1 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :
2 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 02:37:02
>1 大好きさん
いつかご自説を2ch以外にも発表してくださいね。
楽しみにしております。
3 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/03(金) 12:41:52
日本古代史研究上において、その位置が邪馬台国のように各所に想定されるのではなく、
誰にも異存のなく、特定されている国があります。
それは、倭面土国です。この国は前原から福岡湾に沿った地域にあったとされています。
まずこの国のことから論じていくのがよろしいかと思います。
まず場所は上記の所でよろしいですね?
4 :
太国:2006/03/03(金) 19:40:00
前スレ末で『新唐書』東夷伝日本伝に用明が多利思比孤だと文面があるそうだ。
そういう天皇の号?があるからかような説を唱えられているわけだが、
例えば天皇の号で「安寧」と「開化」とか「安康」「文武」とかいう号は、他の
天皇の号とは別に一般用語で使用する形態の号ではないのか?
つまり「国家の安寧を祈る」とか「文明開化」とか、家康で有名か?「国家安康」
さらには「文武両道」とかの使用例がある。
このことから、かの文の『用明』とか言うのは上の使用例の如く多利思比孤の号
として用いられたのではなく、明確にとか、分かる使用にとかで使用するとか?
当時の流行語として、号ではなく多利思比孤に対する何かを動詞的にか形容詞的
にかの要領で使用したものであろうと推察している。
というのは、あまりにも橘豊日命と多利思比孤の双方が同一名ではなく、
余はとっさに別人と判断したが、念のため同天皇の後者の名の使用例の文が
どこかの文書にあるとかいうのならば、再考させてもらうが?まぁ別人だよ。w
5 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:01:43
『旧唐書』が正確。
『新唐書』は武韋の禍後、玄宗時代に行なった政治決着により
九州王朝は無かったことにされた。
6 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 09:12:55
『新唐書』だろ?
『新唐書』の歴代天皇の元ネタは、
「然が入宋する際に持っていった『王年代紀』だと思う。
ただ、『宋史』から推測すると、『王年代紀』に「用明の子・聖徳太子」が
遣隋使を派遣した(すなわち多利思比孤に相当)として書いてあったのを、
『新唐書』作者が記事化する際、父・用明帝に直結して記載してしまったものと思われる。
7 :
前スレの977ですが:2006/03/04(土) 12:45:11
なんか漏れのレスが妄想と偉くたたかれてたようで・・・orz
ただ日本書紀には空白の5世紀というのがあるからもしかしたら
九州王朝なるものがあったのではないかと推測しただけなのだが
それに漏れはインチキ偽書を本物と言い張ったどこかの古代史研究家を
支持していないのだが。ついでに言うと九州王朝は白村江の戦いで
大和総督府に譲位して「解散」したというのが漏れの考えなわけだが
もっとも妄想と言ってた人のように九州王朝が実在したという決定的かつ
明確な証拠がないというのも事実。それに
>>6さんの話もあるくらいだからね
となると高句麗に遠征した倭王達も大和朝廷の天皇とまでもいわなくとも
大和に使えていた将軍を単に倭王とした可能性だってある。ま、九州王朝の
賛否は永遠の課題だろうね・・・
8 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:43:30
鉄器のない畿内王国が、朝鮮半島で列強を相手に戦争した?
ありえない。
九州王朝がなくて、日本列島の誰が当事国か?
法隆寺も、九州から移築した可能性が濃い。
九州元号も実在したと考えるほうが自然。
阿蘇山と金印も九州。
九州王朝の完全否定はまず無理だ。
9 :
太国:2006/03/04(土) 16:14:55
>>7 前スレ>977
貴殿の主張する、神武が九州王朝のほうだとかいうのは正解だよ。
ただ2代目綏靖以降の天皇は、どれも九州王朝の系統に非ず。
神武以前の、神武の関係の系譜の一部分がある特別な理由で居残った系が九州王朝
なのだよ。
10 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 19:00:29
>>9 九州王朝の弟大王系列旧勢力の一派が糸島から畿内に移動した。
それが神武ではないでしょうか。
新興勢力は肥の勢力で新弟大王として肥と筑紫を統一したばかり、
その新興弟大王勢力が九州統一を始めた丁度その時に神武は九州脱出をした。
その描写したのが神武東征の冒頭に東北部九州をうろついた部分。
新興肥弟大王勢力側から記述したのが景行天皇九州統一話。
新興勢力のボス弟大王は前君。
だから綏靖も筑紫旧弟大王勢力の一派を構成しているので単なる内紛。
居残り組は兄大王。
11 :
太国:2006/03/04(土) 20:00:15
まるで金角大王、銀角大王の大暴れ勢力のようなことか?w
まあ、貴方の言い回しからすれば神武が弟大王になることは分かった。
オシロワケノミコトは火国行幸はしたわけだが、九州統一はしてないだろう?
綏靖からの欠史8代のころは、九州には統一的王朝はなかったんだ。参考に。
12 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 23:12:57
>>11 神武は筑紫旧弟大王勢力一派の未来に希望を失った若者。弟大王ではない。
景行記の九州統一(山口九州行幸)話は、九州王朝前君の九州統一話の盗用。
欠史八代の後半と倭五王の前半は少し重なる時代。正確には不明。
13 :
太国:2006/03/04(土) 23:15:48
神武には兄がいるじゃないか?こうなると貴殿の話は意味不明?
14 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 23:40:25
神武の父兄全部が、筑紫旧弟大王勢力一派に所属していた。
兄王弟王とは肉親としての兄弟のことではない。
15 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 06:24:16
>綏靖からの欠史8代のころは、九州には統一的王朝はなかったんだ。参考に。
もの凄い仮説ですね
16 :
太国:2006/03/05(日) 06:58:00
>>14 非常に話が抽象的でわからん。だから前々の話も?だ。具体的書き方をのぞむ。
>>12 最下段
何と少し重なるというのか?それとも決史八代の末あたりと倭の五王の全半の
双方が重なるという意味なのか?多分後者の意味で言ってるんだろうが?
再確認。後者の意味なら、これは間違い。双方の重複はない。
>>15 だから、神武以前は別旧時代でさておき、九州王朝は崇神の世あたりからだよ。
17 :
太国:2006/03/05(日) 07:11:36
>>16 誤)全半 正)前半
>>15 「・・・だ。」だから仮説的に言ってるんではない。
「・・・だろう?」の言い回しではないいから、仮説的に言ってるんじゃない。
18 :
太国:2006/03/05(日) 07:26:45
>>16 誤)決史 正)欠史
>>12 再度聞くが、欠史八代の末あたりと九州王朝とが重なり
倭の五王の前半がまた九州王朝と重なるという意味か?
それとも欠史八代の末あたりと倭の五王前半とのこの双方が重なるという意味か?
19 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 16:25:07
トンデモ同志の妄想の争いで何の生産もないスレはここですか?
20 :
太国:2006/03/05(日) 16:33:58
九州王朝は確実に存在していた。彼の諸説はおかしな箇所が多少あるが、
畿内病者よりずっと正解に近い。
うぬが無いというなら、論をのべてみたらどうだな?
それとも、な〜にも持っていないのか〜?w
21 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 16:36:00
太国の論をどうぞ
22 :
太国:2006/03/05(日) 16:42:19
毎回毎回、余のをいろいろなスレで讀んでるだろうが?w
うぬも聴くばかりでなく生産性あるのを出してみな。ついでに小手版つけろよ。
23 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 17:52:46
いや根拠無しで論になってないですが
24 :
:2006/03/05(日) 18:34:29
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y氏も太国氏もそれを示すソースが
出さないから妄想と片付けられるわけだからもうそろそろソースを出してみては
25 :
太国:2006/03/05(日) 19:34:06
畿内病者は関空から飛ンデモか〜?基本的に論は成立しえない〜。ww
考古より物理優先だもんなぁ。
26 :
太国:2006/03/05(日) 19:48:11
関空から中原入りか〜?ww
機内説わ〜w タイムマシン化されつつか〜?
本国の記紀に自国の女王の話が猫の額くらい?しか記述が無くw
他国遠方の魏志倭人伝に本国の記紀と極端に違うはど詳細なる記述があ〜る。
当たり前だ。超遠方にある恒星の実態が記紀に記述が見えない。当然だ〜。w
遠すぎて誰も機内人が飛行できず、地球表面の機内にその情報が伝達できない。
だから載ってないわけだ。書こうにも書けな〜い。
機内病者は大和秘境からUFOにでも乗って中原に飛ンデモし、倭人伝にシナ人
に記述のお手伝いをさせた古代人がいるとでも思っているらしい。ww
27 :
太国:2006/03/05(日) 19:50:01
誤)違うはど 正)違うほど
28 :
太国:2006/03/05(日) 20:00:24
もーそろそろ機内説者も断末魔の叫びをあげる頃合となった。
これを救うには遠い星から地球へやって来た奇跡の男の到着を大和奥地の
前人未到の秘境国にて、ひもじい論をしながら早く速くと待つほかはない。
おぉ、いつ現れるのか?ww クリプトン星か〜?はっはっは〜
スーパーマン、クラーク・ケントはいまいずこに〜〜?ww
29 :
前スレの977ですが:2006/03/05(日) 23:14:50
>>大国氏
基地外みたいな煽りは止めてまともなソースを出しましょう
こんなレスじゃ九州王朝論支持者がアホみたいだと思われますよ
既出だろうけど質問
甘木朝倉地方に一時期天皇が滞在しなかったっけ?
筑紫磐井は独立した勢力じゃなかったの?
31 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 12:09:29
薦められて読んだ 井沢さんの本の聖徳太子ノイローゼ説は、死ぬほど笑った
愛媛風土記の、伝承はノイローゼ治癒の為
日出国云々の強硬外交と、内政でのやわらかい物腰もノイローゼの為
この辺みるとやっぱり、多利思比孤と聖徳太子同一人物は苦しいなぁ
32 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 14:12:57
邪馬台国畿内説は、大新聞が後援し、国や官が税金を投入して近畿の遺跡を
隅々まで繰り返し掘り返しても出土品は貧弱なありさま。
民間で盛んに研究されている九州説優位はあきらかだ。この分では九州王朝も現実味を帯びてきた。
最近は、古田武彦氏だけでなく弥生、古墳期の大和朝廷の九州支配に疑問を持つ人が
増えてきている。
安本美典氏の研究も九州に倭国の中心があったというから、九州王朝の存在を
しだいに確かなものになってきた。
33 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 17:52:00
敏達紀に「アマノオオキミ」が登場するの知ってる?
前後の関係から言って息長氏のことだよ
九州なんてまったく関係ないから
34 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 18:53:34
>>32 別に近畿だけでなく全国掘ってますがw近畿が貧弱って何でしょうね?
百歩譲って弥生までは九州優位でしょうが古墳初頭からは近畿優位ですが何か?
古墳時代に九州王朝なるものがあった考古資料なんかないと思うが。
また安本は東遷説で古田の九州王朝説は明快に批判、否定してますがw
35 :
太国:2006/03/06(月) 19:35:46
安本先生も記紀に女王国の記述が0に近いことを認識し、深考するだろう?w
古墳なぞは恒星の誰かが平地にしてしまえは分からなくなる。
おまけに皇統は途切れずに続いているから、滅亡の憂き目にあう九州のほうは
少なくて矛盾はすくない。
36 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/07(火) 19:39:59
>>30 >甘木朝倉地方に一時期天皇が滞在しなかったっけ?
景行記によると、前君と呼ばれる景行の遠征最終到着地が、甘木朝倉地方の浮羽です。
その遠征は、九州東北部(北九州市)・山口・大分・宮崎へと廻り、熊本で帰国歓迎を受け、
最終の到着地が浮羽となっています。
これは前君と呼ばれる九州の大王の九州統一遠征話を九州王朝の史書(日本書)から抜粋したものと思われます。
以上古田説。
>筑紫磐井は独立した勢力じゃなかったの?
磐井は九州王朝の弟大王です。
磐井は、筑紫・出雲・肥・浪速・越・尾張・夷(武蔵)の関東以西の7大王を代表する肥出身の大王でした。
磐井は倭ワイであるとの説があります。
倭(イ)のワイ王と言うことです。
37 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 19:41:47
★ 朝鮮民族はワイ族の子孫である ★
最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の
国である。そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト。古代カラ半島南部に居住していた倭人系民族)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
古代カラ半島北部にあった中国の自治領・帯方郡の東部地方=ワイ郷(現在の韓国の江原道地方)に
住んでいた少数部族であるが、彼らは、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に
難民となって南下し、日本領=志良岐(シラキ)に移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を乗っ取った
金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。もちろん、倭人=日本人でもない。
ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人もみんなワイ族だ!
日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
38 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/07(火) 21:17:54
某スレで纏向遺跡は布留T式(280〜320)で、3世紀に突然でき四世紀初めに突然消滅とかいてあった。(橋本輝彦説)
これは、九州で邪馬台国が事実上消滅し、大和朝廷が急激に西方に勢力を膨張させた時期にあたり、
崇神天皇から垂仁天皇の時代にかけてである。
景行天皇は314年即位であるから、即位とともに拠点を纏向から移動させたととれる。
考古と文献がピタリと一致した。
39 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:59:00
景行天皇の宮は纏向日代宮でやはり纏向です。宮の場所は垂仁天皇の宮から少しはなれていますが、一般人の
居住地を大掛かりに移動させる必要はないと思えます.
40 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/09(木) 18:59:06
>>37 磐井=倭薈
米田良三氏の説です。
倭穢ではありません。
41 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/10(金) 15:59:42
九州王朝の始源を、委奴国まで求めるとして、その末期の朝廷としての邪馬台国について、その所在地に最終決着をつけたい。
その所在地までの行路は魏志倭人伝に記載されているのであるが、その距離の単位は1里=67.5mである。
42 :
太国:2006/03/10(金) 17:31:59
始原は同国で合っていると思います。末期は文武天皇の世のあたりですな。
43 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:39:11
今までの諸説の中でもっとも合理的に論じているから、この長さで正解であろうと思う。
44 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:52:56
九州王朝はあった。古田説以外に似通った説を唱える人が増えてきた。
邪馬台国甘木の安本説も広い意味で九州王朝説にはいる。
古田、安本両氏が競い合って論争しながら活気に満ちて九州王朝説は
浮かび上がってきた。
それに引き換え邪馬台国大和説は、遺跡がでずはかばかしくない。弥生時代に
奈良の山奥が日本をリードできたはずはない。出土品が貧弱。古墳時代前期も
当時の奈良には経済的にも文化的にも都たる条件がない。
45 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/10(金) 20:05:08
>>41-42 意見が合いますね。
委奴国期から文武期迄。
途中は異なるようですが。
何処が異なるのでしょうか?
九州:
委奴国→伊都国→邪馬壱国(兄弟政治開始)→前君の倭国→倭五王の倭国(仲哀はこの頃か?)
→磐井の倭国→イ妥国→薩夜摩の倭国→倭国(親唐)→薩摩で滅亡した国(九州王朝兄弟政治終焉・文武期)
畿内:
神武九州脱出(前君の国期)→欠史八代→崇神→垂仁(非九州畿内国[銅鐸国]の滅亡)
→仲哀(畿内独立九州系国の滅亡)→応神朝(九州王朝畿内大王国)→継体3代朝(非九州王朝)
→欽明(九州王朝畿内大王国)→斉明(九州王朝畿内最終大王国)
→天智(倭国畿内分国 反唐)→天武(日本国 親唐)
→持統(反九州王朝)→文武(倭国畿内朝廷に統合)
途中抜けているところもあります。
如何でしょうか?
46 :
太国:2006/03/11(土) 09:50:32
さすがにえらく研究しているのが目に浮かびますなぁ。みどもはアナログ式秘密
研究で上述の件を把握したので、その相違で種々文献の解明はもどもの出る幕
ではなく貴殿にバトンタッチすべきものです。
残りの要点を云いますが、倭の五王は各天皇ではなく、主題で論じられている
女王国等の九州王朝とはまた別の、もう一つの九州王朝の王であり、二つの九州
王朝は互いに係わり合いがあった可能性があります。
それで、おおむね應神〜雄略、あるいは〜武烈世のころ、日本は
畿内の大和朝廷と、本筋の女王国とかの九州王朝と副次的ながら第二の九州王朝
たる五王朝の3本鼎立状態にあったということで、これが真であります。
47 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/12(日) 18:41:36
>>41で魏志倭人伝の1里は67.5mであると提示したが、異論がないようなので次にすすみます。
倭人伝の一歩は中国式の一歩であり、魏の時代は140cmであり、卑弥呼の墓は150m以上の大きさをもつ。
150mといえばかなりの大きさである。よって、邪馬台国をどこと比定する論者は、卑弥呼の墓はどれと、
明示すべきである。また、して頂きたい.
48 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:02:58
サガミは相手にしてないだけだが。
>>44 安本は九州王朝否定派ですが。
それに古墳時代前期の大和と北部九州の遺跡の様相分かってるの?
事例あげてみな。
49 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:45:00
きゅきゅきゅSHOP99
QQQショップ99
吸収王朝は、SHOP99になりました。
50 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 11:48:38
サガミの話は正論なのだよ。正論は面白くないんだよ。俺らは、いろいろと妄想して楽しんでいたいんだよ.
真相が解けてしまったら、つまんないじゃないか。
理論ってのは、現実とかみ合わないものでも
いくらでも作り出せるものなんだよ。
現実とかみ合わないものが大半である「理論」を、
どうやって、現実とくっつけるか、ってのが実証だろ。
実証というプロセスの欠け落ちた、純粋理論ってのは、
一見すると正論っぽく見えることも多いが、
実は空理空論でしかない。
サガミも、それの一種にすぎないから、
たいていの人から相手にされてないんだろうな。
52 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/13(月) 22:29:08
私の理論が実証性がないとでも?
空論はよしてくださいね。
53 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:52:31
無いものは無い
54 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 08:21:42
魏使は上陸してから、東南へ陸を進むとあり、5百里(三十数キロ)で伊都国につくという。
つまり、東南へ相当数進めるところに上陸したのである。
そこは北部九州では唐津、今宿、なの津、神湊の四箇所である。(呼子はそのまま船で他へいけるので不可)
55 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 08:51:24
訂正 ( )内。呼子は東南へ進むと唐津につくので不可)
56 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/15(水) 22:34:44
伊都国がイ土郡の前原であるとの説は、伊都とイ土の恩がにていることから新井白石が
いいだした。前原では唐津からの方向が違う。
57 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/16(木) 11:56:24
従来の邪馬台国論争は、新井白石以来の伝統?で、距離や方角を無視し地名音の類似を
頼りに論じてきた傾向があるが、まず方角は誤りないとして論じるべきである。
なあなあ、
伊都から女王国って、どの方向にあるん?
「日に向かう方向」ですよ。
日? 「日 ゆくところ これ南方。」南方か。
「日 向かいし方(東)」→南
なんて、誤訳・混乱が起こらなかったことを、どうやって確認したんだ?
59 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/17(金) 07:55:48
魏使は何度もいっているのです。まちがっていれば修正したはずです。
そのためにもいったのですから。
60 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 08:44:33
九州王朝ってw
じゃあ教科書に載ってることは全部間違いなのですか?
偉い学者様方が作った教科書ですが
これすべて間違いで九州王朝が正しいと言い切るのですか?
61 :
太国:2006/03/17(金) 09:24:50
ヒッキーさん、そのとおりだ。九州王朝があったんだよ。
九州には、倭の五王朝もダブル的に存在していたよ。
62 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 09:27:52
では邪馬台国の流れで倭の五王は九州王朝の人であり
さらに隋の使者が訪れたのも九州であると言いたいのですか?
大和に政権が移ったのはいつころですか?白村江で負けてからですか?
63 :
太国:2006/03/17(金) 09:38:33
大陸から直接畿内入りというのは出来にくい。九州内部へ行くのも畿内へ行く
のも、どちらも九州北部を通過するのが通常妥当な考えでしょう。
畿内の大和王朝と九州王朝は別であり、政権移譲的なことは神武が畿内へ行って
即位したときとなる。そこんところは古史古伝のウガヤフキアヘズ朝があったか
否かにかかわって来る。今んところ研究中です。
女王国系の九州王朝は崇神世のころで、五王国の始まりは應神世のころです。
64 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 09:42:12
話がよく見えてきませんねw
古田氏の九州王朝の本でも
買ってみようかな
65 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 09:46:48
ウガヤフキアヘズ??
太国さんは古文書が読めるのですか??
66 :
太国:2006/03/17(金) 09:52:03
古史古伝を読めば、70数代の神武以前の天皇の記述があります。
よければ読んでみて下さい。ただ貴方には高価だから無理かな?
ならば、ググると読めるかもしれません?
67 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 09:53:15
しかしガキの僕からみれば
東大の教授陣が編集した教科書とかでは
九州王朝など一言も書いてないんで
太国さんとか九州王朝があったと言ってる人のほうが
失敬ながら国会で言う野党の側に見えてしまうんですがw
68 :
太国:2006/03/17(金) 09:57:55
古史古伝の中の「上記」(ウエツフミ)あたりはどうですか?
竹内文献は極端なのでお勧めできないです。
69 :
太国:2006/03/17(金) 09:59:46
>>67 学会の定説なぞ当てにしないほうがいいですよ。
古田先生が主張してま〜す。
70 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 09:59:53
では古史古伝もマークして読んでみます。
竹内文書は難しいみたいですね。
古史古伝では邪馬台国に関する記述はあるのですか?
71 :
太国:2006/03/17(金) 10:02:42
まずないと思いますが?
私も全部持っているわけではありませんので。
72 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 10:07:16
少しだけ読みましたがどうやら
古史古伝はほとんどデマで
学術的価値はないみたいですよ
73 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 10:09:10
東日流外三郡誌では荒吐族とは、アソベ族・ツボケ族など縄文人を思わせる先住民、神武東征によって邪馬台国を追われた
安日彦・長髄彦兄弟の一族、中国系渡来民の混成によって成立した民族であり、
いわゆる蝦夷の主力だという。らしいですwこの書も偽がほぼ確定してるみたいです
74 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/17(金) 10:56:51
ウガヤフキアエズ朝はなかった。
正朝は二二ギノ命の長男のスセリノ命の子供であり、ウガヤフキアエズは朝廷どころか、
一般の貧しい生活をしていたのです。
75 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 11:06:41
76 :
太国:2006/03/17(金) 11:12:16
津軽関係はうそだという話が強いですねぇ。
その係わりの古田先生の女王国、五王説は真ですよ。
77 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 11:30:19
倭の五王は九州かもしれませんね。それが岩井の王朝へと受け継がれるのでしょうか?
無学ですいませんがm(_ _)m
>>69 学界の定説ってのが、必ずしも、あてにならないのは事実。
だが、古史戸伝の関係については、
学界の定説の方が圧倒的に妥当。
これとて、未だに流動的な部分もあるにはあるが、
古田学会の主張が、古代史学会に認められて
定説になる可能性はない。
79 :
太国:2006/03/17(金) 14:43:39
>>78 圧倒的。まあそうだな。それは臥海のほうに軍配が上がるようだ。
まあ全勝ではないが、ほぼ定説で当たりだろう。
古田先生の説が臥海をひっくり返すことは時間の問題だ。
かなり、長い年月はかかるだろう。先生の説が天下をとることは太国が保障する。
従って、いずれこっちのほうは臥海は断末魔の様相を呈するときが遠い将来
に眼に見えている。w
80 :
太国:2006/03/17(金) 14:51:18
云い忘れたが、古田先生のでも、津軽のほうはこれは先生側が負けだと
思う。それに上記等のウガヤフキアヘズ朝に関してはまだまだどうなるか
分からない?あったのかも知れない。今後の問題として保留物だ。
古田氏も、新しい読み方・発想を提供するまではよかったんだが、
いざ証明という段になると、弱点をさらけ出した。
彼は検証とか証明というモノの意味・役割・方法を
まったく理解できなかったようだ。
ここで限界にぶつかった古田氏が、
起死回生を掛けて挑んだ、
いわば「九州王朝説の切り札」が、
あの「ツガル」偽書騒動の発端。
ツガルは九州王朝説の延長なんだよ。
82 :
太国:2006/03/17(金) 19:22:13
随分長すぎる延長だなぁ〜?w
83 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/17(金) 21:15:18
東北王朝説は九州王朝説とは質的に別物。
東北王朝説は多元王朝論を無理に実証しようとしたところに崩壊があった。
>>77 九州王朝(兄王)としては連続しているが、
政権の移行があった。
倭五王(弟王)は菊地政権、磐井(弟王)は八女政権。
しかし政権の中心地はどちらも筑後川中流域。
>古田先生の説が臥海をひっくり返すことは時間の問題だ。
>かなり、長い年月はかかるだろう。先生の説が天下をとることは太国が保障する。
それは絶対に無い。通説は瓦解するかもしれないが、古田氏の九州王朝説がそれに
取って代わることはありえない。なぜなら古田説は根本の史料事実認識において間違
っているから。
それに古田説公表後の考古学的状況は、古田説に近づくどころか逆に離れていって
いるから。
85 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 13:26:40
>古田説に近づくどころか逆に離れていっている
古田説の受け入れを基調として、表面ヅラだけ異を唱えているわけだが
>古田説の受け入れを基調として
考古学的な結果をまともに知っている人で「古田説を受け入れ」ている人なんていない。
87 :
太国:2006/03/18(土) 15:48:23
>>86 考古学も「物理学」に拘束される。それを違えて考古学をどうのこうのいって
これを使用し、女王国を探ろうとしても結果は当然自滅する。
臥海の考古学的結果っていうのも、物理学を無視しての上の結論だからな。w
>>84 史料事実認識が多少なりとも間違ってたって、古田先生の結論は正解であ〜る。
野球でホームベースから外れたボール判定の球だって、当たれば本塁打になり
うるんだよ。
88 :
太国:2006/03/18(土) 16:14:03
さらに野球で言えば、記紀の内容とは
ピッチャーが、味方のキャッチャーのサインが分からないのに、何故か?
敵さんの監督、コーチ連等がそのサインの内容を詳細に知悉している。
こんなことがどうして記紀に起こってしまうんだろうか?もう知れたこと
よ。女王国が九州にあったからだ。もう分かったろう? はっはっはw
89 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:17:12
★ 百済は日本人が建国した ★
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
>>81 学問ていうのは、証明なりそれなりの根拠があって、はじめて何かの説を提出するものだよ。
もし、
>古田氏も、新しい読み方・発想を提供するまではよかったんだが、
>いざ証明という段になると、弱点をさらけ出した。
が本当だとしたら、これは、古田某は根拠もなくアドバルーンを上げるだけの人だったということで、
学者・研究者としては失格であることを意味するのだが。
『よかった』どころか、少なくとも教授職にあるものとしては最低のやつ、って事になる。
あくまでも、
>>81が正しければね。
>>87 >史料事実認識が多少なりとも間違ってたって、古田先生の結論は正解であ〜る。
安本氏のように「古田氏は論理が間違ってる」という批判に対してならそういう批評は正当だろう。
しかし私が指摘しているのはそうではない。
古田氏の論理はむしろ他の学者よりまともだと思う。しかし論を立てるときに根拠にしている史料事実
の選び方が、自説に都合のよいものばかり選んでいるから不当だ、と私は言っているのだ。
古田氏も(安本氏のようなカルい批判者も含めて)、古田氏の説に都合の悪い史料事実が存在している
ことを無視している。
『通典』『唐会要』などの存在や、国内文献と中国文献の遣唐使記事が一致している(古田氏が一致し
ていないと『失われた九州王朝』で主張しているのはすべて氏の誤読によるものであることが判明してい
る)などは、九州王朝説を仮定すると、通説とは異なる別の矛盾が生じることを示している。
このほか、古田氏が九州王朝説の根拠としている論証は「すべて」誤解にもとづくものであることが指
摘されている。
92 :
太国:2006/03/18(土) 19:52:04
>>91 終わりよければ、途中が多少よくなくても結果は通ってしまうよ。
誤解といってはいるが、その指摘とやらは確実に破綻する。
見てみろよ、記紀の中身を・・・。卑弥呼の記事なんて殆ど皆無に近いことを。
そしてだ、自国の国に自国の記事がまるでといってよいほど無い。しかし
自国でない遠方の他国にだ、自国の記事なる日本女性の件が大量に記述されて
いるこのことを?あんたの財布の中身を知らない状態で外にある蕎麦屋の店員が
詳細にあんたの懐中の状態を知っているとしたら?どう思うか?
日本女性とは、言うまでもなく卑弥呼のことだ。
びっくりして「何故だ何故なんだ?」と目を回してしきりに考えこむだろうが?
店員はあんたのふところが、万札は5枚だとか千円札が8枚だとか10円貨が6枚
だとか、それを知っていてあんたにしゃべったとしたら?
きっと、あんたは首をかしげてその理由を考えるに違いないと確信するのだ。w
すなわちだ。このことは女王国が畿内ではなく九州にあったことを意味するのだ。
93 :
太国:2006/03/18(土) 19:54:34
書き方がいまいちだったが、4段目の自国の記事とは女王国関係の記事だ。
>>92 九州王朝説を正しいと思う人にとっては、記紀と中国史書が一致しないことが最大の心証なのだと思う。
確かに記紀と中国史書の違いを確たる証拠もなしに中国側の誤解だと言ってすましている「通説派」なんかに比べたらそういう心証を持つのはもっともだと思う。
しかし、中国史書自体の中に九州王朝説と矛盾する史料事実が存在することをどう考えるつもりなのか。
このような状況下では、記紀と中国史書の齟齬の原因を、九州王朝説以外の仮説で説明するしかないだろう。
これが論理的な帰結だ。
95 :
太国:2006/03/18(土) 20:19:04
そうじゃないよ。どっちをとろうとそういう齟齬のようなことは
でてくる。
じゃあ何かい邪馬壹国と邪馬臺国はどっちもあったことになるぞ。
(まあ前者が九州で後者が大和ということはありうるがねw)
双方に関し、どちらも中国の文献からではないか?これは中国側の齟齬と
いうことになろうが? (括弧とか以外)これこそ矛盾ではないか?
だから中国のでも間違いは出てくる。
あんたのいう齟齬があろうとおかしくはないだろう。w
96 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 03:37:47
ていうか、>94自体が旧唐書と新唐書の違いを説明できてない時点でアウトなんだが。
>>95 その齟齬というのが、「倭が九州だった」という主張と「倭は九州ではなかった」という齟齬でも
かまわない、というの?
>>96 意味不明
98 :
太国:2006/03/19(日) 07:47:07
>>97 中国人でも間違えることがあるから、そういうことはある程度出てきても
おかしくはない。たとえば、かたや邪馬壹国で他の文では邪馬臺国となってても
中国の齟齬と観ておかしくはない。
ただ、九州に前者があって畿内に後者があったとかいう説はありうることだ。w
その場合でも、卑弥呼自体は九州の人で畿内の女ではない。
ただ、『唐会要』のように、奈良時代、平安時代にも倭と日本の2国が並存
していて、どちらからも遣唐使が訪れた、と主張しているという齟齬がある。
この場合、奈良・平安時代だから、九州王朝説の人も2国並存しているとは
主張していないはずなので、これは明らかに中国側の誤認識の実例である。
つまり、中国側は、「日本列島内の国が一つだったか二つだったか」という
大きな問題についてさえ、実際に誤認しているわけだから、『旧唐書』が「日
本列島内に2つの国がある」と主張していて記紀の主張と齟齬があるといって
も、中国側の認識の方が正しいとする根拠は存在しないじゃないの?、と言っ
てるわけなんだけど。
100 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 11:39:19
>99
おいおい、正反対だろ!
>九州王朝説の人も2国並存しているとは
>主張していないはずなので
>>100 >おいおい、正反対だろ!
どうして?奈良・平安時代の話だよ。それとも何か?九州王朝説の人は
平安時代にも九州王朝が存在していたとでも??
102 :
太国:2006/03/19(日) 14:36:21
九州王朝は平安時代にはとうにありません。
>>101
103 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:40:07
九州王朝と畿内王朝は同じなんだが。
九州から畿内まで、版図が拡大しただけ。
104 :
太国:2006/03/19(日) 14:48:40
>>103 二つの王朝は別物です。畿内の照鳥居が九州まであれば、卑弥呼の記事
で記紀は満たされます。その記事が殆ど0であるからして、九州まで
及んでいませんな。当然もう一つの九州王朝の倭の五王朝も、記紀に
記述が0に等しいと云ってよいくらい記述がないから、なおさらです。
106 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:53:57
九州王朝と畿内王朝は、本家と分家の関係であろう。
畿内王朝の物部氏は、天皇家=九州王朝の先祖の分家ではないか。
出雲氏も、九州王朝の分家であろう。
107 :
太国:2006/03/19(日) 14:58:25
>>105 その王朝とやらの王はなんと言う名なのか?w とくに初代は?
ついでに何代くらいあったというのか?
108 :
太国:2006/03/19(日) 14:59:59
109 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:02:53
百済のような小国が、なぜ300年以上に渡って、
高句麗帝国との戦争を続けることが可能だったのか?
この疑問に、朝鮮人工作員が答えることは絶対にないであろう。
★ 百済は日本領土 ★
百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。
110 :
太国:2006/03/19(日) 15:03:40
>>105 その九州王朝とやらは徳川家康にでも滅ぼされたのか?w
111 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:07:03
>>107 全く無関係って事はないだろう
神武は九州王朝系だし天智は頭にアメとつく名前をもってるし
日本には支那や朝鮮みたいな易姓革命はなかったと思うぞ
邪馬一国時代のように小国分立状態で各国の王がいたというなら
話は別だがな
112 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/19(日) 23:37:40
>>109 ★ 百済は日本領土? ★
百済軍の実態は、九州王朝軍連合軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、九州王朝のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの連合国=九州王朝がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。
倭人連合体=九州王朝(倭国=7連合大王国)[筑紫+出雲+肥+浪速+越+尾張+毛野(武蔵)]+百濟+新羅+任那+加羅+秦韓+慕韓(半島南部2〜6国)
日本語と百済語(半島南部語)の違いはベルギーフラマン語とオランダ語の差程度のものではなかったのではないか。
高句麗語との差はドイツ語との違い程度ではなかったのでは。
電波コピペの一部を九州王朝に書き換えただけかよ?
同レベルの香具師なわけだなw
>>90 81は、古田擁護派じゃなくてだな、
90
同様の、「アドバルーンを上げるだけの人」
「学者・研究者としては失格」と考える人だろ
「学者として」良かったと考えてるとは見えないが、
気のせいか?
115 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 22:47:49
>>112 >九州王朝大好き氏
だめたよ嫌韓厨の電波コピペの書き換えちゃ〜w
(もっともこのコピペはホロン部が嫌韓を陥れるためにやってる可能性もあるが)
ま、でも百済や新羅は倭人と扶余族が作ったという話があるから
あながち間違っていないかもね
116 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/23(木) 01:40:25
>>115 ちょっと遊んだだけ、まじめに考えないでね。
余談:
百済の初期の建国支配層は高句麗語に近い言葉を話し、
被支配層は日本語(九州倭語)の方言に近い半島南部語(半島倭語)を話していた。
倭国の影響を色濃く受けた百済支配層も、
被支配民の言語である九州倭語に近い半島倭語化したのではないでしょうか。
7世紀の畿内政権内への百済人及び一部新羅人の受け入れは言語がほぼ同じだからできたことではないでしょうか。
それに対して、言語が少し離れた高句麗人は政権中枢部への受け入れがありません。
骨子は先人の説の受け売りですが。
117 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/26(日) 21:26:55
118 :
倭人系:2006/03/30(木) 11:41:13
韓国史に詳しい方に質問です。今のプサンあたりは地域的に差別を受けていると聞いたことがありますが、要は倭人の末裔がいるから差別されているんですか?であれば、九州王国にプサンを帰して欲しい(笑)
119 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/32(土) 20:21:24
倭人の末裔(韓人)が多い、慶尚南道(釜山)、前羅南道(光州)、済州道(済州島)の人は歴史的にも差別され続けています。
それに反して半島南端地域でも朝鮮人である慶尚北道(慶州)の人には差別がありません。
120 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/32(土) 20:39:00
半島古代の倭人居住地域は、地名データ等もみて、
慶尚南道・全羅南道・全羅北道・忠清南道南端部と推定されます。
121 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/02(日) 19:02:37
なお、慶尚北道は倭人少数派の朝鮮人(新羅人)との混在地域。
ありがとうございます!
九州(福岡・熊本)の石人文化が朝鮮にもあると聞いたのですが、倭人が先住していた証拠の一つなんですかね。
ということは、元を辿るとスンダランド系海洋民?
123 :
九州王朝大好き:2006/04/07(金) 06:04:05
124 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 06:17:53
九州王朝などない!
大和武士が九州征圧したのが起源前400年
125 :
九州王朝大好き:2006/04/07(金) 08:41:12
126 :
太国:2006/04/07(金) 09:15:20
>>124 そんな数字はどうやって分かるんだね?w
君が何と叫ぼうと九州王朝は実在したんだよ。
127 :
九州王朝大好き:2006/04/07(金) 19:50:28
128 :
太国:2006/04/07(金) 20:14:18
九州王朝大好きさん
昨日、電車に乗って座席に座っていましたら、向かいの席に座っていた老人が
「古田史学会報」とやらのチラシを一生懸命読んでいました。
初めて会報とやらを目にしました。夕刊フジより一回り小さい小新聞様ですな。
129 :
九州王朝大好き:2006/04/08(土) 08:19:33
130 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/08(土) 14:40:02
「九州王朝大好き」さん(トリップ無し)は
僕「九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y 」とは別の方です。
誤解の無きようお願いします。
>>九州王朝大好きさん
「九州王朝大好き」のコテハンを使うことには歓迎こそすれ異存はございません。
出来たらトリップでも付けて区別出来るようにしていただけませんか?
>>128 大国さん
その老人は「古田史学の会」の会員の方でしょうね。
僕はその会員ではありませんし、今まで会報を見たことがありません。
131 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/08(土) 15:03:44
>>129 九州王朝権力弟王の中心地はAD300前後から筑紫平野ですから、
磐井時代の遺蹟が大宰府倭京跡にあってもおかしくはありませんね。
132 :
九州王朝大好き:2006/04/08(土) 20:51:37
>>130 失礼しました。「倭奴国」として区別します。2chはコテハンが多いと思って、何気なく使ってしまいました。
>>131 もちろん、倭京が筑紫にあったと認める方には当然の認識と思います。しかし、伝統的な史観の方はこういった資料をどのようにとらえるのかと疑問に思い、投稿したものです。
133 :
太国:2006/04/08(土) 20:55:50
九州王朝大好きさん どうも〜。また関連話ありましたときは書き込みます。
134 :
倭奴国:2006/04/16(日) 19:15:25
最近は書き込みが少ない。
「太宰府は日本の首都だったー理化学と証言が明かす古代史 内倉武久著 ミネルヴァ書房」から
引用したい。(25頁)
最近は、古代史に没頭しているという北村泰一・九州大学理学部名誉教授も、
「研究者が学者生命をかけて作り上げた年代観を、かんたんに撤回するのは難しいことは
わかる。しかし、いつまでも理化学的な年代測定に拒否反応を続けていては、
世界に通用しない学問になってしまいます。」
ここで、理化学的方法といっているのは、放射性炭素年代測定、年輪年代法などの方法
を指す。考古学の専門家は、こうした理化学的方法に対して、論拠を具体的に示して、反論
すべきではないだろうか。
135 :
倭奴国:2006/04/19(水) 20:51:44
日本書紀の謎を解くー述作者は誰か 森博達著 中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121015029/qid=1145446146/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-1913463-8665913 も推薦できる。
以下はネタバレになる可能性もあり、純粋にミステリーとして楽しみたい向きはとばされたい。
======================================================
======================================================
======================================================
======================================================
======================================================
日本書紀の音韻や語法を分析した結果、渡来中国人の著したアルファ群と日本人の著したベータ群の存在が明らかになってきた。このうち、アルファ群は、雄略紀以降の部分であり、
大宝律令以前に編集されたと考えられる。その中で、大化の詔勅は、アルファ群の特質である正格漢文からの逸脱を示しており、後からの加筆を示している。
これは、大化の改新の詔勅があとから造作された可能性を示唆しているようである。
古田派の人にもそうでない人にも薦めたい。
136 :
倭奴国:2006/04/19(水) 21:33:13
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta02.html >わたしは、このような従来の編年を「非」としてきた。「前漢式鏡」「後漢式鏡」と「[イ方]製鏡」とは、別 時代ではない。同一の時間帯に共存し、「補完」する関係にある。そう、主張してきた。
>ところが、今回、まがうかたもなく、「弥魏生中期後半」のかめ(みか)棺から、問題の[イ方]製鏡が出土したのだ。
>従来の「考古学編年」の基準が、音もなく崩れ去ってゆく、そのひびきを感じとる考古学者は、いないのだろうか。そしていつ、従来の編年の「非」を、恐れずに世に告げはじめる人々が出現するのだろうか。
古田史学が、音もなく崩れ去ってゆくひびきは感じます
138 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:02:01
平家はわかる。
それ以前のことは明確にされていない。
ヤマトタケルの九州攻め
139 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:24:34
ヤマトなんてもんは、うそ
140 :
倭奴国:2006/04/20(木) 08:05:10
>134
さらに引用を続けたい。(265頁)
前著「謎の巨大氏族・紀氏」でも指摘したが、この件で今、もっとも正直なのは近畿天皇家の
権威を引き継ぐという皇室ご自身であると思われる。(中略)天皇は「お言葉」で「わが国の発祥は
律令制からである」という意味のことをよく述べておられる。少なくとも現在、わが国の律令が制定
されたのは七世紀末、あるいは八世紀初めごろとされるから、大和政権が西日本を制したと考えられる
時期と合致している。
以上、引用終わり。
142 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/26(水) 18:48:42
>>141 ありがとうございます。
10年位前の出張の時、足をのばしたことがあります。
「奥の宮不動神社」(宮地嶽古墳)の宮司さんとお話しする機会があって、
僕が子供の頃天皇御陵の中で遊んだように、
宮司さんも子供の頃この石室の中で遊んだこともあるようでした。
宮司さんが、この石室から骨壷が出土したと言われたので、
この墓の被葬者は仏教徒ですねと言うと、急に怒りだされました。
日本人は死ねばみんな神様になるのだからと取り繕った覚えがあります。
彼はもう70代にはなっておられると思いますが、まだ元気でおられるのでしょうか?
疑問
この古墳の主が「仏教徒」であり、この古墳のある山が「宮地岳」である事と、
大宰府(倭京)の東側の山が「宮地岳」であることは、何なんでしょう。
古田武彦説の様に、この古墳の主は胸形君徳善ではなくタリシホコのように思えます。
又、出土品(国宝)が胸形君ににしては豪華すぎるようです。
「宗像君タリシホコ」の墓ではないかと。(タリシホコは弟王であるから「君」の出身でも良い)
タリシホコ・徳善・薩夜摩の関係は???? 興味がつきません。
143 :
倭奴国:2006/04/30(日) 09:41:45
日本書紀を批判する―記紀成立の真相 古田 武彦 (著), 渋谷 雅男 (著) 新泉社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4787794159/qid%3D1146355597/249-1913463-8665913 渋谷氏の論文は、記紀の歴代天皇崩年・即位干支の比較を行って、日本書紀編纂の秘密を探ろうという
試みである。在位年代の新しい天皇から初めて、記紀における各天皇の在位年数を比べている。以下、
いくつかのポイントを紹介する。
1.日本書紀は古事記にない神功皇后紀をたて、卑弥呼や一与に代わりに、神功皇后が中国側と交渉があったような形で
著述を行っている。魏志倭人伝が手に簡単には入らなかった古代人にとっては、神功皇后こそが倭国の女王として中国側に記録
されていると読めたであろう。
2.景行天皇の在位年数については、記紀の間で100年以上もの差がある。これは、記録の齟齬などではなく、政治的な意図
があったとしか考えられない。即ち、九州統一王の業績を景行天皇の業績として著述をするためである。後漢書にある107年に
生口を献じてきたとする倭国王の帥升がその人である可能性が大きい。
3.「倭の五王」についても倭王倭武の在位年数が、近畿天皇家の複数の天皇の在位年数にまたがり、
同一人物ではありえないと論証している。
4.「磐井の乱」についても、継体天皇が、磐井に対して軍を派遣して1年後に崩じており、次の安閑天皇の
即位までには、上記の分析からは数年のブランクがある。その間に近畿で継体側に対する反乱が起き、物部麁鹿火は
九州側と直ちに和睦せざるをえなかったのではないかとしている。これが九州の「占領・分割」記事の欠如している状況と
対応していると分析している。
秀逸な論文である。
144 :
倭奴国:2006/05/06(土) 17:32:16
145 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 02:35:40
久しぶりに古田氏の著作を読んで面白かった(「古代史の十字路、万葉批判」)。
例によって無理な部分も見られ歯したが。人麻呂の歌の解釈は良かったね。
所で、壬申の乱については、どの本を読めばいいんだろ。
あれが何らかの画期であるのは確かだろうけど、九州王朝に結びつけるのは難しそうな気がするんだが(地名で).
146 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 03:03:20
147 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 03:15:05
148 :
倭奴国:2006/05/11(木) 08:13:17
149 :
倭奴国:2006/05/11(木) 08:32:02
150 :
倭奴国:2006/05/11(木) 20:40:06
151 :
倭奴国:2006/05/13(土) 14:32:51
152 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:56:51
>>149 つまり天皇家(大和王朝)は九州王朝の分家というのを日本書紀自ら
証明したと言う事だな。やはり九州王朝は存在し、天皇家は九州王朝の
分家であったのだろう。しかし本家の九州王朝は白村江の戦いで
王が唐の捕虜になってしまったので祭祀を司る王は分家の天皇家に
譲位したのではないか?文武天皇代に発生した内戦は九州王朝の残党の
反乱だったのだろう。ただ天皇家は九州王朝の分家だから中国や
朝鮮、ベトナムで起こった易姓革命ではなくただの王家内の家督の移譲だったのだろう
153 :
倭奴国:2006/05/14(日) 20:27:18
>>152 第一文はそのとおり。しかし、譲位したのであれば、日本書紀にもそのように
書いたのではないだろうか。
さらに言えば、この見解が変わったのは、>149の資料にあるとおり、文徳天皇以降出ている
宣命からで、その宣命には「わが国唯一の正統の君主は天孫降臨以来一系の天皇なりという一種」
の信仰告白があると中小路氏は述べている。(当然ながら、天孫降臨の第一代を初代王としていない
日本書紀の記述とは、建前が変化しているわけである。)この建前の変化は、古田説による日本の中心
王朝の交代と時期が一致しており、その論証になると考えている。
154 :
倭奴国:2006/05/14(日) 20:28:51
さて、話は「邪馬台国」の議論に戻るが、以下のような議論をしているサイトが
ある。
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2644987deb270df6ae79874de525f176 ここでは、三国志東夷伝が書かれてから、後に書かれた歴史物には皆「邪馬臺国」とあって、
「邪馬壹国」とは書いていない。従って、「邪馬臺国」が正しいと主張している。
しかし、これは、古田への反論にはなっていないのではないだろうか。古田の作業および主張は、以下のとおりである。
1、それまでの研究ではきちょんと記述されていなかった三国志の古写本・版本を探した。しかし、三国志の書かれた3世紀から最古の写本の字形変化をたどり、二つの字が似ているかどうか
を調べることはできなかった。(最古の写本がいずれも12世紀のものだったため。)
2.そこで、焼けて残らない古写本ではなく、金石文で字形の変化を調べてみた。(具体的には金石文を写真版などでまとめたもので
調べた。)
3.しかし、いろいろな時代の字体を調べても「これなら間違って当然だ」というほど似ているものが見つけられなかった。しかし、三国志の筆者陳寿の自筆本がないため、
決め手にはならない。
155 :
倭奴国:2006/05/14(日) 20:29:44
4.そこで、12世紀の最良の写本に対して、「壹」と「臺」の字が混同されている例があるか全ての用例について
調べた。(142例)その結果、その写本に対しては、、「壹」と「臺」の取り違えと考えられる用例はなかった。
(一つ一つの用例が挙げられている。)
5.さらに、後漢書の書かれた5世紀には、陳寿の自筆本などが残っていて後漢書の著者はそれを見て「臺」と直したのでは、
という疑問には、以下のような筋道で答えている。
6.即ち、後漢書の著者范曄の同時代人で、裴松之という人の校注を調べている。裴松之の注は、本文中の矛盾や異本に対して、おかしなところや
間違いと思われるところに対し、議論し、その際、明らかな間違いと思われるものでも、独断で判定を下さず、所伝の異なる底本・異本に対して公平・
慎重を期したというものである。
7.この裴松之の注には「邪馬壹国」のところに記述はなく、5世紀の段階でも、「邪馬臺国」と書いてあったような異本
のあった証拠は発見できない。
以上のような形で論証を行っている。古田はこのサイトのような主張を予め予想し、論証を行っているのである。
読者は詳細について、「邪馬台国」はなかった 古田武彦著 第1章 I 「「壹」と「臺」の探求」とII 「真実はいずこに」
および上記のサイトの主張を読み比べ、どちらが説得力があるか判断していただきたい。
156 :
倭奴国:2006/05/14(日) 22:43:07
>>155 さらに、議論に補足したい。「臺」の字は魏の時代にあっては、天子の宮殿および
その直属官庁」という意味で用いられており、東夷の国名に使われることなどありえない
ことを古田はさらに論証している。
157 :
倭奴国:2006/05/15(月) 08:36:10
158 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/15(月) 11:02:25
懐かしい
「「邪馬台国」はなかった」は、題名が週刊誌的で眉唾で読み始めたな。
「失われた九州王朝」は買ってきて読み始めたら、途中でやめられなくなって徹夜で一気に読んでしまった。
30年以上前のことだった。
159 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 13:36:50
私も、松本清張の「古代史疑」以来、古代史に関心を持ち、
古田の「邪馬台国はなかった」を読んで視界が開けてきて、
ダイナース主催の古田氏の講義を聴いてきました。
諏訪でおこなわれた「徹底討論」にも合宿参加しました。
並の学者にはない、古田氏の洞察力と構想力が凄かったです。
160 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:31:56
161 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 09:44:11
>>160 >台与の後で国名を邪馬壹国から邪馬臺国に変更したという可能性はないだろうか?
???古田はそうだと書いてるし、だからといって三国志執筆時点には無関係だろ。
後、一応『壹』与な。
162 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 00:03:59
2倍年歴問題だけど、実に的確に当てはまるとは思うんだが、ちょっと疑問がある。
これは、例えば、神武の1年目を今の1年の前半だとすれば、2年は後半でしょ?
てことは、奇数年は1ー6月オンリー、偶数年は7−12月オンリーになると思うんだが(あるいは逆)、
明らかにそうなってないよね?
これは、どう説明されるわけ?
163 :
162:2006/05/18(木) 00:10:21
紀年の境目は、1月、7月とは限らないから、別の月でもいいですが(確か春耕秋収で紀年だったか)。
164 :
倭奴国:2006/05/21(日) 16:00:42
165 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 16:10:28
>>158 古田氏の原題は『邪馬壹国』
これを朝日新聞社出版局が『「邪馬台国」はなかった』に変えた
週刊誌的なのは当然
166 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 16:40:21
>>164 「古代史60の証言」かたりべ文庫
ネットじゃ売ってないですね。
167 :
倭奴国:2006/05/21(日) 18:04:55
168 :
日本@名無史さん :2006/05/21(日) 20:24:26
169 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 17:47:54
>>164 九州にはアメ王朝とアマ王朝、畿内王朝、祭祀を司る王朝の
4本立てで運営されてたって事ですな。ちなみにこの頃の九州では世襲制の
統一王朝はなかったという話のあるので政治を司る法王大王(九州王朝
大好き氏がいう弟王)は祭祀王朝(兄王)が任命していたのかもしれない
ただ畿内王朝は継体以降はアマ王朝やアメ王朝の分国化してしまったのでは
ないだろうかと思うのだが。そう言えば天智天皇の国風諡号は「あめみことひらかすわけのみこと」
に対して天武天皇の国風諡号は「あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと」
九州王朝の実働部隊と言われるこの両者は各王朝の分家皇族だったのかもしれない
あと問題は女王国がその後どうなったのかだね。ある説を今考えているが
確証はないのでここでは省略しておく
171 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/28(日) 15:09:55
>>165 出版社側が売らんが為に表題を変えたことは後に知りました。
当時邪馬台国物としては注目の話題となりよく売れたようでした。
でも『邪馬壹国』では売れなかったでしょう。
僕も表題につられて関心を持ちましたから。
172 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 20:17:46
古田氏の講演会に行ったとき講演後の質問タイムに
「『邪馬台国は失われた』には・・・」と言い出した人がいたのを思い出した
『失われた九州王朝』『盗まれた神話』もいいタイトルだね
173 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/29(月) 11:06:49
>>170 天智がアメ、天武がアマ、何故そのように区別できるのかわかりません。
もしアメ・アマと区別ができるのであれば、
天智がアマ、天武がアメ、と推論できないことはないと思うのです。
174 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/29(月) 11:47:52
>>170 7世紀の倭国(九州王朝)の政治体制について
@祭祀大王(兄王・天皇)
A法王大王(弟王・法皇・筑紫出身の君・倭国連合のNo1統括大王)A〜H地域大王の緩い統括大王。
B肥大王(筑後川以南、5〜6世紀では倭五王・磐井等が統括大王)
C出雲大王
D難波大王(応神系大王と欽明〜孝徳大王は肥系大王)
E越大王
F尾張大王
G夷大王(毛野・武蔵北部)
H蝦夷大王(日高見・仙台平野北上川阿武隈川流域)
その他地域王多数存在。
175 :
倭奴国:2006/05/30(火) 20:19:27
176 :
倭奴国:2006/05/31(水) 22:27:26
久しぶりに「倭人伝を徹底して読む」(新泉社)を読み返す。これも20年ほど前の著作だが、
古さを感じさせない。
第四章三節「今使訳所通三十国」史記の大苑列伝のところで、漢が使者を遮るものを討つという大儀名分を保ちながら、
実際は農業生産のための生口(奴隷)を得るために、こういった軍事行動をとっているのではないかと述べている。(九州王朝
の話とは直接関係ないが、大変興味深い見方である。)
また、第九章「銅鏡百枚」の「考古学会を憂う」では以下のような話を紹介している。
1.九州の市立図書館の館長の話として、
2.市民講座で呼んだ考古学者に「三角縁神獣鏡は中国製と思うか、国産と思うか聞いた」ところ
3.半数が「国産と思うが、決して自分が言ったとは言わないでほしい」といい、もう半分も「中国製と思う」
といったものの、世間体を気にしてそういっているのか、よくわからなかったという。
学会の雰囲気がわかる話ではないだろうか。2chでも、若手の考古学者のかなりの部分は(邪馬台国)東遷説をとっているという書き込みが
あったりする事とよく対応しているのではないだろうか。
177 :
倭奴国:2006/05/31(水) 22:38:46
また、「韓半島からきた倭国」李鐘恒(新泉社)という本に古田が「解説にかえて」という文章を書いている。
それによると、古田の唱えた説を「襲用」する場合、古田の名前を出さないことが慣例化しているようである。
例えば、
1.七支刀に関して、倭王と百済王の対等な関係を説いたのは古田であるにもかかわらず、引用する場合には他の
学者の名前を出している。
2.茶臼山古墳の「海東鏡」をもとに三角縁神獣鏡の日本列島内作鏡説を論証したのに関わらず、中国の王仲殊氏
が自らの創説であるかのごとく書いているのをそのまま引用している。
他の学会でこのようなことが許されるのであろうか。
178 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/01(木) 17:15:34
続き 7世紀の倭国(九州王朝)の政治組織について
@倭京(大宰府)
宮廷 天皇(兄王・祭祀大王)
政庁 法皇(弟王・法王大王・筑紫出身の君) 九州・長門・伊予を直接統治
A難波京(大阪)
政庁 難波大王 畿内・吉備を統治
B出雲京(場所不明)
政庁 出雲大王 山陰を統治
C越京(場所不明)
政庁 越大王 北陸を統治
D尾張京(場所不明)
政庁 尾張大王 東海を統治
E大里京(熊谷)
政庁 夷(毛野)大王 毛野・武蔵を統治
F郡山京(仙台)
政庁 蝦夷(日高見)大王 宮城・岩手・福島(北上川・阿武隈川流域)を統治
Gその他地域王多数存在。
179 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:47:47
>>177 焼きいもみたいなくろーい変な長い顔で、
彫りが無くて鼻骨が低くてのっぺらーんとして
細い寄り目と薄いハの字眉が異様に変態チックで
唇だけが黒人みたいに突き出していて
いつもだらしがなく半開きで
弥生系・倭人とはぜーんぜん全くさっぱり違う顔なのに
弥生人は朝鮮系とうそぶき朝鮮人が九州に王朝を作ったなどと
抜かしてきたキモキモ顔の朝鮮よりめ土人は打ち首獄門!
180 :
倭奴国:2006/06/01(木) 20:25:40
>>179 誤解のないように言っておくが、古田は
>>177の著者の主張を明確に否定している。
金印が九州側から出土していること、銅矛等の鋳型の出土が朝鮮半島側にないこと、
「倭国王」と名乗っていたこと、などからである。
181 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:05:35
>>173 天智天皇の国風諡号は「あめみことひらかすわけのみこと」
天武天皇の国風諡号は「あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと 」
両方の諡号の頭を見ればわかると思いますが天智がアメに対して天武は
アマとなっています。両者が兄弟ならなぜ両方とも一つに統一しないのかが
わかりません。その他天智と天武には生年月日も記紀と他の書物とは違う等
相違点が数多くあります
>>174>>178 よく調査しましたな。貴殿の知識には正直頭が下がる思いです
ところで最近の考古学の調査によると女王国と敵対関係にあった
狗奴国は濃尾平野にあったと言われています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%A5%B4%E5%9B%BD 蝦夷大王、夷大王、尾張大王はその末裔なのでしょうか
もしかしたら平安時代の蝦夷の反乱は狗奴国の末裔の反乱だったかも
しれません。
ところで他スレでは九州王朝論を書くとなぜか叩かれるので今後九州王朝関係の
話はここでしたいと思いますのでどうかわからない事があった時は
教えてください
182 :
181:2006/06/03(土) 13:32:16
>>178 連投ですまないですが(だからsageにしました)
弟王=法王大王は兄王=祭祀大王に任命される
役職で筑紫大王以外の大王も任じられていたと思います。
これはあくまでも仮説ですが
筑紫大王=アマ王朝
肥系大王=アメ王朝
だったのではないでしょうか?この辺はどうなのか本等で
調査してみたいと思います。祭祀大王はその後どうなったのかは
まだわかっていませんが壬申の乱が天武が滅ぼしてしまったのでは
ないかと思います。(ちなみに天皇と名乗ったのは天武からでした。
天智は天皇とは名乗っていません)
183 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 12:51:27
ほかで聞いたど、古田派ですか?
184 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 15:22:06
185 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/10(土) 20:54:35
>>181 「アマ」「アメ」を見直し、自説修正をしていました。
「アマ」は九州王朝兄王の名称です。
「アメ」は九州王朝系弟王の名称です。
天武が「アマ」「天皇」を名乗ったのは兄王系であることを示しています。
それに対して天智は九州の「君」レベルの出身で、
畿内地域の弟王として「アメ」を名乗ったのです。
反九州継体朝を倒した欽明も九州系畿内地域弟王として「アメ」を名乗りました。
以前は筑紫系弟王だけが「アメ」であると見ていましたが、
九州系弟王は筑紫肥を問わず「アメ」のようです。
タリシホコは宗像君であり「アメ」となり、「天皇」ではなく「法皇」となります。
尾張大王と夷大王は、西日本系ですから、
九州から太平洋岸沿いに東進した狗奴の一派との見方も否定できないと思います。
又、夷は尾張からの東進と思われます。
蝦夷大王は現地実力者(日高見国大王)が蝦夷地域弟王として、
7世紀始頃、九州王朝に参画したものです。
蝦夷は8世紀になると畿内朝廷と対立しました。
186 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/10(土) 21:33:14
>>184 >>135は興味深いですね。
古田武彦氏も、かなり以前に文体の違いを指摘していたように記憶しています。
「渡来中国人の著したアルファ群」に当たる部分は九州王朝史書からの抜粋、
「日本人の著したベータ群」は畿内朝廷の編集、
ではなかったかな?
187 :
倭奴国:2006/06/18(日) 16:53:14
>>184 >>186 レスありがとうございます。私も非常に興味を持っています。「東アジアの古代文化」に載っている
森博達氏の論文も読みましたが、専門家だけでなく、一般の人にも日本書紀の研究を勧めていました。
古田派としても参入すべき重要分野であると思います。
test
189 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 14:55:45
ヾヽ
_( ・l> ハトポッポ
ミ_ノ
190 :
倭奴国:2006/06/24(土) 14:37:40
191 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 18:10:58
192 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/26(月) 04:40:43
>>190-191 多くの神社創建時期はおかしいですね。
祭神が複数でアマ系祭神を含む神社の創建は何故か8世紀が多いですね。
畿内においては何故か5世紀迄遡れる創建がある。
193 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/26(月) 05:36:25
九州王朝夷(毛野)弟王国の大里京(南北9条東西10条)が確認できそうです。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1105834872/251 大里京:
178 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/01(木) 17:15:34
続き 7世紀の倭国(九州王朝)の政治組織について
@倭京(大宰府)
宮廷 天皇(兄王・祭祀大王)
政庁 法皇(弟王・法王大王・筑紫出身の君) 九州・長門・伊予を直接統治
A難波京(大阪)
政庁 難波大王 畿内・吉備を統治
B出雲京(場所不明)
政庁 出雲大王 山陰を統治
C越京(場所不明)
政庁 越大王 北陸を統治
D尾張京(場所不明)
政庁 尾張大王 東海を統治
E大里京(熊谷)
政庁 夷(毛野)大王 毛野・武蔵を統治
F郡山京(仙台)
政庁 蝦夷(日高見)大王 宮城・岩手・福島(北上川・阿武隈川流域)を統治
Gその他地域王多数存在。
194 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/28(水) 03:03:42
195 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/29(木) 01:06:40
倭京(大宰府)の条坊の痕跡を衛星写真の分解性能があがったので調べました。
残念ながら衛星写真では条坊の痕跡ははっきりとは認められませんでした。
辛うじて痕跡と思われたものは朱雀大路です。
西鉄二日市駅北東の通古賀6丁目の西鉄線と川の間に南北300m程です。
大宰府は平城京址よりも宅地開発が古くから進んでいるので、
衛星写真では条坊の痕跡は殆ど認められなくなっていました。
ペルーのナスカ地上絵も分解能の上がった衛星写真で、
今までの航空写真以上に、新たな絵の発見があったのが肯けます。
196 :
倭奴国:2006/06/30(金) 23:06:28
「和姓に井真成を奪回せよ」 越境の会 (編集) 同時代社 および 「古代に真実を求めて」の古田などによる
議論を紹介したい。
2004年に西安市で墓誌が発見された日本人留学生・井真成は井を姓とする日本人である。(九州には井を姓
とする人々が実際に存在する。)
井真成は死後「尚衣奉御」という官職を贈られたが、この官職は隋の旧皇帝の一族などが就くことの多い官職であり、
井真成も九州王朝の王族である可能性がある。
古田によれば、倭王は中国風一字姓「倭」を名乗ったが、その後日本でこの姓を名乗った一族がいた形跡がない。
「井」は「倭」と同じ姓である可能性があるとしている。
197 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 17:15:42
あげ
198 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/05(水) 21:44:02
199 :
倭奴国:2006/07/07(金) 07:58:57
200 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 21:16:05
中小路駿逸氏による「ヒナとアズマー古代文学に見える日本の地理区分についてー」
追手門学院大学文学部紀要 34号
から紹介したい。
1.碓氷、足柄分水線にアヅマの西境があった。その東にあった国は「我姫国」と
呼ばれていた。(通説と異なり、「アヅマ」とは読めないとする。)
2.それは、七世紀半ばごろ以前に少なくとも美濃、伊勢、伊賀の西域を含む線まで西進
していた。
3.そののち、この線はアルプス線群まで「東進」(東国から見れば「東退」)していた。
4.8世紀はじめ以前に、この線はアルプス線群を東に越え、万葉集の東歌の編集以前に
碓氷・足柄分水線を越えていた。
「旧唐書」にあらわれる「日本国は東界は大山有りて限りと為し」というのは4の時点である。
「宋書」倭国伝の東は毛人を征すること五十五国というのは、この「我姫国」をさしていると考える
べきである。(そうでないと考える理由がない。)また、九州王朝の領域と毛人の国は接していたと考える
べきである。
上記の認識は、文学を含む古代の文献から得られたものである。
201 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 22:35:18
>>196 井真成は、葛井氏か井上氏の出身じゃなかったのか?
202 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/11(火) 14:40:06
>>200 1.は、論評できず。
2.は、毛野の朝鮮出兵663年と矛盾する。東国が九州王朝のひとつの大王国と見るなら矛盾しない。むしろ尾張勢力の東進。
3.は、東国が尾張大王国からの独立を示す。東国が九州王朝の主要7大王国の一員となった。
4.は、畿内天皇朝廷の勢力東進を示す。
文学を含む古代の文献から得られた上記の認識は僕と同じである。
後記の2つの解説意味付けは肯定できないが。
203 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/15(土) 08:14:44
>>196 >古田によれば、倭王は中国風一字姓「倭」を名乗ったが、
>その後日本でこの(井)姓を名乗った一族がいた形跡がない。
>「井」は「倭」と同じ姓である可能性があるとしている。
先ほど、NHKTVを見ていると(AM08:05)、
阿蘇に「井」姓の人が住んでいたよ。
現在は放牧農業をしているようだ。
204 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/22(土) 21:02:44
>>199 安徳台は那珂川の谷中の丘の頂部を、
周辺低地部より30m高で平坦に切り開いたものです。
最初に作られた当時は南側の沼と東西の河川(那珂川・裂田溝)を利用して、
水堀として水城として四方を外敵から防御したようです。
なお裂田溝は安徳台と東南側の丘を切り離す為に人口的に開削したもののようです。
地質図と照合すれば確定できます。
衛星写真から解析しました。
「もののけ姫」のタタラ場は、「安徳台」を作者が知っていたのでは?
205 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/23(日) 03:59:11
人口的→人工的
知っていたのでは?→知っていたからでは?
もののけ姫に描かれる人々は、中世の人間であって、
古代の人間ではないよ。
ほぼ全面的に網野史学あたりから採用してる。
九州王朝説とはまったく無関係。
207 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/29(土) 12:56:52
208 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 01:30:16
>>206 もののけ姫の時代考証は正直残念でしたね。
209 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 01:33:26
九州って多くは平家落ち武者だが
ぬるぽ
211 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 15:20:57
212 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 15:22:21
もののけ姫の時代はどう見ても中世だろW
213 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/08/06(日) 18:02:25
もののけ姫の時代は中世ですが、
作者はタタラ場の場面設定で単に安徳台を借りてきただけではないかと思います。
安徳台では製鉄の遺蹟もありますから。
214 :
倭奴国:2006/08/27(日) 19:58:10
215 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 10:54:49
>>175 かなり詳細で分かり易くなってますね。
それにまあまあ公平だし。
216 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/08/28(月) 14:06:00
暫く見ない間に詳しく書き直されていますね。
217 :
倭奴国:2006/09/09(土) 07:14:07
218 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 10:50:11
九州王朝はなかったのか?
(A)邪馬台国が九州に存在していた。
>>218
現在ではそれが定説
大和朝廷は、邪馬台国が東遷してできた朝廷
220 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/09/09(土) 20:28:07
>>218 邪馬台国は、王朝と呼べるものではなく、
王朝と呼べない王朝前段階の国家。
>>219 大和朝廷は、九州王朝の一派(天智と天武)が乗っ取った朝廷。
天武は越勢力と連携して日本を建国した事がその遷移から窺えるけど、九州王朝っていうのは何から判断して?
まあどっちが正しくてもいいが、どうして九州説の人は
>>219のような
誰にでもわかる嘘を平気でつくのか理解できない。
223 :
太国:2006/09/09(土) 21:06:58
224 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:46:24
私も同意です。
「東遷」などという限定的な政治用語を濫用することの罪がどれだけ重いか。
これも、土器編年とかホケノ山とかと同じで、言霊の呪文なんだよ。
225 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/09/11(月) 11:48:04
>>221 近江京は副倭京(第二大宰府)説に基づいています。
天智は九州王朝の弟王(法皇)代理で唐対策から副倭京として近江京を作る。
(正弟王は薩耶麻で唐に抑留中)
天武は九州王朝兄王(天皇)の一族で、
正弟王である薩耶麻の帰国により、尾張・大和勢力の協力を得て天智を討伐。
天武はそのまま畿内に居残り、倭京九州王朝の弱体化もあり、
畿内にて分派九州王朝として天皇を名乗る。
天武の死後持統期には、文武は本家九州王朝を討伐し、
討伐の成功を期して天皇に就任。
なお九州王朝残存勢力の殲滅は日本書紀編纂開始時の717年までかかる。
それ以降も九州王朝勢力は九州西海岸(肥前長崎県)に残存しており、
遣唐使は、九州南端から出発し帰着しなければならない為、
(肥前海岸部に航路が向かうと九州王朝残存勢力に惨殺されたであろう)
生きて出発し帰国できることは困難であった。
海流・風の為、唐へ往復する船は長崎県海岸部に流されやすい。
>>224 私も同意です。
「王朝」などという限定的な政治用語を濫用することの罪がどれだけ重いか。
これも、縄文灯台とか寛政原本とかと同じで、言霊の呪文なんだよ。
「東遷」という語は、国家や首都や王都が移転した意味だろうが、
神武は王様ですらない分際で、都落ちして辺境の地に定着しただけの話。
こんなのは、単なる零落軍人の都落ち譚に過ぎない。
普通にいえば
×「東遷」 ○「都落ち」
228 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/09/11(月) 18:07:28
天智や天武の場合は、それぞれは東遷と言えるのでしょうか?
主体が九州に残存しているから東遷とは言えないですよね?
229 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 18:58:09
流れを止めて悪いが
この『九州王朝説』の論者は
古田以外誰がいるの?
九州に中国型の政権集団が居た可能性は考慮されるべきだけど、
このスレはちょっと酷いな。
ファンタジーは文学板でやって欲しい。
231 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:25:41
>>228 それは言ってもいいんじゃないか。多元的だろうがなんだろうが、その王権が
エリア内では一元的に支配している状況なら、その都の移動は遷都だろう。
232 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 22:37:15
「東遷」という以上、その「王」たるべき人は九州で即位し、その地で「王」たる
治世を布いていた人でなければなるまい。
神武は橿原にやってきて「初代王」として即位したのだから、東遷なわけない。
233 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/09/12(火) 05:04:41
>>229 「九州王朝」は古田氏の提唱した言葉。(古田造語)
234 :
(;ω;):2006/09/12(火) 08:51:55
236 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/09/12(火) 21:51:20
>>229 こいついつもの有名人だろ、かまわないほうがいいぜ
238 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 23:51:49
239 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 11:05:54
九州王朝説なんて根拠は10世紀に作られた唐書に書かれた1行程度の記事のみ。
しかも、唐書自体がこの話は疑わしいとしている。
笑止
240 :
太国:2006/10/22(日) 11:18:32
あまいあまい、女王国自体が九州王朝の氷山の一角。倭の五王朝もあった。
241 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:07:21
蝦夷王朝ってなかったの?
242 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 04:48:36
蝦夷王朝はあった。
日高見国と言う。
仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域に展開していた。
畿内朝廷軍に対して13年間の防衛戦争指揮した阿弖流為がいる。
阿弖流為と共に処刑された磐具公母礼は蝦夷王朝の王か?
北上(川)は日高見の訛ったものでは?
243 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 09:35:56
邪馬台国は、九州の王朝でした。
244 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 13:16:36
九州王朝は、「倭(ヰ)」「大倭(タィヰ)」「イ妥(タイ)」とも呼ばれる国家で、6〜7世紀に存在した。
倭の五王、邪馬台国は王朝とは呼べない王朝前段階国家。
245 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 19:48:41
もう誰も反論できないし、後は学会に認識させる手続きだけが仕事になりましたね。
246 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 21:57:26
>学会に認識させる手続き
畿内説で飯を食っている学者は、どうせ認めないんだろう。
真実よりも、食えることのほうが大事だからね。
247 :
太国:2006/10/23(月) 22:02:13
臥海は力関係で説が決まるきらいがあるから、連中の定説とやらを丸々鵜呑み
にはできない。逆の説を無理に主張すると葬られる場合があるはずだ。
もう畿内説は記紀と倭人伝の距離の矛盾があって、確実に破綻してる。
当然女王国は九州にあったのであり、それは九州王朝の氷山の一角である。
学者の間にだって、九州にあったって説の人はいるし、
そもそも、論文としての形式・体裁を取れているかということが重要。
だから、体裁さえきちんとしていたら、論文としては認められるよ。
内容に対する反論が噴出するだけのことだ。
>内容に対する反論が噴出
九州王朝説に対しては、マトモな反論が少ない。
無視、トンデモ扱い、剽窃といった態度が普通。
250 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 12:56:12
「内容に対する反論が噴出」してるのは、未だに万世一系・八紘一宇を「定説」といって憚らない旧帝大系説だよな。
251 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/10/27(金) 01:44:24
暫くお休みしていました。
畿内天皇朝廷説は歴史学ではなく思想だと思います。
天皇の王朝は天武かその前後からだから、畿内で確定です。
253 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 02:14:40
>大好きさん
最近ご無沙汰でしたね。
大好きさんの説で、特に印象に残っているのは
@薩野馬帰還から天武の即位まで
A倭国の中心地変遷史
B大宰府と筑紫都督府
C菊池王朝と古墳
D神武の出自と畿内進出の経緯
です。またお願いします。
254 :
一応九州王朝説:2006/10/27(金) 06:43:01
私もご無沙汰でした・・・・・って誰も覚えてないかw
>>251 根本はその通りですが、怖いのは、
・既にできちゃってる箱物の維持のための畿内説
・都道府県や市町村教委の文化財担当
特に後者はとりあえず土器編年で年代を明示することが要求されるから
これが一番実害が大きいと思います。
255 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/10/28(土) 12:56:38
畿内説に基づいた土器編年を組み換え直すのが、
長い時間と多数の人材を必要とする大作業。
C14を基準にするしかないが。
土器編年などは飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ!
257 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 13:47:55
>>256 偉い人も解ってるよ、
お前ら一般人には、
建前しか云わないだけ。
ネタにマジレスすんなw
259 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 09:22:34
九州に独立国はあっただろうが
九州王朝と呼べるものはないよ
出雲王朝と畿内・吉備王朝はあったけどね
九州は火山活動が活発すぎて人が快適に住める土地ではなかったことが
隋書からも伺える
交易の要所ではあっただろうが王朝と呼べるような
絶大な権力者がいたという記録も遺跡もまったくない
260 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 09:48:04
もっといえば日高見国を初めとする関東王朝>>>>越えられない壁>>>>九州王朝
むこうはアテルイとか首領の名前も明らかだし
征夷大将軍の名前からも蝦夷勢力がそれだけ強大だったことがわかる
261 :
太国:2006/11/10(金) 10:57:48
卑弥呼の女王国は九州王朝なり。
262 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 11:31:56
何年2ちゃんねるに張り付いても
>>259がネタなのか、釣りなのか、ホンモノのバカなのか、判別できません。
何かよい方法はあるのでしょうか?
>259によれば、
今の日本も独立国ではないらしい。
火山活動がさかんな日本列島には人が住んでいないらしい。
滅亡して記録がない国はなかったことになるらしい。
幻想の世界に遊んでいます。
264 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/10(金) 23:11:15
>>259 隋書の火山は「雲仙普賢岳」
九州王朝の遺蹟は「大宰府」
266 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 08:42:07
>>259 つ 三種の神器 出土遺跡
鉄器、絹、中国鏡
副葬品の数、内容
弥生王墓も知らないのにこのスレで何をしたいの?出雲や吉備こそ
その痕跡となるモノ自体はまだ僅少なのに。いや、俺はあったと思
うけどね。
267 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/11(土) 19:26:59
>>266 259の言う遺蹟とは、巨大古墳のみを指すのだろうな。
268 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 23:45:45
最初の倭王帥升は普通に九州だろ
他スレにも書いていますね>吉備王朝中心説
卑弥呼の時代から、古田説の最終滅亡の7世紀末まで、5、600年はあるわけで、
畿内でそうであるように、九州に於いても他の地域でも、決して単純な経緯をたどっ
た筈はないでしょう。どのエリアでも規模の大小にかかわらず征服譚、英雄譚はきら
星のように存在したわけで、返す返すも大和朝廷による焚書を呪わずにはおれません。
相当隠蔽したい過去があったんでしょうかね。誠に恥ずかしい政権体質です。
日本の古代史学者(だけではないですが)の致命的欠点は、政治哲学が
空っぽであるということです。古代史を明らかにし、その精神土壌が
後の世にどのような影響を与えたのか、司馬遼太郎がよく言うこの国の
形にどう寄与したのかが一番重要なはずです。
別に九州王朝なるものが理想の政治形態だとも近畿天皇家が邪悪だとも
言うつもりはないです。それぞれ必然性はあったんでしょう。
ただ、歴史を学ぶ理由がなんなのかをわかってるのかどうか、それが古
代史学の胡散臭いところで、哀れを誘います。
例えば、例の和田家文書、あれはどうにも胡散臭いところが満載でいた
だけませんが、それはどうやら古田さんもわかってる様子。多分墓の中
まで持っていくものがあるんでしょう。でも、子供がいじめに遭うなど
という異常事態をも防ごうとしたその人間性は評価できます。
それに対して、女性のヒスのような安本氏のやり方は、到底容認できる
ものではなかったです。呼ばれたら右翼の集会にでも顔を出していまし
た。その人達が、古田説を万世一系を否定する危険思想として認識して
いるということを、おそらく学者馬鹿の安本氏はわからなかったんでし
ょう。でも、それは安本氏自身の学問的立場、のみならず言論や学問の
自由をも危うくする行為だったということに気付かないのは、どういう
ことでしょうか。
季刊邪馬台国の混乱の収拾方法にも同様の事が言えますよね。
私的には、畿内説の固陋と戦っておられる安本氏「でさえ」こんなもの
なのか、という印象です。もとより古田安本両氏とも何の面識もない門
外漢ですが。
271 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 13:05:02
季刊邪馬台国の混乱の収拾方法とはどういうことがあったのでしょうか。
まったく聞いたことがなかったので概略だけでも教えてください。
あの・・・ここの自作君は必死に何を主張したいの?
1レスに要旨を纏めてカキコしてくれないかな?
このスレの方針も主張も議論も、
さっぱり解らないよ。
273 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/14(火) 00:58:40
>>260 そんなに単純なものではないよ。
蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?
夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より7世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。
274 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:21:44
古代九州は?
本題に戻る。
上記レスにあった九州東西二分に同意。理由は異なるが。
西九州は筑紫・肥、
東九州は遠賀川以東・豊・日向。
九州王権弟王前君(景行記)の東九州遠征後の帰着地は筑紫の浮羽。
帰着地は行政実務の中心地。
即ち、都は浮羽。
時は4世紀末。
前君は肥出身の弟王(実務政治王)、倭の5王へと継続する。
卑弥呼の後継者である兄王(宗教王)は弟王前君と並立する。
倭人の二層構造政治体制。
畿内天皇政権は兄王弟王の2王を1本化し、
畿内天皇は宗教王であり世俗王。
275 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:13:25
卑弥呼の墓が未だに発見されないのが、逆に九州王朝の実在を物語っていると思う。
つまり、大和の勢力によって破壊されてしまったのだ。
○○の墓が未だに発見されないのが、逆に○○王朝の実在を物語っていると思う。
つまり、大和の勢力によって破壊されてしまったのだ。
277 :
倭奴国:2006/12/10(日) 20:56:40
278 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/11(月) 18:54:56
>>277 上記Wikipiedia九州王朝説について
大宰府(倭京)についての記述
「遠の朝廷」として多賀城でもあるとの説で書かれているが、
これは「多賀城」ではなく、「郡山京」(仙台市)ではないのか?
サイズ:東西×南北=6里×6里(短里)の正方形。
279 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/11(月) 20:12:16
上記「郡山京」の「郡山」は現代地名であるので、
正しくは日高見国の「日高見京」であろう。
なお「多賀城」は、畿内政権による日高見国南部(仙台平野・阿武隈川流域及び太平洋岸地域)征服後の
北上川流域部の日高見国に対する最前線基地。
280 :
一応九州王朝説:2006/12/11(月) 20:13:06
仙台という、8世紀でも最前線の僻遠の地を朝廷とするのは
無理がある。と言うより、 無 理 ですねw
281 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/11(月) 22:06:45
>>280 仙台(日高見国)を僻遠の地とみなすのは、畿内朝廷的史観に毒された偏見。
北上川流域・仙台平野・阿武隈川流域の経済力から強力政権が存在したことは否定できない。
7世紀の日高見国の経済力は、畿内(1位)、九州(2位)に次ぐ列島3位の規模。
又、7世紀には日高見国は唐へ使節を派遣し、
8世紀末にには北上川流域のみに狭められた日高見国を畿内朝廷が征服するのに13年の戦争を要した。
そして畿内朝廷は日高見国全域の平定は9世紀末には放棄した。
一方、畿内朝廷が九州王朝征服に要したのは僅か3年、
ほぼ全域を鎮圧するのに20年である。
7世紀前期の郡山遺蹟とその周辺遺蹟の解明が待たれる。
282 :
一応九州王朝説:2006/12/11(月) 22:17:20
ふむ。それは承知ですが。
でも、「遠の朝廷」という表現自体が同一政治連合内部で使われる
ニュアンスの言葉ではという事が言いたいわけです。激烈な、おそ
らく機内政権が最も厳しい戦いを強いられた相手ですから、そんな
所に「朝廷」を置くわけはなく、また敵に対してそのような尊敬語
のような使い方をするはずもない。
まあ、友好関係にあった場合は考えられないことはないが、この言
葉が出現する当時にふさわしいかどうかということもありますし。
>畿内朝廷的史観に毒された偏見。
ですから、畿内朝廷から見た視点で言ってるわけですからw
政治概念を含む用語の使用の問題と多元王朝論全体を混同して批判
される方法もはなはだ宜しくないかと。同じ九州王朝論者として、
一言申し述べたいと思います。
・・・・・まあご無沙汰しておりましたがw
>7世紀前期の郡山遺蹟とその周辺遺蹟の解明が待たれる。
同感です。
283 :
倭奴国:2006/12/11(月) 22:22:24
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nigezaru.html 「3 九州王朝と東北王朝
ー「曲水の宴」が意味するものー」より
ところが八世紀初めに「曲水の宴」が存在した。こうなりますと多賀城を築く
前に、大和朝廷がここを支配する前に「曲水の宴」が存在した。つまり大和朝廷が
軍事的支配を行う前に、軍司令官が敵の陣地に乗り込んで「曲水の宴」を行った。
そういうことはありえない。そうしますと、これは何か。つまり安倍貞任・宗任と
いう、あの東北王朝側のおこなった「曲水の宴」跡である。そういうことになる。
(中略)
これで問題になるのは、仙台に行く毎に、佐々木広堂さんが言われたのは、どうも
おかしいのですよと。何がおかしいのか。六世紀や七世紀の岩手県や宮城県から出て
くる遺跡に見事な城郭遺跡のようなものが出てくる。それを今まで大和朝廷の城郭遺跡だ
と考えていたが、六世紀や七世紀に大和朝廷が進出していたとは言えないので教育委員会が
困っているようですよ。現地にも連れて行っていただいた。それが年輪年代測定法の概念を
入れますと、五世紀や六世紀となりまして、いよいよ大和朝廷が進出(侵略)した後だと言えなくなる。
284 :
一応九州王朝説:2006/12/11(月) 22:30:48
なるほど。そういうのもあるわけか・・・。
しかしやはり敵同士で「遠の朝廷」とわざわざ記す必要は疑問符
ですね。やっぱり九州朝廷の事じゃないでしょうか。
いや、引用の論旨全部を否定するものではありませんが。
285 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/14(木) 00:02:42
>>284 畿内朝廷は7世紀には東北王朝と一緒に唐に使者を派遣していたので友好関係でなくても敵対関係ではないでしょう。
畿内朝廷にとっての後背の東北王朝を敵にすることは当然避けていたはずです。
敵対関係になるのは、畿内朝廷が九州王朝を武力征服した後の701年以降です。
遅くとも畿内朝廷の陸奥進出を開始し郡設置をした和銅年間には東北王朝と敵対関係になっていたと判断できます。
畿内朝廷の東北王朝南部(陸奥国)地域支配の完成は多賀柵設置の724年でしょう。
この後東北王朝北部地域と畿内朝廷との戦いの200年が続くわけですが。
286 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 10:42:51
遠つ飛鳥、近つ飛鳥。
287 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 17:37:21
>遠つ飛鳥、近つ飛鳥。
??????
288 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:50:41
そんなに長く九州中心の柵封体制が続いていたとは思えないです。
ヤマト王権の実力も侵略意図も既に相当東方深部まで及んでいたのではないでしょうか。
越でさえ他国の時代にか?
290 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:01:15
邪馬台国時代はまだ大和王権と九州は別だったと思うけど
4世紀の初頭には、九州は大和王権の傘下に入ったとみるべき。
ただし、その後にも、何度も大和に対して氾濫を繰り返していた。
これは、九州だろうが、関東だろうが同じで
似たようなことは、記紀の明快な中世にだって
たえまなく、あったこと。
291 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:41:07
よく、統一的だとか、地方分権的とか
古代史を語る上で問題にするが
どこからどこまで統一的で、どこからどこまで地方分権的って
境界線が明確なわけがない。
そんなこといえば、中世だって
どこからどこまで統一か分裂か見方が割れるだろう?
たとえば、徳川時代って、一応、統一政権だけど
見方によれば、300の藩という国々による
地方分権的な国家体制なわけだし、
そういうふうにみれば、日本みたいな海という天然の国境で囲まれた島国は
強力な中央集権体制をひいてアイデンティティを強力に主張する必要が無いわけで、
明治維新直前まで地方分権的だといえる。
292 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/15(金) 16:11:13
>>288-289 >そんなに長く九州中心の柵封体制が続いていたとは思えないです。
九州中心の柵封体制といわれるものがあったのであれば、それは663年で終わっています。
僕としては九州王朝は筑紫(九州)を中心とした主な6地域(出雲・浪速畿内・越・尾張・毛野・日高見)の緩い連合体とみているからです。
九州王朝の全国的な体制があったのは、663年の朝鮮半島南部戦争敗戦までとみなされます。
663年〜671年(唐の筑紫占領・薩耶麻帰国)には、九州王朝の実質的な支配地域は九州島及び中四国の一部に限られていたようです。
671年以降は九州を除く地域は其々独立状況になっています。
671年からは九州王朝の九州内での支配能力も徐々に低下し、
697年の文武の軍事侵攻により、政治体制としての九州王朝は699年に滅亡しております。
700年からは九州王朝残存勢力により九州では内乱状態がありましたが717年には完全に鎮圧されています。
ヤマト王権の東方への侵略開始は701年以降です。
年号「和銅」は関東の雄毛野(武蔵は毛野の支配下)を支配したことを祝してつけられたとみなしています。
(毛野では金の産出がない為、金の献上に代わる豊富な銅の献上)
ヤマト王権の関東以北への侵略は和銅年間に始まっています。
日高見国(東北王朝)の現福島県地域へのヤマト王権の侵略開始(出羽国支配後)は和銅年間と見られます。
古田グループ説に重なるところが多々ありますが。
293 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/15(金) 16:16:31
上記修正
誤:武蔵
正:秩父
294 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/15(金) 18:56:47
>>290 >4世紀の初頭には、九州は大和王権の傘下に入ったとみるべき。
逆。
大和王権が九州王権の傘下に入ったのは応神(4世紀)からと見るべき。
大和王権は仲哀まで九州王権から政治的に独立。
継体3代(継体・安閑・宣化)も九州王権から政治的に独立。
最後の政治的独立は斉明直後661年(天武)から持統まで。
文武からは九州王権消滅により大和王権の九州支配。
トヨトミミとかトヨミケカシキヤヒメとかの「トヨ」って、九州の「豊前」「豊後」と関係があるのか?
邪馬台国のトコで出てくる「トヨ(?)」とは関係があるのか?
296 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/16(土) 02:13:12
>>295 関係ない。
日本語語の「トヨ」は、漢字の「豊」の意。
「トヨ(臺與)」ではなく、「イヨ(壹與)」である。
「邪馬臺國」ではなく、「邪馬壹國」であるのと同様。
>>294 独自の想像するなw
記紀を素直に読めよw
298 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/16(土) 17:54:46
>>297 何の先入観もなく、記紀を素直に読みました。
記紀の矛盾点不整合を洗い出すと上記
>>294の結論になりました。
>>294の書き間違い修正
誤:天武
正:天智
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Yさん、
歴史とは素直に読むべきことだ。
自分の空想にひたるなよ。
301 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/16(土) 20:19:13
>>299 崇神朝の仲哀九州遠征軍に勝った九州王権は、
応神を畿内遠征に派遣し、畿内鎮圧に成功。
応神は九州系連合王権として浪速王権を開いた。
302 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:34:21
神武を輩出した九州王朝が、畿内大和朝廷の支配下に入るのは磐井の乱の後でしょ?
303 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:35:24
>>296 それは証明されたわけではないですよ。古田信者どの。
304 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/16(土) 21:36:58
>>303 証明のない仮説ですね。
古田説に共感はしていますが、信者ではありません
305 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/16(土) 22:14:42
>>302 九州王朝弟王磐井は継体に負けましたが、
九州王朝兄王は継体に敗退したわけではありません。
継体は戦闘には勝ったが戦争には勝てず和睦しています。
継体の死後、欽明は、継体朝3代を倒し、
第二次九州王朝系連合畿内王権を再興しました。
以降の九州王朝と畿内王権の力関係の微妙さを現しているのは、
畿内王権の女性天皇擁立のようです。
306 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:25:22
>>304 仮説ですね。じゃねえよ。間違ってました。すいませんぐらい家。この阿呆。
307 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 02:01:53
馬鹿を家。文系学問は数学や物理学じゃないだろ。
少ない仮設で多くの事柄を合理的に解釈できれば
真理により近いとするだけだろうが。
九州王朝なんてあるわけねえだろ。もちろん倭王朝もない。
あるのは王権。ひとつの王権の中で時期を追って交替するのが王朝。
309 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 09:25:05
だから完成した統一国家後の中央権力以前のものを王朝と言ってるだけだろ。
それもなかったというのか?世界史でも王朝ってふつうに言うぞ。お前の理論
なら、世界統一した国なんてないんだから全部王朝と名乗っちゃいけないこと
になる。
310 :
倭奴国:2006/12/17(日) 10:18:51
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/onamekei.html 日本書紀で大嘗祭のことが初めてでてくるのは、天智天皇の時だが、そこには、「大
嘗祭に参加した人に褒美をやったという記事だけ」があり、大嘗祭を行ったという記
事がない。一方、持統天皇は大嘗祭を行ったという記事がある。これは、大嘗祭は中
心権力者のみが行えるものであり、それまでは中心権力者である九州王朝があったの
で行えなかったのである。
また、万葉集に「梅の花が散って桜の花になった」という歌がいくつもあるが、この
「梅の花」とは九州王朝の話ではないかと。
九州王朝というよりも
中世に、京都や鎌倉の政権とは独自の外交を
していた九州の豪族みたいなもんだろう?
つまり、半独立の関係。
一応、畿内は九州を押さえているが
隙あれば、常に逆らうような感じ。
また、中央政権に外交利権を独占させないためにも
常に独自ルートを構築しようとする関係。
312 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:16:31
>>311 そういう話ならここでいろいろと問題にはならないよ。
「天神」というのがなんなのか、とか、そもそもなんで「九州」なんていう、
中国でこの世界全部を表す名前を持っているのか、など、色々不審な事が
多いわけで。今我々が歴史上の常識と言ってる事柄なんて、所詮江戸中期
以後国学者や明治政府が作り上げたイメージだもんね。
>九州の豪族みたいなもんだろう?
歴代の倭王が求めた将軍号・大将軍号は、
極東全体を覆うような支配領域を示しているだろ。
どこが九州ローカルだ。
315 :
↑:2006/12/18(月) 11:19:51
>314だけ池沼
316 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 01:47:11
634 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 00:01:52
カーゴメ♪カゴメ♪
今テレビで見ていたら滅びた九州王朝が残した歌の様に解釈できた。
日田地方が九州王朝最後の地だったようだ。
635 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 00:12:17
九州王朝の最後:716年 日田
636 :日本@名無史さん :2006/12/22(金) 00:48:42
天領地 日田
山に囲まれた盆地で「耶馬」と書く。
637 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 01:17:08
かごめ歌「後ろの正面だあれ」
後ろの正面は畿内朝廷奈良政権。
前の正面は九州王朝の繁栄の跡筑後平野方面(天神大宰府)。
716年日田で亡んだのは九州王朝兄王。
699年薩摩で亡んだのは九州王朝弟王。
638 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 01:31:39
かごめ歌「夜明けの晩に鶴と亀がすべった」
鶴は天智か?亀は天武か?
「カゴの中のトリ」
日田に幽閉された九州王朝兄王か?
「夜明けの晩に」
白村江戦敗戦か?薩耶麻帰国か?唐の筑紫占領か?
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
318 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:12:22
319 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:27:13
カゴメケチャップとか言うぜ太国=九州はwwwww
320 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 16:31:06
くれぐれもケチャップとソースは違うぞ太国w
321 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:29:49
ケチャップもソース、トマトソース。
ウースターソース
ソイソース
等々もあるね。
322 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:03:31
>>316 何処に日田とか薩摩の証拠があるんだ?
やっぱり妄想ですかwwwww
323 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:03:45
324 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/25(月) 20:21:32
>>322 >何処に日田とか薩摩の証拠があるんだ?
日田に鶴と亀がある。
続日本紀文武4年を読め。(文武2年〜大宝2年にも関連記事あり)
間違い修正
誤:699年薩摩で亡んだのは九州王朝弟王。
正:700年薩摩で亡んだのは九州王朝弟王。
325 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/25(月) 20:36:23
続日本紀を見ていて疑問
畿内朝廷は、701年対馬が金を貢いだ時、大宝を建元し、官名位号を改制したのは何故だろう?
326 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:44:17
701年以前から近畿朝廷に「倭国」があったのは何故だろう?
327 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:38:22
>>324
>日田に鶴と亀がある。
理由はこれだけですか?
カゴメの説明は結構です。
328 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/27(水) 00:57:22
>>327 天智天武と鶴亀の関連知見はまだありません。
329 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 08:21:38
しかしあれだな
韓国の歴史教科書や中国の歴史教科書を見たり
それぞれの国の学会の見解を聞いたりすると
例えば「高句麗」一つをとっても自己に都合のよい
位置に堂々と解釈し教科書のみならず一般の書物にまで載せる感覚。
100年前、50年前、10年前、現在と調査研究の結果刻々と歴史が変わっていく。
ひどいねえーと思っていたが。。。。翻って日本の歴史の定説や
教科書も他国から言われているんだろうね(古代部分でも)
科学や統計、調査方法が比較にならないほど発達した現在でも
各ジャンルの中で日本史だけ100年前と変わらない答えをずっと教科書にまで
書いて教えているのは普通の感覚では異常
330 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:18:11
九州王朝大好き=太国
低脳なのでバレバレだよん
332 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:03:41
>>324 たまには外の空気でも吸ってみたら?www
333 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 16:18:30
豚が古神道の最高権威だぞ。 豚が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
コテ無パン大負け王 w
頭の悪いコテのオンパレードだな
これぞ養豚場だねw
336 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 12:42:19
豚野郎にはご注意ご注意
337 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 14:46:25
豚国
九州王朝はなかった
以上 終了
それは勘違いだった>338
ただいまより再開!
340 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 17:25:58
太国妄想は再開しないで下さい。
341 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 20:10:15
馬鹿だからな
九州王朝など無かった
これ以上言うこと無し
343 :
q:2007/01/04(木) 20:12:30
うぇ
344 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 20:13:38
>>331 >九州王朝大好き=太国
>低脳なのでバレバレだよん
このスレ(10)だけでも最初から読んでみなされ。
九州王朝大好き≠太国 だと判るよ。
345 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 20:17:21
>>340 >太国妄想は再開しないで下さい。
このスレ(10)だけでも最初から読んでみなされ。
太国さんの妄想と思われるものは何処にもないよ。
346 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 20:18:58
347 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 20:24:31
この板はお前が人口減らしたからこうなってるだけだぞ!
348 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 10:32:03
豚国は馬鹿なの自覚しろよ
350 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 15:11:37
>>346-349 馬鹿なのはおまえらだ。
いや、
おまえらは阿呆ぼけタワケなんだよな。
太国≠九州王朝大好き であることがわからないとはな。
351 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:59:35
日本史板の常識
コテ=馬鹿
352 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 05:05:33
「コテ=馬鹿」とは大方の見方なのか?
353 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 17:42:56
354 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 17:58:55
355 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 18:46:40
356 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 19:05:44
九州王朝はあったと思います。
日本史板の常識
コテ=馬鹿
358 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:28:34
太国さんと、九州王朝大好きさんは、
九州王朝肯定派なの?
コテもジョークだと思ってたよw
冗談はさておき、
一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい?
359 :
太国:2007/01/07(日) 08:05:20
文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
九州王朝は神巧皇后に滅ばされました
361 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:30:50
>>359 またまたメチャクチャ語録だな!
ちゃんと記録しとくよw
362 :
太国:2007/01/07(日) 10:34:41
いままで何度も言ってるよ。
誰かさんが四面楚歌な訳解るよなw
364 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:40:46
365 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:23:46
366 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:03:06
太国=九州王朝大好き
367 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/07(日) 16:33:59
九州王朝の滅亡についてはこのスレで太国さんと話したことがあります。
過去スレを検索すれば見つかりますよ。
九州王朝の滅亡はいつを以て滅亡と言うかによって異なります。
滅亡は698年〜717年です。
717年を除いて、九州王朝の滅亡は文武治世であることでは太国氏と意見の一致を見ています。
(717年は宗教王である九州王朝弟王の消滅)
368 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/07(日) 16:44:06
間違い修正
誤:(717年は宗教王である九州王朝弟王の消滅)
正:(717年は宗教王である九州王朝兄王の消滅)
九州王朝などありません
370 :
太国:2007/01/07(日) 19:05:34
>>369 ありましたよ。それに卑弥呼の女王国は九州王朝の氷山の一角です。
371 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 19:14:22
>>370 継体天皇は九州説の立場から何処に居たんだ?
372 :
太国:2007/01/07(日) 19:31:23
>>371 九州説の立場と繼體天皇がどこにいたのかとは、直接的関連はうすい。
つまり九州王朝があっても、畿内を基点として行幸しようと思えば一定の
範囲内でどこだって自在ではないか?w
それとも即位前のことか? 一応福井、滋賀あたりに所在してたようだな。
福井には銅像もあったろう?
373 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:47:19
>>372 仁徳天皇は九州説の立場で何処に居たんだ?
374 :
太国:2007/01/07(日) 23:04:37
お前は百舌の耳派等か〜? 何回似たようなことを聞くんだ?
あとは記紀を読むとか、wikiを見るとかしろ!
375 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:13:25
そういえば、九州王朝が元号を「継体」に定めたころ
日本海から頭角を現したのが継体天皇。
九州王朝の元号で呼ばれているのが笑える。
376 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 02:38:39
「継体」は九州王朝の元号ではない。
「継体」が九州王朝の元号とすれば、他元号に比して異質な名称である。
>>374 結局九州説じゃないから逃げるんだろw
仁徳天皇は九州説の立場で何処に居たんだ?
378 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:03:02
いや、彼は九州説ではなくて、九州王朝説だと思うが。
379 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:12:48
>>378 なんだ?
そんな突っ込みで又逃げるのかwww
太国さんへ
仁徳天皇は九州王朝説の立場で何処に居たんだ?
逃げるなよw
380 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 11:27:55
>>371 >>373 九州説ではなく、九州王朝説の立場から太国さんに代わって答えましょう。
継体は畿内の反九州王朝である大王。
仁徳は九州王朝傘下の畿内大王。(九州王朝畿内弟王)・・・太国氏とは異なる見解。
381 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:29:03
近畿地方じゃないの?
畿内説でも九州説でも同じでしょ。
382 :
381:2007/01/08(月) 11:30:41
あ、かぶっちゃいました。
大好きさん、失礼しました。
ちなみに私は、無名の古田ファンです。
そっくりだな・・・太国も後で当然返事あるんだろうけどw
384 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:50:25
>383
継体天皇・仁徳天皇の居場所を他人に問いただす目的を説明してください。
想定している「回答」とそれに対するあなたの意見を述べてください。
385 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 12:24:59
目的は、太国さんと九州さんが本当に九州王朝説かどうか?
それを知らないと、当方非常迷惑なのでお聞きしました。
今迄彼らは、九州王朝論者とはとても思えない発言を、
幾らでも繰り返していますので。
想定回答は何故必要なのですか?
九州王朝論者としてもっともの回答をすればいいだけですよ。
ただ今までの発言も少なからず記憶しておりますので・・・
お返事期待しています。
386 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 13:10:58
>>385 >九州王朝論者とはとても思えない発言を、幾らでも繰り返しています
僕は九州王朝説に立っていますが、古田氏信奉者(古田グループ)ではありません。
古田氏及び古田グループ各氏の発言には敬意を持って拝聴していますが。
九州王朝論者≡古田氏及び古田グループ各氏ではなく、
九州王朝大好き(私)∈九州王朝論者∋古田氏及び古田グループ各氏ではないでしょうか。
僕には一方的に古田ファンでもあるところもあります。
ところで、僕の「九州王朝論者とはとても思えない発言」とは何ですか?
それとも古田氏の承認を得なければ九州王朝の概念は使えないのでしょうか?
九州王朝論者の分裂騒ぎがあったそうですが、あなたはその時の古田派ですか?
それとも反古田派ですか?そのどちらでもない派ですか?
僕は、分裂騒ぎに無関心な、どちらでもない派です。(分裂騒ぎの内容については全くの無知)
僕の質問にも答えて下さいね。
387 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:14:35
なんの話してるんだ?
酔っ払ってるのか?w
388 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:26:26
古田氏の周辺で[九州王朝論者の分裂騒ぎ]は起きませんでした。
彼をとりまく人たちの中から、畿内王朝唯一史観を主張する古田説改革派が
分裂していっただけでしょう。
389 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 13:28:55
391 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 13:35:13
Q1:僕の「九州王朝論者とはとても思えない発言」とは何ですか?
Q2:それとも古田氏の承認を得なければ九州王朝の概念は使えないのでしょうか?
上記質問に答えて下さい。
392 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:44:54
505 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/07(火) 01:04:56
>>502 >その関西勢力に劣る条件が一つもない九州
経済力: 九州<関西
陸戦力: 九州<関西
(海戦力: 九州>関西)
393 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:49:35
あの馬鹿コテ以外に古田なんて誰か使ったか?
馬鹿じゃね
394 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:55:19
395 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:58:59
九州王朝大好き さんは
奈良在住だそうですねw
396 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 14:01:02
>>394 >広瀬大社は奈良発祥だって譲らないんだ
広瀬大社は筑紫・豊・吉備のいずれかの地方からの移転だと思っていますよ。
398 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 14:06:29
>>392 経済力: 九州<関西
陸戦力: 九州<関西
海戦力: 九州>関西
追加
文化レベル: 九州>関西
399 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:09:50
しかし底掘り下げたら、
浚渫って言って、
湖深くなるだけだよw
水位がかわないんだけどwww
400 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:14:02
こっちの返事もお願い
太国さんへ
継体・仁徳・推古・仲哀天皇は九州王朝説の立場で何処に居たんだ?
逃げるなよw
401 :
太国:2007/01/08(月) 14:20:59
>>400 今帰ってきたところだ。何だというんだ? うるさい奴だな、お前は。
〜当たり前ではないか、畿内にいたんだよ。そんな当然のことをなぜ聞くんだ?
疲れさせるな。仲哀は九州とか角鹿へも行ってるぞ。それともなにか〜、仁徳
あたりが南極でも行ったというのか〜?ww
402 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:21:54
>>399 【記紀?】畿内の寺社は移設ばかり【米田良三】の件か????
湖の出口の川の河床を掘り下げれば水位が下がる。
琵琶湖の水位は瀬田堰で調整できるんだよ。
403 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:22:37
演技上手い!
パチパチパチ・・・・・・・・・・
404 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:25:09
どれ位それで下げられるんだw
405 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:26:26
406 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/08(月) 14:30:20
>>395 奈良は出身地です。
今は便利で気候の温暖な阪神間(少年時代を一時過ごした地)に移り住みました。
407 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:34:55
>>401 流石御見それいたします。
貴方の九州説とは何ぞや?
408 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:58:42
太国の九州説って何なのですか?
早く返事ください!
>>401 では畿内説と全く同じですよね。
邪馬台国の扱いも聞きたいですね。
409 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:01:59
いくらなんでも本当にあったのならなんらかの証拠が残っているはずだろ。
410 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:03:10
411 :
唐松山:2007/01/08(月) 16:52:08
このような 年表が 出来ました 私の年代感です。
神武 西暦 –12 橿原 飛鳥川に都
綏靖 西暦 6
安寧 西暦 25
懿徳 西暦 35 8才で天皇
孝昭 西暦 44 弟
孝安 西暦 70
孝霊 西暦 105 31年頃宝物庫火災焼失 領地を広げる
孝元 西暦 138 孫
開化 西暦 163
崇神 西暦 186 飢饉 出雲併合
垂仁 西暦 208 新都 巻向へ都を移す 三輪山も移動?(こちらは、崇神かも)
景行 西暦 239 要請により九州出兵 東海、関東以北を平定
成務 西暦 266 屯倉、国造の設置
仲哀 西暦 290
たたねこ 80才 人間に成れたが
ももそ姫殿が… 今しばらくお待ち下され…
天皇家の短命は、血液のせい だと思います
卑弥呼は、景行の時代 これで イヨ
五百野皇女=イヨ
412 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:01:15
太国の九州説って何なのですか?
早く返事ください!
>>401 では畿内説と全く同じですよね。
邪馬台国の扱いも聞きたいですね。
413 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:05:47
>412
九州王朝の治外の地で、畿内の天皇が畿内にいることが、なんでおかしいと判断したわけ?
ルイ王朝の時代に徳川将軍が日本にいることがなぜおかしいわけ?
私にはまったく理解できないんですが。
414 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:20:23
>>413 ビビッてコテ無しに変ったのか?www
ちゃんと読めよ全部畿内でいいのか?
太国さんへ
継体・仁徳・推古・仲哀天皇は九州王朝説の立場で何処に居たんだ?
逃げるなよw
太国の九州説って何なのですか?
早く返事ください!
>>401 では畿内説と全く同じですよね。
邪馬台国の扱いも聞きたいですね。
415 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:24:31
>414
私は日本史盤板でコテハン名乗ったことはないぞ、コテ無しさんよ。
畿内国の天皇が畿内にいて、九州王朝の天使が九州にいるのがなぜおかしい?
ちゃんと説明しろ。
416 :
415:2007/01/08(月) 18:27:08
まあ、畿内の天皇は本当は天皇じゃなくて「おおきみ」だけどな。
417 :
山田:2007/01/08(月) 18:30:10
418 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:38:02
>>415 何見当違いな返事くれるの
何処に居たんだって聞いているんですよ!
このピントのズレ方は・・・アンタやっぱり太国だろw
419 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:39:56
流石太国テイストでんな〜
420 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:08:45
畿内にいたと言っているのに、どこにいたか答えろってどういう意味だ?
421 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:11:22
>418は九州王朝説反対派か?
422 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:43:52
国語の授業中!
>畿内国の天皇が畿内にいて、九州王朝の天使が九州にいるのがなぜおかしい?
あなたはなにをなんでおかしいと言いましたか?
423 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:21:46
はあ?
お前>414だろ?
みんなの前で堂々と質問してるじゃないか。
それが主観的には太国さんだけに訊いているのであろうとも。
424 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:24:58
425 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:29:53
>424
お前、日本語が通じるのか?
426 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:06:56
>>424 訊いて=聞いて
いるので=いるので
あろうとも=あっても
何が言いたいんだ?
>>423の説明お願いしますよ
427 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:10:54
>426
423の意味がわからないなら、小学校に通ってからにしろ。
話はそれからだ。
428 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:17:04
>>427 そちらの言葉尻切れトンボになっていませんか?
それだからどうしたが○無い○だろ!
自信満々で何言いたいの?
429 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:21:35
太国の九州説って何なのですか?
早く返事ください!
>>401 では畿内説と全く同じですよね。
邪馬台国の扱いも聞きたいですね。
430 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:30:53
にほん ご の 「修辞」 を、がっこうで もっと べんきょう しましょう>428-429
431 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:47:40
>>430 修辞に自己陶酔か?馬鹿も程ほどにしろよ!
あのね何がいいたいのか聞いてるの?まだ解んないの?
>>423 >それが主観的には太国さんだけに訊いているのであろうとも
そっちが知りきれトンボで、こっちは返事のしようがないの!
いぇすものーも言えないの?解る?
酔っ払い重度?
太国お前アル中だろ?
433 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:12:09
>>398 >文化レベル: 九州>関西
文化といっても、大陸かぶれして仏教好きだっただけですよね。
>>433 太国=九州さんの自演ですw
まず 誰も構わない事ですよwww
435 :
433:2007/01/08(月) 23:28:42
大陸に近い九州より、ある程度離れていてしかも経済力が大きく、しかも、
列島のほぼ中央に位置する関西が最終的に列島の支配者となったことは、
とても良かったですね。その後、日本が独立を維持して偉大な国であり
続けた重要なポイントと思います。
もし、九州王朝が存続していたら、九州王朝はシナ帝国との朝貢関係を
断てず、半島諸国とつばぜり合いを繰り返したことでしょう。それに、
本州辺りでは、別の王朝が成立して、列島の統一はなかったことでしょう。
436 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 23:37:00
>>433 北九州、出雲、高知、南紀(熊野)だけはどうしたことか、仏教が普及していない。
仏教がきてもことごとく、八百万の神に跳ね返されている。
一般庶民は、賢いから何が真実か良く分かっている。
この地域は、古代から神様がすべてに優先する。
畿内はことごとく、仏教寺院に占有されている。
古代から、侵略され続けているから、仕方がないが、
>>433の人は
もっと、この事実を認識したほうが良いと思う。
437 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:45:27
九州王朝が突進し続けた、極東の果てしない三百年戦争に
巻き込まれないように回避したのが畿内国。
対外的な野望を捨てて内政を重視したのが国家の安定を招いたと思う。
438 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:57:23
秀吉と家康の違いのようだね。
439 :
日本@名無史さん :2007/01/09(火) 09:51:43
日本書記によると、西暦683年に天武天皇が「銀銭」の使用を禁止し、
「銅銭」のみ使うよう詔を出している。
日本書記には、「銀銭」を大和朝廷の誰が作ったとは書かれていない。
中国は、三皇五帝から唐まで、銀はその場で叩き割って、天秤で量って使ってたので、
「銀銭」は存在しない。
朝鮮半島は、昔も今も銀は産出しない。
「銀銭」は誰が作ったのでしょう。
441 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/09(火) 21:58:19
>>436 九州王朝では仏教は宗教ではなく思想哲学の様なものとみていたのではないか。
九州王朝元号に仏教色があるのは、仏教を宗教と捉えていないことを示している。
九州王朝兄王は宗教王である。又、畿内朝廷天皇も宗教王でもある。
>>440 そうですね。
銀銭はどこで作られたのでしょうね?
続日本紀によると、畿内天皇朝廷では金と銅は献上されているのに、銀は献上されていない。
そういえば、「鋳銭司」が都の真ん中にないのはどうしてでしょう。
443 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 15:13:44
隋書には、倭は邪靡堆に都、これ魏志に言う邪馬壹國なり。
とあるんだけど、これって西暦600年ぐらい、聖徳太子ぐらいの記述だよね。
仮に邪馬台国が九州だとすると当時の大和朝廷は実は九州王朝だということか?
だったら、その前の時代、近畿で巨大古墳や遺跡を築いていたのは何者?
444 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 21:13:25
>>443 九州王朝と大和朝廷は別もの。
詳しくは、九州王朝内タリシホコ大王国とその王朝傘下の大和大王国。
巨大古墳を築いていたのは反九州王朝の崇神朝(5代)と継体朝(3代)、
及び親九州王朝の応神朝(11代)と欽明朝(3代)。
日本書紀の記述の中で、用明〜天武については、
どこまでが畿内の出来事でどこまでが九州の出来事の記事なのか、
僕はには未だよくわかりません。
445 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 21:26:10
>>444 その推理の根拠と、九州王朝が滅び、大和王朝の世になった理由を
聞かせてください。
446 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/10(水) 22:53:13
こんなスレがあったとははじめて知りました。
なんか面白そうですね。
447 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/10(水) 23:39:49
>>445 「その推理の根拠」は第一段落だけについてでいいでしょうか?
第二段落についてまで書くと第一段落を踏まえた長い説明になるのでご勘弁を。
後日少しづつ書き込みます。
第三段落については混乱しており整理できておりません。
第一段落については明日にでも書きます。
448 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:51:55
>>443 九州の筑後平野に、神籠石なるものが数ヶ所存在する。
石を切り取って、中には数キロにも及ぶものもあり、水門も
構築している。
この石文化も持った勢力と大和朝廷が激突して、裏切りによって
○○の反乱という記載になっているが、もしこの勢力が勝っていたら
大和朝廷の反乱の記述になっていただろう。
そのときは、第1期日向王朝とでもいったかも知れない。
449 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/11(木) 14:56:40
>>448 「第一期日向王朝」と命名した所以は何ですか?
読みは「ひむか」「ひゅうが」のいずれ?
僕なら勝っても負けても単純に「九州王朝」です。
450 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 15:24:07
ただのオラが国自慢スレだな
451 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/11(木) 15:51:29
>>445 随書イ妥国伝によれば、イ妥国(九州王朝)の統治形態は兄弟政治です。
兄は夜を司ることから宗教王(宗教天子)です。
弟は昼を司ることから世俗王(世俗天子)(タリシホコ)です。
又、九州王朝宗教天子の元号に仏教色があることから、
九州王朝では仏教を宗教ではなく思想とみなしていたことになります。
世俗天子(タリシホコ)は菩薩天子と名乗り、自身の元号「法興」を持っていたことからも、
仏教は宗教ではなく思想であるとみなせます。
古田氏紹介の筑紫の舞には「3人立」「5人立」「7人立」と7人の翁の舞があります。
[出雲・筑紫・肥+浪速・越+尾張・夷(毛野)]
これは倭国(九州王朝)が九州(肥・筑紫)・出雲・浪速・越・尾張・毛野の6大王国を
メインにした連合国家としてまとめられていた事を示しています。
この中の盟主がタリシホコらの九州大王国(九州王朝)です。
九州が盟主であることは朝鮮半島南部戦争の参戦状況及び唐からの帰国捕虜構成から説明できます。
続く
452 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/11(木) 16:37:48
>>445 九州王朝滅亡のきっかけは朝鮮半島南部戦争(白村江戦)の敗戦です。
司令官九州大王国王と副司令官毛野大王は唐の捕虜となり国力を低下させ、
浪速(畿内朝廷)大王は殆ど参戦せずに逃げ帰り国力を温存した。
戦後天智は九州を捨て畿内に進出、
唐の九州占領(671年)により、続いて天武も畿内に進出(壬申乱)した。
この段階で九州大王国は完全に権力失墜。
天智朝天武朝には宗教王も兼ね備えた畿内大王(畿内朝廷天皇と同じ立場)となり、
九州王朝兄宗教天子の権威も失墜。
文武は667年から九州を武力侵攻、700年九州王朝弟大王天子を薩摩にて滅ぼす。
701年畿内朝廷文武は日本の代表としての体裁を整える。
この年より畿内朝廷は日本各地に進出し地方政権の支配を開始。
453 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/11(木) 16:42:14
>>445 間違い修正
誤:文武は667年から九州を武力侵攻
正:文武は697年から九州を武力侵攻
454 :
太国:2007/01/11(木) 19:40:29
九州王朝大好きさん
えらく研究してますねぇ? 今後もがんばって欲しいです。
455 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:20:14
>>452 だからいったいどこからそんなことが推測できるかって聞いているんですけどね。
九州王朝などなかったことが推測できます
457 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 23:01:23
ひむかの黒馬という焼酎があるらしい
458 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/11(木) 23:32:26
「君が代」のことは、単純にすごいと思いました。
博多湾沿岸に、数珠繋ぎにつながってます。
このことひとつをとってもかなり有力な証拠になりえるのではないかと
個人的には感じてます。
459 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 15:17:38
>450みたいな「勘違い君」がまだいるんだな。
九州王朝説を支持している人は、出身地がばらばら。
学閥の強い支配下にない人ばかりという特徴はあるとおもうが。
460 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:21:49
>>459 そんな関連どうでもいいこと。
九州王朝があったという証拠を示せよ。
461 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 21:21:02
小ネタからいくぞ。
漢籍に出てくる邪馬壱国の後継国は、
将軍号や大将軍号を求めたり自称したりしていた。
しかしイ妥国の王になると、天子を自称していた。
天子を自称するとなると、度量衡や通貨、元号、政治制度など
中国側から独立して決めることが出来るわけだ。
それに符合するように、畿内の元号とはいいがたい
九州元号が今日伝わっている。
462 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 21:32:03
>漢籍に出てくる邪馬壱国の後継国
漢籍の具体的なソースは?
>それに符合するように、畿内の元号とはいいがたい
九州元号が今日伝わっている。
どこにどのように伝わっているのか?
463 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 21:44:45
教えて君には答えないよ。
自分で調べて来い。
464 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:25:44
なんでえ、やっぱり嘘なんじゃねえかwww
465 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/12(金) 22:32:34
でもさ、最初の元号が制定されたのに、
その後しばらくの間、元号がない時期があるのは、
おかしいよね。
そして、思い出したように、また元号つけて、
それが現代まで途切れずに続いていると。
これってどうゆうわけよ。
ようは九州王朝など無かったという事です
467 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:44:38
468 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:47:49
九州元号は、畿内の天皇の記録と、元号の更新がまったく符合せず、ズタズタ。
469 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/12(金) 23:22:10
>>468 だから、九州元号は九州王朝兄天子の元号といえるのである。
九州王朝兄天子(宗教大王) = 天皇 ・・・ 天皇と九州元号の更新が一致するもの
九州王朝弟天子(世俗大王) = 法皇 ・・・ タリシホコ、イワイ(イワイ律令)。タリシホコ元号:法興
470 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/13(土) 02:56:35
>>469 王朝さんは、どこにお住まいなのですか?
福岡市内ですか?
まとめサイトみたいのありますでしょうか?
自分もいろいろ知りたいと考えてます。
471 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 03:50:10
472 :
一応九州王朝説:2007/01/13(土) 09:32:57
なんだ兵庫だったのか。私は大阪です。
>近々削除されるかもしれません。
根拠を
473 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/13(土) 12:03:25
>>472 九州王朝説-wikipediaは、今日早朝まで全面削除もしくは部分削除する趣旨の注意書きがあったのですが、
今見ると、注意書きが消えていますね。
一度削除されて、修正されたものが再掲載されているようです。
僕はこの書き込み編集に参加していないので詳しくはわかりません。
474 :
九州出身:2007/01/13(土) 12:20:02
魏志倭人伝から「世王有る」と記されてるので王は居た。
国王がいるということは九州王朝ありとなる。
ここの住人へ 議論するまでもなくない?
475 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 12:22:39
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は空洞に
なっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)の上に米を
置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,
湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です(後漢の
『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
476 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 13:43:28
隋書倭国伝は、冠位十二階ついて書いてあるな。
九州王朝の制度を畿内の蛮族がまねしたものだ。
これは否定できまい。
というのが九州王朝論者の論法。無敵!
478 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/13(土) 18:32:05
九州王朝説の、とっかかりって何なの?
福岡に住んでる自分としては、やっぱり「金印」かなって
思ってますけど。
それと、日本最古の稲作田んぼ?の板付遺跡かな。
>>478 九州説の始まりは、古代史研究云々だけではなくて思想の影響が大きい。
つまり、近畿中心=国家主義的ととらえる歴史観からきている。
しかし、考古学だけでは、なかなか歴史は分からない。
たとえば、戦国時代を、文献に頼らずに、考古学だけで調べようとしたら
濃尾平野の織田信長が全国を併合していったことは断定できない。
むしろ、この戦国時代でも、新しい文化は九州から入ってきている。
戦国時代、一番最初に、鉄砲隊や西欧式大砲を導入していったのは九州の大名だからだ。
(でも、我々は文献で、戦国時代は畿内中心に統一していったことを知っている)
480 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 20:12:30
>>479 そうだね。
だから、結局、九州説が正しいのか、畿内説が正しいのかも、断定できない
ということ。
>>480 馬鹿太国お得意のの自作だなw
妄想と証拠の区別がつかないからなwww
482 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/13(土) 20:47:12
九州説の大好きさんが、九州に住んでないというのが痛い。
実際に、目でいろいろと見ていただければ、
なにかわかるかもしれないです。
福岡に住んでる自分も、まったく知りませんでした。
新たな視点みたいなのを提示されたみたいで、驚きでした。
自分の考えですが
大好きさんも最初は、畿内派だったけど、いろいろと
畿内のものを見たりしているうちに、九州派になったのでは?と
考えたりもしました。そうだとするとかなり心強いですが。
>>482 太国いい訳すんなよw
馬鹿はなにしても馬鹿だよwww
484 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 22:59:29
私は先祖代々関東在住ですが、九州王朝説支持者です。
どこに住んでいるか、出身地がどこかなど関係ありません。>482
485 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:14:16
田舎は排他的
486 :
一応九州王朝説:2007/01/14(日) 00:00:11
>>482 まあそうはいってもいろんな文献で大枠はわかりますから。
特に大好きさんは古田氏の説がベース、というより古田原理主義に近く、
それを更に極端にした感じですからw
私の場合は最初から九州説でした。なんで畿内でずっと過去から大王が
いなければならないのか、変ですよね、やっぱり。今の天皇だって東京
にいるわけだし、後世考古学の不十分な点の発掘では、今でも御所のあ
る京都に天皇はいたはず、なんて議論も怒りかねないw
やっぱり地政学的にも人口動態的にも、水田の伝搬からも九州が圧倒的
に有利なのは間違いないところでしょう。それを、他説をおしなべて排
撃・捨象しておいて、やれ箸墓だのモモソヒメだのマキムクだの、と。
知人にも橿原研の研究員がいますが、とにかく違う説の学者をひたすら
「きちがい」と言い放つその人自身がかなりキ印でしたね、はっきりい
って。変人です。征服のプロットも単純すぎて面白くもなんともない。
その人の場合、各地の地方勢力さえ相当の早期に征服されていたとか
言ってましたから、まあ極端なんでしょうが。
487 :
一応九州王朝説:2007/01/14(日) 00:00:56
地域の首長=神=柱=神社、それの統合が諏訪〜出雲。ここまでは神話
上も発掘上も容易に確認できる部分です。その後筑紫なのか大和なのか
ですが、やはり筑紫神話と言われるように、普通に読めば筑紫でしょう。
よく、捏造説を目にしますが、単純にそんなことを出来たはずがない。
中世でさえ神=ご先祖を集めて総社という神社を造ったりしたわけで、
ご先祖の神はその頃まで生きていたわけですから、呪術の支配する古代
でとにかくめちゃくちゃに捏造するなんてあり得ない。
戦国時代に滅ぶまで直系の大宮司が居た宗像氏、や菊池氏、阿蘇氏、
また太宰府も聖地として戦乱の中でも守られてきました。単に大和朝廷
の前線基地としての「都督府」や菅公由来の神社というだけでは説明が
付きません。「なにか」があったのでしょう、そこに。
私自身は近畿で生まれ、大阪育ちです。ですから、出身地ではないです。
大事なのは合理的かどうか、それだけです。2chが終わってもどこか
話の出来る所を見つけたい物ですね。
488 :
一応九州王朝説:2007/01/14(日) 00:03:48
>後世考古学の不十分な点の発掘では
ああ、これはつまり全部発掘できると言うことはないと言う
考古学の限界という事が言いたかったわけで。
不十分なレスで申し訳ありません。
489 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 00:10:34
しかし、九州王朝説は、勘的であって、物的証拠、文献的証拠がなさすぎる。
精神史的な残存証拠も聞いたことがない。
490 :
一応九州王朝説:2007/01/14(日) 00:26:06
>物的証拠、文献的証拠がなさすぎる
過去ログ嫁、と2ch風に言いたいところですがw
まず、弥生晩期の遺跡については理解されてますか?
よく例に出される平原1号墓などは、充分卑弥呼の墓と呼べる副葬品と
被葬状態です。北九州の遺跡全体の埋蔵品も圧倒的じゃないですか?
卑弥呼の刀も出ているし、三種の神器も。いくら指定陵墓が多いとはい
え、なぜ畿内でもでない三種の神器が沢山でるんでしょうか。
あと、九州の埋蔵品の年代比定の怪しさもずっと言われてきていること
で、土器編年を最上位に置く限りはその辺りもぐちゃぐちゃなまま放置
されてしまっているわけで。九州考古研だから九州説、というわけでは
ありません。京大閥のうっとーしさ、といいますかw
491 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/14(日) 06:28:19
>>490 平原1号墓なんて、初めて知りました。
すげーものが、出てるんだね。
地元でも知らん人、多いかもね。
人護石も天智が作ったなんて俗説が未だに流布していますよね。
そんなことが多すぎるんですよ、古代史には。聖徳太子だって
いまだに伝説と実像が分離できないのに教科書に載せてたりする。
493 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 11:25:05
>>490 >卑弥呼の刀も出ているし
だったらもう邪馬台国論争は決着してるじゃねえか。
なのに誰もそうだとは思ってない。なぜだよ?ここを説明してくれ。
494 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 11:33:50
九州王朝説支持者、邪馬台国九州説者の論が弱いのはここなんだよな。
急に、これが卑弥呼のものと飛躍して断定してしまう。
俺は中立なんだが、はっきり言って九州説者は2ちゃんで声がでかいだけで
感情論的な人が一部に多いといわざるを得ない。
「卑弥呼の刀」がなにかぐらい知って言ってるんですかね。
そうは思えませんが。
それに、別に唐突に卑弥呼の物とも言ってないし、具体的な論証の
積み上げの結果ですから。
それなら呪文のようにまず箸墓ありき、マキムクありきで、物証も
何もないのにとにかくあれこそ卑弥呼と言ってる畿内説の方がよっ
ぽど感情論じゃないですか?相当偉い学者先生ですら埴輪やら土器
やら出てきたものの年代が違うと「発掘屋はなにやってるんだ」と
平気でのたまわれるわけですから。普通に考えれば箸墓=卑弥呼の
墓とするには相当の無理があるし、傍証も乏しすぎる。
それと、九州王朝説と邪馬台国九州論とは区別しましょう。邪馬台
国九州説自体は「2ちゃんで声がでかいだけ」ではないですから。
九州王朝についてはさっぱりですが、それは学者さんの固陋な頭の
なせる業ですね。最初からずっと畿内に中央集権的な大王がいなけ
ればならないということが前提の人ばかりで、学問とは思えない。
496 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 11:52:18
畿内説支持者の弱いところはこういう無茶な思い込みなんだよ。
「日本列島に最高権力といえば天皇しかあり得ない」
「漢籍に出てくる倭人の国はヤマトと訓ずべきであり、それは畿内の大和である」
そう思いますね。江戸時代の国学者の頃なら、史料も発掘もないから
「邪馬台=大和」と読んでも無理はないわけですが、未だにそんな単
純な方法論を引きずっていることが信じられないw
ただ、京都大学という一大権威がネットワークで風説流布を行ってき
たわけですから、まあその病根は相当のものですが。一朝一夕には行
きません。
498 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 12:07:40
>>495 だから、卑弥呼の刀って何よ?
そして、平原のそれが、そうだという根拠を示せよ。
はぐらかすなよ。
示せよ、ってか。
まあ逃げるわけじゃないがお前さんには説明する義理はないようだな。
お前にはぐらかすなよとか言われる筋合いもないし。平原のなんて一言も
言ってないし。
自分の脳内の掃除まで人にやらせるなよ。
500 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 12:30:43
>>499 最低の奴だな。君は。
論もなければ、情もない。
それと俺は中立で畿内説者でもないのに、なんですぐに「畿内論者は……」
という方向にもっていくのか分からない。
>>499 >逃げるわけじゃないが
もろ逃げじゃん。
502 :
太国:2007/01/14(日) 12:36:46
卑弥呼の刀が出土したなどということは、聞いたことがないなぁ〜?
そうだな。そうやってひがな煽ってろよ。
504 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 13:41:26
九州王朝なんてマトモな学問の世界や一般世間では見向きもされないトンデモ説。
2ちゃんでは狂信者が自信タップリに断定調で語ってるだけ。
もはや、>504みたいな残党は、相当マイナーになってしまったな。
506 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 13:58:22
マトモな歴史を語りたいヤツは、この手のトンデモスレに寄りつかないからな。
507 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 14:59:37
あのさw
マトモな歴史を語りたいヤツって、
無視しか出来ないヤツの間違いだろw
それのどこがマトモなのか説明してくれないか?w
>500
おい、>494の発言がどう見ても畿内説論者だろう。
何が「俺は中立で畿内説者でもないのに」だ!!
509 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:07:11
九州の民間伝承や、神社伝承を、
なんで無視するんだろうね、
都合が悪い事なんで無視するんだ?
マトモな奴は、
総てを史料とするに決まっているよ!
いったい無視専門の奴の何処がマトモなんだよ!
説明しろ!!!
510 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/14(日) 15:38:45
まあまあ、みなさん、落ち着いてw
すげぇな、俺は、最近このスレ知ったんだけど、
いままで、ずっとこんな熱い論争が、昔からあったんだな。
邪馬台国論争というのが、あるというのは知ってたけど、
みんな熱いんだな。
ここは一旦、近畿説はおいといて、
九州のこといろいろと教えてよ。
なんなら俺、現地に行って、観光してくるよー
511 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:42:33
pp太国に良く似た福岡在住君さ、
君の下の認識を教えてください。
しっかり頼むよw
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!
512 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:42:54
>>494 どこが?君の激昂がそのままここの九州説者特有の感情論に思える。
畿内説は2ちゃんじゃあまり声が大きくなくて九州説者ばかりがただ声がでかく
「俺たちはすでに勝っている」みたいな言い方するから突っ込みやすいだけだよ。
畿内説者は「絶対、畿内!九州説は破綻している」とかいう攻撃的な印象ないし。
でも畿内論者には、倭人伝の「南至」の弁明を聞いてみたいな。
514 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:46:40
飛鳥時代の出来事が九州であった事だと言う奴とまともな議論できると思う?
515 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:47:37
>510
九州王朝大好きさんが、熊本県菊池市あたりや
福岡県太宰府市にある宝満山の視察されたときの
貴重なお話を、過去スレで読みましたよ。
516 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:50:54
>>514 証拠ありきで話せば大丈夫に決まってるだろw
妄想している奴なら相手にならんけどねw
ところでお前のマトモっていったいななんだ?
無視するって事か?www
>513
畿内説論者は>496みたいな思い込みから、
他説を「トンデモ扱い」するばかりという印象が強いんだが、
君は相当偏向した見方だね。
隠れ畿内説論者なら、カミングアウトしたら?
518 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:53:41
いや、確かに日本史板の九州説者は、
せっかく冷静に行こうと思っても、急に「九州マンセー」って大声出すから
面食らう。それでその狂信にプライド置いているからすごく付き合いにくい。
519 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:55:19
nainai
520 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:55:27
×無視する=マトモ
○無視する=異常
それよりさ・・・こんな事すら解らん奴が、マトモなんて使うなよw
521 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:56:28
地方政権としての九州王朝を議論するならありがたく拝聴するが、
大和朝廷が九州にあったなんてスルーしかないだろ。
九州にあったのは白村江の時ぐらいだろ。
522 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:57:11
523 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:58:14
あるよ。
自作メチャクチャだなw
定義からおかしくねーかwww
526 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:00:23
君の下の認識を教えてください。
しっかり頼むよw
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!
527 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:01:22
じゃあ、文献で九州王朝に言及しているものは?
528 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:04:34
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34
太国さんと、九州王朝大好きさんは、
九州王朝肯定派なの?
コテもジョークだと思ってたよw
冗談はさておき、
一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい?
359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20
文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
529 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:07:17
法隆寺が九州の観世音寺から移築されたということで、
その寺の古い絵に中門の真ん中に柱がある絵があると書いてた本があったが
俺にはどう見ても真ん中に柱があるように見えなかった。
二本ある柱の一本を向こうにあると勝手に思っているだけである。
530 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:08:29
太国に良く似た福岡在住君
531 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:10:52
へー
太国って新潟でニートやってんの?
532 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:47:54
>527
先に、700年以前に畿内王朝があった証拠文献を出してもらいたいな。
533 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:49:39
534 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:50:11
535 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:53:23
馬鹿か、記紀に700年以前の畿内王朝の記載など一切載ってないぞwwww
536 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 17:11:48
大嘗祭を初めて「主催」したのは持統天皇。
それ以前の天皇が、
「大嘗祭に参加した者に褒美を与えた」記録はあるが
「大嘗祭を主催した」記録は一切ない。
・・・・誰が大嘗祭の主催をしたの?
自作が下手なニートの太国w
538 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:12:00
>>535 神武が畿内に来たそれからは全部地名が畿内になってるだろ。
539 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:13:19
>>535 何か逆説っぽいこと言いたがってるな。言ってみい。
540 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:14:11
>>535 それよか、九州王朝があった文献出してみろよ。
541 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:54:08
ていうか、>536が九州王朝の傍証だろう>540
542 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/14(日) 19:23:34
ここは、IDが出ない板なんですね。
僕は、太国さんではないですよ。
自分は最近知ったんで、みなさんの議論についていけてないです。
まったくなにがなんだか。
とにかく今まで自分が知らなかったことを知るのが楽しいといった段階です。
結論なんてでないしれないけどね。
デリケートな問題だからね。
543 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:25:37
しかし、2ちゃんで勝つのは暇人と相場がきまっちょるけんのう。
それだと粘着=勝者になるわけですなw
545 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:39:54
>542
「旧唐書」に倭人の国として
「倭国」と「日本国」の2国が併記されている事実をどう思いますか?
(しかもご丁寧に、新唐書では倭国が削除されて無かったことになっている)
しかもその倭国(イ妥国)では、「阿蘇山」で国家の祈祷をしていたという記述が
中国側にあるわけだ。
547 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:16:59
「国家の」祈祷とまでは書いてないな
548 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:20:21
景行〜応神までは九州の王だと思うけんど
イ妥国の祈祷をしているわけだ。
550 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:28:40
天皇記と国記が燃やされたのは残念だ。
半島南部が日本領であったことが記されていただろうに。
■-百済は日本人が建国した-■
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と呼んで
区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の支援を受けて、
日本領=任那の北部地域(漢城とその周辺)に建てた自治領である。
前年の314年に、高句麗の侵攻によって帯方郡を滅ぼされた旧帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が
第一次百済である。 これに対して第二次百済は、西暦475年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、
倭人の文周王が、大和朝廷の支援の下で西暦475年に任那領の熊津に建国した国であり、完全な倭人国家である。
この時代から、『百済』の読み方が「コマ」から「クタラ」に変わったようである。しかし、漢城地方は『狛』と書いて
「コマ」と呼ぶようになった。
第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たちであったのに対し、
第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。512年には、大和朝廷が任那四県と百済(クタラ)の
合併を決定した。これにより、旧百済地方(漢城地方)と任那東部地方は政治的・軍事的に一体化した。
第一次百済は、伯済国(コマ)、乾馬国、古満国、古末国とも呼ばれていた。いずれも「コマ」と読む。これは帯方郡が、
古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。朝鮮人は半島北部に住んでいた
ワイ人であり、百済人ではないのだ。朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
551 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:37:17
九州王朝が学会で無視されているらしいね。
ということは、学会にはバカしかいないということだ。
そんなの無視して別の学会を作れば良いじゃないか。
学会なんて所詮相対的なもので、皆が無視すれば消えるよ。
552 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:37:54
■志羅紀の地理的位置■
『後漢書』の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。
また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。
さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は倭と界を接す」とある。
「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
これは興味深い記録である。
・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。
この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。
辰韓=ワイ人の国(後の新羅)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓=倭人の国。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
倭=弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。
こういうことだ。
やはり、志羅紀と新羅は別の国だったのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが
証明された。
天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された
先祖の祖国=志羅紀(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
553 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:58:22
>551
九州王朝を内心で認めていても、学閥や学会、先輩や師の
顔色を伺わないと食えない世界。真実と収入との矛盾。
554 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:06:28
磐井の乱なんか面白いと思うけど、九州の人はなんでデンパを飛ばすことばかり一生懸命なのかね?
筑紫(君)磐井
555 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:06:41
学閥があろうがなかろうが、ないものをあるとは言えない。
556 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:09:13
九州人のお国自慢的発想だよな。
はじめに結論ありきだ。
おまけに通説とか多数説を否定して面白がってる中二病的発想も混じってる。
557 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:11:05
九州王朝説の正否は別にして、大日本の起源は九州島日向国だ。
558 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:22:02
>557
違うでしょ。竺紫国のヒナタ地方の高千穂地区。
>557
九州王朝説支持者は、九州出身以外の人が多いわけだが。
559 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:33:48
そ、日本民族半島紀元説者だって、日本人はいくらでもいる。
560 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:34:54
×紀元
○起源
561 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 21:41:50
>>553 悲しい世界だね。
そういう風だから、才能のある若者が寄り付かないのかなあ。
必死な太国の自作↑
さすが馬鹿臭いよwwwwwwwwwwwww
563 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/14(日) 22:45:30
>>550 >>552 下記を修正をすると大筋では近いのですが、修正できませんかね?
@大和朝廷→倭国本国(倭国九州大王国)
A自治領→大王国
B本国=大和→本国=九州
C朝鮮半島北部→朝鮮半島北東部及び満州東南部
Dワイ人→穢人
Eヤマト→倭国
F神功皇后→倭国弟王(女性)
565 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/14(日) 23:06:37
566 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:09:13
567 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:11:22
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34
太国さんと、九州王朝大好きさんは、
九州王朝肯定派なの?
コテもジョークだと思ってたよw
冗談はさておき、
一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい?
359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20
文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
*****教えて!馬鹿の見分け方?*****
568 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:14:32
補足
馬鹿だと思うとつい一括りにしてしまうんです私・・・すみません・・・違いは何なのでしょう?
569 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:19:55
一括りにされる方が悪いねw
570 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/14(日) 23:40:36
>福岡在住 ◆9N4nUN7jEY さん
僕は生まれながら土地柄の畿内派
↓
銅鐸文化から疑問発生 教科書的古代史不信論者に
↓
古田氏「邪馬台国はなかった」にて古代史に再度目覚める
しかし、自分の立場は外野席
銅鐸論(銅国産論)を書いていた人(名前を忘れた)の影響も多し(本棚を探せばわかるけれど)
↓
自然科学的視点からも現地調査開始(九州へは殆ど行った) 約40年間
↓
現役引退前から2chに書き込みはじめる。
>>486 :一応九州王朝説 :2007/01/14(日) 00:00:11
>大好きさんは古田原理主義に近く、それを更に極端にした感じですからw
「邪馬台国はなかった」で推論の方法に共感しましたので。
僕は自然科学方面が専門だったものですから。
そうなると馬鹿になるのかw
572 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 00:45:40
ここで、「馬鹿」を連呼する人間は無視することにしよう。
私は何度か引越ししたけど、住まいは生まれてこの方、関東だけ。
1977年「古代史疑」が出て以来、いわゆる「邪馬台国比定地問題」について、
納得のゆく解析を求めていたが、「邪馬台国はなかった」という
ふざけた名前の本を読んで初めて納得、古田説の支持者になる。
ただし、細かい点での意見はまったく違う。
古田氏自身「師の受け売りはタブー」という自説を曲げず、
ファンは皆それぞれの意見を独自に持っているため、どこかの
カルト教団のような内情とは程遠いと思う。
金印が九州から出てきて、「イ妥国に阿蘇山あり」といわれれば、
やっぱり九州なんだろうと考える。九州元号や筑紫舞もこの
傍証だと見るほはうが自然。さきほどの、部下が大嘗祭に参加しても
歴代畿内天皇自身が大嘗祭を主催したことがないのも、九州王朝
実在の証拠だろうと思う。
573 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 00:48:02
九州王朝って九州しか支配してなかった地方豪族でしょ
574 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 00:52:08
>歴代畿内天皇自身が大嘗祭を主催したことがないのも、九州王朝
>実在の証拠だろうと思う
この日本語の意味が分かる人が何人いるかね?
575 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/15(月) 01:03:09
>>574 「歴代畿内天皇自身が大嘗祭をしたのは持統が最初」の意。
「天皇の専任行為である大嘗祭を7世紀末になって初めてした」の意。
576 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 01:37:35
>>575 だからそれと九州王朝とどういう関係があるのさ。
577 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 02:16:23
大嘗祭は最高位の人物のみが行える行事だ。
大嘗祭が行われていたのに、主催者は畿内の天皇ではなく、
別な人物だったということ。それが何を意味しているのか。
畿内の天皇が最高位でなかったことを示しているわけだ。
では畿内の天皇の部下が出席した大嘗祭の主催者は誰?
旧唐書に出てくる、倭国・日本国を良く見てみよ。
イ妥国では阿蘇山で祈祷が行われていた。金印が志賀島から
発掘された。いろいろ傍証がある。
578 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 09:45:06
参加者に褒美を与えたと言うことは、主催者は天皇だね。
579 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 10:41:05
九州王朝の天使が大嘗祭の主催者。
畿内の天皇は大嘗祭を主催していないから、天皇は劣等格だね。
580 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 10:44:56
>>577 >大嘗祭が行われていたのに、主催者は畿内の天皇ではなく、
>別な人物だった
ソース
それと旧唐書で、阿蘇が出てくるのは「日本」の巻で「倭国」の巻ではない。
君の勘違い。
581 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 10:48:47
はあ?阿蘇山はイ妥国だよ。>580
ソースは記紀。
582 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 11:31:18
違った。阿蘇山が出てくるのは隋書の倭だ。このことはスマソ。
しかし、大嘗祭のこと九州で行われていたなんてどこに描いてある?
583 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 11:33:00
>>581 隋書には「邪靡堆に都、これ魏志に言う邪馬壹國なり」
とあるが、これはつまり600年ごろ、九州王朝のことと言いたいのか?
584 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 11:40:43
今日は歌会始だけど、参加者は褒美のボンボニエールを貰って帰るんだろうな。
585 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 11:42:21
まず阿蘇山は確かに九州にあるが、倭に阿蘇山ありということと
畿内大和政権の支配化にあることは矛盾しない。
586 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 11:49:08
>585
ほう!?それは初耳だ。
考古学的見地から、阿蘇山と畿内天皇とどうやって結びつけるわけ?
587 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:17:42
考古学的見地でなく常識の範囲だよ。
九州が大和政権の支配下にあり、それを倭とひっくるめて呼んでいるなら
倭に阿蘇山ありで何も問題はない。
むしろ阿蘇山ありだから倭は九州王朝という論法のほうがおかしい。
588 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:25:24
>587
そりゃ学問じゃないだろ。
>496を100回読んでおいたほうがいいぞ。
589 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:44:53
590 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:47:00
九州王朝説者は感情論が多く証拠がないからすぐ話をそらすんだよな。
591 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 12:47:47
妄想を学び、夢を問いかける。
592 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:08:08
法隆寺が九州から移築されたんだから、九州のほうが文化水準が上位だろ。
593 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:12:14
やっぱり畿内説論者のほうが、暴論が多いな。
>513>518>556など、ひどい畿内説論者の典型だ。
>590-591 君も暴論だよ。
594 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:33:19
>>592 だから、あれ観世音寺の古図は、中門が法隆寺のように四間でなく、
五間だと何度言ったら……
595 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:34:24
>>593 畿内論者? ここは邪馬台国スレだったかね?
596 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:46:57
>595
だから、スレに無用な君だけ出て行ったらどうだ?
597 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:51:35
>>594 あれが四間だったら一発逆転だったのにねえ
598 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:54:49
そんな瑣末な問題で、法隆寺移転の事実はひっくり返らないだろwww
599 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:02:48
いや、この間違い、というか強弁があったために米田説はポシャッたんだよ。致命傷だった。
600 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:07:45
それに法隆寺の中門は邪馬台国論と並ぶ古代の謎のひとつだからね。
いわば法隆寺という建物の一番特徴的な部分。そこがつながってないのは痛い。
601 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:25:12
仮にこの世に法隆寺がなくても、関係ないだろwww
602 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:27:41
603 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 18:08:52
>>587 >九州が大和政権の支配下にあり、それを倭とひっくるめて呼んでいるなら
>倭に阿蘇山ありで何も問題はない。
>むしろ阿蘇山ありだから倭は九州王朝という論法のほうがおかしい。
なるほど。ということは阿蘇山以上に印象的な富士山が記録されていなくても大和政権の支配下にあったといえるわけだ。
604 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/15(月) 19:12:28
九州王朝は717年に消滅した考えていたが違うようだな。
続日本紀によると神亀3年正月(726年)に「大倭国」が白亀を献上している。
この大倭国って何だ?
九州王朝兄王国がまだ存続していたのか?
勿論、畿内朝廷の支配下の国として。
605 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 19:16:49
>>603 それを言うなら、なんで同じ九州の霧島や桜島が出てこないかと言う話にも
敷衍できる。富士山をそこで出すのは恣意的。
606 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 19:23:41
そうだよね。
ここ数日のレスは、畿内説支持者の論理破綻と醜い必死ぶりが痛いな。
>>598 瑣末ではないけど、それだけで全部無に帰す話じゃないですよね。
ここは豚一匹でつ
609 :
↑:2007/01/15(月) 21:48:13
負け組み>608
610 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 22:11:45
豚さんたちの言葉良く見てくださいw似たようなw特徴的なwオタクフレーズ連発です!w
611 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 22:22:06
>>604 ほほーっ。それはすごい。今までどうして気付かなかったのか。
612 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 22:25:54
>>611 そうだよねw
なんできづかないんだろうねw
613 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 22:34:31
オタク○○!!!
連発してますよ!!!
みなさん別人に見えますか?????
614 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 22:50:36
文句あったら言って皆wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
703 :日本@名無史さん :2007/01/14(日) 17:46:40
難波京が大坂にあった事の方が妄想ですよw
何故ならその証拠は沢山ありますから。
○地理学的に当時の大坂は島で、
河川も氾濫を繰り返すような、
不安定な地域で、都の所在として不適当である。
○和名抄にも大坂に難波の地名が無い、
これは当時平安期の大坂は、
まだ難波と呼ばれていなかった証拠である。
○そしてその後、大坂の住吉大社は、
福岡から移設後に、難波の地名も移設されたのである。
住吉の移設については、古代史の常識です。
○その他神社伝承等でも確認できます。
さてどうでしょうか?
古代の証拠を調べて、大坂が難波だと主張する人はいません。
古代の証拠を無視するから、大坂を難波だと主張出来るのです。
解りましたか?
解らないなら調べてからお返事くださいppp
荒らしも止めて下さいp
615 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:05:15
>614は論理ズタズタで、相手にする必要すら感じられない。
616 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:06:40
>>615 ずたずたの論理を証拠付きで論破してくれないwwwww
617 :
一応九州王朝説:2007/01/15(月) 23:07:27
618 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:09:03
だいたい、614はマルチポストのコピペ嵐
619 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:11:18
>>615 ずたずたの論理を証拠付きで論破してくれないwwwww
620 :
一応九州王朝説:2007/01/15(月) 23:12:52
( ´;゚;ё;゚;)
621 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:16:07
相手にする必要すら感じられない。
622 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 00:04:11
>>614 難波宮の跡と称するものが発掘されていますが、
あれは何なのでしょうか?
そもそも、大坂は島だった、って部分からすでに妄想に突入してるな。
難波宮遺跡とされる、宮跡があるところ、「上町台地」は、東側は河内湖があり、西には大阪湾があるが、南側は陸続き。
ちょっとだけ南に移動したら、河内湖の南岸を越えて東に行けるしな。
それにそもそも、あの近辺は、瀬戸内海を往来する船と河内湖周辺、とくに大和川を往来する川船の乗り換え中継地として、古くから発展してた。
624 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:48:44
625 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 09:52:42
百済系帰化人が湖岸の牧場で馬を育てたんだよ。
626 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 12:26:04
石山本願寺合戦図
どう見ても大阪は島ですね。
627 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 12:33:02
古地図に慣れた人なら、河川や用水路を巨大に書く習慣を知っているはず。
全国各地、どこも島に見えるわけだ。
628 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 12:33:43
大阪 玉造
629 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 12:42:33
>>627 巨大に書く習慣の根拠は?
特に、古代の習慣をどうやって、調べるのか教えてくれ
詭弁だと思うが、もっとまともな意見を書いてくれ。
630 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 13:01:19
明治期の地図にも、上町ダイチには、低湿地水田の切れ目が幾つか見られます。天王寺付近もそのようですね。
631 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 13:43:41
>629
馬鹿か?古代の地図など存在するのか?
古地図で非常に重要だったのは、移動する際に通行できるかどうかだ。
飛び越えられる以上の河川があったらまず非常に大きく書き込むのが原則だ。
用水路などもしっかり書き込むため、ちょっとした都市はまるで島のように書かれるのが常。
632 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 15:38:05
上町台地は河内湖を仕切る古い砂丘から始まりました、その後も砂丘性の変化が続き、周辺が堆積平野化しました。
砂丘湖の出口は一つと限らず、急激な盛り上がり作用もあり、石山本願寺合戦図のような状況から、自然作用による変化も不自然ではありません。
また秀吉等の土木工事説も当然考慮すべきですね。
あと古代の上町台地では水に苦労した事は想像できますね。
633 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 16:33:57
>>631 人を馬鹿呼ばわりするだけの論拠だとは思わんが??
634 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 16:59:15
古代の地図の話をたった一人でしているのは>629だな
635 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 17:22:22
636 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 17:31:30
>>635の補足
Aの大阪近世地図は、大和川が大川(中ノ島)に流れ込んでいるので、
大和川付け替え前である1704年以前のものである。
637 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 17:52:59
>>630 >明治期の地図にも、上町ダイチには、低湿地水田の切れ目が幾つか見られます。天王寺付近もそのようですね。
その低湿地水田は、大阪東部の低湿地が洪水の時、
水を大阪湾に直接排水する為の水路跡。非洪水時は水田。
中之島のある大川(大阪城の北側・古代の砂州の付け根)も古代に作られた排水路。
何天皇の時か忘れたが、日本書紀に記事がある。
638 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 18:07:23
>>626 >石山本願寺合戦図
>どう見ても大阪は島ですね。
表現の間違い
正:どう見ても大阪城(石山本願寺)は島ですね。
難波宮跡は図の左端、図が切れたところにある。
だから難波宮は半島の北端部に近い位置にあったことになる。
まだ半島にこだわるのか?
あきれるよwww
640 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 18:18:53
>>632 古代に砂丘であったところは大阪城より北側の低地部。
仁徳から秀吉まで誰が何処の工事をしたかわかっている。
上町台地の難波京跡は標高25〜15m程度だから、井戸を掘れば水の心配はない。
641 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 18:36:01
お前九州王朝大嫌いなのか?
でたらめ並べるな!
海の近くは浅い井戸じゃダメだぞ!
本当にほれたのかW
642 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 18:58:51
>>641 >海の近くは浅い井戸じゃダメだぞ!
大阪の地下水は旧大和川(河内湖・河内低湿地)方面から流れて来て海に排出される。
だから、井戸が浅くても海水が逆流せず塩分を含まない真水である。
大阪湾沿岸(淡路島と大阪南部和泉は除く)は陸側からの地下水が豊富なので、海辺の浅井戸でも塩分を含まない。
643 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 19:06:18
古代史を考察するに当たり、自然環境特に水資源環境状況についても十分に考慮しなければならない。
横レスだが
河内湖から上町台地を突っ切って大阪湾に注ぐ水路は、
飛鳥時代ごろに大和朝廷による土木工事で作られたもので、
縄文時代にも弥生時代にもなかった。
もともとは、河内湖から海に出る水路は、河内湖北西端、淀川の位置だけにしかなかった。
河内湖が海水から汽水湖、淡水へと変わったのは、意外と古い。
645 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:42:17
出入り口が沢山あった河内湖が真水だってwwwww
646 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:53:12
現代の川が逆流無しで塩害を受けないのは、
総て河口堰のおかげだぞ!
お前どっから逆流しないなんて仕入れたんだwww
647 :
一応九州王朝説:2007/01/16(火) 21:14:03
>>644 ただし、現在の大和川流域、竹渕川〜杭全〜細江川は古代から
低湿地で、海水も細江川入江から逆流した可能性あり。
まあいずれにしても、弥生期に淡水湖だったことは定説。広大
な河内湖の全てが汽水域のはずがない。馬鹿の相手も大変です
ね。
ていうかあ、なんで大好きさん延々(´;゚;ё;゚;)の相手してる
んですか?
648 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:20:34
■中国の古代史書に記された三韓の正式国号(日本名)■
馬韓→ 任那
弁韓→ 志羅紀
辰韓→ 志羅紀北部
ちなみに、3世紀の時代に百済は存在しない。
百済は4世紀(315年)に、ヤマト朝廷が帯方郡の漢人・倭人たちを支援して
日本領=任那の北部に建国した。
649 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:25:28
おいおい誰が言ってる定説なんだw
是非教えて下さい!w
かなり改竄入っている事は明白だよ!w
平野部の川は確実に逆流が起こるよ!w
さてどっちが正しいのかなwwwww
650 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/16(火) 21:29:59
>>644 大川の工事は飛鳥の頃ですか。
時期は忘れていました。
何天皇の時でしたでしょうか?
この大川の開削工事は、治水の為だけでなく水運の目的でもあったように記憶しています。
この大川の水路は上町台地を突っ切ったのではなく、
上町台地とその北方の砂州の境目の砂州部分を開削したものです。
河内湖が未だ海で河内湾だったのは神武の頃です。
神武が南方(南潟:中島の南側の潟の意)を通って敗走しています。
今の淀川のあたりです。(今の淀川は新淀川と呼ばれ明治時代に開削され新淀川と呼ばれた)
中島は
>>635の@の地図の半島の先端部分の砂州です。
このあたりに砂州の島がいくつかあって、
中島の東側の島は、8世紀初頭に隼人が大和朝廷に招待され、
その後北方に移住した時に、一時留まっていたところです(今も神社がある)。
8世紀初頭に島であったことから、その島の南側は海又は幅広い川であったとみなせるので、
8世紀初頭には河内湖は汽水湖であったとみなせます。
651 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:41:42
汽水湖の水は飲めんぞw
似た条件の宍道湖も汽水湖w
大阪城には異常に井戸が多い、
しかも深い!
古代人が作れたかなw
水が無い都なんかあるのか?
砂丘は一年で何十mも盛り上がるんだぜw
河口も変るしw
侵食もおこるw
都あったのかw
一番古い古地図の石山本願寺合戦図なんで信用しないんだwww
652 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:02:49
九州王朝大好きさんは、
九州王朝大嫌いに、
改名すべきだ!
九州王朝大嫌いに、
改名すべきだ!
>647
その「低湿地」だった地域を水が流れた可能性があるのは、
縄文海進期が最後だろう
弥生時代になると、上町台地北端と千里丘陵にはさまれた、
現在の淀川近辺の狭い流路だけしかなくなっていた。
干満により海水が逆流する度合いは、出口近辺の川流の流速とか
干満時の海水面の上下変動幅とかによって変わってくるが、
流路の幅の割に水量が多かったであろう、河内湖の
出口より内側の地域が汽水域だった時代は、それほど長くはなかっただろ
>650
そりゃ、大川の河口の流速が速すぎて航行しづらい(時間を選びすぎる)のを、
他に水の出口があれば流速が下がって航行しやすくなるしな。
ええと、神武のころって、弥生初期になるんじゃないの? 三国時代どころか、春秋時代だと思う。
神武が実在だとは思わんけどさ。
>651
都があった時期そのものは、孝徳天皇の代だから
(聖武天皇のときも1年ほどだけ、あったが)
河内湖に汽水域がなくなったより後だろ。
654 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/17(水) 18:16:02
>>653 8世紀初頭には淀川は河内湖に流れ込んでいません。
河内湖に流れ込む水は大和川だけです。
潮の干満によって河内湖は汽水になります。
河内湖内の水流によっては汽水でなかった部分もあったかとは思います。
又、神武は4世紀末頃です。(今議論はしないが)
4世紀末に海であった河内湾が真水の河内湖になるには300年は短かすぎる。
大阪難波京があったのは聖武天皇の1年だけです。
しかしそれ以前から上町台地には何かがあり、
それを修復していると見られる記事が続日本紀の726年と734年に見られます。
その何かは今は棚上げします。
九州王朝大好きさんは、
九州王朝大嫌いに、
改名すべきだ!
九州王朝大嫌いに、
改名すべきだ!
656 :
↑:2007/01/17(水) 21:37:38
お前、つまんね〜よ
つい最近も遺跡が発掘されて、そこがまた別の難波宮跡地公園になるんだよ。
この辺も色々ありそうだね
658 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/18(木) 01:15:58
>>657 NHK跡地(難波離宮跡の一部)を難波宮跡地公園にして、
現難波宮跡地公園を大阪城公園とつなぐこと?
それとも別件?
659 :
一応九州王朝説:2007/01/18(木) 05:54:45
掘ったらなんか出てくるからね。もともとあっこらへんしか陸地がなかった
わけやし。大阪湾、淀川河口域と河内湖を一望の下に監視できる要害の地や
から、そら難波の宮以前から何かあったやろうね。
そやけど、( ´;゚;ё;゚;)の相手はしいなや、もう。改めてロムっても、持論
もないのに人おちょくっとるだけやん。
>>658 別件です。国立医薬品食品衛生研究所跡地です。土壌汚染があって
それを除去した後に発掘があったようです。昨年の11月だったかな、
現地説明会がありました(自分は行っていないです)
あと前の公園とはつながってはいません。
661 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 09:39:42
初期の大和王権は中央政府として大王が君臨していても足利幕府のようにひ弱いもので、
各地方にはそれぞれの王が君臨していたいて、筑紫君磐井は西日本の最後の王だったの
ではないだろうか?
662 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 10:02:24
>>659 大いに同感!!
>そやけど、( ´;゚;ё;゚;)の相手はしいなや、もう。改めてロムっても、持論
>もないのに人おちょくっとるだけやん。
カミツキガメに手を噛まれても、何の生産性はない。
663 :
662:2007/01/18(木) 10:03:48
誤爆ごめん、スレ違いだった・・・
664 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 14:40:44
665 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:58:03
>>657 大阪の南や奈良の子供たちの間ではこんなジョークがある。
「公園以外で砂遊びはせんとこ。遺跡が出てきたら遊ばれへんから」
666 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:43:18
土地を買って家を建てる時は要注意やね。
667 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:44:20
■任那日本府の謎
任那日本府があった場所は安羅だと言われているが、
5世紀以降は熊津(公州市)に移動したのではないか。
475年に、百済の文周王が熊津(現・忠清南道=公州市)に首都を移したという記録がある。
熊津に任那日本府があったから、そこに都を移したのではないか?
熊津の語源は『古末』だろうか? 古末と書いて「コマ」と読むのだが。
九州王朝大好きさん
あなたは確実に太国さんですよね?
669 :
↑:2007/01/18(木) 22:30:20
そう信じちゃったのは、お前だけだよ
みんな信じているよ
だいいち、お前だけだよ否定するのはW
九州王朝大好きで、
九州王朝の否定ばかりしてる人がいますよねW
672 :
↑:2007/01/19(金) 16:39:53
嵐
九州王朝大好きで、
九州王朝の肯定してほしいなw
674 :
↑:2007/01/19(金) 18:33:47
荒氏
九州王朝大好きで、
大阪の難波京を擁護するんだってw
676 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:22:32
だからなに
九州王朝大好きで、
福岡の難波京を否定するんだってw
678 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:13:55
あっそう
679 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:47:21
680 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/19(金) 22:11:15
>>677 >福岡の難波京を否定するんだって
肯定こそすれ、否定はしていないよ。
681 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/19(金) 22:13:55
>>675 >大阪の難波京を擁護するんだって
8世紀に、1年だけ難波京がありましたよ。
682 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/19(金) 22:16:46
>>673 >九州王朝の肯定してほしいな
30年近く肯定し続けていますよ。
683 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/19(金) 22:20:09
>>668 >九州王朝大好きさん
>あなたは確実に太国さんですよね?
「九州王朝大好き」は僕、「太国」さんは太国さん。
684 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 22:23:23
年齢はどちらも還暦以上だが、
太国さん>九州王朝大好きさん
[861]橿原一派 ◆6Zok7FAjsY <sage>
2007/01/19(金) 22:36:51
九州王朝大好き◆I.THkUKc4Y 氏は古参のコテ。
もちろん九州王朝肯定説。
ただし根拠を述べずに結論を断言する癖があるため、
「妄想」と一蹴される傾向がある。
ご本人の名誉のために敢えて付け加えれば、荒らそうという意図はないと思う。
686 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 00:38:55
大好きさんの書き込みは、数年前から拝見していますが、全的を得た内容と
思います。むしろ、大好きさんに対抗できる畿内派の優れ者が現れないのが
残念です。
687 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/20(土) 05:55:29
大好きさん、カンノワノナノの金印ですが、
これって全て純金なんですよね。
メッキではないんですよね。
あれだけの金を使える財力と型を作る技術は
黒田藩にはなかっただろうと思います。
そう考えると、やはり本物ですよね。
688 :
一応九州王朝説:2007/01/20(土) 09:02:58
私は30代です。忙しいので即レスとか出来ませんが
(誰も聞いてないですねw)
>>687 やあ、トリップ取ったんですね。賢明です。
ほとんど純金みたいですね。成分的にも中国製っぽいようです。
>>686 昔はいたんだけどね。それ以上に畿内説の荒らしが酷すぎたんで、
別スレを立てるか2ちゃん自体にこなくなっちゃったんですよ。
畿内派にはすぐアホだの馬鹿だのいう馬鹿が多くて。今も粘着荒
らしが一人湧いてますが。
690 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 11:24:53
全て金だから純金だよね
大名が金が無いなんて珍説だね
百歩譲って金が無くても、型を取る技術は確実にあるよね
それでどうして本物なの?
・・・馬鹿レスのみです・・・
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY 馬鹿コテ認定しました。
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY 馬鹿コテ認定しました。
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY 馬鹿コテ認定しました。
691 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:28:22
>畿内派の優れ者
九州王朝に対して畿内王朝は完全に存在しているわけで。
692 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:29:48
訂正
存在してたかどうかまだ分からない九州王朝に対し
畿内王朝は100%そんざいしていたわけで、
何をして畿内派と言っているのか分からない。
693 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/21(日) 12:22:36
王朝というと、語弊がありそうですね。
王朝の定義というのが、きっちりいっていないという感じです。
僕は、出雲や吉備のような感覚で九州を現在の時点では、そう見てます。
出雲などのように豪族だったと。
大和も豪族だったんだよね。
ただ「九州」という地名が、中国では「天下」を意味するとは知りませんでした。
694 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 13:20:06
>691
九州王朝の元号下で、九州王朝の天子がおこなう大嘗祭に
畿内の「おおきみ(後世に天皇とされた)」が出席させられた。
こんな状態は畿内王朝とはいわないだろう。
695 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:52:15
王位を血縁者が世襲するシステムが王朝だよね。
だから、九州も畿内も王朝だよ。
696 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:59:34
違うよ。
8世紀までは、畿内の大王には世継ぎ制度がなかったし、
元号も官僚体制の継続性もなかった。
畿内天皇家が王朝はになったのは、もっとあと。
697 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 23:34:07
へえ、そうなん? 8世紀までは世襲しなかったん?
もしそうなら王朝じゃないけど、本当かいな。
もしかしたら共和制かいな。
698 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 04:57:23
699 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/22(月) 06:34:43
世襲制を王朝の条件に入れると、
九州王朝は連続した王朝だったかどうかわからない。
世襲を王朝の条件にする事ってあるの?
701 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/22(月) 12:42:14
王朝の条件定義なんて無い。
世襲を王朝の条件に入れる場合が多いが、入れない場合もある。
702 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 13:18:00
王朝は必ずしも世襲制じゃなくて、世継ぎ制。
>695や>697は誤り。
なんであんなに自信ありげに馬鹿な事かけるんだ?
ここの馬鹿コテ達は?
705 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:09:59
>>705 記紀。記紀によれば、初めて大嘗祭を主催した大王ないし天皇は持統。
しかしそれ以前に大嘗祭が存在した証拠も記紀にある。
清寧と天智が、なぜか大嘗祭に大王の部下が出席している。
しかし二人とも大嘗祭を主催したことはない。
707 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/23(火) 01:41:05
>>706 大嘗祭というのは、お米の収穫を祝う祭りですよね。
ということは、日本最古の稲作が行われた、板付遺跡が有力ですね。
708 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/23(火) 05:15:51
>>707 「大嘗祭」と「新嘗祭」を調べてみたら?
記紀???
710 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/24(水) 00:41:05
「大嘗祭」と「新嘗祭」はどんなものなのかを調べて理解を深めたら?
出雲大社の古式に則った新嘗祭に参加してから、僕の認識は変わった。
大嘗祭:天皇即位後最初の新嘗祭。践祚大嘗祭、大嘗会とも。
新嘗祭:新穀などの収穫祭。民間でも宮廷でも行なわれ、宮廷では飛鳥浄御原令
から大嘗祭とよんだと推測されるが、のち新嘗祭の名称が復活。平安時代の
儀式では、11月下卯(または中卯)の朝に神祇官で諸大社への班幣が行なわれ、
深夜神嘉殿で天皇が神に新穀を供する神饌親供の儀が2度行なわれ、翌辰日に
豊明節会の宴があった。15世紀に中断し18世紀に復興。1873年に11月23日が
祝祭日と定められ、第2次大戦後、勤労感謝の日(祝日)となった。
712 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/24(水) 02:33:40
>>710 出雲にもそんな祭りがあるんですね。
俺も参加してみたい。
出雲王朝のなごりかな?
現在も国造家が存在してと聞いてます。
九州は、磐井家があったんですが、
衰退して消えてしまったのかな?
713 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/24(水) 12:06:45
>>712 新嘗祭は11月23日にどこの神社でも催されていいます。
古式によるものは出雲大社(最近復活)以外にあまり無いと思います。
磐井は畿内朝廷側から呼ばれた言い方ですから、磐井家と言うものは存在しません。
イワイは、倭(ヰ)国の薈(ワイ)大王との意味で、「倭薈」とする説があります。
714 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 13:36:59
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は空洞に
なっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)の上に米を
置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,
湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です(後漢の
『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
設問かよ・・・・_| ̄|○
たのむよ、ここ学問板なんだからさぁ・・・・
716 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/24(水) 19:04:22
磐井の墓?が八女市にあるとは聞いたことがあります。
石のはにわ?とかがあるとか。
でも、その人一人分しかないのかな?
王朝だったのなら、近くにほかにもたくさんあってもよさそうだけど。
717 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/24(水) 21:51:05
九州王朝は、必ずしも血縁や一族世襲だけではなく、実力者が体制を引き継ぐものだったようです。
倭5王は熊本(菊池)、磐井は八女、多利思北孤は宗像、薩耶麻は博多近辺?(筑紫)、の出身でした。
以上は九州王朝弟大王(実務政治大王・法王大王)についてですが、
九州王朝兄王(宗教王大王)については血縁同属世襲なのかどうかわかりません。
卑弥呼から壱與への世継ぎをみると、チベットのダライラマのような世継制だったのかも知れません。
九州に近い文化圏の琉球の巫女(宗教王)の引継ぎはダライラマ型だったようです。
以上は僕の見方であって九州王朝論者の一般的な見方ではありません。
718 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:17:36
弟大王の選び方はどうだったんですかね。
結構、民主的な感じがしますが。
719 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:03:32
>>717 でもさ、九州の古墳で
人骨が残っているのを調べてみたら
一応、同族だというのが分かったんだけど...
720 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/25(木) 05:42:59
>>719 菊池の倭5王は同族、宗像の多利思北孤は同族の古墳群の1墳墓、
八女の磐井も先代は同族だったかもしれません。
721 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:32:13
>>706 それを九州王朝と関連づけるのは飛躍しすぎ。
少なくとも中間の証明論理が抜けている。
722 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:35:34
>721
ここは化学の実験じゃないんだから、証明出せ出せと追及する前に、
九州王朝でも畿内王朝でもない、何らかの王朝ではないかと、
自分から提案したらどうですか?
723 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:59:48
>>722 出せないなんて言ってない。
抜けているって指摘しただけ。別にわれわれは同じ学級にいて学級会やってるんでもないんだから、
>自分から提案したらどうですか?
なんて言われる筋合いもない。
724 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/25(木) 18:13:37
>>720 都は、大宰府だったんですよね?
磐井の君も、大宰府で政務?をとっていたんですよね。
725 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:44:24
726 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 19:14:02
>>723 言ってないかどうかが問題なんじゃないよ。
君のような学級会以下のケナシ論が問題なんだよ。
727 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/25(木) 19:35:50
>>721 初歩的説明は端折っているだけ。
君の要求水準まで微細に説明をすると1冊の本になると思う。
>>724 太宰府ができたのは、618年倭京が都になった時。
それは多利思北孤(法皇・法王大王)死亡の4年前。
筑紫君磐井(528年死亡)は大宰府で政務を取れない。
728 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 19:41:53
729 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/25(木) 19:47:52
>>721 >初歩的説明は端折っているだけ。
>君の要求水準まで微細に説明をすると1冊の本になると思う。
>>727の上記レスは誤レス、ゴメン。
730 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 20:01:23
まあ、
>>721は、
「俺様には意見なんかねえ、他人の説のこきおろししか興味がねえ」
と考えていることだけ、よくわかった。
731 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 20:15:16
>>730 俺が意見を持ってるか持ってないかは関係ないの。
批判の風に当たりたくなければ、最初から書かないこと。
732 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 20:40:35
>731
君に野次飛ばされたことはあるが、きちんと批判されたことはないな。
マトモな批判をしてみ!
733 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:17:37
>>732 >記紀。記紀によれば、初めて大嘗祭を主催した大王ないし天皇は持統。
>しかしそれ以前に大嘗祭が存在した証拠も記紀にある。
この観点は、大嘗祭の祭祀的規模、政治的意義の変化に関する以上の
情報を含んでいない。それと九州王朝とどういう関係があるかもまったく
情報として含まれていない。
>清寧と天智が、なぜか大嘗祭に大王の部下が出席している。
>しかし二人とも大嘗祭を主催したことはない。
主語が割れているので意味が分からないが、もし天皇が大嘗祭を行うものが
当然とすれば、主催したことの記述は同義反復で意味はない。
それと同じく九州王朝がどう関わるか、その情報は含まれていない。
734 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:46:56
では、九州王朝など存在しなかったとして、いったいどの王権が行なった大嘗祭?
エチオピア王朝?ローマ王朝?
735 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:11:49
>いったいどの王権が行なった大嘗祭?
と聞く前に、持統天皇以前、記紀のどこに、歴代天皇の他のところで
大嘗祭が執り行われていたかの根拠を示してくれよ。
俺んちに記紀全部あるからさ。
736 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:22:43
はあ?それは突っ込む君の趣味でやったらいいことだな。
737 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:27:05
それは明らかに卑怯だな。怖くなったか?ww
738 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:32:38
君の論理が破綻したのを観察しているのが楽しくてwww
739 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:37:53
破綻なんかしてないよ。
あなたがソースを示さないから終ろうとしてるだけじゃん。
740 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:39:57
ソースを示さない方が破綻しているんだよ。
741 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:44:53
よっしゃあ!九州王朝説、粉砕!
742 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:11:49
あはは、まったく盤石なわけだがwww
743 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:13:33
簡単に粉砕できるものを盤石とは言わんだろう。
744 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:17:42
まあ、畿内の天皇に、真人だの朝臣だのがついていること自体、おかしいわな。
745 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 00:18:26
九州のほうは何もついてないね。
746 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 01:14:12
いや、ついてるよ。法皇だとか法王だとかさ。
747 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 01:15:44
それは罰癇。
748 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 01:18:03
だいたい、6世紀になっても、大和の国にとって、播磨の国は外国だったんだから
王朝なんて領土すらないわけだ。畿内王朝ってバチカン市国?
749 :
一応九州王朝説:2007/01/26(金) 05:21:57
>>748 それって結構重要かもな。なんで畿外なんて線引きがあったのか。
750 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 10:45:26
畿外って言葉どこかに出てるの?
751 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/26(金) 11:01:14
>>748 継体亡き後、欽明以降6世紀の畿内大王国は統治範囲が縮小している。
統治範囲は淀川河内湖以南の北部大阪と奈良盆地。
播磨だけが外国ではない、摂津も外国(畿内大王国から独立した地方豪族王国)だった。
752 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/26(金) 11:18:54
>>751の修正
誤:統治範囲は淀川河内湖以南の北部大阪と奈良盆地。
正:統治範囲は淀川河内湖以南の中部大阪と奈良盆地。
753 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 11:39:05
なんで九州王朝の文献はひとつも残ってないの?文字を知らなかったから?
754 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/26(金) 12:04:43
>>753 公式文書は組織的に破棄焼却されたから。
神社の縁起も同様に破棄改正させられた。
今残っているものは偶然に破棄から免れたもの。
九州の神社の古文書は明治時代でも組織的に破棄された。
明治の万世一系の天皇体制にとって不都合だったからと思われる。
755 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:24:01
>>754 その焚書は何か言い伝えみたいなものが残っているのか?
それともあくまであなたの推測か?
756 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:24:48
>>754 焚書されたってことの言い伝えね。口伝でも秘密文書でも。
そういうのがあるのですか?
757 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/26(金) 13:00:51
焚書の記録はない。
焚書の記録があること自体が九州王朝隠匿方針に反する。
日本書紀の「一書に曰く」の表現が旧体制を隠匿したことを示している。
又、明治に集められた九州の神社古文書でも燃やされたとの言い伝えがあるから、
7世紀末から8世紀にも同様に燃やされたと推測できる。
もし7世紀末の神社の文書を破棄焼却していなければ、
現在でももっと多くの古文書が残っているはず。
畿内天皇朝廷体制において、「古事記」も「日本書紀」の体制にとって破棄すべき文書になったから、
現在までは殆ど残っていないのだと考える。
758 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:12:11
>>757 >明治に集められた九州の神社古文書でも燃やされたとの言い伝えがあるから
初耳なんだけどたとえばどんなのですか?
759 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 16:16:57
>焚書の記録はない。
古事記の前文は、どう考えても「焚書坑儒」があったことを連想させる、
司馬遷の史記をモチーフにしたストーリーになっている。
760 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 17:58:29
>>759 しかし完全抹殺ってのはなかなかできないぜ。
それを許したってことは九州王朝は存在してたとしても
よっぽど抗体のない弱体国だったってことじゃないかな。
761 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 19:08:49
古事記を編纂しちゃった後になって、九州王朝の国家記録を発見、
倉庫ごと収奪したようだね。
せっかく出来た古事記は正史から降ろされて、九州王朝の記録を
元に日本書紀を書いたわけだ。だから弱体国家じゃなくて、
日本書紀に変容しながら今日に伝わってるわけ。
九州王朝の寺だった今の法隆寺が立派に残っているのも
弱体じゃなかった証拠。
762 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 19:58:27
>>761 >九州王朝の国家記録を発見、倉庫ごと収奪したようだね
見てきたように言うねw 小学生の嘘みたいだな。
>九州王朝の寺だった今の法隆寺が立派に残っているのも
おいおい、観世音寺を移築したなんて馬鹿げた説を信じてるんじゃないだろうな。
だいいち、あの古図の絵は中門が法隆寺のように四間じゃなくて五間なんだがな。
763 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:01:12
>>761 >九州王朝の寺だった今の法隆寺が立派に残っているのも
>弱体じゃなかった証拠。
百歩譲って九州から移築されたとしても、今残っているのは保存してきた
近畿の人のおかげ。
764 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:20:20
>762
おや、倉庫が畿内側に収奪されたこと、続日本紀に書いてなかった?
765 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:21:58
釈迦三尊像の光背銘が、九州王朝の記録であるってこと、
皆さん知らないようだねwww
766 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:22:26
767 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:24:45
そのうち北海道王朝なんて出てくるかもな。
でもアイヌ王国なら九州王朝よりはずっと存在感あり。
768 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:31:57
いやそれより、畿内天皇は九州王朝の配下だったことが判明するでしょう。
769 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:33:06
九州王朝の具体的証拠をあげてみ。
770 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:34:38
普通、そういうことは口伝とかで残るもんだがな。
九州に残っているのはせいぜい隠れキリシタンぐらいでしょう
771 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:35:40
でも、俺なんか見てると九州の人間って皇室崇拝者が多いっていう印象受ける。
漫画家の小林よしのりとか。
772 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:58:31
九州元号は畿内天皇家側に、制定記録なし。
こりゃ、まずいだろ。
773 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/27(土) 06:41:49
>>758 何から知識を得たのかは忘れた。
明治の廃仏毀釈の時に、寺院だけでなく国家神道にそぐわない神社も弾圧された。
九州では国家神道派の者によって一部神社の古文書を、
寺院の仏像仏具経典と同様に、破壊し焼却した。
明治の廃仏毀釈について調べればわかると思う。
今ならwebを検索すれば出てくるかもしれない。
774 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/27(土) 06:46:27
金印があるじゃないか
あのハンコがなければ、政策が実行できなかったんじゃないかな?
775 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/27(土) 07:06:20
>>759 >古事記の前文は、どう考えても「焚書坑儒」があったことを連想させる、
>司馬遷の史記をモチーフにしたストーリーになっている。
かなり以前から、九州王朝の古文書が現存しないことと、
「焚書坑儒」の言葉が頭の中で連動してしかたなかったのですが、
僕の場合も、古事記の前文が司馬遷の史記を連想させていたようです。
以前このスレで、九州王朝古文書喪失を「焚書坑儒」と書いて叩かれたことがあります。
776 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:56:08
それにしても、どうして焚書坑儒までして歴史を改竄したのでしょうかね。
堂々と占領とか革命とかを公言すれば良いように思いますが。
>>776 もしそんな事が事実あったとすれば、
・神=各家庭〜地方豪族・王の政治的権力の剥奪と、天皇家の唯一神
への宗旨替えの強制
・畿内王権の、天神族内部での由来の怪しさ
ではないですかね。政治における継承と実権力の剥奪とは表裏一体ですか
ら、表向きは祀の思想で、神殺しをせずに権威だけ受け継ぐという。
実際に焚書があったというのは定説にちかいですよね、もう。書紀以前の
ものは古事記も含めて残されなかった。だから書紀がプロバガンダだと考
える学者さんも凄く多い。だからといって全部ウソップだとは私は思いま
せんが。
もし九州王朝があって、いわゆるところの盗まれた王権なら特に九州関係
の文献は当然燃やされるでしょう。いくら思わせぶりに書いたところで、
当時の人たちにすれば邪馬台国も王家も九州にあったのは周知の事実だか
らあからさまに倭人伝の記事を載せることが出来なかった。唐との外交的
整理が対外的な書紀編纂の目的だから、その古代における最も輝かしい歴
史を載せないのは痛かったでしょう。ただ、書紀なんて庶民が読むもんじ
ゃなし、長い間には忘れられていって、記録だけが残る。
そんな感じだと思いますね。それ以外に、かくまで激しく焚書を行った理
由がない。畿内説の人だって極端な実証主義の発掘やさんだって、せめて
風土記ぐらい残っていればと思わない人はいないでしょう。
1000年後まで禍根を残した愚かな行為でした。
778 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:18:13
>>773 >何から知識を得たのかは忘れた。
こんな大事なポイントを忘れるってあなたは本当に九州王朝が好きなのか?
779 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:22:11
>>777 それはまず「九州王朝の文書が焚書された」という仮説ありきで演繹的に
こじつけているにすぎない。仮説の仮説になる話を
>1000年後まで禍根を残した愚かな行為でした
と感慨に耽っているなんて失笑を買うぞ。
それに
>>776氏の言うように、焚書したにしても、堂々と「征服した」と
大和王朝が言わないことの説明できてない。
780 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:10:38
おいおい、明治5年の修験道禁止令により、九州のどこでも古文書を焼き
仏像を破壊したのは有名な話だろ。国東半島などは完全破壊までされなかった
ようだが。大好きさんが言ってるのは、なんという文献資料だったか覚えていない
ということだろ。君は修験道禁止令の写しをなんという文献で見たのか言えるのか?
781 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:46:14
明治初期の廃仏毀釈なんて誰でも知ってるよ。
しかし、それまでは神仏混同が多かったからとして、そのときに文献が焼かれたのは
全国規模の話だ。その中で「九州王朝の文献」が焼かれたという事情を証明してみろよ。
あと、焼かれずに残った文書の方も。
それができなかったら、九州王朝説など絵に描いた餅、田舎者の懐古趣味にすぎんぞ。
782 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:50:44
>>780 >君は修験道禁止令の写しをなんという文献で見たのか言えるのか?
どういう意図の質問かさっぱり理解できない。もっとストレートパンチを出してみろよ。
>実際に焚書があったというのは定説にちかいですよね、もう。
(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ?ここはパラレルワールド?
784 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/27(土) 14:57:49
神仏分離令による廃仏稀釈活動があった頃に、
国家神道にそぐわぬ神社にも弾圧があり、
その弾圧のひとつとして神社の古文書も没収され、
廃棄焼却された。
以上神社古文書の件を何で知ったかを忘れた。
思いだしたら報告しましょう。
僕の出身村では江戸末期でも神仏分離がされておりましたが、
その様な神社にも弾圧があったことを指しています。
明治初年には祖父の祖父が神主をしていた頃で、
幸い弾圧のようなことは無かったと聞いています。
785 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 15:32:03
>>784 だから、それと九州王朝と具体的にどう関連があるのさ。
話の主体が万世一系の国家神道のほうにシフトしてるじゃねえか。
786 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/27(土) 15:38:43
>>785 見当外れ
昨日からの30レスほどの流れを読み直せ
787 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 15:43:37
全然見当ハズレじゃない。あなたが言うのは俺のレスなのに。
788 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 15:47:28
>>784は九州王朝について何ものも言及してない。
言及しているのは国家神道を最上位とした廃仏毀釈、その他への弾圧だけ。
あくまで「九州王朝」を主体としたことを述べているというのであれば、
廃仏毀釈から具体的なサンプルを抽出して示さなくてはならない。
789 :
太国:2007/01/27(土) 15:50:50
九州王朝は崇神の時代ころから文武の時代あたりまで、九州に存在した王朝で、
卑弥呼の女王国はその氷山の一角です。倭の五王朝も九州王朝の流れで、
当時の畿内の天皇ではないです。
790 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 20:53:27
791 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/01/27(土) 21:10:31
藤原不比等が全てを知っていると思います。
792 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:16:42
証人にお聞きします。
あなたは藤原不比等君ですか?
793 :
太国:2007/01/27(土) 21:21:06
>>790 崇神のころというのは、この御肇國天皇のハツクニの意味は、神武にもハツクニ
の名があり、二つのハツクニというのはおかしいわけで、あとのハツクニの崇神
の意味は、九州王朝のハツクニにかかっているものであり、崇神世が九州王朝の
始まりを示唆しているということなのです。
で、このころ、金印で有名な委奴国王や、帥升が九州にいて権威を振るったので
あり、その後続が卑弥呼の女王国で倭人伝記載のとおりですし、さらに後続と
して壹与の時代に至り、文武世あたりで九州王朝は滅亡します。また途中に倭の
五王朝が短期王朝として別系として存在しておりました。
文武のころというのは、古神道千古の秘儀 卜事 による把握で、機密の
ため詳細は言えませんが、神代文字『卜』の運用にて結論が出ていまして、
崇神の「神」と文武の「文」の各文字で、「神」代「文」字 の一定の使用区間
制限が 崇神〜文武 と解かるわけで、この時代区間が九州王朝の全時代で
あります。 以上
794 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:16:22
795 :
太国:2007/01/27(土) 23:18:45
>>794 お前さんが能書きを垂れても、これは真なんだよ。
796 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:19:08
>>795 能書きはこれから垂れるところだ。
>九州王朝のハツクニ
何だね。これは?
>金印で有名な委奴国王や、帥升が九州にいて権威を振るった
それはあなたのただの空想だろう?
>途中に倭の五王朝が短期王朝として別系として存在しておりました
別系と断言する根拠は?
>機密のため詳細は言えませんが
そんな言い方してること自体、機密でもなんでもない証拠。ただの権威的粉飾、ブラフだな。
797 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:20:07
>>795 >お前さんが能書きを垂れても、これは真なんだよ。
もうメチャクチャ。
798 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:56:35
>793
太国さん、
ハツクニシラス2人論は、津田左右吉が記紀の神聖無謬視化が進む世相のなかで、
その神聖性をバッサリと切り捨てようとして、「同じ天皇の名前が2人出てくる記紀なんて
嘘っぱちだろゴルァ」と喝破したことに価値があったのです。
敗戦後に津田左右吉が圧倒的な権威に祭り上げられたのち、このハツクニシラス2人論は
大いに話題の種になりました。
しかしハツクニとは、新領土のことであり、シラスは領有統治することですから、非常に
広大な領土拡張をした王なら、ハツクニシラスが何人いてもいいわけです。
それから、九州王朝は中国側に将軍号や大将軍号をもらおうとしたラブコール時代より後、
隋の煬帝に対して「日没するところの天子」と呼びつけて対等外交を行なった時代が、
九州王朝であります。当然九州元号もこの時代。
畿内の天皇を九州王朝の天子と見るのは、まったく間違いです。別な国です。
>崇神の「神」と文武の「文」の各文字で、「神」代「文」字 の一定の使用区間
>制限が 崇神〜文武 と解かるわけで、この時代区間が九州王朝の全時代で
>あります。
まーた、語呂合わせかw
その神代文字とやらを出せ、出せw
どうせ出せないね、最初から無いんだからwwwwwwwww
800 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 01:17:53
>>798 聖徳太子の伝説なんか九州に残ってないよwww
もう、このスレはオママゴトだな
801 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 01:32:34
>800
はあ?隋書のどこに聖徳太子なんか出てくるの?
802 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 02:07:28
九州王朝なんて帰納で導けない妄想はそもそもどこから出てきたのだろう?
やっぱ古田なんか?
803 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 02:15:34
ていうか畿内国は、金印も受け取ってないし、隋の煬帝に遣隋使も送ってない。
なのに畿内国が制定した記録のない、九州元号が連続して使われていた。
700年ごろまでは、畿内に王朝なんかなかったでしょ、九州だけだね。
804 :
太国:2007/01/28(日) 07:26:39
>>796 >何だね。これは?
九州王朝も始まりがあるわけだから、ハツクニに相当する王はいるわけさ。
>そらはあなたのただの空想だろう?
奴の国王だから奴の国に国王がいたわけだよ。さらに帥升などという名が記紀
のどこに書かれているんだい?ピッタリのは無い。つまりこの人物も畿内の者
ではないからであり、当然九州にいた強者だよ。
これで空想かだと? お前の考えがデタラメだからこっちを空想と考えてしまう
わけだな。w
>別系と断言する根拠は?
古代史論で「邪馬壹国」と「邪馬臺国」とはしょっちゅう混戦して、君も
おそらくはどでかい口をかようにたたいてはいるものの、迷いに迷ってる
優柔不断の???負けリドラーだろうが?ww 以下のとおり
これだけ教えてもらい、有り難く思え。
卑弥呼の女王国 「邪馬壹国」
倭の五王朝の国 「邪馬臺国」
機密は教えるものにあらず。ww
805 :
太国:2007/01/28(日) 07:35:05
>>799 だから出ているじゃないか。『卜』字がそれだよ。
記の国生みの前の上に書かれてるよ。
新村某の変造の『古代文字』ではうまくないわけだよ。
『神代文字』でなければならんのだ。新村は論述でもう変造を勝手に
やるぞと言っている。
調教すれば象だって文字が書ける。年始だったか、象がうまい字を
書いていたな。蜂も神武以前から「8」字等を書いている。
806 :
太国:2007/01/28(日) 07:54:18
>>799 お前の最後のwwwwwwwwwから考えて、お前が神武以前に生まれていたと
して、いろいろ熟考すると、
お前は自分で自分が蜂以下の脳みそであったことを自認したことになる。wwwwwwwwww
807 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 09:19:10
畿内王朝も九州王朝の分派だったのでしょう。それが本家を襲って簒奪したので、
色々と隠す必要があったのですね。(神武さんが九州を発って大和に侵入したこと
は堂々と書いてありますね。)
もし、そうでなかったなら、日本は九州の倭を征伐したと、東国西国の平定の
一環として堂々と並べて書けばよいハズですね。
>>803 あくまで柵封体制における上下関係の問題であって、畿内王権も
れっきとした王朝だろ。あんなでかい古墳を作るために大勢の人
を使役できるんだから。「畿内」と「畿外」の境目が九州王朝問
題と関係あるのかどうかわからないけど、半島戦争に消耗する九
州が継体の頃まで播磨や丹波、但馬などに影響力を持ち得たかは
怪しい。
809 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:47:32
>>804 あなたの言ってる内容は多分に空想の甘さがあるんだよ。
多分、自分では気づいてないんだろうけど、
>九州王朝も始まりがあるわけだから
まずあるかないか分かってない九州王朝があるという前提を証明しなくてはならない。
尻尾と頭がさかさまになっている。
>当然九州にいた強者だよ
なんでそこで強者という言葉が飛び出てくるのか分からない。
さらになんで「当然」なのかも分からない。
それが九州王朝で畿内王朝を支配していたという結論、証拠になるかも分からない
>優柔不断の???負けリドラー
ドラスティックにこれで決定と決め付けることこそ精神の弱さだと思う。
分からないことがあるという不安な状態に耐えられないのが
あなたのような狂信に安住する道を選ぶ。
>機密は教えるものにあらず
だったら最初から機密なんて言葉を出すべきではない。
あなたはありもしない機密という権威を後ろ盾にして自分を権威づけようと
みせかけてるだけにすぎない。小学生の秘密結社レベルだ。
810 :
太国:2007/01/28(日) 11:05:31
>>809 証明できてるだろうが? 一つあればもう決まりだよ。
それとも奴国が畿内国か? 笑わせるな。さらに女王国は畿内にはあるわけが
ないし、(あれば記紀に卑弥呼の名が畿内にいて天皇と交易とか戦争したとか
少しでも載るだろうが。畿内にいたなら地図上では目と鼻の先だろうが。記述が
全くないではないか?)倭の五王も、5人とも天皇と全部号、名が完全に一致
せず、別人であることは名、号が違うことでわかる。かように九州王朝が
あったわけであり、重要名の帥升等も記紀に記述がないからなおさらである。
こうなるとお前のほうが九州王朝がないことを強力に反証せねばなるまい。w
強者が気に入らないのか? だって弱者にはならんだろう? 国王で弱者じゃぁ
お前は奴国王が裸の王様だって抜かすわけだ? 笑われるぞ。ww
優柔不断でなけりゃぁ、批評のときに自論もはっきり言え。
無論、それが無いか?ww
811 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:16:54
>>809 >証明できてるだろうが? 一つあればもう決まりだよ
奴国が畿内かどうかは知らないが、それが九州王朝の証拠にはなってないよ。
それが邪馬壹國につながったかどうかも証明できてないじゃん。
あなたのは感情論、よく言って直感論なんだよ。論理的じゃない。
>かように九州王朝が あったわけであり、
だから、そこで飛躍してるっつーの。九州王朝があったのなら、
首都の所在地や歴代王、元号などが語られなければ証拠にならないし
説得力はないのだ。
>批評のときに自論もはっきり言え
だから言ってるじゃん。一部の人が言う九州王朝と言う主張には
論理的、物的、歴史連鎖的証拠がなく、現在のところ現代人の感情論にすぎないって。
812 :
太国:2007/01/28(日) 11:33:34
>>811 つながるつながらないはその次に出るべき論で、そういうのはあとでもいい。
お前は論負けしたので、批評の視点を「論破理」のあさっての方向にすり替えて
ゴマ化しているわけだ。w
お前の言ってることは、全部出揃ったときに認容できるということと同等
ではないか? そんなんなら古代天皇は現物を連れて玉拝させなければ信じ
ないと言ってるようなものであり、お話にならない。さらにそうならば、
お前の持つ自論も現物を見せろと言われたら、現物を連れて来なければお前
の自語相違ということになる。
それにはっきり自論を言ってるとかうまいことを言って、こっちをちょろまか
そうとしている。何も自論を言ってないではないか?
お前のは余に対する批評であり、それ以外の何物でもない。お前の自論って
いうのは、畿内一辺倒の畿内説だとか、余の論とは別の、お前の独立した古代史
の論述のことだ。それがまったく主張していない。だから優柔不断の???
リドラー だというんだよ。ww
感情もクソもない。簡単でも要点を言って説明してるだろうが?
それともまだ奴国は天皇国だとか言い出すのか? 気でも狂ったか〜?ww
813 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:37:49
>>812 あなたは、持論をつつかれて怒り狂ってるにすぎない。
それにここは持論を出すと決まっている場ではない。
持論を出さないことは、ごまかしでも悪いことでもなんでもない。
むしろここに書いたら、批判は甘んじて受ける覚悟がならなくてはならない。
それなのに批判されたと騒ぐのは、そそっかしいとすら言える。
814 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:44:10
当時のシナ帝国のもとの柵封体制って、九州の倭国を簒奪したことを隠さなきゃ
ならないようなものだったのだろうか。半島もどっぷりと柵封体制に浸って
いたのに、王国間でドンパチやっていることは普通のこととして認識されている
ではないか。
隠さなくてもよさそうなことを隠したとしなければ理解できないところが、
九州王朝説の不思議なところだよね。それとも、当時の日本国が何か勘違いを
して、無意味なことを必死でやったのだろかね。
815 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:51:06
>>814 日本が何か隠していることがあるのは同意。
ただ、それは畿内が、本家である九州王権を制圧したということという説はどうか、ですね。
ある意味、完全制圧したんだったら、堂々と言ってもおかしくないし、
完全制圧できてないんなら九州の末裔だって何か報復行為的なことしただろうし。
多分、隠したことは別のことだと思う。
816 :
太国:2007/01/28(日) 11:55:14
>>813 別に余は怒ってはいない。「自論」を「持論」に変える点でお前は視点を
うしろへうっちゃろうとする意図が見え隠れする。w
そういうことを言うのは、お前のほうが現物を出せぬその不始末に、慌てて
穴熊のように自らが墓穴を掘って逃げこむ優柔不断の ???負けリドラー で
あるということをお前から率先して宣言したような言い分になり、もう一回よく
勉強して出直して来いと、強く薦めざるを得ない。ww
だいたい優柔不断の「無字名」ではヨルもヒルも判然としない、白黒も無い哀れ
な引き籠ろうとする蝙蝠そのものであり、これではバットマンになりたい 負け
ザマの???リドラー様 だと言われても仕方があるまい。ww
817 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:12:32
>>816 私はあなたの論を否定してるだけだが、あなたは私の人格を否定している。
まあ、それも百鬼夜行の2ちゃんでは勝手だとは思うが、もう少し
ローカルファンタジーじゃない九州王朝説を聞かせてほしい。
あなたの自論でも持論でもいいが、ほとんど、キャッキャと飛び跳ねてるだけに見える。
818 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:19:49
>>815 しかも完全に隠している訳でもなく、磐井とか薩耶麻とかの名前を残していて、
後世の我々が比較的容易にハハーンと想像できるように仕組んである。
これは、次の3つの可能性が感じられる。
1.滅ぼされた倭国の官僚に執筆させたので、彼らがこっそりと書き残した。
2.倭国の支配下にあった庶民に対して、彼らが見聞きしていたことは、実は
こういうことなんだよと説明して、日本国の支配に従うようにするため。
3.簡単に暴かれるようなことをワザと仕込んで置くことで、後世の者が
そのことを見つけて満足して、それ以上深いことを詮索しないようにした。
それで、本当に隠そうとしていることを完全に隠すことを狙った。
819 :
太国:2007/01/28(日) 12:23:43
>>817 心配するな。人格までは否定するほど余はひどくはない。
お前さんの古代史に関する取り組み方が、都合が悪くなると自論も堂々を
書きこまずに墓穴の穴に逃げこんでしまうということで弱腰のようだから
他人に要求したように現物を連れて来るのが要求したお前さんのやる事だろう
が、そこまで行く前におさらいをして自論の間違いを矯正して、また書きこみ
に来いと言いたいわけだ。昼飯だ、あとでな。自論を言える自信があるなら、
逃げこむ必要はないから書きこんでおけ。
820 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:26:18
>>818 確かに、あとでどうとでも言い訳できるような狡猾な嘘を散りばめているというのは
思うね。しかし「どうとでも言い訳できる」から結果、何かよく分からなくなってるんだろうね。
おっしゃる日本書記、天智の巻の薩耶麻なんて唐突に一度だけ出てくるから面食らう。
ただ、ここらは慎重に帰納的に研究すべきところであって、いきなり大上段に
九州王朝があって分家の畿内王朝に滅ぼされたという結論は早計、かつ軽率だと思うのだ
821 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:29:52
>>819 >また書きこみに来い
ブログの管理者じゃあるまいし、そんなステテコ臭さプンプンのオヤジ的言われ方をされる筋合いはない。
822 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:57:12
うん、ローカルファンタジーというかお国自慢のステテコ親父だよねw
823 :
太国:2007/01/28(日) 13:08:08
>>821 〜なら来ないでいい。自論はしないで墓穴に逃げるだけじゃぁ、来ても
論立は成らない。
824 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:10:32
>>823 >なら来ないでいい
だからあなたにそのセリフを言う権利はないんだよ。思い上がるな。
825 :
太国:2007/01/28(日) 13:12:20
>>824 じゃぁ、思い上がるなという権利もあるまいということになるぞ。w
826 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:14:37
思い上がるなと言うのは具体的な行為を言ってない。
だが、あなたは「こなくていい」だの「書き込め」だの具体的命令を発している。
この違いがお分かりか?
827 :
太国:2007/01/28(日) 13:26:19
>>826 お前も無理な要求を発してるではないか?
まじめにやるなら、自説を書きこんだらどうだ?
言葉尻をどでかく拡大鏡で大きくし露骨にどうのこうの言ってるが、
そんなことを検索するは利益は薄い。
お前さんは自分で批評の剣をもってきて、相手が剣を持ち始めることとなると〜
穴熊のように逃げて、拡大鏡での狼ならぬ「無字名」の遠吠えばかりしているで
はないか?
828 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:48:34
>>827 だから、そんなことを強制する権利も、それに従う義務もないっつうの。
ただ、あなたが暴論繰り返しているから批判しただけだ。
たいして証拠も揃ってないのに結論を焦りそれを信じ込むのは滑稽だからな。
829 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:49:58
それと、もう一度言うが、批判される覚悟がないなら、2ちゃんなんかより
他のところに書いたほうがよい。あなたも私もそうだが、ここは紳士の来るところでは
ないからな。
830 :
太国:2007/01/28(日) 13:55:21
>>828 証拠はハッキリしてるだろうが。
金印に奴国には国王がいた旨の刻み字があり、奴国が畿内の国だというのか?
それこそ暴論ではないか?ww 金印は九州の志賀島からの出土だろう。
まさか昔、畿内から何者かがそれを九州へ運んだともいい出すのか?
それとも誰かさんが言ってたそうだが、金印が偽造だとか言い出すのかい?
一国あれば九州王朝があったことはOKなんだよ。w
831 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:00:05
それは点の話。そこから隋書にある倭国や魏志の邪馬壹國を九州王朝と
線で結び付けれる根拠は何もない。
あなたの主張にはそこまで含まれているではないか。
それが敷衍しすぎだというのだ。
金印という点の存在が線に結びついていない。
ここにおいて実体が金印ひとつしかないのに、そこまで敷衍するのは
強引すぎるのだ。
832 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:01:33
>>820 >ただ、ここらは慎重に帰納的に研究すべきところであって、
研究者の姿勢としては、帰納的であるだけではなく、演繹的であることが重要な
場合もありますね。
>いきなり大上段に九州王朝があって分家の畿内王朝に滅ぼされたという結論は早計、
>かつ軽率だと思うのだ
もちろんその通りですが、畿内王朝が脈々と列島全体を支配していた、というのも
早計で軽率な主張ですよね。
所詮は簡単に結論が出そうもないことですが、私は、九州王朝があったんだろうと
思っています。そう思うと、特別矛盾なくこれまで分かっていることが説明できるからです。
833 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:03:20
>>831 隋書にある倭国や魏志の邪馬壹國を畿内王朝と結びつける根拠は何もありませんね。
834 :
太国:2007/01/28(日) 14:06:59
>>831 金印には『漢委奴國王』とあるんじゃぁ、奴國が漢にあったと言い出すのなら
まだしも、言い逃れは利かないほど証拠だよ。
それとも幽霊の国なのか?ならば実体の無かった論を、今度はお前さまが出さ
ねばなるまい。金印は九州の奴國に国王のいた動かせないほどの証拠だよ。
それに畿内に帥升がいたならば記紀にそっくりな名前があるはずだろうが。
これも記載がない。どう転んでも九州王朝は動かないぜ。ww
835 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:07:45
>>832 >帰納的であるだけではなく、演繹的であることが重要な
場合もありますね
そんなこたあ百も分かっているよ
>畿内王朝が脈々と列島全体を支配していた、というのも 早計で軽率な主張ですよね
その通り、あなたは分かっていると思うが、私は、畿内王朝がずっと列島を
支配してたなんて思ってないし、その主張もしていない。
>
836 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:10:17
>>834 それは決定的にはならない。あくまで想像の範囲を出ない。
第一、後漢書の奴国は倭国の一番「南」にあるとあるのだぜ?
それはあくまで仮説に留まることを知るべきだ。
帥升だって当て字だろうから当てにならないしね。
837 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:10:59
>>834 >九州の奴國に国王のいた
九州の委奴國(=倭奴國=倭國)ですね。漢が奴國王に金印を送ってはいませんね。
838 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:13:58
要は金印だけを頼りに空想を膨らますのもも勝手なんだが、
度を越しているということだよ。一部の九州王朝説は。
証拠もないのに。なんかオタクっぽいんだよな。
839 :
太国:2007/01/28(日) 14:14:26
>>831 卑弥呼の女王国にては、あんたが神武か神武以前に卑弥呼が生存
していたと主張するのか、それとも神武以後の女だとかいうのでは論の仕方が
変わってくるし、論は半分ですむのだが、君は白黒をハッキリ言わないので倍
の論をせねばならず、真に迷惑している。それをまず明確にどちらなんだかを
言ってくれ。コウモリになるな。卑弥呼の話はそれからだ。
840 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:16:51
>>839 >君は白黒をハッキリ言わないので
人生の生きる筋じゃあるまいし、別に邪馬壹國なんか白黒をつけるようなことでもなかろう。
841 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:16:57
確かに、九州王朝説も完璧とは言えないところがあるとは思いますが、
隋書にある倭国や魏志の邪馬壱國を畿内王朝と結びつけることは、極めて
説得力に欠けますね。どちらかといえば、九州王朝説の方が説得力があります。
842 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:19:30
>>841 だから俺は魏志の邪馬壹國を畿内王朝だなんて一言も言ってないよ。
843 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:20:09
九州王朝説の方が恐らく正しいと思いますが、九州王朝説が公認されてしまうと、
九州王朝説オタク達の楽しみがなくなってしまいますね。こんなスレで盛り上がる
こともできなくなってしまいます。
844 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:21:11
>>842 もうしわけありませんでした。
それでは、魏志の邪馬壱國はどこにあった国でしょうか?
845 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:21:33
>>843 だからそれでいいじゃん。オタクってのはたまにそのナルシスティックな言動が揶揄されるもんだ。
846 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:23:09
>>845 なるほど。このスレを盛り上げようとして・・・・
847 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:23:11
>>844 知るか、そんなこと。邪馬壹國の話をするのに、絶対「自論」を持ってなきゃ
だめなのか? 持ってる奴が偉いわけでもあるまい。
848 :
太国:2007/01/28(日) 14:23:43
>>836
お前さんが「奴國」が漢にあったと主張するのなら一考するも〜、
『委』の字があるんじゃぁ日本にあったことは間違いないだろう。
そこでだが、畿内にあるっていうのならば、何故だか聞きたいね。
南北はしょっちゅうもめる方角論だが『委』があれば不動だよ。
あとは君の苦しまぎれの抗弁が残るわけさ。諦めが肝心だよ。
お前さんの論が正着ならば、金印には『漢大委天皇』とか、それに似た
刻印になってるよ。否定するのが無理。
849 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:24:04
>>847 もちろん、自論がなくても何の問題もありませんね。
850 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:26:53
>>848 >畿内にあるっていうのならば
だからなんで九州王朝説批判者=畿内王朝賛美者って短絡思考しかできないわけ?
もう書くのも飽きたが、おれは畿内王朝のことなんて言ってない。ましてや、それを
ヨイショする発言もしていない。そういう畿内の影に怯えてるところも漫画にしちまうぞ。
851 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:29:24
>>849 だろう? 九州王朝説者は視野が狭いんだよ。
852 :
太国:2007/01/28(日) 14:31:13
>>850 漫画などと言ってるところをみると、君は若者だな?w
一度冷静になって志賀島出土の金印の刻印『漢委奴國王』を熟考してみなよ。
どう転んだってこれは九州にあったという証だぜ。
もう九州王朝を認めたほうがいいよ。
853 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:31:31
>>850 いやいや、九州王朝説の人の中には、畿内王朝賛美者に対して対抗することで、
興奮できる人がいるようですから、大目に見てあげましょう。
かくいう私は、九州王朝説は相当良い線行ってると思います。
854 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:34:10
もっと別の良いところで興奮するのが健康的ですね。
855 :
こてはんつけた:2007/01/28(日) 14:40:16
まず言っとくと、俺は九州王朝を頭から否定するつもりはないんだよ。
俺が言いたいのは、九州王朝支持者がなんでもかんでも、
そこに結び付けて空想の力で舞い上がってるのが見苦しくて揶揄しただけ。
しっかりした紳士的な意見なら腰を据えて拝聴したい。しかし太国氏の
意見など文章からして気品も誇り愛も感じられない。多分、私を
若者だといって笑うとこを見ると、多分いいお年なのだろうが、
多分に感情的、強情でまるでまだ飴玉をなめた子供のように感じられる。
2ちゃんという公園を見つけてそこで有名になりたくてなんとでも
付会した話を展開しているという感じだ。
もう少し人を心から納得させうる論でも展開できんことを期待したいね。
ではこれで。
856 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:40:20
九州王朝を支持する根拠はまあまあ結構多いですよね。
九州王朝説に代わる説がないのであれば、一応、現時点では九州王朝説が
通説ということですよね。
857 :
太国:2007/01/28(日) 14:42:58
>>855 だってお前さん、九州王朝の証拠証拠と言ってたんではないのか?
858 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:53:42
日本国から見た場合、列島を統一し、九州の老舗の倭国も平らげた後、
半島に直接攻め込むことに意欲はなかったのだろうか。
かつて、倭国が半島経営に失敗して敗走したことがあったことから、
それを教訓にして、列島内に集中したんでしょうかね。
なんとなく、秀吉の失敗を教訓にして、東国に本拠を置く家康が、
列島内の支配に集中して成功したのと似ていますね。
859 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:11:25
>855
「俺が言いたいのは、九州王朝支持者がなんでもかんでも、
そこに結び付けて空想の力で舞い上がってるのが見苦しくて」
畿内王権一元論者が日本のすべてを天皇家に結び付けてるほうが、
よっぽどお笑いだろ。
860 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:53:30
勝利、勝利、勝利、勝利、と騒いでもムダなのである。
勝利、勝利、勝利、勝利、と騒いでもムダなのである。
勝利、勝利、勝利、勝利、と騒いでもムダなのである。
勝利、勝利、勝利、勝利、と騒いでもムダなのである。
勝利、勝利、勝利、勝利、と騒いでもムダなのである。
勝利、勝利、勝利、勝利、と騒いでもムダなのである。
861 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:02:17
>842>850
誰が見たって、君はある考えに固執し信じきっているだろ。
それなのに「信じていると言ってない」と豪語すれば、信じていないことになるのか?
矛盾だらけだなwww
862 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:41:26
九州王朝説の諸君は、畿内説と対決するというようなバカみたいなことはそろそろ
卒業して、九州王朝説を前提としたもっと深い研究に取組む方が意味があると思うよ。
>>858 九州王朝の滅亡が事実上筑紫の君の捕縛と唐軍の駐留にあるなら、
その後唐に弓引いて新羅と事を構えられるわけがないよ。
>>862 それは大国さんに言ってやってください。なんでも白黒つけないと気がすまない
そうですw
865 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 21:04:48
>>863 それはそうですが、倭より強力な日本ですから、そのときは動きにくいにしても、
その後暫くすれば攻めかかることも考えられなくもありませんね。
しかし、実際には、むしろ、そういうことより、大和が半島から遠いこともあって、
半島への領土的関心はなく、天皇として君臨して、半島諸国から朝貢を受ける形を
選択したということですね。
渡海して新羅を一時的に負かせても、その後ろに控える大唐にはかなうわけ
ないから、そんなことしなかったんだろうね。それに、九州中心なら半島の
地下資源も必要だったけど、関東更に東北と領土が広がり、鉱山開発も進む
ほど半島政策が不要になっていった。中国王朝の滅亡毎の大混乱も古代ほど
影響は無くなっていったし。
>半島諸国から朝貢を受ける形を選択したということですね
つうか 耽羅以外は新羅しかないよ。朝貢と言っても完全に唐の柵封国家だ
し、日本側で勝手にそう言ってただけみたいなもん。
867 :
九州王朝大好き:2007/01/29(月) 12:40:29
ココはどうなっているの?
868 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 13:31:54
批判者に一応さんが、マタ〜リレスつけてます。
869 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 18:38:26
どっちにせよ。九州王朝は弱いから歴史から葬られたんだよ。
それをそろそろ認めろ。
870 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 19:55:12
弱いからじゃなくて、大陸・半島で300年間戦争を戦って疲弊したから。
畿内政権は海外戦を極力避けた。畿内は航海も海戦もまったく能力がなかったから。
871 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/29(月) 22:55:23
畿内は航海技術ましてや海戦能力はからっきしだめ。
遣唐使さえろくにに送れず遭難ばかり。
しかし重装備の陸戦能力は九州の比ではない。
さらに九州より大きな経済力、だが文化レベルは低く九州より野蛮。
当然九州に攻め込めば畿内が勝つ、
しかし畿内は海を渡って半島南部での戦争能力はなし。
872 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 10:44:10
PCのアクセス制限いつまで続くの?
知ってる人教えて
アホには
ずっとアクセス制限しまつ
874 :
日本史@名無しさん:2007/01/30(火) 22:03:07
と馬鹿管理人の犬がもうしておりますw
何億も稼いでるんだからさっさと逮捕されたら?ひろ
875 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 23:07:07
>>869 九州王朝は弱かったから歴史から葬られたとばかりも言えないよね。
確かに畿内よりは弱く滅ぼされたけど、普通ならそのことを畿内王朝は
誇らしく記録にとどめるんじゃないかな。ところが、実際には歴史から
消そうとした。そこのところがポイントなんだよね。
876 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:20:42
天武天皇あたりから、畿内政権は九州王朝系政権っぽい感じがする。
壬申の乱って、九州王朝系有力者による畿内乗っ取り事件だったのではないだろうか?
877 :
一応九州王朝説:2007/01/31(水) 04:13:50
>>875 それって日本の政治史上非常に重要なことだと思いますよ。政敵を祀ることで禅譲されたのと
同じ結果を導くという形式。どのような汚い手でも、後で祀れば許されるという、ダーティーで当時の人達
にとっては茶番でしかない方法で、今に至るまで日本の歴史を有形無形に呪縛してきた。
そういう政治哲学や行動原理が中央政界のスタンスだったからこそ逆に武士という野蛮な存在を生んだ。
幕末も、やれ尊皇だの攘夷だの言いながらもしょせん血なまぐさいテロの応酬。
古田自身のいわゆる九州王朝説では、アマテラスの正統継承者ではなかったという原点での問題と、簒奪
と後ろ指さされるしかないような方法で背後からだまし討ちにしたからという理由で九州の痕跡を消そうとした、
という事だそうです。それに、長らく頭を押さえつけられた恨みもあった、と。なんらかの特別な政治的意図が
なければ、全国津々浦々大量に焚書を行う理由は・・・なんでしょうね?
ただ、私に疑問なのは、半島戦争で疲弊した九州が何故畿内はおろか東国までの大動員をかけられるだけ
の権威と実行力を白村江の時点で保持していたのかと言う所です。中大兄が徳川家康同様自分たちは居残
り組で、半島で筑紫の君、上野毛の君すら捕縛されている時に寝首をかいた。状況証拠もいろいろあるし、あ
りそうな話だが・・・。じゃあそんな方法じゃなくて直接正面から軍事力で圧倒できなかったのか。卑弥呼やア
マテラスの呪詛がそんなに怖いのか、天孫族の継承が大事なのか、それとも以前六国諸軍事などというカビ
の生えた称号に意味があったのか・・・。時はすでに、継体時代から二百年近く経っています。確かに継体が
得た物が糟屋の屯倉一つとはしょぼすぎますよね。「不審」ですw 継体とすれば、半島との間の日本海ルー
トをしっかり確保したいがために西にこだわったというのは自分の考えですが、やっぱり圧倒できなかったん
ですかね。古田説では、軍中枢は半島に行ってたから、帰ってきたら逆に苦しくなって引き分けに持ち込まれた
ということですが、それから更に百五十年下っても軍事で勝てなかったのか。或いは東海、北陸、関東などと
互いに牽制しあう戦国時代のような状態だったのか?
878 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 10:35:23
その時までに出雲と播磨と大和の連合国家が九州の平定を終わっていたからです
879 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 12:15:56
>879
九州王朝は装飾古墳の分布を見てもわかるとおり、北は岩手県南部まで威光が及び、
福島県までは支配していたといっていいと思います。
ただし、東国の防人を徴兵しても、航海や海戦に習熟していないため、船酔いや船上
からの弓矢や槍の扱いなどの点で、半島戦で使うのは難しかったでしょう。
畿内政権は、九州王朝の正当な後継者という看板を掲げていますが、神武伝承で
むりやり繋げた話です。神武はニニギの子孫ではあるけれども王統を継いだ家系
ではなく、神武自身九州ではまったく王様じゃなかった。畿内で敗戦色濃い戦闘の後、
辛くもわずかな領土を得て、小領主のひとりに加わることが出来た。この神武の子孫が
畿内の「オオキミ」だという伝承でかすかに九州王朝とつながっているだけで、単なる
落ち武者伝説と大して変わりはないから、九州王朝の正当な後継者のフリをするのは
そうとう無理があるでしょう。
畿内は陸戦が強かったので、九州王朝傘下で謀反が起きた場合、半島から引き上げ後
が恐ろしいことになります。
880 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/31(水) 14:57:39
>>875-876 畿内朝廷の起源は九州から畿内にやって来た天武から。
天武は九州の正当な兄天子として後継者になり得る出自ではなかった。
8世紀に入っても九州には九州王朝の正当な後継者がいた。
それを暗示する記述が続日本紀の記事としてある。
最初は701年対馬国が金を献上してきた。その時、元号制定と制度改革を行う。
最後は726年大倭国が白亀を献上してきた。その時、難波京の再開発を始めた記事がある。
あと2つの記事は、
反逆者を犯罪人とする記事の時、日本書紀の編纂開始、
古事記の編纂開始のころは何の記事だったか今は度忘れしている。
続日本紀の献上記事を読むと地方実力者が次々と畿内朝廷の軍門に下るのがよくわかる。
881 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/31(水) 15:38:08
>>879 何故、畿内は陸戦に強く、九州は海戦に強かったのか。
伝統的戦法
九州:皮甲冑軽装備・剣による白兵戦・正面集団戦・操船能力高い
畿内:木盾重装備・主力作戦は弓攻撃・槍による白兵戦・敵分断個別戦・操船能力低い
白村江戦で畿内との共闘は戦法違いで相容れないわな。
だからと言って、白村江戦で操船下手な毛野との共闘では唐に負けるわな。
何にも証拠も無しに良くやるなwww
883 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 23:31:28
高度な演繹・帰納法だから、
いまここで「はい証拠」とはいかんだろ。
884 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 23:48:47
>>880 >畿内朝廷の起源は九州から畿内にやって来た天武から。
それは本当ですか?
それ以前にも神武流、継体流というのがあったように思いますが。
しかも、天武流は後に途絶えますよね。桓武天皇以降の皇統は天智流です。
あるいは、「朝廷」という言葉に強い意味を込めておられますか?
日本国の創始の意味を込めておられますか?
885 :
太国:2007/01/31(水) 23:51:09
畿内朝廷は初代神武天皇からです。
886 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 00:12:05
神武が大和へ入った話は何なんですかね。
神武の長く苦しい戦いの旅の記録自体は信憑性が感じられますが、
あんな状態で王権が九州から畿内へ移動したなんてとてもいえないような
情けない旅ですよね。畿内に入ってからも、地元の実力者の娘と結婚して、
どうにかこうにか地位を確保している。
どう見ても、畿内にも九州王朝の血が流れていると言いたいだけのようです。
家康が源氏の系図を買ったのと同じような感じです。
887 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 00:12:12
神武は非常に狭い領土の小領主として、久米族の親分として一生を終えました。
大権力者になったこともなければ、朝廷を開いたこともありません。
888 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 03:37:21
大和朝廷における神武伝承というのは
徳川幕府における親氏伝承のようなもの
と考えれば納得いくんじゃない?
近畿天皇家は大和盆地南部の一豪族が成長したもの
その過程で九州の神話と結びつける必要があった
889 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 03:42:34
888に補足すれば神武の事跡及び欠史8代の系譜は
奈良時代の史官による造作ではないが事実でもない
大和朝廷が周囲を征服していく上で必要だから作った
890 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/01(木) 05:56:27
畿内朝廷の系譜
神武9代:九州久米族の畿内への乱入者。乱入に失敗し奈良盆地南部大和湖南岸で小豪族となれた。九州王朝兄王の分流の可能性あり。
崇神5代:先祖は九州東北部出身、吉備経由、崇神の先代までに河内に定住。奈良盆地侵入を皮切りに、摂津・播磨・吉備・その他地方へと勢力拡大をし続ける。仲哀は九州進出を図るが失敗。
応神11代:九州から派遣の畿内征服大王、九州王朝浪速君。
継体3代:近畿北部より畿内への侵入者。九州王朝に挑むが戦闘に勝って戦争に勝てず。
欽明8代:九州から派遣の継体朝討伐大王、九州王朝浪速君。白村江敗戦以降大王無し。
天智2代:九州王朝の畿内大王(難波君?)職。弘文は九州王朝からの独立を目指したのか?
天武3代:畿内朝廷の礎を作る。3代目文武が畿内朝廷を開始。
文武8代:奈良畿内朝廷
桓武以降:平安畿内朝廷、現代天皇に続く皇統の始祖。
891 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 13:14:20
>>884 >あるいは、「朝廷」という言葉に強い意味を込めておられますか?
>日本国の創始の意味を込めておられますか?
歴史は淡々とした解析作業です。意味づけ価値付けは敢てしません。
892 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 13:57:57
歴史学はドロドロとした価値付け行為です。
意味づけ価値付けは意識しなくても、歴史学そのものがそういった行為なのです。
何言いたいんだ?
894 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 14:29:13
>891の言うことは、まるで出鱈目だろ。
主張が二転三転している
コテハンがいるんだね
恥ずかしくないのかW
896 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:40:59
>>891 意味が違います。
>>880 >畿内朝廷の起源は九州から畿内にやって来た天武から。
という表現において、「朝廷」という言葉を使うことで、朝廷とはいえない
勢力が畿内にあってもそれは畿内朝廷とはいえない、という意味で、
すなわち、天武より前の畿内勢力は、存在したものの、朝廷と呼べる段階
ではない、ということで、畿内朝廷は天武から、と主張しておられるのか、
ということです。
897 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 06:20:03
>>896 あなたの発言通りです。
九州王朝が内容的に王朝と呼べるものになったのは6世紀からであった様に、
畿内朝廷が朝廷と呼べるものになる礎を作ったのは天武です。
それ以前(欽明迄)は九州王朝畿内大王(浪速君)と畿内豪族の集合体です。
継体3代では未だ朝廷と呼ばれるほどには発達していません。
いつもの妄想ですか?
どこからそういえるの?
899 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 09:48:24
>>897の補足説明
それ以前=欽明〜天武
朝廷としての実態ができ始めるのは持統期から。
900 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:20:01
この馬鹿コテは
妄想が証拠の
天然ニートだよw
証拠なんか出しっこないよwww
901 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:22:58
アホか、定年退職後はニートじゃないだろ。
902 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 10:58:41
九州王朝の系譜
3世紀:卑弥呼・壱與は九州王朝兄天子の原型、この頃までが筑紫北部が中心地域。
3世紀末〜4世紀中庸:不明
4世紀後半:肥大王の筑紫肥統一、肥拡大期。
4世紀末:神武九州脱出、前君の九州統一(筑紫東北部・長門・豊・日向・大隈)、都は浮羽、肥による九州統一期。
5世紀:肥政権下の半島進出(半島倭国から肥倭国を正当倭国と承認される)、倭5王は弟大王、倭5王期。
6世紀初頭:九州王朝が王朝としての実態を伴って始まる、元号制定522年・律令制定、中心地は筑後川流域(甘木・朝倉)、筑紫君磐井弟天子、九州王朝成立期。
6世紀中庸:継体と和睦後、継体朝討伐の為欽明を畿内に派遣、九州王朝兄大王の復権、復古期。
6世紀末〜7世紀前半、591年タリシホコ弟天子(法皇)に即位・兄天子(天皇)、618年倭京設置、タリシホコ体制期。
7世紀後半:半島南部戦争に参戦、唐に敗戦、唐軍駐留、倭国内分裂(天智・天武)、畿内(持統)に列島権力を掌握される、終焉期。
7世紀末以降:文武に敗戦し九州王朝の滅亡700年、九州は部分的に内戦状態になるが鎮圧される、726年大倭国(兄天子国?)は畿内に服従し(白亀献上)九州王朝は完全に消滅、滅亡期。
903 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:21:32
定年退職?
下手な自演でよく言うわ
どうしてそんなにバレバレのアホできるの?
904 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:31:05
ボケまくりのレス振りまいてますよ
本人わかっていないんですか?W
全部突っ込ませてくれない程頻発なんですよ!W
905 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 15:20:04
>>902 日本武尊の話は、どういう意味を持っているんでしょうかね。
906 :
保存しましょう:2007/02/03(土) 16:22:19
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
(省略・・・)
475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年- 百済東城王即位。
490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。
501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。
512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。
(省略・・・)
565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。
594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。
598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。
(省略・・・)
616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。
624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。
638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。
641年- 百済義慈王が即位。
641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。
642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目!
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。
907 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 17:08:39
>>906 >645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
倭国なのか日本国なのか、そこが非常に重要ですね。
908 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:37:28
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
909 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 21:55:06
>>905 九州王朝の風土記に書かれていた各国の英雄の事跡を盗用し、
時代を超えて日本武尊の事跡としてまとめたものと見做せます。
たとえば、日本武尊の東海遠征話は尾張国風土記の地域統一話を引用したもの。
910 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 21:58:19
>>905 九州王朝の風土記に書かれていた各国の英雄の事跡を盗用し、
時代を超えて日本武尊の事跡としてまとめたものと見做せます。
たとえば、日本武尊の東海遠征話は尾張国風土記の地域統一話を引用したもの。
911 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:06:24
日本武尊とかの超人の話は、眉唾であることは誰の目にも明らかなのに、
どうしてこんな可笑しなことを書いたのでしょうかね。
日本武尊、神功皇后、聖徳太子、この3超人を登場させたことは、
この話はウソですよ、と言っているのと同じですよね。
それとも、そうは思わなかったのでしょうかね。
あるいは、超人を登場させないことには、どうにもツジツマが
合わなかったのでしょうかね。
912 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:17:19
畿内王権一元史観には、すご〜く都合がいいな、やまとたける(←なぜか変換できない・・・って記紀や漢籍のほとんど無理)。
913 :
太国:2007/02/03(土) 22:17:40
>>911 誰の目だって?ww いま生存の人で見た奴はいないよ。www
またそういう揚げ足取りを。
915 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 22:35:48
>>911 深い意味は考えない方がいいですよ。
単純につじつま合わせをする為に登場しているに過ぎません。
3人だけが超人ではないでしょう、つじつま合わせの為の超人に近い長寿天皇がたくさんいます。
916 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:55:47
確かに長寿天皇もツジツマ合わせの超人ですが、まあ、特別事跡もない方々
なので、ウソといっても可愛げがありますよね。
それに比べて、例の3超人は超人的な事跡のオンパレードですからね。
あまりにも目立ちます。どうせツジツマ合わせなら、もう少し上手に
やれば良いものを、と思います。あれではバレバレですよね。
917 :
太国:2007/02/03(土) 23:03:31
そうするとツジツマはクリプトン元素だな?
さすがの長寿もルーサーの君がお陀仏させるか?w
918 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/03(土) 23:19:34
常陸国風土記でも倭武天皇として、又違う意味での超人天皇が出てきます。
日本書紀は九州王朝の日本書(大倭書)に右に成れしたにすぎないと思います。
日本書紀の編集者は超人3人についての不自然さには気にも留めなかったのではないでしょうか。
いや、前例に従っておれば不自然とは思わなかったのではないでしょうか。
919 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:39:11
邪馬台国は畿内か?
920 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:49:44
九州コテが沢山いらっしゃるようですが
まだ新スレ立ちませんね?
なんでしたら私達で立てましょうか?
921 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:51:44
邪馬台国スレが忙しいと
別コテさん達なのに
ここは過疎になるんですね
不思議ですよね
922 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 10:58:40
邪馬台国は九州か?
923 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 13:37:37
邪馬台国は九州は佐賀県小城市甘木と確定しております。
924 :
↑:2007/02/04(日) 13:50:38
サガミハラハラ氏
925 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 14:02:40
伊都国は佐賀県多久市下多久です。
奴国は佐賀県肥前山口です。
不弥国は佐賀県小城市小城町不二町です。
投馬国は宮崎県と鹿児島県東部です。都は西都市か?
926 :
サガミハラハラ:2007/02/04(日) 14:11:35
邪馬壱国は卑弥呼が魏に貢献する前の国名、貢献してからは邪馬台国と称した。
台とは大いなる壱という意味で、邪馬大壱国であるが、魏人は台の字を当てた。
927 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 14:11:46
もう聞き飽きた。つか、なんで九州説はガキみたいに「断言調」で
話すのだろうか?
928 :
サガミハラハラ:2007/02/04(日) 14:23:32
斯馬国は福岡県糸島郡の志摩です。
己百支国は佐賀県佐賀氏三瀬地区です。(旧三瀬村)
伊邪国は福岡市弥永(イヤナガ)です。
都支国は福岡市西区金武・吉武です。
弥奴国は福岡県三井郡周辺(佐賀県基山町をも含む)です。
好古都国は香椎宮を中心に博多を含みます。古くは多婆那国でした。
929 :
サガミハラハラ:2007/02/04(日) 14:25:43
九州コテの方が沢山いらっしゃるようですが
まだ新スレ立ちませんね?
なんでしたら私達で新スレ立てましょうか?
931 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 14:41:31
九州説と九州王朝説は、重なるところもあるだろうと思う。でも
「王朝は認めないけど邪馬台国は九州だ」という人はたくさんいるんだろうか?
九州王朝説の私としては、新スレ立てる際に、気にかかる。
932 :
サガミハラハラ:2007/02/04(日) 14:48:26
不呼国は遠賀川河口の岡田です。
姐奴国は宗像です。
対蘇国は対馬北島です。
蘇奴国は企救半島南部の曽根です。
呼邑国は遠賀川流域です。
華奴蘇奴国は苅田町である。
933 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 14:51:48
サガミハラハラ氏の出身は青森県青森市です。
サガミハラハラ氏の住まいは神奈川県相模原市下九沢です。
934 :
サガミハラハラ:2007/02/04(日) 15:14:03
鬼国は大分県です。
為吾国は大分県の南部です。
鬼奴国も大分県です。大分は昔、オオキタといい、キが鬼という字をあてられました。
邪馬国は山国川の河口の中津です。
キュウ臣国は玖珠盆地です。
巴利国は杷木町です。
支惟国はわかりません。
烏奴国もわかりません。
奴国は福岡県山門です。
狗奴国は熊本県北部です。
935 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 15:29:52
乙乙乙乙乙
乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙
乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙
乙乙乙乙乙乙 乙乙乙乙乙
乙乙 乙乙乙乙乙
乙乙乙乙
乙乙乙乙
乙乙乙乙
乙乙乙乙
乙乙乙
乙乙乙 乙
乙乙 乙
乙乙 乙乙
乙乙 乙乙乙
乙乙乙 乙乙乙乙
乙乙乙乙乙乙乙 乙乙乙乙乙乙乙乙乙
乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙
乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙乙
936 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 15:37:27
>まぁ高句麗語と上代日本語は共通点が多いから・・
↑↑
根拠なし!(爆笑
>倭人が江南の南方系とツングース系の北方系の混血説もあるくらいだから・・
↑↑
こちらも根拠なし!(爆笑
百済人と高句麗人が同族という説は、396年以降に生まれたものだろうな。
>396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
↑
百済・日本側から見たら、これ以降は『漢城の百済』は滅びたのであり、
存在しない(任那領内には亡命政権として存在するが)わけだが、
高句麗側から見ると、百済(漢城)は高句麗の版図内に、高句麗の属国として
ちゃんと「存在する」わけである。
そして、高句麗領=百済(漢城)を支配したのは、高句麗王族であったはず。
だから、高句麗が「百済は高句麗と同族」と主張する場合、百済の原住民族が
同族なのではなく、そこを支配している移住民が『同族』なのだ。
あくまでも、390年以降の話であって、紀元前から高句麗人が住んでいた
わけじゃあない(w
次スレ立ちませんね?
どうしますか?
記紀擁護九州王朝派は解散ですか?
938 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:51:43
>>931 >「王朝は認めないけど邪馬台国は九州だ」という人はたくさんいるんだろうか?
へえ。そいう人がいるんですかね。
「王朝」って何なんでしょうかね。王朝が血統による世襲制という意味ですかね。
939 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 18:23:24
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
940 :
931:2007/02/04(日) 22:57:13
941 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:08:22
王朝という言葉を極東地域で使う場合は、当然、世襲制の王統のことでしょ。
しかもなおかつ、九州王朝説では、九州王朝はシナかぶれだったとのことです
から、余計にシナ風の意味で使うことになりますよね。
そう考えると、九州王朝は、実は王朝とは言えないかもしれませんね。
あるいは、シナの世界観から見ると、倭人は極めて特殊な政治風土を持ってい
たということでしょうかね。
次スレ?
943 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:13:39
どの国でも、「その国特有の王朝」になるのでしょう。
ある国の王朝を基準にすれば、他の国の王朝は王朝と定義できない。
文章少ないと襤褸でないですよね・・・・・・居たD期M巣
945 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:28:41
>>943 そういう論法も有り得ないこともないですね。
ただし、その場合には、倭国自身が王朝と称していたかどうかが最大のポイント
になります。はたして、彼らは王朝と自称していたのかどうか。
946 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 23:36:20
>945
あなたの個人的な定義ですね。
一人にしか通用しない定義には関心ありませんね。
太国定義
鎮座W
948 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 00:24:30
>>946 私の定義ではありません。
>>943の主張の前提に立つとした場合に、どういう点が重要になるかを書いたものです。
949 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 04:24:40
950 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 11:12:38
>948
当時、王朝という言葉がないと思いますし、倭人が自国の国体について
定義づけたり呼称したりしないと思いますから、無理でしょう。
>>11 新スレのたった一人の自作アホ過ぎね?
やっぱ馬鹿すぎるの付き合えねw
952 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 09:55:24
証拠が希薄だね
>950
>王朝という言葉がないと・・・
そんな事指摘してなんになんだろ?
954 :
九州王朝大好き:2007/02/11(日) 12:49:22
「九州王朝」は古田氏の言葉を借りてきているだけ。
「九州朝廷」もしくは「大倭(タヰ)朝廷」と言ってもよい。
3者いずれを採るにせよ中身は変わらない。
「王朝」論議は無意味。
>954
そんな事言ってなんになんだろ?
956 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 19:34:06
>>.953
>>955 よく
>>948のズタズタな放言を見てから言ってね。
恥ずかしいカキコは自粛しましょう。
957 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 20:31:47
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
太国さんはアホばっか言ってるから九州スレにはこれなくなったみたいだねw
959 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 00:28:39
太国さんは、以前からココにはたまに顔をだすだけ。
960 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 20:38:37
荒らしは「三足土器厨」だけ。
961 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 12:39:08
962 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/09(金) 15:25:12
グルタン逃亡!
963 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:16:48
965 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 21:54:54
うんこ人大林賢栄がここのスレ主だってさ
966 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/25(日) 13:23:56
グルタン 逃走中!
967 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/25(日) 14:30:47
あの上岡龍太郎さんも
九州王朝説の支持者なんだって。
これは心強い
968 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 18:01:05
コテはみんな馬鹿の大林賢栄だってもう皆知ってるよw
正直、誰も興味ないよ
970