【九州説】邪馬台国畿内説ni議論を深めよう【厳禁】
1 :
俺等05772 :
2006/02/04(土) 22:41:34 邪馬台国畿内説論者同士で議論を深めませんか。どうも、 九州論者が入ってくると話が拡散して、何時まで経っても 同じ処を堂々巡りしてしまうように感じます。 ちなみに私は邪馬台国畿内論者であると同時に、九州狗奴国 が東征し、邪馬台国を滅ぼしたと考える者です。畿内説という 共通の地盤に立って、議論を深めましょう。
2 :
俺等05772 :2006/02/04(土) 22:45:54
邪馬台國の全体像 仮定1 邪馬台国時代、箱根越えは未だ不可能で、東国へ行くには伊豆半島を船で廻る必要があった。 仮定2 当時の魏の中国人には、日本は朝鮮半島から南に広がった島国という先入観があった。 仮定2から、@〜Bのように方向を修正できる。 @ 郡使が体験して記したことについては、方向をそのまま採用した。 A 倭人から聞いた編者の熟知している地域に対しては、方向を90°時計回りに変えた。 B 倭人から聞いた編者の不案内な地域に対しては、不案内が故に、方向をそのまま記した。 上の仮定を使うと、以下のような概略図を描くことが可能である。 _ 邪馬台國の全体像を、簡略図で示す(文字サイズを小に願います)。 ─-┘ \倭と韓の国境 (末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面)) 狗邪韓國\ (末盧=唐津、伊都=吉野ヶ里、奴=須玖、不彌=三雲の各遺跡) \ ↓(南南東) 対馬 \ (東南) 女王圏の東境 \ (東、水行二十日) | 一支 ┌→−−−−−−−−−−→投馬國 |千余里 | ↑→−−−−−−−−−−−−−−−−→邪馬台國−−−→|−−−→倭種国(南関東) ↓ ↑ (東、水行十日、陸行一月) | ↓ 末盧 不彌 ↓三千里 \ ↑ 奴 ↓ (東南)\↑/ 奴 国 ↓ 伊都 侏儒國(八丈島) −−−−−−−奴國と狗奴国の境 狗 奴 國
3 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 22:48:33
>>1 まずは、「狗奴國」が九州に在ったこと、「東征」が行われたという根拠を求む。
4 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 23:21:35
>>1 邪馬台国「日本説」の参加は認められるのか。
5 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 23:26:21
6 :
俺等05772 :2006/02/04(土) 23:40:27
>>3 まず、
>>2 の全体像を見て下さい。奴国の南に接して、「狗奴國」があ
ります。古事記によれば、九州は1つの島で4つの面を持っています。
白日別=筑紫国、豊日別=豊国、建日向日豊久士比泥別=肥国、
建日別=熊曾国ですが、九州の国は筑紫、豊、肥、熊曾の4国だけで
はありません。それなのに、何故4つの面なのか?それは政治勢力が
4つに分かれていたからでしょう。
問題は「建日向日豊久士比泥別」だけが非常に長い名を持っている
ことで、この国だけが正式名称で扱われているか、幾つかの国の連合
体であったからでしょう。この中に神武天皇の出発点である日向国も
含まれています。
倭人伝では奴国は女王の境界の尽くる処で、その南に狗奴國があると
書かれています。奴国は後の筑紫国でしょう。だとすれば、当然
狗奴國は、筑紫の南にある建日向日豊久士比泥別=肥国(含日向)、
ということになります。
後は、記紀の神話との整合性を図れば宜しい。もう一つ、266年の
豊と思われる女王の使節を最後にして、それから150年間の間、
日本は対中外交から姿を消しますが、「東征」が行われたと仮定
すれば、話がよく合います。
さらに、玉・剣・鏡の3点セットは初めに九州の墳墓に現われる
という事実は天皇家が九州出身者あることを示しています。
また、銅鐸の記憶が早い段階で畿内人から消え去ったことも、
「東征」が行われた根拠になるでしょう。
7 :
俺等05772 :2006/02/04(土) 23:49:33
>>4 九州説厳禁の意図は、あくまで議論の拡散を防ぐことにあります。
本来、九州説そのものの厳禁ではありません。それに準じて下さい。
何せ、九州説は邪馬台国の位置自体がバラバラで、纏りが無いのです。
>>1 俺等さん
新スレおめでとうございます。
ところで!
ここでこだわる邪馬台国畿内説って、何時の話し?
三世紀頃の話題なら
興味無いから、ここには現れません。
因みに、倭の五王『武』は神武ですよ!
9 :
俺等05772 :2006/02/05(日) 08:15:25
>>8 残念ながら、三世紀頃の話題が中心です。
>>5 を見る限りでは、新スレを建てる必要は無かった
かも知れません。興味の1つは邪馬台国が畿内だとした時、邪馬台国と大和朝廷をどうつなぐか
です。どうも畿内説の人達は邪馬台国がそのまま発展して、大和朝廷になったと考えているよう
な気がします。それが納得できない。笑
九州から来た力が、確実に畿内の政権に大きな影響を与えているのは、紛れも無い事実であり、
神武「東征」の神話が全くの作り事とは思えないのです。また、安本美典の古代天皇平均在位
10年説は統計的手段から導き出された結論であり、尊重されるべきだと思います。
>因みに、倭の五王『武』は神武ですよ!
◎石神神宮七支刀 泰和四年(369)
◎好大王の碑 辛卯年(391) or (331)
との整合性をどうとられますか? つまり、国内統一が出来ていない段階で、大規模な朝鮮進出
が可能と考えますか? また「珍」は「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の都督を名乗り、
「済」は百済を除き認められていますが、それとの整合性をどう考えますか?
10 :
御前等 :2006/02/05(日) 11:22:50
> 三世紀頃の話題なら興味無いから、ここには現れません。 この宣言が本当に実行されるなら、それだけでもものすごく立てた意味があるかも。
12 :
俺等05772 :2006/02/05(日) 11:42:58
>>10 私は大和朝廷内の王朝の交代を信じませんが、邪馬台国→大和への
交代と、忍熊王→応神への政権交代は信じる。
ところで、あなたの言う三輪王朝に、出雲系の影を強く感じるのは
何故でしょう? 卑弥呼が死んだ後、男王が一時国王になったが、
国が治まらなかったという記事がありますが、その男王は出雲系
ではないでしょうか?
14 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/05(日) 12:28:46
>>1 俺等さん 最後に
畿内邪馬台国物語が始まるのは、五世紀後半(二次神武東征完結)からだと思います。
神武東征とは、
壹與の時代に始まり、神武(武)までの二百年間の歴史です。
一次東征は、二世紀頃ニニギの死により断念し、九州撤退
その後女王共立へと歴史は動きます。
ま、とにかく
頑張って下さい。
他スレにて! ではでは
15 :
俺等05772 :2006/02/05(日) 13:02:44
>>13 かも知れないが、あそこは九州論者がうじゃうじゃいて、議論が
深まらないんだよね。まるで昔のマンガ「珍遊記」みたい。
または、ビッグコミックスピリッツの「奈緒子」かな?1年後に
みても、まだ先週号の続きのようにマラソンで走っている。W
16 :
御前等 :2006/02/05(日) 13:04:49
三輪山麓の大神神社は大物主=大国主が主神 そして百襲は大物主の結婚相手。 男王の存在は記紀ではわかりません。それに当てはまる人物は いないからね。ただ崇神時代に大神・石上・伊勢(原型)が 造られたみたいだね。石上というと物部、フルベフルベの祭祀。 振るのは銅鐸と、銅鐸は出雲で多く出土する遺物。 それと石神神社といえば七支刀もし記紀では卑弥呼時代=神功皇 后時代となっており、記紀で年代が正確物証となるわけだ。 このつながりがなにか気になる。
17 :
俺等05772 :2006/02/05(日) 13:33:56
>>2 畿内説より見た傍国比定(三訂版)
邪馬台国の傍国を、倭人伝の列挙順に全部比定しました。全部比定にも係らず、空白域になった
領域も挙げています。面白いのは、空白域はほとんど出雲を除く山陰・北陸諸国であることです。
@ 東海・中部・北陸
斯馬(しま)國 志摩国=(志摩+伊勢の海側)
伊勢:7世紀に、志摩、伊賀を含んだ国として成立。
己百支(じはき)國 尾張国=(尾張+三河+遠江)←前後の関係より推定。
伊'邪(いや)國 伊那国 ←那(da)の誤記と推定。
8世紀以前の中国人には、daと naが、同音に聞こえた。
都支(たき)國 土岐国=(美濃の東半分)
彌奴(みな)國 美濃国=(美濃+飛騨)
飛騨:風土記に云はく、この国は本(元) 美濃の内なり。
好古都(こかた)國 越後国 ←小潟国。信濃川の河洲には干潟が多かった。
新潟:信濃川の河洲に新しく出来た潟。400年以上前の古い名前。
不呼(ほこ)國 信濃国 ←葉木(はこ)国。山地で葉や木の多い国。
姐奴(つな)國 駿河国=(駿河+甲斐) ←津の国。清水辺から東国へ船で行った。
A 四 国
対蘇(つさ)國 土佐国
蘇奴(さな)國 讃岐国
呼邑(こお)國 阿波国 ←嗚呼ロ巴(あぁわ) の誤記か?
華奴蘇奴國 伊予国 ←讃岐の対の国は伊予(金讃岐:銅産出より推定)
(つづく)
18 :
俺等05772 :2006/02/05(日) 13:35:09
B 畿 内 鬼(き)國 紀伊国 為吾(いが)國 伊賀国=(伊賀+伊勢の山側) 伊勢:7世紀に、志摩・伊賀を含んだ国として成立 鬼奴(きな)國 近江国 ←鬼奴彌(生海)國の誤記か? 邪馬(やま)國 山城国 躬臣(こじ)國 河内国=(河内+摂津+和泉) 摂津・和泉を含め汎河内国と呼ぶ。 摂津:7世紀に津国として分離、和泉:霊亀二年(716)河内より分離。 C 西 国 巴利'(はり)國 播磨国 支惟(きゐ)國 吉備国=(備前(+美作)+備中+備後) 烏奴(あな)國 穴 国=(穴城(安芸)+周防+穴門(長門)) 鍾乳洞から付いた名か? 奴(な)國 筑紫国 D 敵 国 狗奴(くな)国 球磨国=建日向日豊久士比泥別 狗奴国連合:日向+日(肥後+肥前の一部)+豊の一部+阿蘇山 −−− E出雲連合(共立国) 空白域1=石見+出雲+伯耆+因幡+但馬+(丹波+丹後)+若狭?+越・・直接の従属国ではない。 (ただし、投馬(づま)=出雲 のみ記載あり) 越は(越前+加賀+越中)国。 F不明国 空白域2=豊国
19 :
俺等05772 :2006/02/05(日) 14:49:17
>>16 >>18 の空白域1を見て下さい。出雲の勢力範囲が解ります。さて、そこで問題なのですが、
何故、出雲の人間が畿内まで入り込んでいるかです。卑弥呼を王として共立した時、出雲
も人を送り込んで、国政に参加した。そして三輪山の近くに出雲村のような村を作った。
これが私の想像です。あなたは(出雲が畿内にいる理由を)どう考えていますか?
20 :
御前等 :2006/02/05(日) 18:08:14
記紀から大国主は出雲を中心に、日本を治めていました。しかし天高原族は 国譲りをせまり、それに反抗したタケミナカタは諏訪湖まで逃げ諏訪大社を 造りました。また記紀の神武東征にはナガスネヒコが三輪周辺で頑強に抵抗 を行っています。そのナガスネヒコはニギハヤヒ配下であり、ニギハヤヒが 神武の配下になることを決断したことで、降伏します。 このニギハヤヒの子孫が石上神社に関係が深い物部氏です。そして三輪山麓 にはニギハヤヒの大神神社です。出雲族というのは大国主系の先住民だと自 分は考えているのですがどうでしょうか。 投馬国の出雲とは別種。
21 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 18:11:27
(原文) カマ モチ ミ シマヘ ナキセリ オヤヒト ヨヒト ウタミ (翻訳) 鎌 持ち 彌 終へ 亡きせり 親人 世人 謡観 彌>天皇
22 :
ネタ振り :2006/02/05(日) 19:07:56
倭王権は、北九州、吉備、讃岐、出雲、讃岐など複数の 政治ブロックによる連合であり、諸勢力が協力して 平和的に巻向を建設した。ただし畿内勢力の地位は低い。 @銅鐸祭祀と方形周溝墓に代表される弥生的畿内文化。 A積石塚等の個性的な埋葬文化を生み出した阿讃地域勢力。 B楯築等の大型墳丘墓と特殊器台の吉備勢力。 C鏡、玉、剣の古墳文化につながる出雲地域。 D鉄器と首長霊祭祀の北部九州文化。 前方後円墳体制と纏向型都市建設はこれらの文化の複合体である。
畿内から出土する鏡は呉の円鏡で 九州から出土する鏡は魏の方鏡って事にかんしては?>1
24 :
通りすがり :2006/02/05(日) 19:25:26
明治時代までは、九州の博多に流れる御笠川と久留米の筑後川に合流する宝満川 は繋がっていた。邪馬台国が北九州にあるのならば、熊襲・隼人の前身と言える 狗奴国は南九州にあった。
26 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 22:02:26
>>25 プラムさん
「興味無いから、ここには現れません。」って言っといて、早速、名無しで「嫌がらせ」ですかw
27 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 22:17:34
>>22 出雲は鏡は卓越してない。剣もそんなにない。鉄製武器は九州、北近畿、北陸西部。玉は出雲でもいいが。
ただ四隅と交易ルートの掌握からは出雲も一大勢力なのは確か。
>>26 想定内。現れない=プラムというコテハンは使わない。
オイオイ とんだ濡れ衣だよ!
30 :
ぷらむ :2006/02/05(日) 22:36:06
どんどん荒らしちゃうぞ
31 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 22:39:04
>>27 剣は銅剣ならいっぱい有るぞ。
鏡だって、九州には負けるが、弥生期からそこそこ出てるだろう。
32 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 23:30:17
俺等さんよ こんなスレ作っても無駄だよ どんなに議論したところで新しい話題なんて出やしない 根本的なところが間違っているからな
33 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 23:47:31
>>26 さんよ プラムのコテ出して混乱させんように。あいつは今2チャンにいないぜ 他のサイトに参加してるようだから、あんましいじらんと、そうっとしといてやれや
34 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 00:03:49
35 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 00:36:23
>>31 出雲に弥生期の鏡は少ないよ。また古墳文化への継続なら銅剣じゃなくて鉄製武器が問題。
それに荒神谷の銅剣は弥生中期末の製作。埋蔵も後期半ばまでにはされただろう。
36 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 00:40:17
34レス中9レスがプだな。
37 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 00:50:03
具体的には?
38 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 08:33:10
>>26 プラムさんは私のスレにいやがらせはしないと思います。
コテハンは使わないで書く可能性は大いにありますが。
39 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/06(月) 09:55:11
俺等さん 乙です。
何時もながら盛り上がってますな! スマソです。
ところで
>>33 さんの言われている事は本当です(なんで解ったんだろう?)
そこで、他サイトの感想ですが
一般的に何処も変わりが無いのですが、相変わらず畿内説と九州説のバトルが柱のようです。
そこで、俺等さんや畿内説諸氏に質問ですが
何故、纏向以前の議論をしないのでしょうか?
この土台がキッチリしていないから重みが無いと感じるのです。
頑張って下さい。
40 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 12:53:12
>>39 >纏向以前の議論
すでに2chでも腐るほど行われていますよ。
プラムさんが登場された頃、つまり1年ほど前の
「邪馬台国は大和朝廷になったのか」スレは、この話題が柱の一つだったでしょ。
ただ俺等さんは同意できないのでしょうが
東遷(邪馬台国、狗奴国共に)説はもはや成立し難いですね。
出来ますれば俺等さんには、かつて井上光貞氏が提唱した「狗奴国東遷説」などをベースにするなどして
想像のみではない根拠ある仮説展開をされるのが望ましいでしょう。
あとは最新の発掘情報を加味されたうえで
何故東遷、西遷が考えにくくなったのかを再検討されるのが宜しいかと。
>>39 奥さんの携帯からアクセスしたってhostを見れば判るんですよ。
匿名重視の2chと言えど掲示板システムの仕様は他と同じ。
あまり、舐めた真似はしなさんな。
42 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/06(月) 14:49:58
俺等さん、「風土記」に都麻里があること知ってますか?
>>40 さん 乙です
そう言えばそのような議論が? あの頃は夢中にしがみついていたもので、記憶が!
>>41 さん 乙です。
どうしても私にしたいのですか?
>奥さんの携帯
ん〜っ。嫁さん携帯もってる!だから否定出来ない
>ホスト?
私の場合[水戸]と、出るでしょう。
IPも、言いましょうか?
馬鹿にしないで下さい。
そのくらいの知識は持ってます。
PCだってMS-DOSの頃から立ち上げしていましたので
(現在は、忘れましたが)
ま、私でいいんじゃないですか! 私がみんなやりました。
ん〜っ めんどくせー
44 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 18:08:32
>>39-40 >何故、纏向以前の議論をしないのでしょうか?
邪馬台国畿内説にとって必要なら、3世紀でなくとも議論するつもりです。
>想像のみではない根拠ある仮説展開をされるのが望ましいでしょう。
後からする予定でしたが、次から、そうした議論をしていきたいと思います。
>>42 >「風土記」に都麻里があること知ってますか?
いいえ、知りません。できればご説明をお願いします。でなければソースを。
45 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/06(月) 18:12:21
>>44 「日本古典文学大系」の「風土記・播磨国風土記・託賀郡」の中にあり
ます。(p335)
読み方は「ツマ」です。どうも「投馬国」と被るような気がしますね。
47 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 18:35:12
日中の年表対比から見た、弥生人のルーツ 最初、弥生人の渡来は徐福の到来が原因ではないかと考えたが、渡来の始りは徐福出航より 250 年以上早く、前 473年に、呉が越に滅ぼされたことと関係することが分った(居徳遺跡)。 また、越が楚に滅ぼされた時代にも、大量の亡命者が日本に来たと思われる(土井ヶ浜、吉野ケ 里遺跡等)。ここ迄が江南の国々の滅亡時期と対応する。つまり、北九州から山口・四国の銅剣 ・銅矛文化圏は江南からの亡命者が作った可能性が強い。(対蘇・烏奴・奴国の始り) 日・中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ 中国側戦国時代の年表 日本側弥生時代薄明期の年表 BC 473年 呉が越に滅ぼされる 約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷 BC 379年 越が呉に遷都する BC 334年 越が楚に滅ぼされる 約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人 約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺) 約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる BC 223年 楚が秦に滅ぼされる BC 222年 燕・代、秦に滅ぼされる BC 221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一 BC 219年 徐福、第2回出航 約2200〜2000年前 唐古・鍵遺跡に先進的な総柱構造 一方、唐古・鍵遺跡は徐福集団の第2回出航の時期と対応する。つまり、江南人もそれ以前に小 数入植しているものの(池上曽根遺跡)、畿内を中心とする銅鐸文化圏は、徐福が率いた山東半 島周辺からの渡来者が創った可能性が強い。(邪馬台国の始り)
48 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 18:37:23
中九州から南九州にかけての住民は、現在でも縄文人の特徴を備えている。渡来弥生人の一部が
最初、菊池平野に入植し、縄文人有力者と婚姻関係(海神=縄文人有力者)を結びながら、次第
に南へあるいは東へと勢力を拡大して行った可能性が強い。(狗奴国の始り)
一方、分らないのが出雲で、半島人の移住者なのか、徐福集団の一部が半島南部で一時暮らした
後、再び日本を目指して移動したのか? 何れにせよ半島との関係があるだろう。 弥生時代に
半島最南端が「倭の領土」だったことを考えると、徐福集団の一部だった可能性の方が強い。
↓根拠
三国志 韓伝
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓。
(韓は帶方の南に在り、東西を海で限りと爲し、南は倭に接す。方四千里なる可し。・・・)
>>45-46 有難う御座います。検討してみます。
49 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 19:06:45
50 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 19:15:56
51 :
俺等05772 :2006/02/06(月) 19:58:44
52 :
俺等05772 :2006/02/08(水) 08:06:36
俺等さん スレ全体が閑散としていますし、畿内の内容から逸れていますから、カキコしますね! ★それら琉球の産物が列島より出土すると言うことは、俺等さんが言われるように、交易の事実証明です。そこからどんな事が考えられるか? 列島の人達も、当時段階で琉球の様子を認識していた。 船を操り交易品の運搬に携わる人達は 列島の地理に精通していたそれも、『半端でない位』
俺等氏、長文乙です。
55 :
俺等05772 :2006/02/08(水) 20:08:35
>>53 狗奴国が「東征」に成功する為には、それなりの国力が必要です。それで、
狗奴国の力の源泉、つまり富と武力と情報について述べようと思ったのです。
つまり、「富」と「武力」と「情報」を交易と婚姻によって獲得した。
56 :
俺等05772 :2006/02/08(水) 20:33:39
>>55 「武力」について言えば、北九州は他の地域に比べ、圧倒的な鉄製
武器を持ってます。直ぐ南の狗奴国は、交易で得た富を鉄製武器に
換えることが可能です。
また、婚姻によって日向を得たことにより、黒潮ルートで紀伊半島
との交易路を確保し、併せて畿内の情報を得ていたと思われます。
神武天皇が最終的には熊野を経由して、畿内攻めを行っていますが、
紀伊半島南部と日向には人的な繋がりがあったと考えられます。
>>55 俺等さん
ここは畿内説のテリトリーなので、くどくどとは述べません。
私も、過去はともかく
現在は東征支持者です。
(貴方とは諸々の違いは有りますが)
倭人は、里数は知らないが列島の地理情報は、私達が想像している以上に把握していた。
そして、海岸沿いの華人や韓人(国際交易のプロ)達は、太古からそれを上回る知識があった。
それが私の認識です。
この認識、間違でしょうか?
58 :
俺等05772 :2006/02/08(水) 21:37:13
>>57 私は他の国の地理知識については、勉強不足につき分りません。
侏儒國については、倭種〜侏儒間は三千余里ですが、千葉市〜八丈島間は
約 300kmですから、1里=100mになります。これは仁川〜金海間の七千里
= 700km → 一里= 100mと同じ値になりますから、実際に侏儒国には
往来していたと考えるべきです。
>>58 俺等さん
【計其道哩當在會稽東冶之東】
……魏志 倭人伝……
この一文だけでも、当時の華人達の驚く程正確な地理知識を、感じる事が出来ます。
★先ずは先入観を捨て、今一度自分成りに翻訳を
試みていただきたく思います。
60 :
日本@名無史さん :2006/02/08(水) 23:36:14
男子無大小皆黥面文身。 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 計其道里、當在會稽、東冶之東。
今日も閑散ですね 原文【會稽東冶之東】 解釈:西南諸島(沖縄)
スレ閑散としてるんで、スレタイに合わせて自説の発表をしときます。 帯方郡(今のソウル)→七千余里・狗邪韓国(今の金海・釜山)→千余里・ 対馬国(今の対馬)→千余里・一支国(今の壱岐)→千余里・末盧国(今の 唐津)→五百里・伊都国(今の前原)→百里・奴国(今の春日)→百里・ 不彌国(今の飯塚)→水行二十日・投馬国(風土記に見える播磨国都麻里) →水行十日・陸行一月・邪馬台国(今の桜井) 大した説ではありませんが、反論等ありましたらカキコ気盆。
63 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/09(木) 18:08:41
64 :
俺等05772 :2006/02/09(木) 22:55:54
>>62 距離の問題については、文献を捏ね繰り回すより、実際に測って比較した方が楽なので、ディ
バイダー(コンパス)を使って測った。半島や島にぶつからない事を考慮に入れて、可能な限り
直線距離で測った。
・仁川から半島南西部の海岸までは 400km, そこから金海までは 300km, 合計 700km。
したがって、七千里= 700km → 一里= 100m or 1km=十里。
・金海から唐津までは直線距離で 約 200km。一方、「一海を渡ること千余里」が3回。
したがって、三千里= 200km → 一里= 66.7 m or 1km=15里。
故に、一海を渡る千余里は、実際の距離ではなく、慣用的に言っているに過ぎない。
・侏儒國を八丈島とすると、千葉市〜八丈間は約 300km、倭種〜侏儒間は三千余里だから、
一里=100mになる。これは仁川〜金海間の 一里= 100mと同じ値。
唐津〜前原間:29km, 従って、五百里= 29km → 一里= 58m、故に、伊都=前原は妥当でない。
前原〜春日間:25km, 従って、百里= 25km → 一里= 250m、故に、奴国=春日は妥当でない。
春日〜飯塚間:飯塚に行くには、再度、福岡に戻る必要がある。これは妥当でない。
以上から、伊都=前原は妥当でない。また、連続式読み方は正しくない。
65 :
俺等05772 :2006/02/09(木) 23:00:59
>>17-18 畿内説から見た邪馬台国、全見取図
@中部・・・畿内の近い方から遠い方へと、数え上げている。
A四国・・・対角線状に、数え上げている。
B畿内・・・邪馬台国を囲んで、反時計回りに数え上げている。
C西国・・・瀬戸内側のみ、東から西へ数え上げている。
D山陰+豊国(空白域)
空白域1 好 古 都( 越 後 )
┌→ (石見−出雲−伯耆−因幡−但馬−(丹後,丹波)−若狭−越) / \
↑ 彌奴←都支(土岐) 不
烏奴(穴)←支惟(吉備)←C巴利(播磨) 邪馬(山城) (美濃) ↑ 呼
奴(筑紫)/ / \ 伊邪(伊那) (信濃)
↓ 躬臣 邪 鬼奴(近江) / \
国境 ------ 華奴蘇奴(伊予) ┐蘇奴(讃岐) (河内) 馬 ↑ 己百支(尾張) 姐奴(駿河)
↓ ┌┼┘↓ 台 為吾 /
狗 奴 A対蘇(土佐)└呼邑(阿波) (伊賀) ↑
(肥・日向) / @斯馬(志摩)
B鬼(紀伊)
66 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/09(木) 23:29:18
俺等さん 仁川⇔金海が(妥当) 金海⇔末盧が(慣用) 末盧以降は ( × ) ですか。 何故、仁川⇔金海が〇で末盧以降が×なんですか? これでは畿内に到達出来ずに『ふりだしに戻る』ですよ! 地図による計測を試みるなら、 (仁川⇔女王国の距離)÷12000里=(1里の数値) そこに、各諸国の割り振りをした方が、合理的ですよ!
>>64 私は「魏志」の記述(里程)を信用できないものとして扱っています。当然で
しょう。魏の尺度と合わないなら「魏志」の間違いなのです。また、わざわざ
「吉野ヶ里から北に行って邪馬台国に行く」みたいなあなたの行程図には賛成
できません。末盧国からそのまま不彌国に行った方が合理的でしょう。
68 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 17:25:49
>俺等さん 安曇さん 范曄は、陳壽のカキコした『魏志 倭人伝』を参考に、『後漢書倭伝』をカキコした。 范曄は陳壽の地理志を訂正する事なく、ただ二つの記事に補填の意味で書き加えた。 @郡より7000里の着点 A女王国の東1000里の様子 この二点のみ もう少し前向きに 水行三十日や陸行一月も、そんなに難しい謎ではありませをよ!
69 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 17:34:12
スレが閑散だから、もう一レスお許しを! どうして( 陸行一月水行十日)じゃなくて(水行十日陸行一月)なんですか? よく考えましょう。
70 :
俺等05772 :2006/02/10(金) 18:17:27
>>67 はいはい、もう一度検討しなおしました。
上古音の読みは【伊都: i(e)[v]r-tag】ですから、伊都=イタ≠イト でしょう。我々は
漢字の類似面に騙されて、古代の"伊都"=現代の"伊都" と思い込んでいますが、一旦は、
そうした概念をチャラにして、全く別の地名として扱うべきです。
−−−
唐津〜多久:南東へ 26km、多久〜吉野ヶ里:東北東へ 27km、唐津〜吉野ヶ里: 53kmです。
吉野ヶ里を古代の"伊都"に仮定すると、五百里= 53km → 一里=106m ですから、妥当な
数値になります。えーと、ここから先が巧く行かないので、もう一度やり直し。
−−−
唐津〜博多:北東へ 50km、博多を "伊都" に仮定すると、五百里= 50km → 一里=100m
ですから、妥当な値になります(90°反時計方向に修正)。
博多〜春日:南東へ 9km、春日を 奴國 に仮定すると、百里= 9km → 一里=90m
博多〜大宰府:南東へ 11km、大宰府を 奴國 に仮定すると、百里= 11km → 一里=110m
博多〜宇美:東へ 10km、宇美を 不彌 に仮定すると、百里= 10km → 一里=100m
距離の妥当性はあるのですが、方向には難点がありそうです。この場合、伊都のみ方向
を修正、奴國・不彌国の方向修正はありません。倭人伝の編者は奴國・不彌国の相対位
置をよく知らなかったので、そのままにしたとも考えられます。奴國は春日〜大宰府間
の何処か、不彌国は宇美が正しいと思われますが、難点は、博多(又は福岡)に "伊都"
を想定できる目ぼしい遺跡が無いことです。
つうか遺跡って必ず残ってるとは限らないのではといつも思うのだが。 工事を急ぎたい土建屋が発掘物隠蔽して人知れず消滅していった 遺跡も数多いと聞く。 大規模なものとなるとそうもいかんかもしれんが。
72 :
俺等05772 :2006/02/10(金) 18:55:57
>>71 "伊都"は重要な都市ではあるが、千余戸しかないので、規模は小さい
ですね。 ただし、迎賓館は立派なはずです。
73 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 18:58:02
>>70 俺等さん
宇美=不彌
と、したならば
奴國は自ずとその東では!博多湾の一帯 それでいいじゃありませんか?
すると、奴國の北には烏奴國です。
そこからずうっと千数百里ほど辿れば斯馬國そして、その南に『女王の都』ですよ!
何か矛盾がありますか?
75 :
俺等05772 :2006/02/10(金) 19:25:53
>>73 郡使は伊都に止まっていますので、そこを基点とした放射式
読みを採用しています。連続式読みは行っていません。
76 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 20:08:20
俺等さん 全部放射読みですか?
77 :
俺等05772 :2006/02/10(金) 20:11:13
>>66 >>69 仁川から半島南西部の海岸までは 400km, そこから金海までは 300km, 合計 700km。
金海から唐津までは直線距離で 約 200km。 もし、一里=100mなら、残りは 300km。
300kmでは女王国まで着きません。したがって、記述された距離が誤っているか、海路
の終点までの距離であるかの、どちらかでしょう。
唐津〜広島付近:約 300kmですから、丁度良い距離になります。 ここで、上陸して、
その後は陸路を歩いて邪馬台国に行った。これが正しいとすると、水行十日、陸行一月
は、(水行十日)+(陸行一月) の解釈になりそうです。でも、時間的に長すぎるなあ。
78 :
俺等05772 :2006/02/10(金) 20:19:15
>>76 意味が解りません。伊都に到るまでは連続式です。
そこからは、全て伊都を基点とした放射式です。
79 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 21:37:51
俺等さん 斯馬国も都支国も対蘇国も鬼奴国やその他諸々の国も放射説ですか? 私は、斯馬国から奴国を連続と考えていますが!
80 :
まる :2006/02/10(金) 22:34:14
地名からでは 無理があると思います。風俗 習慣にヒントがあると思います。
81 :
俺等05772 :2006/02/10(金) 22:37:35
>>79 その部分はまた別です。だから、意味が解りません、と言ったのです。
82 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 22:51:35
>>80 まる さん
>風俗 習慣
★でしたら
【計其道哩当在會稽東冶之東】…魏志 倭人伝…
の、解釈次第で変化します。
>>81 俺等さん
>>73 を参照下さい。
不彌=宇美と、比定されていれば自ずと答えが!
83 :
まる :2006/02/10(金) 23:13:02
プラムさんへ 九州説ということですか?!
>>83 まる さん
>九州説
★三世紀時点で 九州説
五世紀後半以降 畿内説です。
85 :
まる :2006/02/10(金) 23:46:56
プラムさんへ 鏡の散逸状態から 九州説に無理がある。しかし 一小国としてみると 九州説が ありえます。
86 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/10(金) 23:56:29
まるさん 邪馬台国と鏡の関係は?
87 :
まる :2006/02/11(土) 00:06:24
どう意味ですか?プラム
『畿内大和』 現在に当て嵌めると 『つくば学園研究都市』が何時のまにか首都に! 『大和/ヤマト』 意味解釈⇒大きな拡張
89 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/11(土) 00:24:16
>>87 まる さん
鏡の散逸状況と九州説不利の因果関係を、尋ねているのです。
邪馬台国の比定地問題は、中国正史と『記・紀』だけで十分です。
考古学は、日々最新の情報(現場の方には太刀打ち出来ませんので)によって変化しますので
私は、後付け作業としています。
90 :
日本@名無史さん :2006/02/11(土) 03:25:48
投馬国ってどこ?
91 :
俺等05772 :2006/02/11(土) 07:55:18
8 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/05(日) 00:47:15 興味無いから、ここには現れません。
>>92 はいはい
そうですね! では、
お節介ありがとう。
俺等さん
そういう訳ですから、失礼します。
頑張って下さい。
94 :
俺等05772 :2006/02/11(土) 11:21:27
>>93 日本@名無史さん で出る手もありますよ。
いやぁ、そんなことはプラムさんのプライドが許さないでしょう。
>>94 氏は、あまりにもプラムさんをバカにしすぎています。
プラムさんは有言実行の立派な人ですよ。もう二度と現れないことでしょう。
96 :
まる :2006/02/11(土) 11:42:34
どうしました?ブラムさん鏡の分布はかなり 広いです。特に関東地方は鉄の産地になってます。ヤマタイ国は南北朝時代のような状態では なかったのでしょうか?
97 :
日本@名無史さん :2006/02/11(土) 12:16:37
「邪馬台国」は宇佐で決着している。 確か「邪馬台国」の東側は海のはずですが〜〜
>>96 まるさん
『魏志倭人伝』『終止符』スレにて
>>94 俺等さん
スレが枯渇してきたら
また、お邪魔します。
このスレにて『九州説』の話題は避けますので!
では!
99 :
俺等05772 :2006/02/11(土) 12:35:05
>>97 >>2 の仮定1と図を見て下さい。 >2 の図は若干修正が必要です。
>>97 「邪馬台国」に伊勢を含めれば、東側に海がありますよ。
101 :
まる :2006/02/11(土) 13:41:20
魏志倭人伝から検証は無理があるよ。使節は直に入っていないし 東方にある以外は 難しい! なにか 産物等が明記されていればよいが ないし・・・少なくとも軍事面から 畿内説は有力であるけど、しかしそれがヤマタイ国とは・・・
102 :
日本@名無史さん :2006/02/11(土) 13:43:58
『魏志倭人伝』をあれこれひねくりまわすなんて もう時代遅れなんでしょ?
103 :
まる :2006/02/11(土) 13:48:25
そうですね。どうも 東方見聞録と重なり 怪しい事象は外すことにしてます。合っているけど全体ではない!
104 :
俺等05772 :2006/02/11(土) 14:54:09
>>101 「真珠・青玉・丹」
「真珠・青玉・丹」は邪馬台国を確定する重要なキーワードである。これだけで、邪馬台国が
畿内にあることを、完全に証明できる。
1. 九州説では「真珠、青玉を産し、山には丹有り」を説明出来ない。
2. 畿内説なら「真珠・青玉・丹」全てについて産出場所の説明ができる。
@真珠: あわび、アコヤ貝から採れる。伊勢・志摩は古来から産地としての実績がある。
有明海・八代海は干潟の泥海、真珠は採れない。天然真珠 5000個は北九州だけでは無理。
A青玉: 碧玉(青メノウ)、ヒスイ、青色トパーズ
古代の青玉は、硬質ヒスイ又は碧玉と考えられている。九州に硬質ヒスイは産出しない。
碧 玉:松江の花仙山、福井県金津町・福井市田ノ頭町。
ヒスイ:硬質ヒスイは、姫川(糸魚川)ヒスイ峡付近のみに産出。
トパーズ:滋賀県田上山、山梨県黒平、岐阜県蛭川村田原・苗木,恵那郡
B辰砂: 奈良県桜井市多武峰鉱山、三重県多気郡勢和村丹生鉱山
日本で使われていた水銀のほとんどが、(勢和村)丹生で採掘されたもの。
http://www.ma.mctv.ne.jp/~seiwa/nyu1.htm 九州でも辰砂は出るが、極く僅かで、産地と言える程ではない。
史料1 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。
史料2 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし政等の還るを送らしむ。因って臺
に詣り、男女生口三十人を献上し『 白珠五千孔 』、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。
105 :
日本@名無史さん :2006/02/11(土) 15:36:42
「魏志倭人伝」に、倭人は、「鉄の鏃(やじり)」を使うと書いてある。 鉄の鏃は弥生時代の福岡県から171個出土し、奈良県からは、2個しか出土していない。
106 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/11(土) 15:46:01
>>105 確かにそうです。ですが、最近は古墳の年代も上がり、前期古墳の時代
と邪馬台国の時代がだんだん重なってきたように思います。そう考えま
すと、邪馬台国が大和にあっても不思議ではない。
中間とって東遷説でいいんじゃないの?
108 :
まる :2006/02/11(土) 16:12:14
古墳時代に入る20年位前の稲作の盛んな地域では ないでしょうか?よって ヤマタイ国の 痕跡は残念ながら みな 一様に存在する。治水を行なわなくてもよいところ 畿内でも 河内方面とか
109 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/11(土) 16:15:05
>>108 いや、河内は治水を良くするような地域だったようです。「仁徳紀」
参照。
110 :
まる :2006/02/11(土) 16:19:38
交易上 重要なところは かわらないので 大阪周辺卑弥呼の墳墓は 石山本願寺いまの大阪城あたり 開発により消滅!のちに卑弥呼死後 大和地方に移ったのでは ないかなぁ
111 :
まる :2006/02/11(土) 16:23:35
混乱の時期を 特定するのは難しい!南北朝のように複雑だとおもいます。ただ ヤマタイ国はのちに滅んでいる。それがより 複雑にしている。
112 :
まる :2006/02/11(土) 16:27:46
108さんへ 仁徳朝では だいぶ あとで 新田開発等でそうなったんでは 開発をしなくても 一国が生活できる土地があれば十分! 農具の発達は見逃せない。
113 :
俺等05772 :2006/02/11(土) 16:49:57
>>105 戦国自衛隊も数の多い戦国足軽には負ける。数は力の1つ。
人口の多い地域が主導権を取れる。畿内は人口が多い。
114 :
まる :2006/02/11(土) 17:09:47
次の政権に与えたことは 内乱により疲弊!より 強力な政権が絶対必要になり内政完了後に東方支配にいった。それが 古墳時代ではないでしょうか? 卑弥呼のヤマタイ国の意味は 縄文時代からの流れを組む村落集合の終焉
115 :
俺等05772 :2006/02/11(土) 18:00:22
>>42 >>45-46 安曇連浜子さん
投馬(づも)国は、やはり出雲国と考えます。投馬国の(長)官は「ミミ」、副(官)は「ミミダリ」で
す。須佐之男命は櫛名田姫を娶った後、姫の父を出雲の宮の長に任命し「稲田宮主須賀之八耳神」
と名付けています(古事記)。この「八耳」の「八」は八ヶ国(又は大きい)を意味し「耳(ミミ)」
は王を意味するのなら、「八耳」は八ヶ国の王を意味し、投馬国=出雲国の王にぴったりです。
2代 綏靖天皇の名は「神沼河耳」ですが、沼河はヒスイの産地姫川でしょう。したがって、沼河耳
はヒスイ王を意味します。これは母を通じて出雲系の王族を継承したことで付けられた名でしょう。
116 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 09:05:49
>>110 その辺、当時は海じゃないの? 海底墓でもあったのかいな。
117 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 09:55:49
>>116 上町台地(難波宮や大阪城のあたり)は古代でも陸地だよ。
但し
>>110 を支持するつもりはないですが。
118 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/12(日) 10:32:36
>>115 ありがとうございます。自分ももう一度検討してみます。
119 :
俺等05772 :2006/02/12(日) 11:31:29
邪馬台國の全体像(改訂版) 仮定1 邪馬台国時代、箱根越えは未だ不可能で、東国へ行くには伊豆半島を船で廻る必要があった。 仮定2 当時の魏の中国人には、日本は朝鮮半島から南に広がった島国という先入観があった。 仮定2から、@〜Bのように方向を修正できる。 @ 倭人から聞いた編者の熟知している地域に対しては、方向を90°時計回りに変えた。 A 倭人から聞いた編者の不案内な地域に対しては、不案内が故に、方向をそのまま記した。 B 郡使が体験して記したことでも、方向をそのまま採用したものと、変えたものがある。 上の仮定を使うと、以下のような概略図を描くことが可能である。 _ 邪馬台國の全体像を、簡略図で示す(文字サイズを小に願います)。 ─-┘ \倭と韓の国境 (末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面)) 狗邪韓國\ (末盧=唐津、伊都=博多、奴=大宰府、不彌=宇美) \ ↓(南南東) 対馬 \ (東南) 女王圏の東境 \ (東、水行二十日) | 一支 ┌→−−−−−−−−−−→投馬國 |千余里 | ↑→−−−−−−◎─────────→邪馬台國───◎ −−−→倭種国(南関東) | ↑ (東、水行十日、陸行一月) | ↓ ↓ 伊都→不彌 | ↓ 末盧/ \ 三千里↓ 奴 奴 ↓ 国 ↓ −・−・−・−・−奴國と狗奴国の境 侏儒國(八丈島) 狗 奴 國
>>117 大坂城の辺りは微妙。
ただし、海ではないにしても海に近すぎて墳墓をつくる立地ではない。
121 :
まる :2006/02/12(日) 12:23:55
立地条件とは 現代人の思考によるものです。海浜地域は適切かと 特に 残念ながら 開発等により わからなくなった。ブラムさんは どう考えますか?
122 :
日本史@ブラム :2006/02/12(日) 13:47:13
>>121 まるさん
★自然災害を受けやすい地域は避けるのでは
>卑弥呼のヤマタイ国の意味は縄文時代からの流れを組む集落
★ヤマタイの呼称は日(天照)一族が支配していた総称であり、国名ではない
帝国側への威厳を含んだ『自称』
(ヤマタ=広大な地域)
と、いう意味
>卑弥呼の墳墓
★大作冢…大きな塚を作る(×)・・沢山〔大いなる〕の塚を作る(〇)
∴要するに箸墓等の大きな塚を連想してはいけない。★殉葬者百餘人… 古墳群である
123 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/12(日) 13:57:19
>>122 そんな名前で登場ですか?人違いだったら須磨祖。
124 :
日本史@ブラム :2006/02/12(日) 13:58:15
>>121 まるさん
>ヤマタイ国の意味は縄文時代からの
★ヤマタイ三十国体制は
【自武帝滅朝鮮】…後漢書倭伝…
∴要するに、紀元前二世紀末以降
史書にカキコしてあるので「〜だろう」ではなく、文献を利用して下さい。
125 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/12(日) 14:02:56
126 :
まる :2006/02/12(日) 14:38:11
すみません!ブラムさんそうですね。私の地元には 古墳がありその上にお宮があり 城になってしまっています。中世的な城なので、すこしの痕跡は残っていますが・・・残念であります。たぶんに後世の人はわからなかったのではないでしょうか?!
127 :
まる :2006/02/12(日) 14:46:42
よって 鏡の散逸から 中心地 そして 鏡の発見地の発展のしかたから 内陸では なく 海浜ではないかと 思います。大阪にしたのは 舟の行き来に便利であったため 内陸の交通も同じです。
128 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 23:14:28
>>120 難波宮跡は大阪城の南西隣くらいですが、ここは上代においても陸地です。
あの辺りを歩いてみれば判りますが、基本的に谷町筋のあたりは坂の上ですよ。
もちろん、かといって
>>110 を支持するつもりは全くありませんが。
129 :
まる :2006/02/13(月) 00:09:53
北九州については ある程度の均衡があったのではないでしょうか。軍事的均衡 大陸の文化の移入には最適の土壌です。
130 :
まる :2006/02/13(月) 00:21:27
北九州説となる 錯覚がここにできてしまいます。
>>128 難波宮あたりって、西南角じゃない。大坂城も広いから、あの辺は大丈夫だよ。
大坂城あたりっていったら本丸まわりでしょ。
実際、あそこに前方後円墳があったっていいはってるやつだっているし。
132 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 00:28:55
ブラムさん どうでしょうか? 鏡から導いてみましたが 不足する事柄について仮定して実証するには・・・むずかしいです。ある点に過ぎないからかもしれません。おわり
133 :
俺等05772 :2006/02/13(月) 07:03:01
134 :
素人 :2006/02/13(月) 08:16:29
135 :
まる :2006/02/13(月) 08:42:48
133さん 延喜式は国家が整備した高速道路 しかも税の徴収 兵の移動 と合理的作られています。しかも 馬も存在している。余計 混乱しませんか?
136 :
まる :2006/02/13(月) 08:46:49
ある意味 易学が民間に広まっていた場合、日が悪いので 逗留!天気が悪いので足止めと 現代人には考えられない要素が入ると逢いませんよね。
博多湾(奴国)を起点に 水行三十日+陸行三十日(一月)+千数百里で、起点の博多湾(奴国)に戻る 要するに! 九州島の地理情報 この時の、水行と陸行は同じスピード これで二つの奴国の説明と、投馬国の次に女王の都をカキコし、最後に狗奴国をカキコしたことの説明がつく
おまけにもう一つ 狗奴国は、九州島の南端に位置し 西海域を水行十日北上すると、投馬国があり、東海岸を陸行一月すると『女王の都』に到着する。 しかし、倭の領域は 狗奴国よりも更に南に続きその領域は 【計其道哩当在會稽東冶之東】 詰まり、西南諸島に続く。 …終わり…
140 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/13(月) 19:43:15
>>133 Aの説はおかしいです。漢文なら普通、そうしたことを説明するなら、「或」
の文字が入ります。
141 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 19:43:26
>>133 俺等氏は古代史論文をあまりご存じないようですね。
水行、陸行及び方角里程問題に関しては、文献史学からは佐伯有清氏や原田大六氏
考古学からは山尾和久氏などがそれぞれ畿内説に立った論文を発表しています。
(大六氏は東遷後に魏使が訪れたとの立場ですが)
発表より先に、こういった有名論文にまず目を通すほうが先ではないでしょうか。
そのほうが結果的に近道になると思います。
ただ、畿内説の弱点は、「南」の文字ですね。原田氏はうまく説明し ておられるようですが、「古墳のはじまり」なんか見ると、山尾説は 板井です。
143 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 21:41:03
>安曇連浜子氏 仰るとおりですね。 大六氏と共に富来隆氏(共に文献学的九州or東遷説)などが提唱した、記述と実際の方法のずれ。 佐伯氏や三品彰英氏(文献学的畿内説)のいう「一月誤写説」。 それに山尾氏などの最近の文献学者が指摘する、後漢書以降の倭国に対する認識の違いなど これらを参照にして構築されているのが 現在唱えられている文献学的立場からの畿内説ですので それと考古学の成果を組み合わせれば、おのずと答えは出てくると思います。
144 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 21:53:13
それと俺等氏もご自分でも言っておられますが 伊都国=博多と不彌国=宇美があまりにも苦しいですね。 ここは安曇連浜子氏のいうように定説どおりで良いのではないでしょうか。 3世紀の北部九州における出土物については、柳田邦雄氏の著作(伊都国を掘る) 宇佐の状況は長嶺正秀氏(筑紫政権からヤマト政権へ)などで詳しく述べられています。 共に一般書店や図書館で手に入りやすいものですので、目を通されてはいかがでしょうか。
145 :
俺等05772 :2006/02/13(月) 22:06:31
>>135-138 江戸時代、近江商人が近江八幡〜高崎間を、中山道経由で毎年行き来している日記がありますが、
これに要する日数は10日前後です。徒歩ですので、時代が遡ってもやや短縮される程度で余り
変わらないでしょう(市田家日記)。これからすると、水行十日+陸行一月は長すぎです。
1807年 八幡〜柏原〜加納〜御岳〜大井〜野尻〜薮原〜塩尻〜和田〜追分〜高崎 10日間
1810年 八幡〜醒井〜加納〜御岳〜中津川〜須原〜奈良井〜諏訪〜??〜軽井沢〜高崎 10日間
1811年 八幡〜醒井〜加納〜細久手〜中津川〜須原〜薮原〜諏訪〜??〜軽井沢〜高崎 10日間
1691年、ケンペルが長崎から江戸へ向けて出発したのが、2月13日、到着したのが、3月13日、
1692年、ケンペルが長崎から江戸へ向けて出発したのが、3月2日、到着したのが、3月31日、
つまり、長崎から江戸まで、1ヶ月です。これからも、水行十日+陸行一月は長すぎです。
146 :
俺等05772 :2006/02/13(月) 22:21:57
>>145 ×>時代が遡ってもやや短縮される程度で
○時代が下ってもやや短縮される程度で
>>141 傍国の読み方は山尾和久氏のものですが、何か?
原田大六氏の著は大分読んでいますよ。非常に参考になること、賛成し
かねること、色々です。
147 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 22:22:31
148 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 22:28:17
>>146 その割には両者のトンデモ部分ばかり参考にしているように見えるのですが。
149 :
日本史@ブラム :2006/02/13(月) 22:35:42
>>145 oira 057772さん
★短いとか長いとか 自己解釈してはまずいですよ!魏志 倭人伝に『水行十日・陸行一月』とカキコしてある以上 動かしてはいけない数値です。
それに、水行・陸行(距離/日)の数値が指定されていない限り
水行=陸行(スピード)なのです。
文献に書かれている文字は、余程の根拠が無い限り「不動」の文字です。
『方位』『距離』も同様です。
そろそろ詰めの段階に入りましょう。
四百年後の「則天武皇」がニンマリしてますよ!
150 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 22:43:11
>文献に書かれている文字は、余程の根拠が無い限り「不動」の文字です。 もうその時点で学問ではない
151 :
俺等05772 :2006/02/13(月) 22:43:23
>>137 >この時の、水行と陸行は同じスピード
その頃は、帆船ではないですね。私もその位のスピードが妥当かな、
と思います。 キチンとした確認は必要ですが。
>>150 では
どのような学問なのか
御説明願います。
夜は長いです。
ジックリお聞きしますよ!
>>151 oira 057772さん
>その頃は、帆船ではないのですね。私もその位のスピードが妥当かな、と思います。
★ん〜っ
チョット違うような?
例えモーターボートがフルスピードで走行しても、その一日の距離と徒歩の距離は、同じと、言いたい訳です。
それが
当時、最も合理的な測量結果報告では!
154 :
まる :2006/02/13(月) 23:52:14
たしかに 南北朝時代に 陸路を 足利直義 海路を尊氏で並走しましたよ。秀吉のときは 海路のほうがはやかったかもしれない。
ん〜っ 『水行』したのは陸路での測量が困難だから『水行』の選択をした 速さの問題では無い
156 :
どしろうと :2006/02/14(火) 01:46:44
>>133 投馬國「出雲」までが二十日とすると、瀬戸内を通ってその半分の距離と
なると、広島の宮島あたりですかね?
そこから、旅行の素人が真夏の炎天下に道無き道を歩いてたら、
奈良まで1ヶ月は楽にかかりそうな気がしますが。
しかし、延喜式の日数は厳し過ぎると思う。
ちなみに畿内説支持者です。
157 :
俺等05772 :2006/02/14(火) 07:10:53
>>149 >『水行十日・陸行一月』とカキコしてある以上 動かしてはいけない数値です。
別に、動かせとは言っていません。
>>145 等を合理的説明ができる理論があれば、よろしい。
もう1つ。倭に一月の単位はあったのか? 月の満ち欠けがあるから、有ったとは思うけど。
>>156 >広島の宮島あたりですかね?
多分、その付近でしょう。私は広島市東の府中かな?と思っています。
158 :
日本史@ブラム :2006/02/14(火) 07:55:50
>>157 水行十日陸行一月と
伊都⇔女王の都 1500里
二つの奴国
そこから読み取る狗奴の位置
合理的な文章構成の解釈
全て満たしきらねば…ね!
oiraさん 畿内で書かれた日本書紀 初代天皇とカキコされている「神武」は、畿内の地から湧いて出て来た訳ではありません。 詰まり、 書紀を編纂した以前の歴史は、九州より広まった歴史だと言っているのです。 その広がりも、瞬時ではなく かなり長い年月を掛けた 広がりである事を!
160 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/14(火) 16:34:01
俺等氏の心配は杞憂ですね。これは武光誠氏の「邪馬台国と大和朝廷」に書い てありましたが、中国の役人はとてもゆっくりと旅行をしたそうです。だから 「日数」表記の部分は「旅行にかかった日数」であって、卜占のための休み等 もちゃんと入っているんです。武光氏は九州説ですが、やはり筑後だと近すぎ ますね。
161 :
俺等05772 :2006/02/14(火) 20:53:48
>>159 私は邪馬台国畿内説であると同時に、九州狗奴国東征説です。
>>160 中国の役人でなく、日本の一大率がどうだったかでしょう。
彼が伊都に赴任して来た時、カゴの原型のようなものに乗って来たと思うの
ですが、担いだ人達は裸足ですよね。それで、かなり遅くなると思いますが、
それにしてもケンペルの時に比べ、時間がかかり過ぎです。
162 :
どしろうと :2006/02/14(火) 23:23:11
>>161 陸上の移動時間がかかり過ぎる問題もありますが、
途中で船からおりて、航海よりも長い時間陸上を移動すること
は目的地(畿内)につくという課題に対して現在の常識からする
と合理性がないと思います。考えられる要因として、
*海路より陸路が早い。
*瀬戸内の制海権がない。
*その順路しか知らない。
*地方の巡業をかねていた。
どうでしょう?
163 :
俺等05772 :2006/02/15(水) 07:42:46
>>162 江戸時代、仙台米を銚子まで運んで、そこで荷を川船に積み替え、利根川沿いに、
関宿まで上り、その後、川を下って江戸へ荷米を運んだのをご存知ですか?
河川の運行の方が安全のように感じますが、実は銚子の河口は難所でして、仙台
船は何度も難破しています。でも、決して直接東京湾経由では運ばなかった。
164 :
俺等05772 :2006/02/15(水) 08:04:03
>>162 安全性から言うと海路より陸路が安全です。徒歩で移動する一般人の場合、
海路より陸路が安上がりでしょう。だから、一般人は陸路を優先する。
カゴを使う高官も、海路が予め決められていれば、それに従うでしょう。
165 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/15(水) 16:21:03
>>162 日本海は、あまり海に出すぎていると、対馬海流に乗っちゃうんじゃないんで
しょうか?また、瀬戸内海も「灘」が異様に多いです。その点からして、俺等
氏の云うとおり、陸路の方が安全だと思われます。
166 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/15(水) 17:34:08
今日地図帳見て思ったんですが、「海中州島」の記述に島がたくさんあるみ たいなことが書いてあります。この記述は瀬戸内海のことなんじゃないかと。 単なる思いつきですが、いい線逝ってるのではないかと自負しています。
伊都國⇔女王の都1500里は、知らなかった事にしますか? 起点と着点があり Α:距離1500里 Β:(水行三十日・陸行三十日) このΑとΒを満たす図形は、面積を伴い、一筆書きの出来る 円形や角形のような形ですよね! 自称理系(誤認はスマソ)の“oira 05772”さんなら解りますよね!
168 :
どしろうと :2006/02/16(木) 00:48:46
俺等05772さん、安曇連浜子さん、ありがとうございます。 なるほど、陸路が安全なんですね。 あらためて魏志倭人伝を読むと倭から中国に渡るときの 「持衰」の話なんかは、航海に対して如何に慎重であっ たかが、伝わってきますね。 *******以下考察******* 魏志倭人伝を改めて読み直して(邪馬台国=畿内という前提で) 帯方から邪馬台国までの順路を記述している前半部分の 方向感覚(狗邪韓國→末盧國)はあっており、また、土地 の風俗など特に末盧國については、倭の地についた感動 からか、それ以降の順路に関する記述に比べてかなり詳 細です。また、「女王国以北の他は遠絶」と、言ってい るのですが、邪馬台国にいながらそこから先は遠いなど という表現になるのでしょうか? さらに、「倭の地を参 問(「海中洲島」のちょっと前)」ということから、地理 情報をある時点から伝聞によってのみ記述している可能 性が高いと思うのです。 実際に行ったとしても不彌國まで。奴國、投馬國、邪馬 台国は、倭人からの情報で書いた。という感想を持ちま した。
魏志倭人伝を読むと、だいぶ陸路は険悪なようだが。
170 :
日本@名無史さん :2006/02/16(木) 03:46:47
“oira 05772”さんって誰?
171 :
俺等05772 :2006/02/16(木) 07:14:40
>>167 日本史@ブラムって、プラムさんの偽もの?“oira 05772”って、このスレにはいませんね。
私は聞かれてないので、この質問に答える義務は無いと思いますが、一応、一言。
魏志倭人伝には、伊都國⇔女王の都1500里 だと何処にも書かれていません。貴方の憶測です。
倭人伝では「至」と「到」とが厳格に区別されています。「到」が使われているのは狗邪韓國
と伊都国の2箇所。「到」は数日以上逗留したことを意味します。一方「至」は単なる通過点
(1日程度の宿泊はある)か、行っていない地点をさしています。つまり、郡使は狗邪韓國で船
を乗り換えた、つまり船頭は、狗邪韓國を境に替わったと考えられます。
そこで質問です。
1. 從郡至倭、循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國、七千餘里
の七千餘里は、誰からどのようなやり方で得た知識と考えますか?
2. 始度一海、千餘里至對馬國と、又南渡一海千餘里、至一大國と、又渡一海、千餘里至末盧國
の 各々千餘里は、誰からどのようなやり方で得たと考えますか?
3. 東南陸行五百里、到伊都國
の五百里は、誰からどのようなやり方で得た知識と考えますか?
4. 自郡至女王國萬二千餘里 の「萬二千餘里」に関して ですが、
元々の形は、次の内、どれだったと考えますか? また、誰から得た知識と考えますか?
@ 郡から女王國まで、壱萬二千餘里
A 狗邪韓國から女王國まで、五千餘里
B 末盧國から女王國まで、二千餘里
伊都國から女王國まで、千五百餘里(この場合、伊都国は沿岸? 内陸?)
5. 4.でCを選択した場合、千五百餘里と、水行十日陸行一月の2つの知識を得た理由は?
貴方への答えは、上の質問の答えが出てからにしましょう。
172 :
俺等05772 :2006/02/16(木) 07:22:47
>>168 *******以下考察******* について禿同。それが素直な解釈ですね。
>>171 Cが欠
伊都國から女王國まで、千五百餘里→C 伊都國から女王國まで、千五百餘里
174 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 10:04:13
>>171 俺等さん
設問 1番〜3番 の回答は、答えが推測段階で終りそうですので、パスします。
175 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/16(木) 10:42:31
魏志倭人伝から邪馬台国は神湊に上陸し 宇佐にたどり着くルートであることが判明してますし、 宇佐には応神天皇を祀った八幡宮の総本山宇佐神宮があります。 記紀に書かれてる応神東遷をこれらをふまえて解釈すれば 邪馬台国の末裔である応神が東遷して大和朝廷と合体したと 考えることができると思います。
176 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 11:29:06
>>171 俺等さん
『至と到』
★距離測定には「起点と着点」が必要です。
『至』の活用には
目的の範囲(限定内)を表すだけで、特定する着点を用意していない
『到』の活用は
向かうべき方向(目的)に対し、その目的の境界に接した地点という、明確な着点を設けてある
そういう事です。
そしてもう一つ付け加えるなら、 俺等さんの『至と到』の解釈は、私が半年以上前 この掲示板似て発言した内容と大差無い解説であり、その時 コテンパンに否定されたのも、事実です。
178 :
日本@名無史さん :2006/02/16(木) 12:42:42
よくある話です。(笑)
179 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/16(木) 12:58:26
それより、陸行・東行の「行」に着目してはいかがでしょうか?
180 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 14:30:34
俺等さん
>>171 に対する回答
★設問1〜5に共通する
張政に同行した倭国土調査隊
・区間距離を測定する場合の方位は一定
・一定の速度を維持する為手漕走方
・しかし、「到と至」の前提から、方角記事全てが起点から目的地までの方角では無い(全ての着点は次なる起点ではない)
・水行と陸行の一日辺りの距離は同じ
伊都國⇒海岸沿いに奴國用視点
設問4のAを除くすべて
Aは、誤り
女王の都⇒狗邪韓国は7000里
181 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 14:39:23
書き忘れ
水行三十日・陸行一月の内容は
>>137-138 を参照下さい。
>>179 サガミさん
陸行と東行の(行)は、違う意味です。
・東(行)⇒〜に行く
であり「行ったら帰ってくる」です。
・陸(行)⇒行動する、進む
>>168 どしろうと さん
【自女王國以北其戸數道哩可得略載其餘旁國遠絶不可得詳】
★女王国の北側にある、諸国の戸数道里の記載は、省略する。更に北には傍らに国があるが、国交がない為に、規模やその他の情報は解らない。
違いますか?
>>171 俺等さん
>狗邪韓国から船頭をかえ
★郡より出港した船は、岸に沿って(歴韓国)南下し、半島南端より(乍南乍東)しながら東南に進み
(其)→(大海中)にある『到』=(境:接点倭海域)に着く。
郡より出た船の着点(到)は、狗邪韓国ではなく
狗邪韓国の南、或は東南海上です。
183 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/16(木) 19:01:09
奴国は東南至奴国で何故「行」がないのでしょうか?
184 :
俺等05772 :2006/02/16(木) 19:26:22
>>176 言っていることが良く解りません。
>>177 >その時 コテンパンに否定された
どんな風に、批判されたのでしょうか?
>>180 言っていることが良く解りません。もう少し解るように説明して下さい。
>女王の都⇒狗邪韓国は7000里
どうやって、算出したのでしょうか?
>>181 >水行三十日・陸行一月の内容は ← 水行十日・陸行一月の内容は」の誤り?
サガミハラさんや安曇さんはプラムさんの言っている事を理解できましたか?
私はよく理解できないのですが、基本的には九州説で、グルッと廻って元に戻ることだ
けは、何となく解りました。しかし、誰から得た距離情報かが解らないと論評出来ない。
185 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 19:30:54
>>183 サガミさん
不彌國での東行は、行き止まりを、表すものです。
『東南至百里奴国』
とは、
★伊都のある場所から東南方向に、規模百里の奴国行政区域がある
だから『行』の文字を必要としないのです。
何度も言いますが
『至』とは
着点を表さない目的限定範囲の事です。
『百里』の表示は、
漢書地理志から続く“区画”規模の事です。
よって、不彌国の百里も同様です
もう一度“漢書地理志”の確認を!
186 :
俺等05772 :2006/02/16(木) 19:47:11
>>183 「水行」「渡海」「陸行」「東行」の「渡」「行」の表現を使った処には、実際に行った
可能性が強いですね。ただ、不彌國は情景の具体的表現が乏しいから、断言は出来ない。
郡使でなく、下っ端の誰かが行ったかも。
187 :
どしろうと :2006/02/16(木) 19:57:40
>>172 俺等05772 さん、ありがとうございます。ちょっとほっとしました。
>>182 プラム ◆RvhHf7kqyY さん、私はかなり違う解釈をしていますた。
【自女王國以北其戸數道哩可得略載其餘旁國遠絶不可得詳】
★女王国より以北の国々は、その戸数と道哩は略して記載できる。
その他の国は遠く途絶えているので詳しくわからない。
このように解釈していたのです。それで、南から北に向かって
国名を挙げていき、最後に「奴国」で女王の境界のつきる所、と。
なるほど、「対馬國」「一大國」「末盧國」「不彌國」は、
「伊都國」の王様の領土なんだな、と、思いましたです。
>>181 じつは、私も「至」「 陸行」「東行」の違いが気になって
おりました。「行」は単に「歩いた」と、思っていたのです
が、深い意味があったのですね。
> ・東(行)⇒〜に行く
>であり「行ったら帰ってくる」です。
とすると、「伊都國」→「不彌國」→「伊都國」で、
「邪馬台国には行ってない」てのは、BING!?
ハヤガッテン??
188 :
俺等05772 :2006/02/16(木) 20:11:46
>>186 訂正
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、
去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。
↑
上の文の「渡海」「船行」は実際に行っていないから、もう暫く結論は保留
にして置きます。 段落が全く違うので、問題無いかも知れないが。
189 :
どしろうと :2006/02/16(木) 20:34:43
>>138 プラム ◆RvhHf7kqyY さん、わたしはこれをトンチンカンに
解釈しておりました。敢えてここでは申しません。
とっても恥ずかしいから。
【計其道哩当在會稽東冶之東】
これって、卑弥呼の領土が南北にひろがっていると思い
こんで、机上で計算するとこうなりませんか?
生意気言ってすみません。
>>188 どしろうと さん
大多数の人達は私の考えに反対でしょう。
西南諸島迄 属国三十国体制下とは考えていません。せいぜい九州島全域ぐらいでしょう。
要するに、
当時の漢人達は、正確に列島の地理情報を掴んでいた!それを主張したいだけです。
>伊都国王の領地
★その意見には反対です。後漢書に、『國皆称王』
とカキコしてあります
要するに
後漢時代から三十国の長は、皆王と自称しており
伊都国だけが特別な国では無いのです。
それに、一大國と不彌國だけが『戸数』ではなく『家』なのです。
今は多くを語りませんが、
191 :
どしろうと :2006/02/16(木) 21:26:37
>>188 プラム ◆RvhHf7kqyY さん、とっても気になります。
「戸」と「家」の違いを教えてください。お願いします。
自分なりには、「奴隷は(戸)と数えた」とか、「港町は(家)」
とか考えたのですが、わかりません。教えてください。
それと、「邪馬台国畿内説」を指示していますが、「魏志倭人伝」
の時代においてというスタンスです。むしろ、それ以前は畿内には
無かったのではないかとさえ思うのです。「九州にあった?」大い
にあると思っております。その理由は、今は多くを語りませんが、
生意気言ってすみません。
伊都国に王がいるのに、中央から派遣された一大率が駐屯してるのはなぜ? 外交や交易の中心地でもあったみたいだけど、国王邪魔じゃない?
193 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 21:55:48
>>191 どしろうと さん
>生意気
★とんでもない
私だって一年+チョコットのハンパ者です。
>家
★いまのところは『官舎』とのみ言っておきます。
★列島には『倭』と『大倭』の二大勢力が“漢の時代”から続いています。
>畿内説
★私は五世紀末からです。根拠の一つとして、宋書から『列伝 夷蛮 倭国』と、
初めて史書にて(倭国)と認知されたので
194 :
どしろうと :2006/02/17(金) 00:11:05
>>193 プラム ◆RvhHf7kqyY さんありがとうございます。
勉強になります。
九州にあったかもしれない空想的考察(このスレでかいちゃダメですか?)
************以下考察(空想?妄想?)************
邪馬台国は奴隷獲得戦争をやりつつ、首都を移転しつつ(供給
地と消費地が近い方が効率的)近畿にいたった。
その結果、女王のいる所が最前線のすぐ横(狗奴國のとなり)とい
う状況になる。
狗奴國が強敵であったため奴隷獲得は思うにまかせず、奴隷の供
給停止とともに、経済は急激な悪化にいたる。また、この植民領
域の拡大は急激にすすんだため、狗奴國以外の南の地理は判明し
ていなかった。
さらに、「耶馬台」という名前はそもそも地名を指すものではな
く女王を中心において移動していく植民集団を指していた。しか
し、それが転じて国名にも使われた。
以上、まったく根拠はありません。探しているのは真実ではなく、
都合よく説明できるストーリーなのです。
195 :
俺等05772 :2006/02/17(金) 08:42:27
>>171 誰か >171 の質問にキチンと答えてくれる人いませんか?
そうしたら共通の立場で、里程問題の議論を深めることができます。
196 :
俺等05772 :2006/02/17(金) 08:52:00
>>191 「戸」と「家」の違い: 「戸」は倭人からの情報、「家」は郡使の
下っ端が調べた情報ではないでしょうか。大した根拠はありません。
「戸」は家族単位ですから家が数軒あっても一戸。だから内部に入
り込まないと分らない。「家」は外から見ただけでも確認できる。
197 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 08:55:02
>>194 どしろうと さん
狗奴国を敵対相手国に想定するのはどうでしょうか?私は以前からレスしている様に、
狗奴国は
邪馬台三十国の一つとして扱ってきています。
198 :
俺等05772 :2006/02/17(金) 18:31:33
>>180 もうちょっときちんとした回答を期待していたんですが、私の回答は下です。
郡〜狗邪韓間は、この区間の船頭から情報を得た。狗邪韓〜末盧間は郡使の体験距離。
萬二千餘里は、狗邪韓国で乗り込んだ船頭に邪馬台国の港までの距離を聞いた回答。
◎ 自郡至女王國 萬二千餘里=郡から女王國の港 1210km。(一里=100m)
・郡〜狗邪韓間:7000里, 狗邪韓〜末盧間:3000里, 末盧〜邪馬台港間:不明, 計 12000里。
・仁川〜金海間:700km, 金海〜唐津間:200km, 唐津〜広島間:310km, 計 1210km。
199 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 19:13:50
>>198 俺等さん
>もうちょっときちんとした回答を期待していたんですが
★きちんと数値を記入した回答を、期待しましたか?
俺等さんは、何故
距離の単位数値を現代地図で割り出そうとするのでしょうか?(以前の私みたいです。)
以前、スレの住人某氏から教えてもらった事ですが
『文献史学は文献から』
確かにその通りです。
俺等さんが比定した場所が、違っていたら
貴方の割り出した数値は、全て“ボツ”になる要素を含んだ数値です。
…続く →
200 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 19:43:35
>>199 続き
★文献の出来事は文献から
“魏志 倭人伝”の里数は、同じ魏書内の里数と
その単位辺りの数値が、違っていることが解ります。よって 新に基準となる数値を探さねばなりません
それを“魏志 倭人伝”の中で探しだすのです。
陳壽はチャント書き記していました!
“倭人伝”の中で最小単位である『歩』を
“魏志倭人伝”の里数は、この『歩』を基準に計算しなければならないでしょう。
私見ですが
『一歩 =30p弱』と考えてます。
201 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 19:52:12
>>198 >萬二千餘里は、船頭から情報を得た。
★根拠は?
202 :
俺等05772 :2006/02/17(金) 20:37:49
>>201 >萬二千餘里は、船頭から情報を得た。 >★根拠は?
表現が良く無かったですね。 船頭から情報を得たのは狗邪韓国〜女王國の港間、
五千餘里です。海路の情報は、そこで活動する船頭でなければ分らないはずです。
203 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 21:16:15
>>202 俺等さん
>そこで活動する船頭でなければわからないはず
★逆ですよ!
船頭だから解らないのです。(船頭は、海の事を知っていれば十分!)
大陸王朝と倭の属国関係は、漢書地理志までさかのぼれますし
数えきれないほどの
使者の往来があった事が推測できます。【以歳時来献見云】
宗主国が属国の地理情報を把握するのは、軍事的に考えても当然の事。
(知らない)と
考える事の方が、不自然です。
王朝が替われば
その都度、属国に対する調査は当たり前の行為です。陳壽や魚豢が見た“地理”資料は、→→→→続く
204 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 21:25:12
>>203 の続き
→→国家存亡にかかわる“軍事資料”と
考えるほうが妥当でしょう。
それ以外に、属国しかも蛮夷の地理情報等、利用価値がありませんから
軍事的な地理情報なら尚更実測であります。
どうでしょう!
矛盾点がありましたら
指摘下さい。
205 :
俺等05772 :2006/02/17(金) 22:03:40
>>199 元の質問、
>>171 をもう一度見て下さい。一番知りたかったのは、それぞれの
里程情報が誰によってもたらされたかです。プラムさんはその回答を回避した。
また、定性的説明も大事なのですが、定量的説明がなければ、科学とはいえない。
それは「お遊び」です。『文献史学は文献から』でも結構ですが、それは定量化
と矛盾するものではないでしょう。
206 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 22:28:25
>>205 俺等さん
>里程情報が誰によってもたらされたか
★軍事的地理情報
これだけでは不十分ですか?
>誰?
★そんな事解る人 いるんですか? こちらが聞きたいくらいです。
「魏志倭人伝や魏略」のモトネタすらはっきりしないのに
>科学的?
★古代史なんて割り切れ無い事ばかりです。
特に『和漢籍』なんて
207 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 22:44:49
俺等さん ★あまりにもハイレベルな議論に、私の限界を感じました。 もう少し知識を積み重ね 適切な回答が出来る様になりましたら このスレにまた お邪魔します。 頑張って下さい。 長い時間のスレ汚し 失礼しました。 やはり 畿内説は凄すぎるw
通りすがりの素人ですが、17・18の比定の根拠は語感が似ているからでしょうか? 旧国名は何度も改廃されているので、歴史家・各地の郷土史家などでも語源・由来がわからなかったり、 意見が割れていたりします。 これこそ研究者のさじ加減一つで、どうにでもなる「お遊び」ですよ。 ・・・・って誰に言えばいいのだろう。
209 :
↑ :2006/02/18(土) 02:46:14
「俺等05772」に家
210 :
俺等05772 :2006/02/18(土) 08:49:15
>>208 通りすがりの素人? 本当かな?
字数の制限があって省略したのですが、傍国比定にあたって、以下のやり方で比定しました。
これだけでは、不満と思いますので、後ほど詳しく述べます。
畿内説より見た傍国比定
傍国比定に際しては、各国をちりばめるのではなく、隙間が全て無くなるよう、各傍国で埋
めるよう心がけた。しかしそれでも、空白域になってしまった領域がある。それが出雲を除
く山陰・北陸諸国【 石見、伯耆、因幡、但馬、(丹波+丹後)、若狭?、越 】で、この領域
は 邪馬台国の直接の統括下ではなく、出雲を通して間接的に統治されていたと思われる。
現代人が県名を数え挙げる時には、幾つかのブロックに分け、ブロック内では連続性を持た
せて列挙し、そのブロックが終ると不連続的に他のブロックに飛んで、また連続性を持たせ
て列挙して行き、全域を埋めていく。古代人も同様な方法で国名を数え挙げたと仮定した。
211 :
どしろうと :2006/02/18(土) 09:14:03
プラム ◆RvhHf7kqyY さん、軍事資料という視点は私にとって新しい発見ですた! なるほど、考えてみれば倭人が脅威になるかどうかは、魏からみて 非常に重要ですね。中国の古典から「遠攻近交」という思想がある ように、倭は「交わるべきか攻めるべきか?」という着眼で考えると 「夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害 を避く(刺青の正当化)」と「その風俗は淫らならず」などから「文 化もある」という、見解に行き着くように書いてある気がします。 そもそも、中華の文明は台湾を一度も領土に組み入れたことがないよ うに海に対してあまり関心がないようですから、「海中洲島の上に絶 在」という表現から海の中の島国という時点で「領土としない」のが 規定路線だったとも考えられます。 そして、「遠いので脅威にもなりません。文化もあるので通交するの が望ましい」という結論にいたるような答申だったのかなと。 「万里の長城」に使われている「万里」は中華から認識できる範囲の 限界を意味する言葉だったりしたら、「萬二千餘里」は認識範囲の外 という、常套句だったりする可能性はないのでしょうか? かりにそうだとすると、距離問題で(卑弥呼の)邪馬台国の位置を求め るのは「無理」という結論にいたるのですが。 私が「魏志倭人伝」の時代の倭の中心地が畿内と思っているかは、そ の後の九州からの東征で畿内に侵入する話の流れからすると畿内に倭 の政治の中心地があった方が、「なぜそうなったか?」が説明しやすい からです。経済の中心は九州とするとそこで力をつけた勢力が東上し ていき大和朝廷を立ち上げたというストーリーが自然な流れかな?? と、
213 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/18(土) 12:26:46
皆さん、お仕事はちゃんとされてるのですか?w
>>213 自分は学生ですけど何か?受験終わったからカキコ多めにしてるんですけど何
か?
>>211 「万里の長城」なんて言い方は後世のものでしょう。昔は「長城」としか云っ
てないと思うのですが・・・。
思うに、このスレって「邪馬台国は畿内にあった」ことを前提にしているわ けだから「水行」の時、どこに上陸したのかとか、そういう、「所在地論争」 ばっかりしているスレとは違う形で議論するべき場なんじゃないんですか?
216 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 13:57:19
>>210 「奴國 弥奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 鬼奴國 烏奴國 狗奴國」
倭人伝に登場する地名には末尾に「奴」がつくものが多い。
これは、後世の「○○野」とかに対応するようにも見えるが、
和名抄で郡名を漁ってみると、「の」で終わるものは意外とすくない。
特に、九州では稀、筑後の「竹野」、豊後の「大野」、薩摩の「頴娃」だけ。
畿内・東海になると、もう少し増えるが、倭人伝での比率には程遠い。
「な」の末尾を持つものは、「玉名」ぐらい。
となると、当時既に「紀の国」の「の」ような用法が存在していて、
それが固有地名の一部として中国側に認識されてしまったのかもしれない。
ちなみに、馬韓伝では、卑離國系の「離」を除くと
莫廬國、狗廬國、駟廬國、萬廬國、捷廬國、莫廬國の「廬」が目立つ。
>>216 そしたら「奴国」はどういう風に読めとおっしゃるんですか?
218 :
216 :2006/02/18(土) 14:30:51
>>217 地名に使われる「奴」字の全部が全部、接続助詞の「の」だと言いませんよ。
「奴」の文字が多いのは、そう言う事例もあるのだろうと推定しているだけです。
ただし、助詞「の」は上代の母音分類では乙類オ段ですので、
その音は、「奴」の中国上古音「nug」とは一致しないところが「痛い」ところです。
219 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/18(土) 14:43:30
だから「奴」は、トまたはドと発音するのが正解なのです。 狗奴国は熊本県北部の宇土半島にその名残を残しております。
220 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 14:45:59
「奴」は「ぬ」と発音した方がよろしいのでは?
221 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 14:47:11
その通り 委奴国=伊都国
222 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 14:49:06
奴=ト ね
223 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 14:53:42
倭人にとっての奴は何を意味するのか? 村? 国?
224 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/18(土) 15:06:09
国を意味しますが、現代のような西洋風の国をイメージしてはいけません。 江戸時代でいうならば、陸奥国伊達藩の藩にあたります。
225 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 15:08:00
朝鮮の「ラ」とゆうのもそうなのかな?
226 :
どしろうと :2006/02/18(土) 15:32:49
>>214 安曇連浜子 ◆M2clACoxQA わかりにくい文章ですみません。
「万里の長城」ではなく「万里」といういいかたがそもそも
「とても遠い」という意味をもっていて、それ以上の距離に
なると、「もうわからない」という意味だったのかな?と、
「万里の長城」は魏志倭人伝以降の命名と思いますが、「万
里」という言いかたは、遅くとも漢代には出てきています。
もちろん「はるか彼方」という意味で。
227 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 15:46:46
司馬懿の兄で戦没した司馬朗の辞世の言葉の中で、 確か、敵国呉での陣中を指して「万里の彼方」と詠んだのありましたな。
228 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 16:07:24
>>225 韓伝に多出する「○廬國」と言うのが、後世の「○羅」に当るのかもしれませんね。
魏志でも鮮卑伝では「羅」の文字も使われるのですが、東夷伝では使われなかったようです。
229 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 16:09:49
228さん、ありがとう。
230 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 16:27:57
>>223 古代の日本語で「ナ」と言ったら「食い物」に関係する言葉だよな。
「真菜(マナ)」と言えば、魚や鳥獣類の動物性蛋白源。
喰える野草は「菜っ葉」と言うし、「肴(さかな=酒菜)」と言うのもある。
「イネ(稲)」の古形「イナ」の「ナ」も関係があろう。
博多の街は、今も昔も食い物には不自由しない処だったのかなw
231 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 21:42:14
>>226 「万里」がとても遠いという意味とするあなたの考えには確かに賛成なんです
が、根拠が後世の表現だったのでレス付知舞いました・・・orz
どうせなら「漢書」に大月氏まで万千六百里とあるのを使って欲しかったです。
>>210 わざわざ有難うございます。
例えば、和銅6年に隣国に統合・廃止された「熊野国」「穂国」には合致する傍国がなく、
後年、郡から国に格上げされた「播磨」「伊賀」「志摩」には傍国を比定している事。
「近江」(←近淡海国←淡海国)は、大化の改新以前、複数の豪族が分有していたが、
「鬼奴国」一国に比定している事。
この2つは、どのように考えていらっしゃるのでしょう?
233 :
俺等05772 :2006/02/19(日) 02:22:30
>>208 0. 邪馬台=大和、奴=筑紫、狗邪韓=金海、対海(馬)=対馬、一大=壱岐、末盧=松浦は前提。
1. まず、
>>119 の図のように邪馬台國の全体像を描き、領域の範囲を規定する。
以後、その範囲の中で考え、その範囲を全て埋め尽くし、網羅するよう努める。
2. 次に、地図上の三角点とも云える基準になる国を、音が似ている国名からいくつか拾い出す。
( 斯馬(しま)國、鬼(き)國、為吾(いが)國、巴利(はり)國、支惟(きい)國など )
3. 更に、音がやや似ている国をいくつか拾い出し、各国に対比させる。
( 彌奴(みな)國、対蘇(つさ)國、蘇奴(さな)國、邪馬(やま)國など )
( 後で破棄した国:姐奴(つな)國≠敦賀、躬臣(こじ)國≠越など )
4. 旧国名の由来・変遷等を文献で調べ、参考にする。
( 伊勢=(伊勢+志摩+伊賀), 美濃国=(美濃+飛騨), 長門=穴門,
汎河内国=(河内+摂津+和泉) などが参考となる。)
5. 補間(内挿)法を使って、間の国々を埋めていく。この際、
>>210 のやり方を採用した。
( たとえば、支惟國→烏奴國→奴國から「烏奴国」は吉備と筑紫の間の国と分る。)
( たとえば、対蘇國→蘇奴國→呼邑國→華奴蘇奴國 は四国の国々と分る。)
6. 補間法も2つ以上国が分らないと難しい。かなり苦労した。
( 斯馬→己百支→伊邪→都支→彌奴の内、既存は斯馬, 彌奴の2国、ここから伊邪は伊那
の誤りとするまで、大分かかった。そこから、己百支は尾張、都支は土岐と推定できる。)
7.チェック:
>>65 のような図を日本地図上に描き、ブロック内の国々が連続しているか、
並び方がスムースかを確認する。なお、魏志韓伝の国々には列挙した際の連続性はあまり
無いので、国民性が反映している可能性がある。
234 :
俺等05772 :2006/02/19(日) 09:24:15
>>216 >>218 鋭い指摘。ただし、中国上古音「nug」と一致しなくとも構わないと思う。
「かなもの」→「金の物」、したがって、「な」=「の」。
「くだもの」→「木の物」、したがって、「だ」=「の」。
>>228 ソース求む
狗邪→南加羅、安邪→安羅、彌烏邪馬→大伽邪→(加羅)、古資彌凍→小伽邪→(小加羅)
235 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/19(日) 11:23:54
邪馬台国が、奈良県桜井市にあったことにして、地図帳でだいたいの距離を 測ってみました。 仁川→釜山 約560q 釜山→対馬(ツツ) 約110q 対馬→壱岐(郷ノ浦) 約60q 壱岐→佐賀(呼子) 約30q 壱岐→佐賀(唐津) 約42q 唐津→前原 約25q 呼子→前原 約37 q 前原→春日 約25q 春日→飯塚 約24q (参考)唐津→小城 約28q 机上で測ったものなので誤測・あり得ない航路等あるかもしれません。その時 はレス付けてもらえたらうれしいです。
236 :
216 :2006/02/19(日) 14:59:28
>>234 >「かなもの」→「金の物」、したがって、「な」=「の」。
>「くだもの」→「木の物」、したがって、「だ」=「の」。
『かなもの』の「な」は「の」との交換ではありません。
「かな」は「(金)かね」の古形です。
「風車(かざぐるま)」の「かざ」→「かぜ」
「爪楊枝(つまようじ)」の「つま」→「つめ」
「眼(まなこ)」の「ま」→「め」
「白髪(しらか)」」の「か」→「け」
「手綱(たづな)」の「た」→「て」 等と同じ音変化でしょう。
『くだもの』の語源解釈についてはよく判らないのですが、
「だ」=「の」の例だと「奴」の音読には余り関係が無いように思います。
目(め)は 一つだと(まなこ)二つだと(め) まなこ→→め(me) むな →→むね(ne) さか →→さけ(ke) ふな →→ふね(ne)
238 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 16:46:28
>>234 ”
>>228 ソース求む
”狗邪→南加羅、安邪→安羅、彌烏邪馬→大伽邪→(加羅)、古資彌凍→小伽邪→(小加羅)
魏志韓伝・斯「盧」國。後の新「羅」かな?
でも[ja]→[la]の変化もありますね。
239 :
俺等05772 :2006/02/20(月) 06:36:02
>>235 私の測った値
A の「渡一海」の距離は、皆バラバラ。したがって、正しい値を示していない。
なお、コンパスとはコンパスで図った距離です。>235とはかなり違いますね。
皆さんも、地図で確かめてください。
@ 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
・仁川〜半島南西間:S 400km, 半島南西〜金海間:ENE 300km, 計 700km。
(コンパス)(S →S, E →ENE, 一里=100m)。
A 始度一海千餘里 至對馬國。又南 渡一海千餘里 至一大國。又渡一海千餘里 至末盧國。
・金海〜上対馬間:SE 75km, (コンパス)(× →SE, 一里=75m)。
・上対馬〜芦辺(壱岐)間:S 90km, (コンパス)( S → S, 一里=90m)。
・芦辺〜唐津間:SSE 50km。 (コンパス)(× →SSE, 一里=50m)。
・金海〜唐津間:計 215km。 直線距離では 金海〜唐津間:200km。
240 :
俺等05772 :2006/02/20(月) 06:38:49
>>235 つづき
陸行の場合、コンパスで図ると、どうしても実際の距離より短くなります。伊都國には
博多の南を仮定しました。須玖岡本遺跡の北西に当ります。
B 東南 陸行 五百里 到伊都國。
・唐津〜博多の南:ENE 50km。 (コンパス) (SE →ENE, 一里=100m)。
C 東南 至奴國 百里。
・博多の南〜大宰府間:SE 10km。(コンパス) ( SE →SE, 一里=100m)。
D 東行 至不彌國 百里。
・博多の南〜宇美間: E 10km。(コンパス) ( E → E, 一里=100m)。
241 :
俺等05772 :2006/02/20(月) 06:42:15
>>235 つづき
投馬國への水行二十日、邪馬台国への水行十日、陸行一月、各々の移動速度を調べた。
始点は伊都國の港(博多)、水行から陸行への中継地には徳島と広島の2つを候補に選んだ。
陸行の距離は、JRの時刻表を使って求めた。中継地は広島より徳山の方が適当なようです。
E 南 至投馬國 水行二十日。
・博多〜出雲間: ENE 340km。(コンパス) 340km/20day = 17.0km/day
F 南、水行十日。
・博多〜徳山間: E 150km。(コンパス) 150km/9day=16.7km/day
・博多〜広島間: E 280km。(コンパス) 280km/10day=28.0km/day
G 南、陸行一月。
・徳山〜桜井間: E 501km。 (時刻表) 501km/29day=17.3km/day
・広島〜桜井間: E 413km。 (時刻表) 413km/29day=14.2km/day
242 :
俺等05772 :2006/02/20(月) 17:51:11
>>235 >>239 安曇さん
やっと、共通の場で議論できる人に出あえました。私の場合、仁川〜金海間 700km、安曇
さんの場合、仁川〜釜山間 560km。違いが大き過ぎます。私の場合、水行の距離ですが
そちらは何で測った距離でしょうか?陸行? また何の道具を使って測りましたか?
仁川→釜山 約560q=7000里、1里= 80m
釜山→対馬(ツツ)約 110q=1000里、1里=110m
対馬→壱岐(郷ノ浦)約60q=1000里、1里=60m
壱岐→佐賀(呼子) 約30q=1000里,1里=30m, 壱岐→佐賀(唐津)約42q=1000里,1里=42m
呼子→前原 約37q= 500里,1里=74m, 唐津→前原 約25q= 500里,1里=50m
前原→春日 約25q= 100里、1里=250m
春日→飯塚 約24q= 100里、1里=240m
壱岐→佐賀(呼子)1里=30mは不適当ですから、呼子=末盧は破棄すべきです。
前原→春日は直線距離ですか? 博多を経由した曲線の距離ですか?
前原→春日の1里=250mと、春日→飯塚の1里=240mは他に比べ、大きすぎませんか?
243 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/20(月) 19:19:15
>>242 すいません。今日また測り直したら、
>>235 とかなり違った値になりました。
一応、朝鮮半島の航路は、地図帳に出ていた航路を採用しました。なるべく
直線距離にはしているつもりです。
仁川→群山 約161q 群山→木浦 約126q 木浦→済州 約140q
済州→麗水 約171.5q 麗水→釜山 約122.5q 計721q
現在の航路は済州島にも寄っているので、若干航路は短縮されると思います。
続き 釜山→対馬島厳原 約105q(直線なので途中陸路も入ってしまう) 厳原→壱岐島郷ノ浦 約65q 郷ノ浦→佐賀呼子 約30q 郷ノ浦→唐津港 約40q 壱岐島石田→呼子 約26q 石田→唐津港 約36q
245 :
俺等05772 :2006/02/20(月) 20:50:31
>>238 >魏志韓伝・斯「盧」國。後の新「羅」かな?
1例だけでは、根拠として薄弱でしょう。もっとないの?
246 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 01:27:15
>>245 厳しい追求ですねw
魏志倭人伝・末「盧」國→古事記神功条・末「羅」縣、和名抄「松浦(まつ「ら」)郡」
これ位でご勘弁を・・・
247 :
糸人 :2006/02/21(火) 10:36:12
ビッグニュースです。
邪馬台国の都跡が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が出土しました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが伺えます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。正式発表はこの春のようです。
参考 ニュースを伝えるHP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html
>>244 の続き
唐津→福岡前原 約25q 前原→福岡春日 約25q
春日→福岡飯塚 約25q 春日→福岡宇美 約6q 春日→福岡粕屋 約1
0q 飯塚→福岡直方 約11q 直方→福岡芦屋 約17q
おそらく、芦屋は、「不彌国」の港だったのでは。紀には、神武、仲哀の両 天皇が「岡」の地に寄った、と書いてあります。そこで、行程を出す際に芦屋 も組み込みました。(日本書紀の注に岡宮は遠賀川の河口、芦屋だと書いてあ ったので、岡=芦屋にしました。)
250 :
俺等05772 :2006/02/21(火) 20:29:01
>>248 対応がよく分りません。伊都国、奴国はそれぞれ何処に比定しましたか?
また、連続式と伊都からの放射式、どちらの読みを採用しましたか?
唐津=末盧、前原=??、春日=??、飯塚=??、
宇美=??、粕屋=??、直方=??、芦屋=不彌
>>250 伊都国=前原 奴国=春日 飯塚=不彌国です。宇美と粕屋の距離を書き込ん
だのは、一応参考としてです。芦屋はあくまで不彌国の「港」であって、中心
地ではありません。直方を距離測定の際に使ったのは、遠賀川沿岸であるから
です。また、自分は連続式の読みを使っています。
僭越ではありますが、不彌国に関して。 人口は不明ですが、およそ千戸の国であるなら、伊都国と同程度の規模と思われる。 奴国からの距離に、海岸線、平野、山間地といった地形を考慮する必要性はないのか? (山道であるなら平野よりも数倍の距離を歩いた可能性もある) 街道のない時代、緩やかな海岸線、平野部ではなく、わざわざ険しい山塊を越えていたのか?
>>252 不彌国を飯塚にしますと。春日から飯塚に行くには冷水峠、もしくは篠栗の
方面から行けばいいのです。わざわざ平野にまわっていたら、山道を通るよ
り遠回りになってしまいます。ただ、これはあくまで地図帳から見た観点で
あるということです。現地を歩いたら、あなたが云うことが正しいかもしれ
ないです。
254 :
俺等05772 :2006/02/22(水) 19:48:04
>>243-244 >>248 安曇さんのデータを解析した結果は次の通りです。
・郡→狗邪付近
仁川→釜山 約721q=7000里、1里= 103m, (1km=9.7〜10里)
・狗邪→対馬
釜山→対馬(厳原)約 105q=1000里、1里=105m
・対馬→壱岐
対馬→壱岐(郷ノ浦)約65q=1000里、1里=65m
・壱岐→末盧
郷ノ浦→佐賀(呼子)約30q=1000里,1里=30m, 郷ノ浦→唐津 約40q=1000里,1里=40m
壱岐(石田)→呼子 約26q=1000里,1里=26m, 石田 → 唐津 約36q=1000里,1里=36m
・末盧→伊都
呼子→前原 約37q= 500里,1里=74m, 唐津→前原 約25q= 500里,1里=50m
・伊都→奴国
前原→春日 約25q= 100里、1里=250m, (1km=4里)
・奴国→不彌
春日→飯塚 約25q= 100里、1里=250m, 春日→宇美 約 6q= 100里、1里= 60m
春日→粕屋 約10q= 100里、1里=100m,
・不彌→不彌港
飯塚→直方 約11q= ???里、1里=???m, 直方→芦屋 約17q= ???里、1里=???m
1. 仁川→釜山では1里=103m≒100m (1km=9.7〜10.0里)
2. 「渡一海千餘里」は1里=105m, 1里=65m, 1里=40〜26m 等、海峡毎にバラバラ。
したがって、「渡一海千餘里」慣用句的に使われ、実際の距離を示していない。OK?
3. 伊都を前原に選ぶと遺跡との対応は良いが、末盧→伊都間の距離が小さい過ぎるのでは?
前原→春日の1里=250mと、春日→飯塚の1里=250mとは、他に比べ大き過ぎませんか?
4. 前原→春日は直線距離ですか? 博多を経由した曲線の距離ですか?
255 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/23(木) 11:12:39
倭人伝をどう読んだら畿内になるんですか?w
256 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 11:27:00
妄想を注入することで、どこでも可能です。
257 :
俺等05772 :2006/02/23(木) 12:28:36
>>255 @里程問題、A「真珠・青玉・丹」の産地、B傍国全比定、の内のどれを使って、畿内説
の正当性を説明して欲しいですか? ヒッキーさんのお好きなもので説明しましょう。
Bなら
>>2 ,
>>17-18 ,
>>65 を参照して下さい。だだし、>2は若干、修正が必要です。
258 :
俺等05772 :2006/02/23(木) 12:34:20
>>2 の修正
邪馬台國の全体像(改訂版)
仮定1 3世紀には箱根越の道は未だ無く、東国へ行くには伊豆半島を船で廻る必要があった。
仮定2 当時の魏の中国人には、日本は朝鮮半島から南に広がった島国という先入観があった。
仮定2から、@〜Aのように方向を修正できる。
@ 編者が熟知している地域に対しては、方向を90°時計回りに変えた。
A 編者が不案内な地域に対しては、不案内が故に、方向をそのまま記した。
上の仮定を使うと、以下のような概略図を描くことが可能である。
_ 邪馬台國の全体像を、簡略図で示す(文字サイズを小に願います)。
─-┘ \倭と韓の国境 (末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面))
狗邪韓國\ (末盧=唐津、伊都=博多の南、奴=大宰府、不彌=宇美)
\
↓(南南東)
対馬
\ (東南) 女王圏の東境
\ (東、水行二十日) |
一支 ┌→−−−−−−−−−→投馬國 |千余里
| ↑→−−−−−−◎────────→邪馬台國────◎ −−−→倭種国(南関東)
| ↑ (東、水行十日、陸行一月) | ↓
↓ 伊都→不彌 | ↓
末盧/ \ 三千里↓
奴 奴 ↓
国 ↓
−・−・−・−・−奴國と狗奴国の境 侏儒國(八丈島)
狗 奴 國
>>254 2については、OKです。4については、直線距離で測りました。確かに、
末盧ー伊都間の距離は確かに短いです。そこらへんは、まったり考えてい
きたいと思います。
260 :
俺等05772 :2006/02/23(木) 19:34:58
>>259 1里≒100m がある程度根拠付できれば、それを基にして、場所の特定
が可能になるのですが、そこまで出来ないのが、悩ましいところです。
>>260 前にも書きましたが、当時の魏の尺度に合わないのなら、「魏志」の記述が違
うということでいいと思います。
>>254 のようなのは、「参考」でいいのでは
ないでしょうか。
262 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 20:46:49
他スレから誘導されて来ました。 お題は「なぜ九州説、東遷説が現在では省みられなくなったのか?」です。 文献史学における論争史と、特に70年代以降急激に調査発掘が進んだ考古学の成果を絡めて お話を進めて行きたいと思います。
263 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 20:56:31
古田武彦が東日流外三郡誌に飛び付いたから
264 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 21:01:03
もう本居宣長とか白鳥、内藤なんてあたりは各自ご存知でしょうからすっ飛ばします。 井上光貞の狗奴国東遷説や榎一雄の放射説が登場した50年代後半あたりでは 実は九州説のほうが有利だと見られていました。 これは文献(特に魏志倭人伝)の解釈論より、平原、板付、須玖などの 北部九州における弥生期の先端集落が集中して発掘されたことが大きく作用しています。 もちろん、菜畑や土井ヶ浜などの弥生前期(当時はそう見られていた)から 連綿と続く大陸文化との交流の歴史も重要な要素です。 対して畿内、特に奈良盆地では当時、唐古・鍵にしても芝にしても はたまた大阪の池上曽根にしても、やや規模の大きい環濠集落が存在するといった程度であり また出土物も北部九州から見れば、はっきり言ってショボいというのが 大方の見方でした。この傾向は60年代においても引き続き続きます。
265 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 21:16:25
さっさと続きかけよヴォケ
266 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 21:18:39
>>263 それも実は大きいですねw
堀江メールも似たようなものですw
さて畿内において調査発掘が進まないと、別スレで書きましたが
これはひとえに遺跡の多さに尽きます。
はっきり言ってどこを掘っても何かが出てくるんですよ。
古代史とは離れますが、京都市街地が開発において様々な問題を抱える根本の理由がこれです。
宮内庁管轄陵はまた別としても、道路を作れば、公園を作れば
農水路を掘れば、下水道を彫れば、学校を作れば、あまつさえ家を建て替えれば…
もう遺跡だらけなもので、調査が追いつかないw
また地権者も業者も「見なかったことにしよう」と言うのが数多くありました。
堺市の百舌鳥古墳群など、すでに半数以上の墳墓が跡形も無く破壊されています。
これでもまだ判明しただけマシなのですがね。
ただこれは仕方の無いことでもあります。
そごうなど奈良店建設地から長屋王邸宅跡なんぞが出たばかりに
オープンを十年以上も延期されるは、その間にバブルははじけるは
おまけに平城京跡保存のため駐車場も進入路も縮小されるはで
これが倒産の主因とも言われています。
佐賀県の吉野ヶ里もそうですね。
工業団地計画が撤回されたがために、ハイテク産業をみんな大分県に持っていかれて
その結果未だに、高知、島根、鳥取と並ぶ貧困四天王ですから。
267 :
俺等05772 :2006/02/23(木) 21:27:01
>>264 まだ、説明の途中ですので、一応最後まで聞きたいと思います。 ただ、
私は邪馬台国畿内説の支持者であると同時に、九州狗奴国の東征論者です。
畿内説論者は畿内自生説の人が多いのですが、何故、狗奴国の東征論では
ダメなのかも説明してくれると有り難いです。
268 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 21:34:01
>>265 マターリとお待ちください。九州or東遷説論者にとっては気が気でないのは十分承知してますのでw
さて70年代に入ってから、かの「日本列島改造論」を受けて
日本各地において道路、宅地などの開発事業が相次ぎます。
この時代、特に北部九州ではおりからの邪馬台国ブームもあって
各自治体、民間地権者ともに「実に協力的に」調査発掘が進みました。
もう九州の研究者だけでは到底追いつかないということで、関東、東海、近畿などから
大挙して人員が派遣され、まさに考古景気と言っても良いくらいの盛況振りでした。
正直ほとんどの研究者、そして自治体、地権者が「邪馬台国の発見は間近だ」とまで思っていたのです。
膨大な出土物を分類し、修復などを経て次々と報告書が提出されました。
その頃畿内は高松塚壁画の発見によって、にわかに飛鳥ブームが巻き起こり
これまた正直なところ「弥生時代なんぞどうでもいい」との風潮すらありました。
269 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 21:46:02
それより、邪馬台国の考古学的決め手ってなに 何が出てくれば、そこが邪馬台国なわけ 皆知りたい筈だよ それを提示出来るからこその長文なんだろうな
270 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 21:50:35
>>267 俺等05772さん、そのあたりも詳しく述べさせていただきますのでお待ちください。
ただなにぶん長文になりますので、何日かに分けさせていただくことになるかと思いますが。
さてこのように北部、中部九州をそれこそ絨毯をめくるように掘り返し
(実はその頃すでに吉野ヶ里の存在ははっきりしていました)特に九州においての土器編年の精度が高まるにつれて
研究者の間で囁かれたのが「なぜ3世紀に栄えた遺跡がひとつもないのだ?」なのです。
確かに博多湾沿岸だけでなく、有明湾や佐賀平野、福岡平野はもちろん宇佐や阿蘇山周辺までも開発の手は伸びました。
そのうち衝撃的な報告書が相次いで提出されます。
平原王墓や三雲遺跡、また西新町遺跡における出土遺構、副葬品、土器などに関してのものです。
いきなり畿内式土器の代表格である庄内式が大量出土したのです。
271 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 21:59:14
>>269 簡潔に言えば「3世紀における物流や文化の集積地となった遺跡の存在」です。
一部論者は悔し紛れに「邪馬台国って書いた金石文かも木簡でもあるのかよ!」とのたまいますが
そんなものはおそらく未来永劫出土しないでしょう。
とすれば国内最大級の集積地に当てはめるのが、もっとも自然な仮説となりますし
仮にそういった機能を有する遺跡が複数、しかも違う文化特色や流通傾向が確認されれば
そのうちのひとつが邪馬台国連合であり、畿内とはまた別の文化圏を形成していたとの仮説も成り立ちます。
長々と沿革を述べているのは「それが九州から一切発見されない」ということを認識していただきたいが為です。
272 :
史学の徒 :2006/02/23(木) 22:14:16
時間が無いので、残りは後日の書き込みになります。
ここで念押しですが「九州に無いから畿内だ」と一足に飛んだわけでは決してありません。
南九州は、四国はどうだ?吉備や出雲は考えられないのか?まさか東海か?など
ありとあらゆる地域の調査発掘が検証され、そのうち九州で見つかるさとたかをくくっていた考古学者も
まさに全国に散って詳細に一から調べ直しているのです。
>>270 で述べた西新にしても、これは畿内からの貢物ではないのかとの意見もあり
慎重に慎重を重ねた上での調査がなされました。
この頃、吉野ヶ里フィーバーが起きます。
しかし研究者の間では「1〜2世紀の弥生環濠集落のひとつ」以上の何物でもなく
逆に吉野ヶ里の3世紀における衰退が、邪馬台国九州説のとどめとなった面もあります。
そこで再評価されたのが東遷説です。
次回はリクエスト通り、これについて説明させていただきます。
マターリとお待ちくださいませ。
273 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 22:34:31
>>272 史学さん
行橋市のアスファルトめくってみればぁ
出てくるよ
>>253 出来れば現地に足を運んで見て頂きたい所ですが、
ネットで国土地理院の25000分の1が検索できるので参考にするのも宜しいかと思います。
また、古代社会では農業生産量が耕地面積に比例し、人口にも比例します。
伊都国と同程度の国を想定するべきかと思います。
御一考下さい。
275 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 01:16:00
金印と阿蘇山で、邪馬壱(台)国(イ妥国)の場所は決まりだな。
277 :
白木人 :2006/02/24(金) 09:33:17
呼んでない
278 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 12:26:14
>>271 「3世紀における文化や物流の集積地」ですが、九州にもありますよ。
三雲、須玖岡本、比恵那珂です。
これらは全国的にも3世紀にはいまだに纏向や中河内の遺跡群に並び最大級でしょう。
ただしこれらは伊都国、奴国です。これらに同格の遺跡が九州にはなさそうという点では同意ですが。
279 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 12:45:04
ついでにに言うと西新の土器は庄内は少ない。布留古式が主体。西新の庄内平行時期は在地系が主体。 庄内が多いのは博多や比恵とのこと。 あと昔ながらの東遷説は難しいが、寺沢や北条が言うような、ヤマト在地勢力主体ではない外部の諸勢力が新たに連合して新王権を立てたという説は今も有力。
280 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/24(金) 13:56:10
>>274 わかりました。今度覗いてみます。ただ、まだ学生なんで九州に行くのは無理
なんです・・・orz その辺はご容赦ください。
鉄器が少ない畿内は、逆立ちしても極東戦争参加は無理。
283 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 15:52:49
結論。 そんな昔の事は解らない。
284 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 16:18:22
邪馬台国は畿内にあった 二世紀末には卑弥呼を擁して覇権を握った 今問題なのはこの邪馬台国がどこから出てきたのかだ
285 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 17:46:42
畿内のどこに、金印と阿蘇山があるのか教えてくれ>284 話はそれからだ。
286 :
俺等05772 :2006/02/24(金) 19:31:01
>>255-257 「真珠・青玉・丹」の産地による根拠を
>>104 よりも詳しく話しましょう。
アコヤ貝
1. アコヤ貝は房総、男鹿半島以南から九州にかけて分布し、潮間帯から水深20mまでの
「岩礁底」に足糸で「付着生活」する。 ← 砂海・泥海・干潟には生息できない。
したがって、泥海の有明海・八代海では、アコヤ貝は産出しません。
2.貝の生活機能は流速が10〜12cm/secで最も活発になり、15cm/sec以上では急激に低下する。
↑アコヤ貝は澱んだ海では育ちにくいが、かと言って、外海でも育ちにくい。
したがって、大村湾でも真珠は採れるが、場所としては決して最適ではありません。
3. アコヤ貝は、漁場海域の植物プランクトンを摂食して成長する。アコヤ貝にとって栄養価
値が高い植物プランクトンは 10m程度の水深に多く分布する。
従って、真珠を採るには、潜って貝を取るしかなさそうです。それ故、大量には採れません。
4. アコヤ貝生育の適水温は13〜25℃、最適水温は23〜25℃。←南の海も、北の海もダメ。
これは、貝生育の適地が非常に限られた領域であることを示す。
5. アコヤ貝から天然真珠が採れる確率は 0.1%強である。
したがって、壱(台)与が晋に贈った 5000粒の真珠に要したアコヤ貝は約5百万個必要である。
6. アコヤ貝1個の大きさは約 80mm、重量は 40g前後である。
それ故、 5000粒の真珠に要するアコヤ貝の量は、なんと2億g=『 200トン 』弱になる。
これは、2トントラック百台分になる。
287 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 19:33:55
アコヤ貝は奥州藤原氏もかなり輸入してる
288 :
俺等05772 :2006/02/24(金) 19:46:49
>>286 真珠について言えば「何処で獲れるか」ではなく「5000個もの真珠を何処で獲ったか」という
量が問題なのです。天然真珠はアコヤ貝千個に1個程度しか採れません。
>>286 で述べたよう
に、5000粒の真珠に要するアコヤ貝の量は、なんと『 200トン 』、2トントラックで、100台
分もの量になります。
もし、獲る目的が真珠であるのなら、これは非常に効率の悪い漁と言えるでしょう。それ故昔、
アコヤ貝を獲る主目的は食糧である、と云うのが私の結論です。真珠は単なる副産物に過ぎない。
2トントラック 100台分のアコヤ貝を供給できる産地と、消費できる大消費地が必要です。
それと邪馬台国、どう関係あるのw
>天然真珠はアコヤ貝千個に1個程度しか採れません 何時の統計結果でしょうか。資料提供キボン
逃亡?
292 :
俺等05772 :2006/02/24(金) 21:19:44
293 :
白木人 :2006/02/24(金) 21:52:53
5000個の真珠は今でも、無理かも
>>292 意味がよく解りません。邪馬台国と真珠生産の繋がりが知りたい
邪馬台国でなければならない理由を
295 :
俺等05772 :2006/02/24(金) 22:52:44
>>294 史料1 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。
史料2 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし政等の還るを送らしむ。因って臺
に詣り、男女生口三十人を献上し『 白珠五千孔 』、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。
史料1と2から白珠は「丸い白い真珠」つまりアコヤ貝真珠とわかります。
史料2の「白珠五千孔」は九州邪馬台国では無理だということです。
資料1へ 真珠は古くから宇和島でも採れます 三世紀当時の真珠産出地とアコヤ貝の絶対数量分布等、五千個の真珠を確保した日数等のデータは。 短期間での収集には、巨大な生産地の存在が不可欠ですが、長い年月を掛け 蓄財された真珠の一部放出なら、特定大量生産地の意義が薄れます。
297 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 02:16:10
水位が高かった古代は、有明海でアコヤ貝が大量にとれて、 真珠が1万個も取れていたから、邪馬台国は九州だったってことでFA?
298 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 02:40:51
>>294 つまりアコヤ貝は真珠のために採取されていたのではなく、
アコヤ貝が食料として日常的に大量消費されていたからこそ、
その副産物として真珠が大量に出土すると考え、
そこにこそ人口密集地、つまり大きな国があったと考えられると
いいたいんだろう。
299 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 03:33:04
結局、畿内と邪馬台国の関係は、特に認められないね〜
300 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 06:49:12
>>297 有明海でアコヤ貝は採れません。
>>286 の1. 貝は「岩礁底」に足糸で「付着生活」する。
だから、砂海・泥海・干潟には生息できないのです。
>>298 その通りなんですが、同時にアコヤ貝の生産高も九州内だけでは無理と考えています。
>>299 真珠だけでは畿内邪馬台国説を断言するのは難しい。だが「真珠・青玉・丹」の3点セット
で考えた時、傍国を含めた畿内邪馬台国以外、考えられないのです。史学の徒さんの合間を
使って、次は「青玉」について述べたいと思います。
真珠といえば、伊勢志摩というイメージもあるが、養殖に成功したのは明治期。 縄文・弥生時代においては、 アコヤ貝は熊本県芦北、薩摩半島西部、高知県宿毛の遺跡等から見つかっている。 伊勢志摩、畿内など他の地域の遺跡では、見つかっていない。 前者についても、数は少ない。 要するに、現段階では「真珠については、よくわからない」としか言えないと思います。
302 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 08:12:24
>>301 志摩には実績があるんですよ。もう少し調べた上で意見を言って欲しい。
『延喜式』には志摩の国から 1000個の真珠が調進され たとの記事があります。
でも、九州から、多量の真珠が調進されたとの記事はありません。
303 :
まる :2006/02/25(土) 08:55:59
国が 興っている証拠にて各地の物産が中央に向かっていく!検証としては どの程度の流通規模がわかるかです。ヤマタイとは直接は・・・
304 :
まる :2006/02/25(土) 09:02:06
ヤマタイは 織豊時代のように インパクトがあり 短命的で あったのではないでしょうか?のちの発展に大きく寄与した。徳川時代のように
305 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 10:11:55
俺等氏、さすがに「真珠・青玉・丹」だけで「邪馬台国は畿内だ!」というの は無理です。俺等氏は、「丹」が九州の墳墓で見つかっているのをご存じです か?また、九州の墳墓で「鏡・剣・玉」のセットが多く見つかっています。 これらの事柄をどう考えますか?
306 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/25(土) 10:15:57
では倭人伝には卑弥呼は魏に絹を 献上した記述がありますが畿内から 絹がでてくるのですか?仁徳天皇の時代ですら 畿内では絹は珍しいものという記述がありますよ。 さらに崇神天皇の時代ですら畿内側の造船技術は 相当低かったことも書かれています。そのような 状態で畿内〜九州間を頻繁に行き来できたとは思えません
307 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 10:21:59
>>306 >仁徳天皇の時代ですら畿内では絹は珍しいものという記述があります
よ
どこにそんな記述が?ソース明示気盆。
308 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/25(土) 10:35:22
ソースですか。 古事記の三種の虫というエピソードを読んでみてください。
309 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 10:41:52
今読みましたが、このエピソードは「絹が珍しい」のではなくて「蚕が
珍しい」と云っているだけです。
>>306 はヒッキーさんの拡大解釈です
ね。
310 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/25(土) 10:46:11
それは違うでしょうw 養蚕によって絹は作られるのですし 蚕が珍しいと言ってるようでは 仁徳の時代に絹は畿内にはなかったんですよ。 考古学的な物証からの裏付けがとれてますよ。 畿内の弥生時代の遺跡からは絹は出土していません。 古墳時代から出土しています。つまり倭人伝に 書かれている養蚕が行われているとか絹を献上した という記述とは矛盾するわけです。よって邪馬台国は 畿内ではありえないんですよ。
311 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 10:59:19
>>303 「真珠・青玉を出す。その山には丹あり」は傍国を含めた邪馬台国に
産地があることを示しています。
札幌:バター飴。仙台・福島:ゆべし。東京:雷おこし。浜松:ウナギパイ。
名古屋:ウイロウ。京都:八つ橋。長崎:カステラ。鹿児島:軽羹、春駒。
を東京のデパ地下で売っていても、東京が産地とは言わないでしょう。
>>305 史学の徒さんの合間をみて、次は「青玉」について述べたいと思います。
結論は「真珠・青玉・丹」の話が終わってからでも遅くないのでは?
312 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 11:03:51
また、そのエピソードは、磐の姫を取り返すときの、クチコの臣とオオ サザキの問答の中の話です。 「大后のお出かけになったわけはと言いますと、ヌリノミの家で飼って いる虫で、ひとたびは這う虫となり、ひとたびは殻に籠もる虫となり、 ひとたびは飛ぶ鳥となり、三たびも姿を変えるあやしい虫がおります。 大后はその虫を見ようとしてお出ましになっているだけでございます。 そのほかに、大君にたてつく心などお持ちではございません。」 これはクチコの臣の台詞ですが、クチコの臣は磐の姫とオオサザキを 「会わせたかった」のですよ。
313 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 11:05:15
>>302 「魏志倭人伝」と「延喜式」では600年も時代が違う。
真珠と白珠とが書き分けられているが「真珠=白珠」なのか?
九州にもいえるが、志摩の遺跡からも大量のアコヤ貝が発見されていない。
そもそも一つの地域で「白珠5千」を調達したのか?
という指摘もできます。
ちなみに「玉=山から産出される美しい石」「珠=海の美しい石」という考え方もあります。
315 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 11:34:29
>>314 たとえ時代が600年違っていても、天然真珠である以上、産出量は
若干多くなっても、ほとんど変わらないと思います。
また、延喜式以前に、正倉院には4000個以上の真珠が納められています。
志摩の遺跡からも大量のアコヤ貝が発見されていないのは、産出した殆ど
全てを政府に上納したからでしょう。
316 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 12:15:33
>>312 の続き
クチコの臣は、一般的な名称である「蚕」では、仁徳天皇がつられない
と思ったから、わざとなぞなぞみたいなことをぬかしたのでしょう。
このような話で「絹は畿内に伝播していない」と決めつけるのは時期尚
早でしょう。ただ、絹が畿内の弥生遺跡で出土していないというのはご
もっともだと思います。
317 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 12:31:17
318 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 12:36:39
319 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 12:47:09
>>314 古代のヒスイ加工工場跡
>>318 を見て下さい。新潟県糸魚川市、青海町、
富山県朝日町へと広がっています。これは山の石を切り出して来たと云う
より、海岸からヒスイの原石を拾って加工した可能性のほうが強いのでは?
ヒスイは粘り気の強い石ですから、切り出すより拾う方が簡単です。
320 :
まる :2006/02/25(土) 12:51:30
今ほどの物流はないにしろ市場は あったと思いますよ。社の置かれたところは中世くらいは門前町でしたからね。よって 小規模ながら 産業も発達していたはず!
321 :
まる :2006/02/25(土) 12:59:30
農業生産の向上により 産業が発達し 商業も栄える! 前漢はその過程をみるとわかりやすいです。
>>315 正倉院の宝物は、大半が8世紀のもので4〜500年も時代が違います。
さらに、古墳時代の銅鐸が伝わっていないという事実もあります。
真珠のみを3世紀まで遡っていいものでしょうか?
また、これも推論の域を出ませんが、魏志倭人伝の最後の部分の「白珠五千孔」は、
真珠ではなく、貝製腕輪や車輪石のような装飾品と解釈するほうが自然と思います。
323 :
まる :2006/02/25(土) 14:16:27
文献にも でていて 卑弥呼が受領した鏡について議論が少ないと思います。銅鏡から考察しては どうでしょうか?百枚の鏡が ほとんど 古墳からでてきてますからね
324 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 15:27:14
古墳時代の銅鐸?w
325 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 15:49:51
「白珠」をガラス玉と考えるのはどうでしょうか?
326 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 15:54:00
327 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/25(土) 15:56:34
>>322 貝輪や車輪石というものならば、「珠」の文字で表さないと思います。
>300 「真珠・青玉・丹」の3点セット→北陸に比定したらいい
329 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 16:56:51
古代の真珠はアコヤガイ以外が主流だったから、 九州邪馬台国が最大の生産地だったということでFA?
>>324 いや、すいません。電波を出してしまいました。
>>326 「真珠五十斤」「白珠五千孔」と名前も違い、単位も違います。
根拠は、遺跡からのアコヤ貝・真珠の出土数です。
真珠を五千孔も献上できる程の産出地があったなら、何故遺跡から発掘されないのでしょうか?
仰るアコヤ貝200トンは、何処に消えたのでしょう?
それで大量に出土する「穴の開いた白い物」で貝製品かな?(関係ないが、碁石の白玉も蛤)
まあ、ガラス玉も可能性がありますね。
もちろん、時代が下れば仰る事実もある。
だから、よくわからないと言っているのです。
331 :
まる :2006/02/25(土) 20:05:15
江戸時代の長崎新令で 俵ものを金流出防止策で行なわれました。俵ものは 日本では 食すことがない 干しなまこ等を輸出!それに近いのでは?!
332 :
俺等05772 :2006/02/25(土) 20:50:19
>>330 >アコヤ貝200トンは、何処に消えたのでしょう?
貝柱は古代人の胃袋の中。真珠は卑弥呼が全て徴収。貝殻は海に棄てたんでしょう。
>>325 >>330 ガラス玉も可能性は無いでしょう。そんな安物を魏に献上したら怒られます。
ガラスなんか、倭では珍しくても、魏では珍しいものではないでしょう。
価値ある宝石は今も昔も同じです。「朱」は丸い球の意味があり、「珠」は
「玉と朱」の組み合わせで、貝の玉を意味します。
貝塚が残っているのに、アコヤ貝の貝殻がないのは、 アコヤ貝の真珠じゃなかったということでFA?
334 :
俺等05772 :2006/02/26(日) 07:15:02
>>330 アコヤ貝200トンは貝全体の重量であって、貝殻の重さではありません。
それから、産地は伊勢志摩が主だと思いますが、邪馬台国の領域全体で
考えればよいでしょう。つまり、場所は分散して考えればよい。
アコヤ貝が磯の10m程度の水深に多く生息している以上、アサリやハマグリ
のように、多量には獲れません。したがって、貝殻を棄てたとしても貝塚を
形成する程ではないでしょう。
真珠の光沢は貝殻の裏の光沢と同じです。で、考えたのですが、貝殻を回収す
る業者がいて、それを子供のおはじきのようなものに加工していたとすれば、
貝殻は後世に残ることはないでしょう。
335 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/26(日) 07:55:52
>>332 別に安物を献上しても怒られはしないと思います。一回目の朝貢の時の斑布二
匹二丈というのは、魏でも簡単に作れたんじゃないんですか?
お早うございます。もう暫らくお付合い下さい。 倭人伝に記載される3世紀の事実 「倭国では真珠が産出される」 「真珠五十斤が魏から倭の女王国に送られた」 「白珠五千孔が倭から魏に献上された」 考古学の事実 「縄文弥生の遺跡からは、真珠とアコヤ貝を併せても、十数点しか発掘されていない」 「伊勢・志摩からは、蛤・アサリ・鮑などは発掘されるが、上記は全く出て来ない」 「縄文弥生の遺跡から、貝やガラスの装飾品は大量に見つかる」 その他の事実 「珠とは、海産の丸い玉の事」 「玉とは、陸産の立派な石・宝石の事」 「400年後の奈良時代、万葉集に、白い真珠を白珠と表現した歌がある」 「400年後の奈良時代、志摩が真珠の産地となり朝廷にも納められている」
337 :
俺等05772 :2006/02/26(日) 12:49:08
>>337 俺等05772さんの仰る推論はわかるんです。
ただ、それらは8世紀以降の文書で、邪馬台国との関連性もありませんよね。
「延喜式」の頃まで下れば碁石も「珠」とも呼ばれている訳ですから、
蛤製の白い碁石も「白珠」になりますよ(ナンセンスですけどね)
事実として分かっている事は、縄文弥生の遺跡から真珠の発掘が全くない。
ヒスイ、銅鏡、銅鐸、人骨、剣などは同時期の遺跡から出土するにも拘らず、です。
本当に「白珠五千孔」=「真珠五千孔」でいいのですか?
340 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 19:04:53
出土しない真珠より、阿蘇山と金印のほうが確実だな。
341 :
白木人 :2006/02/26(日) 20:09:33
ここで休憩 5000個の白玉は宝石店に買いにいって集めた、
342 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 20:20:32
水晶、玉とゆう可能性は無いの?
ヒスイと見られている「青大勾珠」これにも「珠」が入っている。ヒスイは海
辺で拾われる物だから「珠」が付けられたのだろう。だから「白珠」も「海」
に関係するもの。自分も
>>325 で
>>342 のようなことを言ったが、あくまで
妄 想
にすぎなかった、と思う。
344 :
俺等05772 :2006/02/27(月) 07:51:30
>>339 魏志倭人伝を信じるか、考古学的な証拠が見つからない限り信じないか、の違いでしょうね。
もちろん、考古学的な証拠と矛盾する結果がでれば、考古学的な証拠が優先でしょう。一見、
矛盾していても、文献を合理的に解釈出来るのであれば、後は個々人の選択だと思います。
真珠の成分は炭酸カルシウムですので、日本のような酸性土壌では、溶けて残りにくいはず。
貝塚の中では残ると思いますが、あそこはゴミ捨て場ですから、真珠は棄ててないでしょう。
アコヤ貝の貝殻も出土しないのであれば、子供のおはじき等のような何かに再利用されていた
可能性があります。
縄文時代には、余程のことが無い限り、アコヤ貝は獲らなかったと思います。理由は、10m程度
の深さの岩場に棲むため獲りにくい、貝の肉はあまり美味くない、ことです。御木本真珠島で、
真珠うどんと称する貝柱入りのうどんを食べた経験がありますが、正直、美味いとは感じません
でした。同じ深場にいて獲るのに手間がかかる貝なら、当然アワビを獲って食べると思います。
したがって、縄文時代には、アコヤ貝の貝殻や真珠が出土しなくても問題ないでしょう。
弥生時代に入り、貧富の格差が大きくなると、真珠は宝石としての価値を増してきます。アコヤ
貝の肉はあまり美味くないと云っても、千個に1〜2個程度真珠が出る可能性がある。そうする
と、貝柱の商品価値は小さくとも、もし真珠が入っていれば、大儲けできる。もちろんアワビに
も鮑玉と呼ばれる真珠がありますが、球形では無く、商品価値は小さいと思います。
345 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/27(月) 11:10:25
皆さん詳しいですね。 真珠ですか・・
346 :
史学の徒 :2006/02/27(月) 12:46:09
>>266-267 あれ、結論を先に書かれちゃいましたw
そこから90年代に入ってからのめざましい考古成果に話を繋ぐ段取りだったのですが
やはり集中して、と言うかワードあたりで先に纏めてから書き込んだほうが良いみたいですね。
>All
真珠とヒスイはともに所在地の決め手にはなりませんよ。
2世紀後半から3世紀中葉では、列島のほとんどの地域で相互流通網がすでに形成されていますので
たとえ糸魚川周辺のヒスイが北部九州で出土しようが、大和盆地であろうが濃尾平野であろうが
それを根拠にするにはあまりに流通範囲が広すぎますので。
>>306 絹の出土はまったく決め手になりません。
九州の弥生遺跡、例えば吉野ヶ里などで出土した絹製品は基本的に
「極めて良好な保存が可能であった密封された甕棺内」に限られています。
北部九州でも甕棺から石棺または木棺に移行した後の時代では、出土しません。
これは甕棺内だからこそ奇跡的に現存していたというだけの話でして
その土地の特産だとか主産物と見るのは論理の飛躍です。
そういった飛躍論調のエセ古代史本が多いので、騙されるのも仕方ありませんが、今後はお気をつけください。
347 :
史学の徒 :2006/02/27(月) 13:02:21
>>307 仁徳が実在したとして、それも4世紀後半以降から5世紀中葉までと仮定したとしても
それ以前、つまり4世紀中葉の畿内各地から絹の断片は出土していますよ。
特に絹と木綿を組み合わせた特殊な織物である「倭文(しずり)」ではないかと見られる
断片も確認されています。
つまり仁徳紀における「蚕が珍しい」との記述の信憑性そのものが問われているわけです。
考古学的な物証を口にするのであれば、これらのことは既にご存知のはず
(どんな初心者向けの本にも、最初に書かれている)ので、知らなかったというのは不思議ですね。
よっぽど変な本を読まれたのか、それとも知っていながらわざと書いたのか、どちらですか?
348 :
16さい中卒ヒッキー :2006/02/27(月) 13:20:45
すいません。民主党じゃないですがある程度は知っていながら自説の正当化のためわざとこのような書き込みをしてしまいました。畿内から絹が少数ながら出土している情報は把握していました
349 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 13:34:04
時間がないので、東遷説について簡単に。 ここで否定されるのはまず九州勢力の東遷です。 博多湾沿岸であれ、宇佐であれ阿蘇付近であれ日向であれ南九州であれ どこでもその地方特有の文化および技術特色が明確にみられます。 弥生後期から終末期における九州の文化は、そのような狭い地域で地域性を発揮するほど 先進地であり、成熟度が高いものだったとの証明になるのですが そのどこも、奈良盆地に直接影響を及ぼしていません。 何らかの、そしてどこかしらの勢力が東遷(少なくとも大量入植)を果たしたのならば 確実にその痕跡が発見されてしかるべきでしょう。 ところが奈良盆地東南部や大和川流域において多大な影響を及ぼしているのは 吉備であり出雲であり、また播磨や河内、さらには東海の文化です。 仮に邪馬台国や狗奴国が九州にあったとしても、これらの九州勢力が畿内に 文化的、政治的、経済的更には軍事的拠点を築いたことを想定させる遺跡や遺物はまったく存在しません。 まあ「そのうち出る」なんてことはまず考えられませんし 先にあげた各地域ですら専制的支配を行ったとは、到底考えられないのです。 3世紀に「王権」が畿内に発生したかどうかはまだまだ議論の余地がありますが 少なくとも各クニのオウ達がそれぞれの得意分野を持ち寄り 一種の妥協的産物のような形で奈良盆地東南部に合同拠点を築いたとの見方が妥当でしょう。
350 :
史学の徒 :2006/02/27(月) 13:38:28
>>349 は私です
>>348 今後はそういう行為は慎みましょう。
それは既に立派な荒らし行為です。
ついでに多数のHNを使い分けて、あたかも違う立場にあるかのように見せる自作自演もやめましょうね。
皆、とっくの昔に気付いてますよ。
いまだに釣られているのはプラム氏くらいのものですw
意地なんかよりも実際のところはどうだったんだろうってとこがな 知りたくて大事だわだな。
>>347 下池山古墳から立派な絹が出土したのは知っていました。ただ
>>307 はヒッキ
ーさんに「文献」の方を聞きたかったので、カキコしました。
それより、史学の徒さんは、古墳時代の始まりをいつだと考えているんでし
ょうか?できればお聞かせください。
>>350 史学の徒さん
ヤッパリ釣られてましたか!
>349 「東遷」という語を真剣に論じていること自体、どうかと思うぞ。 国の都や国全体が東に移転したイメージだろうが、 神武について記紀のどこにもそんなことが書いてない。 何を根拠に「嘘か本当か」を論じているのかさっぱりわからない。
355 :
まる :2006/02/27(月) 21:53:31
東遷説は いささか早合点にてただの文化の伝ぱんだと思います。経済的基盤を捨てて 畿内に進出するかは疑問?社会的地位の確保なら わかりますけど・・・
356 :
俺等05772 :2006/02/27(月) 22:37:31
>>349 纏向遺跡は飯場の遺跡じゃないの?生活臭が感じられない。唐古・鍵遺跡の方が生活臭がある。
あの辺には初期の巨大古墳が多いから、各地から人夫を駆り集めて、古墳造ってたのでないの?
出土する土器の15%は他地域の土器で、北部九州から東京湾までに広がり、@尾張 A出雲の
順に多いということは、@尾張 A出雲の順に人夫を駆り集めた証拠になるのではないのか?
お、おまぁ・・・・ 生活臭のない飯場って・・・・・
358 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 00:26:06
纏向は、極東戦争参入に嫌気した豪族の結集だったように思う。
359 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/28(火) 01:13:39
九州の地名がそっくりそのまま 畿内に移動してますよ。 九州勢力の東遷は確実にありました。
360 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 03:44:14
あの同一地名セットは、壬申の乱以降でしょ。
361 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 09:09:40
>>354 神武天皇の東征(東遷)が記紀のどこにも書かれてないなんて、一体
何を読んでるんだい? 君のは偽書か半島の「記紀」じゃないの?
下記文献一覧に加えたいので、是非「記紀」の正式名教えてくれ。笑
トンデモ文献一覧
1『秀真伝』−−上限安永4年(1772),下限明治22年?
2『上記』 −−上限文化・文政?(1804〜1829),下限明治5年
3『宮下文献』 −−上限文久3年?(1862),下限明治19年
4『竹内文献』 −−上限明治25年?,下限大正11年
5『安部文献』 −−上限昭和3年?,下限昭和9年
6『九鬼文献』 −−上限大正元年もしくは昭和7年,下限昭和15年
7『東日流外三郡誌』−−上限昭和40年?,下限昭和46年
362 :
太国 :2006/02/28(火) 09:15:15
『天書』は偽書なのか?
363 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/28(火) 09:18:45
狗奴国・邪馬台国東遷説は、なぜ東遷したのかをあきらかにすべきだと思いま す。なぜわざわざ本拠地を捨てて「大和」に移住したのか?俺等氏に説明を希 望します。
364 :
太国 :2006/02/28(火) 09:21:15
?マーク多用で偽書の確定が出来るのか?
365 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/28(火) 10:22:52
なぜ東遷したかもなにも 近現代にいたるまで侵略は日常茶飯事ですよ。 国力を高めるためには他国を侵略するのが手っ取り早いです。 本拠地を捨てなぜ大和に移住したのかも 古来より都などころころ変わってますよ。 お隣の中国にしたって洛陽やら長安やらころころ遷都 が行われています。その質問自体ナンセンスだと思いますが。
366 :
まる :2006/02/28(火) 12:29:37
遷都は やむをえず行なったことも あることをお忘れなく! 強権を以て東に向かった理由をあきらかにしないと いけない!
日本国の神なら、なして辺鄙な日向の山へ降りてきたんだよ。 初発から難波津か三輪マキムクへ降りて来いや。
368 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/28(火) 13:11:21
>>365 大和と九州、どちらが大陸文化を受容しやすいのですか?また、中国の遷都も
基本は「利害」長安の位置は関中ですよ?関中にあるから漢の高祖は都にした
のです。あなたの解答は論点がずれていると思います。遷都における「利害」
を明らかにしないと、「東遷説」」は「神武紀に東征が記されているから東征
があったんだ」という、甚だ根拠の薄い説になると思います。
369 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 14:07:26
>361 呼んでいないのはお前だけ 「日本列島の代表国=神武の国が東へ移動した」・・・・・・・・・・@ 「日本列島の代表国=神武の国の首都が東へ移動した」・・・・A ・・・こんなことは記紀のどこにも書かれていない。 まず、神武は出発前に、「王」ですらない。 しかも彼には「兄」がいて、戦死しているから、いっそう「王」ではない。 記紀には@もAも載っていない。どこにお前の言う東遷が書いてある?
僭越ではありますが、 「神武東征・大和平定」は「記紀」 「邪馬台国東遷」は、和辻哲郎が大正期に打出し、受継がれている学説。 という感じだったと思います。 間違っていたら御免なさい。
371 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 16:41:06
王ですらない神武(イワレヒコ)兄弟が、 九州からあちこちに立ち寄り、最後に大和を侵略して わずかな土地を得た話。 ・・・これは「東遷」ではなく、 単にわずかな勢力である九州の久米集団が 「東方に押しかけ定着」した話。
372 :
俺等05772 :2006/02/28(火) 18:13:59
>>363 「なぜ東征したのか」については、日本書紀で神武自身が話しています。私に聞くまでもない。
「塩土老翁に聞いたところによると『 東の方に美しい国がある。そこは青山が四周を巡って
いて、その中に天磐船に乗って飛び降って来た者がいる。 』とのことである。余が考えるに、
その地方は、きっと国家統治の大業を広める為に好都合なよい処で、多分、国の中心に位置
する処であろう。その、天から飛び降ったというのは、或は饒速日であろうか。そこに行っ
て、都を営もうと思うがどうだろう?」と仰せられた。
東征理由の要約
国の辺境に位置する処 → 国の中心に位置する処
国家統治の大業を広める為には都合の悪い処 → 都合のよい処
防衛上の不適地 → 青山が四周を巡っている防衛上の適地
>>368 安曇さんは内政と外交のどちらが重大だと考えているんですかね。大宰府のような機能が
九州にあれば、大陸文化の受容は容易でしょう。国の中心に位置する処で政を行うメリット
は非常に大きいと思います。
373 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 19:37:11
>372 「神武の移住事件」は>372のどれにも該当しない。 なぜなら、神武は国家を従えていないから。 従えていたのは「久米の一族」だけ。 >東征理由の要約 >国の辺境に位置する処 → 国の中心に位置する処 >国家統治の大業を広める為には都合の悪い処 → 都合のよい処 >防衛上の不適地 → 青山が四周を巡っている防衛上の適地
374 :
俺等05772 :2006/02/28(火) 19:38:35
>>367 「天降り」の意味が全く解っていない。中国大陸から海を渡って亡命して
来ることだよ。つまり、弥生人の渡来だ。海から目指すのは遠くから見え
る高い山、多分煙の上っている阿蘇山だろう。
日向の高千穂山は、天皇の一族が北九州から南九州へ南下するに従って、
阿蘇山から高千穂へと伝承の対象が変わったと思われる。
375 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 19:46:40
>374 横レスだが 「天降り」は対馬・壱岐領海から他地へ移住すること。 また、筑紫の日向の高千穂は、日向国にはなく、筑紫国にしかない。
376 :
俺等05772 :2006/02/28(火) 20:40:20
>>375 古事記の国生みの処では、九州のことを「筑紫島」と言っている。
したがって、筑紫の日向の高千穂は、九州の日向の高千穂のことです。
377 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 20:47:01
>376 例外を全部に当てはめてはいけないし、筑紫島ではなく 筑紫の日向とわざわざ書いてあるので筑紫国の日向地方。
378 :
まる :2006/03/01(水) 07:33:53
文献に答えを求めるのは どうかなぁ?
379 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 11:51:40
>>354 氏の疑問はもっともですね。
「東遷」どころか大量入植を想定させる証拠がまるでない時点で
過去はどうあれ、この説はいったん放棄すべきなのです。
>>356 俺等氏
飯場とは要するに墳墓築造拠点のキャンプ地、もしくは王家の谷説ですよね。
この両者とも現在では非常に考えにくくなっています。理由としては
1、なぜすぐ隣り(直線1km以内)にある唐古・鍵をベース地にせず
わざわざ大溝を作り、それによって低湿地を土壌改良(つまり埋め立て)してまで
広大な土地を必要としたのかの説明がつかない。
2、墳墓築造のみでなく、この纏向開発事業も当時の各地域の最新土木技術および
建築、木材加工技術などが集結した、いわば弥生終末期最高の先端技術を惜しみなく
つぎ込んだものである。もちろん膨大な労働力もそうだが、これらは各クニのオウ達が
自国の最高機密に等しいものをさらけ出しているに等しい。
最初から何らかの合意が存在しなければ、このようなハイテク都市は開発すらされない。
3、生活臭が何を指すのか曖昧だが、周辺における同時代の土器、金属器、木器工房の跡はくさるほど出土している。
それに対して貝塚やドングリピットがほとんどないのだが、これは生活の基盤である
第1次産業を纏向にて行っていないという意味であり、ここで生活する人がいないという意味ではない。
380 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 12:13:28
4、造営キャンプ地説が正しいのならば、オオヤマト古墳群から柳本や佐紀に 墳墓集中が移動した後も、更に第3次、第4次と纏向の開発が進み 範囲を広げていることが説明できない。 5、王家の谷説も、当初は三輪山が重要な意味を持っていたとは十分考えられるが その後の拡散はもとより、すべての纏向近辺の前方後円墳の前方部や棺の向きが 必ずしも三輪山の方角や東西南北にまったく関係がない理由が明確でない。 6、先に述べたとおり、纏向は各クニが先端技術をさらけ出してまで建設した拠点だが そこには不思議なくらい侵略に対する防衛施設がない。 ちなみに同時代、濃尾平野では各集落が次々と解体、離散を余儀なくされており しかもそれは以前の自然なそれではなく、相当な混乱を伴った急激な変化であったと見られている。 2世紀末から3世紀中葉にかけて、東海地方は戦場に等しかったともいえる。 事実、弥生終末期では珍しい焼土や破壊の痕、朝日遺跡の逆茂木のような過剰な防衛施設まである。 奈良盆地といえども、これに無関心ではいられなかっただろうに なぜ全く防衛施設を築いていないのか、なぜ必要なかったのか。 王家の谷説やキャンプ地説では、隣接地の混乱のなかなぜここまでの大開発が可能だったのか また必要だったのかが、これまた説明できない。
381 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 12:21:29
7、ちなみに生活臭だが、相当な人数が所狭しと蠢き合っていた物証がある。 大溝で発掘された大量の糞便と寄生虫の卵の化石である。 これから推測して、大溝の水質は便槽並みであったと考えられる。 他にもトイレと思われる大量の糞便を出土する穴が、いたるところにある。 どの遺跡にも規模の大小こそあれ見受けられるものだが、纏向のそれは まだ1%強しか調査していないにも関わらず、あまりにも多い。
382 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 12:31:54
>>352 安曇連浜子氏
これまた難しいご質問ですね。
箸中山か渋谷向山が契機になったと見るのが妥当なとこでしょうが
なんせ初期の大和連合は(文献上では)政庁をコロコロと移転させ
そのたびに「宮」などという大層な呼び名をつけている(記紀より)ので
例えば後の室町時代や江戸時代がいつから始まったのかなどの
政治的理由による区分が定かではありません。
純粋に考古学的見地による古墳編年から推察した上での時代区分でしたら
椿井大塚山や赤塚などの築造のために各地に技術者が行き渡った時点での開始と見たほうが良いでしょう。
383 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 12:37:52
>>359 これも釣りですか?
そんなもの30年以上も前に論破されていますよ。
もし具体的に知りたいのなら、その地名相関図の詳細図をアップしているウェブページのアドを記載しなさい。
(たぶん安本関係のサイトになるでしょうがね・・・)
ひとつひとつの地名を具体的に解説して、どのように論破されたのか
またなぜ今では初心者の釣りエサ程度にまで落ちぶれたのか説明しましょう。
384 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 12:47:14
>All 神武東遷はたとえどのような記述が記紀にあろうとも 根拠にもなりませんし、もちろん事実でもありません。 これはハッキリと言い切ります。 学問として古代史を扱うのであれば、いつ頃神武伝承が発生し またどの時代の影響を経て形作られていったかをまず学んで下さい。 これは宗教的立場から皇紀や万世一系を唱えることに、異議を申し上げている訳ではありません。 特定の宗教を信じるのは自由ですので。 しかしこと「学問として」歴史を論じるのであれば 一切の宗教的、政治的信念は金庫の中にでも鍵を掛けてしまっておいて下さい。 歴史検証にはイデオロギーや宗教の知識は必要不可欠ですが それらを主張する手段にするのは、本末転倒です。
385 :
史学の徒 :2006/03/01(水) 13:51:51
あ、よく考えたら地名の相似とか主張してるのは 安本美典などの甘木説であって、釣師ヒッキーの宇佐説なんて全く無関係ですね。 よってこれも下手糞な釣りだと断定します。 一流の釣師の道は険しいですね。 ついでに高木淋光氏の「邪馬台国の秘密」ですが 書いた本人すら事実ではないことを熟知してますよ。 これはジンギスカンの方も同様。 これは決して悪いことでも不誠実でもなくて、作家として当たり前のことです。 松本清張氏も、論文としての「古代史疑」と小説の「陸行水行」では主張する内容が違いますね。 そのあたりの作家的資質に欠けるのが、井沢とか高橋など。 だから彼らの小説は全く面白くないのでしょうね。
386 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/01(水) 14:03:40
僕は釣り師ではありませんw 物部氏東遷の際、地名の移動は行われたのかもしれません。 高木氏の「邪馬台国の秘密」も神湊上陸説と 余里を加算する誤差説を加えただけであとは先人の踏襲でしょう。 まあ適当といってはあれですが思いつきっぽい感が否めないでしょうね。 ジンギスカンなど義経であるはずがないでしょ。僕でも そんなこと承知の上で読んでますよ。まあ僕は素人なので 玄人の史学の徒さんとやらにあまり意見するのもどうかと思うので これでやめにしますw
387 :
950 :2006/03/01(水) 20:35:49
>>372 たとえ、太宰府のようなものを置いたとしても、それを維持できる強力な国家
が無ければ、九州の国々にすぐ潰されてしまいます。また、なぜ大和が「国家
統治の大業を広める為に好都合なよい処」になりえるのでしょうか?ちなみに
、要害の地を選ぶなら、九州の日田盆地や、高良山も選択肢になりえます。
390 :
俺等05772 :2006/03/01(水) 23:35:27
>>385 史学の徒さん
これで、だいたい終りでしょうか? 考古学の情報量では圧倒的差があるので
同一の情報量を保有しない限り、反論することは難しいのですが、検討してみて
疑問があれば出して行きたいと思います。
邪馬台国東遷論については、様々な人達の議論と、非常に長い歴史があります。
最近の成果だけで、東遷論が簡単に否定されるとは思いません。ただ、多くの
識者は東遷論者=邪馬台国九州論者である為、九州論が否定されると、東遷論
は主張しにくいでしょう。
391 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 06:39:21
畿内説特有の脳内お花畑が一番顕著なのが巻向についての説だよな そんな平和裡に各地の王が人や物を持ち寄って計画都市って、近代国家なのかよw 馬鹿みたい 問題は大勢の考古学関係者が、そんな一部学者の稚拙な妄想をそのまま口にする ってことなんだよね。だから畿内説言ってる奴は白痴の集団に見えて仕方がない。 自分で科学する心がない。 古墳造営のために集められた人足の村というのは実に面白い。リアルな感じ。 それが本当だとすれば、人足寄せ場を有り難がって邪馬台国とか抜かしてるわけだなw こういうのを曲学阿世の徒っていうんだよ。
392 :
まる :2006/03/02(木) 06:57:49
混乱してきましたね。いま ここで確認を 大和朝廷とヤマタイ国は関係あるのか?! あれば どの部分があるのか? だんだん4,5世紀の話をだして 混乱させてますよ。古墳時代は開国の時代ですから九州地方は貿易で栄えたでしょう!
九州で負けて追い出された人々が西に進む大和に入った。 大和にはもともと強い勢力はなかった。 出雲や吉備地方は在地の勢力が強い。入り込むことができない。 空き地を求めてどんどん西に進まねばならなかった。負けた人々の 西進はたびたび繰り返された。結局、とけあってしまった。 大和地方にはこのようにしていわば「アメリカ」ができあがってしまう。
394 :
俺等05772 :2006/03/02(木) 18:07:32
>>346 >真珠とヒスイはともに所在地の決め手にはなりませんよ。
結論の違いは、魏志倭人伝を重視するのか、考古学的な証拠を重視するのか、の結果でしょう。
もし、史料が「貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」だけなら、史学の徒さんの言
う通りでしょう。
しかし、邪馬台国の特産品として「出眞珠、青玉。其山有丹」が魏に申告されていて、それを
受けての白珠五千孔と青大句珠二枚を献上したのであれば、白珠はアコヤ貝真珠であると同時
に、両者は従属国を含めた邪馬台国内の産物であると考えるべきです。九州にはこれらを供給
出来る産地はありません。丹を大量に産出する場所もまた、九州にはないのです。
395 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/02(木) 18:20:46
>邪馬台国の特産品として「出眞珠、青玉。其山有丹」 そんなことはどこにも書いていません。
396 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/02(木) 20:49:04
邪馬台国の特産品 水産物としては むつごろう しゃみせんがい したびらめ 海茸(みるがい) わらすぼ えつ はぜくち がざみ あげまきがい
397 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 21:06:18
ヒスイの色の薄いのが、白珠じゃないの?
閑話休題。 本旨とは違いますが、京都の市街地開発が遅れる理由は遺跡だけなんですかね。 数年間の京都生活や経済誌の記事からは、違う理由も多々思い当たります。 (一般紙はどう書いているだろう?)
399 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 22:27:10
邪馬台国は普通に畿内でしょ ヤマトトヒモモソ姫が卑弥呼で 垂仁がイキマでしょ 都市牛利は田道間守だし それ以外の名前一致や遺跡なんかを考えても疑いようがないよ
400 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 00:10:30
だから、阿蘇山と金印を探して来いって。 話はそれからだ。
401 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 04:51:57
>>399 良かったね。そうやって膨大な問題を一切捨象してお花畑でつか?
402 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 10:45:14
403 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 15:06:06
>402 零点。
>>403 「真珠、青玉を出す」という文は「倭の地は温暖にして・・・」に続いている
文なんですね。だからあくまで「真珠、青玉を出す」のは倭国のどこかになっ
てしまうんですね。
>>384 君こそイデオロギーに縛られて、思い込みで日本国を卑下するのはやめたまえ。
神武伝承がいつ、どのように形作られたか?
それは、稗田阿礼が語る頃には完成して、一つの集大成を生んでいることから考えても、
稗田以前のいつか。
としか答えられまい。
稗田女史が突然、なんの根拠もなく捏造の歴史を語ったババアなら、古事記、日本書紀編纂のすぐあとに同様の捏造歴史書が乱発しているはず。
偽書と呼ばれ黙殺されている歴史書ですら神武を否定するものはないはずだ。
407 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 19:49:16
稗田阿礼は男だと思うが? 阿礼は帝皇日継及先代旧辞を誦習しただけで、 それに色をつけたのは別人じゃなかろうか。 神武は久米一族を従えて、畿内に侵入し、 割り込みに成功しただけの話である。 あまりイデオロギーに関係ある話じゃない。
408 :
太国 :2006/03/03(金) 20:04:07
>>406 さん
彼の言う、「一切の宗教的云々を鍵を掛けてしまっておけ」なんて〜呆れて物
が言えないですよ。要するにね、食堂のウインドゥーに飾ってあるメニューの
蝋皿食品のようなもので、「うまい料理を食べることを禁ず。」で、蝋食品
陳列を「詳細に見ておしまいにしろ。」と言っているわけですよ。
このままなら、あの者は絶対古代史の味を未来永劫味わえないでしょう。
古代史の真を隋まで知りたければ、古代人になったつもりでなければなりません。
当時の宗教、政治は欠かせない重要物ですよ。外周のみをいくら精査
したって、中身を食べて始めて真にそれを知悉できるんじゃないんでしょうか?
>>407 ま、稗田さんの性別は置いといて。
君らをみてると分かるように、歴史を探求する者はなるべく真実に近いことを語りたいはずだろ?
君らは藤原不比等とかが権勢を保つために捏造したと言いたいわけだろうが、それは無理。
日本書紀や古事記には天皇が絶対善として書かれている訳じゃない。
暴虐な帝も愚鈍な帝も記されている。
万世一系を怪しむ記述さえある。
当時、巷間に伝わっていないような捏造が混じるなら、それこそ不敬の極みとして抹殺されていたんじゃないか?
この事は史家が史実に忠実であろうとした証だと思う。
410 :
俺等05772 :2006/03/04(土) 07:58:49
>>349 史学の徒さん
東征・東遷論
邪馬台国東遷論は多くの歴史学者や考古学者が論じ、長い歴史を持っています。これまで蓄
えられた東遷論の根拠が、最近の考古学の進捗だけで、簡単に否定されるとは思いません。
和辻哲郎、林屋友次郎、飯島忠夫、和田清、榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、
中山平次郎、原田大六、井上光貞、坂本太郎、森浩一、奥野正男、安本美典など
によって支持され、深められてきました。この中には専門の歴史学者も、考古学者もいます。
東遷論は「日本を統一する力が九州から来た」としなければ説明できない事柄が多く存在する
ことが根拠になっています。
@ まず、近畿を中心とした銅鐸文化は古墳時代になると全く姿を消し、後世その記憶さえ無
くなります。 713年、大和の長岡野で銅鐸が出土した時、これは当時の人々の記憶には無く、
何であるのか大変怪しみました。821年や 860年に出土した時も同じです。これは、邪馬台国
から大和朝廷へ政権が連続している仮定した場合、非常に考え難いことです。
A 後に天皇の象徴となった「鏡・玉・剣」のセットが、三雲、須玖、井原、平原等、北九州の
墳墓から出土しています。一方、同時期に畿内で「鏡・玉・剣」のセットが出土した話は聞い
たことがありません。つまり、「鏡・玉・剣」の尊重は九州の風習なのです。
B 奥野等が指摘していることですが、弥生時代の九州の鉄器類は他の地方を圧倒しています。
サヌカイトの剣で鉄剣に対抗し、専制的な統一国家を作りうるものなのか、はなはだ疑問です。
以上、3点について「史学の徒」さんの意見をお願いします。
411 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 10:00:36
>研究者の間で囁かれたのが「なぜ3世紀に栄えた遺跡がひとつもないのだ?」なのです。 こりゃ、ウソだ。 少なくとも庄内の間は、三雲、那珂遺跡の繁栄は変わらないことは まともな考古学者なら誰でも知っているわな。
412 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 10:23:20
>349 >ここで否定されるのはまず九州勢力の東遷です。 >そのどこも、奈良盆地に直接影響を及ぼしていません。 これもとんでないウソだね。 北九州の倭王権(と言い方がいいのか知らないが)の威信財体系は、 多少の変更はあるものの、ほぼそのまま倭王権にスライドしている。 王権祭祀の極似については、平原の再調査で柳田氏が述べているとおり。 >ところが奈良盆地東南部や大和川流域において多大な影響を及ぼしているのは >吉備であり出雲であり、また播磨や河内、さらには東海の文化です。 これもウソ。 吉備起源(といわれる)特殊器台は、庄内には出ない。布留期から。 ホケノ山にすらない。「箸墓からが古墳なんだ。倭王権の成立=箸墓なんだ」 というような最近の考古学の常識に明らかに反した学説を唱えるなら別だが。 マキムクに弥生時代(庄内は明らかに古墳時代)の畿内文化の影響はほとんどない というのはまともな考古学者なら誰でも知っている。 東海の影響なんて言っているのは、赤塚だけでこんなのは誰も相手にしていない。
413 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 10:29:31
>379 >飯場とは要するに墳墓築造拠点のキャンプ地、もしくは王家の谷説ですよね。 >この両者とも現在では非常に考えにくくなっています。理由としては 後者はともかく、前者は有力説。 マキムクの各地からの土器の正確については、強制労働随伴説か供献随伴説のどちらか。
みんなが寄ってたかって、うそをもっともらしく語るスレがあるときいたのですが、ここですか?
415 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 10:39:36
>380 >神武東遷はたとえどのような記述が記紀にあろうとも >根拠にもなりませんし、もちろん事実でもありません。 >これはハッキリと言い切ります。 これもウソ。 考古学者の間ですら、架空だと言う学者(主に京大系)もいるし、 事実を反映しているという学者(主に九州の学者、私大系)もいる。 自分の考えている倭王権形成モデルに神武東征が合致していると思っている 学者は事実だと言い、違っている場合は架空だと言い張っているだけのこと。
まあ古墳時代以前になんらかの勢力が東に行ったことは否めないかと。最近考 えが変わりました。
417 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 10:44:58
>380 >造営キャンプ地説が正しいのならば、オオヤマト古墳群から柳本や佐紀に >墳墓集中が移動した後も、更に第3次、第4次と纏向の開発が進み >範囲を広げていることが説明できない。 あそこの繁栄は布留で終わり。 ちっとは勉強しろや。
418 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/04(土) 10:55:15
とりあえず、「造営キャンプ地説」でも、人を集められるような権力が巻向に あったってことでFA?
419 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/04(土) 12:10:56
皆さん、友達いますか?w
420 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 12:11:33
鹿児島から青森まで天下統一
421 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 14:53:21
た
422 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 16:36:29
簿記2級試験だけが友達の>419 哀れ。
>>418 「権力」かどうかは判りませんが、
人を集める力(食料供給力とか)は有ったわけですよね。
そこへ、東海とか吉備とかから人々が移動してきた。
でも、地元(大和や河内)の人間が一番多かった。
九州からは、少なくとも土器を携えた人々は来なかった。
信長が本拠地を、清洲→岐阜→安土と移していったのは、織田家の勢力圏の 拡大により、中心地が変わっていったため。 つまり、マキムクの地勢から、初期ヤマト政権の主体勢力は推察出来る。 吉備や筑紫は排除していいだろう。
425 :
白木人 :2006/03/04(土) 21:55:45
江戸文化のほとんどが大坂発祥であるように、
>>417 >あそこの繁栄は布留で終わり。
って言うか布留T辺りに転機がありそう。
427 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 07:18:43
まきむくさんは、相当頭がアレのようですね 室町時代と全く所与の条件が違うのにそんな比較からマキムクの意味を説くのは 暴論というしかない。信じられん。 >信長が本拠地を、清洲→岐阜→安土と移していったのは、織田家の勢力圏の 拡大により、中心地が変わっていったため。 とはいえ、本貫を放棄したわけでも何でもない。ヒンターラントとしての尾張、 美濃の重要性は変わっていません。中心地と言っても、信長の居城からだけで そんな簡単に用語の濫用は非常によくない。 >マキムクの地勢から、初期ヤマト政権の主体勢力は推察出来る。 これも(゚Д゚)ハァ? マキムクの地勢というのは地形の事ですか?歴史のことですか? とりあえずそれでわかるのは、マキムクの事だけでしかない。ヤマト政権と いう用語の濫用も困るし、主体勢力とは?畿内じゃねえの?東海の土器が 出たからと言って、それを実際に王城の人足が持ち寄ったなんて現段階では 推測の域を出ないし、すでにわかっている当時の物流規模から、交易だけで も説明できるわけで。 私は九州説ですが、そんな暴論は畿内説にとっても迷惑なんじゃない?
>>427 有事の際、本拠地から軍を派遣するのは、古代・中世も変わらない。
領土の中心に本拠は置かれるものだろう。
北部九州や吉備が初期ヤマト政権を主導したとするなら、マキムクを都と
することはなかっただろう。余りに自分たちの勢力圏から遠過ぎる。
>ヤマト政権という用語の濫用も困るし 初期ヤマト政権と言えば、マキムクの大王権力のこと。 マキムク造営の時期をもってヤマト政権誕生を見るのは、ある程度 コンセンサスが得られていると思っていたが。 >まきむくさんは、相当頭がアレのようですね これだから九州説は… 畿内説に虐められて性格が歪んだのか?
ソウルは国境線のすぐそばだな。 中国ペキンも中心にあるとは言いがたい。 他にも反例は山ほどあるが それに、纏向の場合は東との通交も視野に入れていると考えるべきだろうな。 東西の両交通網の交点となっているのが纏向だから。
>>430 北京は清王朝の都だったというのが大きいだろ。
反乱鎮圧や国境付近に速やかに軍隊を送るためにも、領国内の中心地に
都が置かれるのは、統治上必要なことだから。
後半は全く同意。海石榴市。箸墓も大市墓と呼ばれているし、
マキムクは交易の拠点だったのだろう。唐古鍵がそうであったように。
432 :
白木人 :2006/03/05(日) 10:22:06
コンピュタやる人も頭がやられる人がなんぼかあるらしいです、やはり真面目な人は やられやすいかも、ずぼらとか意外にだらしない方がいいかも
おそらく初期大和政権は有力な国家との同盟関係にあったのでは。自分は邪馬 台国→大和朝廷だと考えているので、「魏書」に出てくる国々はかなり勢力が あったように思われます。なぜ「邪馬台国」がこれらの国々をまとめることが できたのかはわかりません。またーり考えたいと思います。
434 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/05(日) 11:14:52
安曇さん、友達いないでしょw
ひどいなあ、ヒッキーさん。ちゃんと友達いますよ。
ただ歴史を語れる友達はいませんね。
>>431 >後半は全く同意。海石榴市。箸墓も大市墓と呼ばれているし、
意味わかってないね。
『交易の拠点』だから、『北部九州や吉備が初期ヤマト政権を主導した』としても
都であってなんの不思議ではないということだよ。
>>437 マキムクが交易の拠点と言うのは、あくまで畿内を中心で見た結果。
吉備や筑紫から見れば、交易拠点は違ってくる。
「交易の拠点」なんて物は九州にもちゃんとあります。巻向が都であった理由 は、他に求めた方が良さそうです。
440 :
まる :2006/03/05(日) 11:54:54
まず 中国史を考えると 少し参考になるかと 社会が流動的に流れ 変革を好む時にその影響を大に受けているのが 日本です。 元の膨張が今のヨーロッパの細分化になったように 大陸から 影響は近代も受けています。
441 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/05(日) 11:54:59
あまり若いうちに邪馬台国マニアなどに ならないほうがいいですよw
442 :
まる :2006/03/05(日) 11:59:13
大陸がわから みた倭という国を考えてみるとおもしろいかもしれませんね。
そもそも卑弥呼共立の理由は、筑紫の大陸交易制限による諸国の反発だろうからな。 筑紫がマキムク王権成立に大きく関わったとは考えにくい。
444 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 12:04:08
反論を戴いた事にまず謝辞を述べます。
それとこれは
>>411 氏(以下の一連のレス)には申し訳ない事に誤解を与えてしまったようです。
発掘成果の歴史と沿革を順を追って説明することで、九州説はもとより古い畿内説も否定された事を述べるつもりでしたが
私の書き込みが非常に大雑把な上、80年代中頃までで中断しているために論旨が中途半端になっております。
今までの書き込みからでは、そのような誤解を受けたとしても、その責は私にあります。
俺等氏、411氏の疑問にお答えすべく時間の限り述べさせていただきます。
>>444 史学の徒さん、待ってました。
出来れば舌鋒を鋭くせず、マッタリでお願いしますね
大林組の算定によれば、箸墓築造には毎日500人働いた場合は12年、毎日1000人働くと6年かかるらしい。 マキムク王権がこれ程の大規模な労働力を常時結集出来たとすれば、各地のオウたちがそのマンパワーに跪いた としても仕方が無い。 石上神宮の武器を与えれば、インスタントに大規模師団の出来上がりな訳だし。
447 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 12:21:05
まず
>>410 の俺等氏の提疑から。
そこに列記された学者と東遷説の歴史などについては最後に纏めて述べるとして
A1、銅鐸文化の終焉は「なんらかの事件」による急激なものではありません。
少なくとも弥生後期後半には畿内、東海などの巨大銅鐸祭祀圏(これは昔唱えられた銅鐸・銅矛文化圏説の区分とは違います)
では早くとも100年、地域によっては200年近くかけて緩やかに消滅していきます。
それと銅鐸だけでなく巨大銅製祭器そのものが、まず九州・西瀬戸内の銅矛、次に東瀬戸内の平剣、畿内近江周辺の銅鐸、そして濃尾平野の三遠式銅鐸
最後に戻って奈良、河内などの銅鐸の順に衰退します。
これらの現象は高地性集落第2次ピークの前であり、3世紀にたとえどこに邪馬台国があろうとも、その成立過程には全くの無関係です。
万一関係があるならば、何らかの勢力により先に九州の銅矛が滅ぼされたことになります。
この祭祀器の変遷は、弥生後期から古墳時代にかけての政治体制や文化・宗教に密接に絡みますので、後に詳しく述べさせていただきます。
448 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 12:42:05
A2、これは
>>412 のご指摘にも大いに関係しますが、威信財体系が玉、剣、鏡の3点セット「のみ」で
出土した例はごく稀です。通常これに鏃、矛などが加えられ、同遺跡内でも時代ごとに副葬セットがランダムに変化します。
乱暴な言い方をすれば三種ならぬ「十数種の神器」のうちでの、これも三種ではなく「何種か」が威信財として確認されます。
もちろん盗掘による遺失も考慮せねばなりませんが、少なくとも三雲、須玖、井原、平原等で「三種のみ」が「連綿と」尊重された事実はありません。
畿内でも5世紀までは剣、鎧などが主となっていますので、三種の神器の確立そのものが6世紀以降と見たほうが妥当でしょう。
なお柳田氏が平原再調査報告論文にて酷似性を主張され、寺澤氏も多大な影響を受けておられますが
これに関してはまさにこれからの議論であり、
>>411 氏とはこういった部分に関してマターリと議論させていただければ
お互いに有意義な時間を過ごせ、かつギャラリーの皆様にも正しい知識を供給できるのではないかと考えます。
ご賛同いただければ有難いです。
449 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 12:57:34
A3,鉄器に関しては、関連スレで散々名前が挙げられた村上恭通氏の著作や論文が最も的確なものと思われますので、お勧めします。 私も西→東の優位勾配は存在したと考えますが、加工に必要な量の鉄器は遠く東北地方にも既に普及しております。 サヌカイトを例えに出されたところを見ると「武器としての鉄器」を念頭に置かれているようですが この時代の鉄器は有効な武器には成り得ていません。 剣は移動する人間に対しては、ほとんど有効性がありません。後の日本刀の如き切れ味も強度もないからです。 鏃にしても骨や銅製の方が実戦では効果を発揮します。 簡単に言えば、武器として使用するには鉄器は費用対効果が低すぎて、役に立たないのです。 このあたりの詳細は、出土物の復元を論じたいわゆる「復元考古学」関係をご参照ください。 先の村上氏も勾配度を証明しながらも、それが軍事優位に直結するものではないとの考え方です。
450 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 13:09:41
関連して、東征や征服をイメージする方は具体的に 「どんな武器で、どのような戦法で、どれくらいの規模で」戦うのかをまず復元物を基に想像され 次に「戦費と戦勝後の支配経費の捻出方法」などを実地に即して計算してみることをお薦めします。 弥生中期の点と点による隣同士の揉め事規模の戦争と、小さいながらも面として機能し始めた後期の「クニ」同士の戦争を同列に扱ってはいけません。 また同時代にお隣では三国時代やらと勇ましい限りですが、これとて後の演義のイメージでバッタバッタと斬り捨てるなどは有り得ません。 ローマにしてもそうです。当時の実戦はかなり地味です。 そういう意味では、記紀に残る騙し討ちの数々はかなりの妥当性があると見てよいでしょう。
>>449 >先の村上氏も勾配度を証明しながらも、それが軍事優位に直結するものではないとの考え方です。
意外やなあ。
では史学の徒さんは、マキムク王権の主体勢力はどの国々だとお考えですか?
452 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 13:25:56
俺等氏は「専制国家」が3世紀に完成していたとの観点から自説展開されておられるようですが
ほとんどの史学家はそうは見ていません。3世紀の「ヤマト連合」は群雄(各クニ)の互助的存在であり
連合というより「通商&不可侵条項締結連盟」と見たほうが実情に近いでしょう。
寺澤氏が「国家」ではなく「王権」との文言で示したかったのはこれです。
>>451 また難しいご質問をw
技術的には阿讃、畿内(奈良盆地東南部、河内大和川流域)の参加が早いでしょうが
労働力などの直接的な人材は伊勢湾地域からもそうとう初期に導入しています。
ここでややこしいのがご指摘にもありましたように、祭祀的に意外に吉備が遅いのですよね(少なくともホケノ山以降)
ただこれも村上論文ですが、ホケノ山出土の鉄鏃は吉備産だとの見方も有力です。
また墳墓築造(特にエッジ部)の技術は出雲経由だと見たほうが妥当だと考えますし
何より開発の出資元まで考えを及ばせるならば、本当に北部九州が無関係なのか?の疑義は捨て切れません。
正直、まだワカランですw
>>451 氏の見解もお聞かせ願えませんか?
453 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 13:42:16
史学の徒さん、童貞でしょw
454 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 13:50:34
>>413 こちらもネタを小出しにしているため、もどかしく思われたのでしょうね。
詳細は後日として、私は「纏向=市&宗教施設&新形式古墳築造拠点説」です。
>>415 これは京大系、私学系に分けちゃイカンですよw
神武を引き合いに出すとまた雑音がかますびしいのですが、記紀の登場人物の実在はともかく
ここに述べられた事象の信憑性を検証し、それによって時系列を再編成する作業は今では多くの方が試みてますね。
特に崇神、景行あたりのエピソードはかなり史実として(人物はさておき)信憑性は高まっています。
しかし記紀尊重派でも神武以下八代を史実と見る学者はいないでしょう。
これが思想的・宗教的に気に入らないのというは、学問とはまた別の話です。
そういう世界には興味はありません。
また当時の宗教観などは、それを信じてませんしのめりこんでもいませんが
当然研究されていますしそのあたりの知識も最低限は有しているつもりです。
荒らしを呼び込むだけですので、学問の俎上以外の意見は今後スルーさせていただきます。
>>417 布留0からTを第2次拡張(3世紀前半を第2次拡張と見る説もある)として
そこが最大の人口ピークであったことはご指摘のとおり。
ただその後も唐古・鍵の三地区を囲む環濠建設と同時に南部、西部となぜか纏向そのものが拡張しているのもまた事実です。
>>426 氏の言うように布留Tに何か転機があったように、私も思います。
そのあたりも含めて、議論を深めませんか?
別スレにも共通認識氏という逸材がおられます。彼もまた屁理屈をこねる常連に呆れ果てているようですし、誘ってみたく思います。
455 :
451 :2006/03/05(日) 13:55:42
>>453 史学の徒さんに嫉妬しないw
わたしは考古学つまみ食いの文献派なんで、まともな言説の提示は難しいです。
ただ、吉備との同盟成立が事実上のヤマト政権成立の契機だったのではないか、と
思っています。
箸墓の特殊器台、吉備津神社にトトヒモモソ媛の近親者が祀られていることなどを
勘案するに、卑弥呼は吉備王女で、三輪山の祭祀者として大和に請われて来たの
では、と。
456 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 14:06:29
最後に
>>410 俺等氏
故人を引き合いに出してはいけませんよ。彼らはその当時の最新データを分析して自説を述べたのですから
没後に否定データが出たことすら当然知りません。
また存命中の方でも、例えば森浩一氏は「断定はまだ避けるべき」とのいわば慎重派であって
九州説でもましてや東遷説論者でもありません。
ご本人は「(邪馬台国は)九州はないだろ」と明言されてますしね。
最後にこそっと名前が出てくる安本美典氏はともかく、奥野氏の「鉄の考古学」も労作の割にはデータ漏れが顕著ですので、参考には成り得ません。
九州勢力東遷説は確かに一時期真剣に検討され、優勢かに見えたのは紛れもない事実です。
ただしごく短い期間に限定される話であって、長い歴史などはありません。
やや好意的に解釈させていただきますが、俺等氏の考察は単なるデータ不足による誤回答だと考えます。
演算装置(ご本人)には何の不備も無いようですので、更なる知識入力をされればおのずから違う回答が得られると思います。
>455
懐かしい響きですねw
今では2児の父親で、上の子は大学生ですw
457 :
史学の徒 :2006/03/05(日) 14:22:41
>>455 451氏
上のレスはアンカーミス >455ではなく
>>453 でしたw
実はおっしゃるような可能性は十分にあります。
ただ吉備はホケノ山の例もあり、更には弥生後期前半に出雲に特殊器台を供給しながら
ある時期(四隅普及と関連付ける説もあり)祭祀的交流を途絶えさせています。
同様に吉備の祭祀文化はもとより、通常土器に至るまで3世紀後半まで北部九州にはほとんど流入されていません。
これらを考えると、纏向で吉備祭祀が重要視されることに対して、出雲や丹後など
また(参加していたならば北部九州)に抵抗はなかったのかなど、ここらを議論すればかなり面白いはずです。
お持ちの民俗学知識にて、是非建設的議論に参加してください。
なお(普通は誰だってそうでしょうが)毎日2chに書き込むなど、通常の社会生活を営む者は不可能でしょうから
マターリゆっくりの進行で行きましょうw
神武東征<伝承>は日向を始発にしている。 そこから「筑紫勢力の東遷」を安易に読み取ることは止めた方がいい。
459 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 18:26:47
村上氏の著作からは、 弥生の製鉄遺跡は 初期:北部九州 中期〜末期:中部九州 であり、 東四国・畿内は簡略化とおぼしき製鉄跡 がでてしまうので、 畿内説は無理という結論が出ると思いますが?
460 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 18:46:16
>448 >もちろん盗掘による遺失も考慮せねばなりませんが、少なくとも三雲、須玖、井原、平原等で >「三種のみ」が「連綿と」尊重された事実はありません。 3種なんて誰も言っていないが。 まともな考古学者であれば、銅鏡等を中心とする威信財体系が北九州で続くこと、 九州内でそれがピラミッド型の階層をなしていることを否定する者はいない。 >畿内でも5世紀までは剣、鎧などが主となっていますので、三種の神器の確立そのものが >6世紀以降と見たほうが妥当でしょう。 これもウソ。普通の考古学者であれば、この時代の威信財の代表といればまず大型銅鏡を挙げる。 これは九州の学者であろうが、京大系であろうと同じ。 >なお柳田氏が平原再調査報告論文にて酷似性を主張され、寺澤氏も多大な影響を受けておられますが 寺沢が例の論文を書いたのは、83年でそのときから東遷説(と本人が言っているか知らないが) なんだが。平原の再調査は、それよりはるか後の平成10年頃。 基本的な論文ぐらい読めよ。 >これに関してはまさにこれからの議論であり 既に再調査から、7年程経つが、柳田氏への有効な反論はほとんどない状態で これからも何もない。
461 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 18:55:44
>452 >俺等氏は「専制国家」が3世紀に完成していたとの観点から自説展開されておられるようですが >ほとんどの史学家はそうは見ていません。3世紀の「ヤマト連合」は群雄(各クニ)の互助的存在であり >連合というより「通商&不可侵条項締結連盟」と見たほうが実情に近いでしょう。 >寺澤氏が「国家」ではなく「王権」との文言で示したかったのはこれです。 なにが言いたいのかよく分からないが、少なくとも寺澤は、 @多くの文献の連中の言うところのマルクス主義の観点からの「国家の定義」は誤りである。 A「国家」の成立を律令期まで下げるのは論外。 B倭王権はまぎれもなく「国家」であり、 Cそれどころか、起源前に北九州で出現した「倭王権」も「国家」である。 といろんなところで主張しているのだが。 倭王権が「国家」でないなんてのは彼の主張に真っ向から反する話で デタラメも著しい。
462 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 19:10:17
>ただこれも村上論文ですが、ホケノ山出土の鉄鏃は吉備産だとの見方も有力です。 これは正しい(と思う)が、ホケノ山を例に挙げるなら、大型内行花文鏡(報告書に わざわざ「平原類似」とあるところの)や割竹型木棺など中核の副葬形態は北九州の 影響。 >また墳墓築造(特にエッジ部)の技術は出雲経由だと見たほうが妥当だと考えますし >何より開発の出資元まで考えを及ばせるならば、本当に北部九州が無関係なのか?の疑義は捨て切れません。 >正直、まだワカランですw 副葬品は平原が極似しているので、同一の権力主体なのかという点はともかく 「無関係である」というようなトンデモ説は今や誰も主張していないのだが。 ただし、権力主体が誰かという点について、他の地域「王権?」が候補足りうるか と考えてみても、 @弥生時代の畿内にはそもそも個人墓自体がなく、広域権力が想定不能であり、 A楯突の副葬品は貧相な上に「古墳」の副葬品と大きな隔たりがある。 また、特殊器台が畿内に登場するのは布留から といった状態にある。
>>447 またもっともらしいウソを。
こういう一部にウソを交ぜるって言う手法は、徹頭徹尾ウソより犯罪的だ。
> では早くとも100年、地域によっては200年近くかけて緩やかに消滅していきます。
そんな事が言える証拠があるなら、耳をそろえて出して見ろ。
464 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 19:25:35
>特に崇神、景行あたりのエピソードはかなり史実として(人物はさておき)信憑性は高まっています。 >しかし記紀尊重派でも神武以下八代を史実と見る学者はいないでしょう。 考古学的に欠史8代が存在しないという話は、主に京大系の学者が佐原編年 という「古墳時代が四世紀から始まる」というトンデモ編年を九州の学者が 「おかしいから変えるべきだ」と忠告しつづけたにもかかわらず使って いたから、四世紀初頭の確実に実在したとされる崇神が初代大王だと 思いこんでしまっただけの話で、編年が大幅に繰り上がった今そんな ことを言いきれるわけがないわな。 倭王権成立が2世紀末(AMSや年輪年代法から見るともっと早い)、 崇神は、今の考古学の知見では初代どころか、倭王権成立から百年近 くたってからの大王にすぎないね。
>>449 この鉄器に関する考察は、考古学会では定説なのでしょうか?
海外の考古学者や金属工学の識者の見解も聞いてみたいところですね。
私は「稲作の伝播ルート」「鍬の柄と刃」「縄文人・弥生人」などを思い出しました。
もう少し慎重であってもいいのでは?
466 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 19:58:20
皆さん、間違いなく彼女いないですねw
467 :
土器編年ダメポ :2006/03/05(日) 20:04:03
欠史8代については、「一書」として付記された記録に代々磯城の県主との婚姻 が記されていますね。名前まであって、非常に生々しく具体的です。捏造という ならこれにも明快な回答を示す必要がありますが、残念ながら欠史論者にそのよ うな説は寡聞にしてしりません。知ってる方がいたらご教示頂きたい。 私は、基本的に欠史8代は存在したと考えます、そして、磯城の県主は先行した ニギハヤヒの血統だと思います。それと、長脛彦も。明確に決戦によって破り 殺害したという形にはなっていないので、実はニギハヤヒの肝いりで和解して、 その後にようやく南大和に根拠を与えられたのでは無いかと思うのですが。 ただ、土器編年や古墳編年(藁)の混乱により、これらの事象について考古学 的関連を論じることが出来ないのがこれに限らず日本の古代史学の不幸だと思う わけで。いいかげんになんとかしてほしいw
468 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 20:50:04
確かに崇神陵以前に大王墓級が存在するな。箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山と。ただ欠史8代は何故か葛城とか橿原あたりに宮や墓があったことになってるので、整合性がない。そこはどうする? またこのスレで製鉄と鍛冶が混同されているので指摘しておく。ここでの村上氏の話は弥生については鍛冶のこと。
469 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:02:01
鉄鏃については、少なくとも九州では鉄の安定供給があるので史学氏の説はあたらない。 また骨鏃や銅鏃が鉄鏃より優れているってソースは?銅鏃は規格品の大量生産がし易いので北部九州でも後期前半までは須玖坂本の鋳型のようにたくさん作っているが、後期後半からは鍛冶技術の向上によりそれも克服され鉄鏃主体になっている。一部銅鏃が残るが儀器化する。 一方、畿内や東海は鍛冶技術が遅れたので終末まで銅鏃主体というだけ。 利器としては鍛えた鉄の方が鏃も貫通力があるはずだし、だからこそ普及したはずだが。
470 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:05:58
あと最近の須玖あたりね発掘状況だと、庄内平行まで銅矛も作ってたぽいことを寺沢氏や柳田氏が書いている。
471 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/05(日) 21:18:55
>>457 一応自分は普通の厨房ですが・・・
>>469 当時、鎧なる物があまり普及していなかったら鉄だろうが銅だろうが骨だろう
があんま関係無いんじゃないんですか?
>>460 >まともな考古学者であれば、銅鏡等を中心とする威信財体系が北九州で続くこと、
>九州内でそれがピラミッド型の階層をなしていることを否定する者はいない。
おいおい。銅矛なら兎も角、北部九州の銅鏡の威信財体系って何?
473 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:23:16
なお庄内期の吉備の畿内への影響だが、庄内カメの成立に大きな影響があったし、石塚の弧文円板はもろ吉備系だ。中田遺跡などの中河内の拠点化には吉備が関与してるだろうし(中田遺跡の庄内初頭の土器群)、マキムクにも辻土坑3に吉備系土器があるし、 柳本の四の坪の土坑にも吉備の特殊壺がある。これらは布留0より前だ。 だいたい大きな墳丘を作ることが吉備の発想かと。 吉備+播磨や讃岐あたりの強い影響に北部九州の王権儀礼が加わったのだろう。 なお北部九州はやはり排除できないし、 このスレの伊都国氏(?)のように他を排除して北部九州のみでヤマト王権の成立を説明するのもまた無理かと。
>>464 >四世紀初頭の確実に実在したとされる崇神が初代大王だと
>思いこんでしまっただけの話で、編年が大幅に繰り上がった今そんな
>ことを言いきれるわけがないわな。
はあ。崇神が4世紀初頭って、どうやって割り出したの?
まさか、伝崇神陵からじゃないでしょうねー
475 :
太国 :2006/03/05(日) 21:31:13
崇神世はもっと古い時代だぞ。
まあ、皇室の創作した記紀神話に、筑紫が全く採用されていない事からも、 少なくとも後世の皇室は、自分たちが筑紫出身とは爪の先程も思っていなかったんだろうな。
477 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:33:12
>>471 有機質の鎧(木甲や革甲、特に発掘資料らは前者、また後の鉄製短甲の推定原型は後者)はある程度普及していた可能性が高いので貫通力は問題となる。
>>472 銅矛は共同体のマツリの象徴だが首長の威信財には対馬など例外を除きならない。北部九州の首長の威信財の筆頭は墓の副葬品に見るやうに鏡、特に中国鏡。
478 :
太国 :2006/03/05(日) 21:35:50
>>476 皇宗は筑紫から来たんでしょ?w 思ってますよ。
創作は太安万侶でしょ?彼は皇族なんですか?
史学の徒さんも、マキムクへの筑紫介入を百パーセント否定してる訳じゃないですし。 伊都国東遷説さんも、そんなにフガフガせず、まったりと議論していきましょう。
481 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:38:04
高天原は筑紫では?筑紫の地名が神代巻に多く出てくるが また日向も本来は筑紫の日向で、伊都国の可能性がある。原田大六の本でも読め。
482 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/05(日) 21:39:01
>>477 ありがとうございます。ただ、最新兵器が流通していたとしても、人口によっ
て兵の数も変わります。そうすれば畿内・九州の優劣はつけがたいんじゃない
んでしょうか。
483 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:40:31
太国のレスはスレ違いだな。
484 :
太国 :2006/03/05(日) 21:40:40
485 :
太国 :2006/03/05(日) 21:44:41
ははあ、余は直接介入はしてない。 ただ本論とは別にだ、誤りが過ぎるかなぁと思っているから言ったまでだ。 眼の上のたんこぶか〜?おんじゃぁ黙っててやるか〜? >483も畿内説の重病者ですなぁ〜。w
486 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/05(日) 21:48:27
結局、三世紀の日本は春秋戦国時代のような時代で、東方で巨大な人口 を有していた大和の勢力が諸侯のまとめ役となり、後に列島全体に勢力 をのばして統一したんじゃないんでしょうか。
まあ例えるなら大和国家は秦ってところでしょう。
488 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:52:35
北部九州の人口は侮り難いが。古墳初めまではて大型集落が密にある。 またいくら人口が多くても烏合の衆ではね。九州は単に最新技術や利器が普及しているだけでなく中国や韓国との交渉を通じて軍事技術も導入されている。 例えば吉野ヶ里の複雑な防御体制や壕の突出部は中国からの情報によるかと(七田氏の説)。 あるいは鏃なんかは弥生後期後半から韓国南部と同じ変遷がある。 道路なども大型集落ではすでに整備されているらしいので、だとすれば軍事的にも利用されただろう。
489 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:56:31
中国の戦国では人口けなら斉あたりが多いと思うが。 秦の強大化は富国強兵策の成功と軍事技術と戦術、戦略の優位さにある。
490 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 21:57:18
人口けなら→人口だけなら
>>477 >銅矛は共同体のマツリの象徴だが首長の威信財には対馬など例外を除きならない。
>北部九州の首長の威信財の筆頭は墓の副葬品に見るやうに鏡、特に中国鏡。
いや、かなり思い込みが激しいような。
確かに、弥生中期後葉から北部九州には大量の前漢鏡が流入している。
しかし、威信財として銅鏡が最重要視されたのは、3世紀初頭以降、画文帯神獣鏡から
ではないか?
で、画文帯は畿内を中心に分布している。
秦ははっきり言って、中原の国家よりも、当初は文化的に遅れていたと思われ る。また、「孫子」は呉で成立したらしい。少なくとも秦で成立した可能性は 0。しかし秦は天下を統一した。また「中国」の影響を考えるなら、濠も大事 だが、城壁や土城の存在もちゃんと考えなければならない。また九州の大型集 落は密度が高い。だから、一国が大きな領土を保てなかったと考えられる。 これらの点はどうなんでしょうか?
>>489 たしかにその通りですね。しかし秦の優位は、商君の変法のさることな
がら、天然の要害に囲まれていたことも要因の一つでしょう。
494 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 22:08:41
思い込みはどっちだ? 北部九州の中国鏡がただ入っただけで威信財として機能してないなんて誰も言ってない。 ガチガチの京大学派で九州軽視畿内優位派の岡村氏さえ北部九州の弥生中期後半以降の中国鏡について、威信財として認め、倭国内での再配分や中国王朝との関係を評価しているが。 ちょっとひどいなw
また吉野ヶ里は邪馬台国時代には衰退していたということを聞きましたが本当 ですか?
496 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 22:15:06
>>491 須玖岡本D、三雲、立岩、井原、平原の副葬品みたらどう見ても鏡が一貫して最重要視されているが。
497 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 22:19:33
北部九州の大型集落はたいがい段丘上にあり、空壕で実態は土城的。 また密な城的な大型集落の有無と支配領域の関係は簡単じゃない。それ言ったら中国は?
498 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/05(日) 22:30:07
>>495 吉野ヶ里の衰退は卑弥呼が小城に遷都してからです。
卑弥呼が即位した183年から3世紀中頃に遷都するまでは、邪馬台国(邪馬壱国)の都でした。
499 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 22:31:51
吉野ヶ里の大型集落の末期は大環壕が維持されているか疑問だが、壕の有無に関係なく集落遺構は広く密にある。また内壕とされるところを中心に複雑な構造になっているのも確か。 北内郭の大型建物も集落末期のようだし、庄内平行までは大型集落としてよい。 ただし布留0あたりに集落域に墳墓が築かれ、一部倉庫群のあたりなどにも集落が残るが、求心力はなくなるようだ。 まあ3世紀前半までは地域の中心でよいし、前方後方墳の連続築造から、近くに首長の拠点が移ったのだろう。
500 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 22:33:01
501 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 23:01:29
弥生時代のあとの時代名称は古墳時代それとも大和時代?
502 :
まる :2006/03/05(日) 23:06:41
秦王朝の中国の平定は オリエンタル的な中央集権化の流れをつくった。大陸の影響にて 倭も統一という流れを受けた。
503 :
まる :2006/03/05(日) 23:14:15
ひとつの疑問として 魏の使節は なぜ 卑弥呼のヤマタイ国に行かなかったのでしょうか? 北九州なら 拝見できたのでは?
504 :
日本@名無史さん :2006/03/05(日) 23:21:52
行かなかった根拠は?
505 :
まる :2006/03/05(日) 23:31:10
推測ですが 行けなかったのでは ないか?鎌倉時代 よく 鎌倉に不穏な動きがあると関所をとざしてしまう。権力闘争にて
506 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 00:06:01
憶測ですな。 倭王に拝仮す、とあるが。 拝仮=拝謁でいいのでは?
507 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 00:07:32
しかも張政らの行動は内政干渉してるっぽいし
508 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 00:31:18
倭人伝の記事が使節団かどうか不明だし、当時の軍事的緊張から 実際に卑弥呼に会ったと見る方が自然。 三国時代の中国世界の著しい拡大は、何よりも生口と兵士を得るため。
509 :
俺等05772 :2006/03/06(月) 08:14:35
>>447-449 史学の徒さん
レス、ありがとうございます。反論したい個所もありますが、今週は忙しいので、来週以降
にしたいと思います。何せ、最近の考古学の進歩から遅れているので、反論する際も、一々
文献なり、ネットなりで調べ確認しながらしなきゃならんのですよ。だから、大変。(笑)
>>497 台地上にあるとかないとかは関係なし。土城的でも、「城壁」が存在しなけれ
ば、中国の影響は希薄だと思われます。環濠自体も、北海道の静川遺跡で縄文
時代のが出てきています。また戦国時代では、大国が幾つもの都市をまとめあ
げています。日本では、同盟関係などは戦国時代のものと似ておりますが、領
域的に見ると殷周の都市国家ほどしか無いと思われます。(北部九州)
これはあくまで私見なので、講談社の「中国の歴史」の2巻を読むことをおす
すめします。
511 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 18:03:50
商や周の段階だとすればかなりな発展段階だと思います。 また古墳時代も少なくとも前半期は戦国のような領域国家段階ではないでしょう。 弥生後期の西日本の一部が夏や商段階、古墳時代が周段階ではと。 なお商周段階ももちろん土城がありますね。 弥生の環壕集落、特に後半期の大型化複雑化したものはスケールダウンしてますが中国の影響があると思いますよ。 城壁についてはスケールダウンしてますが、環壕に伴う土塁や柵が対応します。倭人伝の城柵です。 まあ吉野ヶ里の公園の復元はやりすぎかもしれませんが当たらずとも遠からずかと。 中国の影響については環壕に伴う突出部や櫓(楼閣)について、 中国の土城に見られる角楼や馬面などの城郭構造との相似が七田忠昭氏により唱えられています。同成社の「日本の遺跡」2の「吉野ヶ里遺跡」を参照してください。 また邸閣=高床倉庫群や市の存在の蓋然性など中国の古代都市の影響は スケールダウンしつつも確実にあるでしょう。 なお後背地の佐賀平野でも以上の通りなので、 玄界灘沿岸側、特に楽浪との不断の交流や漢人の居住をも考えられる伊都国の三雲遺跡なんかは さらに多くの中国からの直接影響が想定できます。 あるいは奴国でも那珂遺跡
512 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 18:14:23
(続き)あるいは奴国でも那珂遺跡には1キロ以上の道路が築かれているとの話もありますしね。原の辻でも道路の一部が出ています。これらは溝に挟まれた幅5、6mのものですが直線的に作っているようですし、中国の影響による模倣でしょう。 なお環壕の土塁は埋まった土から推定することが多いのですが(削られ普通残らない)、確かどこか残っていた遺跡もあります。壕に伴う柵は意外と検出されていますし。
長文乙です。とても参考になりました。中国の影響は確かにあったようですね 。ただ中国の影響があっても、領域が狭ければ小競り合いばかりして、列島統 一はできないと思われます。
514 :
まる :2006/03/06(月) 22:23:06
もともと 縄文時代から国家として成立してはないが 集合体としていたのではないでしょうか?
515 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 22:42:50
あ
516 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 22:44:18
社会段階、一般進化、国家の定義について分かってる?
単純な「畿内自生」「筑紫東遷」の二者択一では語れないのが実情なんでしょう。 卑弥呼擁立の直接のトリガーが何であったのか? 卑弥呼=箸墓の被葬者とした場合、箸墓に先立つマキムクの王墓の幾つかは どのような解釈になるのでしょうか? 卑弥呼以前の男王たちになるのか。 卑弥呼以前の倭国王は伊都国王というのが有力だし、しかし平原1号の被葬者は 女性とされているしなー
>>516 出現期「国家」の定義なんてひとそれぞれですからねえ。
まあ、縄文社会が「国家段階ではない」って認識なんだから>514氏は一応セーフでしょう。
次の条件の内、いくつかを満たしてれば「国家」段階だと思う人は多いでしょう?
1 指導者層と構成員を母体に階級関係が成立
2 恒常的余剰の蓄積と租税・収奪のシステム化
3 非相互的(極化的)流通機構の存在
4 専従官僚組織・武力組織の成立
5 集落>地域権力>中央権力のような支配関係の多層化
6 個人顕彰のための大規模土木工事(前方後円墳等)の出現
7 土地と人民の私有制
これ以外にもありますけど、とりあえず「倭人伝」の世界では
1 尊卑各有差、大人・下戸・奴婢・生口
2 收租賦
3 國國有市、交易有無、使大倭監之
4 常有人持兵守衞
5 世有王、皆統屬女王國
6 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩
7 殉葬者奴婢百餘人
あたりが該当するように見えますが・・・いかがでしょうか。
>>517 卑弥呼=箸墓としているあたりがそもそもの間違い
宇佐の亀山もそうだ。
小説のネタとしてなら利用価値十分ではあるが、現実問題では
そうはいかない。
未だ未発掘で有り被葬者の有無すら確認出来ていない
現在卑弥呼の墓として最も可能性を備えたものが、平原一号墳で有ることは間違いない事実として、きっちり受け止め
議論の一躍を担う可きである。
『私は畿内説だから認めない』などの考えなら、進歩等到底望めるものではない。
現在畿内論を構築する作業として、卑弥呼の墓として現時点最も可能性の高い、平原一号との関連性を探る可きかと 提案します。
521 :
日本@名無史さん :2006/03/07(火) 20:08:27
纏向遺跡については、桜井市立埋蔵文化センターの橋本輝彦氏が要点をまとめています。
http://mailpal.hp.infoseek.co.jp/0504miwa.shtml このうち、
5.纏向遺跡の盛衰
・纏向遺跡から出土する土器は布留T(280-320頃)であり、布留U(320-360頃)は出ない。
・布留TはAD280−320年頃、布留Uは320−360年である。
・纏向遺跡からは弥生遺跡は出ないので三世紀に突然でき、四世紀始めに突然消滅した。
・奈良県内ではその後、山之辺の道沿いに大型古墳が造られ、佐紀古墳群等、纏向以外
に大型古墳が造られた。
をみると、纏向遺跡は卑弥呼の死後に出来た遺跡になります。だから、卑弥呼と関連がある
のは、唐古・鍵遺跡でしょう。唐古・鍵遺跡と纏向遺跡に文化的不連続性が認められれば
狗奴国東征論は成り立つ可能性があります。纏向遺跡が造営キャンプ地なら、日向との関係
が無くとも、人夫を日向からかき集めなかったと解釈すれば問題ないでしょう。
むしろ、神武が東征に際し長期滞在した吉備の影響が強いことは、東征の補強材料になり
ます。
>>521 その東遷に費やされた期間をどの位と見積もりしているのでしょうか。
>>521 その要点をまとめられた橋本氏とは、ご提示されたURLを見る限り
「ニギハヤヒを中心とするスサノウグループによる統一国家成立」とかを
断言してしまうかなり個性的で電圧の高い方のようです。
言い回しも微妙で「布留Tは出るが布留Uは出ない」とは言っても
庄内については何も語りません。
つまり庄内が出ないとは言っていないのですw
ご存知のとおり纏向大溝の最下層は庄内以前。
庄内を語らずに纏向を語られてもねえ・・・
御持論のようである「神武東征」について、私は何も語る術を持ちませんが、
纏向と吉備の関係が東征の補強材料となるなら、
日向と宇佐、遠賀と安芸、吉備とかの関係も濃密なのでしょうか?
私も「大和朝廷のご先祖様は九州から来たらしい」と漠然と考えることは
ありますが、それ以上の推論に到る根拠は得られないと思います。
524 :
日本@名無史さん :2006/03/07(火) 21:06:12
525 :
日本@名無史さん :2006/03/07(火) 21:19:10
上の方で橋本輝彦氏が言ったらことと引用者の勝手なコメントがごっちゃになっているのでは
526 :
日本@名無史さん :2006/03/07(火) 21:24:24
>>523 >524のソースの内、日本書紀の滞在期間を見て下さい。吉備以外は単なる通過点です。
一方、吉備にはじっくり滞在していますが、これは本格的な領土経営をした証しです。
問題は吉備と日向の間に何らかの遺跡上のつながりがあるか否かです。
>>521 これは誰が書いたのだろうか?本人とは思えない。
講演録だろうか?書いた人の願望もかなり入っていそうだ。
>・布留TはAD280−320年頃、布留Uは320−360年である。
これは大胆過ぎる。布留I開始のAD280もそうだが、布留IIの終わりが360年だと須恵器の年代と齟齬をきたすだろう。
>・纏向遺跡からは弥生遺跡は出ないので三世紀に突然でき、四世紀始めに突然消滅した。
最近ボツボツと出はじめているのだが。橋本氏が知らないはずはない。
まだわずかだが。
>>525 >コメントがごっちゃに
そうかも。
で、橋本さんでググると例の「箸墓周濠の輪鐙」発見と「もう一つ(実はこちらの方が多いw)」
>桜井市教委が同市倉橋のカタハラ1号墳を発掘したところ、米に似た硬い土粒が横穴式
>石室の床面から大量に出土。1か月がかりで1949粒を数え、3〜8ミリの3種類の大きさ
>に分類できることもわかった。ところが他の研究者から「虫のフンに似ている」との指摘があり、
>橿原市昆虫館に鑑定依頼。形や3種類の大きさなどが、二度脱皮するコガネムシ科の幼虫
>のフンと一致することが判明した。石室は盗掘を受けるなどして開口しており、中に入り込んで、
>腐葉土などをえさにし、未消化の土が排せつされたらしい。
>同様の土粒は約20年前から遺跡で出土が知られ、「擬似米、米粒状土製品」と命名され、
>儀式の際にまいたと解釈されてきた。今回の「成果」で、これまで出土した「擬似米」の見直しも
>迫られそうだ。桜井市教委文化財課の「橋本輝彦」主任は
>「まさか昆虫のフンだったとは。これほど詳細なカブトムシのフンの研究は世界的にも例がないそうで、
>別の意味で貴重な学術データになってしまった」と複雑な表情を見せている。(読売新聞より)』
なかなかユニークな方w
>>526 >吉備と日向
三世紀以前だと両者には全く繋がりが見えませんね。
これは「大問題」。
>>527 >橋本氏が知らないはずはない
でも橋本氏の論調は纏向のピークを布留Tに当てはめている感じ。
>>521 のURLが4〜5年前の氏の考えだとしたら、庄内以前を過小評価していても不自然ではないと思う。
どう見ても卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命だよな。
531 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 00:53:54
巻向だが、橋本氏が言うのは布留1式「まで」が出るの意味でしょう。庄内が多くあることを橋本氏が知らないはずがないが。 で、マキムクのピークは布留0から1式か。布留2式に急に衰退かと。庄内式はだんだん大きくなる時期。 平原が百余歩というのはこじつけかと。ちょっと無理でしょそれは。畿内説で平原というのも分からん。また時期も3世紀半ばまでは下がらないかと。3世紀初めくらいならまだ分かるが。鏡が実は新しい要素があるとしても、後漢末までで三国には下がらない。 ただ古墳のは埋葬儀礼の内容の一つの起源ではあろう。また女王みたいなので倭国王卑弥呼共立後の伊都国王では。その前の倭国王=伊都国王は男王だから。 箸墓は可能性あるが3世紀半ばまで古くなるかまだ疑問。勝山とか矢塚あたりが怪しい。ホケノは箸墓と同じ布留0に下る可能性があるし、石塚は庄内式前半だろうからやや古くなるし。
532 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 00:59:07
巻向は大溝掘削以降の大型化は、それまでのたまにポツポツ人が住んだ弥生後期の状況とは断絶していると考えた方が良い。 都を新たに作ったのだろう。どこの勢力か別として。
534 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 09:16:14
ふつうに通説だが。
通説でつか? 畿内説も通説九州説も通説なんだか頼りない通説ですねw
536 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 12:16:28
卑弥呼共立以前の倭国王がという意味だが。 考古学的状況証拠で世世王有りが追証され、107年の倭国王は伊都国王と考えられている。あるいは卑弥呼共立以前の倭国王=男王7、80年は世世王有りと対応するろうこと。また卑弥呼は倭国王として共立され邪馬台国に都したということ。
537 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 12:58:58
倭人伝の『倭國乱』が如何なる状況の描写なのか不詳です。 ですが、中国側の公式見解は卑弥呼の前にも倭國王は居て、 その王権は大陸(公孫氏を含む)と連綿なる通好があった、 と言うこと。 その『王権』とは何かと言えば伊都の王しかいない。 その時代で考古の裏付けがとれるのは伊都しかない。
なになに すべて推論から来る内容だな。伊都の王に女王がいたなどという文献も無いし、墓誌が出土したわけでもない 後漢書倭伝には、国々皆王と書かれていて伊都を特別視する文脈もない 倭奴国、倭国帥升、委奴国、倭面土国などなどから伊都に結び付けるのも全て推測だ。伊都国に女王有りとする文献でも出てくれば確率は高まるが 現段階では 推測域。
539 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:02:09
国々皆王は後漢書だけの記事。皆王がいることにしてしまったので倭国王が大倭王というこれまた後漢書だけの記述になる。 一方三国志倭人条は邪馬台国に都する倭女王卑弥呼、敵対し倭王統制下にない=冊封下にない狗奴国王、 そして伊都の王=世世王有りの三者だけ。他の国々は王を認めていない。倭の奴国でさえも。 これが本来的だろう。「倭国」外とも言える狗奴国王は別として倭に二つの王がいることになる。天に二日で本来的には名分的に問題だ。 これは世世王有りの伊都王が元は倭王であったことを 示しているものと考えれば理解しやすい。 一方、元の倭王は卑弥呼以前は男王だった。また平原は副葬品から(特殊なガラス管玉の耳トウや玉類の卓越)女王だ。倭王=伊都王、倭王=男王の時期ではない。つまり卑弥呼共立(2世紀末?)以後のまだ代々続く伊都王とすれば疑問は氷解する。 考古学的にも平原は弥生後期後半から終末とされ、例えば3世紀初め頃とすれば矛盾ない。なお三国志は「倭国」「倭王」の歴史に注目するので倭王卑弥呼共立以後の 伊都王については世世王有りと触れ、詳しく書かなか買ったのだろう。 また後漢書には帝紀を含め107年の記述は単に倭国王である。他の二次的な史書に倭
540 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:06:29
541 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:08:51
(前の続き) 後漢書には107年の記述は帝紀を含め単に倭国王としかない。他の二次的な史書には「倭面土国王」とあるがそれらの史書は概して誤植や錯簡が多い。つまり怪しい。「倭国王」が「倭国王国王」に錯簡し、さらに「倭面土国王」になったという台湾の王金林氏の説が説得力がある。
>>539 「世王有る」の続き、「皆女王国に統属す」の部分は無視するようです。
543 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:14:29
高地性集落の時期が問題だな。それに神武は畿内でしか戦ってないがなんで瀬戸内にあるの? また神武の出発地は日向なの?だとすれば日向と吉備の同盟の証拠ってあるか?あるいは吉備に九州軍?が滞在した証拠は?
544 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:18:09
>>542 いや無視してないが。代々王がいるが(今は)女王に統属すということ。
誤解してるようだが卑弥呼共立以後の倭王は伊都王ではない。卑弥呼共立以前の倭王が伊都王だということ。
545 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:18:27
特殊器台と特殊壺
http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekimin/syozou_index.html 特殊器台と特殊壺は,弥生時代後期(2〜3世紀)に,吉備南部(現在の岡山県南部)で,集落
の指導者の墓に供えるために特別に大きくつくられた土器で,吉備南部で作られたものが,出雲
や近畿など各地へ運ばれたことがわかっています。
矢谷墳丘墓の特殊器台は,高さ99.5p,口径47.5pで,弥生土器としては大型の土器です。
特殊器台には通常の弥生土器に無い文様として,謎めいた渦巻文様(連続S字状文)や巴形や三角
形の透しが施されており,この土器が特別な儀式の道具であったことを示しています。特殊壺は,
特殊器台の上にのる高さ61.8p,口径32.7pの大きな壺で,儀式用の土器であるため,底部は最初
から大きくくり抜かれています。
矢谷墳丘墓では,特殊器台と特殊壺がセットになって,墓の周囲に立て並べられていました。
「やがて、特殊器台は楯築墳丘墓の立坂型から、向木見型、都月型へと変化する」
「そう言えば、向木見型と平行する時期に向木見型から派生し、大和で作られた特殊器台が宮山
型だったな」 「そうだ。そして、歴史の主役は吉備から大和へと移り、特殊器台はそのまま円筒
埴輪へと変化し、前方後円墳で飾られる様になるのだ」
「弥生墳丘墓から前方後円墳への変化は大きいが、文化的には地続きだったということか」
つまり、弥生時代後期の吉備南部の文化が、出雲や近畿など各地へ普及していくわけです。
これは神武東征神話が、東征の途中、吉備に長期間滞在したとする話と一致し、非常に興味
深いことです。少なくとも「史学の徒」さんの主張は受け入れられない。
546 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:22:33
だから九州と吉備の同盟関係を言わないと神武伝承と同じとは言えない。吉備が独自に畿内に入ったのかもしれないし。
547 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 21:27:36
また吉備の大きな影響は史学氏も否定してないのでは。 それと神武東遷が一致するかは別問題。神武伝承は橿原に宮を置くとか弥生終末から古墳初めの考古学資料の実態と合わないことも多い。
549 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 22:08:51
平原が副葬品から女性の被葬者で、内容から王墓ということ、また時期についての考古学的所見と倭人伝を整合させるとそうなるが。他に妙案があればいいが。 だいたい気になっていたが、いちゃもん的な一行レスだけで対案がないのはいかがなものか。他に妙案があるのか? 推測に過ぎないってそりゃ推測ですが。ただしもっとも矛盾ない蓋然性が高い推測と思ってますが。 対案出すなら、以下が矛盾ないようにして下さい。 伊都に代々王がいたこと、倭王卑弥呼が共立されたこと(今までの王の継承と異なるらしいこと)、 倭王は以前男王だったこと、 107年に倭国王がいること、考古学的には弥生後期までの体外的王は北部九州にしか想定されないこと、 平原は王墓だが女王らしいこと、平原は地理的に当然伊都王だろうこと。
550 :
ウ゛ィクトリア皇后 :2006/03/08(水) 22:14:27
浅野温子が王様
551 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 22:16:59
誤解があるかもしれないので再度確認するが、共立された倭王卑弥呼は邪馬台国に都を置いたわけだが 文脈からいって従来の男王の継承とは異質の王なのだろう。出自は不明だが。 そして邪馬台国は畿内と思ってますが。卑弥呼が伊都王とは言ってませんよ。平原の被葬者は別の王だろうと。
552 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 22:43:39
平原は卑弥呼の墓の3世紀中頃まで新しくするのは無理だろ。
554 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 00:16:50
百余歩の説明は無理だろう。仮に短里が成立しても(これが怪しいが)、歩は歩なので比例して短いというのは無理だろ。 また平原の方格規矩鏡は文様要素の混乱や技術劣化から後漢の中では新しくなる可能性はあるが、三国の方格規矩の特徴(正L字や方格などのキサゲ削り省略、扁平紐孔など)はない。 平原の鏡は研磨の状況から伝世があまりないことが柳田氏の研究で明らかになっている。また大刀も環頭の作りは三国でなく後漢だ。 いずれにしても三国に下る要素は残念ながらない。
555 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 00:32:49
扁平紐孔→扁平な金丑断面、紐孔は長方形
556 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 03:52:35
>>553 九州説の議論は別のところでやってくれ。
では卑弥呼の墓は何処だ 平原一号墳の被葬者はだれか 一番最良の判断が 被葬者は卑弥呼に限りなくちかいという結果だ もし、卑弥呼の墓が他に有るなら提示キボン
558 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 07:12:47
ふつうに平原はある時期の伊都国王でいい。 男王でないから卑弥呼共立以後にいた伊都の女王とする解釈は蓋然性がある。伊都に女王の記述がないとするが、史書に全てがある訳でないし、「倭王」でない時期の王の記録は省略されたとも考えられる。 百余歩が実数かわからないが、少なくとも大型墓という必要がある。また三国の前半の鏡があることが必要。 卑弥呼の墓はマキムクのどれか。箸墓は可能性の一つ。時期が少し新しいかもしれないが。古墳の内容が全て解らなくでも例えば時期は周溝の調査で判明する。内容もホケノから予想できる。ホケノは武器が多いから女王ではないが。 全てが発掘されている訳でないから推測だが仕方ない。今ある資料で我慢するしかない。 逆に内容が明らかなのは卑弥呼の墓としては矛盾も見えてしまう。平原はなるほど卑弥呼の墓の内容を予想するには注目すべきものだが、時期や規模から外れる。
559 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 07:20:34
また
>>553 は
>>550 に答えることが必要。さらに平原をあくまでも3世紀中頃とするなら考古学的に証明することが必要。
規模については、墓域を明確に示すのはふつう周溝だ。周辺関連遺構一つをもって、そこまでを墓の「径」とするなどこじつけも甚だしい。
560 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 07:23:05
規模だが一歩30a弱とするのが常識内だろうし、同地域の王墓の埋葬が甕棺に対し 一号墳の箱式には興味を覚える。 三世紀後半の遺物出土が有れば別だが今の所確認出来ていない 次世代伊都国女王と認定したいのだろうけど 推定域から永遠に脱出出来ない マキムク付近の未発掘古墳に仮定した所で 小説と同レベルの材料だ 被葬者の性別はおろか被葬者の有無さえ確認出来ていないのが現状だ 畿内説の根底には、そんなファンタジーな物語が繰り広げられている それも、事実だ
562 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 08:18:37
倭人伝の歩数は中国の単位を記述したものです。 日本では、片足を前に出して一歩ですが、中国では、もう一足をその前に出して一歩、文字通り、歩くのです。 よって、中国の一歩は140cmぐらいです。
564 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 08:48:54
平原を卑弥呼の墓にするのは希望的観測に過ぎない。
考古学的所見から時期が合わないから推測域以前だが。
歩が30センチ?(ふつう大人の歩幅はもっとあると思うが)でも平原は30mさえない。周溝外の遺構で径の範囲とは苦し過ぎ。
また平原が卑弥呼の墓なら伊都の王はどこへやら。矛盾がある。
>>549 にも答えてないし、ファンタジーはどっちだよw
566 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 08:57:09
だいたい平原1号が「箱式」って何? 基本的情報も分かってないなw
>>564 その前に貴方は
>>549 で何か質問したか。推定上の議論は永久に結論を得ることが出来ないので
差し控える。
現時点で平原一号が最も卑弥呼の墓として仮定出来る候補だと言っているのだ
もし、相応しく無い仮定なら
それにかわる代案を提示す可きではないか
569 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 10:43:32
平原は割竹形木棺で箱式でないが。
また平原の時期はカメ棺自体が少ない。木棺は王墓だけでたい。
>>549 は考古学的情報と倭人伝の記述を整理して箇条書きしたものだ。単なる推測ではない。それらにより矛盾がない説明を望む。
歩が30センチなど推測域以前だがw
570 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 10:44:37
木棺は王墓だけでなたい。→木棺は王墓だけでなたい
571 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 10:47:48
木棺は王墓だけでたい。→木棺は王墓だけでない
第一、ヒラバルの被葬者が女性というのが、単なる憶測だろう。 考古学者もこういういいかげんな思いつきは自分の胸だけにしまっておいて欲しいものだ。
573 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 11:02:31
候補はマキムクのどれかで十分。マキムクが邪馬台国の都だろうから。新しい古墳祭祀の発祥地だし。百余歩にふさわしい大型墓がある。ホケノから三国鏡があるのも確実。 平原は情報は十分あるが、だからこそ卑弥呼の墓の時期や規模と合わないので却下。。
574 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 11:17:11
巻向が邪馬台国なわけがないw 邪馬台国は宇佐周辺。巻向は物部王朝
>>569 >>549 の107年の朝見記事を九州に断定する事は出来ない。57年の朝見記事に続くものであるならば『又遣使…』と続くのが
今までの流れだ
それにあの記事には(願請見)と書かれ以降内容を示していない
詰まり、この二つの外交記録は後の倭国大乱の起因を説明する大事な朝見記録と、とらえる事の可能な記録だ
57年を九州と想定した場合これらの想定から107年を、九州に絞り込む事は出来ない
仮に共立以前の出来事と平原被葬者を伊都国王の記録とした場合直ぐマキムクの女王体制が始まるのも 腑に落ちない。 その平行時期にマキムクで何が行われていたのか 説明を求む
577 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 12:35:15
平原の耳トウというガラス玉は中国製だが、この特殊な管玉は漢墓ではほぼ女性の墓に伴い 、漢文化の影響が強い平原は女性の墓だろうと最初の報告(大型本)で渡辺正気氏が述べている。 卑弥呼の墓かは別にしてこの点は他の考古学者からも異論が出ていない。だから単なる憶測ではない。
57年の朝見記事について大事な記事が見える『印綬』だ。 この印綬と志賀島の金印をまぜこぜにしている傾向があるが、印綬とは→皇帝(この場合“光武”)印が押された証書 の事である §稀に印鑑受理を略し“印綬”とすることもあるが 卑弥呼が景初年間に受けた“假金印綬”とは別物である あと“印綬”と“印授”も別解釈
579 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 12:48:52
>>575 57年は倭の奴国(倭の有力な一国)の遣使、107年は倭国王と区別される。倭国全体の代表だから奴国が又遣使にならない。
倭国王卑弥呼が邪馬台国に都したが邪馬台国は一箇所しか出てこないように、この時の倭国王は伊都国王としても中国側の主眼は倭国王の成立が問題だったから詳しい国名は正史に載らなかったのでは。
また考古学的に弥生後期のこの時期に中国と交渉しえた代表は北部九州以外はありえない。
鏡の分布もそうだが、北部九州でも特に伊都国の楽浪土器の大量出土は意義が大きい。弥生後期段階の倭の代表の位置を示す。
580 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 12:50:22
>>577 その渡辺正気が正しいと書いたら証拠になるのか?
どう見ても渡辺正気という人物の100%の憶測。
男女の性別がわかる人骨等とそのガラス玉とが一緒に出土した日本国内事例を収集したうえで、
このガラス玉が副葬されている墓の被葬者は何%の確率で女であるというデータを整備したうえで、
『被葬者は女性(の確率が何%)』と言ってはじめて根拠のある推定といえるんだ。
そうでないものは、ただの、オ・ク・ソ・ク。
こんなこともわからないから、考古学者は馬鹿だといわれるんだ。
582 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 13:04:41
あのね考古学的解釈は蓋然性の高さが問題なの。 確かに決定証明ではないが、漢文化の傘下だった伊都国の状況から蓋然性の高さは言える。 そこまで厳密な証明を求めるなら、あなたの説はさぞかし厳密鉄壁なんでしょうねw 私は平原卑弥呼墓説の人とは別なので女性被葬者の可能性は高いと考えるが男王でも別にいいが。
>>577 >>581 は完全に追い詰められたな 冷静に許容し反論出来なくなっている。
そろそろ限界だから開放キボン
584 :
ギリシア王妃アンヌ・マリー :2006/03/09(木) 13:54:29
養女に浅野温子・ 狂った魔性の女に浅野ゆう子・愛人に五十嵐淳子を置く。
>>582 いいかな
現在発掘調査された墓の中で卑弥呼の墓に一番相応しい遺跡が「平原一号」なんだよ
だからと言って確定でもない。貴方が主張するように真実は伊都王墓かも知れない しかし現段階では「かも知れない」だと言うこと。
平原=伊都王墓
とするなら、その前に平原=卑弥呼の墓説を徹底的に平原≠卑弥呼墓の証明をしなければならない。
それからがマキムク=女王宮の議論が前進するんだ
それを無視するから、何時まで経っても平行線
スレを分ける前に平原≠卑弥呼墓だな
586 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 15:13:36
>>585 邪馬台国九州論者はこのスレで議論しないで、他でやってくれ。
他に幾らでもスレがあるだろう。
587 :
清閑寺子爵夫人 :2006/03/09(木) 15:16:10
浅野温子は邪馬台国の女王
588 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 15:22:18
>>585 平原の時期や規模が卑弥呼墓の時期や記述と合わないのによくそんなこと言えるなあw
平原の鏡は三国にはならない。他の要素も後漢末までの範疇。人には厳密なことを要求する割には、自分の説にかなり無理があるということに気づけよ。
仮に別の説がまだ根拠不十分だとしても、だからあなたの説が正しいということには論理的にならない。
平原が卑弥呼墓とするなら指摘された問題点に答えてくれ。
ちなみにあなたは平原が卑弥呼墓かどうか別にして女性の墓というのは当然いいわけですね。
誰がどのレスかわからんところがあるので。
>>586 何をトチ狂った事言っているんだ。そんな事ばかり言ってイルから何時まで経っても平行線
結果が出ないんだよ。
ここは畿内説同志が片を寄せ合い慰め合うスレか。
だったら遠慮しよう
それに
俺は九州説と力説した覚えはないぞ ここはそういう者でも追い払うシキタリか
邪魔したな。
590 :
お美代の方 :2006/03/09(木) 15:32:10
近畿はうつみ宮土理の夫きんきんのモノ
>>589 とりあえず畿内説か九州説か、立場を表明すれば?別に九州説の人でも大歓迎
ですが。
>>588 最後に答えておくが
ここで大事な事は、遺跡の時間が何処まで遡れるかだ。
出土品が想定する人物より新しい物では話にならない事は理解出来る筈だ
調査結果が女性と判断したならそうだろう
このスレはどうやら片寄せ合い慰め合う所らしいから
これで失礼する。
593 :
疑惑の総合書写 :2006/03/09(木) 15:52:08
きんきんのモノ
594 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 16:30:52
>>592 意味不明
結局、人にさんざんケチつけて疑問には答えず逃亡
595 :
お江与 :2006/03/09(木) 16:43:38
すべての遺跡は西川峰子のモノ
596 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 17:17:06
卑弥呼の死よりは古く考えられる点で(新しくて後漢末期)、平原≠卑弥呼墓。 マキムクの諸古墳は情報少ない分、可能性に留めるも、否定もできない。ただ実年代がやや流動的としてもどれかは卑弥呼の死の年代に合う。 卑弥呼の都がマキムクなら蓋然性は高い。箸墓も、今はまだ卑弥呼の死より新しい3世紀後半の可能性が高いが(今のところ違うかと)、古墳時代初めの実年代が古くなる可能性が流動的ながらあり得るので完全否定はできない。
598 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 18:02:01
>>597 平原の鏡が後漢末のものならじゅうぶん埋葬可能かと被葬者が三世紀半ばの埋葬なんだから
599 :
ぺザンバール伯爵夫人 :2006/03/09(木) 18:15:40
西川峰子がダメなら 浅野ゆう子に決まり
おまいら、ヒマ杉。もうこんなに伸びてるのかよ。
>>582 >漢文化の傘下だった
そもそもここからお花畑だな。
中国と通交があってその文物が入っているのは事実だが、
どこに『漢文化の傘下だった』証拠があるのかね。
中国人っていうのは、方形周溝墓をつくって割竹形木棺で埋葬する習慣があったのかねえ?
鏡を馬鹿みたいにバカスカ入れて埋葬する習慣があったのかねぇ?
棺の飾り金具と言われるものもでてるけど、割竹型木棺には必要ないから、
ワケも分からず副葬品に入れてる。これが中華流かねぇ?
おおよそ中華風とは違う文化だ。
にもかかわらずありもしない『漢文化の傘下』というお花畑の夢を見て
ガラス玉一つで被葬者は女性って、そりゃ、ただの馬鹿だろ。
もっとも、渡辺正気は被葬者は女性を所与にして『大日霎貴の墓』なんていう
お花畑満載の報告書書いちゃった香具師の尻ぬぐいをしなきゃならなかったから、
そう書かざるをえなかった心情はよくわかるけどね。
本当の馬鹿は、それを真に受けて吹聴して回るヤツ。
601 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 18:28:21
畿内説ご臨終のようです。
>>601 ではこのスレも削除依頼出しときますか。
603 :
モルガンお雪 :2006/03/09(木) 19:30:12
浅野ゆう子が女王さまということでけっちゃくがついたんざますね♪
604 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 20:47:24
>>600 渡辺氏自身も尻ぬぐいではなくそう思っている。
漢文化の傘下といっても、確かに全て模倣している訳でない。同時に影響が大きいのも否定できまい。
またしかし耳トウは日本では類例がほとんど無く、その場合、漢での使われ方を参考にするのはふつうの考察だ。
それでも確証じゃないだろとか言うだろうが、前にも書いたが蓋然性の問題だ。
またこれも蓋然性の問題だが、人骨判明墓で副葬品が多い場合、
玉類が多く武器が少ないものは女性の確率が高いのも事実だ。もちろん例外もあるが、確率、蓋然性の高さで言っている。
男性の可能性が全くないとは言わない。何度も言うが、私は平原卑弥呼墓説は取らないし、絶対女性だとは言わない。
女性の可能性が高いので、その場合はどうなるか、どう考えれば矛盾はないかと考察しているだけだ。
それなのにただただ絡まれてもなあw
まあ他の方は理解してくれると思いますが。
再度言うが、人にそこまで確証や厳密さをさんざん求めるなら、
さぞかし厳密な論をお持ちでしょうから、ぜひ聞きたいものですなw
605 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 21:10:11
平原の方格規矩鏡は京大系の研究者はいまだに後漢前期とする学者が多い。岡村氏や車崎氏など。 一方、九州の研究者は遺構の時期がやや下ることから(木棺や2号墓との関係など)疑問を呈し、 詳しく見ると方格規矩鏡は型式要素に混乱があり単純に古い型式ではなく、 さらに柳田康雄氏は鋳造技術や仕上げ研磨技術から後漢後期のものとする。 後漢末期というのはもっとも新しくて、という意味だ。実際は、後漢前期は難しいとしても、もう少し古い可能性が高い。 卑弥呼の墓なら、40枚もあれば最新の三国の鏡が少しは入っているだろう。実際、北部九州の他の弥生王墓の鏡群は最新の型式が主体だ。 また平原の鏡の多くは仕上げ研磨が明瞭に残っているので(柳田氏)、鏡入手から埋葬までの伝世期間もかなり短いと考えられている。 また三国の方格規矩鏡の特徴は無いから三国には下らない。
箸墓=卑弥呼墓よりはかなりましだし、その他未発掘地を仮定するのはロマンチック街道爆進中。
607 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 21:15:56
まともな議論と、ただの煽り絡みと、新手の荒らし(「浅野温子が、、、」)が混在してにぎやかだな。 史学氏や安曇連氏に登場してもらいたいですね。
608 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 21:17:43
だから平原は時期や規模が合わないって。 情報が多いだけに逆に否定材料がある。
609 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 21:29:40
偉そうな
>>600 氏には、ぜひご高説を披露していただきたいですねw
610 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 21:38:22
王候の墓は多数の鏡や大型鏡を入れている。この点は漢文化の影響ですが何か。
611 :
イギリス王妃カルロッテ :2006/03/09(木) 21:45:36
浅野温子がダメなら浅野ゆう子に女王になっていただこう。
612 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 21:47:34
>>610 え、鏡は太陽信仰の象徴で
江南文化じゃないの?
平原一号(弥生終末) 近年の調査で周構共通している二号墳の周構からは古式土師器が多量に出土し 年代的にも近い一号墳の年代も、弥生終末期に絞り込まれた。 また 漢鏡五期(岡村編年)に分類されている方格規矩鏡の中には「陶氏作」銘鏡の様に文様が稚拙なものが少なからず含まれており、倣製鏡がかなり含まれており 二世紀初頭説の根拠である漢鏡 の年代にも疑問が出されている。
614 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 22:11:08
2号墓は古式土師器は出ているが、初頭期のもの。しかも多量には無く、まともな個体は2個体。 まあ2つでも時期は示すが。 1号墓の周溝の埋没過程に覆土を切って掘られた6号土坑墓というのがあるが、この供献土器は弥生終末。 したがって1号墓はこれよりは古く、弥生終末の中でも古い方か後期後半かということになる。
平原一号(弥生終末期)
周構内出土の鉄鏃は弥生時代には例がなく弥生終末以後の銅鏃に類例がある
ノミ状鉄器の他出土例は弥生終末から庄内式に限定されている(柳田)
>>608 >情報が多いだけに逆に否定材料がある
・だからそれが嫌でマキムクに移動したのかぁ 納得
616 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 22:13:17
>>610 華北の漢墓にもふつうに鏡が入ってますが何か。
617 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 22:28:50
一つお伺いしますが 畿内説の方々は、女王国の東海渡ること1000里国有り とかいう倭人伝の文章をどう考えておられるので? 畿内では東西南北どこへいっても海などない気がするのですが・・
618 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 22:29:34
ちなみに弥生終末と庄内期はほぼ同じ。 鏃についてはその通り。土器、鏡と鉄器の総合評価から、それぞれの時期がもっとも矛盾の少ない弥生終末でも古い時期が平原の時期である可能性が大きい。
平原1号が卑弥呼の墓、邪馬台国所在地なら、 倭人伝で邪馬台途上に列挙する、伊都、奴、不弥、投馬国は何処に比定する つもりなんだ?
620 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 22:33:54
卑弥呼の墓がある場所が邪馬台国などとは どこにも書かれてないでしょうにw
621 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 22:34:11
鉄ノミは弥生後期にもあるけど。
622 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 22:37:39
>>620 それ言ったら何処でもありだよ。
あなたの宇佐にそれらしい墓が仮に発見されても、邪馬台国は畿内だが、墓だけ宇佐だと強弁できることになるが。
【女王国東渡海千餘里復有国皆倭種】魏志倭人伝 【自女王国東度海千餘里至拘奴国】後漢書倭伝 ・後漢の時代四国は拘(狗)奴国の領域だったが、魏時には狗奴国ではなく女王国の飛び地領域になった 佐賀の関から東千餘里で佐多岬 四国側港は八幡浜 そんなことどうでもいいから君も、平原に参加しなよいい加減亀山は妄想だ。
625 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 22:45:59
魏志倭人伝から邪馬台国の存在が確認できるのに 倭人伝の解釈を無視して、考古学的見地のみから 邪馬台国を畿内にもっていくのは16歳の僕から見ても 論理的におかしな気がしますが。僕も考古学からみれば 畿内だとは思うのですが、倭人伝では畿内とは読めない以上 やはり畿内ではないとしか言いようがありませんね。 そもそも仮に南を東だと読み替えても、陸行1月もかかる ポイントが見当たりませんし、土台畿内では成立しえないと思います。
平原王墓が邪馬台国であっても、俺は別に構わない。 ていうか、完全否定は難しいでしょ、証拠少ないし。 3世紀初頭の倭国で、マキムクとヒラバルが並立していたと。 最終的にヒラバルがマキムク前方後円墳体制に屈服した、と。 伊都国東遷よりはよっぽどマシな仮説だ。
627 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 23:02:38
まあせいぜい考えられるパターンとしては 卑弥呼の時代より前に邪馬台国出身の神武が東征して 畿内物部王朝に婿入りした。そして3世紀の 時点では九州に卑弥呼の邪馬台国、畿内に神武の子孫の 邪馬台国、すなわちヤマト国があったということくらいですか。 2つとも同じ一族の国だと考えればいいわけです。 卑弥呼は大和朝廷が派遣して九州各国に王として共立された 可能性もなきにしもあらずです。
平原一号(弥生終末期) 瑪瑙管玉は高度の加工技術が要求され前期古墳にも例がなく半島や 中国でも漢代には例がない。 同類の管玉が半島などで出土しているが供伴土器や鉄器は三世紀前半から四世紀と考えられている。 疲れた!フゥーっ
629 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 23:11:04
ヒッキーの言ってるのは支離滅裂。 あのね畿内説も当然倭人伝を参照してますが。同時に考古学を勉強してね。 南が東って文句言うが、宇佐も伊都国の東だが。 それと倭人伝スレの書き込みからは、このスレにプラムが潜んでいる模様。 いくつかの煽りの張本人のようだ。 警戒警報発令w
>>627 平原一号(弥生終末期)
ヤッパリ今日は寝る
あとはヒッキー君の妄想全開に幸あれ。
お休み!
631 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 23:13:25
632 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 23:20:51
いやいや、それは帯方郡から南なのでねw あと12000余里も畿内じゃ到底説明がつきません。
>>629 >>631 そんな事鼻から皆知ってるよ。
平原押すのはこのスレで俺ぐらいだからな
そんな“チクリ”みたいなまねよせよ!
634 :
吉野大夫 :2006/03/09(木) 23:24:14
南は浅野温子 北は浅野ゆう子
635 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 23:24:21
へぇ、プラムさんは平原綾香のファンだったんですか 意外だなあ・・44歳とは思えないですね
636 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 23:25:13
図星かw
637 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 23:27:27
ヒッキーの行程の読み方は無理。 また郡からは南でなく「東南」のはずだが。
638 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 23:29:03
畿内説では全部無理w 倭人伝ほとんど書き換えないと成立しない
639 :
日本@名無史さん :2006/03/09(木) 23:35:40
ハイハイ、w 全て変えるってなにを根拠に?? 相手するの疲れるなあw ヒッキーのもかなり無理な読み方だがw まあもう少し勉強しなさいってこった。プラムにさえ妄想と言われるのは何故か考えてみなw
640 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 23:38:26
まあではポイントを絞って。 先ほども言いましたがどこで陸行1月も 歩くのですか?瀬戸内ルートで 河内に上陸して巻向まで1月もかかるとお思いで? 日本海ルートで丹波あたりに上陸しても 巻向まで1月は長すぎでしょう。
641 :
順性院お夏 :2006/03/09(木) 23:49:22
京都で浅野ゆう子が浅野宮廷を開いて 東京の五十嵐淳子に対抗した
642 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/09(木) 23:56:32
考古学じゃ就職できないのに 専攻してる人たちは哀れですね・・
伊都国は「世王有るも皆女王国に統属す」だからな〜 卑弥呼以前の男王たちが伊都王とは読めない。 では伊都王が代々統属していた女王国とは何処なのか?
644 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/10(金) 00:17:48
宇佐ですw 里数国内消費と帯方郡からの総日程を 用いればあっさり解決します。 すなわち、郡から女王国までは一万二千余里、 不弥国までで10700里。 対馬国、一大国、奴国等の国内を移動するのに 残り1300里を消化。つまり不弥国と 邪馬台国の距離がほぼ0なので、水行陸行の記述は 郡から邪馬台国までは日数でいえばこれだけかかると おまけで言ってるだけです。ほとんど高木説ですがww
645 :
大奥御年寄・朝比奈 :2006/03/10(金) 00:19:12
高木ブーが王様で浅野ゆう子が王女
>>640 なんかの本で言ってたが
そもそも魏志の編纂理由の一つが
呉に対しての威嚇もふくまれるんだと。
で、呉は魏連合に囲まれてるぞという脅しのために
東に倭の国っていう大国が魏と同盟むすんでるぞと
書きたかったんだと。
だから架空の大国をでっち上げる為に
わざと遠くに記述したんだぞと言ってたぞ。
平原は、マキムク中心の画文帯神獣鏡の政治体制とは一線を画している。 恐らくは、公孫氏の畿内優遇政策により、地位を落した北部九州・玄界灘グループの 最後の抵抗だったのだろう。
648 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 01:36:52
弥生終末も伊都国には楽浪土器が多量にある。伊都は公孫氏時代にも楽浪帯方と密接な関係がある。一方、畿内には楽浪土器は全く無い。 だからその想定は怪しい。 画文帯の出土時期は庄内はごくわずか。ホケノ含めて大半は布留0かそれ以降のはずだが。 実際は239年以降にもたらさものが大半だろう。 画文帯神獣鏡が公孫氏時代にストレートに全て輸入され古墳出土の分布形成をなしたというのはプチ伝世鏡論であり、実は非常に怪しい話である。
649 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 01:40:55
>>643 そこだけ見ても分からないだけ。
関連記述と考古学的状況を整理すると伊都王=元の倭国王(男王)となる。
厨房ヒッキー出てけよ。スレタイ読めないのか?
651 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 03:06:32
>>642 ニートに言われてもねぇw
それにこのスレにはプロの埋文の人もいそうだし。だとすれば彼らは考古学専攻で就職したのでは?
まあここに書くヒマがあったら論文書けよと言いたいがw
平原一号=伊都女王墓と主張する意見があるようだが、文献に登場する女王は二人だけである。 それに、平原を伊都とする理由はなんだ?根本的な理由は古地名ではないか しかし 考えて見れば三雲や平原は古地名伝承地とかなり離れた場所にあり あのあたりの地形は元来どちらかというと湿地帯的要素の強い土地 古地名から言えば伊都は現糸島半島とするのが筋 当時の地形から考察すれば前原を境に 北側の糸島=旧伊都と考えたい 無謀な考えではない筈だ
では、平原や三雲の王墓群はどうなるのか? 今で言う霊園地 領域で言えば伊都の領域より奴国の領域では無いだろうか? 地形的にも当時の平原辺りと糸島半島は一部、今津付近で陸続きの可能性を残しているが ほぼ島に近い状況(地質調査済)そのような環境地を海を隔てて向こう岸まで 伊都とするのは大変無謀な行為と考える。 これでも 伊都王墓と主張するのか?反論を待つ
654 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 08:43:40
だいぶスレが整理されたようですが、残ったのはほとんど畿内説のようにみえますが 気のせいでしょうか?
655 :
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世 :2006/03/10(金) 08:54:29
近畿地方をうつみ宮土理の夫きんきんに与えて、うつみ宮土理を王妃にする。
656 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 10:41:07
新日本製鉄大分製鐵所操業に伴い 団地造成を調査抜きでした大分市の責任だ 距離と地形は 横尾・葛木地区が台国だよ 調べてみそ
657 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 15:22:29
今日は静かだねぇ ネタ切れですかな
>>656 大分市には、7万戸を養うだけの農業生産力が無いよ。
659 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 18:59:56
大野川の恵みで農耕に頼らずして豊かに暮らせてました
660 :
俺等05772 :2006/03/10(金) 19:06:55
>>617 >>2 の修正版である
>>258 の仮定1の文を見て下さい。そこに書いてあります。
あと、全体図も見て下さい。加曾利貝塚や初期の前方後円墳のある千葉市付近
が、もう1つの倭種国でしょう。
661 :
俺等05772 :2006/03/10(金) 19:36:15
>>640 博多の港から山口県徳山付近までが水行 10日、ここで上陸して、徳山付近から
桜井市付近までが陸行1月です。最初、鞆付近を上陸地点と考えたのですが、
検討した結果は、徳山の方が良さそうです。
投馬國への水行二十日、邪馬台国への水行十日、陸行一月、各々の移動速度を調べた。
始点は伊都國の港(博多)、水行から陸行への中継地には徳島と広島の2つを候補に選んだ。
陸行の距離は、JRの時刻表を使って求めた。中継地は広島より徳山の方が適当なようです。
E 南 至投馬國 水行二十日。
・博多〜出雲間: ENE 340km。(コンパス) 340km/20day = 17.0km/day
F 南、水行十日。
・博多〜徳山間: E 150km。(コンパス) 150km/9day=16.7km/day
・博多〜広島間: E 280km。(コンパス) 280km/10day=28.0km/day
G 南、陸行一月。
・徳山〜桜井間: E 501km。 (時刻表) 501km/29day=17.3km/day
・広島〜桜井間: E 413km。 (時刻表) 413km/29day=14.2km/day
妄想グランプリ会場はこちらでつか。
663 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 20:06:04
グランプリ会長に渡辺えり子、女王は浅野温子
664 :
俺等05772 :2006/03/10(金) 20:08:01
>>661 一部訂正;×徳島→○徳山
江戸時代、近江商人が近江八幡〜高崎間を、中山道経由で毎年行き来している日記があります。
これに要する日数は夏10日、冬11日です。徒歩ですので、時代が遡ってもやや短縮される程度
で余り変わらないでしょう(市田家日記)。
近江八幡〜高崎 380km/10day = 38km/day (夏)
近江八幡〜高崎 380km/11day = 34.5km/day(冬)
徳山〜桜井 501km(時刻表) 501km/29day=17.3km/day は、冬の江戸時代の歩行速度の
半分と言う事になります。ちょっと、遅すぎですね。そこで考えたのですが、籠のような
ものに乗って乗り継ぎで移動したが、担ぎ手が日暮れまでに家に戻らなければならないと
すると、午後1時頃には戻らなければならない。で、速度は江戸時代の半分になります。
665 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 20:28:29
>>652 、
>>653 は地理認識がムチャクチャ
ちゃんと地図見ろよ
糸島の北側が入江が深く入って島状だったのは事実だが、それは旧志摩郡。
一部陸続きの部分は今津ではなく泊から志登のあたり。
問題の三雲や平原は、いずれも入江が入った部分より南の現在の前原市にあり、当然、小台土(イト)郡にある。
なぜか652では志摩側にあるように勘違いしているようだが。三雲なんかは古来のイトのまさに中心地帯。平原は三雲の西1キロ程度。
また平原の立地は段丘上、三雲は扇状地の微高地で湿地ではない。
666 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 20:43:50
倭人伝など中国文献には確かに女王は2人だけだが、中国の史書が全てを記した訳ではない。
弥生から古墳の首長墓には人骨から女性首長が珍しくなかったことが知られるが、中国文献にそれらの存在が書いているだろうか。
平原の王が女性だとしても、単に伊都王で「倭国王」ではないから(倭国王位は別系統の卑弥呼になった)、倭国の歴史には記されなかったぐらいの話だ。
邪馬台国が巍と外交中の3世紀中頃に平原の女性王が伊都王として存在したなら書かれたかもしれないが、
平原の王が後漢末の没なら同時代でもな詳しく書くこともない。
また
>>652-653 で奴国の位置について訳分からないことを言っているが、
奴国は那珂郡(那の津)で現在の福岡市博多区から春日市だが。
667 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/10(金) 20:47:19
九州にも邪馬台国が、畿内にも邪馬台国が あったということでいいんじゃないですかね?w
668 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 20:48:05
だめw
669 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/10(金) 20:53:35
いやいや、1世紀くらいに九州邪馬台国から 神武が東征して畿内王朝の王として迎えられたと 考えればいいじゃないですかw 魏の使者が立ち寄ったのは九州の邪馬台国だけど マキムクの畿内邪馬台国のほうが実は日本の中心だったと。
670 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 21:01:29
>>667 >>669 清水義範著「偽史日本伝」の「おそるべき邪馬台国」ぐらい読みなよ。
がいしゅつだよ>複数存在説
671 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 21:02:46
妄想だけで根拠全くなしw だからダメw
672 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 21:10:56
673 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/10(金) 21:40:12
そのようなハイカラな本は僕が住んでる田舎にはないです(>_<)
>>666 自分のレスをもう一度読み返してみれば?
全て妄想範囲で構成されている。
いいかい
平原が伊都とする理由はなんだい 私の奴国を否定出来る理由はなんだい。
私だって奴国とは考えていないがね。
それに、文献にカキコされていないものを勝手に想像されても 答えようがない
後から整合性により云々何て言われてもなぁ(先に言っておく)
普通、伊都は糸島だろう。
675 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 22:10:58
平原は糸島にありますがw 奴国はふつう那珂郡だがw
676 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 22:19:34
自分の地理認識のデタラメさを棚にあげて良く言えるなあw 平原の地理的位置を勘違いしているだろ。相手するのも疲れるな。 なんだかんだ言っても考古学資料と文献の整合性はふつうに必要不可欠だろ。 また史書に全て書いているわけじゃないという当たり前のこと認識しなさいって。 平原が伊都の女王でも史書の記述と必ずしも「矛盾」はしないが。 それに人に厳密さを要求する割に自説はえらくデタラメなの分かってる? 地理認識なんか明らかに間違いだし。アホらしw
何処が糸島だって? せめてJR筑肥線より北にしてくれよ まだいたのか?ディズニーランドを東京だと言ってる奴が
678 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 22:32:53
>>676 >平原の地理的位置
★平原は前原市であり、志摩町や西区ではないぞ!
大丈夫か?あんたの地理は?
680 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 22:36:52
前原市は古代のイト郡ですが。筑肥線の南の三雲や平原がある地域ももちろんイト郡ですよ。ちょっと調べたら分かります。恥かかないうちにちゃんと調べたら。
681 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 22:40:10
>>679 の書き方はプラムか?
大丈夫なの誰だよw
前原は古代のイト郡にあるけどな
>>678 遂にここも目の前しか見えなくなり、仲間同士肩寄せ合い妄想に妄想を重ね
“妄想の出雲大社”でも作るつもりか
>>680 三世紀当時も間違いないんだな。
イトの発生は『糸島/イトシマ』からだぞ
御前ら、 傍から見てるとどれが誰のレスだか判らんから棄てハンでも使えよ。
>>683 特に御前、しつこい。
同じネタでいつまでも遊ぶな!
>>680-681 いいか
伊都を説明するのに、三世紀から平原付近がイト郡としてあったわけじゃあない『伊都国』だ
⇒【伊都国は、末盧から五百里陸行した所に伊都の境界接点が有るのでそこから先が伊都国領域
よって 平原付近も三世紀当時から伊都国と推定出来る】 わかったかな
三世紀の事は三世紀に近い文献からまず調べるの
疲れるのーぅ
今日も少し楽しかったよ お休み。
>>648 画文帯神獣鏡が畿内を中心に分布していることから、
この鏡の輸入時期には、畿内に王権が誕生していたと考えていいだろう。
でも239年以降ってのは、お前の思い込みじゃないのか?
三角縁と勘違いしてるのか?
689 :
日本@名無史さん :2006/03/10(金) 23:52:53
あのね、伊都国はイト郡に比定されているし、逆にイト郡が伊都国の名残とされているの
690 :
ルーマニア王妃マリー :2006/03/10(金) 23:56:18
伊都国の大王は織田裕二 王妃は浅野温子
廻間T式がAMS測定で、西暦80年頃になったりしているしな。 庄内の時期も、従来言われていた実年代より大きく遡る可能性がある。
おいおい今度は比定ときたかい 郡制は何時から始まったのかな? それに、国内で確認できる一番古い文献は何? あのね 伊都国は魏志倭人伝はもとより魏略逸文でも確認できる地名なの どうしても国内で、というなら“口伝承”しか無いわけ その手掛かりになるのが〔イトシマ〕なのだよ あんな湿地帯は 古代伊都国分譲霊園地だな 時代の違う王級墓がゴロゴロでる
>>691 どうしてそこで、C14に疑問を持たないのか。
誰も相手にしてないだろ。そんなデータ。
694 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 00:36:29
だから湿地帯じゃないが また旧郡のイトとシマを合わせて糸島になったのは歴史的に新しいのだが
695 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 00:40:46
鏡の輸入時期が問題。 庄内期に画文帯はほとんど出ていない。三角縁の輸入と一緒に後漢鏡や画文帯が一緒に入った可能性の方が高い。 伝世鏡論の問題点って分かってる?
696 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 00:52:54
確かに布留1や布留2の古墳に出てくる画文帯が無条件に公孫氏時代に輸入されていたというのは怪しいな。 それに古墳出土の後漢鏡なんてほとんど倣古鏡か踏み返し鏡だし。
698 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 01:00:21
>>692 他はプラムだが、伊都国は結局前原ということになっている。
で、結局、平原は伊都でいいんだろ?
何の遊びか煽りか知らんが、ただ混乱させてるだけだが。いい加減にしろ。
699 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 01:09:26
庄内期出土の数少ない画文帯がある萩原1号は庄内古相平行。萩原の画文帯は建安年間後半の作品。庄内古相は3世紀に入っている。 あるいは弥生後期後半に2世紀代の鏡がある。庄内初めがAMSで80年頃というのはおかしな値だろ。試料の問題か誤差の問題か分からないが。
>>695 福永や岡村は、画文帯が三角縁に先行すると言ってるよね。
可能性の高い低いはあくまで主観の問題。
>>699 80年は確かに遡り過ぎだとは思うな。
しかし、庄内が従来言われていたより、はるかに遡る可能性が出てきたのは確か。
倭人伝で言うところの、歴代の伊都王が統属した女王国が畿内の王権である可能性も
出てきたと考えていいのでは?
>>698 プラムじゃないよ。
本物はもっともっと土窮鼠だ。
703 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 07:36:44
畿内の王権は庄内以降。で、鏡の出土動向をよく検討すると庄内は結局2世紀末以降。建安年間鏡が庄内の古いところから出始める。 最近寺沢氏が古代学研究に連載した論文を読んだら。 画文帯の問題点は主観も何も庄内からほとんど出土しない、わずかなのに、公孫氏時代から輸入集積したというのは無理があります。だからプチ伝世鏡論だと。岡村氏は伝世鏡論DQN、福永氏も希望的推定。庄内期を説明するのに布留期出土の 資料を使うのは方法論的におかしい。また畿内に弥生後期に他の中国文物がほとんどないのに 鏡だけ大量に入ったとは不自然だ。
705 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 07:57:14
706 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 08:07:05
大阪府文化財センター主催の「シリーズ ここまでわかった考古学」を見に行か
れる大阪の人でどなたか、結果を報告していただけませんか?
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data26.html 主催=大阪府立弥生文化博物館
(財)大阪府文化財センター
会 期:3月13日(土)〜28日(日)
休 館 日:月曜日
入 館 料:一般300円[240円]、
高大生・65才以上200円[160円]
[20名以上団体]
小中学生、障害者手帳をお持ちの方は無料
3月14日(日)午後2時〜4時/1階ホール(受付は午後1時から,当日先着順170名)
鼎 談「考古学と実年代―年代を測る方法―」
奈良文化財研究所古環境研究室長 光谷 拓実(みつたに たくみ)
芦屋市教育委員会文化財課係長 森岡 秀人(もりおか ひでと)
(財)大阪府文化財センター班長 江浦 洋(えうら ひろし)
3月21日(日)午後2時〜4時/1階ホール(受付は午後1時から,当日先着順170名)
研究発表会「最古の土師器」
(財)大阪府文化財センター技師 西村 歩(にしむら あゆむ)
「庄内式甕の誕生」
(財)大阪府文化財センター技師 杉本 厚典(すぎもと あつのり)
707 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/11(土) 10:02:05
そんなイベントに行く人は おじいさんばかりっぽい。 もしくは若い人でも地味なきもい人か。
708 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 12:04:12
畿内の影響が九州に及ぶのは庄内期以降で、弥生後期段階には全く無い。 庄内期以降ならともかく 弥生後期段階に倭国王が畿内にいて伊都国を統属したという可能性はまずない。
709 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 12:15:48
>>700 鏡の形式の主要製作時期はそうだが、その時期に輸入れたか問題があるということ。
710 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 12:31:44
漢鏡=全て渡来物なのか?オリジナルが一枚でも有ればコピーは出来る筈
711 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 12:46:49
コピーにも一定の技術がいる。例えば弥生小型倣製鏡は稚拙だ。またよくできたコピー物でも微妙な違いで区別できる。
712 :
天璋院 :2006/03/11(土) 12:53:44
飾りじゃないのよ涙ははっは〜浅野ゆう子が女王にぃぃぃィ〜
713 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 12:55:41
畿内派は地名なんて無視でただあれがでたこれがでたなんて 子供見たく騒ぐだけだもんなw 「地名なんて2000年も残るはずがない」とかもう馬鹿みたい。 もし今畿内で平原王墓のようなものが出てきたらそれはもう大騒ぎ する癖にな。
714 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 13:07:22
別に畿内派も国名比定は地名をも重視しますが。プラスして考古学的検証をしますが。 それに畿内で平原級が出たら、立場に関わらずふつうに大騒ぎするだろそりゃ。 煽りのつもりだろうが誤爆だな。
715 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 13:22:45
>>686 結局が同じことだよな。平原は伊都でいいじゃん。わけの分からない議論の混乱をさせるなって。
まじめに相手してやったヤシが馬鹿みたいで可哀想だ。
716 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 14:09:50
九州説が本当でそれが朝鮮から渡ってきたとしたら嫌だ。
>>708 だから、その庄内の実年代自体が遡るんじゃないの?
と言ってる訳で。
>>703 ホケノは無視ですか?
718 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 15:41:09
鏡の出土状況から庄内は2世紀末よりさかのぼらない。 ホケノは土器や鏃が実際は新しく、布留0より古いとするのは誤り。最近は大和の古墳という本で、庄内土器研究の米田俊幸氏がホケノを新しくしている。 ホケノが古いというのは橿原の前副所長の宣伝。当時から疑問は出ていた。
ホケノが布留0以降なら、三角縁が出る筈だと思うが。
720 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 16:23:19
別に布留0以降でも三角ないのはいっぱいあるが。
つーか、三角縁出ていない古墳の方が圧倒的多数だろ。 布留0以降であのサイズならホケノ山は支配者層でもトップクラスじゃないし。 といっても、それだとあの見事な舶載鏡との釣り合いが取れないから やっぱり箸墓以前の王墓だと思うけどね。 墓室の構造も試行錯誤中の古いタイプっぽいし。
ホケノが布留0以降の畿内王墓だとして、三角縁が出てないのはおかしいんじゃない だろうか?
そもそも鏡の実年代だって、紀年鏡ならともかく、そんなに明確に 分かるものなのか? 編年に基づく推測だけだろう。
725 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 16:55:00
>713 >714 邪馬台国、投馬、狗奴、その他21国の地名比定が うまくできている例を一つでもいいので挙げてください。 それは統計的に意味のある一致ですか? そうじゃない比定なら無意味ですよ。
>>723 >ホケノが布留0以降の畿内王墓だとして、三角縁が出てないのはおかしいんじゃない
>だろうか?
だから、フル0以降なら王墓じゃないって。
727 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 17:26:39
ホケノは箸墓より古いとしても布留0の範囲内。土器から明らか。壷も口縁の垂下は布留0に多く、 小型丸底土器はさらに新しい特徴もある。 埋葬施設の特徴は、阿波など東四国系という系統の問題で時期ではない。 庄内のやや新しい段階には鶴尾神社4号のような 前期古墳の祖型の竪穴石室もある。中山大塚は特殊器台からは箸墓より古い可能性があるが 完成した竪穴石室。ちなみに同時期のホケノより大きな規模だ。 布留0ではホケノは一級の王墓ランクにない。それ以前の庄内段階なら石塚の規模など王墓級だが。 なお布留0の時期には三角縁やその関連鏡群が出土し出すが、まだ少ない出土だ。 三角が多く出土するのは布留1段階。だからホケノになくてもあまり不思議ではないが。布留1でも天神山のようにたくさん鏡があっても三角縁がないものもある。
>>727 >三角が多く出土するのは布留1段階。だからホケノになくてもあまり不思議ではないが。布留1でも天神山の
>ようにたくさん鏡があっても三角縁がないものもある。
それは、罠にかかった気がする。
やつは、天神山といわせてそれは古いというつもりとおもわれ。
まあ、わざと釣られたのかもしれんが。
729 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 17:48:47
いや天神山は壷が出ていて、普通に布留1だが。古くするつもりはない。
すると、なんのために
>>721 で「たとえば」と書いたのかねぇ?
理解不能だ。
731 :
729 :2006/03/11(土) 18:11:38
>>721 は別人。721はホケノを古くしたいから布留0以降だったら三角あるはずだ、ないやつあるならたとえばどれだよ、と言ったと思われ
ふむ。かんちがいだったか。正直、すまんかった。
天神山は前期古墳で三角縁を含まない特異な例。 行燈山の陪塚とされてるし。
天神山古墳は遺品のみの埋葬で(墓ではないという見方はあるが)被葬者の異常な最期を 考えてしまう。事故に遭ったか或いは国内か海外の戦争で亡骸が還らぬまま葬ったかの様な イメージがある。
735 :
俺等05772 :2006/03/11(土) 18:42:32
こんな感じに並べてみた 平原(畿内5後) 楯築(畿内5末)・・・・・石塚(庄内2)・・・勝山(庄内3)・・・ホケノ山(布留0) 萩原1号墓(?)・・・鶴尾神社4号(庄内2)・・・中山大塚(布留0)・・・箸墓(布留1)
737 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 19:12:19
天神山は位置と規模から行灯山の陪塚と言うのは疑問。最近は人体埋葬があったとする説が強い。 天神山ではなくても前期古墳の鏡複数副葬で三角を含まない例は珍しいものではないが。
738 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 19:18:11
>>736 大体いいが、箸墓は特殊器台や土器から布留0、平原は楯築と同じくらいか最も新しい場合庄内1くらいかも。畿内5後半平行は最も古くなる場合かと。
>>737 >天神山は位置と規模から行灯山の陪塚と言うのは疑問。最近は人体埋葬があったとする説が強い。
天神山の木棺の長さ知ってる?
740 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 20:04:40
>735 日本地図にここで比定された国の位置に印を付けてみます。 次に、大勢の人にこの地図を見せて番号をふってもらったとしましょう。 この比定案の順番通りに番号を付ける人が何%いると思いますか? もし順序どおりに比定しないとすれば、 倭人伝の「次・・・国次・・・国」に合わず、 しかも統計的に意味のある一致とはいえなくなります。 もしこんなことを科学分野で発表したとすると、 多分その研究者は研究者であることの資格を問われます。
741 :
俺等05772 :2006/03/11(土) 20:12:09
>>740 言っていることの意味が全く理解できません。もっと、分り易く
述べていただけませんか?
742 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 20:41:23
>741 はじめの段が分からないのでしょうか・・・。 1 日本地図にそれぞれの国々の比定地域の 中心あたりに○をかきます。(番号は書きません。) 2 順序という概念がわかっている人に「これに順番をつけてください。」 と頼みます。(「そんなの無理だ」という人にも無理やりお願いします。 できるだけたくさんの人にお願いしましょう。) 3 さて、何パーセントの答えがあなたの比定された順番に 一致すると思いますか?
743 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 20:51:04
天神山の棺の長さは知ってますよ。しかし人体埋葬の副葬配置と別に変わらない。埋葬スペースが少ないがたとえば王子のような未成年の埋葬はあり得る。行灯山の陪塚というのは規模や方位から難しいかと。
744 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 20:52:54
745 :
俺等05772 :2006/03/11(土) 21:05:46
>>742 そりゃ、全然一致しませんね。現代人と邪馬台国の時代ではは国の
中心についての考えや領域の概念が全く違いますよ。
例え現代であっても、北海道、青森、秋田、・・と数え上げると
は限りません。沖縄、鹿児島、宮崎、・・と数えるかも知れない。
東京から数えて行くことも考えられます。沖縄、鹿児島、宮崎、・・
と数える人がほとんど居ないからと言って間違いとはいえない。
必要なことは、比定された国の順番に合理性があるか否かです。
あともう一つ、初めから完全を目指すのではなく、一応、全比定
してみて、問題があれば修正すればよい。
>>17-18 は三訂版です。
746 :
まる :2006/03/11(土) 21:19:26
古墳、墳墓は その当時としては どのような位置につくられたのでしょうか?のちの 仁徳天皇稜は 外国使節団が往来する場所!後世では 安土城と同じ権力者の威厳を示すところか?!
747 :
まる :2006/03/11(土) 21:25:16
稲作がある程度発達した場合、人々は 同じ地域に住むから 初期古墳は やはり 人々の生活に近いところにあったと思います。初期の古墳と鏡と農業の進展 人口の構成で すこしは 卑弥呼に近づくのでは?!
>>737 行灯山古墳よりも桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳の方が関係がありそう。
749 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 21:35:56
>745 > 例え現代であっても、北海道、青森、秋田、・・と数え上げると > は限りません。沖縄、鹿児島、宮崎、・・と数えるかも知れない。 > 東京から数えて行くことも考えられます。沖縄、鹿児島、宮崎、・・ > と数える人がほとんど居ないからと言って間違いとはいえない。 そういうときは、必ずしも一意的な順番にはならないでしょう。 しかし魏志倭人伝では、律儀に21国のすべてに 「次」が明記され、順序付けられているんですよね。 (上の場合でも県庁所在地の緯度や経度に関していえば 順番に並べることができますけど。) 次の質問 この比定案の地名と国名の類似は統計的に意味があるものではない ということを認めますか? 自然科学分野では、統計的に意味のない説明は痛烈に批判されます。 この分野では、このことについて批判されないのはなぜなのですか?
750 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 21:41:18
柳井の茶臼山古墳 ここが全てのキーポイントだな それに 次有斯馬国、次有〇〇…………。これはどう考えても一本のラインだよ
752 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:00:39
畿内、九州、山陽、山陰、四国、東海、北陸、関東・・・・ どこでもよいのです。 国名と地名の一致について統計的に意味があるということを 主張できる1本のラインがありますか?
753 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:05:22
柳井市あたりは何国なの? ただ柳井茶臼山は時期は中期初め(4世紀末頃)でかなり新しく、超大型のダ龍鏡は型式は古いが古くて3世紀末以降だよ。
>>752 女王の都の次が斯馬国で………と行って
この諸国の中で、女王の都から一番遠くにある国が奴国だと「倭人伝」には書いて有るよ。
>>753 柳井茶臼山が四世紀末とする決めてはなんだったの。
756 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:25:31
埴輪が新しい型式です。
埴輪なんて 後からいくらでも置くこと出来るじゃない。
758 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:37:39
それ言い出したら何でもありだが、まじめに答えると、 墳丘調査で埴輪列が墳丘築造当初からあったことが分かってます(当たり前だが)。 またくびれ部に造り出しがあるのは前期末以降です。石室の型式も前期後半以降ですし、 石室出土の刀剣も前期末以降の型式ですよ。
759 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:40:19
で、埴輪は中期初頭です。埴輪は最初の埋葬時に樹立されるもので、後から樹立されたことが証明された例はないと思います。
760 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:42:11
あと小型化した刀子の多量副葬も前期末以降です。
761 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 22:48:42
ただ柳井付近には国森古墳のような(あまり大きくない方墳だが)、初期古墳があるので倭人伝の一国があってもいいと思います。
762 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 23:23:14
>なお庄内期の吉備の畿内への影響だが、庄内カメの成立に大きな影響があったし、石塚の弧文円板はもろ吉備系だ。中田遺跡などの中河内の拠点化には吉備が関与してるだろうし(中田遺跡の庄内初頭の土器群)、マキムクにも辻土坑3に吉備系土器があるし、 >群)、マキムクにも辻土坑3に吉備系土器があるし、 >柳本の四の坪の土坑にも吉備の特殊壺がある。これらは布留0より前だ。 >だいたい大きな墳丘を作ることが吉備の発想かと。 弧帯文については、人によって、言っていることがバラバラ。近藤ですら 違うと言っている。仮に石野が要っていることが成り立つとしても、王権祭祀 がほぼそのまま採用されている北九州と同列に論じるのは考古学的にはおかし なこと。 同一の政治勢力圏(と推定される地域)で同型の大規模墳墓を作るという発想は、 山陰の「4隅体制」(という言い方があるのかは知らんが)が最初。 楯突は、大きいというだけで単発で面的、時代的に広がりがない。 「前方後円墳体制」のモデルではないと思う。 北九州に次いで影響が大きいのは間違いないから、吉備王権?が有力なメンバー として倭王権に参加したことは確実ではあるが。 >吉備+播磨や讃岐あたりの強い影響に北部九州の王権儀礼が加わったのだろう。 >なお北部九州はやはり排除できないし、 中核となる王権儀式が北部九州であり、楯突の首長霊継承の中核をなす(近藤曰く) はずの特殊器台が布留以降の古墳から出ない以上、吉備勢力が主導したというのは 少なくとも考古学的にはおかしい。山尾など文献の連中がどう言おうと勝手だが。 >このスレの伊都国氏(?)のように他を排除して北部九州のみでヤマト王権の成立を説明するのもまた無理かと。 んなことは言ってないが。 当たり前のことだが、倭王権は、九州から東海の各地域の連合体。
763 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 23:34:15
弧帯文は最近の研究ではやはり吉備起源とされているよ。楯築以外にも土器文様がいくつか出てきて、楯築と石塚をつなぐことができている。 吉備は特殊器台の分布は一定の連合範囲だし、墳墓の規模で量的質的に階層性がある。また楯築の後も鯉喰神社は40メートル級でかなり大型。 それと伊都国氏は、以前はもっと伊都国東遷だけを強調して他説を排撃してましたが、 ここへ来て少し論調が変わったと思いますが。(前の書き込み保存してますが)
私も畿内王権成立に北部九州勢力の関与を認めますので、その点では同じですから気を悪くしないで下さい。 ただ、マキムクで庄内前半は北部九州の影響が不明ですが、その点はどうしますか?
765 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 23:41:07
>庄内期出土の数少ない画文帯がある萩原1号は庄内古相平行。萩原の画文帯は建安年間後半の作品。庄内古相は3世紀に入っている。 >あるいは弥生後期後半に2世紀代の鏡がある。庄内初めがAMSで80年頃というのはおかしな値だろ。試料の問題か誤差の問題か分からないが。 いや、120年頃になる。 森岡が試算をやって、AMSだと120年、年輪年代なら2世紀半ばくらいと。 特に庄内の前半が大幅に伸びる。今後、120年はともかく、2世紀半ばくらい なら同調する連中が出てくる可能性はある。 ちなみに布留はこれらの方法でもどうやっても240くらいしか行かないとのこと。
766 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 23:56:24
森岡はAMSだけならどうなるか、まさに試しに計算しただけだが。本人は実際は鏡の出方を見るとそこまでいかないという結論だが。 だからAMSのデータは年代上限で、他の考古資料を見ないと。煤を試料とする限り、カメの年代ではなく燃料の木の死滅年代だが、どういう材の燃料か分からんのだから、 少し全体が古くなっているとすべき。 燃料材が全て伐採したばかりの木で、 かつ最外輪部分のみを燃料材にしたならAMS年代が即そのカメの年代になるが、それは違うだろ。 庄内に後漢末鏡があり、その前のX様式後半に2世紀の鏡があるのに、 庄内が120年とかましてや80年から始まる訳がない。 なお歴博はこのあたりの年代についてはかなり慎重だが。
767 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 23:59:30
>それと伊都国氏は、以前はもっと伊都国東遷だけを強調して他説を排撃してましたが、 >ここへ来て少し論調が変わったと思いますが。(前の書き込み保存してますが) この期に及んで邪馬台国九州説や畿内弥生分化から倭王権への単一線的な発展 を主張する輩は排撃されて当然。 後、「伊都国東遷都」というのは言い方として違うと思う。 伊都国っていうのは地域名で、邪馬台国というのと同じ。 両方とも倭国の首都があった地域名にすぎない。 伊都国に首都があった北九州の倭国が山陰や東瀬戸の王権?を 巻き込んで、東に領域を拡大したということだと思う。
768 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:02:41
寺沢説に近いということ? 庄内前半の問題は?
769 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:05:52
単に東に拡大したなら何故、倭国乱れ歴年主無し、なのですか? またなぜ今までの王統と違う王を共立する必要があったのですか?
770 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:37:56
>弧帯文は最近の研究ではやはり吉備起源とされているよ。楯築以外にも土器文様がいくつか出てきて、楯築と石塚をつなぐことができている。 それって定説化してるの? あと、吉備の影響があるのは否定していないが、なんで北九州の王権儀式そのものが ほぼ引き継がれ、庄内の古墳に特殊器台が全くないのにもかかわらず、なんで吉備が主導 したということになるわけ? マキムク型は古墳じゃない、古墳背立=倭王権成立は箸墓からという近藤のような説を採る なら別だが。 >吉備は特殊器台の分布は一定の連合範囲だし、墳墓の規模で量的質的に階層性がある。また楯築の後も鯉喰神社は40メートル級でかなり大型。 そりゃあるだろうが、4隅や前方後円墳のように明確なものとは言えない。 モデルというならより明確な4隅を無視するのはおかしいよね。 それに政治権力の成熟性や鉄器普及からも山陰の方が上回っている。 近藤大先生のおかげで、吉備は過大評価されすぎだと思うね。 >ただ、マキムクで庄内前半は北部九州の影響が不明ですが、その点はどうしますか? マキムク型が古墳じゃないってのは、ホケノ山以降、あんまり言うやつはいないと思うけど、 たとえば、勝山を掘っても、外形的に共通している以上、ホケノ山と違うものが出てくる かというとそういう可能性はあんまりないんじゃないの。主体部の形態と鏡の種類が違 うくらいだと思う。 あと、北九州倭王権以外に誰が主体になれるんだとか、 この時代、都市的様相をもっている(と推測される)のは、マキムク以外には三雲や那珂だけ だとか(もちろん吉備にそんなものはない)、 なんで庄内が、ほぼ北九州にしか出ないのか(吉備はごくわずか) とかそのほか、いろいろあるよね。
771 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:41:17
伊都国東遷説氏は
>>764 、
>>769 の疑問に答えたら。納得いく説明があったら支持するかもしれない。
772 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:44:52
庄内カメは確かに吉備には少なく北部九州に多いが、伊都には少なくて奴国に集中する点はどうしますか?
773 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:48:29
吉備の津寺などの足守川中流域の遺跡群は密度も濃く、遺跡の切れ目がなく連続的でかなり大規模と思いますが。
774 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 00:56:21
今までの議論の流れだとねホケノは庄内というより布留0の可能性が高い。 庄内段階の巻向の中身は今は不明だよね。ホケノに近い状況とは思いますけど、例えば楯築みたいに大墳丘でもあまり副葬品がないことが絶対無いとも言えないので。 勝山あたり掘れば謎が解けるのだろうけど。
775 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 01:02:39
>768 >寺沢説に近いということ? >庄内前半の問題は? 寺澤は評価しますが、彼の言うところの後漢王朝の衰退に伴い、 北九州の倭王権が動揺したというのは考古学的には全く間違い。 鉄器等の交易の衰退はほとんどないということや、かつて一部 の学者が言っていた九州の集落が衰退すると言う話が与太話で あることは九州の学者なら誰でも知っている。 例えば最近では、山陰の玉造職人が働かされていた推定される ような遺跡が発見されているわけで、後期に至って他地域 への影響を強めたということは言えても、影響が弱まったと 証明するような考古学的な物証はない。 マキムクに限りなく接近した時に平原のようない王墓があるという こと自体どういう意味を持つのかをよく考えるべきだと思うし、 もともと、「後漢王朝の衰退に伴う北九州の衰退」という仮説自体 が「鉄器ルートの奪取論」と同様、考古学的な物証に基づくもので はなく、彼が批判するところの畿内弥生文化から倭王権への単一線 的な発展を仮定するためにアプリオリに導入されたにすぎないこと をちゃんと認識すべき。 >769 >単に東に拡大したなら何故、倭国乱れ歴年主無し、なのですか? >またなぜ今までの王統と違う王を共立する必要があったのですか?
776 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 01:05:02
>吉備の津寺などの足守川中流域の遺跡群は密度も濃く、遺跡の切れ目がなく連続的でかなり大規模と思いますが。 マキムク、三雲、那珂とはレベルが全く違うね。
777 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 01:10:08
778 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 01:20:44
>769 >単に東に拡大したなら何故、倭国乱れ歴年主無し、なのですか? >またなぜ今までの王統と違う王を共立する必要があったのですか? 倭人伝というかなり不確かな文献にそう書いてあるだけ。 考古学的な事実として、「倭国王」級である平原とマキムク建設開始 や石塚はそんなに離れていない。仮に、重なっていてもおかしく ないくらいだ(重なってないと思うが)。何十年も倭国王がいない というような状態にはない。 また、このスレッドで指摘されているされているような庄内の大幅 くり上げがあった場合、卑弥呼共立と倭王権成立は関係がなくなり、 「大乱」というのは単なる倭王権内の内輪もめということになる。 ちなみに倭王権成立と後漢王朝衰退も関係なくなる(もともと関係 がないと思うが)。 遣使記事などは別として、倭人伝を前提に考古学を当てはめるのは やめるべき。
779 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 01:22:39
遂にこのスレも考古ヲタに占拠されたか。 やがてスレが閑散となり気が付いた時にはペンペン草が 間違いなくそうなる
190 公孫度、遼東、玄莵、楽浪の3郡を領有して自立 204 公孫康、帯方郡を設置(倭韓遂に帯方郡に属す) 238 魏、遼東の公孫淵を滅ぼす
781 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 03:03:50
>>749 >>752 統計的に意味があるか否かを問題にするのは、客観的事実関係のみに限る
べきです。国名の列挙の順序は、挙げた人の主観に基づきます。
卑弥呼の時代は「女王の共立」によって、やっと統一国家の概念が芽生え
始めた時代で、かつ国名を列挙して郡使に教えたのは、伊都国に在住して
いる役人です。統一国家と言っても関東以東は含まず、近畿以東の事情は
あまり詳しくない人間が述べた話です。
当時の伊都国に住む人間と、邪馬台国に住む人間とでも列挙の順序は異なる
でしょう。あなたの意見で若干気になったのは、国名列挙の順序が、伊都国
の役人の列挙順ではなく、倭人伝の編集者の意図が入っているように感じら
れたことです。もしかして、レスしているのはプラムさん?
マキムクの頃に、中央集権的な専制国家が生まれたと夢想する輩が多くて困る。 実際、有力豪族の連合体に過ぎなかった初期ヤマト政権が直接支配出来た領域は おそらく大和・河内の大和川流域くらいだろう。奴国に庄内土器が出たからって、 奴国側が、積極的に大和の技術を導入、親睦を図っただけ。 倭人伝でも、奴国、伊都国、投馬国(吉備?)は邪馬台(大和)とは別国とされている。 大和の大王が軍事的指導者として立ち現れてくるのは、4世紀末以降。 2世紀半ばから4世紀末までのおよそ2百年間で、ようやく大和朝廷の大王権力は 確立された、と考えるべき。
783 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:15:41
>>767 では伊都国や邪馬台国はただの地域名とするのに、今度は別国かよ。
784 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:17:24
>>778 倭国乱が無かったように書くのはどうかと思うが。
785 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:22:04
>>782 の庄内式の分布の解釈だと、吉備に庄内式が少ないのは別国だからかまわないことになり、
吉備と伊都国はその点ではどう列となるが。
786 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:24:56
伊都国氏は平原の時期は何時としますか?仮に卑弥呼共立前なら、倭王はもと男王だったという記載に矛盾しますが。
788 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:29:00
伊都国や邪馬台国が別国なら単に都が東遷したというのはおかしくないか。 また一大率で伊都国王権を統制することの意味が分からん。
789 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:30:43
大分県に耶馬渓と言う地名があるけど関係ないのかな? 近くに宇佐神宮(全国八幡宮の総本山)もあるし、、、、。 天皇も初めは宮崎県の日向市に住んでたんでしょ。
790 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:37:42
>>782 氏が伊都国氏と別人なら、別の考えで、伊都国氏は庄内式の分布については有効な解釈ができてないということね。
791 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:39:47
ただ、伊都国氏にレスを求めたら、即座に
>>782 氏が答えている。本当に別人なのか?
782は伊都国氏に反論はないのか?
792 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:42:25
>>782 の考えだと、庄内の分布は大した意味が無いことになるが、ふつうは畿内派は畿内系土器の広がりを大きく評価するが。
793 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 03:46:15
>>778 私は考古学重視派ですが、そのような倭人伝軽視にはついて行けない
2世紀の倭国では、青銅器祭祀→古墳祭祀への転換が各地でパラレルに起きている。 これを倭国乱の結果と見るべきなのかどうか。
795 :
まる :2006/03/12(日) 04:49:38
卑弥呼の時に古墳があったが まだ普及していなかったとすると 戦国時代の城郭と同じくらいの発展度ではないか? 置き換えると鉄砲により築城法が 変わったように この時代は 鉄 または 鉄の加工法が著しく変わったのでは ないでしょう?
796 :
まる :2006/03/12(日) 05:00:57
戦国時代に似た経緯では ないか?!卑弥呼をどの位置に置くかで変わってしまう。
>>794 >青銅器祭祀→古墳祭祀への転換
それは文化の伝播という視点で捉えられるべきものであって、クニ単位の移住者が変革を
もたらしたとは普通考えない(技術者の流入は当然あったであろうが)。
筑紫、吉備、出雲においても、青銅器からの決別はあくまで土着勢力自身が
選択した結果とされている。
最終的に大和で、各地の古墳文化がパッチワークされて誕生したのが
マキムク型前方後円墳。
798 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 06:04:04
>781 それだったら、韓国における国々の列挙と同じように 「次・・・次・・・」なんて言葉は使いません。 勝手に思い込んで「次・・・次・・・」を付け加えたというのですね。 では、魏書に勝手な思い込みの記事が多いという証拠を教えてください。 魏書というのは倭人伝だけじゃないんですよ。 私はプラムさんではありません。 ・・・説とは関係なく、これまでの邪馬台国を探す方法に 疑問を感じています。 簡単に言えば、おおよそ科学的とはいえない方法です。 >778 倭人伝が不正確であるという理由はなんですか。 方角や里数がおかしいというなら、海流や潮流がある中で 方向や距離を正確に測る手段があったかどうか、 そしてその方法が当時適用されていたかどうか考えてください。
799 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 07:11:35
>>798 「勝手な思い込みの記事」とはあなたの勝手な思い込みです。
私は、伊都の役人が列挙した国名を、その順序で倭人伝の編者
が書いた、と述べているのですよ。
どの箇所で、勝手に思い込んで「次・・・次・・・」を付け加
えたと言いましたか?
800 :
まる :2006/03/12(日) 07:17:25
そこが 論争の火種です。確固たる証拠に乏しい!新しい発掘 調査に期待しましょう。
801 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 07:20:42
>>782 一大率の記事はどういうこと?
地域権力を統制するシステムを持っていたことになるが
802 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 07:41:23
803 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 08:35:01
>799 里数、日数が書かれた記事のあとに「次・・次・・」と書いて、 しかも地理的な順序ではない記述だと主張したいのですね。 そんな記述の文章が、これまでの中国の文書に、 一体どのくらいの割合であったと想像するのですか? この記述で地理的順序と思わない人がどのくらいいると思うのですか? そんなの中国の方にアンケートとったら分かりますよ。 もう一度いいますが、魏志倭人伝だけが魏書ではないし、 魏書だけが正史でもないのですよ。 他の文書を少しでも読んだことがありますか?
>>799 お早うございます。
末盧国、奴国、不彌国が「郡」相当であるのに「国」のみを持って全てを比定している。
傍国と6世紀、7世紀の地方豪族との関連性。
この点には、いかがお考えでしょうか?
805 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 08:47:48
>>803 私は地理的な順序では無いと言ってはいません。
806 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 08:50:49
>805 では、なんの順序だと主張したいのですか?
807 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 08:53:17
>>804 >>2 で末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面) と
記述しています。
808 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 09:04:17
その区別は都合よすぎ
>>804 「倭人伝の傍国」と「6世紀〜7世紀の地方豪族」との関連性。
この点についてはどうでしょう。
例えば、滋賀県は北部を息長氏、南部を和爾氏が分有していた事実がありますが、
3世紀には一つの国であったと考えていいのでしょうか?
>>809 「傍国」と「諸国二十国」とは“水と油”別物ですから間違えないように。
「諸国と国々」も違いますよ
811 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 09:53:43
>>802 のサイトのうち安本美典のサイトの考古学の解説は我田引水でむちゃくちゃだが。
年代や畿内と九州の平行、奴国が衰退とかおかしなところばかりだ。
西新町式と庄内、一部布留の最古が平行するのが事実だが、庄内は新しくして、西新式だけ3世紀にするのは詐欺だ。
812 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 09:54:03
>703 >岡村氏は伝世鏡論DQN、福永氏も希望的推定。庄内期を説明するのに布留期出土の >資料を使うのは方法論的におかしい。 鏡をよく知らない一部の学者がそのようなことを主張しているらしいが、なぜ伝世鏡説が 間違っているのか理論的に説明してみろよ。
813 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 09:56:25
考古学を取り入れずに文献だけでやるのは妄想九州説と変わらないと思います。
814 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 09:58:20
>>809 ここは邪馬台国、つまり3世紀のスレです。議論はせいぜい邪馬台国
から大和政権とのつながり迄ではないでしょうか。6世紀〜7世紀の
地方豪族の件は他のスレで、他の人に聞いて下さい。
多分「任那の三毛猫ゴロニャン」や磐井の乱の話でしょうが、私は
あいにく「古田武彦ファン」ではないので分り兼ねます。
大和の古墳時代と同じように九州の弥生時代にも伝世鏡理論が必要になってくるかも
>>810 有難うございます。
しかしここでは、俺等05772さんの推論を聞いてみたいのです。
817 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:05:12
>>812 古墳出土の後漢鏡の大半は踏み返し鏡か倣古鏡。
また中国にも三国から晋代に古い鏡は一定ね出土がある。
さらに例えば畿内の弥生後期に他の大陸系文物がほとんど無いのに、中国鏡だけが大量に流入し、それだけ伝世したなど都合が良すぎる論理。
最近は京大系の一部しか伝世鏡を言わない。伝世鏡論と弥生後期の畿内の実態が乖離していることが分かってきたから。畿内が求心力を持つのは庄内以降。
818 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:09:19
>766 理化学的な分析を無視するとはあきれたな。 学年輪年代法にすらケチをつける一部の学者にはあきれるばかりだ。
819 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:12:08
>>812 例えば岡村氏の漢鏡5期や6期の分布図には畿内に中国鏡が結構あるようになっている。
しかし畿内のそれらは古墳出土であり、かなりの数の倣古鏡や踏み返しの疑いが濃い鏡が含まれていることは、
「鏡をよく知っている人」は知っている。
820 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:15:56
821 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:17:05
あのね、理化学分析を無視するのでは出なくて、その方法の問題点と限界をよく理解しつつ使うのが肝要なの。赤塚氏あたりは何も考えず飛びついたが軽薄だな。 年代の明らかな中国鏡が日本で中国より早く出るなんておかしいんだから。
822 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:24:31
歴博グループはこの時期については慎重に、年代の極端な遡航はしてないことは知ってるかい。 あと繰り返すがカメの煤を主要試料にする場合はに当たり前だが燃料材の年代が出ることはAMS研究の連中も言ってることだが。 何も考えず、結果(それも仮説だが)だけ見て、理化学結果だからって盲信することこそが非科学的だが。
823 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:31:41
>>817 確かに、畿内は生活必需品の鉄の確保でさえ、量的質的に劣った状況なのに、鏡だけ間を飛び越えて大量に入っていたというのはおかしな話だな。
824 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 10:35:55
年代を極端に遡航させたいのは、論調からどっかのHPやってる曲学氏かな? いろんな掲示板に出没して相手されないから最後は2chか。
考古ヲタって一歩間違えれば下着ヲタだよな 程々でいいのにシミまで研究してるw
826 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 12:53:24
言いたいのはそれだけかw 単に君が無知なだけだろう
827 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 13:21:14
>>825 研究というのは日進月歩ですよ。
考古学の場合は日々資料が増加してますし。
ほどほどでいいってことはない。考古学の進展は古代史を明らかにしてますし、これからもそうです。
奈良飛鳥時代はもちろん中世史の研究でさえ考古学は不可欠になってますよ。古墳時代以前の文献情報が限定的な時代は考古学の比重が大きくなりのは仕方ないし、当然ですよ、とマジレスしてみる。
828 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:05:44
>>827 >>825 のレスを意味解釈すれば
「考古学板があるだろうあっちでヤレ」
「スレ違いどころか板違いだ」
判りましたか
829 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:14:46
古代史に考古学は不可欠だということが分からんのか。 それじゃ九州説の連中と一緒だよ。
830 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:18:01
歴史を解明する手段として考古学を使うのはどこが悪い? 考古学を排撃なんかしたら、それこそ邪馬台国も古代史も解明されないな。 学史を勉強したら?
831 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:23:48
学史 佐伯先生の遺作『邪馬台国論争』岩波新書でも読もう
832 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:27:52
文献情報が限定的な時代は考古学の比重が大きくなることは当たり前なことを理解できないとはどうしようもないな。 誤解しちゃいけないのは別に文献を無視してるわけじゃないんだが。
833 :
俺等05772 :2006/03/12(日) 14:30:06
>>829-830 あまり考古学の方言を使わず、
日本史板の人間にもわかる程度に、解説を入れて書いてください。
看護士の人が「堆肥を注射する」って言ってたので、驚いたら
「大量皮下注射」のことだった。これは医学界の方言。W
方言はその分野の人しか分りません。方言を無くすだけでかなり
他の分野の人も理解できます。
834 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:36:30
まあ考古学についても皆さん勉強していただきたいのですが。 それでは用語や遺跡について分からないものがあったら質問されたらいいと思いますよ。
AMSを信用出来ないと言う人は、年輪も近い結果になっていることを 真摯に受け止めるべき。 新しい技法に疑問を持つのは結構なことだが、旧弊な態度は九州説と変わらんと 言われるよ。
836 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:38:40
史学の徒氏はどうした?
837 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:43:12
>>835 年輪もその木材が出土した遺構の上限年代に過ぎないって分かってる?
考古学的コンテクストの吟味なしにその年代を使うことはできないの。
法隆寺の木材の件とか見ればそんなの明らかだが。
分かってないな。
838 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:47:18
AMSや年輪の年代自体は必ずしも否定してないがな。 上に書いたように、他の脈絡をよく吟味しないと、その年代はすぐには使えないということ。 試料により一次的には何の年代が出てるのかとか、分かってないみたいだね。
839 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:48:41
あと年輪とAMSはお互いによりかかっているのでそりゃ近くなるがね。
>>835 >AMSを信用出来ないと言う人は、年輪も近い結果になっていることを
>真摯に受け止めるべき。
年輪で校正してるんだから、いっちするのが当たり前ジャン。
ところが、地域差なのか個体差なのか、違ってるのもある。
箱根埋没林がそう。外にもトルコ?だかの例とか、あったきがする。
正直、数百年単位の話ならいざ知らず、10年の単位が問題になるようなところでは
恐くて使えないという気がする
841 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:53:56
考古学板という常設ステージがあるだろう ここに集まった初心者ヤシは完全ヒキ状態だ。 ナンデモありなら「プラムやサガミ」呼んで「株式談議」でもって事に
842 :
837-839 :2006/03/12(日) 14:54:04
843 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:57:22
>>841 いやそういうDQNがかき乱したり、や話が広がり収拾がつかなくなることを避けるためのこのスレだと思いますが。
>>1 をよく見てみ。
844 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/12(日) 14:58:02
よく九州説の人が
>>823 のようなことを言いますが、実際ほけの山古墳からは
大量の鉄が出ています。だから畿内で鉄が不足していたというのは間違いです
845 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 14:59:22
現に文献と考古学の整合性等知らんぷり状態で考古学談議に花咲かせている ヤシがいるのも事実 その辺りの現実には「見てみぬふり」か?
846 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:02:40
>>823 は弥生後期までのことですが。
ホケノは布留0の可能性が高く、古くても庄内の後半なので、反論材料にならないと思います。
庄内以降のある時期からは畿内にも鉄や鏡が集まってきたことは否定してませんよ。
847 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:03:31
848 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:07:35
>>843 貴方が真っ当かどうかはしらんが、その「DQN」という書き込みをするだけで“荒れ”の引き金に成っていることはご存じかな?
決して彼等がスレを荒らしている訳ではない、彼等を挑発するその「一つのくだらない発言」が、荒らしの張本人で有ることを自覚しないかぎり
何時でも荒れる
849 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:09:58
ハイハイ
850 :
史学の徒 :2006/03/12(日) 15:10:09
ごめんなさい、仕事が立て込んでいるのでなかなか書き込めません。 盛況なのは大変嬉しく思います。 そのうワードにて整理して、要点を書き込んでいきたく思います。 ちなみに伊都国や吉備の影響は否定していません。 同様に奈良盆地東南部や河内、播磨、阿波、讃岐、出雲、濃尾平野など様々な地域の影響下において纏向は成立したと考えています。 ただその参加順や温度差が各地(これは地理的要素も大きいと思うが)ごと、時期ごとに違いがあり 一見混迷して見えるのではないかとも考えています。 大きな契機としては魏の柵封体制下に入った、つまり最初の朝貢時にあるとも考えます。 卑弥呼擁立記事はは一種の結果論であり、魏による女王認定がヤマトの方向を決めたのではないかと見ています。
>>841 >考古学板という常設ステージがあるだろう
>ここに集まった初心者ヤシは完全ヒキ状態だ。
>ナンデモありなら「プラムやサガミ」呼んで「株式談議」でもって事に
用語が分からないなら、それこそ考古学板で質問したらいいんでないの?
ここ学問板だし。
巻向が求心力を持つようになったのはなんでですかね?
854 :
史学の徒 :2006/03/12(日) 15:22:18
もうひとつスレ運営に関して・・・ 名前の挙がっているコテについては、自分が結果的に荒らしになっているとの自覚は全く無いのではと見受けられます。 それどころか考古見地や言語解釈を試みる者を、反対に荒らしとみなしている風にさえ感じられます。 正直(きつい言い方ですが)コミュニケーションが成り立つとは思えません。 自分だけが正しく、他の人は全員間違っていると考えているようですから。 これはもう議論に参加する資格はないと思います。 また自覚した荒らしであるヒッキー君は、相当な数のスレの削除依頼がすんなり通ったことからも (終止符スレまで削除されているのには少々驚いた) これも議論する気がハナから無いとみなさざるを得ません。 あまり排除やら隔離やらは好きではないのですが 致し方ない事態だと、私は考えます。
855 :
史学の徒 :2006/03/12(日) 15:29:57
>>853 上のレスにもある中田遺跡などに見られるような過去の実績(通商拠点)
唐古・鍵という異文化を積極的に受け入れた特異点的な集落の存在
また東海以東との通商を念頭に置いたか、最初から近畿以西と東海以東が交流拠点を中間地に求めたか
そういった思惑の駆け引きの結果であり、畿内奈良盆地に突出した王権が存在し
そこが音頭をとって開拓したとは考えにくいです。
本日はこれまで。
有り難う御座います
三角縁が布留以降でないと出ないことから、画文帯が先行して輸入されていた、 は認めていいのでは? 239年以降、三角縁・画文帯が一括して輸入された、ってのは、 かなり苦しい解釈のように思うが。
858 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:40:52
いや他の後漢鏡が踏み返しされたくさん入ってきたみたいだからふつうにありうる。 庄内からほとんど出ず、布留になって三角に伴って出るのが大半だからそれらについては三角と一緒に入ってきたとして矛盾しない。 三角は大量生産品だが、同時に質の良い神獣鏡も求められたかと。 なお一部の画文帯は庄内から入っていたのはあったと思いますが。
三角縁は国産品でしょう。どう考えても百枚以上出土し、中国からは一枚も出 土しない三角縁を舶載品と考えるのはおかしいです。
いやね、なんかイメージで語ってしまうが、ヤマト政権の飛躍って、 3段階くらいあったように思う。 @親魏倭王の権威付け A河内潟の開拓 B高句麗との戦い マキムクの頃の大王権を過大評価するのはどうか、と思うのだが。
861 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:48:45
ところが三角そのものはないが紐孔や銘がよく似た(工人系譜が親縁)関連鏡は山東省あたりに多くあるのよね。 旧公孫氏領域生産の特鋳品というのはありうると思います。
862 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 15:52:16
>>860 3と2は同じ頃では?
また一大卒や大倭の記述は地方権力をある程度は統制したことの現れと思いますが。まあ程度が問題ですが。
特鋳説は、なぜ鏡を、中国にないような形式のものにして下賜したのか を説明して欲しいですね。また山東省と公孫のいた遼東あたりにそんな につながりがあるんでしょうか?
864 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:01:36
福永氏の研究参照。 また一般向けには、内容はマニアックだが、今の三角縁研究の現状や論争点を知るのに『シンポジウム三角縁神獣鏡』学生社を読まれたい。
>>859 三角縁も製作段階を4つに分類出来る。
邪馬台国の継続的な朝貢により下賜されたとも考えられる。
当然、模倣した倣製鏡も含まれているでしょうが。
三角縁全てを一緒くたに論じるのは良くない。
中国から出土しないのは、特鋳説もあるし。
866 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:04:29
三角縁神獣鏡の関連鏡の一方の斜縁神獣鏡や画文帯同向式神獣鏡は旧公孫氏領域に多くあります。
867 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:06:44
865さんはホウ製三角縁までも実は舶載鏡とする説はどう思いますか?
継続的な朝貢といっても、「魏書」に鏡を下賜した記事が載っていない 以上、鏡の下賜は一回止まりかと。
869 :
史学の徒 :2006/03/12(日) 16:13:54
おまけ >安曇連浜子さん
>>864 氏の薦める本は必読ですよ。図書館でもいいですから是非お読みください。
とりあえず三角はそのほとんどが踏み返しであることだけは述べておきます。
あんな出来の悪い鏡を貰ってもなぁってくらい、その差は歴然としています。
蝙蝠みたいな意見ですが現在の段階は
>>857 >>858 どちらでも成立すると思います。
ただ
>>858 氏の言われる様に
>一部の画文帯は庄内から入っていたのはあった
これはほぼ間違いないでしょう。
それと画文帯も三角も基本的には下賜及び配布用、しかも男性用の鏡であり
これをして「卑弥呼の(使った)鏡」とはもう誰も考えてないように思います。
古墳の大きさだけで、王権が誕生していたかどうかを語るのは ナンセンス。 例えば、3世紀末、吉備や葛城で古墳が突然巨大化するが、 それは突然、巨大な王権が誕生したとは言われない。 何らかの「規制」が働いたためだろう。
873 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:22:42
>>868 朝見=朝見交易であり
一概に一度きりの鏡の下賜とも思えないが
いや特鋳ならば、当然魏か帯方郡が生産を掌握していたはずなので、記 録されないというのはまずありえないと思われます。
875 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:29:29
史書に全て書いているかは怪しい。 そんなこと言ったら三雲や須玖岡本の前漢鏡群はどうする。あれも朝貢貿易かと。
876 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:31:47
史学の徒氏に聞きますが画文帯が男性用って初耳ですが。何か根拠があるのですか?
画文帯が三角縁に先行するのは、普通に言われているこただろ。 認めたくないのは、伊都国東遷とか言ってる人ぐらいで。
878 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:46:14
日記じゃないし一々全ての史料を記載していたらそれこそ膨大な量に 必要な内容を最小限の字数で纏めあげることが史書(いや、編纂者)の技 一々使者が『末盧の道中マムシに噛まれた』何て記事記載しないだろう。 漢書地理志の中でも …以歳時來献見云…と ここには贈物や下賜品等書かれていなくても、相当な品物が動いた事等想像出来る
879 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 16:50:31
鏡群の主要な製作時期はその通りです。問題は主要な輸入時期ですが。問題点を分かってませんね。なぜ庄内期にはあまり出てこないのでしょう。 また画文帯の一部は実際に景初3年鏡があるように三角縁鏡に平行する時期に製作されたものが含まれている可能性があることが小山田氏により指摘されてますが。
>>875 前漢鏡は、別に「特鋳品」ではないと思われます。三角縁が舶載品であ
ることは「特鋳品」でなければほぼ説明できないに等しいと思われます
。その「特鋳品」が記録に漏れるとは考えにくいです。また、外交とい
う点でも、魏はおそらく「倭国」を重視していたと思われるのに対し、
前漢は「漢書」に記事が少ないことからも特に北部九州を重視していな
かったと考えられます。
881 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/12(日) 17:01:30
>>878 特鋳品の下賜は必要な内容だと思われますが。
882 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 17:14:19
>>880 北部九州の弥生中期後半王墓は、楽浪にもない大型鏡が多いことや金銅四葉座金具など、中原の皇帝からの直接下賜品を含むとされてますよ。
北部九州の諸国を重視してないなんて、あまりも考古学の研究成果や学史に暗い発言です。
柳田康雄『九州弥生文化の研究』学生社、高倉洋彰『金印国家群の時代』青木書店、あたりでも読んでください。
883 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 17:15:45
だから史書に書いてあることが全てというのは無理がありますが。
884 :
882 :2006/03/12(日) 17:18:32
補足すると漢墓のうち王候級の墓に入る鏡の質や量に近いものが北部九州の弥生中期後半王墓にあります。
885 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 17:30:54
それらの品々が畿内ではほぼゼロに限りなく近い数値になることも
886 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 17:59:39
>>884 漢墓のうち王候級の墓でも滅多に出ない良質の壁が宮崎の串本から出てますが、どうします?
887 :
まる :2006/03/12(日) 18:47:23
879さん それは本とかに なってますか? 中国製?それとも国産としてですか?
888 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 18:49:27
串間の璧ね。 あれは正直あまりにイレギュラーな存在だな。 まず遺構も供伴遺物も不明(鉄器があったらしいが不明)、時代も不明で、したがって評価のしようがない孤立した存在だ。 比較して例えば三雲なんかは遺跡の様相や北部九州全体の墓制から王墓にできるし孤立した存在ではない。王としての存在とその継続も証明できる。 串間にはこれらがない。例えば貴人が流れ着いたのではとかいろんな憶測が可能な代物ですね。
889 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 18:52:29
>>887 前に書いた三角縁鏡シンポジウムの本に小山田氏の考えも一部載ってます。
ただし画文帯に新しいものがあっても基本的に中国鏡です。
890 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 19:04:27
>837 年輪年代法は、「年輪パターンの客観的検証」「削除表皮部分の推定」「伐採年と建築年の乖 離」等の問題があると思いますが、土器・古墳・建造物の相対的様式編年の妥当性 を見直す重要な問題提起です。 特に勝山古墳については、木材に再利用の跡はない▽古墳祭祀に用いた木材は伐採後間も なく使用、廃棄されたと考えるのが常識的▽紫外線による劣化が切断面にない――ことな どから、橿考研も「古墳の築造時期は、伐採年に近い3世紀前半」としています。 ご指摘の点ですが、例えば、勝山古墳のサンプル木部が「転用(再利用)」かどうか について、確定することは不可能です。ただこの程度の木材をワザワザ転用・再活用 したかどうかと言う蓋然性の問題になると、やはり転用説には説得力に欠けることは 否めないでしょう(搭の心柱のような簡単に得難い木材ではありませんから・・・)
891 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 19:14:51
勝山の材木出土層は実際は庄内古から布留0、さらに一部だが後期古墳の埴輪片までもあり再堆積層。あの木材が古墳自体に伴うとするのは希望的推測。 周囲の古墳以前の集落に伴う木材の可能性(庄内古がある)は否定できていない。 まあ勝山は布留0より少し古くなるでしょうが、あの木材で築造時期を決めるのは危険です。 考古学的コンテクストを吟味する必要があるというのはそういうことです。
892 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 19:18:09
橿原の発表ももちろん内部で検討したものでしょうが、発掘成果の速報という性格のもので、どこまで細かく検討したか疑問もあります。 詳しい調査成果の報告が待たれます。
>>888 「評価のしようがない孤立した存在」
そうですね、他にも日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とか、
単品だけの宝物類は扱いが難しすぎます。
かと言って、三種の神器(剣、鏡、勾玉)の類は数が多すぎる。
評価の基準が素人的に解りやすいのは、やはり墳丘の大きさですかね。
894 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 19:38:26
日田の鉄鏡は一応出土古墳が分かっていて(後期古墳らしい)、やや不相応だが日田の有力首長なのだろう。ただ鏡が最高の威信財でなかった時期の保有なので実はそれほど凄いものではないかもしれない。 串間の璧は本当に評価し難いが。
>評価しがたい >評価しようがない そんな簡単にスルー出来るものなの? その評価しがたいやつを探り出す作業が考古学では 判らないものには蓋をする学問が考古学ですか? 結構難しい言葉並べてる様で内容はたいした事ではないみたいですね。 結局雑談ですか?
896 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 20:59:11
いや分からないものは分からないというのも一つの見識だが。
>>882 馬鹿なことばを吐かないように勉強しときます。
898 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 21:50:08
考古学者も、光谷氏を面と向かって批判できないはず。なぜなら、年輪年代 法が年代決定に有効だということをすでに15年前には知っていたはずなのに 、光谷氏への対抗馬をだれも用意しておかなかったから。最初は複数いたんだよね、 早稲田の古城氏とか、手をつけた人はすこしはいた。でも、結局光谷氏一人しか いなくなったのは、やっぱりしんどくて、割に合わない研究だからなのでは? それを結果が出だしたところで、考古学者が大騒ぎするのは、見ていていい気がし ないし、光谷氏一人の責任のように中傷を続けるのは、筋違いというもの。 結局、勝山の問題は、考古学側の解釈論が揺れ動いた、というだけこと。この 解決は、考古学内部でやるしかない。ただ、そのとき、土器が内在的に年代を語 れる代物なのか、どうかをよく考えること。それと、出土状況も。 あと、安田喜憲の文を引き合いに光谷氏を批判していた人がいるけど、安田氏 なんて絶対に信頼できない研究者だよ。これは、専門誌を調べて見ればわかる。
899 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 22:27:56
>891 それは、あまりにご都合主義的な解釈というべきでしょう。 1989(平成元)年に、勝山古墳の南東約1qに位置する石塚古墳北側くびれ部付近 の周濠内から出土した板材1点の年輪年代測定結果が公表されています。これも、資料 bPと同様辺材型で、推定伐採年代は177+α(α≒20)年、従来から石野氏らにより 最古グループの古墳の一つと考えられていた二つの古墳から、非常によく似た測定結 果がでたことになります。この事実は当然、偶然の一致と見なすのではなく、積極的 に評価していくべきでしょう。
900 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 22:48:13
>勝山の材木出土層は実際は庄内古から布留0、さらに一部だが後期古墳の >埴輪片までもあり再堆積層。あの木材が古墳自体に伴うとするのは希望的推測 年輪年代法の結果ををそのまま鵜呑みにしてはいかんのは確かだが、なぜかどっから でも出てくる布留0の定義・年代は誰かが検討し直すべきだな。 ってもうやっているかな。
901 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 22:53:35
>>899 石塚も周溝にマキムク1式がなぜか多い。
しかし築造はマキムク2式には下がる。
木材は古い時期の混入の可能性は排除できない。
また実は石塚の材は導水溝の布留0が多い層から出た。しかし我々は布留0はさすがに2世紀末にはならないことを知っている。
布留0は三角縁その他の鏡や他の年輪年代例から3世紀中頃以降だ。
つまり石塚のは何らかの混入か再利用による布留0期の廃棄だ。
年輪年代も資料が増えないと、
ある時期がいつの年代かって決めるのは難しいのだ。1、2点じゃ決められない。暫定的に上限を決めるだけだが。
なお光谷氏自身は尊敬に値するが、
年輪年代の考古学的運用については考古学の中で吟味する必要がある。だから言ってることが筋違い。批判しちゃいけないってなんだそりゃ。
なお石塚については清水真一氏の、全般的には寺沢氏の批判もある。
勝山についてはご都合主義とかいう批判はまた ただのレッテル貼りで、
考古学的にクリアされてないことを書いたまでで慎重な意見を述べたまで。あれについては橿原でもいろいろ意見があるようだが。
902 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 22:57:32
>>900 >なぜかどっからでも出てくる布留0の定義・年代は誰かが検討し直すべきだな。
俺もそう思う。
903 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 22:58:48
>>901 >石塚も周溝にマキムク1式がなぜか多い。
3じゃなくて1?1って、庄内より前、弥生後期の土器でしょ?
904 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:01:28
あとねAMSの研究の大きな成果として、実際の年代はともかく、従来の土器編年の相対的関係は追認されてますが。 もともと土器の相対的編年自体、常に層位的関係により不断に検証され洗練されてきたのだが。 どうもこのスレの理化学年代ヲタは土器編年のような考古学的方法に敵意があるようだが、全くの筋違いだよ、全く。
905 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:03:54
【899の続き】 橿考研がこの木材を祭祀施設の投棄物と推定したのは、古墳のくびれ部から集中し て検出されたこと、ほぼ同時代と見られる纏向石塚古墳からも同様の部分から木材 が集中して検出されたこと等によるものであって、後世の洪水等による流入であれ ば、この様な類似性(集中)は想定しがたいからでしょう。 (ただし周濠全域を調査したわけではないので、異論はあり得ると思います) なお、この様な祭祀施設(器物)の意図的破壊投棄が古代祭祀場において、しばし ば見られることはご承知のとおりです。 長々と書きましたが、最後に考古学の側からもAMや年利年代法に代表される 理化学的な手法に異議を唱えるだけでなく、これらの年代との整合性をとるこ とを含め、庄内の開始時期など、これまで定説とされてきた年代観の再検討を お願いししたく思います。
906 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:15:33
石塚には実際周溝にはマキムク1式が多かったが、墳丘の中には2式に下がるのが少し含まれ、築造はその時期だ。 ああいう広く深い周溝のような遺構には新古の遺物が混入する。古墳築造ではその前の包含層を一度破壊するから、巻き上がった古い遺物が再堆積する。 周溝の遺物は出土状況や祭祀遺物か否かによりその古墳に伴うか吟味が必要。また周溝のような大きな開放的遺構に一緒に出る土器は厳密な一括土器ではないことも常識だ。 なお布留0が多いことは一つにはその時期にマキムクの遺構数のピークになり廃棄物が多かったということがある。もう一つは箸墓築造に際し、他の墓でも祭祀がなされたという説も有力だ。
907 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:15:35
>>904 >スジ違い
ちゃう。
スレ違い いや 板違い
908 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:20:03
>>905 後世の再堆積の可能性を排除できないし、層位的に実際混じってるなら、
その木材が古墳の祭祀のものと断定したこと自体に疑問が生じ、その方がご都合主義的解釈になると思うが。
909 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:21:25
>>906 >もう一つは箸墓築造に際し、他の墓でも祭祀がなされたという説も有力だ。
これ、誰が言ってるの?
自分としては賛成なんだけど、他で見た記憶がないもので・・・・
910 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:21:39
>>907 すまんな。論の流れ上、放置できなかったので。
911 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:23:27
>なお布留0が多いことは一つにはその時期にマキムクの遺構数のピークに >なり廃棄物が多かったということがある。もう一つは箸墓築造に際し、他の墓でも祭祀がなされたという説も有力だ。 てなことを言う人もいるが、布留0の定義が自体がおかしいという人もいるよね。 年輪年代法非難している暇があったら、寺沢編年見なおせと。
912 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:25:02
>909 石野とか橋本とかが言っているね。
913 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:25:19
>>909 学生社の『大和・纏向遺跡』で、確か調査関係者の座談会で橋本氏あたりが喋っていた気がする。
違ってたらスマソ
914 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:34:00
>
>>817 >確かに、畿内は生活必需品の鉄の確保でさえ、量的質的に劣った状況なのに、鏡だけ間を飛び越えて大量に入っていたというのはおかしな話だな。
畿内の鉄器の爆発的増加は、石器の減少から推測されている。
小林行雄をちゃんと読め。
915 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:34:12
年輪年代を批判してるのではなく、その個別の運用や解釈を批判してるのですが。 また、たまたま布留0とか寺沢編年を使ってますが、石野・関川編年でも、豊岡編年でも、微妙な区切りの違いや大別画期は違うが、土器群の前後関係はほぼ同じです。 別に布留0をマキムク3式後半と言ってもいい。 年輪年代やAMS年代の結果(これ自体解釈ですが)を盲信して垂れ流すヒマがあったら、他の考古学的資料や考古学的コンテクストについてよく勉強して下さい。
916 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:37:14
>>914 村上氏の『倭人と鉄の考古学』青木書店、でも読め。
この畿内の鉄器化の実態については散々議論しているが
庄内の開始時期が遡った場合、従来の古代史観はかなり変更を余儀なくされる んでしょうか? たとえば、マキムク以前の畿内はショボくて、寺沢の言うような「吉備・筑紫・東瀬戸内など の他地域勢力が畿内に移住→畿内豪族になり、マキムクを建設した」のような仮説は、 ひっくり返ってしまうんでしょうか。
919 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 23:49:36
必ずしもそうとも言えない。大和がある時期に外部要素を持って急激に求心力を持つようになるのは変わらない。 庄内がさかのぼったら各地の後期も当然古くなるので。 ただし、実際は鏡の出土時期の整理から庄内開始が2世紀末より古くなり可能性は小さい。 このスレで騒いでいる年輪年代やAMS年代を錦の御旗にかなり古くしようとする説もあるが、 鏡の年代無視となり理化学年代値も即その遺構の年代としていいか問題が多いので、極端な説でありさすがに賛同者は少ない。
920 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:00:29
>>914 小林行雄の言説は調査が進む前の畿内自生説から見た希望的予察。
しかし調査の進展で畿内は弥生後期に鉄器化は一応進むものの、
量的、質的、鍛冶技術的に、九州はもちろん、山陰や瀬戸内あるいは北陸にも劣っていることは否定できない。
村上氏だけでなく鉄器の研究者は近畿圏の人も認める話だ。
この弥生後期の畿内の状況は庄内から布留初めにかけて急激に克服されるが、
村上氏は博多遺跡の資料などから布留初めまでは九州がまだ上回っているとさえ評価されている。
921 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:04:04
俺、明日からスレ移動しよこんな事毎日やってる畿内説には未来はなさそう。 荒れても九州スレのがおもろいや キャラ濃し
922 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:10:33
学問的でない九州説スレに未来はあるのだろうか?
>>919 >庄内がさかのぼったら各地の後期も当然古くなるので。
じゃあ別に、庄内が遡っても構わんじゃないですか。
3世紀初頭にマキムクの激変をもっていきたい理由は何なんだろう?
やっぱり、倭人伝の卑弥呼共立の記事と整合性を持たせたいため?
924 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:27:27
九州説スレは仲間割れで自滅している。まあ確かにみなさんキャラ立ってますから一致しないでしょうし議論になってないw こちらは激しい議論の応酬はありますが、むしろ学問板ですから仕方ないし健全です。考古学的議論が多いのですが、文献が不十分な時代の議論なのでこれも仕方ないし、考古学自体歴史学の一部です。
>>919 >実際は鏡の出土時期の整理から庄内開始が2世紀末より古くなり可能性は小さい。
従来の鏡の実年代推定を見直すべき時なのかもしれんな。
926 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:32:23
>>923 実際は遡らないだろうと書いてますが。ここでの判断は純粋に考古学的判断によります。
それと倭人伝の記事が合致するかどうかというのは二次的な解釈の話。
927 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:37:47
>>925 鏡の時期の編年は紀年鏡の定点や漢墓での出土状況からよく検討され精緻化してます。
まあ全て分かっているわけでないですが、
それほど極端に年代が変わる可能性もまた少ないです。
そんなに疑うならご自分で検討されて下さい。
928 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 00:53:28
>>925 氏や年輪・AMS年代至上主義者は『古代学研究』169・170号連載の
寺沢氏の論文「古墳時代開始期の暦年代と伝世鏡論」をぜひ読んで下さい。
930 :
俺等05772 :2006/03/13(月) 07:49:35
>>864 ここは素人の愛好家が多いので、省略せずキチンと書いて欲しい。例えば下のように。
福永伸哉(2003):『シンポジウム三角縁神獣鏡』学生社
一般向。内容はマニアックだが、今の三角縁研究の現状や論争点を知るのにお薦め。
931 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 08:54:02
邪馬台国は岡山の吉備じゃ。 近畿とか九州とか邪道じゃ。
932 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 10:55:21
まずは、「狗奴國」が九州に在ったこと、「東征」が行われたという根拠を求む
933 :
俺等05772 :2006/03/13(月) 19:13:53
>>932 1.狗奴国が奴国(筑紫国)の南にあること
>>119 の図から奴国(筑紫国)の南に狗奴国(肥国)があるのが分る。← >119の図に疑問ある?
2.古事記の記述から見た狗奴国
古事記の国生みの箇所に、九州は4つの勢力に分かれていた、と述べている記述がある。
『 次に筑紫島(九州)を生みき。この島も又身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故に、
筑紫国を白日別といい、豊国を豊日別といい、肥国を建日向日豊久士比泥別といい、熊曾国
を建日別という。』
この文から、筑紫国=奴国=白日別、豊国=豊日別、肥国=狗奴国=建日向日豊久士比泥別、
薩摩=熊曾国=建日別、に各々対応する。
久士比泥=奇火根=奇しい火の根=火山の麓=阿蘇山の麓、又は奇火根=不知火=八代海
ですが、建日向日豊をどう分けるかです。建日向・日・豊に分けると、日向国・肥国・豊国
の一部からなる連合国家ということになる。← 古事記の記述が捏造という根拠は?
3.狗奴国が東征した根拠
a.古事記・日本書紀を嫁。←「記紀」の東征が捏造だと証明してくれたらもっと詳しく述べる
b. 266年に台与と思われる晋への朝貢の後、150年間朝貢が途絶えた理由を述べてくれ。
934 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/13(月) 19:24:12
「記紀」では、おそらく今の宮崎県あたりから東征したことになっていますが 、九州に「狗奴国」を想定した場合、地名等から今の熊本県じゃないかと思わ れます。また知っての通り宮崎県には西都原古墳群があり、大和地方の勢力と 交流があったと思われます。「記紀」の通りにすれば、「狗奴国」は宮崎県に なってしまうんじゃないんでしょうか。そうすると「敵国」の墓制を採用して いたことになり、甚だ不自然です。横レススマソ
935 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 19:35:20
九州説なんてありえん 記紀も天皇が宮崎県からやってきたといってるだけで 王朝を九州で開いたわけではない
936 :
まる :2006/03/13(月) 20:31:19
千葉の城山古墳について 魏の頃の鏡が六世紀頃の古墳に埋葬されていましたが その間の被喪者には なぜ 埋葬されていないのか 不思議です。
937 :
まる :2006/03/13(月) 20:33:33
なくなった被喪者に与えたものなら 六世紀まで 大和朝廷が 保管していたのでしょうか?
938 :
俺等05772 :2006/03/13(月) 21:04:16
>>934 狗奴国は、肥前の大部分、肥後、日向、豊の一部を領土に持つ大国です。
それで無ければ、邪馬台国連合に対抗できない。神武東征の出発が日向
からというだけです。
安曇さんは 邪馬台国=大和政権 と思い込んでいますが、大和政権が
卑弥呼の邪馬台国を滅ぼして古墳時代を創ったのです。
939 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 21:08:48
肥後、日向、豊が同じ勢力範囲って、何か根拠ありますか? 古墳の様相や土器の様相がまるで違いますから、ちょっと無理かと思います。 しかも東九州と肥後の間たに山地も険しくあるし、無理かと
940 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 21:25:22
日向、豊、肥後のどこがメインでしょう
941 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/13(月) 21:26:08
>>938 それならば最古の古墳が南九州に残されていると思われます。しかし巻向一帯
にある古墳の墳形はいずれも大きな違いはありませんし、石塚や馬口山、勝山
よりも時期が遡る古墳は九州で確認されていないかと思われます。
942 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 21:30:57
西都原81号はマキムク型みたいですが
943 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/13(月) 21:34:08
>>942 漏れは「東征」という概念が変だと思うわけで、南九州の勢力が大和政権の成
立に一役買っていたことは事実だと思います。
944 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 21:40:08
ただその古墳の時期はそこまで古いかわからないです 生目という古墳群に一方100m級の前期古墳群があります
945 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/13(月) 21:47:09
西都原81号墳についての記事を 九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原古墳群」(宮崎県西都原市) から、国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの 調査でわかった。出土した土器から、築造は三世紀中頃と考えられ、南 九州では最古。大和政権があった畿内でも、このころ古墳が造られ始め ており本土の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政 権が主導したとされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになりそう だ。(・・新聞五月十八日の記事から引用)
946 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 22:09:04
そこまで古いのか土器の図や写真がないと疑問かな どうなんだろう
947 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/13(月) 22:12:22
>>946 土器の図は出ていませんが、古墳の図が載ってます。見た感じ前方部は
バチ形で、初期古墳の特徴を備えていると思われます。
948 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/13(月) 22:42:54
困った。北部九州の3世紀中頃の女性を埋葬した大型古墳が纏向型前方後円墳みたいなのだが。 いやなにね、私は前方後円墳は畿内発生だとおもっているものですので。
949 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 22:47:07
はぁ? 女性を埋葬した九州のマキムク型って何?
>北部九州の3世紀中頃の女性を埋葬した大型古墳 なんていう古墳ですか?
日向神話が記紀で採用されていることからも、西都原の日向国造は古くから畿内王権と 親交が深かったのだろう。
952 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 23:08:19
953 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 23:15:08
それは前方部がマキムク型よりは発達した普通の前期古墳だが。 また出土埴輪や石棺型式から4世紀後半から末(前期末)の古墳ですが。
マキムクの段階で、西日本全体をまとめ上げるような統一国家の成立を見るのは、 寺沢の単なる夢想ではないのか? 前方後円墳体制とは、強力な統一王権が誕生したことによるためではなく、 各地のオウたちがそれぞれ自発的に、魏のバックアップを受けた畿内文化を 取り入れたに過ぎないと思われる。 この頃の畿内王は三輪山の宗教的権威(鬼道)で君臨し、軍事的に圧倒していたとは 思われない(鉄の分布からも)。あくまで紛争の仲裁者、各国間の利害調停者ぐらいでは なかったか。 倭王に任じられた畿内王は、対外的に倭国の代表となり、外交権を掌握。 半島を通じて得られる舶載の文物・技術などは畿内王により一括管理され、 相対的に北部九州の緩やかな地位低下をもたらす。 各地のオウたちは前方後円墳を造ることで、「自分たちのバックには倭王=畿内王 がついているぞ」との権威付けになり、各々が地域支配権強化に積極利用したのではないか、 と思う。
>>954 私もそんな感じだったと思います。
ただ、倭人伝で語られる「倭王」の権威は絶大です。
その権威は遅くとも三世紀初頭には確立されていたとも思います。
そして、それは宗教的要素だけでは生み出されないとも思います。
私は畿内勢力が権威を掌握できた原動力を私は生産性の向上に求めます。
相当程度の治水・土木技術を有し、中河内で低湿地の水田化に成功した集団。
九州・瀬戸内との交通・輸送手段も有し、瀬戸内ルートで鉄器を確保できた集団。
八尾に多い龍刻土器などのように外来の神仙思想を弥生文化に取込める集団。
庄内式を生み出した高い技術力を持つ集団。
そういった条件を満たす集団が、河内や播磨などから大和に進出し、
唐古などの在地勢力の抵抗の少ない未利用地(纏向)を開発。
多大な生産余剰を生み出せる新興「国」が誕生したとします。
その「余剰」を求めて、開発が飽和状態になっていた周辺地域から
さらに人々が集い、再び技術力・生産力が飛躍する。
そうして出来た大勢力が、西日本全体の求心力となり「権威」も獲得した。
そんなところが私の描く邪馬台国モデルです。
956 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 05:53:11
その開発の出資元に北部九州勢力の一部がいたのでは?
957 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 05:58:30
なぜ巍のバックアップを北部九州を通り越し受けれたか疑問
>>754 北部九州や吉備、山陰の他の勢力が田舎の畿内勢力の王にすんなり服するのが疑問
外交、交易を掌握する過程も疑問を
958 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 07:15:11
>>939 九州の中で、銅剣銅矛を祭器として使っていない領域があります。武器としての
細形銅剣銅矛は除きます。佐賀のかなり、長崎全域、熊本県(除一部)、大分南部、
祭祀を行うのに、こうした無駄な労力をかけなかった文化圏です。
石包丁の形式でいうと、「半月形外彎刃」ではない文化圏で、人種でいうと
縄文系弥生人の多く住んでいる領域です。
私の推測では渡来系弥生人の一部が、土着の縄文系弥生人を娶って北九州から
次第に南下し、領土を広げたと考えています。
960 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 07:32:02
>>958 祭器段階でも、
佐賀は検見谷の研ぎ分け銅矛16本などあるし、安永田あたりで作ってるが
豊後は広型銅矛かなりありますよ
961 :
>>957 :2006/03/14(火) 07:35:13
962 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 07:39:11
石包丁で勢力圏言うのは無理 しかも古い時代だし 政治勢力や祭祀圏を示す共通した遺物や遺構でないと
964 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 09:01:43
>>949 ,959 佐賀県小城にある桜ケ岡です。ただこの岡はまだ古墳と認定されていません。
形状が前方後円墳にみえるということだけです。ここに、女性が埋葬されているかどうかの問題はさておいても、古墳かどうかは、今後
調査する必要はあるとおもいます。
965 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 09:18:30
サガミさん、それはまず貴方が小城が邪馬台国だと いう先入観にとらわれているので、桜ヶ丘とかいうところが 卑弥呼の墓に見えてるだけでしょうwもっと客観的になってください。
966 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 09:30:51
客観的にみた結果が古墳に見えるということです。
968 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 12:10:25
あの丘そのものは考古学かじった私には古墳には見えないが。地形図でも無理かと。 丘陵上には小型の前方後円墳はあるが。
桜ヶ岡自体は、国土地理院の地図を見る限り千歩譲って古墳だとしても「前方 後円墳」には見えないかと。
970 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 15:28:54
小城市の小城の桜城館にエド時代の小城の模型があり、その桜ケ岡を西側からみると 纏向型前方後円墳にみえます。また、戦前まで岡の北に周濠のような池がありました。 以上から、古墳ではないかと考えるわけです。
「周濠のような池」と言われましても、ただの池だった可能性の方が高いわけ で。丸い地形に沿って池を掘ればそれは「周濠」のように見えないこともない でしょう。
972 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 17:58:29
>>970 マキムク型の特徴って分かってる?
向野田古墳がそれとか言ってたぐらいだから怪しいが。
その小城の桜岡の上には茶先塚という50mくらいの前期前方後円墳がある。
自然丘陵に前期古墳が作られるパターンだ。3世紀中頃の卑弥呼墓のすぐ後にその上に古墳が作られるとは考えがたい。
また丘陵自体を古墳とするには、盛土の未検出、墳裾整形ラインの欠如、周溝の欠如(池は単なる池で周溝状に巡らないし、その痕跡も無い)からありえない。
973 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 18:12:05
>>960 >佐賀は検見谷の研ぎ分け銅矛16本などあるし、
>豊後は広型銅矛かなりありますよ
知ってますよ。でも佐賀は武器である細形銅剣が多い。
豊後にも広型銅矛はあるが、ある領域を境に南側には出ない。
それで、建日向日豊久士比泥別についてもう一度考えてみたのですが、建日向・
日豊・久士比泥別と分けて、日向、日子領の豊、阿蘇の麓の肥国と解釈しては
どうだろう。
>>962 石包丁の分布は、古い故に、住民の出身母体を表しているのでは? 筑紫は、
「半月形外彎刃」だが、中国江南の石包丁と同形だし、南九州の石包丁は両端に
きざみ目を入れた包丁だが、縄文系弥生人が使用し、台湾と同じ形のものだし、
近畿地方の石包丁は「半月形外彎刀」「半月形直線刀」「紡錘形」と様々な型
のものが使われているが、「紡錘形」は遼東半島に出土している。
だから、近畿地方は徐福集団の末裔と考えられるのではないか?
北九州に渡来した除福集団は、後発で耕作地が残っていなかった故に南下し、
肥国や日向の土着豪族と婚姻を重ねて、同化していったのではないか?
974 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 18:22:33
残り、30を切っています。
誰か新しくスレ立てしてくれませんか。私は暫くスレ立てが無理な
ようです。
>>1 の後半の文は削除してください。
タイトルが長すぎ、受付られないようですので、以下でどうでしょう。
【九州説】邪馬台国畿内説議論を深めよう2【厳禁】
975 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 18:35:08
弥生前期や早期の石包丁は江南直接でなき韓国西南部経由です。 また石包丁自体時期により変化しているのでいきなり、大陸の各地と対比するのはダメです。 また佐賀もそうですが筑前の福岡平野早良平野も細型は多いですよ。 佐賀(肥前)は弥生では筑紫と同じ文化圏です。成人用カメ棺圏だし、漢鏡分布圏です。 また豊後や肥後北部までは青銅器(矛型祭器や小型倣製鏡、鏡片)から弥生終末までは北部九州圏の影響が強い縁辺です。 残りの日向と肥後は、土器も全く違うし、首長連合を示す独自の墓制や威信財が分布するわけではなく、 何か独自の祭器が共通するわけでもありません。
976 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 18:41:07
詳しくありがとうございます。
977 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 18:59:48
ていうかサガミハラは九州説だし、しかも小城だとか言う説は別スレでやってくれ。 ここは畿内説スレだが。 邪馬台国が畿内とした場合に、例えば狗奴国が南九州かもしれないという議論はありだが。
978 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 19:05:18
979 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 19:14:54
>>975 >佐賀(肥前)は弥生では筑紫と同じ文化圏です。
私が言おうとしていることは、北九州の渡来系弥生人の一部が、
縄文系弥生人の豪族と婚姻を重ねながら、南下していき、狗奴国
を造ったと主張しているのです。だから起点が筑紫と同じ文化圏
であっても構わない。
980 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 19:17:55
品種自体は渡来の波があり得る。 その石包丁は韓国無文土器中期以前にもあり、韓国からの伝播は明らか。日本から伝播は無理な解釈。 また華北でも山東は稲作が古いことが分かりつつある。 水田も韓国で古いのが検出されだした。 また弥生開始時は稲作だけでなく、他の作物農耕も一緒に入っている。韓国南部でワンクッションおいて入っている。 中国から直接渡来なら入っていない文化要素が多すぎ。 また徐福は弥生開始よりはるかに新しい時期で、倭に来たという話自体が中世以降のこじつけ。
981 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 19:23:49
肥前、肥後、日向が同一勢力という根拠に欠けますね。 まだ日向だけとか肥後だけとか、絞って考えられるなら実際的だし、ありえないとは言えないし、まだ議論が生産的です。 なお肥前は完全に奴国などの北部九州勢力の一翼と思いますから、省く方がいいでしょう。 肥の国という区分はむしろ古墳時代中期から後期の動向からだと思います。
982 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 19:35:54
日向なら西都原や生目古墳群が一定の勢力を示すでしょう。 また肥後なら中部から北部の弥生後期から古墳初めの大集落が多く、鉄器や鍛冶も北部九州に準じますので、奴国の南で北部九州勢力に対峙してもおかしくないです。これらの集落は環濠が多く、鉄器が鏃などやたらでているみたいですし。 ただ以上の日向と肥後はそれぞれが一勢力圏で両者のつながりはないでしょう。
983 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 19:56:20
>>980 別に徐福は、弥生開始よりはるかに新しい時期ということは否定しませんよ。
でも、下の年表対比でみると、渡来弥生人という観点からは、徐福は重要な
役割を果していると考えざるを得ません。
日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ
中国側戦国時代の年表 日本側弥生時代薄明期の年表
前473年 呉が越に滅ぼされる 約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷
前379年 越が呉に遷都する
前334年 越が楚に滅ぼされる 約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人
約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺)
約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる
前223年 楚が秦に滅ぼされる
前222年 燕・代、秦に滅ぼされる
前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一
前219年 徐福、第2回出航
約2200〜2000年前 唐古・鍵遺跡に先進的な総柱構造
唐古・鍵遺跡は徐福集団の第2回出航の時期と対応する。つまり、江南人もそれ以前に小数入植
しているものの(池上曽根遺跡)、畿内を中心とする銅鐸文化圏は、徐福が率いた山東半島周辺
からの渡来者が創った可能性が強い。(邪馬台国の始り)
984 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 20:13:37
銅鐸は朝鮮半島系小銅鐸からの変化です。 唐古の大型建物は総柱か屋内棟持ち柱か議論があります。 それはさておき、唐古の大型建物は2様式ですから、 昨今の実年代見直しからは(どこまで遡るかは疑問もありますが)、紀元前3世紀以前か少なくとも紀元前3世紀前半にはなってしまう可能性がきわめて高く、 徐福以前になってしまいます。 また再度強調しますが、中国からの多数の直接渡来は、当時の中国文化要素の欠如が多すぎ(畿内は北部九州以上に希薄)、まずなさそうです。
985 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 20:14:10
>>981 古事記の記述
『 次に筑紫島(九州)を生みき。この島も又身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故に、
筑紫国を白日別といい、豊国を豊日別といい、肥国を建日向日豊久士比泥別といい、熊曾国
を建日別という。』
この「面四つ有り」という記述をどう考えますか? 素直に解釈すると国が4つに
分かれている、ではないですか?
「肥国を建日向日豊久士比泥別といい」となってますが、何故「肥国」だけ国名が
長いのでしょうか? また、「建日向日豊久士比泥別」の意味は何だと考えますか?
986 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 21:01:05
古事記の記述はそうだが、その認識や地理区分が弥生や古墳前期のものかは別問題では。 ある時期の認識でしょうが あと日向と豊が無理に一緒にしたか、あるいは日向は豊かクマソのどちらかに本当は入るかも(特に日向南部は歴史的にも考古学的にもクマソの一部かと)
987 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 22:09:12
日向と豊が無理に一緒→日向と肥後が無理に一緒にされた
前漢後漢の鏡の共伴例が増えてくれれば・・・
990 :
俺等05772 :2006/03/14(火) 22:56:24
>>986 ある時期の認識とは何時の時期の認識でしょうか?
弥生や古墳前期のものかは別問題といいながら、弥生の前なのか
後なのか、古墳前期の前なのか、後なのか全く曖昧で、誤魔化して
いるとしか思えません。
991 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 23:40:12
ごまかしではなくわからないものはわからない。 少なくとも古事記の4面の記述は3世紀前後の地域区分には不適切。 むしろ敢えて言えば後世かと。肥前ふくむ肥の国が認識された古墳時代中期以降かと。肥君以降。
992 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 23:45:59
狗奴国の議論と離れてますが。 狗奴国が例えば東海なら無意味な議論です。 古事記の九州の記述に狗奴国があるとか、いきなり間の論証がありません
993 :
日本@名無史さん :2006/03/15(水) 06:00:45
狗奴国は、熊野(南近畿)じゃないのだろうか? それと、神武東征というのは 政権が東征したのではなく ただ単に、南九州出身(熊襲?)の神武が 南近畿の豪族の入婿になっただけの話だろう?
994 :
俺等05772 :2006/03/15(水) 06:42:56
>>991 >古事記の4面の記述は3世紀前後の地域区分には不適切。古墳時代中期以降かと。
肥前ふくむ肥の国が認識された古墳時代中期以降という認識は、何を根拠になされ
ましたか? 古墳時代中期以降に、何故肥国だけ「建日向日豊久士比泥別」という
長々しい名前で呼ばれたと思いますか。
私は、肥国のみ正式な名称で呼んだからだと思います。そして記紀神話のうち九州に
係ることは、以下の理由により、5〜6代の天皇の時代に纏められたと思っています。
天皇家の寿命
−−−−−
ある日、邇邇藝命は、見目麗しい乙女に出会った。名を問うと、大山津見神の娘で木花之佐久夜姫
であるという。邇邇藝はこの美しい姫神に求婚し、父の大山津見神のもとに赴いた。大山津見神は
たいそう喜び、姉の石長姫も一緒に嫁がせた。しかし邇邇藝は器量の悪い石長比売は親元へ返し、
木花之佐久夜姫だけを留めて一夜を共にした。
これを知って大山津見神はいたく嘆き、「私が姉妹揃って嫁がせたのは、石長比売によって天神の
御子の命が常盤の石の様に揺るがぬよう、木花之佐久夜毘売によって御子の未来が花のごとく栄
えるようにと祈ったからです。しかし石長比売を返された天御子の命は、木の花のようにうつろいや
すくなるでしょう。」 邇邇藝の子孫である天皇の寿命が短命になのはこのためという。
−−−−−
上記の話は5〜6代の孝昭・孝安天皇頃の時代に造られた話と思われる。もし、天皇の寿命が2倍
年暦で数えられているなら、綏靖が 22才、安寧が 24才、懿徳が 22才の寿命であり、まさに上記の
記述通りだからである。この場合、父子継承は成り立たない。
1代 神武 137 → 68、 2代 綏靖 45 → 22、 3代 安寧 49 → 24、 4代 懿徳 45 → 22、
5代 孝昭 93 → 46、 6代 孝安 123 → 61、 7代 孝霊 106 → 53、 8代 孝元 57 → 28、
9代 開化 63 → 31、 10代 崇神 168 → 83、 11代 垂仁 153 → 76、 12代 景行 137 → 68、
13代 成務 95 → 47、 14代 仲哀 52 → 26
995 :
太国 :2006/03/15(水) 08:14:21
俺等さん、貴殿は2倍暦論者ですか?
996 :
日本@名無史さん :2006/03/15(水) 08:29:33
敢えて言えばですが。肥前を含む有明海地域に肥後系石室など肥後系古墳文化が広がります。 文献でも肥君の勢力が強くなる時期です。 肥前は古墳前期までは筑紫的です。 なお肥国の名前が長い理由はわかりません。ただ日向は肥国と文化的には異なっています。 日向はもともとは南部はクマソに、北部は豊ではと。 地下式横穴墓はクマソの領域かもしれません。
997 :
俺等05772 :2006/03/15(水) 08:31:24
>>995 魏志倭人伝に見る倭人の寿命
「其の人寿考、或は百年、或は八、九十年」←このような長寿は古代では考えられない。
半分にして40〜50才なら納得いく寿命になる。
ちなみに、縄文時代の寿命は30代前半。信長の頃が 50年。
上記の文は後世に文献を捏ね繰り回して、書いた文献ではない。
当時の「現在時点」での記録であり、非常に信用できる。
二倍年暦説を否定するのなら、「百年、或は八、九十年」という倭人の
寿命の根拠を合理的に説明する必要がある。
998 :
日本@名無史さん :2006/03/15(水) 08:37:27
神や人の名前がなぜそうかなどは答えようがない話です。 3世紀に例えば肥前肥後日向が同勢力だとかは古事記の筑紫面四つで立証できる話でないし、それが狗奴国だとか根拠不明です。少なくとも考古学的裏付けを求めます。
銅鏡の銘文ではその鏡を持つことにより王になれるやら寿命は萬年に及ぶやら 色々ありますが・・・
1000 :
太国 :2006/03/15(水) 09:25:45
>>997 2倍暦で、俺等さんは半信半疑のようですね。w
1001 :
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