■疑惑の弥生人中国説について語れ■

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1日本@名無史さん
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、
何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶、
最低でも古代江南の良渚文化や古代華北は山東の竜山文化の
主流であった黒陶くらい伝わっていないのか?

何で当時の中国で主流だった土とん墓が伝わって普及していないのか?
何で青銅貨などの金属貨幣や漢字の前身である金石文も伝わっていないのか?

何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのか?

これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。
2日本@名無史さん:2005/12/18(日) 14:28:58
>>1
中国って何だバカ
江南って地域を指定しろよ
3日本@名無史さん:2005/12/18(日) 14:49:38
当時の江南の文化は華北とほとんど同じ。

江南を語ることは華北も同時に語る事と同じだから、
一挙に語ってしまった方が合理的だろが。
4日本@名無史さん:2005/12/18(日) 15:28:14
>>3
どこがほとんど同じなんだよw
5日本@名無史さん:2005/12/18(日) 17:00:42
重複になるので削除ね。
6日本@名無史さん:2005/12/18(日) 17:15:42
重複してませんが。
7日本@名無史さん:2005/12/18(日) 17:40:30
朝鮮半島に灰陶が入ってきたのはどうもBC2C末に置かれた楽浪郡からの
ようで、漢代の灰陶の流れを汲む楽浪瓦質土器(楽浪土器)というのが
最初らしく、在地土器と共存していた。朝鮮南部での瓦質土器の出現は
BC1C頃で、やはり三韓軟質土器という弥生土器に近い土器と共存していた
らしい。(下のリンク参照)

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html

日本における最初の灰陶は5Cの須恵器からであり、倭の属国になった
半島の帰化人によってもたらされたのは皆さんよくご存知の通り。
8日本@名無史さん:2005/12/18(日) 17:41:14
BC4C末の江南も華北も灰釉陶と印文硬陶が主流。

>「この墓(=土とん墓)から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が
>大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは異なった図文をもって
>おり、銅剣は身柄一鋳のものである」。

http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm

灰釉陶は釉(うわぐすり)で表面にガラス質を出した灰色のb器。
印文硬陶は青灰色・よう黒色を呈する堅く焼締まったb器。

◎中国の陶磁史
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3a.html
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu/Jkaisetsu/tojisi2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi3.htm
9日本@名無史さん:2005/12/18(日) 17:58:15
「弥生人中国説」って日本語がおかしいなあ
そもそもその頃「中国」なんてあったのかと
10日本@名無史さん:2005/12/18(日) 18:01:43
中国大陸の略でしょう。
11日本@名無史さん:2005/12/18(日) 18:05:46
朝鮮半島は大陸の一部じゃないの?
満洲は??
12日本@名無史さん:2005/12/18(日) 18:13:54
>>9
じゃあ、何で春秋戦国時代は中国史にあるの?w

そもそもその頃「中国」なんてあったのか?w
13日本@名無史さん:2005/12/18(日) 18:44:40
その頃中国地方は「吉備」「出雲」と呼ばれていました。
14日本@名無史さん:2005/12/18(日) 19:55:54
>>13
するってえと弥生人中国説はまんざら間違いでもねえんじゃねえかい
15YMP:2005/12/18(日) 22:49:47
弥生人:中国渡来説
古代日本人と韓国‐朝鮮半島人は同じ渡来中国人
日本語と古代韓国語は類似
http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/newpage3.html
に記述されている。
16日本@名無史さん:2005/12/19(月) 00:52:09
>日本語と古代韓国語は類似

わあすごい大発見だね(棒読み)
17日本@名無史さん:2005/12/19(月) 14:09:41
>>15
その謎のAFOのクルーの正体が分かったぞ!



著者:丸地 三郎

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/newpage3.html


18日本@名無史さん:2005/12/20(火) 16:39:18
>中国に銅鐸あるじゃん。
http://www.rekihaku.ac.jp/koohoo/journal/no121/rekishi.html


中国に銅鐸は無いよ。
銅鈴ならあるが。
19:2005/12/20(火) 16:46:52
>>15
ワッショイ!の語源は朝鮮語のワッセらしいぞ、
とまあクダラナイ思い込みを
次から次へとよく膿み出すわw
20日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:20:40
丸地三郎って誰??
21日本@名無史さん:2005/12/20(火) 21:40:51
丸地三郎って誰??
22日本@名無史さん:2005/12/20(火) 23:46:55
中国説派は尻尾を丸めて逃げていったようですねw
23日本@名無史さん:2005/12/20(火) 23:55:37
山地容疑者なら逮捕された。送検中のニヒルな微笑みが不気味だった。
24日本@名無史さん:2005/12/21(水) 00:04:01
B52-DR15はモンゴルでも最多ハプロタイプらしい。
その分布はモンゴルでは東部の方に集中しているとの事。

おそらく、B52-DR15のもともとの起源地は満州北西部から北部あたり、
フールン湖からシルカ川、アルグン川沿岸にかけてだと推測。

騎馬民族ではなく、半猟半農の民族で、水辺に近い環境から船に乗ることも
知っていたのではないか。

モンゴル系ではなくツングース系の一派の北方モンゴロイドか?

西に向かったものはモンゴルの騎馬民族に、南下したものは満州と朝鮮半島を
通過する際に紅陶文化と支石墓文化、半島南部で土着の中央モンゴロイドから
稲作技術の影響も受けて定着する間もなく日本まで渡ってきた。
25日本@名無史さん:2005/12/21(水) 14:32:13
徐福の一行が移住したのは日本列島じゃなかったのか
26tociguri:2005/12/21(水) 14:42:52
>>19 ワッセでなくてワッソ(来ました)らしいが、「来ました、来ました」などと
いう間抜けな掛け声があるのだろうか?

27日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:22:13
>>18
支那の「銅鈴」を日本では勘違いして「銅鐸」って呼んでるだけじゃないの?
28日本@名無史さん:2005/12/22(木) 15:04:37
中国の銅鈴は数cm、銅鐸は50cm前後。朝鮮半島の銅鈴はその中間くらい。

大きさから日本の銅鐸は鐘ではあっても鈴ではないな。

でも、日本の銅鐸は明らかに朝鮮半島から入ってきたもので
中国から直接来たものではないね。

大きさが全く違うし、金石文が見つかったという話を全く聞かないからね。
29日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:34:26
BC4C末の江南も華北も灰釉陶と印文硬陶が主流。

>「この墓(=土とん墓)から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が
>大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは異なった図文をもって
>おり、銅剣は身柄一鋳のものである」。

http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm

灰釉陶は釉(うわぐすり)で表面にガラス質を出した灰色のb器。
印文硬陶は青灰色・よう黒色を呈する堅く焼締まったb器。

◎中国の陶磁史
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3a.html
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu/Jkaisetsu/tojisi2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi3.htm
30日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:44:38
朝鮮が日本に差を付けられた最大の原因は米が半島の気候に適合しなかった事だろうな。
31日本@名無史さん:2005/12/24(土) 02:31:29
米が最大の原因とは片腹痛いw ギャグですよね?
32日本@名無史さん:2005/12/24(土) 08:27:12
>>31
東北地方が大和政権に対して差をつけられたのと同じだよ。
東北地方が米を安定生産できるようになったのはようやく戦後になってからだ。
気候区分でいえば冷帯。これは稲作社会では致命傷。
33日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:07:36
朝鮮半島に灰陶が入ってきたのはどうもBC2C末に置かれた楽浪郡からの
ようで、漢代の灰陶の流れを汲む楽浪瓦質土器(楽浪土器)というのが
最初らしく、在地土器と共存していた。朝鮮南部での瓦質土器の出現は
BC1C頃で、やはり三韓軟質土器という弥生土器に近い土器と共存していた
らしい。(下のリンク参照)

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html

日本における最初の灰陶は5Cの須恵器からであり、倭の属国になった
半島の中国系帰化人によってもたらされたのは皆さんよくご存知の通り。
34日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:43:04
中国人は少数民族を除いた漢民族で、中原の華北の中央モンゴロイド
(中央蒙古人種、シナ人種、シニーデ)と南部の南方モンゴロイド
(南方蒙古人種、南シナ人種、バレンモンゴリーデ)に大別される。

華北人の属する中央モンゴロイド(中央蒙古人種、シナ人種、シニーデ)が、
長身、中頭、面長、狭鼻、二重まぶた、張ったえら、頬骨が出ず彫りのあまり浅くない顔面。

華南人の属する南方モンゴロイド(南蒙古人種、南シナ人種、バレンモンゴリーデ)
低身長、短頭、丸顔、広鼻、二重まぶた、張ったえら、頬骨が出ず彫りの浅くない顔面。

華中(江南)はそれらの中間くらい。

シナ人種は長身、中頭、面長、狭鼻、二重まぶたで蒙古ひだが無い人も
珍しくなく、頬骨が出ず彫りのあまり浅くない顔面を持つため、
その容姿から一時はコーカソイド起源説が唱えられたが、
今は否定されているとの事。
35日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:45:39
縄文と弥生は事実上「米」栽培で区別されてんだろ。本来は土器だが。
36日本@名無史さん:2005/12/25(日) 16:35:24
中国説派は尻尾を巻いて逃げ出していったようですねw
37日本@名無史さん:2005/12/26(月) 17:37:00
まあ丸地三郎でも読んで笑ってやりたまえよ諸君w

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/newpage3.html

38日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:41:04
中国説派は尻尾を巻いて逃げ出したようですねwwww
中国説派は尻尾を巻いて逃げ出したようですねwwww
中国説派は尻尾を巻いて逃げ出したようですねwwww
中国説派は尻尾を巻いて逃げ出したようですねwwww
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中国説派は尻尾を巻いて逃げ出したようですねwwww
39日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:13:58
やれやれ、弥生人最強スレになっちまったようだw
40日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:42:28
良いじゃない。

これで永久に江南馬鹿の妄想を見ずにすむ。
41日本@名無史さん:2005/12/27(火) 01:22:26
服は伝わってるのか?

やっぱ伝わってねえのかな?
42日本@名無史さん:2005/12/27(火) 02:10:54
>これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ

バカチョン工作員乙
43日本@名無史さん:2005/12/27(火) 02:23:23
中国を必要以上に目の敵にしているのは、ウリナラだけの日本!
そう構って欲しいニダ!のチョン工作員くんです。はい
44日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:24:08
>>42>>43
切り返しに困ったらビビンバ認定が最終手段とは情けないねえw

まともな切り返しして来いよ。

1=私は純血日本種ですので宜しく。

AFOとチャンコロはもう来ないでね。

もちろん馬鹿チョンもなw
45日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:29:13
ファッションか。

良いところ突いてきたな。

俺は当時の中国の食文化が伝わってるかどうか知りたいね。

今でも食文化は外国人が在来人に伝えられる最低限の文化だからね。
46日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:45:07
そして、同じく小麦の一大産地だった中国黄河流域の河北地方に
生まれた麺である。華北の地に小麦の栽培が伝わったのが
春秋戦国時代。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~elspace/sub11.htm

小麦は7000年頃メソポタミアで栽培されていて、中国には2000年
以上前にシルクロードを通って入ってきたといわれている。
しかしそれ以前の紀元前4000年に小麦があったことが判明している。

http://kixsfo.fc2web.com/asia/china.html

周代初期(前1300年頃)には大麦が、春秋戦国時代(前900〜前400年)
になって小麦が伝わったといわれている。

http://www.geocities.jp/tyan91/bun7..html
47日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:51:16
華北には遅くともBC5Cまでには間違いなく小麦はあった。

日本には弥生時代後期になって、中国から小麦と餅類が伝えられた
そうだ。

弥生人のやって来たBC4C末に日本に小麦は入ってきていない。
48日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:59:15
これだとBC1Cに来たらしい。やはりBC4C末に間に合わない。


中国への伝来は数千年前に北方の新彊、蒙古と、南方のインド、ビルマ
からの二つと推定されており日本へは紀元前1世紀頃と考えられています。

http://www.icon.pref.nagano.jp/cgi-bin/v820/pro1.cgi/usr/shokuhin/org/page.html?9+201
49日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:20:34
つまりだ、弥生人なんてのは組織的には少なくとも来てない。
亡命した一部の大陸、半島の人が居着いただけ。
基本的には縄文人(九州では無紋土器を使っている)
のの末裔。
遺跡などからでも骨格、遺跡等々縄文時代から大きな変化は
見られないそうである。

東京の馬鹿学者の作った縄文人、弥生人妄想の束縛から
そろそろ脱却すべきではないか?

50日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:35:02
>亡命した一部の大陸、半島の人が居着いただけ。


さり気に大嘘を刷り込んでくれるじゃないのw


>遺跡などからでも骨格、遺跡等々縄文時代から大きな変化は
>見られないそうである。


何を今更そんな大嘘をつく必要があるのかな?
縄文時代とは明らかに異なる北方モンゴロイドの形質が見られる
渡来人骨が全国の弥生遺跡から出ているのは子供でも知っている事。
51日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:51:01
つまりだ、弥生人は少なくとも組織的にやって来ている。

それもAFOがよく唱えている亡命した中国大陸、朝鮮半島の人
なんかじゃない。

基本的に北方からやって来ており、弥生人は北方モンゴロイドの
拡散の一環であったとは言える。

遺跡などからでも縄文人とは異なる北方モンゴロイドの形質を持つ
頭蓋や骨格、それまでに無い弥生土器や金属器などが全国の弥生遺跡
に見られる。

馬鹿学者の作った弥生人=中国朝鮮妄想の束縛からそろそろ脱却
すべきではないか?
52日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:51:37
てか>>1以下自演のおまえらキモ杉
切り替えしだのバカじゃね?
こんなとこでまともな議論なんかやるかよw
一日中張り付いてお仕事している工作員には関係ないか?www
53日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:54:45
学者気取りの歴ヲタならまだしも、チョソなのは許せん!
54日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:55:20
↑おまえの方が工作員に見えるし、キモくてバカに見えるがなw
55日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:58:12
>>52>>53
まともな議論ができない負け犬負け組は帰った帰った!
56日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:59:10

弥生人というのはむしろ、律令時代から江戸時代にかけて
全国に広まった、近畿・関東貴族武士の拡散と言えると思う。

弥生人の本質はそこにあると思うわけである。

57日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:00:13
それもAFOがよく唱えている亡命した中国大陸、朝鮮半島の人
なんかじゃない 
それもAFOがよく唱えている亡命した中国大陸、朝鮮半島の人
なんかじゃない
それもAFOがよく唱えている亡命した中国大陸、朝鮮半島の人
なんかじゃない
それもAFOがよく唱えている亡命した中国大陸、朝鮮半島の人
なんかじゃない
それもAFOがよく唱えている亡命した中国大陸、朝鮮半島の人
なんかじゃない

贔屓目で見てもバカ杉
58日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:02:03
キチガイツングース房は遊んでナンボだな
59日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:03:54
弥生人はツングース人と言えよキチガイw
60日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:05:07
>>57
あっそう。じゃあ、何で、

江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、
何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶が伝わってないの?
最低でも古代江南の良渚文化や古代華北は山東の竜山文化の
主流であった黒陶くらい伝わっていないのか?

何で当時の中国で主流だった土とん墓が伝わって普及していないのか?
何で青銅貨などの金属貨幣や漢字の前身である金石文も伝わっていないのか?

何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのか?

これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。

しかも、渡来人骨は朝鮮半島の古代人骨と形質が全く一致しない。
さて、弥生期の渡来人はどこから来たの?
61日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:08:01
出雲の遺跡から満州の四隅墓が発見される、
八幡、戸畑の遺跡からキョウドとそっくりの石碑が発見される
このあたりが本格的な北方系の渡来人の出現とみていいと思うよ。
62日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:10:50
>>57
弥生文化は紅陶文化と支石墓文化。

これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化。

ところが、渡来人骨は朝鮮半島から出土する古代人骨と形質が
全く一致しないんだな。

さあ、弥生期の渡来人はどこから来たのかね?
63日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:13:17
倭人伝の頃にも亡命渡来人はいたであろうが組織だったものではなく、
地元の文化に迎合していったとみていとおもう。
渡来文化をそのまま受け継いだ文化といえるのは、
出雲系と、八幡戸畑系の
二系統があると思うわけである。
64日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:13:54
伝わっていないから来なかったとは胆略的で単細胞なチョソのなせる業
朝鮮に関して、朝鮮半島の人なんかじゃないといいつつ文化は朝鮮から満州
にかけてのものという、矛盾しまくりーのチョソはウザスw
65日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:15:45
66日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:17:49
考古学ヲタは暗号解読の術でも身につけてるのか?
67日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:39:13
>伝わっていないから来なかったとは胆略的で単細胞なチョソのなせる業


本当に主要な文化はなーんにも中国から伝わってないみたいなんだがw

ああ、馬鹿お得意の水田稲作は時代が違うからね。

残念。
68日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:55:37
魏志倭人伝(3C)には倭には生姜はあるが、倭人は食べる事を
知らないとあったが、これも伝わってないみたいだね。


中国では、紀元前480年頃にショウガの記録が残っているので、
歴史も非常に古い。日本へも、古くから伝わり「古事記」
「魏志倭人伝」などにも記されている。

http://www.ofukuro-aji.net/syun/etc_shoga.html
69日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:02:45
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。
苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)がある。

その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)・やだけ・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、
「しゅろか」とする)がある。

・薑(しょうが)・橘(たちばな。または、こみかん)・椒(さんしょう)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。
70日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:22:46
中国人の唯一尊敬できるとこ、倭の古代文化を事細かに
記述してくれたこと。
71日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:39:36
しかしよー。
日本史板って以前からこんなに口悪いやつ多かった?
なんか一人のせいでみんな口悪くなってる気がする。
72日本@名無史さん:2005/12/28(水) 18:51:36
面白いのは茗荷で、茗荷は古代中国では食べられていたが、
今では薬用だけで食べないのだそう。

逆に古代日本では茗荷は食べられていなかったと倭人伝にあるが、
今では茗荷を食用に消費しているのは日本だけとの事。

つまり渡来人は茗荷を食べていた古代中国からではないと読み取れる。
73日本@名無史さん:2005/12/28(水) 19:03:00
基本的に食べ物=民族移動という単細胞な理論はあまりすきではない。
パンを食べる日本人は欧米系なんかと、あほかと
74日本@名無史さん:2005/12/28(水) 19:16:24
それは民族移動を伴わない文化だけの伝播だろ?
それは世界中に無数にある事だろう。

そうではなくて、72は民族移動を伴った食文化の無伝播という
ところが問題なんだよ。
75日本@名無史さん:2005/12/28(水) 19:58:54
春秋戦国動乱期に大陸から渡ってきた避難民またはその集団を弥生人
みている学者が大勢。
なお環境や気候、情勢などの変化による文化の断絶や変化が起きた
と思うのが普通。でなければ単細胞。
76日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:06:07
九州沖縄と本州四国は分けて考えるべきである。
明らかに文化、言葉が異なる。
77日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:22:40
>>75
数年前まで、稲作は2300年前に伝わって弥生時代が始まったと
みていた学者が大勢でしたがねw
78日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:24:58
・原をバルと読む
・苦瓜文化
・無紋土器文化
・方言、イントネーション、アクセントの共通性(行くことを来るという事など)
九州・沖縄には数々の共通点があるのであるが、
四国本州とは共通点がない。
かつて朝鮮と日本くらいの文化的隔たりがあったのが
九州沖縄と本州四国だと思う。
古代琉球の歴史
http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30256/civilization/ryukyu/history.html

渡来人の広がりについても九州沖縄と本州四国は分けて考えるべきである。

79日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:30:03
渡来人が九州で占拠したのは北部だけだよ。

北西部も中部以南も土着系の勢力が強かったので、
九州北部から中国地方に徐々に人口移動していった。
80日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:31:26
米が江南発祥だからだろ。
81日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:36:05
列島各地は
縄文中期以降次第に狩猟から農耕に以降していったみたいだよ。
倭人伝当時も米がそれほど重要な農産物とはされてないようにみえる。
むしろ、野菜を沢山くってる。
必ずしも、稲作と渡来人を結びつける根拠は薄いと思われる。
82日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:38:30
当時の江南は呉越ビンとかいう地域だろ。今でも少数民族が多い土地だね。
83日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:39:06
>>78
それは古代日本語が東日本・西日本・九州の三大方言に分かれたからだろ。
それに、奄美沖縄方言が古代九州方言の末裔であることは確かだが、
九州方言と奄美沖縄方言の間の隔たりも別言語扱いされるくらい大きい。
苦瓜は南方から琉球王国を経て九州に伝わったもの。焼酎も同じ。

で、これらは弥生人の起源とは全く関係が無い。
84日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:50:51
稲と同じ江南発祥の野菜にタケノコ、つまり孟宗竹がある。
タケノコから稲の伝来のルートが見えてくる。


モウソウチクは中国の江南地方の原産といわれ、江南竹とも呼ばれて
います。温帯南部の気候が適し、岩手県以北では生育が難しく南日本は
生育の適地だといわれています。

 日本へは十八世紀に、中国の江南地方から琉球を経て日本に渡来した
ものらしく、1736年には鹿児島に、1779年には江戸品川の薩摩藩邸に
植えられて珍重され、十九世紀に各地に広まったそうです。

http://www.kuromon.com/_shoku/n_take2.php
85日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:53:03
江南地方から琉球を経て日本に渡来
江南地方から琉球を経て日本に渡来
江南地方から琉球を経て日本に渡来
江南地方から琉球を経て日本に渡来
86日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:00:58
渡来人と稲作伝来・水田伝来は全くさらさら関係がない。

時代が全く違う。

渡来人は移動途中で見てきた半島南部の「農業技術」を
ただ運んできただけ。
87日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:11:49
渡来系って、朝鮮半島にいた中国支配階級の名残だろ。

農業技術は、半島を通して入ったんでなく、
南方経由で江南から入ってきたという話。
88日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:29:47
そもそも大陸半島との人間の動きは縄文中期以降断続的にあったはずじゃ
ないかな。そこに居着くまでに至らなくとも移動はあったと思う。
九州から沖縄に人が移動した縄文中期なんかはかなり活発だったと思われる。
より先進的で住みやすい場所、人口密度の低い場所に人々は移動した。

アメリカインディアンは北方モンゴロイドの古い形質を持っていて
遺伝子もそっくりなので昔は列島各地にあの手のタイプが沢山住んでいた
とおもわれる。アイヌとの違いは毛が濃いか濃くないか程度の違い

頭狂の学者が考えた縄文・弥生の区切りからそろそろ脱却すべきじゃないかな
89日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:32:47
脳内年表を正す必要があるな。

日本の渡来人がBC4C後半。

朝鮮半島に中国系が入ってきたのがBC3C末。
90日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:49:12
大陸とやりとりはあっただろうことは不思議ではないと思う。
でも、先住民族系とあとから来た人種で遺伝的特長がはっきり違うことも確か。
縄文系は、先住民。弥生系は、後から来た民族。
どのようにまじりあっていったのかは知らないが
大陸や半島に近い西日本が容易に弥生系と混じり合っていったのは理解できる。
ただ、混じり合う=征服されたとか考えるのは早計。
文化の入り方も一つではないし、
単純に大陸>列島と文化の流れを一律に考えるのも愚かだろう。
独自に発展したものもあるかもしれない。
その理由にまず気候の違い、風土の違いがある。
また、古い文化<新しい文化と一律に考えるのも危険だ。
ヨーロッパの中世暗黒時代のようなケースもあるからだ。

91日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:59:55
>>89
ADのまちがいじゃなくて?

92日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:03:10
周は米も作っている。
水田の北方ルートも再考するべきではないか?


Q:周の時代はどんなものを食べていたのですか。

A:穀物・・・アワ、キビ、大麦、小麦、米。
動物・・・牛、羊、ウサギ、シカ、イノシシ、鳩、雁、ウズラ、キジ。
鯉、フナ、ウナギ、ドジョウ、スッポン(これは高級料理)。
野菜・・・ニラ、ウリ、ショウガ、フユアオイ、タケノコ、ワラビ、タデ、ハス。
果物・・・桃、スモモ、梨、栗、柿、ナツメ。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~mikihigashi-hs/maekawa/02-05.htm
93日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:14:22
思うに、列島にかつて同じ国、民族という意識があったとは思えない。
海を越えれば外国、征服するか、あるいは敵対するかしかなかったと思う。

主権国家概念はないけれども、海を越えれば外国であったに違いない。
そういう風に考えると、四国なんかは完全に近畿本州勢力に征服された地域と
考えられる。それまで四国独自の文化があったかどうかまでは不明。
94日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:17:35
>>90
思ってるほど人って移動しないよ。
渡来系の姓は明らかに東日本に多いわけです。
自分の尺度が全てと思ってはダメだよ。
95日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:22:08
渡来系の姓って古墳期の帰化人と一緒にしてないか?

その700年以上も前の日本人種の根本になった渡来人の方だよ。
96日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:23:33
竹って昔の日本ひはなかったの?
ササの子を食べる場合もあるよ。
97日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:27:02
俺は古墳期以降の帰化人の末裔の全国への拡散の方が
先史時代の渡来人よりも現日本人の容貌に与えた
影響は大きいと思うけどね。
正直、近畿の貴族と関東の武士の全国拡散は
怒濤のような流れになってるよ。
98日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:40:07
>>97
そのときには既に弥生人を祖先とする人種が中核となって
300〜500万人も日本人口が居たんだぜ。

それに対して半島帰化人はトータルで1万人未満。

奴隷のような存在で定着できたのかも疑わしいんだよね。
99日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:40:38
関東武士や近畿の公家が権力を手中にしたのは一つに文字を
使えたことではないかと。
万葉集や防人歌をみるにそう思う。
統一した音韻がないと難しいと思うが
100日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:41:14
>>84-87
沖縄で稲作が始まったのはいつかね?
もちろん九州より数百年は早いんだよね?ん?
101日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:45:04
縄文期、弥生期の言葉はおそらく沖縄方言に似た感じだろ。
現日本語とは明らかに音韻が異なる。
古墳期の帰化人は文字を使い意思疎通が容易になり団結することが
できた。
これは勢力拡大に大きく寄与した
102日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:46:52
沖縄人は九州の漁労民の末裔と湊川人の混血。
であるから農耕になかなか移行できなかったんじゃないかな。
103日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:46:56
>>100
それを言われると稲作南方伝来説が崩れるんだよなw
104日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:51:41
琉球人は8000年くらい前に渡来した九州縄文人の末裔だな。
北日本→九州(12000年前)→琉球(8000年前)


細石器文化は旧石器時代の終末期に北方ユーラシア大陸を中心に普遍的に
展開した特異な文化である。

長崎県福井洞穴では細隆起線文や爪形文土器に細石器が共伴し、放射性炭
の測定で約一万二〇〇〇年前後に比定されている。
http://www.coara.or.jp/~fuminori/3banme.html


縄文時代前期(約8000〜5000年前)の遺跡からは九州で生産された土器が
出土することから、九州縄文人が船で琉球列島に渡ってきたと考えられる。
http://inoues.net/ruins/nakamagawa.html
105日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:52:53
>>97
>怒濤のような流れになってるよ。

なってない。
関東武士は関東武士家系同士の結婚が多かった。
それが室町時代や戦国時代にも続いた。
このため地元有力者との立場の乖離が生じて下克上が発生した。
貴族も同様。
遺伝学的にみた拡散というのは明治以降の話だよ。

縄文時代からすでに容貌が多様であったと見るべきだ。
106日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:00:19
余談だが、沖縄人が本州に来ると、まず本州人の一重まぶたの多さに
驚くんだそうな。

東京に来たときも、山手線に乗りながら、東京人の顔をしげしげ
観察したらしいんだが、一重まぶたが多い事に驚いたと沖縄人の
運営する某ページに書いてあった。
107日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:01:05
>>101
沖縄方言は古代日本語の音韻が激しく変化したものですが。
元からあんなにかけ離れていたわけではないよ。
奄美や先島にはまた古い特徴を残す独特の方言がある。
108日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:07:49
古代日本語が一つだったとは思えない。
少なくとも九州の言葉から沖縄方言に発展し、
本州四国は別に発展したんじゃないかな。
根本的な部分で違うことが多すぎる。
109日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:11:03
>>94
それ今の東日本の話?
それとも当時の東日本の話?
110日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:13:45
沖縄人の話からして、結局、弥生人は一重まぶたの北方モンゴロイド
なんだろ。
111日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:19:37
>>108
アホな電波飛ばすな。
根本的な部分で違うことって何だよ。
112日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:21:54
アイヌや沖縄はやっぱ血がちがうって一目でわかるよな。
本州人と朝鮮人ってあんまりちがわないからな〜
113日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:30:39
本州人と朝鮮人の違いなんか簡単だよ。

本州人よりも顔がやや扁平で目がやや吊り上っていて
必ず頬骨が出ていて輪郭がゴツゴツしているのが
平均的な朝鮮人の顔。

かと言って、弥生顔よりも堀は浅くなく、中央温帯系の顔が朝鮮人。
114日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:41:49
そういや、長崎人の喋りと沖縄人の喋りにてるな
115日本@名無史さん:2005/12/29(木) 02:37:50
湊川人て縄文人をより縄文人にしたような人種だったらしいね
東日本を中心に日本全土に分布した縄文人、つまり
北方モンゴロイドから発生したものとは別もんかと。。。
東南アジア〜フィリピン〜台湾〜琉球諸島〜九州
にかけての人の流れ、黒潮の民がいたのでは?
116日本@名無史さん:2005/12/29(木) 09:44:44
港川人はちんちくりんです
117日本@名無史さん:2005/12/29(木) 09:58:49
港川人の人骨は沖縄以外で見つかってないんじゃないか?
極端に身長が低いので栄養状態がよくなかったとも遺伝的特徴とも
海洋性はあまり感じられない、偶然、漂着したなど沖縄島に取り残されたとしか
おもえん。
118日本@名無史さん:2005/12/29(木) 10:01:03
四国もかつては港川人みたいなのが住んでいたという人もいるけど、
結局、現代には何一つ痕跡を残してないんだよな。
四国の古代史。
119日本@名無史さん:2005/12/29(木) 10:26:28
日本の農耕文化は大きく分けて2系統ある。
ひとつは、アジア北部的な北方雑穀農耕文化。
もうひとつは、東南アジア的な稲作(または芋)農耕文化。
実は華北の漢民族の農耕文化は、当時ぶっちぎりで高度だったにもかかわらず
少なくとも文字文化より前の日本にはほぼ全く入って来ていない。
(朝鮮半島西岸までは流入しているが)
いわゆる江南説的な考えをとっても
漢族の日本流入は一切想定できないわけで、
狭義の中国人説は史記の読みすぎ妄想でしかないのは確実。
だが、問題は南方アジア的農耕が明らかに包括的に入っているのに
人種流入の痕跡がほとんど見られないことだ。
120日本@名無史さん:2005/12/29(木) 10:38:51
九州の縄文人が海洋性に富んでて開明的であったので
いろんな文化しいれたんだ、倭人伝の彼らは縄文人の末裔だし
おそらくハヤトと呼ばれた人たちだろ。山岳派はクマソか
彼らは農耕に移行したと考えられる。
121日本@名無史さん:2005/12/29(木) 10:50:25
壱岐も対馬も3世紀になっても漁労と貿易を中心に生計立ててるわけで
沖縄で農耕が発展しなかったのは不思議ではない。
沖縄人が農耕文化のみ伝え自らはそれに従事しなかったということは
十分に考えられる。
122日本@名無史さん:2005/12/29(木) 10:55:37
注目すべきは九州の縄文人の行動範囲の広さである。
少なくとも北海道、沖縄にその痕跡を残している。
アメリカにまでその足跡と思われる遺跡さえあると言われる。
こうしてみると、彼らの行動範囲の中で様々なものを見聞きし
取り入れた考えるのが自然。
123日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:10:21
古モンゴロイドは文化面からみて少なくとも3つのタイプに
分かれていたと思う。
本州タイプ、九州タイプ、朝鮮タイプみたいのは
あったと思う。
彼らは同じ古モンゴロイドから分かれているが、海に閉ざされ
言葉と文化を異にすることにより遺伝的、身体的な特徴も少し
ずつことなっていったと考えられる。
124日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:33:21
栄華を誇った九州の古代文明も大陸のバタ臭い近代文明に次第に
遅れを取るようになる。まず後進的な地域であった
宇佐地方でハヤトが渡来人に征服された。
次第に彼らは九州西部のまで勢力範囲を広げてくる。
その最たる戦いが仲哀、神功皇后などとの戦いということだろう。
125日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:58:49
中国ではなくフィリピンあたりから来た可能性は?
126日本@名無史さん:2005/12/29(木) 12:04:38
頭狂の学者が考え出した弥生文化も所詮、九州の古代人が
大陸半島東南アジア等々から自らの趣向や地域的特性など
照らし取捨選択し取り入れたということである。
であるから実用性の乏しいものやその地に特有の精神文化に根ざすような
ものは移入しなかったわけである。
127日本@名無史さん:2005/12/29(木) 12:29:58
宮古八重山は本来南方的な文化であったと言われているが
遺伝的には九州のものと同じらしいね。
宮古八重山に限らず沖縄本島の文化には
南方台湾の文化の移入は多少あるみたい。
フィリピン、ポリネシアンが直接日本に及ぼした影響はほとんど
ないんじゃないかな
128日本@名無史さん:2005/12/29(木) 12:43:54
そもそも朝鮮半島は安普請の家みたいなもので
原形を留めてないから参考に出来ないと思う。
129日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:05:21
古モンゴロイドの分化については123でだいたい合っていると思われ。

北海道タイプ、東日本タイプ、西日本タイプ、南九州・琉球タイプ。

北海道タイプが長頭。
南九州・琉球タイプは超短頭。
その他は中頭。

朝鮮タイプも更新世には西日本タイプの一環であっただろうが、
半島が列島と切り離されたこの15000年間のうちに朝鮮タイプは
形質だけを残した中央モンゴロイドに変化した。
130日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:32:50
例の北海道の山口氏の研究によると九州の縄文人は
西は中頭、東は短頭だったらしい。
背も西は高く、東は低いという調査がある。
南九州に移ったタイプはこの東のタイプだったかもしれない。
131日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:55:27
頭示数の変化については分からない事が多いが、気温の日較差が
大きい地域ほど長頭が多い。
132日本@名無史さん:2005/12/29(木) 16:04:29
朝鮮人についても謎が多いが、朝鮮半島から出土する縄文人骨に
似た人骨はかつては日本から渡った縄文人のものと考えられていたが、
やはりこの人骨は朝鮮半島の土着系のものであると見るべきだろう。



こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
133俺等05772:2005/12/29(木) 17:25:51
日中の年表対比から、渡来弥生人のルーツを調べた。
最初、弥生人渡来の始りは徐福到来が原因ではないかと考えたが、この時代の始り
は徐福到来より 250 年以上早く、前 473年に呉が越に滅ぼされたことと大きく関
わっている、との結論に達した。また、越が楚に滅ぼされた時代も、大量の亡命者
が日本に来たと思われる。


日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ

中国側戦国時代の年表             日本側弥生時代薄明期の年表

前473年 呉が越に滅ぼされる       約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷
前379年 越が呉に遷都する
前334年 越が楚に滅ぼされる       約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人
                           約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺)
                          約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる
前223年 楚が秦に滅ぼされる
前222年 燕・代、秦に滅ぼされる
前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一
前219年 徐福、第2回出航
134日本@名無史さん:2005/12/29(木) 17:32:04
大量の亡命者が来たら、普通、来た証拠に遺物やなんか文化的に残るよな?

なんか残ってるものあんの?
135俺等05772:2005/12/29(木) 18:50:43
>>134
1. 人種の交代  縄文人 → 弥生人
2. 住環境の変化 乾燥域 → 低湿地地帯
3. 金属器の使用
4. 大規模米作の始り

136俺等05772:2005/12/30(金) 12:33:35
>>134
中国・江南の土トン(土偏に敦)墓と吉野ケ里遺跡墳丘墓の関係について
吉野ケ里遺跡墳丘墓(B.C.1世紀)と中国・長江下流域の江南に多く見かけられる土トン墓(どとんぼ)
(B.C.800〜500)との関係が論じられている。吉野ヶ里墳丘墓の版築様(層状)の丁寧で高密な締固
めのルーツは中国・長江下流域の江南に多く見かけられる土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)では
ないかといわれている。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm

もし、この関係が正しければ他の根拠と併せて、北九州弥生人のルーツは山東省付近で無く、長江
下流域ということがかなり確実になると思われる。
137日本@名無史さん:2005/12/30(金) 14:20:01
薄いな、中国語の一つでも持って来てれば支持するけど
138日本@名無史さん:2005/12/30(金) 14:30:00
九州は対馬とかが結構純粋な古代北部九州人の形質残してる気する。
対馬は顔が濃い、下手すると沖縄より濃い。
面長で目が大きくてまつげが長く堀が深い美形が多いんだが、
九州本土が関東近畿から新モンゴロイド系の支配者が沢山
赴任したのに対し対馬は閉ざされた地域だったせいではなかろうか?


139俺等05772:2005/12/30(金) 15:56:53
>>137
「呉」からの渡来伝聞
「倭人」を呉の太伯の裔とする説は「魏志倭人伝」の母体とされる「魏略」逸文や「晋書」「梁書」
にも見られる。それ故、卑弥呼以前の日本人は自分達を「呉」から来た渡来人の子孫と考えていた
訳で、「呉」からの渡来説は当時の日本人の認識とも一致している。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-38.html


入墨の習慣
「男子は大小と無く、皆黥面文身す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍
の害を避く。」・・・この魏志倭人伝の文から、九州の倭人は自分達は「呉」から来た者の子孫と
考えていたことが分る。
一方、畿内については、伊須須岐比売が、九州出身の大久米命の鋭い目を見て不思議に思って訊ね
る歌があるので、入墨の風習は無かったと考えられる。つまり、畿内の倭人は江南から渡来したの
ではないことが判る。

「あめつつ ちどりましとと など黥ける利目」
 (あまつ鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目に入墨をして、鋭い目をしているの?)
「媛女に、直に逢はむと 我が黥ける利目」
 (貴女にじかにお逢いしたいと思って、私は入墨をしてこんなに鋭い目をしているのです。)
140日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:21:15
思うに、九州の当時の倭人が呉の末裔と考えていたのは
単に、自分たちの”当時の風習”が呉に近いということからの
一つの妄想ではないでしょうか?それら記述は言ってしまえば
何の根拠もない感覚的な当時の学説(当時は考古学のようなものもないが)
に過ぎないものに思います。考えてみて下さい、高度な科学を擁した
現代日本人でさえ弥生人という有形無形な妄想をでっち上げ、
弥生人は朝鮮半島から来たという説を信じ切っているわけです。
当時の倭人の考古学的考察なんて推して知るべしです。

漏れは、倭の当時の風習は縄文から受け継ぐ流れに過ぎないと
考えている。彼らは海運交易を生業としていたわけですから
彼らにとって海の安全図るという極めて実質的な課題の中から
入れ墨という風習が生まれた、あるいは他国他民族の風習を
受け入れたに過ぎないと考えるわけです。
近畿は倭人伝以前に出雲の支配下にありましたし、また九州の倭人に
比べ後進的であり海運に関しては疎かったという面から入れ墨の
習慣が発展しなかったんではなかろうかと
141俺等05772:2005/12/30(金) 16:36:34
>>140
縄文時代は1万年程度続いています。もし入墨が縄文時代からの風習なら、
九州と畿内で風習が異なるはずは無いでしょう。人種交代があった以上、
どちらも渡来人の子孫と考えられますが、九州と畿内で風習が異なるのは
先祖の出身地が異なった為と考えるのが理屈に合っています。
142日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:55:50
縄文時代も倭は海洋交易に熱心だったときとそうでなかったときがある。
受け継がれるものもあれば受け継がれないものもあると思う。
入れ墨が縄文時代からの伝統といえるかどうかは断言はできないけれど、
そういった違いで人種の交代があったとまでは言えないと思う。

なにより、赤の遺伝子がスッカラカンなのがそれを示している。
143日本@名無史さん:2005/12/30(金) 17:18:15
漏れは基本的に倭人伝当時の九州の倭人は基本的に
九州という孤島の縄文人(正確には古代人)の末裔だと思ってる。
(交易を通じて大陸、半島の移民を受け入れた)
土器の形質も縄文の頃の物と大差ない無紋系の土器であるし、
農耕具なども大きく変わりない。人骨も平均してみると大差ない
そうである。
つまり本州における縄文時代、弥生時代という区分けが
そもそも不明確なのである。
144日本@名無史さん:2005/12/30(金) 17:31:42
近畿と九州には明確な文化的断絶はあると思う。
特に倭人伝当時は明確だったのかもしれない。
これは人種的なものではなく、今でいうとこの
国家主権の問題ではないかと思う。
沖縄のナゾ、P音に何かヒントが隠されているように思う。。
145俺等05772:2005/12/30(金) 17:52:14
>>142
赤のGm遺伝子は日本人にはわずかしかいません。この遺伝子を持つ中国人は「楚」の子孫であり、
「呉」「越」の人間には無く、呉・越の国が滅ぼされた時に亡命してきたとすれば、赤のGm遺伝
子が少ないことは説明できます。

Gm(γグロブリン・マーカー)血液型遺伝子、地図上での表記
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg

歴史捏造の大好きな韓国人が、大百済帝国をでっち上げていますが、彼等
の云う「外百済」が私の推測するアルタイ語族(赤の遺伝子の無い種族)
に近いのです。笑
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/jushin.htm
146日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:02:29
GMはかなりデータ公開されてるので判断材料として信頼できるんだが、
HLAハプロタイプの方があまりデータが少なくて今ひとつ
わからない。インディアンとか南方系はどうなんだろうか
147俺等05772:2005/12/30(金) 18:15:03
>>143
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html

この図下側の北九州の拡大図を見ると、水田耕作可能地には弥生人が、漁労地域には縄文人が生活
していることが分ります。このような住み分けのある地域については、物資の交換があったと考え
るのが普通ですので、両者は巧く共存して生活して行った、と推測されます。 当然、弥生人と
縄文人の混血が行われたと思われます。

一方、畿内においては弥生人が縄文人を滅ぼしてしまった、と言うのが近年の通説です。この
違いは来島して来た弥生人の規模や民族に違いがあるかも所為知れません。畿内の渡来人は
徐福集団の子孫ではないか、と疑っています。
148日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:39:16
国立科学博物館のはあまり信憑性が低いから。
始めに結論ありきでやってるのみえみえだし。。
それはともかく、
「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。

「B52−DR2(DR15」は日本人全体で最も多い。
韓国1,8%
華北2,8%
モンゴル5,9%
山陽13,8%
九州北部13,5%
近畿で13,1%
山形、福島12〜13%
関東 9,4%
南九州、青森、岩手6%前後
沖縄で1.5%。
アイヌ人 1,0%、
韓国人 1,4%(5番目に多いタイプ)、 
中国朝鮮族 2,2%
149日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:49:15
兎に角、国立科学博物館ネタは却下です。
そんな、データではYAP+とか説明つきません。
骨格についても、そうクッキリと色分けできると
断言されてませんし。
150俺等05772:2005/12/30(金) 18:51:00
>>148
事実関係も大事だけど、その解釈や結論についてはどうなの?
151日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:53:30
HLAハプロタイプをどう整合性もたせるかが問題。
152俺等05772:2005/12/30(金) 19:04:07
日中の年表対比を少し修正し、唐古・鍵遺跡に先進的な総柱構造を追加しました。この時期は
徐福集団の第2回出航の時期と重なります。ただし、唐古・鍵遺跡自体がもっと古ければ、
年表に追加した意味は無くなります。

日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ(改訂)

中国側戦国時代の年表             日本側弥生時代薄明期の年表
前473年 呉が越に滅ぼされる       約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷
前379年 越が呉に遷都する
前334年 越が楚に滅ぼされる       約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人
                           約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺)
                          約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる
前223年 楚が秦に滅ぼされる
前222年 燕・代、秦に滅ぼされる
前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一
前219年 徐福、第2回出航
                          約2200〜2000年前 唐古・鍵遺跡に先進的な総柱構造
153日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:07:03

国立科学博物館は全て主観論。
B52−DR2(DR15の分布みてモンゴルから線引っ張ってるような
いい加減な奴ら。
154俺等05772:2005/12/30(金) 19:43:49
>>151 ↓これですか?
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
155日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:54:40
日本での年代推定というのは、何を意味し、どういう測定に
よるものなんでしょうか?

156日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:55:15
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
リンクの表のことです
157日本@名無史さん:2005/12/30(金) 20:46:39
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
誰も答えられないかな、全然説明しようがないもんな〜
推定年代
158日本@名無史さん:2005/12/30(金) 20:50:35
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
誰も答えられないかな、全然説明しようがないもんな〜
推定年代     日本       韓国
B62-DR4 62600年前≒2800年前 
B61-DR9 7,83200年前→2400年前 
B35-DR4 92400年前≒2100年前9

推定年代考えると弥生時代の渡来人はこの遺伝子以外にはないわな
159日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:02:09
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
国立博物館はこの資料に基づいて
イラスト書き換えろ、このイラスト描きが!
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-26.html
160俺等05772:2005/12/30(金) 21:06:02
>>157
多分、初めにHLAハプロタイプ遺伝子型が単一だとして、時間と共に
色々な種類に変化して行く。その異変の度合いが判れば、単一だった
昔の時期が推定できる、ということだと思う。

私は全く知らないので、遺伝に詳しい人に聞いた方がよい。
「オサムシから進化を語る」を参考にしてくれ。
http://www.brh.co.jp/experience/seimeisi/28/ss_2.html
161日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:28:22
こんなのそうそう詳しい人いないでしょうけど、
要するに抗原をつくる遺伝子に依存してるんでしょう。
http://www2d.biglobe.ne.jp/~aquila/medical/p11/m119.html
100回減数分裂に対し一度、組み替えやら交叉が起こる
と書いてあると思う。
似た人種間では同じ抗原が作られる可能性とか、
別人種でも同じ抗原が作られるとかってのもありそうだけど。
162日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:44:04
>>158
それ単に徳永の創作だろw

だから「推定」年代って書いてあるだろが。

HLAで時間は特定できないはず。
163日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:52:55
>>135
×1. 人種の交代  縄文人 → 弥生人

混ざっただけで別に交代などしていない

×2. 住環境の変化 乾燥域 → 低湿地地帯

渡来人のはるか前のBC10Cから既にそうだった。

×3. 金属器の使用

ただ単に朝鮮半島から伝わっただけ。

×4. 大規模米作の始り

渡来人の前から大規模に作っている。
164日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:59:56
>>135
学会で認められていない仮説段階のソースでは全く根拠にならんよ。
それに土トン墓の普及や一時的な流行さえも日本では見られない。
165日本@名無史さん:2005/12/30(金) 22:18:00
細かい話にもなるけど、GMにしろHALにしろ所詮
医学的な抗体とか自己と他を区別する抗原にかんする遺伝なわけで、これが
必ずしも身体的な特徴と同様に遺伝するとは限らないんだよな。

166俺等05772:2005/12/30(金) 22:29:27
>>163
講釈はどうでも良いから、ソースをきちんと示しな。笑
167日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:32:35
×1. 人種の交代  縄文人 → 弥生人
混ざっただけで別に交代などしていない →ソースは日本人種45%を占めるYAP+の存在。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm

×2. 住環境の変化 乾燥域 → 低湿地地帯
渡来人のはるか前のBC10Cから既にそうだった。→ソースはBC10Cから水田の存在。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1119965238/

×3. 金属器の使用
ただ単に朝鮮半島から伝わっただけ。→鈕細文鏡・青銅製武器類・小銅鐸、農工具は半島南部から。
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html

×4. 大規模米作の始り
渡来人の前から大規模に作っている。 。→ソースはBC10Cから水田の存在。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1119965238/
168日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:39:21
>>165
その通り。
形質を司る遺伝子ではないよ。

むしろ遺伝子鑑定や直接的なルーツを知る方に向いた指標だろうな。

これに時間的な尺度がついた特殊な指標がmtDNAやY染色体。
遠い祖先を大まかに知るための指標で直接的なルーツには向かない。
169日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:41:20
A/G比、アルブミン、グロブリン比というのがあって
グロブリンが多いと免疫系に異常来すとかだったと思う。
GM(グロブリン・マーカー)というのはこのグロブリンの型を
決めるヤツ。
あまりアルブミンが少ないものばかり食べてるとアレルギーになるよって話だよ。

HLAというのはこれとはことなり自己と他人を区別する遺伝子で
遺伝子が短いせいか交叉が起こりやすい、そして多様性もあるみたい。
A,B,C型がある。

年代推定はどうするかわからないが可能なんだろ、実際いろんあとこでしてるし
塩基機関率とかいうのから推察するみたいだよ。
つまり、比較的最近に出来たとされたB52-DR15(B52-DR2)HLAはそれの元になるものから
塩基の置換が起こった(つまり乗り換えとか組み替え)
ということから年代推定してるんじゃないかな。

雲つかむような話でわるいが
170日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:43:54
塩基置換率○
塩基機関率×
171日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:52:04
一番重要な事は、

弥生文化はほとんど半島南部の文化の伝来であるのに、
それを九州北部に持ち込んだ人種は当時の朝鮮半島南部の
人種ではないという事なんだな。

当時の朝鮮半島の人種は縄文人の形質を残した中央モンゴロイド。

その半島南部の文化を九州北部に持ち込んだ人種は北方モンゴロイド
の形質を持った別の人種。

そこが面白いところなんだよ。

ははーん、まるで南蛮人がアメリカ原住民の文化だったタバコを
日本に初めて持ち込んだのと同じだったのかもな。
172日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:53:39
HLAで年代推定など無理。
173日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:56:00
半島南部に日本と共通の文化が見られるのは
文化が日本から半島に伝わったからです。
174日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:56:43
>>172
根拠なりソースなり頼む
175日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:04:14
>>174
そんなものあるはずがない。

HLAで時間推定は無理だからだ。

その証拠に徳永は年代推定の方法まで明かしているかね?
176日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:05:22
>>174
そんなものあるはずがないじゃわからない。
177日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:07:20
そんなものがあればとっくに俺が持ち込んでいるよw
178日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:11:52
支石墓の下の甕棺墓の中で眠る人骨はほとんど北方モンゴロイドの
形質を持つ人骨。

当時の朝鮮半島南部の人種ではない。
179日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:17:20
だからなんで、HLAは塩基置換法とやらで年代測定できないの?
Y染色体もミトコンドリアDNAもHLAもGMも基本は
塩基配列の違いでしょうが、Y染色体、MTDNAはそれが
巨大でHLA,GMは比較的小さい塩基というだけで

>>178
支石墓ってどこに分布してるんですか?
180日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:20:32
じゃあ逆に聞くが、なぜY染色体やMTDNAは年代測定が
可能なんだ?

181日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:29:32
支石墓は主に朝鮮から満州にかけて分布。

華北の黄海沿岸にも見られるが種類が違うんだと。
182日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:30:54
出雲系と九州西部系の埋葬方法は全くことなる。
183日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:32:29
そもそも、なんで国立科学博物館レベルのアホが
色分けしてこれは弥生顔、縄文顔といいきれるんかと。・・・
どこからそういいきれるんかと。
184日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:38:46
国立科学博物館はその時点で有力な世論や遺伝学や形質学を
集めて、上手くまとめて一般公開しているお役所なだけ。

国立科学博物館=ただのお役所
185日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:43:07
役所仕事だから融通聞かない法令と一緒で、
先例主義とかから脱却できないんだろうか。
刻々変化する情報と過去の学説に整合性持たせる
役所のやりそうな仕事。
186日本@名無史さん:2005/12/31(土) 01:18:26
>>179
そんな事言う前に自分でHLAでどうやって時代測定したのか
ソースを持ってきな。

その方がよっぽど信憑性があるだろ。

だいたいmtDNAの時代測定もほとんどデタラメだというのに、
HLAで時代測定なんて無理だよ。
187日本@名無史さん:2005/12/31(土) 01:42:12
思うに母系mtDNAの極東アジアの民族の共通性に対し
形質に多様性があるのはおそらく父系Y染色体の多様性が
関係しているのであろう。
mtDNAがいくら先住系と同じでも父系が何世代も新モンゴロイド系の
ものであればいくら母系が先住系古モンゴロイド系であっても
形質形態は新モンゴロイドになってしまう。
韓国人と日本人の形質の違いは一つに韓国人は父系の古モンゴロイド
が一切残らなかったことにあると考える。

Y染色体上にあるYAPが空っぽになってしまうほど新モンゴロイド系の
父系を受け継いだ韓国人は母系では古モンゴロイド系のものと大差ない
遺伝子を持ちつつ形質すっかり新モンゴロイドに変わってしまったと
いうことが考えられる。

>>186
塩基置換率から速度割り出してるらしいが、よくわからない
188日本@名無史さん:2005/12/31(土) 01:54:23
MtDNAのD-ループの塩基は一つ置換されるペースが平均12,000年と
いうだけで、塩基の違い一箇所の場合の分離年代が5,000年以内で
ある確率が30%、10、000年以内である確率が51%という事でもある。

たとえばアンデスのサンプルとアイヌのサンプルで二箇所異なっている
組があった。

二箇所の違いに関しては5,000年以内の確率が9%、10,000年以内が21%、
20,000年以内が47%である。

つまり、塩基の違いの箇所数で遠縁か近縁かを論じるのも飽くまでも
可能性、確率の問題で本当のところは謎のままなんだな。

あまり信用しない事です。
189日本@名無史さん:2005/12/31(土) 01:58:28
HLA100回減数分裂があって二回乗り換えが起こるなんて
実験室のような事細かな事書いてるのもあるから
そういう方法だけではないだろ。と思う。
190日本@名無史さん:2005/12/31(土) 02:02:46
あくまで推定であって、それ以上の域を出ない。

真実ではないのですよ。

遺伝学で信用できるのは直接的なデータそのものだけ。
191日本@名無史さん:2005/12/31(土) 02:30:00
母系でみると、沖縄とアイヌ・モンゴルにはかなりの開きがあるとされる。
現代本土日本人、韓国人でみるといずれもアイヌ・モンゴル型をもっている。
母系でみるとアイヌもモンゴルも違いはないとされる。

・半島にYAP+は殆どない。
・本土日本にはアイヌ・モンゴル型のmtDNAが沖縄に比べて多い。
192日本@名無史さん:2005/12/31(土) 02:48:46
Gm遺伝子については南方系と北方系を区別する目安に過ぎず
古モンゴロイドと新モンゴロイドを区別する基準にはならない。

Y染色体上のYAPはやはり先住系古モンゴロイド由来と見て良いと思う。

mtDNAではアイヌ・モンゴル型と琉球型があるらしい。
現代本土日本人はアイヌ・モンゴル型と琉球型が両方入っている。

HALは・・

いずれにしてもデータが少なく、信憑性もあまり無いので
正確なことはわからない。。
193日本@名無史さん:2005/12/31(土) 03:03:58
国立科学博物館は却下です。
強烈な先入観と偏見の塊
194日本@名無史さん:2005/12/31(土) 04:38:22
一般人は落書きよりも国立科学博物館を信じるよ
古代史アワレス
195俺等05772:2005/12/31(土) 12:36:03
>>167
ソース出して来た以上、真面目に対応しなくちゃ。W

1. 「人種の交代」という言葉はきつ過ぎたかな。下のソースをクリックし、一番下までスライド
して、北九州の人骨の分布図を見て下さい。弥生人と縄文人が住み分けをしています。でも、稲作
は生産性が高いから、弥生人の方が急速に人口を増やしたはずです。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html
畿内では、弥生人が縄文人を滅ぼしたようですから、まさに「人種の交代」でしょう。九州南部は
縄文人の方が優勢だったと思われます。土井ヶ浜では弥生人の男が縄文人の女を略奪しています。
http://www.doigahama.jp/top.html

2. 住環境の変化 乾燥域 → 低湿地地帯は、住み分け分布を見れば一目瞭然です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html
縄文時代の稲作の始りは熱帯ジャポニカつまり陸稲の栽培でしょう。弥生人の稲作の方が本格派。

3. 金属器の使用
稲はもともと、熱帯ないし亜熱帯の作物で、開花直前に気温が 17℃を割ると、花粉が不稔になって
しまう。だから、稲作が半島北部を経由して日本に入ることはあり得ない。主催が捏造大好きの朝日
じゃ、信用出来んよ。何でも朝鮮が起源だから。弥生期の定義の1つは金属器使用が始まるだった。
http://www.rui.jp/message/02/75/81_4880.html

4. 大規模米作の始り
昔は弥生期の定義の1つは「稲作の始り」だった。今は否定されているとは言え、「稲作の普及」
が弥生時代を特徴付けていることには変わりない。詳しい話は石包丁の処でしたい。
196俺等05772:2005/12/31(土) 13:00:50
>>195 土井ヶ浜
説明を追加します。
土井ヶ浜遺跡ソースのギャラリーには男女頭蓋骨が表示してありますが、男性 408号が典型的弥生人
なのに対し、女性 315号は縄文人の特徴を備えているように見えます。この遺跡の弥生人は縄文人か
ら女性を奪って仲間を増やして行ったのではないでしょうか。だとすれば、縄文から弥生の移行期に
身体的特徴が変りつつも、言語の入れ替わりが無かった説明がつきます。
http://www.doigahama.jp/sub/html/flame_04.html
197日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:17:04
>土井ヶ浜では弥生人の男が縄文人の女を略奪しています。
http://www.doigahama.jp/top.html

土井が浜ギャラリーみたがそういう感じではないと思った。
どっちかというと女性の方が渡来的、そもそも二隊でなにが
わかるっていうん?

俺等05772←これなんて読むの?
198日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:23:20
>1. 「人種の交代」という言葉はきつ過ぎたかな。下のソースをクリックし、一番下までスライド
>して、北九州の人骨の分布図を見て下さい。弥生人と縄文人が住み分けをしています。でも、稲作
>は生産性が高いから、弥生人の方が急速に人口を増やしたはずです。

確かに住み分けをしていたが、弥生人地区に縄文人が全くいなかった
訳ではない。渡来人骨に混じって一定の割合で縄文人骨が出てくる。

もともと縄文人の稲作民がいたところに渡来人が入ってきたと見るべきだろうね。

弥生人が急速に人口を増やせたのは単に生産性のためだけではないよ。
精子の段階から縄文人より繁殖能力が高かったからというのが一番の原因。
199日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:24:26
とにかく、国立博物館大本営のソースだけではなんとも言えない。
なぜなら彼ら等過去の説から逸れないようにしてるだけである。
未だに、矛盾だらけの各説を整合性持たせて説明できる説はそうそう無し
200日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:29:20
土井が浜近辺に住んでいたことがあるが、(出自ではない)
のっぺり顔はそういないよ。
目が大きくって凛々しい感じの顔の人多いと思うけど、
先住民の風貌に近い人が多いと思う。
少なくとも東京よりは明らかに縄文的だと思うがな。
201日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:29:20
>畿内では、弥生人が縄文人を滅ぼしたようですから、まさに「人種の交代」でしょう。九州南部は
>縄文人の方が優勢だったと思われます。土井ヶ浜では弥生人の男が縄文人の女を略奪しています。
http://www.doigahama.jp/top.html

滅ぼされてたら西日本のYAP+は空っぽのはずだろ。
単に混ざっただけ。
そして時間の経過とともに弥生は高い繁殖力で緩やかに人口を追い上げてきた。

そういう左翼的な被害者仕立ての創作はやめましょう。

>2. 住環境の変化 乾燥域 → 低湿地地帯は、住み分け分布を見れば一目瞭然です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html
>縄文時代の稲作の始りは熱帯ジャポニカつまり陸稲の栽培でしょう。弥生人の稲作の方が本格派。

単に漁業か狩猟か農業かの業種別選択で弥生が農業だったから住み分けてるかのように見える
だけで、弥生人地区に縄文人が全くいなかった訳ではない。渡来人骨に混じって一定の割合で
縄文人骨が出てくる。
202日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:34:03
俺等05772はとにかく真面目に主張するなら寸分違わない説を
展開しなければ説全体が説得力なくすよ。
各所に大きな疑問持たせるような論じゃ全て信用できない。
203日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:37:46
>縄文時代の稲作の始りは熱帯ジャポニカつまり陸稲の栽培でしょう。弥生人の稲作の方が本格派。


だからBC10C以前から水田稲作はやってるっての。記憶力ないのかな?


>3. 金属器の使用
>稲はもともと、熱帯ないし亜熱帯の作物で、開花直前に気温が 17℃を割ると、花粉が不稔になって
>しまう。だから、稲作が半島北部を経由して日本に入ることはあり得ない。主催が捏造大好きの朝日
>じゃ、信用出来んよ。何でも朝鮮が起源だから。弥生期の定義の1つは金属器使用が始まるだった。
http://www.rui.jp/message/02/75/81_4880.html


別に半島北部では作らずに南部まで運んで作ればいいだけじゃないのw
決め付けはよろしくないな。
204日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:42:24
>4. 大規模米作の始り
>昔は弥生期の定義の1つは「稲作の始り」だった。今は否定されているとは言え、「稲作の普及」
>が弥生時代を特徴付けていることには変わりない。詳しい話は石包丁の処でしたい。


否定されてないよ。
単に水田稲作がBC10C以前になっただけで。

石包丁の起源は華北から満州にかけてだから特に問題はない。
205日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:57:06
>>137
アホ?その時代から今の支那全土で漢語を話してたと?
206日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:58:04
漢語は南方華南起源であるから
207日本@名無史さん:2005/12/31(土) 16:07:38
越国のあたりは呉越系の太鼓が発見されたとか、
あと、出雲系の神話で少彦名神(すくなひこなのかみ)は
東南アジアのネグリドなんかを彷彿とさせるものがある。
少なからず東南アジア方面からの渡来人もいたのは確かだとは
おもうけど。
208日本@名無史さん:2005/12/31(土) 16:08:50
東南アジアのネグリドなんてのは沖縄の港川人と同人種だったのかもしれない。
209日本@名無史さん:2005/12/31(土) 16:17:05
あほかw

ネグリトは最も新しい方のモンゴロイドだよ。

港川人は古モンゴロイドより古い人種。
オーストラロイドに近い種族だったと思われ。

http://yamatai.cside.com/katudou/image/bunnkizu.png
210日本@名無史さん:2005/12/31(土) 16:24:24
211日本@名無史さん:2005/12/31(土) 17:01:46
出雲から東の地域に多数四隅墓を残した出雲族、
そして、いわゆる天孫と呼ばれた種族。
濃尾の天武はアマテラスで九州系だったという風に言われてるわけだな・
212日本@名無史さん:2005/12/31(土) 17:03:16
列島において天孫の末裔と思われる伝説の強い地域と
出雲系と思われる伝説遺跡の多い地域が確実にあるね。
モザイク状に。
九州沖縄に関しては出雲系の伝説遺跡はほとんどないと言えると思うが
213日本@名無史さん:2005/12/31(土) 17:10:12
中国の旧石器時代人は堀深いコーカソイド面(南米インディオ。)
だったわけ、アイヌもその末裔なわけ。
縄文人とかも旧石器時代人の末裔なんだろうけど
弥生時代でも日本はまだまだ縄文形質残してたわけ、
そして現在においても田舎の方では多少残ってるわけ
214日本@名無史さん:2005/12/31(土) 17:22:19
東京でもいっぱい縄文顔残ってるが。

山手線に1時間くらい乗って東京人の顔よく見てみ。

4割以上は確実に縄文顔だっての。
215俺等05772:2005/12/31(土) 17:47:53
>>203 >>204
>だからBC10C以前から水田稲作はやってるっての。

ウィキペディアの日本における稲作の歴史の方が正しいと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%94%B0%E7%A8%B2%E4%BD%9C#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E7.A8.B2.E4.BD.9C.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2
近年の炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで
遡る可能性が出てきた。となっているが、炭素14年代測定法の精度が問題だろう。
216日本@名無史さん:2005/12/31(土) 17:51:43
まあ何だな、方形墳を土トン墓だと言い出すほどのAFOは
居らんだけでもまだマシなんかなw

土とん墓、土トン墓で検索してみ。
16くらいしかヒットしないから。
それくらい誰も支援してない妄想って事だなw

しかしこの先生の生徒は可哀想だな。
吉野ケ里遺跡墳丘墓を土トン墓だと強制入力されてるんだろう。

なっ、鬼塚センセw
217日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:04:39
>>206
はあ?
218日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:09:14

◎弥生時代の始まり、紀元前10世紀後半
 
国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授らは23日、千葉大で開かれた日本考古学
協会の研究発表会で、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化
物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)は
紀元前十世紀後半」と発表した。

 同教授らは昨年、弥生早期の始まりを前十世紀とする説を出したが、早期初め
のデータを得られないまま早期後半の測定値などから推定していた。

今回の発表によると、佐賀県の菜畑遺跡から出土した「山の寺式」土器
(早期初め)の炭化物は、前930―前800年。福岡市の板付遺跡の「夜臼1式」
(早期前半)は前900―前790年だった。その結果、早期初めは前945―前915年
と推定されるという。

 また水田稲作が各地に広がった弥生前期の始まりは、北部九州が前九世紀末
だが、高知県の居徳遺跡や高松市の東中筋遺跡などの土器の測定から、四国や
近畿は前8―7世紀ごろとみられるという。〔共同〕 (07:00)

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040524AT3K2302C23052004.html
219日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:45:18
一番重要な事は、

弥生文化はほとんど半島南部の文化の伝来であるのに、
それを九州北部に持ち込んだ人種は朝鮮半島南部の土着の
人種ではないという事なんだな。

朝鮮半島の土着の人種は縄文人そっくりな形質の中央モンゴロイド。

その半島南部の文化を九州北部に持ち込んだ人種は、
なぜか北方モンゴロイドの形質を持った別の人種。

ここが弥生人のハイライト。

南蛮人がアメリカ原住民の文化だったタバコをあたかも自らの文化の
ように日本に初めて持ち込んだのと同じだったのだろう。
220日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:50:52
沖縄も天孫伝説がある。どういう事?
沖縄に何か隠されてるよな。
221俺等05772:2005/12/31(土) 19:48:29
>>220
天孫伝説は中国からの渡来、つまり弥生人の渡来と解釈しているが、
沖縄にも若干ではあるが、弥生人の渡来があったという意味では?
222日本@名無史さん:2005/12/31(土) 19:50:43
沖縄のは奄美アマからのきたことになってるらしいよ。
223日本@名無史さん:2005/12/31(土) 20:00:11
支石墓
支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に天井石を載せる墓である。
日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島
南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響が
あったものと考えられている。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、
島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・
甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。

朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人であると
想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、
被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。
その謎を解明するため、いくつかの説明が試みられているが、
明確な結論は出ていない

支石墓の元祖はどこですか?


224日本@名無史さん:2005/12/31(土) 20:25:21
支石墓は半島西南、九州北部に栄えた文化だろ。
縄文系の文化といってもいいんではないかと

225日本@名無史さん:2005/12/31(土) 20:26:39
兎に角、弥生、縄文という
線引きしたがる頭の狂った頭狂の学者のせいで
素人のみんなが辻褄合わせしてるような状態。
226日本@名無史さん:2005/12/31(土) 22:02:40
支石墓は渡来系を示す指標にはならない。
縄文後期半島西南部起源の文化である。
倭固有の甕棺については言うまでもない。

なぜ、奄美、琉球、薩摩などハヤトの末裔まで天孫神話を持っているのか。

天孫宗教(天主教?)のみが渡来人とは別に移動したのではないか
227日本@名無史さん:2005/12/31(土) 22:16:44
中国とか朝鮮は弥生人、縄文人みたいな色分けあるの?
なんか日本だけ嫌らしいかんじだよ
228日本@名無史さん:2006/01/01(日) 05:39:21
東夷、北狄、南蛮、西戎
229俺等05772:2006/01/01(日) 06:14:21
>>218
夜臼式と板付式は縄文と弥生を繋ぐ有名な土器で、夜臼式が縄文最末期、板付式
が弥生最前期の土器であり、夜臼式土器に米の圧痕があるのは、古代史に興味あ
る者なら、誰でも知っている事実だ。 だが、問題は放射性炭素年代測定にある。

土器に付着した炭化物とは何か? 記事を読んだだけなら、炭化米と錯覚しそう
だが、そうは書かれていない。土器を焼くための木片の一部なら、土器を作った
年代より古い時代が測定されるのは当然。 測定した炭化物って、いったい何?

 (私自身、炭化物=炭化米って錯覚したので、慌てたよ。(^_^;) 汗 )
230俺等05772:2006/01/01(日) 06:17:33
>>219 >弥生文化はほとんど半島南部の文化の伝来であるのに

誰がそんなこと言ってるの? ソース求む。稲の伝播も、石包丁の伝播も、日本→半島だよ。


2001年6月22日、大阪府和泉市教育委員会は、弥生時代の大規模環濠集落跡、池上曽根遺跡
【大阪府和泉、泉大津両市】と唐古・鍵遺跡【奈良県田原本町】から出土した約2200〜
2300年前の炭化米のDNAを分析した結果、遺伝子のタイプが中国大陸で栽培されている
水稲の品種と一致したと発表した。

朝鮮半島では見つかっていないタイプで、イネが中国から朝鮮半島を経由せずに、直接日本に
伝わったルートが存在したことを裏づける証拠にあたるとして注目されている。
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0108_3.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku195.htm
231俺等05772:2006/01/01(日) 10:08:50
>>223
支石墓は半島を南に下がるにつれて、高さが低くなり、日本に来た時には
地面に付くと同時に、石も小さくなっている。日本では目印程度の役割
に過ぎないんじゃないの? 半島から影響を受けたのは分るが、半島の
最南端は日本領土で、日本人が住み着いていたから影響受けるのは当然。

むしろ、見えない部分の甕棺の方に興味がある。あれは何処からの影響
なのか、東アジア全体に詳しい方がいたら、教えて!
232日本@名無史さん:2006/01/01(日) 11:13:01
支石墓は夜臼式の縄文系の時最盛期迎えているね。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shisekibo_hantou.png
北部九州の史石暮の下は縄文人が眠ってるということである。

この石が何を意味するかは定かではないが、実用性を加味した目印に過ぎないと
考えられている。そもそも縄文時代からこういった墓の上に石を置く
風習はあるが、韓半島南西部でおこったと考えられる支石暮は墓の上に
石を置く形態以外にその周りにも石をおくという形態もある。
北部九州ではこの配石は伝わらず、山陰地方では配石のみに形態が
伝わっている。

そもそもこれは韓半島西南部起源とされており北方系起源ではありえず
渡来系起源とさえ言えないとおもう。

>>229
縄文期夜臼式無紋土器から見つかった炭化物は米ですよ。
米の炭化物です。
弥生人が米を持ってきたという説、根本が瓦解しつつあります。
233日本@名無史さん:2006/01/01(日) 11:47:05
俺等05772←この意味おしえて
234俺等05772:2006/01/01(日) 15:36:34
>>232
測定した炭化物は何かと聞いているのです。もし、米ならソースは?
235日本@名無史さん:2006/01/01(日) 15:53:19
ソースはありません。しかし、縄文時代に作った土器で稲籾なんていしますか?
それにそんなに使用頻度の高い土器が仮にあったとして土器を作ったときの
炭化物が多く残ってるとは思えません。

日本における稲作の歴史

日本における稲作の歴史は永きに渡って弥生時代に始まるとされてきた。
しかし、近年になって縄文後期に属する南溝手遺跡の土器片中から
プラント・オパールが発見されたことにより、約3500年前から陸稲
(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明している。
また朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見
されたことによって、縄文時代前期にまで遡れるとする説もある。

また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されて
いたことも判明しつつある。さらに近年の炭素14年代測定法により
弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出て
きたことも特筆すべきことだろう。朝鮮半島よりも早期に稲作が行
われていたことを示すデータとして注目されている。

稲作の渡来が遡るのはいまや常識とされます、そしてこの発見はその一つ
に過ぎないということでしょう。だから、ソースなどわざわざ提示する
までもないかもしれません。

そして現在では稲作の伝来と新モンゴロイド渡来人の出現は必ずしも一致しないと
いうことです。
236日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:02:28
熊本・大矢遺跡の縄文中期後半(約四千五百―四千年前)でも
稲が確認されています。

つまり水田稲作は縄文時代主要な作物ではなかったが既に
あったとみるのが正しいと思う。
中国の三苗文化かどっかから入ってきたのかもしれない。
237日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:04:52
>じゃあ、何で春秋戦国時代は中国史にあるの?w

中国史という名称は便宜的なもの。
単に今の自称中国の支配地域の古代国家の歴史ってだけのこと。
同じく「中国語」も便宜呼称に過ぎない。
漢文と中国語では違いが大きすぎる。
ローマ史はイタリア史と改称するか?しないだろ
238日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:12:10
くだらん言葉遊びをするな、馬鹿
239日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:20:19
雑穀、野菜が中心だった縄文農業のなかで熱帯ジャポニカが伝わった、
縄文晩期になり水稲である温帯ジャポニカが伝来、あるいは国内開発
されたことにより低湿地での稲作が盛んになり次第に人口が増えだした。
240日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:25:59
米は確かに血糖値が急激にあがり満腹感のある食物であるが、
しかし種籾などどうしても煩雑な作業が伴うので弥生当時の
農業技術でどの程度、米を食べることができたんだろうか?
米というと昭和時代でも高級品である。つまりそれだけ手間の掛かる
食物なのです。
241日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:35:14
温帯ジャポニカの起源は山東、半島、あるいは九州かもしれない。
いずれにしても、おそらくこの緯度を中心にしたデリケートな農作物なのでは
だから、列島北部、南西諸島にもあまり伝わらなかった。
これを渡来人の移動と結びつけることはできない。
渡来人は基本的に北方系で稲作とは縁の無い人たちなのである。
242俺等05772:2006/01/01(日) 16:42:47
>>235
もし煮炊きに使った場合、燃料が付く可能性がありますし、その他
色々な可能性が考えられます。稲の場合、1年で成長し、原則その
年に使い切りますので、測定用資料としてはOKです。

しかし、土器を作る場合は、かなり太い木材を割って使うでしょうから、
それが炭として付着した場合、当然古い年代になります。煮炊き用の燃料
の場合、あまり太い木材は使わないでしょうが、古材を燃料に再利用すれ
ば、その測定結果は、古い年代になります。

だから、きちんとしたソースで確認したいのです。
243日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:59:12

C!4の特性として燃料として使っても、光合成を行わなくなったとき
からC14は減少し始めます。光合成を止めたときからC14の減少が
始まるとみていいはずです。

c14の半減期の起点はその植物が光合成を行わなくなった時と認識しています。

>242
可能性としては無いことはないかもしれないけど、ちょと考えにくいと思う。
244俺等05772:2006/01/01(日) 17:01:26
>>235
下のソースの右の図ですね? もし、この年代が正しければ、弥生人は
中国の春秋・戦国時代の戦乱とは別の原因で、日本にやって来たことに
なり、来島の原因を別に求めなければならなくなります。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku213.htm

殷や周の勢力はまだ中国大陸の海岸部まで達しているとは思えないし、
まして江南と争ったとは考えられないし、従来の解釈の方が妥当だと
思うんですけどね。
245日本@名無史さん:2006/01/01(日) 17:13:25
周が紀元前千年前後に稲作をもたらしたと言っている
わけではありません。
周から倭、半島南西部の人が学んだとかもしれないし、
倭、半島南西部から温帯ジャポニカを周は仕入れたかもしれない。
246日本@名無史さん:2006/01/01(日) 17:45:24
そして日本列島には弥生期、古墳期には
二つの権力・文化があったと思う。

九州系と出雲系です。この二つは埋葬方法、言葉、文化に違いが見られます。
古墳時代までは基本的にこの二つは全く相容れない二つの国家として
存在していたはずです。
247日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:29:54
北部九州の弥生人には顔の高さは見られるが、眼窩は奥にある傾向があり
彫りの深い面長の顔という印象があるらしい。

出雲、土井が浜の場合、顔の高さよりも眼窩の高さがみられ
目が極端に出ていたと思われている。

そして本州日本人の形質は基本的にこの出雲タイプを基本として
広がっていると考えられている。
殆ど、時代を置かずに東北までこの出雲土井が浜タイプの弥生人が広がっている。

九州系は西北九州、南九州で縄文形質を古墳時代以降も残している為に
北部九州の渡来人の血も多少薄まる傾向を見せたようである。

九州系は極端な扁平化はみられず面長の顔を持つに至ったらしい。
南と西北部に縄文人の巨大な勢力があったせいではなかろうか。

形質でもやはり九州系、出雲系の区別は合ったと思われる。
248日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:41:00
思うに、北部九州の渡来人と出雲の渡来人は
別の出自を持っていたのではないかと思われる。
北部九州の渡来人はおそらく、朝鮮、馬韓北部系であったのではなかろうか?

そして出雲系はおそらく純粋な満州高句麗系であったのであろう。

眼窩の高さに明確な違いが見られ、出雲土井が浜タイプは
その特異な北方文化とともに東北まで広がったと思われる。
249日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:49:53
九州系の渡来人が広まったとすれば本州現代人の
眼窩の突出はまずなかった筈である。
これは出雲土井が浜タイプが本州全域に広がった一つの証拠である。
こう考えると全てがよどみなく説明できてしまうから恐ろし
250俺等05772:2006/01/01(日) 18:51:07
>>246
3つだな。
九州系と出雲系と畿内系。出雲系と畿内系は対立したり共存したり。
251日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:58:16
近畿は満州出雲と古朝鮮系九州の融合みたいなものではないかな?
近畿は馬韓系の渡来人と満州系の渡来人とが対立共存していた地域。

ただ、政権内部ではどことも同族意識は持たなかったので
他地域といつも対立している
252俺等05772:2006/01/01(日) 19:20:31
1. 南九州出土の石包丁
両端にきざみ目を入れた石包丁は南九州出土の特徴で、中国では黄河中流域(洛陽付近)の他、台湾
からも出土する。黄河中流域と南九州は離れ過ぎているので、南九州のきざみ目を入れた石包丁は、
台湾との関係が考えらる。
一番下の図参照→ http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/search/search/?class%5B%5D=3&md=all
         http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/search/search/detail/?id=9

2. 北九州出土の石包丁
北九州出土の石包丁のほぼ全てが「外彎刃半月形」で、この形式の石包丁は中国では主に長江下流域
で出土し、華中・華北では出土しない。つまり、この形式は越や呉からの渡来人によってもたらされ
たと考えるべき。例として吉野ケ里遺跡の石包丁を下↓に示すが、他の遺跡からのものも同じである。

吉野ケ里遺跡の石包丁・・殆どが「長江下流出土の石包丁」と同型の「外彎刀半月形」。
http://www3.ktplan.jp/~aki/3travel/saga/yoshinogari.html

3. 近畿地方の石包丁
近畿地方の石包丁は「外彎刀半月形」「直線刀半月形」「紡錘形」と様々な型のものが使われている。
「紡錘形」は遼東半島に出土し、「直線刀半月形」は大陸全土から出土することから、同じ弥生人で
も、呉・越以外の地(山東半島、遼東半島)からやって来た可能性が高い。

唐子・鍵遺跡の石包丁・・「遼東半島出土の石包丁」と同様の「紡錘形」、大陸全土から出土する「直線刀半月形」
http://www.inoues.net/yamataikoku/museum/karako_museum2.html?
池上曽根遺跡の石包丁・・大陸全土から出土する「直線刀半月形」「遼東半島出土の石包丁」と同様の「紡錘形」。
http://www.inoues.net/yamataikoku/museum/yayoi2.html?

誰か出雲系の石包丁の形式を知らない? 石包丁の種類で出身故郷が分りそう。
253日本@名無史さん:2006/01/01(日) 20:20:31
古墳時代に九州人と本州人の
眼窩の深さの違いがかなり明確になってるみたいね。
弥生時代から古墳時代と一貫して眼窩がもっとも出ているのは
出雲地方の人たちのようです。
しかし、近畿、関東、東北が間髪入れず続き、その後筑前豊前、
豊後、筑後、南九州と続き、肥前肥後が一番眼窩が低いつまり奥目という
ことになる。
254日本@名無史さん:2006/01/03(火) 18:27:08
竜山文化はその名の通りトーテムを龍とした文化。
BC2000〜BC1500年の頃の文化
後期には殷がおき、鼎(かなえ)、青銅器、灰釉陶や印文硬陶、甲骨文字、漢字
など中国文明の基礎が作られる。紀元前1500年頃の大昔のこと。
日本は縄文時代まっただ中、新モンゴロイドの骨は発見されていない。

このウチ、三世紀の倭人伝をみるに竜山、殷の影響はせいぜい
骨の占い以外に見られない。それも骨占いは
極東アジア全体の文化で竜山固有のものではない。
北部九州の渡来人が山東人そのものであった可能性は極めて低い
ただ遺伝的にこの近辺の特徴を兼ね備えていたことは確かである。
俺は、キョウド、犬戎(けんじゅう)系の北方騎馬民の棄民、亡民で
半島西南部で細々暮らしていた人たちだと考える。

しかし日本本土の渡来人は出雲系で全く別の出自をもっている。
彼らは高句麗北の白狄の後裔である。
255サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/03(火) 19:09:02
出雲系ってツングース系なのですか?私は日本在来系とおもっておりましたが。
256日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:17:13
弥生時代の出雲の古浦遺跡と古墳時代の日本各地の人骨データがあります。
出雲は渡来系で間違いないと思います。
データは九州大学のものが公開されています。
257日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:25:53
竜山文化も黄河上流山東近辺では黒陶系の文化。
黄河中流、上流域では地中海文化と関連性が指摘されている
竜山以前の仰韶(ぎょうしょう)文化の影響があり、西洋世界との繋がりがある
とも考えられている。この近辺は灰陶文化。

70年代以降長江系文化の発掘も盛んになってるので、そのうち
もっと詳しいことがわかるのかもしれませんね。

258日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:37:11
×竜山文化も黄河上流山東近辺では黒陶系の文化

黄河上流が正しいです。下流と上流ではえらい違い
259日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:38:17
間違い、黄河下流です。。下流が黒陶
260日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:16:15
>>223
>朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人
>であると想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、
>被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。



で、そのソースは?


261日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:18:01
その辺はじぶんで探してくれ、っぐれば直ぐでてくるぞ
みんな聞かないだろー
262日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:40:18
>>232
>北部九州の史石暮の下は縄文人が眠ってるということである。



で、ソースは?



>そもそもこれは韓半島西南部起源とされており北方系起源ではありえず
>渡来系起源とさえ言えないとおもう。


支石墓の起源は遼東半島。
ここから半島から満州に広がったんだが。
263日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:42:17
>>261
無ければ、永久にウソツキ認定で却下&追放ですぞ。
264日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:51:47
うるさいなー九州大学のHP探してみろ
265日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:59:58
>1

人類の起源を辿ればアフリカで収束するんだから、意味ないよ
266日本@名無史さん:2006/01/04(水) 20:03:27
>>247
違う。

渡来人の初期の吉野ヶ里弥生人骨はそれより2Cほど遅れて現れる
中期の土居ヶ浜弥生人骨よりも頬骨が高くて顔面部の扁平さが強く、
北方モンゴロイドの特徴がより一層強いものとなっている。

同一種が2世紀もの間に自然環境の変化で形質が変わっていったと
見るべきなのである。

実際、日本人の顔がもっとも扁平になったのは鎌倉時代。
同時にもっとも長頭でもっとも長身でもっとも出っ歯の時代でもあった。
無論、異種混血によるものではない。
267日本@名無史さん:2006/01/04(水) 20:10:33
>>266
もう少し詳しく、土井が浜タイプの弥生人の
極値は出雲古浦で
ピークになるのです。土井が浜は縄文との混血があったらしく
さほど新モンゴロイド度が高くありません。

そして土井が浜、出雲タイプは眼底の浅さに特徴があるようです。
268日本@名無史さん:2006/01/04(水) 20:34:16
>>252
>北九州出土の石包丁のほぼ全てが「外彎刃半月形」で、この形式の石包丁は中国では主に長江下流域
>で出土し、華中・華北では出土しない。


華北で出土しないという明確なソースは?

それと、長江下流域は華中。

初期のタイプは外彎刃半月形が多く、後期になると直線刀半月形が多くなる。

時代の流行もあると思われ。
269日本@名無史さん:2006/01/05(木) 17:03:16
ソースは?の連発が
負け惜しみぽく見えるのは何故だろう?

でage
270日本@名無史さん:2006/01/05(木) 18:37:46
>>269
それはおまえがBAKAでUSOTUKIだからじゃねえか?ww
271日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:00:57
w ← の数ほどきっと悔しいんだろうな〜。。。と思う今日この頃
272日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:14:09
>>223>>232
>朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人
>であると想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、
>被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。

>北部九州の史石暮の下は縄文人が眠ってるということである。



おい、このソースはまだか?


273日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:51:04



「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html
274日本@名無史さん:2006/01/05(木) 22:13:24
>>252
>北九州出土の石包丁のほぼ全てが「外彎刃半月形」で、この形式の石包丁は
>中国では主に長江下流域で出土し、華北では出土しない。



おーい、華北や満州で外彎刃半月形が出土しないという
明確なソースはまだか?



275日本@名無史さん:2006/01/05(木) 23:23:44
>>274
出土しないという明確なソース

出 土 し な い と い う 明 確 な ソ ー ス


気は確かか?
276日本@名無史さん:2006/01/05(木) 23:30:19
確かだ。

華北や満州で外彎刃半月形が全く出土しないというソースなり証拠だ。
277日本@名無史さん:2006/01/06(金) 01:58:04
ソースの連呼で反論する椰子って基本的に脳タリンだよ、皆知ってた?
278日本@名無史さん:2006/01/06(金) 02:03:53
それが99%のバッタもん説だろうが、要は推測での判断
つまり明確なソースなぞあるわけない、考古学とはそういうものだ

バーカno>>276
279日本@名無史さん:2006/01/06(金) 15:52:14
推測だけれど、いろんなデータと整合性合わせて
話してる。もし反論あれば反論に値するようなそのデータだしてくれ。
反論を提示する側に立証責任がある。(通説・判例)

荒唐無稽な事を話しているならそもそも誰も聞かない。
280日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:48:21
今頃気づいたのか? 聞くな言うな黙ってろ つまりスルーしろ糞ガキ
281日本@名無史さん:2006/01/06(金) 17:53:18
弥生人が中国人なんじゃなくて、弥生文化の祖が中国人ってことだろ。
だって弥生人は中国語を話していたわけじゃないのだから。
現代科学文明の祖がイギリスというのと同じ。
282俺等05772:2006/01/06(金) 18:19:13
>>274
昔々の本ですが、直木孝次郎:日本の歴史 1 倭国の誕生 小学館 p142
を参照して下さい。 遼東半島に僅かに出土する程度です。
283日本@名無史さん:2006/01/08(日) 07:10:27
弥生人の祖は漢人ではない、
漢人と交流を持ち東夷南蛮と呼ばれていた民族のいずれかだろう。
284日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:04:29
>>223>>232
>朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人
>であると想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、
>被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。

>北部九州の史石暮の下は縄文人が眠ってるということである。




4日経っても何のソースも出てこないという事で、
これらの発言は自動的に却下されました。


285日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:12:06
>>282
>北九州出土の石包丁のほぼ全てが「外彎刃半月形」で、この形式の石包丁は
>中国では主に長江下流域で出土し、華北では出土しない。



華北最北部に存在するの遼東半島で「外彎刃半月形」が出土するという事は
華北では確実に出土するという事だから、よって、この発言も却下。


286日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:44:48
前方後円墳は○(倭、輪、先住系、西日本、丸墳)
に小さい□(高句麗(出雲系)、四隅、新参渡来系、東日本、方墳)
がくっついている。
近畿で出雲と倭が和睦しその象徴として出来た墓が
前方後円墳だったのでは?東日本ではこれに抵抗する一族が
○(輪、倭)を嫌い前方後方墳をつくった。
後に倭から日本、大王から天皇(東日本=天孫)国家を
樹立する勢力に発展する。
287日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:50:39
 倭は高句麗新羅に乗っ取られたのか??? 

魏志倭人伝訳文(ホームページ製作者訳)
http://inoues.net/wajindenx.html
三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
出雲の四隅墓、九州の丸墓
東国武士の袴、白装束、ちょんまげ←高句麗、扶余、鮮卑の習俗

源氏の白旗、平氏の赤旗、天孫伝説、朝鮮壇君(天君)伝説
角餅、丸餅、日の丸等々
倭が高句麗・新羅に乗っ取られたかどうかを徹底検証します。
288日本@名無史さん:2006/01/08(日) 17:30:20
b.トゥンギーデ(北蒙古人種)

最も特殊化した典型的黄色人種。黄色の皮膚、剛直毛、著しい短頭、
扁平な顔、それに蒙古皺襞をもつ。東部シベリアから蒙古を経て
トルキスタンにいたる高原地方に分布。

c.シニ−デ(中央蒙古人種)

いわゆるシナ人種。やや高身、中頭で、頬骨突出や蒙古皺襞が弱く、
鼻が突出している。中国本土の大部分を占める。

d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)

茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに
広く分布。 (世界大百科事典/平凡社)
289日本@名無史さん:2006/01/08(日) 19:54:42
弥生系の顔と華北人の顔の一番の違い。


c.シニ−デ(中央蒙古人種)

いわゆるシナ人種。やや高身、中頭で、頬骨突出や蒙古皺襞が弱く、
鼻が突出している。中国本土の大部分を占める。

蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
290日本@名無史さん:2006/01/09(月) 00:42:39
>>285
遼東って華北のうちに入らないだろ???
現代の民族分布ですべてを考えてない?
291日本@名無史さん:2006/01/09(月) 15:43:29
遼東は華北。華北最北部。
292日本@名無史さん:2006/01/09(月) 21:26:19
ええ?
293日本@名無史さん:2006/01/10(火) 07:28:33
骨の形態だけで民族を判断するのは不毛で無意味
平井堅の一族は数百年後なんと判断されるのだろう?
294日本@名無史さん:2006/01/10(火) 19:47:09
蒙古皺襞は骨じゃないが。

蒙古皺襞は肉体の形態。

骨は変わっても、肉体は変わらずに遺伝する。
295日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:02:05




金関 縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm


296日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:49:26
>>293
アラブ系日本人
297日本@名無史さん:2006/01/10(火) 22:04:57
金関も弥生文化に中国文化が入ってきていない事を忠告している。

中国ではない大陸のどこから朝鮮半島経由で来たという認識である。
298日本@名無史さん:2006/01/10(火) 22:49:49
日本人の約45%にYAP+が認められる。

つまり半分近くが縄文系で、残り半分が弥生系という事になる。

そして日本人の約半分弱が一重まぶたである。

つまり弥生人原型はほとんど一重まぶたの蒙古皺襞バリバリの人種だったと
いう事になる。

蒙古皺襞が弱いシニーデなんかではあり得ないのである。
299日本@名無史さん:2006/01/10(火) 23:08:56
蒙古皺襞ってなんだよ???


蒙古襞でいいんだぞ。
300日本@名無史さん:2006/01/10(火) 23:24:50
俺が思うに、弥生人1世はやはり短頭で偏平な顔面で目が一重まぶたで
細く頬骨の突出した北方モンゴロイドだったんだと思う。

吉野ヶ里などの九州北部の渡来人骨ほど頬が高く顔面が強度に
偏平だからだ。

しかし、氷原の亜寒帯から温帯に移動したため、骨の形質も急速に
変わり、中頭になって頬骨も退化したんだと思う。

しかし偏平な顔面や強い蒙古皺襞による一重まぶただけは
簡単には変えられず、取り残されたんだと思うね。
301日本@名無史さん:2006/01/10(火) 23:32:08
>>300
マジレスししようと思う。
それだと、YAP+の問題が解決できない。
しかも、肥前には縄文系の弥生人が多くすんでいた、
弥生期、支石暮から縄文形質の人骨が発見される。
それでこの人たちとの混血が進み、古墳時代の肥前、筑後の
古墳人の人骨は縄文的な形質を関東東北以上に残すことになる。

九州大学のHPをみてみればわかると思う。
302日本@名無史さん:2006/01/10(火) 23:40:11
そして吉野ヶ里の渡来人と
出雲古浦、土井が浜の渡来人は
埋葬方法と形質がことなる。
このタイプの中心は出雲だったのです。
古浦の人骨は吉野ヶ里以上の渡来形質を持っているようです。
金関さんの調査があります。
303日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:20:42
>>301
支石墓のほとんどの埋葬者は渡来系だよ。
ただ糸島半島の新町遺跡で縄文系の埋葬者が一つ出たから騒いでるだけで。

それに最も縄文人骨から遠い形質の渡来人骨はやはり筑紫野一帯で、
土井が浜は既に混血していたと考えられる。

でも最初、渡来人は少数で、混血して、すぐに消えていったと
思われた。

しかし、彼らの遺伝や繁殖力は遺伝子から縄文人を遥かに
しのぐもので、たちまち縄文人を渡来人化していった。

ここにYAP+が半分残された理由もある。

>糸島半島の新町遺跡では、その支石墓の下から、縄文人的な形態と
>抜歯風習をもった弥生前期初頭の人骨が出土した。

http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/147.html
304日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:31:19
>古浦の人骨は吉野ヶ里以上の渡来形質を持っているようです。


古浦は前期の遺跡だから人骨も渡来時の原型に近いんだろう。
土井が浜は中期の遺跡だから形質もかなり変わってしまった頃の人骨。
305日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:52:52
典型的な弥生系を観察していると、だいたい超短頭で頬骨が高く
超偏平な顔面で目が細い。

まるで渡来時の原型を見せられているかのような人が多い。

彼らは縄文人と混血消滅したと一旦見せかけておいて、
遺伝子という見えない水面下で勢力を拡大してきたんだろう。

縄文系の夫婦から一重瞼でのっぺりした全然違った顔の子供が
突然出てくるというのはよく聴く話。
306日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:54:56
筑紫野、吉野ヶ里は、中世以降ほぼ原野とされているような
地域で、近年になってニュータウン、工業団地が開発され
その時に発掘された遺跡です。
彼らは弥生時代忽然と集落を作りそして中世では姿を消した。
どこに消えたのやら。。。

そしてこの渡来人は後の短頭化した渡来人とはことなっている。
辰韓で絶壁にする風習が浸透する前の集団なのかあるいは
もっと北の集団なのか定かではない。

筑紫の東に秦王国ができたとききた貴族系の渡来人は短頭だったのかも
しれない。
畿内の短頭化はこのせいか
東国に移住した白丁系の渡来人は長頭だったのかもしれない。
307日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:01:04
20世紀の日本人種の短頭化は弥生遺伝子の更なる拡大からじゃないか?
308日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:07:58
弥生人は短種短種。

その事は西日本人のハプロタイプを見りゃ分かる。

彼らが北方のどこかから朝鮮半島に流れ込んできた数々の外来種の
中の一つである事はもう間違いない。
309日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:11:45
>>308
短頭化したのは畿内のみ。
薩摩は縄文時代から短頭。
だからこれだけで渡来人の影響とは図れない。
310日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:20:00
>>309
AFO。

短頭化は20世紀の東北以北を除くほぼ日本全国で起きたんだよ。
つまり東北を除く本州全域と四国、九州でも起きたんだよ。

19世紀までは日本は南九州を除くほぼ全域が中頭か長頭だった。
311日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:39:04
310へ。

短頭化はあったかもしれないが、短頭にはなってないだろ。

倉時代の江戸人は長頭だったが
眼底は出てたらしい、短頭だけが渡来の目安にはならない。

コーカソイドでもモンゴロイドでも短頭おいれば長頭もいる。

いずれにしても20世紀に短頭化したのは社会変化要因が大かもしれない。
それまでの、まったりした社会に順応できない長頭型が
短頭型に淘汰されたのかもしれない。

官僚社会が最たる例だ。国会議員などの文民の顔は至って
渡来顔だろ、それにかれらは事実渡来氏族の末裔ばかりである。
彼らが繁栄したのが要因であると考える。
312日本@名無史さん:2006/01/11(水) 19:42:15
>短頭化はあったかもしれないが、短頭にはなってないだろ。


なってます。

東北以北や僻地を除いてほとんど短頭になった。

勉強が足りん輩ばっかだな。
313俺等05772:2006/01/11(水) 19:47:13
>>285
自分ではソースも出さず、揚げ足取りで世を送る輩。文を若干訂正すれば
文句無かろう。
       ×華北では出土しない。→ ○華北では出土しない。

文句垂れてる暇があったら、図書館でも行って、少しは自分で調べてみな。
314俺等05772:2006/01/11(水) 19:58:04
>>302
>古浦の人骨は吉野ヶ里以上の渡来形質を持っているようです。

すみませんが、どういう渡来形質を持っているのでしょうか? つまり、
半島型なのか、大陸型なのか、判りませんか?
また、石包丁が出土していたらその形は判らないでしょうか?
ググッテは見たのですが、ヒットしないもので、教えて欲しいのです。
315日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:05:00
自分で調べろ?

そりゃ君、逃げ口上ってやつだよ。

学術的発言をしたのなら、その学術的発言に責任を持って、他の参加者から
質疑がある場合はその質疑応答に答える義務がある。

学問的場所の参加における権利と義務。当然の事だろ。

そうでなければ誰がそんなものを信用するのかね。
316日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:05:25
>>310
つまり、日露戦争(1904)後、半島から朝鮮人が流入してきて、東北以北
を除く地域に住み着いたわけだ。日本人が短頭化する程大量に入ったな。
317日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:08:22
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/1532S.jpg
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/1531S.jpg
各地の弥生期の渡来人、古墳時代人のデータ。
318俺等05772 :2006/01/11(水) 20:11:17
>>315
自分で調べた一方で質問するのが筋だろう。調べもしない奴が
学術的発言ウンたらナンたら言う資格なし。
319日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:12:35
それと明確に
土井が浜、豊前以北(本州弥生人)と
西九州弥生人は埋葬方法など文化が明確に違っていますので。
320俺等05772:2006/01/11(水) 20:24:59
>>317
サンクス。確かに渡来形質が強いことは判ります。でも、半島型なのか、
大陸型なのか、私には判りません。 後は自分でじっくり調べてみます。
321日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:25:12
>>316
1点


>>318
おまえは人間レヴェルが低いな。
そんな無責任な人間の発言を誰が信用するんだよ。
322日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:27:52
>>320
漏れも専門家じゃないんでこれ以上のことは無理ですw
323日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:07:51
日本(人)がクズである理由

チビ、出っ歯、メガネ、不細工、閉鎖的、独創性皆無、白人コンプレックスの固まり、
アジア人のくせにアジア人差別主義者、土人、体力が低い、いつもニヤニヤしている、
論理的思考力が低い、周囲の評価が第一、マスコミの奴隷、戦争を正当化する、臭い、
短足、働き蜂、文化は全部他国(中国アメリカ)の猿真似、意見をはっきり述べない、
1人では何もできない、強き(白人)を助け弱き(黒人やアジア人)を挫く、鯨殺し、
魚を生きたまま解体する鬼畜、21世紀になっても在日部落差別を続ける人権後進国、
全体主義、靖国や公明党を認める政教一致国、自殺大国、交通事故大国、いじめ大国、
地震大国、喫煙大国、風俗大国、男は貧弱、女は白人の肉便器、英語の発音が下手糞、
年齢に固執する、アメリカに保護されてるくせにアメリカを批判する、無表情な能面、
醜い黄色肌、精神年齢が低い、時代遅れの倫理観に固執する、下品

byシナ
324日本@名無史さん:2006/01/12(木) 19:55:23
b.トゥンギーデ(北蒙古人種)

最も特殊化した典型的黄色人種。黄色の皮膚、剛直毛、著しい短頭、
扁平な顔、それに蒙古皺襞をもつ。東部シベリアから蒙古を経て
トルキスタンにいたる高原地方に分布。

c.シニ−デ(中央蒙古人種)

いわゆるシナ人種。やや高身、中頭で、頬骨突出や蒙古皺襞が弱く、
鼻が突出している。中国本土の大部分を占める。

d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)

茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに
広く分布。 (世界大百科事典/平凡社)
325日本@名無史さん:2006/01/12(木) 19:55:56
弥生顔と華北人の顔の一番の違い。


c.シニ−デ(中央蒙古人種)

いわゆるシナ人種。やや高身、中頭で、頬骨突出や蒙古皺襞が弱く、
鼻が突出している。中国本土の大部分を占める。

蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
蒙古皺襞が弱く、鼻が突出
326日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:11:55
中国では4000年くらい前にはすでに紅陶が主流の文化は
消滅していたようだな。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
327日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:26:06
>>326だったらどうなの?
328日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:37:30
要するに弥生文化は当時の中国以外の蛮族の文化という事さ。
329日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:55:21
高句麗、扶余、鮮卑、匈奴でもない文化ってなんだよ。
漏れは扶余あたりの難民じゃないかと思ってるが。。

東国弥生文化
出雲系は分かりやすい高句麗そのまんま持ってきてるから
白山文明(白頭山文明ともいう)
330日本@名無史さん:2006/01/13(金) 00:15:04
出雲系って古浦人の末裔だろ。

古浦の渡来人骨は弥生時代前期のもので顔面が強度に偏平。

2300年以上前の弥生時代前期に扶余はまだ満州東部だろ。

ところで満州西部の遼河上流に倭山という場所があって、弥生人の
通過した場所として分かっている唯一の場所なのだそうだ。

つまり満州西部よりも北から来たと言うことだな。
331日本@名無史さん:2006/01/13(金) 00:17:27
>ところで満州西部の遼河上流に倭山という場所があって

ちょいまて、それは山東ではなかったか?

332日本@名無史さん:2006/01/13(金) 00:21:50
>>330
古浦弥生人の末裔は、山陰古墳人になり彼らが東一帯に広がったことが
古墳遺跡等考古学的にも有力と考えられてるよ。

山陰古墳人は古墳時代もっとも渡来形質をもっていたと
いう調査がある。彼らそのものが移動したというより
大陸からこの地に断続的に渡来があっり東日本一帯に
広がっていたことが考えられる。
333日本@名無史さん:2006/01/13(金) 00:36:49
また『三国史記』高句麗本紀太祖大王八○年(一三二)七月の条と
九四年(一四六)七月の条に「倭山」と書かれているが、この倭山は
遼寧省と吉林省の南部にある。この地の倭人が「北倭」でのちの
蒙瓦室韋であろう。

http://snsi-j.jp/boards/sirogane/158.html

334日本@名無史さん:2006/01/13(金) 00:38:59
また『三国史記』高句麗本紀太祖大王八○年(一三二)七月の条と
九四年(一四六)七月の条に「倭山」と書かれているが、この倭山は
遼寧省と吉林省の南部にある。この地の倭人が「北倭」でのちの
蒙瓦室韋であろう。

http://snsi-j.jp/boards/sirogane/158.html
335日本@名無史さん:2006/01/13(金) 01:04:42
いずれにしても倭人という言葉のおおもとが何かはかなり難しぞ。
336日本@名無史さん:2006/01/13(金) 01:16:14
そもそも扶余の起源も南方地域であるという説があって
騎馬化、ツングース化する前の扶余は周辺国とことなる言語もってて
高床式倉庫を築いていたとされてる。
九州縄文人の海洋性からみると遼東あたりに寄港地をもっていたとも
考えてもおかしくない。扶余ももしかすると古代九州縄文人の末裔なのかも
しれないぞ。
337日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:35:30
>>221
中国の天孫伝説って、何だ?

ワケ分からんこと、ホザいてんじゃねえぞ。



338日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:40:13
>>100
早いことは早いんだろうが、
稲作開始から1年でアウトになったんじゃね?

台風が毎年10回以上来るから、
「ここは稲作に向いてねえなあ」って、
古代人は思ったんじゃねえか。

339日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:48:44
>>293
胡人(ペルシア人)系じゃあねえの?

日本書紀にも、古代の奈良にペルシア人が大勢来ていたって
書かれてるから。



340日本@名無史さん:2006/01/13(金) 17:34:03
奈良のペルシャ人の末裔って誰だろうか
341日本@名無史さん:2006/01/13(金) 17:47:13
『ローマ文化王国・新羅』という電波本があるんだが、

その本には、新羅にも中東系民族が住んでいたって、
書いてある。
古代の東アジアに、ペルシア人が来ていたのは事実だ。
ただ、ローマと新羅が同盟関係だったていうのは、
電波すぎるな(W


342日本@名無史さん:2006/01/13(金) 17:58:15
三つ巴の巴は
倭(西九州、筑肥、薩摩大隅)
秦王国(新羅、豊国、瀬戸内、近畿の一部)
出雲国(高句麗、東日本を中心とした地域)
だったと思ってる。
宇佐八幡がそれらの地域の丁度接点にあったのかもしれない。
343日本@名無史さん:2006/01/13(金) 18:04:23
出雲国と秦王国の境界線は畿内でしょっちゅう変わってるが
九州ではほぼ争いはない。
九州では倭と秦王国の境界線がしょっちゅう変わってる。
大和朝廷も秦王国の流れを組むものであることには間違いない。
344日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:15:43
ペルシアじゃなくてインドの高僧だろ。

彼らは大仏開眼の後にほとんど帰っただろ。

平井堅みたいな顔は多くはないが珍しくもない顔だよ。
345日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:21:40
で、弥生期に中国から伝わった物的文化ってあるの?
346日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:23:57
基本的に弥生期に中国からはない。
347日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:58:10
まあ丸地三郎でも読んで笑ってやりたまえよ諸君w

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/newpage3.html
348日本@名無史さん:2006/01/16(月) 01:35:28
華北説がよく言ってる戦国時代の難民や落武者が弥生人だったら、
九州北部の弥生遺跡で灰陶や金文が出まくりだろw
349日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:01:12
それは江南説でも全く同じ。

江南の戦国時代の難民や落武者が弥生人だったら、
九州北部の弥生遺跡で灰陶やら金文やらもう出まくりですわ。
350日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:04:26
★古代カラ半島国家の歴史★

【志良岐】
国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、
「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった
志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に
あった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(クニキシ。コニキシとも呼ばれる)という長官
が置かれ、王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、
志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(クニキシ)=金奈勿に王権を
奪われることになった。
奈勿は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の血を引く志良岐王族を皆殺しにした。
そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(倭人)ではなく、朝鮮人である。
金氏は謎の一族である。彼らが、いつ、どこから来たのか、どのような方法で志良岐に
移住したのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、
もちろん作り話である。新羅建国(奪国)者=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。

コピペ協力よろしく!
バラまいてね!
351日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:34:06
★古代カラ半島国家の歴史 2★

【任那】
地名の読みは、ミマナである。
日本国の第十代大王(オオキミ)である崇神天皇=孫木入彦命(ミマキイリヒコ)の御名を
記念して命名された。地名の意味は「皇孫の名」である。
志良岐の西側にあった日本国領土である。
任那は、正確に言えば「国」ではない。ヤマト朝廷が直接統治する天皇家の「領地」であった。
神武天皇が日本国を建国する以前から、任那には多くの倭人が住んでいた。隣接する志良岐や
久多良とともに、任那は日本文明圏を構成する地域の一つだったのである。
崇神天皇の時代に日本国の正式領土となった任那には、ヤマト朝廷が管理する鉱山と製鉄所が
置かれ、日本列島および志良岐、久多良へ鉄材が輸出されていた。
これらの鉄は、鍋などの生活用品を製造するための原材料として使われると同時に、剣や槍など
の武器の製造にも利用された。
そのため、日本にとっての任那は、経済面だけでなく、軍事面でも重要な意味を持つ地域で
あった。任那にはヤマトから派遣された軍が常駐していた。任那の軍は、任那の独立を守る
ための組織であると同時に、志良岐および久多良に対する軍事支援を行う任務も持っていた。
また、カラ半島北部の騎馬民族勢力に対する監視活動・情報収集活動等も行っていた。
朝鮮人国家の金氏新羅に征服されるまでは、多くの倭人が居住し、日本文化が花開く美しい
土地であった。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
352日本@名無史さん:2006/01/19(木) 19:52:57
紹興酒も伝わってないようですねw


紹興酒の歴史は約二千五百年以上前、文字が書き記された頃に始まり、
これは春秋時代の越の国からの計算となり ます。紀元前492年、越は呉に敗れ、
臣下は妻を伴い呉へ労役に行くことになりました。《呉越春秋》には臣下たちが
越を離れる際、酒を酌み交わし別れに涙する句の記述がなされています。
それが古典書に記された紹興酒であるといわれています。1973年、紹興地区に
帰属する"余姚河姆渡"にて、今から7千年以上前の原始氏族社会の遺跡が発掘され、
大量のモミ・陶器・陶片・骨製木製の道具・芸術品などが出土し、当時すでに
醸造の物質的条件を兼ね備えていたことが立証されました。中国建国以来、
紹興各地から、多くが春秋戦国時代の青銅・印紋・陶製の酒器などが出土し、
初期の紹興酒が2500年前から存在していたことが更に立証されています。

http://www.the-best.co.jp/chinese/02.html
353日本@名無史さん:2006/01/19(木) 20:57:47
古代カラ半島国家の歴史 3★

【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!


354日本@名無史さん:2006/01/19(木) 20:58:40
★古代カラ半島国家の歴史 3★

【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!


355日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:02:56
マルチうぜえ
356日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:30:20
荒らしは放っておいて、

紹興酒も伝わってないようですねw


紹興酒の歴史は約二千五百年以上前、文字が書き記された頃に始まり、
これは春秋時代の越の国からの計算となり ます。紀元前492年、越は呉に敗れ、
臣下は妻を伴い呉へ労役に行くことになりました。《呉越春秋》には臣下たちが
越を離れる際、酒を酌み交わし別れに涙する句の記述がなされています。
それが古典書に記された紹興酒であるといわれています。1973年、紹興地区に
帰属する"余姚河姆渡"にて、今から7千年以上前の原始氏族社会の遺跡が発掘され、
大量のモミ・陶器・陶片・骨製木製の道具・芸術品などが出土し、当時すでに
醸造の物質的条件を兼ね備えていたことが立証されました。中国建国以来、
紹興各地から、多くが春秋戦国時代の青銅・印紋・陶製の酒器などが出土し、
初期の紹興酒が2500年前から存在していたことが更に立証されています。

http://www.the-best.co.jp/chinese/02.html
357日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:57:18
建築技術も全く伝わっていないようですねw


山東省の曲阜は中国の儒学の創立者、教育家・孔子の古里である。
曲阜の孔廊、孔府と孔林は「三孔」と呼ばれ、 中国の四大古代建築群の
一つである。 孔廊は歴代の孔子の祭祀行事を行う場所である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。

http://www.asicom.co.jp/isan/012.html

紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
358日本@名無史さん:2006/01/21(土) 00:03:07
マルチやめれ!!
359日本@名無史さん:2006/01/21(土) 21:01:50
360日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:24:46
★古代カラ半島国家の歴史 4★
〜謎の民族カラビトの正体〜

古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を
組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。
古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族
だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。
361日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:50:06
>>360
でも朝鮮人にはYAP+が全く無い。日本領だったのにどうしてかね?


 YAP+型は“縄文系”の男性とみられる。宝来聡・総合研究大学院大学教授
(人類学)の研究では、アイヌ民族の88%にYAP+がみられる。古い形質を
残した遺伝子型のようだ。このタイプはアジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や
中国、シベリアにはみられない。世界を見渡しても日本人のほかには黒人にしか
みられない変わった遺伝子型だ。

 中堀教授は、YAP+の集団を「タイプ2」とした。タイプ2は、都市部では
北から南まで均等に分布し、金沢、福岡、大阪、札幌のいずれで調べても、人口
の三割程度を占める。しかし本州や四国の山間部では五割を占めていた。
弥生人に追われた縄文人という通説にほぼ合致する結果だ。精子濃度が薄いという
特性があるという。

http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2003g.htm
362日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:56:16
引き上げたからだろ
残留者は奴婢にされし子孫はいねー。
363日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:25:59
>>360
もう二度とここに来るな。

スレ違いも甚だしい。
364日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:30:28
倭人がいたんじゃないよ、縄文人がいたというだけ。
ニマナが最初だろ、そのあと、辰韓に但馬丹波から
脱解(新良貴氏w)が派遣される。
この時、九州の派遣されたのと出雲に派遣されたのがいるんだ。
つまり、高天原は琵琶湖の辺の野洲川
365日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:33:50
>>364
スレと関係無い事を話さないでくれんかね。

この基地外荒らしは。
366日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:36:31
>>365
同じですよ。
前後500年はスレとは無関係で
話してはならない。
367日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:44:06
>>366
基地外のおまえにはこのスレタイが見えないのか?

【4:366】■疑惑の弥生人中国説について語れ■
1 名前:日本@名無史さん 2005/12/18(日) 14:19:00
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、
何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶、
最低でも古代江南の良渚文化や古代華北は山東の竜山文化の
主流であった黒陶くらい伝わっていないのか?

何で当時の中国で主流だった土とん墓が伝わって普及していないのか?
何で青銅貨などの金属貨幣や漢字の前身である金石文も伝わっていないのか?

何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのか?

これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。
368日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:07:07
DNA鑑定により米、弥生人のルーツは中国大陸の山東半島の付け根
以南の沿海岸であることは明白です。
魏志東夷伝倭人条をよめば呉越楚などとの文化的近似性も明らかです。
369日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:14:53
北方アジア抜きのインチキ形質調査と
どうとでも解釈できるミトコンドリア調査でなw
370日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:46:32
★古代カラ半島国家の歴史 4★
〜謎の民族=カラビトの正体〜

古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を
組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。
古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族
だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。

つまり、日本人と韓国人は同祖じゃないってこと。
シンプルな事実だ。

371日本@名無史さん:2006/01/22(日) 18:56:39
>>370



で、そのソースは?



372日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:05:33



こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された


373日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:07:03

●従来の日韓同祖論


×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。


●日韓同祖論の真相


○弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に似た土着の種族がいた。


374日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:19:06
【DNA】西日本は中国系で東日本は半島系か2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1122557343/l50
*倭人、弥生は東日本を侵略していない*  
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1125130790/l50
渡 来 系 は 数 種 存 在 し た 
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1133544342/l50
375日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:28:57
縄文弥生展の記憶は、日本最古の弥生集落は高知県にあり、突如現れるらしい
やはり、弥生人の一部は太平洋側(中国から)からきたと考えるのが自然じゃないだろうか
一部と書いているのは、自分は渡来系は複数あると思っているから
376日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:30:35
日本海側が至近距離だと思う
377日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:31:24
>>375
そのソースを出しましょう。
378日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:02:44
紹興酒も伝わってないようですねw


紹興酒の歴史は約二千五百年以上前、文字が書き記された頃に始まり、
これは春秋時代の越の国からの計算となり ます。紀元前492年、越は呉に敗れ、
臣下は妻を伴い呉へ労役に行くことになりました。《呉越春秋》には臣下たちが
越を離れる際、酒を酌み交わし別れに涙する句の記述がなされています。
それが古典書に記された紹興酒であるといわれています。1973年、紹興地区に
帰属する"余姚河姆渡"にて、今から7千年以上前の原始氏族社会の遺跡が発掘され、
大量のモミ・陶器・陶片・骨製木製の道具・芸術品などが出土し、当時すでに
醸造の物質的条件を兼ね備えていたことが立証されました。中国建国以来、
紹興各地から、多くが春秋戦国時代の青銅・印紋・陶製の酒器などが出土し、
初期の紹興酒が2500年前から存在していたことが更に立証されています。

http://www.the-best.co.jp/chinese/02.html
379日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:44:47
>>375
国立科学博物館 日本人はるかな旅展 遺伝子によるルーツ研究
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-26.html

B54-DR4かな?
380日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:46:31
>>375
>日本最古の弥生集落は高知県にあり



ソースを出しなさい。



381日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:49:07
思い込みのネタにソース出るわけがない!
382日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:34:41
日本人に一番多いHLAは、日本人以外ではモンゴル人に多い
2番目に多いHLAは朝鮮人に多い
383日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:36:13
HLAが一致すると、遠いなり近いなり、100%血縁関係がある
384日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:45:10
>>382
つまり、どちらかが弥生人と関係していて、
どちらかが縄文人と関係しているという事だ。
385日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:00:36
>2番目に多いHLAは朝鮮人に多い

これは、中部、北陸〜東北日本海側に多く
西に行くにつれ少なくなるHLA
弥生人ではない
386日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:10:34
東日本人がもっとも弥生人に近いと言ってるだろうが

皇孫(高句麗人の子孫)は東日本中心なんだぞ!

まだわからんのか。
魏志倭人伝訳文(ホームページ製作者訳)
http://inoues.net/wajindenx.html
文献は語る −中国正史・その4
http://inoues.net/yamahonpen4.html
日本神話(大和/出雲神話)系譜/天皇系譜
http://www.ax.sakura.ne.jp/~unauna/una/main/god/japan_k.html
三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
私本日本書紀
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
戦国武将の系譜
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_south.html
姓氏類別大観 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/01.htm
歴代天皇一覧表
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/tennouichiran.html
387日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:17:55
↑あほあほ鮮人w
388日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:25:56
平氏(赤旗=先住民の色)はどこに拠点があった?
源氏(白旗=朝鮮人の色)はどこに拠点があった?
南朝はどこに拠点があった?北朝はどこに拠点があった?
水神と共に祀られる平氏、水神といえば西日本だよね。
平氏も貴族だから朝鮮の血は濃いよ、しかし先住民の
反乱だったんだ。あれは単なる権力闘争じゃないんだよ。
南朝しかりだ。よーく考えよう。
記紀、倭人伝、東夷伝、風土記をよーく読もう。
先住民はいま朝鮮人(源氏=東日本人)により根絶やしに
されようとしているのである。
389日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:36:43
>>388 何だ、この朝鮮イデオロギーは?
390日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:19:01
>まあ日本人には多かれ少なかれ朝鮮半島の血が流れているわけだが。

実はほとんど流れていない。
続日本紀によると、7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。
高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。
それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。
帰化人のピーク時の7Cでも全部合せて5000人くらい。

それ以前の帰化人が始まる5C、続く6Cに来た半島帰化人が合せて
2〜3000人くらい。

半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。

古墳時代の日本人口が400万人くらいの時だから、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.2% ほどに過ぎない事が分かる。
391日本@名無史さん:2006/01/25(水) 22:10:00
おい、弥生人スペシャリストなオマエら、この筑波の先生のどこが
AFOAFOなのか、もうオマエなら分かるよなw


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm

>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。

http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html
392日本@名無史さん:2006/01/25(水) 22:26:31
もう一つヒントを置いとくぜw

Q46.日本に車輪が入ってこなかった理由がよくわからなかった。
A.弥生時代、古墳時代には車が用いられた証拠はない。車輪の出土や
轍(わだち)の検出によって考古学的に車の利用がわかるのは7世紀後半以降。
中国ではすでに殷代には馬に引かせる二輪車が発達しているが、日本では
長く大陸の文化に触れてきたにもかかわらず車輪は受け入れなかった。
起伏の多い地形と周囲を海に囲まれて舟運に好適な条件であったことが背景に
あるのではないか。弥生時代に本格的農耕が始まったあとも基本的に家畜を
欠いていることも、牽引畜力の不在という意味で、車輪の導入が遅れたことと
関係があるかも知れません。

http://www.jttk.zaq.ne.jp/sfuku239/class/Question0445.htm
393日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:36:18
この先生のどこがトンチンカンなのか、分かったかな?w




>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm



394日本@名無史さん:2006/01/27(金) 23:35:56
ハッハーン! (`Д´) ワカッタゾー!

このセンセは馬以前に車輪が弥生時代に伝わってない事に気が付いてないw
395日本@名無史さん:2006/01/28(土) 18:11:24
フヨ病患者=朝鮮人に注意!
こんなこと言う奴です
   ↓ ↓ ↓

北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて、
九州北部に侵入した特定の単種の北方モンゴロイド扶余族が
九州地方に上陸し、古代ヤマトを建国した。

皆さん、フヨ病患者の言うこと、信じないでね!(笑
クタラ(久多良・百済)を建国した余氏は、
帯方郡出身の越人(倭人)ですよ。

扶余族がカラ半島を短期間で通過することは不可能。
遼東を中国人が支配してたから。
半島北部には楽浪郡があるので南下できない。

高句麗は南下しようとしたけど、楽浪郡の漢人にブチ殺されました。
396日本@名無史さん:2006/01/29(日) 17:51:20
子供みたいな程度の低い工作だなw

扶余が半島に侵入するのが1C頃。
中国系が半島に侵入するのがBC3C後半。
弥生人が渡来したのがBC4C末より前。

中国系が朝鮮半島に侵入する前に、弥生人は北方アジアから朝鮮半島を
短期間で突き抜けて日本に渡来してしまってるよ。

だから当時の中国文化が何も伝わってない。
397日本@名無史さん:2006/01/29(日) 18:51:14



(注)最近の説によれば日本の高床式は北方由来説もあるらしい。
布野修司「住まいの夢と夢の住まい」

http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page136.html




398日本@名無史さん:2006/01/29(日) 19:00:17
弥生人江南、ないし山東半島渡来説は多分定説化しつつある。
しかし漢民族か、と言われると大いに疑問。
「倭人」すなわちちっこい人とさげすまれるような少数民族ではないのか?

「論衡」に書かれた「倭人」も縄文人と言うより、山東半島あたりにいた少数民族と
考えると、つじつまがあう。
399日本@名無史さん:2006/01/29(日) 19:29:34
あっそう。

で、その江南や山東半島から人が来たという確かな証拠になる
物的文化は何がありますか?
400日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:05:34



こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された


401日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:54:29


●従来の日韓同祖論


×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。


●日韓同祖論の真相


○弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に似た土着の種族がいた。

402日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:07:03
日本、北九州には北方、南方の双方から来たのではないか?邪馬台国と狗奴国の
対立とか倭国の大乱は南北の異民族同士の戦争だったのでは?

 それにしては狗奴国のヒミヒコの名は卑弥呼と同族のように似ているか。

 北方から来たとすると稲作を持って来たのかという疑問があるし、南方だとすれ
ば言語が高句麗語に近いことが説明しにくい。

403日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:12:55
稲作は6500年以上前から日本にあるのだよ。

いつになったら君は覚えてくれるのか?

知恵遅れか知的障害か記憶障害か?

問題は稲作ではなく、『水田技術の伝来』だろが。
404日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:25:25
>>403
でもそれだけでは話は半分しか解決していないよ。
BC10C九州の弥生遺跡で見られる「水田技術」は
そもそも朝鮮北部や遼東半島では気候的に気温と降水が足りず
農法として成立がほぼ不可能と言ってよいので
(遼東や北鮮で安定した水田稲作の成立を見るのは
18C〜19Cの小氷河期で徹底的に鍛えられた大日本帝国東北地方の
極めて高度な寒冷地稲作農法が朝鮮併合後広まってからのこと)
一体誰がどこで北方弥生人に水田稲作農法を伝えたのか
(あるいは彼らがどこで発案したのか)
まだ謎が残るんだよ。そこまで説明しないと。
405日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:43:02
九州北部に水田技術を伝えた場所とは、九州北部に農工具を
を伝えた場所と関係が深いと見て良いだろう。

それは朝鮮半島南部。


>弥生時代を開いた最初の渡来技術は水田稲作農耕でした。
>水田稲作をはじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部
>とそっくりの農工具が出土します。稲作技術はもとより、住居の構造
>やムラのあり方にも彼らの影響が見えます。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html


406日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:55:39
>>405
だから問題はその次なんだよ。
「朝鮮南部に水田稲作を伝えたのはどこの誰?」
ここが解決されない限り「朝鮮南部」が分かっても何の意味も無い。
それとも水田稲作は真正の朝鮮半島南部起源とでも?
407日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:08:59
ただし農耕具や水田の技術を朝鮮半島南部から九州北部に
持ち込んだ集団は3つ考えられる。

朝鮮半島南部人、半島を訪れていた縄文人自身、
北方から朝鮮半島を突き抜けてきた北方モンゴロイド弥生人、
のいずれか。

後者だとBC10Cにはすでに北方モンゴロイド弥生人がやって来ていた
事になる。
408日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:21:50
朝鮮南部に水田稲作を伝えた集団はさしずめ2つあげられるだろう。

中国を訪れていた朝鮮半島南部人自身、
半島を訪れていた中国大陸人。

この場合、半島南部から遼東経由の陸路でも海路でもどちらでも
構わない。

いずれにせよ遼東や半島北部を通過して半島南部に持ち込めばよろしい。
409日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:22:26
>>407
だからそんなことより>>406の質問に答えろよ。
朝鮮半島南部『に』水田稲作を伝えたのはどこの誰なんだよ?
ここが説明できなければ何の意味も無いんだよ。

410日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:28:07
スマソ。行き違ったようだ。
じゃあ聞くが、BC10C以前の朝鮮半島南部には
中国人が渡来した形跡はあるのかね?楽浪やらの時代ではないよ。
BC10C以前の話だ。灰陶やら何やらは見つかっているのか?
つまり中国九州直接渡来説に対する批判が
そのまま朝鮮南部に平行移動するだけなのだ。
なお半島北部や遼東では安定した水田稲作は農法上不可能とされている。
気温も水も足りない。
北朝鮮では今でも水田稲作は南端のごく一部でしか行われていない。
半島南部人が中国で覚えてきただけだというのなら、
九州人が中国で覚えてきたという説をどうして否定できる?
411日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:32:23
見つかっている。
朝鮮の紅陶に混じって黒陶が出土している資料を
何度か見ている。
412日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:43:14
>>411
本当に正真正銘の中国式黒陶なのか?
黒陶類似の黒色磨研土器なら
縄文晩期の九州の遺跡からも普通に出てくるわけだが。
弥生早期ではないよ。縄文晩期の九州なんだけどね。
413日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:04:48
無文土器の遺跡からは、しばしば中国の影響を受けた黒色磨研土器と丹塗磨研土器が出土する。
前者は、龍山文化の影響を受けたもので、咸鏡北道を中心として半島中部・南部でも発見され、
ある程度分布はひろがっている。しかし、中国の黒陶のように轆轤は使用されず、また表面を
研磨したものが少ない。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html

BC2000年ころからBC1500年ころ、中国黄河流域の文化は、大村落農耕文化である黒陶文化へ
発展した。黒陶(黒色土器)を特色とし、はじめ中国山東省の竜山鎮で発見されたため
竜山文化ともよばれる。住居は地上の家屋生活に移り、土塁をめぐらせた大村落を形成した。
牛・馬を飼育し、一部には獣骨による占いも行われた。この文化は、中国の黄河河口・下流域
にあたる山東省を中心とし、山東半島から河南・山西南部・陝西省にまたがり、北は遼東半島、
南は浙江省北部に及ぶ。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/kokutou.htm
414日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:06:53
黒陶文化(竜山文化)はBC2000〜BC1500年頃、中国においては最北では
遼東半島まで広がり、朝鮮半島では咸鏡北道を中心として半島南部まで
全体的に広がっている。

朝鮮半島において櫛目文土器文化の次に来る無文土器の紅陶文化は
BC10C頃に主流になるから、朝鮮半島の黒陶文化は紅陶文化より
少し先んじて朝鮮半島に伝わったものと思われる。

縄文晩期(BC1500前後か?)の黒陶類似の黒色磨研土器はその頃の
半島南部から伝わったものではないか。
415日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:28:09
>>413>>414
それが困った事に日本の縄文晩期の黒色磨研土器には
なんと轆轤を使った形跡があるんだよ。
(大分県大石遺跡出土の黒色磨研土器)
困ったねえ。朝鮮半島より九州のほうが
黒陶文化のエッセンスを高度かつ本格的に受け継いでいるんだよなあw

全ての文化は半島→日本に決まっているニダと思っていると
いろいろ説明がつかないことが沢山あるw
416日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:32:39
その1点だけでは全く参考にならんな。
他の縄文晩期の黒色磨研土器は轆轤を使っていないんだろ?
417日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:07:17
櫛目文土器は日本→半島であろう。

ただ朝鮮半島は地理的に常に中国文化を身にまとっておって、
それが日本人の対抗心に火を付ける。

しかし、それは所詮、朝鮮半島オリジナルの文化ではない。

単なる中国擬似文化なのである。
418日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:12:18
>>416
「一発なら誤射(by朝曰新聞)」かね?w
反例というのは一件でも出れば致命的なんだよ。
しかも数千年を経て現代人の目に触れ出土するのは
当時使われていた土器のごくごく一部に過ぎないわけだからね。
大石遺跡の遺構は縄文晩期の特に農耕に関する極めて重要な遺跡なので
ここで轆轤使用の土器が出たと言う事実は極めて重要。
この土器そのものは極めて精巧で、同時期の半島出土のものより明らかに上。
尤も、黒色磨研土器そのものの分布は縄文晩期においては全国的である上
中国黒陶文化との直接の関連性が疑わしいものさえ東のほうには多いので
黒色磨研土器と中国との関連をすぐに短絡する事は出来ないわけだが。
419日本@名無史さん:2006/02/04(土) 17:40:24

弥生式土器:

弥生式土器は、明治十七年に東京都文京区本郷弥生町で、最初に発見され町名にちなんで
名づけられる。紀元前三世紀から、紀元後四世紀の六、七百年の間に作られた土器を指します。
また水利のよい土地に集落を作り、農耕を主として物資の貯蔵を初め、衣食住の安定した時代です。
縄文土器と同じく低火度、無釉で軟質の土器。色は赤褐色を呈し、しかも柔かい紅色を帯びた発色。
成型技術が進歩し轆轤(ロクロ)に近いものを使用したものが多い。作柄は生活様式の安定から来る
非常に明るい温和な女性的美を多分に含んでいて、均衡のとれた簡素美を表現している。

http://members.at.infoseek.co.jp/toujiki/jhis/yayoi.htm

轆轤(ロクロ)に近いものを使用した
轆轤(ロクロ)に近いものを使用した
轆轤(ロクロ)に近いものを使用した
轆轤(ロクロ)に近いものを使用した
420日本@名無史さん:2006/02/04(土) 17:54:40
なーんだ何も問題ないじゃないの。

半島では当初は手作りで黒陶を焼いていたが、黒陶にやや遅れて轆轤の
原型が遼東方面から朝鮮半島に伝わって、九州北部にはそれらが
ほぼ同時期に伝わって轆轤を使った黒陶擬似土器が焼かれたが、
その轆轤技術もまもなく登場する弥生土器に受け継がれていったまでの事。
421日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:07:14
>>404
>BC10C九州の弥生遺跡で見られる「水田技術」は
>そもそも朝鮮北部や遼東半島では気候的に気温と降水が足りず
>農法として成立がほぼ不可能と言ってよいので


あほだろおまえw

4000〜6000年くらい前の気候は今よりも7℃くらいも高かったのだよ。
422日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:14:38
>>420
このスレのレスのどこをどう読むとそんな結論になるんだ?
日本の縄文晩期の轆轤使用黒色磨研土器と朝鮮半島の轆轤使用の先後も分からないし、
実はBC10C九州に水田稲作渡来と言うが、
従来の最重要な半島の稲作遺跡(松菊里)はBC8C前後と言われている。
半島南部最古の水田稲作遺跡がBC10C前半というのが最近の説だが、
これでも九州渡来まで100年も無い。何をそんなに急いで水田稲作農民が海を渡るのだ?
水田は開墾からまともな収穫が上がる水田になるまでに20〜30年はかかると言うのに。
今のところの遺跡発掘情報はどう繋ぎ合わせてもまだ整合性が無い。
様相はかなり複雑で良く分からないんだよ。
だから「全ての文化は南下して伝わるに決まっている」という
どうしようもなく頭の固いドグマを捨てろよ。
そうしないと真実は半分しか見えて来ないわけだ。
423日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:21:34
>>421
もうBC10Cにはいわゆる縄文高温期は終了していますが何かw
逆に言えば寒冷化がかなり進んでから稲作民の南下が始まると言う
遼東南下説はかなり珍妙な仮説を立てなければならなくなる。
それに東アジアの場合、
赤道西風はヒマラヤ山脈で止められてこれ以上北上出来ないので、
モンスーンの北上は西に行けば行くほど温暖化が進んでもあまり北に進めなくなる。
今でも梅雨前線は日本では楽々津軽海峡を越えられる(越えて消える)が
朝鮮半島では真夏でも北緯38度を越える事は出来ない。
ピョンヤンが太平洋高気圧に覆われるということは今でも滅多に無い。
札幌が太平洋高気圧に覆われる事は最近ではよくあることだが。
424日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:01:23
>>422
では、何でその1点だけがろくろが使われて、他の黒色研磨縄文土器は
ろくろが使われていないのかね?

そういうオーパーツは世界中どこにもあるが、そんなオーパーツなど
追っかけても意味が無いと思うがね。

先の支石墓から縄文人骨が1点出たというだけで渡来人が来ていないと
喚いているのと同じくらい馬鹿げている。

>>423
水田技術が遼東付近に伝わったのはBC20Cよりももっと前と言いたいのだがな。
それから朝鮮半島南部まで水田技術は広がっていったが、寒冷化に伴い
遼東や半島北部の稲作は寂れて消滅していっただけの事。
425日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:17:58
>>424
だからモノは現地製作のものが1つ出れば決定的な証拠なんだよ。
そこで明らかにその技術が使われていたわけだからね。
人骨の場合は婚姻や客死の場合もあるのでもう少し慎重に見る必要があるが。
それに、こちらの方が重要なのだが、
もう一度>>423を読んでくれ。赤道西風は中国大陸では地形上あまり北上できない。
だから温暖化のピークとされるBC40C頃であっても、
梅雨前線が6月中に遼東半島に達していたということは考えられない。
気温は高かったが、恐らく今の華北平原における気象と同じように、
7月になって突発的な雷雨が頻発するという雨季でしかなかっただろう。
これでは半夏生前から水田に常時水を張るのは非常に困難なんだよ。
この問題があるので、古代から常に、中国大陸における畑作と稲作の境界は
秦嶺山脈とその延長である淮水のあたりにずっと存在する。
東側の海岸線では少し北上できるが、それでも山東山塊を越える事は不可能。
426日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:50:23
おれは単におまえの脳内妄想だろがw

気温は高かったが、降水量は変わりませんってかw

んなもん変わるに決まっとろうがw

仮に降水量が変わらなくても灌漑すれば良いだけの事じゃないのw

あほらし。
427日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:11:26
>>426
自分の脳内ドグマに反する事は全部妄想扱いですか。
それはお目出度いねww
そう言うのを 幸 福 回 路 とハングル板あたりでは言うらしいよww


アジア大陸部での稲作畑作の境界は気温ではなくて降水量が決めるんだけどね。
稲作のほうが生産性が高いので、出来る限り稲作が行われ不可能な地域で畑作となる。
中国の華北平原にしても、インド北部のデリー周辺などは当然、
専ら畑作地域となるのは気温ではなく降水量と夏季の降水時期の問題からだ。
稲の生育期間中を通して継続して田に水を張れない地域では水田稲作は行われない。
NTSCがヒマラヤ山脈にぶつかって北上できないという気象学的事実は
数十年前から指摘されていることで、今のシミュレーションでも覆されていない。
それに灌漑?遼東半島の周りのどこに夏に常に水を引けるレベルの豊富な雨が降るような
山岳があって古河川を想定できるのかね?
428日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:13:26
そう言えば、紅山文化の頃の内蒙古南部は豊かな森林地帯だったそうだよ。
やがて訪れた寒冷化の波に押されて、豊かだった緑は消え、砂漠化してゆく。
追われた人々はやがて華北へと南下していったそうだよ。
429日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:17:22
>>427
困ったときの朝鮮人認定ねw

俺は朝鮮人も嫌いだが、嘘つきはそれ以上に嫌いでなw

428をしっかりとかみ締めて、今夜は枕を濡らしてくれたまえよ。

あはははははは
430日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:30:30
>>428
黄河流域の気候では潜在的には今でも森林は十分に成立し得るんだけどね。
森林というのは処女林であれば数百mmの年降水量があれば十分に成立する。
ただし脆弱で人為破壊の後の再生は非常に難しくなるわけだが。
オルドス台地の砂漠化は人為的なもので、
過放牧とみだりな農耕が招いたものなんだけどな。
黄河平原も現状でも森林は十分に成立する。
山東山塊の牛山が禿山となったのは縄文温暖期よりかなり後のことで、
これが人為によるものであることは孟子でも知っていた。
でも、森林がやっと成立する程度の降水量と降水時期では
水田を開くのは無理。
寒冷化による民族移動はこれまた別問題。
寒ければ畑作民でも遊牧民でも南下を開始することが多い。
431日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:41:17
>>429
おまえさ、ドグマを毎日信仰するのも結構だが、
遼東の狭い視野から離れて世界を見渡すことを薦めるよ。
「豊かな森林」が成立するところでは当然水田稲作が出来ると考えるなど
もはやギャグとしか言いようが無い。
得意げになって書いただろう>>429には
おまえさんの無知っぷりに腹を抱えて哂ってしまったよww
おまえさんに赤道西風なんて気象学用語は一万年勉強しても理解不能だろうから
俺はこの辺で落ちるよ。せいぜいドグマ信仰の道を突き進んでくれ。
「水田稲作は遼東経由、水田稲作は遼東経由、水田稲作は遼東経由…(三跪九叩)」
432日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:57:58
↑そうとう悔しいらしいw
433日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:22:31
山東半島東端の龍山時代の遺跡からコメが見つかっている事
から、この時期に遼東半島に山東半島経由で入っていた可能性があろう。

http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/higasiajia.html

龍山文化前期に当たる山東省揚家圏の稲籾(2,440+-130B.C)も水稲として
鑑定され、遼東半島大連市の大嘴子遺跡から出土した炭化米も水稲である
可能性が高い。

http://inoues.net/study/japonica3.html

紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面 する金浦(キムポ)
と一山(イルサン)で発見されました(注)。   

(注)韓炳三『NHK人間大学、韓国の古代文化』日本放送出版協会、1995

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdcbfma4oi4baqa4aba4imha4bfa4na4aba1a9&sid=1835396&mid=5344
434日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:48:17
九州北部に水田技術を伝えた場所はどこか?

それは九州北部に農工具を伝えた場所でもある。

九州北部に農工具を伝えた場所。

それは朝鮮半島南部。


>弥生時代を開いた最初の渡来技術は水田稲作農耕でした。
>水田稲作をはじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部
>とそっくりの農工具が出土します。稲作技術はもとより、住居の構造
>やムラのあり方にも彼らの影響が見えます。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html
435日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:10:18
すみません。過去スレの

【古代】弥生人(渡来人)のルーツ[その2]
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052142376/l50

を全文読みたいのですが、過去ログ倉庫にも入っていません。
もし控をお持ちの方がいましたら、どこかに上げて頂けないでしょうか。
お願いします。
436日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:12:59
江南江南言いまくって刷り込み洗脳しているだけの悪スレだった記憶が。
437日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:55:01
どーでも良いけど、
朝鮮半島南部に水田技術が無かったなら、何で朝鮮半島南部に水田稲作用の
農工具があったのかね?w
438日本@名無史さん:2006/02/07(火) 14:29:32
どうして稲作はすぐに広まったのですか?メリットとか…お願いします教えて下さい
439日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:40:34
稲作自体は6500年以上前から日本にあり、弥生時代の幕開けにはもう稲作は
日本中に広まっていたんだよ。

つまり弥生時代、最初から日本に稲作はあった。

そこに水田技術と農工具が広まっていっただけ。
440日本@名無史さん:2006/02/09(木) 20:21:59
441日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:08:43
 和歌の先駆者は出雲。
442日本@名無史さん:2006/02/11(土) 18:32:21
★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。
443日本@名無史さん:2006/02/11(土) 18:35:03
>>442
>日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から
>多くの越人(倭人)が移住しており



ほお〜、で、その越人から生命的存在の確証たる物的文化は
一体何が伝わってるというの?


444日本@名無史さん:2006/02/12(日) 15:37:09
>>442
何も答えられないところを見ると、その越人から生命的存在を伝える
確証となる物的文化は、なーんにも伝わってないようですねえw

長江以南の越地方から幽霊の団体さんでも来たんですかねえ?(爆
445日本@名無史さん:2006/02/12(日) 20:57:54
ところで大阪府立弥生文化研究所の所長が金関恕ってひとらしいけど、何で日本人が所長じゃないんだろう?
446日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:06:54
苗字に金が付くから朝鮮人ってかw

カナセキ ヒロシって読むんだよ。

447日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:44:45
おそらく江南から来たんだろ。









幽霊がなw
448あぼーん:あぼーん
あぼーん
449日本@名無史さん:2006/02/18(土) 16:19:18
平均的な朝鮮人の容貌は平均的な日本人の容貌よりやや扁平で、
目がやや小さく、必ず頬骨が出ていて輪郭がゴツゴツしている。

しかし、平均的な朝鮮人の容貌は日本の弥生顔ほど扁平ではなく、
弥生顔の目が吊り上がらない平行で切れ長の一重まぶたの細目である
のに対し、平均的な朝鮮人の目は吊り上っていてやや小さな事が多く、
弥生顔の頬骨は突出が弱くて輪郭が滑らかである事に対し、平均的な
朝鮮人の頬骨は突出していて輪郭がゴツゴツしてる。

総合的に見ると、平均的な朝鮮人の容貌は平均的な日本人よりも北方モンゴロイド
的ではあるが、日本の弥生顔よりは北方モンゴロイド的ではない。

その原因は朝鮮人が中央モンゴロイドと多分に混成して誕生した人種群で
あるためと考えられるが、それは朝鮮半島の土着集団が中央モンゴロイド
の方である事の裏付けとも言えよう。
450あぼーん:あぼーん
あぼーん
451日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:26:16
濊が朝鮮人の祖先なのは当たり前なんだが、濊は1〜2Cに半島に流入した
北方系だろ。

土着系ではないよ。

朝鮮半島の土着系は縄文人骨によく似た短い顔、彫りが浅くなく
隆起した鼻骨を持つ中央モンゴロイドの系統。
452日本@名無史さん:2006/02/18(土) 18:02:18
戦国時代の中国で最も普及した武器は『弩』(ど、おおゆみ)なのだが、
これもやっぱり弥生期の日本に伝わっていないな。


>弩は弓の一種で、銃床のような矢を発射する台を取り付けた機械仕掛けの引き金を持ち、
>現代のボーガンに似た武器である。弓と比較して、貫通力・矢の速度・飛距離で上回る。
>一方矢をつがえるのに時間がかかり、速射に難点がある。野戦に不向きで、守備用の武器
>と言える。中国では戦国時代に出現し、辺境防備の武器として普及した。日本では推古朝
>に高句麗から献上されたと「日本書紀」にあるのが文献での初出である。

http://www.mahoron.fks.ed.jp/nenpou/nenpou2001_35.htm
453日本@名無史さん:2006/02/19(日) 16:50:06
弩が中国に普及したのは魏王の文侯とその臣下の呉起の頃でBC5C末頃。

やはりBC4C末に九州北部に伝わるべきものが伝わっていない。
454日本@名無史さん:2006/02/20(月) 02:09:50
古代 新羅・任那・百済の住人の多くは和人だし 和人が支配していたので

北部九州ーーー>カラ半島南部だろう

朝鮮人なんて 北部の中国配下の少数民族ワイ族だから 南部にはまだいなかったよ。
455日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:07:06
>>454
全然スレ違い。

今度やったらクールに削除します。
456日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:52:32
朝鮮人の主張
「高句麗が滅亡した後、高句麗人が1800人くらい日本に移住した」

実は、高句麗人は一人も来てない。旧帯方郡出身の倭人だけが日本に来た。
いわゆる狛人(コマ人)と呼ばれた倭人たち。
高句麗人は日本民族の敵だったので、大和朝廷は、高句麗人の日本移住を
認めなかった。だから一人も来ていない。
これが正しい歴史。
  ↓↓
★★ 和漢同盟と百済建国 ★★

4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について。和漢同盟があってこその
百済建国である。
反高句麗で同盟していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。
百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目してほしい。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那だ。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていた。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那である。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていた。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してほしい。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてくる。
西暦313〜314年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされた。その時、コマ(帯方郡)の役人や
武将、民間人等が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できる。
百済とは、大和朝廷が日本領=任那を守るための防波堤として、帯方郡の漢人・倭人を援助して
計画的に建てた人工国家なのだ。人工国家という意味では満州国に似ているが。
457日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:54:05
帯方郡の西部地方に住んでいた漢人と倭人が難民となって南下し、ヤマトの支援の下で
百済を建国したのに対し、同じく帯方郡の東部に住んでいたワイ人たちは、
難民となってシラギに流入した後、数十年後にシラギを乗っ取ったと、そういう事だね。
458日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:01:03
大和朝廷は渡来人や帰化人のたまり場所みたいなもん。美化しすきだ。九州王朝があった時代は太宰府が都であって出雲や四国など諸国と一帯とした権力を持っていた。
459日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:46:21
460日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:55:38
瓦は約2800年前の中国で誕生し、周に入ってからそれまでの
茅葺きから瓦が一般的になった事が分かっているが、日本には西暦588年、
百済から仏教と共に伝来して飛鳥寺で初めて使用され、それ以来徐々に
浸透したが、これもやっぱり弥生期の日本に伝わっていないな。

やはり弥生期の九州北部に伝わってしかるべきものが中国から伝わっていない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
461日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:13:22


◎弥生土器の技術の伝播

 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における
青銅器時代とほぼ一致する。文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の
平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、手捏ねか輪積みによるもの
がほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されて
いたことがわかる。そしてこの無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の
母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html
462日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:29:38
法律も漢字の原型の篆書も伝わっていない。


Q:殷・周の時代、法律はすでに存在していたのですか。

A:慣習法としてはすでに存在しています。春秋時代の鄭の国の大臣・子産が、
初めての成文刑法を作りました。BC536年のことです。

Q:春秋・戦国時代のころは、どんな文字を使っていたのですか。

A:篆書、正確には小篆です。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~mikihigashi-hs/maekawa/02-05.htm
463あぼーん:あぼーん
あぼーん
464日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:45:26
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
465日本@名無史さん:2006/02/28(火) 00:25:29
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、 上薬のついた陶器、
>硬質陶器など


BC16C頃の華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり。
466日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:53:22
やっぱ江南から来たんだろ。









幽霊がなw
467日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:47:43
長江文明の最盛期はBC22世紀で、BC10世紀までで終わる。
 日本の水田がBC10世紀というのが正しいなら、黄河文明に追われて
その時代に日本に来たのではないか。
 長江文明の技術が日本に伝わって無いのも最盛期を過ぎて技術を失って
いたのでは無いだろうか。
468日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:31:17
BC22C頃の最盛期の長江文明には、屈家嶺文化や良渚文化などがあるが、
共にろくろを使用した黒陶文化が主な特徴。一般的には粗悪な灰陶を使っていた。

続く、龍山文化、二里頭文化も同様に黒陶文化で、二里頭文化では
青銅器文化が入ってくる。

それを経て、BC16C頃、殷に入り、灰釉陶と呼ばれる原始磁器が主流
になる。また白陶も作られていた。

上記の通り、弥生文化とは全く相容れないものとなっている。

弥生文化には満州から朝鮮にかけて広がっていた中国とは
全く別の文化が入ってきているのは誰もがご存知の通り。
469日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:21:48
>>468
BC16CとBC10Cでは600年も間がある。
 それだけあれば文明が衰退して技術も伝わらない場合も
あるのでは。ついでに距離から考えても良渚文化以外は関係
なさそうですね。
 それと長江文明が漁業稲作で黄河文明が畜産畑作と違うだけに
平和的共存でなく争いになったのではありませんかね。それならば
技術の衰退と日本への脱出の理由になると思いませんか。
470日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:30:09
>>469
全然思いませんが。

それと弥生期には文化が伝わらないどころか、
実に様々な文化がしっかりと伝わっておりますよ。

何を思い違いなされているのか。
471日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:31:26
当時の満州と朝鮮半島北部に稲作はあったんですか?
472日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:51:56
朝鮮半島には4000年ほど前から稲作がある事は分かっている。

京城の漢江から4000年ほど前の水稲系の稲籾の出土報告があるので
半島北部にもあったと思われる。

満州には無かっただろうが、遼東にはあっただろう。
遼東半島からやはり4000年ほど前の水稲系の稲籾の出土報告が
あるからである。
473日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:47:43
>>470
伝わっている文化とは具体的に何ですか?

>>472
 最近、水田跡はBC10Cで日本とほぼ同時期と聞きましたので、
ソースの方をお願いします。
474日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:08:25
>>473
弥生文化を自分の目でをどうぞ気が済むまでご確認下さい。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%96%87%E5%8C%96&ei=UTF-8&fr=top&x=wrt&meta=vc%3D

朝鮮の水田跡の研究の方は個人的にまだ進んでいないので、
正直まだ何とも言えないが、AMS法による炭素14年代測定法で
韓国南部(無文土器時代)で発掘された土器に付着していた
炭化物69点以上、炭化米2点、漆2点、建物柱7点などの測定結果で
韓国南部の無文土器の各時期も通説よりもはるかに古かったという
事なので、水田跡も通説より更に数百年は古くなるであろう。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm
475日本@名無史さん:2006/03/05(日) 05:28:14
>>474
無紋土器は通説より古いとあるが、水田跡については
何処に書いてありますか?
 貴方の説明文も炭化米だけでは陸稲の場合もある
のでこじ付けとしか言いようが無いですよ。
476日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:55:45
無文土器時代は通説ではBC10Cからと言われており、朝鮮の水田開始の時代と
同じである。

土器がより古いとなれば水田もより古いと考えるのが自然。

私がこじ付けなら、貴方の場合はただ難癖を付けたがる野次馬
なだけ。
477日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:59:04
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
478日本@名無史さん:2006/03/06(月) 09:12:48
>>476
勘違いがあったので謝罪します。しかし、BC10Cなのは変わらんようだが。

「無紋土器中期前半--夜臼T型U型 前10世紀-前9世紀」

 朝鮮半島の土器と日本の土器の並行関係だが、日本の水田の開始時期の
土器と同じなので日本の水田の開始は朝鮮と同じ時期と言うことになる。

>>477
日本の水田の始まりがBC5Cと言われていた頃の説ですな。
今はBC10Cと言われているから意味ありませんな。
479日本@名無史さん:2006/03/08(水) 19:24:39
>>478
ちゃんと読みたまえよ。
無紋土器時代の開始はBC13Cくらいだから、朝鮮半島の水田技術は
日本より数百年ほど先んじている。

それと、477で重要なのは、弥生時代の農耕具の主役であるクワが、
長江中・下流域にはないというところが問題なのだよ。

 4) 韓国南部の無文土器は各時期の年代を測定した。結果を世紀であらわすと次のとおりである。
   無文土器早期(突帯文)      前13〜前11世紀
   無文土器前期(孔列文)      前13〜前11世紀
   無文土器中期前半(先松菊里式)  前10〜前9世紀
   無文土器中期後半(松菊里式)   前 9〜前 8世紀

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
480日本@名無史さん:2006/03/11(土) 15:35:09

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全く伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?

灰陶、灰釉陶、紅陶、土とん墓、金文、青銅貨という言葉はもちろん、
最も肝心な支石墓という言葉さえも出てこないというお粗末さ。

稲作だけで妄想を膨らませ、更に妄想を重ね続けると、
果たして人間はここまでメクラになるものなんだろうか?

もはや妄想の狂人という言葉しか出てこない。
481日本@名無史さん:2006/03/12(日) 09:57:13
朝鮮半島のBC10世紀やBC13世紀の水田跡って結構初耳かも。
写真とかあります?
482日本@名無史さん:2006/03/12(日) 15:51:10
>>479
 日本のは水田跡がありますけど朝鮮半島の水田跡はネットでは
見つかりませんね。水田技術が日本より数百年先んじているなら
多くの水田遺跡があると思いますが教えてほしい物です。

 それと何故、無文土器が水田稲作の証拠になるのかを知りたい
ですね。ネットでは「農耕の始まり」と書いてありましたが何故
かまではありませんからね。

 鍬に関しては縄文時代に石器の鍬が見つかっていますね。何が
問題なのか知りたいところです。
483日本@名無史さん:2006/03/12(日) 15:58:15
木器の鍬が水田を耕す。
韓国の水田跡は最近の大規模調査によるので、未報告も多く日本語で紹介してるのはまだあまりない。
韓国のサイトを検索したらあるんじゃない?
ちなみに私は某所で無文土器前期の水田跡を現地で見ましたが。
484日本@名無史さん:2006/03/12(日) 16:16:43
>>483
その時代はどうやって特定されてましたか。
また、どんなに発見が最近でも、
現地では、発見当時の新聞記事やら研究機関の文献やら
巷の本屋で売られる研究本まで、
様々な資料があったと思うのですが、
入手されましたか。
485日本@名無史さん:2006/03/12(日) 16:55:11
水田を覆ってしまった層の年代と水田のアゼや水路に伴っている遺物からでしょう。
韓国文献をちゃんと調べたらありますが。
486日本@名無史さん:2006/03/12(日) 17:10:55
>>483
某所とは何処ですか。実際に見たのなら地名を言ってくださいよ。

>>485
 韓国の文献を教えてください。また韓国のネットにあるのなら
それも教えて教えてほしい。特に数百年先んじていた水田技術に
は興味がありますので、ぜひお願いします。
487日本@名無史さん:2006/03/12(日) 17:34:55
私が見たのは未報告と思うが、ウル山の玉山見遺跡(山と見で一字)の下層水田は無文土器前期と報告されてますよ。
繰り返しますが最近の調査で無文土器時代の水田検出例が増えてます。
488日本@名無史さん:2006/03/12(日) 18:17:30
>>487
 ウル山の遺跡の情報は確かにネットでも見つかりませんから、まあ
正式な発表があるまで無視するしかありませんね。それは、これが貴
方の捏造であることを否定できませんからね。それにしても「未報告」
なのに誰に「報告」されているのでしょうかね。

 それと無文土器時代の水田遺跡は時期が何時だったかが問題ですよ。
さらに「最近の調査」も発表されるまでは無視するしかありませんな。

 それにしても水田遺跡の話になりネットに無いと言ったとたん「最新の
調査」とやらが急に出てくるとは、実に誰かさんにとって都合のいい展開
でございますな。
489日本@名無史さん:2006/03/12(日) 18:39:19
>>486 ここじゃね? 他の検索は、옥현(玉峴)でググればあると思う。

玉峴遺跡 >ttp://japanese.ulsan.go.kr/history/ages/overview/index_2.php

慶南大学校博物館・密陽大学校博物館,1999,「蔚山無去洞玉峴[山見]遺跡水田址発掘調査」,嶺南考古学第24号,釜山,嶺南考古学会,168-174
>>ttp://www.tt.rim.or.jp/~shr/acv/a1999.html

490日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:03:57
491日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:36:55
弥生人の正体など簡単なのである。

弥生文化は全面的に当時の北方アジアの文化が朝鮮半島に南下して、
それまでに朝鮮半島に伝わっていた中国文化と融合して日本まで
伝わっている。

そこに当時主流だった中国文化などさらさら見られない。

弥生人の正体、それは朝鮮半島を突き抜けてきた北方アジア人に他ならない。
492日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:50:51
ネットにないものはこの世にないと思っている香具師ってまだいるんだなw
玉山見遺跡は実際に報告があるわけで。
それに未報告遺跡については、その成果や評価を一次調査者が報告する前に、勝手に出すのはふつうしないものなの。特に韓国の遺跡の情報は歴史経緯もあり、そういうことははばかられるわけ。
まあ上記のような報告例もあるから(多分今はもう少しあるが)、丹念に調べたら。ネットだけでなく韓国文献がありそうな考古学研究室がある大学図書館に問い合わせてみれば。
493日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:09:31
> ネットにないものはこの世にないと思っている香具師ってまだいるんだなw

手軽に確認できない≠この世にない
まず読解力を身につけような
494日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:13:23
>>488なんかネットに無いから本当にあるのかという言い方だけどなw
495日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:24:28
>>492
 公式発表前の情報をここでの議論に使うべきでは無いと
考えましたのです。ネットで無いなら公式発表も無かった
と判断したわけですよ。発表されていない見解も含めての
議論なぞ成り立つわけありませんからね。

>>489
 情報感謝します。「青銅器時代の水田跡」とありますけど
年代を知りたいところですね。朝鮮半島の青銅器は紀元前10
世紀からと言うから日本の水田遺跡と同じくらいになりますな。

>>491
 それは無いな。当時の朝鮮半島は支石墓文化だったが、日本には
九州北西部のみで埋められてるのは縄文人の特徴が強いときている。
 縄文人が朝鮮半島と交流していた証拠になっても朝鮮の文化を持
って渡来人が来たとはとても思えん。
496日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:35:07
まあ残念ながら近い将来、韓国の水田の古いのが続々と報告されて日本にも紹介されますから。水田跡が明らかになる前の石器や土器や木器による農耕文化の伝播の予測が実証されますから。
まあ今のうち井の中の蛙で頑張って下さい。
497日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:42:09
>>495
つまりは結局ネットだけが情報源ということがよく分かったよ。
498489:2006/03/12(日) 23:02:08
つーか、大陸の話してるのに日本語でググっても意味ないよね。
これからの史学は中国・韓国・英語が前提だと思うよ。

日本の考古学界なんて、世界の中ではマイノリティだし。
499日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:49:07
中国はともかく何故、英語?
最近の中国大陸の発掘調査報告は英語でされているのかい。
 
それと韓国のは日本で検証してからでないと使えんだろ。
歴史教科書がファンタジー小説の国だからな。
500日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:50:07
正直ぁゃιぃ。
歴史が政治であり国家をまとめる宗教である韓国で、
最近になって続々と、日本よりも古い水田跡が出土している訳ですか。
煽りでもなんでもなく、日本人なら
眉にちょっと唾をつけて見るべきだね。

韓国は本当に歴史を捏造する国だ。
冗談でもなんでもなく。
501日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:08:41
単に大規模調査がふえて、日本の調査を見習って(水田検出は慣れがいる)調査技術が向上しただけだが。
都合悪いと捏造だろ、ですか。そうですか。都合よすぎですねw
ただの嫌韓厨だったのですね。
502日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:17:33
>>501
正式報告があり世界が認めれば問題ないよ。
BS細胞捏造事件があったばかりだから、用心深くなっているだけさ。
503489:2006/03/13(月) 00:17:52
>>499
中国のは英語でどんどん流されてますよ。多分、香港・上海への配信の
為だと思いますが。中国科学アカデミーの方針なのかな?
比較的、日本の考古論文は英文になかなかされていないよね。

>>500
しかしこっちも、先史時代については、ゴッドハンドフジムラという
豪の者がいた事を忘れるな。日本考古学界の権威は失墜しているんだ
からな。フジムラ以外の旧石器遺跡もどれだけ教科書から消えたか思
い出すんだ。冗談でもなんでもなく。
504日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:40:43
>>503
 あのコッドハンドは今は無視されているが、例の教授には今だに
多数の信者がいるからな。韓国の名を高める行為は捏造でも許される
のかと疑惑を覚えざるを得ない。歴史教科書すら訂正できない韓国の
考古学者にどれだけの公正さを期待できるだろうかね。今は「韓国の
歴史」は9000年とか政治家が言っているし、それにあわせて、あれこ
れ色々な事をするのかと楽しみ・・いやいや心配ですなあ。

英語については失礼。でも中国の報告書なら中国語だけでも良いやん。
あたしゃあ高名なアメリカ人の中国考古学者がいるのかと思いましたよ。
 
505白馬青牛:2006/03/13(月) 00:50:26
中国でも機嫌をそこねることを言うと、日本の学者も入れて貰えん。
東アジアでは、日、中、韓と捏造、隠蔽は当然のことと考えた方が
良いかと。それぞれが自国のナショナリズムで工作するのであろう。
506日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:59:16
実際の資料や報告見る前からずいぶん色眼鏡だなw
507白馬青牛:2006/03/13(月) 01:21:36
つまり、なんじゃ。
http://arcpot.com/orc/sympo/20040630-r2-.htm
に「外国の研究者が中国で出てくる人骨のDNAがありますよね、
それを分析することは法律で禁じられているんですね。」とある
ようにタブーがある。近代政治思想を学術の世界に投影することは、
日、中、韓に共通すると考えた方が良い。
508日本@名無史さん:2006/03/13(月) 01:23:52
野島医院
http://www.nojimaiin.com/p04.html

野島医院に来る患者は、ムー人類かアトランティス人類です。 現人類は来ません。
 現人類は、まだ悪い事をあまりやっていないので、「心が悪いから病気になった」、
「心が悪いから幸せになれないこと」が理解出来ません。 現人類に対しては、
「心が悪いから病気になること」をどんなに長く教えても、どんなに議論しても無駄です。
 理解するには時期尚早なのです。 現人類でも新アトランティス人類、新ムー人類になっている人は、
理解できます。 
 2ちゃんねるの人に何を話しても理解できないのは当たり前です。 理解してみよう。
 事実かどうかを確かめてみようという気持ちには、生まれつきなれないのです、
カルマが小さいので、無理なのです。 宗教・精神世界・現代科学の知識にしか興味を示せないのです。 今の科学が万能と信じているから、科学で理解できないことが起きると困るのです。 
 心が綺麗になると、「水を変える力が出る」とか、「ガソリンの燃費が伸びる」とか、
「どんな病気でも治る」ことが信じられないのです。 
 私を信じる人が、病気が治り、幸せになっていることを見せつけない限り、
野島医院に来る勇気は出ないでしょう。 耳を傾けないでしょう。 
509日本@名無史さん:2006/03/14(火) 17:37:15
近代史はともかく、
古代史に日本で近代政治学が投影された例ってあるの?
510日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:01:43
実際に韓国にも古い水田がありそうだということになったら急にそれは怪しいとか捏造だとか全く都合いいな。
511日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:05:00
弥生人の正体など簡単なのである。

弥生文化は全面的に当時の北方アジアの文化が朝鮮半島に南下して、
それまでに朝鮮半島に伝わっていた中国文化と融合して日本まで
伝わっている。

しかし、そこに当時主流だった中国文化などさらさら見られない。

しかも朝鮮半島で出土する古代人骨は日本で出土する渡来人骨とは形質が
一致しない。

弥生人の正体、それは朝鮮半島を突き抜けてきた北方アジア人に他ならない。
512日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:15:17
コピペはやめれ
513日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:20:49
改訂してある。よく読めよ。
514日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:55:20
限られた人骨だけじゃな。
多くの文化要素は朝鮮半島系だから経由してなら分かるが、突き抜けてはないだろう。
515日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:56:38

◎朝鮮人の人種形成史



縄文人骨に似たプレ朝鮮人←ツンギーデBC10〜13C(一部日本へ)←シニーデBC3C〜AD4C
←別のツンギーデAD1C〜AD4C


516日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:01:39
短期で突破してきただけで朝鮮半島には定着していない。


◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度

西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
517日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:05:32
無意味な話。なぜなら朝鮮半島はその後も中国や北方から民族が移動し混血してるから、遺伝子が異なってくるのは当たり前。
518日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:12:18
異なっているのではない。

朝鮮半島にはほとんど無いのである。

BC13C頃から多数のツンギーデの種族が北方から朝鮮半島に
侵入していたのだろう。

弥生人は朝鮮半島に定着しなかったその中の一つに過ぎない。
519日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:15:31
弥生開始からかなり現在まで立つんだから、それくらいかわるだろ
朝鮮半島に全くないわけではなく、また西日本に多いとは言えないし
だいたい一つの遺伝子要素でそこまで言えないだろ
520日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:23:33
>朝鮮半島に全くないわけではなく、また西日本に多いとは言えない


西日本も明確にしてやると、

西日本は14%、朝鮮半島は1.4%だ。

なんとなんと10倍も違ってしまう。

残念だったな。
521日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:40:33
弥生水田の普及の話と朝鮮半島を突き抜けてきた北方アジア人との間には深い溝がある。
矛盾といってもいい。

弥生人が水田で育てるのは何だ?

稲だろ? 君は稲を植えた事はあるか?
一番育てるのに苦労するのは何時か知っているか?
水田を荒野に一から作るのにどうしたらいいか知ってるか?
水田を維持するのにどれだけの苦労があるか知ってるか?
水田をすぐに棄てて"突き抜ける"リスクがどれだけあるか知ってるか?

君はまず、"農業"そのものを舐めていないか?
北方アジア人だったら、今頃日本人の主食は蕎麦である。
522日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:04:46
君が北方アジア人で通過途中の朝鮮半島で水田技術を見てきて
九州北部に入ったら、君それを使わんのかね?

俺は使う。


523日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:07:39
見ただけじゃ水田技術は身につかんだろw
524日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:12:41
主食・生活習慣をそう簡単に変えられるのなら・・・522は明日から毎日、蕎麦だけね。
525日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:12:42
だから日本の初期の水田は悲惨なものだった事はあまりにも有名。

見ただけだったから。
526日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:15:31
板付の水田と井堰を見てから言えw
527日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:17:24
朝鮮半島で水田技術を学んでから北方アジア人が日本にそれを持っていった
という理屈なのだったら、水田技術は朝鮮起源を認める訳だと、そうおっし
ゃるのですな。

いままでの難癖は一体・・・
528日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:18:17
水田に頼ることはリスクが多く、簡単には導入しない。
ましてや長く経験せず渡来して新天地でそれをするとは思えない
529日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:27:29
俺は最初から水田技術は朝鮮半島からだと言っておるが。
別人と勘違いしているのではないか?

日本には少なくても6500年前から稲作はあったのだ。

朝鮮半島で水田を見てきて九州北部に渡ったら、
俺ならさーっそく使って縄文人に自慢してやるがw

ただ弥生土器や支石墓は朝鮮半島のものではなく、
北方アジア直伝のものだった可能性も残されている。
530日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:32:43



注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器
と類似していることである。学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在した
と見なしている。

http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm

531日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:41:55
縄文の稲作は古いのは怪しい。プラントオパールは混入コンタミがかなりあるとされる。
縄文後期以降は土器に種子痕が増加し、稲作があったが、それは陸稲とされる。
水田は灌漑が必要で見よう見まねでは無理。板付の早期水田は灌漑が完成し井堰も立派だ。他の小規模水田は立地により適応させたもの。
弥生土器に北アジアの土器と共通点はない。朝鮮半島南部の土器の影響が強い。形や技法から明らか。
また支石墓も朝鮮半島南部から西部の形式が類似していて、朝鮮半島北部やその北とは異なっている。
532日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:46:22
アムールの土器が類似するのは一部の文様だけです。
弥生早期から前期土器に影響があるのは朝鮮半島南部土器で、そのものも出土がある
533日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:52:38
日本語が分からんが、日本には6500年前から稲作はある。
もちろん陸稲だ。

縄文人は8000年ほど前に琉球進出を終えている。
その頃、南方から持ち帰った可能性が高い。
あるいはもとから野生稲があった可能性も残されている。

見よう見まねでは無理?

では朝鮮半島の最初の水田はどうやって作ったのかね?

見よう見まねじゃないのかね?w
534日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:58:52
無文土器自体、満州(中国東北部)やアムールなど、
北アジアの土器と共通点がありまくってますが何か?

 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における青銅器時代とほぼ一致する。
文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、
手捏ねか輪積みによるものがほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されていたことがわかる。そして
この無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html

注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器
と類似していることである。学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在した
と見なしている。

http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm
535日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:58:53
北方アジアの致命的な処は、稲の北限である。中国大陸において、BC4000頃の山東省
南部には湿地帯もあり、BC3500以降では良渚文化が江蘇省北部へも進出しているが、
ここでも稲の一般種は栽培されておらず、淮水南岸が当時の北限だった。
ここより北では、当時の一般種は生えはするが大きな実を持つことができないのであ
る。ロシア中央部〜北方アジアで生産できる穀類は寒冷に強い蕎麦であった。
気温もさることながら、日照時間が短いために冷害が多発し、総合として粟や黍のほ
うが収量が多かったのではないか。これは日本の三内丸山で栗園があった事でもわか
る。日本の東北は夏に曇天が多く日照量が少ない。東北での稲作開始の遅い理由だ。
寒冷に強い北方種の改良はもっと後代である。

気候的にインディカもジャポニカ稲作の中心、長江と類似なのは九州。ここなら
長江の一般種が栽培できる。しかし、BC4300の鬼界カルデラの大噴火と灰土がそ
れを阻んだ。半島の水田の起源は九州を迂回して、長江周辺からもたらされた籾
かもしれない。
BC2000頃に大陸東岸からおそらく洪水避難民の大移動が九州や半島へあったのだ
ろう。南からのボートピープルだ(中国始祖伝承での三苗でもあります)
この時あらゆる品種の籾が到来し、北方種の発見の確率が一気に高まった。水稲
技術も最新版が到来しただろう。

稲のプラントオパール痕跡はBC1000頃、熊本県東鍋田遺跡、福岡市四箇遺跡、ソ
ウル郊外欣岩里遺跡で確認されている。北方種の発見はBC2000〜1000頃だろう。
場所の特定は困難だと思うが気候的に九州西岸か半島南西岸に違いない。

536日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:07:18
>>535
おまえそうとう馬鹿だろ?

水田技術が北方アジアの訳がないに決まってるだろが。

弥生人が北方アジアから朝鮮半島を通過した時に既にそこに
あっただけなんだよ。

おまえらと話してると本当に頭悪くなるよ。
537日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:13:33
弥生土器の変遷は、半島から以降だけを評価するだけでもよい。
なぜなら、古朝鮮人に長江流域から中国人が稲作を伝えた事と
何の因果関係も必要ないからだ。

逆にそれは、朝鮮半島から日本への水稲稲作を教えた民族の移動
を証明する傍証になるのではないか?
少なくとも北方アジア人は籾をもっていない。交流は半島とあっ
て、日本とはまったく無くともなんら不思議はないのだから。
538日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:15:22
稲籾が山東半島でも遼東半島でも見つかってるのを何で隠すのかね?

ソウルの漢江下流の炭化米のC14検査はBC20Cだっただろ。


>BC2000頃に大陸東岸からおそらく洪水避難民の大移動が九州や半島へあったのだ
>ろう。南からのボートピープルだ(中国始祖伝承での三苗でもあります)


 何 だ い つ も の キ チ ガ イ か w w w w


539日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:21:54
>>536
そこにあっただけ?の水田技術を見よう見まねで持ってこれるほど水田稲作は甘くない。
朝鮮半島で結局ワンクッションおかないと無理だ。
ならば北アジア人が短期間で突き抜けたという言い方は危うい。
540日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:24:10
縄文の陸稲ってそもそも熱帯ジャポニカなんだけど?
長江周辺から来たものだが?
541日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:26:18
アムール土器が弥生土器と似ているというのは朝鮮半島の土器を間接的に通じてで、朝鮮の無文土器初期に北アジアと類似はあっても、その後に変化した無文土器中期が影響を与える弥生土器とは遠い存在。
542日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:27:49
陸稲も半島でもありそうだが。
とりあえずここでの水田稲作は朝鮮半島経由は間違いない。
543日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:30:31
稲籾は北方でも見つかるよ。もともと食糧だから。軍隊の兵糧としても運搬されていたし。
植えても実にはならないものを隠しても仕方ないじゃん。
544日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:33:36
>>533
縄文の古い稲資料は最近資料として危ないとされている。プラントオパールは特に危ない。
縄文中期末以降は大丈夫だが。4500年前以降だ。
朝鮮半島の稲作は山東や遼東半島からの若干の人の移動(集団規模は不明)を伴った伝播でしょうが。
545日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:45:26
>水田技術を見よう見まねで持ってこれるほど水田稲作は甘くない。

だから、どの水田も見よう見まねで造るんだよ馬鹿。

>>540
6500年以上前にか馬鹿。

>>541
北方アジアには赤峰紅陶文化がBC20〜30Cから広がってるんだ馬鹿。
朝鮮半島はBC13Cまで縄文土器の影響を受けた櫛目文土器文化だ馬鹿。

>>543
BC10C〜BC20C頃の稲籾が山東や遼東で見つかってるだろが馬鹿。
546521:2006/03/14(火) 23:45:44
>>542
いや、ところが最近のDNA研究という奴で、中国、半島、日本の水稲在来
品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これら
に小文字のaからhでの字を当てると、aからhまでの変形版がどこに位置
するかを調べると面白い事がわかるという。

中国: a b c d e f g h
半島: a c d e f g h
日本: a b

中国には8種類全部ある。半島はb以外全部ある。日本にはabしかない。
確かに水田稲作は朝鮮半島経由は間違いないだろう。しかし半島にないb型
が日本にないのは説明できない。
そこから、bの籾を持った中国人集団がダイレクトに日本にこれを持ち込ん
だという新しい稲の伝来ルートがあったというのである。疑惑の弥生人中
国説だ。

ただし半島在来品種からbが発見されれば(在来品種のカテゴリー付け)話は別だが・・・

ちなみに北方アジアンは、何ももってない。
547日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:52:01
>bの籾を持った中国人集団がダイレクトに日本にこれを持ち込ん
>だという新しい稲の伝来ルートがあったというのである。


6500年以上も前にか馬鹿w

当時、南シナ海に出た事が分かってるのは縄文人の方だ。
それも8000年以上前だ。

それに当時、日本に野生稲が無かったという証拠も無いんだよ。
548日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:52:12
見よう見まねだけで作ったら餓死しますね。
灌漑とかありますが分かってます?水路の掘削、井堰の構築、農事暦、ただ見まねでは無理だって。阿呆やなw

朝鮮半島の櫛目文土器は縄文土器と相互交流はありますが、単純に縄文土器の影響下とは言えないですね。
549日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:54:34
在来品種だけじゃまだ言えないな。
途中で淘汰されたかもしれないし
550日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:58:53
見よう見まねだけで、稲籾だけ片手に、誰からも指導受付ず本ももちろん読まず、水田と灌漑施設作って何年かその米だけを主食に生活できたら誉めてやるよ
551日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:59:47
>見よう見まねだけで作ったら餓死しますね。

もともと陸稲で水田していたのに何で餓死するんだアホw

1回、市ねよw


>縄文土器の影響下とは言えないですね


朝鮮半島で日本産の縄文土器や日本産の黒曜石がバンバン出るのにか
アホw
552日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:40:47
それは交易の結果だが。そのこと自体が縄文土器が櫛目文土器に一方的に影響下になっていたことは示さない。


陸稲は水田技術とは大違いですが。水田が未経験者も見よう見まねで簡単にできるという戯れ言は、
水田経営に関わる灌漑などの技術やその他の農事の大変さがわからない池沼の妄想ですか?
553日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:43:55
しかも水田稲作に関わる道具も伝播してますが、これらを作るのも見よう見まねですかね?
土器も製作技術レベルで伝播してますが、ちょっと朝鮮半島に出かけて見よう見まねですかw
554日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:48:30
陸稲は確かに中世頃まで行われていたが、それは品種改良で水稲北方種が
でてくると駆逐されていった。陸稲の生産効率と味で比較にならなかった
のである。
縄文人も陸稲だけで生計を立てていた訳でなく、栗や魚貝類等との雑食と
いうのが正しい。メインディッシュたりえなかった。
555日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:50:00
じゃあ、櫛目文土器はどこから伝わったのかね?w

日本には16000年以上も前から縄文土器があるがw

556日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:54:07
櫛目文土器はそれこそ北アジアとの関連があります。
なお縄文土器160000年前の測定結果は最近測定の誤りとの評価が強くなってます。120000年前にはなりますが。
557日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:55:32
朝鮮半島に出る縄文土器は前期以降が多く、櫛目文土器起源問題とは別問題です。
558日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:59:28
(2).弥生時代には水稲は来なかった。発掘されて、従来水田跡と
言われてきた部分は、実は大半が休耕田である。
(3).弥生時代の稲作の跡と言われている所から出土する稲は、
その一部が熱帯ジャポニカと言われる種類で、これは縄文時代の稲が
弥生時代になってもそのまま栽培されていた事を示しており、
古墳時代にもこの傾向は続き、江戸時代になっても熱帯ジャポニカ
の稲は出土する。
(4).結論として、弥生時代に外部からやってきた稲はあった
としても極めて少ないと考えられる。弥生時代=稲作という概念は
今後改める必要があろう。
http://inoues.net/study/japonica1.html
559日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:07:56
>>553
農耕具も無文土器も現物を日本に持ってくれば良いだけじゃないのw

>土器も製作技術レベルで伝播してますが

じゃあ何で最初からまともな無文土器を焼けないんだよw爆笑

>>556
ビビンバ国ではなw

>>557
ビビンバ国ではなw
560日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:22:39
無文土器そのものもありますが。
技術レベルは見よう見まねでは無理。
無文土器の技術や器形の影響と縄文晩期土器が融合しました。


あと縄文土器のこと本当はよく知らないだろ
561日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:34:17
>>560
そんなことだから朝鮮人は嫌われるんだよ。

おまえの決め付けがましい生意気な言動を見ていて、
俺も再度大嫌いになったが。

では何ですぐに無文土器と同じものが出来なかったのかね?

それこそ見よう見まねで作っていたからだろが馬鹿。
562日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:53:49
>朝鮮半島に出る縄文土器は前期以降が多く、櫛目文土器起源問題とは別問題です。

それがどうかしたか?
北方アジアで櫛目文土器は見られないが、
それ以外で朝鮮半島では日本産の縄文土器しか出てこないのに
櫛目文土器は一体何処から伝わったというのかね?

それともまたウリナラ起源か?w
563日本@名無史さん:2006/03/15(水) 02:02:07
ヒヒヒヒヒ
564日本@名無史さん:2006/03/15(水) 02:19:08
その無文土器ももとは北方アジアから朝鮮半島に伝わったものだしな。

全ておまえら朝鮮半島人が作ったものではないんだよ。

古代からウリナラ起源がなーんにも無い低級な分際のくせに、
日本人に対し生意気な口をたたくのが朝鮮人の爆笑どころw
565日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:05:24
中国の話をしているのになぜに朝鮮に誘導したいのかね?
566日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:45:53
>>561-564
私は日本人ですが何か
考古学的に冷静に判断してます
ただの嫌韓厨のようですね
決めつけが多くあるのはあなただが
朝鮮からの文化伝播が少ないことにしてしたいだけかと
水田が見よう見まねとか、激しく藁えます
土器も石器も木器も技法の細かい部分は見よう見まねでは真似できないのですが。
分かる?
大量渡来は疑問ですがある程度の集団渡来はあったはずですが。
567日本@名無史さん:2006/03/15(水) 12:16:05
どこから見ても朝鮮人だろがw
日本人ならこんな場面で嫌韓厨なんて言葉、出しませんよw

早く日本から出ていきなさい!
568日本@名無史さん:2006/03/15(水) 12:51:08
実際に嫌韓厨じゃんw
あなたみたいな恥知らずは嫌いです

考古学を真面目にやっている人は皆、朝鮮人かよw
569日本@名無史さん:2006/03/15(水) 13:36:18
だから日本人ならこんなところで嫌韓厨なんてクサイ言葉言わねーつーのw

早く日本から出てけ!

このビビンバ野郎がwwww
570日本@名無史さん:2006/03/15(水) 15:01:57
>>567-569

また、おまえか!

ハングル板に帰れ!


帰れ!
571日本@名無史さん:2006/03/15(水) 16:35:18
ハングル板?なんじゃほれ?

そんな臭い板、ここ1年以上開いた事もないがw

おまえが帰る板だろがw

いや、おまえが帰るのはビビンバランドの方だったなw爆笑
572日本@名無史さん:2006/03/15(水) 18:55:12
嫌韓厨という言葉自体が日本語だ
典型的な嫌韓厨だよ
都合が悪いと朝鮮人のせいとか、朝鮮人だとか決めつけるお前は、よほど自分に自信がないのだな

爆笑されているのは君だよ、坊やw

またビビンバとかキムチ臭いとか言うのかなw頭が貧困だねぇ、他に言葉がないのかね?
もう少しまともなこと言ったら
それともまともに反論できなくて、仕方ないから朝鮮人呼ばわりして誤魔化してるのかな?

あっごめん、図星だったみたいだねw
573日本@名無史さん:2006/03/15(水) 20:49:01
またスレが一つ死んだ・・・。
いこう、ここもまた腐海に沈む・・・。
574日本@名無史さん:2006/03/15(水) 21:45:39
>>572
こうまで逆上するってことはマジで超汚染人か?
575日本@名無史さん:2006/03/15(水) 21:55:55
>>572
学問をやる姿勢がなってないね。それでは解明できるものもできなくなるよ。井戸の中の蛙くん。
さて、厨は無視して進めようではないか。諸君。
576日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:01:29
段々低下してゆく日本史板の質、でもここ最近は特にひどい。
VIPから日本史板質問スレに変なのが何人か来たのがきっかけか?
577日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:07:41
578日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:14:17
井の中はどっちだ?
トホホw
579日本@名無史さん:2006/03/16(木) 00:02:59
朝鮮人やモンゴル人じゃないだろ。
現在の中国人でもないけど、むかしの華北からきたんだろう。
難民なんだから祖国の文化を保持せず日本側に同化されたんだろう。
>>1のあげている点は問題ではない。
580日本@名無史さん:2006/03/16(木) 01:22:20
難民でも大量に来たら故地の文化を再現するかと。
というか、そんな言い方ならどんな説でもありだ。
ユダヤ人が大量に来たが、難民だから文化は伝わっていない。そういうことだ。
581日本@名無史さん:2006/03/16(木) 21:26:44
負け犬の北アジアンの遠吠えは、無視して進めようではないか。
582日本@名無史さん:2006/03/16(木) 21:48:54
ていうかあまりに考古学に暗いデタラメなレスばかりだが
スレ自体議論が平行するばかり
不思議なのは、北アジア説も、華北説も、江南説も、
直接的渡来のみ強調し、隣の朝鮮半島からの人や渡来の影響は無視するか、過小評価するかで一致している。
江南や華北や北アジアにしても、間接影響ばかりで直接的な証拠はほとんどない。
そういうわずかな証拠や影響を評価するなら朝鮮半島からの文化伝播はより強調し評価すべきなのになぜか評価しない。弥生から古墳時代の朝鮮半島からの文物渡来も確実に多いのに関わらずだ。
朝鮮半島からの文化伝播を否定するばかりに例えば水田は知らないものでも見よう見まねですぐできるなどと言い強弁するう椰子も出る始末。
つまり上記の3説は嫌韓厨で一致している。
また3説お互いに矛盾する、人骨形質や遺伝子要素の都合いい情報だけを持ち出して論証と称すのも一致するかと。
現代人の各地遺伝子が、古来不変とする前提の矛盾に気づいてないし。
583日本@名無史さん:2006/03/17(金) 08:52:07
と、ビビンバちょーせんが怒り狂ってるが何か?w
584日本@名無史さん:2006/03/17(金) 08:57:04
言いたいことはそれだけかw
まともなこと言えよw
頭弱いな藻前
日本人として恥ずかしいな。
また朝鮮人とか決めつけるのかなw
ハイハイ
その時点で負け犬の遠吠えだがなw
585日本@名無史さん:2006/03/17(金) 14:19:43
>>584
やっぱ、おまえの黒目って内側に寄ってんの?w
586日本@名無史さん:2006/03/17(金) 15:07:45
おお、少しは違うボキャブラリーがあるみたいだなw
で、だから何?
私は縄文顔の日本人ですが何か?





具体的なもの何もないなw
やはりおぬしただの低脳嫌韓厨なわけだ。そういうことしか言えないと言うのはそういうことだw
言えば言うほどアホさらしだがなw
どうぞもっと言ったら。
ホレホレ頑張れやw
587日本@名無史さん:2006/03/17(金) 15:25:56
>>586
ウンコ入りビビンバってどうよ?

嘗糞とビビンバが一緒に楽しめるぞw

是非お試しあれw
588日本@名無史さん:2006/03/17(金) 15:30:51
やはりそういうことしか言えない低脳かw
もっといろいろ書いたら?アホなことw
589日本@名無史さん:2006/03/18(土) 16:43:36

土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html

こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。

http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html
590日本@名無史さん:2006/03/18(土) 16:47:08
最も重要な事は朝鮮半島の土着種族は縄文人によく似た種族であるという事。

ゆえに北方モンゴロイドの形質を持つ弥生人骨の持ち主ではありえないのである。

むろん中国でもないがな。
591日本@名無史さん:2006/03/18(土) 16:54:18
江南のチベット系の民族じゃなかった?非漢族の
近年のニュースで日本人との遺伝情報の共通点が多いって
やってた希ガス
592日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:21:39
>>591
言ってて虚しくならないか?
593日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:25:55
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
594日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:09:30
土井が浜の人骨は、山西省か遼東半島のものと似ている。
595日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:17:35
嫌韓流ネット右翼ばかりだな
596日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:41:00
>>594
北方アジア抜きのインチキ手抜き調査でなw
597日本@名無史さん:2006/03/21(火) 17:06:05
>朝鮮人やモンゴル人じゃないだろ。
>現在の中国人でもないけど、むかしの華北からきたんだろう。
>難民なんだから祖国の文化を保持せず日本側に同化されたんだろう。
>>1のあげている点は問題ではない。


灰釉陶が伝わるはずのところ、紅陶が伝わっている。
土トン墓が伝わるはずのところ、支石墓が伝わっている。
青銅器に金文が伝わるはずのところ、篆書一つ出てこない。
水田稲作に関する中国の言葉が伝わるはずのところ、全く伝わっていない。
瓦が伝わるはずのところ、伝わったのは6C。
中国主流の武器の弩が伝わるはずのところ、伝わったのは7C。

ええ加減にしろや。
598日本@名無史さん:2006/03/21(火) 17:45:10
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。

【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。

古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。

■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm


599日本@名無史さん:2006/03/24(金) 03:20:13
>>582
朝鮮半島からの影響だって考慮はされてるだろ。
ただ、それを半島の文化とよんでるのは政治的配慮だけど。
河北の文化が東に延びてるだけだからな。
600日本@名無史さん:2006/03/24(金) 10:33:27
で、その後に北方アジアの文化が重なっているだけ。
601日本@名無史さん:2006/03/24(金) 15:55:10
>朝鮮人やモンゴル人じゃないだろ。
>現在の中国人でもないけど、むかしの華北からきたんだろう。



おまえは既に




死んでいる。




602日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:35:47
>>601
何がどう死んでるんだよ。死んでるのはもまえの脳味噌だろうが。
603日本@名無史さん:2006/03/25(土) 17:57:30
↑チャンコロwwww
604日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:13:47
変革の担い手は縄文人か弥生人か

いったいこれらの事実をどのように考えたらいいのだろうか。この混乱した状況を受けて、現在、
弥生時代に起きた激しい変革がどのような人たちによって実現されたのか、その具体的な担い手に
ついて意見が大きく二つに分かれている。

一つは、土着の縄文系人々に帰す考えである。この地域に以前から住んでいた人々が、大陸の新文化
を選択的に受け入れ、自身が水稲耕作を柱とした弥生社会を作り上げていったとするもので、渡来人
の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、弥生開始期ではなく、
弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が急増する時期だというのである。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
605日本@名無史さん:2006/03/26(日) 14:27:46

で、チャンコロはいつまで弥生人のふりをしているつもりなのかな?ww


例えば、日本人には10パーセントと高率に見られるハプロタイプは、
朝鮮半島に行くと二、三パーセント、中国大陸の北のほうでは1パーセント
程度しかないんですが、モンゴル共和国に行くと5パーセントに跳ね上がる
んです。そうすると日本人に最も多いハプロタイプはモンゴルから来た
らしいと分かるわけですよ。

http://www.interq.or.jp/dog/macendo/book009.htm

中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
606日本@名無史さん:2006/03/26(日) 15:00:15
BC20Cの二里頭文化では、すでに原始磁器(灰釉陶)が焼かれ、
建築技術も壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない。


BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
607日本@名無史さん:2006/03/26(日) 15:38:43
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮民族の先祖は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。

608日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:16:14
にんげん進化考 第12回 春秋戦国時代に欧州人?(2002年6月23日・日本経済新聞 Sunday Nikkeiに掲載)
著者:斎藤成也(国立遺伝学研究所・教授)

 中国古代人のDNA研究からは、当時の人々のダイナミックな動きが浮かび上がった。
 東京大学の植田信太郎さんと中国科学院遺伝研究所の王瀝さんらが調べたのは春秋戦国時代、斉の都「臨シ(りんし)」
があった山東半島の付け根あたりの遺跡の人骨から得た細胞内小器官ミトコンドリアのDNA。私も研究にかかわった。
 研究グループは約二千五百年前の春秋戦国時代中期と、それより約五百年新しい前漢末期、現在、同地に住んでいる人
々のDNAを比較した。
 現在、臨シ跡に住む人々は日本や韓国など現代東アジアの集団と近かった。ユーラシア大陸の人類集団は欧州と中央ア
ジア、東アジアに大きく分かれ、DNAで類似性を見ると、中央アジアの集団が東アジアと欧州の集団との中間に位置する。
こうした全体状況を考えれば、この結果は、各集団がいる地理的な位置と合っており、予想通りだった。
 ところが古代人の方は意外な結果を示した。約二千年前、前漢末期に臨シにいた人々は、中央アジアの人類集団との間
で高い類似性を示した。約二千五百年前の春秋戦国時代の同地の人々と一番近かったのは、なんと欧州の人類集団だった。
 この結果は中国古代、現在とは遺伝的にかなり異なる人々があちこちに移り住んでいた可能性を示している。特に欧州な
ど西ユーラシアからの影響を考える必要がある。
 漢の高祖となった劉邦や項羽が争った約二千二百年前の秦末の戦乱では、おびただしい人命が失われた。こうしてできた
人口空白地帯に周辺の別系統の人間が入りこんだのかもしれない。
 一方、古代から現代に至るまで周辺の少数民族が中国文明を受け入れて社会的に漢民族化する現象は常に生じている。
こうした過程で遺伝子は混ざり合ってゆく。
 一部の遺伝子だけからの結果なので決定的なことは言えない。しかし、この結果が中国の他の地域や他の時代の集団で
も確かめられたなら、中国古代史を担った人々について、新解釈を迫ることになるだろう。
http://sayer.lab.nig.ac.jp/~saitou/japanese/human.html#12
609日本@名無史さん:2006/03/27(月) 19:30:49
最古の施釉陶は4200年前。


中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
610日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:43:37
>>608
つまり、弥生期の中国人が弥生人なら、日本人には欧州の人類集団のDNA
が無ければおかしいという事だな。
611日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:56:30
>>610
違うよ。半島人にはマサイ族やベルベル人やフン族が混じってても
おかしくないという論証だよ。
612日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:58:13
>>607
いつまでやってんだこの馬鹿は。
613日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:07:45
>>611
弥生人が半島人だと思ってないか?

弥生人骨は朝鮮半島の古代人骨とは全然異なる。

弥生期に当時の中国で主流になった文化は日本で全く見られない。

答えは簡単。

弥生人は特定の北方アジア人。
614日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:34:34
↑文化の問題じゃないだろうが。アホか。
615日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:06:23
そうだそうだ。
中国から来たんだろうが。













幽霊がなwwww
616日本@名無史さん:2006/03/29(水) 11:48:36
↑反論になってない上にギャグとしてもつまらんねw
617日本@名無史さん:2006/03/29(水) 12:13:42
そうだそうだ。
つまらんぞ。













中国説にはなwwwww
618がいやまん:2006/03/29(水) 16:15:22
>>608
NHKシルクロードでやる小河墓遺跡の白人ミイラ、これは楼蘭のものと似ていて
楼蘭のものがBC1800年頃らしい。また、日本人とチベット人とはハプロタイプが
同じなのだがアルタイ・モンゴルに少し残るだけで他にはないらしい。つまり、
日本人・チベット人は中央アジア出身らしい。ところがチベット人のハプロタイプが
日本人の祖形だという。アルタイ・モンゴリア高原の石板墓・箱型石棺墓は日本の
九州に後漢の時代に上陸する。これは本州裏日本では四隅突出型古墳となる。
更に、モンゴリアにはケレクスルという鹿柱を立てる墳墓・神殿形体があるが
これは九州伊都国前原のヒラバル遺跡、香椎宮から始まり、秋田・鹿島などの
神社形体に組み込まれる。箱型石棺簿は沖縄にも出現しているようだ。中央アジア
からこうした文化とハプロタイプがどのような経路をたどったかはなぞであるが、
オルドス・遼寧経由朝鮮半島南部に達したということは考えられる。しかし、徐福
伝説にあるコースというのは孔子もいかだによる航行が行われていたことを
確認しており、山東省、更には江蘇省方面から渤海湾を北上南下するコースも
考えなくてはならない。今後重要になるのは呉越方面と新疆ウイグル方面の
つながり、ではないかと思う。リンシというかツボというかあの辺からは目が離せない。
619がいやまん:2006/03/29(水) 16:30:31
話は変わるが、ロプノール小河墓のミイラは全く不可解だ。大体、ウクライナから
ウラルにかけての夏王朝時代は土を盛ったクルガンという古墳なのに、今回発掘の
ものはエジプトのミイラを思わせるように舟に入れている。また、牛の角はバルカン
半島方面の文化だ。インドヨーロッパ人ならトカラ人の先祖とすれば話は合うが、
するとアーリア族とは全く系統が違い言語的にはギリシャとかゲルマンとかに
近いということになる。今までに描かれたインドヨーロッパ人の分布とは全く違った
流れがあったことになる。更に気がかりなのは墓標が六角、八角であり、これは
の本各地で護符とされているのと同じ形だ。行司の軍パイの様な墓標もあった。
漏れは今回の発見をインドヨーロッパ文化の研究において革命的な発見と見て
いるが、欧米では未だ誰も騒いでいない。
620がいやまん:2006/03/29(水) 17:33:10
ケレクスル拝殿方式は善光寺で明確になっている。つまりお寺の前に回向柱というのを
立てる。香椎宮ではご神木、鹿島神宮ではなまず石(龍石、本来は鹿の頭だろう)が
相当。これをなでれば本堂のご本尊につながり長生きというか永遠の生命力を受ける
というもの。善光寺の回向柱には前立本尊とかかれているが、モンゴリア高原では
トナカイの角の生えたものを上部に彫刻した鹿柱である。鹿の角は年毎に生え変わり
農業牧畜・人間の健康を祈るのであろう。特に寒冷地で冬は氷が鹿の角の模様を
描いて成長する。自然界の神の具現と見たのであろう。前立本尊とは古代人の優秀な
表現能力であり、現代の医学用語にも通じる。
621がいやまん:2006/03/30(木) 17:51:41
日本人がチベットとかアルタイ方面から来たとすれば、稲作文化に対しては
色々と問題があったことになる。つまり、神話で言うスサノオのような暴れん坊
であるはずだ。しかし、山海経では燕が勃興する春秋末期であろうか、倭というのが
北方にいたことになっており、石板墓、箱式石棺墓の分布と一致している。
その頃スキタイ文化の影響を受けてモンゴロイド部族も激動の時代を迎えるが
倭も百済のように移動性になり南下を始めるのかもしれない。
622がいやまん:2006/03/30(木) 18:00:42
しかし、九州北部が対馬の対岸から稲作技術を導入したのはいわゆる
農耕技術の技術移転であり、民族移動的なものではなかったようであり、
朝鮮半島南部が華東から稲作技術を導入したのも同じような経緯で
あったのであろう。これに比べると後に古墳時代を招いた倭国乱、つまり
後漢末には石積み、土木、灌漑等大工事技術を持った集団の渡来があった
感じがする。秦の圧制を逃れたものというのは三韓の歴史にも良く出てくる。
623がいやまん:2006/03/30(木) 19:19:42
記紀が一環として国譲り、出雲との闘い、天孫の勝利を歌い上げる
ということは、裏を返せば倭国乱によって裏日本、東日本に渡来した
勢力の特に宗教的影響力を封じ込める必要があったことを意味して
いるのであろうか。いずれにしても渡来系を外様に押し込めるやり方
はその後徳川時代まで残っているようである気がする。封じ込められ
たのはユーラシアの天神とか、修験道のようなもので、卑弥呼の時代
等には未だ巾をきかしていたが、後に仏教が伝来し、その影響で
垢抜けをした神道がおこって排斥されることになるのだろう。
624がいやまん:2006/03/30(木) 19:50:44
さて、後漢の渡来のほかに、戦国末期に北九州、吉野ヶ里に青銅器文化を持って
渡来したものもあるようで、これがスサノオ時代、後漢のはオオクニヌシ時代と
でもしたほうがいいのかもしれない。ただ漏れとしては、神話に出てくる「カグツチ」
というのが、銅鐸を近畿・東海に広めた勢力を指す言葉ではないかと考えている。
スサノオはそれよりはやや遅い感じがし、特に、鉄との関連が強いようで、カグツチが
吉野ヶ里時代、スサノオが第一次高地性集落、オオクニヌシが最終高地性集落あた
りかなと考えたりする。
625がいやまん:2006/03/30(木) 20:06:01
脱線の繰り返しで悪いが、倭人伝で、倭人は呉の太白の子孫という言葉は
見逃せない言葉だと思う。つまり、中国北西部から朝鮮半島に向かった倭人
の他に華東に向かった流れがあったのではないかということ、春秋の初め
新疆ウイグルで鉄器の出土が多いのが、その後呉越に移る背景と関係が
rのではないかということである。
626がいやまん:2006/03/30(木) 22:15:47
ロプノールの二人の女性の女性のミイラが放映された。
一人は20才位で西欧系の美女であり、
バスケットには6倍体コムギのタネが入っており、灌漑による
パンコムギ農業が行われていた。中国では
おそらく最古とのこと。殷の頃とは思えない感じで、革靴を履
いていた。こう一人は老婆、これも分厚く
クリームを塗っていたが、胸のところに蘭陵王の面のような
のがあった。
(烏天狗のような黄金色のお面、蘭陵王とは、北斉(ほくせい)(550ころ)
の蘭陵王長恭は顔かたちが
美しかったので,戦場に向かうときは味方の士気をあげるために,
いつも勇壮な面をつけて兵を指揮,勝利を収めたという故事による)
牛の角もあり、スサノオがらみの↓話を思い出させる。
「天王の国は豊かでしたが、大王は頭に黄牛の面を戴き鋭い両角を
有した夜叉のような容貌のために、
王には后がありませんでした」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/4567/koyomi/saijiki06.html
柩は血塗られた何頭もの牛の全身毛皮でしっかりと巻かれていた。
これは、《日本書紀》本文にある,高皇産霊(たかみむすひ)尊が
ニニギを真床追衾
(まどこおうふすま)なるもので覆って天降らせたという記述を思い出させる。
これは天の羽衣を着て天上の身分となった王が羊膜に包まれた嬰児
として再誕し地上に
来臨することの模擬行為と考えられるとの解釈がある。
墓標は日本では護符に使用される6-8角形。
漏れは、スサノオを高句麗の大武神王レベルかなんて考えていたら、
とんでもない更に2000年も前、しかも、ユーラシア全域と関係するの
ではないかと考えさせられる。
627がいやまん:2006/03/32(土) 11:35:56
>>619
舟形葬といってもそこの抜けたボートを裏返しにし、上部をハッチビームのような
横角材で覆うという形式であるが、西欧で思想的に舟で死者を送るのはエジプト、
ギリシャ、ケルト、スカンジナビアが考えられる。特に殷の初めとするとエーゲ海で
海の民がクレタのミケーネ文明を破壊する。この一派がコーカサス北部からカスピ海
アラル海と東進した。言語的にはアナトリア語を話していたという風なことしか頭が回
らない。非常にややこしくなるが、印欧語というのはコーカサス南部から北上した
ケンタム語族が黒海北岸のサテム語族を突破してバルカンと欧州に入るということが
あったのかもしれない。
628日本@名無史さん:2006/03/32(土) 12:16:18
>朝鮮半島南部が華東から稲作技術を導入した


朝鮮半島に伝わっているクワの系譜が華中に無い。
華北経由で朝鮮半島に入っている。


>後漢末には石積み、土木、灌漑等大工事技術を持った集団の渡来


当時の中国の土木建築では当たり前だった瓦が伝わっていない。
629日本@名無史さん:2006/03/32(土) 12:31:01
>戦国末期に北九州、吉野ヶ里に青銅器文化を持って渡来したものもある


青銅器から篆書の金文が一切出てこないのと中国独特の青銅器の様式が
見られない事から日本に入ったのは北方アジア系統の青銅器文化であろう。


>中国北西部から朝鮮半島に向かった倭人の他に華東に向かった流れが
>あったのではないかということ、春秋の初め新疆ウイグルで鉄器の出土が
>多いのが、その後呉越に移る背景と関係がrのではないかということである。


中国北西部から朝鮮半島経由で日本にやって来れば灰陶や車輪や金文くらい
伝わる。それに当時の呉越(江南)は世界一の灰釉陶の生産地です。


>バスケットには6倍体コムギのタネが入っており、灌漑による
>パンコムギ農業が行われていた。


小麦が日本に入ってきたのはBC1C頃で楽浪郡時代以降である。
630がいやまん:2006/03/32(土) 15:02:55
中国の情報についてはDonald B. Wagnerも呉越に傾きつつも
(1)呉越(2)新疆ウイグル(3)沿海州
と、3説を紹介しているが↓
http://www.staff.hum.ku.dk/dbwagner/KoreanFe/KoreanFe.html
中国の現在発表するところの情報ではこうした「連勝複式」的な
アプローチが賢明だと思う。たとえば現在ヒッタイトからシリア
に移ってきている鉄の発祥地も、たとえば、ヒッタイトと同族の
トカラが中央ユーラシアの一角で最初に開発したなんてトンデモな
発見がないとも限らないのだ。
631日本@名無史さん:2006/03/32(土) 15:27:38
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
632日本@名無史さん:2006/03/32(土) 15:41:43
漢代における画期的な発明となったのが「鉛釉陶」の開発である。鉛釉は「鉛」を
媒熔剤とした低火度釉である。鉛釉のなかに微量の酸化銅を加え、酸化炎で焼成する
と、釉は美しい緑色に発色する。またこの鉛釉のなかに微量の酸化鉄を加え、同じく
酸化炎で焼成すると釉調は褐色に発色する。すなわち緑釉陶と褐釉陶である。この鉛
釉技法を基盤として、後の唐三彩や清時代の釉上彩(ゆうじょうさい)が生み出され
ていくのである。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
633日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:40:29
金属貨幣は全く伝わっていないが、弥生後期の遺跡でまれに中国製の貨幣が
出土している。おそらく楽浪遺物であろう。


御床松原貝塚は、遺物としては縄文前期から中期までの遺物があるが、中国
「新」の貨幣である「貨泉」が出土したことで注目を浴びた。貨泉は経2.25cmの
王莽(おうもう)銭である。新の王莽が紀元14年に発行したことがわかっている。
卑弥呼の時代より200年ほど前である。貨泉の出土地は、外国では、新疆ウィグル
(中国)、楽浪遺跡(北朝鮮)、金海貝塚(南朝鮮)、済州島があり、日本列島に
おいては、壱岐の「原の辻遺跡」、近畿の瓜破(大阪)、函石浜(京都)、
巨摩(東大阪)、亀井(八尾)、船橋(柏原)などが知られている。また御床松原
貝塚からは、貨泉より200年ほど前の前漢の「半両銭」も出土している。
なお、奴国の「仲島」(福岡県大野城市)からは、貨泉と同じ新の貨幣である「貨布」
がでている。朝鮮・中国との関わりがどのようなものであったのか興味は尽きない。

http://inoues.net/yamahonpen15.html
634日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:19:08
青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・銅鐸[どうたく]・
銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する輸入品が実用的であり、瀬戸内海に
分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている
銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が
次第に権威の象徴になっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本遺跡や佐賀県の安永田
遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘
されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
635日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:23:46
簒、鼎、爵、尊など、中国の青銅器の様式が日本には全く伝わっていない。


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。

http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
636がいやまん:2006/04/06(木) 11:53:14
>>630
コーカソイド系人種、これはアルタイのアファナシエフ文化とか、アンドロノフ文化
ではなく、イラン高原、アラル海方面を経由するもので、地中海経由トリポリエ・ククテニ
とか地中海西部に向かったものと近いのではないかと思われるが、これが、殷の時代の
中国にコムギを伝えたことには間違いはないのではなかろうか。他にも彩陶・犂などの
伝来、時代が変わってスキタイに入ると鉄が伝えられた可能性がある。スキタイ時代に
なるとイラン系のサカ族も参入し月氏が形成される。西方文化の影響を受けた周、秦
それに次第に騎馬民族と化して来る匈奴が衝突。そして後漢の混乱期に半島南部と
九州から山陰へと極めて多くの文化を含んだものが到来するのではないかと思う。
残念ながら、中国の考古学研究の遅れから多くは今後発掘されることになる。
漏れは、日本史というのは世界史の失った多くの事象が残された印画紙のようなもので
きわめて重要なものではないかと思っている。世界の博物館とでもいうべきか。
637がいやまん:2006/04/08(土) 14:49:19
>>627
舟形葬とは、はやとちり。ここに写真があるが、
「NHKスペシアルシルクロード」
http://www.nhk.or.jp/silkroad/archive/01/01.html
下の静止画サムネールをクリックして柩を出すとわかるが、確かにボート型
はしている。しかし、これはミイラの天蓋である。そして、伊勢神宮の鰹木と
棟持柱のようなものがついている。それから、帽子はオクサス文明のものに近い。
日本の烏帽子だ。ウクライナとルーマニアにまたがるティリピリヤ・ククテニ
(ロシアでいうトリポリエ文明)にも共通のものがあるようだ。
638日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:07:15

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
639日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:10:37

●印文土器 いんもんどき

アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
640日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:16:59

印文土器(いんもんどき)

【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。

http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
641日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:44:30
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
642日本@名無史さん:2006/04/08(土) 16:28:46
中国青銅器の器形がまーったく伝わっていないっ!




中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html


643日本@名無史さん:2006/04/08(土) 17:34:26
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。

http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
644日本@名無史さん:2006/04/08(土) 17:35:12
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。

http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
645日本@名無史さん:2006/04/08(土) 17:44:10
4000年以前のタイ周辺でも三足土器が出土するところから
南方に起源を求める事は不可能。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
646日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:40:33
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえ伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき

アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
647日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:25:31
青銅器に篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充塡される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
648日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:35:01
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
649日本@名無史さん:2006/04/18(火) 16:16:46
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
BC12〜13C頃には華中にも伝わっているだろう。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
650日本@名無史さん:2006/04/19(水) 14:06:24
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html


↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者w


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
651日本@名無史さん:2006/04/20(木) 13:07:42


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm
652日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:56:39
なんで朝鮮半島経由だと中国土器や金属器が入らないの?
653がいやまん:2006/04/21(金) 07:36:04
中国における轆轤と車輪の関係と土器・陶器製法の歴史を知りたいのですが。
654日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:42:02
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
655日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:51:28
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、
>硬質陶器など


BC16Cの華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり!
656日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:55:09
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
657日本@名無史さん:2006/04/23(日) 14:53:41
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
658日本@名無史さん:2006/04/23(日) 15:02:54
>青磁器の鐸がこのほど出土した
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった



青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけ所長(嘲笑


659日本@名無史さん:2006/04/24(月) 13:24:28

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全く伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?

灰陶、灰釉陶、紅陶、土とん墓、金文、青銅貨という言葉はもちろん、
最も肝心な支石墓という言葉さえも出てこないというお粗末さ。

稲作だけで妄想を膨らませ、更に妄想を重ね続けると、
果たして人間はここまでメクラになるものなんだろうか?

もはや妄想の狂人という言葉しか出てこない。
660日本@名無史さん:2006/04/24(月) 16:26:18
1年や2年で急速に広まる文化じゃないだろう、気が遠くなる程の時間と暇を
掛けて入って来たのだよ、勿論その過程において消えたものもあれば原型を
留めない程に形質をかえてしまった、と考えること自体は間違いでは出来ないだろう。

丸写しのコピーが日本にない!だから来ていない!とは正に単細胞という言葉しか出てこない。
661日本@名無史さん:2006/04/24(月) 16:29:03
訂正

間違いでは出来ないだろう。

間違いではないだろう
662日本@名無史さん:2006/04/24(月) 16:53:05
細かいツッコミ入れると満州も遼寧半島も今は中国でそ?モンゴルも中国だ
とか最近まで逝ってたでそ?w
663日本@名無史さん:2006/04/24(月) 16:54:45
それから、その支石墓、半島内でも北部と南部では、えっ!これが同じもの?
と思うほどに違って見える件についてどう思うよ?発祥は確か遼寧半島でそ?
664日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:52:16
約4200年前に既に施釉陶がある。



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm


665日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:57:03
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
666日本@名無史さん:2006/04/26(水) 17:54:51
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
667日本@名無史さん:2006/04/26(水) 17:57:09
紀元前五千年に天下統一すれば大丈夫だ
668日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:41:17
スレタイと関係ないネタばっかりだな。
669日本@名無史さん:2006/04/27(木) 19:57:48
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
670日本@名無史さん:2006/04/28(金) 12:16:56
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
671日本@名無史さん:2006/04/29(土) 14:56:41
BC45C、つまり約6500年前には既に灰陶がある。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm


672日本@名無史さん:2006/04/29(土) 19:34:04
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
673日本@名無史さん:2006/04/30(日) 22:44:26
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
674日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:21:09
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
675日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:21:51
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
676日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:18:52
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
677日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:20:08
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。

http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
678日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:23:39
伝わってない伝わってない、だから来なかった、ってアホ丸出しですね?w
679日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:47:26
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。





◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



680南京大虐殺の首謀者:2006/05/03(水) 13:46:43

南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。

あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。


http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
681sabmaru:2006/05/03(水) 23:48:12
日本@名無史さん 有り難うございます。 何回も引用してただいて光栄です。

なぜ中国主流文化が伝わってこないか? との疑問にお答えになると考える、
追補の資料をアップしました。ご覧下さい。
基本的には、中国主流文化とお考えの文化が、成立した時代と
長江文明の発生した時期に関して、まだまだ、理解されていないため
無用な議論がされているキライが見えます。
文化の移動・伝達には、その物理的運搬方法と受け入れる側の状況
の理解が必要です。少し考えてみてください。
WEBは同じ下記のアドレスでOKです。 追補の部分を見て、本文を見直して
頂けると幸です。

:2006/04/24(月) 13:24:28
http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全く伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?   この件です。

682sabmaru:2006/05/04(木) 14:31:22
失礼しました。引用されていたのは、PDFの方ででしたね。
ここからは、追補の方に行来にくいので、主の文章のアドレスをお知らせします。
http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/newpage3.html
こちらから、見てください。
683日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:04:25
おっ、ついに丸地くん本人の登場かw

しっかし、ぜーんぜん問題解決されてないじゃないの(苦笑

なんで中国灰陶の技術が伝わらずに、北方アジアの紅陶無文土器の技術
が伝わっているのかね?
なんで土トン墓が伝わらずに満鮮文化の支石墓が伝わっているのかね?
なんで中国青銅器の定番である篆書の金文が伝わっていないのかね?
なんで中国青銅器の饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの文様の一つさえ
伝わっていないのかね?
なんで鼎や鬲などの中国土器や中国青銅器を代表する三足器形さえ
伝わっていないのかね?

この辺りを明確に追補してみたまえよ(爆笑

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/choko.pdf
684日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:16:06
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
685日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:22:41
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
686日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:10:17
4000年以前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的なところから
南方に起源を求める事も不可能。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
687日本@名無史さん:2006/05/06(土) 15:08:54
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
BC12〜13C頃には華中まで伝わっているだろう。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
688日本@名無史さん:2006/05/06(土) 15:09:35
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html


↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者(嘲笑


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
689sabmaru:2006/05/07(日) 01:10:33

この辺りを明確に追補してみたまえよ(爆笑
中々辛辣な、コメントですね。

一つずつ、答えて行きましょう。
「なんで土トン墓が伝わらずに満鮮文化の支石墓が伝わっているのかね? 」
墓制は、その文化・民族にとって、重要な事柄と思いますので、これからスタートします。
弥生時代の墓の代表例は、「甕棺」です。「支石墓」もあります。

まず、支石墓を、「満鮮文化」と決めつけていますが、支石墓は、東夷・倭人と言われる倭人の墓制の一つです。
「支石墓はまさに東夷族たちが作った石墓です。」「秦始皇に最も凄惨にやられ、、、山東地域には支石墓がほとんど残っていないのです。」とのこと。

「甕棺」については、BC3000年長江中流域の石家河遺跡で遺されています。長江文明を担った倭人の墓制と考えられています。その墓制が、弥生時代の代表的な墓制ならば、弥生人は、長江文明を担った倭人が、移り住んだものと考えるのが妥当でしょう。

因みに、長江の古代人の骨の特徴は、中国北部の骨と異なっているそうです。そして、「渡来系弥生人
の特徴が丸ごとあてはまることがわかった。」そうです。中橋孝博著「日本人の起源」

この議論の中では、中国人を一まとめに書かれていることが多いようですが、ここ20年間で
明瞭になってきた、長江文明と黄河文明をはっきりと別けて論議すべきと思います。

漢民族・黄河文明に滅ぼされようとした長江文明の担い手・倭人が、日本に渡来した
と考えます。
690sabmaru:2006/05/07(日) 18:39:59
準次明確にしていきます。 次は器の技術に移ります。

「なんで中国灰陶の技術が伝わらずに、北方アジアの紅陶無文土器の技術 が伝わっているのかね? 」
この辺りを明確に追補してみたまえよ(爆笑

遣隋使や遣唐使の時代なら、日本・中国の最高の技術・文化が伝わらないと変だと言えます。
弥生人の渡来は、文化交流や商売のために、継続的に、技術を伝えた訳では無さそうです。
生死を賭けた戦いに敗れ、生き残るために渡来したり、一族を連れて、危険の多い土地への
移住のために渡来しています。
持参できるものは、その時の交通・運搬手段の中で限られてしまいます。
武器、籾・種、生産機材、家屋船舶建築機材などが優先された事でしょう。
実用的な土器製造技術ももって来たのですから、それで十分でしょう。
紅陶を「北方アジアの」と記されていますが、長江文明も紅陶を生産しています。
|大〓口文化|山東省 寧陽県|紅陶 灰陶黒陶 BC4500〜2500|
|屈家嶺文化|湖北省 京山県|黒陶 灰陶彩陶 粗い紅陶 BC2750〜2650|
|龍山 文化|山東省 歴城県|卵殻黒陶 灰陶紅陶 白陶 BC2400〜2000|
「歴史時代に入ってからもなお生産が引き継がれていった素焼きの土器〔紅陶〕」。
691日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:19:52
>>689
甕棺墓があたかも弥生時代に始まったかのように語っているけど、
甕棺墓は縄文文化。BC20C頃の日本には既に見られる縄文後期の文化ですよ。

甕棺墓の起源はBC50〜40C頃の黄河文明の仰韶文化であり、朝鮮半島でも
既に何十基も出土しているところから、華北から朝鮮半島経由で縄文後期
頃の日本に伝わったと見られている。

東南アジアやサーフィン文化でも紀元前数世紀頃から甕棺墓は見られるので、
黄河文明から甕棺墓文化が拡散する中でBC30C頃の華中の屈家嶺文化にも
伝わったのであろう。

支石墓の起源も満州南部から遼東半島あたりと明確であり、支石墓文化が
開花したのは満鮮であるから満鮮文化というのも事実である。
692日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:20:28
なお、形質人類学を全面的に否定するわけではないのだが、いつも必ずと
言って良いほど、北方アジアは抜き、北方アジアは無視なので、参考にも
なりません。

渡来人のルーツにおける形質人類学の偏った調査は研究者の錯誤と勘違いを
招くだけの諸悪の根源だと思っている次第です。
693日本@名無史さん:2006/05/07(日) 20:09:56
>>690
BC45C頃に灰陶が現れる。BC30C頃の中国は既に紅陶を中心とした文化は
ほとんど消滅し、灰陶や黒陶が中心の時代に入っている。

現代でも紅陶や灰陶の皿はあるが、中心は白磁である。
それと同じことである。

弥生時代初頭に日本に入ってきた紅陶無文土器文化は当時の中国には
見られず、北方アジア系の文化である事が明らかである。

一切持参しなくてもよろしい。持参するのは「脳みそ」だけで十分なのだから。

渡来人がやって来た当時、武器、生産機材、家屋船舶建築機材など、
中国から何も伝わっていないようだが、
ところで、なぜ当時の中国の武器が出土しないの?w
694日本@名無史さん:2006/05/07(日) 20:18:41



「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

695教育基本法改悪:2006/05/07(日) 20:28:07

伝統というと何でも良いものだと勘違いしている者が時々居るが、大きな間違いだ。
悪しき伝統、悪弊と言うものも有る。
天皇制は正にそれに当る。

天皇制が出来てからと言うもの、日本人は長い間、重税や徴用に苦しめられて来た。
自民党と公明党は教育基本法を改定して子供達に「伝統を重んずる国を愛する心」を押し付けようとしている。
伝統に固執した時、進歩は止まる。
インカやアステカの様になると言うことだ。
男尊女卑、封建的上下意識、天皇万歳、談合、天下り、癒着、町内会。
みんな伝統だ。
悪しき伝統、悪弊を断つ改革なくして、進歩は無い。
その進歩に必要な心を子供達から摘み取る積もりらしい。

国の行く末は子供達がどんな教育をされたかによって決まる。
間違った教育を受けた場合、もう、自力では元へ戻すことが出来なくなるのだ。
それが教育の恐ろしいところだ。
またバカをやって外国の軍隊に進駐してもらって正してもらうしかないだろう。
まぁそれまで、国民は散々苦しむだろうな。
696sabmaru:2006/05/07(日) 21:57:16
なんで中国青銅器の定番である篆書の金文が伝わっていないのかね?
なんで中国青銅器の饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの文様の一つさえ
伝わっていないのかね?
なんで鼎や鬲などの中国土器や中国青銅器を代表する三足器形さえ
伝わっていないのかね?

この辺りを明確に追補してみたまえよ(爆笑

中国の最先端の文明は全て、自動的に、伝わっていることを前提に、これらの論議がされているように考えられます。

前回記したように、
「生死を賭けた戦いに敗れ、生き残るために渡来したり」、
「一族を連れて、危険の多い土地への 移住のため」に渡来する場合、
帆船に積みこむものは何か? やはり、実践的な、武器、種籾、農耕機具、工具機材などが優先された事でしょう。
移住する民にとって、必ずしも必要の無いものは、例え高い文化のものでも、積み込まれることは無かったと考えます。
青銅器・鉄器、水田耕作器具・技術、布、家屋など、戦いと生活に必要なものは、伝わっています。
697日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:15:43
だから何にも積み込む必要なんかないんだっての(嘲笑

だからなんでその中国の青銅武器が一切出土しないんだよ?

農耕具も華中とは系譜が違う事ももう分かっているんだよ。

瓦も建築技術も何にも伝わってません。
698日本@名無史さん:2006/05/07(日) 22:42:51
それに、古代中国では一般的な青銅武器である銅刀、銅鉞、銅戟が
何で日本には伝わってないの?
699日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:05:42
断言してしまうアホってどこにでもいるんだなw
古代史だぞ、可能性を論じろよ
伝わってない!いーや伝わった!バァーカかwww
700日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:08:52
>>698ぜーんぶ溶けちゃったかもな、意外とありうるぞw
701日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:17:38
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
702日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:18:34
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、
>硬質陶器など



BC16Cの華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑



703日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:13:49
>>695
何を言っても通用しない箸にも棒にも掛からないバカが製造されるだろうね。
「伝統だ、天皇万歳、君が代、日の丸、男尊女卑、男はこうあるべき、女はこうあるべき」
行き着く先は民主主義の破壊だね。
伝統を突き詰めて行けば、日本には元々民主主義なんて無かったんだから、
民主主義が否定されるのは時間の問題だろう。
704日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:35:15
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
705日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:58:51
>>695 >>703
ネットウヨがなりすましでやってるように思った。
本当に天皇制廃止論者なら自分の意見を使って嫌がらせはしないだろう。
もしもネットウヨや天オタがやってるとしたら悪質だな。
706日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:19:52

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
707日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:20:42
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑




708日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:07:04
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
709日本@名無史さん:2006/05/12(金) 17:32:04
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
710日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:31:22
>>695
心が歪んだ右翼爺が頭の悪い若者を洗脳して右翼にする為に書いた洗脳文を
洗脳された右翼小僧が掲示板に張りまくり、それを見た自民党の国会議員が洗脳されて作ったのが
今回の教育基本法改正案だ。
洗脳される者は洗脳する者よりも知能が低い訳だが、自民党の国会議員は、心が歪んだ右翼爺よりも
知能が低いことが分かったw
711日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:46:08
負けた腹いせに、まーったくスレとは関係のない事で自作自演まで
しながら荒らしている弥生人中国説派というものの知能がいかに
低いかという事だけはギャラリーには伝わっているがなw
712日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:53:53
自白しているバカの
寝言って夢の中のことを話してるんだよ?
起きている人に哂われているよねw
夢の中で洗脳センノウって逝ってるのかしら?チョーウケル〜w
713日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:57:50
あいつ皆に嫌われえいる事すら全く気づいてないよな。
コテハンのry
714日本@名無史さん:2006/05/13(土) 16:07:07
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
715日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:10:16
>>695
学校では変な愛国心を押し付けるのではなく、
自由と民主主義、そして平和の尊さを教えるべきだ。

自由と民主主義、平和の為に結束するすばらしい国家を作ろう。


チョン天皇万歳じゃなくな。
716日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:44:11
>>710-713
>>715
スレタイとカンケーねえ事言って荒らしてんじゃねえよ。

弥生人について語れやこのヴォケ!

717日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:08:14
弥生人は全部韓国人です天皇も勿論韓国人です。
718日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:25:45
馬鹿は消えな。
719日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:26:27
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
720日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:27:16
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
721日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:27:48
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
722日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:29:31
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
723sabmaru:2006/05/14(日) 16:21:16
次の疑問への答え:
698 :日本@名無史さん :2006/05/07(日) 22:42:51
それに、古代中国では一般的な青銅武器である銅刀、銅鉞、銅戟が
何で日本には伝わってないの?

秦始皇帝の兵馬踊の陶器の武人の持つ武器は、青銅製ですが、その当時
既に、鉄の武器を使用しています。鉄製の武器が実戦で使われ、中国を
統一したとのこと。発掘された秦の武器庫は、鉄器が錆びて固まって出ている
とのこと。

秦の中国統一後に、船団の準備をして、出帆した徐福が、錆びない飾り物の
青銅の武器を積みこんだとは、考えられません。それが理由です。
724sabmaru:2006/05/14(日) 16:45:11
次の疑問への答え:
694 :日本@名無史さん :2006/05/07(日) 20:18:41
「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

ここでいう「中国大陸の言葉」とはどんな言葉でしょうか?
中国大陸の言葉は、漢語に集約されてきていますが、
稲作の開始された一万年以上前から考えると、多数の言語が
あり、使用されていたように推測します。
秦が蜀侵略し、統治した時の主要な事柄に、言語の統一があります。
秦の中国統一は、言語の集約化をもたらしたものと推定します。

残念ながら、稲作技術を作り上げた民族・長江文明を担った民は、
統一された側で、言語的には集約され、消失したと考えるのが
自然でしょう。

漢字・漢語が中国大陸の主要な言語になったのは、漢が統一してから
では無いでしょうか?
それは、稲作技術を伝えたと推測する徐福の出発以降の話です。
呉の時でも同じでしょう。
縄文時代にも一部、稲作の技術が伝わっていますが、更に前の時代で、
中国統一後の言語は、その時には伝わりません。 
725日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:05:01
>>723
>>724
0点

渡来人骨が出土し始めるのは弥生前期中頃以降。
つまり渡来人がやって来たのは弥生前期中頃である。

ゆえにBC7C前後のアジアに時空アクセスせねばならんの。

悪いが、まだ君は私と対等に語れるレヴェルではないよ。

もっと勉強してからやって来ておくれ。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
726日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:06:27
727日本のフィリピン化政策:2006/05/14(日) 17:24:46
近頃、アメリカは自衛隊との日米共同演習、共同訓練に力を入れている。
これは、教育基本法改悪、憲法改悪によって、民主主義が形骸化し、これから軍隊が政治に口を出し、
影響力を高めて行くことを既に予見して、軍隊をアメリカサイドに置いておく為の懐柔政策なのだ。
日本の政治家よりも、自衛隊員に重心を移しつつあることのあらわれである。
これから、自衛隊の幹部候補生のアメリカの士官学校への留学を積極的に召致して来るだろう。


第2の犬飼首相になるのは、安倍かな、麻生かな。いや、もっとずっと先の人だなw

728sabmaru:2006/05/14(日) 18:23:52
0点

もっと勉強してからやって来ておくれ。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf

このアドレスは、見れないのですが、見せたくないのですか?
729日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:11:12
>>725は多分消防か釣りだよ、相手するだけ時間の無駄。
あなたがバカ隔離促進委員会なら、余計なお世話かな?
730日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:36:24
>>728
ちゃんと見れますよ。

君の箱にpdfの閲覧ソフトが入ってないだけだと思われ。

↓ここでダウンロードしてご覧あれ。

http://www.adobe.com/jp/products/acrobat/readstep2.html
731日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:08:59
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
732日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:09:43
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
733日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:14:43
>>3

違い過ぎ!

当時の江南と華北の文化はまるで違います。
民族的にも混血がそれ程進んでいなかったはず。
江南は稲と鳥と太陽と蛇の世界です。
江南地域は、金属器の使用が華北に比べてはるかに遅れていました。
734日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:22:38
>>722
当時の三足鼎は北方の影響を受けて作られ始めましたが、
そうそう量の多いものではありません。
基本的に、三足鼎は北方由来のものです。
735日本@名無史さん:2006/05/15(月) 13:54:28
>>733-734

んで、そのソースは?

736日本@名無史さん:2006/05/16(火) 10:34:42
>>735

野生の勘だ。
737日本@名無史さん:2006/05/16(火) 12:07:13
話にならんな。
738日本@名無史さん:2006/05/16(火) 16:40:29
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
739日本@名無史さん:2006/05/16(火) 16:41:14
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
740日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:22:44
>>738
>>739

この辺りは、中国人の日本史研究家か考古学者に解説して欲しいところだな。

マジで、学者の意見が聞きたいね。
741日本@名無史さん:2006/05/17(水) 07:56:43
特殊な青銅器や土器を作るには、技術がいると思う。
日本へボートピープルとしてやってきた連中は、その手の職人がいなかったかのも知れない。
早い段階では、日本列島における鉱脈の存在を知らなかったか、当時それらを掌握できなかった可能性もある。
中国大陸南部から潮の流れに乗って日本へ漂着する事は容易いが、その逆は難しい。
日本海を出発してたどり着くのは、朝鮮半島や中国東北部になる。その地域との交流は活発だったと思われ、
半島や大陸北部から何の文化的影響も受けないで済む、という事は考えられない。
大陸や半島の古文書によると、半島南部には倭人が生活していたようだ。
そこを通して文化的影響を受けた可能性もあると思う。
ところで、基本的に半島南部の倭人も大陸のどこからか渡来したものと思われるが、そう考えると文化というものは、
地理的状況により微妙に変化するものらしい。

以上思い浮かんだ事を書いてみました。
半島南部の苗と倭とか呼ばれていた連中の文化はどうだったの?
742日本@名無史さん:2006/05/17(水) 08:09:41
「三国志」や「唐書」や「三国遺事」によれば、苗とか越とか倭とか呼ばれる連中が
半島南部にいて、住んでいた、もしくは国を作っていた事がわかる。
「後漢書」などでは、大陸からの移住者や亡命者が多かった事も触れられている。

確かに、やつらはどこから来て、日本に対してどんな影響を与えたのか?って話には
なりますぁね。
743日本@名無史さん:2006/05/17(水) 08:24:53
縄文時代の大陸では春秋戦国期だったから、戦乱を逃れた一般民衆が南下して日本に辿り着いたのでは?
744日本@名無史さん:2006/05/17(水) 08:25:17
佐藤成也は、造船技術が改良された後に、中国南部からの渡航者は重要な位置を役割を
果たしたみたいな事を言っているが、、

潮の流れに乗れば、昨今の漁民ですら、ボ〜ッと寝ているだけで長崎や鹿児島の海岸に
漂着してしまうのだ(だから一時期、漂着を装った密航者が話題になった。)

潮の流れとか無視してない?
745日本@名無史さん:2006/05/17(水) 08:29:58
>>743

有り得る。

半島にも逃れてきているのだし、その先の、あるいは海を渡った先の日本へ渡る
連中がいた可能性は大きい。

「会稽の東冶の東」や「太白の裔」や「自称大夫」が、大陸中国人の脳内妄想だと
言い切ってしまう事は、歴史を検証する上でかなーり危うい。
746日本@名無史さん:2006/05/17(水) 10:11:50
>>1
>これは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。

そもそも、その考え方からしておかしい。
当時、「朝鮮」も「満州」も存在していません。

華北と江南を「中国」とひと括りにしているようだが、中国東北部(旧満州)も、
現在の「中国」領だ。それを言うなら、江南も蛮夷の地ではなかったか(笑)?
747日本@名無史さん:2006/05/17(水) 12:10:32
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




748日本@名無史さん:2006/05/17(水) 12:23:43
そもそも一般的に青銅器など使われていたのであろうか?一部の王族や貴族のみの、ある儀式に使われていたのでは?広く一般に広まっていたのか疑問である。
749日本@名無史さん:2006/05/17(水) 13:40:34
>>741-746
>>748
苦しいなあオマエw
750日本@名無史さん:2006/05/17(水) 14:10:28
>>273

「稲」って苗語でも「イネ」じゃなかった?

>> 335

「論衡」にも倭人が出てくるけど、この「倭人」が何者なのかは証明できない。
751日本@名無史さん:2006/05/17(水) 14:28:54
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD

半島の住人は、縄文人も倭と呼ばっていたのだろうか?

あーでも、この文章はかなりバランスがいいね。

>隋唐以后、倭人の政権が「日本」を自称し始めた、という一文が書かれている。
それでもって、武則天が正式に「日本」と改めたと。余談でした。

訳すの面倒くさい。漢字で書いてあるから、全体の意味取れるでしょ。
752日本@名無史さん:2006/05/17(水) 14:49:32
>>750
長江文明を請負ったであろう、三苗の民、我らご先祖様はその一派カナ
論衡の倭人もおそらく大陸にいたであろう苗族の一派カナ
列島というよりは、後に江南地方で倭人/汗人と言われる人々の可能性の方が高いカナ。
753日本@名無史さん:2006/05/17(水) 17:01:36
劇団ひとりによる言い訳とこじ付けの嵐をお楽しみくださいw
754日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:42:18
>>751

中国語で何て書いてある?



誰でもいいから、アタマからケツまで日本語に訳せや。
755日本@名無史さん:2006/05/18(木) 08:40:12
>>753
お前が全文訳せ。
中国の古代史やるのに、中文文献も漢籍も読めねえ訳がねえだろう?
756日本@名無史さん:2006/05/18(木) 15:08:35
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
757日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:18:11
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
758日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:40:00
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
華中にもやや遅れて伝わっている。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
759日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:41:01
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html


↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者(嘲笑


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
760日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:06:38



「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm


761日本@名無史さん:2006/05/22(月) 12:07:23
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
762日本@名無史さん:2006/05/22(月) 12:08:51
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑





763日本@名無史さん:2006/05/23(火) 02:03:43
なにこの粘着コピペぶり。壊れたラジオのようだなw 
764日本@名無史さん:2006/05/23(火) 15:44:34
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
765日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:02:47
そもそも魏志倭人伝によれば、三世紀になっても漢字も牛馬の類も伝わっていなかったということだ。
ならば、紀元前に稲作が伝わっていたはずは無いではないか。
766日本@名無史さん:2006/05/24(水) 08:42:26
中国軍によるチベット侵略の記録映像
http://www.youtube.com/watch?v=v3TqvUZSPi8

チベット人を虐待する中国人(テラコワスwww
こんな国がオリンピックなんてありえないだろw


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767日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:18:56

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
768日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:20:26

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
769日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:21:39
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)




770日本@名無史さん:2006/05/25(木) 13:30:28
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
771日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:00:59
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
772脳弱:2006/05/26(金) 19:11:29
>>765
オーーーーイ。

弥生人は稲作を伝えてない?板にソース貼っておきましたよ。
6000〜7000年前の江南の稲と日本の縄文時代の稲の種類が一致したという
『中国・河娒渡遺跡展』の報告です。
それから、大陸と交流が濃厚でも土器以外のものが伝わったり、影響を
受けたりするケースが散見されるみたいだねぇ。
773日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:20:20
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
774日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:13:04
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
775日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:14:06
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
776日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:43:41
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
777日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:44:33
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
778日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:17:07
779日本@名無史さん:2006/05/30(火) 03:14:21
だからなんだよ。
それは根拠にならないって説明してるだろ。
壊れたテープレコーダーかよw
780日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:15:54
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
781日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:17:50
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
782日本@名無史さん:2006/05/31(水) 17:52:21
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
783日本@名無史さん:2006/05/31(水) 18:44:04
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
784日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:04:34
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




785日本@名無史さん:2006/06/02(金) 15:39:21
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
786日本@名無史さん:2006/06/03(土) 15:04:47
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
787日本@名無史さん:2006/06/04(日) 15:40:36
BC15〜BC11C頃の華中の長江流域はこの有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
788日本@名無史さん:2006/06/04(日) 15:58:29
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑



789日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:29:16
ポイントは遺伝子内染色体の形よ。日本は糸魚川構造線を境に東西遺伝子上全く別民族が同居してるわけ。俗に東が南方系遺伝子を有する縄文人、西が大陸北方系の遺伝子を有する弥生人。日本は南北が逆転して民族が住み分けてるの。
弥生人は朝鮮、満州、モンゴルに分布する言語学的に主語、述語、動詞のウラルアルタイ語族と親戚であって、南方タイあたりをルーツとする単音節言語文化のチョンコウとは、弥生人は全くちがうのよ。
790日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:37:22
>>789
正解。

弥生人は朝鮮半島を越えてきた北方アジア人。

卒業おめでとう。
791日本@名無史さん:2006/06/04(日) 18:07:53
ありがとう。(789)
792日本@名無史さん:2006/06/05(月) 12:32:22



「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm


793日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:35:54
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
794日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:37:01
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑




795日本@名無史さん:2006/06/07(水) 09:12:46
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
796日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:27:43
>>789
縄文人て「南方系」か?
797日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:33:06
>日本は糸魚川構造線を境に東西遺伝子

妄想妄想、東日本人は出雲京都人と同族。
概ね半島系。
五十猛、五十金令
798日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:36:31
秦(畑、畠)、金令、昆、伊達、藤
これらの天孫を示す苗字、地名は東日本
特に東北に集中しすぎ。

顔みればわかるけど
799日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:44:40
あはははははははははははぁ
800日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:45:42
ふと疑問に思ったので、どなたか手短に教えてください。

なぜ、長江流域から南方へ逃亡した少数民族は、文字も持たず、
瓦葺ではない家に住んでいたりするのですか?
輝かしい古代文明の発展に貢献した民族なら、もう少し過去の
文化を受け継いだりしてもよさそうなものだと思うのですが。
801日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:47:36
君がイメージする輝かしい古代文明って何だ?w
802日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:48:21
>>799
天孫
フジ、藤、金 令、 伊 達(館)
これだけ東日本に朝鮮の痕跡があるのに?
803日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:48:32
>>798
秦は漢人。
804日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:48:55
ぷぅあはははははははははははぁ
805日本@名無史さん:2006/06/07(水) 19:04:54
よかった、本当によかった
東日ノ本人の血が混じってなくて。
806日本@名無史さん:2006/06/07(水) 19:09:49
秦(畑、畠)、金令、昆、伊達、藤
これらの天孫を示す苗字、地名は東日本
特に東北に集中しすぎ。

顔みればわかるけど
807日本@名無史さん:2006/06/07(水) 19:10:51
あはははははははははははぁ
808日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:31:34
煽りではなくて、詳しい説明をお願いします。
古代長江流域で暮らし、その後南方へ逃れ、中国南部で少数民族となった人々の多くが、
文字を持たず、未だに瓦葺ではない家などに住んでいる理由を教えてください。
それから、彼らがどのように過去の文化を継承し、どのような文化を捨て去ったのかに
ついても具体的に教えてください。
また、かつてイギリスからアメリカへ渡った人々の中には、それまでの石造り、
レンガ造りの住宅から一変して、丸太小屋のような簡素な造りの住宅に住む事が
ありました。このような、環境による変化が全く無かったかどうかについても
教えてください。

その辺がきれいに解決されれば、弥生人は中国から「一人も」渡来しなかった
という説を支持します。
809日本@名無史さん:2006/06/08(木) 12:33:51

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
810日本@名無史さん:2006/06/08(木) 12:34:35
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)




811日本@名無史さん:2006/06/08(木) 12:56:22
>>808
見当はずれのコピペを延々貼り続ける単能生物に何を期待しているんだ?
812日本@名無史さん:2006/06/08(木) 14:38:37
>>809
リンク先が読めないんだけど。
813日本@名無史さん:2006/06/09(金) 15:17:07
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
814日本@名無史さん:2006/06/09(金) 16:12:37
>>811
同感。
815日本@名無史さん:2006/06/09(金) 16:21:03
>>811 同感。
816日本@名無史さん:2006/06/09(金) 21:05:18
文字も読めず字も書けない百姓や町人なんて江戸時代には沢山いましたよね? 二千年前の人達ならなおさら字なんかしらなくても生活に支障ないしね!
817日本@名無史さん:2006/06/09(金) 21:13:32
朝鮮人を日本に大量移住させる法案、今月中に成立予定
http://www14.atwiki.jp/akiramenai/pages/4.html
http://karutosouka1.hp.infoseek.co.jp/index.html

非常事態発生
818日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:12:40
鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。
鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて
学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。
つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。
いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると
合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。
また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。
絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと
考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。
819日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:13:17
形質は、その時代の環境によって大なり小なり変化するのだが、
人間においては混血でもない限り、その変化にも限界がある。

中国人は古代から現代まで一貫して中頭。
朝鮮人も三国志時代から短頭だったようだ。
日本人は短頭化が激しく、かなり変化しているが、
アイヌ人は古代から現代まで一貫して長頭だから、やはり日本人は環境からよりも、
混血によって形質が変化したと見て良いだろう。


特に20世紀以降の太平洋ベルト地帯に沿っての日本人の薄顔化・短頭化が著しいが、
これは朝鮮併合による在日朝鮮人の影響や、
朝鮮と同じで、薄顔地域・短頭地域である、濃尾平野から北九州の人々が、 鉄道などの交通機関の発達によって全国に拡散した影響だと考えられる。
820日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:00:20
大和民族は、高天原から降りてきた皇孫。
大陸や半島のドキュソ民族とは格が違うんだよ。
くだらないことうだうだ書いてるのは在日か?
821日本@名無史さん:2006/06/10(土) 13:09:39
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
822日本@名無史さん:2006/06/11(日) 17:38:06
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
823日本@名無史さん:2006/06/12(月) 10:25:20
>>819
こいつ別の板でぶった叩かれて、ここへ逃げ込んだっぽい。
反中親朝、コピペ乙!
824日本@名無史さん:2006/06/12(月) 12:41:18
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
825日本@名無史さん:2006/06/12(月) 12:42:43
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
826日本@名無史さん:2006/06/12(月) 13:34:27


すみません、808ですけど、いつになったら質問に答えてくれますか?
質問に答えてくれないようでしたら、答えられないという事で失礼したい
と思います。

827日本@名無史さん:2006/06/12(月) 15:54:05
>>826
何で当時主流だった中国文化のほとんどが今は消滅しているのか
私こそ教えてください。
828日本@名無史さん:2006/06/12(月) 16:52:31
バカだな、昨日今日中国文化が伝播して来たわけじゃねーだろ?
時代背景や環境変化などで、消えたり残ったり
後者でも異質なものに変化したりと
それくらい小学生でも理解できると思うが?w
829日本@名無史さん:2006/06/12(月) 16:56:56
チュンチュン逝ってる香具師は中国伝播を薄めるのに必死なチョン
幼稚園児でも見抜ける。
830日本@名無史さん:2006/06/12(月) 17:00:12
ハァ(゚д゚)馬鹿騒ぎすな!
831日本@名無史さん:2006/06/12(月) 17:01:53
図星
832日本@名無史さん:2006/06/12(月) 17:04:10
>>827
はキチガイ在日朝鮮コピペ房!w
833日本@名無史さん:2006/06/12(月) 19:02:44
>>827
>>808には「当時主流だった中国文化のほとんどが今は消滅している」とは書いてないようだが
なんでそんな質問をするんだ?
834日本@名無史さん:2006/06/13(火) 15:29:06
分からないか。

どんなに時代の中心にあった文化もその多くが消滅していたり、
別のものや新しいものに取って代わられて珍しいものに成り下がってしまう
という事だよ。

808はミャオの事なんだろうが、中国南部に入ったのは唐の時代と比較的
新しい時代であり、陶磁器などは既に紀元前とは違ってしまっているし、
青銅器などはほとんど消滅していた。

唐の時代の長江のミャオはまだ漢字や瓦や白磁を使っていたかもしれない。
紀元前までは灰陶も印紋陶も青銅器も鉄器も使っていただろう。

移動での文化の退化はあまり考えた事が無いが、ポリネシアに渡って
ラピタ土器などの土器文化を次第に失っていったラピタ人などがあるがね。

ミャオには祭祀のときに白い土器(白陶?)を吊るす文化が残っている。
835日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:29:06
>>834
808・826です。解説ありがとうございます。
>>827とは別の方ですよね?

827の方(コピペに熱心な人?)は恐らく、民族が移動すれば、その民族に特徴的な文化
や遺物が必ず伝わるはずだと考えているのだと思います。
私は無知ですから、ある民族が移動の長旅や、異民族との混血、原住の人々との融和の中
で、捨たり変容する文化が多いのではないかと考えました。渡来者が、少数であればある
ほど、その傾向は強いのではないかと思うのです。
例えば、雲南の少数民族がかつて漢字を使用していたとして、現在は固有の文字も持たず、
漢民族に比べれば識字率が低い状態にあると思います。瓦屋根にしても、そのまま継承
した訳ではないように思います。古代の逃亡者が識字率が高く裕福な階層ばかりではなく、
捕虜や奴隷などの身分の低い人達の方が多かったとするなら、どのような文化が伝わるの
だろう?とも考えました。そしてその伝播力は、混血や原住民との融和にも負けないほど
強いものなのだろうか?とも考えました。あくまで漠然と考えた事です。その点解らない
ので、質問させていただきました。

そのラピタ人ですが、台湾の原住民と近いとか、ラピタ土器は縄文式土器に近いとかい
う話を聞いたことがありますが、仮に台湾原住民と同根だとした場合、同時期の両地域
の住民は、土器や何かで全く同じような文化を持ち続けていたと思われますか?(これ
は、例えばの話ですが。)
836日本@名無史さん:2006/06/14(水) 21:55:57
>>835
たとえ人類が宇宙に移住する時代がやって来たとしても、
移住地でその集団特有の文化が全く伝わらないという事はないだろう。

瓦や文字に非常に拘っているように見えるが、それ以外にも伝えられる
文化はたくさんあるのだよ。

しかし、どんな文化も時間には勝てない。
時間はどんなに流行した最高の文化でもやがて風化させ、消滅させたり、
別のものに変えてしまう。

ログハウスに住む事になったピューリタンたちは結局レンガを捨てなかったし、
革靴やナイフやフォークもしっかり伝えている。

ただし、この先、数千年先までは伝わっていないかもしれない。
837日本@名無史さん:2006/06/14(水) 21:58:24
ミャオがまだ長江流域にいた唐の時代、既に印紋陶も三足土器も
青銅器もほとんど消滅していた。

唐の時代の白磁や鉄器ならミャオが中国南部に入って最初に定着した
場所で出土するかもしれない。

今の中国人がかつては灰陶・印紋陶の三足土器やおどろおどろした饕餮文
の入った三足青銅器を作っていたなんて全く想像もつかない。

しかし彼らの祖先は確かにそれらを作り、その文化に浴していたのである。

ミャオも同じである。長江流域でかつてはその文化に浴していたはずである。

今のミャオからは全く想像も出来ないが。
838日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:01:30
また、ラピタ土器は縄文土器ではなく、ベトナムあたり土器に似ていると
言われている。

幾何学的模様から華中から東南アジアに広がっていた印文土器の一種だろう。
無論、当初のラピタ土器は故郷の土器文化とほんとんど同じだっただろう。

BC15C頃に始まり1000年ほど続くが、晩期には無文土器となり、BC5C頃に
ラピタ土器は消滅し、ポリネシアの土器文化はついに幕を閉じた。
839日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:06:03
ピューリタンはそうでしょう。時代が新し過ぎます。
アイデンティティーのしっかりと確立した、目的に満ちた近い時代の人間が移住
したのです。かつてイギリス人だった人が、英語を捨て、より原始的なアメリカ
原住民の生活を全面的に受け入れる事はありえません。ただ、西部を開拓した人々
の多くはレンガを捨てログハウスに住みました。木材を住宅の原材料とする事が
最も手軽で最良の方法だったからです。というように、近代の人間も移住先の土地
事情で短期間にライフスタイルを変える事はできます。アメリカ人が木造家屋に
住む事は、現在に到る伝統の一つともなっています。こういう事はなかったので
しょうか?

私は必ずしも、江南起源説を支持していないんですが、可能性としてはありうると
思っています。半島や中国東北以外の場所から何も伝わっていないかというと、そう
言い切る自信がなくて、絹、住居、一部言語?、米、漆、神話などは可能性がある
と思います。縄文〜弥生期に移動の途中に少数の人々が他民族と混血したとすると、
そういう事もあるのかと思うのですが、無いでしょうか?

ところで、高床式住居の伝統はどこからやってきたと思いますか?(私は知りません。)
三内丸山以来の縄文の伝統でしょうか?それとも、渡来人技術者の影響でしょうか?
もし縄文(三内丸山など)以来の伝統だとすると、その縄文時代に高床式住居をもたら
したのは何者なんでしょうか?縄文時代と弥生時代とで、その工法に大きな差が有ると
すれば別系統の可能性が考えられますか?
840日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:57:44
なんか勘違いしているな。
ヨーロッパはむしろ木造建築の方が先である。オリエントから小アジアを
経てレンガと石造りがギリシアに伝わり、その後、ローマに伝わり、
ローマ帝国領が拡大するにつれて北上していったが、やはり民間の住居は
木造である。

ヨーロッパの建物は、ケルト、ゲルマン、スラブなどは木造建物に
ローマの技術が入り、アルプスやヨーロッパ北部や東部の針葉樹地帯では
ログハウスに住んでいた。

朝鮮半島は単に地理上、日本列島、中国、北方アジアの文化や人の経由地点
になっただけで、古代より独自の文化など何も無い虚無な場所である。

養蚕は弥生後期に朝鮮半島経由で入ってきている。
高床式住居と甕棺墓は縄文後期に入ってきている。

甕棺墓は朝鮮半島にも見られるから朝鮮半島経由だろう。
高床式住居もやはり朝鮮半島経由ではないか?

高床式は琉球経由も考えたが、琉球に南方の土器文化が無いところから
琉球経由も考えにくい。

高床式は北方アジアにも見られるところから樺太経由もありえるだろう。
841日本@名無史さん:2006/06/16(金) 11:01:44
>>840
北方の高床式は一般的ではない。
朝鮮半島にも”殆ど”伝わっていない。
もし伝わったとしたら、江南などからの移住者の影響も
考えられる。

最も発達したのは、江南や日本列島。
高温多湿でもなんでもない北方に、高床式は本来不必要。

広田遺跡の貝製の腕輪には、龍の文様が施されており、
大陸何部との繋がりを感じさせる。最も、単なる交易
によるものだろうが。

>高床式は北方アジアにも見られるところから樺太経由

寒くて仕方がないわ。
吉野ヶ里の田園地帯などに、高床式が密集している事に
すべきでしょう。
842日本@名無史さん:2006/06/16(金) 11:10:00
縄文後期の三内丸山などに、高度建築(高床式)が少しだけ見られるということと、
縄文時代に熱帯ジャポニカ(b遺伝子)が入ってきていたという事が微妙にリンク
してしまう事に気がつかない人がいたら、逆におかしい。
843日本@名無史さん:2006/06/16(金) 11:28:10
では何で農工具や水田技術や灰陶や甑や石包丁が伝わってないの?
844日本@名無史さん:2006/06/16(金) 13:03:44
>>840>>843
三内丸山と桜町では時期も離れていて工法も違う。
基本的に高床式は、縄文の伝統とまでは呼べないと思う。
一連の縄文高床式云々でなんかフィーバーしてるっぽいが、

あれは、正真正銘漏れが他スレで仕掛けたもんだ。
残念だったね。

むしろ、江南、半島南部(少数)、弥生時代の列島に多く見られる
ことに注目されたい。高句麗云々だと、時系列的に頓珍漢な事になる。
まさか、樺太経由とか言い出すとは、想定外だった(苦笑)
「倭は燕(遼東南部)に属す」「弁韓は苗の裔にて楽浪に在り」むしろ、
倭人の移動経路を示しているようで、非常に面白いけどね。

>>843
縄文だからね。
そういったことは、実は大して重要だとは思わない。
そもそも、江南から直接渡来してきたと思っている時点で
珍妙。
845日本@名無史さん:2006/06/16(金) 14:48:30
>>844
>「弁韓は苗の裔にて楽浪に在り」


で、これのソースは?


846日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:25:26
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
847日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:26:20
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
848日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:18:38
渡航の難しい東シナ海航路を土器もって勇敢にも渡り、大量移住したと
考えている香具師がいたら、よほどの天然だ。
普通は、山東半島・遼東半島などを目指し、しばらく定住した後に半島南部か
その先を目指すだろ。
あの遣唐使船も、季節風に煽られ大難破を繰り返した事をお忘れなく。
849日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:29:39
そもそも、大陸移動中に勇猛果敢なツングースなどと接触しても、
後生大事に三足土器だけを、『我が家の伝統』として伝え続けたと
としたら、かなり精神的に強くなくてはならない。
江南から山東半島、遼東半島、韓半島南端は、交易が容易いコース
であって、日本の遣唐使船はこのコースを選ばずに、沈没してしま
ったらしい。韓半島南端に少ないながらも高床式が集中していると
いう事は、何らかの文化的接触があったのではないかと考える。
日本の支石墓の直接のルーツである碁盤式も、半島南端に集中して
いる。

少なくとも、韓半島南端や離島は、フィッシャーマンズワールドで
あり、熟練した船乗りが、渡航しやすいにも拘らず、中国大陸沿岸
の都市と全く交流しなかったという事は考えにくい。
850日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:34:22
>>845
『三国遺事』かな?
中国の古文書にも似たような記述があったと思う。
半島南端や離島は、遊牧系の扶余などとはそもそも、
文化圏が違ったのだろう。
851日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:09:23
中国の「論衡」には「倭は燕に属す」と書いてあって、
周代には、倭人が渤海周辺にまで進出していた事が
分かる。遼東に勢力圏を持っていたかどうかは別にして、
渤海を経由して、朝貢していた可能性は高い。
東北の強国燕にお願いして、朝貢ルートとして認めて
もらっていた可能性が高いと思う。
852日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:09:55
>>848-851
いつもの脳内マスターベーション乙枯れw

ここは明確な証拠とソースがあるものしか通用しないスレ。
信じて欲しければ、何らかの証拠やソースを持ってきなさい。
853日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:10:47
854日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:31:42
>>852




高床式住居が、北方起源で樺太を経由したというような珍説を開陳する
ど阿呆が何をゆうても信憑性が無いがな。





855日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:37:05
>ここは明確な証拠とソースがあるものしか通用しないスレ。
>信じて欲しければ、何らかの証拠やソースを持ってきなさい。



片腹痛し。
856日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:38:01
シベリアには確実に高床式建築があるがな。


ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、デコイ、
高床式の狩猟用倉庫・鼠返し、季節物衣料の取出し)、トナカイ飼育(革なめし)、
舟(樹皮舟、仕上げ、火おこし式錐で穴開け、樹皮紐で板を接続)、橇(運搬用橇)、
揺り篭(小型吊式、模様)(カレリアの大型床置式と比較)、墓(樹上揺り篭)
(カレリアのロシア正教墓と比較)、狩猟(弓矢)、漁猟(梁)、料理(屋外竃、
平型パン焼き)(カレリアと比較)、衣装(女性はスカーフで顔を隠す、模様)、
祭(熊送り、飾りたてた熊の頭、面、歌、踊、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
857日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:38:23



半島南端との繋がりの深さなどは、それを説明するまでもないんだが。
碁盤式、高床式、土器、馬具、渤海への安全な航海路、中国・半島の
古文書の記述…



858日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:40:09

 シベリア東部から南東部にかけてはDw(冷帯冬季少雨)気候となり北半球の
寒極となっています。そのためこの地域では永久凍土層が分布し,住居の多くは
暖房の熱による土壌の融解を避けるために高床式になっています。

http://www.chirikids.com/kogi/data/2/centerkogi03019.html

(注)最近の説によれば日本の高床式は北方由来説もあるらしい。
布野修司「住まいの夢と夢の住まい」

http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page136.html
859日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:41:41
北方高床式の正確な出現年代と、中国南部や日本列島などとの工法の違いを
明確に説明してミナ。


こちとら、縄文時代だよ。
860日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:42:37





ヤクーツクの建物はみな,高床式です。永久凍土に柱を立てるので,
建物からの伝導熱で凍土が溶けて不等沈下するのを防ぐためです

http://www.eng.osaka-u.ac.jp/gar/cs/garcs002/research/theme1/photo/album1.html




861日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:47:14
>>859
では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?
862日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:47:24
>>858
新潟などの家は、高床式じゃないけど、土台がすごく高くなってるんだよ。
それは「高床」というよりも「雪よけ」の意味合いなの。

北方の高床式は「雪よけ」(つまり、雪が降るとドアが開かなくなってしまう。)
や「雪止め水よけ」の意味合いが強いのです。ところが、吉野ヶ里などは九州の遺跡で、
非常に温暖。
田園地帯にねずみ返しを持つ切妻式の倉庫や住居が見られる事がポイントです。
863日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:53:30
>>862
シベリアのハントィ族の高床式倉庫は鼠返し付きだがな。


ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、デコイ、
高床式の狩猟用倉庫・鼠返し、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
864日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:58:01
>>860
北欧の原住民の家などはそうですが、基本的に日本の高床式は、
平安貴族の寝殿造りも含めて「風通しの良さ」に焦点を当てて
いる。


>>861
じゃぁ、半島南端との遺物の共通性と、文献などから判る中国南部
との文化的共通性についてはどのように説明するのだろう?




弥生人は、永久凍土に家を建ててたんだから、当然稲作なんてやらなかったんだ
ろうな?


弥生時代に入って、プロ並の腕前を発揮して、素晴らしい潅漑設備を整えたんだ
から、実に頭の良いことだと思う。
865日本@名無史さん:2006/06/17(土) 14:58:53
>>863

今の事を聞いてるんじゃなくて、考古学的な出現年代を聞いているんじゃ、
白痴。
866日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:08:35
>>864
記憶力が無いのか、それともとぼけているのか。
弥生人が来たときには水田は既にあった事はここにもう何度も何度も
出てるだろ。

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1119965238/

>>865
では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?
867日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:13:17
では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?

では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?

では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?

では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?

では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?

では何で高床式と同時に水田技術や農工具や甑や石包丁や灰陶が
伝わってないのかね?
868日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:21:11
>>866
縄文時代は、粗放式の熱帯ジャポニカが威力を発揮していた。

灌漑設備の整った新式の水田が、劇的に広まったのは弥生時代。

永久凍土に家をぶっ建てるってのは、はっきり言って、物凄い建築技術
しかも、当時のシベリアでそんな事するなんて、よっぽど「定住」する
気が満々だったんだろうね!!
>土器

五月蝿いなぁ(怒)
思考停止。
江南からの東シナ海航路を危険極まりないから、直行で来たとしても少数
だし、大部分は、山東や遼東や半島を経由するしかないでしょう。



そもそも『三国志』なんかの、倭人の居住区が半島南端にもあるってのは
どう説明するのさ?
869日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:34:39
>>868
水田技術も農工具も甑も石包丁も灰陶も、日本に高床式が伝わった
縄文中〜後期頃の江南では一般的な文化なんだがな。
870日本@名無史さん:2006/06/17(土) 15:57:15
なんか、堂々巡りだね。
しかも、くだらん。
871日本@名無史さん:2006/06/17(土) 16:13:27
文献全く読めない時点でアウトだな。
872日本@名無史さん:2006/06/17(土) 16:24:44
>>869
三足型土器も一般的だろが藁

なーんにも伝わってないね江南から。

それはただ単に江南なんかから来ていないから藁藁
873日本@名無史さん:2006/06/17(土) 16:49:52
はっきり言って、>>872、もう駄目でしょ。

まず、高床北方起源。出現年代から工法の違いまで上手く説明できない。
半島南端との、縄文〜弥生期の文化的近さや、「倭人」が住んでいた事
について全く説明ができない。
『論衡』には「倭は燕に属」していたり、薬草を献じていた事が書いて
あって、周代には倭人の一派が朝貢していた事などが解るが、その事は、
完全に無視。
ラブラブ土器にしても、移動の仕方や混血の仕方を考えれば、さもあ
りなんなのに、思考停止。
列島―半島―渤海航路の重要性も完全無視。

北アジア人も当然来てるけど、だけでなないだろうよ、たぶん。
(漏れは、実際には、江南人には興味がないのだ…)
874日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:02:58
>>873





日本に高床式が伝わった縄文中〜後期頃に江南の一般的な文化だった
水田技術も農工具も甑も石包丁も灰陶も三足土器もなーんも伝わっていない
事を説明できないアホが何を言っても信憑性が無いだろ(禿しく笑





875日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:06:56
>「弁韓は苗の裔にて楽浪に在り」



結局、これもなーんのテキストも出てきやしない。

それは単にこいつの捏造だからプ



876日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:11:35
>まず、高床北方起源。出現年代から工法の違いまで上手く説明できない。


俺は樺太経由の可能性もあると言っただけだがな。

朝鮮半島経由が最も有力だと言ったはずだがな。


877日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:41:11
>半島南端との、縄文〜弥生期の文化的近さや、「倭人」が住んでいた事
>について全く説明ができない。


弥生人中国説が成立しないとそれが全く説明ができないの?
まーったく意味不明。


>周代には倭人の一派が朝貢していた事などが解る


では、そのソースを出してもらおうか?



878日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:48:43
>>875
弁韓じゃなくて「卞韓」になっているんだろう。
「弁」韓は、間違いだ。

正確には「卞韓は苗の裔にて、楽浪の地に在り」が正しい。

『三国遺事』(第一巻、卞韓、百済の条」)に書いてある。

より正確に書くと「新旧唐書に云う、卞韓は苗の裔にて、楽浪の地に在り」
となる。
879日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:56:29
どこかで同じ誤字脱字をしていたのがいたが、このフレーズに関しては、
他スレのどこかにあった。

「卞韓は〜」のフレーズだけを、一スレに3〜4回繰り返しでコピー
してあった。
880日本@名無史さん:2006/06/17(土) 17:59:09
>ラブラブ土器にしても、移動の仕方や混血の仕方を考えれば、さもあ
>りなんなのに、思考停止。


思考停止はおまえの方だろ。
おれは学会の常識を教えてやってるまでだよ。

江南人が移動や混血をすると、高床式建築だけ伝わって、水田も
農工具も甑も石包丁も灰陶も三足器形も印文陶も伝わらないのか
聞いておいてやるよ(禿笑
881日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:09:08
>『三国遺事』(第一巻、卞韓、百済の条」)に書いてある。


そんな嘘や捏造で有名な13Cの朝鮮電波本を出されてもねえ(禿笑


だいたい渡来人が渡ってきたBC7C頃に弁韓なんかあるのかね?(禿笑
882日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:15:41
>>877
「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す」(『論衡』)

883日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:17:10
>>881
つ『三国志』倭人伝
884日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:25:31
>>882
昆布を持って訪問したということかな?

「春秋時、越人一海を渡り、倭に入る」

という一文が欲しいところだね(禿笑
885日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:32:30
>>884
鬯艸というのは、ハッキリしないが、香草の事でしょう。
昆布という説は、無かったと思う。
886日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:46:24
昆布の可能性が結構高いんじゃいかな笑
字もよく似ている。

日本で香草と言っても思いつかないしな。

長旅で持っていっても平気な植物性保存食品で、
今も中国人が輸入している日本の特産物と言えばズバリ昆布だよ。
887日本@名無史さん:2006/06/18(日) 13:13:41
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
888日本@名無史さん:2006/06/18(日) 13:14:11
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
889日本@名無史さん:2006/06/18(日) 20:13:22
巻向を作ったのが徐福なんでしょ?
890日本@名無史さん:2006/06/19(月) 17:49:11
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
891日本@名無史さん:2006/06/19(月) 17:50:13
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
892日本@名無史さん:2006/06/20(火) 07:08:41
思うに、モンゴル信者とここのスレ主は、
一脈通じているんじゃまいかな?
893日本@名無史さん:2006/06/20(火) 13:02:48
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




894日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:06:30
まさしく壊れたレコーダーそのままだな
895日本@名無史さん:2006/06/21(水) 17:55:49
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
896日本@名無史さん:2006/06/21(水) 18:03:28
>>894
ここのスレ主は少し気がふれてるから、無視した方がいいよ。
897日本@名無史さん:2006/06/22(木) 15:11:47
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
898日本@名無史さん:2006/06/23(金) 12:47:05
BC15〜BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
899日本@名無史さん:2006/06/23(金) 12:52:23
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC15〜BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑



900日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:51:43


つ「ジュシン」
901日本@名無史さん:2006/06/23(金) 23:01:33
モンゴル人と日本人と韓国人と満州人は同祖。
「パン・ジュシン」主義。
902日本@名無史さん:2006/06/23(金) 23:15:31
>>901 それにしては容貌が違うな。
903日本@名無史さん:2006/06/23(金) 23:19:45
こちらのスレ主どんは、ジュシンには好意的なようニダ。
904日本@名無史さん:2006/06/23(金) 23:39:29
>>900-903
スレ違い。

ここは弥生人中国説について語るスレ。

こちらにどうぞ。

弥生人は朝鮮半島に定着しなかった北方アジア人

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150607297/

なお、返事は要りません。
905日本@名無史さん:2006/06/24(土) 00:41:44
毎度毎度のチョン工作員のコピペは笑の種。
ココに来るとキムチ臭い^^
906日本@名無史さん:2006/06/24(土) 06:04:17
>>904
スレ主は、2板持ってんのか?!
907日本@名無史さん:2006/06/24(土) 20:08:50
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
908日本@名無史さん:2006/06/24(土) 20:09:34
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)





909日本@名無史さん:2006/06/24(土) 22:41:03
つ「ジュシン」
910日本@名無史さん:2006/06/25(日) 07:28:47
加藤徹「貝と羊の中国人」新潮新書16頁によると、・・・
 紀元前10世紀に北九州で水田稲作が始まったのは、殷周革命の影響。
 殷周革命の衝撃で、東アジアの諸民族が玉突き的に移動し、それが北九州に
水田稲作をもたらす契機となった。
 ゆえに、直接に中国人が日本列島に到達した、と考える必要なし。
 ただ、21世紀の今日でも、中国大陸の動きは、黄砂、大気汚染、景気動向、
反日デモなど日本列島に大きなインパクトを与えている。その宿命の歴史は、
三千年前までさかのぼる。だから日本人は・・・(以下略)
 という内容のことが書いてある。
911日本@名無史さん:2006/06/25(日) 07:34:47
>考える必要なし

何かをかたくなに拒否したいのか?
912日本@名無史さん:2006/06/25(日) 12:49:03
「必要なし」は部分否定。拒否ではない。
「と考えてもよいが、そう考えねばならぬことはない」の意。
913日本@名無史さん:2006/06/25(日) 19:21:42

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
914日本@名無史さん:2006/06/25(日) 19:22:25
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑




915日本@名無史さん:2006/06/26(月) 10:13:48

何だ、このスレの殺伐とした空気はww
916日本@名無史さん:2006/06/26(月) 15:12:31


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

917日本@名無史さん:2006/06/27(火) 17:53:16
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
918日本@名無史さん:2006/06/28(水) 12:19:36
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の馬鹿馬鹿しさ(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
919日本@名無史さん:2006/06/29(木) 15:28:07
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の馬鹿馬鹿しさ(嘲笑)
いつも北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
920日本@名無史さん:2006/06/29(木) 19:31:45
「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。蛙と亀は穴を
 共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。ざんばら髪の君には長者の相なく、
 入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、建康(今の南京)に住まいし、
 ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言
 ふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が
 代用飯、茶が飲物代わり。じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)を
 クチャクチャ。手には豆寇{共にクサかんむり}(ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛
 む。中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、
 鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。        」

* 六世紀に書かれた「洛陽伽藍記」より *

華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味そう!
921日本@名無史さん:2006/06/30(金) 12:26:56
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
922日本@名無史さん:2006/06/30(金) 12:27:32
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
923日本@名無史さん:2006/06/30(金) 15:56:38
アジアで鵜飼い漁と、れんこんを食べる民族は
日本人と江南人だけやと、聞いた事有るな?
924日本@名無史さん:2006/07/01(土) 11:54:52
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



925日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:20:40
この板に江南地方出身の方、居られませんか!
居られたら、教えてほしいんですが。
古代の発音で倭人と越人が同じ(WO)ヲニンと
発音すると聞いたのですが本当ですか。
926日本@名無史さん:2006/07/02(日) 09:54:45
>>925
こんなところで、勇気あるなぁ、、、江東・江南スレに移動しなさい。
レスが入ってるみたいですよ。そちらへどうぞ。
927日本@名無史さん:2006/07/02(日) 17:25:34
火病で歴史は解明出来ませんよ。どっかの国では火病で歴史を作るけど。
よい人生を!
928日本@名無史さん:2006/07/02(日) 18:12:25
日本人と朝鮮人は食い物の嗜好も顔の雰囲気、性格も全然違うからな!

韓国映画を見ると一発で日本人と違うと分かる

香港映画にはこれが少ない、
(ファッションの色使いなんかがちょっと違うけど)

娯楽なんかもカンフーやチャンバラややくざ物とかお笑いとか
結構近い気がする
929日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:10:28
本土日本、アイヌ、琉球、中国、韓国の5サンプルだけで中国・朝鮮だと
決め付ける低脳遺伝子屋の馬鹿馬鹿しさ(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)



宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
930日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:22:34
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土墩墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土墩墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土墩墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土墩墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土墩墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土墩墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土墩墓の盛土は版築ではなく一つの土墩墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土墩墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
931日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:30:35
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、




印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑



932日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:38:24
がんばれ1000スレまで あと少し
933日本@名無史さん:2006/07/02(日) 21:07:10
>>929
渤海・タングートは、国内文献でも渡来帰化の記述があるぞ。
934日本@名無史さん:2006/07/03(月) 15:11:14
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
935日本@名無史さん:2006/07/03(月) 15:28:57
田、木、粉、巣、背、瀬、畝、血、津、手、戸、菜、丹、根、野、葉、火、
穂、帆、実、身、目、藻、矢、湯、夜、鵜、尾

 などの単音節語はシナ、東南アジア語的という話もあるな。

 特に田、根、野、葉、菜、穂、藻、実などは稲作と関係深いだろう。
936日本@名無史さん:2006/07/03(月) 16:01:21
山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、山東省文物考古研究所を訪問。同
省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、北部九州や山口県で発掘された渡
来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系
弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。

日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨
錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が特定の部分で同
じ人がいることを確認した。

江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体
が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調
査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の
一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
937日本@名無史さん:2006/07/03(月) 18:10:16
>>935
『イネ(稲)』もそうだよ。苗語で『ンネ』。
面白いね。
938日本@名無史さん:2006/07/03(月) 18:38:14
↑中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と
中国の遺伝子サンプルしか調べずに一部が一致しただけで中国だと決め付ける
低脳遺伝子屋の馬鹿馬鹿しさのコラボレーション(嘲笑)

いつも必ず北方アジアは一切抜き(超ウルトラ嘲笑)
939日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:59:08
日本人とブリアートの遺伝的距離は近くない。
http://www.saga-med.ac.jp/academic/meeting/anthrop/summary/b08.html
940日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:11:27
>>938
決め付けてるか?調査結果を開示しているだけだろう。
941日本@名無史さん:2006/07/04(火) 00:16:02
>>940
豚足は何往生際がわるいな(笑)
韓日の共通のルーツはジュシン族だろ?異論あるか?
942日本@名無史さん:2006/07/04(火) 00:31:51
>>937 ヴェトナム語では inep だそうですね。しかしイネにはヨネという
異形語もあるので何とも言えない。
943日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:04:59
九世紀の倭名類ジュウ鈔に 鬼の事を
呉人はオニと言い越人はキと発音すると書いてるな。
944日本@名無史さん:2006/07/04(火) 08:27:08
>>940
北方アジア抜きの偏向調査自体、決め付け行為だろが(嘲笑
945日本@名無史さん:2006/07/04(火) 18:01:32
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
946日本@名無史さん:2006/07/04(火) 19:11:53
>>942
ヨネを変換すると、素直に「米」と出るよ。「稲」じゃないでしょう。
中国語では、稲はdaoと発音するから、日本語とは全然違う。
どちらかと言えば、「inep」や「ンネ」の方が、可能性としてはある
でしょう。
947日本@名無史さん:2006/07/04(火) 20:16:29
>>946
中国語というよりは、オーストロアジア語形が基層にあると考える
事ができるかも知れない。
948日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:01:19
>>941
何だ、ひょっとして、檀君朝鮮だの古代百済帝国だのを信じてるクチかw
949日本@名無史さん:2006/07/05(水) 00:02:24
ttp://koreawatcher.at.infoseek.co.jp/docs/jushin.htm

いや、何度見ても笑えるねw
950日本@名無史さん:2006/07/05(水) 02:28:26
関連スレ
弥生人は水田稲作なんか持ってきていない
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1119965238/
951日本@名無史さん:2006/07/05(水) 12:17:17
>>935=937=940=941=942=943=946=947=948=949=950 ←同一人物(爆笑

>『イネ(稲)』もそうだよ。苗語で『ンネ』。
>ヴェトナム語では inep



で、そのソースは?


952日本@名無史さん:2006/07/05(水) 13:13:49
>>951 わては935ですが950等とは別人だす。ベトナム語inepは誰かからの
伝聞ですがベトナム語辞書がないので確かめていない。

 その他、イネは南島語フナイ(砂)という説も読んだことがある。
ソース>川本崇雄「日本語の源流」講談社現代新書

 しかしイネと砂では比較にならんと思た。
953日本@名無史さん:2006/07/05(水) 13:58:47
>>952
では遠慮なく却下だな。

ベトナム語で稲はルアだよ。

で、米がガオで、ネップは粘るという意味。
そこからモチ米の事をガオ・ネップと呼んでるだけ。
http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi37.htm


>『イネ(稲)』もそうだよ。苗語で『ンネ』。


で、こっちのソースは?

954日本@名無史さん:2006/07/05(水) 14:08:33
>>953
937でーす。
『「邪馬臺」は「やまたいと」と読まず』(白帝社)から引用しました。
その他のカキコは知りません。
955日本@名無史さん:2006/07/05(水) 15:17:40
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
956日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:37:05
私の独り事
呉人→オニン→オニ(赤鬼、青鬼)→(呉人は赤鬼、魏人は青鬼)軍旗の色かな?
越人→ヲニン→ワニ(動物のワニ、出雲神話ワニ=サメ、王仁族、和邇氏)越人の軍旗何色かな?
縄文人にとって恐いものオニ、ワニ、サメ、なまはげ
越人→ワニ→王仁族→倭語→オウジン→応神天皇(神武の祖母豊玉姫は竜神、ワニの娘と言う)か?
957日本@名無史さん:2006/07/05(水) 22:44:45
>>956
古語を全く知らん馬鹿が呟いておるな。
958日本@名無史さん:2006/07/05(水) 23:31:51
韓国の工作員が暗躍しているからでしょう。
959日本@名無史さん:2006/07/06(木) 14:55:06
>>954
>『イネ(稲)』もそうだよ。苗語で『ンネ』。
>ヴェトナム語では inep


幼稚なウソはやめましょうねウソは。

苗語で稲はンプレーだぜ。


http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi37.htm

ベトナム語で稲はルア。

http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi33.htm
960日本@名無史さん:2006/07/06(木) 17:22:14
>>959 まぁ、イネのinepは出来すぎの感じがあって眉唾ものでしたが。

 イモと南島語のウモは似ていると思う。ただ思うだけ。


961日本@名無史さん:2006/07/06(木) 17:41:47
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
962日本@名無史さん:2006/07/06(木) 18:03:36
>>959
>幼稚なウソはやめましょうねウソは。

参考資料を明記してあるので、執筆者に言ってくれよ。
それから、954(おれ)と952(inepの人)は、完全なる別人です。
管理人に頼んで、IDなどアクセス解析してもらってくれ。

ムカつくので、二度と書き込まない。
963日本@名無史さん:2006/07/06(木) 22:10:01
>>959
苗語って互いに通じないいくつもの方言の総称だよ。
基礎的な語彙でもかなり異なってる場合がある。

それ以前に、あんたが持ってきたそのコラムもどこまで正確かね?
964日本@名無史さん:2006/07/07(金) 12:25:20
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
965日本@名無史さん:2006/07/07(金) 12:27:06
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
966日本@名無史さん:2006/07/07(金) 18:59:13
このスレ壊れてるのいつも同じ文章しか出て来ないね
あっ!人間が壊れてるのか、危ないから逃げとこっと
967日本@名無史さん
そんなに必死こかんでもなw
中国の目的は、大和民族に半島という場所を刷り込むことにある。
中身はたんなる、疑似餌だw