<謙信女性説の主な論拠>
・謙信の死因は大虫(婦人病)である、と歴史書に書いてある。
・毎月10日前後に腹痛をおこし、合戦を取りやめている。
・謙信の武勇を称えた当時の唄で、謙信は女性扱いである。
・スペイン国王フェリペ2世宛ての、日本についての報告書で、謙信は女性と書かれている
・男性としては小柄なのに、「大柄」と評される。
・一般に流布している髭面の謙信肖像画は明治31年作の版画。
・伝謙信自画自讃像には髭がない。主観的には女に見えなくもない。
<女性説における謙信の死因の一例>
元気な人間が、突然倒れて人事不詳のまま4目に亡くなる婦人科の病名
=卵巣の実性腫瘍:かたいコブのようなもので、その80%が悪性。嚢腫にも
充実性腫瘍にも良性腫瘍と悪性腫瘍(卵巣ガン)がある。腫瘍が小さいうちは、
全く症状がない。(おりものの変化や月経異常などのサインはかなり大きくなって
から)他の病気で受診した際に、偶然発見されることが多い。嚢腫が大きくなると、
おなかの圧迫感、腰痛、しこりなどが見つけられる。さらに大きくなると周りの臓
器を圧迫して排尿排便がしづらくなったり、足がむくんだりする。ときには茎捻転
といって卵管や靭帯がグルッとねじれて、突然激しい吐き気や腹痛が起こり、ショ
ック状態になる場合がある。
<男性説側の主な反論>
・幼女は寺で修行しない。
・10日前後に腹痛を起して閉じ篭ったとする史料価値の高い文献を複数
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしいものがない。
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山。
・生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられたため、お取り潰しを回避するために捏造された可能性がある)
●おもな史料リファレンス●
『上杉史料集』(井上鋭夫校注、全3巻、新人物往来社、1969)
北越軍談・上杉三代日記・北越耆談・川中島五箇度合戦之次第・松隣夜話・上杉将士書上・久知軍記・古案記録草案
『上杉文書目録』( 米沢図書館編、1969)
『上杉家御書集成』(全2巻、上越市史専門委員会中世史部会編、上越市史叢書6)
『上越市史』(資料編全7冊、通史編全7冊、別冊1、上越市史編纂委員会)
『甲陽軍鑑』(土橋治重、矢立出版、1981)
『サンデー毎日』の「読物専科」に書いた「血戦川中島」と、『問題
小説』7月号・8月号に書いたものと、『歴史読本』に書いた「謙信
論考」の3本を1冊にしたものという。謙信女性説の原典的存在。
スレ必読書
『上杉謙信は女だった』(八切止夫、2002年復刻、作品社八切意外史)\800
『疾風上杉謙信』(2001年、学研歴史群像シリーズ)\1600
『上杉氏年表』(矢田俊文・池亨、2003年、高志書院)\2500
【上杉謙信が学説で男性であるとされている根拠】
・謙信の位牌に権大僧都、居士などと明記されている
・生前に法印大和尚に任ぜられ自分の事を愚僧と署名
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山
・謙信が出家しようとした比叡山も女人禁制
上記は男性でないと不可能と考えられていて女性説が新説から脱皮出来ない理由
【女性説を否定する根拠】
・高野山の女人禁制を裏付ける史料価値の高い文献が複数存在
・10日前後に腹痛を起して閉じ篭ったとする史料価値の高い文献が複数存在
・女児は寺で修行する事が出来ない
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしい物が存在しない
【女性説派の意見とその反論】
・謙信の死因を大虫としている歴史書も在る
反論1:民俗では一般に虎のことを婉曲表現で大虫という
反論2:一般的な死因は脳卒中とされている
・スペイン国王フェリペ2世宛ての日本についての報告書で謙信は伯母と記されている
反論1:そもそも原文の存在が未確認
反論2:伯父Tioと伯母Tiaのaとoを間違えた
・謙信の武勇を称えた当時の唄では女性扱い
反論1:出所不明の唄
反論2:女性とする直接的な表現は無い
・毎月10日前後に腹痛を起こし合戦を中断
反論1:酒好きで肝臓が悪かった
反論2:十日前後の腹痛=生理とは限らない
・男性としては小柄なのに大柄と評される
反論1:肥満や見栄の可能性もある
反論2:小柄とされている説もある
【高野山の女人禁制を裏付ける史料集】
・密教文化115
出版社:高野山出版
内容:高野山の女人禁制に関する史料とその解説(一)
参考ページ:25〜39ページ
・密教文化116
出版社:高野山出版
内容:高野山の女人禁制に関する史料とその解説(二)
参考ページ64〜80ページ
・密教文化117
出版社:高野山出版
内容:高野山の女人禁制に関する史料とその解説(三)
参考ページ:38〜49ページ
・日本大百科全書
出版社:小学館
参考ページ:149ページ
【上杉謙信が学説で男性であるとされている根拠】
・謙信の位牌に権大僧都、居士などと明記されている
・生前に法印大和尚に任ぜられ自分の事を愚僧と署名
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山
・謙信が出家しようとした比叡山も女人禁制
上記は男性でないと不可能と考えられていて女性説が新説から脱皮出来ない理由
【女性説を否定する根拠】
・高野山の女人禁制を裏付ける史料価値の高い文献が複数存在
・10日前後に腹痛を起して閉じ篭ったとする史料価値の高い文献が複数存在
・女児は寺で修行する事が出来ない
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしい物が存在しない
謙信公が帰依した当時の曹洞宗の大師様、瑩山禅師のお話
瑩山禅師はその後京都や由良で修行を重ね、阿波(徳島県)の城満寺(じょうまんじ)
の住持に迎えられました。ときに27歳でした。以来、4年間で70余人の弟子に仏戒を
授けておられます。このことから禅師のめざされた衆生済度(しゅじょうさいど)・
教化伝道の誓願を知ることができます。
また禅師は男女平等の姿勢を打ち出され、積極的に門下の女性を住職に登用されました。
女性がまだまだ不当に軽んじられていた当時としては、まことに画期的なことです。
曹洞宗が尼僧団を結成し、多くの女性たちの帰依(きえ)を受けるようになったのも、
ここに由来すると思われます。
高野山に入山出来た理由にはならない
【上杉謙信が学説で男性であるとされている根拠】
・謙信の位牌に権大僧都、居士などと明記されている
・生前に法印大和尚に任ぜられ自分の事を愚僧と署名
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山
・謙信が出家しようとした比叡山も女人禁制
上記は男性でないと不可能と考えられていて女性説が新説から脱皮出来ない理由
【女性説を否定する根拠】
・高野山の女人禁制を裏付ける史料価値の高い文献が複数存在
・10日前後に腹痛を起して閉じ篭ったとする史料価値の高い文献が複数存在
・女児は寺で修行する事が出来ない
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしい物が存在しない
やっと立ったね(感謝age
>>12 >謙信が出家しようとした比叡山
前スレからだけど、これは弘治2年の隠居騒動のことでしょ?
春日山から出奔して、どこに向かったのかは不明。よって、根拠なしでは?
そもそも、謙信と天台宗の接点はきわめて少ない。信玄なら天台座主だから
わかるが(信長に比叡山が焼き討ちされたあと、信濃に誘致したくらい)。
宇佐美定祐(本名大関佐助)
紀州徳川頼宣の命で 徳川本家の甲州流軍学に対抗する上杉流軍学(謙信男性説)を作った。
それが遠因で、上杉家に就職。軍記もの好きの紀州大納言はご満悦、
宇佐美という「名家」が復活した。
この頃、巷では大名家取り潰しが相次ぎ、
浪人が溢れて世情は不安定になり、
米沢藩も三十万石から十五万石に領地を減らされ財政は逼迫、
家臣達は不安と貧乏な暮らしに汲々としていた。
外様である上杉家は徳川幕府の取り潰しに合わないよう、
上杉流軍学によって謙信の名を高める事により、名家の地位を手にいれた。
>12の論拠は、どれも小説か学研歴史群像あたりか・・・。
史料性皆無の結論だけだな(笑)
17 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:39:24
謙信がオンナであった訳がナイわゑ!!!
「女っぽい」とされる謙信の歌の例
なれもまた草のまくらやゆうひばりすそ野の原に落ちてなくなり
つらかりし人こそあらめ祈るとて神にもつくすわがこころかな
>高野山に入山出来た理由にはならない
わからない人だなぁ、あなたも。
謙信は禅宗(曹洞宗・永平寺)であって、真言密教(高野山)ではありません。
「入山」というからには、そこで得度(出家)したという意味ですよ。
ここが女性説派のスレ??
>>24 科学鑑定しかないってのも、歴史好きにはちと物足りないねぇ
>>24 でも、いろいろあったよな、謙信の直筆の書状は少ないとか……。
中風で花押を描けなかったので、判子を押した書状もあるらしいし。
和歌って、けっこうわざと女の立場で作ったりするよな?
男性歌手が女の立場からの歌を歌ったりするのと似たようなもんか?
>>28 確かにね・・・。でも、信玄の和歌なんか読むと、万葉調というか素朴というか。
うちなびく 水影草の 露のまも 契りはつきぬ 星合の空(武田晴信)
(水面になびく草の露が消えるまで、デート(セックス?)は繰り返しましたね
年に一度の逢瀬(星合=七夕の意味)なのだから)
なんか、男性的に思える。
ところが謙信は、
会う人を 旅には友と こと問わむ ねがう都の つてならずとも
(旅先で会う人は誰もが友なのだと思い返します。わたしの念願である上洛の
つてではなくとも、そう感じます)
詠嘆を残す詠み方は、新古今和歌集の技巧が感じられる。
一般に、万葉集(古代)・金塊和歌集(鎌倉)が男性的で、古今・新古今(平安)
が女性的とされています。近衛太閤から詠歌の手ほどきを受けた謙信は、平安和歌に
親しんでいたのでしょう。
>19
こーんな訳でどう?
なれもまた草のまくらやゆうひばりすそ野の原に落ちてなくなり
(あなたも私とおなじ野宿なのですね、ひばりさん。夕焼けの山の裾野に落ちて
まだ鳴いていますか? それとも、もう死んでしまって鳴くこともできないのでしょうか?)
つらかりし人こそあらめ祈るとて神にもつくすわがこころかな
(つらいと思うほどの人がいますけれども、神仏に祈る私はひたすら
神仏に尽くす心しかありません。思いが届かないのは、ほんとうに悲しいことです)
>>30 思いっきり女の歌だな。すこし超訳にも思えるが・・・。
前スレにもあったと思うが、謙信は和歌の達人細川藤孝と晩年まで親交があったわけ
だよね? 天正5年に和歌の書を贈られてる。だとしたら、織田信長と敵対関係に入ってる
のに、信長の家臣同様になってる藤孝から贈り物というのは、信長が公認していたのかどうか?
のちの本能寺の変にもつながる重要な要素だと思う。関白前久は本能寺の変のあと
京都を出奔(明智光秀に一味した?)してるし、藤孝も光秀に合力しなかったものの、
剃髪して謹慎してる。本能寺の半月前に、光秀が景勝に織田信長打倒の協力を
申し入れてるし。まぁ、謙信没後4年目のことだが、遠因を感じてしまう。
前スレで、柿崎(景家)が信長に(謙信は女だと)バラしたから誅罰され、念のために
に明智に圧力をかけて信長も殺した。というのがあったが、あながち妄想ではないのかも。
長文、スマソ。
>>33 天正2年ごろには、信長との関係は破綻に近かったと思われます。
決定づけたのは、天正3年に信長が武田勝頼を長篠設楽原の合戦で
破ったあとです。それまで信長は、関東の武将にも謙信を媒介に連絡していましたが、
その手続きを取らなくなります。村上氏に対しても、これから武田を滅ぼすので謙信の
意向はともあれ、参陣しなさい。信濃領を回復させてあげます。というような
書状を出しています。例の洛中洛外図屏風は天正2年の贈り物(ビロードマントも?)
ですが、細川幽斎(藤孝)が天正5年に和歌大全を贈ったとしたら、信長は知っていたのでは
ないでしょうか? 天正5年9月には手取川の合戦がありますから、謙信との直接対決を避けるために?
ただ、柿崎景家の誅罰(失脚?)の件は、史実ではないようです。この件は、また暇なときに。
>34
細川幽斎は晩年の謙信と密接に連絡をとっていたようです(足利義昭と近衛前久経由)。
ただし、義昭の意向が大きかったのかと思われます。義昭は御内書を何度も出して、信長打倒の
ために後北条・武田と和議をするように謙信に送っていますから。
信長「謙信にドレスとか着せて女装させたら萌えそうだな・・・よし仲良くしよう」
↓
信長「え?アイツマジ女なの?騙された!!謝罪と賠償を(ry」
>>36 すこしワロタ。悪いが、上げます。
マント(ドレス)を贈った信長公も、さぞかし驚いたことでしょう。
なんだか、男性説と女性説にスレが分割されて毒素がなくなったな。
お互いに自説(男女)を大切にしながら、接触を避けるというか、
相手に踏み込めば、怪我をするのを恐れて? なんだかなぁ・・・
もう上げないでください、お願いですから…。
要らない煽りや粗しで、レスが寸断されると、前スレの二の舞に(泣
謙信女性説などというのは、もとより珍説とされていますから(願
HP転載しだしたり、男性説の良い論客がいなくなったのは目に見えていたが
まさか別スレ立てるまでとは予想外だったな
41 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 10:31:14
夏休みに現れた男性説側に考証しようという姿勢が全く見えないのだから仕方ない。
真面目に男性説を考えようとしている人にも失礼だ。
高野山入山なんてテンプレの部分でに終わってた所なのに、、
ただコピペを繰り返しているだけだし。
それを指摘されたら急にスレを埋め立てを始めて、
あのふざけたタイトルとテンプレのスレを立てるし。
あれは、○○以外の何者でもない。
まあ、ああいうヒステリックな危機感で
上杉家も謙信が女性である事を隠そうとしたのかもしれないな。
>>39 分断した責任というのを感じないのかな?
あと誰が珍説としたのか、例を挙げて欲しい
>>39の文章からは、媚びへつらい
恥じも外聞も無く懇願して保身を図り、
裏では足を掬おうとする性格が透けて見える
謙信が女だったという前提で、当時の人間たちがどこまで知っていたかをシュミレーションすると。
【家臣・一門衆】
直江実綱・本庄実乃・大熊朝秀(いわゆる景虎三老臣で、幼いころから知っている)
長尾政景・長尾藤景・長尾景信・長尾小四郎(親戚なので、知っていた)
山本寺定長・琵琶島弥七郎(旧上杉一門だが、居城も近いので知っていた)
【旗本】
河田長親・小島弥太郎・吉江景資・山吉豊守(知っていた)
【国人衆】
斎藤朝信・柿崎景家・色部勝長・中条藤資(景虎擁立派なので、知っていた)
宇佐美定満(政景の配下なので、知っていた)
本庄繁長・北条高広(最初は知らなかったが、知った段階で謀反)
加地春綱(許婚者なので、当然知っていた)
【諸大名】
武田信玄(大熊朝秀の出奔で真相を知る・謙信を捕縛して裸にするのが、川中島に執着した理由)
北条氏康(知らなかったはず。名将言行録に「信長や信玄は信義が置けない。
謙信の下着でお守りを作りたいものだ」とか言ってるので、知っていたとしたら変態)
佐竹義重(かなり年下なので、知らないままだったと思われる)
太田資正(関東遠征の参謀なので知っていた)
成田長泰(知っていた。馬上無礼の家格を知らない謙信が、カッとなって殴る。
彼女にとっては、女だと侮られたと思い込んだのだろう)
織田信長(最初は知らなかったが、色違いのマント〔自分は黒で謙信のは赤〕を
贈るなど、気づいたふしがある)
>>44のつづき
【公卿】
足利義輝(酒を飲んでいるうちに気づいたが、謙信が無茶呑みさせてダウン。
夢だったと思っている)
近衛前久(義輝と同様に夢だと思ったが、謙信が坂本でダウンした時に医師を
派遣して確かめた。のちに、謙信を追っかけて越後に下向する)
>>44 まさか日本史専攻じゃないよね?
そんなはずないよね?
近衛前久が女謙信に惚れて越後まで追っかけたをバカの一つ覚えで繰り返している
妄想廚がまだいる。いい加減パターン変えろい。
>47
パターンを変えるって。
おまい、関白前久の越後下向は史実(永禄三年)だぞ(笑
>女謙信に惚れて越後まで追っかけた
これを証明する史料は?
>49
女謙信かどうかは知らんが、「御湯殿日記」および「越佐史料」4巻にあるぞ。
>女謙信に惚れて越後まで追っかけた
これを否定する史料は?
>>50さん
すいません。よそ者で申し訳ないですが、「御湯殿日記」の関連する個所を抜粋していただけないでしょうか。
いや、図書館に行けなどと冷たいことを言わないでくださいね。
ちょっと興味があるもんで、ぜひ教えてください。
お願いします。
肯定できる史料が無い物を否定するのに史料は必要無い
何故なら肯定すらされてないから
>>50 前スレ
>近衛前久が謙信に一目惚れして越後まで付いて来るも、のちに破綻(史実)
一目惚れした事を史実とする史料を問うているのだが、論点をかえないように。
56 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 18:28:59
>>55 血書起請文(上杉家文書・越佐史料記述)を作成していることから、「一目惚れ」は合理的に
推量されるはず。そもそも「近衛前久が謙信に一目惚れして越後まで付いて来るも、
のちに破綻」は通説だぞ、ボケ。ちなみに、越後下向の同行者は西洞院時秀卿ら数名。
>>55さん
まぁ、落ち着いて。
今
>>50さんががんばって「御湯殿日記」の関連個所を抜粋してくれてるはずですから。
私はまだ目を通してないんで(もともと上杉氏を専門としてないんで)、どんな内容なのか非常に興味があります。
その内容によってその人の史料解釈力も自ずから明らかになるでしょうし。
>>50さん、お手数おかけしますがよろしくお願いいたします。
>「御湯殿日記」
正しくは「御湯殿上日記」では?
資料集(コピー)はあっても、刊行されてないんじゃ?
宮内庁文書ですよ。
>>57さん
>>50さんでしょうか。
すいません。ちょっとタイミングが悪かったですね。
ところで、どうして血書起請文を作成していれば「一目惚れ」なのですか?
私には理解しがたいのでもう少しわかりやすく教えていただけないでしょうか?
>>59さん
>正しくは「御湯殿上日記」では?
そうです。
>>50さんはとうぜん「御湯殿日記」を読んでいるうえで論を進めておられると思うので、関係個所を抜粋していただけると思うのですが。
ちなみに「御湯殿上日記」は大日本史料に活字化されている個所もあったと思うので、がんばって関係個所を抜粋してください。
>>57 「一目惚れ」と言う言葉は、必ずしも男女間の恋愛感情を伴うものでないが、このスレ
では謙信の性別がテーマ。このスレであえて「一目惚れ」という以上男女間の恋愛感情
をさすものと解釈するのが普通。
ましてや「一目惚れ」を史実とするなら、近衛前久が謙信に男女間の恋愛感情をいだいた
事を証明する史料があると思うのが普通。
血判状でどうそれが合理的に推量されるのか、説明してほしいものだ。
それが通説だと言うのなら、簡単にできる筈だね。
>近衛前久が謙信に男女間の恋愛感情をいだいた事を証明する史料
こいつ、アホか? そんな史料がありゃ、とっくに上杉謙信=女性
で戦国史が変わってるぞ。こうして女性説を検証してることもないわな。
>>61さん
謙信(当時は景虎)が将軍義輝、関白前嗣(前久)と酒を飲んで意気投合したのは
前嗣の書状にあります。ともに秩序を回復しようと詠った連歌も残っています。
景虎を気に入った義輝は「住国ならびに隣国の敵を治罰」の綸旨を発給し、
景虎の忠義「上様を供奉するためなら、越後一国など惜しくはありません」
に応えています。そして、前嗣の起請文。翌年、越後下向。
同じ時期(2ヶ月前)に織田信長も上洛して義輝に拝謁していますが、綸旨を下賜された形跡はありません。
これが「ひと目ぼれ」したとされる所以です。このスレにもある恋歌も、このときの作とされています。
ただし、義輝と前嗣は景虎より6歳も若い。景虎が女性だったとして、
ただちに恋愛感情になるものか……? 絶姫(前嗣の妹)の逸話があるとおり、
親密な関係になろうとしたのは事実ではないでしょうか。
>>53(じつは前980)さん
>>50さんではありませんが、「御湯殿上日記」を研究室ないしは自宅に
持っている方は稀だと思います。私も楽しみに待ってましたが、50さんは
どうやら「上杉氏年表」か「定本上杉謙信」あたりを参考にされたのでは?
長文、失礼。
>>63さん
詳細かつ丁寧にご説明をいただきありがとうございます。
要するに義輝・近衛前嗣が景虎と親密にしていたこと、関東における景虎の軍事政権の容認、同様の権限が信長に与えられなかったこと、
その状況において「恋歌」が詠まれた、ということで「一目惚れ」と解釈されるのでしょうか?
私の頭が固いせいでしょうか、やはり理解に苦しみます。
>>50さんはもう立ち去られたようですね。
「御湯殿上日記」は一般にはなかなか入手しがたいですし、図書館で見かけることも稀ですね。
でも大日本史料に載っている個所に関してはネットで閲覧できるのですが…。
>>63さんのおかげでようやくスレタイに近づいてきましたね。
スレタイ(徹底史料分析)が羊頭狗肉にならないように皆さんの良心に期待しています。
65 :
61:2005/07/14(木) 22:21:48
>>63 丁寧なレスさんくす。
自分も謙信と近衛前久が意気投合する話は好きです。
しかし近衛前久が謙信に惚れ込んだと書けばいいものを、「一目惚れ」とするのは
いかがなのものかと。こう言う表現は通常男女間に用いるものでしょ。
史実だ通説だと断言しているのですから、近衛前久が女としての謙信に恋心をいだ
いたとする史料があるとほのめかしていると、捉えられてもあながち間違っているとは
思いませんけど。それも1度ならず何回も書き込んでます。
女説の人が、個々の事柄に関しては史料に基づく分析を行っているのは認めますが
一つの仮説として、自分達の脳内でどう組み立てているのか非常に不思議です。
君の場合、どのような一貫したストーリーを組み立てたのか、是非知りたいところ
です。
>>65さん
>君の場合、どのような一貫したストーリーを組み立てたのか、
これは私のことでしょうか?
う〜ん、私は前スレでも書いたとおり上杉謙信に関する予備知識は全くなくて、
最近になって上杉関連の史料に目を通す機会があったのでようやく興味が湧いてきた、いわゆる初心者です。
ですので女性説でも男性説でもなくて、ただ単に面白そうなスレがあるから立ち寄ってみたら、
ひどい史料操作が行われていたもんですから、思わず書き込んでしまった次第です。
むしろ女性説支持派の方にお聞きしたいのは
謙信が女性であったとして上杉家中がなぜそれを当主として容認しえたのか、ということについて
なにかお考えがあれば教えていただきたいです。
私の感想を言えば、戦国大名当主の権力をあまりにも過大評価しすぎているのではないでしょうか。
答えになっているか、心許ないですが、いろいろとご教示いただければ幸いです。
67 :
61:2005/07/14(木) 22:44:56
>>67さん
あらら、これは失礼しました。
反省してきます。
>>66 当主として容認しなかったから北条だの本庄だの反乱が続発したのでは
反乱連発については
・越後周辺の豪族の独立心の強さ
・謙信があんまり利で釣らなかったこと(しかも周りに釣るのが上手いのがいた)
・長尾家のたどってきた経緯(いわゆる下剋上で納得してない奴が多い)
あたりの理由のほうが現実的だと思うが
>>53(じつは前980)さん
>その状況において「恋歌」が詠まれた、ということで「一目惚れ」と解釈されるのでしょうか?
すこし違うと思います。(田舎武者だと思っていた)景虎が恋歌を詠じたので、近衛前嗣らの公卿が驚いた
という説はありますが。年下の義輝と前嗣に恋心を打ち明けたとは、思えません。
私の文脈の不適切でそう読まれたのなら、お詫びします。すみませんでした。
>>65 :61さん
>近衛前久が女としての謙信に恋心をいだいたとする史料があるとほのめかしていると、
>捉えられてもあながち間違っているとは思いませんけど。それも1度ならず何回も書き込んでます。
>女説の人が、個々の事柄に関しては史料に基づく分析を行っているのは認めますが
>一つの仮説として、自分達の脳内でどう組み立てているのか非常に不思議です。
>君の場合、どのような一貫したストーリーを組み立てたのか、是非知りたいところ
です。
発端になったのは、
>>44さんの
>近衛前久(義輝と同様に夢だと思ったが、謙信が坂本でダウンした時に医師を
>派遣して確かめた。のちに、謙信を追っかけて越後に下向する)
だと思いますが、これは女性説の
>>44さんの洒落ではないでしょうか。なるほどなぁ…、と。
私も感心しましたが、想像の産物にすぎませんね。永禄2年の景虎の上洛に関して、女性説を
決定づける史料はありません。ちなみに、私は謙信女性論者ではありません。長文になりましたので、
レスを変えて基本的な考え方を言上申し上げます。乱文のほど、ご容赦あれ。
あらためまして、
>>72です。
上杉謙信という戦国大名は、つくづく謎の多い人です。作家の安西篤子さんが
「心理分析をしてみたい」(学研の雑誌「戦国群像」)と言われているとおり、
気分しだいで花押も筆致も変わる? 男性的な伝承もあれば、女性的な詠歌や願文も
のこされています。残されている戦記物語(上杉文書)をまっとうに読めば、
たしかに分裂症としか思えません。しかしながら、書状の筆致や花押も、最新の研究
「新潟県博紀要」(第五号)の謙信祐筆の研究(?)によれば、直筆ではなかった
という見方もできます。そこで、喜平次(景勝)宛ての書状や吉江景資夫妻宛ての
加賀攻めのおりの書状に注目したのです。たしかに、おびただしい軍令書とは違う
謙信の素顔が見えてきました。だからといって、謙信が女性だったと断言できるほどの
史料研究は遠い先のことです。しかしながら、謎の武将を女性説という斬新な切り口で
その実像に少しでも迫れるならば、閉塞した感のある戦国史研究にも一縷の光明があるのでは
ないかと思います。乱文で失礼…。
あと、コテハンは避けたほうがよろしいかと。前〃スレ、前スレでも、必要以上に叩かれた
ケースがあります。私は文意や文体で、誰が書いたのかはわかりますから。
外野の者ですが、このスレが削除されるという情報もあるので、
ログは保管しておきますね。で、せめてもの抵抗に、あげ!
>>74さん
万一に備えて、当方もログは保管しました。by
>>72・73
では、御機嫌よう。
久々に実のある情報交換が行われてますね
>>76 バカな男性説派というか、無学な者たちが来なくなったからな(w
ってのは、そのバカ者たちにスレを削除される腹いせさね(w
向こうの方がスレは進んでるけどなんだかなあ
削除は通らないでしょコレ
>78
こーんな顛末か?
殿「何とか和睦は出来ないものであろうか……」
重臣「難しいかと」
殿「何とかせいッ!!」(と、暴れる)
旗本(馬廻り衆)「姫様!」
殿「姫ではないッ!!!」
家臣一同「へへーッ」
殿「むぅ、気に入らん…」
>>81は女性説と関係ない内容を貼っている馬鹿な男説派なのでスルー推奨
男性説派の馬鹿たちはこのスレッドの立ち入り禁止
いや来てもいいけど?w
アフォどもが来てもいいの?w
馬鹿が来ても返り討ち(笑
良識派と低脳が入り混じってるようだな。
片方を拒絶して女説マンセーとは片腹痛い。
>>81 越佐史料では、天文6年(謙信8歳)の時に門察和尚を師として養育される。
だが、栃尾に古志郡司として入ったのは天文12年(謙信14歳)。
いっぽう、弘治2年(謙信27歳)のときに書いた天室光育あての「隠居の書状」
には、光育が林泉寺6代住職だった頃の養育に対する感謝があり、幼少期に林泉寺
にいたことが推察される。したがって、栃尾常安寺は天文12年だというのが通説。
こういうのは、どちらも地元が主張するものなんだなあ。
>89
天文年間なら4巻のはず。
>>90 天文年間『なら』?4巻の『はず』?
答えになってませんよ。全6巻という事すら知らなそうだ。
>91
何だお前! 親切で教えたのにインネンかよ!!
自分で調べろ、ヴォケ!!!
>>91 そこでおまえが「4巻にはそのような記述は無い」ときっぱり答えるならまた話は違うが
そのままじゃオウム返しで何の意味も無いレスだぞ?
何か知ってるんならそれを足がかりにしてみせろ
無知なおバカさん方は当スレには不要です。君達に言ってるんだよ
>>92、
>>93。
>>88 林泉寺は謙信の祖父が春日山城の近くに建立したもの。
88の説で女性説であれば、それだけ長尾家と縁が深ければ
入山しなくとも何らかの薫陶があってもおかしくはないとも言えるのかな。
父親が死んだばかりの動乱の地でのんびり寺に入ってるのも不思議な話だし。
いえねーよ、ばーか
入山と登山の違いも分からん奴が語るな
>父親が死んだばかりの動乱の地
天文9年末が為景死去だとすると、虎千代は12歳になる頃。
動乱の地というけど、栃尾は古志長尾(母の実家)なわけだから、
割とのんびりと言えなくもない。もっとも、郡司になってからは攻められるが。
>>97 正しくは入山と渇食の違いを理解していない。だな
>>98 >天文9年末が為景死去
学説では天文5年の暮れ謙信7歳の時じゃないの?
>>88に寄れば、その頃から春日山の近くの
林泉寺あたりにいた事になりそうだけど。
>>100 天正2年(1574)12月24日に為景の33回忌が営まれているところから、
最近は天文9年(1540)末〜天文10年(1541)初めという説がある。
もっとも、天正3年1月は景勝に官途を譲り、2月には有名な軍役帖を
作ったり、区切りの時期でもあったわけだが。
たしかに天文5年に病没説だと、それから謙信が大活躍を始めるまでの間、
晴景でよく持ったな長尾家…って気がします。
国人たちの独立心が異様に強くて、父の為景さえさんざん戦ってたのに。
自分が隠居することで不満を抑え、あとの数年間
晴景を支えていたというほうが、個人的には納得できます。
>>44 ちょっと、笑えたよ。
>北条氏康(知らなかったはず。名将言行録に「信長や信玄は信義が置けない。
>謙信の下着でお守りを作りたいものだ」とか言ってるので、知っていたとしたら変態)
原文は「信長や信玄は策略が多くて信義がおけない。謙信だけは、義のためには灰になるまで信義をつらぬく。
若い者たちには、謙信の肌着でお守りを作ってやりたいものだ」という感じだったと思うが、
氏康が謙信を女だと知ってたら。
「謙信のブラとショーツが手に入ったら、それで若い者たちのお守りを作りたいものだ」
という現代語訳になる(w
スマソ、萌えネタになってしまった。
>>66 :53(じつは前980)
>むしろ女性説支持派の方にお聞きしたいのは
>謙信が女性であったとして上杉家中がなぜそれを当主として容認しえたのか、ということについて
>なにかお考えがあれば教えていただきたいです。
>私の感想を言えば、戦国大名当主の権力をあまりにも過大評価しすぎているのではないでしょうか。
戦国大名当主の権力が過大評価されているのではないか、という問題意識は非常に興味深いものです。
荘園領主から守護大名をへて、独自の分国を支配するようになった戦国大名にとって、同門衆や国人領主
をいかに統制するかだったと考えられます。上杉氏や武田氏においては「同門衆」「国人領主」「譜代・旗本」
の構成が中世的(譜代・旗本の構成比が小さい)という評価が通説です。
これは、もっぱら織田信長の軍団編成(上記の序列を無視した抜擢・実子と旗本を重視)と比較されて
のことです。ところで、上杉氏や武田氏の場合は、軍団の基礎単位が大きかったので野戦に強かった
という説もあります。近代の軍隊のように武器の種別に軍団が編成されることは少なく
(長篠の織田軍鉄砲隊・武田騎馬軍団も最近は否定されています)、総大将(謙信や信玄)にとって、
強みでもある軍団の基礎単位の大きさは、そのまま両刃の刃として内乱(叛乱)の火種だった
と思われます。事実、信玄は勝沼五郎という一門最大の武将に謀反されていますし、
謙信は信玄の調略もあって、北条高広・大熊朝秀・村上本庄繁長らの謀反に苦しみました。
重臣たちとの意見調整(軍議・評定)を重んじた信玄とはちがい、謙信は独裁的な
戦国大名だったとされていますが、じつは後世の軍記物語によるところが大きく、実像は
かなり違うのではないかと考えられます。(つづく)
>>69さん
レスいただきましてありがとうございます。
>>66です。
北条や本庄の反乱が当主として容認されていなかったからというのはわかりました。
ところで、彼らは謙信が女性だから当主として容認しなかったのでしょうか?
また、彼らは上杉(長尾)の家中ではないと思うのですが、もっと謙信に近い人々はなぜ女性である謙信を擁立したのでしょうか?
気が向いたときでけっこうですので教えていただけないでしょうか。
>>72さん
丁寧な対応をいただきありがとうございます。
助言のとおり、コテハンはやめました。
「一目惚れ」の件、詳しく解説いただきましてありがとうございます。
その後、大日本史料の稿本で「御湯殿上日記」を閲覧しましたが、近衛前嗣が越後に下校した記述こそ確認できましたが、
私にはそこから謙信に惚れていたことを読み取ることができませんでした。
残念です。
>>73の県博研究紀要もよさそうですが、図録も欲しくなってしまいました。お金がかかりますね。
今度の休日にでも上杉家文書に目を通そうと思います。
少しだけですが、上杉氏にも興味が湧いてきました。また面白い話題になればお邪魔させていただきます。
ほかの皆さんもお邪魔してすみませんでした。
>>104さん
すいません。リロードで確認せずに書き込みしてしまいました。
続きを期待しております。
>>104のつづき
江戸時代の軍記物語「北越軍記」では、天文16年に謙信(景虎)の武名が
高まり、長尾氏譜代の家臣や上杉氏家臣が彼(ここでは彼女)を擁立する動きが
活発化したとあります。のちの景虎政権の成立(天文18年正月)から考えて、
史実だろうと思われます。しかし、弱冠19歳の若武者が擁立されたのには、
越後国人衆(譜代家臣・上杉家臣をふくむ)の一揆盟約がなければ、成り立たない。
この時期、直江実綱・本庄実乃・大熊朝秀・中条藤資が景虎擁立派で、上田長尾(政景)
が根強い敵対者でした。上田長尾が服してのち、揚北衆の領地裁判に関連して大熊朝秀が
武田氏に出奔します。この事件は景虎の隠居騒動にまで発展するのですが、
上田長尾の政景が景虎を説得することで、解決されます。どうも、この過程をみていると、
景虎(謙信)は長尾一門と越後国人衆の水面下の政治に動かされているように
感じられます。大熊朝秀の謀反を計画したのは武田信玄ですが、この時期の長尾氏内部に
どんな政争があったのか。そのあたりを探ると、上杉謙信が女性だったという
仮説から思いがけない歴史の真相が見えてきそうで楽しみです。謙信没後の
御館の乱も、同様の魅力があります。
>>105さん
>少しだけですが、上杉氏にも興味が湧いてきました。
歴史研究者(と思われる)方に興味を持っていただいて、望外の僥倖です。
従来から、武田氏の物語性(父と信玄の確執・信玄と子の確執・側室たちの暗闘)
にくらべて、上杉謙信は「義の聖将・律儀な軍神」と崇められて、聖別されてきた
きらいがあります。女性説という仮説を媒介に、謙信の実像にせまることができれば
わたしたちの戦国史観も、もっと豊富なものになるのではと思います。
また立ち寄ってください。
>>105 いや、別に俺は女性説の人じゃないし。ネタとして楽しめたら、って程度。
だから反乱の原因が「女性だったからか?」と言われると、そんな根拠は無い。否定する根拠も無いけど。
ただ謙信が必ずしも家中に容認されていた訳ではなく反乱は結構起こってた、ということは言いたかった。
あ、69のことね。
>ただ謙信が必ずしも家中に容認されていた訳ではなく反乱は結構起こってた、ということは言いたかった。
なるほど、その通り。女性である・ない、以前に越後国人衆の独立性・在地性は
旺盛なものがある。たとえば、独立性・在地性を信長のように奪えば統制できたのかというと、
家臣に裏切られる事態にもなるわけで、上杉家も武田家も叛乱に悩まされている(武田氏は滅亡)。
>107が言うような、「水面下の政治」の様相がわかれば、もっと戦国時代の実像に近づける
のかもしれんが。
>>105さん
きのうの
>>61です
近衛前嗣の件で女説の宣伝してた女説者が「一目惚れ」の根拠としてたのは、「御湯殿上日記」
でなくて血書起請文のほうですよ。これには、近衛前嗣がこれからは謙信一筋でいきますみ
たいな事が書かれており、前嗣が謙信という人物に惚れ込んでいだ事がわかる史料となって
います。もちろん「人目惚れ」とする表現し、それを通説だ史実だとするのは、女説としての
あなたの言う史料歪曲である事は、間違いないと思います。
ところで、今別スレを女説の一派が連日アラシしています。良識ある女説の人は
この現状をどうお考えでしょうか?同じ謙信ファンとして怒るよりもむしろ悲しく
なります。
それとも、良識ある女説の人などもともと存在しないのでしょうか?
別スレ自体が荒らしの立てたスレなのでこちらからは極力関わらないというのが
女性説派のスタンスです
>>109さん
レスいただきましてありがとうございます。
お考えはわかりました。特に問題はないと思います。
>>111さん
連日お手数おかけします。
>女説者が「一目惚れ」の根拠としてたのは、「御湯殿上日記」 でなくて血書起請文のほうですよ。
ご忠告いただきましてありがとうございます。
昨日のお話で起請文からは「一目惚れ」を裏付けられないという話になったと思っていたので
念のために「御湯殿上日記」を見てみました。
わざわざ書き込んだのは
>>50さんには少し嫌味だったかもしれませんね。
気分を害されたようなら謝ります。
それでは。
>>111さん
>>105さんではありませんし、たぶん女性説の良識派(?)でもありませんが…、
「アラシ」の件は2chという性格上、私たちにはどうにも出来ないことです。
スレが分割(分離)し、このスレも削除対象になっているとのこと、これもどうしようも
ありません。私は女性説という仮説を媒介に、少しでも上杉謙信の実像にせまることが
出来ればと思いますが、スレッドの成り行きは…。解決策がないと思います。
すみません、有効な方策も知恵もなく。
>>112 良く分かりませんがこういう事実があるのでお引取り願います
あなたの行為は良識派の方々の足を引っ張ってるに過ぎません
227 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 21:33:07
>>1 乙! よくまあ、ここまで内容のないスレを
ほぼ自作自演で引っ張ってきたね(謝
229 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:32:45
レスは最低でも3行以上書くように。
あそうなのですか (改行)
内容よりも、物量で勝負の糞スレですから・・・
231 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:58:04
ばかしかあつまらないけどな (改行)
三行以上のノルマ達成!
232 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:20:51
あほ
あほ
あほ
あほ
233 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:42:30
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
3行以上、クリア!w
>>234 三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
>115
そっちで解決してください!
アラシの尻拭いは迷惑です!!
しょせん、別スレでしょ?
>>115 どうして、こっちに振られるのか(鬱
ここまで、荒らしもなかったスレなのに
あっちは厨用の隔離スレつーか厨ホイホイと化してるな…。
>>116 良識派の方々か忠告してくださいな
荒らしが繰り返されればこちらも荒れる原因にもなりえます
119 :日本@名無史さん :2005/07/14(木) 16:01:58
>>118 その質問は前スレで既出どころか当スレッドでも既出ですよ。お馬鹿さん
男性説派って
低脳ばっかだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
130 :日本@名無史さん :2005/07/14(木) 19:51:10
このスレは、大半が前スレと他スレのコピペで作られています。
質問とかしても、絶対に回答はありません。
143 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:09:42
>140
嘘ばっかし(軽蔑
148 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:27:26
>146
レスは多いけど、悲しいほど内容がない・・・
ここにはバカしか来ないのですか?
151 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:39:55
ここ、アホばっかですね。
153 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:43:04
うーん。前スレに比べたら
子供の落書きだな・・・鬱
>>116 女性説派一同と自ら名乗る彼女を引き取ってください
167 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 03:42:18
一騎当千のつわものといふ
>>157 の出馬は、いつのことかぁ。われらは手ぐすね引いて、待っておるぞぉ!
恐惶謹言
他スレ女説派(急進派)一同
168 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 03:59:24
もうこれで、157は逃げられんな(笑
どこまで逃げても
>>157の放逸な文章を、賽の目に切り刻まれるだけの運命
明日(いや、もう今日だ)女性説のスレに雁首を出せっ! 縛り首じゃ!
>119
じつは良識派なのですが、アラシ行為はやめましょう。などと言って、効果があるもの
なのだろうか?アラシは無視して平静を保つことこそ、王道では?
しかたないから、呼びかけますが……。
☆みなさん、アラシ行為は慎みましょう。おたがいに、謙信公を愛する立場なのです。
これで、どうですかね?
>>122 あなたが止めれば荒らしは無くなりますよ
>>120>>121 これを本当の「荒らし」というのではないのか!!??
もう、やめてください!!!
239 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:33:04
120 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:24:12
119 :日本@名無史さん :2005/07/14(木) 16:01:58
>>118 その質問は前スレで既出どころか当スレッドでも既出ですよ。お馬鹿さん
男性説派って
低脳ばっかだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
130 :日本@名無史さん :2005/07/14(木) 19:51:10
このスレは、大半が前スレと他スレのコピペで作られています。
質問とかしても、絶対に回答はありません。
143 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:09:42
>140
嘘ばっかし(軽蔑
148 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:27:26
>146
レスは多いけど、悲しいほど内容がない・・・
ここにはバカしか来ないのですか?
151 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:39:55
ここ、アホばっかですね。
153 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 00:43:04
うーん。前スレに比べたら
子供の落書きだな・・・鬱
121 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:27:13
>>116 女性説派一同と自ら名乗る彼女を引き取ってください
167 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 03:42:18
一騎当千のつわものといふ
>>157 の出馬は、いつのことかぁ。われらは手ぐすね引いて、待っておるぞぉ!
恐惶謹言
他スレ女説派(急進派)一同
168 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 03:59:24
もうこれで、157は逃げられんな(笑
どこまで逃げても
>>157の放逸な文章を、賽の目に切り刻まれるだけの運命
明日(いや、もう今日だ)女性説のスレに雁首を出せっ! 縛り首じゃ!
115 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:12:46
>>112 良く分かりませんがこういう事実があるのでお引取り願います
あなたの行為は良識派の方々の足を引っ張ってるに過ぎません
227 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 21:33:07
>>1 乙! よくまあ、ここまで内容のないスレを
ほぼ自作自演で引っ張ってきたね(謝
229 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:32:45
レスは最低でも3行以上書くように。
あそうなのですか (改行)
内容よりも、物量で勝負の糞スレですから・・・
231 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:58:04
ばかしかあつまらないけどな (改行)
三行以上のノルマ達成!
232 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:20:51
あほ
あほ
あほ
あほ
233 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:42:30
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
3行以上、クリア!w
>>234 三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
127 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:36:21
121 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:27:13
>>116 女性説派一同と自ら名乗る彼女を引き取ってください
167 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 03:42:18
一騎当千のつわものといふ
>>157 の出馬は、いつのことかぁ。われらは手ぐすね引いて、待っておるぞぉ!
恐惶謹言
他スレ女説派(急進派)一同
168 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 03:59:24
もうこれで、157は逃げられんな(笑
どこまで逃げても
>>157の放逸な文章を、賽の目に切り刻まれるだけの運命
明日(いや、もう今日だ)女性説のスレに雁首を出せっ! 縛り首じゃ!
コピペはやめて下さい
とんだ災難だなぁ・・
もともと、向こうのスレの荒らしが、どうしてここに?
せっかく良スレだったのに、わけわからないうちにボコボコに荒らされちゃって…
>>130 本スレの荒らしをあなたが止めればね
115 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:12:46
>>112 良く分かりませんがこういう事実があるのでお引取り願います
あなたの行為は良識派の方々の足を引っ張ってるに過ぎません
227 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 21:33:07
>>1 乙! よくまあ、ここまで内容のないスレを
ほぼ自作自演で引っ張ってきたね(謝
229 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:32:45
レスは最低でも3行以上書くように。
あそうなのですか (改行)
内容よりも、物量で勝負の糞スレですから・・・
231 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:58:04
ばかしかあつまらないけどな (改行)
三行以上のノルマ達成!
232 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:20:51
あほ
あほ
あほ
あほ
233 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:42:30
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
3行以上、クリア!w
>>234 三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
何のお祭り??
おい、おまえら他スレをコピペで荒らして、そんなに楽しいか?
見下げた根性だな
>>135 またコピペ、もうやめれ!
最初に男性説派スレ(?)から挑発し(仕掛け)てきたんだぞ!
無責任な香具師が参戦するの、想像汁!
>>133 自分で止めようという発想はないのかね?
ここにコピペを繰り返し貼っても抑止効果など一つも無い
男性説派というかあのスレ住民の良識を疑うぞ
>>136 >最初に男性説派スレ(?)から挑発し(仕掛け)てきたんだぞ!
この仕掛けるとは何時、何処の事?
>>137 自分で止めようという発想はないのかね?
ここにコピペを繰り返し貼っても抑止効果など一つも無い
女性説派というかこのスレ住民の良識を疑うぞ
双方が被害者ぶって、相手を加害者として非難する
これはネットの中ではもっとも泥沼化するパターン
まぁもちつけ
↓こいつが最初にコピペをこのスレに投下した。動かぬ証拠(検察側甲第一号証)
>>115 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:12:46
違うスレの話を持ってこられても困る
前スレでHPからコピペしてた例の男性説のバカだろ
向こうに引き篭もったんじゃなかっのか?コピペばっかだな・・・
227 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 21:33:07
↑以前にも議論と関係ない(女性説とは関係ない)荒らしは来たがここら辺から粘着して荒らすようになった
>144
だからと言って、大量のコピペで他スレを荒らしますか?
>>145 それはいけないことなの?
115 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:12:46
>>112 良く分かりませんがこういう事実があるのでお引取り願います
あなたの行為は良識派の方々の足を引っ張ってるに過ぎません
227 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 21:33:07
>>1 乙! よくまあ、ここまで内容のないスレを
ほぼ自作自演で引っ張ってきたね(謝
229 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:32:45
レスは最低でも3行以上書くように。
あそうなのですか (改行)
内容よりも、物量で勝負の糞スレですから・・・
231 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 23:58:04
ばかしかあつまらないけどな (改行)
三行以上のノルマ達成!
232 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:20:51
あほ
あほ
あほ
あほ
233 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:42:30
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
コピペ以外は、3行以上書けないスレ
まことにご苦労さま
3行以上、クリア!w
>>234 三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
三行以上は書けと、そう言ってるだろうが!!!
大量のコピペによるスレの進行の妨害は荒らし行為とされます
まだやってるのか。情けない・・・。
なんか、向こうのスレで訴訟沙汰になってるみたいだな。
ぷ
なんだか荒らされまくりましたね、マジメにカキコしてるのが馬鹿みたい。
>151
町で見つけたら、殺さない程度に殴りますね
二度と来ないでください!
程度の低い妨害工作でしたな
>>156
お前のレスも程度が低いな
>>157=145
てか向こうで荒らしてた犯人の一人はコイツだわ
そもそも、こいつが言い出してからすべてが始まったようだな。
>>111 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 00:57:45
>>105さん
きのうの
>>61です
近衛前嗣の件で女説の宣伝してた女説者が「一目惚れ」の根拠としてたのは、「御湯殿上日記」
でなくて血書起請文のほうですよ。これには、近衛前嗣がこれからは謙信一筋でいきますみ
たいな事が書かれており、前嗣が謙信という人物に惚れ込んでいだ事がわかる史料となって
います。もちろん「人目惚れ」とする表現し、それを通説だ史実だとするのは、女説としての
あなたの言う史料歪曲である事は、間違いないと思います。
ところで、今別スレを女説の一派が連日アラシしています。良識ある女説の人は
この現状をどうお考えでしょうか?同じ謙信ファンとして怒るよりもむしろ悲しく
なります。
それとも、良識ある女説の人などもともと存在しないのでしょうか?
そういえば、謙信は高野山に登山も入山もしていないで決着したんですか?
あと、登山と入山に大きな意味の違いってあるんですか?
辞書ではどちらも意味は変わらなかったんですが。
>>159 元々、向こうの住人は削除回避のためにスレが伸びるのを喜んで、
スルーすればいい相手を相手にしたのが荒れた原因でしょうね。
本来削除されるべき所を削除回避にほぼ成功したのですから、
あちらの住人にとっても思惑通りでしょう。
そしてこちらには現れないことで、
こちらへの削除以来を成功させようとしましたが、
しかし、こちらも普通にレスが伸びたので、
交じり合う事にしたという所ではないでしょうか。
しかし、あちらのスレは、『学説では謙信は男』であることを確認するためのスレで、
こちらは双方の説を資料で検証するためのスレでいいのではないでしょうか。
大量コペピを理由に、先方のスレも削除対象となっています。
単なる重複スレという事由ではなく、規約違反です。
ほんと、ただでさえ荒れやすいテーマなのに
スレが分かれたことで、荒れる理由がさらに増えてしまったな。
分かれたのだって、別に話し合いの末分かれたんじゃないのにな
>162
これだけのことをしでかしたんだから、当然だよ。
>160
このスレでは議論されてないことですが、謙信は天文22年に上洛し、
本願寺・臨済宗大徳寺(宗心の法号を受ける)・高野山などに参拝しています。
登山(単に山に登ること)入山(僧侶が山に入ること・入門すること)
にゅうざん 【入山】(名)スル
(1)登山のために山にはいること。
(2)僧侶が修行のためや住職となるために寺にはいること。
>>160 高野山は上杉文書出典じゃなかったんだ。
肖像画は明治31年の作だよね。
宗心は景勝も貰ってるんだよね。
167 :
166:2005/07/16(土) 10:50:20
一言言うと、通常、削除対象は後から出来たスレになるよ
これマジで
スレタイが気に入らないとかは理由にならないようだ
無意味な文字列コピペとかじゃないし、削除はないんじゃないかい。
しかも一応、かろうじて両立の状態で機能してるしな…。
まあ削除のことは心配してもはじまらないね
>>169 十分に無意味なコピペかと、間違いなく削除でしょ
先に荒らした云々関係なしに、知らせたければコピペせずにURL貼れば済む話だから
十分にアク禁対象
後先は関係ないね。
不適切なスレの建て方や内容であれば本スレとは認められない。
削除人がIPを見れば、前スレがどのように埋め立てられて、
向こうのスレが建てられたか見れば一目瞭然だし。
戒名って言うと、現代人では、
祖父や祖母の姉妹の戒名を
知ってる人なんて殆どいないという感覚なんだけど、
そんなに捏造って難しいのかな。
江戸時代になって、
「どこかの霊験あらたかな禅師が
上杉家の家運を吉に向けるために
戒名を新しく付け直す事を勧めております。」
なんて佐助さんが尤もらしく言ったら変えられた
なんて事はないのだろうか。
●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
住人がこれを守れて初めてアク禁対象 反応した奴も負け組
>>173 どうかなあ。位牌とかに書くもんだしね。
文書にも残るから、全部書き換えなきゃならない。
ましてこの時代は生前につけることが多かったわけで、
そうなると他家への文書なんかにも書かれる。
ずっとあとで変えても、ばれるんじゃないかね。
176 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:13:07
文章が殆ど紛失されてて、
位牌だけ残ってるってのもおかしな話だ。
>>172 削除人はIPが載ってるログ見れません
不適切なスレの建て方とは、貴方にとっての不適切と判断されるのがオチ、内容も同様
そもそも本スレとか、スレタイなどは関係ないよ
逆にこのスレが先に建っていれば、あっちがどう言おうと、あちらが重複スレとして削除される
そんなもん
前スレの埋め荒らしの件は、それはそれとして扱われるしね
削除議論板で聞いてみればいいよ、似たような答え返ってくるから
位牌でもなんでも、江戸時代に無理矢理変えたとしたら、
変えたその時代に見た人は「おかしい」って気付くのでは。
ある日いきなり変わってたらむちゃくちゃ印象に残るよ。
謙信の位牌やら何やらは、上杉家だけにあるわけじゃない。
「上杉家は必死で何か隠そうとしてました」
っていう記録が全く残らないっていうのは、ちょっと不自然すぎるよ。
男のふりをしていたという仮説なら、位牌は名前(男性名)と同様にあまり女性説の根拠に
ならないと思うよ。生前(天正弐年)に法印大和尚と名乗ってるんだから。
全国の大名の間で家計図の捏造が行われたのが江戸時代の初期。
この頃は上杉家だけが必死だったわけじゃないから、
必死さが目立たなくてもおかしくはないよ。
江戸期に捏造したとすると、
生前は普通に女大名として活躍してたってことになる…んですよね?
いくら捏造が多く行われていたとしても、
あれだけ名を馳せた大名で、しかも女性だとしてすごく目立っていたであろう人を
いつのまにか男にすりかえるなんてこと、できるのかなあ
うーん。生前(公然・女武将)活躍説は、無理がありますねえ。
すこし、謙信女説の脈絡(複数説)を整理してみませんか。今宵は遅いので、
明晩にでも・・。
>>182 謙信公、男装説
謙信公、公然と女だった説
楽しみにしてます!
>184
ありがとう。そっちにも遊びに逝かせてもらいます。暇なときに(w
>>184 にゃんと…、萌えの。エロいスレだった。
上杉謙信女性説(男装説)
上杉謙信は長尾為景の次女。幼名を於虎といい、天文六年に虎千代という男児名で春日山林泉寺に
渇食(修行)する。この事情は、上杉氏年表の「為景」は内乱の収拾のため、姻戚関係の締結という
新たな講和体制を打ち出す。阿賀北の国人衆への備えとして、加地荘(注釈略)を本拠とする加地春綱
に為景の娘(晴景の妹)を嫁がす。また一族の上田長尾氏の長尾房長には、同じく為景の娘(晴景の妹)
で、後に仙洞院(景勝の母)となる女性を嫁がせる約束が成立した可能性が高い」
とあるように、いったん婚約が成立したものの、於虎が激しく抵抗したので、為景は
彼女を男児として林泉寺で勉学させたものと思われる。上記の婚約・姻戚が成立して
いたら、加地氏は長尾一門として有力な地位を得ているはずだが、それを伺わせる史料はない。
虎千代が林泉寺に修行していた時期、越後は守護職上杉定実の隠居にともなう
嗣子問題で揺れる。すなわち、伊達時宗丸の養子縁組騒動である。時宗丸の母の実父
である中条藤資が勝手に仲介役を引き受け、それに反発した色長氏・村上本庄氏らと
対立。一時は伊達勢が下越に侵入し、本庄氏が庄内に追い落とされるなど、内乱は
深刻な事態に発展する(十一年の伊達騒動までつづく)。
天文十二年、晴景は虎千代を元服させて平三景虎と名乗らせ、古志郡司として
栃尾城に入城させる。後見役は本庄実乃である。この間、為景の次男景康、三男景房が
相次いで亡くなった可能性が高く、男児を装っているとはいえ、晴景が妹を郡司に任命するのは
苦肉の策だった。(つづく)
ところが、栃尾城に入った景虎は、中郡の国人衆をしたがえて叛乱を平定した。
いきおい景虎の武名は高まり、黒田秀忠の謀反を制圧することで頂点に達する。
残されているのは越後長尾諸流
(府内長尾・古志長尾・上田長尾・三条長尾・下田長尾)の統一だった。上田長尾氏以外は景虎擁立に動いていたが、
上田長尾氏においては政景を立ててこれに対抗した。越後中郡で領地を接する古志長尾氏との対抗上、越後守護代の座をめぐって叛旗を翻したのである。
政景は病床にある晴景を名分に、景虎追討の書状を発給し、越後はふたたび
内乱の危機に陥る。しかしながらその頃、直江実綱・本庄実乃ら長尾氏重臣、
大熊朝秀ら上杉氏重臣、中条藤資ら阿賀北国人衆が一味して景虎擁立に動く。
このように、謙信政権が誕生した裏には、越後国人領主の一揆盟約、内乱回避のうごきがあったのは明白であろう。
上杉定実の斡旋で府内長尾氏を継承した景虎は、上田長尾の謀反も平定し、
春日山城主(越後守護代)となる。
上杉定実が没すると、越後国主となる。朝廷および将軍家から国主(守護)にだけ許される
毛氈鞍覆い・白傘などとともに、弾正少弼の官途を受ける。これが第一回上洛(返礼)の理由である。
爾後、景虎は女性の身でありながら越後国主(のちに山内上杉家関東管領)として、戦国大名の道を歩むのである。そのいっさいの言動は男性として執り行われ、のちに徐々に女性であることが露見するも、四十九歳の生涯を戦の天才・
風雅の人・やや短気な独裁的司令官として輝かしい武功を残す。
その死後も、女性であることは公には秘され、甥の景勝によって女性であった証拠類は焼却されたという。ただし、さまざまな伝承や伝聞で、女性説が今日に伝わっている。
※史料参照
謙信が公然とした女大名だったとする説に、矢切止夫の『上杉謙信は女だった』ほかの一連の著書
謙信をGID(性同一性障害)と結びつける杏野丈著『シンデレラさん、お大事に』
などがある。
ストーリーはとても興味深く読ませていただいたけど
検証するのならば、
>その死後も、女性であることは公には秘され、
>甥の景勝によって女性であった証拠類は焼却されたという。
>ただし、さまざまな伝承や伝聞で、女性説が今日に伝わっている。
このへんをきちんと説明することが一番大事な気もします…
>>191 小説だからその辺はその程度でいいんだよ。
上杉謙信女性説(男装説)は、小説レベルだってことか ‥
本出せば普通に売れそうだな
天室禅師への手紙(弘治2年)がポイントでは?
「…私が春日山城に入ると、不思議に内乱がおさまりました…」
当初、景虎は越後国人衆の傀儡政権(国人領への郡司不介入のため)
だったのだと思う。そのうちに独裁的になるわけだが、国人領主の
権利(相続権や領地)は侵していないどころか、口出しもしてない。
>>193 宇佐美(大関佐助)の書いた上杉家文書も、大半が小説なのだが…
>>196 「上杉家文書」って手紙や命令書なんかをそのまま残したものを
まとめてそう言ってるわけじゃないの?
ずっとそう思ってた。もしかして私はすごいバカなのか?
>>196 仰せのとおり膨大な書簡も含みますが、謙信に関する記述の大半は江戸中期に書かれたもの。
※『群書解題』によれば、『川中島五箇度合戦之次第』は畠山義真・吉良義央・
宇佐美定祐(紀州藩大関某)・竹脇義秀が協議した書とあります。吉良義央は
赤穂浪士に殺された吉良上野介。図書館でも容易に閲覧できる下記の史料は
『川中島五箇度合戦之次第』をもとにした類書です。もっとも、上杉家文書の
景勝以降の記述は、同書との整合性をとったもの以外は創作とはいえないと思われます。
『上杉史料集』(井上鋭夫校注、全3巻、新人物往来社、1969)
北越軍談・上杉三代日記・北越耆談・川中島五箇度合戦之次第・松隣夜話・上杉将士書上・久知軍記・古案記録草案
『上杉文書目録』( 米沢図書館編、1969)
>198
それもまぁ、小幡景憲の「甲陽軍鑑」(半分以上が小説)を元本にしたもの
「関東古戦録」(謙信が40人ぐらいで、3万の北条軍を蹴散らす)と同じ
絵空ごと。いまでいえば、謙信が関ヶ原後に上洛する学研のシュミレーション小説
みたいなもの??
>>198 どうもありがとう。また勉強になりました
それにしても、信頼のおける謙信時代の史料って、
ホント少ないんですねえ…重要事項の年代すらまちまちですし…。
やっぱり、御館の乱が悪いのか…。
>>201 いいえ、おそらく謙信公が女性だったからでしょう。
滅んだ武田家の文書は信頼できるものも多く残されているというのに、
春日山城が御館の乱で主戦場でなかったにもかかわらず、上杉家の「謙信公」に
関する文書は少なすぎるのです。
>>187 引用してる「上杉氏年表」もけっこう杜撰な本なのだが・・・
晴景と次男(景康?)を混同したり、関ヶ原の記述も意味不明だったり
謙信の同時代史料が少ないから、必然的に最新の?研究書も杜撰になるのだろうか・・・
>>202 武田家の文書が豊富なのは、家康がやたらと
武田家の軍法やら何やらが好きで、
積極的に残そうとしたからでは。
上杉家は冷遇されたけど…。
>>204さん
趣旨がちょっと違うと思う。武田氏同時代史料の「妙法寺記」や
後世の編纂だが伝聞史料として無視できない「軍鑑」に相当する
ものが、上杉家には残されていないのです。相当するものに、上記の
「川中島五度合戦次第」や「春日山日記」などがありますが、信長公
が謙信に「かなわないのでゆるしてください。あなたが上洛のおりには腰に
扇子一本でご案内します」みたいな、冗談としか思えないものばかり…。
上記の大関佐助・吉良上野介がデッチ上げたしたのも、幕府(酒井忠清)から
「本朝通鑑」のために、上杉家においても正しい歴史を報告するようにと、
上杉綱憲に要請があったからです。このデッチ上げを後押ししたのが紀州頼宣公で、
皆無にひとしい上杉家の歴史を宇佐美某に創作させたのが実態だと思います。
>>205の
>皆無にひとしい上杉家の歴史=×
>皆無にひとしい謙信公の記録=○
の間違いでしたッ!(205)
直江兼続なんて超のつく本マニアのくせに
なんで謙信公の正確な記録を残そうとしてくれなかったんだよー
たしかに、直江兼続が謎を知っていたのかもしれない。御館の乱の真相も、
生前の上杉謙信がどんな人だったのか――。与六殿が何か書き残していれば。
なぜ直江氏が廃絶になったのかも、歴史の深い闇に閉ざされてるなあ――っ。
御館の乱の時、後継者の正当性等、後々不都合となる証拠隠滅のため故意に文書が
破棄されたと何かの本に書かれてあったけどね。
この為、景勝の謙信暗殺説まで生まれた。
景勝による謙信暗殺説、学研の「歴史群像・上杉謙信」にも載ってたな。
読んで、ものすごーく暗い気分になったのを覚えている。上杉家に代々つたわる
「ある言い伝え・・・」で、直江が廃絶になったのもそれ(手を下したのは与六?)
が原因と推論してしまう。直江夫人・景勝・与六・仙洞院あたりが暗殺の計画を。
兼続が御館の乱で活躍したっていう信用できる
史料はないよ。軍記に影響されまくりの年譜にも
書いてないのに。
>>213 母校の図書館にあった本で、出版元は新聞社だったと思う。謙信研究の困難さに
ついて、残っている史料の少ない原因として書かれていた。その頃はそれが通説
だろうと思ったので、気にも留めなかったから論拠は記憶していない。その頃は
女性説に興味なかったので、筆者も覚えていない(N大の助教授?)。
あまいな話でスマソ。
なお、暗殺説は自分が付け足したもの。
徹底史料分析!
このスレはただ今から、>215さんの意向にのっとり、出典を全て明らかにし
徹底した史料分析に基づくカキコ以外は全面禁止となりました。
記憶にたよる書き込みや伝聞に基づくもの、まして検証するに値しない小説
の類は一切禁止です。よろしくお願いします。
>>217のような
自分で史料提示もできん馬鹿レス、完全無視汁!
これまでどおりの質問や独自の推論を含んだカキコよろしこ。
>>217
検証に値しない例
そもそも
>>191-193が
>>187の引用(上杉氏年表)を史料批判しないまま
「小説」と決め付けた張本人。史料に基づいた仮説を批判するなら、反証の
史料を提示すればよいだけのこと。それができないから、
>>217のように的外れな
レスが沸いてくるんだろうな。なッ、
>>191さんよ。
流れに掉さしてスマソ。前スレから話題になってる高野山女人禁制説ですが、
「真田三代記」などによれば、定説になってる関ヶ原合戦後の真田昌幸・真田幸村(信繁)父子の
の九殿山(高野山北麓)配流は、女人も伴ってる(真田大助の母ほか、多数の婦女)。
これって、戦国時代に高野山が女人禁制ではなかった傍証にはなりませんか?
ここの「謙信男装説」論者は「男を装っていたから、高野山が女人禁制でも問題ない」
なのかも知れませんが、男性説派の「高野山女人禁制説」は時期的にどの時代の資料なのでしょうか?
漏れには近世史料か平安末期にさかのぼるのではないかと? エロい人、教えて!
>224
真田の場合は高野山の麓の九度山村に住んだだけで、高野山に入山した訳じゃないし。
>>224 ふーん、なるほど。真田親子が幽閉された九殿山か。たしかに高野山だね。
幸村の息子はここで生まれたらしいから、セークスもしたわけだ。
男性説派が「高野山の女人禁制を裏付ける史料集」などと鬼の首を
取ったように別スレを立てた根拠「『密教文化』出版社:高野山出版」なるものの
の信憑性が問題になってくるわけだな。 もうあっちのスレは廃墟だから反論も出来まいが、
このスレにも貼り付けられてる以上、無視できんねぇ。男性説の論拠は、またしても一角が崩れ落ちるか。
>224>225>226
謙信はそもそも高野山に入山していません。参拝した記録が残ってるだけですよ。
>>227さん
こんばんは。
恥ずかしながら私は謙信と高野山との関わりは全く知らないのでお尋ねしますが、
謙信が高野山を参拝した記録を具体的に教えていただけないでしょうか。
いまさらながら大日本史料を調べてみたのですが、見つけることができませんでした。
急ぎではありませんので、よろしくお願いいたします。
>228
てがるなところでは「上杉氏年表」に、本願寺・大徳寺・高野山を参拝と。
原史料は自分であたってくださいね。謙信公の高野山参拝は通説の範囲なので、悪しからず。
>230
はぁ?? 辞書見れよ(w
>>229 「上杉氏年表」には、高野山に参拝したという記述はありませんよ。本願寺証如上人日記に贈答の記述、
越佐史料に大徳寺の徹岬宗九から「宗心」の法号と五戒を授けられたとあります。
高野山参拝の記述が「上杉氏年表」以外の「原史料」にあればここに書き込んでください。
草々・・・。
うん?
>>8の男性説
>・厳しい女人禁制の高野山に2回登山
という前提自体が、フィクションかもしれんのぉ??
たまには世論に問おうよ(age)スマソ…
>>229さん
>>228です
さっそくレスいただきましてありがとうございます。
『上杉氏年表』はやはり必読のようですね。機会があれば目を通してみます。
原史料を教えていただけないのは非常に残念です。
>>232さん
詳しいご紹介、ありがとうございます。
仰るとおり、天文22年の本願寺・大徳寺とのつながりは私も確認できました。
また、それに関連して景虎の金剛峰寺参拝を示す史料の手掛かりもつかむことができました。
ありがとうございます。
今日はもう遅いので寝ます。
>真田親子が幽閉された九殿山か。たしかに高野山だね。
結界を知らないのかねぇ。
結界?w
宗心の法号といい、高野山の登山といい、
景勝の事跡が謙信のものと摺り返られているものが多い気がする。
九度山は女人禁制の高野山に住む女の縁者が、住まう場所として有名
慈尊院もありますしねぇ
242 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:23:27
>>241 つまり女性は、徹底して隔離されたと言うわけですね。
九度山の名は弘法大師が月に九度は必ず女人禁制の高野山を下って、母を尋ねた
ことに由来するという。
244 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:57:25
今夜も自作自演の猿芝居が見れるのかな、ワクワク
男性説派というか、無学ながらも時おり鋭い指摘をする香具師らも
このスレに参加したことをもって、謙信女説スレ御館騒動も一件落着って
ところかね。めでたし、めでたし(微笑
てゆーか、謙信が高野山に参拝したとか、比叡山で得度しようとしたとかの
史料てのはあるの・・・?
>>246さん
『史料綜覧』の天文22年11月13日2条には
「長尾景虎、和泉堺に到り、本願寺光教(證如)に物を贈る、尋で、景虎、紀伊金剛峯寺に詣す」
という綱文があります。
おそらく出典は「上杉家記所收高野山文書」だと思いますので確認してみてはいかがでしょうか?
>247さま
246ではありませんが、情報サンクス!
>無学ながらも時おり鋭い指摘をする香具師らも
こういうレスが発端で、スレが荒れてまともなカキコが減り、別スレが
たつ要因にもなった事が解らんのかねぇ。
ま、解るような人なら最初から書かないか…
>>249 そりゃ、誤解だよ。
>>245は無学な者から鋭い指摘をされてしまう自分は、無学な
上にオバカだと自己批判してるわけだから、全然問題ないよ。
前スレのテンプレを作ったものだが、しばらく見ないうちになにかあったのか?
>>251 君の主張が通って、学界でこの説が認められたよ。すごいね。
↓
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられたため、お取り潰しを回避するために捏造された可能性がある)
>250
頭がいい人だなぁ・・・。
比叡山に関する出家か参拝の史料はあるの?
男性説派は、なぜ程度の低いレスばかりするのか。
謙信が男性であるという考えがあるのなら、理論で示せばよいではないか。
>257
「程度の高いレス」というより「悪ネタ」だったのだと思うが?
これまでに、この新スレでまともな男性説派の「レス」も「ネタ」もまったくない。
というよりも、男性説派(女性説否定派)は女性説あっての存在。別スレが死んだのも道理にかなっているよ。
内容の無いレスはスルーして、中身のある議論をプリーズ
↓
中身のある理論なんてあらかた終わってて、
DNA鑑定を待つのみって結論が出たんだろうが。
あとは鑑定まで細々と保守すりゃいいのに、なんで荒しまがいのことをするのかと
262 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:33:02
保守
263 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:36:45
「理論」
264 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 06:19:14
仲良くできんのかおまいらは
>>264 もう喧嘩なんかしません。仲良くしますので、お願いを聞いてください。
もっと、上杉謙信女性説の真相を教えてください。
lヽ ノ l l l l ヽ ヽ
)'ーーノ( | | | 、 / l| l ハヽ |ー‐''"l
/ D | | |/| ハ / / ,/ /|ノ /l / l l l| l D ヽ
l ・ i´ | ヽ、| |r|| | //--‐'" `'メ、_lノ| / ・ /
| N l トー-トヽ| |ノ ''"´` rー-/// | N |
| ・ |/ | l ||、 ''""" j ""''/ | |ヽl ・ |
| A | | l | ヽ, ― / | | l A |
| !! | / | | | ` ー-‐ ' ´|| ,ノ| | | !! |
ノー‐---、,| / │l、l |レ' ,ノノ ノハ、_ノヽ
/ / ノ⌒ヾ、 ヽ ノハ, |
,/ ,イーf'´ /´ \ | ,/´ |ヽl |
/-ト、| ┼―- 、_ヽメr' , -=l''"ハ | l
,/ | ヽ \ _,ノーf' ´ ノノ ヽ | |
、_ _ ‐''l `ー‐―''" ⌒'ー--‐'´`ヽ、_ _,ノ ノ
 ̄ ̄ | /
それマンガ?
>268
謙信が女で、頼みの九の一(女忍者・かすが)が活躍するゲーム
主役は政宗かな?
>>270 もう、語り尽くしたかと・・・。
男性説派の挑発もないことだし。
272 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 01:22:50
閑話休題………若き謙信様の御姿(三戦板から)です。見たくない方はスルーよろしこ。
aploda.org/dat4/upload44026.jpg
aploda.org/dat3/upload44027.jpg
久しぶりにきたけど、もう終わったようだね。
>もう、語り尽くしたかと・・・。
と言う事だから。
結局女説者の仮説とやらは
>>187 >>188 が限界で、これ以上の仮説は逆さに振っても鼻血もでないということだね。
それにしてもこんな稚拙な仮説でDNA鑑定をしようなんて完全にネタだよね。
万が一マジでいってる人がいるとしたら、DNA鑑定以前に精神鑑定が必要なわ
けだし…
ま、女説をサカナにこれだけ楽しめたんだから、満足だろうけどね。
はいはいわろすわろす
安い煽りだったな。
あとはどうDNA鑑定を実現させるかだな。
>>277 そりゃぁ、あんたらが愛してやまない謙信公の自筆血判書にこびりついた血液の部分を削り取って(文書を破壊して)DNA鑑定するんじゃないの?
あ、それと
>>274は >精神鑑定が必要 は言いすぎだけど言ってることは正論じゃないの?
血液鑑定よりも遺骨から復元して欲しいな
甲冑着て眠ってるんだっけ。ロマンだねえ
やっぱ掘り起こしてほしくないな。ジレンマ
>>274 >精神鑑定が必要
などと言いながら、女性説(仮説)には何の反論も出来なかった?
この手合いには「精神鑑定」よりも、学習意欲の湧く処方箋を勧めるよ。
まっとうに史料を読むことも、史料批判もできないんだから(哀
>>279 正論だから、
>>275 >>276 で誤魔化そうとしてるのさ、解ってやれよ。
>もう、語り尽くしたかと・・・。
>と言う事だから。
>結局女説者の仮説とやらは
>>187 >>188 >が限界で、これ以上の仮説は逆さに振っても鼻血もでないということだね。
これ以上の仮説がこのスレの女説者にたてられるわけないからね。
立てられるなら、あわてて語り尽くしたなんて打ち切る必要ないよ。
つまらん煽り止めて、マジで
>>187 >>188以上の仮説を語ってみなよ。
>280>281
伝承どおり大甕に入れて、蝋や漆で固めたのなら
生前の姿のまま保存されてる可能性もあると思うのだが。
287 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:27:07
289 :
53(じつは前980):2005/07/28(木) 22:52:10
>>288 いや、違うでしょ。
>>286は女性説否定派だと思うよ。
表現は荒っぽいけど正論じゃないかな。
個人的には女性説の人には史料を提示していただければありがたいですが、
このスレみてるととてもそんな期待はできそうもありませんね。
>>289 前までのスレではそれなりに。
今ではアンチ女性説派に呆れて、まともな奴は来なくなったと思われる。
>>289 >>274(おそらく
>>286)がいうとおり「稚拙な仮説」であっても、相手は史料提示しているのだから
逐条的に反論するのが礼儀ではないのか? 言うに事欠いて
「DNA鑑定以前に精神鑑定が必要なわけだし…」とは笑止千万ですね。
それを「正論」とするあなたにも、何も期待できそうにありません。
あぁっ!コテハンに戻ってた…orz
たしかにまともな人は少ないですよねぇ。
上杉の事なんかぜんぜん知らないのにがんばって史料提示してきたのに、誰も応えてくれないのが空しいっすわ。
せいぜいがんばって女謙信の銅像でも立ててくださいな。
でも税金は使わないでくださいね。
>>291 >>279
>292
偉そうに、何者?? 何の史料提示したん?
>>293 基本的な文献(上杉文書)も読んでないアホだから、気にすんな。
『週刊ビジュアル日本の合戦 武田信玄・上杉謙信と川中島の戦い』(講談社)
を購入しますた。謙信不犯の謎のページに、男色説とともに女性説が「珍説」として扱われてましたが、
まぁ、内容までは詳しく紹介されてなかた。しかしながら、謙信女性説は不犯の要素として
無視できないというか、何となく刺身のつまにはなってるわけだ(笑
>>294 マジメなレスをくれた方を、不必要に排撃しないようにお願いします。
>>295 私も買いましたよ。
信玄の茶臼山布陣を踏襲した通説ばかりでしたが、
三条夫人をまっとうに評価しているのが白眉です。
肖像画も初めて見ましたし。
あと、武田の盾無の写真、謙信の飯縄前立兜、
この本の収穫はヴィジュアルだけなのですが、
まあ仕方ないのかなと。
>296
飯縄権現の兜より、古形金箔兜(三つ編み縅毛)のほうが、綺麗で可愛くて好きなんだけどな。そうですか…。
>三つ編み縅毛
やっぱり、いいですよねぇ。女っぽくて(憧
別スレ、停止が入ったな。
うわあ、本当だ。誘導のあるなしで決まったんだのですね…
久しぶりに見たよ。停止記念。
348 :停止しました。。。:停止
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
あまりにも当然、的確な停止処置だ。あらかじめ女性説を否定した
スレッドで、女性説が議論されるわけがない。めでたし、めでたし。
あくまでここは議論の場であるから、祝杯は三戦板であげようか
>今ではアンチ女性説派に呆れて、まともな奴は来なくなったと思われる。
なるほど、まともな女性説派はおらんのか。納得した。
まあスレが一つになるのは良い事だ
なーんだ、向こうが先に死んじゃったの(w
めでたくスレッドが一本化しましたので、男性説派スレ?の残されたテーマをここで検証しましょう。
概略すると、
@謙信が朝廷に献金した時期と官位を賜った時期の検証
A飯縄権現信仰が女性を近づけなかった有力な理由では?
というものですが、このうち官位を受けたのは上洛に先立つ天文21年。大覚寺義俊らの斡旋により
弾正少弼を拝領。使者の神余親綱が公家衆、幕閣に貢物を届けています。さらに、天文22年の上洛で
朝廷・公家衆および寺社に金品を贈り、官途拝領の返礼をしています。
飯縄信仰ですが、男性説スレでは、女性を近づけないことで信仰が成就する。これによって、謙信不犯の
理由という傍証がなされていますが、出典や史料分析は不明でした。謙信と飯縄信仰のかかわりは
上杉神社所蔵の兜の前立てに明らかなのですが、飯縄信仰はもとはインドの神で、仏教に取り入れられた
のち、山岳信仰(妖術)となった経緯があります。
すなわち、元の信仰である荼吉尼天は、梵語ではdakini(ダーキニー)で、女性の神(当初は鬼女)
なのです。飯縄信仰のどの時期に「女性を近づけない」(?)が発生したのか不明ですが、
高尾の飯縄信仰には「夫婦和合」もありますので、まことに不可解といわざるを得ません。
少なくとも、謙信が信仰していた室町期には多数の戦国大名(信玄もそのひとり)が飯縄権現を信仰
しています(一説には飯縄権現=不動明王も)。女性説的には当然、女性神を信仰したのであろうと?
※「上杉謙信と飯綱信仰」(長野郷土研究会)
死亡(男性説)スレ↓
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1121248125/l50 またおもしろい史料があれば、続編をUPします。
>>307さん
私は小林計一郎も読んでないアホでして、Aの件はついていけそうもないので遠慮させてもらいますが、
@について
謙信の朝廷への献金と従五位下・彈正少弼任官が女性説とどのように関わっているのでしょうか?
わかりやすく説明いただけると幸いです。
>308
307ではないが、男性説派スレのこのあたり(下にコピペ)の設問に応えた
ものと思われ。女性説派が「官位はカネで買える」?をめぐっての
議論ではないかと。
小林計一郎は真田氏が専門の研究者なので、飯綱信仰とは関係ない
と思われ。説明不十分で、スマソ。
186 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 12:09:03
>>185
女説のバカ連中の嘘というのは
例えば
「男性用の官位でも金さえ有れば女性でも買える」とかですか?
192 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 14:08:36
>>186 高野山は金と権力で解決との意見も見たな。
頓珍漢な嘘は女性説派にも迷惑と考える人は多そうだな。
193 :日本@名無史さん :2005/07/15(金) 14:22:46
そもそも、献金した時期と官位を与えられた年の検証もしてないよ、バカ連中は。
>>309 乙! しかし、こうして見ると、男性説派のレスは品性がないねぇ
何かといえば「バカ連中」の頻発(ワラ
>>309さん
どうもありがとう。
「上杉謙信と飯綱信仰」で検索したら小林計一郎氏の論文がヒットしたもので、てっきりその件だと思ったのですが…。
CiNiiではヒットしませんでしたので少し早まりましたかね?
「官位はカネで買える」?の議論は女性説とは史料的には直接関係ないようですね。
官位が買収できるかどうかの議論はさしあたっては二木謙一氏の『中世武家儀礼の研究』と田中修實氏の『日本中世の法と権威』あたりを
読んで勉強してみます。
ほかに参考になるものがあれば教えてください。
任官時期は一般的には天文22年になっているようですが、異論が出ているのでしょうか?
こちらも少し興味があります。
それでは。
こんなのが最後っ屁とは、男性説スレもみじめだな(合掌・・・)
347 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 01:13:42
>>(引用者削除)
引っかかったな、バーカ! 女説論者め!!
348 :停止しました。。。:停止
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
恥ずかしいからやめておくれよ
>>312さん
あまり死者をイジらないように。
>>311さん
>任官時期は一般的には天文22年になっているようですが、異論が出ているのでしょうか?
とのことですが、上杉氏文書と越佐史料、平子氏文書などに天文21年の記述があるようです。一般的に
天文22年とされているのは、謙信(長尾景虎)が後奈良帝に拝謁したこと(剣と盃を下賜される)を
もって、官位と官職が成立した。という脈絡(史実の簡略化?)ではないでしょうか?
この件について、とくに議論があるわけではないと思います。仰せのとおり、女性説との関連では、あまり
内容のあるテーマではないかも。
>313
もしかして、男性説スレの>>1さんですか?
違ったらゆるしてね。男性説スレの>>1さんのご奮闘には敬意を表します。
行きがかりの不幸な記憶は水に流して、単一スレで議論できれば幸甚です。(謝
>>315>>316 漏れは簡単には、和議は受け容れんよ。あれだけの破壊工作(大量ゴピペ)をしておきながら、
いまさら一緒に、まともな議論ができるものかね???戦国時代なら、首実験してから
敵将の墓標を造るんではないの??恭順するんなら、謙信公の慮りに従うけど・・・。
>317
勝手に汁!
>>313は、本当に男性説派のスレ主なのか?
当該の一騎当千一両具足、武勇の者ならいさぎよく、開城降伏(和議・切腹)をもって、
謙信公(女だが)の御前にまかり越すべし!! 女説派スレ奉行 花押£
>320
無理を言うなyo。落ち込んでる最中なのに・・・。
>320>321
向こうの>1というか、スレ主というか。けっこうフランクで、感じ良かったんだが
こーんなレスの端々に、自分は好感度を持ってました。なんか必死で、けなげというか・・・
>××年前(引用者削除)じゃねえか!
>っていうか>>××(引用者削除)はそういう意地悪な書き方しないでください。
内容はともかくスレタイをいじったのは少々懐疑的だったあのスレ
>>322 気に入ったらしいから、TXT形式で保存しといたよ。先々、思い出して楽しもうな。
>>323 どの内容を受け入れ可能だったのか、是非とも訊きたいもんだねえ。
ここ2週間「あのスレ」と「このスレ」は命を削りあう勝負だったのに、
物見遊山の論評は聞き捨てならんぞな。「あのスレ」の住人のためにも(怒!!!
>324
すこし餅つけよ
せっかく統一したんだからさ
いいたいことはわかるし・・・・
326 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 03:31:37
もちつけ、ペッタン…。そのうちに、きっといいことあるさ。
大体あのスレ自体が男性論者のスレ以前に本スレのつもりで勝手に立てられた眉唾スレ
ようやくこっち立っても荒らしやら削除依頼やらひどかった
自分はどっちかというと女性説否定派ですけど
あの煽るようなスレタイは、わざわざ揉め事を起こそうとしてるみたいで
ちょっと嫌でしたよ
男性か女性か、いろんな史料ひっぱりだして考えるなかで
謙信のいろんな面が見えてくるのが面白いわけで…
329 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 11:39:48
三戦に貼られてるから夏厨が来たらごめんね
必死だな
>>311 >「官位はカネで買える」?の議論は女性説とは史料的には直接関係ないようですね。
前スレでは、女である謙信がなぜ男性用の官位をもらえたか、という課題で「当時は金を
払えば女でも男性用の官位を買うことができた、謙信は朝廷に毎月、金を献上していた」
とありました。つまり、謙信は男性用官位を金で買ったという説明でした。
そこで、毎月献金していた時期と叙任の時期を検証すべきだという話になったのですが、
謙信が毎月献金するようになったのは、叙任したずっと後のことです。
当時官位については、何でも有りという風潮がみられますが、徳川家康が「征夷大将軍」
となる為に、先祖を源氏と捏造せざるを得なかったように、官位に対しての慣習は原則
として守られていました。時の権力者でさえこうなのですから、地方大名が女性であり
ながら男性用の官位を叙任する事は、並大抵の事ではありません。
各自、官位を勝手に名乗ったりしていた時代でも、武将たちは正式に官位を得るため、
事前に献金したり公家たちに金を遣わせて裏工作を行なったりしています。男武将でさえこうでしたから、これが女謙信なら相当困難。せめて、叙任時期以前に莫大な献金や公家
たちへかなりの事前工作を行なった史料がないと、説得力はありません。
しかしそのような記録はみつかりませんでした。
>>307さんが書いているとおり、謙信
は叙任に対する礼金を支払った記録はあります。この叙任に対する礼金は、この頃の朝廷
の貴重な財源でありごく普通に行なわれていたもので、決して官位を買う為のものではあ
りません。その後礼を尽くす為異例の上京をし多額の献金などまでしておりますが、これ
も言うまでも無く叙任後の話で、献金を条件に事前に官位を叙任する約定書の存在でも示さない限り、女謙信が男性用官位を得られた理由としての証明はなされない筈です。家康
でさえ出来なかった慣例破りを謙信がどうして成しえたのか、朝廷がなぜそれを認めたか
真に不思議です。
どうやら、官位問題を女説で説明するには、謙信は朝廷に対して自分は男であったと思
わせていた(男装説)説しかないように思います。しかし、それも上洛後一同で稚児遊び
をしていた史料がある訳ですから、女説の人は、この矛盾点をどう説明されるのでしょう
か?
公的には男性という事でまかり通っていたならその疑問は氷解する訳だが
というかそうでないとあらゆる矛盾が出る
>どうやら、官位問題を女説で説明するには、謙信は朝廷に対して自分は男であったと思
>わせていた(男装説)説しかないように思います。しかし、それも上洛後一同で稚児遊び
>をしていた史料がある訳ですから、女説の人は、この矛盾点をどう説明されるのでしょう
>か?
そもそも謙信が上京すること事態、私は女ですよと報告しに逝くようなもんですよね。
稚児遊びも自分は着衣を脱がなければセーフじゃね?晩年のジャニーさんみたいに
>>333 だから関白がひと目惚れ。って立証が上のほうにあったな。
>>334 公方や公家衆が列席する酒宴の席で「着衣を脱」いだ?
それって、乱交パーティっスか?
>しかし、それも上洛後一同で稚児遊びをしていた史料がある訳ですから、
>女説の人は、この矛盾点をどう説明されるのでしょうか?
トランスセクシャルにおいては、自分の性同一性障害の克服過程で
異性(謙信が女性なら男性)になることで異性(男性)愛を満たす
とされています。つまり、単純な性同一性障害ではなく、ふたつの性の
間を漂うのです。いわゆる「やおい」においては、男性になりたい願望と
男性になって同性愛に憧れる傾向があることは、周知のとおり。
ユング派における「アニマ」と「ア二ムス」が複雑な現象をたどるように単純ではないのです。
※榊原史保美『やおい幻論』、杏野 丈『シンデレラさんお大事に』などが
わかりやすいと思います。
>>331さん
>叙任時期以前に莫大な献金や公家 たちへかなりの事前工作を行なった史料がないと、
>説得力はありません。しかしそのような記録はみつかりませんでした。
上杉氏は享禄年間から京都雑掌の神余昌綱が三条西実隆と連絡を保っています。【実隆公記】
天文年間の越後騒乱では、長尾為景が複数の綸旨を朝廷から受けています。【上杉文書・いわゆる錦の御旗再下賜など】
長尾晴景が室町将軍義晴の編緯を受けたこと【新潟県史】、義晴の大納言任官のときに着用した
桐紋の御服を下賜され、返礼の贈答をしたこと。上条定憲との騒乱や伊達嗣子問題での内乱の時期も、
為景は綸旨や御内書を受けて平定に成功しています。このような流れから、神余昌綱・神余親綱ら京都代官が
朝廷および幕閣に働きかけていたのは容易に推察されるはずです。天文22年に突如として
官位が下賜された(史料がない?)ということになれば、上杉氏および長尾氏の京都政界工作を
過小評価することにはならないでしょうか。一般に愚昧な当主だとされている晴景も、
家督相続後は活発な京都外交を行なっています【新潟県史・竹俣清綱との和議など】
景虎時代の京都外交をしめす当該史料は、わかり次第アップします。
338 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 01:05:43
ふ・・・素晴らしい水準の議論だな・・・age
>337
史料あるよ。「上杉氏年表」の81ページ。
天文19年2月26日以後の記述。莫大な費用を費やしたらしい。
官位もらったのは天文21年だよねぇたしか?
たしかに官位をもらう前にも貢いではいたってことか
>>339さん
>>337です。
サンクス、【年表】確認しました。義輝が将軍になった天文15年にも、晴景が
「太刀一要(備前長光)・駿馬一匹・青銅三千匹」を献上してますね。
天文19年の上杉定実死去にさいして、義輝のほうから「白傘袋・毛氈
鞍覆」の使用を許可したのは、大覚寺義俊らの斡旋。なるほどですね。
天文20年に六角定頼が相互に贈答して伝奏役を果たしたらしいのは
意外でした。翌年の上洛の布石だったのでしょうか。
>>341(訂正)
>翌年の上洛
スマソ、翌々年(天文22年)でした。
>340
謙信以前から、朝廷にも公家にも毎年欠かさず貢いでるよ。上杉(長尾)は青芋(越後上布)座の
生産・流通管理を全面的にまかされてんだから、当然のはなしだ。当時の越後は商業国だったし。
>331
>当時官位については、何でも有りという風潮がみられますが、徳川家康が「征夷大将軍」
>となる為に、先祖を源氏と捏造せざるを得なかったように、官位に対しての慣習は原則
>として守られていました。時の権力者でさえこうなのですから、地方大名が女性であり
>ながら男性用の官位を叙任する事は、並大抵の事ではありません。
「当時」と言っても、50年以上も時代が違うのだが?
謙信が「地方大名」(守護職)だった頃、家康(松平元康)は今川氏の人質ですな。
>>344 北条武田同盟に圧迫された徳川家康は、時の権力者(関東管領山内上杉謙信)に
織田信長を含めた三国攻守同盟を求めている(元亀元年)しねぇ(微笑
ま、時の権力者(家康)の相手は、景勝と兼続だったということで(微笑
>>331 地方大名(今川義元)の人質の松平元康が「時の権力者」??
久しぶりにワロタよ。関東11万の大軍で小田原城を包囲した政虎様は、
桶狭間後の人質元康の処遇をどのように感じたのか、なにげに知りたいなあ・・・。
>346
母性本能の強い政虎(まんとら)様(永禄三年当時は景虎)は、少年(松平元康)の処遇に頭と胸を痛めたことでしょう。
その後、厩橋城で成田家の人質をあやしたりという記述が、松平記に残ってますから。
>>344-347 >「当時」と言っても、50年以上も時代が違うのだが?
>謙信が「地方大名」(守護職)だった頃、家康(松平元康)は今川氏の人質ですな。
そっかぁ?
家康が征夷大将軍になったのは、関ヶ原が終わって実質実力1になってからじゃん。
331のいう『当時』とは、その時(征夷大将軍になろうとした頃)のことだろ?
どう考えても激しく勘違いしてると思われ。。。
あーそういえば、まんとら様の歌って、
なんでよりによって「政虎」の名が選ばれるんだ?
「政虎」でいた期間なんて、1年もないっすよ…
期間としては一番短いんじゃない? マイナーな「宗心」より短いよ…
>331
人質が時の権力者! 小学校から勉強やり直せ、ヴォケがーw
>>349 >「政虎」でいた期間なんて、1年もないっすよ…
戦国史上最大の激戦とされる第4次川中島合戦のときに
上杉政虎だったから。「♪しろやま(善光寺城山)さまのおんために…」
明らかに川中島合戦の意味だ。
>>331 こいつ、無学な男性説派の見本だね。
バカに教えてやるよ。
謙信は官位もらう前から朝廷に貢いでたし、謙信が官位もらった時は、家康は元服
もしてなかった。
よって10年間の修行を申し付ける。
ついでに、
男性説派のこのような馬鹿たちはこのスレッドの立ち入り禁止じゃ
家康どうこうよりも、女性説にとって重要なのは
>謙信は官位もらう前から朝廷に貢いでたし
の部分だろ?
長文なだけで中身が伴ってないなー
何も史料に当たらずに頭の中のウロ知識だけで慣れない長文を書くと、
ボコボコにされるという好例
>>331隙だらけで、叩いてくれと(w
改行がちゃんとできてないのはコピペだからかな?
初めて覗きましたが・・・。
勝手にまとめると、
@ 当時の男尊女卑の風潮の中で、その事実を秘し、なおかつ自らは戦場を真っ先駆けて
暴れ回ることが果たして出来たのか。漢を見せるということも、当時の武将の重要なポイ
ントであったし、このことが敵に知れたら当然宣伝材料にもされるのは間違いないが、そ
のような挑発があったという資料は皆無(?)。
A 任官問題 ある意味もっとも女性蔑視的な朝廷の任官で、そのような噂が皆無だったの
かどうか。
B 高野山参詣問題
まあパワーバランスの上に成り立ったリアリズムの極致である戦国時代に、鬼のように強かっ
た謙信が女という噂ぐらいあったとしても、その政治・軍事力に鑑みて口にしなかったということ
かもしれないが、@に書いたように直接的利害がない勢力にとっては誰にはばかって口を包む
理由もない。ならばこんな恰好の大スキャンダルを嘘でも流布しない手はないと思うんだけど。
まして猛将の誉れ高く軍神とまで謳われた謙信が女だったという仰天!の話だし。
>358
全然「まとめ」になってない(笑
読む力も、まとめる力もなさそう(哀
それはどうもw
別にどっち派でもないし、むしろとても面白い話だと思うんだけど、あんたのような
スレ汚しが人を散らしてるってことはよくわかるよ。
>>331さん
詳細にご説明いただきましてありがとうございます。
どうやら災難なようですね。
まぁ、2ちゃんならではといったとこでしょうか。
ところで、受官に際して献金すること自体は謙信に限らず多くの事例が知られているので、
この議論自体は女性説を前提として行われているわけですね。
ということはあくまでも議論の末葉であって根幹に据えるべきではない話のように思います。
多くの方が述べておられる「天文年間の家康」の話については
>>348さんが的確に指摘されていると思うので
お気の毒に、とだけ言っておきます。
それでは。
前スレの「貴重な情報交換」→「無内容な詰り合い」の繰り返しに比べると、いいレスもあるんだが。
不用意に隙を見せると、否定派バスターズみたいのが殺到して・・・。
>>358,360
もせっかくの書き込みなのに、災難だったな…。まったく同感だよ
なんかこのスレを監視して、
書き込んだ人の感情を害することを生きがいにしてるような奴が
住みついてんだよ。
否定派意見を述べるときは、
むしろそいつを釣ってやるくらいの気分で書き込まないと、やってられんかも…
>>363(
>>358 いや、それは君が史料に基づいた指摘をできなかったからだよ。
単なる理屈や論評なら誰にでもできるし、ぎゃくに叩かれるだけ。
とくに男性説スレッドと分立・相互絶滅戦みたいな感じでスレが進んできたから、
過剰反応する香具師も多いのだと思うが・・・。
全員が全レス資料ないとしゃべれない訳か
といって資料も全部既出だよね
もうこねーよ ( ゚д゚)、ペッ
誰も無内容な香具師に「来てくれ」とは言ってない(笑
そもそも>当時の男尊女卑の風潮
って、そりゃ江戸時代か? 北条政子いらい、足利義政の職務を代行した
今の局・日野富子、立花ギン千代と、中世は古代とともに女性が政治で活躍した時代だぜ。
一般に男尊女卑とされる江戸時代にも、女大名(清心尼公)がいたわけだしね。
学問板として当然の対応なり
348なんだけど、家康の官位の件をよく理解してない御仁がまだいるので、補足しとくよ。
天下を狙う家康が富と権力を手中に収めて、幕府を開こうとした時、征夷大将軍になるため
それまでの慣例から源氏の系列である必要があったので、系図を粉飾したといわれている。
そうしないと、朝廷が首をたてに振らなかったからだ。
しかし、実際には1567年三河守として従五位下をうける為に、源氏の系図をでっちあげた
ともいわれている。つまり従五位下以上は、源平藤橘である必要があったから。
どっちにしても、官位をもらうためには、ちゃんとしたルールがあったってことですな。
家康が官位を得るために裏技をつかったように、景虎もなんらかの裏技を使わないと
男でないともらえない官位を得るのことできなかったはず。。。
漏れは、上杉家の事は良く知らんのだが、官位は戦国時代後半は本人の自己申請で
行われたから、
331は、今回のことに懲りず(バカ騒ぎで書き込む気力が萎えたろうが)このあたりの
史料(公家の日記など)を検証して、また書き込んで欲しいもんだな。
楽しみにログってまつ。
>つまり従五位下以上は、源平藤橘である必要があったから。
嘘はいかんよ
大江氏の毛利輝元は?氏素性がない秀吉は?
家康のは、三河守の叙任の前例がなかったから
得川系図捏造しての叙任だったかと
>368
>男でないともらえない官位を得るのことできなかったはず。。。
官職は知らんが、位階なら女性でも得ることはできる。
>>369 >嘘はいかんよ
漏れのカキコ良く読んでよ(苦笑
しかし、実際には1567年三河守として従五位下をうける為に、源氏の系図をでっち
あげたともいわれている。ちゃんと「いわれている」と書いてるよ。
つまり、そういう説もあると紹介しているだけなのだが。。それとも、そういう説も有る
と書いた事が、嘘をついたことになるの?
>>370 おっしゃる通り、北政所なんかが位階をもらってる。朝廷が女景虎を取り込もうとしたの
なら位階を与えるだけで十分だったと思われ。。。
372 :
371:2005/08/01(月) 02:23:55
連続カキコ スマソ
368の従五位下うんぬんのカキコは確かに蛇足だが、征夷大将軍のことを書いたら
どうせ突っ込みがいるだろうと予測して、あらかじめ書いたまで。
>>369 >家康のは、三河守の叙任の前例がなかったから
>得川系図捏造しての叙任だったかと
系図の粉飾した理由については諸説あるんだけど、取りあえず家康が官位を得る為
に系図をでっちあげたことは、認めてくれたんだよね(謝
「山形には『上杉家では家督相続の際、継承者のみに伝えられ続けたという御家の禁忌が存在した』
という逸話が残されている。その禁忌を知った継承者は、どんなに剛毅な者といえども顔青く冷や汗が滴るといわれるほどの衝撃を受けていたらしい」
と本で読みました。謙信女性説と何か関係あるのかな...
>取りあえず家康が官位を得る為に系図をでっちあげたことは、認めてくれた
>んだよね(謝
違うぞ、
>>371氏の主張は、徳川の姓を名乗る許可を朝廷からえるために、源氏を詐称
した、だな。
権力者の官位としては、家康より秀吉のほうが苦労してるぞ。
なるほど。そうすると、出自の身分の低さは公然の秘密ながら、
公的な形式を整えさえすれば、前例の殆ど無い官位が貰えたわけだ。
そうすると、女性謙信が公然と女性と知られてるとはいえ、
官位を得るために男性的な名前を付けたという説が
重みを益して来るかもしれないな。
>374
>権力者の官位としては、家康より秀吉のほうが苦労してるぞ。
通説ではそうなっているけれども、秀吉が征夷大将軍になろうと画策しなかったのは、
すでに天下人になっていた彼があえて征夷大将軍として幕府を開く必要性を感じな
かったからでは、という説もあるよ。
スレ違いな話スマソ
謙信をてっきり女だと思ってた朝廷は、官位を与えたあと、上洛してきた女謙信を
見てびっくり。官位を取り消そうとしたが、それでは朝廷の権威がすたるので、仕
方なくそのままにしてしまった。
というのはどうよ?
>>377 謙信をてっきり女だと思ってた朝廷は、
↓
謙信をてっきり男だと思ってた朝廷は、
と、読み替えればいい?
379 :
377:2005/08/01(月) 18:28:16
>378
スマソ、そうでつ
征夷大将軍は源氏の家系じゃないとなれね
信長が平家の流れだから征夷大将軍になれなかったという話もある
しまいには朝廷が折れたところで信長死んだけど
>>368 >天下を狙う家康が富と権力を手中に収めて、幕府を開こうとした時、征夷大将軍になるため
>それまでの慣例から源氏の系列である必要があったので、系図を粉飾したといわれている。
>そうしないと、朝廷が首をたてに振らなかったからだ。
違います。家康が単に「源氏の系列」ではなく「源氏の長者」としての系譜
を捏造したのは、関東武士団(東源氏)の棟梁としての権威を高めたかったからです。
じっさい、平氏(その前は藤原氏を名乗った)の織田信長に対して、朝廷は太政大臣か
征夷大将軍を勧めています。
>>369 秀吉は藤原性です。
>>370 位階は女性でも下賜されています。官職については、女官のみ。
>>380 >征夷大将軍は源氏の家系じゃないとなれね
藤原氏でもなれます(鎌倉幕府の4代将軍以降は、摂家と皇族)
ところで、謙信(長尾景虎・平氏のちに藤原氏)の場合は、
越後上杉家を定実の死後に継いで越後守護
となっているわけですから、朝廷は当然にも官途に配慮しなければならなかった
はずです。上杉氏京都代官の工作がなくても、官途を贈るのが普通ではないかと
思います。むしろ、一般に「権威に弱かった」とされる謙信が、なぜ上位の官位を
求めなかったのか。義輝亡き後、同盟関係にある信長と連携して義秋(義昭)
を供奉する機会はあったのに、なぜ上洛しなかったのか? ここに女性説のカギを
があるとも考えられます。盟約関係にあった朝倉氏や六角氏を説き伏せて、
室町将軍家を再興することもできたのに? です。
一般に「謙信には天下への野心がなかったから」と説明されていますが、
女性であることを隠したかったから、敢えて再三の上洛要請に応えなかった。
のでは? 将軍義輝が存命中には、2度も上洛しているにもかかわらず。ですよ?
>>337 賛成です(笑
さすがに内容のあるスレだわい…
打てば響く…
でも、
>>178-182 あたりを読むと、生前から女性として活躍説は、やっぱ無理がある気がするんだ…
もし、女性であることを知ってたのが
上杉家の者だけだとしても(まずそれが無理な気もするけど)
謙信は何人もの重臣に、他家に寝返られてるでしょう?
そういう人は、行った先で言いふらすと思うしなあ。
386 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:20:09
>381
第一回(帝拝謁)・第二回(公方謁見)の上洛で女だというのがバレて、
懲りた?? 武田と北条のために身動きが取れなかった説もあるが、
義輝に「上様に忠義を果たせるなら、越後一国は惜しくありません」
て言った謙信だから、越後の政治情勢は無関係だわね
>>381 >秀吉は藤原性です。
筑前守叙任は藤原姓ではありませんが何か?
>家康が単に「源氏の系列」ではなく「源氏の長者」としての系譜
「源氏の長者」なんて系譜ありません
当初藤原だった松平が、三河支配の正当性を得る為、世良田を引っ張り出してきたのが清康
家康はそれを継続したのですが?それとも三河時代から「源氏の長者」としての系譜を作ったとでも?
信長の三職推任は、関白・太政大臣・征夷大将軍のどれかと言われてるが
朝廷が勧めたのかどうかは議論が分かれてる
上杉謙信が越後守護を正式に受けたのは、上洛してからでは?
そのときに、色々受領してるが、その時はどうしたの?女装してたという具体的な物あんの?
>387
●秀吉の関白職叙任(藤原氏=近衛氏の嗣子・関白は藤原氏しかなれないよ)
●源氏の長者=以下のとおり。
清和天皇の皇子、貞純(さだずみ)親王を祖とする清和源氏。
それは永代に渡り源氏の長者とされ、歴代の征夷大将軍を生みだし、
この官位は清和源氏の占有特許とさえ言われた。(森家文書から概略)
●信長の三職推任=仰せのとおり、諸説あります。
●上杉謙信が越後守護を正式に受けたのは、上洛してからでは?=
義輝からの守護待遇は、天文19年2月28日(上杉文書・越佐史料4−24)
●女装してたという具体的な物あんの?=
あんた、そんなのがあったら、謙信女性説なんて議論するまでもなく
「上杉謙信は女性でした」(文部科学省)では??
>>388 関白は藤長者しかなれないのはその通り
で、筑前守は?
源氏の長者の系譜なんて存在しません
征夷大将軍就任と同時に、源氏長者も受けるだけ
文部科学省がどーしたの?
>>389 注目していたが、なんか負け惜しみにしか思えんぞ
いちおう相手は史料を持ち出してるわけで
いや、君のマジメな態度は敬服にあたいするが
388には「源氏と日本国王」という本をお勧めする
村上源氏の話とかあって、氏長者の話満載ですよ
>>390 史料持ち出してもねぇ
森家文書で書いてあるから?ふーんとしか言いようがない
文部科学省云々と言われても、だから?としか答えようがない
>>391で挙げた本で源長者の話あるから、それを読んでくださいな
清和源氏が源氏長者と言うのが、如何におかしいか理解できるから
>>391 その著者が出演したNHK「その時…」のフレだが、こんなのか?
名門貴族の養子となって「関白」の座を射止めた秀吉によって、
家康は窮地に立たされた。国替え、出兵命令など秀吉の無理難題に
忍従の日々を送る家康。彼が見つけた秀吉への対抗策は、
「源氏」への改姓、そして官位を上げるという作戦だった。
やがて家康は、「関白」に対抗する権威「源氏長者」へと近づいていく。
「源氏長者」こそ、「征夷大将軍」と併せ持つことによって
日本の国王としての地位を保証する伝統の権威だったのだ。
家康はやがて、関白職を失った豊臣氏を滅ぼし、
名実ともに武家としての天下を手中にする。
一方で家康は「源氏長者」の権威によって、天皇家、朝廷を押さえ、
江戸幕府の基盤を盤石なものにしてゆく。
番組は、「源氏長者」という新しい視点から家康の天下取りを捉え直し、
武力支配に代わる支配の正当性を「姓」に求めた家康の知られざる挑戦を描く。
どうでもいいが、謙信女性説と大幅にスレ違いになってること、気づけよ!!
>>393 うーん、またも近衛前久タンが大活躍の気配だな。
とさらにずらしてみるテスト。
>>393 あのさ、この本を鵜呑みにしろと言ってるんじゃなくて
氏長者の詳細な解説があるから、清和源氏が源氏長者なんて勘違いが直ると言ってるんだよ
それと、「その時・・・」なんて素人に判り易くやってんだから
おかしいところ満載なのはしょーがない
論文調に説明しても45分足らずじゃ説明できないだろ!!!
>>395(
>>387)
もういいよ、おまえ。謙信女性説との関連で論証してくれ。
テーマが明確でない論争と史料分析、およそ不毛だぞ。
おまえの「謙信女性説」もしくは「女性説否定論」は、何なんだ?
>>396 否定論だけど何か?
男子を肯定する明確な根拠もないが
女性論を肯定する明確な根拠もないし
女性の当主などいたのは確かだが、男装なんてバカげてるしね
そういう前例ないし
なんだ、君も一般常識の範囲なのか・・・
つまらん・・・つまり「どっちでもないが、世の慣例や常識に従う」と(悲
>>398 は?つまらんって?
当時の慣例や常識で、「男装」が有り得たのか?
んで男装して朝廷に参内して叙任まで受けたの?
>>398 あー、謙信はどっちかというと、そういうのを
人一倍大事にした人かと思われますが…
>400
うー、女で男装していたら、そう装うかも。ですね。
清和源氏・桓武平氏という日本史の常識に、なんか問題でもあんの?
源氏新羅三郎(武田・佐竹)の系譜なら、いろいろあるだろうに?
でもって、長尾は関東平氏で、山内上杉は藤氏。話を戻して☆
消防乙
>>366 >一般に男尊女卑とされる江戸時代にも、女大名(清心尼公)がいたわけだしね。
清心尼は当主にはなってますけど、正式に大名として認知されてましたっけ?
>404
いちおう、南部藩の支藩だから大名といえなくもない。1万石だし。
それにしてもテーマが謙信女性説から離れていくなあ・・・
>>405 矢切説の謙信が女だった為、幕府の取り潰しを恐れた上杉家が証拠隠滅をはかった、と
いうのが以前争点になってましたから、スレ違いな話じゃないと思いますけど?
女大名が実在したのなら、それを理由に上杉家が取り潰される心配はなかったわけだし…
また八切説か…。このスレで八切説を史料以外の部分で支持してる人は
ほとんどいないと思うぞ。肖像画を描かせなかったのも間違いだとわかったし。
上杉家が証拠隠滅を謀ったのは、謙信を軍神として崇めたからだろう?
戦国の英雄で戦の天才、幕府公認の軍学甲州流と互角に戦った越後の龍が
女だったじゃ、カッコ悪すぎ。404のコピーにあるとおり、江戸時代は男尊女卑
が強くなっていく時代なのだから。
>>407 これがテンプレにあるのはなぜでしょうか?
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられたため、お取り潰しを回避するために捏造された可能性がある)
>408
前スレのテンプレを機械的に付けただけじゃ?
そもそも男性名だった謙信の戒名が男で、何の都合が悪いのかワカラソ
男として生きた方がトクじゃん
小説なんかでは幕末〜近代の米沢の人間が、
いかに軍神謙信公を奉ろうとしたか、大きく取り上げられるね。
その頃の武士や兵士を奮い立たせるには
清廉潔白な戦国最強武将は男性でしたというのは都合が良かったんだろうね。
それが男性説が通説になった理由なんだろう。
>>408 文句があるなら、次では削除すればいいだろ。
学問ってのは日々進歩していくんだよ
>411
そういう面はあるだろうけれど、
さすがに「それが理由」としてしまうのはどうかなあ
川中島をあつかった軍記ものや講談なんかは、江戸初期から
たくさん書かれているわけだけど、
そこでも男性扱いでしょう? わざわざ男と明記はしなくても。
男性説が通説というのは、ずっとじゃないですかね。
>>411 うんにゃ、慶長5年の謙信23回忌法要あたりから軍神化していった
ものと思われ。この23回忌は、じつは家康に上洛を要請されて断り、
因縁をつけられた翌年のことで、家康との対決のための軍議だった。
それまで、たとえば秀吉に川中島合戦のことを「はかのいかぬ戦を
したものよ」(史実)と笑われても「そうなんスよ、殿下。(あのバカ叔母は)
何を考えていたのやら」(想像)と、謙信のことを軽視していた景勝も
求心力が欲しくなったのだろう。それが謙信の神格化のはじまりで、
江戸時代になると、幕府の甲州流軍学に対抗する紀州家の上杉流軍学
として、軍事の天才・戦争芸術家・義の漢という神話がつくられた。
江戸中期に、新井白石・頼山陽らによって謙信の男性像が完成される。
なんでそんなに見事に男性化できちゃったのかねえ。
女のままじゃそんなにダメだったのかよ…。一般庶民にいたるまで…
同時代・近い時代の女の人たちにとっては、勇気付けられる存在でもあったろうに。
>>415
そこはそれ、清心尼公の遠野南部藩(1万石)とはちがって、120万石の大藩
家康の尊敬していた武田信玄の宿敵なわけだから、まかり間違っても女性だった
なんて言えないのさ。
>>414
>「そうなんスよ、殿下。(あのバカ叔母は)何を考えていたのやら」(想像)
こういう喋り方をするのは兼続だね。景勝なら「ムスッ…」だと思う。
矢切信者は全部退散したのかな?
>>415 庶民の間では女性として通っていたらしい。
アマテラスが男だったり女だったりするのと同じだな。
>>417 1スレの初めから八切信者なんていなかったよ。女性論者たちは
八切史料の都合のよいところだけ抽出して、早い段階から男装説になってる。
熱狂的という意味では女性論信者に近いが、八切説の杜撰さについていける人がいるとは思えん。
あの論理が散漫で、言葉の飛び移りの激しい八切文体では、じっくり読むという
ものでもないし、頭が混乱するだけだ。
>419
まぁ、八切のは独り漫才みたいな文章だからなぁ
別に男装説でもないな。
女性的な衣装を着ていたのは確実だし。
八切の説に多くの穴がある事を認めつつも、
謙信が女性である事は公然の秘密だったという感じかな。
>>421 女として振舞いながら、女であることを隠す(公然の秘密)
あるいは、皆が見て見ぬふり
めちゃスリリングですね
男という事にしとかないと、官位は叙任できなかったし、高野山にも参拝
できない。この辺が検討課題じゃないのか?
女性当主である事を意識させないくらいに切れ者だったのだろう
官位を貰う際にも、当時の朝廷にそこまで格式権威があったとも思えないところだし、
そのまま貰ってしまったかな
結論ありきw
>421
八切説では謙信醜女説ですが、この点は?
>>426 >>421ではありませんが、
『松平記』の葬儀の記述「居並ぶ諸侯、麗しいと感嘆…」を信じたいねぇ。
死んだ男性説スレでは、某サイトの「麗しい=健康。一時的に謙信の容態が持ち直した」
が引用されてたが、これは違う。戦国時代に「麗しい」は「愛してます」にひとしいと
いう説もあって、そもそも「愛」という言葉がなかったらしい。家臣一同、声を揃えて
「お慕いしていました(涙」だったのではないだろうか? 美女の証明にはならんけど。
家臣一同ホモだったとかは?
>学問ってのは日々進歩していくんだよ
>八切史料の都合のよいところだけ抽出して、早い段階から男装説になってる。
それならなおの事、矢切説を乗り越えた内容のテンプレに、スレ立てる度に随時
更新していくべきだと思いますよ。
機械的に貼られたテンプレは、議論の蒸し返しのもとです。
女性説側には、隠蔽説、非隠蔽説、公然の秘密説。
この3つを押さえたテンプレが必要だろうな。
>>429 そこまで言うならおまえがテンプレ案出せよ
できんなら黙っとれ
432 :
429:2005/08/03(水) 14:32:40
はい、わかりました。いっそ、消えますから後はご随意に。
>>432 まあ、もちつけ。
黙っとれと言う事だから、こっちから提案なんかせずに >431が次スレでどんな
テンプレにするのか楽しみにしてようぜ。
出来上がったのをみて、あれこれ文句つけたほうが楽だろ?
敵が女であることで虚仮にしたプロバガンダが伝わってないのはなぜ?
433 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/03(水) 15:11:04
>>432 まあ、もちつけ。
黙っとれと言う事だから、こっちから提案なんかせずに >431が次スレでどんな
テンプレにするのか楽しみにしてようぜ。
出来上がったのをみて、あれこれ文句つけたほうが楽だろ?
ROMに徹しといてください
そろそろ机上主義(文献史学)の限界だな。前スレにあった最後の越後ゴゼ(御逝去)
のフィールドワークを何故しなかったのかと、議論が閉塞した今は悔やまれるよ。
八切氏に心酔してるわけでも賛同してるわけでもないが、書物を打ち捨てて生きた
伝承と史跡を考古学分析する研究者・歴史愛好家はいないものか? べつに謙信公の墓を
暴けとか言うつもりはないが・・・。
大体収束してくるとDNAで終わる
そしてまたイキのいい論者たちの登場までスレは眠りにつくのさ
>>437 具体的にどのような調査を行えば謙信が女性であること裏付けることができる可能性があるんでしょうか?
>>439 まずは、
@膨大な書状(軍令状)の筆跡鑑定(明らかな直筆との比較)による行動様式の検証。
A万葉集の叙辞の使い方で詠歌の傾向をコンピュータで調べたような、言語学的なアプローチ。
B遺品(具足や生活用品)の使われ方による性別の判断(困難かな?)
C前スレに「30年前に訪ねた老人の証言で、わが家はみじょうを追い出され…。謙信公は女だった」
(概略)とあったが(直リンクできん)、春日山付近の伝承の聞き取りをする。
D前スレ(現スレにもリンクがある)梁田文書(血書起請文)の化学鑑定。
E禁断の「謙信公甕棺」の開封。
F地道な啓蒙活動による、Eの実現。
こんなとこか? 思いついたら、また書き込むよ。
>>439(
>>440より)
忘れてた(汗
Gタイムトラベルして、謙信公に会ってくる。
※ただし、問答無用で討ち首にされるおそれあり(汗
>>441 フェイズドアレイレーダーとかを手土産に持ってけばいいんじゃね?
じゃ、誰か会ってきてよ。酒さえ持ってけば、即殺されることはないよ。
帰れなくなるかもしれないから、確かめたら文書をいっぱい書いて
お寺とかにおさめておいてくださいね。
>445
ま、たまに暇ネタもいいんじゃねえの。そろそろネタも尽きかけてるんだし。
明日にでも俺が女謙信に会ってくるよ。弘治元年(1555年)なら、第二次川中島合戦で
長野市内(善光寺あたりが本陣)で長期対陣してるんだろ? タイムトラベルを450年前にセットすりゃ簡単なんだし。
タイムトラベルしたら後世男性(あるいは女性)だと思わせる為にあらゆる工作をするだろここの住人はw
>>446 気をつけて行ってこいよ、長陣でイライラしてるはずだから
>>447 遊びだ、勘弁してやれ(笑
それより、削除議論スレのカキコで重複削除の基準がすこしわかった
編集して下(↓)にUPしとくよ。元文を書いた人、コペピ編集でスマソ。
※ホスト名とか転送アドレスとかは、引用者(わたし)が削除編集してる
女性説 :2005/07/16(土) 20:53:03
質問です。日本史板の『■■徹底史料分析!■上杉謙信女性説2■■ 』というスレッドに、
にコピペや1〜2行の内容の無い反論を繰り返してスレを埋め、レス900を超えた時点でいきなり
『【学説は男】上杉謙信女性説3【謙信は男】』
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1121248125/ という、一方的な立場をとるスレッドを立てた人物がいるのですが、それは不公平だと後から立てられた
『■■徹底史料分析!■上杉謙信女性説3■■ 』
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1121256498/ というスレッドは、ルール違反で削除対象になるのでしょうか?
削除人は、コピペや1〜2行レスを繰り返した人物が 【学説は男】上杉謙信女性説3【謙信は男】
というスレを立てた事などは、IPなどからでわからないのでしょうか? どなたか、教えてください。
(返信名は引用者削除):2005/07/16(土) 21:12:34
>>508 私は削除人ではありませんがと前置き。 議論であればスレタイより内容で。 感情が優先するなら、後発スレを立てた人も荒らしかもです。
でも、後発スレで淡々と議論を続けられるのであれば、削除されないかもしれませんよ。
荒らしさんがスレの中で浮いちゃうように、中身のある議論を続けると同時に、浮いてる荒らしさんのレスを
淡々と削除依頼することをお勧めします。
(返信名は引用者削除) :2005/07/16(土) 21:43:10
>>508 前スレがdat落ちしていて、その辺の経緯は分からないんだけど。
重複スレとして任意削除の対象となります。どちらのスレを残すかは、
1,立てられた時刻(先発スレを優先して残す)
2,議論の内容(内容のあるレスが付いているスレを優先して残す)
3,両方残す(もう一方を次スレとしてリサイクル)
が原則です。 しかし、現実には、削除依頼を出した者勝ちというケースも・・・。
女性説 :2005/07/16(土) 21:57:33
ありがとうございます。淡々と議論をしておりますので、よろしくお願いします。
>449
なるほどね・・・内容で勝ったわけか。
451 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:17:33
謙信が女とか訳ワカメ
な迷える小羊登場
>>449 こっちからも削除要請は出てたらしいよ。
例の大量コピペ嵐の後だと思うが。
>>452
荒らしが始まったのは
>115 :日本@名無史さん :2005/07/16(土) 01:12:46
からだから、>449のデータの前だ。やはり、コピペ荒らし合戦が契機で
削除人が動いたんだと思うが、荒らし後のスレの内容の違いだろうね。何にしても
削除人の公平かつ適切な判断だとは思うが。
>>449>>452>>453 ということは、こちらからアクションがあったのが07/16だとしたら
向こうのスレ停止(07/29?)↓まで、2週間ほどのタイムラグか?
やっぱ、すぐってわけじゃないんだね。
>347 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 01:13:42
>>>(引用者削除)
>引っかかったな、バーカ! 女説論者め!!
>348 :停止しました。。。:停止
>真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
最終的に削除人さんは、誘導のあり・なしで決めたというかたちをとってますね。
>>455さん
少しワカラソ、おしえてください(願
>>300 >うわあ、本当だ。誘導のあるなしで決まったんだのですね…
というのもありますが、削除人さんがそう明言したの?
2chルール的に不適当な質問レスなら、仕方ないので無視よろしこ。
もうそんなのいいから話戻して
>456・457
もう細かいことはいいよ。俺が明日、信玄と対陣中の謙信に会ってくるから。
帰って来れなかったら、善光寺平(長野市から松代界隈)の寺や祠を探してくれ。
かならず「謙信が男か女か」、446の記号で書き残しておくよ。
さてと、日も改まったしタイムマシンを450年前にセットだな(キリキリ…)
(
>>446)
そーいうことは三戦で世ロ
>>373 >「山形には『上杉家では家督相続の際、継承者のみに伝えられ続けたという御家の禁忌が存在した』
>という逸話が残されている。その禁忌を知った継承者は、どんなに剛毅な者といえども顔青く冷や汗が滴るといわれるほどの衝撃を受けていたらしい」
>と本で読みました。謙信女性説と何か関係あるのかな...
これは景勝が謙信を暗殺した、という説だね(「学研歴史群像・上杉謙信」にもある)
前提として、謙信が景勝の父政景を謀殺した、三郎景虎に山内上杉の家督を譲ろうとした
ことへの先制攻撃という見かたも可能。学界では少数派意見だが、御館乱が景勝の国主簒奪
だったという説もある。たしかに景勝の暗殺説では、長尾氏の家系は長寿が多い
(為景60代後半・晴景は40代前半だが、景虎=謙信派の謀殺説=病弱は後世の創作もある・
御虎御前80代・仙洞院80代)ので、謙信の死は早すぎる。景勝後継の遺言をデッチあげたのは
直江実綱の未亡人(後妻)とされているから、黒幕は仙洞院じゃないかな。
夫の仇であり、古志(栖吉)派を排撃する上田派の後押しで? そうなると、
このスレ的には姉妹の確執ということになるわけだが。
大虫で死んだという説とまたカチ合うな
>>462 異常な早レス(笑、サンクス。
八切氏の「大虫」説には無理がある。松平忠明が記した「越後景虎歿、大虫といふ」
が婦人病なら、氏の「武家諸法度で女性当主の存在が御家取り潰しの論拠となるのを避けた」
と「カチ合う」。松平忠明は徳川一門なんだから、幕府が知っていたということになる。
仏教関連の医学書で「虫」(病気の原因という意味)を調べてみたが、「大虫」は皆無だった。
他にいろんな「虫」が病因として記載されてるにもかかわらず、だ。
落ちた「男性説派スレ」に、八切説をそのまま踏襲して「大虫」を「虎」として
いたが、これも間違い。地方方言で、出雲方面の伝承に「蛇の意味」とあるだけ。
もう少し調べてみるが、松平記の「大虫」は史料的には不明かと・・・。
>461
上杉謙信という人物はそもそも居なかった、というのはどうよ?
じつは仙洞院(綾)が謙信の実体で、対外的に影武者を立てていたのだよ、と。
御館の乱は、北条三郎をかつぐ勢力(古志勢・下越の反上田派?)が台頭して
しかたなく与板勢と上田勢が結んで、内乱になってしまった。その内乱の原因を
謙信(実は影武者)の死という形で押し出し、景勝を正統として内乱に勝ったとか。
自分で書いてて、もうわけワカンネ・・・なのだが。
>>464さん
上杉謙信は仙洞院(綾)だった??
ちょっとムリが多いっスよ。政景・綾と景虎が争った時期を考えると…。
景勝もチビだったしね。まあ風貌とかは別として。
その学研の本とやらは読んでないが景勝による謙信の暗殺説って誰の説なんだ?
でもって上杉家継承者が冷や汗を流す禁忌話というのは本当に代々受け継がれて来たものなのか?
また「お跡目は景勝様ですか?景勝様ですか?」という例の直江後室による遺言デッチ上げは、
どの史料をソースにしたものなんだ?信憑性のあるものなのか?
御館の乱が景勝による簒奪だったとする説は『上杉氏年表』あたりで読んだが、
とてもまともな論として成立しておらず、失笑ものだった訳だが。
謙信を暗殺するとすれば、三郎の方が可能性が高いと思う。
三郎が謙信を殺害し、山内と越後の両上杉の後継を宣言し、後北条家を引き込む。
氏政が計画に絡んでいた可能性も十分に有りそう。
>>463 >氏の「武家諸法度で女性当主の存在が御家取り潰しの論拠となるのを避けた」
と「カチ合う」。松平忠明は徳川一門なんだから、幕府が知っていたということになる。
>>404-407を嫁
>松平忠明が記した「越後景虎歿、大虫といふ」
>松平記の「大虫」
当代記と松平記を混同?
>>468 歴史群像シリーズ『疾風 上杉謙信』によると
@三郎景虎は養子に迎えられ早速上杉姓を与えられた。景勝はその5年後に上杉姓を与えられている。
A三郎景虎の春日山城の居住地はニの郭、景勝は本丸から更に離れた三の郭。当然本丸に近い二の郭の居住者の方が高位。
B御館の乱の際、三郎景虎方には永年謙信政権の中枢を担ってきた部将達がついた。
C上杉憲政も三郎景虎方を支持する姿勢を見せた。
...等々、三郎景虎は謙信の生前から後継者に指名されていたようなことを匂わす話が載ってました。
ということは三郎景虎がわざわざ謙信を殺害して上杉家を纂奪する理由はなくなってしまいますね。
まぁあくまでも謙信が三郎景虎を後継者に指名していたのが事実ならの話ですが...
>>470 山内上杉家を三郎が継ぎ、喜平次が越後を継ぐのであれば、
三郎には越後において地位はあっても実権は無いのでは?
しかも、この取り決めを認めると、
領土拡大を狙う後北条家にとってもデメリットになる。
乱世を願う三郎と後北条にとっては、
秩序を重んじる謙信、喜平次は邪魔者であるはず。
で、大虫が婦人病であるとする資料は?
>>472 では、大虫が婦人病でないなら何の病気かわかる資料は?
>>473 そういう資料も、まだ提示されてないよ。
しかし、婦人病である事を証明する資料がないと「当代記」に婦人病で無くなったと
書かれてあるかどうか判定できない訳だから、女性だった根拠とはならないという事
だな、今のところ。
>>470-471 天正3年の軍役帖によれば、中城様(景勝)は最大の兵力になってるが、
三郎は名前もない。名前がないので、軍役を課する立場(謙信と同じ立場)
だったという説がある。
ぎゃくに、山内上杉家は名目の管領家にすぎず、飾り物だったという説も。
相越同盟のとき、謙信が北条氏に関東の上杉領の返還をもとめているが、
これは履行されなかった。そのことが同盟の機能を削いで、氏康死後は
武田と北条の同盟が復活。
ただ、御館の乱のときに河田長親がしばらく中立の立場をとってる。
謙信に最も忠実だったとされる長親の態度保留(のちに景勝側)が
真実を語っているのではないかと思う。
つまり、三郎(関東管領)を名目に立て、越後上杉氏は景勝に。
「3人とも(上条政繁をふくめ)仲良くやっていきなさいネ」という
いかにも女性らしい短慮だと考えられるわけだ。
476 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 18:00:11
>>475 つまり
山内上杉氏
→上杉景虎
越後上杉氏
→上杉景勝
上条上杉氏
上条政繁
てこと?
>>465 おっ、戦国最強の秘密に触れたな。
そうそれは一人二役にあったんだよ!!
川中島で信玄の隣にいた女。
七尾城の台所で大根を切ってた女。
手取川で勝家の隣にいた女。
全てが謙信タソだったんだよ!!
そして小田原城では試しに味方と戦ってみた謙信タソ。
>>470 468ではないけど、歴史群像シリーズではそういう主旨なのか。ありがとう。
>三郎景虎は養子に迎えられ早速上杉姓を与えられた。景勝はその5年後に上杉姓を与えられている。
三郎が謙信の養子になるのは、越相同盟交渉の同盟条件だからね。
上杉姓どころか、山内上杉氏の後継者として三郎を迎えて、はじめて氏康は、
謙信を、関東管領上杉氏と認めたと考えられている。
鶴岡八幡宮復興など実質上の関東管領職は後北条氏だという思いがずっとあっただろうしね。
謙信が景勝に上杉姓を与えたのは確かにその5年後。
しかし、逆にいえば、三郎を自分の後継者として指名するつもりでいたならば、
わざわざ北条氏討滅を宣言・祈願した天正3年に、景勝に上杉姓を名乗らせ、
自身の官途、弾正少弼を譲り与える必要はなかった、という話になる。
ずっと長尾姓のままでいいし、通常、他家でも親が世嗣に譲る官途を景勝に与える必要もないからね。
>>470続き
>三郎景虎の春日山城の居住地はニの郭、景勝は本丸から更に離れた三の郭。
>当然本丸に近い二の郭の居住者の方が高位。
三郎の居住地には、二の郭説と三の郭説がある。
景勝の居住地も不確か。「御中城様」の呼び名と同じく、中城だったという説もあり、
さらに中城は、謙信の居住地であった実城と並ぶ二大巨郭だったとも云われてるよ。
謙信が「御実城様」と呼ばれていたこととも符合する。
>御館の乱の際、三郎景虎方には永年謙信政権の中枢を担ってきた部将達がついた。
これは他の上杉スレでもよく語られていたのだが、御館の乱で三郎方になったのは、
むしろ謙信の初期の頃の政権の重鎮。旧主流派、反上田長尾。
逆に後期、晩年の謙信を支えた重臣、主流派には景勝方が多い。
かつて謙信が家督相続した時に活躍した本庄の息子や古志景信が三郎方になったことから、
一門や重臣が、皆あたかも三郎に組みしたように書かれる本も多いが、
実態は上記の通り。
>上杉憲政も三郎景虎方を支持する姿勢を見せた。
兵を連れて押しかけられてイヤイヤ巻き込まれた説もありますよ。いかにも憲政らしく(^^;
ただ、山内上杉氏の継承は越相同盟当時の和睦条件だったと考えれば、
憲政は景虎を支持せざる得ない立場だったとも言えますね。
>479-480長々とすんません。
>475の「名目は三郎に、実権は景勝に、政繁も一緒に3人で仲良くやっていきなさいね」
説が今のところ、学界の通説に一番近いように感じますが、
だとしたら萌えはともかく確かに短慮だ。
>むしろ謙信の初期の頃の政権の重鎮。旧主流派、反上田長尾。
>逆に後期、晩年の謙信を支えた重臣、主流派には景勝方が多い。
単純に旧主流派と新主流派の分裂とは言えんよ
むしろ、上田長尾と古志長尾の対立と考えたほうが、一門の分裂は鮮明になる
譜代家臣も直江(与板衆)や斎藤は旧主流派なわけで、揚北の国人領主も新旧
関係なく分裂してる
>ただ、御館の乱のときに河田長親がしばらく中立の立場をとってる。
>謙信に最も忠実だったとされる長親の態度保留(のちに景勝側)が
>真実を語っているのではないかと思う。
このあたりのほうが傾聴に値する
生前に謙信の意思があったという意味で
483 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:34:33
わかった、謙信は双子の兄妹だったんだよ!
>>482 >むしろ、上田長尾と古志長尾の対立と考えたほうが、一門の分裂は鮮明になる
確かに。
つまりアレだ、生前の謙信の意思は、長親が中立の立場だったことからも、
国主権力の実権は景勝に、上杉宗家としての山内氏の跡目は景虎に、名流上条氏の跡目は政繁に、
>>475にもあるように、3人仲違いせずにやっていくようにと願っていたと。
>>483 わかったよ。想像はもういいから、
>>187の加地春綱との婚約説を
史料をもとに考察してくれ。謙信の兄弟姉妹は、そもそも何人だ?
>484
謙信は河田長親のこと、そうとうに気に入ってたらしいね。古志長尾の家督を継承させた
ときに、上杉を名乗るように言ったらしい。律儀な長親は景信(長尾十郎)に遠慮して
固辞してるんだけどね。上洛のときに近江で逆ナンされてきたわけだから、上杉家中では
居心地が悪かったのかもしれんと想像しがちだが、信長のナンパは拒絶してるし。
根っから謙信の信奉者だったのだと思う。彼にとって、御館の乱は人生を縮めるほどの
痛恨事だったと思われる。乱の最中にも柴田勝家の侵攻を支えて、戦線を膠着させてる
が、心労のためにアボン・・・。もう少し野心のある男なら、謙信の養子になって
上杉長親政権(関東と京都を制圧)が誕生していたのかも。と、妄想してみる。
>>486 そりゃ、あなた。稚児数寄の戦国マダムがひと目惚れして、
強引に越後に連れ帰ったんだもの。ひそかに、セクースとかもしてたはず。
みんな、学があるなぁ・・・
俺みてえに学の無い中卒はROMるしかねえよ
学のあるなしは無関係、歴史の発見は直感(ひらめきと感性)が拓く
ひたすら、謙信公が女だった。のではないかと、ひらめく深夜の思索に・・・
前に松平謙が出てたバラエティで番組ではじめてこの説を見て、
女は高野山で修行できないから該当しないって否定されて納得したけど、
海外の資料に女性として載ってるのは知らなかった。
あと血の穢れに対しては昔は異常に縁起悪いと嫌うから、
生理周期になると戦場を離れたと考えたのはおかしくないなと感じた。
実際どうだったかは分からんけど面白い説でこういうのは嫌いじゃない。
>>470です。ホント皆さん学がありますね。俺なんか本に書いてあることそのまんましか出せない..てゆうかここは「謙信女性説」の話をするところでしたね。話を逸らしてごめんなさい。
>>493さん
>>492です。ありがとうございます。
しかし謙信にまつわる疑問はたくさんあるんですね。
そういえば謙信画像といわれるものには、戦国武将にありがちな髭が描かれてないものも多いですね(上杉神社にあるものは無精髭みたいになってますが)。
なんか女性説というものにも興味がわいてきた...
>>493 >>440の言う↓が、着々と進んでいるということか?
E禁断の「謙信公甕棺」の開封。
F地道な啓蒙活動による、Eの実現。
ま、漏れも生暖かく見守りつつ、裏では支援するわけだが…。
>>358 >当時の男尊女卑の風潮…
この件ではいろいろ議論あるが、新しいというか古い史料をハケーンしたよ
平安時代は別にして、古代と中世の日本はもともと、女が統治してたんだと??
明日にでも詳しくUPしまつネ
謙信男装説ならあまり関係ないかもしれないが・・・。
「大かた此日本国は和国とて女のおさめ侍るべき国なり。天照大神も女体にてわたらせ給ふうへ、
神功皇后と申侍りしは八幡大菩薩の御母にてわたらせ給しぞかし」
「むかしは女体のみかどのかしこくわたらせ給ふのみぞおほし侍しか。
今もまことにかしこからん人のあらんは、世をもまつりごち給ふべき事也」
(一条兼良『小夜のねさめ』群書類従巻第四百六十七)
簡単に訳すと「天照大神は女だったし、神功皇后は応神天皇の母親だ」
「むかしは女帝が威厳をもって統治した。今でも真に威厳を備えた女性なら
政治をするべきである」
一条兼良は室町中期を代表する学者で、幕府や朝廷にも影響力のあった人物。
何かと批判の多かった日野重子と日野富子の執政を擁護したこの発言は、室町期における
女性の地位をあらわしている。謙信が生まれるわずか50年ほど前の中央政界の議論である。
>497
つまり、越後武士団が女国主を立てても不思議ではなかったと。
499 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:12:16
そもそも男尊女卑なる概念が江戸時代の発想で、明治以降に磐石になった思想
江戸時代と明治時代の歴史観を通して戦国乱世を観ても、なにも見えんはずだ。
たとえば神仏と言った場合にも、
>>497の八幡大菩薩(神仏思想)は近代の宗教観
では理解が難しい。神仏習合は教義だけでなく、神社神道を僧侶が運営していたわけで、
女謙信も形を変えながら容易に信仰の対象になったのだろう。
>>499
儒教は鎌倉末期に入ってきてるよ。
>>497の一条兼良が富子を弁護したというのは、
室町期に男尊女卑が始まってたからではないのかな?
漏れは男装説なので、当時のジェンダー論の詳細はスマソ。
>482
>譜代家臣も直江(与板衆)や斎藤は旧主流派なわけで
直江も斉藤も古志や本庄と違って謙信の晩年政権まで
活躍してるから単純に旧主流派というより生き残った旧主流派と
いった方がしっくりくるなぁ。
でも多分御館の乱は簡単に1つや2つの理由で説明できるようなものではないのだろうね。
このまま続けるとスレ違い気味になってしまうので止めますが
皆さんのレスを読んでたら興味が出てきたので色々上杉スレで語ってくれたら嬉しいです。
(今覗いたら少し前まで御館の乱の話題で盛り上がってたようだけど乗り遅れた…)
>486
長親の優遇っぷりはすごいね。兼続にもいえるけど主人から気に入られ過ぎだと
周りから色々言われるだろうし辛いだろうな…
502 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 00:28:56
山吉豊守あたりが謙信に気に入られたのはともかく、重要な存在だったのかワカラソ
謙信の春日山稚児衆だったとしても、30代死亡で上杉氏の宿老とか呼ばれるかね?
上杉氏史料には、直江景綱(没年70代?)の死亡と同じように触れられている…。
>>503 お互いの荒れの原因を作るだけだ、やめようぜそういうことは…
505 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 00:57:27
兄の晴景が来ましたよ。じゃんじゃん質問してください。
では、
>>505@晴景さま
謙信(阿虎・虎千代・景虎・・・)は、あなた様の妹なのですか?
それとも、弟なのですか? 表向きのことではなく、真実を知りたいのです。
>>506 随分つまらない質問をするものじゃ。わしには妹しかおらんぞ。
>>502 さすがに景綱ほどじゃないけど、
元亀・天正期に奉行人として文書の発給や受け取りバンバンしてるらしい
しかも天正3年の軍役帳では、家中第一の動員力
やっぱ30代の若さとはいえ確実に重臣の1人なんじゃないの>豊守
天正年間に目立ってる宿老っていえば景綱と長親の他には、あと吉江とか鯵坂とか専柳斎?
このあたりの人たちが後期政権の中枢と言えるのでは
>春日山稚児衆
逆ハーレムですな
510 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 23:39:29
稚児リスト、作ってみたいね
久しぶりage
なんだかなぁ・・・、みなさん本気なのですか?
上杉謙信はホモ説が定説かと。
何の吟味もされていない「定説」が何の役に立つっていう以前に、
定説というなら毘沙門天云々っていうほうがまだ定説に近いだろ
>>512 >>511ではないが、謙信公不妻帯の説明としてはホモ説のほうが踏み込んだものと思われ
毘沙門天云々や飯縄権現信仰、真言密教云々も史料考察論証なしの憶説にすぎん
かりにそれが歴史評論家や作家の多数派説でも、真っ向きって学界に論陣を張った者はいない
史料も論証の材料もないので、あえて触れないのが実態ではないのか??
まともに論じてる研究者がいたら、紹介よろしこ!
>513
女性説は史料も論証の材料も少ないので、あえて触れないのが実態ではないのか??
まともに女性説に反論してる研究者がいたら、紹介よろしこ!
>508
豊守といえば謙信が何かの書状で
心配してるのに一度も連絡よこさんとか
書いてたような。多分留守居中か何かだと思うけど。
>>516 まともに女性説を論じてるのも、八切止夫だけなわけで…。
あとは最近売り出し中の若手ジェンダー論者、直木賞作家の安西篤子がホモ説と女性説
の間をウロウロ…。あと、漫画家の石川賢、作家の小松左京(八切説)あたりか。
>>518
けっこういるんじゃん、女性説派の有名論者って
まあ謙信は女にしといたほうが萌えるし夢があるから
俺は女だと信じるよ。
あの時代ホモは普通で面白みがないので女性説の方が追求したくなる
>518
安西は潜在的な女性説論者。公式には「ホモ説」だが、女性の視点から
謙信を精神鑑定してみたいとか云ってる。けど、一次史料をもとにした
最新の研究(たとえば祐筆三人説)とかは無関心なんじゃないかね。
523 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:44:17
アゲ
524 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:46:37
謙信には奥さんがいなかったし、息子の景勝も養子だったもんな。
十分、女性説としての根拠はあると思う・・・
526 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:01:12
>>524 妻とか実子がいないだけでは、十分とは言えなくないか?
>>526さん江
当方は
>>524さんではありませんが、戦国時代に妻帯しなかった(実子がなかった)
国主級の武将はいません。応仁の乱後の細川政元が宗教に凝って妻帯せず、のちに養子が争闘
している史実はあります。で、戦国当時に第一級の文化人だった謙信が、なぜ
細川政元の「失敗」を教訓化し、自分の死後におきた御館の乱を想定できなかったのか、
という疑問が生じます。謙信は細川家と将軍家を通じて知っている間柄、細川藤孝(幽斎)
とも親交(和歌集を贈呈など)がありました。謙信女性説は「妻と実子がいない」ことが
モチーフであり、その謎を解決できる史料的かつ合理的な研究が、いまだなされていない
からなのです。「謙信が女だなんて、そーんなバカな」と、一般に思われる「常識」の枠組みは、
おおむね江戸時代の軍記物語(北越軍記などのフィクション)によるものであって、
じつは謙信研究者たちも最初から否定している偽史料なのです。とはいっても、学界を驚愕させる
新史料(たとえば、謙信の遺骨=蝋で固められた生前同様の遺体を化学分析するとか)
がないかぎり、世論を動かすことも困難なのですが。
>>527 スマソ。
後半がよく分からんので、もうちょっと分かりやすくしていただけるとありがたい。
>528
たぶん謙信の実像を伝える資料は、きわめて乏しいということ。
大半の伝承は江戸元禄期の創作だ。ゆえに、このスレでは資料を
厳密に精査するのが主旨。てな感じか?
不明の点は、もう少し具体的によろしこ。
謙信女性説支持者の皆様に質問。
伊勢姫の件はどんな見解をお持ちですか?やっぱりデタラメ?
531 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 16:28:10
>>530 千葉(九里)采女正(北条氏平井城代)の娘(伊勢姫)のことなら、
永禄4〜5年のはずだが一次史料なし。
そもそも柿崎景家がこの結婚に反対したとか、ありえないでしょうね。
謙信ですら、越後国人領主の婚姻や養子に口を挟めなかったのに、この時期は
まだ奉行でもなかった景家が意見できるはずがないのです。
同じく、近衛絶姫も直江の娘も史料は皆無です。
>>531 御回答有難うございます。
なるほど、確かに伊勢姫の件は絶姫、直江実綱の娘などと共に伝説の域を出ていないみたいですね。
でも柿崎景家が諫める訳がないとは言い切れないのではないですかね?
景家は永禄の初年から既に内政に関わるようになり、春日山城の留守居にも任じられてます。
奉行でもなかったということですが、永禄3年に謙信が領内の諸役・地子他を5年間免除するという政令を発したとき宿老の斎藤朝信とともに奉行としてその施行に携わったとありますが…。
>531>532
柿崎景家の謙信(景虎)政権内の地位は532さんが述べられたとおりで、けっこう内政にも
活躍しているようです。ただ、謙信が諫言を聞く人だったかというと、無理でしょうね。
男性説をとった場合も、一国の国主が実子を持たない(結婚しない・側室を持たない)
ことを重臣たちが諫言したでしょうが、頑なに拒否(?)。
その代わり少なくとも3人の男子を養子にして、織田信長にも養子縁組を求めて
います。ここが「ホモ説」と「女性説」および「戦勝祈願の信仰説」となるわけですが・・。
謙信は男性でもGIDの類ではなかろか。
服装も女性的だし。
服装はわりかし普通じゃまいか
陣羽織とか結構可愛いのが多い。水玉模様とか。
パッチワークみたいのもあるよね
>536
金襴銀襴緞子胴服(上杉神社所蔵)ね。女謙信が手ずから縫い上げた(と思われる)逸品。
ただし、一般に派手な衣装は室町期の武将に流行したものであって、女っぽい
とは断定できない。この時期、東山文化(侘び寂び)と北山文化(豪華絢爛)の相克があったらしい。
謙信の甲冑と兜が古風なのは平安文化への憧れとも考えられるし、派手な金箔漆はのちの
桃山文化ともクロスオーバー(死語)する。
>>532=
>>536です。ざっと皆様の御意見拝見させていただきました。
ここまで来ると何としてでも解明して欲しくなってきたな。
…と、なるとやはりDNA鑑定てことになると思うのですが、やっぱり難しいんですかね?伊達政宗公は遺骨から体格なども調べられて157cmのB型ってところまでわかってるんでしょ。
てことはいずれ謙信公も…
でも歴史好き的にはつまんなくなっちゃうか…
>>538さん
>>24はご覧ですよね? 梁田家文書は謙信が足利藤氏を古河公方を奉じる(関東管領)に
なるための準備手続きですから、他の「感状」や「軍令書」とは違って、
直筆血書だと想定されます。謙信AB型説もあったのですが、出所は不明。
>でも歴史好き的にはつまんなくなっちゃうか…
じつは、自分もそうなんです・・・。
>>539さん
>>24見落としてました…
そうか血書というのもありますね。でも出所不明ではなぁ…
本人の棺(謙信公の場合、瓶でしたっけ)の中から出てきた遺骨ならばほぼ間違いないんだろうけど。でも剃髪してるんならどこかに毛髪とかないんですかね…
それとも歴史のロマンとして知らない方がいいんでしょうかね…
541 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 03:25:40
>540殿
もう寝ようと思ってたら、ここに何とも面白い情報交換が!
剃髪とかは関係ないです。
上杉謙信の遺体は、大甕(上杉廟所蔵?いや、廟に埋めてる)に入れて漆と蝋で固めたと上杉文書にある。
そのままそっくり、生きていた(いや、死んだ生身の)状態で保存されてる可能性がある。
>539殿がいう、血液型AB説「出所不明」はデマというか、ワカラソ。梁田文書という意味ではないと思われる。
>>541さん
その話は本で読みましたが、私は遺体を収めて蓋の周りを蝋と漆で固めたと判断しました。
>>541さんがおっしゃるのは遺体を蝋と漆で固めたってこと!?
じゃ謙信公はなくなったその姿のまま朽ちることなく現代に…!?
こりゃあ冷凍マンモスどころじゃない!
『死蝋』化してることは…ないだろうな
甲冑姿の蝋詰め謙信が完全保存?
たしかに漆が外側(蓋)なら、蝋は甕棺の中に。
同じ箇所に使える性質のものでもないだろうし…。
じゃあ謙信の死体は蝋でかためられてんの?
>543
それはない、フタの漆で水分は封じられてるし。
甕棺の中を蝋固めした場合は、植物の球根を保存するのと同じで
長期保存が可能。何百年前の球根が花を咲かせたり、古い胡桃が食べられるのと同じ。
一回死んでるので、さすがに蘇生は出来んだろうが。
殺菌してから納めてるわけでもないし
さすがに球根みたいにはいかんだろー
ただ鎧とかは意外といい状態で残ってるかもしれんね
>>546 なにげに釣りか? 謙信が427年目に生き返ったら怖いぞ(w
思わず男なら精子、女なら卵子を採取できないものかと、
そんなバカな想像をしてしまったオレ。植物じゃないんだからさ・・・。
549 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:18:32
>547
>さすがに球根みたいにはいかんだろー
軽いノリで、ワロタ…
この地震…謙信公の瓶を暴く話で盛り上がって怒りに触れたのかな…
551 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 12:13:44
地震age
早く真実を明らかにしろと怒っているのかもしれん
山形大地震(震源地米沢市上杉廟の地下2メートル)とかきたら
間違いなく女神(不識院)のお怒りだな。
甕棺が割れて真夏の暑さで蝋が溶ける→謙信公の性別が判明
→日本戦国史を引っくり返す大事件に→このスレが本になる
なわけないか・・・。
554 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 18:19:00
じゃ記念マキコ
555 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:36:19
多分乾燥してカラカラになっているので、お湯をかけて3分位
で、謙信が出来上がると思われる。
>>555 3分謙信(笑
天変地異で謙信公の甕が割れたとしても、それを公表するかどうかは
前スレにあった米沢上杉文化振興財団(旧上杉家)が許すかどうかだな。
米沢方面の人で、ツテのある人いないか?
>>555 甕の中から封印されし軍神が蘇る!
昔の漫画みたいだな。
558 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:41:47
アラジンの魔法のランプの様だ!
上杉の魔法の甕ってかw
559 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:16:13
こすると出るのねっ!!
墓(甕棺)とかの話になってるんで、聞きたいんですが、
この本↓持ってる人いますか?
「戦国武将の墓相」(杉浦岱典、秋田書店、初版1980年)
謙信の林泉寺の墓石が母親が子を抱くような女性の墓の形式だと云ってるようです。
林泉寺の見解では「大きい墓石が先に作られ、小さいのは後に作られた」とされていますが、
その理由は明らかではありません。
562 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:05:29
>>560-561 自分もさんざん探しましたが、見つかりません(泣
コカーイ図書館に行くしかないと覚悟してまつ。
563 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 02:54:55
俺、来年のGWあたりに米沢逝こうかと思います。
>>563 来年の話ですか・・・。でも、わたしも久しぶりに!
どこかで会えれば、楽しいですね(期待!
>>564 今からじゃ金も暇もなく、冬は寒そう…
春〜初夏ならいい時期かと思いました。
見つけたら指さして罵って下さい
(´∀`)
566 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 02:59:59
しばらく覗かないうちに、楽しそうな雰囲気になってますね(嬉
で、感謝上げ・・・。
上杉景虎(うえすぎ けーこ)はもともと女でしょ?
まあ後世の歴史なんて、当時の権力者によってどうにでも書き換えられるさ。
ありもしない原爆を捏造したのはまさにこのような連中だ。
どさくさにまぎれてわけわかんねーこと書くな
確かに意味分からんな
スルーを覚えような。
夏厨はコレだからこまる。
571 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 00:39:33
おーーい
なんだー?
573 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 00:49:41
夏厨認定厨が一匹いるなwww
>>573 お前もナァー・・・♪
で、何かいい史料見つけたのか??
こっちは夏枯れだぞぉ・・・!
575 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 23:58:22
>570=>574
>スルーを覚えような。
オマエがスルー出来てないじゃんwwwwwwwww
このスレももう終わりだな…
577 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 04:33:31
多少スレ違ってもいいなら…
謙信の死について詳しい方の御意見を伺いたいんですが、
直江兼続が謙信を殺したって本当かな…
謙信が危篤になった際に周りにいたのが兼続含む景勝一派らしいし、兼続死後程なく直江家は断絶したって聞きました。まるで知られてはならない秘密を抹殺するかのように…
>>577 信頼できない文書では、謙信の死には直江夫人が立ち会ったそうですが、確実な史料はありません。
与六(兼続)はまだ、春日山に登城も許されない身分のはずで、景勝も陰謀を
はたらく歳ではないでしょう。学研の歴史群像「上杉謙信」が元ネタですね??
579 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:57:41
>>578 うぉうっ…するでぇな…確かに歴史群像シリーズから抜きました。
なぁんだ、暗殺じゃないのか…話終わっちゃうね…
この本に出てる「上杉家に代々継承者のみに伝えられた御家の禁忌」ってのが知りたい…
さすがに都市伝説じゃないの…
>継承者のみに伝えられた
綱勝(景勝の孫)が急死した時点で既に伝わらなくなる。
あの時、継承者がいなくてぎりぎりで吉良から養子もらってきたくらいですから。
それに継承者のみ伝えられた後家の禁忌があったとしても
普通は禁忌が伝わってること自体隠すでしょう。
そんな周りに不穏な疑惑持たれることわざわざしないわけで。
あと>578にもあるように兼続が謙信死去後に活(暗)躍したという確かな
史料はないです。景勝時代の筆頭家老だからこの年でばりばり活躍してたって
いう先入観があるのか入門書の類なんかではよく書かれてますけど、
少しつっこんだ歴史書で御館の乱で兼続が活躍したなんて書いてるのまず無いと思います。
小説の様に兼続が上田衆率いて敵攻めてるなんてさすがに無理です。
この時兼続が何してたなんて確実な史料では何も分からないのが現実なので…。
確認のため歴史群像見返して見たけど凄いな。
謙信の法要が十三回忌と二十三回忌しかしてないという史実が
あるってあるけど、五回忌、七回忌とかちゃんとしてるよね?
半年ぐらい前から寺に手紙送ったりして準備してなかったっけ?
他にもつっこみ所が多いしまるでゴシップ記事みたいだ…。
こういうのでも知らない人はそのまま信じちゃうんだろうか。怖い。
583 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:11:10
>>581 いや、5回忌や7回忌どころか、13回忌もやってない。
13回忌としたら天正18年か19年のはずだが、18年は小田原出陣
19年は正月早々から上洛(北越軍記・観修寺晴豊日記の閏正月6日)して
半年滞在したあと出羽の叛乱鎮圧(史料は歴代古案)で、年末に春日山帰城。
23回忌ってのも、じつは徳川家康の上杉征伐に対して家臣団を集めた
わけで、謙信の法要は名目だけ。そういうところから、景勝が故謙信を
ないがしろにしていたという伝承があるんだろうな。で、景勝晩年に
いきなり謙信軍神伝説、てな感じ? やっぱ、謙信が女だったからだろーな。
高野山に謙信の菩提弔うための金子贈ったりしてるんじゃなかったか?>景勝
暗殺説も禁忌伝説もしょせんは江戸時代あたりの太平楽面白創作ネタに過ぎんのだろうが、
逆に、なんか今だに兼続は謙信の寵童だったとよく書かれるよね。
とくに兼続ヲタの作家なんかは何かしら謙信との繋がりを求めるように感じる。
が、>580の言うように、これもやっぱ何の根拠もないんだよな?
新井白石あたりが何か書き残してるんだったっけ?(ソースきぼん、と言ってやりたいが)
例の政宗との小判エピで出てくる「謙信公の采配をうんたら〜」も後世フィクションだろうし。
謙信の生前は、上田五十騎組とかいう、
上田士籍の兵で組織されたとかいう景勝の親衛隊みたいなのに入ってた可能性が高いんだっけ?
585 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:55:32
謙信は女を抱かなかったからなぁ・・
どうしてもホモだとか、実は女だとかいう説が出るなw
普通にあり得んでよw
586 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:2005/08/30(火) 23:02:55
EDだったのでしょう。
ちょっとageられると、ウザいのが来るなぁ・・・。
7回忌の時は前年の天正11年に清胤に
「明春3月13日の7回忌の前に越後に来て法要してもらいたい」
って手紙送ってるからやってるんじゃないのか?少なくてもやるつもりだったのでは。
>584
>新井白石あたりが何か書き残してるんだったっけ?
「藩翰譜」のことかな。
でもこれには景勝のお気に入りっぽいとは書いてあるけど
謙信の寵童とは書かれてなかったような。その部分も白石が自分で調査したわけ
ではなく「大日本史」の兼続の箇所写しただけ。
父は薪を扱う身分で兼続は美しくて賢かったから景勝は寵してたよ、って感じで
今でも一般に言われてる様な事とあまり変わらない内容。
白石自身は兼続の出身や出世のことより詩のほうに興味あったみたいで
彼の詩はすごいね〜みたいなこと書いてる。
謙信が女性近づけなかったせいで景虎、兼続のように美形だった話が
残ってる人達はすぐ謙信と衆道だの稚児だの言われてかわいそう。
まあ河田はそっちの可能性高いんだろうけど。
あと江戸時代に作れらた兼続の逸話は
お船死後の直江家の扱いや三成との共謀説が
流布されてたこと(家康に反抗した逆賊)を考えると
わざと悪質に作られた可能性が高い。政宗との話なんていかにも
作りましたって感じだし。
軍記モノあさると凄いの結構出てくるよ。特に三成絡むと悪人ぶりに拍車がかかる。
白石みたいな学者タイプには評判いいんだけど(これは生前からか)
>>590 584ですが、詳細どうもありがとう。
そっか、兼続の謙信寵童説は「大日本史」が元ネタだったのか。
確かに河田長親はガチだろうけど、兼続はまず違うだろうなー。
その頃の謙信は、中条景泰あたりを寵愛してたんではないかと思…
あと、謙信が師として仰いだ清胤を高野山から招いて法要(の予定?)があったんだね。
てことは、景勝が謙信をないがしろにしてたっていう説も根拠薄いかな。
「歴史群像」はやっぱ買わなくていいとw
それにしても江戸時代以降に創作された武将達の萌えネタを無批判に、
史実のように語る本がホントにたくさんあるな。
兼続の逸話も、アクが強くて腹黒で、しかもすごく頭悪そうな話が多くて笑える。
江戸や明治に謙信は女だ!とか主張した輩はいないのだろうか?
人目に触れる書誌に記したものとしては八切が初なの?(既出だったらスマソ)
593 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 00:51:35
>江戸や明治に謙信は女だ!とか主張した輩はいないのだろうか?
忠君滅私奉公と愛国の時代で、楠木正成と並び称される時代だったから無理ポ
謙信公の国揚軍歌まで作られてるわけだし。
河田長親が衆道とかいっても、彼には子もいるんだけどなぁ…
武将なんて基本的に両方イケルだろ。
>>595 それはそうかも知れませんが、論拠の史料は何なの?
個別の関係や具体的なシチュエーションの論証ががないと、何も意味ないですよ
まがりなりにも「徹底史料分析」のスレですから、敢えて苦言を!
大人になるまでは小姓として色事のお相手
その後は立派な武将としてばりばり活躍
っていうのはよくある話だよね
信玄と高坂とか、信長と利家とか
つーかそういう人ほどがっちり出世して活躍するのが戦国
花ケ前盛明って人の越後上杉一族って本が出てるけど、このスレ的にはどう?
>>596 信玄や政宗と違って、決定的な証拠史料はないよな。
もっとも子供の有無は、上記の2人を見てもまるで無関係だわな。
河田長親への特別な寵愛説の根拠とされているのは、
あの超スピードの出世&重用っぷり、数々の拝領品の贈与、
古志長尾家との養子縁組話・・・。長親が謙信の死後に出家したこともその1つ。
これは他の家臣には例がない。
以上の状況が、近衛の「若衆好き」言及とあわせて想定の範疇にされている、と。
ただ、長親の美貌による寵臣説は、
史料としてはかなりモニョられてる『上杉家御年譜』が出典らしい。。。微妙w
まぁ実際、叔父もイイ男で美形の家系だったらしいけどね。
長親が結婚したのがおそらく天正元年(30歳)ごろ?と考えられ、
そのころには料所も与えられてるとのこと。
>>597が言うように「色(含む)小姓→武将としてバリバリ活躍」の典型コースのようにも見える。
まぁ高坂にしても利家にしても兼続(景勝小姓)にしても、
やっぱりセクース以前に、まずは能力&見所ありき、な若者だからそのコースに乗れたんでないの。
ただ、長親には、寵愛がどうのこうの言う以前に、謙信が京の情報を得るにあたり、
代々六角氏に仕官してた河田家との繋がりが以前からあって、
長親が近侍し重用され出したのも、その方面からの全く政治的な意図によるものだったという説もアリ。
河田は文武にそうとうな能力があったのは確かだろうね、信長が内応させようとして
シパーイしてるくらいだから。御館の乱も彼の態度が決定的だったし、その後も北陸戦線で
柴田(織田)勢と互角に渡り合ってる。しかし、若死にするほど苦労したのかなぁ。
ってか、このかんの一連のレス、女性説から逸脱の模様・・・。
長親は御館の乱のときどうゆう態度をとったの?
景勝派?
景虎派?
中立?
>>601 過去レス読めば少し書いてあるよ
しばらく中立(というか態度保留?)ののち、景勝派になった。
叔父は最初から景虎派、嫁の実家もバリバリ景虎派だったんだが。
(叔父も嫁実家も謙信の生前から、景虎の実家・北條氏と繋がりが深かったからね)
長親が景勝に組みし、実際に軍を動かしたことは乱に相当大きな影響を与えたろう。
で、確かにスレ違い気味で申し訳ない・・・
ま、長親の態度決定の流れがこのスレ的に関係あるとしたら、
女謙信の「三郎も喜平次も仲良く」(想像)を当初は忠実に履行(中立)しながら、
周囲の情勢(織田の圧迫と誘い・武田北条との関係の変化)から態度を迫られて
やむなく景勝にということかな。
長親「御館様、もうやむをえません。メンゴ」
>長親が謙信の死後に出家したこともその1つ。
>これは他の家臣には例がない。
>長親「御館様、もうやむをえません。メンゴ」
長親、健気ス・・・・゚・(ノД`)・゚・
605 :
598:2005/09/03(土) 13:37:00
誰も見向きもしてくれない orz
このスレ的(謙信女性説)っていうならそんなに関係ないかも。
普通に上杉のことを知りたいのならちょっと詳しい入門書として
よいんではないでしょうか。
花ケ前さんが今まで書いた本を再編集って感じで
あまり目新しいことは書かれてなかったけど基本は大体カバー出来ると思います。
花ケ前盛明氏は安産祈願・女人安寧の居多神社の現職権宮司ですよね?
安産祈願の越後一ノ宮(一宮は弥彦神社など諸説あり)を謙信公が庇護した
理由、謙信公がひそかーに出産したとかの仮説があれば面白いんですが・・・。
608 :
598:2005/09/03(土) 22:21:36
>>606 ありがとう。
買っておいて損はなさそうですね。
609 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 00:05:48
花ケ前盛明さんは、謙信女性説には意外と中間派なんだよな。
学研の雑誌には、なにげに「戦国の英雄には、なぜか女っ気がない」
とか普通の感じで書いたあとに、謙信の女っぽい和歌を紹介したりしてるし。
立場上、本音を言えるもんじゃないんだろーが。
>>607>>609 意外に、女性説だったら居多神社の特異性が浮上すると期待してたり?
なわけねぇか……。立場が立場なんだし。
age
新史料、ない?
612 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 21:05:11
NHK大河ドラマにおける川中島19年周期説
1969年 「天と地と」
1988年 「武田信玄」
2007年 「風林火山」
2026年 「女人川中島」
2030年 謙信生誕500年記念「女謙信」
614 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:58:00
井上靖の風林火山て、読んだけど上杉謙信がほとんど出てこないね
ドラマでもマジに登場しないなら、勝手に女だったという観かたもあり?
川中島合戦444周年あげ!
鞭声粛々夜河渡…
>616
うおッ、うっかりしてますたよ
両軍の亡骸に合掌・・・・・・
来週、川中島に逝ってきます
>618
何かハケーンがあったら報告汁
620 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 00:05:06
あげ
621 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 04:33:06
武田勝頼の許婚、八重垣姫は謙信の娘だぞ。
>>621 どこの出版社のなんという辞典か、書いてみれ。
>624
ガイシュツの話題だが、「大虫」が載ってるのは地方古語辞典(版元は忘れた)だけ。
婦人病ではなく、蛇とい意味。したがって、八切氏の「大虫=婦人病もしくは虎」
は誤りだと思われ。ただし、仏教医学用語の辞典には、…虫を病因とするものが多い。
残念ながら自分が調べたのには「大虫」はなかったのだが、当時は仏教と医学が学際的に交わってるので、
仏教書方面を調べたほうが手がかりがあるかもしれない。
>623
江戸時代に作られた歌舞伎。史実じゃないよ。
一応八重垣姫のモデルは菊姫らしいけど。
627 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 01:36:23
>>627 ちゃんと自分で調べたんだろうな?
三省堂の明解古語辞典の一体何ページに書いてあるんだ?
図書館にあった辞典には記載がないのだがね。。。。
629 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 10:44:28
↑は何でこんなに固執してんだ?
>>629 628ではないが、大虫の意味が謙信女性説を明かすカギのひとつだから。
これまで、八切本にしか「大虫=婦人病」説はない。
徹底史料検討!なんだから、固執するのは当然だと思うよ。
631 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 20:03:56
>>628 ここで質問しても、>631みたいなチンカスしか残ってない。
あきらめろ。
買えば早いな
いろんな図書館で調べてみましたが、大虫の記述はありませんでした。
三省堂の古語辞典・漢和辞典。古文では権威のある大修館書店の「大漢和」にもありません。
だからといって、上杉謙信が女性ではなかったという結論も得られないと思います。
少なくとも、亡き八切止夫氏の「大虫は婦人病であることは史学の常識」
には、根拠がないかと。引きつづき機会があれば、地方の図書館でも探してみますが・・・。
役に立てなくて、スマソ・・・・。
635 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 03:34:03
精緻な議論は、乱暴な論旨の「八切説」から離れてみることも肝要かと…。
>>634 dクス。
628だけど
「大虫=婦人病」が証明されない限り、「当代記」の記述を女性説の根拠とすることは、
できませんな。
ちなみに、図書館にあった江戸時代の医学書や漢方医学の本もあたってみたけど、
それにも大虫という病気は出てなかった。
ただ、「医書大全」はなかったので、それに書かれてある可能性はあるけどね。
大虫の古語辞典記述は作者がいってるんだから
書かれた70年代には載ってたんじゃないのか?
婦人病→子宮がん だった希ガス
×作者
○著者
古語辞典では大虫が癪というのは間違いないの?
大虫が虎の歪曲表現であるというのはどう?
>>639 ちゃんとスレの流れ嫁よ!いまのところ「大虫」は「虎」ではなく「蛇」という報告が
>>625に!
謙信の死因も「癪」ではなく「卵巣癌」説がテンプレに!
641 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 20:08:55
中国では「大虫」=「虎」でした。
643 :
639じゃないが:2005/10/06(木) 08:59:14
>>640 虎,俗称老虎,又名大虫
>「大虫」は「虎」ではなく「蛇」
知ったか厨、晒しあげ
644 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 16:19:06
女説なんてトンデモ・珍説のたぐいでしかないことを承知の上で
その可能性を考えるってスレではないんだね。
本気なんだなw
まだ早いが、次スレのタイトルはこうしたほうがいいな
■■徹底史料分析!■上杉謙信生誕500年(2300年)までに女性説を論証する!4■■
長すぎるか・・・・
眠いんで間違ったyo
>>646(哀)
「500年(2030年)」でした(恥) もうあと、わずか25年だ(鬱)・・・。
花ケ前盛明の新刊『越後上杉一族』(新人物往来社)が出てたんで買った
まだ拾い読みだが、輝虎のひらがなの願文が何ともオンナっぽいね
650 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 15:06:12
「生涯不犯の男」というのを何かで読んだ事があるぞ。
まさか女だからだったというわけではあるまいな。
>>650 オンナなんだからオンナを犯せるはずもなし。
大酒のみでたくさん人も殺した武将(じつはオンナ)が
信心から?「生涯不犯の男」となった摩訶不思議。
保守乙
653 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 04:52:55
思ったんだけど、謙信が女だったら男と寝たことあるのかな?
謙信女性説の根拠の一つとして男にしか興味がなかったってのがあるんでしょ?
上洛した時に若い男集めて呑んだくれたって記録もあるらしいし、
その時酔っ払った勢いでやっちまったとか…
まあ謙信はどんだけ呑んでも酔わなかったらしいけど。
うっかり妊娠とかしなかったのかなと…
654 :
馬鳴菩薩:2005/10/17(月) 11:06:08
どなたか
八切止夫「上杉謙信は女だった」以外の女説を発表している
本はご存じありませんか?。
過去レスは禁断の壺を仕入れないと読めないらしいのですが、機械オンチなのでございます。
>>654 史書・研究論文では皆無ですが、関連本は以下のとおり。
墓相学の立場から謙信が女性であるとした
「戦国武将の墓相」(杉浦公昭・秋田書房)
謙信が性同一性障害だったことを前提に論じた
「シンデレラさん、お大事に」(杏野丈・メディアファクトリー)
656 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 13:16:11
性同一性障害は何かありえそう…
思い込みだけんが
657 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 03:05:54
女の義人・・・・ありえんだろう。男だよ。
>657
調略と陰謀の才人信玄に、手段を選ばぬ合理主義の天才信長に「義」があったかと、小一時間。
659 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 22:04:31
>>653 戦国武将の男色はむしろ男の嗜みだよ。
つーか、瓶棺に入った謙信の遺骸を調査すりゃ一発で分かる事なんだが。
(ミイラならもちろん、白骨化してても性別位は分かるっしょ)
>>659 それもこのスレでは、大前提の話なんだが・・・。
墓嵐させてもらえないからもめてるわけで
上杉財団に申請してみれ
やだよ、呪われたらどうすんだよ
祟り神の謙信なんて怖すぎるよ
暴く前に毘沙門様に願文を書いておいたほうがいいかもな
そういや、実際の謙信の願文には
信濃の全土を焼きつくすみたいなことを書いてるね。
信玄に手だまに取られたのが相当悔しかったんだろう。
まあここの内容は女とは思えん。
んで10代の頃、ある一族皆殺しにした行為も。
つか佐渡の金が無ければ謙信本人は村上氏よか↓みたいな武将かと。
あと女女というけど氏真サソのほうが女ぽいでツよ
佐渡の金???
謙信時代一番重要な資金源は青苧だぞ?
667 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 23:38:05
上杉謙信はたぶん、高倉健みたいなタイプの男だったんだろうな。
女なんかであるわけない。
>>665 一族皆殺しの女領主なんて外国にいましたよ
残虐な事をするのに女も男も無いがな
高倉健か…
そんなおじ様があの紅い陣羽織着てたり、「源氏物語」を愛読していたなんて
それこそ夢が崩れそうだ
>>667 ageんなボケ!史料批判の出来ない香具師は立ち入り禁止じゃ。
何なら徹底論争すっか!? まず最初に、高倉健はホーモなのだが
このレスは謙信男色説と受け取っていいのか? 回答せれ。
怖っ・・・
>>669 なんというか、前段と後段に落差がありすぎてワロタ。
立ち入り禁止を解除しなきゃ回答できんだろう。
源氏物語愛読とかは女性説の論拠にはならんと思うのよ
歌詠みの教科書みたいなもんでしょ?
源氏や伊勢の歌は全部おぼえてて、
その歌をふまえて詠んだりするのが基本っしょ
別に根拠とは言ってない。イメージ崩れると言っただけ
でも、教科書としては使うかな?>源氏物語
どちらかというと歌詠みの教科書は万葉集とか和歌の本が妥当だと思うよ
今川とか平安貴族と関わりがある者が教養として読むならまだしも武家が教養として読むとしては
「平家物語」の方が一般的じゃないかな
だってあの時代で言えば「源氏物語」なんて少女小説、少女漫画的な位置づけだよ?
謙信は「古今調」(近衛太閤が定家の古歌とともに景虎詠歌を記述=原本存在)
「万葉集」=金塊調は信玄歌集。それよりも、実際に謙信が詠んだ歌を分析してみ。
万葉集の人麻呂と家持の歌も、韻の踏み方や子音で科学鑑定できてるわけだし。
みどもの分析では、とても男性の詠歌ではないとおもふ。晩年の頼山陽が勝手に
作った和歌や漢詩はべつにして。というか、晩年のが怪しいから673さんの言うとおり
本歌取りが出来てない分だけ、洗練された古今調が謙信女性説の論拠になるわけだ。
みんな、学があるなぁ。。。
>>676 「学」ではなく、「愛」なのでは?
スマソ・・・
保守
萌えスレが面白くなってる。上杉25将、謙信近習衆とか。
萌えスレからコピペ。この日本史教授って誰なんだろ。
>この間職場でラジオを聞いていたら、地方大の日本史教授が視聴者からの
>質問(戦国限定)に答えるコーナがあった。
>「上杉謙信は男ですか? 女ですか?」の質問が読み上げられて、
>ラジオを聞いていた同僚はみんな「( ゚Д゚)…今の質問何?」みたいな反応だった。
>上杉謙信は男が当たり前であって、女だなんて思いもよらないらしい。もったいない。
>日本史教授は「むつかしいんですよね、これ(男か女か)は」と苦笑いして、
>うやむやのままコーナーは終わった。
>>680 当てずっぽうで、静岡大の小和田タソと言ってみるテスツ。
>>681 ややこしいんだけど、
静岡大=静岡県立大学
静大=国立大学法人静岡大学
でいいのかな?
683 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 11:46:17
下がりすぎ
ageんな
八切の「10日、生理休戦説」って
「毎月10日頃になられると腹やみとなり馬にのられず、戦休みをなされて」
の出典が↓らしいんだが、誰か検証してる?
「上杉文書二木寿斎記」
信濃小笠原氏の家臣であった二木豊後入道寿斎が、慶長十六年に主君の小笠原秀政の諮問に
応じてまとめたものといわれている。小笠原長時・貞慶二代の時期のことを追憶して記録したものであり、
武田氏に追われる経過が詳しく記述されている。一部に事実と異なる点もあるが、
信濃在地武士の記録として希有な存在である。「続群書類従」ほかに収録されているが、
最新のものは「「新編信濃史料叢書」第八巻のものである。
686 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 15:07:35
上杉謙信は最も勇敢な男性武将に決まって居るぞ!
よって生涯に亘り女犯を断って男色のみを好んだのだ!!
分かったかーッ!!!!!!
杉浦岱典の『戦国武将の墓相』(秋田書店)が手に入ったのでレポートしとく。
@墓相=相前後して建てられた大小二基の五輪塔は「墓相の変化であり天地を動かす不思議なのだ」
として、大きな塔が小さな塔を抱いているのは「謙信が女性であり、かつ
終始離れなかった男性の存在を示している」
A「さらに二基の五輪塔の近くに、もう一つ小さな墓があるのだが、
これが誰の墓であるにせよ驚くべき事実を暗示している。
謙信は「こども」を産んでいた!」
B取材時に明治18年柏崎生まれの古老から「謙信女性説」を教えられた。
戦前の説らしい。
>>686 >分かったかーッ!!!!!!
わからない・・・。絶叫されても、わからないものはわからない・・。
このスレは徹底史料分析の場であって、史料を分析できない人間が絶叫する場ではないから・・・。
女性なら面白いけど,当時の慣習から言ってもありえないと思う。
>>688 そうそう。
信頼できる史料を提示して仮説を立てる女性説論者と違って男性論者は絶叫調のアナクロな人が多いよ。
>>627-630あたり
亀だが、八切本(作品社版)では「養生訓読解題」(樫原重軒=貝原益軒の門人)
「孫太郎虫売り」のひき札に、
「大虫」=「生理」「婦人病」とあるらしい。あと、福井県の大虫神社が婦人病の神様。
三省堂の「明解古語辞典」には「大虫とは味噌の女言葉。式亭三馬の浮世風呂にあり」
で、「当代隠語集」に「味噌……女人の生理のことなり」らしい。
691も、「自分で調べたわけじゃない」らしい。
>>692 「八切本(作品社版)では」だろ?
八切が断定している以上、批判するなら原資料に当たってみれ。
>>693の正しい書き方
矢切大先生が書いているのだから、有り難く鵜呑みにしましょうよ。
出来たら原資料で裏づけとりたいけど、無学な僕にはとうていできません(泣き
どうか、原資料にあたって立証してくださいませ、エロイ人。
695 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 23:23:30
そして、誰も八切のトンデモ説を批判できないと……
696 :
sage:2005/12/06(火) 18:14:59
かもな。
697 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 18:35:43
みんなめんどく下がりすぎ
歴史なんて新たな事実が分かる度に変わるもんだからな
上越市の戦前からの伝承に、このスレにもあったけど
女性説はあるという話だね。誰か、旧西蒲原郡(上越市)の人、知らんのかな?
700 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:24:13
age
701 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 08:59:33
謙信入道が女犯を断ったのは衆道好きだったからぢゃー!
これは常識というものぢゃぞゑ!!!
ageると無教養者が来るのでやめましょう。
謙信入道などと下品なオヤジを想像させる名前は使わず、正規の名で呼びましょう。
生前は
関東管領山内上杉従五位下弾正少弼藤原朝臣輝虎大勝寺入道不識庵謙信
没後法名は
不識院殿厳大僧都法印謙信真光宗心大阿闍梨
704 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 04:52:31
来年、米沢に一人旅に行こうと思ってんだけど東京から電車いくらくらいかな
新幹線で往復2万程です。
706 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 04:16:26
707 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:06:37
んで、どうして欲しいわけ?
708 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 09:33:27
とうとう晒されたか。
まぁ自業自得ですけどね。
そういや大虫の用語の意味についての
論拠として出てくる
>福井県の大虫神社が婦人病の神様。
だけど、
実際にネット上からのみで調べるとそんな記述一切無いな。
>昔、害虫が発生し、農作物に大きな被害が出ましたが、
>祈願したところ、害虫は退散し豊作になったことから、「大虫」の名がついたといわれている。
こればっかり。同じ市内の河濯山芳春寺が安産・病気快癒祈願の寺らしくこれがごっちゃになってるっぽい。
または戦前の神仏習合の頃は一緒だったのかもしれないけど、それを示す資料はネット上に無かったな。
八切氏の論拠にもなる「越後景虎歿、大虫といふ」 って本当にあったのかのう。
だれか資料そのものを見れた人はいるデスか?正直妖しすぎる。
正直、大虫云々については女性説を支持できるような論拠にならず、
むしろ女性説はインチキっていう論拠になりかねない気がするデス。
とはいえ逆に大虫云々が本当に記述されてるとなるとその意味自体が何を指すのか全く不明と言う事に……。
素直に大虫=大蛇として、大蛇に殺されたってのは暗殺されたことの暗喩とか判断しちゃった方が楽だなw
>>709 > 正直、大虫云々については女性説を支持できるような論拠にならず、
> むしろ女性説はインチキっていう論拠になりかねない気がするデス。
それは、全てあなたの思い込みです。
711 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 01:21:25
>>707 どうしていいのか分かりません。
でも本当に困っています。
詳しく
713 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 11:43:36
細かく説明すると支障があるので難しいのですが、
とにかく粘着で気持ち悪いんです。
サイトを見てもらえば分かると思うんですけど、
謙信の生き様を目標に武士らしく潔く、みたいなこと言ってますけど
全部ウソです。ホントに気持ち悪いんです。
714 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:08:18
>>713 おめーがキモいんだよ
爬虫類系だろ おまえ
逝ってよし!
>>709 此春越後景虎卒去、歿四十九、大虫云々、及死後辞世…(当代記)
「養生訓読解題」(樫原重軒=貝原益軒の門人)「孫太郎虫売り」のひき札に「大虫」=「生理」「婦人病」。
三省堂の「明解古語辞典」に「大虫とは味噌の女言葉。式亭三馬の浮世風呂にあり」
「当代隠語集」に「味噌……女人の生理のことなり」
716 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 06:00:50
>>714 まあまあ。
この人がどんな人なのかは分かりませんが、
前記の管理人は私も知ってます。
女関係はもとよりいろいろと問題の多い香具師ですよ。
717 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 17:09:37
新氏依頼ってかw
718 :
日本@名無しさん:2006/01/05(木) 20:32:41
もしも謙信が女だったとしたら、戦に1度でも負ければ「女だから弱い」と
確実に嘲笑されるので、プレッシャーで大変だっただろう。
しかも越後の国人は自主性が強いし、関東の豪族らは名門の家柄だ。
謙信が弱いところを見せれば、確実に離反・謀反を起こすだろう。
>718
何度も離反されてるよ。
黒田秀忠(2度・成敗)
北条高広(2度・赦免)
本庄繁長(1度・赦免)
大熊朝秀(1度・武田に出奔)
佐野昌信(5〜6回・赦免)
長尾政景(2度・謀殺説あり)
柿崎春景(1度・成敗?)
720 :
日本@名無しさん:2006/01/05(木) 23:11:32
黒田秀忠の反乱時の当主(越後国守護代)は、晴景だよ。
謙信が戦に負け続けたら、大内義隆のように重臣(守護代)達に
謀反を起こされて殺されたと思う。鎮圧、合戦するほどの兵は集まらなかったと思う。
そして、武田か北条が越後を平定しただろう。
謙信が死んだ直後、御館の乱があったとはいえども、武田軍や北条軍が越後に入っているのが
いい証拠だ。
>>720 いい加減、スレの本題に戻せよ、もう。教科書的な一般論、タイクツでツマラソ……。
村上本庄繁長や北条高広などの国人領主、成田長康や佐野昌綱に裏切られても、
戦に勝ち続けた謙信はなぜ強かったのか?
エリザベスT世(処女王)みたいな女だったから、越後と関東の諸将が結束したんじゃないの?
それと、不必要にageんな!
>謙信が戦に負け続けたら、
いや、負け続けたら謀反を起こされる前に戦死していたと思う。
謙信に限らず、どんな武将でも負け続けたら戦死しますな。
ところで、スレ違いの>720君に宿題を与えよう。
設問@ 謙信の願文がひらがなで書かれている理由は何か、述べよ。
設問A 謙信の花押は何種類あるか、述べよ。
設問B 謙信は男か女か、その理由も述べよ。
※ネットで検索しても回答はありまっしぇん。原史料(上杉文書)にあたるように。
723 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 01:58:13
kimoinakoko
725 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 17:06:31
age厨の意見を真に受ける必要はないよw
727 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 22:23:06
ageるな、ボケ!
729 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 11:45:29
◆謙信ゆかりの国宝級「幻の資料群」新潟県が購入
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000601180004 上杉謙信が永禄4(1561)年、川中島の合戦で軍功を上げた岩船郡の豪族・色部氏に送った「血染めの感状(感謝状)」や後醍醐天皇、足利尊氏らの花押のある古文書など「幻の史料群」が時を経て、市民の目に触れることになりそうだ。
個人蔵だった史料を昨年末、県が2億3500万円で購入、公開を検討しているからだ。専門家は「国宝級の史料だ」として再調査に期待している。
史料群は、鎌倉時代初期から戦国時代に上杉家の家臣らが記した「越後文書宝翰(もんじょほうかん)集」。戦いに参加した家臣の忠節をたたえた謙信の血判状や、領地の境界を定めた絵図など44巻、700点余りから構成されている。
山形県米沢市の上杉家家臣の子孫が明治時代に収集し、昭和になって長岡市出身の男性が譲り受けていた。県内中世史の空白を埋める史料で、存在自体は専門家の間でよく知られていた。
79年には国の重要文化財に指定されたが、個人蔵だったため、公開されることはほとんどなかった。
新潟大人文学部の矢田俊文教授(日本中世史)も、これまで論文で宝翰集を引用してきたが、実物は初めて見た。
「活字を見ながらああでもない、こうでもないと研究していたが、本物を見て、当時の雰囲気がなるほどと納得できた。こうした古文書が公開される意義は大きい」と語る。
昨年2月、所有者の男性が死去。遺族が相続税の納税のため、売却を検討していた。
県は「宝翰集がもし市場に出れば、オークションなどで切り売りされ、散逸する恐れがある」として、昨秋から長岡市の県立歴史博物館で預かりつつ、購入手続きを進めていた。
DNA鑑定〜
上杉謙信研究の一説に、上杉家臣団・越後国人領主に宛てた感状や書状は
大半が右筆の筆跡、血判であるとか・・・。後世の偽感状も多いらしい。
『定本上杉謙信』に家康の家臣宛の書状が載ってるが、これなんかは
願文や私的な書状に似た筆跡らしい。
>>729の色部勝長宛てのは右筆のじゃね?
関東公方の推薦に関する「梁田文書」のほうが政治文書としては圧倒的に重要だし。
>729
さすがに国宝は無理だろー。上越市の原史料(謙信書状)とかでも
市指定の有形文化財なんだし。。。。
おまいら、文化財とかになってしまったら、もうDNA鑑定なんてできませんよ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| X |
| 宝翰集を頂戴に |
| 参上します |
|________|
sage
sage
やはり甕を開けるしかないのか…
開けたら日本史が変わる!
と期待してみる保守
739 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:41:11
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である
740 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:11:33
生理の時期の様子
こぴぺにまじれす
手取川の戦いで信長が出陣してたら秀吉が無断利離脱できるわけねぇだろぼけ
捏造はうえすぎだな。
戦国時代はさほど詳しくないのですが、
スレタイに惹かれて読んでいて、別角度(漢方とか)からいくつか。
とりあえず、テンプレのこれ↓
・謙信の死因は大虫(婦人病)である、と歴史書に書いてある。
これは
>>691の
>>八切本(作品社版)では「養生訓読解題」(樫原重軒=貝原益軒の門人)
>>「孫太郎虫売り」のひき札に、 「大虫」=「生理」「婦人病」とあるらしい
を指すのでしょうが……。
かなり時代がぐちゃぐちゃなので整理します。
●「孫太郎虫売り」
江戸中期から昭和初期までの、いわば行商人(矢切先生も実際に見た可能性あり)。
ひき札(広告)に【大虫】と出しており、それが【生理】を示す、とされる。
※以下主観
ひき札に記して商売に用いる言葉である以上、消費者が「大虫が何を示すか?」
わかっていなければ、広告効果がない。それだけ流布した言葉が、
現行スレ住人が資料を捜しても見つからないというのは、
・矢切先生の捏造
・ごく限られた地域で流通した言葉
のいずれかではないでしょうか?
また、口上で用いたとしても、書でなく口伝で300年継がれたとすれば、
原形はとどめていないと思う次第で。
743 :
742:2006/02/04(土) 20:31:38
●樫原重軒
詳細な生没年は不明ですが、貝原益軒(1630 - 1714)の門人というからには、
完全に江戸期の人ですよね。
戦国時代、謙信の時代とは異なるので、ちょっと結びつけるには遠いかと。
※以下主観
戦国時代の医術、となると曲直瀬道三でしょうが、
養生俳諧にも虫に該当する言葉は……。
ややこじつけですが、新潟(越後ですよね?)の風土病として
「つつが虫病」というのがあって、
ダニに指されたあと高熱になり、リンパ腺が腫れ、
場合によっては死に至る、と。
養生俳諧には「薬湯(クコ湯)で長寿間違いなし(つつがもあらで)」と
ありますが、さすがにこれはこれでこじつけですよねw
結論としては、「矢切先生の虫云々はシカトしていいのでは?」
※以下妄想
ちなみに曲直瀬道三は、実践的で具体的な医療知識を、
俳諧という分かりやすい形式で広めたことで有名ですが、
信長や秀吉など数多くの戦国大名を診ています。
1564年、毛利元就が病に伏したとき、
足利義輝に命じられて、毛利元就を診てますね。
義輝と謙信、この頃交流あったのでしょうか?
それとも紹介されたけど、女だとバレるのを嫌がって
断ったとかw
そのへんどうなんでしょうか?
あ、参考資料は「近世漢方医学史」です
>>742-743 専門的な考証、乙です。
「大虫」はともかく、確実な史料とされている上杉景勝の「不慮之虫気」という
謙信の死因については、どう考えられますか?
通説では、飲酒癖と梅干の食べすぎ(塩分の採り過ぎ)による「脳卒中」なのですが。
>1564年、毛利元就が病に伏したとき、
>足利義輝に命じられて、毛利元就を診てますね。
>義輝と謙信、この頃交流あったのでしょうか?
交流はありますね。永禄2年(1559)の4月〜6月にかけて、上洛した時に逢ってますし、
6月下旬には坂本の宿舎で病(腫れ物)を得た謙信に、義輝が医師を派遣しています(上杉文書・越佐史料)。
746 :
742:2006/02/06(月) 22:59:29
>>744 「不慮之虫気」というと、「突然死」としかイメージ
できないですよね。
病因による突然死(外傷を含まない)となると、
「飲酒癖と梅干の食べすぎ(塩分の採り過ぎ)」が
周知されるような謙信の生活習慣であるならば、
やはり脳卒中がいちばん妥当ではないでしょうか?
あまり目新しくなくて、「なあんだ」と思われるかも知れませんが、
脳卒中は日本人の死因ではガン、心筋梗塞に続く第3位。
厚生労働省の統計では、闘鶏開始の昭和26年から55年まで
日本人の死因トップを守り続けてきました。
近年では死亡数が低下していますが、
これは「医療の発展によって死亡を防げるようになった」
だけであり、患者数が劇的に減少したわけではありません。
昔から極めてポピュラーな病気ですので、
謙信が脳卒中で倒れたとしても、なんら不思議はありません。
いまだに秋田県など寒い地方では、
大酒、漬物などでの塩分の過剰摂取が習慣化しており、
胃炎として脳卒中が死亡率トップですので……。
747 :
742:2006/02/06(月) 23:01:13
↑「胃炎として」でなく「依然として」です。なんちゅうミスタイプをw
ちなみに、一般的に「脳卒中」と呼ばれる病気は、
・脳梗塞
・脳出血(脳溢血とも言いますね)
・蜘蛛膜下出血
などなど、実は数多くあります。
現代では、「脳卒中」というと、半数以上が「脳梗塞」です。
これは食生活の変化でコレステロールがたまりやすくなったから
というのが影響しているといわれています。
一般的には、夜に発症しやすいですね。
それに対して、高血圧の予防法や治療法がなく、
また栄養状態が芳しくなかった昔は、
高齢になると脳の欠陥が弱くて敗れやすく、
「脳出血」が多かったと推測されます。
こちらは一般的に、昼の発症が多いとされます。
おそらく謙信は、「脳出血」だったと考えるのが妥当でしょうが、
このスレ的には「酒の飲み過ぎ」とは違う説を出すべきかと。
というのも、女性には更年期障害というものがありましてw
ホルモンバランスが崩れ→高脂血症となって→悪玉コレステロールが増加→脳卒中
と考えたほうが、「上杉謙信女性説」的にはよろしいかと。
どうなんでしょうね、
なにか更年期障害を感じるような前兆ともいうべき記述が、
死ぬ直前の頃にないものでしょうか?
脳卒中とは結びつかないような症状でも、
かえってそれが更年期障害を裏付ける可能性もあるので、
なにか参考にすべき資料がございましたら、ご教示下さい。
748 :
742:2006/02/06(月) 23:08:20
上記、
誤)高齢になると脳の欠陥が弱くて敗れやすく、
↓
正)高齢になると脳の血管が弱くなって破れやすく、
ミスが多くて、読みにくくて申し訳ないです
【虫気】
@腹痛を伴う病気の総称
A小児が、回虫または消化不良などのために体質が虚弱となり、
不眠・癇癪などを伴う病症。むし。
B産気、陣痛「――づく」
「不慮之虫気」→思いがけなく産気づいて、難産のすえに母子ともに身罷った
が正しい解釈かも。49歳で初産なら、ほとんど自殺行為だっただろう・・・。
751 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 10:25:57
鉄上野介
752 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 12:10:40
長岡市のですか?。あそこへき地で、でもすごい建物だけど、お客も警備員もほとんどいない。
田中まきこが力を持っているとこなので、まきこにでもたのめば!。
もったいない。
墓は皆そろそろ壊れかけているので、改装の頃。スポンサーにでもなればできます。
長岡藩主の子孫もスポンサーをつけてました。
754 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 14:44:03
謙信が女性だったとすると、「風の谷のナウシカ」のような女性ですね。
すみません、パグって。
長岡の県立歴史博物館ですが、美術館と博物館、田中まきこが無理に長岡に
もってきたものです。(それも田中家の土地)
博物館は丘陵公園の近くにあります。長岡インターの近くです。
文化財でも国立大学なら、研究可では。
(この場合、新潟、山形大学あたりですが)
地震の前の物は、壊れたりしてますので、修理に出されたりしています。
墓ですが、長岡藩では、東京から墓を長岡に移す時、中を調べています。
テレビ局をスポンサーにすることで、新しい墓まで立ててもらっています。
テレビ局をスポンサー
756 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 01:44:31
田中真紀子は上杉謙信の生まれ変わりだそうですよ!!
757 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 01:59:04
なるほど、だから部下を掌握できず内乱がおこるんだ。
そのうち御館の乱がおこるね。
759 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 09:35:54
八切『武家意外史』伊達政宗は女で男、とういのもあるし、フロイスは、日本では
女主人が先に歩いて夫は付き添い人のように後にくっ付いて歩きますって、謙信
だけが女性じゃないんじゃないかと、西洋の価値観と合わせるため女主人という
のを止めさせたのでは…
760 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 10:41:20
上杉謙信は立派な男性だったにもかかわらず
女だった等と云う大莫迦が何故に現れるのであろう?
上杉謙信は立派な女性だったにもかかわらず
男だった等と云う大莫迦が何故に現れるのであろう?
キトラ古墳のニュースを見ると
大事な資料の劣化が心配になる。
資料とは後世が歴史を検証するために必要なものであって
保存のために検証が禁止されるというのは本末転倒という気がする。
はやくDNA鑑定〜
瓶は開けるのがだめでも、X線とかは出来ないのか?
>>761 ”兼信”が立派だったという資料は残っている。
が同時に兼信の身長推定も残っている。
男子としては微妙。しかし女子として考えると、大きく立派になる…だったっけ?
>資料は残っている。
江戸時代の資料ならいくら「立派な男性」と書かれてても、男だった証明にはならんよ。
確実な直筆(近親者への書状・願文)は、すべてひらがな文だって知ってる?
>身長推定も残っている。
156センチだけど。
765 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 17:47:56
あげてみる 女なの男なの?
766 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 18:42:51
767 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 06:48:03
>>762 X線では性別の判断するのは難しいんでないか?つうか遺体はカメごと埋めてあるんだっけ?
とりあえず今年のGWに米沢に一人旅の予定だからバッチリ上杉詣してきます☆
768 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 06:54:43
>>768 ギャルげーなんか知らん!
おまいが板違い。
>>759 > 八切『武家意外史』伊達政宗は女で男
南奥州狭しと暴れまわった猛将政宗が田村愛姫で、秀吉に平伏した影で一揆扇動して叱られたり家康についた影で
和賀一揆扇動したりイスパニアと組もうとしたりして叱られた挙句、戦場で恐怖に駆られて味方討ちをして諸大名の
笑いものになるヘタレ大名政宗が伊達藤次郎だって話だろ?
あれ全部事実ですから。
>770
わたしもそう思うよ。
でも、ここは女謙信スレなので、【伊達政宗は女で男だった】スレ、
立ててちょ。
謙信以外に女性疑惑を探してまずそっちから証明して行けばいいんじゃない?
773 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 10:12:29
よし・・・・凄いこと言うぞ・・・・・
足 利 尊 氏 は 女 だ っ た
774 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 10:58:10
どっひゃー!
775 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 14:01:31
>>739 あまり歴史には詳しくないが
>唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
ってマジなの?いや流石に13は無茶だろw
776 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 14:29:37
武田信玄との間に不義の隠し子がいる黒歴史は抹殺されました。
>>775 >>739(マルチ)ではないが、
『関八州古戦録』(江戸時代の軍記物語)に
謙信40対北条軍30000で、謙信が唐沢山城に堂々と入城するのを
北条軍3万が茫然と見ていたという記述はあるが、しょせんは軍記物語の逸話で、
確実な史料ではない。同じ軍記物語に北条氏康が関東上杉(扇谷・山内)の
8万に対して、数千で川越城の味方を救出して勝った(扇谷上杉は滅亡)という
記述もある。これも疑問のある合戦伝承だが、扇谷上杉が滅亡したのは史実だ。
唐沢山城の合戦も史実なので、女武将(謙信)に北条軍が見とれているうちに
謙信が入城し、不利を悟った北条軍(氏政)を駆逐したという光景があったかも知れん。
>>777 >女武将(謙信)に北条軍が見とれているうちに
>謙信が入城し、不利を悟った北条軍(氏政)を
>駆逐したという光景があったかも知れん。
それが本当なら北条軍ってどんなマヌケだよ・・・・・
>>778 このスレのレベルが解る、すばらしいカキコじゃないかw
>>780 井伊直虎ね、幼名は謙信と同じく「阿虎」だったのだろうか・・・
へー中国人にも日本の武将に興味ある人なんているんだ。
映画とかゲームの影響なのかねぇ。
欧米人は侍好きが高じて武田マニアとかいるが・・・
まあ、日本でも三国志とかは有名だしね
786 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 01:07:34
age
戦国最強の女性大名上杉謙信公生誕474年・・・。
生誕500年(2030年・寅年)までに、真相を究明汁!
>>787 間違いだよ、生誕476年が正しい。
でもって、本日(天正6年3月13日=旧暦)が没後428年です。
789 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 12:35:04
ふーん
Gacktねぇ・・・。
女性説的には適役かも、女装させれ!
792 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:14:33
上杉ヲタが各板で発狂して荒らしてるな
最悪だな上杉ファン・・・
粘着上杉厨悲惨><
_,,-====-、
,,r'ソ'' ''`ヽ
//' /~∃~¨ヽ、
/:/'',,...⊂二 ̄ |`-.,_
/y' ー=⊂二∩_____ノ  ̄`''-.
/;:l ,  ̄ヽ `'-.,
ヘ''r' /o._..o、 \ \
(ノレ /,,______,,ヽ |\ \
/ヘノ`l : (''"Y"''');' /ノ:|\ ヽ
ソ/彡ノ、 `ー=-'. /《川/ \,__ |
彡丿彡/ゝ -- /巛| ノ
彡'彡ノ彡ノ| `ー--- '' /;;巛ミミ /
彡ノ彡丿/| 彡ノ彡ミミヽ /
./ / ~~~ ~ \ /
l | `''- ノ
物の本質をきちんと見極める事ができず
上杉家の捏造に騙され続けた
上杉信者
上杉信者ってこんなのばっかりなのか?
反論されるとすぐ荒らす
上杉が女性である事を隠そうとしたのなら、何で当時女物の服を着ていたのか。
=当時は気にする必要がなかった。頭首が女だと危険になったのは江戸時代から。
現に男の肖像画がかかれるようになったのは江戸以降。女性である事を隠そうとしたのも江戸以降。
女当主が男という逸話が流れるのは自然かもしれないが、
男当主が女だという流れは不自然且つ意味がない。普通当主は男なのだから。
高野山の件も、男として誤魔化す為の逸話と考える事も出来るが、逆に女としての逸話にはメリットがない。
>現に男の肖像画がかかれるようになったのは江戸以降。
ひげ面の肖像画は江戸後期だな、上杉鷹山の儒者が作者。
現在普及してるのは、明治31年の讃(但し書き)がある大量生産の版画。
>普通当主は男なのだから
城主が女ってのも当時はいたらしいよ
801 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 01:02:49
やおいget
>>800 いるよ。
徳川四天王の井伊直政の叔母が井伊直虎(次郎法師殿・井伊家を正規家督相続した女性)
立花ギン千代(正規家督相続)
江戸時代には清心尼公(南部支藩の女大名)
803 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 19:53:22
でも、男だったものに女らしきにおいを漂わせる事にはやはり意味は無いよな。
あと、謙信が高野山に上ったのって核心はあるのか?
>>803 高野山参拝に「核心」はないかもしれないが、江戸時代(元禄9年)編纂の
「上杉家御年譜」に書かれている。のちに、景勝が謙信寿像を高野山無量光院に寄進(なぜか明治20年に消失)。
仮に高野山に参拝したとしても、男性名を名乗って男装していたらスルーでしょ。
ちなみに、「上杉家御年譜」の元になった文書は「北越軍記」ほかの
宇佐美文書(鎌倉〜江戸初期)で、すべてが偽造とされている「定本上杉謙信」(高志書院)。
宇佐美系軍記書の編者は宇佐美定祐こと紀州藩士大関佐助、吉良上野介(浅野匠守に斬り付けられたので有名)
「群書解題」による。
彳丿 ヽ
入丿ー□-□ーヽミ.
l : .: (_:.::::._) :.:: :) 上杉謙信は女の子♪
( ::..∴.ノ3(∴: ノ
807 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 01:57:21
age保守・・・
808 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 02:04:58
矢切デムパ
このスレの1は、もうhtm化されてるんじゃないの?
ぜひ、見てみたいのだが?
>>809 まだ見れない・・・orz
たしか1は最初のほうは素人のカキコがトロくて、じょじょに
本格的な猛者が参入、最後のほうで研究者とおぼしきバトルが
始まり、2の冒頭まで激論がつづく。2の後半で男性説派と女性説派
の煽り合いが始まって、スレッドが2つ(男性説・女性説)立つ。
3の途中で、双方の荒らしが始まり男性説スレがアボン。だったかと。
保守!
812 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 04:13:27
馬でわけいって軍勢を分割し行動を指示してたというが。女だとしたらそれも演出なんだろうな。
シナリオ策定軍議では権威はあっても権力はないから当時では考えられんほど民主的だっただろう、だからこそ戦国最強だったのかも。+女謙信に諸将が色ボケしてたとしてたらな〜。
813 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 05:43:28
女って日本の歴史上活躍したヒーロー居ないから無理やり謙信を女にしようとするんだね^^
室町期には形式的に男が女房奉書を書いた例もあったらしいし、
近親者への直筆書状がひらがなってだけじゃちょっとねぇ
平安期の女騎(だっけ?)の話とはまた違ってくると思うしなぁ
さたけ・よこせをはしめとして、てをかへられ候事、よきなく候、このまゝうちおくへき
事にもあらす候間、みのゝかミかせき候て、ほんいのかたちをもつけ候ハヽ、ちうせつといゝ、
そのミのためと申、なにことかこれにすくへく候や、このよしよきやうにいけんをなすへき事、
そもしまへにあるへく候、かならす〜〜やかてうちこしへく候ほとに、ちんしょより
かさねて申こすへく候、かしく、
永禄十年九月二七日 てる虎(花押)
しものくらへいけさせ候代物をも、いつれをも実城におくへく候、とても越前守・
なおへ、又遠江守、其方何もおき候、やかて柿崎にそへ、二人も三人も可返候間、
はちかみね(春日山)の事ハいかにもふしんさへよく候ハヽ、ひきあけてもたせ候ニ
おゐてハ、けんこたるへく候、そのうへおはた人こくほのいもうとおき候間、このもの
共しせんの事も候て、ちそくにおよふ蕨、又おのおの、そこもとにさしおくもの共、
めつはう(滅亡)にいたつてハ、輝したくも入さる事ニ候間、おのおのかくこさへすわり、
はちかみねをまくらにすへきとおもひきり候ハヽ、ことことくしたくの物ともをは、
はちかみねにおくへく候、ひつきやうハ、火事の用心かん要候、くらにおき候もの共にも
たんかう(談合)候て、はちかみねゑあけ、しかとくらにつめ候て、用心いたすへきよし、
ゆひ付へく候、
大宮坊のしゆたい(酒代)の事ハ、まつもつて無用にて候、この方より申こさす候とも、
あきちけん所に候ハヽ、りやう人たんかう候て、くら田にあつけへく候、こゝもと
ひまあけ候て、当月二十日ころにハ帰府すへく候間、可心安候、いかにもいかにも、
こゝもとの仕合共見事にそなへなりを候条、是又可安候、そのちふんたんかうすへく
候間、早々謹言
永禄七年三月四日
蔵田五郎左衛門とのへ 虎
むしろ近親者だから手軽なひらがなの書状にしたのかな
戦国期でひらがなの書状って言うと
まず荘園の百姓の地方文書が思い浮かぶけど
謙信の書状も全文がひらがなって訳じゃないし、
やっぱり新潟も田舎だからひらがなつかってたのかなぁ
>近親者だから手軽なひらがなの書状にしたのかな
右筆に書かせた公式書状(諸大名あて)、写本として伝わっている(謙信公御書集・歴代古案)書状
以外(原本)は、すべて平仮名だったらしい。
>>815-816がその例。
願文も平仮名、写しは漢文体。
_,,-====-、
,,r'ソ'' ''`ヽ
//' /~∃~¨ヽ、
/:/'',,...⊂二 ̄ |`-.,_
/y' ー=⊂二∩_____ノ  ̄`''-.
/;:l ,  ̄ヽ `'-.,
ヘ''r' /o._..o、 \ \
(ノレ /,,______,,ヽ |\ \
/ヘノ`l : (''"Y"''');' /ノ:|\ ヽ
ソ/彡ノ、 `ー=-'. /《川/ \,__ |
彡丿彡/ゝ -- /巛| ノ
彡'彡ノ彡ノ| `ー--- '' /;;巛ミミ /
彡ノ彡丿/| 彡ノ彡ミミヽ /
./ / ~~~ ~ \ /
l | `''- ノ
物の本質をきちんと見極める事ができず
上杉家の捏造に騙され続けた
上杉信者
川川川川川 プーソ
川-◎ ◎|
__川∴) 3(∴)_<史実・想像ともに萌えましょう。
/ ∴ ゝ ── '∴ ヽ プーソ
/ ∴ ,ィ -っ、 ∴ ∴ ヽ プーソ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i プーソ
| /  ̄ | |
ヽ、__ノ 謙信命 ノ ノ プーソ
| x 9 /
| ヽ、_ _,ノ 彡イ
| ( || ) |
()
>>815、訳してみるよ。
さたけ・よこせをはしめとして、てをかへられ候事、よきなく候、このまゝうちおくへき
事にもあらす候間、みのゝかミかせき候て、ほんいのかたちをもつけ候ハヽ、ちうせつといゝ、
そのミのためと申、なにことかこれにすくへく候や、このよしよきやうにいけんをなすへき事、
そもしまへにあるへく候、かならす〜〜やかてうちこしへく候ほとに、ちんしょより
かさねて申こすへく候、かしく、
永禄十年九月二七日 てる虎(花押)
佐竹義重、横瀬らが裏切ったのも余儀ないことですが、このままにしておくことも
できませんので、せめて太田美濃守資正が本意のまま働いてくれれば、忠節もさることながら
彼のためにもなることですから、それにこしたことはありません。あなたからもよい方向になるよう
意見をしてくださいね、かならずそちらに行きますので。陣所より、重ねて申しておきます。
かしこ
永禄十年九月二七日 てる虎姫
平仮名手紙なら他の武将も書いている。
ただ、平仮名うんぬんより、結語をかしくとしている事に興味があるな。
いいやうにみのゝかミふしくふうし候て、けいさく候へよし、
いけん候へく候、なをかのつかひの申わけへく候、かしく
元亀元年七月八日 てる虎
[新潟県史四二六〇・原本個人蔵]
やっぱ、女の文章だな。「かしこ」だぜ。
願文もナヨナヨした字体だし。
825 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 17:06:28
>>2の
>家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしいものがない。
は、これで論破された訳か
>>826 謙信は天正3年12月19日に高野山無量光院と師檀関係を結び、無量光院の宝憧寺青胤を
師に出家しました。この時、護摩灌頂を受けて法印大和尚となった(上杉文書・高野山文書・越佐史料5-307)。
とされています。上杉家と高野山の一次史料にあるので間違いないと思う。
したがって、生前(46歳)の法位となる。
大僧都というのは、高野山清浄心院(江戸中期創建)の上杉(謙信)廟に
「為権大僧都法印謙信・為権大僧都法印宗心」とあることから、上杉家に伝承された
法位だと考えられるが、おそらく江戸時代に追進された法位ではないか。
宗心という号は天文22年に上洛した時に大徳寺で得たもの、謙信は元亀元年以後
の書状にある名前で、この時期に出家したという説が有力。
>法印大和尚から大僧都を授かったのかどっち?
宝憧寺青胤が法印大和尚だったかどうかは調べてないが、法印大和尚から
法印大和尚を受けるのもヘンな話なので、もっとエロい坊さんじゃないかな。
どっちにしても、謙信が法印大和尚を受けたのは確証のある史料からだ。
大僧都も米沢の戒名に書かれてるが、上記の高野山清浄心院が典拠なら信憑性は疑問だね。
>>825 謙信の女っぽい直筆書状はたくさんあるよ。そのうちUPするけど。
>>827の追加
「権大僧都」というのは、おそらく生前に大僧都だったという
意味だろうから、無量光院の史料を調べてみれば生前に「大僧都」
を受けていた記録が発見できるかも。
829 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 03:04:17
権大僧正>大僧正>僧正>権大僧都>大僧都=法位>>>>法印大和尚=単なる称号
らしい。
宝憧寺青胤も、大法印て事になってるのかな?
http://www.cypress.ne.jp/muryoko/ ただこれ見ると、高野山の僧が大名や将軍に乞われて
京なり越後なりに下向するってのは普通にありそう。
あと、宗心の法号は、景勝のものじゃなかったの?
高野山登山の根拠って、
林泉寺の光育宛ての手紙だけで謙信が渇食してた事になるのと同じ程度?
>宗心の法号は、景勝のものじゃなかったの?
景勝の諡号だね、覚上院殿権大僧都宗心法印。
てことは、為権大僧都法印宗心(導師は法音寺能海法印らしい)が景勝だ。
謙信の宗心は天文22年12月8日、臨済宗大徳寺の宗九から授けられた
(上杉神社所蔵文書・越佐史料4−96)とある。
>高野山登山の根拠
確実な史料はない。「上杉家御年譜」(江戸中期成立)に、上洛時に摂津・堺・奈良を
周遊し、高野山に参拝したとあるだけ。
>林泉寺の光育宛ての手紙
「とにかく遠くからこの国の有様を見ていることにします」とあるだけで、
通説の比叡山への入山や高野山云々は、文字の上では確認できない。
つまり、隠居して出家をしたくなったらしい、という歴史家の解釈。
832 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:48:11
>高野山登山の根拠 >確実な史料はない。
ということは、
>>2の
>・厳しい女人禁制の高野山に2回登山。
の論拠が希薄になったということか。
>>88みると、越佐史料でもブレはあるようだ。
越佐資料以外に、謙信が宋心を使った証拠はあるのかな?
天文22年は24歳だから、40歳頃に宗謙に師事して謙信を名乗るまで
16年間も使ってたんだから、普通ならありそうだが。
本願寺証如上人日記では、
>>232によると贈答があったという記述しか無いようだが。
>越佐資料以外に、謙信が宋心を使った証拠はあるのかな?
林泉寺の光育宛ての手紙(歴代古案379・御書集・越佐史料3−835)が宗心署名。
それより「越佐史料」の意味、わかってるか?
明治時代に編纂された史料集で、それ自体が原史料というわけではない。
したがって、複数の矛盾した史料も参考のために収録されている。
本願寺証如上人日記には、謙信が本願寺(真宗)に贈り物をしたという記述しかないが?
宗心を贈ってくれた大徳寺(臨済宗=禅宗)とはいろいろと交渉があったらしいね。
>>835 独立した資料なのかと思っていた。
上杉博物館とか林泉寺とかに手紙自体は現存してるんだよね?
光育宛ての。
ゲームのじゃん
晒したいだけならやめれ
839 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 03:03:39
>>836 謙信(長尾弾正少弼景虎・宗心)の光育宛隠居書状(歴代古案379・御書集・越佐史料3−835)は、
確実な史料だと言われてますが、見るかぎり写しです。謙信書状の大半(御書集・歴代古案)は写しですね。
写し書状しか残っていないことも、上杉謙信女性説の論拠なのですが・・・。
840 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 03:08:11
HG謙信が女だったら生き残った家臣や他の奴らからそういった話や資料あるはずだろ
>840
ふーん。謙信の家臣というより、後継者の上杉景勝の書状(史料)なんだが、
「不慮之虫気により謙信が遠行」(謙信死後の景勝書状「越佐史料」収録)
「広辞苑」によると「虫気」は「陣痛・産痛」らしい。誰か「広辞苑」持ってたら、調べてちょ。
死因がこれじゃ、やっぱ女だろ?
>資料あるはずだろ
証拠らしき資料は、このスレの[テンプレ]にゴマンとあるわけだが。
843 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 04:07:12
>>841 他の病気の説もあるだろ、大体女なら普通にばれるだろそんなあやふやなことで女扱いするな
陰謀論好きとかと一緒
844 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 04:23:06
武田信玄女性説とかあってもええやんけ
>>839 そう言われると全て疑わしくなる。w
やはりDNA鑑定が必要なのか。
>>844 あってもいいが証拠には不自由しそうだな。w
>他の病気の説もあるだろ
調べてみますた。
虫気(婦人病)説=「景勝書状」(上杉文書・謙信の死直後)
大虫(婦人病)説=「当代記」(松平氏史料・江戸初期)
中気(中風)説=「上杉家年譜」(上杉氏正史・江戸中期)
腹痛説=「謙信軍記」(軍記書・江戸中期)
一般的な通説は中気=中風(脳卒中)。
一般的には、景勝の虫気の虫は中の当て字で中気(脳卒中)が死因といわれてる
みたいだけど、当時の虫気は腹痛を意味した。
武田信玄が高坂弾正に出した手紙に
>弥七郎に頼りにたびたび申し候へども、虫気のよし申し候あいだ、了簡なく候。
>全く我が偽になく候。
というのがある。この場合の虫気とは腹痛のことで、勿論、高坂弾正は男だから婦人病
である筈がない。
848 :
847:2006/05/10(水) 15:21:39
なお、虫気は「ちゅうき」と読まずに「むしけ」と読み、腹痛を中心とした病の
総称。当時は腹の中に虫がいるものと考えられていた。
>>847 なるほどね、例の浮気否定の書状に「虫気」ね。
で、調べてみた。訳意は少し違うかもしれないが、虫気――腹痛はほぼ確定だ。
誓詞之意趣者
一弥七郎二頻二度々申候部共虫気之由申候間
無了簡候全我偽二奈久候事
一弥七郎止起二禰左世申候事無之候此前二毛無
其儀候況昼夜共弥七郎止彼義奈久候
就中今夜不寄存候之事(以下中略)
明日重而奈利共可申候 七月五日 晴信(花押)
春日源助との
いままで弥七郎に言い寄ったことはあるが、腹痛だなどと言ってことわられた。
弥七郎と寝たことはない。わしに偽りは全くないのだ。
弥七郎を寝所にはべらせて寝させたなどということはない。これ以前にだって、
そんなことはしていないないのだ。まして今夜、弥七郎とどうこうしたなどは
思いもよらないことである。(以下中略)
もし信じられないならば、明日重ねて言う。 七月五日 晴信(花押)
春日源助殿
※信玄、必死だなww
850 :
847:2006/05/10(水) 16:02:26
おっと訂正しときます、スマソ。
>>847 >勿論、高坂弾正は男だから→勿論、弥七郎は男だから
この他、伊達政宗の文書にも家臣が虫気を起こして云々という文書があるね。
矢切が越後長岡の「山本ごい文書」を見て、女である事を確信したと言ってるけど、
この「山本ごい文書」って知ってる人いる?
>>852 そいつ(山本ごい文書・越後のゴゼ唄)は、限りなくガセに近いと思う。
八切氏に史料を仲介したとされる人物も匿名だし。
丹念にフィールドワークして、地元の研究者を当たってみるしかないが。
ごぜについては、もっと深く追求してもらいたいね。
唄としては優れてると思うしさ。
川川川川川 プーソ
川-◎ ◎|
__川∴) 3(∴)_<史実・想像ともに萌えましょう。
/ ∴ ゝ ── '∴ ヽ プーソ
/ ∴ ,ィ -っ、 ∴ ∴ ヽ プーソ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i プーソ
| /  ̄ | |
ヽ、__ノ 謙信命 ノ ノ プーソ
| x 9 /
| ヽ、_ _,ノ 彡イ
| ( || ) |
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謙信が女なわけないだろ!
・・・と、思っていたが日本は古来から女大将や女の部隊が普通にあったんだな。
色々な本を読み調べていくうちにそう思った。
儒教の影響で男尊女卑になったが、元々は女も強くたくましい国だったんだな。
だと江戸時代の影響で謙信が男にされた可能性もなきにしもあらず。
今年、林泉寺で肖像画と自筆の書を見た事あるけど、少し女っぽかったもんなー。
857 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:55:57
858 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:04:00
肖像画見たら(有名なヒゲの剃り跡が目立つアレではない、あれは後世の物)確かに女かもしれんと思った。
あれで男だったら逆にキモい。
女説、信憑性はかなり高いと思う。
少なくとも光秀=天海説程度には
860 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:45:52
この説、言いだしっぺはトンデモ作家かもしれんが「バイアスがかったら女とも取れる」程度の諸状況証拠だけにとどまらず
>>859のようなものまで残ってる。
ただの妄想、では片付けられないと思う。
晩年や死後は「トンデモ作家」の評価だけど、八切止夫も大学で教鞭をとった
歴史研究者だからな。当時の制約が多い史料検証では、それなりに実績を残した
と思うよ。八切に反批判されてパニクった戦国史の権威桑田忠親のほうが、まともな反証も
出来なかったわけで。
>861
たしかに尼僧だな・・・。
謙信が強かったのは、諸大名が女だと知って手加減してたから?
とくに信玄のジジィとか
そりゃ大将が女なら誰でも油断するんじゃ?
しかも戦が上手だったら
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
詳しく訳すまでもなく、武田方の上州和田城を攻めきれていない戦況を、
金津・吉江・本庄美乃といった老臣に相談がてら報告している書状です。
「心ぼそい」「窮屈難儀」「いつもより帰りたい」と、江戸時代の軍記書には
絶対に書かれなかった女々しい人物像がわかる。
虎タンがんばれ!
34才の時の手紙か。
やはり世間のイメージとは随分違うんだな。
虎(花王)になってるのも興味深い。
>>867 >三月十三日
八切説(旧暦毎月十日・生理周期一致説)によれば、生理の三日目だな。
結局ここの住人のほとんどが八切説を越えられないわけだなw
>>871 謙信は肖像画を描かせなかった(八切説)
女性的な謙信自画像が存在する(2ちゃん説)
大虫は婦人病(八切説)
虫気は腹痛を伴う病気(通説の脳卒中を一次資料=景勝書状)で越える(2ちゃん説)
少し越えてるがなww
>>869 生理は決まった日にあるわけじゃないよ。少しずつズレて行ったりするよ。
28日周期だからズレて当然<生理
むしろ毎月十日だと生理不順になる
あれ?
てか、9日が月齢宴会か何かで、翌日は肝臓が痛くなるんだろ。
しかし八切は女の生理が28日周期と知らんかったとわな。
信玄の川中島アンネ作戦なんて、もともと八切の電波な発想だよ。品がないし。
つーことで、生理周期説はアボンでいいと思う。>867とか、書状の「かしこ」
末文なんかみると、謙信女性説の確信が深まるね。決定的な資料があるとしたら、
何なのかね??やっぱDNA鑑定??
878 :
871:2006/05/17(水) 08:32:57
>>872 すまんかった。
未だに八切説を越えられないでいる人間もいる に訂正するw
>>876 八切氏の説を擁護するわけじゃないけど、そんな正確に数値として生理は測れないよ?
10日とかズレたりするの当たり前だから。重い人だと変動激しいよ。
いままで「かしく」が女性説の根拠として指摘されたことがあったのかな?
ひょっとして、このスレが始めて?
このスレちらっと見ただけなんだけど、[寺][女々しい内容の和歌][妻帯なし]って、キーワード見ると、どーしてもウホッな謙信しか連想できないな
>>880 指摘もなにも、謙信女性説そのものが史学界では禁忌だ。
国学院系の史学は桑田御大が女性説をムキになって批判してた経緯があるし、
現在の上杉研究者は、まだ40代の若手ばかりだから自由にものが言える環境にない。
在野でも、八切以後は墓相研究者とトランスジェンダー系のコラムニストだけ。
八切も大学を辞めたから女性説を唱えることが出来たわけで、研究機関に属している
人間には無理。かりに、八切説のような杜撰な発表をすると、研究者は命取りになる。
たとえば理系では研究論文の基礎資料に捏造(誤りでも)あった場合は処分対象。
最近の本能寺の変黒幕論争でも、在野の人しか思い切った発言をしてないのはそういう事情。
ま、そもそも矢切は「当代記」を松平忠明が当時つけていた日記だと説明するような
人だから、まともな人は相手にしないと思うが…
八切説が何処まで正しいものなのか。
ちゃんとスペインにゴンザレスの報告も残ってるの?
>>884 トレド司書館にあるらしいですよ。
>「かしく」が女性説の根拠として指摘されたことがあったのかな?
>>880 >指摘もなにも、謙信女性説そのものが史学界では禁忌だ。
>>882 謙信の書状研究が遅れてるのは事実です。高志書院の「定本武田信玄」と「定本上杉謙信」
で、書状研究の章を比べると歴然としています。信玄のほうは、偽書状の検証まで進んでるのに、
謙信のほうは書状の様式(折り方・紙質)研究の方向に進化しています。
たとえば、作家辻邦雄の祖先(辻文書)が江戸時代に武田浪人になるため(浪人でも士
身分で農工商の上になり、仕官の条件になる)の偽書であることなど、信玄書状の研究は
原本の分析まで及んでいます。謙信書状は原本が各地に分散しているのと点数が多い関係で、
なかなか進まないのかもしれません。直筆書状の筆跡鑑定や写本の真偽なども、
「今後の課題としたい」(定本など)「これからの課題」(歴博紀要)という感じですね。
>>879 変動激しいなら、余計に八切の「毎月10日に生理」説は
電波という事になるなw
>>884 5 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/07/13(水) 21:12
・スペイン国王フェリペ2世宛ての日本についての報告書で謙信は伯母と記されている
反論1:そもそも原文の存在が未確認
反論2:伯父Tioと伯母Tiaのaとoを間違えた
八切の毎月十日説のデンパぶりは、以前から何度もとりあげられているのに、
未だに生理説の信奉者がいること事態むしろ奇怪な現象だ。
噛み合ってないな・・・・w
890 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:37:59
ケンシンサイキョウ ウエスギガイチバン! 粘着上杉ヲタ氏ねよ
ヲタタタタタタタタタタタタタタタタタ・・・・・ ∧_∧
へ (´<_` )
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
( 人____)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
|ミ/ ー◎-◎-) |、 ノ .|
(6 (_ _) ) | | |
| ∴ ノ 3 ノ _ | | |
\_____ノ _ E〕 | | |
( ))___〕__E〕 | |_丿
| 謙珍 __〕_E〕 | /ヽ |
|_________) | | | |
(三三三三三[□]三). | | | |
\::::::::::::::::::::::::::::::::/ | | 〉. )
|::::::::::::::::::/:::::::/ | ノ / /
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(___|)_|) / /\ ヽ
|_ / ヽ-'
ここエロい人が多そうなので、質問。
謙信が関東管領を継承したときの鎌倉での願文(千葉妙法寺文書・上越市史258)に
「神功皇后が住吉神社と諏訪大社に祈ったところ、たちまち男(男形)性化して三韓征伐に成功」
とゆうような趣旨のくだりがあるんですが、これって女謙信が「自分も男になるぞ」と、
鎌倉鶴岡神社に宣言したと、そう考えてもいいんだろうか?
>>891 神功皇后=仏門に足を突っ込んだ義と慈悲の心に満ちた自分
男性化して三韓征伐=管領としての責務を果たすなら修羅や軍神と化す自分
という比喩で、謙信が女性だった云々とは恐らく全然関係ありません。
>祈ったところ、たちまち男(男形)性化
女だった傍証だな
>国学院系の史学は桑田御大が女性説をムキになって批判してた経緯があるし
思うんだけど、高柳にしても桑田にしても、どうして国学院出身の学者て
あんなに威張ってたの? 戦前の国学院史学てそんなに優秀だったのか?
>>891 面白いね。
こんな願文を書く武将は滅多にいなさそう。
>>892 神功皇后=仏門に足を突っ込んだ義と慈悲の心に満ちた自分
別に女性の名前である必要無くないか?
男でそんな比喩するなら有名な僧侶の話を持ってきてもいいと思うが
>たちまち男(男形)性化して三韓征伐に成功
という記述が「古事記」「日本書紀」にあるかどうかが問題だ。
なければ、謙信オリジナルというか・・・。謙信が女だったからだと思う。
というのも、鶴岡八幡宮に願文を奉じたのなら、八幡大菩薩(神功皇后の子・応神帝)
の来歴を述べた祝詞のはずだから、「紀記」伝承のとおりの願文になったはずで。
調べてみるよ。
とりあえず、謙信の原文をUP.
「(神話の伝承記述のあと)人王継代之初神武天皇以来十四代仲哀天皇、
后神功皇后、摂政即位元年辛巳治六十九年、春秋百廿載(歳)、女帝始祖、
当後漢建安六年庚辰年十月辛丑日、皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形(たちまち男性化?)、
責三韓・新羅・百済・御帰来筑紫、王子御誕生、応神天皇・豊前国馬城郡宇佐八幡大菩薩是也、
…東海相模鎌倉…征夷将軍源朝臣頼朝…」(以上、長文なので抜粋)
つまり、八幡大菩薩の由来を祝詞にしたためた。という感じだ。
「紀記」に出産を遅らせた伝承はあっても「男性化」はないようなので、
謙信祝詞の「忽化男形」には、大きな謎と疑問が残るね。
>>891さんの「自分も男になるぞ」(女謙信)説が濃厚だ。
900 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:57:44
謙信女性説をめぐって、大人げなく乱闘した八切止夫も桑田忠親も鬼籍に亡きいま、
新説か・・・。age
阿佐谷北
>直筆書状に「かしこ」・・・
>自画像が女にしか見えない・・・
>願文に「男性化」の記述・・・
>史学界では禁忌・・・
上杉謙信女性説、決定的だな。
904 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 00:29:09
謙信の直筆書状で、けっこう女性説に決定的なのをハケーン!
「此のたびの(佐竹)義重つもり違ひまいらせ候、たたいまは後悔候…さりながら、
いよいよ打ち替るまじきよし、けん信も同意に思いまいらせ候…返々、そのくち敵の
表裏に乗られ候ハバ、たしかに綿で首を絞めべく候か、女き(騎?)二入り候とも、
御分別へく候…かしく」
天正2年 閏霜月廿四日 えつちん(越後陣)より けん信(花押)
[奈良文書・越佐資料5−280・新潟県史3266]
この「女き」は、どうやら「女騎」らしく、平安末期の加賀国衙文書にある(日本の中世4・中央公論社)らしい。
上の文を訳すと「佐竹義重との思惑違いも、いまは後悔しています。しかしながら、
これ以上(関東勢)が異心をすることはないだろうとする意見には、わたしも同意します。
…(ワカラソから中略)…それにしても、敵(たぶん北条?)の表裏(謀略)に乗れば、真綿で首を絞められる
のです。女武者でも、そのくらいの分別はわかります。かしこ」
906 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 12:31:59
ここは謙信コードか。
908 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 15:56:20
ここは低能児ばかりが打ち揃うて居るようぢゃのう!
上杉謙信は生涯に亘り男色のみを愛好して女犯などという卑しい真似に
奔らなかっただけだ。
八切説はダ・ヴィンチ・コードだが
某人の論証の稚拙・緻密で真実が変わることはない
>直筆書状に「かしこ」・・・
>自画像が女にしか見えない・・・
>城攻めに失敗し、老臣に「心細い」「帰りたい」と泣き言の書状・・・
>願文に「たちまち男性化」の記述・・・
>史学界では女性説は禁忌・・・
>直筆書状に、自分を「女武者」などと記述・・・
上杉謙信女性説、決定的だな。
卑弥呼の例を考えれば、
女を当主にして団結をはかるのは合理的ではある。
卑弥呼の次も女当主だけどな。ちなみに卑弥呼の姪の幼女が当主。
>>914 萌えは萌えでいいんじゃね?
ここは「徹底史料分析」なんだし。
916 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 14:13:59
上杉謙信はクソw
人
(__)
(___)
(___)
(_____)
(______)
(______)
(_______)
>>907 ほんとだなw
興味本意でこのスレのぞいてざっと読んだけど面白いな。
調べてる人まじで乙
918 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:56:09
実は、自分は女であると信じたかった性同一性障害者
だったら面白い
919 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:33:35
墓を開けてみたら化粧道具が入ってたりしたら…面白いな
おもしろがってないで、まじめに議論汁!
ひきつづき謙信女性説の資料、UPよろしこ!
ふと思ったんだが、謙信が女性となると影武者の荒川伊豆守も女性だったとなるのかな?
>>921 影武者の荒川伊豆守は、江戸時代の「上杉年譜」「北越軍記」などに
しか出てこない、架空の人物だという説が有力だな。小島弥太郎と同様に墓はあるけど。
むしろ、戦場で御旗を守護した安養院というのが尼僧らしい。北条政子(ほうじょうまんこ)
と足利将軍の縁戚の女性の法号が同じ安養院。
ちょっと脱線するけど、荒川と小島の墓っていつできたのだろう?
江戸なのかな?
>>923 二人の墓ができたのは元禄時代だな、二人とも宇佐美文書に基づいた人気武将だから。
ちなみに、林泉寺の謙信の墓(大きいほう)も元禄時代。
結婚相手だったという加地春綱や、その子の秀綱と孫の景綱についてはどうでしょう?
仙桃院が嫁いだ政景よりもまだかなり年上で、謙信より20歳以上も離れていたようですが。
>>925 加地春綱の謙信政権下での活躍は、史料にはあまり出てこないです。
永禄年間には、武田に備えて飯山城番になったらしいけど。
謙信と晴景が対立した時期にも、揚北衆の中で謙信擁立派は中条藤景ですから、
もし加地家が長尾一門になっていれば名前は挙がってもおかしくないのに。
御館の乱で三郎景虎についたのはともかく、新発田の謀反に加担してるので、
長尾一門とは考えられない。↓というのも、
八切説の「阿虎が加地家に嫁に出されそうになったが、拒んだので為景に殺されそうになった」
は「上杉家将お尋ねに付き書上」が元本で、諸家系図?に「晴景の妹が加地氏に嫁す約束」
とある関係で、この「妹」を謙信だと考えたらしい。
上記の加地家の処遇や態度から、諸家系図の記述は婚約破棄になった?
春綱の生没年・年齢は???です。
>>922 荒川伊豆守は実は垂水源二郎であったといわれてるね。
謙信が川中島の合戦後、垂水源二郎にあてた感状が残っている。
ただこの垂水源二郎が、謙信の影武者を勤めていたかどうか確かな史料はないようだが
小松左京の「竜虎抱擁」(最後の隠密・角川文庫)手に入れた。
これから読む♪
女性の振りをすることを好み、
家臣や甥にも、時と場合に応じて女性扱いすることを要求した奇矯者。
これでどうだ?
イングランド王室に連なり、植民地総督に任じられたこともある変人で、
公式の場には女装して臨んだ人もいたぞ。無能だから干されたけど。
ボイコット卿といったかな?
>>929 女装癖のある武将説か・・・
無理だな、キモすぎる。そんな総大将のために命がけで戦う兵はいないだろー。
女の身でありながら、健気に戦う総大将のために戦うことはあっても。
上司が変な趣味持っててもいいよ。有能なら。
無理ぽい説だろうけど。
好みの問題なのだが・・・、
謙信は「少弼ハ若衆数寄之由」「きやもしなる(華奢な)わかもじ多数集め」(近衛前嗣書状)
と、稚児が好きだったらしいので。
[女性説]
ホストクラブを好む女性上司(有能)
[女装説]
女装して若い男性社員を誘う親父(有能)
同じ有能な上司なら、女性説のほうがありがたいな、わたしの場合は。
好みなら俺も女性説のほうがいいな。
つか、女装したがる当主で戦国時代にカリスマになれるか?
オカマpgr(^д^)みたいに小馬鹿にした資料とか残りそうだよね。後者だと
>932
それ京都で若衆あつめて遊ぶの手配した人が書いた手紙かな?
謙信見て思わず、かわいいって言った若衆の一人を半殺しにしたくだり。
男臭い言動がゆるせない→男性嫌悪癖→そのぶん無垢な少年をもとめる、繊細な女か。
無垢な少年専門を林泉寺で覚えた最グロエロおやじか。
女とバレそうになり、カモフラのためアドリブか。
そろそろ、次スレのタイトルとテンプレを考えようか。
基本的に
■■徹底史料分析!■上杉謙信女性説4■■
で、おK?
>936
おK。
939 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 20:25:56
小姓、近習はいたのか、女の家政婦さんはいたというが。
940 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 18:21:59
扈従は勿論居たし、性愛の相手をつとめる児小姓も何人も居た。
常識だろうぞ!
次スレのテンプレ案
<謙信女性説の主な論拠>
・謙信の死因は大虫(婦人病)虫気(腹痛・陣痛)である、と歴史書に書いてある。
※大虫については「孫太郎虫売り」江戸中期から昭和初期までの、いわば行商人
(矢切氏も実際に見た可能性あり)。ひき札(広告)に【大虫】と出しており、それが【生理】を示す、
とされる。※虫気については「虫気之由申候間(腹痛だなどと言ってことわられた)」(信玄書状)
・毎月10日前後に腹痛をおこし、合戦を取りやめている。(生理周期には疑問が出されている)
・謙信の武勇を称えた当時の唄で、謙信は女性扱いである。
・スペイン国王フェリペ2世宛ての、日本についての報告書で、謙信は女性と書かれている。
・156cmと男性としては小柄なのに、「大柄」と評される。
・杉浦岱典の『戦国武将の墓相』(秋田書店)によると、「謙信が女性であり、かつ
終始離れなかった男性の存在を示している」 「さらに二基の五輪塔の近くに、
もう一つ小さな墓があるのだが、これが誰の墓であるにせよ驚くべき事実を暗示している。
謙信は「こども」を産んでいた!」 取材時に明治18年柏崎生まれの古老から
「謙信女性説」を教えられた。としている。
・一般に流布している髭面の謙信肖像画は明治31年作の版画。
・伝謙信自画自讃像や佛画には髭がない。主観的には女に見えなくもない。
・直筆書状に「かしく(かしこ)」や「女き(女騎)」「早く帰りたいし、心細い」などの記述。
・鎌倉鶴岡八幡宮への願文に「后神功皇后…忽化男形(たちまち男性化)」と、男性化願望の記述。
<女性説における謙信の死因の一例>
元気な人間が、突然倒れて人事不詳のまま4日目に亡くなる婦人科の病名
=卵巣の実性腫瘍:かたいコブのようなもので、その80%が悪性。嚢腫にも
充実性腫瘍にも良性腫瘍と悪性腫瘍(卵巣ガン)がある。腫瘍が小さいうちは、
全く症状がない。(おりものの変化や月経異常などのサインはかなり大きくなって
から)他の病気で受診した際に、偶然発見されることが多い。嚢腫が大きくなると、
おなかの圧迫感、腰痛、しこりなどが見つけられる。さらに大きくなると周りの臓
器を圧迫して排尿排便がしづらくなったり、足がむくんだりする。ときには茎捻転
といって卵管や靭帯がグルッとねじれて、突然激しい吐き気や腹痛が起こり、ショ
ック状態になる場合がある。
<男性説側の主な反論>
・幼女は寺で修行しない。
(同時代の男性名の女性武将、井伊直虎=次郎法師の例があると反論あり)
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしいものがない。
(女性を傍証する文献は直筆書状にある=上記と反論あり)
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山。
(登山は「上杉年譜」江戸時代の編纂記録で、伝承の域を出ないと反論あり)
・生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。
(名前と同様に、男性を装っていた場合は当然ありうると反論あり)
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられた高野山清浄心院=江戸中期創建、ので
お取り潰しを回避するために捏造された可能性が高い)
<主な史料リファレンス>
『上杉史料集』(井上鋭夫校注、全3巻、新人物往来社、1969)
北越軍談・上杉三代日記・北越耆談・川中島五箇度合戦之次第・松隣夜話・上杉将士書上・久知軍記・古案記録草案
『上杉文書目録』( 米沢図書館編、1969)
『上杉家御書集成』(全2巻、上越市史専門委員会中世史部会編、上越市史叢書6)
『上越市史』(資料編全7冊、通史編全7冊、別冊1、上越市史編纂委員会)
『甲陽軍鑑』(土橋治重、矢立出版、1981)
『サンデー毎日』の「読物専科」に書いた「血戦川中島」と、『問題
小説』7月号・8月号に書いたものと、『歴史読本』に書いた「謙信
論考」の3本を1冊にしたものという。謙信女性説の原典的存在。
<必読書>
『上杉謙信は女だった』(八切止夫、2002年復刻、作品社八切意外史)\800
『疾風上杉謙信』(2001年、学研歴史群像シリーズ)\1600
『上杉氏年表』(矢田俊文・池亨、2003年、高志書院)\2500
>>941 せっかく八切説を越えたところでの女性説を、という話になっているのだから
>毎月10日前後に腹痛をおこし、合戦を取りやめている。
>(生理周期には疑問が出されている)
この生理説はデンパということで 否定されているのだから、(見落としてる
のなら、このスレ読み直されたし)疑問が出されているじゃなくて、もういい加減
削除しないと恥かしいよ。
また
>お取り潰しを回避するために捏造された可能性が高い
この女性当主ゆえの取り潰しも、女大名(清心尼公)の存在が指摘されたりしている
のだから、八切の取り潰し回避説から脱却して新説を模索するため、削除すべきだろう。
その反面、
墓相のことや「かしく」等が加えられたことは、興味深くなかなかいい事だと思う。
とにかく、乙です。
じゃあ、
>>945さんの指摘は、
<すでに否定された八切説>
かな。ネット上では、相変わらず八切説が主流なんで、それをきちんと否定する意味で。
947 :
945:2006/06/16(金) 18:17:32
>>946 まあ、せっかく「相変わらずの八切説」をこえた今までに無い(?)貴重なカキコ
がなされている訳だから、それらを尊重して、テンプレに盛り込んでみてはと…
反対意見が出たから、判定は△でも付けてみたらどう?新規の人へのひとつの判断材料になると思う。
949 :
945:2006/06/16(金) 18:55:53
スマソ、一つ漏らしてた。
女性説の論拠に「不妻帯」も加えておくべきじゃないかな?
いろいろと思いつきでいいから出しておいてくれ、新スレ立てるのはまだ先だから。
951 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:13:05
直筆書状が平仮名の物しか残ってないというのもなかったっけ?
男性説として、男性用の官位というのもあったね。
>>952 あったよね。反論はたしか、従五位下弾正少弼は越後長尾歴代の官途で、
しかも上洛前の天文21年5月に越後で拝領したものだから、
朝廷は性別まで確認できなかった。かな?
>>953 流石に朝廷に性別不明で官位もらうわけにはいかないんじゃない?
従一位とかは普通に大奥の人間が貰ってるよね。
弾正少弼云々が、男性用だとする資料はあるのかどうか?
次スレはこの板に立てるの?
>>956 日本史板でいいんじゃない?他だと荒らされると思う。真面目な検証スレなだけにそれは嫌だ
強制IDの戦国板が出来たから聞いてみた
ちょいまち。
そのスレは妄想用のスレだ。
考察用はここでいいんじゃないかな。
ID付きは魅力ではあるけど、向こうと違って荒れているわけではないから。
上杉最強
上杉最強
上杉最強
上杉最強
上杉最強
ここまで山口
お、なんか住人が戻ってきたみたいだね
お わ り
あいかわらずうざいスレだな
いい加減ゴキブリは出て行くか死ぬかどちらかにしろよ
バカ謙信wwwwwwwwwwwwwwwww