1 :
日本@名無史さん:
公家、大名、神社、武士、商人、農民と出自が様々な
側室の家柄血筋について語りましょう。
2
3 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:36:55
綱吉と吉宗の母親が卑しい生まれの双璧だな。
4 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:44:06
平家の落ち武者の隠し苗とかか?
解りにくい苗字使ってるよ!
文字の片隅に平家の文字を残した漢字を用意いて使った苗にしてるからね。
5 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:16:56
貞明皇后の母親
6 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:19:17
明治時代になると本妻の死後妾が本妻になるケースがけっこうあるね
また鬼女スレか・・・・
8 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 09:53:50
お由羅は大工の娘
9 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 10:00:50
なれど天皇家の側室は古来、堂上家の出身が大半ぢゃぞゑ。
10 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 14:05:22
側室といっても、まったくの一般人はごく一部だろう
成り上がり者の場合は正室はおろか側室のほうが本人より高貴な生まれって良くあるよね。
12 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 14:39:39
>>11 秀吉→茶々姫、京極竜子、古河姫、信長娘、山名娘
柳沢吉保→正親町町子
これしか思いつかないけど他にある?
ホモ吉が参戦している時点で駄スレケテーイ
14 :
上杉:2005/12/20(火) 00:15:36
紀州家ってなにげに三浦(もしくは里見)の血引いてるんだな。何気に家康の子孫で1番出自低いの将軍家じゃ
15 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 00:22:36
このスレと、旧宮家スレ、皇后・国母・女院スレ、
戦後皇族ってどれだけ輪姦されたの?スレ、その他皇室関連スレは
書き込み者がダブっている。
非ID表示を逆手にとって、自作自演し放題、ルール無視で
日本史板を汚すスノッブは出て行って下さい。
16 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 10:48:34
農民出身の側室って、どうやって殿様と知り合うんだろう?
17 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 17:56:40
正室も側室腹のことが多かったりする
18 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:12:33
age
19 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 00:04:08
20 :
日本@名無史:2005/12/22(木) 00:36:39
>>19 家康の六男・松平忠輝の母、茶阿局なんか、まさにそれ。
夫が木っ端役人に殺されて、鷹狩り中の家康に直訴しにいったところを見初められた。
21 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 00:40:33
>>20 吉宗の母は風呂の釜焚きしてたって話あるね
22 :
日本@ 泣無史さん:2005/12/22(木) 05:41:41
私には二人の側室がいる 正室より若く美人で素晴らしい。
また 飲み代も払ってくれる 正室はとてもケチンボウです。
なんとか追い出すことを考えている所です。
良い智恵はありませんか?
23 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 16:18:13
生母が公家出の側室の大名って結構いるね。
上杉定勝生母 四辻公遠女
伊達綱宗生母 櫛笥隆致女貝姫
柳沢経隆生母 正親町町子
徳川家治生母 梅渓通条女幸子
島津斉宣生母 堤代長女
徳川斉昭生母 烏丸資補女永
徳川昭武生母 万里小路睦子
24 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:31:12
光格天皇の生母は身分が低いらしいが、家柄は公家ではないのか?
25 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:38:35
>>24 光格天皇の生母の大江磐代の父は
倉吉荒尾家の家臣岩室常右衛門(のちに医師宗賢)
宮家の当主が家女房に手を出すくらい当たり前のこと。
28 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:40:39
家女房って農家出の人とかいるの?
戦国時代に帰農してっずーつと農民なにゃけど
漏れの家にそんな人がおるよ。
お公家さんの養女格で御所に上がった人なんやけど・・。
30 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 02:32:59
>29
興味深いね。
ご先祖は、どのあたりにお住まいだったの?
うちの曾祖母は公家の出なので、もしかしたら遠い親戚だったりして?
>30
最近、京都市民になりますた。
32 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:39:32
吉子女王と喬子女王は異母姉妹。
33 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:10:06
貞敬親王も邦家親王も幟仁親王も熾仁親王も父親が結婚する前の子供だね
女王も有栖川宮吉子女王より結婚が遅い人(伏見宮種子女王・閑院宮佳子女王等)も結構いる
ただ一つ言えるのは生母が正室のほうが妃や女王は早婚の傾向があるということである(佳子女王は例外だが)
34 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 02:53:24
吉子女王の生母の安藤清子の実家ってどういう家か知っている人いますか?
35 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 01:33:26
広岡裕児の「皇族」という本には、北白川宮能久親王の子どもたちの生母がちゃんと書かれている。
(3人の側室の名がしっかり。)
好ましいね。もっと日本人は生母にも敬意を払って、様々な場面で側室の名を積極的に公表するべきだと思う。
36 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 17:17:32
>>35 その側室の生没年や容姿とか北白川家に入った経歴とか富子妃との関係とかは書いてないの?
37 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:02:32
島津忠義側室山崎寿満子は色弱
>>35 徳川慶喜に関する聞き書きを読むと、
二人の側室・幸と信の子供たちは、生母であっても「幸」「信」と
呼び捨てにしていたというよね。
39 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 16:49:33
へえ
40 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:09:10
そうかい
41 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:23:14
扨て話題は些か変わりますれど、
徳川家光の正室・鷹司孝子(「中の丸殿」)と日野権大納言資勝とが
親戚関係にあったという話を聞き及びました。
ために対馬の御家騒動「柳川一件」にて、
宗対馬守義成(その夫人が日野権大納言資勝の娘)は
「お咎め無し」と相成ったとか。
したが、日野家と鷹司家との親戚関係が、よく分かりません。
もしや中の丸殿の生母が日野家なりしや?
識者の方々の御教示を願い上げます。
何卒よしなに。
42 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:27:52
孝子の母は佐々成政の娘だった気がする…間違ってたらごめんよ。
43 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:59:04
熾仁親王生母佐々祐子は佐々成政とは関係あるの?
41は大奥や徳川家スレに登場する粘着クンだよ
>>43 祐子は亀岡の若宮八幡宮神主従五位下丹波守佐々祐條の長女
46 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 08:20:37
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
マルチポスト、要注意。
48 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 01:15:18
>>44さん、そうみたいですね。
いろんなとこに同じ事書いてる…
教えてあげて損しちゃった
(´・ω・`)
49 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 01:23:15
51 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 06:48:03
49代光仁天皇の側室は百済王国武寧王の12代末裔。
52 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 07:45:35
重ねて問いますれど、
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
同じ電脳を使った別人の書き込みと誤解しないで下さい。
53 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 07:49:27
舒明は義慈元年に倭国に派遣された男だよ。
54 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:37:06
北条早雲の世にででたきっかけ
妹が今川の側室だったこととされる。
当時今川って吉良とともに将軍家親類の筆頭。
大変な名門。
妹がそこの側室になれるってのは
伊勢新九郎ってそれなりの出自をもっていた?
と考えていいのか。
側室だから大した身分じゃなくてもOKだったのか。
伊勢新九郎はすでに「それなりの出自」という説に定着しつつあるとオモ。
57 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 19:05:15
>>55、56
つまりよく物語にされる
”早雲は一介の素浪人からのし上がり一国一条の主となった”
ってのは、
後の時代に講談などを面白くするために入った味付けってこと?
講談を面白くするため・・・でも何でもなく、
単に資料解明がすすんでいなかったんでそ。
59 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 01:10:25
60 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 12:17:00
61 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 02:46:56
園祥子の生母はどのような家柄の人だったのでしょうか?名字はわかりますか? また柳原愛子の生母は兄前光と同じ長谷川雪顕の娘歌川と同じということでしょうか
62 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 06:16:56
63 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:34:29
>>60 北川殿は近年では正室説が有力。
理由は伊勢氏の一族の娘ならば、今川氏の当主の正室であっても全く
不思議はないし、また今川義忠には他に正室がいたという記録もない。
それに義忠死後に起こったお家騒動に際しても、
小鹿新五郎範満(母方は上杉氏)を排除してまで、氏親の継承を支持する
勢力がそれなりにあったことを考えても、北川殿は伊勢氏の娘と見て
問題ないだろう。
64 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:36:48
>>62 てか十分にそれなりの家です。
特に伊勢貞親はこの時期の室町幕府の政局にことごとく関与している。
65 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:44:03
応仁の乱の後だから京都を離れ駿河に行くときは
たとえ伊勢一族の者でも素浪人になっていただろうよ
66 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:19:37
>>65 なぜそう思う?
応仁の乱後も伊勢貞親は中央政界での影響力は相当あるし、細川政元とつるんで
明応の政変にも大きく関与している。
というか伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)の伊豆侵攻だって、明応の政変の
地方への波及の一環だけど。
67 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:37:30
伊勢宗瑞は、京都の幕府と駿河の今川氏の間の連絡役として駿河にいたんだろ。
それに駿河下向後も明応以前は、幕府の奉行人みたいなこともやってて
京都と駿河を行ったり来たりしていたのが真相らしいし。
あと室町時代の今川氏って、基本的に政変・政局の際には細川氏側につくから、
細川氏と近い伊勢氏の一族の者が幕府と今川氏の間を取り次いでいても、全く
不思議はない。
68 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 09:20:12
ほほう
69 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 10:54:03
徳川将軍十五人のうち正室から生まれたのは、たった2人だけで、
ほとんどが側室の女性達だったのです。
その将軍達の生母は、農民の娘2人、魚商人の娘、
八百屋商人の娘、僧侶の娘、家臣の娘4人という
「庶民のご母堂様」達でした。
70 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:54:08
71 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 12:33:53
将軍とその正室の間に生まれたのは家光だけかな?
1と15は父親が将軍ではない
72 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 12:41:06
>>69 正室
家康(大名)家光(大名)慶喜(宮家)
側室
秀忠(武士)家綱(農民)綱吉(八百屋)家宣(?)家継(僧侶)吉宗(農民)
家重(藩士) 家治(公家)家斉(旗本)家慶(旗本)家定(旗本)家茂(藩士)
73 :
生母・御台所:2006/06/18(日) 15:13:44
初代家康 生母…水野氏於大(伝通院) 御台所…今川氏瀬名姫(西光院)、豊臣氏旭姫(南明院)
2代秀忠 生母…西郷氏於愛(龍泉院) 御台所…浅井氏於江与(崇源院)
3代家光 生母…浅井氏於江与(崇源院) 御台所…鷹司孝子(本理院)
4代家綱 生母…青木氏於楽(宝樹院) 御台所…伏見宮浅宮顕子(高厳院)
5代綱吉 生母…本庄氏於玉(桂昌院) 御台所…鷹司信子(浄光院)
6代家宣 生母…伏見氏於保良(長昌院) 御台所…近衛煕子(天英院)
7代家継 生母…勝田氏於喜世(月光院) 御台所…霊元天皇皇女八十宮吉子(浄淋院)
8代吉宗 生母…巨勢氏於由利(浄圓院) 御台所…伏見宮真宮理子(寛徳院)
9代家重 生母…大久保氏於須磨(深徳院) 御台所…伏見宮比宮増子(証明院)
10代家治 生母…梅渓氏於幸(至心院) 御台所…閑院宮五十宮倫子(心観院)
11代家斉 生母…岩本氏於富(慈徳院) 御台所…近衛寔子(広大院)
12代家慶 生母…押田氏於楽(香琳院) 御台所…有栖川宮楽宮喬子(浄観院)
13代家定 生母…跡部氏於美津(本寿院) 御台所…鷹司任子(天親院)、一条秀子(澄心院)、近衛篤子(天璋院)
14代家茂 生母…松平氏於美佐(実成院) 御台所…仁孝天皇皇女和宮親子(静寛院)
15代慶喜 生母…有栖川宮登美宮吉子(貞芳院) 御台所…一条美賀子(貞粛院)
74 :
江戸幕府将軍表:2006/06/18(日) 15:36:00
代 氏名 生没年 在職期間 官位 父 正室 院号
1 徳川 家康 天文11(1542)〜元和2(1616) 慶長8(1603)〜慶長10(1605) 従一位太政大臣 松平 広忠 関口親永女 豊臣秀吉妹 安国院
2 徳川 秀忠 天正7(1579)〜寛永9(1632) 慶長10(1605)〜元和9(1623) 従一位太政大臣 徳川 家康 豊臣秀吉養女(浅井長政女) 台徳院
3 徳川 家光 慶長9(1604)〜慶安4(1651) 元和9(1623)〜慶安4(1651) 従一位左大臣 徳川 秀忠 鷹司信房女 大猷院
4 徳川 家綱 寛永18(1641)〜延宝8(1680) 慶安4(1651)〜延宝8(1680) 従一位右大臣 徳川 家光 伏見宮貞清親王王女 厳有院
5 徳川 綱吉 正保3(1646)〜宝永6(1709) 延宝8(1680)〜宝永6(1709) 正二位右大臣 徳川 家光 鷹司教平女 常憲院
6 徳川 家宣 寛文2(1663)〜正徳2(1712) 宝永6(1709)〜正徳2(1712) 正二位内大臣 徳川 綱重 近衛基煕女 文昭院
7 徳川 家継 宝永6(1709)〜享保元(1716) 正徳3(1713)〜享保元(1716) 正二位内大臣 徳川 家宣 霊元天皇皇女 有章院
8 徳川 吉宗 貞享元(1684)〜宝暦元(1751) 享保元(1716)〜延享2(1745) 従一位右大臣 徳川 光貞 伏見宮貞致親王王女 有徳院
9 徳川 家重 正徳元(1711)〜宝暦11(1761) 延享2(1745)〜宝暦10(1760) 従一位右大臣 徳川 吉宗 伏見宮邦永親王王女 惇信院
10 徳川 家治 元文2(1737)〜天明6(1786) 宝暦10(1760)〜天明6(1786) 従一位右大臣 徳川 家重 閑院宮直仁親王王女 浚明院
11 徳川 家斉 安永2(1773)〜天保12(1841) 天明7(1787)〜天保8(1837) 従一位太政大臣 徳川 治済 近衛経煕養女(島津重豪女) 文恭院
12 徳川 家慶 寛政5(1793)〜嘉永6(1853) 天保8(1837)〜嘉永6(1853) 従一位左大臣 徳川 家斉 有栖川宮織仁親王王女 慎徳院
13 徳川 家定 文政7(1824)〜安政5(1858) 嘉永6(1853)〜安政5(1858) 正二位内大臣 徳川 家慶 鷹司政通養女(鷹司政煕女)
一条忠良女 近衛忠煕養女
(島津斉彬養女・島津忠剛女) 温恭院
14 徳川 家茂 弘化3(1846)〜慶応2(1866) 安政5(1858)〜慶応2(1866) 従一位右大臣 徳川 斉順 仁孝天皇皇女 昭徳院
15 徳川 慶喜 天保8(1837)〜大正2(1913) 慶応2(1866)〜慶応3(1867) 正二位内大臣 徳川 斉昭 一条忠香養女(今出川公久女) ―
75 :
江戸幕府将軍表:2006/06/18(日) 19:48:56
代 氏名 生没年 在職期間 官位 父 正室 院号
1 徳川 家康 天文11(1542)〜元和2(1616) 慶長8(1603)〜慶長10(1605) 従一位太政大臣 松平 広忠 関口親永女 豊臣秀吉妹 安国院
2 徳川 秀忠 天正7(1579)〜寛永9(1632) 慶長10(1605)〜元和9(1623) 従一位太政大臣 徳川 家康 豊臣秀吉養女(浅井長政女) 台徳院
3 徳川 家光 慶長9(1604)〜慶安4(1651) 元和9(1623)〜慶安4(1651) 従一位左大臣 徳川 秀忠 鷹司信房女 大猷院
4 徳川 家綱 寛永18(1641)〜延宝8(1680) 慶安4(1651)〜延宝8(1680) 従一位右大臣 徳川 家光 伏見宮貞清親王王女 厳有院
5 徳川 綱吉 正保3(1646)〜宝永6(1709) 延宝8(1680)〜宝永6(1709) 正二位右大臣 徳川 家光 鷹司教平女 常憲院
6 徳川 家宣 寛文2(1663)〜正徳2(1712) 宝永6(1709)〜正徳2(1712) 正二位内大臣 徳川 綱重 近衛基煕女 文昭院
7 徳川 家継 宝永6(1709)〜享保元(1716) 正徳3(1713)〜享保元(1716) 正二位内大臣 徳川 家宣 霊元天皇皇女 有章院
8 徳川 吉宗 貞享元(1684)〜宝暦元(1751) 享保元(1716)〜延享2(1745) 従一位右大臣 徳川 光貞 伏見宮貞致親王王女 有徳院
9 徳川 家重 正徳元(1711)〜宝暦11(1761) 延享2(1745)〜宝暦10(1760) 従一位右大臣 徳川 吉宗 伏見宮邦永親王王女 惇信院
10 徳川 家治 元文2(1737)〜天明6(1786) 宝暦10(1760)〜天明6(1786) 従一位右大臣 徳川 家重 閑院宮直仁親王王女 浚明院
11 徳川 家斉 安永2(1773)〜天保12(1841) 天明7(1787)〜天保8(1837)従一位太政大臣 徳川 治済 近衛経煕養女(島津重豪女)文恭院
12 徳川 家慶 寛政5(1793)〜嘉永6(1853) 天保8(1837)〜嘉永6(1853) 従一位左大臣 徳川 家斉 有栖川宮織仁親王王女 慎徳院
13 徳川 家定 文政7(1824)〜安政5(1858) 嘉永6(1853)〜安政5(1858) 正二位内大臣 徳川 家慶 鷹司政通養女(鷹司政煕女)
一条忠良女 近衛忠煕養女(島津斉彬養女・島津忠剛女) 温恭院
14 徳川 家茂 弘化3(1846)〜慶応2(1866) 安政5(1858)〜慶応2(1866) 従一位右大臣 徳川 斉順 仁孝天皇皇女 昭徳院
15 徳川 慶喜 天保8(1837)〜大正2(1913) 慶応2(1866)〜慶応3(1867) 正二位内大臣 徳川 斉昭 一条忠香養女(今出川公久女) ―
76 :
お腹様、側室ともいう:2006/06/19(月) 20:47:19
エリートの女性は、妊娠出産という一年の大半をつぶす仕事は、
ピンチヒッターの召使いの女や身分の低い者に腹替わりをさせ、
自分は妻、当時は女夫(めおと)の女(め)として夫の手助け
をする仕事に専心していたのである。
男性以上に仕事の出来る女性と、唯それしか能のない女生とに昔は二分されていた。
そこで「女」(め)として、諸事を支配する主婦(もとめ)と、
産女(うみめ)と呼ぶ(お腹様、側室ともいう)のに分かれ、
分業しあって共存共栄をはかっていたのである。
だから昔は、今日の女性のように、一人で妻と母の二役という
ダブルキャストはしていなかった。
77 :
身分低き女子をもって代わりをさせる:2006/06/19(月) 20:50:17
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに
「雖知苦斎」と題するのが残されていて、その中に、
「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなる者少なからず、
よって、腹は借りものと称して身分家柄の高き女性は己が子を産
むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代わりをさせる」
と出ている。
八切厨 コピペ厨はでてけ!
79 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 07:13:40
お公家さんの側室って、どういう人が多いの?
やっぱり公家同士?
それとも一般人もあり?
80 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 07:28:03
公家なんて、1000年ものあいだ、庶民と変わらぬ生活を
しているわけだし、大名将軍などよりよほどひどいよ。
源氏物語の女たらし、頭中将もその辺の浮浪者の女と子供を
作ってるし、最近でいえば、昭和天皇の母親(大正天皇皇后)の
母親は側室(農民上がりの九条家女中)。
天皇家は男系にはこだわるけど女の家系はまったくどうでも
いい。正直美智子さまの家がどう、なんて、庶民の価値基準。
庶民は父方だけで生活できないから母方もこだわる。
81 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 07:33:54
公家じゃないけど、メジャーどころでは、源義経とか、母親は雑仕女(汚物運び)だし
兄弟の範頼の母親は遊女だし、ほかもそんなレベルで、側室が庶民以下の階層ばかりというか。
>>79 お公家さんのランクにもよるよ
五摂家なんかは正室が大大名の娘や同じ五摂家が多いから平堂上の娘や社家の娘が多いし、
平堂上は正室が平堂上の娘か大名や旗本の娘が多いので、社家坊官、行儀見習いに来た領地の
農民の娘がいる。
83 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 10:03:51
>>79 公家からそれ以外までそれぞれだと。
子女の生母になるのと正式な側室になるのは違うので本物の庶民はいないのでは、
大名家でも子供を生んだ妾が身分が低いことを理由に側室になれなかった例もありますし。
84 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 11:32:47
行きずりの火遊び相手が彼女にならないのと同じか
85 :
相当なストレス:2006/06/22(木) 21:42:01
綱吉も吉宗も、その娘たちを有力大名に次々に嫁にやり、
支配基盤を固めようとしました。吉宗は、島津家になん
とか嫁にもらってもらおうと、いろいろ画策したそうです。
吉宗はよその娘を養女にして身分を格上げしてから、
大名の奥方として、壮大な儀式をとりおこなって次々に
送り出していきました。
これは、妻の地位が夫より高くなることにもなるので、
「夫は妻を主君のごとくあしらい」という事態になって
いると荻生徂徠が批判したとのことです。つまり、
妻の地位は江戸時代に、それほど低いものではなかった、
否、むしろ妻の地位の方が夫より高いことは不思議で
も何でもなかった、ということです。
ちなみに、八代将軍家斉は50数人の子どもをも
うけたことで有名ですが、その子どもたちを男子は
有力大名の養子として、女子は姫君として嫁がせています。
ところが、男子の大半は20歳になるまでに亡くなり
(50歳をこえたのは1人)、
女子は12人のうち6人が若くして亡くなり、
残る6人だけ50歳をこえています。
やはり、相当なストレスがあったのではないかと考えられます。
86 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 21:50:57
51の書き込み読むと
次の天皇さんのお母さんが半島の人いうこと?
半島の人でも血筋がいいならイイか
87 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 22:13:31
>>51 違う。今から1200年前の50代桓武天皇の生母で
49代光仁天皇の側室が百済王家の末裔だということ。
ちなみに今の天皇は125代目です。
88 :
87:2006/06/22(木) 22:15:39
訂正。86へのレス
89 :
86:2006/06/23(金) 08:17:47
>>87 桓武天皇のお母さんが半島の人ということですね
桓武天皇というと平安京造った人でしたっけ
90 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 10:47:03
半島の人と言っても200年以上前の百済の太子の子孫とだけで直接両親が半島出だと言うわけではない。
91 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 10:56:22
典型的な「帰化人」の子孫だろうね。それも、何世代も経過した。
帰化している時点ですでに「日本人」なわけだけど、朝鮮の人は認めたがらないね。
そのくせ、新羅出身の帰化漢民族の秦氏などは「朝鮮の英雄」として、縁の史跡など
が子供達の見学コースになっていたりする…(溜息)
気持ちが悪いよ、病院池だ。
92 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 13:55:48
桓武天皇の母親は、
血統的には日本人じゃなかったっけ?
93 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:06:51
「百済王家の末裔」「血統的には日本人」?
戦前の朝鮮植民地化の際の日本化は
天皇家に朝鮮半島の血がはいっていることを隠蔽するためだと思ってました
支配して朝鮮の歴史改ざん
それで完了
94 :
済州島の出身:2006/06/23(金) 22:38:06
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。
95 :
生母が朝鮮系:2006/06/23(金) 22:38:37
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい
96 :
当時アジアの医学先進国である朝鮮:2006/06/23(金) 22:49:18
八代将軍吉宗は、当時アジアの医学先進国である朝鮮から、
最高の医学書の一つ「東医宝鑑」を対馬藩から贈呈された。
この本から吉宗は、日本にあるものと朝鮮とはおなじかどうか、
日本にあって朝鮮にない物、その逆の物はなにかという分類
紀事大綱について調べさせた。林良煕は吉宗の意図を正確に見ぬき、
周到な準備を整えていくが、志半ばにして27歳で亡くなる。
そして後を引継いだのが丹羽正伯である。
97 :
渡来系の人達を内包:2006/06/23(金) 23:48:43
サンカ共同体が体制側に組み込まれなかった渡来系の人達を内包し
ていったのではと思っています。八代将軍徳川吉宗に伝わる話しが
あります。よく時代劇で、お庭番という忍者のような役職の者が出
てきますが、あれは吉宗が紀州藩から隠密を呼び寄せて作ったもの
らしいです。その隠密ですが、根来者と呼ばれた忍者集団で、
密教行者(修験道)から発し、同根には出雲熊野系と紀伊熊野系が
あり、(その混流の末には信州の飯綱山を発祥地とした忍術の元と
も云われる飯綱遣いがある )諏訪神社(出雲系)から出た諏訪三
郎兼家(甲賀忍者の祖)の忍術と融合し、さらに河内・和泉・大和
・紀伊のサンカ共同体とも融合したものであると伝わっているよう
です。また戦国時代に信長により討伐された伊賀忍者の頭領である
百地丹波が高野山に逃れ、後に根来に移りて本拠とし、
信長に抗戦したとの記録があるそうですから、伊賀忍術の流れも伝
わったのだと思います。
98 :
風呂炊女を側女:2006/06/23(金) 23:50:11
その吉宗側近の根来隠密には、吉宗の生母が自分達と同族であったと
の認識があったようです。父の光貞が風呂炊女を側女として源六
(吉宗)を生ませたとありますが、隠密仲間の間には大和葛城の忍び
(サンカ)の一族の者であると解していたようです。吉宗の剛胆さや
庶民性(下々の者に対しても分け隔てなく接し、卑賎とされる者をも
登用した)、また様々な障害を乗り越えて将軍の座に就いたことを考
えると、闇の者とされた忍者集団やサンカ共同体の見えない形での働
きがあったのかも知れません。
99 :
津山の2家:2006/06/23(金) 23:52:31
家斉は子沢山だったが子孫は繁栄しなかったな
家慶の子で成人したのは家定のみ
斉順の子で成人したのは家茂のみ
蜂須賀は戦前まで続いたが途絶えた
残ったのは津山の2家のみ
しかも子爵家のほうは康の後、女子のみだろ
失踪男爵の斉の子孫のみに期待か
100 :
家斉の息子とその子孫 :2006/06/23(金) 23:53:15
家斉の息子とその子孫
断・徳川 家慶・・・成人した息子は家定のみ
断・清水敦之助・・・夭折
断・紀伊 斉順・・・成人した息子は家茂のみ
断・清水 斉明・・・子孫なし
断・尾張 斉荘・・・子孫なし(一橋家を継いだ昌丸は夭折)
断・池田 斉衆・・・鳥取藩世子のまま夭折
存・松平 斉民・・・津山松平家に子孫あり(子爵家、男爵家)
断・尾張 斉温・・・子孫なし
断・松平 斉良・・・館林藩世子のまま夭折
断・紀伊 斉彊・・・子孫なし
断・松平 斉善・・・子孫なし
存・蜂須賀斉裕・・・男系断絶、現当主は独身女子(侯爵家)
断・松平 斉省・・・川越藩世子のまま夭折
断・松平 斉宣・・・子孫なし
102 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 13:53:42
「国盗り物語」で、皇女が土岐頼芸の側室になってたけど、
皇族が武家の側室になるなんて、実際にあったんですか?
103 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:28:26
>>102 頼芸の側室って一色氏とか明智氏とかじゃなくて?
104 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:53:16
>>103 香子内親王っていうのが出てくる。
架空の人物みたいだけど
105 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 19:55:47
106 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 02:40:47
>>100 確か家斉の息子で明治維新後まで存命しているのは津山藩へ行った斉民だけだよね。
>>105 半年ロムってるか、ここや大奥関係スレの過去スレでも嫁
108 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 00:37:57
ほー
109 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 11:14:42
水銀中毒のせいじゃなかったっけ
110 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 13:51:53
当時は身分を問わず乳幼児の死亡率が高かった。
大奥の場合は、それプラス乳母の白粉に含まれる水銀中毒も原因。
成長しても10代、20代での早世が多いのは、将軍家の公子として過保護に育てられ、
虚弱体質になったということもある。
111 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 13:54:29
家斉はエロ将軍みたいに言われてるが、一個人としてはけっして馬鹿ではない。
健康にも留意し、武芸で身体を鍛えていた。
地元の有力者と縁を強くする為ってのもあるんだろうか
代々側室として入ってるのは地元の名家ばかりだ
水戸かも
117 :
徳川 家斉(とくがわ いえなり):2006/09/24(日) 20:36:59
幼少期から異様な性癖があったと伝えられている。
蟹や鶏を相手にして踏み潰したり殴り殺したという残虐な逸話がある。
しかし1779年に家治の世嗣・徳川家基が急死したため、父と意次の裏
工作、並びに家治に他に男子がいなかったため、第10代将軍・徳川家
治の養嗣子になり、さらに1786年に家治が50歳で急死すると、翌年14
歳で将軍職に就任した。治世の初期、田沼意次を廃して白河藩で名君
の誉れ高かった松平定信を老中に登用して寛政の改革を推進、綱紀の
粛正を図った。
118 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 11:51:23
家康の側室は、
身分の低い後家が多かったと言われているが、調べてみると実際はそうでもないんだな
119 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 02:23:07
殿様と知り合える人自体、限られてるからな
そのとき限りの女性だと側室にまでならないしね
家康の後家好き、家光の尼さん好き
なんてのは、一つのことをとりあげて語呂良くまとめたい趣旨で
稗史上の面白言葉みたいなものだから。
「家光の尼さん好き」といったって、還俗させた事例は
六条氏お万の方だけだからな。
家康の下淫好みというのも、あくまで秀吉と比較した場合だし。
他の大名の側室と比べても、それほど側室の出自が低いわけではない。
123 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:43:31
五大老+伊達なんかを見てみたが家康世代の側室は大名クラスや家老クラスの娘はいないね。
124 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 21:18:36
家老クラスならいるだろ。
125 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 11:05:27
公家出身の側室って意外と多いね。
126 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 00:30:34
松平義昌の母親が公家出身。
父親の正室が家光の娘千代姫だったから三男になった。
松平頼隆の母親は興正寺の門主の娘で顕如と三条夫人の妹の曾孫
公家出は意外に多いね。
127 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 20:31:26
水戸斉昭の正室は有栖川宮家の出身だが、余八麿こと昭武の母も
公家の出ではなかったかな。
128 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 22:08:08
徳川の男は公家よりも皇族の女とのほうが相性がよかったりする
家茂と和宮だね
130 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:50:12
>>127 万里小路睦子だね。
斉昭は超貴種好きで有名。義姉の公家出身の上臈にも手出してる。
斉昭の母親も公家の出だったからマザコンの可能性も。
131 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:58:50
斉昭の側室に柳原姓や高丘姓の女性がいたはずだが公家出身なの?
132 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 23:15:23
徳川家が貴族化するにつれて、公家や皇族の女性と親しくなってる。
やはり、似たような環境にいる者同士が仲良くなるんだろう
133 :
↑:2006/12/11(月) 13:24:51
すごいデンパだなww
まあ身売りみたいなもんだよ
貧しくて食べていけないから娘を差し出してた。
当時の公卿の生活は極貧だからね
135 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 14:59:09
大名家に就職する公家の女性が多かったらしい。
上手くいけば、殿様とつきあえる。
ダメでも高給取りのキャリアウーマン。
136 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 15:12:08
>公家や皇族の女性と親しくなってる。
500`も離れていてどうやって親しくなるんだ?
>>136 大奥にいる公家の女性ってことでしょ
正室の出産も後半になるにつれ増えている
お公家の女性は大奥内で多くは上臈職として
結構な給金を貰っていた。
働きに出たって感じだな
あわよくばお手つき中臈に
そしてお腹様と夢はひろがりんぐwww
徳川綱吉に仕えていた女性で、
天皇家から将軍家に転職してきた女官がいなかった?
>>139 公家出の上臈職が、お中臈になぞ格下げしないのだが。
上臈は奥女中の中で最も格式の高い役職。
普通は御年寄などのように実験があるわけでは無いけどね。
(上臈と御年寄兼務は可能だったそうだけど)
御台所に親しく近侍して、学問や文化行事のお相手をするのも役目。
中臈とは全く位の違う要職だよ。
>>140 それは心光院・右衛門佐のことを言っているのかな?
>>141 お手つきは中臈になるんだよ
役職とはまた別
143 :
長崎淫乱おばちゃん売春センター女廊屋バタフライ女廊長 淫野 乱子:2006/12/30(土) 21:57:51
お金持ちの殿方、私達を側室にして〜〜〜、気持ち良くイカせて〜〜
144 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 13:37:36
>>141 御手付になっても、御中臈以上の役職なら格下げはありえない。上臈なら御台所付きから将軍付きになるだけ。
>>118 たしかに、お梶の方は太田氏ゆかりの出自だし、お万の方(紀伊・水戸の母)の
父は正木頼忠(蔭山氏広)・母は北条氏尭娘(養女説あり)だしな。
146 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 13:06:53
西郡…鵜殿氏
お万…永見氏
お竹…市川氏
お愛…戸塚氏、西郷氏
阿茶…飯田氏
茶阿…庶民
下山…秋山氏、穴山氏
お牟須…三井氏
お亀…志水氏
お万…正木氏、蔭山氏
お勝…太田氏
お夏…長谷川氏
お仙…宮崎氏
お梅…青木氏
お六…黒田氏
それなりの家柄なのって少ない気が。
>>140-141 寿光院・大典侍もそう。 たしか朝仁親王に仕えていたんだよね。朝仁親王って東山天皇のことかな?
>>146 世にいわれているほどには身分が低くはないものの、けして高いともいえないってとこですか。
側室の身許も家康の軌跡を表してますね。最初は今川家臣の娘から始まって、次は武田家臣の娘、みたいな。
>>146 それなりの家筋と認識されているのは
下山殿お都摩、陰山殿・お万の二人かと。
150 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 02:34:42
お愛の養父で母方でもある西郷氏は菊池氏の一族で三河国守護代を務めた家。築山殿亡き後、お愛が正室格と喧伝されるのもそのためか。
蔭山殿お万の養父蔭山氏は足利持氏の血を引く名家。実父正木頼忠も名族三浦氏の裔とされる。母方後北条氏も政所執事伊勢氏の裔。
下山殿お都摩の養父穴山信君。甲斐国守護武田家分家で武田晴信の甥。実父秋山虎泰も甲斐国守護武田家分家。
お勝の太田氏も相模国守護代をやった家。
151 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:02:05
>>146 他の大名の側室達も大体そんなもん。
仕事で知り合える女性としては、妥当なレベルかと。
信長や利家の側室なんてそれ以下だぞ。
152 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 18:44:05
ho-
153 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 21:25:21
>>146 そのなかで結婚経験者は、阿茶・茶阿・お亀の三人だけ(お愛は婚約のみ)
実は下淫でも後家好みでもなかったりする
154 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:46:45
家光側室で綱吉の母の桂昌院は、
八百屋の娘だけど、あの時代に都市に住んでて、店を経営してて公家と親しくしているぐらいだから金持ちだったのか?
155 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 01:08:25
美智子皇后も粉屋の娘と呼ばれた
156 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:06:25
ていめい皇后(大正天皇の皇后)の生母の野間幾子(九条道孝の側室)なんて何者なんだよ?
家女房
159 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 22:26:57
当時は離婚や死別が多かったからじゃないか?
信長や秀吉の側室にもバツイチや未亡人が何人かいたはず
160 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:44:40
天皇の場合、
側室=女官なんですか?
>>160 そうとも言えないぞ
まず奈良時代には皇后、妃、夫人、嬪というランクがあり、正夫人が皇后、残りは側室という扱いになる罠
これが平安時代以降〜鎌倉時代以前の中宮(正夫人)、女御、更衣に移行していく
もっとも中宮になるには最初女御として入内しなければいけないと言う不文律があったが。
ただ平安時代中期以降になると女官トップである尚侍が将来の中宮・女御候補のポジションになっている。
室町時代以降になると、朝廷はボンビーで後宮を維持するのが困難になってくる
そこで維持費のかかる中宮・女御などを入内させず、近場の女官に手をつけると言うことになる。
その後これが通例となり、江戸時代以降は側室は高位の女官(典侍あたり)に位置づけておく言うことに。
以後明治天皇の時までこれが続く。
誰か補足修正宜しく
162 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 09:58:55
三人ではない。
西郷局は一般的に既婚であったとされているし、お牟須も既婚者。
他にはお仙、お万(小督局)、下山殿も夫を持っていたという説がある。
163 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 10:32:28
>>154 八百屋の娘に生まれる→両親離婚・母ちゃんが引き取る
→母ちゃんが二条家の家司と再婚・二条家家司の養女になる
→お万の方(六条有純女)が大奥入りする際に女中として付いて行く
→家光の手が付く
こんな流れ。母ちゃんの再婚相手が決め手だな
164 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:04:45
京都を旅行すると、桂昌院が寺に寄進したという建物が結構あるな。
京都は桂昌院の出身地だし、
京都の人々からすると、西陣の八百屋の娘がすごい出世〜とか
思っていたのかな。
165 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:12:41
売女だと思ったんじゃないの。
下賤の娘が笑わせるんじゃないよ!
166 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 20:38:53
島津忠義の側室はどのような家の出身なの?
ググれ
168 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 00:08:43
徳川家重の側室は子供を産んだあと、トラブルを起こして幽閉されてたらしい
>>168 それは確か家治の母。
彼女は元々、家重の女性問題によって精神的に壊れてしまっていたんだとか
幽閉を吉宗が知って、やっと救われたようです。
170 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 16:46:06
171 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 17:16:52
>>170 権中納言の娘である自分が、
浪人の娘風情に将軍の寵愛を奪われて、破綻寸前だったんだろうね。
そもそも、正室についてきた女官に手を出したのは家重のほうなのに、
寵愛が薄れると座敷牢とは、
言語不明瞭な家重、ますますイメージ悪くなるが・・・
172 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 18:06:53
174 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 20:05:24
お由羅なら、江戸の大工藤左衛門の娘で
奉公中に島津斉興に見初められ…
とすぐ出てくるのにね。
175 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:07:41
>>166 島津家臣団の中に山崎氏、菱刈氏の名がそれぞれある。
渋谷一族、祁答院家の一人が薩摩伊佐郡山崎を領して山崎氏と名乗る。
大隈国菱刈院を本拠地にしていた豪族菱刈氏。
176 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 10:31:49
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
177 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 11:55:46
徳川家斉の側室40人いるけど、
子を産んだ側室の名前しか表に出てないので、他の側室の名前や
没年など存知である方
是非教えてください
178 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 07:28:23
公家の場合、生母家女房というのが多いが実名はつたわってないの?
冷泉家の人の本には‘家女房の名はつたわっていない’と書いてあった
他家でもそういう扱いなの?
公家に限らないんじゃね
大抵の大名の側室も名前まで伝わることは少ない
昔は男尊女卑の世界だからね
180 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:53:35
>>179 江戸時代が一夫一妻多妾制だったからだよ。
男尊女卑というよりも。
子供はすべて一夫一妻の当主と正室の子供とされ、
実母の名前は残らなかった(勿論、正室から生まれた子供は残るけどね)。
江戸時代以前の時代では、公家でも武家でも比較的側室の名前は残っている。
武家であっても、将軍家や大名家は側室の名前が残っているね。
ただ、公家の場合、家系図にはすべて側室は家女房とだけかかれ、
父親の正室のみを母であると公称した。
>>180 江戸時代の大名家の側室の名前全てがわかるなら知りたいんだが
何を見れば出てるのか教えてくれんか
182 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 10:45:33
>>181 これをどう読んだら全員の名前が残っているになるんだね?
江戸時代は公家に比べて大名の側室のほうが名前が残っているといっただけだが?
まあどっちでもいいが、名前がわかるような出典元ってのはないのか
意外と墓の側面や裏面にある碑をみると親元や名前なんかの履歴が載っている場合がある。
まあ、名前は候名の場合もあるけれど調べる価値はあるんじゃない?
将軍吉宗の生母の墓ですら取り壊されてるのに、大名の側室の墓なんて
あるんだろうか・・・まあ探してみるか
186 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:11:21
意外とあるかもよ。
地方の菩提寺が残っていれば、大名の墓なんて市の教育委員会の史跡に指定されている場合も多いだろうから
その場合は残っている可能性はある。
ただ、区画整理や空襲にあった場合は墓石自体は残っていないかもしれないが、藩主の生母になっていれば
取り扱いもちがうんじゃない?
187 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 11:32:58
将軍側室の場合、男子を産んだらお腹さま、女子を産んだらお部屋さまと
呼ばれ部屋も与えられるけど、身二つになるまでは、他のお手付き中老と
相部屋。
家斉の側室扱いの女たちには、大奥の役職(御客あしらいなど)に
付いたものもいたようで、女中と側室の区別が厳格じゃなかった。
188 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 11:49:38
将軍の側室は町娘などの庶民からでもなれたから。
親兄弟の雑魚寝が当たり前の長屋暮らしをしてきた娘だから。
将軍の手がついただけの長屋上がりの町娘より、
将軍正室について京から下ってきた公家を父親に持つ
大奥女中のほうが待遇良かったし。
ふうん
で?
190 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 22:00:09
町娘レベルって家光の側室以外にいるの?
192 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 01:06:23
公家の側室である家女房たちの生家について調べた本とか論文って、
あるのかどうか、ご存知の方はいらっしゃいますか?
その生家がどこかに当然あって、その一族の子孫のいくらかは、現在
どこかにいて、場合によっては当時の日記や系図等をお持ちであること
もあるのではと思いますが。
193 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 09:38:51
江戸時代には、公家も邸で炊事や洗濯をしているような
下働きの町人の娘や庶民の娘に子供を産ませ、
正室の子であるかのようにかしづくことがあったようだ。
公家の娘ならば家系図に残る可能性はあるが、
庶民の娘では厳しい。
光格天皇の母や、貞明皇后の母の出身を見ると、
相当の卑母が含まれていると見られ、
庶民の家に家系図が残っているとは思えない。
側室ってより手がついて生んだだけって感じだね
195 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 06:49:01
なんか公家って側室に子供が出来てから結婚することが多いね
196 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 08:09:02
公家って貧乏なくせに子供ばっかり作ってるよな。
やるだけの女なら側室とはちょっと違うな
198 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 15:25:14
貧乏だから、つきあう女のレベルも低くなるんだよ
199 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 17:50:18
>>198 でも、娘が生まれれば貧乏公家でも大名の側室なんかに高く出荷すると。
>>199 >娘が生まれれば貧乏公家でも大名の側室なんかに高く出荷する
上杉定勝の母親(四辻公遠女)がその嚆矢ですな。
そもそも側室は基本的に子供を産ませるための存在。
もっとも、現実には「できちゃったナントカ」で側室に格上げされた例も少なくないが。
201 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 20:23:31
天皇の生母になる人は?
202 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 23:40:19
公家女が武家男の側室になるのはよくあるけど、
逆はなかったのかな
あったかも知れないけど、公家の家系の史料は武家より不十分
「側室○○氏女」じゃなくて「実母家女房」としか書いてないのが普通だし。
あと公家女が大名の側室になる例は多々あったけど
大名の女が公家の側室になった例はないんじゃないかな。
わざわざ貧乏な家の側室にしても何の得にもならないからね
205 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 07:43:32
旗本は結構あったらしい
206 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 10:40:29
公家の息子が大名の養子になった例はごく少数ながらあるが、
大名の息子が公家の養子になった例はあるのだろうか?
207 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 10:55:01
近衞忠W
208 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 14:40:07
お家相続、大名家の苦闘 大森映子 角川選書
朝廷をとりまく人びと 吉川弘文館
ごく少数だけどあることはあるらしい。上記の本に載っていた。手元にないので具体例は出せない すまん
209 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 14:44:40
ごめん上記のは勘違い。
公家→大名の話だった。
大名→公家はないだろうけれど
武家→公家はある。東久世の初代がどこかの大名の家臣の息子。ただし、父親の出身が公家なので
純粋な武家ではないけど。
211 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 18:55:26
武家女が公家の正室はあったけどね
212 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 20:20:05
島津(旧姓高倉)久子とかも時代が時代なら側室だったのか
213 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 20:37:27
久子の夫は佐土原島津で支藩なんだから、高倉家から嫁をもらっても正室でいいんじゃない?
214 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 15:16:17
摂関家の息女は将軍の正室にもなれたのだから、
大名の側室に甘んじた公家の娘って、
身分が低い(羽林以下)だったんじゃ?
羽林家以下の息女は天皇に侍っても
女御に立てず、女房扱いだった。
215 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 16:50:33
後西天皇と伊達綱宗
文智女王と上杉定勝
とか母が大名側室と女官のいとこだな。
摂家以外の公家の娘は側室だよ
>>216 摂家以外でも清華家、大臣家の娘は大名の正室になっているよ
・右大臣西園寺賞季の娘(清華家)
(長府藩主毛利匡芳の正室)
・右大臣久我通親の娘(清華家)
(熊本藩主細川重賢の正室)
.内大臣久我信通の娘(清華家)
(新田藩主細川利致の正室)
・右大臣今出川公規の娘(清華家)
(水戸藩主徳川綱條の正室)
・右大臣今出川公規の娘益姫(清華家)
(府中藩主松平頼明の正室)
・大納言中院通躬の娘綱(大臣家)
(佐賀藩主鍋島宗教の正室)
・・・島津重豪正室(後妻)・綾姫(甘露寺矩長娘 (名家) )つーのはレアケースということなんだろうか。
最も綾姫は元々側室として迎えられ、先妻(一橋宗尹娘)の死後に正妻に昇格したようだが。
>>217 今出川と久我が多いような
>>218 初婚の当主に嫁いだ正室ではなく、
継室(最初の正室が死んだ後に迎えた後室)の場合は
家柄が劣る例も多いみたいだね。
将軍家定の正室が1度目、2度目は摂家の娘なのに
3度目になると摂家の養女とはいえ外様大名島津家の分家の娘になるみたいに。
摂家と島津なら財力のある島津のがむしろ格上
天皇家と島津なら財力のある島津のがむしろ格上
>>220>>221 その割りに、徳川歴代将軍が初婚で迎えた正室は、
3代将軍家光以降、すべて摂家か宮家、天皇家の息女だね。
外様の大々名の娘がいいなら、それこそ、
加賀前田家か薩摩島津家からばっかり正室を迎えればよかったのに。
家定が島津から嫁をもらったのは家斉の先例があるから。
島津本家には家定にあう娘がいなかったんじゃなかったっけ?だから一門の娘を本家の娘にして
正室にしたんでそ?
来年の篤姫、お楽しみに!
225 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:22:33
鍋島直大の妻梅渓胤子と広橋栄子は?
226 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 23:02:16
家継婚約者の吉子内親王の母親松室敦子の松室氏って半家ですらないけど父親とかは一体何をやっていたの?
227 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 09:49:58
吉子内親王の母は、備中守松室重篤女。
松室氏は、代々、京都松尾大社月読社の長官。
旧くは壱岐卜部氏を名乗っていたとされる。
>>223 家斉正室寔子は、家斉がまだ一橋を名乗っていた頃に婚約。
一大名の正室としては外様の島津家息女で充分だったが、
家斉が急遽将軍家を継ぐことになり、寔子の家柄が問題となり、
あわてて摂家の近衛家の養女としたらしい。
寔子は将軍正室となる前、「篤姫」を名乗っていた時期があり、
天璋院はこの名前をあえて踏襲した。
島津出身の天璋院が将軍家定の3人目の正室に選ばれたのは、
子だくさんの家斉の御代にあやかるためだったが、
結局家定には子が一人もできなかった。
正室の話はスレチですよお前ら
230 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 17:16:51
側室とセックルセックル
231 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 19:01:22
晃親王の生母藤木寿子に萌え
>>231に続くぞw
桂岩院&お与津御寮人姉妹と、その姪の四辻継子の
四辻家出身三側室に萌え。
特に桂岩院&お与津御寮人の旦那の寵愛と反比例する
薄幸さ加減に禿げ上がるほどマジ萌え。
>>231 寿子は晃親王を産んだ後、ほかの男と結婚してるよね。
※ 側室の家柄と血筋スレです
大名一年替りに在処に居る故、
近年は公家の娘などをひそかによび寄せて、
在処にすえ置きて、本妻のごとくする類多しという。
荻生徂徠「政談」
237 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 11:59:48
>>233 幕府は四辻与津子と近臣を追放したかと思えば、
与津子の姪継子は後水尾上皇の愛妾になっていたり、
あまり厳しい処分ではなかったみたいだね。
後水尾天皇の愛妾としては、ほかにも、
園光子(壬生院)と園国子(新広義門院)の園氏出身の愛妾、
国子は光子の姪だね。
叔母と姪をご寵愛って
後水尾ってもしかしてド変態か?
霊元天皇は姉妹に子供を産ませてるよ。
室町時代から女官の出る家柄っていうのが決まりかけているから、姉妹や伯母姪、従姉妹で出仕している
のは多い。天皇にだって好みがあるだろうから、一人寵愛したらその女官に似ている別の女官を寵愛しても
おかしくない。血が繋がっていれば雰囲気だって似てくるだろうから。
あと、父親の後陽成天皇も女御の中和門院の姪にも子供を産ませているし。
240 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 15:31:46
霊元天皇の場合、愛妾五条庸子の死後、
妹の五条経子を愛妾に迎えたんじゃなかったっけ?
そういう例はほかにもあるよね。
仁孝天皇は女御鷹司繋子を正妃として迎えていたけれども、
繁子が早世してしまったので、妹の鷹司祺子を女御に迎えている。
あと、後陽成天皇の子供を産んだ中和門院(近衛前子)の姪って、誰?
241 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 15:39:12
側室とセックルさせろ!
こうしてみると不思議だよね
天皇家は側室になれる家柄もガチガチに決まっている(武家は駄目 公家でも名家とか限定)
徳川将軍家は出身ロンダリングさえ出来れば身分の低い女の方が逆に歓迎される
幕末になると逆出身ロンダリングした水野氏みたいのもでたが。
天皇家は尻拭き女にしょっちゅう手がついてたそうだが、孕んだのもいただろ
ああいうのは側室じゃなくておてつきってやつか
子供生んだら御息所だしな
>>250 古市胤子 母親が近衛前久の娘らしいから姪でしょう。
246 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 16:32:29
>>243 天皇のお側に仕えるには官位が必要で、
公家の娘以外に天皇の手がついた例はないよ。
女官の筆頭である尚侍は江戸時代にはおかれず、
実質的なトップである典侍、権典侍にのぼれるのは
羽林家、名家の娘に限られ、
その下の命婦までが天皇の前に出ることが出来た。
天皇に目通りがかなうのはせいぜい半家の娘まで。
その下の御末、女嬬などのした働きの女性は
天皇の前に出ることは無く、
堂上家以外の娘が天皇の目に触れることが無かった。
天皇のトイレの世話をするのすら、
命婦と呼ばれる公家の娘の仕事だった。
>>244 古市胤子でぐぐったら247件も出てきたのでビクーリ
足利義尋室という説もあるようだ(義尋死後、後陽成天皇の後宮に入ったとも)
248 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 18:06:50
尻吹き女は公家の娘だったのかw
貧乏下流公家の女がかなりバカにしてたが、自分らの事じゃん
官位ではなく官職でしょう。(位は持っていないほうが多い)
命婦は公家の娘ではなく地下官人や社家の娘だよ。
どっちにしてもソースくれ
251 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 08:43:45
>>247 古市胤子が古市胤栄の娘であり、後陽成天皇の愛妾となって
一男二女を産んだことは、本朝皇胤運紹録に出てくる。
母が近衛前久の娘であるというのは?
古市胤子はもと、足利義昭の子高山の愛妾(正室ではなく妾)。
高山との間に、義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)を生んだ後、
後陽成天皇の愛妾となった。
義尊と常尊は母親の寵愛によって後陽成天皇の皇子に等しい待遇を受け、
皇族たちとも親しい交流があったと、義尊が門主を勤めた実相院の
寺のホームページに書かれてある。
http://www.jissoin.com/about/index.html
252 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 16:37:58
直接口をきくことが出来たから、そこら辺の女官より全然親しかったって言ってたな
手がつくことは割とあったらしいから、老女だけとは限らなかったかもしれない
254 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:18:58
時代は違うけど、清少納言あたりは江戸時代でいうとどの程度の地位だったかご存知の方いますか?
(皇后付だからといっても、天皇の目に触れるところにいる女性だから、どの程度の地位って言えるわけですよね?)
皇后の女房じゃなかったっけ
256 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 17:30:40
>>254 清少納言は中宮定子に個人的に雇われた女房であって、
内裏女房ではありませんね。
ただ、「枕草子」で清少納言は、親しい男性官僚から
命婦にでも推薦されるべき人だな、と言われて大喜びしているので、
中宮付の受領出身(中流貴族出身)女房にとって、
内裏女房の命婦は憧れの官職であったようだ。
257 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 23:31:16
明治初期だと側室が正室の死後正室に格上げされた例が多いな
258 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 22:44:20
江戸時代でも公家出身の側室が正室に格上げされた例は意外とある。
公家出身以外なら徳川義直の継室於佐伊と
保科正之の継室於万ぐらいしか思いつかん。
書いてて気づいたが二人とも東福門院の元侍女だ。
継室とはいえ将軍の異母弟の正室にしては家柄が釣り合わない。
二人が正室に昇格できたのは女院の威光か?
江戸時代で公家出身の側室が正室に格上げされた例を詳しく
260 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:51:03
>>259 具体例は島津重豪の継室・綾姫(甘露寺矩長女)しかしらないなあ・・・
261 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:04:59
継室が正室に格上げというか、
正室が死んで後室を迎えなければそうなるんだよね?
これまで国許にあった側室が、
新たに正室として江戸屋敷に住むようになると言うこと?
でも、江戸屋敷にも正室のほかに側室もいたんだよね?
もともと江戸屋敷にいた側室が正室に格上げされるって、
具体的にどういうことをいうんだろう?
正室と側室は明らかに扱いが違う
正室は藩主の家族だけど側室は使用人だから。
例えば、文書の敬称の扱い方。正室なら「様」だけど側室には敬称なしとか「殿」
家臣からの挨拶とか、他藩との交際、生活のいたるところまで違うよ。
正室が死んで後妻を迎えなくて正室なしの状態もありうる。
たとえ側室が何人いてもね。
正室になれば江戸屋敷に住まなくてはいけないから、国許の側室が正室になれば当然江戸屋敷に住む
江戸屋敷の側室が格上げになれば、部屋とか侍女の人数なんかも改めて変わってくる。
名前や親元も変わるかもしれない
263 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 02:04:11
>>259 秀康系の松平家で東園氏や桜井氏の継室がいたから彼女たちは多分側室あがりだと思う
264 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 16:26:28
徳川綱重の継室って側室上がり?
綾小路家ってかなり地味な家で正室になれたのが不思議だ。
265 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:05:52
松平春嶽の母親は満40歳で末っ子を産んでいる(春嶽は32歳の時の子供)
266 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:21:53
>>264 いや、徳川綱重の正室隆崇院が没した後、
隆崇院の父二条光平が、綾小路俊景の娘だった紅玉院を養女とし、
紅玉院はさらに綱重の嫡母に当たる三代将軍家光室本理院(鷹司孝子)
の養女となって綱重の継室に収まった。
側室上がりではないよ。
267 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:42:48
268 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:53:27
>>267 二条光平の正室で、後水尾天皇と徳川和子の皇女である
賀子内親王には、子供はいなかった。
隆崇院の母は家女房だが、誰かはちょっとわからん。
二条光平の後、二条家を継いだ綱平も九条家からの養子。
なんという詳しさ
270 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:11:58
>>268 何かで隆崇院は和子の孫と書いてあるのを見たから実はそうではないんだ
271 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:16:51
>>268 綱平は正室九条氏(名前忘れた)の子供?
272 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:03:17
二条綱平は九条兼晴の次男、母は家女房。
273 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:05:20
家女房のはず。九条輔実が待姫の子。
ところで待姫は家光養女鶴姫の子なんでしょうか?
274 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 14:33:40
鶴姫(松平忠直の娘・将軍家光養女)の子だよ
275 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:06:44
276 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:24:16
浅野綱晟の正室、継室も鶴姫の子じゃなかったかな
鶴姫には女子は幾人かあったが男子に恵まれなかったため
鷹司家から迎えた兼晴を娘婿として九条家を継がせたけど
>>266 家綱や綱重でさえ本理院を嫡母としていないのに?
中之丸に引きこもってた本理院が、なぜそこで出てくるんだ。
そしてそのソースは何。
278 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 09:56:42
慶喜の母吉子の母は一体誰?
279 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:19:59
有栖川宮吉子女王の母は側室の安藤清子。
280 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 00:00:38
281 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 18:34:49
>>267 >>268 『以貴小伝』(明18刊、国会図書館蔵本)に
「五の宮(賀子内親王)の御むすめにておはしければ」とあるけど、
確かに「御はら」とは無いわな…。
だれか『二條殿日次記』かなんか閲れる人いない?
282 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 18:44:29
>>277 紅玉院の件、『幕府祚胤伝』(天保9)にあるけど、
確かに書き方が微妙。以下抜粋
後御簾中(紅玉院のこと)
本理院殿二条殿の御養女とならせられし時二条光平公の御実子分となる。
実は山科参議左兵衛督言行卿の女(ry
283 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 22:48:44
∩゚∀゚∩age
284 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 01:12:07
ぶっちゃけ側室は16くらいでフェラうまくておもわず腰
振っちゃうような何十分でも舌ベロベロしてチューしてくれたり
椅子に座ってたら下着でまたがってきてだっこちゃんっなんて
いってくれるちゃうようなのがいいぞーほんっとにっ
285 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 01:14:12
禿げワラ
>>284 はげしく同意だけど、できればストッキングはいている子も
ほしいな
お前らが側室何人も持てるような江戸時代以前の権門に生まれていたらまず何をしたよ
>>287 そりゃ3歳きざみで13歳〜40歳まで持つわな
春厨はゆとり板へ
290 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:36:27
いやだからぁ〜 毎晩風呂場で大の字になって
3、4人に泡踊りさせまくりだろ
日中はフェラさせながら政務とか毎晩処女を村から徴収とか
291 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 14:22:45
>>290 そういうことをすると「御乱心」と言われ,
家をお取り潰しになるのでは。
春厨の童貞の妄想だから相手にするな
293 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:23:40
でもよー 1万のちょんの間って全然興奮しねえのな
やっぱ持ち金ぎりぎりで買える出会い系素人とか4万とか
ウハウハなわけですよ、まったく、グヘへ
何ででしょうな カッ カッ カッ
294 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 02:11:55
295 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 17:04:59
>>290 でもそういうのって意外とすぐ飽きるかもよ。
毎晩女という女が迫ってきて口うるさい周囲から「早くお世継ぎ」をとか言われて。
下手に「俺は種馬じゃねえよ!?」とか自我に目覚めちまうと、
あとは衆道一直線じゃなかろうか。
春厨だらけ
将軍家の場合だが、「お湯殿の子」防止のため
将軍が湯浴みするのは大奥ではなく中奥で、
お世話するのは男。
大奥でやりたい時は事前に連絡。
しかし、歴代将軍の命日&その前日はHできず
その他も忌み日などもあるため
一年中やりたい放題というわけでもない。
将軍が大奥内で入浴しないようになったのは中期以降。
湯殿でお湯を沸かす、お湯をくみ上げる、将軍の体を洗う、
ふく、などの水仕事は大奥で身分の低いお目見え以下の仕事だった。
しかし、風呂場で薄着の男女が一緒にいると将軍が興奮して犯してしまうこともあったらしい。
家光の側室お玉(桂昌院)は風呂で家光に手を付けられた側室。
しかしながら、身分の低い娘が一気に将軍生母にまでなる可能性を憂慮し、
家光以降は大奥での湯浴みは禁じられ、中奥で男性小姓が世話をすることになった。
吉宗は「お湯殿の子」だったよな
それは俗説
そうなの?
子供のころなにかの本で読んでずっと信じてたw
公式には「大神神社社家巨勢氏」の出身となっている
巨勢氏は古代では有力だった豪族だが平安時代には早々と衰微していた。
巨勢氏の勢力範囲(五條市の辺り)を考えるとあながちガセとも言えない。
にしても江戸時代の中頃には大神家社家では有力な士族とはとても言い難く
風呂炊きレベルの下働きでお由利が紀州藩に奉公していたとしてもおかしくはない。
ふむ
305 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 12:07:38
三原の浅野家に側室で入った月姫(徳川家光の落胤?)の素性を知ってる人いる?
306 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:32:36
徳川家光の子に月渓院(次男だが)ってのがいるけど、
法名が同じだから月姫がご落胤ってことにいつのまにかなったのかね?
307 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:34:30
今日の大河に初登場した家定の側室お志賀は?
>>305,306
三原では大河の春日局やったときに、お万の方が生んだ娘を
公式の子どもに出来なかったので京出身の侍医の子とした。
という小冊子(漫画だが)を作って配付している。
典拠となった史料については書いていない。
>>307 父は御鎗奉行堀美濃守
309 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:55:46
月姫の祈願所三原の大善寺に伝わる言い伝えでは
月姫は家光の落胤、浅野の当主が江戸城に登城したときに
月姫を見染め、月姫もまた相思相愛になり
周囲がこの格違いの恋愛を本人たちの強い希望で認めたとしている。
月姫が祈願所とした大善寺の月姫寄進の殿舎には
徳川家の葵の紋が認められたそうな(今でもこの建物は残っており、瓦に葵の紋がある)。
しかし、本当に家光の子なら、わずか3歳で嫁入りした千代姫同様、
幼少時に婚姻が決められなかったのもおかしいし。
お万は春日局没後、大奥で最も権力をもち相当我まま放題にふるまっているので、
実の娘が仮にいたのならば、実娘にどのようなことでもしてやっただろうし。
京都の町医者の養女が浅野家の側室になるのもどうかと思うし、
お万がそれを認めたとも思えない。
310 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 18:39:17
>>309 当主ではなく、まだ世子だったころで浅野長門を名乗っていた。
当時、幕府は証人(人質)を江戸城内に住まわせる政策をとっていて
城内にあった屋敷に住んでいた。
その証人の差配を春日局がやっていたらしい。
しかも正室をすでに持っていて、月姫は側室だったらしいよ。
寺社が葵紋を持つのは、当時はよくあったそうで、あまりに使われるので禁令が出たとどっかで読んだ記憶が有るな。
312 :
あたご:2008/06/03(火) 12:17:25
その土地ならではの伝承は、意外性があったり
実際の謎をとくのに参考になる発見のある反面、
他の同時代史料と整合性がとれないただの贔屓目ってモンも多い。
また、あてにならないのが寺伝というやつだ。
314 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 03:41:55
>>313 孝謙天皇が下野へ追われた道鏡を追っかけて、そこでなくなったなんて話もあったりするしねw
ただ、決して馬鹿にはできんと思う。
側室といえば、家康の側室のお万の方の実父って正木氏と蔭山氏どっちなの?
資料によってばらつきがあるんだが。母親も北条氏隆の娘だったり、田中
越中守娘(=板部岡融成の姉妹)だったりと一定しないし・・・
315 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:34:41
実父は正木氏。母の再婚先が蔭山氏。
316 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:55:16
武士て江戸時代幕末の足軽や浪人もいれてか?
諸大名・外様大名・武家クラスじゃないと話しにならんが
317 :
日本@名無史さん:2008/06/15(日) 15:12:39
>>314 『寛政譜』と、将軍家と親藩や御三家の系譜を集成した史料(名前失念)には
正木邦時を父、北条氏隆(尭)女を母とあり、『南紀徳川史』には父正木邦時、
田中越中守女(=岡野融成姉妹・北条氏隆養女)が母とある
318 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 14:35:47
鍋島直大の孫(跡継ぎ)はイケメンだ誰に似たんだろ?
家光側のお楽って将軍生母として問題なかったのかな
320 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 14:26:48
晃親王の生母は邦家親王より年上?
>>318 カンペキ母親(福岡黒田家出身)似っすね。
>>319 父親が罪人とかいうのか。
その父親の名前さえ諸説あるし、実際のとこどうなんだろうな?
弟が独立大名になって名乗った増山は母方の姓というし
父方に何か問題があるのは確かなのか
323 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 14:20:16
それ海音寺潮五郎の創作じゃなかったんだ
325 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:11:14
父親が罪人云々は徳川家の正史「徳川実紀」にあるから間違いない
というか徳川家もその事実を認め堂々と正史に乗せているわけだ
家光の側室のお振もたしか父親は刑死じゃなかったか
正確に言えば刑死ではないけど刑死同然の死に方ではある>お振の方父・岡重政
しかも徳川家がらみ・・・因果な宿命じゃ
328 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:55:56
岡重政が石田三成の娘婿というのも何かの因縁か
329 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:24:37
家光場合、乳母の父も刑死
330 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:46:33
お振の父が岡重政かどうかも疑わしい。
孫じゃないの?>岡重政とお振
『幕府祚胤伝』
蒲生飛騨守氏郷の臣某氏の女
岡半兵衛重政の女(柳営譜略)
岡吉右衛門の女(以貴小伝)
会津産三保氏の女(自証院記)
岡越後守貞綱の妹(柳営婦女伝)
町野長門守幸和養女(町野氏系家譜)
『以貴小伝』
自証院・・・父を岡吉右衛門といふ・・・母は竜光院といふ。・・・
一書に、吉右衛門か父は半兵衛といふ。・・・
『柳営婦女伝系』
自証院殿の実父岡半兵衛重政・・・
重政嫡男岡左内、のち越後守貞綱・・・次男岡吉右衛門・・・
此吉右衛門の妻は・・・町野幸和が女にて、女子弐人男子壱人を産す。長女お多阿は
岡七兵衛が妻なり、二女お振の方・・・
『徳川実紀』にはどうあるんだろう
334 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 15:29:58
面白いね
335 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 04:46:06
戸籍を調べたら、俺の母方の高祖父が「旗本」だったことが判明した。
しかし父方は「水呑百姓」の家柄だ。
この場合、俺はどちらの家柄の家の末裔を名乗ればいいか教えて欲しい。
336 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 18:22:21
好きなほう勝手に名乗れよバカ
苗字を名乗ってるのがお前の先祖
お前は母方の高祖父の家の苗字を名乗って墓守もして法事もしてるのかね
それなら先祖といえ
338 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:34:59
自分の先祖の話はスレ違い
正室と仲がいい(もしくは仲が悪くなかった)側室ってどういう人が記録に残ってるんだろう?
将軍家だと正室は西の丸とかに住んでて顔合わす事もなかったとかが多いんじゃね
その辺の大名ならワカンネ
341 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 22:20:33
上杉景勝継室、四辻公遠息女桂岩院
343 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 20:19:43
アイツ、いやあのクソ女は公家の娘でも継室でもねえ!
下 賤 の 家 の 娘 で 子 産 み 女 だ!!
摂家の娘でも生みの母は下賎な身分がほとんどだろ
昔は正室は大抵飾り物で愛されてたのは側室とかだ
346 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 14:41:04
>>345 >摂家の娘でも生みの母は下賎な身分がほとんどだろ
下賎な身分とは、農工商を指すんでしょうね。
摂家の側室は、公家(のうち家格は羽林家・名家・半家)のほか、
地下人・諸大夫・社家・坊官・医官・有位有官・藩士・士分、迄の娘が殆どだと思うけどね。
そもそも摂家に下働きで仕える農工商の娘には、
万一摂家当主の目に触れる可能性のある場所での仕事は、与えられないと思う。
347 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 22:00:17
>>345 側室のほうが愛されていたかどうかは分からんよ。
江戸時代以降、公家は当主に産まれた子はすべて正室の子と公称し、
正室ただひとりを母とするようにされていた。
側室はただ家女房と記され名前すらあきらかではない。
まあ、だけどまあ、公家社会では正室腹の子も大勢いるよ。
何歳になったらお褥を辞せ、なんて公家社会にはそんな風習なかったし。
父は摂関、母は内親王なんていう公家も結構いた。
>>346 医者って江戸時代はBだぞw昭憲皇太后は医者の娘の脇腹だし
お湯殿係りやお下さんは下々出身で一番下半身や裸に身近な身分だ
349 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 20:01:35
>>348 医官と言ったら士分である医者を指す。
町人相手だけの町医者なら、まあ町人階級と言えばその通りだけど、
公然と苗字を名乗れるとか、御家人並みに妻が「御新造様」と呼ばれるとか、
士分と町人の間のようなような存在。
天皇家・摂家・宮家では、「乳母」だとか便所浴室着替えなどに奉仕する「御差」だとか、
主人の体に直接触れる職掌は、御目見え以下の女中には任せられない。
最低でも士分、中でも社家や侍の娘が多かったらしい。
侍や社家の娘がうんこの世話するのか
その時点でもう下層としか
そこそこ役得もあるみたいだよ。
352 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 05:54:40
泥まみれで畑仕事してるような一般人が摂関家の当主と出会うことすらないな
353 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 07:46:41
どっちにしても、おまえら小作人や水呑みの子孫よりはみんなマシだから。
354 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 21:55:55
自分と同じような環境にいる正室より、掃除や洗濯をしているような下女がいいというのは現代人の感覚だろう
355 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:07:12
>>1 ◇貴族社会だと◇
宮家・公家・社家・将軍家・武家・大名家
◇庶民だと◇
庄屋・農民・大工・商人・・・・・
>>91 その割には・・・在日韓国・朝鮮人の人は既に四代目五代目になっているけど、まだ外国人だね
帰化した人まで帰化人扱いだ・・・圏寒中たちから見ると
357 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 13:56:53
はっきり言って子供は正妻の子として育てられる。
仲が悪ければわが子に影響があるから、側室は正室を立てるに決まっている。
大奥でも雲泥の差があった。
はっきり言って、大名みたいに生みの親がわかる人は少なくて、
たいてい生みの親の欄に正妻の名がかかれるのが戦前の日本。
生みの親がBでも戸籍ではわからない。
358 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 15:58:58
「側室」と言う言葉では呼ばれないような階級の事は、このスレで言及する必要なし。
359 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 20:53:47
たとえば?
1から読めばわかるよ
九条輔実の生母は実は家女房、とかでなく本当に待姫でおk?
二条家に入った次男の生母は家女房だけど、本願寺に入った三男と
早世した姫の母親は待姫?
363 :
日本@名無史さん:2010/01/15(金) 18:36:57
スレ落下防止のためあげます
364 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 21:07:28
>>362 親父が婿養子だから待姫の子でなかったら九条家は継げなかったのでは?
365 :
日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:54:47
>>364 公家も武家も基本的には男系だから、待姫の夫となった兼晴は
待姫の父九条道房と正式に養子縁組をして家督を譲られており、
待姫の子しか九条家を継げないわけではない。
道房の正式な後継者である兼晴の子であれば待姫の子でなくとも
正式に九条家を継げる。
輔実は尊卑分脈などを見る限り、待姫の子だ。
ただし、嫡男等である場合生まれてすぐ家女房などから取り上げて
正室が実子と公表する場合もあり疑いがないわけではない。
366 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 01:23:22
九条兼晴で不審なのはもう1人の妻・賀子内親王
年齢は下でも身分はむしろ待姫より上だろう
内親王から二条綱平と本願寺光澄が産まれている
2人の妻の関係はどうなっていたのか
>>366 ????
賀子内親王って後水尾の娘の?
二条光平の妻じゃないのか?
二条綱平の母は「九条家家譜」によれば家女房だよ。
二条家に養子に行ったから、二条家の養母として、
系図に母賀子内親王と書かれてるんだよ。
368 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 22:19:20
>>367 そうだったか、すまなんだ
よく調べてみたら年齢も待姫よりずっと上だな
40歳で綱平を「実子」にしてるね
賀子内親王の猶子・永悟法親王(後西天皇第三皇子)は気の毒だな
満年齢に直すと9歳で得度、円満院門跡に補されるも16歳で死去
皇位を継げない親王は寺に入るしかないとはいえ
369 :
日本@名無史さん:2010/01/28(木) 23:04:09
近衛家煕正室内親王(父霊元天皇)→家久・徳大寺公全妻を産み娘は実憲と一男(夭折)を産む。娘の血筋は後に断絶するが息子の血筋は現代まで残る。
九条輔実正室益子内親王(父後西天皇)→師孝・輔子(徳川吉通妻)を産むが師孝は早死、輔子の息子五郎太は夭折。
二条綱平正室栄子内親王→娘・吉忠を産むも娘は0歳で死亡。吉忠の直系は断絶し吉忠外孫の音仁親王の娘が仏光寺に嫁ぎ息子は専修寺に養子にいってるが子孫は不明。
370 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 15:47:31
>>370 もんち → 門地
一発で簡単に変換できるけどね。
人並みの知識・学力の人間だったら、意味も分かるのが普通でしょう。
側室ほしい
373 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:15:44
やるよ
374 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:23:51
いいね
375 :
日本@名無史さん: