余が豊臣家康である
3 :
金吾秀秋:2005/10/28(金) 01:13:29
漏れ様が、3げと(´・ω・`)
4 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 01:22:57
小早川は三成に味方しろ!
IF禁物とか言ってるけど、仮定ってモノの考え方知らんのかね
ネタじゃなくて仮定で考えるのは有効だがねぇ
他人にレス付けずに勝手に持論を展開してたほうが良い。
仮定が駄目なら推論も駄目って事だから、時系列でほぼ事実とされ
てる事だけ書き込むしかなくなるが、それで何が面白いんだか?
似たようなスタンスだと同一人物視して粘着する馬鹿も居るし、反応し
てたら切りが無いw
このスレに限らず板の雰囲気的には、勝手な思い込みによる歴史観
を勝手に語っていれば良いようなところだし、極論を書けば反論あって
当然だが「俺の勝手な思い込み」だから再反論しないで書き込んでる♪
議論好きにはムカツク対象かも知れんけど、こちらとしては言含める
意図が無い単なる持論吹聴野郎なので、放置してくれたほうが良いw
檄文で誹謗中傷の限りを尽くされても、多分見てないと思うので徒労
に終わるよ。
仮定と推論は別物。
事実に関係なく想定するのが仮定、推論は事実に基づいて結論を出す。
タラレバは板違いだから。
あからさまにIFをオーケーにしちゃうと、前スレの健康otaみたいなヤツを呼び寄せそうでヤダな…・。
一応、ここは学問板な訳なんだし。
10 :
大和天狗:2005/10/28(金) 21:15:10
金吾と俺様もいるぞ
忘れるなよ
11 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 22:16:34
もし小川祐忠が西軍を裏切っていなければ、日本の歴史は大きく変わっていたであろう。
12 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 22:23:30
よくやった小早川
13 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 23:09:46
もし小早川が東軍を裏切ったならば、日本の歴史は変わっていたかもしれない。
小早川が裏切らなかったら宇喜多秀家が実質の将軍になっていただろうか?
小早川の軍って実際強かったのでしょうか?
一万五千といえば結構な大軍ですが、それらを指揮する事ができる
武将。そして総大将である金吾にそんな能力が…いや、奴は朝鮮で
偉い仕事をしていたからなぁ…。
そして関係ありませんが金吾って金と女好きっていう意味だと聞いてショック。
16 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 23:38:17
↑話題を捏造工作せずに需要なソースだせ!
17 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 23:43:32
伊達も裏切ったじゃなかったか?
18 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:03:57
オレは、小早川は指揮能力がたいしたことなかったと考える
特に功績もないし、判断が優れていたわけでもない
(東軍についたというのはGJ)
重臣も武勇が特に優れていたわけではない
19 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:22:41
大群率いる軍司も容易ではなかろう。一万五千の兵だ、喉から手がでるほど三成も味方ついて欲しかっただろうが、まっお陰で家康も圧勝したし。
21 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 01:17:36
折りも、そうオモタが和えて触れずにいた。
22 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 02:17:39
大和田 バク
23 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 08:22:49
小早川の関ヶ原時の動員は15000じゃなかろう。これは旧帝国陸軍参謀本部の
戦史研究において関ヶ原後の封地である備前岡山50万石の動員数が誤って
記載された可能性ある。
実際の金吾中納言の知行は筑前名島30万余石およそ8000余を率いたと思われて
いる。
24 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 09:26:57
内紛で骨抜きの宇喜多よりも万全の小早川のほうが強力そうだよな?
25 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 10:00:36
そりゃそうだ。前スレで言われてたように宇喜多は家老クラスが
ゴッソリ抜けて大軍の割には働きが悪いわな。金吾はボンボンかも
しれんが家臣たちは隆景の育てた精鋭達だし、家老は太閤の肝煎りで
来た連中だしな。士気は別とすれば戦力としては高かったかもね。
26 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 10:31:06
東軍、西軍どちらが正当かという論争があったが、
どっちも正当なんじゃないかな?
本音はともかく建て前は秀頼に仇なす者(東軍は三成、西軍は家康)を討つ。
という口上だし。
そもそも淀君など豊臣家の人間自体があえて決着つくまで白黒はっきりさせすに
どちらが勝っても誤魔化せるようにしていたという感じがする。
27 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:03:53
○石田三成のやれそうなこと。どう?
一 夜討ち。
二 大垣城篭城。
三 佐和山城篭城。
四 大阪城篭城。
五 秀忠の方を迎え撃つ。
六 大阪を捨て、江戸を攻める。
七 伏見城にこもる。
八 家康が暗殺されるまで対決を避けて逃げる。
九 九州あたりまで軍を率いて退却し、追撃してきた家康の後ろで反乱を起こさせる。
十 このさい、思い切って、瀬戸内海あたりで海戦にする。家康は海が苦手だ。
>>26 つーか関ヶ原では淀は権力なんて持ってなかった。
善し悪しは別として淀君が最高権力者だった大阪の陣とは違って、
関ヶ原の時点では豊臣家の権力者など存在しなかった。
29 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:50:09
豊臣家の権力者=家康
>>23 備前岡山51万石じゃなくて黒田家の筑前福岡52.25万石を元に計算しています。
35.7千石の3人役で計算すると10710人になる。
三成の書状に8000人と書いたものがあります。
慶長の役で金吾が出陣した時の人数は10000人。
戦国期毛利史料撰の関原陣?録には
金吾殿御人数は一二万程にて、柏原と山中との間の関所の峠
左右へ取上り、城の如くに普請これ有り御陣取り候。
とあります。
31 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 15:20:19
32 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 15:22:33
>>30 1、2万
1万はともかく、2万は新説
8000を1万と誤認した可能性もあるのでは
>>31 実質的には幼すぎて実際の権力なぞ行使できないでしょう。
言い方変えれば、豊臣家には権力はあったが、
それを行使できる者は誰もいなかった、
あえて言えば、徳川家康しかいなかった。
34 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 15:44:53
景勝と三成が何もしなかった方が豊臣家にとってよかったかも
36 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:42:32
>>35 三成はともかく景勝はケンカふっかけられただけだが。
37 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:52:21
三成が佐和山で一人で籠城していれば
もっと優秀な野戦武将が実戦不足の家康軍を成敗してくれたんだよ
んだ
39 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:15:16
三成が何かするというより家康は事が起こるよう煽り立ててる訳で、三成が
名実共に隠棲したとしても、第二第三の三成を仕立てたろう。
加賀前田が意に反して全面的に恭順の意を示すと、次は会津上杉というように
思うような騒乱状態を醸成できるまでやるだろう。
40 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:20:36
家康は当面のライバルである大老を次々と潰すつもりだったんだろ
上杉が潰れたら、その次、その次
黙っているのも選択肢だが、家康の力がどんどん強まる
41 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:35:40
仮に三成が佐和山に籠城すれば七将VS石田という小さな紛争で終わって
しまう。
家康としては三成に事を大きくさせたい訳で、そのために時間と機会を
与えるだろう。七将をなだめすかしつつコントロールしたのもその為。
三成に徒党を組ませ、反家康党を結束させ且つ顕在化させねば三成の
役どころとしては物足りない。
仮に三成が佐和山で一人斃れたとしても、どんな理由でもつけて所謂
西軍となる諸将を一人づつ葬り去ったはずだ。
42 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:53:02
>>40 どんなに強まったところで、秀頼の家臣と言う立場は
変えられないだろう。
そのうち家康も死んで、徳川は100万石くらいに減封されるのがオチだ。
43 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 20:00:03
>>42 大坂の陣では、強まった力を使って、豊臣を滅ぼしたのだが
44 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 20:12:12
大老が全滅する前に家康の寿命が尽きる。
関ヶ原短期決戦は唯一の天下取りのチャンスだったかも知れぬ。
45 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 20:15:42
>>43 毛利、宇喜多、上杉ら実力者が謀反をおこして軒並み失脚しちゃったからね。
46 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 20:29:43
>>46 関が原のあたりの時期に、家康が大老筆頭の立場に満足して泰然として
たら
前田家の意思統一ができてしまう。
(家康の横暴に屈したのは利家死去で家中がゴタゴタとまとまってなかった面もある)
上杉家の領地掌握や周囲への動きに余裕を与える。
(あの時点で会津引っ越して何年もたっておらず、天下もゴタゴタしていたから)
宇喜多家の体制挽回の時間を与えてしまう。
(お家騒動でごたついてた宇喜多の実力回復などの猶予をあたえてしまう)
奉行衆の立場や発言権が固まってくる。
(秀吉没後の政治運営が五大老政治で順当にいった場合、実務を担当する奉行ども
の立場や発言権も、それ相応になってくる)
いわゆる豊臣武断派の暴走があるかも。
(家康が天下に意思表示したから、出兵で取り損ねた恩賞確保や御家安堵を求めて連中が
すりよったのだからして、家康が漫然としてたら、彼らの不満が違う方向で爆発しかねん。
へたをすると史実と逆に豊臣武断派の連中が謀反に仕立てられる可能性もあろう)
そして秀頼はその分成人に近づく。
他にも島津、佐竹の家中とか、毛利小早川とか、家康に不利に働く要因が強まる。
48 :
金吾秀秋:2005/10/30(日) 04:37:22
不利に働く要因が強まるんだぜ(´・ω・`)
秀次さえ生きてれば糞漏らしに天下を盗まれなかったのに・・・
50 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 11:24:25
太閤は日本統一という大事業を成し遂げた。その事業過程において異能振りを
発揮したが、その政治権力は彼個人に帰するという所謂ワンマン経営であり
次代にこれを継承せしめるという意図と戦略性に欠けていたが故に家康に
付込まれたといえる。
下記を回避出来れば、また違った展開もあった、と思いたい。
・秀頼誕生後に関白秀次を政権不安定材料と認識して生害。
・太閤一人が権力装置として機能していた豊臣政権は行政システムとして
極めて未成熟な組織体制なままであり、権力の継承・維持という機能が
大きく欠落していた。
・諸侯に封土を与えすぎた。
天下猿
>>44 いや、既に前田は屈したし上杉も西軍決起がなければ、順当にいけばこのまま崩壊。
後は宇喜多と毛利だけで、
上杉を下し後方の安全を確保した徳川の相手にはならなかっただろうから、
戦術レベルで大敗を喫するとかの大番狂わせがなければ、普通に家康の天下でしょう。
53 :
;:2005/10/30(日) 14:46:37
>>52 上杉は前田の子せがれほど柔じゃない。景勝と直江で謙信には及ばない
ものの家康を畏怖させるだけの軍事力を持っていた。
>>53 しかし、実際西軍敗北後は降伏するしかなかったわけだし、
そもそも、西軍決起がなければそれによって家康の敵に回った、
宇喜多・小早川・吉川・大谷・立花・長宗我部、
その他諸々の諸将もおっつけやってくるからどの道上杉に勝ち目はないよ。
少なくとも兵力的・戦略的には。
55 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:24:35
後見人に如水を起用していたらどうよ?
56 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:40:09
太閤薨去後なら如水推挙は難しいだろう。公的には前田大納言って事に
なってるし。後見人補佐みたいな形で五大老+五奉行を動かせば可能かも
しれんけど家康どころか三成が反対するだろうw
如水も朝鮮では三成に讒言されたっていうクチだし。
57 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:48:37
秀吉が前野みたいに石田を処分していれば政権維持できたんじゃないか?
58 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:53:02
何の理由があって?
前野と石田ではぜんぜん立場がちがうだろう。
59 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:55:34
秀吉といえど所詮は農民。天下をとっても、御家を保つための処世術を知らなかった。これが全て。
60 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:57:21
>>53 上杉は看板倒れで弱いよ。家康は、上杉など全く畏怖すらしていない。
61 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 17:01:30
家康ですら関八州に移封した後は三河以来の精強さは鳴りをひそめたぐらい
だから上杉も先祖伝来の地である越後を離れては、謙信以来の精兵振りも
結束も質は落ちたろうね。
家康自身が身を以って知っている事だから上杉の戦力ダウンは読めてたかも
しれん。畏怖すらしてないって事はないと思うけどね。
62 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 17:07:22
蒲生氏郷は絶望していたみたいだが?
63 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 17:39:03
>>62 それは京都から離れた場所に所領を貰ったからじゃなかった。
畏怖ってのをどのような意味合いに捉えるかによると思うけど、
まあ、油断していい相手ではなかったでしょうね。
しかし、だからこそ油断せずに攻められては上杉に勝ち目はほとんどない。
少なくとも国力的・兵力的には。
三成と兼次の間に密約があったかどうかははっきりしないらしいが、
仮に具体的な計画はなかったとしても、
上杉としては、少なくとも自分が東国に家康をおびき寄せれば、
その間に上方で何か変事は起こるはずだくらいの予想はしていたのでしょう。
そして、計画通りなのかあるいは単に予想通りなのかはともかく、
実際に上方でことは起こったと。
しかし、もし仮にここで西軍決起がなかったと仮定して話を進めるなら、
その状況は上杉にとっては計画が狂った、あるいは予想が外れたということで、
そうなってしまってはもうほとんど勝ち目はない。
秀吉に攻められた時の北条家よりも状況はさらに絶望的としか言いようがない。
65 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 18:34:06
石田−上杉間の密約は無かったように思うが、当時は上方の不穏な情勢は
各地に知れ渡っていたと思われる。前田派VS徳川派の時にも庶民は荷物もって
逃げ惑ったくらいだしね。
上杉としては綿密なプランはなくとも家康の東下と共に石田治部一派は起つと
予測程度はいくらなんでもできたはず。
散々書かれてきたけど、上杉だって関ヶ原は長期戦と見ていたはずで家康とて
いつまでも東国にはおれず、東海道のいずれかでにらみ合いに陥ると判断して
たと思う。そうなってから伊達・最上と一戦するか和睦するか、佐竹・岩城らと
手を携えて江戸攻めに転じるか、はたまた東軍に寝返って家康に大恩を売る事
とて不可能ではない。ところが結果は一日で敗北。
すべてのプランが消し飛び降伏するほか無かったろう。
伊達・最上・堀・結城秀康らと四方すべて敵だ。
>>64氏の言うとおり
勝ち目はゼロだからね。
66 :
名無し募集中。。。:2005/10/30(日) 18:53:16
秀吉は所詮一発屋
68 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:10:43
関が原が長期戦になっていたらどうなっていたでしょう。
家康政権は実現しなかったのではないですかね。
黒田如水は九州攻略を完了させて、大勢力になっていた
でしょうし、甲信では真田昌幸が徳川と対峙し、状況証拠
的には徳川を圧倒しただろうし。
三成が青い正義感を発揮し、しかも人望がなかったことが
どんなにか家康を利したことか・・・
家康は保守的でドメスティックで、将来の国の歴史に何ら
かのビジョンを持っていたとも思えません。
だから自家保存のためだけに文明の進歩にブレーキをかけ
明治後の日本は急成長を余儀なくされた。
成長が早いと安定は難しいと考えるべきで、日本の近・現
代史が歪んでいる源流に家康がいるように思えてならない。
だから、関が原が長期戦化したらどんなことになっていた
だろうか、ということに思いを馳せてしまうところです。
69 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:43:54
孝高の九州制覇は無理。
せいぜい頑張っても旧大友レベルでは?
またエラく妄想力の強い人が現れもんだな。
最近、シバリョーでも読んだの?
71 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 22:30:44
う〜ん、家康が文明進歩にブレーキってどっかで見たな。前スレにもこんな意見
書いてたヒトかな?相当穿った意見だと思うね。
個人的には長期戦になっても如水の九州制覇は無理っぽい気がする。確かに黒田家は
筆頭家老の栗山と三番家老の母里が九州に残留してたわけで、世に言われるほど
九州残留組は弱体でない可能性もあるが、島津が大兵を持って控えている事を鑑みれ
ば容易ではあるまい。また加藤清正の動向とて読みにくかろう。
ここで真っ向からマジで反論すると、
どうせ江戸時代の是非論になってしまってスレ違いになるだろうけど、
唯一つだけ言っておきたいのは、
日本は近代において欧米諸国以外では、極めて早期に近代化を成し遂げた国の一つで、
かつ第二次大戦以前の段階で列強の一角になれた唯一の国でもある。
その日本国の近現代史を「歪んだ」などと称するのは、
不当な侮蔑、もし日本人がそのようなことを言うなら自虐以外の何物でもない。
いずれにしろ、闇雲に日本の歴史を貶めるべきではない。
73 :
大和天狗:2005/10/30(日) 22:48:23
オマイラ決して忘れるなよ、
ネームバリューで勝てるほど、
世・の・中・甘・く・な・い。
進歩にブレーキっつってるけど、鎖国していても
日本はヨーロッパの情報だけは敏感でしたよ。
ヨーロッパの情報を常に取り入れていたのであり
実際に鎖国という事はしていなかった。と、国民の歴史には
書いてありました。
しかし皆が長期戦だろうなーって思っていたのに
その予想を華麗に裏切った金吾はいい香具師だな。
長期戦なんて農民に優しくねーんだよぉ!ヽ(`д´)ノ
江戸時代を卑下するのは、自虐史観というよりは、
信長・秀吉に対する過度の期待の裏返しでしょう。
傍から見ればなぜ自国の歴史を貶めているだけなのだが。
76 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 23:42:36
77 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 23:44:48
>>75 信長・秀吉との比較で考えてもいい
例えば現行の政府が改革的なのか旧態依然なのか
歪んでいる というなら、どういう意味なのか、聞いてみる必要はあるかも
ただネガティブ要素だけであったとするのは間違っている
文化の発展には欠かせない時代だったんだろうけど、
250年は少々長すぎた>江戸時代
79 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 10:27:56
あーあ、また家康・文明ブレーキ論かよ。彼が出てくる度に荒れるなぁ。
豊臣政権続いた方がよっぽどブレーキっぽいんだがな。
第二の応仁の乱で国土荒廃だよ。よくても大諸侯の連立政権みたいなもので
逆に文明だか文化だか知らんが進歩なくなっちまうんじゃねーの。
江戸時代文明停滞論は司馬遼を筆頭に根強い人気を誇ってるけど、
ここで云々するのはスレ違いだわな
81 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 13:32:51
ま、文明云々はほっといて話題戻そうや。
関ヶ原が長期化すると仮定して何が変わるんだろうね。
ちょっと怪しげな動きの加賀前田も北方から関ヶ原戦線に出てくるね。
西軍も大津攻略組の毛利元康・立花宗茂らが参陣してくる。
そして徳川秀忠3万余も。
本戦以外の東北・九州なども含め仮説よろしくお願いします。
朝鮮出兵やめて関東討伐
いや、征伐やめて子供を
84 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 16:05:42
関東討伐、良いねェ。
問題はどんな因縁つけるかだ。相手が相手だけに「国家安康 君臣豊楽」は
出来んしな。
占いで出ましたとかでも行きそうだけどな
86 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 17:49:06
陰明人
87 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 18:10:42
司馬僚の有名な逸話に
満州の大平原に日本人が入植してわずか一年で見渡す限りの農地
に変えたとかいうの農地を見て、感動し
「おお日本人とはなんと発展的で繁殖力旺盛な民族なのだろう
鎖国制度の弊がなければ日本人は千島からアラスカ、アメリカ大陸にまで増え広がっていだろう」と発言した。
しかし実際のところ司馬僚の見た見渡す限りの農地の真実とは御粗末なものだった。
たしかに日本人移民は当初、平原の開発を割り当てたられたのだが、全然うまくいかないので、
仕方なく現地人の農地を奪って「この広大な農地は日本人が一年で開発した」と称したのだという。
ちなみに農地を奪われた現地人は日本人が開発する筈の平原に追放され地獄の苦しみを味わったといいう。
関ヶ原合戦図屏風に天海大僧正の陣があったような気がするけど采配してたの?
光秀天海説か?
89 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 20:31:39
スレ違いかもしれんが、江戸時代に培ってきた日本独自の文化をどこまで評価するか
という問題は避けて通れない。それによって家康の評価も一変する。
外に覇権を求めず自国の文化の熟成を促す国家権力が存在したということは、
世界史的に見て非常に有意義だろう。
ただでさえ国家どうしは衝突しやすく、現在は外に覇権を求めることは
国際的に悪と見なされているので、日本の江戸時代のあり方は
世界的に有効なサンプルとなりうるだろう。
91 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 22:01:31
>>89 たしかに屏風に天海が描かれてます。何ぞの本でも紹介してた。
>>88 しかも天海とかいときながら鎧兜の侍姿だし武者たち率いる武将のように見えるのも
謎ではある。
>>81 長期戦になった場合は、それによって得た時間的余裕の内に、
西軍が秀頼を担ぎ出せるかどうかが勝負の分かれ目でしょう。
大津攻め組みに輝元本隊まで動員できたとしても、
前田隊・秀忠隊を加えた東軍のほうが兵力的にはやや優勢。
その上、小早川・吉川等の内応組み、本来首謀者の一人のはずなのに内通していた増田。
大坂城にあって親家康派の片桐と、東軍には搦め手からの攻め口も多く、
西軍としては、秀頼出馬くらいの大技は決めないととても勝ち目はないかと。
で、問題はその秀頼をどうやって連れ出すかだけど、
これといった決定的な手段はなかったとしか思えない。
94 :
大和天狗:2005/11/01(火) 00:37:30
三成の兄貴が愛知川を封鎖(確か7/12頃)してから
9/15まで約2ヶ月。
95 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 00:58:48
>>92 そもそも総大将格の輝元すら、出陣が怪しい
出陣するとすれば、西軍大勝で後詰めに出るくらいではないか
輝元としては、本城と秀頼を守護するということだったんだろ
鎖国してなきゃゴッホも驚かなかったよ
相撲も歌舞伎も早々に西洋文化に潰されてたかもな。
開国してからプロレスやオペラに相撲や歌舞伎が潰されましたか?
日本の文化はその程度でスポイルされるほど脆弱なものじゃないよ
川中島合戦図屏風に天海が描かれてるのはまだわかるけど、
関ヶ原合戦図屏風に天海がいるのは完全に創作だよな
天海僧正なら関ヶ原の合戦も見ていたはず、という絵師の願望によるものかな
江戸の間鍛え上げられたから、脆弱じゃないんだよ。
問題は歌舞伎も相撲も江戸時代に多いに盛んになったという点。
天海は天下狙ってないの
江戸時代がなければ歌舞伎も相撲も発展しないわな。
少なくとも今のような感覚では。
西軍勝利の可能性を格段に高める要因は、
秀頼かそれが無理ならせめて輝元を戦場まで連れ出すこと以外にない。
で、確かに長期戦になって、数週間あるいは月単位で対陣が続けば、
それが可能になる可能性は高くはなるだろう。
しかし、連れ出せるという決定的な要因はない。
もしそんなものがあれば史実で決戦当日以前に担ぎ出している、
何しろ西軍決起から決戦当日まで2ヶ月近くが経っているのに、
結局それが出来なかった以上、多少戦が長引いても状況が変わるとは思えない。
102 :
大和天狗:2005/11/01(火) 23:59:54
なんだ
103 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 07:16:50
相撲取りはもともと各藩大名のお抱えだから藩の面子が関わっていた。
もし早くから西洋化していたら今とは全く違うものになっていただろうね。
105 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 08:39:20
信長って相撲好きだったんだよな?
106 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 08:51:44
男同士が抱き合う姿にハァハアしていたと「信長公紀」にある
107 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 10:50:59
やはり関ヶ原本戦で西軍に有利な状況を仮定するのは厳しいね。
それでもやるなら三成が後の処罰を覚悟してでも、無理やり秀頼出陣させるか、
最低でも公的な意味で豊臣家として家康討伐令を出させるしかないな。
秀頼出陣なければ七手組・黄幌衆などは分散投入せず大阪に留め置き、
毛利本軍・増田勢は前線に出ることだ。
個人的意見だが増田は東軍に内通していたが、輝元が大阪城を出たとしても
秀頼を抑えて東軍に身を投じるようなマネはすまい、というかそんな根性
ないだろ。輝元が増田裏切り云々と言い送ってるのは前線行きを渋る口実な
だけと見て良いのではないか。
勝てば官軍。秀秋が寝返らなければ買っていた。
109 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 11:19:34
そうだね
うん
111 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 11:33:53
石田三成は足利尊氏の無一文で九州に逃げたあと、
そこで大軍を集め、京都奪還した、天下を取ったという故事を重んじていたらしく、、、、
しかし、健康を損ない、途中であきらめたらしい、、、
彼が九州まで逃げて、毛利、島津を頼った場合はどう?
家康にビビって三成差し出して終わり
西軍が勝てば戦乱の世に逆戻り説は納得いかない
なだれ現象がおこって普通に毛利の天下だろ?
じゃあ「輝元が死んだら戦乱の世に逆戻り」にしようw
豊臣、毛利、上杉の三国志
116 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 13:35:08
西軍勝利すれば上杉・毛利らは最低でも200万石近い所領になるだろう。
宇喜多は100万石になる可能性高い。島津とて大幅加増だろう。史実では
どっちつかずの鍋島・佐竹だが西軍勝利なら尻馬に乗って加増は確実なはず。
前田は加賀は除封で利政の能登一国安堵程度か。
石田・小西は50万石クラスになるだろうし、50万石以上の大名がスゴイ数に
上ると思われる。
そんな中で寡婦に率いられた求心力の無い豊臣家が、これら大大名相手に
権威ある政権をとれるのだろうか。
三成が豊臣政権のなかで実権もとうとするだろうけど
上杉、毛利と対立してまた戦国に戻る
で、いろいろあって関ヶ原で生き延びていた織田有楽斎が天下統一
118 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:00:30
>>117なんで織田有楽斎?
普通に考えたら前田利長が天下統一でガチでしょうに
119 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:44:19
>>107 討伐令さえも出せないのだから、秀頼出陣は遙か彼方だな
輝元は大坂城と秀頼守護を名目にしていた
根性があるのなら出陣して戦闘に参加しただろ
120 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 01:28:51
>>116 室町幕府のような連合政権になるんでないかい?
んでもって、宇喜多氏が六分の一殿として台頭してくるとか。
121 :
金吾秀秋:2005/11/03(木) 04:08:31
漏れ様が、六分の五殿(´・ω・`)
122 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 06:54:20
秀康が天下取り
123 :
107:2005/11/03(木) 09:43:04
>>119 普通にやればそうだね。
だから本当に関ヶ原決戦の要として戦後いかなる処罰でも受ける覚悟で拉致
同然にでも連れ出す、もしくは討伐令を出させるって書いてるだろ。
史実を再認識したいだけならわざわざカキコしなくても良いんじゃないの。
124 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 09:47:08
>>118 >普通に考えたら前田利長が天下統一でガチでしょうに
苦笑。石川県民必死杉w
125 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 09:51:25
キーマンは小早川
126 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 10:05:47
利長はないだろ…。西軍勝利後では利政が所領の一部を保有するに
過ぎない感じではないか。利長は隠居・蟄居って事に。
毛利VS上杉を基軸に宇喜多・島津・長曾我部、それに大幅加増されている
であろう石田・小西らが複数の勢力に分かれて応仁化でしょ。
…>毛利西軍VS上杉東軍VS豊臣・宇喜多連合
東軍敗れる。ただし家康は存命で、戦闘能力を残したまま、退却。秀忠軍を待つとしたら、大垣と尾張名古屋、どちらで待機するのだろう?
大垣だったら、西軍の追尾が激しそうだから、尾張名古屋か?
もっとも西軍も無傷ではなく、かなりの損傷を負っているのだろうけど。
128 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 10:18:05
何で名古屋が出てくるんだい?
129 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 10:41:50
秀忠を待つなら中山道に近い大垣ではないか。西軍の追尾がないとして
だが。ここを押さえておけば中山道・東海道ともに扼することが出来る。
ただ畿内西軍は追手を出す余裕がなかったとしても上杉勢(伊達・最上と
既に講和している可能性もある)の南下に備える必要はある。
上杉を考慮すれば小田原あたりまで退きたい所だが、江戸まっしぐらに
退き陣すれば東海道筋の豊臣恩顧の福島・山内・堀尾・池田の諸将は
離反して東軍瓦解となる。
越後も手中に収めるであろう強大化した上杉+佐竹を結城秀康の留守部隊
でしのぐ事が出来るかどうかが、畿内西軍をどこで迎え撃つかのポイント
になりそう。
130 :
甲斐犬 仕事休み:2005/11/03(木) 11:14:43
関ヶ原の戦いは、封建時代の戦争の典型例だな。
一、勝敗はほとんど事前の多数派工作で決まる。
二、陣形はさほど重要ではない。
三、総司令官の指示が徹底せず、現場の部隊がしばし勝手に行動する。
直江兼次は、毛利家における吉川広家みたいな立場。主家の名分は西軍
寄りなんだが、現実を見て東軍側での生き残り策を講じなければならない。
大義名分にこだわる主家のバカ侍どもを、いかにだまして、名分西軍、
実質東軍に舵を切るか。それを家康に認めてもらうか。相当、有能な政治家
だね。戦後、直江兼次が江戸で結構、でかい態度を取れたのも、家康に高く
手腕を買われていたからだろう。
籠ヶ原の戦略など、机上のプランをでっち上げる所など、いかにも有能な
読書家のインテリ政治家らしい。
>>129 上杉のところが飛躍しすぎてると思うけど。
東軍の敗報が会津や山形にとどくまで数日。
最上と講和するまでさらに数日。伊達と講和するまでさらに数日。
越後を手に入れるためにはさらに数週間が必要。
一方秀忠勢が岐阜周辺に到着するのは関ヶ原の4日後くらい。
そこから充分に一勝負できるね。
132 :
129:2005/11/03(木) 11:42:41
>>131 西軍とて無傷じゃないし、当面睨み合いになるかと思った次第。
4日ほどで秀忠が来着すれば畿内の西軍も容易には戦は仕掛けれられないし
大垣か清洲で踏ん張れば東海道筋の豊臣恩顧の諸将も簡単には離反しないので
更に膠着状態継続と予想。。
御説の通り上杉の越後攻略はすんなり行かないかもしれないだろうけど、
家康はじめ東軍諸将には上杉の存在感は相当のプレッシャー。
いずれにしろ10日程度で伊達なんかは上杉と暗黙の休戦はしそうだし、佐竹も
旗幟鮮明にする可能性は高くなると思われ。
こうした東国の状況で東海道筋で西軍と対峙するのは東軍を心理的に圧迫する
事は間違いなく、長引けば江戸陥落も現実感を帯びてくる。
131氏の言うように秀忠着陣の段階で勝負に出たほうが東軍にとっては有利か。
尾張名古屋は、関が原の前、福島軍らが、家康を待っていたところじゃなかったっけ?
>>132 その上杉にとっちゃ、秀康や伊達は、プレッシャーにはならなかったのであろうか?
伊達が上杉と講和して上杉の南下を指をくわえて見ているとは思えないなあ。
関東は伊達と二分の方向性がないと伊達側にメリットがない気がする。
北に接する南部領より温暖な関東のほうが欲しいだろうし。
それに上杉・最上・伊達で同盟するんであれば最上のメリットも考慮する必要
があるから、北部への領土拡大を最上に譲ると伊達の北進が無くなって太平
洋岸に沿って南下の方向では?
結城を攻めるんであれば、上杉・伊達で連合したほうが良いだろうし。
上杉は前田と対峙しかねないが、前田の動きをどう見る?
やはり講和しないと上杉は動きづらい。
前田は、上杉・伊達ほど野心は無いだろうけど、上杉の強大化は脅威だから、
どこかを折半するようにしないと講和しにくいような気が・・・
関東を攻めながら、前田とも交戦と言うわけにも行かない。
むしろその状態だと、野心家伊達が関東には南下せず上杉と対峙しそうw
宇都宮の徳川(結城)秀康隊って、戦力はどのくらいだったの?
前田は既に関ヶ原に向かっていたので、
ぼやぼやすると西軍は挟み撃ちにされます。
>>123 そんなことすれば名実ともに逆賊になって、東軍と戦う前に西軍瓦解して終了。
結城は結城で、徳川家では不遇の身で、人質・養子とはいえ大切に扱われた
豊臣一族の立場もある。
徳川がヤバイとなると家康にいつまでも付き従ったか疑問もあるなぁ。
「戦下手な秀忠を討ち取るのも悪くない」と思えば、上杉と講和の可能性もあるよw
将来を見据えて「こいつを潰しておきたい」思惑が、領土欲とは別なところで存在
するんだろうから、「上杉を潰したい」って意図が働くと、徳川には付かないものの
上杉と講和しないって動きもあるかもしれない。
身すくみ状態になって上杉・伊達・結城は動かないまま徳川滅亡ってことも
或いはあるかもw
その後は、戦乱の可能性もあるけど有力大名が十数家残って連邦国家の基礎が
出来て日本連邦に至ったりしてw
これまた飛躍しすぎか
140 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 14:09:48
>>123 平気で、秀頼出陣とか書く椰子がいるから、書く意味がある
歴史が正しく認識されているとは限らない
小早川は西軍?
141 :
;:2005/11/03(木) 15:04:55
>>136 2万そこら.家康は.秀康が景勝や佐竹と比較的いいのを理由に関東に
残したという。その証拠にできればできたのに.景勝や佐竹は秀康におそい
かからなかった。
>>141 佐竹は親父が西軍参加に反対したからだし、
上杉にいたっては最上にすら手を焼くようでは、
関東侵攻なんて夢のまた夢。
出来れば出来たとは到底いえないね。
福島で敗れた後、上杉と伊達が再合戦となることは考え難い
上杉は最上、堀を攻め飛び地を無くすことに重点を置いているし
伊達は南部領進出を見ても伊達領以北の攻略をするつもりだった可能性が高い
それにどれくらいの期間がかかるかというところだが…
また上杉討伐がそのまま続行されていた場合だが、水攻めで東軍の陣を湿地
にし云々の成功はともかく士気の高かった上杉5万がそう簡単に負けるとは
思えない
>>74 では何故黒船ごときで幕末の人々はあんなにビックリしたんだ?
家康文明ブレーキ論はともかく鎖国政策は失敗
幕末時に文明後進国となっていたことは事実でしょう
文化とはまた別の次元で考えねばならないと思うよ
145 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:10:38
>>144 幕末時に文明後進国になっていた元を辿って行くと家康に辿り着く
そして関ヶ原に辿り着く
それだけこの合戦の意味は大きい
146 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:11:40
秀康は伊達に調略されて同盟を結ぶのでは?
実際、伊達は後に忠輝に結びついている。
>>144 びっくりしたのは一般庶民と根拠のない楽観論にのっかって無策でいた連中のみ、
問題は上層部にそういう無策の連中が結構いたことだが、それは文明論とは別の話。
庶民が驚くのは情報が公開されない時代だから当然のこと。
まあ、江戸時代に造船等技術的なものが立ち遅れた事実は否めないがね。
だからと言って江戸時代全般をネガティブに捉える必要はない。
>>144 士気でどうにかなる様な兵力差じゃあないでしょう。
>>146 そりゃあ、忠輝は娘婿だから、それと秀康とのことに何か関係が?
149 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:46:29
>>144 >福島で敗れた後、上杉と伊達が再合戦となることは考え難い
うむ。実際、福島・松川合戦は、完全な上杉側の敗北で終結したからな。
この時点でも、伊達は福島では50%程度の力しか出していないから、
伊達に、最上と徳川と連携されて総力戦で攻められたら、上杉は
総崩れになっていたことは間違いない。
150 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:56:01
>>135 伊達・上杉の講和の難しさはそこ。単なる不戦条約では上杉にはオイシイ
内容だが、伊達には何のメリットもない。最上を伊達・上杉でって条件も
考えたが現実的ではないし、やはり伊達家が北関東に食い入る機会を設ける
必要があるか。その場合上杉の会津の所領の一部を伊達に割譲せざるを得ない
が、これとて年来の伊達家仇敵の佐竹との調整も必要だ。
誰かが書いてるが、意外と伊達・最上・上杉・結城と3すくみならぬ4すくみ
状態で関ヶ原長期化後も睨み合いの可能性あるよな・・・。
151 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 18:48:34
おまえら視点がずれてるよ。
世界的にも奇異と言える日本人の気質を生み出した江戸の幕藩体制。
その始点となるのが関が原。
関が原の結果は現代人にも影響がでかい。これからもね
152 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 21:39:19
関ヶ原で何が起こったのかを研究すると日本人のメンタリティ(の一形態)に突き当たる
153 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 22:15:32
小泉総理も家康流で独裁を握った
154 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 22:43:49
現代の関ヶ原だったね
>>147 一般庶民や多くの武士達が驚くような文明を西洋が持っていたということは
逆に言うと日本の文明は未発達だったということでしょう
>>148 士気も地の利も上杉に有利
他の大老、中老、奉行が反対したものを家康が勅許を貰いそれを盾に召集
したため、東軍の士気は高くない
堀は動けず伊達は本庄に負ける程度
家康には兵力以外に有利な点があまり見当たらなかったと思うが?
今度は上杉厨が大活躍なの?
上杉かあ…ププッ
>>118 ネタのつもりで書いたから間に受けないでくれ
俺もリアルに考えたらそう思うよ。そして日本は鼻毛王国になる
毎度せっせと畑仕事の後に戦争行ってたのに、今度攻められるとあっちゃ
上杉も士気あがらないよな。
いや、収穫どきなのに畑荒らされちゃ困るから物凄い士気が高いかも
>>155 明治政府が国民国家の形成を進めようとして比較的スムーズに成功することができたのは、
庶民がそれを受け入れるだけの下地(教育水準)を江戸時代に形成できていたから、という見方もあるよ。
上杉について。
上杉勢はなんとかかき集めて4〜5万。征伐軍は20万近い大軍。
この戦力差をはね帰せるだけの要素があるかというと……。
地の利の面で言うと、小田原征伐の際の北条は長年関東に地盤を置き難攻不落の城を本拠にするという
これ以上ないほど(地の利の面での)アドバンテージをもっていたにもかかわらず、
なすすべもなく敗れた。
地の利の有利さにおいて北条よりも劣る上杉が、地の利をベースに勝利を計算するのは無理がある。
士気に関しても、征伐軍が集結すれば、あとは諸大名はいやでも戦わなければならない状況になるさ。
160 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 09:41:40
みんなちょっと待てよ。上杉云々の議論の発端は
>>127の関ヶ原で東軍敗北。
だが所謂決戦ではなく、一会戦に過ぎず家康も戦力を十分残したまま大垣または
清洲まで後退しているような状況で長期化した関ヶ原戦役の展開を模索しようって
のが発端。
たとえ戦力十分でも『家康敗れる』の影響は無視できない。これは小牧・長久手の
秀吉VS家康でも実証済み。
・大垣/清洲ラインで東軍と西軍が膠着化した戦線に張り付いている。
・秀忠隊・加賀前田勢・毛利元康&鍋島&立花など史実では本戦未参加の諸隊の参陣
・家康の敗報の諸侯への影響
これをベースに考えると伊達・最上・上杉・佐竹・結城の東北・北関東戦線は
上杉の他勢力プレッシャーは史実の関ヶ原前夜よりは大きなものになり、家中の
まとまらない佐竹でも西軍よりに傾く可能性は少なくない。伊達なども戦略転換
を考慮しても不思議ではあるまい。
この先はどこに向かってるの
162 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 13:55:46
家康が関ヶ原で敗れたとすれば、先ず結城秀康与力の諸将(里見氏など)は
浮き足立つだろう。畿内・東海の戦況がはっきりするまでは伊達・最上は静観
の方向に変わる。それでも上杉領北方には押さえの兵はいるが、防衛に徹すれば
2万五千〜3万近い軍勢を関東方面へ向けられる。
同じく東軍敗退の報に接した佐竹も心情的西軍ではなく結城隊を上杉と挟撃
すべく行動を起こす方向へ戦略変更。佐竹・岩城・多賀谷らで兵2万近く動かせる
だろう。実際に佐竹が侵攻を始めなくとも結城秀康与力らは東軍敗退で士気の
低下を起こしている上に上杉・佐竹の動向を戦々恐々とし、更なる戦意低下に
陥る可能性は低くあるまい。
またこうした東国の情勢は相対的に美濃・尾張に展開する東軍への真理的に圧力
として重くのしかかるのは確実。
家康としては江戸失陥とか結城隊瓦解などになる前に美濃表で西軍を叩き、東軍
総帥としての求心力回復を専一にせねばならない。これに成功すれば結局は
徳川勝利となるだろう。ここで再度敗退・引き分けなどになれば少なからぬ
東軍諸将が脱落し、追い詰められるだろう。
ここまでくれば豊臣家から正式な家康追討令も発せられ、家康は討滅されるか
良くて所領大幅除封で数万石程度の小大名に。
その後は大所領を持つ諸侯乱立の時代となり、室町幕府末期のような状況となり
再び戦国の世となる。
で、戦乱が300年続いて内乱で揺れてる間に西欧列強の植民地になる
東軍敗れる
ただし家康存命
ここがキーワードだな
秀吉子飼いの、福島や黒田、細川あたりがいつまでも家康になついているかどうか・・・?
毛利・吉川・小早川連合と、くっつけば面白いことになりそうだが・・・。
165 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 16:02:03
先ず関ヶ原での東軍の敗れ方も重要な要素だね。
裏切り云々は言い出すと切が無いのでこの際、おいて置こう。
ボロ負けだったら豊臣家も早々に家康追討に傾くから太閤子飼いの連中は
その時点で中立化か西軍に鞍替えは必定。逆に言えば豊臣家が家康追討令の
発布に踏み切れるぐらいの大敗北しなければ当面東軍瓦解はないと思う。
そこそこな微妙な負け方で東軍の戦線が美濃・尾張で維持出来る状況で
あれば、太閤恩顧の大名も簡単には離反しないし、今更西軍に単独講和に
行っても三成が黙っちゃいまいw
ただ西軍内部の日和見主義者どもはまだまだ心理的に迷いはあっても目先の
西軍勝利に引きずられ表向きは積極的に東軍と矛を交えないわけにはいか
なくはなってると思う。小早川・吉川・毛利・鍋島のあたりは功を稼ぐのに
必死になるかも。
更に言えば東軍敗退の報は前田一族にも影響でよう。史実では前田利政は病気と
称して出兵しなかったが東軍敗北により、その中立的立場を捨て能登一国を
挙げて西軍として挙兵すれば兄の利長配下の加賀の大軍も容易には動けない
(或いは動けないフリ)状況になるやも。
東軍の豊臣恩顧は単なる「光成嫌い」の一面があるから、毛利が
名目上の総大将から、自分で率先して動く本来の総大将として行
動し始めた場合に、以降三成に口出しさせない方向性を見出せば、
東軍の豊臣恩顧は西軍に周り易いだろうね。
家康の屋敷に逃げ込んだ事のある男は、そうなった場合どう動くか
なw
徳川譜代は基地外に見えてしまう異常な忠誠心があるので、徳川
を正面から撃破するのが難しいし、事前の調略もしにくい。
家康は大阪冬の陣同様和睦の方向で逃げるかもしれないな。
優柔不断な淀殿を介在させないようにしておかないと、和議が成立し
かねない。
これは、実際の歴史を元にした事だから、当時の西軍側の連中が淀
殿対策をするのは難しいw
まあ、毛利が自主的に動く場合、「勝ち残った場合、豊臣家の臣下と
しては行動しない」腹を決めて動く可能性はあるけどね。
この場合は、徳川を滅ぼした後で大阪との間で色々ありそうになるが、
秀頼がガキなので、信長直系の三法師と同じ方向になるかどうかだな。
167 :
166:2005/11/04(金) 16:31:23
追記
>徳川を正面から撃破するのが難しい
と書いたが、包囲側が団結を持って攻撃すれば倒せるとは思う。
急展開で徳川が孤立する事になったとしても、反徳川方が一致
結束していないと、緒将の独立した判断で攻撃に向かい小規模
な局地戦で各個撃破されてしまいそうに思う。
関が原で、どれだけ徳川譜代が討ち取られているかにもよるけど
ね。
三方が原で大敗しながらも、勇将が多く生存している戦上手な連
中だけに、割と多く生き残っていそうに思ってしまうw
168 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 17:26:13
>>167>>166 徳川家内部の調略はほぼ無理でしょう。単独で250万石の動員兵力は
脅威ではあるが、太閤恩顧の連中の東軍離反にはきっかけが必要。
それが豊臣家の正式な徳川追討令。
これが無理なら、東軍を圧倒する勝利を得た上で豊臣政権の政治的指令
としての重みを加えるため五大老の残りである毛利中納言・宇喜多中納言
の書状と奉行衆(この時点では増田右衛門尉・前田玄以・名束大蔵少輔)
の加判にて福島・細川・池田・田中らに正規の「豊臣方」に復帰か、
最低限戦場を離脱せよ、と勧告することだろう。
これに加え朝廷の「秀頼公へ忠義の為、五大老の指示に従うべし」くらい
の勅許あれば、言うことなし。
こうして恩顧大名を脱落させれば畿内・東海の東軍は事実上、徳川家の
兵力のみとなる。美濃表で力戦に及ぶよりは関東で家康の尻に火をつけて
から一戦しても遅くはない。西軍諸将が単独で徳川に対して討ちかかる
事はないように思う。「歴戦の内府公」が大軍を率いてるのに自らその矛先
に躍り出る者はいないだろう。
ちなみにこの時点では淀君はそれほどの発言力もない。なにせ豊臣政権は
まだ存在している。大阪の役は豊臣政権ではなく「豊臣家」だからという
事とまとめ役を出来る家老がいなかった故の淀君の絶対権力が確立された
に過ぎない。
・豊臣家と豊臣政権を分ける意味はない。
・東軍の諸将は西軍が豊臣政権の正式な追悼令を出すことなぞ覚悟の上だろう。
・圧倒的な勝利を得た上で、戦場を離脱せよってなんじゃそりゃ?
離脱してどうしろって言うのよ?
「ただちに家康の首もって来ないと一族皆殺しですよ?」の間違いじゃないのか?
あまりに生ぬるすぎて涙がでる。
170 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 18:10:15
正式な追討令が出るのは覚悟の上ってことはないだろ。この時期よっぽど
の見込みがなけりゃ豊臣家は動かんよ。家臣同士の鞘当で一方に見方など
うかつには動かん。だから徳川はその観念を利用して豊臣政権内部の
政権構想と見せかけたので恩顧大名もついてきたわけだ。
つまり豊臣家を滅亡或いは天下簒奪じゃないよって巧妙に装ったわけ。
そう考えれば豊臣政権と豊臣家ではやはり分けて考えた方がよくないか。
太閤存命の時なら一心同体だと思うけどね。
それに「豊臣家の正式な上杉追討令」で集められたのが東軍の実態だ。
自分こそ正統だと思ってるはずではないのか?
それから、「家康の首もってこいや」みたいな書状だせば恩顧大名とは言え
追い詰められて家康についてしまうかもしれん。追い詰めるのは家康一人で
よく、敵を馬鹿みたいに作るのは愚の骨頂。
171 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 18:24:11
西軍には三大老と奉行衆がおり、大坂城と秀頼の身柄を抑えている。
追悼令を覚悟しない方がおかしいと思うが?
172 :
170:2005/11/04(金) 18:32:08
それは家康は覚悟してたろうよ。でもそれ以外の連中は大半が上杉征伐に
いくんだ位にしか思ってなかった。そういう意味で追討令を覚悟してないと
言いたいわけです。官軍と思ってたら、突然賊軍になっていたという次第。
両軍拮抗している間は、どのような追討令が出ようと「幼少の秀頼君を騙し
奉り…」っていう程度にしか考えないだろう。史実も実際には西軍も毛利・
宇喜多の連署で出してたように思うけどね。
だが一旦開戦し、一方がまがりなりにも勝利すれば勝った方の追討令には
重みがつく。東軍の追討令は対上杉だが、西軍のは対徳川だしね。
173 :
170:2005/11/04(金) 18:42:11
追記:
一旦西軍勝利となり東軍が押され気味になれば、東軍の中にも揺れ動く
ものが出るのは避けられない。少なくとも何がしかの動揺はある。
そこへ家康の「豊臣の天下簒奪の意図あり」ということと「今、豊臣に
忠勤を励めば罪を問わない」などを明記した上に大老が連署し、勧告と
徳川家康追討令を兼ねた書状を以って太閤恩顧大名の引き抜きを行う
という事です。
んじゃ、もし、東軍が敗走した場合、日和見部隊は、
追尾する
・小早川
・長曾我部
・島津
それでもなお動かない
・吉川
・毛利
かなあ。。。
吉川・毛利なんぞ、追っていく、石田・宇喜田・大谷軍を逆に後ろから挟み撃ちしそうなきもするのだが・・・。
175 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 18:51:24
>>173 御味方勧誘の書状は合戦前から散々出してるでしょ。
奸物徳川に加担した連中を戦線離脱で許すというのがおかしい。
こういう連中は先鋒としてこき使うのが常識。
176 :
170:2005/11/04(金) 19:00:55
>>175 普通ならそうだけどね。
>>127の条件に家康は大垣・清洲方面に防衛線をって
あるので、それにもとづいて考察した次第。
一戦して勝利したとは言え、家康健在で戦線維持してるほどだから、この時点で
強行的に先手として家康討てって言っても効果なかろうと思った訳です。
177 :
170:2005/11/04(金) 19:14:06
>>174 まがりなりにも家康を敗退させたという仮定に基づいて述べた訳ですが、
>>127氏はどのような戦果・損害という所まで踏み込んでないので、はっきり
言い切れないのは御容赦下さい。
ただ、損害はどうあれ家康が後退する結果を生んだとすれば毛利・吉川も
西軍よりの行動を取ったとみるべきではないでしょうか。
例えば石田・大谷・宇喜多の攻勢に東軍先鋒が崩れ家康の本陣までも押される
状況は、西軍大勝利の結果になる可能性もあるわけで、戦場にいた部隊が
傍観を決め込んでいれば下手をすれば改易にだってなりかねない事態です。
百歩譲って日和見のままであっても敗退していく東軍を追う西軍を背後から
襲うのはまともな政治家・指揮官ではないでしょう。またそんなに徳川に
忠誠を尽くせるのなら最初から東軍に身を投じるのは筋でしょう?
史実で静観を決め込んだのは、どちらが優位になるか見てから決める腹が
あったからで一旦勝敗決すれば方向は明らか。
史実を考えれば吉川は西軍勝利でも動かない可能性は勿論ありますが西軍を
背後から攻め立てる事は上記の理由からないだろうと思います。
恐らく東軍とは実際に戦わないかもしれませんが南宮山を下って東軍を追う
マネくらいは後々の言い訳の為にもするんじゃないでしょうか。
178 :
170:2005/11/04(金) 19:35:00
追記:
史実で吉川・毛利が動かなかったのは、大毛利は動かじ、という事が本領安堵の
条件だったからです。いくら石田・安国寺嫌いの吉川とはいえ合戦が始まって
から裏切るのは後味も世間体も悪いからです。
ただ西軍としての一面もある毛利一族は西軍が圧倒的優位の場合は静観という
訳には行かなかったでしょう。遅ればせながら南宮山から降りて東軍を追ったと
思います。戦後に疑われないために。
家康との秘密条件と違って、西軍としては総大将の一族ですから「不戦で安堵」
なんて条件はないですから、西軍勝利が見えたら軍を進めねばなりません。
>>155 その兵力が大問題。まあ既出のように地理的にもさほど有利なわけではないが。
正直、上杉に出来たことは、
西軍決起前には決起してくれることを、決起後には勝ってくれる事を、
必死に祈り続けることしかなかったと思うよ。
>>170さん
家康が関が原で敗れた場合
家康と徳川軍は逃走できた場合、恐らく清洲に後退し秀忠軍と合流するだろうが・・
ただ家康顕在とはいえ、東軍が一敗地塗れたという事実は大きい。
しかしそれよりも重要なのは、戦前から去就を疑問視されていた小早川秀秋のごとき
内応組の西軍としての旗幟が鮮明になった点だろう。
関が原で内応しなかった場合、もはや裏切りは難しいから。
恐らく家康は自分と内応していた事実を西軍首脳に送って攪乱するくらいの寝技は
使うだろうけどね。
ここで西軍がばらばらな疑心暗鬼に戻るかどうかは・・難しいとこだが
そうはならないと思う。
家康という強力な敵を前に仲たがいするような愚は避けるだろ。
関が原で勝利したら毛利輝元が豊臣秀頼による徳川征伐の追討令もって
出陣して指揮系統の回復と家康の霍乱工作に対抗ってとこが妥当だろな。
で関が原での東軍大敗といっても、すぐに周辺状況が変るわけもなく
九州が黒田如水に石鹸されるだの、伊達政宗が関東に攻めるだのという
火葬戦記にありがちな妄想などおこりえない。
佐竹は、まだまだ様子見、西軍の関東征伐が本格化したら参戦だろう。
上杉は、最上に攻めあぐね、越後の奪回もそうたやすくはできず
密かに伊達政宗や最上義光に必死の外交説得する。
伊達政宗は鬼のいぬまに、公然と南部とか北進を優先させるだろ。弱いところ
から攻めて勢力拡大は常道
んで真田は必死こいてゲリラ的な戦で抵抗しつつ上杉や西軍の東進を催促
しなきゃ、自分がやばいから・・単独ではどれほどのことも出来ない。
かえって九州は加藤清正や黒田如水が暴れてるのは事実。
島津本国の問題もある。
はっきりいって
西軍と家康軍自分のほうが優勢と最終的に判断させられた方が勝ちになるでしょ。
西軍優勢と印象付けられた場合、九州の黒田・加藤の妥協ないし屈服を誘い
そのまんま関東包囲に持っていく。
逆に家康軍強しだと、九州の連中が霍乱要因となって毛利や九州大名とかの
足元は揺さぶられ各個撃破される。
182 :
170:2005/11/04(金) 21:41:14
>>180 ご指摘ごもっともです。
ただ西軍も大津城攻略に当たっていた毛利元康・立花宗茂・筑紫広門ら15,000
が合流。更に小野木公郷ら15,000に加え、ふらふらしてる鍋島勝茂も東軍敗退
の報に接すれば参陣が望める。既に一戦して勝利という展開に総大将・毛利
大納言も前線に出てくる可能性もあり毛利総勢30,000揃い踏みの可能性もある。
上でも書いたが前田は兄弟で睨み合いを演じて更なる傍観を続けるかも知れない
が、読みにくいですね。
こうしてみれば一概に東軍有利に動くとは言えないと考えたわけです。
これも書いてますが、東軍は秀忠合流を気に一気に勝ちを取りに行かないと
関東の動静も不安要因であり、自陣の豊臣恩顧大名の去就もあるので乾坤一擲の
大勝負に出てくると思われ、これはこれで面白い考察が出来そうです。
おっしゃるように西軍勝利はどっちつかずの日和見派が当面寝返る機会も
気持ちも無くなるってとこですね。
183 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:44:47
>>181 いや、誰も如水九州席捲とか伊達関東乱入なんて言ってないと思うが…。
>>183 仕事帰りに本屋で某学研の関が原火葬戦記本を読んだんで
ついでちゃっっただけです。ごめんなさい。
185 :
大和天狗:2005/11/04(金) 23:07:09
金吾ちゃん六分の弐位にしておいてよ
それに金吾ちゃんは関白電化だ
大老は秀家、景勝、輝元に三成
奉行は正家、玄以、行長、吉継
これでいい?
186 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 23:10:04
福島らは負けても三成がいる以上東軍だろ
小早川らが動揺する可能性はあるが
187 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 00:55:56
>>186 それももっともな意見。三成は事実上奉行職を退いており、さまざまな書状には
現職の大老と奉行しか署名もしない方向で勧告を行えば表向き福島らの面子も
立とう。
史実の大阪の役を見れば予想できるが加藤清正を除けば、福島らは結局戦国大名
として行動するよ。関ヶ原で東軍敗退して、東軍不利な状況続いて秀頼(実際は
大老の署名だが)「忠勤励むべし」の書状送れば優先順位は所詮は生き残り。
また政治的な判断として、対徳川戦が一段落すれば石田に名目的な処罰を加え
七将らの溜飲を下げた後に復権させる手立てもある。
西軍にとってこの時点で為すべき事は家康を討つ事が最重要であるので
その辺りは石田には納得して貰わねばなるまい。史実での関ヶ原直前の三成
の対外的な対応を見れば、相応に気を使ってるので、東軍についた恩顧大名
を取り込めるのなら、問題なく受け入れると思う。
無論、西軍勝利の暁には石田は大加増は間違いなく、福島らは復帰したと
しても一度は徳川についた訳で加増などなく、所領安堵が関の山。
関ヶ原戦後は豊臣家の忠臣と寝返り組では、福島ら武断派もケチの付けよう
もない、と考えますがどうでしょうか。
というか福島らは石田に降ったが最後良くて改易配流、
まず斬首だと考えていたと思うが。
石田や奉行がなんと言おうが関ヶ原以降なら最後の最後まで家康方についていたと思う。
家康は史実どおり1616年まで生きるとして...
190 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 09:43:39
191 :
170:2005/11/05(土) 09:51:25
>>188 だから追い詰めすぎれば当然死兵となって最期まで力戦するでしょう。
そこで豊臣家(大老署名)による安堵状もしくは家康に馳走したのは家康に
巧妙に騙されたものと認める。ゆえに騒乱を引き起こした罪は死一等を減ずる
旨したため、且つまた恩顧大名の面子のため秀頼公への忠勤を改めて励むべし
とする内容にする。これは太閤の例を挙げるまでもなく一般的に攻守の戦力に
隔絶した格差がない場合はよく使われる駆け引き。
個人的にこの時点では既に三成への私怨云々はもはや双方にとって小事になって
いるので特に論じる必要もないと思っているが、東軍瓦解をより確実なものに
する為に前に書いたように三成の当面の奉行職への復帰を禁じ、公職にも当面
つかず嫡子重家を立てるとする。三成も関ヶ原前夜には表には立っておらず、
積年の憂慮である家康排除実現の為にはこの程度は受けねばならないのは理解
出来るはずだ。嫡子を立てるのは豊臣政権として公平を期する為、必要な措置。
192 :
170:2005/11/05(土) 09:56:05
>>188氏に申し上げるが、福島らはあくまで私怨・私戦として治部討伐を
行わんとしていた。つまり私闘と考えていたといえる。
小山軍議では福島個人はトリガーが三成だったかもしれないが細川・黒田
・田中などはそのようには既に捉えてはいないでしょう。
一つ前にも書きましたが、敗戦=斬首とは限らない。史実の関ヶ原は
1日で東軍の圧勝、そして西軍の壊滅になったからこそ斬首に出来た。
島津や毛利が斬首でないのは国許には大軍が控えており斬首などと
威嚇が過ぎれば今度は西軍が死兵と化して東軍に要らざる傷を作る
だけの無駄な行為となる。そう思った次第です。
まてまて。関ヶ原で敗れた後、家康が清洲まで退却する? なんで清洲?
岐阜でしょ。清洲だと秀忠との合流に不適だ。
被害が軽い場合、岐阜で秀忠の到着を待って再戦。
被害が重く、一気に岐阜を落とされた場合は清洲へ。
完膚なきまでに負けた場合は江戸まで撤退。
どっちが負けたじゃなくて川中島みたいに消耗戦になって双方撤退で
有力武将健在のままで仕切りなおしになったほうが日本にとってはやっかいな展開だよな
大名が明々両軍に分かれただけに全国的に内乱が起こるかもしれない。
南北朝の乱の再来のごとく荒れて、それが数年続いて全国的に荒廃するかもな。
そして、その戦乱を収めるのが織田有楽斎
195 :
170:2005/11/05(土) 10:37:03
>>193 この議論の発端である>127氏の定義が大垣・清洲のラインに撤退だったから。
127氏は名古屋って書いてたけど清洲の事を言いたかったのかと判断。
個人的にはあなたの意見に賛成。大垣か岐阜だとは思う。中山道・東海道を
扼し東軍諸将の所領の東海道筋や江戸までの街道を防衛するには最適。
あの・・・
関が原のときの、岐阜城って、どうなってたんだっけ・・・。
197 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 11:05:35
>>196 落城してたさ。ただし防塁・堀は健在。櫓や天守閣の一部は消失してたかも。
だが、岐阜中納言は最期は降伏したから本丸は残ってたかもね。
戦争するのに見た目が綺麗である必要はない。岐阜に数年篭城するわけもなし。
戦術的に使用に耐えればよい。
関ヶ原の地形、布陣を考えると、東軍が敗れた場合、袋の鼠となる可能性が高い。
殿や後備えの浅野らが奮戦して退却に成功したとしても、
7500?もの兵のいる大垣城近辺に留まるかねぇ?
いつまで続けんのよ、この話。
201 :
170:2005/11/05(土) 13:45:38
おっと大垣は西軍いたね。撤回します。
やっぱり一旦清洲まで退かなきゃならない。その上で秀忠勢の来着を待った上で
立て直さざるを得ないね。
>>200 続けたく無ければ他の話題だして下さい。
私としては議論してくれる人がいれば、意見を交わしたいと思ってる
だけです。
なんで大垣に西軍がいたら清洲まで退却しなくちゃならんのだ。
東軍がしっかりと確保している岐阜を捨てる意味が分からない。
家康が岐阜で秀忠の到着を待ち、
美濃と尾張が寸断されるのを防ぐため犬山近辺にしかるべき軍勢を置く。
伊勢方面の西軍が駆けつけるにはまだ時間がかかるので、これで十分な備えだ。
203 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:01:47
>>191 私怨が小事と言うことはない
だいたい平和時に私闘で殺そうとしていたぐらいだから
三成も7将が生存していれば安心できない
三成が暗殺されて乱世というパタンも
204 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:02:53
大垣には東軍もいるよ
205 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:12:17
>>202 でもさ大垣に西軍いたら崩れたって後退してくる東軍に攻撃するかも
しれないし、中途半端に美濃でウロウロしてくらいだったら安全な
清洲まで退いて、秀忠配下の3万余が美濃入りするタイミングで大垣なり
岐阜なりに進出した方が無難な希ガス
206 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 15:13:43
敵機直上急降下!
>>205 東軍にとって岐阜を取られるということは、中仙道の出口を塞がれるという事。
そうなれば秀忠と美濃で合流することは困難になるだろう。
下手すると木曽→三河経由で合流することになって、さらに時間がかかるよ。
そうならないためにも岐阜を確保しておくことは家康にとって重要課題。
ウロウロしているわけではなく、軍事上の要地を守るためにも岐阜にいる必要があるんだよ。
208 :
188:2005/11/05(土) 15:57:38
>>191-192 三成がそのような気遣いをしたとしても、七将だった東軍武将たちは今更赦されないと思うのでは。
それに毛利島津といった旧族の大大名と福島クラスの大名を同列に扱うこともできないと思う。
改易の決定に抗しても、勝利した西軍がその気になればほとんど無傷で討ち取られてしまうかと。
長期戦の様相を呈してきたらまた違った展開もあるかもだが・・・
は?家康が敗れても大丈夫だよ
遅れてきたヒーロー秀忠マンが三成倒して勝利よ
>>205 大垣城は東軍に攻められている最中ですよ。
大垣攻めの東軍が1万あまりいましたから。
>>200 是非新しいネタ振ってくれ。
正直私はうんざりしているんだが、
自分で振るようなネタもないので我慢しているところ。
今は定期的にそろそろ終わったかどうか確認しにくるだけ。
212 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 17:36:12
東軍が大敗する要因は少ない
何重にも防護策が張ってある
もちろん一気に崩れると言うことも否定できないが
しかし相手がシロートなので可能性は極めて低い
213 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 17:44:05
>>213 まあね、
関ヶ原の戦いには興味があるが、今の話題には関心がない。
かといって自分で振るネタもない。
確かにそう言われても仕方ないなあ。
そういう時は黙っているもんだよ
216 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 18:18:32
関ヶ原にて東軍敗退したという仮定での推論のまとめ
・美濃岐阜辺りで秀忠到着を待ち反撃。それまでは戦線維持。大垣は東軍攻略中。
・西軍局地的勝利に引きずられ毛利・吉川ら日和見組は消極的ながら開戦。
・上杉・伊達などの関東・東北戦線は決定的な要素に欠け睨み合いに終始か。
・太閤恩顧大名への揺さぶりは意見まとまらず。実際にもこんな感じになりそうw
こんな感じっすかね。
>>210 その東軍も攻めてるはずの大垣城と背後から迫ってくる西軍とにはさまれて
逃亡するか全滅するかしかなくなるわけだね。カワイソス(´・ω・`)
>>214 いや、今までそうしていたのだけど、
ほかに痺れを切らした人がいたようなので、つい思わずね。
>>218 まだネタ振りから二日しかたってないW
もう少し待たれよ。
221 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 19:36:43
>>216 吉川はともかく、秀元は好戦的。
眼東軍敗亡の様を見れば、吉川も渋々西軍に加担するだろうし、躊躇なく眼下
にいる家康が南宮山に備えて配備した池田,山内,有馬,浅野の軍勢に長宗
我部,長束らと共に攻めかかる。
彼らの配下は東軍敗亡の報に接し、浮き足立ち大半の兵が雲散霧消。
池田らの後始末を長宗我部らに任せて、毛利,吉川合計20,000の大軍で
徳川本隊を急襲と言うのはどうでしょうか?
>>217 退却すればいいじゃない。
その状況で遮二無二大垣城を落とす必要なんてないんだから。
>>222 つか、毛利が動かない限り西軍の勝利はありえん。
小早川が西軍に味方しただけでは無理。
224 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 21:44:16
225 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 21:48:40
関ヶ原の戦いの陣マップの図式見せてくりゃさい。
どの武将がどの配置に付いたか!
↓
226 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 21:53:03
↓
227 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 22:05:44
↓まだか?AAにならないか?
228 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 22:23:47
/\___/\
/ ;;;;;;;; ;;;;;;;; ::: \
| -=・= =・=- | / ̄ ̄\
| (oo) | /ヽ、___ノ| . / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| )3( .::::| ⌒( i " i | ./ < 増欧州に改名汁!
ヾ \____二二二_____.:::/ | i | i > \_______
ゞ","",,ヽヽ ,,,,, ,,,,, / / ヽ | i ″)
ヾ ,, ,, ヽ ノ | i i .丿
/ヾ ,, ,,ヽ ( / )/ | ‖i /
| ヾ ,,,, ヽ "──"" ノ(/| ii | )
ヽ ヾ ,, ,, ,,.ヽ ノ ./ .|__ii___|ヽ
ヽ ヾ ,,, ,, \ / i⌒( ̄ ~ |
/ )==(○)==( ヽ- ̄ ̄ /
(⌒-/",,--______-- ",, ヽ ゝ─-- /
.(__/ヾヾヾ ,,, ,,, ,,-ゞヾ/ ヽ.,,_,,/
ヽ( ソ""""\ ヽ i_/
<(⌒""`--.,__) /ヽ )
<(~`─" \ (~ /
<(_,,,__,,,, ) \  ̄ゝ
 ̄""" ヽ.,,__ゝ
229 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 22:28:01
↑AA期待したのに・・・・期待ハズレのAA貼られちまった・・・あんたはもう貼らなくていいよ!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●●●●●●●●●●●●合格●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
これを見た人は確実に【合格】です。これをコピペでどこかに1回貼れば合格できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります.
私も最初は嘘だと思ったんですが、一応コピペしました。それでセンター私大に合格出来ました。
けどコピペしなかった友達がA判定とっていたのに、おちたんです。(慶応合格h.sさん)
俺はもうE判定で記念受験だったんだけど、コピペを10回くらいした途端に過去問が
スラスラ解けるようになって、なんと念願の早稲田に受かりました。(早稲田3学部合格r.kくん)
これを今年のセンター前に見てシカトしたら、センターミスって最悪です。(夜神月さん)
信じられますか?この威力。
231 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:41:12
↑↑↑↑↑↑
実力で合格ならな!でも、見たやつは落ちる。
浪人決定!
京大卒業した俺としてはまったくもってどうでもいいコピペだ
233 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:01:19
>>222 >>223 上のほうで書いたけど、関ヶ原本戦で「家康敗走」という結果には毛利・吉川
・小早川は西軍として最終的には参戦したと当然考えるべきです。
この一連の議論自体が「関ヶ原でどのように勝利したか?」ではなく、
「関ヶ原にて東軍敗退したとして美濃方面に後退後、どうなるか?」がテーマ
だったので皆さん細かく触れてはいませんが、よくある仮定で考えて良いかと
思います。
石田・大谷・小西の各陣でよく防ぎ、宇喜多勢が福島勢を圧倒。島津勢・黄幌衆
が石田陣に集中している横っ腹に付け入り田中・筒井あたりが細川・黒田勢の
方に押され陣形が乱れる。
これを見て日和見していた金吾中納言が京極・藤堂勢に襲い掛かる。朽木・赤座
らも前進を開始。
南宮山でこの様子を遠望した毛利秀元は吉川に出陣を促すが吉川は井伊との
不戦の密某を考慮し、しばし空弁当w 東軍諸隊が崩れたって桃配山の家康本陣
まで押され始めると、これ以上の不戦は戦後に毛利が大将でありながら不戦を
決め込んだとして詰問どころでは済まなくなると判断し、南宮山を下る決意を
固めるが、やはり家康が生き残る目も考慮し、また矛を交えぬうちに敵方が
後退してくれることを願いつつ浅野・有馬勢に故意にゆっくりと前進。
その内、東軍前衛の崩壊から徳川本陣もジリジリ後退。
吉川は東軍後退の後を追って、がんばったフリで取り繕う。
こんな感じでは。
はやく終わんねえかなあ…。
この間、関ヶ原に行ったんだが、レンタルチャリの名簿をチラッと覗いて見たところ、
北海道からの観光客がおったよ。
遠くから、よく来たもんだ。
女二人連れで関ヶ原巡りってのも何組か居たし。
石田三成の笹尾山から、金吾の松尾山まで余裕で見渡せるのな。
あれじゃ、三成も金吾の動きが気になって気になって、イライラしっぱなしだわな。
235 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:19:04
関ヶ原MVPは誰?
堂々と敵本陣突破をし、捨てガマリまで行った
義弘さん。次点でボロボロの義弘さんと一緒に九州へ帰った
宗茂さん。は九州ではMVP
おまい、しつこい!
238 :
237:2005/11/06(日) 11:34:05
234へのレスね
239 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:35:04
関が原で退却しながら、馬の上で、脱糞してたりして。。。。w
240 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:37:50
MVPは勝ったチームから出すもんだろ
241 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:41:27
242 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:51:51
MVPは黒田長政だろ。
1)七将焚きつけて三成追い回して豊臣譜代の分裂のきっかけつくる。
2)家康の意を汲んで福島懐柔。小山会議で豊臣大名達の家康協力に尽力
3)毛利・小早川の内応・不戦の裏面工作を担当し成功させる。
4)戦においても主敵・石田に相対し、猛将・島左近を負傷せしめる。
などなど。どう考えても黒田長政がMVP!
>>241 あのですね、何度も何度もって俺、はじめて書き込みしたんだが。
今までロムってただけで。
>関ヶ原MVPは誰?
福島
244 :
218:2005/11/06(日) 12:20:51
ちなみに私は
>>218以降今まで書き込んでないよ。
一度は思わず書き込んでしまったが、
何度も何度もはやっていないので、一応。
245 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 12:41:00
>>243 あなたは初めてこういうカキコしたかも知れないけど、最近このスレに
似たようなカキコが何度かあったんですよ。それで誤解した人がいたかも
しれませんね。
>>218 誰がカキコしたか、してないかは日本史板ではIDないのに無意味だけど
少なくとも
「早くおわんねぇかな」とか「ネタは振れないけど、興味ないから話題変えろ」
とかみたいなニュアンスで書くのはほめられた行為じゃないと思いますよ。
つまらなければスルー。またそういう無意味なカキコもスルーにしましょう。
皆さんも冷静に。
246 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 12:48:29
福島か小早川じゃね?
家康は黒田を評価したけど。
247 :
218:2005/11/06(日) 12:55:02
>>242 七将焚きつけたのは意図的ではなかったのでは?
仮に家康視点に立てば、あの場で三成が死んでしまっては、
豊臣家中がまとまってしまって逆に困っただろうし。
結果的には最良の形になったが。
まあ、そこまで全部計算の内だとすれば大したものだが、
それはさすがにどうだろう?
249 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 14:02:40
>>248 福島のコントロールや毛利・小早川の窓口をこなしているって事は相当早くから
家康との間に何がしかの関係があったと見ても不思議ではない。
他の外様はそこまで密某に関与してないと思うが。藤堂の個人的スリヨリとは
まったく別物。
それから三成と長政って何かトラブルあったっけ?如水は朝鮮滞陣中に三成を
故意に待ちぼうけ食わして、その後太閤に報告された事があったと思うが、
大きなトラブルは無かったと思いますが。
また七将は北の政所との関係が非常に深い、いわゆる尾張衆だが黒田(細川もだが)
は違う。こうした要素から個人的な考えですが書き加えました。
この条件なくても毛利・小早川と小山の影の立役者ってことだけでもMVPの
有力候補だとは思うけどね。
>>242 禿同
「主家の存続より当家の存続」って発想は、戦国武将らしい。
「秀吉には恩義はあるが、秀頼には無い」ってことでもあるんだろうなw
秀吉自身、信長の死後織田家の家臣から離脱してるわけだから、「死後、
あの世で叱責される事も無かろう」って思ったのかなw
両軍の陣容如何で負ける可能性はあったから、積極的に生き残れるよう
立ち働いたようにも見れるので、それなりに命がけで恩義の無い徳川の
ために立ち働いていたことは、たいしたものだ。
主換えをする以上中途半端は疑念をもたれるだけだし、そこが福島・加藤
との差だな。
藤堂あたりも、黒田に倣った感じがするくらい。
251 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 14:37:32
252 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 14:38:55
長政で決まりだな
まあでも本当は家康なわけだが
・MVP
徳川家康
・技能賞
島津入道
・殊勲賞
小早川秀秋
・敢闘賞
福島正則
大谷くんは、がんばったで賞。
なんだその小学生が作りそうな賞は・・・。・゚(ノД`゚)゚・。
そういや昔阪神ファンが関が原で西軍が勝っていたら
阪神は強くなっていた!とか言っていたな。
野球チームに例えると巨人=宇喜多っぽいな。
人が多い割には統率できない。
違うか。
>>255 昔は巨人=徳川だったもんだけどねぇ・・・
257 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:47:46
赤座直保の肖像画ってあるんですか
258 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:20:14
>>249 黒田長政の三成嫌いは有名だよ。
というか彼が最も三成を憎んでいたという話しが多く、
関ヶ原の大分、後に黒田が三成の悪口を言ったのを
福島が咎める逸話まである。
ほかに確か三成のとこに家康が会いに来て、
その時に黒田も同席していたが、
三成が家康の前でも頭巾を被ったまま
脱ごうとしないので
無礼さに怒った黒田が三成の頭巾を怒って火鉢に
投げ込んだという話しもある。
あと黒田に限った事ではないが、
朝鮮の役の武功を秀吉にちゃんととりつがなかった(というか彼らはそう思ってた)という点でも
酷く三成ら文治派は憎まれてた。
火鉢に三成頭巾を投げ込んだのは、浅野長政じゃなかったっけ?
260 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:31:17
そうそう頭巾の逸話は浅野長政。
>というか彼が最も三成を憎んでいたという話しが多く、
>関ヶ原の大分、後に黒田が三成の悪口を言ったのを
>福島が咎める逸話まである。
上記の逸話はまったく初耳だね。良かったらもう少し詳しく書いて
頂けるとうれしいな。
でも例え黒田が三成に怨恨あっても、関ヶ原の裏舞台と表舞台の両方で
活躍したのは間違いないでしょう。
261 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:33:16
>>259 黒田長政の筈だよ。
それに浅井長政は幸長の父で年齢はずっと上だが。
あと朝鮮の役で三成は小西と組んで、
明と講和して穏便に納めようと交渉してたのを
とにかく加藤らが妨害した。
あと朝鮮役で武将が酷い目に合い
島津以外、なんの加増も貰えなかったのとか
全て三成のせいにされてたみたい。
あと大谷が言うように家康は誰にでも腰が低かったのに対して
三成は態度がでかく偉そうだったらしいね。
事実はどうあれいろいろ嫌われ嫉妬される要素は多かったみたい。
戦後に柳生宗則が黒田長政を説得して
捕縛の身になった三成をねぎらうように説得したが、
黒田は酷く三成を嫌っていたので、
なかなか応じなかったが最終的には
しぶしぶ応じてくれたという話しはあるね。
黒田長政と三成に何の確執もなかったという
意見はちとばかり無理があるし、
そんな証拠もないな。
263 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:40:57
つーか黒田父子は普通に仲の良い親子で長政も父を尊敬してたから、
「父への非礼は我が非礼(もしくは当家への非礼)」と怒るのは当然だと思うよ。
現代人の「父親と息子は別人格」みたいな発想をする
>>249の考察はどうかと思われ。
誰もが嫌がる(誰からも恨まれる可能性がある)役を三成がしてしまったのも原因だよ。
太閤も三成を可愛がるのはいいが、もっと他の武将にも気を使うべきだった。
浅野長政っていう武将がいるんですよ。
北政所の義弟。
>>264 ああ、三成の頭巾を火鉢のなかに投げ込んだ人ね。
っていうか、普通長政っていったら浅野じゃね?
>>261 とりあえず『名将言行録』では浅野長政だな。<頭巾投げ込み
>>265 あ、浅野は
>>261さんが浅井って書いてあったので。
しかし長政だけでも当時結構いるもんですね。
>>263 現代人なら自分の母親ならまだしも
父親への悪口とか喧嘩は
特に自分には関係ないと思うわな。
でも当時は黒田家全体の問題だったのかも。
269 :
261:2005/11/06(日) 19:05:15
それは単なる書き損じ。
失礼・・・・・
270 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 19:06:56
浅野長政は当時五奉行の一人だから三成とか家康と顔を合わせる機会は
普通に多いだろ。
後、黒田父子が特に仲が良かったとするのは聞いた事ないな。仲が悪い
ってのもないが。
249も親子は別人格みたいな言い方はしてないだろ。無理やり波風を
立てなさんな。
>>264 「冶部少が死んでから、少々の悪事を悪事とは思わなくなった。」と語ったのは
嫡子の幸長だったか?
東軍の諸将が(彼らにとっての)三成の讒言にいかにぴりぴりしていたかと逸話
だろうと思うが。
>>271 ざん言とは違うと思うのだが。
三成と武断派武将との認識の差と言うか
考え方のズレみたいなものだと思う。
三成自身はそれなりの基準により
使命感・正義感によって秀吉報告してたのだが、
それが前線の武断派武将の気に触っただけ。
273 :
272:2005/11/06(日) 19:17:48
>>271には(彼らにとっての)と断り書きがしてあったな・・・
三成も武断派武将も彼らなりの正義で行動しただけ。
正義とか悪事とか関係ないだろ。
275 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 19:25:29
>>271 これは三成が、さまざま悪事を良し悪しはともかく、厳しく賞罰を見極めて
いたと言える。故に風聞や事件としてどこの何某がどういう悪事をしたので
処罰するとか、そういう物が結構あって、自然と周りの人間も気づかぬ内に
襟を正していたが、治部少輔がいなくなって、そういう善悪を見極めようとする
人間がいなくなると、そういう気持ちも薄くなってしまい、いい意味も
悪い意味もあるとは思うが石田の存在感みたいなものをいなくなって感じた、
という逸話と思うけどね。
いう
276 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 19:37:21
>>236 過去に何度も出た話しだが、
関ヶ原の島津は陣中突破をしたのではなく、
敵のいない所を前に走って逃げただけ。
しかも逃げる時に目立たないように
旗まで巻いていたそうだから、
後世で言われるようなカッコイイものではとうていない。
石田三成の子供って、あまり逸話でてこないけど、なんか知ってます?
>>277 嫡子は妹と一緒に奥州に逃げたのではなかったか?
嫡子は出家し、妹は津軽藩主の側室になった。
279 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:11:45
280 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:12:39
>>277 確か、今発売中の「歴史読本」かなんかに小特集があったかと
結構生き残ってるのね
家康は三成を特に憎んではいないのだからね。
だって、徳川政権の立役者だからなあ、ある意味。
283 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:24:48
頼朝、義経の故事に習えば、息子は皆殺し
秀頼は見逃せなかったようだが
284 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 20:40:05
三成の子くらい生きようが死のうがどうでもよかったんだろうね。
秀頼は血筋が問題だから、
本人はもちろん幼い息子も殺さざるを得なかったが、
三成の場合はそういうわけでもないからなあ、
無理に探し出してまでぶち殺す必要もなかったってところか。
286 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:02:30
司馬遼じゃないが、石田三成という人物が日本史にいてよかったと思う。
事なかれ主義の人間ならひたすら家康に媚びて自身は隠居して何でも
言うこと聞きますと外聞もなくひれ伏し、嫡子を立てるので七将を
どうかなだめて下さいとやる手もあった。
だが三成は立った。わずか20万石の所領と家康に比すれば限りなく
矮小な自身の政治力を頼りに。三成立たざれば豊臣の世とは後世あまりにも
哀れであったろう。
そんな三成の遺児が生き延び、子孫を残した事は喜ばしい事だ。
司馬遼とは主旨が違うだろうが、三成がいてよかったってのは激しく同意だわな。
あそこで西軍の決起がなかったら、
その後の歴史がどう流れたにしろ、あそこまで劇的な流れにはならなかったと思う。
甚だ不謹慎でがあるが、おかげで日本史が非常に面白くなったと。
288 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:07:40
>>286 >家康に比すれば限りなく
矮小な自身の政治力を頼りに
決して矮小な政治力ではないんだが。
彼の立場を、今で言う、財務次官に例える人もいるし、
はたまた官房長官に例える人もいる。
財力では小さいかも知れんが、
安倍さんと麻生さん、どちらが力があるかって言ったら、
明らかに前者でしょ。
石田三成は人望がなかったといわれるが、これもウソ。
彼を慕っていた諸大名はごまんといる。
津軽氏は、取り潰しのリスクを犯してまで彼の娘、辰姫を
匿ってるし。
289 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:28:46
>>286 事なかれ主義の人間なら七将とは喧嘩をしないと思うが。
290 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 23:04:55
>津軽氏は、取り潰しのリスクを犯してまで
これはどうかな?
女は基本的にはそこまで問題視されないのでは
三成のDNAが欲しいというのは偉い惚れ込みようだが
近江人のDNAが欲しかった
>>290 頭脳的に三成のDNAはこの時代屈指の優秀なDNAではあるね
それだけに低脳DNAの福島達から見ると分別臭くて嫌味な奴に見えたに違いない
現在でも難しい政治の話はわからないが、改革するかしないかの二択なら
簡単で国民の支持を得ていたりする
細かい中身の話になると、「どっちがいいの?」「そうするとどうなるの?」と
本来そこを比較していなくてよく選んでるなという話になってくる
豊臣恩顧の大名が中途半端に家康について、その後どうなるのかということまで
は頭が回っていない大名多数
この時代きっての秀才DNAの持ち主である三成と話がかみ合うはずがない
三成も言ってもわからないだろで済ましてしまうような上から物を見る
ような人物だったのかも知れない
例として「天下統一後の内需冷え込みの問題をどう解決する?」と福島に
問うても「何か問題でもあるのか?」みたいな話しか返って来そうにないからね
293 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 00:11:59
全然関係なくて申し訳ないが、>292のレスを読んで光秀と
気が合いそうだなと思った。
294 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 00:54:03
三成と光秀は似てるカモね
光秀って、どこ出身だっけ
三重県伊賀市
光秀よりは三成の方がずっと合理的な気がする
教養自体は光秀の方があっただろうけど、明晰な頭脳という意味では三成でしょ
知識があると言うことと、頭脳明晰ということは違う
297 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 02:12:07
光秀と三成では主家に対する考え方がまるっきり反対だから気が合わないでしょ
298 :
金吾秀秋:2005/11/07(月) 02:21:09
実は、漏れ様も、似てるんだぜ(´・ω・`)
299 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 03:30:10
>>296 >明晰な頭脳という意味では三成でしょ
具体的に
300 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 04:40:29
>>298 おまいが生まれた年と本能寺の変が起きた年が
同じなのには驚いたよ。
>>296 とりあえず戦に関していえば
光秀>>>>>>>三成ぐらいじゃね?
あと
明晰な頭脳=得た知識及び情報の処理能力が秀でているという事でOK?
幕末に、木下家と石田家は、やっぱ倒幕派だったのかな?
そこまでやってないか?
誰か知っている人〜。
そもそも大名じゃないだろ
三成の子孫が倒幕とか期待したのか
301はロマンチストさんなんだね☆
305 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 17:07:30
>>303 毛利・島津(下級の家臣達だが)が倒幕に奔走したから、石田もって想像した
んだろう。
木下家は2系統がのこった。
・備中足守藩2万5千石…北政所実兄・木下家定次男の木下宮内少輔利房。
明治まで存続。
・豊後日出藩3万石……北政所実兄・木下家定三男の木下右衛門大夫延俊
後に5千石を二代目の時、四男・縫殿助俊次に分与。
以後2万5千石。明治まで存続。
足守藩は佐幕派か勤皇派は分からないが足守藩は飛び地がなんと福島に1万1千石分
(一時期は2万石!)もあったようだ…。小藩ながら学問に力を入れていた
ようで高名な蘭学者・緒方洪庵は足守藩出身。
日出藩も幕末の動向は不明。木下延俊は大友家旧臣を結構召抱えたようだ。
驚いた事に延俊没後にこの大友旧臣の重臣4名が殉死したという。意外に
家臣の心を捉える名君だったか、敵前逃亡の旧主を持った彼らが大恩を感じて
の行為だろうか。
5千石分与された立石木下家だが面白い事に延俊四男の延次だが秀頼嫡子の
国松だとの伝説が、立石家一子相伝の言い伝えで伝えられてきたそうだ。
大阪落城時に島津領鹿児島に逃れ、同じ九州で同族の日出藩を頼ってきたと
いう話だそうだ。この家も明治まで存続。大正時代に絶えたようだ。
羽柴の姓を貰った家はいまどれだけ続いているんだろうか
307 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 18:42:38
羽柴姓なら池田・細川とかかなりの数になるんじゃないの。
無論関ヶ原以降は名乗らないと思うけど。
松平もらったとこと重複してるかもね。
信長が好きと言う人は多いし
秀吉は人気があるし
家康は人気が無い
好き嫌いのはっきりしている三人に対し、石田って、ほんとに、好きでも嫌いでもなく、どっちでもいいという人多いよね。
歳を重ねるにつれ
信長→秀吉→家康
になるという。
310 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 19:03:28
>>308 んなこたぁない!オレは三成が大好きだ!
才槌頭を叩いてみれば〜♪
文明退化の音がする〜♪♪
313 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 19:38:32
>>309 ふーむ。
颯爽と軍勢を指揮し、敵軍を打ち破る。旧習に縛られないという所が
若い世代に受けるんだろうね。
秀吉は、上とも下とも敵ともまぁまぁなぁなぁで摩擦なく、上手に事を
運ぶ辺りが働き盛りに良いイメージなんだろね。
家康は、もの慣れた無理の無い且つ着実なやり方が経験豊かな年齢層に
支持されるってことか。
一理あるね。
家康から学べる事は、「健康が一番」って事だろw
日本の三大不人気
・足利高氏
・徳川家康
・大久保一蔵
家康は、秀吉が死ぬまではいいんだけどなあ。。。
>>315 楠木正成、豊臣秀吉、西郷隆盛が好きな人にとってはね。
317 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 21:23:21
>>308 石田ファンも徳川ファンもいるだろ
数は少ないかも
318 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 21:24:47
>>315 大久保は何かとんでもなかったようだな
秀吉も異常な女好き
家康も女好きだが基本的には自分のモノ限定
320 :
大和天狗:2005/11/07(月) 23:46:36
ネタ切れたか?
321 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 23:53:30
ネタ切れのパターンA:下ネタが増える。
>>300 頭脳明晰=高IQ
現代で例えるなら10歳でハーバード大に入学し13歳で卒業
物心ついた頃から出された数式は教わった覚えがなくても解けちゃうんだよね〜
って感じ
どこの馬の骨ともつかない男が、天下人の信頼を勝ち取り国の殆どの施策に
絡む存在になれたってことだけでも凄い
戦に関しては光秀自体も余り…って気がするのは漏れだけかな
光秀も定石通りの戦をするイメージしかない
石田の評価が低いので結局は光秀>>>>>>石田なのかも知れないけどね
323 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 11:46:06
黒田長政の良い呼び方はない?
黒田だと親父かも知れない
長政だと他の椰子かもしれない
おれも結構三成は好きだな。別に光秀と比べ様とは思わないけど
>>315 家康の秀吉死ぬまでって逆に魅力無いと思うな・・・
家康はやっぱ秀吉没後の姿あってこそでしょう。まぁ好きじゃないけど。
長田黒政
327 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 15:43:54
黒田甲斐守で良いでしょ。
黒くて長いムスコ
329 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 16:28:54
興雲院殿大中太夫筑前都督古心道卜大居士
328のネーミングセンスは素晴らしいw
如水jr
いまでも羽柴名乗ってる人っているの?
そういう人って由来は秀吉なのかな?
羽柴誠三郎秀吉が居るじゃん!
黒だ長ムス
羽柴ってプロレスラーいなかったっけ?
しらん
柴田勝頼ってのはいるな
大谷吉継の子孫はいるのかな
就職の面接で、
尊敬する人物は?
「石田三成です」
どう捉えてもらえるかだな。。。
なんかの本で、有名人の末裔を作るとき、明智光秀と斎藤道三の家系はほとんど売れなかったと聞いたことがある。
石田は売れていたのかな?
341 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 19:18:20
黒太子
俺も面接で「石田三成」と答えよう
でも、相手が結構な歳で歴史好きだった場合は悪い印象与えるかもな
若くて歴史好きだったら「ふむふむ」と思うかも。歴史に興味無かったら
ハァ?か、負けた奴が好きなのか変なの、くらいだろうな
高確率でキモい歴史ヲタと思われそうだ
343 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 20:32:52
たしかに関ヶ原の話題はもうネタ切れか
飽きられたかのどっちかで、
意味のない雑談が続いてる感じだね。
346 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 20:42:10
福島不在で加藤が居たら小山会議とか関ヶ原でどうなっていたかな?
いつぞやのスレ違いの議論よりはいまの雰囲気の方が良いよ
>>346 あんまり変わらないと思うな
加藤でもあの状況から秀頼側に周るとも思えないし
正則より賢いと計算しても、より家康側に周りそう
349 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 21:34:42
面接:理由をきっちり言えれば良いんじゃない
でも歴オタと論争になったりねw
加藤は熊本城に秀頼を受け入れる用意があったんじゃないの?
んじゃ、関ヶ原の戦いで一番カッコ悪い行動をとったのは誰?
金吾秀秋とか、毛利輝元とか候補はいっぱい居ると思うぞ。
俺は、小川祐忠。
金吾はかっこ悪いの部類なのかorz
結構好きなのにな。(何で好きなのかはワカランが)
かっこ悪いって言うと島左近部隊の鎧だとか顔を覚えてない
とか言っていた人。相当ビビってたらしいね。
355 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 22:57:15
金五めっちゃカッコええやん。
智謀をめぐらせて西軍から松尾山城を奪取し、布陣。
合図とともに、颯爽と松尾山を駆け下る。金五の武威に怯えて朽木、赤座ら降伏。
大谷、宇喜多を蹴散らして東軍を勝利に導く。
天下の名城として名高い佐和山城を即日落城させる。
関ヶ原に参集した諸将のなかで、金五の才は傑出している。
356 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 23:02:28
金後MVPか
朽木と赤座は既に内応していたっていう話を聞いたことがあるが
デマだったのか。
358 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 23:19:58
小川だめだな
金語はまだ救いがある
>>355 松尾山という戦局のイニシアチブを握る場所を早めに確保して陣取った時点で
非凡な先見の明を感じるな
首謀者の一人として斬首されたにも関わらず、関ヶ原では傍観していた
安国寺がある意味MVP
結局居城で自害した長束や所領没収された長曾我部も似たり寄ったりだ
こいつらに関ヶ原で散り花咲かすくらいの覚悟があれば、毛利秀元も
動かざるを得なかったかも知れん
361 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 23:40:47
>>359 アレは誰の判断なんだろうね
秀秋ではないだろう
重臣か?
もしかして東軍の誰かとか?
362 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 23:41:40
加藤清正を総大将の身でありながら助けに行った。
(三成に総大将が何勝手に動いてんの?とつっこまれたが)
岡山に移動しても善政を敷いていた。
(重臣のおかげでしょ説)
関ヶ原では松尾山に布陣。
外堀を20日で作った。
21年という短命でいろいろやってはいたが
秀秋個人の能力ってどんなものだったんだろう…。
364 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:45:49
松尾山が枢要の地と知りながら、これを軽防備で放置した西軍の罪は重い
365 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:47:57
昔から疑問ですが、なぜ島津は無罪なのでしょうか?
また島津以外に無傷の西軍武将っていますか?
366 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 06:44:36
東シナ海で島津の船が幕府の貿易船を襲って、
デモンストレーションしたことがあるんだよ。
幕府も島津相手に長々喧嘩するデメリットよりも、
懐柔して天下をとりあえず治めるメリットを秤にかけた。
長ムスもかっこわるい
368 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 09:45:44
就職の面接ではどんな人物を尊敬するかというのは特に重要ではない。
「なぜ、どうして」を理路整然述べ歴史に詳しくない相手でも意図を
伝える事が肝要。何を言うか、というよりどのように説明するかを
面接では見るからね。
意外な人物の方が固定観念も薄い上に、突っ込まれる事もなくて良いね。
逆に家康・秀吉・信長などは手垢にまみれた対象で、たいていの人は
何らかの固定観念もあり、逆にスルドイ質問されてタジタジなんてことも
あるだろう。勿論、これも理路整然と述べればぜんぜんOK。
スレ違い御容赦。
ネタにマジレスするなよ・・・・
要は面倒臭いから島津は放っておいた
つか九州とかよくしらなかったからなめてた
薩摩なんて化外の地
大一大万桜島
なるようになる。
KINGOってこの顔のイメージ→( ´_ゝ`)
376 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 16:28:08
島津放置の遠因
1) 島津は関ヶ原には小勢しか出さず本国の兵力を全く損耗して無い。
2)薩人の団結は異常なまでの強さであり、他国者の様に簡単に調略が効かない。
3)朝鮮の役でも証明されたばかりの島津勢の群を抜く戦闘力。
4)西軍敗れたりとはいえ、残党やその勢力はまだあり、島津攻めの後背を考慮。
5)西国の最果ての島津を力攻めして完全勝利できなかった場合、威信にかかわる。
6)遠国の薩摩・大隅は兵站の問題もあるが、戦況によって毛利や豊臣恩顧大名の
動向が読めなくなり天下統一遅延の可能性。
ま、朝廷からみれば、家康も尊氏も反逆者。
とすると、石田は、?
>>369 ネタではない。実話。
就職面接で石田と答えた香具師がいた。
>>355 合図とともにって、最初の狼煙で行動していればともかく、
この期に及んで躊躇した上、鉄砲打ちかけられるようでは。
380 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 18:54:57
俺大河が花の乱のとき就職試験で
「応仁の乱について答えろ」
と言われたら
「後土御門天皇と後南朝の小倉宮、玉川宮の対立」
なんて答えてやった。
382 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 23:20:07
>>379 鉄砲で撃たれていないという説あり
そうだとすれば、自分で判断したんだから、めちゃかっこいい
金吾かなり惚れられてるね。
だいたい裏切り者の代名詞といえば明智だが
なんでみんな金吾の名前出さないんだろう?
明智よりひどいと思うんだが。
主殺しとは違うからじゃないの?
385 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 23:45:20
若干二十歳そこそこで
天下の帰趨を決める日本史上の一大決戦で決定的な役割を果たしたんだから
たいしたものだよ
387 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 23:55:30
しかも何故か合戦の直前に関ヶ原に出現している
タイミングが神がかっているのだが
明智光秀のほうが金吾より評判良くないか?
だけど精神障害で死んじゃうんだぞ。
おれは一万石でも健康のほうがいい。
ネット上では人気の上がりそうなキャラだよな
子供の頃から良い生活して育ったニート臭のする奴が天下分け目で大立ち回り
長いムスコは関ヶ原の後に親父に怒られたの?
392 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 09:42:16
>>388 そりゃ光秀は一土豪の一門から身を起こし、足利将軍の食客となり、信長に
その才覚を認められ、頭角を現して宿老の地位まで勝ち取った有能な武将だよ。
ただ主殺しはこの事物の評価を一変させた、というか定義づけてしまった。
実のところ主を生害或いは放逐・乗っ取りは戦国では結構あるのだが、光秀の
場合その対象が信長というのがアレだったわけだ。だが信長の行き過ぎたイジメ
説もあって同情も少なくあるまい。
金吾中納言は太閤連枝で名門・小早川氏の大領を継いだにも関わらず、通説では
肝心の関ヶ原では東西両軍に対し旗幟鮮明にせず、最後は保身から縁戚でも
ない徳川に戦の最中に寝返り。これでは弁護の余地なしだろ。
討ったのが信長だからだろ。他の要素は小さい。
395 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 12:04:43
光秀はイケメン
>>386 別に本人の才覚でそういう立場になったわけじゃないだろ
秀吉が子沢山だったら・・・
398 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 12:47:44
>>392 光秀がよくあることならば
秀秋も戦場での寝返りなんてよくあることだが
自分で決断して参戦したのが本当なら名将かと
秀秋がダメなら福島はどうなるのか
福島正則様を悪く言うな。
殿は利や義で戦っているのではない。酔拳の達人なのだ。
400 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 13:12:56
黒長は?
吉川は?
小川は?
藤堂は?
藤堂は流石歴戦の裏切り者という感じがしてイイ
402 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 13:41:44
高虎ぐらいになるとドコを裏切ったのかさえよくわからん
別に高虎は光秀の類の”裏切り”はして無いだろ
合戦で寝返るとかでもないしさ。高虎様はちょっと飽きっぽいんだよ。
黒長って
405 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 15:39:21
秀秋の重臣は人質を差し出しているね
高虎の凄いとこは裏切りの芸を幕末まで藤堂家のお家芸として伝承したとこ。
新選組を裏切り高台寺党に参加した藤堂平助。
桑名藩の裏切りは言わずもがな。。。
407 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 19:48:11
秀秋は、小馬鹿にされるのは末路が哀れというのもあるんだろうな
あれで大藩で幕末まで残っていれば、なかなかという評価になったかも
それから子孫が頑張って反論を書いたかも
408 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 20:01:48
家康の評価が高いのも、幕府が続いたから
もしあれで再逆転で豊臣の天下になっていたら
色々悪さしたけど、有効な手を打てなかった
もうちょっと非常な手を打つべきだったとか言われるんだろ
>>382 そうだとしても、早朝から6時間近くも迷いに迷った上ですよ、
東軍からの合図があった時に即座に動かなかった段階で、ただの優柔不断だよ。
>>387 そりゃあ西軍・東軍の本体の方が移動して来たからだが。
410 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 21:09:28
>>409 即座には動けなかったんじゃないか
あるいは即座に動いたと思うが
>そりゃあ西軍・東軍の本体の方が移動して来たからだが。
予知したのか?
>>409 金吾中納言ほどの人物が迷うとは思えんが。
多分切羽詰って救援を求めてくる味方の醜態を尻目に冷徹に戦況を見極め、
最高のタイミングを見計らって突撃を命じたのだとおもわれ。
>>410 動けない理由もないと思うけど。
あと、秀秋としては予想外だったと思いますよ。
本格的な戦闘は当然西軍のいる大垣城と東軍のいる赤坂の間で起こると思っていたのに、
当日急に目の前が合戦場になってしまった。
当日の秀秋の恐ろしく優柔不断な行動は展開が全く予想外だったからでしょう。
藤堂高虎と松永久秀が時々ごっちゃになるよ。
藤堂高虎
その時歴史が動いたの見過ぎ
まずはアリーナ席で両軍の戦いぶりをのんびり観戦してから
そろそろ内府を勝たせてやるかって感じで悠々と山を降りたんだよ
ヒーローはさんざん気をもたせておいてから登場するものだ
それが効果的な演出ってものだ
ただのドSだったんだよ。
さんざん痛めつけた後ご褒美に西軍突撃〜。
スイマセンスイマセンorz
>414
自分はその時間帯は相棒もしくは別番組
見てるから、歴史は動いたはあんま見てないよ。
藤堂高虎について軍隊の昭和の将校方
が言い争いの末で家の中で刀を抜いたという話
を思い出した。
ここまで人を魅了する男も珍しいもんだ。
最初は合図とともに駆け下る金吾かっこいいと言っていた人がいたのだけど。
まあ、どんなものもかっこよく見ようと思えば見れるものだからね。
鞍壷で味噌をこねくり回す三河守や、
小僧めに図られて爪を噛むナイフよりはかっこいいとおもわれ。
西軍が勝ったとしていたら結局武闘派の連中を追い出せていたのだろうか?
蒸し返すようだが、関ヶ原後に島津が減封にならなかったのは争うメリットが
なかったからと簡単に言える家康オタも、こと小牧・長久手に関しては勝利宣言
出すんだよね〜w
しかも信雄・家康同盟軍としては美濃と伊勢の城を殆ど落とされてるにも関わらず…
>>420 もういい加減にしろよ・・
君にとって歴史とは
自己を押し通して
違う認識を持ったものを打ち負かして満足感を得るための手段にすぎないのか?
422 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 23:56:10
>>421 まあ争ってもいいと思うがスレ違いだ罠
やるにしても他でやればいいんでない
>>421 歴史を知るとは経緯と結果をしっかりと認識すること
個人的嗜好で歪曲してよいのなら、それは単なる小説の世界
424 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 00:19:06
>>412 霧が出ていて即座には動けなかった
闇雲に動くのは無茶
予想外でもなかっただろう
もし予想外であれば戦をしらなすぎる
425 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 00:20:22
追加
軍隊は、そう簡単に即応はできない
まして小早川軍は防衛体制であったからな
下手に改易や減封申し付けて従わなかったら
他の大名の手前捨て置けず討伐するしかない
そこまでしてあの時期に島津なんぞを処罰する必要があるのかと
豊臣差し置いても薩摩まで遠征しろと?
428 :
金吾秀秋:2005/11/11(金) 02:13:56
防衛体制なんだぜ(´・ω・`)
>>406 高虎が200ヶ条程にも及ぶ大層な家訓を残してるらしいからな
その中に半ば良い訳の主君は見限っても良いという文があるらしいから
子孫も心置きなく裏切っただろう。まぁ高虎は反転して砲撃までしてないけど
>>408 そのように史実と逆になれば三成は義人の英雄に祭られてるだろうな
いまごと神として崇められてもおかしくない
秀秋様銃の射程が届かない山の中腹に陣取ってたんじゃないか?
大谷隊が応戦できる距離はあったんだし。
>>427 流れ読んでなかったorz
秀秋が寝返った時点では西軍優勢だったわけだから
あのボンクラも闇雲に寝返ったわけじゃなく
多少は状況把握してたと言う事か
初めて立つ子馬って応援したくなるだろ
そんな感じだろ
433 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 13:58:34
銃に撃たれて無くて、西軍優勢だったとすれば
なかなかの好判断
逆に銃で撃たれて
東軍に敵として認識されてしまったと思い
藤堂の軍勢になだれ込んだら面白かったのに
藤堂って幕末、鳥羽伏見で、逃げてくる幕府軍に、銃で乱射したんだっけ?
ここまでくると、見事としか言い様が無いな・・・。
>>434 大坂の陣がいい例だが、一度崩れだしたら徳川方もかなりもろいから
そのまま誰も支えきれず西軍勝利の可能性大
>>433 繰り返し言われていることですが、
東軍には3万の予備兵力があるが、西軍には最早まともな予備兵力はない。
普通に考えれば当然東軍に付きます。
>>424 霧が晴れてからでも4時間ほどは動かずにいますね。
439 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 22:32:39
>>438 戦況を見ていたのでは?
徳川も4時間ほど見ていたが?
440 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 22:36:30
小早川尚も動かず。
441 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 22:36:39
>>437 同感
それなのに何でどっちにつくかわからなかったと言われるんだろうね
442 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 22:36:59
>>439 家康本隊は予備戦力として控え、督戦したりするのが本来の任務です。
444 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:31:04
つか、予備兵力なら西軍もあったのでは?
宇喜多の後ろ半分とか、小西の後ろ半分とか、島津とか、豊臣とか。
石田も笹尾山を陣城化してたから一度にさほどたくさんの兵を動かしていたわけではないだろうし。
まあ、関ヶ原に布陣した時点で負けだし
やはり先手打って仕掛けるべきだった
446 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 00:32:28
447 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 00:33:13
>>444 宇喜多は余裕があったかも知れないが他はない
兵の過多だけで語るなんて恥ずかしい真似はやめよう
どちらに付こうが押している状況の時に小早川が坂下りしたほうが勝つだろ
小早川が付いた方へ脇坂、小川ら4将も付くだろうし
最終的にはもう一押しで勝ちと言う段になってしまえば毛利、長曾我部、
長束、安国寺が出てくる
449 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 00:52:52
兵の過多だけで語らないのなら、徳川3万で勝ちだろ
あるいは武将派の勝ち
小早川の裏切りにオプションで小川等も付いてくるのか。
>>446 最初から指示通りに動いていればそういえたのだけどね。
>>448 気軽に言うが、
手付かずの予備兵力がある側と戦うのと、
それがない側と戦うのでは全く状況が異なりますよ。
452 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 13:52:50
西軍は陣地を構築して戦った。
東軍はその陣地を攻めた。
防衛施設に拠る西軍と防衛施設なし/わずかの東軍では条件が違いすぎる。
東軍には予備兵力が必ず必要だったが、西軍には必ずしも必要ではなかった。
453 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 13:55:17
>>451 明確な指示はなかったのでは?
あったのは、西軍で狼煙とともに攻撃に移るぐらい
454 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 13:56:10
>>452 そのあげくが史実の結果だが?
陣地側が必ずしも予備不要ということではない
456 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:15:20
>>455 あの状況では少なくとも、予備が必要だろ
家康だって、3万予備を持っていた
もし予備不要と考えていたのなら、その時点でギャンブル的であったかと
457 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:24:52
>>456 予備は金吾。
狼煙をあげてみたがしかとされたけど。
>>456 予備があったとして、どこに配置するの?
山にへばりついた横に細長い陣形なのに。
横に動きようが無いんだからほとんど予備の用を成さない。
459 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:29:35
だから西軍にも予備はあったって。
全軍で前線の柵にへばりつくわけがないだろう?
それぞれの部隊が予備兵力をもっていたの。
460 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:29:42
461 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:30:33
>>458 後ろに置く
家康だって、投入できる正面はあまりない
横に動くだけが予備ではない
462 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:31:06
>>460 まさか金後が関白を蹴るほど清廉な人物だとは予想で金だろう?
463 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:31:24
>>459 それは予備とは言わないのだが?
余裕があったのは宇喜多ぐらいだろ
でも何で大谷を助けに行かないのか?
464 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:32:10
>>462 清廉潔白な人物と信じることが出来なかった時点で負けかと
465 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:33:42
>>459 後ろにいるだけでは、有用な予備とは言えないのだが?
家康も似たようなものだが、予備の効果もあって、秀秋が参戦した
>>461 後ろの山のなかにか?
予備というのは弱い所を補強、もしくは攻撃するものだから
横に動けないとかなり用途が制限されてしまうが。
467 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:35:26
469 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:36:53
>>466 山で戦っているから山に置くしかないだろうな
即時投入は難しくても攻める側は厳しくなる
470 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:37:13
471 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:37:47
472 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:38:37
>>467 鉄砲を撃てば、秀秋が味方になるとでも?
473 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:39:15
>>469 戦ってるのは山の麓だろう。
山に戦場が移るのは終盤、形勢が定まった後かと。
475 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:41:30
>>474 笹尾山は最初から山では?
他も山に籠もって戦ったんじゃないか
それとも平野の野戦だったのか?
476 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:42:52
>>475 別に篭城戦をしていたわけじゃないよ。
石田とか宇喜多とか、柵から出て戦ってた。
不利になると柵のなかに押し込まれたが。
478 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:45:41
479 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:49:36
>>478 わからない。脅しのためにうった玉が金吾にあたって金吾討死→小早川敗走となってたかも。
480 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:52:20
つーか何回も撃ったよ、きっと。でもダメでした。
481 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:55:01
>>480 そうか、金吾にあたらなかったのか。残念だ。
ひょっとして影武者使ってたのかな。
482 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 15:34:16
もし当たっていたら「ここで、よか」って逝ったよね、島左近みたいに。
小早川の後ろか、大谷と反対の側面に一隊配置しとけばよかったんだよ
さすがに前後、又は左右に居られたら裏切りもできまい
484 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:03:29
>>477 基本は柵内で、状況に応じて出撃じゃないか
485 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:04:34
>>483 禿道
でもそんな余裕がなかったと考えるのが妥当
486 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:06:11
結論としては、大谷は金吾に撃ちまくれば良かったということでFA?
当たって死ねばOK出し、味方になれば西軍の勝ち
大谷が優柔不断だったために西軍は敗北した・・・
487 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:10:40
刑部は後方で稚児小姓と戯れていただけ。
全くの役立たず。
>>449 大坂陣の総崩れを考えてみろ
一旦崩れて敗走しだした味方を立て直すのは非常に困難であり
一方勢いに乗った側は相乗効果で更に勢い立つ
藤堂や京極が敗走し出したら、たとえ徳川本陣(3万もいないだろ?)がいて
数の上では勝っていても勢いで負けてるからね
しかも本陣は小軍団の集まり
>>454 君は3×2y=12、従ってy=2と教わったにもかかわらず
3×2y=18になってしまうともう解らなくなってしまうタイプだろ?
そら発想も貧困になるはずだよ
490 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:23:53
>>489 君は現実と嘘の区別がつかなくなってくるタイプだろ?
そら発送も滅茶苦茶になってくる罠
>>488 同意。予備兵力がいても先手の敗兵が混入すればなすすべなく敗走せざるを得ない。
たとえば小西は4000の兵を前軍2000、後軍2000に分けていたが、前軍の混乱に巻き込まれて
後軍は全くの役立たずのまま敗走した。
島津は味方の敗兵を打ち払ってまでして体勢の維持に努め、戦場からの脱出に成功した。
492 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:26:13
>>488 3万というのは通説だが?
藤堂や京極が崩れても、一部が崩れただけ
一部崩れて負けならば、東軍は既に敗北してるだろ
藤堂らに代わって、家康が先頭に立てばいいだけだ
そうすれば押し込める
493 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:27:43
>>491 それは小西が弱兵であったから
一部が敗走すれば負けなら東軍はとうに敗北していなければならない
494 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:34:19
495 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:40:19
>>493 小西の兵は実戦経験豊富。
関ヶ原でも西軍が総崩れになるまで無難に戦っている。
497 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:43:23
大坂の陣は、日本一の兵対戦国最強部隊の戦い
日本一の兵の特攻は威力がでかい
それと小早川ら弱兵と同列に扱うことはできない
498 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:43:35
499 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:44:09
>>496 相当な弱兵であったようだ
小西は崩れる寸前ではないか
500 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:44:29
502 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:45:24
>>499 小西は見事に戦った。
さすが熊襲の末裔を率いていただけの事はある。
肥後の兵はやはり強かった。
504 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:47:55
505 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:49:02
>>503 小西はほとんど役たたづ
かろうじて戦線を支えていたが
>>488 家康本陣まで崩されたのも味方の雑魚が隊伍を崩して逃亡してきたからだね。
相乗効果は怖い。
507 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:50:46
>>502 えっと、一人も敗走しないと信じているの?
508 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:51:47
>>505 小西は見事に東軍を支えた。その報復に家康は小西を極刑に処した。
510 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:52:24
511 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:53:37
>>509 小西はすぐ敗走
その見返りに本領アンド
513 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:55:23
>>510 合戦ガイドでも読んでみたら?
なかなか良い本はないかも
514 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:56:26
>>513 どの合戦ガイドに誰が敗走したってかいてあるんだい?
515 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:57:07
516 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:58:00
>>514 関ヶ原の本か何かのガイドでも探したら
関ヶ原本には書いてあるはず
517 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:58:57
518 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:00:35
>>516 各種読んだがそんな記述はない。
君が見たのは何というガイドで誰が敗走したとかいてあったんだい?
519 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:02:08
>>518 オレの見た本にはだいたい書いてある
よく読むべし
520 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:03:47
>>518 合戦で、一人も敗走しないと信じているのですか?
どのような本を読んでいます?
学研のものは読みましたか?
521 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:04:26
>>520 歴史群像の決戦関ヶ原?
読んだことあるが記憶にないなあ。何ページかね?
誰が敗走したとかいてあるんだい?
522 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:06:27
>>521 良く読むべし
一人も敗走しないと信じているの?
>>521 黒田の足軽、助兵衛。
>>520氏のご先祖だよ。
あまり有名な人ではないからガイドにはのってないかも。
524 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:08:44
525 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:09:13
>>523 いや、藤堂の足軽、清之助
びびっていなくなったそうだ
合戦終了後に復帰
526 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:11:07
>>525 ああ、忘れてた。藤堂の足軽、清之助もだ。
>>520氏の母方のご先祖様だね。
この人もあまり有名じゃないからガイドによってはのっていないものもあるかもしれないなあ。
528 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:12:18
529 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:14:01
>>527 いや、母方ではない
父の妹系列だ
母方の祖先は524氏の祖先で、誰も敗走せずに全滅したらしい
父方の祖先は逃げるのも戦だと言っていたそうだ
530 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:14:16
すいません。不勉強でした。
司馬遼の著作を勉強しなおして出直します。
阿保スレか?
>>491 それでは古今東西の予備兵力を置いた武将は皆愚か者ってことになってしまうが?
実際は前線が崩壊いてもそれですぐにお終いとならないように、予備兵力を置くのですよ。
姉川の戦いの時織田軍の前線は浅井によってかなり打ち砕かれたが、
予備であった本陣までは届かす戦には敗れた。
三方ヶ原のときも徳川軍は武田の第一陣を破ったが後衛に突き崩され戦には敗れた。
同じような例は枚挙に暇がない、前線を破ってそのまま本陣まで突き崩すなんて例の方が、
もちろん全くないとはいわないが、よっぽど少ない。
加えて予備兵力のもう一つの意義が、味方への督戦をすること。
関ヶ原で小早川を動かしたのはその一つの表れ。
仮に西軍の場合陣地によっているので予備の必要はあまりないとしても、
こちらの効果は全くない。
533 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:16:38
>>530 わかればいい
ちなみに524氏の祖先は、石田隊とともに敗走せずに全滅したらしい
534 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:17:47
>>532 まだ、あんたのようなまともな人間が残っていたとは・・・・
いや、どこからネタなのかわからないが、
福島隊が一時宇喜多隊に押されてが、
正則の奮戦と他の部隊が助けに入ったりして持ち直しているぞ。
>>532 全く頓珍漢なレスだな。も一度読み直してでなおせ。
537 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:22:18
524氏の祖先は、笹尾山で全滅
524氏の祖父は、硫黄島で玉砕
従って日本人は敗走しないと言うのが家訓になったということだ
538 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:29:27
せっかくだからマジレスしてやる。
うちのじいちゃんはインパールの生き残りだ。
本人は死ぬまで何も語らなかったが。
例えば、手付かずの3万の兵力があれば、
敵になるなら相手になるぞという脅しには使える。
家康の本隊3万はそれほど強力ではなかったという説もあるので、
実際に戦ったらどうなったかわからないにしても、
少なくともはったりには使える。
しかし、西軍には最早そのはったりのネタすら残っていなかった。
これが両者の決定的な違い。
540 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:10:48
小西ってどの屏風見ても逃げてるよ
541 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:37:57
>>538 本当はそういう人にこそ語って欲しいのだが、語ることはできないのだろうな
542 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:39:56
524氏の祖先は、徳川方だったが、一度も敗走したことがなかったそうだ
それ以来、人類は敗走しないということになった
542の先祖は豊臣側で常に敗走してたらしいね。
廃止後に疫病神として祭られたそうだ。
>>492 秀忠軍3万8千、宇都宮残留軍2万、江戸他各城守備兵、赤坂守備隊
井伊・忠吉隊6600、途中支援投入済部隊等・・・で他に3万??
>>532 一枚岩同士の○○家vs○○家の戦と、関ヶ原の一大決戦を一緒にするな
取りあえず、引っ込み付かなくて足軽が敗走したとか言ってる
自演東軍アホ厨は放置で…
545 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 21:06:38
>>543 543の祖先は石田方として全滅
今までに敗走した兵を見たことはないそうだ
546 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 21:08:19
>>544 途中支援投入済部隊
これは?
足軽が敗走するのは普通
敗走しない厨?
547 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 21:29:11
>>546 敗走厨まだ生きてたの?
訳の分からんネタレスつけまくって逃亡したと思ってたのに。
549 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 21:39:53
全滅厨
ゲームのやりすぎでは?
ゲームが真実ではないのだぞ
よく考えろ
全滅厨?
改行中がまたへんなものを作ったようだ。
ゲームで敗走しないからと言って、それが真実ではないぞ
ゲームで敗走させたからと言って、それが真実ではないぞ
554 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 21:59:02
555 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 22:00:19
>>553 3人役ぐらいじゃないか
ただし守備隊は別計算
3人役といったてすっからかんというわけではないからな
557 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 22:05:01
>>554 びっくり理論w
勝った方が敗走しなかった
↓
勝った方が全滅した
>>554 人一人が死んだとか敗走したとか、おまえはアホか
いい加減ゲームに戻ってくれ
もうここへは来なくていいけど、学校へはちゃんと行けよな
560 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 22:48:33
前西軍で減らされなかったのは島津だけという質問があったが、
いた>>宗義智
>>546 ・・・・・・。もしかして家康本陣の部隊は何もしてなかったとでも思ってる?
あ、ごめん敗走厨の君か!
ごめんごめん。わかるわけないよねw
564 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:49:37
西軍は全滅していた!
全滅厨の恐るべき妄想
565 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:50:30
恫喝ってのはその根拠になるものがないと成り立たない。
未だに戦闘未参加の3万を率いた家康がやるから、
ビビって西軍を攻めるということになるのであって、
僅か1,500程度、しかも正面の敵と戦闘中で、
予備がいたとしても数百人の大谷隊が鉄砲撃っても効果なし。
逆にそれをきっかけに西軍に攻め込む可能性のほうが高いね。
567 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:55:25
敗走する部隊など存在しないw
全滅するだけだ!!!
戦陣訓か何かか?
568 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:58:19
>>567 おや改行厨まだ生きてたの?
最近は全滅厨も兼ねてるんだね。
569 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:03:09
全部全滅した
西軍も東軍も全滅だ
頭大丈夫か
570 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:04:00
>>568 おやコメント厨もいた?
最近は配送中も兼ねているの?
571 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:05:00
やれやれ・・・。
馬鹿がわいて目茶目茶になったか・・・。
572 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:07:07
西軍は全滅した
敗走する部隊など地球に存在しない
これがリアル厨
573 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:11:51
>>572 なるほど。改行厨は全滅厨でリアル厨だった!
なんかすんごい納得できるな。
574 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:12:58
>>573 開業中はリアル厨ではない
全滅中がリアル中だ
よく嫁
575 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:14:12
どしろうとをどうしろと
576 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:19:34
>>574 開業中というのはよくわからんが、
改行厨は全滅厨でリアル厨なんだろ。
ちゃんと把握しとるよ。
577 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:20:48
いや開業中は違う
全滅中がリアル中だ
578 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:21:41
>>576 おまえは何で改行してるのか。改行嫌なら改行するなよw
579 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:22:33
>>576 おまえがリアル改行柱で
全滅柱なんだろ?
580 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:24:29
>>577 ひょっとして改行厨=開業中だったのか!?
みんな同一人物だったとは・・・。
581 :
大和天狗:2005/11/13(日) 01:42:56
セ・キ・ガ・ハ・ラ
弟子よ何処じゃ
そなたが懐かしい
どれ、言ってみよう
東軍は弱く、家康は糞たれ。
西軍は鈍く、輝元は至愚也。
とりあえず、戦術的に予備兵力の存在は極めて大きいし、
仮に家康本隊の実戦能力が大したことはなかったとしても、
少なくともハッタリのネタくらいにはなる。
しかし、西軍にはそのハッタリのネタすら最早なかった。
よって小早川が西軍を攻めたのは極当たり前。
それから、足軽が逃げた云々の極論を持ち出すまでもなく、
福島隊が一時崩れたが他の隊の救援等もあり持ち直した事実がある。
>>544 近代以前の軍隊では戦闘に入ってしまえば、
実質的には部隊ごとにしか動けないから変わりはないよ。
>>582 あんた「最早」が大好きなようだが、西軍の布陣は最初から丘陵に築いた陣所に頼ったもので、
予備兵力などに過大な期待をかけていない。
布陣図みりゃそんくらいのこと分かりそうなものだがな。
東軍厨ってほんっと馬鹿ばっかしだな
>>584 足軽が敗走したが崩れていないなんていう意味不明なことを言ってるし
家康オタはアホばっかだからわかるわけががない
取り合えず足軽敗走厨達は放置で
>>584 しかし、小早川の立場に立てば、
西軍に攻めかかるならそのほぼ全軍は正面の敵に対して戦っているのに、
東軍には未だ戦闘に参加していない部隊がある、この違いは大きい。
だから、小早川が東軍についたのは当然だということ。
588 :
金吾秀秋:2005/11/13(日) 05:03:06
寒くなってきたね(´・ω・`)
>>588 最近2スレくらいは、金吾が一番まともにみえるね。
日本史板も廃れたもんだ。
590 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 10:22:20
一般論として戦術的に予備隊が重要なのは確かだが、西軍が丘陵地帯に防御陣地を設営
して戦意の高い東軍を迎え撃つ態勢であったのも確か。
三成が南宮山の毛利・吉川・長曾我部の諸隊の積極参戦をどの程度信じていたかは
今となっては知る術は無いが、常識的に考えれば石田・小西・大谷は金床として東軍
攻勢を一定時間支え、南宮山諸隊はハンマーとして後方から打撃を加えるという看方に
なるであろう。石田らにも予備隊が当然あったと思うが戦力的要素は薄い。柵に寄って
戦意高く経験豊富な東軍諸隊を支えるのがその戦術的役割であり、俯瞰的にみれば所謂
予備隊的働きとして南宮山諸隊が存在する。歴史的背景を知らぬプロイセンのメッケル
少佐の判断通りの典型的な包囲殲滅の戦術布陣。
金吾中納言は関ヶ原以前からその動向は十分不審であり、家康の鉄砲催促にしても
豊臣一族の貶めと「金吾卑怯な裏切り」を前面にだ出すことで家康の謀略イメージ
軟化を狙った後世の捏造とも言われる説もあり何のとも言えない。
だが金吾中納言の西軍攻撃は善戦する笹尾山―藤川の台ラインに布陣する西軍の体力的
限界点を考えれば西軍のピークアウト直前での攻撃であり絶妙なタイミングであった
のは事実でありギリギリまで日和見を決めこんだのは事実だろう。純粋な戦術論としては
西軍につくべきであり、政治的背景から東軍に組する事を決めていたならより早く
東軍として旗幟鮮明にしなくては例え勝利したとしても戦後疑惑の目で見られるだけ。
同様に金吾中納言が東軍の予備隊の有無を勘案して東軍につくなら、もっと早く
東軍側として参戦する方が自然ではないだろうか。
結果的に絶妙のタイミングでの「裏切り」になっただけで、
別に予備隊は関係ないんでないの?
もともと内通してたんだし。
592 :
590:2005/11/13(日) 11:50:59
分かりにくい書き方すいません。
私が言いたかった事は予備隊云々は金吾中納言の行動決定の要因とはなり得ないという
事です。
東軍に予備隊あるから東軍入りを決めた、というような意見があったのでそれなら小早川
はさっさと大谷刑部勢に攻めかかってないと理屈が通らない、という事を述べたかった
次第です。
小早川が土壇場で躊躇したのはいずれにつくにしろ、
即座に行動を起さなかったことで明らか。
いろいろな要素を勘案して迷いに迷ってのだろうが、
その中で東軍には手付かずの軍勢が温存されているが、西軍にはそれがほとんどない。
という事実が大きな影響を与えたのは間違いないと思いますが。
>>590 秀秋の主観での戦術的に正しい判断、
というか要するに自身にとって有利な、より確実に勝てる方につくための判断は、
疑問の余地なく西軍を攻めることですけどね。
なにしろ秀秋が動いた時点では、西軍は「西軍の体力的限界点を考えれば西軍のピークアウト直前」
という状況だったのに、東軍には未だに戦闘未参加の3万が残っている。
どちらが勝つ可能性が高いかは明白。
秀秋としては、実際に西軍が限界になるのを確認して、
その上、いまだ東軍には余裕があることも考慮の上で西軍を攻めたのでしょう。
確実に勝つ側に立とうと思うならこれほど確実なものはないわけだから。
もし、西軍が限界に達する前に史実以上に善戦し、
予備であるべき家康本隊まで戦闘に駆り出されるような状況になっていたなら、
西軍として東軍を攻めたかもしれませんが。
躊躇してたのかなあ。
高見の見物だったようにも見えるけどねw
家康から「指示があるまで動くな」って言われてたとかしてね。
で、その指示とは「鉄砲を撃ちかけるから、それを合図と受け止めよ」
だったりして。
家康側からも再三参戦を促されたことにはなってるけど、「敵を欺くに、
まず味方から」なんて言うからねえ。
先鋒(福島)見殺しの意図を知られないよう、家康が演技していたかもし
れない。(事情は異なるが、長篠で信長が軍議で芝居をやっているのを
家康は見ているし)
鉄砲を撃ちかけられて、「家康が怒ってしまった」と受け取った場合、
「西軍で戦うしかない」と思う可能性もあるわけで、あれだけ用意周到事
を進めて家康にしては短慮が過ぎる。(躊躇している相手に対する威嚇は
反応が不明瞭で危険極まりない)
西軍有利の形勢だったから、家康からの発砲は、家康自ら形勢不利を認
めたようなもので、模様眺めの意図があれば即座に西軍に立って家康に
攻撃を仕掛ける方に動いたほうが自然じゃないかなあ。
小早川に「どっちに組するか」での迷いがあったように見えない。
家康の発砲は躊躇していないと解っているから出来た事で、予定の合図
だったとしか思えないなあ。
朝鮮で武功のあった人なので、小説やドラマで多く見かける「おどおどし
た人」ではなかったようだし。
596 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 13:57:21
>>595 「武功があったからオドオドした人ではない」
という理論もどうかなあ・・・
心理的に言うと攻撃性は弱気から発する事も多いし、
「実は強気とはこれ以上ない程、弱気な状態」とも言うしな。
おどおどした奴だったからこそ、
大将の癖に恐怖と衝動に駆られて
自分で槍持って突っこんだんだろうね。
堂々とした奴ならちゃんと毅然とした態度で
戦況を観察してるだろうし、
自分で闘うなんて危険性のある事はしないだろう。
598 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 15:45:27
補足するなら、後方に控えていた家康が自ら前線に出張ってきた(決戦の覚悟をしめした)上での、威嚇だからな。
599 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 15:47:06
600 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 15:59:59
>同様に金吾中納言が東軍の予備隊の有無を勘案して東軍につくなら、もっと早く
東軍側として参戦する方が自然ではないだろうか。
そうなんだが、
だが金吾中納言の西軍攻撃は善戦する笹尾山―藤川の台ラインに布陣する西軍の体力的
限界点を考えれば西軍のピークアウト直前での攻撃であり絶妙なタイミングであった
のは事実でありギリギリまで日和見を決めこんだのは事実だろう。
から
戦略(作戦)予備としての位置づけを秀秋が認識していたとすれば
あのタイミングが正しい
しかし、これだけの判断ができる器とは考えられないが・・・・
601 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:01:11
>>592 秀秋の行動要因の決定は、勝てるかどうかが大きかったのでは?
602 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:03:24
>>595 家康としては、秀秋が西軍につくのなら、それごと撃破するという決意だったのであろう
情報伝達手段として、鉄砲を使うのはおかしい
朝鮮では大した武功はないのでは
603 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:08:24
>>596 怖い相手に責めかかる心理なら、この場合って怖い相手は家康だと思うけど?
西軍のほうが怖いから攻めかかったわけ?
604 :
590:2005/11/13(日) 16:16:07
>>594 西軍諸隊(笹尾山−藤川の台ライン)には若干の予備は各々あっただろうが、この戦線は
柵に拠って東軍鋭鋒をしのぎ、その東軍攻勢の衝撃を吸収している間に南宮山諸隊の攻勢
が基本戦術であり、誰かも書いてるが西軍(笹尾山−藤川の台ライン)は予備隊云々は
元々は考察の必要もない、固定的布陣である。
一方、東軍は貴方がおっしゃるように予備的な兵力はあるが、それは現代の我々が
『南宮山諸隊は動かない』と知っているから予備兵力と簡単に言える。
だが当時の前線にいる指揮官(武将)としてはそういう可能性を考慮に入れる
ことは出来ても、予備というより南宮山諸隊の押さえと判断するのが妥当だろう。
仮に吉川・毛利が西軍善戦に刺激されれば金吾中納言が西軍に加勢した可能性は
大いにあろう。
百歩譲って『南宮山動かじ』と金吾中納言が確信していたとすれば、戦況如何によらず
貴方の言うところの『東軍の豊富な予備兵力/西軍予備なし』を根拠にもっと早い
タイミングに西軍に槍入れするはずである。またそうせねば東軍勝利としても、洞ヶ峠を
決め込んだと思われるだけだ。事実、金吾中納言の攻勢は合戦が相当引っ張った段階での
タイミングで後世まで卑怯な振る舞いとして人々の記憶に残るまでに悪評が残った。
政治的に東軍優位と判断していたなら、もっと早い時期に西軍を攻めるか、家康に使者でも
送って『我等、内府公に御味方致したきが、ここに至って奉行方を攻めるも仁義に外れ
るゆえ、兵を引き申す云々。」とでも送り撤退した方がまだマシ。前田利家の例もある。
故に金吾中納言は東軍予備とか、政治的にどうとかではなく、単純に『日和見』し、
ぐずぐずしてる内に、二進も三進もいかなくなって東軍として参加したっていう
ところではないだろうか。
605 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:19:39
家康としては、秀秋抜きで、予備抜きで勝てる計算であった
しかし長時間戦っても一向に西軍が崩れないので爪を噛む
切れた家康は(もちろん冷静な判断に基づいた上で)予備投入で勝ちに行く
これに秀秋が乗ったということ
>>603 敵と味方がはっきりしているなら、弱気から発した怖さを紛らわす為に、
遮二無二敵に突っ込むという心理も働くだろうけど、
どちらに味方してどちらを敵にしようかという時には、
弱気な人間なら普通に強そうな方について弱そうな方を攻めるでしょうね。
石田の使者が予め狼煙の合図で東軍を包囲殲滅するということが実際に
行われれば西軍の勝利の可能性が高い
金吾はその狼煙の合図で毛利に動く様子がないことを見て取り、毛利が
どう動くかを見ていたのではないかな?
前面に展開する脇坂ら4将が西軍として金吾らに牙を向いて来た場合、
小早川軍の戦力次第では結局は戦線が暫らく拮抗したままとなる可能性さえある
(位置的に脇坂ら4将は不利ではあるが)
そうすると日和見状態の毛利の動きにまた注目が集まるということになる
各将の旗色が鮮明になっていない状況ではまだ、どちらに付けば必勝という
状態になっていなかったのではないか
また大谷勢が奮闘して押し返していた時にワッキーら4将が藤堂・京極へ横槍を
入れていればその戦線は崩れ去り、そのまま福島勢へなだれ込めた可能性も
ある
4将や毛利の動向を探りながら動く気配を感じなかったため、ようやく東軍への
参加を決意したのではないか
608 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:22:28
>>604 >同様に金吾中納言が東軍の予備隊の有無を勘案して東軍につくなら、もっと早く
東軍側として参戦する方が自然ではないだろうか。
そうなんだが、
だが金吾中納言の西軍攻撃は善戦する笹尾山―藤川の台ラインに布陣する西軍の体力的
限界点を考えれば西軍のピークアウト直前での攻撃であり絶妙なタイミングであった
のは事実でありギリギリまで日和見を決めこんだのは事実だろう。
から
戦略(作戦)予備としての位置づけを秀秋が認識していたとすれば
あのタイミングが正しい
しかし、これだけの判断ができる器とは考えられないが・・・・
609 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:24:38
>>608 家康としては、秀秋抜きで、予備抜きで勝てる計算であった
しかし長時間戦っても一向に西軍が崩れないので爪を噛む
切れた家康は(もちろん冷静な判断に基づいた上で)予備投入で勝ちに行く
これに秀秋が乗ったということ
>>602 >情報伝達手段として、鉄砲を使うのはおかしい
通常は、そうでしょう。
ただ私見を補足させてもらうと、家康が芝居をしている前提があるので
その延長上での合図なので、あってもいいかと。
周囲のものには「家康が怒って発砲を命じた」様に見える方法で、もともと
合図する取り決めがあったのであれば、あれはあれで合図なのだと。
秀秋の武功は個人的なもので、「朝鮮方の兜首を取った」というもの。
「大将にあるまじき軽率な行い」として秀吉に叱責されたようだが、秀吉に
喜ばれようとして行為で、「いざという時は戦える」器量があると見て問題
ないと思う。(怖くて攻めかかったのではなく、秀吉に褒められようとした)
それに、この件の反省に立って行動しているとすれば、「自己判断を避け、
有力者の指示があれば動く」人になっているのでは?
優柔不断さが合ったとすれば、「自分の考えでは動かない」程度のものでは?
怖い目付けが傍らに居た割りに、延々と躊躇しつづけるのも、気の弱い人ほ
ど難いように思うのだけど。
それでも尚躊躇してしまうような気の弱い人を脅かすと余計怖気づきそうw
>>604 いや大筋でまあ合意なんだけど、
その「『日和見』し、 ぐずぐずしてる内に、二進も三進もいかなくなっ」た上での、
結局東軍につくことにしたという決断には、
やはり東軍のほうが西軍より余裕があったからというのが大きな要因として存在するでしょう。
何しろ、実際に秀秋が動いた時点での情勢は、
あなたが言うとおり、西軍は限界に近い状況であり、
対して東軍はまだ戦闘に参加していない大部隊があり余力を残していた。
この違いが秀秋の決断に影響を与えなかったということはありえないでしょうから。
>>605 >切れた家康は(もちろん冷静な判断に基づいた上で)予備投入で勝ちに行く
どこにそんな予備投入用戦力が?
この時点では忠勝や野々山等の家康本陣戦力も早投入済ですが?
山内や蜂須賀の後陣や織田長益らも投入済
もしかして長束や安国寺と小競合いしていた浅野や池田のこと?
615 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:34:29
>>610 芝居をしている前提というのが疑問
芝居をする動機は?
>個人的なもので、「朝鮮方の兜首を取った」というもの。
これは武功ではない
武功でないことから、叱責の対象になった
後段については同意
616 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:36:20
>>611 予備抜きでも、東軍は攻勢側であり、攻勢に出るだけの余裕をまだ有していた
余裕がないのなら攻勢にでれない
(もちろん東軍にとって予備があるというのは心理的・軍事的に大きな支え)
>>614 いや、
>家康が芝居をしている前提があるので
これを前提にしている段階で説得力ゼロなんですよ。
618 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:36:46
619 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:37:36
620 :
604:2005/11/13(日) 16:39:58
>>611 でも戦況が誰が見ても分かるくらい見えてきた段階で参戦したら、例えどのような
理屈ならべても家康はじめ東軍諸将からみれば、単なる『日和見小僧』にしか
みえないんじゃないでしょうか。
金吾中納言の判断に影響は与えたか、といえばそれは与えたでしょう。だが戦況は
決定的状況を迎えよとしているタイミングで、客観的にみれば、ここまで引っ張って
はじめて去就を明かにするのは『優柔不断』か『日和見』に過ぎず、『戦術的判断』とは
似ても似つかぬものです。
621 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:40:00
>>610 >ただ私見を補足させてもらうと、家康が芝居をしている前提があるので
>その延長上での合図なので、あってもいいかと。
鉄砲や大砲が鳴り響く戦場にあって、その鉄砲が金吾に向けて撃ったと
誰が判断出来るんだい?
だから情報伝達手段なはずがないということ
623 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:42:02
>>620 そりゃそうだね
だから後世で、日和見・優柔不断と馬鹿にされることに
それから早死にだし、反論していないし
624 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:42:55
>>622 手段であるとしても、不確実
その前提として、芝居であるかどうかが重要なわけだが・・・・
>>620 私も彼の行動は優柔不断ゆえのことだと思いますよ。
しかし、いささか遅すぎたとはいえ、実際に西軍を攻めるという決断もしている。
そう決断した要因としてその時点での状況、
つまり、西軍は限界に近いが、東軍にはまだ余裕がある、といことが、
大きく影響を与えていただろうと。
そういうことです。
626 :
595:2005/11/13(日) 16:46:00
名目上ながら、総大将が毛利なので養子とはいえ一門である以上
小早川が悩むのは当然とも思う。
特に家康と取り決めなく進展していたとするなら、優柔不断だった
からではなく、ギリギリまで悩んだと考えたい。
優柔不断に起因にしたような躊躇なんかじゃなく、真田親子が自家の
行く末を考えて判断したような、後先考えて行く上でどうすべきか検討
していて時間が掛かったものだと思いたい。
場合によっては、黒田が送り込んだ目付けを自ら切り殺して徳川に攻
めかかるケースも想定しながら、最終決断としての裏切りだったと。
おどおどしてしていて、鉄砲に驚いて家康に従ったようには思えないw
「気がふれて死んだ」と言う説があるだけで、若死の真相は不明なの
で、「気がふれて死んだ」から「心の弱い人だった」説で裏切りに至る状
況を想定する事には、とても疑問を持っている。
>>617 長篠での信長の大芝居を御存じないのですねw
>>627 信長が芝居を打ったというのは、
そのように記述されている資料があるからわかるわけだが、
関ヶ原の家康についてそのような資料があるのかい?
陣地の配置のような客観的な事柄や、戦術等のセオリーといったものを基本にし、
そこから状況を推測をしていくならともかく、
「家康が芝居をしている」ことを前提にするなら、
まずその根拠を示さないと、ちょっとどうかと思います。
>>625 脇坂らと金吾が西軍だとすると西軍の方が余力があるとも言える
つまりは毛利含め諸将の旗色が不明確だったためと思われる
>>619 その意味では石田だろうが宇喜多だろうが投入していない
徳川だけに2万程度は居たかも知れないが、小大名・旗本軍団であるため守備的要員
で攻撃に出ることは考え難い
>>628 大雑把に解ってる事を元に想像している事なので、信憑性
の追求はしてないですよw
飛躍が過ぎるので気に障られたのであれば、謝罪申し上げます。
違うと思ってくださって結構ですが、資料に拘るんであれば
後学のために、資料に基づく御意見を御教授願います。
>>630 いや、秀秋自身がどちらか有利な方に参戦しようというなら、
当然自分は含まない状況でどちらが有利か考えるでしょう。
なにしろ自分の隊はこれからその有利な側につくのだから。
もっとも南宮山の情勢を見ていたというのはあると思う。
しかし、既に合戦が始まっているのにそのようなことをすれば、
既に戦っている者からは日和見と思われるのは目に見えているし、
にもかかわらず、そのように悠長なことをしてしまったのは、
結局優柔不断だったといわれても仕方ないでしょう。
634 :
604:2005/11/13(日) 17:01:33
>>625 影響を与えたのは確実でしょう。その点は同意します。
だが戦術的判断ではない、と私はそう言いたい訳です。
>>629 一応、皆さんの御意見を基にはしているんですよ。
戦術的に形勢逆転を生じる絶妙なタイミングの裏切りだけに
「まるで事前に取り決めがあったように見える」と推測したんです。
再三、秀秋に督促をしていて家康が怒っている記述が資料にあり
ますよね。
その通りに受け取らず、「芝居していたのでは?」としているだけな
ので、基の資料に相違は無いと思います。
まあ、曲解なんでしょうけどねw
>>634 了解しました。
そのことには特に異議はありません。
>>604 >またそうせねば東軍勝利としても、洞ヶ峠を 決め込んだと思われるだけだ。
全く流れに関係ないが・・・
山崎の合戦からまだ18年後の関ヶ原でこの模様をよく知っている者も多かったろう
ひょっとしてこの関ヶ原の時に誰かが笹尾山の金吾をさして、あれは山崎の筒井と
同じ行動を取ろうとしているんだろうと発したのかも?
要するにあの笹尾山は『洞ヶ峠』であると
『洞ヶ峠を決め込む』は筒井の行動を指すが、実際に流行らせたのはこの時の
金吾中納言その人である!?
638 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:13:08
>>626 関ヶ原時点での毛利家と小早川家の関係は相当に薄いと思って良いのでは?
金吾中納言は秀吉の眷属で、その上席家老の平岡・稲葉らは秀吉の肝いりで付けられた
家老衆。
その所領も筑前名島であり、毛利とはやや距離がある。
もともと秀吉は大諸侯の勢力削ぎの政策として有力武将への羽柴姓下賜や引き抜きや
太閤の指示としてこれこれの所領を与えよ、などと大名家内の離間と親豊臣藩屏の増加を
各策しており小早川もその一貫。
この時点で毛利家の政治的動向は小早川家には全く関係ない、とはいはないが殆ど関係無い。
関ヶ原での毛利家の進退は影響大だがw
639 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:16:39
>>637 笹尾山は石田治部少輔が陣なり。
金吾中納言の陣は松尾山である。
>>639 ごめん、重要なとこ間違った…
本文自体はどうでもいいことなのでスルー願う
そう言う意味では三日天下とか天王山とか洞ヶ峠とか
山崎の戦いに関連し今も使われる言葉って結構多い
関ヶ原は天下分け目の戦いなのだからもっと沢山あっても良さそうに思うね
>>633 もちろん金吾が金吾自身を含まず考慮することは十分考えられますね
但し、その場合は金吾自身の価値が凄く低くなってしまいますが
それが戦後の結果に現れてるというところなんでしょうか
643 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:42:12
644 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 18:30:33
関ヶ原時の家康直率30,000余の軍勢だが、所謂小身の旗本衆ばかりで数千単位や
万を越えるまとまった軍勢として有効な軍事行動が取れなかったのではないか?という
説があるが実際どうだったんだろうね。
確かに関ヶ原戦で家康本軍に目立った功績を挙げた者はいないしね。
645 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 18:54:34
>>644 うむ、本多忠勝でさえ本来の直臣の多くが秀忠隊にあったためか
野々山らと右往左往していただけに思える
それから家康直卒30000余の中に井伊や忠吉、赤坂駐留軍も含まれて
いたのではないかな?
とすると本陣は2万程度となる
これでも徳川家の投入兵力は9万近いし西軍の実戦人数と比較すると
強固な本陣と言える
646 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:28:09
>>645 いや兵力多いのは確かなんでだけど、前スレでも宇喜多の闘い振りが生ぬるい
のは有力な家老衆が根こそぎ内紛で退転したからってのがあったよね。
その考えから言えば、
>>644のまとまった数での軍事行動が十分にとれない
可能性あるよ。
現代の軍隊で言えば連隊や大隊が存在せず、中隊やら小隊が相当数あるような
状況じゃないのか?
現代なら例えば大隊が存在せず、独立した中隊を五個中隊投入するとしたら、
五人の中隊長の中の最先任の者を臨時指揮官にしたりで現場の指揮系統を確立
出来る。階級が同じでも先任が指揮を取るのは軍隊の原則だから問題はない。
だがこの当時は主従関係によって成り立っている軍隊で、戦場でいきなり一個の
戦闘団として編成されても指揮できないだろう。同じ1,000石どうし旗本が三家
集められて、今からそのうちの一家が戦の指揮を取るって言われても納得も困難
なら一個の戦闘単位としての行動は固定的防御拠点の防衛なともかくも、「三町
前進して前面の宇喜多勢を攻め立てる」っていう下知があっても闇雲に突っ込むの
が関の山じゃないのかな。とてもの事、大名家の家中のように明確なオーダーが
存在する軍勢のような有機的な戦闘は出来ないような気がするね。旗本同士も指揮権
をめぐって納得いかないケースも考えられる。
だからこそ秀忠には有力な家臣団(とその家中の戦力)を付け、自分自身は太閤恩顧
諸将の軍勢を主力とし、本軍は戦力的には読めない小部隊の寄せ集めを率いたとも
考えられる。
647 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:52:14
家康本体の戦闘力は非常に強固。
開戦早々に家康は最前線の陣場野に駒を進め自ら石田攻略を担った。
家康本陣にも石田の砲弾が降り注いだ事は有名。
この家康の奮戦振りに壊滅状態だった黒田や細川も息を吹き返し
石田本陣に攻め掛かった。
648 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:53:36
649 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:54:55
>>631 3万程度はいたのでは?
必ずしも守備要員ではないが
650 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:56:11
651 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:58:36
652 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:01:31
>>642 正にその通りだと思いますよ。
もし秀秋が投機的な正確だったり、
自身の行動を最も高く売りつけようとするタイプの人間だった場合、
つまり、偏ってリスクよりもリターンを重視して行動するタイプだったなら、
あえて西軍についた可能性も高いと思います。
>>650 霧が晴れてからでも数時間は参加をしていないので、
秀秋の意図がどうだったかはともかくとして、
周りは日和見していると思っただろうと思います。
654 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:05:07
>>646 井伊が3000人くらいだから、これを基本に考えると
井伊は連隊
そうなると800人ぐらいのグループは大隊か
大隊であれば、戦闘単位としてそれなりに期待できるので問題ない
それに家康が率いているので、少なくとも5000人単位で投入すればいいんじゃないか
必要があれば、井伊に3000人指揮させてもいい
なんで一つにまとめてレスしないんだろう・・・・?
656 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:06:20
>>653 周りの感想は、よく言われるように日和見・裏切りということであった
実際どうかはともかく
657 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:07:18
>>653 リスクよりもリターンを重視して行動するタイプだったから
史実のような行動をしたとも考えられる
>>646 有機的に働く部隊として運用するには、家康が直接指揮を取らねばならず、
そうするとその時動かせる限界はおそらく6,000から8,000程度。
しかしだとしても予備の兵力としては決して小さなものではない。
それにそれ以外の兵力についても、単純な命令例えばどこの地点を守れとか、
誰それの陣に攻めかかれとかなら運用可能なはずだから、
まんざら戦力にならないわけではない。
あと、忠勝は500程度しか率いていないが、
本来なら3,000位の兵を率いる上級将校にもあたる武将なので、
彼に旗本のうち3,000ほどを引き入らせるという手も不可能ではないでしょう。
無論戦力は本来の手勢を率いた時に比べ劣るとは思うけど。
いずれにしても30,000という数そのままの戦力とはいえなくとも、
やはりそれなりの戦力にはなったと思われる。
659 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:25:32
>>658 他の武将との比較で、忠勝なら5000人は余裕で率いることができるであろう
もちろん自前の部隊とは違うが
あえて言えば、ゴーンが日産をいきなり率いるようなもの
あるいは財閥系で、銀行からいきなりトップを送り込まれる
>>659 封建時代だからそう簡単にはいかないと思うけど、不可能ではないでしょう。
信玄とかの時代ですら、有力武将にその武将自前の兵力以上の、
3,000だの5,000だのをあずけて率いらせるということはあったわけだし。
秀秋があんなに機を見て巧みな攻撃できる器とも思えない。
やはり家康や家臣の督促が大きかったろう。
それと毛利との関係はほとんどなかったと思われ。
662 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:51:05
このスレで言われている
徳川隊弱体説は信じられるものではないな。
戦えばそれなりの戦力にはなったろう。
秀秋自体の能力ってそんなに低いのか?
一万五千は伊達じゃないと思いたいのだが…。
仮にどんなに能力が低くとも、
大大名の後を継いでしまえば兵力だけは多くなるから、
兵の数では秀秋の能力は判断できかねるかと。
665 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 22:02:04
>>663 合戦で特に有能であるという実績がない
関ヶ原では大谷に撃退されている
毛利がそもそも比較的弱兵
以上から、弱いと判断するのが妥当ではないか
666 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 22:05:32
>>662 有名な武将が少ないということは言えるだろう
しかし、それで直ちに弱体とは言えない
少なくとも家康直率で5000は動かせるだろうし、福島が6000動かせるなら
家康が1万動かせても不思議はない
そのあたりの因果関係や関連が精査されない限り、大身が少ないから
弱兵だとは断定できない
>>664 いやぁー兵士が多すぎても宇喜多さんチみたいに
使えなかったら意味無いからさ。
多いに越した事はないけれど。
例えば家康の本隊3万という数は、
おおよそ100万石の大名の通常の動員兵力とほぼ同じと言える。
で、通常100万石くらいの大名にはその家臣の中に数万石くらいを領するものが、
十数人ほどはいるのが一般的と思われる。
(石高250万石の徳川家に万石以上の家臣が合計35人であったことを根拠にした試算)
しかし、家康本隊3万内訳の中には万石以上を領する者は4人しかおらず、
この点で通常の3万の部隊に比べると上級将校が少なく、
その分運用に難があったのではないかと思われる。
この万石以上4人という数字はおおよそ、せいぜい30万石くらい、
最大で考えても40万石くらいの大名に相当するものと思われるので、
このことを考えると、本隊3万人のうちほぼ問題なく運用出来るのは、
3・40万石くらいの大名の通常動員兵力である、
9千から最大で1万2千くらいだったと見るのが妥当ではないでしょうか。
そして、もし本多忠勝に本隊の一部を指揮させるなら、
その通常の指揮兵力である3千くらいをここに加えることが出来ると。
以上のことから、徳川本隊3万の内戦力として問題なく運用出来るのは、
おおよそ9千から最大で見積もって1万5千くらいとみいていいのではないかと思います。
まあ、少なからず仮定を重ねた上での試算ですが。
>>668 なるほど。妄想ではなく、数値をあげてのしっかりとした論考だね。
説得力がある。
670 :
大和天狗:2005/11/13(日) 23:21:41
フー
金吾ちゃん大流行
671 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 23:46:39
>>654 >>658 >>659 ちゃんと状況を把握するべし
井伊や忠吉はもちろん、既に忠勝も投入済
後は旗本くらいしか残ってない
大坂の陣の時はもっとしっかり陣を敷いていたが、それでもあっけなく崩れてる
>>665 朝鮮出兵で孤立した味方(清正だったっけ?)を救援して大活躍してるけど、
あれって内容は評価されるようなモンじゃないの?
秀吉からは評価どころか怒られたらしいが・・・
673 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:00:06
>>668 最大に見るとすれば
家康1万
忠勝5千
直政2千
1.7万
まあだいたい似たようなものだ
1.7万も新手の強兵が来るのであれば勝負は決まったものかと
674 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:01:15
675 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:03:02
>>672 評価されたという話は聞かない
むしろ総大将としての資質が疑問視されたのではないか
関ヶ原で家康、三成が戦闘に参加して兜首を取っても、馬鹿と思われたんじゃないか
676 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:10:31
647 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2005/11/13(日) 19:52:14
家康本体の戦闘力は非常に強固。
開戦早々に家康は最前線の陣場野に駒を進め自ら石田攻略を担った。
家康本陣にも石田の砲弾が降り注いだ事は有名。
この家康の奮戦振りに壊滅状態だった黒田や細川も息を吹き返し
石田本陣に攻め掛かった。
677 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:12:15
黒田、細川が壊滅状態??
678 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:13:33
みんな現代というかゲームというかそういう感覚だね。
武田氏被官が数千率いた云々というレスもあったが、そりゃ寄親・寄騎の関係というか
序列が平時から出来ているからだろう。織田家の家老とその寄騎と同じだ。
織田家を例に取って仮定しよう。柴田・丹羽・滝川・明智・羽柴らは勿論の事、
佐々・森・前田・蜂谷をも使わずに万石以下の下級家臣らのみで三万の軍勢を
自在に動かす事が如何に困難か考えてみると良い。
忠勝に指揮させよ、という意見少なくないが容易ではあるまい。寄親・寄騎の関係
が平時に無い徳川家旗本衆を戦場で急に指揮できるものではあるまい。
大名が日頃、鷹狩などを行うのは正に戦での進退を練成する為だ。指示を与えるもの
の能力も必要であるが、組織は指示を与えれられるものの錬度も要求される。
ましてや徳川家は関東移封以来、数万の動員を掛けた軍事行動に乏しく、その点の
能力には疑問点を抱かざるを得ない。
もう少し砕いて言えば従業員三万人の大企業があるとしよう。社長以下、取締役・
部長ぬきでせいぜい課長以下で企業活動が成り立つのか?
無論、ルーティーン・ワークは何とかなるかもしれない。だが戦争を置きかえて
言えば競合企業とのシェアを掛けた一大商談としよう。競合先は社長以下出張って
きており陣頭指揮を取るのはやり手の専務・常務クラスだ。
こちらはなるほど社員数は三万なんだが陣頭指揮は課長が10人以上。
課長の職掌範囲からして、職権を越えた管理の経験もない。有名なやり手部長(忠勝)が
いたとして、気心も能力もわからない課長が10名以上いたとして、社運を賭けた
大商談にどれだけ能力を発揮できるか大いに疑問だ。
さて、この商談、果たしてせり勝てるだろうか?
>>678 ゲームでは任官したての小童にも1万の兵を率いさせることができるからね。
ゲームしか知らない厨房が勘違いするのも無理はないかと。
680 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:20:30
>>678 もしその論理が正しいのなら、福島も指揮できないということになるんじゃないか?
宇喜多、石田、小西はシロートなので、多少のハンデは問題ない
681 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:24:39
ゲームでは敵が3万いても簡単に勝てるかも知れないが
じっさいの徳川3万はそう簡単に勝てる相手ではないぞ
ゲームしか知らない厨なら簡単と思うだろうが
682 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:25:55
>>680 将としての経験は宇喜多・小西>>>>福島
宇喜多、小西がシロートならば福島はドシロート
683 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:27:17
>>682 福島の方がどう見ても上だろ
ちなみに家康には全くかてんが?
684 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:30:35
>>683 福島は槍働きから急速にでかくなった。
将としての経験に乏しい。
一方、宇喜多小西は日本国内はもちろん朝鮮でも主力として働いた。
福島よりはるかにベテラン。
685 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:32:52
>>684 宇喜多、小西は、まともに槍働きしたこともないドシロート
宇喜多は主力を失っており、小西にはまともな家臣がいない
福島は、軍功第一、二だよ
686 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:35:32
687 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:37:41
688 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:39:13
689 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:40:29
690 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:42:29
691 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:43:16
692 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:46:25
>>691 ああ、君にとっての将とは槍働きをするものなのか。
それなら可児>福島>>>>宇喜多小西だわ。
なるほどねー。
693 :
678:2005/11/14(月) 00:48:41
>>680 福島家には、尾関石見守・福島丹波守・長尾隼人正という他家にまで鳴り響いた
名家老達がいる。彼等は戦での戦傷で隻眼だったり、足が不自由になってたりして
いたが、それを笑った家康近習衆に対し、家康は「武士たるものは、戦において
如何に戦功を立てるべきかを心掛けるべきである。かの三名は世に隠れもなき大剛
の者なり。汝らの志がかの者たちの2・3割にでも近づければ上出来だ。」と叱った
という。(常山紀談)
ゲームには出てこないかもしれんが福島家中には優れた侍大将・武者は少なくない。
戦意溢れる主と実績と実力を兼ね備えた家老と団結力に秀でた福島家中だ。
指揮できないどころではないよ。
694 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:48:47
>>692 ああ君にとっては、何もしないことが将なのかい
それなら金吾>>>>家康>他だろ
695 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:50:28
696 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:53:15
>>694 残念ながらそんなことは全く思っていないね。
697 :
678:2005/11/14(月) 00:54:05
>>695 いるよ。秀忠隊として中山道にな。
とりあえず関ヶ原在陣の家康本陣三万余の中で挙げて下さい。
698 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:58:45
>>697 ゲームの中にはいないかもしれないが、たくさんいるでしょ。
学研の本は持ってる?
699 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:59:32
700 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:00:14
>>698 オレ持ってネェから教えてくれよ、アニキ。
701 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:01:25
702 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:02:01
>>699 残念ながらそんなことは全く思っていないね。
703 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:02:42
704 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:03:54
>>701 つか、おまい偉そうにしてっけど知らねぇんだろが。
シッタカするなら寝とけやカス
>>675 彼は異国の地で15という年で初陣を飾ったわけだ。しかも総大将。
自分としては初陣の人間に総大将を任せる秀吉の方が
狂ってるとしか思えない。
というか失敗する事を期待して総大将に
任命したとしか考えられない…。
706 :
678:2005/11/14(月) 01:05:09
なんか荒れて来たので落ちます。
707 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:07:41
>>705 そう言われてみればそうだな
オレとしては親心と解釈したいが・・・・
ただ総大将が切り込むのを誰も止めなかったのかね
またそもそも切り込もうと考えること自体異常ではないか
708 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:09:07
>>704 氏ね、ボケ、学研の本ぐらい用意しとけ
立ち読みもできないのか
ヒッキーか?
>>704 学研の本
家康旗本衆の特質として、秀忠勢と対比すれば、「量」だけでなく「質」の問題も指摘される。
すなわち先手「備」を構成する・・・・めんどくさいので略
松平忠吉・井伊なおまさ・本多忠勝だけと手薄かった。
710 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:12:34
井伊なおまさ・本多忠勝・家康で率いればいいので、何とかなる
711 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:23:07
>>708 まぁまぁ落ちついて。
あなたが例を挙げれば済む事でしょ。
>709氏もちょっと書いてくれたけど、書きっぷりからするとあなたが一番知って
そうだしね。
相手を罵ってばっかじゃ何だし、そろそろ意見書いて下さいよ。
712 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:26:00
意見は書いているが・・・・
まあ家康が直率すれば、ということでもいいんじゃないか
713 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:26:52
まず1万ぐらいでも直率
あとは状況に応じて投入
必要があれば、井伊、本多も回す
714 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:30:42
>>707 なるほど親心ですか。しかし、どんなに子が可愛くても
異国の土地で総大将に任命するのはいかがなものかと。
しかも初陣の後見人(?)は如水。秀康や秀家には秀吉が
付いていたのに…。せめて隆景が(生きて)いれば状況は変わっていたかも
しれません。
誰も止めなかったのではなく止めるなと太閤に…
いやいや深読みしすぎですね。
715 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:31:45
彼等は戦での戦傷で隻眼だったり、足が不自由になってたりして
いたが、それを笑った家康近習衆に対し、家康は「武士たるものは、戦において
如何に戦功を立てるべきかを心掛けるべきである。かの三名は世に隠れもなき大剛
の者なり。汝らの志がかの者たちの2・3割にでも近づければ上出来だ。」と叱った
という。(常山紀談)
これは、家臣達を戒めたということであろう
将として立派
まさかこれをゲーム的に額面通り評価すべきということではあるまい
徳川の将で、身体が不自由だったものは少ないのでは
716 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:32:32
でもさ、いくら家康でも中間の指揮官いなかったらさ、いちいち小部隊の武将に
指示ださなくちゃなんないし、迅速な指揮ってわけにはいかないんじゃないの?
>>678の意見はもっともな部分はあると思うけど。
井伊・本多ってもすぐに家康の旗本を自由自在に使えんのか疑問だよな。
井伊は自分の軍勢もあるし松平忠吉の御守もあるし、678風にいえば子会社の社長が
現場でいきなり本社の一部門指揮するようなモンじゃないんかな。大変そうだ。
717 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:34:24
>>714 如水が本当に後見したのであれば、充分な後見かと
しかし、であれば、なぜ切り込みを放置したのか
そして、総大将が切り込もうという考えを抱く時点で資質が疑問視されるのが当然
>>711 学研の本
家康旗本衆の特質として、秀忠勢と対比すれば、「量」だけでなく「質」の問題も指摘される。
すなわち先手「備」を構成する有力な旗頭が家康旗本衆に少ないというのだ。
秀忠勢は先手「備」にふさわしい二万石以上の大名を七人擁しているのに対して
松平忠吉・井伊なおまさ・本多忠勝(外様小身衆の旗頭)だけと手薄かった。
>井伊なおまさ
選挙に立候補でもしたんか?
720 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:37:53
721 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:38:23
>>716 まあ、中間がいた方がいいのは確か
しかし、家康にもスタッフがいた
全く一人で全業務をしていたわけではない
会社で言えば、部長不在だけど、社長室経由で部を統轄
井伊・本多は、独立大名ではなく、徳川の家臣
会社で言えば、実力部長が子会社社長に転籍
しかし、バリバリの本社部長の力量
もちろん、子飼いのように自由自在というわけには行かなかったとは思うが
722 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:39:02
>>719 漏れの記憶が確かなら市長に立候補した。
723 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:39:58
>>720 しかし三成や家康が関ヶ原できりこんだら、発狂したと思われただろう
謙信も切り込む
724 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:40:23
725 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:40:30
>>715 ということはこの三家老は大した事ない雑魚っていうことなの?
福島家で1万石から2万石は貰ってた連中みたいだけど。
ゲーム的評価って
>>715はいうけど、福島正則の評価があって初めて家老にもなり
高禄貰えるような気もするけどなぁ。
726 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:41:40
関ヶ原の徳川が弱体であった実戦的証拠はないが、
小早川が弱体だった証拠なら、
なんせ小勢の大谷隊の一部に撃退されてしまったのだから。
実際に勝負を決めたのはむしろ脇坂や赤座、朽木の二次的裏切りが原因だし。
728 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:42:38
729 :
711:2005/11/14(月) 01:44:43
>>718 こんな遅い時間に、わざわざありがとうございました。
どうも
>>708氏は別の学研資料のようですね。機会あればそちらも伺いたいものです。
15歳の少年の心理なら
「チマチマ物事を考えている暇があればさっさと
敵陣に行き清正公を助けるべきだ!!」
ダメだ。俺じゃあ金吾の擁護ができねぇ・・・orz
でも孝高だって昔荒木の説得に行ったばかりに
息子殺害未遂+歩行困難になったわけだが
なかなかの名将になったじゃないか。
それを若い頃の1度や2度の失敗でイチイチ怒っちゃダメだぜ!!
でも金吾は当時総大将だったんだよなァー…。
元就も初陣の時総大将として出て行ったが、桁が違うモンなー。
731 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:46:21
そもそも、徳川隊がどのように戦ったのかということもよくわかっていないのでは
井伊隊がどれぐらい強かったのかもわからないし
井伊が何をしていたのかも・・・・
732 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 01:48:42
>>730 つか、それが如水の仕事ですから〜
リスキーな仕事の結果、失敗するのは天命
総大将が切り込むのは・・・・
733 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 06:49:10
>>678 >>668 つーか、あんたの方がよっぽど
合戦をゲームみたいなものだと思いこんでる。
何でもありなのが戦場。
少し話しはズレるかもしれんが、
第二次大戦のドイツ軍が1940年の攻勢でアルデンヌの森を抜ける時に
指揮系統が混乱したフランス軍はほとんど戦わないうちに破れて降伏していったが、
ドイツ軍が1944年のバルジ作戦でアルデンヌの森を抜けようとした時に、
初期の奇襲や砲撃でアメリカ軍の通信網を寸断し指揮系統を滅茶苦茶にしたが、
士気の高かったアメリカ軍は1941年のフランス軍とはちがって、
中隊、小隊、分隊レベルあるいは兵士個人の判断で勇戦し続け、ついにはドイツ軍を退けたという。
士気が高く経験が豊富な徳川の将兵にとっては若干の中間指揮管不足なんてのは問題にもならないだろう。
武士とか兵士なんてのは人形じゃないんだよ。
ちゃんと自分の頭で判断できる頭を持っている。ようはやる気だな。
734 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 07:12:46
>>721 ちなみに会社の新しい形態として、
課長・部長のいない会社というのもあります。
社長・重役の下はすぐに係長という会社で
それで支障なく機能してるそうです。
735 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 07:22:31
実は三分された徳川勢では
1.秀忠軍
2.秀康軍
3.家康軍
の順に野戦能力が高かったんじゃないか?
>>678 それではあなたは、
3万のうち、有効に活用できる兵力はどのくらいだと思われますか?
737 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 09:44:34
秀康軍についていた有力家臣なんていたか?
738 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:31:02
>>733 拠点防衛と機動攻撃では任務の性質がぜんぜん違う。
塹壕・トーチカ・市街戦では小隊・分隊の戦争だ。指揮系統は最低限でやれる。
というか、そこを守るのが任務だからな。防衛できなければ撤退か降伏か全滅だろ。
単純な任務で士気の高い小部隊の頑張りでやれる。これについては同意しよう。
緻密な計画と迅速な判断とアクションが要求される機動攻勢・機動防御では
諸兵科連合だけでなく隣接する部隊、後方支援部隊との有機的作用が求められる
というのに小隊長・中隊長ばかりいても始らない。
例えばあなたはチタデル作戦を士気の高い小部隊の集合体で遂行できるとお考えかな?
ミハイル・ヴィットマンやオットー・カリウスが沢山いれば勝てる、という発想なのかな。
あなたのいう『やる気』で勝利が得られるなら旧軍はWWUで勝利してただろうね。
攻勢任務と拠点防衛任務ではまるで違うと言うことを今一度、再考されたい。
739 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:36:18
>>734 そういう会社に今時係長なんて役職はないと思われ
朝鮮で明軍と戦闘し続けてた部隊は強そうだがどうなん?
741 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 14:58:41
>>735 逆順じゃない?
あるいは、家康、秀忠、秀康
742 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:00:52
秀忠の部隊の7名の大身の武将の合計石高は?
同様に、福島3家老の合計石高は?
正則の直轄地って、3万石程度だったのか?
743 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:03:15
>>738 市街戦が、指揮系統最小限でやれるのか?
スターリングラード攻略が小隊レベルの指揮で可能なのか?
関ヶ原ではほとんど機動攻勢は行っていないが?
>>738 同意。
>>733はゲームでの戦争には精通しているようだけど、
実際の戦争に関しては、少しゲームと混同しているところがあるようだね。
745 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:08:05
>>744 ゲームでは、武将がいないと部隊が存在できないかもしれないが
実際には色々な階層の武将がいたんだよ
中間の一部がいないからと言って、弱いとは限らない
746 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:22:11
宇喜多隊は、明石が全部隊を率いていたのか?
そうすると一人で1.7万は可能か?
明石が1.7万なら家康はそれ以上可能だろ
747 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:30:59
↑
こんなとこで質問してないで自分の学研の本で調べればいいだろ。
あほか?
748 :
738:2005/11/14(月) 15:36:29
>>743 あのさ、上層部無しでやれるなんて一言も書いてないよ。
>>733は攻勢も防衛も士気の
高い小部隊でガンガンやれる、ぐらいの書き方してくるから百歩譲って固定的防御拠点
や市街戦なら士気高い小規模部隊での頑張りで何とかなりそうなのは同意って書いてます。
一応一連の流れを見て下さい。
それから私の意見は固定防御なら小規模部隊でも何とかなるかもって書いてて、攻勢なら
絶対上級司令部要るって書いてるでしょ。それなのに、
>スターリングラード『攻略』が小隊レベルの指揮で可能なのか?
こりゃないんじゃない?読んで下さいよキチンとね。それともアンカーミス?
もう一度書いますが攻略には小規模部隊の集まりでは不可能!
関ヶ原での徳川本陣は防衛的任務なら何とかなるかもしれんが、例えば桃配山から
5000とかの戦闘単位をにわかに形成して、宇喜多勢を牽制しつつ小西陣を突くべし、
みたいな指揮官の判断が随時求められるような戦術行動には誰かが学研資料を提示
してくれたが、そのレベルの指揮官が秀忠隊に引きぬかれてて、はなはだ心もとない
状態にある。
中間の指揮官不用説みたいな意見多いがあり得ない異説だろう。この時期は部隊の
指揮官(大将)が討たれたら潰走するケースが多い。また潰走しそうな部隊を立てなおす
のがこうした大将・物頭の器量とも言えるのに、無くても戦えるとは如何なものかと思う。
この当時は大名家はみな良き侍大将・物頭を召抱えようと必死だ。それは即ちかれらの
能力と人数の多寡がそのまま戦に反映されるからだ。
749 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:37:43
本多にはもっと兵力を与力させてもいい感じだよね
750 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:39:52
751 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:41:34
>>749 そうそう
本多だって徳川家臣
全くの外様の他人じゃない
まあ、そこまでの必要性を感じなかった、充分機能していたと言うことだろ
752 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:44:36
753 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:46:44
>>748 だから、大将はいるだろ
大将が不在で戦えるとは言っていない
侍大将もいるよ、その他の階層もたくさんいる、当然だ
ただ直率しているだけという話だ
攻略は充分可能だろ
754 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:49:47
>>748 秀忠の配下の指揮官たちで、何千人指揮可能なのか?
755 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 16:24:50
756 :
748:2005/11/14(月) 16:53:02
◆中山道・徳川家被官
榊原康政 (上野館林10万石)
石川康長 (信州松本8万石)
大久保忠隣(相模小田原6万5千石)
酒井家次 (下総臼井3万石)
奥平信昌 (上野小幡3万石)
牧野康成 (上野大胡2万石)
本多正信 (上野八幡1万石)
小笠原信之(武蔵本庄1万石)
菅沼定乃 (上野阿保1万石)
本多忠政 (忠勝配下の内2,000余の兵を指揮)
◆関ヶ原本陣・徳川家被官
井伊直政 (上野高崎12万石)
松平忠吉 (武蔵忍10万石)
本多忠勝 (配下の内500余の兵を直率)
酒井重忠 (武蔵川越1万石)
これをもて貰えれば皆さん納得して頂けるかと。双方3万以上の軍勢ながら指揮する
大名の厚さに大きな差がある。戦術的な意味での戦闘力としては中山道が主力といっても
良い。もともと東西決戦の尖兵は太閤子飼いの大名達を使いこなす前提で、野戦の内府公
という実績・名声と兵力3万で押さえを効かせる家康のみがなし得る押出しし、その間に
中山道からやり手の指揮官に補佐させた秀忠率いる攻勢任務向きの部隊の参着を待った
という展開。
757 :
748:2005/11/14(月) 16:55:15
>>756 訂正
家康本陣だから、万石以上はこんな感じが正しい。スマソ
◆関ヶ原本陣・徳川家被官
酒井重忠 (武蔵川越1万石)
758 :
748:2005/11/14(月) 17:00:59
>>749 本多忠勝は井伊直政と共に太閤子飼いの諸将のお目付けと調整役であり本隊に先行
して尾張・美濃まで出張っていたので500余しか率いていない。
>>756で書いたように
本多忠勝隊主力は子息・忠政が2,000余を率いて秀忠と共に中山道上だ。
>>752 宇喜多勢17,000余はその軍勢を前後2段に分かち、明石掃部頭は前衛8,000を率いた、
と言われてはいる。
759 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:23:20
760 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:25:14
>>756 これを見る限りでは大差ない
むしろ関ヶ原本陣が本隊であることが明確ではないか
761 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:27:30
>>758 いやだから、本多にもっと配分してもいいだろうということ
明石は8000人も部下を持っていなかったはずだが?
せいぜい10万石では?
明石が8000なら家康は1万ぐらい余裕だろ
762 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:37:51
>>758 福島3家老の合計石高は20万石なのか?
763 :
748:2005/11/14(月) 19:03:42
>>760 いや違う。井伊・忠吉は別に軍勢率いており、本軍三万では
>>757で訂正
したように万石以上は酒井重忠しかいない。分かっていると思うがこの酒井
は四天王の酒井じゃない。
これみて大差無いって、もはや何とも申し上げ様がないですな。
764 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:05:56
765 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:09:14
>>763 正信を野戦軍指揮官としてカウントするのか?
奥平信昌は家康に付いていったんじゃなかったけ?
秀忠に付いていったのはたしか息子の方で、本多忠勝親子と同じだった希ガス
767 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:15:25
>>763 10万石の武将が、決戦時に軍勢を率いていないと言うのはかなり異常事態では?
>>767 忠勝は軍監として先発した。
忠勝の軍勢は息子忠政が率いてくるはずだった。
が、到着前に決戦になってしまった。
769 :
758:2005/11/14(月) 19:31:58
>>761 明石はおよそ知行3万3千石。豊臣家での待遇が10万石待遇ということ。
前スレで散々議論になったので出来れば見て欲しいが宇喜多家は内紛で
岡越前守・花房志摩守・浮田左京亮・戸川肥後守・花房助兵衛らが出奔
しており残ったのは明石掃部頭・長船吉兵衛らしかおらず17000の大兵の
指揮をとるには不充分な数の家老しかいなかった上に大半が吏僚上がりの
家老・重臣な為、実績のある明石が前衛8000もの大軍を率いざるを得な
かったかもしれない。
>>769 そういえば宇喜多は大軍の割には余り活躍してないもんな。
率いる上級将校の頭数が足りなかったのか。
771 :
763:2005/11/14(月) 19:42:58
なんか疲れてきたな…。
>>765 万石以上の家老重臣クラスを列挙したまで。
当時の軍制ではゲームじゃないんだから武力・知力とかで武将じゃないとか、武将
とか決めてる訳じゃない。みな知行に応じて動員を掛け参陣するのが軍法。
無論、本多佐渡の軍勢が先陣を賜ることはないだろうが、戦場では前線で鉄砲打って
槍で殴り合いするだけじゃない。後方・側面警戒、輜重・戦時外交など任務も様々だ。
自らの知恵袋といわれた本多佐渡まで付け、またこれだけの面々を秀忠付きにした
という事は、関ヶ原が短期決とは家康も考えていなかったとも考えられる。
どうみても中山道の秀忠隊が攻勢任務に適した序列編成だろう。
772 :
763:2005/11/14(月) 19:45:49
>>770 その通り!!
同じ事が徳川の関ヶ原本陣3万余にも言える可能性があるって事。
私の言いたいことはそういうことなのです。
つ、疲れた。
773 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:17:56
>>769 3.3万石であれば、1000人ぐらいしか率いれないだろう
8倍も率いたことを、率いれない派はどう考えているのか
774 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:18:56
>>772 だからそれは秀忠軍も同じだし、福島軍も同じだろ
>>766 奥平は家康隊の方だね。
他に、大須賀忠政(久留米3万石)もいる。
776 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:21:36
秀康軍は?
777 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:22:04
>>771 本多佐渡をつけたのは知恵をつけようと考えたため
榊原が兵を率いていないのはおかしいだろ
家康は合流目的で分派しただけだが、秀忠のことを思って
それなりの部隊を張り付けた
しかし主力はどう考えても家康軍だろ
778 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:22:15
野戦軍でないので難しいな
779 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:23:02
>>771 奥平や大須賀らをあえて隠すのは何か意図があるのか?
780 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:24:12
>>763 榊原が軍勢を率いていないと言う根拠は?
781 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:26:39
>>738 チタデレ作戦みたいな戦略的攻勢と
関ヶ原みたいな戦術的攻勢は違うでしょうが。
ようは西軍を攻撃するだけなんだしさ。
782 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:28:35
>>771 ゲームじゃないのだから、万石以上でなければ使えないと言うことはない
また家康っていったって、全て一人でやってるわけじゃないぞ
ゲームには出てこない武将、兵だってたくさんいる
万石以上でないと無能力というわけではない
783 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:37:30
関ヶ原戦の東軍予備を考えた場合、複雑な機動は必要ない
むしろ、大軍を持って堂々と押し出せば良い
下手な小細工は必要のない、兵数と威力を兼ね備えている
どうしても複雑な機動戦をしたいのなら、直政・忠勝に分派すればよい
784 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:39:12
徳川隊弱体説は問題ありすぎ。
少なくとも数百の大谷隊に二度も追い払われるような
弱体の小早川とは比べものになるまい。
しかも脇坂、朽木らは予め調略済みときている。
どうあってもあの状態では西軍に勝ちはない。
追い返したっつーのも所詮軍談だしな。
786 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:52:35
実際にどうだったか、史料はあるんだろうか・・・・
787 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:55:04
徳川隊弱体説を何度も唱えている奴は
山本弘の言う「無敵くん」なんだと思う。
ヤフー掲示板のUFO関係のトピに
突然「真空状態だと星を見る事はできない」と強弁し
アポロの月着陸はねつ造だと言い張り続ける人物が現れた。
そのトピの人たちは「真空状態でも星は見える」と
何度もその人物に説得を試みたがそいつは頑として自論を曲げようとしなかったという。
あと他に「太陽は熱くない」とか変な主張をする奴に限って、
自分の意見を曲げようとしないんだよな。
・・・なんでまとめてレスしないの?
忠勝は500位の兵を率いていたが、これは石高にすれば1万7千石程の規模になるので、
これも最低でも有力な中級指揮官レベルの存在とみていい。
つまり、関ヶ原における徳川軍の陣容は、
数千規模の兵力を率いて独自に戦う部隊が、井伊直政隊、松平忠吉隊。
家康本隊の指揮を助ける有力武将が、
本多・奥平・大須賀・酒井といった面々になると。
家康本隊3万については確かに陣容が薄いとも思うが、
まあ、かなりの戦力ではあったと思うよ。
790 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:56:21
>>785 大谷隊は二度とは言わないが
小早川を少なくとも一度は追い返してます。
そういう史料もあります。
791 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:56:29
792 :
763:2005/11/14(月) 20:56:51
誰も徳川弱体なんて書いてないだろ。想像力あり過ぎで読解力無さ過ぎw
疲れる人達多いなぁ。徳川本陣3万は
・防衛的投入…問題なし
・攻勢的投入…井伊・忠吉など一家としてのきちんとした序列編成も持つ部隊より
行動面でやや固定的な運用になる可能性ある。
・万石以上の武将多いほうが指揮系統の確立されたコアになる部隊があり、臨時編成
にも堪え得ると予想。
これ以上、この話題では書きませんので、失礼します。
793 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:58:36
大谷隊は、少なくとも一度は撃退したと言うことでいいのでは
実際に何度かは不明だが、2度であってもおかしくない
厨の大好きな学研本には大須賀、奥平は南宮山方面に出張中だったとある。
795 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:00:16
>>792 榊原が兵を率いていないと言うのは?
行動面でより柔軟な運用が出来る可能性もあるが?
796 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:01:24
>>794 必要ないからだ
必要があれば、分派して投入すればいい
>>792 ここ数日やたらと絡みたがる奴が常駐してるので注意が必要。
日中から深夜までカキコしてるんでニートだとおもわれる。
798 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:02:32
>>794 つか、徳川本隊にいただろw
誰かさんは、意図的に消しているが
ゲームでは出てこないかも知れないが、そいつら他に武将がたくさん本隊にいるよ
勿論、大谷が小早川を押し返したのは
松野重元みたいな不戦組が居た事からもわかるように
将兵の西軍を攻める意欲が低かったのもあるし。
押し返されたのが一度だろうが五度だろうが
遅かれ早かれ寡勢の大谷隊は敗れていただろうけどね。
800 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:03:31
801 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:04:08
↑
ああ、浅野や山内も徳川本隊なのかw
802 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:04:10
>>790 そりゃ関ヶ原軍記大成でしょ?軍談だよ。
804 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:04:50
つーか、徳川隊弱体とかいう奴の
ミエミエの自作自演がイタい。
>>794 同じ本に奥平が家康本隊の先陣になっている布陣図も載っている。
まあ、当たり前のことだが、「学研の本に書いてあった」を鵜呑みにしない方がいい。
いずれにしても家康の指揮下だったことに変わりはないしね。
>>806 その布陣図にはなぜか秀忠に付いてた本多忠政ものってるんだよな。
808 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:08:55
>>805 俺は別に複数の人物のカキコに見せかけてない。
単なる連続カキコであって、自作自演とは違う。
ところが徳川隊弱体とか言ってる奴は
(自分自身に)呼びかけしあったり、
「バカな奴がいるから気をつけろよ」とか助言したりで
明らかに一人で書いている癖に
複数の人物の書き込みに見せかけようとしてる。
>>808 別人だが?お前の目は節穴。
自分に敵対する人間は一人だけだと思っているのか。
あーサムいサムい。
791 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2005/11/14(月) 20:56:29
>>788 他人がまとめてレスできるのか?
というか、弱体といったところで、
その観点で見積もっても、1万5千くらいの兵力にはなるというなら、
どのみちあの場面ではほとんど決定的な戦力なわけだが。
本隊が見かけより弱かったとしても東軍有利、
そうでないなら東軍圧倒的有利ってだけで、
正直議論になるほどのものでもないと思うが。
アレだよ、勝敗は兵の多少で決まる訳ではない
士気や指揮官なんかで決まるのだと言いたいのだよ。
現実としては西軍は負けたのだけどね。
813 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 23:52:54
814 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 23:56:17
>>811 弱いという椰子の根拠が滅茶苦茶
突っ込まれると議論をそらしたり、急に厨が湧いて出てくる
きちんと話をするということであればいいんだが
ディテールなんだが、そもそもディテールを話すところだろ
815 :
大和天狗:2005/11/14(月) 23:56:59
1944バルジを例えとしてはどうかな・・・
バストーニュとスターリングラードも比較はね
「NUTS」にパットンか
816 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 00:04:20
817 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 00:06:19
弱い派は、ちゃんと引用データを出すのは偉い
しかしデータの不備をつかれると切れたり、無視したりするのはどうか
結局結論ありきでデータは意味がないというスタイルの実証例にしかなっていないのが残念
↑
それはお前のこと。
>>817 別に不備というほどの指摘はなかったと思うけどね。
ようは家康本隊は3万という軍の規模に比べて、指揮官の層が薄いということでしょう。
少なくとも秀忠軍と比べると有力な(1万石を超える)家臣は実際少ないし、
これが少ないと柔軟な運用がしにくいというのも事実だろう。
しかし、その薄い指揮官の層に合わせて、柔軟に運用できる軍の規模を算出しても、
それは当日の情勢で十分決定的な戦力になりえるものだと。
しかし、その「十分決定的な戦力になりえる」ということまで、
否定しようとしている者がいるように思える。
ただのミスか或いは意図的なのか知らないが、
家康隊所属の万石以上の家臣の数を実際よりさらに少なく述べたり、
そのことを指摘されると、それを直ぐに認めなかったりするのは、
ごまかそうとしているように見えていかにも見苦しい。
別に全部が同じ人間のしていることではないだろうが、全体としてそういう印象を受けてしまう。
820 :
金吾秀秋:2005/11/15(火) 02:00:15
全体としてはそういう印象を受けてしまうんだぜ(´・ω・`)
>>819 >家康隊所属の万石以上の家臣の数を実際よりさらに少なく述べたり、
>そのことを指摘されると、それを直ぐに認めなかったりするのは、
誰のこと?名前あげてみて。
822 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 02:09:44
ガチンコで戦えば西軍が勝つ戦だけど・・・。
騙し裏切りの戦いが普通だから。
823 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 06:38:04
>>821 一休さんの頓智みたいな詭弁で切り返すなよ。
名前なんかわかるわきゃないだろ。
824 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 06:56:31
よくしらんが、出世した実績のある高級家臣が家康隊にいないだけで、
それらの指揮をする役職の無名家臣はいたろ。
展開で武功がなかったから目立ってないだけ。
>>821 とりあえず、奥平信昌と大須賀忠政。
この両者それぞれ約3万という石高は大名の家臣としては相当大きく、
いるといないとでは大違い、その2人が当初名前を挙げたときに外されてたし、
そのことを指摘された後も無視されていた。
確かに3万という軍に対して指揮官の層が薄かったというのは事実だと思う。
しかし、繰り返しになるが、
その指揮官の層にあった兵力で考えても、家康隊が少なくとも、
関ヶ原に展開した部隊の中では、最強のものの一つであったことも事実。
例えば、
>>678などは、
あたかも家康本隊が他の部隊よりも弱いといっているかのようだが、
実際にはそんな事はない。
少なくとも、弱いといっている側が出した根拠からはそのようなことは推定できない。
明らかな過小評価といわざるを得ないでしょう。
827 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 09:49:21
小牧長久手ではどうだったのかしら?
>>825 それを言うなら秀忠軍にはほかにも高力忠房(2万石)本多康重(2万石)、奥平(子)・・・
奥平信昌と大須賀忠政についてはフォローされてるし。
言いがかり?