1 :
日本@名無史さん :
2006/02/21(火) 19:00:01 「太平記」には謀略の限りを尽くしばさら大名として知られる佐々木道誉ってどうよ? のち戦国大名として近江地方一帯を支配する六角氏にも繋がる佐々木京極氏について語ろう。
2 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 19:19:33
名前が問題。 出家前、佐々木高氏と言ったり、京極高氏と言ったり、 どの時代で区切ればよいのであろうか。
3 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 21:03:06
正式には「佐々木京極」というのが彼の名字だ
4 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 23:21:33
本当かな。 テストでその苗字で○がつくのだろうか?
5 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 23:25:42
>>4 それは出題する教師がどれくらい勉強しているかによるな。
6 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 23:32:07
それだけでは、説得力が生じない。 何か史料的根拠はあるのだろうか?
7 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 02:23:33
8 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 02:25:37
わかった 佐々木道誉がアク禁になっているんだ
9 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 03:23:22
導誉は「京極」でいいよ 正式文書には「源」って書く 佐々木では、「六角」「高島」「朽木」「尼子」混ざってわかりにくい。 「京極判官」とか「導誉」って言ったら誰か分かる 「佐々木判官」では「六角判官」か「朽木判官」か分からない
10 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 06:48:12
結局、何なんだよ。 誰か整理してくれ。
11 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 08:08:02
姓は、宇多「源」 氏は、佐々木。ってか宇多源氏=佐々木氏。佐々木以外は全く栄えなかったからな。 苗字は「京極」。「六角」等と同じく、たくさんの佐々木を区別する為に名乗る。 諱は高氏。将軍と同じがワロス。出家して入道「道誉」。
12 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 10:37:19
姓は、朝臣 氏は、源 苗字は、佐々木あるいは京極 諱は、高氏 法名は、道誉 だろう。
13 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 12:25:30
道誉ってなぞの人物なのか?
足利尊氏はもともと源朝臣高氏 京極道誉ももともと源朝臣高氏 同姓同名ってやつですね。
15 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 13:44:47
宇多源氏佐々木の宗家(本家)は六角家であり、支族が京極家となる。 京極家の子孫である道誉が活躍していたときの六角家当主は時信。 しかし、時信は鎌倉幕府が滅ぶ間際まで六波羅探題を支援する 幕府寄りであったため、建武親政前から朝廷側についた道誉に遅れをとった。 このことから、道誉は勢いを持ち、佐々木の宗家を凌ぐ立場となる。 佐々木高氏と自ら称したのか否かは史料的根拠が不明のため、わからないが、 六角も京極も元々、佐々木であることから 佐々木高氏と称してもさしつかえない。
>>15 佐々木は道誉の活躍で、京極家が宗家と同格になってしまった
からね。両方佐々木と言って問題ないんだよな。
ま、結果区別するために京極、六角と言うようになり、室町では
佐々木とは言わなくなったが。
17 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 18:27:16
近江国を六角と京極で半国守護にして つのつきあわせていったからね。 両方が佐々木を名乗ったら、 わけがわからなくなる。
>>17 半国といっても近江は太閤検地で80万石近い大国だから、
半分でも40万石(太閤検地換算で)。
京極はこの他出雲隠岐の守護職も兼ね四職の一角にも食い込んで
たからかなり美味しいポジション占めたな。道誉様様だろ。
逆に六角が室町幕府と微妙な距離になったのもわからんでもないw
19 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 19:52:55
六角は維持するのがやっとということであろう。
20 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 22:56:39
太平記にある隠岐の判官というのは佐々木の一族なんだね 出雲には出雲の判官がいたのか?
21 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 20:20:46
判官というのは衛門尉の官職のことだ。 佐々木の一族で隠岐に本拠を置いた衛門尉だから「佐々木隠岐判官」と呼ばれる。
22 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 20:51:15
>>2-20 おまいらアフォか?
>>1 の意図がわからんのか?
「おまいら佐々木道誉ってどうよ?」
「佐々木道誉ってどうよ?」
「道誉ってどうよ?」
「ドウヨってどうよ?」
「ドウヨってドウヨ?」
って駄洒落に突っ込みいれて欲しくてスレ立てたんだよ、
>>1 は。
気づいてやれよ!
23 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 20:55:19
>>22 お前、空気読めない奴ってよく言われるだろ?
25 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 21:33:45
>>22 >>1 がそういう意図でスレ立てたんなら板違いだから削除依頼出して来い
26 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 22:56:55
スレ主だかどうだかわからん。 何せ、スレ主はトリップをつけていないからな。 因みに、 京極高氏は、佐渡大夫判官といわれた。
ちなみに、当時は「佐々木大夫判官」と言うと、 佐々木氏頼(六角)を指すことが多い。
28 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 00:44:27
>>16 室町後半でも六角や京極を単に「佐々木」と言ってる史料は山ほどあるのだが・・・。
29 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 00:48:55
>>11 宇多源氏の嫡流は堂上公家として明治維新まで残ってますよ。
庭田家とか綾小路家とか。
特に庭田家は維新後伯爵になってるから朝廷内でのランクも結構高いはず。
30 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 01:27:03
あれなんだよ いまでも佐佐木は佐々木のことばかにしてるの? なにが違うの?
31 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 09:20:56
この人達の一部って江戸時代非人なわけ?
32 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 09:56:40
佐々木(京極)高氏 検非違使従五位下佐渡守兼左衛門少尉 この官位の後、剃髪し道誉と号す。 また、佐渡大夫判官とか四郎左衛門尉 ともいわれる。 父は宗氏(従五位下佐渡守兼左衛門少尉) 兄に定信(池田太郎左衛門尉)や 定氏(鐘左衛門尉・近江守)がいるが、 祖父(満信)や父が称した佐渡守を継承したのは、 高氏であった。
33 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 11:38:49
検非違使は賤民でしょ。近江源氏は江戸時代屋号を持って商売してたはず。
34 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 11:39:39
近江源氏は新羅系
35 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 11:42:32
佐々木って雀部で古墳の管理人の家系と紗々貴という豪族の家系がミックスされてるの?
36 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 11:44:32
この人達って南朝系でしょ。維新にも関係あるでしょ。
37 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 11:45:46
四つ目紋
38 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 12:28:18
>>16 京極の家格上昇は道誉一人の力ではない。
道誉の曾祖父の氏信が佐々木氏の一庶子に過ぎなかったにも関わらず
鎌倉幕府の評定衆をやってることも大きい。
39 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 12:45:53
六角と京極共通の始祖は 佐々木信綱。 彼は検非違使左衛門少尉。そして 近江守に任ぜられていたため その子孫では、検非違使左衛門少尉。 さらに、近江守を称することが 佐々木家伝承当主として必要な資格の一つと思われる。 ところが、その息子泰綱(六角)は 検非違使左衛門少尉には任ぜられたものの、壱岐守。 その弟氏信(京極)は検非違使左衛門少尉に任ぜられ、 さらに近江守となり、 六角と京極の確執を惹起する起因の一つとして 問題を複雑化させてしまった。
>>35 佐々貴山君系だと思うぞ。
近江源氏は宇多帝の流れを仮冒しただけらしいが。
41 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 17:09:53
>>39 氏信は母方が北条得宗家。
得宗専制になりつつあった幕府内でおぼえがめでたかった。
42 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 18:10:27
京極氏信が近江守になったあと、息子の満信や孫の宗信 そして高氏は佐渡守となり、近江守にならなかったものの、 高氏の兄定氏が近江守となる。 一方、六角泰綱の子頼綱は備中守。 その子時信は検非違使左衛門少尉。 時信の子氏頼も検非違使左兵衛少尉となり、 近江守にはならなかった。 氏頼の曾孫政頼に至って漸く近江守となる。 両家の微妙な関係が近江守の任命で読み取れる。
43 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 18:12:41
佐々木氏って何で江戸時代屋号を持って商売していたの?ヒニンに落とされてたの?〜屋って部落でしょ。
44 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 22:06:44
>>42 室町期でも六角は備中守が多いね。
京極は室町だと加賀守が多い。
45 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 01:07:34
道誉って、検非違使やってたくらいだから元弘以前から後醍醐と面識あったのかな? 足利尊氏とか新田義貞とかは元弘以前に後醍醐とは面識がなかったみたいだけど。
46 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 01:27:28
導誉は鎌倉にいて得宗家に仕えているほうが活動のメインだったんじゃないの? 検非違使は先祖の先例にならって形式的に任命されただけだろう。 現に北条高時の出家のときにいっしょに出家している。
検非違使別当ならいざ知らず、尉ごときが
48 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 01:33:16
北条高時の33回忌の参列者のなかで高時と面識があったほとんど唯一の人じゃない?道誉って。
道誉は高時側近
↓
建武政府雑決断所メンバー
↓
尊氏側近
↓
義詮側近
実に上手く泳いでいるよなw
>>48 だろうね。
50 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 14:27:04
>>49 高時の33回忌だと、尊氏正室の登子も既に死んでるからね。
それと義満初期にも道誉は活動している。
世渡り上手でしかも長命。
51 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 14:29:38
52 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 22:31:06
基氏急死後の鎌倉へ行って事後処理をしたのも道誉。
53 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 09:39:06
要するに動き回るのが好きだったのだろう。
54 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 16:00:22
華道家でもある。
まず華道家の鼻祖的存在。 そして闘茶などを好み、後の茶の湯の源流の1人だ。 さらに観阿弥の師匠のパトロン的存在で観阿弥と昵懇 で世阿弥とも面識があった。 この人は生け花、茶の湯、能楽という室町の3大文化の 原点みたいな存在なんだよね。 そして婆娑羅大名は後の戦国大名の先駆けみたいな存在 だし。 生きた時代では常に政治的に枢要なポジションにいて、 歴史的には戦国大名の鼻祖みたいなポジションで、 文化的には室町文化の原点的ポジションにいる。 面白過ぎる存在ww
道誉と導誉、どちらが正しいの?
57 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 18:17:34
導誉が正しい
58 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 21:29:09
佐々木と京極というのは徳川における松平みたいなものですか?
59 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 21:35:15
>>58 違います。
「佐々木京極」でひとつの名字です。
佐々木家のように一族が広く繁栄した一族では、ただ「佐々木」と呼んだだけではどの家系の人か区別できないので、
「佐々木」の下にさらに家名をつけて「佐々木京極」「佐々木六角」「佐々木隠岐」「佐々木鞍智」などと呼んだのです。
三浦家、土岐家などでも同様のケースが見られます。
>>58 18松平なら似ているかも。
大河内松平とか大給松平とか。
ちなみに18松平では維新の際、新政府をはばかってか、
松平の部分を捨てて大河内とか大給とかに改姓した家が
結構あります。
61 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 21:57:51
>>60 それを佐々木京極なんかと同様の例としていいたいのなら「松平大河内」「松平大給」などというべきでは?
そういう表現が史料上あり得るのかどうかは知らないけど。
上杉の山内・扇谷・犬懸なんかは、「上杉山内」「上杉扇谷」「上杉犬懸」などと書かれることがあるから、佐々木や土岐なんかと同様のものといえる。
前半が本来的な苗字、後半が一族内の他家と区別するための家号とでもいうべきでしょうか。
但し佐々木一族の場合、京極や朽木は近世には佐々木を冠せずに単に「京極」「朽木」になってしまうようですが。
62 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 00:12:59
佐々木の子孫が増えれば、どこの佐々木ということになる。 そこで例えば居所などをとって佐々木に付す。 やがてその付した苗字が通称になる。
>>61 でも、日本語的には京極佐々木が正解と思うな。
だって京極の佐々木さん、六角の佐々木さんという意味でしょ。
64 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 01:12:06
>>63 一次史料で「佐々木京極」というのは見たことあるが、「京極佐々木」というのはない気がしませんか?
六角等の他の佐々木一族や土岐なんかもそう。
「佐々木一族の京極さん」の意が正解だと思うが。
>>64 その佐々木一族の京極さんの京極てのは邸の地名だしょ。
京極の方の佐々木さんという意味だから。
山内上杉も扇谷上杉もそう。邸位置。
だから上杉山内は違和感あるなあ。
66 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 13:38:23
>>65 ちゃんと史料とか見てますか?
違和感あるも何も、史料にそう出てくることはあっても逆はないんだから、
貴方が個人的に違和感があっても仕方がないよ。
その感覚は当時の人々のそれとは相容れないというだけで。
67 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 13:51:15
明智光秀の明智氏も、「土岐明智」というのは見ても「明智土岐」というのは見ないな。
68 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 14:21:32
佐々木という苗字の出である京極という苗字なので佐々木京極。 土岐という苗字の出である明智という苗字なので土岐明智。 ということになる。 そして後年、佐々木も土岐も苗字から氏という意味合いに変化する。 山内上杉や扇谷上杉の場合は、山内という苗字にはならず 山内という場所に居を構える上杉。扇谷という場所に居を構える上杉なので 山内上杉や扇谷上杉という言い方になる。 しかし、現代のように国語審議会があるわけでもないのだから、 逆に書いてあったとしても当時の人間には違和感というものは稀薄であった。
69 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 18:37:04
>>68 上杉山内とか上杉扇谷とかの表現も史料中には普通にあるような気がするけど。
京極や明智が佐々木or土岐を冠さずに単独で苗字として見なされるようになるのは戦国末〜織豊くらいの時期。(通称としてはそれ以前からありだが)
それ以前は、上杉における山内や扇谷も京極や明智と性格的には変わらないと思うが。
70 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 19:38:51
前後の書き方を問題視するのは 現代人の考え方。 当時は問題視するような問題ではない。
71 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 19:40:22
一次史料で「京極佐々木」とか「明智土岐」と書かれたものはありません。
>>71 資料主義の弊害でしょ。
はっきりいって本名はあくまで源〜〜であってあとは通称。
普通は京極殿とか佐々木殿とか官位名で呼ぶのであって、
それもあくまで通称だから何種類もあっておかしくない
し正式な通称なるものもあるわけでなし。だってあく
まで通称にすぎないんだから。
佐々木京極、京極佐々木、いずれにしても当人がそう
正式に名乗るわけでないから大して意味もないでしょ。
73 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 23:05:09
史料を読まないで歴史学が成立するとしたら驚きだな。 史料を無視して歴史を語る研究者がいたらさらに驚きだな。
74 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 23:06:42
当の本人はどのように名乗っていたのか? それから話ははじまる。
本人は源〜〜と官位名だろうね。 通称も入れて名乗るなら普通は佐々木で十分。 佐々木と官位名で区別つくからね。
76 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 23:23:47
公式性の高い幕府発給文書(御判の御教書など)では、例えば朽木氏の場合、 佐々木朽木○○殿みたいに書かれることが普通。(○○は官途名) 私信に近い書状などでは、単に「朽木殿」が多いと思う。 官途名が入るようなあらたまった場面では「佐々木」と「朽木」の両方、 プライベートな場合にはただ「朽木」が多い。 但し鎌倉期だと官途名が入る場合も「佐々木○○殿」になっていて、「朽木」が 入るのは南北朝以降のようだが。
>>76 上杉の場合はどうなんだろう?
上杉山内が多いのか、山内上杉なのか。
上杉山内が多いなら、なんで山内上杉とか言われることが
多いのかねえ。
78 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 01:16:48
後世の軍記物なんかの影響かもね。
79 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 01:22:01
良く分からないんだけど、実際に当時喋ってた口調と文章で使ってる言葉は違うんでしょ? それこそ○○でござるなんて文章では書かないわけでしょ? つまり、実際に文章で佐々木京極だろうと京極佐々木だろうとどうでもいいけど、どちらかを使ってたからといって、 実際に当時の人がどう使ってたのかなんて分からないんじゃない?本人の書きやすさとか漢文風の韻とか、誰か分かれば 良い的なものだったんじゃないかなとは思うんだけど、まぁこういっちゃうと実際にこう呼んでたとは当時の人じゃないと分からないということに なるんだけども。
80 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 01:38:04
しかしそういうことを言い出すと古文書学はそもそも成り立たなくなる。
81 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 02:04:01
>>79 漢文風の韻がどうとかいう以前に、当時の記録・文書はほとんど漢文そのものでしょ。
もちろん中世史料における漢文なんて中国式の漢文とはかなり異質な変体漢文だけどさ。
但し仮名書きで書かれた平安期の女流文学なんかはほとんど言文一致に近いといわれるし、
室町でも『お湯殿の上の日記』みたいなものは、当時の口語をかなりそのまま書いているといわれますよ。
・・・この程度のことはおそらくご存じだと思うと改めて書くのは恐縮ですが、一応。
82 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 14:25:00
>>81 誰も女流文学の話なんてしてないと思うが?
83 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 18:54:35
現代の感覚で当時を見ようというのが土台無理な話。
名前の話はどうでもいい俺ガイル。 婆娑羅@山田風太郎 読んだら好きになったぜ・・・。 結局何してた人かいまいちわからんけど 生きるのが上手いのか?とおもた
85 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 19:15:16
86 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 22:21:24
佐々木道誉って 結局、当時は、佐々木道誉といわれていたのか それとも京極道誉といわれていたのか。
>>86 「佐々木佐渡大夫判官入道導誉」って感じ。
ちなみに導誉が「京極殿」とか呼ばれてる史料があるのかどうかは俺も知りたい。
なんか普通にありそうな気もするが、書状や日記はよく知らんので。
>>87 日記などで書かれている名称が、普段の口語で呼んでいる名称
とは限らない、むしろそうでないのが悩ましいところでしょ。
つまり現代でも、母親のことをお母さんと呼ぶ人間が日記に
お母さんと書く可能性は低い。普通、母と書く。
友人の「〜〜ちゃん」のことでも日記や書類には「〜〜氏」
かなりくだけで「〜〜さん」でしょ。「〜〜部長」という
ように肩書き書く場合も多い。現行一致文になった現代で
こうだから、口語と文語が一致してなかった昔はなおさら。
だから当時実際に何と呼ばれていたかはいくら資料みても
わからない可能性はかなりある。
>>88 ま、そりゃそうだわな。
ただ、まあ、それを言ったら話はそこで終わりになってしまうわけだが。
つうか、俺は導誉が「京極殿」とか書かれている史料があるのかどうかを
知りたかっただけなんだけどね。
言行一致が激しく崩れだすのは、 室町〜戦国〜江戸期にかけてで、 それ以前はむしろ言行一致だったようなことをどこかで読んだような希ガス。 口語がどんどん変化してくが、文語は変化がゆったりしているからとか。
>>90 「激しく崩れ出す」のはそうかも知れんが、もともと文語自体が
口語をそのまま記述する目的じゃないからね。
普段の口語をそのまま残す意図がない以上最初から不一致が
あることが前提。但し、そうはいってももとは口語だろうから
無視はできんが。
で、なかでも名前とか呼び方はもともと口語と文語で違う
確率が最も高い分野だから。「佐々木佐渡大夫判官入道導誉」
とはよほどあらたまった場でないと言わないだろう。理由は
単純でいちいちこんな長い言い方したら面倒w
多分京極殿とか京極入道とか言う感じになるはず。
>>91 だから、当時、導誉が「京極殿」とか呼ばれていた証拠はあるの?
「佐渡入道」とか「佐渡判官入道」とかいう略し方なら、まだ分かるのだが。
>>92 >>91 は口語でどう略したかはわかりにくいって話の
趣旨じゃねえの?
京極殿とか京極入道てのは例でしょ。別段佐渡入道も
佐渡判官入道をも排斥してないじゃん。
94 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 15:45:31
京極道誉と記してある古文書を見たことがない。
95 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 15:53:10
大河ドラマでは「佐々木判官殿」と呼ばれてた。
96 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 18:27:12
佐々木判官は 佐々木佐渡大夫判官の略でしょう。
入道はつけそうだねえ。 佐渡判官入道とか佐渡判官が有力かなあ。
>>97 佐渡判官じゃなくて佐渡入道ね、間違えたw
99 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 20:36:32
系譜には、 佐渡大夫判官というのもある。
大河ドラマ「太平記」では佐々木道誉(陣内孝則)でクレジットされていたぜ。
101 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 17:59:17
>>87 道誉本人はわからないが、彼の子や孫の世代には普通にある。
102 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 19:05:21
道誉自筆の古文書って現存しないということか?
自称と他称は話が違ってくるぞ
104 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 15:06:18
他人が京極殿と書くことはあっても、自分で京極「殿」とは書かないだろう。
105 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 15:15:50
>>92 道誉本人については確証がないかもな。
「京極」の家号自体は道誉時代の屋敷地の場所に由来してたと思うが。
ただ「京極」が通称として普通に使われるようになるのは、康暦の政変の頃からじゃないかという気もする。
15世紀になれば、「京極殿」は普通にあるし、公家の日記なんかで「佐々木京極」と書かれてるのも見たことがある。
>>105 京極の家号はもう少し古いと思う。始祖氏信の邸が京極高辻に
あったことに由来し、その頃からのものらしい。
このスレも滝川一益スレの読み方みたいに 名字云々で1000までいきそうだなw
108 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 20:14:06
>>106 じゃあ佐々木本家の六角の家号も始祖泰綱の邸に因むの?
泰綱の父信綱の館は京都六角東洞院にあった。本家として館も相続したんだろ。
>>108 六角東洞院に京都邸があったからね。
ただ、ここが宗家なので、六角と言われるようになった
のは京極と区別するため。なので泰綱の孫の時信の頃から
らしい。
時信は道誉と同時代の人だから、道誉の台頭と関係がある
のでは?道誉が宗家に匹敵する勢力にならなかったなら、
普通に佐々木のまんまで良かったんじゃないかな。
111 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 20:34:21
本家にも元の苗字以外の家号があるのは、上杉や土岐も同様。
112 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 20:35:48
>>110 てか道誉の家系を京極というようになるのも南北朝くらいからでは?
113 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 12:56:17
佐々木六角もあるな。
114 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:05:10
>>110 室町・戦国の史料でも普通に「佐々木」のままで出てくるけど。
115 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:10:36
>>1 つかぬ質問ですが、このスレを立てた方は「女性ですか、どうよ」
と問われる方と同じ人ですか。
116 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:25:10
>>1 戦国時代に六角が近江地方一帯を支配してたって間違いでは?
京極・浅井の勢力が強い湖北、山門や朽木の勢力が強い湖西は六角の勢力範囲外かと。
117 :
日本@名無史さん :2006/03/17(金) 10:49:58
佐々木って本当は沙々貴なんでしょ?
118 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 12:18:34
本当も糸瓜もない。所詮は当て字だからね。
119 :
日本@名無史さん :2006/03/26(日) 18:38:43
佐々木の流れをくむ家は、尼子、六角、京極、宍道、大原、黒田ってとこだよね。 ほかなんかある?
120 :
日本@名無史さん :2006/03/26(日) 18:39:18
佐々木の流れをくむ家は、尼子、六角、京極、宍道、大原、黒田ってとこだよね。 ほかなんかある?
黒田は怪しい。 確実なとこで朽木。
122 :
日本@名無史さん :2006/03/26(日) 22:36:42
佐々木って子作り好きな奴多いよなw
123 :
日本@名無史さん :2006/03/26(日) 22:46:34
ねずみと同じね
でも 江戸時代までは 子供を作ることはれっきとした仕事だしね…。
125 :
日本@名無史さん :2006/03/27(月) 15:39:32
院というか犬というか 犬ならば射て殺さん この台詞しか知らん。あとは猿革の腰巻か
>>125 釣りか? マジで勘違いしてるのかもしれんな
127 :
日本@名無史さん :2006/03/27(月) 15:48:40
ググッたら土岐頼遠だった。正直すまんかった
128 :
日本@名無史さん :2006/03/28(火) 11:06:50
乃木とか三井とかも佐々木
そういえば滋賀県に尼子って地名があったなあ。 恐らくあの辺は昔六角氏が支配した地域だったんじゃないかと思う。
131 :
日本@名無史さん :2006/03/28(火) 22:33:45
>>129 滋賀県甲良町尼子は旧郡名だと犬上郡なので、京極側の地域ですよ。
道誉の墓もこの辺りにあるし。
犬上郡は佐和山城があることからも分かるとおり、戦国時代も六角じゃなくて浅井の勢力圏。
132 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 02:01:45
133 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 11:11:51
佐々木の本家が鎌倉中頃に4分裂したのが、六角・京極・大原・高島。 高島はのちにその庶流の朽木にとって代わられる。
134 :
日本@名無史さん :2006/03/31(金) 11:58:35
大原氏も後に庶流の小原氏に取って代わられるんだっけ?
この間まで ファミリー劇場で NHK大河ドラマ「 太平記 」をやっていたので、録画して視た。 ( 本放送時は全く視ていなかった ) 佐々木道誉 は陣内孝則のイメージ通りなの ??
質問が大雑把すぎて答えようもないが、坊主頭でないのはイメージと違う
朽木氏ってのちは福知山の方を支配したんだよな
138 :
日本@名無史さん :2006/03/31(金) 22:01:44
>>137 朽木本家は、明治維新まで近江の朽木にいる。
石高は9千石の旗本(交代寄合)だが。
分家が家光の側近になって大名に取り立てられ、福知山藩主となった。
大塔宮護良親王は、内裏に参内したところを逮捕された。 護良 「ぐあああ、は、離せぇぇ、うあああ、あおがああ、ひいあああ!!」 「は、道誉!ど・・・どうしてここに?そなたはまろに同心していたのでは?」 道誉 「フッ・・・、宮が周囲から孤立していたのはわかっていた。負けると決まった お方につくほど、私は愚かではない」 護良 「なああっ!」 道誉 「フフフ、宮のおかげで廉子さまの信頼を得ることができた。ご苦労、心おきなく 牢に入られるがよい」 護良 「ま・・・まろを利用して!征夷大将軍のまろまでも裏切っていたのか!」 道誉 「裏切りではない。これは知略だ!倒幕をした将はおのおのがひとつの宿命を持っている」 「愛に殉ずる星『殉星』を持つ男、新田義貞。人のために生きる『義星』を持つ男、楠木正成」 「そしておれの持つ星は最も美しく輝く星『妖星』!!人は裏切りの星と呼ぶがそうではない。 『妖星』は天をも動かす美と知略の星なのだ、ハッハハハ!」
140 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 21:45:25
大塔宮を逮捕したのは名和長年では?
141 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 22:06:09
君たちにはスレタイに突っ込んでやる優しさはないのかね? 道誉ってどうよ 道誉ってどうよ 道誉ってどうよ 道誉ってどうよ 道誉ってどうよ 道誉ってどうよ 道誉ってどうよ
142 :
141 :2006/04/02(日) 22:16:55
おい、
なんだよ。
なんなんだよ!
無視すんなよ!
お、オレは
>>1 じゃないからな!
>>1 じゃないぞ!!
断じて
>>1 じゃないからな!
144 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 23:53:30
健介ファミリーのスレはここですか?
145 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 23:59:39
「佐々木道誉ってどうよ?」のフレーズを含むスレは、2ch日本史板の 発足当初から何度となく立てられては消えていった。
146 :
日本@名無史さん :2006/04/03(月) 01:05:09
2ch日本史板の発足当初っていつ頃のことなの?
147 :
日本@名無史さん :2006/04/03(月) 01:41:55
>>146 貴方が最近2ch始めた厨房でないのなら聞かなくてもわかるはず。
>>135 喰えない奴という意味では いい配役だと思うよ。
149 :
日本@名無史さん :2006/04/03(月) 23:40:20
150 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 00:47:04
151 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 01:49:59
夢窓国師は時々談義をするだけで、あとは何もしないで、尊氏から多大の領土や給与を受けていたので、 尊氏をできるだけ賛美せねばならない立場にあった。夢窓国師と尊氏とは互いに賞め合い、もちつもたれつの 関係にあった。だから夢窓国師が賞めたからといって、そのまま受けとるわけにはいかない。 第一のことも武将であれば皆その通りでなければならない。ひとり尊氏に限らないことである。 「第二に慈悲天性にして人を悪み給事をしりたまはず、多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし。」とあるが、 既に吾が子直冬を放置して顧なかったことだけでも慈悲心があったとはいえない。また義貞を終生の敵とし、 また後で、弟直義を毒殺し、吾が子直冬を討たねば止まぬと気負っていたことを考えても、弟や我が子でさえ 悪んでいたのである。ただ敵を許したことがあったかもしれないが、それはそうすることが自分にも利になる時であった。 第三に、御心広大にして物惜の気なく……諸人の進物ども数知れずあったけれど、皆分かち与えたとあるが、 これも特別賞賛することでもない。一般の人でも、多くの品物が集まったときは、「お裾分け」とも言って、 知人や近所へ分けてしまうのである。食物であれば直に処置しないといけないし、食物でもない器物にしても、 既に自分の家にあるものが多く、邪魔になるだけであるから、持ち去ってくれると有り難いのである。 然し、尊氏も価値のある物には大いに物惜しみしたのである。その例の一つは、名刀恩丸、鬼切のことである。 斯波高経が新田義貞から奪った恩丸、鬼切を、尊氏は、これは末流の源氏などが持つべきではない。 急ぎその二振りの刀を我れ(将軍)に渡してほしい。足利将軍家の重宝として、本家筋において相伝えると 言って強要したという。そして高経が渡さなかったので、戦功のあった高経を敵に廻して討とうとまでしたのである。 そのため高経は直義側について、尊氏側としばしば戦った。尊氏は価値なき物は惜しまず、価値ある物は 惜しんだのである。また少し価値あるものも、それを渡すことによって自分に利になる場合は渡した。
佐々木道誉は、フランス革命期のフーシェのような印象。 どんな体制になっても重用される。
>>152 フーシェより上の印象が。
なにせ失脚してないし(流罪も名ばかりだったしw)、
日本の芸術史上における巨人だし、
それに婆娑羅思想というその後の日本の針路に大きな
影響を与えた思想の体現者だしね。
要するに日和見でええ加減なおっさんだったというわけだな >道誉
細川清氏は日和見でええ加減なおっさんに追い出されたのか
>>154 あの時代、機を見るに敏でないと滅ぶんじゃないの?
157 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 15:16:23
没落はするが完全に滅ぶことは珍しい。
>>157 戦国にくらべるとそうだけどな。
でも、新田、名和、高、直義など完全に
滅んだのも結構いるからな。やはり大変な時代だわ。
>>155 斯波高経親子なんてのも追い出されたなw
>>152 フーシェというよりもタレーランの方が近いような・・・。
同じ策士、風見鶏でも、タレーランは貴族出身だからどことなく優雅。
道誉も、高時の側近をやってて官位もあり、茶・立花・申楽などの
新興芸術の立役者というイメージがあるから、政敵を失脚させる陰謀も、
どこかあざやかというか、見事という感じがする。
フーシェの場合、下層階級出身からか、冷酷・陰惨という印象で華がない。
頼朝死後の北条一族なんかが、しっくりくるな。
161 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 01:05:40
>>158 名和も高も完全には滅んでいない。
直義にはそもそも実子がいない。
>>161 そんなこと言い出したら武田だって尼子だって今川だって
朝倉だって北条だって完全に滅んでねえぞw
163 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 01:18:24
>>163 >>158 は生物として一族の誰かが生存していることを
意味してんのか?大名家の話なんだから、大名としての
基盤がなくなることを完全に滅亡したというんじゃないの?
直義に子がいない話もそうだ。後継者の直冬の後で直義家
って消滅してんだろ?もし消滅しないで血縁がなくても
養子の後継者でもたてたなら、直義家は滅んだとはいわない。
生物学的には血縁者じゃないなら滅んでいるけどね。
でもここは生物板じゃないからw
165 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 01:57:52
>>164 しかし貴方の基準に照らしても高は滅亡したとはいえないよね。
中央政界からも一族が消滅したわけではないし、関東公方の重臣としては
戦国期にいたるまで残っているわけだし。
もっともこの時代の武家を「大名」という概念で語れるのかという点がそもそも微妙だが。
166 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 01:59:42
>>162 ついでにいえば後北条は大名家としても滅んでいない。
>>165 高家って足利郎党の筆頭で、本来なら代々執事、後なら
管領になる家柄でしょ。
それが守護クラスからは全く姿を消して高級官僚クラス
に名を列ねるにすぎない存在に落ちた。
総理やる家柄から役所の局長が上がりの家柄に落ちたって
ことでしょ。こういうのを滅亡と言わないなら武家の滅亡
ってほとんどなくなるよ。
北条だってそうでしょ。関東300万石クラスの特大大名
から1万石クラス。そら形式的には大名だけど、こら単に
名跡残しているだけじゃない。家名は存続はしているけど、
いわゆる関東に割拠した北条家は滅亡したと見るのが素直
では?せめて国持大名に列せられるならまだしも。
とりあえず素人の歴史ヲタ談義ならいいけど、揚げ足を取られる可能性のある表現は、論文とか学会報告では使いなさんなってことだな。
戦国時代の小田原の北条氏のことを 単に「北条」という・・・素人の歴史ヲタ 「後北条」という・・・歴史研究者
秀綱と六角氏頼も佐々木判官と呼ばれてたんだね 同時代人は区別つくだろうが、史料的に取り違えとかしないのかな
171 :
日本@名無史さん :2006/04/17(月) 20:19:30
導誉の場合は必ずと言っていいほど、佐々木佐渡判官とか佐々木佐渡大夫判官とかって出てくるから区別は付くだろ。
172 :
日本@名無史さん :2006/04/17(月) 20:46:41
>>162 ついでにいえば後北条は今も創価学会の最高幹部で滅んでいない
173 :
日本@名無史さん :2006/04/25(火) 22:47:07
>>172 それって河内狭山藩系?
それとも傍流の旗本とか?
174 :
日本@名無史さん :2006/04/26(水) 00:54:17
175 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 00:49:41
佐々木 としか名乗らない 佐々木信綱の子孫の家ってあるよね?
176 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 01:07:32
>>175 信憑性のある系図を持つ家で佐々木なんて名乗っている家はないだろw
ほぼ100%自称子孫だな。
それにそこまで遡って子孫云々言う意味は全くないね。
177 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 01:13:20
そうだね。「名乗る」=意味は無いよね。 では生物学的に可能性として「佐々木を苗字とする家」=「佐々木信綱の子孫」である というのは可能性としてあるよね?証明できるか、どうかは別として。
>>117 滋賀県の安土町に沙々貴神社というのがあってそこが佐佐木源氏の発祥の地になっているらしいね。
179 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 01:17:39
>>177 そういうレベルでいうなら怪しいもの自称も含めて何百万もいることになるから
全く議論する意味をなさない。
現代において宇多源氏佐々木を名乗れるのは信憑性を持って系図を遡れる家系だけ。
180 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 01:26:18
>>179 ありがとう。
宇多源氏を名乗る=証明できるかどうかは別として
人口でいったらベスト10に入る苗字の「佐々木」すべてが 全く宇多源氏と関係ないというのも
オカシナ話で。
何割かはその宇多源氏の子孫である(ただ証明は不可能)と考えるのが自然であって。
もちろん名乗る名乗らないは別問題。
181 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 01:29:10
>>180 DNAレベルの話と家系とか家の話は別だぞ
182 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 01:32:19
わかっている。 家の話は別にしてもあまりにも佐々木姓が多い。 これがぜんぶ100%佐々木氏の子孫じゃないっていう見方はおかしい。 いくら佐々木本家が京極、六角と名乗ったからといって。
183 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 10:18:01
>>175 嫡流である六角氏や京極氏は、室町末期まで公式には苗字は佐々木としか名乗らない。
他の一族との区別が必要なときだけ、便宜的に佐々木六角とか佐々木京極とかって書かれる。
>>176 >信憑性のある系図を持つ家で佐々木なんて名乗っている家はないだろw
明らかに宇多源氏の一族である尼子氏の子孫は、江戸時代でも苗字は佐々木のままだと思うが。
184 :
日本@名無史さん :2006/04/27(木) 10:23:28
あと家系に信憑性の議論はあるが、江戸期以降で六角氏の子孫を名乗る家(例えば加賀藩に拾われた家など)は基本的に佐々木を苗字にしていることが多い。 大名として残った京極や朽木のほうが、何故か佐々木を名乗らなくなるが。 ちなみに朽木は戦国期までは佐々木朽木と呼ばれることが多く、単に朽木としか現れなくなるのは織豊期以降。
うちは現在青木だが佐々木支流との話。そう伝えられているだけ。 別段、声高に主張する気もないし、誰に迷惑もかけていない
佐々木氏は鎌倉幕府では、二階堂氏や長井氏と並んで朝廷と幕府の間の交渉を 引き受けて、文筆系吏僚として実務能力を評価されていたようだ。鎌倉末期に 評定衆や引付衆に、北条一門・御内人以外で名を連ねているから、かなり有能 だったんだろう。 道誉が室町幕府で、権力を増大させるのは「観応の擾乱」以降らしい。先祖代々の 事務処理能力の高さもあると思うが、直義派が幕府からいなくなり人材不足になった ことも幸いしたんだろうな。
去年に大津にすむ京極という苗字の女性が事件を起こして全国ニュースになった んだけど、滋賀というとやはり一族になるんですか? 自分の地元に京極の江戸時代のお城があってかってのお殿様だから、 この一族を尊敬してるんでがっくり。 京極はもう近江を離れて久しいと思ってたけど。
188 :
日本@名無史さん :2006/05/01(月) 01:35:26
>>186 鎌倉時代に佐々木一族で評定衆になった人って3人くらいしかいなかったと思うよ。
189 :
日本@名無史さん :2006/05/01(月) 17:25:01
>>187 公家の御子左流にも京極を家号にする家がある。
南北朝くらいで断絶してるが。
佐々木氏から出た評定衆は、調べてみると以下の4人。 佐々木信綱、佐々木(京極)氏信、佐々木(隠岐)時清、佐々木(京極)宗綱 佐々木(六角)は、信綱の息子の泰綱が九条頼経の側近だったので、北条氏に 警戒され圧迫を受けた。それでも、近江守護と惣領の地位は保持。
今日は丸亀でお祭りがあって京極さんが来てるんだけど、 今の御当主で31代目なんだって。 鼻筋の通った仁左衛門さんに似た品の良いおじさん。
192 :
日本@名無史さん :2006/05/04(木) 00:43:52
>>190 宗綱って評定衆だったんだ。
それって鎌倉の評定衆でいいんだよね?
もしかして六波羅のほう?
>>192 もちろん、鎌倉のほう。1295(永仁3)年に在職の記録あり。
どの程度の期間、務めたのかは不明。
194 :
日本@名無史さん :2006/05/04(木) 15:05:41
>>193 そっか、吾妻鏡がない時期なんだ。
吾妻鏡終了以後の鎌倉の政治史はなんか把握が難しい・・・。
宗綱(京極家2代目)の甥である宗氏と、宗綱の娘の間に生まれたのが高氏。 つまり、いとこ同士の婚姻。宗綱の跡を継いだ貞宗に男子がいなかったので、 京極家に養子として入った。京極家は佐々木一門の中でも、得宗家との関係が 良好で有力な庶家だったようだ。北条高時から「高」の字をもらっているし、 北条貞時の13回忌にも参列している。
196 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 20:08:19
氏信の「氏」や宗綱の「宗」だって得宗の偏諱だが。
197 :
日本@名無史さん :2006/05/08(月) 16:45:07
どうよがでる小説でいちばんおもしろいのおしえれ
198 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 00:03:30
200 :
日本@名無史さん :2006/05/12(金) 22:38:10
201 :
日本@名無しさん@お腹いっぱい :2006/05/13(土) 14:55:42
202 :
日本@名無史さん :2006/05/20(土) 20:44:43
道誉の子の高秀が、1391(明徳2)年に戦死したと、人物叢書『佐々木導誉』に 書いてあるけど、誰と戦って氏んだんだろう?この頃は、南朝軍なんてほとんど 活動してないだろうに。
203 :
日本@名無史さん :2006/05/20(土) 22:53:32
高秀ってそんな頃まで生きてたっけ? まあ1391年没なら、考えられるのは明徳の乱だろうけど。
204 :
日本@名無史さん :2006/05/21(日) 06:43:55
>>203 うーん、高秀の戦死が10月11日と書いてあるんだよね。「明徳の乱」は
12月30日。つまり、「明徳の乱」前に氏んでるわけで・・・。
「明徳の乱」には、高秀の子の高詮が参加しているようだ。
>>204 佐々木哲先生にきいてみたらわかるかも。
206 :
日本@名無史さん :2006/05/22(月) 01:25:54
>>204 編纂所のサイト見ると、高秀の死亡記事は『常楽記』『東寺王代記』
『佐々木系図』にあるみたいだけど、『常楽記』『東寺王代記』では単に
「明徳二年十月十一日、佐々木〈京極〉大膳大夫高秀他界」
としか書かれておらず、戦死のソースは、『佐々木系図』の高秀の項に
「明徳二年十月十一日、討死於堅田」
とあることだけみたい。
ところが、同系図には、高秀の兄で文和2年に戦死した秀綱の項にも
「文和二六十三、於堅田戦死」
とあり、堅田で戦死したという話は秀綱のことと混同されている可能性もあって
疑わしい模様。
207 :
204 :2006/05/22(月) 06:43:01
>>206 サンクスです。なるほど、秀綱と同じ場所だから単なる作成者のミスか。
高詮は「明徳の乱」で、出雲・隠岐の守護職を手に入れている。 出雲は道誉と山名時氏が守護職を争っていたけど、孫の代になって ようやく決着がついたわけだ。
209 :
日本@名無史さん :2006/05/23(火) 00:00:08
出雲・隠岐は元々佐々木塩冶氏が守護だったわけだし、塩冶氏が没落した以上、 同じ佐々木一族の京極氏が嗣ぐのは順当だったってことだね。
210 :
日本@名無史さん :2006/05/23(火) 00:55:48
隠岐氏=塩冶氏?
211 :
日本@名無史さん :2006/05/23(火) 21:52:44
212 :
日本@名無史さん :2006/06/11(日) 12:44:43
>>209 山名って、結局応永の乱以降、備後・安芸・石見あたりの守護職は回復してるけど、出雲・隠岐は諦めたみたいだね。
213 :
日本@名無史さん :2006/06/12(月) 04:18:58
バサラ傾きセイント4 前田慶次 佐々木道誉 高師直 水野十郎左衛門
214 :
日本@名無史さん :2006/06/28(水) 21:00:42
道誉は裏切り者の代名詞みたいな奴だからな
215 :
日本@名無史さん :2006/07/01(土) 01:48:17
婆娑羅の代名詞ではある
217 :
日本@名無史さん :2006/07/02(日) 01:07:08
道誉がいなければ、義詮〜義満初期の幕府は持たなかったと思う。
218 :
日本@名無史さん :2006/07/02(日) 02:07:26
ナポレオンにおけるフーシェやタレイランのような存在か。 有能すぎる(がゆえに?)よく裏切るしw
219 :
日本@名無史さん :2006/07/04(火) 21:57:46
確信犯的に寝返ってるんだろ。 長い目で見れば結局彼の行動は室町幕府を強化することになってるし。
220 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:32:58
本当は導誉でしょ?
221 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 17:34:45
傾き 団扇で涼しい前田利家 白装束が似合う伊達政宗
222 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 05:35:50
戦国織豊期の人物と比較してもなぁ。 道誉が道誉たる所以は彼が南北朝期の人物であることが大きいと思うのだが。
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。 半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。 両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。 もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。 脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、 店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、 脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。 店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。 高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。 そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。 私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、 店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。 あれには本当にびっくりした。
224 :
日本@名無史さん :2006/08/25(金) 14:41:31
苗字かっこいい
225 :
日本@名無史さん :2006/09/10(日) 00:49:00
226 :
日本@名無史さん :2006/09/10(日) 22:43:17
足利尊氏と同じ名前って凄いね。
227 :
日本@名無史さん :2006/10/25(水) 22:44:30
ほんとだね
228 :
日本@名無史さん :2006/10/26(木) 02:11:12
六角とか京極って名門なんだ・・・ 信長の野望に出てくるショボイヤツだろ
229 :
日本@名無史さん :2006/10/26(木) 03:17:26
南北朝時代でも五本の指に入る名将だぞ、道誉は。 数字で能力を表したら全部90以上になるようなやつだ。
231 :
日本@名無史さん :2006/10/28(土) 18:16:53
230は子孫がしょっぱくて信長の野望で能力の数値が低いことを持ち出した228への皮肉だろ。
233 :
日本@名無史さん :2006/11/05(日) 15:38:02
戦国期だって六角はなかなかのものだぞ。 義尚・義材の時期には六角高頼は2回も幕府軍の討伐をはねつけてるし。 しかも義晴の時期には六角定頼のお陰で室町幕府は持ってたようなものだし。
道誉は六角じゃなくて京極だよ。
236 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 14:09:43
age
237 :
日本@名無史さん :2006/12/18(月) 03:04:15
無知な奴が「六角佐々木氏」とか「京極佐々木氏」とか言ってるの見ると笑える。 「佐々木六角氏」、「佐々木京極氏」だろうに。
238 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 23:22:57
道誉さんの肖像画って、Web上にないですかね。 探しているんですけど・・・
どこかで見た記憶があるんだがどこだったか。 佐々木or京極、高氏or道誉で最低4種類の名前はぐぐらなければなるまいよ。 茶道や華道、太平記関連のサイトからリンクを辿って探し出すという手も考えてみたらいいかも。
「導誉」でGoogleのイメージ検索したらあったぞ 「道誉」でも小さい画像なら出てきた
241 :
日本@名無史さん :2006/12/25(月) 22:56:23
>>240 あ、ありました。そうか、イメージ検索。
それと、私は佐々木道誉、佐々木導誉に、肖像なんてプラスしたりして
通常検索して見つからなかったので、へこんでいたところでした。
>>239 さん、
>>240 さん、共々有難うございました。大変参考になりました。
今、太平記の時代の人物について、社内研修の教材でまとめていたところ
(IT関連の企業です、何か違和感あるでしょうが)でして、やはり佐々木
導(道)誉さんは婆沙羅の代表格として必須ですね。歴史は人物の顔があっ
た方が良いかな、と探していたところでした。
勝楽寺のサイトのものが、晩年のものとはいえ、以前見たことがあって、こ
のイメージでしたので、サイトにメールを送って使わせて頂くことにします・
でも、足利尊氏のイメージの馬上の武者が、実は高師直では? とか、
神護寺の源頼朝似せ絵が、実は足利直義だった? とか、何か昔のイメージ
と合わずに混乱しているところです。 いろいろ歴史のイメージも変わって
きていますね。
このスレも、「佐々木道誉」でググッたらかかったのでした。
本当に有難うございました。
242 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 04:22:54
>>239 正しくは「導誉」だから、これでも調べないと。
243 :
日本@名無史さん :2007/01/09(火) 01:54:34
佐々木ドウヨは裏切り者
244 :
日本@名無史さん :2007/01/09(火) 09:41:26
京極家の子孫はよく見るけど、六角家の子孫は見たことないな・・・。 どこに行ったか知ってる? 京極家は丸亀城、多度津城など分かりやすいけど・・。
245 :
日本@名無史さん :2007/01/09(火) 22:13:16
裏切り者というより、風見鶏では?
246 :
日本@名無史さん :2007/01/09(火) 22:19:33
>>244 小学校の頃だったが、大阪府茨木市で、同級生に「六角」君がいた。
やっぱり珍しかった。あだ名は「ロク」。
「ろくでもない」なんて誰かが言うたびに冷やかされていたが、先祖は
武将だったとか親から聞いたとか言ってた。ホントかどうか知らんが。
247 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 00:07:54
>>1 太平記には別に謀略の限りってほど詳しく描かれてないけどな。
気がついたら要領よく出世していたって感じだ。
248 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 00:09:40
>>245 そうでもないでしょ。
なんだかんだ言って、尊氏と義詮のことは裏切っていない数少ない存在。
新田軍に寝返ったことが一度だけあったが、それも尊氏が寺に引きこもっている間で
直義が指揮を取っていた時だから、それなりに筋が通っている。
249 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 11:22:39
でもいくら京都の六角堂に住まいがあったからと言って六角にしたんだろうな。 かっこ悪いよ。京極はかっこいいけど。本家として貫くなら佐々木氏として 生きていけばいいのに。 でも不思議に佐々木神社は京極家や黒田家の奉納はあるけど六角氏は誰も来てない。
>>249 六角、かっこ悪いか?佐々木なんてありふれた姓よりよっぽどいいような。
252 :
日本@名無史さん :2007/01/11(木) 02:37:00
財閥系には佐々木氏を名乗る家が多い。
253 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 12:33:50
>>244 家は六角氏の分家の米原氏の末裔です。一応米原氏の末裔会に入っていますけど…
↑マイナー過ぎますかねorz
254 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 12:57:40
>>1 オマイもしかして
「道誉ってドウヨ?」って言いたいだけなんじゃぁ??
255 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 19:47:59
織田信長の生母の実家の土田氏も六角の一族じゃなかった?
256 :
日本@名無史さん :2007/01/21(日) 16:20:57
?
257 :
日本@名無史さん :2007/02/04(日) 17:35:50
258 :
日本@名無史さん :2007/03/05(月) 02:50:46
>>249-251 六角は通称。本家の正式な苗字は戦国末まで佐々木のはず。
あと屋敷があった場所は、六角東洞院だったと思う。
佐々木道誉ってどうよって言われてもねぇ‥‥ なんか過大評価されてる感じ
佐々木道誉(1296〜1373) 永仁4(1296)年、佐々木宗氏の子として生まれる。母は佐々木宗綱の娘で 同母兄に貞氏(善観)がいた。父・宗氏は鎌倉で御家人として活動しており、道誉も 幼年・青年期は鎌倉で暮らしていたと推測される。佐々木氏は本流の六角家と、強い 独立性を持った庶家に分立していた。宗氏は庶家の一つ、京極家の傍流だった。京極家を 継いだのは宗綱で、評定衆・関東使(幕府から京都へ派遣される特使)を務めるなど 幕府の信頼が厚かった。 しかし、宗綱の死後に後継者が不在となり、道誉が養子となって京極家を継いだ。道誉は 元服の際、得宗・高時から一字を与えられ「高氏」と名乗った。道誉は左衛門尉、次いで 検非違使となった。検非違使は京都の治安維持にあたる役職で、朝廷が任命する。佐々木氏は 近江守護であるとともに検非違使として在京する機会が多く、朝廷・公家と密接なつながりが あった。一方で、近江国内に大勢力を誇る比叡山延暦寺(山門)とは、トラブルが多発していた。
元享3(1323)年の北条貞時13回忌では、「佐渡大夫判官」(佐渡守は 京極家が使用する受領名で、大夫は五位、判官は検非違使尉を指す)が高時に 太刀と馬を献上した。「正中の変」の直前、後醍醐天皇が石清水八幡宮に行幸 した時は検非違使尉として橋渡しの役を務める(増鏡)など、後醍醐とも面識が あった。正中3(1326)年に高時が出家すると同時に出家、「導誉」と号した。 (道誉の表記は、公家の日記でそう書かれることが多かったもので正式ではない) 元弘元(1331)年8月24日、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠置寺に立てこもると 幕府は大軍を派遣、このメンバーに道誉も含まれており、鎌倉にいたところを反乱鎮定の ため動員されたと思われる。後醍醐が捕らえられると軍の大半は鎌倉に帰還したが、道誉は そのまま京都にとどまり蔵人頭・千種忠顕の身柄を預かった。六角家の時信は尊良親王の 身柄を預かっていて、この時点では、六角家の方が京極家よりも実力が上だったことが分かる。 翌年、後醍醐が隠岐に配流されると護送役の一人となり、帰京後は北畠具行を鎌倉に護送する ことになるが、途中で幕府の命により処刑する。
幕府滅亡時の動向は資料がなくはっきりしないが、六波羅攻撃に参加した形跡がなく 六波羅軍全滅後、光厳天皇から神器の接収が行われた伊吹太平寺が道誉の本拠地・柏原に 近いことから、足利高氏の命により京都と鎌倉の通路を遮断するため、本拠地で待機した 可能性が考えられる。 建武新政下で道誉は、佐々木(六角)時信、佐々木(塩冶)高貞、佐々木如覚らと共に 雑訴決断所のメンバーに選ばれた。佐々木一門は元来、朝廷のつながりが深かったことから 重用され、道誉も京都に滞在する期間が長くなった。建武2(1335)年には、後醍醐の 中宮・c子(じゅんし・後伏見院皇女)内親王の平産祈願に佐々木一門の中で唯一加わった。 この頃、六角家の時信は何らかの理由で失脚していたらしく、佐々木一門における京極家の 地位は向上していた。しかし、依然として近江守護職は六角家の手中にあった。
「中先代の乱」では尊氏の軍に従軍して鎌倉奪回に貢献し、尊氏から恩賞給付を 受ける。後醍醐と尊氏の関係が決裂して討伐軍か京都から迫ると、戦意喪失した 尊氏に代わって対応に苦慮する直義に、積極的な反撃を進言する。手越の戦いで 弟・貞満を戦死させてしまい一旦は義貞に降伏するが、竹下の戦いでは足利軍に 復帰する。 尊氏の九州落ちには従わず、京都付近で待機していたらしい。足利軍が光厳上皇を 奉じて入京すると、後醍醐が逃れた山門を信濃守護・小笠原貞宗と共同で包囲して 下山に追い込んだ。「建武式目」の制定に道誉が関わったかは不明だが、京都と 近江の距離の近さから幕府を京都の置くことに積極的だったと推測される。幕府 開設後、若狭守護、さらに六角家以外で初めて近江守護になるが、これらは短期間の 在職に終わった。近江守護は、時信の子・氏頼が継承した。
暦応3・興国元(1340)年10月6日、道誉と嫡子・秀綱は天台三門跡の一つ 妙法院を焼き討ちにした。山門は道誉の断罪を要求するが、幕府は処罰に消極的で 形ばかりの流罪に決した。道誉にとって山門は父祖代々の宿敵であり、幕府にとっても 山門は苦々しい存在であったことを考えると、事件の背景には幕府の暗黙の了解が あった可能性もある。翌年には、道誉は幕府に復帰している。 暦応4・興国2(1341)年、犬上郡甲良に勝楽寺を創建、本拠地とした。道誉の 勢力基盤は近江北部四郡(坂田・犬上・浅井・伊香)であり甲良は京都により近く、 六角家の本拠地・観音寺城に対峙する場所だった。この年、出雲・隠岐守護の佐々木 (塩冶)高貞が失脚して出雲守護には直義派の山名時氏が任命されるが、康永2・ 興国4(1343)年、道誉は出雲守護職を尊氏から与えられた。
この頃から幕府は直義派と師直派の対立が明確となり、以降、道誉と時氏は出雲を 巡って宿敵の間柄となる。また、引付方(五番制、幕府の所領関係訴訟を担当する 裁判所)の頭人(長官)の一人だったが、康永3・興国5(1344)年の編成替えで 直義派の吉良貞家と交代させられる。 道誉は引付方の上位の者として、幕府最高決議機関・評定会議のメンバーである評定衆 (人数は一定していない)も兼任した。さらに、幕府の意向を朝廷に伝える「武家申詞 (もうしことば)」にも、兄・善観や妻の父・二階堂時綱と並んでたびたび選ばれている。 公家側の交渉窓口・勧修寺経顕と親しく、その事務交渉能力は高く評価されていた。 康永4・興国6(1345)年、尊氏から近江国甲良荘地頭職を与えられて、本拠地の 支配を強固なものとした。
貞和3・正平2(1347)年12月から翌年1月にかけて、師直の楠木正行討伐、 吉野攻撃に参加して勝利するものの、南朝軍の反撃で次子・秀宗が戦死する。貞和5・ 正平4(1349)年、直義と師直の対立は頂点に達し、閏6月・師直の執事罷免、 8月・師直によるクーデターと直義の屈服、12月・直義出家と情勢はめまぐるしく 変転する。道誉は師直派として、引付頭人への復帰を果たした。直義の裁許権は10月に 鎌倉から上洛した義詮に移り、義詮の裁許状に道誉は引付頭人として花押をすえている。 観応元・正平5(1350)年、土岐周済の反乱鎮圧に出陣し、尊氏が直冬討伐のため 九州へ下向することを、勧修寺経顕を通して光厳上皇に奏上した。やがて、失脚・潜伏 していた直義派が南朝と結び各地で蜂起、京都に迫ると道誉は京都防衛に奔走する。 しかし、直義派に戦況が有利となり寝返る者が続出、六角家の氏頼も直義に降伏してしまう。 尊氏軍は翌年2月17日、摂津打出浜で直義軍と決戦、結果は直義軍の圧勝だった。師直は 出家するが、上杉能憲が暴走して高一族を皆殺しにしてしまう。能憲にとって師直は親の仇だった。
直義は2月28日、京都に凱旋。政権の座に返り咲いた。道誉は師直派の枢要メンバーで 重い処罰が予想されたが、尊氏の強力な宥免要請によって、仁木頼章・義長、土岐頼康と 共に所領の没収を免れた。しかし、出雲守護・引付頭人は解任される。尊氏と直義の関係は 急速に悪化して、直義に降伏した氏頼は進退に悩み、6月、高野山に入り出家する。 7月28日、尊氏と義詮は佐々木・赤松・土岐の反乱を鎮定するため、大軍を率いて出陣する。 直義は京都を包囲する作戦と見破り、越前に逃れた。この作戦は道誉が重要な役割を演じている ことから、道誉の発案による可能性もある。 直義は鎌倉に移り抵抗を続けたため、尊氏は軍を率いて京都を離れた。京都の防備が手薄となる ことから安全確保のため、幕府は南朝に降伏した。この和睦は、道誉が強く主張して実現したとされる。 京都の守備を任された義詮は道誉を「佐々木大惣領」として、氏頼出家により惣領不在となった 佐々木一族を軍事的に統率する権限を与えた。
直義死後、南朝と幕府の和睦は破棄されて南朝軍が京都を軍事的に制圧するが (南朝の第1回入京)、幕府軍の反撃で撤退した。この時、南朝が北朝の皇族を 拉致したため、幕府は大きな困難に直面した。道誉は弥仁王(やひと・光厳院の 第三子)の即位と広義門院(後伏見妃)の政務を、勧修寺経顕を通して要請し 北朝の再建に成功した。 実務能力に優れた直義派の要人が失脚した穴を埋める形で、道誉は重職を歴任し 幕府の最重要人物にのし上がることになる。山門造営奉行(延暦寺の造営を担当)と して、延暦寺の末社・祇園社の人事に介入、祇園社の近くに邸宅を構えた。道誉の 邸宅は商業地にあり、商工業者と密接なつながりがあったと思われる。政所(雑務 沙汰と呼ばれる、売買・貸借を担当する将軍家の家務機関)執事として幕府の財政に 携わり、延文4・正平14(1359)年に飛騨守護、貞治6・正平22(1367) 年に訴訟案件の受理・担当奉行任命など引付方の運営を管轄する「賦(くばり)奉行」を 務めた。義詮の信頼は絶大で、「武家権勢道誉法師」(園太暦)と称された。
出雲守護・引付頭人にも復帰を果たすが、守護職を奪われた山名時氏は南朝・直冬と 組んで出雲に攻め込み、道誉の派遣した守護代を追放する。勢いに乗った南朝軍(主力は 山名軍)は、文和2・正平8(1353)年に京都を占領した(南朝の第2回入京)。 この時、道誉の嫡子・秀綱が戦死する。 延文5・正平15(1360)年、管領・細川清氏が総大将となり摂河泉地方の南朝勢力に 対する大規模な掃討作戦が実施された。しかし、遠征軍の足並みは乱れ、特に仁木義長は 清氏の指揮のあからさまに反発したため、作戦は不成功に終わった。清氏と義長の対立は 激化し、清氏は義長討伐の準備を始める。身の危険を感じた義長はクーデターを決行、義詮を 幽閉して将軍の身柄を楯に、清氏に対抗する。道誉は義長との関係は悪くなかったが、混乱 収拾のため義長の排除を決意、義詮を幽閉から救って義長を没落させた。
道誉は清氏を管領に推挙するなど当初は支援していたが、加賀・摂津の守護職人事を 巡り対立が深まった。義長没落の翌年、清氏の謀叛を義詮に伝え(清氏の謀叛が事実 かどうかは定かでない、今川了俊は否定している)、清氏を失脚させる。幕府の動揺に 乗じて南朝軍の攻勢は活発となり、摂津では道誉の孫、秀詮・氏詮が戦死する。 行き場の無くなった清氏は南朝に降伏して、逆に京都に攻め上った(南朝の第4回入京)。 道誉は京都を捨てる際、自邸に酒宴の準備を整えた。屋敷に踏み込んだ楠木正儀は感嘆して 太刀を一振り置いて引き上げた。これが最後の南朝軍入京となり、清氏は従兄弟・頼之の 討伐を受け、戦死する。 清氏失脚後は、斯波高経が実権を握る。高経は幕府創業以来の直義派の重鎮で、尊氏・義詮と 対立したが、幕府復帰後は越前を本拠に強大な勢力を築いた。道誉は高経の三男・氏頼に娘を 嫁がせ協調したが、管領には氏頼でなく四男・義将が就任したため両者の溝は深まった。貞治 2・正平18(1363)年、道誉の子・高秀が侍所頭人を罷免され、道誉が高経を討とうと しているという風評が立つなど情勢は緊迫化した。貞治5・正平21(1366)年、道誉は 婿の赤松則祐らの支持を取り付けて、高経を追放した。高経は翌年、病死する。
道誉の守護追い落としは結果的に、将軍に対抗する有力守護の削減と将軍権力の 強化につながった。道誉は南朝との和睦にも積極的で、貞治6・正平22(1367)年 失敗に終わったものの、南朝と和平交渉を行った。鎌倉公方・足利基氏没後、関東の 動揺を押さえるため、幕府特使として鎌倉に派遣された。帰京後、義詮が死去。 将軍・義満、管領・細川頼之の体制が発足するとともに政界から引退した。 応安6・文中2(1373)年8月25日、近江国で死去。訃報を聞いた公家は 「前代以来の大名」(愚管記)と評した。道誉がもっとも力を注いだ文芸は連歌で 二条良基が編集した「莬玖波集(つくばしゅう)」に武家でもっとも多く入集し 勅撰に準ずることを朝廷に申し入れて実現させた。観阿弥・世阿弥と交流があり、 田楽・猿楽・花道など新しいものに旺盛な関心を示した。道誉の創建した勝楽寺は 禅宗寺院だが、京都の邸宅に近い時宗の金蓮寺に所領を寄進するなど、新興の時宗にも 理解があった。 道誉の後は三男の高秀が継ぎ、出雲守護・侍所頭人を務めた。細川頼之と斯波義将の対立では 土岐頼康と共に義将を支援して頼之を失脚させるなど、幕府の実力者として勢力を保持、京極家を 四職家の一角とした。また、和歌にも秀で冷泉為秀の門弟の第一として、文書の保管を任された。
以上、人物叢書からまとめてみました。道誉って、直義と師直が退場するまでは あまり目立っていないんですね。鎌倉幕府の頃から、いろいろ暗躍していたと 思い込んでいたので、意外でした。
>272 >鎌倉幕府の頃から、いろいろ暗躍していたと思い込んでいたので、 確かにそういうイメージはあるなぁ。 大河ドラマとか色んな小説なんかの影響で。 やはり現実はそれほど簡単ではない、ということか。 とはいえ将軍が義詮になって以降の政治力はやっぱり凄いね。 一朝一夕にこれだけの力は得られないから、 目立たなくてもじっくりと実力を養っていたんだろうな。 そういえば赤松則祐が聟、ってあったけど婚姻政策なんかも その政治力形成の一環かもね。
それなりに暗躍はしてたけど、同格以上の尊氏、直義なんかがいなくなるまでは隠れてたってところかもなあ 長生きして最後に残った大物だから目立ったというか
大河ドラマだといつもヘラヘラしてバカみたいだったけどなw しかし南北朝の動乱の中で弟だけじゃなくて 息子二人も失っているんだね。 どうも大河のイメージが強いので、悲しんでいる姿が なかなか想像できんけどw
276 :
日本@名無史さん :2007/04/01(日) 02:15:22
しょっちゅう裏切ってばかりというイメージも強いのに、 実際は箱根竹の下の時だけなんだな。
277 :
日本@名無史さん :2007/04/13(金) 22:08:15
なんだかんだ言っても、尊氏にもっとも忠誠心厚い男。外様なのにね。
忠誠心の厚さまではどうだかわからんけどね。 尊氏の九州落ちには従っていないようだし、 やっぱり要領良く立ち回っていた感がある。 ただ、案外筋を通すところは通すタイプだったのかも。 毛利元就とか徳川家康なんかも普段は温厚篤実で通していたそうだし、 またそうでなければ人はなかなか騙されないだろう。
道誉の忠誠が目立つようになるのは、 尊氏の代よりも、むしろ幕府がちょっと弱体化しかかる義詮の代 じゃないかな。やっぱりちょっと異色な人物だ。
280 :
日本@名無史さん :2007/04/15(日) 17:50:34
ただ幕府内での道誉の地位は子孫には継承されないね。 正式な役職に就いているわけではない元老みたいなものか。
>>278 逆に足利が敢えて導誉を要衝の近江に残らせた可能性は無いの?
>281 可能性でいうなら大いにありだと思う。 ただ、もし尊氏が再起できなかった場合はそのまま宮方で通すことも 出来るわけで、やっぱりちょっとおいしいポジションにいたという感は 否めない。
道誉なら策で残してるんじゃなくて本当に宮方に寝返ったと思わせることもできるから 尊氏がそこまで考えるタイプにも見えないけど
道誉がいつどこで足利軍から離脱したのかがポイントじゃないか? 豊島河原の合戦よりも前ということになると、やっぱり形勢不利と 見ての離脱になるような‥‥
285 :
日本@名無史さん :2007/04/23(月) 05:26:23
>>281-282 建武3年段階で道誉は尊氏から東近江の軍事指揮権を任されているから可能性はある。
286 :
日本@名無史さん :2007/05/22(火) 17:04:02
>281 南朝方の比叡山籠城が困難になった一番の要因は佐々木道誉の湖上封鎖だからな。 九州落ちで少しでも兵力が欲しいって時に、そこまで見越して道誉を近江に残したのだとすれば尊氏の先見の明は見事だ。
287 :
日本@名無史さん :2007/05/24(木) 00:41:50
>>286 道誉の判断だと思うよ。
尊氏の判断で道誉を残す、連れて行くというのは現実問題として難しい。
都で苦戦しているとき、何故道誉は背後を突かなかったのか。
新田義貞はともかく、楠木正成が都にいる以上、後醍醐方としては足利方を分断した、尊氏は選択の余地はなかった、道誉は日和見を決め込んだ、というのが妥当なのでは。
尊氏が九州から捲土重来し、楠木正成が戦死した後なら、道誉のとるべき道はひとつだろう。
>>287 大筋では同意だけど細部に疑問。
>都で苦戦しているとき、何故道誉は背後を突かなかったのか。
だって道誉は尊氏軍の中にいたんでしょ?
仮に道誉が戦線を離脱し、領国に戻って軍勢を催したとしても
宮方の背後を突けるほどの兵力が動員できたかは疑問じゃないかな。
>尊氏が九州から捲土重来し、楠木正成が戦死した後なら、道誉のとるべき道はひとつだろう。
これは楠正成を過大評価し過ぎでは?
道誉に限らず、正成の存在どうこうで天下の武将の動向が左右されたとは思えないんだけど。
289 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 21:38:07
楠木を過大評価しすぎなのは梅松論。
290 :
日本@名無史さん :2007/06/05(火) 00:39:32
佐々木一族って何気に幕府に殉じたの多いな
291 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 17:38:59
そう言えば、滋賀県の沙沙貴神社って言うところで 毎年一回、宇多源氏の一族が集まって祖霊祭をやってるらしいけど やっぱり道誉の子孫も参加してるのかな。
292 :
日本@名無史さん :2007/07/03(火) 20:31:44
>>291 確か、宇多源氏・佐々木源氏の同族会があって
その会のメンバーが出席してるはずです
もちろん京極家もメンバーなので、出席していると思います
293 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 01:50:04
尼子氏の子孫と顔を合わせたりしたら気まずくない?
294 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 01:53:46
確か佐々木神社には乃木大将のお手植えの松か何かがあったよね? 乃木氏も宇多源氏(佐々木高綱の子孫?)なんだとか。 あと出身が近江商人だからかどうかは知らないが、 財閥の三井や鴻池も本姓は宇多源氏だね。 最近でいえば国民新党の亀井久興幹事長も、 れっきとした佐々木塩冶氏の子孫だったような・・・。
>>291 4月に沙沙貴まつり、10月に近江源氏まつりがあるそうですが、そのいずれかでしょうか。
あるいはまた別に一般人には知られずに行われているのでしょうか。
296 :
292 :2007/07/04(水) 17:59:50
>>295 一族が全国から集まるのは10月の近江源氏祭だそうです
297 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 04:27:04
近江源氏って宇多源氏のことだっけ?
298 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 11:13:57
>>297 そうそう、宇多源氏の敦実親王流を特に近江源氏(佐々木源氏)と言う
佐々木荘に本拠を置いたことから、佐々木を名乗が、元々近江の国には
孝元天皇の皇子大彦命(大毘古命)の子孫である沙沙貴山君が勢力を持っていたため、
新参の「佐々木」に反発し自らを「本佐々木」と称して抵抗し、両勢力は対立関係にあったのだが
古代からの豪族沙沙貴山君が、武士化した佐々木源氏の勢力に押される形で
二つの血統は、徐々に融合していったと言われている。
まぁ、平たく言えば近江源氏には、宇多天皇系の佐々木源氏と
孝元天皇系の沙沙貴山君の二つの血統が融合しているのだが
系図上では、単に宇多源氏とされる
299 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 19:46:26
>>298 うんうん、まっそんなところだろうね
ウイキペディアには、沙沙貴山氏が宇多源氏を仮冒したと書いてあるけど
宇多源氏佐々木の進出がなければ、古代からの血統を誇る沙沙貴山氏が
それを全て捨てる形で、宇多源氏を名乗る必然性がないから
まぁ宇多源氏の一派が佐々木を名乗って進出してきたので
最初は、本佐々木とか言ってそれに対抗したけど、宇多源氏佐々木の方が
力が強くなってきたので、それまで本佐々木を名乗っていた沙沙貴山氏系の
一族も、その力にあやかって宇多源氏の佐々木を名乗り始めたと言うところだろう
300 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 20:20:39
本佐々木と、佐々木とは、沙沙貴山氏と宇多源氏であるという証拠は何もない。 常識的に同じ沙沙貴山氏内の本宗家と分家の違いである可能性のほうがはるかに自然。
301 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 23:15:04
それを言い出したら、すでに孝元天皇の後裔を称して一大勢力を持っていた 沙沙貴山君が、わざわざ宇多源氏を仮冒する必要性もあまり感じないのだが 戦国時代なら成り上がり者が貴種を僭称する必要があっただろうが、 しかも皇族関係の血筋を僭称するにしては、近江では京に近すぎる よって、かえって佐々木氏に宇多源氏の血が一切入っていないとは考えにくい
302 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 23:24:13
>>300 質問なんですが、佐々木氏が宇多源氏ではないとの説を採る場合
すでに孝元天皇の後裔を称していた沙沙貴山君一族が
宇多源氏を名乗ることになった理由はなんなんでしょう
つまり、藤原氏を名乗っていた徳川が征夷大将軍に成るために
清和源氏を僭称したように、祖を偽るにはなにか理由やきっかけがあるはず。
そのあたりが、現在の歴史研究ではどう考えられているのかが知りたい
303 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 02:28:38
近江源氏とは近江にいた清和源氏系の一族のことであり、 佐々木氏や宇多源氏を指すわけではない。
また珍説が出てきたな、清和源氏てw
>>304 たしかに普通は清和源氏満季流と言うわな、それを近江源氏と言いたいんだろほっとけ
306 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 21:01:37
>>305 アホ。佐々木源氏は宇多源氏って確定してるんだよ。発詳は源満仲。
あの当時近江には、空想上の神(朝鮮から)、阿吽王信仰があっただけ。そして朝鮮人が近江に1000人程受け入れただけであって、佐々木神社神官を介して朝鮮人との血縁があったわけではない。朝鮮人(大陸出身)との混血だから清和源氏といいたいんだろ?
308 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 23:32:14
>>301 沙沙貴山君は卑姓であり、貴姓たる源氏に改姓する十分すぎる理由があった。
>しかも皇族関係の血筋を僭称するにしては、近江では京に近すぎる
神別である大江氏は京都にいながら、尊卑分脈では堂々と平城天皇の子孫と詐称していますが何か?
w
309 :
295 :2007/07/07(土) 01:17:58
310 :
日本@名無史さん :2007/07/07(土) 01:46:31
>>310 その記述はまともだけど、なんか最近のwikipediaはあんまりあてにならないよなあ
昔は専門家っぽい人が書き込んでたけど、最近はトンデモっぽい人も多いし
>>308 で佐々木が沙沙貴だとする、ちゃんとした学説と資料はどこ?
佐々木を源氏とする人もその根拠はなに
原典や資料なしでそんなこと言われてもな
現在の日本史学会ではどういった説が採られてるの?
系図学会ではどうなのよ、その辺を教えて欲しい
2ちゃんねらや小説家の妄言や町の研究家の説はいらね
313 :
日本@名無史さん :2007/07/07(土) 08:20:29
>>308 大江氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02102.htm ちゃんと土師出身だと解ってるじゃない
尊卑分脈は系図研究の一大資料だが、後世になって作られた物なので
あなたが言うように嘘や錯誤、または隠喩が多くそのまま信じられない物ですよね、
だから、普通は他の当時の資料を研究した上で現在の通説が作られているわけでしょ
で、佐々木源氏が源氏じゃ無いという説が主流にならないのはなぜ?
別に佐々木が源氏だと言っているのではなくて、現在の歴史学ではどういう扱いになっているのか
詳しい話がお聞きしたいんですよ、できればあなたが参考にしている資料や学説をご紹介頂きたいです
できれば、沙沙貴が佐々木源氏を名乗るようになった課程と
沙沙貴山君は卑姓と言う資料もお教え頂ければ幸いです。
>>312 佐々木を宇多源氏とするのは、結局「尊卑文脈にそう書いてある」ということに尽きる。
ところが明治の近代史学では、一次史料や六国史のようなよほど信用ある資料を基にしない限り、
歴史的事実の根拠とすべきではないとする原則が承認されるようになった。
その結果、尊卑文脈に書いてあることよりも、近江の地にはもともと宇多天皇以前から佐々木を名乗る連中がいるではないか、
佐々木源氏の本当の祖先はこれだろうという説が唱えられるようになった。喜田貞吉も大田亮も、この説がおそらく正しいとしている。
言ってみれば、戦国の浅井氏が、正親町三条なんとかの子孫であるという説を学者が信じず、それ以前からいる近江浅井氏の末であろうと考えるのと同じだ。
>>313 そのサイトに出ている系図は明治以降の偽系図も多く、なんでも真に受けないほうがいいよ。
大江氏は土師氏の出であるが、本主以前の系図は不明である。
神話時代からのもっともらしい系図がサイトで紹介されていることもあるが、明治ごろの偽系図らしい。
大江氏は、江戸時代までは一般的には平城天皇の末で通っており(毛利氏)、
土師氏の末であるというのは明治になってようやく一般化した説である。
これは近代歴史学の勃興により、六国史の記述を優先するのが当然とされたためである。
316 :
312.313 :2007/07/07(土) 09:01:12
>>314 >>315 ありがとうございます。
系図は信用できないですから、確かに系図に資料的な価値は
ほとんど無いと言えますね。
>>314 なるほど、では佐々木=宇多源氏説は、現在の史学では完全否定なのですか?
それとも一時資料が無い状態で両論並び立つ状態なのでしょうか?
あと、これは個人的な疑問ですが
当時の公家の日記などから、宇多源氏の一族が近江の国を受領して下向した
と言う話は本当だとする話もきますがその後この宇多源氏はどうなったと考えられているのでしょうか?
それとも、下向したと言う話そのものが作り話なのでしょうか?
>>308 卑姓根拠は日本書紀にありますね
でも、倭袋宿裲は妹の置目の功により救われ
本姓の狭々城山君の氏を賜った、と有りますがこれは
狭々城山君一族の遠慮して、賤に落とされたのは韓袋宿裲だけで
狭々城山君一族は賤民じゃないという風に話を作っただけなのかな?
317 :
312.313 :2007/07/07(土) 09:13:22
>>316 実際問題として、一時資料や信用できる資料が残っていて確実に○○氏といえる一族なんてほとんど無いんだけどね
あともう一つ、ここは佐々木道誉スレであって、佐々木源氏全般のスレじゃない、
興味がわいて話がしたいなら別スレてたてそこでやれ
>318 >あともう一つ、ここは佐々木道誉スレであって、佐々木源氏全般のスレじゃない、 堅いこと言うなよ。どうせ過疎だろ。
>>316 はっきり言っちゃうとね、平安期に中央の貴族が地方に下向して土着したと自称する
清和源氏や桓武平氏を初め、源平藤橘を称する地方豪族の系譜を子細に調べると
そのほぼ全てが仮冒だとする研究者もいるくらいでさ、信用できる資料の無い話は
ぶっちゃけ良くわからんのだわ、佐々木氏が始祖と称している源成頼だってね
居た、居ない、実は同名の別人だった、系図に隠喩がある、いややっぱり居た
等々諸説紛々だしさ
>狭々城山君一族の遠慮して、賤に落とされたのは韓袋宿裲だけで
>狭々城山君一族は賤民じゃないという風に話を作っただけなのかな?
これにしたって、五色の賤の1つ陵戸を沙々貴の語源とする説の他にもね
沙々貴山君の報じていた少名彦那の神が鷦鷯(娑娑岐)の羽毛を纏とっていたことにちなんだとか
いやいや、元は山部を司った雀部朝臣だったんじゃないかとか、これもメジャーマイナー様々な説が入り乱れてる
信頼のできる資料が発見されるか、タイムマシンでも発明されない限り議論は続くんじゃね
>>317 あのさ、聞いたことがないとかここで質問する前にググって見ようよ
322 :
日本@名無史さん :2007/07/12(木) 20:07:22
>>321 デタラメで気分屋α虚無主義者の投稿はいただけない。焼きもち?
佐々木氏の始祖は、宇多天皇=源満仲。
324 :
日本@名無史さん :2007/07/17(火) 21:50:53
まあ清和源氏か陽成源氏かの論争と同じくらい不毛な論争と言うことがよくわかった。
ところで、
>>322 はなにをいわんとしてるの?
まさか宇多天皇の源満仲が同一人物とか?
時代的に3世代くらい時期が違うが。
325 :
日本@名無史さん :2007/07/17(火) 23:18:21
満仲から佐々木姓を名乗った
326 :
日本@名無史さん :2007/07/25(水) 02:13:09
多田満仲?
327 :
日本@名無史さん :2007/07/30(月) 14:28:53
六角家って元気?
道誉がいなければ義詮は頼家のように幽閉・殺害され、上杉氏が基氏を擁して 幕府の実権を握っていたかも。あるいは、斯波高経が足利嫡流を主張して将軍に なっていたとか。
329 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 16:46:22
>>328 そして斯波高経は平賀朝雅のようになる。
寺に押し込められていた義満が逆恨みから叔父の基氏を殺害。 上杉らの郎党の手にかかって呆気なく犬死にを遂げる義満。 何かイメージしにくいな。
331 :
日本@名無史さん :2007/08/13(月) 14:56:40
基氏の寿命が史実通りなら、義満が成人する前に死んでいるはず。
332 :
日本@名無史さん :2007/10/15(月) 09:13:57
だね
333 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 01:31:14
六角氏(ろっかくし)は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む 鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を 持った武家(守護大名) なお、藤原北家流の公家六角家とは血のつながりは無い。
334 :
日本@名無史さん :2008/01/09(水) 00:02:01
足利氏=佐々木氏>京極氏です。 足利と佐々木(六角)は同格の武家。 京極はワンランク下の佐々木家庶流です。
何を以て同格とするの?
ほんとは道誉なの?それとも導誉?
昔はほら、その辺が大らかだから
北海道警と道誉は似てる
339 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 17:20:59
諱は高氏
340 :
日本@名無史さん :2008/04/27(日) 12:59:12
蛆はハエの幼虫
子孫にはあまりパッとした人がいないね。 婆娑羅大名は一代限りの輝きみたいなことを海津一朗氏も 書いていたけど道誉にもあてはまるかも。
343 :
日本@名無史さん :2008/06/15(日) 22:35:44
本家の京極より分家の尼子の方が有名。
六角定頼なんかは優秀でしょう
345 :
日本@名無史さん :2008/06/21(土) 00:17:14
土岐が斬られて道誉が助かった理由は何ですか
>>345 土岐は上皇に対する狼藉。
足利政権の正統性を象徴するものに対する乱暴は死罪相当。
347 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 06:20:15
妙法院は延暦寺だからね。道誉の狼藉は単なる狼藉じゃない部分がある。 だから普段対立筋の直義周辺にも道誉を擁護する意見があったとか。
350 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:19:13
尼子を支援して毛利をやっつけちゃえばよかった
351 :
日本@名無史さん :2009/02/07(土) 19:30:09
南北朝の内乱期における政治や社会には、ばさら大名などが出てくる理由を教えてください。二条が 河原落書見てもよく分かりません
353 :
日本@名無史さん :2009/02/08(日) 01:42:47
大河ドラマ太平記の陣内孝則のイメージしかない
朝廷は南北朝に分かれ 寺社は叡山を代表する旧派五山を代表する新興派 他にもいっぱいが争いあい 御家人に代表される鎌倉武士と 商業基盤に非合法も辞さない悪党 あらゆる勢力が己の利害に基づき 味方にもなり敵にもなる そんなカオス時代には旧来の権威は 大きく揺らいだ そんな時代かな
sage
>>353 そりゃ悲しいな。あの道誉はかなりおバカだったから。
実際の道誉は高雅な趣味と高度な政治的手腕との両方に長けた
凄い人物。
357 :
日本@名無史さん :2009/02/19(木) 22:10:12
趣味でも仕事でもハイレベル でありながら馬鹿に見せ、道化になり そういうのが婆沙羅だと思うけどね
sage
359 :
日本@名無史さん :2009/05/03(日) 21:03:51
おうよ
360 :
日本@名無史さん :2009/05/04(月) 10:55:23
桜事件の北朝をこけ下ろし、立派!南朝大塔宮系赤松宮皇統に内通の、赤松則祐の奥さんが道誉の娘だわ、赤松宮内通の足利幕府の軍事参謀の道誉どうよ!
うむ。
362 :
日本@名無史さん :2009/07/17(金) 20:35:10
あげ
363 :
日本@名無史さん :2009/07/24(金) 20:56:25
陣内道誉が最高
364 :
日本@名無史さん :2009/07/26(日) 14:11:39
俺解釈だが 高杉晋作なんかも傾奇な部類だと思う。
History is replete with examples of this. ,
367 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 23:56:39
官軍なんか完全に歌舞伎だったな なんなんだありゃ あの路線なんで日清日露まで続けなかったんだ
368 :
日本@名無史さん :2009/11/17(火) 21:12:21
>>365 付き合い入道だから、若い頃は剃髪まではしていなかったんじゃあないかな?
晩年は肖像画みたいになっちゃったんだろうけど。
上総には来たのか?
370 :
日本@名無史さん :2010/03/07(日) 11:11:05
しらん
371 :
日本@名無史さん :2010/03/27(土) 14:09:21
そうか
372 :
日本@名無史さん :2010/06/28(月) 00:24:12
age
373 :
日本@名無史さん :2010/06/28(月) 02:05:01
佐々木どうよといえば、陣内孝則。陣内孝則といえば、奥菜恵中だし堕胎疑惑