2 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 13:19:17
2なら信康が家督相続
3 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 19:38:12
秀頼から一字を拝領するつもりがなかったのに、秀頼の「頼」とかぶるのを承知のうえで頼宣に「頼」の字をつけた家康はあほですか?
4 :
日本@名無史さん :2005/10/03(月) 21:27:15
下の三人の「頼」とか「義」の字は徳川家は源氏だよってアピールでは?
信康 信長
秀康 秀吉
秀忠 秀吉
忠吉 秀吉
信吉 秀吉
忠輝
義直
頼宣
頼房
信康 信長
秀康 秀吉
秀忠 秀吉
忠吉 家忠
信吉 晴信
忠輝 輝虎
松千代 お松
仙千代 ちゃ仙
義直 師直
頼宣 秀頼
頼房 秀頼
綱吉 秀吉
慶喜 喜朗
7 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 22:10:32
忠吉と忠輝は秀忠の偏諱だと思われ。
信吉は武田家の通字だろう。
話題はループするんだろうな 忘れた頃に人が入れ替わる
忠輝は長沢の「忠」も兼ねてるかもよ
長沢に忠なんてついたっけ?
10 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 23:25:20
11 :
まき:2005/10/03(月) 23:27:13
すいません 秀康と忠吉ってだいたい おなじ時期に死んでるよね? なぜ 秀忠の政権安定のためとしかおもえないんですが諸説あり知りたいです
こりゃまた頭悪そうな人のレスだな
サンバでも踊ろうぜ
サンマの方が好き
>>11 秀康に関しては彦根城での毒殺説がある。
毒殺に反対した彦根藩の二代目藩主は、歴代藩主の中で一番長寿
であったのにも拘わらず、病弱を理由に隠居させられ、弟が三代
藩主を継いだとか。秀康が彦根からの帰途、毒が回って倒れた場所
が、時代劇によく使われることで有名な天秤櫓の位置だとか。
ところで
井伊家の3代藩主・直孝には家康の隠し子疑惑がある
て本当か
17 :
まき:2005/10/05(水) 00:05:14
>15 ありがとう 井伊直政は関ヶ原から数年後に死んで また 毒殺ですか? 意思能力のない藩にそんなことができるのかな やはり 大阪との 内通を恐れ 井伊家がしたことなんだね 忠吉は? ほとんど相次いでるよね?
秀康はまだしも、忠吉の場合は暗殺は無いと思う
1607年以前に秀忠が急死した場合、代わりになれる奴が忠吉ぐらいしかいないんだよね
いくらなんでも進んで保険を潰すようなマネはしないと思うよ
19 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 15:07:28
>>3 ???どう考えてもアホはお前だろう・・・っ!
名前が(1字)被って、それが何で「家康=アホ」になる?
そこまでして避けなきゃいけない事なのか・・・?被るという事は・・・!?
仮にそうだったとしよう・・・!(ありえないが!)
だったら何か?成人したとはいえ、豊臣家のこの微妙な時期に、だ、
同じくお家が微妙な時期に武田の家に戻り、
結果不運にも武田家滅亡を迎えた”武田勝頼・・・”彼の1字と秀頼の1字、
これが被ってるのは秀頼、いや、周りの重臣達がアホだからなのか?
いくら当時の感覚でも昔の事とは言え、当時にとっては近代史。
そこまでこだわるぐらいなら
こんな不名誉で不吉な1字は無いだろうよ!是が非でも避けたいところとは思わんか!?
ましてや豊臣にとっては「頼」の字にこだわる理由もありもしないのに!
頼むぜぇホント・・・
>>18 忠吉を殺したら、彦根藩が怒るだろうしな。
島津家久や最上家親は家康の偏偉なのでしょうか?
>>21 wiki曰く、両人とも家康の偏諱だそうな
偏諱総合スレとか作ってほしい
>>19 常駐荒らし野郎の低レベルネタだからマジレスするだけ損だよ。
前スレで延々とやってた。
24 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:06:55
>>23 だな。あまりにひど過ぎてつい感情的になっちゃった・・・
25 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:15:21
秀頼が荒らしとかネタとか決めつけるおまえらは本当に偏狭だ。
おまえらが納得できない見解だからといってネタ扱いして無視しようって態度がムカツク。
秀吉と綱吉がどうのとか勝頼がどうのとか言ってるのは明らかなネタ師だろうが、
こいつらのせいで普通に秀頼の可能性を考えてる者は迷惑している。
明らかにネタで書いてるヤツの存在は否定しないが、そうじゃない者がいるんだから、
勝手にネタとか荒らし呼ばわりして一段上から偉そうな言い方するな!!
26 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:20:06
秀頼の可能性を述べた見解に便乗して綱吉とかネタを書いてるバカには迷惑してる。
こいつが余計なことを書くから、否定派がネタ扱いして偉そうに否定する。
あと、否定派も自分の考えに合わない意見をなんでもネタ扱いするな。
ネタ扱いして、高みから見下したような言い方で否定してるのが一番ムカツク。
27 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:23:38
>>19 秀頼が命名されたとき勝頼はとっくに死んで過去の人になっていた。
頼宣が命名されたとき秀頼は大坂城でピンピンしていた。
途方もなく大きな違いだ。その程度の区別もつかないおまえがアホ。
28 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:24:43
ほほう、
そりゃあ確かに一理あるな。失礼。
(「おまえらが納得できない見解だからといってネタ扱いして無視しようって態度がムカツク。」
は少なくともこちらも同じ思いなんだがな・・・
この際それは置いといて)
では充分納得のできる見解、証拠を見せてもらおう。「・・・だろうと思う」だとか
「・・・じゃないか」とか不明瞭な発言、想像は無しな。バシッ!と語ってくれ。
29 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:08:21
>>27 言いたい事はわかるが、
この場合勝頼の名を出したのはあくまで例。
”拝領した訳でもな無いのに「頼」の一字が被る名を息子に付けた家康はアホ・・・”
「勝頼話は、そこまで この時代”名前”に重きを置いた(他家が使う名前にもお互いピリピリしてた)
と言うのならこれからのTOPたらんとする人が「頼」の字を使うには
ちょっと”不吉”すぎではありませんかっ?と言う事。」
(読みように取っては秀頼の「頼」の字が勝頼から・・・と取れるような
誤解文を書いてしまった。すまん。)
しかし、むしろそうなんだよ。少々不吉であろうが、その程度の事ぐらい全然かまわない、
秀頼だって「頼」の字を使ったて全然問題ない(実際使ってるし)
ましてや秀頼「頼」の字と勝頼の「頼」の字は、同じ漢字であって同じではないんだから。
だから おれが何を言いたかった事はと言うと
名前なんて一方では大事な事ではあるが、一方ではそれぐらいの事(一部被ってる程度の事)
気にならない程度の事であり、おれらが逆に一字にこだわりすぎて
おかしくなってないかと言う事だ。
30 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:09:28
感情を抜きにして普通に考えてみてくれ。家康はアホか?
そりゃあ、好き嫌いはあるだろうが何だかんだ言ってもアホでは無かろう。
と言う事は逆に言い換えればその程度の事なら
当時全然揉める程のことでは無かったと言う事だ。まして一家臣なら
遠慮もするだろうが家の格も力も申し分ない。
確かに可能性的に一字拝領の可能性も否定できない、しかし証拠が無い、
しかも大阪の陣の直前に何故!?と言う疑問も残る・・・。
なので冷静に考えて 観点から、可能性としては源氏由来説が高いのでは?と主張しているんだ。
豊臣家より拝領したと主張する人は前述した不思議に納得のいく答えを出してくれ。
31 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 08:46:35
>>25 その可能性を裏付けるなにかを提示願う。
頼宣と同時元服の義直になぜ頼の字が無いのか、
元服時期が違う頼房についても説明願う。
32 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 11:44:30
秀忠の忠は信忠の忠?
33 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 12:19:03
というより康と忠は安祥松平家の通字になってるからな
34 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 19:28:14
家康の康は清康の康
秀忠の忠は広忠の忠
秀忠が将軍になった時点で将軍職は徳川が世襲することが天下に示さ
れたんだから、ダメ押しで秀吉の秀なんか取ってしまえばよかった。
家忠でいいじゃないか。そうすれば綱吉も家吉、吉宗は家宗、慶喜は
家喜ってことで家を通字にできた。
どうでもいいや。
>そうすれば綱吉も家吉、吉宗は家宗、慶喜は
>家喜ってことで家を通字にできた。
厨の考える事はよー分からん。
37 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 21:11:27
家忠改名の話があったはず
同時期に家忠って名の公家(花山院だっけ。忘れた)がいて遠慮したんじゃなかったかな
松平康忠は?
>>35 家は将軍の通字だろ。
家光、家綱、家継、家茂、家治、家斉、家慶、家定。
成人してから養子に入った
綱吉、吉宗、慶喜、綱豊(家宣)慶福(家茂)などはそれぞれ
家綱、綱吉、家慶などから偏諱を受けているが。
歴代将軍の話はスレ違いだから、家康の娘達についても語ってみないかい?
養女も含めて。これもスレ違いなんだけどね。いかがでしょう?
41 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:22:17
綱吉、吉宗、慶喜が将軍になっても改名しなかったのは「家」の字を授けてくれる適当な名付け親がいなかったから。
3人とも宗家を継いだ時点ですでに先代が死去していて名付け親になるべき人がいなかった。こればっかりは目下の者には頼めないからね。
同じ養子でも家宣と家斉は養父の将軍が存命だったので名付け親になってもらって改名できた。
4歳で父親を亡くした家継のケースも元服のとき名付け親がいなくて困ったが、強引に霊元法皇を名付け親にして元服した。
42 :
まき:2005/10/07(金) 00:42:31
ふぅ〜ん 忠吉と秀康 なぜ 同時期にしんだの?
43 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 08:37:13
治部と刑部はなんで同時期にしんだの?
明治維新の時点で、家康の血が一滴も入らなかった大名家ってあるの?
46 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:48:12
>>45 大名は殆ど養子を取っているから、血筋がそっくり入れ替わっている
可能性もあるし、極めて判定が難しい。
48 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:27:24
>>45 ほとんどの大名家には入っていないと思う。
大名の大多数をしめる1万石の小大名にまで徳川の血がいきわたるとはおもえない
49 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:36:34
意外なことだが将軍家に姫がいた時代は少ない。
家斉みたいなのは突然変異。
50 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:37:17
姫どころか若君がいた時代さえ少ないわけで
将軍家から直接じゃなくても
御三家なんかから入ってる場合もけっこうあるんじゃない?
越前系はけっこういたっしょ?
女系も全部含めて、だぜ?
家斉のアホみたいな数の子供の子孫だけで相当な数だと思うんだ
>>52 そのアホみたいな数の子供の子供はそんなにいないよ
>>52 そのアホみたいな数の子供で成人した人数がどれほどか調べてから言おうぜ
正室の産んだ子が家を継ぐ方が珍しいわけで
正室は側室より数が少ないしな。
押し付けられた正室よりも自分で選んだ側室の方が情が移るし
それに正室は30も過ぎれば床を共にすることも無いけど、
側室は常に若いのを新しく迎えられるしね
家康嫡男は岡崎信康と書いてあることがあるけど、後世のひとが勝手に
付けた呼び方ですか? 正室腹の嫡男が領地の地名を名乗る例を他には
知らない。
>>58 尾張大納言、紀伊大納言、甲府宰相、備前宰相、清洲侍従などと同じ。
秀忠が、関ヶ原前に江戸中納言と呼ばれていたと思います。
これと同じでは?>岡崎三郎信康
63 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:06:38
信康は岡崎城主だけど、秀忠は江戸城主じゃないですねえ。
64 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:47:43
城主か城主じゃないかは関係ない。嫡男か嫡男じゃないかも関係ない。
同姓・同名字の武士を居所で区別して呼ぶのは平安時代以来の習慣。
その家の名字とその家の構成員を居所で呼ぶこととは別問題。
宇喜多家は備前が領地、福島家は清洲城主、徳川家は江戸城主。
これらのケースとは異なり、岡崎信康の時代は徳川家の居城は浜松城だった。
嫡男が本拠地から出る形。嫡男信幸が上田城から出て沼田城主になった真田家と同じだね。
というよりも、嫡男のブタだが旧本拠地岐阜城に残った織田家と同じか。
66 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:57:19
要するに武士の呼び名なんて便宜的なものなのよ。
織田信忠も「秋田城介」が通称だった。
68 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:00:52
69 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 23:38:34
昔の大河ドラマ「徳川家康」で
家康は本拠地が変わるたびに「浜松殿」「駿河殿」と
呼び名が変わっていたような。
住んでる場所で呼ぶなんて今でも残ってるじゃん
親戚のおじさんとかおばさんを、○○(住んでる地域名)のおじさんとか呼ぶだろ?
そんな感じだよ
71 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 04:29:18
家康はさ天下統一した翌年に亡くなりますよね。
関ヶ原で討ち死にしており、晩年は影武者説が絶えませんが、
それは、ともかく家康の死因は鯛の天ぷらにあたったのが
通説でした。最近読んだ徳川十五代カルテという本には、
胃がんだったと書かれてます。確かに息子秀忠も同じく胃がんで亡くなってます。
面白かったのが、家康は健康おたくで、最新の医学書が日本にはいってきたら、講師を呼んで
まで熱心に勉強したそうです。しかし、それが最後はわが身を滅ぼす原因になるのです。
亡くなる2,3ヶ月前から体調が優れない。それで色々なクスリを自ら調合して飲むがいっこうに
良くならない。しまいには、医者が意見を言うなり、怒り出し、その医者を島流しにしたそうです。
自分の健康知識に絶対の自信をもってたのでしょう。結局どの薬も効かずに胃がんでやられたらしいですね。
腹八分に心がけ、鷹狩を好み、女遊びはしない(性病、特に梅毒をひどく恐れてたらしいです)
今でも通用する健康法ですね。誰でもできることだけど、それが難しいです。いやはや
72 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 08:29:22
70数歳生きた。
結構調べてみると当時でも意外と”70以上生きた”って人はいる。だけども、
人生50年と普通に言われた時代。充分長生きしたと思うけど・・・。
信康の「岡崎三郎」にこだわっている厨は、信康が徳川から岡崎に改姓したと思っているのだろう。
あほだな。
74 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 08:37:06
そんな奴がいるのっ!?・・・すごいなあ・・・。
そもそも信康は「松平信康」なの?「徳川信康」なの?
徳川
77 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 10:54:31
そのわりに一般向けの本で「徳川信康」って表記をあんまり見かけないよな。
78 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:14:59
というか、切腹後しばらくしてからじゃなかった?徳川名乗ったの。
信康は松平姓で一生を終えました。
79 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:19:24
家康って徳川に改姓したあとも自分一人しか徳川を使用しなかったの?
80 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:40:17
名前変える人っているよね?wwww
変わってるよね?
>>81 荒らしはスルーしろよ。立花なんてこのスレに関係ない。
83 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:53:53
イミナなんてめったに使わないのに、やたらと改名する武将って・・・
滅多に使わないからこそ変えられるんだよ。
日常的に使ってるもんをころころかえてたら混乱するじゃん。
>>78 信康が死んだのは家康が徳川に改称してから10年もあと。
当然「徳川信康」だろ。
86 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 18:56:00
秀忠は2代目将軍という責任の重圧の影響か
早くに亡くなった。ちなみに胃がん。
関ヶ原へは遅参し、大阪の陣では逆に急ぎすぎ。
凡将だけども、次男秀康や六男忠輝は気性が荒い、彼らが将軍になってたら
また戦乱の世になってたはず。秀忠だからこそ、天下泰平の事業を家康から継げたんです。
余談になるが、結城秀康は梅毒で亡くなった。(1607年) 家康はホッとしたそうだ。(秀康は次男なので三男秀忠が後継者なのは
納得いくはずがなく、また秀吉の義理の息子でもあるから、秀頼様の味方でもあった)梅毒が顔まで進行してきて、
最後は鼻がとれたらしい、それで軟膏をぬって鼻を隠し、家康に会いにいったら、
怒こられたそうだ。秀康「父よなぜわしを将軍に..しねえんだよコラ」
おしまい
>>86 そうか梅毒を盛られて毒殺されたのか。
確か清正も家康に白拍子を送り込まれて梅毒で毒殺されたのだよな。
家康は梅毒の使い手だな。
88 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:04:17
徳川家康の息子たちはまあまあ
織田信長の息子は馬鹿ばっか
しかも卑怯、織田長益は大阪の陣で裏で暗躍してたし。信雄は
「舞を踊ってみせる」これでは将来を案じて、
家康の優秀だった嫡男信康を信長が自害させるよな。
信忠&信雄&信孝vs信康になったら、後者が勝つに決まりだな。
90 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:11:48
政治家野中広務の毒饅頭発言を思い出すな。
家康は長年蓄積してきた信用を関ヶ原以降使い尽くした。
晩年はやけに息子を可愛がったり、あの手をこのてをつかい豊臣家を滅ぼした。
若年時代の性格とかなり違うから、影武者説がでるほどだからね。
91 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:16:49
有楽は弟だね、スマン
秀忠の浮気は一度だけ、妻が恐妻だったのだ。
しかし、そのおかげで性病にかからなかった。
当時は性病のグローバル化で吉原などは性病蔓延、
命びろいしたな秀忠。持つべきものは恐妻だ。
92 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:21:14
家光はホモらしい。ドラマ大奥で知った。
当時は多いな。家康-直政 信玄-昌信 信長-蘭丸
好きな大名が小姓とやってたと知った時はショックだ。
93 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:29:53
松平忠輝 享年92歳
真田信之 享年93歳
龍造寺家兼 享年93歳
北条長綱(北条幻庵) 享年97歳
これら武将を一線を画すほど長寿は何といっても天海だろう。
こうしてみると、徳川家康も胃がん(鯛の天ぷらが進行を早めた)だと気づき、
治療をしてれば、80代まで生きただろうに。裏の裏は表ってやつだ。
何せ医学おたくだったのが、最後は自分の首をしめるのだからさ。
95 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 19:50:59
>>87 「梅毒」が毒物だと思っている馬鹿がいる。
96 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:29:18
性病で亡くなるなんて、今では考えられないよ。
当時梅毒はエイズみたいな不治の病だったと思う。(たぶん)
なのに女遊びするなんて、秀康はそこが甘かったね。(もしかしたら、梅毒にかかった女を刺客に送り込まれたかも)
家康は性病をひどく恐れて、むやみに女遊びはしなかった。さすが。
97 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 23:03:29
92番は大バカだな。
当時は男色を好まぬような軟弱な武人は
ただの一人たりと存在しなかったというのに!!!
98 :
97番のホモのせいで荒れるスレッド:2005/10/11(火) 00:06:33
99 :
97番の大馬鹿のせいでここは荒れる:2005/10/11(火) 00:10:39
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! `|:ハ |:=Z:! ゞ=ニン ´ 〉 〉: . 洗脳人体実験プログラムをやっている部署を
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イルミナティ(権力)→フリーメーソン(支配階級の支配)→CIA(情報操作)→公安<警察>(金)→右翼<ヤクザ>
(洗脳指令)→被害者=僕やオマイラ
・新世界が創出されるにつれて、大量掃討作戦が開始される。経済システムは復活し、インフラは再建される。疾病は消滅し、
加齢現象自体がなくなる。ひとつの新しい復元された人間の家族によって、地球は徐々にパラダイスと化すであろう。
ロックフェラー・グローバル・コミュニケーションズから国連総会へ 2002年3月22日
100 :
97番の大馬鹿のせいでここは荒れる:2005/10/11(火) 00:15:00
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102 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 00:44:04
秀康の姓って、「羽柴」→「結城」→で、死ぬ直前に一瞬だけ「松平」でOKですか?
徳川も名乗ったことあります?
103 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 01:05:49
グーグルで調べた方が早いとおもうよ。
104 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 08:14:05
関東移封で結城に行くまでは徳川じゃねーの?
105 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 11:10:52
養子に行った時点で「羽柴」一瞬だけ「松平」でOK。
106 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:25:26
結城家に養子に行かせたのは、黄金目当てと言うのは本当?
107 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:35:33
家康の息子たちのうちで一番
男色好きだったのは誰でしたかの?
108 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:33:30
さあな?
会ったことないからw
109 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:35:06
110 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:42:22
111 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 10:24:20
>>106 だとしてもそれは(黄金目的としたのは)秀吉。
秀吉の意思で結城家にいってる。
>>106 それだけの埋蔵金があれば、結城はもっと大きな大名になっている。
113 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:06:19
家康の息子たちのうちで一番
衆道好きだったのは誰でしたかの?
前スレから低レベルなネタで粘着する
>>113 でも本当のことを教えてやろう、仙千代だよ。
115 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:17:54
やっぱり竹千代だろ。
何しろ数が多い。
>>116 家康の息子に竹千代が複数いたとは初耳だ。
>>117 複数いるよ。
上から順番に調べてみな。
119 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:26:07
120 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 07:27:49
家康の息子たちのうちで一番
衆道好きだったのは誰でしたかの?
テメエら低能児どもには分からねえだろうがナ!
おまえ
123 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:25:00
秀忠は長丸じゃなかったっけ
>>106 秀吉は実子のいない時に養子や猶子を取りまくったが、実子誕生後皆豊臣家の外に出した。既に後を継がせていた秀次は追い出せないので殺した。
126 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:17:58
>>124 家光が女に興味を持たなくて周囲を悩ませたのはほんとうだろう。
127 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:46:36
>127
変えたなんて記録は無い。
>>126 124への反論として成立しない
【日本史】の中でドラマの話を軸になさりたいのですか?
130 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 01:33:11
>>129 若いころの家光が小姓ばかり寵愛して女性を近づけなかったのは史実ですが・・・
男色がホモじゃなくてバイなのは漏れも知ってる。
くだらんネタに食いつく奴らだな。
家光なんか家康の息子ではないし。
>>128 127ではないが、長松、長丸から世子となったさいに竹千代に改めたと記憶している。
秀忠の誕生は信康自害の天正7年、秀康が秀吉の元に行ったのが天正12年。無理は無いと思うが。
133 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 22:32:53
家光は家康の息子説があるよね。
あと、土井利勝は従兄弟説と息子説があるみたいだけど、やはり従兄弟説のほうが有力?
>132
当時の記録を見ても天正十八年でまだ「御長」とか書かれているから、
竹千代と改めたというのは誤伝だろう。
>>134 どの記録のことかは知らないが、記録者が最初の名前で通したとも考えられる
>135
竹千代と書いている当時の記録が今のところ見当たらないからなぁ。
ついでに後世の『徳川実紀』でさえも竹千代に改めたなんて書いてないし。
137 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:03:47
ちょっとググってみたが、どこでも長松→(超丸)→竹千代になっているな。
間違いだとすると、何でこんなに広まったんだろ。
138 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 01:39:08
家光が男にしか性的関心がなくとも、
当時としては何ら珍しいことにすあらず。
世嗣問題で心配したのは、乳人の春日ら
利害関係のある者達だけであった筈だ。
でも家光の血筋って結局女系で尾張に残ったぐらい?
まぁそっちも絶えたっぽいけど
>>140 家綱→子無し
綱豊→家宣→家継(夭折)
綱吉→子供二人とも早世
千代姫→一番の子沢山、しかしその子孫も断絶
手元にある本ではそうみたい
綱豊→松平清武(子無し)
も忘れずに。
143 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 06:29:09
>>57 >押し付けられた正室よりも自分で選んだ側室の方が情が移るし
>それに正室は30も過ぎれば床を共にすることも無いけど、
浅野長晟や池田輝政・・・・
144 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 07:37:15
秀忠が不慮の死を迎えていたら誰が継ぐ
それは秀忠が死ぬ時期によってだいぶ変わってくるぞ
前にもそんな話題があったような
ageとく
148 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 14:59:06
>>79 結局、後を継いだのは秀忠だったから、秀忠に遠慮したんだろう。
正史「三国志」とそれを元にした「三国志演義」で曹操の庶長子とされている曹昂だって生前は嫡男扱いだったけど早死にして曹丕が後を継いだから書き換えられたとされている。
長男:信 康(竹千代、1559.*3.*6-1579.*9.15、21歳、自殺)
次男:秀 康(於義丸、1574.*2.*8-1607.*4.*8、34歳、脳梅毒)
三男:秀 忠(長松丸、1579.*7.*7-1632.*1.24、54歳、胃癌)
四男:忠 吉(福松丸、1580.*9.17-1607.*3.*5、28歳、敗血症)
五男:信 吉(万千代、1583.10.18-1603.10.15、21歳、破傷風)
六男:忠 輝(辰千代、1592.*1.*4-1683.*7.*3、92歳、老衰)
七男:松千代(1594-1599、6歳、脳炎)
八男:仙千代(1595-1600、6歳、感冒)
九男:義 直(五郎太、1600.11.28-1650.*5.*7、51歳、中風症)
十男:頼 宣(長福丸、1602.*3.*7-1671.*1.10、70歳、心不全)
11男:頼 房(鶴千代、1603.*8.10-1661.*7.29、59歳、脳卒中)
150 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 00:13:19
>>149 お−!
こういうのって載せてもらえると何かうれしいw
151 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 00:43:32
信長が生きていたら家康謀殺で秀康時代に突入?
152 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 00:58:31
信康と忠輝で死んだ年が1世紀以上ずれるんだな…兄弟なのに
信康と頼房は44才も離れているんだな・・・兄弟なのに
154 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 00:57:01
>>149 信康は介錯されたから(服部半蔵にだったような)他殺では?
波乱の青年期〜長い蟄居生活の中老年期
忠輝の人生って・・・
157 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 13:19:31
蟄居じゃないけど陽成天皇もすごい。
159 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:04:25
竜造寺家兼なんて晩年が波乱
>158
「あいつは家人だろう」でしたっけ。
162 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:14:22
秀康が二代目になる可能性は?
163 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:38:01
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/16(水) 19:22:45
家康の子供と子孫(1559〜1609年の半世紀間)
家康長男:信 康(竹千代、1559-1579) 家康長女:亀 姫(盛徳院、1560-1625)
家康次女:督 姫(良正院、1565-1615) 家康次男:秀 康(於義丸、1574-1607)
信康長女:登久姫 (峯高院、1576-1607) 信康次女:熊 姫(妙光院、1577-****)
家康三男:秀 忠(長松丸、1579-1632) 亀姫長男:家 治(***、1579-1593)
家康三女:振 姫(正清院、1580-1617) 家康四男:忠 吉(福松丸、1580-1607)
亀姫三男:忠 政(***、1580-1614) 家康五男:信 吉(万千代、1583-1603)
亀姫四男:忠 明(鶴松丸、1583-1644) 亀姫長女:千 姫(永久院、****-1643)
家康六男:忠 輝(辰千代、1592-1683) 信康男孫:忠 脩(幸松丸、1594-1615)
家康七男:松千代(松千代、1594-1599) 秀康長男:忠 直(長吉丸、1595-1650)
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/16(水) 19:25:42
続き
家康四女:松 姫(***、1595-1598) 家康八男:仙千代(仙千代、1595-1600)
督姫女孫:国 姫(栄寿院、1595-1649) 信康男孫:忠 真(春松丸、1596-1667)
秀忠長女:千 姫(天樹院、1597-1666) 秀康次男:忠 昌(虎之助、1597-1645)
秀康長女:喜佐姫 (龍昌院、1598-1655) 督姫長男:忠 継(藤松丸、1599-1615)
秀忠次女:珠 姫(天徳院、1599-1622) 亀姫女孫:亀 姫(円照院、****-1643)
家康九男:義 直(五郎太、1600-1650) 秀康次男:直 政(河内丸、1601-1666)
秀忠三女:勝 姫(天崇院、1601-1672) 家康十男:頼 宣(長福丸、1602-1671)
督姫次男:忠 雄(勝五郎、1602-1632) 秀忠四女:初 姫(興安院、1603-1630)
家康11男:頼 房(鶴千代、1603-1661) 督姫三男:輝 澄(松千代、1604-1662)
秀康四男:直 基(五郎八、1604-1648) 秀忠次男:家 光(竹千代、1604-1651)
秀康五男:直 良(長丸君、1605-1678) 督姫四男:政 綱(岩松丸、1605-1631)
秀忠三男:忠 長(国千代、1606-1633) 家康五女:市 姫(清雲院、1607-1610)
秀忠五女:和 子(東福門、1607-1678) 督姫男孫:忠 隆(***、1608-1632)
166 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 21:06:09
訂正。
家康長男:信 康(竹千代、1559-1579) 家康長女:亀 姫(盛徳院、1560-1625)
家康次女:督 姫(良正院、1565-1615) 家康次男:秀 康(於義丸、1574-1607)
信康長女:登久姫(峯高院、1576-1607) 信康次女:熊 姫(妙光院、1577-****)
家康三男:秀 忠(長松丸、1579-1632) 亀姫長男:家 治(***、1579-1593)
家康三女:振 姫(正清院、1580-1617) 家康四男:忠 吉(福松丸、1580-1607)
亀姫三男:忠 政(***、1580-1614) 家康五男:信 吉(万千代、1583-1603)
亀姫四男:忠 明(鶴松丸、1583-1644) 亀姫長女:千 姫(永久院、****-1643)
家康六男:忠 輝(辰千代、1592-1683) 信康男孫:忠 脩(幸松丸、1594-1615)
家康七男:松千代(松千代、1594-1599) 秀康長男:忠 直(長吉丸、1595-1650)
信康男孫:忠 刻(***、1596-1626) 家康四女:松 姫(***、1595-1598)
家康八男:仙千代(仙千代、1595-1600) 督姫女孫:国 姫(栄寿院、1595-1649)
なんと、長男信康の初孫が次男秀康とほとんど年齢が変わらないんです。
167 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 21:09:20
続き。
信康男孫:忠 真(春松丸、1596-1667) 秀忠長女:千 姫(天樹院、1597-1666)
秀康次男:忠 昌(虎之助、1597-1645) 秀康長女:喜佐姫(龍昌院、1598-1655)
督姫長男:忠 継(藤松丸、1599-1615) 秀忠次女:珠 姫(天徳院、1599-1622)
信康男孫:政 朝(***、1599-1638) 亀姫女孫:亀 姫(円照院、****-1643)
家康九男:義 直(五郎太、1600-1650) 秀康次男:直 政(河内丸、1601-1666)
秀忠三女:勝 姫(天崇院、1601-1672) 家康十男:頼 宣(長福丸、1602-1671)
督姫次男:忠 雄(勝五郎、1602-1632) 秀忠四女:初 姫(興安院、1603-1630)
家康11男:頼 房(鶴千代、1603-1661) 振姫長男:忠 郷(***、1603-1627)
督姫三男:輝 澄(松千代、1604-1662) 秀康四男:直 基(五郎八、1604-1648)
秀忠次男:家 光(竹千代、1604-1651) 振姫次男:氏 知(***、1605-1634)
秀康五男:直 良(長丸君、1605-1678) 督姫四男:政 綱(岩松丸、1605-1631)
秀忠三男:忠 長(国千代、1606-1633) 家康五女:市 姫(清雲院、1607-1610)
秀忠五女:和 子(東福門、1607-1678) 督姫男孫:忠 隆(***、1608-1632)
家康の最初の曾孫・小笠原忠脩は家康の5女・市姫より一回り以上も年長です。
168 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 22:51:12
同じ家康曾孫でも松平頼渡は1706年生まれ
小笠原忠脩と一世紀以上離れてる。
169 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 23:01:10
信康の子達は大名になれたんですか?
170 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 23:06:16
娘しかいない
171 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 19:31:54
秀忠って、亀姫の長男と同じ年なのか…
172 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 00:16:32
信康男孫:忠 真(春松丸、1596-1667)
詳細を教えてください。長生きしてるのに知らない・・・
>>172 小笠原忠脩の弟。
血筋で行くと、家康―信康―登久姫―忠真
兄が大坂夏の陣で戦死した後に小笠原家をリードし、譜代大名として活躍。
もし、信康の子が女子ではなく男子だったら・・・
175 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 00:12:07
だよな・・・
176 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 07:36:19
信康の肖像画が男前で驚いた
177 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 15:03:24
信康の子供が男だったら、信長に一緒に殺されてたんじゃないの。
信長の孫だったら生かしてもらえそう
179 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 02:56:36
自分の血と今川の血を引く者か
複雑だな・・・
信長は子沢山なんだから、外孫のひとりやふたりを殺しても
たいしたことなさそう。
甥を殺してるしね
182 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:28:51
>>180 でも、徳を猫可愛がりしてた訳だろ。
家康も池田や蒲生、奥平が西軍についても孫は殺さなかったと思う。
他の外孫はともかく。
183 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:44:28
信長は弟の信行は殺害したけど、その子の信澄は優遇してるし
孫は問題無いんじゃない?
184 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:53:57
信長は身内に甘いと思う。信行みたいに本気で刃向けてきたら
仕方ないので殺すけど、殺されるのは本人のみで済むと思う。
織田家連枝衆の序列を見ても
@信忠、A信雄、B信包、C信孝、D信澄
と信澄の一族内の地位は父・信行の謀反は全く影響無いようだし。
(信長の四男以下の実子よりも序列が高い!)
>>184 確かに甘い気がするね。
でも家康にしても処刑することまではいかなかったと思うなあ。
家康の武断政治を継承した秀忠にしても、忠輝や忠直の子孫・家族は
殺していない。
186 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 16:49:28
>181
殺された甥って誰?
どう妄想しようが信康に男子はいない。
188 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 18:00:37
>>185 徳川でも会津のバカひ孫は会津返上しても
水口で一応だけど大名だもんな。
家康の娘ではいないけど、孫娘とかで大名の側室とか
旗本の嫁とか に落ちぶれた香具師はいないのだろうか。
家康のずうっとあとの子孫でいいなら、水戸連枝の松平家から旗本永井家に
嫁いだのが三島由紀夫の父方の曾祖母。
家康→頼房・・・・永井某夫人→平岡定太郎夫人→平岡梓→三島由紀夫
190 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 19:45:24
>>188 督姫の娘京極高広室とか?
高広隠居後に息子高国と争って改易になった。
191 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:08:09
>>190 おばさんになってからのは萌えない。
萌える年齢でのを希望。
家斉ぐらいになったら側室に家康の子孫が入っても
おかしくないかな。って気もするが、出来る限り古いのきぼん
192 :
日本@名無史:2005/11/23(水) 21:21:28
>>181 津田信澄は、本能寺の変後信孝と長秀に殺されてるが?
193 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 22:17:57
>>192 信長に殺されたのではない。
>>181 浅井長政の息子のことだと思うが妾腹という説もある。
>>184 早期には一門の人間を最前線に投入しまくって、
結果的に殺しまくってるけどな。
>>194 宇佐山で森と一緒に死んだのと、長島方面の木之江?かなんかで死んだ信興かね?
信長は弟いっぱいいるから功が無いのを取り立ててもいられんし、あっちこっちに手出しまくってたんだから、
織田領なんてそこらじゅう最前線だろ。それとも大切に飼い殺しにしろと?
そういえば、本陣で囲ってたのに死んだ奴もいたな。
>>186 名前忘れたが浅井長政とお市との間に出来た男子が殺されてる
197 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:37:01
198 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:45:18
>194
しかしなんだな。
前線に投入されて死んだ一族は織田一族ってことで名前が残ってるけど
前線に投入されて死んだ家来のほとんどは名前すら残ってないんだろうな。
生き抜いた羽柴だの柴田だの明智だのはビッグネームになってるが。
199 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:56:08
>184
身内全般に甘いと言えるのかな?
四男以下の息子なんか息子扱いされてないような気がするんだが。
200 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 08:10:34
>>164 督姫と北条氏直の娘っているよね?
あれは督姫が母じゃないの?
>>199 妾腹の信孝・秀勝も将来国持ちになるのが確定の立場にいるのだから
甘いのじゃないでしょうか。
勝長以下は年齢の点などから、まだ取り立てていなかっただけでは。
203 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 11:39:19
忠輝の子孫っているの?
幕末の新撰組の松平主税頭との関係は?
204 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 11:42:02
205 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 12:36:16
>>204 ありがと
幕末の新撰組の松平主税頭との関係はないの?
206 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 13:00:31
忠輝、忠直なんかの娘は罪人の娘だけどどうなったんだろ。
配流の地で足軽ごときに陵辱されたりとかあったのだろうか。
207 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 13:56:09
>>206 忠直正室は秀忠の娘でその間に生まれた娘は秀忠の孫と言うことになります。
ので、その娘達はあなたのご期待の様な結果になってません。
209 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:29:18
>>207 いや、だから長沢松平つながりとか・・・
210 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:35:53
忠直が配所でつくった子供は高田藩主である兄光長に引き取られた。
息子2人は永見姓を名乗って家臣となり、娘は家老の小栗美作に嫁いだ。
幕末の松平主税頭の家は長沢松平の名跡を継いでいる交代寄合。
忠輝とは直接の血縁関係はない。
>210
で、越後騒動おこして越後家はお取りつぶしの憂き目に・・。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/25(金) 19:07:11
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/25(金) 19:08:33
大阪の陣で前田利常が秀忠を討ち取ってれば利常が天下人だったのに
利常はアホだな〜
216 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 08:42:33
217 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 18:22:02
>>212 隠し子説有力な、土井あたりはないですか?
219 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 21:22:03
>>218 改易の回数でギネスにのった津山家だったっけ
220 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 23:50:41
御免、拙者、文芸板から参った、物書き三郎太と申す。
歴史に造詣が深い貴殿たちに質問が御座る。
徳川信康が熱中したとされる踊りは何て呼び名で御座るか?
それと云うのも、横山光輝の漫画「徳川家康」では盆踊りではなく、
「……踊り」と呼び名があったと思うので御座る。
何方か知っておられる方が居たら是非とも教え願いたい候。
>219
まさに制外の家ですな。
分家の福井なんざ幕府に引導わたすような真似しでかしてるし。
制外の家なんて秀康存命中だけ。
223 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 22:19:57
しかし、御三家筆頭の尾州家、御家門筆頭の越前家、御三卿筆頭の田安家と
筆頭とかつくとみんな幕府から冷遇されてるね。
224 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 22:21:57
外様筆頭の前田家はそれなりに優遇されてるが。
225 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 22:22:32
ついでに譜代筆頭の井伊家も
>>225 そのわりに鳥羽伏見ではさっさと官軍についたがな。
227 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 10:09:25
228 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 11:16:04
家康の5男武田(松平)信吉の肖像画ッて
見つからない・・・。
存在感薄いの?
229 :
220:2005/12/01(木) 20:35:19
>>228 夭折した松千代・仙千代を除けば家康の息子の中では
一番存在感が薄い。
無位無官のまま死んでしまったし、病弱だったためか
これといった戦功や領地経営も残せなかった。
231 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 21:20:45
水戸時代に旧なんとか村皆殺しにしなかった。
旧山古志村
233 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 01:34:10
阿国踊り
念仏踊り
234 :
220:2005/12/02(金) 20:13:50
>>233は侍。感謝で御座る。
我輩は感銘を覚えたで次第です。では御免。
235 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:44:49
>>234 ・・・いや俺てきとーに「当時あった踊り」を書いただけだから・・・
確証はないぞ!!
236 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:08:59
age
松平長親 1471
信忠 1485
清康 1511
広忠 1526
徳川家康 1542
信康 1559
峯高院 登久姫 1576
238 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:10:56
>>237
何が言いたいのじゃ
239 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:59:14
保守
240 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 00:07:31
街道一の弓取りってどういう意味?
241 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 00:12:40
忠輝の子孫っているの?
242 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 13:59:12
忠輝の息子は焼身自殺
244 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:19:48
松平長七郎
245 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:09:08
246 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 12:01:46
age
247 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 12:39:19
家康生存中に死んだ息子は、11人中6人か。
名医もいて、たくさん食べ物も食べれて、暖かい布団に寝られるのに
息子の半分が早死か・・・。(長男・信康は別として)
248 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 14:27:59
249 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 15:36:19
忠輝の長男は、松平徳松だったような・・
享年18歳。死因自殺。
250 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 18:38:03
土井利勝について語る者はいないのか?
251 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 22:16:37
秀頼から一字を拝領するつもりがなかったのに、秀頼の「頼」とかぶるのを承知のうえで頼宣に「頼」の字をつけた家康はあほですか?
252 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 22:20:05
あほだったのさ。「義」でやめときゃよかったのに。
なんで秀忠から一字貰わなかったのかな?
御三家も2代目以降は将軍から一字拝領してますよね。
254 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:23:11
結城秀康は実在した人物だったんだ…
255 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 16:35:20
>>254 「鬼武者」のやりすぎ。 あっ、釣られてしまった!
256 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 19:49:19
>>253 家康の息子は別格だったんじゃない?
家康の孫以降は普通の大名なので一字拝領する、と考えたのかも。
秀康の息子は秀忠から一字拝領してるしね。
257 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:06:28
下総古河侯の土井周防守は家康の落胤なの?
>>253 もともと御三家とは将軍家尾張家紀伊家だったのを
家光の代にこれを改めて将軍家を別格扱いにして、
尾張紀伊に水戸で御三家にしたり
幕臣が御三家の当主を「〜様」で呼んでいたのを「〜殿」に変えさせたりもしている
二代目以降の偏諱拝領は、御三家の当主に偏諱を与えることで、
御三家といえども将軍家の家臣であるということを明確にするのが目的だったのではないかと・・・
一字拝領は家臣の証でもあるしね
>258
>もともと御三家とは将軍家尾張家紀伊家だったのを
>家光の代にこれを改めて将軍家を別格扱いにして、
その頃には、そもそも「御三家」自体が存在しなかったのではないでしょうか。
秀忠が将軍になる前、頼房が大奥に居た時分は、秀忠を含む三人が「御三人様」
とも呼ばれていたという話のようですが、秀忠が将軍になり頼房も所領を与えら
れた後は、秀忠は別格になっていた筈です。
一応は代替わり後とは言え、秀忠の大御所時代の上洛時も、三家と忠長がセッ
トであり、将軍に対してははっきりと「家臣」の扱いですし。
260 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:35:45
ちょっとスレ違いだけど、漫画の影武者徳川家康は続きでんのか?
261 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 02:31:01
>>259 >秀忠が将軍になる前、頼房が大奥に居た時分は
家康が将軍だった時期に大奥は存在しない。
>秀忠を含む三人が「御三人様」
またこの時期には家康の4男忠吉、6男忠輝が健在のため
御三家云々の話がでたことはない。
262 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 07:09:55
御三家だけが「徳川」を名乗れた、というのも嘘ですよね。
家光治世の折りにも、甲府宰相と館林宰相がいたし…
263 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 08:08:37
御三卿も徳川を名乗ってるぞ。
家光の弟だって名乗ってるし。
265 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:50:35
「御三家」というのは後世の呼び名なんだよな。
家康の死後まで政治生命を保つことができた息子が秀忠のほかには3人しかいなかったという偶然の産物。
そういう意味で家康が御三家を「創設した」というのは嘘。
>261
原文にあたれていないんで、正確な表記はわかりませんが、259の文は
林董一「将軍の座」に、松平義行の書「月の夜の友」の文章として引か
れているものです。(書物の性質上、口訳ですが。)
記事をそのまま引くと、
「慶長のすえ、神君が天下を統治されたころは、大坂に秀頼公がおられた
ので、万事質素だった。秀忠公の部屋と、義直、頼宣両卿のそれらとが並
んでいたから、御三方の御部屋を指して、ひとびとは御三人様と呼びなら
わした。頼房卿はまだ大奥におられた」
とあります。
大奥が、原文にあるのだとすれば、義行の頃の「大奥」に相当するもの
としてその語をあてんたんでしょうが、推測してもしかたないですね。
ただ、この文章から読めるのは、少なくとも尾張家の主張としては、
家康が手元に置いていた息子たちとして、(当初は)後の将軍と並び称さ
れていたんだ、ということでしょうね。
>>266 既に妻子ある秀忠と、まだ幼児の二人の部屋が並んでるわきゃねえだろ。
少なくとも義直、頼宣が生まれた頃の秀忠の官位からいって部屋住みの弟連中と同じ
御殿内に住むことは考えられない。
また1607年まで次男、四男が生存していたこともありわざわざ後三人様と称する理由がない。
官位から見ると御三家とは、
尾張、紀伊、駿河
269 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:33:25
忠長が粛清されなければ「御四家」として定着していたと思われ。
家綱に息子ができていれば「御五家」「御六家」だったかもしれん。
綱重や綱吉は無視ですか?
271 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:08:59
だから、忠長が4番目、綱重が5番目、綱吉が6番目。
家綱に複数の息子ができていれば7番目、8番目、と続いたんだろうな。
尾張大納言、紀伊大納言、駿河大納言は50万石以上。
水戸中納言は28万石。
館林宰相と甲府宰相は25万石。
時期にもよるけど格差大。
館林は最初15万石だったのを桂昌院の口添えで
10万石加増されてるぞ。
>267
> 少なくとも義直、頼宣が生まれた頃の秀忠の官位からいって部屋住みの弟連中と同じ
>御殿内に住むことは考えられない。
この二人は、元服前ではあっても、秀忠が将軍になる前に大名になっていますよ。
頼房は部屋住みのままで、下妻を与えられたのは秀忠が将軍になってからですが。
家康がこの時期に手元に置いていた息子は、秀忠の他には三家の初代だけですか
ら、控えの間がならんでいても特に不自然な感じはしませんね。
もっとも、松平義行という人の立場からすれば、「尾紀両家は格別の家柄」、本
音では「尾張家は別格」ということを暗にでも主張するのは当然だし、そういう色
がついた話であることは確かでしょうけど。
>>274 > この二人は、元服前ではあっても、秀忠が将軍になる前に大名になっていますよ。
なおさら部屋が並んでたらおかしいだろ。
ガキとはいえ大名なんだろ?
普通屋敷を賜るんじゃないのか?
松平忠輝はそうだったが?
あと、下の三人が大名だったら将軍になる前の秀忠と部屋が並んでてもおかしくない理由が弱い思う。
理路整然とした理由とはいえないとオモタ。
>>.274
>もっとも、松平義行という人の立場からすれば、「尾紀両家は格別の家柄」、本
音では「尾張家は別格」ということを暗にでも主張するのは当然だし、そういう色
がついた話であることは確かでしょうけど。
これが分かってんなら
>>267に反論しなくても良いでしょ?
御三家と並び称されるようになって以後(その他の兄弟の死or改易以後)にできた史料をみて
御三人様云々いっても詮無き事では?
松平忠輝なんか幕府にしてみりゃ一罰百戒の例以外としてはつっこんで欲しくない存在でしょうからね。
>276
反論も何も、267はそもそも根拠をなにも出してないんだけどね。
義直の孫の話を否定しようとするのに、「俺はそう思う」以上のことは何も
言っていないんだし。
同時代人が書いたものならともかく孫が書いたものだからね。
この史料からわかるのは、
この当時尾張家では御三家であることを特別視しており自らの家柄に誇りを持っていた、ぐらいまででしょ。
部屋が並んでいたとか、それ以上の事はこの史料だけではわからない。
他の史料にも見られる逸話なら真実味を増すけど。
実際の歴史や時代考証から考えても部屋が立ち並ぶってのは可能性が低い。
逆に秀忠と家康が別居(とはいわんか)していたという資料はあるのかな。
江戸時代に入ると、将軍と世子、父親(大御所)は本丸と西の丸に分かれて住んだりしますよね。
そういう資料が出てくればはっきり否定できると思うんだけど。
上記の親子別居の例がいつまで遡れるかもわかんないし、大奥というシステム自体
家光あたりに整備されたんでしょ。
家康・秀忠時代はそのへん質素かつアバウトだったかもしれない。
私自身は、独身ならともかく嫁もらった息子と未婚の息子が同じ屋根の下にいるとは思えないけど。
信長の姪が、自分達夫妻の屋敷も持たずに居候ってことはないと思う。
息子の松平忠輝や結城秀康には城下に屋敷を与えてるから
嫡子だからといって秀忠のみ本丸で家康と同居って事はないと思う。
秀忠に将軍職を譲った後、家康が江戸入りした時は西の丸に入ってるし
当時からその辺の区別はついていたのでは。
ってか家康が将軍だった頃ほとんど伏見で生活してなかったっけ?
秀忠に将軍職譲ってからは駿府で生活してるし。
>280
義直、頼宣も伏見にいたと思います。生まれたのは、義直は大坂、頼宣、頼房は伏見と
なっていますね。
駿府城にも一緒に連れていっているし、この三人は家康とほぼ同居の状態でしょうね。
>>281 それぞれの母親と同居ってのが正しいとオモ。
三人がある程度の年齢になるまでは奥向(後に大奥と呼ばれるもの)の部屋で生活していたはず。
その意味では御三家の三人の部屋が並んでいたかもしれん。
今と家庭構成が異なるのだから家康と同居ってのはかなり広い解釈かと。
>>283 養子だと何か問題でも?
フツーに育ててますが?
>>280 忠輝や秀康は別の家に養子に行ったから、屋敷を貰っているのでは。
この時代の大名の世子はいつ親元から独立するもんなんだろう。
元服時か結婚時だと思うけど。、
>>285 普通元服期じゃないの?
成人として扱われるんだから。
大名の世子は将軍にお目通りを果たして初めて世子として公認されたらしい。
その後元服って流れでは?
隠し子?の小笠原権之丞は
出てこないのかな??
288 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:40:53
289 :
まる:2006/02/26(日) 19:44:00
土井 利勝は?
290 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:52:43
291 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:54:13
今年の流行語大賞は「ガセネタ」。小泉首相が受賞だね。
対抗候補は永田の「本当に悩ましい」
293 :
まる:2006/03/01(水) 19:07:27
家康はなぜ 武田家家臣を大切にしたのだろう? 家康の奥の深さがあり、もっと評価されてよいでは ないでしょうか!
294 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 19:14:34
>293
豊臣家を滅ぼしたじゃん!!
295 :
まる:2006/03/01(水) 19:23:23
294さん それが どうしましたか? 豊臣家は 何回もミスをしてます。仕方がないですよ。
>>293 >家康はなぜ 武田家家臣を大切にしたのだろう? 家康の奥の深さがあり、もっと評価されてよいでは ないでしょうか!
今川・北条の家臣もちゃんと登用していますけど、武田氏の旧臣を重用したイメージはありますね。
先の2氏は滅び方が評判悪いから、イメージ悪かったのであまり宣伝しなかっただけの気もしますが。
あと、武田家臣を弾圧した(と誤解されている)織田信長との比較とか。
297 :
まる:2006/03/02(木) 06:49:26
武田家は以前は 敵! しかも 負け戦をしてますよね。こればかり家康に聞かないとわからないか?!
つーか武田には散々騙され痛い目にあっているのだが
後年の豊臣に対する仕打ちはそれらの経験が生かされてる
299 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:43:58
>>293 武田との戦後処理において(比較的)温情路線を取ったのは、単にその後の他の城の
攻略戦において降参を促すための下準備。武田滅亡後は住民慰撫が目的。実際、
強硬路線を取った織田軍は攻略戦でかなりの抵抗を食っており、本能寺の変直後の
一揆では甲斐府中城主河尻秀隆が一揆方に討ち取られている。
あと純粋に武田旧臣団の戦闘力も、家康にとって価値があったからと思われる。
山県昌景の赤備え軍団をそっくりそのまま井伊直政に与えたのは、その一例。
武田家家臣が重用されるきっかけとなった最大の原因は、小牧長久手の合戦後における
石川数正の出奔だろう。この事件で軍事機密が豊臣方へ漏れたと判断した家康は、
三河以来の軍制を武田式に改めている。当然要所要所に教官役となる武田旧臣を配置する
必要性があったため、嫌でも彼らの重要度が増す結果となった。
300 :
まる:2006/03/04(土) 23:39:17
武田信玄公にも 畏敬の念が あったのかも しれません!
301 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 07:49:34
>>300 神さまみたいな人だったから俺が唯一負けたんだ。
って雲子たれの言い訳だけどな。
302 :
まる:2006/03/05(日) 11:38:57
天下とりの ライブで 聞いてみたかったですね。時代が時代であれば・・・
スレタイを読めるヤツはいねえのか?
305 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 10:24:31
保守
306 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 23:05:57
age
307 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 00:42:25
秀頼から一字を拝領するつもりがなかったのに、秀頼の「頼」とかぶるのを承知のうえで頼宣に「頼」の字をつけた家康はあほですか?
308 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 03:10:29
おおっとループの予感!
309 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 07:09:38
>307二人とも、武家の棟梁 頼朝からもらったんだろ。源氏じゃないのにな。
310 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 10:49:21
頼方 頼宣 頼職
311 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 11:02:55
頼の文字については同意
同じく源氏ゆかりの義の字を尾張に使ったのと同じ。
しかし頼を紀伊・水戸の両家に限って使うあたりになにか意図を感じなくもない。
同じ家康の息子でも、天下が見え始めた時期に誕生するこの3兄弟は、それ以前の
秀忠以外の息子とは、最初から扱いが違う。
秀忠後継を前提にしての眷属という扱いで、秀忠にとってのライバルになりえない。
まして育ちや生母の悪い秀康・忠輝とは最初から別扱い。
一部には、忠輝がなぜ自分は徳川ではなく松平なのかと疑義を呈したと、小説なんかで
読むけど、最初から家臣扱いなんだから仕方ないね。
312 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 21:22:16
兄弟とはいっても、長兄信康と末弟頼房とは、へたすりゃ祖父と孫くらいの世代差なんだよな。
(しかも、頼房が生まれた時にゃ「兄上」信康はとうにこの世になし)
313 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 22:07:04
結城秀康が三河守になれたのは秀吉のおかげですか?
だとしたら秀吉は家康の後継者に考えていたのかも・・・
314 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:12:14
母の家格を考える場合、お万の方の三浦氏→正木氏やお勝の方の太田氏の家格が高いのはわかる。
でも、お亀の方の志水氏は別にさほどでは無いような。(石清水八幡の社務の田中家の分家)
315 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:14:41
まあ、正木氏については最近は三浦氏の傍流で上総移住者の一つに過ぎないと言うのが定説だけどな。
316 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:33:21
>313
つーか秀吉は秀康を養子にしてんだから
秀吉の後継者に秀康を据えて、秀頼と秀忠を特別な地位の大名にでも
すりゃ後年の争いも無く平和裏に収まりがついてたんじゃないのか?
317 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 14:00:12
>>316 秀頼を後継にしないのなら、秀次と妻妾子女をぶっ殺したり
秀秋を毛利に押し付ける必要もない。
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
319 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 03:59:47
何かと『元気な』家康の子供たち
長男信 康(1559-1579)・・・岡崎事件(信康自刃、築山殿殺害)
次男秀 康(1574-1607)・・・廃嫡・豊臣家養子配属問題、顔面崩壊謁見拒否事件
三男秀 忠(1579-1632)・・・関ヶ原遅参事件、保科正之養子事件
四男忠 吉(1580-1607)・・・疾病登城拒否問題
五男信 吉(1583-1603)・・・常陸国佐竹氏旧浪士騒動
六男忠 輝(1592-1683)・・・大坂夏の陣手打ち事件、大久保忠隣事件、キリシタン疑惑
七男松千代(1594-1599)・・・特になし
八男仙千代(1595-1600)・・・特になし
九男義 直(1600-1650)・・・寛永十年無断上京事件、将軍嗣子拝謁問題、熱田遊郭事件
十男頼 宣(1602-1671)・・・由井正雪事件疑惑、浪士大量召抱疑惑、和歌山城改築事件
11男頼 房(1603-1661)・・・嗣子廃嫡問題、江戸城下辻斬り事件、大奥乱交事件
長女亀 姫(1560-1625)・・・宇都宮城釣天井事件
次女督 姫(1565-1615)・・・毒饅頭事件
三女振 姫(1580-1617)・・・蒲生家家督相続問題
四女松 姫(1596-1598)・・・特になし
五女市 姫(1607-1610)・・・伊達家婚姻破談(市姫急死によるもの)
320 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:14:45
保守
321 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:20:32
六男忠輝は長生きしたなあ・・・・・・。彼が亡くなった頃の将軍は、五代綱吉だろ。
322 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 16:21:51
すごいな忠輝、おれが綱吉だったりしたら
しょっちゅう若い頃の話を聞かせてもらいに行くと思う。
323 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 20:00:31
しかし一番のお騒がせは小笠原権之丞じゃないのか。
324 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 00:19:51
だな
325 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:03:54
恐ろしいな
326 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 23:30:09
光輝マンガの忠輝読んでる限りじゃスッゲー奴と思った。将軍だべ?
327 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 20:16:20
保守
328 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 22:55:44
age
329 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 01:22:47
小笠原権之丞こそ家康の替え玉だった
督姫と北條氏直の間に二人の息子が居たってのを小説を読んだが、誰か知っている奴いるか?
331 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 01:11:49
>>331 確かにコレは怪しいな・・・
それなら、家継いでただろうに。
333 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 16:18:28
北条家も系譜が意外といい加減だしな。
334 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 01:11:25
>子の氏時の代に姓を桑島と改めた。仙台藩の幕末の志士、桑島孟はその末裔だと言われている。
桑島孟って誰?ググってもまったく引っかからないんだが。
338 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:34:50
>>331 氏直の子供っているんだ、まぁ伝説かもしれんが。
氏時と直久が気になるな。
339 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:43:58
そういえばこのスレの序盤にも秀康の鼻モゲラが出てるけど、本当にそんな
ことはあるのだろうか?しかも軟膏を塗って家康と対面って・・・。
340 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 09:12:39
>>339 梅毒は基本的に膿や湿疹、腫瘍を伴う病気で、進行するにつれて体内組織を
どんどん破壊していくため、からその過程で鼻や性器などデリケートな部分は
完全に壊死してしまうことがある。
ただ医療が発達した現代先進国では梅毒で死ぬ事はそうそうない(特に日本では)。
いまじゃ風俗で梅もらってくる奴なんかゴロゴロいるし
342 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:56:23
保守
343 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 22:06:11
age
344 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:13:43
age
345 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:01:28
age
346 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 16:47:10
永見民部
347 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:20:09
真ん中の連中は東条松平とか長沢松平とか平岩に養子に出されて哀れだな。
まあ、武田はわからんでもないが。
348 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 14:10:59
・ゼロから家を立ち上げる
・優秀な家臣を分割する
という不利益・手間を考えた場合、
他家に養子に出して、それを取り込んでしまえれば
そのほうが便利。
小企業でも一応、会社としての骨格があるから。
おまけに一応「松平一族」なわけだし。
「”徳川”じゃなきゃ宗家相続できない」ってのは後出しルールでしょ?
あとそいつらが養子に出された頃っていつ頃なんだろ?
家康にも、御三家作るほどの領地や裁量権(天下レベルの)なかったんじゃない?
349 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 15:19:06
>>「”徳川”じゃなきゃ宗家相続できない」ってのは後出しルールでしょ?
御三家系松平→徳川家分家→徳川宗家は、OKなわけで、忠直卿を怒らして
取り潰すためにつくった原則でしょ。
他の家康以前にわかれた松平や奥平、久松、池田なんかはそもそも継ぐことを
期待してないだろうし
350 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 16:09:44
秀忠以降の、忠輝とか忠吉の家にも、小なりといえど宗家相続権はあったんじゃない?
>>349みたいに徳川姓オンリーのルールが後付けされただけで。
351 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 15:27:24
ご乱行と早死にではどうしよもない。
352 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 15:37:31
徳川家の系譜を見たら、家康と家光と吉宗と家斉と慶喜だけが子沢山で、
その子孫達で、どうにかお家の存続が図れたみたい。
数世代に一人の子沢山将軍が徳川家を支えた。
あとの13人の将軍は、せいぜい良くて男子一人。
あの大奥がありながら、何をやっていたのでしょう。
353 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:00:56
適当なことを書いてないで、家慶の子供の数を数えろ。
成人男子なら秀忠3人、家光3人、吉宗3人
354 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:32:55
あの大奥だから、子供が生産できないんじゃないの。
家康を見習え。
「子供を産む機械」としての機能優先で選んでるwww
355 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:37:21
結果的には水戸頼房と一橋治済の子沢山が宗家と一門を支えた。
幕末にはこの血統しかいない。
356 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:39:57
357 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 17:37:28
俺、猫のミーと一回だけセックスしたんだけど、子供が出来てびびた。
幸い俺には似ていないようだけど。
358 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 20:24:03
>>357 そういう場合って届出とかしなくていいの?
359 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 20:31:59
>>355 幕末までは紀伊支流の西条松平の家系もあって、紀伊茂承なんて人もいたんだが、
明治になって家達の弟が養子に入って絶えてしまった。
360 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 21:35:17
徳川御三家、御三卿の息子達は元服時、当代将軍がゴッドファーザーですね…光圀は家光、吉宗は綱吉とか…
361 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 21:56:59
外様もそうですがな。
っていうか室町ぐらいにはry
越前系もたまには思い出してあげて下さい
363 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 09:51:51
>>316 秀康が秀吉の後ついで、豊臣と徳川が合体すれば最強だったのにな。
364 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:20:35
もし淀君に子どもが生まれなかったら、秀康、秀秋も秀次と並ぶ候補者になれた?
365 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:29:26
秀康は秀吉と血縁関係はないんだぜ。
有りえない。
366 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 20:12:19
とはいえ、秀次は姉の子、秀秋は妻の甥にすぎない。
赤の他人を養子にすることだって珍しくないわけで、秀康を時期関白にしてれば、
面白かったのにな。
367 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 20:54:55
徳川の家督を秀康にしちゃえばいいじゃない
>>366 現実的に考えて、秀康が2代目では誰も従わないだろう。
実父を家臣扱いすることすら不忠。
秀次と父親との関係はどうなるよ、と。
371 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 20:36:03
>>364 可能性は限りなくゼロに近い…って云うか、有りえ無い。まだ、宇喜多秀家の方が秀康より可能性は高い。官位が秀康は低過ぎるし、所領も雀の涙。
小田原攻めの後の徳川家移封の際に『加増分は秀康に与えたものだ』と秀吉が一言家康に云ってれば面白かったろうに…。
372 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 16:49:17
織田信長→羽柴秀勝の父としての秀吉への加増
みたいに、
豊臣秀吉→羽柴秀康の父としての家康への加増
ってことか。
秀康が豊臣を継ぐ場合は、「一応旭姫の子扱いなので秀吉の義甥、秀吉の養子」
って名目かなあ。
秀康と秀家は「猶子」だからねぇ。
その二人がオッケーなら八条宮だって候補に・・・
秀康→徳川家康が後ろ盾
秀家→前田利家が後ろ盾
秀秋→浅野長吉が後ろ盾?
八条宮→朝廷が後ろ盾…。但し、軍事力無し。
秀次が若死にし、尚且つ淀君や他の妻妾に秀吉の実子が生まれなかった仮定だけど…。秀次の実子が成長する迄の暫定関白ないし豊臣政権の暫定継承者。
大穴は織田秀信?
秀康→猶子。徳川家康と血縁だが政治的にはほぼ無縁。
むしろ世間から「六人目の大老」としての期待があった。
秀家→猶子だったかもしれない、程度。前田〜伊達派閥。
なにより彼を「上から叱る」人がいない。宇喜多家中混乱し放題。
秀秋→一旦は養子。血縁者。ただし関が原以前からアホで有名。
八条宮→猶子。朝廷が後ろ盾、というより彼が朝廷内で「豊臣を後ろ盾」にしていた。
武家社会に影響力無し。
確かに、結城秀康に権力(大老なり)と実力(大領土)があれば
なにか話は変わったかもね。
376 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:13:53
秀吉は長いこと子無しだったんだから、変に自分の血筋にこだわらず、
きちんとした養子を取って後継者として育てればよかったのにな。
秀次より秀康を後継者にして、羽柴と徳川の合体をめざせばよかったのに。
>きちんとした養子を取って後継者として育てればよかったのにな。
秀勝とか秀次とかね・・・きちんとしてたんだけどね。
>秀次より秀康を後継者にして、羽柴と徳川の合体をめざせばよかったのに。
秀次はなかなか優秀だった。
血筋がどうの以前に「政権としてのシステム整備」を急ぐべきだったと思う。
なんだよ五大老五奉行って・・・
それと大陸攻めてる暇あったら、
「天下総動員 vs 徳川」で徳川潰せよ、と。
378 :
衣笠宮:2007/04/11(水) 20:40:32
諱親
信康 織田信長
秀康 豊臣秀吉
秀忠 豊臣秀吉
忠吉 秀忠
信吉 武田信玄又は武田氏通字
忠輝 秀忠
義直 忠吉のよし?
頼宣 豊臣秀頼
頼房 豊臣秀頼
綱吉 家綱
吉宗 綱吉
慶喜 家慶
>>378 義直、頼宣、頼房は徳川氏が源氏である事を主張する為に清和源氏の諱である義、頼をとっただけで秀頼は関係ない。
義直 清和源氏の通字
頼宣 豊臣秀頼と清和源氏の通字の両方を兼ねる
頼房 上に同じ
382 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:45:02
まあ、どっちでも自分の好きなように解釈すればよし
・・・というのが、案外、家康の真意だったのかもなw
>頼宣 豊臣秀頼
>頼房 豊臣秀頼
以前このスレがバカが騒いだネタだわな。
綱吉の吉は秀吉の吉だとまで言い張った低能君、まだ生きてたのか。
どっち説も確たる証拠はない、でそのネタは終了してる。
綱吉は明らかなギャグだろ。
とりあえず、結論は
>>382ないし
>>384でOK。どっちともとれるし、いまとなっては闇の中。
家康の深謀遠慮ということでOK。
>>383 まあ、反対意見をバカとか低脳とか騒ぐとか罵るヤツが一番バカっぽいな。
俺は「頼」も普通の源氏の通字だと思うけど(「源頼○」と書くと一目瞭然)、
あえて、あの時期に秀頼とかぶる「頼」の字を使ったことは、多少引っかかる。
一字拝領とか豊臣への配慮とかとは逆に秀頼を否定する意味で、嫌がらせ的に
「頼」の字を使ったとも思えるが、この場合も秀頼を意識したことにはなるな。
いずれにせよ、確証はないから、家康の胸のうちに聞いてみないとわからんw
>>386 本人登場か。
嫌がらせだとしたら、徳川頼将本人はどう思ったろうな。
元服が同時期の義利兄ちゃんと扱いが違いすぎる。
なんか粘着的な人がいますねw匿名だからって見えない敵を作って必死すぎる。
たかが「頼」の由来くらいで。
389 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 15:19:16
日本史板で議論することを「粘着」だってさ。
自分の知識が欠落しているからってひがむなよ、恥ずかしいヤツだ。
頼宣が頼信から頼宣という名前に変えたのは和歌山へ移封後。
秀忠が将軍で家康はこの世におらず、秀頼もとっくに死んでいる。
秀頼の頼なら残す理由がない。しかも世継ぎ光貞には引き継がせず、
伊予西条の頼純に引き継がせている。
秀頼なんて全然関係ない。
>>389 議論というより気に入らないレスを罵倒や中傷したいがためのゲスの勘繰りだから、
粘着呼ばわりされても仕方ない。
>>390 どっちも説でも源氏の通字だから、あえて頼を捨てる必要はない。
御三家に限らず、国主級の大名は家光時代以降、ほとんど将軍の一字をもらってるから、
嫡子はみんな通字ではなく将軍の一字を上の一字にしている。
秀頼が健在時に頼の字をあえて使う以上、どういう意図であれ全く無関係とはいえまい。
むろん、源氏の頼の字というのは否定しないが。
秀頼が関係あるなら、
義利にはなぜ頼の字がつかないのか、説明できない。
秀頼の頼なら秀頼本人の許可がいるだろう。
淀が許可しねえよ。
義も頼も清和源氏の通諱。
これ以外のなにものでもない
>391
>御三家に限らず、国主級の大名は家光時代以降、ほとんど将軍の一字をもらってるから、
>嫡子はみんな通字ではなく将軍の一字を上の一字にしている。
尾張は「光義」「綱義」で、「拝領した字+通字」のパターンですよね。(どっちも
改名してますが。)まあ、紀伊の場合は水戸との取り合いになるからかもしれないけど。
分家の方は、三家とも代々「義」「頼」を通字にしているから、家系としての通字と
して意識し続けていたんでしょうね。
どっち説も確たる証拠はない、でそのネタは終了してる。
397 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 15:00:24
>>396 秀頼なんて全く関係ありようがない。
秀頼が死んだとき頼将は13才か? 後生大事にする理由は無い。
根拠も示せないお前、必死すぎで痛い。
>>398 相変わらず反論できない低能君、懐かしいな。
お前は綱吉の吉は秀吉の吉と書きまくってた阿呆だよな。
うっとうしいから早く逝け。
400 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:01:24
頼宣・頼房の頼は秀頼の頼! 綱吉の吉は秀吉の吉!
これは万古普遍の定理です。
はっはっは(笑)
こやつめー
404 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:30:52
おいおい、時期的に考えてどうかって話だろ
406 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 08:51:38
>>401みたいなバカはヌルーしておけ
ユーモアのセンスも知性のかけらもない。
なんか、秀頼がらみの話題にするのを極度に嫌がるヤツがわざとギャグにして、
ネタとして流したがってるような。
408 :
↑:2007/04/24(火) 22:05:19
あからさまな本人のなりすましは醜い。
個人的には、頼宣も頼房も母方の正木頼忠から頼の字はきてると思うんだが
とりあえず秀頼じゃないわな
ところで、11人を二つにわけてみ(大人しい組、大人しくない組など)いい暇つぶしになるよ
自分は義直がどっちかで悩む
>>409 それはない
将軍の子になんで側室の父親の偏諱貰わなきゃいけないの?
411 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 02:17:45
おとなしいのって、秀忠と信吉だけじゃない?
412 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 08:42:35
松千代、仙千代
>>409 正木頼忠の頼も秀頼の頼ですよ。源頼朝や範頼の頼も秀頼からの拝領です。
414 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 13:48:46
ネタ師うぜえ
>>411 松平の人間は根本的には激情家だからな
秀忠だって門番達が正室於江与をババア呼ばわりし「未だにセックスしてる上様も酔狂」
などと言ってたのを偶然立ち聞きしてその門番達を刀で刺し殺したことがあるらしい。
416 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 06:44:47
四男:忠吉(東条松平)
五男:信吉(武田)
六男:忠輝(長沢松平)
七男:松千代(長沢松平)
八男:仙千代(平岩)
東条だの長沢だの平岩だの、ショボすぎ。
417 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 08:07:51
87 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 19:01:02
>>86 そうか梅毒を盛られて毒殺されたのか。
確か清正も家康に白拍子を送り込まれて梅毒で毒殺されたのだよな。
家康は梅毒の使い手だな。
この発言した奴って天然の馬鹿なのか?
418 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 09:12:46
白拍子じゃなくて毒饅頭だろ。
>>417 梅の実の天神さんに毒があるからそれと勘違いしたとかw
420 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 11:16:33
当時って、梅毒が性病であることは分かってたのかね?
もし分かってたんなら、梅毒にかかった大名たちは正室とセックスしてたの?
娘が梅毒うつされたと知ったら、お舅さん激怒して戦じゃね?
>>420 梅毒が性病だと知ってたはず
松永久秀の著作の中に怪しげな梅毒予防の方法が載ってたと思う
422 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 12:43:48
梅毒ってコロンブスの航海以降にヨーロッパから新大陸に伝染したと聞いたが、
日本にはどうやって伝染したの?
当然南蛮人からだろ
424 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 12:49:44
うほっ・・・なのか
あほか?
南蛮人→遊女→(略)→戦国武将
だろがw
426 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 13:28:13
南蛮人・紅毛人とアナルセックスした戦国武将はいないの?
427 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 17:13:54
信長×黒奴
>>416 ・各家にはしょぼくても一応、家臣がおり、家中というシステムがある。
新規の会社を起こすより、小さい事業所を大きくシフトしたほうが混乱がない。
どうせ最初は小大名、成人してから所領拡大させるんだし。
・散らばりすぎた松平諸家の再統合
(松平の実質総領=徳川の権威向上でもある)
実子を送り込んで格上げすればいいだけのことだろ。
結果を見ても早死にしてるし、例外の忠輝はあのざまだ。
430 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 21:33:37
末子3人だけ無事に成人しただけでなく、子孫を残したことは奇跡
だな。末っ子の娘は早世してるよな。
特に頼房の子沢山は凄い。
431 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:49:58
3人だけ???
432 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:38:43
徳川美術館の殿様展行ったひといない?
433 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:21:22
御三家筆頭の尾張って一度も将軍を出してないんだな。
水戸ですら一度出しているのに。
義直が家光に刃向かいまくったのが原因だろうな。
435 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 05:20:18
千代姫が子どもを産みまくって、家光の血をひいた子孫がいっぱいいたのにね。
いっぱいいないでしょ。いっぱい生まれたけど揃って早世。
御三家で藩祖の血統が途絶えたのは尾張家だけだし。
437 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:22:32
尾張徳川家は8代宗勝にたくさん子どもがいたのに、9代宗睦の後に
義直以来の血縁の者を立てずに斉朝を立て、しかもその正室にも尾張
系の姫を立てなかったのは不思議。
438 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:14:15
その時点で男系子孫は井上とか竹腰とか他家に養子に出てたし、
一橋ファミリーで徳川一門を固めようという動きもあったしな。
439 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:37:56
440 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:56:00
1868年時点で家康の男系子孫は何人生存してたの?
441 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 05:32:48
>>440 越前や水戸系には、旗本、御家人、陪臣なんて多いから
当時でも正確にはわからんかったやろ。
442 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:13:33
>>440 吉宗から認知されてない隠し子の子孫まで加えるとエライことに・・・
443 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 08:15:33
ご落胤の話は時代劇でよく出るけれど、本当にご落胤から当主になった
例はあるのでつか?
吉宗がそうじゃねえの?
当初は加納政直の子として育てられたらしいから。
吉宗は「ご落胤」と言うより「縁起を担いで他家に里子に出した」例では。
将軍家ではないが
ご落胤から当主になった例では伏見宮貞致親王がいる。
京都所司代らによって探し出されるまで鍛冶屋をやっていたそうな。
446 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 16:24:00
>>438 でも今のところは
田安、尾張、紀伊以外は
水戸宰相治保の系統なんだけど
447 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 16:26:58
>>438 「動き」っつーか一橋治済の野望だろ。
定信を白河に追い出したし、
家基を毒殺したのは治済かもしれん
自分の子孫で徳川一門を固めようとした
治済の野望のその後は
>>445の通り
448 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 19:49:02
水戸系以外なら
・家康→秀康→松江松平家
・家康→秀忠→家光→綱重→清武×
・家康→秀忠→正之→(略)→容衆×
・家康→義直→光友→友著→宗勝→養子に行った男子の子孫
・家康→頼宣→光貞→吉宗→宗武→定信→養子に行った男子の子孫
・家康→頼宣→光貞→吉宗→宗尹→家斉→津山松平家
・家康→頼宣→光貞→吉宗→宗尹→斉匡→現徳川宗家・田安徳川家・現越前松平家
・家康→頼宣→頼純→西条松平家×・紀伊徳川家×
449 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:53:24
・家康→頼宣→光貞→吉宗→宗尹→斉匡→慶頼→徳川宗家(家達→家正→(豊子)→恒孝)
・家康→頼房→頼重→頼候→頼豊→宗尭→宗翰→治保→義和→義建→容保→恒雄→一郎→徳川宗家(恒孝)
現在の宗家は水戸系ですよ。(水戸→高須→会津→宗家)
450 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:05:13
宗武の子、吉宗の孫の松平定信が譜代の家臣がなる老中とは屈辱的仕打ちだろ。
幕末の京都守護職、政治総裁職、将軍後見職は別格で難局において一族が結束して執政にあたるという意味があっただろうけど。
その場合、松平春獄も大老とせずに総裁職としてるし。
451 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:15:09
松平定信は自ら望んで老中になったんだよ。
老中になることが仕打ちだと思ったら、改革なんてやるわけなかろう。
老中になるために時の権力者田沼に贈り物をしているし、
絶家状態の実家の田安家の再興に敵であるはずの一橋家から当主を
迎えることにも同意している。
あと、政「事」総裁職な。
452 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 19:27:49
そもそも久松松平家(松山藩や白河藩)は、田安家の息子が養子に入ったから、
親藩(家門)に准ずる扱いをされるようになったわけで、本来譜代大名だから、
定信が老中に就任すること自体は何の問題もない。
最幕末期にも伊予松山藩主の松平定昭が老中上座に就任している。
久松はずっと前から親藩だろ・・・
454 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 22:18:33
久松は本によって譜代だったり親藩だったり、微妙なポジションの家。
田安徳川家から養子をもらい親藩扱いになったが、家康時代は特別扱いされてない。
455 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:09:07
>>454 >>家康時代は特別扱いされてない。
娘(家康の姪)はみんな家康の養女だろうが、政略用の持ち駒だけど。
それと譜代ではないよ。どっちかいうと織田側に近い家だったようだよ。
>>449 世が世なら御三家・御三卿(徳川)以外の家門(松平)から直接宗家を継ぐのは有り得なかったろうな。
話は変わりますが、紀伊家が断絶の危機って本当ですか?
それと、尾張家は水戸系じゃ…?
457 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:27:02
男子がいないからね
建築家の女性が1人いるが、その人も女系だし。
養子でも取らないと終了だな
458 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:52:02
子孫に女子がいるというだけで、旧大名家としては事実上終わってるだろ>紀伊家
459 :
458:2007/05/13(日) 15:56:10
言葉足らずなので、補足すれば前当主の浪費散財と未亡人の事業失敗で、
旧大名家としての格式を維持するにたる財産は全てなくなりスッカラカンに・・・
財団や美術館や資産管理会社を運営している尾張・水戸とは雲泥の差の境遇です。
子孫がいれば家系自体は残るが、旧華族旧大名家としては、完全に終わっている。
460 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:22:21
家康の男系子孫の多い水戸系から養子をもらって家名だけでも存続させればいいのに。
まあ、財団つくるだけの文化財も資産もなくなってるから祭祀の継承くらいの意味しかないけど。
461 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 16:14:36
吉宗の血統尊重するなら、水戸系じゃちょっとな。
紀伊系の男系子孫が残ってる旧華族旧大名家で男子が余って(言葉は悪いが)居る所から養子って事になるのでしょうか?
でも、ぶっちゃけ宗家は会津系じゃないか
その会津も容保公は高須藩の出身で
その高須藩も養子が入っていて、その養子はどこからきたかというと
水戸藩からキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!という
どうしても吉宗系がいいなら田安家の子孫がいる。
でもそういう時代じゃないんだよ。
公家のトップの近衛家なんか細川系だ。
465 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 21:01:20
近衛の場合はシベリアで抑留死した文隆に、俳優の東隆明という男子がいたのにな。
さすがに昭和の時代に
入籍もしてない芸者に生ませた男子に
名家の跡継ぎさせるのは周囲を納得させられんでしょ
つか家康の息子の話はどこ行ったんだ
家康ってチビデブだったらしいけど息子も小さかったのかね?
うんこ漏らしの絵はデブではないんだが。
469 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 09:11:21
あの絵は家康本人が自戒のため描かせたというのが定説だが、
本によっては息子の義直が描かせたって記述もあった。
どっちがホントなんだ?>うんこ漏らしの絵
470 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:19:14
義直が書かせた意図は?
オヤジの恥ずかしい絵だぞ。
>>467 デブが必ずしも生まれながらにデブとして生まれてくるわけではない、ってことも考慮に入れてやれよ。
漫画のせいでデブでのろまのイメージが定着した元阪神→西武の田淵だって、プロ入りしたころはでかいけど太ってなかったよ。
家康は薬オタクになって寄生虫病が治してから太ったんじゃなかったけ?
473 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:53:07
ファンファン岡田真澄も70年代前半の「プレイガール」にゲストで出てた頃と、
90年前後の仮面ノリダーの頃とでは倍以上に膨張してるからな。
>>473 倍以上に膨張と言えば、郷秀樹こと団時朗の膨張っぷりも負けてない。
476 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 10:46:18
加護ちゃん
477 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 13:33:42
福井郷土歴史館?で結城秀康の展示やってるみたいだけど、
行ったひといないの?
478 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 00:31:13
479 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 01:13:16
でも郷秀樹が膨張してもいざとなればウルトラマンになれるから問題ない。
>>478 秀康や忠輝がバトラーのイメージじゃねえな
>信吉(墓地)
ワロタ
482 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 14:43:27
>>467 徳川頼宣が着ていた服の大きさは約160センチ
これから実際の大きさってわかる?
服の大きさで言われても
だぼだぼファッションかもしれないし、
ぴたぴたファッションかもしれないし、
秀吉みたいに肩パットはいってたかもしれないし。
484 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 23:04:20
肖像画と違って極端に顔が長かったかもしれないしな。
過疎
最近頼宣が知能派らしいってのを聞いて結構驚いた。秀康タイプだと勝手にイメージしてた。
そういえば同じイメージがある忠輝は農民大切にしたほうらしいな。忠輝の手腕と言えるかはわからんが。
487 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 13:43:22
静岡の浅間神社に住まう日本猿を退治して結局自殺した徳川一門は誰だったけ?
488 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 13:47:39
489 :
聖典従事者:2007/08/12(日) 14:31:41
あんがと
ボクに猿退治やらせてくれたらうれしいな。一匹五万円で。
普段から猿よりも神聖な人間をいじめといて、いざ猿を退治するとなると罰があたるからやだ、とかいうのけったいだよ。猿よりも人間退治した方がよっぽど罰があたる。市長や猟師って頭がポンコツだから困る。
490 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 14:26:11
>>486 秀康にどんなイメージ抱いてんだよ。
そりゃ若い頃は結構暴れたもんだけど、
思慮深い次世代として声望あったんだぞー
「御洒落つけ鼻」が趣味です。
隠し子は息子として数えないの?
永見・小笠原・土井。
493 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 18:08:14
はい
494 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 08:16:11
どうして隠し子にしたのでつか?
495 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 11:44:39
余計な後継者争いや庶子だったから。土井はその中では格別重宝されたが。
松平康重←こいつは一体何者?息子なの?
松平康重は三河松井氏の出身で、父松井忠次(松平康親)の時代に松平姓を名乗ることを許された家柄です。
徳川家康の落胤という説があり、家康の侍女が父の康親に嫁いだ時、すでに家康の子を身ごもっておりそれが
康重だったということです。初代篠山城主でしたが、元和5(1619)年岸和田に移封されました。
497 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 15:07:54
何者って言われても、その解説通りだよ。
幕府黎明期の重臣のひとり。
>492
信吉を五男でなく八男とした記録が残ってるよ。ただ鈴木市蔵は流石にノーカウント
みたい。
499 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 17:31:56
家康って一体何人、隠し子いるんだよw けど、みんなそこそこ優秀なんだよな。
遺伝子的に家康の精子は凄いな。
500 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 17:41:22
六男忠輝や孫の松平忠直みたいな
狂質もいたがな
だが、両人とも豪快な性格なだけで武将としてはそこそこだろ。政治力は無いとしても。
織田信雄よりはましだろ。
502 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 17:56:18
家康の息子や孫に気性の激しい香具師が多いの事実だよな。家康自身も気性が激しかったのかな?
>>502 そうだよ。ときどき火病を発症した。
三方原とか。
504 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 19:55:23
人質時代に罵倒された隣家のオヤジを、後年になってから切腹させたくらいだしな。
執念深い性格ではあるだろう。
三河の一向一揆のときは暴れまくってたしね。
執念深くて癇癪持ち…
たまらんな
信康事件のことだが、信長はかつて妹婿の浅井長政に
裏切られている。
信康を殺せと命令したのが事実なら、同じように家康が
裏切る可能性を予想しないわけはないわな。
それに五徳の身も心配。家康が裏切れば殺される危険性
もある。
当時信長は本願寺をはじめ、四方に敵を抱えていた。
そんな時に家康を敵に追いやるような真似をするとは
思えない。
508 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 00:17:14
age
509 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:12:35
>>501 松平忠直は正室の将軍徳川秀忠の娘勝姫を
乱心で切り殺そうとし、改易。
武将としても完全な基地外。
>完全な基地外
完全な基地外だったらわざわざ越前から豊後まで旧領民が弔問に行ってないぞ
511 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 18:29:32
>>510 >旧領民が弔問
まあ、それも伝説だが。
513 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 01:19:33
age
514 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 01:03:59
>>502 むしろ幼少時から短気で癇癪持ちのエピソードもあるから
我慢強い・気が長いとされる性格は社会的性格であり今川人質時代に後天的に形成されたものかと
>>514 我慢強いとか気が長いってのは処世術なんだろうな。
相手次第状況次第でブチ切れ(本性)たり、温和律儀を装ったり。
執念深いからこそ、信長の話をしなかった(避けた)って逸話が残ったんじゃ…。
保守巡回点検
517 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:13:59
>>507 織田を裏切った浅井長政はお市を殺していない。
長政としてはお市を生かす事で、将来の和睦を考えて居たのではないか?
信長もお市が生かされ居る状態なら、やはり和睦も可能と考えてたと思う。
状況が悪い時こそ、和睦の種は残して置くのが賢明だろう。
一つの戦線(敵)が、一時的にせよ無くなるのは信長にとっても長政にとっても一息つける可能性がある。
この事から、たとえ徳川と不和になっても五徳の身はほぼ安全と考えてもイイと思う。
戦が起こるかどうかは別にして、信長が三河へ進軍しない限りギリギリの交渉で回避出来たと思う…。
家康も我が子可愛さに、いきなり尾張に攻め込む愚は犯さないだろう。
実は意外に家康から信長に信康切腹を持ち掛けたのかも知れない…。
いくら織田の姫を正室に迎えたからって、信康が親織田とは限らない…。
518 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 13:55:29
人質だからって必ず殺される訳じゃないからな。
さて、そろそろ俺様の出番かな?
520 :
517:2008/06/10(火) 09:53:51
やはり、政略結婚と証人(人質)は分けて考えるべきだな
政略結婚の場合、実家と婚家が戰になった場合離縁になるのが妥当だろう
その点証人は見せしめの為に血祭りにあげられる
誰か政略結婚の後に血祭りにあげられた…ってのを知っていたら教えて
だから徳川が織田との同盟を破棄したとしても、五徳の身は安全といえるのではないか?
ただ織田と徳川が戰になれば信長は大変に…
でも信長の事だから、徳川が背いても大丈夫な様に何等かの策はあったと思う
521 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 17:45:29
age
522 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:54:46
>>520 徳川と織田が戦になれば五徳は織田に送り返されるだけだよ
また実家の父が娘の身を案じるあまり何か策を設けるというのは考えすぎ
本来嫁は同盟が破棄されれば里に返されるものだが
何らかの理由で里に戻れなければ命を失ってもやむを得ない
息子だって命を失ってもいいから戦場へ連れ出すのだから
娘の命を家運よりも重視するとは考えられないな
大阪城落城の日まで城を落としてもらえなかった千姫も
中に娘・孫娘がいることを知っていながら
家康・秀忠は大阪城に大砲をがんがん打ち込んでたし。
523 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 08:52:02
送り返しもしないだろ。
524 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 03:27:53
家康は薬物依存症。ただし作るほう。
525 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 06:03:13
下らない疑問だが・・・・・・・
信康は長男なのに何故岡崎三郎なんて呼ばれているんだ?
526 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:11:38
当時、家康が徳川姓を家康本人だけで独占していたから。
527 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 17:59:43
皆さん初めまして。
歴史に詳しい方が多いみたいですが、全国を巡り資料や文献を見て学ばれたんですか?
まさかネットや書籍じゃないですよね。(笑)
失礼、ネットの訳ないですよね。
ところで家康は狸オヤジなんですか。?
それとも旗印の如く平和主義者だったんですかね。
528 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 05:07:50
>>526 サンクス・・・・・と言っていいものかどうか
そういうことではなくて
信康は長男なのに岡崎"太郎"または岡崎"一郎"とは呼ばれず
何故岡崎"三郎"なのかという疑問です
529 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 06:26:21
松平家当主の代々の通称が「次郎三郎」だから。
清康は「安祥之三郎」、広忠は「岡崎三郎」とも呼ばれた。
531 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 09:51:38
>>528 慣例で跡継ぎに付ける通名ですね。
ちなみに、幼名も代々
竹千代です。
>>531さん
>>529さん
分かりやすい説明ありがとうございます
そうすると秀忠以降の当主はさしずめ"江戸三郎"といったところでしょうか
(勿論こんな通称は無いでしょうが)
地名を名乗るのは分家筋。木曽義仲とか。
将軍家は堂々と名乗るよ
佐々木氏の宗家は地名の六角名乗ってるな
>526
裏付ける資料はありますか?
普通に考えると、事実上の主人である信長の
娘婿で、偏諱も拝領した子を庶子の扱いにす
るというのは有り得ない話ですが。
後代、秀忠に遠慮して「徳川」を明示するのを
やめたということじゃないですかね。
便宜上岡崎三郎なだけでしょ。
537 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 21:47:57
>>535 家康は叙位を受ける際「徳川」を名乗っていたが
信康は叙位を受けることもなく20歳で自刃
「徳川信康」という史料も署名も残っていないのであればなんともいえない
信康が家康の嫡男であったことに異論はないが
家康も徳川を生涯の苗字にするかどうかはこのとき確定しておらず
(この時点で改姓する可能性もあったという意味で)
信康存命中それを息子に継がせようとしていたかどうかは憶測に頼るしかない
むしろ家康の「徳川」のほうが、当初は
かっこつけてちょっと名乗ってみましたよ〜、的なもの
539 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 06:52:37
想像ですが、家康の改名
や信康を岡崎に置いたのは信長へのアピールではないでしょうか。
今川の血を引く信康には、松平宗家は継がすが家康自身の跡目は未定…
そして、自身は由緒ある
得河に改名して、織田と対等 対等以上なんだとアピールする意味があったのではないでしょうか。?
540 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 22:23:36
家康----信 康(1559〜1579)・・・侍女や侍従をしょっちゅう嬲り者にしたと嫁に告げ口されたことがあるほど癇癪もち
|-:亀 姫(1560〜1625)
|-:督 姫(1565〜1615)・・・先妻の子供を排除しようと毒饅頭を仕掛けるが、誤って自分の実子を毒殺した
|-:秀 康(1574〜1607)・・・秀吉の朝鮮出兵頃より女癖が悪化し、晩年顔面がマイケルジャクソン状態になる
|-:秀 忠(1579〜1632)
|-:忠 吉(1580〜1607)
|-:振 姫(1580〜1617)・・・セックスレスに陥ったことを父親に叱責され、二度目の結婚後高齢出産し死亡
|-:信 吉(1583〜1603)
|-:忠 輝(1592〜1683)・・・硬水と軟水を飲みわけることの意義を見出した初の日本人とも言われている
|-:松千代(1594〜1599)
|-:仙千代(1595〜1600)
|-:松 姫(1597〜1600)
|-:義 直(1600〜1650)・・・なかなか側室を持たなかったが、家来と一緒に側室探しに町の風呂場を覗いた
|-:頼 宣(1602〜1671)
|-:頼 房(1603〜1661)・・・お前が欲しい物は何だと問われ、「江戸城天守閣からダイブするから天下をくれ」
|-:市 姫(1607〜1610)
まだある?
>>540 督姫の逸話なんかは俗説っぽいな。
本多正純の一件に一役買った?加納御前
関ヶ原では大ハッスル・・・松平忠吉とか
542 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 02:09:09
秀康は「ババ引いた」「法則発動」というだけてあり、
女癖が悪化したわけじゃない。
成人した息子の中で、頼房は唯一正室を持たなかったよね。
縁談とかなかったの?
振姫は夫が死んだんだからセックスレスもなにも…
尾張義直
紀州頼宣
水戸頼房
駿河忠長
以上4名の「徳川」賜姓の順番を教えて下さい
>>540 亀姫ってあれだろ? 孫が左遷された仕返しに、後任に入った老中をチクって失脚させたババア。
>>546 宇都宮釣天井の黒幕だっけ?
母や兄に似た癇癪持ちだったんだろうか?
>>547 親父だって癇癪持ち…
親父が天下人になったけど、奥平に加封が少ないのを常々不満に思ってのかも
>>548 加増と言うよりは、息子が死んだ時に家臣が殉死したのをとがめられて減らされた上に他へ移されたんで、癇癪起こして家中屋敷の襖や竹
木までみんな持っていこうとして正純に止められて(慣例法としてはもちろん正純が正しい)さらに恨み骨髄。
しかも、その後任に栄転してきたのがその正純だっていうので完全にキレたらしい。
550 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 02:53:53
大久保忠隣失脚時から正純には怨み骨髄
551 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 01:40:28
家康----信 康(1559〜1579)・・・嫁と姑の仲があまり良くない事に悩み、家臣や女中に喧嘩の仲裁を相談した
|-:亀 姫(1560〜1625)・・・目の上のタンコブ本多正純を駆逐した際に「やっと安心して死ねる」と自ら豪語
|-:督 姫(1565〜1615)・・・先妻の子供を排除しようと毒饅頭を仕掛けるが、誤って自分の実子を毒殺した
|-:秀 康(1574〜1607)・・・秀吉の朝鮮出兵頃より女癖が悪化し、晩年顔面がマイケルジャクソン状態になる
|-:秀 忠(1579〜1632)・・・希代の恐妻家、気に入った女性にお忍びで会いに行く際には女装をも厭わない
|-:忠 吉(1580〜1607)・・・関ヶ原ので負傷・発病した井伊直政を毎日負ぶって登城する姿に周囲が涙した
|-:振 姫(1580〜1617)・・・高齢出産のため産褥熱で死亡したが、その際旦那に「今度はゴタゴタしないでね」
|-:信 吉(1583〜1603)・・・一説には佐竹の残党との戦いに巻き込まれて討ち死にしたとの説もあり
|-:忠 輝(1592〜1683)・・・父親が実践していた生薬療法&緑茶療法を継承・実践し92歳まで長生きを続けた
|-:松千代(1594〜1599)・・・鞠つき遊びを好み、女中たちと一緒に寝ることを楽しんだ甘えん坊
|-:仙千代(1595〜1600)・・・4歳で和歌を詠むほど頭の回転が良かったが数え6歳で悲しくも病死
|-:松 姫(1597〜1600)・・・4歳で病死、特に縁談もなし
|-:義 直(1600〜1650)・・・4代将軍家綱誕生の挨拶に来いと言われ、「ガキに頭を下げるわけねえだろ」と一喝
|-:頼 宣(1602〜1671)・・・浪人を積極的に召抱える事を過信に咎められると「牙は研いでおかなきゃいけない」
|-:頼 房(1603〜1661)・・・幼い頃の水戸黄門に「肝試しに、処刑場から生首を一人で持って来い」と命令した
|-:市 姫(1607〜1610)・・・伊達政宗の息子と婚約するも夭折、死ぬ直前に「申し訳ない」と夜通し泣き続けた
552 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 02:07:31
毎日お負って???
553 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 13:21:21
督姫は忠継より先に死んでるから毒殺はありえない
554 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:40:49
しかしまあ、家康は晩年にいたるまでセッセとセックスしとったっちゅうことやな。
まさに英雄色を好むっちゅうのを実践しとったわけや。
555 :
↑:2008/12/24(水) 20:55:42
あたまの悪いレスだな
556 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 20:48:35
忠輝の子孫はいないの?
>>556 一人いたけど父親に先立って死去(幕府の扱いが酷いために悶死、或いは抗議の自害をしたとも)
ちなみにその息子には妻子が無く、よって忠輝の子孫はいない。
558 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 18:19:03
信吉の地味さが光る!
559 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:18:41
>市 姫(1607〜1610)・・・伊達政宗の息子と婚約するも夭折、死ぬ直前に「申し訳ない」と夜通し泣き続けた
たった3歳でこんな殊勝なこと言えるかね
どこかの大名の姫の殊勝な遺書が残ってたね。
お父さんが懇意の大名に配ったとかいう。
小桜藩(鳥取藩支藩)の露姫か
562 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:58:00
若桜藩な
>>539 そりゃ無理がないか?
秀康が生まれた時父親に愛されていなかった話が事実だとすると、秀康が跡目を継ぐ可能性はゼロとして、次の男子は信康切腹の5ヶ月前に生れた秀忠となる。
つまり、松平宗家を信康に継がせ、家康跡目を秀忠にすると家康が仮に考えたとしてもその期間はわずか5ヶ月間しかなく、それを具体化する何かを行うだけの用意が出来たとは思えない。
564 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:00:33
なんで秀忠の同母弟の忠吉が東条松平なんてどうでもいい家の養子になったの?
>>564 十八松平で真面目に広忠−家康の系統を支持していたのは東条松平くらいなのだが。
東条吉良氏の養子の系統なら、足利とのつながりもあってそれなりに格があるんじゃないの?
567 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:16:13
>>564 当時の徳川家自体が大したことなかったから。
信長の同盟者とは名ばかりの信長配下の大名で
しかも一番死ぬ確率の高い先陣役
今川の支配を抜けた後もこきつかわれた。
天下取りなんかが見えてきたのは家康の晩年でしょ。
家康の息子たちへの対応
信康、忠輝は放任
秀康は放置
秀忠と忠吉には教育パパ
義直、頼宣、頼房は溺愛
信吉とその他はわからん
こんな感じだな。
むらがあるのは年齢と相性によるのか?
569 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 21:07:08
家康の男系子孫で自殺・他殺したのって、信康、忠長だけ?
松平光通
571 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 09:51:46
息子、孫、ひ孫から1人ずつ自殺してるのね
忠輝の息子も自殺じゃなかったっけ?
573 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 14:45:57
>>568 それぞれの男子が生まれてきた時代背景も影響してるでしょ。
御三家の祖になった3人が生まれた頃は家康の天下がかなり
確実視されてきた頃だし、逆に信康や秀康が生まれた頃の
家康は信長の家来同然の立場だし。
>>573 まあそうすると忠輝だけ扱いが異常なんだよな
忠輝本人が尋常じゃなかったせいもあるかもしれないが
家康は織田と組む前に今川へ臣従してた時
信康を人質として駿府に差し出してたよな。
576 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 23:27:57
家康の息子は
武勇に優れてるけど血の気が多いイメージがあるな
まあ戦国時代だからなのかもしれないけど
578 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:39:40
もし家康が子どもが無いまま死んだとしたら、従兄弟で妹婿の松平康忠が後継者になったのかな?
579 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 18:50:39
異母弟の内藤信成が後継者になりそう
580 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 21:33:19
家元は池沼だったの?
581 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 22:45:14
家康は息子には何十万石も与えたのに
苦労を共にした弟には5万石弱とはひどすぎる
582 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 01:18:19
>>578 子供がいなかったら、信康の代わりに切腹させられて、
三河一帯が織田の直轄領。
583 :
ぴーす ◆JmMUblnAP. :2009/09/30(水) 13:21:40
信孝、信お、秀勝のどれか
584 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 16:44:54
>>578 時期にもよると思うが?
桶狭間の前の場合と桶狭間直後、そして織徳同盟成立後…
あぁ、IFの話に突っ込んでしまった…orz
586 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 22:35:52
587 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 15:25:19
康元と混同したとよく言われてるが、
仮にも江戸幕府が作成した史書や系図に、
神君家康公の係累でそんなミスを記すだろうか。
個人的には、足利義満の弟満詮同様、
偉大な兄に隠れた影の薄い弟と考えたい。
588 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:22:19
家元と同等じゃいくらなんでも満詮が可哀相な気がする。
589 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 13:03:07
家康ほどの超有名人で、江戸幕府にとっては神にも等しい人物の場合、
兄弟を別人と混同とか創作なんてありえんだろ。
家元の経歴見たら、別に捏造・創作する必要のあるような人物でもないし、
昔はよくありがちな、体が弱くて表に出られなかった人物だろ。
そもそも家康改名は1563年なのだから、元服時から「家元」を名乗ったとは思えないのだが。
秀康の双子の兄弟の信憑性とかはどうなるんだろう
592 :
日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:10:16
結城秀康の双子の兄弟は夭折したのでは?
594 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 00:09:20
家元と似たようなものだな
595 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 00:17:34
家元って捏造っぽいけど、誰得な気はするな。
596 :
日本@名無史さん:2010/06/14(月) 00:15:23
家元って特筆すべき事績が何もない
597 :
日本@名無史さん:2010/06/14(月) 00:31:30
家元ってそもそも名乗りからして有り得んだろ。
家の字を使う重要性もないし元康の元を下に敷くとか。
しかし、何の事績もない奴を捏造するメリットこそ無いだろ
子孫を名乗ってる奴がいるとかなわけでもないし
誤解と勘違いから生まれた物なら、故意の捏造じゃあないでしょう
600 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 22:28:24
家康の庶兄とされる松平忠政みたいに存在を隠されたとか
601 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 18:34:16
長七郎みたいに時代劇のヒーローにすればいい。
「家元公江戸日記」とか「暴れん坊家元公」とか「家元公捕物帳」とか。
孫の話はNG?