「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか17)
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 13:20:27
2get!!
3 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 13:32:33
3get!!
4 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 03:06:48
衆議院選のせいかひっそり。
5 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 10:34:00
なぜか、同じスレが二つ
>
6 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 17:49:44
6ゲト!
アク禁喰らったかと思ったぜ!
7 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 12:33:19
保守あげ
8 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 21:24:30
卑弥呼あげ
9 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/23(金) 11:00:21
スレ主さん
このスレ今日からお借りします。
宜しくお願い致します。
10 :
邪馬台国はここだ!:2005/09/23(金) 11:02:13
11 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 11:06:20
コテハンプロフィール
圭角:50代 自由業 古代史著書2冊。
サガミハラハラ;50代 小学校教員退職 著書1冊
プラム:44歳 高卒中小企業リーマン 著書なし
太 :謎。細かいつっこみ屋さん
sss;不明
16歳中卒ヒッキー;HNそのまんま
12 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 11:13:41
圭角の本はどこに売ってる?
13 :
太:2005/09/23(金) 11:23:02
www!
14 :
電波:2005/09/23(金) 11:28:05
新人の電波です、卑弥呼が殺された場所が、出雲とか丹後とかならいいね
15 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/23(金) 13:26:27
>>14 >卑弥呼が殺された
「卑弥呼以死」
この文を、そう解釈したのですね!
では、共立の年代は何時と解釈しますか?
16 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 14:03:38
小林恵子氏の「興亡古代史」すばらしいです。
日本史としてでなく東洋史の観点から邪馬台国を位置付けています。
晋書によると240年に東倭が朝貢してるらしいので
これで完全に畿内説はないんじゃないですか?卑弥呼の
倭国と区別して書かれてるし畿内王朝か出雲のことを
指しているのだと思います。
17 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 14:05:41
漢に朝貢した奴国王は太武神。
卑弥呼は江南の許氏。
神武のモデルは高句麗の東川王 らしいです。
18 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/23(金) 14:20:12
>10 さっそくご紹介戴きありがとうございます。
邪馬台国小城説のよりいっそうの普及をはかりたいと思います。
19 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/23(金) 15:28:15
>>16ヒッキー君
>晋書に240年に東倭が朝貢
晋書に、正始元年の記事ありましたか?
(私の記憶違いならスマソ)
それに、正始元年は
(太守弓遵遣……)で
宗主国から冊封国へではなかったか?
>>17ヒッキー君
前から何度もカキコしてるんだが
別な史書に出てくる名前の別な人物に置き換える時は、確かなの裏付けを提示したのち、カキコしてもらえないだろうか!
スレの主旨に沿わないことだし 後々混乱を招くだけと思いますよ
但し、確かな裏付けの提示後は、その限りではありませんが
21 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 20:36:24
東倭狗奴国東川王連合 VS 邪馬台国幽州魏連合
だったのが当時の情勢だったようです。
そして邪馬台国は敗れました。卑弥呼の墓は
平原遺跡が最有力だそうです。
22 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 20:38:21
>プラムさん
すいません。小林恵子氏「興亡古代史」に書かれていますが
内容が煩雑すぎてまだ僕の頭の中で整理しきれていません。
23 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 20:40:10
しっかしスレ寂れてますねえw
24 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 20:50:30
匈奴系の劉氏も大和朝廷内に紛れ込んでる模様です
25 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/23(金) 21:01:36
さてK1でも見ますか。落ち
26 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 00:16:53
ハイハイワロスワロス
27 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 00:30:39
チョンは出てくんな氏ねカス!!!!!!!!
28 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 01:44:01
■しかしながらその他の多くの官名は、日本の「古事記」「日本書紀」の神代の巻に現れる神名などと一致するものが
多いのは注目される。不彌國の官「多模」は、「万葉仮名の読み方」で正確に「たま」と読め、古事記には「玉の祖の
命(たまのおやのみこと)」「布刀玉の命(ふとだまのみこと)」「宇迦の御魂の神(うかのみたまのかみ)」など列
挙に暇がないほど現れるし、投馬國の官「彌彌」はこれも上古音で「みみ」と呼ぶことができ、「天の忍穂耳の命(あ
めのおしほみみのみこと)」「多芸志美美の命(たげしみみのみこと)」「建沼河耳の命(たけぬなかはみみのみこと)」
「神沼河耳の命(かむぬなかはみみのみこと)」など、「みみ」を含む神名・人名はかなり出現する。「卑狗」を「ひ
こ」と呼ぶことは定説で、これ又記紀には相当出現するし、「卑奴母離」を「ひなもり」と呼んで後世の「夷守」にあ
てる事にも異論はない。安本美典氏は、「爾支」を「ニギ」と呼んで「邇邇芸の尊(ににぎのみこと)」「邇芸速日の命
(にぎはやひのみこと)」の邇芸にあたるとしている。また氏も「泄謨觚.柄渠觚」、及び、奴国の官名「兄(当て字)
馬觚」の呼び方は相当難しいとしながらも、「泄謨觚・兄馬觚」を「しまこ」、「柄渠觚」を「ひここ」或いは「ほこ
こ」の可能性が高いとしている。(「倭人語の解読:平成15年6月1日・勉誠出版発行」)
http://inoues.net/yamahonpen3-5.html
29 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 10:17:52
神武東遷に投影された勢力
@高句麗王 大武神ー57年ごろ
44年に国を追われて倭の丹波に亡命後、
辰韓王位を簒奪。さらに北九州を制圧し
奴国王も兼ねて後漢に遣使して「漢倭奴国王」
として承認される。
A月氏系ニギハヤヒ勢力ー2世紀後半
オアシス国家亀慈からの亡命民族で
半島の加羅勢力とは同族。南九州に定着した後、
奴国を滅ぼして王師称を追放。やがて大和盆地に入る。
B高句麗の東川王ー247年ごろ
列島の東倭、狗奴国と連合し魏の幽州刺使丹丘倹と
攻防の末列島に亡命。伊都国など北九州諸国を制圧し
瀬戸内沿いに大和へ向け東征。248年に安芸で没。
30 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 10:29:06
神武←248年高句麗東川王死 神武王朝
欠史8代3〜9代まで 大和地方の劉氏系王朝
崇神 298年高句麗天の日矛、伊都国で伊都都比古と
名乗る(北九州王朝)。
垂仁 慕容仁が投影された時代。慕氏系王朝
景行 慕容駿(ヤマトタケル=景行天皇)が投影された時代。
31 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 10:32:02
仲哀 武の内すくねと神功労一族との共同統治
応神 秦の符洛。忍熊王朝を倒す。
32 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 10:49:31
101年、巫術者許聖が重税を恨み江南で反乱。
反乱軍は鎮圧され江夏へ強制移住させられる。
172年、許昌・許昭親子が反乱。その後倭に亡命。
倭国で許氏の卑弥呼が王として擁立される。
173年 卑弥呼、加羅王阿達羅に使者を派遣。
阿達羅の妻、許黄玉は許氏。許黄玉=卑弥呼。
33 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/24(土) 11:00:43
34 :
加藤芳郎:2005/09/24(土) 11:04:43
卑弥呼今で言う村長レベル説。
35 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 11:05:55
神武という名は大武神の
武神を逆さまにしたものらしいです。
36 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:11:18
( ´,_ゝ`)プッ
37 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 11:14:04
奄美大島に伝わる巫女 フミコが卑弥呼のことらしいです。
つまり奄美大島が邪馬台国。
38 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:14:11
大魔神から神魔天皇がおくり名されると良かったのに。
テレビ受け大。
39 :
加藤芳郎:2005/09/24(土) 11:15:35
卑弥呼今で言う村長レベル説。
まともにカキコするのが
阿呆らしくなってきた
41 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 11:22:32
>プラムさん
すべては小林恵子氏「興亡古代史」の仲に書かれている事です。
ここで僕がカキコしたことよりはるかに詳しく書かれてますので
ご一読を。しかしこの人、在日か何かなのかな?
全部古代日本の王は他国からきてる人になってるけどw
42 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:27:37
白々しいヤツ
43 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:37:14
邪馬一国の支配領土は対馬海峡の両岸域から北部九州半分程度だった
のではないだろうか。
そしてその属国が中国地方〜日本海沿岸部にあったと。
44 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 12:22:50
いや、当時の交通道路(?)事情を考えると、そこまで範囲を広げる事が出来たかも
疑問である。おそらく当時の航海技術から察すると潮流に流されるまま流れ着いた九州
沿岸部の一部の集落もしくは精々一山越えた程度の近隣村程度しか見ていないのではないか?
そこにいた女性シャーマン(かなり原始的な)がいわゆる卑弥呼と呼ばれる者ではないのか?
そもそも鏡を使って民をひれ伏せさせる程度の民度であった当時の倭に「支配」といった概念があったかも
はなはだ疑問である。
45 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 12:45:36
晋書によると240年に東倭が
朝貢してきたとあります。
東倭と卑弥呼の倭国と区別して書かれている事、
なおかつ「東」であることなどを
鑑みると、畿内政権のことだと思われます。
そうすると三角縁神獣鏡が畿内から
多く出土する謎も解けます。
なーんだ、ancient corea empireに服属していた倭島の小国家のことかw
47 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 12:52:23
>>45 当時と現在の距離間隔の概念を一緒にしてはだめだと思う。
東とあるからいっぺんに畿内まで、とは限らない。
48 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 12:54:53
いくら古代人でも東西南北くらいちゃんと
わかってるでしょうwましてや邪馬台国にきてるのは
魏の高官である張政だし、馬鹿にしてはいけませんよ
49 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 12:58:04
いや、東西南北のことを言っているのではない。
距離認識の事だ。
50 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:00:35
距離認識はともかく
邪馬台国とは別の勢力が朝貢してるのですよ。
当時の状況から鑑みるに
畿内か出雲あたりと考えるのが適当でしょう。
51 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/24(土) 13:11:46
>>50ヒッキー君
それは有り得ないだろう。
同一地域に於ける朝貢は、一対一が原則
宗主国はその挨拶を受けない
52 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:14:37
陳寿の三国志では「鬼道」という言葉が3箇所出てきますが、魏志張魯伝にしろ蜀志劉焉伝にしろ、両方とも五斗米道の妖術を指してこの言葉が使われており、
「正統な祭祀である儒教以外を淫祠邪教としてひっくるめてアバウトに鬼道」と呼んでいるわけではありませんよ(笑)。
学説にはそれなりの根拠があるから学説なのです。
道教という言葉も、古くは儒教を指す意味で使われたりしていたのが、時代の中で変遷していますから。元々「道の教え」ですから、
一般名詞としての“宗教”ぐらいの意味だったのが、時代の変遷とともに用法が変わっていく物ですから、そういった歴史的な背景と陳寿が生きた時代の背景の、考察を抜きに語るのはちと乱暴なことになりますね。
道教も道教で一筋縄ではいきません(もともと民間の土着信仰と習合する前の道教成立の経緯もありますし)ので、そこら辺はヒマなときに書きますが。まずは基本的なところのみ。
53 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:15:56
>>51プラムさん
ですから僕が言ってるのは
卑弥呼の倭国と東倭は別地域の国だと認知されていたということですよ。
54 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:19:57
「三国志での用法はこれこれだけだから云々」という論法は古田
武彦式パズルごっこであってついていけないものを感じます
ねー。そういうものを「歴史的な背景と陳寿が生きた時代の背景
の、考察」などとよぶのはぜんぜん賛同できません。五斗米道は
「正統な祭祀である儒教からみれば淫祠邪教」であることに異存
はありますか?そして漢文での「鬼道」の意味が「五斗米の妖
術」以外を差し得ないということはあり得ないですね。道教と十
把一からげにするのではなく、あなたおっしゃるとおり道教も複
雑ですが、具体的にいえば、1)先秦以来の老荘思想、2)陰陽
道・神仙思想、3)先史以来の原始宗教の系譜を引く民間土着信
仰(これは中国独自の文化ではなく、日本含む中国国内&中国周
辺の諸民族に共通する基層的文化だった可能性もある)、4)妖
賊(後漢の社会崩壊を承けた共同体再建運動)などの複合体とし
て、いまだ結晶せざる流動的な情況があったわけでしょう(狭義
の道教の成立は南北朝期であり、三世紀の段階では「原始道教」
もしくは「道教以前」とよぶべきでしょう)。その流動的な一局
面を固定的な比重でみることはできるんでしょうか。かく何がど
う複雑かわかれば「鬼道=五斗米」と一義的な短絡はできないは
ずですが。「鬼道」が道教をさしているという説が一説として存
在すること自体は、最低限の知識として当然しってはいますが、
それを支持するかどうかは別問題です。
55 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:20:24
56 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/24(土) 13:22:21
では何故、その記録を帝紀にて確認出来ないのですか?
57 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:23:10
>55
すいません、スレを盛り上げるためにレスしただけですw
58 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:32:58
>56
何をおっしゃられてるのでしょうか?
「晋書」本紀に正始元年正月に東倭朝貢と
書かれていますよ。また高句麗本紀にも
245年東海の人が美女を献じたとあります。
卑弥呼が金印を仮受したと書かれているのは
つまり他にもう1人倭王に任命した人がいたから
仮なのですよ。
59 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:34:29
つまり畿内から出土する景初3年4年の鏡は
全部この東倭が朝貢したときにもらったものでしょう。
60 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:38:50
彼らから見ると北九州も東倭であるが。
61 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:41:13
いえですから卑弥呼の「倭国」と
「東倭」と区別してかかれていることが
ポイントだと先ほどから申し上げてる次第なのですが・・
62 :
通りすがり:2005/09/24(土) 13:49:00
私はこの類の文献は読んだ事ないのですが、この東倭というのは、大和王権の前身のことですか?
63 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:51:38
>>62 それはド素人の僕からはっきりとは申し上げられませんが
魏の鏡の分布状況からやはり大和と接点があったように
思われます。出雲〜北陸あたりにも間違いなく関係してるとは
思いますがね。
64 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:51:54
ヒッキー君
240年 東倭は何処に朝貢したのですか?
65 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:52:56
66 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 13:59:04
ということで畿内説は消えうせ
九州の中に邪馬台国を求めることになるのですが
僕は大分説を今のところ支持しています。
水行10日陸行1月は伊都国からの放射説をとっています。
67 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 14:07:34
いくら悪路とはいえ、陸行1月で大分までとは考えられないのだが・・・
68 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 14:09:45
>>67 前スレと書くことが重複してしまいますが
日田から田川にかけて厳しい山々がありますが
この山、英彦山というんですけど、魏の善正という人が
開いた聖山でして邪馬台国の時代、信仰の対象となっていた模様です。
魏との交流もあったんでしょう。しかもこの山越えはかなり
厳しいらしく陸行1月くらいはかかった可能性大であります。
この英彦山を取り囲むように宇佐や日田、大分平野がありますし
このへんに邪馬台国やその他の国々があったんではないでしょうか?
69 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 14:13:03
(魏)正始元年春正月、 東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。
70 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/24(土) 14:17:33
結局発掘できなければすべて空想でしかありませんがねw
71 :
67:2005/09/24(土) 14:20:59
67です。私がなぜ上記のような疑問を持ったかと申しますと、私は山をやっておりまして
以前フォッサマグナ(日本の中央構造線)を徒歩で走破した事があるのですが、要した時間
は17日でした。ほとんど自然の山道を歩きますので、状況は当時とそう変わりないと思います。
ですから陸行1月と聞くと近畿地方が妥当だと思うわけです。学術的根拠は全くございません。
流してくださっても結構です。
72 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/24(土) 14:23:52
ヒッキー君が言いたいのは「宣帝紀」
正始元年春正月東倭重譯納貢焉……鮮卑各王皆遣使來獻……」
だろう。
では、
卑弥呼の朝貢は、何処に?
73 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 14:26:30
240なら崇神じゃまだ早いな
>>71 流さずに晒す・・・
フォッサマグナ(日本の中央構造線)
75 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/24(土) 14:45:22
>>66ヒッキー君
大分なら悪路の陸より
全て船で行けるのでは?
その辺が 高木氏著者「邪馬台国の秘密」の弱い所では
76 :
sss:2005/09/24(土) 16:17:53
>>54 五斗米道は、中国で発生した新興宗教。2世紀半ばといわれますね。
中国人は良く知っているもの。
卑弥呼の場合は、中国人がうかがい知ることが出来なかったから、
鬼道(怪しい術、魔法)と言ったわけです。
だから、卑弥呼の鬼道と五斗米道は違うと思いますね。
卑弥呼の鬼道がどのようなものだったかは、記紀にその痕跡が残るはずです。
倭迹迹日百襲姫や神功皇后にあるように、神の声を伝えることがそれだと思います。
たとえば、神功皇后の場合、神が皇后を借りて神託を垂れた。
「熊襲を攻撃するよりも新羅を攻めなさい」と。
しかし、仲哀天皇は、その神託に従わず、熊襲を攻めたが勝てず、
まもなく病気になりすぐに死んでしまった。
要するに、卑弥呼の鬼道はシャーマンみたいなものでしょう。
最近この問題に興味持ったんだけど、初歩的な質問していい?
78 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:40:31
>>78 では遠慮なく。
張楚金の翰苑蕃夷部で倭國について評せられる『憑山負海鎮馬臺以建都』とはどのような意味ですか?
80 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/24(土) 19:40:48
>>79 マニアックですね
簡単に言うと
倭の地理的概況です。
(PS)
釣ですか?
81 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:58:20
82 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 22:34:03
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
83 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 23:05:35
固有名詞に「西」が付くというのは考えにくいと思う。西都、西州が九州を
指すとするとこれは固有名詞ではなく東方(中央)から見た命名法ではないか。
西都、西州に対する東都、東州(中央)が存在していたとすると、それは
畿内大和地方だっただろうと想像がつく。
西都という地名が存在した時代にはすでにそれ以前に東都(中央)があっ
た証拠と考えることもできるだろう。
84 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 23:24:50
85 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 23:30:23
>>84 いや単に西州が九州を指す固有名詞だという説は変ではないかという
素人の見方を書いております。
西州というと東方から見た命名法だろうというのが常識的だと思うのですが。
86 :
sss:2005/09/24(土) 23:33:04
西都原の古墳群の中で、最も古いものは3世紀後半とされたようです。
つまり、奈良盆地の纏向遺跡の古い古墳と同じ年代です。
男狭穂塚も4世紀後半とされたようです。これは全くの未調査なんだけど。
宮崎平野といえば、西都原が有名だけど、他にも多くの古墳群があります。
たとえば、生目古墳群には、30ほどの高塚古墳があり、3号墳は
145mで岩戸山古墳(135m)より大きい前方後円墳です。
1号墳は136mで箸墓と相似形といわれます。
そのほか200を超える古墳を持つ新田原古墳群、
また川南古墳群にも100mクラスの古墳があります。
邪馬台国かどうかは別として宮崎平野が重要な地域であることは確かです。
>>86 私の勝手な私見ですが
宮崎と言う所は
三方山に囲まれ東は海、温暖、平地が適度にあり
宮崎全体が一つの砦国になっており
それだけの古墳を造成出来る豊かな国だったのです。攻めもせず、攻められもしない長閑な国なのです。
88 :
sss:2005/09/25(日) 02:56:30
>>87 そうですね。宮崎は地理的に非常に不利です。
周りの海は、波の荒い外海ばかり。
陸路といえば、深く険しい山ばかり。
もともと宮崎のことなんて考えてもいませんでした。
この地域の人が北九州に勢力を伸ばすとは考えてもいなかったのです。
しかし、逆はあったかも知れません。
宮崎の古代の文化は、北九州にも大和にも通じるものがあります。
宮崎と近畿地方は古墳の形も似てますが、埴輪も非常に良く似ているのです。
そのふきんを考えながら、どうやれば先入観にとらわれず、
無理の少ない一つの物語が作っていけるかを考えているところです。
89 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 08:39:34
>>75プラムさん
大分なら水上でいったほうが早いとのことですが
おっしゃるとおりでしょう。行きは水行10日で
邪馬台国へ入ったと思いますよ。しかし倭人伝を
記述するために詳細な情報を得なくてはならないんで
帰りは陸行で帰ったのです。それが前スレで
僕が述べたように邪馬台国から奴国までの
国々が書かれている文章です。
90 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 08:44:43
>次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴 国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、
次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、
次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。
これが女王の(権力の)尽きる所である。
一応あげておくとこの文章です。次に〜国ありと順序だてて書かれてますし
魏の使者が直接陸行でこの道順で帰った証拠になると思います。
しかし話は変わりますが小林恵子氏の「興亡日本史」は
今の僕のレベルでは難解すぎて途中で挫折しましたw
新しい本を図書館から借りてまいりますw
91 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 08:51:57
伊都国からの放射説をとってますが
この理由として前にみなさんがあげられた
呉への牽制のためできるだけ南を意識して
書いたというのが的を射てる気がしてきました。
ですから投馬国と邪馬台国は里数を記載せず
南へ水行何日というふうにかかれているのでしょう。
戸数もやはり誇張だと考えるようになりました。
実際は7万人なのに大きく見せるために7万戸と
書いたのではないでしょうか?これは僕の妄想ですがw
92 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 08:54:34
西都市は投馬国だと考えています。
本居宣長か誰かが言っていたように
ツマ神社がありますし日向が投馬国っぽいです。
93 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 09:04:01
ヒッキー君おはよう。
その漢文の読み方は間違いみたいですよ!
以前このスレにて、私も散々指摘された次第です。
水行すると十日、陸行だと一月 間違いみたいです。
それに、わざわざ二通りの行程を記載することも無いと思うし、まぎらわしいです。
94 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 09:12:30
龍城国の王の妃も女王国の積氏だと新羅本紀に
書かれてますし
神武東遷において宇佐に立ち寄った際
その地のウサツヒメノミコトと天皇の家来である
天種子命を結婚させていてこの天種子命というのが
藤原氏の祖先らしいですし、仁徳天皇の妃である髪長媛も
日向の人です。このように婚姻関係を結ぶことで
互いに同族関係となり融合していったと僕は考えております。
邪馬台国も緩やかに大和朝廷と融合していったのです。
95 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 09:15:41
>>93 では他の中国の書物からその読み方が間違いだと
証明してください。先ほどの呉への牽制という説を
あてはめると結局できるだけ南にみせたかったから
曖昧に書いたのでしょう。2通りの行程を書くのが
紛らわしいとおっしゃいますが先ほど僕が述べたように
行きは水上で、帰りは周辺諸国を見て回るべく陸行で
帰ったので2通り書かれてるだけでしょう。
96 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 09:24:38
私見でありますが倭人伝は九州限定でかかれているので
宮崎を邪馬台国にしてしまうとじゃあ投馬国はどこなんだと
いうことになってしまいます。一応放射説で読むと
投馬国のほうが南にあるので日向を投馬国とします。
NO2の人口を誇る国ですしね。
97 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 09:35:11
水行十日、陸行一月の矛盾点を私なりに考えてみました。
みなさん、最初の記事をお忘れのようで
倭国の全体像は一体どのような場所でしょうか?
「漢書」では
楽浪海中有倭人
「魏書」では
倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑
この文を頭にし、後に「陸行で一月」も費やす広い土地を連想させる矛盾
不彌國までの最長陸路は、伊都までの五百里ですよ。それが、いきなり「陸路一月」です。
それにヒッキー君!
七万戸は七万人の誤りではとの指摘
未だ多いのでは?
邪馬壹國 多くて五千人以下ではないですか?
98 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 09:38:11
戦争の時兵力を誇張していうのと同じのような気がしてきたw
99 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 10:08:27
サガミハラさんの本が読みたいのですが・・
100 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 10:09:01
時代は異なりますが
吉野ヶ里の最盛期が約百戸千人だそうです。
すると 七万戸だけで
七百倍
範囲を日本全土としても、邪馬壹國だけで 吉野ヶ里規模の遺跡が日本中に七百ヶ所あるわけです。
その他 投馬と狗奴の十万あと、千ヶ所を追加しなければなりません。
邪馬壹+投馬+狗奴だけで吉野ヶ里きぼの遺跡が千七百ヶ所です。
101 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 10:16:32
当時の日本の総人口が60万足らずとのことです。
畿内が1番多いとして20万、九州は15万弱程度
だったと思いますが、あと周辺諸国が25万程度で
ちょうどいいくらいでしょう。となるとやはり
7万戸は7万人でいいのでは?両親・兄弟は別居だったらしいですし
限りなく戸=人に近いと思われます。
102 :
圭角:2005/09/25(日) 10:19:54
プラムさんおはようございます。
ヒッキーさんはずいぶんと勉強されたみたいですね。同じ人とは思えません。
ところで、彼が鬼道と五斗米道に関して話題にしていましたので、それに
つきまして少々参考になればと存じまして。
まず鬼道とは、鬼神を用いる邪説妖術の意です。鬼神とは神霊、死者、霊魂の
意です。鬼道については後漢書劉鴛伝に、張魯の母、悠色有り、兼ねて鬼道を
挟み、鴛の家に往来す、とあります。鬼神については礼記に、鬼神に供薦する
に礼に非ざれば誠ならず、という文言があると白川静先生の字通にあります。
卑弥呼の鬼道については岡田英弘氏が氏の著の倭国で言及されていますので
お読みになったらいかがでしょうか。第二章です。道教、鬼道、五斗米道、や
三国志の魏書の張魯伝及び蜀書の劉鴛伝に鬼道という文言が三回登場すると
書いてありますが、岡田氏は倭人伝の鬼道は五斗米道とほぼ推定されている
みたいですね。私としてはいずれとも断じ得ない次第です。
ところで、五斗米道の信徒は鬼卒と呼称されたそうです。そこで一大卒は
大倭や大人と同じ用法で大には優れたとか尊いとかの意味がありますので、
むしろ大兵や多い兵卒ではなく、一人の優れた士卒という意と解す次第です。
103 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 10:29:13
>圭角さん
その鬼道の文章は他からのコピペですw
しかし僕も五斗米道ではないかと思っておりますが。
ところで小林恵子氏の倭の王は全部
朝鮮・中国からきた人だという説はいかがお考えですか?
104 :
圭角:2005/09/25(日) 10:34:07
水行何日につきまして。
実は今朝早く起きて友人と有明海に船頭連れて釣りに行きましたが、
天気は快晴も快晴にて申し分ない運動会日和だったのでありましたが、
海は波が高くて、命を失うからと船頭から制止され海釣りを中止して
帰宅して来たところです。陸に風がなくても海は全く別だと実感しました。
つまりですね、水行十日、二十日というのは全くナンセンスなのですね。
海は荒れたらおしまいです。当時の水行船行何日を里程行程にして読む
という姿勢そのものが根本的にマチガイだと実感し理解し認識しました。
日程行程里程を記したところで、天候次第なのですから、無意味の一語です。
105 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 10:35:09
東アジア的にいえば、魏志倭人伝の内容において、作者が邪馬台国を誇張したという考え方もあるようですがどうでしょうか?
陳寿は当時の晋の司馬一族派であり、また中国の歴史書自体が現在の王朝の正当性を訴えるためのものである以上、
邪馬台国が晋の都合で内容がゆがめられて当然かと思います。
ここにいる方には釈迦に説法でしょうが、晋は魏の曹氏の重臣であった司馬氏によってクーデターで易姓革命が行われたわけですが、
魏末、大月氏国からの朝貢があり、これは曹氏が窓口になったわけです。一方で司馬氏は公孫氏を討伐し、
そのおかげで魏へ倭から使者が送れる状態になったこともあり、公孫氏が窓口でした。
ここで考えられるのが、陳寿が司馬氏の功績を誇張したということです。つまり、
倭が司馬氏の徳を慕って朝貢してきたということになるので、それを大月氏と釣り合いが取れるようにしたというものです。
そのために、魏志においては倭と大月氏がほぼ同じ規模となっています。だから、九州では人口がそれだけ養い得ないという部分は、これで説明されます。
そもそも魏志倭人伝の書かれた人口は機内でも無理ということですが。
また、はるか遠くからわざわざ蛮人が中華王朝の徳を慕って朝貢にやってきたというのが一つの主張になるので、
距離も誇張されたのではないかと思われます。したがって、
方向は九州なのに距離が遠すぎるというのは、
ここで陳寿が誇張してもっと遠くからもっと大きな国である倭が司馬氏を窓口として朝貢してきた、
というように司馬一族の功績を高めるために行ったことと考えられます。
そういうわけで、個人的には魏志だけでいえば、九州にあるという考えに納得しています。
さらにいえば、西都が最有力ではないかとも思いますが。
ただし、その後に東遷したのかもしれませんが、魏志の執筆された時点では九州と思います
106 :
圭角:2005/09/25(日) 10:38:43
ヒッキーさんへ。
全部というのは、非現実的かつ不自然であること、自明の理です。
107 :
圭角:2005/09/25(日) 10:43:35
ヒッキーさん、陳寿の記述姿勢が司馬イ顕彰を最重要視しており、ために
倭人伝並びに東夷伝には誇張記事が多いとは、私が繰り返し重ねて主張して
きたところです。私の過去レスを読んでいただければ幸甚ですが。
108 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 10:45:56
やはり西都が最有力なのでしょうか?
投馬国はじゃあどこになるのやら・・
そういえば圭角さんは邪馬台国をどこだと
お考えですか?
>>102 (誤) 一大卒
(正) 一大率
「卒」 【ソツ】 字源は「衣」と「ノ」の合字、兵服の具象。
下級兵、衆、突然、終了、死。古代の用例として「300戸」「30国」「100人」の単位としても使う。
「率」 【リツ・ソツ】字源は鳥網と棹の組み合わせ。
ものごとの割合、決まりごと。従える、引入るの意にも使う。
110 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 14:56:50
地名学で読み解く邪馬台国 図書館から借りてきました
111 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 15:13:18
なーんか僕も西都のような気がしてきてしまいましたw
112 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 15:27:08
113 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 16:02:24
邪馬台国でなく、邪馬壱国だろ。
卑弥呼をヒミコと読めて
邪馬台をヤマトと何故読めん
>>114 福島をフクシマと嫁て
東京をトウケイと何故嫁ん
116 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 17:26:06
>>106ヒッキー君
投馬の手掛かりは、水行二十日と、或地点から南だけ
ようするに、何処でもいいじゃない!
五島列島なんて面白いよね
117 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 17:49:05
地名で読み解く邪馬台国 によりますと
邪馬台国はヤマダ国と読むそうです。
118 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 17:59:37
今夜が←↓↑→
119 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:22:33
まず、最も重要なのは、帯方郡(何て読むかわかりません)から邪馬台国まで12000里強と書かれている点。
しかし、帯方郡から不弥国までで10700里強あったことになり、残りは1300里しかない。
狗邪韓国(韓国・金海付近)から末廬国(唐津あたり)までの対馬海峡だけで3000里だから、邪馬台国の位置は九州北部か山口県しかありえない。
水行10日陸行1月というのは、不弥国からの日数ではなく、それ以前からのトータルでのものだろう。
また、東に海を渡った1000里のところに「倭種の国」があるということだが、倭人伝の方角のズレを考えると、邪馬台国が宇佐〜大分、国東半島あたりで、「倭種の国」が山口県、倭種の国の南方の侏儒國が四国だろう。
120 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:35:38
>まず、最も重要なのは、帯方郡(何て読むかわかりません)から
>邪馬台国まで12000里強と書かれている点。
郡から女王国までが万2千余里であって
帯方郡から邪馬台国なんて書いてない
121 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 18:38:15
>>119 根本的な部分で勘違いなさっています。
帯方郡から邪馬台国までが12000里ではなく
帯方郡から女王国までが12000里なのです。
さらに高木圭光説をとれば「余里」というのを
加算していくと結局僕の見解では伊都国、奴国あたりで
すでに12000里消化しています。また奴国が
女王国の中に組み込まれていることから結局
12000里は奴国までの距離のことでしょう。
水行10日陸行1月がトータルのものであるという指摘ですが
朝鮮半島を水行10日以下で渡るなど考えられません。
伊都国からの放射説を僕は支持します。
東に渡った1000里という文章も「女王国から」東に1000里
と書かれてますし、邪馬台国からではないことからやはり
邪馬台国は西都にあり女王国圏内の宇佐〜大分から
山口へ渡りさらに南方の侏儒國は四国という箇所には同意いたします。
122 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:43:18
新発見!!!
>有邸閣國
邸閣國は国だった!!!マツガイナイッ
123 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:46:48
ナ、ナナンダッテーーー←↓↑→
124 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 18:48:18
つまりディープインパクトと朝青龍は
やはり強いといいたいわけでしょうか?w
125 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 18:56:30
皆さん
どうしても「万二千餘里」の、数値に こだわりたいようで!
松本清張氏著書「邪馬台国」のなかに
(万二千里というのは、中国の直接支配を受けていない国の王都がはるか絶縁のかなたにある事を表す観念的な里数)
私は、この解釈を支持します。
よって
記載里数の足し算は、無意味と考える次第です。
126 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 18:57:33
風水からよみとく邪馬台国。
朱雀 白虎 玄武 青龍
ちゃんと都としてふさわしい場所に
邪馬台国があるはずです。
127 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:00:11
>>125 それは違うでしょう。
そこまでいい加減ではないきがしますw
128 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 19:03:36
>>124 いや違う
ディープインパクトの走りより ミスターシービーの直線ゴボウ抜きのが迫力があるし、
弥生賞でのサクラスターオーの走りの方が「口がアングリ」だった。
マティリアルも凄かったナー
129 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:06:54
昔過ぎてよくわかりませんw
たぶんそれって僕が生まれる前の話じゃあ・・
オグリキャップがヤラセレースを制し
引退の花道を飾ったことくらいしか知りません。
130 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:08:21
奥野なんとかいう人の「鉄の古代史」難しすぎます。
借りて損した。邪馬台国雑誌に論文投稿して
最優秀賞とって大学教授になっただけのことはある。
131 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 19:13:55
オグリキャップの引退レース
有馬記念ですね
当時私は、薄暗くなった中山競馬場のゴール前で単勝八番10000円を持って
そのゴールを見守りました。
三着にはあの有名なメジロライアンでした。
132 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:16:02
たしかライアンは2着だったと思いますが。
僕はその当時1歳か2歳だったのでむろん
リアルタイムでは見ておらず、ビデオでみただけですがw
133 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:17:33
競馬に興味をもったのは
中学のときダビスタをやってからです。
ナリタブライアンが最強だと思ってましたが
どうやらディープインパクトのほうがすごいようです
134 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:30:24
あと50冊ほど本を読み込んだら
僕も雑誌に投稿してみます。ノシ
135 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/25(日) 19:45:59
邪馬台国への距離の12000余里は実数です。水行10日陸行1月は総日数です。
いままでの通説は郡から狗邪韓国(金海)まで全行程を水行としていたので、陸行1月が北部九州内におさまらなかったのであるが、実際は
郡から仁川をへて海岸に沿って群山まで南下しそこに上陸し、半島内を陸行し固城に到着するのです。
陸行1月のほとんどは、この韓国内の旅です。
固城から末ろ国までは、水行4日で、残りの6日は仁川から群山までの船旅です。
これで無理なく、水工十日陸行1月が全日程にあてはまるわけです。
136 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 19:47:48
ヒッキー君が正解
やはり脳に少し空洞が出来たみたいです。
どう考えても二着が思い出せ無かったのです。
そうか、ライアンが二着でしたか スッキリ!
137 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 19:49:03
サガミさん、わざわざ韓国内を陸行で
行く必要性がないでしょう。水行で
くだったほうが絶対に早いと思われますが。
競馬はさておき、ヒッキー君!
>>125の 松本氏の解釈に異義をとなえる理由は?
139 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 20:01:44
>>138 計算すればちゃんと12000里くらいに
なるじゃありませんか。わざわざ虚数を
もちいるなら22000余里でもいいはずですw
ってかネットやりすぎて目が痛くなってきた。
ご飯食べてきます。
140 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:08:28
仮に邪馬台国が畿内にあったとしたら
魏書には万二千余里とは書かないだろう
途中までの行程が具体的に水行で一万里分を書いて措きながら
そんな真似はしないだろう
141 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:11:20
142 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:29:07
周旋5000余里は女王国の東の国の話でマツガイナイ!!!
143 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:29:25
宮崎県や高知県に邪馬台国があったとすれば、南海地震の大津波で滅亡した可能性
もあるだろう。
邪馬台国=高天原と仮定すれば、地名から山、高地にあったようなのでまだ発見
される可能性は有る。
邪馬台国の邪馬が山だとすると吉野ヶ里説は消えるだろう。ヤマトと同じような
盆地の可能性が高いのではないか?
144 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 20:29:32
>>139 万二千里に近づけるために数値の調整をしたのでは?
だから京都⇔遼東四千里と郡⇔狗邪韓国の七千里の
実数距離があわないのでは
145 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:34:40
邪馬台国=高天原とすると神武天皇は高天原から日向(西都?)に天下った
ので西都原=邪馬台国(=高天原)説も消えることになる。
146 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:35:47
>都⇔遼東四千里
これって何処に書いてんだ?
>>135サガミさん
では、実数12000里の説明を
148 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:37:50
周旋5000余里が九州の話で或る事に根拠なし
149 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:39:04
高地性集落には天神族が住んでいたんです
150 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:41:24
嘗て其処から追放されたのがスサノヲ一族なのです
151 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:45:09
高天原は邪馬台国ができるずーっと前の話でしょう
152 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:55:26
>>151 安本先生他は邪馬台国=高天原説を唱えておりますが。
卑弥呼=天照大神説でもあるようです。素人としては面白い説だと思って
おります。
153 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 21:07:35
>>146 三国志魏書明帝紀
「景初二年春正月」
……道路迴阻四千餘里……
後は自分で調べて下さい。
サガミさん
>>147の質問を訂正します。
実数12000里は、著書(倭国歴訪)にて確認致しましたので 了解しました。
しからば
一里=68b
この数値を帝紀にても採用出来るのでしょうか?
156 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/25(日) 21:57:23
ヒッキー君起きてますか?
157 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/25(日) 23:41:50
>135のどこが無理し捲りなのでしょうか。もっともすっきりした行程だと思われますが.
半島の南西端はかなりの難所であったようです。
話しがかわるが、江戸時代でも津軽藩は船をつかわず、徒歩で江戸まで参勤交代をしていました。
魏志倭人伝の行程記事の里数は周制での1里67.5mです。
このことを記述している書は存在しないようです。
この件にかんしては、邪馬台国を発見した後藤幸彦氏が、邪馬台国への行程記事から1里68m弱と割りだし、
更に立川市の定時制高校教諭の福永晋三氏が新字源記載の周の1尺=22.5cmから、1尺は6歩であるから6倍し、
1歩135cmであるとし、50歩100歩の故事から、1里は50歩であると考え、135cmの50倍の67.5m
が1里であることをわりだすことに成功した。
以上の異なる2方法により同じ数値が表れたことから、周代の1里は67.5mであると確定できたものである。
このことは、古代史研究上画期的な発見といえるものである。
よって、魏志倭人伝の距離の単位は1里67.5mで記述されていることが断定できるのである。
158 :
名無しSATURN ◆yagi3nMXmk :2005/09/25(日) 23:50:22
>>サガミハラハラさん
いきなり話を折ってしまってすみません。
邪馬台国=小城説の冊子はまだ残っておりますか?
もし残っていらっしゃるようでしたら、冊子を頂きたいのですが・・・
お返事はいつでも構いませんのでご回答お待ち申し上げております。
159 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/25(日) 23:52:45
ちなみに秦の始皇帝はさらにそれを六倍して、1里405mとしたということです。
漢代の1里405mはこれによるようです。
160 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 23:59:34
>>159 >秦の始皇帝はさらにそれを六倍して、1里405mとしたということです
初耳ざんす。ソースおながいします。
もしソースが「説文解字」だったら笑われちゃいますよ。
161 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 00:06:11
まだ若干ございます。今までは無料だったのですが、実は拙書の2冊目の「卑弥呼の登場」(1500円)が大量に
売れ残っておりまして、せこいようですが抱き合わせ商法として、「卑弥呼の登場」をお買い上げのかたに付録とし
て「倭国歴訪」(邪馬台国小城説の本)をつけるということにいたしました。
よって切手1500円分を下記までお送りください。送料は当方で負担いたします。
〒229−1134
神奈川県相模原市下九沢1668−19
後藤幸彦
までおくってください。
162 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 00:10:36
新説のようですのでソースがございません。本人も「したらしい」と憶測であるいいかたをしていましたが、始皇帝が度衡量を
改めたことは、私もなにかで読んだ記憶があります。
163 :
名無しSATURN ◆yagi3nMXmk :2005/09/26(月) 00:19:03
>>サガミハラハラさん
早速のご返事ありがとうございます。
今週中に切手1500円分お送りいたします。
164 :
160:2005/09/26(月) 00:24:23
>>162 >本人も「したらしい」と憶測であるいいかたをしていました
あのー、どなたが、そのようなことをおっしゃられていたのでしょうか?
165 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 04:30:25
166 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 05:03:56
一理ある
167 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 05:06:42
ないないw
168 :
sss:2005/09/26(月) 08:34:15
シュリーマンは、ギリシャ神話からトロイの遺跡を発掘したといいますね。
卑弥呼=天照大神は、安本氏が最初に言い出したことじゃありません。
邪馬台国論争のさきがけといわれる白鳥庫吉がすでに言っています。
高天原の天照大神と倭人伝の卑弥呼について「その状態の酷似すること
何人も否定することあたわず…」と。
哲学者の和辻哲郎も同じようなことを言っています。
また、邪馬台国東遷説についても井上光貞氏が昭和40年発行の著書の中で
述べています。「日本の歴史T、神話から歴史へ」
近畿地方であれほど普及発展した銅鐸が突然消滅し、
記紀に全く記録をとどめないのはなぜか。
九州の弥生時代の墓には、剣や鏡が副葬されるが、
その習慣が近畿地方の古墳に引き継がれるのはなぜか。
皇室の三種の神器にまでなっているのかなぜか
なんてね。
169 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 09:22:12
倭人伝に書かれているのは照葉樹林帯なので九州です
170 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 09:33:32
距離の問題に関してなのですが
狗邪韓国〜対馬国 1000里 実際は60キロメートル
対馬国〜一大国 1000里 実際は60キロメートル
一大国〜末櫨国 1000里 実際は26キロメートル
と同じ1000里でもここまでばらつきがでてくるようです
171 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 09:48:39
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
172 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 09:50:30
西都説についてですが作家の原田実さんに聞いてみたところこうなりました。
3について、三角縁神獣鏡を邪馬台国のものとみなすなら、分布からいって日向説よりも大和説の方が遥かに有利になります。そもそも、国産説は研究史上、三角縁神獣鏡を邪馬台国と切り離すものとしてまず九州説論者によって唱えられたものであることを忘れてはいけません。
4について、黒板勝美造作説はデマにすぎません。オサホ塚、メサホ塚含め、西都原古墳群についてわかりやすい参考書としては下記が便利です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886213294/ 5について、8世紀以降の京の位置が特定できるのに、邪馬台国が特定できない、というのは国内文献史料の有無によるものです。政府の隠蔽工作を持ち出すのは筋違いというものでしょう。
6について、日向はたしかに神話の舞台とされていますが、現地で神話と関連づけられているのは主に山岳地帯と海岸部の一部です。西都原は特に神話と縁の深い土地ではありません(オサホ塚・メサホ塚も陵墓参考地ではあっても「陵墓」に指定はされていません)。
7について、集落跡から推定される弥生時代〜古墳時代初頭の人口集中は畿内と北部九州で顕著です。古墳群から推定される日向での人口集中は古墳時代に入ってからのことであり、さらにその同時期には畿内の人口集中が日向をはるかに上回っています。
1の論点についても、邪馬台国と結びつける以外の解釈は可能でしょう。2についても温暖で東が海に面した土地は日向以外にもありそうです。
というわけで、日向説は魅力的なのですが、今ひとつ説得力に欠ける、と思われる次第です。
173 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:21:32
やはりこれ以上邪馬台国関連の本は
読まないほうがいいですね。際限がありません。
専門家のように職業にして研究しないと
なかなか深いところまで理解できないことを
悟りました。素人の出る幕じゃない。
174 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:24:45
末櫨国に上陸後投馬・邪馬台国とその他で
分岐して進んでる模様です。素人なのでよくわかりませんがw
175 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:33:05
西都原が「宇都宮」のような音借ではない根拠が明示されていない。文献資料的に西都の初出がどこまで遡れるか?
・福岡にも「京都」という地名があり、「都」という字を使ったからイコール「首都であった場合に限られる」というのは強引ではないか?
・「西洲(九州)という固有名の地の都」では、西都原の地名成立がかなり後代の物である可能性が高まるのでは?
・甘木周辺の地名一致から言っても拠点としての重要度的には 都城>西都原 の可能性は?
これはそのうち書くつもりでしたが、邪馬台国の勢力圏であッたと考えられる地域には、「原」を「ばる」と読む地域が密集し、逆に狗奴国の勢力圏だったと考えられる福岡と熊本のアカホヤ境界線から鹿児島県曽於郡にかけての地域には、
まるで消しゴムで消したかのように、「原」を「ばる」と読む地域がスッポリと抜けています。
http://inoues.net/index.html どうも、この「ばる」という地名は、軍事的な拠点につけられた可能性が可能性があります。西都原も同様に、邪馬台国の出先機関としては有力な場所だった可能性はありますが、そのものという可能性は今のところ、自分は疑問です。
2に関しては、温暖で東に海があるな地域なら、鹿児島の佐多岬から志布志湾にかけていくらもありますしね。繰り返しますが、自分は別トピでも書いたように邪馬台国は当時の政治的な事情から、朝鮮半島も含めて誇大に地理が描かれている可能性があるので、
倭人伝の記述をそのまま信じての場所の比定は保留すべきではないかと思っています(場所の位置関係はともかく)。
176 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:38:58
177 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:45:37
>>168 僕も、天照大神は卑弥呼だと思うなぁ。
最近は、安本氏の年代論の想定より神武天皇はもう少し昔の
人で、したがって天照大神と卑弥呼の時代は重ならない、
つまり、天照大神のモデルとなった人物は卑弥呼より
前の人であるという意見も強いようだけど、
疑問がある。
というのは、魏志倭人伝には卑弥呼の時代より前は
男王の時代が続いていたとあること。
そうなると、天照大神には実在のモデルはなく
太陽信仰とでもするか、あるいは男神だったということに
ならないか? それは苦しいような気がする。
年代論は所詮統計的手法なのだから、
あまり20〜30年くらい違うとか細かいことを言わず、
全体の整合性を重視すべきかと感じる。
と素人考えを述べてみました。
178 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:49:15
>>177 この点に関しても前スレで述べましたが
卑弥呼=神功 と書記に書かれてる時点で
邪馬台国と大和朝廷は完全に別物でありますし
アマテラスが卑弥呼なわけがありません。
別国の王が皇祖神なんて馬鹿げたことになってしまいます。
邪馬台国東遷もありません。考えられるのは
せいぜい大和の王と邪馬台国の姫が婚姻関係を
結んだことくらいでしょう。
179 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:55:26
天照が女神なんて記紀には書いて無いだろ
180 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 10:57:24
やはり海部氏一族が卑弥呼の一派なのでは?
海部氏「勘注系図」が無視できないとも思ってます。
始祖、天火明命の系譜上に、
卑弥呼、台与を思わせる「日女命」「小止与」などの名が、
ずばり出てきています。
181 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:04:34
>>178 いや、そうじゃなくて、
安本氏の年代論によれば、卑弥呼の時代と天照大神の年代は
ピタリと合うんだ。
また、紀記の天照の時代の舞台が九州であることは、
素人が読んでもはっきりしている。
もし本当に卑弥呼の時代と天照の時代が合うならば、
それは同一人物である可能性が極めて高い。
というのも、魏志倭人伝によれば、当時の倭国においても
女王というのもは極めてまれで、実のところ、
それまでは男王が治めていたと明記されているからなんだ。
ところが、最近の論調は、卑弥呼の時代と天照の時代は
ごくわずかながらずれているんじゃないか、という話に
なってる。
それと、卑弥呼=神功 と書記に書かれてるというのは、
単に書紀の編集者がそう思ったというだけの話で、
それ以上でもそれ以下でもなくて、事実とはなんの関係も
ないよ。
あと、神武の東征は日向からとなっているのは、
邪馬台国の本流ではなくて、一支族だったからだろうと思われ、
その日向も南九州の日向ではなくて、北九州の日向(峠)の方だろう
という説が有力みたい。
とまあ、安本氏の周辺の議論はそんな感じかなぁと。
182 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:05:46
卑弥呼の時代と天照大神の年代がピタリと合うなら
神武と欠史八代を抹殺する気かw
183 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:10:39
安本氏の年代論などあてになるのでしょうか?
とド素人の僕が言ってはいけませんねw
素直に記紀を読むとアマテラスなど神武天皇の
6代くらい前の人ですしどうしたら卑弥呼と
重なることになってしまうのでしょうか?
倭の5王は仁徳〜雄略というのはほぼ確定されてますし
逆算しても卑弥呼の時代はせいぜい崇神朝の時代ですよ。
184 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:16:12
>天照が女神なんて記紀には書いて無いだろ
どうしてそんな話になるの?
魏志倭人伝には、男子と女子で髪型が違うと書いてあるし、
古事記には、スサノオと争ったところで、それまでの女の髪型を
解いて男の髪型に直したという部分があったと思う。
これで、天照は女性と分る。
(機織も昔から女性がするもんだと思うけど。いや、これは分らないが)
その髪型がどういうものかは、埴輪で具体的に分る。
185 :
神武:2005/09/26(月) 11:19:14
ノノ人ヾ∩ コ、コロスキカ!
(#`Д`)
/U ⊂彡
しーJ il
/)
Σ '"
186 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:19:49
百歩譲っても
邪馬台国東遷がなければ
卑弥呼=アマテラスではない。
井沢元彦さんの説が正しいことになってしまうw
187 :
神武:2005/09/26(月) 11:24:00
だから女神とは書いて無いだろ
188 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:24:50
神武は紀元前後の人。
九州から東征したかもしれないけど
邪馬台国とは別物。
邪馬台国は3世紀末に衰退し
緩やかに畿内大和政権と統合。
おそらくこれが真実。
189 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:29:21
190 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 11:31:24
>176 はい、この本です。ご紹介ありがとうございます。
この本画期的ないようであると自分ではおもっているのですが、さっぱりうれませんでした。
紀ノ国屋さんで平積みにして売ってくれたのですが。
原因がいまだもって謎です。
入手された方、見たけど買わなかった方、なにが原因だとおもわれますか。
191 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:32:19
>>189 ああ、このページなら前に見ましたよ。
邪馬台国東遷と言ってる時点で怪しいと思ってましたがw
192 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:34:16
>190
サガミさん、176は僕ですw
サガミさんの本読みたいです。
ですがやはり客観的にみると売れないのは
必然かと思われます。読者の興味を惹く
奇想天外な説を出さないと大衆受けするのは
難しいかと思います。
193 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:34:48
>このグラフを見ればわかるように、過去にさかのぼればさかのぼるほど
>平均在位年数は短くなります。
>奈良七代70年、といわれるように、奈良時代はおよそ70年続き、
>その間に7代の天皇が立ちました。すなわち一代の天皇の
>平均在位年数は約10年です。奈良時代と現代を比べますと、
>天皇の平均在位年数が約2倍に伸びているわけです。
>第31代の用明天皇あたりになりますと、586年頃活躍した人という年代がわかりますから、
>用明天皇からさかのぼる。一代10年、一代10年とさかのぼりましたならば、
>何天皇の時代が邪馬台国の時代と重なるのかということが分かるはずだと考えたわけです。
こんな根拠薄弱なインチキ論を信じてるのか
オイオイいい加減にしろよ
194 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:38:10
古田武彦氏のように「邪馬台国はなかった」
とか度肝を抜くような常識はずれのことを言ったり
桃太郎伝説に邪馬台国の謎が隠されてるとか
面白みのありげな本でなくてはなかなか売れないのでは?
195 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 11:39:05
16歳中卒ヒッキーさん、梓書院のHPへの返答書いておきました。ごらんください。
196 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:43:07
>>195 ただいま拝見いたしました。
たしかに男王の墓は小さいものだったかもしれませんね。
ただもうひとつお伺いしたいのですが
小城が邪馬台国だとしたら小城に卑弥呼と思しき
人物が伝説として伝わっていたりしないのでしょうか?
倭国の女王ですし何も伝わっていないのは考えづらい。
197 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:46:03
>>193 少なくとも、津田左右吉氏の論よりは
真理に迫れる可能性があると僕は思う。
いまは、より安定している世代数を古代豪族の系図などから
割り出し、それを基に出来ないかという方向みたいだよ。
ただ、いまのところ安本氏の想定したのより在位1代の平均は
も少し長いと見るのが妥当ではないか、との論調が強いらしい。
そうなると、安本氏が考えたほどには卑弥呼の時代と
天照の時代は重ならない。
で、ここからは僕の論でしかないが、それだと卑弥呼以前は
女王でなかったと魏志倭人伝が証言しているのだから、
そうなると天照には実在のモデルはないということになる。
それは苦しいなと僕は思う。
もっとも、僕にはなんの権威もないw
198 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:49:29
太陽信仰は日本だけでなく東南アジアとか
いろんな国にもあるようなので太陽神が
皇祖神でもなんの不思議もありませんよ。
強引に卑弥呼にもっていかなくてもいいでしょう。
それに卑弥呼と太陽信仰を結びつけるのもどうかと。
五斗米道といった道教関連のシャーマンでしょう。
199 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 11:51:23
そうですか、それでは古代妄想のフイクションになりますけど。
それはともかく、荒神谷の銅剣を送ったのは倭面土国王帥升(シュセン)で、かれは二二ギノ命の
三つ子の一人のホスセリノ命のことだ、などというのは斬新な説だと思うし、倭国大乱の原因や卑弥呼の即位年も確定しているし、出雲国譲りの真相も解明しているという、
古代日本の通史としてはかなり高度で充実しているとおもっているのですが。
200 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 11:57:11
>>199 サガミさん、素人の僕の意見ですが
やはり大衆はそんな詳しいことはよくわかってませんよ。
邪馬台国はなかったとか桃太郎伝説が邪馬台国だとか
ムー大陸が邪馬台国だとかシンプルで誰にでも
わかりやすく面白そうなものにしないと
買おうという気にはなれないと思います。
一般大衆の視点でみることが大切かと。
ただたしかに妄想フィクションになってしまいますがねw
詳細な学説で勝負したいのでしたら
やはり肩書きがないと苦しいかと。
東大名誉教授の最新の学説とかそういった
権威で押し切れるところがあれば
そこそこ売れると思いますが。
201 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 12:03:26
たとえば歴史小説や推理小説風にするとか
そうしたことで謎解き形式で本を書いたほうが
まだ売れる気がしないでもないです。
202 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 12:09:37
まぁ、「卑弥呼の墓」と書いた木簡でも見つかんない限り論争は∞。
魏志にしたって双方自説の都合の良い解釈するからね。
狭い日本、邪馬台国の位置をピンポイントで割り出してどうするよ。
203 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 12:21:36
やはり題名がよくなかったですか。
倭面土国とかを表面にだしたほうがよかったというアドバイスがありました。
卑弥呼の名をだしたほうが売れるとかんがえたのはまずかったのでしょうね。
邪馬台国の位置をピンポイントで出したのですが、確かにどうするのといわれてもね。
卑弥呼羊羹でもつくってうりだしても、ブームにでもならなければ売れないだろうしね。
204 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/26(月) 12:25:38
ああ、それからアマテラスは太陽信仰でも太陽崇拝でもありませんよ。神話では
アマテラスそのものが日の神、もしくは太陽とされていますから。
205 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 12:26:20
卑弥呼の魏への遣使が239年
【安本の卑弥呼=天照】
倭の女王が晋への遣使が266年
【安本の神武の実年代が270〜280年】
古事記の10崇神崩年が318年
14仲哀の嫁の神功皇后が七支刀を貰ったのが372年
広開土王碑の倭が百済新羅を破ったのが391年
【安本の神功の実年代が400年前後】
武寧王が生まれた21雄略五年が461年
206 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 12:43:43
そうですね。発掘ができなければ
永遠に妄想空想でしかありません。
サガミさん、小城とやらで
盗掘、いや発掘してきたらどうです?w
207 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 12:49:51
うーん、たしかに「卑弥呼の登場」では
ややインパクトに欠ける気がします。
倭面土国なんてだしたらもっと売れない気がします。
「九州と大和、2つの日本」「1800年前の風景」とかいう
題名はどうでしょう?邪馬台国を前面に押し出すより
日本人の古代史好きに訴えたほうがいいと思われます。
その中で邪馬台国を絡めると。
208 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 12:50:30
七支刀は何時貰ったんだ?
しかも神功から雄略までに直系で4代だ
雄略元年=西暦456年で良いとすると400年に神功じゃ無理だな
>>205 自己レス
×【安本の神武の実年代が270〜280年】
○【安本の神武の実年代が280〜290年】
209 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 13:01:10
ヤマトトトヒモモソ姫の
箸墓がすでに3世紀後半ごろという
科学的データがでてるのになぜ
神武が3世紀後半の人になってしまうのでしょうか?
210 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 13:04:44
卑弥呼が記紀の神代や崇神後の○○だった説を唱えるインチキ学者は全滅させろ
卑弥呼は崇神前の欠史八代と同期だ
211 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 13:10:15
東倭の説ですが他サイトで完全に論破されましたw
このスレの始めのほうに僕が書いたことは忘れてくださいww
生兵法は怪我の元とはまさにこのこと。
212 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 13:11:04
>>209 神武以前に大和の地がある程度栄えていたからでは?
神武は東征時に大和の勢力と争っている。
しかも、相手も天孫族だっただろ。
神武は東征を日向から出発してる。
これは、当時の高天原(邪馬台国?)の中心を外れた
傍系支族であることを表していると考えられている。
(日向は北九州にもある)
なんでもいいが、神武が大和に東征する以前に、
すでに大和は天孫族が治めていたことは記紀にもあるとおり。
213 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 13:15:03
>>212 それは素人の僕でも存じております。
ニギハヤヒやナガスネヒコの国ですね。
しかしヤマトトトヒモモソ姫はたしか
崇神天皇の叔母に当たる人ですよ。
その人の墓が箸墓なのです。
214 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 13:16:10
いや、安本氏の説を否定するのは自由というか、
間違っているならぜひとも論破しなければならないと思うよ。
ただね、そのためには、統計年代論を科学的に
否定する論拠を示さないと。
まったく新しい手法だと思うんだ、これ。
それまでは、ほとんど津田氏の実証主義的文献批判学から
進歩していなくて、それ以上の真理に迫る方法は
ほとんどないんだろうなと思ってた。
いまの安本氏の論はまだまだ粗雑だと思うんだ。
でも、真理に迫る突破口を示してるような気がする。
215 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 13:19:29
百歩譲って考えられるとしても
神武=崇神が東遷で欠史8代はつじつまあわせの
架空の人物。ということでしょう。可能性は低いと思いますが。
216 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 13:29:29
江戸時代の江戸が、世界最大の100万都市だったことを考えると、卑弥呼の時代の北部九州で、それだけの人口を維持できるかと言えば、やはり疑問ですよね(これは畿内説でも同じ)。
中国とは地続きで、比較的地理の情報が入手しやすいはずの韓半島ですら、インド並みの誇大な面積で描かれている点からも、
納得できると思います(出来る・出来ないは最終的には主観ですが)。
ただ日本という国(正確には地域)は、どうも縄文時代から辺境のわりにはけっこうな人口を抱えていたようで、
そのために大陸との交易が盛んに行われた形跡が多数あります。人的な交流も当然盛んだったわけで。一般にイメージされる文化の高い中国と、
貫頭衣を着た未開の原住民然とした倭人というのは、
ちょっと違うのではないか、中国よりはかなり遅れていたとはいえ、
最低でも秦漢レベルの文明は流入していたのではないかと考えています。
最古の漢字の使用例も、確定はしていないようですが出土年代が三世紀中盤から四世紀初頭に集中しているので、三国時代の混乱を避けて、
それなりの量の中国からの移民が想定できる気がします。
http://matsu.rcks.kyushu-u.ac.jp/p/study/99various/88kakushu-data/hobby/kanji.html
217 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 13:41:34
安本氏の統計年代論によれば、
崇神天皇は360年頃の人となっていると思います。
ヤマトトトヒモモソ姫は崇神天皇の叔母といいますが、
その年代の統計年代論による推定は僕は正確なところ知りません。
ヤマトトトヒモモソ姫は極めて神話的色彩を帯びた人で、
夫は神、自身は巫女、その死は陰部を箸でついた自殺というもので、
しかも、崇神天皇の代に活動したと記されているのは書紀だけで
古事記にはその代の活躍の記載はないと思います。
というわけで、なかなか常識的考えでは迫ることが難しい存在ですが、
そもそもヤマトトトヒモモソ姫のモデルとなる人物はいたと思いますが、
その実像は伝承とはやや異なるものかもしれませんし(崇神天皇の代では
ないかもしれない)、そもそも箸墓は別人が葬られているのかも
しれませんし、それよりなにより、考古学的な年代論も絶対のもの
かは疑ってみる必要がある気がします。
僕は安本氏の代理でもなんでもなく、ただのニワカですので、
これにて失礼。
218 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 13:44:20
360年ごろといえばすでに応神の時代なのでは?
219 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 13:50:17
220 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 14:03:41
>360年ごろといえばすでに応神の時代なのでは?
応神天皇(15代)は崇神天皇(10代)の5代あとですから、
統計年代論が妥当とする在世1代10年とすれば、
50年のちの410年前後の人ということになるのでは?
ちなみに、425年には、
応神の次の仁徳(16代)か次の次である履中天皇(17代)
のどちらかが宋に入貢してますよね。
221 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 14:11:46
29欽明天皇即位の538年から始めて
十世代目の54仁明天皇の崩御が850年だからその差312年
直系十世代で312年だから一世代31.2年
神武―崇神は直系十世代だから
神武即位から十代崇神崩御まで312年
直系十世代だから神武即位年は崇神崩御年の312年前
222 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 14:28:33
安本氏の統計年代論によれば、
初代・神武天皇の実年代は、280から290年となります。
安本氏は、ごく初期の天皇が直系ばかりなのを、
統計的にみてありえないと考え、
のちの代の直系・傍系の混合状態と同じであったと
仮定しているようです。
223 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/26(月) 14:49:14
しかしアマテラス=卑弥呼で
神武が3世紀の人ではおかしくなりませんか?
二二ギノミコトの墓も日向にあるようですし
めちゃくちゃです
224 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 15:01:59
安本のように同世代で皇位を継承する場合のサンプルを用いて
当該累積在位から継承一代あたりの在位を求めて何になる
初代神武から34代舒明まで、前帝崩御後に即位のパタンが続いているじゃないか
神武―崇神は直系十世代なんだから
十代目の崩御年-初代の即位年が累積在位だろ
それを計算する為の、他のサンプルからの世代あたりの年数を求めないなら
安本の研究は自説の結論在りきの補強材料研究じゃないか
御前は安本か?
225 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 15:34:51
古事記の10崇神崩年の318年から312を引くと6
百済-温祚王BC18
加羅-首露王AD42
新羅-赫居世居西干BC57
高句麗-東明王BC37
情勢的にも無理が無い
226 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/26(月) 16:29:50
サガミさん
新刊を出されたようで
おめでとうございます。
書店にて見つけましたら
今度は、購入したいと思います。
次回は、多少パロってはいかがでしょうか!
難升米と牛利が京都に赴く様子を描いた
旅日記とか
『米さん牛さんの 朝貢道中』とか
227 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 16:51:54
長期スパンで見れば25〜30だな
228 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:11:15
>>224 安本氏は、第16代以前の天皇の父子継承記事を、
統計論的に事実ではないと否定しています。
つまり、統計的に古代になるほど父子継承率は
低くなると具体的に示した上で、
しかも父子継承率がもっとも高い17〜20世紀よりも
16代以前の父子継承率の高くなってしまうということが、
それは真実ではないという事を如実に示しているとしています。
(たとえば、講談社現代新書 卑弥呼の謎 p90〜94)
229 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:18:44
>>223 >しかしアマテラス=卑弥呼で
>神武が3世紀の人ではおかしくなりませんか?
いえ、おかしくはないですよ。
初代・神武天皇の実年代は280から290年として、
1世代在位10年とすれば、5代前の天照は
実年代が230〜240年と推定され、
ほぼ卑弥呼の年代と合うことになります。
卑弥呼の真実の没年は、おおむね248年とされてますよね?
230 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:30:53
欠史八代なんだから神武末裔が崇神ですよって話だろ
直系十代として書いてるんだから直系十代だろ
231 :
sss:2005/09/26(月) 17:33:48
初期の天皇は常識で考えられないくらい長生きしています。
日本書紀と古事記では少し違いますが、古事記の崇神天皇は168歳です。
どうしてこんな非常識なことを書いたかというと、日本の歴史を古く見せる
ためではないかと思うのです。
中国の歴史を意識していたとか。
同じ理由で第2代から9代までの天皇は、架空の人物を挿入したのでは
ないかと思うわけです。いわゆる欠史。
そこで、仮説として神武天皇=崇神天皇が考えられるわけです。
つまり、神武天皇は崇神天皇の分身ではないかと。
西暦421年に宋に朝貢した讃を第15代・仁徳天皇とし、卑弥呼と壱与を
天照大神として、年代を考えると、
邇邇芸命が日向に行ったのが西暦280年〜290年頃。
同じ頃、饒速日命あるいはその祖先が大和に行く。
庄内式土器の編年はこの頃始まると思っています。
したがって、神武東征は西暦350年頃。
これでどうかなと思っているところです。
2代から9代までが実在とするとちょっと違ってきますが。
232 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:44:58
>>230 だから、直系10代は実は直系でないと統計的に否定されてるんだって。
あと、日本書紀の没年干支は無論だが、古事記の没年干支さえも
どの天皇より前からだったか、事実ではないと統計的手法で
否定されてる。
古事記の帝紀の部分でも、没年干支はなにやら追加的に
入っているだけで本文ではない。
つまり、帝紀の部分でも核となる記載部分と枝葉的に
後から追加された部分のあることが分る。
直系か傍系かの情報も、あとから追加された部分にあたり、
没年干支が怪しくなる年代から前は、同じように
怪しまねばならないという結論になっている。
帝紀の中で信頼性の高い部分と低い部分は峻別せよ、という話。
(没年干支でいえば、たとえば崇神天皇の258年どころか
318年さえ真実ではありえないとされている。在位の
実年代は360年ころ)
233 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:47:03
神武と崇神との間に傍系に百代の天皇が居ようが、
直系以外の記録を抹消して8代の在位にすり替えようが、
別の氏族の王統があろうが
欠史なんだから欠史たる解釈の自由度は広まって構わない
だが崇神は神武の直系十代目だ、そこに自由度は存在しない
234 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:50:31
安本が否定してるだけだろ
235 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:55:33
安本氏によれば、(いや、僕は安本氏の代理でもなんでもありませんが)
帝紀の中に、信頼性の高い部分と低い部分があり、
核となる部分は古事記の記載の仕方を見れば、
ある程度分る、という話になってます。
つまり、没年干支などは16代より前の部分は本来の古伝には
なかったものをあとからこしらえたものでしょうし、
直系か傍系かの部分も、そういうものであろうとされてます。
欠史8代は帝紀のもともとの核となる情報部分ですよ。
この実在は疑う必要はないでしょう。
236 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 18:02:28
>>233 古事記をきちんと読まれることをお勧めします。
そうすれば、帝紀の部分にも信頼度のばらつきが
あるという説にも、なにやら説得力があるのが分るかと。
没年干支は本文ではないですよね。
帝紀と旧辞を分けるのはむろんのこと、帝紀の記載事項にさえ
種別があり、それぞれの信頼度は違うという可能性がある
という説には、説得力があると思います。
ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家を探し出すような作業だ
頑張ってくれ
238 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 18:16:23
その気になれば記紀編集の段階で16代仁徳天皇〜25代武烈天皇を消して
16代天皇が稚野毛二派命
17代が意富々等王
18代が乎非王
19代が彦主人王
20代が継体天皇
と編集する場合だってありえたし
その場合は16代〜19代までが欠史四代になったろうけど、
編集者側からすれば別に構わないじゃないか
帝記がないんだから
記紀編集で仁徳〜武烈を抹消したなら
継体以前の直系しか書かなかったら、王位自体の事実性の否定じゃなくて
神武〜彦主人王の直系血統に難癖付けるのか?
「直系しかないのは統計的在り得ない!!!」
「一代10年だから20代継体天皇から19代分、190年遡れば神武天皇の実年代だ!」
とかホザいて
安本の統計なんか関係ないだろ
239 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/26(月) 18:48:38
古事記には「真作」か「偽作」の問題も付き纏う。
【例】
序文に、「飛鳥清原大宮…」と、あるが
普通は「浄御原」と書くところを「清原」と書いている。
「清」の字の使用は奈良前半で 「浄」と「清」を併用しているが、一般的には「浄」を使用するのが普通、それなのに「清」を用いている。
それに、序文の語句に7C末〜8C前半でしか使わないものが目につく
240 :
ぷらむ ◆RvhHf7kqyY :2005/09/26(月) 19:23:40
古事記の「真作」「偽作」問題。
駢麗体(ベンレイタイ)で書かれた見事な序文
平安時代になってから書かれたとする「賀茂真淵」
真作とする「本居宣長」
二派に別れる
241 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/09/26(月) 22:49:31
メモ程度の三国志を放射読みする九州説はどうかと思う。
243 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 08:03:23
金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物等々
魏からもらった品々が卑弥呼の墓の中に
ある気がしますし九州の古墳を
片っ端から発掘すれば卑弥呼の墓が
どれだかわかるはずです
244 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/27(火) 09:11:43
卑弥呼の墓は小城市の桜ケ岡であることは間違いありません。
問題は墓から何が出土するか、です。
これには3通りかんがえられます。
1 墓の上に後世の他人の古墳が造成されたことから、そっくりそのまま封印されているということ。
この場合の発掘は、上に乗っている墓を破壊しなければなりません。
2 殉死した人の骨が既にみつかっていることから、墓も掘り返されていると言う事.
3 墓は古墳から若干はなれたところにあり、無傷であるということ。
この場合は地中探査機を使用すればみつかるかもしれません。
以上の3点がかんがえられます。
245 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/27(火) 09:14:17
訂正
墓から何が出土するかですーー墓の現状です。
246 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 09:15:59
しかしサガミさん、
孫ほどの年齢の僕がいうのも失礼かもしれませんが
卑弥呼の墓がその桜ヶ丘公園にあるなんて
いくらなんでもしょぼすぎやしませんか?
倭国30国の代表で魏に朝貢もし数十年にわたり
女王の座に就いてた人が、今やひっそりと公園内の墓に
眠ってるなんて・・あと前にも言いましたが
小城に卑弥呼にまつわる伝説かなにか残ってないんですか?
僕は宇佐神宮の比売大神がやはり卑弥呼で
宇佐が邪馬台国だと思いますが。そっちのほうが
しっくりきます。
247 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 09:30:54
ちなみに7万戸とか南へ水行10日とか
そういうのはまともに議論するのはやめたほうが
いいきがしてきました。前にいったように
司馬仲達の功績を称えるためとか対呉政策のためとか
いろいろあるみたいですし信憑性に欠けます。
あと倭人伝は魚蒙??だったかな、なんか
そのような資料を参考にして作ったらしいですし
まだ呉が健在だったころの資料を元にして
作成されてるんじゃないんでしょうか?
248 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 09:49:46
ところでサガミさんの本は通販でしか
買えないんですか?圭角さんの本も
買いたいのですが圭角さんは自由業との
ことですが作家ですか?本屋に売ってますか?
249 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 11:09:03
プラムさんの本はないんですか?
本出してくださいよ。
250 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:35:45
邪馬台国は佐賀の近く
・奈良の地名と佐賀の地名に方位ともに同じで同一地名がある
・邪馬台国はそのまま「やまと国」とも読める
つまり大和朝廷のヤマトで邪馬台(ヤマト)朝廷
・佐賀にそのまま佐賀大和って言う地名がある
・佐賀平野はのっぱらが見渡す限り広がり
米を作って人口を増やすには持って来い
・佐賀の近くには伝説が残ってるところもあるらしい
・まつろ国は松浦の旧名まつろのことで唐津、
伊都国は糸島半島で今の前原、名前もそのまま残ってる
・唐津の東松浦半島と前原の糸島半島の中は湾になっており
波が穏やかで航行しやすくたぶん上陸もしやすい。
中国からの使者は一番航行しやすい朝鮮半島の端っこから
出発して壱岐対馬などの島で休憩や補給をして
まつろ国の松浦半島についたあと波の穏やかな湾内を航行し
伊都国の伊都島半島に着いてそこから山を越え平地で
米がいっぱい取れ人口も多く栄えている邪馬台国を目指した
という一番無難な方法で邪馬台国までたどりついたはず
で大陸からの文化と平地による大陸から伝来した稲作で
容易に食料を得ることが出来るようになった邪馬台国は勢力を増し
そのまま北上し奈良の近くで大和(ヤマト、ヤマタイ)朝廷を開いた。
そしてその場所に自分らの故郷の地名と同じ地名をつけた。
251 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:49:57
大陸からの稲作伝来で大陸に近い
平野である佐賀平野あたりで稲作が開始されて
食糧事情が大幅に改善して人口爆発が起きたんだと思う。
食料の安定生産が出来て人口さえ増えれば
回りの狩猟採集の部族なんか目じゃない
そして新たな農地を求めながら北上したんじゃないだろうか
252 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:57:24
ちなみに吉野ケ里遺跡は
佐賀から東にちょっと行ったとこだし
たぶんもう間違い無いと思う
253 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 15:23:55
邪馬台国の第一候補地として僕はやはり
宇佐をあげたいです。日向も邪馬台国と関わりがあるきがします
けど、やはり宇佐に邪馬台国はあったと確信しております。
・>女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。
倭人伝のこの文章を読むかぎり宇佐から海を渡り山口へ
いったとみるのがもっとも妥当な解釈です。そして南の
四国に侏儒国があったのでしょう。それ以外に解釈の
仕様がないじゃありませんか?w
・当時、宇佐は大和・出雲とならびもっとも開けたとこでした。
豊の国も台与の国に通じるところがあります。
・宇佐神宮の比売大神は宗像3女神との公式見解ですが
卑弥呼一族は道教に通じていたらしいですし渡来勢力の
宗像族だと思っております。また卑弥呼・壱与ほどの
倭国30国を代表する王がどこにも祀られてないのはおかしい
ですし、なんらかの伝承も残されてるはずです。考えられるのは
この宇佐神宮の比売大神しかありません。
・宇佐神宮の拝礼方式で2礼4拍手1礼の中に出てくる
4拍手は出雲大社と宇佐神宮だけです。4は死につながり
縁起が悪いのに4拍手ですし、また応神・神功も一緒に
祀られてることから僕は大和朝廷が宇佐にあった邪馬台国を
滅ぼし壱与を殺したのではないかと考えます。
ちょうど大和朝廷が中央集権化を進めるべく全国に兵を
派遣してる時期と重なりますし九州に上陸する際、
地理的に見てまず宇佐が真っ先に狙われます。
ゆえに出雲の大国主同様二度と生き返らないでくれと
いう意味もこめて4拍手なのではないでしょうか?
254 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 16:34:11
ヒッキー君
私も最初「宇佐」を候補地としていました。
>本の出版
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス………クスクスクスクスクス…ヘェックション!!
255 :
sss:2005/09/27(火) 18:21:53
>>251 弥生時代あたりの佐賀平野はそんなに広くなかったみたいですよ。
海岸線はかなり奥までで入り込んでいたようです。
吉野ヶ里は港町だったって話もあります。
256 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 18:30:31
257 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 18:43:06
もし九州から北上したのなら
歴史の本のヤマタノオロチ伝説と鉄から
鉄器を作ってた民族との関連も納得がいく
この説は鉄を掘り出すかなんかすると
川が赤く染まるのでその川を蛇あらわしたのではないかという説
そしてこの説のヤマタノオロチのどうとかは中国地方が舞台とか聞いた
太陽の神であるというアマテラス(卑弥呼?)は
農業でもっとも大事な天候と気象の象徴であり
ヤマタノオロチを破った暴れ者のスサノオは
鉄器の技術と軍事力の象徴のはず
もしこれが本当なら九州で稲作の技術を得て人口を増やしたヤマトが
中国地方で大陸からの技術の鉄器を使う民族を支配下に置き
食料の生産と軍事力をもったヤマトの民族がそのまま畿内まで
攻め上ったとは考えられないだろうか
そしてこの民族の移動の話は神話として語り継がれた
九州に残る地名や中国地方に残る地名
そして神話として語り継がれる物語には魏志倭人伝には書かれてない
ヤマトの北上の秘密が隠されている筈
あいかわらず神話と歴史をごちゃごちゃにしてるな
259 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:41:53
でも世界各地の神話って結構正しいよ
トロイの神話とトロイ遺跡とか
それに昔の人はそんなに凝った
つくりばなしつくるとは考えられない
単純に口伝として自分らのルーツを
口伝で伝えたんだと思う。
260 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 20:07:04
>>257 倭人伝に書かれていないならスレ違いなので
神話スレでお願いします。
261 :
太:2005/09/27(火) 20:09:13
プラムさん、ちょっと厳しくな〜い?w
262 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 20:35:39 0
魏志倭人伝 " 等 " を読む
263 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 20:49:38 O
いえ、
太さん。
「記紀」の話しは その裏付けがしっかり出来ていれば 別に構いませんが
264 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 20:59:05 O
私も、「記紀」の内容はおろそかに出来ないと思います。
しかし、藤原不比等の政治的思惑や
>>239-240にカキコした疑問点等を自分なりに整理してから
「記紀」関連スレに参加しようと考えてます。
先ほどから神代で盛り上がってる諸氏方 どうかこの無学者に
>>239-240の解説をお願いいたします。
265 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 21:06:45 0
日本刀が良く切れるのは
成分にモリブデンを含むから
ヤマタノオロチの伝説を聞いたドイツの化学者は
中国地方になにか秘密があるものと思い川をさかのぼり
その上流でモリブデンを含む鉄を発見する
この研究結果をもとに作られたのが
モリブデン鋼を使ったドイツの無敵のタイガー戦車らしい
もし昔もモリブデンを含む鉄が取れてたのが
本当ならいい剣もつくれたはず
266 :
きつねちゃん:2005/09/27(火) 21:07:29 0
稲作で生活をする人達の信仰は、苗を植える時期を知る、太陽の春分点信仰があり
山の恵を得て生活する人達の信仰は、冬を迎える準備をする時期を知る、太陽の秋分点信仰がある
海を航海し恵を得る人達の信仰は、自分の位置を確認する北極星又は北斗七星信仰がある
中国の古代地図には、日本列島が南に広がっている物があるそうだけど
航海術を持つた人物が、南と東を間違えるわけが無く、聞きづてに制作したのだろう
魏志倭人伝を書いた人物も、実際に邪馬台国まで旅をしたのか疑問だ
邪馬台国の九州の出先機関に滞在しただけかもしれない
267 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 21:14:03 0
>>266 俺は感だけど潮風で流されたんじゃないかと思う
星が読めるなら正確な位置がわかるけど
もし大陸から日本に向かって風が吹いてる状況なら
普通の船員に「邪馬台国はどこにあるか?」って聞けば
「南に舟をすすめれば着く」っていいそう
しかも昔の船は今のヨットみたいな船の下にある
方向を定める板が無いらしいし後からの風とかで進むので
潮と風には流されるしむしろ流されて進むみたいな感じじゃないかと思う。
268 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 21:23:04 ID:O
北極星だけど
当時の航海には余り関係ないと思う。
陸上での定点観測は可能だけれど 基本的に夜間航海が無い時代だ
昼間の航海に北極星はいらないだろう
269 :
sss:2005/09/27(火) 21:53:11 ID:0
>>260 魏志倭人伝は、昔から知られていた資料で、多くの人が読んでいます。
新井白石や本居宣長も読んでいます。
ここにいる人の中にも、暗記するくらい読んでいる人もいると思います。
でも、なかなか邪馬台国の位置は決まりません。
あらゆる意見が出尽くしている感じもあります。
守備範囲を広げざるを得ないのでは?
270 :
太:2005/09/27(火) 21:54:31 ID:0
あのー、ここの魏志倭人伝の話は、みんな裏付けがしっかりできているというんでしょうか?
271 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:05:43 ID:0
ハイキングや山登りした人ならわかると思うけど
人間の力ってものすごくよわい移動できる距離も限られてるし
なにかあるとすぐ死んでしまう
魏の使者も朝鮮半島のさまでいって間に壱岐の島を挟んで
まつろ国を経由してやっと伊都国までたどり着いてる
たぶんこれがこの時代の航海術の限界なんだと思う
マツロが唐津で伊都国が糸島だとすると
邪馬台国はやはり山ひとつ越えればつくことが出来る
佐賀平野なのではないかと思う
それに水行なんにちみたいにかいてあると
直線距離で割り出したりしてるけど
当時の航海技術なら風がある場合は風を使い
風が無い場合は合えて荒海に出ず
海岸線沿いを移動した可能性も考えられる
船は沈むのが弱点だが海さえ荒れてなければ
大量の物資を運べるので獣にも襲われず
山道の陸を行くよりはいい
いろいろなものを持ってきてるなら邪馬台国に一番近い港
までは船で行きそこから出きるだけ短い距離で陸路を進む筈
それがマツロからイトまで船で移動してる理由なんじゃ無いだろうか
有明海から回ってもよさげだけど当時はそこまでわかってなかったのかも
272 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 22:08:31 ID:O
太さん
このスレは一応「倭人伝」を研究するスレ
その流れに沿った議論なら桶だと思いますが
273 :
きつねちゃん:2005/09/27(火) 22:13:19 ID:0
風や潮に流されて日本に来ただけなら、逆風逆潮の中国には正確に帰れないよ
当時、星座観測して夜間航海しなければ中国と日本を行き来できないよね?
274 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:28:57 ID:0
当時の航海技術がマジで気になる
それさえわかれば移動できる距離は
記述の誤差はどうあれおのずとわかる
275 :
sss:2005/09/27(火) 22:29:26 ID:0
>>265 NHKのプロジェクトXでもやってましたね。
どうしても外国製に勝るひげそり用のかみそりを作れなかった企業が
出雲の伝統的なタタラ技術者の手法から学んで成功したと。
山陰地方と鉄の関係は面白いですね。
山陰地方といえば、記紀では重要な地位を占めていますが、
考古学的にも重要です。
島根県だけでなく鳥取県も。妻木晩田遺跡なんて非常に面白い。
276 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:39:31
>>275 やっぱりあそこら辺には鉄を作る
民族が昔から多分いたんじゃないかな?
たぶん九州にも鉄の技術は伝来したのかも知れないけど
肝心の鉄が取れなかったのかも
製鉄にはかなりの高温が必要なはずで
この高温を作る技術は焼き物の窯とかに応用されたんじゃないだろうか
歴史は違うかも知れないけどよく焼き物の順位を
1楽2萩3唐津といって上の楽焼ほど薄くて
下の唐津焼ほど厚いみたいな話があるけど
これも九州から中国地方を経て関西へ行くにしたがって
昇華している様にも感じられて面白い
277 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 22:48:16
当時の航海技術で
対馬海峡を夜間航行するのは自殺行為
278 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/27(火) 22:56:14
>>273きつねちゃん
冷静に判断してみよう。
光の無い暗闇の海、例え北極星を見つける事が出来ても正確に前に進めますか?
279 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:57:13
146年、弁辰諸国の鉄をとる、196年 倭・韓、帯方郡に属す、
280 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:58:53
あとここの部分は〜〜に進んだみたいな記述じゃないから
伊都あたりからこっちの方向にはこういう国がありますよって
言う補足的な説明なんじゃないだろうか
もしここから東南に行ったとすれば〜〜の国に着きますよみたいな
調査報告書みたいなものだからそこら辺の情報は目に付く限り聞いた限り
書いたのかも、それが何か伝えられたか書き写すかの間におかしくなってる
ような気がする、もしここを伊都国の近くの補足的説明として飛ばして
最後の邪馬台国の位置を書くのが本当に書きたいことだと推理すると
伊都国から南に行くと佐賀平野の邪馬台国でばっちりなんだけど
>東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚といい、
副を卑奴母離という。二萬余戸有り。
東行して不彌國に至ること百里。官を多模といい、
副を卑奴母離という。千余の家有り
南のかた投馬國に至る。水行二十日。
官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五萬余戸ばかり有り。
281 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:04:58
それか数字が適当だとすると
邪馬台国が吉野ヶ里より右に合って鳥栖のあたりだろうか?
もしかしたら久留米とかが邪馬台国?
どっちにしても昔の人が一日ジャングルみたいなとこを
通って戦時中の南方の日本兵みたいに食料や装備も乏しく
ひーひーいいながら進むのに
そんなに遠くには行けないだろうと思う
282 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:09:09
283 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:12:17
284 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:13:40
ここの部分も女王の収めるところはこんなに広いですよ
みたいな意味でその後ろにつづく国の列挙がその詳細説明のような気がする
でも北が果てしないって書いてあるから佐賀平野よりもっと下の
熊本の近くだったのかも
>女王の都する所。水行十日、陸行一月
>>264 >239-240に対する解説は、このスレでは不要でしょう。
「古事記」の位置付については、Wikipediaで貴方が調べた程度の知識があれば誤ることはないでしょう。
もっとも、>263のレスは、古事記成立に関する「解説」を求めているようにも思えませんが。
その序文、本文の成立については、多くの研究家がいろいろな解釈を試みています。
大勢としては、古事記は一私伝であり、太安麻呂撰上の勅撰史書では無いだろうと言えます。
続日本紀に古事記編纂の記述が無いこと、また、本文の多くは日本書紀の「一書」と共通していること。
序文については、9世紀ごろ太人長かその周辺人物が「勅撰」に仮装するために付け加えられた認められること。
しかし、本文については、上代特殊仮名遣が巻18の一部特定箇所を除いて正しく使われており、
9世紀以降の仮名遣いとは異なるため、後世の改変等の影響は受けておらず、
かなり正確な写本が伝えられていると認められること。
以上の点から、その本文は、少なくとも8世紀初頭に存在したの古代伝承の一端を記録しており
それを現代に伝える貴重な古文献である。
20世紀になって現代人の思惑で作られた「偽書」の類とは、その史料価値は雲泥の違いがあります。
286 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:18:56
基本的に調査団だから
自分らの行った道のりを全部記述してるんじゃなくて
聞いた話とかも全部調査してスパイみたいに書いちゃってるんだと思う
つまり線ではなく面の情報を書いてるはず
その証拠に本来なら邪馬台国の上に何があるかも
報告すべきところであるが大きすぎてわからないと弁明して悔やんでる
つまり本来ならこれは書くべきことであるがということ
逆にいえば他の部分では詳細に書きましたということではないだろうか?
最初から邪馬台国にくるのが目的だったから他の小さい国は
無視して本来の目的の邪馬台国に来たのに詳細がわから無くて残念
ということも考えられるけれども、こういう資料というのは絶対あとで
軍事目的に利用されるはずであるしそのための資料と思えるので
出来るかぎりの情報は集めるんじゃないかと思う
>女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、
>その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
287 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:29:42
>>285 詳しい説明感謝します。
ただ、
>>263のレスは、古事記成立云々を求めた訳では無く スレが荒れない為の予防としてカキコしました。
でも、先ほどの
>>285の解説 これからの参考とさせて戴きます。
>>288 「スレが荒れない為」=「記紀ネタが続かない為」?
>>284 幾つもの地名の列記は、一概に広さの表現とは限定出来ないと思います。
「地理志」の最後に
周旋五千餘里と、している以上 その範囲は、例え記載の地名が倍以上増えようとも 周旋五千里を越えるものではありません。
291 :
本田:2005/09/28(水) 00:04:06
>>285 >
>>264 > >239-240に対する解説は、このスレでは不要でしょう。
> 「古事記」の位置付については、Wikipediaで貴方が調べた程度の知識があれば誤ることはないでしょう。
> もっとも、>263のレスは、古事記成立に関する「解説」を求めているようにも思えませんが。
> その序文、本文の成立については、多くの研究家がいろいろな解釈を試みています。
> 大勢としては、古事記は一私伝であり、太安麻呂撰上の勅撰史書では無いだろうと言えます。
日本を含む統一新羅の勅撰史書だと思う。
> 続日本紀に古事記編纂の記述が無いこと、また、本文の多くは日本書紀の「一書」と共通していること。
古事記は新羅の慶州で作られたので記録が無いのかも。
> 序文については、9世紀ごろ太人長かその周辺人物が「勅撰」に仮装するために付け加えられた認められること。
序文には「皇帝」とゆう記述があるけど、統一新羅の皇帝を指すんだろうな。
だから7,8世紀ものだと思う。
292 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 02:44:23
15有人持兵守衞女王國東渡海千餘里復有國皆
16倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四
17千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年
18可至參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周
19旋可五千餘里景初二年六月倭女王遣大夫難
293 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 02:48:57
倭人←→倭種
倭←→倭地
女王國←→女王國東
←→旋可五千餘里
294 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/28(水) 07:53:18
246について
どんな墓でもわすれられたらあれてきますよ。
小城にまつわる伝説はまったくありません。
ただ佐賀市の北部に、オオヤマダヒメとサヤマダヒメの伝説があり、オオヤマダヒメが卑弥呼で
サヤマダヒメが壱与ではないかと考えたこともあります。
宇佐のヒメ大神は宗像神のほかに、天日矛伝説のアカルヒメ(だっけか)だか、ヒメゴソ神(だっけか)
の影響があるかもしれません。姫島が近くにあることからその辺りに姫神をまつる信仰があったのでしょう。
295 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 08:40:05
北極星に関してですがたとえ夜間航海がなくても
方向を確認する手段になっただろうし
倭人伝の方角はほぼ正しいとみるべきです。
里数もだいたい正しいでしょう。
296 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:46:59
297 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:49:48
でも出土の数が多いのは神崎あたりなのか・・・
やっぱりじゃー米所で赤米がいっぱい取れた
佐賀平野にあったんだろうか
記述もどこかがいいかげんだったり
間違ってるところもあるんだろうけど
そのせいでドンドンわけがわから無くなる
298 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 08:52:13
>>294 サガミさん、なんという偶然でしょう。
ちょうど僕が今読んでる本の作者が
邪馬台国はヤマダ国と読むので
佐賀県の山田町が邪馬台国だと力説しておりますよ。
299 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 08:54:09
考古学的にみて畿内優位とのことですが
当時の鉄の輸入ルートは圧倒的に九州優位だったのが
考古学的に証明されてますし畿内が九州を支配してるなんて考えられない
300 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:54:10
っていうか邪馬台国東遷説が本当だとすると
人類アフリカ起源説も考えると
アフリカで生まれた人類が紆余曲折の果てに
アジアの端まで到達したってことになって
ちょっと神秘的だ
301 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:59:51
マジで畿内説はありえんと思うよ
昔の人の足なら1日数十キロ下手すると
山道10kmすすめばへとへとでしかも暗くなる前の
暗くなり始めたらもう目印が無いのでキャンプの
準備をはじめてたはず
船で行くにしてもそれまでは対馬、マツロ、伊都と
よれるとこには全部よって一番安全なルートで来てるのに
急に畿内まで船で行っちゃうのはおかしい
302 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 09:02:06
>>301 しかし学界では完全に畿内説優位だそうじゃありませんか。
プロの学者様がたはみんな畿内説なのです。
僕のブログのほうによく書き込みしてくださってる
博物館の研究員の方もやはり畿内だとおっしゃっていました。
303 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 09:15:29
畿内説の学者も九州説の学者も
ご飯食べて行くために自分が死ぬまでは
自説は曲げないだろうから
次の世代の学者が出るまで待たなくちゃダメなのかも
スサノオが手に入れたのは鳥取にいた
製鉄民族が作ったモリブデンを含む鉄で
鍛えられたモリブデン鋼をもちいた恐ろしい切れ味を持つ剣
当時何の技術も無いころに現代のモリブデンバナジウム鋼
と同じような金属があってそれで剣が作られていたとしたら
それはもちろん3種の神器に入って現在まで伝えられても
おかしくないほどの切れ味だった筈
305 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 09:36:07
ちなみにこのモリブデン鋼はいまでは包丁に使われてる。
つまり大昔の聖剣天の群雲の剣も
今ではホームセンターで売ってる
穴空き包丁に負けてしまうというわけ。
306 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 09:47:05
倭人伝から邪馬台国の存在が確認できる以上
まず倭人伝を徹底的に解釈してその後
考古学等から邪馬台国の場所を割り出すべきなのに
なぜ畿内説の人は倭人伝を無視し鏡がでてきたから
古墳があるからという理由で畿内説にしてるのでしょうか?
本末転倒でしょう。16歳の僕でもわかることなのに。
307 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 09:50:38
モンブラン食べたくなってきた
308 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 10:43:36
>サガミさん
失敬ながらこの文章はどうご理解されてます?
女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。
更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。
小城の東に海なんてありますか?
309 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:08:38
女王国の東へ千余里・・国内にそんな広い海あったっけか?
310 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:16:40
テレビ等で見かける卑弥呼は大変見目麗しく、白絹の衣をたなびかせているが
実際は汚いなりの、ボサボサ頭の少しブッ飛んだババァなんだろうな。
シャーマンなんてそんなもんだろ。
311 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:21:37
スッピンのサッチーか
(((( ;゚Д゚)))
312 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:32:10
それこそ細木数子みたいなやつだろ
313 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 13:10:45
宇佐と近畿の方言って近いんじゃありませんか?
314 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 13:24:37
九州・近畿それぞれポイントを決めて資料の道順の逆を辿ってけばどこにたどり着くかオモシロソ。
315 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/28(水) 13:30:15
地理的要因から宇佐は大和朝廷が
九州へ進出するために押さえなくては
ならないポイントでした。
やはり大和朝廷の全国制覇活動の際に
真っ先にやられて大和朝廷に吸収されたか
もしくは融合したかでしょう。
さて今日もバイトへいってまいります。
そろそろ学業のほうも頑張らないとなwではでは
>>295 方位については、大きく取り違えるような方向音痴が生きて行き来できるはずがない、という面もあります。
里数については、逆に「当時のレベルで正確といえるほど正確に測量した可能性は絶無」と考えるのが穏当でしょう。
ヒッキーは大検でも受けてどこぞの日本史科か考古学科に行くべきだな
318 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 21:09:24
マジで金が親が出してくれるなら
大検とれば大学いけていくらでも考古学できるぞ
319 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/28(水) 21:16:45
女王国の東について
倭の諸国で、女王の勢力範囲が女王国とあらわされているようです。
よって、北部九州の東となります。宮崎県にある投馬国は女王国の勢力圏外だったか、
東は海であったのでこの場合にはいれなかったのかもしれません。
320 :
本田:2005/09/28(水) 22:14:35
>>306 > なぜ畿内説の人は倭人伝を無視し鏡がでてきたから
> 古墳があるからという理由で畿内説にしてるのでしょうか?
> 本末転倒でしょう。16歳の僕でもわかることなのに。
曲学阿世。
何時に時代にも、何処にでもあることさ。
研究費をだしてもらったり、
勲章をもらうのには必要なのさ。
専門家の意見は鵜呑みにはできない。
321 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/28(水) 22:40:45
それよりも
考古学で邪馬壹國は見つからないと思うよ
邪馬壹國とそうでない国の違いは何?
決めてはなんなの
これが出土すれば、間違いなく邪馬壹國と言う物証は何なんだ
322 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 22:54:05
鏡かなんかだと聞いたが
錆びてたらでないかもね
今の遺跡でも偶然残った化石みたいなものだし
人がいた場所のやつが全部残ってるわけでもないだろうし
323 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 01:21:26
>>309 壱岐〜対馬、壱岐〜マツロ国が1000里だから、宇佐あたりからなら山口県や愛媛に該当する。
324 :
sss:2005/09/29(木) 01:31:07
>>320 邪馬台国畿内説のための考古学研究機関もあるみたい。
>>322 出土する鏡は全部錆びています。
青銅の緑が勝った青は錆びの色です。
以前、畿内考古学は鉄は錆びて溶けてしまうから
畿内からは出ないのだと言ってました。
ほかの地方からは出ているのに。
325 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:01:31
>サガミさん
予想通りのお答えありがとうございましたw
それは言うと思ってました。僕自身常々
邪馬台国と女王国は違うと力説してましたからねww
そこでです。女王国の範囲内の最後に奴国が
出てくるところが問題だと思うのであります。
>次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴 国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、
次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、
次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。
これが女王の(権力の)尽きる所である。
この文章です。奴国で女王の権力が及ぶ限界点だと
述べているのであります。この奴国が2万戸の奴国と
同一だとしたら邪馬台国(小城)から奴国(福岡?博多?)
までが女王国ということになりはしませんか?
そうなると東に海を渡るとこ1000里という
文章は小城ではあてはまりませんよ。むしろ
邪馬台国が宇佐だと仮定したら邪馬台国と奴国までの
距離は結構ありますしこれだけ多くの国が間に入るのも
つじつまが合うと思いますがどうでしょう?
326 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:05:55
歴史学科・考古学科へ進むかどうかは今のところ微妙です。
調べてみるとやはり文学部では相当就職が大変らしいのです。
327 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:26:28
倭人伝は魏略を元に書かれてるので
対呉対策等の恣意的な部分が含まれてるでしょう。
曖昧な部分(南へ水行10日陸行1月)とかは
里数をわざと書かなかったりしてるふしがあるので
ここはカットして考えなくてはならないと思います。
7万戸も明らかに誇張です。ここらへんは
触れずに具体的に描写されてる部分を信頼して
倭人伝を活用しましょう。倭人伝の利用価値はそこまでです。
その後は別の方法によらなければ邪馬台国の場所など
割り出せません。
328 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/29(木) 08:34:32
邪馬台国の行路上の奴国は佐賀県肥前山口です。その余の奴国は福岡県山門です。
女王国より東1000里については、後漢書の記事からみても編者自信がきちんと把握していなかったようです。
魏志倭人伝 女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
後漢書倭伝 女王国より東、海をわたること千余里、拘奴国に至る。
この拘奴国が狗奴国のことでよいのかをも含めて、如何に解釈するかでしょう。
ちなみに、不彌の港(小城市の大江)から有明海に出て千里で陸に着くように東に進むと、
狗奴国(熊本県宇土半島の付近)につきます。
329 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:36:33
あとは状況証拠で判断するしかないでしょう。
4世紀半ばに神功皇后率いる
大和朝廷が新羅に出兵してますし、すでに
このときには北九州は大和朝廷に服属していた
ということになります。また266年に
壱与が東晋に朝貢しています。
この約100年の間に何かがあったわけです。
時代的に崇神王朝が四道将軍を派遣したりして
全国制覇をもくろんでいたりヤマトタケルが
活躍していた時代ですし邪馬台国と接触したこと
相違ありません。また九州へ行く際瀬戸内ルートの
確保のため宇佐はどうしても制圧しておかなければ
ならないポイントでした。宇佐神宮の比売大神が
出雲大社と同じ4拍手であること、日本で4拍手など
縁起の悪いことをやるのはこの2つですし
応神・神功より上位に祭られていること、から
比売大神はまさに大国主クラス。状況から考えれば
比売大神は倭国女王の壱与で大和朝廷に殺されたとみるべきでしょう。
決定的な証拠はないですけどそう考えるしかないと
思いますが・・
330 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:52:32
>328 サガミさん
やはり奴国は2つあったとおっしゃりたいわけですか?
しかしそれでしたら他の史書から似たように
書かれている部分を示さなければ証明されないと思うのですが・・
後漢書の拘奴国の文章も存じておりますがそこは狗奴国と
同一視するかどうかは保留すべきでしょう。
>女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。
この「また国がある」。という中に含まれてる可能性もあります。
狗奴国だと判断するのは主観が入りすぎのような気がしますがw
もちろんその可能性もあるわけですけどね。
ただそうなると奴国の問題も同じ国でいいんじゃないかと
思ってしまうわけですよね。こわっぱの分際で生意気言ってすいませんが。
331 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/29(木) 08:53:55
邪馬台国の壱余は、小城にいて、宇佐に移動したとは考えられません。
それに比売大神は卑弥呼説が有力で、豊の国は台余からきたという語呂合せからきたのではないでしょうか。
これから彼岸花をみにいくので帰ってからまた参加します。
332 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:57:52
台与は豊国にいたから台与なんです。
あっいや、台与がいたから豊国なんですw
333 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 09:32:56
彼岸花ですか。いいですねえ。
僕はこれから勉強始めてその後きつ〜いバイトへ
いかなければならないので鬱です。
また明日書き込みます。ではでは
334 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 11:59:58
335 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 12:45:47
サガミさん、それにヒッキー君 こんにちは
宇佐や小城もいいですが
もう少し、朝貢の意味や目的を考えて見るのも一考かと
いくら「宇佐」や「小城」を支持したところで
確証が出なければ水掛け論その様な時は
面倒でも最初に戻るべきと思います。
336 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 13:01:53
倭人伝の記事に 伊都國と狗奴國には王がいると書いてあります。
しかし、その国は伊都國であり狗奴國なのです。
337 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 13:59:33
338 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 14:23:46
>>337 単純に文章読むなよ
考えて嫁よ
今、時間ないから後で
339 :
sss:2005/09/29(木) 17:19:59
>>329 邪馬台国宇佐説の場合は、宇佐神宮の存在が大きいと思うのだけど、
宇佐神宮には、「神代に三神の比売大神がご降臨になったこの地に…」
って書かれているわけで、比売大神というのはやはり宗像三神の
ことじゃないかと思う。
宗像三神というのは、天照大神が素戔鳴尊の剣を噛み砕いて吹き出したときに
生まれた三柱の女神のことで、いわゆる素戔鳴尊の誓約のときに生まれている。
713年から720年に起きた隼人の乱。宇佐神宮の建立は、この隼人の乱との
関連が大きいといわれている。ちなみに神殿の建立は725年。
邪馬台国との関連はうすいのではないだろうか。
340 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 17:47:13
だから絶対九州最大の穀倉地佐賀平野またはその近くに邪馬台国はある
狩猟採集民族の中から一歩ぬきんでるには軍事力か
生産力が飛躍的に上がったとしか考えられない
昔は高い建物もなかっただろうから神話の高天原の名前の通り
見渡す限り地平線まで稲穂が揺れていたんじゃないだろうか
狩猟採集のころから比べれば地面に植えて世話をすれば
また地面からドンドン食べ物が出てくるというのは
たぶんすごいことだったはず
341 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 18:32:46
だっからさぁ〜、邪馬台国の卑弥呼は軍事力で他国を制圧したんじゃなくて
宗教的カリスマをもって自体を収拾する為に共立されたんだろ
342 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/29(木) 19:24:53
伊勢原市の日向薬師へ向う途中の彼岸花をみてきました。
おととい見た高麗川の巾着田の彼岸花は、林の中でしたが、今日のは本来のあぜ道や道端にさきそろっていました。
奴国は2つあった云々について他の史書からということですが、たしかおなじ魏志の韓伝だかに、同じ国名が2つある例がありました。
343 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:27:33
ソース出せ
344 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 19:34:22
伊都にも狗奴にも「王」がいるのに それぞれ伊都國であり狗奴國と記されていて、伊都王国や狗奴王国とは、記載されていません。
しかし、卑弥呼の治める国は「女王國」と記載されています。「女が治める王国」です。
345 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:37:16
邪馬台王国とか邪馬台女王国なんて書いてねぇーだろ
卑弥呼連邦傘下が女王国だろ
346 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:45:00
一大国にも王は居るぉ♪
347 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 19:46:51
>>345 >邪馬台王国や邪馬台女王国
そんな事カキコしてませんけど
>卑弥呼連邦
そんな記事何処の史書に書かれているのですか?
348 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:51:16
>卑弥呼の治める国は「女王國」と記載されています。
何処にこんな事が書いてるんですか?
349 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 19:52:02
350 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:58:27
>渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來
これで決まりだぉ♪
351 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:59:36
王が居ない国なんてあるのれすか?
352 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 20:06:51
353 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:14:10
不思議に思わないか?
どうして「皆」なのだろうか?
つまり伊都国以外の王も皆と云う事にマツガイナイ!!!←↓↑→
Ω、ΩΩ<ナナンダッテーー
354 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 20:15:00
355 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:20:02
ププププ
356 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:21:59
>>348 UZEeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>南至邪馬壹國,女王之所都
解ったら糞して練ろ!!!!!!!!!
357 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:30:17
>>344 >伊都にも狗奴にも「王」がいるのに それぞれ伊都國であり狗奴國と記されていて、
>伊都王国や狗奴王国とは、記載されていません。
月支国にも王が居たけど、月支王国とか書いて無いじゃん
358 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 20:44:32
359 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:47:19
争いが起こるのは米が作れるようになって
食料が保管できるようになったからだよ
そしてこの保管された食料とそれを
生み出す土地を求めて人々は戦った
卑弥呼はこの食料を作るための気象と
戦の結果を知るための役目を持ってた
なのでやっぱり佐賀平野かその近くが邪馬台国
360 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:58:09
国名+政体+国なんて命名方式なんてとってないじゃん
361 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 21:19:11
韓伝・倭人伝の中で「王」は、卑弥呼だけ
その他の王は、自称「王」なんだろうな
362 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 21:28:14
この辺の所をちゃんと認識しておかなくては
後で「外交誌」が目茶苦茶に
363 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 21:56:15
其年十二月詔書報倭女王日制詔親魏倭王卑弥呼…
月支王や伊都王それに狗奴王は、正式に魏王朝から叙任されているだろうか?
だから、卑弥呼の治める領域を「女王国」と
したのではないでしょうか?「王国」です
卑弥呼の領域を侵すものは即ち「魏王朝」に弓引く行為と同じです。
364 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 23:25:28
おやおや? マルクス教のニオイがするぞ。
365 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 23:26:18
その他の王も王だろ
366 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 23:29:13
韓伝には韓王辰王準王が書いてる
367 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 23:30:59
>十二國亦有王、其人形皆大。衣服[旁潔]清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。
弁辰12国にはそれぞれ王が居るだろ
368 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 23:35:40
>弁辰亦十二國、
>其十二國屬辰王
>弁辰與辰韓雜居、
>十二國亦有王
369 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 02:27:26
そんな事より1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
昨日、倭から使者来たんですよ。東の島国の田舎ね。
そしたらなんかマジ田舎者で言葉も通じないんです。
で、よく見たらなんか「ヤパーリ中国はスゴイ」「卑弥呼様にはかなわないが」とか言っているんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らな、たかが島国のボス猿如きで明帝に勝てるかっつーの。
ボケが。こっちは魏なんだよ、魏。
なんか彼氏連れとかもいるし。カップル2人で献上された奴隷か。おめでてーな。
よーしワタシ、帝に気に入られて後宮入っちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、銅の鏡とか金印やるから失せろと。
魏の宮廷ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。呉や蜀の奴と
いつ戦争が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃ
ねーか。野蛮人は、すっこんでろ。
で、やっと言いたいことがわかったと思ったら、使者の奴が、どういうルートで来たか忘れたとか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、そんなんで後で史書読んだヤシが邪馬台国の位置がわからなくなるだろーが。ボケが。得意げな顔して何が、倭国の使者、だ。
お前は本当に魏に朝貢する気があるのかと問いたい。問い詰めたい。半刻問い詰めたい。
お前、金印もらったって言いたいだけちゃうんかと。
魏の宮廷の俺から言わせてもらえば今、大陸での最新流行はやっぱり、南蛮、これだね。
半ケツ半チチねえちゃん、小麦色のナイスバディ。これが野蛮人の魅力。なのに倭の女はオパーイ小さいしもらってもうれしくねえ。
しかしこれを頼むには毒の沼地を攻め込んだり蜀を通らないとできないから、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。
まあお前ら野蛮人はせめて邪馬台国がどこかくらい説明できるようになれってこった。
370 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 07:58:53
でも、卑弥呼とその他諸々の王とを同一視で見ることは危険かと思いますよ
371 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 08:53:19
組合長候補が公孫氏の末でもよいと平の組合員が納得したのは、自分もおなじ系統だからかも
372 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 08:55:24
宇佐神宮の建立が710年代で比売大神が
宗像3女神??だったらなぜ出雲大社と
同じ拝礼方式の4拍手なのですか?縁起が悪い。
日本でこんな縁起の悪い拝礼方式なのはここと
出雲大社だけですよ。宗像3女神に死んでほしいのですか?w
天孫族なのに。比売大神は宗像3女神だという
見解も神宮側の主張でありたしかな証拠などありません。
373 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 09:17:38
そうかわかりましたよ。
聞き編纂時に魏志を読み
卑弥呼が誰だかわからなかったので
とりあえず神功にあててしまいましたが
その後調査していくと自分たちが
殺した九州の壱与の系統の人間であることがわかり
改めて宇佐神宮に祀りなおしたのでしょう。うん
きっとそうだw
374 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 09:23:13
さらに隼人の乱は邪馬台国を滅ぼしたときの
災いだと感じ、宇佐神宮に祀ることにしたのでしょう。
うん、きっとそうだ。そうに違いないw
375 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 09:54:45
ヒッキー君おはよう
そもそも「四」が「死」に通じ、縁起が悪いとしたのは何時から?
「四」や「死」を「し」と発音或は読むようになったのはいつ頃?
376 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 10:02:27
>プラムさん
おはようございます。僕は朝専門コテなので
ここで朝から独り言を申し上げてる次第ですw
さて「四」が「死」に通じ、縁起が悪いと
したのはいつごろなのだというご質問ですが
16歳の僕にはとんと検討もつかない次第でありますw
現代っ子で申し訳ない。
377 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 10:08:28
いえいえとんでもない
「四」はさておき
この頃自分の考えからは逸脱するのですが
狗奴国が大和・吉備・出雲の、どれかではないかと思えてきました。
女王国は、九州ですけど
378 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 10:12:53
突然何をおっしゃるのかw
狗奴国は熊本県の菊池郡?だったかな
そこらへんでほぼ確定ですよ。
379 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 10:16:33
倭人伝の方位に関しては
ほぼ正しいと思って間違いないでしょう。
北極星の話は何度も言いましたよ。
倭人伝は九州限定のことを書いていると思います。
周旋5000里等の文章からもわかることでしょう。
380 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 10:25:23
13 :日本@名無史さん :2005/08/14(日) 22:18:09
私は宇佐が祖母の田舎なのですが、宇佐神宮はもとは海神信仰だったという伝承もあります。
現在の宇佐駅と宇佐神社の中間あたりに、古代の塚というのがあって、地元の研究者
の話では、隼人族との合戦で死んだ人たち(たぶん敵の隼人)の鎮魂の塚だとされてます。
宇佐神社は「御もと山」(標高500?・ピクニック気分で登ると大変)が奥の宮で、
小涼山(亀山)は人工的な形状(少なくとも人の手が入ってる)。
宇佐神社が史料的には8世紀の創建とされるのも、最近は考古学的にハッキリしてきて、
私が3年前に久しぶりに行ったとき、弥勒寺の縄張りが発掘されてました。
つまり、8世紀当時の宇佐神宮は仏教の普及によって、3世紀の海神信仰を仏教的に
再構築したのではないかと、そう解釈しています(私が)。高木あき光氏の小説では
昭和の造営のさいに、甕棺が「発見されたがそのまま埋められた」というのも
地元では誰でも知っている(70歳以上・・・笑)話です。地元の研究者の熱意と
神社本庁の裁断があれば、小涼山自体を発掘調査(甕棺と金印)することも可能かと思われます。
権宮司の至津氏や戦前の宮司横山氏との親交もありますので、新しい話が聞けたらアップします。
381 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 10:26:42
魏は何故使者だけ送り、狗奴を討伐しなかったんでしょう。
女王国をけなす事は即ち、魏を舐めてる事ですよ
昨日の夜のカキコは、その伏線です。
382 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 10:29:48
MYスレの「宇佐神宮は卑弥呼の墓?」に
書き込みしてくださった方の中から
貴重なご意見をいただきました。
3世紀にあった海神信仰を8世紀に
再構築したものが宇佐神宮のようです。
383 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 10:35:09
>>381 それは卑弥呼の外交センスからきてるものでしょう。
幕末のときも幕府はフランスから、薩長はイギリスから
それぞれ武器等の援助を受けてますが双方とも
決して外国の軍隊を自国に入れてません。あくまで
武器の援助のみ。外国の軍隊などを自国の揉め事に
投入すれば下手したら外国に国がのっとられる
恐れがあるからです。卑弥呼もそれをちゃんと
分かった上で、あくまで魏の権威の利用と武器等の援助
目的で魏に朝貢したのでしょう。
384 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 10:41:34
もし佐賀平野に邪馬台国がなかったとしたら
佐賀平野には何の国があったのかという話になる
あれほどの大平原をもてば絶対に食糧増産で大国になれる
もし佐賀平野にその大国があったとするならば
近畿や四国にあったという邪馬台国は
その国の目を盗むか同盟を組むか又は武力で威圧しながら
本当に魏と協定を結べたのか?ということ
385 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 10:51:47
当時と幕末をダブらせることは相応しく無いと思いますよ!
全く学問や思想が違ってくるし、当時そこまでのナショナリズムが存在したか疑問です。
386 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 11:45:40
ナショナリズム等の国家としての意識は
なくとも、仮に魏の兵力を狗奴国相手に
投入し、返す刀で邪馬台国に襲い掛かる恐れも
あることは少し想像力があれば
当時の人間でもわかったことでしょう。
387 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 11:55:19
邪馬台国に限らず、中国史書の外国に対する記述はどれくらい信憑性
があるのですか?
388 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 11:58:58
出雲大社も3世紀の時点で
何十メートルもある馬鹿でかいものだったはずがないでしょう。
元々あったのを平安時代に祀りなおしたのでしょう。
宇佐神宮もそれと同じと考えます。
389 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 12:00:51
>>387 ある程度信憑性はあるとしか言えません。
具体的に描写されてる部分(風俗や植物等々)
に冠しては捏造する必要もないので信用して
いいと思いますが、水行10日とか里数を
曖昧にしてる部分は恣意的なものを感じますし
疑ってかかる必要があります。
390 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 12:04:58
宇佐神宮についてもう少し勉強する必要が
ありそうです。ということで今日はこれまで。
また明日。皆さん宇佐神宮についてどう考えて
いらっしゃるのか教えてくださいね。
別スレに宇佐神宮専門スレもありますしそっちでもいいですw
391 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 12:42:07
>>386 そんな気があるのなら、とっくに占領されてますよ
それに、これからは距離、方角とも、もっと柔軟かつアバウトに考えたく思います。
かと言って、中国側の日本に対する情報は、私らが考えてる以上に正確に知られているという前提で!
392 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 12:53:59
九州の東に、少なくとも大きな国が三つも有るのに
それを無視するかのように倭人伝執筆は、不自然ですよ
393 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 12:58:42
女王国は地の利から言っても九州でしょう
しかし、投馬はまだしも
狗奴国に関しては
距離も日程も書かれていません。
女王を脅かす国ですよ!
394 :
sss:2005/09/30(金) 13:03:37
>>384 佐賀平野は、弥生時代にはもっと狭かったと考えられています。
仮に今と同じ広さとしても活用されていたかどうか。
古代の人は、あまり平野を好んでいないようなのです。
何せ、大和朝廷の本拠地も(奈良)盆地ですから。
関東地方にしても、平野部よりも山沿いの群馬県あたりが中心部のようです。
作物に適していたのかもしれないし、洪水が怖かったのかもしれない。
平野部よりも台地を好んでいるのです。
そういう目で見ると、甘木市付近というのは一理あります。
それにも増して有力なのは熊本平野かもしれない。
395 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/30(金) 13:31:04
>>391 再登場してすいません。出かける前に最後に一言。
その問題はまさに幕末のときと似てる気がしますよ。
薩長・幕府・英仏 の関係を邪馬台国・狗奴国・魏に
置き換えて考えてみればわかるでしょう。英仏も最初は
日本征服に動かず懐柔策で武器提供のみしていました。
もちろん日本を征服しようとは思っていたでしょう。
魏も同じで最初は懐柔策。そして日本に自国の軍事力を
介入させるチャンスをうかがっていました。
仮に日本に外国の軍事力を投入していたらどうなったか?
幕末の例でいいますと薩長と幕府が戦って最終的に
薩長が勝つも薩長の力も幕府との戦いで弱まり
国力も低下してるところを攻められればいとも簡単に
征服できてしまいます。しかし真正面から戦えば
幕府と薩長は一時休戦し共同戦線をとって
死に物狂いで戦ってくるでしょうしそうなると
征服するのは難しくなります。太平洋戦争時の
中国の国共合作のようなものでしょう。
戦略上、2つの巨大な勢力を残してはいけないのだと思います。
とりあえずまず1つを消し去りその後力を
弱めたもう1つを消すほうがいいしそうすれば
たてつくものがいなくなり征服は簡単に出来ます。
長々と書いてしまいましたがそろそろマジで出かけなければwではでは
396 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:44:33
置き換える必要もないでしょう。
全く過去の歴史背景が違います。
397 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 14:09:35
ヒッキー君
朝貢交易を申し込んだのは女王側からですし、援軍を申し込んだのも女王側からですよ!
「狗奴国を何とかしてください。」
「解った張政を行かせよう」
「これはひどい!さっそく郡より兵を予防」
「張政様、それだけはご勘弁下さい。」
「じゃあ、俺は何しに来たんだ?」
「張政様 ドッキリです」
オイオイ
398 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 15:16:06
三国時代だし、蜀や呉や朝鮮の
問題で忙しくて倭に兵を送る余裕なんて
なかったんじゃないか?
399 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 17:38:49
高齢になった卑弥呼も死期が近づき出した頃、狗奴が女王国にちょっかいを出して来た。女王国は直ぐさま載斯と烏越等を郡に遣わし援軍の要請をした。
使者を遣わした後、卑弥呼は死に 代わりに男王を立てたが 反対一派が狗奴国と内通し政権を巡りクーデターが起き
使者が郡より張政を招いた時には、既に千人程の死者がでていた。
しかし、張政と黄幢の効果により内乱も鎮静化し狗奴軍も退却した。
狗奴を討伐するにも、卑弥呼亡き後女王国側の地盤も流動化しており、
遠く離れる狗奴国本拠を討伐するには至らなかった。
400 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 17:50:57
>>375 少なくとも平安時代までは、四は「よ」もしくは「す」(中国語の影響と思われる)
と口語していた。
401 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 18:50:18
>>400 そうすると、「四」を「死」と結び付ける事は
平安以降となりますな!
四拍手は、別の意味の様ですな
402 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 19:04:46
四面楚歌は「すめんそか」と読んでいたのか。
昔の人は東北訛りだったの?
403 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/30(金) 19:08:00
男王が即位しての混乱のことがでていますが、このとき更々相誅殺し、当時千余人
を殺す。となりました。卑弥呼以前の乱では相攻伐すること歴年となっています。
この註殺を皆さんはどのようにとらえておりますでしょうか。
ご意見をお聞かせください。
404 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 19:43:40
サガミ
「誅殺」罪を犯した者を責め殺す。
クーデターの責任をとらせる。
>>399訂正ですね
張政が到着してから、クーデターを鎮圧し、ですね
405 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 21:52:25
何故、狗奴が討伐されなかったか?
どなたか解りませんか?
〇狗奴は隣接国どころか実は女王国内部に有った為とか
〇狗奴はかなり遠方に、その本拠地が有った為にとか
私は後者を今検討中ですが
406 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/30(金) 22:10:11
それでは相誅殺の相とはどういうことでしょう。?
407 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 22:56:15
佐賀平野は小さかったというけど
実際神埼あたりからは遺跡が出てるみたいじゃん
408 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 23:00:34
サガミさん
「相」補佐或はてびきするでしょいか?
409 :
sss:2005/09/30(金) 23:09:53
>>407 確かに、佐賀は重要です。吉野ヶ里遺跡だけでなく、
惣座遺跡、壬生遺跡、都遺跡、椛島山遺跡など重要な遺跡が
たくさんあります。
安永田遺跡もそうかな。
誰も重要であることは否定できません。
そして、これらは大体、山すそに位置しています。
平野だから重要というわけではないと言いたかったわけです。
410 :
sss:2005/09/30(金) 23:26:45
>>406 なるほど相誅殺という言葉は変ですね。
「相」というのがなく、誅殺だけだったら、男王の力が
相当に強かったという風に感じられます。
相誅殺だったら、相攻伐と同じような感じを受けます。
個人的には前者かな。
男王はただものじゃないという感じを受けます。
日本書紀の高皇産霊尊じゃないかと。
出雲に派兵する?など、天照大神を差し置いて主導権を握ってますからね。
411 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 07:23:28
>>409 何処がどう重要なのか説明されたし、
単なる遺跡の列記だけでは混乱を招くだけ、どのような役割を持つ遺跡かの説明も頼む
412 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/01(土) 07:39:14
魏志倭人伝の「その八年ーー檄を為りてこれを告諭す」とあります。
ついで、「卑弥呼以て死す。」とあり、「−−国中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を
告諭す」とある。初めの檄は、卑弥呼用ですよね。そうすると、次ぎの壱与に告諭した檄は、
新たに本国からとりよせたものなのでしょうか。それとも使いまわしだったのでしょうか。
まさか政等が、新たに作ったということはないでしょうが。
この部分は邪馬台国研究の盲点であるような気がしますが、いかがでしょうか。
413 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/01(土) 07:42:14
>>409惣座遺蹟は環濠集落で、吉野ヶ里のように張りだしの部分(物見やぐら)があります。
414 :
大和@名無史さん:2005/10/01(土) 08:40:01
>>412 正始8年記、始めの檄はすでに難升米に手渡していると考えられる。
同年の事象だから時間的(証明できない)に追加請求では間に合わない
ここは政等の私的作成に一票。
415 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 08:42:33
四拍手の件に関してでありますが
大国主を祭る出雲大社と宇佐神宮しか
四拍手するところはないわけですし
大国主に関して記紀の記述を信用すると
やはり比売大神もかなりの大物だったことでしょう。
416 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 08:50:45
>397 プラムさん
卑弥呼は魏の権威を利用しようとしてただけですよ。
魏の援軍など期待していません。魏も国内のことで
手いっぱいだったでしょうしね。元の時代を思い返せば
わかるように中国・朝鮮を統一後始めて日本を意識するのです。
それなのに中国国内ですら統一できず朝鮮勢力も健在なのに
魏の軍隊をみすみす倭に入れる馬鹿がどこにおりましょうや?
現に卑弥呼も魏の援軍など狗奴国との戦いに投入していません。
仮に魏の軍隊を入れたら対呉・対朝鮮戦略の基地として
倭は征服されていたでしょう。挟撃できますからね。
しかし国内統一に目を向けている間はそのことには気づきません。
417 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 08:57:21
>サガミさん
倭国大乱のときの攻伐は倭国全体の国同士の覇権争いで
卑弥呼死後の註殺は女王国国内での覇権争いとみれば
よろしいのでは?
418 :
大和@名無史さん:2005/10/01(土) 09:47:55
>414です。
ご挨拶もせず書き込み失礼いたしました。
白熱した議論につい引き込まれてしまいました。ご容赦下さい。
ところで16歳中卒ヒッキーさん
「魏の軍隊をみすみす倭に入れる馬鹿がどこにおりましょうや? 」
なかなか鋭い指摘ですね。
本当に16歳中卒なのですか?、本当なら尊敬しちゃいます。
419 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 10:02:54
>>418 16歳中卒には違いありませんが
すでにアルバイトをしてるのでヒッキーではないかもw
カキコした当時はヒッキーだったので
このHNのままですが。小学校のころから
歴史やSFが好きでよく読んでおりましたので
同年齢の人よりはそっち方面の知識はあるようですが
いかんせん、本業の学業のほうが怠りがちになってしまっています。
英語と数学はやはりちゃんとやっておきたいですね。
420 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 11:09:03
集落があるのは山すそだけど
米を作るには必ず平地のはず
だから邪馬台国の遺跡を探すなら確かに山すそを掘るべきだが
邪馬台国はどこかと聞かれれば佐賀平野または熊本か福岡辺りの
平野を含む近くのどこかといえるはず
421 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 11:10:37
卑弥呼が国をまとめようとしていて
北に一大卒をおいてしかも魏の権威さえも借りようとしていたのは
やはり本州側に大きな勢力があったからではないか
422 :
倭人:2005/10/01(土) 11:15:07
でも本州に邪馬台国、九州に一大率だと普通は反乱を起こすと思う。
423 :
倭人:2005/10/01(土) 11:18:14
だから自分は邪馬台国は九州にあったと思う。
424 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 12:43:27
ではヒッキー君、
女王側は、郡が兵を動かさない事を見越しての拝謁だったと?
全ては計算通り、万が一兵を動かした時等微塵も考えていないと
そういう事ですね!
425 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 12:49:43
サガミ氏の提示された
「更相誅殺」
もしかしたら
卑弥呼の死を機会に、卑弥呼政権担当者及びその一族郎党の粛正かも知れませんね
426 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 16:02:36
プラムさん、
いつの時代でも国内の政権争いに
外国の軍隊を介入させてはならないというのは
常識であり為政者はみんなわかっていたと
思いますよ。わかっていなかったら為政者失格です。
ちなみに誅殺うんぬんというのは
蘇我氏と物部氏の争いのようなものでしょ。
どちらの皇子を王にするかとかそういう
争いだったと思いますよ。深く考える必要はないでしょ。
427 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 16:05:43
卑弥呼は自然死でしょうか?他殺でしょうか?
やはり邪馬台国の本だけ読んでても仕方ないので
さっき民俗学関連の本借りてきました。
フレイザーの「金枝編」です。王殺しについて
かかれているようです。まだまだ勉強不足なのを
痛感いたします。
429 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 17:38:22
私も、16歳?の少年に常識を教えてもらうとは、相当ヤキがまわったみたいです
それはさておき、
その常識から考えると、中華王朝に、朝貢した国は全部失格国ですね
冊封体制は、国によって様々なタイプがあるようですが、このタイプは宗主国側の選択権 兵を送られても文句は言えないはず
………なんだけど?………どうやら私の考えが間違ってたみたいですね!
>外国の軍隊
そうですか?
魏から「親魏倭王・率善中郎将・率善校尉」の叙任までされ それでも魏は外国ですか?
430 :
安曇連浜子:2005/10/01(土) 17:53:21
「親魏」倭王というのは、一応対等な立場の国ににしか授けない
称号だと思いますがどうでしょうか?
>>429さん
431 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 18:00:17
>>430さん、お初です。
中華王朝(思想)に対等等と言う見方があったかどうかですね!
432 :
安曇連浜子:2005/10/01(土) 18:09:59
確かに中華思想からすると「東夷」ですもんね・・・勉強不足でスマソ
・・・・_| ̄|◯
433 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 18:14:35
434 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 18:24:00
ここでふと疑問。「金枝編」て欧州の話ですよね?日本と
関係あるんでしょうか?
ヒッキー君に、質問。
現住所は、京都市ですか?
437 :
大和@名無史さん:2005/10/01(土) 19:21:41
>419
ほんとかしら?。
amazonの書籍紹介フレイザー『図説金枝篇』紹介コメントのさわり。
「ただ人類学または宗教や思想史の範囲ではこの本については語る人は多くて
も古代史の中でこの本を語る人は少ない」
16歳にしてこの知見素晴らしい。
ですが、皆様方もやる事同じなのね。ヒッキーさんの年齢当て。
チョット一服、お茶受けに。
439 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/01(土) 19:36:10
いくらなんでも勝手に檄分を発行することはできないでしょう。とすれば、壱与への檄文はそもそも卑弥呼用にもってきたのでしょう。も
つまり使が到着した時卑弥呼は死にかかっており、告諭する前に死去、ついで男王が立ったがごたごたがあって告諭する間のないうちに男王は死亡、
それで壱与に檄文を告諭したのではないでしょうか。
この論からすると、男王の在位期間は極めてみじかかったといえるのでは。
440 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 19:52:12
>>437 二十代後半 京都在住
サガミさん、今晩は!
檄文は、二通用意されていたかも? 使者が郡で、卑弥呼の死期が近づいていることを報告した可能性も
張政は、後継者選びも兼ねて女王国へ
441 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/01(土) 20:07:03
いや1通でよいのです。宛先は「親魏倭王」でよいのですから。
後継者選びといいますと、男王の選出には使はかかわっていないということですか。
男王の選出のかかわっていたとすれば、男王に服さないものは魏にたいしても反逆者ですからね。
その男王を倒した勢力を使がみとめるはずはないとなりますがいかがでしょう。
442 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 20:32:16
男王は、魏に朝貢していませんし
張政も告喩していません
魏王朝からすれば、非公式な王でしょう。
443 :
圭角:2005/10/01(土) 20:35:49
プラムさん、こんばんわ。今、仕事で出張しています。久しぶりに覗いた次第です。
プラムさんの405に関しまして。つまり狗奴国はどうなったかにつきましてです。
わたしは自分の郷土を卑下する気持ちはないのですが、卑弥呼邪馬台国が滅亡した後
蓋を閉じたと考えます。地図帳を参照されたいのですが、熊本県の北辺に南関という
という地名場所があります。司馬遼太郎氏の西南戦役を扱った小説にも頻繁に登場す
る地名地域です。この地域は大変狭隘で旧国道と高速道がせめぎあうように、
通っています。つまり昔は南の狗奴国と邪馬台国を通じる唯一の経路と思えます。
四世紀初頭の二郡の崩壊により相当数の半島難民が九州に避難渡来したと推定され
ますが、現在の熊本の県民気質からして蓋を閉じたと推測しています。
444 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 20:44:35
圭角さん今晩は!
出張ですか?
早く仕事を切り上げスレに参加することを希望しますよ
445 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 20:57:39
対馬、壱岐は、韓人の土地なので邪馬台国ではない。中国の北魏の
歴史書魏志倭人伝は後代の偽作だ。
446 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:00:17
>>445さん、そんなこと言うならどの部分が信用できるのか教えてください!!
447 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 21:19:14
>>445 偽作と言われるのら真作をご存知と
ならば、その内容を公開して下さいな
448 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 22:09:07
狗奴國は何処だ?
邪馬壹國を筑後川流域或はその近辺に比定する諸氏達は、熊本にその地を想定する。
また、宇佐の地を比定する諸氏達は、宮崎を想定する
ここで両方正解は有り得ないし、片方は間違いなく不正解であり、または両方不正解なのです。
だとしたら、あえてこの両方とも捨て 九州説者が殆ど考えない、東の大国に狗奴國の可能性を求めてみたい。
449 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 22:43:54
ええっー
あれほどさんざん16歳ですと
言ってるのにまだ疑うなんて皆さんひどすぎます。
詐称するなら東大の学生とでも言ってますよw
450 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 22:53:38
>429 プラムさん
甘いです。失敬ながら僕こそ貴方の年齢を疑いたくなりますよw
本当に44歳でありましょうか?本当は24歳くらいじゃありませんか?
足利義満にせよ、中国に朝貢したのなんて貿易の利権をえんためですし
中国が宗主国うんぬんなどとは微塵も思ってなかったでしょう。
中国を利用しただけですよ。政治なんてそんなもんでしょ。
魏から魏から「親魏倭王・率善中郎将・率善校尉」の叙任されたから
魏は外国か?というご質問ですが外国ですw
ただ単に魏の権威を得るために朝貢しただけですし。
16歳の僕が言うのもなんなんですが政治ってこんなもんでしょ。
綺麗なものじゃないと思いますが。
451 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 22:57:53
在住地に関してはプライバシーに関わるので
ここでは控えさせていただきます。
フレイザーの「金枝編」は井沢元彦氏の
逆説の日本史の中でたびたび名前が挙がっていた
本なので参考に借りてきただけであります。
452 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 23:04:10
狗奴国は熊本県菊池郡です。
倭人伝の方位はほぼ正しいです。
信頼しましょう。
453 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/01(土) 23:09:46
男王がたった背景には卑弥呼死後王位不在では
まずいのでとりあえず邪馬台国のどこぞの重鎮が王を
擁立したのでしょう。しかし卑弥呼のときと違って
共立王ではないため、そいつが王なら俺のほうがふさわしいと
いう人が現れ王位を巡る争いに、そして埒があかないので
卑弥呼のときと同じように巫女による神託という形で
壱与を共立王にしたのでしょう。
454 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 23:12:17
おーこれはこれはヒッキー君、何もそんなにむきにならずとも
京都在住も、ハズレですか?
足利義光ですか?
もっと時代を近づけた例えは有りませんか?
訂正
義光…×
義満…〇
失礼しました。
24歳ですか?
嬉しいですね。ありがとうヒッキー君!
二十年前何してたかなぁー毎週(中山・府中・後楽園)にいたかな!
キョンキョン可愛いかったなぁー
456 :
sss:2005/10/01(土) 23:34:50
檄文は張政が書いたと考えてもいいのかも。
でなかったら、いったい誰が書いたということになりますから。
そもそも、どうして狗奴国との争いを郡に報告する必要があったのか。
戦乱が普通といわれるこの時代に、こんなことがあるのは理解できません。
ひょっとすると、狗奴国にも後ろ盾みたいなのがあったのかも知れませんね。
狗奴国が魏と通じているわけではないから、たとえば呉とか。
もし、そうだったら、うかつに戦争するわけにはいきませんね。
張政が単に狗奴国の後ろ盾の権威に対するものであるとすれば、
倭国の内政に関してそれほどの権威があるわけではない。
だから、目の前で千人あまりが殺される戦乱があっても止める事は出来ない。
そこで考えるのは、実力者の男王が立った。しかし、反対するものが多かった。
反対派を攻撃するが、反対派は根強い。
そこで壱与を王として一応みなを納得させる。
13歳の少女では、政治を担当する能力に欠けるわけですから、
後見人のようなものが必要です。男王が後見人になり、
徐々に既成事実を積み重ね、名実ともに王となる。
壱与とは並立することになる。
『梁書』諸夷伝(東夷条)にある『並受中國爵命』は
そういうことではないかと思います。
457 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/01(土) 23:43:43
>>452 私は、この2ちゃんねるに登場(約一年前)した時からずーっと 方位正確論を通してます。
その為に散々叩かれましたがね!
それから、前にも言ったと思いますが、私の歴史認識は、関連スレ断トツワースト一位ですので
でも、(レス)カキコ回数は上位じゃないかな
中国の方位認識はかなり正確であるはず じゃ無ければ、広大な領土を維持出来ませんよ
>>457 そんなことが理由になるなら距離だって同じだっちゅうに。
459 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 00:00:15
>>458 長さ・重さ等もしっかり認識され、基準があったと思いますよ!
進んだ測量術、天文術・・・だからそんなことが根拠・理由にはならんちゅーことだ。
>>460 だったら、これぞという見本をご披露あれ
>>459 同じような技術、理論によって成り立っている事象のうちの一要素だけを取り上げて、
その基になった技術の優秀性をもって正当化し、他の要素については別の事情と称して否定する。
こんな単純なダブスタがまかりとおるほど世の中甘くはないわな。
463 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 00:45:07
倭人伝に書かれてる距離の問題は「司馬懿…
ヤダヤダ
俺は嫌だよ!
先日やったネタの繰り返しの説明は
過去レス読んでくれ
>>463 462を読め、誰もネタの説明なんか求めていないだろう。
万里の大国を維持する測量・天文術があった国の国史でも、
その距離記載については、1700年後のプラムさんに否定されちまんだろう。
だったら、方位の正確性を主張するのに、その技術力云々を当てはめるのは
ダブルスタンダードだよ、そんな発想で他人を(自分も)納得させようってのは、
如何なものか、と言うことを私は先ほどから何度も書かされているのだ。
>>448 てっきり熊襲のことだと思ってましたが違うんですか
467 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 01:10:24
>>467 熱くなってないよ。
貴方の文章読解力に合わせて懇切丁寧に説明しているだけだ。
それとも解っていたが、とぼけとおすつもりだったのかな?
できたら
>>457くらいの長さの文章で、まっとうに反応してくれたまえ。
いずれにしても、貴方のおかしいのは歴史認識じゃなくて「論理」だよ。
「古代史スレワースト1」とか自慢してないで、考え方を改めてくれ。
じゃあ、おやすみ。
469 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 01:25:16
>>465 私が
>>463をカキコしているとき
>>462のカキコの存在、知らなかった
>ダブルスタンダード
余り気にするなよ
所詮馬鹿な素人のカキコなんだから
所詮君達には敵わないこと、自分が一番良く知ってますので
>>469 寝る前にもう一言。
私は、多分、このスレの最古参だ。
スレ建ても何度もしている。
だから、このスレには愛着があるのだ。
だが、現状は私にはとても近寄りがたい惨状だ。
掲示板をディベートゲームの場と勘ちがいしているような輩もいる。
見れば現在このスレを回しているのは貴方とヒッキーだ。
だから、もう少ししっかりして欲しいのだ。
歴史認識とやらに重大な過ちがあれば覗きにきた専門家が訂正してくれる。
しかし、論理そのもがむちゃくちゃでは話にならないだろう。
最後にもう一言、私も「馬鹿な素人」の一人だw
471 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 01:51:47
>>465 私は狗奴国を取り上げてるのだ そのあたり認識してもらいたい
472 :
sss:2005/10/02(日) 01:56:21
>>468 あなたはだ〜れ?
みんな知っている人なのかな?
人をそこまで批判するなら固定のHNを使い、
自分の意見も言うべきじゃないかな。
474 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 04:54:00
>>448 国の位置を固定して考えちゃいけないんじゃないか?
狗奴国は当初(後漢時代)熊本県あたりであったが、卑弥呼(邪馬台国連合)
によって南九州に追いやられた。
さらに、一部は太平洋ルートに沿って熊野から伊勢へと逃れていった。
一方、邪馬台国は文明の先進地域であった有明海西岸に端を発し、
狗奴国を制圧しながらその拠点を佐賀平野、熊本、宮崎へと移していった。
当時は地球規模で寒冷期にあたり、南の穀倉地帯は国家経営に必要不可欠
であったのだ。
邪馬台国は「ヤマダ」と発音し、最終的には現在の都城市から山田町を拠点に
していたと考えられる。
卑弥呼の終焉期は急速に温暖化が進んでおり、技術革新も進んだ伊勢、畿内地方
が豊かになり国力を増して、狗奴国と手を結んで仇敵邪馬台国を脅かす存在に
なったのではと考えているんだが。
475 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 08:26:48
邪馬台はやまだと読むから山田町なんて
言われても説得力を欠きますよ。
476 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 08:31:59
投馬国が宇佐だとして邪馬台国があったとする山田町まで
水行10日、陸行(なら)1ヶ月。
と読めば地図を眺めつつ一応納得できる説ですね。
477 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 08:36:23
>>474 だいたい、邪馬”台”にしたのが江戸時代にはいってから。
本居宣長の当て字だし。
478 :
太国:2005/10/02(日) 08:39:03
古田先生の主張のとおりで、邪馬台国という国は無いんであるから、
ヤマダがどうのこうのっていうのは意味が薄く、女王国とは関係無しと観るべき也。
479 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 08:43:03
豊国の台与が大和朝廷に殺され
現地人がささやかに祀っていたのを
8世紀の隼人の乱を期に、大和朝廷が
これは台与の怨念が残ってるからだと
思い宇佐神宮の比売大神として
祀り直したのだろう。
480 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 09:10:33
魏晋里はおよそ435mほどなので、一日あたりおよそ15kmの計算になる。
組合の法人名がヤマダ国で、組合員が土地名の小国なのか
481 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 09:13:45
ヒッキー君 おはよう
それって菅原公をモデルに描いたストーリーですか?
482 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 09:21:03
>>478 あれ、古田先生は邪馬台国はあったといっていませんでしたか。
魏志倭人伝は邪馬壱国だが、後に大がついて邪馬大壱国で邪馬台国と表記されたと。
483 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 09:25:11
>>480 >魏晋里は435b程
では、京都⇔遼東が約2000q 郡⇔狗邪韓国が約3000qと、言うことですか?
484 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 10:00:00
久保田穣著「古代史における論理と空想」
借りてきました。
485 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 10:01:22
当時の1kmは現代のそれよりぐっとみじかかったのでしょう。
486 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 10:09:10
>プラムさん
僕は別に脚本家でも小説家でもありませんよ。
そう考えるのが1番自然だと思いますが。
488 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 10:53:16
キテレツ大百科の勉三さんも
北九州説らしいです。
ドラクエ3に実は卑弥呼が登場します。
489 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 11:01:04
マツロと伊都の距離からわかるはず
490 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 11:21:45
>>486 >そう考えるのが自然
では、八世紀当時壹与の存在を現実と認識、尚且つ当時殺害の事実も認知していた。
しかし、その事実を隠す様に壹与の名前、国名を別の名詞に置き換え或は、各地に残る言い伝えにダブらせ「記紀」の編纂
では、何故壹与や卑弥呼
邪馬壹國、狗奴、投馬の名前が消え去ったのでしょう。
記紀編纂時、それらの名詞の存在は確実に認識されていたし、宇佐の廟所に壹与が奉られているとなると、尚更疑問に感じます。
491 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 11:52:30
海を渡ること千余里、対馬国に至る。400キロで1桁くらい違うので
適当に距離は書いてるのかも
492 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 11:55:32
500里 末路から伊都まで20キロ
吉備が邪馬台国、出雲が投馬国、大和が狗奴国
それで良いかな!
494 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/02(日) 12:45:24
邪馬台国は佐賀県小城、投馬国は宮崎県と鹿児島県東部、狗奴国は熊本県北半
です。間違いありません。
495 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:17:20
>490 プラムさん
そりゃ記紀は大和朝廷の正当性を主張するための書物ですから。
大和朝廷の発祥地は九州なのでしょう。おそらく卑弥呼の時代より
前に九州から東遷した勢力です。そうでなければ
わざわざ記紀に九州など話題に上りません。その九州30カ国の王であった
壱与を殺したなどとは書くはずもないでしょう。
ご先祖様が住んでいた縁ある土地を治めている王ですよ。
記紀にも日向や宇佐が頻繁にでてくるとこからもわかると思います。
熊襲(狗奴国)は同じ九州でも全く別の勢力だったので熊襲討伐の話は書かれてますがね。
おそらく3世紀から宇佐の地でほそぼそながら壱与を祀っていたと思いますよ。
それが8世紀に入り隼人の乱でこれは大昔我々が壱与を殺したことの祟りじゃ
と思い宇佐神宮を建立したのでしょう。それでつじつまはあいます。
卑弥呼はその前の時代なので認知しきれなかったのでしょう。
なので卑弥呼=神功とでたらめなことが書いてある。
496 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:19:10
いや正確な名詞は認知されてなかったのかもしれません、
卑弥呼も壱与もね。ただおぼろげながら昔宇佐にあった国の王を
我々の先祖が殺して九州を征服したという言い伝えくらいはあったでしょう。
497 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:21:50
>493 プラムさん
昼間からお酒でも飲んで酔っ払ってるんですか?
いくら休日でも感心しませんねえw
498 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:24:38
>サガミさん
失敬ながら小城市のPR活動をいくらで任されたのでしょうか?w
499 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:28:11
と生意気な口を利いてる僕も
まだまだ未熟。もっと本を読み
研鑚を積まねばなりません。
改めて自分の文を読み返すと
稚拙で恥ずかしいかぎりです。
500 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:32:40
比売大神は大国主と同格です。
時代背景から察して卑弥呼・壱与としか
考えられません。
501 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 13:41:55
ヒッキー君
酔っ払っていませんよ!
今、子供と近くの図書館にいます。
比定地は、さておき
記紀編纂当初、先ほど列記した国や名前の認識は確かだとおもいます。
日本書紀に、倭人伝文を引用しているくらいですから
502 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 13:48:57
お子さんがいらっしゃるとは驚きですw
そういえば僕の父親が今43歳です。
名前の認識ですか?豊国=台与国。
うーんたしかにちゃんと認識されていたようですねw
503 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 13:57:09
サガミさん
小城に比定されてからかなりの月日が経ちましたが
もうその辺で、肉付けを一度中断され
今度は、反対の事をしたらいかがです。
新しい発見があるかも!
今まで否定してきた場所に女王国を想定し、研究するやりかたです
504 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 14:08:38
ヒッキー君、そう言う事ですよ!
未だ、そんな著書に巡り会ってないため前々から考えていた事です。
どうしても、自分の欲には勝てませんのであえて、自分の説を切り離し考えるのです。
505 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 14:16:31
プラムさん、何をおっしゃってるのかよくわかりませんw
お子さんがいらっしゃるとこでお酒を飲むのもどうかと。
とりあえず僕もまだまだ若輩の徒でありまして、
もう少し本を読み見識を深めたいと思います。
あと論理的思考力を養うため数学や英語の勉強もしないといけません。
まだまだ僕の思考力はガキレベルです。本で読んだ知識を
ソフィスティケートし整合性をもたせるように理論を
展開できないようでは話になりません。ということで
僕も図書館へ勉強しにいきます。とりあえず現時点での
僕の頭が導き出した答えは邪馬台国は宇佐です。
今後どうなるかはわかりません。ガキなので意見は
変わりやすいですwということでではいってまいります。
506 :
太国:2005/10/02(日) 14:53:57
高木彬光説か〜?
川南古墳群てむちゃくちゃ怪しいです!
円墳が51基もあって、そのうち大塚は、西都原の男狭穂、
女狭穂の両塚につぐ雄大なもの・・・・・
誰か掘ってくれ、そして金印が出たら俺にくれ♪
508 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 15:54:49
ヒッキー君
理解出来ないのは私の説明不足スマソです。
509 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 15:55:03
佐賀平野以外に大国を維持する漁の米作れるとこはない
平地での米作りにはかなり高度な土木技術を必要とします。
稲は、水稲と言われるように豊富な水を使い保水します しかし、水を必要とするのは稲穂が出来るまで
刈り入れ数週間前からは、逆に排水し、田を乾かします。
実はこの作業が一番大事で刈り入れの実用性と、土地を休ませる為の作業です
平地や湿地での保水は安易ですが 排水整備には、高度の土木技術が必要
そんな点を考慮すると、当時最も水田に適した土地とは、
緩やかな傾斜が有る川沿いと考えます。
512 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 16:24:01
当時の住居跡も、平地より山の裾野や小高い丘に分布しています。
理由としては、日本特有の湿気対策や排水を考慮しての事かと
大まかですが
九州北部と畿内の違いを述べてみると、特長は河川ですね!
九州北部は一部の河川を除き、その殆どが距離が短く直接海にその河川が流れ込みます。
一方畿内では大和を源流とする何本もの支流が途中で合流、一本の大河になって海に注ぎます。
九州北部は、筋河川
畿内は、扇型河川
前レスにて、水田や住居の事をおおざっぱにカキコしましたが 河川が集落形成に多くの役割を得ている次第です。
514 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 17:45:54
地形的のみで考えてみると、九州北部の河川状況は、集落同士が共同しづらい環境です。
一方畿内は、河川の形態状一つに纏まり易い環境にあると思われます。
自然環境は人々の暮らしの手本です。
北部九州は、独立性が強く畿内は、共同性が生まれる地盤と考えます。
515 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 17:46:46
邪馬台国が実はなかった。魏のでっちあげ説ってどれ位信憑性あるの?
ヒッキー君
私はお酒ダメなんです。
517 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 19:05:16
倭人伝より怪しいのが三国遺史。その記述は恣意的でさえあります。
518 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/02(日) 19:34:57
小城市のPR料いくらでまかされたのですか、ですか。それならあなたは宇佐のPR料いくらで
となりますが、それでは子供の喧嘩となってしまいますな。
もっとも、あなたは子供ということですが。しかしkぉのスレも同じことの繰り返しになり、
正論をとなえても、それぞれ自分第一でききいれようとせず、話をふくらませているだけですね。
マア結局それぞれ自分の邪馬台国を持っていてそれを撫でたりころがしたりして楽しみ離そうとし
ないわけです。それはそれでいいでしょう。
というわけで、私はここらへんでひきどきだとかんがえます。このHPの邪馬台国関係のスレには当分顔をだしません。
皆さん、お元気で。
519 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/02(日) 19:36:54
追伸
新しいHPみつけたらご連絡いたします。
520 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 19:46:18
丹後王国の倭種類のヤマダさん
521 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:25:53
522 :
大和@名無史さん:2005/10/02(日) 20:38:51
>437です。
438・440のプラムさん、>449のヒッキーさんを尊敬することにいたします。
>439のサガミさん>437にResして頂いたとして宜しいのでしょうか?。
『檄』第一意に於いて「昔の中国の徴召または説論の文書」第二意に「ふれぶ
み」。『檄を飛ばす』に於いて第二意で「元気の無いものに刺激を与えて活気
付ける」。と広辞苑にあります。
そこで、魏志倭人伝に戻って、正始8年紀に「因って詔書・黄幢を齎(もたら
)し、難升米に拜假せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す」と後半「政等
、檄を以って壱与を告諭す」岩波文庫・石原弘道編訳。武光誠訳は「檄を為(
な)して之を告喩す」と「檄を以って壱与に告喩する」とあります。また、佐
伯有清訳は「檄を為(つく)りて之に告喩」と「政等、檄を以って壹與を告諭
す」。とそれぞれ読み下しておられます。
前半は皇帝が詔書を発せられ、太守王頎が檄を為(つく)りて、政等が難升米
に手渡した。即ち『檄』です。
後半は「政等、檄を以って壱与を告諭す」、即ち『為(つく)りて』が無いわ
けですね、これは即ち『檄を飛ばす』と解釈し、政等の武官としての勤めとし
てもよろしいのではないでしょうか。
>『告諭する前に死去、』
は「難升米に拜假」で既に政等の手を離れていると推察いたします。
523 :
大和@名無史さん:2005/10/02(日) 20:42:46
>518サガミさん
あら、逝ってしまわれたのですか残念。
524 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 21:09:21
ああああサガミさん
いかないでー
すいません。僕がへんなこといっちゃったせいで
こんなことになっちゃったーうわああん
525 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 21:12:53
とりあえず、僕は九州にいったこともないので
土地感がありません。だからよくわからないですね。
残念。先ほど読んだ久保田穣さんという東大卒の弁護士の方が
書かれた「古代史における論理と空想」の中でも
僕と似たような主張をしていてうれしいかぎりです。
526 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/02(日) 21:51:26
海部氏と卑弥呼一族との関わりも気になります。
527 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 22:17:08
>>522さん
止めて下さいよ、こっぱずかしい!
私は、関連スレにて馬鹿にされてる位が調度居心地がよろしくて
ヒッキー君、サガミさんが退席されたのは君のせいではありませんよ!
サガミさんも忙しい身
HPもあるようですし、(ヒッキー君はご存知かと)またひょっこり戻って来ますよ
ただサガミさんは真面目杉、私ほど馬鹿にならなくても多少の馬鹿さがほしいところです。
いくら学問板とはいえ
根本は2ちゃんねるですから 多少の脱線も必要かと思いますよ!
スレ主さん
こんなカキコしましたが怒らず大目にみてください。
スマソ
528 :
sss:2005/10/02(日) 22:29:39
>>522 >前半は皇帝が詔書を発せられ、太守王頎が檄を為(つく)りて、政等が難升米
に手渡した。即ち『檄』です。
これは順番から言ってもおかしいのでは?
「拝仮難升米為檄告喩之」となっているわけで、
難升米は郡に行っていないので、詔書・黄幢を拝仮したのは
倭に使いとしてやってきた張政で、同じく檄をなし告諭したのも張政では?
529 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 22:35:30
私はヒッキー君を年下ながら尊敬しますよ
十六歳にしてあの知識、それに読書数「おそれ入谷の鬼子母神」です。
我ながら 過去のふがいなさを後悔します。
私の高校生時の愛読書は「キャンディー・キャンディー」ですから!
ヒッキー君は、退席のないようお願いします。
レベルの低いカキコになりますが、お付き合い下さい。
530 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/02(日) 22:47:41
>>528 >難升米は郡に行ってない
郡に行ってないどころか、郡にずーっと滞在しっぱなしの可能性も、
難升米に「檄」を渡したのも郡でのやり取り
女王に手渡す為、難升米は郡の役人張政と女王のもとに赴いたかも
531 :
大和@名無史さん:2005/10/02(日) 22:49:40
プラムさん、ヒッキーさんよろしく。サガミさんが抜けたのは想定外のホリエもん
もびっくり。少し教えを乞うつもりだったのに残念。
プラムさん
恥ずかしくも何ともないです
飛び級駄目押しの16歳、末は博士か大臣か頑張ってください。
>526
ヒッキーさん、今度は海部氏系図ですか?16歳面目若如パワー全開ですね。
>>531大和さん
こちらこそご指導ねがいます。
ただ、時々(いつも)突如ヨタ話が始まる事必至ですのでその辺(^-^)/です。
533 :
大和@名無史さん:2005/10/02(日) 23:03:12
>528
sssさん「拝仮難升米為檄告喩之」はどのように読み下すのですか?。
534 :
sss:2005/10/02(日) 23:09:00
>>530 では告諭の主語は誰?
つまり、誰が告諭したのですか?
535 :
sss:2005/10/02(日) 23:12:58
>>533 (詔書・黄幢を)難升米に拝仮し、檄を為し之を告諭す。
536 :
P氏:2005/10/03(月) 00:10:32
魏は難升米に「檄を為し之を告諭す。」
つまり兵をまとめて魏へ援軍を送れと命じたわけだ。
ところが「すでに卑弥呼は死んでいた。」となる。
巷間言われている「卑弥呼が魏に応援をたのんだ。」だのは
間違いってことね。
537 :
大和@名無史さん:2005/10/03(月) 06:49:01
sssさんおはようございます。
>>535 サンクスです。
訓も同じですね。皇帝・太守・張政等・難升米。やはり不順ですか?、合っ
てるように思いますが「檄を為し之」の『為し』が訳者によって異音同義で
「作る」につくる。帯方太守が倭国向けに「檄」をつくったとするのはまず
いのですか?。
正始6年紀は難升米が郡に行ったとか、行ってないとか諸説あるのは既知
ですが、正始8年条でも難升米が出向いていたのですか。倭が郡に使いを
出したのは承知しております。
538 :
大和@名無史さん:2005/10/03(月) 07:12:44
>>528 正始6年紀・正始8年紀とも難升米は渡航していない。
を私は支持しております。
読み直したところこの点はsssさんと意を同じとします。
現地で皇帝の代理者が作成し、公表するのに不合理はないと考えます。
539 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 07:38:29
佐賀平野の川は氾濫していたらしいから
排水も考えると河からはある程度はなれてて
資源も取れる山沿いは確かに考えられる
でも技術が上がれば平地にも出て行ったはず
エジプトみたいに氾濫した川の土を肥料に使ってたかも
540 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/03(月) 07:59:09
>>535 sss 氏
>告喩したのは誰か
私の考える所、
郡で大守が難升米に告喩
倭地にて張政或は、難升米が壹与に告喩
と、考えます。
541 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 08:57:49
僕はまだまだ若輩者ですよ。
ところで、景初4年の三角縁神獣鏡の
処理をどうするかですが、やはりこれは
国産だと考えるしかないのでは?
魏がこのような鏡を下賜するはずがありません。
しかし後世に作られたとする説もこのような
年号入りの鏡を後世になって作るとは
考えられません。したがって最もしっくりくる説が
リアルタイムで国内で作ったという説です。
となると魏と交流があった邪馬台国で作ったということに
なりますが、こうなると景初4年の鏡が畿内で出土するので
邪馬台国はやはり畿内だとなってしまいます。
この問題をどうするか
542 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 09:07:18
僕は邪馬台国は九州だとしています。
なのでそれを前提に考えてみると
@邪馬台国が畿内に鏡を配った。
A邪馬台国が東遷した。
B畿内政権が邪馬台国を滅ぼした際、鏡を持ち帰った。
主に可能性はこの3つに絞られると思うのです。
まず@についてですがこの説をとると
三角縁神獣鏡が3世紀の九州の遺跡からあまり出土しない
理由がわかりません。邪馬台国で鏡を作っていたなら
邪馬台国があったとこからもっと出土してもいいのでは?
Aに関してですが東遷後、畿内各地に鏡を配ったとすれば
つじつまはあいますが僕は東遷はなかったと考えています。
理由は前にも述べましたように書記において卑弥呼=神功と
しているところが1番ひっかかります。卑弥呼を何者か
よく把握していなかったようですし大和朝廷とは別物っぽいです。
Bがやはり僕は支持したいです。邪馬台国を滅ぼした際、
鏡を大量に持ち帰り、そして九州勢力に勝った証として権威づけのために
大和朝廷が各地に配ったと考えます。
みなさんはどうお考えでしょうか?
543 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 10:29:03
(詔書・黄幢を)難升米に拝仮し、檄を為し之を告諭す。
つまり、このときすでに卑弥呼は死んでいます。
なので代わりに難升米に告諭したのです。
544 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:37:40
大和朝廷は邪馬台国から出た一派だけど
邪馬台国とは違う王を祭ってる国
つまり遠い親戚みたいな感じだったんだと思う
でもってこの出て行ったほうが力を持ってしまった
なぜもったかはわからないが
ヤマタノオロチみたいに製鉄民族
又はほかの何らかの工業的な民族を支配下においたのかも
それこそ3かく神獣鏡が作れるぐらいに
545 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/03(月) 12:32:53
>>540訂正
郡で大守が使者役の張政に詔書・黄幢を齎し、一大率にて難升米に拝仮、「檄」を為りて告喩
546 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 12:52:39
さーて、唐津の辺りから南東方向に500里(約34キロ)進んでみましょう。
ちょうど良い具合に厳木川の流域がありますよね? 流域伝いに足を進めます。
その先が伊都国です。
547 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:19:07
投馬国までの記述は順次式で
邪馬台国のところは帯方郡からの総日程。
理由は水行陸行両方書かれているから。
朝鮮半島は今は亡きサガミさんの主張を援用して
途中から陸行で進んだことにしましょう。
とりあえずこれでいいとして、問題なのは
なぜこのようなややこしい記述をしたのか?
548 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:20:41
おそらく呉への牽制のため南を意識して
記述されたトリックだというのが正解でしょう。
549 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:24:33
>>544 それでいくと崇神天皇あたりが
邪馬台国の一派で東遷したということになりますか?
壱与の前に粛清された男王が怪しいですね。
550 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:27:36
少々気になったのですが黄幢というのは
たしか太平道が黄色の旗印ですし
やはり卑弥呼と何か関わりがあるから
黄幢を渡されたのか?まあそこまで
深い意味もなかったかw
551 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:31:12
ただ僕は神武は卑弥呼より100年前後昔の人で
東遷も1世紀あたりに行われたと思っています。
3世紀の時点で巻向にはかなり巨大な政権があったことは
事実ですし邪馬台国の一派が東遷できるとは思えない。
552 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:49:55
げっ他サイトでこのような指摘を受けました。
厳密にいえば、広峰15号墳出土「景初4年」鏡は三角縁(斜縁)盤龍鏡で、神獣鏡ではありません。
なお、「景初4年」という年号が中国にありえないか、というとそこにも厄介な問題があります。
「景初」はたしかに3年までで、翌年からの改元はあらかじめ決められてはいたのですが、この時期、
暦法そのものの改定も行われたために、景初3年が終わったあと、一ヶ月を経て、はじめて正始元年1月が始まった。
この一ヶ月は後世の年表上、元号を空白になっているわけですが、同時代人にとってはそうはいかない。
つまり、この一ヶ月は同時代人にとって「景初4年1月」とみなされていた、とも考えられるわけですね。
というわけで、中国鏡なら「景初4年」はありえない、とも言い切れないわけです。
なお、盤龍鏡は中国では、呉でさかんに作られていた様式とされています。ただし、
この時期は魏と呉の関係は良好だったので、呉の工人が魏の年号入りの鏡を作ることもありうる、
という微妙な状況だったのです。
553 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/03(月) 13:51:14
僕はまだまだ若輩者でしたw
図書館へいってそれからバイトへいきます。ではでは
554 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/03(月) 15:30:20
555 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 15:37:05
ヒッキーさんが前に述べておられたように
伊都国から邪馬台国までの距離があるから
一大率が伊都国に常駐しているのだと推察いたします。
伊都国と反対側の大分近辺に邪馬台国があったとする
根拠になろうかと思われます。
556 :
sss:2005/10/03(月) 16:21:54
>>536 >>537 >>538 >>540 倭人伝のこの付近のことなのですが、
正始6年(西暦245年)に難升米に与える黄幢は帯方郡に届いていました。
黄幢というのは、魏の軍旗です。魏の軍の司令官の象徴かな。
ところが実際に難升米に手渡されるのは正始8年になります。
この間に、郡の太守・弓遵は韓との戦乱で戦死しています(韓伝)。
次の太守・王頎が赴任したのが正始8年。
倭国が載斯・烏越らを派遣したのは王頎が赴任した後になります。
このとき載斯烏越らは、狗奴国と戦争状態にあることを説明するわけです。
帯方郡に援助を求めたという説もここから出てくるわけです。
しかし、載斯烏越らは、そういうことを言うためにわざわざ郡に行ったのでしょうか。
行ったついでにそういうことも話したと考えても良いのではないかと思うのです。
むしろ、黄幢を取りに行ったと考えたほうが妥当な気もします。
狗奴国との戦いについて何も書かれていないところをみると、張政がやってきた
時にはすでに戦いは終わっていたのかもしれません。
557 :
sss:2005/10/03(月) 16:53:15
>>552 三角縁神獣鏡の場合は、厳密に言えばいろんな種類があります。
同じ場所で出土したものでも様々です。
中国で一枚も出土していないということ、100枚しかもらっていないはずの
鏡がすでに600枚近くが出土していることなどはかなり重要だと思います。
たとえば、卑弥呼の鏡に比定されることのある方格規矩四神鏡は、
「尚方作鏡」と書かれているものが多くあります。
尚方というのは、魏の王室専用の工房です。
同じく、画文帯神獣鏡にしても呉の製作と言われます。
中国の南東部で出土しています。
これから考えると、三角縁神獣鏡は日本製の可能性が高い。
黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡が見つかりましたが、
すべて棺の外にありました。
棺の中にあったのは、画文帯神獣鏡1枚でした。
このことから、三角縁神獣鏡はそれほど重要ではなく、
むしろ誰でもが大量に持つことが出来る普及品ではないかと考えられるのです。
卑弥呼が魏からもらった鏡ならばもっと貴重ではないかなと思うわけです。
558 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/03(月) 19:40:17
>>556さん
>>540のレスは訂正しました。
>>556のレスについては、今一度自分も再検討してみたいとおもいます。
>>557さん
私は、ほぼ同意します。
以前私も、一部の鏡を除きその大部分を極端な話しとして、フリマーやホームセンターで、金さえ有れば購入可能な物とカキコし、顰蹙をかったものです。
黒塚古墳の出土例は、大変興味深いです。
559 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 20:05:31
>>558 >以前私も、一部の鏡を除きその大部分を極端な話しとして、フリマーやホームセンターで、金さえ有れば購入可能な物とカキコし、顰蹙をかったものです。
『この鏡を買うものは金持ちになれる』などと言う銘文があるのだから売買されていた事は間違いないね。
560 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 21:29:09
三角縁神獣鏡には中国ではありえない年号が打たれているので、
世間知らずの倭人が作ったに違いない。
561 :
大和@名無史さん:2005/10/03(月) 23:13:28
sssさんこんばんは。
>>556 正始6年、郡に届いた黄幢の使い道をご存知だったら教えて。
>>557 卑弥呼の好物、数ある中、銅鏡もその一つです。
その銅鏡の中の三角縁神獣鏡であり、副葬されることが重要であり、埋葬時の
棺の内外で国産・舶載に色分けするのはいかがなものかと考えます。
但し、印に格があるように銅鏡にもなんらかの格づけがされていると考えるに
やぶさかでは有りません。景初二年にすでに銅鏡は好物に列挙されているので
すからそれ以前に相当数の銅鏡が流入している事はたしかです。その一連の流
れの中に仰々賑々しく由緒正しき奉るべき銅鏡もあろうかと思います。埋葬時
にそういう鏡が優先されるのは致し方ないことと捉えます。
でも第一に大量に保有・埋葬しているのが不思議ですね。被葬者にも女房もい
れば子もいるでしょうに、威信財として根こそぎ黄泉に持っていけば残された
ものは又一から集めるのでしょうかねどうなんでしょう。
>>561 「卑弥呼の好物」って、日本語に釣られた読み間違いでしょう。
563 :
sss:2005/10/04(火) 00:57:39
黄幢の使い道についてはどうなんでしょうね。
錦の御旗的な使い方をしたかったのか。
しかし、たとえば狗奴国がそれを見て、
はいそうですかと恐れ入るかどうか。
魏の方は、錦の御旗になると思っていたのかな。
それとも、単に権威の象徴としてくれたのかもしれない。
金印や銀印と同じように。
あなたはどう思います?
銅鏡については、棺の中か外かで国産・舶載を区別しているわけではありません。
重要と思われていたかそうでないかを区別しているのです。
棺の中の頭の近くにたった1枚置かれた画文帯神獣鏡と、
棺の周りを囲むように並べられた33枚の三角縁神獣鏡の
どちらが大切にされていたかということです。
畿内の古墳の場合は三角縁神獣鏡だけに注目します。
椿井大塚山古墳も同じです。ここでも画文帯神獣鏡がたった1枚出土しているのですが。
畿内では、卑弥呼の時代に関連付けられる中国鏡の出土が非常に少ないのです。
黒塚古墳では、発掘実務担当者の河上邦彦氏は、はっきりと
三角縁神獣鏡は日本製だと言っています。
おなじく、発掘を担当した石野博信氏、菅野文則氏も同じ見解のようです
564 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 02:49:56
サントリーの「セサミンEプラス」のCMで
胡麻を好んで食べていた歴史上の人物の一人に
卑弥呼の名前が有ったのですが、
魏志倭人伝に卑弥呼が胡麻を食べていたなんて
書いてあるんですかね???
565 :
sss:2005/10/04(火) 07:34:03
>>558 それはどうも。
橿原考古学研究所所長の樋口隆康氏も、三角縁神獣鏡について
卑弥呼の鏡というよりもヤマト政権の鏡だと言っています。
ついに、三角縁神獣鏡魏鏡説はおしまいかな。
566 :
sss:2005/10/04(火) 07:36:43
>>564 倭人伝にはゴマのことは載っていないようです。
考古学的な研究から出てきたんじゃないかな。
567 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 08:12:31
景初4年の年号入りの鏡が福知山から
でてきたことが問題なのです。
おそらく、この鏡、日本国内で作られたものでしょう。
しかし後世にこのようなものを作るとは思えません。
従って景初4年の前年かリアルタイムで作られたものと
考えざるをえないのです。となるとこの時代に魏と
交流があった邪馬台国で作られたものでしょう。
その鏡が京都のはずれ、福知山からでてきているのです。
邪馬台国が配ったという考えもありますが
状況から判断して景初3年の鏡も邪馬台国で作られた国産品っぽいです。
となると畿内からもっとも出土するので邪馬台国は
畿内になってしまいます。
568 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 08:16:25
邪馬台国が畿内だとすると伊都国以降の
方位はほとんど捏造ですねw
呉への牽制のためわざと東を南にしたという
言い訳も一応は通らないこともないですが、
そのほかの方角もぜんぶめちゃめちゃになってしまう。
東に海渡ること1000里とかいう文章もあるし
やはり畿内とは読めない。周旋5000里とも
かかれてますし、倭人伝は九州限定とみるべき。
じゃあなんだって鏡が畿内からでるのか?
569 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 08:24:59
266年以降邪馬台国による中国への朝貢がないことが
邪馬台国が滅ぼされた証拠でしょう。
570 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 09:15:29
神武が邪馬台国と関わってる気がしてきました。
邪馬台国の中の支流の人間ではなかろうかと。
571 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 09:38:06
中国は昔から周りの少数民族に攻められるのを恐れていた
聖徳太子が中国とたいとうな関係で条約みたいなのを結べたのも
上と下の民族が騒いでて日本とは事を構えたくなかったのに乗じたらしい
そう考えるとやはり三国志の時代でもあるし
魏志倭人伝も軍事資料としての意味合いが強く
もしいざとなり軍を派遣したときのことも考えて作られてるはず
だから記述が放射状になったりしてるはず
つまりこれは軍を展開するときのことも考えられてるのかも
とっぴな考えかもしれないけど陸でどうたら水でどうたらも
大軍で動くときの移動距離を元に計算されてるとか
何千人の大軍でも何日でいける距離みたいな
572 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/04(火) 12:14:38
573 :
大和@名無史さん:2005/10/04(火) 19:02:35
sssさん、朝寝過ごし遅くなりました。
>>563 そうですね狗奴国は呉国との関りが言われているので魏の軍旗など歯牙にも
かけないですね。食い詰め浪人のタケミツか・・・そうかもね残念。
鏡が個人の権威の象徴とするならば、先祖伝来の鏡と新参の鏡どちらをより
大事にするか、だけだと思うのですがダメですか。
574 :
大和@名無史さん:2005/10/04(火) 19:09:26
>>561さん
あら、卑弥呼の好物ではなかったのですか?。
575 :
大和@名無史さん:2005/10/04(火) 19:14:21
576 :
大和@名無史さん:2005/10/04(火) 19:21:03
>>571さん
>そう考えるとやはり三国志の時代でもあるし魏志倭人伝も軍事資料としての
>意味合いが強くもしいざとなり軍を派遣したときのことも考えて作られてる
>はず。
>だから記述が放射状になったりしてるはず つまりこれは軍を展開するとき
>のことも考えられてるのかも。
全くその通り。この説はオリジナルですか?。
577 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:22:54
対馬海峡は新羅が治めていた。壱岐、対馬は新羅の領土だった。
578 :
太国:2005/10/04(火) 21:28:54
>>570 神武天皇は女王国と直接の関係はうすい。時代がぜんぜん異なる。
それに、この前も言ったようにだ、邪馬台国という国は無い。邪馬壹国だ。
支流の人間ではな〜い。
579 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:39:10
と言うことは、やはり白木人が先行して、倭にきて開発してたのか
580 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/04(火) 21:57:36
>>578 太国氏
>邪馬台国という国は無い。邪馬壹国だ
邪馬壹国という国は無い。邪馬壹國だ … クスクス…
それはそれとして
卑弥呼最初の朝貢時、何故粗末な贈り物しか持たせなかったのだろう?
大陸で喜ばれそうな「翡翠」が無いのです
私も、今の今まで気が付かなかったのですが、これはどうしてでしょう。
確か畿内の遺跡では、翡翠が結構出土しているみたいだし
581 :
太國:2005/10/04(火) 22:03:08
wwwww!
まあ、また云われるかなと思ったりして・・・?
582 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 00:26:24
>>580プラムさん
>卑弥呼最初の朝貢時、何故粗末な贈り物しか持たせなかったのだろう?
これは朝献時期が景初2年か景初3年かに関る問題にて「トンデモ説」扱いで
私説を一つ。
「景初2年・・・太守劉夏遣吏將送詣京都」武光誠訳「太守劉夏、吏將を遣わ
し、送りて京都に詣(いた)る」佐伯有清訳「太守劉夏、吏を遣わし、將(ひ
き)いて送りて京都に詣(まい)らしむ」石原道博訳「太守劉夏、吏を遣わし
、將って送りて京都に詣(まい)らしむ」ここで、『將って』をなんと読むか。
新字源(角川書店)に、一意でひきいる、ひきいる人、・・・二意でたすける
、おくる、したがう(漢書・礼楽志)・・・。とあります。
思うに石原道博氏は、『將って』を「したがって」と読んだように思うのだが
振り仮名なく判らない。二意に、たすける、おくる、したがう、とありますが
同じ語群に「おくる」を含み、倭人伝記述にも「將」の字のすぐ後に「送」の
字が見えます。即ち「おくる」「したがう」「おくる」で二重使いになり3者
3様の訓を示し「將」の解釈の誤用ではないかと疑うものです。
で私は「トンデモ」読みですが、
「太守劉夏、吏を遣わし、將を送りて京都に詣(まい)らしむ」と読む訳です。
そうしますと、三国志英傑伝「起つ」徳間書店編訳第一章覇業三代<曹叡>の
「公孫淵反旗を翻す」で原文として最後の段に次の記述があります。
「二年春正月、詔大尉司馬宣王衆討遼東」訓は、明帝が「二年春正月、大尉司
馬宣王に詔して、衆を師(ひき)いて遼東を討たしむ。」と記されている。
私はこの「衆」に倭国が含まれ、難升米を大将とした遼東討伐軍が編成され参
加したのではないかと考える訳です。
だとすると、二年春の出兵から六月の朝献のおねだりも十二月の詔による親魏
倭王の授与も論功行賞とすればすべての点で整合性をもつ。当然戦下のこと貢
物を手近なものですますというのも理解できることです。
583 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 07:42:17
>>528大和さん
なかなか素晴らしい考えだと思いますよ!
一つ問題が有るとすれば
韓を陸上ないし海上を通過する際、例え少人数でも、武装集団の通過を黙って見過ごすはずは、有りませんから
この時の状況を、少しでも裏付け出来る何かが有れば「トンデモ説」は、画期的な説に大化けしますね
私も前向きに検討してみます。
584 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 08:18:59
>>582 >「衆」に倭国が含まれ、難升米を大将とした遼東討伐軍が編成され参
加したのではないかと考える訳です。
狗奴国との戦いで大苦戦してるから魏に助けを求めて
朝貢しようとしてるのに倭国の兵力を
遼東征伐につぎ込むわけがないでしょ。
585 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 08:32:34
粗末なものしか送らなかったといいますが
倭国では結構貴重なものを送ったと思いますが。
あと公孫氏を討伐した後に朝貢してるので
魏のほうも贈り物などたいして関係なく
喜ぶだろうという卑弥呼の考えもあったんでしょう。
586 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 08:52:46
公孫氏が反抗する前も後も、倭は反抗していないので、公孫の討伐に参加して、魏に認められていて
公孫氏の後しょうでも十分に信義倭王でやっていけた。
587 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 09:23:20
黄幢は俗に言う、錦の御旗というやつでしょ。
それこそ魏の権威の象徴であり狗奴国に
邪馬台国のバックに魏がいることを知らしめるものだったんでしょう。
588 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 10:44:55
Res573に於いて、魏の黄幢に対し威厳を傷つける記述がありました
謹んでお詫びし、歯牙・タケミツ云々は取り消しさせて頂きます。
>>583プラムさん
ご賛意感謝です。
当然、倭国を取り巻く東アジアの動向、とりわけ公孫淵の呉国への接近と破綻
に倭国がどう関ったのか読み解く必要があると思います。プラムさんのご健闘
を祈念致します。
>>584敬愛する16歳ヒッキーさん
景初2・3年ごろ(もっと早い時期かもしれませんが)は領域を違えて棲み分
けをおこなっており、この時点での諍いは論じられてなかったと記憶致してお
ります。間違っていたらお許しくださいね。
589 :
圭角:2005/10/05(水) 11:13:44
プラムさん、583に関してですが。
景初二年を前提として、司馬イが急ぎ仕立てた卑弥呼の使い、と解すれば
捧げ物は粗末なものであった説明はつくものと、私は思っております。無論
それは以前からの自説ですが。
590 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 11:38:31
圭角さんお久しぶりです。
じつは、粗末なお土産品(翡翠がない)を例にとり
畿内方面からの朝貢使者では無い事を述べたかったのです。
そうしたら、HN大和さんの(今はトンデモ説)発言が有り 検討する価値有りと判断し共感したしだいです。
素人同士の意見交換の場、ほんの少しの可能性が有れば、その可能性の追究は一人より二人と数が多い方がよろしいかと思いました次第です。
そうしてるうちに、また新たな発見が有るかもね!
591 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 12:52:13
>>588大和様
つまり朝鮮半島にも卑弥呼の権力が及ぶ
倭人の一族が住んでおり、それを
遼東征伐に使ったとおっしゃりたいわけですか?
それならまだ話はわかりますね。
しかしそのようなこと聞いたこともありませんがw
あと僕は単なる無知なガキですのでww
敬愛などしてくださらなくていいですよ。
文体から察するに女性の方かな?
もしかして小林恵子氏?w
592 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/05(水) 13:02:27
いつも思うのですがプラムさんは
どうでもいいとこに論点をあてすぎですw
貢物がしょぼかったのに理由があるないだの
あまり邪馬台国の場所を推測するのと
関係ないでしょ。
593 :
安曇連浜子:2005/10/05(水) 16:52:50
魏志の「周旋五千余里」という記述からして邪馬台国は島だったと
考えるのが普通でしょう
594 :
安曇連浜子:2005/10/05(水) 16:54:45
>>593訂正。
邪馬台国ではなくて「倭」の地がです
595 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 18:19:42
ヒッキー君
そんなに急がなくても良いでしょう。逃げては行きませんよ!
それよりも、
矛盾する点や気が付いた事を小まめに点検していった方が最善かと
だいいち、邪馬台国の判断はどのようにするんですか?
肝心な最終判断の材料なんて誰にも解らないんですよ、それとも君には解るのですか?
596 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:30:28
邪馬台国の東に国は無いとかい割れてるけど
地図見ると普通に宮崎から船こいで行けるぐらいの距離に四国がある
九州の隣って実は四国
邪馬台国は熊本な気がしてきた
この距離なら伊都に軍を置くのもわかるし
北に果てしないのは本州だとわかるし
東に国があるのは四国の筈
でも佐賀平野から東に行っても四国には当たるんだけどね
どっちにしてもこの佐賀平野と熊本あたりが怪しい
597 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:38:03
598 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:38:40
599 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 20:55:36
>>591のヒッキーさん
>そのようなこと聞いたこともありませんが
故にトンデモなんです。お気を悪くなさらないで。
ところで私、男性。ヒッキーさんとはこちらが始めてといっても判らんです
ね。宜しく。
難升米は一応伊都国の王と言われていますので列島からの派兵としなければ
ならないでしょう。倭国の出先と思われる狗邪韓国(金官伽耶)を足がかり
に古田先生の逆コースでも宜しいかと。案外古田先生の裏ネタだったりして。
600 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:30:28
祝! 600get
☆ ∵∴∴☆※☆∴∵∴ ./
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∴☆★☆°°☆ (__) ☆ °°☆★☆∴
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601 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 22:15:18
>>599大和さん
>難升米は伊都国王
その部分については現状では賛同出来ません。
602 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 22:26:07
あくまで難升米は、女王国の使者であり魏王朝から「率善中郎将」に叙任された人物です。
603 :
sss:2005/10/05(水) 22:26:59
ちょっとずれているけど熊襲について
熊襲は、景行天皇以来、大和朝廷の宿敵にようになっています。
日本武尊や仲哀天皇なども征伐に行っています。
また、後の隼人と関連があることは確かなようです。
そこで、熊襲はどこにあったのだろうと考えてきました。
隼人の乱の時に死亡した隼人の首領は、どうも宮崎県都城市の付近にいたようです。
隼人の乱のあと、首領をとむらう弥五郎どん祭りというのが始まっているのです。
また、島津家は鎌倉時代の始めに南九州を治めるようになったのですが、
その発祥の地も都城市らしいです。
地理的な条件からも都城盆地は古代の大きな勢力が育ちやすいように思います。
ひょっとすると、狗奴国の候補の一つにもなるかもしれません。
604 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 22:50:26
>>584ヒッキーさん
>狗奴国との戦いで大苦戦してるから魏に助けを求めて朝貢しようとしてるの
>に倭国の兵力を遼東征伐につぎ込むわけがないでしょ。
この時代背景というか、西暦年号を判る範囲で教えて頂けませんか?
鳥越憲三郎氏も景初二年紀ごろ狗奴国との争いを著書で記している。
私は狗奴国との争いは景初六〜八年頃と捉えているのですが、景初二
年ごろに争っていたと言う文献諸書や大陸文献があるのですか。
ご存知だったら教えてください。どなたでも宜しいのですがお願いし
ます。
605 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 22:56:15
自女王國以北特置一大率検察諸國諸國畏憚之
(諸国を検察し、諸国は恐れていた。)
しかし、どうでしょう
諸国とは、一般的に国内諸国への目付と捕らえられていますが、そうでしょうか?
外交誌に
「更立男王國中不服更相誅殺」こんな時の為に一大率を置いたのでは?
全く機能していません。
私が考えるに、一大率の真の役割とは、
魏王朝と女王国の安定的な繋がり、そして最も大事な呉王朝の倭国への侵入監視役と考えます。
呉王朝は、公孫政権に何度となくアプローチをかけて来ましたが達成出来ずに、公孫氏は滅びます。
606 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 23:06:03
>>601プラムさん
同意、巷間云われておりますまま記述。他意ございません。
でも一応受認いたしております。
>>602 賛意、当然倭国なら駄目なのでしょうね?。
607 :
sss:2005/10/05(水) 23:09:13
>>604 魏志倭人伝には、狗奴国との戦いの様子について何も書かれていません。
ですから、張政が来たときには戦いはなかったと考えるのが自然です。
そのあとについては、男王が誕生したけど挫折し、壱与が王となったなどと
書かれているけど、狗奴国との戦いについては何も書かれていないわけですから。
>景初六〜八年頃
正始三年から五年ということかな。
608 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 23:19:43
この頃、司馬懿の最も嫌がる事とは、せっかく掴んだ半島と倭国を呉王朝に奪われ挟みうちになることと、推測します。
魏王朝より先に倭国に呉王朝が入りこもうなら、それこそ司馬懿の汚点になります。
その予防の為に公孫を倒した直後の緊急朝貢、使者である「難升米や牛利」に、破格の「率善」の除任
きっと郡の大守は難升米に「お前ら絶対に呉王朝を倭国に入れてはならない」と言ったのではないか?
冊封体制に付き物の出兵の義務が、この対呉王朝の倭国侵入阻止機関だと思います。
609 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/05(水) 23:30:26
呉の記録に、女王国のことが出てきません。
即ち、魏王朝の素早い作戦に手も足も出せなかったと推論します。
これが遅れた対応なら
必ず呉王朝は、倭国に侵入或はアプローチをかけてきた筈です!
魏の裏をついて、公孫政権に何度も詰め寄ったのですから 半島や倭国を見過ごす筈はありません。
610 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 23:37:48
>>607sssさん
訂正ありがとうございます。
Res604景初六〜八年頃は正始六年〜八年の間違いです。訂正させていただきます。
611 :
大和@名無史さん:2005/10/05(水) 23:50:09
>>607sssさん
早速ありがとうございます。
鳥越氏らはどこから引用されたんでしょうね、自説か他説かはっきりして
ほしいですね。
612 :
sss:2005/10/06(木) 00:10:56
>>611 卑弥呼が始めて魏に朝貢したのは景初三年(西暦239年)でしょう。
倭人伝には景初二年と書いてあるけど。
つまり、朝貢の理由を狗奴国との争いを援助してもらいたかったからと
解釈すれば、そのときに争っていたということになるんじゃないでしょうか。
つまり、景初2年頃(西暦238年)、狗奴国と争っていたと。
景初二年が正しいだろ。
614 :
大和@名無史さん:2005/10/06(木) 07:49:24
>>612 >>613同様、景初二年説支持。
ということは冊封まで入り込まないと理解できないことになりますから、
「景初2年頃(西暦238年)、狗奴国と争っていた」は読み手の一方的
な主観的見解ということになりますね。よかっった。
冊封は当板でもしばしば取り上げられているようなので持ち出しませんが、
考えとしましては「プラム」さんのお考えに同調いたします。
『景初二年・三年の支持の分かれ目が冊封の意義付けに大きく左右される』
>590「そうしてるうちに、また新たな発見が有るかもね!」かな。
615 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:05:47
気がかりなのは記紀に
卑弥呼=神功皇后 と書かれている事です。
616 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:19:46
>>599 倭人伝を見るかぎり伊都国の
人口など微々たる物ですし
いったいどれだけの数を派兵できるというんでしょうか?
617 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 08:26:58
>プラムさん
>>私が考えるに、一大率の真の役割とは、
魏王朝と女王国の安定的な繋がり、
そして最も大事な呉王朝の倭国への侵入監視役と考えます
僕は一大卒はやはり卑弥呼が派遣した税金徴収係みたいまものだと
思いますよ。呉への侵入監視役とか妄想しすぎですw
618 :
大和@名無史さん:2005/10/06(木) 08:32:38
>>608 景初三年六月、明帝重篤緊急朝貢なら理解できます。
景初二年六月の「公孫を倒した直後の緊急朝貢」は賛意いたしかねます。
倭国も明帝の呼びかけに呼応して派兵、勝利したと考えます。
明帝景初二年十一月に公孫討伐の論功行賞の詔が発せられ、同年一二月詔に
より親魏倭王卑弥呼に制す。
三国志英傑伝、お持ちのようにお見受けいたしますのでP170のあたりに載っ
ております。洛陽〜遼東4000里の行軍の行です(私も使っております)。
619 :
大和@名無史さん:2005/10/06(木) 08:58:47
>>616 伊都国は今ならさしずめ官邸の役割なんでしょう。
伊都国の長官が大将となって共立国の奴国なり不彌国なりの将兵で組織すれば
1000や2000の派兵は可能では。但し当時これだけの将兵を渡海さすだけの軍船
を所有していたかどうか不詳、でも公孫淵が遼東で燕王を名乗ったとき、すぐ
さま大量の軍船の築造を命じているので倭国でも其れ相応の技術や軍船の保有
は考えられる事です。
620 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 09:18:23
>>619 倭人伝の戸数は明らかに誇張と考えねばなりません。
おそらくその当時の九州の人口は15万程度です。
そのうち半分は女として男は7万5千、
さらに老人子供は抜かすとまあ戦力になるのは
5万程度でしょう。このうち狗奴国も相当力が
あったようですし、邪馬台国側の兵力は
多く見積もっても最大で3万〜3万5千程度。
しかし後方支援や自国警備、稲作等の生産に従事する人も
半数以上は必要なので結局倭国30国の動因兵力は
全てあわせても1万〜1万5千程度だと僕は推測します。
1000や2000でも集めるのは大変ですよ
621 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/06(木) 09:31:35
とりあえず記紀における
卑弥呼=神功 問題に関してですが
まずこれにより邪馬台国の東遷はないことは
わかると思いますがだとしたら
記紀の編集者は卑弥呼が誰だか分からなかったので
とりあえず神功皇后にあてたのかはたまた
卑弥呼が誰だか知ってたけど神功皇后にあてたのか
どちらかですよね?
622 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:12:17
魏は呉と蜀と戦ってるので余計な体力は使いたくない
なので攻めなくても周辺民族が家来にしてください
って言って来たら、「え、マジで?ラッキー!」みたいな感じで
よろこんで家来にすると思う
普通は血みどろの民族同士の戦いして味方にするのが普通だろうから
景初三年としてるのは日本書紀でしょ。
ところが日本書紀はこの時の皇帝を明帝としている。
三年だったら明帝はありえない。
624 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/06(木) 19:56:44
>>623 それより以前の636年完成の「梁書」にも
(至魏景書三年公孫淵誅後卑弥呼始遣使朝貢…)
と、あります。
この梁書にしても、日本書紀にしても魏書を参照して書かれていると思われるので、別の土地で書かれた史書が同じ誤写をしたことになります。
それはチョット信じがたい事ですね!
625 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/06(木) 20:47:13
私が今注目している「一大率」と使者に叙任された「率善」の関係を見てみると
じつは、後にも先にも「三国志魏書東夷伝倭人」にしか登場しないことが解る。魏王朝の時だけ
その使者に「率善…」の叙任をし、それと同時に「一大率」も存在する
果たして「率」の文字の一致は偶然の産物なのでしょうか?
国内の統率に必要な機関なら、それ以降の時代にもそれらしい記事が書かれてもいいはず
朝貢の使者に対する「率善」の叙任も、旧慣例に従い行われてもいいはずだ
626 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/06(木) 22:16:52
晋書武帝紀
(泰始二年266年)
倭人来献方物
この文を最後に中国史書から約150年間姿を消す
このほんとに短い文が全ての謎解きのヒントになりそうな…
627 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:28:44
公式記録上の問題で、別に倭人との交流がない訳ではないでしょう。
もっと中国史学界で文革前の散逸した古書古典の発見、研究が進めば
更に手がかりは増えるはず。
外交朝貢記録だけでなく、経済的な売買や税収等の記録研究が進めば
倭との交易や生口の役割等がもっと解明されると思います。
記録文献大国ですからね。中国は。
628 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/06(木) 22:46:29
>>627 確かにそうですね
大陸や半島との交易は続いていたと思います。
でも、公式記録は途絶えました。
629 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/06(木) 23:17:04
あくまで私見ですが
中国側から見た女王国の歴史とは
公孫政権時代に誕生し、魏王朝から晋王朝に移行するときに(いや、呉王朝衰退)と、共にその役割を終え公式記録から消えたと考えます。
陳壽はリアルタイムで見ているのです。
自分の書いてる魏王朝の史実でなくとも 魏から晋への移行、倭の(266)朝貢も 何かの記録に残しているはずです。
しかし、その記録は晋書は引き継ぎませんでした。
630 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 09:16:41
引き継いだじゃありませんかw
631 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 09:19:13
どうもみなさん論点がスレタイの主旨に沿っていないようです
このスレは邪馬台国の位置を特定するスレなんじゃありませんか?
議論がまさに木を見て森を見ず状態になってる気がします。
632 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:10:51
邪馬台国は首都機能だけで、どこにでも持っていけたので、あっちこっちとフラフラした
妄想の内です
633 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/07(金) 10:58:18
ヒッキー君
位置の特定には「終止符」スレの方が相応しいんじゃないか?
ここは確か、以前から文献重視のスレだと思っていました。(誤認はスマソ)
違いますか?
634 :
大和@名無史さん:2005/10/07(金) 11:31:36
ヒッキさんおそだしゴメン。
プロキシ設定規制。入れなかった
>>620 >1000や2000でも集めるのは大変ですよ
西暦二年、前漢末期の遼東半島付近の戸数・人口(漢書地理志3・小竹武夫訳)
遼西郡・ 72,654戸 352,325人 14県
遼東郡・ 55,972戸 272,539人 18県
玄兎郡・ 45,006戸 221,845人 3県
楽浪郡・ 62,812戸 406,748人 25県
236,444戸 1,253,457人 60県
倭国(岩波文庫・石原道博編訳に従う)
共立国・150,000戸 750,000人 8国(邪馬台国含む)
傍 国・ ?戸 ?人 21国
狗奴国・ ?戸 ?人 1国
弥生終末期に於ける列島の人口は100万人と試算されている(基礎の考古学・第
4紀を探るより)。これは概ね上記大陸・半島の数値が反映されているのは間違い
ない事なのでしょう。
635 :
大和@名無史さん:2005/10/07(金) 11:33:11
ところが初期古墳と大和の考古学(石野博信編より)に載せます寺沢薫・知子氏の
研究(孫引き)によると、兵庫加茂遺跡の小さな掘立柱の高床式米倉1棟で年間1
日1食(1合)として27人が生活できるとする(一軒:5人とする)。
また、季刊考古学(縄文人・弥生人は何をたべたか)では九州大学・田崎博之先生
が登呂遺跡の研究により、全住居跡12軒(一軒:5人とする)は1日3食(3合)
36人分を確保した(共に奈良時代をベースにしたデーターから勘案する)とする。
寺沢薫・知子氏式に換算すると登呂遺跡では概ね年間100人強が生活できること
になる。即ち、倭国全域では登呂遺跡級高床式米倉3棟を有した生活空間「1万地
域」が推定確保されねばなりません。登呂遺跡の遺構確認は東西520m・南北4
20mあるが、もう少し広がりを持つとする。これを計算すると約0.22kuほど
になります。
倭国の民力:登呂遺跡(0.22ku)の一万倍、2200ku 人口100万人
福岡県民力(平成10年):4968ku 人口494万人
佐賀県民力(平成10年):2439ku 人口88万5千人
おおよそ現在の佐賀県の民力ほどの勢力が九州島、若しくは西日本全域に散らばっ
ている事になります。
さきの大戦では350万人が海外に出兵したとされる(未確認です)。総人口1億
人越えとして凡そ3%。倭国に当てはめますとヒッキーさんお認めの如く単純計算
で3万人は確保できます。100歩譲ってヒッキーさんの計算でも4500人は可
能なわけです。
636 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/07(金) 11:43:26
なるほど、勉強になりましたわw
しかし遼東征伐に邪馬台国連合が
出兵したとは思いませんけど。
それでしたら倭人伝なり他の史書に
もっと詳細に書かれててもよさそうなのに。
637 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/07(金) 12:31:50
>>635大和さん
そうすると、登呂遺跡12軒が一年間に消費する米の量は12石(30俵)となり
寺沢氏著書(王権誕生P70)表の「中田」に当て嵌めると、約1.5町歩(約4500坪1.5万u)の中田が有ったことになります。
638 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/07(金) 12:42:20
登呂遺跡の遺構0.22Kuのうち約7割弱が中田となります。
そんなにあったかな?
昔見たとき
田んぼもっと狭く感じたけどな?
639 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/07(金) 12:49:05
あれ?
単位一桁間違えたかな?
7割じゃなく7%の間違えでした。
スマソ
640 :
大和@名無史さん:2005/10/07(金) 18:09:30
>>636 >>637-639 実際に行動を起こしたかいなかは全く判りません。もっと修練積みます
もっかの興味は2〜3世紀の遺構から、準構造船といわれるものの完形
が日本海沿岸それも北部九州湾岸で出てくれないかなーと願っておりま
す。でれば日本海を取り巻く情勢が非常に面白くなります。
641 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:55:39
609>>
呉の史書には魏志のような夷蛮伝がそもそもないので、記録されていなか
っただけとも考えられます。
逆に夷蛮伝をもつ国史書の方が漢以降の短命王朝では珍しいのでは?
636>>
遼東半島遠征に卑弥呼は深く関わっていなかったのではないかと思
います。公孫氏の同族の遠縁だか主従だかはあったかもはしれませ
んが。
なぜ魏志倭人伝が書かれたかの理由がその訳です。魏の天子の下に
東方の絶海の遠方のみずしらずの島国から、わざわざ朝貢にやって
きた"慶事"であるという意味合いで引き合いに記されているのが魏
志倭人伝です。逆に言えば魏の天子の威光はそれ程、遠くまで轟き
広がっているという事を自己讃美しているという事なのです。
卑弥呼の国の風物や習慣の記述は、これまで中国でよく知られてい
なかった極東の世界を好奇の目で書かれています。そしてそれを明
らかにしたのは、魏の天子の徳であると讃えているのです。この前
戦った公孫氏の残党だとか、参陣した同盟軍だとかいうノリではあ
りません。
まるで「世界、不思議発見!!」と同じ感覚だと思います。邪馬一国
は中国人にとって謎の民族という描かれ方なのですよ。
642 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:29:58
クナ(隈)国は八女か久留米近辺まで勢力もっていたと思うけどね。
(それでも倭国内乱の中で両連邦国家の国境線も何度か変わっていたに
違いない。)
それに元々クナの本家本流は七隈から篠隈、神代だろう。
水城が長い間両勢力の国境線だったように思う。
パワーバランスからみても妥当だと思う。
(ハプスブルグ家とブルボン家の例のように、しかし魏がイギリスのように光栄ある孤立として
両者の間を取り持つような事はなかったのかもしれない)
もし、筑後、佐賀平野全土と福岡、大分を邪馬台国とし、
菊地近辺以南をクナだとするとパワーバランスが全く釣り合わない。
菊地以南で巨大な人口と後背地を抱えるこの地域と対等に渡り合えるはずがない
クマソと土蜘蛛との違いは男王か女王かの違いではなかろうか?
もしかすると、卑弥呼勢力も土蜘蛛と呼ばれた勢力だったかもしれない。
ヤマトは軍人八幡一族と手を組んで豊前から畿内の所々に勢力をもっていたと
考えている。
畿内、日向、豊国は倭国内でも似た文化を持ち、
利害関係の一致もあったと思われるが、地理的に離れているので
一蓮托生的とまでは行かなかったかもしれない。
7世紀以降隆盛を極め記紀編纂に深く関わる、濃尾、紀伊の海部一族がこの当時どう
いう動きをしていたかも気になる。関東の防人だって無視できない。
643 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 15:21:30
隈国は隈国でクナ国では無いだろう
>>642 隈国がクナ国で無かったら貴方の
>>642での考えは、隈国=クナ国が元で考えた事だから、全て否定される事になるよ
どうでしょうか?
644 :
大和@名無史さん:2005/10/08(土) 16:00:51
>>641さん
このあたりは、皆さん十分承知の上でのコメントでしょうからいいのでは。
645 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 17:39:35
基本的な質問ですが魏志倭人伝は本当に日本のことですか?
誤認とか語情報の可能性もあるのでは
646 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/08(土) 17:40:18
ではムー大陸のことだったとでも?w
647 :
大和@名無史さん:2005/10/08(土) 19:19:37
>>645さん
私も未だ1/3ぐらいはよその国のことではないかとの疑念を持っております
それも東南アジア・ベトナム周辺から匈奴といわれる中国北部の地域まで、
なんでもありの情報が含まれているのではないかと考えております。
>>645さんはどう言う点に疑問をお持ちなのですか?。知りたいです。
尚、これから東京です。摺りあわせは月曜午後からにさせてくださいね。
648 :
P氏:2005/10/08(土) 21:49:45
>>642 そこまで言うのならさ。
クナ国の読みは間違いでしょう。
クマ国が正しいと思わないかい。
649 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 22:42:11
・邪馬台国の位置は佐賀熊本福岡のどれかの平野の近く
・東にある国は九州から東に行くとある四国
・北に果てしないのはたぶん本州
・伊都国に軍がいたのは本州に別の部族がいたか
または海賊みたいなのがいたか
・大和朝廷になったのは邪馬台国そのものではなく
九州から出ていった一派それが本家も支配下に置いた
玄海灘で潮に乗っていったか、瀬戸内海の波の穏やかなとこを行った
・神話の時代の記述はたぶん正しい中国地方で活躍したはず
スサノオのヤマタノオロチ伝説も製鉄民族を支配下に置いた話
ツーのが俺の推論
650 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/08(土) 22:56:36
皆さんもの凄く勉強してますねぇ
>>649さん、そこまで幅広くカバー出来てるのが凄い。
私なんか未だ、中国史書からも抜けられず
さ迷っております
651 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:32:02
>>645 アジアの中で最も歴史文献がきちんと文字に残され、その保存と教養として
の活用が行われていたのは中国なので、第三者資料としてそこにあるものか
らまず調べるのが史料研究の初歩。日本には当時まだ文字(漢字)の読み書き
さえできない文盲の未開国家だった訳ですからね。考古学で発掘できる資料
では概算年代しか特定できないのですよ。
また中国の史料だと王朝毎に、その歴史時事情報の継承が教養の一つとして
受け継がれていきましたので、漢書、魏書、晋書、隋書、唐書と年代を追っ
てその変遷も明確になる為、日本国の前に倭国、その前に邪馬一国と逆に遡
上する事もできる訳です。また朝鮮半島に盛衰した国々の国史もいくつか残
されている中で倭人は日本列島の住人であるとされているので、これも傍証
となるのです。
ただ現在、古代日本に関する学会や公に知られている史書史料は全部あわせ
ても大した数ではありません。ジグゾーパズルを解くピースは実はまだ大き
く歯欠け状態というのが本当です。
今後、中国から新たな文献が農家の土蔵や故宮博物館から出てこないとも限
りません。新たな文献がでてくれば、いまは謎の事も色々判明するかもしれ
ません。
652 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 07:43:43
盛り上がってるの 素朴な質問で悪い、
記紀には
卑弥呼=神功皇后と明記されてるの?
今までは、編纂者は神功皇后を卑弥呼に批定して書いたのだろうとの認識しか
なかったのだけど。
誰か教えて。
653 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 08:14:12
>>652 明記されておりません。
曖昧に卑弥呼が朝貢したことをにおわせてるだけです
654 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/09(日) 09:41:56
みなさんさようなら。
もうここにはきません。
学業やバイトを頑張ります。
邪馬台国の本もちょくちょく読んで
また大人になってからきます。ではでは
655 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 10:04:27
656 :
本田:2005/10/09(日) 10:27:26
>>654 夏にも同様の書き込みがあった、どうせまた、・・・・・・・。
657 :
本田:2005/10/09(日) 10:36:12
>>651 >
>>645 > アジアの中で最も歴史文献がきちんと文字に残され、その保存と教養として
> の活用が行われていたのは中国なので、第三者資料としてそこにあるものか
> らまず調べるのが史料研究の初歩。日本には当時まだ文字(漢字)の読み書き
> さえできない文盲の未開国家だった訳ですからね。考古学で発掘できる資料
> では概算年代しか特定できないのですよ。
日本列島やその周辺の縄文時代の遺跡からフェニキア文字や、
その影響をうけた文字が見つかっている。
紀元前のアメリカ大陸の遺跡からもフェニキア文字が見つかっている。
フェニキア文字は紀元前に貿易に携わる人々の世界的な共通語だったのかも。
>>654 おつかれ、ヒッキー君
コピペするのも疲れたでしょ
面白い意見もあったけど
基本的にデンパが多かった。
659 :
大和@名無史さん:2005/10/11(火) 18:04:07
>>654 結局実年齢不詳のまま逝ってしまったんですね。
サガミさん同様、短いお付き合いで残念ですがご愁傷さまです。
プラムさん寂しくなりますが新米大和が代打勤めます。宜しく。
660 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/11(火) 19:50:22
大和さん こちらこそ
大丈夫!彼等はチャント居ますよ名無しでね
661 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 19:57:12
ヒッキー君の意見のどこが電波なのでしょうか?
邪馬台国は大和朝廷により隠蔽されており、
壱与は殺され宇佐神宮に祀られてる。
まさに真実を述べているじゃありませんか。
反論もないようですしこれが真実でしょう。
662 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:11:31
663 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:20:30
>>661 >反論も無い
ただ単に、スルーしてるだけ
664 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:23:25
ヒッキー君はちゃんと論理的に真実を語っていますよ。
665 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:53:32
666 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:02:53
読めました。
たしか藤原氏の先祖が神武東征の際
宇佐の姫君と結婚してたはずです。
つまり藤原不比等は宇佐にゆかりの人間。
なので記紀で邪馬台国を隠蔽したのです。
自分のご先祖様の地にあった国をよもや
自分たちが滅ぼしたとあっては体裁が悪すぎます。
神武の時代には邪馬台国は日向にあったのかもしれません。
壱与の時代は宇佐に移動してます。大陸との
交易のため日向では遠かったのでしょう。
日向は壱与の時代は投馬国。つまりかつては邪馬台国であったが
投げ出したという意味で投馬国なのでしょうw
667 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:08:07
エジプトのピラミッドの謎が
邪馬台国の謎につながるきがします。
グラハムハンコックの本を現在熟読中です
668 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/11(火) 21:29:21
>>666 名無しさん
藤原鎌足の出自は、我故郷茨城県(鹿島)と言う説があるの知ってますか?
669 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:33:59
鹿島アントラーズにジーコがいたことは知ってますが
鎌足がそんな辺鄙なとこの生まれだとは聞いたこともありません。
たしか神武東征で宇佐の姫君と神武の家来で藤原氏の先祖が
結婚しています。調べてみてください。あと貴方はいつも
レスつけるのが遅すぎですw
670 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/11(火) 22:12:24
>>669 >レスつけるの遅すぎ
大きなお世話!
誰かさんみたいにネットに張り付いていませんから
671 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:19:36
>>669ひっきーくん、あんたが仲人したんかい ェッ
672 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:50:07
かず!
673 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:08:59
藤原鎌足の墓は摂津の国の茨木にあるので、阿武山、安威山、生まれたのも
高槻かもね
674 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/11(火) 23:28:34
けっこう中臣氏と茨城の関係は有名なんだけどなぁ
ま、記紀論者には都合悪いのかもね!
675 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/11(火) 23:49:46
藤原鎌足の生まれ
「藤原氏家伝」には
鎌足は大和国高市郡大原
信憑性には乏しいが
「大鏡」
常陸国の生まれと、書かれています。
676 :
大和@名無史さん:2005/10/12(水) 07:38:21
>>660 おはようございます。
そうなんですか?。名無史で誰がヒッキーさんか「あてっこ」になりますが
もう既に判明のようですね。まあ、とりあえずがんばります。
677 :
妄想中:2005/10/12(水) 08:08:56
いまさらですが、歴史書は戦争に勝った方が、自己の都合がいいように書きたい気持ちでいっぱいで。
白木系が名門の百済系を名乗ることも考えられるので
678 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 09:18:28
常盤と常世、常陸は同じ常盤信仰から始まっていて。
地名では、
小倉の常盤から岡山、京都、茨城、東北方面にまで広がっている。
679 :
妄想中:2005/10/12(水) 09:59:20
南部相撲は江戸と違って四角い土俵を用いていました、それがどうしたと言われても困る
680 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:31:13
邪馬台国・・やまた・・宇治山田
文字類とみられる主な遺物
2世紀中期 大城遺跡(三重県安濃町) 「奉」の刻書土器
2世紀後半 貝蔵遺跡(三重県嬉野町) 「田」の墨書土器
3世紀前半 貝蔵遺跡(三重県嬉野町) 人面墨書土器
3世紀後半 三雲遺跡(福岡県前原市) 「竟(鏡)」の刻書土器
3世紀後半 根塚遺跡(長野県木島平村) 「大」の刻書土器
4世紀初頭 柳町遺跡(熊本県玉名市) 「田」のよろいの留め具
4世紀前半 片部遺跡(三重県嬉野町) 「田」の墨書土器
5世紀中期 稲荷台1号墳(千葉県市原市) 「王賜」などの鉄剣
5世紀後半 稲荷山古墳(埼玉県行田市) 「辛亥年」などの鉄剣
681 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 03:19:30
初歩的質問ですが、「女王国」と「邪馬台国」はどういう関係ですか?
女王国=邪馬台国 ではなく、
女王国の首都的存在が邪馬台国ですか?
>>121ではそのような感じですが。
682 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 08:02:16
確率50%で 釣だと思うが釣られてみますか
683 :
妄想中:2005/10/16(日) 09:00:26
やまたのおろちが、やまた国にいてましたので、
684 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/16(日) 09:03:25
>>681に、釣られてしまいました。
邪馬台国=女王國
そう考えて 結論が見えませんでした。
女王國と邪馬台国を(乃共立一女子為王)の記事を頼りに
別物として考えて見るのも一考かと
日本には神功皇后と卑弥呼と言う二人の女王が、同じ時代に存在し
日本書紀編纂時には、その時代の出来事を神功皇后一人の出来事として取り扱った。
そう考えてみると又新しい展開が見えそうです
685 :
妄想中:2005/10/16(日) 10:55:48
共立した王様が女で、100位の小国の総称がやまたい国で、実態はなかったのですか
686 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/16(日) 14:04:42
邪馬台国の女王の名は解らず(神功皇后か?)
女王国の女王の名は、卑弥呼・壹与
魏王朝と、朝貢交易を行っていたのは女王国
妄想ですが
687 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/16(日) 14:17:54
すると
三国志魏書東夷伝倭人は、女王国主体に書かれた書物であり
邪馬台国を描いた物では無い
お! 畿内説支持者になってしまったぞ
688 :
安曇連浜子:2005/10/16(日) 14:24:38
>>687 その説の根拠は?邪馬台国=女王国でない理由をキボン。
689 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 14:26:35
>>688 では、
邪馬台国=女王国である根拠は!
690 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/16(日) 14:42:24
邪馬台国=女王国
この根拠は、
「女王之所都」この一点だと思う。
でも、どうしてその行で女王の名前の紹介をしないのか それに、邪馬壹國の名称もこの一点のみで、歴史の舞台から姿を消してしまう。
「皆統属女王国」
ここにも、何かありそう
691 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/16(日) 15:01:07
なんと言っても不思議なのは、末盧〜不彌までの距離間隔と、それ以降の摩訶不思議な距離間隔
邪馬台国が伊都や不彌と
それほど離れていないならば
普通、水行二十日の投馬等間に挟まず、不彌の後に邪馬台国を持ってくる
この書の主役は、女王の都する邪馬台国なんだろう
投馬や狗奴じゃないだろう
これでは
投馬・邪馬台・狗奴の扱いは同レベルじゃないか
692 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/16(日) 17:43:19
魏王朝と朝貢交易し、親魏倭王の位を下賜された卑弥呼は
邪馬台国の女王ではなく
女王国の女王
九州北部にあるのが女王国で、邪馬台国は女王国から水行十日、陸行一月(遠くにある)
693 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:53:42
九州国立博物館で件の金印が公開されてるらしいけど
見てきた人いる?
694 :
本田:2005/10/16(日) 21:46:15
>>685 > 共立した王様が女で、100位の小国の総称がやまたい国で、実態はなかったのですか
一票。
>>693 元々は市立博物館蔵、でしたよね。
以前に見て、レプリカも買い求めました。
なかなかの重量で、本物はいかばかりか・・・・
>>692 ならば
なぜ倭人伝は女王国までの道のりを示してないのでしょうか?
漏れはその点があるから邪馬台国=女王国だと思う。また「女王之所都」
と書いてあるのは女王が邪馬台国を本拠地にしていたからでしょう。
というのはどうですか?
697 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 17:01:49
>>696 貴方の考えが普通であり一般的ですし、私もまだ90%以上そう思います。
「女王之所都」
この文ですが、邪馬台国には女の王が居た
ただそれだけじゃないのですか!
「親魏倭王」を下賜された王が居る割には貧相な文と思いませんか?
それに、「邪」「馬」とかもっと他の当て字があったのではないでしょうか
698 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 17:31:45
>>696 >女王国までの道のりが示されていない。
それはどうでしょうか?
私は、解釈次第でその道程は解ると思います。
今の所、私が考える「親魏倭王卑弥呼之所都」は『伊都国』と仮定しています。伊都は、倭人伝の中で唯一「都」の文字が記されていますし、郡使が常駐し、代々王が居たと記してあります。
その他色々有りますが、それは後ほどカキコします。
ま、暫くは「伊都」中心で考えるしだいです
699 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 17:39:29
倭人伝に記載されている女王国とは、「親魏倭王卑弥呼」の影響が及ぶ広域地域であり、その中核地域(親魏倭王卑弥呼の住む都)が「伊都」だと考えます。
700 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 17:56:45
スレタイトル
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか)
私は、
北部九州以外の地域で
「出雲」「吉備」「大和」のどれかと考えます。
邪馬台国の女王は?
神功皇后が第一候補ですね
701 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 18:42:13
プラムさん、伊都国も女王国に統属してると
倭人伝に書かれてますよ。
702 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:26:54
>>700 応神天皇が5世紀の人であるのは確実なのに、
どうしてその母の神功皇后が、3世紀半ばの248年頃に死んだ
卑弥呼だといえるの???
703 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:29:34
プラムは高卒だから相手にしちゃだめだよ。
論理的思考力のないDQNの言うことなどまにうけちゃだめ。
704 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 19:43:22
>>701さん
別にOKでしょう
卑弥呼が伊都国の統治者ではなく居を構えているだけですから
現在の東京都みたいに、天皇は日本国(女王国)東京都千代田区(伊都国)に居ますが
東京都(伊都国)の行政代表は石原都知事でしょう
以前、国の中に国は存在しないと指摘されましたが
ここで言う「女王国」とは地域の総称で「(女王)国」では無く「(女)王国」ではないでしょうか!
705 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 20:00:12
>>702さん
私は、邪馬台国と女王国は別物であり、神功皇后と卑弥呼は別人と
いっているのです。
>>703さん
そうです、私は高卒のDQNですよ!
貴方は大生か大卒でしょうか?
それならその有能なオツム使って早く解決してくださいな 何時までダラダラかかっているの
高卒DQNだってこの程度の脳みそ使えるのだから
大卒ならさぞかし素晴らしい理論を披露してくれるでしょう。
ガンバって下さいね!
706 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 20:39:57
ここはネタスレ。
707 :
太国:2005/10/17(月) 20:54:29
プラムさん、気にせず今後も頑張りたまえ。
>>707太国さん
ありがとうございます。
大丈夫。
何時もの事で、慣れっこになりました
これからもドンドンカキコしていくつもりです。
……何時も妄想ばっかりですが……
709 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 21:33:09
今まで
邪馬台国=女王国と考えていたから、やれ畿内説だ九州説だと論争が絶え間無く続いており
未だに結果を出せず、曖昧な箇所を数多く残していると考えます。
710 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/17(月) 21:51:00
今は亡きヒッキー君
>倭人伝を読む限り邪馬台国は、九州北部しか有り得ない
違うね!
九州以外しか有り得ない
邪馬台国は畿内か出雲だよ九州しか有り得ないのは、親魏倭王卑弥呼の影響を及ぼす女王国だよ!
711 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 02:04:04
女王国と邪馬台国の関係について書き込んだものですが、もう話についていけませんw
でも魏志倭人伝を読む限り、女王国=女王の傘下にある国 で、
邪馬台国=女王の都=女王国の首都 という感じがしましたが。
もし邪馬台国と女王国が別、もしくは女王国が九州から近畿にかけてずっと広がっていたとしたら、
帯方郡から12000余里では九州北部しかありえないとしても、大和説が消えるわけではないです。
帯方郡→女王国の端が12000余里で、そこから水行10日陸行1月なら、邪馬台国畿内説も捨て切れません。
ただ、東方の海を渡って…というくだりを考えると、邪馬台国=大和は考えにくいのでは。
712 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/18(火) 06:47:11
>>715 そこまで邪馬台国にこだわる理由は?
「女王之所都」この一点以外邪馬台国の名は、倭人伝から消えて
後は全て女王国なんですよ
ま、いくら説明しても無駄でしょうけど
一度邪馬台国と言う名称の呪縛から解き放たれて考えるのも、一興かと
714 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 08:22:30
ここはネタスレ。
715 :
白木人:2005/10/18(火) 09:17:26
これを先に完成させると、ノーベル商はもらえますか
716 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 09:57:24
YAHOOでも女王国と邪馬台国の違いが問題にされています。
717 :
ii:2005/10/18(火) 10:01:51
l
718 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/18(火) 10:29:22
>>716さん
ありがとう
さっそく覗いてみます。
719 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 01:44:13
人がいないな。ヤフーに客を取られたか?
720 :
白木人:2005/10/20(木) 09:28:52
おどりばなので、変なことは言えないし
ノーベル商はほしいし、どうする
721 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:06:54
和魂漢才←中国系渡来人の秀才と倭人の魂を褒め称える言葉
ブータンの民族衣装は男性はゴ(呉)、女性はキラ
どちらも日本の着物(呉服)にそっくり
なにかある。
722 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:08:17
723 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/20(木) 21:21:28
魏(郡)使は、邪馬台国に行っていない。
「到」と「至」の文字が
これを証明した。
724 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 22:41:02
>>721 つか「着物」というのが、清以前の中国の民族服のパクリなんだから、日本もブータンも真似しただけでしょ。
725 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 22:43:42
>>723 中国語では「至」と「到」の意味は区別されないということは承知で言ってますか?
726 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/21(金) 07:42:41
725
>中国語では区別されてない
では、何故別の漢字を使用しているのですか?
意味が違うからこそ
ではないでしょうか?
区別されない文字であるのならば「至」もしくは「到」で統一されるはずです。
如何でしょうか!
727 :
白木人:2005/10/21(金) 10:43:13
記紀に書かれた神功皇后の新羅出兵記は日本武尊につぐ武勇物語で、
神功皇后はヒミコだという説さえある。仲哀天皇の皇后である神功皇后は、
息長足姫尊のことで、坂田郡息長の出身で、天日槍の子孫という。
新羅出兵の時、九州の筑紫で仲哀天皇がなくなったので、
当時身重の神功皇后が出陣し、出兵が終わってからすぐ皇子を生んだという。)
とアルので滋賀県にあったのかも
728 :
安曇連浜子:2005/10/21(金) 15:55:48
>>726 「至」と「到」の意味の違いをはっきりさせてください。
729 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/21(金) 17:17:27
>>728安曇さん
あなたはどお解釈しますか?
私は、どちらも「たどり着く」で良いと思います。
しかし、
「至」は先に繋がりをもち「到」は極限に達する
そう言う使い分けがあると考えます。
そのほかにも
「度」と「渡」:「戸」と「家」等がみられます。
これらの違いは、誤字や誤写では無く
大変重要な役割を持って陳壽が使用したと考えます。
>>728安曇さん
中国史書の大原則をご存知でしょうか?
そして 陳壽は歴代史書編纂者の中でもずば抜けて優秀な編纂者であることを
ご存知でしょうか?
730 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/21(金) 21:40:08
スレが大分閑散としてますな!
この閑散期を利用して「魏志倭人伝」の解読を真剣に取り組んで見ますか
編纂者…陳壽(233〜297)編纂時期…三世紀後半
初め「蜀」の官吏
宦官にも反抗する、正義感が強く、頑固な偏屈
蜀が滅んだ後も、その卓越した才能を買われ「晋」の著作郎に抜擢され
三国志の編纂を任される
陳壽の文章は実に簡素であり 後に(ハイ松之)の註が付かなければ理解できない位の難しい文でした。
難しく解りずらい文章だからと言って方角の変更や誤字の指摘等は 不敬窮まりない行為と考えます。
残念なことに
今まで数々の、邪馬台国関連の本を拝読致しましたが、殆どの著書は日本的な感覚で中国史書を読まれており
その感覚で解説なさっているように受け止められます。
中国史書を解読するには、中華的感覚の基に読み解かねばならないと感じます。中国史書には中国史書の読み方が有り
その編纂者独自の「筆法」を考慮しなければ
それこそトンデモ解説になってしまいます。
何時の時代の歴史書もそうですが 中国歴史書最大のテーマは、時の皇帝を正義化しその時代を忠実に書き留める事です。
しかし、トンデモやかなりのお馬鹿さんの皇帝(そんな連中の方が多いかも?)を、正義化しながら 事実も書かねばならない大変な作業です。
何せ、皇帝は世界のNo.1(中華思想)ですから!
そのような矛盾を解決するために、考えられた文章技法を「筆方」と言います。
>>726 陳寿先生に文句を言いなさい。
>>729 そういう仮説が成り立つ余地が絶無ではないというだけです。
> そして 陳壽は歴代史書編纂者の中でもずば抜けて優秀な編纂者であることを
> ご存知でしょうか?
具体的なだれがそう評価してますか?
>>730 > 不敬窮まりない行為
それでは科学的な考察を拒絶してしまうことになるので、トーンを改めたほうがよろしいかと。
>>730 > 方角の変更や誤字の指摘等
「自説に都合が良くなるように特定の部分だけ改変する」のは慎むべき、という感じでしょう。
736 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/21(金) 23:11:10
>>733 晋の高官…張華
★ 夏侯(シ甚)が陳壽の三国志を見て 挫折し、自分の書(魏書)を壊して書くのを辞めた
そんなエピソードがあります。
>>734 言葉の行き過ぎに陳謝
>>そう言うことですね
それに、誤字や誤写は無いと思われます。
737 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/21(金) 23:13:52
(レスの続き)
中国歴史書を読んだり書いたりするうえで、誰もが例外なく学ばなければならないことは
《春秋を継ぐ》と言うことです。
この技法をマスターしないかぎり中国歴史書の筆法を解き明かすことは困難で有り、また、この技法を取り入れてない和訳も不完全と言えるのではないでしょうか?
私の最近のトンデモカキコもこんな筆法を基にの行為でしたが
DQNの脳みその為旨く表現出来ません。
「漢書」には(班固の)
「後漢書」には(范曄の)「三国志」には(陳壽の)それぞれ独自の「筆法」が有りますが
全て《春秋の筆法》が基礎と考えられます。
細かく分ければ、陳壽の東夷伝には東夷伝独自の技法を活用し、筆法により様々な矛盾を解決して書かれているのではないでしょうか?
そのほんの一例が
(邪馬壹國と女王國)であり(到と至)の使い分けと推測されます。
740 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 00:23:27
>>734さん
別に科学的な事や考古学を無視したり蔑んで見ている訳では有りませんから
ご心配なく!
距離を変えたり方角を変えなくても 行き着く先に行き着きますから
確か定説で伊都は前原付近で、末盧は呼子や唐津でしたよね
大丈夫です。
陳壽はそんなヘマをしません
方角や距離を変える必要もありません
>>736 「誤写は無いと思われます」
あのね、現存する二種の刊本だけでもかなりの異同があるんだよ。
例えば、紹興本の「対馬国」と紹熙本の「対海国」なんか有名だよね。
敦煌などでも早期の写本の断片が出土しているが、現存版とは違う部分があるそうだ。
742 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 07:03:30
>>741なるほど
その一見誤写と思われる文字
貴方は、誤写と判断する前に(《春秋の筆法》陳壽の筆法)を前提に文章の検証を行いましたか?
こう言う言葉をご存じでしょうか?
【文を錯ふるを以って義を見し、一字を以って褒貶を為す】
一見誤字や誤写・脱字と思われる箇所 それはそれで大変重要な意味をもつ《春秋の筆法》の可能性が有る箇所です。
大変有名な文
「景初二年と三年」
この文も陳壽の筆法による意図ととらえなければ、正確な意味をとらえる事は出来ません。
>>742 「陳壽の筆法」
朝っぱらから、何わけのわからないことを書いてるんだか・・・
日本語も満足に読みこなせないのに漢文を語るわけですね。
まずは、「紹熙本」、「紹興本」とは何なのかググって確認しなさいな。
「その一見誤写と思われる文字」
良いですか、
まず紹興年間に刊行された三国志の版本では狗邪韓國の次の国は「対馬國」と標記されています。
そして、紹熙年間に刊行されたとされる刊本の同じ部分は「対海國」と標記されています。
貴方は、この標記の違いをどちらかの「誤写」であると言う以外にどう説明すのですか?
ちなみに、両刊本の違いはここ一箇所に限りません。
倭人伝だけでも10箇所以上、三国志全体を見れば数え切れない数になります。
何か反論する前に貴方は人生の最初からやり直したほうが好い。
きっと陳壽は「馬」とも「海」とも読める文字を用いていたのだ。
そして、それはプラムの主張のとおり大変重要な意味をもつことなのだ。
さらには、後世、二種の版本が生き残り世に伝わることまでも想定していたのだろうw
745 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 09:52:30
746 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/22(土) 10:09:27
帰ってきましたがまたすぐに帰りますw
とりあえず今まで僕が言っていたことが
いかに稚拙で浅いものだったかを思い知らされました。
もっと多くの本を読んで考えに深みをもたせてから
書き込まなくてはならないことを痛感いたしました。
今まで僕が言っていたヲタ話はなかったことにしてください。
747 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/22(土) 10:15:17
高木あき光氏の「古代天皇の秘密」を読んで
やはり神武東征=応神東征 ではないかと思うようになりました。
宇佐神宮の宗像3女神は応神の妃たちのことらしいです。
記紀における邪馬台国の隠蔽に関してはこれは
邪馬台国と大和朝廷のかかわりを否定するものではなく
自分たちが中国に朝貢するのを隠すためだったと考えを改めました。
また安本氏の主張を踏まえて、甘木に当時もっとも人口が
集中していたことも踏まえ、甘木→山門→宇佐への女王国遷都説が
正しいと思うようになりました。天孫降臨をした日向は
宮崎ではなく日田盆地のことだという高木氏の主張も
うなずけるものがありました。まあ彼の本も推論部分が多いですけどw
とりあえず僕はぜんぜん知識不足。ここに書き込めるような
レベルじゃありませんでした。またもう少し勉強してから
きます。ではでは
748 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 10:29:49
>>745 ゴメン今、携帯だからそのサイト完全にみれない。
そうですかぁー 理解できないですか!
困りました。
私は正直漢文をよく理解することが出来ませんよ
だから 中国歴史書の基本中の基本《孔子を継ぐ》と言う事をカキコミしながら勉強してるんでしょう!
歴代の編纂者達も、
これを十分マスターし、そのうえでの史書編纂ですから
これらの事が理解できなければ、一歩も先に進めませんよ!
對馬を對海・壱岐を一支
これらにも 意図的に文字を入れ換えた何かがあるのです。
簡単に言えば「陳壽の無言の注意標識」でしょうか!
>>748 痛い奴だな・・・
何時まで日本語が解らないフリして誤魔化すつもりなんだ?
馬>海の転換が起きたのは11世紀の話だろう。
陳壽の時代から800年後のことだよw
750 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 11:56:58
>>749 良い勉強をさせてもらいました。 感謝です。
では、お聞きしますが
貴方が倭人伝を読むさい
「春秋の筆法や陳壽の筆法」を、前提に読まないのですか?
「陳壽の筆法」って何んなんだよ?
「プラムの読法」って書いても同じだろうが・・・
752 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 12:30:47
753 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 12:38:40
>>751 「プラムの読法」?
トンデモないですよ!
私は未だ未熟なひよっ子ですが、中国歴史書を読み書きするうえで
最低条件身につけなくてはいけない基礎ですよ
「春秋の筆法とか孔子の筆法」と、言いますが
全ての中国歴史書編纂者は、この「孔子を継ぐ」を
基本のもと 編纂しているのです。
754 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/22(土) 12:57:12
「至」と「到」の意味がもし違って、
>>723が正しいとしても邪馬台国がどこ
にあったかによって意味が違ってくると思います。
755 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/22(土) 13:04:09
もし、邪馬台国が九州にあったとしたら、使者が恩賞目当てに邪馬台国をか
なり遠い国として皇帝に報告したことになりますし、もし奈良にあったとし
たら本当に遠いから出先機関のようなものがある伊都国で邪馬台国までの道
のりを聞いたことになります。
756 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 17:03:20
>>750 今後は倭人伝は陳壽のころから一言一句変わってないなんてデムパはやめろよ。
757 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 17:18:31
>>755安曇さん
「至と到」の意味の違いもそうなんですけど
もっと大事な事を伝えたかったのです。
全て「至」で統一しても別に大意に影響を及ぼす訳ではないのに 陳壽は、「到」の文字を意図的に使うことにより
そこに何かを知らせる、ポイント作りをしたのです
正に「筆法」です。
筆法には
・わざと誤字を使ったり
・不自然な文を挿入したり
・必要文を抜いたり
・微妙に似た文字を使い分けたり
そのような技法を使うことにより 本来持つ文の意味を表現するのです。
758 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 17:44:54
>>756 血圧上がりますよ
貴方みたいに
きちんとした基礎の出来ているカキコではないのですよ
私は初心者として 初歩の初歩を学問しているのです少しは寛大に!
>>758 基本的な事実を認めないで自論を押し通そうとしているとしか思えない。
そんな考え方で他人と議論ができると思ってるの?
「少しは寛大に!」なんて言ってないで、反省するべきでは?
このスレでは、太、サガミ、圭角も同類で「議論」が出来ないタイプ。
スレが寂れている原因が何なのかわかってないですねーw
760 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 17:58:42
>16才ヒッキー氏、プラム氏
ヒッキー氏は「16才」を、プラム氏は「初心者」を多用しない方がいい。
何か困ったときの言い訳、逃げ道に聞こえる。
両氏とも、新しいことを投げかけるのは良いことと思います。
761 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 18:06:50
>>759 何をおっしゃるうさぎさん
これは、私の持論でもトンデモ、でも有りませんよ
小学一年生が「あいうえお」を習うのと一緒の事をカキコしているだけですよ!《孔子の考えを継ぐ》
>>759さんも、三国志を読む前に習ったでしょう
私は、残念な事に逆さに成ってしまいましたが
日本語がわからないフリしてトボケるのは止めろっていってるだろ(怒
764 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 18:33:17
↑意味解らん
765 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 19:22:25
@荘公 三十二年公が路寝で薨ずる
訳(三十二年荘公が寝所 で薨じた)
A隠公 十一年公が薨ずる 訳(十一年隠公が祭の夜 家臣の家に宿泊した時 賊に殺される)
B桓公 十八年公が斉で薨ずる
訳(十八年公が斉に行っ た時暗殺される)
C昭公 三十二年公が乾侯で薨ずる
訳(三十二年昭公が斉の 乾侯の町で亡命中に 病死した。
この四つの文は、筆法を説明する時に使われる文です《孔子著書》「春秋 年代記」の魯国の公の死亡記事
このように簡素な文も 筆法を用いて書かれると(訳)のような内容が隠されます。
>日本語が解らないフリ
日本人は 漢字・カタカナ・ひらがな等を上手に使い表現豊かに、その情景を文字で表します。
一方中国では 漢字だけを用いて文章表現をします。そんな条件下だからこそ、この《筆法》も編み出されたのでしょう。
《文を錯ふるを以って義を見し、一字を以って褒貶を為す》
ここで興味深い逸話を見つけましたので(呉志セン綜伝)
【蜀とはなんでありましょう。犬がいると獨(ひと)りになり、
目を横につけて身を(草冠に句)かがめ、お腹(なか)には虫がはっています。
そして、張奉が「貴方の呉について分解して解読してくれと頼んだ!
すると(セン綜)は即座に【口がなければ天となり、口があると呉になります。万邦に君臨して天使の都なのです】
これを聞いて人々は喜びさんざめき、張奉は返す言葉もなかった。
768 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/22(土) 21:58:41
《文を錯ふるを以って義を見し、一字を以って褒貶を為す》
★三国時代流行した、文字を分解し解釈する技法
【邪馬壹國と司馬懿】
司馬懿の名前を、蛮夷の国の名前にさりげなく含ませて 残った文字と二通りの方法で
晋帝室をひにくった。
邪(馬・壹)國=司(馬・壹)恣
残った(邪・恣・國・司)を使って
【邪(よこしま)にして恣(ほしいまま)に國を司(つかさど)る】
これはチョット有名過ぎましたかな!
>>768 「壹」は単なる後世の誤刻ということで。
770 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 00:14:59
>>767 プラムさん、薛綜伝ね
「薛」=セツだよ。センではありません。
771 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 07:04:46
>>770さん ありがとう!
「薛」(せつ)ですね
以前は変換出来たのに 変だなぁーと
ダメですね 目までDQNに成ってしまいました
これからも、おかしな所がありましたらチェック(^-^)/
772 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 07:47:06
>>769 >「壹」=「誤刻」
どぉして 直ぐ誤刻や誤写と、してしまうのでしょうか?
邪馬(壹)國の(壹)は、歴史上たった一度きり登場する文字です。
と、言うことは正に
《一字を以って褒貶を為す》 これに当て嵌まるのでは!
陳壽は意図的に使用し、『筆法』により 晋帝室の批難としたのです。
これは、私の勝手な推測でもトンデモでも有りません中国歴史書の常識です。
この後に范曄の後漢書では『臺』に成っています。
後漢は魏の前、魏書は後漢書の前 その前後関係を見れば、単なる『誤刻』として片付けてはいけないのです。
あほか。文献学の基礎からやりたまへ。
774 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 08:08:14
陳壽が筆法によって
晋帝室をひにくったり批難している描写は、
(臺を壹に)だけではなく、他にも(景初二年と三年)の問題にも見られます。
他の史書と比較し、違った文字を見つけ 誤写 誤刻 陳壽の過ちと、片付けるのは 中華の人達にとっての漢字は、私達日本人が考える以上に一文字一文字を、大事に扱います。
何しろ、漢字しかないのですから!
そのような環境下から作り出された技法《筆法》
それに当て嵌めてから
誤写・誤刻としても遅く無いでしょう!
生活保護 毎月二十数万円もらえるよ
日本人だと 厳しい審査で たいてい駄目だけど
在日朝鮮人なら申し込めば ほぼ全員がもらえる
他に収入があってもOK 追加のこづかいですー
分からないことは民団や総連が教えてくれる
安月給で働いてる日本人が 哀れに思えてくるよ ははは
公明党さんのおかげで もうすぐ選挙権もらえるらしい
776 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 08:17:22
>>773 >文献学の基礎
だから何度もカキコしてるだろう!
孔子の著書 魯国の『春秋』を基にし 孔子の技法を
では、貴方は『孔子の継ぐ』を否定されるのですか?基本中の基本ですよ
777 GET
しました
778 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 08:53:01
高木あき光氏の「邪馬台国の秘密」「古代天皇の秘密」
松本清張氏の「古代史疑」古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」
おまけで井沢元彦の「逆説の日本史1」あと適当に
邪馬台国関連の紹介本を2冊程度読んでおけば十分です。
邪馬台国関連のほとんどの本は推論部分が多いので
どれが正しいかなどわかりゃしません
779 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 08:53:32
安本も一応読んでおいたほうがいいかな
780 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 09:02:04
>>773 文献学と言われるが
同時代或は類似史書と照らし合わせ、その整合性や異質性を調べても
その対比させる史書に、筆法を施した形跡が見られたら
それをそのまま整合させたり対比させたりすることはナンセンスだよ
国産史書である
古事記や六国史にしても、どうやら『筆法』を使った形跡が見られる
そうなると 厄介だ
両史書の『筆法』を検証してからの整合性だが
その辺理解しての粘着だろうね!
781 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 09:09:30
高卒が何必死にカキコしてるのかw
高卒が何を言おうが全く説得力なし。
アホだから大学いけず貧乏生活しいられてるんだし
そんなアホの言うこと真に受ける奴はいない。
・文献の成立が古ければ古いほど誤写の発生率が高くなる。(文献学の基礎の一つ)
・一つの事象について相対立する記載がある場合併行資料などと掏り合せ検証する(文献学の基礎の一つ)
・自分に都合の悪いことは一切無視、又は理解できないフリをする(プラムの基礎の一つ)
>>774 ちなみに景初三年問題は、「紹熙本」、「紹興本」の記載のズレ(どちらかの誤刻)としても出現している。
わけのわからんことを言う前に二種類の刊本が存在することの意味をどう理解し、何故一方を正当としたのかを説明するべき。
さらに、陳壽の筆法・・・貴方が取り上げている文章の多くは、三国志に若干先行する「魏略」の逸文でも同様の表現になっているものが多い。
つまり、何らかの原資料をそのままコピーしたものであり、「筆法」が存在するとすれば、は陳壽以前に仕込まれていたことになります。
「司馬懿の名前を仕込んだ」のが誰なのか(魏略編者の魚豢も魏の役人上がりですので「嫌疑」はありますw)を検証せずに、
晋室への皮肉云々を根拠とするのは如何なものか・・・
783 :
白木人:2005/10/23(日) 10:53:52
邪馬台国は無かったに、賛成してみてみたら、
784 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 10:59:44
>>782 無視してるつもりなぞ一向にありませんし、
理解できない故にの学問では?
全て理解できていれば
カキコなど必要無いでしょう 『筆法』にしても、以前にそのような技法が存在していれば
後世の史書も…と、考えるのが普通かと
それに、誤字 誤写 誤刻の存在も承知しております。しかし、その決定の前にするべき事があるのではないかと言ってるのです。
安易に、誰々の著書にこう書いてあったから 「誤りだ」と、する傾向を避けてるだけです。
>>784 誤魔化さないように。
貴方が「理解できないフリ」をしているのは自説に対する指摘の内容です。
筆法と言う技法の是非を議論しているわけではありません。
具体的に言えば、貴方は「邪馬壹國」には司馬氏の専横に対する作者の反感が筆法により行われていると主張するわけですが、
それは、「邪馬壹國」と言う標記が後世の誤刻ではなく当初から存在したものだと言う自説の補強のためですね。
しかし、それは倭人伝の該当箇所が司馬氏と微妙な関係にある人物のオリジナルでなければ成立しません。
貴方も三国志全体の文章を陳壽が全て自分の文章として書き下ろしたなどとは考えないでしょう。
基本的には、いろいろな原資料を斟酌して必要部分を引用、または流用し、不足の部分を書き加える作業です。
で、東夷伝の場合ですが、序文はともかく各条、各項については、文体がマチマチであることはもとより、
先行資料である魏略の文章と同一であるものが多い、簡単に言うと何らかの原資料を丸写した状態です。
残念ながら、魏略の「邪馬壹國」に関する部分は現存していないのですが、他の部分の標記から類推すれば
同じ表現が使われているでしょう。
もし、原資料に「邪馬壹國」と言う文字が使われていた(私は違うと思いますが)としても、それは陳壽のオリジナルでは無いのです。
つまり、「邪馬壹國」と言う文字列には「陳壽の筆法」とやらは込められておらず、誤刻の可能性を否定する根拠とは成り得ないわけです。
786 :
圭角:2005/10/23(日) 12:02:42
お久しぶりです。陳寿の筆法、春秋の筆法という皆様方へ。
その前に、お尋ねいたしたい、です。三国志は完読されてのご意見でしょうか。
787 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 12:41:41
>>786圭角さんおひさしぶりです。
きっと、「筆法」を云々言ってるのは多分私だけでしょう。
余りの反応のなさに少し戸惑いを覚えています。
否定意見すらあがりません
またもやワケの判らん奴が登場して来たな・・・また恥晒しがしたいのかw
『圭角の法則』
ごみを書き散らす→デマ飛ばして恥をかく→約一月潜伏→しらばっくれて復活→最初に戻る
790 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 13:11:05
>>785氏への回答
簡単にカキコします。
254年司馬師クーデターにより、魏帝曹芳を廃し斉王となし、曹髦を帝位に
これに対して255年、母丘・検文欽らが寿春にて師討伐の兵を興します。
母丘検・文欽らの上奏文には、師の罪が十一項目に及ぶ事が書いてありました。しかし、陳壽は晋帝室に遠慮し「魏志母丘検伝」を簡素かしました。
この上奏文が後世周知の目にさらされたのは ハイ松之によってです。
このように、正義感の強い陳壽が真実を伝えられなかった事への 物言わぬひにくかと とらえられるからです。
これでは不十分ですか?
>>790 何度も同じことを書かすな!
筆法の有無、そんなことは、誰も尋ねていないだろう。
問題は東夷伝のオリジナリティの話だろうが。
まあ、トボケ通したいならご自由に・・・
792 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 14:05:25
>>791さんへの回答
>オリジナリティー
存在しないものとやかく言ってもしょうがないだろう
紹興本 1986文字
紹煕本 1984文字
違いは、「諸国諸国」「諸国」
興は對馬 煕は對海
文節と見出しの相違
両文章にそれほどの相違が見られ無いとおもう。
と、言うことは
その基になった本からの写しもかなり高精度と
しかし、時代の若さから言うと煕は興を写したと、とらえられかねないので
年代が若干古い 興を参考にしたい。
793 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 14:11:01
プラムさんへ。
別に陳寿は正義感が強いわけではない。魏の伝がいささか辛辣なのは、陳寿
の父が蜀の武将だったからである。と、漏れは思う。
794 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 14:32:58
>>793さん
なるほど!
ま、主観ですし個人的な感覚ですのでご配慮を
795 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 14:51:47
《文を錯ふるを以って義を見し、一字を以って褒貶を為す》
【天王、河陽に狩す】
春秋の一文です。
796 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/23(日) 15:16:34
>>757 別に陳寿は推理小説作家ではない。「三国志」は皇帝に献じる歴史書なんだ
から、わかりにくい文章にさらにわかりにくいメッセージをいれこむなんて
ことはまずありえない。
797 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 16:09:21
それにしても、倭人伝とそれから引用したはずの日本書紀は、なんであんなに
違う表記が多いのだろう。本当に単なる写し間違いか?
798 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 16:53:55
>>796安曇さん
一度 孔子の手が加わったと言われる 《春秋》を読まれる事をお勧めします。
歴史書を編纂するうえで最も気を使うのが帝紀だと思われます。
中華思想の中の皇帝紀です馬鹿でトンデモ野郎の皇帝紀でも
「この皇帝は馬鹿でどうしようもない」とは書けません
でも、歴史書である以上、極端に脚色し、捩曲げも出来ません。
真実と建前 尚且つ美しく出来る限り簡素にそしてリズムカルに
それを漢字だけを使用して書き留める事の出来る人が優れた編者なのです。
決して
推理小説ではありません
799 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 17:09:32
現王朝は前王朝を滅ぼすさい、どんな悪虐非道の元に成り立っていても
現王朝がいかに正当性があるかをアピールします。
そのように表を活字化し、同時に裏の真実を盛り込む技法
これが《春秋の筆法》です
表が建前の活字なら
その活字を利用して裏の真実を盛り込むテクニックです。
800 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:38:24
おまえらさー 陳さんのプライオリティを考えてみろよ、
場所? 中国の東の遠い国 くらいの意味だよ、
倭人? 東の海に異民族 がいる くらいの意味な
女王? エキゾチックにする以上の意味ないだろ
場所や女王にこだわるお前らは相当馬鹿。
で、陳さんにとって、もっとも重要な事。
「彼らは、太夫 と自称する」
陳さんが書きたかったのはね、これに尽きるでしょ。
つまり、漢民族の先代の栄光が東国まで広がってますよ
または、魏帝の納める中華が、漢民族のすべてではありませんよ
って事なんだよ。 おまえらセンスなさ杉
801 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 18:06:20
プラムの個人攻撃してる奴最低だな。
頼むから出て行ってくれない?
802 :
タイムトラベラー:2005/10/23(日) 18:35:00
私が見てきた真実の歴史をお教えしましょう。
邪馬台国内で狗奴国との争いを避ける一派が
卑弥呼の死を契機に大和に合流。これが崇神天皇と熊襲の
大伴氏であり、崇神王朝はヒボコ系の吉備国の力で
出雲を支配下に置く。4世紀初め景行天皇が狗奴国の
残存勢力を討つため九州を巡回し、耳納の地で朝鮮系の美女の
八坂入姫との間に五百木入日子をもうける。その2代後、
仲哀天皇と神功皇后は筑紫に出陣し天皇は現地で病没。
神功皇后は朝鮮に渡る。帰国後、九州で応神を産むが
大和への帰還をためらっているとき五百木入日子の子の
誉田真若が後ろ盾となる。真若は宇佐の邪馬台国女王との間に
生まれた3人の娘を応神の妃とし外戚的な立場から
河内王朝を盛りたてていく。
これが私が見てきた真実の歴史であります。
>>802 嘘くせぇ
そんな中途半端な時代見て来て、肝心なそれ以前を見ないなんて 嘘くせぇ
引きこもりテェ
804 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 19:43:29
この辺でちょっとレス汚しを
「戸と家」
意味的にはそれほどの違いはないと思われます。
しかし、陳壽は何故別な漢字を使用したのでしょう?誤字?誤写? いいかげん?
どれも違うと私は考えます何かの意味があるはずです「一支国」と「不彌国」
この二つの国だけ家の形が違うのか? そんな馬鹿な でも、陳壽は何かを伝えたくて意味の似た違う文字を使い、変化を付けたのでしょう。
私は「筆法」と考えます
《一字を以って褒貶を為す》
必ず「一支国」と「不彌国」には共通する何か大事な事があるはずです。
繋がりを持った二つの国と思います
805 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 20:01:24
私一人では、こんな浅い考えしか浮かばない為
出来る限り大勢の人に理解してもらい、複数でより深い所を探りたく
長いレスを使い「筆法」の紹介をしてきました。
私が、それっぽいと感じる箇所だけでもかなりありました。
「至と到」「度と渡」「方四百里と三百里」「對馬と對海」「一大と一支」「方角指示の無い二つの海峡」「行」「景初二年と三年」「以って死」……etc…
806 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 21:49:44
>>800さん センス蟻杉
「彼等は太夫と自称する」「筆法」ですね
807 :
本田:2005/10/23(日) 22:38:33
>>769 >
>>768 > 「壹」は単なる後世の誤刻ということで。
三国志の作者が、
邪馬壹国は、遼東半島の公孫氏の倭国における植民地と考えていれば、
独立国の邪馬台国より、植民地の邪馬壹国が相応しいとゆう説明になる。
test
今読み終わったが、角田彰男著「邪馬台国五文字の謎」面白かった。
>>798 負けました。潔くプラムさんの意見に賛同いたします。
811 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/24(月) 17:06:30
>>810安曇さん
負けた!なんて言わないで下さい。
少しでも理解していただいたことに感謝です。
しかし、この「筆法」
使い方を間違えると、それこそトンデモ説になる
それこそ表裏背中合わせ状態です。
だからこそ独自でやるのではなく、一人でも多くの協力者を求める為 長々とカキコしている次第です。
812 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 02:13:41
>>邪馬台国はどこですか。
大和ですが何か?
813 :
太:2005/10/25(火) 08:15:56
毎回のことだが、邪馬台国という国の存在は大和でも九州でもない。
もともとから無かったからであり、あったのは邪馬壹國でありこれは九州に
存在したということだ。プラム氏がうるさいので、國の字を使いさらに
正確としたい。w
814 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/25(火) 08:27:07
プラムさん、皆さん。
素人はこの不毛な論争から手を引いたほうがいいですよ。
僕はもう辞めますよ。専門家レベルの知識がなければ
結局浅い思考しかできませんし、素人が首を突っ込むのは無意味です。
時間の無駄だということに気づきました。
例えば英語でもそこそこの知識や経験があればそこそこの点数が
とれますが、満点を狙いにいくとなると本当に極めなくてはとれません。
邪馬台国論争も完璧な解答を出すには素人では情報量が不足しすぎです。
僕も若気の至りでこのようなものに首を突っ込んでしまいました。
これからはたまに面白そうな本を読む程度にします。
皆さんもそうしたほうがいいですよ。
815 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 11:20:17
賢明な選択だな、
しかし、専門家だからといって正解を導けるとは限らんでしょう。
香具師等も基本的に素人と同じかそれ以上に
始めに希望ありきでそれに都合のいい
解釈つなぎ合わせているだけだと思う。
それに
最近はパソコンの普及で情報の共有がなされて
様々な情報を獲得する事ができるから素人も侮れないよ。
将棋の世界でもかつては素人とプロは雲泥の差があったらしいが
最近は素人もインターネットで全国のセミプロと対決を繰り返しているので
プロに引け劣らない力付けているらしい。
816 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 11:22:36
何をおっしゃるヒッキー君
誰も、完全なんかのぞみませんよ!
中高年ゴルフの目標は
四大トーナメント制覇ですか?
違いますよ
皆、好きなんですよ!
不毛で結果の見えないことが、大好きなんですよ
貴方達 若年層はどのように考えているか解りませんが
私達 四十代、五十代は
とにかく色んな事に熱中出来るのです。
結果…? 関係ないですよとにかく楽しいのです。
817 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/25(火) 15:03:34
>>804 「戸」と「家」の違いは、おそらく「倭人伝」のもとの資料を書いた中国の
使者が、「一支国」と「不彌国」だけ人口を調べなかったからだと思います。
おそらく「家」というのは大きな集落に何軒ぐらい建物があるかを目で見て
それを書き、「戸」というのは実際にその国の長官に聞いたのだと思います
・・・あまりにも幼稚な説でしょうか?
818 :
白木人:2005/10/25(火) 17:23:21
素人なので、やめました
819 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 17:27:26
>>817 安曇さん
正解か間違いかは解りません。
ただ言えることは
貴方がどうしてその様に考えたかが大事です。
長官に聞いたとか聞かないと、言う
判断を何処からどうもちだしたかです。
820 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 18:36:57
また
こんなことカキコすると、批難轟々だけど
私の基本的な考えは、
陳壽があやふやな情報だけで「倭人」を編纂したとは思っていないし、
誤字脱字をおかすトンデモ歴史家とは思えない。
821 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/25(火) 18:49:51
草野球のレベルでああだこうだと論戦を
繰り広げても低レベルの議論が延々と続くだけですよ。
プロ野球のレベルには土台敵いませんし、
素人がああだこうだといってもろくな知恵はでてきません。
浅い知識で主観混じりの恣意的な見解を述べ合っても
仕方ないじゃないですか。原文の史料の読み込みや考古学を実地でやったり
専門家クラスまでやらなきゃ意味ないですよ。
822 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/25(火) 18:51:28
といってる僕も高木あき光氏の「邪馬台国の秘密」と
「古代天皇の秘密」を買ってしまいましたw
まあここいらの本を面白半分で読む程度で満足します。
この人の本もほとんど妄想ですw
823 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 19:10:14
ヒッキー君
詰まらないこと言ってないで
また一からやり直してみたら! 女王は逃げないよ
824 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/25(火) 19:15:59
いえ、高木あき光氏の妄想話にすら
圧倒されてしまった僕がここで
えらそうに自説を述べる気も失せてしまいました。
おおまかでこの人の言ってることが
真実に近いのではないかとすら思えてきます。
ただ「余里」を加算して12000里の中に入れるやり方と
神湊上陸説は支持しませんけどね。ただ僕と同じ宇佐説を
主張していましたがその論理展開・知識量に圧倒されました。
僕がここで言ってたことなどままごとレベルですw
825 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 19:17:30
>>821 マジなカキコなら
二度と戻ってくるな!
君にとって
必要ないだろうから
826 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/25(火) 19:22:48
プラムさん、
貴方もここでああだこうだと言っていて
羞恥心というものを覚えないのでしょうか?
最低圭角さんやサガミさんレベルの本出せるくらい
極め尽くした上で自説を展開するならともかく
僕や貴方のようにちょっとそこいらで売ってる
本を数冊かじって読んだ程度で毎日ああだこうだと
言い合うのは恥ずかしくなってきましたよ。
827 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/25(火) 19:33:32
まあ簡単に言えば邪馬台国=豊国で
応神の時代に大和朝廷と邪馬台国による
婚姻関係による融合があり、その後豊国の
人間が大和朝廷内で優遇されてるのでしょう。
たぶんw
828 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 20:04:46
>恥ずかしくなってきた
誰に対して恥ずかしいの?自分に対して?
未熟で寸足らず
良いじゃありませんか
関連スレは沢山ありますし知らない事が沢山有るから参加してるの!
そんなヤシも居るってこと
年初のカキコと今のカキコ比べたら 恥ずかしいどころか 自分の事褒めてやりたいよ!
>>826 『圭角さんやサガミさんレベルの本出せるくらい』
ご両人の本を実際に読んだわけじゃないので何だが・・・
金さえ払えば(10万円以下で十分)自費出版などいくらでもできるぞ。
実際、ウチの兄貴は「邪馬台国本」も出版している。
勝手に送りつけられて来た本の内容は、身内ながら大変に「痛い」ものだったwww
830 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 20:31:39
>>817安曇さん
レスがとんでもない方向に進んでしまい スマソです。
当時の中華には、功績に対し
《一をもって十となす》
と言う 表現が有ったみたいです。
千人の兵を破った時、書には万人の兵を鎮圧とカキコし、その将の功績を讃えたそうです
では、
陳壽の東夷伝は、どのような背景で書かれた書物だったのでしょう。
簡単に言えば
晋皇帝の祖、司馬懿の功績を讃える為の書ではないでしょうか?
>>819 名前:プラム ◆RvhHf7kqyY [] 投稿日:2005/10/25(火) 17:27:26
>
>>817 安曇さん
>正解か間違いかは解りません。
>ただ言えることは
>貴方がどうしてその様に考えたかが大事です。
>長官に聞いたとか聞かないと、言う
>判断を何処からどうもちだしたかです。
>>820 名前:プラム ◆RvhHf7kqyY [] 投稿日:2005/10/25(火) 18:36:57
>またこんなことカキコすると、批難轟々だけど
>私の基本的な考えは、
>陳壽があやふやな情報だけで「倭人」を編纂したとは思っていないし、
>誤字脱字をおかすトンデモ歴史家とは思えない。
>>817 プラムさん
>正解か間違いかは解りません。
>ただ言えることは
>貴方がどうしてその様に考えたかが大事です。
>判断を何処からどうもちだしたかです。
832 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 21:54:42
《一を以って十と為す》
對馬(千餘戸)一支(三千許家)末盧(四千餘戸)伊都(千餘戸)奴(二萬餘戸)不彌(千餘家)…etc…
でも、一支国の「許家」不彌の「餘家」は気になります。
共通するものは何だろうか?解らない…ぅ〜ん
家と家 「一支」では家の前に(許)の文字
家と家が繋がって、家の前に許 「許家」 家に女を付けたら「嫁」
「許嫁」で (いいなずけ)
と、言うことは
一支国と不彌国は(お隣りどうし)か、或は(赤い糸(伊都)で結ばれている
あ〜…っ 遂にオカルトだぁーっ
漢和辞典を引けよ・・・
834 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/25(火) 22:10:29
835 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 02:14:36
「一大率」と「一大国」(一巳国の誤記?)
不思議と似ているこの2語。
836 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 02:36:38
表千家?裏千家?茶道
837 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 08:00:41
838 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 08:04:58
とりあえず九州上陸ポイントが
松浦半島でよろしいのか?それなら
わざわざ前原まで東北にいく意味がわかりません。
839 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 08:19:24
糸島は3世紀は島だったそうです。
840 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 10:57:54
筆法です、
ぼろい家と邸宅の違いかも
841 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 11:42:53
>>838ヒッキー君
>>832レス読んで考えて見てくれ!
好きでオカルトっぽいこと書いた訳ではないよ
あと、
末盧と對馬の記事で共通する所考えれば
何か掴めるかも!
842 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 11:59:21
使者達は末盧に上陸していないと思うし、
現在の糸島半島が当時島なら尚更上陸地は末盧ではないね!
何となく薄ボンヤリだけど新しいものが見えて来たよ
843 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 12:41:54
倭人伝(地理志)の不可思議文を拾い出してみると、やはり
伊都国から先に記載されている 「奴国と不彌」の文であろう!
末盧に上陸した一行は当面の目的地伊都国に到着
ま、奴国はお隣りで人口のやたら多い目立つ国だから記事が有っても不思議ではないが
次の不彌国は 詳しい様子が解っていても 後に出てくるその他多数の国に、
紛れ込ませておいても不自然ではない。
でも、あえて陳壽は奴国と同列に扱った。
それも、「戸」ではなく
一支(大)国と同じ「家」として 、不彌の先にも家や国はあるだろう しかしその国は不彌より記事価値が無い
844 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 12:56:13
そう!
一支(大)国を出航した郡使一行は、末盧ではなく
不彌国の港に向かった。
その事を陳壽が伝える為に、「戸」ではなく「家」を使い書き記したのではないか 正に《筆法》
『一字を以って褒貶を為す』
「一支国の家」⇒「不彌国の家」へ行く、航路
845 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 13:45:31
やはり高木あき光氏の「邪馬台国の秘密」に書いてあるとおり
神湊から上陸して宇佐までいったのでしょうか?
不弥国と邪馬台国とは隣接しているので水行10日陸行1月は
帯方郡からの総日程として記述したのだそうです。
だいぶ昔の本ですが古本屋で発見したので購入してみましたが
かなり衝撃を受けました。昔話題になった本らしいです。
この本のとおりでよろしいのではないかと思えてきます。
さらに応神は壱与の子供か孫で東遷したらしいです。
僕の解釈と邪馬台国の場所もその後も一致しますし、
高木氏信者になってしまいそうですwもう死んでるのかな??
846 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 13:48:22
邪馬台国の本など「邪馬台国の秘密」1冊読めば十分でした。
あとおまけで井沢元彦くらいでw
みなさんも読んでなかったら読んでみてください。
847 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 13:50:05
神功は豊かな?
848 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/26(水) 14:11:33
>>839見て思ったんですが、昔の河内は湖だったそうです。だから、邪馬台国
までの「水行10日、陸行1月」というのは大和説にとっては不利であると
思います。
849 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 14:14:30
「余里」を加算すると結局不弥国〜邪馬台国までの
距離は0に等しいとの見解でした。これについては
微妙ですね。そうかもしれないしそうでないかもしれない。
850 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 14:19:11
大和説などはなから成立しないでしょうw
851 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/26(水) 14:24:27
>>850 >849は大和説の人へのとどめの一撃ですw
852 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 14:26:00
16歳はまだまだ怖い物しらずだな〜
853 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 14:32:35
しかし高木氏の「成吉思汗の秘密」のほうは支持しませんよw
義経=チンギスハン だなんて基地外沙汰もいいとこでしょう。
9割方衣川で死んでおり、1割程度北海道へ逃れた可能性も
あるというだけです。この本では義経=チンギスハンという
結論で終わってますが、義経がチンギスハンになった可能性など0です。
854 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 14:35:21
熱田がニギタ=新北という説を唱える人がいて
どうも土木工事で開拓者を相当この地に送ったみたい。
渡来の人の需要というのは軍事だけではなく土木工事
関連も相当多かったみたいね。
ただ、彼らがそういう特殊技能を持っていたとは限らないように
思う。なぜなら今でも土木作業に携わる人は殆ど
無産階級に過ぎないから。
確かに先進的な技術は大陸の方が優れていたかもしれないが
労働力自体は余剰人口を抱える土地から開拓地に移動したと
みるのが実情にあってる思う。
855 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 14:38:57
香春から宇佐神宮に銅鏡を奉納する
イベントが毎年あるらしいのですが、
香春で銅鏡を国産していた証拠にはならないものかと。
856 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/26(水) 14:41:52
ということで暇だったので書き込んでしまいましたが
とりあえず僕が言いたいのは高木氏マンセーということで
バイトへ行ってきますw
857 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 17:33:47
《郡使は末盧に上陸していない》
以前そのようなカキコをし、散々な思いをしたことを思い出します。
又渡一海千餘里至末盧國有四餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之
この記事から他と違う所を探ると、この末盧国だけ「官名」が無いことが、
誰でも発見できます。
でも、陳壽はこの事態を説明されていません。
正に《文を錯》えています。
ようするに、この文を普通に読んではイケナイ事を、文を錯(たがえる)事で警告しています
では、真実(義)とは何か?
858 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 18:02:03
誰もが末盧国に抱くイメージは、(初めて九州島に上陸)このことは万人が認める事でしょう。
と言うことは、陳壽は
《文を錯》事により
その様に考えてはイケナイと、無言の叫びをしているのです。《筆法》
一支国を出航した郡使は、末盧国には寄らず、一路不彌国に向かうのです。
ま、単なるこじつけと取るかたも大勢居ると思いますが、これだけではなく
後二つほど末盧記事で《筆法》を見つけました。
859 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 18:15:17
このようなカキコをすると
必ず
唐津付近には、半島や大陸との繋がりを示す遺跡や出土品が多数あるではないかとのツッコミを受けますが!
それと郡使の軌跡は別物です。
だから陳壽は、壱岐に一番近い末盧を無視せず
記事にしたと考えます。
ま、唐津付近の遺跡から魏王朝の詔書でも発見されれば、話は別ですが
860 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/26(水) 19:08:33
壱岐を出航した郡使一行は不彌の港に向かいます。
伊都国より東側にある不彌に向かうのですから
当然伊都国は通り過ぎる訳です。
当面の目的地である伊都を通り過ごすと言うことは
伊都には港が無い
その様にとらえる事ができます。
倭人伝に『皆臨津捜露』(皆津〔港〕に出向いて捜露す)とあります。
港の有る場所まで出向いて行くのです。
伊都国から不彌国までの距離は
二百里 放射説をとれば百里の近距離です。
伊都国には港は無く、近くの不彌国の港が玄関口と考えても、全く違和感が有りません!
862 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/27(木) 17:38:31
>>860 いい感じの説だと思います。「投馬国」にはどう考えても不彌国から出発する
んですから。
863 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/27(木) 17:51:37
あとプラムさんの「邪馬台国と女王国は違う」という説に反論。倭人伝には
「自郡至女王国万二千余里」と書いてあります。でも、プラム説の「女王国
は女王が支配していた領域の呼称」だとおかしいです。郡から対馬国までは
八千余里しかかかっていません。そうなれば、やはり邪馬台国=女王国で考
えるのが妥当かと思います。
864 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/27(木) 17:53:17
>>862安曇さん お褒めの言葉ありがとうございます。
さて
>投馬国は不彌から
どうでしょうか?
私も未だよく解らないのですが 一つだけ言えることは、投馬と邪馬壹國の行程表記が、がらりと変わっている その事です
不彌国からの出発では、そのまんまの解釈です。
《それでいいんだ!》
と、言われてしまえば
今の所反論出来ませんが
865 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/27(木) 18:50:30
>>863 安曇さん
>万二千餘里は邪馬台国=女王国までの距離
この一件は後日考えが纏まり次第お知らせします。
>女王国=邪馬台国
では、「皆統属女王国」の女王国とは一体何者でしょう。
この女王国は邪馬台国であるとすることは、少し可笑しな事になりませんか?
伊都国の記事段階では、邪馬台国の事は解らないのです。
866 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/27(木) 19:24:14
後に登場する邪馬壹國の記事を見て、前の「皆統属女王国」の女王国を
判断することは、時系列的に少し可笑しな気がします。
では、いきなり出て来た「女王国」これは?
でも、これはいきなり登場したのではなく、既に登場した国と判断します。
確かに「三国志倭人」では初めての登場ですが…!
三国志魏書とは晋王朝の正当性を記すために「魏王朝」を正当化し、正当なる継承を示します。
つまり、魏王朝の正当化とは「後漢王朝」の正当化です。
867 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/27(木) 19:39:05
魏志倭人伝は、
後漢王朝の正当性を示すうえで、後漢王朝の出来事を確実に引き継いでると、考えます。
後漢書を見ますと、
倭人の記事が AD57年とAD107年の二つだけ見られます。
と、言うことは
陳壽が伊都国記事でいきなり記した「女王国」とは、後に登場する邪馬壹國ではなく、後漢王朝の出来事である
二つの出来事の伏線と考えた方が自然では無いでしょうか?
868 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/27(木) 19:56:24
《建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自称大夫倭國之極南界也光武賜以印綬》
この後漢王朝の記事が、魏志倭人伝(地理誌)の基礎と、なっていると考えます。
そうする事が魏王朝の正当性示し、尚且つ晋王朝の正当性を示す事になるのです。
869 :
大和@名無史さん:2005/10/27(木) 21:18:35
プラムさん、大和です。書き込み拝見しております。しかし凄いエネルギッシュです
ね、見習いたい。
見透かされた
>>859を横に置いておいて
>>860で素直な疑問。(過去Res重複ならゴメン)
壱岐より、南・東南・東南・東で不彌。壱岐から不彌に向かえば距離とか、方位はど
のようになるのですか。『皆臨津捜露』皆、津に臨みて捜露す。伊都国の港として齟
齬がないように思いますが。私はここに表れる「皆」のほうが気になります。
>一支国を出航した郡使は、末盧国には寄らず、一路不彌国に向かうのです。
行かなかったが「末盧を無視せず記事にしたと考えます。」
官名の記述がないとの理由で、本来寄ったであろう末盧国を通り過ぎていいものか
どうか。
>当然伊都国は通り過ぎる訳です。
一路不彌に向かったのでは有りませんか?。伊都国を通り過ぎるのは必然。
>当面の目的地である伊都を通り過ごすと言うことは
今回の目的地が不彌なので伊都国を通り過ぎるのは当然。
>伊都には港が無い
不彌国に行こうとしているのだから港があっても寄る必要がなかっただけ。
次回は寄るのではないですか。
>その様にとらえる事ができます。
伊都国に港があっても何ら不思議ありません。
「港の有る場所まで出向く」と「伊都国に港がない」はイコールではありません。
「港の有る場所まで出向く」=「伊都国に港がない」を証明する必要があろうかと
思います。失礼ながら我田引水の循環論法ではありませんか?。
870 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/27(木) 23:23:08
>>869大和さん
正直なところ
細かなツッコミをされると困ってしまう部分が多々あります。
確かに方角の問題、伊都を通過すること
数々問題点を抱える次第です。
私の場合、歴史書の原点に帰っての解釈《筆法》
流石に陳壽にはかないません!
不彌国上陸はレスの通
「家」と「家」繋がりと言う単純発想
でも、末盧未上陸には《筆法》的に、かなり自信が有ります。
未だカキコも言いたいことも、三分の一程度
細かい説明は後日と言うことで ご容赦!
今のところ
女王国候補には《奴国》をあげときます。
871 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/28(金) 08:04:12
皆さんお好きですねw
僕はもうそろそろ飽きてきましたよ。
872 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 12:54:03
>>869大和さん
>官名が無いから末盧には寄らなかった
では無く
その部分だけ、ほかの記事とは違い
文を錯えていると、解釈したからです。
《文を錯るを以って義を見し》です。
文をわざと、周りと同じ構成にしないで変化をつけ、正常な解釈にしないようにとの陳壽の無言の呼び掛けです。
873 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/28(金) 15:22:41
>>869 >伊都国の記事段階では、邪馬台国の事は解らないのです
ですが、歴史書というのは、文をまとめたりしてその体裁を整えてきます。
だから、元の資料には詳しく書いていなかったとしても、「伊都国が邪馬台国
に統属している」というようなことが使者の報告書に書いてあったからこそ、
陳寿は最初の部分に書いていたのではないでしょうか。また、「女王が支配
している国は珍しい」という考えが魏や晋の頃にあって、「女王国」が邪馬台
国の代名詞のようになっていたのではないでしょうか。どうですかね?
874 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 16:33:09
>>873安曇さん
女王国=邪馬壹国とするのは未だ早計と思います。
私見ですが
魏書倭人伝とは、特に地理誌には
漢書⇒後漢王朝の記録 それらを全て網羅し、それらを土台にして書かれた史書と考えます。
その根拠として「倭人伝」最初の文は「漢書地理誌」を参考に書かれていますし、後に編纂された「後漢書倭伝」等は、
殆ど魏志倭人伝の写しととらえてもおかしくありません。
安曇さんに質問しますが
AD57年に登場する「倭奴国」は、魏志倭人伝に何故書かれていないのですか?
875 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 17:33:43
>>873安曇さん
>女王が支配している国は珍しい
そうでしょうか?
倭に限って言えば、魏や晋王朝の時代には、女王が支配している方が普通の状態と中国では認識していたのではないでしょうか?
「其国本亦以男子為王住七八十年」
と、わざわざ「男子」と性別を記しています。
中華では、王は男子が普通それを倭人伝では、男子王と、してるのです。
倭において、ずっと男子が王に付いてる国が珍しい為のカキコと、考えます。
〈PS〉
この文は、まだ他の意味で重要なポイントになりますので、後ほどカキコします。
876 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 18:08:43
私見では、魏志倭人伝地理志の大半を、後漢書的要素を含めた歴史書と判断します。
後に書かれた「後漢書」を見れば一目瞭然では!
倭人伝にカキコされている、對馬、一支、末盧、伊都、奴、不彌の国々は、後漢王朝時からの配置を陳壽が、引き継ぐ意味合い(正当性を示す)でカキコし
同時に、《筆法》を用いて魏使達のコースを潜ませたと、考えます。
だから、いきなり「一支国」から「不彌国」に上陸すると言うルートが
浮かび上がるのです。
時系列をまぜこぜで倭人伝を読んではイケナイのです。
877 :
大和@名無史さん:2005/10/28(金) 19:26:30
プラムさん、鉛筆なめなめで書いております。遅くなるのはご容赦を。
ところで何度も同じ事かいていただいてすみません恐縮の極みで、プラムさんの
『春秋の筆法』に賭ける情熱・熱意は十分に伝わってきております。
私も『筆法』の手法で3伝に載すものが全てとは思いませんが、おおむね筆法と
は孔子の、子曰くから始まる5文字、10文字が対象と認識いたしております。
一連のResで三国志全30巻に及ぼうとする膨大な記述を筆法の対象にするのは、
>>820でお書きの如く絶大なる信頼を以ってしても非常に危険な研究手法と謂わざ
るを得ません。
ここはやはり、誤記・錯誤・脱落・潤色等、単純な作業ミスや採用資料の文言から
ご指摘通りの陳寿の『筆法』まで幅広く対応していただく必要があるのではありま
せんでしょうか。思いますに本来『筆法』で解釈された文意は他の史書にて傍証を
得られるべきもので推理・推論が入るものではないと考えます。
したがいまして、「官名が無い」をもって、
>正常な解釈にしないようにとの陳壽の無言の呼び掛けです。
と自己解釈し、
>一支国を出航した郡使は、末盧国には寄らず、一路不彌国に向かうのです。
と推論で結論付ける。
西晋の陳寿が立派な史人であることは認めますが偉人と称される孔子と肩を並べる
か、越えるほどの人物とは思えないです。されど100歩譲るにしても、このケー
スでの「官名がない」を『筆法』での文意即ち、「一路不彌国に向かう」と読み解
くに至る経緯、傍証が要求されるのではないでしょうか。
878 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 19:43:12
>>877大和さん
何時も、ご意見並びにご指導感謝します。
確かに、私の寸足らずのカキコでは、暴挙ととらえられてしまうでしょう。
では、末盧未上陸の一抹をカキコします。
尚、私の魏志倭人伝の見方は
>>876のレスが
根底になってます。
879 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 20:37:47
末盧国を未上陸としましたが、実はもう一箇所「對馬国」を、未上陸地とし、
郡使のコースを
半島A⇒ 一支国⇒ 不彌国 と、します。
(狗邪韓国⇒對馬国)(一支国⇒末盧国)には、共通に方角指定が有りません
他のどの地域においても
方角指定が有るのに、
>島や陸地が目視出来るからカキコしなかった?
それでは、奴国百餘里 不彌国百餘里の所が説明出来ません
地図を見ても
半島⇒對馬 壱岐⇒松浦半島は常識です。
しかし陳壽は、その常識の場所に「官名を無くす」「方角を消す」と言うダブルの筆法を使用し、
規制を強調したのです
880 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 21:02:02
しかし、對馬には官名がありますのでダブルの筆法とは言えません
しかし陳壽は、郡使が立ち寄らなかった理由をさりげなくカキコしてるのです。
對馬と末盧にだけ共通する出来事を
そして、壱岐には立ち寄る事も
実にリズムカルに そしてシンプルに
実に見事な筆法です。
半島⇒對馬⇒壱岐⇒末盧と並べながら紹介し、その裏側では 半島⇒壱岐⇒不彌の郡使ルートを表現しているのです。
881 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 22:25:10
では、その共通する事柄とは
「對馬国」
始度一海千餘里至對馬國……所居絶島方可四百餘里土地山険多深林道路如禽鹿径有千餘戸無良田食海物自活…
「末盧国」
又渡一海…至末盧國……浜山海居草木茂盛行不見前人……取之
「一支(大)国」
又南一海…至一支(大)國……方可三百餘里多竹木ソウ林…差有田地耕田猶不足食
ようするに、その土地の風景を表しています
對馬と末盧には
對馬は、山が険しく林が深く、尚且つ道は獣道
良田がないひどい状況で、【人を寄せ付けない印象を与えております】
882 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/28(金) 23:00:24
末盧国もまた、
前人が見えなくなる程ひどい状況で平地など無縁の地域
【ここでもまた、人を寄せ付けないような事柄を強調したカキコ】です。
しかし、
壱岐では
竹や林・薮等がカキコしてありますが
決して人を寄せ付け無いカキコで有りますし、
一人一日一レス制限のマターリしたスレがほすい、今日このごろ。
ただし、一週間に全部で1レスの過疎スレは勘弁してくれ。
884 :
大和@名無史さん:2005/10/28(金) 23:22:15
>>876プラムさん
>後に書かれた「後漢書」、>後漢王朝時からの配置を、>時系列をまぜこぜで・・
虚像・実像、後漢書をベースに魏志倭人伝を語っても無意味です。
>>879〜882
>(狗邪韓国⇒對馬国)(一支国⇒末盧国)には、共通に方角指定が有りません
>他のどの地域においても方角指定が有るのに、
これは読み手の感性の問題では?。
>奴国百餘里 不彌国百餘里の所が説明出来ません
南とか東とか書いてありますが、方角に於いて不服なのではないですね。
奴国の餘戸、不彌国の餘家が問題だと。即ち、餘戸ルートと餘家ルートが存在する
とする。
>その裏側では 半島⇒壱岐⇒不彌の郡使ルートを表現しているのです。
このあたりの事を佐伯有清氏は「東夷伝序」に述べられている「接前史之所未備焉
」
を「前史の未だ備わざる所を接(あつ)めん」と読みくだし、諸説あるも「史書に
欠けたる資料を集め編纂する。」とする。
プラムさんの裏読み『筆法』は、陳寿が正面きって書いたこの記述を否定すること
になります。さればこその陳寿の『筆法』と固執されるならば、これまた証明要案
件として傍証の必要があります。
<<倭人伝の記載>>
東南陸行五百里、到伊都國〜郡使往來常所駐。
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、
<<後世の隋唐渤海との通航>>
遣使船の航路は季節・天候によって異なる。
<<上記から導かれる事実>>
帯方郡と倭の間には頻繁に通交があった。
<<第一の推定>>
倭人伝の路程記事は、郡・倭地間の唯一絶対の航路では無い。
<<第二の推定>>
倭人伝の路程は、郡と倭(特に伊都国を中心とした)の大まかな地理関係を示しているに過ぎない。
<<一つの結論>>
実際の一航海において一つの寄港地を飛ばしたりすることは記録に残るほど重大なことではない。
<<更なる結論>>
倭人伝の路程記事に『筆法』なるものが存在し、それを読み取ることが出来ると考えるならば
先ずは、基本的な記載事項を理解した上でなければ不可能であろう。
基本を無視した『読解』とは単なる妄想でしかない。
886 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 07:26:13
大和さんおはようです。
>断片的な資料
その断片的な一つ一つ繋ぎ合わせ、一つの史書を作り出す作業だからこそ
優秀な編纂者が携わるのでは?
>裏読み?
そうでしょうか?
今まで長期に渡り慣れひたしんだ読み方が果たして正当な解釈の仕方だとは、思えない
のです。
私の今、試みとしてる「筆法」を取り入れた解釈
その様に読むことが「最初の一歩」では無いでしょうか?
鼻から「筆法」ゼロで
解釈するよりも、筆法ありきで解釈する方が、余程正常な解釈方法ととらえるのですが
如何でしょう。
私の解釈は、まだ幼稚園児です。
887 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 07:55:58
大和さんのツッコミ無くしては、暴走すること必至です。
今後も、鋭い指摘を熱望します。
>孔子の五文字・十文字
確かに、
見事な簡素化です。
それから約八百年後 文章化され独自の「孔子を継ぐ」技法が確立されたとしても別段違和感を覚えないのですが!
888 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 08:01:09
>>883さん
レスが活性化しだしたら
私は消えますので
ご迷惑おかけします。
後は、貴方達が引っ張ってって下さい。
それまでは、少し暴走しますので
889 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 08:21:31
プラムさん、皆さん。
倭人伝の解釈などという不毛な作業では
永久に邪馬台国の位置は特定されませんし
真実もわかりませんよ。前にも言いましたが
木を見て森を見ていない議論になっていて不毛です。
倭人伝から分かることは邪馬台国は
九州内にあり不弥国のすぐ近くにあるということだけです。
そこからは倭人伝から離れ、違うアプローチをしなければ
真実には迫れません。皆さんのように延々倭人伝の
解釈論に終止するくらいならまだ考古学的見地から
人口集積地を割り出し邪馬台国は甘木だと言ってる
安本氏とかのほうがよほどましです。
考古学や地方風土記、記紀における神功・応神
あたりをもっとクローズアップして視野を
広げ総合的に邪馬台国の位置を推定するべきです。
890 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 08:38:41
そもそも倭人伝の解釈論で
邪馬台国の位置がわかるのなら
学者様や古代史研究家の方々が
とっくに邪馬台国の位置を割り出しています。
ましてや素人が倭人伝の記述が
うんぬんと言い合っても仕方ないですよ。
891 :
大和@名無史さん:2005/10/29(土) 10:00:17
プラムさんおはようございます。お相手感謝です。
私も三国志30巻を読破したわけでは有りませんので、あまり偉そうな事書けないの
が実情です。
>>886 三国志30巻の中で陳寿の東方への意思・思いが反映されているのが
>>884の佐伯有清
氏の読下し、「東夷伝序」に述べられている「接前史之所未備焉」を「前史の未だ備
わざる所を接(あつ)めん」とする部分です。
奴国コース、不彌コースどちらが末備でどちらが備っていたのか定かでは有りません
が「東夷伝」に於いて
>>886「>断片的な資料」(私の発言ではありません。私は断片
的とは捉えておりません)を参照、潤色は正し(大和の筆すべり)、不足を補い、東
夷伝を完成させている。
陳寿が見聞きした以外に記述に用いた資料があり、その資料に「戸」若しくは「家」
が記されていたのではないですか。プラムさんご指摘の通り、歴史家としての陳寿
の気骨が、「戸」又は「家」のどちらかに統一さす事なくありのまま記したのでは
ないでしょうか。文字の統一、即ち手を加える事により予期せぬ潤色につながり、
水面下の事実を歪曲隠蔽することを恐れたと考えます。
>裏読み
他意はございません。行間を読み説く洞察力を表現したものです。誤解あれば陳謝。
>約八百年後 文章化され独自の「孔子を継ぐ」技法
少し調べてみたのですが良く判らない。浅学で申し訳ない。
時代的に三国志と後漢書の間で成立した技法と思われますが解説希望。
892 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 10:17:17
>>891大和さん
夕方家に帰ってからのカキコと言うことで
出先なもので スイマセン
ヒッキー君へ
ここは「学問」板ですので宝が見つからなくても
良いじゃ有りませんか!
結果よりも、
【あーじゃない、こーじゃない】と、
智恵を絞ることが大事じゃないでしょうか?
私は、探偵でも、不動産屋でも有りませんよ!
ここで様々な勉強をさせてもらったお陰で、「筆法」なる技法が有る事を覚えました。
それだけでも成果だと思っています。
それが学問ではないでしょうか?
893 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:09:35
南に十日水上を進み一月陸を進むと、女王が都をおく邪馬台国に着く)
数字が切りのいい物になってるが、12日とか1月と3日とかに
しない理由は、脚本としての
894 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:24:49
>>889 >>890 あー、いつからヒッキーはこんなにまともになったんだ?
お前、別人だろ。誰が化けているのやら。
895 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:44:07
>>890 >学者様や古代史研究家の方々が
>とっくに邪馬台国の位置を割り出しています。
纒向。
とっくの昔に割り出してるんですけど何か?
896 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:55:45
>>890 宮崎 西都
纒向信仰者は少しは三輪山付近に関わる神事や伝承を考えろ..
897 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:02:30
しかし、纒向が邪馬台国で、それがすんなり大和朝廷に
なったというのには、不審な点がたくさんあると思う。
そうなると、当然、ヤマトトトヒモモソヒメこそが卑弥呼である
という話になってくるんだろうが、それにしては、
ヤマトトトヒモモソヒメの伝説はかっての女王のことを伝えた伝説とは
とても思えない。
百歩譲って同ヒメが卑弥呼のことだとすると、
あれは、邪馬台国と大和朝廷にはなにか政権として断絶がある
ということを伝えていることになるのかなと。
そもそも、纏向が邪馬台国なら、卑弥呼の金印はいま宮内庁が
管理してないとおかしいのではとも思うし。
自分としては、九州勢の東征は(記紀にあるように)2度あり、
その最初の東征勢力が立てたのが纏向だと思っている。
(神武は2度目の東征勢力)
したがって、邪馬台国は九州だと思う。
898 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:06:19
纒向の古墳群が3世紀ぐらいと確定した時点で、邪馬台国論争は終了してる。
899 :
圭角:2005/10/29(土) 12:11:12
どうでもよいことですが、正史三国志は魏書三十巻呉書二十巻蜀書十五巻の
計六十五巻です。前にどなたかが三国志三十巻と書込みされていたので正確
を記すべきが当該学問版と存じましたのであえて書きました。
ついでに一言。邪馬台国へ至る経路がひとつと特定されていたものでは、
ないだろうと、近頃は考えるようになりました。ほんのたまにの投稿にて
恐縮です。いま公私共に多忙ですので。でも皆さんお元気そうでなによりです。
900 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:39:34
>>898 そんな一方的に終了宣言されても。
自分としては、3世紀の時点では、大和勢力と九州勢力の
2つの倭国があったと考えている。
しかも、大和勢力は九州勢力の分家であり、
実際の力関係よりも九州に頭の上がらない状況であったと
思う。(記紀にもそのように書いてあるのだし)
実際には、九州勢の東征は3度あったかもしれない。
ニギハヤヒ、神武、応神と。
たぶん九州は、軍事的な実際の力関係以上に、
宗教的な権威として大和の上にながく君臨していたんだと思うよ。
記紀の記載内容がそれを証明していると思う。
901 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 12:47:31
>>899圭角さん
お久しぶりです。
暇になったらまたカキコしてください。
話は変わりますが!
前にも一度こだわりカキコしたのですが
「倭」と「倭人」です。
魏志倭人伝とは、「倭国」の事をメインにカキコしたのではなく、「倭人国」をメインにカキコした書である
晋書も同じく
しかし、後漢書等はどうやら「倭国」のようです。
>>897 このスレの路線である文献考証から逸脱しそうなので何なのですが、
纏向に九州的な香りは、考古的に皆無です。
漢式鏡の埋納など共通する部分は有りますが、それは九州以外の他の地域にも存在するものなので
九州的な特徴とは言え無いでしょう。
強いて関係を求めるなら2〜300年スパンの長期的な影響としか思えません。
水田耕作、遠賀川式土器・金属器などの使用は、九州方面からの伝播ですので、
これが武力集団の移動を伴っていた可能性はあります。
しかし、縄文時代から東日本に定着していた勾玉愛好などの文化が、
逆に九州方面に伝播するような事例がありますので、文化の移動=武力制圧とは言えないですよね。
大和・纏向の文化成立にもっとも大きな影響を与えていそうな勢力は、やはり畿内周辺の勢力です。
大型墳丘墓は吉備から、庄内式土器は河内から、積石式石室は阿讃からと言う感じです。
これは、諸勢力が連合して大和を武力占領したと言うよりは、
大和に労働力や物資が集中するような求心力が、有った(出現した)ためではないでしょうか?
そして、それは政治的・軍事的に急成長したというよりは、経済的な変化によるものだと思います。
纏向では、古墳造営とともに治水関係の大型工事が行われています。
その結果、生産性が大幅に向上したことは間違いないでしょう。
これを、担ったのが前述の吉備・播磨・阿波・讃岐・河内に加え東海・北陸からの移民集団であり、
纏向文化とは、そう言った移民集団の文化なのだと思います。
903 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 13:17:42
高木氏の神湊上陸説は支持されてないのでしょうか?
松浦だから末櫨国とかやや短絡的な思考のような気がして
ならないのですが。地名を故意にずらした可能性もあるわけです。
記紀において邪馬台国の存在を隠蔽する意図があったのは
明らかですし、そうなるとのちに大和朝廷により
地名の改竄が行われた可能性があります。
また九州勢力が大和に東遷したのは間違いないです。
九州の地名がそっくりそのまま大和に移動しているようです。
僕はまずニギハヤヒが東遷し、のちに神武=応神が
東遷したと推察しています。神武〜欠史8代までは
物部王朝に婿入りした人たちの系譜らしいです。
904 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 13:26:24
巻向が邪馬台国なんて僕でも信じませんよ。
畿内説はありえません。そもそも邪馬台国まで
12000里と書かれてるのに畿内説が成立すると
思ってる人たちの思考回路が理解できません。
905 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 13:47:57
佐賀新聞に九州説のシンポジウムのやつがのってるけど
大体佐賀平野の佐賀と福岡の境界に予測地域が集中してる
ここやほかのスレで議論したように九州にあったとすれば
米が作れる佐賀平野の近くで古代は佐賀平野が小さかったことと
平野部だけでは生活できないので山沿いにあったという
予測に近いと思われる
あそこら辺りをほれば絶対なんかでてくると思うが
906 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 13:54:07
まあいいじゃないですか、
邪馬台国は北九州のどこかにあったということで。
正確な位置を割り出す必要性もないでしょ。
歴史の流れの中で邪馬台国の存在を位置ずけることのほうが
重要ですよ。
907 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 13:59:56
しかし宇佐あたりが1番怪しいと僕は睨んでますがw
邪馬台国以後の時代を見てみるとやはり宇佐と大和朝廷との
関わりが深いですしね。
908 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:01:54
↑
北九州など邪馬台国(大和)の属国にすぎない。
909 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 14:08:07
↑んなわけないでしょw
3世紀前半で畿内政権が北九州を
支配してるなどありえません。
文献的にみれば崇神天皇よりやや前の時代ですし
崇神が四道将軍を送り全国展開する前の時代です。
つまり畿内政権は畿内の1政権にすぎませんでした。
また考古学的にみても鉄器の出土状況は3世紀の
時点で圧倒的に九州優位。畿内が九州を支配してたなど
妄想ですよ。
910 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:15:36
「邪馬台国」はなかった
911 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:20:38
もし畿内が九州を支配していたというなら
法隆寺の正倉院はペルシャやローマを支配していたことだろう。
912 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 14:24:36
高木氏の「邪馬台国の秘密」に書かれてるとおりだと思います。
高木氏はすごい人です。もう死んでしまっているみたいですが(泣
古田氏の「邪馬台国はなかった」はいささか乱暴すぎます。
壱を誤記した例は文献上ないから邪馬壱国が正しいと
おっしゃってましたが、文献上見つからないから誤記はないと
いう事象は成り立たないと思うのです。
913 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/29(土) 15:16:30
今日も高木氏の「邪馬台国の秘密」に
邪馬台国の秘密がすべて書かれている事を
宣伝してバイトへいってきます。雨の中大変です。
よしのがり遺跡らへんがなこく。
投馬はさつま。福岡が倭奴国。わなこく。
倭の名の国王は間違い。わな国王
3世紀以前は大陸の倭があった頃は。区別のための故障があったはず。
そこで列島の倭は倭奴であったのだ
理数はそのまま短里。水行は九州を一蹴した日数。
人口はそのまま、誇張なし。楽浪郡か大砲郡は小さい都市に10まんくらいだったと思う。
女王刻はそれ以上の都市。
大砲郡から12000里は女王国の支配する末路、名国までの距離ではなく、
そのまま邪馬台国までが1万2千。
917 :
大和@名無史さん:2005/10/29(土) 18:24:00
>>899さん、
>>891です。
ご指摘有り難うございます。やはり公開板ですから正確に記述しないと駄目ですね反省。
プラムさん。
日本に三段論法というものがありますね、風が吹けば桶やが儲かる式のもの。
春秋の筆法と三段論法、考え方は同じ様なものではないかと思うのですが、
基本的な違いはあるのですか。後学のため、ご教示いただけますか。
918 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 19:34:52
>>917大和さん こんばんは
>三段論法
正直気が付きませんでした。
うる覚えのカキコでスイマセンが、確か
定言三段論法と様相三段論法に別れる奴ですよね
(頭痛てー)
AはBである
BはCである
よって
AはCである
これですよね!
今日は風が吹いている
今日は桶屋が儲かる
(よって)
風が吹けば桶屋が儲かる
(今日は)Bと言う共通語だけで
風が吹けば
桶屋が儲かる
と言う全く関連性の無い言葉を繋げ ある一つの結論を導き出す技法
ですよね
間違っていたら訂正願います。
919 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 20:38:05
倭人伝がインチキだったらどーする?
当時のシナにとっての日本は、日本に対する蝦夷みたいなもんで
時折 乾燥鮑と生口程度のチャチー朝貢品を献上
威令さえ認めさせれば、これだけで充分だったんじゃ?
だとすると シナの役人も唐津あたりでのんびりしながら
現地人にいろんな話を聞いて 適当につないで報告
ありうる話だと思うが
920 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 20:44:31
>>917大和さん
筆法と三段論法を比較するのはどうしたもんでしょうか?
確かに、その公式に当て嵌まってしまうケースも見られますが……?
中国史書の根底にはテーマがあります。
よって、そのテーマから外れてしまう答えは……?
三段論法は、ある共通するもの一つを媒体に
新しい文を作り出す技法です。
筆法は、
新しい文章を作り出す技法ではなく、建前の裏に隠れた真実を探る手法ですから
921 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:14:05
古墳に北斗七星を描くほどの、方角の知識がまともなら、邪馬台国は
台湾にあったのであり、当時の奈良や滋賀県は人影もすくない度田舎でした
922 :
大和@名無史さん:2005/10/29(土) 21:14:13
>>918プラムさん
想定外だから推理不能。
でも考古学でよく使う単純三段論法ですね。
貨泉は王莽だ、新朝は王莽だ、だから貨泉は新朝だ。と
筆法との絡みは不明だがお答えいただいて感謝。
923 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 21:19:57
>>901の続きです。
高句麗の様子は
「東夷伝 高句麗」
韓の様子は
「東夷伝 韓」
全て「東夷伝」+国名
と、言うことは
「東夷伝 倭人」とは倭人国の様子を記したもので、「倭国」の様子を記したものなら 宋書や梁書の様に、「東夷伝 倭(倭国)」にすべきである
でも、陳壽はそうしなかったし、最初の文も
『倭人在帯方…』と、「倭」ではなく「倭人」と意識し、使っている
後の後漢書では
「東夷伝 倭」であり「倭国」の様子を記した為
『倭在韓東南…』と、「倭人」ではなく「倭」としている
924 :
圭角:2005/10/29(土) 21:22:48
プラムさん、こんばんわ。懐かしい気持ちでいっぱいです。秋ですかねえ。
さて、最近三国志を読んで思います。帝紀と他の列伝を読み比べますと、同じ記事
においても矛盾不整合が多くあることを知りました。一般には、陳寿の記述は等しく
簡略であるなどと評されておりますが、実はそうとばかりは言えぬとおもいます。
たとえば明帝崩御の記事などはむしろ小説的でさえあるといってよいでしょう。
他の列伝を読みますと、陳寿とは別の人物が記したのではあるまいかとさえ思うことが
あるときさえあります。本件スレも、等を読むというタイトルですから、帝紀のみと
いう姿勢を近頃は疑問に思っております。長くなって恐縮ですが、そもそも魏略の他にも
三国志の政策以前と以後において陳寿とは異なる記事あるいは陳寿が書かなかった
記事も豊富にあった、というのが実情です。そこでハイショウシの登場となる訳ですが
かくなる視点にも、目を向けるべきかとは存じます。無論、倭人伝は陳寿のみです。
が、ハイショウ氏が倭人の生年のみにしか注を加えていないのも注目されますね。
いずれにしろ、カキコというのは難しいなと実感しています。ところで明日は船で海で
釣りに行きます。せいぜい水行を考えますのでこの学問版にご容赦あれかし、です。
925 :
大和@名無史さん:2005/10/29(土) 21:36:11
>>920プラムさん
>中国史書の根底にはテーマがあります。
>よって、そのテーマから外れてしまう答えは……?
>建前の裏に隠れた真実を探る手法ですから 。
そうですよねェー、いずれにしても根拠がないものに結論は見出せないですよね
あらためて、お答えいただき有り難うございました。
926 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:09:51
>>919 当時は3国時代でただでさえ内乱状態
この状態で偏狭の民族に攻められるのはまずいと思ってたとこに
海の向こうの島国の女王が権威がほしいので認めてほしいと使者を送ってきた
これは好都合と役人を送る魏
ついでに攻めたり攻められたりするときのために
地理や内部の状態も詳細に記録に残した
そんなとこじゃないの?
927 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:38:31
>>909 畿内の鉄器の多くは解けてなくなったから無いんだよ。
でも北九州の方が鉄器の量が多かった事は間違いないだろう。
しかし、それは万が一大陸から鉄器で武装した異民族が
攻め込んで来た場合に備えて鉄器が多く配備されたのだろう。
928 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/29(土) 23:23:03
『狗邪韓国と弁辰狗邪』
郡使が倭地に向かう時、二つの大きな目的が有ったと考えます。
一つは、狗邪韓国に到着すること、二つめは、伊都国まで無事辿り着く事です
それは、この国だけ「到」の文字を使用して
いるからです。
「到と至」の大義的意味の相違は有りませんが
先学者の統一的見解では
「到」…目的地に到着する「至」…先に繋がりをもつでは、何故この二つの(特に狗邪韓国)なのか?
狗邪韓国は、東夷伝倭人の最初に登場し、韓伝では
最後の方に弁辰狗邪として登場します。
929 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 00:13:25
>>928続き
狗邪国は、東夷伝倭人の最初に登場します
よって、半島内にあり弁辰地域に属するが、倭人の多く住んでいる所と判断します。
でも、倭国の一部では有りません この史書は「倭人」の条
よって倭国の一部では有りません
『
べんたつのトクロ国が「倭」と境界を接すると書いてある。
あきらかに和国の領土
史書の記録から、2世紀にはすでに進出していたと考えるのが自然
932 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/30(日) 08:29:15
当時の1年は現在の半年ですよ。
当時は農業中心の生活だったので
収穫期を区切りとして1年と定めたようです。
933 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 16:11:32
>>932ヒッキー君
一年二倍説ですね!
よくそのような事を見掛けますが
では、
農繁期を一年、農閑期を二年とした場合 一年は何ヶ月だったのですか?
それに、一ヶ月は何日だったのでしょうか?
今だかつて
それを詳しく説明されてる本に巡り会っていないもので!
一年二倍説を主張されてる方
ご説明下さい。
934 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:28:02
確か古田武彦が主張していたと記憶する。
春耕秋収をもって歳時となす、という倭人伝記事と、
記・紀に記載される各天皇の寿命を半分にすれば、人間の寿命として無理がなくなる、
というような説だった。
935 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 18:08:36
>>934 感謝です。
結局そのあたりでの妥協ですね
一年を半分にし、二倍説を主張するのは簡単ですが
一日を半分にし、二日とすることは困難でしょう
それとも、書籍と実生活では時間が変わるのかな?
936 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/10/30(日) 18:23:57
素人で若輩者の僕に難しいこと聞かないでくださいw
>>916 測量をしながら進んだはずはないのだから、里数は「適当」でしかありえない。
人口も、戸籍調査を行ったと考える根拠などないのだから「適当」
ただし、いずれも、「おおざっぱな比率」はある程度参考にすべき。
938 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 20:13:25
狗邪国と伊都国って
何か関係有りそうなニオイがする!
ま、とにかく
郡を出発した郡使は、記載七千餘里の行程を経て
第一の目的地である倭人の国の北端 狗邪国に(到)ました。
(では先に進みます)
『始度一海千餘里至對馬國……』
ここで「度」の文字について、多くの先学者達は「渡」の誤字であると
簡単に「誤字」と認識されてきました。
そうでしょうか?
誤字ならば「度」としたとき後々意味の通らない文になるはずです。
「度」も「渡」の両方とも大義的に(わたる)の意味を持っています。
939 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 20:15:41
二倍年暦はね、
もともとは安本氏の 一年二歳論 (一年に二度歳をとるとする説)
が始まりでしょ。違うの?
それを古田氏が 二倍年暦 (現在の一年が上古代では二年として数えられた)
として発展させたものと思うよ。
古田氏あたりの説によると、中国も周の時代までは二倍年暦だったのでは、
という話になってるみたいね。
論語も二倍年暦のようであるそうだから、
三十にして立つ、四十にして天命を知る(だったかな)て、
15歳にして立ち、二十歳にして天命を知るという意味かい?
いいかもw
日本では継体の時代が変りめらしい。
(書紀は継体まで、古事記は継体の前まで)
僕が思うに、確かに世界的に二倍年暦が使われていた可能性があると思うなぁ。
言葉を発明した民族はたくさんあるけれど、それに比べれば、
文字を発明した民族の数は限られている。
暦を発明した民族は、さらに限られているのでは?
最初に発明された暦は二倍年暦で、
それが世界に広まった可能性があると思う。
そして、民族・国家同士の交易というのが必ずあるわけで、
どこかで二倍年暦が一倍年暦に改められれば、
それは結局、世界的に一倍年暦に変っていくもののような気がする。
940 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 20:43:26
>>939 解説感謝です。
では、
>>938の続きを
では、陳壽はたんにサンズイを付け忘れた(ごじゃっぺ)野郎だったのか?
それとも、資料を忠実に写した為なのか?
私は両方とも違うと考えます。
これぞ「筆法」 同じ意味を持つ似たような文字を使い、建前文の意味を変えずに裏の真実を語る技法
『一字を以って褒貶を為す』です。
実は「度」と言う文字は、もう一つ(はかる)と言う意味を持っています。
『始度一海…』云々は
【表】で
始めて一海を度り
【裏】で
始めてはかる
に、なります。
この文は、後ほど重要なキーポイントに
941 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 21:53:15
では、何を測り始めたのでしょう?
結論を言えば
倭人の国の〈建前〉距離を(狗邪国から女王国)測り始めたと、解釈します。
対馬と壱岐の記事には数多くの「筆法」箇所をみいだせます。
まず
(度と渡)(大官と官)(戸と家)(方四百里と方三百里)
そして(對海と一大)です對海は對馬(対馬) 一大は一支(壱岐)
これを「筆法」と捕えた時陳壽は、これら対馬や壱岐の記事をそのまま解釈してはいけませんよと
訴えてるのです。
これら二つの国だけに共通する筆法的記事とは何でしょう?
それは、
「方四百里と方三百里」では?
942 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 22:22:03
それでは、その「方三百里と四百里」を
通常どのような見方をしているかと言うと、やはり二つの島の面積を表す表現と解釈されてます。
そうでしょうか?
対馬は約700Ku 壱岐は約140Ku 対馬は壱岐の約五倍の面積です。
とても対比になりません
では、対馬の下県約300Kuと対比しても、未だ矛盾します。
陳壽は筆法を使い、対馬と壱岐の記事を、通常通り解釈しないで下さいと言ってるのです。
通常、面積と解釈される内容は、面積と捕えないで
違った意味を見つけてくれと言ってるのです。
では、どのように解釈するのか? それが『度』です
943 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 22:49:49
先ほど『度』とは(測る)と解釈しました。
面積ではなく距離ではないでしょうか?
ここにカキコした『四百里と三百里を、距離としなさい、それも、一辺ではなく二辺を』
だから『方』の文字を付け加えたのではないでしょうか?
方四百里なら四百+四百
方三百里なら三百+三百
つまり、狗邪国〜壱岐までは、
(千)+(八百)+(千)+(六百)=三千六百餘里となり、通常の二千餘里ではありませんよと
陳壽は、訴えてます。
944 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 22:56:14
書き写すたんびに間違えて、結局てんでばらばらの表示になyてえしもたかも
945 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/30(日) 22:59:24
>>943 現代的な意味で正確といえる測量を行った可能性はないし、わざわざ謎解き風の記述を
入れる必然性はないのだから、単なる考えすぎでしょう。
>>937 >
>>916 > 測量をしながら進んだはずはないのだから、里数は「適当」でしかありえない。
古代人であれ、まがりなりにも日本人だぞ。
従属していた中国朝廷に適当な報告はしないと考える
>>947 「ろくに調べていないことも律儀に適当に並べ立てた」という目もある。
それ以前に、海上の距離が正確といえるほど正確に測定された可能性などない点は認めるかね?