徳川家について語るスレ2!!

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1日本@名無史さん
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「徳川家について語るスレ」の続編です。
荒らし、叩きは禁止。
結城@秀康、徳川頼宣@南龍公など
徳川一門も出入りしている楽しいスレです!!!
2結城@秀康:2005/11/26(土) 23:21:07
私がその結城です。みなさ〜ん
一緒に徳川家について語りましょう〜!!
3日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:41:43
 乙です。叩きはスルーで
4日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:47:28
叩かれるようなスレなんだな
5日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:50:09
いや、
いいがかりつけて叩く厨房がいるだけさ
6日本@名無史さん:2005/11/27(日) 02:57:58
剛のその後が気になる
7日本@名無史さん:2005/11/27(日) 09:07:32
前スレ

徳川家について語るスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1128676929/
8日本@名無史さん:2005/11/27(日) 10:32:34
>>1
最後の文は要らないだろ
荒らされて終了しそうだな、このスレ
9結城@秀康:2005/11/27(日) 11:25:19
しかし禅スレで語りつくしたような気もするな・・・
今回は徳川の何について語ろうか!?
10日本@名無史さん:2005/11/27(日) 14:06:39
  〜100 雑談
101〜200 尾張家
201〜300 紀伊家
301〜400 水戸家
401〜500 越前系松平
501〜600 会津
601〜700 その他松平

今回はこんな感じいかが?
11結城@秀康:2005/11/27(日) 14:08:24
おk!!
それでいこう!!
12結城@秀康:2005/11/27(日) 14:10:53
701〜800田安家
801〜900一橋家
901〜1000清水家
どうよ!?
13日本@名無史さん:2005/11/27(日) 14:11:51
前スレが家茂〜家達についてロクに語られないまま、終わりつつあるんだが・・・
14結城@秀康:2005/11/27(日) 14:16:23
じゃ、まずは禅スレでやりましょうや。
15日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:52:22
市ねよ馬鹿>>1



誰か、スレッド建て直してくれ。
16日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:56:46
>>10>>12
レス番号ごとに話題を別けるなんてできるわけねえ。
なんで将軍家がないんだよ? 
17日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:02:15
忠直や綱重、綱吉&家宣(将軍になる前)は徳川姓?松平姓?
18結城@秀康:2005/11/27(日) 21:04:37
忠直は松平、
綱重、綱吉、綱豊は
徳川だと思ふ
19日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:06:11
>>16
将軍家はゼンスレで
語ったんさー
20日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:07:37
>>1
3行目と4行目を消せ
21日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:39:16
>>19
じゃ、将軍家は話題にしちゃいかんのか?
あほくさー
22結城@秀康:2005/11/27(日) 22:07:17
話題にしてもいいんでない!?
23日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:29:02
話題にできるけど
禅スレで大体語ったから・・・
かぶるかもね・・・・
24日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:43:18
紀州侯が身を持ち崩したから、今の和歌山はぱっとしないのかな…(´・ω・`)
藩主の子孫がしっかりしてれば水戸や名古屋のように観光も盛んになっただろうに。
25日本@名無史さん:2005/11/28(月) 03:31:23
徳川 義宣(堀田正祥)(雅号嘉堂)

財団法人徳川黎明会会長・徳川美術館館長・美術史研究家・八雲産業社長
尾張徳川家(元侯爵)二十一代当主
二十代故徳川義知の長女三千子の夫(婿養子)

旧佐倉藩主(元伯爵)堀田家の出身・元貴族院議員故堀田正恒(鍋島直言)六男
元千葉県佐倉市長堀田正久実弟・元国際興業社主故小佐野賢治義弟
26日本@名無史さん:2005/11/28(月) 06:51:14
紀州家は紀伊重倫、紀伊斉彊らが食い潰し、血統も絶えました。
27日本@名無史さん:2005/11/28(月) 10:01:46
徳川家康が関東に国替えになったとき、「本物」の徳川家の当主を系図使用料として千石で召抱えましたよね、
そして征夷大将軍になったとき三千石に加増したとかいわれてますが、「本物」の徳川家はその後どうなったのでしょうね。
知っている人います?
28日本@名無史さん:2005/11/28(月) 10:53:34
家康の系統は松平の嫡流じゃやないんじゃないか?って話はスレ違い?
29日本@名無史さん:2005/11/28(月) 17:13:30
>>28
嫡流の定義はなに?
30日本@名無史さん:2005/11/28(月) 17:15:56
てか前スレ埋まってからやろうよね
31日本@名無史さん:2005/11/28(月) 18:07:00
紀州家は明治になってからも華族きっての資産家だった。
重倫や斉彊が食いつぶしたということはない。すべては頼貞一人の責任。

しかし、戦後でも国持大名だった家は、佐竹家みたいに直系が絶えても
しかるべき家から養子を迎えて家名を続けるんだが、紀州家は・・・
徳川・松平一門から養子を迎えて家名を存続させてほしいね。
32日本@名無史さん:2005/11/28(月) 18:44:07
徳川義宣は何人兄弟?
それと三千子夫人には弟がいたはずだけど夭折したのか?
33日本@名無史さん:2005/11/28(月) 19:37:44
鳥取池田家は未亡人が養子取り等をしないことを決断され、
旧国持ち大名で唯一家が耐えることに決まったって去年くらいに報道してました。
一応家康の女系子孫の松平です。その後養子で血統変わりまくった挙句、
幕末の藩主は水戸の庶子。
ちなみに兄弟の家系(初代は従兄弟同士)に当たる岡山池田も幕末の藩主が同じ水戸家庶子の
兄弟と言う因縁。
34日本@名無史さん:2005/11/28(月) 19:49:51
尾張藩主の死因

綱誠→食あたり
吉通→食あたり
五郎太→食あたり

三代連続で食あたりで死亡なんてあまりにも不自然
そしてこの3人の死により尾張優位の将軍後継者レースで紀州が完全に逆転した

あまりにも不自然
35日本@名無史さん:2005/11/28(月) 20:00:06
ま、鳥取池田の場合、支藩の家系も残ってるしな。
36日本@名無史さん:2005/11/28(月) 23:15:56
女系では何とか血統が保たれていたのにモッタイ無い・・・
37日本@名無史さん:2005/11/29(火) 09:41:55
9代家重さんについて、詳しく教えて下さい。
言語障害のような病気持ちだったということぐらいしか知らないので。
38結城@秀康:2005/11/29(火) 14:07:13
徳川家重(1711〜1761)
八代将軍吉宗の長男。幼名は長福丸。
家重は押さないころから
言語障害があった。そのころはまだ聞き取れるっぽい感じだった。
しかし成人してからどっぷり酒にはまってしまい、
つねに泥酔状態。よけい言葉を聞き取れなくなってしまった。
1745年、吉宗は家重に将軍職をゆずった。
もちろん、大御所として家重を後見する。
1760年、家重は子の家治に将軍職をゆずった。
翌年死去。51歳だった。
家重の功績は御三卿の清水家の配置ぐらい。
また、言葉の通訳のため大岡忠光を側用人としたため、
側用人制度復活なんかも。
家重は生前に将軍職を譲った4人目の将軍だが、政治をまったくしなかったため
大御所とは呼ばない場合もある。
39日本@名無史さん:2005/11/29(火) 14:28:31
徳川家って従三位から正三位とばして従二位になっているような気もするけど気のせい。
なにか不祥な先例ありとかで正三位を避ける理由があったのだろうか?
40日本@名無史さん:2005/11/29(火) 18:01:41
吉宗って家康や綱吉を尊敬してたって言うが
家康が作った御三家を蔑ろにして御三卿作ったり
綱吉の文治政治を否定したりしてるじゃん


吉宗以降の幕府は紀州政権と言うべきだと思うね
41日本@名無史さん:2005/11/29(火) 18:10:34
>>38
大岡忠光って、なんか悪い事したか?

家重は目立った功績は無いが、悪政を敷いたわけでもない。
でも健康な子を産み血筋を守った点では綱吉や家宣よりも立派
42日本@名無史さん:2005/11/29(火) 18:49:47
>>41
>>38は大岡忠光が悪い事をしたとは書いてないが
43日本@名無史さん:2005/11/29(火) 19:16:15
家康が作った御三家に習って御三卿を作り、
綱吉が趣味の文治政治にはしったの同様に趣味の武断主義と実学を重んじただけでは?
って言うのは冗談で、綱吉を尊敬って言うのは政策とかの問題じゃなくてただの感謝の念でしょう。
紀州政権には同意。
44日本@名無史さん:2005/11/29(火) 21:10:27
吉宗は後見していない。
45日本@名無史さん:2005/11/29(火) 21:30:12
吉宗に限らず、秀忠は忠長を徳川姓のまま駿府に置いたり、
家光が同じく、綱重を甲府に綱吉を館林に徳川姓のまま、
置いたりと御三家みたいなことをやっているから、別に
責める理由にならんでしょ?
46日本@名無史さん:2005/11/29(火) 21:36:03
綱重、綱吉については松平姓だったという説もあるが、どうなんだろう。
47日本@名無史さん:2005/11/29(火) 21:40:22
綱吉が将軍になった後、甲府は35万石となり、28万石の水戸を抜いた。
水戸は御三家の体面を保つために無理矢理打ち出しをして35万石に高直し。
48日本@名無史さん:2005/11/30(水) 03:40:17
じゃあ吉宗も松平姓だったの?
49日本@名無史さん:2005/11/30(水) 03:54:41
>>48
松平姓だった時期もあるよ

松平頼方(分家して3万石)

徳川頼方(紀州相続)↓翌年
徳川吉宗(綱吉から一字拝領)

うまいこと将軍就任
50日本@名無史さん:2005/11/30(水) 03:55:43
失礼、ミスったのでやり直し

松平頼方(分家して3万石)

徳川頼方(紀州相続)
↓翌年
徳川吉宗(綱吉から一字拝領)

うまいこと将軍就任
51日本@名無史さん:2005/11/30(水) 10:19:42
>>50
>松平頼方(分家して3万石)
ここが気になるんだよなあ・・・・・
この頃に綱吉に目通りしていて、兄の頼職と同じ石高をもらっている。
部屋住みの末っ子が破格の待遇じゃん


そしてその後の顛末を見ると、藩主光貞や紀州家の家臣が
この頃から頼方(吉宗)の藩主就任を待ちわびていたんじゃないかと勘繰ってしまう。

さらに、藩主になって以降、ライバル尾張家の藩主がバタバタと死に、
あれよあれよと間に将軍になったのも、強力な後ろ盾が居たとしか思えない。
老中たちが頼方の頃から「紀州に丈夫で利発な子がいる」と目をつけていたとかさ。

しかも家継が死んだ時には、水戸の綱條も存命だったんだろ?
年齢で行けばこの人が将軍になっても全然おかしくなかったんじゃないの?
水戸家は光圀の頃から家宣を支持してきたわけで、
そう考えると綱條が将軍に推挙されてもおかしくはないのでは?
52日本@名無史さん:2005/11/30(水) 10:35:51
綱條は藩政で失敗して不適格の烙印を押されていたとか。
もともと本来の御三家は宗家・尾張・紀伊の3家で、水戸は最初から継承資格がなかったとか。
年齢が高すぎると思われたとか。
いろんな説がある。
53日本@名無史さん:2005/11/30(水) 13:02:18
綱條って黄門の兄貴の子供で黄門が本家だからってことで
継がせた奴だよね?
結局バカだから黄門の家系に家を乗っ取られたってことなのかな。
ところで黄門は綱吉より先に死んだけど、
何か後継問題に首を突っ込んだり、からんだことってあるの?
54日本@名無史さん:2005/11/30(水) 13:44:45
娘婿の紀伊家綱教に継がせたかった綱吉に、甲府の綱豊(家宣)が継ぐのは当然だとか
進言して煙たがられたって何かで読んだけど。
55日本@名無史さん:2005/11/30(水) 14:08:03
水戸や尾張との釣合上、3家目の分家くらいはそう不自然だとも思わないけど。
三万石って言っても実質五千石だか七千石しかなかったそうだし。
綱教はいい年して子供のいない兄貴を消して早く跡を継ぎたかった頼職派の犯行、
頼職は、頼職家臣がのさばるのを嫌った綱教遺臣が頼方派と結んでの暗殺って推定もできる。
尾張のほうは吉通・五郎太は継友、継友・通温は宗春が暗殺したって可能性もあるな。
それに反発した吉通または継友派の家臣が宗春の子を消していき、
更に幕府の力を頼って宗春を隠居させたとか。
暗殺の動機がある人なんていくらでもいるよな。
全部幸運児宗勝が犯人って可能性もある。
56南龍公の亡霊:2005/11/30(水) 15:28:51
えらく遅れましたが新スレおめでとうございます。。。

>>53
ちょっと待ってね。
残ったのは綱條の血筋じゃないが、光圀の血筋でもないですよ。
綱條の弟頼侯→頼豊→水戸宗堯、高松頼桓なわけで。。。
もっとも高松藩は九代目に水戸治紀の子頼恕を迎えていますが。。。

57日本@名無史さん:2005/11/30(水) 20:41:37
58日本@名無史さん:2005/11/30(水) 20:52:43
苦労したのが顔に滲み出てるな・・・
59日本@名無史さん:2005/11/30(水) 20:56:10
>>57
容保の父は義建ね。
義健じゃなくて。
60日本@名無史さん:2005/11/30(水) 20:57:48
養父の容敬もホントは高須家の出で、容保の実のおじらしい。
61日本@名無史:2005/11/30(水) 21:16:28
で、結局会津松平家は藩祖正之の血筋は完全に死に絶えたわけだが、
女系でも残らなかったっけ?
62日本@名無史さん:2005/11/30(水) 21:17:18
>>60
そうだよ。容敬は義建の弟。
63日本@名無史さん:2005/11/30(水) 21:40:05
あんたら徳川家じゃないんだがね。
>>57は荒らしか?
64日本@名無史さん:2005/11/30(水) 21:51:12
>>63
>>100までは雑談。

>>61
とりあえず会津系には残ってないみたい。
もしかしたら大村家か、加藤貞泰家に女系子孫が残ってるかも。
65日本@名無史さん:2005/11/30(水) 21:52:17
家康公を尊敬する者ですが、
世継ぎを年長者にしたのだけは
引っかかります。

どうして一番出来の良いのに決めなかったのか、、、
66日本@名無史さん:2005/11/30(水) 22:30:36
>>65
秀忠は結構優秀だぞ
そもそも、秀康は他家を継いでる身だから後継者候補にはなりえないし
兄二人を差し置いて忠吉を後継者に据えればお家騒動の元
下の方の連中はちゃんと育つ保証はどこにも無い
秀忠以外に選択肢は無いよ
67日本@名無史さん:2005/11/30(水) 22:40:13
>>64
>>10の取り決めなんて誰も認めてないよ。
途中からスレに参加したひとは>>10なんか見ないし、将軍家の
話題は前スレで済んだでは制限がきつすぎる。
68日本@名無史さん:2005/11/30(水) 23:02:12
>>67
前スレだって予定通り進まなかったんだから、
>>10はゆるい枠ととらえればいいじゃん。
カリカリしなさんな。大人気ない。
69日本@名無史さん:2005/11/30(水) 23:08:57
>>65
家光も、優秀だな。
江戸がいっぱしの街になったのも、上方コンプレックスちゃあそれまでだが、
その上方の整備もちゃんとやってる。
幕藩体制の整備も、街道や通商のしくみも、ほとんどが家光の代に作ったもの
だしな。
70日本@名無史さん:2005/11/30(水) 23:12:04
その家光の功績もほとんど秀忠の基礎作りあったればこそだしな
71日本@名無史さん:2005/11/30(水) 23:21:15
>>65
誰が「一番出来の良い」って決める?
そんな決め方にしたら争乱のもとになるぞ

安定政権においては一番都合がいい決め方。
72日本@名無史さん:2005/11/30(水) 23:42:30
>誰が「一番出来の良い」って決める?
代々出来の良い将軍が決めれば誰も文句ないだろ?
73日本@名無史さん:2005/12/01(木) 00:19:46
>誰も文句ないだろ?
おいおい、バカ扱いされて後継から外された奴が
納得すると思うのかよw
74日本@名無史さん:2005/12/01(木) 03:58:50
しかも出来のよいってのは相対的である罠
75日本@名無史さん:2005/12/01(木) 13:43:19
流れを切って申し訳ないが、徳川氏の出自についてもおk?
松平親氏が新田の流れを組むってのは確かに眉唾だが、「流浪の人間が婿入りして
勢力を拡大した」という伝承はあったわけでしょう?
この辺りの経緯が「南朝」というキーワードでくくれるんじゃないかと、最近思ってます。
三河はもともと南朝の地盤(三河源氏)があったところですし、譜代大名の祖先譜を見ても
南朝を匂わせる家がいくつか(石川とか成瀬とか)入っていたりします。
ひょっとして親氏は(新田系ではないまでも)南朝系の”貴種”で、三河に残る南朝系を
糾合して一大勢力になったのかな、と空想しているのですが・・・。
この意見についてsuggestionをいただけたら幸いです。
76日本@名無史さん:2005/12/01(木) 13:47:20
75に少し追加
だから家康が「新田」を名乗ったっていうのも、単に源氏系だったらどこでもいいわけじゃ
なくて、南朝の忠臣である「新田」であることが重要だったのかな、と思ってます。
77日本@名無史さん:2005/12/01(木) 14:33:03
>バカ扱いされて後継から外された奴が納得すると思うのかよ
バカ長男に着いて行くよりはマシでしょ?

信長を思い起こせばうまく行く
78日本@名無史さん:2005/12/01(木) 14:36:14
>>77
見苦しいし、難解な日本語を使うなよ。
本人だけでなくて取り巻き連中まで入れたら、お家騒動になる。
79日本@名無史さん:2005/12/01(木) 14:39:07
吉宗が紀伊家から将軍家を継いだとき、付家老の安藤と水野は吉宗
に同行?して大名になろうとはしなかったのかな?
紀伊に残ったままでは陪臣のまま。
80日本@名無史さん:2005/12/01(木) 16:27:22
水戸の徳川博物館に行って、系図を見てきたんだけど、
結局、紀州家の最後は西条松平家の血統、尾張家の最後は水戸家の血統、
てことでいいの?徳川家茂は西条松平家の血統だから吉宗の血筋じゃないよね?
81日本@名無史さん:2005/12/01(木) 16:38:54
>>80
尾張家は廃藩置県の時は水戸の血筋だが
何故家茂が西条出身なの?
れっきとした吉宗の後裔でしょ
82日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:08:55
>本人だけでなくて取り巻き連中まで入れたら、お家騒動になる。
世間的に出来の悪いほうを擁立したお家騒動なんて
そんなにたくさんないんじゃないの?

家康公のせっかくの幕藩制度が、もったいない。
信長はなんで三男なんだっけ?
83日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:20:23
>信長はなんで三男なんだっけ?
三番目に生まれたから。は冗談で、要するになぜ三男なのに後継ぎかと言うと、
正妻腹の長子だから。
それでも長男は歴史に名を残しているが、次男にいたっては名前すら不明の謎の人物。
ちなみに長男も反抗したことがあるが許された。
信長は一度目の犯行のは結構寛大だった。まあ力的に許さざるえなかっただけかも?
スレ違いの話題だよな。
84日本@名無史さん:2005/12/01(木) 17:40:33
>>82
頭の出来の悪いほうが御輿にしやすいからそうでもない

大体人間の出来なんて一意に定まるもんじゃないんだから,
相続のたびに無用な争いが起こるに決まってる

頭は切れるが病弱で寝込んでばかりの子,健康だが頭は人並みの子,武将としては飛びぬけてるが知性はからっきしの子で
どいつが一番出来がいいかなんて決められるか?
85結城@秀康:2005/12/01(木) 18:28:38
>>80
おいおい
紀伊徳川家の最後を見忘れてない!?
西条出身の最後の藩主は茂承という人で、
家茂が将軍になった後藩主になった人。
86日本@名無史さん:2005/12/01(木) 19:25:46
確か水戸光圀あたりが、官位を貰っている以上王臣で将軍家は旗頭に過ぎないとかって、
その理屈だと中山家あたりの諸大夫の家老が同じことを言っても反論できないよね。
忠長とか甲府家二代や館林の綱吉は参議以上に昇格したわけだけど、諸大夫はいたの?
御三家以外に前田に諸大夫がいるのは、公卿には諸大夫が必要と言う理屈だって聞いたから、
それなら忠長等にもいないと変だなって思ったもんで。
87日本@名無史さん:2005/12/01(木) 22:02:22
>>57
容保の父は増健ね。
増建じゃなくて。
88日本@名無史さん:2005/12/01(木) 22:23:54
>>82
お家騒動なんてものは基本的には家臣同士の争いだよ
主君の出世は家臣の出世
それに、日本じゃトップは飾り物として優秀ならそれで良いんだよ
89日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:33:56
議論中すみません。
水戸黄門はなんで偉い人なんですか?
元将軍とか?
90日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:35:05
あげ忘れました…
91日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:39:35
>>89
なんで偉いかと言われれば、御三家の一つ水戸家の当主だったから
としか言いようが・・・
将軍にもなってないし、副将軍とかでもないよ
92日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:43:41
>頭の出来の悪いほうが御輿にしやすいからそうでもない
幕府制度に自信があったから、藩にバカ殿がたくさん居たほうが
やりやすかったのかな?

伊達の名君バカ殿ってどんなんだったの?
93日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:45:10
>>91
水戸黄門見てると皆が平伏すし、将軍にも強く言えそうな人だから元将軍だったのかと思っていました…。
御三家の当主ですか…。どうやら最初から勉強しないとサッパリわからないみたいです。
(御三家すらわかりません…)
もう一度ググッて出直します。
ありがとうございました。
94日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:48:14
そういやあ紀州徳川家の宗家ってもう40年以上断絶状態なんだよなあ。
先代が跡継ぎを産ませずに急死してしまったのが一番大きいんだけど。
他の家は養子を入れたり傍系から婿入りしたりして家そのものは続いている。
吉宗以来隆盛を極めた紀州家だけど、現在の和歌山県共々今の状態は
時代の皮肉とも言うべきか。
95日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:17:23
増健って誰?そういや歴史IF板でも見るんだけど。
松平でいなかったし。
そういや尾張の藩主徳川「よしのぶ」が死去したって知ってる?
近代板には立てたと思うけど。
96日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:51:23
頼貞って女子も含めて兄弟いる?
97日本@名無史さん:2005/12/02(金) 01:10:48
>>95
増健は力士の名前。「ますつよし」と読む。
無気力相撲で有名。

徳川義宣氏の死去は前スレでも話題になってたよ。
98日本@名無史さん:2005/12/02(金) 01:24:42
>>>>97
だからってなんで歴史関係でよく名前が出るんだ?

義宣氏は、婿養子らしいね。
伊達政宗の子孫か?
99日本@名無史さん:2005/12/02(金) 01:39:43
>>98
面白いから、武将の名前っぽいから、あたりが理由かな?
詳しいことは漏れにはわからず。

義宣氏の男系をたどると鍋島直茂にいきつく。
幕末に鍋島家から堀田家に養子が入り、その息子である義宣氏が尾張に婿養子に入った。
伊達政宗と女系でつながるかどうかは知らない。
100日本@名無史さん:2005/12/02(金) 02:36:49
義宣母は伊達邦宗娘
101日本@名無史さん:2005/12/02(金) 10:47:38
>>75-76
松平家って三河の「山岳部族」のボスだったわけで、手下の「猿よりは多少知恵がある程度の蛮人」どもをまとめるのに
「南朝・北朝」なんて屁理屈が必要だったかねえ?
ようは応仁の乱の空巣ねらいで山を下って土地を奪うのに「山を下って土地を切り取るぎゃあ!」で十分

歴史を解釈するのに現代人の価値観を持ち込みすぎでは?当時の人間達がどのように考え生活していたか学ぶのも大切だと思うよ。
102日本@名無史さん:2005/12/02(金) 13:57:57
足利だと当局へのはばかりも有り、いろいろ詮索されてうるさいけど、
新田はその筋に文句つける奴がいないから都合よかんべ、
って軽い感じで名乗っただけじゃないの。
手下のサル山のボスでも名前だけは知ってるくらい知名度だけはあるし。
103日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:50:44
どの角度から見ても家康にとって都合の良すぎる名前ではあるよな>新田
104日本@名無史さん:2005/12/03(土) 11:58:47
kusosure
105日本@名無史さん:2005/12/03(土) 15:13:53
>>94
西条松平家があれば十分。
106日本@名無史:2005/12/03(土) 18:44:40
>>105
西条松平家は頼宣以来の血統を守ってるんだっけ?
107日本@名無史さん:2005/12/03(土) 19:25:33
>>106
全然守ってない。
維新後水戸系から養子が入り、さらにいまの当主は一条家からきている。
108日本@名無史さん:2005/12/03(土) 19:33:41
頼宣の血統は田安家と越前松平家(侯爵家・子爵家とも)と津山松平家のみ。
109日本@名無史さん:2005/12/03(土) 19:43:19
一条家ってことは皇孫なの?
110日本@名無史さん:2005/12/03(土) 19:50:38
>>109
先々代の一条実孝は大炊御門師前の子。
大炊御門家が天皇家につながるかは知らぬ
111日本@名無史さん:2005/12/03(土) 20:06:10
一条本家は藤原氏にもどったので、皇孫ではない。
112日本@名無史さん:2005/12/03(土) 22:13:26
こうしてみると頼宣の男系男子を四人も産み成人させた徳川元子さんスゴス
元子さんも同腹の男兄弟四人いたけど四人とも十代二十代で死んでしまった
113日本@名無史さん:2005/12/05(月) 13:43:52
御三家の庶子は部屋住みのまま大名待遇を受けることがまま有ったらしい。
ところで重倫の譜代大名家に養子に行った兄弟達ってまだ子孫続いているのかな?
114日本@名無史さん:2005/12/05(月) 15:08:37
大名待遇って具体的にはなに?
115日本@名無史さん:2005/12/05(月) 16:20:36
川田久保徳川家なんかは正式に立藩してないけど
尾張藩から1万石を給されてたから大名待遇じゃないの?
116日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:01:38
徳川綱吉=伊東甲子太郎
117日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:28:53
徳川って悪者のように言われるけど、世界的にみれば凄い立派な
体勢を作ってた凄い政府だったんだよね?
118嫡子の人:2005/12/05(月) 17:43:08
世界1の人口を抱える都市を作ったからね。



>尾張藩から1万石を給されてたから大名待遇じゃないの?
将軍家直接の家臣じゃないと、大名って言わない。
(前田家の筆頭画廊が3万石でも大名じゃない)





>>82 どうだ?
119日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:58:47
>>118
前田家の筆頭家老は5万石
120日本@名無史さん:2005/12/05(月) 18:05:38
参勤交代はないんですよね?
121日本@名無史さん:2005/12/05(月) 18:22:57
>>119
いや、三万石だす。
122日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:35:36
>>114
所領なし、官位有り、江戸城詰所有り、式日は大名格で登城。
10人くらい居るようで、その後頼方(後の吉宗)のように所領を与えられたり、
本家・分家を継いだものも居るが、そのまま死亡したもの居る。
そう言うかわいそうな人、松平飛騨守頼順(宗翰庶兄)従四位下侍従、48歳没など。
123日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:45:18
御三家の次・三男には領地を与えないという取り決め(寛延二年(1749)の書き抜き)があったらしい。
いつ頃から適用なのか不明だが、頼職・頼方兄弟は特例らしい。
124日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:55:55
それで吉宗以降は尾張や紀伊の庶子が譜代大名や付家老の養子に出されてるのか。
125日本@名無史さん:2005/12/05(月) 20:02:51
>>123
頼職・頼方兄弟が領地もらった当時は綱教も鶴姫も生きてたわけだから、
その関係だろう。


>>124
尾張は結局途絶えちゃったけどね。。。
中まで紀伊家に乗っ取られた
126嫡子の人:2005/12/05(月) 20:28:29
蝦夷の松前藩とかも、農作物取れないから
変な待遇じゃなかった?



伊達のボンクラ殿様の話してよ
127日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:32:47
>>122
そうなんですか。勉強になります。
頼房は子供が多すぎて連枝は四家のみなんですよね。
128日本@名無史さん:2005/12/06(火) 19:53:28
松前は当初交代寄合7000石格(無高の賓客説も有り)だが大名に准ずる存在であったようだ。
いろいろ運動して一万石以上格(享保元年、同4年説もあり)になった。
寛政11年東蝦夷が幕府直轄に召し上げられて代わりに武蔵に5千石もらった。
その後文化4年には西蝦夷も召し上げになって陸奥梁川に転封(陸奥・常陸・上野で9000石)
文政4年復帰の猛運動の甲斐あって蝦夷復帰。
しかし安政2年またもや召し上げで陸奥梁川に(奥羽両国で三万石)、
ただこの度は福山と江刺のみ松前領として残ったので交易の収入はあった。
まあかなり変則的な藩ではある。って徳川の話が出てない。
そう言えば、幕末の藩主祟広は幕府の要職に就任し、将軍家茂に従って大阪に行っている。
129日本@名無史さん:2005/12/06(火) 22:08:00
時代劇専門チャンネルで、「元禄繚乱」の再放送が始まりました。
月〜金まで1話ずつやるらしいです

元禄繚乱はメインは赤穂浪士の話だけど、徳川家のこともけっこう出てきます
今日は家綱が死んで綱吉が将軍になり酒井雅楽頭が失脚する話でした
130:2005/12/06(火) 22:09:10
バカ?
131日本@名無史さん:2005/12/07(水) 14:40:59
>>126
> 伊達のボンクラ殿様の話してよ

仙台に限って言えば、藩祖含めて全員ボンクラだからそれだけじゃわからねぇよ。
132嫡子の人:2005/12/07(水) 20:01:25
>藩祖含めて全員ボンクラだから
勢力数倍にした正宗がボンクラなわけない。


徳川幕府の目を欺くために、殿中で生水たらして刀を逆にさしたりして
知的障害者みたいな振舞いをした、伊達当主が居たらしいじゃん。
133日本@名無史さん:2005/12/07(水) 20:17:05
それは前田の殿様じゃなかったか?
134日本@名無史さん:2005/12/07(水) 20:59:02
前田は鼻毛を伸ばした
135日本@名無史さん:2005/12/07(水) 21:00:07
慶喜はどの時点まで宗家の当主だったのですか?
136日本@名無史さん:2005/12/07(水) 21:00:51
前田は鼻毛を伸ばしっぱなしってのは覚えてる。
137日本@名無史さん:2005/12/07(水) 21:14:54
>>135
大政奉還まで。
138日本@名無史さん:2005/12/07(水) 22:00:31
大政奉還後もしばらく征夷大将軍のままだった。
139嫡子の人:2005/12/07(水) 22:29:51
> 前田は鼻毛を伸ばした

もっと面白いエピソードありますか?
140日本@名無史さん:2005/12/08(木) 01:59:34
伊達は吉原に通った。
141日本@名無史さん:2005/12/08(木) 02:11:30
>>138
しばらくというのはいつからいつまでですか?
142日本@名無史さん:2005/12/08(木) 13:45:25
>>132
切り取った領地をあっさり取り上げられ、朝鮮では役に立たず早々に送還され、関ヶ原東北支戦では上杉に負け南部
に負け領地はほとんど増えず、大坂では真田にこてんぱんにやられた腹いせに同士討ちをして笑い者になった人が
ボンクラではないと?(w
143日本@名無史さん:2005/12/08(木) 16:27:42
好色将軍と言われた徳川将軍は・・梅毒にならなかったのが不思議。
144日本@名無史さん:2005/12/08(木) 16:35:12
>>143
家光以降は、ほとんど処女しかとやっていないからだろ。
また、一回将軍に抱かれたら家来に下がられるとかない限り
他の男とやることは原則としてないからな。
145日本@名無史さん:2005/12/08(木) 17:05:57
確かに清康公は30くらいで孫の家康公が産まれてるね。



>切り取った領地をあっさり取り上げられ、
単なる禁じ手を使って、手薄な豊臣迎合大名を攻めたってだけなのかな?

>朝鮮では役に立たず早々に送還され
それは演出でしょう?
146日本@名無史さん:2005/12/08(木) 19:51:51
大政奉還は慶応三年10月14日、将軍職辞退は同月24日。
将軍職は同年12月廃止。
慶応4年2月12日上野寛永寺で恭順謹慎。
田安亀之助の徳川家相続決定は慶応4年閏4月29日。
どうも一時期当主不在では?
147日本@名無史さん:2005/12/08(木) 20:33:27
将軍職と徳川宗家当主は違う物では?
家綱などは、征夷大将軍に補任される前に徳川当主となっていると
思うが。
148日本@名無史さん:2005/12/08(木) 22:29:32
ドラマが好きなので大奥を見てます。

柳沢吉里って実在したんですか?
149日本@名無史さん:2005/12/08(木) 22:35:47
>>148
スレ違い
ここに来んな ボケ
150結城@秀康:2005/12/08(木) 23:13:48
>>148
実在した
くわしく知りたいなら別んとこ行って
151日本@名無史さん:2005/12/09(金) 11:11:39
でもな、吉里(柳沢家)に関しては

「ご落胤ちゃうの?」
「違う違う」
「いや御落胤。でも一旦柳沢ってことになってるし」
「でも松平じゃん」
「でもそれなら保科は」

と、八代将軍決定の時まで「将軍家」に関連してくるですよ。


>>148
あの年少のころから「吉里君」と呼ばれることはない。
つかあのドラマは、徳川家子孫に訴えられてもしょうがないと思う。
152日本@名無史さん:2005/12/09(金) 12:00:29
>>151
だいたい徳松が生きてる時から柳沢「吉保」が存在していたこと自体おかしい
153日本@名無史さん:2005/12/09(金) 12:27:35
1680年 綱吉将軍就任
1681年 酒井雅楽頭死去、堀田筑前守大老就任、牧野備後守側用人就任
      越後高田騒動、鶴姫と綱教の縁組み
1683年 徳松死去
1684年 大老堀田筑前守暗殺
1685年 柳沢保明、出羽守になる
1686年 隆光、知足院の住職となる
1687年 生類憐れみの令、柳沢保明と染子との間に男子誕生
1688年 柳沢保明側用人就任
1701年 柳沢保明、「吉保」に改名、保明と染子の子供に「吉里」と名づける
      松の廊下刃傷事件発生
1702年 桂昌院、従一位の官位をうける

ほんとはこうなのに、大老堀田筑前守は全く登場せず、柳沢「吉保」なる者が権勢を振るっていて、
徳松が生きてる頃から隆光が居て、染子の子供が赤ちゃんの頃から「吉里」と名づけられていて、
徳松が死んでから「鶴姫を紀州家にやろう」なんて言ってる始末。
もう時期設定がめちゃくちゃ。
154日本@名無史さん:2005/12/09(金) 12:56:59
そのへんって別に史実通りやっても問題ないと思うのに,
なんでわざわざ変えたんだろうな
155日本@名無史さん:2005/12/09(金) 13:14:28
わざわざ変えたというより、もともとちゃんと調べてなくて、
うろ覚えの知識で適当に思いつきでストーリーをでっち上げて、
書いただけではないのでしょうか?
156日本@名無史さん:2005/12/09(金) 13:34:15
光圀死んでるしwwwwwwww
157結城@秀康:2005/12/09(金) 18:57:19
>>156
俺も大奥見てて変に思ったww
光圀死ぬの早すぎ。
光圀死んだのって1700年だろ!?
158結城@秀康:2005/12/09(金) 19:01:02
>>154
フジテレビが勝手に歴史を変えている。
159日本@名無史さん:2005/12/09(金) 19:36:50
今後家継が朝鮮通信使との不義密通の子だと言うことになり、
無理やり韓流ドラマにつなげる為の小手試し。
間部詮房の出自も連行されてきた朝鮮系ということにされる。
無論吉宗の母も朝鮮系。
出自に疑問な点がある人物は全部朝鮮系になり、徳川将軍家はほとんど朝鮮系だと言うことにされる。
最後には家康も松平竹千代とは別人の朝鮮系だったという秘密が明かされて終了。
160日本@名無史さん:2005/12/09(金) 20:37:35
バカばっかり。
ここは歴史ドラマ板じゃない。
161日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:20:52
>>160
だからこそ、ちゃんと違いを指摘した上で、正式抗議すべきです。
162日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:25:40
>>157

江戸城に犬皮のちゃんちゃんこ着て登城

将軍周辺激怒!

しかし光圀、将軍周辺反対派に人気高し&やっぱ御三家だし・・・

「隠居申し付ける」

”基本的に在府”大名なのに、”水戸に”隠居命令

江戸でやってた大日本史編纂作業、縮小&水戸に移動 → のちに”御三家のくせに尊皇攘夷”の気質を生む

水戸郊外に西山荘建設 → そこを拠点にその辺散策 → 漫遊伝説


つか光圀、髭生えてたぞwwwwww
163日本@名無史さん:2005/12/10(土) 07:34:22
取り調べ中に女性に触る 巡査部長を逮捕
http://www.kahoku.co.jp/news/2005/12/2005120901003871.htm

女性の容疑者を取り調べ中にわいせつな行為をしたとして、大阪府警
刑事特捜隊は9日、特別公務員暴行陵虐の疑いで摂津署刑事課の巡査部長
徳川敏郎容疑者(47)を逮捕した。

↑これはどこの徳川家ですか?
164結城@秀康:2005/12/10(土) 17:51:42
徳川家の恥さらしだな。そいつ。
165日本@名無史さん:2005/12/10(土) 18:37:14
大奥の女性って普段は何をしてたのですか?
166日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:06:10
身分によって違いますが、将軍や御台所の身の回りのお世話とか、
御台所の話し相手とか、大奥も組織なので事務関係者もいたし、
身分が低くなると掃除とか、役職者のお世話とか。
とにかくありとあらゆる業務があります。
167日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:10:12
徳川姓って家康関係以外にもいるんですか?
江戸時代はそれ以前に名乗っていても改正させらりたりしたんですか?
維新後にわざわざ徳川姓を名乗るような物好きっていたんでしょうか?
まあ仮に以前に名乗っていて改姓させられた家は喜んで戻したかも知れませんけど。
168日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:22:38
水戸家はどうして常陸家じゃないの?
なんで水戸中納言とかで常陸中納言じゃないんだろう?
169日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:26:00
>>167
朝鮮の地名でも徳川ってあるぞ。
プサン市内で地下鉄の駅名にもなってる。
だから、朝鮮系日本人も名乗る香具師がいる。

>>168
常陸には他の香具師もいたからじゃまいか。
170日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:32:13
>朝鮮の地名でも徳川ってあるぞ。
なるほど中国系江川みたいなものね。
>常陸には他の香具師もいたからじゃまいか
そういうところも尾張・紀伊よりワンランク落ちるって言われる原因かな。
171日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:32:52
>>168
国主ではないから。
172結城@秀康:2005/12/10(土) 23:25:03
>>168
尾張徳川家は名古屋、紀伊徳川家は和歌山を拠点として
一国を治めているが、水戸徳川家は水戸を拠点としているだけで、
常陸一国を治めているわけではない。尾張家なんか、美濃や三河の
一部まで治めている。
173日本@名無史さん:2005/12/11(日) 01:06:21
紀伊家は伊勢の一部(松阪あたりまで)も治めていて、本居宣長は紀伊藩領の人でした。
174日本@名無史さん:2005/12/11(日) 02:27:01
国主格 = 現実に一国を治めているのが絶対条件

じゃないですよ。


・・・じゃあなんで、水戸家だけ国主格じゃなかったんだろう??
175日本@名無史さん:2005/12/11(日) 04:10:05
>>174
水戸家は定府で参勤交代しないから。
176日本@名無史さん:2005/12/11(日) 10:50:13
また変なのが沸いてきたな。
177日本@名無史さん:2005/12/11(日) 10:55:22
多田神社に「清和源氏同族会」というのがあるらしいが、
徳川家の人々は、これには入会できないんだろうな、多分w


清和源氏同族会とは?

当神社は清和源氏のひ孫、源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の
五公を祀る、源氏の祖廟であり、源家発祥の地であります。故に、
清和源氏の流れを汲む方、又は源家にゆかりのある諸氏によって清らかに
して和やかな会が結成されております。


一御入会について一

清和源氏一門の流れを汲む確たる証(系譜等々)を御持参賜わり、
当会理事長(多田神社宮司)と面談の上、入会の是非を問います
178日本@名無史さん:2005/12/11(日) 19:43:37
>>177
"清和源氏一門の流れを汲む確たる証"は、吉良から買ってるから大丈夫。
179日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:30:15
その吉良家は潰れたもんね。
しかも日本史最大の悪者にされてるし。

まあ〜都合よく消されたもんだね。
徳川家が裏で手を回したのかな浅野に
180日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:38:59
素朴な疑問がある。
足利氏の一門である吉良氏の系図を買ったところで、新田氏の子孫の徳川氏にはなれないと思うのだが。

吉良から系図を買ったのなら、吉良や今川や足利につなぐ方が普通じゃないのか?
181日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:49:38
>>177
徳川家の庇護下にあった神社ですよ。
182日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:59:26
確かになんで足利系の吉良の系図で新田系の徳川になるのか不思議だ。
183日本@名無史さん:2005/12/11(日) 21:03:18
清和源氏つながりだから。
184日本@名無史さん:2005/12/11(日) 21:09:10
たしか
吉良家が持ってた清和源氏全体の系図を買ったんだよ
185日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:00:06
質問です。

徳川慶喜の跡を継いだ徳川家達は、大正時代初期に組閣の大命を受けながら、
これを断っています。

明治維新により権力の中枢から滑り落ちた徳川家が再び国の指導者になれるチャンス
という話もあったのに、何で断ってしまったんでしょう?
186日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:02:46
首相になっても1年かそこら。しかも世間から叩かれまくること必定。
それより半永久的に貴族院議長やってる方がマシ。
187日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:04:50
>>186
>首相になっても1年かそこら。しかも世間から叩かれまくること必定


なぜ?
難しい情勢だから?
188日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:08:39
>>186

そういうことですか。世間や軍閥等から批判されて、失意の内に政権の座から
去るよりは貴族院議長を続けていた方が良かったということですね。
下手すると原敬のように暗殺されかねないし。

徳川家の看板に泥を塗るかも、といった意識も働いたのかもしれませんね。
189日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:58:10
たかが総理大臣なんかやれるか、ってな感覚だったんだよ。
190日本@名無史さん:2005/12/11(日) 23:56:23
>>178-184
「系図を買った」ってのは、別に吉良の養子になったわけではなく
「吉良から買った資料をもとに自分の系図を捏造した」ってことじゃないの??
それなら別に家康が吉良につながる必要はない。
(つかあくまでも家康は松平広忠の子なわけで。)
と同時に、現在の公的な立場からはあくまでもただの「偽造」であって、
「清和源氏一門の流れを汲む確たる証」にはならないのでは?
191日本@名無史さん:2005/12/12(月) 00:01:34
いいの体裁つけば。
192日本@名無史さん:2005/12/12(月) 00:03:40
「吉良さんが持ってた系図」ってのが世間的に信用あるものだったってことか
ただ偽造する為だけじゃなくて、そういう信用を買ったってことなんだろうね
193日本@名無史さん:2005/12/12(月) 01:06:19
しかし系図を買うなんて面倒なことせずに、
さっさと養子になってしまえば
実質上も建前上も、何も問題なく正当に源氏だと言い張れたのにな。
ちょうど上杉氏を継いだ謙信みたいに。
松平だの徳川だのいう名前がそれほど重要だったとも思えんのだが、
家康がなぜそれに固執したのかがわからん。
まあ昔の人の考えっつーのは、現在の我々からは推し量れないことが多い気がする。
194日本@名無史さん:2005/12/12(月) 03:33:35
家康の代で養子に入ったのではやっぱり「元はどこの馬の骨ともわからない三河の山猿」
のイメージがぬぐえないままだからかな
もとからの貴種ですよとアピールしたかったとか

まあどこまで一般人にそう思われたかはわからんが
195日本@名無史さん:2005/12/12(月) 04:26:27
征夷大将軍に成る為に源氏の家系が必要だっただけ。
196日本@名無史さん:2005/12/12(月) 08:39:54
「徳川幕府」の代りに「吉良幕府」だったのでは
いかにもすぐに討ち入りされて、潰れそうじゃからのう。
197日本@名無史さん:2005/12/12(月) 08:40:43
「吉良家康」も弱そうじゃからのう
198日本@名無史さん:2005/12/12(月) 08:56:36
>>196
その場合、吉良家は別の名前になっているかもしれない。
つか、吉良家の立場が相当変わったはずなので、討ち入りもない。

>>197
跡付けのイメージに過ぎない。
199日本@名無史さん:2005/12/12(月) 14:00:27
吉良って中々良い領主だったんでしょ?



浅野がバカ殿だと思ってるんだけど
200日本@名無史さん:2005/12/12(月) 14:04:08
馬鹿って言うか精神障害者だと思う。現代なら無罪だな。
201日本@名無史さん:2005/12/12(月) 15:13:48
スレ違いで盛り上がるおまいらもバカだって気づけよ。
202日本@名無史さん:2005/12/12(月) 23:23:11
少しくらいの余談に目くじらたてるバカって
社会生活の中で、仲間はずれにされないの?

関ヶ原の石田陣営みたいに ( ´,_ゝ`)
203日本@名無史さん:2005/12/13(火) 17:06:56
ちょっと前に、江戸時代、徳川家が葵紋の使用を禁じたというのを
読んだことがあるんだが、葵という姓は禁じなかったのか??
204日本@名無史さん:2005/12/13(火) 17:16:08
本多忠勝の家は本多立葵という紋章だが、家康に別の紋章に変えてくれ
と頼まれた際に、忠勝は「こっちの方が古いから変えない」と拒否した。
家康はそれ以上何も言わなかったそうだ。

ところで、紀州と水戸は紀州三つ葵、水戸三つ葵の他に、六つ葵という
紋章も利用していたそうだが、どの程度まで使っていたのかな。
205日本@名無史さん:2005/12/13(火) 17:32:39
>>199
吉良は領民に親しまれていたからね。
浅野が吉良に贈り物を出さなかったから吉良が浅野を
いじめたことになっているが、当時は作法を教えてもらう見返りに
贈り物を届けるのは慣例だったのに、それをしなかった浅野が
悪いわな。(浅野家臣は慣例に従い贈り物を出そうとしたが
潔癖症の浅野が止めた)
浅野1人の思い違いのせいでどれだけの人が迷惑したか。
ちなみに赤穂藩は取り潰しになって、赤穂の庶民は喜んだらしい。
(藩の財政赤字を庶民に転化していたので)
206日本@名無史さん:2005/12/13(火) 17:58:31
吉良と家康は親戚
207日本@名無史さん:2005/12/13(火) 18:25:01
>(藩の財政赤字を庶民に転化していたので)
塩の作り方を吉良に教えてもらって大儲けなのでは?



>吉良と家康は親戚
ウソつけ
208日本@名無史さん:2005/12/13(火) 18:33:01
>>207
赤穂藩は大量の藩札を発行していて慢性的な財政赤字だったらしいよ。
209日本@名無史さん:2005/12/13(火) 19:16:11
>>207
いや、本当に親戚らしい。
吉良義定は、母親が松平清康の娘だから
家康とは従兄弟ってことになるらしい。
210日本@名無史さん:2005/12/13(火) 19:37:17
>目くじらたてるバカって
>目くじらたてるバカって
>目くじらたてるバカって
211日本@名無史さん:2005/12/13(火) 19:38:18
201必死だな・・・
212日本@名無史さん:2005/12/13(火) 19:44:04
そんなことじゃ天下取れんぞ。
213日本@名無史さん:2005/12/13(火) 19:46:32
母親が清康の娘でなくとも
足利・新田はもともと親戚だから吉良と徳川も親戚
214結城@秀康:2005/12/13(火) 21:36:47
だが徳川が本当に新田の子孫だったかというと疑わしい・・・・・
215日本@名無史さん:2005/12/13(火) 23:34:59
>赤穂藩は大量の藩札を発行していて慢性的な財政赤字だったらしいよ。
質素倹約派のバカ殿&特産塩持っててどうして赤字?



>201必死だな・・・
相手しちゃダメ。
216日本@名無史さん:2005/12/15(木) 15:27:26
下克上なのか、血筋なのかハッキリして欲しい
217尾張大納言 宗春:2005/12/15(木) 21:53:21
参加します!
 よろしく!!!!
218日本@名無史さん:2005/12/15(木) 21:59:18
お前は死んでも墓に網がかぶさっていたんだろが。
219日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:07:32
そもそも尾張大納言という名乗りもないだろ。
生前は権中納言までだよな。
220日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:11:27
松平郷松平はともかくとして、親忠は松平嫡流だったのですか?
本来は分家の一つ安城松平だったのではないのですか?
もしかすると嫡流と言いうるようになったのは家康祖父の清康の代からではないのでしょうか?
徳川と言うより松平の話ですが。
221日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:27:47
>>218
ワラタ
222日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:59:44
戸田康光ってどんなやつ?
223金網かけられし者 宗春:2005/12/15(木) 23:20:14
これでいい??
224南龍公の亡霊:2005/12/16(金) 09:14:45
宗春さん、仲良くすべや。。。
225結城@秀康:2005/12/16(金) 14:56:40
おお、南龍公や!
226日本@名無史さん:2005/12/16(金) 15:10:46
内藤信成って家康の異母弟なの?
それにしては異父弟の久松系に比べて待遇悪い気がする。
227日本@名無史さん:2005/12/16(金) 15:14:39
>>226
広忠の隠し子だから
仕方ないんじゃ
228日本@名無史さん:2005/12/16(金) 15:25:04
常々『酷い』って、『ひどい』と読むのか『むごい』と読むのか悩んでしまう。
229日本@名無史さん:2005/12/16(金) 15:51:42
跡継ぎがいなくて潰れる大名家も多いのに
松平家は色んなところに子沢山だね
230日本@名無史さん:2005/12/16(金) 15:58:14
やっぱ家康はマザコン系なのかなあ。
231結城@秀康:2005/12/16(金) 17:08:42
マザコン系かぁ・・・・・・
50過ぎても母親生きてたからね。
232牟田口廉也:2005/12/16(金) 17:21:58
幼少の頃に母親は離縁され、父親は殺され、自身は叔父に売られ、
人質生活がなが〜い。むごすぎる。
233日本@名無史さん:2005/12/16(金) 17:22:32
名前欄間違えちゃった。
234日本@名無史さん:2005/12/16(金) 22:43:17
家康公には元服後で2親等が何人くらいいたんだろう?

それによっては、幼少期を一緒に過ごせなかった母親が
特別に大事なのは当たり前では無いか?
235日本@名無史さん:2005/12/17(土) 12:44:15
家康って叔父とか従兄弟とかいないんですよね。
松平もほとんどは本当に血縁関係があるのかどうかも怪しげなくらい遠い家だけだし。
一番近くて又従兄弟でしたっけ?係累が少ないのはプラスのほうが大きかったんでしょうか?
ところで大政奉還時点で家康の子孫が当主だった大名家って何家くらいでしょう?
ことに水戸系が多そうな気がしますが。
236日本@名無史さん:2005/12/17(土) 20:22:21
>>235
従兄弟はいるよ。末裔に妹たちを家慶の側室や側用人の妾として貢いだ腐れ大名(自称)が
237日本@名無史さん:2005/12/17(土) 21:30:34
家康ってあまり聞いたことがないけど姉妹はいないの?
238日本@名無史さん:2005/12/17(土) 21:42:03
なんか幕末の藩主って松平定信と島津重豪と徳川家斉と徳川斉昭の子孫がやたらに多い気がする。
島津は子供と来孫(曾孫の子)が同時期に藩主やってるのがすごいが。
239日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:27:33
池田章政室や黒田長知室の父親は島津重豪の娘を正室に迎えているが章政室や長知室は重豪娘の腹なのか?
また章政室や長知室には子どもはいるのか?
240日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:36:07
斉昭の子どもは殆んどが三十過ぎてからの子どもなのがすごい
それ以上に三十過ぎた正室に子どもを産ませまくっているのがすごい
さらに明治以降斉昭の子孫同士での結婚が多い
241日本@名無史さん:2005/12/18(日) 07:01:59
血筋と言えば越前家も明治以後苦心してるな
慶永(春嶽)が安政の大獄で隠居させられ糸魚川から茂昭が
入って藩主を継いだが養父子とはいえ他人も同然
慶永と茂昭の約定で茂昭の後継は慶永の子・慶民に決まっていたが
慶民はこれを拒否して別家を立てた
元靖国神社宮司松平永芳氏は慶民の子で
慶永の直系の孫ではあるが越前家の家督ではない
茂昭の家督は慶永の娘・節子と結婚した茂昭の子・康荘が継ぎ
更に2人の間に生まれた康昌が継いで一本化された
242日本@名無史さん:2005/12/18(日) 16:00:50
南葵文庫はすべて東大図書館に寄贈されたの?
243日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:45:51
しかし康昌には康愛しか子どもがいなくて、康愛の男児は夭折して娘の智子しかおらず田安家から宗紀を婿に迎えた。
なんか結構危なっかしいね。
244日本@名無史さん:2005/12/18(日) 22:05:57
康昌には康英っていう子がいたけど、太平洋戦争で戦死したんだったね
245日本@名無史さん:2005/12/18(日) 22:44:35
竹千代君を拉致した戸田康光の情報求む!
246日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:14:28
戦死したのは康英ではなく康愛。
247日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:23:12
わしは紀州家の四男じゃ。
一生部屋住みの身分と思うておったが、
一番上の兄上は時の将軍に可愛がられ後継者候補になったがあえなく死んでしまい
その後を継いだ兄も死んで、紀州藩主になった。
そうこうしているうちに将軍がバタバタと死んで、いつのまにか将軍職が転がり込んできた。
248日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:44:52
わしは尾張家の十九男じゃ。
一生部屋住みの身分と思うておったが、
九男の兄上は時の将軍に可愛がられ後継者候補になったがあえなく死んでしまい
その後を継いだ十一男の兄上も将軍後継者候補になったが権謀術数に富むライバルの陰謀に負けてしまい
しばらくしたら死んで、わしが尾張藩主になった。
そうこうしているうちに家臣に裏切られ、いつのまにか部屋から一生出られない身分になった。
249日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:53:45
松平家にまつわる、感動のエピソードって他にありますか?

1 秀吉に茶器を自慢された時に
 「私にはそんな豪華な茶器などありませんが、
  自分を大事に思って、火の中でも飛び込んでくれる
  500騎ばかりの家臣が居るので、
  その者達を大事にしている」と言ったとか

2 長篠城の戦いでの、鳥居勝商の城脱出〜磔事件とか

3 岡崎帰城時の鳥居元忠の「いざという時のために
  兵糧をかすめてた」とか

4 石川数正の秀吉と争うのは危ないから
  自分が出奔して争えないようにするとか
250日本@名無史さん:2005/12/19(月) 04:20:31
>>249

強がり言い訳番長だなおいwwwwwww

251日本@名無史さん:2005/12/19(月) 06:08:16
>>249
>鳥居勝商
あの剛毛チンゲ男はこんな名前だったのか。
いや、勉強になったよ。
252日本@名無史さん:2005/12/19(月) 08:43:24
吉宗も宗春も小藩の藩主になってから本藩を継いでいる。

253日本@名無史さん:2005/12/19(月) 12:47:53
>国主格 = 現実に一国を治めているのが絶対条件
じゃないですよ

上杉なんぞは出羽一国どころか出羽一郡(置賜)すら治めてないのに
国持ち(国主)だぞ
しかも表高は15万石と国持ち大名ではだんとつのドベのくせに
2か国の本国持ちの蜂須賀(淡路・阿波)や毛利(長門・周防)が侍従止まりの時に
少将や中将だったりする。

徳川一門の越前家も越前一国持ってないし、津山も美作一国持ってないが、
出雲・隠岐二ヶ国の本国持の松江松平より格上。

>吉良って中々良い領主だったんでしょ
良い領主か知らんが「左兵衛督」なので尾張と同格。喜連川も同じ理由で徳川と同格。
254日本@名無史さん:2005/12/19(月) 13:48:19
鳥羽の稲垣志摩一国、平戸の松浦壱岐一国、小浜の酒井若狭一国だけど、
国主じゃないのはどうして?
255日本@名無史さん:2005/12/19(月) 18:06:14
>>254
血筋

松浦はもう少し報われてもいい気が・・・
256日本@名無史さん:2005/12/19(月) 18:10:26
志摩とか壱岐は国としても小国だしな。
257日本@名無史さん:2005/12/19(月) 19:27:35
>>253
上杉は名門だし、もともと30万石だし。
大藩の大名家では一番の名門だろ。
258日本@名無史さん:2005/12/19(月) 19:29:30
松浦は維新後に報われた。
石高に下駄を履かせて爵位が一つ上の伯爵になった。
まあ明治天皇の遠い親戚だったおかげなんですが。
259249:2005/12/19(月) 20:06:15
>ではだんとつのドベのくせに
「ドベ」って名古屋弁ですか?



>良い領主か知らんが「左兵衛督」なので尾張と同格
なんかムカつく!



>>249他にネタない?
260日本@名無史さん:2005/12/19(月) 21:32:17
意味不明の自演
なんじゃこりゃ?
261日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:44:56
age
262日本@名無史さん:2005/12/20(火) 22:09:05
すげー!
263日本@名無史さん:2005/12/20(火) 22:14:32
結構一族で殺しあってるのに、幕府滅亡直前には子孫がものすごい数になった北条氏。
足利氏はやたら坊主にしたから子孫が少ないけど、
家康子孫は徳川・松平合わせてもわりと少なめな気がする。
まあ北条が異常で、水戸系だけでも十二分に多いのかもしれませんが。
264日本@名無史さん:2005/12/20(火) 23:47:59
>>258
遠くない。わりと近い親戚。
265日本@名無史さん:2005/12/21(水) 00:17:55
>>263
足利将軍は代々、禅に熱心だったからね。当然ながら坊主が多い。
(北条も時頼くらい以降は禅の修行者だが)
むしろ禅が武家に広まる以前の時代から考えると、
「足利一門」はかなり多いと思う。
吉良とか今川とか細川とか斯波とか畠山とか
266日本@名無史さん:2005/12/21(水) 09:23:17
>>265
そりゃ八幡太郎の血を引く名門だから分家も多い
徳川は出自不明だもん
267日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:29:33
徳川は出自不明と言っても、女系で源氏につながってなかったっけ
268日本@名無史さん:2005/12/21(水) 12:31:34
いいかえれば足利は平安末期からある家
徳川は数代前以前は謎でしょ
269日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:09:29
だからさっさと、秀忠に吉良の姫君でも娶らせて
吉良を乗っ取ってしまえば良かったんだよな。
そうすれば後々こんなに悪口を言われないでも済む。

しかし家康の前に、秀吉っつー更に訳わからん生れの香具師がいたから
そこまで気にする必要ないんじゃね?と思ったんだろうな・・・
270日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:50:26
>>269
年末だからかな、おかしな奴が・・・
271日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:24:47
おまいら騙されてるぞ。
家斉の子供はほとんど僧侶日啓の子だからな。
272日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:29:41
得田家のガキが将軍になった事実も
あまり語られないし
273日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:32:06
家斉の大奥女中たちは
長持ちに隠れて寺通い。
寺で乱交三昧。
その結果が家斉の子供じつに55人、藁
274日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:34:09
>>272
詳しく
275日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:43:28
ところで徳川治宝ってなんで従一位になれたの?
276日本@名無史さん:2005/12/22(木) 17:08:42
>>275
家斉効果じゃないの?
277結城@秀康:2005/12/22(木) 23:11:02
ドラマの話でごめん。
でも俺、大奥の歴史改造がやばすぎると思う。
278奥マニアなりかけ:2005/12/22(木) 23:16:19
結城秀康さん!大奥の歴史改造…。
史実の綱吉、吉安、安子ってどんなだったの?詳しく教えて下さい!
279日本@名無史さん:2005/12/22(木) 23:54:53
綱吉が牧野成貞の妻と娘に手を出したっていうのは後世の創作じゃないの?
280日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:01:59
綱吉も掘ったり掘られたり大変だな
281日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:05:33
誰に掘られたっけ?
282日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:23:09
>>278
「大奥」みたいな半ばノリが現代劇に近い時代劇が放送されると、
日本史板にこういうのが出てくるから嫌い。
自分で調べたらいいのに。何でも教えてもらおうなんて虫が良すぎる
283奥マニアなりかけ:2005/12/23(金) 00:32:40
はいはい。あなたは歴史に詳しいんですね。
本当は知らないくせに調べろとか文句言いたいだけじゃないのWW
ここの人達は歴史に詳しいから頼ったんですが、何がいけないんですか?
284日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:42:45
音羽が「もはや世の流れ、時の趨勢には購(あがな)えぬのでございましょうか」って言ってるけど、「抗(あらが)えぬ」じゃないのー?
285日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:43:17
誤爆スマソ
286日本@名無史さん:2005/12/23(金) 02:24:10
その態度がいけないな。
287日本@名無史さん:2005/12/23(金) 02:25:16
「そのとき歴史が動いた」やってるね。松平アナは家康や吉宗の子孫ではないはずなのに、↓この説明は何だ???
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E7%9F%A5
288日本@名無史さん:2005/12/23(金) 11:45:19
最近WWって大文字で書くのをよく見るが
はやってるのか?
289日本@名無史さん:2005/12/23(金) 11:47:54
>上杉は名門だし、大藩の大名家では一番の名門だろ

それでも石高のわりに官位高すぎ
旗本の上杉家も米沢の10分の一にも満たない1500石のくせに
侍従や少将と国持ち大名以上なのは厚遇しすぎ、前田に国取られた能無しの分際で。

敵であった植えすぎを優遇するのに
徳川の先輩で恩人の織田家が大名・旗本含め五位の諸太夫と
冷遇されてるのがわっかれせん

スケートの織田信成さんの家などは高家だぞ!吉良や今川のへたれが四位でえばってるんが
むちゃんこ腹立つ!
290日本@名無史さん:2005/12/23(金) 11:50:42
ほんまもんの徳川宗家は美作の津山藩やろ

18代の徳川恒孝などは水戸の田舎もんの子孫にすぎん。
一介のリーマンやったし・・・
291日本@名無史さん:2005/12/23(金) 11:55:04
>>288
同一人物だろ
292日本@名無史さん:2005/12/23(金) 12:06:19
age
293日本@名無史さん:2005/12/23(金) 12:35:27
>>290
隔離スレにどうぞ。
294日本@名無史さん:2005/12/23(金) 13:03:46
つか、幾らなんでも津山よりは水戸の方が都会だと思うが?w
295日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:08:48
仙台水戸名古屋と言えばブスの産地として有名だが
2つまで徳川親藩なのは関係あるのかな
296日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:39:02
美人はすべて大奥に召し上げてしまったのかな
297日本@名無史さん:2005/12/23(金) 20:17:43
和歌山の女はどうなのよ?
和歌山県民の意見きぼんふ
298松平頼方:2005/12/23(金) 20:44:58
紀州のおなごは体が丈夫じゃ
みないいおなごばっかりじゃ
299日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:14:02
徳川家なんて皆インチキ坊主の日啓の子孫だろ
300日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:15:15
>>283半年ロムってろ。
まだこんな幼稚な「教えて君」がいるんだな・・・・・
301日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:19:29
綱吉は無理心中で死んだんだね
302日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:21:07
テレ東のやることには腹が立たんよwwwwwww


フジは氏ね
303日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:22:34
信子の墓には金網が張られていた。
そして大奥開かずの間。

怨念に満ちたどろどろの世界だ
304日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:27:13
徳川将軍は三千人から二千人も女を囲っていたのか。庶民は飢饉で苦しんでいるというのに。
金将軍も真っ青だな。
305日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:32:50
70億もの大金を囲っている女の化粧や衣装に費やしていたなんて・・
やはり今の皇室のがはるかに質素だ。
306日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:35:42
年間予算の四分の一を
囲っている女に使っていたなんて
フランスだったら徳川家は確実に断頭台だな。
307日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:35:42
次代の大奥住民
六代将軍徳川家宣(もと甲府宰相綱豊)
御台所近衛煕子(子は全て数日で死亡、後の天英院)
御台所付上臈錦小路(下級公家の息女)
太閤近衛基煕(煕子の父、江戸に逗留)
竹姫(綱吉養女、大典侍の姪、清閑寺煕定息女)
家千代(家宣第1子)
家千代生母右近の方(お古牟、後の法心院)
大五郎(家宣第2子)
大五郎生母新典侍(櫛笥内大臣養女園池須免子、柳沢吉保側室正親町弁子改め町子の従妹、後の蓮浄院)
鍋松(家宣第3子、後の七代家継)
鍋松生母左京の方(お喜世、後の月光院)
大奥御年寄江島(絵島、おみよ)
308日本@名無史さん:2005/12/23(金) 21:43:27
おきよの子以外は次々に死亡。
子供を暗殺するなんて鬼畜の世界だな、
309日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:00:42
吉宗と月光院ってデキてたのか? (今やってるテレ東)
はじめて聞いたよ
310日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:05:25
徳川家による島原大虐殺。
四万人の女、子供が殺された。
311日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:25:51

最近天草四郎と豊臣家を無理やり絡ませようとする妄想が多いな
312日本@名無史さん:2005/12/23(金) 23:31:05
テレビ見ながら実況まがいのクソレス連発、
なげかわし。
313日本@名無史さん:2005/12/24(土) 01:26:36
じゃ
来なきゃいいじゃん
嘆かわしくない書き込み見せればいいじゃん
314日本@名無史さん:2005/12/24(土) 03:40:35
>>309
『続三王外記』の珍説に過ぎんだろ。
あの番組は監修の歴史学者が悪かった。
315日本@名無史さん:2005/12/24(土) 10:25:05
>>290
水戸じゃなくて会津かも
316日本@名無史さん:2005/12/24(土) 13:14:50
>>315
会津松平家自体、水戸の血に乗っ取られてる。
317日本@名無史さん:2005/12/24(土) 13:22:07
三王外記なんて面白可笑しいスキャンダル本のようでもあるけど、

「ほーら、昔の文書のこの部分にちゃんと書いてあるんだよ!」と、
テレビで放映されると
ちゃんと江戸時代の文書にも書いてある事実なんでしょ!と
普通の人々は思ってしまうのだろう。

>>314
何時代でもオールマイティに詳しい量産歴史作家の加来耕三も顔出しw
テレビ出演歴として、また自慢の種にするんだろうな。

>>307
時代劇板からのコピペなんて持ってくるなよ。
318日本@名無史さん:2005/12/24(土) 17:16:32
>>308
月光院の子も八歳で死んでるんだから、
結局、家宣の胤が弱かったんだろう
319結城@秀康:2005/12/24(土) 21:32:06
大奥スペシャルを見た人〜(・∀・)/ハーイ
320:2005/12/25(日) 09:06:04
このコテハン、前スレ時代から嫌われてるんだよな。
321日本@名無史さん:2005/12/25(日) 22:50:03
嫌ってるのはごく一部だけだよ
322日本@名無史さん:2005/12/25(日) 23:22:27
方々、明日はクリスマスよりも聖なる日でござるな (;¬_¬)
323日本@名無史さん:2005/12/25(日) 23:54:44
『護国女太平記』や『三王外記』を一笑に付すのは、どうかな?
いわゆる柳沢騒動の中で、吉里が綱吉の胤である可能性は、 
敵手のはずの家宣の吉里への処遇をみても、かなりあると思う。
なにより綱吉自身はそう信じていたフシがあるよね。
吉里謁見後の引き立ては異例だもん。ただ綱吉も彼を後継にできない
という常識を持っていただけ、あながち暴君ではなかったってことかな。
それより、家光側室の於万の方(永光院)が、綱吉死後まで生き残って
いた史実知ってる?
324日本@名無史さん:2005/12/26(月) 02:53:12
>>323
知ってるよw
お万は家光亡き後も落飾せず田安屋敷にあったが、
後に大上臈として再び大奥にあがった。
明暦3年の大火のさいに家光の御台所本理院とともに
小石川の無量院に一時立ち退くが、
以降は無量院にて過ごし正徳元年88才で死去しました。

護国や三王は、事実を反映した部分もあるだろうが
見てきたような醜聞も多いから、眉唾といわれてるんだよ。

柳沢邸には綱吉が何十回も渡御したり、
染子が病床にあったときには老中に見舞わせたり
亡くなった際の弔問にも重臣を使いとして出している。
寵臣の側室に対する扱いにしては丁寧すぎる事実があり、
染子の処遇や柳沢家の厚遇も事実であることを踏まえいても、
興味本位な脚色が強く、
内容を頭から信じてはいけない書物であることは確かだ。

325日本@名無史さん:2005/12/26(月) 03:08:04
>>318
胤に強いとか弱いとかあるのか?
326結城@秀康:2005/12/26(月) 09:26:52
>>322
家康の誕生日だからか??
327日本@名無史さん:2005/12/26(月) 11:59:45
胤じゃなく、種なら強い弱いはあると思うよ。 
天皇家に比べ、まだ将軍家は近親結婚が少ないから種は比較的強いはずだし、
下級武家や町家も娘さえ側室に抱え込み、“野生の血”を注入していたから。
でも家宣はもともと病弱だったからね。それに京から迎えた宮家や摂関家出の
御台所にすべからく子ができなかった(または夭折した)のも、政策的な意図
というより、やはり貴種の種の弱さじゃないかな。
迷信深い当時は12代家慶まで、名に偏のつく将軍は皆、実子後継に恵まれな
かったことから、13代家定は当初の家祥を改めたぐらいだけど、やはり病弱
で、かの有名な紀伊VS水戸(一橋)の争いを招いたよね。
328日本@名無史さん:2005/12/26(月) 12:26:02
綱吉の後継争いが起きていた当時、朝廷でも熾烈な御継体争いがあったよね。
三宮を担ぐ霊元上皇・准后宗子・一条兼輝派と、三宮が実は皇弟・京極宮と
藤内侍との不倫の子?ではないかと疑う東山天皇・近衛基煕派の対立だけど、
どうも両者は関連していたような気がする。
一条兼輝の室は紀伊光貞の娘だったし、近衛基煕の娘は甲府綱豊の室だったしね。

それに柳沢吉保は東山天皇(というより基煕)に武家伝奏を罷免され、参内禁止
まで命じられた正親町公道を介して、頻りに霊元院と文通があったようだし。
一説には、松の大廊下の刃傷事件をこれに絡める話もあるぐらい。
最後に笑ったのは長宮(中御門天皇)と綱豊(将軍家宣)双方に娘を嫁がせた基煕だけど…
329日本@名無史さん:2005/12/26(月) 12:33:05
あっ! 長宮の后は家煕の娘、基煕の孫だっけ。訂正!
330日本@名無史さん:2005/12/26(月) 16:28:00
最後のほうの御台所だと家康の血を引いていそう
331日本@名無史さん:2005/12/26(月) 17:01:55
なるほどネ。
でも今の民法上は姻戚関係となっても、誰も産んだ子に徳川宗家を継がせられなかったから、
血の繋がりはないよね。
まさか最後の方って、慶喜の正室のことじゃないよね。
ありゃア、今出川公久の娘、一条忠香の養女じゃ。
332日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:06:11
その松の廊下にからめる説を教えて!
333日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:24:07
「家祥」これってなんと読めばいいの?
「いえよし」?「いえひろ」??
馬鹿でごめん・・・・
334日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:43:12
>>326
おお、同志よ!!
335日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:22:13
まず歴史に詳しい方からブーイングが起こる前に断わっておきますが、この説を史実と裏付けるものはありません。
つまり…そもそもあの元禄14年春の勅使・院使の江戸下向には、天皇家と将軍家の継嗣に関わる重大な意味があったそうで…
まずこの年の初め、新たに女御の懐妊(後の中御門帝)があり、当時唯一の皇子だった三宮の地位が脅かされ、近衛基煕らの巻き返しが始まった。三宮を出家させ、円満院に送り込もうと対幕府工作に奔走する。
そのために同年2月勅使下向の寸前になって、霊元上皇とは同じ垂加神道の信奉者で、院側近の正親町公道を勅使となるべき武家伝奏職から解任。三宮排斥の密勅を新任の武家伝奏・高野保春に託したという。
一方、上皇=一条兼輝派も院伝奏の清閑寺煕定に三宮擁立と紀伊綱教の将軍襲位をバーターする院宣を携えさせたそうな。

そして江戸方の動きは…院使饗応役が伊達村豊(宗春)、勅使のそれがご存知、浅野長矩。
伊達は仙台の本家・綱村が柳沢への賄賂で以て正四位中将を買ったと謂われるぐらい。だから村豊も因果を含めらていたと思量される。
両者を指南するのが吉良なわけだが、彼の実子・上杉綱憲の室は、紀伊綱教の次姉だから、紀州派なのは言わずもがな。しかも高家肝煎として、この間の朝幕間の密やかな遣り取りの当事者なわけで。
柳沢吉保は…と云えば、甲府を嫌い、愛娘の婿・紀伊綱教を迎えたい桂昌院・綱吉の意を受けて、当時紀州派で動いていた。上皇=一条派と綱吉=紀州派を結ぶキーマン。ここに綱吉=吉保=吉良=伊達の連繋が生まれる。
じゃあ、なぜ浅野が吉良に殿中で斬りつけたか?ヒントは長矩が尊王思想家を国許に庇護していた史実にある。続く……
336日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:26:24
改行や段落の必要性が・・・頼む。
337日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:32:02
家祥…ふつう『祥』は、サガって読むんでしょうが、イエサダでいいんですよ。
338日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:34:48
>>395
有難うございます。
続き待っています!
339日本@名無史さん:2005/12/26(月) 21:50:51
>>333
「いえさち」。
340日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:43:32
>>335
アンカー間違えて失礼致しました
ぜひ続きをお聞かせくださいませんか
341日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:49:03
酷い自作自演を見た
342日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:42:13
>>335
>>332>>338>>340を書いたのは私ですが、続き待っています。
お願いします。
343日本@名無史さん:2005/12/26(月) 23:57:07
>>341
あんたクラウン板の成切明王院スレでお守り買ってた人ね!
344日本@名無史さん:2005/12/27(火) 11:50:33
続き待っています。
お願いします!
345日本@名無史さん:2005/12/27(火) 12:59:43

韓国の歴史捏造は世界一
http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea1.html
346卒然子@光圀 ◆EvIQ9Llvb2 :2005/12/27(火) 14:17:47
>>86
承應元年(皇紀二三一二)十月二十六日の夜、威公の鷹師の吉田平三郎が
幕府の鷹師の眞野庄九郎重綱を意趣あつて殺害したと聞いて、
将軍家綱は烈火の如く怒り、「陪臣の身として直参を討つは憎き事なり。急ぎ吉田を尋ね出し、相渡さるべし」
との上意を老中から申し送つた。
威公は「上意尤もなれども、諸大名の家来こそ陪臣なれ、予は正しく神君の子、庶子・惣領の違ひこそあれ、
神君より附け玉ふ同傍輩なれば、切勝次第なり」とて取合はない。是非出し給へと上使を頻りに立てる。
威公は立腹して、此の上は假令我が一命を召さるるとも吉田に於いては出すまじ」と曰つて屋敷に引篭もつた。
其の上、尾・紀二公までが「吉田を出せば三家の瑕」などいつて扇動するので事は愈々面倒になり、
家綱も持て餘したが、其の内吉田が江戸天澤寺の墓所で切腹したから天下無事で治まつた(古老物語・系簒附録)
347日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:05:49
自作自演が酷過ぎる件について
348日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:09:05
なぜそうなる?
349日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:22:37
>>327
でも宮家や公家の御台所や側室はけっこう長生きしてる人が多いんでしょ?
350日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:26:10
>>330
なんで?
351日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:20:12
>>335
霊元上皇・一条派と綱吉・紀州派がつながるとして、それと対立した東山天皇・近衛は水戸・甲府派なの?
そのへんがよく分からないんだけど・・・
352日本@名無史さん:2005/12/27(火) 18:24:54
>>328
「三宮」っていうのが分からないんですが、公寛親王のことですか?
でも公寛親王の母は高辻(菅原)氏だから「藤」内侍ってことはないか・・・。
その三宮は結局、廃太子されたんですか?
353日本@名無史さん:2005/12/27(火) 19:25:17
328 335ではないけれど

>>351
近衛基熙は東山天皇と仲がいい。(霊元院と敬法門院が共通の敵なので)
基熙の叔母が水戸光圀の正室。基熙の娘熙子が甲府家宣の正室。
基熙とその正室常子内親王は日記の中で家宣をべたぼめ。

>>352
公寛親王の母親は冷泉為経の娘なので「藤内侍」でおk
三宮は立太子すらしていないので廃太子ではない。
円満院に入寺後、無事に輪王寺門跡になる
354日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:04:13
みなさんお詳しい☆
もっと深くお願い致します
355日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:13:45
>>353
公寛親王は高辻長豊の女じゃないの?
356日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:16:21
>>353
>三宮は立太子すらしていないので廃太子ではない。
儲君治定もしてないのかな?東山天皇から儲君の制が始まってるはず。
357353:2005/12/27(火) 21:32:39
>>355
「本朝皇胤紹運録」には「母藤内侍冷泉前大納言為経女」とあるよ

>>356
儲君治定されてない。霊元院と敬法門院が勝手に決めていただけ。
長宮が宝永4年に治定されている
358249:2005/12/27(火) 21:38:47
>>249 他には情報ござらぬか?
359日本@名無史さん:2005/12/27(火) 22:36:10
皆さんさすがプロかセミプロですからお詳しくて嬉しいです!
賢いかた同士で喧嘩なさらずにこれからも色々と教えてください
360328&335:2005/12/28(水) 15:40:38
まず【続き】を書く前に補足しますが…
正確には、東山帝と近衛らによる三宮排斥の対幕工作は、前年の3月、長宮の同母兄・寿宮が生まれた翌月に始まり、すでに同年8月、
三宮の円満院入りの内諾を幕府から得ていました。なんといっても基煕は王政復古の野望を隠そうともしない霊元上皇と違って、
朝幕融和派で、綱吉も一目置いていましたからね。そして寿宮は元禄14年11月まで生存していましたから、厳密には三宮は、
刃傷事件が起きた元禄14年3月の時点では、唯一の皇子ではないうえ、立太子の有資格者ですらなかった可能性があります。
ですから自分自身、この説はあまりお勧めではないのですが、お公家の世界は伏魔殿ですから、真相は藪の中です。

前置きが長くなりましたが…浅野長矩は遠国の一小大名、とはいえ幕府に忌まれていた儒学者・山鹿素行(前回尊王思想家とあったのは誤り)
を先代長直の頃より赤穂藩で庇護していたことから、思想的にも彼の影響を受け、門弟を多く持つ素行から世を憂う声はいろいろ聞いていた
と思われます。素行は『中朝事実』の著者として、よく国粋主義者と疑われますが、王政復古を明瞭に否定しています。そして善悪は行動で示される、と。
長矩が長じたころに彼は江戸に帰ってしまいますが、もともと潔癖漢と云われる長矩にはあの刃傷事件に至る伏線が、この頃すでに引かれていたと云うのです。
王政復古否定と行動主義…この思想が、綱吉がその顔すら知らないだろう小大名を、歴史上の人物にまで押し上げる結果になろうとは、長矩自身気づいていなかったでしょう。
(仕事のため中座します)
361日本@名無史さん:2005/12/28(水) 15:55:54
宮号で書かれるとググりにくいから、イミナで書いてほしい
362日本@名無史さん:2005/12/28(水) 15:58:46
東山天皇の配偶者と子女

中宮:幸子女王(承秋門院)
第一皇女:秋子内親王

典侍:櫛笥賀子(新崇賢門院)
第一皇子:一宮
第二皇子:二宮
第四皇子:寿宮
第五皇子:慶仁親王(中御門天皇)
第六皇子:閑院宮直仁親王(第一代)

掌侍:高辻(菅原)長豊の娘
第三皇子:公寛法親王
第三皇女:光明定院宮
第四皇女:聖祝女王
363日本@名無史さん:2005/12/28(水) 16:05:38
良スレの予感
364日本@名無史さん:2005/12/28(水) 16:58:26
ここは天スレではなく徳川スレなんだが。
天オタは徳オタの憩いの場を奪わないでくれ。
365日本@名無史さん:2005/12/28(水) 17:10:38
>>364
江戸の政治が京と関わってたことを無視するのは時代遅れ
366日本@名無史さん:2005/12/28(水) 17:49:36
徳オタ推奨。天オタは天スレに去れ。
367日本@名無史さん:2005/12/28(水) 17:52:26
べつに天オタじゃないだろ。
368日本@名無史さん:2005/12/28(水) 17:58:30
>>362
三宮の母って藤内侍じゃないのけ?
369日本@名無史さん:2005/12/28(水) 17:59:52
公武合体論ってこのころからあったのかな?
370日本@名無史さん:2005/12/28(水) 18:03:01
>>353
輪王寺門跡ってことは幕府に厚遇されたんじゃない?
371328&335:2005/12/28(水) 18:54:54
ちょっと気になるので一言…
綱吉の時代、水戸=甲府と一括りにするのはどうかな?
甲府綱豊を熱心に推したのは黄門光圀一代かぎり。次代・綱條の側近には、藤井紋太夫にシンパシーを
抱く者も少なからずいて、まあ「お家大事」を思えば、光圀のラジカルなアンチ綱吉の姿勢を危ぶむのは当然。
元禄13年12月の光圀死去後、水戸家は公然と幕府にすり寄ってますからね。
光圀の実子・讃岐少将松平頼常でさえ、綱吉の柳沢邸還御の折、池田綱政、細川綱利、藤堂高久、酒井忠挙ら
柳沢党の諸侯とともに、吉保の歓心を買わんと、率先して伺候しているぐらい。
光圀老公も、一門にはとんだ厄介爺イだったのでは?…
372日本@名無史さん:2005/12/29(木) 12:56:38
出自が宮家・公家の御台所に、長寿はそれほど多くないですよ。
武家出の家康・秀忠の正室と、入輿前に逝った家継の室を除いて、
残り12人のうち、20〜30代で亡くなったのが6人と半数、
60以上の長寿を全うできたのは、わずか3人です。
そもそも種の強い・弱いは、本人が長生きしたかどうかではなく、
生命力の強い子を産めるかどうか。その点貴種は弱いのでは…?
とはいえ、正室は政略結婚の最たるもの。気位の高い人も多かった
でしょうから、将軍も敬して近寄らず、もともと交合の機会が少なかった
とは言えるでしょうね。
373日本@名無史さん:2005/12/29(木) 13:07:41
御三家の廉中なら登美宮吉子みたいに90歳以上生きた人もいる。
子どもは慶篤は短命だったけど、慶喜は長生きだったね。
374日本@名無史さん:2005/12/29(木) 13:26:25
貴種は生殖能力低いなら皇室や公家はどうしてこんなに続いたの?
375日本@名無史さん:2005/12/29(木) 13:42:33
今の皇室の男系・女系の是非論でも話題沸騰しているように、
皇統は側室制度によって支えられていました。
公家出と云っても、中宮以外は宮家・摂関家・大臣家のような
上級公卿ではない下級出も多く、彼(彼女)らは質素な生活で
鍛えられていましたからね。
それと、13代家定は三度正室を迎えていますが、三人目の天璋院
(島津斉彬の養女にして近衛忠煕の養女、その実島津忠剛の娘…
ややこしい!)という武家出を含めても、やはり長寿を果たしていません。
なお家定の前名・家祥は、イエサキが正しいと思います。
376日本@名無史さん:2005/12/29(木) 13:57:42
徳川スレなので、皇室関係の話題はほどほどに。
377日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:09:58
賛成です!皇室絡みの議論にに深入りすると、
どっかのスレのように荒らし叩きの渦に巻き込まれます。
378南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/29(木) 14:24:16
>>371
光圀が厄介爺イかどうかは置いとくとして、大日本史の編纂は水戸家に大きな負担を与えましたよね。。
綱條の代はまだ修史事業が進展し、正徳五年(1715)「紀伝」が一応の完成をみましたが、
宗堯、宗翰の代は進展がないとういうか、力が入れられなったわけです。。

財政面と、幕府が朝廷に遠慮して南朝正統論の大日本史の献上や発行を許さなかった面がありますが、
幕末の水戸学と光圀は直結はしていないわけです。。。

六代治保の代になり、修史事業が復活し、立原翠軒や藤田幽谷が復活してきます。。
義公の事績が特に評価されるのは、これ以降の事でしょう。。

わし個人は水戸藩は決して善政ではないと思うとりますがね。。。
379日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:28:44
御台所も御廉中も徳川家の人である
380日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:37:11
紀伊藩祖の亡霊、だからですかね。
でも、名だたる水戸藩主が必ずしも名君でなかったというご指摘は
同感です。
381日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:45:15
>>380>>377>>375>>371-372愛国さん!
私ずっと>>360の中座の続き待ってます♪
とてもおもしろいです☆
お願いします!!
382日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:50:28
大日本史のお蔭で水戸史学が発達し
幕末明治から昭和初期までのイデオロギーを支配した
結果として水戸家は侯爵から公爵に昇ってます
水戸出身の慶喜家も公爵だから
公爵になった徳川3家のうち2家は水戸系
383南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/29(木) 14:51:21
我紀州とて威張れるものではないですが。。

わし、光貞とも地元では名君と言われますが、頼方(吉宗)が立て直さなければ。。。
頼方襲封時は幕府から十万両の借金が。。
鶴姫、江戸屋敷の火事、光貞・綱教・頼職の葬儀・・・
幕府と仲良くするのも良し悪しじゃね。。。
384日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:57:04
>>378南龍公の亡霊氏
>宗堯、宗翰の代は進展がないとういうか、力が入れられなったわけです。。
>財政面と、幕府が朝廷に遠慮して南朝正統論の大日本史の献上や発行を許さなかった面がありますが、幕末の水戸学と光圀は直結はしていないわけです。。。


詳しくお聞かせ下さい。
385南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/29(木) 15:01:50
>>380>>382

必ずしも水戸学の発展が良かったとは言い切れぬと思うよ。。
新しい時代を切り拓いた魁となった事は認めるけれど、
天狗だ、激派だ、鎮派だ、諸生だ、で殆どみんな死んでしまったし。
維新後の思想をリードしたかもしれないけど、それだって・・・
藩政の苛酷さもあるし、一概に素晴しいとは言えないと思う。。。
386南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/29(木) 15:14:45
>>384
簡単に流れを
正徳五年(1715)大日本史紀伝が一応完成

享保五年(1720)享保本(本紀・列伝・叙・修史例・引用書目・目録等)幕府に提出
このとき朝廷に献上しようと幕府に諮るが、南朝正統はまずいと言う事で、献上、発行を許されず
元文二年(1737)安積澹泊のまとめで「元文検閲本」出版


この後約60年一切修史進まず

寛政十一年(1799)治保のもとで修史本格的に再開される

正徳五年(1715)〜元文二年(1737)も修史はさして進んではいません
387日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:23:11
横レスですが、なるほど
家宣・家継・吉宗と朝幕宥和期は北朝系たる朝廷に遠慮したわけですね
寛政に再開というのもおもしろい側面ですが、再開時期はあくまで水戸内部の都合のみに関わることでしょうか?
朝幕関係も影響を与えていますか?
388南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/29(木) 15:29:54
>>387
確たる事はわかりませんが、直接朝幕関係とは関係ないかと
ただ、修史再開で藤田 幽谷が出てきたところから、水戸学が始まるわけですね。。。
389南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/29(木) 15:47:09
若干補足と訂正
>>386の治保修史再開は立原翠軒を彰考館総裁に送り込んだ、天明六年(1786)のようです
藩財政は引き続き逼迫していましたが、文武振興を目論んでのことのようです。。。
もうひとつ光圀の没後百年にならんとしていた事も、関連するようです。。


390日本@名無史さん:2005/12/29(木) 17:23:51
ありがとうございます☆
391日本@名無史さん:2005/12/29(木) 17:53:09
家康の子息の名前について、六男までは、
信康・秀康は、清康(祖父)・家康の康、
秀忠・忠吉・忠輝は、親忠(高祖父の父)・信忠(曾祖父)・広忠(父)の忠、
信吉は、信光(高祖父の祖父)・信忠(曾祖父)の信と、
家康の直系先祖の名前の字を使っている。
しかし義直・頼宣・頼房は、家康の先祖には使われたことがない字、
これはどこからとったのだろう?
 ※()内は家康との続柄

あるいは信吉は武田の名跡を継いだわけだから、武田の通字の信かもしれないけど。
ちなみに一応系図上の家康の直系先祖は、
親氏ー泰親ー信光ー親忠ー長親ー信忠ー清康ー広忠
392日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:02:34
義は足利から、頼は源から?
393日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:12:07
頼は豊臣秀頼からか?
394日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:15:22
義も頼も源氏の通字。ただし頼には秀頼の含意もあり。
395日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:43:16
外祖父である正木頼忠の頼を意識したという説を唱えてみる
396日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:45:28
>>375
正室・側室の没年ってどこで調べられるの?
家祥はイエヒロじゃなかったっけ?
397日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:45:58
南龍公殿、教えて下さい。
慶安事件と尊公との因縁を。
もう時効でしょう。
老中に弁明されたように、ホントに無関係なのか?
お墨付きを与えのかどうか?花押が偽物か否か?
398日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:51:59
本物の花押には目に針の穴が
399日本@名無史さん:2005/12/29(木) 19:12:19
>>396
イエサチだって
400日本@名無史さん:2005/12/29(木) 19:22:34
義直の名前付ける頃になってようやく義貞だの頼朝だの意識するようになったのかな? 
401日本@名無史さん:2005/12/29(木) 19:35:49
義直の生年が、関が原のあった慶長5年、頼宣が慶長7年。
いずれも江戸開府以前のこととは云え、家康は征夷大将軍と源氏長者
の称号は、もうわがものと確信していたでしょうから、
源氏名(なんだかクラブのホステスみたいだけど…)を意識して
つけたとしても、おかしくないよね。
402日本@名無史さん:2005/12/29(木) 19:36:45
家康も義家を意識してるんじゃないのか?
403日本@名無史さん:2005/12/29(木) 21:18:08
偏諱の話をすると物凄いキチガイが沸いてくるから、遠慮してくれないか。
息子たちスレが滅茶苦茶になった。
404日本@名無史さん:2005/12/29(木) 21:56:52
>>403
意味不明
405日本@名無史さん:2005/12/29(木) 23:24:53
幕末以降とかばっかでつまらん
406日本@名無史さん:2005/12/30(金) 00:11:38
じさくじえんうっざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

死ねよ
407日本@名無史さん:2005/12/30(金) 00:28:18
>>405
いつ幕末以降の話した
408日本@名無史さん:2005/12/30(金) 00:42:35
わざわざキチガイとかいう言葉を持ち出すヤツが一番ウザイ。キエロ。
409日本@名無史さん:2005/12/30(金) 01:09:45
じさくじえんうっざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

死ねよ
410日本@名無史さん:2005/12/30(金) 01:11:07
自演自演言うならID制にすれば?
411日本@名無史さん:2005/12/30(金) 08:41:00
>>410
できならやってみてくれ。
この板の自治スレでも話題に上るが結論は無理。
412南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/30(金) 09:44:10
ひとつ大日本史に追加

立原翠軒の父蘭渓は地位は低かったが、学問、文章に卓越していたそうな。。
彼は老いて後、水戸藩の大日本史編纂事業が停滞しているのを悲しみ、
「翠軒(こう呼んだのではないでしょうが)わしには無理じゃ、おまい大日本史の完成を目指せぉ」
と訓戒したそうです。。

蘭渓は書を買おうにも金がない翠軒のために、必読書を借り自ら書写したそうです。。
父の意気に答えて翠軒は猛勉強し、二十歳で江戸の史館書写場雇に採用されたそうです。。
蘭渓の思いが翠軒に伝わり、水戸藩の修史事業自体を動かし、
それが藤田幽谷につながっていった・・・
人の思いとはまこと強いものです。。。


通字について・・・源氏の義、頼、でしょう。。
家は義家、光は義光、綱は義綱と前に書きました、これはあくまで空想ですが。。
413南龍公の亡霊 ◆N/RYUIsDUk :2005/12/30(金) 09:53:28
>>397
私は嘘は申しません。。。無関係無関係。。。

家綱山王社参詣の折「我ら三人は太政大臣の子じゃ」と威張ったのは義直兄者だし、
どこぞの天守から飛び降りたらなんでもやると父上に言われて、
「飛び降りるよ、おれは天下が欲しい」と言ったのは頼房だし、
わしは天下なんて、い・り・も・う・さ・ん
(痛いところをつくのお、謎にしといてねえ)
414日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:56:52
>>399
ソースは?
415日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:11:48
じさくじえんうっざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

死ねよ
416日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:30:22
>>415
おまえがな
417日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:33:17


          ∧_∧
         (´Д` ) いざ!
         /  y/  ヽ
    Σ(m)二フ ⊂[_ノ
        (ノノノ | | | l )
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
418日本@名無史さん:2005/12/31(土) 12:15:28
南龍公殿、半ば期待どおり、半ば期待はずれのご返答、有難うございます。
歴史を楽しむ我らのために、想像の余地を残して下さって……
というか、八代以降十四代までを独占した、余裕の為せるところですネ。
419日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:55:08
>>418さん
>>386を読んでよ!
420日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:56:28
>>381を読んでよ!に修正いたします!!
421日本@名無史さん:2005/12/31(土) 19:21:26
なりきりキモ
422日本@名無史さん:2005/12/31(土) 21:14:19
420さん、あしからず(感謝!陳謝!)
ただ、あれから先はかなり牽強付会が目立ち、詳述するのはちょっと気が進みません。
要は、天皇家・将軍家の世継ぎに関わる枢機を、勅使饗応役の立場から知ってしまった
(勅使によって意図的に漏らされた)浅野長矩が、その思想、性格から皇位と天下を私物化する陰謀に
悲憤慷慨し、一切を葬るため殿中で刃傷に及んだ。
吉良を短刀で刺さずに斬りつけたのも、私怨ではないので殺意まではなかったから。
取り調べの場ですべてを暴露するつもりが…

蘇鉄の間での目付の審問に、長矩は真実、多くを語らなかったのか?黙殺されただけではないのか?
口封じのような即日切腹、しかもお預けは、なんと!伊達一門の田村建顕の屋敷。出来すぎ。
事件後も、猿回しのサルが変わっただけで、権力者の策動は続く。

長矩と同じ山鹿素行に師事し、思想・価値観を共有していた大石良雄がこれを座視するはずがない。
しかも近衛家の家司と親交があり、遺臣の中で唯一事件の真相を知りうる立場にあった。
そして討ち入りの夜、吉良邸の前で打ち鳴らしたのが、山鹿流陣太鼓。
それは、寝所の吉良を脅かすためというよりも、素行の教えを戴いて、江戸城奥深くに眠る綱吉の蒙を啓く
警鐘のつもりだったのかも…?

なお、長矩の室・阿久里の侍女、後に家宣の側室(左京の方、月光院)となるお喜世の介在から、朝廷の動きとは
切り離し、将軍継嗣争いと忠臣蔵を結びつける説は他にもあります。
いずれにせよ、柳沢吉保と霊元上皇を結ぶ正親町公道の異母妹で、吉保の愛妾の町子が
筆マメを生かし、『松蔭の日記』あたりで、この辺の事情を明かしてくれていれば…と残念に思います。
423日本@名無史さん:2006/01/01(日) 03:52:26
馬鹿は自作自演時に文体を使い分けられない
424結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/01(日) 11:49:45
あけましておめでとうございます。
今年も楽しく徳川家について語りましょう。
425【綱吉】【2015円】:2006/01/01(日) 19:03:59
1
426日本@名無史さん:2006/01/01(日) 20:04:01
427日本@名無史さん:2006/01/02(月) 11:04:01
新年早々ですが、ちょっと聞きたいことがあるんですが・・・・
「徳川吉孚」という人物の生没年を教えてほしいんですが・・・
428日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:25:11
>>427
ぐぐれ
普通に出てくる
429日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:26:40
・・・出てこなかったorz
ごめんね
430日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:27:18
>>427
http://nekhet.ddo.jp
で「各家成員リスト」に行って、水戸の一族のとこを見るよろし
431日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:35:52
おまいら今日の十時間時代劇見る?
432日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:46:20
見る。土井利勝が家康の御落胤だったという…云い古された
驚きでも何でもない説が売りらしいけど…
433日本@名無史さん:2006/01/02(月) 13:17:31
430推奨の『各構成員リスト』にも記載がないので補足しますと…
吉孚は、貞享元年〜宝永6年12月没(享年25歳)
元禄15年11月従三位左中将(宰相)に任官、宝永5年12月参議に昇る。
しかし綱條の実子は、皆早世し、水戸家は支藩高松の松平頼豊の嫡男が継ぎ、
4代は宗堯。江戸常府が定めの水戸藩主、その世子だった宗孚も終生国許に
帰ることなく逝った。-
434日本@名無史さん:2006/01/02(月) 13:22:06
吉孚の没年は宝永6年10月の誤記、訂正します。
435結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/02(月) 17:11:28
吉孚の娘は水戸4代藩主宗堯の妻となった。
5代宗翰はその子。
436427:2006/01/02(月) 17:42:35
いろいろありがとうございました!!
勉強になります・・・・
437日本@名無史さん:2006/01/03(火) 02:29:39
テレビ東京
1/3
09:00 論語とそろばん〜徳川家当主が見た中国経済と儒教〜

外出ならスマソ
438日本@名無史さん:2006/01/03(火) 13:53:57
現当主が出てたね。
でもここは個人を語るスレではなくて家を語るスレなんだろう?
439日本@名無史さん:2006/01/03(火) 15:01:47
>>438
おまいは渡辺篤史か!
それって個人を語らずどういう風に語るのよw
440日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:00:23
>>422
月光院・お喜世の方が、甲府宰相綱豊の御殿にあがる以前に
奉公していたのは、この2家。
はじめ京極甲斐守高住屋敷、次に戸沢上総守正庸屋敷。

お喜世が浅野家に奉公していたというのは、俗説というより創作。
浅野家に奉公していたのは、お喜世の「兄」の妻。
441日本@名無史さん:2006/01/04(水) 04:39:08
>>422
討ち入り時に、太鼓なんか鳴らしてない

早く棺桶で寝ろ。二度と起きてくるな。
442日本@名無史さん:2006/01/04(水) 05:05:31
まあ、本当に太鼓鳴らしてたら面白いけどなw
夜中に奇襲しに行ったのに太鼓ならして相手に知らせてあげるなんて
チンドン屋じゃあるまいし…
443日本@名無史さん:2006/01/04(水) 05:58:03
徳川なんて所詮は「飾り」なんだから語る価値も無い。
江戸期を通じて江戸時代を象徴とする一番の権力亡者は
井伊直弼を置いて他にいない。
444日本@名無史さん:2006/01/04(水) 11:08:41
何をムキになってるか知らないけど、
冒頭断わったように、これが史実だとは自分自身信じてないって!
太鼓については持参したのは事実みたいよ。鳴らしたかどうかは疑わしいけど…
でも討ち入る前はともかく戦いが始まった後は、鳴らしたかもよ。
戦意昂揚というより、討ち入り自体示威行動だから…
445日本@名無史さん:2006/01/04(水) 12:05:25
史実では、440さんのご指摘はお説のとおり。
但馬豊岡藩や出羽新庄藩の屋敷に奉公したのち、宝永元年
家綱の乳母・矢島局の養子・大番頭矢島治太夫の娘分として桜田御殿にあがってます。
446日本@名無史さん:2006/01/04(水) 23:34:30
>>441
そういや正月のクイズ番組で、
忠臣蔵の討ち入りで、史実と異なっている点が二点あります。
一つは、義士たちの服装が実際には統一されてなかったこと。
もう一つは何でしょう?という問題があた。
答えは、「雪が降ってなかった」。

史実と異なる点なんて数限りなくあるじゃんかよ・・・
と一人で突っ込みをいれてますた。
例えば「実際の赤穂浪士同士の会話は、標準語では行われなかった」とか
(何でもいいが)答えたら、それは恐らく「間違い」で、
あくまでも正解は「雪」。
アホかと思いまつた。スレ違いですまん。
447日本@名無史さん:2006/01/05(木) 01:33:22
冒頭断わったように、これが史実だとは自分自身信じてないって!
でも討ち入る前はともかく戦いが始まった後は、みんなで踊ったかもよ。


448日本@名無史さん:2006/01/05(木) 10:38:30
検証されてる事実については、まともな赤穂事件の本を読めば
普通に書かれてることだ。

ドラマや映画、歌舞伎は「忠臣蔵もの」ジャンルの創作物と
割り切って娯楽として見ている人もたくさんいるよな。
449日本@名無史さん:2006/01/05(木) 14:23:50
万次郎→清水重好
450日本@名無史さん:2006/01/05(木) 15:46:21


    450をゲットしてござりまする…。


451日本@名無史さん:2006/01/05(木) 23:12:44
>>422
牽強付会のこじつけでよいのでお聞きしたいよー!
すごくおもしろそうで知りたくてなりません
452日本@名無史さん:2006/01/05(木) 23:59:29
「清水徳川家について」
ぶっちゃけ清水家っていらなくない?
453日本@名無史さん:2006/01/06(金) 11:07:27
要らない。
重好死後15年間も空き家。そのあとは一橋家の血筋に乗っ取られる。
家斉にとっては子供の片付け先として○、紀伊家にとっては家斉による
無血占領の前線基地となったので×
重好の実母は、吉原の三浦屋四郎右衛門の姪とも、浪人三浦義周の娘とも
謂われ、父家重の虚弱多病の悪い血も享けている。
直系が絶えたのは、以て冥すべし、か。

454日本@名無史さん:2006/01/06(金) 13:13:49
潰そうとしたら田安と一橋が反対したんだね。御三卿潰しの前例ができると
困るから。最後は水戸出身の昭武だし、戦後は爵位返上してるし、本当にい
らない。
455日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:16:10
戦後はどの家も爵位を剥奪されたが
456姉歯:2006/01/06(金) 16:18:22
江戸幕府は日本の汚点 恥部。
457日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:38:29
清水家は幕末にも空き屋形になってる。
斉彊が紀伊藩主に転出したあと、適当な後継者がいなくて無主の家になり、
その状態が20年も続いて、やっと水戸家から昭武が相続した。

ただ、その間も屋敷の管理要員として清水付の家臣たちは存置されており、
町奉行経験者の跡部良弼などが清水付支配を務めている。
458日本@名無史さん:2006/01/06(金) 19:40:49
跡部良弼の名が出るとは…オヌシやるな。
大阪町奉行から大目付、勘定奉行を経て江戸南町奉行、
その後小姓組番頭から留守居兼任のまま大目付に再任され、
さらに側衆から北町奉行を経て清水家支配、して留守居役本役…
旗本として栄達極まれり。
たしか“金さん”で有名な遠山景元の親戚だったはず。
459日本@名無史さん:2006/01/06(金) 19:51:23
水野忠邦の実弟。江戸開城直前に短期間、若年寄にもなってます。
460日本@名無史さん:2006/01/06(金) 19:53:16
吉原の忘七の姪て・・・。
人売りがどっかから売りに来たのを買ったて感じ?
461日本@名無史さん:2006/01/06(金) 19:54:13
大塩に反乱起こされた人ね。
462日本@名無史さん:2006/01/06(金) 20:13:03
三浦屋は幕府に吉原差配を許された由緒ある家。
当主・四郎右衛門の弟五郎左衛門の娘と云われるけど、
案外女衒から買った田舎娘かもね。
御三卿の母がそれじゃあんまりと、一応松平親春の養女って
体裁とってるけど。
世子家治の生母・お幸の方が公卿・梅渓道条の娘だったから、
相当イビられたらしいよ。
もっとも家重は卑賤の出のお遊喜の方(お逸の方)を愛し、逆に
二の丸に蟄居させらてしまったとか。

跡部良弼については、水野忠邦に重用されながら、落ち目と
見るや、阿部正弘にすり寄り…まるで今の高級官僚のカガミだね。

463日本@名無史さん:2006/01/06(金) 23:20:41
>>455
清水家が爵位を返上したのは明治30年のこと
その後、爵位を返上した徳川篤守の息子の徳川好敏さんが
飛行機で頑張って昭和3年に男爵を貰って華族に復帰
464日本@名無史さん:2006/01/06(金) 23:40:41

跡部ってことは・・・

武田遺臣末裔ですか。
465日本@名無史さん:2006/01/06(金) 23:44:01
いいな〜 立派な家柄でよー
おいら庶民は。。。。。借金どうすっかばっかだしよー
466日本@名無史さん:2006/01/06(金) 23:46:13
>>463
おれはそれくらいしってるっつうの
>>454に教えてやれ
467日本@名無史さん:2006/01/07(土) 16:35:56
>>466
返上と剥奪の違いがわからないことは伝わってきたよ。
468日本@名無史さん:2006/01/07(土) 17:34:38
田安と一橋は維新後、ごく短期間だけ立藩している。
しかし、版籍奉還の際、他藩同様に知藩事に任命されず、そのまま廃藩になった。

清水は昭武が水戸藩主になって当主不在だったため、立藩すらできなかった。
469日本@名無史さん:2006/01/07(土) 18:46:23
田安家って2代目が死んでから
3代目が入るまで、何年あき屋敷だったんだろ??
470日本@名無史さん:2006/01/07(土) 22:00:15
1774年から87年までの13年間
471日本@名無史さん:2006/01/07(土) 23:45:33
>>468
何藩?
472日本@名無史さん:2006/01/07(土) 23:54:46
でも血筋の絶えた清水家と違って、政略によるもの。
一橋治済と田沼意次の陰謀で、二代治察に子がなかったのに、
お控えである弟(松平定信)を将軍家治の台命と称して、無理矢理
奥州白河の松平定邦の養子に出された経緯は、周知の事実。

定信が田安家を継いでいれば、11代将軍になるべき筋目だったのに…
一橋治済の家老は、田沼意次の弟だもんね。
473日本@名無史さん:2006/01/08(日) 00:18:12
>>471
田安領と一橋領は、他の大名のようにまとまった領地があるわけではなく、
各地に分散していた領地の集合体にすぎない。
とりあえず、新政府から本領安堵されて独立した諸侯として遇せられたものの、
帰順して朝臣となった旗本領同様、版籍奉還の際に解体されてしまった。
474日本@名無史さん:2006/01/08(日) 00:43:42
明治元年5/24に田安慶頼と一橋茂栄が藩屏に列せられたのは
史料にも明記されてるから確かだ。
所領分散してるとはいえ、主に田安家は甲州、一橋家は備中だったはず。
一応版(領地)と籍(領民)は持ってたってことか。
475日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:37:25
>>472
もともとは御三卿全部の廃絶を狙ってたみたいだけどね
家基も存命で三卿の存在価値は微妙に無い頃だし
清水にも子は無いし、ある意味絶好のチャンス
476日本@名無史さん:2006/01/08(日) 03:16:33
家基の毒殺説ってのは、どう思う?
家基の死が安永8年2月、定信を白河の松平家に養子へ出したのが安永3年3月、
確かに家基存命中とはいえ、一橋豊千代を世嗣に迎え入れる筋書きは出来ていて、
家基毒殺が延滞したのは、家宣の弟清武の血を引く硬骨漢、老中首座の松平武元
の病による衰弱を待っていたからでは���
477日本@名無史さん:2006/01/08(日) 04:39:28
松平武元は水戸系で清武とは血は繋がってないはず
478ringo:2006/01/08(日) 10:06:29
昨日、徳川将軍家15代の病気の本購入!!
結構おもろい
479日本@名無史さん:2006/01/08(日) 10:39:34
松平清武の血統は一代で断絶だね。
480日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:52:03
>473
語三卿って、「領地なし」の「幕府から給米(現金払い)」じゃなかったっけ?
481日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:56:11
領地はあるけど、数カ国に分散している上、幕府の役人が支配している。
482日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:09:28
>>476
一橋豊千代を世嗣に迎え入れる筋書きは出来ていて、
家基毒殺が延滞していたと仮定するならば
定信が養子として出て行ったのが豊千代が二歳ぐらいの時
当時は赤子がちゃんと育つかどうかも分らないんだから
武元がどうこうよりも、豊千代の成長を待っての方が説得力ある気がす
483日本@名無史さん:2006/01/08(日) 22:19:20
このスレ







キモ    徳川ヲタってどういうヲタだよ。
484日本@名無史さん:2006/01/08(日) 22:33:12
ってか、話題が幕末ばっかでつまらん。
485日本@名無史さん:2006/01/08(日) 23:30:41
家康は息子には厳しいが、娘には大甘だな
486結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/08(日) 23:35:49
>幕末ばかり
うむ・・そうだね。
他のところも語ろうか。
あと>>483はスルーで。
487日本@名無史さん:2006/01/09(月) 00:00:15
>>485
家康が厳しく接した息子って秀康と忠輝だけじゃないか?
488日本@名無史さん:2006/01/09(月) 00:23:34
尾張=終わり、田安=絶やす、に通じて不吉な気がするんだけど、
それが問題になったことは無いのかな?
489日本@名無史さん:2006/01/09(月) 01:24:08
>>487

 永見貞愛

 小笠原権ちゃん

490日本@名無史さん:2006/01/09(月) 06:29:20
>>485
娘って3人だけじゃん。
土豪だった奥平に嫁がせた長女には甘くなかったと思うし
子孫が優遇されたのも秀忠や家臣の姉に対する配慮だろう。
次女には甘かったとは思う。
三女も蒲生から追い出されたときに蒲生に対して何もしなかった。
浅野にいったのも体よく出戻りの行き先を見つけた感じ
そこで高齢出産したのが誤算だったと思うし
(当時、あの年で生むのは普通じゃない。)

娘より、水野家や久松家関係者に甘いと思う。
なんで、水野が譜代やねん。って感じ。普通なら1〜5万石クラスの外様。
あと、久松の異父弟たちも全く役にたってない割に伊予国主格だったりで
491日本@名無史さん:2006/01/09(月) 06:42:04
親より長生きした忠輝。徳川を名乗ることなく93歳まで生きたそうだね。

492日本@名無史さん:2006/01/09(月) 09:52:16
>>488
どうなんでしょうね?
尾張は国名だし田安は門の名前だから、そっちから変えないといけないね。
493日本@名無史さん:2006/01/09(月) 10:00:46
おとといだっけな?
タモリのラジオ番組に徳川恒孝が出てたけど、みんな聞いてなかった?
494日本@名無史さん:2006/01/10(火) 12:09:02
松平慶民の息子の忠永は一時徳川本家の猶子になってたらしいけど、なんで跡を継げなか
ったの?
495         :2006/01/10(火) 14:09:45
>>494
きもかったから。
496日本@名無史さん:2006/01/10(火) 18:02:55
戦争中、軍のパイロットだったので、いつ死ぬかわからないので辞退した。
ちなみに戦後はJALかどっかの機長。
497         :2006/01/10(火) 18:32:28
きもいからだよ
498日本@名無史さん:2006/01/10(火) 18:46:29
単純に、秩父宮妃と高松宮妃と梨本宮妃と松平信子らの画策でしょうが
499日本@名無史さん:2006/01/10(火) 19:09:14
皇族ネタはいらない。
500日本@名無史さん:2006/01/10(火) 19:12:24
見境なく、どこにでも皇族ネタを書く天オタうぜええええ。

ここは徳オタのためのスレだ。シッシッ。
501         :2006/01/10(火) 19:53:52
なんでみんな、僕を無視するの?
ひどくない!?(`д´)=3
502日本@名無史さん:2006/01/10(火) 20:46:05
天&徳は無二不離
503日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:35:38
松平慶民といえば最後の宮内大臣〜宮内府長官〜初代宮内庁長官だね
その長男松平永芳氏は靖国神社宮司になった
504日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:38:50
A級合祀
諸悪の根源やがな
505日本@名無史さん:2006/01/10(火) 22:00:53
>>498鍋島の陰謀かも
506         :2006/01/10(火) 23:08:26
無視するなよ
僕はこのクソスレに来てやった「客」だぞ!!(`д´)
507日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:54:06
>490
久松の兄弟が全く役に立ってい無かったとは言えないと思われ。
康元は部将としてそれなりに働き、またその娘たちは徳川家の政略結婚に資した。
勝俊は人質として苦労して資した。
定勝は・・・功績は微妙だけど、徳川家の政略結婚には資した。
まあ、家康に身内として仕える兄弟が居れば出番は無かったかも知れ無けれ無いけども
508日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:02:06
鍋島とは?
509日本@名無史さん:2006/01/11(水) 06:10:13
>>507
水野は足引っ張ったわりに譜代なんだよな。
510日本@名無史さん:2006/01/11(水) 17:36:06
いるよね

天皇を天コロと呼んでみたり、
皇太子殿下をナルヒトと呼び捨てて、自分までえらくなった気分に浸る某辻本とか。

511日本@名無史さん:2006/01/11(水) 18:20:37
>>509

そうはいっても母於大の実家だから
512日本@名無史さん :2006/01/12(木) 19:40:43
ジュリアおたあ
韓国出身のキリシタン。秀吉の朝鮮出兵の際、少女だったおたあはキリシタンである
小西行長によって保護され、行長の妻の影響でキリシタンとなりジュリアという洗礼名を受けた。

関ヶ原の戦い以降は徳川家康の大奥に仕えたが、慶長17年(1612)の禁教令による摘発によって、
伊豆の神津島に流刑になった。
 現在、毎年5月には神津島で、神の愛を証し続けた おたあを記念して、日韓合同でジュリア祭が行われる。
513日本@名無史さん:2006/01/12(木) 20:14:46
最近…テレビドラマで大奥が放送されてるけど……葵の家紋…徳川家の許可とってるのかな?
514日本@名無史さん:2006/01/12(木) 20:20:35
なんで家紋使うのに許可がいるんだ?
515 :2006/01/12(木) 22:23:27
著作権だよ
516日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:50:03
徳川家が家紋を意匠登録してるとは初耳だ。
まあ登録できないだろうけど。
517日本@名無史さん:2006/01/13(金) 08:44:48
三葉葵だけでも何種類あるか知ってるか?
将軍家と御三家だけでもそれぞれ異なる。
518日本@名無史さん:2006/01/13(金) 09:14:59
>>517
で、何種類あんの?
519日本@名無史さん:2006/01/13(金) 09:31:26
>517
つうか将軍家でも代によって異なる。
520日本@名無史さん:2006/01/13(金) 11:34:23
おいら水戸に人だけど、イベントのデザインで葵の紋使うときは
必ず、見川の水戸様に許可取りに行かねばならない
返事はたいていOKだけどね
521日本@名無史さん:2006/01/13(金) 13:10:12
将軍家の三葉葵は、家康から家光までが33芯の葉脈、家綱が19芯と23芯、
綱吉が23芯と27芯、家宣が31芯と35芯、吉宗が23芯、
家重以降13芯、
御三家も表葉、裏葉の使い分けで異なり、葉脈の数で一定していない。

522日本@名無史さん:2006/01/13(金) 13:15:49
所詮三河の豪族
523日本@名無史さん:2006/01/13(金) 13:16:04
ごめ・・質問
・・芯って何!?なんか違うの?
524日本@名無史さん:2006/01/13(金) 13:19:28
芯は、葵の葉脈の数。
525日本@名無史さん:2006/01/13(金) 13:34:38
>>521
マジですか。
非常に学問板という感じです。
526日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:41:59
やっぱ綱重だよな。
527日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:54:40
綱重の自害説って‥‥真相はどうなんだろう?
528結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/13(金) 18:51:18
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E9%87%8D

ウィキペディアでは、綱重の幼名は祖父の秀忠からとったもの、
みたいに書かれているけど、実際どうなんだか。
>>527
5代将軍候補だったのに、自害する必要あったのかな??
普通はしないと思うけど・・。
529日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:17:01
綱重は酒色に溺れ、性格粗暴、相当な癇癪持ちだったらしい。
その急死については史家の間でも疑惑を持たれ、一説には‥‥
前回の7万両に続く公儀への10万両の借財申し入れを、酒井忠清に
一蹴され、憤慨して、帰国する途上、八王子の本陣で自害したとまで
云われている。すでに在世のころより、彼が幕閣・御三家の間で
将軍家の世嗣としてはもちろん、甲府一国の治国もままならぬ人物と
貶価されていたのは事実。弟綱吉の評価が当時は高かっただけにかなり
自暴自棄になっていたらしい。
530日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:21:01
家斉の息子で一番長生きしたのって誰?
531日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:23:21
松平斉民
532日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:53:36
>即レストンクス。
みんな早死にと聞いていたが、
親父より長生きしてしかもかなり逸材ではないか。
将軍斉民を見てみたかった・・・
533結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/13(金) 23:20:19
徳川家綱・・・可もなく不可もなく
徳川綱重・・・暴君
徳川綱吉・・・犬公方

家光の子って・・・・・・
534日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:34:57
家光自身が云われているような名君ではなく、
かなりの問題児だったそうですよ。
歴史にifはナンセンスだけど、忠長、(田安)宗武、
(松平)定信がそれぞれ継いでいた方が‥‥
535結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/14(土) 10:47:14
9代家重か。
吉宗は「長幼の序」で継がせたようだけど、
あれでは幕府が潰れてしまうことを考えなかったんだろうか・・・?
家治が聡明だったから家重に継がせたというけど、それなら
9代目を宗武にして10代目を家治にした方がよかったのでは・・・
536日本@名無史さん:2006/01/14(土) 11:13:52
家重は暗君じゃねーぞ?
財政面で独自の政策を打ち出したりしてるし
537結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/14(土) 11:40:04
家臣がやったのでは??
ちょっと暗君ではないとはいえ
弟達と比べられたら・・・・・・
538日本@名無史さん:2006/01/14(土) 12:40:57
つか宗武も宗尹も政治家としての実績なんてほとんど無いのに
何を持って優秀と判断してんだ?
539結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/14(土) 23:27:25
・・・・そういわれてみればそうだな。
俺は宗武や宗尹は学問ができて武術もできるから政治家としても
優秀なんだなと思っていた。
いい例が家治になるんだろうか。
聡明聡明とうたわれたけど結局田沼にすべて投げ出して将棋に
没頭していた。
540日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:48:07
>>535
その頃は、幕藩体制が堅固になっていたし幕府組織もしっかりして
いたから問題ないのでは?
その頃の将軍はすでに専制君主ではなく、立憲君主に近く勝手に
なにもかも出きる訳ではなかったから。
幕政は老中会議や評定所が決定→将軍が裁可と言う流れだから。
>>537
将軍の家来は家臣と言わないでのは?
541日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:04:20
家臣は家臣だろう
譜代の大名だって旗本だって御家人だって家臣は家臣だ
542日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:09:16
幕臣じゃないのか?
543日本@名無史さん:2006/01/15(日) 10:12:46
「徳川」っていう苗字の人、全国で千人くらいいるみたいだけど、
宗家、御三家、御三卿の子孫以外で、明治になって勝手に名乗った人が
かなりいるね!しかも広島県の人。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/to.htm
544日本@名無史さん:2006/01/15(日) 12:42:55
>543
おもしろいデータですね。
『松は貰えど、徳は貰えず』って、家門・御三家連枝以外にも、
前田、島津、伊達など国持ちの有力外様や、戸田康長…さらに
ずっと下って柳沢吉保にも授けた松平姓ならまだしも、徳川が
こんなに多いとは!
平民に苗字が許されたのが明治3年、普及したのが同8年、
すでに慶喜の謹慎も解かれ、朝敵というイメージも薄れて、
平民が貴種尊名への憧れからつけたのだろうか?
545日本@名無史さん:2006/01/15(日) 12:49:32
徳川夢声はどちらの徳川ですかと聞かれて
荻窪の徳川ですよと答えたそうな
546日本@名無史さん:2006/01/15(日) 13:01:12
本物の徳川姓の人って、どれくらいいるのだろう。

将軍家
慶喜家、厚家、誠家など
尾張家、義寛やその弟の家など
水戸家、圀順の弟の家
田安家、一橋家、清水家、昭武家
547日本@名無史さん:2006/01/15(日) 13:04:37
家重が暗愚かどうかはともかく、当時は老中をはじめ幕閣の世襲化が進み、
有為な人材に乏しかった。吉宗の例でも明らかなように、有職故実や遺訓先例に
縛られいるとはいえ、将軍はいつでも専制君主たり得た。
要は人物次第。
その点、田安宗武の歴史上の評価は高い。
御三卿はその立場の特殊性から、治国済民の事績を求めるのは無理。
しかし、大奥で終日すごした家重より、宗武に名君の資質がある。
548日本@名無史さん:2006/01/15(日) 13:08:34
http://pc8.2ch.net/test/read.cgi/hp/1136981068/l50
歴史サイト管理人雑談スレ
549日本@名無史さん:2006/01/15(日) 15:12:18
クラスに1人は居る佐藤とか、斉藤や加藤とかの藤原系苗字は
由緒正しい家柄の人なの?
550日本@名無史さん:2006/01/15(日) 15:49:02
ほとんどは只の農民
551結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/15(日) 17:02:57
水戸圀順とか、
光圀をイメージしたネーミングだよな。
552日本@名無史さん:2006/01/15(日) 17:21:58
>>549みたいなクソレスは理解に苦しむ。
553日本@名無史さん:2006/01/15(日) 19:09:27
旧大名家の名前は江戸時代からの通字を使っているところが多いが、
歴代が将軍の一字拝領を受けていた親藩の場合は、家によって差がある。

明治以降、尾張は初代義直の「義」を、紀伊も初代頼宣の「頼」を使用したが、
水戸だけは明治以降の当主の一字が何度も変わっている。

・昭武・・・清水家から相続。一字拝領の機会がなく、実父斉昭の一字を使用
・篤敬・・・幕末の藩主慶篤の実子。父慶篤の一字を使用
(ここまでは、水戸藩の公子が藩主である実父の一字を名乗っていたから)
・圀順・・・おそらく光圀の一字によるもの。
・圀斉・・・同上
(「圀」の字を通字にしたものと思われる。紀伊家の「頼」を区別するためか?)
・斉正・・・先代圀斉の一字?烈公斉昭の一字?
(「圀」の字が難しいから、簡単な「斉」に変更したのか?)
554日本@名無史さん:2006/01/15(日) 19:17:01
一橋、田安両家は当初、宗家家達の「達」の字をもらっていた。
のち、一橋も田安もそれぞれの初代の一字「宗」(本来は吉宗の一字)を使用。

清水家は明治以降、歴代不統一
・篤守・・・水戸藩主慶篤の子。父慶篤の一字を使用
・好敏・・・初代重好の一字によるもの
・豪英・・・先祖の一字に関係なし
555結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/15(日) 23:05:28
好敏ってでも重好の子孫じゃないんだよな。
水戸家の血筋
556日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:05:51
家康の三河徳川氏以外に、
常陸徳川氏(佐竹氏家臣)と因幡徳川氏があるそうですよ。
557日本@名無史さん:2006/01/16(月) 02:15:27
>>553
斉正氏の子も斉の字がつくよ
558日本@名無史さん:2006/01/16(月) 09:42:52
斉は烈公の諱
559日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:19:51
もともとは将軍家斉の斉でしょうが。
560日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:12:53
いまの水戸家にとって斉昭は頼房や光圀以上の存在なのか?
561日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:35:44
光圀と斉昭。
光圀(義公)と斉昭(烈公)合わせて「義烈両公」と呼ぶくらいだから。
562日本@名無史さん:2006/01/17(火) 08:37:09
斉昭の兄にして養父の哀公こと斉修の影が薄い件について
563日本@名無史さん:2006/01/17(火) 13:24:37
>>562にすら名前間違えられているしな
>斉脩
564日本@名無史さん:2006/01/17(火) 13:41:24
『哀公』とはよく謂ったもの。
文才芸能にすぐれながら、生来の病弱。
将軍家斉の娘を正室に迎えたばかりに側室も持てず、
藩政を門閥・保守派に牛耳られ、33歳の若さで没。
押し出しの強い父・治紀と異母弟・斉昭の陰に隠れて
印象が薄い。
遺書の中で、家斉の倅で、清水家を経て紀伊家に婿入りした
斉彊を当初水戸家に迎え入れようと画策した門閥派に抗って、
斉昭を後継に指名したのが、せめてもの政治的事績か?
565日本@名無史さん:2006/01/17(火) 14:07:00
「忠為らんとして、孝為らず」…水戸徳川家。
尊皇に傾くあまり、徳川宗家を蔑ろにした君側の奸。
禄高も極官も尾州、紀州の格下に置かれ、「柳営婦女伝」
によれば、そもそも御三家からもはずされていると云われる
コンプレックスとルサンチマンの塊り。
江戸定府から、ありもしない副将軍なんて自負心だけ持って
幕政に寄与することのなかった、水戸家についてこのスレで
語る価値があるのだろうか?
566日本@名無史さん:2006/01/17(火) 14:57:16
>>565
今の徳川氏は大半が水戸家の血筋だぞ

宗家(公):水戸6代治保の6代孫松平恒孝が養子に入って継ぐ
慶喜家(公):水戸9代斉昭の子15代将軍慶喜の曾孫慶朝が当主
水戸家(侯→公):水戸10代慶篤の曾孫圀斉が当主
紀井家(侯):8代将軍吉宗から一橋〜田安を経て継承
尾張家(侯):義崇←義宣←堀田正恒←鍋島直柔(藤原氏)
田安家(伯):8代将軍吉宗から一橋を経て継承
一橋家(伯):水戸10代慶篤の曾孫宗信が当主
清水家(伯→返上→男):水戸10代慶篤の曾孫豪英が当主
567日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:38:15
圀斉夫人で斉正母が頼子という名前だから通字を「頼」に戻してもよかったんちゃう?
568日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:43:19
近世の徳川将軍家と水戸藩主のことを言ってるのだよ。

569日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:52:46
紀伊家(侯):一橋〜田安を経て、日系人の剛が相続するも離縁、断絶。
570日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:28:37
清康公・広忠公と2代も誤殺されて、
どうして松平宗家は崩壊しなかったの?
571日本@名無史さん:2006/01/18(水) 12:50:00
<570
挙句の果てに家康も人質に取られて…
なんと言っても三河家臣団でしょう。
572日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:54:37
☆徳川光圀は「大日本史」編纂の為、日本諸国へ使者を送り調査しており、
 これが水戸黄門漫遊記の元ネタとなった。しかし現実は、その編纂の為に
 莫大な費用がかかり、領民へ過酷な年貢を課せており、嫌われていた。
───────────────────────────────────
☆光圀が編纂を始めた「大日本史」は天皇中心の歴史書で、幕末の尊王攘夷
 思想に影響を与えているが、その中で「南朝こそ正当」と書かれているた
 めに、皇室への献上を拒否されている。
───────────────────────────────────
☆水戸光圀の家来には南蛮から奴隷として連れて来られた黒人もいた。その
 家系は、幕末まで水戸藩に仕えていたという。
───────────────────────────────────
☆若いころの徳川光圀はただの不良で、町中でいきなり歩いている女性に抱
 きついたり、周囲から迷惑がられていた。
───────────────────────────────────
☆ギャンブルにも入れ込んでおり、色々なトラブルも起こしていたという。
 その際には「水戸の公子と知ってのことか」などと名乗り、相手をビビら
 せて逃げたと言われている。
573日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:06:44
三田村鳶魚なども、光圀のことをケチョンケチョンに貶している。
574日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:46:13
光圀にとどまらず、維新後に血統で跋扈したこと自体、
水戸家の将軍家に対する叛逆の証し。
575結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/19(木) 08:53:45
>>574
水戸家祖の徳川頼房は、家康に欲しいものを聞かれてこう言った。
「天下が欲しい」   と。
576日本@名無史さん:2006/01/19(木) 09:01:35
>>575
二度と出てくるな
577日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:26:48
>>576

ここは徳川家について語るスレなんだよ。
叩きは別のとこでやれよ糞荒らし
578日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:36:34
だいたい叩きが出ているがお前らはこのスレで
徳川家について話したことあるのか?
暇だからコテハン叩いて暇つぶそうとしているニートなんだろ?
ウザいんだよ。
579日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:26:53
↑結城@秀康(腐れコテハン)くん、乙です。
580結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/19(木) 22:47:11
自演じゃない。

そうか。じゃぁもうこないよ。
581結城@秀康 ◆dX1DfbrHpU :2006/01/19(木) 22:56:12
俺が消えることによってスレが平和になるなら
喜んで消えてやる。ただ、後々このスレに荒らしが来たとき、
俺が逆恨みでやってるだとかは思うなよ。
俺はもうこないといった。じゃあな。
582日本@名無史さん:2006/01/20(金) 08:27:14
犯行予告キター!wwwwwwwwwww
583日本@名無史さん:2006/01/21(土) 07:25:41
「腐れコテハン結城@秀康を叩くスレ」

584日本@名無史さん:2006/01/21(土) 14:58:06
徳川喜和子さんの次男は徳川姓だけど男系では平民
585日本@名無史さん:2006/01/21(土) 15:01:58
現代の子孫の端くれなど、どうでもいいって感じだな。
586日本@名無史さん:2006/01/21(土) 18:36:39
越智清武、清水重好、松平斉民が徳川一門の三傑
587日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:44:41
>越智清武
>越智清武
>越智清武
588日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:07:34
越智松平家も不遇だよな。
将軍の弟の家なのに、親藩と譜代を行ったり来たりで、しかも小藩。
589日本@名無史さん:2006/01/22(日) 11:11:21
確かに。
同じ時期、尾張吉通とその世嗣・五郎太の死後、家督が吉通の兄弟(継友、宗春)
に移った経緯もあり、まして清武は家継の3親等。将軍家との血縁からすれば、
8親等の吉宗よりはるかに近い。(家継逝去時、53歳と高齢だったけど)
一旦家臣越智喜清の子として臣籍降下した身とはいえ、それを言えば、家宣だって、
家老新見正信の子、新見左近として成長したはず。
しかも家宣とは同腹の子で、保科正之に比べ、もっと殊遇を得ても良いはずが���
当時としては異例の、館林城の再築城が認められる程度の温情ではね。
590日本@名無史さん:2006/01/22(日) 12:49:27
清武は実子がいなかったことが致命的なんでしょ。
591日本@名無史さん:2006/01/22(日) 14:39:48
兄貴の家宣が将軍になったあとも、一旗本から徐々に加増されてやっと小大名。
兄貴と入れ替わりで甲府藩主にしてやってもよかったのにね。
592日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:02:58
>>591
甲府城は綱吉の意向だからなぁ

つか家宣が死ぬのがもっと遅ければ、もっと加増されてたんじゃね?
593日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:06:17
誰だー結城殿を、、、。制外の家柄なるぞ、、。
ぜひ、是非おもどりください。以前からあなたのファンでつ。
594日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:52:53
結城さんてなんか嫌われるようなことやってた?
595日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:00:35
書き込みがちょっとアレなだけで
別段嫌われるようなことはなかったと思うが
596日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:15:57
結城さんがが三戦のスレに南龍公さんあてに残した言葉があるぞ。

http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1134964571/

結城さん帰還に賛成の人はここでメッセージ伝えた方が。。。
多分このスレ見てないと思うから・・・・・・、、
597日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:19:10
>俺は荒らしだったのだろうか?

荒らしだよバーカ
598日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:16:38
>>597
気にするな、、。結城のレスはコテとおなじで叩きたくなる、
けど、慣れればなんとかなると思う。他のスレでもよく叩かれてた、
徳川の名が出てくるスレをたてれば自然に出てくるから心配は要らない。
たぶん、結城公も叩かれるのはわかっているはずぴょん。
599日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:55:34

普通は慣れても無理。
600日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:53:50
ドラマの話とか始めるから荒らしだろ。
601日本@名無史さん:2006/01/23(月) 13:15:07
徳川に関連するドラマだろ?
そのようなことなら他の者たちも話していたのでは?
602日本@名無史さん:2006/01/23(月) 13:48:34
ここって【結城@秀康について語るスレ】?
どうでもいいじゃん!
603日本@名無史さん:2006/01/23(月) 20:45:21
>>601
時代劇板でやれ。
「大奥」なんか歴史コメディだろが。
604日本@名無史さん:2006/01/23(月) 20:56:14
だからと言って叩くのはどうかと・・・。。。
結城さんを荒らしと思って叩いてるんですか?
結城さん叩かれた後ってなんか話しにくい空気になって・・・
あなた達叩きも荒らしかと思われ。。
605日本@名無史さん:2006/01/23(月) 21:09:40
結城、南龍公とも去り、糞スレへ、、、。乙
606日本@名無史さん:2006/01/23(月) 21:32:22

そんな存在感あったっけ?
「去る者は追わず」
もう、やめよう。
話題に発展性がない。
607>>1:2006/01/24(火) 23:07:33



_______________終了__________________

※このスレはとんでもない糞スレとなったため、終了します。
 みなさん乙でした。
608日本@名無史さん:2006/01/25(水) 08:26:47
>>605
むしろここまでのそいつらのレス全削除依頼したいぐらい。
609日本@名無史さん:2006/01/25(水) 13:18:58
徳川忠長は、
云われているような乱行を
本当に行なった暴君なんだろうか?

「長幼の序」を重んじる選択は、
この後、家重vs宗武の時も問題になるが、
果たして徳川将軍家にとって正しかったのだろうか?
610日本@名無史さん:2006/01/25(水) 15:08:51
>>609
俺は正しかったと思うよ。
なぜなら基準が明確だから。
頭がいいか悪いかなんて、評価は人それぞれだし、誰だって1つくらい他人より優れてる部分があるもんだし。
頭のよさを基準にしたら争いの種だと思う。
611日本@名無史さん:2006/01/25(水) 15:16:53
>>610
実際、室町の争乱の一因にそれがあると言われているからね。

「器用」(器量があること)を相続の基準にしたら家督争い
が頻発したと言われている。

江戸期の嫡長子相続制はその反省に基づくものと言われている
もんね。

その代わり、側用人とか勘定方とかに身分の低いものの能力に
よる登用をするなどして、人材の確保の道を開きバランスと
とってたみたいだね。
612日本@名無史さん:2006/01/25(水) 16:10:41
さげていこう
613日本@名無史さん:2006/01/25(水) 17:48:28
家光を選択したのは家康の意向といわれ、
吉宗は尊敬する東照大権現に従ったまでともいわれるけど���
特に家憲があって、惣領相続が決められていたわけじゃなく、
私情として逡巡はあったみたい。
松平乗邑だって、吉宗自身に迷いがなければ、
家重廃立まで考えなかったろうしね。

614日本@名無史さん:2006/01/25(水) 19:03:49
戦国時代に「嫡長子相続」にこだわってたら、
滅んでしまうだろうけど、
天下を統一した徳川家の相続としては、正解だと思うな。
前提として、政権の安定ということもあるけど、儒教の影響もあるな。
615日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:08:43
「もの言えば、唇寒し」���って風潮寂しいネ。
616日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:25:07
>>565

名誉だけ与えられて仕事しなくていいなんて
高等遊民生活にもってこいの環境だな。
617日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:38:53
↑そのうえブーだけ垂れて、
ヒマと財を浪費して「勤皇!勤皇!」とウザイことったら…
618日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:45:18
俺的には、この辺で南龍公の登場を願いたいナ。
紀伊系だけど、水戸学には一家言持ってらっしゃるでしょ!
水戸側の反論を���
キャラ的に好きだった@秀康亡きあと、
貴公のレスに期待してます。
619日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:39:18
↑あんた<<618 秀康だろっ。コテつけなくてもわかる
歴史お宅さん。
620日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:54:22
@秀康の名誉のために言う���俺は彼とは違う!
文体でわかるだろう。
彼の再登場を真摯に願う者ではあるけどな。
621日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:15:22
歴史オタクはお互い様だろうが���このボケ!
ドラマの話題だろうが何だろうが、人のレスに
低次元なワンフレーズの罵詈雑言しかカキコできねえ
馬鹿より、@秀康の方がこのスレには貴重な存在だ!
てめえこそ逝ね。
622日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:18:23
腐れコテハン、もう二度と書き込むなボケ
お前がいなくなってからいい流れだったのに・・・
623日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:29:01
結城と別人?そうですか。
いっそ、結城や南龍公を支持する糞厨房も追い出さないか?・・・
はっきりいって、目障りなんだよ。
これならいいだろ?
どっちにしろ消えるしな。腐れどもは。
624日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:34:31
結城や南龍公を支持するキチガイどもは出て行ってください。
出て行かなければ荒らしとみなします。
ていうか、死んでください。
625日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:37:44
もう見ていないだろうけど、@秀康に謝す。
君を擁護するたび、君自身のカキコと疑う無知蒙昧がいるから、
君の事はもう言及しない。馬鹿の相手は疲れるから���
できたら引き続き匿名で投稿してくれ!
626日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:40:49
だから追い出そうよ。
その方が平和になる。俺らはあやまることなんて
なんもやってねぇだろ。
627日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:42:20
わりぃ、勘違いしてた。>>625は糞厨房だった。
628日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:49:29
深夜に跳梁する者���泥棒と糞レス。
てめえら、徳川家について何か語れよ!
629>>1:2006/01/26(木) 23:50:22
もうやめましょう。
平和だったスレは荒れ果て・・・・
ほっとけばよかったのに、あえて結城をクローズアップした
結城叩きも悪し、「叩きはスルー」というのに叩きの発言に
返答する結城も悪し・・。。。 どちらにも落ち度があり、
言い出したらキリがないですよ・・・・・・・
630日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:54:30
>>628

はぁ?だから落ち着いて語るための準備をしようとしてんだろが。
631日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:55:42
理性的な意見にホッとします。
賛成です。
でも俺は@秀康じゅない。
彼はこんな愚昧な議論にもう加わらないでしょう。
俺ももうやめます。
馬鹿は夜通しレスってろ!
632日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:58:35
>>631
そのまま死ね。
>>629
元はといえばこんな糞スレ立てたおめぇが悪いんだよ。
633>>1:2006/01/27(金) 00:05:51
そうですか・・・私が悪いですか・・・。。
じゃあ責任とって私がスレを締めくくらせてもらいましょう。
しかし、理性を失って叩くことしかできなくなった者のイタさには
涙がでます。 とうとう罪もない住人たちにまで危害をくわえるとは。。
___________終了・・乙でした______________
634日本@名無史さん:2006/01/27(金) 00:07:35
みんな名無しで語ろうぜ。
635>>1:2006/01/27(金) 00:12:20
いえ・・・・もうここでやるのはやめましょう・・
やるならいっそ同じようなスレを立て直して・・・・
結城さんや南龍公さんも招待して平和にやっていきましょう・・・
結城さんがやはり問題があるようなら、平和的に説得して
出て行ってもらうというのはどうでしょうか・・・・。。
私も、立てたさいに必要ない文を加えたのがいけないと自覚して
反省しています。。 では・・・
636日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:01:05
どう見ても@秀康の文体です。おつかれさまでした。
637日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:56:22
おい≫630、
いつになったらレス立てるんだよ!
女房・子供は寝たし、明日は会社休みだから、
とことん付きやってやるぜ。
但し、他人のレスへの誹謗中傷や、〇〇をどう思う
みたく、丸投げの投稿はダメだぜ。
ちゃんと徳川家について主義主張をカキコしろよ!
630と記名でな。俺も628で論評してやるぜ。
逃げるなよ!
638日本@名無史さん:2006/01/27(金) 10:10:10
結城を擁護してるヤツって頭が悪いの?
>>581で結城自身が決別宣言している。建前上本人はこのスレを見てない
ことになっている。どうやって呼び戻すんだ?
呼び戻す必要もないけどね。
639日本@名無史さん:2006/01/27(金) 13:09:33
結城のいる三戦板でメッセージを送る。
640日本@名無史さん:2006/01/27(金) 15:14:26
というか結城常駐してるしwwwwwwww

クズコテハン荒らしは、本当に男らしくないな。
641日本@名無史さん:2006/01/27(金) 15:19:10
469 無名武将@お腹せっぷく 2006/01/23(月) 00:56:35
>>467
つか三戦からも出て行け。

お花畑板かロビーがふさわしいと思う。
いやマジで。
大歓迎されるぞ。



その後、@秀康による一人擁護が続いていたがry
642日本@名無史さん:2006/01/27(金) 17:05:56
今、三戦に結城へメッセージ送って来た。
とりあえずシメあげるため呼び戻してみる。
643630ですが何か問題でも?:2006/01/27(金) 17:23:57
>>637
何えらそうにぬかしてやがる。
スレの流れを戻すためにやってたことだろが。
この状態で徳川家についての話ができるとお前思ってんのか?
空気読めねぇヤツだな。あと半年ROMってろ。
644日本@名無史さん:2006/01/27(金) 17:40:37
とりあえず

・@秀康がいなくなってからしばらくは、まともなレスが続いていい雰囲気だった
・三戦板でも嫌われている
・三戦板ですらもなりきりは板違い


これ確定
645630ですが何か問題でも?:2006/01/27(金) 17:53:19
てか、結城を支持するやつが発言したせいで
また空気悪くなったよな。
646日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:23:52
つまらん
647日本@名無史さん:2006/01/28(土) 00:36:45
荒らしのたまり場と化したな。 乙
648日本@名無史さん:2006/01/28(土) 08:38:32
>>645
結城を支持してるのは結城本人ですが。

次に結城の話をするやつは結城本人の可能性が極めて高い。
649日本@名無史さん:2006/01/28(土) 09:35:38
江戸時代の清水家は実子相続が一度もなく、しかも当主不在期間が
長い。家斉の息子の退避場所以外に役割はあったのだろうか?

そんなに家に実弟を送り込んだ慶喜はなにを考えていたのだろう?
自分がいた一橋家を継がせればよかったのに。
650日本@名無史さん:2006/01/28(土) 10:59:53
↑結果論としては、仰るとおり。
「徳川の金を懸けたる一橋 流れを絶えず天下太平」
と『民部卿唯取』と題する当時の落首に書かれる始末。
清水家が御両卿に加わって、正式に三卿になったのが宝暦9年、
すでに吉宗は宝暦元年に没しているとはいえ、
清水家定立に彼の遺志があったのは確か。
御三家排除の底意が窺われる。



651日本@名無史さん:2006/01/28(土) 11:44:40
綱吉
652日本@名無史さん:2006/01/28(土) 12:42:47
慶喜が実弟昭武を清水家に入れた件について���

昭武は当初会津松平容保の養子と約定があったのに、
慶喜としては、英才といわれた昭武に一橋家ではなく、
将軍家の後を継がしめたいと密かに狙っていた節がある。

会津との約がある以上、すぐに一橋家を継がせる訳にもいかず、
約束を反故にするため、昭武をパリ万博の使節として派遣。
昭武の弟喜徳を代わりに会津に送り込んだようだ。

その間に空き屋となって4カ月経つ一橋家には、佐幕派に擁立されたという
経緯から、井伊直弼によって失脚させられた先代慶勝の復活によって、
わずか5年で尾張藩主を隠居した、生煮え状態の茂徳が、茂栄と改名して一橋を相続。

昭武には将軍家後継になりやすい清水家を継がせたというのが、真相らしい。
653日本@名無史さん:2006/01/28(土) 12:59:19
慶喜はのちに子沢山になるのに、昭武を後継者にしたがっていたとはな。
654日本@名無史さん:2006/01/28(土) 13:01:09
ふつう大名って、世子がなければ断絶じゃないの?
それで末期養子なんて苦肉の策も。
御三家でさえ例外じゃないのに…
御三卿って、一代ごとの家禄拝領だからっていうけど、
これって、オカシクない?
655日本@名無史さん:2006/01/28(土) 13:05:57
御三卿は独立した大名ではなく、江戸城内に住む将軍家の家族という扱い。
家臣の大半は幕府からの出向だし、領地の管理も幕府の役人に任せきり。
656日本@名無史さん:2006/01/28(土) 13:24:51
綱吉���いいねえ。
硬い話から、犬だのホモ(いやバイ)だの���
毀誉褒貶いろいろ、話題いっぱいで。
でも、『大奥』仕込みの話はやめようね。
657日本@名無史さん:2006/01/28(土) 16:01:10
大奥って結構フィクションぽいよね
658日本@名無史さん:2006/01/28(土) 22:16:00
>>652
清水家は将軍になりやすいのですか?
一橋家は家斉、慶喜の2名の実績があるので、一橋家の方が格上?な気がします。
659日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:03:17
将軍候補になりやすいと言ったのは、清水家だからではなく、
御三卿の一つだから。
慶喜も、できれば自分の跡の一橋を昭武に継がせたかったかも知れないけど、
(仰るとおり、斉昭が慶喜をそうしたように一橋も将軍を出しやすいから)
会津松平家との約定から、すぐそれが果たせなかった。

そこで、前述したように一橋家には、尾張藩主を追われた
同じ水戸系で又従兄弟にあたる茂徳を入れたのではないか。

残る御三卿は清水家しかない。
田安家には慶頼親子がいて埋まっていたからね。
660日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:11:23
スレのルール決めてみたがどうでしょう?

・コテハン禁止 名無しで語れ
・ごぞんじ例の二人は立ち入り禁止
・大奥やら時代劇の話するなら時代劇板へ。

以前、叩き禁止とかあったけど、邪魔者がいない場合は叩かないし、
叩くようなことするほうが悪いんだからかまわない。
661日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:43:22
では>>660のような独善厨をたたくとするか
662日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:53:57
>>659
ちゃんと調べてからものを言え。低能!
663日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:55:53
>>662
文句だけたれてないでオマエの持論を展開しろ。クソガキ!
664日本@名無史さん:2006/01/30(月) 21:56:03
邪魔者を取り除いても糞スレだな
665日本@名無史さん:2006/01/31(火) 11:22:35
綱吉は、大奥で女を相手にしながら、
柳沢邸内にあったという桐之間御殿で美少年とも遊んでいたという。
『徳川實記』にも出くるし、「御用掛御役人附」にも
ちゃんと「桐間御番衆」という役職があって、旗本をもちろん
大名・公卿の子息の名がある。
柳沢吉保の寵童あがりは有名だけど、若年寄稲垣重富、
側衆(御扈従衆)黒田直邦なんかもそうだというし…
666暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/01/31(火) 17:38:53
>>660
何だそのルールは、コテハンの俺は書き込みしてはいけないと言うことか?
これだから厨房は愚か者なんだよ!!それに大奥もだめって何でだ?
なにも理由もなしに勝手にスレ主でもないのにルール作って
>>1困らせて他人に迷惑かける行為は許せん。おまえは臆病者だ。
勇気がないからコテハンつけないんだろ?そうだよなまったくの腰抜けだ。

667日本@名無史さん:2006/01/31(火) 18:39:28
↑結城@秀康(腐れコテハン)君、 乙です
668日本@名無史さん:2006/01/31(火) 18:55:22
だいたい、コテハンで語って何かメリットあるの?
キモいだけじゃん
669暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/01/31(火) 19:30:35
>>668
コテハンで語ると自信がつくのがわからんか?これだから愚か者は困るんだよ。
あとコテハンつけると面白いからな。
670>>1:2006/01/31(火) 19:41:36
失礼します。。
コテハンで語るのはやめた方がよいと思われます・・・
目立つので叩かれますね。。現に被害者が追放されております。
覚悟の上でやればよいでしょう。
というか、あなたは新規参加希望なんでしょうか?・・。。。
671暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/01/31(火) 19:46:13
>>670
確かに毎日叩かれますよ。俺はマンガサロン板と昆虫板で追放されたから
名前変えて他の板に逃げ回りました。とても悲惨な目にあいましたが
俺は絶対に間違っていないと確信しております。叩くほうが悪いんです。
672日本@名無史さん:2006/01/31(火) 19:51:10
まともな固定を叩いて追い出すとアホ固定が確信犯的に居座るわけで
少なくとも徳川家に関する書き込みをしてた両固定を叩いたアホ名無しは反省するように。
固定を叩くことが2chのガイドライン違反ということを知らないヤツが増えたな。
673日本@名無史さん:2006/01/31(火) 19:59:00
ここはキモいスレですね・・・
674暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/01/31(火) 20:30:04
しばらくここに居座るとするか・・・・。
675日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:48:13
「レスの立て方について語るスレ」・・・?
結論出ないよ。
>660の提案も首肯ける部分あるし、
彼が大奥と言ったのは、ドラマのネタのことだろうから。
でも名無しでもなんでも本人の意志に任せるしかないんじゃあ?

但し、>1が冒頭で書いた約束事はみんな尊重しようよ。
それと・・・「徳川家について」語ろうね。

676日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:03:26
>>640

>クズコテハン荒らしは本当に男らしくない
固まって叩くことしかできん奴に言えたもんじゃないな。
677>>1:2006/01/31(火) 21:09:11
ここで再判定。 悪いのはどっち?

A・結城・南龍両固定
B・叩き
678日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:29:19
ドラマなんかで幕臣が「とくせんけ」って言うことがあるが
あれどういう意味?
ガイシュツかも知れんがどなたかおしえてくれ
679日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:38:59
「トクセン」を幕臣が・・・???
俺の理解だと、徳川家に反感を抱く公卿や外様
(その家臣たち)が使う、一種の蔑称だと思ってた。
680日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:03:14
>>675の最後の行につきるな。
大奥について語りたいなら別スレ立てればいい。
681日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:14:11
大奥スレはすでにある
おまけに最近別の馬鹿が重複スレまでたてやがった
682>>1:2006/01/31(火) 23:19:30
暗黒兵長どのはどうぞ参加してください。


で、どうします、両固定は無罪にしますか?
683日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:26:58
有罪
684日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:31:06
>677、>682は、ほんとにこのスレ立てた方?
真意がわからないよお。
685>>1:2006/01/31(火) 23:36:50
私の真意はこのスレが平和に運営されることですね。
686日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:39:05
だったら、もうやめましょうよ、
この話題は・・・。
お願いします!
687日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:41:55
関が原で徳川が負けていたら、豊臣幕府が出来て大阪が日本の首都になり、
大阪弁が標準語になっていたのかな・・・
688>>1:2006/01/31(火) 23:45:41
そうですね、
このスレの流れを直しましょう。

「一橋宗尹の嫡男・次男ともども越前松平家へ養子に出されている件」
なんで養子に出されたんでしょうね。。
重昌という嫡男と重富という次男です。
結果一橋家の跡取りは治済になりましたが・・・・
689日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:48:51
徳川消えていいよ
690日本@名無史さん:2006/02/01(水) 00:23:25
想像ですが・・・
宗尹はわれこそは将軍の子(吉宗が将軍になってからの子)という
強い自負を持っていたそうで、惣領でないためにポスト吉宗には
ありつけなかったが、本来将軍家はわが血筋からと野望を抱いていた
ぐらいだから、治済に託するところが大きかったのかな?

当主に野望がある場合、「長幼の序」より実力主義で跡継ぎを選ぶだろうから。

重昌は15才で亡くなっているから生来病弱だったのでは?

691日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:31:33
宗尹の長男次男は別に宗尹の意思で養子に出されたわけでもあるまい
基本的には台命のはず
しかも重昌の養子縁組は吉宗もまだ存命中のころ
吉宗か家重か幕閣か、いずれにしろあの当時一橋家の存続を望んでいなかった奴が
いたということだろう
692日本@名無史さん:2006/02/02(木) 15:21:48
@重昌が越前松平家の藩主になったのが6歳の時、
 重富が同じく10歳の時。
 重昌就任の折は、まだ治済の生まれる前とはいえ、
 重富就位の折は、すでに7歳。
 のちに田沼意次や松平定信を手玉にとり、御三家を振り回した才知は
 その片鱗が幼少の頃から顕われていたのかもしれない。
A越前松平家の十代藩主宗矩は、秀康五男直基の嫡系で越前家の復権に
 熱心だったことから、御両卿からの養嗣子を幕府に働きかけていたのは事実。
693日本@名無史さん:2006/02/02(木) 16:54:39
越前家の名誉回復運動の成果というものですかね。
重富の長男治好も越前藩主になってますね。
694日本@名無史さん:2006/02/02(木) 22:15:26
たしかに重富以降、越前松平の家格はグ〜ンと↑
695日本@名無史さん:2006/02/03(金) 07:52:15
越前の家柄がもっとも良かった時期は、やはり制外の家とまで言われた
初代秀康の頃。2代忠直が乱行で改易となってから弟忠昌が再興したが、
息子光通は自害、6代綱昌の代再び改易となってからは、
もはや25万石と、当初67万石から半分以上も・・・。
696日本@名無史さん:2006/02/03(金) 08:59:35
そのうち、津山松平家が徳川の嫡流・・・なんて
どっかのスレみたいなことを書き込まないでネ(笑)
697日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:26:12
津山もそうそうに忠直の血筋は絶えたしな
698日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:41:10
http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/rensi.htm#a


このスレでは松平清武に実子がいなかったとして語られてきたよな。
ちょっと↑のを見てみてくれ・・・・・・
699日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:50:18
父と子がほぼ同時期に死んでるなんて、何か裏がありそうだな。
700日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:09:05
清武の死は病死だったとしても、この息子の清方の死は暗殺である
可能性が高い。まさか吉宗の犯行・・・・?
清武が将軍候補にあがったさい、この息子を候補にした方がよいのでは。
7代家継の従兄弟だからかなり有利なはず。
701日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:11:13
松平清方…初めて菊名だ
激しく抹殺された匂いがするな
702日本@名無史さん:2006/02/04(土) 15:57:58
吉宗がらみでは謀殺説はいろいろあるね。
兄・頼職の死、尾張吉通・五郎太父子の死・・・
だが、いずれも巷談小説の域を出ない。

松平清武・清方(確かに初めて知った!)の死についても、
そもそも家宣からして、家継に万一ある時は、尾張五郎太か紀伊長福の
いずれかに継がしめ、吉通か吉宗を後見に立てるよう遺言していたというから、
清武父子の事はハナから念頭になかった。
唯一天英院が当初清武を推したとされるが、
すでに臣籍に降っているから有資格者ではないと、早い時期に将軍候補から
消えている。
天英院と月光院の役回りが諸説あってはっきりしないが、水戸家と老中を与党にし、
尾張吉通親子の相次ぐ死にも助けられ、(もちろん所々への運動の成果とはいえ)
将軍職をほぼ掌中にしていた。
血統が近いだけで、臣下に降り、大奥・幕閣など有力者の後ろ盾もない越智松平家に
吉宗が手を下したとは思えない。

703日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:12:48
武雅の養子縁組って急養子?
704日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:24:43
家宣って実の弟に冷淡な奴だったんだな。
705日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:34:59
清武と清方のどっちが先に逝ったか? によるね。
二人が死んだのは吉宗が将軍になった8年後だから
吉宗関与の謀殺説は×
逆に武雄が継いだのは、水戸家への論功行賞かも?
706705:2006/02/04(土) 16:36:28
武雄じゃなく武雅だった・・・ゴメン
707日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:41:55
>>705
武雅は尾張系
708705:2006/02/04(土) 16:47:44
失礼しました。水戸系になるのは武元の代からだった。
709日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:56:32
>>705
清武と清方が暗殺だと仮定するならば
時期的に見て、家重以降に禍根を残さないようにするために
吉宗がやったという見方も出来ると思うんだ
710705:2006/02/04(土) 17:03:13
吉宗暗殺説に、かなり執着があるみたいですね。
でも、もう家重はもとより宗武も宗尹も生まれていたし・・・
711705:2006/02/04(土) 17:12:47
御落胤説をずっと引きずっていた柳沢吉里を
甲府から大和郡山に追いやった吉宗の周到さは侮れないぞ。
それも清武・清方が死んだ享保9年のことだ。
単なる偶然だろうけど…
だって彼は兄二人が次々と死ぬという事実を目の当たりにしてるもんね。
子供が3人いても安閑とはしていなかったはず。
712日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:41:43
≫705ってマッチポンプ?
それとも両論併記かな?
713日本@名無史さん:2006/02/05(日) 07:41:28
徳川1代将軍から最後まで簡単に覚えれる方法ないかなぁ?
714日本@名無史さん:2006/02/05(日) 08:06:48
>>711
>彼は兄二人が次々と死ぬという事実を目の当たりにしてるもんね。
容疑者が
715日本@名無史さん:2006/02/05(日) 13:10:11
吉宗が兄二人をやったんだとしたら、順番がおかしい気もするけどな
頼職を先に殺った方が手続き的にも楽だったろうに
716日本@名無史さん:2006/02/05(日) 14:12:15
>>713

将軍一人一人の個性というものがあるからそれも
考慮して覚えよ。名前だけで覚えようとすると
家○で混乱して覚えられない。まぁここのスレの人はみんな覚えていると
思われるのだが・・・・・・・
717日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:05:23
清武は家宣の同母弟で、いったん家臣の養子に出されたというのも同じ境遇なのに、
寄合旗本から小藩の主というのは、えらく冷遇されてるな。
保科正之なんて秀忠の隠し子なのに兄家光から大封を与えられ、厚遇されてるのに・・・
718日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:42:04
家宣はお手盛りといわれようがなんだろうがやはり越智清武を徳川宣清
と改名させたうえで甲府国主とすべきであった
719日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:43:50
家宣と清武を双子とする説もあるらしい。
720日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:57:03
>>717
いったん家臣の養子に出された松平頼方は、なんで将軍になったの?
加納松平にならずに
721日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:07:21
頼方は実家を相続して紀伊吉宗になったから。
だから清武にも甲府家を相続させて甲斐に封じておけば・・・

家宣って名君みたいに言われてるけど、肉親への情は薄いな。
722日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:48:26
頼方は加納家に養子に出されたあと
ふたたび和歌山城に呼び戻された。
723日本@名無史さん:2006/02/05(日) 20:10:27
吉宗の場合は、加納家の息子から紀伊頼宣の息子に身分を直された上で、
松平頼方として大名に取り立てられてるわけだが、清武はどうなんだろう?

越智家の息子のまま甲府家の家臣として仕え、兄家宣が将軍になってから、
ようやく松平姓を下賜されたようなので、身分は一門ではなく臣下のまま?
724日本@名無史さん:2006/02/05(日) 20:22:39
越智松平の3代目武元が老中になったりしてることを考えると、
家門というより譜代の扱いといえる。
725日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:25:33
でもその後、家斉の子を養子にしたにより、大廊下下之御部屋席に栄転
726日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:46:03
越智松平は綱吉ゆかりの館林藩主やねえ。
727日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:48:49
ならば館林藩主時代の綱吉と同様の扱いにしてやればよかったのに・・・
728日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:53:10
家宣としては、松平吉保を大和郡山に転封せしめ、越智清武改め徳川宣清
を甲府宰相25万石に封じ、徳川家継に万一あれば後見人として西丸に入るよう
遺言すべきであった。
729日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:11:59
甲府宰相綱豊は35万石に加増された。
あせった御三家の水戸中納言家は加増もないのに高直しで35万石。
730日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:12:06
>>728

・・・・・・・・・・・
731日本@名無史さん:2006/02/06(月) 12:59:49
綱重は、関白二条光平の娘を正室に迎えるにあたり、妾腹の子がすでにある
のを憚って、家老・新見正信の許へ虎松(家宣)を養子に出したとされるが、
この時、新見は大老酒井忠清に虎松が綱重の子であることを認めさせてから
彼を引き取ったという。

対して清武は、形式上のこととはいえ家臣・越智清重の許へ生母お保良が嫁して
後に生まれた子。養子に出されたといっても両者の立場には開きがある。

この清武の将軍家襲位を認めれば、似たような境涯の柳沢吉里まで有資格者となる。

清武の甲府移封についても、家宣にその意向があったかどうかはともかく、
綱吉がわが子と信じて与えた一門の封地・甲府を吉里から奪うのは
家宣とて憚られる雰囲気が当時はまだあったと推測される。
あまりに政治的にデリケートな問題で、万民怨嗟の「生類憐れみの令」を
即座に廃したのとは事情が違う。

732日本@名無史さん:2006/02/06(月) 13:29:25
>729
しかも水戸綱條は宝永2年に従三位権中納言になっているが、
綱豊はすでに元禄3年に宰相(参議兼近衛中将)から正三位権中納言に昇進。
733日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:19:25
時代劇なんかで水戸黄門が綱豊のことを
【甲府宰相殿】なんていうのは無礼千万。
おまえが隠居後に中納言になるずっと前に
もう黄門様になってらア・・・なんてね。
734日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:27:56
735日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:51:50
慶喜のコーヒー好きは有名だけど、連綿と引き継がれてるとはネ!?
慶朝サンって、今本業は何イ?
736日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:21:09
カメラマソ
737日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:26:11
なんか身近な感じでウレシイ。
こういう今の徳川家の話題もたまにはイイね。
738日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:30:24
徳川家宣の大河ドラマを作る・・・・
題名・・【甲府宰相】
739日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:36:21
陰気なドラマになるんだろうなw
740日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:07:44
慶喜→家達→家正→恒孝

慶久→慶光→慶朝
741こてっちゃん:2006/02/06(月) 16:10:14
18代将軍(徳川宗家)
http://www.kanagawapc.jp/newskpc/tokugawa.jpg
742日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:10:54
ご尊顔。
743日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:13:10
写真で見る限り、慶朝サンあんまり慶喜に似てないね。
アンタ太りすぎ!
744日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:13:13
キビシ〜!の人に似ているw
745日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:19:54
徳川マニアにとっては、“御真影”
746日本@名無史さん:2006/02/06(月) 17:12:57
慶喜→家達→家正→恒孝→家広

慶久→慶光→慶朝→慶敬
747日本@名無史さん:2006/02/06(月) 18:25:58
慶朝氏の外祖父の松平保男ってどんな顔だっけ?
748日本@名無史さん:2006/02/06(月) 18:57:41
現代ネタはヤメレ
749日本@名無史さん:2006/02/06(月) 19:19:51
甲府侯を主人公にした大河ができたら侍講の新井伝蔵の講義シーンばかり
になる
750日本@名無史さん:2006/02/06(月) 19:39:51
子孫ネタ、うぜえ
751日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:30:34
>>737
現在ネタはしょっちゅうやってる
たまにどころではない
752日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:48:59
確かにね。
  「徳川家について語る」といっても
  基本的にここは日本史スレなのだ。
753日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:50:14
甲府侯といえば細川俊之しかいない
754日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:30:24
甲府綱豊が桂昌院や小谷の方らにより隆光や専戒を使って
呪詛調伏されていたというのは本当だろうか・・・?
元禄15年11月 綱豊重態(この月柳沢吉保は鶴姫を六義園に招待)
元禄16年2月  本復

逆に甲府家側が紀伊綱教・鶴姫夫妻を調伏していたという説もあるけど・・・
宝永元年2月 鶴姫容態悪化(前年の暮れ、吉保が綱豊にお須免を側室に斡旋)
同年4月   鶴姫逝去

いずれにせよ吉保はコウモリのような男だ!
755日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:39:34
護持院隆光が甲府宰相綱豊を調伏していたのは事実。他にも堀田筑前守や水戸中納言も対象に
756日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:49:22
甲府側にも密法使いの仙念寺了海がいたよ。
綱豊呪詛説は、「護国女太平記」などの俗書によく書かれているけどね。
757日本@名無史さん:2006/02/06(月) 22:02:26
まあ、この時期疱瘡が大流行してたからね。
堀田正俊って、殿中で稲葉正休に刺殺されたんじゃあ。
そのあと稲葉をナマス斬りにした老中たちの背後には、綱吉がいたってウガッタ説
もあるみたいやけど。
758日本@名無史さん:2006/02/06(月) 22:05:11
>>753
吉宗かww
細川俊之だとインケンな感じが・・・・・
759日本@名無史さん:2006/02/06(月) 22:31:06
15代将軍の中で一番のイケメンは・・・

意外にも「小便公方」といわれたドモリの家重。
760日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:07:59
中村梅雀
761日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:09:12
家重って肖像画ではあまりパットしないけどねぇ。一番イケメソなのはやっぱ家宜なんじゃないの?
762日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:30:35
慶喜が一番ハンサムではないか?
普通、将軍や大名は顎が発達していなく、馬面が多いけど、
慶喜の将軍時代の写真を見ると、現代人と変わらない顔の輪郭を
しているし、鼻も低くない。
763日本@名無史さん:2006/02/07(火) 00:10:10


将棋将軍を忘れるな!

髭がセクシー
764日本@名無史さん:2006/02/07(火) 00:49:27
増上寺の発掘調査によると、骨相学的にはやはり家重の顔がもっとも整っていたと、
『ウィキペディア』にはある。
まア、髪は乱れ髭も剃らなかったというから、一見見栄えはよくなかったかもな。
765日本@名無史さん:2006/02/07(火) 02:54:55
ウィキってさあ・・・
766日本@名無史さん:2006/02/07(火) 14:18:02
うぃきの方がまだ、根拠もなく決め付けのように書かれてるものよりは信頼できる。
程度の問題だけど。
767日本@名無史さん:2006/02/07(火) 15:19:12
また容姿バカが湧いてる。
脳が腐ってるんだろ。
768日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:03:42
また否定バカが沸いてる。
心が腐ってるんだろ。
769日本@名無史さん:2006/02/08(水) 17:07:05
山内一豊について語ろう
770日本@名無史さん:2006/02/08(水) 18:36:45
山内家は松平姓はもらったのに、一字拝領は秀忠のときの一例のみ。
なんで、家光以降の将軍の一字をもらえなかったんだろう?
771日本@名無史さん:2006/02/08(水) 19:19:07
山内光豊
山内綱豊

みたいな?
772日本@名無史さん:2006/02/08(水) 19:46:04
貰えなかったというより、敢えて貰わなかったのでは?
それほど藩祖一豊を仰ぐ意識が強かったのだろう。
国主ではなく松平姓すら得てないが、石高ではまさる
藤堂家も、やはり一代でのしあがった藩祖高虎以来
一人も将軍家の偏諱を得ていない。
山内家の「豊」同様、高虎の「高」の字を代々継承している。
773日本@名無史さん:2006/02/08(水) 20:09:22
>>772
藩祖一豊を仰ぐ意識。
2代目の時点で既に子孫じゃないってのであえて意識したのかもね。
774日本@名無史さん:2006/02/08(水) 20:31:00
今と違って「血」より「家」の問題だからなあ・・・
山内も藤堂も豊臣恩顧というより家康に引き立てられたような
もんだから、「もらえなかった」って感じはしないな。
775日本@名無史さん:2006/02/08(水) 20:31:50
見事なほどにバカばっかり湧いてくるなあ。
776日本@名無史さん:2006/02/08(水) 21:11:50
>>773
あの嫁の一族は3代目の時に皆殺しだったっけ
>>774
そもそも山内は砦みたいなとはいえ城主の家。
信長の家来ではあっても秀吉の家来ではなかったからね。
777日本@名無史さん:2006/02/08(水) 21:37:45
荒らしどもめ
778日本@名無史さん:2006/02/08(水) 21:53:25
おい。藤堂家は立派な国主だぞ
779日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:22:47
藤堂家は幕府から国持大名(20家→18家→14家)の
ひとつとして遇されたが、一国以上を領有した“国主”ではない。
780日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:41:22
伊勢は安濃津と久居の藤堂家以外に、
桑名の久松松平など、幕末まで続いた藩だけでも5家。
前田、島津、山内などの国主とはちゃうな。
徳川スレだから、藤堂、山内などどうでもいいけど・・・
781日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:51:16
徳川の恩を仇で返す裏切り者・・・
782日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:32:05
国主っていまいち意味の分からん格だな
伊賀や志摩でも全部統治してるなら国主と呼ばれるのか?
783日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:34:06
>>779
伊賀は?
784日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:51:30
たとえば志摩は鳥羽藩以外になく、かといって志摩一国を領有していたわけではなく、
天領や神宮領があったから、鳥羽藩主は国主ではない。
ふつう国主は前田が「加賀守」、島津が「薩摩守」か「大隅守」、山内が「土佐守」
などに任じられる。ちなみに藤堂家は国主ではないから、代々「和泉守」か「大学頭」
785日本@名無史さん:2006/02/09(木) 01:08:22
>>784
藤堂は、伊勢の一部と伊賀一国だろ。
それと徳川紀伊守とか徳川尾張守もいないし
松平(池田)因幡守、池田備前守、蜂須賀阿波守って居たっけ
毛利も長門守じゃないし
786日本@名無史さん:2006/02/09(木) 01:28:05
ふつう三位以上は何々守とは名乗らない。よって御三家は除外。
蜂須賀は代々阿波守か淡路守。備前池田にも備前守はいるよ。
毛利は代々長門守か大膳大夫です。
787日本@名無史さん:2006/02/09(木) 02:49:25
藤堂が国主かどうかなぞ、どっちでもいい!
高虎スレがあるかどうかも知らんが、別でやってくれ!
788日本@名無史さん:2006/02/09(木) 09:46:43
>>787に禿同
789日本@名無史さん:2006/02/09(木) 11:45:39
甲府の話題に戻しますかな。
御三卿あたりがよいかな。
790日本@名無史さん:2006/02/09(木) 13:12:04
徳川家康の息子で結城秀康の双生兄弟に当たる永見貞愛は
「足が不自由だった」と聞きますが、どの程度の障害だったのですか?
たんに跛者(びっこ、ちんば)程度なのか、足萎え、いざり
といった歩行不可能な状態だったのでしょうか?
識者の教示を俟つ次第です。
宜しく。
791日本@名無史さん:2006/02/09(木) 16:19:13
787 :日本@名無史さん :2006/02/09(木) 02:49:25
藤堂が国主かどうかなぞ、どっちでもいい!
高虎スレがあるかどうかも知らんが、別でやってくれ!


788 :日本@名無史さん :2006/02/09(木) 09:46:43
>>787に禿同



自演っぽ
792日本@名無史さん:2006/02/09(木) 17:25:03
妄想っぽ
793日本@名無史さん:2006/02/09(木) 17:33:14
でた、自演の本人www
794日本@名無史さん:2006/02/09(木) 18:35:40
国主は大名の家格であって、必ずしも実際に一国丸々領有しているわけではない。
薩摩の島津氏や長州の毛利氏のように一国丸々領有している大名は「本国持」といい、
陸奥仙台の伊達氏のように、一国の一部しか領有してない大名は「大身国持」という。

津の藤堂氏の場合、伊勢は一部しか領有していないが、伊賀一国は丸々領有していた。
795日本@名無史さん:2006/02/09(木) 18:40:52
一国丸々領有していても、所領の規模が小さいと国主として遇されない場合がある。
平戸の松浦氏は肥前の一部と壱岐一国を領有していたが、国主ではなかった。

このように「国主」というのは、あくまで家格を示す呼び名であって、一国全部を
領有しているかどうかは、あまり関係ない。
796日本@名無史さん:2006/02/09(木) 20:24:02
>>794
宇和島の伊達なんか10万ごときで国主格なんだが
797日本@名無史さん:2006/02/09(木) 21:13:34
見苦しいスレ違い自演。
私はこんなにバカです、って自白するのは楽しい? マゾ?
798日本@名無史さん:2006/02/09(木) 21:48:35
織田など5万石で国主格ぞ。
799日本@名無史さん:2006/02/09(木) 22:11:02
>>797
お前が自作自演と言ってるレスの中で、”ひとつだけ”俺のなんだが

「自分に逆らう奴=そうそういない=せいぜいこの世にひとり=自作自演かぁぁぁぁっ!謎は全て解けた!」

・・・寝たほうがいいぞ。
電波・お花畑はスレ違い以前に「板違い」
800日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:10:35
(・∀・)ジサクジエーン
801日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:25:30
(・∀・)ジサクジエーン
802日本@名無史さん:2006/02/10(金) 03:24:09
↑腐女子
803日本@名無史さん:2006/02/10(金) 07:10:25
徳川家康の息子で結城秀康の双生兄弟に当たる永見貞愛は
「足が不自由だった」と聞きますが、どの程度の障害だったのですか?
たんに跛者(びっこ、ちんば)程度なのか、足萎え、いざり
といった歩行不可能な状態だったのでしょうか?
識者の教示を俟つ次第です。
宜しく。


やはり低能だらけの白痴スレでは
誰ひとり答えられぬようだナ!?!




804日本@名無史さん:2006/02/10(金) 10:01:13
>>803
城壁厨、うるせえよ。
805日本@名無史さん:2006/02/10(金) 10:18:19
>>803
先週オレが永見貞愛に会ったときは、普通に歩いてたよ。
血色もよかったし健康そのものだと本人も言っていたから心配いらん。
806日本@名無史さん:2006/02/10(金) 11:33:08
永見貞愛の脚の障害がどんぐらいかなんて
知らん。そんなこまかいとこまで知ってるわけねーだろ低脳厨
807日本@名無史さん:2006/02/10(金) 11:44:02
服部半蔵と松尾芭蕉について詳しく教えて、
808日本@名無史さん:2006/02/10(金) 11:56:56
スレちがい
809日本@名無史さん:2006/02/10(金) 12:25:52
自作自演がイタすぎる
810日本@名無史さん:2006/02/10(金) 12:39:53
そういえば、徳川埋蔵金はどうなった?
811日本@名無史さん:2006/02/10(金) 12:42:41
はいはいワロスワロスww
812日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:39:21
日本語に不自由している奴らに占拠されている。
813日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:01:00
徳川秀忠
徳川秀忠
徳川秀忠
814日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:13:09
蜂須賀蓬庵
蜂須賀蓬庵
蜂須賀蓬庵
蜂須賀蓬庵
蜂須賀蓬庵
815日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:02:59

http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1138684243/


↑徳川家について話してるみたいだ。
何にも知らんアホばっかだから、だれか教えてやってくれ
816日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:11:27
徳川家は犬を諸国から中野に集め、自分達で食べた変態。
817日本@名無史さん:2006/02/11(土) 19:10:14
永見貞愛の足がどれほど不自由だったか知らないが、
「知立神社」に関わる古書をさぐれば・・・
秀康・貞愛兄弟が、わが子ではないと家康自身が疑っていた説・・・
それでも嫉妬深い築山殿が両者の母お万を激しく折檻した話・・・
「越後騒動」で有名な永見長頼・大蔵兄弟とのかかわり・・・
を考えるといくつか興味深いエピソードはあるな。
818日本@名無史さん:2006/02/12(日) 11:28:16
貞愛以下の永見家と神職を争っていた永井家は文久年間に刃傷沙汰を起こし、
両家とも知立神社からは放逐されている。
畜生腹の弟など語るに価なし。
819日本@名無史さん:2006/02/12(日) 11:32:13
すげーマニアックな情報もってるな
詳細希望
820日本@名無史さん:2006/02/12(日) 11:40:20
その後、かつては知立城主でさえあった永見家は神奈川方面に
流れていったそうですが・・・
板違いと叩かれますので、詳細はやめましょう。
821日本@名無史さん:2006/02/12(日) 14:22:19
家継について
822日本@名無史さん:2006/02/12(日) 14:56:51
11代将軍 徳川家基
823日本@名無史さん:2006/02/12(日) 18:15:03
18代将軍 徳川家英
824日本@名無史さん:2006/02/12(日) 18:34:54
また、脳内キャラか・・・
825本多平八郎忠勝:2006/02/12(日) 18:55:35
57戦無敗
無傷の儂が家康公を支えた
826井伊万千代直政:2006/02/12(日) 22:22:39
怪我しまくり
827本多平八郎忠勝:2006/02/12(日) 22:32:53
直ちゃんは中途採用だから仕方ないよ
でも四天王の一人だし関ヶ原じゃ先陣切ったんだから仕方ないじゃん
最終的には10万石以上もらったんだから大出世だよ
それに井伊の赤揃えって徳川最強軍団って言われてるから傷が無ければ格好悪いよ
828酒井忠次:2006/02/12(日) 22:39:17
君たちはいいよ……
俺なんか3万石だょぉ……
信康切腹の責任を根に持たれて……
四天王なのにぃ……
一人だけ、明らかに差別されている
829日本@名無史さん:2006/02/12(日) 22:43:44
自演バカ、しかも内容が低レベルで面白味もなにもない。
2ちゃんだけが生き甲斐。現実社会では相手にしてくれるひとがいない。

カスみたいなレスがくるんだろうな。

830日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:22:29
俺も一度、徳川将軍コーヒーを飲んでみたい
831水戸侯付家老中山備前守:2006/02/12(日) 23:37:07
将軍コーヒーがどういうものかは判らんが、私は牛乳を呑めと西山老から執拗に薦められて困っています
832日本@名無史さん:2006/02/13(月) 11:14:47
なりきりネタは、板違い

お花畑板かロビーでやれ。
833徳川綱條:2006/02/13(月) 13:12:12
なりきりスター水酸
834日本@名無史さん:2006/02/13(月) 14:48:56
池田綱政の先祖はすごいぞ。
信康とか千姫とか忠勝とか。
835日本@名無史さん:2006/02/13(月) 16:03:48
>>834
お前本当にバカだろ。
血統を語るスレじゃないんだよ。家と区別できないのか?
836日本@名無史さん:2006/02/13(月) 19:51:53
池田綱政・・・「葛の少将」と揶揄される。
家宝の紹鷗の茶壷を柳沢吉保に贈って少将の官位を手に入れた。

水野忠邦だって、唐津から浜松に移封になるため水野忠成に賄賂を贈り、
松平定信さえ、溜の間詰めになるため田沼意次に贈賄したというから、
殊更なことでもないのだが・・・


837徳川綱條:2006/02/13(月) 20:41:36
井伊直該は成り上がり柳沢吉保の老中昇格に際し、型どおり太刀と鰊二匹を送っただけ
であったため、特に冷遇された。
838日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:10:49
柳沢吉保は老中にはなっていないよ。
吉保が侍従になり老中に準じる格を得たのち、
井伊直該は大老になっている(元禄十年〜)
839日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:50:03
>>836
新宮の殿様は、側用人に妹を妾に贈ったぞ。
840日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:57:38
>>837
おい、悪いことはいわない。
名無しで書き込め。
悲惨な運命をたどることになるからな。
841日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:14:24
紀伊家付け家老の新宮水野氏(特に重上)は、
綱教・吉宗がそれぞれ将軍候補になった時、活躍したからね。
同じ水野でも、尾張家江戸詰めの水野彌次大夫の外交は稚拙で
尾張継友から譴責されている。
842日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:31:03
≫840に・・・ったく同感
843日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:55:06
尾張については成瀬正成が紀州に寝返っていたという噂も有ります
844日本@名無史さん:2006/02/13(月) 23:40:00
成瀬正成(藩祖)?・・・正幸では?
寝返ったってどこへ?・・・尾張藩附家老が紀州につくメリットは?
吉通時代の尾張家はハチャメチャ。
生母・本寿院のせいだけど、成瀬・竹腰らと石河隠岐守や奥田主馬ら本寿院派に
分かれて内紛状態。
結局、本寿院は宝永2年6月に市ヶ谷の中屋敷に押し込められたけどね。
845日本@名無史さん:2006/02/14(火) 00:12:13
井伊直該は気骨があるな。
吉保の専横に憤って大老を辞し、右衛門太夫となって隠居したあと、
家宣に乞われ結髪し、再び掃部頭となって大老に復帰している。
信子が綱吉を刺殺したという俗説の中で、介添えとして登場するのも
ぬべなるかな。
846日本@名無史さん:2006/02/14(火) 16:54:43
結城がうぜえなあ。
コテでなくてもばればれだ。
847日本@名無史さん:2006/02/14(火) 17:56:30
やつの話題は、もうやめよう。
掘り返すたびにスレの流れが悪くなる。
848日本@名無史さん:2006/02/15(水) 16:32:05
浅井長政と浅野長政がまぎらわしい件
849日本@名無史さん:2006/02/15(水) 16:38:28
山田長政も追加してください。
850日本@名無史さん:2006/02/15(水) 16:44:21
黒田長政
851日本@名無史さん:2006/02/15(水) 17:10:26
バカ3連投
852日本@名無史さん:2006/02/15(水) 17:11:45
↑4連投目wwwwww
853日本@名無史さん:2006/02/15(水) 17:33:52
浅井長政
浅野長政
山田長政
黒田長政
織田長政(2人)
854日本@名無史さん:2006/02/15(水) 18:05:12
855日本@名無史さん:2006/02/15(水) 18:56:41
七代家継が死んだ時、叔父の松平清武を八代将軍に推す声がなかったのは何でかねぇ?
当時宗家最後の生き残りだろうに?
856日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:51:01
兄貴も弟のことは眼中になかったみたいだしな
徳川姓でなかったのが最大の原因だろう
857日本@名無史さん:2006/02/15(水) 20:36:16
>>855
低脳荒らしが来る前にその話題はかなりでた。
このスレの前の方を読んでみ。
858855:2006/02/16(木) 02:53:24
>>857
サンクスコ。しかし清武って息子までおったんやな・・・なのに兄貴にシカトされて、
不幸な奴(´・ω・`)
859日本@名無史さん:2006/02/16(木) 13:23:25
 家宣が清武を冷遇した根っこには、
「虎松(=家宣)は替え玉だ」と幕府に讒訴した島田・大田ら重臣の背後に、
清武を担ごうとする勢力がいたから・・・って説もあるようだ。
 当時まだ元服前だった二人には責任のない話だが。
860日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:21:04
19代になる家広は同級生だったが、確か慶応受けて浪人してたな。
今頃なにやってるんだろ?
親父は郵船の副社長までいったが‥
861日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:27:41
>>860
高校は学習院?
862日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:45:21
そうだよ。
絵がうまかったな‥。
863日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:45:21
>>860
徳川家広
1965年東京生まれ。慶応大学経済学部卒業後、米ミシガン大学で経済学修士号取得。
国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部で勤務した後、
米コロンビア大学で政治学(国際関係論)修士号取得。帰国後はフリーの翻訳業。
864日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:48:07
すごいね
865日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:49:23
>>862
そうか
学習院大より慶応を選んだわけか
866日本@名無史さん:2006/02/19(日) 04:56:21
>863
よく知ってるな。
ありがとう。
慶応行ったあと、外交官試験に何度が落ちたとは聞いていたが、なんだ結構勉強してたのね。
おとなしい奴だった‥。
懐かしい。
ところでお前ももしかして同級生?
867日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:01:40
家名を背負っていらっしゃると大変なんですね
家広氏えらいと思います
お二人も実は華族だったりなさるのですか?
868日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:07:29
そうだよ、うちは本家は公爵家だった。
うちは伯爵。
でも、今やぜーんぜーん関係ねーぞ。
結婚も普通に恋愛結婚したが、結婚決めてから知ったけど女房の家は加賀藩の家老だったが‥。
869日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:09:41
>>866
>もしかして同級生
まさか。検索したらすぐ出てきますよ。
でも、タメだし、祖母がかなり上昇志向の強い人だったから、
戦争がなかったら同級生になっていたかも知れません。
870日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:12:55
みなさんすごいですね
うらやましいなあ
871日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:17:43
>>868
あなた、もしかしたらうちと先祖が同郷かも。
徳川家以外で本家が公爵の伯爵家って、かなり限定されますよ。
872日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:18:33
でもぜーんぜん関係ないってことはないんでしょう?
本当はよいことも大変なことも特別な経験もおありなんでしょう?
873日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:23:02
よいことなんてマジなんにもないよ。
うちの場合昔からいろいろあったものも戦争で焼けて、わずかに残ったものは俺の親の学費に消えたそうな。
ほんと、普通になってます。
徳川でいえば紀伊徳川にも同級生の女の子がいたが、これまた結婚相手は普通の奴だったぞ。
どこの馬の骨かわからんテレビマン。
今頃何してんのか?
874日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:39:32
本当に家柄が誇れる本物のかたはやはり控えめでいらっしゃるんですね
実るほど頭を垂れる稲穂かな!
ご自分のことは謙虚に慎んでおしまいになるようですから、
でしたら我々には正しく雲の上のあの霞会館について何か教えてくださいませんか
875日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:45:56
霞会館は本家当主しか会員になれない。
あそこは今やじーさんの溜まり場です。
特に語ることもありません。
この先どうやって維持していくのか???と思ってます。
876日本@名無史さん:2006/02/19(日) 05:53:10
今はどうして維持されているのですか?
みなさんがお金をだしていらっしゃるのですか?
877日本@名無史さん:2006/02/19(日) 06:00:41
霞ヶ関ビルは元華族会館(=現会館)のあった場所に建てられました。
霞会館は霞ヶ関ビルの数フロアの所有権を持っており、そこの家賃で食べてます。
ところで、あなた、そんなこと知ってどーすんの?
こまめにレスしてる俺も俺だけど‥
878日本@名無史さん:2006/02/19(日) 06:56:04
相手してくださってありがとうございます
まったく違う世界のお話なので何を聞いたらよいのかもわからずあこがれで聞いています
永遠に家賃収入だけでやりくりできないのですか?
皆さんはお金ださなくてよいのですか?
具体的にはどんな活動をなさっているのですか?
879日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:23:47
いい加減スレ違いどもは出て行け
あと、妄想乙
880日本@名無史さん:2006/02/19(日) 18:13:13
>868
西郷ドンの子孫の方でつか?
881日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:12:21
>>880
西郷家は、隆盛家系も従道家系も、ともに侯爵。
本家が公爵、分家が伯爵といえば、徳川家か嶋津家くらいでは?
882日本@名無史さん:2006/02/20(月) 08:48:06
徳川は宗家が公爵、分家の慶喜家も公爵、水戸家も公爵
883日本@名無史さん:2006/02/20(月) 12:19:10
先祖が有名人だからといって、
その子孫について語る価値があるのだろうか?
まア、一人何役でカキコしてるのか、知らないが・・・
884日本@名無史さん:2006/02/20(月) 14:16:54
徳川 好敏
1884(明治17)年7月24日生
1963(昭和38)年4月17日没
東京都出身
日本航空界の先駆者
陸軍軍人 陸軍中将
男爵
徳川篤守(旧清水家)の長男
1903(明治36)年 陸軍士官学校卒
軍用気球を研究
1910(明治43)年 フランスへ派遣 飛行機操縦技術を習得
 12月19日 代々木練兵場でアンリ・ファルマン機による日本最初の飛行に成功 飛行高度70メートル、距離3000メートル
航空学校教官
飛行連隊長
航空兵団長
航空兵団司令官
1928(昭和3)年 男爵となる
予備役編入後、再度召集を受ける
1940(昭和15)年4月29日 旭日大綬章受章
太平洋戦争終戦時、航空士官学校長
日本操縦士協会会長

徳川航空隊発足江戸城天守閣と丸の内公園間に建設底にすんでいる明仁とマサコ、愛子ちゃんひろのみやは京都か都内のアパートに
すぺばいい。
徳川宗家様 御三卿様には江戸城入城していただきたいです
885日本@名無史さん:2006/02/20(月) 17:26:12

自由権規約六条と死刑問題 (一)


徳川 信治
886日本@名無史さん:2006/02/20(月) 17:48:58
徳川信治  立命法学の先生
887日本@名無史さん:2006/02/20(月) 18:50:27
皇室を貶めながら、位階勲等を誇る馬鹿!
888日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:04:48
>>882
旧御三卿の徳川家は伯爵だよ。
889日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:18:14
御三家、御三卿を徳川の分家と考えるか別家と考えるかで変わってくるよな。
慶喜から分かれてできた家もあるし。
890日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:19:06
公爵 将軍家、慶喜家、水戸家
公爵 尾張家、紀伊家
伯爵 田安家、一橋家
子爵 松戸家
男爵 清水家、厚家、誠家
891日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:20:23
>公爵 尾張家、紀伊家

公爵を侯爵に訂正
892日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:32:32
維新後の徳川家の爵位なんて・・・
江戸時代の喜連川家の家格を誇って云々するのと同じだな。
893日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:09:08
慶喜・水戸昭武兄弟や尾張慶勝など水戸系の一族が
爵位で厚遇されのは当然。
徳川政権を薩長に売り渡した元凶だからネ。
894日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:28:04
≫884へ忠告する!
皇族をバカにする言動は慎め!
現存する徳川家にも迷惑だろう。


895日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:39:28
>>894
ネタにマジレスカコワルイ
896日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:41:36
>>894徳川視が江戸城で徳川大君の近代化が行われていたなら、19世紀待つには空軍大国そして
また戦犯裕仁の子供明仁が江戸城で税金で生活している以上アジア諸国韓国までが日本の防衛整備にがーがー言う。
中国は共産圏だから言わせておけばいいが、 韓国は一応西側だ。

徳川18代様が江戸城に入城され、明仁を京都に送り返そう。 京都で和歌か短歌でも詠んで人間国保にでもすれば、
韓国政府も文句は言わない。そして韓国民と韓国政府は徳川機甲師団に軍事境界線に張り付いてほしいと
また空軍基地に徳川空軍に来てほしいというだろう。徳川氏が日本の象徴であれば完全に戦前の軍国主義と決別したことが示せるから。
日本が強大な軍事力持っても韓国は大歓迎だろう。アジア諸国もアメリカも
897日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:46:43
>>皇族は。馬鹿です。あほです  孝明天皇は馬鹿攘夷をあおりテロ行為
明治天皇はただのあやつりン人形です。 大正は短命何もしなかった。
裕仁昭和戦犯は戦争を止めれなかった。ただの馬鹿。 馬鹿なのに生物研究所なんか税金でくって
ただの馬鹿 、明仁は間々ましか。だったらアパートで暮らせ。愛子ちゃんのためだ。
898日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:47:57
キチガイにマジギレした俺が馬鹿だった。
もう相手にしない。
899日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:49:51
徳川氏のもだよ。江戸城は徳川氏の私有財産だね。国は徳川財団に江戸城をカやすべきだね。
大体宮内庁はだらしない。ソープランドで死んだあほもいるから。公家の代表は要らない。明仁は江戸城敷地内を出て行くべきだね。


900日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:03:35
中坊並みの低脳スレ。。。ぷぷぷ・・・
901日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:23:10
以前、柳沢吉里が綱吉の実子であることが、
所与のことのように語られていたのですが、
本当なのでしょうか?
902日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:23:18
川 好敏
1884(明治17)年7月24日生
1963(昭和38)年4月17日没
東京都出身
日本航空界の先駆者
陸軍軍人 陸軍中将
男爵
徳川篤守(旧清水家)の長男
1903(明治36)年 陸軍士官学校卒
軍用気球を研究
1910(明治43)年 フランスへ派遣 飛行機操縦技術を習得
 12月19日 代々木練兵場でアンリ・ファルマン機による日本最初の飛行に成功 飛行高度70メートル、距離3000メートル
航空学校教官
飛行連隊長
航空兵団長
航空兵団司令官
1928(昭和3)年 男爵となる
予備役編入後、再度召集を受ける
1940(昭和15)年4月29日 旭日大綬章受章
太平洋戦争終戦時、航空士官学校長
日本操縦士協会会長
903日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:29:24
敗戦時、近衛文麿は天皇家を京都御所に引越しさせる提案をしたが
その案は採用されなかった。
904日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:31:47
>>902
ばかみたい。コピーずれてるよ。
905日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:31:48
わかった、わかった!!!
だから・・・何なんだよおッ!?
906日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:39:02
このスレを愛する常連の皆さんへ。
まもなく過去スレになってしまいます。
総力をあげて、にわか仕立ての板違いの泡沫レスを駆逐しましょう!
907日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:47:33
今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
908日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:48:45
909日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:52:47
徳川好敏・・・おまえも戦犯だっ!
910日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:02:46
そもそも大東亜戦争の非を唱え、
昭和天皇の戦争責任に言及しながら、
軍歴を誇る矛盾に気づかぬ馬鹿さ加減に、
ただただあきれる。
911日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:04:16
>>909無礼者。 裕仁は戦犯だが、孝明はテロリスト、 
徳川好敏様は清水家とうしゅさまであらせられる。
912日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:06:03
清水家当主様無礼だよ。徳川様がなされることに意義を唱えたら無礼うちでいいと思う。
913日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:07:01
清水家当主様に無礼だよ。徳川様がなされることに意義を唱えたら無礼うちでいいと思う
914日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:09:14
そもそも菊の門を打ち払うべきであった。葵の御門>>>>>>菊の門
915日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:10:45
誰の菊門に捻じ込むべきだったって?
916日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:14:49
俺は執念深いタチでな。
孝明天皇がテロリストだというソースを教えろよ!
917日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:14:52
明仁とマサコ、礼宮 、マサコ 、紀子 あやのみや  愛子ちゃんを江戸城敷地内から追い出す
江戸城に葵の旗を立てよう。
918日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:15:37
攘夷運動をあおった。と書いてあった
919日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:16:17
孝明は攘夷運動あおっただろう。
920日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:23:17
馬鹿か!おめえ!
孝明天皇が公武合体派で、
ために岩倉具視ら倒幕派に毒殺されと���と云われている事実を
知らないのか!?
921日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:34:25
ところどころ漢字で書けない低脳ウザすぎ。
徳仁親王はどうした?
礼宮こと秋篠宮夫妻は江戸城の敷地などにお住まいではないが?
922日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:37:37
だいたい、やれ戦犯だ、テロリストだと、
歴史的な検証もなく断定するレスにまもなもんはない。
このスレはある程度裏づけを取ってみんな投稿している。
うかれレスは消えろ!
923日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:53:24
徳川好敏
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。


908 :日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:48:45
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5
924日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:56:56
はい、はい、わかりました。
あなたは見事な軍歴から、立派な戦犯です。
925日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:58:06
過疎スレが上がっていることほど虚しいことはない。
926日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:59:49
>>923
誤字当てクイズ?

航空仕官学校×
航空士官学校○
927日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:01:14
徳川清水家八代。徳川篤守(旧清水家)の長男。明治36年陸軍士官学校卒。
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/20_to/tokugawa_yoshitosi.html
大正元年12月代々木練兵場で、アンリ・フォルマン機による国内初飛行
に成功した。その後、航空学校教官、飛行連隊長、航空兵団長、航空兵
団司令官などを経て予備役となるが、再度召集され航空士官学校長とし
て敗戦をむかえた。昭和3年航空界の先駆者としての功により男爵。戦後
は日本操縦士協会会長などを務めた
928日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:04:54
徳川信治  立命法学の先生
929日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:06:14
基地外病院スレ
930日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:07:02
908 :日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:48:45
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5
徳川好敏
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
931日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:07:34
≫925にまったく同感。むなしい〜イ
932日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:09:21
http://www.ritsumei.ac.jp/records/cgi-bin/rbi.cgi?lng=J&rno=DRW0000000000000000000009501878
研究者データベース 基本情報

■法学部 法学科
徳川 信治 トクガワ シンジ

■教授 ■法学博士


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■担当科目 / 国際法


■専門分野 / 国際法、国際人権法


■主な所属学会と役職
国際経済法学会、民主主義科学者協会法律部会、国際人権法学会


■主な著書・論文
●『自由権規約と家族概念(The Concept of Family and the International Covenant on Civil and Political Rights)』(単著、1995年、『立命館法学』)
●『自由権規約無差別条項の機能(二・完)(The Functions on the General Non-Discrimination Clauses of the International Covenant on Civil and Political Rights(2))』(単著、1994年、『立命館法学』)
●『自由権規約無差別条項の機能(一)(The Functions on the General Non-Discrimination Clauses of the International Covenant on Civil and Political Rights(1))』(単著、1993年、『立命館法学


933日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:12:08
徳川 信治 トクガワ シンジ
934日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:40:48
慶喜→家達→家正→恒孝→家広

慶久→慶光→慶朝→慶敬
935日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:09:51
936日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:22:05
徳川 家広(とくがわ・いえひろ)
1965年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、ミシガン大学で経済学修士号取得。国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部で勤務。その後、コロンビア大学で政治学修士号を取得。2001年に帰国し、翻訳家として活躍中。

<主な訳書>
『新上海』(集英社インターナショナル)
『戦争で儲ける人たち』(幻冬舎)
『ドル暴落から、世界不況が始まる』(日本経済新聞社)などがある。

 
937日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:28:47
家広だの慶敬だの、脳内キャラかよ(プ
938日本@名無史さん:2006/02/21(火) 19:51:27
もう家広なんて架空の人物で妄想するのはやめましょう。
939日本@名無史さん:2006/02/21(火) 19:57:03
子孫ネタうぜえ
940日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:52:08
家広は実在の人物ですが。

まぁ子孫ネタは飽きたから話題かえようぜ。
941日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:55:59
では秀忠公の血を唯一引く越智松平にかんする省察を。世が世であれば甲府国主、八代将軍になっていたことは間違いないものを
942日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:20:40
清武は実子がいないからダメだ。
943日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:36:37
>>941
秀忠の子孫は家継薨去の時点では会津がまだ残ってる
944日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:53:00
>>942
清方なる子がいたようだが、あまり長生きはしなかったようやね
945日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:58:21
正之には結構男子がいるようだけど、その子孫も全滅?
946日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:01:53
>945
正之の子は三代藩主の正容を除いて皆夭折。
血脈も絶えて、水戸系となる。
947日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:08:19
>>945
そういや本物の保科家の人ってどうなったの?
本物の越智家の人も
948日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:29:35
949日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:29:51
>947
本物の保科家をどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/iino.html

越智はしらん。
950日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:33:49
保科本家は、兄正光に勘当されて一旦は浪々の身となっていた正貞が、
正之から譲られて父祖の家を継ぐ。
その後上総国飯野藩(実際は多くの藩主は大阪在勤だったが)を子孫継承して、
明治に至り子爵。
951日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:34:15
本物の保科家は上総飯野藩主になって明治維新まで存続。
正之は保科家の家系図とか伝来の家宝を本物の保科家に返却している。
952日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:36:25
飯野保科家は2万石なのに帝鑑間詰めなんだから、かなり優遇されてるな。
953日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:37:45
正貞は浪々の身といっても、大阪夏の陣で活躍して、
大番頭になっていたけどね。
954日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:41:00
孫ネタ慶敬
955日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:46:18
慶喜→家達→家正→恒孝→家広

慶久→慶光→慶朝→慶敬



935 :日本@名無史さん :2006/02/21(火) 17:09:51
http://www.tokugawa-web.co.jp/top.html


936 :日本@名無史さん :2006/02/21(火) 17:22:05
徳川 家広(とくがわ・いえひろ)
1965年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、ミシガン大学で経済学修士号取得。国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部で勤務。その後、コロンビア大学で政治学修士号を取得。2001年に帰国し、翻訳家として活躍中。

<主な訳書>
『新上海』(集英社インターナショナル)
『戦争で儲ける人たち』(幻冬舎)
『ドル暴落から、世界不況が始まる』(日本経済新聞社)などがある。
956日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:46:55
今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。


908 :日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:48:45
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5


957日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:47:04
越智家については、【河野・越智氏総合スレ】があるから、
そちらをくぐってみれば・・・
958日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:47:44
今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。


908 :日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:48:45
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5


959日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:55:50
960日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:57:14



  家 広 み た い な 架 空 の 人 物 は ど う で も い い


961日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:17:11
『藩翰譜』によれば・・・家光・正之兄弟についてこんな逸話がある。
家光が鷹狩りの帰途、成就院という寺に寄った折、
家光が家来の一人のような顔をして寺僧にこの寺の檀家を尋ねたところ、
「たいした家はありませんが、保科正之様の母上がよくお詣り下さいます。
ただあまり裕福でなく、お布施も乏しいです。下々さえ兄弟仲良くあるを
心掛けているのに、どうして将軍様はああも保科様に冷たいのでしょうか」
と言われ、心中穏やかでなっかった。
その後正之が出羽20万石に封じられたと噂が伝わるのと同じ頃、
成就院にも家光から広大な土地の寄進があった・・・
あくまでも逸話だが、家宣の清武への冷たさに比べて・・・
962日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:35:04
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
徳川家広(コ川家廣、とくがわいえひろ、1965年 - )は、翻訳家である。父は、徳川宗家十八代目当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝。学位は政治学修士(コロンビア大学)。

慶応義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大学で経済学修士号を取得。国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部勤務。その後、米コロンビア大学で政治学修士号を取得(国際関係論)。2001年に帰国し、フリーの翻訳家となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%83
963日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:36:09
コ川家廣、とくがわいえひろ、1965年 -
徳川家広(コ川家廣、とくがわいえひろ、1965年 -
実在だよ。
964日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:38:10
現代の徳川の人のほうが興味あり。なぜなら調べようがないから。 歴史上の人物は本を読めばよし
965日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:38:51
現代の徳川家の人々と知り合いたい
966日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:39:26
家宣は家光と違い、生まれながらの将軍ではないから、自分個人の
判断で身内を優遇できなかっただけではないのか?
初めは御三家や幕閣にも気を使っていただろうから、将軍就任
直後は、目立つ身内優遇は家宣の性格から控えていたのだろう。
(病に倒れた時、後継者は幼い実子鍋松より御三家筆頭尾張吉道を
時期将軍に推したぐらい、家宣は私情を幕政に持ち込まなかった。)
将軍として軌道が乗り始めた頃に病いに倒れ、将軍在職たった
4年で死亡だし。もうちょっと長生きしていたら、大名に取り立てた
かもしれない。
将軍になった吉宗でさえ、長福丸を簡単に継嗣に定めることが
できなかったらしいし。(天英院の許しを得てやっと継嗣に
定めたらしい)
967日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:45:46
>>966
清武は家宣の遺言で加増されてるので、
家宣が長生きしていればもっと加増されていたかもってのは同意

あと、家光時代と違って家宣の時代には幕府財政に
余裕が無かったってのも大きいかも
気前良く使いまくった家光や綱吉のせいだけど
968日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:48:14
現代の徳川家の人々と知り合いたい
969日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:49:08
いまの徳川の人どうよ。詳しく知りたい。誰か調べて
970日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:50:16
だよな。家広ってなんだよ、バ〜カw
971日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:53:48
家広というのは徳川ヲタや子孫厨の妄想が生み出した架空の存在です。

日本史板で語るに値しない、ただの幻です。
972日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:05:12
>>971お前は帰れ家で読書でもしてれ。2CHにくるな。あほ。歴史ドラマでも見てろ。
ちょっと待ったあなた様がもし徳川松平一門様だったら別ですが、
973日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:08:04
新・世界戦争論アメリカは、なぜ戦うのか
ジョ−ジ・フリ−ドマン/徳川家広 /日本経済新聞社 2005/12出版 421p 19cm ISBN:4532165490 \2,625(税込)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%93%BF%90%EC%89%C6%8DL/list.html
974日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:10:42
大君徳川様を江戸城に入城され申されそうりょう。
975日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:02:50
家宣が病臥時に、新井白石に「家継の後見に尾張吉通を立てるべきか、
それともこの際尾張吉通に将軍職を譲るべきか」と尋ねたといわれている
のは白石の創作。傍証する史料がない。
976日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:07:01
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%83

>>971
無知識の愚民め。
あ た ま だ い じ ょ う ぶ ? w w
977日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:25:56
>>971ただ基地外でだね。 切り捨ててもかまいませんね。無礼打ちてことにでも。
978日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:27:41
やっぱり現在生きてお見えになれる徳川松平一門のことがきにらるのですが
979日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:29:02
21世紀の徳川家松平家の方々のこと気になるね
980日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:38:11
朝氏は徳川慶喜家四代目当主:徳川慶喜公ひ孫にあたる。なお
http://www.saza.jp/saza_jp/saza_trivia/shogun_coffee/index.html
981日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:42:04
こういう人たちはリーマンやりにくいだろうな
982日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:46:46
18代徳川恒孝様は商社マンだったらしい。どうだったののだろうか。
徳川家の人々は学者が多いらしいが、徳川先生で検索するといろいろ出てくるよ。
983日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:52:39
松平真由美テ徳川様一族なのかな? 保育園の先生らしいけど?
984日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:55:34
そうすると松平健はどうよ?
まあ、徳川宗家御三卿御三家様の御子孫さまにかけ る
985日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:59:11
、徳川宗家御三卿御三家様の御子孫さまだけでなく松平様も調べるとると大変だね。
986日本@名無史さん:2006/02/22(水) 11:57:34
>>982
恒孝さんは日本郵船の元副社長。

>>984
一応釣られるが松平健の本名は鈴木末七。
987日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:00:17
>>984海の副将軍てとことか  
988日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:03:27
徳川宗家 御三卿 御三家 徳川慶喜家の明治以降分家もふくめて現在すべて知りですね。
989日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:04:54
家康嫌い
990日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:05:22
>>988
世界帝王事典にでも池
991日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:07:16
今の御子孫様たちはいったい今何をされてるのでしょう。教えていただきたい。
992日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:09:21
今の御子孫様たち本人たちが書くしかないでしょう。
993日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:14:37
>>991
本気で知りたければでかい図書館行って平成新修旧華族家系大成でも嫁。
10年前の情報だが。

ところで次スレは?
994日本@名無史さん:2006/02/22(水) 13:24:11
次スレいらねえだろ。
995日本@名無史さん:2006/02/22(水) 13:53:26
バカばっかりになっちゃうんだよな。
教えてちゃんは自分で調べることも前のレスを読むこともしない。
996日本@名無史さん:2006/02/22(水) 15:50:15
>>995
同意。
質問の前に前レス読めってんだ。
次スレ立てるなら立ててくれ
997>>1:2006/02/22(水) 17:18:20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140596095/

次スレいちおう立てときました。
やるならどうぞ。
998日本@名無史さん:2006/02/22(水) 17:20:31
>>1000ならω-FORSE
999日本@名無史さん:2006/02/22(水) 17:21:30
>>1 乙

次スレいくか。
1000日本@名無史さん:2006/02/22(水) 17:24:34
うむ
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