1 :
日本@名無史さん:
真田幸村こと真田信繁を語ろう。
「真田日本一の兵」と名高い武勇も華も併せ持つ彼への想いを綴れ。
2 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:07:17
「テニスの王子様」に出てくる人ですか?
3 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:09:59
家康に戦場にて死を覚悟させた人物は信玄とこの真田信繁だけだぜ?
4 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:12:28
5 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 06:27:10
>>506 ツンデレキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!
6 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 03:03:14
7 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 05:38:55
大坂冬の陣で幸村を参謀総長に任命して戦ったら面白かった。淀君と大野冶長が
DQNだったので実現しなかったが実現すればどうなっただろう。先手を打って
京から瀬田川あたりまで秀頼の馬印を掲げて押し出す作戦もあったというのだから
これは面白い。大坂方は勢力12万余・徳川方は約30万・どちらも寄せ集め。
作戦の優劣でかなり変わってくる。歴史的にも挽回可能な勢力差だと思うが。
8 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 15:02:26
真田幸民は真田幸村の血をひくのだろうか。
また幸民夫人(大村隆子、伊東宏子、竹内輯子)のうち1人は真田幸村の血を引く人がいるのだろうか。
10 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:55:38
泗川の戦いでは明の大軍破り、関が原では敵中突破を敢行した島津をして
「真田日本一のつわもの、いにしえよりの物語もこれなき由」
と言わしめた♀
伊達の騎馬鉄砲隊を退けただけでも良しとしようぜ?
人生の大半を無為に過ごしても有名なんだから。
By 滝川クリステル
12 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:28:28
左衛門佐従五位下
13 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:59:28
和歌山県の真田庵に行って来た…
かなり期待を裏切られた感じがしました
14 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 21:21:08
真田幸村は徳川から送り込まれたスパイ
反徳川を標榜していたが、結果的に大阪城の財宝を食い尽くした
秀吉が隠したといわれる兵庫県の猪名川銀山の財宝も真田が
奪っている 結果的に豊臣再興の可能性もつぶしてしまった
確かに勇敢に徳川方に戦闘したという側面もあるが、徳川方に
誉め過ぎられている 首実検を家康がしなかったのもおかしい
おそらく、死んだのは幸村の身代わりだろう
真田の勇敢さを印象付けて本家の安泰を図ったものだろう
15 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:51:13
>14
これは面白い説だ。九度山を抜け出す時もいかにも苦労し、浅野家も大警戒
していたと公表しながらうまいこと抜け出させたとしたら辻褄があう。
以外と真相かも知れないですね。家康も一応真田に華を持たせて一里ほど
逃げたように煙幕をはったのかも知れない。また新説教えてください。
真田信之の松代藩も安泰だったし。
16 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 20:46:04
真田幸村は、大阪城入場後、秀吉が埋蔵したとされる猪名川銀山に
部下を派遣、埋蔵金の一部を取り出したのは事実 その金で部下も
集めたのだろう 埋蔵金担当奉行も大阪冬の陣、夏の陣で戦死している
あるいは発掘後、真田にドサクサ紛れにやられたのかもしれない
息子の大輔だったか、最後は淀君などと爆死したそうだが、あるいは
爆弾を仕掛けたのは大輔かもしれない
真田は事後宣伝のうまい種族らしいが、真田が食いついた武田勝頼も滅亡
最後に食いついた豊臣秀頼も滅亡、忍者の活躍などとあわせて考えると
怪しげな氏族だろう 出自もはっきりしない
巷間、うわさされている真田の武勇伝は真田の宣伝活動の巧妙さを
表すっものといえる おそらく太閤埋蔵金の一部は真田信之が
隠匿したのだろう その金で300年間の安泰を保ったものだろう
17 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 20:57:31
同じく首実検されなかった後藤又兵衛や毛利勝永もグルですか?
毛利は家康本陣に突入してるし
18 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:12:45
ひとつ疑問があるのだが関が原の戦いの時徳川譜代の精鋭部隊3万8千を秀忠に
指揮させたが上田城の攻防で真田親子に翻弄され肝腎の戦いに遅参した大失態
がある。一時秀忠は詰腹の危機だったほどだがこのことは影響しなかったのだ
ろうか?この3万8千が間に合ったら東軍はもっと楽に勝てたはずなのだ。
19 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:20:10
秀忠軍は温存説が最近は増えているようだ
家康にしても西軍にしてもわずか半日で決着がつくとは思っていなかった
九州の黒田如水にしても再び戦国時代に逆戻りと読んでいたから
挙兵した 同じく九州にいた加藤清正にしても、上杉にしても
毛利本隊も同じ読みだろう
あっけなく決着したのが最大の誤算だろう
20 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:28:46
なるへそ。
300年間の安泰って途中でかなり困窮してるぞ。
22 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:01:10
恩田木工の改革なども経ているが・・・。各藩の困窮は共通したものであって
大元の徳川将軍家も困窮し綱吉の時など荻原重秀が小判の改鋳を行っているほどだ。
秀忠は関ヶ原の件で真田にかなり悪感情を抱いていた
信幸も苦労したようだ
>>22 んなこたぁどーでも良い。
埋蔵金の話が本当だとしても、
300年間の安泰とは関係ないって亊だ。
25 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:12:45
真田はもともとは飯綱の修験の流れではないか?とにらんでいる
真田紐なんかで有名だが、怪しげな出自だろう
26 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:06:39
歴史群像は伴氏の流れが真田氏としていたな。
鎌倉時代に、狭田氏が活躍した記録があるんだったかな?
28 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 21:58:43
狭名田だったかな これは確か古い氏名のように記憶している
武田勝頼にくっついて、新府の建設に木曾のヒノキなどで大金を使わせ
結局、武田の財宝を食いつぶしてしまった これが武田滅亡の遠因になる
太閤埋蔵金は多田銀山、多田源氏、多田神社の近くの兵庫県猪名川町にある
太閤が中国の明の王族の白水善を招き、金の採掘方法を学び、飛躍的に
生産量が上がる このとき、冶金方法を学んだものの中に住友の初代がいた
それで、住友グループは白水善の恩をしのんで白水、泉グループを名乗る
その後、住友は別子銅山で当てて、財閥になる
太閤埋蔵金は巨額なものというウワサだが、ウワサだけであるいは少量かも
しれない 主に罪人を使い埋蔵、罪人は埋蔵後に全員処刑される
大阪冬の陣、夏の陣に戦費を拠出したようだが、それに真田が関わっていた
真田丸の建設など多額の軍費が必要だが、おそらく埋蔵金の一部を
当てたものだろう 猪名川銀山を調べると、世情人気の高い真田の
裏の顔が見えてくる かなりの悪党には違いないようだ
真田氏の初見とされるのは『大塔物語』(室町中期成立か)に見える「実田」。
30 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 14:01:25
,:::-、 __
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〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
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【ラッキーレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ株は上がるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
31 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:08:15
★真田昌幸★のことについても触れておくべきなのではないですか?
私は真田家を語る上で欠かせない、むしろ幸村よりも重要だと考えて
おります。かしこ
32 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:22:09
いや、幸村スレだし…
33 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:29:24
でもすでに幸村外にも及んでるじゃない!
昌幸のことも語りたいの!!
35 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 23:18:52
弟2人も語ってくれ。
36 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:32:57
ある日紀州九度山にプラズマ現象が起こり10人の自衛隊員が現れた。
彼らは僅かな食料しか持っておらず。好奇心旺盛で人のいい信繁に
世話になる。やがて大阪城入城の誘いが来る。警戒中の浅野包囲網を
10人の自衛隊員の力を借り突破、無事に入場を果たす。真田丸と名付け
られた戦車などを用いて善戦するがやがて弾薬尽きて討ち死に。
後に彼らは真田十勇士と呼ばれる。
37 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:42:52
そうだったのか 知らなかった
38 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:19:25
保守
39 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 01:24:34
大阪の陣のあと九州の薩摩に逃げて息子の真田大助とこっそり暮らしていたって聞いたことある。
40 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 04:02:07
そう言えば九州にも真田姓の人いるな。
41 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 04:17:49
真田様でございます
後藤又兵衛「孺子(こせがれ
42 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 04:25:45
昭和天皇の義理の息子は、幸村の子孫ですか?
>14
>首実検を家康がしなかったのもおかしい
首実検されてるよ。『駿府記』読め。
>43
木村の首は丁寧に扱った家康が、真田の首をろくに見もせず、犬にでも食わせとけ
といったので、そう思われてるみたいだな。
まぁ、自分が殺される瀬戸際だったしな。
それでも、遺子への扱いは温かいものだったが。
>>45 伊達家が必死にかくまったんであって、家康とは無関係だと思うが。
47 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 02:27:42
花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田が連れて
のきものいたり 鹿児島へ
48 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:59:12
49 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 14:19:35
昨夜、和民で幸隆、昌幸、幸村と飲んだけど、みんな家康大嫌いって言っていたなぁ
50 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 14:23:39
俺も家康は大嫌い
51 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 15:42:47
瀬田で戦をやらせたかった。
53 :
暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/03/03(金) 19:59:30
54 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:18:24
ゲームはやらん
プレステも持ってない
信之でもない
そう、彼は信伊だ。
56 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:34:10
そもそも、瀬田で迎撃して勝ち目はあるのか・・・
瀬田で迎撃して勝ったためしはない。
58 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 20:37:41
やってみないとこればかりはわからない。
59 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 15:16:53
やってみたらあれっ、勝っちゃったw
60 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 15:40:34
真田幸村の子孫はいますか?
61 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 19:00:15
昌幸の妻と三成の妻が姉妹だったと最近知った。
62 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 19:26:28
ゆっきーの子孫は南部だかにいなかった?
63 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 19:32:23
秋田だろ?佐竹さんに匿われたって話有名じゃね?
三成も佐竹に匿われたって話もあるな。
ちなみに幸村と大助はそこで子孫を残したらしい。
今でも幸村の子孫って名乗る人いるらしいし
佐竹がかくまったのは木村重成の子孫だろ
三成の子供は津軽
真田は伊達以外にもあるのか?
65 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 20:32:45
66 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 22:21:48
>25
んにゃ、天台修験だ。大峯山だ。
67 :
:2006/03/09(木) 23:53:36
俺は、NHKの人形劇「真田十勇士」を見て育った世代だから
真田=善 徳川=悪 が刷り込まれている。
68 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 04:01:49
>64
正解。
>67
戦国について無知だった俺は、なんかの小説読んで、昌幸のことを「神」と思った。
ところが研究するに連れて、「面白いオヤジ」に見えてきた。
それが安房神が安房守になった瞬間。
そんな昌幸は今でも最も好きな武将の一人である。
69 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 04:14:19
そうだ、伊達だったな
伊達にいた人の娘だか妹だかが側室になったとかなんとか(記憶が凄く曖昧
片倉小十郎重長以外に誰が居ると?
そのレヴェルなら三戦板で
71 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 06:32:22
四女のあぐりは滝川三九郎一積(滝川一益の孫)に預けられ
のちに蒲生源三衛門郷喜に嫁いだ
72 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 09:50:06
幸村に子孫はいないよ
幸隆・昌幸・幸村で終了
他は傍系だろ
73 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:22:07
74 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:59:55
関が原んとき昌幸・幸村は豊臣、信幸(信之)は徳川についてたために
明治ごろまで真田続いてたと思うんだが。
中学生今期末テストの時期じゃないのか
下げたほうが言いのかなんなのかわからんからage
76 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 17:21:33
ってかさ
幸村だって傍系じゃんw
真田の後継者は信之ですよ?幸村は次男坊じゃん
78 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 01:47:52
でも信幸は分家のまま分かれてるので
幸村が宗家を継いだという考え方もあるらしい
79 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 02:41:35
信州の小さな藩でずっと生き残れたのは凄いよな。
戊辰戦争でもいち早く降伏したし。時代の流れを読むのが上手かったんだろう
と、つくつく真夜中に思ってシモタ
80 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 02:52:38
むしろ生き残らなかった藩の方が少ないかと…
約十万石でも、小さな藩?
82 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 18:19:29
知らない方がいるようなので、一応書いておきます。
幸村の長男は大助こと幸昌ですが、彼は大阪城で秀頼と共に自害。
次男大八は、「片倉」の名で仙台藩士となって、その子が真田姓に戻したハズ。
幸村の子孫は、この大八から続いています。
72も痛かったが79も痛々しいね
幸村の子孫の人は「笑っていいとも」に出演したことがあるよ。
84 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 19:32:05
三成の子孫と緒方洪庵の子孫も見たな
85 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 20:05:59
○真田幸隆 × ●村上義清
武田信玄ですら、手も足も出ず、2回大敗を喫していてどうにかしなければならなかった難敵、村上義清。
武田家臣の誰一人としてどうにも出来なかった、村上義樹攻略を颯爽と現れた新参者の真田幸隆が快諾する。
戦に勝てないのならば敵重臣を寝返らせばよいと、謀略をかけてあっというまに村上義清を攻略した。
信玄公を超える智の持ち主とまで持て囃された。
○真田昌幸 × ●徳川家康
武田家滅亡後、独立し巧みな外交と類まれなる智で孤軍奮闘のまま勢力を拡大してきた真田家。
徳川家康は、真田昌幸の才能に嫉妬し強大な国力と北条との同盟を匂わせ威圧をかけ領土の割譲を迫った。
真田昌幸は恫喝に屈せず徹底抗戦も辞さない態度を取り、それを見た徳川家康は北条とともに
3万もの大軍で侵攻するが寡兵の真田に返り討ちにあい大敗をしてしまう。
神君家康公も関東の覇者北条家も真田には勝てなかった。この戦いで真田家の名声が大きく高まる。
○真田昌幸、幸村 × ●徳川本軍
故太閤への恩義のために、豊臣家の味方をした真田昌幸。
中仙道をとおってくる、徳川軍は城の割譲を迫る
だが脅しに屈しない昌幸は徳川本軍3万を騙まし討ちにしそのままその場に釘付けにして、関ヶ原の決戦には間に合わせなかった。
しかし真田家が奮闘したのに関ヶ原は豊臣側が負けてしまう。真田家を取り潰そうと考えた徳川家康だが
真田昌幸の智謀により真田信幸を徳川側に派遣し、本多忠勝や小松等といった重臣までもが反対したため徳川家も真田家を取り潰すことができなかった。
そこまで計算してしていた真田昌幸であった。
○真田幸村 × ●徳川連合軍
大阪の冬の陣。負けまくる大阪方。しかし一人奮闘していた男がいた。真田昌幸の次男、真田幸村であった。
大阪城の弱点をただ一人見抜き、真田丸を自らの手で築城。敵を撃退し続けた。
大阪城首脳部は、講和をして堀を埋められてしまった。
○真田幸村 × ●ほぼ全国の大名
堀を埋められ、全国の浪人たちは故郷に帰る中、真田幸村はあきらめなかった。
最後を華々しく飾ろうと残った手勢でほぼ唯一奮闘。伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃退し、松平忠直を撃破。
徳川本陣に突入し、家康を切腹寸前に追い詰めるものの力尽きる。
真田幸村が伝説化された戦いであった。
ゆっきー
87 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 21:44:51
御老中
◎◎◎
◎◎◎
信州松代
拾萬石 眞田信濃守幸貫帝鑑間席
御世子
眞田監物幸民
>>85って真田太平記がソース?
つか、真田太平記でももうちょい抑えてるよな。
89 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 22:56:28
>>
微妙にまちがってのも笑える
思い込みだな
90 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:17:25
>>85 まあ、その辺は好みや主観ってなとこもあるだろうから活躍を大きく書くのは
別に構わんのだけどな、
一つだけ忘れないで欲しい。
幸村が大坂の夏で活躍できたのはひとえに毛利勝永のおかげ。
幸村が孤軍奮闘したわけではない。
91 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:21:35
>>85は三戦板の煽り用コピペなので間に受けないように
92 :
小県:2006/03/12(日) 08:13:44
>>85 ・第一次上田合戦(神川合戦)について
徳川方の兵力は7千〜8千。井伊直政の後詰めを加えても1万2〜3千にしかならない。沼田方面を攻めた北条勢1万を加えたとしても2万強といったところ。3万の軍勢は少々誇張し過ぎか。
・第二次上田合戦(関ケ原合戦)について
信幸は関ケ原の頃には純粋な徳川家臣であったため(昌幸の上田本家=豊臣系大名・信幸の沼田分家=徳川系大名)、東軍につくのは当然。よく言われる『犬伏会談の際、東西どちらが勝っても家が残る様、親兄弟を両陣営に分けた』というのは虚構。
・大阪の陣(冬)について
負けまくりというのはあんまり。今福合戦にて木村重成・後藤基次らが佐竹義宣勢を打ち破る等、冬の陣では概ね大坂方が有利に戦闘を展開していた(無論、筆頭は真田丸攻防ではあったが)。
・大坂の陣(夏)について
牢人衆が故郷に帰ったという事は無い。確かに少数の牢人は講和中に大坂を離脱したが、ほとんど(およそ10万)の牢人達は大坂城内に居座った。
また、伊達勢を足止めしたのは道明寺合戦の際で、松平勢と戦ったのは天王寺合戦。両者は別物。
さらに
>>90の言うように、天王寺合戦では毛利勝永の奮戦するところが大きく、また同時刻岡山口では大野治房勢が徳川秀忠本陣に猛攻を加えており、決して真田勢の孤軍奮闘というものではなかった。
93 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 12:24:19
○真田幸村 × ●ほぼ全国の大名
奮戦はしたものの全軍ほぼ全滅、幸村自身も討死してるのに
白星はないだろう。しかも全国の大名相手に戦ったなんて
どこに書いてあった?
94 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 18:45:36
>>93 それを言ったらこのスレが終わってしまいます!!
見逃してヤッテクレ!!
>>94 別に終わらないさ。
負け戦ではあるが、ありゃ凄い。
96 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:00:42
でもさ、85のおかげでいい感じで盛り上がったわけだからさ、
こういうのもいいんじゃん。
85、もっと頑張っていろいろかいてちょ。
97 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:46:42
おれは幸村(信繁)が九度山をどうやって脱出したか
知りたいのだが
98 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:58:01
>>93 いや、あの時の真田隊の家康本陣の突撃で、家康は鉄砲で撃たれて死んだんだよ
だから、幸村の勝ち
>>97 近隣の住人とか呼んで宴会やって、皆酔いつぶれたあと抜け出したとか聞いた
ような・・・九度山に蟄居してけっこうな年月経ってるし、昌幸も死んでるしな。
見張りもゆるくなるだろうし、幸村ほどの男なら立つ素振りを見せない演技とかもしたんじゃね。
100 :
小県:2006/03/13(月) 02:51:36
>>97 九度山の監視を担当していたのは、紀伊の領主・浅野長晟。
浅野家はご存じ豊臣の親族大名であり、長晟の兄・幸長は加藤清正と共に幕府成立後もはっきりと豊臣恩顧を打ち出していた人物。
そんな訳で、関ケ原で破れた真田親子に対し、浅野家中には同情の想いを持つ者も多数いたと思われ、監視自体も比較的緩やかであったと考えられる。
すなわち、九度山脱出はさほど難しい事ではなかったと言う事になる。
(慶長16年に昌幸が病死しているのも要因の一つ。幕府(家康)が本当に恐れていたのは真田昌幸その人であり、逆に言うと幸村の知名度は冬の陣までは殆ど高くなく、よって昌幸死後は幕府から浅野家に対する監視指令も緩和されたと予想される)
具体的な脱出方法としては
『昌幸の法事(伯父の信綱の法要との説も)に事寄せて村人を館に招き、酔い潰した上で脱出した』
『周辺の村の住民が幸村に心服し、脱出に際して同行を志願。監視の目のない間道を案内し、無事大坂に至らしめた』
等、諸説ある。
>>98 その説も良く聞くね。
『実は家康は夏の陣で幸村に打ち取られていたが、公表すれば幕府の安定に不安が残る為、影武者の世良田元信を代役にした』だっけ?
101 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 08:26:49
前にテレビでやってたけど、大阪夏の陣のとき真田幸村が豊臣の財宝持って、秀頼を連れて島原に逃げたって言ってた。本当かどうかわかんないけど。
102 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 08:56:53
天草四郎が秀頼の息子ってやつでしょ?幕府が島原の乱を必死でおさめようとしたのは、豊臣の血が復活するのを防ぐため。島原の乱が農民一揆なのに幕府に対抗出来るだけの財力が何処にあったかを考えると、それが豊臣の財宝だったってやつ。
103 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 11:37:39
しかも旗印が千成瓢箪
真田広之が良い年齢に達してきたしそろそろ主演で幸村やってもらいたいもんだ。
真田広之に幸村なんてやらせるなよ
信之をやらせろ
アホな弟を相手にしつつ、徳川の嫌がらせをかわし、大往生を遂げた熱き男を
106 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:22:58
>>105 はっ?
とりあえず、帰ってオナ○ーして寝ろ
107 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:34:43
以前真田太平記で草刈正雄がやっていたけど、ありゃあミスキャストだったな。昌幸の丹波哲郎は中々味があってよかった
渡瀬も良かった。
お江はかわいかった。
109 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:02:09
お江は鈴木京香にやらせたいな
幸村って普段は穏やかな人だったんだっけ?
意外だ。
111 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:38:39
108
ああ!よかったね!夏八木勲の又五郎もよかったよ
112 :
小県:2006/03/14(火) 03:35:54
>>110 兄・信幸に『生来物事柔和忍辱にして強からず、言動少々にして激し腹立つ事なかりし』と評されたほど。また『性質屈僻ならず、常に人に交はるに笑顔多く和せり』との人評も。非常に温和で物静か、かつ優しい人となりであったようです。
しかも体型が小太り、目が細目だったとも言われ、それらを総合するとまるで大黒様か恵比須様かという容姿が想像できるワケで…
そんな人物が『日本一の兵』と讃えられる程の戦いを繰り広げたのだから、確かに意外ではあるね。
でも大坂城では又兵衛とやたら対立したり
他の将に厭味言ったりして穏和な感じではないけどね
なまじ頭が切れるから愚鈍な豊臣の臣に腹が立って仕方がなかったのだろうけど
114 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 06:16:57
>>112 逆に言うとそういう人だったからこそ何千という兵を
自分の手足のように扱えたんじゃないかな。
大勢の人間の先頭に立って働く人間には何かしら品性
というものがないとこの人の為なら、この人といっしょ
なら死ねるという気持ちなど起こらないと思う。
これは自論だが戦上手と呼ばれた人にはなにかしらそういう
一面があったのではないかと思う。
115 :
小県:2006/03/14(火) 08:42:32
>>113 うん、特に大野兄弟をはじめとした御譜代衆とは仲が悪かったらしい。美濃進出策、瀬田防衛策、京都占拠策…幸村が提言したいずれの策も治長に拒否されている事からもこの事実が判る。
逆にこれらの作戦に同意した牢人衆とは概ね仲が良かった(目立ち過ぎ、とのやっかみがあった事も確かだが)。
ただ後藤基次に関しては、治長の娘婿になった関係か、幸村に限らず牢人衆とは全体的に仲がよろしくなかった様です。道明寺で真田・毛利隊が後藤隊救援に失敗したのは霧のせいでは無く、意図的に基次を見殺しにする為だった、なんて説もあったりね。
>>114 まさにその通りと思う。
言い換えれば『人間としての魅力』かな?
信長しかり、秀吉しかり、信玄にしても謙信にしても、或いは島津義弘や立花道雪、直江兼継…世の名将・勇将と言われる人物達にはみな何かしらの『人間としての魅力』が備わっているように思います。
金で雇われた牢人たちを心服させ、『野戦の神様』と言われた家康を散々に打ち破る程の高士気な軍勢にまでしてしまった事からも、真田幸村という人物がいかに魅力的な男であったかが伺える。
116 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:38:45
真田丸は当時としては、ちょっとした、いやかなりすごい要塞だと思うんだけど。以前学研から出てる『真田戦記』で真田丸のイメージ画を見ました。旅順要塞になんとなく感じが似てたように思う。
真田一族は築城、要塞を造る能力にも長けていたんでしょうか?
>>112 そうそう。その記述。
外見の話といい、結構意外。
でも、名前も信繁だし、兄の補佐役を望まれてたのかもね。
だとしたら無意味に目立っても仕方ないから、当然かもしれない。
なんつーか、過大に評価されてる気がするんだが。
もちろん戦術家として優秀だったろうことは疑わないけど、戦略家としても真に優秀なら、治長あたりは丸め込めないと…。
家康が持ち上げ過ぎというか、大阪の陣が弱い者いじめと思われて反感を買うのを避けるため、敢えて過大に評価し、適当な強敵の役回りとして仕立てあげたようにも思える。
能力だけじゃどうにもならないこともあるさ。
なにせ、世に認められた実績がほとんど無かったんだし。
大坂七将だと木村、毛利、後藤の次ぐらいに好き
121 :
小県:2006/03/15(水) 05:00:19
>>116 その通り。優れた築城術とそれに見合う強力な籠城戦術こそ真田一族の真骨頂と言えます。
【真田丸(丸馬出丸)概略】
中心部:東西約十一間(約200b)
・防御設備
空堀に逆茂木、三重柵の組み合わせ
七つ櫓
二段武者走り
…等々。
無論、父の昌幸が築き、徳川の大軍を二度にわたり退けた上田城のノウハウが真田丸にも生かされた事は言うまでもないですな。
(余談だが、昌幸に築城術を教え込んだのは、信玄の軍師で戦国一の築城の名人と呼ばれた山本勘介であったと言われる)
>>117 特に最近はゲームなんかのイメージが先行しがちだしね。
あ、名前の話が出たついでにちょっと説明すると、幸村の本名『信繁』については、信玄の弟・典厩信繁の名を拝領したという説が有力です。文武に通じ人格的にも優れ、『まことの武将』と臣民の敬愛を集めた武田典厩信繁にあやかるべく付けられた名前だったんだろう。
信幸に関しては解りやすいね。『信』は信玄の俗名・晴信からの偏諱、『幸』は海野一族の通字。後の関ケ原の際『幸』を『之』に変えたのは、父祖伝来の幸の字を捨てる事で、父・昌幸との縁を切ったということをアピールする一種のパフォーマンスであった訳だ。
122 :
小県:2006/03/15(水) 05:32:09
>>118>>119 治長と言うより、本当に厄介だったのはむしろ御袋様(淀殿)の存在。
これには幸村はじめ牢人衆は苦労した事でしょう。
御袋様の判断材料は『作戦の善し悪し』ではなく『秀頼君が安全か否か』だったのです。毛程でも秀頼に危険が及ぶ作戦ならば、御袋様にとっては全てNG。御袋様が『NO』と言えば、家老の治長としてはその意向をを愚直に履行する以外にない、と。
ようは治長は単なる淀殿のイエスマンでしかなかったんだよね。
とにかく、軍略のぐの字も知らない御袋様が大坂方の作戦決定権の全てを握ってたワケで…いかに優れた作戦を提言しても御袋様には理解のしようがないのだから、丸め込みようがなかったんだよな。
結果、戦略の点で有力な案を通す事が出来ず、牢人衆の諸将としては戦術(つまり局地戦)に一縷の希望を掛けるしかなかった。そしてその希望の結晶が、天王寺合戦における家康狙いの決死戦だったのであります。
その結果はみなさんご存じの通り。
『適当な強敵役』なんてのはとんでもない事で、家康本陣の潰走ぶりは『権現様の三度崩れ』として幕府はもとより諸大名家の多くの文献にもきっちり残っています。
123 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:54:54
121
やっぱりすごかったんですね。ちなみに僕は池波正太郎氏の真田太平記が大好きで、戦国武将の家紋も六文銭が一番好きですね。山県昌景の赤備えと真田の六連銭はいいですねえ。
124 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 12:13:54
真田太平記の草刈正雄はかっこよかった。
それでイメージ付いちゃうと、小柄で柔和なオッサン、という実像でコケちゃう人もいるかもw。
実際は、戦場に立つとオーラで何倍も大きく見えるというか、堂々とした別人、みたい
ってほうがリアリティあって面白いよな。
126 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 17:29:08
よし、ちんこだけは大きかったことにしよう
127 :
小県:2006/03/16(木) 05:06:22
>>120 自分も木村長門は好きです。豊臣譜代衆では唯一と言って良い程の傑物ですな!
文武両道に優れ、大坂の陣では冬夏通じて大活躍。
また、冬の陣講和の際は若年ながら正使を勤め、その颯爽とした立ち振る舞いが家康をして感賞たらしめました。
>>123 自分も真田太平記は愛読書です。巻数多めで入門書には適さないけど、真田好きな人であれば是非一読願いたい逸品。『獅子』『真田騒動〜恩田木工〜』もセットで読めば完璧。
六文銭は戦国でも特に独特な家紋だよね。
一般に六文銭とは『三途の川の渡し賃』の事であり、また六文銭はは六道銭=地獄の六道に通じ、これをもって『死を恐れない・命を惜しまない(不惜身命)』の覚悟を表現したと言われています。
敵にとっては、この真田の六文銭ほど不吉で恐ろしい家紋はなかったでしょうね。
『討死の 覚悟真田は 紋で知れ』
山県昌景は、信玄が偉大すぎてとかくその陰に隠れがちなのが残念だよね。あれ程の名将なのに…(泣)
>>124 実は大河版の真太は観た事ないorz
どっかでレンタルしてないかな?
>>125 だね。てか、実際そうだと思うよ。
『真田の大将、鹿角緋威の具足を纏い、手ずから十文字の槍を揮いて先駆ける様は、まさに鬼神とも戦神とも見たり』てな感じの伝聞が何かの史料(状景からして夏の陣関係か)にあった気がする。
>>126 イチモツの大きさまでは知らんが(笑)子供が多かったのは事実。全部で8人(2男6女)の子供を授かっている。
128 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 08:35:42
>>126>>127 戦場に立てば興奮して何倍も大きくなるというか
堂々とした別人みたいというのもリアリティーがある。
狂戦士松平忠直軍団に側面突破を許し、本陣大阪城への突撃一番乗りをおめおめと許す。
そんな不名誉と引き替えの大ばくち、70過ぎの狸爺の首狩り特攻も、戦国最後のジェイソンこと
水野勝成のちょっかいで阻止され、挙げ句の果てに狂戦士軍団の落ちこぼれ西尾某に討ち取ら
れた日本一の武士が真田幸村!
毛利や明石の方が上だと思うが、
十文字槍って確か幸村のだって言うのが残ってるんだっけ?
てっきり刀だとばかり思ってた。
(どっかの本で村正持ってたって言うの読んだけど、
真偽の程は微妙だし)
それとも昔の武将は刀も槍もどっちでもドンと来いだったんだろうか・・・
凄いな。
普通、ごく例外の数人以外は刀は首刈り用だろうに
132 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 00:44:55
騎馬武者クラスなら槍、太刀、鎧通しは普通持っている
武器一つしか持っていないなんて事はありえない
>>132 北畠とか足利とかの何故か不幸になる塚原卜伝の弟子たち
135 :
日本@名無史さん :2006/03/17(金) 08:24:08
真田家トップ5
小松>昌幸>幸隆>矢沢爺>信之>幸村=その他
136 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 13:24:55
真田太平記は大河ではなく、水曜時代劇の時間帯だったと思う。
通販の広告は時々新聞で見るけど、レンタルはあるのかな?
>>130 戦場にて死傷者に占める死因の内、刀によるものは確か1%未満じゃなかったかな。
肉弾戦では武器は必ずといっていい程槍が主流になるよ。
ドラマのように武将が馬を止めたり減速させたりしながら、馬上で刀を振るうのなんてまずありえないから。
138 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 01:05:55
肉弾戦もほとんど無いのだろうがナ、、、当時の戦は弓・鉄砲が主流
日本刀なんて最後は撲殺に近くなるんだっけ?
そんな死に方は嫌だ('A`)
>>136 自分もレンタル探したけど、無いみたいね。
真田丸跡って今は公園だよね。
でかい城だったんだなぁ。大坂城は。
140 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 01:10:22
第1次上田合戦のときの
幸村ってどうしてたんだ?
141 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 14:22:53
>>140 諸説アリ、自分は春日山でお寝んねしてたに一票。
あれは大殿と有能な長男と素敵なオジ様が頑張っただけ。
だとすると、まともな実戦経験がないまま
大生坂の陣にならない?
そんな奴らの集まりだし>大坂
幸村自身に信用が無かったのも仕方ないよなぁ。
>>145 ありゃ、完全に親父さんの口八丁手八丁が発揮された戦いだから、信繁はなにやったんだか…
147 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 11:00:31
信繁の初陣は小田原征伐の時の碓氷峠の合戦とされている。
確かな史料にも出てくる。
>>141 ちなみに信繁が人質として居た城は海津城。
148 :
141:2006/03/23(木) 14:37:42
そうだった海津だったな;
信之は当時は有能な跡継ぎとして認められていたらしいが、幸村は未知数。
大阪の陣で次々と意見が却下されたのは、淀の方の意見もあるのだろうが、
大野からしてみれば、表裏比興と言われた男の子の案を採用して、
瀬田まで出張ったはいいものの、幸村に内応されて挟撃されて全滅なんてなったら
豊臣の名を汚すことになる。どうせ勝ち目のない戦いなのだから、豊臣の名誉だけは
守ろうと思ったものだろう。
149 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 14:42:33
真田は滋野氏。
この一族は小競り合いの戦がうまい。
幸村が特に秀でているわけでもない。
括りが大雑把すぎね?w
152 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 02:28:39
ここに書いてる幸村物語は小説厨の臭いがするな。
153 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 08:33:46
>>151 よく解からない部分がありますが、ありです。
154 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 21:19:28
155 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 21:34:47
歴史なんてどこまで本当か分からない。
しかし、幸村は豊臣に対する義理の心でそっちに着いた、ってのが良い。
事実は知らないが、とりあえず俺はそれが良い。
事実、幸村の一本気な心を好きになった人もいるはず。
スパイだったってのは嫌だなあw真田ならありえそうですけど。
なんにしろ古い。
↑
意味不明
157 :
155:2006/03/27(月) 20:01:05
要は気に入ったんだ。
158 :
小県:2006/03/28(火) 13:43:25
>>155 気持ちは良くわかる。
別段、歴史を突き詰めて知りたいってワケじゃないなら、それでいいと思う。
世の多くの人の幸村像もまた『義に殉じた悲劇の英雄』だし、だからこそ巷談モノとしての『真田十勇士』も誕生したワケだしね。
159 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 20:06:18
うむうむ
三戦板ならそれでいいけど・・・
いや、そのレベルじゃ三戦板でも叩かれるぞ。
161 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:51:13
息子のダイスケもあっぱれ!だよ。真田の武将は武田に使えていた頃から、すばらしい!
162 :
小県:2006/03/28(火) 23:56:58
>>160 まあいいんじゃね?ここは三戦板とはまた違う流れだし。
てか、三戦板の真田系スレ大変な事になってたぞwww
>>161 戦国期の真田一族はほとんどが有能で、何かしら歴史に名を残してるよね。
信玄時代に新参だった真田家が、武田滅亡時には家中屈指の大身となっていた事実からもそれが判る。
幸村は別に豊臣に義理も恩義もないし…
一部の変人以外は全員莫大な恩賞と功名の為に入城したんだよ
164 :
小県:2006/03/29(水) 00:03:13
>>163 まあ史実はそうだけどね。
関ケ原で西軍に付いたのだって、上杉家に対する旧恩に報いるためであって、別に豊臣恩顧がどうのって話じゃ無かったんだし。
新田次郎の「武田勝頼」では真田昌幸は長島城で一揆の指導してたけど、これって史実じゃないよな?
166 :
小県:2006/03/29(水) 01:08:40
>>165 長島で一揆って、伊勢長島の一向一揆?無い無い!あり得んよ!
新田次郎の『武田勝頼』は読んだ事無いが、これははっきり虚構だと判るぞ。
167 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 01:14:32
真田太平記に出てきた
草のものとかいう忍び軍団は
実在したのですか?
168 :
165:2006/03/29(水) 01:58:37
>>166 だよなw
新田次郎「武田勝頼」って割と史実ベースで書かれていて、その中でそんなくだりがあって「アレ?」って思って、
で、疑うにしても考えてみれば真田昌幸の武田家家臣時代ってあんましらないなぁ、ってことに気づいて。
>>164 上杉討伐の軍勢に参加しているんだけど、なにか?
170 :
小県:2006/03/29(水) 07:12:55
>>167 真田氏が小勢力からあそこまで天下に名を成らしめたのは、一つには忍者を効率的に使ったから。
『草』『草の者』等と呼ばれた真田氏独自の忍び集団は確かに存在した筈です。
そもそも滋野三家は元々上信二州の修験道に大きな影響力をもっていたし、
同じ滋野の流れを汲む真田氏が、滋野三家の修験道に対する影響力をそのまま受け継ぎ、それらをベースに忍軍を編成したと考えてもなんら不思議はないしね。
あと、出浦盛清に代表される様に、武田滅亡後に真田に再就職した『元・武田透波』も、かなりの数居たみたいだし。
>>168 だね。
真田一族って、名前が売れてる割に若い頃の様子とかあまり知られてないよな。小豪族の哀しさよ…
昌幸に関しては…
始め信玄への人質として甲斐府中に送られたが、その後信玄の近習に取り立てられる。
その後二十歳前後の頃には武田の縁戚である武藤氏を継ぎ『武藤喜兵衛尉昌幸』を名乗る。同時に甲斐黒駒に所領を与えられ、足軽大将に任ぜられた。
以後、長篠合戦で兄二人が戦死し真田本家を相続するまで、旗本・奉行衆として常に信玄・勝頼の側に在った様である。
…こんな感じらしい。
171 :
小県:2006/03/29(水) 07:17:10
>>169 『埋伏の毒』だよ。
上杉荷担の意思を隠し敢えて討伐軍に参陣、いざ合戦の際は上杉に寝返る、ってね。
表裏比興の昌幸なら、それ位の策はお手の物だったろう。
犬節会談の後討伐軍を離脱したのは、信幸が徳川に従う意思が固く、彼の口から上杉荷担の情報が漏れて敵中危機に陥るのを危ぶんだ為。
また上田への帰路にわざわざ沼田に寄ったのは、あわよくば沼田を攻略し、会津との連絡路を確保せんとした為。
172 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 12:34:47
真田幸村は大谷吉継の娘をもらい。三成、吉継の連名で密書がとどいたんだから、幸村が金で動く男ではない!大野治長がいなけれは、後藤又兵衛などいたし、やれたよ!
酉なぞ付けて気分出してみたりw
>>172 まあ落ち着け(笑)
関ケ原と大阪陣がごっちゃになってやしないか?
言いたい事があるのは判るから、順序よく判りやすい日本語でレスする様にしようぜ?
174 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 12:50:21
>>172 同感だな!
金で動く男なら、大阪の陣で家康の勧誘に乗っているはずだしな!!
第一、秀吉から豊臣の姓をもらったなど、豊臣家には義理がある!!
まして、徳川のスパイなど、絶対に有り得ない!
>>174 大阪陣の際、幕臣となっていた真田隠岐守(幸村の叔父)から幸村へ寝返りの勧誘があったというのは有名な話だね。
この時、幕府側が提示した条件は『一万石での召し抱え』。
それに対し、豊臣方が大阪入場に際して幸村に提示した条件は『勝利の暁には信濃・甲斐にて五十万石を与える』というもの。
数字上の条件なら豊臣方の方が抜群に良かったという事実もあるにはある…
あと、真田氏は滋野一族の血統を非常に誇りにしていたから、秀吉の代に取って付けたように作られた豊臣性を賜ったところで、さして恩義は感じなかったと思われ。
176 :
安房守厨:2006/03/29(水) 14:50:27
大阪城に集められた足軽浪人ならともかく、名の通っている武将が大阪へ入った時点で処断は免れない。
まして、幸村のように蟄居場所から抜け出して、徳川の敵となったのだから、なおさらである。
つまり、最初から死ぬ気で大阪に入った男達の中に金で裏切るような者はいない。
金で動かなかったから凄いのではなくて、残り少ない人生の最後に乾坤一擲、死して名を残さんとしたところを賞賛すべきでは?
こう書くと、幸村は勝つ気で大阪に入ったと言う方が出てくるので、
次に、幸村は徳川に勝ちえたか?
結論から言うと、まず勝てない。局所的に連勝しても、相手は日本全国から集まった武将。
櫛の歯が欠けるように戦力が落ちて、ほとんど無尽蔵の大軍の前に飲み込まれる。
勝てるとすれば、ある程度連勝・大勝して、徳川の中からの寝返りを期待するしかないのだが、
連勝・大勝するには野戦でなくてはならない、城に籠もったところで、いくら長期戦になろうと
家康が死なない限りは裏切りは期待できない。小田原の役が良い例であろう、忍城・小田原と
なかなか城が落ちないにもかかわらず、諸将は、いずれ豊臣が勝つのは明白と確信しており、
動揺すら起こしていない。
では、どこで迎撃するか。
177 :
安房守厨:2006/03/29(水) 14:53:31
最もよい地は京洛であろう、太古から大軍を相手に勝利するにこれほどよい場所はない。
だが、京洛では戦えない理由がある。
豊臣は勝ち負けにかかわらず汚名を被るわけにはいかない、天下の大軍を相手に勝ち目の薄い
勝負を挑んで、京洛を火の海にしたらそれこそ諦めの悪い逆賊と末代まで語り継がれることとなる。
大阪へ続くの道の中で迎撃するための場所とすれば、滋賀県南部くらいなものであろう、
つまり、草津・瀬田・大津付近となるが、これらの地域は大野に蹴られている。
もしここで戦ったら勝てるのか?
これは大阪夏の陣とほとんど同じ結果になるだろう。大阪で戦う分よりは幾分ましかもしれないが、
大量のスパイを抱え込んだ上に、統率のとりにくい浪人衆。大阪の守備兵を除き集まった兵より
かなり少ない軍隊で迎撃することになる。上に書いたように、連勝・大勝はやはり不可能なのである。
つまり幸村の構想は、局所的にでも勝利し、名をあげることそれだけだったのではないだろうか。
それでも、己の信念を貫いて生きた幸村の生き様は賞賛に値するだろう。
宇喜多秀家がいたらな。もう少しはまとまりもあって士気も上がっていただろうに。高い地位と名声もあり、唯一まともに信用できて戦も上手い豊臣方の生き残りとなれば、秀家くらいだからな。
八丈島から脱出はさすがにつらいだろうなぁ…
180 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 19:36:01
なんかこのスレ妄想と願望でものを言うバーサーカーが多いな。
もっと冷静になろうよ
181 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 20:18:32
馬鹿はお前だ。
大体昔の記録自体も信用できる物ではないわ。
じゃあ、とりあえず今知っている事が「事実」となる。
>>馬鹿じゃなくて狂戦士(バーサーカー)ねw
>>176-177 滅びの美学が持て囃されたのは江戸期に入ってから。実際の大坂陣はそんな綺麗事ばかりじゃあない。
幸村らは『牢人』、つまり失業者であったことを失念してはならない。
多くの牢人は(全員がそうだとは言わないが)少なくとも冬の陣に関しては、死して名を残すとかでは無く、困窮する失業生活から抜け出すために大坂に参集したのである。
大坂城首脳陣自体、初めから講和を視野に入れた開戦であった(開戦直後
『淀殿を人質として送るので、牢人達を養う為の加増を』
とする講和条件を幕府側に申し送っている。これは豊臣家が牢人衆を本気で召し抱えるつもりであった事を如実に示している)。
最初から『乾坤一擲』を目指した戦いではなかったという事なのだ。
我らが幸村もまた、慢性的な生活苦(沼田からの借金は膨大な金額になっていた)からの脱出を目指したからこそ、大坂入場を決めたのであろう。
>>178-179 ですな。八丈島脱出も、綿密な計画を練れば実現可能だった様な気がする。孤島だしね。
少なくとも江戸で幕府にバッチリ見張られずくだった福島正則よりは楽に脱出できた筈と思うんだが…
>>180 幸村は日本人にとっては『滅びの美学』の代名詞の様な存在だからね。
多くの講談物もそれらをテーマに書かれているし、そういった物に親しんで来た人にすれば『義に殉じて格好よく死んだ』幸村像を大事にしたいと思うのは無理ないかも。
儂も気持ちは判るな。
>>181 その論はあまりに自己中心的過ぎる。
古代神話時代じゃあるまいし、そんな信用性の薄い記録ばかりではない。多くの歴史的資料は長年の研究によって信頼性が確保されているよ。
スパイなど有り得ないとか、損得勘定で動く男じゃない、的なレスがあるが、
そんな悪い事かな。
幸村は乾坤一擲、名を上げるためで潔かったかもしれんが、真田の倅として頼り
にされたのも、祖父や父が成り上がったからだし。昌幸の沼田氏謀殺なんかをあげ
るまでもなく、けっこうエグい事しとるよ〜。家の為、子孫の為、生き残るために。
そっちのほうがリアリティあって、歴史としてはオモロイと俺は思うんだ。
新田二郎は小説家だからw
後書き読むと、そんな史実は無いが〜
みたいなことを書いていたりするよ。
>>185 同感。
まあこの武将の場合、皆が義の男として憧れる『真田幸村』と史実としての『真田信繁』という二面性を持っているから、人によって捉え方もそれぞれなんだろうな。
昌幸が、信繁だか信之だかに語ったんだっけな。昔、見た父(幸隆)は不眠不休
で、すげー大変だったみたいな。身体中に無数の傷があったそうだね。一般に
一番名が売れてるのは、幸村かもだけど、幸隆好きだなあ。
>>189 戸石城攻略なんかに代表されるように、とかく謀略家としての評価が先に立つ幸隆だけど、実際の彼は謀略だけでなく戦陣においても勇将だったんだよな。
陣頭で槍を振るう事も少なくなかったようで(かなりの腕前だったようだ)、それこそ晩年は全身刀槍の傷だらけだったとか。
若くして一度故郷を奪われた彼が、その故郷を奪った大元である武田家に仕え、不惜身命を表す
『六文銭旗』
を押し立てまさに身命を惜しまず故郷奪還の為戦い、やがて『上信州に真田あり』とまで言われる程の名望を得ていく…
幸隆の生涯を賭した奮闘が無ければ、後の昌幸の飛躍も幸村の活躍も、或いは松代真田十万石も無かったかもしれんね。
↑アンカーの数字間違えた…189は自レスだしorz
>>188へのレスですた。
191 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 09:40:00
ここは私は勉強になるよ。今は、加藤清正 片山丈士を読んでいます。
>>191 それは何よりだ。
ここではいろんな人のいろんな意見が聞けるからね。
儂自身、レスもすると同時に諸氏の意見にもよく目を通し、日々『真田学』の研鑽を重ねております。
193 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:51:05
>>185 スパイするぐらいなら、最初から徳川に降っているはずだが…
面白いもなにも、無いけどね…
194 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:54:54
>>192 貴殿のHNは、「ちいさがた」ですか?
自分は、上田市ですが…
195 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 17:33:45
「一万石での召し抱え」
実績の無かった一介の浪人にとっては破格の講和条件、何故受け取らなかったのだろうか。
大阪が勝つ見込みは薄いし、一万石といったらたいした小名である。
講和条件に、「父親の名誉の回復」をいれたら、勝手に講和しても、後ろ指を指されることもないだろうに。
徳川も、「父親の名誉の回復」くらいは許してくれるだろうし、一万石が嘘でも、冬で活躍した
幸村ならどこにでもあてはあったろうに。
ちなみに、「真田丸」で実際戦ったのは長曽我部って噂を聞いたのだけれども、真偽はどうなんだろう。
196 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:35:43
>>195 長宗我部は、真田丸を守備してたみたいだが、攻撃は殆ど真田隊!
197 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 19:22:07
198 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 20:48:55
残月
iヽ
i !
i !
;'. !
_ / ./
lヽ ,, ‐''"/ハヽ"''/ /
ヽ `ー─----─''" ×
×,, _______ ,, -" ヽ
. //// ,l l l l l l l l l l:l:ヽ
//// l l}ニニ二二二二二ニ{
. ,!i_i__i,---、〉───────‐` ‐、
,! l ∵::,! ./; ̄`〈/ 〈::∵|
,! `ー-/ l;;;;;;;;,,,,,l (●) .lヽ-'
/ .____/::ヽヘ;;;;;;;;;ノ__/ ./|:::ヽ| 負け組のスレか
 ̄ ヽ:::::::::::∨ ̄ \/ ノ:ノ ̄"
200 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 23:01:58
道明寺を忘れたか?
一応、勝ち組って天皇家しかいなくね? 徳川って明治維新の負け組だしなw
>>193 そんな単純な世界じゃなかった筈だよ。
豊臣方にすれば
『“あの”真田昌幸の息子というネームバリューは魅力だが、方や実の兄は家康の娘婿だし…』
という、期待と疑惑が入り交じったジレンマの様な物は感じていた筈だしな。
>>194 如何にも『ちいさがた』です。真田一族にちなんで付けたHNであるのは言うまでも無いです。
上田に住んでるんですか!羨ましい…
>>195 >>
>>
うわwレスしきってないのに間違って『書』押しちったよw
↑の続きですぅ
>>195 昌幸は『公儀憚りの仁』。赦免はあり得ない。
もし赦免の可能性があるとしたなら、もっと早い時期にそれは行われていた筈。
>>196 その通り。真田丸守備は真田・長曽我部両隊が担当していた。
まあ設計者が幸村である以上、その幸村自身が指揮する部隊がメイン戦力になるのは当然と言えば当然ですな。
204 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 13:37:21
父親の名誉の回復で真田丸に籠もって散々活躍した幸村が消えるとなると、
徳川もOKを出す可能性はあるのではないでしょうか?
>>もっと早い時期にそれは行われていた
大阪を攻めることは関ヶ原直後から決めていたことだろうから
昌幸存命の内は、赦免できなかったのでは?昌幸が大阪に籠もると厄介なので。
家康のことだから、徳川も徳川で面目を保てるようにするはずですし。
>>204 なかなか鋭い指摘ですな。
が、やはり『昌幸の赦免』はあり得なかったでしょう。昌幸の死後でもね。
何故か?それは二代将軍となった秀忠が要因です。
周知のとおり、関ケ原の際に徳川本隊3万8千を率いて中山道を上った秀忠は、上田城にて僅か2千の真田軍に屈辱的な大敗を喫し、結果
『天下分け目の関ケ原』
に遅参するという大失態を演じました。
この事は、秀忠の心に真田一族(特に昌幸)に対する深い遺恨を根付かせる事になったのです。
関ケ原後、昌幸・幸村親子は信之の手柄返上と引き換えに助命されましたが、これに最後まで強硬に反対、断固処断を唱えたのが秀忠でした。
その後、家康としては割と早い時期に昌幸親子の赦免も考えていたようですが、秀忠の
『真田憎し』
の感情は一向に軟化しません。すでに将軍職を譲り渡し、名目上は『天下様』となっていた彼の面子を立てる為、家康は結局昌幸の赦免を最後まで行えなかったのです。
秀忠の真田嫌いは徹底していたから、仮に幸村が幕府に寝返ったとしても速攻(恐らく大阪陣集結直後)で改易されたと考えられます。
家康の娘婿であった信之の松代十万石でさえ、幕府の執拗な謀略で幾度も取り潰しの危機に曝されたのですから…
206 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 17:59:11
なるほど、秀忠の存在がありましたね、完全に忘れていました、まだまだ未熟ですね。
スレもなかなか盛り上がってきた(?)ところで、幸村の戦略構想
特に瀬田迎撃策や、夏の陣の「家康を討ち取れば勝機がある」との考えについてですが
瀬田での迎撃は可能か?また家康を討ち取った後の策はどうだったのか?ということを検討してみたいのですがどうでしょう。
208 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 20:19:52
文庫で、1冊でざっと幸村の生き様が分かる本って、お勧めあります?
209 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 02:00:39
幸村という人は意外と歴史の史料に出てきてないので
難しいと思う。小説自体もほとんどが真田太平記なんかも
ほとんどがフィクションだからね。じつは『幸村』という
名前も名乗っている史料がなく信繁というなまえが本当らしい。
210 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 02:15:44
ところで今日は何日なのよ?
211 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 04:23:27
>>202 なるほど…
ただ、残念ながら、真田発祥の真田町は、上田市と合併しちゃいました…
3月32日?
213 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 09:40:02
夏の陣で徳川側に波乱を起こさせるには、伊達政宗の寝返り、屈強の島津軍の加担。
秀頼自らの出馬。昌幸が存命なら彼が軍師として大坂方の全権を握り、幸村は家康の首のみを狙う。
214 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 09:45:54
左衛門佐
>>206 いいですな。やりますか。
>>208 ざっとで良いのなら
江宮隆之著
『真田幸村』
は如何でしょう。
この作者さんは他にも『真田昌幸』をはじめ、『石田三成』『直江兼続』等真田氏に縁の深い武将の史伝小説を書かれていますので、真田系小説の入門編にオススメです。
>>211 そうなんスか!?なんてこった…
おのれ平成の大合併…
>>213 う〜ん…伊達や島津の寝返りはちょっと『トンデモ論』のような気が(汗)
両家とも豊臣に荷担する理由が無いですからね…
秀頼の出馬は、考え得る限り最も実現の可能性の高かった策ですね。と言うか、あの状況で最後まで出馬しなかった事の方が逆に異常と言うか(苦笑)
昌幸軍師論はいわゆる『if論』なので、史実検討に交えるのはどうかと思いますが、個人的には一番見てみたいシチュエーションですね(笑)
>>214 幸村の官名ですね。
>>209さんの言葉を借りるなら、幸村の本名は
『真田左衛門佐 滋野信繁』
となります。
216 :
206:2006/03/32(土) 14:47:12
江宮隆之著
『真田昌幸』『直江兼続』なら読みました、感想はといいますと、昌幸好きの自分にとっては
とても良かったのですが、昌幸を少し過大・正当化しすぎ?で徳川を徹底的に悪にしている感がありました。
登場人物の全てをもう少し魅力的に書けると最高なんですけどね。
直江の方は史実かどうかかなり疑わしい話もそこそこ多くて(笑)
真田町の件は、前にどこかのHPで知ってかなりショックでした、上田祭り(でしたっけ)には行きたいのですが。
で、瀬田案却下後の幸村の戦術についてですが、もちろん大阪に籠もるだけでは勝機はないことは分かっていたと思います。
かと言って囲まれた以上は野戦もしづらい。残りは奇襲ですが、壇さんがやりましたが、
10万を超える相手を撃破する程の効力は無いでしょう、河越は該当しませんし。ゲリラ戦も然り。
ということは、籠城策が決まった最初から「とりあえず講和」を前提とした戦いだったのでしょうか?
しかし、そうなるとその後の幸村の動向が少し不可解なのですが。。
戦国夢想みたいにイケメンならよかったのにな。
218 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:22:25
冬の陣では、大坂方に勝機があったのに。もちろん、幸村が完全なる軍師として軍を統率できる地位にいたら。
加藤、福島が大坂にいなかったのも痛いね。
そりゃ、もし豊臣方に加藤、福島がいたら豊臣恩顧の大名が続々馳せ参じる罠。
でも、そんなことは絶対に起こらないよう家康は手を打っていたわけで。
220 :
名無し曰く、:2006/04/02(日) 10:36:38
まづ、家康より淀を討ち取るべきだったな。
畿内にも関東の勢力があるのだから、瀬田への進出はあまり現実的とは思えないな。
しかも主だった牢人衆が入城した10月頃にはすでにかなり数の増援が畿内に到着してたんですよ。
222 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 11:18:59
真田幸村の最後の状況って、実際のとこどの様なものだったん
ですか。本によって結構、違うので・・・・
勉強不足の私なんで、お教えください。
223 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:28:30
224 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:59:24
幸村は真田丸を出て討ち死に。重傷をおって木のしたで動けない幸村の首をとった侍大将が刺しで討ちトッタト家康に報告、家康は激怒幸村がお前と勝負し討ち死にするか¨幸村は義を重んじる名武将と家康は真田の侍アッパレと語る
幸村が討ち死にしたのは夏の陣だから真田丸はすでに打ち壊されてたよ。
226 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:23:24
スイマセン、大阪城よりわかり易いと思いましたので、毛利ショゥエイの事も書いてあげたいな。携帯からですいませんでした
>>224 何の小説ですか?
家康は「幸村の首などカラスにでも食わせとけ」と言ってたんじゃなかったかな。
それと首を取ったのは越前隊の鉄砲組頭・西尾宗次な。
大御所が西尾を叱ったてのは難波戦記にも書かれてるけど、そこまで幸村を誉めてはいないな。
229 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:08:26
>>185 一万石じゃなくて十万石だね
信繁が 大阪との和議がなれば千石でも仕える といったのを受け
正信信濃一国(41万石)を提示
筋を通したい信繁の言を取り違えて条件交渉を持ちかけ破談
昌幸ん時みたく空手形だろうけどね
ソースは慶長見聞書
230 :
229:2006/04/02(日) 22:09:21
加藤清正の死後、毒殺説が流れたりした後なのに、家康の話に乗るバカはおらん罠。
たとえ家康が手を出さなくても、秀忠は恨み骨髄なわけだし。
232 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:44:46
牢人衆の中では、幸村よりも後藤のほうが人気があった?
233 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 05:20:08
>>224>>225>>226>>227>>228 皆様、レス有り難う御座いました。知らない事ばかりで勉強にな
りました。幸村の最後まで全力を尽くすとこが好きなので、彼の
死に様に妙に興味があります。他にも何かお知りの方がいらし
たら、レスお願い致します。
234 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 09:53:44
幸村の最後の突撃が凄いと言っても、上杉謙信には負けるでしょう。
彼は、単騎で本陣に突入したからね。
235 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 10:14:20
昌幸カコイイ(
家康が必要以上に真田を恐れたのって、三方原以来の武田コンプレックスも大きそう。
237 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 10:49:45
>>236 あーいえてる。これって案外指摘されないね。
238 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 10:56:56
>>237いや、たまにそれ言ってる作家いるよ。
南條範夫の武家盛衰記の真田幸村の項目で昌幸に
絡めてふれてた。
239 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 11:02:38
まぁ武田も真田も凄いわなぁ。俺らより同時代の人のほうが凄さ
を知ってたのかもねぇ。
240 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 12:44:23
241 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 14:07:10
>>215 合併もしらねーのに「小県」など名乗りやがってコノヤロ-!!
俺は正真正銘「上田生まれの上田育ち、悪そうな奴はみんな友達!」
ひかえろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
243 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 15:31:50
以前、どんなに探しても幸村の遺骸は見つからなかったってい
うテレビ見たことあるんだけど、史料的にはどういう裏づけがあ
るんですか?
244 :
名無し曰く、:2006/04/03(月) 15:46:34
信尹が首実検しても本人かどうか分からなかったらしい。
また、幸村等の首は家康が首実検しなかったとも、
実は穴山だったとかは講談だろうけど、それに近いことはあったのかもしれない。
大阪の陣のことは色々なところで脚色されていてよく分かりにくい。
幸村を討ち取った西尾は褒められて加増された類の話もある。
>>242 なんて名乗るかくらい自由だろ、小県なんて名前なんてよくあるし近所探せば五万といる。
245 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 15:57:51
>>244 いゃあ勉強になりました。面白かったです。有り難う。
>>244 このすれにおける「小県」など1つしかないだろ?
叩かれるのはコテの宿命!何も知らない奴に地元名使われて
嫌な気分の奴もいるだろww。シッタカされても困るのよ お前のようになww
248 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:30:29
249 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:56:06
>>247 馴れ合い、と怒られるかも知れませんが、いやぁ感動しました。
247さん、本当に有り難うございました。貴重なもの拝見させて
頂きました。
250 :
244:2006/04/03(月) 18:16:27
自分も半分以上はネタだったんだが、本気に見えたか?
>>小県なんて名前なんてよくある
そんなによくあるわけがないでしょう;
>>247 幸村祭りってのが特に目を引いたので、ググってみた。
六文銭の旗指が沢山あって写真だけでも興奮してしまった。(←病気
福井の博物館に幸村が討ち取られた時に持っていたと伝わる薙刀と采配があるそうですよ。
西尾家に代々伝わっていた物だそうです。
252 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 19:23:27
幸村って薙刀使ってたの?
253 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 20:45:22
224です。
真田について、いくつか読んでいます、が私の好きなのは、真田太平記 全18巻 池波正太郎 新装版 です。
254 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 20:50:23
>>253 同原作のNHKのTV版も良かったよなぁ。
DVDになってるから、レンタルもしてるかもね。
255 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 21:06:08
真田の戦いは人を騙すくずの戦い 汚い汚い汚い汚い
256 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 21:06:11
253です。幸村の構想が.....って感じですね。今は影武者をみています。本当にフエキキに行って撃たれたのか?新田さんは違うし......スレッド違いだな失礼。
257 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 21:10:40
嫡男が分家作った場合、次男が本家相続する場合って結構あったみたいですな。
真田家も関ヶ原がなかったらそんな感じになっていたのかなぁ?
260 :
日本@名無史さん :2006/04/03(月) 22:06:34
>>255 兵者詭道也
騙す方より騙される方が悪い。第一真田家が騙さずに生きろって、
汚いお前のケツでも舐めてろってか?ケツ洗って出直せアホ
261 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:09:54
戦に汚いも何もないだろう馬鹿か?ただ真田は私欲で心がわりはしない。黒田ながまさのようにな。蒲生氏郷、大谷吉継、直江、立花.....などは、名武将
262 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:15:56
260 ちと 笑った♪
263 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:50:22
>>259 実は幸村のほうが嫡男だったって話もあるね。
真田源次郎信繁が幸村で、兄の方は源三郎信幸。
ただ幸村は妾腹だったため本妻の子信幸を兄として
育てた。
264 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 23:02:20
真田幸村。父の死後、譜代の家臣はほとんど兄のもとに帰ってしまった。
最後の戦いで真田幸村が指揮したのは浪人たちだった。
しかし信じられないほど強かった。
赤揃で死装束をまとった彼らは死を決して戦った。このめだつ格好では
逃げることはできない。
真田幸村は旗印となったのだ。家康に二度も苦杯をなめさせた。
最後の戦いでも、後一歩のところまで迫った。秀頼が出陣していれば
あるいは・・。
家康って真田を恐れたのかな?
苦手ってくらいじゃないのかなぁ。
家康は野戦が得意だけど、
真田は籠るのが上手いから。
266 :
247:2006/04/04(火) 00:04:49
267 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 01:19:19
>>263 その説はたまに聞くけど、昌幸は源五郎、信尹が源次郎、他にも確かあったな。
真田氏は幸隆だったか、の代から名前の順序を逆にする風習があったようだから、
そのまま長男信之次男信繁でいいと思う。一説としてはいいと思うけど。
268 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 01:25:31
連レスすまん;
真田氏の祭りは、上田・九度山・大阪・真田町・松代あたりでもやってるみたいですな。
それぞれ調べてみた、順に
終了・5/3〜5・5/7・8/6・?だそうで、ぃゃ行ってみたい。
269 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 01:36:46
>>265 真田というか第一次上田の昌幸だけだろうな
しかも自分が指揮して負けたわけじゃないしね
270 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 07:55:30
確かに秀頼もう20歳、位かな?城さえ出ていたらな。幸村は兄の為真田の旗印も使わなかったらいい。イカス男だよ。
赤備え恐怖症だったんだよ家康は。
272 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 11:01:46
>>266 またまた貴重な写真、有り難う!
花があるねぇ。なんか感無量、ちゅう感じです。
273 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 12:07:33
九度山に行けば、何かいいグッズ売ってますか?
「幸村」って名前ってどっから出てきたの?
信繁本人は名乗ってないんだっけ。
275 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:44:43
しょせん、幸村伝説なんて毛利勝永たちの功績を取り込んで庶民が作り上げたもの。
毛利勝永たちがいなければ、今の半分程度にしか評価されない人物。
276 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:56:22
>>275 ただ、逆に言えば、結局、幸村に関するしっかりした史料が少な
い訳で、本当に幸村は活躍した、とも言えるしね。
その後、徳川天下様になったから、やはり一級史料の発見とい
うのは、もう無理なのかなぁ。
それなりに史料的裏づけの取れていることに基づいて、幸村の
ことについて色々カキコしてくれる人いませんか。
幸村に関する資料集めって、素人クラスにとっては、かなり難し
いことなもんで・・・・・・・
戦闘での個人的功績を具体的・客観敵に示す一次史料なんてまず無いからね。
あっても軍記や覚書だろうし。ましてや為政者の敵方だった人物だし。
ただ風説としても、当時から幸村の功績が際だって評価されていたのは事実。
「言緒卿記」慶長二十年(元和元年)五月七日条
一、大坂落城、天王寺ニテ度ゝサナタ(真田)武ヘン(辺)、其後討死也。
278 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 21:33:14
確かに毛利勝永の活躍はあったしかし毛利勝永の先走りが展開を変えた、何度もギリギリまで!動くなの指示に鉄砲にひるんで先走り†幸村、志ならず。幸村隊は敵が攻めて来ても一切、微動だにしたかったらしい。
279 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 21:37:59
毛利勝永の先走りで参戦せざるおえなかった。もう少しでタヌキ退治ができた。家康は切腹の用意までしたからね。
280 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:08:32
>>278 もし、これが本当の話しだとしたら、やっぱり幸村は凄い武将だ
よねぇ。こういう場合が武将の器量の見せ所だもんねぇ。
家康が大恥かいて、史料の捏造が行われた程、幸村は活躍し
た、という説を個人的には、採りたいねぇ。
日露戦争の公刊戦史なんて、嘘八百だっていうしねぇ・・・・・
>>275 >庶民が作り上げたもの。
釣られてやるよ。
島津家や細川家の真田大絶賛も、庶民が作り上げたとでも?
282 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 09:05:43
>>281 「薩藩旧記」は上方の風聞を、伝えたものに過ぎない。
無論、庶民は豊臣に同情的だった。真田への過大な
評価は、庶民の同情であり、相当な贔屓が入ってる
283 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 09:21:18
「薩藩旧記」の真田絶賛は、夏の陣を実際に観戦した島津家の家臣の手紙がモト
になっていると聞いたが…
細川忠興の「古今これなき大手柄」という『細川家記』も、庶民の噂話程度のもの
をモトに書いたとでも?
285 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 09:53:48
>夏の陣を実際に観戦した島津家の家臣
本当にその場にいたわけじゃないだろ? ソースを詳しく
たまたま上方に滞在していた薩摩の武士が、風聞を聞いて
報告したはずだ。
細川は家康の退却をボロクソに貶して揶揄してるし、真田
贔屓が入ってると見て間違いない
>ソースを詳しく
いま手元に資料がないので、以前読んだ記憶で書いているから、284では
「になっていると聞いたが… 」と書いてるわけだが。
あと、細川の徳川家への反発はあったろうが、古今これなき、とまで絶賛せねばな
らぬ程、真田びいきになる必要もなかろう。
いづれにしても、真田伝説は275の「庶民だけが作り上げたもの」でないのは事実だと
言いたい訳だが。
287 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 10:45:55
2ちゃん名物の荒しとの応酬からゆくと、この高度なやり取りっ!
傍で見ていても興奮するっ!
さぁ、以下もwどうぞ。
幸村幸村と書いている時点で、このスレはネタでFA
289 :
286:2006/04/05(水) 10:59:21
所用があって続きが書けないので、これにて打ち切らせてもらいます。
島津の記録は家臣が国元に送った手紙だが、単に庶民の噂話のみで書いたのなら、
今、上方ではかような噂でもちきりであると書き送るだろう。
武門の誉れ高い島津家の者が、庶民の噂だけで容易に日本一の兵と断言するとは
思えません。
290 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 11:14:23
>>285 アンチいらねってーの!
「間違いない」ってお前何様??馬鹿丸出しなんですがwwww
292 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 11:30:22
この「薩藩旧記」は、風聞、また聞きだな。真田が死んだのは7日なのに
6日に、後藤等と一緒に死んだとしていることからも明らか。
>真田左右衛門、木村長門、後藤又兵衛、薄田隼人、右4人は5月6日
に討死仕られ候、古今希なる働の由候事
それに真田だけでなく、豊臣方を一緒に古今希なると持ち上げているのが
そもそも怪しさ満点
293 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 11:33:28
何がその場にいただよw
>>292 全くダメだな
そもそも歴史なんてモノは好き嫌いで判断するものだ。
もしくは多数決!
お前が信じてるモノも所詮まがい物なのだよ
295 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 11:58:37
>>294 負け惜しみ乙w 実際に戦いを観戦していたら、真田が6日
に死んだと書くわけがない。所詮は「難波戦記」レベルだねw
296 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 12:08:33
うーん、でもですねぇ、博学のみなさんに水を差す資格は、私如
きにはないですけど、第二次大戦の日米双方の指揮官の記録
が、記憶間違いでたた矛盾するというのは有名な話しでして、
幸村ファンの私としてはwいい加減かも知れませんがw、みなさ
んのご議論を聞いていて、幸村の活躍を信じたくなりました。
297 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 13:08:24
>>296 それでよい!
>>295 負け惜しみ??本格的なアフォだなww
何を信じて何を信じないか!お前のは単なるアンチ活動に過ぎん。
それともお前が実際に観戦していたのか??
298 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 13:41:17
薩摩の武士は真田に同情的だったんだろ。秀頼を匿ったとか伝えられる土地柄だし。
いずれにしても、薩摩武士は戦闘を「直接見た」わけではなく「伝聞」だから。
武功もかなりの尾ひれがついたのだろう。
300を貴兄に譲る。
300 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 17:32:30
薩藩旧記 五月七日、御所様の御陣へ真田左衛門佐し掛かり候て、御陣衆追い 散らし、
討ち. 取り申し候。御陣衆三里ほどずつ逃げ候衆は、皆々生き残られ候。三
度目 に真田も討ち死にて候。 真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき
由、惣別これのみ ...
五月七日になってるが…
302 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 18:01:01
これ、どっちが本当なの?
なんにせよ興奮wしますなぁ。
303 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 18:43:01
薩藩旧記の全文がどうなっているかはわからないけど、以下の文も薩藩旧記のものらしい。
>真田左右衛門、木村長門、後藤又兵衛、薄田隼人、右4人は5月6日
に討死仕られ候、古今希なる働の由候事
薩藩旧記は、夏の陣の直後に「上方にいた薩摩の侍が国元へ送った手紙」であるが、
この薩摩藩士の手紙には、上記の一説が述べられている。無論「幸村の討ち死にを
6日とするのは7日の誤りであるのは言うまでもない」
(『大坂冬の陣夏の陣』岡本良一)
>薩藩旧記は、夏の陣の直後に「上方にいた薩摩の侍が国元へ送った手紙」であるが
薩藩旧記は手紙じゃないよ。薩藩旧記雑録として、薩摩藩の史料として編纂されたも
のでその中に藩士の手紙が引用されているだけだよ。
それはともかく
>夏の陣の直後に「上方にいた薩摩の侍が国元へ送った手紙」
夏の陣の直後に薩摩に手紙を国元に送った藩士が、大阪の陣を観ていなかった
とするなら、この藩士は戦の最中は、どこで何をしていたというのだろう?
306 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:39:13
>>304 もちろんそうだが、真田関連の件は薩摩武士の手紙が下敷きになっている
ことには変わりはない。問題は、この薩摩武士は、幸村の突撃の場面を
その実際に自分の目で確認して、国元へ送ったかどうか?
本当に、立ち会って「真田日本一の兵」と言ってるの?
「山下秘録」あたりと語り口が非常に似てるので気になってるんだが。
307 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:17:52
幸村の家康本陣突撃が無かったとしたら大久保彦左衛門の馬印のエピソードも嘘になるな。
真田日本一の兵
って、単なる賞讃かな?
俺は幕府への当て付けだと思っていた。
>>271 遅レスだけど大阪の真田隊って茶備えらしい
昌幸が死んだときに真田の家臣は幸村置いて帰っちゃったらしいから、中の人も浪人が多そうだな
赤備えでしかも武田の将兵を使ってたのは薩摩旧記で「日本一の大手柄」と
記された徳川四天王・井伊の赤鬼の息子、直考だね
家康の馬印ほっぽって逃げたのも武田旧臣系らしいが・・・
310 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 23:24:08
まるで上質の法廷劇を見る様なこの興奮w。司馬遼太郎を読む
様なwこの興奮。皆さん、サンクス!
>>310 流れの中で、合の手入れてるのお前?
はっきりいってウザイ。
後世に伝わる幸村の活躍に誇張があると思われるのは当然だけど、まさか、
幸村の活躍=真田十勇士とか、ゲームみたいな大活躍を指しているとは思っ
てないでしょ?
細川忠興の書簡はこれかな。
真田左衛門佐合戦場に於いて討死。古今之無き大手柄。首ハ越前宰相殿鉄鉋
頭取り申し候。去り乍ら手負い候て草臥伏て居られ候を取り候に付き、手柄
ニも成らず候。
忠興は合戦の現場にはいなかったであろうが、ある意味、合戦の当事者でも
あり、家臣や同僚の大名衆から戦況の報告を受けていたのは当然だろうし、
あえて真否不明な庶民の風説を国許に連絡する必要も無いでしょう。
>>309 茶備えというのは聞かないですね。
有名なのは「大坂陣山口休庵咄」の
のぼり指物具足甲ほろ以下上下ともニ、一色赤出立ニて御座候、馬印ハ金の
うくゑにて御座候。
(中略)
一、同七日旱天に真田左衛門茶うす山ニ赤のぼりをたて、一色赤装束にて居
申候、茶磨山の少東、真田大助、同赤印にて居り申候、(略)、此時真田大助
のぼり西のかたへ少なだれ申を、真田左衛門茶うす山より貝を貳ツふき下知
いたし、親子の勢一ツになり、敵を四五町おいまくり候所、御旗本衆と相見
へ、あらてにて一むれゝ追々に真田備へ乗込、たかへにおいまくり、おいも
どされ廻合候内ニ、もはや大坂ハ町目筋の方はうゞに火の手みえ申候。
314 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:36:33
>>294 歴史なんてものは好き嫌いで判断するものだよw
お前朝鮮人か?
>>314 また流れを悪くするヤシか
いいかげんに死んでくれお
316 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 10:19:16
>>315 歴史は、科学などど違い、所詮100パーセント真実ということが担
保されない議論・学問。法廷うんぬんカキコしていた人がいたけ
ど、法廷と同じで対立議論が、絶対に必要とされる世界なんだか
ら、流れうんぬん言わずに、いい意味で、論争を楽しもうよ。
勿論、荒れてはいけないけどねぇ。
>>306 >この薩摩武士は、幸村の突撃の場面を
>その実際に自分の目で確認して、国元へ送ったかどうか?
>本当に、立ち会って「真田日本一の兵」と言ってるの?
おっしゃる通り薩摩藩士がどこまで自分の目で見ていたか、それは解らないね。
戦場は広いし、大軍が入り乱れて戦ったりもしてるし…
真田と後藤の死んだ日を同じ日にしたり、日付けを間違えてたりもしてるし。
徳川旗本も三里退いた者のみ助かったとか、明らかに誇張だろう。
しかし、報道機関の整った現在も大事故なんかでは、当初情報が混乱する。
薩摩藩士も、情報の錯綜する中、興奮さめやらぬ状態で書き綴ったと思われる。
誇張されているのは、思わず筆が滑ったからだろう。
いずれにしろ、真田の家康本陣突入は徳川方も認めているし、当時から大阪方
の武将の中で信繁が最も高く評価されていた事は、間違いないだろう。
>>317 316じゃないけど、歴史は結局、断定できぬ世界だから、冷静に
見た場合、317の説が最有力説ってことになるんだろうねぇ。
ただ、
>>316の言うとおり、議論自体が意味あることだよね。
流れがどうこう言ってる人いたけれど、歴史好きの俺としては、
この議論をここまで読んできて、大変面白かったよ。
他の2ちゃんのクソスレでは見れぬ世界だね、ここは。
なんで敵方が真田を持ち上げるの?
>>316 んじゃもうくるな。ろくな知識も無いくせに
他スレをクソスレなどと罵倒するような奴はいらん
>>319 持ち上げたんでない、事実なのだよ。
321 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 13:03:01
>>319 それは武士だから。
平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの件や、
岩屋城の高橋紹運と島津軍の件など
武士として潔く、勇敢に戦った敵を
賞賛することなどはたくさんある。
爺の愚痴もある
大阪の徳川は戦争を知らずに僕らは育った〜に近いものがあるからな
323 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 15:27:07
上杉謙信なら、単騎で家康の本陣に突入して楽々、家康の首をとれたでしょう。
>>323 まぁそうだな。
しかしそれも謙信が総大将という立場ならでの話よ。
>>323 んじゃ、武田信玄なら、家康は戦わずに逃げ出したでしょう。
>>325 まぁそうだな。
しかしそれも信玄が総大将という立場ならでの話よ。
突然レベルが下がる件について
>>327 レベル?そんなこと言ってる時点でお前がアアアアアアアアアア
淀を殺してしまえば良かった。
海音寺潮五郎って真田幸村の本書いてたんだな。
どんなんだろう、おもしろい?・・・・って聞いたところで何処にも売ってないんだろうなぁ。
>>330 amazonで売ってるぞ。
扱ってる期間が短いのと、
松姫に思いを寄せる幸村ってのが
メインなので期待を裏切られるかと。
332 :
330:2006/04/07(金) 01:44:09
>>331 あり^^
さて、どうしよ。その話聞くと微妙だな。面白くないことはないんだろうが・・・・。
>>329 いや、むしろヤッちゃったほうがいいw。淀をタラし込んじゃえば軍議の席
でも発言力増大w
やはり、惜しいのはオヤジ殿の死だな。
オヤジ殿が入れば、淀を殺るか、ヤるかして、いいようにできただろう。
家康の狸爺ぶりにも十分に対抗できたはずだ。
幸村以外の諸将にも、ニラミが利いただろうし。
大阪方を戦う集団にするには、本来は不可欠な存在だった。
335 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 13:33:19
親父の年でヤッちゃうのは無理でしょうw
心臓も悪いみたいだし、そのまま本当に逝っちゃうよw
真田の強さが今に伝わっており、なおかつ人気者!
この事実がすべての歴史を語っている。
そしてまた人気者にはアンチが付き物。
誇張とアンチの狭間の中で
真田はもっと強く、人気者となっていく・・・。
1000年後にはおそらく世界最強の軍団として
ハリウッドで映画化、アカデミー総ナメ。
六文銭が世界の通貨単価の基準となるであろう
337 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 17:05:24
278です。 その
ときの家康の旗本衆、酒井、大久保などは逃亡!本田平八郎、榊原康政隊すぐに戻りなんとか.....家康の切腹を止めたのは、本田佐渡。
最近、真田幸村勉強にすれなります。
338 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 17:14:49
大阪の役での徳川は正信はいるけど、歴戦の猛将ほとんどいないよ
徳川16神将でいうと槍半蔵くらいか?
16人には四天王を含むから、もちろん本多平八郎忠勝や康政はいない
譜代旗本が関ヶ原から10年余りで役立たずと化したのは
家康にとっても誤算だったろうな。
将軍家光を支えたのは信之。
なんて呼ばれてたっけ??
そんな兄貴を持つ幸村はとりあえずすごい
>>337 徳川家臣団に関する知識が滅茶苦茶だな。彼らについても色々と調べた方がいいぞ。
本多正信は秀忠の傍におり、家康本陣にいた重臣は本多正純や以心崇伝です。
家康危機に駆けつけ真田隊を壊滅させるのは、一度突破されるも再び形勢を立て直した松平忠直(結城秀康の子)ね
>>340 呼ばれてません。
外様大名の処遇を見れば明らかな筈。
重用されて将軍を支えるのは、譜代や親藩の連中です。
真田は譜代大名です。
半ば譜代扱いだけど、いちおう外様じゃなかったっけ?
344 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 21:26:54
因みに昔高校(中学?)の教科書の
「江戸時代諸大名配置図」みたいな親藩・譜代・外様の色分け図で
真田の色だけどれにも該当してなかった記憶が痛烈に残っているw
信之の経歴は譜代のハズだが、兄・親父が鮮烈だからな。
とりあえず、仙石より下に扱われているな。
仙石より下だと・・・悲しいな。
346 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 09:22:31
本多正純や以心崇伝などは狸の愚痴聞く程度じゃないかな?正純が秀頼らを切腹に追い込んだなんていう話もあったような?ユキムラの浪人衆に
突破されてる狸も痛いよな。
戦国期のオナニーはどのようにしたんでしょう
348 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 11:03:17
小姓に手伝ってもらた
>>341-343 なんだしらねーのか?信之は家光に??殿とえらく慕われてたのだぞ。
なんだっけかな?忘れちまったけどよ
>>349 「知ってるつもり」かなんかでやってたな なかなか隠居させなかったのも
家光が信之をかなり重宝してたとか? 生きた化石だから大事にされただけと
思うけどさー
352 :
小県 ◆9If8vtKZGw :2006/04/10(月) 16:53:11
>>343-344 譜代‥三河時代以来の家臣
外様‥関ケ原以降に従った大名
というのが一般的な区分け方だが、ならば真田を始め保科・小笠原・諏訪・木曽等、武田滅亡から関東移封までに徳川に従った大名はどっちに分類されるんだろうかね?
真田や小笠原・保科からは老中も輩出されている事を考えると、やはり譜代扱いなのかな?
>>351 無双のせいで、ろくに戦国史も知らずに『幸村や謙信は一騎当千の猛者』だと思い込む俄か戦国厨が殖えて困るな(笑)
>>352 小県の事何も知らないで小県と名乗るお前の方がどうかしてわ。
お前はまず現代をもう少し勉強しろ!歴史はその後だよ、知ったか野郎ww
>>353 意味不明www
何が言いたいんだあんたは?
>>354 日本語も勉強してこいwwまずはそれからだ
356 :
日本@名無史さん :2006/04/11(火) 17:13:09
保科・小笠原・諏訪・木曽等は歴とした譜代なのだ。武田と北条の遺臣は大体譜代衆。
真田は何故かどちらでもないらしい。関ヶ原の時に真田昌幸の所領を没収して、真田信之の所領を作り
(昌幸)真田家の家督を正式に継いだことになり、始めて大名となったと考えられるからでは?
>>350 いやいや、決して『生きた化石』とばかりは言ってられないぞ。
第一次真田騒動を収束に導いた時の信之は93歳。老いてなお衰えを知らないその知謀に、世の人々は畏敬の念を込めて『不倒翁』と呼び讃えたとか。
騒動決着の10ヶ月後に信之は亡くなるのだが、彼もまたやはり『死ぬまで真田一族』だったって事ですな。
>>355 なんだ、結局ただの釣りか…
不毛だしスレ趣旨に反するので終了。
>>356 なるほど、そういう考え方か!
関ケ原前の『沼田分家』時代は譜代扱いだったのが、関ケ原後昌幸に替わって『本家』へとスライドしたことにより、譜代とも外様とも言えない微妙な立場になってしまった、と?
>>357 おいおい、釣じゃねーよw
糞コテ死ねよ
お前のような馬鹿に小県名乗って欲しくネーんだよ!
そんなことわからんのか??ホント死ねよ
↑お前こそうぜえよ。なに様のつもりで仕切ってんだ?
さっさと消えろ!
>>360 突っ込むお前もウザイわけだが・・・。
コテ外せばすむことだから外せばいい。
意地になって反論してる小県 ◆9If8vtKZGw もどうかと思う。
>>361 >意地になって反論してる
おいおい、ちゃんとスレ嫁よ。反論もなにも、そもそも議論になってないじゃん。
反論してると言うなら論点は何か答えてみてくれ。
べつにコテハンの肩持つわけじゃないが、合併を知らなかったとか何とかで厨が
暴れてるだけじゃん。
363 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 15:48:24
>358
あくまでも自分の意見なのですが、そういうことだと思います。
幸隆・昌幸・幸村とこの辺の人気や評判も高いのですが、信之もなかなかいいですよね、
見事に家を守りきった手腕は真田家随一と言ってもよいかと。
なにより長寿は武将の大きな武器でもありますし
>>362 おいおい、論点はコテ名だろうに。
止めろ、止めないで十分低レベルの議論だろ?
俺的にどうでもいいが、ウザイといわれただけでおまえも一々絡んでくるなよ
365 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 16:22:28
うざいと突っ込む⇒お前もうざいと言われてコテの肩を持ち暴れる
>>362ww
何これ?自演??
さあ、盛り上がってきました!
>>363 ですな。沼田・上田・松代と様々な領地・城下町の経営に辣腕を振るって確実に実績をあげながら、その一方では27万両という莫大な蓄財をも成し遂げたその政治手腕…
民政家と言う点では真田三代でも随一と言えるんじゃないですかね?
コテうざいな
うざいと言われてるのなら止めればいいのにね!
なに意地になってるの?痛すぎない?
しかも歴史スレでさぁ?
自演合戦かw
このスレは小県 ◆9If8vtKZGw の自演で出来ています
でもいい話してるジャマイカ!!
>>371 ちょwww釣りは気にせんが、自演厨扱いだけは勘弁してくれ(苦笑)マジ違うからwww
つまり
>>364の言いたいことは
小県は我々固有の領土ニダ!勝手に名乗ってほしくないニダ!
謝罪と賠償を要求するニダ!ってこと?
374 :
362:2006/04/12(水) 18:49:04
ま、コテハン止めろと言われて直ぐやめた人なんて2ちゃんで見たことないね。
確かに、止めれば荒れなくなるのは事実だけど。という訳で小県は自演はして
ないよ。
自演してるのはむしろ誰かさんのほうじゃないの?
369 369は臭いんだけどw
>>373 そうなんだニャ?怒るのも無理ないだニャ!
俺も上田名乗られたらちょっとムカツクニャ!
よそ者が我が物顔でしゃしゃり出ているのがムカツクんじゃニャ?
地元愛が強いんでしょうニャ?
376 :
362:2006/04/12(水) 18:52:05
訂正
368 369だ。
>>376 何この素人ww意味不明 煽られて必死にミスったのか?
うざいのお前に決定だお
まだやってんのか、ひつこい連中www
379 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 19:50:40
頭の悪いインターネットさらしあげ!
まだ続いてるよ…
言っておくが、コテ変える気とかさらさら無いから。てか誰がどんなコテ名乗ろうと本人の自由意思だろ。それとも、儂が『小県』を名乗った事で誰かに迷惑でもかかった?
だいたい、このスレでは今までずっとこのコテで通して来たのに、なんで今になって難癖付けられるのか判らんし、そもそも何にそんなにムカついてるのかが全く理解できん。
文句言ってる奴等は、一体何が気に入らないんだ?
つか、小県 ◆9If8vtKZGwはなんか厨臭くて嫌。
なんで、このスレは、こんなに荒れるんだぁ?
>>382 コテがいるからだろ!
変えるきないとか迷惑かけたかとよ、ホント厨丸出しww
自分のせいでこのスレが荒れてることに気づいてない訳よ。
迷惑だからコテ止めろよ
たった一人のコテ、テラウザス
384 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 08:48:18
380 :小県 ◆9If8vtKZGw :2006/04/12(水) 20:04:35
まだ続いてるよ…
言っておくが、コテ変える気とかさらさら無いから。←厨丸出し!これ1番痛いww
てか誰がどんなコテ名乗ろうと本人の自由意思だろ。←厨丸出し
それとも、儂が『小県』を名乗った事で誰かに迷惑でもかかった?←スレの住人、小県の奴w
だいたい、このスレでは今までずっとこのコテで通して来たのに、←俺がスレ主、並の低脳
なんで今になって難癖付けられるのか判らんし、←今に始まった事じゃないww
そもそも何にそんなにムカついてるのかが全く理解できん。←本格的お馬鹿さんw
文句言ってる奴等は、一体何が気に入らないんだ? ←100回このスレ読み直せ
385 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 09:58:44
随分高度な議論が延々と続いてますな。
スレのレベルが良く解りますね。
コテハン筆頭にワロス
真田オタ乙
387 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 14:11:54
まだ続いてるよ…
言っておくが、コテ変える気とかさらさら無いから。
てか誰がどんなコテ名乗ろうと本人の自由意思だろ >さすがにこれはイタイな
さすが真田信者!知識がねぇもんだから、こんな議論しか出来ないwww
恥かしいね。惨めだねぇ。
>>388 お前は何だ?むしろお前の方が惨めだなww
あー最初の頃はよかったのに。下手なコテ付けるから池ね-だよ
コテはどこでも叩かれるからよ!コテやめてくれ!それでだめなら全員コテハンだ
>>389 コテ叩きは禁止されてんじゃなかったっけ?
3. 固定ハンドル(2ch内)に関して
叩きについて
最悪板以外では全て削除します。
注意
自己責任について
どの削除対象でも、投稿者の自己責任が明らかならば、削除されない場合がありますのでご了承ください。
>>390-391 なんかここまですると小県の自演ぽいな〜。
小県は2CH素人っぽいし、なおかつこんな子供騙しを貼り付けるなどまさに・・・。
そんなにコテでいたいのかよーって感じww
自己責任って何なんだ?
394 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 19:06:50
こいつら小県の意味ちゃんとわかって使ってんのかね…
>>394 意味ってなんだ?地名の由来でも語ってくれるのかい?
そうか、んじゃ語ってくれ
>>389 じゃ、コテ外すかね。これ以上フツーに議論してた方々に迷惑かけるのも心苦しい。
よし、心機一転談義じゃ談義じゃーーー!!
真田のせいで大野治長治房が悪人扱いだ、責任取れ
大野のせいで大阪方が負けた、責任とれ!
淀のせいで幸村が実力を発揮できなかった、責任とれ!
コーエーのPS2ゲームソフト<決戦>で、幸村を大活躍させて至
福の気分に浸ろうw。
ちなみに、コレは一応シュミレーションでアクションゲームでは
なく、中古で1000円以下だよ。
参戦板へいけ、チンカスどもが!
404 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:33:45
>>396 荒らしは収まるだろうが、コテハンを叩きに来ただけのキチガイ共は
帰って行くだけ、無責任も甚だしい。結局このスレは荒らしのオナに使われただけでした。
405 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:57:08
コテが気に入らなきゃ、論破して退散させりゃいいのにそんな知識もない輩が
騒いでたのは事実だな。
>>404-405 まあここが静かになるんならいいんでない?
あういう輩はこちらがどんだけ理を説いても聞く耳もたんだろうしね。
コテ外して騒ぎが収まるなら外すだけよ。
>>404-406 お前らも荒しとかわらんな!いいかげん止めろボケ!
コテも中途半端に偉そうにしてるから叩かれるんだ。
理を説くって何様だ??お前全く理など説いてねーだろ!
コテ外すきないと意固地になってただけのクセに何言ってんだってーの。
荒し煽って何してるだかのー。
408 :
◆9If8vtKZGw :2006/04/14(金) 20:36:58
409 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:39:24
>>407 たまにいるんだよね やたら偉そうなコテハン
だんだん ◆9If8vtKZGw がムカツイテキタな
>>404-405に便乗しているとこが特にムカツク ほっとけない餓鬼なの?
410 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:40:48
>>408 だからお前ほっとけよ馬鹿!!
何がはいはいだ
411 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:43:39
406 名前: ◆9If8vtKZGw :2006/04/14(金) 20:08:43
あういう輩はこちらがどんだけ理を説いても聞く耳もたんだろうしね。
↑こういう輩は何をいっても説得力が無い
また、荒らしがわいてきた…
413 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:47:02
荒らしは完全スルーでお願いします。
コテもコテ叩きも両方ウザい件www
415 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:47:21
荒しに理を説くコテハンがいると聞いてVIPから飛んできました!
∧_∧
( ・∀・) | |
と ) | |
Y /ノ .人
/ ) < >_∧∩
_/し' //. V`Д´)/ ←>>荒し君
(_フ彡 /
417 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:49:05
荒しに便乗したコテハンがまた荒しを呼び込んでしまった・・・
418 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:50:11
荒しに理を説くコテハンがいると聞いてVIPから飛んできました!
∧_∧
( ・∀・) | |
と ) | |
Y /ノ .人
/ ) < >_∧∩
_/し' //. V`Д´)/ ←>>荒し君
(_フ彡 /
419 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:50:20
荒らしは日テレでも見てろ
420 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:53:17
早く理を説いてくれwwwwwwwwwwwwwwwww
421 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:54:57
>>419 荒しハケーン!こいつに理を説くのかー?ドッキドキ
>>420 _,,_
w (・ω・ )
(~)、/ i )
\ ` |_/ /|
`ー(_ノ |
( `( 、ノ
wwwww_ノ`Lノ
423 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:55:44
荒らしは完全スルーでお願いします。
真田の話題にもどしましょうよ〜
>>424 ならば、お主が何か真田の話題を振っとくれ。
426 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:02:31
コテハンだとか荒らしはどうでもいいよ!
早く本題に戻ろうよ!
ところで真田幸村てダレ?
大野治長は関が原で東軍で参戦したんですよね?
>>427大野兄弟…能力はともかく忠誠心は抜群だったのに、幸村が活躍し過ぎた為に何故か悪役イメージが…
431 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:12:59
治長は浅野幸長の部隊に所属して関ケ原を戦った。
433 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:32:07
弟の評判はあまり悪くないような。
>>432 何故に浅野…?
幸長の父親の長政と治長は共に家康暗殺計画に荷担してますが、それと何か関係があるのでしょうか?
436 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:39:40
有名じゃない真田一族の事に詳しい人いますか?
幸隆五男・高勝、昌幸三男・昌親、同四男・信勝などなど…
438 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:20:02
昌幸三男・昌親、同四男・信勝
↑ググればすぐ分かるはず、一応やってみてください。
高勝はなかなかないですね。ググってもないかな?
>>438 早速ググってみますた。
一応高勝に関する記載もありましたよ。
・真田内匠昌親
関ケ原の際は兄信幸に従い、以後真田藩家臣。
・真田左馬介信勝
関ケ原時は昌親の行動に準ずる。
慶長14年、近江膳所藩主・戸田氏鉄の弟と諍いを起こし、斬られたか又は相手を斬って蓄電。
・真田(金井)宮内介高勝
金井姓の詳細は不明。近隣豪族に養子に入った?
子孫は帰農した模様。
440 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:56:14
神様が惚けないのんですよ。この方は長嶋家だけに家康は切り替えて行きますので、、日本ちゃくですを惜しんでもスランプです
441 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:53:57
真田氏は本当に海野家なのか、、劉備と同じレベルなのかも?
442 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:28:35
ムトウ騎兵
>>441 三家内での出自に関しては禰津説も望月説もあるから定かでは無いでしょうが、滋野一党であるのは確かでは?
445 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 11:37:20
徳川が新田から出ていると知ってだいぶ萎えたがな
446 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 15:10:43
>443
同じ氏族だった禰津と望月と海野が合併して真田になった。
三家とも独立して残ってるじゃん。
448 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:29:32
平成の大合併は良いんだけど、真田の名が消えたのは寂しいね。
東信全体を大合併したら、どこの名前が残るんだ?
上田か軽井沢か?
その時真田の名を復活させれば?
信州の誇りだろ?真田は
現代の町名なんてどーでもいいじゃん。地図上に名前が有ろうが無かろうが、真田の勇名に変わりはないんだから。
450 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 08:19:04
>>441 信虎に攻められて海野棟綱は上野に逃れた。
海野棟綱の嫡男がこの時戦死している。
私の推測でしかないが、真田幸隆は、海野棟綱の子ではないかと思います。
真田幸隆が六文銭を使っているから海野の嫡系であることは間違いないと思います。
451 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 17:21:53
>>448 信州の民は馬鹿だから真田幸村、凄いなんていってる人いないよ。
上田市字真田
454 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 19:37:29
>453
上田市真田町に変わった。
456 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 08:26:40
真田町は消えたけど、小県郡は残ってんでしょ?
>>450 幸隆の父は真田頼昌。そしてその妻(幸隆の母)が棟綱の娘。つまり幸隆は棟綱の孫にあたる。無論嫡孫では無く、幸隆が海野の嫡系だという説は間違い。
ちなみに海野の家紋は『月輪七九曜』。『六連銭』は幸隆が武田に仕官して以降用いられた家紋で、海野家とは何ら関係無い。
460 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 16:56:34
>>460 うぉっwww小県郡も消えたのかwwwwww
462 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 19:13:38
>460
読み方は変わってないじゃろ?
463 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 00:33:02
>>459 >『六連銭』は幸隆が武田に仕官して以降用いられた家紋
間違いではないが復活させたが妥当ではないでしょうか。
20年以上前に調べたことなので少々記憶があいまい。
申し訳ない。
464 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 08:58:59
>>462 まちからちょうになっただよ
ちいさがたぐんさなだまち⇒うえだしさなだちょう
文面で判断スンナよ! かわいそうだろ。たかが掲示板でスレチガイだ”あほ”が!
彼ね!
468 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 10:45:44
ここ日本史板だよな?
469 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:18:42
>>464 「なっただよ」
あんだ、ネイティブだな!
470 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:20:28
↑
もとい、あんたネイティブだな!
さすがに「あんだ」とは発音しない
471 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 10:46:34
んだんだ
借金を律義に返すNo1は信州人だってね。
473 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:53:07
むかし組合の選挙パンフで、県別方言で「がんばろう」を何というか、
という記事があった。
「がんばるべぇ」「がんばるねん」など、ほとんどの県が「がんばる+○○」と
書かれている中、長野県だけ
「やるずら」
と紹介されていた。
思いっきり他県人に馬鹿にされた。
そんな言い方、うちの方ではしていないのに・・・
真田祭りが近づいてきた。
475 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 12:06:56
476 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 12:27:45
真田の野望で切り取った沼田藩はなぜ潰されたの?
>>476 藩主がどうしようもない程のカスだったから。
>>478 幸村って不細工だったんでしょ?
景勝がマニアだったのかな?
481 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 04:15:52
命日age
真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由
今日は命日。
483 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:58:03
歴史群像シリーズの「真田幸村と大阪の陣」を
GWに読みあさっていて今気付いたのですが
今日は命日ですね。あまりのタイミングに鳥肌立ちました。
484 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 17:56:50
■樋口角兵衛■
・実は昌幸の隠し子。
・信幸・信繁の腹違いの弟。
485 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 17:57:54
命日って、旧暦での話でしょ?
487 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 20:37:38
>>486 でも各地の祭事が新暦で行われているんだからしょうがない。
新暦に置き換えれば6月3日ぐらい?
488 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:02:18
>>483 その歴史群像シリーズかなりイロイロ出てるけど
(真田幸村と大阪の陣)は地方の小さな図書館でも大体おいてあるよな?
真田人気凄い!
「命日だと言うのに寂しき事よのう・・・」
このことである。
何このスレ?
フィクション真に受けて馬鹿じゃないの?
歴史小説は事実とは違うんですよ。
後世の捏造多いじゃないですか。
目を覚ましてくださーい!!
>>490 あんた一人、なに熱くなってんの。
真田ファンのレベルがわかるよいスレだと思うが?
中学生が赤川次郎の小説読んで読書家気取りレベル。
毛利勝永の毛利家って、秀吉の数少ない譜代家臣だったんですよね?
>>493 それの何がいけないのか分からない。
あのね、赤川次郎の作品はテレビドラマ化もされてる。
もっとよく調べましょうね。
おい!お前ら!このスレにアンチはいらないんだよ!!!!
幸村の事りかい出来ない馬鹿は失せろ!!!!!
∩___∩ |
| ノ\ ヽ |
/ ●゛ ● | |
| ∪ ( _●_) ミ j
彡、 |∪| | J
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
またアツい椰子が出て来たなwww
ねぇねぇ、バカやっちゃってるけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/
>>497 :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
こりゃまたなんというか、ずいぶんと香ばしいのが出てきたなwww
そ
の
と
お
り
.| | | | | | | | | | || | |
.| | | レ | | | | | J || | |
∩___∩ | | | J | | | し || | |
| ノ\ ,_ ヽ .| レ | | レ| || J |
/ ●゛ ● | .J し | | || J
| ∪ ( _●_) ミ .| し J|
彡、 |∪| | .J レ
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
\ " / | |
\ / ̄ ̄ ̄ /
 ̄ ̄ ̄ ̄
壮大な自演を見てる気がしないでもない…。
おまいたちゃ、どー見ても
>>497は、アンチの煽りレスだろーがw
お館様!!!
507 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 00:50:34
508 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 00:58:02
さあここにすむか
シャアここに死すか
そして誰もいなくなったw
511 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 13:44:49
そろそろ旧暦での命日のはずだが。
512 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:58:15
岩櫃城ってどこ?
群馬県吾妻郡長野原町
514 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:39:19
>>513 間違い。
群馬県吾妻郡東吾妻町。近くに城みたいな温泉あるお
515 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:34:30
真田領って上田と沼田にあったみたいだけど遠すぎね?
>>515 お江ならあっというまに走れる距離だ。
それに、間には岩櫃があるし、
沼田には薩摩がいたから問題ないだろ。
517 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 18:59:38
お江はエロ杉
518 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:40:33
幸村ファンなら
真田山の幸村の銅像を見に行こう!
519 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 20:02:15
上田城の城代家老って誰だか分かりますか?
>>516 確かに岩櫃手に入れてたのが大きいね。あそこ取ってたら関東平野への
楔として対北条への最前線基地として沼田は欲しい。上田までは遠いが
あと殆ど山だしなw
521 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 09:31:42
俺も信繁は過剰評価だとは思うけど、
>>478はなんなんだ。
男色なんて昔は当たり前だろうが。
>>519 本城に城代って置くものなの?
居たとしたら、砥石城代だった長門かな?
523 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 18:31:54
>>522 ありがとうございます。調べてみます。
先祖が上田城の城代家老という話を聞いたもので・・・。
524 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 06:56:42
>>522 家中随一の勇将とはいえ、池田は元々外様じゃなかったか?上田の詰城化した戸石城代ならともかく、本拠の城代は任されない様な気が…
普通に考えれば河原綱家あたりが妥当じゃね?でなければ小山田茂誠とか。
あるいは、上田荘が元来常田荘だった事を考えると常田隆永の線も有力か?矢沢とならぶ一門筆頭だからな、常田は。
>>523 名字なんつーの?
525 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 11:43:40
うはwww
526 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 12:03:18
幸村や政宗が20年早く誕生してれば、どうだったんだろうな?
527 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 12:15:23
真田の兵力じゃ昌幸以上のことはできないと思う
伊達は全盛期の芦名とにらめっこ
何もかわらなそうだ
528 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 12:54:42
まあ、そんな感じなのかなぁ。。
529 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 14:40:48
正宗は、上杉景勝にやられてるんだから、早く生まれてればなんて、仙台人の幻想。
530 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 14:53:33
531 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 14:56:08
>>529 >正宗は、上杉景勝にやられてるんだから
最初から最後まで、景勝は米沢に籠もったままだよ。
上山では、直江が最上軍に大敗を喫してるしね。
また、松川の野戦では伊達に本庄の息子が大敗し、福島城へ逃げ帰っているし。
532 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 15:35:23
正宗は二万の軍勢を送ったが、その結果は・・・・
533 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 16:30:25
>>532 本庄配下の武将が無様に大敗してるだろw
負けたから、福島城で籠城した。
つか、正宗って誰やねんw
刀匠?wwwww
伊達ヲタきもすぎ・・・
536 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 18:20:58
氏んだ方が良いかもわからんね
いくら道明寺合戦や誉田の戦いで政宗の面子つぶれたとはとはいえ、
信繁の遺児を保護してもらったりと信繁と伊達家とは縁が深いのに
荒らしがくるとは…
>>524 今井です。
その城代家老と言われている人の孫娘らしいので、もう名字は変わってると思いますが・・。
540 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 04:52:47
>>538 今井氏…
真田の重代家臣に該当の名字は特に見受けられない様な…
信之の後釜で上田に入封した仙石氏の家臣という可能性もあるかも?
>>524 上田城を築く前の砥石城の城代やってなかったけ?
542 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 13:41:29
543 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 03:44:40
>>541 家督相続後の昌幸の本拠としては、相続初期のごく僅かな期間が松尾、その後上田築城までは戸石である。
したがって上田築城以前の戸石は真田の本城であり、昌幸不在時の在番ならともかく城代が置かれる事はありえんよ。
昌幸の上田移転後は事実上半廃城化したから、非本城となった後は常時城代が置かれたとも考えられんしね。
多分、第二次上田合戦の時に一時的に上田の詰城として修復が施された際、守将として籠ったのが池田綱重だった、って事じゃね?
544 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 06:40:08
でも昌幸は勝頼に近侍してて基本的に砥石にはいなかったはず
545 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 08:48:19
甲府に出仕してようが上州に出撃中だろうが、本城である以上は城代を置くのはおかしいだろ…
留守居役か在番衆を置くのがせいぜいだな。
546 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 15:38:41
547 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 15:41:28
幸村は目立ち勝ちだなw
赤備えと最期の突撃で目立っただけだろw
采配でいえば毛利勝永のほうが優れてないか?本多忠朝、小笠原秀政討ち取ってるし、うまく
大坂城に引き返してるし。
548 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 15:54:20
>>547 知ったかウゼー
大阪城という要塞の機能を最大限に活かしたのは信繁。
547みたいな知ったかヤシは大阪城の西洋的な城の設計を知らないだろうが。
正宗に勝って国分方面の大坂勢の退却を成功させた事を評価したい。
550 :
544:2006/07/18(火) 21:09:41
>>546 真田に復姓してからも甲斐にいたはず
現に先方衆としての本業だった上野進攻にも矢沢を陣代にして
昌幸は沼田陥落の二ヶ月前にようやく合流したでしょ
551 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 23:43:09
>>550 確かに、吾妻衆仕置奏者としての立場そして新府築城の責任者の一人としての立場から甲府に詰めていた期間も短くは無いが、基本は戸石在居だよ。
矢沢綱頼を陣代に立てて上州攻略に向かわせている間にも、吾妻郡の寄騎衆に伊勢山館へ出頭を命じたりしているしね(書状は現存している)。
552 :
544:2006/07/19(水) 00:13:36
553 :
日本@名無史さん:2006/07/22(土) 20:31:10
真田丸跡が、真田山町で合っているのかな?
行ってみたけど、確かに全体が小高い丘で、公園があった。
あそこに真田丸を築いたのかな。
三光神社の幸村さんの銅像も見てきました。
554 :
日本@名無史さん:2006/07/22(土) 21:19:55
防空壕みたいな穴もあっただろ。
家康の陣まで続いていたとゆう伝説がある。
途中で崩れてしまってるけどね。
555 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 01:40:44
>>554 『真田の抜け穴』の事だな。
家康本陣下に掘り進めた説の他に、大阪城本丸と繋がっていたなんて説もある。
今は格子戸で閉鎖されてて一般人は潜り込めんし、仮に入ってみたところですぐ奥で崩れて単なるほら穴化してるから真偽の程は確かめようもないが…
まぁこれも『日本一の兵伝説』が生んだ浪漫の一つ…かね。
556 :
553:2006/07/23(日) 19:34:44
ありました。写真に撮った。
大河ドラマででもやったら、とか思うが、反政権みたいな感じでやれないのかしら?
557 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 22:35:03
大河化には激しく同意。
でももし大河化するとなると、誰の作品を原作に扱うのかな?
真田太平記は既に一度ドラマ化されてるしなぁ…他に真田モノの大作と言うと何があったっけ?
真田太平記はちょっと忍者に重点を置き過ぎてる感があるから出来れば違うのにって思ったけど、
ひょっとして真田幸村主人公の原作本って意外とない?
559 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 22:41:51
霧隠才蔵が主役の、風神の門もNHKでやってる。
竹脇無我が幸村で、チーズか何かを作ってた。
560 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 22:47:57
うーん
昔は幸村カッコいいとか思ったけど、
今は微妙になってきた、幸村が必死に抵抗しなかったら、てか大阪にいた浪人達があそこまで抵抗しなければ、豊臣家は滅びなかったのではないかと思う今日この頃、幸村のやった事って、結局自己満足だったのではないのだろうか・・
561 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 00:10:28
>>560 幕府と戦う為に牢人達を集めたのは豊臣家なんだから『抵抗しなけりゃ滅ぼされなかった』てのはおかしくないか?
つかそもそもの悪は、エゴと虚栄の塊でしかなかった淀と、その淀から最後まで乳離れできなかった秀頼にあるワケで。
敗北が目に見えてる(つまり死ぬ事がわかりきっている)戦に『武門の意地』や『忠義』だけで敢えて挑んだ信繁や勝永・重成達はやっぱり凄いし、畏敬に値すると儂は思うのだが。
562 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 00:31:23
なんかこのスレはゲームの影響を受けまくってる中高生しかいないみたいだな
書き込みから察するに知識が乏し過ぎる
563 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 00:34:54
うむ
漢の世界だな
ただ、なんとなく、大阪冬・夏の陣は行き場のない猛者どもが戦国最後の死に花を咲かす
ために豊臣家をダシに使ったような気がして・・・
それと最近、特に歴史小説を読めば読むほど、本当に淀君にそこまで力があったのか疑問に思え
てきて・・・
>>560 歴史にifはないのだけども、淀と秀頼が家康と親交を深め、一致団結して
「浪人いらないっすから!!」って断れば続いたかもね。以後260年くらい
子孫がヘマしなければ、1万石くらいまで徐々に減らされながら・・・でも
まぁ、家臣にも強硬派はおるし、高台院と組んでる家康への意地も淀にはあ
りますからなぁ。
家康がいたからこそ全国の大名が豊臣征伐に集まったわけで、家康の死後では
豊臣家を単純に武力で圧倒するという手はとりにくい。ってことで、家康が死ぬまで
数年やりすごすだけでも家名の存続は出来た可能性はあるね。
566 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 16:50:23
>>562 別に悪い事では無い。
>>563 それは確かにあるだろうね。
三兄弟や七手組といった直属の面々はともかく、牢人達に関してはさほど豊臣に恩義があったワケでもないだろうし。武名を挙げたい・家門を再興したい・武士としての死に場所を得たいetc、etc…皆それぞれの目的を遂げる為、東西手切れをダシに使ったって事なのだろうと思う。
>>564 そうやねぇ。
秀忠にとっては実の娘の婿であると同時に甥でもあるワケだから、大人しくさえしていればそう気軽に取り潰す事もできんかったろうし。
仮に後年不詳があって改易されたとしても、足利などと同様高家として家名が残った可能性も高いと思われ。
>>565 正鵠を得ているな。
大阪陣時は江戸に留め置かれた(拉致とも言う)福島正則の言葉はあまりにも有名。
『さても残念哉。君の挙兵は五年遅く、五年早し(五年前ならば加藤清正・浅野幸長ら有力な豊家信奉者らがかならず同調したと思われ(両人とも大阪陣を待たず病死(幕府による暗殺?))、五年後ならば家康の寿命も尽きて幕府もおいそれと武力行使に出られないだろう、という事)』
567 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 18:38:24
559の風の門とかっての観てみたい。やっぱ、CGの発達し
た今こそ真田十勇士をフィクションで描いてほしいね。
猿飛佐助があちこち駆け回って奔走するような映画が観たい。
幸村は高野山居た期間長そうだから、主役でなくていいや。
568 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 20:27:34
個人的には創作の忍者等が出ないドラマが見たい。
生まれて、養子に行ったり家康の軍を破ったり関ヶ原で秀忠を。で、九度山、大阪の陣!
そして豊臣方の最後、家康の死、最後に徳川光圀の言葉、島津の言葉などを添えて。
八犬伝のCGは微妙すぎたなw
TVドラマレベルだと厳しいかも、かといって映画だと尺の問題もあるし
「風雲!真田幸村」ってドラマ知ってる?
571 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 22:02:42
風雲?知らねぇ…どんなドラマ?
六文銭が三途の川を渡してやる
573 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 22:23:48
真田太平記は、CGを使ってたんだよ。
撮影のときに居なかった人間が、映像になると居る。
真田太平記は、長編の中では創作が少ない部類だと思う。
575 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 19:38:35
確かに、基本的には史実にそった物語ではあるなぁ。
576 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 21:49:20
>>567 風の門じゃなくて『風神の門』ね。かなり昔だよ。25年ぐらい前だね。
霧隠才蔵役は三浦浩一。
ドラマ的には悪くはないが・・・もう真田のフィクションはお腹一杯。
オレ的には忍術無しの史実に沿った真田三代を描いてほしい。
上でも言っているが、どれもこれも忍術ばかりでウンザリしていたし。
これも上で言っているが、やはり真田太平記が一番じゃなかろうか。
577 :
568:2006/07/26(水) 20:42:09
胴衣。
史実に出来る限り沿ったのが俺の好みです。
一番良いのは忍術のも、両方ヤってほしい
578 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 10:36:33
真田太平記は、忍び宿や草など、忍者の描写もリアルだった。
この作品では加藤清正の死は、料理人として潜入した忍者による毒殺だった。
579 :
豊:2006/08/01(火) 21:01:51
忍城で幸村が甲斐姫の矢を受けて撤退したという話し聞くけど、本当か?
もしかしたら後世の世に作られた作り話かもしれないけど。
>>579 それって小田原征伐の時の忍城攻めの話かい?
>>580 そうだナ。矢を受けたかどうか、も一つ分からないが、甲斐姫は後秀吉の側室。
成田氏の改易騒ぎに尽力したとかいう。
>>581 はて…どうなんかね?
忍城攻めには参加していたんだろうけど、細かいエピソードまでは…
忍城攻めのエピソードってーとどうしても三成の水攻めの話が先に立ってしまうからなあ。
成田氏側のソースを参照した方が早いかもわからんね。
近頃めっきり静かだな。
この閑疎な状況を『九度山状態』とでも名付けるかw
584 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 02:45:50
九度山駅とか通過したことあるけど、ほんっと田舎だよなw
難波から線路が繋がってるのが素晴らしい
>「風雲!真田幸村」ってドラマ知ってる?
風雲真田城だろw それを文字って風雲タケシ城という番組があったな〜w
586 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 23:06:22
長男はつらいよ!真田信之
587 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 05:06:04
天ぷらオヤジには超アウェイのスレですね
失礼致した
いへやす
588 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 06:34:05
夏の陣の大阪城=座礁した戦艦大和
夏の陣の大阪城=戦闘機による護衛の無い戦艦大和
コーヒーの無いクリープ
滝川クリステルが居ないLIVE2006ニュースJAPAN。
隙間だらけの入れ歯安定剤
幸村→中村梅雀
昌幸→坂田藤十郎
↑のキャスティングで映画にならんかな。
595 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 15:18:51
幸村もイメージ先行型武将だねー。
実際、大阪に入場したときは歯も抜けてヨボヨボの小男だったそう。
ほんとに単騎突入できたのかね。
すりゃ、まことのことか?
>>595 姉婿に書いた手紙の一節
我々なとも去年より俄ニとしより、事の外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、
ひけなともくろきハあまり無之候、
の事を言ってるんだろうが、病気したりして歯が抜けたとか髭が白くなったとか
は書いてるが、ヨボヨボになったとは書いてねぇぞ。
勝手に脳内創作すんなよ。
巷説言われてる真田丸を見てると所謂ボーバン式陵堡陣地みたい。
これなら火力戦で威力が出たのも頷ける。
たしか、武田時代に駿遠地方で馬出しや本丸の形状が稜堡式によく似たのがあったけど名前は失念。
あ、別に武田がボーバン式を輸入したとか起源だとか言ってる訳じゃないよ。念のため。
600文銭
601 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:14:24
602 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:53:00
今日十万石まつり行ってきました!フロム群馬
強風で大変でしたね。
603 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:00:10
人気が先行して評価が一人歩きしてる気がするんですが
皆さんはどう思われますか?
>>599 ボーバン式陵堡陣地というのがどういうものかはよく知らないが、武田の馬出しと言えばやはり丸馬出しが有名かと。
所謂甲州流築城術の最大の特徴の一つである事は言うまでもなく、信玄→昌幸と継承されたこの築城技術を受け継いだ信繁が作り上げた真田丸はまさしく丸馬出しの典型。
>>603 禿しく同意。
606 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:29:19
>>603 君はアホか?
家康を殺したから、評価されたんだよボケ!
関西人が「家康を殺して欲しい」と数百年にわたって誇大妄想を続けてきたから
評価されたんだよボケ!
609 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 20:42:05
8 :日本@名無史さん :2006/01/21(土) 15:02:26
真田幸民は真田幸村の血をひくのだろうか。
また幸民夫人(大村隆子、伊東宏子、竹内輯子)のうち1人は真田幸村の血を引く人がいるのだろうか。
真田幸民は伊予宇和島藩主伊達宗城の子だよ。
現在の真田家当主はその幸民の血を引く子孫。だから、真田は伊達の系統。
610 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 21:38:23
松代藩初代 真田信之 従五位下 伊豆守
父:真田昌幸
母:山手殿(出自は諸説あり)
正室:小松殿(本田忠勝娘。徳川家康養女)
松代藩2代 真田信政 従五位下 内記
父:真田信幸
母:小松殿(母については諸説ある)
正室:
松代藩3代 真田幸道 従四位下 伊豆守
父:真田信吉
母:松寿院(高橋氏娘)
正室:?(伊予宇和島藩主伊達宗利娘)
松代藩4代 真田信弘 従五位下 伊豆守
父:真田信就(真田幸道の兄)
母:宗鑑尼(小野氏 小野のお通の娘)
正室:静岸院(伊予西条藩主松平頼純娘)
※松平頼純は8代将軍徳川吉宗の叔父。頼純の子が紀州藩6代藩主徳川宗直。
松代藩 5代 真田信安 従五位下 伊豆守
父:真田信弘
母:
正室:
611 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 22:08:35
松代藩 6代 真田幸弘 従四位下 右京太夫
父:真田信安
母:慈明院(信安の側室)
正室:
恩田木工を登用し藩政改革を行なう
松代藩7代 真田幸専 従四位下 伊豆守
父:近江彦根藩主井伊直幸
母:坂本氏
正室:三千姫(真田幸弘の娘)
ここで真田家の血筋が途絶える
松代藩8代 真田幸貫
父:陸奥白河藩主松平定信(寛政の改革の人)
母:貞順院(中川氏)
正室:真月院
幕政において老中として活躍。佐久間象山などを登用し藩政改革を断行。幕末名君の1人。
松代藩9代 真田幸教
父:真田幸良(幸貫の子)
母:順操院(村上英俊の妹。村上英俊は幕末から明治前期の仏語学者。佐久間象山の薦めで仏語の習う。)
正室:晴子(讃岐高松藩主松平頼恕娘。頼恕の父は常陸水戸藩主徳川治紀)
松代藩10代 真田幸民
父:伊予宇和島藩主伊達宗城
母:益子(肥後佐賀藩主鍋島斉直娘)
正室:隆子(肥前大村藩主大村純熈娘)
612 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 22:30:12
真田家
上屋敷
霞ヶ関 日本郵政公社 付近
中屋敷
六本木 アメリカ大使館職員宿舎 付近
永田町 参議院会館 付近
西新橋
下屋敷
江東区 永代橋 付近
幸村より親父の方が軍事的才能は上だったって話もあるな。
統率力もすごかったらしいし。
ま、信玄に可愛がられ、北信濃・西上州の領主として長く、関が原前哨戦
でも徳川軍に反抗したわけだから知名度と実績は高かったよね。信繁は
大阪入場時は昌幸の子息くらいの認識だからな。
レスラーじゃないんだから。入城どしたw
大阪城ホール入場w
真田の血が遺ってるとしたら女系しかない?
619 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:53:07
現真田家当主は女系ですら信之の子孫じゃない
つまり血は絶えた、と
そうだね
もったいないなぁ。
幸村の次男大八は、片倉家の家臣として
幕末まで続いていたはず。
信尹の家系もあるぞな
樋口角兵衛の家系もある。
俺の名字は金子。
祖父は群馬県沼田市出身。
生前中に聞いた話だと、先祖は真田家の家臣だったらしい。
ブルーカラーでキモい俺が自慢出来る事と言ったら、これしかない。
この話が嘘だったら、死ぬしかない。
孫殺しの子孫ですか?
628 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:12:43
孫殺しについてkwsk
孫殺しの子孫でした。
家康が真田幸村の首を犬に食わせたというのは本当ですか?
>>631 犬に食われたかは分からんが、
実際は家康にとって幸村の首なぞ足蹴にする程度の存在だったようです。
>>626 いるよ、真田家臣の金子さん。
金子氏は元々古くから沼田近在に居た土豪らしい。沼田氏に仕え、沼田氏滅亡後は沼田衆として北条に従い、昌幸の沼田攻略後に真田に従った。
沼田攻略時に最初に昌幸に降り開城のきっかけを作った金子泰清、北条の沼田攻撃の際矢沢綱頼に従い勇戦した金子綱重などがいる。
金子家って凄いの?
>>634 何が「凄い」の基準なのか知らんが、とりま普通でないか?
普通の、どこにでもいる重臣の一家。
急に休みになったので大阪城に行ってきた。
「真田幸村と大坂の陣」の図録がまだ売ってたから買った。
ひととおり読んだら泣けてきた。
ニートの俺にだって、結婚するって夢があるんだよ。
638 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 02:23:45
どうやって嫁を養うんだ?
良くできた兄にたかるんじゃね?
んで、最後は全てを踏みにじって一旗あげると。
>>639 家名は上がるんだからいいやん by 弟
上がったのは個人的名声だけだろ by 兄
真田幸村の子孫はいくつか残ってますね。
誉田で伊達隊を率い敗れたものの、真田隊の勇敢さに感服した片倉重長は
当時先妻に先立たれたこともあり、戦後幸村の三女の阿梅を後室に迎えています。
その縁か幸村の次男大八も匿われ、片倉守信と名乗り360石を与えられ片倉家に仕官しています。
子の辰信の代に真田姓に戻し、仙台真田家は幕末まで続いたそうです。
現在も子孫はいるかもですね。
片倉家の一族に六文銭の紋を付けた者もいたようですが、真田に縁故がある者でしょう。
片倉家も六文銭を替紋として使用しました。かつての敵なのによほど幸村に傾倒していたようですね。
三井景国など幸村の旧臣も伊達家に仕官しました。
阿梅は天和元年に78才で死去。
伊達家って小田原以降は戦いではあんまりパッとしないしなぁ。
>>642 創業時の老臣の家系ってのは、
そういったモノなんだよ。
645 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:11:54
あげとくか
646 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:42:31
いや、必要ないだろ。
647 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:57:43
いや、やはりあげておこu
648 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 17:08:54
650 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 17:44:36
>>116 おそらく、昌幸が山本勘助に築城術を教わっていたから
昌幸も幸村に築城術を伝えたのではないか
651 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:03:44
>>274 「幸村」の初出は江戸時代の1672年(寛文12年)成立の軍記物語『難波戦記』にあるが
いつしか「幸村」とすることのほうが一般的となり
後には信之の子孫である松代藩の史書ですら「幸村」が採用された。
現代では講談・歴史小説・映画などを通じて幸村の名が広く知られている。
「幸」は祖父や父・兄の通字であり、「村」は信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達氏の伊達綱村
また、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがある。
652 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:22:14
653 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 07:29:34
サナダムシ
654 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 21:18:39
最近戦国歴史にはまって色々勉強中。
幸村の大阪での戦い見る限り親父に負けないぐらいの策士のような気がするが、
これはやはり昌幸より戦のノウハウを受けてたからなのだろうか?
実は昌幸は生きてて共に九度山を脱出して大阪の戦いで影で幸村に助言してたと妄想。
しかし戦国時代面白いな。半年前まで信長秀吉家康光秀信玄謙信しか知らなかったが
656 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:02:10
九度山では窮乏生活で、上田に焼酎を無心したりしているが、オヤジの薫陶は受けて
いたでしょう。昌幸に教わった戦術を早速大坂で披露したが、大野らに反対された
ため、真田丸に詰めることになります。ここでの戦い方も、第一次、第二次上田合戦
と同様に敵を十分引き付けて一斉に攻めるという方法をとっていますね。さすがに
夏の陣では、この手は使えませんでしたけど。後に島津から「真田日本一の兵
(つわもの)古今にもこれ無き」と絶賛されています。
> 夏の陣では、この手は使えませんでしたけど。
夏の陣の道明寺の戦いでは、1万4千の伊達勢が、西軍の後藤又兵衛隊をけちらして
西軍を追撃してきたところを、たまたま誉田陵に隠れる形になっていた真田隊が表れて
伊達勢を得意の迎撃戦で逆襲して撃退し、西軍の大阪城撤退を成功させている。
翌日の天王寺決戦では、幸村はまず東軍前衛の松平忠直率いる越前勢1万5千を
茶臼山におびき出して叩き、越前勢を総崩れにさせて突破。
その次は第2段目の駿河勢(徳川頼宣)1万が相手だが、幸村はまず一旦引き、
敵が攻撃を加えてくるまでに前衛と後衛を交代させ、新手で逆襲して(車掛かりの法)
駿河勢も崩す事に成功する。
ついに家康本陣に突入するが、家康は逃亡しており、1万5千の徳川旗本勢に
逆襲され、多勢に無勢で茶臼山に撤退を余儀なくされた。
3千5百の寄せ集めの兵で、4万の徳川正規兵を相手にあらゆる戦術を使って
互角以上に戦ったんだからよくやったよ。「日本一の兵」と言われるだけはある。
大阪城には数万の兵力があったのだから、真田幸村と毛利勝永に1万ずつ兵を
預けていたら歴史は変っただろうなあ。秀頼旗本衆なんて2万も兵がありながら
全く戦っていない。秀頼が戦場に出るのを淀君が止めたからだと言われているが
ひどい話だねえ。
658 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 11:42:05
真田関係が好きだから、あげときます
659 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 22:45:30
>秀頼が戦場に出るのを淀君が止めたからだと言われているが
ひどい話だねえ。
全くその通りですね。戦場に出ずとも、せめて全軍を鼓舞すればいいのに、それも
していません。夏の陣では、このぐずぐずさが又兵衛基次らとのタイミングの
遅れにつながりました。
それにしても、信繁、最終決戦日にはすがる大助を叱って秀頼に付かせ、自ら
死に場所を求めて散っていった。目の前で死んでいく己の姿を見せたくなかった
のか、最後の最後まで豊臣を守る意地を見せたかったのか。誠にこの三代は
「親子の情」を感じさせます。涙・・。
講談であって、学問板に書くことではないな
暇だから真田丸でも作ってみるか
暇だからって作れるシロモノなのか?ww
>>661 とりあえず、大阪の土地買収から始めてみれば?
大阪って高いんだろ?
大阪府知事になって、地名を大坂に変更する必要もあるかも。
この人夏の陣で死んだかどうか分かってないんでしょ?
668 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 10:32:00
なんで幸村様23位とまあまあ検討したのに一言も触れられずスルーなんだ?
尾崎豊なんかが9位に入ってるランキングであげられても嬉しくないわ
ゲームの影響強そうだな。
信玄に使えてたと本気で信じてるのも居るし。
>>670 マジでかwww
ゲームの方の幸村はアレだ、幸隆〜昌幸のポジションだな。
672 :
670:2007/04/03(火) 12:25:13
誤字った自分も馬鹿だ…
673 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 01:21:12
>667
確かに夏の陣後「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が背負い、退きも退いたり
鹿児島へ」と俗謡にうたわれ、現に信繁の子孫という真江田一族が現存しているが
やはり、信繁には華のある死に方をして欲しいので、そっとしといて・・・・。
674 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 04:24:44
島津家久の島津忠恒への書簡には
「真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。...中略....
当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、
今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。...中略...
古今これなき大手柄。...中略...」とあり、
藤堂高虎の一代記である高山公実録や「大久保彦左衛門覚書」などでは、
家康本陣のふがいない潰走ぶりが記され、家康をほうりだして逃げる旗本も多く、
家康の安危もしばらく不明だったと書かれている。
あやうく、今川義元のにのまいになるとこだった(松平元康の元は義元の元を貰ったもの)。
でも、信繁の遺髪を諸将が取りあうほど死して名を残したとさ。
不謹慎だけど話を聞くたびに思う
遺髪を奪われた後はどんな感じだったのだろうと
ヘアーカットの練習代のマネキンの末路が脳裏に
676 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:03:24
信繁が好きでいろんな書物を読みあさり、ゆかりの土地を旅し、何故か今は信繁より、信之(信幸)の方が凄い人だったんじゃないかと、思ったりもしてる。
信之の真田家なんて徳川時代の初期に取り潰されてもおかしくなかった。
由比正雪の乱まで、大名家の改易が相次いでいたのだから。
でも、昌幸や信繁の獅子奮迅の働きがあったから、
さすがに松代藩を改易するのは、幕府としても躊躇するものがあったんだろうな。
薩摩藩を改易できなかったのと同じ。
上杉家や立花家も武勇ゆえに改易だけは免れた。
その代わりに、幕府からものすごい賦役を押し付けられる訳だが。
犬伏で昌幸が西軍に寝返った事について色々な意見があるが、
このまま徳川の世にスンナリなってしまったら、
徳川と確執のある真田家なんて、直ぐに改易されてしまうという
危機感があったと思うよ。
つまり真田家が存続するためには、徳川家を震撼させる捨て石が必要だった。
それが信繁。見事に家康を震撼させて、散っていったね。
678 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:18:11
679 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 12:19:20
>677
真田が生き残れたのは、信之の徳川に対する絶対の忠誠と、家康の信之にかける信頼から、みたいに思ってたけど、確にそうかも知れないな
680 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 04:13:26
>>642-644 信繁の鮮やかとは対照的に、主君政宗といえば
神保相茂が小勢ながら果敢に戦い 一番槍を取ったのだが、
それを妬んだ伊達政宗が背後から奇襲、手柄を奪い取った事が露見。
島津が真田日本一の兵と激賞したのに対し、薩藩旧記で家久が
士道にあるまじき卑怯者とこき下ろしているから戦後の空気が分かろうと
いうもの。片倉家はそういうこともあったから尚のこと、真田の一族を
嫁に迎えたり、次男を匿って召抱えたりしたんじゃね。
681 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:12:17
日本の諸葛孔明
682 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 19:02:46
真田幸村A型
伊達政宗B型
683 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 19:53:05
>>680 >それを妬んだ伊達政宗が背後から奇襲、手柄を奪い取った事が露見。
それは上方講談の根も葉もない創作だろ。もう少し史実をきちんと勉強してご覧。
信者もアンチもウザさは同レベルだな
686 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:10:53
1672年(寛文12年)成立の軍記物語『難波戦記』では
「度々我ガ手先ヘ働キ来ル事ヲ口惜ク思ヒケルニヤ、鉄砲ヲ打掛ケル」
と神保の手柄と働きぶりを妬んで突如神保隊を襲ったように書かれているが
実際には誤射説や敵との誤認説、または上記のような手柄争い説がある。
また「神保隊が崩れかかってきたので、共崩れを避けるために撃った。」
と主張した(開き直った)という話もある。
とはいえ、『薩藩旧記』に「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。
然りともいえども御前はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」
とあるように神保相茂隊は伊達隊(味方)に攻撃(銃撃)されたことは確かだ。
まあ、今で言う友軍の攻撃で神保相茂は死んでしまったわけだ。
りあえず・・・
大河ドラマやるなら・・・
真田幸村:中村橋之助
後藤又兵衛:伊原剛志
木村重成:オダギリジョー
毛利勝永:香川照之
豊臣秀吉:江守徹
豊臣秀頼:谷原章介
徳川家康:津川雅彦
徳川秀忠:西田敏行
本多正信:中尾彬
伊達政宗:渡辺謙
片倉小十郎:上川隆也
上杉景勝:千葉真一
直江兼続:唐沢寿明
織田有楽斎:桂歌丸
688 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:30:57
NHKで池波正太郎の「真田太平記」20年くらい前に水曜日の8時からやっていたな。
昌幸は丹羽哲郎で幸村は草刈正男だったと思う。
幸村は竹中直人みたいのがいいんじゃない
背が低くてみすぼらしい感じがあっても、活躍しそうでもある
秀吉と被るけど
真田幸村:真田広之
後藤又兵衛:長渕剛
木村重成:小池徹平
毛利勝永:山崎務
豊臣秀吉:北島三郎
豊臣秀頼:伊集院光
徳川家康:中尾彬
徳川秀忠:押尾学
本多正信:藤村俊二
伊達政宗:長瀬智也
片倉小十郎:唐沢寿明
上杉景勝:中井貴一
直江兼続:上川隆也
織田有楽斎:斎藤暁
戦国武将の中で、というか日本史の人物で一番好きだ
692 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 21:59:20
同じレベルになってどうすんだか
694 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:51:35
風雲!真田幸村
北大路欣也 若山富三郎 森田健作 三浦浩一 菅貫太郎ほか
ファミリー劇場で放映中
695 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:39:01
源次郎と源二郎どっちが正しいの??
二つともよくみる・・・・
696 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 20:02:43
>>694 水曜日AM6:00〜
再放送は火曜日AM7:00〜
697 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 14:31:11
☆初心者にわかりやすい大阪民国DQNマップ☆
京都
高槻
神戸 尼崎 大阪(キタ/梅田)
_______
│ 難波(ミナミ) 奈良
│ ※※ 東大阪
大阪湾 │ ※※
│ 堺
│
│ 岸和田
関空──泉佐野
│
│
│和歌山
-------------------------------------------------------------
(※部拡大) 道頓堀
難波
日本橋 鶴橋
芦原橋 今宮 新今宮★ 天王寺
天下茶屋
道頓堀・・・上を通るだけで臭うドブ川だが阪神が優勝する度に飛込みが多発するから不思議である。
難波・・・大阪市南部の中心地区。駅前には野良犬を飼うホームレスが。
日本橋・・・電気屋が軒をつらねる関西版ヲタクの聖地。
鶴橋・・・見渡す限りがハングルのコリアタウン。朝電車のドアが開くとぷーんと焼肉の臭いが。
天王寺・・・ミナミで難波に次ぐ大商業地区。すぐ近くに新世界がある。風俗店が多い。
新今宮・・・あいりん地区のすぐそば。ここから天下茶屋へ行く南海線からは性病科が多数確認出来る。
今宮・・・大阪有数のB地区。
芦原橋・・・今宮と同じくB地区だが、ここの飛田新地は昔から風俗産業が全国的に有名。
天下茶屋…言わずと知れた亀田親子の原産地。
あいりん地区(★印)・・・ホームレスがまるで難民キャンプの様に集う。とても日本には見えない。
西成区…新今宮、天下茶屋を中心とした大阪民国DQNの聖地。
この人何年ヒキってたんだっけ?
14年かな?
700 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 04:49:50
なぜ家康は、真田父子を大坂に近い紀州に
蟄居させたのか疑問。
忠勝と信之の助命嘆願には応じたものの、
やはりいずれは始末するつもりでいた?
家康にとって、幸村の大坂入城は想定内だった?
大坂でも疑われたように幸村は徳川のスパイだからなあ
もしスパイじゃないのに霧で迷って味方を見殺しとかしょぼすぎる
702 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 13:51:30
幸村は大阪の陣で徳川につくのなら10万石の大名にすると家康から書簡があったと思うんだが。
703 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 21:19:51
704 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:23:58
「風神の門」が好きだ。
真田十勇士の親分にして超イケメン(太閤立志伝Vより)
八女は佐助に育てられて陸奥を名乗る
てか家康が死亡確認してないからどっかで生きてたかもよ。
羊達の沈黙みたいな脱出方で。
そして家康に天麩羅食わせまくったに違いない。
ねーよwww
706 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 04:32:32
太閤立志伝Vによれば真田信繁が最強っぽいな、パラメータで
統率が最強だしw
大阪の陣の活躍が並外れていたから、と推測
707 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 13:17:35
確かに活躍したな
淀を殺せーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
709 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 17:51:22
霧隠才蔵はポルトガル人、筧十蔵は朝鮮人と聞いたことがあるが。
710 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 17:55:28
霧隠才蔵はイギリス海賊の子孫、筧十蔵は中国(明)人の劉十天である。
711 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 20:29:44
小説もTVも真田太平記は傑作だな
TV版はリアルタイムでも見たが
最近また見始めた。
今のところ第3話まで見たが
これからの展開にワクワクしてるよ
>>711 実際は、上杉に人質に逝っていて不在だった信繁が
第一次上田合戦で戦闘に参加していたり、史実に反する記載が多いけどな。
信繁は景勝傘下で越後で武将として活躍しているんだし、
第一次上田合戦では越後から「父上、兄上、頑張って下され」と
祈っていた方が、リアリティーがあって良かった。
真田日本一の兵
「真田氏が大阪城に入城しますた。」
「キター!」
「ウゾダドンドコドーン!」
「真田ktkr!」
「真田キター!」
「kwsk」
「親父ですか!?親父ナンディスカー!?」
「息子の方ですが何か?」
「wwwwww」
「息子キター!www」
「息www子wwwぅぇっwww」
「息子かよwww豊臣オワタwww」
「今北産業。息子についてkwsk」
「ググれカス」
「教えて君は氏ね」
715 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 10:34:21
池波正太郎の真田太平記について教えてください。
向井佐平次の父親ってだれでしたっけ?
716 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:38:07
講談で美化しすぎ
史実では50才近いモウロクオジン
キモイ
717 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 01:59:53
海野と真田の関係は?どうちがうの?
718 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 03:37:32
719 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 16:41:35
>>715 父親は知らんが、息子は佐助。作中では佐平次は幸村の近従として夏の陣で
一緒に戦死したことになっている。
TV版では佐平次…木之元亮、佐助…中村橋之助が演じていた。
ついでだが、徳川家康は中村梅之助、秀忠役は実の息子の梅雀だった。
720 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:15:34
ロマンをブチ壊そうとする奴等に告ぐ。
現在進行形で生きている落合信彦・柘植久慶・堀辺正史(識者は日本三大ホラ吹きと呼ぶらしい)の、
大嘘経歴に未だ騙されている者も多いのに、
(尤も嘘・捏造であるという証明も完全にはされていないが…
勿論真実である可能性も残されている、それなら尚更→)「昔の事など誰が分かるものか!」
上記の通り今の話でも真偽が曖昧である場合があるのだ。
講談話が事実である可能性を誰が否定出来よう。
一々見て来たかのような説を振り回し、因縁をつけて「真田日本一の兵」という夢を潰そうとするのは止めろ!!!
721 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:23:26
佐々氏が浅間山荘事件に於いて「映画の如く活躍したのかどうか」すら論争の種になっているのだ。
高々三十数年前の出来事ですらもう曖昧になっているのだ。
数百年前の事が分かってたまるか!
だから「真田太平記を信じている奴はゆとり」だの「信繁はしょぼい無能な親父」だの断言するのは止さんか馬鹿者。
722 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:33:26
帝国海軍→航空自衛隊幕僚長→国会議員の故・源田実氏が名将か愚将かでも軍ヲタの論争になっているのだ。
大山倍達は本当に強かったのかどうかも武道ファンの間では永遠のテーマなのだ。
「最近まで生きていた人物」ですらこうなのだぞ?ええ?ガキども。
チラッと読んだだけの話をもっともらしく垂れ流すな阿呆めが!
>>720-722 無茶苦茶だw
てゆーか歴史学や考古学の意味すら無ぇーw
まぁ歴史学とか考古学も主観や思想や捏造が入りやすくて
とてもじゃないがまともな学問とは呼べないんだけどさw
だから大学でも怠け者の馬鹿ばっか集まるww
724 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:49:14
落合信彦は人間的に屑だと、知り合いがいってました。
726 :
715:2007/08/13(月) 07:51:31
>>719 もしかしたら壺谷又五郎だったかも。
今、NHKのドラマを見始めているんだが、ロッキーじゃん。
727 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 11:59:18
NHKの真田太平記がニコニコに、アップされてる。
やっぱり時代劇の戦記物はNHKがいいね。
728 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 12:04:23
壺谷又五郎は夏八木勲
加藤嘉(矢沢頼綱)とか花沢徳衛(草の者)とか渋い爺さんがたくさん
出てたね。
729 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 12:54:02
真田雪村の怨念がサナダムシに化けて家康の胃に穴を開けて殺したのだああ
どうせなら秀忠を殺せば江戸幕府も短命だったかもしれないのに
あくまでも個人のイメージだが
小説とドラマの配役がかなりイメージがちがうのだが、
壷谷と猫(だっけ?チンポ直近された奴)ははまってる。
真田太平記面白かったなー
安居神社で石に座った信繁に徳川の武者数名が名を尋ね
「・・・真田左衛門佐」
思わず後ずさりする武者達。
いや、かっこよかった。
733 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 14:31:45
実際、真田太平記はどこまでが本当なの?
隠密自体はあったとしても、佐助やお向等の草の者なんかは架空の人物ですよね。
樋口角兵衛とかも。
734 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 13:29:12
真田はもともとは戸隠の修験者の出だろう 怪しげな連中だ
>>734 戸隠神社は全く関係ない。それを言うなら山鹿神社。
真田の里は日本百名山の一つ、四阿山(あずまやさん)の麓にあるが、
四阿山は古来より山鹿神社を奥宮に奉る修験道の山。
山鹿神社の本宮は真田の里にあり、「真田氏=山鹿神社の神主」説や
「真田忍者=四阿山の修験者」説は、昔からある。
ちなみに真田氏の先祖の滋野氏は、
東信濃に数多い御牧(朝廷に馬を納める御料牧場)の管理人の出
ではないかと言われている。
736 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 17:16:02
真田紐という組みひもが西国に伝わって、その製造でけっこう栄えていた
場所もある 真田ひもがどういう経緯で西国に伝わったのはわからないが
忍者活動の資金源に、組みひもの作り方を教えていたのかな?
737 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 19:26:41
ダメ社長を筆頭とするダメ上司達が威張っているダメ会社に
中途入社したのに、局面々に応じて最善を尽くした。
おまけに男子の面目まで高めたんだから、大したもんだ!!
新しい政権ができても、こういう人物が旧政権の最後を締めないと
民族が腐るんだな。
738 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 19:43:15
実際はダメ社長の会社にもぐりこんで、資産を食い潰して
会社整理をしただけなんだがな 真田が情報操作、宣伝活動が
うまいことだけは認めるがな
霧で迷って又兵衛見殺しなんて
会社がまともな状態なら厳罰だったな
又兵衛が先行しすぎたという話もある
後藤又兵衛率いる4500人は、
又兵衛直率の2800人が小松山確保のために急進しすぎて、
薄田隼人や北川宣勝らが預かる1700人と離れ離れになってしまい、
薄田らも戦場到着が8時間遅れて、又兵衛直率隊が壊滅した後に到着して、
各個撃破を食らったのだから、話にもならない。
野戦の経験が無い大坂城譜代衆の作戦中枢が機能していなくて、
出発が遅れに遅れてしまった事が根本原因。
真田隊や毛利勝永隊は、濃霧の中、バラバラにならなかっただけまだマシ。
しかも後藤隊・薄田隊を撃破して勢いに乗って追撃する伊達隊1万を
真田隊3000人で誉田陵で迎え撃って撃退し、
大坂方の被害を最小限に止めたのだから、真田隊はよくやったと言うべき。
742 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 14:39:28
大阪の陣まで昌幸が生きていれば歴史も変わったかもしれん。
743 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 19:32:54
>>742 本当の話かどうか判らないけれど、昌幸が幸村(信繁)に
「お前ではだめだ」と言っていますね。先まで見通して
いたんでしょうね。大阪入場の際も家康が「親か子か」と
気にしていたという話があります。
話は変わりますが真田丸は有効手段ですね。
孤立無援の大阪城の支城的役割を果たしています。
私は737ですが738さんの説明をお聞きしたいです。
>>742 うーん、豊臣方のイニシアチブは、秀頼側近の七手組が握っていたから
昌幸が生きていても、豊臣方に勝ち目はなかったんじゃないか。七手組は
大野治長に代表されるように、多くは淀君の侍女の息子達で軍事能力はゼロ。
夏の陣で、真田幸村・毛利勝永が天王寺で獅子奮戦し、徳川の大軍を崩した中でも、
七手組だけで1万5千の兵力を持ちながら、大坂城からただ傍観するだけで
援軍に出撃しなかった、究極のバカおぼっちゃま連中だ。
こういう腰抜けのバカに限って、権力欲とコンプレックスのカタマリで
軍略家の正論を叩き潰すのは得意だが、自分では何も決断できないために
モタモタと戦機を逃してしまう。こんなバカ連中が実権持ってるんだから、
もし昌幸が生きていても、実力を発揮できたとは考えにくい。
昌幸なら何らかの方法使って大野兄弟を始末しそう
746 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 16:58:28
真田丸を作るについては建築工事だから、莫大な金がかかる
豊臣にもはや金はない 資金調達をどうしたのかと調べてみると
どうも多田銀山の埋蔵金の一部を真田が取り出して使ったようだ
当時の埋蔵関係者は冬の陣、夏の陣のドサクサ紛れに真田に暗殺されたようだ
家来を集めるにも軍資金がいる 真田が活躍できたのは埋蔵金の一部を
取り出したからだ 最後は大輔が爆薬で秀頼にトドメを刺した
さすが、家康の信頼厚き忍者だけのことはある
>>746 釣られてやるか。。。
まず、真田丸は空堀に囲まれているだけの簡単な構造物。
城内の浪人で十分に建設可能。金はほとんど掛からない。
真田軍は譜代衆も少しはいたが、圧倒的多数は大坂城に集まった浪人衆。
浪人衆を与騎として与えられたに過ぎない。後藤・毛利・明石の各軍も同じ。
ところで、どうして多田銀山に豊臣の埋蔵金があるのか?
秀吉にしてみれば、金銀は安全な大坂城に置いておけばいいはずだ。
それから多田銀山は「銀山」とは名ばかりで、実際は圧倒的に銅の産出量が
多い「銅山」だった。銅鉱石の中に僅かな銀が混じっている程度。
どうして「銅山」にわざわざ金銀を運び込んだのか?
また豊臣家譜代でもない幸村がどうして埋蔵金がある事や場所を知っているのか?
もし幸村でさえ知っているなら、大野兄弟に追われて徳川側に転じた片桐且元が
知らない訳が無く、摂津の北端にある多田銀山をどうして開戦前に徳川方の
板倉勝重らがすぐに押さえなかったのか?
748 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 14:03:22
多田銀山に実際に出向いて調べた 銀や金を大量に産出している
中国の王族の白水善という鉱山技師を招いて、秀吉が新工法で掘らせた
だから、秀吉の時代に産金量が飛躍的に増大した 白水善の屋敷跡もある
今でも鈴木さんという人が豊臣の埋蔵金80兆円の探査を行っているが
鈴木さんの調査によれば、巷間言われている真田の評判とはまったく違う
実像が浮き彫りになってくる 真田が埋蔵金の一部を掘り出したことは
各種資料から裏付けられている 真田がどういう手口で埋蔵金のありかを
探し出したかは謎だが、埋蔵場所を教えた人物がどういうわけか冬の陣
夏の陣の最中に全員戦死している
ひょとして徳川家康が久能山に埋蔵した軍資金は多田銀山から掘り出した
埋蔵金でではないかと推察している
余談だが、白水善に鉱山技術を教わった住友財閥の初代はその後、別子銅山で
一山当てた その教えてもらった恩義から住友が白水、泉という言葉を
大事にして、泉グループという別称も使う
750 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 20:47:17
真田には甲斐と信濃と上野を所領として与へる
751 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 22:35:08
諱に村の文字が入ってる人っているのかな?
>>748 >真田が埋蔵金の一部を掘り出したことは
各種資料から裏付けられている
各種資料って何だ?
やっぱ格好いいよな
創作の中では、山岡壮八の「徳川家康」に出て来る幸村が一番好きだ
753 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 00:01:54
ドラマの『真田太平記』の
兄弟、父の昌幸で徳川・豊臣どちらに組するかの合議で
時代の趨勢は徳川にありと説く信幸に
昌幸「もうよい、豆州。これできまりじゃ」
幸村「親子兄弟があい戦うと言うても
あながち悪心からではございますまい。のう?兄上」
雷がちゅどーん、大木が倒れる。
わかりまいた
755 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 18:58:03
日本史板には、タコが多いな
756 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 00:36:20
いまドラマ見終わった。
大助がどこかで見たことがあるとおもって調べたら、白い巨塔(唐沢版)に
出てた人だった。
あと、個人的には、清正を毒殺した料理人が女に溺れて死んで
草の者が遺体を裸にし、どこかの門に置いていく
というところをやってほしかった。
757 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 16:32:31
日本史板は、タコとイカのスクツ。
758 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 15:56:30
認定証
2ちゃん日本史板
格付け D4(倒産寸前)
by スタンダード&プアーズ
759 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 10:44:17
日本死板
ゲームの影響で今は伊達政宗に次いで人気らしい
信濃一国の話は後世の創作であろうが、実に幸村らしい話だな
木村重成も同じくらい好き
763 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 20:30:20
ほしゅ
764 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:45:39
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
幸村が上杉への人質になった時に見返りとしてもらった
屋代秀正の旧領地調べてるんですけど
参考になりそうなサイトって知りませんか?
766 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 17:36:58
真田太平記でも見れば?
767 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 19:27:50
真田に否定的なやつって軍事史知らないんじゃないか…
真田は日本一のつわものだと思う
真田丸は武田流の築城術つかったもので円周防御が基本
家康の本陣に突入成功したのは兵力の逐次投入敢えてして本陣までの道作った
真田幸村は戦術家として名前残した…
本来は戦略家だったと思うけど確かめる術がない
もっと詳しい人教えてください
私幸村の子孫だけど、幸村ってそんなすごい人だったんですね。
ん?別に
むしろ昌幸の子孫でもあるんだからそっちのが良いよ
770 :
信長:2007/10/27(土) 21:28:59
池波の太平記は最高だ。お江は実に魅力的で、幸村もいい。
家康が最も恐れた男真田幸村ってやつはどうだったの?正月の谷やつ
772 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 09:53:27
真w田w幸w村wwwwwww
773 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 10:13:18
>>770 草刈演ずる信繁の家康本陣への突撃は最高だよな。
渡恒彦の信之もよいし。特に犬伏の別れがよかった
774 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:31:51
でも最期の死に方がねえ
学研の漫画『風雲大阪城』では、幸村が家康に槍で突き刺す寸前に鉄砲に撃たれて死んだが
その様にして欲しかった
イメージ的にもそれが一番イイみたいだし
草刈はセリフがね…
声が固いし
相手が渡瀬だけに、それがよけい惜しまれる
現在の真田家当主は何してるのかな?知ってる方居ませんか?
>>774 脚本が「利家とまつ」や「功名が辻」の人だったら、史実を明後日の方向に曲げてそういうふうにしてくれたかもなw
誰か名前のある武将討ち取ってる?
民間伝承の中ならいくらでも
780 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 01:57:18
幸村「30代無職、でもオラすっげえワクワクしてきたぞ」
782 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 14:04:37
山岡荘八の「徳川家康」の中でも、かなり贔屓されてます。
783 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 15:26:42
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∵ █▃ ▲▂ ▅█▋ █▍.
784 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 17:32:35
hage
785 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 07:43:00
真田日本一の兵
786 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 11:52:01
草刈正雄って次の大河ドラマに出るの?
真田蟲
788 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 14:01:57
幸村や大谷吉継、島左近なんかもそうだけど
派手な死に方した武将はやたら人気あるね
789 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 14:06:04
ヤマトタケル
平将門
源義経
楠木正成
真田信繁
790 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:17:10
ヤマトタケルで何かドラマを作って欲しい。今までまともなものを見た
ことがない。
791 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 16:03:38
幸村は本当に義に篤い男だ
保守
793 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 02:04:13
真田太平記をDVD全巻買ってみたんだけど、凄いおもしろかったなあ
もう20年前くらいの作品なので、今のCGなどはなく城などもしょぼかったけどw
とにかく、真田に引き付けられました。
ところで、樋口角ベエって実在の人物ですか?
>>793 安房守昌幸や左衛門佐信繁を攻めに来る徳川勢のやられっぷりがいい味出してたよな。
面白さに予算の高低やセットのショボさは気にならないな。
795 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 04:03:00
日本のミステリー2に徳川家康影武者伝説の疑惑の真相が載せられてるが,夏の陣で真田幸村に苦戦し,棺に入り脱出する途中で後藤又兵衛に槍で突かれたらしい?大阪の南宗寺に1615年に埋葬されて家康の名が刻まれてる墓が今も残ってるよ。どう思いますか?
わざわざ影武者たてて秘密裏に処理したのに墓に名前彫ったアホはどこのどいつだ
それが知りたい
幕府が大阪の寺に名前彫って埋葬するか考えれば答えは(ry
日本にはキリストや楊貴妃の墓まであるんだし
799 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 22:39:18
age
800 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 20:14:07
秀頼は、真田幸村、真田大助らにより守られ、薩摩へ逃れた。
霧隠才蔵が秀頼を大阪城から救出した。
801 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:45:51
いや、どうせなら十勇士の誰かが右府様を迎えに
大阪城に行くが、時既に遅しで自害した後だった。
それで、それを聞いた島津が悔し泣きすると言う方が
史実的にも辻褄が合うし感動的でいいよ。
薩摩に逃れたって言うのは・・・幾らなんでもありえん・・・・。
上杉さんの所って…その…衆道的にはどうだったの?
武田さん所みたいに…やっぱり…その…アレなワケ?
804 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 15:59:08
判官びいき 義経 幸村
805 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 13:57:51
>>803 景勝と直江はそう。景勝も幸村を試してみたかも? でも.幸村の義父
大谷刑部と三成がそうだったら面白い。
806 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 14:09:29
衆道なんて当時は普通ですよ。汚いもんじゃない。きれいなもの。
807 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 15:31:08
むしろ女オンリーというやつのほうが変なやつ扱いだしね
秀頼が大陸に渡ってダライを継ぐ。
809 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 18:45:45
上田城の桜が素晴らしかった。
間違いなく好きな武将ベストテンにははいってるよ。
811 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 19:14:46
>>806 しかし、なんだ、肛門に肉棒を突っ込むと
出したときに棒にう○こがついて出てくるわけだろ?
微妙な香りもしたと思うのだが・・・
結局実績で言えば
昌幸(上田城建造、上田合戦)
信之(真田の存続は信之あってこそ)
幸隆(難敵村上義清との戦いで勝利など武田信玄時代の功績は大きい)
幸村(大阪の陣→結果だけ言えば負け戦)
の順だろ
でも幸村が1番好きだ
幸村は大坂の陣くらいしか目立った働きはないけど、なんか心惹かれるものがあるんだよね
「悲劇のヒーロー」と、美化してもてはやされるのは好かんが
つか、たった一つの負け戦でよくこんな有名になったもんだよな。
幸村は天寿をまっとうする事も出来ただろうに。
しかしそれよりも戦場で宿敵家康に立ち向かって戦場で死ぬ事を決意して大阪入りした幸村がカッコよすぎる。
そういえば格好よく聞こえるが
九度山でプーしてて資金的にも辛かったので秀頼のウマイ話に乗らざるを得なかったとも考えられるよな。
せめて1万は兵力を持たせて家康に突撃させたかったな。
818 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:57:45
>>815 九度山で朽ち果てるより死に花を咲かせたかったのだろう
819 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:10:56
地元民としては、最近、腐な方面でやたら人気が出てきたのが複雑気分だ……
久々に安居天神行ってこようかね
もう工事は終わってるんだろうか
822 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 18:39:58
中学3年生より歴史を知らん俺だが、「NHKその時歴史が動いた」で真田幸村を知って
その強さや最期の場面に感動した。かっこよすぎる。
823 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 18:49:20
近所のレンタル屋に真田太平記のDVDが無い(>_<)
うちの学科の准教授、この一族の当主だ…
>>824 真田のお殿様のところの学生さんですか
昨年も某祭りでご尊顔を拝しましたぞ
826 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:01:50
>>ところで、樋口角ベエって実在の人物ですか?
俺、松代の近所に住んでるが
松代の真田宝物館のすぐ近くに「樋口家」があって、今、長野市で門(屋敷?)を修復してる。
真田邸や文武学校、別家の真田解解由家の近所だから、位置的に上級家臣の屋敷だと思うが。
ここが角兵衛の末裔の屋敷なのかはしらん。
ただ、樋口角兵衛はモデルになった人物がいて、TV化された時に
子孫から「ウチの先祖はあんなDQNじゃない」と苦情が来たと聞いたことがある。
幸村かっこよすぎ。一番好きな武将だ。
正直最近の風潮でこいつがキャーキャー言われるのヤダ。
こいつ自体はまあまあ好きだけど居心地悪い。
829 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 17:31:34
俺の地元秋田だと真田幸村のお墓があるぞ。
九州へ落ち延びた幸村は自分と共に戦った兵や敵の霊の巡礼して回ったんじゃないかって話
余生はそこで酒屋や質屋をしていたらしいよ
830 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 12:05:08
上田に六文銭のナンバープレート登場!
マシでカッコイイ!!
そのまま三途の川の渡し賃になりそうで、なんか嫌だな…
そういえば幸村ってイケメンで描かれることが多いよな。
悲劇の武将って、どうしても美形になるんだよね。源義経とか。
実際には、あまりイケメンではなかったらしいけど。
834 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 20:23:32
肖像画でみる限り真田幸村は和崎俊哉に似ている
836 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 19:26:10
俺の勝手なイメージでは水道橋博士
自分のイメージは、朝早く近所の人に挨拶しながら、家の前の植木に水をやってるおじちゃん
九度山でしてたことといえば子作りだからなこの人。
妻妾同伴で、幸村の子はみんな九度山時代の子だったはず(大助は微妙らしいが)。
側室腹の長女と次女は、関ヶ原以前に生まれているから九度山生まれではない。
三女は、側室腹で上田生まれ説と正室腹で九度山生まれ説がある。
>>839 詳しく教えて!
その子たちはその後どうなったの?
女系で続いてる家系あるのかな。
841 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 12:50:23
最近、真田幸村のドラマないね。
842 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 01:24:50
843 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:04:49
とりあえず矢沢頼綱は最高だね!
844 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 21:13:11
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\ 皿 / \ 皿 / \ 皿 / \ 皿 /
 ̄ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∪ ̄∪ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∪ ̄∪ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
歯も抜け落ち白髪だらけで腰も曲がる程老けこんでるのに、徳川本陣に突入できる方が疑問だ
それこそ前線で戦ったのは全部影武者で、本人は大阪城周辺にいて突撃隊壊滅を伝令から聞き秀頼を連れ…
の方が理解できるわ
そんなトシなのか?50手前だろ
大袈裟に書いてるんだろ
848 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:56:19
信繁という名前も好きだからいつか
大河でそういう名前で出て欲しいと思っている
でもそしたら幸村って誰も認識してくれないから
無理なのかな・・・
その時歴史が動いたで、家康がもっとも恐れた男と
どん底からの挑戦をもう一度みたい
DVDないし動画消されてるし
>>850 来年になったら大河とタイアップしてオンデマンドで配信しそうだ。
852 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:17:43
853 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 09:14:48
私も大好きです。孔明、正成、幸村、みんな大好き。考えてみるとミーハーだな。
854 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 17:52:13
一本気大将
855 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 12:08:06
夏の陣でもう1000人貰っていれば
家康の首取れたのになあ。
856 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 13:02:30
■真田父子の戦歴■
昌幸 ○ 300人の真田軍 vs 4万人の北条軍 × 北条軍は大混乱に陥り、撤退 ( ´ω`)
武田家が衰退し、見限る家臣が多い中で、最期まで、武田家につかえたが、武田家が滅びた為、
やむなく家康に帰属したところ、家康に裏切られた為、真田が激怒、いつでも来い!と決戦
昌幸 ○ 700人の真田軍 vs 7000人の徳川軍 × 徳川軍壊滅 徳川軍の死者3000人!( д )……
家康が西軍につきたきゃ付けと言ったら、じゃあそうすると昌幸はあっさり帰城し、大軍を迎え撃った
昌幸 ○ 2000人の真田軍 vs 4万人の徳川軍 × 徳川軍はこの敗戦により関ヶ原に間に合わなかった
真田が大阪城に入城したのを聞いた家康は不眠症に陥る。昌幸ではないことにホッとした家康だったが・・
幸村 ○ 数千人の真田軍 vs 数万人の徳川軍 × 冬の陣 たった1日で徳川軍1万人以上が死亡!(ノ∀`)
真田恐怖症の家康が、「信濃10万石で寝返らないか」と幸村を勧誘したが、幸村は「お断り申す」とあっさり断り戦闘に
幸村 △ 3000人の真田軍 vs 15万人の徳川軍 × 夏の陣 家康の本陣に突撃し、家康が一人で逃げ回った
その他、小さな合戦も含め、生涯のほとんどが、少数で大軍と向き合うことの連続で、しかも、ずっと勝ち続けた
という信じられないような実績を残したのが真田父子である。このような武将は日本だけでなく世界的に見ても
ほとんどいないと言われている。
857 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 13:21:47
>>856 本陣にまで襲撃をかけたとはいえ、最後は信繁が敗走の末に討ち取られてるんだから、
徳川方の圧倒的な勝利ですよ。
858 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 13:37:30
>>856 最後、史実をどう解釈したら真田軍に△がつくのか。
◯ 勝ち?
× 負け?
△ 引き分け???
真田幸村スレだから、多少は贔屓目な気持ちも理解するが、現実見ろよ。
860 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 17:15:04
>>859 実は夏の陣で家康は雪村に討取られていたから△
その後の家康は影武者だったんだよ
>>860 軍は全滅、武将も討ち取られた戦の結果を細かい事とはね。
たいしたアホだわ。
「真田幸村、家康が最も恐れた男」を先日見ましたが
悉く真田の策を妨害した豊臣恩顧首脳陣。
あのチームワークの割るさで勝てるわけ無いよな〜
特に、大野 治長。
あれ何?自分で裏工作しておきながら
やっぱり大阪城の中で死んでるじゃんw
意味なさすぎどころか
豊臣滅亡させた人物の中ではMVP決定でしょ。
この時代の織田家、明智家、浅井家の
複雑な怨念劇に振り回される女性、子供達が
可哀想でならない。
淀とお江って実の姉妹なんでしょ?
共通の敵は豊臣じゃないの?
ちょっと違和感あったな〜
864 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 15:26:50
>>863 お前の日本語にちょっと違和感を感じる。
866 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:37:57
真田ってそんなに悲劇的な話でもないだろ。
兄・真田信幸は徳川について生き残ったんだから。
兄と弟をそれぞれ分けて家に保険をかけたんだろう。
兄は卑怯者
868 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:25:00
>>867 卑怯というより、現実的な選択ということだろ。
というか、信幸が大名として生き残ってなかったら
幸村親子も、「大悪人」という歴史評価が残っただけかも知れんぞ。
869 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:30:53
>>867 信幸が徳川方じゃなかったら
真田幸村は、歴史上に名前が残らなかった。
兄信幸の嘆願で、幸村親子は関ヶ原で処刑されずに住んだのだよ
なぜなら、幸村親子は関ヶ原で、秀忠とNO2の本多正信の大失態を演じさせたから。
もし関ヶ原で処刑されてれば、幸村の活躍はほとんどなかったので
歴史から忘却されてたよ。
あの時どうしたら家康に勝てたかな〜
う〜ん。。
猿飛ら忍者を多量に雇って
隠密作戦ってのはどう?
太閤立志伝で大阪の陣で家康フルぼっこにしてやったわ。
なのに秀頼の馬鹿が江戸の爺を殺すなって言うので関東一円には依然徳川の大勢力が…
872 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:03:30
真田幸村に憧れてるから子供を名門・上田高校に入れるとしよう。
なんで外堀埋めちゃったんだろね〜
馬鹿だね〜
外堀埋めたって真田が聞いた時
目玉飛びしたんじゃね??
また、埋める途中普通気づくでしょ?
いくら突貫工事だったとはいえ。
外堀どころか・・
875 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 18:09:54
>>871 もし関ヶ原で西軍が圧勝してもおゴウの嘆願で江戸50万石は残されただろう
876 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:21:58
ゲームと現実ごっちゃにするのやめろよ
877 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:49:14
ていうか真田幸村ってだれ?
>>877 真田幸村という人物は存在しません 正確には真田信繁です
>>877 Yahoo!の戦国武将人気投票で1位を激走してる人=真田幸村
880 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 00:33:46
881 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 01:41:38
ていうか幸村なんていないから
882 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:02:59
関が原の戦いは仕方なかったとしても
大阪に陣は、幸村は自重すべきだった。
自分の命を助けるために奔走してくれた兄や
徳川に信頼されつつあった真田家の立場がないじゃん。
883 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:06:47
大阪夏の陣は家康の懐が大きかったので
「敵ながらあっぱれ」という評価をうけ真田家は助かった。
でも秀忠の時代に大阪の陣が起こってたら
真田に積年の恨みをもつ秀忠は、兄の信行切腹・お家取り潰しにしてたかも
知れないぞ。
884 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:30:54
そもそも真田幸村じゃなくて真田信繁だろ
885 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 02:33:32
真田幸村とくのいちの4コマを探しています。
昔何かの雑誌に載っていました。
幸村が九度山にいるときの話で
お金に困った幸村が真田紐をくのいちに
売りに行かせるとおバカなくのいちが
下着の代わりに使っている
などしていたり
家康が幸村をおびき出すために空腹になった
幸村にご馳走の匂いが届くように団扇で仰いだり
していました。
他にも若き日の立花宗茂とギン千代の話
なども載っていました
ぜひ幸村とくのいちの4コマの題名がお分かりになられたら
教えてください。
お願いします。
ここ最近の信繁押しが なんか必死で面白くなってきたwwww
最近「信繁」だって知ったんじゃないw?
>>882 もしそうなってたら、真田家なんて誰の話題にも登らないマイナーな存在、
それこそ漫画になる前の仙石家レベルの存在だったろうな。
兄のおかげで弟は命を繋いだけど、
弟のおかげで兄も後に語られる存在になれたんだから、面白いもんだ。
兄はしたたかな戦略家
弟は愚直な戦国バカ。
実際はイケメンじゃなくてしわくちゃの叔父さん
よく漫画やゲームでいつも若大将や大学生並の若さと
超が4つぐらいつくイケメンで描かれてるな
弟だから?単に真田幸村って名前が若いから?
最近の創作物じゃ、信玄や家康みたいな絵的なイメージが出来上がってる武将以外は大抵美形化若年化してるだろ。
代表的な戦国無双じゃ、幸村と同年代の政宗はもっと子供だし、
見た目と推定年齢とのギャップ考えたら笑うしかないキャラばっかしだぞ。
893 :
007:2009/03/11(水) 00:13:09
私は真田幸村の子孫です。
信じてもいいが、子孫がにちゃんねるとか・・やめてくれ。情けない。
895 :
007:2009/03/11(水) 15:35:02
真田幸村の事について調べていたら、ここのサイトがでてきたんです。
調べたかったことは、子孫が笑っていいともやなんでも鑑定団に出演してたみたいなので画像残っていれば見てみたいと思ったんです^^
知ってたら情報下さい^^
キチガイ乙。
897 :
007:2009/03/11(水) 20:39:42
信じるのも信じないのも結構ですが、事実です。
「キチガイ乙」って私に対してならば侮辱ですね。
子孫って言ってもいっぱい居て地方に散らばっているんです。
なので、本当に真田幸村の子孫がでてるテレビをみたかったのです。
898 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:49:47
真田幸村とくのいちの4コマを探しています。
昔何かの雑誌に載っていました。
幸村が九度山にいるときの話で
お金に困った幸村が真田紐をくのいちに
売りに行かせるとおバカなくのいちが
下着の代わりに使っている
などしていたり
家康が幸村をおびき出すために空腹になった
幸村にご馳走の匂いが届くように団扇で仰いだり
していました。
他にも若き日の立花宗茂とギン千代の話
なども載っていました
ぜひ幸村とくのいちの4コマの題名がお分かりになられたら
教えてください。
お願いします。
899 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 03:07:11
a
900 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:33:27
また人気投票で一位だったらしいね
戦国無双とかのおかげかね、最近の幸村人気は?
大河ドラマも似たような時代ばっかで作らず幸村を主役にして作ればいいのに
>>901 既に地元上田市は大河ドラマ『真田幸村』をNHKにお願い
してると先週くらいの読売新聞の大河招致記事に出てたよ。
三谷幸喜も次また大河やるなら真田幸村やりたいと言ってたり
天地人原作者が今年の夏から大河化狙いで『真田三代』を
新聞連載したりもするらしいよ。
幸村役はジャニタレかなw?
>>902 しっかし、比較対象が真田太平記となるので敷居が高そうだ。
比較対象が武田信玄だった風林火山はまだ楽だったのに。
いっそ池波先生の「太平記」をリメイクしてもらいたい。
昔のは大河と比べて予算が少なかったから、安っぽかったから
906 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 01:29:35
898 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:49:47
真田幸村とくのいちの4コマを探しています。
昔何かの雑誌に載っていました。
幸村が九度山にいるときの話で
お金に困った幸村が真田紐をくのいちに
売りに行かせるとおバカなくのいちが
下着の代わりに使っている
などしていたり
家康が幸村をおびき出すために空腹になった
幸村にご馳走の匂いが届くように団扇で仰いだり
していました。
他にも若き日の立花宗茂とギン千代の話
なども載っていました
ぜひ幸村とくのいちの4コマの題名がお分かりになられたら
教えてください。
お願いします。
「真田太平記」は、角兵衛の存在で、パロディになっちまったから
もう映像化される事もないんでねえの
ねえねえ、信長が1600年まで生き延びて関が原の戦いで
西軍の総大将として家康と激突って言うのは面白くない?
もしそうなってたらどっちが勝ってたかな?
なお信長軍に三成と真田幸村、武田信玄がいて
家康軍にはな、なんと上杉謙信がいるという
スケールにまで拡げた場合の勝敗はどうなるかな?
ぞくぞくしない?
ありえません
910 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:32:58
真田太平記が大河化しないかな
>>910 正式な大河ではないけど、準大河扱いやん。
むしろ大河じゃなかったから良かったと言える
あの頃の水曜時代劇は「真田大平記」「武蔵坊弁慶」「宮本武蔵」と秀作ぞろい
913 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:30:33
ある歴女いわく
「負けるとわかっていても
向かっていくところが
男ですよね。」
名言だ。
914 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:31:46
歴女に人気No.1武将は
真田幸村とか。
915 :
國學院大學卒:2009/05/28(木) 21:36:52
たった二千騎で15万の
家康軍に突撃とは。
まるで大楠公のようですな。
916 :
國學院大學卒:2009/05/28(木) 21:39:33
死ぬとわかっていながら
戦って散ったのはまさに大楠公や
吉良の仁吉と同じく
男を立てたのです。
意地だろ
918 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 22:00:55
歴女某
(真田幸村の好きな所は)
「やっぱり義に生きたところですね。」
歴女に義を教えられた
気がする。
最近の若い女はあなどれない。
真田幸村
920 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 00:17:53
大阪城の近く、森之宮とゆう街にある職場に勤めてますんで、
いつも幸村を傍に感じながら働いてますよ。
921 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 02:59:21
関東勢に勝つつもりで大坂に入城して戦ったからかっこいいと思うんだが?
922 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 03:07:19
自害しなかったところもかっこいいと思う
真田幸村は、真田庵の住職によると
「九度山のヨン様」
とも言うべき人物らしい。
凄いな。
あの女住職はウケを狙ってた、もしくは言わされた
最近池波先生の「男の系譜」を読んでる。信長など戦国武将の生き様について
語っているけど、幸村については「もう大好き!」なオーラが駄々漏れ。
でもチラホラと出てくる「現代人は感覚が鈍くなって駄目」という文が
気になる。戦国時代と比べられても困るよ・・
池波は兄の信幸だって大好きなわけだが。
927 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 12:57:01
越前勢の陣中から届けられた幸村の遺髪を見て泣き崩れる伊豆守信之
928 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:48:44
さすが滋野朝臣
929 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 12:08:13
西尾仁左衛門「やったぁ!五万石だぁっ!!」
真田の首で五万石は期待しすぎだよ
931 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:28:31
西尾が評価されないってことは真田左衛門佐の首級もその程度の価値ってことだったんでは?
真田幸村って戦国武将人気NO1なんすか?
俺、日本史には詳しくないし興味もあまり無いけど、こないだの天地人は
どうなの?「幸村が兼継の弟子に」って奴
あれは幸村フリークの人達は怒るんじゃないの?
>>933 上田市もロマンウォークのときそう書いてたw
天地人では兼続の弟子って。
935 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 18:50:50
天地人の幸村・・・あれは酷すぎる
936 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:09:48
そもそも猿飛佐助と霧隠才蔵が出てない時点でダメだな。
937 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:41:35
幸村の娘の阿梅のことが興味があるけど
資料が少なくで残念だな。
938 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:42:28
幸村の娘の阿梅のことが興味があるけど
資料が少なくで残念だな。
939 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 12:51:04
大八の子孫は仙台藩の片倉が有名だが、九州にもある。
実は生きていた豊臣国松が藩祖となったと言われる日出藩の支藩、
立石藩の家老家として残ったというもの。その子孫も生存して今も
続いている。真田姓に戻したのは明治以降。
こちらは日出藩の木下家の一子相伝に基づくもの。
天地人の幸村は何なんだ??
幸村は平成の厨房かw
天地人で幸村は兼継の弟子になったけど、史実でも兼継の弟子になってたっけ?
あれ、頭が混乱してきた…
943 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 17:20:40
再来年の大河は幸村希望だな
944 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 17:43:56
草苅正雄じゃなきゃ真田左衛門佐役は勤まらんな
946 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:20:25
源次郎!!
>>937 そうですね。どういう経緯で伊達家に庇護を求めたかも曖昧ですし。
養父の滝川一績の仲介でしょうか?
片倉隊の陣所に矢文とか、あるいは阿梅本人が輿に乗って現れたというのは(ロマンは感じますが)創作のような気もしますし…。
仙台真田氏の存在を知ったのは彼女を通じてでした。
信繁の血が残ってたのか!と興奮したものです。
948 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:35:50
>>939 そうすると、大八の子孫が二系統あることになりますね。
どちらかがウソなのか、両方とも正しいのか。
ただ、どちらもちゃんとした大名家の「記録」としてあるのなら、本人が移動したか、別の兄弟が誤って大八として伝わっているという可能性はあるかな。
>>947 残党狩りのときに捕まったんじゃないかな?
長宗我部元親の娘もそのとき捕まって保護されたらしいけど
950 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 00:39:08
お勧めの本ないですか?テレビでみて知りたいと思いました。
なんか凄かったらしいですね。赤い兜なんですよね。
真田幸村の家臣はどのような扱いでしょうか?祖母方の先祖が真田の家臣と称しているのですが(松代家臣ではなく)
上田で地主をやっていて寺は立派なとこです。
家臣は地味だな
真田家をドラマ化にするにあたって
脚本家は史実をちゃんとリサーチした上でまともに話が書ける人
キャストは特に主役級は真田家ヲタが納得する人じゃないと今年の天地人状態になってしまう
真田太平記リメイクすればいいじゃん
955 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 15:49:33
>>942 景勝は、証人(人質)でありながら、千貫文を与えて家臣として遇し、自由にさせていた。
なので、直江は上司にあたるわけだが、弟子かどうかは不明。
956 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:58:59
真田穣一郎陸軍少将も子孫だったよな
真田家現当主は普段何してるんだろう?
真田祭には来るんだよね
真田本家(松代真田家)のご当主なら、大学の助教授だったと思う。
真田穣一郎は評価低すぎ
その時歴史が動いた
我が手に郷土を
〜真田昌幸・信州上田の市民戦争〜
<オープニング>
甲賀流忍者 猿飛佐助 伊賀流忍者 霧隠才蔵
そして、彼らを率いる知将 真田幸村
強敵 徳川家康に立ち向かった真田十勇士の講談物語は
今も多くの人に愛されています
この物語が誕生した背景には、一人の武将の存在が深くかかわっていました
幸村の父、真田昌幸です。
<エンディング>
上田市にある真田家の屋敷跡
今、長野県上田高校となっています
この学校の校歌には、上田城攻防戦の様子が歌われています
関八州の精鋭を ここに挫きし英雄の
我に至剛の誇りあり いざ百難に試みん
徳川の大軍から命を懸けて上田を守り抜いた民衆の誇りは
今も 人々の心に 生き続けて います
961 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:43:30
番組概要
ttp://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_11.html#03 その時: 慶長5 (1600) 年9月6日
出来事: 関ヶ原の戦いに向かう徳川主力軍を真田昌幸が破る
戦国末期、精強な徳川軍を2度も打ち破った信州の領主・真田昌幸。
大坂の陣で家康を追い詰めた幸村の父である。昌幸の軍勢には、浪人や忍者、
農民などが加わっていた。戦国の世から江戸時代に向けて武士階級中心の社会へと移りゆく中、
昌幸は民衆たちに土地の所有を認めて郷土防衛に立ち上がらせ、階級を超えた総力戦を展開した。
奇想天外な戦術も駆使して、昌幸は秀吉も勝てなかった徳川の主力軍を打ち破る。このため、
関ヶ原の戦い後に一気に徳川政権の基盤を固めようとした家康の狙いは大きく狂わされてしまう。
中世から近世への変わり目の中、幕末長州の奇兵隊を想起させるほどの総力戦を指揮して
郷土防衛に賭けた一人の男の生き方を、最新の研究成果を織り交ぜながら描く。
962 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:46:56
./´ ̄`ヽ /´ ̄`ヽ /´ ̄`ヽ
{ □ } { □ } { □ }
ヽ、_ ノ ヽ、_ ノ ヽ、_ ノ
./´ ̄`ヽ /´ ̄`ヽ /´ ̄`ヽ
{ □ } { □ } { □ }
ヽ、_ ノ ヽ、_ ノ ヽ、_ ノ
963 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:15:57
真田昌幸が生きているうちに
信州に5000石で、
旗本として江戸城内に取り込んでおけば、
大坂の陣は、あっさり終わってたな。
964 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:25:07
バサラの映像とか出すなよ>NHK
965 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 22:50:16
NHKなんだから、
幸村でなく信繁だと
訂正してほしかった。
名前間違えられたら
成仏できないよな。
所詮NHKなんで
967 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:11:42
九度山って大阪に近いのな あんな所に配流するって大阪に篭城してくれといわんばかりじゃないか
家康的には真田親子を脅威になんて感じてなかったのは明白だな
968 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 18:50:48
真田の首級あげた西尾も家康には評価されなかったもんな
ぶっちゃけ
大阪の陣までの信繁なんて脅威でも何でもないし
真田が大阪に入場したと聞いた徳川家康が
障子のヘリにつかまってガクガクブルブルしながら親父のほうか息子のほうか?
って聞いて息子のほうでホッとしたとかも後付の作り話ですよね?
971 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:54:56
人生は最後で決まる
最後は家康爺さんにちょぴりウンコちびらせたんだから凄いよね
ラストヒーローだよ
972 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 00:30:56
大坂での信繁の最後はいまだに語り草になってるもんな
ゲームや漫画の影響で幸村って言うのやめて欲しいmjd
>>970 作り話なんだけど、でも、史実の行間から想像力を働かせて作り上げた
“もしかしたらこんなこと言ったかもしれない”って思わせる説得力があるのがミソ
そういえば、昌幸が死ぬ間際に信繁に対して、いざ東西で事が起こった時、自分が
大坂入りしたならば実績や名声で家康に対抗できるほどの人を集めることも出来ようが、
お前が大坂入りしても声望が不足しているので家康の脅威にはならないだろう、と語った
なんて話もあるね。作り話だけど。
975 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 15:45:01
976 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 17:45:45
西尾仁左衛門が真田左衛門佐信繁の首取ったら三万石貰えるって信じてたって本当?
977 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 19:54:56
死に首同然の信繁の首級をあげた西尾が
「やったぁ!三万石だぁっ!」
ってやつね
978 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:25:11
家康に「どうせ拾い首同然だろ」って言われて貰えなかった
1000石位はあげても良かっただろ
アレほどワシを苦しめたのだから皆かの者を見習うべし
ってことなのですかね?
981 :
日本@名無史さん:
西尾は信繁の首を丁重に供養したらしいし、
恩賞目当てというわけでもないだろう