518 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 14:37:30
>>516-517 西欧なんかも、絶対王政期を除けば、王が絶大な権力を持っている時代って意外とないよな。
西欧中世にあっては、王の権力はかなり限定的だし不安定。
やっぱ始皇帝の時代から皇帝独裁体制でやってきた中国が特異だな。
519 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 01:02:20
520 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:18:39
521 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 21:57:00
あけましておめでとう。
結局、大塔宮とか高氏みたいな思惑違いの人間の尽力で成り立ったところが、
後醍醐政権の無理筋なところではある。
スレの中心に引き戻せば、まあ、義貞が鎌倉陥落後に何を考えていたかは別の話として。
522 :
日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:22:43
鎌倉陥落後の義貞=本能寺の変後の光秀
何も考えていない。
義貞は鎌倉幕府を討伐しろという勅命で動いていたのだから、
倒幕後に行動を停止するのは当然。次の命令待ち。
光秀は動機不明なので、何ともいえない。
尊氏も名目上は後醍醐の綸旨で動いてたんだがな。
525 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 23:21:13
義貞って倒幕前の段階で本当に後醍醐の綸旨を入手していたのかね?
大塔宮には接触していたらしいが。
526 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:53:12
大塔宮が偽造した後醍醐の綸旨を入手していたのでは?
527 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 11:19:04
当時は公家が大量の武家リストを入手して、片っぱしから手当たり次第に綸旨を量産、
天皇は宛名も確認せずに署名していたようだから、綸旨を書いた人も署名した人も、
送った相手の名前もほとんど覚えていなかったんじゃないか?
そのうちの一枚程度にたまたま新田荘司宛、くらいあったかも。
配達人も新田荘内の誰かの屋敷に適当に一枚程度置いていった可能性は十分にある。
貰った方は名指しで貰ったつもりでメチャクチャ感激したかもしれないが。
いや、あの、
天皇が署名する綸旨なんて、
聞いた事ございませんが…?
529 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 19:30:39
確かにw
ただ後醍醐がばら撒いた綸旨に関しては、後醍醐本人が自筆で書いていた
可能性が指摘されている。
むろん署判は千種忠顕だが、実際にはそこまで後醍醐が書いていたとか。
530 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:22:15
尊氏>正成>義貞ってイメージあるな
嫌いじゃないけど
532 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 20:28:58
533 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 15:46:44
534 :
↑:2010/01/11(月) 16:50:19
お前そればっかなw
>>533 じゃあ、お前はどの程度日本史わかってるんだよ?
意見を述べて貰おうじゃないか?
冷笑は無知無学の人間のやることさ。
536 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:04:19
センター試験の日本史で満点。
537 :
↑:2010/01/11(月) 18:09:51
なんだそのレベルかwwww
538 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:15:03
東大模試の日本史で最高点
539 :
↑:2010/01/11(月) 19:08:18
なんだ高卒レベルか
540 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:56:07
大学の日本史関連の講義でオール優
なんだ大学生レベルかよ。話しにならん。
542 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:36:44
卒論が史学雑誌に掲載
嘘つくな。ほんとなら論文名教えろ
544 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 17:51:17
家の差に尽きるな。新田本宗家って足利一族のどのクラスに相当するんだろう。
斯波吉良以下は確実。畠山か細川クラスか
畠山は鎌倉中の御家人だし、受領になれるクラスではある。
細川は、足利氏の被官同然の扱いだったんじゃないかな。
新田は、世良田・山名・里見はともかく、
鎌倉時代に本宗家で受領になった人間はいない。
恐らく叙爵さえしてないんじゃないかな。
546 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:20:49
政義以降は、叙爵も叙位もしていないだろうな。
547 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 22:05:05
叙爵と叙位の違いは?
548 :
日本@名無史さん:2010/01/18(月) 19:11:47
>>543 回顧と展望に論題が載っただけとかでは?
549 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 20:55:51
生品神社の新田義貞公銅像、盗まれちゃった・・
550 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 19:12:17
551 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:36:43
で、左中将の銅像は発見されたのか?
552 :
日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:58:05
あ
553 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 12:01:04
>>398 亀レスだが
義貞-義宗-義則-貞家
家系図だとこうだった
554 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 01:09:37
なんだよ、スレが伸びてると思ったら、変なのが湧いてただけか。
生品の銅像は、分倍河原の義貞像で補填すればいい。
555 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 02:55:04
>>545 仁木・細川は、先祖の義清が木曽義仲に従って戦死した人物だから、
鎌倉から優遇される要素はないからな。
以後は、単に一族の誼で足利宗家に被官同然に飼われてただけなのだろう。
556 :
日本@名無史さん:2010/05/04(火) 16:08:22
558 :
日本@名無史さん:2010/05/05(水) 00:39:47
では、叙任と叙位もどうぞ
559 :
日本@名無史さん:2010/05/06(木) 02:05:20
ggrks
堀口貞満が後醍醐に直訴する場面は何度読んでもほんとに悲惨極まりない
実際は怒った新田一族に脅迫されて、クーデタが起きたんだろ
上皇や天皇なんてしょせんあんな人種なのかと思うと、バカらしくなる
561 :
日本@名無史さん:2010/07/02(金) 13:10:54
ブサヨク乙
562 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 21:25:08
東夷(義貞)が京女(勾当内侍)に色香に溺れ
英雄になりそこなったってとこが好きだな。
楠木正成は、義貞が後醍醐帝に復している限り、
武家を糾合するための神輿として担ぎ続けただろうから、
戦機を見誤らず、
尊氏を打ち取り事が出来たな。
563 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 16:46:55
義宗の母方の小田真知って何者だ?
当時の小田城主は小田治久じゃないのか
564 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 01:17:19
>>560 後醍醐は義貞に、2人の皇子を担保(人質)に差し出してますよね。
相当に苦しんだ上での決断だと思いますが。
565 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 01:18:13
>>562 勾当内侍の話は太平記の中のフィクションらしいですよ。
そもそもこの人は存在すらかなり怪しいらしいですから。
実際に太平記以外では、この女性に関する記述は一切ないようです。
566 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 18:25:42
勾当内侍(こうとうのないし)は、南北朝時代の女性である。本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹[1]あるいは一条伊尹の娘、一条行房の娘もしくは妹ともされる。
[1]『尊卑分脈』による。また、同書上には「新田義貞朝臣室」との記載がある。 −Wikipwdia
正成スレでは義貞の話題でもちきりなのに、本人スレのこの秋風が吹くようなこの寂しさはなんだ