952 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:36:25
飯野保科家は2万石なのに帝鑑間詰めなんだから、かなり優遇されてるな。
953 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:37:45
正貞は浪々の身といっても、大阪夏の陣で活躍して、
大番頭になっていたけどね。
954 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:41:00
孫ネタ慶敬
955 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:46:18
慶喜→家達→家正→恒孝→家広
↓
慶久→慶光→慶朝→慶敬
935 :日本@名無史さん :2006/02/21(火) 17:09:51
http://www.tokugawa-web.co.jp/top.html 936 :日本@名無史さん :2006/02/21(火) 17:22:05
徳川 家広(とくがわ・いえひろ)
1965年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、ミシガン大学で経済学修士号取得。国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部で勤務。その後、コロンビア大学で政治学修士号を取得。2001年に帰国し、翻訳家として活躍中。
<主な訳書>
『新上海』(集英社インターナショナル)
『戦争で儲ける人たち』(幻冬舎)
『ドル暴落から、世界不況が始まる』(日本経済新聞社)などがある。
956 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:46:55
今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
908 :日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:48:45
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5
957 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:47:04
越智家については、【河野・越智氏総合スレ】があるから、
そちらをくぐってみれば・・・
958 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:47:44
今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
908 :日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:48:45
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5
959 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:55:50
960 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:57:14
家 広 み た い な 架 空 の 人 物 は ど う で も い い
961 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:17:11
『藩翰譜』によれば・・・家光・正之兄弟についてこんな逸話がある。
家光が鷹狩りの帰途、成就院という寺に寄った折、
家光が家来の一人のような顔をして寺僧にこの寺の檀家を尋ねたところ、
「たいした家はありませんが、保科正之様の母上がよくお詣り下さいます。
ただあまり裕福でなく、お布施も乏しいです。下々さえ兄弟仲良くあるを
心掛けているのに、どうして将軍様はああも保科様に冷たいのでしょうか」
と言われ、心中穏やかでなっかった。
その後正之が出羽20万石に封じられたと噂が伝わるのと同じ頃、
成就院にも家光から広大な土地の寄進があった・・・
あくまでも逸話だが、家宣の清武への冷たさに比べて・・・
962 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:35:04
963 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:36:09
コ川家廣、とくがわいえひろ、1965年 -
徳川家広(コ川家廣、とくがわいえひろ、1965年 -
実在だよ。
964 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:38:10
現代の徳川の人のほうが興味あり。なぜなら調べようがないから。 歴史上の人物は本を読めばよし
965 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:38:51
現代の徳川家の人々と知り合いたい
966 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:39:26
家宣は家光と違い、生まれながらの将軍ではないから、自分個人の
判断で身内を優遇できなかっただけではないのか?
初めは御三家や幕閣にも気を使っていただろうから、将軍就任
直後は、目立つ身内優遇は家宣の性格から控えていたのだろう。
(病に倒れた時、後継者は幼い実子鍋松より御三家筆頭尾張吉道を
時期将軍に推したぐらい、家宣は私情を幕政に持ち込まなかった。)
将軍として軌道が乗り始めた頃に病いに倒れ、将軍在職たった
4年で死亡だし。もうちょっと長生きしていたら、大名に取り立てた
かもしれない。
将軍になった吉宗でさえ、長福丸を簡単に継嗣に定めることが
できなかったらしいし。(天英院の許しを得てやっと継嗣に
定めたらしい)
>>966 清武は家宣の遺言で加増されてるので、
家宣が長生きしていればもっと加増されていたかもってのは同意
あと、家光時代と違って家宣の時代には幕府財政に
余裕が無かったってのも大きいかも
気前良く使いまくった家光や綱吉のせいだけど
968 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:48:14
現代の徳川家の人々と知り合いたい
969 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:49:08
いまの徳川の人どうよ。詳しく知りたい。誰か調べて
970 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:50:16
だよな。家広ってなんだよ、バ〜カw
971 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:53:48
家広というのは徳川ヲタや子孫厨の妄想が生み出した架空の存在です。
日本史板で語るに値しない、ただの幻です。
972 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:05:12
>>971お前は帰れ家で読書でもしてれ。2CHにくるな。あほ。歴史ドラマでも見てろ。
ちょっと待ったあなた様がもし徳川松平一門様だったら別ですが、
973 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:08:04
974 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:10:42
大君徳川様を江戸城に入城され申されそうりょう。
975 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:02:50
家宣が病臥時に、新井白石に「家継の後見に尾張吉通を立てるべきか、
それともこの際尾張吉通に将軍職を譲るべきか」と尋ねたといわれている
のは白石の創作。傍証する史料がない。
976 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:07:01
977 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:25:56
>>971ただ基地外でだね。 切り捨ててもかまいませんね。無礼打ちてことにでも。
978 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:27:41
やっぱり現在生きてお見えになれる徳川松平一門のことがきにらるのですが
979 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:29:02
21世紀の徳川家松平家の方々のこと気になるね
980 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:38:11
981 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:42:04
こういう人たちはリーマンやりにくいだろうな
982 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:46:46
18代徳川恒孝様は商社マンだったらしい。どうだったののだろうか。
徳川家の人々は学者が多いらしいが、徳川先生で検索するといろいろ出てくるよ。
983 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:52:39
松平真由美テ徳川様一族なのかな? 保育園の先生らしいけど?
984 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:55:34
そうすると松平健はどうよ?
まあ、徳川宗家御三卿御三家様の御子孫さまにかけ る
985 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:59:11
、徳川宗家御三卿御三家様の御子孫さまだけでなく松平様も調べるとると大変だね。
986 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 11:57:34
987 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:00:17
988 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:03:27
徳川宗家 御三卿 御三家 徳川慶喜家の明治以降分家もふくめて現在すべて知りですね。
家康嫌い
990 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:05:22
991 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:07:16
今の御子孫様たちはいったい今何をされてるのでしょう。教えていただきたい。
992 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:09:21
今の御子孫様たち本人たちが書くしかないでしょう。
993 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:14:37
>>991 本気で知りたければでかい図書館行って平成新修旧華族家系大成でも嫁。
10年前の情報だが。
ところで次スレは?
994 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 13:24:11
次スレいらねえだろ。
バカばっかりになっちゃうんだよな。
教えてちゃんは自分で調べることも前のレスを読むこともしない。
996 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 15:50:15
>>995 同意。
質問の前に前レス読めってんだ。
次スレ立てるなら立ててくれ
997 :
>>1:2006/02/22(水) 17:18:20
1000 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 17:24:34
うむ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。