(叔父)、あと佐竹政義、一条忠頼、安田義定、源有綱あたりも。
667 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 11:54:35
頼朝と伊東氏女との間に出来た千鶴君(曽我物語より)。
幼くして平家をはばかる祖父伊東祐親に殺害された。
千鶴は曽我兄弟のいとこ。ならば曽我兄弟は頼朝からすると親族ならぬ縁戚ではある。
いとこであれば曽我兄弟が千鶴に、顔貌その他が相似していたということもありうる。
弟五郎の方は頼朝によって処刑。
頼朝は死に行く五郎に、亡き長子千鶴君の面影を見たかもしれない…。
668 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 12:59:31
>>638 >さらばは、さあらばの略だ。アホ
だからそれがくどいと言ってるんだ。アホw
文体で書くなら、文脈との整合性を考えろ。
>「なれ」なんて使いたくねーから使わないんだろうが。
何故命令形で「そなた」を使うんだw
>>652 お疲れ。
自覚しないバカって困り物だよね。
669 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:08:42
>>667 >頼朝は死に行く五郎に、亡き長子千鶴君の面影を見たかもしれない…。
何訳分からない寝言書いてんだ
千鶴君だとさ
馬鹿じゃねえの
670 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:10:24
671 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/14(土) 13:50:12
>>669 つきまとうのは止めてくれる?
ネットストーカー殿。
千鶴に敬称の「君」をつけるのはオカシイとか揚げ足取るのかい?
止めた方がほうがいいな、また恥かくし。
あと私の即興文語文にが、文脈なんたらとうるさい。
ふざけて書いたのに文章の骨格とか求めるのはバカだよ。
また馬脚を表しますよ(苦笑)。
まあ、君は「或は」の使い方の偏見なんかで分かるが、あんまし文語読んでないな。
672 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:29:40
他スレでも嫌われ者w
名前:武陽陰士 ◆ATDF4vFZys [] 投稿日:2007/07/14(土) 14:14:02
>>760 駄目だなコリャ。
ネットで引いてきたのが、見え見えだ。
私も試しにいろいろ検索したが、明らかに通読してないのが分かる、あんたのようにね。
読めよ。
ネット間違ってるのが分かるぜ。
ま、読みやしないんだろうが猫太夫は。
ネットにかじりつけよ死ぬまでさ
673 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 20:45:19
>>671 >つきまとうのは止めてくれる?
妄想はここじゃなくてチラシの裏に書いてくれる?w
>
674 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 22:50:30
希義の子孫と言われる吉良氏はやぱーり違うのだろうか?
頼朝から認められたというが、範頼の子孫である吉見氏は将軍の可能性
がありそうというのであぼんされているけれどこちらは大過なく過ごしている
し・・・
675 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 05:47:39
今夜は来ないと思ったら 他スレでバトル中だったw
774 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/07/15(日) 00:51:13
ちゃんと読んでないのさえバレバレなんだから
そんなに気張らなくても大丈夫だよ
自分を大きく見せたがる、精神病患者のプロファイルとしては面白いけど
775 名前:武陽陰士 ◆ATDF4vFZys [] 投稿日:2007/07/15(日) 01:07:13
>>774 おまえバカだよ。
私が多読するのは謙虚だからだ。
「大きく見せたがる」なんぞというのはおまえのほうだ。
すべては読書から始まる。
自分が凄いと自惚れた時点で、他人の著作など読まなくなる前兆だ。
私は己が最大の無知だと思っている。
だから読む。
>>667 ところで、なんで曽我兄弟って兄が「十郎」で弟が「五郎」なの?
(逆ならまだわからんでもないけど)
本当に血の繋がった兄弟なんだろうか?
677 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 05:54:40
謙虚なやつが他人を容易く馬鹿にしたりするか?
己が無知だというのは当たってるがw
こいつは統合失調症決定
>>677 そろそろあんたもやめときなよ
嫌いなら無視すればいいこと
679 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:10:32
>>677 最初のうちはブヨーなんとかってコテが悪いが、今は藻前が基地外w
もういい加減やめれ
680 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:17:49
武陽淫士はブヨブヨw
681 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:40:01
みなさん、舞踊因子は基地外です。迷惑バカコテは潰しましょう
682 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:41:00
683 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:52:41
684 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 17:00:55
685 :
683:2007/07/15(日) 17:19:54
686 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 17:26:58
俺だけじゃなく、このバカコテが嫌いな奴は多いようだ。
だから早いとこ失せろ不用淫士。みんなお前が嫌いなんだよ。
687 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:23:17
>>686 自分を頭が良いと勘違いしてるニ〜〜〜ト君だから
ヒマはタップリある。
ここに来ないではいられないんだよ。
688 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:27:30
689 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:10:52
武陽陰士 これだけ立派な能書き垂れて
他人を馬鹿にしまくってるんだから
リアルでも さぞかし立派な地位と経歴を お持ちなんだろうな
当然、文学博士号くらいもってるよな
まさか高卒なんて笑わせてくれる落ちは勘弁してくれよ
690 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:15:20
俺も訊きたい。
偉そうな能書き垂れるんならリアルでも偉いんだろうからなW
691 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:47:15
不用因子、今日は来ないかと思ったら 天皇のスレで暴れてる
名前:武陽陰士 ◆ATDF4vFZys [] 投稿日:2007/07/15(日) 11:04:12
>>832 おまえだろそれは
私は今からデートなんでおまえとのお遊びもこれまでだ。
天皇陛下にすがってろ。
バーカ(笑)
692 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:05:20
荒れてるな
ブヨーのダメなのは煽りに耐性皆無なところ。
ま、どんなに本だけたくさん読んでも頭が良くなるわけじゃない、
という悪い見本だな。
694 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:15:11
>>1でイイクニつくろうなんて書くと、いつまでも恥をさらし続ける
ことになるんだね。くわばらくわばら。
タイトル:武家社会開祖:源頼朝
【糞スレランク:A】
直接的な誹謗中傷:51/695 (7.34%)
間接的な誹謗中傷:12/695 (1.73%)
卑猥な表現:10/695 (1.44%)
差別的表現:47/695 (6.76%)
無駄な改行:1/695 (0.14%)
巨大なAAなど:5/695 (0.72%)
同一文章の反復:0/695 (0.00%)
by 糞スレチェッカー Ver1.01
http://kabu.tm.land.to/kuso/kuso.cgi?ver=101 これはヒドイですねww
697 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:31:11
スレ終了
698 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/15(日) 23:08:35
699 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/15(日) 23:13:46
|
|⌒彡
|冫、)
|` /
| /
|/
|
701 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:26:24
とっと出ていけよ不用淫唇。
あんたの能書きは聞きたくねえんだよ。
知ったかが何を偉そうにw
ちなみに私は元武陽陰士というハンドルネームの者です。
702 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:41:00
↑こいつ基地外。
相手にしない方が賢明というもの。
武
703 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:58:25
>>676 なんか荒れてるんですが、亀レスです。
作家の永井路子さんの『相模のもののふたち』という本には、
曽我兄弟の十郎五郎の名前順番が逆の理由は謎と書かれていました。
すいません、答えになってませんね。
武陽さん、この件について、もし何か知ってるのなら、推測でもいいのでレスお願いします。
704 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 09:05:43
ブヨーは自作自選を学習した
ブヨーの基地外度が1上がった
705 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 11:00:29
兄が十浪 弟が五浪でもいいじゃないか
それだけ難しい大学を目指していたんだろうw
706 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 12:20:20
>>705 院のことは念頭にないんだな。お笑いだなW
707 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 14:36:12
>>706 おい、名無しの不要印紙
おまえはキモイんだよ、出てくるな!
708 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 14:58:49
709 :
ドク・マッコイ:2007/07/16(月) 23:11:00
>武陽
君は義平の庶子であったという事実だけで、
源氏の棟梁への道が閉ざされていたと断言するが、そんな簡単に言い切っていいものなのか?
三浦氏の庶流の和田氏の隆盛はどうだ?
不確定要素を考慮しろ。
そもそも頼朝が東国政権を樹立できたのも、前例なき事態ではないか。
君は歴史を、あまりにも結果から眺め過ぎている。
正嫡の忠通公を押し退けて寵愛された弟の頼長さんアッー!
711 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:33:52
頼朝があと10年長生きしていれば 頼家の政権が盤石になって
北条紙は ただの一御家人になっていただろう
北条紙は それを阻止するために頼朝を暗殺し
頼家を虐げ 政権を奪っていった
OK?
712 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:45:55
>>711 推測としては良いかも。
有り得ないとはいわないが一つの仮説。
真実は分からないな。
713 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/16(月) 23:58:43
>>709 ふーん。だから?
>>710 それ間違いだよ。頼長は忠通の嫡男としての養子だったんだから。
実子基実が生まれたんで忠通は頼長を疎んだのさ。
知らなかったの?
あんたの与太話は忠通の実子である慈円の著した『愚管抄』が
流布したデマ。
お分かりかな。
やっぱ素人だな。まあどうでもいいが。
714 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 00:02:19
>ふーん。だから?
ほら、不用はこの程度。
正論を言われると、逃げるしかできない。
715 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 01:00:40
>>711 何それ?北条氏が一御家人におさまるわけないよ。歴史が証明している。
716 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 07:13:15
ブヨーはプロ?
何のプロだか知らんが馬鹿には違いない
717 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 08:03:18
教師はプロじゃない。
大学教授じゃないんだから。
718 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 08:40:00
『光の速さでマスかいたらどうなんの?』っと、
/⌒ ⌒\ )
/( ●) (●) \ )/⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y丶
/ ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
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\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ カ
| l l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l カ タ
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. タ
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
┌┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐
,. - ''"| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ρ ̄`l
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ ̄ ̄
____
/::::::─三三─\ 正確に考察すると、光速に近づくにつれ、
/:::::::: ( ○)三(○)\ 加速させるのに必要なエネルギーは無限大に近づく。
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | ________ ある瞬間お前の代謝量は肉体のエネルギー総量を超えおまえ自身が消滅する。
\::::::::: |r┬-| ,/ .| | | 残るのは光速の手とチンコのみ
ノ:::::::: `ー'´ \ | | |
719 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 11:09:40
ドドドドドドドドドドドド!! |風| _ |風|
|林| _ .|風| |林|
|火| |風| .|林| |火| コッペパ〜ン
|山| |鈴| |火| |山| ジャム塗ったらあ〜んパ〜ン♪
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|火| |山|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄(_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚)|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ(  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
||` || ( | ( |(´⌒(´ ||` || ( | ( | (´⌒(´⌒;; (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
>>713 >やっぱ素人だな。まあどうでもいいが。
滑稽だよ、おまえはw
武陽は視野が狭い
722 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:54:29
ブヨーは馬鹿
句読点つけている奴が不要印紙よりもウザイナ
不要印紙はNGできるがこいつはコテ使ってないから面倒だ
句読点で頻繁にレスしているのもコテつけろや
725 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:53:17
>>703 ブヨではないが
ヒント
曽我五郎時致
北条小四郎義時
726 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:14:45
>>725 時政が四郎で、その嫡男だから小四郎って言いたいの?
でも本来の嫡男は三郎宗時だろ。義時はその弟だから
「四郎」なのにすぎないでしょ。
何で長男ってことになってる宗時が「三郎」なのかを
考えるべきじゃないかな。
727 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:12:15
こりゃまた舞踊並の痛い香具師登場か?
長男が太郎と名のらないといけない決まりでもあるの?
728 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 12:38:31
曾我兄弟の兄の十郎祐成は曾我家で元服
弟は出家する予定で寺に預けたのだが、脱走して
北条時政が烏帽子親となり元服した
北条義時が小四郎だったから、その次に元服した曾我弟には五郎時致とつけたと思われる
祐成が十郎となったのは おそらく曾我家内での関係からだろう
729 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 13:21:07
>>727 頭悪いな。曾我兄弟が10郎5郎と名乗ったのは何故?という質問があったから
考えたにすぎない。ぼく自身は通称なんかどうでもいいとおもうけれどね。
730 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 13:51:31
>>729 真性バカ登場?
何をどこで考えたのか、あなたの脳内での出来事は
他の人には分かりませんが
731 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 15:24:51
725には、703(十郎五郎の順番が逆である理由を知りたい)
のヒントが書いてあるのに
>>726は 頓珍漢な言いがかり
732 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 15:58:13
あのね。
>>676に「なぜ兄が十郎で弟が五郎なの」って質問があったでしょ。
それに
>>725が「ヒント」として二つの例を挙げたわけだ。
ぼくはこの「ヒント」みたいな書き方が好きじゃない。俺は知ってるけど言わない。
ヒントをやるから、おまえら考えろ、みたいに受け止められるから。
まあ、ヒントの一つが「曽我五郎時致」じゃどうしようもないから、この時点で
まじめに受け止める必要はホントはなかったわけだけどね。
733 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 16:05:02
732の続きだよ
だけど、何でこの人は北条小四郎義時をヒントとして挙げたかを憶測したわけだ。
義時は次男。それなのに二郎ではなく、小四郎。そうすると、725は726
のように考えて、「生まれ順で太郎、次郎、と呼ばれない時にはそれ相応の理由が
あるのだ」と結論づけたいのかな、と思ったわけだ。曽我十郎、五郎も同様だ、
と言いたいのかな、と。でもそれは正しいんですか、と聞きたかったのだよ。
わかった?
734 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 16:34:25
頓珍漢が さらに頓珍漢な言い訳始めたが
意味不明
735 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 16:39:37
五郎時至の時は 北条時政からもらった字だろ
736 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 16:46:10
普通 四郎とくれば五郎と連想しないの?
737 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 17:47:12
四郎→五郎
時致←(義時)←時政
という発想ができなかった時点で
>>725のヒントは
無駄だったということ
逆に禿しい勘違いが発生した
738 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 23:39:58
曾我兄弟は実父河津祐泰の敵、工藤祐経を討つと同時に
祖父、伊東祐親の敵、源頼朝も討とうとしていたらしい
北条時政の前妻は伊東祐親の娘だから、曾我兄弟にとって
時政は義理の叔父にあたる
1193年の富士の巻き狩りで、曾我兄弟を誘導したのは時政に違いない
頼朝暗殺は失敗だったが、範頼が謀反の疑いをかけられて頼朝に殺された
739 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 00:03:03
頼朝は落馬が原因で死んだと言われているが、近衛家実の日記「猪隈関白記」に
「前右大将源頼朝卿、飲水の病、御逝去」とある。「飲水の病」とは糖尿病のこと。
740 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 01:19:40
頼朝は若い頃から太っていたから糖尿病でも不思議ではないが
糖尿病だけでは死なない
糖尿病に感染症を合併したりすれば死ぬこともあるが
近衛家実の「猪隈関白記」の記録も伝聞だろうから、真実は分からない
741 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 01:32:51
頼朝には糖尿病があったから、落馬した際の傷が
悪化して死亡したという可能性はある
しかし正式な記録に残っていないのが怪しい
やはり北条氏による陰謀か
742 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 01:45:14
千葉市にある将門の七天王塚も祟りが恐れられている
そのため、千葉大学医学部は病院を新築する際に
七天王塚を避けて、旧病院と500m以上離れた場所に
新病院棟を建てることになった
743 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 07:22:27
貴族の日記は質の悪い週刊誌
744 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 08:47:55
範頼が頼朝より長生きしていれば 北条氏の陰謀は
かなり進行が遅れただろう
もしかしたら範頼の家系が将軍になったかもしれない
745 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 15:28:58
読まないように。
細村香奈という中学2年生の女の子が夜道を歩いていると男3人にレイプされました。
彼女は必死で抵抗しましたが男3人の力に勝てるわけでもなく、まだ14歳という年齢で知らない男達に犯され、口封じとして殺されました。
男達は別に罪の意識など少しも、欠片もありません。
彼女は成仏出来ないまま、自分を犯した男達を探し続けています。
この話を全部読んでしまった人は必ず、他のスレ5個に同じ内容のレスを貼り付けて下さい。さっきも言いましたが、ここまで読んでしまったなら張り付けるほか方法はないです。殺されてもいい人は関係ない話ですが…。
・有村奈津実
・清中みずき
・鈴鹿陽一
・村上梓
・畠山龍夜
・野口太一
上の人たちはこのチェーンレスを貼り付けなかった為に殺されました。
細村香奈に…。
そして、また無視される全成(時政の娘婿)
阿野全成の能力はどの程度のものだったのかな?軍勢の指揮は範頼・義経に
劣るだろうし、実務能力は大江広元・三善康信に敵わないだろう。範頼・義経が
失脚したのも、理由はともかく頼朝が自らの立場を脅かすと警戒したからで、
二人が有能だったことの裏返しだろう。
全成が頼朝の粛清を生き残ったのは忠実なこともあっただろうが、頼朝を脅かす
政治的野心・力量を持たず、無害な奴と思われていたのかもしれない。
748 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 19:58:11
義経は馬鹿だから利用されるだけ利用されて、捨てられた
一度ならず二度までも、頼朝を無視して勝手に官位もらってるんだから
頼朝政権にとっては裏切り者
もし官位問題がなくても、いずれは範頼のように殺されただろう
749 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 21:44:06
いやそうじゃなく、全成の存在こそが、頼朝=ネクラ、粛清大好きみたいな評価を
変える傍証になるんじゃないかな。頼朝は故なく肉親・家臣を殺してないと思う。
義経は官位の問題。範頼は北条時政や大庭景義ら、老人世代の謀反。
政治的に問題がなければ、全成みたいに生き残れたんだよ。
750 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/22(日) 22:01:38
751 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 22:16:38
>>749 摂津源氏の多田行綱、甲斐源氏の安田と一条、源有綱(頼政の孫)
みんな、頼朝に粛清されている。偶然とは思えん。
>>747 全成は頼朝に粛清されずとも次の頼家には粛清された。
あんたの理屈からいえば「有能」ということになるが、
そもそも個人的な能力なんてのは二の次。
権力者がある人間を警戒するのは、そいつの置かれた政治的立場。
753 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 23:46:10
>>750 また出てるのかよw
いい加減皆から嫌われてるって気づけw
754 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 01:17:44
義経に相応しい格言
「狡兎死して走狗烹らる」
平家が滅んだら、阿呆軍人義経は用なし
義経の出し汁も有効利用(奥州藤原攻め)
755 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 01:24:15
天才軍人義経さえいなければ、平家が短期間に滅亡することはなかっただろう
戦いが長引けば、後年の南北朝のように、平家が西国を本拠に安徳天皇を擁して
独立政権を立てていた可能性が高い
範頼中心のメンバーで充分だろ
757 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 05:43:37
範頼だけでは平家には勝てなかった
頼朝が自ら出陣したら、即死
粛清の理由
一条忠頼 「威勢をふるうのあまり、世を濫すの志を挿むの由、その聞こえあり」
安田義資 女房の聴聞所に艶書を投げ込む
どう考えても、言いがかりとしか思えません。
759 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 06:24:47
頼朝がいなければ日本は平和な国家になってた
武力で政権や土地を強奪するあたりは、大規模な強盗
従わなければ殺される
760 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 06:35:22
摂関全盛期の辺りから、強盗や殺人者が闊歩していたからな。
貴族が任命される検非違使では太刀打ちできなくなっていた。
武家は、もともと官僚組織に組み込まれた国家の軍隊だった。
国家の統治に最低限の武力は必要、
貴族が武具を脱ぎ捨てて統治できなくなったのだから、どうしようもない。
761 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 06:46:29
平安後期に外国に攻め込まれていたら
確実に日本は占領されていただろう
幸いにも中国は南北朝の混乱期〜腑抜け政権宋だったから助かった
>>758 たしかに言いがかりなんだが、頼朝の死後全成や平賀朝雅が担がれたように
政治的に危険な存在だった訳で、それだけ頼朝の権力基盤が脆弱だったとも言える。
>>757 その頼朝に負けた、奥州藤原氏の立場は・・・
764 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:09:23
藤原泰衡は頼朝より阿呆
秀衡だったら頼朝を蹴散らしていたに違いない
766 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:53:32
義経を擁して頼朝と戦え、という秀衡の遺言に逆らって
義経と義経派の弟たちを殺した時点で泰衡は終わっていた
義経が奥州17万騎を指揮していたら、頼朝を木っ端微塵にして
鎌倉を占領していただろう
767 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:02:06
>>761 軍団兵士制(一部)も健児制も一応生きてたし
職業軍人みたいな兵もいたから大丈夫じゃね?
まあ、唐みたいな巨大勢力が消えたからこそ軍団兵士制度が廃止された
わけだし・・
768 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:21:48
国家の軍事制度が崩壊したから、頼朝のような強盗がのさばるようになった
そして日本は700年ちかく強盗集団に国が乗っ取られた
後醍醐天皇は無視か・・・
770 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:39:19
>769
後醍醐天皇は自ら甲冑を身につけることは一度もなかった。
自分自身が合戦に出ることもなし。
なんのこと?
772 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 06:13:37
頼朝に攻め込まれた時は、奥州藤原氏は最弱状態
秀衡から泰衡への代替わりに加え、義経一派粛正で
家臣の統制もとれていなかった
義経じゃ無理だよ
最終的には決まって政治力がものを言う
頼朝を極悪人に仕立て上げたのは北条一族だ
乗っ取ってプロパガンダして源=悪
北条=善みたいな図式を作り上げたんだ
徳川みたいな一族だ
吾妻経はただのプロパガンダだろ
頼朝可哀想だよな 北条家に乗っ取られた事にだけは同情するよ
あとは悪い奴でいいけど
777 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 01:44:31
北条は質の悪い寄生虫
最初は宿主と共生していたが、宿主の体を乗っ取り
やりたい放題
父子先祖代々で何百年も武家運営してきたのに
一番ビックになったとき北条みたいな権力に卑しいクズどもに
奪われるなんて 気の毒だな 源頼朝
さん
せいぜい200年
780 :
北条時政:2007/07/27(金) 20:16:13
悲惨な罪人に人並みの生活をさせてやったのに、
なんということ!!!
北条の力がなければ、頼朝など、
伊豆でのたれ死んでおったわ!!!
781 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 21:06:28
北条時政、義時、政子の源氏絶滅計画は性交しました
782 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/27(金) 23:31:45
>>775 吾妻鏡が頼朝(ついでにいえば景時は陰険に、頼家は放埒に)を必要以上に冷酷に潤色しているのでは?
という推論を何人かの中世史家は述べている。
静が義経を恋い慕う舞を舞ったとき、色をなした頼朝を取り鎮めたのは政子だった…
という逸話は吾妻鏡だけにある話だが、どうも政子が美化されているようだ。
頼朝の義経苛めも吾妻鏡は明示的に描いている。
吾妻鏡が義経に少しく甘いのでは…というのも、ある碩学の中世史家によってつとに指摘されている。
頼朝が義時の嫡子泰時を誉め称えた、という吾妻鏡の記事も想起されたい。
783 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/27(金) 23:36:32
>>752 分際を知るのは才能さ。
本当に有能な人間なら権力との距離を弁えるね。大江広元なんか巧く生きたなって私は思うな。
ちなみに広元は景時とも仲良かった。
784 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/27(金) 23:40:32
>>758 安田父子、範頼は曽我兄弟に荷担してたって推論がよくなされる。
史料がないから真相は闇だが。
785 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/27(金) 23:44:20
>>744 範頼過大評価し過ぎだよ。
九州じゃ頑張ったけどさ、そこまでいいきるのは私情が透けて見えちゃう。
あなた、(系図上)範頼の子孫でしょ。
786 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 00:01:36
>>753 2ちゃんねるが生活のすべてになっている君にとっては、2ちゃんらーに嫌われることは死活問題だろうが
(何年か前、バスジャック事件を引き起こした少年の犯行のきっかけは、2ちゃんねるで仲間外れにされたことからだったという)
私にはとうでもいいんだな。
ぶっちゃけ全員に嫌われたって、実生活が脅かされる訳じゃなし。
私は識者が読めるレベルの書き込みしてんでね。
マトモな方お一人だけにでも読んで頂けたらそれでいいの(まあ実際はどうか分からないがね)。
お分かりかな?
孤独なちゃねらー君。君の執念深さヒマ有りすぎさ、そしてそのストーカー気質は、犯罪を犯す素質十分だと思うね。
気持ち悪いよ。マジで。
787 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 02:33:24
またブヨが出しゃばって御託を並べてる
駄文の連投じゃあ読んでもらえんぞ
もう少し頭を整理してから出てこいや
788 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 03:08:05
>>787 うるせーぞ。
ストーカー。てめえに読んでもらいたくねーよ
789 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 03:14:50
>>786 × 2ちゃんねるが生活のすべてになっている君にとっては
○ 2ちゃんねるが生活のすべてになっている俺(武陽陰士)にとっては
>>783 > 分際を知るのは才能さ。
> 本当に有能な人間なら権力との距離を弁えるね。
弁えたくても出来ない場合もあるよ。
血筋とか家柄とか出自が重く見られる時代なんだから、
当人が好むと好まざるとに関わらず、
否応なく政治的に重要な立場に置かれることも多いでしょ。
791 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 08:32:53
792 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 08:35:18
>>789 一週間ぶりの書き込みだ。いいストレス解消だよ(笑)。
せっかく平和が戻ってきたのに
コテはずせよ
794 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 09:08:33
795 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 10:31:57
>>794 >無視すれば?
ファビョりまくってるお前が言っても何の説得力も・・w
796 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 10:46:01
>>795 バーカ皮肉だよ。悔しかったら学問的に反論してみろW
797 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 21:31:38
不要因子の言う学問的な反論
709 :ドク・マッコイ:2007/07/16(月) 23:11:00
>武陽
君は義平の庶子であったという事実だけで、
源氏の棟梁への道が閉ざされていたと断言するが、そんな簡単に言い切っていいものなのか?
三浦氏の庶流の和田氏の隆盛はどうだ?
不確定要素を考慮しろ。
そもそも頼朝が東国政権を樹立できたのも、前例なき事態ではないか。
君は歴史を、あまりにも結果から眺め過ぎている。
↑彼への反論
713 :武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/16(月) 23:58:43
>>709 ふーん。だから?
コレが不要の言う「学問的な反論」のようでつw
798 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 22:23:15
プッ、厨房レベルの阿呆が学問だとさ
799 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 22:50:21
800 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 23:13:41
↑必死に冷静を装っておりますwww
801 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 23:14:59
>>798 他人のふんどしで相撲を取る、という諺はご存じかな?
悔しかったらマッコイ程度の反論を書くことだ。
マッコイは確かに正論を述べている。ただし私のレスのコンテキストを考慮してない。
私は為朝義平などに対する過剰な賛美、軍記物に縛られた英雄史観に対して揶揄しているだけさ。
豪傑史観あるいは大衆文学史観と言ってもいいな。
マンガとかゲームとかをやりすぎた子供が抱きやすい史観でもある。
まあ、どちらにしても君には2ちゃんがお似合いだ。
私レベルでなくて、マッコイ程度でもいいから史学的な見方を学びたまえ。
大学に行くことだ。聴講生でもいい。
君に独学は向いてない。
802 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/28(土) 23:18:33
>ドク・マッコイ
早く君と闘りたい。
闘りたいんだ。
一切の制約なしで潰しあいたい。
早く来てくれ。
君じゃなければ駄目だ…。
803 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 23:28:45
あいにく俺はニート、フリーター、定年老人じゃあないから、時間ないし
仮に時間があっても くだらん歴史の抗議聞きに逝く興味もない
それよりお遊び程度の歴史でマジになって吠えてる香具師を見ると
哀れにしか思えんな
舞踊とかいう香具師は、歴史で飯食ってるんだろうから、
少しくらい知識があるのは分かるが
それを自慢げに他人を馬鹿にするのは 人間の屑レベルだね
804 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 23:30:29
>>801 で、お前は論理的な反論をしろとのたまっておきながら・・・
709 :ドク・マッコイ:2007/07/16(月) 23:11:00
>武陽
君は義平の庶子であったという事実だけで、
源氏の棟梁への道が閉ざされていたと断言するが、そんな簡単に言い切っていいものなのか?
三浦氏の庶流の和田氏の隆盛はどうだ?
不確定要素を考慮しろ。
そもそも頼朝が東国政権を樹立できたのも、前例なき事態ではないか。
君は歴史を、あまりにも結果から眺め過ぎている。
↑彼への反論
713 :武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/16(月) 23:58:43
>>709 ふーん。だから?
↑コレだもんなあw
>悔しかったらマッコイ程度の反論を書くことだ。
>早く君と闘りたい。
悔しかったら反論の一つでもすることだ。
805 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 09:37:34
>武陽さん
潰し合いたい、って・・。
大学院生なんだろう?学校に友達いないのか?
ま、それはそれとして、だ。
「武陽」を名乗るんだから、武蔵国の代表的な川の
日の当たる側にすんでるの?この場合、入間川とか大井川になるのかな?
そのネーミングセンスが成人とは思えない
807 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 12:57:51
なんだ、ブヨとかいうのは、引きこもりの歴史乞食なのか
金がなくて古い携帯から書き込みしてるらしいが
きっとリアルでも気持ち悪くて誰にも相手にされてないんだろうな
808 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 13:21:41
>>807 歴史乞食にしては知識や語彙が貧弱すぎる
809 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 20:00:42
みんななんだかだいっても頼朝嫌いだろ?おいらは好きだ
810 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 16:58:50
ブヨーは只の乞食か
つまらん
812 :
809:2007/07/31(火) 01:42:27
なんだレスなしかよ。
なんかみんなブヨーに洗脳されすぎだぜ
あぼーんしろよ
813 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/07/31(火) 22:55:46
>>805 ふだん好い人やって猫を30匹くらいかぶってるから、2ちゃんねるくらいハジケてみたいもの。
君もそうじゃないのかな?
友達を潰したら友達とせっかくの良い関係がギクシャクするし、知り合い潰したら敵を一人つくることになる。
逆に私が潰されたら(ありえんが)ヒステリーを起こして友達嫌いになる。知り合いは無視する……なあんて嫌じゃない?
ああ猫が30匹カラダに載かってるが、不思議と肩こりないな。武道やって鍛えてるせいだな。
ま、弱いけどね、私。稽古も最近サボってるし。
2ちゃんねるに書き込みしてる時点でヤキが回ってる。
814 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 23:16:08
スレと全く関係ないことを、得意げに書き込んでる馬鹿がいるが
気持ち悪いから氏ねや
815 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/01(水) 00:06:41
>>814 ふふふ悔しいか?
だからトラウマになるといっただろ(笑)
816 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/01(水) 00:09:26
>>806 君が近世史については無知だということが
よく分かったよ。
まあ勉強してくれたまえw
817 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 00:57:05
>>813 おや?また出たのかい?懲りないね。
友達もいないくせに、良くもハジけるだの猫かぶってるだの言えるね。
それと、武道やってるって?嘘をつくなよ。
「武道をかじってる」だろ?
君の書き込みは、知識人の教養も武道家の礼節の欠片も無いじゃないか。
人に非難されれば罵倒で返し、論理的な反論を全く行わない。
他人の忠告を受け入れもしないどころか、自分を客観的に見ることもしない。
それでいて自己を過大評価し、他人を見下そうと必死になる。
君が現実世界でどうだろうが知ったことでは無いが、君は間違いなく人間と
して最低の部類に入るね。
教養と礼節を身に着けてからまた来なさい。
ハッキリ言って、君の妄想オナニーにみんな迷惑しているよ?
818 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/01(水) 01:21:10
>>817 武道家って、けっこー人格酷い人多いよ。
君は武道を過大評価しすぎるな。ま、幻想だよ。
良い奴は良いけど、嫌な奴は極端に嫌な奴だよ。(誰かさんのようにだって?うるさい(笑))
あぼーんすりゃいいじゃない?
私はいっこうに構わない(とはいうもののあぼーんの本当の意味が分からない。書き込みが消えるのか?)
ああ眠い。寝よっと。
追伸:武道は「やってるだ」で正しい。だから私は武陽陰士という。私は一応ウォーリアーなのさ。武士なんかが「武道かじってる」なんていわないだろ?ただやってる。空気吸うのと同じね。
ドゥユーアンダスタン?
819 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:33:09
>>818 >君は武道を過大評価しすぎるな。ま、幻想だよ。
武道の基本となる礼儀さえも理解できないなら、弱くて当たり前だね。
>嫌な奴は極端に嫌な奴だよ。(誰かさんのようにだって?うるさい(笑))
うん、君のようなヤツを今まで沢山見てきたけど、大体皆にハブられていたな。
>あぼーんすりゃいいじゃない?
君もね。
>私は一応ウォーリアーなのさ。武士なんかが「武道かじってる」
なんていわないだろ?
武道かとは、武術と礼儀双方を備えて初めて武道家と言う。
ただ柔道ができて、傲岸不遜なヤツが柔道家と言えるかな?
ちなみに、武士とは日本史上に現れた特定の職業ないしは階級を指す。
武道=武士は勉強不足だよ。
お分かりかな?
ブヨってこの時期ウザいよね。
死ねばいいのに。
821 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 08:14:57
822 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 12:41:52
「頼朝さんはもっと評価されていい。一万人の族の頭だった俺でも幕府は開けない」(お塩学)
823 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 13:13:20
>>818 またしてもブヨーがファビョっておりますwww
よっぽど悔しかったのでしょうwwwwwww
824 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 18:09:35
ブヨー、リアルで犯罪を起こさなければいいが
825 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 18:44:25
>>824 そんな気概はねーよw
せいぜい日頃の鬱憤をここで晴らすくらいだw
ストーカーならやりかねんかも・・・
武陽さんよ
>>659でスレに沿った内容だけレスするって
言ってくれたのになんでまた煽りに乗ってるんだよ
頼朝叩きの多いこのスレで
あんたはどっちかいうと親頼朝的意見だったからちょっと応援してたのに…
827 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 14:05:10
「ブヨの耳に念仏」
これを諺に加えれ
828 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 16:12:36
ブヨに真珠 こっちのほうが よくね
ブヨに効く薬はない
ちょっとリアルすぎるかw
830 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:13:16
ぼくは武陽じゃなく、おっさんであるが、
武陽=バカ、の図式にのってるだけのヤツが多すぎる。嘆かわしい。
武陽の書き込む「どこ」がバカなのか、一歩踏み込んで書けない子には
良い点がやれない。もう少し、頭使いなさい。
831 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:58:51
832 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 01:32:35
頼義以来の通字 「義」をもらえなかった時点で
頼朝は嫡男失格
OK?
833 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:21:04
頼朝は源氏の出し殻みたいなもの
親類が死にまくって 生き延びた頼朝が美味しいところを掠っていった
そして、それを嫁の実家が掠った
834 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:08:10
異様な頼朝叩きのスレだなw
鎌倉幕府の機構を築き上げたのは頼朝の功績
京都から学者を呼んでまで築き上げた
守護、地頭や記録所などの機構は
鎌倉時代を通じて機能し続けた
文官としての頼朝の功績を一切無視とは
無茶苦茶だな
最早戦国板以下のクオリティーかもな>日本史板
そこにぶようがいるから>日本史板
837 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 11:25:50
「鎌倉殿」ということは、「鎌倉頼朝」でいいのか?
鎌倉頼朝?
伊豆頼朝?
838 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 12:20:50
頼朝は足利、山名、平賀など、血のつながりが遠い連中を御門葉にしたのに、
なんで範頼とか全成を一門扱いしなかったんだろう。
範頼、全成、義経、義仲の息子、こいつらを一門としてきちんと遇しておけば
北条ごときに乗っ取られることもなかったのにな。
悪源太ファンの俺だが、頼朝が武家政治を始めた事は、
あらゆるマイナス要素を差し引いても、武士にとって
源頼朝が最大の存在である事は異論ない。
頼朝の成果とされているもののうち、確実に本人が考えて決断したという証拠のあるものって何かある?
または、北条氏に逆らってまで頼朝が自分の意志でやったことって、何かあるだろうか?
頼朝は少年時代から上西門院の御所で客の接待とかしていたし、(ソース「山槐記」保元四年(1159年)二月十九日条)
本当は京に帰って下級でもいいから貴族として暮らしたかったってことはないかな?
平治の乱では父親に無理やり武装させられたものの逃走ルートでは根性なくて脱落するし、
鎌倉では政子にストーカーされて嫌々ながら結婚して北条氏に操られて、源氏の棟梁として祭り上げられただけ。
頼朝は娘の入内を口実に京に帰りたいのに、北条氏がそれでは利用しにくくなるから、止めさせた。
京に帰りたいよぉー、もういいかげん東国の無骨な武者たち嫌だよーと言いながら死んだんじゃないかと思っている。
捕虜の平重衡を大事に扱って、宴席をもうけたエピソードなんかは、京へのホームシックや
つかの間でも宮廷文化を味わいたいという、頼朝のささやかな希望が垣間見られる。
看守が平氏から北条氏に代わっただけで、頼朝は一生、虜囚の身だったといえるのではないか。
841 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 16:01:12
>>832
本拠地の関東を支配する嫡男の義平を京都・尾張からサポートするのです。
842 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 16:10:41
強い武力を持ちながらも結局は形式的には
朝廷の出先機関のようになってしまった鎌倉幕府。
どうすれば東国国家としてタメをはれるようになれたのか。
とりあえず、京都から将軍をむかえたり、朝廷の官職体系に
飲み込まれるようなまねはやめてくれ。
そうすりゃ越後、遠江(三河?)、信濃から東は完全に別の国家に。
843 :
842:2007/08/04(土) 16:17:37
京都公家>関東武士という見方は完全に京都中心のもの。
もし関東が独立国家になったらすぐにでも逆になるさ。
人生50年、考えが遺伝するわけじゃなし、100年もたてばすべて変わる。
>>842 > とりあえず、京都から将軍をむかえたり、朝廷の官職体系に
> 飲み込まれるようなまねはやめてくれ。
やめてくれって、今さら何言ってんだよw
> そうすりゃ越後、遠江(三河?)、信濃から東は完全に別の国家に。
妄想するのは自由だけどさ‥‥夏だなぁw
妄想だろうと、なにか考えてみて楽しむ姿勢は
夏夏夏夏否定するだけよりは
有意義なような気がするぞ
846 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 11:31:30
>>845 それが実りある議論に繋がるなら良いが、妄想じゃあな・・・
847 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/05(日) 17:13:01
>ストーカーぷーさん
ぷーさん、マジで私をストーカーしてるよな。
行き先々に現れる。この執念(笑)
書庫が妄想ってことで、君はいろんなことバレバレだよw
そうかそうか、そんなに図書館の書庫に入るのが珍しいんだ(笑)
うひゃうひゃひゃーw
バカだねー(笑)
848 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:14:43
この不要印紙って奴は、井沢元彦『逆説の日本史』14ってスレで
信長公記を手元に持っているとほざいておきながら、トンデモな
発言をして今集中砲火を浴びている奴なんだw
まともに相手しなくて良い。
な、不要印紙w
信長は、位牌に灰を・・・だそうだw
849 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/05(日) 17:18:19
851 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/05(日) 17:36:57
おまえイイよ。面白いよ。
しかし後腐れねーってのはホント楽しいな。
怒りが見えるよ、おまえ。
それいいな。
ぷーさんの怒り。うーんいまいちw
852 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:43:40
コテハンは実際後腐れありありだろうな
853 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/05(日) 17:46:58
さてストレス発散出来たことだし
退散しますか。
みなさんありがとう。
また今度付き合ってちょ(^_^)v
854 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:20:01
ブヨー、ストレスこんなとこで発散するなよ。
おまい学問に命かけてんだろ?
ちっとは慎め。
おまいらもブヨーに煽られすぎ。
しかしぷーさんはネーミングうまいなw
855 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:58:22
頼朝スレのストーカーぷーさんBy不要印紙
ぷーさんゴメンm(_ _)m
856 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:36:18
土木作業員の56歳、加齢臭か・・・・
ティムポもくっさい刺激臭なんだろうな〜
857 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:12:41
ああ荒れちゃったよ。
いいかげんやめれ、おまいら
ageてるのは全てぶようの自演じゃないの?
859 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 21:50:17
[sage]
アゲちゃいかんのか…すまない
もとい
スレ元に戻せ
862 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 21:57:19
863 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/05(日) 22:21:00
なんでもいいが、せいぜい頑張ってくれ。
マジでいいストレス解消法だ。
どんな不満もこのゴミ溜にブチまけりゃすっきり。
どうせバカばっかだし。
しかし2ちゃんの日本史板って院生レベルの奴すら書き込みしてないんだな。
院生なんてけっこーヒマジン多いんだが。
ここくりゃチンケな研究者でも権威だな。
基本ない奴ばっかだし。
さあて今後も頼むぜ。怒れよw
864 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:08:05
>>863 また来たかw
今日も現実世界で相当いじめられたみたいだなw
お前が涙目なのがわかるぜw
865 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:19:09
日本史なんて役にたたないもので時間を浪費して
自己満足している香具師は馬鹿
一生引きこもりニートやってろ
866 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/05(日) 23:25:01
>>864 君のことかな?(笑)
ま、また明日の夜ね(*^_^*)
867 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:29:58
>>866 おやおや?
逆説スレで連投して疲れちゃったのかな?
よっぽど悔しかったんだろうね♪
何せ罵倒ばっかりのレスを延々とするくらいだからね(笑)
明日からの人生ガンバレw
途中リタイアしちゃダメだぞw
武陽さんはロリヲタで女らしいが
869 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:46:06
ブヨって女?
山田花子みたいな顔してんだろ、どうせ
870 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/06(月) 00:19:27
↑ストレスは体の毒。
セックスするかオナニーするかして、おネムしなさい。
871 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 00:21:39
セックスかオナニーでしか欲求不満を解消できないなんて・・
そういう思考しかできないなんて・・・
やっぱ中卒だなw
872 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/06(月) 00:37:05
>>871 専攻には関心あるが学歴に興味ないのだが。
君は学歴コンプレックスがあるのかな?
力抜けよ。
人間の価値は学歴では決まらないぜ。無理すんなよ(笑)
873 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 00:59:15
ここは「武家社会開祖:源義平」というスレなのに・・・
ちゃんと関係あること喋れよ
874 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 00:59:43
>>872 あれ?ゴメンwイタイとこ突いちゃったねw
ゴメンネ(^^)v
875 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/06(月) 01:10:02
いいよおまえら最高だ。
もっと来いよ。
たまらないな。
悪意敵意もろもろぶつけて来いよ。
私も全力で罵倒するよ。
最高だ。気持ちイイよー。おまえらに愛すら感じる。
ウッヒョーだぜ
876 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 01:39:43
うわ・・・キモ・・・
>>840 そういう小説でも書けば?
忠臣蔵をバカにした芥川龍之介みたいで
一部のアホにウケるかもよw
878 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 14:00:48
頼朝が氏んだのは49歳か
死因がうやむやにされて葬られたのは怪しいな
北条一族にやられたに違いない
879 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 15:10:28
880 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/08/06(月) 21:05:27
>>878 当時としてはマアマアの寿命だと思うけど?
暗殺されたにしても
落馬なんて格好悪い死因はやめてほしかった
882 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 20:50:59
頼友は昔から馬に乗るのが下手だった
工作は得意だった
>>881 愛人の所へ忍んでいったら、護衛につけておいた安達盛長に、賊と間違われて切り殺されたという説もあるけど
頼朝は好きだけど政子は嫌い
スレも終盤なので、争点を整理してみる。
頼朝は、武家政権の朝廷からの独立を目指した革命家か?
荘園制を維持して、貴族政権を保護した現実主義者か?
頼朝は、東国武士の傀儡か?カリスマ性をもった指導者か?
頼朝は、暗殺か?病死か?
義朝の後継者は、頼朝か?義平か?
頼朝の死因については、『吾妻鏡』に建久7年(1196年)〜建久9年(1198年)の
記事がないので、千日論争をしても結論は出ないだろう。
>>885 頼朝は関東を朝廷から独立させることを目指しただろうけど、頼朝の個人的な考えという訳ではなかっただろう。
北条時政とか他のブレーンもいただろうし、東国武士がそれを望んでいたから支持を得られたという事もある。
そういう意味では東国武士の傀儡とも言えるな。まぁ、バラバラだった武士団を纏め上げれたのは、たいしたものだが・・・
幕府の創設者の死について「吾妻鏡」に記載されてないってことだけで、まともな死に方じゃなかったってことになると思うが・・
老衰にしても病死にしても、畳の上でのまともな死なら隠される必要がない。
義朝の後継者がどちらであろうと構わないんじゃないか?
義平は処刑されてるんだし、頼朝が源氏の棟梁となることに何の後ろ暗い所もないだろ。
義平生前の頃から、頼朝が嫡男扱いだった(らしい)という話かな。
母親が遊女と熱田神宮の娘という差だったためとか。
888 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 16:18:48
話を戻すようだが、義平が生きていれば頼朝は嫡男になれなかった。
義朝が頼朝を後継者と宣言しても 義平に武力で滅ぼされただろう
>>888は正真正銘の馬鹿
嫡男と当主の違いも分からない小学校中退野郎
?
義平が生きてた頃から、頼朝は嫡男扱いされてたんじゃなかったっけ?
源太の産着とか…
それでもなおかつ、父&弟の軍に
義平が離脱して敵対するって事?
たしかに源氏は同族争いが多い。
義朝にしてからが、父や弟たちと折が合わなくて、廃嫡されかかっていたという話があるから、あながちありえないことではないが・・・・・
嫡男扱いにしなかったとはいえ、義朝と義平が特に不仲だったという話は聞かないな。
もっとも、頼朝が成長した後に兄を家来扱いしようとすれば(頼朝ならやりそう)、兄弟仲が悪くなることはありえるかも。
頼朝って本当に源氏なんですか?
>>890 「歴史書に記載されていることは、頼朝が源氏の嫡流であることを正当化させるための捏造」
これで、説明できます・・・いや、本当にそういうことを言い出したら、滅茶苦茶になるけどね
歴史書が政治目的で書かれることはよくあることだし、そのこと自体は否定しないけど、その場合捏造されたと
思う箇所ってどのへん?
>>890 源太産着についていえば作家の海音寺潮五郎が
「源義家元服時に着用した鎧というから相当小ぶりだったんではないか?
ならば当時満12、3歳の頼朝には手頃な大きさだったということに過ぎず、これだけで嫡流決定だとするのは早計ではないか」
というようなことを書いていたな。
確かに源氏重代の鎧というのなら、父義朝も兄義平、朝長も着用していたようだから、鎧だけでは誰が嫡子かは決められないだろう。
896 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 08:13:26
義平が氏んだから頼朝が源氏の棟梁になれた
897 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 09:03:18
わたしの住んでるとこでもその時に力の力の強い者が本家扱いになって
貧乏になったら分家扱いになるよ
昔、図書館で借りた本に、
「頼朝が六位蔵人だった頃、朝長は既に五位 波多野氏が義朝と袂を分かって相模
に帰国した後、頼朝が官位で朝長を抜く事から、
@もともと朝長が嫡男扱いだったが、義朝が波多野氏と離れた為、頼朝が嫡男に
A義朝が頼朝を嫡男とする事を決めた為、それに不満をもった波多野氏が離脱
といった可能性も捨てきれない」
とかいう様に書いてあった 真偽は知らん 作者が誰かは全然思い出せん.....
二個目の理由の方がなんかしっくりくるな
上のは波多野と離れた原因がわからんし
>>898 保元・平治の乱を読みなおす (NHKブックス): by 元木 泰雄 だと思う。
自分も手元にないからうろ覚えだけど。
当初は義朝より母の家柄の良い次男朝長を嫡男としていたが、
波多野は保元の乱の対立軸で頼長サイドの人。だから、忠通サイドに付くことに決めたときから、
三男の頼朝が次男の官位を抜かすことで、嫡男にすることに決めたのではないかと。
頼朝の母の実家の熱田神宮は忠通との関連も書いてあったような気がするが覚えてない。
三行目 訂正
× 義朝より → ○義平より
まぁ、義朝も母不明だから義平と同じようなものかもしれないが。
902 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 12:55:51
義朝の母は分かってるのでないの?
藤原分家の端のほうの娘
母の父は、どこかの受領やってたが、義朝誕生の時には氏んでたらしい
歴史読本か何かにのってた
903 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 08:13:58
>>901 義朝の母は、白河院近臣、淡路守藤原忠清女。
義朝は都で誕生している。
朝長の母の出身、波多野氏は摂関家領の荘官。
頼朝の母の出身、熱田大宮司家は後白河の近臣。
義朝は、「保元の乱」で半壊状態の摂関家よりも後白河に
接近した方がメリットがあると考え、朝長から頼朝に嫡子を
変更した。その結果、憤慨した波多野義通(朝長母の兄)が
相模に帰ったようです。
905 :
松平鶴千代:2007/09/16(日) 16:45:00
そのとおり頼朝の母は
熱田大神宮家の娘にして
当時の熱田大神宮家は
三河額田郡方面の開拓領主の藤原北家の流れを汲む藤原某が
途中から入婿という形で乗っ取った流れなので
摂関家の流れも汲み、尾張、三河に絶大な影響力をもっていた。
北家じゃなくて南家だけどな。
平治の乱の逃避行で熱田大神宮家まで辿りつけば運命は変わったかな?
父の地盤を継げなかった
義朝の武力は坂東
しかし出世は京でなければ出来ないから京都での朝廷の中の源氏の嫡男が頼朝 坂東を実効支配する武家の棟梁としての義平でいいんじゃないかな?
武力を持ってなきゃ義朝なんて朝廷で下級役人にも
なれないだろうし
個人的には悪源太がやっぱり好きなんだけど 平安時代が続けば義平が
坂東でどんなに力つけようと中央で高い官位にある
頼朝には勝てないよね
908 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 11:09:58
>>907 義朝は京都生まれだったのに、父為義と不和になって、自ら坂東に下ったんじゃなかった?
義朝の父為義は中央で官位を受け、最期まで活動の中心地は京だったし、
為義の側に常にあって嫡男扱いを受けていたのは、六条重俊女を母とする弟の義賢だった。
義賢は異母兄義朝が坂東武士団の支持を受けるのを脅威に思い、
自ら源氏の嫡流として中央の官位も関東武士団も手に入れるべく関東へ下向するが、
甥の義平がこれを殺害。
下手に坂東に下らなければ、こちらが嫡流になっていた可能性もある。
>>908 父の地盤をまったく継げなかった義朝は坂東で自らの地盤or武力を作るしかなかったんだね
それをして京に乗り込んだと
義賢は為義の意を受けての行動だろうけど
坂東で地盤を無くす事は
義朝にとって全て失う事になるからやっぱりただじゃすまないよね
なんで為義は義朝をそこまで邪険にしたんだろうか?平安時代が後50年でも続けば京の義朝、頼朝親子と
坂東の義平でかなりいい感じになりそうなのに
連投ごめんよぅ
>>908さんのレス読んでて 思ったんだけど義朝は最初から嫡子扱いはされてなかったんじゃなかろうか
少年義朝を為義が勘当同然にしたのは内外に義朝は
河内源氏の跡取りではないとゆう宣言とゆうか
坂東では義朝の我こそは
河内源氏の棟梁ってハッタリを信じるものがいたけど義賢とゆう本物が坂東に
下行してきて亡きものに
しないと単に勢力争いに
止まらず義朝が坂東で築いたものの根底が覆されるとゆうか
でないと義賢を殺すに至るは為義との完全な決別に繋がる行為である事は誰でもわかると思う
保元の乱までは八幡太郎の正統な後継者と世間が認めるのは為義、義賢、頼賢だったのでは
義朝は、保元の乱で恩ある上皇方を、自分の親族もろともブッチして
天皇方についた事といい、腰抜け稚児の信頼あたりと手を結んで尚且つ、
怒りにまかせて見捨て、最期も乳兄弟の舅に殺されるあたりが、
相当資質に問題があると思うんだが、これは僕の知識不足かなぁ。
関係ないけど、騎馬での射撃って(基本下馬らしいけど)、
あっても移動しながらは無しなのかな。
進行方向まっすぐには討てないよね。
流鏑馬は真横だし、どうもイメージできない。
>>911 記憶違いだと申し訳ないんだけど後三年の役の絵で馬を駆けて敵を追いながら矢を射てるような
違ったらすみません
義朝はそういう事考えると坂東あたりじゃ相当非合法な事もやってそうだね
保元の乱で清盛と差が詰らずに開く一方だったのは
京の公家達がアウトローな義朝の本人の資質の部分があったのかも
実際に都で嫡流を堂々と
名乗れたなら保元の乱後の処刑でいくら朝廷の命令とはいえ為義の幼子まで皆殺しにする必要なかったかも長子であるって事だけで
京界隈では為朝みたいな
目で見られてたのかな
>>911 >>900で挙げた本によれば、後白河の男色相手としての寵だけで出世した能無し、デブで馬にも乗れないと
平治物語その他で散々いわれている藤原信頼は義平が義賢を襲ったときの、武蔵守であり、信頼の了解が
あったから、出来たのではないかと問題提起しているよ。
実は、信頼と義朝の縁は保元の乱の論功の不満とか、信西がウザイとかいう次元の低い話じゃないという説。
親からに勘当同然で、官位官職もなく坂東をさすらった義朝が徒手空拳で地盤を作ったとすると、
ラオウみたいな覇者伝説かよ!ってことになるから、信頼が支援したのかもね。
>>913 実際、坂東に下行当時は
言葉は古いけど愚連隊や
暴走族の大将みたいな感じで乗り込んだのかも
そのうち信頼の実行部隊
みたいな仕事もしてたりして
>>913 それならそれで、義朝が平治の乱に敗れた後、信頼を見捨てているのは大問題で。
普通なら護って落ちるでしょ。
>>914 個人的に、当時の坂東は「愚連隊が普通」と思ってます。
なにしろ、悪いことしても取り締まるのが、最終的に地元の侍たちなのですから。
軍隊を放棄するというのは、、もう1000年前にやって、どうなるか
(侍その他僧兵、神人など、自衛する)は分かっているはずなのに、
人は歴史から学びませんね。
>>915 なるほど、その頃の状況を考えたら、信頼と義朝が
悪徳政治家とその筋の人の関係みたいにみえてきた
もしそうゆう関係なら
信頼を見捨てるよね
個人的には義朝って嫌いではないんだけど物語の中と現実はやっぱり違うね
すみませんちと低レベルなレスで
>>908 義賢の子である仲家が、源頼政の養子になっているのは、為義の嫡孫という打算もあるのかな
嫡流を決めるのは父の影響もあるが、それ以上に、
この階層(受領)だと、上の引き上げが重要でない?
保元の乱と言う軍事衝突がなくとも、
忠通と頼長の争いは、乱を待たずに実質的に忠通の勝利してたし(氏の長者がネックだが)、
新院の院政は子でない弟の後白河が即位した事でないし、新院に頼って悪評高き頼長の再浮上もまずない。
結果、為朝の他の息子が頼長を頼って義朝を超す事は無理で、
そうなると忠通方の義朝が自然に嫡流となったかも。
あと、義平、朝長、頼朝での嫡男争いがあった場合で、平治の乱がなかった場合、
これは保元の乱で一度、政争に武力を使った事から、
坂東での地盤を握っている者が、上に立つ後白河か忠通か二条帝かは知らないが、
その武力を見込まれて官位を上せて、実質的な河内源氏の棟梁となると思う。
頼朝も関東で国司になって地盤を築かないかぎり、
第二の多田源氏(若しくは源氏の平頼盛)になるのではあるまいか。
後は義平と朝長だが、義平の母が三浦の女で室が新田の女だと、
波多野の女を母とする朝長に見劣りもしないし、後は官位では長幼の順と言う原則もあるから、
義平が義朝の後継にすんなりなっていたかも。
あと、頼朝に与えられていたとされている「源太の産衣」と「髭切の太刀」は、
別に源家正嫡の証ではないと言う説もあるみたいだけど、ここらへんはどうなんでしょう。
>>911 >関係ないけど、騎馬での射撃って(基本下馬らしいけど)、
>あっても移動しながらは無しなのかな。
>流鏑馬は真横だし、どうもイメージできない。
つ 犬追物
つ 巻狩
>>919 それ、斜めなんですよ。
まぁ狩とか相手が徒歩で、馬で追いつめる、これは斜めに射的でイメージできる。
ところが騎乗の武士同士が弓構えてると、じゃあ互いに斜めの敵しか討てない?
1対1ならこれでもいいが、集団戦だと...。
>>920 斜めでいいんでない。
騎射の良さを最大限生かすならモンゴルの騎兵だって側面に回り込もうとするでしょ。
正面だと和弓に限らず、馬の頭と騎乗者自身も上下運動しているわけだし、
複数回狙いをつけて射るとなると敵に突入した混戦状態では更に難しいだろうし。
あと、薄い記憶で、しかも軍記物だけど、平家物語に騎射の為に「馬を斜めに走らせ」と言う記述があったような。
(馬上で鏑矢を討つ時などは思いっきり射角を上げているのかな)
馬で正面から突っ込むのなら、この時代だと相手を組み落とすとなるのでは?
これも保元物語だからあれだが、金子の十郎が高間の四郎と馬上組んで落とすみたいな。
全て軍記物だけど戦闘の描写が、一から十までファンタジーではないと思うんだけどね。
全て創作だとすると著者は何をアイディアにして書いたのかと言う話にもなるし。
全て創作なわけがない。
軍記ものってのは武士も読むんだし、
全部が全部電波だったらバカバカしくて読んでられない。
923 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 02:04:26
北条氏の出自が平家という事は、平家一族の北条氏ご令嬢の
ハニートラップでハメられて、気がついたら勝ったのは源氏だけど、
政権握っているのは平氏系の北条だったという、笑えない話になるね。
>>921 >馬上組んで落とすみたいな
運動会の騎馬戦思い出した。
926 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/06(土) 11:38:37
>>922 まあ、それはそうだ。
確かに読んでいるね教養のある武士たちなんか。
927 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 02:26:06
熱田大宮司家は、清盛の継母で院近臣出身の池禅尼と比較的近い同族。
平治の乱後に、熱田大宮司家ルートで頼朝の助命嘆願の依頼があったんで積極的に動いたらしい。
熱田大宮司家(婿入りした藤原季範と池禅尼の血縁関係は尊卑分脉で確認できます。)
928 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 18:56:16
>>923 北条の平氏ってのは、あくまで自称であり、インチキくさいけどな。
>>928 別にインチキじゃあないだろう。
ただ、そんな武家はごまんといるというだけの話。
930 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 08:38:39
自称してる武家はごまんといるが、その系譜は事実ではない。
しかし当時にインチキ自称してたら、すぐに嘘とばれね?>北条の平氏
戦国時代じゃあるまいし。
932 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 14:29:32
だが、のちの執権北条氏が伊勢平氏本流に系図上あまりに近すぎるというのが、
出来すぎというかウソくさいというか。
公家の系図も嘘で出来てる
>>931 そうだな。長年に亘ってそこに土着しているわけだし、土着できるだけの勢力があったってことはそれなりの出自なわけだし。
在庁官人だから、土豪とはいえ、それなりの出自ではあろうが、
その「それなり」が流布している系図どおりの平家嫡流に近い家柄とは限るまい。
そもそも、あの系図は北条と平家の血縁が不自然なほどに近すぎる。
執権になった北条氏の出自を飾るために、鎌倉期になってから捏造したのではないか?
936 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:57:58
夜裏吐喪は泥棒
>>935 「それなりの出自」なら捏造する必要なんて無いじゃん。
>>935 仮に捏造するなら、平氏よりもちょっとでも源氏に近く捏造するんじゃあるまいか。
939 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:19:09
「それなり」といっても、マイナーな古代豪族の末裔やら藤原の末流とかより、
平清盛で有名な伊勢平氏の本流に近い家系と言った方が自慢になるからな。
940 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:22:27
>>938 三浦とか千葉とか関東武士の有力な家は桓武平氏なので、平氏にも十分価値がある。
>>44 一応書いておくけれど
家次┬祐継─工藤祐経─祐時(日向地頭職)─祐光─祐宗─貞祐─祐持(日向伊東氏祖)
└祐家─祐親─河津祐泰─曾我兄弟
何はともあれ、平安や鎌倉で出自を捏造するのは、無理がある気がする。
あの系図をそのまま信用する方が、もっと無理があると思うが。
945 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 19:32:15
中央にあった平清盛や平時子の系統は明らかに平氏だが、
桓武天皇以降わずか300年の間に他姓を名乗っている
伊東や三浦、千葉や北条氏はただの自称平氏だろう。
そういうのと、伊豆の土豪の北条時政を同列に並べるのは・・・
>>945は確かに言いすぎだがな。
949 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 07:43:39
>>946 新田や足利、武田は、この時代(平安末期)まだ源姓だったのでは?
鎌倉時代、武士の家格が上がり、土地に根を下ろすようになると
次第に支配する荘園や土地の地名で呼ばれるようになったが。
北条時政は伊豆の在庁官人でしたが、久寿元年(1154年)から保元3年(1158年)まで
伊豆守だった吉田経房(勧修寺流の貴族)と個人的に親密な関係を築いていたようです。
吉田経房は朝幕交渉の朝廷側窓口になりますが、時政が義経失脚後に京都守護となったのも
京都人脈、前歴が大きく作用したようです。
ただ、北条が平直方の子孫というのはちょっと眉唾ですね。現地の豪族が中央に出仕するとき
「平」「藤原」「源」といったメジャーな姓の方が役職につくのに有利だからという理由で、
改姓するケースも考えられます。常陸平氏(大掾)と両総平氏(上総・千葉)は信頼できるかと。
>>949 >
>>946 > 新田や足利、武田は、この時代(平安末期)まだ源姓だったのでは?
> 鎌倉時代、武士の家格が上がり、土地に根を下ろすようになると
> 次第に支配する荘園や土地の地名で呼ばれるようになったが。
姓と氏・家を現代の感覚でごちゃまぜにしていないか?
基本的に姓は不変のもので、朝廷が管理するもの。
だから新田も足利も武田もずっと源姓。
>>950 > 現地の豪族が中央に出仕するとき
> 「平」「藤原」「源」といったメジャーな姓の方が役職につくのに有利だからという理由で、
> 改姓するケースも考えられます。
メジャーな姓とかいうけど、実際に多くの支流を派生しているからメジャーなわけでさ。
当時は簡単に改姓なんて出来ないよ。
中央政府がスカスカだった戦国時代とは事情が違う。
953 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 20:34:50
なにがなんでも、北条ふぜいを伊勢平氏の本流に近い一族にしておきたいヤツがいるなw
源範頼が、釈明する分の中で「源」を名乗ったことに頼朝が怒ったことはどういう意味合い?
足利や新田、武田、佐竹といった連中が、氏ではなく姓で署名をしたら、処分対象だったのか
955 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 21:05:54
足利とか山名は御門葉として一門扱いだったんでは?
>>953 は?ちゃんと論理的な反論してよ。つまらない奴。
>>954 それは文書形式の問題。
そこに出てる連中、みんな朝廷からの正規の文書(任官とか)は
「源」だよ。
こんなもん当たり前の話だろ。
958 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/16(火) 01:02:38
>>950 在庁ですらない、という説もあるよ。時政傍流説ね。
けっこー説得力のある論文だったな。
すまんが教えてくれ。
北条が系図を捏造してたら、何かが歴史上変わるのか?
捏造かどうか、どちらにも決定的な証拠はない、
しかし当時の人は特に問題にしなかった、
それこそが事実じゃないの?
>>959 問題にされなかったということは捏造の可能性は低いということなんじゃ?
全く縁もゆかりもないくせに、いきなり「今日から俺らの先祖は
伊勢平氏」なんてこと言い出したら、他の本物の平氏末裔たちが
黙ってないと思うけど?
961 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 03:54:29
いくらなんでも、そんな唐突なことはやらないだろう。
頼朝流人時代は平氏方の在庁官人だったのだから、平氏を称していても不自然ではない。
ただし、のちの系譜にみられるような伊勢平氏本流に近い家系までは偽作してないだろう。
鎌倉幕府の執権、得宗になってからは、公然と文句をつけるヤツはいないだろう。
>>961 >鎌倉幕府の執権、得宗になってからは、公然と文句をつけるヤツはいないだろう。
貴族なら、いくらでもチクチクと言いそうだがなぁ。
「伊勢のへいしは平氏はスガメでござる」とはやしたみたいに。
>960−962
都での官職にあぶれた源氏や平氏、藤原氏の子孫たちはどんどん地方へ下って、
国司やなんかをやってる間に地元の豪族の娘なんかに手をつけて、
あちこちに胤をばらまいていたわけだろう?
関東の片田舎に平氏の胤を自称する連中がいたって、都の貴族たちはいちいち
確かめようもないし、都での官位に預かれない下種どもぐらいにしか思ってないから、
どうでもよかったのだと思う。
平清盛はあれよあれよと自分たちの官位を超えて太政大臣にまで登ったから、
都の公家たちからひがまれたのだろうけれども。
964 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 16:56:57
頼朝は、平家と源氏の嫡流を滅ぼした極悪人
こいつが、もっと早く氏んでいたら、日本は文化的な国として、繁栄していただろうに
>>961>>962 得宗全盛の時代なら公家でも公然とは言わないだろうが、
明治になってからの徳川氏のように、すぐ後の時代に言われると思う。
例えば太平記あたりに
「北条は伊勢平氏にあらず偽せ平氏なりとぞ囃されける」
みたいな駄洒落を書かれてもおかしくないし、
北畠親房にも「神皇正統記」で出自の詐称を指摘されそうな気がする。
やっぱり平氏と称することには昔から何の不自然さも無かったからじゃないかと。
>>963 確かに多くの公家にとってはどうでもよかったのかもしれない。
それだけ平氏の末裔なんて珍しくもなかったともいえる。
ただ、確かめようもないということは無いと思う。
地方豪族は領家や国司に名簿みたいなのを提出しているから
都で官職に預れなくてもそれなりの届けはしている。
ある日突然、最初に届け出たのと違う姓で届けたりして、
なまじっか問題になるようではかえって損だろう。
だからあの時代で出自を詐称するというのはかなり考えにくい。
967 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:44:32
時政段階で平氏を称し、それが世間から認められていたことに異論はないが、
それと現在流布している伊勢平氏の直系に非常に近い系図であったかは別だろう。
あそこまで北条氏が清盛流に近すぎると、かえって不自然で作為性を感じる。
平氏を称して、清盛の配下であったことは事実でも、それほど近い一族ではないだろう。
しかし時政は初めから伊豆の在庁官人であり頼朝の監視を任されていたのだから、
>>966のいうとおり先祖がどこの馬の骨か知れんという人ではなかったと思う。
もし出自不詳なら秀吉のように当時から「偽平氏」と揶揄されても仕方がないけれどそういう訳でもない。
北条初代が誰だ、時政は北条の総領(総領家の人)だったのかという話はさておき、
本当に平氏の出なのかと論ずるのは不合理なことかと。
969 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 19:25:19
だが、現存する系図どおりの伊勢平氏の本流に異常なまでに近すぎる家系ではないな。
熊谷直実も場合も同じことが言えるが。
まあ、清和源氏も家系図を捏造してると言えなくもないし、親戚関係をちょこっといじくる程度の嘘ならあるかもしれない?
>>970 どのあたりすか?(清和源氏の家系図捏造疑惑)
972 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/18(木) 00:17:29
>>968 時政が在庁という確定的な史料はない。
それも今では有力な時政傍流説の傍証のひとつとされてる。
>>971 つ【初代・源基経は清和ではなく陽成天皇の裔という説】
>>969 北条が真偽を別として維将の流を名乗る利点は、
維衡の伊勢平氏に近いというより、
直方が義家の舅だったと言う意味のほうが大きくないかい?
>>974 訂正。
義家の外祖父。
頼義の舅だったね。
平直方は、娘を源頼義に嫁がせた→時政は、政子を頼朝に嫁がせた
時政を直方に、政子を直方の娘に、頼朝を頼義になぞらえるということか。
そのわりに直方は義家らの外祖父として
威厳を発していないな
まあ、直方の時代には頼義は河内源氏と呼ばれ、
源氏の棟梁でもなんでもなかったのだが。
978 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 18:48:22
>平直方は、娘を源頼義に嫁がせた→時政は、政子を頼朝に嫁がせた
ますます、北条氏による家系捏造の疑惑が大きくなったな。
源氏との所縁を強調するために、頼朝と時政の関係をモデルに家系を捏造したのだろう。
979 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 09:15:23
>>966 講談社のシリーズにも豪族が氏名を突然変えたというケースが載っていた。
例:丈部→藤原とか あと利波→藤原(石黒)とかいくらでもあるはず。
現代と違い、情報量が少なく世代が変われば確かめようが無くなるケースは多いはず。
今は地方の個性みたいなことを誇る傾向があるが当時の人間は
京都かぶれだとつくづく感じます。
980 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 10:32:52
>>979 実際に、地方に種をばらまいた公家崩れが多かったから
家は○○氏の血が入っているから、家は○○氏だという風になった可能性もあるね
伊勢物語にも、どうにかして在原氏の種を家に入れようとする母親が
娘に代わって業平に歌を送る話があるよね
981 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 00:06:13
「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。
タダ板東ニカクテアランニ、誰カハ引キハタラカサン」(by上総介平広常)
なんとも頼もしい言葉だが、この言葉を発した広常は都から下った皇族の子孫として
その地位を築いていたに過ぎない。
>>957 北条のハナシに持ってくと、時政が叙任したときの公式文書とか残ってないの?
従五位下遠江守平朝臣時政とか。
どちらにせよ直方流の証明にはならんし、怪しくても自称認めちゃうもんだったのかもだが
(既に執権で権力大きかったし)。
>>978 源氏との関係を強調するのが目的で捏造したのなら、明らかに時政より後の時代の話だよね?
だとしたら、いつ頃やったとあなたは考えているのかな?
>>982 朝廷がほうぼうの中小地方豪族からいちいちきちんとした家系図提出求めていたとは思えないし、
平だれそれが地元の娘何某に手をつけてその落胤が云々いっちゃえば、
朝廷としては確かめようもなかったけれどもね・・・
時政以前の北条氏が、朝廷からまともな官位をもらったことがなかったのならば
なおさら。
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間違えた
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