1 :
日本@名無史さん:
2005年11月13日蘇我入鹿のものと思われる墓地が発見された。
これを機会に蘇我氏やそれに関わる人々のことを語ろう。
いらん
3 :
公孫3:2005/11/14(月) 16:49:06
公孫3が3げっとだ!
いいんじゃないかと思います
まず>>1が少し語ってよ・・・
6 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 17:31:57
>>5 失礼しました。1の者です。
古代日本にとって蘇我氏の貢献は大きいと思います。
仏教伝来の時、蘇我稲目が佛教を日本で信仰することを
天皇に勧めなければ今の日本文化はなかったかもしれない。
(彼がいかなる動機で佛教を信じようとしたかは知らないが)
その意味で蘇我氏は日本の心の潮流を創った一族とも思われる。
もっとこの一族のことを如何に捉えるか語り合ってもいいと思う。
7 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:31:08
蘇我氏は朝鮮半島系だという説は根強いね。
武内宿彌が祖だと称したんだよね
9 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:27:44
10 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:28:16
>>1 手元にある地方新聞には甘樫丘に入鹿の邸宅跡らしきものが見つかったと
書いてあるのだが、墓も出たのか?
12 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 22:28:29
13 :
鹿を愛するすべての人達へ:2005/11/14(月) 22:33:04
14 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 22:39:54
>>6 これをいうと極論になるのは十分知っててあえて一言
歴史ちゅうのは現在に帰納的に収束する
つーことは稲目がおらんでも、馬子がするだろうし、厩戸もしかり
引いて言えば、現在日本にはなんら変化はなかったと・・
15 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 22:53:35
>>11 またまた失礼しました。
私がニュースを中途半端に聞いて安易に立てたスレ
貴殿の言うように墓ではなく入鹿亭でした。
訂正しておきます。
発見されたのは蘇我入鹿の住まいです。
これで語り合って下さい。
16 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 03:10:42
新築した翌年に暗殺なんて、入鹿ちゃんカワイソス
17 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 11:41:59
ひょっとして大化の改新って豪奢なイルカ御殿を妬んだ貧乏貴族のテロ事件だったのではあるまいか?
18 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 01:11:07
百済から逃げてきた中臣鎌足が蘇我氏の悪い噂を天皇に吹き込んだあと、成敗と称して朝廷を独り占めしたんでしょ?その後は娘を天皇に献上して天皇家の仲間入りに♪
19 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 07:08:14
蘇我入鹿の「いるか」ってイルカか?
20 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 16:50:54
現地説明会行ってきた。人は多かったね。
邸宅跡は棚田にされたり、建物が建っていたらしい。
「これは新しい時代の跡です。平安か鎌倉時代です。」
なんて言ってた。
平安時代が新しいなんて素敵だ。
21 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 02:00:26
天皇制がはっきりと固まるのは
大化の改新からだともいう。
それ以前はいろいろな豪族が
なり代わろうと狙っていたともいう。
もっとも、乏しい資料の中からの物で
怪しいと思うけど。
私は天皇家その時は大王家かな?が
はっきりと日本の元首であることを
揺るぎのないものにしたこととして
大切な出来事と思う。
22 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 02:05:29
山岸涼子の漫画のイメージをひきずってる
23 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 02:33:22
>>22 山岸涼子とはだれ?
知らないで書き込みした
別人のことをいってるかな?
誰に言ってるかはつきり解るように
お願いします!
24 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 15:08:12
歴史って勝者が命じて誰かに書き残されたものだから
負けちった曽我家は「入鹿」とか「馬子」とか獣の
字が入った名前にされたんだろうね。本当は凄く
カッコイイ名前だったかもしれないよね。
中大兄皇子あたりも負けていたら猪背兄皇子とか
されたのかも知れないな。歴史を少し疑うのは楽しいね。
25 :
↑:2005/11/17(木) 15:11:45
書き残されたものだから ×
書き残させたものだから ○
曽我家×
蘇我家○
失礼いたしました。
26 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 00:35:06
蘇我馬子と同時代の聖徳太子が架空の人物と言う
トンデモ説があるな。その説によると聖徳太子の業績は
実は馬子がやったことだという。馬子にそんなことできるわけなのに。
27 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 01:55:12
一説によると
大化の改新は、多くの豪族が支配していてしっかりとした中心軸の
なかった日本の元首を天皇家一つにするクーデターだったといった
人がいた。そして天皇家を正当化するために日本書紀、古事記を
創作したという。
本当だろうか?
28 :
蘇我入鹿:2005/11/19(土) 05:45:58
29 :
蘇我入鹿:2005/11/19(土) 05:55:17
孝徳の項を良く見ると
細かいことまできちきち決めてますな
大化の改新は鎌足と中大兄云々が作りごとなのでは…
孝徳を中心になにやらまわっている
中大兄の業績が国内にあまりないのに
ヒーロー譚だけを取り上げて
まつりあげているのは納得いかないし
怒りすらおぼえる…
30 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 14:59:37
当時の資料が少なく実際には誰がどれくらい
活躍したのか分からないだろう。
蘇我一族を悪者にしなければならない理由があったかもしれない。
31 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 16:13:34
勝てば官軍ってね。
同等又はそれ以上の力量があったからこそ
悪く、汚く書かれるんじゃないかな。
32 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 22:12:45
天智天皇、天武天皇らはいろいろ言われているが
日本を佛教の慈悲、平等の精神と当時の最も進んだ文化
(おそらく、当時の欧州よりも)である唐のやり方を学び
大和を本当に良き国にしようと志していた帝だったと思う。
それは蘇我馬子に対立した聖徳太子の心が受け継がれていたから。
最終的には上から与えられた社会主義的国家だったから余り上手く
行かなかったが。
33 :
蘇我入鹿:2005/11/21(月) 05:08:55
勝者や敗者だけの主張じゃなく
正しい歴史を再度見ていく必要があると思う
一度すべての先入観を取り払わないといけない
34 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 22:02:19
23 :天之御名無主 :2001/05/03(木) 00:01
崇神天皇のころは
1 天照族 =稲作民族系 =鏡
2 倭大国魂(ニギハヤヒ)、物部 =銅剣海洋民族系 =剣
3 大物主(たたり神信仰)卑弥呼的 =縄文系 =玉
4 出雲族 =朝鮮系
の四つの勢力が対峙していたと思います。
で最終的に1と2の首長が3に帰依して古代天皇制が成立
4を追い出したというのが崇神天皇の功績、
素直に日本書紀を読めばこうなります。
まさにハツクニシラススメラミコトですね。
日本史はこのときから始まると言っていいでしょう。
35 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 00:11:56
蘇我馬子、蝦夷、入鹿は本名は何だったのだろうか。
本名でないとは言われているけど。
36 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 23:10:33
ド素人だが、昔からそう思ってた。
馬子と入鹿で馬鹿だからね。
それに蝦夷。とても大臣とは思えん。
37 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 23:21:43
いまでも物部という人いるけど物部氏の末裔かな?
38 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:36:35
馬鹿www
古代社会では必ずしも人>獣とはならないのでは?
人を超えた獣の能力を霊異に見立て、
それにあやかるために獣を名の一部に入れたという説もある。
ただ、記紀は後世の創作で、
謀反を起こした人間を許すと見せかけて、
「うすのろ」みたいな名前に改名させていびる
陰湿な支配者層の作ったものだから、
>>36の言うこともわかる。
「馬鹿」よいう言葉の起源が記紀以前であることが証明できれば、あるいは・・・・・・
馬鹿の起源は、秦末じゃないの?
41 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 01:56:49
馬鹿は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」の音写「莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」が転じたとされる。
日本では、鎌倉時代末期頃から「ばか」の用例があり、室町中期の「文明本説用集」には、馬鹿の異表記として「母娘」「馬娘」「破家」をあげ、「とんでもない」の意味で「狼藉之義也」と説明している。
以上のことから、「ばか」を「馬鹿」と書くのは、当て字と考えられる。
馬鹿の語源の俗説として、「鹿をさして馬となす」(「史記(秦始皇本紀)」の故事から)がある。
これは、秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。
群臣は趙高の権勢を恐れ、「これは馬です」と答えたが、「鹿です」と答えた者は暗殺された。
このことより、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として使われているといったものだが、「鹿」を「か」と読むのは大和言葉で、漢文では「ばろく」と読む。
そのため、この故事が「馬鹿」の語源であるとは考え難く、「馬鹿」の字が当てられた由来として考慮するにとどまる。
その他、「おこがましい」の語源となる「をこ」を語源とする説もあるが、「をこ」から「ばか」という音変化は考え難い。
[語源由来事典より]
このことから馬と鹿を並べてバカとしたのは余り考えられない?
42 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 02:54:13
蘇我馬子は馬子にも衣装の馬子から取ったのかな?
43 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 03:20:42
>>36 たしかに親子馬鹿と読めるね。
蝦夷というのも違和感があった。
馬子・蝦夷・入鹿‥‥、みんなよくある名前です。
珍しくも変でもありません。現代人の感覚で考えちゃいけません。
兎、目、口子、咋、鮪、烏、逆、塩、人、身‥‥いづれもそう。
45 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 03:22:43
>>42 いずれにせよ、日本を代表する豪族の主張がことごとく普通は付けない名前なのは違和感あるね。
なんらかの改変はおこなわれていると見た。おそらく天智&天武期になんかあったのだろう。
史料の改ざんとか。
46 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 03:23:26
>>44 よくあるかあ?蝦夷なんて付けた奴蘇我氏以外に聞いた事なし
47 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 03:25:57
そもそも蝦夷と共に、日本書紀以前の史書である、天皇記と国記が蝦夷の自殺時に
一緒に消失したというのがなんかとてもつもなくにおうんだが。
存在してもらっては困るから、改新後に闇にほうむったんじゃないのか?
>>46 田口朝臣、阿部朝臣、佐伯宿祢、神服宿祢、韓鐵師毘登、
上毛野公、中臣朝臣、葛井連、小野朝臣、高橋朝臣‥‥
当時は屎子や尿麻呂だっています。もちろん蔑称でも何でもありません。
誰が言い出したか知りませんが、入鹿や蝦夷が蔑称だとか
入鹿が天皇だったとか、全くドキュソもいいとこです。
49 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 04:30:44
でも入鹿と馬子で馬鹿と読めるぞ。 馬鹿とつける奴なんかいねーよw
50 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 04:32:56
田口朝臣、阿部朝臣、佐伯宿祢、神服宿祢、韓鐵師毘登、
上毛野公、中臣朝臣、葛井連、小野朝臣、高橋朝臣‥‥
>
だからなんだよ。 普通の名前ジャン
蝦夷ってのは異民族の蔑称だろ。 意図的じゃん。本名でないそうだし、
たぶん天皇紀や国紀に本当の歴史が描いてあるんだろう。
51 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 00:30:08
蘇我一族の本名が調べる手立てが無い限り
日本書紀の名前で語るしかないのだろう。
何か本名を調べる手立てはあるだろうか?
小野毛人とかしらんのか。無知なヤツ。
53 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 01:43:18
小野小町は知っているが
小野毛人は知らん。本当は小野小町も小野毛人も会った事は無いが。
ソクラテスは無知の智慧を説いた。
良いではないか。
54 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 00:51:50
蘇我馬子は聖徳太子が立派過ぎて
悪党のように言われているが、その当時の日本を
支える有能な政治家であったかもしれない。
明治初期では大久保利通のような性格で
嫌われるが必要なことをやっていたのも思う。
55 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 02:01:56
馬子は大君暗殺しているのに、一族の権勢に傷ひとつついていない、
蘇我氏はどう考えても、物部一族を滅ぼした時点で、関が原合戦に勝利した
家康ぐらいの権限を手中にしていたんじゃね?
56 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 02:04:25
今、入鹿の邸宅をリアルタイムで発掘中だからひょっとしたら失われた歴史書2つ出てくるかもね。
あまり期待してはいないけど。
57 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 01:35:03
>>56 いろいろ発見されるといいな。
私が尊敬する厩戸皇子などその実在を疑う人もいる。
それに決着が付けばいいな。
99%は諦めつつも>
58 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 02:12:54
厩戸皇子は本当にいた、と思うが。
だが厩戸王子=蘇我入鹿
という説が書かれた本も数多くあるからな。
59 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 01:52:38
>>58 聖徳太子=蘇我馬子説はきいたことがあるけど
そのような説もあるのですか?
どちらにしても十七条憲法の格調の高さ、人間愛、
社会を成り立たせるための智慧
佛教についての深い理解は偽造ではできず確かにその高い境地に達した
優れた人が存在したのは確実。
60 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 07:48:26
本当にね
現代の政治家に
彼の爪の垢でも…
61 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 01:56:46
>>59、
>>60 現代の政治家は十七条憲法を本当に読んでもらいたいですね。
この憲法は日本史上、いや、もしかしたら世界史上最高の憲法ではないかと思います
世界の為政者に読んでもらいたい。
これほどの憲法、架空の人物が生み出せるはずがない。
>>これほどの憲法、架空の人物が生み出せるはずがない。
微妙に日本語がおかしい気がするが、
むしろ、理想的なものほど、架空のものである可能性の方が高いのでは。
63 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 00:28:34
聖徳太子が存在しないという説はいつごろから出て来たのだろうか。
目立つことを言って名を売ろうという歴史家がこじ付けで打ち出した
説であるようにも思うが不在説の人の論拠を教えて欲しい。
64 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 01:01:42
聖徳太子が存在しないというのはドキュソ説。
近年大山が言い出してほぼ学界で認められているのは
厩戸はいたが、後に聖徳太子伝説として言われるような
ことは、やってないってこと。
65 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 06:00:47
この大山説がそもそも非存在説に火をつけたのでは?
と私は認識している
学会と言うのもあいまいで
発見されれば覆るし…
信用はしがたいな
大山の言う、聖徳太子はいなかった、てのは
後々聖徳太子とよばれるようになる人物(厩戸)自体も
いなかった、てことではないのだが、ヴァカな一般庶民が勘違いしたんだな。
67 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 07:28:46
馬鹿な一般庶民にわからんような本を書くのが
学者のステータス
もしくは自慰行為
誤解を生んだなら
仕方ない
反省すべき点だ
表現力が足りんかったんでそ
人のせいにするのは学者の悪いところだ
68 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:23:12
聖徳太子(厩戸皇子)の実績はあったかどうかは現代では確認が難しい
だけであろう。あったという証拠も無かったという証拠も物的物が殆ど
残っていないだろうから。推測のみで語る面も多いように思う。
あとはロマンか。その人の精神構造が歴史をこのようなものだとして、
そこから、歴史を考え事実と思い込むこと言うことも多々あるように思
う。本当に客観的に観るのは難しい。
69 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 17:45:36
だからさあ、ウマヤド王子は実在したけど、
のちに「聖徳太子」とよばれて神格化されたほどの功績はないってことだろ。
「聖徳太子は実在しなかった」なんて過激な言い方するから誤解を招くわけで、
その言い方にならえば欽明天皇も推古天皇も天智天皇も実在しなかったことになる。
死後、百年以上たっておくられた名前を認めないなら、そういうことだろ。
70 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 02:06:26
聖徳太子がそれほどの働きをしてないとしたら明日香(飛鳥)時代の
日本はどのような政治形態でやっていたのだろうか。推古天皇は
自分で政策を考えていたのだろうか?
他の豪族はどう思ったのだろうか。
現在では、推古・聖徳・馬子による、一種の三頭政治だったことが明らかになっています。
また大化改新も、天下立評を始め、多くの施策において、孝徳が
リーダーシップを発揮していたことも明らかになっています。
72 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 13:48:02
功績がなければ 仏教はこれほど長い間生き残れなかったよ
それだけでもすごい
73 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 01:00:52
>>71 明かになっているというが
実在さえ疑う人がいるという
のは確証がないと思われる。
後は推測で思うに厩戸皇子は
実在し日本書記に記されたような
活躍をしたと思う。
74 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 22:35:21
厩戸皇子が実在かどうか分からないなら
蘇我氏に滅ぼされた山背皇子の話もでっ
ち上げ?当時の人間の感覚ではフィクション
として創作するのは難しいと思うのだけど。
75 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 05:38:00
そおだよ。だから実在まで否定するのはドキュソ。69(H)の言う通り。
76 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 02:37:17
聖徳太子の実在まで嘘となると
それと連鎖する大化の改新も嘘
疑いだすときりが無いな。
はっきりした証拠を誰か見つけてよ
むりだな
78 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 01:56:33
これくらい昔になると人それぞれの思い、社会への見方、人間への見方等
が加わり、よほどはっきりした、物的証拠がない限り、個人のロマンで、
歴史を創るのかもしれない。(これを一つの意図で人々を扇動しようと
したら捏造と言うが)どんな時代だったか少ない資料でどんな時代か、一人
ひとり考えるのも、そして意見をぶつけ合うのも面白いと思います。
どんどんやって欲しいです。
79 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 05:14:34
だから古代史は捏造や空想になる危険が大きい。
80 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 01:50:26
古代史の可能性は自分の国の原点を知り
一人ひとりの心象風景がそこから感じら
れること。
マイナス面は現代の都合のいいように、
体制の都合で解釈が都合のいいように出
来ること。一人ひとりの都合で解釈し、
真実探求が希薄になること。
マイナス面を超え真実の探求をしていくのが
学問だろう。
81 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 23:50:48
聖徳太子の時代に遣隋使として隋に渡った小野妹子は
その後どうなったのだろうか?遣隋使として隋に行った
ことくらいしか知らないのだけれど。厩戸の皇子の有能な
部下だとは聞いた事があるけれどどんな人物だったか、
ご存知の方、教えて下さい。
小野妹子の子供だったかな小野毛野という人の墓誌が出土したという話はある
83 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 00:51:31
蘇我氏と対抗し敗れた物部守屋とはいかなる人物だったのだろうか。
推測するに日本古来の信仰を守ろうとした信念の人だったかもしれな
い。また、その後神道が生き残ったのは彼への弔い。聖徳太子のお陰
かも知れないが本当のところはどうなんだろうか。
85 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 22:49:04
蘇我対物部の戦いで蘇我氏が勝ったが神道が生き残っているのは
国民には神道が根付いていて一掃するのは蘇我にとっても不利益
で仏教と併用としたのではないだろうか。宗教とはかけ離れた政
治的駆け引きによる。
86 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 00:18:57
当時は神道は単に宗教というより、氏姓制度そのものでしょう。
仏教は新宗教として個人で信仰できたが、神道は同祖伝承を縦に支える柱だから蘇我氏でさえ否定はできない。
>>82 墓碑が出土したのは小野毛人(677没)。
これが妹子の子。 毛野は毛人の子。
88 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 15:37:11
>>46 >蝦夷なんて付けた奴蘇我氏以外に聞いた事なし
小野毛人
>>87、佐伯今毛人。
何について調べますか?
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〈`'ー;==ヽ、〈ー- 、 !
`ー´ ヽi`ヽ iノ
! /
r'´、ヽ
`´ヽノ
90 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 01:43:38
日本書紀は蘇我一族を揶揄する部分があり名前も
本名ではないだろう。蝦夷も本当は違う名前だろう。
大化の改新を正当化すること聖徳太子の偉大さをより
鮮明にするためにとられた処置と想われる。
91 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 03:11:59
なぜ蝦夷は毛人、はつけるのに
土蜘蛛や熊襲、隼人はつけないのだろうか?
92 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 03:12:44
なぜ蝦夷「や」毛人、はつけるのに
土蜘蛛や熊襲、隼人はつけないのだろうか?
93 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:35:31
鴨蝦夷
壬申の乱に天武方で活躍した人物
94 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 01:56:04
蘇我馬子の馬子は厩戸皇子の厩戸とペアで掛けているのかもしれない。
良くも悪くも不思議な取り合わせのコンビだから。
95 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 04:39:53
あえて学問的実証を飛ばして暴論を書く。
ウマヤド皇子は、通称で、本名は別にあったものと考える。
「厩戸」も、「馬宿」も、「馬子の血を引く」という意味なのでは?
すなわち、蘇我の姫2人の孫であり、かつ妻にも蘇我の姫をもらっている、
そのことを指しているのではないのか。
もちろん、欽明天皇の子孫であり、大王一族ではあるのだが。
聖徳太子は蘇我一族を頼りにし、蘇我一族に好意的だった。
大化の改新等の記述上、どうしても蘇我一族と聖徳太子を対立させて考えて
しまうが、そうではなくて、聖徳太子は蘇我派の皇族だった。
よって、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされていなければ、きっと葛城皇子と
戦争状態になったに違いない。
96 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 04:54:29
蘇我の権勢が巨大になり、大王一族の中に不満層が増えていた。
特に、蘇我一族の覚えめでたくない王族は、それが強かった。
一方で、厩戸皇子は仏教を熱心に信奉していたので、蘇我一族
が天下を取るなら、それも仕方あるまいと考えていたのでは?
それは次の代でも、引継がれた。
当時、蘇我一族の覚えめでたい王族のみが王族扱いされていた
ので、山背王か古人王が次の皇位継承有力候補者だった。
蝦夷の代までは、王族を守り立てることで権勢を保ってきたが、
入鹿という人はとても頭の切れる人だったので、自分が大王に
なれると思った。それで、山背王を滅ぼした。
ところがどっこい、「覚えめでたくない王族」グループが裏で
結束を強めていたのだ。これが入鹿の誤算。
97 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 09:04:27
「我罪ヲ知ラズ」
鞍作は大市皇子を皇位に付けようと考えていたはずだが
98 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 13:02:44
★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。
99 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 22:07:55
蘇我入鹿って、不当に悪者にされている敗者の側の大物って感じがするんです。
何か、専制的で傲慢でって、漠然としたイメージがあるけど、よくある話しで作られた虚像じゃないかと。
じつはもっと別の顔があったような気がします。
101 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 01:29:17
暴論の続きです。
>>97 入鹿自身はそうだったかもしれないが、群臣が期待したのは・・・。
実際のところはそうなんでしょう。
その辺のすれ違いがあるとすれば、それも排斥側に有利に働いたか。
102 :
1:2006/01/31(火) 01:30:22
これくらい昔だと誰がどんな人間だったか
分からないのが本当だろう。
後は誰が誰を応援するか
好みかもしれない。理想主義者聖徳太子
、現実主義者蘇我馬子、革命家、天智天皇、
中臣鎌足等、その人の生き方から誰を好きに
なるかと言うことだろう。
103 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:34:48
中央集権体制をめざしていたのは鞍作も鎌足・天智もおなじだしな。
104 :
1:2006/02/02(木) 02:15:03
当時は中央集権政権でないと国は成り立たないであろう。
情報が行き来する時間が現代と比べ物にならないくらい
違うのだから。
地方分権は即国の分裂に向かう。
105 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 02:25:59
アフォか。古今東西、中央集権だった時期のほうが遙かに短い。歴史的には特殊な政体。
>王権の勝者
日本語大丈夫ですか
>鞍作も鎌足・天智もおなじだしな。
入鹿は部民制温存論者。大化政権との大きな違い。
106 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 09:13:23
ネタニマジレス カコワルイ
107 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 10:01:28
>>105 いや、中央集権と地方分権ってのは今に至るまで難しい問題でしょ。
古今東西どんな国も多かれ少なかれ中央集権を目指す。
(普通は王様やその取り巻きは権力を他人に権力を行使させたくない、と考えるからね)
しかし、現実的にそれを行うためには、情報・物流のタイムラグが発生しないというのが必要なわけだ。
要するに中央が出した指示がタイムラグなしに地方に流れるシステムと、
逆に地方の税収をタイムラグなしに中央に集中させるシステム。
それがないと中央集権はほぼ不可能だし、不可能だから今まで地方分権が主流だったわけでね。
しかし結局のところ、乙巳政変ってのは、政治システムに関する対立の一つの契機に過ぎないような気がするんだけどね。
結局大化の改新の政策が現実化したのは漏れが思うに平安期に入ってから、桓武が出て来てからじゃないかな、って気がする。
それまでは理念と利益が入り混じった闘争劇が繰り広げられてごちゃごちゃの印象があるんだよな…
108 :
チャート式門脇:2006/02/03(金) 22:57:09
>>105 プゲラ、いまだに大化の改新は存在したと思っているのか?
109 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:43:45
実際に蘇我家を滅ぼし天皇に実験を取り戻すことは行われたでしょう。
そして、唐に負けない国家システムを創ろうとしたことも本当と思う。
そこで、違うと言う人へ質問ですが違うと言う証拠、ソースがあれば、
教えて下さい。
110 :
マッハ左手 ◆uoqqgOOy9M :2006/02/05(日) 16:51:18
厩戸王子は、実はホモ。
蘇我蝦夷に恋心を抱いている。
しかし・・・
111 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:03:27
難波長柄豊碕宮はかなり本格的な宮都都市だった。
孝徳即位後にすぐに遷都できたのは、蘇我政権のもとですでに建設がすすめられてきたから。
このことから新天地難波での新たな政治は、もともと蘇我氏の描いていたプランで
その主導権を奪った孝徳一派が引き継いだだけという説が唱えられるようになった
112 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:21:05
>>110 厩戸皇子が同性愛者とは思えない。
妻は大勢いたし子供もいた。妻の
独りは身分の低い家柄の人だったが
太子との恋愛の末結婚したものらしい。
同性愛者にはそんな話は生まれないだろう。
115 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 20:32:05
>>109 >唐に負けない国家システムを創ろうとしたことも本当と思う。
それは否定しないしできないけど…
>実際に蘇我家を滅ぼし天皇に実験を取り戻すことは行われたでしょう。
こっちについては疑問な。
と言うのは乙巳政変で滅ぼしたのはあくまでも蘇我本流の蝦夷・入鹿親子であって、
石川麻呂の流れはこの時点では滅ぼしていない、
というよりもむしろ石川麻呂の一派は積極的に天智に協力した可能性すらあるんだよな。
となると、本当は乙巳政変ってのは
蘇我氏内部の抗争だったものに天皇家が介入したものなんじゃないか、
って見ることもできそう。
で、そこをうまく使って天智とカタマリが実権を握った、と。
116 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 22:54:08
蘇我氏内部の争い(入鹿・石川麻呂)と皇位継承争い(上宮・古人・軽皇子)が結び付いた最終地点が乙巳クーデターだろう。
改新政治なるものがどこまで行なわれたかは疑問視する人が多いが、斉明紀に改新政治の記述がほとんど見当たらないことからして
政治の実権は孝徳が握ったとみるべき
孝徳紀は創作性が高いといわれている
子孫が存在しない孝徳天皇は架空の存在である
118 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 08:38:48
>>116 政治の実権を握った人が、難波においてけぼりにされるかね?>孝徳
となるとやはり実権を握ったのはあくまでも天智で孝徳はお飾り、と見たほうがよさそうな気がする。
もしくは孝徳・天智のツートップ体制で、体制分裂してしまったかだろうね。
ひょっとしたら一時期、天皇2人体制だったのかもしれないな。
まあそこまでは言わないまでも、副天皇というか北条執権体制における連署のようなものか…
119 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 00:23:01
そういえば皇極譲位というのも不自然な話。過去例のない譲位劇なのに、理由が見当たらない。
しかも弟王が即位したってのに「皇祖母尊」はないだろう。だってこの尊号は皇極の母吉備姫と舒明母糠手姫に贈られたものだろ。
実質宝姫の院政みたいなことだったのでは?
120 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 00:39:55
譲位そのものは「天智にしたかったから」ってオチなんだと思うけど、
天智は実のところ入鹿殺害の実行犯みたいなものだしな。
そんな人間を直接天皇にするわけにはいかないだろ。
あと重祚についても、あれは孝徳を実質殺しちゃったようなものだから、
直接継がせるのではなくワンクッションおいて…ってのが世間的によく言われる話。
ただ、記録を見る限り、結構大きなことをやってる天皇でもあるんだよな。
大干ばつの後に雨乞いやって雨降らせるとか(まあこれはフィクションめいた部分はあるけど)
一方で、「狂心の渠」なんて大工事をやっちゃってるわけでね。
こういう大工事は現実にそれなりの権力がないとできない仕事でしょ。まあ天智が補佐してたからかもしらんけど。
それを考えると実は宝皇女ってのは、結構な政治家なのかもしれん。
実際、推古にしても持統にしても結構そういう能力があった人みたいだし、
女性がそういう地位に就くってことは、やはりそれなりの能力が期待されていたから、
もしくはその女性にとんでもない権意欲と言うかそういうものがあったかだと思うんだよな。
121 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:06:40
頭悪ければ男でも」立場上天皇になれる人でも当時は
させてもらえなかったかもしれない。
まして女性ではある程度、智慧がないと天皇にはさせ
てもらえなかったかもしれない。
年長者が必ずしも跡継ぎになるという儒教が強力な時代
でもないのではないだろうか。
122 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 01:21:10
聖徳太子は天台大師智の仏教の師、南岳慧思の生まれ代わりだと
いわれていた。鑑真が日本に来る決意をした理由の一つがその太子
のことを知りたいと思った体という。最澄も学ぶ仏教に天台を選ん
だのも聖徳太子のことが有ったからかも知れない。
やっぱり聖徳太子は日本の仏教の父と言える。
123 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 09:11:52
>>122 「南岳」と聞くと慧思よりも懐譲の方が先に浮かんでしまう。
もちろん聖徳太子の生きていたころにはまだ懐譲は生まれてないわけだが。
(そもそも六祖慧能だって存在してないだろうしw)
まあそれはさておいて。
聖徳太子が日本仏教の父、というのはちょっと難しい側面もあるわな。
ただ、南岳慧思の生まれ変わりっていう伝説はそれなりに奈良〜平安初期にそれなりに流布していた可能性はある。
生まれ変わりってのは証明不可能なものだから、
まず、誰かが何らかの意図をもってそれを流布させたのだろう。
だとしたら、誰が、何の意図で、って部分が気になる。
124 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:35:22
誰が何の意志でと言うよりも当時からの太子信仰がそうさせたものと考える。
本当に南学慧思の輪廻転生かは分からないが、仏教者として匹敵すると思われ
たのだろう。実際、それだけの(あるいはそれ以上か)智慧を持っている。
125 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:53:01
>>124 いや、いくら太子が優れた人でも「民間信仰」に至るほどすごい人って訳ではない。
行基や空海に比べると、そこまで民間に信じられるほどすごいことをやってるわけではないんだよな。
しかし現状を考えるに太子信仰ってのはあるわけで。
それを考えると誰かが「聖徳太子」という人は優れた人だ、南学慧思の輪廻転生だと言うことによって、
そういう信仰を作り上げたんじゃないか、って見ることができるし、
それをやって一番都合がいいのは、それこそ天皇家ってことになる。
126 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:54:35
しかし、唐の時代の最高の僧侶の一人であった鑑真までが太子が南学慧思の
転生であると言う噂を知っていた(後世の創作でないとしたら)のは驚きに
値する。中華思想で他国に優位に立ちたいであろうそのプライドの強い国が
その話を否定していないのだから。太子存命の時からその伝説の基になる出
来事が会ったかもしれない。
127 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:12:23
>>126 しかし慧思の没年が577年、聖徳太子の生年が伝えられてる限りでは574年だから、
常識で考えて「転生」は考えにくい。
ただ、当時から慧思には「不死身伝説」みたいなものがあったようではある。
で、そこから推論すると…
この慧思不死身伝説が天台大師智を介して天台宗の中に伝わり、
その天台宗の僧であった鑑真がそれを確認しようとした、という考え方と
逆にその不死身伝説をうまく利用しようとして何者かがそれをでっち上げた、という考え方ができる。
ただ、後者のように考えると、鑑真の真の訪日理由は何なのか、
そして「でっち上げたのは誰か?」という問題に直面するわけだ。
で、でっち上げが仮に書記作成者だとすると、やはり日本の国際的な地位向上を意図したもの、
逆に鑑真、もしくは最澄またはその後の天台宗関係者だと、太子の名前を使っての地位向上を図ったものと考えられる。
で、この場合の後者だと、この説話が作られた時点で、「太子伝説」はある程度民間に浸透している、ってことにもなる。
あと、気になるのは、菩提達磨と聖徳太子が和歌の贈答をしてるという伝説だわな。
正直な話なんでここに達磨が出るのかがよくわからん。
生年を述べるまでもなく
常識で考えて転生は考えにくいだろ。
129 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:56:43
飛鳥時代、奈良時代かもしれないが慧思の没年と厩戸の生年の矛盾は
指摘されていたが、偉大な魂は時空を超えて転生するのだと言う理論が
出てきたらしい。何かの歴史の本に書いてあった。
私個人は信じないけれど。
ただこの伝説は聖徳太子のこれほど偉大な方であると言うことが知れ渡
っていたと解釈することも出来る。
130 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 07:51:12
だから結局のところ日本において慧思に関する伝説が先に流布したのか、
それとも慧思の伝説が流布する前に太子の伝説が流布していたのかが重要なんだよな。
で、仮に慧思伝説が先に流布していたとするなら、それと絡めて太子の名前を大きくしようとする意図があるわけだし、
逆に太子伝説が先なら太子の名前を利用して天台宗を広めようとするのが鑑真か最澄か叡山あたりの狙いだったわけだ。
そしてこれは逆に言うとどれだけ「聖徳太子」って人が当時認知されていたか、ってののある種の証明にもなる。
131 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:37:11
蜂子皇子は聖徳太子から修験道のてほどきを受けた
ほんまかいな
132 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 02:41:36
>>131 聖徳太子の仏教に修験道はないでしょう。
日本の仏教の黎明期。国民の仏教への理解は浅い。
オーソドックスな仏教を大切にしていたのだろうと思う。
133 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 15:55:36
聖徳太子は若い頃、物部との戦で戦勝祈願を仏にしているが
後には戦闘を避け平和を願うために仏教を広めた。それを
究極的に、死んでも守ってしまったのが太子の子供達。
しかし、そのことで更に仏教の広がりが有ったのだろう。
134 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:08:10
>>133 その辺、わからんのよね…
例えば飛鳥期の寺ってのは、文化拠点としての意味合いもあるけど、
むしろ「城砦」としての側面も根強いんだよな。
(事実乙巳政変後に中大兄皇子と中臣鎌足は寺に立てこもってるはず)
あと漏れの勉強不足かもしらんけど、仏教に反戦・平和的な思想ってのはなかなか見出せないわけで。
それを考えると、漏れはやはり当時の人々(これは上宮王家も含む)にとって、
仏教ってのは単なる道具に過ぎないのかな、って印象がある。
その思想よりもむしろ「対外的なつながり」「外の文化」としての側面が重要だったように思うんだよな。
となると、当然のことなれど、そこまで考えているとは考えにくいわけで。
要するに鹿鳴館時代と一緒なわけです
136 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:54:06
仏教ってスンゲ−平和的じゃない?
アショカ王もそれで国を治めてなかった?聖徳太子のはそれにかぶる。
確かに宗教は国を治める道具や政治的ツールとして使われたと思うね。
それまでの右翼っぽい物部氏の政治的介入を全否定して政治も空気そのものも
改めるのに具合が良かったんだし。
その後も同時に先進技術も導入出来たし、外交上も接点が作りやすいしね。
上手い両面使いだよ。
戦が飯の種の武士を中心として日本独自に発展した仏教は
またちょっと変わって独自の日本的哲学を生み出していったが。
元の仏教って「空」を知るのが悟りだからね。
建前でも欲や業を諌めて素直にさせるのには都合が良かったかも。
逆に漏れが勉強不足なんかとも思うけど
>>134の反戦・平和的な思想ってのが
見出せないってのは?
まあこれが原因で戦になってもいるんだけど、そゆこと?
138 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:54:34
いろいろな宗教のことを学問的に調べた人の言うことによると
(伝聞だが)仏教が世界で最も平和的宗教だと言う。それゆえ太子
も和を以って尊しと為しと言う発想が生まれたと思う。
139 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 23:05:09
厩戸、馬子同一人物と言う人もいるけどこれは違うよね
性格が違いすぎる。
厩戸は本当に立派な人物。馬子は悪党でないが国家体制を維持するために
冷酷なこともやった人物。
明治維新で言うなら厩戸は木戸孝允、馬子は大久保利通
と言うことかもしれない。
140 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 23:48:52
馬子といっしょに物部守屋を追い殺しているんだが、本当に立派?
141 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 00:18:46
>>140 馬子と守屋一緒に死んでないよ
守屋は早く死んだが馬子は政治の実権をかなり握る
>>140は厩戸が馬子と一緒に守屋を殺した、と言ってるんだよ
143 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 09:18:16
>>140-142 その辺のいきさつを考えると、厩戸が仏教どうこうってのは、なんか奇妙に感じるんだよな。
なにしろ戦に勝つために四天王の御加護を得ようとしてるわけでね。
この辺を考えると仏教と厩戸の関係については2つの推論が成り立つ。
1つは仏教はあくまでも外来文化導入のきっかけに過ぎないと考えていた。
もう1つはあまりにも仏教にはまりこんで「仏教原理主義者」になっていたw
しかももう1ついえることは、冠位十二階といい、十七条憲法といい、
結局「天皇の下の中央集権体制」ってのを意識してるんだよな。
となると、「仏教原理主義者」でかつ「天皇制絶対主義者」という、
当時の豪族にしてみればとんでもなく物騒な存在になってしまうw
ただし、こういう原理主義者というか極端な考えや行動の人が、
後々伝説化してしまうってことは多々あるんだよな。
144 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 23:26:39
厩戸と馬子が協力して物部氏を滅ぼしたのは多分間違えないだろう。
そして四天王寺を建立したのも。ただしその後、戦いで命を奪ったことを
後悔して更に仏教の理解を深めようとしたのが厩戸、勝利を喜び仏教を利用
して政治の実権を握ろうとしたのが馬子。一つの出来事を共同して行っても
それをその後どのように思い考え、行動に結びつけるかで生き方、生み出す
ものはまるで違ってくる。
邪魔者を排除した後で、
政治的な意図から仏教を重んじたのなら
問題は無いと思うんだが。
>>139 馬子に関する記述は敵対した後の政権の記録だから
悪者に演出されていると考える方が自然。
馬子の功績を厩戸に書き換えているという推論もある。
それぞれ良い人悪い人というより、政治的な思惑で行動していると思われる。
147 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:49:36
>>146 明治維新で言うと
厩戸=木戸孝允
馬子=大久保利通
というかんじかもれない。政治で目指すところが違う。
良い悪い出なく、日本をどうしたいのかの違いかもしれない。
148 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 12:33:43
蜂子皇子は、聖徳太子の弟で「羽黒修験」の開祖。
その年代は修験道の開祖「役小角」よりも古い。
あと、伊勢大鹿首小熊。
149 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 13:51:14
蜂子は崇峻の皇子だろ
羽黒修験の開祖は崇峻の第三(もしくは第一)皇子・能除太子だけどな。
実際はそんな皇子はいない。伝説の人。
で、江戸時代になって羽黒では能除太子を蜂子皇子に結びつけようとしたが、
朝廷に認められなかった。
正式に開祖・蜂子皇子を認められたのは明治になってから。
151 :
日本@名無しさん:2006/03/11(土) 01:34:40
文春新書から今月20日に「謎の豪族 蘇我氏」(水谷千秋)が発売されるそうですね…。今から楽しみです。
152 :
光明皇后:2006/03/11(土) 01:38:12
盆集では大奥総取締・西川峰子が権勢を誇っていた。
浅野ゆう子はただ見ているしかなかった」。
153 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 16:37:51
実際に明日香時代の歴史は日本書紀以外は何をよりどころに調べるの?
それによっても歴史が変わりそう。
154 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 20:44:29
つ元興寺縁起
155 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 01:06:08
冠位12かいは上の立場に行きたくて下の位の衣は着たくなかった役職
の人もいたそうだ。せっかく能力本意にしようとした厩戸皇子の志が無に帰す
やり方だ。
2004年に宝塚が「王朝ロマン 飛鳥夕映え〜蘇我入鹿〜」をやっていたな
入鹿って三国志の呉の周瑜、陸遜みたいに婦女子に人気のキャラなのだろうか
157 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 08:27:23
>>156 最近は再認識されてる、って話はあるね。
歴史の記録って、現体制に反発する側は徹底的に悪く書かれるのが必定なわけで。
逆に言うと、天智−カタマリ体制にとって不都合なことは全部入鹿の所業になってしまったと解釈されてもおかしくないし、
一方で入鹿の所業で優れたものを横取りした可能性だって否定できないわけよ。
ただ、いかんせんこの時代のことは、日本書紀に頼らざるをえない。
しかしその日本書紀が頼りにならないとすると、結局想像の範囲でしかない。
逆に言うと、その想像の範囲でいろいろできる、というのは小説家とかとっては都合がいいが、
純粋な意味での歴史家にとっては都合が悪いんだよな。
158 :
日本@名無しさん:2006/03/24(金) 20:37:58
水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』読んだ?大化改新は、入鹿のやろうとしていたことを中大兄皇子らが横取りしたものだって言ってる。
>>1 似たようなスレたくさんあるだろ。削除依頼だしとけ
160 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:05:44
ここまで古いと推測、後は遺跡の発見に頼らざる得ないのか。
推測だとどんな古代だったか、と言うロマンも絡んでくるだろうな
その人の思想信条により歴史も変わってくるだろうな。
161 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:26:49
>>160 実は遺跡の発見だと思想信条はわからない。
やはり思想信条は文章みたいな形じゃないと表すことができないからね…
160と161がズレていると思うのは俺だけ?
とりあえず、歴史は思想に関わらず
変わっちゃいけないと思うな。
解釈は人それぞれで良いだろうけど。
そう言う意味で、今の歴史教科書は酷過ぎる。
あったことが無かったことになっていたり、
ぼかしたり、逃げたり、結論が感情論だったりと
酷過ぎるだろ。
>あったことが無かったことになっていたり、
>ぼかしたり、逃げたり、結論が感情論だったり
具体的になんのこと?
164 :
日本@名無しさん:2006/03/28(火) 02:13:39
162もズレてると思うのは私だけでしょうか?
165 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:23:40
166 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 00:30:27
大化の改新すらないと言う人もいるのか。
大胆仮説だけど根拠はあるのか?
>>165 何十年も前に学会を席巻したトンデモ説です。
今では否定されてますが(つまり大化改新否定論の否定が現在の通説)
しつこく現在でもいいはる老人もいます。
168 :
日本@名無しさん:2006/03/29(水) 02:15:13
大化改新は否定しておいて、崇神や垂仁は実在だって言われてもね…。ハラヒデさんよ。
169 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 02:23:45
170 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 22:13:37
645の本宗家滅亡の際に焼失されたとする文書類、
誰ぞがこっそり持ち出していたととか
写しとか
どっかで発見される余地ないのかな。。
堂々となら持ち出してたが。船史恵尺が国記を。
172 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 12:37:51
大化の改新で仲の天智天皇自らが入鹿を殺したが
他の人はどうして何もしなかったのだろうか?
173 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:42:16
>>172 他の人は蘇我一族の偉効を恐れていたのかもしれない
174 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 23:16:19
>>172 つうか中大兄皇子が単に暴走しちゃっただけなんじゃないの?
本当はもっと後に集中攻撃するつもりだったんだけど、
血気盛んな皇子が暴走しちゃってさっくり殺しちゃった、ってかんじでは?
175 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 08:37:49
>>172 645年の政変騒動に
中大兄皇子に協力するにしろ妨害するにしろ
大海女皇子の関わりがあまり表にでてこないのは
何でだろう。
後の彼の重みを考えると、この時点でも何かの関わりはあった方が自然では。。
176 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:41:32
>>175 日本書紀の記述の天智の生年が正しいとする(626)と、乙巳政変時に19歳
天武生年が旧来型推測で考えると(日本書紀が65と56を書き間違えた説)だと631年なので、
14歳の天武が関わることはほぼ不可能と思われる。
ただし、実際は天智生年は614年、天武生年は622年の可能性が高いといわれているので、
そうなると乙巳政変時に天智31歳、天武23歳。
しかし今度はなんで天智が自ら刀を取って…なんてことをやったかが疑問なんだよな。
さすがに30過ぎりゃある程度の分別も付くわけだし。
入鹿を斬り付けたのが天武だった、という可能性があるんじゃないかな、って気がする。
つうか首謀者が天智と鎌足だとして、その首謀者が直接手を下す、ってのは考えにくいんだよな。
というのは、仮にここで2人が捕まってしまったら完全にアウトになってしまうわけだから。
となると、やはりこの2人は入鹿が死んだとき、既に主力を率いて法興寺に入っていた、と考えるのがスジのように思う。
でもって入鹿暗殺の別働隊は、やはりこっちも重要な役割だから身内の天武に任せた、って感じなんじゃないかな、って気がする。
177 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 21:04:56
ちゃげ
178 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 10:54:03
>>177 茶毛?
昔の人は髪を染めたかな
金髪、茶髪の渡来人はいただろうか?
なんで入鹿って蔑称で呼んでいるの?
鞍作でしょ。まぁ通称の方がわかりやすいけど。
180 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 11:14:59
181 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:48:22
>>178 茶毛&飛鳥より
入鹿のなごり雪のほうが好きだな
182 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 22:45:57
馬子にも衣装と言うね。
183 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 00:35:33
入り鹿が蔑称なら
巨勢猿、大伴鯨、土師莵、粟田飯虫、倉小屎、鴨蝦夷、舎人糠虫
けっこうな名前は古代にはある
184 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 04:01:00
>>176 >実際は天智生年は614年、天武生年は622年の可能性が高いといわれている
もまえがいってるだけだろうがw
本名:蘇我林臣大郎、字:入鹿、諱:鞍作
187 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 13:41:58
>>183 昔は変な名前が多かったんだね。
ほとんどは音を意味も考えず当て字下だけだろうけど。
188 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:18:16
蘇我入鹿は日本へ何か貢献したの?
聖徳太子を神聖化するための
汚れ役として貢献しています。
191 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:53:51
>>190 天智天皇は自分で手を汚してしまった。
正義の革命家足りえても神聖化は出来ないだろう。
>>186 諱と本名のちがいなんてその時代はまだないだろ。
193 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 10:24:52
名前をはっきりさせるのは明治になってからかな?
それまでは適当に名前を変えていたように感じる。
194 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 17:03:22
奈良県橿原市五条野町で、東西に並んだ二つの大型横穴式石室が見つかり、
「宮ヶ原1、2号墳」と命名された。1号墳は、全長約12b。
遺体を安置する玄室は、長さ約5.5b、幅約2.5bで、床に小石が敷き詰められて
いた。石材の破片から、くり抜き式の家形石棺を納めていたことが判明。
また西側の石室(2号墳)も同じ大きさで、玄室の入り口付近に使われた
二つの巨石(一辺2b以上)が残っていた。石室の距離が32bと離れている
ことから同じ墳丘に2つの石室を築いたとは考えにくく、専門家はは二つの
古墳を並べた「双墓(そうぼ)」としている。規模としては「植山古墳」に
匹敵し、形態などから七世紀中ごろの築造とみられる。専門家は
「蘇我蝦夷、入鹿親子を葬った可能性が極めて高い」としている。(2002.4.24)
195 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:16:32
天智天皇は他者不信が強いところがあり天武天皇も殺されることを恐れて
一時期出家して隠遁するようにしていたな。殺さなくてもいい人まで殺し
ている。
196 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:08:02
大化改新で入鹿と蝦夷がやられちゃったのにそのあとなんで倉山田石川磨呂は右大臣になれたの?
最近日本史はじめたけどわからん(×_×;)
197 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:44:09
ごく単純にまとめて言うと、645年のクーデターの首謀者が、
中大兄、中臣鎌子、蘇我倉山田石川麻呂の3人だったから。
198 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:04:51
>>197 ありがd
石川麻呂と入鹿たちとは仲悪かったってこと?
本家と分家みたいな感じなのかな(・_・?)
199 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 21:06:22
入鹿と石川麻呂は従兄弟で祖父が馬子。分家といえる。
大化以降に石川麻呂の弟たちも結構出世している。
蘇我日向・筑紫宰
蘇我連子・大臣(右大臣?)
蘇我赤兄・左大臣
200 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 23:48:54
>>199 ありがd!!!!
日本史知れば知るほどおもしろいね(*´∀`)
201 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 10:53:59
「蘇我氏は親中派だったから、日本の独立を保ちたい勢力に暗殺されました。」
って説を耳にした事がある。
本当?
中国が出来たのが何時かを考えれば妄想と分かりそうなものだが…
203 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 14:00:55
>202
親中派というよりも、親大陸派ではなかったかのう?
204 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 02:15:21
大陸と親しくしようとするのは聖徳太子も同じ。
その後遣唐使も出来たことを考えると天皇家が
大陸と関係を絶とうとはしないだろう。
当時は超大国だったからな
今で言えばアメリカとの友好を重視するようなものだろうな
206 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 22:28:40
207 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 18:22:14
ミトラ教的な弥勒信仰は、半島や朝鮮には殆どない。
蘇我氏が渡来系とするならば、サカ族であった可能性が高い。
蘇我氏のルーツはサカ族で、それがソガになった。アスカのアは「聖なる」
の意の接頭語でスカは蘇我だということ。蘇我氏は比較的新しいサカ族の渡来民族。
渡来系が遊牧民だとすれば、盗人の多い中国や半島を経由せずに今のロシアから
秋田あたりに渡って来たと思う、そして会津、鹿島と東海地方を経てヤマトにわたる。
なぜなら、馬は殆ど東日本産、そして武士も鹿島あたりから発展した。
九州の倭人の国は支那と交流はあっても、東日本の扶桑国は北魏と交流を持っていた。
聖徳太子もサカ族系で蘇我氏はリクルートされた人達ではないかと言われてる。
日本には冬至線・夏至線のネットワークがあってそこに主要な神社なぞが祭られている。
そこに弥勒信仰とシリウス信仰を持って来たのが蘇我氏。
従来の冬至線と夏至線を意識しながらも、シリウス信仰の20度の角度を神社にひっそり持ち出したのが
蘇我氏。前方後円墳の角度も微妙に東・西日本では異なります。
なんてシリウスの都 飛鳥に書かれていました。
208 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 02:02:20
サカ族とは何ですか。
もっとも日本人は他民族の混血だろうと想っているけど。
天皇から一般庶民まで中国や朝鮮やベトナム等南方系
騎馬民族からアイヌ、ロシアからも超混血民族だろう。
209 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 20:51:16
古代日本に、ベトナム系なんていましたっけ?
>>207 >なんてシリウスの都 飛鳥に書かれていました。
あの本はただの電波本。
サカ族はスキタイです。
林太郎って誰だったかしら。
213 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 03:02:43
サカ族と釈迦族なんとなく似ているけど
違うよね。釈迦族は滅ぼされたものね。
それより驚きは日本人とユダヤ民族が
同根だとおもうひとがいること。
>>213 キリストの墓が東北にあるぐらいだ
それぐらいでは驚かん
215 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 11:18:51
釈迦の墓は青森の梵珠山だそうです
216 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:20:33
日本人は架空の人物の墓も作るから
外国の有名人の墓があっても驚かない。
墓を信仰の対象としている人もいるかも。
217 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 18:13:11
蘇我氏は改革派だったのではないだろうか?
聖徳太子と同時期の馬子は、当時最大の権力者の一つ。
聖徳太子は改革をしようとしてたし、蘇我氏の同意がないとできないはず。
聖徳太子(厩戸王)は蘇我系だし、繋がりは深いよね。
大陸系の思想を取り入れようとしてるのは、大陸の制度導入にも積極的だったと思う。
つまり、部民制を廃止して公地公民制を施行する。
入鹿は部民制存続派とも聞いたことあるが、実は改革派だったんではないだろうか。
となると、天智・鎌足は改革をつぶしたことになるが…。
218 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 18:22:29
李氏朝鮮は、国の体裁をまったくなしていなかった。
今日、韓国では誰もが不思議に思うことなく、李氏朝鮮を振り返って、「ウリナラ」(わが国)という。
しかし、李氏朝鮮は中国の属国であったうえに、内でも国家の体をなしていなかったから、とうてい国(ナラ)
と呼べるような状態になかった。
李氏朝鮮は両班のためだけに、存在していた。両班は支配階級であったが、自らの繁栄だけを求めて、
民衆を文字どおり容赦なく収奪することに専念した。両班は勤労を蔑んだから、体を動かして汗を流すことを忌み嫌った。
両班たちは李朝500年を通じて、酸鼻をきわめた党派抗争に耽った。いったい、李氏朝鮮はどのような『国』だったの
だろうか?驚くべきことに李朝末期の19世紀末になると、両班が朝鮮の人口の半分を占めるようになっていた。
韓国の学校教科指導書に、李朝時代を通して、両班と常民の人口比率が、どのようなものだったのか、推定が載っている。
それによると、李成桂が太祖1年(1392)に李朝を創建した時には、両班が2〜3%、
常民以下が98%〜97%を占めていた。両班と常民の間にはさまれた中人は、かなり後になってから生まれた。
そして、1700年代には、まだ両班が5%に対して、常民が59%という比率だったのが、
1800年代に入ると両班の人口が増えて、両班と常民が半数ずつになった。
ところが、1900年代になると、両班が65%を占めていた。(後略・・・)
四方教授による大邱(テグ)の「戸口帳簿」を中心とした身分別人口分布の研究『身分別人口分布・単位% 』
年度 両班 常民 奴婢・その他 計(人口・人)
1690年 7.8 49.5 43.1 100(13,913)
1729〜32年 14.8 52.8 32.4 100(15,266)
1783〜89年 31.9 52.2 15.9 100(12,300)
1858年 48.6 20.1 31.3 100(13,195)
【李氏朝鮮の体制】
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/kaikyu.html
219 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 18:27:46
李氏朝鮮は、国の体裁をまったくなしていなかった。
今日、韓国では誰もが不思議に思うことなく、李氏朝鮮を振り返って、「ウリナラ」(わが国)という。
しかし、李氏朝鮮は中国の属国であったうえに、内でも国家の体をなしていなかったから、とうてい国(ナラ)
と呼べるような状態になかった。
李氏朝鮮は両班のためだけに、存在していた。両班は支配階級であったが、自らの繁栄だけを求めて、
民衆を文字どおり容赦なく収奪することに専念した。両班は勤労を蔑んだから、体を動かして汗を流すことを忌み嫌った。
両班たちは李朝500年を通じて、酸鼻をきわめた党派抗争に耽った。いったい、李氏朝鮮はどのような『国』だったの
だろうか?驚くべきことに李朝末期の19世紀末になると、両班が朝鮮の人口の半分を占めるようになっていた。
韓国の学校教科指導書に、李朝時代を通して、両班と常民の人口比率が、どのようなものだったのか、推定が載っている。
それによると、李成桂が太祖1年(1392)に李朝を創建した時には、両班が2〜3%、
常民以下が98%〜97%を占めていた。両班と常民の間にはさまれた中人は、かなり後になってから生まれた。
そして、1700年代には、まだ両班が5%に対して、常民が59%という比率だったのが、
1800年代に入ると両班の人口が増えて、両班と常民が半数ずつになった。
ところが、1900年代になると、両班が65%を占めていた。(後略・・・)
四方教授による大邱(テグ)の「戸口帳簿」を中心とした身分別人口分布の研究『身分別人口分布・単位% 』
年度 両班 常民 奴婢・その他 計(人口・人)
1690年 7.8 49.5 43.1 100(13,913)
1729〜32年 14.8 52.8 32.4 100(15,266)
1783〜89年 31.9 52.2 15.9 100(12,300)
1858年 48.6 20.1 31.3 100(13,195)
【李氏朝鮮の体制】
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/kaikyu.html
221 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:13:51
天皇は万世一系でしょう。
天智系だとかそうでないとか無意味なこと言ってもしょうがない。
222 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:47:31
なごり雪
蘇我入鹿の本名は、蘇我善徳でOK?
そして、聖徳太子の業績の大部分は蘇我善徳の業績でOK?
225 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 16:21:22
聖徳太子の経歴が尋常じゃないほど美化されている
という点は広く認められているところだと思う。
しかし、聖徳太子は蘇我氏お抱えの皇子。
歴史を書いた藤原氏にとっては、眼の上のタンコブ。
美化する理由がないように思われる。
一方で聖徳太子は若くして不自然な死をしている。
これらの現象をすべて矛盾無く解釈するには、
聖徳太子を毒殺したのは中臣氏であり、
蘇我氏との対抗上殺したが、
悪いには蘇我氏だけで、むしろいい香具師だった。
巻き添えを食わせて正直申し訳なかったと思っている。
天皇家とはこれからも仲良くやって行きたい。
美化しておくんで勘弁してちょうだい。
・・・ってことなんだろうと思っている。
226 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 10:14:22
227 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 10:17:18
>>199 でも4人の内3人が悲惨な末路を辿っているな。
228 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 01:29:03
聖徳太子がいなければ日本は中国の属国になった可能性があると思う。
229 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 07:53:15
そのために日本は朝鮮が中国に吸収されないよう動いてたんじゃないか
230 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 23:42:57
そうです
231 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 20:38:53
聖徳太子は日本を中国を対等な関係であることを書簡を持って隋の
煬帝に知らしめた。
232 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 01:53:27
日本書紀は天智・天武王朝の時に作られました。バックには藤原氏がいます。
当然自分達に都合の悪い歴史は改ざんされています。
大化の改新は正にこれで、蘇我氏が悪者にされています。
馬子・蝦夷・入鹿なんて卑しい名前のはずはないのでは?
馬子・蝦夷は大王だったという説があります。
日本書紀は大化の改新における大王殺しのクーデターを正当化するために
書かれたものではないのでしょうか。
馬子の墓といわれる石舞台があのような状態なのは馬子が大王だった
という証拠を消すためのものでは?
233 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 02:57:35
上の理由により蘇我馬子大王の業績を消し去る必要が
あり馬子の摂政だった?聖徳太子の業績にしているのでは?
234 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 01:03:49
ていうか天武朝の時に藤原がバックにいたか?
235 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 22:24:03
藤原 不比等。不比等が力を持ち始めるのは。天武天皇の晩年
皇后の持統天皇に実権が移るころといわれています。
古事記・日本書紀の編集にも指導的な役割を果たしたのではな
いかといわれている。
236 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 23:39:27
馬子が大王だったとすれば、推古天皇なんてありえないし
隋書だったかな?この時は女帝ではなく男の王だったと書かれて
います。聖徳太子がなぜ天皇にならなかったかというよく言われる
謎も説明つきます。
237 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 02:05:06
いねーじゃん。
238 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 12:48:29
隋書にある男王は、新羅と結んでいた九州の日本国の王のことだろう。
ちょうどこのころ大和は筑紫に出兵しているからな。
だが、九州征伐は失敗におわり、外交で対抗する必要から遣隋使を派遣することになった。
239 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 13:08:01
240 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 00:48:35
馬子・入鹿の動物の名前はまだしも蝦夷はひどい。
241 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 01:29:45
壬申の乱で大海人方についた鴨君蝦夷も
きっと嫌われ者だったのだろうw
佐伯毛人もかな?
ちがった、小野毛人と佐伯今毛人だった
244 :
日本@名無史さん :2006/09/25(月) 02:13:30
山岸涼子のマンガでは厩戸と蝦夷はできていたという話でしたが・・・ナツカシイ
厩戸皇子の出生譚は景教に影響されたっていうのは本当なの?
245 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:33:04
>>244 馬小屋で生まれたというやつね。
名前が厩戸だから本当に馬小屋で生まれたのではないだろうか
私は考える。勿論証拠は無い。
246 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 21:25:14
馬子
247 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 08:08:56
厩戸って地名から付けられたって説もあったな。
皇族の名には地名多いらしいし。
王子の娘に馬屋古って居たけどこの命名は父親と関係あるのかな。
248 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 03:56:05
>>244です。久しぶりに来たら、レス頂いていました。
>>245さん、
>>247さん、ありがとうございます。
聖徳太子について、上宮聖徳法王帝説と日本書紀のどちらが信憑性がありますか?
仏教伝来は前者では538年、後者では552年となっていて、学校日本史では
前者が採用されているところからして、後者なのでしょうか?
あと、別の話で、飛鳥時代についての読み物でお勧めはないですか?
黒岩重吾あたりしかわからないのだけれど、どうでしょう?
また、津田左右吉の評価はどうなっていますか?
彼の説を信じてよいものなのでしょうか?
詳しい方、教えてください。
質問ばかりですみません。自分で調べる暇がないものですから。
249 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:29:24
厩戸という名は諸説有ったとしても
キリスト生誕から来たというのが、
なんとなくロマンがあって楽しそう。
事実は分からないけど。
蘇我入鹿の「いるか」って斑鳩か?
251 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 03:27:08
252 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 02:09:08
>>251 それなら本名は何なの?
もしかして鯱とか鯨?
林大郎か鞍作
254 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 01:28:24
林(地名)で生まれた長男で、乳母が鞍作氏だから、林太郎、鞍作。
何も変ではない。入鹿も古代人名として他にも類例があり、変ではない。
蝦夷も同様。書紀編者がおとしめた名前だとかのデムパを言うのは無知の丸出し。
馬 蝦夷 鹿 、悪意しか感じられないんですが、何も変ではないと?ww
257 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 00:57:04
後世の中臣氏にも「ウマ、エミシ、シカ」はおるよ。
馬、馬子なんてのは枚挙に遑がないね。
牛も、鹿も、兎も、たくさんいるね。
蝦夷、毛人も多いね。
>>256が無知なのは、今時「ww」を使うことでもよくわかる。
259 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 12:28:28
水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』に、他にも入鹿とか蝦夷という名前の人が入ること、鯨とか兔とかの名前も挙げて、悪意説を完全に論破してる。読んでないの?
馬、鹿、蝦夷、毛人って藤原にもいますか?
261 :
260:2006/11/24(金) 19:50:54
ググったら藤原蝦夷があった。
藤原三代が自虐的に使った言葉かと思ってたけど、どうも逆の解釈。
262 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 21:15:08
藤原宇合はもと馬養だろ。
鹿は藤原氏にとっては神の使いだ。
定期的に現れる、馬子・蝦夷・入鹿蔑称説ヴァカ。
そのたびに反論を受け、消えるが、しばらくするとまた出てくる。
違う人間なので仕方ないんだが、いい加減何とかならんか、このループ。
そもそもこおゆう無知丸出しのしょうもない説を言い出したのは誰なの?
264 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:09:29
人物叢書 門脇禎二「蘇我蝦夷・入鹿」(吉川弘文館)。
ああ、門脇のおっさんか、納得。ご教示サンクス。
266 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 21:25:02
↑蘇我氏渡来人説と言い、蝦夷・入鹿蔑称説と言い、大化改新否定説と言い、この人の説、かつては話題を呼んだけど今やすべて論破されちゃってるぜ!
今wikiのページを見たら「秀逸な記事」として、「日本書紀」の項目があがってたので見てみたら、
「日本で文字が使われるようになったのは聖徳太子の頃、おそらく西暦600年前後であるから、」だの、
「古墳など考古学的資料からは、470-510年頃まで、6,7人の大王が立ったと推測できる。」だの、
どこが秀逸なんだよ‥‥
269 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:21:48
古代のことは推測が多く聖徳太子ですら実在を疑う人もいる。
面白い説を出せばろくに証明できないから適当に言う人もいそう。
270 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 03:29:59
蘇我入鹿は善良な人物と言う説があるそうですが
実際はどうなのだろうか?
大化の改新はどのようなものだったのだろうか?
国際的危機の中で、部民制・国造制的分権制をやめて、中央集権をはかる
という流れは推古朝から蘇我を経て、大化・天武を経て一貫している。
律令制がその帰着点。そういう意味では大化改新も蘇我政治の流れの中にある。
ただその際に中央集権の核となるのが誰であるべきか、どのような形をとるべ
きかに相違点があった。蘇我は早すぎた藤原氏と言ったところか。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
273 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 12:01:53
>>270 大化の改新の参加者巨勢徳太は山背皇子一族暗殺の実行犯
つまり入鹿は山背殺しには関係ないとみるべき
274 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 01:12:07
ほー
275 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 21:22:13
>>270 善良かどうかは知らんが、キレ者だったのは間違いなさそうだ。
入鹿は負け組み確定の百済外交を見直そうとしていたから、百済派の鎌足に憎まれたんだろう。
276 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 02:31:58
何かの番組で蘇我氏は浦島と関係あって、かごめの歌は蘇我氏の怨歌って言うてたが…何て番組だっけ?
鎌足と入鹿は帰国した僧旻(隋に30年近く留学していた。百済系の渡来人)が
開いた私塾で学んでおり、入鹿は旻から「うちで一番優秀だ」と絶賛されている。
「旻法師・・・大臣(鎌足)に語りて曰く、吾堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くものなし」
しかもこのことは、入鹿を暗殺した鎌足の子孫である藤原氏の歴史書(『藤氏家伝』)に
書かれている。鎌足の業績を讃えたい藤原氏も、入鹿が極めて優秀であったことまでは、
否定できなかったと言える。
だってさ。
278 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:59:18
浦島太郎のモデルは武内宿禰
279 :
わたし:2007/01/24(水) 22:22:25
蘇我入鹿ってさ、大事に祀られてるくらいだから悪い人じゃ、なさそうだねぇ・・・って言ってみる。
280 :
不比等:2007/01/25(木) 00:19:10
祀っとかないと親父みたいに呪い殺されちゃうからなw
蘇民将来・巨旦将来て蘇我氏と巨勢氏に関係あるの?
>>281 どうかなぁ。
蘇民巨旦はシナ渡来の土着信仰だからなぁ。
優秀な上に天皇家の血が流れていると自覚していたからこそ
天皇そのもののように振舞ってしまったんだろうな
将門や清盛のような感じがする。
284 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 20:10:25
285 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:08:58
猪熊兼勝
286 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:39:40
ただいま、NHKで反日番組、絶賛放映中www
ん?
288 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:58:48
NHKのすごい曲解を見た!!
蘇我氏は大臣(おおおみ)。
臣は、皇別氏族(天皇家から分かれた氏族)しかなれない姓。
蘇我氏は、中世でいう平家や源氏みたいなもん。
蘇我氏は武内スクネの系統で、葛城氏とは同族だけど、
蘇我氏が違うのは、彼らは母方に渡来人の家系がいたこと。
日本書紀に、大夫(武内系の葛城氏しかなれなかった)が隣国の女性に
子供を生ませて韓子と名づけたと書かれている。
蘇我馬子の曽祖父は、蘇我韓子。
290 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:01:45
どこが反日だよww
「飛鳥は百済の扶余を真似て作った」とNHKは断定
蘇我氏の施設が天皇の宮殿を包囲し、天皇と国政をコントロール下に置いた状況を
「蘇我氏は唐の侵略から天皇を守っていた」と歪曲
293 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:23:55
白村江の戦いが如何にも愚かだったように見せるため
絵に描かれた唐の小さな軍船(精々20メートル程度にしか見えない船)を巨大戦艦に仕立て上げ
対称的に小さな倭軍の船が、敵うはずもないのに愚かにも向かっていくようにCGで描き歪曲するNHK
294 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:26:20
反日かどうかはともかく
無理やり自説通すために異常に恣意的だったのは事実。
295 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:30:06
色んな学者にインタビューして自説の都合の良い所だけを繋ぎ合わせて
如何にも最近の学問的潮流のように歪曲するNHK
これは、「あるある大辞典」でも良く使われた汚い手法。
NHKみた感想。
天智天皇も中臣鎌足も守旧派(祭祀派・中国に強硬だが、危機感なし)で、
蘇我入鹿が改革派(律令派・対中国警戒派)だったんだけど、
守旧派の天智天皇たちが、入鹿らを暗殺した。
その後、改革は後戻りした。
しかし、それから10数年後、日本は白村江で中国に敗れ去る。
それから、天智天皇らは慌てて、方針を大転換、
中国式の律令体制を復活させた。
そのことは、天智天皇らにとって、日本書紀を記すのは
都合が悪かったということ。
よって、記紀では、蘇我氏を悪く書くしかなかった。
そういう内容だな。おおむね、まともな内容だった。
しかし、唯一、駄目な内容は、ちょろっと蘇我氏の渡来人説。
もちろん、一説には...と前置きだったけど。
蘇我氏は、姓は大臣だったから、武内スクネ系の皇別氏族。
日本書紀には、大夫(武内スクネ系しかなれなかった)が
隣国の女性に子供を産ませて、韓子と名づけたと書かれているから
これは、蘇我韓子のことだろう?
つまり、母方に渡来系の女性が存在したということだ。
>>293 まあ当時の造船技術では大きく敵わなかったのは事実だろ?
日本の造船技術では隋、唐に行くのに朝鮮半島を陸路を経路しなければならかった
隋は海路をそのままこれた
298 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:44:02
いやあれはどう見ても極端な歪曲
299 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:52:19
NHKの手法
唐の船は超巨大戦艦にでっち上げ
倭の船は古墳時代の埴輪風の小さな船に再現。遣唐使船のような大型船は無視。
唐の超巨大戦艦に小船で攻めかかる倭人は愚か者。
300 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:56:46
せっかくCG使ったんだから、ちょっと豪勢にしただけさ。
NHKがCG使うとよくあることだ。
301 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:00:20
>>299の作為的な情景を態々CGで描き
白村江戦の指導者天智天皇は馬鹿で
一方の蘇我氏は利口だった。と視聴者を印象操作
>>301 元がそういう主張なんだから印象操作ではないだろw
303 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:02:38
『その時歴史は動いた』も『発掘あるある大辞典』と同系統の歪曲番組であることが明きらかとなりました。
304 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:03:20
あの恣意性はどうにも・・・
結局テレビは何処でも自説の都合の良いように視聴者を欺くと思って正解
蘇我入鹿が天皇家に友好的だったら
反蘇我の天皇が殺されたのはなんでだぜ?
>>306 あ、そうだった
内容の陳腐さから、つい『その時歴史は動いた』と書いてしまった
NHKスペシャルも同レベルの陳腐な番組だったんだなw
309 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:51:06
唐はわざわざ海を渡ってまで日本を攻める気はあったの?
瀬戸内、九州に作られた山城って唐を警戒してのものだったの?
蘇我の館の配置って天皇の宮殿を包囲して威圧してるように見えたけど?
だいたい、すめらみことを見下ろす場所に住むってどうなの?
攻めてくる唐を警戒するってのより、自分たち蘇我を攻撃する地方の天皇派勢力の大和進入を警戒していたのではないの?
大化の改新の後、蘇我石川麻呂(だったっけ?)は大臣か何かになってたようだけど、そこんとこどうなのよ?
偉い人どうか教えてください。
>>309 確か蘇我氏の人が右大臣になってたよね
中臣鎌足が左大臣だっけ?
311 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 01:03:13
だいたいチャート式の爺さんの説に忠実に番組作っただけじゃん
つごういいとこの摘み食いにはならないとおもうがな
何だよ、あの唐船。
あるわけねぇだろ。
313 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 01:14:51
>>310 左大臣は阿部内麻呂
鎌足は内臣
おまい知識なさ杉w
>>309 あのあたりは、蘇我氏が活躍するずっと前から
皇別氏族の豪族が防衛を任されていた場所なわけ。
315 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 01:46:22
朝日の試写室で「取材は手厚く多面的。通説を覆す推論には、非常に説得力がある。」
と書いてあったから期待してたんだけど、日本史好きには色々と突っ込めそうな内容だったな。
漢文の間違いを元に「日本書紀が最終段階で加筆されたのは事実なんです。」
とか断定された時点で急激に冷めてしまったよ・・・
「私はそう思います。」でいいじゃん。
316 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 02:02:49
あの唐船は、木製ですから、同時では、いや、今でも造れませんよ。
造っても、波で折れるのではないか。
317 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 02:05:45
万葉・国文学者からの横槍っていうと中大兄・間人密通説を思い出したよ
語学者としてはどうかしらんが、歴史家としては3流だな。
加筆してあるから嘘だって‥‥
加筆する前から嘘だよ。決まってんだろうが。
この人は歴史書とは事実が書いてある(書くべき)ものとでも思ってんだろうね。
編纂者の自己正当化のためなのは当たり前。
319 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 04:58:08
320 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:40:06
唐のあの軍船あったの?
ないw
造船技術が高かったのは確かだけど
表現がオーバーすぎる
>>319 warota.
視られなくて残念だった。
お笑い番組だったのか。
323 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 13:42:25
蘇我氏滅亡と連呼してたけど、蘇我氏は滅亡してなかったような。
それに書記を一人が書いてたような放送だったけど、そんな事も
ないだろうし。天皇を守ってた配置にも考えられるけど、取り囲んで
監視してた意味合いもあっただろうし・・・
それに蘇我氏だけが大陸に通じてたみたいな話だったけど、嘘だし。
324 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 15:11:04
歴史番組かと思ったらSFだったなw
325 :
保存しましょう:2007/02/03(土) 15:56:59
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
455年 高句麗、百済を撃ち、任那・志羅紀が百済を救う。
458年 百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める。
472年 百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める。
475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す。
(省略・・・)
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!!
中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。←(ここも注目!!
655年- 新羅、百済の刀比川城を攻撃。
660年- 唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす。
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。
歴史はわからんが、NHKの番組はどうも違和感があったな。
韓国人がでてきたら案の定、韓国起源の主張だった。
日本書紀が漢文で書かれてるからって著者が中国人て断定も違和感あった
あんな番組の作り方見ると受信料払うのやめようかどうしようか本当に悩む
329 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:39:10
330 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:42:41
>>307 反蘇我の天皇が殺されたのって入鹿より前の馬子の時代じゃなかったか。
入鹿が頃したのは聖徳太子の子供達。
まぁ滅亡してないのに、滅亡とか言っては駄目だよな・・・
何であんなに突っ込み所満載の番組しか作れないんだろ・・・
あるある並に酷かったよ・・・
>>329 それもNHK流曲解では
蘇我氏が天皇を唐の侵略から守るためというトンデモ解釈に辿り着く
>>326 え…またかよorz
見逃したんだけど何が起源にされてたの?
>>323 入鹿の従弟の存在はスルーされたのかな。
中大兄に協力して娘嫁がせて右大臣?になってたのに。
今日の夜再放送があるぞ
>>333 蘇我倉山田石川麻呂は用済みになり、謀反の疑いをかけられ中大兄に始末された。
その首を石川麻呂の娘に見せびらかし、娘は発狂した。
その発狂した石川麻呂の娘から生まれた娘が持統天皇。
337 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:41:35
>>336 石川麻呂の弟の日向は九州へ栄転、連子は右大臣、赤兄は左大臣に昇進
338 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:46:29
>>336 石川麻呂の弟の日向は九州へ栄転、連子は右大臣、赤兄は左大臣に昇進
339 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:47:38
>>336 石川麻呂の弟の日向は九州へ栄転、連子は右大臣、赤兄は左大臣に昇進
「Nスペ大化の改新」見てると、猪熊さんが「蘇我氏が自ら盾となって天皇を守ってた説」を唱えてるような構成だけど
実際どうなの?
>>340 興味持ったんだったら自分で考えたら
思考放棄かい
ここは質問禁止スレに非ず
質問は思考放棄に非ず
質問は思想の素材である
質問じゃないやん、楽に答え欲しがってるだけ
>>336 そうなんだけど入鹿暗殺後の事だし持統天皇の生年は645年。
祖父の死より前だよ。
そういえば弟王子は口が利けなかったね。
母親の精神状態が不安定だったからかな?
649 遠智娘死亡
658 建皇子死亡(8歳)
何かおかしくね?
347 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 10:52:14
誰か時空警察に捜査依頼出せ!
造媛と別人の可能性もあるが
349 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 22:33:03
イルカが 山背大兄皇子を滅ぼしたことは悪行
コメントした学者の都合のいいところだけ採用したって印象
どの学者の説も根拠が浅いのにNHKはまるで事実であるかのように内容を組み立てた
山背大兄皇子の人格とか政治能力って実際どうだったんだろ。
352 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 16:24:45
>>319 >NHKスペシャル 大化改新 隠された真相 〜飛鳥発掘調査報告〜
朝鮮デンパがにじみ出てた番組だな。
現在125代目の王である今上日王(明仁)が、「桓武王の生母が百済の武寧王
の子孫」という「続日本紀」の記録を引用、日本の王室に韓国の血が流れてい
ることに触れたことで、これまで韓国の血を拒否し沈黙してきた王室のルーツ
をはっきりと示すことになった。
すでに6〜7世紀、日本の大和朝廷時代に百済との密接な交流により、日本の王
室に韓国の血が流れている可能性は高い。例えば、当時の権力者である蘇我氏
の血統をみると、蘇我韓、蘇我高麗、蘇我稲目、蘇我馬子と世襲されているが、
この名前だけを見ても韓国系であることが明らかだ。蘇我稲目は当時王妃の実父
だった。彼の息子・蘇我馬子は、新王のいとこであり、二人の娘のうち一人が舒
明王だ。王室に韓国の血が流れていることへの拒否感を感じるためか、日本の
学者は蘇我氏が百済系であることを隠しているが、今後この是非をめぐって議論
すべきことだろう。日本の王室に韓国の血が流れていることは、同化政策を行う
ときに打ち立てた韓日同祖論から取り上げられ悪用されたこともあるが、今回の
日王の発言は、普段から日本の王室に伝えられてきた素直な常識だと思う。
イ・ギュテ/朝鮮日報論説顧問
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2001/12/24/20011224000013.html
なにこれw
最近のNHKは朝鮮デンパドラマが多いな、壊れてるんかな?
>>352 桓武って初代じゃないから起源じゃないし、韓国の血じゃないしそもそも当時の半島人と今の半島人って別物なのにな。
別に誰も拒否も沈黙も隠蔽もしてない周知の事実で図書館にだって置いてたのに
なんでそこまで隠蔽されている事にしたがるんだろ?
稲目以前は実在人物ではないって説もあったし。
NHKは確信犯だよ。腐りきってる・・・
蘇我入鹿は存在しなかった。
すべては藤原氏のフィクションだったのさ。
358 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:03:36
>>356 幹部クラスはほとんど朝鮮人
実質犬HKの中枢である政治部は朝鮮人工作部隊
金の成る木であるエンタープライズは在日の工作機関
百済王の子孫は大内義弘
362 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 19:00:33
任那王の子孫じゃねえの?
中大兄皇子「なんか、東夷のカスどもを討伐せよと命令されたわけだが、家臣の中臣鎌足も連れて行くことにするよ」
364 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 03:49:29
365 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 09:40:28
日本の武将には大陸に先祖がある人も多いかもしれない。
366 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 10:42:15
いねえよwそんなの
一万年くらい遡れば
日本の武将にはアフリカに先祖がある人も多いかもしれない
369 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 10:48:21
>>359 おまえデマばっか言っててはずかしくないのか?
>368
すべてのホモ属はアフリカ起源が定説なわけで…
レズの連中もアフリカ起源だ
372 :
日本@名無史さん:2007/07/19(木) 22:18:29
飛島建設
373 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 02:58:25
阿部政権は関東軍と朝鮮総督府の系譜を引き継ぐ朝鮮利権集団
374 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 00:49:06
阿倍・蘇我連立内閣が大化政権の実態
375 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 22:26:53
あべ
376 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:44:05
>>352 淳香皇后の顔みりゃ、朝鮮民族そのものじゃん。
昔どうだったか別にしてもうはいっちゃったw昭和天皇が選んだんだから仕方ないよw
ま、日本人とはいえ・・・どこから来たかは隠せないって外見だよね。
377 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/29(月) 22:56:36
ああ疲れた。なあんかウンザリだ。
どうでもいいけど、スレの書き込みがいつもと違うような。
前からいる人たちなのかねー。
378 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/29(月) 22:57:26
↑これスレ間違い。ごめん
ごめんで済むか、低脳
380 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 16:25:59
381 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 19:25:30
111
382 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 21:47:38
明らかに、日本史の根幹に有る「天皇家=天皇制」を造ったのは、「蘇我」だろう!
継体天皇を担ぎ上げて、息子の欽明天皇を立て外戚関係として近親相姦を繰り返す。
383 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 21:52:51
特に、「欽明天皇と蘇我の関係」は異常だ!誰が実際の権力者かハッキリしている。「蘇我稲目・馬子」親子!
欽明天皇は蘇我の稲目の子供、馬子と兄弟の可能性ありとみている!
384 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 21:58:42
聖徳太子に至っては、用明天皇と穴穂部間人皇后の息子であり、両親とも蘇我馬子の姉と妹を母とする完全な「蘇我一族」
また、完全な仏教崇拝であり、神道は見えない!
385 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:04:35
次いでに、
継体天皇以前は血統が絶えているし。
天皇と言うよりはヤマト朝廷の大王一族が、応神系と崇神系があったのだろう!(常識)
386 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:09:15
だから
大改はある意味、復古的なクーデター的性格を持たざるおえなかったのだろうな!
387 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 18:50:57
いや
中大兄&鎌足による、蘇我宗本家壊滅作戦。
388 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 20:15:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
鯨がダメなら入鹿がいるさ
390 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:46:15
つーかさ、江戸時代以外は鎖国していたわけでもないし、
縄文時代から、北海道やウラジオストックのあたりと交易していた
証拠も見つかっているし、朝鮮半島とも頻繁に交易や、
人の交流があったのだろう。
だから、縄文-弥生(朝鮮系)とくっきり区切ることは
余り意味が無いんじゃないのか?
更に、縄文時代から各地方ごとの都市国家として、国があったみたいだしさ。
九州南部みたいに、縄文系と渡来系が混ざった国とか、
出雲近辺みたいに縄文が色濃く残った国とか、いろいろあったんでは?
391 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:35:46
392 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:51:29
>>391 「推定の域を出なかった入鹿邸の可能性が極めて高くなったと言える。」・・・?
推定の域を出なかった入鹿邸は依然として推定の域を出ないだろ。
何か入鹿邸と確定できる物が出土したのか?
願望と現実が区別できていない記事だな。
393 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:55:04
>>392 @焼土、炭が検出されており、邸が燃えたことが分かる
A土器などから蘇我親子が滅ぼされた7世紀に燃えて廃絶したことが分かる
B土塀や高床式の武器庫などが日本書紀の記述と一致
394 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 11:28:26
>>393 それで?
直接、蘇我親子と結びつく品は?
395 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 11:36:23
>>394って、
「蘇我馬子築造」という品が出てないから飛鳥寺は蘇我馬子が作ったんじゃない!
「持統天皇築造」という品が出てないから藤原京は持統天皇が作ったんじゃない!
「元明天皇築造」という品が出てないから平城京は元明天皇が作ったんじゃない!
「桓武天皇築造」という品が出てないから長岡京&平安京は・・・(以下同文)
っていいきる人なんだろうな。
蘇我あぼーん
398 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 16:29:39
蘇我氏の歴史が、今後見直される日が来るだろう。
日本書記編纂者による、蘇我=国賊のレッテルが、いつか見直される。
400 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 20:16:12
>>397 豪族の勢力範囲は決まっているからそれはない
飛鳥中心部はもともと蘇我氏の地盤
崇峻天皇殺害
穴穂部皇子殺害
山背大兄王殺害
宅部皇子殺害
皇族を次々と殺害した忠臣蘇我氏ワロスwww
402 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 17:33:40
>>401 崇峻天皇 ・穴穂部皇子・宅部皇子殺害 ←陰で糸を引く大后炊屋媛(推古天皇)あり
山背大兄王殺害←舒明天皇にたてつこうなんて百年早いね
日本書紀では蘇我氏の専横ということになっているけれども、
結局は天皇家内部の抗争。
403 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 22:33:15
忠臣蘇我氏デッチ上げワロスwww
404 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 12:02:41
本当は善良だったの入鹿さん?
405 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 12:06:02
私はそう思ってるけどなぁ
ま、悪人のがかこいいけどw
407 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 20:18:15
>>404 頭よくて正義漢なんだけど、クラスのみんなからは煙たがられるやつっていただろ
風紀委員とか生徒会とか頑張ってて悪人じゃないだよな
>>401皇族殺害が逆賊なら藤原氏も逆賊になるだろ
当時の皇室は、決して同族として一枚岩でまとまってたわけではないし
皇族内でのお家争いと、外戚としての諸氏族の利害が絡み合って血なまぐさい事件が多かった
ま、忠臣ではないだろうけど
善でも悪でもなく、ただの敗者
古代に権力を握った氏族の中に、忠臣なんていなかったと思う
大伴氏とかはわりと忠臣っぽいけど
なんとなく
409 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 17:03:04
舒明天皇にとっては忠臣かもね
410 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 19:14:13
舒明は義慈元年に倭国に派遣された男らしい。
411 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:40:20
逆でさ、書紀は壬申の乱正当化の為天智を殊更
暴君に仕立てる大前提があり、蘇我はその引立て役
として悲劇性を強められたんじゃね?
実際の蘇我は書紀よりエグかった気がス。
412 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:26:49
じゃあ、天武は暴君だったと?
413 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:58:58
京都泉涌寺の歴代帝位牌天武系だけ抜けてんだって。
暴君だったんじゃね?
414 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 03:10:09
それは光仁天皇以降の天皇が天智系だからでしょ
415 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 12:21:28
壬申で天智側の蘇我果安以降蘇我の名族表出た?
416 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:10:11
蘇我氏は以降石川氏を名乗っているよ
◆それ以前に蘇我の名前は韓子・高麗・稲目・馬子・蝦夷・入鹿は本当の名前なのか?
後から編纂時に当て字されたのではないか?
親が子供に付ける名前ではない!絶対に
◆韓に高麗!馬に鹿!蝦夷!稲目?
こんな名前付けないよ!
ほとんど〈仇名〉に近い!
意図的に書き変えられた可能性は?
419 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 03:12:51
◆蘇我は絶対にあの世で怒っている!
〜俺の名前が違うぞ!…1500年も〈馬・鹿〉にしやがって、教科書直せ!〜
420 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:38:51
飛鳥の頃はまだ表音が主流で漢字は当て字的要素が
強く、漢字に深い意味を込めだすのはも少し後からだよ。
(蘇我も法隆寺仏銘には嗽加ってある)
421 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:07:11
俺も昔は書紀が蘇我を貶めてる、と思ってたけど、
皇子とかにも変な当て字多いし、そもそも語意が
なってない。正直使いこなせてないみたいね。
422 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:10:35
〈姓〉も後世の当て字なら、〈名〉は悪意を持って創られたって事だな!
歴史家は正すべきだろ。あの時代の真相がボヤける。〈馬・鹿〉は可哀想だ!
423 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:50:28
〈蘇我宗家〉は、歴史から抹殺と同時にタブー視する必要があったんだろな!
不比等か犯人は!
(自分は比べる事が出来ない男、笑わせるな!)
424 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:32:09
その割に書紀の蘇我の行状はそれ程悪逆には書かれて
無いね。雄略武烈の方が遥かに酷い。それが継体正当化の
為の記述というなら、天智正当化の為に蘇我はもっと
悪辣に描かれるべきでしょ。何故そうなってないか?
425 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:21:03
天武の書紀編纂目的はあくまで壬申の乱の正当化。
不比等はそれに藤原氏の正当化を擦り込んじゃったから、
記述がややこしくなってる。
426 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:33:11
天武は不比等を冷遇したからね、
書紀当初は鎌足の記述もかなり別モノだったろうな。
427 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 02:36:50
>>424 継体正当化問題
確かに之が大事だったのは理解できる。しかし継体正当化の影に棘のように、蘇我宗家の問題が絡んでいたとしたら、
さもあらむ!
>>423 息子には〈馬養〉なんて名前付けるし、孫には〈鳥養〉がいるもんな。
ほんと自分さえ良ければの典型だよ、不人は。
429 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 09:43:23
蘇我は欽明朝から突如出て来る。継体〜宣化に於ける
不可解な流れ(二朝並立論、三人同時死亡説等)
に稲目辺りが深く関与してる筈だが…
この時期の記述は、蘇我を正当化する臭いが強いね。
書紀は欽明期編纂の資料をまんま写したって感じ。
430 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:49:04
石舞台古墳の盛土根こそぎ除去されてるのって
明らかに人為的だが結構な労力だよね、あそこ迄やるの。
誰がいつやったの?前から気になってて…
431 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 14:01:44
>>429 > 蘇我は欽明朝から突如出て来る。
稲目と欽明は兄弟じゃないの?
娘を嫁には出しているけど…
432 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 14:05:51
>>430 > 石舞台古墳の盛土根こそぎ除去されてるのって
自然じゃ無いよな!馬子に対する怨み、イヤ蘇我宗家に対する怨み嫌がらせ、ある意味では見せしめでしょうね。
433 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 15:05:05
遺体も無惨な目にあったんだろな!
(〒_〒)黙祷…
434 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 17:52:44
蘇我稲目から入鹿まで大河でやって欲しい。
435 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 18:12:30
>>431 こんなことは珍しいことではない
飛鳥・奈良・平安時代の貴族社会は身分の高い人にあこがれていたため近親婚しまくりだった。
その頃の倫理は「父親が同じでも腹(母親)が違えば赤の他人」だったから。
子供は母親の実家で育てられるため、腹違いの兄弟同士で顔をあわすこともめったにない。
そんなわけで腹違いの兄弟姉妹間では「兄弟・親族という観念」が希薄だった。
反対に「近親で結婚してれば、よそものに財産が散れない」という利点もある。
もちろん近親婚はDNAで考えれば劣化遺伝はどうしても避けられないのであって
その結果としてやたら体が弱い人やオツムが逝っている人が多かったらしい。
医学的に、血のつながりの濃い近親婚を禁じなければいけない理由はいくらでもある。
ただし、近親婚すると劣化遺伝する可能性が高くなるけど、逆の場合もある。
実際、聖徳太子のような優れた人物は近親婚の産物だから
「近親婚=悪い遺伝を持った子ばかり」ということもない。
【聖徳太子の親について】
聖徳太子の父親=用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛の子供。)
聖徳太子の母親=穴穂部間人皇女(欽明天皇と蘇我稲目の娘・小姉君の子供。)
誰がどう見ても酷い近親相姦です。本当にありが(略
436 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 19:39:53
>>429 > 蘇我は欽明朝から突如出て来る。
突如として大王家の三蔵(斎・内・大)を握れる理由は?
大臣は平群・巨勢と変わって来てるからそのあたりの絡みもあり?
437 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 19:59:11
>>435 史書の信頼性に疑問視だけど、
蘇我宗家は一族に近い、山背を始末して敏達系の舒明を推した事が仇に!
山背大兄王を推しておけば一族安泰だったのにと悔やまれます(事件も起きなかった)
438 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 09:14:43
大王家に一時絶大な力を誇った葛城氏は雄略期に
衰退するが、蘇我稲目は妻を葛城氏からとり、
後に馬子は葛城県を本居とし葛城臣と称している事から、
蘇我の台頭の要に葛城氏が利用されたのは間違いない。
蘇我自体の出自は謎のままだが…
439 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 19:00:25
出自が不明の一族→半島起源
出自がはっきりしない人物→朝鮮人
古代史のトンデモ本って大抵こうなってるよね
何かの陰謀?
440 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:02:02
>>438 蘇我馬子が推古女帝に葛城県を要求した際、同地が本居(ウブスナ)であると述べ、
また蘇我馬子は葛城臣とも称していたことは史料上確認できるが、
稲目の妻が葛城氏であったとは史料の上から確認できない。
早合点?
441 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 01:15:40
蘇我は本来有力豪族の分家の可能性は?
…
しかし、〈継体→欽明=蘇我〉の謎解きが出来ないと日本と言う国が分からないよな!
442 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 03:18:46
昔からヤマトにいたように見せているが、継体が連れて来た可能性は如何に…
多少は自前の有力なスタッフがいないと…
443 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 09:24:20
>>442 継体天皇紀に蘇我氏は現れない。
継体天皇の大勢の妃たちの中にも蘇我氏出身の者はいない
蘇我氏が台頭するのは畿内の有力豪族だった大伴氏が
割譲問題で失脚した後
しかも欽明天皇に娘を入れたと思ったらすぐに欽明の子の代で
蘇我系の天皇が即位
往時の葛城氏を思わせる台頭ぶり
藤原氏なんて天皇に娘を入れ始めてから
藤原系の天皇が即位できるまで随分時間がかかっているのに
444 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:02:11
やはり、稲目と欽明は兄弟じゃないの?(親父が同じ、母親は違っても)
〜直ぐに大臣で三蔵を握るなんて…
〜武内宿禰から韓子、高麗は後世の系譜作り。
後は飛鳥が舞台だしな!
445 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:25:41
〈韓子、高麗〉は外国かぶれを意味して、
〈馬子、入鹿〉は大王を蔑ろにした大馬・鹿野郎の意味だよ。
〈蝦夷〉も察しが尽くし
〈稲目〉は否めかな!
446 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:43:07
書記編纂の頃に台頭していた藤原氏も
この頃は鎌子だの鎌足だの
ろくな名前つけてもらってないがな
447 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:57:15
藤原氏も、北家、南家には、
蘇我氏の血も流れているし。
448 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:08:20
天皇家にも蘇我の血は流れてるよね
しかしこの時代は天皇の名前も
飯炊き女だの(=炊屋媛、推古天皇)
馬番男だの(=厩戸皇子、聖徳太子)
まあ、ひどい名前だ
449 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 03:26:53
案外、皇統は蘇我よりいでたり!
では蘇我本家を滅亡せしめり理由はいかに?
倭の4王であった蘇我を滅ぼす理由は如何に?
>>444 逆に、母親が一緒だったりして。継体がヤマトに来る前に、
手白香皇女はすでに結婚してて子供作ってたとか。
451 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 04:12:27
蘇我氏の行動には仏教信仰以前に、土着信仰への傾倒が見られるし
また蘇我氏は葛城にやたらこだわるし、実際そちらで逆賊とされたはずなのに
尊敬を集めて奉られてきている。
これって、つまり、縄文系部族であるってはなしじゃないのかなあ?
要するに弥生=神道による支配に対抗するため、縄文の泥臭い信仰では太刀打ちできないので
仏教を持ってきたってはなしじゃないかと思うのだが、どーよ?
蘇我氏渡来人説とかトンデモ言う人も居るけど、逆で、縄文系の流れをくむ部族と考えたほうがしっくりくる。
初期大和朝廷は部族社会の様相だが、その遊牧民にありがちな部族合議政治のシステムに下った縄文系部族なのではないかと。
そして従わない縄文系は蝦夷へ連なるという流れではないかと。
452 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 04:19:52
上で話題になってる名前は本名じゃないのでは?あだ名をつけられたのでは?
って話題ですが、まず間違いないでしょ。
日本書紀編纂した時代はまさにそのくだらない当て字で貶めたりする大ブームだよ
和気清麻呂は、「わけのきたなまろ」とか名前変えて流されるし
藤原仲麻呂は恵美押勝と名前変えるし
言葉の呪詛とか意味とか、言霊的な意味で流行ってたんだと思うよ
蘇我氏の人々の名前は、その手の呪詛の一種でしょう。
たぶん似た音の別名だったのだろうと思います。
キタナマロみたいに意味を逆転させたりもしてるかもね。
453 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:54:01
では、元々の名前は何だったのだろうか。
454 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:22:50
いや、馬子とか蝦夷とか入鹿は普通に本名だろう。
動物名にちなむ人名は古代には珍しくないし、蝦夷にしても「小野毛人」という例がある。
門脇説以来の蔑称説は、木を見て森を見ずであんまり説得力がない。
455 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 14:08:43
宅部皇子とは?
宣化の息子とされてるが、宣化朝での記述には名前が出てない。
当て字や逆の意味などで貶められてんだろうね。
ワケノキタナマロみたいな
馬子とか、ウマはたぶん古語の美しいことを示すウマ+コなんじゃないかな。
勝った者のやり放題!
458 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 08:11:08
名前は本名だろうな
古代の資料に「鴨君蝦夷」や「江沼臣入鹿」、「河内連入鹿」とか普通にいる
他にも兎やら鯨やら
おそらく旺盛な体力、生命力にあやかろうとしての命名だろう
日本書紀は大宝律令のコピーの部分がいくつかある。日本書紀にある大化の改新は、でっちあげ。
>>429 > 蘇我は欽明朝から突如出て来る。
宣化天皇が、アスカに都を移して、
蘇我稲目を大臣にしているから、その一代前では?
>>443 蘇我氏が奈良南部の土着の王族で、
継体以降の天皇家が外来とする可能性も考えておいた方がいいと思います。
文献資料がないのではっきりしたことはもう分からないと思いますが。
交代王朝説ほど独立的かつ敵対的なものではなくても、
血縁関係の中の王族間の激しい争いが壬申の乱まで続いていたのでは。
462 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:09:32
前スレに書き込めなかったから書くけど、
穴穂部皇子が炊屋姫を犯そうとした記事は捏造じゃないのかね?
実際には、中に入れなかった訳だし。
ここの記事が三輪氏か石川氏の家譜に拠っているのかも。
464 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:32:14
穴穂部皇子―物部守屋
炊屋媛―蘇我馬子
彦人皇子―三輪氏、中臣氏、(息長氏?)
明日香は明日香って書こうよ。
アスカっていうと、惣流・アスカ・ラングレーのことだ
>>463 蘇我氏が天皇を殺したのもねつ造なわけだな。
蘇我氏は犯人を捕まえた英雄にすぎない。
>>466 中村修也さんも似たようなこと言ってるが、
さすがにそれはないだろう。
468 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:51:17
いずれにしても罪を被ったのは東漢駒一人であって、馬子がその計画犯とは
誰も気付かず(あるいは気付いても口に出さず)、後付けで書紀に書かれたにすぎない。
いかに馬子といえど事が露見すれば無傷で権力者の地位を維持できたかどうか。
469 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:37:23
蘇我入鹿が乙巳の変で殺されたのは、半島政策が原因。入鹿は現実的な政治家で、統一国家唐の実力をよく理解し、半島で進行する国家の再編成から距離を置こうとした。
一方で西国に多くの城を築き、専守防衛の姿勢を明らかにした。これは百済を見捨てることを意味する。倭国内の百済系の豪族たちはこれを不満とした。
一方で、馬子時代に起きた崇仏廃仏論争で失脚した廃仏派の豪族たちも復権の機会を狙っていた。この両者が結んで入鹿打倒の計画が立てられた。
さらに高句麗もこれに加わった。高句麗としては、唐に対抗するためには倭国が半島に出兵し、半島南部に戦線が拡大することが望ましかった。
百済、高句麗、旧廃仏派この三者が組んでクーデターが行われた。つまり倭国の半島出兵を実現するためのクーデターであった。
倭国の半島出兵は惨憺たる結果の終わった。このクーデター自体が始めから誤りであり、正しかったのは入鹿の方であったことが証明されてしまった。
そのまま記録したのでは天智天皇の立場がないので、それがいかにも国家体制の変革を目指したように偽装した。
妄想おつ
471 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:24:49
日本は当時は朝鮮半島にちょっかい出すより
国内の安定を考えていたろうね。
明治の征韓論と反征韓論に似ているかもしれないが
その頃は国力から見ても海外出兵は無理。
同盟国にも手助けは難しかったろう。
多分
国が勢力争いを止めて統一した国家になる必要があった。
4〜5世紀にかけて出兵を繰り返しているのだが。
というか近江が拠点の継体天皇の時に、
北九州で新羅と組んだ磐井と磐井の乱やったばかりだし。
半島政策も大事だし、大和掌握も大切だったでしょう。
蘇我氏は秀吉や家康をイメージすると分かりやすいですね
権勢を誇り天皇のように振舞ってしまった心理状態も理解できる
それを言うなら信長では?
■古代日本の支配者 蘇我氏は新羅人(韓国人)だった
4世紀頃に突如として日本の表舞台に現われた大豪族蘇我氏
聖徳太子や天皇などに娘を嫁がせ天皇以上の権力を持っていた古代日本の支配者
しかしどこから現われたのかいまだに分っていない謎の一族
その蘇我氏のルーツが韓国にあると言う、7世紀まで韓国東南部に
栄えた古代国家「新羅」である
日本の126号墳(蘇我満智の古墳)から古代日本ではありえないローマ産の
ローマングラスやトンボ玉などが出土している
同じく新羅王国があった韓国の慶州市の国立慶州博物館に5〜6世紀の王の墓から
ローマングラスが出土、トンボ玉も一緒に発掘され展示されているが
トンボ玉の模様が蘇我氏の墓から出土したものと同じ模様である
周辺国の百済、高句麗からは出土していない古代最先端技術のローマングラスは
東洋では新羅と倭国(日本)だけでしか発掘されていない
さらに126号墳の周辺には蘇我氏の墓がある新沢千塚古墳群のほとんどが
新羅特有の木管直葬墳なのだ
これらを総合的に考察すると答えは必然と見えてくる、蘇我氏が新羅と関係があるのは
明白であるだけでなく証拠まで残っていることに驚きを隠せない
新羅の王族に近かった位の物が倭国(日本)に渡り蘇我の家名を立て物部氏を
滅ぼし天皇の側近となり古代日本の政治を支配したのである
天皇にも娘を嫁がせてるので天皇も事実上は新羅系である
奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡に蘇我氏の邸宅跡とされる遺跡があるが
暗渠(地下の水路)が作られており飛鳥京には噴水まであったことが分っている
これらの優れた新羅の最先端技術が当時の日本にもたらした影響力を考えると
先祖達ちの偉大さが伝わってくるようだ
蘇我氏、それは高度文明を持つ韓国人の先祖である新羅人達が海を渡り
家名を立て倭人達を支配し古代日本に文明をもたらした偉大な一族だったのである
モクラマンチ百済人じゃなくて、新羅人説が出たのか。
百済派の中大兄皇子に石川麻呂や赤兄が協力したのはなぜ?
蘇我氏の眷属にも百済人は多かったんじゃないの?
478 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 15:53:32
>>472 4、5世紀と7世紀のいちばんの違いは、中国大陸に統一王朝ができたこと。中国が南北に分裂している間は、一方と対立しても、もう一方の王朝と結べばよかった。
隋は王朝を統一し、かつての漢帝国の版図を再現しようとした。こうして、楽浪を併合していた高句麗との間に問題が生じ、高句麗があくまで抵抗する姿勢を示したため戦争となった。
4,5世紀において倭国は、中国のことを考慮にいれることなく半島に出兵できたが、7世紀には隋、唐に従うか、それに抵抗する側につくかを決めた後でなければ動けなかった。
>>472 何れも最終的には朝鮮半島国家に撃退され失敗に終わってるわけだが。
>>479 >その頃は国力から見ても海外出兵は無理。
への反論だろう
481 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 09:14:53
蘇我氏の祖先は朝鮮半島から渡って来た?中国からかな?
482 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 14:02:21
蘇我氏は葛城氏の支流の出自。
葛城氏は多くの皇后を出している有力豪族だったが、
継体天皇の頃には本家は衰退、
一方でその傍流の蘇我氏が多くの帰化人を配下に収めて台頭。
それ故蘇我氏帰化人説が今なお残っているが、
デンパ説。
483 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:07:33
だから金は誰が殺した?
金?中臣金のこと?天武の命令で処刑されたよ。
485 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 18:51:39
金太郎でした↑
486 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 08:47:46
日本書紀に出てくるハーフの話で、優秀だから本国に呼び戻したというのと、
半島でやりたい放題しているのを問題視されて呼び戻されるというのがある。
487 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 19:15:31
ハーフ す て き
誰の事かな ?
木満致@応神紀
佐魯麻都@欽明紀
日羅@敏達紀
489 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 12:43:50
>>482 蘇我満智ー蘇我韓子ー蘇我高麗
こんな名前つけるから1400年経った今でも物議を醸してるんだよなw
韓子の高麗じゃ渡来人だと思うだろ
490 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:14:43
カラ人(女)との混血には韓子とつけられることが多い。
帰化人の娘でなくとも、
日本の兵が出っ張っていってるんだがら、現地妻に生ませた子はそう呼ばれている。
なお、蘇我は韓子、高麗だけでなく、
蝦夷、馬子、入鹿とか奇妙な名が多い。
エミシの娘に生ませたわけではなさそうだから、
変わった名前をつけるのが趣味だったくらいしか、
今のところはわからない。
492 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:20:53
じゃあ 釜古は ?
493 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:25:37
【歴史】聖徳太子は聖王の生まれ変わりなので百済系王族
百済第27代王・威徳王の息子、阿佐太子が西暦593年にもたらしたという救世観音像と
百済系渡来人が作った百済観音像だ。 救世観音像は「威徳王が新羅(シルラ)との
戦闘で亡くなった父の聖王の姿を作ったもので、法隆寺を建立した聖徳太子は聖王の
生まれ変わり」という過去の記録が伝えられる。
このため韓国テレビの歴史ドキュメンタリー番組が百済の聖王の姿を3次元(3D)で
再現しながら、観音像の顔を使用したこともある。
聖徳太子も日本古代王家で百済系の王族に分類される。
奈良公園内にある東大寺も百済と関係が深い。
この巨大な仏像を作る造仏師として百済滅亡後に日本に渡ってきた百済の流民が
多数参加したというのが、東大寺の僧侶の説明だ。 大仏造成の責任者だった
僧・行基も百済系という。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=112668&servcode=A00§code=A10
蘇我氏、藤原氏だけでなく聖徳太子も百済系、大仏造成の責任者も百済系
おいおい、倭人は一体何やってたんだよwww
全部、百済人のお陰じゃんwww
>>493 だから日韓併合は正しいのに文句を言う新羅の末裔である劣等民族のチョンには困る
496 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 12:52:14
497 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 15:01:39
蘇我氏は渡来人です。
498 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:50:02
499 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:51:34
渡来人以前は弥生人であって、純粋な日本人でしょうな。
500 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:53:41
弥生人は蒙古から来た
民族であって、七世紀の
渡来人と見分けるのは
難しいです。
弥生人は渡来人よりも顔が濃かったみたいです。
>>493 聖徳太子=蘇我馬子でしょう。
馬子の子は複数いるが、入鹿が大海人皇子だと考えるとわかり易い。
デンパ説とチョン捏造説満開だな。
503 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 15:55:31
トンデモ説は本気で信じている人、殆どいないでしょう。
騒いで面白がっているだけ。
でも、どれも手垢が付いたものばかりだから
ちっとも面白くない。
505 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 15:33:11
テレビの見すぎ
506 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 09:41:52
民放の歴史番組ではトンデモ説をあたかも事実のように
必死で解説するものがあるね。
507 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 10:45:04
エフタルの王子らしいな
509 :
日本@名無史さん:2009/05/07(木) 17:19:33
馬小屋で生まれたのだからイエス様やろが!
510 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 13:07:06
蘇我氏は渡来人かな?
511 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/07/12(日) 14:13:00
聖徳太子の未来記
その時、魔王波旬は仏法によって釈迦の仏法を破り、日本を乗っ取って鬼の
国にしようと願う。故に3人の眷属を使う。邪法を授けて日本の衆生を惑わし、
三悪道に落さんと欲する。
親鸞法師、阿弥陀仏の念仏を唱えさせ、戒律を守らず、女犯を許し、斎食を
行わずして肉味を喰らう。法を破って肉食する事が戦争が起きる因縁(怨霊が恨
みを晴らす)であり、亡国の基である。日本の末世には六天の魔王が猛威を振る
い。日本人の悲劇を見て外国人が喜ぶ。畜生顔の人が物を言う。夜半に太陽が
出る。地獄の苦しみに耐えて誠を尽さねば罪を償えない。早く改心する者程楽
になるぞよ。
人の先祖は神であり、生物は神魂の宿った同類である。この様な教の神道が
あるのになぜ仏教が普及したのか。外国に侵略され、仏教の邪法と煩悩に迷わ
されのである。
乙巳の変は三韓の献貢の日に、倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が
天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来
なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳
に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら
3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必
要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は
仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。
年号は天皇名と一致する筈だが、変後に九州年号が使われたのは天皇暗殺の
証拠。
2・26事件は百姓一揆である。景気悪化のしわ寄せを米価引き下げによる農民
苛めによって消費者を助けて凌ごうとしたのである。昭和天皇は弱者を見殺し
にする冷血漢である。
天皇はアメリカとの密約で原爆投下まで降伏するなと命令されていた。朝鮮
人の天皇は日本人が幾ら死のうが平気なのである。本当なら自決する筈である。
512 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 00:55:27
厩戸皇子は、政情不安定な時期に斑鳩にうつりすんだんやで。
そんなことしたら皆、怒るがなー(`・ω・´)
513 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 20:28:02
ある時期から厩戸は政治から干されてたけどね
厩戸が本当に皇太子だったのならば
厩戸の死後その後継者山背が皇太子にたてられてしかるべきだったが
皇太子はたてられず
死に臨んでも推古天皇はあまり乗り気ではなかった
514 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:54:16
蘇我はペルシャ人です。聖徳太子の話は聖書のイエスキリストの話を日本風にアレンジしたものです。
515 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:11:53
論理が飛躍し過ぎていませんか?
516 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:46:05
聖徳太子(厩戸王子)不在説を唱えた大山なにがしは国民に帝室に謝罪と賠償をせよ
517 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 16:54:08
蘇我氏は中央アジアのサカ族だそうだが?
518 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 23:15:57
>513
厩戸が本当に皇太子だったのならば
厩戸の死後その後継者山背が皇太子にたてられてしかるべきだったが
皇太子はたてられず
死に臨んでも推古天皇はあまり乗り気ではなかった
山背を皇位につけれるはずないんだよ。
何せ親父は、半島出兵はするし、煬帝に難癖はつけるは、
その息子を天皇にしちゃったら、隋新羅と外交がたがたになるじゃん。
だから、山背は干されちゃったの。
519 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 23:20:51
ついでだから・・・
>509
馬小屋で生まれたのだからイエス様やろが!
厩戸が馬小屋で生まれたとは、どこにも書いてない。
母后が馬官の屋敷で出産したと書いてあるだけだ。
その際、馬小屋の扉に触れたから安産だったというんで。
原点欲嫁。
520 :
518:2009/09/05(土) 23:25:45
ついでに・・・
>509 馬小屋で生まれたのだからイエス様やろが!
馬小屋で生まれたとは何処にも書いてないぞ。馬官の屋敷で生れたと書いてあるだけだ。
その際、馬小屋の戸に触れたから安産だっったって意味だ。馬は安産のシンボルだった。
原点欲嫁
521 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 23:28:10
し、しまった。
2重投稿になってしまった・・・
ゴメン
>>518 >何せ親父は、半島出兵はするし、煬帝に難癖はつけるは、
そういう理由なら始めから皇太子になれない
523 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:13:49
>>522 つーか厩戸は皇太子じゃないし。
皇太子制度ができたのは草壁皇子ごろから。
この時代は天皇が死んで初めてそのあとで後継者争いをしている。
天皇の在位中、それも推古天皇が即位してすぐに
次の天皇を決めるなんてことはやってない。
それに、推古天皇と厩戸皇子の年齢差は10歳ぐらい。
親子といえるほどの年の差もなく、実際厩戸のほうが先に死んだ。
524 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:45:58
皇太子制度ができたのは草壁皇子ごろから。
また大山や遠山が言ってることの受け売りかい。
隋書倭国伝に、倭王に太子がいたと書いてるぞ。どうすんだ。
あいつら、ここんところには目をつぶってるからな。
525 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:54:27
>>524 また隋書かw
天皇は男で後宮に美女三千人を侍らせていた、
これは史実だったというんだな、お前は。
隋書は「アメ」が姓で、「タラシヒコ」が名だと書いてるんだぞ。
お前は天皇家の姓が「アメ」だったというんだな。
姓も太子も後宮も自分が大国だと見せるために
中国の風習にに合うように答えたということが分からんのか。
自ら答えたのか、
向こうがそう解釈したのかわからんが、
根拠としてはちょっと弱いのは事実。
また記紀にも、皇太子を打ち倒して、
皇位をついだという話は出てこないね。
結構揉めてる時でも。
527 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:12:52
「アマノタラシヒコ」ってのが「天皇」の訓読みなんじゃね?
草壁が皇太子だったということ自体が怪しいけどな。
528 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:35:55
■『隋書』の誤り
『隋書』倭国伝には、日本の天皇の多利思比孤(たりしひこ)が使いを遣わしたと記す。
「・・・比孤(彦)」は男性の名前である。
当時の天皇は女性の推古天皇なので、『隋書』は誤った内容を記したことになる。
推古天皇のことを「多利思比孤」とした理由については多くの解釈がある。
たとえば、多利思比孤は聖徳太子のことを指している。
皇族は王(おおきみ)と呼ばれていたので、摂政であった聖徳太子のことを指した。
・小野妹子のこと指している
小野妹子の祖先は「天押帯日子命(あめおしたらしひこ)」であり、名前に「たらしひこ」が含まれる。
小野妹子が祖先のことを中国に説明しているとき、翻訳上の問題などで、情報が不正確になって間違った。
・用明天皇のこと指している
『新唐書』の日本伝で、用明天皇の別名を「目多利思比狐(めたりしひこ)」と記している。
これは、「あめたらしひこ」の「あ」が脱落したように見える。 同じように「あめたらしひこ」から「あめ」が
脱落したのが、『隋書』の「たらしひこ」と考えられる。
ただし、日本側の文献には、用明天皇の名前を「たらしひこ」と記す例はない。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku256.htm
529 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:10:53
唐の国書でも、「日本国王・主明楽美御徳(すめらみこと)に勅す」とあり、
天皇号の和訓をあたかも日本国王(天皇)の人名であるかのように書いてるから、
隋の史書に倭王の姓が阿毎、字が多利思比孤(アメ・タリシヒコ)とあるのが、
ヤマト大王の美称の天足彦(天帯日子)だったとしても全然おかしくないな。
というか人名と美称の区別があったかどうかも不明。
もちろん幼名はあったとおもうが。
531 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 00:02:09
姓がない国はあっても、名前がない国はない。
ただ、天皇などの名は絶対表には出ないだろうし、歴史に残るはずもない。
532 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:21:57
ま、飛鳥人はほとんど渡来人だけどな
この地に移住してきた9割が渡来人とか書いてあるらしいから
百済人や秦氏などだろう
渡来人=楽浪系漢人
秦氏=漢人
百済人=倭人、漢人多数
朝鮮半島が倭人と漢人の国だったことが伺えるね
倭国領の任那もあるしね
●衛氏朝鮮(前190頃〜前108)⇒漢の高祖の末年、反乱に失敗した燕人衛満が
朝鮮に逃れて箕子朝鮮に仕え、国を奪って建国。現在の平壌(ピョンヤン)で
ある王険城を都とし、3代約90年間存続。
●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。
●帯方郡⇒204年頃、遼東の太守公孫度により楽浪郡の南部を割いて設けられた。
魏・晋も領有し、倭と通交。韓族・ワイ族に滅ぼされた(313)。
チョン捏造説満開だな
>>525 なーにがまた随書か、だよ。また大山や遠山が言ってることの受け売りかい。
っていわれてむきになってんじゃねえよばーか
>>525 100か0かで資料を判断しない方が良いぞ。
魏志倭人伝の邪馬台国の位置を示す座標をそのまま行くと海のど真ん中だったりするが、だからと言って「魏に使いを送った女王が治める国家があったらしいこと」はもはや定説になりつつあるし。
司馬遷の史記も、ずいぶんおかしな記述はあるが、だからと言って項羽と劉邦の存在まで全否定する勇者はおらんだろ?
つまりオマエは歴史を語るに値しない大バカだ。もうこのスレに来んな。
539 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 00:13:35
>537
へー、大山や遠山嫌いって、俺以外にも結構いるんだな。
540 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 03:05:45
蘇我氏は渡来人
>>540 あの時期の豪族だと、渡来人では秦氏なんかもいるし。
蘇我が渡来人説は、まあ、あってもおかしくはないな。ソースとかある?
>>539 このスレでは当然でしょ。
あと、チャート式門脇、コンビニ作家関、小林惠子ちゃん
の受け売りもだめよ
エフタルとかだっけw
544 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 23:21:39
>540 :蘇我氏は渡来人
って説が大きくなりつつあるが、そこに書紀のトラップがあるような気がしている。
蘇我は、おそらく書紀に他の名前ででている豪族だった。
ところがそのことを正史に書くと非常に都合が悪いから、出自不明ってことにしてるんじゃないかな。
初代の稲目は、突然当時名族だった葛城氏の娘を妻にしているんだから。
ま、単なる思いつきだけどね。分からなければ何でも渡来人っていうのもなあ。
そもそも人間しかも高貴な貴族の名前に
エミシとかウマコとかイルカなんてつけるのか?
本当は当時は別の名前で呼ばれていたんじゃないの?
546 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 01:02:08
547 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 23:48:58
大化の改新で殺されたのは曽我氏ね
548 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 01:23:09
>>544 ???
記紀には蘇我氏は武内スクネ〜葛城氏からの詳細な出自が載っている。
戦後の学者は、「記紀は皇国史観による捏造だ。」という考えで王朝交代とか
のトンデモを言いまくった。
その流れで蘇我氏も記紀の伝承は記紀を書いたときにでっち上げた捏造だ
として、本当は朝鮮系だと言い出す学者が出てきた。
今では、朝鮮系なんて説は学説史上の汚点の一つでしかない。
549 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:41:21
山東半島にあった呉が滅んでその遺民が朝鮮半島に渡ってくて打ち立てた国が馬韓だといわれています。
この国の司祭王が蘇伐公(そぶるこう)と呼ばれていた。蘇伐とは聖林のことだという。
つまり、蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人というより、実は呉の人だったということが分かる。
摂関、藤原本家の女系先祖 蘇我本家
551 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 10:33:22
物部氏の先祖は、どんな人達だろうか?
552 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 15:11:31
このスレはシーシェパードとグリーンピースに監視されています。
553 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 18:16:18
藤原氏の正体・関祐二・新潮文庫・552円
蘇我氏の正体・関祐二・新潮文庫・476円
554 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 23:16:47
天皇記・国記ってホントにあったのかね…
>>551 大王家と並ぶ豪族の首長だったらしいという話を本で読んだ。
それが大王家の権威権力が確率されてからは、他の豪族と同様に組下として収まっていったとか。
それは5世紀中ではかなったか?という推論があったけど詳しくは覚えてないなぁ。
>>553 同じ作者さんの本でPHP文庫より発行されてる『おとぎばなしに隠された古代史の謎』ってのを読んでるが、日本書記は藤原氏が作ったでたらめって書いてあった。
蘇我氏はヤマト朝廷の成立に関わった氏族だったが藤原氏が乙巳の変で滅ぼし歴史を曲げてしまったと書いてあった。
読み進むのが楽しみ!
その辺は石渡信一郎の「蘇我馬子は天皇だった」を読むといいよ。
物部は天皇家より血統証明正確だろ
鉄を支配した
日本のヒッタイト的一族・・・か?
>>559 >物部は天皇家より血統証明正確だろ
これはどういう事?
元々治めていた地域やその血族の関係がハッキリしているっていう意味?
561 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:35:57
当時のことは、あまりよく分からないのだろう。
厩戸皇子ですら不在説がある。
血統のことを言うのは難しいのでは?
562 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 07:26:56
皇后は物部氏から出ていたのが、ある時期から
蘇我氏からになり、後には藤原氏からになる。
天皇家、物部氏、蘇我氏の出自は同じなんじゃなかろうか
563 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:41:20
葛城氏や和邇氏はスルーか?
564 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:13:11
おうよ
皇后を出すといえば、時代は遡るけど息長氏なんか有名ですよね。
オキナガのナガが蛇の意味なら、皇后の件も含めて、物部氏とはなにか関係あるんでしょうかね。
566 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 00:05:54
神功皇后か
567 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 14:11:46
仏教が伝来したとき中央の物部氏や中臣氏は蘇我氏と対立し
滅ぼされた。 しかし祭祀を司る者がいなければ年中行事もままならず
地方の中臣氏を呼び寄せたのです
やって来たのは鹿島にいた中臣御食子で息子がリベンジに燃える鎌足だった。
568 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 19:09:27
>>567 物部と蘇我の対立の原因は仏教じゃないという説もあるよ。あれはこじつけ。
守屋一族以外の物部氏は後にも出てくる
569 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 19:21:25
>>565 息長=気長
長寿の意味ではないかという学者さんがいらっしゃいました。
その説を読んだとき、なんとなく息長の娘が大王の長寿を祈って
差し出されたのではないか、と思いました。
570 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 22:08:37
>>565 息長氏の由来は息長氏が本拠地を置く近江国を流れていた
息長川に由来するらしいよ。
この名の川が古代に存在していたことは万葉集からも明らか。
「にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも」
>>569 息長氏の名は、製鉄集団がふいごを長く吹く動作からきていると言う説もある。
製鉄技術による武器製造と富を背景に、中央政界と結びついたらしい。
長寿を祈って差し出すって、イワナガさんみたい。
イワナガじゃなくて息長姫だったかもねー。
573 :
日本@名無史さん:2010/06/15(火) 21:58:30
保守
574 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 06:36:12
575 :
日本@名無史さん:2010/06/22(火) 21:01:57
蘇我氏はヤマト王権きっての大豪族であった
葛城氏の支族だという説があったのでは?
蘇我馬子が葛城氏の土地を自分の先祖古来の土地だからと言って
推古天皇からもらう話が日本書記にあったはず。
蘇我氏が歴代大王に娘を差し出し外孫を大王にして栄華を誇ったのも
葛城氏と同じだ。
渡来系氏族が娘を大王に差し出してもその子が大王に即位できたのは
藤原氏に突然担がれた桓武天皇まで待たねばならず
蘇我氏が単なる渡来系氏族というだけでは
あれほど大王の外戚として好き勝手はできなかったはず。
っていうか蘇我氏自身が葛城氏の系統って自称してなかったっけ?
577 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 07:59:16
物部に比べると新興勢力?蘇我氏
物部って天皇家より古いらしいじゃん