1 :
日本@名無史さん:
鎧ヲタ集え。
2
甲冑スレ久しいな
他板の鎧やらのスレはどの程度生き残ってるのだろうか・・
4 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 06:54:43
4様!
5 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 09:57:11
このスレの武運長久を祈る
6 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 17:03:44
大鎧のかっこよさは神
7 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:32:43
大袖は神
8 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:18:36
筋兜は神 星兜はもっと神
9 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:18:01
大鎧は昔の絵巻に描かれているのを見ると異様にカッコイイのだが
大河の義経などで実際に大鎧を着用している映像を見るとなんか微妙。
10 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:34:51
室町期の大鎧はカッコイイ
11 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 00:17:58
>9
確かに。
大鎧は腰が窄まってないから立つとあんまりかっこ良くないよね。
西洋の鎧はどーしてああも単一素材で作ろうとするのだろうか?
日本の鎧は金属、繊維、皮、紙と多種用いているのに
13 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 00:35:20
信長は西洋ぽっい鎧じゃなかった?
14 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 00:44:18
>>9 >>11 それと、大河などに出てくる大鎧は隙間がありすぎ。
時代劇の当世具足にもいえることだがもう少しなんとかならんものか。
小物まで気が回らないか
15 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 00:47:49
正月の里見八犬伝の甲冑は最悪だったよな
16 :
沙門:2006/01/21(土) 00:52:02
体力のない子供達の為に軽さのみを追求したのでしょう。
17 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 00:59:11
大鎧でも時代によって変化が出てくる訳ですが、専門書とか読むと
腰の部分に関しては、南北朝時代には僅かに裾窄まりに、室町時代には
完全に裾窄まりになって、腰の部分に重量を受けて苦痛を少なくするという
方法が採られたとの事ですね。(「甲冑のすべて」著:笹間良彦 より)
ただ、実際のところ大河なんかで、そこまで正確に考証した甲冑とか
出すような事なんて、そうそう無いでしょうしねぇ…
ところで江戸時代の錦絵の武者絵って、各時代の甲冑の特徴がごっちゃになってて
考証的には思いっきり間違ってるにもかかわらず、なんかそこに萌えるんですが…
もしや自分だけですか?(;´Д`)
ttp://mtsbm6ar.ld.infoseek.co.jp/taiheiki13.jpg ←こういうのとか
18 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 01:08:26
日本画は多視点画だからどうしてもゴチャゴチャになってしまうと思う。
19 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 05:12:07
我が家にも甲冑一揃えあるんだけど
部品がバラバラなんだよね
部分的に壊れるとその部分だけ買うから
そうなるらしいけど
色まで違うんだよ…
働き者の御先祖様だったのかもしれないが
ちとセンスに問題有りだな
昔の人間は本当にチビだったんだろ
だから撮影に使う場合はかなり大きめにつくれば様になるんじゃないか
>>20 撮影用はフリーサイズで作ってあるから
本当はオーダーメイドだし
>>19 他にも博打の形に取られちゃって、仕方なしに
鎧なし兜なしで戦う羽目になった人もいたとか。
(適当な鎧兜を戦場で現地調達する奴もきっと
いたでしょうね。)
でも戦場で高名を立てるのはむしろそういう連中に
多いと「塵塚物語」には書いてあります。
23 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 16:38:21
>22
元寇で有名な竹崎李長は戦場で兜がなくなったんで
脛当を頭にかぶって戦ったなんて話もあるしね。
>17-18
絵だけじゃなしに江戸時代の鎧の現物も、いろんな時代の要素がごちゃ混ぜになってて派手。
見栄え良くするためでしょうかね。
25 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 16:52:19
>>24 合戦の無い時代だから、甲冑も権威の象徴みたいな感じで、
見栄えの良い復古調の物が多く作られたんじゃないかな。
27 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:38:53
大河ドラマと言えば、去年義経ちょっと見たが、
みんな乱髪にして兜かぶってた。
あの時代は、まだ烏帽子の上にかぶってたんじゃないの?
だから当時の兜の天辺穴は大きくなってるんでしょ。
28 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:50:47
畠山重忠の赤糸威大鎧にはうっとりする。
29 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:59:32
室町初期の胴丸がいいな〜。
30 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:49:33
31 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:17:15
映画とかドラマでは
鎧を装備した人が一発でやられちゃうけど
実際そんなに防げないのかな……………
(。・ω・)
007で、北朝鮮の飛行機のなかに日本の甲冑を見つけたとき、なんか絶望的な気持ちになった。
33 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:44:37
>>19 それ、かえって貴重じゃないのかと思う。
おさむらいのよろい=上から下までワンセットであるもの
という一般の常識が崩れるじゃん。
博物館に寄贈希望。
>>30 素敵じゃないですか。実用品!という感じ。
刀傷とかは?
34 :
30:2006/01/23(月) 01:44:36
>>31 先日買った本に火縄銃による射撃実験が出てたんですが
口径9ミリ/火薬量3グラム/厚さ1ミリの鉄板の二枚重ね という条件で
30メートルの距離から撃った場合は貫通、
50メートルの距離からでも鉄板2枚をめくり上げたが貫通せず食い込む
という結果が出ており、実戦場に置き換えた場合
2ミリ厚未満の鉄製胴丸を着用した足軽だと、50メートルの距離から狙撃されたら
胴に風穴が開く可能性が高い、もしくはかなりの深手を負うとの事でした。
>>33 あ、いや、この場合「ウチにある」とは申しましても、別に先祖伝来の物では無いです(汗)
…と申しますか、骨董市で購入したかなり新しい物(…だと思う…)ですので…。
なお、着用すると↓な感じになります。
ttp://aploda.com/dl.php?mode=pass&file_id=0000069436
35 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:47:55
日本の鎧は海外で評価高い
36 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 03:50:07
>>30 後ろが開いているのであれば、「腹当」です。
鎌倉時代頃に発明された最も簡易な形式の鎧です。
これに背中を守る部分が付いて「腹巻」になったと考えられています。
脇の草摺に切り欠きが入っていて軽快な造りですね。
戦場だけでなく日常護身用として服の下に着用したこともあるようです。
37 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 04:22:58
最上家の鉄砲隊も同じようなの使用してたな。
うちにも甲冑あるんだが画像の張り付けかたしらん
大鎧マンセー
39 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:49:11
34さん
よくわかりました!
ありがとうございます!(´д`)
刀で切られた場合はどうなるんでしょうね。
ちょっと気になるんで後でネットで調べてみようと思います!
40 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 12:54:46
明珍とかの話もここでいいですか?
41 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 21:12:14
春田も早乙女もドゾ。
42 :
30:2006/01/23(月) 23:34:30
>>36 ご教示、どうもありがとうございます!m(_ _)m
そうか〜、胴丸や腹巻ではなくって腹当だったんですね。
…いや、側面までならまだしも、背面の下部まで板があるもんですから
形状としては、どっちなのか微妙でよく判別できなかったんですが(汗)
43 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 22:30:22
しかし、世間に戦国ファンとか多い割には鎧マニアってあんまりいないな〜。
日本刀好きも多いのに、なんで鎧兜は人気薄なんだろ?
刀なんて別格なのとセットでものを考えるから少なく感じるのさ・・・
マニアまではいかないけど、買うのが夢。
今、作られてるのは10万ぐらいで買えるしね。
頭形兜萌え。
46 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 13:01:02
少なくとも頭形は10万じゃ買えない
47 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 00:26:38
作り物の安いのなら買えるよ。
作り物でいい。
本物は怖くて買えない。
このスレのこの後の予定
原寸大プラスチック製なんてどうよ→でもおき場所に困る→フィギュアで出ないかな→dat落ち
50 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:00:00
ペーパークラフト
51 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 03:04:52
何か家の大鎧の紐が切れてきた…修理時か
某所だと頭形兜と二枚胴で約17万・・・
欲しい・・・
前立のないシンプルさがかっこいい・・・
53 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 00:48:06
越中具足なんてシンプルでいいすね。
54 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 22:09:47
彦根具足の方が好きだな俺は
55 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:23:40
甲冑師になりたいんだけどどうすればなれる?
56 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:39:49
ある博物館で見た甲冑は遠目では鉄に見えるが、
近くによって見ると布製。
年寄りの殿様着用の品だそうな。
57 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 08:16:38
鉄の上から布を張りつけたのでは?
58 :
30:2006/01/30(月) 00:24:23
>>56 もう10年近く前の話ですが、箱根の仙石原にある「武士の里美術館」で
大阪の陣で使用されたという古文書が一緒に付属している、
張り子のように、紙を何重にも貼り重ねた上から漆を塗って堅固に補強した
具足一式を見たことがあります。(兜から脛当てまで揃った完品でした)
…ただ、紙製って言われても、パっと見は鉄製にしか見えませんでしたが…
そういや、伝小西行長と言われてる仏胴の胴丸って、本体は革だそうですね。
59 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 00:31:00
あるだろうな 紙で造った大筒もあるのだから
60 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 00:50:27
61 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 01:52:05
弟子にしてくれるかな?
62 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 02:43:42
兜鉢以外全て革製の甲冑も確かあったはず。
対鉄砲の耐弾性能は落ちるけど、槍や矢が相手ならそれなりに使えたらしい。
むしろ軽い分、機動力が上がったんじゃないかな。
63 :
寒:2006/01/30(月) 08:29:25
「漆で固めた和紙」って、かなり丈夫ですよ。
刀や槍の一突きぐらいならは、軽く守れるでしょうね。
ましてや布+漆だったりしたら・・・
安土桃山の頃の派手な飾り兜って、
・木製(それも中空)
・紙もしくは布の上から漆塗り
とか多いんですよね。
簡単に言えば、「仏像作りの技術」。
ブーム以前からノウハウがあったので転用、ということですね。
なんせ首の上の話ですからねぇ。重いと辛いでしょうし。
合戦の後半には
「あーもうせっかくの俺の飾り、折れちゃった・・・」
「あとでご飯粒で貼っとけよ」
「いやーでも、さっき倒した敵のこの飾り、かっこよくね?」
「おーいいね」
「ここだけもいでって、交換しーようっと」
こんな感じもあったかと。
64 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 09:05:13
と言うより武器・武具は消耗品。使い捨て
65 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 11:11:01
ウリナラ起源ニダ。
小田原城に紙でできた甲冑が展示してたような気がする。
>>61 前に甲冑師の工房を見学した時、
甲冑師が「この業界、若い後継者がいなくて困ってる」と言ってたので
案外簡単に弟子にしてくれるかもよ。
カルチャースクールとか無いのかな
着物の着付けはあるのに
甲冑研究してる会とかあるじゃん
そこ行って紹介してもらえば
70 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:46:03
日本甲冑武具研究会というのがあるよ。
71 :
56:2006/02/02(木) 03:25:43
江戸期の鎧で某大名の着用の品。
鉄革一枚混ぜとか革包みとかはよく聞くけど
全部革や紙製、布製なんてのもあるのか。
ほとんどが江戸時代のものかな?
豊臣秀吉所用
銀伊予札白糸威胴丸具足は革札で胴と草摺をあしらえてる
北条は紙鎧使ってなかったっけ
>73
ああ、伊達政宗にやったヤツね。
76 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 14:44:09
大阪城で見たけどあれかっこ悪いよなw
それより、立て物なしの頭成兜に桶川胴
このシンプルな出で立ちこそが最高
77 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 14:47:35
画像くくくれれくれくれくれよ
78 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:13:28
79 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:03:48
80 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:28:15
>>72 足軽とか身分の低い人用にはあったんじゃない?
和紙を重ねて漆で固めればそれなりの強度は出るはず。
変わり兜なんかも紙で作られてるのが多いし。
82 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 21:59:31
鎧重いの?
>本物の鎧を着た事のある人
83 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 05:20:47
変わり兜は全て鉄で出来たやつとかベースとなるの兜に和紙をかぶせたやつとかも多いよね
鎧は重いですよ!帯を絞めると軽くなるケド
兜は重い!クビが痛くなる!
自作鎧を作る予定です。 兜は実形鉢に日根野シコロ胴は桶川二枚胴
草ずりは五段
小具足・喉輪・櫃も製作する
袖は製作しようかしまいか考え中。 漆塗りにしたいけど予算の問題が有るのでペンキで我慢するつもりです
日常生活でフルフェイスを被り続けて首を鍛えればいいんじゃね?
>>83 袖がないなら陣羽織もあったほうが映えますよ
86 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 22:46:06
>>83 材料は何で作るの?厚紙?アルミ?
面頬作るの難しそうだなー。・・越中頬なら比較的簡単かな?
87 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 21:21:28
鉄板から造るつもりです。袖と頬当は本歌を修理して組み合わせます
88 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 01:50:33
鉄板ですか〜。本格的ですね。
造り始めたらどっかに画像をUPして下さいよ。
89 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 08:52:05
家康に過ぎたるもの・・・唐の頭・・・・・
唐の頭・・・・
ヤクの毛を用いているようだけど
実際どんなものだったのでしょうか???
ドラマなどの幕末で新政府が被っている赤いものでしょうか??
どこかで見れますか??
90 :
& ◆t7.FfNwJLc :2006/02/15(水) 09:05:17
91 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 12:23:37
日本の鎧って、鉄板の厚さどのぐらいあるのかな?
世界的にみたら厚いのかな?
鉄砲相手のため、軽量で動きやすいとは聞いてるけど
92 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 13:03:55
1〜2ミリじゃね?
薄過ぎだな。そのぐらいなら日本刀で真っ二つじゃん。
94 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 01:02:13
小札は、鉄製は1〜1.5ミリ、革製は4〜5ミリで平安時代〜江戸時代までほぼ変わらないそうだ。
当世具足の板札はだいたい2ミリ前後らしい。
火縄銃で実際に当世具足の胴を撃って実験したサイトを見たら、
50メートルから撃って完全に貫通したって書いてあった、と思う。
南蛮胴は普通の具足より重かったそうだから、もっと厚かったのかな?
95 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 01:23:26
93 名前:日本@名無史さん :2006/02/15(水) 19:57:41
薄過ぎだな。そのぐらいなら日本刀で真っ二つじゃん。
だから強弓(張力25キロ)で至近距離なら鏃の先が入る
全部は入らないけど 南蛮胴はしらね
96 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 01:25:37
真田幸村の兜に鹿の角
あれは、戦で標的になるW
97 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 01:32:38
兜に変な飾りが付いてると組討ちになったとき てこの原理を応用して首を逆さ(背中)の方にねじって殺すのもはやっていたらしい
柔術なんかじゃ今も残っているからね。兜を被っている相手を、てこの原理で殺す奴。
まあ、練習とかしないけどさ。鎧着た相手を失神させる技もある。
>93
あまり厚いと重くて動きが鈍くなるから結構薄いらしいよ。
>>99 なら着なきゃいいじゃんwそんな薄くちゃ役に立たないっしょ。
むしろベトナム風の装備にすりゃいいのに
>>100 一枚は1ミリでも威す時に重ねるから2倍の厚さになるんだよ。
それを薄いと思うか厚いと思うかはともかく、
ほんとに役に立たないのなら誰も着なかっただろうな。
重ね厚、チョバムアーマー的発想か。
103 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 00:24:44
104 :
作:2006/02/24(金) 08:47:01
朝鮮刀ならなんでも切れるがな
105 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:22:07
106 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:04:53
加藤清正が俺の鎧は薄いと他の大名に威張っている
勇気があることを示したかったようだがそれなら
鎧なんか着なければいいのに
>>100 スレ違いだけどベトナム風の装備ってどんなん?
流れからしてベトコンだろ
109 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:16:32
あ〜やっぱもたないねぇ、鎧スレ。
110 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 05:47:15
よく戦国時代の史劇で足軽が方形板を連結したような鎧を着ているが
実際あんなの着てたの?
本で紹介されている当時の足軽の鎧は桶側胴ばっかなんだが。
111 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 10:51:54
奈良時代の甲冑がどんな風に平安時代の大鎧に変化したのか、その過程が知りたいけど資料無いのかなあ?
そもそも平安時代っつても400年ぐらいあるから、そのあいだに甲冑に限らず服装とか建築とかすごく変化しているはずなのに
ドラマとか映画では平安時だっつうとみんな、源氏物語絵巻や伴大納言絵巻になってしまうのが、すごく不満。
まあしょうがないのかな?
捨ててしまったが、戦国の武器、鎧って本には詳しくイラスト入りで書いてあったよ。
日本の鎧は大きく分けて古来より2種類あったそうだよ。
大鎧は弓矢に対するために作られ、鉄砲最盛で廃れたそうな。
もうひとつがそして主になったとか。
本、捨てなきゃよかったな。
ハニワが着てる鎧から進化したのかな?
なんか革っぽい気がするけど
たしか皮製の挂甲の出土例もあったかに思うが
発掘されるのはまず鉄製だね、
皮は有機質で残りにくいってのあるけど。
フルアーマーで包んだ埴輪さんは
金属製のをまとったそれなりのか身分か、戦闘のプロを模したんじゃないの?
ある日を境に大鎧胴丸に代わるわけは無いから
丁度
>>111が言う様な過程の時期での混ざった甲冑なんて見てみたいわ。
中には奇抜なセンスの鎧とかもあったりしてなw
>>117 なんか大鎧の原型がみえるようなみえないような。
119 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 00:35:06
>>111 奈良時代の甲冑に関する資料が少ない理由のひとつの内に、こんな話が。
正倉院には、楽器や宝物などに混じって大量の武具が納められていたものの
恵美押勝の乱の際に、孝兼上皇側が納められていた武具を持ち出したからとの事。
何故かというと、なにぶん唐突に戦争になったので両軍とも準備が整っておらず
早急に武備を整える必要があったので、手っ取り早く装備を強化するためだったらしい。
なお、持ち出された武具の中には甲冑が九十九領が含まれたといわれているけど
これらは結局、借り倒されたまま、ついぞ正倉院には戻らず行方知れずに…。
ちなみに、現在の正倉院には甲冑の残欠が1点のみ残っているとの事。
120 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 02:12:46
興味なかったが面白いですね!もっと語ってください!勉強になります。割り込みスミマセン。
121 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 02:32:09
>>90 はなんだ?踏んでも英語以外なにも表示されないが。
122 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 08:00:00
123 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 10:58:29
こんなスレを待っていた!
大袖最強
124 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 17:59:13
>>111 笹間先生の本によると
大鎧は「うちかけ式挂甲」から進化したと考えられている。
左脇が一続きになり、肩鎧から鳩尾板やせん壇の板、大袖等に変化していったと
推測されるらしいが、その過渡期の遺物も記録もないそうだ。
地方の武士の実戦経験から改良が重ねられ、
平安中期頃に大鎧の形式が完成されたと推測されている。
125 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:13:48
>>119 それ面白い話ですねー。
他の神社でも奉納された鎧のいくらかがそうやって失われたかも知れないですな。
だから戦場で役に立たないような、ご神体だけが現存するのかな?
127 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 21:12:35
5月人形の鎧はよく見るといい加減なのが多いね。
まぁ江戸時代の装飾品を元にしたんだろうけど。
128 :
まる:2006/03/11(土) 21:35:22
蝦夷の武具の影響は ないんですかね?
129 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:01:11
130 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:18:48
兜の鍬型もアイヌの呪具が原型と言われてますね。
131 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:26:51
>129
ほんとだ、前引き合わせなんですねー。珍しい。
古墳時代の挂甲や江戸時代の具足に例があるようですが、
江戸時代のものは装甲した陣羽織から発展したものらしいです。
132 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 17:32:56
以前どこかで、龍を模った前立ては存在しなかったという話を聞いたのだが本当だろうか
以前どこかで理由は聞かなかったの?
134 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:45:22
その時は「へ〜」としか思わんかったからね
あとで源義家の前立てが龍なのを思い出した
135 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:56:17
>>132 それはガセビア。
龍の立物は平安時代から使われている。
龍の姿全体を立体で象る事も南北朝時代から行われている。
江戸時代の兜にはよく見られる。
136 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 03:48:44
「影武者」で織田信長が着用していた「鉄錆地南蛮胴具足」っていいですね
137 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 00:24:50
立派な兜に鎧でも足はわらじ
草鞋を馬鹿にするな!日露戦争でも草鞋のほうが動きやすい!と、使用する
人間が多かったんだぞ!!!
・・・・・よく勝てたよな、実際
139 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 14:45:56
現代人はもっと足の指を使って歩くべき
141 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 21:46:25
昨日「箱根武士の里美術館」に行ってきたけど
変り種の具足がいくつかあって(;´Д`)ハァハァした。
個人的に一番気になったのは、形式としては腹巻みたいな後ろ綴じ(だったはず…)
胴の全てと草摺の上部が、鎖帷子みたいに布地に編み鎖を縫い付けた状態になってて
丁度、鉄板の付いて無い畳具足みたいな感じという胴。(草摺の下部は小札)
あと、畳具足っていうと足軽みたいな下級武士が着用するようなイメージがあるけど
展示品の中には、恐らく大身の武士が着用したんだろうな…というような立派な作行のモノもあった。
展示数の割には入館料が高めな気もしなくもないけど、気になる人は行って見るとイイかも。
フル装備で甲冑の着付けもしてくれるしw(有料だけど)
甲冑の着付け?!うは!是非とも行ってみたい!!
しかし箱根か・・・・遠いな
143 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 22:46:34
>141
そりゃおもしろそうな所ですね。
是非見に行きたい。
144 :
141:2006/03/23(木) 00:33:01
個人か。
足も無いし日帰りじゃちときついのう
人が集まったら甲冑オフとかいいかもなw
それなんてコスプレオフ
148 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 16:45:33
アヴァロンオフ
149 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 17:55:00
備中頭形カッコワルイ
鎧兜は詳しく知らないのですが、名物兜として
加藤清正の「長烏帽子」
蒲生氏郷の「鯰尾」
黒田長政の「大水牛」
浅野若狭守の「小水牛」
柴田勝豊の「鉄蓋が嶺」
武田信玄の「諏訪法性」
竹中重治の「一の谷」
明智秀満の「二の谷」
藤堂良勝の「帽子」
徳川秀忠の「角頭巾」
羽柴秀吉の「八日の月」
原長頼の「十王頭」
日根野織部の「唐冠」
福島正則の「四段鹿」
伏木久内の「かわり蛤」
細川忠興の「山鳥」
本多忠勝の「忠信の兜」
矢田助吉の「鯉の兜」
が有名ですが、柴田勝豊の「鉄蓋が嶺」あたりは現存してるのでしょうか?
形が想像できないのですが。
151 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 20:32:49
千葉市郷土博物館で鎧を見て来た。
多くは江戸時代のものだったが、
室町期の腹巻とか安土桃山時代の革包丸胴とか面白いのもあってよかった。
国宝赤糸縅袖付大鎧(南北朝期?)萌。
153 :
世界@名無史さん:2006/04/06(木) 19:31:31
兜では烏帽子型、唐冠型、大黒頭巾型、南蛮兜が好き。
胴は南蛮胴が好き。
154 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 21:25:41
端午の節句
>>152 大鎧といえば、必ず兜と大袖が付属することになっている。
なので「大袖付」は不要
それらが欠けたものを逆に「〜大鎧、〜欠」というべきだろう。
尤も神社側等も、その辺りの言い回しにはかなりおおらかなのも事実なんだが
156 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 17:12:40
大鯰尾兜は木の枝に当たりそう
157 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 09:06:27
伊達政宗の前立は狭い道に突っ掛かりそう。
日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。
表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。
幾つか例を挙げると
豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。
159 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 09:53:17
誰も見たこと無いのに自虐的なことを書き込むのは辞めましょう
戦国板にも鎧スレできてた。
当然、当世具足だけだったが。
162 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:13:16
>>158 女は一人残らずレイプした!も追加しとけな!
祖国に帰れば?
163 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:17:47
春日大社所蔵の
伝楠木正成奉納
黒革威矢筈札胴丸カッコイイ!
,.、 ,.、
ヽ'::':/
}:::{
l:::|
i:yァ|:::l
l:(.ノ:::l
,.r:::'':::!:::ヽ゚;~ __, かぶと虫が華麗に保守
.〈;;;:::::::::::::::゙:i,,__,〃 `
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/:::::/:::::::::::::/ ヾ!
,:'!::::/:::::::::::::〈:、 l:!
. 〃ゝ〈_:::;;;:::ノ .l:l ヽ、
_〃 l:!
´ ヽ、
カブトムシ形兜ってないのかね。
166 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 02:35:27
それよりゴキブリの前立とかありそうでない
ムカデはあるけどねー。
ゴキブリはねー。
曼珠沙華の前立なんてあったら面白いかなあ、なんて。
不吉なものを敢えて兜飾りに用いることで、我が身に降り掛かる不吉を弾く。
…ゴキよりはいい…と思う…
169 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 18:37:08
ググッても越中頭形と日根野頭形の違いがいまいちよく解かりません。
御教示お願いします。
>>169 越中頭形は頭頂部を覆う板が眉庇の上に重なっていますが、
日根野頭形は逆に眉庇が頭上の板の上に重なっています。
ビミョーな違いですが。
あと、越中頭形の眉庇の下端は上下に曲がらず、鉢の下部と平行にまっすぐで、
日根野頭形のシコロは肩の上にあたる部分が曲線になっている日根野錣が多いです。
明珍の甲冑はなんとなく異質な感じがするな。
>>170 やっぱり微妙な違いだけなんですね。
細川越中が好んで使ったというから何か特長があるのかと思ってました。
173 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 16:34:16
174 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 17:06:56
細川忠興は兜デザインするのが得意だったそうだね。
わざと折れる角付けたりして戦働きを演出するとか・・・
司馬遼太郎の関が原に出てた
越中具足は細川忠興が作ったという話もあるが、
実際にはそれ以前からあったそうだ。
176 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:16:56
本物の鎧欲しいな。
177 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:29:06
作れ
現代の造り物じゃなくて昔の本物って事だろ。
179 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 15:21:30
一の谷なんて前から槍で突かれたら的がでかいし、
首が後ろのけ反りそう、実戦向きでないよね?
組み合った時に頭突きで痛いのや、面打たれて相手の刀が破損しそうな江戸時代のデボ付きが良いかな?
テレ東お正月時代劇で斎藤道三(津川雅彦)の黒ずくめの南蛮兜+マントが格好良かった。
一の谷は強風が吹くだけで
重さが有れば向かい風でも安定するはず
・・たぶん
一の谷形、多くの場合和紙や革だよあれ。
だから見た目程重くないらしい。
皆で被ればいいんじゃね
184 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:22:43
最近十二間筋兜が好きになってきた
185 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 07:11:44
初歩的な質問ですまん。
先祖伝来の鎧とかってよくきくけど、
先祖と子孫でも体格が違う場合、ちゃんと着れるものなの?
キツいとかぶかぶかにならないものかね?
森忠政が兄長可の遺品の甲冑について、サイズが小さく腹部が出ていたと語っている。
おそらく長可用の小柄で出っ腹な体型に合わせて作られたのだろう。
いい鎧はオーダーメードだけど、
そうじゃない鎧は、体の方を合わせろ式だろうね。
188 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 03:07:48
先祖伝来の鎧はただの家宝で本人は本人専用鎧がある。
189 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 03:13:05
EXILE 「アジア」PVの鎧カッコイイの〜
190 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 12:35:41
鎧着ても刀や弓は防げても鉄砲で軽くやられるからなー。
>>190 露出部分を撃たれると確かに軽くやられるけど、胴とかだったらそこそこ耐えられる。
試し撃ちの痕が残ってる甲冑は結構多いし
当時のヨーロッパの胴鎧でも銃で撃って品質保証してたね。
伊勢貞丈の「五武器談」って安価で簡単に入手できる刊本はないのかな。
194 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:10:55
>>191 様具足(ためしぐそく)ね。
あれは持ち主や作り手が鎧の強度を視覚的にアピールする為にやったもので、
あえて火薬の量を減らして、威力を弱めて撃った可能性がある。
だから実戦でどうだったかは分からないと言われている。
実際に実験した記録では
桶側胴を50メートルくらいから撃ったら
簡単に貫通したというのを読んだ事がある。
種子島の有効射程は50メートル以内だから貫通しても可笑しくない
>>195 なんか戦前の「少年倶楽部」とかに載ってそうな絵だね。
198 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 02:02:42
昔のSM本の縛り画はこういうタッチのがおおかったよなw
>198
知らんw
SMで使われる亀甲縛りは日本が洗練し作り上げた伝統ある縛りなんだそうな。
昔の役人やおかっ引は女房相手に練習したんだと読んだ事がある。
>200
知らねえよ〜w
昔うちにも鎧あったな。
売っちゃったけど。
>>170 私もイマイチ違いが判りませんでした。
・日根野→(小さい)吹返アリ
・越中→吹返ナシ
だと思っていました。(笑)
尾張具足or彦根の赤備えで...
越中の様式で板を張り合わせた兜でも
日根野としているものがあった気がする...
素人志向でスイマセン。
204 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 02:33:24
越中は眉さしに広がりがある。日根野にくらべ鉢の天辺に丸みがある
越中はなんかツルンとした印象があるな
今の大河でいうなら、六平太の兜が備中で茂助のが日根野かな?
207 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:50:20
六平太のは日根野
>>204-207 参考になりました。
頭形兜を展示している所を探して
教えてもらったポイントを比較してみます。
今まで(正面からの)写真でしか見たことないんで…
昨日、国宝・菊一文字赤糸縅大鎧を見てきたが、良いな・・・
特注で写し作ったら幾らするんだろ?
210 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:41:55
大鎧だから高いと思う。 300万くらいだな。 図説・戦国甲冑集Uに載ってる黒漆塗切付札萌黄糸威二枚胴具足写しを作ってもらおうと検討中
211 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 18:25:46
212 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 03:11:56
サンクス!明日あたりに聞いてみる!!どうせ頼むなら丸竹さんにしようと思ってたし!
213 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 03:29:26
214 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 20:57:55
>>213 メチャクチャ高いな、笑うしか無い価格だよw
215 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:18:38
丸竹さんトコの百数十万の大鎧でがまんすれば?
>213
その値段なら本物が買えちゃうかもねぇw
最近出版された『別冊歴史読本[39]戦国武将列伝』は
甲冑 旗指物 陣羽織の特集でオモシロカッタ
謙信の三宝荒神形兜は正面の顔だけでなく、側面にある他の2つの顔も
写真で詳しく紹介しているし、今までイラストでしか見たことが無かった
靖国神社所蔵の黒漆塗執金剛杵形兜鉢の写真もあった。
金剛杵を前立てに模した兜は、よく見掛けるが、
黒漆塗執金剛杵形兜鉢のように、リアルに金剛杵を握った拳を
そのまま兜と一体化させた表現には驚かされた。
>>217 それ大昔にテレビで見たことあるけど誰の兜なの?
>>218 うぅ〜む。本には載ってなかったわぁ。誰だろ?
知りたいなぁ
>>217 面白そう。
情報ありがとう。
>リアルに金剛杵を握った拳を そのまま兜と一体化させた表現
「握出し(握拳)形」かな?
頭の上ににょきっと手が出てるみたいなやつでしょ?
何種類かあるみたいで剣や仏具を握ってたりするね。
>>220 >「握出し(握拳)形」かな?
>頭の上ににょきっと手が出てるみたいなやつでしょ?
そうそう。
兜や刀で金剛杵の装飾表現をよく見掛けるけど、好まれた理由を知りたいですね。
「別冊歴史読本 戦国武将列伝」。
鎧の由来とかをもっと詳しく描いて欲しかったなー。
謙信の鎧の説明文が左右逆になってるねw
西欧の甲冑は鉄で出来ていてカッコイイのに、日本の甲冑は紙で出来ている。
やはり複数の国々による共作と、日本単独の作とでは、到達点が段違いですね。
日本の鎧は紙も使われてますが、革、鉄(ハガネ)の方が断然多いよ。
起伏の激しい日本の地形だからこそ、越中具足のような軽量な甲冑が産まれたのでは?
重い西洋甲冑では移動辛いだろうし。
南蛮具足は、また別物だけど、和洋折衷の良いトコ組み合わせで面白いと思うけど。
226 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 19:02:10
和紙の丈夫さを知らない馬鹿は放置するか
227 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 20:36:15
和紙は軽くて強いが、槍や矢に弱いと何処かで読んだが、どうよ?
それに鉄砲には不向きかと思われ
紙製の甲冑は鉄製のものより重いですよ。
和紙は厚く重ねて漆で固めてたので、強度は皮並。
そして軽い。そのうえ漆効果により撥水性は抜群。
湿気の多い日本ならではの発想だと思う。
甲冑の強度云々より、和紙という材料で鎧を作ってしまうのがすごい。
>>218 史実じゃなくってコミック作品になってしまうけど…
「花の慶次」の中では、慶次が上杉景勝の客分になってからの話で
最上との合戦の中で着用してた描写があったはず…>金剛杵握り兜
…ただ、コミックス持ってない上にうろ覚えなんで、
作品中での着用時期とか違ってたらスマソです
231 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:10:09
>>230 原哲夫のマンガに出てくる
鎧や城、武器 etc.. は資料的価値ほとんど無いからねぇ・・・。
↓AAよろしく
極端なはなし和紙は御貸具足の陣笠と変わり兜のみに使われたと考えた方がよい。
西洋甲冑がかっこいいと言う奴がいるが実際に着用しているところを見ると日本の甲冑の方がかっこいいし美しい。下級武士の甲冑でさえ作りが良く美しい。
それに機動力に関しても日本の甲冑のほうが優れている。
>>233 変わり兜の中で、鉄鉢に和紙で張子状にした物を加えて漆で塗り固める形式は知っていますが、
和紙+(漆)のみの形式もあるのでしょうか?
もしかして加藤清正の烏帽子形兜あたりが、それに該当しますか?
あの蛇目の烏帽子形兜は防具としての機能は無さそうですね。
233だが
長烏帽子形兜は張懸兜の一種で頭形・桃形・突貝形などの上から鉄・革・和紙などで張ったもの。
つまり俺がいいたかったのは変わり兜の一部を紙製であること。
兜・胴・三具すべて紙製は聞いたことがないが、すべて革製ならある。錬具足と呼ばれている物で軽量でそれなりの強度もあったが鉄砲には弱かったそうだ。
和紙製も錬革も強度にかんしては鉄製に劣る。
>>227 札束のおかげで銃に撃たれても平気だった例は世界中に結構ある。
>>235 長烏帽子もそうだったんですね。なるほど納得です。
ありがとうございます。
>>235 確かに全部紙で出来た甲冑って聞かないな。
紙製の胴は小田原城だったかな?北条関係で見た記憶があるけど。
上から下まで紙で出来た甲冑は、松平定信が作らせたものがあるはずだが、ネットで検索しても見つからなかった。
どこかの地方に和紙で作り油を塗って乾燥させた鎧を使ってたと読んだ事がある。
デマと言われたら身も蓋もないが
241 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 20:51:38
>>236 札束と和紙鎧を一緒にするな。
アホみたいなレスだよ。
242 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 21:39:19
いずれにせよ、
和紙は変わり兜などごく一部に使われた素材で
紙製の胴なども極めて特殊な例だよね。
244 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:29:50
日本の甲冑、つまり日本文化の発露としての美意識、形態を完成させたのが
大鎧であろうと思います。一般的には国風文化が花開いた、平安時代中期頃
がその始まりと言われていますが、最初期の原形といった大鎧の形態などは
大変興味があります。残念ながら、それらの遺物は皆無であり現在では推定
の域を出る説がありません。大鎧に限らず、反りのある太刀の発生もほぼ
同時期と推定されますが、こちらもそれを示す遺物/伝生品がありません。
この辺りの、空白の十世紀の解明が待たれるところです。
245 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 06:23:34
はぁ?太刀の原型はそれいぜんに完成してるし。素人に用はない。消えろ
>>243 その博物館、甲冑を座らせてないからいまいち迫力のない写真になってるなw
西洋の甲冑だったら立たせて展示させたほうが格好いいけど、
日本の甲冑はやはり鎧櫃の上に座らせるほうがいい
247 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 20:49:34
>>245 ならいつだ?具体的に提示しろよ。荒らすだけのガキに用はない。邪魔だ
248 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 20:53:02
>>245 素人には用はない、ってこいつは何のプロだ?w
ここは鎧兜スレです。
刀剣類については刃物版でどうぞ。
星兜を模造刀で叩いたら眉庇が吹き飛んだ。
251 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 23:53:15
日本の大鎧って防御力高いって本当?
西洋の騎士が装備してる鎧とかに比べると弱弱しい気がするんだけど・・・
>>251 じゃあ弱弱しいと思っておけばいいんじゃね?
それよりも、なんで西洋甲冑と大鎧を比べるんだ?
話をすり替えに掛ってるから、やっぱり弱いんだな。
しょせん紙+革。
鉄を曲げる技術も無く小札を連ねるだけの鎧ではなあ。
日本の大鎧は騎射戦に対応したもので、
弓を射やすく、矢を防ぐということを考慮して作られている。
西洋の甲冑は接近斬撃戦を考慮して発達したもので、
性質が違うが、単純に考えれば西洋の甲冑の方が堅固だろうな。
重くて機動性がなさそうだけど。
255 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:36:01
紙+革と考えるのは可笑しい。
それに鉄を曲げる技術も優れていた。というか鉄を曲げなければ兜鉢も胴も籠手の篠もつくれないし!
256 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:39:44
>>251はコピペ、世界史板で欧州マンセーが受け入れられなくて亡命してきた厨
>>254 >西洋の甲冑は接近斬撃戦を考慮して発達したもので、
それは誤り。西洋の甲冑が重装化したのは弩や鉄砲に対抗するため。
14世紀登場初期のプレートメイルは胴部分が皮製の物もある。
ファンタジーゲームのようなプレートメイルは15世紀になってから。
大鎧と西洋甲冑を比べるのが可笑しい。
比べるならせめて当世具足と西洋甲冑だが戦い方と文化の違いがあることを考えよう。
大鎧vs当世具足は?
日本刀と大鎧は軽くて高性能だな。
そのくせ近接戦闘を好まず騎射戦ばっかやってたからなあ。
対して日本より性能の低い刀剣類、鎧兜しかないのに近接戦闘をばっかやってた地域が
たくさんあるのだから分からんものだな。
って向こうは馬と弓たいしたこと無いのに騎射戦ばかりって思ってるかw
>>260 平安〜鎌倉時代と戦国時代じゃ戦闘方法が違うからねぇ。
一概には比べられないだろうね。
大鎧=重量25Kg
プレートメイル=重量25Kg
264 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 23:36:11
>>262 確かに比較するのは難しいでしょう。言い換えれば、比較する事でその背景にある
戦闘方法などの変遷が見えて来ますね。平安後期から鎌倉前期までの大鎧は、その
形態から騎射戦闘を前提にしています。あの格好で徒歩戦闘は合理的ではありません。
勿論、馬を倒され止む無く徒歩戦闘に到るケースもあったと思われます。胴丸や腹巻
などの軽武装の歩卒が徒歩戦闘の中心であったと推定されます。大鎧が衰微して行く
過程では、騎射戦闘から次第に集団による乱戦へと移行していった事が窺われます。
それにより、従来の長柄武器は矛、薙刀くらいしか無かったのが大太刀、長巻、槍
などの多様な長柄武器の発生を促し、同時に戦闘形態も変化して行った事が推定
出来る訳です。
266 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 14:46:20
突貝形兜
アキバの外国人向けお土産屋に飾ってある鎧、
えらくいい加減な鎧だったw
268 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 16:48:34
鎌倉〜江戸時代末期まで甲冑制作には、どのような立場の人々が携っていたのでしょうか?
時代によっては、皮革などの素材を多用している事や
各国々の軍事力の流出防止など考えると
やはり、特殊な立場の人々だったのでしょうか?
269 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 20:18:13
日本の侍を見て思うこと。
「なんでこいつら、盾を持っていないのだ?」
鎌倉時代後期以降なら、モンゴル兵が持っていたような盾の存在を知っていたはずなのに。
とくに弓矢を防ぐには、西洋のような大盾の方がよくないか??
やはり日本では古来より、戦闘においては人命軽視なのだろうか?
270 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 20:26:39
前田 尖んがり兜
272 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 20:41:54
>>271 サンクス、今から読んでみるお。
「やはり」っていうのは、大東亜戦争の頃も人命軽視だから。
零戦って防御力が無くてよく燃えるって有名な話しだし、死ぬまで戦う日本兵とか、特攻隊とか、
陸軍も、敵陣に突撃ばっかりとか、いろいろ。
欧米に比べて日本兵は死にすぎだ。
ほざく前に数ぐらいだせよ
>>272 あなたの発言は近代と古代と戦争末期と思い込みと夢が混在しています。
275 :
ある農:2006/06/24(土) 23:34:30
はは
276 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:17:19
零戦は当時の日本の技術力考えればあれしかないことはすぐにわかるんだけどな。特攻隊だって追い詰められてからのことだし。とにかくアメリカに比べて物量、装備とも数段劣っているわけで刹那適な戦い方になるのはある程度仕方ないことなんだけどな。
277 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 11:17:42
>>272 大鎧の防御力が高かったので盾はいらなかった。
隙間を狙わない限り大鎧は射抜けなかった。
ヨーロッパでも十分な防御力を有する鎧が製造可能になると歩盾を持たなくなった。
そもそも武士の考えは帝国鼻糞軍人のアホな考えと違う。一緒にすんな。
>>272 近代の軍隊の指揮官は自分で兵を雇ってる訳じゃないから、兵が死んでも困らない。
武士は自分の領内から兵を雇ったりしてる訳だから、
兵が死ねば経済的に困るし、自勢力の衰亡に繋がる。
特に戦国時代の武将にとっては合戦は一種の経済活動だったから
なるべく兵力の消耗を避けた。
280 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 14:26:21
源太の産着。
281 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 10:44:54
日本軍が人命軽視の代名詞のようにいうが、普仏戦争なんか司馬さんに「無能な乃木の突撃」呼ばわりされた日露戦争の数倍の死者が出ている。
こうした人命を大量消費できる戦争は近代の国民国家から。
また自国民への粛正で何千万の死者を出した共産主義者が如何に異常かがよく分かる。桁が違う
いわゆる白兵突撃ゆううんはヨーロッパから輸入した戦術や。
283 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:26:29
日本の近代の軍隊は多くドイツから学んだから、白兵突撃が輸入ものの戦術というのも
間違いじゃないけど、よほどトロ臭い国じゃない限り決戦には突撃するでしょ。
284 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:09:03
>>272 中国なんかはもっと凄い。まさに人がゴミのようだ!状態。使い捨てが当たり前。
日本は日露戦争ではそうでもない。人命尊重で新兵器作ったりしてたし〜。
輸送要員も食料はあたり前さ。
203高地。
色々威胴丸
288 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 00:58:20
いいぞ
289 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 00:39:32
なにが
290 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 21:27:59
保守ageれす
291 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 01:15:14
名古屋城天守内に展示してある
弾痕が7つある井伊直政の鎧は様具足じゃないの?
解説文読むと実戦で付いたかのような感じだけど。
293 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 19:40:18
実戦で使ったから弾痕が残ってるんじゃないの
飾り具足にわざわざ弾痕つけるのも変だし、強度試しに撃ったというのはもっと変だ
294 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 23:07:55
>>293 江戸時代初期に、鎧の強度を誇示する為に
火薬の量を減らした鉄砲で撃って弾痕を付けるのが流行したんだよ。
それを「様具足(ためしぐそく)」というんだよ。
このスレに甲冑もってる人いる?
仕様もよかったらいれてくれ
297 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 00:04:24
>296
鎧持ってる人どころか、このスレに人がいない・・・。
298 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:13:34
大山祇神社で鎧見てきた。
すごかった。
が、館内暗すぎ。
299 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 14:10:40
hosyu
300 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 16:15:29
>>272 確かに零戦はそうだが敵の攻撃は機動力でどうにかするということだったし
将来20mm以上の武装が航空機に施されるようになるから、それらを防ぐ防弾は
無理とされ機動力でなんとか・・・という考えが一部あったそうだ。
結局はそうだなw
まぁ確かにそうだが強い兵士(軍隊)の条件は
戦局等が苦しい中どれだけ勇敢に、そしてどれだけ敵に血を強要したか
だと俺は思う。たしかに歴史にのこったよ日本軍は・・・
301 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:15:29
保守
302 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 16:27:41
ほしゅぴたる
零戦の防御軽視は、発動機の馬力不足という点と、現場の意見の影響だな。
大空のサムライも防弾性能が上がった52型などは航続距離も運動性も落ちて、
むしろ21型の方が生存率が高かったと話している。
304 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:21:48
306 :
日本@名無史さん:2006/10/21(土) 00:06:00
>304
短甲か。
この時代のは大陸の影響が強過ぎてあんまり好きじゃないなー。
307 :
:日本@名無史さん :2006/10/21(土) 19:37:13
なんと言ってもやっぱ兜の装飾のデザインセンスが独特で芸術的だね。
308 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 13:21:35
309 :
日本@名無史さん :2006/10/30(月) 23:02:27
もし、自分の兜があったらどんなのがいい?
310 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 02:51:29
実践用兜なら
石ころ帽子がいい
311 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 02:55:14
前田の殿様がかぶっ兜って頭2m近い高さがあった。
真田の兜は鹿の角
312 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 09:30:31
>>311 酒井忠次の兜も鹿角だ。
本多平八郎は大鹿角だが。
NHK大河「功名が辻」の関ヶ原合戦場面で、
本多忠勝が金箔押じゃなく漆黒の栄螺形兜をつけていた。見間違えてたらゴメン。
315 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:48:04
久蔵に団右衛門のサザエ兜・・・
316 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:44:11
318 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:56:26
相撲虐殺のシーンより黒漆が光る頭形兜の格好良さに目が行ってしまった
319 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:49:46
>>317 三浦氏の「西洋甲冑武器事典」は勉強になるぉ。
故笹間大先生の「日本の甲冑武具事典」と対を張る好著かと。
320 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 01:35:05
321 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:36:38
鉄板を見た感じでは、1.6o程度の厚みでも充分防御効果がありそうだ
322 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:08:29
ぬm
323 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:24:38
甲冑持ってる。
当世具足の部類にはいるもの。
紺糸縅で胴の中央は伊予さね。
何者かが使用した痕跡有り。(血のり刀傷)。
ただ、当世具足といわれて今日に残ってるものは、80%くらい
江戸時代制作の美術的作品らしい。
使ったあとがある(血のりや刀傷がある)のは、
戊辰か西南の役で使用した可能性があるらしい。
戦国時代は胴丸か腹巻が主流だったらしい。
ほとんど残ってないらしい。
324 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:55:47
質問なんですけど日本の鎧兜って実戦では役に立ちませんよね?
基準による
326 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 00:50:27
日本の鎧兜は隙だらけのような気がするが
>>324 >>326 平安〜鎌倉の大鎧をイメージしてるんだろ。
あれは馬上で弓のタイマンやる為に使ったやつ。
大将がノコノコ前線の地べた歩く訳無いだろが。
328 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:01:29
>>327 そうなんだけどね
平将門や源義経などは弓の対決じゃなく
普通に戦をしてたんじゃない?
>>324 室町の足軽勃興以降は、冗談抜きで鎧兜が紙や竹で出来ているから、防御力は当てに出来ない。
現在の兵士が頚椎への負荷と視野狭窄を嫌って軽いヘルメットや帽子しか用いないように、軽さ重視なのだ。
板張られても困ります・・・
風林火山は合戦シーンは何時頃だろうかね
ヤフーオークションで個人(?)臭いのに
変わり兜とか二枚胴が鬼のように出されてるな。
本物・・?1000円て安すぎ
偽者かな
334 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 08:18:40
そろそろ挙げますか
336 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 09:27:08
ダンボールで作れるらしいから
自分で作った奴じゃないの?
,、 _
/ l ヽヽ
,′| ヘ ヽ
l l l ヘ
| l l. l
| ヘ l |
ヘ ヽ / j
ヽ \ , -┬┬、/. /
\ 7 ヽ ヽ_∨ /|
ヽ l . 二 --`ゝ .//
/ゝ' _.. '-'´ ・ ・ ヽヽ ..//
j−'´ | = _人 ~ l 〉.. //
/ ̄ ̄l ノ´ //
/ ̄ ̄~| _.. ィ‐つ/
ゝ──'>ー<二○'´i
`ー┐ l
_」 つ
ゝ───…  ̄
/
⌒ヽ/
こいつが流行れば
このスレにも光が・・・!!
バイキング?
339 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 14:46:51
「ひこにゃん」といって彦根のマスコットキャラらしい
直孝を落雷から守ったと云われるまねきねこに天秤脇立て兜を被せたキャラらしい
>>324-326 実は大鎧も隙間は現代人がイメージするより少ない。
ただ大鎧の隙間を埋める小道具類は板や布などで作られている消耗品だし、
当時としても家伝として保存する価値もないので、現存しない。
結果、現代人は大鎧は隙間だらけと思ってしまっているらしい。
これは大鎧に限らず、戦国期の甲冑具足にも通じることですが。
あとは機動力との兼ね合いですね。
重くして鎧を厚くしたほうがいいのか、鎧を軽くして機動力を上げたほうがよいのか?
どちらが戦場で防御性能を発揮するのか?と。
かの本田忠勝の鎧は薄く軽かったそうで・・。
学研が懲りずにムック
ありがたいねえ
歴史群像シリーズ【決定版 大名家の甲冑】
ひこにゃん人気も彦根城のイベントとは別腹というニュース然り
このスレもどこ吹く風ですね・・
でも彦根の奴を色々漁ると手作り甲冑姿の写真が色々見られて嬉しい限り
344 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 17:17:00
ほほー
345 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:25:36
ローマ帝国は鉄の鎧を着けた重装歩兵が主力なのに対し、
フン族は毛皮を纏っただけの軽快な弓騎兵が主力であった。
機動力に富んだフン族がローマを圧倒したのは世界史の授業で習った通り。
日本の鎧は弓矢の攻撃を防ぐために発達したわけだし、
西洋のものと比べて劣っているわけではないと思う。
それに、大鎧と同時代の西洋甲冑と言えばチェインメイルしかない。
せいぜい14世紀後半になって部分的にプレートで補強するようになったぐらいだ。
チェインメイルは大鎧とは逆に斬撃には強いが弓矢、ボウガンには弱かったらしい。
ネタない
ホス
347 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 15:48:54
ほしゅ」
348 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 15:30:53
兼続「愛」のかぶと展示中止
長岡市与板歴史民俗資料館が、地元ゆかりの戦国武将・直江兼続の「与板版」の甲冑(かっちゅう)の公開を取りやめていたことが、24日までに分かった。
旧与板町が独自に発注し、1987年の開館以来展示してきたが、小説「天地人」のNHK大河ドラマ化決定で兼続が注目される中、かぶとに掲げられた前立ての「愛」の字体などが本物と全く違い、「誤解されないように」と自主的に展示から外した。
同市与板地域は直江家の居城があった所。
旧与板町では、「与板版」として製作を依頼したかぶとを含む兼続の甲冑を同資料館に展示してきた。
しかし、山形県米沢市の上杉神社が所蔵する本物に比べると、与板のかぶとは「愛」の字体が異なり、本物にはない大きな角のような鍬形(くわがた)も付いていた。
ドラマ化決定後、同資料館は来館者が増加。
同市役所与板支所内部の会議で「市の展示物として適切ではないのでは」(同市教委与板分室)などの声が上がり、15日から展示を取りやめた。
今後も公開はせず、同市では新たに本物のレプリカを作り、展示することを検討している。
新潟日報2007年5月25日
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=228 http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/dataimg/228.jpg 展示を取りやめた「与板版」愛の前立てかぶと=長岡市の与板歴史民俗資料館と、山形県米沢市の上杉神社が所蔵する愛の前立てかぶと(「直江兼続公をNHK大河ドラマに推進する会」作製の冊子から)
349 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:02:41
おお!まだ残っていたのかこのスレ。
相変わらず人少杉だが。
mixiの鎧コミュも過疎だしなぁ。
350 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 01:31:57
戦国板に鎧スレがまた立ってた。
また消えるのだろう。
>>238>>239 中国には「紙甲」があったけど。
"Oriental Armour"って本によると、10〜15枚の紙を縫い合わせたものが軍用に最適とされ
Hsu Shang将軍(詳細不明)が作らせたものは強弓の矢でも貫けなかったそう。
また南方で対倭寇戦に動員された兵士も装備していたらしい。
352 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 02:35:00
>>329 勘違いしても仕方ないんだが和紙でできた鎧は軽さ重視ではないよ
純然たる防御力UPの為の工夫の一つ
鉄のこざねを威したものとたいして重さは変わらない
常に「鉄も良いけど何か他にいい材料ないか?」って工夫から色々試されたものの一つと考えて欲しい
紙と言うと弱く感じるが「繊維の」鎧であり刺突、斬撃にはかなり強力
でも火に弱かったんではなかろうか。
紙っつーと東南アジアの油を含ませて硬度を高めた鎧なんかが思いつくな。
354 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:06:19
漆塗れば、多少の火矢は防げると思う。
燃え始めたら今度は逆に、脱いで逃走しやすいかも。
355 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:49:41
推測だけど、紙製だと衝撃を吸収する多少の弾性はあっても硬度がないから刺突には弱いんじゃないか?
356 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:50:42
>>352 >鉄のこざねを威したものとたいして重さは変わらない
本当?出典は?
>純然たる防御力UPの為の工夫の一つ
推測だけど、紙製にある程度の強度があったとしても、
鉄より強いとはどうしても考えにくい。
そんなに強度があるならもっと普及してよさそうなもんだが、
和紙製の小札は極めて稀。
鉄革一枚混ぜも重量軽減のため行われたものだし、
強度を犠牲にして重量軽減を主目的としたものではなかろうか。
当時の和紙の詳細はわからないので一万円札を基準とし
一万円札の防弾性は以下のURLの「弾丸を防いだ分厚い札束」のくだりを参照した
ttp://gorilla.web.infoseek.co.jp/page604.html 1万円札(和紙)の重さは1.02(g)、大きさは76*160*0.09(mm) 、体積1.0944(cm3)、密度0.93(g/cm3)
鉄の密度7.86(g/cm3)
上記の数値からすると約8.4倍以下の体積、つまり厚さなら鋼より軽い
当世具足の甲冑の厚さを1mmとすると8.4mm以下までなら軽量化がのぞめる
42枚の和紙を重ねると厚さは3.78mm
ワニ革のスペックがわからんので、なんともわからんけど
和紙と接着剤と補強の皮革等の工夫で
防弾性UP&軽量化の可能性は十分あるんじゃまいか?
>>357 オレ算数苦手なんで良く分からんのだが、
つまり、同じ大きさなら
厚さ1ミリの鉄と厚さ8.4ミリの紙がだいたい同じ重さ
ということなのかな?
360 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:52:01
>一万円札の防弾性は以下のURLの「弾丸を防いだ分厚い札束」のくだりを参照した
これじゃ参考にならないなぁ〜(^^;)
一番上のアンパンの話、ちょっと違うし・・・。
>>359 実際には接着剤の重さとかもあるかもしれないので8.4mmジャスト
とは言えないと思いますが、おおむねそれくらいではないかという推測です。
>>360 おっしゃるとおりで参考にはならないですよねw
和紙の防弾性についてまともな資料がみあたらなかったので
慰みに計算してみただけっす。
それと着ている人間の性能も問われるな!
ラオウ様とハート様では雲泥の差だしな!
↓何事もなかったかのうように再開
363 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 11:54:57
大袖を二枚重ねるのって武田だっけ
重そうだな。
365 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 11:53:47
水を吸うし、暑くてやられる。
重いのは腰で着れば何とかなると思うが・・・。
鎧が見られる博物館はどこですか
ただ戦国時代当世具足以降は鉄砲の防御が肝要となり足軽用の貸具足ですら胴は鉄製だよ
笠は和紙だったりするが
一般的には鍋にも使うために鉄製だったけどな
371 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 09:46:06
江戸期以前で平塚為広の足軽以外に鉄製陣笠の事例ってあるのか?
革製、和紙製が多かったけど
鉄製もちゃんと残ってる四
373 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:21:41
うp
374 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 20:48:46
櫛引八幡宮で国宝鎧見て来た。
菊一文字かっこいいけど派手過ぎ。
375 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 21:37:20
信長の甲冑に惚れた
紺糸威胴丸がいい
376 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 18:18:17
神社にまつられてる赤糸威や小桜、竹雀などの大鎧て普通に見学出来るのでしょうか?
377 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 18:47:24
坂上田村麻呂の蝦夷征伐から承平・天慶の乱まで
わずか百二〜三十年なのに 大鎧は出現するは 太刀は湾曲
するはで歴史学者は何の納得できる説明していない。
働け歴史学者!
378 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 03:23:59
通説では大鎧は桂甲から発達したしたと言われているが 大袖と草摺りは
他に類を見ない形状をしている。
視点を変える必要が有るのではないか?
例えば 渤海の軍装とか、甲冑。
平安初期は遣唐使よりも渤海使の方がはるかに多い。
九世紀の国際情勢を念頭に入れて研究してみてはいかがか?
379 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 03:59:31
奈良時代の桂甲・短甲・環頭太刀。
平安前期の大鎧・毛抜透太刀(衛府太刀)。
前者は唐・新羅の影響
後者は渤海(高句麗)女真族系の影響と考えられないか?
一列に発達したとの考えは無理があるので捨てた方が良いと思う。
NHKでやってたんだけど、日本の鎧は身を守るための物じゃないって。
西洋の鎧はとにかく防御力のためでガチガチに固めてたけど、
日本のは自分を表現するための物なんだって。
だから隙だらけだし、おしゃれだし、兜に角生やしたり家紋入れたり好きな食べ物や干支をかたどった
飾り物つけたりで、防御にはむしろ邪魔になるだけの物もつけていた。
鎧を着ける前に遺言を書き、鎧を着けた時点で自分の生死は関係なくなるんだって。
あとは互いに生き様を見せ合う勝負。
だから自分らしさを表現する鎧を着けたし、生死は関係ないため、防御力も大して気にしなかった。
そう考えると一騎打ちで名乗り合うのもわかる。
奈良〜平安中期までの甲冑の詳細がもうちょっと判ればなぁ。
ちょっと前の徳丹城の木製冑の発見にはときめいた。
382 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 23:19:05
昔の映画「大魔神」の甲冑は武人の埴輪を参考にしていると思うのだが
奈良〜平安中期までは実物はおろか 参考にできる工芸品・美術品が無い。
有るのは仏像と仏画ばかり。
国家鎮護仏教と律令制度の下で武器・武具は進化する必要はなかったのかも?
383 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 00:19:37
一騎討ちってドコの国の戦にもあるんでないか?
しらんけど
武士以前は日本も中国のような軍団制で
弩や鉾で蝦夷や新羅の海賊と戦ってた時代があるんだよな。
興味湧くなぁ、陣形とかあったんだろうか。
>>385 戦国板からのコピペだが
231 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2007/06/16(土) 17:58:33 ID:WQo1Gv1m
参考にWIKIも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A9 列弩乱発ということはずらりと並べて使用してたのかな?
当時の軍制は指揮系統で明らかなように中国に倣ったもの。
衣川の戦いで見る限りは前軍・中軍・後軍と編成していたようだ。
隋代の前校・中校・後校の3隊編成の模倣か、
唐代の通典の7個軍編成を3つに省略したものだろう。
もし戦術も中国の模倣だったなら、
歩兵の1隊50人はそれぞれ楔形や方形に隊形を取りそれを横に十数個並べ戦列である大隊を構成、
その後ろの駐隊が、弩や弓で支援したり前列をすり抜けてきた敵を叩く。
前線の歩兵に疲労が見えれば予備隊である奇兵が進み出て交代、前線兵士の休息と再編成の時間を作る。
養老律令では歩兵と騎兵は兵科を分けて編成しろとあるが、本当にそうならば両翼に騎兵を置いただろう。
387 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 17:53:42
日本の鎧兜が最後に実戦で使用されたのは西南戦争だろう。
388 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 18:15:05
389 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 20:18:15
日本で馬鎧は使われたのかな?
装飾用じゃない実戦用の奴
馬なんて貴重すぎて戦に出すなんてとんでもない
南北朝時代にあったような
392 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 11:55:50
鎌倉後期からまた日本の鎧兜が劇的に変化していくのは
元寇の影響だろうね。
たしか古墳時代ぐらいの遺品に「蒙古鉢形兜」ってのがあったけど
あのころ蒙古はまだないよな?
>>379 うーん渤海はわからないが、高句麗の甲冑なら色々
考古学系の本に載っていたけど大鎧に似ているとは思えなかった。
もっとも大鎧や胴丸は挂甲から変化したと考えられているので
その倭式挂甲の更に源流まで遡れば、高句麗を含めた大陸の挂甲に行き着くでしょうけど。
395 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:53:55
種子島の影響がデカいんじゃねぇ?
396 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 17:44:20
黒田の一の谷とか銃弾喰らうのにね、
性格的にもなんせ前に前に出たがる犬武者らしいし
撃ってこいや!みたいなとこかな。
兜のフロントや篭手のナックルの突起▲つけておけば組合った時に頭突きが有効的だろな。
ローマでもスパルタでも日本でも上半身フル装備でも下半身は簡単なのは
やっぱり戦場では走れないと駄目なんだろかなぁ。
日本の武術って盾がないんだよね、だから動きの鋭さ重視にできてんだろな。
>>389 馬鎧の遺物があまりないし、
合戦絵図とかにもほとんど描かれてないところをみると、
実戦で使われてたのかどうかは疑問だ。
やはり基本、下馬戦闘だったのだろうか。
398 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:36:14
戦の作法で馬は出来るだけ傷つけ無いようにしたんだろう。
馬は貴重品で戦利品にもなるし。
下馬戦闘は西国
400 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 15:03:02
双方の陣営に紛れ込んだ敵方の馬を合戦後交換したというのを何かで読んだけど何だったか忘れちった
401 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 16:28:28
現在の知識技術でより完成度の高い鎧作ってみたら面白いだろーなぁ…。
つ 90式
403 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 09:14:42
騎馬で戦うか降りるかは時代によりだろう
日本も昔は馬の上で打ち物していた
鎌倉や南北朝では馬に乗って白兵戦している
日本では駿馬を計画的に育てると言う発想がなかなか生まれなかった
なので戦国時代にはだいぶ馬が減ってしまった
>鎌倉や南北朝では馬に乗って白兵戦している
軍記物の太平記がベースの近藤好和か
近藤好和以前から言われてることだが
406 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 22:49:16
>>380 日本の甲冑が隙間だらけだというのは、隙間を埋める小物類が布製や板製で消耗しやすく、
また子孫に伝えるものでもないものだから紛失されたということをNHKは忘れている。
>>406 表紙は真田信之所用「黒漆塗本小札萌葱糸威二枚胴具足」ですよ
>>406 ただし、江戸時代の装飾用鎧ばっかだが。
410 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 00:41:05
その本に載っている井伊の赤備えの頬当てについている垂れが、
首の側面まで鉄板が伸びていて首を覆っていて堅牢そうでカッコいい。
あの細長い鉄片をあてた小手や脛当ってなんなんだろう?
単に技術がなかったのか、あのデザインが流行ったのか、あくまで鎧の軽量化のためか…
まぁまともな造りの小手も一応あるから技術がないってこともないんだろうが…
なんかあれじゃ刀の一振りで両断できそうで心許ないんだよなぁ
>>411 日本刀で何でもすぱすぱ切れるといふ神話。
本当に切れてたら誰も着けまい。
413 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 16:17:30
肉を斬らして骨を撃つ。
甲冑の下の肉はなかなか斬れないよ。
ただし鎖帷子は突きズブズブに入るし、打撃の衝撃もモロ。
414 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:15:12
すえもので寸鉄を両断とはいえ自分の肉がクッションになるから鎧となったら鉄片一枚といえどなかなか切れないだろう
でも悪くすれば骨折や捻挫ぐらいにはなるかもな
鎧のない生身だとスパスパ切れるのはガチのようだが
成瀬関次 「随筆 日本刀」より
東大病院の整形外科医局長をして居られる伊藤京逸氏が(此の人は剣道家でもある)軍医としてやつぱり徐州戦に参加された時の感想として、「日本刀は案外に切れた。寧ろ切れ過ぎるかの感さへあつた。首を斬る位の事は、短いやつの片手斬りでもスパツと落ちた。
刀の柄を、ぬれ手拭を絞るやうに持てといふ古人の教へは、切れ過ぎる余勢で自分と自分の左足などを切らぬための、その調節のいましめだ。」と、こんなことを話された。
(P42)
素肌の人間を斬ること位たわいのないことはない。素つ首などは、一尺四五寸位の脇差を片手に持つて、それで切れ過ぎる程だ。
戦場では、若い士官などが、大刀を大上段にふりかぶり、満身の力をこめて敵の首をねらひ斬りにし、勢ひ余つて刀の切先何寸かを、土の中に切り込むのはまだよいとして、よく誤つて自分の左の脛などに大怪我をする。
昔から、刀の柄を、恰もぬれ手拭を絞るやうに持て、と云はれてゐるのは、さうした切れ過ぎの場合に処する方法、即ち絞り止めに止める為だと云はれてゐる。
骨を切るといふことも、思つた程ではない。
死後若干時間が経過すると、堅くなつて切りにくいが、生き身は今年竹の程度だと、誰しもいふ。
大体首は、中位の南瓜を横に切る程度、生き胴は南瓜に横に直径一寸二三分の青竹を一本貫いたものを切る程度と云つたら、略見当がつくであらう。
切り損ずる原因の一つは、誰しもあわてること、上気してしまふことだ。
(P61〜P62)
俺の主観かもしれないけど、
本歌の鎧と今出来の鎧を比べると、良くできてるのに微妙なシルエットというか
雰囲気?みたいな物が全然違って、今のは何となく間が抜けて見える
職人の腕の違いかなぁ?
風合い?みたいなもんかねー?
417 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 18:34:03
日本刀マンセー
418 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:11:45
甲冑相手なら槍だよ
刀なんてぶったたいて使うだけ。
戦国期の太刀の断面(ウブ)と新刀・新々刀の断面を比べてみなよ
419 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:26:13
ほとんどの兵が着てるのは胴丸、腹巻だろ
私、金属加工の仕事してますが、工作機械や工具も満足にない時代に
複雑な形の前立なんかどうやって作ったのか関心あります。
421 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:55:19
板金叩いて工具箱やら船やら作るぐらいなら中学の技術でやったけど
評点10貰えるのがつくったやつの延長とは違うのか?
>>415 風合いというか、雰囲気と言いますか
時代がかかってるからと言うんじゃなくて、
スタイルがしっくりこないというか特に写し物を本歌と比べると、
何となくバランスが良くない気がするんですよね
ううん、気のせいかなぁ
>>418 鎧の大敵は槍と矢だそうですね
特に日本の甲冑は衝撃を逃がす構造になってるとかで
一点集中型の武器の方が効くとか何とか、本に書いてあった
草摺りって結構長い紐でぶら下がってるけどあの紐の下はどうなってんの?
見たところちょうど股間の上あたりが無防備になるんじゃまいか…
武士なら佩楯がある
雑兵は無い
425 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 16:54:06
>>421 家紋とかも綺麗に仕上げてるけど今の漫画家が使う雲定規みたいな物が当時もあったのかね。
見事なのは特に大量生産してたってこともないし
技術はある以上手間かければどうとでもなっただろう
427 :
大阪名無しさん ◆c68ywQ2shI :2007/10/08(月) 19:37:21
私が、「なんの機械もない昔に、良くこんな物が作れたね」とか
「こんな物が、ろくな工具のない時代に作れるはずがない」などのご質問を頂いたときに決まって言う言葉
「職人芸です」
以上
428 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 19:43:52
>>427 第二次世界大戦の時には職人技でもMG152コピーできなかったけど…
429 :
大阪名無しさん ◆c68ywQ2shI :2007/10/08(月) 19:56:07
>>428 わはは、それも職人なのか・・・
大正昭和の職人で思い出したけど、天皇陛下ご即位の式典に使う道具類を見ると
明治→大正→昭和と明らかに出来が落ちてるらしいですね
いろいろ工具とかも出来てくるのになぜ・・・・
430 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:08:15
こないだ青山のホンダ本社のショールームで
本田宗一郎生誕百年の記念ムービーを上映してたけど
だいたい戦後日本のモノ作りの歴史的な内容だった。
信じられない事実だが
1960年まで工作機械を輸入に頼っていたそうです。
工作機械は基礎工業力のバロメーターなんで
日本のモノ作り神話はほとんどウソ。
431 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:15:39
今のコンピューター制御の機械使うわけでなし
同じアンビルとハンマーがあれば誰でも同じ物ができるわけがない
工作精度は職人の質に大きく左右されたろう
>>428 製造機械を作るのも工具を作るのも職人ですよ
職人に出せない精度の工具は存在しません
>>430 日本の高度成長を引っ張ったのは繊維などの軽工業が主体
機械などの重工業が世界レベルに追いつくのが70年代で、80年代には世界トップクラスに立った
この短期間の成長こそ世界の驚異
434 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 23:57:31
>>433 それ考えると
日本の繁栄は 万博からバブル崩壊までの二十年足らずだったんだな・・・
435 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:36:46
現代に作られたレプリカの大宵を試着したことあるけど、重いね。普通に直立しちゃダメだ。
重いバックパックを背負って前にデカイウエストバッグをぶら下げた感じだ。バランスを
崩すとすぐにおとっと状態になる。これを着て長時間戦えた平安末期から南北朝にかけて
の武士はやっぱすごい。
436 :
大阪名無しさん ◆c68ywQ2shI :2007/10/09(火) 00:50:38
>>435 大鎧は、馬に乗って初めて安定するようになってる気がしますが
>>434 一応、今でも繁栄しているが…
ちょっとバイトするだけで食うには困らなくて、ホームレスになってさえ働く気があれば支援を受けられるような国は
歴史上滅多に無いぞ
>>436 いやぁ、お前が軟弱と言われればそれまでだが、床几に腰掛けていても一寸前に体を倒すと
背中から押され前から引っ張られと言う感じだったよ。それで、揺れる馬の背中にバランス
よく跨るなんて、とてもとてもと感じたよ。やはり着用した上で戦うには日ごろからの鍛錬が
なければダメだと思ったよ。
439 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:23:53
只今、NHKで「熱中人」山城熱中人放映中。
>>438 そうなんですか、いや物の本に大鎧は乗馬前提で作られているので
鞍にまたがると安定するようになっている、とか書いてあったのですが
確か鎧の胴尻を鞍の前後に乗せることで、着用者にかかる重量を軽減させるとか何とか
441 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 10:01:20
いや機械なんて大量生産が念頭のものといいたかったんだ
>>438 昔から「煙が立ちのぼるがごとく…」っていうメタファーがあるやん
ああゆう意識操作で体を使えばバランスは崩さなくなるよ
春日大社の宝物殿、見に行った方、どうでしたか?
449 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:33:56
武士が下馬戦してどうする。
鈴木某は日本中世の身分構造を理解していない。
徒歩の補助戦闘員とは途轍もない身分の差がある。
公卿殿上人から穢れとされた武士階層も相当身分が高い。
中世初期まではほとんどカースト制だ。
現代感覚で合理的に考えることに落とし穴がある。
古代・中世は不合理で不条理が当たり前で忌日や方違えで戦をしていたぐらいだ。
450 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 22:00:05
今日、大徳川展に行ってきた。
451 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 23:42:13
先祖から甲冑師してた人たちが
江戸時代になって甲冑の需要がなくなり鉄細工を作ったんだけど、
海老の尻尾や蟹の脚、龍の胴体とかがガチガチ抵抗なくスムーズに曲がる技術が凄いよ。
明珍家とかが有名みたいだけど何でも鑑定団でも高額商品で技術の高さが絶賛される。
452 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 00:00:38
453 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 11:41:34
すげえw
なにこのガンダムコンプリートモデルw
>>448 絵図が全て真実を描いてる訳じゃないから気をつけた方がいいよ。
絵の中では、戦国時代なのにみんな大鎧着て戦ってたりするからなw
455 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 22:15:36
>>454 ただ、絵に描かれていると言うことは、当時馬上で戦うと言う
発想はあったわけだ、馬上で戦うという発想がなければ、絵にも成らない
つまり、騎馬で戦っていた可能性はけっこう強い
下馬戦闘を証明するのも難しいわけだが
だからさ、
全部馬上戦闘か全部下馬戦闘かって事じゃないでしょ。
それぞれの局面でそれぞれの戦い方があったと考えた方が自然だ。
文書に書いてあるから全部下馬だ、とか
絵に書いてあるから全部馬上だ、とか
言いきるのは無理があるよ。
春日大社で竹虎雀鎧見て来た。
来月は展示替えで黒革威矢筈板胴丸が見れる。
日本史板って荒れだすと止まらないね
460 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 18:41:22
>>457 そこを言い切るのが、トンデモのトンデモたる所以です。
そこを言い切るのが下馬厨
自分のことを棚上げする騎乗厨
463 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 20:06:55
下馬下馬45でも見てろwww
シーン
>>447 蒙古襲来絵詞(九大本)を見て、あらためて、「へ〜」になるな。
鍬形の兜が一つもなかったり(見たところオレには確認できなかった)、
戦闘の真っ最中でも、兜をかぶる人、かぶらない人さまざま(当の季長自身、かぶったり、烏帽子のまま)。
あと月代ももう既に剃ってたのね。
467 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 23:20:28
>>430 戦争で人も工場も資材も灰になってたしな。立ち直れただけでも大したもんだ。
468 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 23:38:23
>>467 そうじゃなくて
戦前も 戦後も昭和40年までエンジンを作る工作機械は国産化出来ていないって事。
なに寝ぼけたこと言ってるんだ。
1、上級武将が大鎧から胴丸・腹巻を使用するようになったのはなぜですか。
2、騎上の武士が貫・馬上沓から草蛙・足半を履くようになったのはなぜですか。
3、大立挙脛当が発生し廃れたのはなぜですか。
4、佩楯が用いられるようになったのはなぜですか。
5、阿古陀形が発生し廃れたのはなぜですか。
470 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 00:07:56
>>468 工作機械=エンジン
430では書かれていない事を歪曲するとは愉快な脳だな。
471 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 00:11:01
>>470 ホンダ本社のショールームに行って
ムービー見て来い。
472 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 00:23:13
先端の製造業は最新の科学技術・熟練工・高品位な資材・潤沢な資本によって成り立つ。
欧米には産業革命以来の蓄積が有ったんだよ。
戦前の日本にはそれが無かった。
473 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:11:01
474 :
アホ學生:2007/10/21(日) 10:44:39
>>473 472以外はレス付けただけだ。
チンカスwww
475 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 11:06:05
http://www.sasakijo.com/kiba.htm 下馬も乗馬もどっちもあった
でいいだろうに
実際そうなんだから
騎馬がメインの鎌倉時代でも同時に水上戦も多発(つまり大鎧で船の上で徒歩戦とかも普通にこなしてた)
一方大集団による徒歩戦に移行していた戦国時代でも馬上打ち物になる状況はいくらもあるし
>>465 季長さんはわりと粗忽者で慌てて飛び出したせいで戦場に兜持ってくるの忘れたことがあった
部下が私の兜を使ってくださいと差し出したが「兜がないせいでおまえが死んだらご新造さんが悲しむだろ」といってことわった話が載ってるな
475=449
479 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:15:56
>>478 明治時代、徒侍だった士族出身者が
馬に乗りたい一心で騎兵になったという話は結構多いみたいですね
みんなが下馬戦闘だったとしたら、御徒町なんて存在しません
480 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:25:23
>>469 1、上級武将が大鎧から胴丸・腹巻を使用するようになったのはなぜですか。
その方が着やすく、また着心地も良かったため
2、騎上の武士が貫・馬上沓から草蛙・足半を履くようになったのはなぜですか。
足は鐙で守られているため必要なかった、また草履の方が鐙上で踏ん張りが効くとも
3、大立挙脛当が発生し廃れたのはなぜですか
佩楯が開発されたから
4、佩楯が用いられるようになったのはなぜですか。
馬上で草擦り以下の防御が必要だから
反対に徒戦闘だと佩楯は邪魔、甲冑を着てみるとよくわかる
5、阿古陀形が発生し廃れたのはなぜですか。
流行
こんな感じか?
481 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:31:48
5、阿古陀形が発生し廃れたのはなぜですか。
一言だけだと、いろいろ言われそうだな
阿古陀形兜は視界の確保の必要から生まれたのだが
視界の確保が必要イコール徒戦闘ではなく、弓矢の撃ち合い戦闘から、
馬上でも打ち物取っての戦闘が行われる事例が出てきたため
といえるが、兜の形は結構流行があって流行廃れがある
482 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:36:53
また、打ち刀と太刀の関係もあるな
徒戦闘では太刀は不利で、馬上から振り下ろすには太刀が有利である
上級武士にまで打ち刀が浸透するのは、鉄砲が伝来して戦闘形態が変わってから
また、当時の戦いの心得に敵を右にして戦えという話が出てくる
これは、敵を左に向かえると馬上では方向転換が出来ず
その上、太刀を左に向けようとすると馬の平首を切るからだ
とされている、これは乗馬戦前提での心得と言わざるを得ない
483 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:39:28
で、私の結論としては下馬戦闘も乗馬戦闘も、状況によって両方有っただろう
スポーツじゃないんだから、戦闘は臨機応変に変わっていく
それを、公だと決めつけられる人はタイムマシンでも持ってるのかね?
484 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:41:27
>>479以下、いろいろ書いてしまいましたが
私は鈴木史観は、所詮素人学者の論としか見えません
以上
485 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:00:40
お前は素人じゃないの?
486 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:06:55
>>469 1、上級武将が大鎧から胴丸・腹巻を使用するようになったのはなぜですか。
弓矢中心の戦い方から上級武将も刀槍での接近戦を多く行うようになったため、
騎射戦に特化していた大鎧は廃れ、
騎乗・徒歩とも対応出来る動きやすい胴丸・腹巻が使用されるになった。
2、騎上の武士が貫・馬上沓から草蛙・足半を履くようになったのはなぜですか。
昔は草蛙が普及していなかったので徒歩兵は裸足だったが、
その後草蛙が普及したから。
3、大立挙脛当が発生し廃れたのはなぜですか
膝を守るため使ってみたが、歩きにくいからやめた。
4、佩楯が用いられるようになったのはなぜですか。
腿〜膝あたりを守るため。
古墳時代の膝鎧から宝憧佩楯に進化し、接近戦の機会の増加にともない
まず、上級武将から改良普及していった。
5、阿古陀形が発生し廃れたのはなぜですか。
衝撃を弱める為に膨らましたが、逆に打撃に弱い事が分かり衰退した。
あるいは単にかっこいいと思ったけど、流行遅れになった。
こんな感じは?
487 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:12:47
>>486 甲冑来て馬に乗ってみると佩楯が無いと、足の防御がスカスカになる、
騎馬戦闘にこそ佩楯が必要なんだと実感できた
>>481 >阿古陀形兜は視界の確保の必要から生まれた
後頭部の形状が視界とどう関係あるのだ?
489 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:20:05
昔も矢張り熱中症はあったんだろうな。
嘗て治安完全装備で訓練し、帰りがけに熱痙攣起こして10日入院した。
急性腎不全。
492 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:42:41
>>490 腕の動きを確保して、周りの視界を広げると言うことらしい
??筋兜を阿古陀にしたところで腕の動きやシコロに何の影響もないでしょ?
もしかして眉庇の位置を引き上げるためということかな。
阿古陀形は視界の確保とは関係ないのでは?
笹間先生の本には
衝撃を弱める効果と通気を良くする効果があった
と書かれている。
496 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 22:02:20
>>493 本にそう書いてあったんだけど、兜に当たった刃がそれにくいにとか
シコロが大きければ刃がそれてもシコロが防ぐとか、
497 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 22:03:53
>>495 そうか、ずいぶん前に読んだ本だから、その本が間違ってたか
俺の記憶違いかのどちらかかな、本の名前を思い出せれば良いんだけど
なんか日根野と阿古陀を間違えてるんで無い??
496の意見を要約すると、阿古陀はシコロを小さく出来るってことになるけど、そのような事実は全く無い。
遺物を見ても明らか。
私は
>>481史観は、所詮素人学者の論としか見えません。
佩楯にかんして徒歩だと邪魔という意見があったけど
それは現代人が現代人の動きのまま甲冑着てるからではないのかね
なかなか言葉で説明するのが困難なんだが
撞木で腰を落としたオープンスタンスを基礎として歩いたり走ったりする稽古を積むと
あまり佩楯のパタパタが起こらずに走れるよ
佩楯が守る大腿部は角度的には45度近くを行ったりきたりするので腹巻の草刷だと露出しやすい
(要するに徒歩のときでも大腿部の姿勢は騎乗してるときと似ている)
基本的には玉子が先か鶏が先かってはなしになるけど佩楯は徒歩戦と共に普及したんじゃないかな
もちろん鎌倉時代大鎧の時代にもごく少数例、ちらほらとは使われていたらしいけど
ただ佩楯が徒歩戦想定の装備だからといって騎馬戦が日本に全くなかったとか言う妄想は成り立たないけどね
古い佩楯(膝鎧)は平治物語絵詞に書かれてるが、騎馬武者が主だね。
ただ、大鎧は鎌倉時代後期にもなると平安時代に比べて、札足が小さく、草摺長がかなり短くなっている。
大鎧が徒歩戦闘や打物戦も想定した構造になっていく過程で、膝部に隙間が空き、大立上脛当同様に自然発生したのではないかな。
徒歩戦闘も想定して鎧の草摺を短くしたら、騎馬にも徒歩にも防御上の不利が出てきたので勝手に出来てきたと。
一応傍証として、平治物語絵詞に書かれた平安の鎧を着た武者は膝鎧を装着していないことをあげておく。
503 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:25:05
大徳川展良かったよ!
>>501 >現代人が現代人の動きのまま甲冑着てるからではないのか
なるほど。昔の日本人はナンバ歩きだったしね。
春日大社「刀と鎧にみられる神の姿」展
前期 〜10月29日
「王朝貴族の刀と武器武具」
国宝 赤絲威大鎧(竹虎雀飾)
国宝 赤絲威大鎧(梅鶯飾)
後期11月1日〜12月28日
「武士の刀と鎧」
国宝 赤絲威大鎧(竹虎雀飾)
国宝 赤絲威大鎧(梅鶯飾)
国宝 黒韋威矢筈札胴丸
国宝 篭手
重文 黒韋威胴丸
重文 鉄十八間二方白星兜鉢、鎧金具
重文 鉄二十八間四方白星兜鉢、鎧金具
重文 鉄三十六間四方白兜鉢、鎧金具
東京国立博物館「大徳川展」 〜12月1日
重文 歯朶具足 徳川家康所用 久能山東照宮博物館蔵
重文 南蛮胴具足 徳川家康所用 紀州東照宮蔵
重文 南蛮胴具足 徳川家康所用 日光東照宮蔵
重文 南蛮胴具足 徳川家康所用 東京国立博物館蔵
南蛮胴具足 徳川家康所用
重文 金陀美具足 徳川家康所用 久能山東照宮博物館蔵
紺糸威鎧 徳川吉宗所用 久能山東照宮博物館蔵
卯花威胴丸 徳川慶喜所用 久能山東照宮博物館蔵
唐冠形兜白糸威具足 徳川義直所用 東京国立博物館蔵
色々威二枚胴具足 徳川頼宣奉納 紀州東照宮蔵
金小札緋威具足 徳川家康所用 徳川博物館蔵
金小札緋威中人具足 徳川家康所用 徳川博物館蔵
金小札緋威童具足 金松君所用 徳川博物館蔵
>>507 金陀美具足があって、召替えの白檀塗具足が無いってのがにんともかんとも
ともども後世の偽者だから無視しとけw
510 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:20:27
その根拠は?
511 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:41:01
あれで桶狭間とかありねえだろ。せいぜい江戸初期、家康死後の作。
>>506 先日春日大社宝物殿で見てきた
梅鶯飾のほうは初見かな
あの立体的な獅子噛み(だったっけ)+スマートな鍬形いいなぁ
補修時に取り付け方を間違えてるのが残念だ
元に戻した姿を見てみたいな
>>511 形式だけみれば十分室町後期はありえると思うが。
金箔押しで派手に見えるが形は全く実戦本位で簡素。
江戸時代に作ったのならもっとゴテゴテと派手にするかも。
ただ、社伝があてにならない事は多いけどな。
515 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 21:00:28
>>514 殿様の鎧ですからあれくらいハデでも問題ないでしょう
反対に、殿様は志気を保つために目立つ必要がありましたし
江戸時代のハデな甲冑というともっとけばけばしいか
復古調の物とかでは
他の遺例の作りと比べても室町後期はないのでは。
社伝は時期が作域と全く符合しないのでありえまいが、伝来なんて大抵そんなものだからね。
あと、桶狭間の家康は朱具足と記録にある。
三河は花火とかもだけど仏壇も江戸期に発展した
そのときにその朱具足にも金箔をぺたぺた貼ったに違いない
518 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 21:33:02
>>516 金溜塗の具足は、大高城に兵糧を運び込んだときに使ったとされていて
桶狭間の時じゃないよ、だれがあの鎧を桶狭間で着たなんて言うデマとばしたの?
ここの連中、基本的な知識がなさすぎて萎える。
ほんとに日本史板かよ。
あの甲冑が1560年代なんてありえねえよ。
桶狭間の戦いの時、松平元康が果たした役割は何よ。わざわざ大高城兵糧入れ時と書かないと解らんか?
それとも異説引っ張り出す気か?
おまえさん沸点低いなw
冷静に思うところを書けばいいのに
>>591 >あの甲冑が1560年代なんてありえねえよ
その根拠は?
社伝はともかく、
金陀美具足が室町末期の作でないと言いきれる根拠があるのか?
大高城の話とかはどうでもいいから、
「基本的な知識」とやらを披露してくれ、鎧の。
室町末期って1573年以前って認識でいいよな。
同時期の遺例と比べてみなよ。
例えば銀伊予札白糸威胴丸具足
これは1590年拝領の信頼性の高い当世具足の遺例で、作域も同時代と見える。
金陀美具足はこれよりも20年も古いものだと言うのか?
あれは胴の姿はもちろん、脇板、シコロ、鉢、といったディテールも江戸初期の甲冑の形態を有する。
古くからあった形式、ラインではない。
「あったかもしれないじゃないか」とかいうならそれはただの個人の妄想。
他の時代の確かな甲冑の例、一つでも出してみろよ。
524 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 07:55:32
525 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 07:56:04
>>524 では1600年以前作と十分推定できる甲冑をあげてその部分を比べてみてください。
>>525 どちらも最低限の資料本にも載っている高名な甲冑です。
手元のを見てください。
手元に何も無いような素人なら比較しても到底判別できないと思います。
言っておきますが、こんな場所で素人にも判るような丁寧な説明をする気はありません。
やる気のある人は確度の高い室町、織豊、江戸初期とそれぞれの類例甲冑との比較でご自分の答えを出してください。
それでもなお私の説が間違いだと思われるのでしたらその意見は尊重します。
こんなんだから文系は馬鹿にされるんだよ
528 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 12:09:50
正直どっちでもいいけど素人にでもわかるソース出せるほうを信じるよ
>>528 それよりも、
>>526氏の説が、他でも言われている説なのか
>>526氏独自の考えなのか他でも言われているなら、
専門家はどういう風に言っているのかそれが聞きたい
>>523 あのさぁ・・・。
鎧の製作年代なんて、
専門家だって大体いつ頃ってことくらいまでしか言えないんだよ。
銘でも入ってない限り確実な年なんて分かる訳ない。
10年単位の近接した時期の違いなんて全然明確じゃない。
たまたま製作年が明確な、近接した年に作られた鎧を比較してみたって意味無いんだよ。
金陀美具足が鎌倉時代の作だというのなら、それは明確に否定出来るが、
「日根野頭形が作られたのは○○年から○○年まで」なんて分かる訳ないだろ。
現代人が作った年表上の時代区分が過ぎたらその年からガラッと変わるとでも?
形式だけ見て1560年製作と1590年製作の明確な違いなんて言いきれるモノではない。
無理。
>>523 >あれは胴の姿はもちろん、脇板、シコロ、鉢、といったディテールも江戸初期の甲冑の形態を有する。
古くからあった形式、ラインではない。
仏胴、日根野鉢、日根野錣、すべて室町時代末期に生じた形式では?
どこがどう江戸初期なのか教えてくれ。素人なんで。
学研の「図説・戦国甲冑集」がバイブルですか?
異論、反論は結構だが最低限の敬意を持って文章を書いて欲しいね
519見たいのが日本史板にいると思うとマジ萎える
534 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 11:59:39
>>532 あれ おっさんの着用写真 要らないと思うんだよね
あれがなけりゃ 買うのに
>>529 私だけではないですよ。もし身近に研究者がおられるのでしたら聞いてみてください。
「秀吉の甲冑一式って一つしか残って無いんですか」とでも。
そうだ。と答えが返ってくれば私と似た考えの研究者だと思います。
現在、研究者の間では戦国期と伝わる甲冑の多くが後世、あるいは当人の晩年の着領であると認識されています。
苦肉の策で「伝」の字を頭に冠していますのでそれを持ってその甲冑の評価とするべきでしょう。
ただし、考古学は相対的なものですから今後の研究で覆される可能性も僅かながら残されているものもあります。
>>530 >たまたま製作年が明確な、近接した年に作られた鎧を比較してみたって意味無いんだよ
これまた乱暴な意見ですね。でもそんなことはありません。
確かに古い形式が踏襲されることはありえることです。だからと言って江戸初期の甲冑にしか例が無い形式ばかりを備えた甲冑を室町末期と言うのは無理がありませんか。
年代比較が意味を成さないのでしたら、何を持って時代を特定するのでしょうか?
よく変わり兜などで、ベースの鉢のみ古い時代の物を転用しているのでは、と書かれることがありますが、これなどは類品をよく見てこそ言える事であります。
>>531 >仏胴、日根野鉢、日根野錣、すべて室町時代末期に生じた
この意見、一見通説のようですが、大半の研究者は納得しないでしょう。
日根野シコロは室町末期といえる古い例が現状一つもありません。だからと言って現在伝わる発生理由が正しいとはいえないと思いますが。
私は頭形兜の発生はもっと古いと考えていますが、井伊家や三斎流を代表とする鉢の形式の発生はもっと新しいと看做して良いと思います。
>>535 >年代比較が意味を成さないのでしたら、何を持って時代を特定するのでしょうか
製作年がはっきり分からない遺物がほとんどなのに、
数年単位での細かい年代比較に意味があるとは思えない。
現在の研究では「安土桃山時代前後」とかいうレベル以上のはっきりした事は言えないはず。
もっとも、おれは素人なんで「通説」しか知らんがね。
金陀美具足は1973年以前製作の可能性がある。
という意見への反証として1590年拝領の甲冑や江戸期の例を挙げているだけにすぎないのですが。
数年単位なんて誰も言ってませんよ。
すまんw1973→1573です
は?
たった17年?
さよですか。大した素人さんもいたもんだw
いいですか。たった17年と言うなら、それだけの根拠があるんでしょうね。
金陀美具足の示す形態的特長を持つ室町末期の甲冑を一例でいいのであげて下さい。
まさか無いなんていえないですよね?
それとも貴方の中では室町末期も桃山も江戸初期も甲冑は同じですかw
541 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:41:43
>>535 いや、そう言う事を聞きたいのじゃなくて
誰が言っているかを聞きたいんだけど、素人研究家じゃなくてさ
鑑定士とかさ
542 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:44:33
大半の研究者とか、UMA信奉者並みに根拠が曖昧なんだよ
ある大学の教授がとか、イオント大学の研究では
と言うのと同レベルなんですよ、○○の著者の○○さんも言っているとか
○○大学の○○教授の説では、とか鑑定士の○○が言うにはと言うように
はっきりさせてくれ
543 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 09:43:41
544 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 15:07:15
509 :日本@名無史さん:2007/10/23(火) 00:49:18
ともども後世の偽者だから無視しとけw
511 :日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:41:01
あれで桶狭間とかありねえだろ。せいぜい江戸初期、家康死後の作。
>>540はこれ書いたやつだろ?
別にお前が間違ってるとは誰も言ってなくて
510 :日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:20:27
その根拠は?
↑で聞かれてるように単にその根拠、もしくは持論を裏付けるソースをもってくればよかっただけ
それなのにソースは出さずに勝手にキレて長文垂れ流すだけじゃ例えお前が正しいこと言ってても疑われるだけだぞ
まず最初の言いだしっぺのお前がソースもってこい。それで解決。もってこれないなら吠えずに消えろ
545 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 15:10:56
お前ら
最後に実戦で使用された日本の鎧兜を上げてみろやww
546 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 15:59:22
チハたんだな
>>545 旧軍で使った、金属製防弾チョッキと鉄帽
ではわかりやすく。
1、日根野シコロは桶狭間まで遡れる遺品が無い。
2、大阪の陣で使用されたような江戸初期甲冑の形態と酷似
この二点で十分でしょう。
それ自体に製造年月日が無いから根拠にならないなど言われたら考古学はなりたたないことはご存知かと思います。
10の伝来品があったとして、内9つまでは伝来と形態がお互いの時代を補間し合っているのに1つがそれに合わない。
この場合、その1つの伝来に疑いが持たれるのは自明のことです。それが絶対的なもので無いことは言うまでもありません。
金陀美具足はそういった具足の代表的なものであります。
>最後に実戦で使用された日本の鎧兜
今確認しました。
昭和三年のことですね。
>>548 だからその製造年がはっきりしている遺品がどれだけあんのかという話で。
数少ないものから推測していくしかない現状で、
2〜30年程度の誤差を無視出来る訳も無い。
550 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:05:45
大徳川展は
11月4日までと
11月6日からでは
展示内容が変わるようですね。
2度以下ねば。
552 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:06:56
>>548 ?よくわからない?
>桶狭間まで遡れる遺品が無い
>大阪の陣で使用された
というのは、それ自体に製造年月日があったり、
具体的な記録があったりして初めてきちんと分かる事でしょ?
それは
>それ自体に製造年月日が無いから根拠にならない
という考えと同じじゃないの?
553 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:49:07
結局ソースなしか
だったら最初から「伝来に疑問がある」という程度にいっておけばいいのにw
>509 :日本@名無史さん:2007/10/23(火) 00:49:18
>ともども後世の偽者だから無視しとけw
>511 :日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:41:01
>あれで桶狭間とかありねえだろ。せいぜい江戸初期、家康死後の作。
とか大見得切らずにさ
554 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 01:09:11
556 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 10:52:22
>>548 博物館展示の兜で日根野シコロの物があってそれが
それの年代が、桃山時代〜江戸時代となってたのですが
博物館でも、日根野シコロ=江戸時代と断定できないのに
貴方は断定できるなんて、すごい研究家さんなんですね
ひょっとして有名な方ですか?w
557 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:08:20
558 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:09:52
は?今度は悪魔の証明の要求ですかw
俺書いただろ。室町末期の具足の日根野シコロは現存しないって。あるなら出してみろ。
鎧に関しては並みの博物館なんか全然あてにならんよ。桃山と書いてあるならまだまし。
559 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:20:12
だとすると高野山蓮華定院の鉄錆地日根野頭形兜も江戸時代ですから
真田幸村の物じゃないんですよね
560 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:23:11
千利休の日輪前立日根野頭形も江戸時代だねっと
561 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:33:23
>>559 >>560 そうそう、伝承で誰が使った、誰が奉納したなんて書いてあっても
それはことごとく嘘で全部江戸時代ですって言えば江戸時代になるんだから
>>558さんが江戸だって言う限りそれは室町時代末期では無いんですよ
そう、
>>558さんの頭の中ではねww
562 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 12:34:44
563 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:00:14
名言w
509 :日本@名無史さん:2007/10/23(火) 00:49:18
ともども後世の偽者だから無視しとけw
564 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 18:05:49
>桃山と書いてあるならまだまし。
前田利家の金箔の胴丸に付いている兜のシコロが確か日根野。
あの胴丸兜はそれなりに古いものだよね?
末森城入場に着たという伝承が本当だとしたら1584年。
流石に桃山期にはあったろう。
>>562 確か、旧日本軍の防弾チョッキ開発の事を書いた本に
軍服の上に甲冑をまとった人の写真もありましたが、はたして
実戦に使ったのか、単に来てみただけなのかがよくわからなかったので
>>547 としました
ちなみにその写真では、なぜか胴を反対に着用しており
正面に旗指物を指す合当理が付いていました
566 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 19:46:47
社伝や博物館の記述にあてにならない部分が多いのは事実だろうが、
はっきり分からない、という程度で、
明確に否定出来る証拠がないから現在も定説となっている訳で。
>>558 お、本性現しましたなw
>あるなら出してみろ。
じゃ、金陀美具足w
569 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 07:31:15
>>567 世の中には、
> 明確に否定出来る証拠が
が、無いのに江戸時代だと断言する人もいるわけで。
570 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 07:44:52
提示されたすべての証拠を無視して、自説を曲げない
これは、韓国人によく見られる性格です
と言われるのが嫌なら、提示される室町末期と言われている甲冑の
どこがどう、室町末期ではないのかそして江戸期なのか1つ1つ論じてください
今まで出た物
真田幸村の鉄錆地日根野頭形兜と具足
千利休の日輪前立日根野頭形兜と紺糸威し鎧
前田利家の金箔の胴丸と兜
>>509からはもうなにも出てこなそうだな
事実なら興味深いことなんだから有意義な検証にしたかったのに主張者がバカだとどうしようもないわな
572 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 14:13:25
挙証責任は異説を出した方にあるのにな。
そしてまた過疎w
ワタシの家は代々農家で、もちろん江戸時代もドン百姓なんだが、鎧がすごくカッコいいのでレプリカでも買いたいと思っています。
ただ、どうしても自分は百姓だという変な劣等感で、鎧に手を出してはいけないような気がします。
すごく悩んでいます。
百姓でも動員されると領主が貸してくれたりする
そういう物のレプリカを買えばいい
腹に大きく家紋の入った胴と、陣笠
御貸し具足というらしい、百姓の玄関にぴったりだ
お貸し具足って、家紋はその百姓の家紋がはいってたのかな?
578 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 09:47:12
百姓でも規模次第だなー
現代まで残ってるような百姓なら金持ちだろ
地主とまでいかなくてもそこそこ土地持ちだし
もう大名気分で自分とこの家紋入れちまえよ
>>579 そうなんだ。おれも武田菱で作ってみようかな。
582 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 21:55:27
面頬だけって売ってないのかなぁ 欲しい
>>582 売ってるよ。
相手は店だからURL書くわけにはいかんが、Yahoo!かなんかでググりゃ専門店が出てくる。
584 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 03:43:45
鎧昔から好きだったけど、PS2の決戦買ってからめちゃくちゃ兜にはまったな。
宇喜多秀家の龍の兜がかっこよすぎる。
585 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 14:36:25
我が大韓民国の鎧兜のほうがかっこいい。
日本の鎧兜の起源は、朝鮮にあるという真実を日本人は知るべきである。 剣道もクムドが起源とされている。
>>585 そうですね。
ところで、韓国の鎧ってどんなのですか?
■わずか50年前のチマチョゴリ写真
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./三 -ー- \
__/二 /-、 r- Y
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ヾ::::::::`ヽ_______,}:::::::l
./\::::::::::\ i | l! ./:::::::|ヽ
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/ \/ \ / ̄ ̄l \
./ ヽ_!_!_j_} └|_!_!_!j \
ttp://blog.joins.com/media/folderListSlide.asp?uid=fabiano&folder=9&list_id=4598098&page=8 …オッパイが出ています。
実はチマチョゴリとは「オッパイを出す為」のデザインなのです。
朝鮮女性にとって男子を産む事が最大の仕事でした。
そして男子を産んだ女性だけが、スカートと上着の隙間からオッパイを出す事を許されたのです。
しかし現在は隙間が布で塞がれています。
その為、スカートが無意味に腰高になり、不恰好になったのです。
水軍ってどんな具足を使ってたんだろ?
>>589 「蒙古襲来」の河野通有主従は他の武将と変わらんようだが
あれは主に陸上戦を想定してるんだろし
大山祇神社に遺品があったかな? ちょっと記憶にないな
手元に図録がないものでゴメン
戦国時代の水軍の装備が気になるな
592 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:47:24
つまり特に装備を変えることはしなかったんだろうな
戦国時代はひょうたんを連結したやつを袋に詰めてたすきがけしたりした工夫もあったようだが
魚鱗具足なんて、
水に入ると鱗形の札に空気が入って浮きやすいとか言うけど、
アヤシいもんだね。
江戸時代に作られたものだろうし。
594 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 14:00:00
船手具足は練革に塗った漆の中に無数の気泡が閉じ込めてあるんだよな
浮力にはなるが浮きやすいというよりは沈みにくいという程度だろうな
595 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 16:44:54
気泡か
打撃には強そうだなそれ
日本の鎧は喉元が空いてるのが多くてスキがあるように見えるけど
敵は潮風だな。
>>596 面頬に垂れ下がってる奴はなんだとおもう?
>>597 日本の鎧は当世具足のごくごく一部を除いて基本的に金属部分がむき出しになってることがないから錆びには強そうだけどな
全部漆塗りされてる
喉輪が使われるようになったのは室町時代頃らしい。
太平記にそういう記述があるとか。
面頬はもっとあとだろうな。
>>601 うーん、平安時代は喉元ヤバって思わなかったのかね
甲冑は保存されるが、その隙間を埋める小道具類は原則として保存され難い、という大前提を忘れずにお願いします。
時代劇では省略されることが多いけれども。
大袖があるからな
上半身を左半身にするのが当時の武士のデフォだから射向けを正面に向けることになるし
つまり一次的に弓矢で勝負をつけ、射倒して首を取るのが源平時代の主流な戦法
それが武器や戦闘方法の発達・変化に伴って防具類も様々に発達してきたってことで
606 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 02:13:34
>>604 大袖ってのは鎧の部品と言うより盾だからな
607 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 02:18:06
時代劇なんか刀で切りあってるけど
本当は弓矢で戦ってたみたいだな
真偽はともかく時代劇じゃ弓矢を登場させようが無いんじゃないか?
暴れん坊で吉宗が弓の練習してるシーンぐらしか思い浮かばない
鍵屋の辻の決闘で、荒木又衛門は真っ先に槍持ちを追い払い、槍が敵の手に渡らないようにした。
赤穂浪士の討ち入りで、屋内にあった弓を見つけた浪士はすぐに弦を切った。
少なくとも江戸時代の武士の間でも刀で闘うより槍や弓の方が優位であるとの考えがあったエピソード。当然戦国時代の武士が刀メインで闘うことは不自然である。
時代によるが弓でお互いに削りあいその後薙刀や刀で白兵戦をする
中世の飛び道具だけでは敵陣を制圧は出来ない
TPOを考えて使うだけの話
時代劇って舞台はほとんど江戸時代じゃんw
普通にそりゃ刀が多くなるわな
戦争では弓が多くても私闘では刀がメインになるのは当たり前だな
614 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 11:39:03
もし弓だけで決着を付けて、刀は首を取るだけの物なら
脇差しくらいの刀で十分だし、馬から切り下ろす必要がなければ
反りのある太刀は必要なかった
もし騎乗戦がなかったなら、日本刀は存在せず
上古刀の様な横刀のままだっただろう
615 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 11:43:51
>>614 それは言えてる、弩などの弓が発達し白兵では矛類を多用した
中国では倭刀と呼ばれた日本刀が入るまでは、反りのある刀は発達しなかったようだし
反りがあるのと無いとではどう違うの?
・馬上において片手で抜刀できる。
・刃物は鋸のように押すか引くかしないと切れないが、
反りのおかげで振り抜くだけで切れる。
ぱっと思い付くのだとこれくらいかな。
補足が有ればよろしく。
反りというか片刃+反りということでいえば同じ材料で同じ重さなら
両刃直剣より刃側への加撃に強くなる
湾刀のほうが思い切りぶったたいても折れにくい
峰に手をそえることができる>防御や至近距離での攻撃の幅が広がる
突いたとき反りの分だけ勝手に傷口が広がる>引き抜き易さにもつながる
下二つは結果論というかそういう使い方をしたことが確認できるのが鎌倉時代以降のようなので片刃にした動機に関しては一番上と
>>617だろうとおもう
619 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 00:04:18
戦国時代の心得で、敵を右に迎えろ
というのがあったらしい、左に迎えると刀を右手で使うため
自分の馬の首を切る可能性があるからということだが
こういう心得があったこと自体が騎馬戦があった
ということの証拠だと思う
620 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 00:06:46
>>618 初期の太刀類は元反りが強く切っ先に向かうとほとんどまっすぐなのだが
それは馬の上で扱いやすいように工夫された結果だとか何とか
621 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 01:22:13
本多忠勝当世具足写し
2007.11.18
著者:雷X
最近オレは「影武者徳川家康(全6巻)」という漫画をじっくり読み込んでいる。
大分前に買ったものだが、これが大変面白い。
その面白さを知るには実際に読んでもらうしかないが、
今日は作中に登場した武将、本多忠勝の鹿の角の兜が気になったので、ネットで検索してみた所、
何とレプリカが販売されておるではないか!
その価格は65万円で、他の鎧で高いものになると300万というのもあり、本当に買う人がいるのか?と思ったら、
お客様の声がたくさん掲載されている。買った人にとっては、金額に見合った満足感が得られているのだろう。
リンク先の本多忠勝の解説には「合理的な一面が伺える」とあるが、
本当に戦闘に適した合理的な面があったのなら、重心が高くなりそうな鹿の角の兜は使用しないのではないかと思ってしまったぞ。
現在行われている「第 四 回 "ネ ッ ト ウ ォ ッ チ 大 賞 投 票」で
トップ票を集めている方のブログの抜粋です。
622 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 13:24:57
腰反りでも突き斬りってつかえるけどね
623 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 13:26:58
そこで蕨手刀と鎬造りですよ
624 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 10:21:48
>>617 反りがあると片手で抜刀出来て、直刀だと抜刀出来ないってことか?
基本的に人体の腕の動きは円運動だから。
また佩いている状態の刀は峰が上を向いているので、
振り上げるように抜刀すれば、刃や鞘を傷つけずに抜ける。
ただし居合いのように抜刀と同時に敵を切るのは無理。
なお差している時は左手で添える必要があるが、
抜刀、即切るが可能。
626 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 18:21:35
>>625 太刀佩きでも打物佩きでも左手で鞘を押さえたほうが抜刀しやすいのは当たり前として(特に鯉口を切る際)
円運動だから直刀では片手抜刀出来ないということはないよ。
さらにいうと振り上げるようにして抜くことも反りに関係なく可能。
また、太刀佩きで抜く動作も反りに因る影響は特にない。
627 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 22:42:19
よろいむかで
かぶとむかで
反りがあると
切りやすく折れにくい。
で、抜きやすいかも?
という事ですね。
629 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 18:58:11
古代の鋼は超貴重品。
大鎧や太刀の発生が確認出来ないのは遺物がリサイクルされたからだよ。
630 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 14:42:31
実際、騎馬武者は右腕、右脚負傷で戦闘不能になってるケースが多いみたいね。
日露戦争で世界最強と言われてたコサック騎兵隊を単発銃→槍戦で連勝の日本兵は凄いね。
>>630 >騎馬武者は右腕、右脚負傷で戦闘不能になってるケースが多いみたい
それは何時代の騎馬武者?
632 :
大庭掃部:2007/12/01(土) 03:01:46
太刀の話題もこっちでいいのかな?
大山祇神社で「社伝山中鹿之助奉納の太刀」を観てきたよ。
身長がすごく長いので驚いた。
身が172cmで反りが3cm、銘は石州和貞作。
戦場でどうやって抜いたのかな?
甲冑も多く展示されているから甲冑オタの皆さん、一度は大山祇神社に行ってみると良いよ。
あと昔、宮島の宝物館で観たんだけど、平家納経と並んで「雑賀鉢」が展示されてた。
鉢に星が沢山ついててごっついイメージだった。星って何の為についてるの?
詳しい方お願いします。
>>632 >宮島の宝物館で観たんだけど
訂正
厳島神社の宝物館で観たんだけど
634 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 12:08:24
>>632 雑賀鉢のがそうかは知らないが、
基本的には鉄板と鉄板を留める留め金。
636 :
大庭掃部:2007/12/01(土) 19:51:39
>>634-635 ふむふむ、なるほどね、ありがとう。
あと大山祇神社には大祝安用(おおはふりやすもち)の娘
鶴姫着用の日本唯一の女性用鎧もあるよ。
胸の部分が膨らんでて、腰の部分がくびれている何とも女性らしい鎧。
エロい人は一度御覧あれ。
わざわざいかなくてもここにあった・・・。
www2.harimaya.com/sengoku/html/iyo_syuk.html
ドンマイ
大山祇神社は正に鎧マニアの聖地。
あの量と質はすばらしいよね。
今日、NHKで北条氏康の兜を見たけど十間ぐらいの筋兜だった。
>>621 鹿の角くらいはまだマシな方だと思われ。
加藤清正の長烏帽子とか黒田長政・福島正則の一の谷や大水牛とか伊達政宗の弦月とか当世具足の兜の前立てには
危険がいっぱいだw
戦闘に関しては無いほうがいいのは当然だろうが
忠勝の鹿角は本物じゃなくて和紙の張りぼてだから
そこまで首が痛いってことは無いだろう
誇示するのも仕事の内だし、いいトレードバランスなんでは
晴れの舞台用の「ファッション用」でしょ、あれは。
戦場じゃ使わないと思う。
というか大将は本陣で兜なんか被ってないと思う。
兜じゃないけど、
巨大な墓石の指物をして戦場に臨んだら
重過ぎて馬が動かなくて、戦に参加出来ず
それを恥じて切腹した武士がいたとか読んだ事あるなあ。
645 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 08:53:42
時代劇を見て陣羽織は鎧とマッチしてて実にかっこいいと思うんですが
なんで源平合戦や南北朝時代の武将は鎧の上に陣羽織を着てないんですかね?
646 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 10:45:37
羽織がなかったからだろ
陣羽織は南蛮人の服をモデルに作られたと聞いたが本当か?
>>645 元々は防寒用として普通の羽織を着ていたらしい。
当時は、邪魔だしかっこわるいから戦の時や改まった場所では脱いだんじゃなかろうかと想像。
651 :
大阪人 ◆zCu.5JLPJA :2007/12/22(土) 21:25:48
>>650 墓石じゃなくて、自分の位牌だったと思いますよ
以下引用
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大坂の陣のとき、紀伊頼宣卿の家士、矢部虎之助という者、
大力にて長さ二間の指物、三尺余の太刀、立物は大位牌に一首の歌有り、
「咲く頃は花の数にも足らざれど 散るには漏れぬ矢部虎之助」と記したり。
右の出で立ちに諸人目を驚かしけれども、余り重すぎて馬進まざりしかば、
とかく人より後れて、ついに功もなかりしば、残念がりしに、
なお家中にて武運不案内者との評判に合い、心中に恥じ憤り、
食を断ちて、二十日ばかりのうちに自滅せり。誠に惜しき士なり
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とありますから、断食して死んだようです。
松本国彦って何者?
オレのとうちゃん
あけましとおめでとう
井伊直政も例の大天衝が着いた兜が有名だが、
実はあれは2代目用で、本人が関が原で着用したのは
立物がないバージョンだったともいうな
存在誇示と実用性の兼ね合いで、場合によって使い分けていたのかもしれんが
657 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 19:20:24
甲冑ほしいけど ネットで買うのは不安
>>657 物の具はフルオーダーメードで甲冑師に注文しようぜ。
ついでに烏帽子と鎧直垂、陣太刀に腰刀や旗差し物もオーダーしよう!
予算が足りなければ筋兜に軽量の腹巻、袖なしなんかでもいいかもな
659 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:48:51
660 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:57:41
フルオーダーの甲冑っていくら金がかかるんだ?
661 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 12:40:18
光山堂で購入された方います?
送料いくら位 かかるんだろうか。
やっぱみんな当世具足が好きなのかね
663 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:29:25
664 :
663:2008/02/06(水) 20:30:03
畳具足か?
挂甲かアイヌ甲みたいだな。
さすがに幕末にこんなの着てないでヒョ?
ラストサムライにいちいちつっこんでたら
日が暮れる
映画こんなんだっけ
よろ
い
671 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 18:44:58
鎌倉に行って来た。
鶴岡八幡宮宝物館に大山祇神社の紺絲威鎧の複製があったくらい
「武士の都」鎌倉なのに
ほとんど鎧が無いのは何故だ??
675 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 15:02:40
織田信長の三大名物兜
一の谷、二の谷、鉄蓋ヶ峰についてどなたか形状、由来等
ご存知の方がおられたら教えて下さい。
小さなことでも結構ですので宜しくお願いします
676 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 18:51:46
なんだそれ?ゲームのやりすぎwwww
677 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 15:07:41
松平広忠の長男。家康の異母兄。六年十二月十八日、知行五十貫を賜る。後に三河額田郡に所領を移された。織田信長から贈られた兜「一の谷」を賜る。同時に葵紋の押形を賜る。慶長四年四月十三日没。法名「宗賢」。墓は三河桑谷広忠寺とも三河山中村法蔵寺とも。
678 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 05:14:19
大河の足軽の鎧ってほとんど
>>110のいうようなスタイルだけど防御効果が全然期待できないよね。
679 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 12:20:35
>>678 あれは大量保管大量輸送に最適なんだよ
制作も簡単だし
680 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 13:10:23
>>678 畳鎧、あれは幕末の足軽兵のスタイルだぞ
681 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 15:21:52 i
>大量保管大量輸送
つまり撮影に敵してるわけだな
682 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 17:17:19
いや、コスプレ甲冑祭りでしょ
683 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 23:41:25
ようつべに葵の関ヶ原がアップされてるけど足軽はみんな畳鎧だった。
鉄砲伝来以降は足軽も鉄板の桶側胴や仏胴だったと思うが。
昔、よく明智光秀といえば獅子頭っぽく両脇に赤い瓢箪みたいなの付いた兜だと思ってたんですが、
(某日本の歴史漫画とか、某ゲームの〜風雲録)
最近はなんか違うのかぶってて、上記の兜はかぶってない(某ゲームの〜野望)
最近なんか某へうげ〜って漫画で秀吉がかぶって登場してました。
あれは有名な兜なんでしょうか?甲冑の美術本をちらっとめくってたら載ってた気もします
そして本当は誰がかぶってたものなんでしょうか?誰か教えて下さい。気になります
長文スイマセン
畳具足の方が作るの大変そうな感じだな。
686 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 10:32:52
石田謙司著/甲冑師・明珍宗恭と語る
という本の内容にとても驚きました。
織田信長の甲冑、豊臣秀長の甲冑、森蘭丸の偽物甲冑の暴露話など、
著者は日本甲冑の将来を考え、明珍宗恭本人に言わせている事に、この本の価値を高めている。
甲冑好きな人は是非読んでもらいたい。
687 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 03:17:52
>>96 いまさらレスつけるのも難だが、そんなこと言ったら武将の個性的な鎧兜なんてみんな恰好の標的。
鎧で前の草摺の裏に袋つけてるのってあるよね?あれって袋の中出すのに草摺の間から手を入れてゴソゴソするのかな?
嫌な絵に見えるが…
>>688 前袋だな。
逆さにすると物の出し入れに不便、と本に書いてあったから、
逆さにして裏を露出させて出し入れしたのではないかな。
剣道で言うなら垂れを着ける時の大垂をめくりあげるのと同じ姿だな
691 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 22:54:37
片山さんの手作り甲冑
おもしろいですね
692 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 22:57:52
片山氏の鎧、これすごくないですか?
提灯兜萌え。
694 :
日本@名無史さん:2008/06/17(火) 20:59:58
古戦場を掘ったら
鎧が出て来はしないでしょうか?
>>694 時は江戸時代。所は越前の国での出来事。パンパン!
百姓の伝兵衛さんは今日も野良仕事。
すると鍬の先にカチン!
伝兵衛さん、何かと掘り起こすと、驚いた事に兜が出てきた。
びっくりした伝兵衛さん、村一番の知恵袋、お寺の和尚さんの所に転がり込んだ!パンパン!
「う〜ん、伝兵衛や、お前さん、昔お前さんの田んぼが戦場だったのは知ってるか?」
「え!ななんと!」
「建武の頃、吉野の帝の武将に新田左中将という方がおられてな、お前の田んぼで死んだのよ。」
「げげっ!縁起でもねえ。和尚さま、何とかして下さい!」パンパン!
「うむ、これ兜はお殿様に献上することじゃ。後はワシが供養してやる。」
こうして伝兵衛さんが掘り当てた兜は福井の殿様に献上されたのです。
696 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 13:40:37
古戦場や城跡からの具足甲冑類の出土例ってあまり多くないのかな?
小田原城で出土した御貸具足の写真はどこかで見たことがあるけど
戦後すぐに略奪されんじゃない?
698 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 20:10:16
たしか私市城だったかな。鎧の一部とか刀や刀装具、馬具なんかが出土してる。
やっぱ落城の浮き目にあった城跡だと出土しやすいのかな?
甲冑や武具は死体から剥ぎ取って回収し、勝ち組が山分けする。
だから殆ど残らない
700 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:33:40
あっても、腐って原型を留めてないだろうなー。
701 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:48:08
堀の中とか焼け落ちた建物の下にあった鎧とか回収不能な場所に残った遺物が出土するんじゃね?
あるいはゴミ処理用の穴にあったものとか。
甲冑って言うのは、今で言えば家が買えるほどの値段で
めちゃくちゃ高い物だったから仕返し物と言って、敵の鎧を剥いで使うのは当然だった
また、野武士や百姓が戦場跡を回って残っている甲冑や刀槍をかき集めて
現金収入の一部にしていたらしいから、まず出てこないだろうな
でも、壊れて使い物にならない物なら残されてたかも。
703 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 23:09:57
704 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 23:20:52
ピンキリ
705 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 10:20:38
全勝の鎧じゃないと、やっぱり怖いです。
>695
http://homepage3.nifty.com/yamamasa/nitta.html ↑に掲載されてる兜のことだね。
(以下個人的な感想)
その兜の、前方に突き出した眉庇・刻んだ神号・銀象嵌などは、
南北朝期の兜には見られない、ずっと時代の下る技法のはず。
「元応」の銘は後から刻んだか、
もしくは「元亀」とかの読み間違えじゃなかろうか。
仮にも当時、一軍の将が使う兜なら鍬形台が打たれていてもよいのに
その跡が見当たらない。
一応、学研の『戦国甲冑集2』にも小田原鉢の項でカラーで紹介されてます。
元号のほかにあるという「相州」銘、こっちは本当じゃないかな。
708 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:42:35
>>706 高かったんだね。
これは平和になった江戸時代の話?
鎧の需要が大量にあった戦乱期は
もっとお手頃価格だったとか?
大量生産で安く出来るような時代でもなかろうと思うがなぁ。
分業で大人数がやれば安くなるんじゃね?
711 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 21:32:13
甲冑師は大金持ちだな?
10年ほど前メトロポリタンでMAEDAの鎧を目撃しましたが
あんまり興味が無かったので名前の仔細の確認を怠ったことが今
となっては悔やまれます。
>>706 だいたい合ってると思う。胴丸系・兜付き一領が江戸前期に新規製作して
2-300両だったと書いてあった(慶長小判一両=約25万として5000-7500万になる)
祖父が昔、老朽化した近所の屋敷の解体の手伝いに行ったときの話。
隠し通路が見付かって、中から幾つかの甲冑が出てきたとのこと。
そこは姫様を守って落ち延びた一団の伝説がある山村。鳥肌が立ったそうです。
金田一耕助でも出て来そうな話だな。
717 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 00:41:14
キム兄こと木村祐一のお茶のCMの鎧、ボタン付いてますけど。
前のバージョンでは草擦り無かったし。
>>714 興味深い話だな。
そんな形で途絶えたとされてる血統が
残っていたりするんだろうな。
うちも庭を掘ってみるか・・(笑)
719 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 07:08:11
720 :
日本@名無史さん:2008/07/15(火) 23:52:20
甲冑ってかっこよすぎ。
721 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 04:13:58
レンタル足軽鎧、でも?
722 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 17:59:57
>>707 決定版 図説・戦国甲冑集なんて真に受けるなよ
笑われるぞ
あら、そうなのかい?
>>714 そんな話、いまどきドラクエぐらいしか聞かないぞ。貴重な経験だな。
>>722 ただ小田原鉢として紹介されてるだけだから
真に受けても別に笑われない
726 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:19:22
マクシミリアンにかぎるやよ
727 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 22:17:39
なぜ紐と革ばかりの代物が高かったのか?
洗濯も出来ないし。
当然ながら全てハンドメイドだし鎖や皮革加工や塗り、輸送費など全部乗っかってくるから高いだろうな
紐や革の部品はある程度既成品だった。
革の方が軽いし作りやすいし安いし
最も高価な鎧兜って誰のだろうか?
732 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 00:48:50
稲川会の故稲川聖城会長が甲冑師に特注で造らせた大鎧じゃね
どんな鎧だ?
清正の烏帽子形の兜は、尾張家が、今の貨幣価値で2億だかで買い取ったんじゃなかったっけ
735 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 23:12:54
737 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:22:28
上杉神社で上杉謙信や直江兼続の鎧見て来た。
なかなか見応えがあって良かった。
738 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 02:34:24
有名な武将のきらびやかな鎧より下っ端の武骨な安っぽい鎧の方が好きなんだが
資料館に行っても中々見つけられんし、あっても扱いが…
そういうのはやっぱり先祖伝来って形で個人蔵が多いのかな?
739 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:18:05
たまに骨董屋で並んでたりするね
740 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:42:07
安い鎧はよくヤフオクで売られてるけど、大半は江戸末期くらいのだろうな
十数万円クラスのやつは奪い合いだわ
鎌倉時代には腹巻一領を質に金を借りた御家人が返還を求めて訴訟したりしてたのに
742 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 09:01:50
744 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 10:54:43
>>743 腰の横にぶらさげてある四角いものは、太ももの前にあてる板だと
思う。
>>743 すねあてが肩に、袖が腰からぶら下がってますね。
逆にどうやってくっつけたのかそれが知りたい。
746 :
707:2008/11/06(木) 22:18:15
>>742 やっぱり707であげた兜のほうが742の兜より新しいと思います。
別の資料で比較すると、707の眉庇は、兜鉢に対してより垂直につけられた
突眉庇で、742の伏眉庇より新しいつくりです。
象嵌はうんと古い工芸技法だけれど
鎌倉・南北朝期の甲冑に施された例はないはず(知ってる人いる?)
で、鉢の形も742は南北朝期に多い大円山形だし、707は阿古陀形の
影響を受けてる(天辺がへこんでる)。
あと、707には鍬形台とか祓立が付いていた痕跡は見当たりません。
新田の時代に作られ、かつ本人が着用していた兜なら、立物を取り付ける装置を
設けるのがまず自然だろう。立物が全盛期を迎える前、表に神号を
刻んで装飾にするのは発想として新しすぎじゃないか。
という理由から707の兜は南北朝よりずっと下ると思います。
まあ現在遺品がとても少ないのにあれこれ言って時代順を決めるのも
正直微妙ですがね。
747 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:23:22
鉢の形については確かにその通りですね。
しかし庇の角度については私には742のほうがかえって、より垂直に見えます。
また鍬形については、707の庇のなかほどに穴か釘の頭のような丸いものが
見えます。鍬形の台がとれた跡だと考えられませんか?
これだけ手の込んだ兜に立物がなかったらかえって不自然に思われますが。
748 :
707:2008/11/10(月) 21:47:26
749 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 09:49:36
なるほど、垂直に近い庇の角度は鍬形を打つのに都合がよい角度であった。
鍬形がない場合は庇としての機能を重視して前方に突き出した、というわけ
ですね。
納得しました。
750 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 10:02:30
751 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 10:03:09
752 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 16:22:37
昔の武士の魂が篭ってるかもしれん鎧兜をオークション出す人って一体、、
自分たちの先祖に失礼じゃないの?
関係ないけどオークションで中国人が売ってる「1000円」の商品はやめとけよ
落札した後でその10倍以上の請求が来るぞ
最初からその覚悟で買うならいいけど
>>752 死体から剥ぎ取って、論功賞として分け与えていた昔の武士はどうなの?
戦の絵巻物に、討ち取られた上に地元民からの
略奪にあって首のない裸の死体が描かれてたなあ。
甲冑はそのまま市場に流れるか、鎧師の元へ送られて
修繕されてから売られるか、家宝になるか。
756 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 14:19:00
大鎧着て戦って討ち死にしたい
それも即死じゃなくて苦しんで死にたい
757 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:37:57
大鎧着るような武士だと速攻で首取られるぞ
758 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:54:23
大鎧って戦国時代の当世具足より明らかに機動性低そうだな。
759 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:12:59
軽く疑問なんだけど兜の側面とかの婉曲はどうやってつくってたんだろ?
誰か知ってる人教えてくれるとすっきりする・・・
761 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:44:28
>>760 なるほど・・・
いやいや、ほんとにありがとう!
手打ちでよくあんなん作ったな。
やっぱ日本は昔も今も物つくりに関してはすげえわ。
762 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 02:58:16
強度はトモカク
布や紙を漆で固めるって技法が俺はケッコウ好きだなぁ。
現代の繊維強化プラスチックに通じる気がして。
あと組み紐類も興味ある。
763 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 22:10:09
あげ
764 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:48:59
765 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 16:29:06
>>766 そっちは売り物だからね。765の出来で金は取れまい。
フリー素材と商品を比べたらそんなもんでしょw
データ修正してやったら?
と思ったら、片倉小十郎だけは有料商品のデータ流用なんだな。
政宗はそれなりなのに、有料でそれはなあ。
ポップ体がなんとも言えない味を出してるよね
771 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 22:02:51
あけましておめでたう!
772 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 11:01:42
>>765 西洋甲冑が日本に初めて舶来した記録が1588年だから、信長自身は南蛮胴具足を着用してないんだったよね。
そこらへんが織田家の兜となってる理由か。10年くらいの差でえらい違いだ。
マントなんかは上杉謙信に贈ったものが残ってるけど、本能寺のころの甲冑はどうだったんだろう。
建勲神社のは古臭いイメージが強くて・・w
>>772 総見院に信長所用といわれる「焼け兜」が伝わっている。
ttp://kimurabin.blog116.fc2.com/blog-entry-42.html 信雄が本能寺の焼け跡から探し出したという品で、簡素な突盔形兜だが、
巨大な脇立角元が室町末期の特徴を表している。同じページに信長が
謙信に贈った金小札の胴丸の写真があるが、いわゆる当世具足の形からは
遠い。草摺の間数が多いとか鮫革を使用しているとかの新しいところはあるが。
天正期、大名はまだ本小札の胴丸・腹巻を使い、その家臣以下(信長だったら
羽柴や前田あたりの連中)が最上形式や伊予札の具足を着始めたというのが
実相じゃなかろうか。
774 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 10:39:08
織田信長が南蛮甲冑を纏っていたなんてありえない。
豊臣秀吉所用南蛮甲冑ですら現存しませんから。
本能寺の頃の上級甲冑だとおそらく、本能寺から4年後の九州征伐時に
秀吉から大友宗麟へ譲ったと推測される、柞原八幡宮の甲冑でしょうね。
笹間良彦の本だったか、建勲神社の紺糸胴丸は室町時代の札を江戸時代に仕立て直された
ものだと書いてあった気がする。よく覚えていないので今度確認してみる。
柞原八幡宮のトラディショナルともいえる腹巻と、小田原攻めの際に秀吉から政宗に贈られた
という銀伊予札の丸胴の対照さが興味を引きます。
776 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:16:09
777 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:37:39
ただし、柞原八幡宮の腹巻も後から改造されて【家紋(杏葉紋)を入れられて
いる。前立ても別物の可能性あり】いるので、同時の姿とは言い切れませんけどね
川上村の縹糸威筋兜・大袖はすばらしい。
村の祭りのときだけしか公開されないから保存状態が良好。
胴丸が焼けて復元品での代用が惜しまれる。
ちょっとがんばって検索すると画像が出てくるよ。
779 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 19:46:54
>>778 そこまで言うなら、リンク貼ってくれればいいのにー。
780 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:01:12
>>772 そうとばかりは言えない。2か月ばかり前、「笑っていいとも」を見ていたら我が家のお宝を披露するコーナーで、井伊家の子孫の人が西洋甲冑の冑を出していた。
その冑は總見公所有の伝来があるとのことだった。伝来が正しいか、井伊直政と信長には直接の接点がないから、疑問もあるが、かといって明らかに間違いと断定はできない。
記録にないから信長が西洋甲冑を手にしなかった、と断言はできない。冑を映した時間が短かったが、家康の用いたモリオン型ではなくバイザーのついたフルフェイス型であることは確認した。
16世紀中期頃のものであるように見受けられた。胴の方は改造して信長自身が用い、使い道のない冑がのこったのでは、と思うのだが。
781 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:02:44
>>773 謙信に送った甲冑は、贈答のために作ったものだから、当時の実用品ではないだろう。それを以て、その時代の基準にはできない。
国立博物館蔵の伝明智光春所用の南蛮胴具足。和製南蛮胴にウサギの耳がついた冑のもの。
明智光春の伝承が正しければ、1582年以前の作ということになる。この時代に南蛮胴を模した物が作られたということは、当然それ以前に南蛮具足が入っていたということだ。
1588年の南蛮具足伝来にあまりこだわらない方がよいのでは。
信長所用の南蛮胴具足と称するのを、彦根城博物館で見たことがあるが、伝承を信じる気にはならない代物だった。それでも確か柏原の織田家伝来だった気がする。
信長の甲冑としては、信長公記に金唐革(きんからかわ)の甲冑を用いたという記録がある。
金唐革とは革にエンボス加工して、金箔で装飾するもの。外国の技法で、現在は姫路あたりで作られている。
信長の金唐革は輸入品であった可能性大。ただ、これはもともと壁紙のように使うもので甲冑とはもともと関係がない。
秀吉から侍の忠義の象徴ともいうべき「佐藤忠信の兜」を賜ったのは本多さんだっけ?
783 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:26:19
>>780 西洋甲冑の冑についてもう一件。十数年前に死んだ作曲家でエッセイストの團伊玖磨の書いた文に以下のようなものがあった。
團家の先祖は九州の武士で、秀吉の朝鮮出兵の時半島に渡った。ある戦いで敵の大将と組み討ちとなり、見事に相手を倒したが、その敵は全身を西洋製の甲冑に身を固めていた。
首級とともにその冑も戦利品として持ち帰った。このような話で、16世紀頃のものと思しき冑の写真も載っていた。これもバイザーのついたフルフェイス型のもの。
明、または朝鮮に西洋甲冑を身につけて戦った者がいたことは興味深い。
以上の話は70年代のはじめ、アサヒグラフのパイプのけむりというエッセイに載った話。単行本にもなったはずだが、写真はカットされたかも知れない。
1590年に天正遣欧使節が帰国した際に一緒に贈られてきた
インド副王からの貢納品の中にミラノ製の甲冑が2領あったそうな。
どうなったのだろうか?
786 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 16:18:01
>>782 そのとおりだが、その兜というのが写真で見る限り、????という代物。せいぜい室町中期ぐらいの、それもあまり高級とはいえない姿かたち、鉢の前方に金色に鬼面がえがいてある摩訶不思議なもの。
いくら古い兜について知識が普及していない時代でも、そんな由緒あるものでないことはわかるでしょ、といいたくなる。これ秀吉の忠勝に対するいじめ、あるいは好意的に見てもいたずらだったんじゃないかと思う。
いくら変なものだと思っても、忠勝としては断るわけにはいかない。つまらないボロ兜をありがたく押し戴くのを見て、秀吉が笑っていた、というのが真相ではないか。
787 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 16:57:09
>>773 天正期の大名鎧である程度製作時期を特定できるものに、上田博物館蔵の藤井松平、松平信一所用の黒漆塗本小札三葵紋柄丸胴具足がある。
これは松平信一所用となっているが、実は徳川家康自身のもの。1568年織田信長上洛戦の際、三河を離れることができなかった家康は、名代として松平信一に兵を預けて参加させたが、その際与えた甲冑がこれ。
作りのとてもよい高級な甲冑で、各部に三つ葉葵の入った金具を配していること、実用には必要ない紋柄縅を用いていること、などから家康自身のもの以外ではありえない。
草摺りの合わせ目が、体の前方の中心線上にある、のは羊歯具足と共通している。
松平信一の家紋は三つ葉葵紋ではなく、この当時は多分1000石に満たない禄高で、このように高級な甲冑を持つ身分ではなかった。家康からの拝領品ということで大切にされて、そのまま残ったと考えられる。
永禄末年の製作と考えてもよいと思われる。
788 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 17:10:26
信長に南蛮甲冑のイメージが結びつけられたのは、黒澤映画以降の現象。
その後、池上遼一の劇画などで無数に踏襲されて娯楽作品に出てくる信長といったらすっかり南蛮甲冑スタイルが定着してしまったが、
史実の裏付けは全く無い。
789 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 17:52:23
>>781 東京国立博物館の伝明智光春所用南蛮胴具足は、17世紀の品と結論付けられてるね。
790 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 20:24:07
>>774 南蛮甲冑は胴がすべて鉄でつくられるため重量がある。大きさが西洋人にあわせてあるから、小柄な人にはあわない。
秀吉は手元にヨーロッパ製のものがあったとしても、使わ(え)なかったと思う。
792 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 11:57:30
天下人の秀吉が小柄だったため、南蛮甲冑を一つも持っていなかったなんて、考えにくいです。
家康だって小柄だが、数多く南蛮甲冑を持っていた。又、多くの家臣に南蛮甲冑を下賜していた。
すなわち南蛮甲冑は秀吉が亡くなった後の時代、徳川家康によって実戦に投入されたものであり
又、当時の最新技術の南蛮甲冑をステータスとして家臣に褒美として与えた。
渡邊守綱の南蛮甲冑着用姿の肖像画は、その嬉しさのあまりに絵にしたんだと思う。
793 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 12:01:25
794 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 13:28:46
前田育徳会蔵の前田利家の金箔押しの伊予札具足、あの胴の背面には総角付けの環がついている。
旗指物をつけるがったりとの見間違いではなく、たしかに総角付けの環である。つまりこの甲冑には、総角がついていた。
総角(あげまき)は平安時代の大鎧の時代からついているものではあるが、当世具足に付くのは意外である。
総角は背面の装飾であると同時に、ここに懸け緒や水呑みの緒を結んで、体をかがめた時、大袖が邪魔をしないようにする機能を果たす。
つまり、この甲冑には大袖が付属していた可能性がある。
そこで思い出すのは有名な本多忠勝の画像である。あの絵の中で忠勝の甲冑には大袖が描かれており、それは威厳を持たせるために実際にはないのに付け加えられた、と説明されることが多い。
もし利家の当世具足に大袖がついていたならば、忠勝のそれにもついていた、としても不思議ではない。ただし、現在残っている忠勝のそれとは別の鎧である。
>>794 大袖より壷袖・中袖が付いていた方が時代的には自然かと。
もちろん替えの大袖を持っていた可能性も捨てきれないが。
796 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 13:44:42
>>791 甲冑はふつう個人の持ち物だが、お貸し具足と称して、城に甲冑を備えておき、いざというとき貸し出すことがあった。まとまって出たならば、このお貸し具足だった可能性がある。
城の備品ならば、古い物がそのまま使われ続けるということもあったのでは。みみづく兜の鎧は、貴重な家康青年期の鎧であると思う。
使う鎧の形式は、使用者の経済力に左右されるのであって、必ずしも時代によって決まるのではない。
797 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:49:50
>>793 誰がって、そりゃ博物館の学芸員だよ。疑問なら聞いてみな。
798 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:20:14
博物館の学芸員w
そんなものに頼るかw
799 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:23:16
学芸員は知の最高権威
800 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:28:05
学芸員のどこが悪いのかわからないけれど、東京国立博物館が公式に
例の南蛮胴具足を17世紀と認定してるってこと。
学芸員にもピンキリがあるってこと
特に縁故で就職した奴
最悪なのは親がナンタラの大家だの巨匠だの言われているゴミ
802 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:08:37
>>781 彦根城博物館で見た信長の南蛮甲冑について、その後調べたことを書く。所蔵は岐阜市歴史博物館、伝来は柏原ではなく天童の織田家。リンクを貼れないので興味のある人は岐阜市歴史博物館のサイトで見て。
これは信長時代のものではないが、非常に興味深いものであることがわかった。彦根城博物館の図録の解説には桃山時代のもので、兜の鉢は輸入、胴は国産とされているが、これ、胴も輸入品というのが正解。
兜は16世紀のものだが、この胴はそれより200年以上新しい。ナポレオン時代以後、精鋭の騎兵隊であった胸甲騎兵の用いた胸甲を仕立て直したもの。もとは銀色に磨き上げて使うが、これはそれを錆地に改造している。
胸甲は、留め金を背中から胸の前に出し、乳のあたりで留めるが、その留め金を埋めた鋲が見える。
鎖国下の日本では、ふつう輸入されるものではない。日本に輸入されるチャンスがあったとすれば開国以後のこと。幕府の招聘したフランスの軍事顧問が持ち込んだとしか考えられない。
つまりフランス製の胸甲を幕末に甲冑に仕立て直したもの。桃山時代ではないが、類例のない貴重なものと言えよう。
803 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:22:32
岐阜市歴史博物館の南蛮胴は公式サイトにも画像は無いよ。
方々で信長の鎧と喧伝されるので、学問的正確さを失いかねないから公開中止してるとか。
画像だけならマニアの人の個人サイトに載ってるけどね。
ttp://www.iloveshiro.com/shiro/gifu2/ 博物館の見解としては、胴の製作は天童に移った1830年頃ということらしいけど、
今度聞いてみようかな。
804 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:35:39
>>803 そんなことない。つい一時間ほど前見たばかり。
805 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:44:13
あら、そうだった?
おざなりなつくりのサイトだから、気づかなかったよ。よく見てみます。
806 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 10:17:06
甲冑見地をより一層深めたいのなら、博物館等の伝承を鵜呑みしないことだ。
古美術商や甲冑所有者の伝承をそのまま鵜呑みにしている博物館も多いという事も知れ。
森蘭丸の甲冑が最たる例
807 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 10:23:18
南蛮具足はそもそも、関が原の合戦頃から徳川家康によって始めて登場したもので、いわば徳川家康のシンボルだった訳だが
黒澤監督の影武者以降から、いつしか織田信長のシンボルにすりかわり、光栄のゲームによって決定ずけられた。
西洋の文物をそばにおいて用いていた信長だから甲冑が南蛮胴でも
おかしくないだろうという演出上の理由から始まって、今じゃみんなが
そうだったと思い込んでいるということか。
兜について二点聞きたいです
一つ目。日根野兜と越中兜の中間みたいな兜について
天辺が眉庇の上に乗っかって眉庇の下が湾曲してるのが古頭形兜でよろしい?
二つ目。突盃形兜と椎実形兜の区別方法
写真を見比べたり調べたりしても見分け方が分かりません。
好きな兜は桃形兜です。美味しそうです
あともう一つ
学研の図説甲冑集も信憑性がいまいちとのことですが
他に参考になるような本はないのでしょうか
それとも頼るべきは合戦屏風の中の武者姿のみってことでしょうか
>>809 >>810 古頭形兜について
その説明だけだと不十分かな。江戸時代にも越中と日根野の折衷様式は作られとるので。
古頭形は天辺に六曜の穴もしくは一つの穴、側面に響穴が打たれているのが多い。
しかし後世のレプリカや真っ赤な贋作も紛れ込んでるので古頭形といってお店で売られていても
すぐに飛びつかないこと。変に思ったら買わないのが一番。頭形兜については雄山閣の『兜のみかた』
という本が詳しい。
突盔形兜の中の1ジャンルが椎実形兜。とんがり具合が急だと筆形・錐形と呼ばれるようになるというだけ。
まあ変わり兜にどんな名前が付くかは究極的には個人の主観で決まるからねぇ。
学研のあの本は掲載甲冑の伝来とかに問題ありといわれているね。
でも合戦屏風がいつも正しいとはいえんよ。江戸時代に描かれたやつだとみんな大鎧着て走り回ってるし。
現在発行されてる書籍では他に笹間良彦が書いたのを当たってみては?
もっと古い本では山上八郎の『日本甲冑の新研究』。ただしこれは甲冑の「研究史」を追うことになりそうだね。
812 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 16:32:43
間違いないものが欲しいというなら、甲冑研究の大家、故・笹間良彦の一連の著作を購入されたらよろしいかと思います。
図録日本の甲冑武具事典 (新装版) 柏書房 10500円 がお勧めですが高いですからね。
写真よりも手書きの図版の方が多いですから、見た目のわかりやすさでは何ともいえません。
813 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 16:36:20
とりあえずは811さんの書いた書名に、笹間、山上といった名前で図書館めぐりをされた方がいいと思います。
ただ、古い本しかない場合が多いですから、カラー写真は期待しないでください。
>>811 ありがとうございます
改めて写真見たら穴が開いてました
鎧兜は折衷様式の種類も数も半端ないのでカテゴライズするのが間違いではと錯覚しそうですね
記された本は早速探してみます。
笹間氏の著書は文庫本のみ持ってますが分厚いハードカバー本もありましたね
本一つ買うのに難儀してる中、甲冑購入は夢のようですが将来的には購入したいです。
815 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 17:59:44
山岸素夫著「日本甲冑の実証的研究」
石田謙司「甲冑士・明珍宗恭と語る」
この二冊も目から鱗ですよ。お奨め
816 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 18:07:25
訂正=「甲冑師・明珍宗恭と語る」 です。
ちなみに笹間良彦氏は山岸素夫氏の研究を書籍などで真っ先に発表して
研究成果を自分のものにした事で有名です。
>>812-816 重ね重ねありがとうございます
甲冑系は物も本も希少で高価ですね
当時の武具は竹槍しか持ってません。100円でした
具足は実際役に立ったのだろうか?
治安完全装備を長い間してたんだが、熱が篭もって体力消耗するのと痒みでかなり辛いものがある。皮膚病もちの人は堪らなかったようだ。
水も吸って重くなるし。
勿論、玉は貫通する。
肩や胴、腿を守る僅かな防具で良かったろうに。
昔はアトピーなんかはなかったんじゃないのか?
それに昔の人間は頑強そうだし
衣類が今より荒くて、質の悪いものをつけてる民衆には皮膚病が蔓延していたよ
>>818 刀や槍で戦うのに甲冑着てると着てないとじゃえらい違いだろ
822 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:40:44
823 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:53:14
ヨーロッパの場合、18世紀になると一部を除いて甲冑を身につけなくなる。弾丸をふせぐことができないならば甲冑は重いだけ。それともうひとつ、優れた毛織物が普及して丈夫な軍服が作れるようになったことが、甲冑が廃れた理由だろう。
そもそも甲冑は、刀や槍に対する防御力ばかりでな、く激しい運動に耐えられる丈夫な衣服としての意味があったのではないか。
824 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:51:51
>>821 ま、そうなんだけど、刃物での突き、矢玉に対しては大抵の具足は殆ど意味がないでしょ。
紐と革なんだし。
打撃と斬撃を防ぐためだというなら、大出血を伴いやすいところのみを守るので十分。
刺子で十分だね。
826 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 01:33:06
刺子は斬撃にも弱い
というか刃物には強くない
刺子はそう簡単には斬れないぞ。
あの硬さ、厚さはかなりのもの。刀が起きてしまう。
野外活動にも無類の丈夫さを誇る。
甲冑を着ないで活動していた兵士はいた。
衣服の上から切りつけても刃筋が整ってないと届かないんだって。
まして動いている相手を狙い定めて切るのは難しいだろう。
秦の兵馬俑に鎧を着けていない兵士像がいくつもあるのも、
同じ理由で衣服だけで戦に臨んだ者が結構いたからだと思う。
というか陣地の防御兵器(盾、やぐら、土石塁、柵とか)が
実戦では重要じゃないか?
おそらく最古の土嚢こと米俵も忘れないでください
長谷堂合戦の屏風に描かれてる鉄砲隊は鎧着てなかったね
830 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 13:10:16
というか、鎧を着てるときと着てない時の打撃による打ち身の違いってどんなもんなのかな?
831 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:15:15
刀は厚い衣服でも何とかなったかも知れないが、槍や矢に対しては鎧のように硬いものでなければならなかったろう。
ついでに言っておくと、戦国時代にも使われたほろを、矢を防ぐためのものというのはガセ。カーテンのように垂れ下がっている布なら矢のエネルギーを吸収することもあるが、体の上にかぶっても危険なだけ。
甲冑買おっかな。
833 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 22:00:10
刺し子は刀じゃ簡単に斬れない?バカ言うんじゃないよ
>ほろを、矢を防ぐためのものというのはガセ。カーテンのように垂れ下がっている布なら矢のエネルギーを吸収することもあるが
矢の(運動)エネルギーを吸収するのでは無く、矢の運動方向を逸らすのが主目的
ほろを完全に背中に密着させているとでも思っているの?
835 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 00:42:34
信長公記の首巻に、信長方の鉄砲の名人橋本一巴と敵方の弓の名人林某が一騎打ちをした時の話が載っている。勝負は相討ちになったのだが、とどめを刺すため前田利家の弟で信長近習の佐脇藤八が倒れた林の許にかけよった。
ところが林は重傷を負いながらも、いきなり抜き打ちで佐脇に斬りかかり、その右手を籠手ごと切り落とした、とある。鉄でできた籠手でさえ名手の手にかかれば切断できる。布に防御力は期待できない。
籠手は革と布製のものも多い。
>>834 だね。
ほろの作りは風をはらんだかのような形状にして視覚的な華々しさに若干の防御力を込めている。
今日の天地人で上田衆の人々が桃形兜を被ってたな
大河で桃形兜は初だろ
緒方直人の信長(笑)で散々出てきた
840 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 01:35:55
兜の形だけでみて、一番安価にできるのは?
塗りや箔押し、マエダテとかに凝るのはなしで。
>>840 合子形兜。100均のバケツか鉢植で代用
白檀塗緑十字型押土方形兜。
845 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:17:20
>>807 1600年3月大分にオランダ船リーフデ号が漂着した。船体は傷み、乗組員は半数以上が死亡するという悲惨な状態であった。
船は堺に回航され、家康の管理下に置かれることとなった。日本で新たに船員を補充する見込みはなく、船長はこれ以上の航海を断念した。
詳細は不明ながら、家康はしかるべき対価でこの船を積み荷ごと買い取ったと思われる。
当時の船には敵対勢力との戦闘に備えて武器類が装備されており、リーフデ号にも当然のこととして甲冑、火縄銃、火薬などが積まれていた。
家康はこうしてまとまった数のヨーロッパ式の甲冑を手にした。
846 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:08:15
>>686 織田信長の甲冑の偽物曝露って、建勲神社の胴丸ですか?
「図録・日本の甲冑武具事典」の139ページに、「江戸時代中期の胴丸」の説明があって、そこで写真引用されていたけど。
あれ、重要文化財指定だから何故かと不思議だったんだよね。詳しい人教えて下さい。
>>846 あの本に信長の甲冑の話題はでていなかったよ。織田家の誰か(江戸時代の人)
の具足の写真は載ってたが。偽物甲冑の話ならあの森乱丸の具足のことが
上っていた。
特定の個人への非難・悪口が結構出てくる本。該当人物をAさんBさんと
ぼかしているが、まあ知っている人はすぐにわかると思う。面白く読めるか
胸糞悪くなるかは読者次第。
848 :
846:2009/02/16(月) 23:21:09
>>847 お返事どうも有り難うございます。
しかし、「図録・日本の甲冑武具事典」の胴丸の件は、柏書房の編集ミスなのでしょうかね?
出版社にメールしてみます。情報をお持ちの方がいたら、ご教示お願いします。
>>848 建勲神社の胴丸については、笹間氏は他の著書でも古物を仕立て直したものとして
書いていました。
明珍さんの対談本にも信長の甲冑の話が出ていました。今さっき思い出した。
東京の西光寺の住職が、信長が謙信に贈ったという金小札胴丸を持っていたが、
上杉神社にその胴丸に添う大袖があることを知り、何とか自分のものにしようとする
話だったような・・・西光寺には武田勝頼が浅間神社に奉納した星兜もあると聞いています。
850 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:54:25
建勲神社の信長胴丸は、柏書房 日本の武具・甲冑辞典(笹間良彦)でも江戸時代中期に分類されているので、誤りではなく、著者笹間氏の見解と思われる。
詳しい説明はないが、胴、袖などの小板が不揃いであることから、江戸時代の尚古趣味によって作られたものと判断した模様。その種のものとしては出来が良いとのこと。
私は実物を見たことがないので、なんとも判断しかねる。重文云々に関しては、着用者のネームバリューによって決まる傾向があるようだ。
851 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 02:34:18
>>849 勝頼の兜についてはとりあえず富士宮市にも
一報してあげた方がいいような・・・。
同じものかはしらんけど、明治時代の神仏分離令の煽りで
浅間大社が社殿のみならず社宝類まで荒らされた時に
それまであった各武将達が奉納した太刀や甲冑類も
ごっそり盗まれてしまって、その中には勝頼が奉納した
兜もあって確かずっと探していたような・・・?
甲冑はどうにか守れて国宝として今は国立美術館に
展示されているけどね。
もし、その時の兜なら返すべきところに返してあげたほうが
奉納した勝頼も喜ぶんじゃないかな。
852 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 09:37:17
西光寺は東京にある寺で亡くなった住職がスパー甲冑コレクターと聞いている。
目利きも相当なもので数多くの名甲冑を高額で購入し秘蔵されていると噂を聞きます。
854 :
846:2009/02/17(火) 21:25:36
>>849,850
ご両所とも有り難うございます。
しかし、笠間氏の主張通りなら、重要文化財指定までされた甲冑の由来もいい加減なものですな。
あるいは柏原藩で江戸中期に作られた織田家版「御写形」といった物なのかも知れませんね。
あと、柏書房から回答ありましたらご報告します。期待薄ですが・・・
戦前は腹巻一領が楠正成の名前だけで国宝になったことがあるから
そんなもんでしょ。今でも斎藤別当の笠ジコロの筋兜(!?)が、
義経の色々威腹巻(!?)が重文指定になっているんだから・・・
伝来よりも時代や作域で判定されたと信じましょ。
>>853 そのサイトの管理人にもメールをしておいたけど、大学の卒論で
武田関係の研究をした時に浅間大社にもおじゃまして奉納された
甲冑類の話になった時に兜が盗まれたのは明治時代初期の騒乱だと
はっきり言っていたぞ?
関係ないけど大河風林火山を放送していた時に浅間大社で太刀や甲冑類の
特別公開展示をやったから見に行ってきた。
何が驚いたって展示されたものもだけどガラス越しじゃなく間近で
触ろうと思えば触れる状態の展示で感動したw
写真撮影もOKでデジカメを持っていかなかったことが未だに後悔。
もう一回やってくれないかな・・・。
857 :
846:2009/02/17(火) 23:57:45
>>855 たしかに、春日大社の赤糸威大鎧などは、義経や義家など明らかに時代が異なる「伝」でしたね。w
話は変わりますが、畳具足は江戸初期から普及していたんでしょうか?
参勤交代その他で便利そうなものですが、ネット上では一部幕末の具足だとおっしゃっている方もいるようなので。
畳具足の原型としては、大阪金剛寺の古頭形兜(シコロがカルタ札)とセットの物がある。
これはカルタ札を鎖でつないだおなじみの作りをしている。
靖国の遊就館にも、昔カルタ札で仕立てた腹巻が蔵してあったらしい。現在その腹巻は
行方はわからないが。
室町後期から簡易甲冑としてある程度使われていただろうが、ものがものだけに消耗が激しく、
ほとんど残らなかったと思われる。ただドラマで足軽全員が着ているのはありえないだろうね。
量産しやすいので幕末の急ごしらえ品が多いのは事実。あとは大名が非常用として携えていた
高級品も残ってます。
甲冑系から話がそれて悪いが
>>856 富士宮出の者だが場合によっては戦後としておいた方が
いいこともあるからな。
明治政府の神仏分離令を盾に富士山にある仏像を徹底的に
排除する先導指揮をとった最悪な当時の浅間大社宮司は
宍野半という【薩摩】の人間。
そして、宮には次郎長という地名からもわかるとおり
清水の次郎長関係者が開墾した場所があってだな・・・
おっと、誰か来たようだ。
860 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 17:16:06
歴史ドラマで畳具足が使われるのは、小道具として保存しやすいからだろう。たぶん三分の一以下のスペースに収まるはずだ。
何十個もある場合、この違いは結構馬鹿にできない。
861 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 19:55:58
テレビの時代劇やドラマで畳具足なんて見たことないな
862 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:38:22
カルタ札の具足なら時代劇で足軽がよく着てるよ
863 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 00:39:57
おお、森あがっているな!
864 :
846:2009/02/19(木) 00:59:21
すみません。何か混乱してきた・・・
実戦があって大量に使用されたのは幕末に間違いないが、江戸初期にもあることはあった。
こんな感じでしょうかね。
865 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 02:51:44
>>859 要するに盗まれた挙句に正規ルートにせよ闇ルートにせよ
巡り巡って甲冑ヲタの和尚がそれを入手して今に至ると・・・。
最終的には寺と神社の話し合いになるだろうが、鎧好きとしては
神社に戻ることでかつての一式がフルで揃うのであればこれに勝る
喜びはないけどな。文化価値もあがるしさ。
866 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 10:43:53
甲冑師・明珍宗恭と語るの78ページに武田勝頼の兜の記載がある。
「あれは戦前、駿河の一の宮・浅間神社にあったもので、先生の本にも出ている。
遊就館(靖国神社宝物殿)に入ってから広島に流れたのね。その兜の吹返しについていた梵字は
九州にあった火縄銃についていたんだっで。その梵字の紋だけでいいのに
芳賀さん(
>>852)は百万円も出して銃ごと買ってその紋を外したけど
その紋の複製をボクに作らせて本歌は桐箱へしまった。元は富士山の前立がついていたけど
なくなっていたから、ボクが新しく作った。芳賀さんらしいね。」
住職どんだけ金持ちなんだよ・・・
坊主丸儲けだな
868 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 17:30:37
このスレの瞬発力は凄いな
869 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:59:47
>>865 今の住職がよほど奇特な人でない限り神社にはまず返さないだろうよ。
兜が流失した経緯ですら、片や明治時代盗難に遭い以後不明、
片や戦前までは浅間神社にあったのが戦後靖国や広島を経て入手と
(個人的な意見だが戦後流出はいささか無理があるような)
言っていることが全く違う。
>>866 折角作ってくださった明珍さんには悪いけどあの前立ての富士山は
変にスマートすぎて何か激しく違和感があるような。
870 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 13:13:06
>>865 靖国神社の遊就館旧蔵で、現在行方不明との但し書きがついた火縄銃の写真を、昔持っていた本で目にしたことがある。遊就館からこれらが失われたのは、アメリカの占領軍と関係がある。
アメリカは軍国主義と関わるものの所持を禁止し、たとえば江田島に保存されていた佐久間艇長の潜行艇とか、靖国にあった樫村の片翼96艦戦とかをスクラップにした。
今日、アメリカが大規模な刀狩りをやったことはあまり知られていない。靖国から戦後流出は十分ありうる。
知人づてに聞いた話だが、その住職が数年前に亡くなったそうだ。
その時の遺言で死後30年間兜の公開を禁じたとかなんとか・・・
872 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:00:38
てか…そもそもの話なんだが戦前まで浅間大社にあったとされる兜が
なぜ戦後急に靖国にあったことになってるのだ?
しかも兜だけが出るというのも神社への奉納物だけにおかしな話。
浅間大社だって神様に奉納されたものをむやみ勝手に
ばら売りするようなことはまずしないだろう。
何かこのあたりから既にキナ臭く感じる、この兜の流失裏事情。
873 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:41:22
>>871 その話は私も聞いたことある。
民法でいう取得時効は20年だ。
どこの大名家でも、戦中戦後のどさくさで、信頼して預けたはずが所有権が・・・何時の間にか盗まれて・・・生活費と交換して・・・
というのはよくある話なんだよねー。
で、手に入れたほうはその経緯があるんで所有してることを表ざたにしたくない。それに所有権が認められても、相続税を恐れて
隠しっぱなしというのもある。
刀の場合は戦中に警察へ供出、戦後は米軍へ提出で失ったものが多いよな。
875 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 19:07:03
>>874 吉良家に伝わっていた源氏の秘宝、太刀薄緑は
明治9年に行方不明になっている
最悪、軍刀に直されてどこかのジャングルか海の底
876 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:25:07
あの〜、スレの流れとは違うんですが、
坂上田村麻呂が着けていた甲冑はどんな物だったのでしょう?
大魔神が着ているような甲冑だったのでしょうか?
877 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:35:31
878 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:36:36
田村麿は褌一本に節刀を帯びたほとんど裸体にちかい姿で陸奥に向かった
879 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:36:03
坂上田村麿は死後、甲冑を身につけたまま埋葬されたそうだから、将軍塚を発掘すれば分かるかも知れない。
日本甲冑史なるイラスト集を描いた中西立太画伯がご逝去なされたらしい。
ご冥福をお祈りすると共に、どんな本なのか見てみたい。
>>880 A
mazonで買えるから、故人への供養と自分の勉強と思って買ってくれ。
>>880 甲冑史の下巻がもうじき出るんで 買いましょう
883 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:32:08
>>876-881 うわ、中西先生亡くなったのか・・・
まあ、詳しくは是非、日本甲冑史 上巻(大日本絵画 3500円税別)を買っていただくとして、
田村麻呂率いる官軍の兵士は綿襖甲、指揮官は挂甲で、アテルイは大魔神のようなやや
旧式の挂甲という推定で描かれています。裏表紙がこの場面のイラストです。
885 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 15:41:28
886 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:41:56
大鎧は格好いいなぁ
ある程度ピザでも着られるし
887 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 22:21:14
888 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 13:02:06
>>887
三月上旬らしい
>>889 諏訪工芸の製品だな。もちろん現代作
鎧を買うならこの会社より丸武にしなさい
クオリティが違う。まあ本歌がベストだけどな
891 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 21:39:27
>>890 体の大きさの関係で本歌は着用できない。
諏訪工芸の甲冑は出来が悪い上にすぐ痛む。
それに着用が非常に難しいからな。
893 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 01:35:05
絹製の鎧直垂売ってる店教えてください
894 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 12:59:15
>>890 見るだけで製作会社がわかるもんなんですか?
まあ勉強第一なんでしょうが、コツみたいのがあれば教えてください。
ハロワの求人で時々丸武産業の名を見かけると、鹿児島まで行って就職したくなる衝動に駆られる。
しかし丸武で一生働くならともかく、その後丸武で学んだ技術をどこで生かせるか?
観光客相手にミニ甲冑でも作るくらいしか思いつかない。
896 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 22:05:38
>>893 丸武は?オーダーとかでないのかな。でもこの節句前の時期はたして作ってもらえるか疑問。楽天のホームページみたらやっぱりほかの人形屋と比べものにならないな。てか丸武最近、テレビ、雑誌にすごくない?丸武は不況関係なしか?
ミヤマクワガタの大顎と頭を意匠化した兜を作ってくれるところは有りませんか?
前立でなく、兜全体をミヤマにしてみたい。
>>897 ラフ画でもいいからイメージを見せないと…
しかしそれ兜だけでも100万くらいするんじゃない?
悪いこと言わないから前立か脇立にして貰え。
実際に作るとなったら板金加工が主なんだろ?
鉄床使ってカンコンするのも楽しそうだな
900 :
ミヤマ:2009/03/08(日) 23:14:45
絵心がないので…。
デカいミヤマが兜にベタっと乗った感じです。
家康の水牛兜の角が天辺でなく、前にぐわっと向いた感じで鋸つき。
兜天辺は、ミヤマの頭をデフォルメして、浅い一の谷になると。
シコロは羽根を開いたのの意匠化。
クガワタツマミみたいな感じか?
903 :
名も無き大阪人 ◆c68ywQ2shI :2009/03/09(月) 09:20:53
防弾鋼をケプラー繊維で威した鎧とか作ってみたい気がする
我ながら、とってもDQNな発想だけどw
904 :
ミヤマ:2009/03/09(月) 12:44:01
>>901 そうです。
但し、大顎は脇から出ず、前から打ち出しか、革に漆で固め抜く感じで厳めしく。
あくまでも写実的に。
兜に止まったミヤマがまさに飛び立たんとしてる瞬間をなんとか。
905 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 13:30:29
プラスチックで前立て作って、兜にくっつけてもらったほうがいいんじゃね?
丸武に変わり兜で依頼しな
907 :
名も無き大阪人 ◆c68ywQ2shI :2009/03/11(水) 18:51:15
古来の製法にこだわるなら、張貫かな
早い話がハリボテ、造形に自身があったら
粘土で原型を作って、和紙を糊で何重にも貼り付けて
形を整えて乾いたらはずして、漆をかけて、それを兜に乗せるとか
漆はカシュー漆とか使ってさ。
ううむ、やっぱり素人だと無理かなあ
>>904みたいな戦国武将相手にさぞ昔の鍛冶師達は苦労したろうねぇ…
その結果が意匠溢れる変わり兜だけどさ
ミヤマ兜完成したらうpしてくださいな
注文が職人を育てる。
910 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:08:31
この前の鉄腕ダッシュで金槌で銅板曲げて鍋作ってたけど
鎧もあんな感じで鉄板曲げて作るのかな?
911 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 00:04:52
腹巻きの上に直垂スタイルがかっこいいと思う
別スレでこちらをお薦めしていただいて参りました。
実家、長野県南部の農家なのですが、鎧兜が二組あります。
どこで鑑定してもらえば良いでしょうか?
また、農民が持つのを許されるレベルなんでしょうか?
一つは黒塗りの万歳して頭からランニングシャツの様に入れる簡単な胴に円錐型の笠で
映画で見る足軽の装備ぽいんですが、
二つめはオレンジっぽい塗りで、鎖帷子に腕を通してから腕甲?と手甲などを装着する
ちょっと凝った作りでした。けれど兜の正面は武将達の用な飾りもないシンプルオレンジな兜です。
実用品?でも農民にこういった鎧が下賜されますかね?
刀は70cm位の黒塗りが3本、鮫?皮貼りが1本あります。長刀ではないですよね?
教えてちゃんですみません。どこにいけばいいのかもわからず‥
テレ東に持ち込め
怪しげな古道具屋の親父が安値を付けて買いたたいてくれるから
>>913 県や自治体の教育委員会や文化財関連の部署に頼んで調べて貰うのが無難だと思います。
ある程度適当な制作時期や伝来等はそれで調べて貰えると思うけど、費用の有無は不明です。
長野南部は譜代親藩の家がちょくちょく入っていたりしますが…
ご先祖が足軽や郷士から帰農されたか、明治以降お求めになられた甲冑が残っていたのかもしれませんね。
先人は平時、鎧を魂の宿る守り神として大切にしてきた文化があります。
天気のいい日には縁側で虫干ししたり、オレンジの鎧は床の間に飾ったり、状態によっては着てコスプレしたりw…と大事に使ってあげて下さい。
もし差し支えなければ、写真うpして頂けると嬉しいです_(._.)_
>>913 取り上げて貰える程高価そうな物じゃありませんよ! と一応ツッコミ
>>915 ありがとうございます。やはり地元の研究されている所が1番ですね。
お察しの通り、徳川家の隠し子が養子でいたり、大奥の高位の女性が島流された藩です。
そういうと偉そうですが、隠し場所には持って来いなひっそりとした土地ですが。
写真うpの仕方が分からないんです。教えていただければ今週実家帰った時に撮ってきますが
917 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:54:44
918 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:59:29
甲冑じゃないけど
丸武で売ってる陣羽織って江戸以降のデザインなんだよね
この前現物を見たが、ちょっと甲冑には合わないかなぁ…
やっぱり自分で作った方がいいかな
921 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 03:14:01
あまりにとんでもないものと判明してうpできないんじゃねえの
オレンジってことは金陀美具足でも出てきたんじゃないのか?
>>921 922 すみません。
撮ってきたんですけど、新しいデジカメでまだPCにソフトインストしてなかったんです
携帯で撮ればよかったんだけど、蔵の中暗くて
明日は二人泊まりに来るし‥
ただ、週末のお笑い番組で良く似た鎧着た奴が「足軽大将」の役やってたんで、
もの凄お約束通りの予感が
初めてで、無茶苦茶でかい画像になっていましたら‥失礼します
布が新しいのは去年母が地元の武具好きの男性に仕立て直してもらったからで、
綴ってる紐も全て新品になってます。古布と紐は処分された様です。
いつの時代か、どこの系統か、足軽大将か、農民が借金の替わりにもらったのか、
何でも分かる事を教えて頂けたら幸いです。
926 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 12:02:36
朱具足は江戸初期の物と思われます。
鑑定価格は100万〜150万円
兜は突ぱい型で胴は二枚胴だと思います。状態も良さそうですね。
陣傘の方は幕末ものでしょうね。
>>924 オレンジの甲冑、時代物なら武田の赤備えか…?
もしくは将軍家の小十人組の御貸具足か、明治以後の井伊の赤備えの流れものか…
足軽甲冑はおそらく大名家でなく、大名家家老の足軽のものかと思います
三引紋がどこの家中のものかまではわからん、恐らくご当地の家老のものかな?
素人の見解なのであまりあてになさりますな
やたらと状態がいいなと思ったら仕立て直してあったのか
古布と紐が処分されてしまったのはちょっと惜しいが
朱具足は人気があるから市場価値も高そうだね
塗は若そうだからきちんと武士の家で補修管理されてたものを
幕末以降に譲り受けたものと見るがどうだろう?
あと鎧の手前に置いてある
古いボルトアクションライフルは一体・・・?
まあ銃刀法的には問題がない品だと思っておこう
>>924の赤備え、草摺の角が丸いとか
>>926-928の言う通り相当古いもんだよ。
まちがっても変な古物商に売っちゃらめぇぇぇぇ。
足軽胴も取り外しできる草摺って凝ってるね。家宝にして大事に守りなよ。
長野のほうだっけ?真田家中の侍が使っていた可能性も捨てきれないな。
いいものだから大事にしてください。
>>927 金の輪抜が前立てだから、将軍家旗本の合印だな。
江戸からきたのかな?
>>931 前立がもし当時のものなら…と思い書いてみた
そして信濃南部のある藩は、将軍の御落胤がいるからねぇ
江戸から護衛ってことで小十人組が来てたかなんかで甲冑が残されたんじゃないかな
調べたらいろいろ背景のありそうな甲冑だよ
933 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 01:29:41
色んな角度から撮ってファイルごとまとめてうpしてほしいな
できれば兜ごと胴ごとも
小十人組の具足ってそんなに残ってないよね?
>>928 銃は一瞬おお、と思うんですが確か銃口が空いてなかったような。造りもちゃちだし。
多分昭和の軍事教練の時に使った練習用だと思います。
>>926-931 皆さんありがとうございます。
素人には全く分からない用語と流れの解説に驚くばかりです。
将軍家旗本なんてどうしようと思う反面、古いとはいえたかが農家。
幕末の食うに困った武士から譲ってもらっただけの物かもしれませんので、
純粋に骨董として珍重させていただきます。
2ちゃんねるの中でこきおろされず、こんなに丁寧に考えてくださる所があるなんて
それだけで感激です。本当にありがとうございましたm(__)m
>>934 もれは素人で、中には専門家の方も混じってるかもしれませんが…
正直貴重な甲冑だと思います、大事にしてあげてくださいね
欲を言うと
>>933と同じくもっといろんな角度の写真がほしいですw
>>934 案外、ご先祖は帰農した武家だったんじゃないの?
足軽具足は家来のための物だったとか
>>933-935 関心を持っていただき、ありがとうございます。
ですが、私は関東に定住していますので次回の里帰りはお盆でして。すぐには
>>936 今は併合された地元の神主系の苗字ですので、武家であったとは聞いた事がないんです。
何百年と農民一本(笑。しかしロマンがありますね
落ち武者狩りだったりして
>>938 蔵の中の開かずの櫃を開けたら、血染めの鎧が・・・。
裏山に墓石らしきものが八つ並んでるとか
蔵は大掃除したので開かずの櫃は一個もありませんが、
70p位の刀が4本あるんですが1本だけザリザリに錆びてて抜き難くて
‥もうこのスレの話題じゃないような
>>941 ご心配ならば、お近くの寺社で供養して頂くのが最良
鎧兜はともかく刀は流石に不安だわな…
ザリザリはちょっとよろしくない
放っておくと錆びが深くなってとれなくなるかも。
安研ぎでいいから錆び落としして新しい白鞘に収めるのがおすすめです
研ぎ代は一寸あたり五千円〜くらい、一万円以上だとボッタ
そんな‥冗談で言ったのに家の不幸はこれが原因かと不安になるじゃないですか。
どこの家にでもあるような事なんですが、気になってしまいます。
預けるか研ぐか放っとくか、夏に兄弟で話し合ってみようかと。
アドバイスありがとうございます。が、もうスレッド違いでしょうからいいですよ。
夏にまだここありましたら鎧兜の裏や内側も撮ってきますね。
そういう展開に持っていきたい椰子が多いから気にスンナ
今から夏が楽しみだぜ!+(0゚・∀・) + ワクテカ +
>>944 画像消えてるみたいだから再うpよろしく!
携帯厨なんだが、この画像DLするためだけにネカフェ来たのにショックだ・・・
早くネット繋ぎたい
949 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 06:55:54
>>948 ありがとう!また行ってくる…orz
道民だから鎧自体なかなか見れんのよ
資料館はおろか蔵に眠ってすらいないからね
>>949 旧士族の入植者なら…
渡海費用に売っちゃってるか
シャクシャインあたりの時代のモノか松崎藩のものしかないかな
>>950 有名なのは伊達成実所用の兜と松前藩の遺物くらいだよ
シャクシャイン関連は意外と少ない
本歌の鎧を直に見たのは一回だけだわ
伊達には結構残ってるよね
昔はその本歌の鎧着て武者行列やってたって聞いたことがある
金陀美具足
南蛮具足
羊歯大黒兜具足
総熊毛具足
家康の具足は無駄に格好良いのう…
954 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 01:42:40
ある個人甲冑制作者のブログで故中西立太画伯の甲冑関連の本が紹介されてた
特に日本甲冑史は甲冑の勉強する上ではバイブルになり得るかな…?
>>954 デザインの変遷の歴史としてみれば、実に見やすい
良い本ではあるが、作るとなると難しいと思う。
作る参考にするのであれば、高額ではあるが
柏書房から出ている『図録 日本の甲冑武具事典』がおすすめだな。
大河ドラマの風林火山をDVDで見てるが放送初期の腹巻や胴丸、腹当姿で走り回るのいいねえ
957 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:26:09
紙で出来た甲冑があると聞きそんな馬鹿なと思ったらホントにあった
俺もこれに倣い紙で足軽甲冑から作り始めようと思う
末は南蛮胴でも五枚胴でも作るぞ
このスレで、いまだにうさぎ塾を知らんやつが居たとは…
ちなみに次スレは「2領目」でいいかな?
959 :
957:2009/04/20(月) 22:06:58
>>958 うさぎ塾も小田原甲冑隊も大阪城の真田清掃隊も知ってるよ
そうじゃなくて安土桃山〜江戸時代の和紙甲冑のことだよ
和紙を張り重ねて漆で固めたやつね
今なら模造紙とボンド、ペンキとFRPで作れるかな?
新聞紙使え
961 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 17:39:24
樽平住吉
好きだな、ここの酒。
963 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 00:09:17
所有者自身が公開展示って事だ。
以前から所有していることは知られていたし、写真が本に載ったこともある。
確か、博物館に貸し出したこともあったような気がする。
965 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 01:04:13
966 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 03:55:03
慶次郎の甲冑を酒蔵が所有してるというのが何ともw
写真で見たことがあるが西洋のかかしみたいなデザインだよね
あんなんが槍振り回して突っ込んできたらこえーわww
967 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 06:49:30
食玩で前田慶次のフィギュア出てるけど
やっぱり微妙に違うな本物と
968 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 17:30:25
>>967 エフトイズ社の食玩だったら、モデルになったのは米沢市の宮坂考古館のものですよ。
>>961のとは、傘型兜と肩のマンチラと、デザインに共通性がありますが。
前田慶次所要と伝える甲冑は3点あって、この掬粋巧芸館と宮坂考古館、それに金沢市の
個人蔵で、泉鏡花が旧蔵していたと伝えるものです。
>>966 あそこの死んだ爺さんは日本でも指折りの骨董好きで、焼き物コレクションも凄い。
以前某テレビ番組で、そこの爺さんが持っている元の青磁の壺が、日本にただ一点しかなく、値段が付けられないくらいの価値だと放映された。
爺さん大喜びで、自ら展示室で来館者に説明していたんだが、泥棒に入られてその壺が盗まれた。
ショックのあまり、爺さんは寝込んでそのまま死んでしまった。
ちなみにここの酒蔵は井上ひさしの遠縁。
酒も飲み応えがあるビリビリの辛口。美味い。
970 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 23:37:49
>>968 別モデルなのか…ありがとう!
もっと勉強せにゃならん
>>969 爺さん不憫すぎるだろ・・・
壷は見つからなかったのか
>>969-971 掬粋巧芸館のHPを見ればわかるが、盗まれたのはその壷じゃないよ。
まだ見つかっていないのも、リストと写真が載せられている。
件の壷は青磁じゃなくて染付(白地に青で模様が描いてある)ね。
染付技法の磁器は、明代からと思われていたのが、元代につくられたものが発見されて、
世界に英国と日本に二点しかないうちの一つがそれ。
重文指定で今も掬粋巧芸館にある。
遠目だと足軽と勘違いしそうだなこの鎧
逆に足軽に見せかけて突撃とか慶次郎ならやりそうだね
975 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 14:04:38
だがそれがいい(ニコッ
サイゾーにDJ徳川家康とかいうのが出てたwwww
明らかに赤備えじゃねーかwwwwなめてんのかwww
977 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 20:11:55
978 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 03:18:09
ギリギリ雑兵じゃない小物頭級が着用していたような素朴な腹巻きがほすい
キム兄からもらえ
つぎの更新で落ちるぞ。
しかし鎧スレが2スレ目に続くなんて初めてじゃね?
日本史板的にも快挙だな。
981 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 13:07:04
当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧 [戦国時代]
【鎧】甲冑ってどーよ?【兜】 [美術鑑賞]
↑続きはこっちでやってもいい気がする。
982 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 16:17:25
>>981 いや、前の小十人組っぽい鎧の人がお盆休みにうpしてくれるらしいから
迷わないためにも引き続きここで陣を張るべき
983 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 16:38:19
984 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 17:57:44
うめていい?
985 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 19:01:53
986 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:49:12
埋め
987 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:50:20
988 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 23:51:51
989 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 09:12:21
990 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 09:14:48
991 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 09:34:53
992 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 09:43:47
993 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 09:48:50
994 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:13:05
995 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:16:57
996 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:29:48
997 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:31:17
998 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:33:56
999 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 14:14:16
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日本@名無史さん:2009/05/19(火) 14:16:17
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