1 :
日本@名無史さん:
火器の使用は無しでタイマンで戦ったらどっちが強い?
2 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:45:47
源平武士が名乗りを上げてる時に槍で突くのが戦国武士
3 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:47:08
>>2 そんな槍伸ばせば届く距離で名乗りを上げてたの?>源平武士
4 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:49:53
じゃ、弓矢で
投石で
6 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 17:00:00
弓矢の腕は源平武士のほうが上では?
どっちも槍?
8 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 17:14:41
武器は普段使っているような武器を使用可。火器以外。
源平武士…騎乗のまま弓矢を射る。
戦国武士…戦う時は馬から降りる。馬は逃走用。
一対一で戦えば、どうみても源平武士が勝つ。
ただ戦国武士には組下の足軽が大勢ついているかもしれんので、その場合は戦国武士の勝ち。
10 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 19:57:06
平均的な体格の比較ではどうなのかね。
源平時代と戦国時代。
11 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 19:59:27
武田や上杉の騎馬武者なんかは源平っぽさを残していたかな?
12 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:17:48
戦国武士の方が汚い手を使うから戦国武士
戦国武士に鉄砲の使用を禁じてるんだから、源平武士も弓の使用を禁じないと。
双方飛び道具皆無で戦ってもらいましょう。
14 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:35:07
源平武士の弓は接近戦での主力でもあるから、無いと圧倒的に不利。
槍も戦国時代にできた武器でそれまで存在しないし。
上杉の騎馬と木曽義仲とかだったら中々見ごたえのある良い戦闘しそう
15 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:36:11
それだったらやはり源平武士か?
戦国の頃は武将にとって一騎打ちの能力は源平の頃ほど重視されていなかっただろうから。
16 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:53:30
戦法も武器も研究され進化してるだろうから、
戦国武士の方が強いと思う
17 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:57:43
18 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:58:02
坂東武者は組討もあるよ
19 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:58:35
>>16 鉄砲とか文明の利器が出てきたことによって個々の強さ・一騎打ちの戦法に関しては
蔑ろにされ退化したものもあっただろう。
源氏の平均身長は170で体格もゴツイ。戦国武士の平均は150。
戦国武士のが組討は柔術として確立されているので強いかもしれんが、この体格差だとな。
戦国の鎧は対鉄砲用に作られているので動きやすいのもかなり有利。
対して源平武士は対弓用に防御が特化されているのが特徴。
遠距離なら源平武士有利で、近距離なら戦国武士が有利なんじゃないかな?
鎧の差はあるな
大鎧で接近戦はやりづらいだろ
23 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 20:11:52
当て身やら柔術やらが体系化されて古武道が始まるのが室町時代の末期頃。
つまりタイマンならちゃんとした格闘技を身につけた戦国武士が勝つ。
ガタイなら半狩猟騎馬人の源氏系東国武士だな
鎮西八郎為朝最強
1対1で戦えばそりゃ源平の方だろう。相手の土俵で戦わなければならない
戦国武士は不利だわな。
27 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 17:01:47
戦国時代の武士は馬から降りて戦ったとも言われるし
馬上の技術じゃ源平期の武士には太刀打ち出来ない
28 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 17:08:29
鉄砲で撃ち殺せ
29 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 17:08:30
時代の戦いは、キンニクマン2世に載っていたことと同様じゃないの?
>>21 平均身長170?
それはない。
確かに源平武士の方が大柄ではあるが。
31 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 21:46:39
槍なら鎌倉末期にはあるが…足利尊氏が九州征伐で槍にてこずってる。
32 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 21:55:31
>>31 あれ槍じゃない。
穂先が鉈状のもので突く威力はほとんど無い。九州の菊池氏の地方独特の武器。
室町期に廃れた。槍の前進と言えないことも無いけど、槍の特性を持ってない
34 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 14:31:36
なんで源平武士のほうが体格良かったの?
時代が昔なのに。
仏教がそんなにマンセーされてなかったから。なので獣肉が普通に食べられていた。
食事は粗暴に見える品ばかりだが、戦国期よりも栄養価の高いものがほとんど。
つか、古代のがカロリー低くて、カルシウム、タンパク質、ビタミン豊富な食事だったりするんだよ。
戦国時代には数多くの実践を想定した流派があり
それに精通、または学んでいた武士は多くいて
剣豪も最も多かったと思うけど
源平にそんな人どれくらい居たの?
37 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 17:01:27
家康の武術好きが影響するまでは、上級武士は兵法を習うのを「雑兵のすること」としてやってない。
実戦に出て斬り覚えるか、弓馬の鍛錬をするくらいだから、流派的な兵法を納めて人は皆無。
戦国時代も上級武士は概ねそんな感じだよ。でも、下級からののし上りが居るからなぁ
>>35 異本が数多く成立した『平家物語』や説話内容の変遷により、寧ろ中世前期の
方が仏教の権威は高いと考えるのが、普通では無いかと。
実際には獣肉がよく食されていたという環境は、似た様なものでしょう。
体格から言えば、14世紀が一番いいというのは事実ですが、食生活以外の
理由もありそうです。気候の寒冷化もあったか。
「槍」について。槍はホコ、鑓はヤリと呼ばれたもので、区別されます。
11世紀に、槍に代って長刀が台頭し、1334年に初めて歴史上に鑓が登
場するので、鎌倉時代末期には鑓が存在した筈。
この頃、騎射以外に馬上で長刀や熊手を使用する様になっていました。
武術については、相撲が鍛錬の対象として存在した他、『保元物語』や『平治
物語』に剣術の稽古が出て来ますが、体系化はされていません。
最初に武術として体系化されたのは、14世紀の騎射だとされています。
兵法については、『奥州後三年記』に、大江匡房が源義家に兵法を授けたとあ
るのが『孫子』の兵法らしく、匡房作とされる『闘戦経』という兵法書も現存し
ていますが、『闘戦経』は哲学書の体裁で、役に立つかどうか。
『義経記』には、『六韜』が登場しますが、実用については不明です。
39 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 18:03:51
いえ、南部家文書に出て来る「也利」の事ですよ。
これだけだと、形状は分かりませんが、『太平記』では、専ら刺突用の武器
として使用されています。
41 :
39:2005/11/27(日) 18:32:36
42 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:14:08
魚や鯨を突く銛は昔からあっただろうに、
なぜ槍はなかなか武器として普及しなかったんかな。
43 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:32:28
重かったんじゃない?
>41
恐れ入ります。新井白石の『本朝軍器考』の記事についてですが、鉾は11
世紀末には長刀と交代して消えていた様なので、鉾→鑓かどうかは微妙だ
と思います。
>42
11世紀
律令体制崩壊→騎乗者(主人)と歩兵(従者)の関係成立
→歩兵が騎乗者の補助役を務める→騎乗者同士の戦闘が主役
→敵歩兵を薙ぎ払うか、敵騎乗者の馬の足を払うのに便利な長刀出現
13世紀
歩兵によるゲリラ戦術登場→歩兵による騎乗者の襲撃が行われる様になる
→出し抜けに「つきやる」武器が必要とされる→従来の長刀では不向き
→鑓出現
上は想像ですが、実用よりも観念による制約が影響していたと思います。
45 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:08:55
思うに、戦国の槍は密集して敵軍の突入を防いだり先鋒に出てジワジワ攻め上るための戦略兵器ではないかな?
タイマンの場合だとフトコロに入られたり掴まれたりすると逆に不利になったんじゃん。たぶん。
その点、大太刀や薙刀ならたぶん掴まれないw
源平の頃は熊手や鎌みたいに引きこみ系の武器が多いね。
確かに、14世紀には歩兵による集団戦が出て来ますね。
長刀などの場合、掴まれないというか、薙ぎ払うのにはいい割に、集団で襲
う(鑓衾を作る)のには重過ぎます。鑓も穂の規模によりますが。
掴んでいると言えば、『春日権現験記絵』に、馬上で熊手を使用して相手を引
きずり落そうとしている武士が、相手に得物を掴まれた場面がありますね。
長柄の武器は、長刀、小長刀、鑓、金砕棒、薙鎌、鉞(14世紀迄に出現)。
意外とバリエーションがありますね。
早っ!すごいな、さすが2ちゃん。
まあ例外的かもしれないが長巻等の集団戦は、たしか小田原で採用されているね。
袈裟斬りから突くという動作を繰り返しながら集団で進むのだ。
重たいのでちょっとしたコツがある。田宮平兵衛(林崎甚助かも、今は居合の流派で有名かな)が指導している。
ひょっとして一般的源平・戦国とは関係ないかなwごめん。
48 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 13:09:53
鋼の増産量とか武器の普及には材料と技術が関係する。
足軽とかの集団戦法を使うには膨大な財力と地の利が必要
その辺も加味して武器を論じるのも面白いかも
昔読んだ本に、刀剣は古ければ古い程に鉄の純度が高く錆びる事はない。
と読んだんだけど、本当かな?
でも実際、幕末の名刀より鎌倉とか室町とかのが切れそうに見える。手入れの違いの差かな??
50 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 21:24:46
幕末は刀鍛冶がある程度多いから、その分質が悪いのもある。
古いもので残ってるのは天下五剣とか名刀中の名刀だけ。
しかも、名刀匠が命がけで作ったりと思い入れが半端じゃない、費用も
だから、残ってるのを比べると平均点で古いほど圧倒的に高品質になる
幕末も負けない名工、名刀もあるんだけどね
なるほど。サンクス
どう考えても戦国時代の方が強いでしょ。火縄銃があるんだから。
火縄銃を除外して考えるって声も聞こえるけど、それは意味がない。
火縄銃を除外するということは技術の進歩を否定することだからな。
そんなことしてたらすっぽんぽんになって素手で殴りあうことくらいしかできない。
すっぽんぽんで戦うのに源平も戦国もあったもんじゃない。ただの個体差だ。
個人的には源為朝が最強だと思うけど。弓持ったらね。何でも貫通とかするし。矢が。
53 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 02:34:15
武将の一騎打ちで鉄砲を加味するとなると島津くらいだね。
他の戦国武将は雑兵が使う物として自ら撃たなかったし。
強いて他をあげれば、徳川の家康さんくらいか。
当たらし物好きの信長すら個人装備として使わなかったし
結論
どっちが強いかは個人の資質
やはり戦国武士だな。
それは技術力の差ではっきりとわかる。
例えば、甲州軍学流の中に、組討方があるんだけど、片手で引っ張ってバランスを
崩させ、仰向けに倒させる。腹の上にのっかり、短刀で首を押し切りながら刃を
当てていく。
こういったことは一朝一夕ではできなく、長い間の経験と工夫が必要だと思う。
やはり両者には500年ほどの開きがあるから。その差は大きいよ。
56 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 15:32:03
戦国時代のほうが戦の数自体断然多いように思われるので場慣れした武士が多そうな戦国かな。
57 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 16:39:11
マンモスと戦っていた原始人には両者共絶対に勝てない。
戦国武士と幕末武士どっちが強いかの方が
興味ある。
なんでもありの戦国武士のが強いだろ
60 :
シミュレーション 源平武者 VS 戦国武将:2005/12/02(金) 22:38:43
源平武者が鏑矢をぴやうと放ち、戦闘開始!
戦国武将が種子島で轟然と応射!
肝を潰した馬が棹立ちになり、源平武者落馬!
腰を抜かして、這って逃げる源平武者!
戦国武将は、種子島を構えて、第二射を放つ・・・・が惜しくも外した!
再装填の時間が足りず、種子島を投げ棄てる戦国武将!
おおっと!戦国武将は石を拾って、逃げる源平武者に追いすがり石を投げ付けている!
だが大して効いてないぞ!走って逃げる源平武者!
源平武者はそのまま逃げ切ったので、はい終了〜
その刹那、にわかに一天かき曇り雨風が吹き始めた。神風だっ!
これでは種子島が使えない!さあ源平武者の反撃だ!
騎馬が駆け五人張りの強弓がうなる!射程距離はモンゴル軍以上だぞ!
逃げる戦国武者! 所詮金で雇われただけの寄せ集め。
だが軽快な当世具足をまとった戦国武者はそのまま逃げ切ったので、はい終了〜
>>61 五人張りってw
たとえ五人張りがあったとしても大した射程じゃないと思うぞ。源平の時の弓ならばな。
ま、源為朝公だけは別格だけどな。飛ぶし。矢が。
63 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 15:04:34
天気が晴れなら戦国
雨なら源平が勝つってことで
以後、このスレ終了〜
64 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:12:45
馬乗りの下手な戦国武士
団体戦の戦国武士
65 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:18:07
火縄銃なんて1対1では役に立たんだろ。
両者が100Mぐらい離れた状態から始めならともかく。
離れれば胸板を射抜かれ、
至近距離で放てば、当たらなくても
源平武者は驚いて落馬し、戦意喪失します。
〜終了〜
67 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:27:44
南北朝はスルーですか?
68 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:54:34
>>66 至近距離って・・・撃つのにどれくらい時間かかるかは考慮しないの?
信長の立場ないじゃんw
>>68 弾薬を装填せずに戦場に立つ武士はいません。
弾籠めしてない戦国武士を襲うのは、
単に源平武者お得意の卑怯戦法、夜討ち・朝駆けの類。
全くタイマンとは言えず、
>>1の趣旨に全然則っていない。
よって考慮する価値なし。
〜終了〜
70 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 19:16:43
orz...
でもね、>>1がどれだけ偉いかは知らんけど
火器を禁止することは人類の歴史を否定することなんだよ。
日本の技術進歩を否定して「タイマンで戦ったら?」という>>1は怠慢だよ。
だって「文明が進歩して様々な便利なものがある現在の人間は昔の人より弱くなった」
とかしたり顔で語る人いるよね。
それだったらそういうの全部否定しないと。
74 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 21:30:58
ちなみに、武士ってどのレベルの一騎打ち?
それによって、火器を使えるか{習い的に}どうか、鎧の強度、武器の種類が変る。
戦国の足軽頭以下だったら鉄砲とか使うけど、鎧とその他の槍はそんなに良くない。
上級武士だと鉄砲を個人では使わないのが普通{島津等一部例外}だけど、槍と鎧は良い物が
それもピンキリだし・・・・もちろん、源平武士についても装備の良さは全然違う。
もしも論に結論などない。
ローマ軍兵士と十字軍兵士はどっちが強いか、みたいなもんか
ムシキングならぬ武士キング、面白いかも
火器が万能兵器なら関ヶ原では弓隊は無くなっているはず。
もう少し科学的に比較しよう。ここは日本史板だ。
銃火器には銃火器の弱点がある。
火薬・火縄が雨・湿気に弱い。操作構造が複雑で全工程をクリアしないと発砲できない。
煙が匂うし夜には火縄が光るので敵に発見されやすい。
照準装置がたぶん現在ほど正確でなさそうだし不発も多そう。
かさばるので他の長物武器が携帯・併用できない。弓ならそれ自体が長物武器となる。
銃剣はまだ発明されてない。
利点としては音がでかい。鉛の丸玉なので殺傷力が高い。射程距離が長い。
源平の甲冑は弓矢・大太刀には強いが鉄砲には弱い。
逆に当世具足は鉄の薄板なので弾ははじきやすいがクッションはちと弱そう。
・・・思いつきで書いたがこんなところかな
まあタイマンなら火器は使えるのは最初の1発のみで後は他の武器に持ち替えないと
突進してくる源平弓馬には間に合わない。
78 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 22:58:43
遅スレだけど
>>62 源平の時の弓って一騎打ちの場合、接近戦で使われるのだが
鎧を突き通すように強弓を使う。飛距離は副産物。
まあ、ちゃんとした武士での話だけどね。
鉄砲は鎧が良いと殺傷距離が二、三十メートル。騎馬なら標準合わせる間に来ちゃう。
武田の騎馬隊とか、大量の鉄砲で弾幕張られない限り負けてないし
79 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 23:25:58
>>78 武田騎馬隊は騎馬で戦ったの?
『信長公記』に出てくる長篠の合戦での武田騎馬の記述は
「関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて
懸かり来たる・・・」
関東上野の小幡氏(平姓児玉党)だけなんだよね。
三段撃ちも創作だけどね
源平時代に一騎討ちの分があるみたいに考える人も多いと思うけど
実際にはそうでもないんだよな。主君が負けそうになると家人が突撃して
押し包んで敵を討ち取っちゃうことがほとんどじゃない?
つまりのところはどれだけ兵を集められたかが勝敗を分けてたわけで。。
又兵衛は長政が討ち取られそうになっても
「あんなのに討たれるようなら主君ではない」とほったらかしにして
後で喧嘩になって黒田家を飛び出してる。
そう、戦国時代でも実際はやばくなったら部下が助けるのが普通だったんだね。
前田慶次はたった八騎で2万の最上軍を撃破したんだし、前田慶次最強じゃね?
82 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 01:54:56
彼と彼の育て親は異常だからな。
・・・まあたしかに、たった8騎で2万の軍を撃破したのなら日本史上最強だね
熊谷直実なんか けっこう一騎駆けとか一騎討ちやってねえかな?
85 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 02:48:35
>>81 前田慶次のはありえないよ
>>84 ・平治の乱
源義平(神奈川)、熊谷直実(埼玉)、平山季重(東京)
86 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 08:42:02
戦国代表
大将・上泉信綱
副将・塚原卜伝
中堅・柳生宗巌
次鋒・上杉謙信
先鋒・前田慶次
源平代表はだれかたのむ
前田ひょっとこ斎の話は
最上軍に攻められ、撤退を始めた上杉軍のしんがりを たった八騎でひきうけたという
男伊達のはなしじゃないのかな?
マンガでしか知らんけど間違ってたらごめんw
「たった8騎で2万の軍の追撃をくい止めた」と表現した方が正確では?
それでも十分すごいけどね。
源平の時代にはすでに一騎打ち戦法は廃れていたんだけどね・・・
>>89リンク先より
>一対一で戦える状態は戦場ではなかなか作りにくい。
>その意味で、一騎討は特殊な戦闘といえる。
>一騎討ではじまった組討戦が重層的になっていくのはそのよい例である。
>逆に一対一で戦える条件が整えば、一騎討はいつの時代もありえる戦闘である。
>そこで、騎射戦イコール一騎討という誤解から、
>一騎討が源平時代の戦闘の特徴のように説かれることがよくあるが、
>それは間違いである。
>一騎討そのものが時代の特徴なのではなく、
>一騎討で戦われる内容が時代の特徴となるのである。
>つまり源平時代の組討戦などがそれに相当する。
>一騎討は特殊な戦闘であるために、それで戦われる内容が、
>時代の象徴として誇張されるという理解である。
>負ければ死に直結する組討戦は、弓射騎兵にとって
>騎射戦や打物戦後の最終的な戦闘となり、
>はじめから組討戦となることはほとんどない。
要するに、源平時代でも一騎打ちはあくまで特殊な事例だったと。
その上で、源平時代の一騎打ちの特色を挙げれば
まずは騎射、次いで打ち物、組討は最終手段だと。
古代以来の弓射騎兵では殺傷力が低い。
地力救済の世界・坂東で、新たな戦法として組討による戦闘が発達したんじゃないかな。
地力救済=無秩序、無政府状態
何でわざわざ「殺傷力」高めないとあかんの?
坂東武者は、人をヌッコロスことが目的の殺人嗜好者か?
戦争の目的は、武力で相手に言うこと聞かすことだろ。
境目や相続の争いなんだから相手が逃げてけばそれでいいんだよ。
ヒント:首級
94 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 21:57:59
>>92 一所懸命という言葉知ってる?
土地は生きる上で最も大切なものだった。文字道理、命をかけるくらいに。
自分だけならまだしも、子どもや郎党のためにも得たり、守らなきゃいけないもの
特に、貿易や商業が利益を上げられない地域では、農業こそ命を繋ぐ術
東国では組打が、西国では騎射が盛んであり、東国は武士の本分である騎射
の鍛錬を重ねる事の出来ない環境(要するに田舎)にあった為、騎射よりも組
打が発達したのだとも言いますが。
治承・寿永の内乱期には、動員数が増加して騎射よりも組打を選択するとい
うか、それしか出来ない参戦者が増加した、と言います。
>境目や相続の争いなんだから相手が逃げてけばそれでいいんだよ。
治承・寿永の内乱が始るまで、楯突戦は経験していたが、馳組戦は未経験な
武士がいたという話があります。境界争いレベルであれば、接近戦未満でも
なんとかなったのでしょう。
実戦における騎射の心得などは、こうした時に老武者から伝授されています。
96 :
匿名希望:2005/12/04(日) 23:01:42
源平の有力御家人が手柄を立てた他の御家人について
「あいつは自分がんばらなきゃ大変だね。でも、自分は家来が戦ってくれるから、いいよ。」
みたいなこと言っているので源平も集団戦だったと思います。
源平は動員兵力が少ないので一騎打ちが起こりやすかったのでは。
>>95 川合・高橋氏の騎射技術の低下とする説は、近藤氏は否定してますよね。
朝廷軍の騎射技術は、騎馬技術の優れた蝦夷との戦闘で
練磨されていったものだと思うし
京武者の騎射技術も、その先祖(坂東人)が坂東で培ったもの
(蝦夷との戦闘&高句麗、新羅系渡来人)だろうから
蝦夷⇒坂東⇒京と伝わったものだと思うのだが。
>>96 大豪族の三浦氏が、小豪族の熊谷らを指して話した言葉だと思う。
「奴ら(熊谷)は郎党が少ないから、自ら戦う。自分(三浦)は郎党が多いから
戦わないだけ。郎党がいなければ自ら戦う」
みたいな感じの話だっけか。
那須与一(栃木県民)とかふつうに騎射してないかな?
平将門や清盛とか都で滝口やってるんだから地方武者に能力が無かったのではなくて
騎射作法に堪能なエリ−トが居なかったから自己流で撃ってたのでは?
100 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 00:32:19
前に日本史の先生に聞いた話なのですが、
源平時代の戦で一騎討ちは、名乗りをあげ、相手の了解の下に一対一で行われるとのことです。
そして、その間は家の子は手を出さないのが原則。
理由としては、名乗ることで自分の武名を喧伝し、恩賞および土地の安堵を庇護者に求める意味。
つまり、良く戦ってるからちゃんと保護してくれということ。
さらに、勇猛であることが尊敬の的であり、周囲への抑止力となるからとのこと。
言い換えれば、「俺はこんなにすごいんだぞ」と威を張るヤクザさんと同じ。
だから、一騎討ちを逃げるのは嘲笑の的であり、発言権を無くすことになり、勢力減退となるとのことです。
とりあえず、私は納得できた話だったので載せます。異論等ありましたら教えてください。
101 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 00:36:14
室町の伊勢家とかなら騎射の流派としてあるけど、源平時代ってそういう作法とかの成立してるの?
訓練は源氏等であったみたいだけど、細かい技法については聞いた事無いな・・・
兵法にしてもちゃんと体系化されるのは鎌倉後期や室町くらいだったと思ったんだけど・・・
情報求む
その先生がどこからその知識を仕入れてきたか気になるが・・・
103 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 00:40:16
>>101 何か頼朝が、京から家伝の騎射術名人を呼んで
妙技を見せてもらった記録があったはず。
結構有名な話だ。
詳しいことはこのスレの博識な人が教えてくれるだろう。
>>102大学時代に日本史の中世を専攻したとのこと。
細かく専攻やらを教えてはいけないらしく{教師間で揉める原因ともなるので}
ここまでしか教えてもらえませんでした。
とりあえず、大学で学んだ、研究したことかららしいです。
>>101 騎射を主体とする戦が、源平期には既に古いものとなってたんじゃないかな。
流鏑馬なんかは京が本場なんだけど、そういう京の武芸は実戦向きではなかったようだ。
>>97 ループしますが、騎射の鍛錬の様式は京で成立したとされていますね、高橋
説では。狩猟時に騎射を行う事は、西国でも行われましたし、蝦夷が騎射に
秀でていたのは確かですが、西>東とは。
で、話は騎射⇔組打の話に戻る訳ですが、狩猟を行える獲物の量やその権利
というのには限りがあったと思うので、笠懸等の訓練の充実やその重視も考
えてみたいと思うのです。
ただ、この手の技術の伝播は早かったのではないかという気もするのですが、
何分そうでもしないと東国で組打が流行った理由が・・・?
戦の庭での威力が、組打>騎射とも思えませんからね。
殺傷力が低いとは、考えにくい。
軍記物での台詞からですから、どこまで信用して良いのかという話ですが。
>99
那須宗隆の場合、静止騎射でしたから(こちらが主流というのが近藤説です
が)、難易度は下がりますが、東国に存在しなかったという訳では無く、普
及の度合いが低かったのではないかという話です(下層武士に)。
もっとも、軍記物に頼る割合が多く、データとしてなかなか出せませんが。
>>103情報ありがとうです!詳しいこと知ってる方、お願いします。調べ方でも良いので
一騎打ち自体はかなりめずらしい光景だったから「英雄視」されたんだろうね。
戦術としては孫呉を読んでもありえねえだろうw
どんな戦場でも両軍の出会い頭や戦力が拮抗した場合、一時的に戦線の膠着がおこる。
兵法に言う「居つく」状態だな。
お互い睨み合って動けない。
そんな時腕っ節に自信のある奴が頃合いを見て一騎打ちを挑むのではないかな。
実話かどうか知らないが日露戦争の映画でトーチカの上で酒盛りしていたロシア兵が
ウオッカを日本兵に差し出す、それをうけてヤクザあがりの兵士が1人もろ肌脱いでロシア陣地に
酒瓶をトコトコ取りに行くというシーンがあった気がする。
こういう男意気を戦場で売りこむのも「もののふ」の仕事だったのではないだろうか?
109 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 00:49:12
ええと、参考になるかわからないけど、
組討のセオリーは鎧の薄い部分を貫通力のある鎧通しで攻撃する。
だから、どんなに工夫を凝らした優れた鎧でも可動することから、
全てを強化することは不可能{現在の兵装でも全部防弾にするのは無理}
故に、弓での攻撃には耐えられる鎧を完成させても、組討では攻撃は有効になる。
ここから個人的な意見だけど、その鎧の発達が組討流行の理由なんじゃないかな?
>>101 日本で「武芸」の流派が誕生するのは、騎射がもっとも早く14世紀です。
頼朝が騎射藝についてまとめさせていた事は、『吾妻鏡』での西行とのや
りとりなどからも窺われる事で、後世の『梅松論』にも、頼朝が弓馬の日
記を尊重させた旨、記されていますね。偉業の一つとして。
組討が流行ったのはハリウッド映画のせいだろ。
騎射弓兵の一騎打ちといったら、箕田宛(埼玉熊谷)と村岡五郎(埼玉熊谷)の伝説があるなぁ。
8世紀初期の話。
訂正
箕田宛(埼玉鴻巣)
>109
しかし、騎射は騎射で内甲や鎧の隙間を狙いましたからね。
大勢に矢で狙われると、気休め程度に鎧を波打たせ、一時的にでも隙間を
塞いでいました。確実にというか、積極的に仕留める。
無くは無いですが・・・いや、東国云々はさておき、説得力があるか?
馳組戦の様な、接近戦が多発したのと相俟ったか。
騎射もそれなりに近づかないと意味がありませんが、相手を追い詰める様
な泥仕合だと、組み合う確立も上がりそうですからね。
>>103が言ってるのは西行法師のことかな
>>110も言ってるが頼朝に頼まれて鶴岡八幡宮の流鏑馬を指導してるね。
116 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 01:14:29
>>114 騎射でも狙い撃つというのは聞いた事ある。
でも、それって相当な熟練が必要だとも聞いたよ。だから、できる人が少ないって
それに引き換え、組討だとそこまでの熟練は必要ないのでは?
騎射で仕留めるのが一番だけど、難易度が高すぎてできない→比較的簡単な組討へ
鎧が発達したなら狙う箇所もどんどん難しくなるわけだし、人数的に後者が多くなったんだと思う。
困難な技法って、優れてても簡単なのが出ると廃れちゃうからw
>騎射で仕留めるのが一番だけど、難易度が高すぎてできない→比較的簡単な組討へ
その場合は、95や106で述べさせて頂いたのと同じ結論になりますね。
西行の家、紀州の佐藤氏には秀郷流の兵法が伝わっていて、西行も元は北面の武士で
流鏑馬の名人。
それで西行が鎌倉に来た時、源頼朝が深夜まで熱心に西行の言葉を聴いて、
それを書き留めさせて、鎌倉八幡宮の流鏑馬に基になったって話だね。
秀郷や貞盛のような坂東の軍事貴族が、畿内にも地盤を移して
それとともに京の武芸も発達したと思う。
↑子孫が京で軍事貴族として発展して
秀郷流の方は源平のように振るわなかった。
下げたり上げたりじゃ別人のようだw
121 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 01:22:21
>>117 そう、だから俺は
>>95の説を押す。
他の人から見てて、「
>>95の説」というのでは説得力無いし、
自分の考えでもあるという意味であえて別に書いた。
決して山野野衾さんの意見を否定してるわけじゃないので念のため
122 :
120:2005/12/05(月) 01:25:09
やべっ、関係なかった、間違い
スマソ
流鏑馬ってのも狙いの的は目の前なんだよな。
クソスレがあっという間に良スレに変貌してる・・・
だから2ちゃんは面白い
馬上から遠い的を射るのではなく擦れ違いざまに射る訓練なんだと思う。
自分を殺して喜ぶような奴と組討ちしたくないよな。
てか、自分だけ安全な場所から相手をサクっと殺したいよ。
右手で引き金を引いて左手は女の乳をまさぐってるくらいが好ましい。
ということで日本の戦はいつでも遠戦志向でした。
たまに頭のイカれた奴が組討とかして首を取ったり取られたり。
あくまでもイレギュラーな事象であると考察するがいかがかな?
首取る時も、熊谷直実みたいに、逃げる相手に
背後からタックルして、首を掻き切るのがデフォでした、と。
128 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 06:36:08
高橋氏(神戸大)の著作『武士の成立・武士像の創出』は、京都マンセーな部分を
他の学者達から批判されてるけど(本の中に各氏の反論コーナーが設けてある)、
・元木氏(京都大)⇒平氏を真正の武士として、地力救済の中で練成された源氏や
東国武士を単に傍流とみなす事には問題がある。
・杉橋氏(立命大)⇒著しく中央の、しかも京都に偏重した分析視角。・・・など
その高橋氏でさえ、都の武芸(近衛府の騎射など)が9世紀後半から10世紀の平安中期には
実際の戦闘力を失っていた事は認めている。
その近衛府の武芸も蝦夷との戦闘で培われたものだろうし、当時の兵の強さでいったら
近衛府の兵よりも、東北蝦夷の方が強かった。
関東がアナーキー状態に突入して、兵が練磨されて行くのは9世紀以降。
下向井氏ら⇒射礼、賭弓、騎射、相撲などの武芸も貴族の娯楽で軍事的意義がみられない。
>>125 騎射というか、現行の流鏑馬というものは、歩射が流行した室町時代を経て、
戦国時代に一旦廃絶した後、島津家と徳川幕府(吉宗)が復興したもの。
古くは正面の的を狙って射たとも言います。
>>128 宮廷での儀礼としてはそうでしょうが、騎射の技術というものが、日常的に
どの様に磨かれていたのかが、気になるところです。
狩猟が騎射の腕を磨くという事はあったでしょうし、重視されもいた事は狩
猟不参加を申し出た郎党に、武士ではないが武士的であったという藤原保昌
が「嫌なら首を召す」と叱責したという『今昔物語集』にある一説話からも、武芸
を磨いた集団での重視が窺われますが・・・そう頻繁に出来る事ではない。
『男衾三郎絵詞』には笠懸、『新猿楽記』には種々の的を利用した騎射の訓練法、
『古今著聞集』には牛追物。記録した場の偏りというのはあるでしょうが、騎
射の訓練法というか、訓練を可能たらしめる環境というのは、騎射が儀礼と
して行われていたからこそ、京都近辺から生まれたという気がするのですが。
少なくとも、東国が狩猟可能な環境であったから強かったとか、質実剛健で
あったから勝てたとかいうステレオタイプな説明は容れ難い。
単に東国>西国ではなかっただろうとは思います。
『中外抄』に、藤原忠実が、その父や自分が的弓・ままきなどを射ていたと
回想する場面がありましたが、こうした騎射芸の行える環境が発達してい
たという点は、騎射自体にも長じる事になったろうと思いますよ。
高橋先生が近藤先生の競技と実戦は違うという反論に対し、更に反論して
実戦への効果無き稽古はありえないと述べてらっしゃったので、くだくだ
しくは申しませんが、実行しておいて無意味という事も無いでしょう。
武芸の儀杖化(←字が違うかも)もあるかも。公家だし。実戦的なものから儀式的なものへ、みたいな。
おおっ、凄い方からレスが来てる・・
そもそも、都の武芸というものが独自に育ったものではないと思う。
軍事貴族以前(10世紀以降)の軍事官僚ともいうべき、坂上田村麻呂の武の本質には
南朝鮮渡来系の東漢氏の系譜を引くという点があるだろうし、この時代とそれ以前の
京の武芸というのは、騎馬戦に巧みな東北蝦夷との合戦により学び取ったものだし。
他の地域と違い、9世紀後半以降戦闘が日常化していた坂東の中から生まれた
貴種の後裔である軍事貴族が京に進出し、彼らを介して「京の武芸」は熟達されて
いったものでは?
軍事貴族のような貴種(京武者)でなくても、坂東武士は京との関わりは持っていたし。
それと、実戦経験が豊富な坂東と違い都では都風の華やかな武芸が(京の騎射技術)
発達していったものだと思う。西行の流鏑馬のような。
これは実戦的なものではないのでは。
>>131 公家と武家が対比される様になったのは、12世紀後半に入ってからだった
と思いますが、『古今著聞集』の部類分けに見られる様に、弓箭や相撲などは、
元々貴族社会に見られた技能の一つであったが、それらを特化させたのが武
士=軍事貴族だったという提言が、大隅和雄先生によってなされていますね。
>132
私としては、そうした東国―武家=質実剛健、西国―公家=雅という前提自
体、後付けというか後世のイメージではないかと思うのですよ。
じゃあ、西国では戦闘(私闘)が無かったのか、
義朝も関東で暴れていますが、為朝だって九州で暴れていますし、それ以前
にも義親が西国で暴れて討伐されている訳ですが、地方レベルの争乱の種で
あれば、どこにでもあったのではないかと。
ベタな例ですが、法然の父が襲撃された事件も氷山の一角だった筈で。
(もっとも、あれは館への夜討でしたが、屋外で行われた類似の私闘や襲撃
が西国にも多数存在した事は、『法華験記』などにも出て来ます)
平安時代の戦乱と言えば、平忠常や安倍氏のそれが連想されますが、それら
は一過性のものであって、日常的かつ世代を超えた騎射の能力をもたらした
のは、実戦以前の訓練そのものでしょう。
その環境は、西国より東国が勝っていたとは言えず、発達した多様性という
面(的やその配置など)からすれば、西が勝っていた可能性もある、と。
西国武士だって、馬にも乗れば私闘もしますよ。
東国武士の強さというのは、斎藤実盛の談話に象徴される様な多分に作為的
な描写の積み重ねによるところ(先入観・刷り込み)が大きいのでは。
西国の公家的文化を、東国の武家的文化が制し、前者の腐敗を後者の質実剛
健が正したという、新井白石の『読史余論』に始る歴史観が、こうした書をよ
く読んでいた近代の人々から、現代まで受け継がれている様な。
(こうした雅=悪、剛健=正義という風潮は、現在でも健在です)
西国で武士政権が誕生していても、おかしくはなかったと思います。
>訓練そのもの
訓練自体は、おそらく治承・寿永の内乱での目立った戦闘には至らない程度
の規模の戦闘を想定していた(せざるを得なかった)でしょうが。
ただ、境界争いぐらいでは、なかなか馳組戦になる機会は無く、的ではなく
人を射る場合には、地方で珍しく馳組戦を経験した老武者からの「故実」を聞
かねばならなかったでしょう。
しかし、その環境が東国にのみ用意されていたものとは思いません。
>>133 坂東と畿内だと、実戦経験の場数では全く違うと思うのですが。
136 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 20:01:17
教盛流の子孫だけど、源氏は因果応報3代であぼーんじゃん。
助命してやった恩を忘れやがって、ザマミロ。
>>135 騎射は超高度職人芸の世界で、実戦経験だけじゃ話にならないよ。
>>135 実戦よりも場数が多い筈の訓練内容の充実はどうか、という事が一つ。
それと、畿内と坂東と言わず、東国と西国で差はあったかというのがもう一
つですね。それから、場数が全く違うと仰いますが、確かに坂東の方が表立っ
た行動がとれたとはいえ、畿内にも「殺人の上手」はいた訳で、しようの無い
事ですが、具体的にどう多かったのか、規模にどう違いがあったのか、畿内で
は確かに抑制出来ていたのかを示さないと、イメージ談義に終ると思います。
・・・と、これは我ながら強弁と言うべきか。
(強弁と思いながら本音を言わせて頂くと、実戦経験が豊富だったと連呼され
る割には、具体的な数字や統計が示されている訳でもありませんから。
もっとも、この時代には無理な話、無いものねだりですが)
139 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:52:41
兵法も本場は東国の鹿島と言われるけど、京八流とか成立してるからね。
刃物関係だと両方に有名な名人がいるもんね。
>>138 いや、簡単な話じゃないっすか。
古代の中臣鎌足(鹿島)の防人に始まり、平将門と俵藤太(奥州藤原始祖)。鎌倉北条に足利尊氏、新田義貞。
板東の軍事力を制した人が天下を取っている。
陸戦能力の差は明らかだと思う。
これは兵法練度の差というよりハングリー度の差だなw
とにかく貧乏で田舎モンでケンカっぱやかったんだよ徳川以前の関東人はw
幕末の薩摩軍みたいなもんだっぺよ。
>>133 山野さんに対して俺なんかじゃ完全な役不足ですなw困った、困った
まぁ、レスはしますよ。
俺は平家物語、領主制(関係ないか)の信奉者ではないですよ。
元木氏の『武士の成立』は平家物語の記述を否定してる感じですね。
・元木氏(京都大)⇒平氏を真正の武士として、地力救済の中で練成された源氏や
東国武士を単に傍流とみなす事には問題がある。
>>132 >>138 貞観の「群盗山に満つ」という状況や、強制移住させられた蝦夷の蜂起、
富豪層の反乱と鎮圧など、ですか。
豊富な馬牧を基盤とした多数の武士団の発生。合戦(実戦)の数も他地域よりも
多かったと思いますが。
畿内や西国が地力救済の世界へ突入していくのは、坂東よりも2世紀遅れてからだし。
高度な騎馬技術=実戦に役立つかどうか?
これは別の次元だと思う。反高橋氏の学者達が言うように。
以前に、高橋氏が東国武士=セミプロと発言した部分を『武士の成立・武士像の創出』で
他学者の反論に対して説明してるが
@主流・正規の武士⇒源頼朝挙兵直後の平氏方東国武士、
大庭・波多野(相模)伊東(伊豆)河越・畠山(武蔵)長狭(安房)為光流藤原・原(下総)
佐竹(常陸)足利・新田(上野)小山・宇都宮(下野)の事を念頭に置く
Aセミプロ=武に堪能な(東国の)在地領主
B傍流ないしセミプロ⇒北条庶流の時政の他、浪人や流人など
それで、上総介広常から熊谷直実に至る「@主流正規の武士」が雪崩を打って
頼朝軍に合流後、参加した武士が「セミプロ」・・・。
ってな感じなんだけど、何か苦しい言い訳っぽいなあ。
高橋氏のいう東国武士の組討への移行というのも、騎射技術の低下というよりも
戦マニア学者・近藤氏の説、甲冑の防御性の進化に関係するという方に頷ける。
より効果的な戦闘技術=組討の増加
『吾妻鏡』保元合戦の大庭景能の談話
「源為朝は本朝無双の弓矢の名人だが、東国において馬に馴れた景能と違い
為朝は西国育ちのため、騎馬において弓の寸法が大きすぎ、その為膝に当たった
怪我ですんだ」、という話がある。
>>141の訂正
強制移住させられた蝦夷の蜂起⇒俘囚
高度な騎馬技術=実戦に役立つかどうか?⇒騎射
ちょっとその馬についてお尋ねしますが、当時の良い軍馬というものは近づこうものなら
「噛みつき」「蹴飛ばし」「ぶち当たる」様な危険生物だった訳でしょw
チ●ポも付いてるし気性も荒い。人馬一体、死ぬときゃ同じ墓の穴。
そういう軍馬と騎乗者の差が西国と東国の騎馬格闘方法の違いとなった可能性はないだろうか?
あと当時の東国の土地争いはハンパじゃないでしよ。利根水系は日本最大の暴れ川
1度氾濫するとせっかくの農地を全て洗い流します。その後はおきまりの土地争いですな。
これが関東一円で年中行事としてあったわけでしょw
誰か詳しい人、
>>142は以下のように書いているわけだが、
>高橋氏のいう東国武士の組討への移行というのも、騎射技術の低下というよりも
>戦マニア学者・近藤氏の説、甲冑の防御性の進化に関係するという方に頷ける。
>より効果的な戦闘技術=組討の増加
高橋氏と近藤氏が唱えている説の違いは、本当にこの理解で正しいの?
>>89のリンク先の近藤先生の論文には、組討について
全然142の言うようなことが書いていないんだが・・・
>>140 尊氏は九州で再起を図りましたし、「日本国王」は一時九州の支配者でした
よ・・・というのは、ちと苦しいか。
>141―142
いえ、私も普段参照しているのは、大隅和雄先生が扱われる様な分野の事で、
この方面に関しては、ただの半可通です。
「僦馬の党」ですか。牧の分布は、どうでしたかね。やはり坂東集中か。
大庭の故事については、東国武士の優位を『吾妻鏡』が強調したかったからで
はないか・・・というのは、これも都合が良すぎますか。可能性だけ。
刀伊の入寇時、九州の兵が騎射で撃退してもいるのですが。
>144
11世紀に成立した高山寺の『古往来』の中に、
馬を武士に貸すのは殺生になりそうだから嫌だが、五つの欠点のある馬なら
貸し出せるとあり、次の様にあります。
1、「一段之内、百度躓跪乗人衆中而落騒」
2、「雖逢可射、宍不可追着、縦云以鞭如箒打、其馬不可動走」
3、「至于生薗藤葛之地、最初蹴纏倒為宗、是則依年老无力」
4、「纔打動雖走、着宍許、弩(ひく)弓之間、即以留而不寄彼宍許」
5、「驚被扇風之草打返之際、毎度落乗人」
要するに、この逆が上馬という事。東西で差があったかは?
狩猟時にわざわざ借りたのですから、大事な行事だったのでしょう。
この前段に、貸せない上馬というのは、疲労したり傷ついたりしている三頭
の馬だというので、描写もありますが、省きます。
>>145 近藤氏の『弓矢と刀剣』からの孫引きっぽくなるけど、川合氏のは読んだ事がある。
ここで高橋氏の著作として出されてるのは『武士の成立・武士像の創出』以前の本。
川合氏⇒馬を射る行為や組討戦などに注目。全国的な戦闘規模の大幅な増加で
高レベルの戦闘技術を持たない階層が戦闘に参加。
治承・寿永期の戦闘法が、騎射から組討へ移行した。
治承・寿永期での戦闘で、騎射を放棄して組討戦となる。
高橋氏⇒武士の騎射技術が近衛府人の伝承を継承したもので、この正当な騎射術は
むしろ平氏方のもの。そして、組討などの戦闘術は騎射にこだわりを持たなかった
東国武士団のもの。
更に騎射戦の実戦での有効性も疑問視する。
※『武士の成立・武士像の創出』の記述では、源氏武士の騎射技術が平氏武士よりも
劣るとは書かれていない。
近藤氏⇒馬を射る行為や組討戦の増加は確実。騎射技術の低下よりも甲冑の防御性に
関わる問題とする。
治承・寿永期での戦闘で、騎射を放棄して組討戦となるとは説けない。
治承・寿永期の戦での戦闘法は、
騎射戦(弓)⇒打物戦(打つという機能の、太刀。馬上打物・落馬打物)⇒
組討戦(刃の鋭い刀、短刀。相手の首を取る目的)
148 :
144:2005/12/07(水) 00:44:37
>>146 おおっ!!すごい。こんな短時間でこれだけの活きのいい資料を引き出していたとはマジ感服っす!!
でも・・・ 読めないっす(泣)
「肝っ玉の小さい馬やヘタレ馬はダメ馬じゃ」・・・って意味なのかな〜???
ああっ!誰か日本語に翻訳してっ!!orz
とりあえずこの事に関して小生も資料を引っ張り出してみましたっ!
お題は 『ト伝遺訓抄(ト伝百首)』 筆記者は加藤相模守信俊 元亀2年作です。
作者塚原ト伝は室町期の鹿嶋の神人ですが。生涯20度以上合戦場に出た人です。
ト伝本人が書いたかどうか不明で時代的にはちとズレるけどまあ参考までに。
【軍馬について】
「もののふの 鎧の下に乗る馬は くせあるとても 強き好めり」
「馬はただ 普通に強く肝ぞよき まされる肝と無肝きらへり」
「乗り下りも また扱いの易きとて 小馬を好む人ぞつたなし」
「癖ありと 強き馬こそよけれとて 進まぬ癖の馬をな乗そ」
「三寸に たらぬ馬をばむかしより 軍の場には嫌ふなりけり」
・・・と、ありますが、下の二首 イマイチ意味が解かんないんですよ。
三寸に足らぬ馬なんていねーだろっ!!・・・って、俺が無知なの?
【弓について】
「弓はただ おのが力にまかすべし 手にあまりたる弓な好みそ」
「兼ねてしれ 軍の場所にもつ弓は すこし力のまさるを好めり」
・・・と、あります、実際の詠う順番は弓−馬−剣−長刀−鑓となっていました。
問題の騎射に関しては・・・なかった・・・。orz
入れ忘れた部分があった。
高橋氏⇒都の騎射術は、馬を馳せながら左横に矢を射る流鏑馬的な騎射をイメージ。
これに対して近藤氏⇒騎射のバリエーションの一つとして、流鏑馬的な騎射を否定しないが
騎射の本質は追物射だし、馬静止の騎射もあり。
※馬静止の騎射=城郭戦や渡河戦で想定できる。馬が標的にならないように矢を前方に射る。
>>147の近藤氏、最後の部分
戦場での戦闘の流れの事ね。最初に騎射戦があって、打物戦、そして生死に関わる組討戦。
>>148 もう、ややこしくなって来たので、私も部分的な返答だけ(笑)。
1、100m進むのもつまづいて人を落す馬
2、宍(獲物)に遭遇しても追いつかず、鞭にも反応しない馬
3、草が繁っている場所だと、足をとられる老いぼれ馬
4、鞭打って走らせても、狙いを定めたところで止まり、動かない馬
5、風になびく草に驚いて、乗り手を落としてしまう馬。
安定性があって、ある程度胆力があるのが名馬です。
「癖ありと」というのは、日本では乗り手を撰ぶ胆力のある馬が好まれまし
たが、同じ乗り手泣かせでも、反抗して進まないのは止めろ。
『雑兵物語』に、腕も無い癖に癖の強い馬を好む主人の話があります。
三寸というのは、中世には四尺(121cm)を基準にして、それにいくら
足せるかで体高を呼んでいたためです。『平家物語』等もこの例。
体高130cmも無い華奢な馬には乗るなという事でしょう。
これより10cmも高く、上の五つの条件を満たしていれば、名馬です。
『ト伝百首』の方は、群書類従から引かれたのですか。
騎射が無かったという事ですが、室町時代には歩射が主流となっています。
15世紀後半の『真如堂縁起』には出て来ますが、まずそこまででしょう。
戦国時代には、完全に廃れていたと思いますよ。
集団戦やゲリラ戦、場所を選ばない歩兵主体の戦が増えた為と言いますが。
151 :
148:2005/12/07(水) 18:53:25
>>150 おおっ!!すっごく分かりやすいっス!!
ありがとう!!大感謝っス!!
「宍」って獲物のことなんですね。電子○辞苑では「肉」って書いてあったので意味が解りませんでした(笑)
『ト伝百首』は某武道研修所に在った「日本武道なんたら全集?」に載っていました。
ひらがなが多くて読みやすかったので(w、合宿の合間にコピー取りました。
「群書類従」にも載ってたんスか?それなら近所の図書館にあるじゃん(泣)
いや、群書類従では無かったかもしれませんね。
しかし、図書館にありますか。それは恵まれてらっしゃる。
宍は肉の事ですが、「いのしし」、「かのしし」という生き物が、日本人の
食肉を支えておりましたから。猪、鹿の事です。宍=「しし」。
狩りの獲物というのでこう訳しておきました。
ししおどしというが、あるでしょう。あれはこれらを追う為に、大きな音を
立てる様に竹を設置したものです。
4は「宍に追いついても」という文を挿入しておきましょう。
>>147見落とし。。。
『武士の成立・武士像の創出』でも、東国武士にはない高度な騎射技術
(流鏑馬的な騎射)を持つ「真の武士」が平家方にはいたと述べてる。
実際の戦場は色々なシーンが連想されるわけだし、義仲にみられる馬を馳せながら
真後ろに射る騎射術など、流鏑馬的な騎射術には見られないバリエーションも
あった訳だし・・・。
流鏑馬という事に関して言えば、西行に代表される北面武士などの優れた技量は
田舎者の東国武士達を凌ぐと思うが。
けども、下向井・笹山氏や鳥谷氏、近藤氏の言うように「軍事的意義の欠如」、
「見せ物的武芸」、「競技」という見解が正しいと思う。
打物戦と組討においての刀剣の握りについての近藤氏の見解だけど、
打物戦では当然普通の握り方(順手)で握るが、組討戦の短刀では逆手(右手小指が
刃方面)の方が使いやすいから、逆手で使用したのではないか、と推測してる。
俺も真似てみたんだが、確かに逆手の方が動かしやすい。
それで経験上思い出したのが、ボクシングのドラムだなw頭上で叩くやつ。
戦マニア学者・近藤氏⇒パワーリフティング2001年オープン日本チャンピオン
何なんだろ?この先生はw
154 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:59:09
ageついでに
東国で発達した鹿島や香取の神道系武術は、源平武士に伝えられなかったんでしょうか?
この二つには、薙刀や太刀の形があるのはもちろん、動きから直刀の扱いのような物が見られる気が・・・
しかも、平将門ら、関東の平氏の領地に掛かりますし、蝦夷討伐時の兵士訓練所でもあったし
『古往来』を読んでいて気付いたのですが、いえ、そもそも気付くべきであ
ったのですが、騎射に適した馬というものは、実際にはそう存在している
ものでは無かったでしょうから、多人数が参戦すれば、騎射以外の戦い方
も必要とされる訳で、それで伝統に囚われない(?)東国で組打ちが流行し
たものか。
>154
所謂剣術の発生は、15世紀まで下らないと、出て来ないのでは。
『保元物語』に九州で為朝が、『平治物語』に鞍馬で義経が打物を学んだとあり
ますが、体系化はなされていなかったでしょうね。喧嘩殺法では。
それと、本題とはずれますが、鹿島と香取の本地は当時十一面観音とされて
いた事ですし、「神道系」と言うと、今だと誤解を招くのではないかと。
中世に「神道」と言うと、伊勢神道や山王神道といくつか流れがありましたが、
大抵は単に神祇を指していた事ですし、言葉の扱いには慎重に・・・
というのも、私がやっているのが本来この方面だからですが。
論文か何かで、「神道系武術」と呼んでいたのに倣われただけでしたら、失礼。
剣豪スレでは、神道流と陰流という使い方がなされていましたが、歴史用語
なのでしょうか。原典が気になるところです。
体系化されてない時代の剣技(剣術とは呼ばない)ってどんな感じだったんでしょうね?
やっぱり、「素振り一万回!」とかそんな感じ?
158 :
154:2005/12/08(木) 22:29:55
>>山野野衾さん
「神道系武術」は間違った使い方だったんですね。ご指摘ありがとうございます。
武術畑から横好きで日本史を独学してるもので、用語について疎くて・・・なかなか指摘もしてくれないので
なので、助かります。これからも{無い様に気をつけますが}有りましたらよろしくお願いします。
ちなみに、鹿島神社が健甕槌神が降臨して伝えられたと聞いていたのでてっきり「神道」なのだと思ってましたw
>>157 鹿島神社の出陣式{蝦夷討伐前}だと、武器を持っての踊りを戦勝を祈って兵士が舞ったとのことです。
その舞をするうちに、武器の使い方を覚えるんだとか。{剣や長柄武器に限り}
体系化はされてなくても、振り回す感覚を覚えるだけで兵士はだいぶ強くなるそうです。
出展は、武術仲間の大先輩なので微妙ですが・・・・
>>157 『義経記』では、立木と鞠に打ち込んでいますね。
相手がいれば打ち合ったでしょうが、それなら他国にもある訳で、日本独自
の武術としての「剣術」とするには、流派の出て来る頃まで下るべきではない
かと、考えた次第です。
「香取神道流」の飯篠長威斎家直辺りが、最古級ではないでしょうか。
>158
私が煩いだけですから、スルーも必要だと、ご記憶下さい(笑)。
ただ、「神道」といっても、現行のそれは明治の神仏分離を経たものであり、
それまでとは祭神や世界観が変化しているのですよ。
それで、当時の「神道」と今使う場合の「神道」を区別する必要がある。
「神道」というのも、なかなかややこしい用語ですので。失礼致します。
ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/ ↑東海道のところにあります。>前近代⇔近代の鹿島・香取の祭神
長威斎も、仕えていたのは、経津主命というよりは、香取大明神で本地十一
面観音だと考えていたと思いますよ。
大明神は、元々仏典に出て来る語で、仏の垂迹の意。明治の神仏分離の際に
は、大明神から大神への改称が進み、祭神も記紀系とされました。
大多数の中世人は、神といえば仏の垂迹である○○大明神や××大権現だと
考えており、読んだ事も無い記紀の神名は知らなかった筈。
>>156 はいはい剣豪スレから来ました(笑)
『神道流』は飯篠長威斎の「天真正伝香取神道流」道統の分派の事ですね。
前出の塚原ト伝(ト部吉川家出身)が「鹿島新当流(しんとうりゅう)」で、その他「神刀」「しんとう」等の
文字がその流祖の思想または誤解によって適当にあてられていますw(文盲も居たので)
ちなみにト伝の「新当流」は「薪をたたき割る」転じて「敵をたたき斬る」の意味をあてているらしいです。
「一刀流」とかも本来は「一刀のもとにぶっ倒す!」という意味だったらしいです。
現在の『神道流』の道統が成立するのは室町期からですが
鹿嶋には古代より鹿島の神人達に伝えられてきた「上古流?」なる古代兵法があったと言われています。
それは個人的な見解では剣・棒・鎌・組討等の実戦のコツみたいな物を総合的に指導していたのではないかと推察します。
鹿嶋に近代兵法が伝わるのは源義経が陰陽師鬼一法眼より授かった(盗んだ?)「六韜」の「龍・虎の巻」の
神宮奉納あたりではないでしょうか。(あ、「六韜」は将門も読んでたかw)
それ以前に新羅三郎(佐竹家祖)も北関東に居ましたので都の兵法が「上級武士」には伝わった可能性はあるとは思います。
>>158 こりゃ!158っ!武芸者なら『鹿島神宮』とお呼びせんかっ!(笑)
鹿嶋神宮の祭頭祭で囃人がカラフルな衣装を纏い棒組みをするのは「鹿島立ち」した防人達が
故郷に錦を飾った姿だと言う説があります。
また、古代の組討に関しては坂上田村麻呂は中臣鎌足(鹿嶋出身?奈良公園に鹿嶋の神鹿を連れていった人w)の
「狐伝流」なる体術を学んだと謂う説も有りますがこの辺になるとちょっと・・・・
>その流派、仏門に入道した慈恩大和尚の名前に
>天真正(鹿島&香取の神から真の教えを受けたと言う意味)を付けるとは
>酷いですよねw
剣豪スレにこんなレスがついていましたが、当時(前近代)であれば、社僧
もいて鹿島・香取の神も仏の垂迹扱いだったから、無問題なのです。
十一面観音樣のお使いぐらいの意味で・・・
と、あちらのスレから来てらっしゃる。(スレ違い失礼)
義経の『六韜』云々は、足利義満の頃に成立した『義経記』に登場する話であ
り、史実性は認められないと思います。将門も同じ。
162 :
158:2005/12/09(金) 00:01:16
>>160 >武芸者なら『鹿島神宮』とお呼びせんかっ!(笑)
これは失言でした!間違いが無いように気をつけると言っておきながら早速ありましたね{笑}
>>158「鹿島神社」→「鹿島神宮」に謹んで訂正させて頂きます。
>>159山野野衾さん
詳しくご説明ありがとうございます!
やっぱり、日本史を語るには日本史用語を学ばないとですね。その方がわかり易い。
って、ことで皆さんのをじーっと見つつ、勉強です!
>>162 ううむ、実にお話甲斐のある方です。
貴方のお師匠様も、お弟子の学習意欲に喜んでおいででしょう。
ここのところ騎射の話ばかりでしたが、戦国期の方が無視されていましたね。
剣術関連、あまり史料が無さそうですが、私も見てみます。
スレタイのタイマン勝負ですが、
・ 各時代の平均的体格の武士が
・ 各時代での戦闘技術の粋を身に付け
・ 各時代における最高の武具(
>>1 により火器はなし)で
戦った場合にどうなるか、を考えるのかなぁ。
(私はさっぱり知識がないので判らんですたい、、、)
ふと思ったのですが、戦闘開始位置はどうなるんですかね?
騎射 OK の距離なのか、体を掴み合える距離なのか。
話しの流れからすると、騎射 OK なんでしょうけど。
>>9で既に結論が出ています。
このスレは終了しました。
166 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 18:44:23
>>165 そうかなぁ?
>>9氏のいう
>源平武士…騎乗のまま弓矢を射る。
>戦国武士…戦う時は馬から降りる。馬は逃走用。
端的で良い意見だと思うが、それだけでは結論は出せんと思うぞ。
馬から降りた戦国武士は馬の陰に隠れたり。楯や竹束の陰に隠れて矢が尽きるのを
折敷いてじっと待てばいいだけでしょ。鉄砲相手だと思えばどうって事無い。
源平が突撃してきたら手槍で突きながら逃げる。そしてまた陰に隠れ投石する。
大鎧なんか着てたらそのうちバテるさ。w
うそっぽいけど実際に似た様な事をやっちゃたヤツがいる。
>>81の言う前田ひょっとこ斎慶次郎だ。
慶次郎が上杉の家臣と甲冑着用で試合ったさい「紙製具足」を着て戦った。
身軽な慶次郎はw逃げ回り、そうとは知らぬ相手はバテてしまったとさ・・・という話。(ほんまかいな?)
まあ冗談はさておき楯に隠れた敵はやっかいだろう。
タダの静止騎射では正面攻撃のみなので、堅い敵のディフェンスを崩すには馳射が必要。
もし一般の源平武者が流鏑馬技術を使えたなら擦れ違いざまに楯の側面よりピンポイントに強弓が放たれる。
そういうシミュレーションを検証するためには
>>89以降のレスは重要。
・・・と、いうわけで『シミュレーション 源平武者 VS 戦国武将』第二弾だれか続けてw!
>大鎧なんか着てたらそのうちバテるさ。w
確かに、14世紀になると下馬して戦われる事態が増えた為に、大鎧から
胴丸や腹巻への転換が進みましたね。重代の品は別ですが。
そもそも、戦国時代の長さと源平というのが・・・
いや、それ以前に何故治承〜寿永の頃と書かなかったのかと。
どうも基本的に武士ってものは、戦闘補助者がいて初めて万全に戦えるものらしいですが、
それを無視してタイマンと言う設定はあまり意味がないような気がしますが。
まあ暇つぶしの話題にはいいのでしょうか。所詮は2チャンですしね。
言い方はよくないと思われますが、戦闘補助者抜きでは意味が無いというの
は、全くその通りです。個人同士なら、個人差が大きい。
私は、単に比較スレとして見ていますが。或いは武士文化スレ。
>>169 そんなことはないぞ
山鹿流軍学だって赤穂浪士が使わなかったらタダの机上の空論で終わってたし。
ナポレオンだって時代がずれてたらタダの軍記物好きの将校で終わっていた。
歴史のifも基本考証をつめれば実戦のifの役に立つ!(と、思うぞ)
どうせ2ちゃんなんだから楽しいスレで遊んだ方が得だろw
見当違いのレスですな。
つーか、実戦って・・・何よ?
大鎧は重くないお
体力も落ちないお
あれは馬に乗ることが前提の鎧だお
ただ、肩が凝るかもしれないお
馬は死んじゃうかもしれないお
今川の場合は雑兵が御輿を投げ出して逃げちゃうんだお
治承・寿永期の戦で、騎射戦が放棄された(川合説)のではなく、
最初に騎射戦があって、打物(組討)戦に移行するという(近藤説)のが現在の通説。
高橋氏もこの点は近藤説に同意している。
京の流鏑馬は、東国の粗野だけど技術の高い技と、都の洗練された様式などが
統合されて発展したものだと思う。
都風の流鏑馬・笠懸のような儀礼的な騎射術というのは、別に都の武士だけでなく
貴族にも名人は居たし、大和の僧でも高い技術を持つ人々は居た。
後鳥羽院なんかは狩猟ヲタの武芸(笠懸など)名人だし。
>>167 >タダの静止騎射では正面攻撃のみなので、堅い敵のディフェンスを崩すには馳射が必要。
静止射は技術的な優劣から存在するものじゃない。
城郭戦や渡河戦以外でも想像すれば、色々な場面は想定されるんじゃないか?
足場の悪い場所なら静止射になるだろうし。
そういう場所での馬を御する技術というのは、東西武士の格差は大きいと思う。
>もし一般の源平武者が流鏑馬技術を使えたなら擦れ違いざまに楯の側面よりピンポイントに強弓が放たれる。
流鏑馬的な馬を馳せながら左横に射る技術は、戦闘(実戦)における騎射術のほんの一部に
過ぎないと思う。戦場での敵は動く標的。
馬を馳せながら前方の敵には対応できないし、後方の敵にも無理だな。
それに、儀礼的な流鏑馬で強弓は要求されないんじゃない?
パワーよりも、精巧なテクニックって感じがするな。
相撲術が基本の「組討」ってのは、個々のパワーも関係するんじゃないかな。
日頃の実戦経験の差も大きい気がする。
恐怖心は尋常じゃないでしょ。どっちか一方は死ぬんだから。。。
>>173 >大鎧は重くないお 肩が凝るかもしれないお
星兜はかなり重いから肩がすごく凝るかもなw。大鎧の疲労度は検討の余地有りと見たっ!資料ヨロ
>馬は死んじゃうかもしれないお
次は馬にもヨロイを着せときますw でもケツ向ければ10発ぐらいもたないかな?暴れるけどw
>今川の場合は雑兵が御輿を投げ出して逃げちゃうんだお
んだな「お侍は死ぬがの仕事 おらたちは生きるのが仕事」だべさ
>>174 だからー 設定は1対1の「タイマン」だっちゅーのw まあいいや参考にはなるよ。
問題は
@楯の相手に静止騎射で有効かどうか?
A流鏑馬的な馬を馳せながら左横に射る技術は戦闘に有効かどうか?
だと思うがどうだろ?
>戦場での敵は動く標的
これはあまり関係ないと思うよ。「静止して動く的を射つ」「動きながら止まった的を射つ」は
狙撃と突撃射撃の違いかな?射撃や弓射の基本はやはり絶対静止の状態ではないかな?
まあやってみないとわからんのでなんとも言えんがw
ところで近藤氏って人 刀剣○物館にいたの?
>星兜はかなり重いから肩がすごく凝るかもなw。
肩というか、頭というか、首が・・・。普段は従者に持たせました。
旧日本軍の鉄兜ですら、一時間も被り続けていると頭痛がしたそうですよ。
頭が締め付けれる様な痛みが襲って来たとか。
ところで、騎射は真左(?)に限らず、左手正面に向けて射ても・・・。
>最初に騎射戦があって、打物(組討)戦に移行するという(近藤説)
近藤センセは、打物戦≠組討と主張してるってば(
>>89)
ていうか、最初から相手が楯の後ろに隠れちゃったら
それは相手が一騎打ち(馳組)を拒否してるってことだろ。
静止騎射だの、すれ違い様に射るだの、すでに関係ないだろ。
だって、俺がもし楯使うなら、横一列にずらーっと並べて矢防ぎにするもんな。
>>1の趣旨に則ってないから、想定する意味がないんじゃね?
それにしても、一対一で楯突戦をしてるところ想像すると超マヌケだ。
本当に
>>169の言うとおり。
>>176 左手正面は厳しいお
馬の体があるから弓がつっかえちゃうお
大庭の爺さんが「為朝タソの左はやべーお」と言ってるお
ただ、真正面じゃなくても斜め左横くらいは余裕だお
\ /
―騎―
/
上が進行方向だお
これくらいなら余裕だお
右下はぎっくり腰になるかもしれないから止めといた方がいいお
大庭の爺さんは馬手側が弱いって言いたかったんだお
そんなことみんな知ってて苦笑いだったお
>>178 知ってることと、できることは全くレベルの違う話ですぜ。
>>177 >最初から相手が楯の後ろに隠れちゃったらそれは相手が一騎打ちを拒否してるってことだろ。
いや、遮蔽物に隠れて敵が崩れるのを待つ「戦術としての1例」です。
相手の火力の方が強いのに、こっちから特攻かけたら旅順戦になっちゃうでしょw
攻め気の強い敵には、こちらから攻めずじっと亀になって機を窺う。兵法にいう「渡を越す」というやりかただね。
かかって来なけりゃ挑発すりゃいいでしょw
たしかに楯を横一列に並べて矢防ぎにするという西部戦線方式も一案だが、それだけでは簡単に馬圧で
突破されそうなので、何か馬防装置が必要。槍襖も塹壕も柵も一人じゃ無理。
>>9の設定で、手元で一番使えそうなのがたまたま馬体と竹束ぐらいではないかという想像したまで。
地形、天候、時刻、植物相によってはいくらでも防げる方法は有ると思うぞ。
>>175 俺が武士論好きで、その延長線上にあるのが高橋・近藤氏など、この分野の研究って事で。
馬に乗った事も、弓を射た事も無いよwレスは両氏の著作から。
シニア、高校で硬式野球経験はあるが・・・
あと、怪我で断念するまで少々ボクシングをやってたが、こっちの方が近いかも。
動きの制約(自由度みたいな)が少ないし、格闘技中で最も技術重視の競技だし。
命のやり取りをする戦闘と、スポーツとで比較は出来ないが。
想像する題材の一つにはなるだろう。戦マニア学者・近藤氏はアスリートだしなw
@馬体を横に見せると、敵に馬を射られてしまう。
Aそういえば流鏑馬的な馳射も、敵から馬体を大きく見せている事にもなるかも?
山や森の戦では流鏑馬的な馳射は使えない感じ。
>戦場での敵は動く標的
この部分は静止射の事じゃなく、馬を馳せながら弓を射る追物射的な前方射の事ね。
立鞍で左腰を前に捻った前傾姿勢で射られる騎射術。『前九年合戦絵巻』の義家とか。
>>177 騎射戦から組討戦に移行する場合もあるようだ。打物戦(太刀)で決着が付く場合もある。
治承・寿永期の一騎打ちは、首を取るという目的の組討に代表されるようだ。
短刀は逆手(小指を刀身寄り)に握る(近藤氏)。
182 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 05:00:47
戦国でも馬上戦闘とかはあったが…大阪の陣で真田幸村が築城した真田丸の原型は武田側が騎馬攻撃をかけやすいように築城した城が原型だが…戦国では重騎兵や装甲騎兵としてではなく軽騎兵や槍騎兵として使われたのでは?
>>181 >騎射戦から組討戦に移行する場合もあるようだ。
俺もあると思う、飛び道具の撃ち合いの時は横方向に広がることによって
被害を分散させ、広範囲から攻撃する陣立てもある。
でもこれは「薄く広い」ので根性ある敵には中央突破されることがある。(「三方ヶ原の魚鱗vs鶴翼の陣」みたいに)
自陣に入り込まれた敵に対して弓は撃てないし長刀も振り回せない。同士討ちになる。
まだ槍は使用されていない。・・・そうなりゃ組討戦じゃん?無理?
近藤氏の二つの著作は、東西武士の強弱の比較などでなく、『平家物語』などの戦闘描写を
マニアックに考察している。この分野ではマニア過ぎて独壇場っぽいが。
川合氏が根拠とする「三浦真光」の故実も『平家物語』から。
俺が今までにレスした、古代東北蝦夷の騎射技術の高さ、(坂東における)地力救済の世界、
坂東発祥の軍事貴族、貴族にも武芸達人、みたいのは中世武士論的見解でカキコした内容。
>>183 川を挟んで両軍が、横方向に対峙して矢戦を展開し戦闘開始、
源平(治承・寿永)期の戦にはかなり多いよな。
首を取り合う一騎打ちである組討は、戦闘の勝敗が決してから多く行われたようだ。
度胸が必要な突撃戦法でもあるな。
でも、この時代の合戦=一騎打ちという事ではない。
固い話が続いておるのう。皆の衆ひとつ息抜きにどうじゃw
【シミュレーション源平武者vs戦国武士】
『新!戦国夢想−義経の野望』 豪華キャストで送る夢の饗宴!?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
[登場人物・得意技] [人物紹介]
【源平武者】
源 義経 [騎馬] ゲリラ戦術の達人。剣術。軽業。も強い。戦術は結構卑怯・・・弓もイマイチかも・・・
平 教経 [組討] 平家最強の猛将。中国四国を平定。木曾軍をも撃破。義経「八艘とび」は教経の組討から逃げ回ったため。
鎮西八郎為朝 [弓] 人体をも貫通する無敵の強弓三人張り。 老後は温泉めぐりか沖縄で暮らす予定
那須与一 [弓] 飛ぶ鳥を射落とす名手。人使いの荒い上司が頭痛のタネ。
熊谷直実 [組討] 直情径行、単純明快、支離滅裂。気も荒いが情にも厚い愛すべき板東武者w
巴御前 [組討] 組討では歴戦の武者もねじ伏せる女傑。髪を掴んだりすると「卑怯者!」と怒られるので注意。
【戦国武士】
上杉謙信 [騎馬・剣] その強さは神がかり。でも・・・飲み過ぎには注意。
上泉信綱 [剣・鑓] 映画「七人の侍」のモデル。二代目ト伝と言われたまさしく剣聖。結局浪人暮らしだったが・・・・
塚原卜伝 [剣] 日本中の戦場を巡り生涯不敗。冷酷非情。剣の門閥では史上最強かも。
高坂弾正 [鑓?] 百姓からたたき上げの武田四臣に。甲州乱波の元締?「兵法知らずとも戦では事足りるわい」。
前田慶次郎[騎馬・鑓] 槍も組討も一騎打ちもこなす。派手好き個人プレーは最強。・・・協調性は皆無w
これがゲーム化されたら第二の「電車男」になる! かな?
他に希望キャラある?
あ、石は投げないで下さい(笑)
第1ラウンド
源義経 v.s. 上杉謙信
義経「むぅ…この陣容、上杉とやら只者ではないな」
弁慶「殿!上杉より使者が参りました」
義経「何と申しておる、読んで聞かせよ」
弁慶「なになに…何と一騎討ちを所望しておりまする」
義経「な、なに?よかろう、お受けいたそう」
弁慶「そ、それが…」
義経「弁慶、私が負けよう筈がないではないか!」
弁慶「い、いや、しかしでござる…」
義経「くどいわ、男が一度言ったことは曲げられん!」
弁慶「はぁ…上杉謙信と申す者、背は天まで届く大男、髭は伸び放題、獣の匂いがし、
目は吊り上り、口は耳まで裂けていまする、とても太刀打ち出来ませぬ」
義経「…まるで化け物じゃな、だが弁慶、お前もあまり変わりないではないか」
弁慶「(カッチーン)よいのでござりまするな!弁慶知りませぬぞ!」
義経「よいと申しておるに。全く情けない奴よ」
弁慶「では、文の全文を読みまする、知りませぬぞ。」
は〜い謙信です!この季節独りは寒いよね。越後はもうすぐ冬、こんな季節に合戦なんか
やってられないよね。だから一騎討ちで勝負決めよう。うふふ。勝負は簡単。アタイと義経様が
まぐあって子供が生まれれば義経様の勝ち、生まれなかったらアタイの勝ち。じゃあ、楽しみにしてるね けんしん
義経「べべべべ弁慶!何じゃこりゃ、いかん、いかんよこれは」
弁慶「お受け致すとは殿が言ったことでござる」
義経「いやいやいやいや、ちょっと待てって。まず冷静になろう、な?」
弁慶「いやでござる!一騎討ちして頂かねば道理が通りませぬ!」
義経「ちょっと待ってよ〜、俺源氏の御曹司よ、こんなことするために生まれてきたんじゃないって〜」
弁慶「言い訳見苦しい!さっさと準備して下され」
義経「何?もう既定路線なの?まず話合わない?一騎討ちってもっとさ…」
弁慶「実は謙信殿、もう参っておりまする!」
義経「おい、それは無いだろ、あんまりじゃ」
謙信「お今晩は!謙信でーす、あら可愛い坊やだこと」
義経「 !!!! 」
>>186 >>187 こら〜!そっちに走るかっww スレタイ違反で切腹じゃ!!
・・・でも牛若vs謙信だったらヤバかったかもw
と言う訳で【シミュレーション源平武者vs戦国武士】は18禁ゲームとなりました。
衆道とは死ぬことと見つけたり(笑)〜終了〜
第1ラウンド
源義経 v.s. 上杉謙信
義経「な、なんじゃあれは?」
弁慶「何やらグルグルと回っておりまするな…」
義経「あ、あれが…上杉謙信であるか?」
弁慶「はぁ…何やら滑稽でありまするな」
義経「油断するでない!おいお前、回ってないで掛かって参れ!」
謙信「車掛りの陣だお(*^ω^)」
義経「何?車掛りの陣だと?弁慶、何じゃそれは」
弁慶「さあ、存じませぬがよくよく見れば隙がありませぬな」
義経「…うむ、恐ろしき戦法よ」
謙信「目が回ってきたお(*^ω^)」
義経「今が勝機!源九郎義経参る!」
謙信「今だお(*^ω^)キラーン ⊂二二二(*^ω^)二⊃ ブーン 」
義経「 !!!!! 」
上杉謙信の勝ち!!!
>>188 いや、「謙信女性説」スレの住民かもしれん。
>>185のせいで一気にクソスレと化した訳だが…。
こうなったら山野野衾さんが仮想戦記を書くしかないな。
元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦に向かっていた源義経軍5000余
人は、突然奇妙な「揺れ」に襲われ、天文11年(1542)に飛ばされる。
周囲の異変を察知し、上陸箇所の住民の話から時代と状況を聞き知った義経は、
周防国山口へと兵を向けた。
異形の兵が出現し、しかも率いているのがあの義経と聞き、唖然とする周辺
住民を尻目に、大内義隆不在の山口は、あっさり陥落する。
義隆はこの時月山富田城を攻めていて不在であり、撤兵にとまどっていたと
ころを尼子に突かれ、あえない最後を遂げる。
東で毛利元就を従えて尼子と、西で大内・大友と戦った義経は両者を下す事
に成功するが、上洛直後、織田・武田・上杉連合軍の陰が・・・。
志茂田先生なら、このネタで5巻はもたせるでしょうが、私は無理です。
馬鹿話は止めて、戦国期の豆知識でも語りましょう(w
山野め、かぶきおったな
ところで源平の騎射がオッケーなら武田の投石戦法もオッケーだよな?
タイマンで投石してもなぁ。意味ないと思う。
あれは、布で石をくるんで、回転させて、
つかんでる布の端を放して石を投げるんだろ?
数百の人間が集団でやれば、よけるスペースがないほどの、
石の雨状態だろうけど、一人でやっても、
投石の命中率なんか弓に比べりゃ低いもんだろう。
武田に「水股衆」という投石隊があったが・・・布ではなく竹製だった気がするが?誰か詳細知らん?
飛礫 印地打 は鉄砲、槍、に次ぐ強力な兵器。当たるとかなりの威力だよ。
野球のボールですらヘルメットかち割るだろ。
甲冑にはクッションが無いので、当たり所によっては脳震とう、骨折で落馬だね。
印地打ちは、源行家を襲った刺客や法住寺合戦の時に後白川院に味方した下
賤の輩が使用していましたが、正規の武士の手段とはまた違うのでは。
家康が幼時に石合戦を見ていたという話が、どこから出て来たものか知りま
せんが、近世の史料で祭としての印地打ちを見た場合でも、主に民間で行わ
れていたもので、修練されたのは、柔・鑓・剣(居合含む)・弓・馬など。
武田の水股衆も、多分騎乗資格も持てない卒族レベルの面々では。
水股者の本職はたしか工兵隊だったような気がする(ムカデ戦旗かなw)
弓・槍等を持たない彼等の主兵装が投石だったのでは?まあ想像ですがね。
身分はメチャ低いっすねw 印地は「河原者の芸」みたいなイメージも有ったかも。
農兵・下級武士なら印地打ちは当然やってたとおもいます。
上級武士は独自の投擲武器(打ち根・大型手裏剣・投げ鉈等)を持っていますが、
これは一般的なのかちょっと不明。
モノによっては兜を割ったとか数十メートル飛んで命中とか威力はかなりあるみたいです。
あとは・・・投げ槍?
↑あ、ごめん。修正。
「馬上から投げた」とは書いてあったけど、上級武士かどうかは判らんなw
>河原者の芸
行っていたのは、
『小右記』→山僧・日吉神人 『栄華物語』→後中書王の下人
『中右記』→京中の下人・殿上人の従者 『百練抄』→遊手浮食の輩
『平家物語』→いふかひなき辻冠者原、乞食法師ども
白川辺りには、特に多かった。14世紀以降、悪党の戦術として目立ちます。
中原厚氏が、『甲斐路』19号に武田の論考を寄せられたそうですが、未見。
弓や馬の鍛錬ならまだしも、正規の武士がやったとは考え難い。
「工兵」系なら、武士とも言い難い連中では無いでしょうか。
鑓を投げる行為は、犬鑓として忌まれました。文字通り投槍な行いです。
打ち根というのは、時代劇ではよく投げられますが、実際には安定感が無く、
そうそう当てられるものではない。
手裏剣の所持は初耳ですが、所謂乱波の類は一個だけ所持して逃げる様に敵
に投げつけたという話も、以前聞きました。
>>196 >修練されたのは、柔・鑓・剣(居合含む)・弓・馬など。
武士に修練されたのは、です。ここのところ、自分にはわかっているからと、
主語を抜いてしまう事が多い。気をつけます。
むむむ・・・さすが山野氏、きびしい突っ込みっスね。そこまで考えてなかった(笑)
たしかに白川の印地とかは鬼一法眼の手下として徒党を組んでますので投石部隊というより
悪党のはしりみたいなものでしょうか?。やはり山岳僧、神人、無宿人系列。
いわゆるカワタ・サンカ・ラッパに繋がる道の輩なのかな?
そのへんの解説はお願いします(笑)
下級武士・郷士なら印地は各農村で子供の頃からやってるはずなのでテクニックは
あると思います。合戦では弓・槍・鉄砲が手元にあるので正規には使わないでしょうけど。
上級武士は・・・家康と一緒で見てるだけかな。
「打ち根(手突矢)」は太平記に出てくる「太矢」の事らしでいす。結構活躍しているみたい。
(太平記読んだこと無いので未確認 w)
乱波の手裏剣については「車剣」か「短刀打ち物」の事だと推察します。
武芸者の打つ「棒手裏剣」は『回転させない』ために大変な修行が必要だし
間合いが半歩(30cm)も狂ったら棒剣は刺さりません。
間合いが測りにくい暗闇や暗殺、とっさに投げる場合は車剣を使いました。
ただ車剣の類はかさばるので携帯はせいぜい1,2個、普段は棒剣を携帯しました。
現在では宮本武蔵、柳生、神道流等剣術系は手裏剣。日置流等弓術系は打ち根を伝承しています。
「投げ槍」については分かりません「印地槍」なる言葉は有るのですがインチキくさいので保留。
でも「槍折れ」術・・・所謂「半棒術」等で折れた穂先はひょっとしたら投げてたかも・・・w
日置流の打根術は弓の先端に刃物を付けて槍のように扱う打撃術だったかと。
あと、鏃の付いた矢を直接手に持って刺しに行くとか。
日置流弓術は歩兵の弓術と聞いたことがあります。障害物に隠れて射撃が出来るので
源平の重弓騎兵ともいい勝負が出来るのではないでしょうか。
投槍といえば「天草の投槍」ですね。加藤清正公と一騎討ちしたのは誰でしたっけ。
>>201 鬼一法眼の例がどの話を指しておいでなのか分りかねますが(申し訳ない)、
網野善彦氏は、都市民というよりは非農業民の技であると主張されました。
もっとも、非農業民を主張されるのは、この先生の癖の様なもので、どうも
非農業民に特化される必要は無さそうであったので、省きましたが。
下級武士というか、騎乗資格も持たない手合いであれば、京都在住の者でも
慣れていただろうと思います。貴族の従者はよくやっていますから。
『年中行事絵巻』にも描かれており、珍しいものではありません。
>(太平記読んだこと無いので未確認 w)
『太平記』巻15「正月廿七日京かせんの事」ですか(神田本による)。
妙観院の因幡竪者全村という悪僧が、「箆の太さはよのつねの人のひきめが
らにするほどなる三年竹をもぎ付におしけづりて長船打の鏃の五分のみ程な
るをはずもと迄中子を打どをしにしてねぢすげくつ巻のうへを琴のをを以て
ねたまきに巻て卅六さしたる大矢をもりの如くに負なし態弓をはもたさりけ
る手つぎにせんが為也けり」と紹介されていますね。
(なお、本文は片・平仮名混じりを平仮名で統一しました)
弓で射る事も出来たもので、変わった使い方ですが、櫓の板を貫通して蔭に
いた鎧武者の体を貫いています。
矢羽の描写が無いのが不審ですが、まず普通の矢を変わった使用法と見る他
無いでしょう。手突矢が出来たのは、近世になってからではありませんか。
好事家が作らせたものだと聞きましたが。駕籠に付いていた例もある。
戦国期には、打矢と言って、紐を付けて手で投げるものも開発されていまし
たが、どこまで威力を発揮したものやら(笑)。
>障害物に隠れて射撃が出来るので
悪く言えば「こそこそ隠れて射る」事は、南北朝以降流行しましたからね。
総体的な戦術を言えば、当然戦国武士や日置流の方が発達しています。
真正面からいちいち矢で狙う時代は、効率が悪い。
>天草の投槍
これにはとりあえず心当たりがありませんが、貴方もお忘れになられた事で
したら、私も調べさせて頂きたいと存じます。・・・来年春までには。
>>203 おおっこれが「打ち根」の記述ですか?初めて知ったwサンクスです。
なんか驚異的な破壊力ですな〜(笑)
個人的経験では打ち物系は「重さ」「形状・長さ」「飛ばした距離」で
だいたいの威力と間合いが決まります。大きさに比例して威力も増大します。
>戦国期には、打矢と言って『紐を付けて』手で投げる・・・
この場合『紐』が矢羽の代わりとなります。また『打ち込んですぐ回収するため』でもあるとかw
よくサーカスの「投げナイフ」でグリップの後ろにハンカチを巻いて投げてますが
ハンカチが抵抗となり結果、打ち物の縦回転を抑え、常に剣先が前方を向き易くなると言います。
でもこの場合質量自体が重いので矢羽・紐は無くても無問題ですね。
銛がまっすぐ飛ぶのと一緒ですな・・・たぶんw
>鬼一法眼の例がどの話を指しておいでなのか分りかねますが
元ネタはコレですが資料的価値は不明ですw
【某HPより勝手にコピぺ】『義経記』・・・怒った法眼は、妹婿で白川の印地の大将である湛海に命じ、
義経を五条天神で待ち伏せし殺そうとした。しかし逆に湛海ら一党は義経に斬り殺されてしまう・・・
「斬らせばやと思ふ。其の頃北白河に世に越えたる者有り。法眼には妹婿なり。しかも弟子なり。
名をば湛海坊とぞ申しける。・・・太刀を抜き待ち給ふ所に湛海こそ出で来たれ。
究竟の者五六人に服巻着せて・・・我が身は聞こゆる印地の大将なり」
あれっ?弁慶はw
>>202 武器術に詳しい人が居てありがたいです。
清正公は林崎流の居合を槍の補助技術として取り入れた武将ですね。
ちと結果が楽しみです。
ああ、『義経記』にそんな記述があったのを、今思い出しました。
ありがとうございます。
武蔵坊が出て来るのは、この後であった筈です。
因みに、戦った場所は、五条天神と清水寺の辺りで、橋上ではありません。
なお、『義経記』は14世紀に成立したもので、大鎧よりも腹巻の使用例が
多く、ゲリラめいた戦闘法が行われていますね。
騎射を行う武士が、下人の矢にやられる様な戦法上の下克上が見られます。
『太平記』の矢は、後世の打ち根とは違う様ですから、とりあえず近藤好和
先生に習って「手突きの矢」とカッコ付きで呼びたいと思います。
しかし、打矢というのは回収し易いのは結構ですが、戦場で余り使える様に
は見えませんね。『日葡辞書』には鉄製とありますから、何度か使う事を意識
していたのでしょうが。仕事人の武器ですね、これは(w
>服巻着せて
腹巻の誤字だと思われます。胴丸同様、徒歩に有利な鎧。
南北朝時代になってゲリラ戦が横行する様になると、大鎧より重宝されました。
>>202 >打根術は弓の先端に刃物を付けて槍のように扱う
>>203 >駕籠に付いていた例もある
ちょっと気になったので検索してみました(今頃・・・w) まあ、参考までに
日置流印西派摂津系HP 《由美ごころ》 様より一部抜粋
http://homepage2.nifty.com/insai/uchine.htm 『打根術(うちねじゅつ)』
{・・・打根とは、長さ45センチから60センチぐらいの矢の形をした物で、
先には手槍の矛先のようなものをつけおります。
そのため、一見するとどのようにして使うものか、理解しにくいものですが、
弓に結びつければ槍として、また、打根のみでも小刀・手裏剣・鎖と様々な用途に
臨機応変の武器として、間合いに応じて変幻自在に戦うことができるのです。
さらに、目立たず、かさばらず、どこにでもそっと忍ばせておくことができるため、
慶長の頃、諸大名の参勤交代や旅行に駕籠(かご)が用いられるときは、
非常時の備えとして、打根を駕籠の片隅に立てて乗ったと云われております。
維新後は文献と打根のみが残り、打根術を実演できる者はなく、
幻の武術として弓道家に伝えられてきただけでした。 −−略}
>駕籠に付いていた例もある
やはり抜刀のままならない駕籠の中でのとっさの「手槍」としての使用例と思われます。
「鎖」の表記もあることから、この時期は長い紐付きであったと推定されます。
(太平記の「手突きの矢」は36本?という本数からして絡まるので紐付きとは考えにくい)
慶長には既に広まってる様なので成立時期は・・・戦国末?〜江戸期でしょうか?
・・・まあ、たしかに一般的兵器ではないようですなw
209 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:37:43
おお、話が進んでる!ってことでアゲときます
打ち根については、また調べておくとして、『貞丈雑記』巻之十に、
一【手突の矢】手突矢と云う物あり。惣体、矢の如くこしらえて、弓にはは
げず、手に持ちて投げづきに突く物なり。たとえば、今の世の手離剣と云う
物の如し。手に持ちてなげづきにする故「射る」といわずして、「突く」と云
うなり。・・・とあります。
これに続けて、『太平記』の例が挙げられていますが、同一とするのは貞丈
の想像であり、彼が述べている内容は、あくまでも近世の武器のものです。
『太平記』の矢が、最初から手突専用だったかというと、疑問なしとしません。
確か、弓に刃物の穂を付けて武器にした例もありましたね。
有職故実を専門としていた貞丈が「今の世」と述べているからには、「手離剣」
というものが、比較的最近、せいぜい17世紀を遡らない時期に出来たも
のだという認識が存在していたのでしょう。
212 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 08:39:20
age
213 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 13:47:07
>>210 なるほど「手に持ちてなげづきにする故突くと云うなり」ですか。
いやー勉強になります。武芸に関してこういうアプローチ方法があったとは。
弓は専門外なので詳しくは知りませんが、弓に刃物の穂を付けた武器
というと『ハズ槍』(筈槍?かな)『弓鉾』と呼ばれるもですかね。
検索したらこんなのも出ました
拵弓・・・弓弭に槍の穂先のような小型のものを取り付けた弓。槍としても用いられる
穂先も袋槍方式(キャップ式はめ込み型の鉾金)なら後付けも出来るらしいです。
この時代の弓は太くてでかいので槍や棒の代わりとして十分使えたはず。
馬上から杖代わりに突いたり飛び降りたりもしました。
>「手離剣」というものが、比較的最近、せいぜい17世紀を遡らない時期に出来た
と、いうのは打ち方から推察しておそらく剣術家が身に付けていた
棒手裏剣のことだと思います。現代残っている手裏剣・打針術は多くが
江戸期〜幕末頃の剣術家による成立です。
神道流・堤宝山流の様なもっと古い流派にも有りますが・・・これはちと保留・・・
「手離剣」術が一般化、体系化されたのはたしかに17C前後だと思います。
手裏剣形投擲武器自体は合戦または特殊任務用にもう少し古くから有る気がします。
たぶんその人一代の芸か、ラッパの武器として流派としては成立せず
戦国乱世の終焉とともに消えてしまったのでしょう。
>>213 そうです、弭槍です。今思い出しました。どうもすみません。
投擲武器というも、形状が豊富でなかなか面白い。
来年になったら、もう少し調べてみたいと思います。
215 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 12:19:21
お疲れさまです!また来年お会いしましょう。
216 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:26:34
亀レスですが騎射を扱ってるHPありましたw やはり専門家は充実している。
《武田流弓馬道公式HP》
ttp://www.yabusame.jp/y_history.html より一部抜粋
『騎射の射法』
一、【追様・真向】 正面に逃れるものを追いながら射る。
二、【弓手横】 左横を射る。流鏑馬、笠懸に用いる。
三、【妻手切れ・妻手筋違】 斜め右を射る。
四、【弓手切れ・弓手筋違】 斜め左を射る。
五、【月影】 斜め左後方を射る。
六、【袖返し】 斜め左後方を射る。
七、【押捩り】 左後方(真後)を射る。
【流鏑馬】神事「矢馳馬」の訛化によるもの
【笠懸】【犬追物】弓馬の練習、競技
【馬上槍・薙刀・太刀打ち】 実際に2頭の馬を併走させ、技を掛け打ち合う
【打毬】 鞠(マリ)を竹製の叉手(サデ)というラクロスのスティックの様なもので掬い上げ、
相手方ゴールに投げ込み合う現在のポロに似た競技
騎射の「正面撃ち」は写真が不鮮明なので良く見えなかったのですが、
体を伸ばして(鐙で立ち上がって)打つ形の様に見えます。
これでは鎧のガードが開いてしまうため正面攻撃は難しい、そのため
「逃れるものを追いながら射る」のはそのためではないでしょうか?
まあ・・写真からのの推測だけど・・・
突然ですが。狂言の演目に、『雁礫』というものがあります。
大名が矢をつがえて雁を射ようとしていたところ、下賤の者がやって来て
礫で仕留めてしまうというもので、いざとなれば武器として投げられた時
代が見えてくるものです。
218 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 02:44:33
なーんかこのスレ見ててモヤモヤしてたんだけど、さっきその原因が突然わかったわ。
超帝国の純血の騎士とヘッドライナー(剣聖)、どっちが強いかって議論してたときと似たような
展開だからだわ。
219 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 14:36:23
実際にやって見りゃ1発で判るんだがなw でも、これはこれで勉強にはなったよ。
やはり「使用武器」「防御力」「馬の使用法」が判らんと
『戦術』がたてられないからな。
220 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 14:37:37
このスレは人気がないため終了しました。
221 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 15:49:42
仕方ないな・・・じゃあまた仮想戦記でも書くかw
222 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:06:04
223 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:17:01
結構好きで読んでたのに・・・書き込めるだけの知識がなかったから書けなかったけど。
勝手な希望だが、使用武器などに関しては、これからの話題に関係なく続けて欲しい。
その方が、
>>219が言うような戦術の展開とか厚みがでそうだから
224 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 19:04:27
>>223 いや疑問や思いついた戦術はどんどん書き込んだ方がいいよ。
考証、つっこみは他のヤツがやってくれるw 最近過疎スレぎみだしw
戦術面について言及するまえに、動員兵力の差が違いすぎる。
惣村で武装しはじめる室町期と、
平安末期とじゃ。
>>225 > 戦術面について言及するまえに、動員兵力の差が違いすぎる。
> 惣村で武装しはじめる室町期と、
> 平安末期とじゃ。
さらに戦国末期だと兵農分離がすすんで戦のプロになったから、刀対刀でも戦国武士の方が有利だと思う。
>>226 >さらに戦国末期だと兵農分離がすすんで戦のプロになったから
おめぇ、、マジでそんな珍説信じてるのかよ(笑)
228 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 02:22:39
鉄砲以外で戦国有利な武器ってなんだ?
まあ「槍」は確実だな。これは大鎧、胴丸関係なしの破壊力だな。
あとは・・・何か有ったっけ?w
太刀vs刀は・・・たぶん無いだろw。剣豪スレでもさんざんもめてた
使うとしたら弓・槍の後だな。
雑兵物語とか読むとたまに最初から使うヤツもいたみたいだが・・・
でも想定しても面白いかな、2ちゃんなんだから何でも有りだw
馬
230 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 02:59:46
勇次郎の勝ちと言う事で
231 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 18:30:14
やはりキャラクターとアイテムが判らんと戦術設定は無理だなw 仕方ないテンプレ作るかw
とりあえずこんな感じ。つっこみヨロ(w
【源平武者】
『 身 分 』 道 具 [戦 術]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『 武 士 』 弓・太刀 (熊手?) [騎馬戦・組討]
『 歩 卒 』 弓・太刀・熊手・薙刀・手鉾・印地? [援護・支援]
【戦国武士】
『 身 分 』 道 具 [戦 術]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『 武 士 』 弓・槍・刀剣・薙刀・棒・ [歩射戦・刀槍組討]
『 雑 兵 』 弓(弭槍)・大槍・刀・投石 [歩射戦・刀槍・逃亡w]
232 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:45:13
まず、どのレベルの武士がタイマン張るのか決めない?
源平武者も戦と武の専門家から兵農一体もいる
戦国は個人戦力での武勇がいらない大名クラスから兵農一体どころか出稼ぎレベルもいる
提案としては、源平は名乗りを上げられる馬上兵クラス
戦国は三河時代の本田忠勝とか実戦込みの部隊長クラスあたり
233 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:50:19
やはり単純に武装が強力なのは戦国の『足軽・雑兵』かなwただ防具は軽装で貧弱。
そのためヤバくなると逃げ足は速いw
騎馬vs騎馬なら熊手・鎌等の「引っかけ落とす」武器があった方がいいね。
戦国期なら「鎌槍・鍵槍・十文字槍」がこれに相当する。武器としては熊手より
はるかに強力だし技も多彩だ。ある程度の武士なら使いこなせる。
234 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 23:45:11
三国史の呂布は騎射の名手で「戟(鎌槍みたいな武器)」を使ってたというのでやはり
「引っかけられる」武器は欲しい。
平安・源平期なら「鉞(まさかり)」も引き落とし技につかえるかな?
歩卒が持ってるけど・・・でも騎馬相手に使ったという話は聞かんなw
とりあえず「鉞」の説明
【竹中工務店HP ○大工道具考(爆w】より一部抜粋
>刃先幅が狭いオノを斧(別名与岐ヨキ)と書き、これより刃先幅の広いオノをマサカリ(鉞)と呼んでいます。
>古来雷神はその手に鉞を待つとされました金太郎(坂田金時)が赤い身体で鉞を持つ姿は、
>雷神の子の象徴であり力を持っている・・・
>中国では天子が諸僕を一軍の将に任ずる時、大きな斧を与えてその印としていた
斧は武器としての信仰の対象でもあった様だ。
熊手・鉞が出て来るのは、13世紀後半からだと思っておりましたが、源平
期にも出ていましたか。騎乗者が熊手で敵の騎乗者を馬から落そうとしてい
る様子は、『春日権現験記絵』に出て来ますね。>1304年成立
馬上で長柄が使用された例の初見です。長刀も出て来る。
なお、余談ながら現存する中世の鉞は全て山伏の使用した宗教の道具です。
『前九年合戦絵巻』にも、熊手で騎乗者を引き落とそうとする様子が描かれ
ています。こちらも、成立は十三世紀の末。
祖本の成立は13世紀初頭まで遡る可能性が高く、鎧なども古風に描かれ
ていますから、或いは熊手もその頃からのものかもしれませんが。
↑絵画史料に熊手が登場する最初であろうと思います。文章は見逃してい
たかもしれません。
238 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 03:03:55
鉞が出て来るのは13世紀だったんですかw 失礼しました。
金太郎が使ってるのでなんとなく源頼光の頃には有ったのだろうとw
山伏の鉞についてはそそりますねw どういう使い方をしたのでしょうか?
それでは「薙鎌」なんてどうでしょ。ただ絵巻とかで使っているの見た事無いけどw
あと水軍が舟寄鎌・袖絡み(やがらもがらだっけ?)等を使ってますが年代は不明。
>237
状況次第で、力比べの一騎打ちといきなりもつれこんだ例もあります。
(例:平家物語の巴は、相手の意図を悟り、矢を下ろして待ち構えて、その
まま組打ちに持ち込んで勝負をつけている。描写は本ごとに異なりますが)
『平家物語』では、時代が下った本(延慶→長門→四部合戦状本)ほど、組打
ちの出る率が高く、騎射の影が薄くなっている様ですが、これは騎射を専
門的に行える武士以外の参戦も増加したためだとも言う。
戦国期の、という事であれば、また異なったかもしれませんが、何を参考
にそう判断されたのでしょうね。『常山紀談』という時代の下る本の中には、
大坂の陣では組打ちは滅多に無かったと出ていますが、いかなる状況によ
るものであったのかは、不明瞭です。
>238
失礼、>235で馬から引き落とす道具として引用した熊手ですが、古態を
留めているものとされる延慶本『平家物語』に出ていました。
川底に大綱・小綱が張られ、乱杭・逆茂木が投げ込まれていたものを、熊手
を持ち、腰に鎌を挿した水練の上手が撤去する場面があった。
延慶本も、名前の通り時代は下りますが、原『平家物語』の痕跡を留めている
様ですので、『前九年絵巻』の事も考えると、もう出ていたか。
薙鎌は、『源平盛衰記』や『義経記』に登場しています。
成立は、どちらも14世紀頃とする説が有力。
時代が下って南北朝に近づくほど、太刀と弓矢以外のトリッキーな武器が使
用される様になりますね。
>山伏の鉞
『梁塵秘抄』巻二や職人歌合に出て来るものですが、宗教的な象徴でもあった
他、当然儀礼の場を整えるなどの用途に使用されたのでしょう。
240 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:20:58
で、どっちが強いんだよ?タイマンなら一対一だし刀槍類のみでいいだろ?
ちなみに武士なんだから剣豪でも有りなわけだな?
ならやはり柳生さんや上泉さんや塚原さんのいる戦国が勝ちでFAですかね?
241 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:23:02
>>237 >矢が尽き、弾が尽き、太刀が折れて、柔術組み打ちに至るのであるが・・・
↑いや、俺も1冊持ってるけど大東流西郷派の先生はこういうおおげさな
書き方するんだよw 実戦の心得というよりこの人、個人の哲学だな。
でも合気系武道家の中ではわりと泥臭くて好きな方だけどな。
あと、これはちょっとマジで聞きたいが西郷派の「殺法」って初めて読んだのだが
高橋華王先生の合気拳法と、だいぶ技がかぶってる様だが
どっちが元ネタなの?それとも同門?
>>240 柳生流だけの名人はそんなに強くないぞ
もちろん、名人クラスの使い以外でやれば無敵だろうけど
それと対重層甲冑の剣法では無いから剣術の名人というだけでは参考にはなり難い
源平時代にも薙刀から太刀から柔術からの総合流派が起こってるし
243 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 23:09:25
>>243 >『昔、源義経は柳の枝を切って、八断したがまだ水に墜ちなかった』とあ
る。
江戸時代の伝承でしょう。史実として見るに値しません。
『平治物語』に打ち物の稽古をしたとありますが、実態は不詳。
飯塚以前の当時の剣が、どの程度まで体系化されたものであったのか分かり
ません。
>さらに「平教経」はその義経も恐れた組討の達人。
『平家物語』では、壇ノ浦で矢を射、射尽くしたら長刀・太刀を使い、それ
らが使い物にならなくなったら、敵の武器を使っていますね。
「組討の達人」というのは、何に書いてあるのでしょうか。
(『平家物語』も、当時の戦法をうかがい知る事が出来るとはいえ、個人の
事跡は必ずしも信用出来るというものではない)
>「巴御前」は馬上組打で豪傑内田三郎を一瞬で組敷いた。
ソースは、下のリンク先でしょうか。正直、電波臭いですよ。
(軍学者とか武術家というのは、どの時代でも自分の思想の為に歴史を語る
のであって、正しい歴史というのは、初めから埒外にある気がします)
内田云々も、古い史料には出て来ません。『大日本史』は近世の編纂物。
>新羅三郎源義光
笑っておいでですから、わざとでしょうが。箔付けの伝説でしょう。
今昔物語の源宛と平良文の決闘のシーンからして、
弓の射ち合いが源平武者のメインだろう(時代的に、ちょっと源平合戦遡るが)
しかも、両者ともに馬は射ないという素晴らしさ。
大庭景能が吾妻鏡で、鎮西八郎為朝の弓から逃れた講釈からして、
馬の機動力で弓をかわすのは、タイマンでは結構できるのかもしれない。
合戦で、雨のように矢が飛んできたらお手上げだろうが。
為朝の長大な弓は、その長大さからして、合成弓じゃなくて丸木弓の可能性もあるが、
合成弓としても、日本の弓はでかすぎ。長弓もいいところ。
モンゴルやペルシャの弓みたいな、半弓なら、ほぼ全方向に騎射できるが、
日本の弓じゃ、弓手方向に、10時の方向から8時の方向ぐらいしか、
騎射できない。
そうかんがえると、源平武者不利か
246 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 18:31:29
とすると、半弓による「正面騎射攻撃」ということになるのかな。
男らしいぜ兄貴! そうこなくちゃ
ならば源平も弓で応戦だな。敵を正面に置いて大鎧の左肩の射向の袖
を楯として接近し正面10時か2時の方向より横に発射となる・・・かな?
逆に間合いをとって遠距離からの静止射撃なんてどうだろ?
その場合戦国が連射しながら接近することになるな。
できればどっちかが落馬して打ち物戦になった方が話が進むのだがなw
この場合の勝敗のポイントは
「半弓の破壊力と射程距離」(連射でガードの堅い大鎧、長弓に対抗しうるか?)かな?
>>245 『平治物語』に、馬を射る描写が登場しており、『平家物語』にも出て来ます。
『平治物語』及び『源平盛衰記』では、馬を狙う様になった理由は、「平家重
代の(防御性の高い)大鎧だから」、「近年は敵を射るに隙間なければ」とい
う様に、大鎧の防御性の高さによるものらしい。
延慶本『平家物語』と『源平盛衰記』には、三浦の若武者に対して、老武者の
藤平真光が答えて、次の様に述べています。
・延慶本
「昔様」には馬を射る事は無かったが、「先比」からは、まず馬の太腹を射る
ので、徒歩立ちになる様になった。「近代はやうもなく押し並べて組みて、中
に落ちぬれば、太刀・腰刀にて勝負は候也」。
・盛衰記
「昔」は馬を射る事は無かったが、「近年敵の隙間なければ」馬を射て、主を
射落として、しかる後追物射にしている。複数で一人の敵を射る様な事の無い
様に。(中略)敵が大勢いる様なら、相手に組み付いて、腰刀で勝負をせよ」
前者は時代の、後者は状況の変化が組打をもたらすとしています。
なお、いずれも射るなら相手の内甲を射ろと言われている。>大鎧対策
騎射の減少した理由を、技術保有者よりも保有していない者の参戦が増加し
た事に見る論者も存在しています。
それと、戦国期は騎射はもう廃れていたと言っていいのでは。
流鏑馬なども廃れて、享保年間に狩猟を行わせた吉宗が騎射を満足に出来る
武士がいない事に業を煮やし、復元・再興させている(島津家でも別に)。
ところで、戦国期には正規の武士も半弓を使用していたのですか。
蒙古製でも無い限り、我が国で半弓と言えば威力の弱い遊戯用です。
『言継卿記』などに、記主たちが遊んでいたと記されている。
鎌倉時代までには、刀伊や蒙古から得た弓、高麗の漂流船から得た弓が知ら
れていましたが、採用されませんでしたね。
為朝のは大きすぎましたが、大庭景能が奨めた長過ぎない弓というものでも、
標準で221cm。
249 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:03:23
250 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:16:56
半弓は「赤穂浪士」が実戦で使ってますね。あと森鴎外の小説で有名な「阿部一族」(寛永十九年)ですか。
どちらも江戸初期の室内外の戦闘です。古式泳法の伝書には半弓術が有るようですが成立時代は不明。
『南總里見八犬傳』(薬師丸ひろこじゃないよw)でも武器として使われているので江戸期では一般的にも
武器として認識されてたようです。
モンゴルは羊の角ですが日本は竹や鯨で製作しました。威力は接近すれば甲冑は貫通できた・・・みたい?
>>249 九州の『四半的(しはんまと)』だね。【小越の合戦】(永禄11年・日向南部)で使用。竹製。
>島津軍と伊東軍。この合戦においては、伊藤氏の領民達「遊撃隊」が手製の半弓を持参して・・・
>江戸中期には農民一揆を恐れた藩が「正座して射よ」と定め、弱い弓に変えられ距離は四間半と規定。
もう少し調べてみないと判らないけど戦国期の半弓は一般的にはゲリラ戦・忍びの武器だったようです。
ただ戦国は何でもありなので山岳系や水軍系、盗賊あがりの半ゲリラ武士も無視はできないと思います。
>>249 そういえば、民俗行事としても現存していましたね。
近世に描かれた矢場の風景と似ているというと、怒られるかもしれませんが。
>弱い弓に変えられ距離は四間半と規定。
ただ、この辺はただの伝説かもしれません。
民間で祭祀や狩猟用の歩射が中世から行われて来た事は事実ですが。
>>250 武芸には出て来たかもしれませんが、戦闘でというのが気になったものです
から。「正規の武士」といった言い方も、身分・立場を考えてのものです。
>赤穂浪士
>阿部一族
よろしければ、一次史料の提示を願います(メジャーな話なのだから、自分
で探せと言われそうですが)。演劇ネタの可能性もありますので。
『八犬伝』の方は、後日機会を得たいと思います。
おっと、失礼。ありがとうございました。
ただ、武芸系の本やサイトでは、史料と伝承の取捨選択がなされていない事
が多く、基になった一次史料がよく分からないのが残念です。
253 :
245:2006/01/19(木) 02:21:58
どうも舌足らずな文章ですいませんでした。
源平を時代的に遡る源宛の時代は、
馬を射ない素晴らしさってことで、源平武者は馬を射ないという趣旨ではなかったんです。
あと、戦国武者が半弓を使用したというつもりで書いてなくて、
モンゴルやペルシアの弓騎兵のような、オールレンジ攻撃が、
源平武者はできないとの趣旨です。
私が想定していたのは、重装弓騎兵・源平武者と、
重装槍騎兵・戦国武者の一騎打ちです。
イメージとしては、大庭のように、弓をかわせるなら、
速射性能と攻撃方向が狭い、長弓相手なら、
接近して槍の餌食にできるのでは、と思って書いた文章です。
254 :
245:2006/01/19(木) 02:31:41
こんな感じのイメージです。
戦国武者 源平武者
→ ←
で、タイマン開始
戦国武者 源平武者
→ ↑
源平武者、弓の射程に戦国武者を入れるために、方向転換
源平武者
↑
戦国武者
\
戦国武者、源平武者のレンジから逃れつつ距離を縮めるために、源平武者の後方へ斜めに疾走。
255 :
245:2006/01/19(木) 02:39:16
源平武者
\
戦国武者
→
源平武者さらに方向転換するも、方向転換中は、おそらく、騎射できないでしょう。
馬手で手綱をもたずに、馬の方向を変更するの困難だと思われ。馬手が使えないと、弓は引けない。
足からの所作だけで、馬を方向転換させるとしても、その中途での命中率は低いと思われ。
で、戦国武者はさらに、源平武者の後方へ。
源平武者
←
戦国武者
/
同じ要領で
源平武者 戦国武者
/ ↑
256 :
245:2006/01/19(木) 02:42:45
さらに戦国武者、螺旋状に回転しつつ接近
戦国武者
源平武者 \
↓
ついに、接近戦へ
戦国武者
←
\
源平武者
槍炸裂!
で、戦国武者かなと
>245
成る程。個人戦の結果は時の運が強い(徒歩立ちなら戦国有利)だろうと
思っていますが、「図」は楽しませて頂きました(笑)。
258 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 12:53:45
>245
あえて源平の左手側へ回避しながら敵の死角(右後方)へ回り込むという解釈
でいいのかな?
有利なはずの源平側が弓の間合いにこだわって結果的に逃げる形になるのが面白い。
個人戦と言うより合戦の戦術にもこんなの有るんじゃないのかな?
259 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:08:19
>>251うーん「阿部一族」にかんしては森鴎外の小説なのでなんともw・・・スンマソ
>小姓は箙(エビラ)を負ひ半弓を取つて、主の傍に引き添つた。
>高見權右衞門が十文字槍を揮つて働く間、半弓を持つた小姓はいつも槍脇を詰めて
敵を射てゐたが、後には刀を抜いて切つて廻つた。
>天草平九郎と云ふものは主の退口(ノキクチ)を守つて、半弓を以て目に掛かる敵を
実戦例ならこれなんかどうでしょ?結構すごいこだわりサイト・・・
【肥後細川藩拾遺】〈新・肥後細川藩侍帳〉
ttp://www.shinshindoh.com/11-shi.htm 新・肥後細川藩侍帳→ ■志方逸次→ 2半兵衛・元政、之政
>志方半兵衛言上覚(島原の乱における八代勢の働きについての報告書)
>半弓を持て甲首一ッ討取、其外ニ一ッ討取を人奪取候由也(綿考輯録・巻十九)
とりあえず「赤穂浪士」も検索・・・
【宗玄寺エンタープライズ】
〈元禄仇討ちの記録〉
ttp://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/chuushingura/ako2.htm 丹波國宗玄寺に残されている記録。不破数右衛門の曾孫、恵輪が事件60年後に書写。
>内匠殿家来、上野屋敷に捨置候道具之覚
> 一、弓 弐張(内、半弓一張 弦切有之)
・・・とありますね、あと道具については赤穂大石神社から 『実証義士銘々伝』という
のが出てるらしいです。この程度でスマソ・・・
江戸期には室内戦、携帯用の『籠半弓』(李満弓)とかが完成されてます。
各藩にも半弓の専門家が居たみたいです。
三重の小番所の記録に:番士1名.半弓1張.鉄砲2捉・・・となってるのでかなり
必要なら役所の末端までいきわたっていたのではないでしょうか
260 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:12:52
>>260 お手をわずらわせてしまい、申し訳御座いません。
こちらもまた見ておきます。>赤穂関係などを色々と
その内ご報告出来ればよいのですが。
262 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:29:48
ちょっとついでにw
もし誰かご存じでしたら>259の『志方半兵衛』(八代藩→細川藩→宇土藩家老)
について情報をお願いします。
島原の乱に参戦し、宮本武蔵とも関係があったみたい。(有名なの?)
一応、聞き覚えはありますし(武蔵も島原に出ていましたね)、出てきそう
な史料も心当たりがありますが・・・高いんですよ、これが。
残念ながら、少なくとも今月中の購入は無理です。
半弓といっても、日本の弓の製法の半弓だと飛距離も殺傷力もさほどではないと思うが、
これは騎兵も使ったのかな。
つかっていたら、最強のローマ軍を完敗させたパルティアン・ショット戦術を、
日本の戦国武将も使えたんだけど、それは無理かな。
パルティアがローマに勝ったのは、
パルティアが完全に騎兵のみで軍団を編成して、
完全にアウトレンジでローマ重装歩兵と騎兵を殲滅したけど、
パルティアが足手まといの歩兵を引き連れたときは、
常にローマに負けてる。
日本じゃ、騎兵のみの編成なんかありえないだろうしな。
日本の半弓の性能について書かれているものはなんかありますか?
>日本の弓の製法の半弓だと飛距離も殺傷力もさほどではないと思うが、
これは、既にお話しましたが、確かに疑問ですね。
モンゴルや刀伊の弓の威力は日本人を驚かせましたが、影響していない。
日本製の製法(含材料)でどこまで狙えたかと言うと。
>>249の例でも、飛距離・威力ともに今ひとつという気が。
>パルティアン・ショット
一時的に後ろ向きに射た例はありますが、集中運用はしていませんね。
そもそも、仰る通り、騎馬自体の集中運用が期待出来ません。
それに、戦国期には騎射自体が衰えている。
266 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 02:50:34
実戦という意味ではシャクシャインの乱で半弓?に毒矢が使われましたね(笑)
やはり半弓だと戦術的に飛距離が全然足りないみたい。
鉄砲の普及を考えれば分かるけど戦場ではやはり「破壊力」が必要。
ひょっとしたら猟師上がりの連中が山岳ゲリラ戦(忍者・乱破)で使ってたかも。
半弓が武士に重視されるのは甲冑を使わない江戸期以降なのかな〜主に護身用。
李満弓は普段は床の間に飾ってたりしたみたいwいざと言う時はもちろん武器になる
あと、時代や製造国は不明だけど愛媛県大三島の大山祇神社に「鯨鬚張半弓」という
のがあるらしいのだけど・・・これ水軍の奉納品なのかな?
267 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 13:15:26
鎌倉時代に夷弓と呼ばれた北方系の半弓は、飛距離が出る方ですね。
>動物から取れる接着剤
詳しい構造を記した書は未見ですが、膠の事ですか。
刀伊の使用した弓は、日本側の楯を貫通したと、その威力が特筆されていま
す。毒矢は蒙古と蝦夷(ここではアイヌ)のそれが有名。
蒲生氏郷は、九戸政実の際、「夷人」を呼び寄せて毒矢を使わせています。
269 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:56:31
>>267 あ、ごめんシャクシャインはジョークですw
>『貊弓(メックン)』弓柄は3〜5本の牛の肋骨や角を伸ばして作った。
>竹やクヌギも使われた。
267dクス、なるほどな。検索したら「魏書東夷伝、高句麗」に
>好き弓を出す、所謂貊弓これなり。
とあるらしい。なかなかの逸品のようだ。・・・しかしリンク先の
日本文化との比較はいつもながらメチャクチャやな(w
『アイヌ弓』はイチイ(オンコ)の木心を枯らした後、熱して曲げ、弓にした。
イチイは有名な100年戦争イギリス長弓隊の弓と同じ材料だな・・・たぶん。
平安初期の坂上田村麿が奥州「毒矢嶽」で毒矢攻撃を受けたという伝説が
有るらしいので、この当時既に和人との戦術の違いが推察される。
まあ・・・あくまで「伝説」だがw
『モンゴルの弓』はウリヤス(ヤナギ科)を芯にして,牛や鹿、羊の角片を
膠で張り付け強度を増した合板短弓とある。
これは昔NHKの「大モンゴル」だったかな?で実際作ってたな。
日本の半弓、籠弓はここに有った
ttp://www.japaneseweapons.net/yumiya/yumi/index.htm >李満弓の材料は 鯨の髭(歯)・水牛の角、などを
>鯨の髭から作った膠と卵白で接着した。
その他、竹、骨で製作した様だ。飛距離は不明。
できれば戦国期以前の猟師とかが使った弓を知りたいな・・・
たぶん忍者とかもそれ系統だろう・・・な?
多分、日本でも強力な半弓を作ろうと思えば作れたと思う。
原材料も技術もあったと思う。
では、何でそれが主流にならなかったのか、って問題だけど
俺は和弓の方がかっこいいからだと推理してるよ。
んなアホな!って突っ込みきれないところが日本クオリティーだよね。
だから、「そんな美意識だけじゃ飯喰えねーっての」って連中が
半弓を使ってた可能性はある。これが俺様プロファイリングの結論だよ。
俺様?いや、一般人ですけども。本当にありがとうございました。
271 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:28:53
いや、そう言われるとそんな気がしてきた(笑)
魏志倭人伝の時代から日本の長弓っていまだにあのまんまなんだよなw
なぜ日本の武士は夷や蒙古の毒矢を使わないのか?・・・かな。
やはりかっこ悪いからかな〜w
あとはね、和弓は上長下短と言って普通に射るだけじゃ
矢が真っ直ぐ飛ばないんだよね。
ってことはだよ、「うはwwwwww俺様かなり弓ウマスwwwwっうえwwwwうえwwww」
ってことだよね。武士は黙って和弓でドン!ってカンジ?
かっこ悪いと言えば徳川家康が「武田の矢みたいに矢尻を緩く付けるのは
かっこ悪いからウチはしっかりつけよーぜ」みたいなこともあったね。
あいつらの美意識を舐めちゃいかんのかもしれない。
まあ、皆殺しとかあんまりない島国ってのが毒矢があんまり用いられなかった理由かも。
その土地取っちゃったら俺のものだし、みたいな。
肥溜めに日本刀刺しておく肥溜め剣って結構聞くけど…。
>上長下短
『魏志』東夷伝倭人条に出て来る弓が、既にその形状でしたね。
>魏志倭人伝の時代から日本の長弓っていまだにあのまんまなんだよなw
という通り。さて、少なくとも武士階級において基本的に変化が見られなか
った理由ですが、VIP板住人の様な理由ではなく、身分上のメリハリをつ
ける為であったのではないかと思われます。
早急な合理化⇒壁の撤去・伝統の否定は、格好いいという拘りよりも切実な
もので、武士(支配)階級というものの根幹をゆさぶりかねない。
前近代には、過差といって華美な風俗を誡める事が行われていますが、これ
も要するに「身分不相応な格好をするな」という事。
祭の時によく破られましたが、明治初期生まれで江戸の記憶もまだ新しかった
著者の手になった『半七捕物帳』によく出て来る様に、髪型や衣装で武家か町人
かなどの区別がついたのが前近代です。
乗馬の合理性もそうですが、身分差別の存在した時代、合理性だけを求めて戦
えなかったというのは、重要だろうと思います。
そうした「武士の特性への拘り」=格好よさといえば、それは確かにその通りな
のですが、今想像される「格好よさ」より切実な問題であったろうと。
弓矢を使用する場合、鏃の巨大化や強弓で威力を増し、毒矢や夷弓の採用という
事は、考え付かなかった様ですね。
「勝てばいい」のであれば、武士でなくてもいいという論理が成立してしまう。
(しがらみの無い国民国家⇒武器・戦法発展という構図はあると思います)
鎌倉末期から見える言葉、下克上の風潮が増せば増す程、却って権威ある様式と
いうものによる差別化が重視されたのかもしれません。
ただ、その鎌倉末期にはゲリラ戦など民間の戦法の影響も受けているのですよ。
民間の方でも、『魏志』の時代から南方系の形状とも言われる長弓を使用してい
た為、新規の様式を想像だにしなかったのやも?
ゲリラ戦や徒歩の戦といった変化はあったのに、毒矢や半弓といった変化が受容
されず、また民間の側から使用された形跡も無い。
学ぼうにも手近な例には認められず、外部から影響を受けるには、漂流や水際で
の撃退など、例が希少過ぎたと。
話変わって。アイヌの毒矢の方は、『諏訪大明神絵詞』によれば、南北朝期にはあ
りました。なら安藤氏や蠣崎氏は知っていたのではないかという話になりますが、
陸奥・出羽ですら下手をすれば蛮地扱いされた時代に、わざわざ中央から蔑まれ
る様な「夷風」を真似る事は無かったのでしょう。
蝦夷で倭人同士が戦っていた頃、こっそり「なんでもありでないと勝てない」と採
用していたかもしれませんが。
やはり、日本全体が毒矢の洗礼を受けていないと無理でしたね。
(受けなくて正解というか、幸福だったと言えそうですが。蒙古に全土蹂躙という
事態でも受けていれば、遺されていたでしょう)
275 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 03:00:25
なるほど、異民族・異文化との全面戦争経験の有無ですな。
たしかに中国はこれでもかと言うくらい兵器・暗器が多彩ですな。
だいたい武芸十八般と言いつつ日本では武器を十八種並べるのがつらい(笑)
276 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 14:54:24
>>272 細かい事は俺も忘れたが一応つっこんでおく
>家康が「武田みたいに矢尻を緩く付けるのは・・・かっこ悪いから
そりゃ確か矢尻を緩く付けると敵の体内に矢尻が残って傷口が広がりダメージが大きくなるので
家康が「そーいう残酷な事はマネするな」と言ったんじゃなかったかな。違ったらゴメン
満州で兵隊やってた爺様が「弾頭をわざと傷つけた弾(ダムダム弾)を使用していた敵の捕虜は
正式な兵隊じゃないので捕虜にせずその場で射殺しても良いんだ」と言ってた
それが国際法上正しいのかどうかは俺にはわからんがw
毒矢の洗礼が無かったという話に関連して、
刀や槍を肥溜めかなんかに浸して、
かるくふき取るだけで、
使用すると、負傷兵が破傷風になるとか。
出典は、無限の住人という漫画なんで、創作の話かも。
一次資料でもなんでもないな、この話は。
スレ汚しスマソ
278 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 21:22:36
>>277 いや、面白いよ。裏が取れたら再レスして。
マンガネタなら「屍毒」ってーのが諸星大二郎のマッドメンに有ったな
腐敗した死体に矢を差しとくやつ。原理は同じ。
アイヌ・蝦夷の毒矢はトリカブト(附子)だった。モンゴル毒矢は何だろ?
戦国期は敵が攻めてきたら井戸にウンコとか死体投げ込んで逃げた。
肥溜めに刀は・・・納刀して錆びちゃうとちょっとイヤだなw
アイヌの毒矢ですが、『袖中抄』などによれば、平安時代まで遡れる様で、
しかもトリカブトを使用していた様です。
ただ、これは大型動物(含人)用で、狐などにはもっと毒性の弱い毒草か
ら得た毒を使用していました。ど忘れしてしまいましたが。
>井戸にウンコとか死体投げ込んで逃げた。
後者は多分初耳ですが、前者は『雑兵物語』ですね。
>負傷兵が破傷風になるとか。
これもどこかで聞いた気がしますが、一次史料がはっきりしません。
280 :
匿名希望:2006/01/22(日) 10:51:01
破傷風菌は主に土壌中に広く分布し、傷から感染する。糞からもある。
汚物を介する菌でなく、土壌を介する菌に分類されている。
ワクチンのない1950年代では致死率80%。
潜伏期間14日以内、4日以内に死亡率が高い。
肥溜めに糞を出す人が破傷風に感染している可能性は低い。
擦り傷、土壌で汚染された傷、異物が存在する傷、壊死・感染している傷でなる。
肥溜めで破傷風は入手は簡単でも確率低くそう。肥溜めに土壌の破傷風菌芽胞が
混入や、肥溜めのなかで増殖(あるか不明)や、別の菌で感染しそこに破傷風が
ありそう。
戦場で泥の中で傷をすると、破傷風になったりしていなかったのかな。
破傷風になると、開口障害になり、筋の硬直で弓そりになり、呼吸筋痙攣で死亡。
途中意識は明瞭で、筋収縮による疼痛は激しく、悲惨な疾患とある。
症状が特徴的だが、歴史資料で破傷風について書いているのありませんか?
桶じゃなくて、
地面を掘った肥溜めなら、破傷風菌がうじゃうじゃいる可能性大?
しかし、土壌に破傷風菌が広く分布してるなら、
なんで地面に植えてる野菜を食べてる俺たちの祖先は破傷風にならないんだろうな。
大根を抜いて、軽く袖で土を落として、かぶりついてる昔の子供の、
無音声の映像を見たことある。
経口で菌を摂取しても、
唾液や胃液で殺せるのかな?
口内や胃に傷があったら、破傷風に感染しそうなもんだが。
282 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 12:43:42
でも逆に地上30センチまでにはなんとかという菌がウヨウヨいて、日常的にこれに接すると
免疫力が高くなるとかならないとか
破傷風菌って偏性嫌気性じゃなかったか?
同じクロストリディウム属のボツリヌス菌とかと同じで
284 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:03:38
嫌気性つーのは確か「酸素が苦手な細菌」って意味でしょ。
現代なら汚れた傷口はオキシドールでOKなのかな?誰か専門家いない?
渡瀬恒彦の映画『震える舌』では汚れた泥水の底に有った割れガラスで子供が感染。
1月ぐらい痙攣・発作が続いてたなたしか
・・・20年ぐらい前の記憶なのでやや怪しいけどw
その他にも土質や古クギとか泥水以外でも危険性はあるはず。詳しくは専門サイトで調べてw
有機ウンコ農法ではたぶん破傷風は感染しない。
ただ、大腸菌やウイルス、チフス等の伝染病、寄生虫には注意。
よく難民キャンプで伝染病感染が懸念されるのはそのため。便所は大事なのだ!w
285 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:59:48
287 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:51:59
平氏は赤旗だから
倭人伝で倭人が体に朱塗ってたので先住民だよ。
鹿児島の平氏は日本書紀によると、
葦原中津国(九州)の日向にニニギが畿内から天下りし
阿多隼人(海人)の妻を娶ってる、この妻の名は「阿平姫」だよ。
つまり、平は先住民の一つの立派なステータス。
平は「たいら」とは読まない、「ひら」とよむ、
この「ひら」は中国地方の方言で「端」という意味があるらしい、
なお、アイヌ語でも「ビラ」は崖、端という意味がある。
つまり平氏は先住民の末裔を標榜してたわけだよ。
源氏白旗はもちろん朝鮮人の白装束だ。
源氏は半島に帰ってね★
288 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 10:11:24
破傷風って抗生物質が菌には効くけど、
菌が作り出した毒素には効かないのか。
いまでも十分に怖い病気だね。
即効性のない毒なら、
当時のいくさでは使用されなかったのではないのかな?
矢傷や刀傷を負うと当時の医療水準なら、
ほっといても化膿したりして重症化しそうに思う。
289 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:08:06
>>287 >平は「たいら」とは読まない、「ひら」とよむ、
>平氏は先住民の末裔を標榜してたわけだよ
( ・ω・)つ〃∩ ヘエーヘエー平エーヘエー
すると平氏は半島系桓武天皇の末裔は標榜・・・
290 :
匿名希望:2006/01/23(月) 22:31:29
オキシドールでは不充分では。
破傷風菌は芽胞を作るので、菌は殺せても芽胞状態だと効果ないはず。
芽胞は熱・乾燥・薬剤に強く。100度の加熱でも生存できることがある。
組織が壊死・感染していると破傷風菌が増殖するのでそのための消毒はOKかも。
抗毒素も神経に毒素が結合した後では中和できない。早期診断し、集中治療室を
持った病院に転送する必要がある。
現在日本で年100人でも死亡率50%は怖いな、
メルクマニュアルだと世界で死亡5万人。少し前の本だと年100〜200万人。
年間エイズ死亡数:で1999年は260万人。
ワクチンが普及しなかったら怖い病気だな。
291 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 23:30:55
トリカブトの歴史から破傷風の処置まで、なんか妙に役に立つスレだw
皆様サンクスです。
292 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 23:34:02
刀や矢に毒を塗って、即死してくれればいいけど、
そうでないならば戦場では役に立たないね。
相手が苦しんで死ぬ前に自分がその相手に討たれたら本末転倒
293 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 00:02:54
半弓毒矢、肥溜め剣は、戦国期では正攻法ではなく『暗殺用・特殊補助兵器』だったのかな?
これ以上は新資料の発掘に期待するしかないね。
とりあえず
>>254の回り込み槍攻撃が運良く成功したとして(笑)その後の戦術は?
@槍の攻撃法(素槍・鍵槍)、源平の弓・太刀による防御法。
Aそのまま組み討ちへの移行?・・・と、なるのかな?
ポイントは甲冑と武器の違いがここで初めて出てくる事だな。
>>293 >正攻法ではなく
だろうと思います。半弓も確実なところは島原の乱のものですし、他も戦国
期にどこまで存在したのか分りかねますが。
余談ながら、「破傷風」という言葉は江戸時代にはありました。
>294
存じません。
296 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 02:15:44
弁慶vs小島弥太郎
平知盛vs本田忠勝
源義経vs伊東一刀斎
素手でフンドシ一丁で殴り合い
みたいなことを
>>1はやりたかったんじゃないかと思ってみる
297 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 03:08:02
>>296 そりゃただの相撲だべ、と、一応つっこむ。(アルティメット・ルール?)
298 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 03:54:37
火器の使用は無しというルール自体意味不明。
299 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 03:55:54
タイマンってw
タイマン・・・・・・一対一ってことか?
だったら誰VS誰って具体的に言ってくれよ!
じゃなきゃ答えれんだろw
301 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 11:25:06
なんか歴史上の人物を美化する人多いがぶっちゃけ素手って条件なら戦国武将だろうが三国史の英傑だろうが俺は勝てる自信ある。
俺は柔道で府代表でインハイ出場程度だけど、さすがに身長187あって、近代的な格闘術を持たない160の奴に負けるのは想像つかん。
302 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 11:50:59
↑はいはぃ、あなたが最強
303 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 12:43:12
タイマンで用意ドンで戦ったら最初に斬った人が勝つと思ふよ
○○時代の話ではない
304 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 12:56:45
金的・目つぶし・噛みつき・指折り・骨打ち・髪掴み・ツボ突き(点穴)・・・・
本当のノールールの場合、体格や格闘技術の差は実はあまり関係ない。
たとえ相手がチャンピオンクラスでも脇差し1本あれば素人でもひけはとらない。
小柄な戦国武将やケンカ名人も多い。
本多忠勝も普通の体格だったと聞くが。
305 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 13:41:33
>>296だが技術の差も考慮してフンドシに太刀を一振りのみ持たせて手合わせってかんじでどうだろう?
このスレまともなルールが確立したら今よりだいぶ良くなるはずだが
306 :
伊東一刀斎 :2006/01/26(木) 16:02:05
別に俺も強いって自分でいうほどのことはないが、
とりあえず義経なんかに負ける気はしないね。ふふん♪
裸でタイマンとか意味が分からん。チンピラの抗争じゃあるまいし。
>>301みたいな勘違い野郎が沸いてくるのがマジウザい。
俺は県代表とかにもなれないレベルの弓道部員だけど
殺していいなら柔道家なんかには絶対に負けない。
例えどんなにレベルが高くても柔道など所詮スポーツだし。
弓道もスポーツ化してるけど、殺傷力では絶対に負けない。
1年くらい弓道の練習すればどれほど強いとされる柔道家でもただの肉の塊だよ。
それくらい武力としての差は歴然としてるものなんだよ。柔道なんてカスだカス。
柔道なんて時間の無駄だし、馬鹿がやるもの。分かったか?勘違い
>>301君w
まあ、ぶっちゃけ「素手って条件なら」とかほざいてる時点で
自分が強くないゴミだって自覚してるんだろうけどな。とりあえずタイヤでも曳いて校庭走ってこいやw
と、言うわけで、やっぱり火縄銃という選択肢も含むべきだとは思う。
技術の進歩を否定してレベルの低い時代に合わせる必要はないだろ。
308 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:20:42
火縄銃についてだけど、武将が使うのだと島津と雑賀衆くらいだね。
他は足軽の武器としてるところがほとんどだから。
なので、島津以外の場合は一対一の場合には加味されなくていいんじゃないかな。
>>307の話にも一理あるね。戦国武将が槍とか大きな意味での接近戦に強いのに対して
源平は弓馬とか間接戦を得意としてる。
鎧の性能を度外視するとしても、この辺の武器の得手不得手は加味されないと公平とは言えないよ。
とりあえず、鎧の精度は無視して
源為朝{弓・太刀・鎧通し}対加藤清正{槍・刀・鎧通し}
ではどう?
309 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:30:23
>>307は弓道の的と違って人間は不規則に動くことを理解できているのだろうか?そんな県予選レベルで人間は射殺せない。
しかも相手も武器を持ち自分を殺そうとしてるわけで。構える時間も考慮したらタイマンで弓は不利だと…
310 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:32:43
>>308 馬に馴れない九州育ちの為朝と
卑賤出身の清正だと
騎馬ではなく徒士対決か
・・・為朝だな。
311 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:59:54
タイマンとなれば源平有利じゃないの?弓使えるし。
源平武士も、戦国時代には、野戦陣地の進歩に動員数の増大で、
役に立たないだろうけど、タイマンじゃ勝つでしょ。
>>309 >>307は弓道の的と違って人間は不規則に動くことを理解できているのだろうか?そんな県予選レベル
で人間は射殺せない。
それを神戸あたりの流鏑馬先生に教えてやってよ
聞く耳持たないだろうが
不規則に動くってちょっと面白いな
戦隊モノの雑魚キャラみたいに無駄な動きでもするのか?
ウザい柔道豚だなw受身でもしてろ豚w
それに、的が動かないから弓道は難しいんだよ。
柔道豚が近づいてきた方が的なんかよりも当たり易いぞ。
もしかして矢をよけられるとか思ってるのか?んなわけねーだろ、受身でもしてろ豚w
それに豚が必死こいて走り寄ってくる間に1本でも致命傷を与えればいいんだから
話は簡単なんだよ。構えてる時間なんてなくても矢は射れるのもしらねーのか豚www
弓は人殺しの武器、柔道(笑)は畳の上の遊び、その辺をちょっとは考えろ豚www
314 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:58:15
だから上泉信綱と塚原卜伝に南蛮銅装備させるから戦国の勝ちだよ〜
いや西洋の鎧着た信長にしたら完璧だ
316 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:16:02
>>316 @さあ、どのくらいかな?そんなに本数は引けないかと
ただ、柔道豚が突進してくるのをぶっ殺すのに2本も必要ねーよ
一本で十分 兼好が言ってるように乙矢は不要 甲矢で殺すことを考えるべき
A馬上は知らないが風の影響はないとは言えないのでは?
ただ、柔道豚が追い風に乗って突進してくる姿を想像したら笑えたブヒーwww
Bかいこむ=意味不明 多分、発射した後、弓手を体に引き寄せることだと推測するが
割り膝=膝をついて低い姿勢のままの射ってこと
伏せ=意味不明 ただ、割り膝に近い状態だと推測するが
さあ、ふるえるがいい
318 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:06:37
>>313>>317は同一人物か?確かに弓の利点は認めるがなぜそんなにのぼせあがる?
空手家やボクサーが相手のパンチを見きるのと同様に達人なら弾道がわかる矢なら見切れるのでは?
>>317は弓道以外の武道を経験したことあるのか?お前がバカにしている柔道家さえかなり素早いぞ。要は短距離走ではなく勘と反射神経だ。
ちなみにオレは
>>312で空手と剣道やってるが柔道はわからん。ただ高校の時に柔道でインハイ行った友達はすごかった。ちなみに弓道は少しかじっただけ。
>>313>>317 人間相手は頭の中のイメージ通りにはいかんよ。的しか相手にしてないやつには絶対わからんがな( ゚д゚)、ペッ
319 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:14:22
>>318 >>空手家やボクサーが相手のパンチを見きるのと同様に達人なら弾道がわかる矢なら見切れるのでは?
それもイメージだよ。
320 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:19:09
321 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:21:26
322 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:22:22
武器を使うとは卑怯なり〜。
323 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:27:05
戦さ場において怯えたか!
笑止、御首いただく。
アホか、矢の初速がどれくらいか知ってるのか?ジャブ?はっきり言って問題にもならんよ。
ピンポン球をよける練習と勘違いしてるんじゃないのか?どんなフットワークだよwww
あと、よく弓道以外の格闘の連中がいう実戦だの対人経験とかちゃんちゃらおかしい。
人を射殺したことなくても拳銃で人を殺せるだろ?対人経験なんか必要ないんだよ。
弓は対人で勝負すると人が死ぬからやれないんだよ。畳の上でバタバタ遊んでるじゅーどー(笑)や
竹の棒で叩き合ってるけんどー(笑)やら瓦を割って喜んでるからて(笑)とはそもそもレベルが違うんだって。
別に数百メートル先から射殺する必要はないんだよ。豚が近づいて来たら害虫を駆除するくらいの軽い気持ちで
さくっと殺してやればいいんだから。そうなるとそれほど遠くない距離だからせいぜい10メートル程度か。
10メートルだと弦音がした瞬間に矢が豚を貫いてるよ。串刺しになった豚を火にかければ豚の丸焼きだwww
もし、柔道豚が勝つとするなら物陰に隠れて石でも投げることだなw ま、それはもはや柔道ではないわけだがwww
あと、ジャブを避けるように矢を避けられると思うなよ、馬鹿丸出しだから。
体の動かない部分、動きにくい部分を狙うんだよ。胴体だな。鏃を装備した矢は当たると死んじゃうよwww豚アワレwwwww
325 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:57:17
アホかw正確に急所に命中しなければ次の矢を手に取ってるうちに捻り殺されるぞwww
弓矢を構えているヤツにただまっすぐに走って行くアホはいないと思われwwwwwタイミング合わせて体捻って急所外すくらいできるだろwwwwwwww
相手の間合いに入ったら弓はなにか抵抗できるのか?素人並のネコパンチくらいだろ
いつから弓道VS柔道になったんだ?
武士の話はどうなってんだ?
どうでもいいけど武士相手に1対1の勝負で弓なんか役にたたんよ。
マジで。
相手が柔道の選手なら殺せるかもしれんけど。
327 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 05:10:26
鎧装束の組討で武器も無くして相手を仕留められんだろう。
328 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 05:13:23
ヒント:柔術
>>326 お前は本当に馬鹿だなwwww
じゃあ、弓に何が勝てるってんだ?タイマンだろ?
唯一勝てるかもしれないのは火縄銃だけど、そういうこと?なら納得しないでもないんだが。
槍、刀、薙刀、じゅうどう(笑)・・・・・・全て勝ち目はねーってのwww
330 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 05:26:01
話蒸し返して悪いけど時代劇とかで体に矢がささってるけど戦ってる武士がいるよね?
>>324は矢に猛毒でも 塗ってあるのかな?
ちなみに竹の棒で遊んでる剣道も防具無かったら大怪我だぞ。あれは本来真剣の代わりだし。
さらにルール合わせるなら弓矢を持つなら相手も素手じゃなくせめて刃物のひとつでも持たせないとスレとずれてしまうわけだが
当時の火縄銃ってそんなに有利か?
命中度や操作性からいっても
外れたらそれで終わりだし通常は一発撃つ前に殺されるだろ?
まぁ、いつでも発射可能な状態で肩当照準の姿勢からスタートするなら
駆け寄ってくる武士をひきつけて撃ち殺すだけだから最強かもしれんが。
332 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 05:37:13
ん?
>>318だが
>>329よ
>>326はオレじゃないぞ。オレのレスを放置して誰にケンカ売ってんだ?
てかお前に同意するやついねぇなw人間腹を刺されても腕がもげても死なないし動けるぞ。お前の弓はバズーカかっつーのw
>>330 >時代劇とかで
>時代劇とかで
>時代劇とかで
お前おもしろい奴だなwww時代劇ってwwww
まあいい、時代劇で矢が刺さっても戦ってる人は「私はいま、激しい戦いをしてきました」っていうのを表してるんだよ。
一種の暗黙の了解だな。攻め込まれてる時の伝令とか落ち武者とか。
んで、そいつらどこに矢が刺さってる?大体背中か肩だろ?
頭に刺さってたら即死、足に刺さってたら歩けない、だからそういう箇所に刺さってるんだよ。
腹にささってるのみたことないだろ?あったとしても弁慶立ち往生くらいか?
腹に刺さっても死ぬからな。鎧で防げると思うなよ。余裕で貫通するから。いやマジで。
竹刀も武器にはなるよな。うん。だから防具付けて遊んでるんだろ。
でもな、竹刀の破壊力など問題じゃないの。ある意味そこが争点と言ってもいい。
射程距離の違い、これが弓の最大の特徴。刀の有効射程距離に入る前に弓で殺せる、もしくは致命傷を負わせることができるの。
だからな、剣道だか剣術だか居合いだか、何でもいいけど腕前など関係ないし、走力も大して問題でもない。
真剣でも何でも持ってくればいいんだよ。柔道豚が刀を持ってきても一向に構わんよ。
信長様の南蛮甲冑の前では弓矢など無力なり〜
>>332 >人間腹を刺されても腕がもげても死なないし動けるぞ
何故、その一撃で殺さなきゃならないんだ?
弓以外の武器(火縄銃はちょっと置いておく)の射程外から損傷を与えるという絶対的優位に立ってるわけだが
お前は矢が腹や喉などに当たっても気合で突っ込んでくるってのか?
いや、突っ込んでくるとしよう。んで、どうなるんだ?
弓兵が黙って斬られたり投げ飛ばされたりするってのか?はぁ?
傷負ってる奴に何でされるがままになってんだ?リアリティねーっての。
弓兵が接近戦に自信がなかったら自分で再び距離をとるだろ。
>>334 ネタだとは思うけど鉄鎧なんて簡単に貫くぞ。
矢でも貫けないような分厚い鎧着て素早く動き回れると思うなよ豚wwww
火縄銃よりも貫通力はずっと上だからな、残念でしたプーーー
337 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 05:52:58
↑マジで?
火縄銃より貫通力はずっと上だったのか。
勉強になりました。
340 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 06:19:15
弓すげぇ。弓矢の勝ち。
終了
朝からご苦労さん
341 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 23:55:48
で、その矢を太刀で払うとかいう伝記もあるよ。
ま、実際にはほぼ不可能であり、布とかで受けるんだそうだ
其れも伝記。
実際には木の楯。
弓矢だけで武士を殺せるっていう時点で伝説になるけどね。
343 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 01:09:32
以前歴史群像か何かで「イシ弓(変換できん!)」の威力の実験やってて至近距離で
フライパン貫通してたな。でも皮の板は粘りが有ってストップしていた。(さすが学研w)
ゴテゴテのブカブカした大鎧は太刀や矢の衝撃を外側で吸収する。
欠点は足周りが動きづらく、体と鎧が一体化して動けない。
また、ごてごて部分が鉄砲の衝撃をまともに受けて分解してしまう。
戦国の当世具足は鉄砲を跳弾させやすく、体全体にフイットし動きやすい。
槍の種類も豊富だが、打ち刀は馬上では抜きづらい。
徒戦なら戦国有利かな?
弩を戦国時代、もしくは源平の時に使ったって記録はないの?
すげー武器なのに…。火縄銃があったとしても
運用次第ではめちゃくちゃ有効な武器だと思うんだけど。
もし俺が戦国時代に小国の領主になったとしたら
領民全員に弩を習得させて京都に攻め上るよ。そして旗を立ててくる。
>343
>徒戦なら戦国有利かな?
鎌倉末期になると下馬して戦う事が多くなり、大鎧から胴丸や腰巻への移行
が進みますからね。それまでは、当然徒歩戦は不得手です。
基本的に、なんでもありなら、時代が下っている方が強いのが道理。
>344
>弩
せいぜい十世紀まででしょう。三善清行の有名な『意見十二箇条』の中に、
日本独自の「新弩」を扱う弩師がコネ採用になってあてにならなくなった
という事が出ています。894年の新羅軍来寇時に活躍していたもの。
律令体制の崩壊と共に工房が廃れ、弓馬をこととする兵(武士)の世とな
った為に、弥生時代から存在した長弓にとって代られたのでしょう。
それと、弩は連射性に欠けるという欠点があります。
>領民全員
に強力な武器を持たせるのは、不味いのでは。
武士が当初弓馬の道を誇ったのも、馬の世話などの経済的な理由や家ごとの
故実によって、ただの「兵器に耐えうる輩」に差をつける事が出来たという点
が、小さくなかった様に思いますが。
(島津家などを例外として、逆に「士」が鉄砲を主に足軽に任せるといった例
もあったので、弩もそうなりますかね)
なお、弩が日本で再び制作されたのは江戸後期。威力は強力なものでしたが、
当然既に使える存在では無くなっていました。特殊な発明品、仇花です。
346 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:33:08
たしか英仏100年戦争でもイングランド長弓隊に仏軍の弩は負けてなかったっけ?
まあ、英軍も羊飼いのねーちゃんのゲリラ戦に負けたが。
347 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:39:58
岡村隆史のギャグ一発で引き分けだ
348 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 03:00:58
>>346 100年戦争で負け続けたよな、フランス軍。
黒太子に三倍以上の兵力をもってして完敗とか。
で、なんども負けて、ようやく、100年戦争の後期になって、
徒歩の弓兵に向かっていかないと負けないって気づいたんだよな。
攻めて来るのを迎え撃つという弓兵の性質に気づくまで、
遅すぎるよね、フランス人。
349 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 03:10:57
フランスパンって固いよな。
>>345 やっぱり弩は連射が出来ないのがネックですね…。
三段撃ちにしてみればそれなりに有効だとは思いますけど。
う〜ん、ある日突然戦国時代の小国領主になってしまったら
弩で切り抜けようと思ってたんですけどね。こりゃ戦略を練り直した方がいいですかね。
連射できて扱い易く女老人の力でも軽々扱えるとなると…
もうコンパウンドボウしかないですね。でもあれを作るとなると相当な技術が必要だし…。
パチンコで撃退もゴムなんかとれなそうだし。
即席で火炎放射器作れないかな?おっさんに強めの酒飲んで噴き出してもらって
そこに火をつけるしかないのかな。ああ、マジでどうしよう。このままじゃまずいよ…。
フライパンも硬いぞ
352 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 04:44:32
弩はなんで連射できないの?
353 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 05:52:32
すんげー器用で腕力もあればある程度の連射はできると思うよ。
354 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 06:00:52
弩の方が弓より力もいらず簡単そう。
弩は歩兵専用
弓は騎兵、歩兵兼用
356 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 13:05:50
>>350 殿!グレネード系は如何でしょうか!
黒色火薬はございますので手榴弾もしくは、榴弾砲・・・はさすがに無理かな?
357 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 13:12:11
弩の方が弓より力が必要なんじゃなかったっけ?
国王の警護を大男が多い弩兵がやっていた国があったと聞くが?
358 :
匿名希望:2006/01/28(土) 13:58:51
弩は破壊力と命中精度を重視してるから、強い力で引くものが多いたから連射が無理のはず。
もともと動作が余分にいる上に、足の力で引いたり、器械でひくからますます時間がかかった。
弩でも弱い力のなら連射できるだろうが、高価な弩より連射なら安い弓を多く用意する。
連弩も仕組みと弱い張力で連射が可能だが、射程・破壊力なく毒矢を使い、江戸日本の連弩も
室内の盗人対策程度の威力らしい。
>>356 ちょっといいねぇ武田にも勝てそうだw
考えたんだけど、1000人くらい兵を用意して5人ずつチームにして200組。
1人1人に弩を持たせて一人が撃ってあと4人はひたすら矢を装填する。
平地での衝突だと脆そうだけど、拠点防御には有効じゃない?
ちゃんと攻め手の攻撃を防御するような要塞があれば負けなそうじゃない?
ちょっと机上の空論かもしれないけど、運用によっちゃ弩は有効かもしれない。
鉄砲より安く、扱いが簡単だし、火薬を調達する必要もないし。
360 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 16:50:40
弓は待ち時間(会)を長く保てないんだよ。
大きく引き分けて最大の張力の位置で長時間キープし続けると弓の力で筋肉がつかれて段々
引き分けた張力を保てなくなってくるんだよ。(射形も崩れるから狙いも悪くなる)
弩は一回セットしたら後はどんなタイミングで敵が襲ってこようがいつでも撃てる状態になっているし
座りながらでも伏せた状態でも正確に狙える。
だから長距離用には弩を並べて敵の接近を乱しながら、中距離まできた敵には弓の速射で
矢を大量に打ち込む混成方法が理想的なんじゃないかなあ。
361 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 19:03:46
362 :
匿名希望:2006/01/28(土) 19:22:35
>>359 史実でもジェノバの弩兵や雑賀衆がその戦法をとったはず。
確かジャノバの弩兵は3列になり最前列が射撃を行い、後ろの2人が器械で弦を引き、
矢を装てんした。
雑賀衆は防御施設にて5人で円陣を組み1人が射撃、残りが銃の装てん手渡しで行った。
限られた矢・弾薬を無駄にしないためには一番上手な人が射撃を行うの効率よかったのかも。
>361
>中世日本の戦場における主要な武器は弓矢
鈴木眞哉説ですか。高橋昌明先生も支持しておいででしたが。
これには、それぞれの軍忠状に記された合戦の状況を想定していないとか、
打ち物による被害は死に繋がる危険性が高かった為に軍忠状に記される機
会が無かったという説もありますが、どう思われますか。
弓矢は日に何度かあった様な小競り合いや緒戦で使用されたものの、いざ
本格的なぶつかり合いになると白兵戦になった。しかし、そうした大規模
な戦闘に突入する事は、全体としては少なかったとも考えられますが。
「中世日本」といっても長いですが、平安後期〜戦国期まで弓矢主体であっ
たものとお考えですか。
364 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 20:26:13
加藤清正じゃね。
大将同士の一騎打ちを実際に経験してるし
鈴木眞哉は電波だな。
言ってる事が一方的過ぎる。
弓馬、弓矢、弓箭といった言い方は、近世の軍記物まで続きましたが、戦国期に
は鑓働きや一番鑓といった言葉も登場していますね。
使用される武器というものは、合戦の環境・状況次第だと思いますが。
いずれにせよ、世間で考えられているほど刀は使わなかったのは確かでしょうが。
刀は打刀の場合血糊や刃こぼれで、連続してはせいぜい3〜4人斬ったら使い物にならなくなったそうです。だから主力武器は槍や野太刀が一般的。
てな話を何かで読みました。
新選組の池田屋事件では彼等の得意技は突きだったため切れ味はそこまで重要ではなかったとか。
368 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:37:20
近世までの合戦での死亡率は負け戦でも10%を超えないのが普通とか。
一人で3人も4人も切る必要なし。
一人が一人を切れば十分に勝ち戦。
兵力同数なら、5人で一人を切れば十分では。
日本では、いったん崩れだすと、
武器や鎧を脱ぎ捨てて、軽装になって逃げるのが普通とか。
足軽連中は、それを拾うので大忙しとか。
一次資料はないです。
自衛隊の学校の先生が書いた本で、
軍隊が近代的規律を獲得する歴史のなかでコラムのような感じで書いてた話。
369 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:43:17
>>367 あれ?池田屋での永倉新八の決め技は「コテ抜き面」でなかったっけか?
370 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 04:06:17
イングランドや日本の弓みたいに飛距離があるのなら斜面や泥地なら一斉射撃も可能。泥地ならクレーシーの戦いみたく自爆させることも可能。火繩銃ならウェリントン公みたく逆斜面に三列横隊を組み、三段撃ちが出来る。
371 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 11:09:13
ところで、矢って人体にどのようにダメージを与えるのか分かる人いますか?
銃弾や刀剣と違って、矢が刺さった体験談など聞いたこと無いから
イメージつかないんですよね・・・
銃弾を喰らった場合は、弾丸が変形しつつ、肉体の内部を引き裂き、
骨折等を引き起こす。
同時に弾丸の衝撃波が体内を走り、ショック状態に陥り、平衡感覚を失って倒れる。
銃弾による死因は3パターン。
@中枢神経損傷によるショック死 :10秒以内に死亡
A循環器及び動脈破壊による血圧低下 :15〜20秒
B造血臓器破壊による内出血 :3分〜20分
矢で甲冑をきた人間を殺すのって、凄く難しそうですね・・・。
頭に当たれば脳に損傷を負わせて最悪即死。
喉に当たれば出血死、もしくは窒息死。脊髄を損傷する可能性もある。
胴体は鎧を着てるとダメージが軽減するだろうけど、最悪の場合致命傷。
手足に当たったら機能が著しく低下する。特に足だと移動が困難になり敵の餌食になる可能性大。
全般的に当たると血が出て機能が低下する。これは当たり前。
鏃を装着した矢の貫通力は馬鹿に出来ない。至近距離(30Mを想定)なら
フライパンや兜を貫通させることも不可能ではない。
ただ、当たった瞬間に死ぬってのは頭、喉くらいでは?後は心臓。
腹に当たっても即死はしないと思う。ただ、機能は著しく低下すると思われる。
戦場でそのような状態になることはすなはち死を意味する。弓矢は怖いですね。
ただ、目に当たった時は速やかに引き抜いて喰うと後世に名が残る可能性は否定できない。
また、主人公には矢が当たらず、刀、槍などで跳ね返すことが出来るだろう。
斥候は背中に矢を受けても主に伝令するまでは死なないので安心されたし。ただし、その水は飲むな、フラグだ。
373 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 13:46:01
>>373 何度も同じところを紹介しなくてもいいから。
それと、知り合いなら「おりました」。方もつけなくていい。
弓道やってるけど。
結構、怖いよ。弓矢。。。。。
>>373 結構、参考になりました。
ありがとうございます。
377 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 21:58:37
375
信じられないかもしれないけど俺の友達矢を素手で捕まえたよ
五輪書の「敵が矢を撃ってくる前に突っ込んで斬れ」みたいなのウソ臭いな
379 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 19:11:24
>>377 昔、ウンナンの特ホウ王国でもやってたな、できる人そんなにたくさん居るの?
俺には無理だわw
380 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 17:59:42
思ったんだが源平武士の弓矢で
戦国武士に対して有効打を与えるのは無理臭くね?
製法に大して変化の無い和弓といえど
平安末期のものと室町後期とでは威力も違うだろうし
戦国期の鎧では耐え切れると思うんだが。
381 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:20:15
ふむふむ。まぁ、面白い着眼点だと思うお。
学者がそれを実験してくれるととてもありがたいね。
でもね。実験しなくてもある程度はわかると思うお。
答えは耐え切れないが正解だお。
でなきゃ、織田家中の平井九衛門とか干されている。
他の戦国大名家や同時期の他の地域(海外)でも弓隊はあるよ。
なので、かなりの効果はあったと思われるお。
ただ、弓の扱いは百姓出身の足軽や徴兵された農奴にはちと難しいんだお。
こういったことが鉄砲が流行った理由。
また当世具足だと、寧ろ逆に矢に対する防御力が弱くて貫通するはずだお!
吹き返しもめっちゃちっさいしね。
スペインや世界中の戦術史もこれに同様だと思うお。
382 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:31:46
>>378 まんざら嘘でもないよ。
弓矢の有効射程距離は20メートルぐらいでしょう。
飛んでる矢事態見えるし。
それに矢を一本放つだけでも相当体力を消耗する武器だからね。
五輪の書に書いてあることを真に受けると大変なことになりそう。
飛んでくる矢が見えたとしても避けることは難しいと思うし。
大体、一対一なんてまずありえないシチュエーションだよね。
有効射程距離はもっと長いし。20mならほぼ水平射撃に近いだろうね。
矢は時速200kmを越えるし、飛んでる矢が見えるってのもどこか嘘臭い。
それに弓を構えてる敵の所に近づくのは相当な勇気が必要だよ。
俺ならもの凄く大きくて丈夫な盾を持っていくけどね。
絶対に手掴みで矢をとってやろうとは思わないし、お勧めできないw
武術書とかは自分がいかに優れてるかを誇示するために書かれたものが多いから
鵜呑みにすることはできない。一種の読み物として鑑賞するくらいでちょうどいい。
戦国期までの日本人はもの凄く自己顕示欲が強くて嘘つくことに何の罪悪感も感じないからね。
30メートルなら、よけるだけなら余裕かもしれない。
野球のデッドボールも、踏み込んで打つ体勢からよけようとしてあたるけど、
最初から、よけることだけ考えているなら、確実によけれるだろうし。
20メートルなら、まぁ、よけれる気がする。
>380
源平時代(と呼んでおきましょう)、既に大鎧の発達によって鎧そのものを射
抜くことは困難となっており、馬や鎧の隙間を射る様になっていました。
戦国期には更なる発達を見せていますが、やはり狙うなら隙間でしょうね。
弓の威力についてですが、源平時代にあった複合弓は、せいぜい三枚打弓。
戦国時代には四方竹弓を経て、末期には弓胎弓も成立していた可能性がある。
従って、飛距離や威力では当然後世の方が有利です。
合成弓に対し、丸木弓も引き続き使用されていましたが。
>>384 小学校の時、ドッジボールやったことでも思い出してみれば?
矢はドッジボールの数倍速いんだよ?
387 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:58:54
まあ、TVで見る限りではプロ野球の球も一見遅い様に見えるし。プロボクサーのパンチも
一見ゆっくりに見えるよなw
「なんであんなパンチ避けられねーんだ」と思うよな。
だが横で見るのと縦では全然違うのだ、肉眼の錯覚というのか加速して見えるはずだ。
敵が「撃った」と認識した時にはもう矢に当たっているだろうね。
特に弓は「起こり」が見えないので、いきなり矢が飛んでくるはずだ。
それと、矢は回転しながら飛んでくるので飛距離と威力が出る、これは槍もライフル弾も一緒。
大鎧の様にゴテゴテした構造は多方向から矢の回転を受け止める。
特に皮製の部分は「粘り」があるので矢に対して高い防御力を持つ可能性がある。
逆に鉄板は以外に貫通には弱い。だが跳弾はしやすいので鉄砲時代には有利。
そういう理由から381タンの説に一理ある気がするお。
388 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:21:42
源頼朝と藤原道長ってどういう関係かわかりますか??
自分はこのどっちかの子孫だって教えられました。
自分は真面目です。
どうか本気で教えてください。
あと先祖の家計図みたいのってどうやったら
手にいれられるか知ってる方いませんか??
389 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:38:16
390 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:42:40
源頼朝の子孫のはずがない。
391 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:50:24
源頼朝って娘居なかったんだっけ?
392 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:52:42
子孫、ご先祖って言えるのは男系のみ。
当たり前でしょ。
女系入れたら日本全国ほとんどの人間が頼朝の子孫になるよ。
>>392その見方は一般的な見解じゃない
結構、女系でも称してる人いる
ま、専門的に言えばその通りなんだろうけど
394 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:05:30
女系の先祖って名字が一緒なら、自分の先祖と称しても違和感がないけど、
名字がちがうとヨソの先祖みたいで、先祖と名乗るには後ろめたさがあるな。
395 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:07:49
源頼朝の娘がA氏に嫁いで、A氏の娘がB氏に嫁いで、
B氏の曾孫の娘がC氏に嫁いで・・・・
C氏に生まれた男の子は源頼朝の子孫と言えるのかどうか・・
396 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:10:25
つまりさ、養子を取って分家させるのと、相手に嫁ぐのじゃ全く別の話なんだよ。
源頼朝が養子を取って、源家を分家させるなんてありえないから、実質娘は
相手の家に嫁いだわけさ。そうなるともう、そっちの家の子孫になる。
>>396 ある程度齧った者としては子孫ではなく、末裔ならOKな気がする
仙台の伊達家は坂上田村麻呂の血が入ったからその末裔という認識だったんだが
まあ、一般的には子孫と称しちゃうと思うよ
>>388を頼朝の末裔とした場合はどうなのかな?
398 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:21:00
末裔>子孫って考え方だね。
そうすると源氏なんて子供9人くらい作ってるから・・・
9×9×9×9×9=59049人の末裔が居る事になる
たった五代でこれだけ。10代で3486784401人の末裔が居る事にある。
それこそ人類みな末裔になる。
家とかを誇ってる人はそんな感じだと思うよ。
皆がそうだろうと自分は違う的に言うことで主張するというか・・・
日本人は皆天皇に遡るとか言う話と同様で
>>388 >389が示してくれてる所で苗字から調べるとどうなの?
400 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 05:01:18
源平時代は剣に関しては皆我流だったの?剣術というものは存在してたんだろうか?
ちょっとは過去レスくらい見て書き込め
402 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 16:46:17
>>400 茨城の鹿島には古墳時代から総合格闘術があるよ。
鹿島の太刀で調べるか、鹿島神宮のサイトからいける。
騎射とか他のモノに関しては、200番台とかで話題になってるはずなので一読するといいよ
そう伝承されている=歴史的事実ではない。
古墳時代には無く、せいぜい国井景継の活躍した戦国期以降でしょう。
「鹿島の太刀」でサイトが出て来ましたが、「時代下って」までをはしょり
過ぎです。現在の仏教色の無い由緒というのも近世の神道家か近代以降
の付加による産物という気がします。
404 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 03:57:29
>403
武道体系云々は別にして地理的にも工業的にも鹿島は古代から陸海水路、対北方の軍事拠点であり
中臣家ゆかりの地だったのは間違いないので、軍事訓練を行う教官職が居てもなんら不思議は無かった
とは思います。たぶんその代表者が国摩真人だったのでしょう。
鎌倉期、江戸期に軍事機能が途絶えてるのは政府中枢にあまりに近いため抑制されていた可能性が高いです。
ただ密教色の濃い香取神道流に比べ鹿島流に仏教色の無いのは確かに気になりますね。
筑波山にも後に日光を開く徳一上人が居たのに。
>>404 「そういう見方・説もある」程度の話を極限まで拡大解釈してますな
〜もなんら不思議はなかった
たぶん〜だったのでしょう
〜ていた可能性が高いです
〜だったのは間違いない
408 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 13:02:38
否定するだけの証拠も出て無いな。
神功皇后の伝説を出すまでもなく古代より鹿島地方は皇室から農奴まで鎮護国家の戦神。
万葉集、斎頭祭、御船祭だけ見ても交通・軍事の要所だった名残は十分ある。
兵法が発生しなかった方がおかしいんじゃない?
411 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 17:20:34
>>408 あら、間違い。ごめんあそばせw
× 斎頭祭 ○ 祭頭祭
>>408 >否定するだけの証拠も出て無いな。
その場合は、悪魔の証明になりますからね。「無い」の証拠集めは大変。
鹿島・香取自体、元々が「吾妻路の奥つ方」という辺境を防備するために祀
られた武神であったといい、平安中期に蝦夷の脅威が去ってからも、武神と
しての性格は受け継がれていましたから、戦国期になって忽然と出現した訳
でも無いでしょうが。>鹿島・香取に初期の「剣術」が出たのは必然
しかし、体系化されたのは15世紀以降の事であって、それ以前に打ち物に
よる武芸が確立されていたという証拠がありません。
>409氏がどこを見るべきだとお考えなのか分かりませんが、神社の方は
客観的な歴史的事実より、出来るだけ権威となりそうな教えを都合よく載せ
たがるものです(逆に無視したがるのが神仏習合時代の歴史。現在祀られ
ている神が仏の垂迹扱いだったというのは、現神道には都合が悪い)。
一次史料で古代から流派として確認出来ない以上、あてにはなりません。
後世編纂されたものに書かれていた事は、書かれている時代と書いた時代
が離れるほど、信頼性が落ちます。
精力的にご紹介下さった402氏には悪い気がしますが、どうにも。
414 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 21:27:23
鹿島の太刀を次ぐ流派に直刀の技法が伝えられてるのは証拠にはならない?
また、宝物殿に展示されてる物が古墳時代の物とかは証拠にはならないの?
年代的に半分考古学の世界なのだから
「直刀の技法」というのがはっきりしませんが、後者は掘り出されたものと
いう可能性もあり、加えて剣術の証拠とするのは困難かと。
ところで、宝物殿の直刀、本当に古墳時代のものとされているのですか。
もっと時代が下ったものの様に見えるのですが。
・・・という事で国宝関係を検索したら出てきました。
刀身は奈良〜平安時代、拵えは平安時代のものという事です。
となると発掘されたものではなく、代々伝承されたものか。
貴重ではありますが、全く例が無いという訳ではなく、他の土地で直刀が伝
来しているからといって剣術の証拠にした例は無いと思います。
416 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 01:10:38
>>412 >その場合は悪魔の・・・・らね「無い」の証拠集めは大変。
ごもっともです、古代から戦国までの武道の成立なんていくら調べても
推測の域を出ませんし都の公達が正史に残すとも思えません。
・・・ですが「用兵≠武芸」と言われてしまうとちょっと意地悪もしたくなるw
また「拡大解釈だ!」との批判覚悟で言わせて頂くとw古代鹿島・香取の武芸・剣技は
神祇官『物部氏』の兵法が原型となっているのではないでしょうか?
「物部はモノノフ」剣は御神体であり象徴でもありました。
神祇の仕事は、軍事・警察と祭祀。刑罰の執行と死者の鎮魂。
首を斬るのも仕事の内。刀剣を使うのは刃物に慣れていたからでは(笑)
常陸国風土記に中臣と製鉄と剣の話とかも有りますが、剣技自体の
証明にはちょっとなりませんね。鎌足と武道も面白いのですがやめときます。
・・・物部と中臣の神祇なき戦い・・・ 寒っ!
物部と鹿島神宮
ttp://kamnavi.jp/mn/higasi/kasima.htm 物部と香取神宮
ttp://kamnavi.jp/mn/higasi/katori.htm
>>415 ちょっと誤解があるかと思うので書きますね。
>他の土地で直刀が伝来しているからといって剣術の証拠にした例は無いと思います。
私が言おうとしてのは、古墳時代に大和の武器であった直刀
その直刀を使う術が鹿島神社や香取神社には伝わっているということです。
このことから後世ならば、直刀は戦闘員からは廃れているので大和制湾曲刀が出る以前に
技術開発がなされた証拠にならないかということです。
伝来の刀は途中で作られた物でしょうが、社殿に伝えられている他の宝物はその地が栄えていたことを
示す意味で書きました。交流があり、守りの要ならば・・・ってことで。
蛇足としてですが、鹿島七流の時には兵法のメッカとして他流派の伝書にも多く出ています。
そりゃ、刀があればその有効な使い方を考える奴もでてくるわな。
けど、その時代に生まれた技法と呼べるものが、
体系的に伝達されていったかどうかなんて、わからん。
韓国にも、昔は武芸はあったけど、今は空手からの派生の武道とか、
柔道とか、剣道とかになってる。
日本だって、柔道の前の柔術じゃ、当て身なんかもあったけど、
今じゃほそぼそと伝わってるだけ。
空手やキックなんかが当て身として主流だしな。
武術を師匠・弟子の関係で教えて、伝達されてたかどうかなんかわからん。
武具も防具も古墳時代から戦国時代まですっごく変化してる。
京都から関東に殖民する軍事貴族も来る。
平氏とか源氏とかな。
そんなの、わかんないわな。
>>418 鹿島神宮と香取神宮の奉納演武の中に直刀技法が残ってる。
武術研究家とか専門の見解ももちろん、齧ってる人が見れば異質だと解るくらいに。
武器の変節が激しいからこそ、技法のが残ってることが有力な証拠になる。
例えば、直刀未装備時代に発現した武術が直刀の使い方を編み出す必要性は無いよね?
また、柔術・剣道など例に上がってるのは古流を編纂したもの。
それぞれのオリジナルは存続してるのが多いし、実際に道場で教えてる。
また、鹿島に限っては一子相伝などでなく、広く喧伝もされてる。{様々な流派に発展したり}
もちろん、祭事として残ってるのは更に一握りの人達にしか伝えられて無いわけだけど
>神祇官『物部氏』の兵法が原型となっているのではないでしょうか?
管見の限りでは、大津皇子が「多力にして能く剣を撃つ」とされていたのが、
剣撃について記された最初の例でしょう。
古代にも剣撃を使う事はあったでしょうが、しかし物部氏の兵法なるものが
古代の記録に登場する例は寡聞にして存じません。
>常陸国風土記に中臣と製鉄と剣の話とかも有りますが、剣技自体の
宝剣などを鹿島に奉納した話でしょうか。ただ六国史を読んでいても剣や鏡
を祭器として納める事は別に珍しい現象でも無い様です。
鹿島に納められたのが揃って武具であったのには、武神の性格が強く反映し
ているものと思われますが、実際の剣技云々は貴方も仰った通り。
>武術研究家とか専門の見解ももちろん、齧ってる人が見れば異質だと解るくらいに。
こう言われてしまうと、私は見た訳でも無いので返答のしようがありません。
ただ、その直刀技法というのが何時史上に現れたのか、案外新しいものではな
いかという事は、まず疑ってかかる必要があるものと考えます。
>もちろん、祭事として残ってるのは更に一握りの人達にしか伝えられて無いわけだけど
全部ではありませんが、明治2年以降の変化で、社僧は勿論の事、社家も世襲
が出来なくなったり、それまで社ごとに異なっていた拍手や神楽の方式が新規
に参入して来た(元素人の)神主の間で統一されたり、大打撃を受けています。
正直なところ私は現行の神社神道にどこまで伝統があるのか懐疑的であり、ま
してや古代から変化もなく伝えられて来たというのには疑問符がつきます。
そもそも、伝承というのは口碑からしてそうですが、古代を伝える為ではなく、
現代に役立てる為に存在しているものであって、世代や人ごとに変化している
ものであり、用が無くなれば伝えられなくなるものです。
伝説というのが昔語られていて今の若い人が知らないのも、今の時代には生き
るのに必要な知識と見做されていないからです。
直刀自体が消滅したのであれば、直刀用の剣技が伝承される必要もありません。
伝承とは案外厳しいもので、時代が合わなければ自然と消え、変化します。
直刀から古代に回帰しようとした、近世の神道家の作じゃないかという勝手な
想像もしてしまうのですが。
直刀技法の演武には、直刀が使われるのですか。
直刀技法というのは突きのことかな?
突くという動作なんか、別にすごくありふれてると思うが。
>>421 いろいろと話を広げた結果で申し訳ないのですが、
意見を拝見していて根底的な武術に関する感覚認識が異なるようなので、
真にかってながら意見を引っ込めさせて頂きます。
どう説明しても歩み寄れるような応答を今の私ではできないと思いますので。
お答えくださった物を元に、日本史的な認識で応答できるようになったら、また書きますので
申し訳ありませんが、その時まで持ち越しにさせてください。
演武については、祭事の舞の形で行われているものです。
いくらか形骸化していますが名残があるので
>>422 形の一連の動きです。薙ぐような振りや返し方など。
突きもそれぞれの流派で異なるのですが、武板的になるので控えさせていただきます。
介者剣法時代の室町・戦国期に、
古代の剣法が残ってるとは思えないが。
古代の防具じゃ、介者剣法と程遠いだろうし。
陰流は、中国の史書にでてくるように、
倭寇や海賊の剣法だから、素肌剣法的な要素が強いんだろうが。
425 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:44:46
まあ、直刀ならまだしも内反りの片刃刀なぞ、どうやって使うんだろw
【石上神宮 布都御魂の剣】
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%AD%82 さて鹿島神人の武芸に話を戻しましょう。
以前から鹿島、香取の武芸を見比べて疑問だったのが
「香取の長物」「鹿島の杖」でしょうか。
香取が長物なのは元々鹿島七流の槍の流派であったらしいです。
でもなんで鹿島は杖なのだろうか?祭頭祭は棒なのに?
現在鹿島の杖は警察官が使用している長さ120cm程度の棒がそれです。
刀よりやや長く上下の区別無く使用でき、押さえ込んで捕獲するのに便利な武器です。
昔から「捕り方、警察」で使用されてきました。
この杖は正式には「神道夢想流杖術」別名霞流。鹿島のト部家「塚原ト伝」の道統です。
長さ四尺二寸で円柱状の柾目の棒、これは他の鹿島系杖術もほぼ同型です。
ではなぜ鹿島は短棒術ではなく杖術と言うのか?
それは古代の警察官「物部」からの伝承があったからではないでしょうかっ!!(また推測w)
杖は律令制の五刑にも使われますな。使うのは神祇、刑部の物部系でしょう?
426 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:59:54
三島水軍圧勝
>>247 布都御魂の剣を田中普門氏が作成して使ってみたところ
鎌のような感じでやると切れるんだって。
掻き切るという感じで。ただ、すごく力が必要で切断までは困難とのこと
鹿島が杖だというのは携帯に便利だからでは?
また、剣の技法も併用できるし、短槍の使い方もできるなど多彩だから。
柳生杖の例もあるし。
ただし、戦場では微妙なので、警備や護身など平時向きとしての使用になるかと思います。
また、鹿島神宮の二代目フツノミタマノツルギ{大和時代の作}が刃渡り2m25cmと
非常に大きいことも何か関係有るのかも。
大きな物を使えれば小さい物が使えるとかの訓練的な意味合いとか{一般兵の訓練法として}
あ、誤解でそうなので一応。
フツノミタマノツルギは実用には耐えられないのが近年の研究証明されてます。
実際に戦闘で使われた形跡も無いし。
祭事器として作成、保管されている物です。
加えて、鹿島神社は他の神社よりもシャーマニズム的な色合いが強いですよ。
430 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 23:08:54
>>421 神社の作法とかについて質問なんだけど
そういう作法の統一変化とかって伊勢神宮とか熱田神宮とか明治神宮とかでも行われたの?
鹿島神宮は剣道はじめ、その時代時代の武道関係者{政治家含む}にかなり崇拝されてて
他の神社に比べて、かなり格上でシャーマニズム的だと思うんだけど・・・
431 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:16:56
ごく初歩的にカシマについて疑問がある。
なぜ延喜式では鹿島、香取は『神宮』なのか?
なぜ霞ヶ浦を挟んで2つの神宮が設けられたのか?
なぜ鹿島神宮と香取神宮は鳥居や建築様式があんなに違うのか?
なぜ布都御魂(布都御魂の剣)は石上神宮と鹿島神宮で祀られるのか?
なぜ短棒術ではなく杖術と呼ぶのか?
>423
承りました。ありがとうございました。
>430
>明治神宮とかでも
これだけ違う様な気もしますが。近代の伊勢・熱田について突っ込んで調べ
てみた事はありませんが、変化はあっただろうと思います。
統一云々とはまた別ですが、『神仏分離史料』をざっと読んだだけでもその
変化は著しいものがあった。
>加えて、鹿島神社は他の神社よりもシャーマニズム的な色合いが強いですよ。
>他の神社に比べて、かなり格上でシャーマニズム的だと思うんだけど・・・
この辺りの「シャーマニズム的」の指すものが分かりません。
古代的という事ですか。中世・近世を経て遺しているとも思えませんが。
何から「強い」とか「格上で云々」と思われたのでしょうか。
時々見られますが、現代の祭儀から古代史を論じるのには無理があります。
その間に中世・近世の千年以上の歴史を挟んでおり、当然変化もしている訳
ですから、古きを知るなら古代からの資料に直接あたるしかありません。
「古代から伝わっているという伝承」、「古代的に見えるもの」といったものは、
そう言われている、そう見えるというだけです。
433 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:41:59
>格上で云々
鹿島神宮が「神宮」の社格となるのは藤原家つまり中臣神道が藤原不比等(史)以来
事実上古代の国家神道となったからではないでしょうか?
藤原家の氏神春日大社は鹿島より迎えた物です。
中臣家は鹿島と関わりが深く鎌足は常陸出身説が一応あります。
鎌足は出生時に白狐より良く斬れる「鎌」を託されたという伝説があり
そこには武器を祭器とする思想が強かったと思われます。
>>432 うまく説明できないけど鹿島神宮はどうも他の神社と毛色が違うように思えるんだよね
祭事にしろ、信仰の対象としている人達といい。
自分は奈良の住んでいて観光で鹿島神宮に行ったんだけどかなり異質な気がしたよ。
他の関東の神社はそうでも無かったのに
435 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:45:29
シャーマニズムで思い出したが鹿島神宮には明治まで『物忌さま』という
一生独身の女の神職が七歳ころから神の近くで奉仕していたそうだ、
最後の物忌さまの名前が「ト部佐玖子・藤原登玖子」だ
ト部と藤原、これは偶然か?
ちなみにト部吉川家からは塚原ト伝が出ている。
ト伝は吉川家伝の「鹿島中古流」(鹿島の太刀)を学んでいる
鹿島中古流の成立ははっきりしないが室町中期以前から有るのは確かだろうな。
436 :
430:2006/03/04(土) 18:05:28
>>432 「シャーマニズム的」というのを説明するのはちょっと困難なんだけど・・・
他の整然とした神道とは異なり独特だという感じかな。
信仰対象も鏡を通してとかで無く、敷地内に安置されてる石とかもっと直接的というか。
>>423が書いてるけど独特の「武」の感覚に適う儀式や場所・・・としか言いようがないかな
武芸者が修行のうちに到達する宗教観というか・・・俺もやっぱそれ以上の説明が思いつかないや
肌で実感できる神を祭ってるという意味でのアミニズム的な感覚
格上と言ってるのは武神信仰でも最も信仰者の数が多いこと
正式な道場{武道関係含む}だと神棚に祭られてるくらいの普及率だし、権威ある演舞会が行われるし。
とりあえず、明治神宮奉納演武より重みがあるという感じだね
437 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:16:30
で、やっぱり源平武士の剣術は適当だったの?
文句ばかりでいい加減怒られそうですが。
>鎌足は出生時に白狐より良く斬れる「鎌」を託されたという伝説があり
横井清先生が結論に至らない論文というか小文を書いてらっしゃいましたが
あの伝承は確か中世に成立したものであったかと。
それと、「国家神道」という言い方は誤解を招きやすいと思います。
>434
>436
すみませんが、主観や現代の演舞から判断されたものではなんとも。
>正式な道場{武道関係含む}だと神棚に祭られてるくらいの普及率だし
これは間違いないと思いますが、古代よりは近世をあたるべきだと思われます。
>敷地内に安置されてる石とかもっと直接的というか。
要石は近世には広く知られていましたが、石そのものが神体という訳でもなく、
中世の縁起で特に取り上げられていなかった様に思います。
(神体という発想自体、鹿島成立当時には無かった様に思いますが)
やはり、古代というよりは近世信仰の産物かと。
現在も続く鹿島信仰の隆盛は確かなものですが、現況から遡れるのはせいぜい
近世ないしは近代(明治以降)の状態であろうと思われます。
境内といい、神社側の主張する縁起・信仰といい、一変している訳ですから。
439 :
430=436:2006/03/04(土) 21:25:19
>>438 うん、こういう反応されると思ってた{笑}
これ以上はどう説明したらいいのか・・・俺もこれ以上は無理だわ
武芸について学問以外である程度の見識を持たないと理解しずらい物があるから。
形の中での技術保存とかは、技術体系一般の性質から証明できるんだけど、
日本史的にはうまく説明できないからなぁ・・・
とりあえず、学問的に言えるとしたら神棚に祭るとかは江戸期の各地で道場が成立時から
信仰について各系統流派で保存されているものと一致してるということくらいかな。
その保存されてることについては古文書としてそれぞれ伝えられてる。
縁がある所{流派が普及してる大学や武道大学関係の図書館等}では訳のされてる物があるよ
って、ことで俺もここまでで引きます
440 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:52:40
>>437鎌倉時代前には京七流や鹿島七流が成立してるよ。
我流でも伝来の我流ってのも軍記物の一部に出てくる。
坂東武者の集団訓練とかも何かの資料で出てたはずだし
>>437 再出になりますが、『保元物語』の源為朝、『平治物語』の源義経が打ち物に
秀でていたとされています。両者は共に13世紀頃の成立。
ただ、具体的な訓練内容は不明であり、体系化されていたかも分かりません。
鬼一法眼による京八流や鹿島七流の話も、中世前期まで遡りうるかといえば
伝説の域を出ない。鬼一の具体的な描写が分かるのは『義経記』からだと思
いますが、同書の成立は近世既に言われていた通り足利義満の頃。
以後盛んに読まれ、語られもした作品ですが、その後武芸が成立し、源流へ
の権威付けの為に成立した説でしょう。
鬼一は『六韜』を所持して超人的な力を備えていたとされ、その縁者には北
白川の印地打ち(但し印地打ち自体は正規の武芸ではない)もいたという事
になっていましたから、ルーツにするには都合が良かった。
実際に北白川の住人や陰陽師との係わり合いの中で成立した面も考えられま
すが。
>>439 私も武芸についてはほとんど知る事の無い身ですが、お付き合い下さり、あ
りがとうございました。近世の道場に関するお話に興味がひかれました。
補足・訂正を二つばかり。
・要石について。『沙石集』に右大弁入道光俊が鹿島へ参詣した際、土地の
ものに二尺ほどの石がある筈だがと問うたところ、竹やぶの中で土に覆われ
たものを見せられ、落涙してこれは大明神が時折座禅をされる石であり、か
の『万葉集』に登場するのもこれだと言ったという事です。
実際に『万葉集』のそれと同一かは分からず、信仰対象としても今ほど知ら
れてはいなかった様ですが、少なくとも都の知識人の間では歌枕の様なもの
として扱われており、本地成立に伴って座禅云々の縁起もついた様です。
なお、この話は異本によっては掲載されていません。
謡曲「要石」があるそうですが、未見。
・鹿島の祭神が現在のものとされたのは、『古語拾遺』が最初の様です。
最初は単に同地の大神と呼ばれていたのに、記紀の神名を加えたらしい。
大神→記紀神名→鹿島大明神→記紀神名と変化していたという事になります。
443 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 04:08:35
さて、誰も相手にしてくれないけど、しつこくモノノベカシマ説続けますw
これが済まないと、まだまだ鹿島武芸の話には行けないですからね
・・・ふっふっふつ布都布都w
では鹿島大神のイワクラ「要石」(香島大神の石の御座(みまし)
についてですが、本来はこっちが鹿島の主神だった様です。
つまり鹿島神宮の極相林のず〜と奥の「奥宮」が昔の本宮で
「要石」はその南奥に有ります。ちなみに鹿島の宮はどちらも北向きです
ついでですが「要石」については建長八年に藤原光俊が
「尋ねかね今日見つるかなちはやぶる深山みやまの奥の石の御座みましを」
と詠んだそうです。・・・やはり藤原。
さてここで「要石」と「剣」と物部ですが
物部氏の祖神社「石上神宮」では主祭神は香取と同じ布都御魂大神。
本来、石上神宮に本殿は存在せず、拝殿の奥の禁足地を「布留高庭」と称して
祀っていた・・・・つまり鹿島要石に通じる祀り方ですな。
布都御魂とは剣がモノを「フツ」と斬る機能、または剣そのもの
また物部氏は鹿島の神「建甕雷神」の帯びていた剣「平国之剣」
を奉祭する氏族でもありました。
『垂仁紀』には「剣一〇〇〇口を作って神倉に納め」と、あり
奉斎したにしては、ちと数が多いので古代の武器庫ではなかったかと言われています。
この大量の剣は何に使ったのでしょうか?
・・・たぶん続くっ!(笑)
俺は剣道とか一切やったことなくて、小学校から高校まで近所の空手の道場に通ってたけど、
神棚あったよ。
香取と天照と鹿島の名前の掛け軸かかってたし、
正月の最初の稽古の日は鏡餅割っておぜんざいにして、
道場生全員で食ってたよ。
じゃ、空手は古代の東国から伝わる武術かっていうと、
沖縄出身。福建省の白鶴拳ってのが源流らしい。
三戦って型が空手にあるけど、白鶴拳にも、同名で、
同じような型があるらしい。
けど、そういう知識がない、伝承されてないと、
空手の道場に香取大明神・鹿島大明神の掛け軸がある。
神棚がある。
古代日本の格闘技法が空手に伝わってるはずだ!
って推測できる。
それと同じ危険性があるねって話だ。
>>443 >ついでですが「要石」については建長八年に藤原光俊が
>442の「光俊入道」がそうです。
>やはり藤原
社会的地位のある人数の多い姓ですし、たいした意味は無いかと。
>についてですが、本来はこっちが鹿島の主神だった様です。
>つまり鹿島神宮の極相林のず〜と奥の「奥宮」が昔の本宮で
この辺りは、どちらの史料に出て来るのでしょうか。ご教授願います。
446 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 14:19:12
>>445 ああ、「要石が主神」と書いてしまったのですな。これは失敬。
磐座=信仰の本来の対象程度の意味です。あまり深く考えてませんでしたw
【磐座考1】
ttp://www.jomon.or.jp/handa1.html 当方はタダの武道家で、宗教、歴史は素人ですので
読み違い勘違い基地外もいろいろ有りますがその辺はご容赦をw
とりあえず鹿島『要石』の説明看板から抜粋
【要石説明看板】
ttp://8.pro.tok2.com/~escudo2000waka/drive01.htm 『神世の昔香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも、
或いは古代における大神奉祭の座位として磐座とも伝えられる霊石である』
う〜ん「奉祭」とかの意味、辞書では出てないんですよねw
毎度申し訳ないですが良かったらまた本文の解説もお願いします。
>442の「光俊入道」がそうです。
おおっ?同一人物だったのですな。確かに名前が同じですね(汗) たびたび失礼。
でも逆に疑問がありますね。
「尋ねかね今日見つるかなちはやぶる深山みやまの奥の石の御座みましを」
この歌は442に提示して頂いた 『沙石集』の記述と照らし合わせると
光俊が最初から「要石」を目的に探し廻り、ついに見つけて落涙したともとれます。
なぜ本宮ではなく要石だったのか?ですね。
それではモノノベカシマ、そして十一面観音と熊野・愛州影流の謎へ・・・続くっ!(w
>>446 ご丁寧な解説、ありがとうございます。頭が下がります。
>或いは古代における大神奉祭の座位として磐座とも伝えられる霊石である
上段は『万葉集』からの推定、下段は後世の推定と思われますが、祭の際に
神が下りて来る場とされていたのではないか、という事ではないでしょうか。
>なぜ本宮ではなく要石だったのか?
藤原定家などの歌論書を読むと分かる様に、当時歌を説く際にはまず『万葉
集』が、次いで『古今和歌集』が特に重視されていました。
古を辿ろうとする場合、それらに関連した場所を見る事は歌人の夢。
歌論書『袖中抄』では、遠く陸奥の風物なども語られています。
僧尼は中世には身軽な(束縛の無い)身で、『とはずがたり』、『十六夜日記』、
『海道記』などの作者は僧体でした。
そして、皆一様に万葉、古今、白詩を引いて縁の風物を楽しんでいます。
光俊は定家の弟子で、勅撰集に百六首もの歌が入っている著名な歌人でした。
それゆえ、歌に縁があるというので確認を急いだものでしょう。
社殿よりは自然物の方が歌の題材となり、興味も向いた。
「あの」光俊の話だからこそ、『沙石集』に記されたものかと。
しかし、鹿島なんて一生相手に出来そうな相手をよく知りもせずに深追いし
てしまったのは迂闊であったと今頃後悔して来ました・・・。
448 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:45:34
そういえば、要石についてで思い出したけど、茨城{水戸}の伝説だと
あの石に武甕槌大神が降臨したとのこと。
加えて、あそこには鹿島地域の地震を起こす大鯰が下に居て、それを降臨と共に封じたんだって。
なので、あの地域は地震が少なく、昔から地震被害にあって無いとのこと。{プレートの関係でならないと科学的に証明済み}
地震を納めてくれたことによってあの地域は栄え、大神に服したんだって。
また、要石は地表にあるのは飛び石くらいなのだが、地下には大きな塊であることが調査でわかってる。
これは昭和中期の科学的な地質調査で解ってるとのこと
このことは江戸時代には既に有名だったらしく、水戸光圀が発掘調査をしようとしてる。
その時の記録だと数名がかりで休み無く掘った所、全容が一考に見られない。
かなり深く掘った所で日がくれたので休息をいれることにした。
しかし、次の日の夜明けには穴が姿形も無く、掘り起こす前の戻っていたとのこと。
繰り返すこと数日、諦めることとなった。
この話は民話として伝わってる他、光圀の日記か伝記を集めた物に載ってるとのことです
449 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 18:59:12
>>447-448 レスありがとうございます。皆さんの力で鹿島武芸成立の謎に少しでも迫りましょう!
・・・と、思ってるのは俺だけか(w
>古を辿ろうとする場合、それらに関連した場所を見る事は歌人の夢。
なるほど、西行と芭蕉みたいなモンですな。うーん言われてみればやりそうだ。
あと、たびたびの修正で申し訳ないんですが>443の鹿島神宮「奥宮」の部分『間違い』でしたw
鹿島も昔は伊勢神宮のように20年に一度、本殿と奥宮を式年遷宮したそうです。
つまり本殿の位置が20年ごとに入れ替わった。(現在は固定されてる)
どうも「奥宮本殿」の記載を「奥宮が本殿」と勘違いした様です・・・切腹っ!!
450 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 19:16:33
ついでに鹿島の『杖』について珍説を1つでっち上げてみました。少し電波ネタです。
常陸国風土記より
「またち」は、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。
そして山の入り口の境の堀に標の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし
・・・略・・・今日から私は神司となり子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げ
ますので・・・・(略)」と夜刀の神に申し上げて・・・
ここで「またち(人名)」は山の神に「矛」で立ち向かい「山の境界」の
しるしに『杖』を立てたとあります。・・・なんで『杖』?
柳田国男は境の神に献じられる忌杖は、内なる聖域を外部と区別する印であるとしました
【こけし・杖・棒における象徴】
ttp://homepage3.nifty.com/bokujin/tsue.htm これら象徴を読むさい鹿島大神が『境界の神・塞ノ神・防備の神』と呼ばれる事も一考すべきでしょう。
東国三社は鹿島、香取、息栖で、息栖神社の久那斗神は、
黄泉の国の追っ手から逃れるため、イザナミの投げた杖から生まれた神様です。
「要石」は黄泉神話の「千曳の岩」の象徴とも言われています。
個人的には短棒術ではなく杖術と呼ぶ事に神道的思想が感じられます。
・・・しかしこれは歴史と言うより民俗学かw
こんなんで果たして鹿島武術の証明は出来るのか?
次回ヤマトタケルの剣術、武芸考証、白鳥伝説と常陸国風土記考へ続くっ!(w
>しるしに『杖』を立てたとあります。・・・なんで『杖』?
柳田の場合、超歴史的な所がありますが、この場合は首肯して良さそうです。
既述した様に、鹿島と香取が東国の、宇佐八幡が西国の前線の防備を司る
為に現地に祀られた武神であって在来神では無かったとする説があります。
奈良〜平安時代前期まで続いた蝦夷・熊襲と新羅が対象となる。
八幡が応神天皇霊とされる様になったのは、10世紀頃になるらしい。
『古語拾遺』で鹿島の祭神が確定する(される)のもその頃になりますが、元
々は記紀由来の神でも在来神でも無かった様です。
ただ、この場合の杖は武器には直結しないでしょうし、現存する杖術の起源
と言う事も困難だと思われます。
杖術という名称が「神道的思想」的と言えるのかも分かりません。
(要石が千曳岩の様なものであったのかも分かりません)
武芸はともかく、武器というか警備用具としての杖は古代から広く見えてい
ましたが、それと境界用の役割とはまた別な問題と思われます。
上記の杖の機能は鹿島という土地に固有に存在した訳ではありませんし。
ただ、『常陸国風土記』の話は山上と麓を分けた例であり、息栖神社の久那
斗神が何時頃歴史に現れているのかが問題になりますね。
鹿島・香取と期を同じくするのか否か。
453 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 17:28:38
>>450 おお、続き物だ!楽しみにしてるんでよろしくです。
まとまってるのが少ないのでWIKIから棒術について杖術と言う場合もあるとのこと
長さによってわかれるそうなのだけど、流派によって変化する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%92%E8%A1%93 後世の武術からするとこの杖を学ぶことは、他の武器を扱う基礎が身に付きやすく、
戦闘訓練には最適とのこと。特に間合いや武器の運用を身につけるには効果的だとか。
象徴についても、八百万の神を祭る時の祭事器の性質も含むようだよ。
また、祭事の踊りに武術の動きを隠して保存するというのも神社関係に伝わる武術にはあるんだって
とりあえず、武道研究家の本とかには、多くの場合、伝書の資料と共にかかれてたよ
454 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 21:19:25
>杖術という名称が「神道的思想」的と言えるのかも分かりません。
いえいえ、古来『杖』には「魔を払う、結界を造る」の意味が有る所が
神道的じゃないかな〜という程度の事を回りくどく言っただけですw
実際の所はあてずっぽうですw
この「結界」「払う」とは戦の「前線」も意味します。敵をくい止める場所ですね。
おそらく蝦夷に対するヤマトの最終防衛ラインの意味でしょう。
さて倭武天皇こと日本武尊(ヤマトタケル)ですが
出雲建と友人となったふりをして水浴びに誘い、出雲建の大刀を
木刀にすり替えたうえで、「いざ刀合はさむ」と言って「太刀合わせ」をしました。
つまり当時、友人同士で剣対剣の「立合い」が行われていた
可能性が有ります。しかも真剣かよ?!
後の「武者遊び」でしょうか?現代で言うと剣道やスポーツチャンバラかな。
かく撥ひ治めて後、日本武尊は帰還します。
この場合の撥[はら]い治めては武力を振るって倒すことだそうです
古代鹿島神宮では「祓太刀」という剣術技法が作られています。
次回、倭武と海部水軍。鹿島香取「一の鳥居」の謎に続く・・・かな?
455 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 21:27:28
間違い!
×撥い治めて
○撥い=武力を振るって敵を殺すこと
でも、神社のお祓いが撥いと同じ意味かどうかは知らないがw
456 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 02:18:08
>>404 >ただ密教色の濃い香取神道流に比べ鹿島流に仏教色の無いのは確かに気になりますね。
密教色の濃い香取神道流が ”神道流”なのに
神道色の濃い鹿島流が”神道流”を名乗らなかったというのは面白い。
457 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:10:48
鹿島流というのは剣は”神流”あるいは「神の御陰」として”神陰流”を名乗る。
「お陰参り」「お陰さまで」の“陰”ね。
後に熊野水軍の愛州影流を取り入れ“新陰流”と変わる。柳生新陰がこれ。
単に“鹿島流”というと弓の古流で、こちらは既に絶えたらしい。
あまり詳しくは知らないが神道に仏教色が加わるのは鎌足、不比等以降。
古神道が復活するのは平田、黒住以降ではないかな?
神道の仏教色については各派でまちまち・・・まあ、神道ってそういう物w
458 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 17:50:28
塚原ト伝は鹿島新当流(しんとうりゅう)と呼ばれた
459 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 17:59:54
具体的に剣術を「定義」してみよう。
まず一番の問題は『体系的剣術である必要があるのか?』だろう。
アイヌや神武天皇は日置流や太子流も知らないので弓は撃てなかった
とは言えないし戦況全体に体系的流派はたいして意味もない事だからだ。
また『体系的剣術=完成された剣術=強い』でもない。
これは幕末、ほとんど我流に近い薩摩薬丸自顕流が剣術各流派をことごとく撃破
していった事を考えればよいし、戦国期ろくに剣も知らない雑兵が刀や脇差しで
戦った事を考えても体系的剣術が実戦で絶対必要なわけではない。
そこで「剣術の定義」だが
@【技術が明確で他者へ伝承可能である】
(どのポイントを狙えば致命傷を与えられるか?刀はどの様に使用するか等の法則がある。)
A【複数の技法が確認される】
(真向、水平、袈裟、切上、突、払、打落、なやし、付け、・・・etc)
B【技名・流儀名が有る】
(これに関しては自己申告なので、記載されているとは限らない)
C【戦術的思想、実用性が見受けられる】
これら4つの内2つ以上あてはまれば特定技術「剣技」であると仮定して良いのでは無いだろうか?
460 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 18:58:00
>>458のに補足。誤解しそうなので
鹿島神流を元に塚原卜伝が新しく興した流派が、鹿島新当流{別名:卜伝流で現存}
鹿島神流も別個に存在してる。
461 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 19:28:42
459の定義に次の例文を当てはめてみる
【陸奥前司 橘則光、人を切り殺しし語】(宇治拾遺物語132・今昔物語集 23-15抜粋)
「或る夜、橘則光が大宮通を歩いていたら3人の盗賊が追いかけて来たので、
身を低く伏せて見ると弓の影は見えず太刀が光っていた。伏したまま逃げたが
追いつかれたので、とっさに脇へ避け、男が前へつんのめったのを頭から切り裂き、
第2の男が走ってきたので、急にしゃがみこんで、転倒させたところを頭を切り裂いた。
あわや第3の男が走り込んで斬ってきたので刀を鉾のように遣いカウンターで敵を突き通した。
太刀の束を返しければ、相手はあおのけに倒れたので太刀を持つ手を肩ごと切り落とした」
長いので適当に誤訳してあるw素人なもので御無礼。
ちなみに橘則光とは清少納言のダンナの事。
B【技名が有る】については当然だが見あたらない。問題は@とAとC
462 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 19:30:12
・『身を低く伏せて見ると弓の影は見えず・・・伏したまま逃げたが』
これは武道伝書や技法に見受けられる「夜太刀の目付」である。また、
身をひくくしたまま走るのは訓練された動きと思われる。
幕末、匍匐前進を知らない幕府軍は銃弾の餌食となった。
よってC【戦術的思想、実用性が見受けられる】
・『とっさに脇へ避け・・・・・しゃがみこんで転倒させたところを頭を切り裂いた』
これは2人とも同様の技法で殺されている。つまり剣道でいう「面打ち」
一撃で倒してる所を見ても訓練された動きと思われる。
よって@【技術が明確で他者へ伝承可能である】
ちなみに急にしゃがみこんで転倒させる技法は合気道に有る。
・『刀を鉾のように遣い』
これは微妙だな?ただの「突き」と見るべきかそれとも太刀の棟に手を添えた
「添え手突」なのか?原文訳だと
・『やつも切りけれども、あまりに近く走りあたりてければ、衣だにきれざりけり』
とっさの事とはいえ実に紙一重に「迎え付き」している。形は不明だが
一応A【複数の技法が確認される】ではないだろうか?
以上の事から平安末期には体系されてはいないが実用的「剣技」は
十分存在したと思われる。
正直、現代の古武道家より則光の方が遥かに強いのは確かw
463 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:48:17
>>459 剣術の定義については異論は無いのですが、
>薩摩薬丸自顕流が剣術各流派をことごとく撃破 が後々誤解を招きそうなので反応しておきます。
ちなみに、この実戦での不必要性には、戦国武将や足軽の戦いぶりや戦記物から同意。
武器の扱いは戦場で斬り覚えろとかいう話もありますしね。
また、『体系的剣術=完成された剣術』の部分までも同意に思います。
{「完成された剣術=強い」は剣術の流れを追っていくと言えそうなのでここでは不同意}
おそらくこれは、後の>体系的剣術が実戦で絶対必要なわけではない
を権威づける意図で書かれたのだと思いますが、
>薩摩薬丸自顕流が剣術各流派をことごとく撃破 を裏付ける物が私が知る限り存在しません。
なので、できうれば注意書き等をお願いします。
以下、それを否定する理由に付いて書いておきます。
自顕流が他流派より強いという証拠をあえて上げるすると、
戊辰・西南戦争の記録、薩摩の刺客による暗殺話、桐野利秋の逸話あたりかと思います。
しかし、これらの記録は一部の鍛錬者の有名化に伴う誇張や{特に講談関係からの流布は酷いことになってます}
喧伝による認識の変質など、実像とかけ離れて認識されていることが多いので証拠としては不十分に思います。
また、打刀での戦いにおいては技術的に不利というのも多くの武術研究書で書かれていますので、どちらかと言うと否定的になります。
{元々、野太刀の剣術なので、打刀では力を発揮しきれません。さらに、幕末もその剣士は長尺の刀{太刀?}を使っていたのという話があります}
464 :
463続き:2006/03/07(火) 21:48:53
加えて、道場での正式な剣客同士の試合、道場破り等による剣術の競い合い記録や伝承が一つもありません。
他流派はもちろん、自流派自体にも・・・
また、幕末の京都での話が本当でも各流派を正統に納めた剣客は京都には皆無。
居た一握りも不意打ちや集団で襲われたりなので一対一というのには疑問が残る。
故に、剣術の優劣というよりも、使い手自身の技量が大きな比重と成ってしまい、「剣術流派を撃破」とは言えないかと。
ただし、戦において自顕流修行者が他の流派の修行者に勝っているということは事実だったと考えられます。
というのも、自顕流は他の大半の流派と異なり、日常の護身剣法でなく、戦場剣法の性格が非常に強いからです。
我流に近いとありましたが、これも訓練体系がなっており、自己修練が重要とはいえ、その一貫にしか過ぎません。
自己修練に加え、集団での教練もあったそうで、兵隊剣法{集団同士の戦い用}としては無類の強さと言う話です。
現在もかはわかりませんが、薩摩出身の有名な剣道家によると薩摩の青年団では地域で集団修練があったそうです。
{八段の先生方の自伝に載ってます}
465 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:59:29
長文ついてでに、剣術に関して
剣術流派といっても実際にはその多くが総合的な武器を扱う武術です。
有名所では、坂本竜馬が江戸三大道場の北辰一刀流の長刀{薙刀}の目録などです。
なので、剣術について体系化されて無いからと言って、武術体系がなされていないと考えるのは早計に思います。
また、
>>464でも書きましたが、剣術・武術にも兵法家単体用のものと兵隊用のものが存在します。
この辺も論じる際に性質が異なるので注意が必要かと思います。
ちなみに、鹿島の太刀など古代の武術は兵隊用武術だったのでは無いかと専門家は言っています。
>>459 @〜Cの要素を総じて「体系化されたもの」と呼称致しました。
鹿島についても特定の形が伝承されているか否かを問題としたものです。
剣を用いた技術自体は、剣撃があれば当然必要とされて来る。
しかし、この場合で言えば「鹿島の太刀」に相当する様な明確な意識と様式を
備えた上でその地域に伝承されていたものの存在が、つまり他の時代や地域
には無い特色が認められたのかという事がネックになる。
剣や弓を扱うのであれば、どこでも経験から生じそうな教訓レベルでは対応
策が語られるでしょうが、それなら鹿島を特別視するには及ばない。
打ち物やその修練自体は中世前期以前から存在したとしながらも、「体系化」
されたものとしての剣に拘るのは、そうした理由によるものです。
剣を使った技術が語られる事自体は、剣が使われていれば当然生じえたので
あり、その事は体系化以前にも言えますが、特にどの地域に何が存在してい
たと言えるほどの分化・確立はしていなかったと思います。
>>461 伝承される様な性質のものではなく、有体に申し上げれば日本でなくても
剣を振るっていればどの文化圏でも生じそうな行動であるので、この例は
特別視するには及ばないと思っていたのですが、どうでしょう。
伏せて逃げるなどは弓矢を携えた賊が多く出没していた平安期の京都では
使えそうな話ですが、当時の都人には常識の部類であったのやも。
身のこなしが詳細に描写されている点は興味深いですが、京童との刃傷沙
汰は『古本説話集』等にも出て来るもので、切りあいの頻発していた当時の
京都で知られた教訓譚を基に語られた話でしょうか。
こうした対応が存在していたという点では、この説話は興味深い例です。
(清少納言の兄が殺害された説話が欠話になっているのが惜しまれる)
ただ、特定の地域や家系に伝えられる形での剣の伝承は無かった様で。
家ごとに伝えられた「故実」の中には合戦時に取るべき戦い方も出て来ますが、
騎射の為の心得であり、中世前期には剣の心得は出ていない様です。
義経や為朝が打ち物を能くしたという話も、どうも正規の武士に対するアウ
トロー的な性格が両者に見られていたからではないかという気もする。
468 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 22:44:22
このスレ的には源平期に「使える剣技」が存在すれば問題ないのだが。
469 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 22:53:01
鹿島が成立してないと京八流まで持ち越しに成っちゃう。
こっちは鎌倉時代直前になっちゃうから今の話は重要だったりする。
470 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 23:06:06
いや戦術なんていざ合戦が始まると3-4年でガラッと変わっちゃう時があるから
100年単位で固定化された戦法にこだわる必要はない。
剣に限れば源平前後の時期の使用レベルがだいたい判れば十分。
471 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 23:30:53
体系化された剣術の有無がわかならないと、ただ武器を振り回してた的な話になっちゃうけど・・・
極端に言えば、腕力が強い奴は強いって所かな
体系化されていれば、そこがひっくり返ったりするけど
472 :
天璋院篤子:2006/03/07(火) 23:32:38
浅野ゆう子が勝利する。
473 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 23:40:59
体系化があれば戦闘について画一化とか、戦法の考察までいけるんじゃないの?
474 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:01:07
実際の所、技術が同レベルなら腕力が強い奴は当然強い。
名のある剣豪だって戦場では状況に応じて違う武器使うからね。
ただし、武道に限らず小柄な強者は一般的に存在するけどね。
また武芸と合戦は絶対比例しているワケでもない。
橘則光の例一つ見ても見る人が見れば当時の剣の技量の高さがわかるよ。
暗闇の中襲われて一度に三人全て一撃で倒した剣客なんて何人思いつく?
475 :
女の園:2006/03/08(水) 00:02:31
浅野ゆう子の勝利
476 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 13:30:45
戦国がEはがねのよろいなら、
源平はEうろこのよろいくらいだろう。
477 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 17:40:13
>>474言いたいことがわかんないんだけどw
>>471が言ってる「武芸の体系化あり」が「修練者の技術レベルの差あり」となり、
「腕力勝負ではなくなる」→勝負の多様化では駄目なの?
また、伝承には尾ひれが必ずつくのでそれをそのまま信用するのはどうかと思うよ。
強いって言うのはあったろうけど
478 :
皇室は滅びろ:2006/03/08(水) 17:58:50
浅野ゆう子の勝利
479 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:22:49
>477
ポイントは平安末期には「室町以後の体系化剣術」に引けをとらない実用繰刀法が
訓練されていたのではないか?ということ。
目録も免許もなく、ひたすら基本技を練り上げる、そういう実用流派が
近代剣術より実戦で劣っているとは思えない。
剣術も奥伝に行くと以外とシンプルな実用技を極意としてる例が多いからだ。
「技術の多様化=戦場で強い」とは限らない。
480 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 23:46:12
>>479 了解。
>「技術の多様化=戦場で強い」とは限らない。
これには同意。ちなみに、私が言っているのは「技術の発達」=「技術の多様化」ではない。
私の言う「技術の発達」とは、より武器の理、武器の適切な使い方の技術ということ。
例で言えば、一刀流の「切落し」という技。刀が刃から峰へVの字になっているのを利用している技。
加えて、最小限最短の動きで切断できるように発達している。
他にも槍ならば、その進退を早くするために構えや持ち方、握り方などが研究発達している。
故に、「技術の発達」によってより効果的な、武器の性能を活かせるという意味。
これの説明だと体系化云々の話は納得できる?賛同は別として{個々の見解があるから}
481 :
480:2006/03/09(木) 00:02:40
>>479 もうちょい別の言い方があったので付けたし。
>ひたすら基本技を練り上げる
この最も「武術の基礎となる技」の編纂こそが「技術の発達」
振り被って斬る。
武器を使う上の基礎だが、その振り方は千差万別。
それから時代ごとに「最も有効と思われる物」を抽出・構築・研究した積み重ねてきた。
この工程が増えれば増えるほど、より基本となれる武器術になる。
で、この工程を続けて行った、続けて行くための方法が体系化ってこと
・・・・余計わかりづらい?
482 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 00:36:50
>480
う〜んその場合「技術の発達=技法の細密化」ではないだろうか?
「切落し」で例えれば、技法的には「打落とし系統」に属する技でしょ?
「敵攻め太刀の切っ先を、打合わせて外し、そのまま斬り込む(突く)」という
技法なら他流にも同様の技は当然ある・・・異論はあると思うけどw
一刀流の場合、その技にさらに「物打ちの鎬で刷り込む」というテクが加わる。
つまりより少ない労力で効果的になる様、刀法に工夫の跡が見られる。
これは「技術の細密化・効率化」ではないだろうか?
時代的にも「個人勝負」に特化した結果の技法だと思うのだが・・・
念のため言っとくが、べつに一刀流が戦場で使えないと言ってるわけではないぞw
483 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 00:49:50
体系化された剣術は、鎌倉の頃も戦国の頃も武士にとっては一般的ではないでしょ。
実際に武功を上げた武士はだいたい自己流に毛が生えた程度のもの。
各家で基本を教わって、後は戦場へGO!
言ってみれば自家製味噌をつくるようなもので、市販の味噌はない。
戦国末期〜江戸初期には、武芸者VS武功者の武士の試合の逸話が結構あったはず。
戦場斬り覚えの武功者からすると、剣術兵法を馬鹿にする気持ちとその技術への興味と
両方をもっていたようだけども。
ちなみに、武芸者と武功者の試合はあまり噛み合っていない。
というか勝敗の考え方があまり噛み合っていない・・。
484 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:20:19
>>483 そこだよね話の核心は。一般的武者が「剣の職人芸」を必要としたのかどうか?
485 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:20:24
>>482 「剣術の発達」=「基礎技の普遍化」という言い方だとどう?
書き方のせいか、意図がまだ伝わってない気がするのでw
まあ、剣術じゃないから一刀流に関しては触れないことにするね。
かなり話がずれそうだから。
>>483>体系化された剣術は、鎌倉の頃も戦国の頃も武士にとっては一般的ではないでしょ
これにも同意。武功者にとって一般的ではない。
鹿島の話が煮詰まれば真偽がわかるのだけど、この体系化された技術は一部の武士に伝播してるということ。
蝦夷討伐の際に祭事として、武器の扱いを学んだという話がある。
で、その扱う技術が武士、鎌倉・戦国の武功者の祖先に伝播し、武器の発達と共に各基礎になったのではということ。
また、武芸者の多くも戦に参加していることから、「武器の扱いに長けた兵」として登場してる。
この一部の強兵の戦い方を説く意味でも体系化の有無は必要だと主張してる。
想定が一般の平均的な兵としての武士でなく、特定の強い武士ということ・・・対決を想定する対象が違うってこと
「例外の部分を語るにはどうすればいいか」というのが私の体系化について話すべきという主張の理由。
平均的な所の対比だと既に一度話が破綻してるので
ちなみに>武芸者と武功者の試合はあまり噛み合っていない。 というのはどういう風に噛み合ってないの?
後世の武芸者の話から幾つか考えられそうなんだけど特定できなくて
486 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:25:02
ん、話を一般の武士を対象にするの?
するとしばらく続いた武器の話とか武芸の話はほとんど無効化される。
どういう話の向きにするか決定しないと何も言えないのですまんが、それを示して欲しい。
複数でそれを話すと各自の主張の言いあいで終わっちゃうから
487 :
モンゼット公爵夫人:2006/03/09(木) 01:29:37
武士の頂点は浅野ゆう子
488 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:49:37
なんか変な流れになってるなw
>>482 とりあえず、それを読む限りだと貴方は武術の基礎という概念がはっきりしてないような気がする。
まあ、技術論は禁止のようだから言えないけど、一刀流系統の剣術の基礎は切落しそのものだよ
基礎であり奥義という
489 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:59:02
>>482 その説明だと切落しを新陰流の合致という技と勘違いしてるんじゃないか?
一刀流の基礎打ちそのものが切落しになるのだが・・・・なんかいろいろ話がずれてる気がする
490 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 02:05:11
>>485 >ちなみに>武芸者と武功者の試合はあまり噛み合っていない。 というのはどういう風に噛み合ってないの?
後世の武芸者の話から幾つか考えられそうなんだけど特定できなくて
有名なところでは、
数々の戦功を上げた黒田藩の家臣(名前忘れた)が、ある武芸者と木刀で試合したときに、
武芸者の木刀を片手で受け止めながら、もう片手の木刀でその武芸者を突いた。
当然、武芸者は「そんなやり方があるか!」と怒る。
後日、その家臣は武芸者に自分の傷だらけの鉄篭手と刃がほとんどついていない頑丈な戦場太刀を
みせて
「戦場ではいつもこうだった」
と言ったとか。
篭手を頑丈にして相手の攻撃をそれで受けながら、もう一方の手にもった太刀で突き倒す、
という単純な戦法で生き残ってきたというお話。
とかくテクニックに走りがちな武芸者と、戦場で勝てばいいんだろ、という戦場主義の武士では
噛み合わないというかなんというか・・。
ただ、時代が進むにつれて、戦場の武士も次第に兵法の技術と稽古の大事さに感化されてきたようではあるけれど。
491 :
485:2006/03/09(木) 02:29:07
>どんな卑怯なことをしても勝つ、または相手を殺すのが武術家
>源平の軍記物で書かれてる正々堂々の武士とは対極の存在
こういうことって現代の自称「武術家」(ホント怪しい言葉だな)が
戦国の武士気取りで、武道・格闘技へのアンチテーゼとして言ってるだけじゃない?
>目潰しもあればだまし討ちも是としてる。
そのくらいなら大して卑怯とも思えない。
武士は嘘やだまし討ちを『武略』と呼んで恥じなかったとフロイスも書いてるね。
当時は、「卑怯」の概念が今と異なっていただけで
卑怯な行為自体はやはり忌まれた。
例えば、投槍とか、矢尻に毒を塗ることとかね。
どちらもただ相手を殺すにはとても有効な技法だ。
もし、『どんな卑怯なことをしても勝つ、または相手を殺すのが武術家』
これが正しいとすれば、投槍の技法を体系化した流派だってあるはずだ。
結論:ただの宣伝・ウソ
493 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 14:13:55
だから投槍は天草の投げ槍だか投げ銛だかがあるって
>源平の軍記物で書かれてる正々堂々の武士とは対極の存在
読んでみると、個人レベルでは寧ろ卑怯な真似をしている印象が強いですね。
時代が下るほどなんでもありという傾向を見せてはいますが(名乗る必要も
無い様な階層が存在を誇示し出したため)、この時代の武士が正々堂々かと
いうとそうでもなく、それをテーマにした本も出ています。
>武士は嘘やだまし討ちを『武略』と呼んで恥じなかったとフロイスも書いてるね。
参考にはなりますが、あの人は日本の文化を論評する際、欧州と対比させて
印象付ける傾向がありました。たとえばこの場合、日本の武士は卑怯な真似
を恥じないが、欧州の騎士は正々堂々としていると暗に言っているのでは。
『日欧文化比較』にも、武士は叛逆を好み騎士は忠誠を尽くすといった評価が
見られる様に、言及する際には裏があったと考えた方がよさそうです。
鑓を投げる事は犬鑓と言って忌まれていましたが、これは卑怯というか功名
を生み出す得物を放り出す事に、下賤の輩とは異なる地位にあるものとして
の不心得を誡めたものかもしれません。
どちらにせよ、精神的な理由が先行していた様ですが。
496 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 21:53:47
>>492 投げ槍の代わりに前に述べられてる打ち根があるけどw
その方が小さいし、精度もいい。もちろん、投擲方法とか体系化されてるよ。
専門でなく、総合武術や手裏剣術の中で。
そもそも投げ槍の長さくらいなら接近戦で相当に使える。
加えて最後の手段で投げる術も存在してるよw
言い換えれば、槍の多用途の前に一技術だけを専門にする流派は必要がないってことだ
加えて、手裏剣術には毒剣という毒を塗っての攻撃も存在してる。
忍者の流れからではないかと言われてるが、毒を塗った武器を使用するには
毒に関しての知識と製造ができなくてはいけない。
そういう製造研究をするのは下々の者が多い。普通には必要ないからね。
なので、城の毒見役ではないが正規の武士と認められないと言う点で侮蔑される。
だから、毒をやるのは卑怯=武士ではない って話で侮蔑されてるんじゃないのか?
これらのことは日本の武器関係の本を読めば出てくるから読んでみるといい。
大きい大学の図書館に行けば貸し出しできなくても読める古文書の写しに絵付きいろいろ出てるから
ちなみに、目潰しって砂とか専門の投げ道具による物ね。
体術で潰すのは基本だし、技術の表れだから。上の目潰しは武士は卑怯な行為とされてる。
>>494 >個人レベルでは寧ろ卑怯な真似をしている印象が強いですね。
私の武略系の本の読みが足りないようですね。もっと読む範囲を広げてみます!
ちなみにですが、お勧めの本等ありましたら教えてください。
497 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 21:56:08
>>492 >結論:ただの宣伝・ウソ
上の話からこうも簡単に行くのが納得できない。
その前に、宣伝する必要も無いし。元々、江戸時代まで軽んじられる方だったんだし。
しかも、実践してる記録とかに向かってそういうのはどうかと思うぞ
498 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 22:10:48
ここまで読んで思ったんだが、
>>492の人は武術とか武道についてちゃんと知ってる?
なんか対応が的外れというか、自分の都合の良くなりそうな所を見つけて言ってるように思えるんだが
知らないなら知らないでいいから山野氏のように文献を根拠にしてとか主張しなよ
>>496の人だって実戦とかからじゃなくて文献を根拠にしてるんだし
499 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 22:17:41
>>496 >お勧めの本等ありましたら教えてください。
卑怯がどうのこうのという話ならこちらで。
『戦場の精神史』
ttp://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00019982004 下馬戦闘の記述が無いなど、細かい戦闘描写への不満は残りますが。
軍記から引用された箇所は問題ない筈です。実は買い損ねて未購入。
・講談社選書メチエ『源平合戦の虚像を剥ぐ』→新書で読み易い。該当の時代を広く解説。
・NHKブックス『武士の誕生』→名前の通り。武士の成立を知りたい人に。
・高橋昌明『武士の成立武士像の創出』→京武者を評価している。割高ながら読み易い。
この三冊は読み終わっています。
他にもいくつかありますが、入手と読みやすさではまずこの辺りかと。
>そういう製造研究をするのは下々の者が多い。
ええ。これだけでスレのネタになりますね。
いざとなるとなかなか思い出せないものですが。
501 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 22:40:18
>>484のにあるけど、一般武士の戦闘方法についてどうやって検証するの?
今までの武術から見る見方じゃない方法だとどう話を持ってくのかわからないんだけどw
>>485>特定の強い武士ということ・・・対決を想定する対象が違うってこと
>>463も言ってるが、武術にも個人用と錬兵用がある。
特に初期の武術のあり方を考えれば、一人一人よりも集団での戦闘力を上げる方を想定してる可能性が高い。
だから武術体系の話は何も特異な一部だけを論じるものじゃない。
戦闘参加者一般に影響すること。我流云々というのはそれこそ良い武装がある一部の者の話になってしまう。
502 :
496:2006/03/09(木) 22:48:19
>>500 おお、早速の返事ありがとうございます。掲示下さった物仕事帰りにでも探してみます。
製造研究の話は確かに1スレできそうですね。
部落差別とかの話に入ってしまう場合が多いので心無い人が暴れそうですが
503 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 22:15:31
あれ?話が進んでないwとりあえず、上げ
>>503 みんな呆れて退いちゃったんだろうね 下げ
505 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:19:40
丸一日放置か・・・・まあ、詳しい人が着てもこの程度の知識で反論してると呆れるわなw
しかも、今までの流れを切りっぱなしで居なくなるとは・・・・w
とりあえず、
>>467から話続けない?
鹿島神宮とかから武術体系とかの部分。その後の見てると発展的どころか今までの指針とか無駄にしてるから
506 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:44:43
戦国武士の勝ち〜
507 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:19:40
個人の戦いだと一概にはいえないだろうけれど、
普通に考えて戦国武士の勝ち。
そうじゃないと、戦国武士は鎌倉武士の経験を無駄にしていることになる・・。
508 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:24:50
組合せ抽選終了!
1回戦 木曽義仲 VS 徳川家康
平 知盛 VS 山内一豊
藤原泰衡 VS 毛利元就
シード 源 義経 織田信長
509 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:43:22
木曽義仲 VS 徳川家康
義仲の圧勝、問題外
平 知盛 VS 山内一豊
知盛の余裕勝ち
藤原泰衡 VS 毛利元就
ジジイ元就棄権でへたれ泰衡勝ち
源 義経 織田信長
義経チビで信長辛勝
510 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:09:22
家康は馬術も刀剣も鉄砲も免許皆伝の有名な名手なんだがw
511 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:11:01
信長も棚の下に隠れた配下を棚ごと切り殺した話があるくらい力も腕もある人だ
512 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:52:25
>511配下ではなく茶坊主だ!
そして有名な圧し切り長次郎だ!
513 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:05:13
家康の刀はそっけない拵えで有名、何故なら彼は大勇にして一剣を恃むような葉武者の心が無いからである。
514 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:28:35
>>511>>512 それだと義経に対して近接戦なら圧勝しそうだね。
>>510 木曽義仲も危なそうだ。馬上の近接戦闘{組合の前}とか、下馬からの鉄砲を構えられてからとか
515 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:48:22
鉄砲は反則だろ、鉄砲はw
516 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:22:15
とりあえずみんな
>>1ぐらいは読もうw 俺的には面白けりゃOKだが・・・
517 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:05:52
>>516話が途中で変えられてるから前提にできなくなってる。
武器術の話も切られたしww
単純に飽きたんだろ
こんなクソスレが500以上も続いたことが奇跡
519 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 21:20:49
真面目な考察が好きだったのになぁ。書き込む知識はないが読んでて面白かった
武器からの考察やら武道からの考察とか。結構いい具合に話し進んでたのにw
鹿島の話や武器術の話もおもしろかったが、心に残ったのは
>>490の黒田武士の話だな。
鉄籠手で刀を受け止めて、戦場太刀で叩き殺す。まさに介者剣術の鑑みたいな話だ。
で私の知ってる話を一つ、あの可児才蔵に旅の武芸者が試合を申し込み、可児才蔵
と試合すると高札を立てて見物人を集め、試合の場で待ち受けているところに、完全武装した
足軽60人(鉄砲20丁、弓20張り、槍20本)に騎馬武者3騎を引き連れ、馬甲を被せた馬に
乗り2間半の手槍を構えた鎧兜姿の可児才蔵がやって来て「試合を始めよう」って宣言して
武芸者に向かって鉄砲や弓を放つよう足軽に命じたんで青くなった武芸者が怒って
「卑怯なり、拙者は、貴殿との一騎打ちを所望したのだ」って詰ったら、可児がせせら笑って
「戦場往来の武士の試合は、これが定法だ。お主は芸者(武芸者の略称)だが武士だ。いざ勝負せん」
と武士に怒鳴り返したって話があったな。
521 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:29:29
うーん実は鹿島の話は、ほとんど民話なので資料的価値はあまり無いっ!w
せっかくだから
>>490氏の話を補足。
黒田家の家臣というのはたぶん『野口一成』の事では無いかな?
野口一成は黒田長政の普請奉行で「黒田二十四騎」の一人。戦場武功の者であった。
試合では相手の木刀を左の腕で受け止めて、右の木剣で敵を突き倒した
負けた武芸者は「腕で受ける剣術なんて無い」といって冷笑すると野口は具足櫃から
籠手を取り出し「おれの流儀はこれだ」と見せた。
その籠手には筋金を多く入れて、楯の様にして戦場に用いたもので太刀痕が多く付いていた。
太刀は突き用の反りの少ない長大な陣太刀で、錆び付いていたが
「まだ折れも曲がりもしない大丈夫」と笑いながら縁側の角に押し曲げて試して見せたとか。
【野口一成】
江戸城・大坂城の築城にも参加し加藤清正も一目置いた築城・石垣積みの名人。
福岡城の石垣は野口の指図により積みめぐらされた物だそうな。
【福岡市HP「福岡城」】
ttp://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kyushu/fukuoka/fukuoka.htm
522 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 21:59:49
タイムマシンさえあれば、このスレは実現するんだが!
解説はアニマル浜口 アシスタントコメンテーター 藤原 紀香
524 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:07:17
長谷川京子なら問題なかったワケだが・・・
剣術の話だと、小野忠明が「罪人に真剣持たせて、勝ったら無罪放免してやる条件で戦わせると子息のいい修業になるよ」と柳生に勧めたとかの壮絶な話があるな
526 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:48:59
お、ひさしぶり。そろそろ再会する?w
小野忠明が強かったのは事実だが、でもその辺はやや創作ぽい感じもするな。
柳生は大名で徳川重臣で足利時代からの将軍指南だから小者の小野と互角に話していた
とは正直思えないし。言ってたとしてもハッタリくさい。
現在で例えるならシウバみたいな無敗のケンカ屋が警察官僚に向かって
「罪人に武器持たせて戦わせれば警官のいいトレーニングになるよ」
と、言ってるのに近いんじゃないかな?
当時から小野兄弟の奇行は有名だったから相手にされなかったのが実情だろうな。
警察官僚?
まあ、小野の師匠は氏素性不明の伊藤一刀斎だからな…
この師匠あってこの弟子あり、って所じゃないか?
個人的には嫌いじゃないがね
529 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:24:24
>>526 柳生とは同格の新参だからそれほどでも無さそうだよ。
加えて、小野忠明の方が取り立てられたの早いし。年齢的にも大差ないから。
それと、幕府初期の朱子学導入の要因が、上下のケジメが無かった{戦国風}というのが大きいとのこと
また、忠明の逸話も命令には絶対服従だが、剣についてやそれ以外はかなり大雑把
好意的に書かれてる文章でも、どこか欠落がある人間{忠常も}というのが多いよ。
ちなみに、柳生との交流については十兵衛の月之抄など著書で度々忠明との交流が示されてる。
剣は人を斬り慣れれば強くなるとかいう意味の会話とか出てる。
一説には一刀流の客分だったとか。その後の柳生に形が組み入れられたりしてるしね
530 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:41:55
十兵衛と忠明は不良同士で気が合ったのかもなw
でも小野と柳生とは同格と言えるのかな?宗矩は地方豪族で後に大目付となる人だよ。
剣術指南という事以外はかなり家格が違う様な感じだが。
531 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:45:49
宮本武蔵と柳生十兵衛
タイマン勝負が見たいね〜
K1並の迫力ある真剣勝負になるよきっと
532 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:56:27
>>530 忠明が死んでからの話だから
加えて忠常は柳生に毎回勝ってるし、剣以外は興味無さそうな記述が多いよ
ま、家光を平気で他の門弟同様扱う流派だから
価格が違うとか言ってもきかないんじゃない?
柳生十兵衛は荒木又衛門の師匠でもあったんだね
年下の先生って珍しくなかったらしい、当時は
実力主義の気風が残ってたのかな
534 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 13:15:28
柳生但馬守は実戦でも強いと思ってたけど
大坂夏の陣の折り、秀忠本陣に乱入してきた木村長門守一族の武者七名を一人で切り捨てたって逸話もあるし
535 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 17:26:35
東郷重位の師匠も年下だな。当時は実際立ち合って優劣決めてたから年下の師匠も
珍しく無いだろ。
・・・つーか、後は剣豪スレでやって、そろそろ源平と戦かおうぜ。
536 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:10:41
>>535 戦国の素人武士じゃ鉄砲が持たなきゃ勝てない
源平武士ってことは源為朝が代表格かね?
でも多分に神話的な人物で、実像が知れてるとは…
矢一本で軍船撃沈とか、抜かれた腕の腱が再生するとか無茶苦茶
538 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:40:28
>537
こらこら、琉球王祖にむかってインキチ呼ばわりは失礼なるぞ。
柳生に関して言えば、尾張柳生の末裔が本を書いてるねぇ。
古い本で一回絶版になって復刻してまた絶版になってるのかな?
むか〜し、図書館で取り寄せて読んだ記憶で覚えてるのは、
江戸柳生じゃなくて、尾張柳生が正統だぞっと。
石舟斎から道統を受け継いだのは尾張だぞっと。
新陰流は介者剣法とは違うんだぜってとこかな。
倭寇の剣術を武備志が取上げて、その中に陰流の目録あるけど、
愛洲移香斎は伊勢の生まれとか、九州の生まれとか言われてるけど、
海賊の剣術なら、重装備の鎧を前提としない剣術だったというのも、
納得できる話だよな。
>>537 強弓NO1とはいえ、源為朝が源平の時代を代表する武士と言えないと思うよ。
西国鎮西育ちで、時代を代表する騎馬での弓射が得意ではない。
>>538 沖縄に限らずあの周辺は、落ち武者伝説みたいなものが多いらしいね。
与論島とか。
自称だけど。
541 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 20:29:11
源平時期代表が為朝じゃないとすると
誰?
坂東武者の鑑、といえば畠山重忠(武勇と教養を兼ね備え、一ノ谷では馬を担いで!急斜面駆け下りた馬鹿力武士。でも最後は悲惨…)
それとも平教経(王城一の精兵、と謳われた。弓で義経四天王の一人を射殺す)?
542 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:43:25
やっぱ話半分で聞いても強弓NO1は為朝っしょ。
精密射撃で強弓なら那須与一。
畠山が馬を担いだというのは馬一頭丸ごと担いだわけでは無いらしいよ。
まぁ、一瞬ぐらいは丸ごと担いだかも。
543 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 13:34:23
戦国代表一番手 雑賀孫市。
銃撃かよw
545 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 15:26:49
佐用三郎範家 名越尾張守打死の事 くだり杉か
546 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 15:42:52
戦国代表二番手 足利義輝。
戦国代表三番手
小島 弥太郎
>>541 もちろん、為朝がその時代を代表する最強武人の一人だと思うけど、
騎射という点から見ればね。
平家方なら誰だろう?
都や奈良では、流鏑馬はともかく狩猟と実戦経験を基とする本物の騎射術は養えない。
熊野育ちの平忠度はどうかな。熊野=騎射ではないけど。
源氏方だけど、近江・佐々木高綱などは歴戦の勇士だと思う。
いくら畠山重忠でも、馬は300`近くあるし、
ましてや重忠の乗馬は大柄な名馬・秩父鹿毛とか。
『平家』の逸話は造り話では。
畠山重忠の怪力ぶりが反映されて出来たものなのかな。
549 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 17:52:21
平教経しかいないでしょ、平家方だと。例によって史料が曖昧な事跡しか残ってないけど…
それを信じるのなら、木曾義仲の四国討伐軍を六度の戦で六度勝ち
屋島では佐藤兄弟の兄はじめとする源氏方の武士を矢で次々討ち取り
壇ノ浦では義経を追い詰め(有名な八艘飛びは逃げるため)、駄目だとわかると源氏の猛者二人を道連れに入水
他に平家方のつわものは思い浮かばない
>>549 『吾妻鏡』では平教経が甲斐源氏の安田義定軍に打ち取れられたとあり(一の谷)
でも『平家』では壇ノ浦での教経の活躍は有名。
『玉葉』は「一定生存と云々」、解釈は?
死亡説もあったらしいが…
『吾妻鏡』誤報の可能性が高いのかな。
訂正
×生存
○教経においては一定現存と云々
>>550 偽首だったんじゃないのかね?>吾妻鏡
当時は写真なんかないから、後で間違いだった、別人だったとか良くあったらしいから
酷いのになると、雑兵首に兜つけさせて偽装するケースもあったらしい
>西国鎮西育ちで、時代を代表する騎馬での弓射が得意ではない。
>都や奈良では、流鏑馬はともかく狩猟と実戦経験を基とする本物の騎射術は養えない。
為朝の行動について、唯一具体的に記した『保元物語』では、
・鎮西→「遠矢ヲ射学ビ、太刀仕様」を知り、「カチ立」が得意。
・武蔵や相模→「馬ノ上ニテ押并テ組事」の上手。
とされていますね。『吾妻鏡』の大庭景能譚では、馬は東国>鎮西。
ただ、こうした記述にはイメージ操作というか先入観もあったのではないか
という気もします。東国に多かったのは事実ですが、西国でも九州などに牧
が分布していましたし、そんなに綺麗に分かれたものでしょうか。
逆に、東国でも三浦などは船戦の心得があったらしい。
東国だから、西国だからというのよりは、もっと細かい地域差や個人差が存
在した様に思います。大庭の言葉も、1270〜1280年代の鎌倉幕府側
にとってイメージの固定に丁度良いものであったでしょうし。
『保元物語』もイメージでくくったものでしょうが、こちらは東国が騎射の
上手とは書いていないのが気になります。
東国武士こそ「本物」というのは、高橋昌明先生の引き写しの様になって来
たのを承知の上で申し上げれば、作為的に形成された面もあるのでは。
京都周辺でも狩猟はしばしば行われていますし、逆に東国でも頻繁に狩猟を
行っていれば、鹿でも猪でも姿を消しますよ。
両者の経験の間に、明確な差が存在したものかどうか。
>山野さん
『保元物語』を言うなら、為朝が「清盛などがヘロヘロ矢」と馬鹿にしてる
清盛こそ、高橋氏のいう所の正統な武士じゃないんですか。
高橋氏は誰が正統な武士なのかの名前も挙げずに、都の武芸の繰り返し…流鏑馬でしょうに。
強烈な京都マンセーで、他学者から反発され・・・
平家などを鎌倉の一方的な作為とするならば、何故
坂東武者相手に活躍する巴御前を登場させたり、猪俣の一騎打ちの記述があるのか?
不自然じゃないですか?
巴や重忠の馬背負いの話は創作でも虚構の中に真実がある。上横手氏が述べる・・・
・平家物語の作者はネット裏で観戦している。どちらか一方をひいきにするのではなく、
源平の両方に公平な態度で書いていて、パッションがない。
・(歴史叙述の一形式である平家物語)確かにそこには史実が記されている。
しかし史実を記したといっても、平家物語は単なる記録ではなく、紛れもなく文学性を持っている。
九州は西国の中でも馬の産地ですから、九州武者は強かったのだと思いますが
景能がいう筑紫(鎮西)とは九州なわけで。
『吾』で景能は為朝を本朝無双の強弓だと述懐してます。
作為ならこんな事言わないでしょう。
本朝無双なら、頼朝は熊谷直家の名を挙げてるけど関係ないか。
人間生まれ持った資質は当然あるし、おっしゃる通り西国武士にも優れた武人は多くいた。
ただ、それを伸ばすための環境が都には少ない。
おそらく高橋氏が最大の根拠としたい、西行は武芸にも優れていた武士だった。
でも野山や川で重い甲冑を着け、動く標的を射る実戦では未知数でしょう。
武士の狩猟と言っても、武士自体地域の支配者、特権階級なわけで、
多くの坂東人が馬上弓射で朝夕獲物を追ってたわけじゃないし、
それに獲物としては、鳥を射る方が当然多いと思う。
殺生に対する罪悪感が、当時の畿内近国と坂東とでは違うんじゃないですか。
・工藤景光
11歳から狩猟を生業としてきて、左弓手に来た獲物を逃す事はなかったのに
70余歳・・・もうダメポ
五味文彦氏によると
【東国武士団】
季節を問わず、昼夜の区別なく、悪所にも馬を踏み入れて合戦を行い
その日常は高度に訓練された戦士の生活であり
反面、西国の海戦には弱い
【西国武士団】
合戦は季節の訪れとともに行われ、4,5月に集中。
海賊的性格を持った季節的武人である。
>>555 >作為ならこんな事言わないでしょう。
寧ろ、強いからこそそれから逃れた老武者とその発言が引き立つのだろうと
思いますよ。作為=創作とは限りませんが、少なくとも編纂当時の鎌倉武士
に、坂東武者は馬術に通じているべきものだというメッセージを伝える役割
はあったでしょうし(逆に言えば当時はだれて見えたのでしょうね)。
>西行は武芸にも優れていた武士だった。
西行も出ては来ましたが、個人を以って根拠とするのではなく、騎射という
様式は京都で発展した形式であるというものでしたね。
それで、私は坂東武者の得手がこれ、鎮西武者の得てがこれでといった地域
ごとに単純に得手不得手が分かれていたのであろうか、少なくとも坂東武者
の勇猛ぶり(斎藤別当談にあった様な)は後世形成されたイメージという面が
あるのではないかと考えているという訳です(ご存知なのでしょうが)。
要するに、>556氏が挙げられた様な「東国」と「西国」で性質が分けられる
かどうかは疑問であり、強弱は尚更分からないと。
>多くの坂東人が馬上弓射で朝夕獲物を追ってたわけじゃないし、
そう思います。仰る通り。ただ、「馬上弓射で朝夕獲物を追ってた」と思って
いる人が多いので、敢えて口にしました。
特に『平家物語』好き(仄聞や小説で憶えた人)に多い。
>殺生に対する罪悪感が
この点は確かに今後研究されるべき課題だろうと思います。五味先生が昔やっ
ておいででしたが、もうおやりにならないでしょうね。
ただ、多田満仲が五戒を受ける際、殺生戒の時だけ空眠りをしていたという話
の様に、京都周辺にも殺生で押し切る姿勢はあったろうと思います。
(各地域を比較しようにも、この時代はまだ記録が京都周辺に偏っているので、
なかなか難儀しますが)
558 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 02:41:53
東国の騎射っすか・・・
騎射の話は半年ぐらい前だったから忘れちまったのでw既出かもしれないけど
今昔物語集 巻25-3の「源宛と平良文と合戦ふ語」って参考になりません?
一騎打ちの騎射で双方駆け違いざまに放った矢をかわしてるし(マトリックスかよw)
>>557 『平家』によれば東国には強弓の武士が大勢いた。
それを差し置いて為朝を無双の名人と言ってる訳です。
リアルな話でしょう。
『平家』と違い、この話自体を否定する見解というのは見かけないですが。
『平家』の東国武士の逸話も、全体的な形として受け入れてる研究者は多いですよね。
誰それが発言した、とかはともかく。
>京都で発展した形式
近衛下級官人の武芸が軍事貴族に受け継がれたという高橋氏の説ですけど、
近衛府が武力を保持していたとする9世紀初期では、地方豪族出身者が多数だと言うし。
そして10世紀、武的機能の衰退してる近衛府。
時代遅れ近衛府の儀礼的武芸が軍事貴族(武士)へと、どう受け継がれたと言うのか
高橋氏とラグビー好きの先生は、、
地方(優れた技量の流入)←都の武芸→(華やか、洗練される)都
【吾妻鏡】
鎮西八郎は吾が朝無双の弓矢の達者なり。
しかれども弓箭の寸法を案ずるにその涯分に過ぎたるか。
その故は、大炊御門の河原において景能八男の弓手に逢う。八男弓を引かんと欲す。
景能潛かにおもへらく。貴客は鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか。
景能は東国に於いて能く馬に馴るるなりてへれば。
則ち八男が妻手に馳せ廻るの時、縮相違ひ、弓の下を越ゆるに及びて、
身に中たるべきの矢、膝に中たりをはんぬ。
この故実を存ぜずば、忽ちに命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。
壮士等耳の底に留むべし。老翁の説、嘲哢すること莫れと云々。
源為朝は日本一の弓矢の達人だ。
だが、体躯に対して大き過ぎる弓を用いていたのではないか。
大炊御門の河原の戦において景能は、為朝の弓手にあってしまい射られそうになった。
その時思った。為朝は九州から来たので騎乗での弓の扱いに慣れていないのではないか。
それに対して景能は、東国の者だから馬の扱いによく慣れている。
そこで、馬を為朝の妻手に馳せた。
そのため、体に当たるはずの矢が左膝を射られただけで済んだ。
この故実を知らなかったら命はなかったろう。
勇士はただ騎馬に達すべきだ。
壮士らもよく憶えておいて欲しい。老いぼれの言う事だと馬鹿にしてはいけない。
「東国において能く馬に馴れるなり」と自認する景能の意識は
当時の東国武士の共有するところのものであったに違いない。」
(福田豊彦氏)
言い忘れました。
>>556のレスも俺ですw
東馬西舟ですね。
>558
騎射の典型例とされて来ましたが、近年では治承・寿永期の戦闘法の研究が
進み、静止騎射が増えただのそうでないだのややこしいですね。
>560
>『平家』の東国武士の逸話も、全体的な形として受け入れてる研究者は多いですよね。
私はそうは考えていないというだけの話です。『平家物語』自体は平家の滅
亡を必然として進行している訳で、実際には富士川の戦の場にいなかったと
いう斎藤談を始めとして東国武士の精強ぶりを強調する方向になっている。
別に西高東低だったとまでは言いませんが、『平家物語』の影響から受ける
様な印象通りには行かなかっただろうという事です。
>556の五味先生のものも、(出たのが)古い気がするのですが。
福田先生のお言葉にも、既に申し上げた理由から『吾妻鏡』の逸話をそのま
ま受け入れることは出来ず、承服致しかねます。
>『平家』によれば東国には強弓の武士が大勢いた。
平家(1220年代京)の史観・武士観、『吾妻鏡』(1280年代鎌倉)の
史観・武士観でそれぞれ語られたものでしょうから、『吾妻鏡』の観じたとこ
ろと平家のそれは必ずしも一致しないだろうと思います。
(私も=の例として挙げた訳ではありませんが、保元と吾妻を並記したりと
ややこしい真似をしてしまいましたが、平家の武士像は平家の武士像、保元の
武士像は保元の武士像としてそれぞれの食い違いを見ていくべきでした。
以後、迂闊に並記する様な真似は控えたいと思います)
>>562 確かに古いですね、1988年のだから(古本で買った)。
けど、大昔の領主制論とかとは違うもんで。
高橋氏の1998年のものも、それ以降も反論されてますよね。
下向井氏の日本の歴史07とか。あれは、刀剣を強調し過ぎですがw
高橋氏が京都を強調する流鏑馬も、最近は地方からの視点も指摘されつつあるようだし。
地方(優れた技量の流入)→都の武芸←(華やか、洗練される)都
564 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:02:39
まぁ、地方の軍事力を集合させる事が可能だったのは朝廷だろうから当時最高峰の武芸者が
都に多数集合していたとは思う。
ただ武士階級の話が当時のお公家さん達の記録にどれだけ残ったかは怪しい。
精鋭の軍人は「兵士の単価」が高くなるので迂闊に戦場で消耗できなくなる。
だから平氏は退却が多いとも考えられるのではないだろうか。
平家は都人だから弱いので逃げ回っていたわけではないと思う。
また八幡太郎だったか?誰かが刀術を知らないので九州の武士に試し斬りを学んだとか
いう話を見た覚えがある(もちろん確証はないw)
こういう場で軍記物や源平武者のイメージを一度再チェックできるのは良い事だ。
>>564 >地方の軍事力を集合させる事が可能だったのは朝廷だろうから当時最高峰の武芸者が
都に多数集合していたとは思う。
9世紀初めの段階の近衛舎人が、地方豪族から多く集められたというからね。
ただ、9世紀段階の当時最高峰は、東北無名の蝦夷戦士だと思うんだ。
弓馬に堪能な蝦夷に対する兵站基地とされたのが坂東で、蝦夷戦争後の
移植俘囚の反乱に加え、騎馬の凶族集団の跳梁、無政府状態⇒将門の乱。
これらを経験して、武を磨いていったのが坂東の「兵」で、後の武士へと・・・
勲功を挙げ、中央に進出していった秀郷・貞盛などの子孫の一派が、都の武者。
近衛府=都の武芸は弓場、馬場で訓練。
つまり、実戦と一世紀以上隔絶した近衛府の武芸は、都の武者(軍事貴族)には繋がらない。
そもそも都の武は、人材を含めて地方からの伝播だろうし。
都も東国も、東北蝦夷から武器・武具を含めて技量を吸収したはず。
打物に関しては、悪僧など西国で盛んだったと言われてる。
優れた流鏑馬の技量があっても、悪僧は徒歩打物だけど。
566 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 17:56:38
んーその蝦夷、奥州藤原も坂東武者にやられちゃったからなぁ。
テクでは都や東北にはかなわなかったとしても、総合力と闘争心では坂東武者だろうな。
兵士のモラールつーか・・・ まぁ戦争ってそーいうものでしょw
坂東ってーのはとにかく土地争いが多く都落ちの流れ貴族も多い。
利根水系が氾濫する度にどっかで戦争になるって感じだったんじゃないかな?
戦場慣れしていたと思うよ。
>>566 だからそのテクが都には希薄なんだってw蝦夷と近衛官人じゃ勝負にならないでしょ。
テクというのは、実戦に裏打ちされたものじゃなきゃならない。
坂東は9世紀中期以降、自力救済の世界。
日常生活では騎馬弓射での狩猟が鍛錬の場だった。日常、京じゃ無理でしょ。
都の武者も摂津・大和・伊勢とか畿内近郊の在地領主だよ。
騎射兵としての戦闘力を考えるなら、そっちで磨くと考えるのが自然。
馬なら、東国に豊富に存在した馬牧と武士との関係は重要。
関東や甲斐、駿河、信濃とか東国武士も都との関わりは持っていた。
じゃなきゃ武士身分として認められない。
だから都と地方の交流は盛んだった。熊谷直実のような小領主でもそう。
都の流鏑馬で言えば、都鄙間の交流から形成されたという事も指摘されてる。
そして、高橋氏の言う『都の武芸』と言うのは流鏑馬を指してる訳で。
都のテク=儀礼的な流鏑馬テク
568 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:42:02
>都のテク=儀礼的な流鏑馬テク
なんかこの話はスレの頭の方とループしていそうなので保留。
資料の正確さは不明だが、源宛と平良文の一騎打ちでも双方騎射で
駆け違いざまに矢を放っっているし流鏑馬が儀礼的、非実戦的とは言えないのでは?
接近しながらの騎射が大鎧相手の戦術として一番確実な攻略法だった可能性も否定できない。
まぁ効果は一騎打ち限定なのかも知れないが流鏑馬は武家としての嗜みだったのではないかな。
剣術家が巻藁斬るようなモンじゃね。
>>568 坂東初期の辺境軍事貴族⇒源宛と平良文の一騎打ち伝説(あくまで『今昔』)と
馬場で行われる流鏑馬とでは、似てるようでも実際は違うものでしょ?
・こんな感じか?【流鏑馬】
馬を真っすぐ走らせ、動かぬ的を射る。軽装。
動きとしては単純。当てれば良し、強弓も要求されない。
平坦な馬場だから足場も安心、天候もOK。
敵から反撃されない。
貴族や僧の娯楽も兼ねる。様式美が要求される。
・五味氏が述べる【東国武士団】
季節を問わず、昼夜の区別なく、悪所にも馬を踏み入れて合戦を行い
その日常は高度に訓練された戦士の生活であり、反面、西国の海戦には弱い。
実戦では大鎧を着用し、山など丘陵地でも多く行われる。
秩父・児玉・多摩・上野南部とか丘陵地は、特に武士団の密集地でしょ。
海に挟まれた三浦半島も、傾斜のきつい丘陵地だし。
足利忠綱に代表されるような河川・河原の戦も多い。
乱戦の中では一対一じゃない。他の敵に気を配らなきゃいけない。
普段から足場の悪い場所でも狩猟を行い、実戦の鍛錬とする。京じゃ無理。
殺生に対する罪悪感、当時の東国は薄かった。
西国は牛。
東=馬牧、農耕馬。
西=牛牧、農耕牛
近世の馬頭観音(石造物)も、長野・群馬・埼玉とか多い。