1 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :
2005/10/04(火) 11:19:08 邪馬台国一族の落ちこぼれ、神武が東征して 建てた国、それこそ大和朝廷なのです。 3世紀の時点では西と東の邪馬台国の2元国家体制でした。
2 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 11:54:58
1世紀に邪馬台国の一派の神武が東征 2世紀に九州で倭国大乱、邪馬台国卑弥呼登場。 3世紀後半に邪馬台国の壱与が神武の子孫の畿内王朝により 殺され、鏡は畿内へ持ち去られた。 266年で邪馬台国の中国への朝貢がとまっていること、 畿内から鏡が大量に出土すること そして宇佐神宮の比売大神が応神・神功より上位に祀られ 出雲大社と同じ四拍手であることからこう推測される。
3 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 11:57:56
宇佐神宮が伊勢神宮に継ぐ第2の宗廟なのは ご先祖様の土地だから。そこを治めていた 本家邪馬台国の壱与を殺し国を奪ったから 四拍手でしかも応神・神功より上位に祀ってある。
4 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 12:00:11
書記において卑弥呼=神功皇后としているのは 魏の時代の前後に大和朝廷の系譜で卑弥呼にあたる 人がわからなかったから。これこそが大和朝廷と邪馬台国の 2元国家体制を示す重要な証拠である。
5 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 12:07:25
記紀で大国主の国譲りは書かれているのに 邪馬台国を滅ぼしたことは書かれていない。 なぜか?ご先祖様の土地でしかも遠い親戚にあたる 本家が邪馬台国王家だからです。だから記紀では黙殺 しているのだと考えます。しかしおぼろげではありますが 3世紀に九州の王国を滅ぼしたのは伝わっていたのでしょう。なので 8世紀に応神・神功とともに壱与が祀られ第2宗廟で宇佐神宮が 建立されたと。
6 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 12:09:30
今日はこれまでw 誰か反論書いておいてください。 ではまた明日。さようなら。
では、聞きますが! >一世紀に邪馬台国一派の神武が東征 〇最終到着地が何故奈良盆地なのか? 〇神武東征を支える兵糧は? 〇東征途中での邪魔者、阻止勢力は存在したのか? 〇環境の違う奈良盆地において、一から始まる政の内容は? スレ主として しっかりとした回答を待っています。
9 :
日本@名無史さん :2005/10/04(火) 14:04:17
お前スレ立てすぎ でも俺の見解にも誓い 神話でスサノウが出て行ってるけど 中国地方のことは何もわかってないみたいだし そうやって移っていった邪馬台国の末裔の民族の ひとつが大和朝廷だと思う だから邪馬台国が移ったといえばそうだし 移ってないといえば移ってないんだとおもう
いいじゃんかよ
>>9 チンチン立たない分、スレ立てして慰めてんだから
なあヒッキーよ
銅鐸が隠されるかのように埋めてあるのは銅鏡や剣を重視する 勢力が侵攻してきたから?
12 :
日本@名無史さん :2005/10/04(火) 18:53:35
たたないのはなぜか
>>10 チソチソは勃つだろう、若いんだから。
ただ、脳みそと同じで使う機会が無いだけだ。
14 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 08:23:53
>7 〇最終到着地が何故奈良盆地なのか? 当時、奈良盆地が最も豊かな土地だという情報が 出回ってたからでしょう。 〇神武東征を支える兵糧は? これは現地調達です。吉備や安芸にも数年滞在してますし ここで兵力を整えつつ東征しています。 〇東征途中での邪魔者、阻止勢力は存在したのか? 存在しなかったでしょう。おそらく神武が奈良盆地を 手に入れ王朝を作ったらそれなりの見返りを与える ということで吉備や安芸から兵力を借りたと思われます。 〇環境の違う奈良盆地において、一から始まる政の内容は? 記紀を読んでくださいw
15 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 08:24:39
下品ながら勃起はよくします。 AVもたまに借りてみます。
16 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 08:28:01
宇佐神宮と出雲大社の違いが 神武が邪馬台国の出だということを 物語ってますよ。大国主と比売大神、同じ4拍手でありながら 出雲大社は敵国として宇佐神宮は自国の第2宗廟となってますから。 ともにおそらく大国の王で大和朝廷が殺した人なんでしょうけど、 遠い親類に比売大神=壱与があたるので自国の、しかも 伊勢神宮に次ぐ格式をもって祀られてるのです。
16歳中卒ヒッキーさんは、 三女神の比売大神とは、 誰を表してるのだとお考えになるのですか?
18 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 12:44:35
>>17 壱与でしょう。
三女神が比売大神だという証拠は
どこにもありません。勝手に神宮側が
記紀を解釈して三女神だと言ってるだけです。
そもそも天孫族の3女神が比売大神なら
なぜ出雲大社の大国主同様4拍手しなければ
いけないのか?説明がつきませんよ。
19 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 13:11:55
名前も邪馬台=ヤマトからとって 大和朝廷にしたんでしょうw
20 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 13:35:32
水行10日陸行1月の解釈の仕方は 帯方郡からの総日程です。投馬国までは 順次式になっています。しかし邪馬台国まで 順次式でいくと邪馬台国は九州から はみだしてしまいます。また伊都国からの放射説でも 水行陸行の両面から書かれていることから 九州内を陸行1月もするのはおかしいです。 呉への牽制のためにできるだけ邪馬台国を南に みせかけようとした陳寿のトリックです。
21 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 13:37:38
すいません、水行陸行の両面から 書く必要はないのでこれは水行10日進み それから陸行1月進んだと放射説においても 解釈すべきです。伊都国から水行10日陸行1月は 長すぎます。
22 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 13:39:17
伊都国に一大率を常駐させているのは 邪馬台国との間に距離があるからです。 したがって邪馬台国は大分方面の可能性が高いです。 また、女王国の東海渡ること1000里国有り と倭人伝でも書かれてますし、宇佐が邪馬台国と 縁があることは間違いないです。
23 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 13:44:50
ヒッキーさんこんにちは 質問です。 ・4拍手=敵 というのは本当でしょうか? 近代の皇統ではないが、日本を支える先祖は4拍手 という解釈でいいのでは? 宇佐の順序も、単に生年順では? 応神は天武帝の時代においても最も正当な皇統です。継体帝すら応神との血で 正当と記紀に記されたほどです。 その応神を敵と一緒にまつる理屈はありません。 4拍手が敵って解釈に難があるので、 邪馬台国と大和が敵という結論は?です
24 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 15:12:23
YAP+型は“縄文系”の男性とみられる。宝来聡・総合研究大学院大学教授
(人類学)の研究では、アイヌ民族の88%にYAP+がみられる。古い形質を
残した遺伝子型のようだ。このタイプはアジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や
中国、シベリアにはみられない。世界を見渡しても日本人のほかには黒人にしか
みられない変わった遺伝子型だ。
中堀教授は、YAP+の集団を「タイプ2」とした。タイプ2は、都市部では
北から南まで均等に分布し、金沢、福岡、大阪、札幌のいずれで調べても、人口
の三割程度を占める。しかし本州や四国の山間部では五割を占めていた。
弥生人に追われた縄文人という通説にほぼ合致する結果だ。精子濃度が薄いという
特性があるという。
http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2003g.htm アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
25 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 15:13:10
誤爆orz
26 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 15:38:14
>>23 敵ですが先祖は遠い親戚でしかも本家なので
宇佐神宮で祀られているのです。
出雲大社の大国主は思いっきり敵ですよ。
日本を支える先祖ではありません。
アマテラスがこの国の皇祖神です。
そのアマテラスが祀られている伊勢神宮に
次ぐ格式をもつのが宇佐神宮。
4拍手というのは自分たちが殺してしまったので
4=死という意味合いを込めて
もう生き返らないでくれという意味があると思います。
27 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 15:49:50
つまり4拍手するところは 出雲大社と宇佐神宮しかないわけです。 つまり宇佐神宮において応神・神功より 格上に祀られてる比売大神(壱与)は 出雲大社の大国主クラスの人物だということです。 そして同じように大和朝廷に殺された人物です。 3世紀後半からヤマトを中心に歴史が進んでいる 5世紀初頭にかけてこれにあてはまるのは壱与しか ありません。九州30国をまとめる王ですしね。 さらに女性ですしほぼ間違いないでしょう。 しかし大国主は敵国の王として、壱与は伊勢神宮に次ぐ 2番目の格式をもった自国の神として宇佐神宮に祀られているのです。 これはつまり大和朝廷の先祖が邪馬台国の人間だということを 表しているのです。
28 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 15:54:40
今日も雨の中アルバイトへいってまいります。 僕の文章がへたくそなので言いたいことが よく。伝わらないようです。もう少しちゃんと 考えをまとめてみます。ノシ
29 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 15:58:10
ヒッキー君 未だそんなこと言ってるの! 四拍手は、古代神道において人や神の魂の数、それに対して四回柏手を打つと言われてる。 それに、四拍手の神社は出雲大社と宇佐神宮だけじゃないよ 弥彦神社も四拍手です。
30 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 17:03:59
四魂じゃ!四魂のカケラじゃ!
31 :
安曇連浜子 :2005/10/05(水) 17:06:39
32 :
がいやまん :2005/10/05(水) 17:54:52
>>24 Mitochondrial Genome Variation in Eastern Asia
and the Peopling of Japan
YAP+/M12の生殖誇示はオークニェボ岩石線画の陽根から判断するに東アジア
北部森林と関連があり、ひょっとしてではあるがマリタ細石刃が列島と大陸に分断
され、アイヌとユーラシア北部に分かれたものが匈奴時代に再度日本に流入、
別派がチベットに南下したことがありえるかも。
>>15 > 下品ながら勃起はよくします。
> AVもたまに借りてみます。
ヒッキーさん、質問です。
あなたは、16歳なのに何で18禁のAVビデオを借りられるのですかw
34 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 20:30:10
借りるのに証明書がいるのですか、
何処の誰だかわからん奴にレンタルしてくれる店が・・・あるのか?
37 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 21:48:51
>>35 そうですね!
私も、よく解らないです。ただ 弥彦神社の四拍手だけは事実のようです。
>>34 明日言おうと思ったのに!
38 :
P氏 :2005/10/05(水) 22:38:48
宇佐説は残念ながら間違い。 まず方角が違うよ。 >水行10日陸行1月の解釈の仕方は 帯方郡からの総日程です。 それ、正解。 せっかくそれが分かったのに、なんで >投馬国までは 順次式になっています。 というかなぁ。 投馬国と邪馬台国は並列表記だから、 当然投馬国も帯方郡からの距離でなきゃ。 こう考えてこそ、なぜ「投馬国は水行のみの表記か」 がわかるんだ。 >呉への牽制のためにできるだけ邪馬台国を南に みせかけようとした陳寿のトリックです。 水行陸行は郡からの距離と解けたのにどうしてこんな蛇足を言うのかい。 一ヶ月強の時間は帯方郡から九州北部へのちょうど良い時間行程じゃないか。 三国志は陳寿の個人的な記録だったんだ。 だからそんな政治的な企てはないんだよ。
39 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:35:14
>>29 プラムさん
そこまでは知りませんでした。
井沢元彦氏の本を信じてしまいました。
40 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:36:48
>>33 AVくらい中学生でも借りてますがw
いちいち子供だから借りちゃだめなんて
いう店員はいませんよ。
41 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:42:42
>>38 P氏
僕だって投馬国との並列表記の可能性も考えましたよ。
しかし邪馬台国の水行10日陸行1月のなかの
陸行き1月は明らかに朝鮮半島内での移動を
含んでおります。水行10日以内に朝鮮半島を
渡るなど不可能ですから。投馬国を並列表記としてしまうと
帯方郡から南へ水行20日で着くことになるのですが
おそらく20日でやっと朝鮮半島を渡りきるくらいじゃないですか?
あと倭人伝はその前の魏略とかを参考にしてますし
おそらくこれを書いた人が呉への牽制のために
トリックを使って書いたと思われます。嘘は言ってませんが
どうとでもとれるように南を意識して書かれています
42 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:48:39
問題なのはおそらく大和朝廷が九州邪馬台国を 滅ぼしたっぽいのに、記紀には明記されていないことです。 隠蔽が行われている可能性が強いでしょう。 さらに卑弥呼を神功皇后にあててますし、 時代もキャラも違うことくらい当時の人でもわかっただろうに なぜこのようなことを書いたのか?
43 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:55:51
4拍手の件が崩れてしまうと 僕の論理も根本から崩れてしまいますw また新たに記紀における卑弥呼=神功 の 問題も浮上してきました。おそらく 卑弥呼が誰だかわからなかったと思うのですが そうなると九州にあった邪馬台国の存在もしらなかったのか? 自分たちの先祖の故郷なのに。壱与を宇佐神宮で 祀っているならば邪馬台国の存在が認識できていたはず。 僕の考えもまだまだ浅はかでしたw
44 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 09:52:50
やはり論理的にもう一度整理していかないと。 倭人伝からは邪馬台国は九州だとわかるのですが 邪馬台国内で作られたっぽい景初3年4年等の鏡は 畿内から大量に出土し九州からはあまりでない。 そして記紀において卑弥呼=神功としていることから 邪馬台国の東遷はない。これらをつなげてみると 九州にあった邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされ 鏡は戦利品として畿内に渡った。ということになります。 おそらくこれがもっとも可能性が高い歴史の真実。 ではなぜ記紀において邪馬台国の存在が黙殺されているのか? 敵国ならば大国主のような説話があってもいいのではないか? 卑弥呼を神功皇后だといってるしあたかも邪馬台国の 存在自体を知らないような口ぶりです。
45 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 10:06:21
よく倭人伝を読めば卑弥呼が神功皇后などではないことくらい 当時の記紀の編集者にも間違いなくわかったと思うのです。 ではなぜそれでも卑弥呼=神功皇后としてしまったのか? そして記紀において九州邪馬台国の存在を隠蔽したのか? それどころか邪馬台国は自国の大和朝廷のことだと あたかも言っているのか?やはりこの問題は 大和朝廷のご先祖が九州の邪馬台国の出身で その本家を滅ぼしてしまったので後ろめたさから その存在を抹殺したと考えるしかつじつまがあいません。
46 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 10:17:44
となると宇佐〜日向が邪馬台国であり、 その中にある日本で2番目の格式を誇る 宇佐神宮が邪馬台国の壱与を祀っているところだと いう可能性が高まります。突然宇佐の地に 日本で2番目の格式の神宮が建立されるなんておかしいです。 応神天皇が現れたからとかなんとか言ってますが ではなぜ宇佐に現れるのか?ご先祖さまの地だからでしょう。
47 :
日本@名無史さん :2005/10/06(木) 10:20:18
倭人伝ぐらい良く知ってるし 間違えたんじゃなくてワザとだよ
48 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 10:21:15
>>44 〜
>>46 の文で反論があったら
どんどんお聞かせください。
今日はこれまで。ではでは
>>46 オオキミ家分家(本家かもしれないけれど)=宇佐の一族 → 宇佐神宮建立
ってことはありえるんだけれど、そうなってくるとなぜ天皇家は伊勢神宮を
自分とこの宮にしたのかがわからんよねぇ。さっさと大和に分祀すれば
いいものをと思うのだが、本格的なものは平安時代の9世紀になってから
(岩清水八幡)
50 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/06(木) 13:00:14
>>39 ヒッキー君のカキコは、自分の考えじゃなく
殆どがコピペや著書の丸写し? 本に出ていたことを作者に変わって代弁してるにすぎないんだ!
51 :
安曇連浜子 :2005/10/06(木) 16:06:56
三角縁神獣鏡と邪馬台国は関係がない!なぜなら三角縁神獣鏡の出土した 古墳の時代は少なくとも大和朝廷成立よりも時代が下るという事実なので。 箸墓古墳という出現期の巨大古墳が発掘されてない以上、いま出土している もので考えるしかないでしょ?そしたら「いまのところは」三角縁神獣鏡と 邪馬台国は関係ないと考えるのが妥当だと思います。
53 :
P氏 :2005/10/07(金) 00:30:26
>>39 いや、ヒッキークンはよく勉強しているよ。
54 :
P氏 :2005/10/07(金) 00:38:02
では、まず順番にいこうか。 宇佐説の最大の問題、方角の違いはどうするかだ。 あと水行は一日で千里をいくのだから、七千里は七日でいいのだよ。 韓国内を陸行する必要なんてないんだ。 覚えておくといい。
55 :
日本@名無史さん :2005/10/07(金) 04:34:59
宇佐の疑問 いよ は判る。 神后 も判る。 応神 はなぜ
56 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/07(金) 07:20:18
>>53-54 P氏
海を知らない陳壽が書いた書物 そこが「みそ」
それにしても「P」「レス内容」何処かで……ま、いいか!
57 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 08:00:08
>>50 プラムさん
いやあ、井沢元彦氏が著書の中で
力説してたのでそれを信じていただけですよ。
まあ勉強不足は否めないですね。
邪馬台国関連の本も15,6冊程度しか読んでおらず
それのみの知識で語ってるので多少内容が
浅いものになるのは勘弁してください。
他の時代の本や世界史や民俗学や神話の本、
銀河英雄伝説等のSF小説も読んでおりますもので
時間が足りません。バイトや本業の学業もしなくてはなりませんし
AVもみなくてはなりませんw
4拍手の件につきましては僕の若さゆえの間違いだと見逃してください。
ちなみに僕は結構自説を述べてると思いますが。
神武が元邪馬台国一族で、記紀において邪馬台国が隠蔽されており
宇佐神宮に祀られてる比売大神が大和朝廷に殺された壱与だなんて言ってるのは僕だけなんじゃないですか?
58 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 08:05:36
>>54 P氏
1日で水行1000里も進めるのでしょうか?
ちょっと信じられませんが、まあ若輩者の僕が
反論できるだけの知識ももちあわせていないので
それを信じることにしましょう。
方角の問題は解決済みでしょう。
帯方郡からの総日程だと仮定すれば南でも
間違いではない。放射説をとればたしかに
間違いだけど。
59 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 08:53:23
ど素人丸出しかもしれませんが、 僕なりにできるかぎり論理的に邪馬台国は 宇佐だという筋道を改めて簡略化して述べますと @倭人伝を読むかぎり邪馬台国は九州にあった。 ↓ A三角縁神獣鏡は畿内にあり 当時の力関係からして邪馬台国東遷の可能性は薄い。 つまり大和朝廷により邪馬台国は滅ぼされた。 ↓ Bそれなのに記紀には邪馬台国について書かれておらず しかも神功皇后=卑弥呼 と暗示されている。 つまり邪馬台国も大和朝廷だと仮定している。 この時点で九州邪馬台国の存在を記紀では隠蔽している。 ↓ C隠蔽するからには理由がなければならず、神武が 邪馬台国出身だというのを隠したかったと考えられる。 つまり日向出身というのも邪馬台国の位置をわざと カモフラージュするために日向から東征したと書いた。 長く未開の地で大和朝廷に服属していなかった日向が 神武の出生地だとは考えられない。 ↓ Dここで視点を変えて266年で邪馬台国による 中国への朝貢は終了している。つまり壱与の時代に 邪馬台国は滅んだ可能性が高い。そうなると大和朝廷により 壱与は殺されてるので、壱与を祀る廟がなければならない。 出雲を中心に中国〜北陸を治めていた大国主命の出雲大社や 奥州藤原氏の中尊寺金色堂のように大国を治めていて そして敗れ去った者たちには必ずその霊を祀る宗廟があるはず。 ↓ 結論 これに該当するのは宇佐神宮であり、そこに祀られている 比売大神が壱与。従って邪馬台国は宇佐w
60 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 08:54:47
反論があるかたは今日もどしどし書き込んでください。 反論されて指摘されることにより僕の考えも洗練されていきますし 間違いを改めることもできます。
61 :
太国 :2005/10/07(金) 09:25:55
>>59 隠蔽なんかしていないよん。神日本磐余日子火々出見尊≠邪馬台国出身者
62 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 09:36:16
ちなみに宇佐説を補強する材料として @>女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。 更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。 この文章が宇佐にもっともよくあてはまること。 A伊都国に一大卒を置いてる理由として 伊都国から遠いところに邪馬台国はあったと考えられる。 つまり伊都国とは反対側の大分〜日向方面に 邪馬台国はあった可能性が高い。 B地理的にみて宇佐は瀬戸内ルートで九州に 上陸した際真っ先に狙われるポイント。 大和朝廷といちはやく接触し滅ぼされた可能性が高い。 この3点をとりあえずあげておきます。
63 :
日本@名無史さん :2005/10/07(金) 10:07:08
記紀の一部は、後代にかっこよく見せるために書いた、作文で。日本中にひろまった 秦氏によって古代の産業革命がおこり、どうにかなった。妄想の内です
64 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/07(金) 10:28:49
ヒッキー君 別に構わないけど 本の読みすぎだよ! 余り本読みすぎると、自分の考えが解らなくなるよ 君の独創的な発想を期待してます。 北東南西と右回りだけど 麻雀では 東南西北(風)と左回りなんだ、面白いね
?
66 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 11:29:41
>>61 太国さん
自分たち(大和朝廷)が滅ぼした
邪馬台国がまさか自分たちの本家筋にあたると
いうのでは体裁が悪いので隠蔽したのでしょう。
もう少し詳しく書くべきでしたね。スマソ
67 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 11:32:07
>>64 十分独創的だと思うのは僕だけでしょうか?
これ以上やったら本当に妄想になってしまいます。
できるだけ論理的に説明せねばなりません。
僕も麻雀は少々ながら嗜みます。
国士無双を1回だけやったことがあります。
>>67 纏めると、
1)宇佐神宮に祀られているのは『卑弥呼』ではなく『壱与』。
2)大和政権が同根の宇佐政権を滅ぼし祀ったのが宇佐神宮の起源。
3)宇佐政権は「神宮皇后」の話としてフィクション化された。
というところに独創性を自負されているようですが…如何。
>>68 × 神宮皇后
○ 神功皇后
失礼。
問題は2)ですなぁ…考古学的に説明がつけばいいのですが…
70 :
日本@名無史さん :2005/10/07(金) 13:57:18
そのまえに、 応神帝を祭ってる理由を説明してください
71 :
安曇連浜子 :2005/10/07(金) 16:02:29
>>62 一歩踏み込んで女王国の東千余里にあった国を大和朝廷の前身と考えて
みたらどうかと思いますが・・・・・・
>>70 …どうも朝廷の宇佐神に対する認識ギャップがあったようです。
初め、朝廷にとって宇佐神は「鎮西将軍」的認識だったのでしょう。
新羅や九州の蛮族たちと抗争していた「仲哀-応神天皇」をイメージしていたと
思われます。
ところが、いざ付き合いを初め宇佐の古伝を辿ると、元は女神信仰のようだった。
「宗像三神」のアレコレもありますが、これだと単純な応神天皇信仰と喰い違って
しまうと考えて、古い時代(?)の女神信仰と、新しい時代(?)の応神信仰という
時代が異なっていたであろう二つの話の辻褄合わせとして、宇佐神宮の祭神が
形成されていった…そんな印象を受けます。
「神功皇后」も、このとき誕生したのかもしれません。
74 :
日本@名無史さん :2005/10/07(金) 17:02:43
伊勢神宮も昔は四拍手だったそうです。
邪馬台国が滅ぼされたって部分はどうかと思うんだよなぁ 崇神天皇を祭神としている神社はあまり多くないのに何故か 筑後に多かったりする。 崇神天皇が九州の豪族だったとすると、邪馬台国と大和朝廷の 関係もまた変わってくるような
それはどういうことですか?
倭迹迹日百襲姫と崇神天皇の関係は以前から言われてるけど、 要は九州王朝≒邪馬台国で、崇神天皇以降が東征したって 考えた方がしっくりくるのでは、と。
78 :
日本@名無史さん :2005/10/08(土) 03:55:26
おまえら、目を覚ませ! 記紀も、宇佐八幡神社も、全ーー部 ==天武朝の時期の成立思想== 記紀で、一番崇められてる天皇は誰か? それは継体帝を正当とする応神帝である。 記紀の元資料を記載できる書記は、皆、東漢氏や秦氏である。 それぞれの子孫は、誰の時に倭に渡ったとあるか? 応神帝である。 この時期成立する八幡神も 応神帝であり、 実は、天武朝の一大思想こそが 「応神帝をルーツとするものが尊く正当である。」 というものなのだ! 我々はその天武朝思想の上で踊ってるに過ぎないのだ
79 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 08:38:59
邪馬台国の末裔である応神東征の可能性も 捨てきれませんね・・可能性は低いと思いますが。
80 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 08:43:09
宇佐説を補強するさらなる材料として、 @宇佐のあるところは豊の国という。 これは台与が治めていた国だからだと考えられる。 A宇佐の地は半島からの帰化人が多かった。 優れた技能をもっていた人が集まっていたので 倭人伝に書かれている、絹の生産や養蚕等が 行われていた可能性が高い。 この2点をあげておきます
81 :
72 :2005/10/08(土) 08:59:17
82 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 10:20:48
266年で中国への朝貢は途絶えてますし これも邪馬台国が滅ぼされた証拠の一つになります。
83 :
72 :2005/10/08(土) 10:33:24
少し気になるので、これから宇佐神宮へ行ってみるよ。 在所からすぐ近くなんで、いつでも行ける。 何かしりたいことがあるなら、情報を仕入れてくるよ。 平日は仕事があるので無理だけど。
>>79 一応古事記にも日本書紀にも、神功皇后が新羅征伐から帰ってきたあとカゴサカ
とオシクマが兵を起こしたので応神天皇が死んだということにしてその後
反逆者を征伐したという記事があるから「応神天皇の東征」も可能性として
はありえます
85 :
日本@名無史さん :2005/10/08(土) 11:16:51
宇佐に限らず関門海峡の八幡、小倉、宗像地域は畿内本州へ 至にあたって避けて通れない交通の要所。 ここを押さえるものが日本を制すると言っても過言ではない。 博多なんかは所詮九州島の港でしかないが関門、宇佐、八幡は 本州全体の要でもある。倭国の黎明期は本州の力も弱く交易において九州の豪族に 従うしかなかったが、人口が増え力をつけるに従い九州の豪族を 凌ぐ力をもつにいたった、そこで宇佐、八幡、京都(みやこ)、苅田という トヨ国の要所を西九州の豪族を排除しながら半島や畿内の勢力が 押さえて行ったように感じる。 これが征服という形だったのか同盟のような形だったのかまでハッキリと 分からないが力によって押さえるという面が大きかったのかもしれん。
86 :
日本@名無史さん :2005/10/08(土) 11:46:47
応神が神功の子であるのが真実であるなら、彼ら一族は 八幡族そのものであろう。これが宇佐、吉備を中心とした の瀬戸内同盟が九州の倭人クマソを倒し畿内全国政権への 足掛かりになったように思う。
87 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 12:11:40
邪馬台国の末裔である応神東征があったならば 記紀で卑弥呼と神功皇后を混同している意味がわかりません。 時代も違うしなぜこのようなことを書いたのか? また先ほど述べましたように中国への朝貢をなぜやめたのか? そしてヤマトタケルの時代に熊襲(狗奴国)征伐に行く話がりますが このときすでに邪馬台国の存在など認知されていません。 なので僕は邪馬台国の末裔である応神が東征したという説は 否定しておきます。可能性は0ではないですけどね。
88 :
日本@名無史さん :2005/10/08(土) 12:26:39
どっちにしても吉備の勢力も壬申の乱で天智大王の勢力に協力しなかった として殺されているから記紀の編纂において正確な記憶がないのは 不思議ではない。
89 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 12:38:19
>>87 ヒッキー君
>中国への朝貢を何故やめた
その前に、266年の朝貢に対する返礼の記録が無い。
90 :
太国 :2005/10/08(土) 12:58:45
>>87 …つまらないことを訊くが、邪馬台国というのは『魏史』にしか登場しないんだろう?
それをなぜ、日本の記紀が無視した混同したというの?
92 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 16:49:38
>>89 266年の朝貢は日本書紀に書いてあることでしょ。
まあ省略したんでしょうね。
>>90 日田ですか?
>>91 その当時の書物が倭人伝しかないのだから
仕方ありませんよ。記紀は大和朝廷が
伝承してきた歴史ですので
その中の正しい部分を見極めて抽出する
必要があります。それ以外に分権もないわけですし
この方法で真実を暴くしかありません。
応神東征だと、大和朝廷の朝鮮出兵と時代が重なってしまうのでもう少し 前かと。邪馬台国の末裔というよりは、北九州諸国連合の一部勢力が 東征したのかもしれませんね。
94 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 16:57:43
東征は前にも書きましたように1世紀後半〜2世紀前半にかけて 邪馬台国一族の落ちこぼれ神武がしております。兵力は現地調達だったでしょう。
>>94 それだと、近畿地方に銅鐸文化が栄えている時期になってしまいますが・・・
銅鐸文化が突如消滅したのは西暦300年頃ですので、そのころと考えた方が
自然では?
96 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:30:02
>>95 しかし300年ごろでは
畿内政権のほうが九州邪馬台国より
力関係で上になってしまうでしょう。
やはり東征はそれより200年前後は
前だと考えたほうがいいのでは?
97 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:32:34
銅鐸文化の消滅については西暦300年ごろといえば 崇神天皇の時代ですよね。おそらく三輪王朝を開いた際 その前の銅鐸文化も改めたのでは? 前王朝の文化を改めることで新たな王朝を開始した パフォーマンスになると思いますが。 東征による銅鐸文化消滅とは限りません。
98 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:33:53
正直この言い草は苦しいですw まだまだ僕の説も穴だらけです
99 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:39:01
知識不足でこれ以上はわかりません。 自分なりに論理的に考えたつもりですが とりあえず邪馬台国東遷の可能性は薄いと 考えています。
100 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:42:39
邪馬台国東遷を支持してしまうと欠史8代は 虚構になってしまいます。崇神or応神が邪馬台国の王で 東遷したことになります。僕はそうは思いません。 欠史8代は実在の王だと考えます。
101 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:54:33
やはり銅鐸文化消滅は北九州と畿内の接触によるものと 考えたほうがいいかもしれません。畿内政権が 邪馬台国を滅ぼした際、九州の文化が入ってきて 本家邪馬台国は九州なのでそちらの文化に切り替えたとも 考えられます。
102 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 18:09:18
他サイトで完膚なきまでに 叩きのめされ鬱です。 僕の説はどうやらお話にならないようですw
103 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 18:23:00
ヒッキー君
ところで、
>>7 の説明お願いしたいんだが
あと、日本書紀の266年朝貢記事は「晋書」の引用だろう。
>>102 自説が批判されただけでファビョっちゃう人も沢山いるのに、
他の人の説にも耳を傾ける柔軟性はすてきだと思いますよ
105 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:11:20
無念。マジで全部間違ってたみたいですw
106 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:26:55
史八代については、安本先生はいちおう実在と仮定しての在位年代の計算をされていますが、「古代中国の辛酉革命思想に則って天皇家の歴史を正当化すべく後世に年代が水増しされた」という説のほうに自分は賛成ですね。 実質初代の崇神天皇の業績を二分して、 神武と崇神に分けてしまい、間に八人の天皇を入れたと。いちおう批判として、「欠史八代の天皇の寿命が異常に長く、 偽作であれば代数を増やして寿命を適正な年齢にすれば良いではないか」という物がありますが、 八というのに意味があると自分は考えています。 そもそも、日本書紀とは「日本書・紀」な訳で、中国の歴史書である漢書や晋書、宋書のように、 紀伝の本紀の部分として中国に対抗(我が国も中国に負けない歴史ある国だと主張)するために必要だったわけで。(日本紀が元の名前という説もありますが、どっちにしろ対中国を意識したのはいっしょ)。 曾先之によってまとめられた十八史略が、三皇五帝の伝説から始まっているように、神話時代の神とも人ともしれない存在としての神話時代から中国の歴史認識はスタートしているわけで(史記は五帝からスタート。ただし先行する三皇の記述もあり)。 三皇+五帝=八人 で、日本の神話時代を埋めたと考えられるのではないかと。 そもそもそも三皇とは天皇、地皇、人皇(史記では伏羲氏、女渦氏、神農氏と天皇、地皇、泰皇の記述がある)ですから、天皇号の成立と日本書紀成立の時代背景を考えると、つながる気がします。 蛇足ながら天皇号については、唐の高宗(在位は649年?683年)が天皇と称した時代と天武天皇即位の時代の近さ、道教の最高神が天皇(北斗七星を司る天皇大帝)であり、 吉野裕子先生が『大嘗祭―天皇即位式の構造』で指摘されるように、大嘗祭で天皇が着る衣服に北斗七星が描かれている点などから、諸説あります。 自分は甘木と都城と大和の地名の一致(ついでに我が故郷も)から、また墓制の変遷の歴史から、神武東征の元になった九州勢力の畿内移動はあったのではと考えます。
107 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:29:11
普通に邪馬台国の東遷があって、邪馬台国から大和朝廷に発展したと考えても問題はないと思いますよ。 隠蔽したのは本家の王族を滅ぼしたからではなく、邪馬台国が朝貢し柵封を受けたという事実、でしょう。理由は簡単で、日本という国号と天皇という名称が生まれたのが、天智朝の頃と推定されるからです。 日本は600年の遣隋使以来、入貢しても柵封は受けず、という姿勢を貫いています。白村江で壊滅的打撃を受けた天智天皇の晩年、日本国号と天皇号が生まれた(新羅・中国の文献から。日本では飛鳥浄御原令で初出)訳で。 柵封からの離脱を意味する、日本独自の元号(=大化)が乙巳の変で生まれたと日本書紀が言い張るのも、 本当は701年の大宝が最初の継続する元号だったのを、時代を遡らせて権威づけるためでしょう。 なぜか聖徳太子の頃から、独立志向が強かった日本(当時は倭国)としては、中国からの呼び名ではない独自の国号・皇帝に対抗する独自の王号・独自の元号をもって、 中国からの独立を志向した国家体制においては、中国に朝貢し柵封を受けた国家が存在したこと自体が不味いわけで、 なおかつそれが直接の先祖だとさらにマズイ訳で。 日本書紀は、大和朝廷のルーツを徹底的に隠す意図で作られた、という事ですね。天孫降臨神話も、中国の影響とはまったく無関係に日本が成立したという主張であり、実際に神功皇后の記述を読むと、 神託を受けるまで日本の国以外に外国(=西海の宝の国)が存在する事を知らなかったという設定(笑)になっています。 天孫が日向の高千穂に天降るのも、そこが実際の故地であると言うより、北九州に天降ると邪馬台国との関連が問われるので。 対狗奴国挟撃のために連合を組んでいた or 分団を派遣していた南九州に設定し直した(720年の隼人の反乱のように、 九州南部は政情不安だったため、関係強化のために天孫降臨伝承が採用された可能性も)と、自分は考えています。 神功皇后は、齊明天皇をモデルにした、白村江大敗の悪夢を脳内デリートするための「勝ち組騒動」みたいなもんでしょう(笑)。
108 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:35:26
>邪馬台国が畿内政権に勝てたとは思えません。 古墳の祭祀変化を見ると、必ずしも大規模な征服・被征服の攻防があったようでもないです。元々卑弥呼自体も、軍事的な力で女王になったわけではなく、 その祭祀(シャーマン)の力によって擁立されているわけですから、アフリカのダホメ王国のように、政治と祭祀が分離した二重体制だった気がします。 それは壱与擁立の経緯を見ても明らかですね。 平和的とは言いませんが、かなり穏便な祭祀による宗教的な権威を戴くという形での、畿内勢力の取り込みを想定しています。 思うに、神武東“征”と邪馬台国東“遷”はイコールでは結べないと思います。なぜなら神武の東征神話は、どうも天武天皇の壬申の乱での行動を下書きに、創作された物という指摘があります。神武が熊野上陸後、吉野を経て大和に入るルートは、 壬申の乱の時に天武の軍がとったルートとほぼ同じです。 また神武軍が、熊野から八咫烏の導きで宇陀(奈良と三重の県境付近。近江軍に敗れた大伴連吹負が伊勢からの援軍と合流した地点)に出て敵軍を破ったときに、 「神風の 伊勢の海の 大石にや い這い廻る 細螺の細螺の 吾子よ吾子よ 細螺のい這い廻り 撃ちてし止まぬ 撃ちてし止まぬ」と歌います。 伊勢に行っていないはずの神武が、なぜに伊勢の海? 吉野から伊賀を超えて伊勢に脱出し、そこで天照大神に戦勝祈願して尾張や美濃の兵を動員した天武天皇の事跡と一致しますね。たぶん「神風の 伊勢の海の 大石にや」の歌は、神武ではなく天武の歌だった物を、神武東征神話に組み込んだのではないかと。 そもそも、神武天皇自体が壬申の乱の最中に、突如として大和の柏原で顕現して天武軍を助けた神様です(日本書紀では高市県主許梅に神懸かりして、自分の稜を祭れといいだします) 神武→天武 道臣命(大伴氏の遠祖)→大伴連吹負 長髄彦→大友皇子 で、この神武東征においては、八咫烏や金色の鳶など、重要な場面で太陽神の使いたる鳥が随所に出てきます。天照大神と神武は、壬申の乱の勝者である天武によって、突如として皇祖皇神に祭り上げられた可能性がありますね。 日本の本来の信仰は蛇神信仰がベースだったのではないかと。 伊勢に行って天照大神を廃した天皇は、明治以前は天武一人という点にも、それを伺わせますが……。
109 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:36:46
混同ではなくて、モデルですね。 九州からの東征出発は、日本書紀が成立した時に速人の反乱が起きて(共に720年)、南九州が政情不安であったから、来歴の部分で九州との関係強化が目的かと。 東遷の記憶の上に天武の壬申の乱の記憶を重ね塗りして「東征」神話を作った可能性を指摘しているのであって 「宇佐や岡田宮や安芸や吉備に立ち寄ってるというのも全部妄想だ」とは一言も言っていません。飛躍しすぎです。 また「卑弥呼=神功皇后」というのは、「邪馬台国が魏に朝貢した事実を消したい人間が編纂した歴史書」の主張なので、否定の根拠にはなりえませんよ。 それは日本書紀の神功皇后と卑弥呼の関係について、魏志を引用しながら断定はせずに曖昧にぼかしていることからも伺えます。 もっと混乱させることを言えば(笑)、ヤマトタケルも天武の業績が投影されている様子がうかがえるようです。上に書いた説(神武東征は天武の壬申の乱をモデルにしている)は、岡田英弘先生の「日本史の誕生」や「倭国」で読めます。
110 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:38:11
1.邪馬台国の比定地 →福岡県山門郡から那珂川周辺にかけて。狗奴国に圧迫されたか、半島へ貿易の対象をシフトしたために移動した可能性アリ。 2.邪馬台国東遷 →あった。応神と思われる邪馬台国の系譜につながる人物による東遷。神話や地名の移動など、邪馬台国に関係ない地域ならばあり得ない。邪馬台国が宇佐なら、宇佐の特徴的な地名が畿内や和歌山、宮崎で観察されて然るべきだが、 それはないのでやはり九州北部・上記の地域が有力では? 3.畿内勢力との抗争 →部分的にはあったが、基本的には宗教的な統一で、大規模な争乱ではなかった。葬礼という、宗教のもっとも根幹の部分が、ある時期から急に畿内でも観察される。力による征服なら、強制してもなかなか浸透しないのではないか? 4.神武東征 →応神の東遷を下書きに、天武の壬申の乱の出来事をインスパイア(笑)して重ね塗りした。神功皇后は斉明天皇を下書きに。神武自体は存在せず、応神の業績の前半と天武の事跡の融合かと。 5.天武の出自 →アマノタリシヒコや蘇我馬子につながる人物か? 応神王朝は三輪山との融合からか見て、蛇神信仰がベースにあり、ゆえに畿内との融合が比較的容易だった(畿内は邪馬台国の分家だった可能性も)。天武は蛇神はだったが、 鳥神派の勢力を自分につけるために転向したのか、 それとも最初から鳥神派だったのか。自分は後者の可能性が高いかと。 6.天智天皇 →事実上の初代天皇。ただし乙巳の変は後の神格化。対唐強硬路線から見ると、 蘇我馬子→開国派 天智天皇→攘夷派 天武天皇→開国派 という対立と揺らぎがあるので、政権を奪取した孝徳の施策の不味さから、次第に台頭したというのが妥当かと。 考え方を変えれば、東征は白村江の戦いによって軍事的な指揮権を得た天智によるクーデターと、 畿内に引き返しての政権奪取の様子を、神武東征の物語の雛形にしたとも想定できますけどね(笑)。
111 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:41:36
それは中国の内政状態と、日本の貿易形態について視野を広げれば、簡単に説明できます。まず、王莽の乱で前漢が滅び後漢が光武帝によって再興されるまで、中国は政治的な混乱が起きます。25年も内乱状態だったのですから、当然ですね。 再興後も前漢ほどの国力も威光もなくなった後漢は、郡県の廃止や統合を断行せざるを得ませんでした。行政改革で官から民への権限委譲と同じですな。で、それまでは後漢が保障していた貿易の安全を委託されたのが 「漢倭奴国王」という事です。皇帝お墨付きの証明書が金印です。 ところが184年に黄巾の乱が起こり、中国は王莽の乱どころでない内乱状態になります。中国歴史書からに本の記述が消えるのはこのため。国内政治でいっぱいいっぱいで、外交なんて余裕がないわけです。 このため、中国皇帝の威光によって貿易で栄えていた奴国が没落し、三国分立という状況ながら、 多少は政情が安定しだした時代に卑弥呼の朝貢が行われたのも、 やはり「親魏倭王」の金印が渡されたのも、故無いことではないのです。 邪馬台国と思われる朝貢は、239年・243年・266年に派遣されています。この時の中国の事件を見ると、なぜこのタイミングでの朝貢だったのか、一目瞭然です。 ・238年 魏の将軍だった司馬懿仲達が韓半島を支配していた公孫氏を滅ぼす ・243年 239年に斉王に立てられた曹芳(魏の第三代皇帝)が元服。幼少だったので曹爽と司馬懿が補佐 ・249年 司馬懿がクーデターで政権奪取 ・265年 司馬懿の孫の司馬炎が魏の元帝(曹奐)を廃して晋王朝設立 このように、邪馬台国は司馬氏との強力な結びつきの上に貿易の利益を得ていた可能性があり、その節目節目で朝貢しているのがわかります。ところが、280年に最後の呉を滅ぼすと司馬炎は政治を顧みなくなり女色にふけり、 290年に死去後に無能な皇太子の司馬衷(恵帝)が後を継ぎます
112 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:43:11
こうなると中国お得意の外戚と宦官の跋扈で、300年に趙王司馬倫によるクーデターを発端とする「八王の乱」が起き、匈奴の劉淵が304年に晋の影響下から自立して五胡十六国の時代に突入します。316年には劉淵の後を継いだ劉聡によって晋(東晋)は滅びます。 五胡十六国時代は439年の北魏による統一まで続きますから、「漢倭奴国王」から「親魏倭王」までずいぶん間が空いたように、倭国の記述は439年に編纂が始まった宋書倭国伝で倭の五王の記述が出てくるまで朝貢の記述がないのは、 主に中国側の混乱による物です。宋の文帝の在位は424年から453年は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定していましたから、 この前後に倭の五王が朝貢するのも、 政治的安定と貿易の安定が密接に繋がっているからです。 応神・仁徳に擬せられる王による河内王朝は、中国の混乱によって威光が当てにできないので、百済と結んで貿易の利益を守り、比較的安定していた宋、斉、梁、陳の南朝と貿易をして隆盛し、 晋の後ろ盾が無くなった邪馬台国が衰退した可能性もなくはないです(文献的に確かめられない)。 が、自分は類似の祭祀を戴くゆるやかな連合をから、韓半島の混乱(高句麗の台頭)に対応するための連合強化・祭祀によるプレ統一運動が河内王朝を生み、九州から畿内への地名の移動が起こった(東遷)が起きたと考えます。 武力による王者決定戦が上手くいかなかったからこその、 宗教的権威としての壱与の擁立があったのですから、九州と畿内の統合はその手法によったと考える根拠は、こんなところです。
113 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:45:26
当時は妻問婚で、子供は母親の里で養育されたようですので、継体王朝による征服があっても母系の神話・事跡が伝承された可能性が高いのでは? 実際に伝承などが混淆しつつも残るのは、男系の征服があっても女系による伝承が残るからですし、 今日的な意味(もしくは中国的な意味での) 男性王による王朝交替とは、意味が違うのではないかと。 大海人皇子という呼び名も大友皇子という呼び名も 、 母親の集団を投影した名前だそうですから。 日本では巫女によるシャーマン的な政治参与はかなり遅くまで確実にあったわけで、男性王による征服というのが必ずしも王朝の滅亡や血脈の途絶えとはならないと、自分は考えます。それは中国では基本的にない女帝が立てられたり、天智と天武と持統の関係 (ついでに額田王の争奪・吉野裕子先生の考察)を見ても、 類推できると思うのですが。 なので河内王朝は王朝を作ったというより、融合によって強大な王権(河内王朝)が生まれたという感じですね。シンボルとしての王は九州を戴いて実権は河内土着の勢力が握っていたのか、名実ともに邪馬台国後継勢力による河内取り込みなのか。 現時点では河内による九州征服や吸収はなかったと考えています。 ただ上で書いたように、事実上は河内に征服されたのに女系養育の結果としてそちらの神話・伝承の方が主流になってしまった可能性もありますけどね。これは継体王朝の征服でも起きた可能性がありますが……。 確実に言えるのは、「北九州の勢力をベースにした神話・伝承・地名(安本説)が日本書記には色濃く残っているので、邪馬台国に連なる勢力は政治的に消滅したかどうかは置くとしても、7〜8世紀までその文化的な命脈は存在した」ぐらいですけどね。
114 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:46:39
韓半島は歴史的には春秋時代の戦国七雄の燕が紀元前334年に支配していたと言うのが、文献的な初出です(史記・蘇秦列伝「燕は東に朝鮮・遼東あり」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/燕_%28春秋%29 漢の高祖・劉邦が立った後、遼東は漢の直轄地になり、これから逃れた燕人の衛満が平城を都に衛氏朝鮮を建国しました(紀元前200年頃)。
漢の揚雄が紀元前後に著した『方言』という書物には、「燕の外鄙、朝鮮冽水の間」とあり、楽浪郡の言葉が遼東の方言と同じだったと記されています。
漢の武帝が立つと、衛氏朝鮮は滅ぼされれて、楽浪・臨屯・玄菟・真番が置かれます(紀元前108年)。しかし紀元前87年に漢の武帝が死ぬと、臨屯郡と真番郡は廃止され楽浪郡に編入され、中国本土から燕人以外に山東半島から斉人や越人
(現在の浙江省のあたり)が流入しています。
115 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:48:02
このように、北方系の要素と南方系の要素が(ついでに遊牧騎馬民族の文化的要素も)流入した歴史的な背景があり、北方蛇神・雷雨信仰と南方鳥神・太陽信仰が2ルートできた可能性があります。で、これは稲作の伝播と密接に関わっているようです。 自分は、鳥神太陽神信仰は、赤米といっしょに南方の島づたいに黒潮ルートで伝播したと考えます。奄美以南のゴボウラ貝が山陰で見つかるのは、セグロウミヘビの回遊ルートとも一致しています。島根県出雲大社の神在祭でこのセグロウミヘビを龍神として祀るのも、 関連があるのではないかと考えています。海洋交易にあって、 このセグロウミヘビの回遊を目印に、南洋諸島と北九州・山陰との交易の船を出していたのではないかと(これは自分の仮説です)。 黒潮は鹿児島で二つに分かれて熊本・佐賀・長崎・福岡・大分・山口・島根に向かうルートと、 宮崎・四国を経て・和歌山に流れるルートがありますので、東征神話のもっとも古い記憶は、ごくごく初期の米の伝播のルートの記憶との関連(または交易)も、関係あるのかもしれないと考えています。 畿内は、三和山の信仰からもわかるように、蛇神系統ですね。ひとつの可能性としては、邪馬台国・越・畿内は蛇神信仰の共通性があり、出雲・伊勢には鳥神信仰があり、壬申の乱で勝利した天武が 本来の蛇神信仰から鳥神信仰に信仰を塗り替えた可能性を、感じています。 エジプトのアメン信仰とアテン信仰の対立と交替みたいな感じで。
116 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 21:49:43
長くなるのでこのへんで。 このように僕の説など詳しい人からみれば 吹けば飛ぶような浅はかなレベルのものだったようです。 まさに井の中の蛙とはボクノコトですねw
117 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 22:17:18
ヒッキー君 長文ご苦労さん。 でも、これって勉強すれば解る事だろう。 私の感想として 最後のヒッキー君の自説の方が興味持てたね
118 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 22:45:55
>>111 ヒッキー君
>中国の歴史書から日本の記事が消える
確かに「後漢書東夷倭」に桓霊間倭国大乱
と言う記事が見られるが
しかし、記録が消えたのは安帝永初元年(107)以降だよ、決して黄巾の乱で不安定になった為では無い。帝紀では
安帝永初元年(107)〜景初三年(239)の、実に約120年間記録がないんだ
>>115 安田喜憲氏の『古代日本のルーツ 長江文明の謎』に
近いことが書いてあったけど、なかなか面白い本だったよ
実際、呉人や越人の習俗と魏志にある倭人の習俗がそっくりだったりする。
(入れ墨とかね)
ひょっとしたらヒッキー君はもう既に読んでるかもしれないけど。
120 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:23:41
>プラムさん
>>7 に対するご質問は一応書いておいたはずですが、
まあかなり適当に書きましたけどw
121 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:25:37
>>119 読んでないですよ。
とりあえず僕の知識量が不足しすぎてて
内容が浅いものになりすぎてました。
お恥ずかしいかぎりです。
122 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/09(日) 08:38:24
ヒッキー君おはよう そうですか! それはありがとう。 もう一度レス読み返します。
123 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:49:52
格の違いを思い知らされました。 僕の言ってることなんてマジで ガキのままごとレベルでした。
124 :
日本@名無史さん :2005/10/09(日) 09:36:16
そう思っているならもう来るなよ。何時までもウジウジと 秋の長雨か
125 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 09:39:38
わかりました。もう来ません。 もっと本をよく読み大人になってからまたきます。 ではまた10年後にお会いしましょう。
126 :
妄想中 :2005/10/09(日) 10:37:24
ゆっくりやればいいのに、
127 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/09(日) 12:11:51
確かにね! ヒッキー君。 参加するもしないも、君の判断だから何も構わないけど 君の立てた数々のスレはどうするんだい。 君が居なくなったら、全てスレ主逃亡になっちゃうよ、どうせ退陣するなら スレが終了してからでも遅くないだろ それとも彼女でも出来たかな!
128 :
安曇連浜子 :2005/10/09(日) 12:19:03
>>127 に禿胴。ここで逃げたらヒッキーさんのそこいらの本より
ずっと参考になる説が聞けなくなる!漏れはそうなって欲しくない!
まぁもう少し話(とスレ)を整理統合するべきかなと思う。 邪馬台国と宇佐(神宮)と神武と応神…話が広がりすぎだ。
あと、この時代は文献がないから考古学的立証が重要になる。 日本史中もっとも謎が多い時代だから、このへんの研究は 非常に熱心に行われ、近年では素晴らしい成果を上げている。 私は考古学を殆ど知らないので、お助けする事はできそうに ないが、そこに立脚して論を再構築するべきではないかと思う。
131 :
78 :2005/10/09(日) 14:46:58
ひっきー くん 君がスレ主だと無用に荒れないのでいいね。 後半非常にいいよ。 天武朝の思想と、中国政権図を見ると、見えてくるんだよ。 天武朝の思想 1・ 永遠の漢民族が、万里の長城以北の漢化もできてない蛮族の鮮卑 にとうとう滅ぼされてしまった。隋・唐 (後の世に漢化が進む) 漢化が先進んだ漢帝系国家は百済亡き後、日本だけである。 2・ 大陸の漢帝亡き後、天武の祖先の栄光に曇りがあってはならない。 唐が天皇なら日本も天皇である。 天皇号に相応しい、曇りのない祖先である必要がある。 倭の五王(臣)として、漢帝に臣となった五王は、天武の直系にはいらない。 (だから、記紀では五王の記事は完全に無視なのだ) 応神からの直系孫、継体帝を祖先とするものこそが、天武 真人(七色のかばね)である。 (これこそが、記紀・宇佐の思想である) したがって、記紀の継体帝以前の天皇は???が多いのだ。 継体帝が5代孫で何故皇位についたと記載されているのか。 それが事実云々はどうでもよく、 天武にとって重要なのは、応神なのである。 道教の真人、天皇号をつぐ格なのである
132 :
日本@名無史さん :2005/10/09(日) 16:55:18
後半はコピペでしょ。
>>105-116 16歳中卒ヒッキー よ、ついに狂ったか?
なんだその意味不明の連投カキコは?
論点が見えてないぞ。
134 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:12:39
おそらくコピペでしょう
コピペにしてもデンパ満開で読むのに疲れたぞ。
136 :
日本@名無史さん :2005/10/11(火) 14:06:56
あげ
137 :
日本@名無史さん :2005/10/12(水) 11:29:15
邪馬台国・・やまた・・宇治山田 文字類とみられる主な遺物 2世紀中期 大城遺跡(三重県安濃町) 「奉」の刻書土器 2世紀後半 貝蔵遺跡(三重県嬉野町) 「田」の墨書土器 3世紀前半 貝蔵遺跡(三重県嬉野町) 人面墨書土器 3世紀後半 三雲遺跡(福岡県前原市) 「竟(鏡)」の刻書土器 3世紀後半 根塚遺跡(長野県木島平村) 「大」の刻書土器 4世紀初頭 柳町遺跡(熊本県玉名市) 「田」のよろいの留め具 4世紀前半 片部遺跡(三重県嬉野町) 「田」の墨書土器 5世紀中期 稲荷台1号墳(千葉県市原市) 「王賜」などの鉄剣 5世紀後半 稲荷山古墳(埼玉県行田市) 「辛亥年」などの鉄剣
138 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 21:35:19
ヒッキー君のスレが淋しそうだから カキコ 「播磨国風土記賀古郡」 昔、大帯日子命、印南のわきいらつめをつまどひたまひし時、みはかしの八咫の剣の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡を繋けて、賀毛の郡の山直等が始祖息長命一の名は伊志治をなかだちとしてつまどひ 下り行でましし時、摂津の国高瀬の済に到りまして この河を渡らむと請欲はしたまいき… (疲れた) これは、鏡・剣・玉を使用した《妻訪》ですね
139 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 22:02:50
この風土記には、元ネタが有りまして、 日本書紀景行十二年九月条に ここに女人有り 神夏磯媛と日ふ。其の徒衆にへきなり。一国の魁帥なり。天皇の使者の至ることをききて、則ち磯津山の賢木を抜りて、上枝には八握劍をかけ、中枝には八咫鏡をかけ、下枝には八咫には八尺瓊をかけ、亦た素幡を船のへに樹てて参向て啓して日さく… この文と、先ほどの風土記はほぼ引用ととれるが 主体が異なっている所が、興味深い。 風土記は、《天皇の妻訪い》 日本書紀は、《神夏磯媛の服属儀礼》になっている
140 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 22:24:59
三種宝物を服属儀礼に使用している文が 「筑紫国風土記 逸文 怡土郡条」にみえる 昔者、穴門の豊浦の宮………(めんどくさいので中略)……て、穴門の引嶋に参迎へて獻りき… この文は、足仲彦の熊襲遠征の一文で 五十跡手の服属儀礼であるここでの 剣・鏡・玉は、天皇に献上という形をとっている
141 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/15(土) 22:32:00
これら、場所の違った(三種宝物)を使った服属儀礼の意味するところは 服属儀礼が出雲等の特殊地域に限らず、一般的な形態として行われていたことを示す 文としてとらえてもよいのではないか!
142 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/13(日) 16:18:17
足仲彦の実在性についての議論はなっしんぐですか?
>>142 安曇さん
>「足仲彦」の実在性云々の証明
勿論なっしんぐです。
>>143 なぜ?自分は足仲彦はいなかったと思っています。
そもそも彼は「新羅征討」の前に、「神のお告げを信じなかった」という理由
で死んでいますよね?これはあきらかに、神功皇后を目立たせる演出じゃない
でしょうか?
安曇さん あそこで、足仲彦の実在性云々を議論した所で意味をなさないからです。 『三種の宝物』の使われ方をあげているから 足仲彦であろうが小泉純一郎であろうとかまわないのです。 有名な『ボロロ〜ン殺人事件』ですね いろいろな推理が考えられますが 真相は?
146 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 15:51:35
147 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 20:16:20
む?
148 :
日本@名無史さん :2005/12/04(日) 17:57:39
あげ
149 :
日本@名無史さん :2005/12/08(木) 14:54:28
age
150 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :2005/12/14(水) 20:57:19 BE:281652487-##
// _// / ||_ノ __________________ \/// ̄\ / |> <_> \ | 我々の要求は、沖縄県における最大規模の大図書館の建設だ。 く\___| < |∇ \ | 明日宮内庁を爆破する。 \__/ \ |≧||≦ ̄|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 天皇制と文明論 〜恐るべき国民統制のカラクリ〜 天皇制の実質的な地位は、明治政府の意図した絶対的権力に基づく国家思想そのもので あり、社会整備や、教育現場における最高権力であった。しかしながら、その時代背景 には、権力者が独占的に政治と資本を支配し、その結果、国民の無権利や、不平等格差 が非難され、政治家への暴行、及び暗殺事件が多発していたことからも示されるように、 天皇制絶対主義という位置づけがなされたのである。 さらに、日本が軍事国家として巨大化していくうちに、天皇制絶対主義はこれとは違うもう ひとつの様相を有してきた。それが世界でも有名な、植民地支配の象徴である。日本国民 はそれまでの不平等格差を政治家や天皇に向けるのではなく、侵略することによって解消 し、それこそ子供だけでなく大人までもが、天皇制の意義を見出すようになったのである。 世紀の大混乱の中で支持された天皇制絶対主義とその思想文学は、現代においても侵略的 意義(琉球民族とアイヌ民族の国家的侵略)の組み込まれた大和民族のアイデンティティー そのものであり、他民族圧殺という民主主義プロパガンダを脈々と流しつづけているのである。
151 :
日本@名無史さん :2005/12/14(水) 22:24:13
確かに、沖縄が戦争で大きな被害を受け、現代でも巨大な基地があることには同情はするが、既に戦後60年、いつまで沖縄に 優遇的措置をとらなければならないのか。 いつまでも、かような要求を出しつづけるのは、戦争を利用したタカリとしかみることができない。 最大規模の図書館建設反対。
152 :
日本@名無史さん :2005/12/15(木) 18:53:08
153 :
日本@名無史さん :2005/12/15(木) 18:59:41
154 :
世界@名無史さん :2006/01/10(火) 13:46:49
邪馬台国の支配領域が知りたい!
156 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 00:16:18
おいら、大和朝廷って習ったが、 一時、大和政権などという言い方があったそうな。 いつごろの話だ。
158 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 12:18:57
age
159 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 17:45:32
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★ 最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。 満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、 さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。 『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。 もちろん、すべてデタラメであるが。 朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。 高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。 そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。 朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。 朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。 このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、 高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。 後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を 乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。 おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。 おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。 ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。 このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。 彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。 朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。 もちろん、倭人=日本人でもない。 ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、 「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」 と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
160 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/27(月) 11:07:34
昔の自分は若かったな。
161 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 12:03:13
横から失礼します。ビッグニュースです。
倭国の都の宮殿跡?が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が発見されました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが推定されます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣の3種の神器、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。
参考HP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html
なんだよ「もう一つの」って。邪馬台国が二つも三つもあるかっつのw