あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
('A`)
211 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 10:46:27
('v`)
212 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 10:47:07
VIPからきますた
ケツにフリスク入ってます
213 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 10:47:55
214 :
【沈黙-ω-】 ◆.0e0wEv5W6 :2005/04/04(月) 13:40:00 BE:17426232-##
, '"´ ̄` ー-、
>´ ヽ
/ , 、 ヽ ',
i , l |l , トlムィ 、 ', !
! ! | _l,lイ、l トl _ヽ、_ l l
, -‐‐、 ヽヽヽN ノ ` r' } l|
i └┐ `Tい _ ,.イ´ l|
t r‐┘ | `ト--ォ‐ | l |l
`ー-' ,.r‐‐¬'/:〈 ,ハl| l|
r' ,l:/:.|:.|:.|l::;-ゝ'_:::イ`i 、 !
,厂/:.|::|:,!:.!:.l´j:.|o||`'.|:.l:.|:`ト、
_r'∠/:.Y::!|:l:.:!:.|:.:!:.|:.:!:LLL」l|:|:l;イ!
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}:::r'´ ̄、}〉「:||::|:::|:::|::|:::!:|::|:::|::|:|:l;.!:|:!
`ヾ、 ヽ !:|::l、:|:::|:::!o!:l:T:T1|/!:|:.l:l
\ ヽ!|:|:.i|:.ヽ:|:::!:|::|:::!:|:|:.|:.l:.l:}、
ヽ 〉!:.:l:.:.lヽq::!:|:.:|;l:|ー-''´::{
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ハゝ j:.:|:.:.l:.:}:.jo}:レ1:l/l:l゙iー‐'i´
`゙T´!:.l:.:.l:.:|:.:!:.{イ:.|:/!:|:l | |
}|:l:.:ト、|:.:.!:.:|:.!:|:.:!:.:|:.l:.l ! |
7ー'、_:l__L⊥l」_;L⊥r'/ ヽ._
/:|/:.l:.::|:.|/:||:|:.:.|:.:.|:.:|!ヽ¬、}j
ばあー 卯川だよん
隆家と刀伊の入寇の話するねん
藤原隆家と言えばん 花山院に弓を射掛けて 兄伊周の失脚の原因つくったことで有名だよねん
そのあといろいろあってん 寛仁三年(1019年)は太宰権帥やってたねん
そこにん 対馬と壱岐がん刀伊に襲われタン って急報が入るねん もうすぐ筑前にもん上陸するってん
刀伊とはん女真族のことでん 高麗を度々襲ってたのんで 高麗語で野蛮人って言う意味らしいよん
規模は十二尋(約20メートル)の船が50隻 乗員は一隻あたり50人ぐらい(ちょっとオーバーかもねん)
上陸するときにんは 100人程度の部隊がん 10から20隊 壱岐ではん 400人余りの島民を殺害しん 残ったのはん35人だったんてん
この相手にん隆家は恐れもせず 意気軒昂 北九州の軍を集めてん 博多の警固所に出撃し敵をで迎え撃ったなりん
ここで撃退 つづいてん船越津 肥前松浦でも敵を各数十人を倒してん撃退したなんり 一週間で刀伊は撤退したなんり
日本側もん 壱岐対馬の島民を中心に500人以上の死者を出したけんど 隆家の沈着課果断な指揮でなんとか切る抜けたなんり
ところでん隆家が大宰権帥になったんは 眼を患ってん 九州に宋の名医がいるって聞いてん 希望出したんだばい
隆家が眼を患わなけれんば 名医がいなけれんば 大宰権帥になれなければん 恐ろしいことになってたかもん
ついでにん九州の菊池氏はん こん隆家の子孫を名乗ったけんど ホントはん藤原蔵規の子孫みんたい
蔵規も隆家のもとでん奮戦したよん それに彼の子孫のん武房・有隆兄弟は元寇で活躍するよん
彼らの国を護る気持ち良いよねん
前に出てたらごめんなさい
松平信綱と雀の話
知恵伊豆は九歳から家光に小姓として仕えていましたが、おる日こんなことが起こりました。
家光「信綱そなたは身が軽いから 屋根の上の雀の巣をとってまいれ」 信綱「ははっ」
主君の命令とあれば、例え火の中水の中、信綱は屋根に登るが、誤って足を滑らせて ドスン
信綱の落ちる音に驚き、将軍秀忠は飛び出してきて
「(大方 竹千代の言いつけじょろう) そちは誰に頼まれて屋根になぞ登ったのじゃ」
「私が雀の子を見つけて欲しくなりまして屋根に登りました」
「強情なやつめ」秀忠は怒り信綱を袋に入れ柱に掛けました。それでも信綱は自分がと言い張ります。
翌日昼まで攻められたのち、お江与の方のとりなしもあり、やっと信綱は許され立ち去りました。
「お江与よ あやつ幼いのに主人思いで根性もある 将来はきっと竹千代の忠臣になるぞ」
217 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:35:54
VIPうぜー(´・ω・`)
218 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:36:58
愛・地球博 名古屋名物・ういろう味噌キャラメル
これより佐竹殿儀についての詮議を始めます。
大臣の皆様方は参内してください。
220 :
間者:2005/04/04(月) 21:00:10
既出かな?
太平洋戦争時に海軍はアメリカに対し国力の差があるため勝てない
ので戦争に反対したが、陸軍は『海軍は勇気の無い軟弱物の集団』
と馬鹿にした。その後、陸軍は開戦の意見を押し切り、アメリカ軍と
の戦力の差もしらないままに戦争をはじめてしまった。
結果日本は焼け野原となってしまったのである。
自分の力のなさを認める事もまた勇気であるという話ですな〜。
日本軍は孫子の兵法を理解していなかったのでしょうか
221 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 21:14:30
VIPのやつらってケツにフリスクいれてるんだなm9(^Д^)プギャー
>>220 間者殿は何処の間者殿ですか。甲賀、伊賀はたまた風魔。。
よろしければ名乗りをされたら如何ですか。
223 :
間者:2005/04/04(月) 21:32:02
名乗る名などないです。
永井スレをたて直そうと思っておりましたが。・・これほどアレな奴とは
荒らしに屈せず頑張ってくだされ。ROMって応援しておきます。
そうですか。。。
気が向いたらまたネタ出しお願いしますね。
刀伊か。女真族は後の満州族ですな。女真(あいしん)と読むが、
愛新覚羅のアイシンとはここから来ているのかのぅ。
公卿とはいえ、大宰府にいた藤原隆家による撃退があったからこそ、
後の武士団には隆家の子孫を名乗る家々も出てきたのだろうのぅ。
外敵においては元寇や応永の外冦などの他、日本が侵攻を受けた例は少ないが、
源氏の始祖、経基王の時代にも怪しげな船舶が来航したと記録があるし、個々人の
レベルでは異民族が漂流して日本に辿り着いたという記録も結構あるんだよな。
日本は島国だから、外国の通交にあまり実感はわかないが、実際のところは多分に
あらゆる交流ややりとりがあったのだな。
226 :
永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :2005/04/04(月) 23:37:21
上卿鎌倉大納言
平成十七年四月四日 宣旨
従四位下 源朝臣重隆
宜叙 正四位下
右中弁行勘解由次官平重忠 奉
頻繁にネタを出されており、スレを担う1人としてこたびの昇叙、至極自然な流れだと思います。
各大臣の皆様方も即決されておられました。
これからも御活躍ください。
>右京大夫殿
昇叙おめでとう。
幕府におかれても益々の御活躍を。。
229 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 03:19:02
>>227 何とは無しにスレの為になればとネタを乱発しただけにございますが、今回は喜んでお受けいたします。
>>228 宰相中将殿
ありがとうございます。ともに手を取り ラララ〜
佐竹さーん おめでとん
幕府頑張ってねん オリもガンガルよん
232 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 14:22:33
VIPから蛮族が来なくなって良かったですね!
233 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 17:59:26
榊原が怪しいな
234 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 21:01:37
榊原はVIPPERの臭いがしますもんね
235 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 21:29:36
もし仮に、永井やVIPの荒らしがコテの自作自演だったら・・・
236 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 23:04:15
238 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 23:48:15
強制ID表示だったらな〜
皆様 世田谷城評定所内に下記二室を新設致しました。
どしどしご利用下さいませ。
(1)幕府目安箱
名無しさんも含めてスレ運営等に関して自由に意見を言って頂く場所。
廷臣でない方が意見を出される場合は単なる名無しでは無く、仮名でもよいので名乗っての参加をお願い致します。
(常陸屋でも次郎吉でも八右衛門でもご自由に、名無しの場合は下記による採用は致しません)
スレが活性化するような素敵なご提案は、評定衆の発議により幕府で評定に掛け採用させて頂く手順と致します。
スレ全体に係わる事は必要に応じ、御所様より御所に提案を頂く場合もあります。
人事に関することは上げて頂いても結構ですが、評定に掛ける事はありません。
(2)歴史談義の間
スレ住人の皆様に歴史談義を楽しんで頂くために、設けた一室。
人物でも建造物でもその他なんでも、話し合いたいテーマや歴史に関する疑問など気軽に書いて頂ければと存じます。
尚、ネタ及びネタに対する掛け合いは本スレでお願い致します。
>>235 コテの自作自演なら相当な暇人な気がする。。
ただ、一連の動きがうまく行き過ぎているといった見方もできることは然り。
私は、そうでないことを願っております。
241 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 08:36:14
まあ、みんな日頃の欝憤が溜まってたんだろ
そういえば長宗我部殿、付島殿はお元気でしょうか。
243 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 09:35:41
官位スレは荒らしの集い
244 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 10:52:27
児童ポルノを規制するべきだと思う
245 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 11:12:07
400 名前:Lミ ゜∀ノ ◆sIONnnCNag [] 投稿日:2005/03/21(月) 19:07:48
どの動物キャラで初めて抜いた?
∧_∧ ┌────────────
◯( ´∀` )◯ < 僕は、アメリカ物語のタニアちゃん! (幼稚園児の頃)
\ / └────────────
_/ __ \_
(_/ \_)
lll
気が狂いそうなのでプロ固定を始めることにした。
卯川だよ 天野遠景の話
天野遠景は初代鎮西奉行だよん
壇ノ浦の戦いの前にん源範頼が大宰府を押えてん 戦後もんしばらく豊後に留まっていたばってんが
文治2年(1186年)12月天野遠景をん 鎮西奉行に任じて九州統治を本格化するなんり
遠景九州全土を管轄下におき 鬼界ヶ島に平家の残党を討ったり活躍するねん
彼は10年近く(1193〜95年ぐらいまで)在任したんやけど 押妨で寺社や荘園領主らの訴訟が相ついだかんら
頼朝も彼を解任を余儀なくされてん 遠景は鎌倉に戻ったよん
後任は武藤資頼(小弐氏祖)が中原親能(養子が大友氏祖)の二人でん 九州を前後に分けて統治したよん
九州で寺社や荘園領主とぶつかった遠景やけど それもそのはずやん
頼朝や政子の命を受け 言うことを聞かないん一条忠頼や 反北条の比企能員を直接手を下してん誅殺したりん
梶原景時弾劾の連署状にんも名を連ねるなんど 遠景はん血気盛んな武将なんり
>>242 右京大夫様、御心配をおかけましてすみません。
初回同様にネタが無くて・・・。
ネタらしいネタではありませんが・・・
江戸時代で最も国替えが多かったのは松平直基の一族である。
1624年に越前勝山3万石の大名になって以来
越前大野→出羽山形→播磨姫路→越後村上→播磨姫路→豊後日田→出羽山形
→陸奥白河→播磨姫路→上野厩橋→武蔵川越→上野前橋と12回も移動している。
気になるのだが移動した藩でも全て3万石だったのかな?
同じ所に何度か戻ってきている場合もあるし大名の配置替えに生じた
歪みの調整と考えていいのかな?
今より卯川殿の官位詮議をおこないます。
大臣の皆様方は御参内くださいますよう。
>>247 長宗我部殿 良かった。。むずかしく考え過ぎないで、気楽に行きましょう。
>>248 京極殿 国替えが一番多いで すでにネタと思います。
いえいえ、既に出たとは言ってません
充分ネタですよ と言っております。
>>252 そ、そうでしたか!!と、とんだ誤解を・・・
もう少し落ち着きます。
254 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 19:31:59
神山満月って誰よ?
宮内大輔殿、これを見ましたら詮議の間に参内してください。
256 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 06:39:41
藤原って最近いないな
257 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 09:28:31
名無しを装っているコテハンは誰なんだろ?
258 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 18:16:56
259 :
谷左衛門尉具庫:2005/04/07(木) 21:26:08
カエルのおなかはなぜ大きいか?
これは京都の丹後地方に伝わるお話です。ある日ウサギとカエル
(ひきがえる)が、一緒にお餅をつくことになりました。最初は仲
良くやってましたが、ウサギはどうしてもこのお餅を独り占めした
くなったのです。それで、カエルに「ねえ、このうすを向こうの山
の上から転がして、最初にうすの所までたどり着いたものがお餅を
独り占め出来ることにしよう。」と提案したのです。ウサギは自慢
の足で、一番にうすの所までたどり着く自信がありました。カエル
は渋ったものの、熱心にウサギが頼むので承知しました。
「じゃあ転がすよ。1・2の3」。うすが転がると同時にウサギ
は飛び出しました。そして一目散にかけていって、うすの所に一番
にたどり着いたのです。さあお餅を食べようとうすの中をのぞき込
んだところ、あれあれ?お餅がありません。なんと転がる途中で、
お餅がうすから落ちてしまったのです。
そのころのそのそ這っていたカエルは、お餅が落ちていることに
気付き一人で全部食べてしまいました。それ以来、カエルのおなか
は大きいのだそうです。
261 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:50:21
>>259 おお!谷殿ではありませぬか。お久しゅうござります。
スレはご覧のとおり荒れ放題。
谷殿も今一度ご復帰なされませぬか?
263 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 07:57:48
従四位広南白象
264 :
畠山右中弁正五位上平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/08(金) 08:19:29
ネタ投下です。
《皇子の死で変わった、対朝鮮政策》
来目皇子(聖徳太子の弟)が撃新羅将軍に就任したのは、推古天皇10(602)年2月の
ことでした。
しかし、6月、陣中にて罹患し倒れ、以後、日本軍は筑紫国に釘付け状態となってしまいます。
推古天皇11(603)年2月4日、来目皇子は陣中にて薨去。
朝廷では来目皇子の後任にすぐさま麻呂子皇子(当摩皇子)を充てるが、途中で麻呂子皇子の妻である舎人姫王が薨じたために引き返し、
結局、新羅征伐計画そのものが中止となります。
このことから推測されるのは当時の蘇我馬子政権は、新羅征伐という軍事行動を良しとしていなかったのではないでしょうか。
その上で任那に権益を保有している豪族たちを納得させるために、形式的に敢えて出兵に踏み切るという判断を下したように思えます。
そこで蘇我氏系の皇親将軍として来目皇子に、撃新羅将軍という大役が任されたのではないでしょうか。
来目皇子の薨去後、遂に新羅征伐計画は中止とされ、馬子政権は従来の朝鮮半島重視策を捨て去り、
隋との直接外交に大きく舵を切ります。
来目皇子の存在は、古代日本が旧体制から新体制へと劇的に生まれ変わる重要なものであったと言えるのではないでしょうか。
265 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 10:58:54
おまいら三戦の官位スレと最近絡まないな
>>250 谷さん 卯川ですん 復活おめでとうござりますん
中務省
本正五位下卯川明良今授従四位下
平成十七年四月八日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十七年四月八日 宣旨
従四位下卯川明良
宜任 大宰大弐
右中弁行勘解由次官平重忠 奉
268 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/08(金) 15:41:21
織田信長と妙覚寺
宿所本能寺を攻められ命を落とした信長ですが、京滞在の時に本能寺を主に宿所にしていたわけではありません。
上洛し何度も京に滞在していますが、最も多く宿所としたのは妙覚寺。本能寺4回に対して妙覚寺は実に18回宿所にしています。
この妙覚寺と信長のつながりはと云えば、斎藤道三が浮かび上がります。
道三は11歳の時に日蓮宗の妙覚寺に預けられ、法蓮坊と名付けられ、
「学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富婁那にもおとらず、内外をよく悟り、頗る名僧の端」のように
優秀な僧であったと言われています。
その後道三は還俗するわけですが、生涯日蓮宗を信仰したと言われます。
又、末子新五郎を長良川の敗戦の時、妙覚寺に送ったと言われています。
このように道三と深い縁があったので、道三の娘を正室にした信長は、妙覚寺を宿所に使ったのです。
妙覚寺には本能寺の変のときは信忠が居ましたね。
269 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/08(金) 15:52:30
>>259 谷左衛門尉様、ネタ出しお疲れ様です。
これからご活躍を祈念致しまする。
>>267 卯川大宰大弐殿、御昇任おめでとうございます。
更に架け橋、架け橋
ありがたきん 幸せにごわんす
鎮西と貿易任してん おくんなまんし
>>269 佐竹さん ありがとん
>卯川殿
昇任おめでとう。
懸け橋としての更なるご活躍を。。
既出だったらスマソ
信長のネーミングセンス
信長は家臣にあだ名をよく付けていた。
秀吉には「サル」、光秀には「きんかん頭」など。
だがその変なネーミングは子供たちにも及んだ。
長男の信忠の幼名は「奇妙」続いて信雄は「茶筅」、信孝は「三七」
秀勝は「次」、勝長は「坊」、信秀は「大洞」、信高は「小洞」、信吉は「酌」
信貞は「人」、信好は「長好」、長次は「縁」。
どんな経緯で付けられたかは不明だが奇妙なものだ。
273 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 17:07:17
PART1からROMってて我慢ならないから一言、既出ネタばっかりだぞ
274 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 17:54:36
まあ、三七とか長好はマトモだな。
ばあ卯川だよん
大蔵氏の話
藤原純友を博多で破ったのは 陸路のん山陽道を進んだ小野好古だねん
そりともう一人忘れてなんねのが 海路を進んだん大蔵春実 二人の活躍でん乱は収束に向かうねん
この大蔵春実の先祖がなんと 後漢の霊帝といられているよん カリの子孫が半島を経由して日本に来たん
初め東漢と臣を賜てん 織部やん諸国の貢物管理する仕事しててん 大蔵を賜ったなりん
同族に坂上田村麻呂がおるねん
天慶の乱の後にん 大蔵春実は土着するよん
そんして彼の孫の春材はん 今度はん藤原隆家に従ってん 刀伊の入寇で大活躍するなり
大蔵氏は国を護った名族なりん 霊帝の子孫てんのが なおうれしいなりん
ちなみん大蔵氏の流れを汲む一族にん 原田氏やん 秋月氏がおるねん
>>271 榊原さんありがとん お互いん 元気ハツラツ オロナミンCだよん
>>272 京極さん オリは於次秀勝しか 知りもうさなんだ
277 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 20:39:29
>>273 ならばおまいが既出じゃないのを出してみろよ
>そんして彼の孫の春材はん 今度はん藤原隆家に従ってん 刀伊の入寇で大活躍するなり
種材ではなくて、春材ですか。『朝野群載』、『小右記』、『大鏡』のどれにもその名が
挙げられていますね。戦闘ではなく、意見具申が認められた様です。
前少監大蔵朝臣種材
賊徒逃却之日、依有兵船遅出之告、以少弐兼筑前守源朝臣道済、遣博多津、
且令解纜、且問遣其案内之処、奉使者等各申云、賊船数多、猶造兵船、一
度可罷向者、其中種材独申云、種材齢過七旬、身為功臣之後、待造了兵船
之間、恐賊徒早逃、棄命忘身、一人先欲追向者、道済以種材所言而為善、
恣出衆軍了者、依賊船之早去、誠雖無遂戦、種材之所言、忠節不浅、
以上、『小右記』より。種材の子孫である種直は、後に平家の方人に。
山野さん、こんばんわです。
>279
今晩は。・・・と、お互いさまですが、夜行は危ないですから、お奨め出来ませんよ。
百鬼夜行もそうですが(夜行日を避ければ済む)、何時検非違使に難癖をつけられる
か、分かったものではありませんからね。
『落窪物語』では男主人公が追究の対象となっており、『今昔物語集』では放免につ
かまった男が、内野の死体を河原まで棄てに行かされていますから。
そうそう、盗人も・・・いや、これらは時代設定が平安時代の場合ですが。
っていうか、官位くれよ
282 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/10(日) 14:47:03
>>280 山野様 お初にお目にかかります。私は佐竹と申します。よろしくお願い申し上げます。
又、当スレを訪れて頂きましてありがとうございます。
ご興味のあるネタなど出ました時には、ご発言頂ければと存じます。
又、
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=NETA_MATOME 内の世田谷城評定所では、最近になりまして歴史談義の間を造成致しました。
内容的には未だ充実はしておりませんが、ご興味あることがございましたら、そちらにもお顔をお出し下さいませ。
>>282 零須(レス)一本送給候、祝着之至候、被懸御意候条、恐悦候、恐々謹言。
四月十日 野衾(花押)
佐竹右京大夫殿
>>278 山野さん間違えたん 種材だんよねん ごめんなさいん
そういえば、小野好古は、二度大宰大弐に就任しておりましたね。
お間違えについては、「ユキの中に魚」と考えておきます。
(人名の「衡」という字を忘れ、人に尋ねたところ「行(ゆき)の中に魚」
と言われ、「雪」の中に魚を入れようとしたがうまく行かず、結局ぬりつ
ぶしてごまかした話の事)。
286 :
正五位上畠山右中弁行勘解由次官平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/10(日) 19:33:55
>>山野殿
お初にお目にかかりまする。
某、院庁院預を勤めております、畠山平重忠と申しまする。
以後、お見知り置きくださりませ。
罷出たる者は、藤原利仁のゆかりの者にて候、久しく世界史板に住申て候が、
何とやらん日本史板ゆかしうなりて候程に、参って候。
以後、お見知りおきの程を。
288 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 01:11:29
>>277 うだうだ言わないでお前こそ、ネタだせ!
289 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/11(月) 08:12:35
>>283 みわたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける 素性法師
>289
こきまぜて 花やそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かげ
291 :
畠山右中弁正五位上平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/11(月) 12:53:00
>>山野殿
御見事なる御口上、某、感服仕りました。
是非とも、院庁に御越し頂きたく存じます。御所内に御座れば、何時いかなる時にも
御越しくだされよ。
本日のネタです。
《皇太子になれなかった聖武天皇皇子・安積親王》
安積親王の母は藤原不比等の正室となった県犬養橘三千代の縁者の県犬養広刀自である。広刀自と
三千代の娘・安宿媛(後の光明子)は霊亀2年(716)に首皇太子の後宮に入った。そして広刀
自は安宿媛に先んじて井上女王を生んでいる。神亀元年(724)2月に元正天皇の譲りを受け、
首皇太子が聖武天皇として皇位につくと広刀自は夫人となり、所生の井上女王・不破女王は内親王
の位を与えられた。しかし既に僅か5歳で斎内親王として卜定が決まっていた井上内親王は安積親
王が生まれる前年に伊勢に下向しており、これ以降も姉弟は会う事はなかった。光明皇后が生んだ
基王は幼年のまま神亀5年(728)に亡くなり、その後聖武天皇に皇子の誕生がなかったことか
ら在世する唯一の男皇子としての立場は微妙であった。
天平10年(738)、異母姉であり藤原氏の血をひく阿倍内親王が史上初の女性皇太子に立つと、
ますます安積親王は微妙な存在となった。安積親王の周りには知らずと新興貴族である藤原氏に対
抗する古くからの貴族たちが集まり始めていた。大伴・佐伯・多治比などの面々と、藤原氏とは近
い縁戚でありながらも今は政治の舞台から追いやられようとされて危惧感を募らせていた橘氏らで
ある。天平12年(740)九州で藤原広嗣が失政と僧・玄ムと下道真備を糾弾する内容の上奏文
を提出し挙兵すると天皇軍はこれを平定。しかしその一方で聖武天皇は天平17年(745)5月
に至る5年ほどの間、平城京を出て宮を作り、それを捨ててはまた別の地へと彷徨う事になる。こ
の時期、安積親王は藤原一族の中でも北家の八束(後の真楯)や市原王、大伴家持らとの交流があ
った事が分かっており、八束の家で宴をした事や活道岡の松下で宴飲した事が家持の歌から垣間見
る事が出来る。
292 :
畠山右中弁正五位上平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/11(月) 12:53:54
続き
聖武天皇が難波宮に行幸を決めた天平16年(744)の閏1月11日。この日、行幸に従ってい
た安積親王は俄かに起った脚病の為に桜井頓宮から恭仁宮へ戻った。そして同13日に17歳とい
う若さで急死する。これは藤原仲麻呂と、宮中の雑事及び後宮に多大な影響をもっていたその正室・
宇比良古(袁比良女)による毒殺であったとも言われる。安積親王の死により、井上内親王はその
役を解かれ、春頃に帰京したようである。
佐竹本三十六歌仙絵巻のお話
秋田佐竹家が所有していた、三十六歌仙絵巻全二巻は佐竹本と呼ばれていました。
絵は似絵の名手藤原信実、書は藤原良経の筆であると言われ、
当初は下鴨神社の神庫に納められていましてが、後佐竹家の手に移ります。
この三十六歌仙絵巻は、大正になり流転の運命にさらされます。
佐竹家も他家と同様に維新後は衰退、窮乏を余儀なくされ、ついに家宝ともいえる
三十六歌仙絵巻を売らなければならなくなりました。
幸いなことに、海運業を営んでいた山本唯三が、当時の価格で35万円余り(現在の約40億円)で購入し、
落ち着き場所が見つかったかと思われました。
ところが第一次大戦後の不況で、山本が経営する海運会社も経営危機を迎え、2年余りで売却の憂き目。
しかしながら、不況の真っ只中で大枚を叩いて全二巻の絵巻物を買い取るものはなく、
三井物産の益田孝らの提案により、絵巻物は37枚(三十六歌仙+住吉明神)に切断のされます。
くじ引きが行われ、最高額は小大君の2万5千円、総額37万円余で37枚は売却されました。
その後多くの人の手を経て、今では美術館にあるのが12枚、残りが個人、企業と言われています。
昨年故地秋田で開かれた展示会には、人麻呂、遍照の2枚が展示されたそうですが、
1枚1億円を下らない絵が、37枚一同に揃う機会はまずありえないでしょう。
>>291 勿体無いお言葉ですが、「世をうぢ山」とまでは行かないにせよ、「草の庵」
にいる事が多いものですから。いずれ、その内に。
>293
絵画の裁断は、お茶の世界では16世紀末には早くも行われており、古田織部
に至っては、名物に自分好みの改造を施した結果、よくない目を見たと言われ
たという逸話がありますね。まあ、近代にもなって非常識な話ですが。
295 :
正五位上畠山右中弁行勘解由次官平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/11(月) 16:40:28
>>山野殿
身は草庵に有りと雖も、その徳は九重に至ることもあろうかと。
心置きなく参られよ。
>>295 茶人というのはどうも……
益田鈍翁の招きに応じた財界人兼茶人 岩原謙三、原富太郎、馬越恭平ら
三十六歌仙を持つことは一級の茶人としてのおりがみがつくこと……
彼らには文化財という観念はなく、一種のステータスだったんでしょうか。
>295
お心はかたじけないのですが、しばらくは八重の下に埋れている事にしましょう(笑)。
>296
しかし、後世から見れば、迷惑な事です。
299 :
正五位上畠山右中弁行勘解由次官平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/12(火) 13:09:48
《羽黒修験の開祖・能除太子》
能除太子の父は崇峻天皇(32代)です。崇峻天皇は、聖徳太子の母(穴穂部間人皇女 あなほべのはしひとのおうじょ)
の同母弟です。よって、聖徳太子と能除太子はいとこ同士、ということになります。崇峻天皇には大伴小手子(おおとも
のおてこ)との間に皇子と皇女が一人ずついて、蜂子皇子(はちこのおうじ)、錦代皇女(にしきてのおうじょ)といい
ました。この蜂子皇子が能除太子だといわれます。
この崇峻天皇、かなり珍しい天皇です。なぜかというと、臣下に暗殺されたからです。当時最大の実力者、蘇我馬子(そ
がのうまこ)と対立を深めていた天皇が、ある日献上された見事な猪を前にして、「だれぞの首もこの猪のようにいつか
斬ってやるぞ」と言い放ちました。そのことをなぜか妃の小手子が馬子に告げ口をします。馬子は、そのだれぞとは自分
だと、身の危険を感じ、弑逆(しいぎゃく 主君を殺すこと)を決意したとされています。そして、配下の東漢直駒(や
まとのあやのあたいこま)に命じて、天皇を暗殺し、当時としては異例なことに、その日のうちに埋葬を済ませてしまい
ます。これは崇峻を天皇として認めない、という馬子のパフォーマンスでしょう。
300 :
正五位上畠山右中弁行勘解由次官平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/12(火) 13:10:39
>>299の続き
失脚した天皇の子のその後はさまざまです。順調にいけば皇位につく可能性があったわけですが、それだけに周囲から警
戒されます。特に、蜂子皇子の場合は父帝が暗殺されていますので、本人も殺されかねません。ここで登場するのが聖徳
太子で、彼は蜂子皇子を匿い、飛鳥の外へと逃がします。そしてその際、皇子に仏門の修行を勧めるのです。
仏門に入った皇子は「弘海」と名乗り、諸国を旅します。東北地方、現在の山形県のあたりまで来たとき、皇子の前に三
本足の大ガラスが現れます。このカラスに導かれてどんどん山に入っていくと、そこで彼は観世音菩薩を発見します。そ
こを修行の地と定めた彼は、カラスにちなんでその山を「羽黒山」と名づけ、羽黒派修験道の開祖、つまり東北の山伏た
ちの開祖となりました。厳しい修行により、とてつもない霊力を持つに至り、西の役行者(えんのぎょうじゃ)と並び称
されるほどになった皇子は、能(よ)く人の苦を除く、ということで能除太子とあがめられるようになりました。その後、
信仰を集めつつ羽黒の地で没します。羽黒山には能除太子こと蜂子皇子の墳墓があり、現在では宮内庁が管理しています。
今より官位詮議を行います。各大臣の皆様方は御所へ御参内くださいますよう。
>妃の小手子
これで思い出したので、『古事談』から一つ引いておきましょう。
称徳天皇、道鏡之陰猶不足被思食、以薯蕷作陰形、令用之給間、折籠云々。
仍腫塞及大事之時、小手尼(百済国医師。其手如嬰児手)奉見云。
帝疾可愈。手塗油欲取之。爰右中弁百川、霊狐也云、抜剣切尼肩云々。
仍無療帝崩。(後略)
同説話集の最初を飾る話で、尼の名前や霊狐云々こそありませんが、『水鏡』
にも類話が収められています。もとより、史実としては考慮するに値しま
せんが、こうした話が平気で記される様になった事から、皇族の人間視と
いう視点を知る事が出来るでしょう。
狐の怪異は『日本霊異記』に見えるのが古い例。
『源氏物語』や『今昔物語集』にも、人をたぶらかした話があります。
『狐媚記』や『洛陽田楽記』を「霊狐」の仕業とした大江匡房は、狐や神仙の世
界に特別な思い入れがあったものらしい。
やがて、『土右記』や『長秋記』などの日記にも狐の怪異に関する記事が出て
来る様になりますが、これまた世俗への関心が高まったという、時代の変
化によるものでしょうね。貴族社会の外にも目が向けられたと。
なお、「こん」と鳴き声を表現する事は、『沙石集』が初見の様です。
『大鏡』には犬の鳴き声が「びゅう」と記してありましたが、鎌倉時代後
期に描かれた『春日権現験記絵』の犬も、同じ鳴き声であった筈です。
>>302 山野殿、お初におめにかかる。左大臣にござる。どうぞよしなに…。
かの戦国の猛将 鬼武蔵こと森武蔵守長可はいわずとしれた八幡太郎義家公の
18代の後胤。父は武勇智謀に長けた、攻めの三左こと森三左衛門可成、弟は天才的美童
森蘭丸。
浅井朝倉が比叡山の協力を得て宇佐山に襲来し、父可成は信長実弟の織田九郎信治とともに宇佐山城で討ち死にすると
家督を継いだ。気性の荒い武士であったらしく、信長の置いた関所にて下馬を命ぜられたが、関守の態度が気に食わず、
三度も関所破りを敢行。その度ごと信長は笑って許したが、三度目の折は昔、義経の家臣に勇猛な武蔵坊弁慶がいた。
その方も弁慶にあやかれと通称を勝蔵から武蔵と改めた。以降、武勇で鳴った長可は鬼武蔵として世に知られる様になる。
ちなみに信長が比叡山焼き討ちを敢行したのは、長可の父森三左衛門が浅井朝倉の攻撃にて討ち死にしたのは、比叡山が信長に
敵対的態度を決めたことがきっかけとなったと思ったことが原因という説がある。「三左は使える」と思っていた矢先だけにその
怒りは大きかったことは確かな様である。まして、その子には勇猛でなる長可、信長に出来物といわせしめた蘭丸ら聡明なる兄弟が
いてお気に入りの一党であっただけに、損失感が大きかったのかもしれぬな。
そういえば、森家の家祖である陸奥六郎義隆〔八幡太郎義家の六男〕は平治の乱で敗れた折、甥 為義の嫡子にして源氏の総大将たる下野守源義朝ら源氏の
残党と東国に落ち延びようとしていた矢先、延暦寺の僧兵に襲われ、義朝をかばって討ち死にした。
さても、森家と延暦寺の因縁は中々深いものがある。
同じ織田家の家臣には、森家同様に陸奥六郎義隆を祖とする毛利広盛もいるが、延暦寺に対する祖先の恨みは見事晴らしたのだろうか。。
さても、武士の因縁とは深いものだ。
304 :
無官太夫敦盛:2005/04/14(木) 00:28:09
平治の乱で源義朝は家人の長田忠致に殺されてしまい、平治の乱は終結した。
長田忠致は逃れる源氏をみて、ここで義朝の首を平家に差し出せば褒賞を貰えると思い、
義朝の首を手土産に六波羅に駆けつけた。
しかし何の恩賞ももらえないので不平を言うと「人非人」と罵られた。
裏切りは味方からも敵からも嫌われるのである。
やがて頼朝が挙兵し忠致が捕らえられると頼朝は寛大にも、
「平家討伐に粉骨砕身して活躍すれば恩賞として美濃・尾張をやろう」
といったので忠致は感激し必死になって戦った。
平氏滅亡後、「約束どおり、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」
といって、長田忠致を磔にかけて殺した。
>>303 左大臣殿、よしなに。
比叡山焼き討ちについてですが、最近の発掘調査からは全山が焼失した事は
確認出来ず、文献史料との兼ね合いから、坂本周辺に中心が移っていたので
はないかともいいますね。
なお、織田右大臣信長は、焼き討ちに後悔するところがあった様です。
吉田に対して、「南都北嶺が滅びると、都も滅びるというのは本当か」と質問
して来たと、『兼見卿記』にあります。
確かな文献には見えない説だと返答したところ、安心して敵と戦う為に京の
一部に火を放ったとか。焼いたらそのまま滅びるのではないかと、内心懼れ
るところがあったのでしょう。
>304
『平治物語』の磔から派生した話でしょうね。
山野殿、始めまして。鎌倉と申します。
以後よしなに。御才識のあるお方だと伺っておりましたが、まことに某など足元に及ばぬネタの数々。
勉強させていただいております。
あと、当スレは官位スレなので任官されるご要望などございましたら御所のほうまでお越しいただけたらと思います。
生存中に正一位に叙された人っている?
>>306 よしなに。官位の方はお気になさらぬ様(コテハンにつけるのが面倒臭いと
いう困り者でして(笑))。
>>307 橘諸兄がそうでしたね。
山野殿、お返事有難うござる。
信長が神仏を恐れないというのは、あくまで信仰心の有無とは別に
ただ宗教権威を持ち出し、実態は宗教者とは言い難い叡山の体質を
憎んだという。
信長は宗教者を否定するものではなく、かくあるべしという理想像
があったのだろうと思う。覇道をきわめる意味でも叡山攻めはただの
暴挙ではないでしょうな。
ただ、恐れたというのはさすがの信長も人の子であったということか。
信長には尊王の姿勢を感じることもある。権威を嫌い、恐れなかった
というが、大義名分を重んじる人であったと思う。
名分とはいえ、主家たる清洲織田家は主君 斯波氏への謀反人として
討ったし、守護の斯波義銀を京都に追放したのも、信長への異心が発覚
したから。足利義昭の追放も、将軍殺しをするまでもないし、したとこ
ろで後世の汚名となるだろうと思ったのではなかろうかと考えてしまう。
確かに、権威に対して厳しいところはあるが。。
生前正一位は秀吉だな。官位ではなく神位を含めれば諏訪氏の大祝を務めた
者は代々、正一位。諏訪大社の神事を司る大祝は、自らの体を御神体として神
に供するからである。
諏訪大社は神位が正一位だから、神体を供する時点で正一位ということになるらしい。
太田亮の姓氏大辞典にもあった。
>>309 ええ、「無神論者」としたフロイスの信長評がありますが、あれが無かった場
合を考えると、無神論者でも不敬な人間でもありません。
小瀬甫安の『信長公記』に鬼神を信仰して滅んだとあるのはさておき、『信長
公記』では、八幡ほかに対する信仰を見せている。
朝倉孝景宛て書状では、先方が諸々の神祇に誓っているのに対し、「八幡御照覧」
とのみあってそっけないですが、逆に言えば八幡を意識していたのでしょう。
どうも、分かり易すぎる人物評が流布し過ぎたきらいがあります。
桶狭間の折は「熱田神宮」に詣でておりますしな。
まぁ、どうあれ、今は信長公も神!!建勲神社に詣でた折は感慨深かったですな。
昨日のNHK「その時…」武田勝頼と信長の謀略は面白かったです。。。
>熱田神宮
信長塀は有名ですね。
>建勲神社
『信長公記』が所蔵されていますね。
京都に住んでいる癖に、一度も詣でた事の無い不心得ものです。
今日も前を横切る事はあったのですが、なかなか。
>昨日のNHK「その時…」
番組自体は、『義経記』も『甲陽軍鑑』も区別しない、玉石混交の電波番組
ですが。「武田家の記録『甲陽軍鑑』」とナレーションで言っていました。
織田が越後を譲ると言ったという話で出ていた史料も、文体からして近世
に刊行された軍記物か何かでは。
中務省
本正五位上平重忠今授正四位下
平成十五年四月十五日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十五年四月十五日 宣旨
正四位下平重忠朝臣
宜任右衛門佐補蔵人頭
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
これからも朝家の為、忠義を重んじ励んでください。
315 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/15(金) 09:47:34
ははぁ。重責、謹んでお受け致しまする。
316 :
正五位上畠山右中弁行勘解由次官平重忠 ◆OtHPw98ikE :2005/04/15(金) 13:02:56
叙任お礼の小ネタ
《頼仁親王の子孫・児島高徳》
奈良時代、役小角(えんのおずぬ)が修験道を開きますが、民衆を惑わすということで伊豆に流されます。この時に、弟子たちが紀州熊野権現の新体をこの地に奉斉したのが
児島五流(尊龍院、太法院、建徳院、報徳院、伝報院)、児島修験の起源となったそうです。承久年中、後鳥羽天皇の皇子覚仁法親王は新熊野検校に任じられ、この尊龍院に
住んでいました。承久の乱がおこり、兄頼仁親王が尊龍院に流されて、この地で死去します(宝治元年歿、墓地は木見にあります)。頼仁親王の子道乗僧正は子がなかった叔
父覚仁法親王の跡を継いで、尊龍院大僧正になります。その子澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範はそれぞれ、児島五流を継いで、その子孫は代々宮家姓を名乗ったそうで
す。現在は、そのうち尊龍院だけが頼仁親王の血脈を受け継いでいると云います。
頼宴大僧正(頼仁親王の孫)の三男高徳は外祖父三宅範長の嗣となりました。尊龍院には児島高徳誕生之地という碑が建てられています。その左に頼仁親王歌碑があり、「こ
の里にわれ幾年か過してむ乳木の煙朝夕にして」高徳は南朝に味方して活躍し、「太平記」の作者としても知られています。
317 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/15(金) 13:04:00
名前、間違えちゃったよ…orz
>頭弁殿
昇任おめでとうございます。。
>山野殿
御初にお目にかかります、榊原です。。
貴殿のネタ振りによるスレの盛り上がり、誠に有り難きことと存じます。。
というわけで小ネタ。。
剣聖、塚原卜伝ネタ(既出かな?)です。。
あるとき彼の門人の一人が馬の後ろを通過しようとし、あやうく蹴り殺されそうになった。
突然馬が跳ねたんですね。
でもきわどいところで敏捷に身をかわした門人を皆が賞賛したが、卜伝だけは感心する
様子を見せないんです。
他日、門人たちは卜伝が普段通る道にわざと馬をつないでその行動を観察した。
しかし卜伝は遠く回り道をして馬の後ろを避けて通ったと言われています。
卜伝に言わせれば、跳ねる習性のある馬の後ろを通るのは心得が無いからと
いうわけで、身をかわせたのは運が良かったに過ぎないんですね。。
野球に例えると、目立つプレーをしながらもエラーをするのではなく(松○稼○夫)、
地味ではあるがエラーをしない(○端、宮○)ような人ですね>卜伝
>>316 小島法師=児島法師説、彼が作者であるという事は確定していなかったと思
いますが、何か新しい発見でもありましたか。
役小角については、『日本霊異記』にある話と、『続日本紀』巻一に、
役の小角君を伊豆の島に流す。初め小角葛木山に住みて、咒術を以ちて称へらる。
外の従五位の下韓国の連廣足、これを師とす。後其の能を害ひ、讒すに妖惑を以
ちてす。故遠處に配されぬ。世相傳へて曰はく、小角能く鬼神を役使ひて、水を
汲み薪を採らしむ。若命を用ゐずば、即ち咒を以ちて之を縛む、と。(原漢文)
とあるのが古い話で、後は能徐太子といい、修験道の開祖とされた話といい、歴
史的事実ではなく、皆後世につくられたものです。
『三宝絵』・『本朝神仙傳』・『俊頼髄能』辺りから知られ始めたらしい。
>319
よしなに。お話は、『常山紀談』などにあるものですね。近世の創作の様ですが、
当時の剣豪観・達人観を窺い知る事が出来、面白い。
塚原卜伝と宮本武蔵が打ち合ったという話も、世代からして創作ですが、当時
のヒーロー対決が望まれたのでしょう。
>歴史的事実ではなく、
こんな事、今更皆さんにお伝えするまでも無かったか・・・。
>山野殿
ええ、確かに卜伝に関しては事実かどうか疑わしいものが多いです。。
他にも卜伝の計略による勝利に関する逸話も怪しいですね。。
しかし卜伝はただ斬るだけでなく計略も用いているから不敗なんでしょう。。
>ヒーロー対決
塚原卜伝vs上泉信綱(ハアハア
>>322 昔白土三平の『忍者武芸帳』で両者が出て来た(場面は別)時には、勝負して
欲しいと思ったものです。正宗VS村正伝説もありますね。
古い例を尋ねると、彼女らの生きた時代からおよそ百年後には和泉式部V
S赤染衛門の和歌は「どっちが優れていたか」が囁かれていました。
当時2ちゃんねるがあったら、信者が煽りまくりでしょう(w
『紫式部日記』でも、両者が清少納言と共に比較されていましたからね。
>山野殿
とは言っても、下手にどちらが強いか白黒付けるのはあまり好ましくないかも。。
325 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/15(金) 22:00:56
>>山野殿
蜂子皇子については、実在の可能性が高いのでは?
児島法師=児島高徳は、某の勘違いかもしれませぬ。あと、児島の五流尊瀧院は、役小角以来の熊野修験の総本山みたいですな。
>>324 ええ、勿論です。実際に戦った訳ではありませんし、それも状況によります。
歌に至っては、これはもう各自の感性の問題でしょう。
>>325 『日本書紀』にも出て来られますからね。
この場合の「歴史的事実」とは、修験関連の説話の事です。
児島修験は、色々面白いですね。『宗像教授伝奇考』という漫画に出て来た
修験の名前が児島だったのは、狙ったものでしょう。
卯川でござんす
大江匡房と源氏のお話だよん
大江匡房と言えばん 後三条天皇の親政 白河院政で活躍したんで有名だよねん
そりと兵法に通じていたとも言われてるねん
前九年の役の後にん 源義家に対してん 未だ兵法を知らず と評してん
義家はこの後はん 匡房を師と仰いでん 兵法を学んだと伝えられるよん
後三年の役でん 義家がん雁の乱れから伏兵を見破ったんは 孫子の行軍篇にある教えだよん
ついでにいうとん大江家には闘戦経という兵法書が伝わってるねん
作者は大江維時だとかん 大江匡房だとかん言われてて よくわかんないけんどねん
ところでん 義家に兵法を教えたとされるん 匡房やけど 後にもん源氏とかかわるねん
匡房は永長二年(1097年) 大宰権帥に任じられてん 赴任するんやけどん
康和三年(1101年)にん 対馬守だった源義親の乱行を朝廷に訴えてるねん
こりが後のん 源義親の乱にん通じるんよねん
義家 義親 匡房の因縁やね
大江匡房と源義家の話は、南北朝時代に成立した『奥州後三年記』にあるものですね。
『闘戦経』は読んでみましたが、なんというか匡房色が感じられませんでした。
中世に突入したばかりの当時、寺社の強訴が相次ぐ中、義家の様な人物の出番
は多くなっていましたが、そのとばっちりを国司らがくらう事も、多くなって
いました。
匡房を例外として、その頃の大宰権師は、大抵何か酷い目を見ています。
試みに、白河〜鳥羽天皇の時代のものを上げてみましょう。
1、藤原資仲→任期中に辞任して出家。
2、藤原実政→正八幡宮に訴えられて解任され、伊豆に配流され、その地で死去。
3、藤原伊房→同じく従二位に落とされ、中納言を停められる。
4、藤原長房→任期中に帰京。 5、藤原経信→任期中に任地で死去。
6、大江匡房→何もなし。 7、藤原保実→病により、在京のまま死去。
8、藤原季仲→延暦寺の訴えにより周防へ、次いで常陸に流されて死去。
9、大江匡房(二回目)→辞令が出たにも関らず、理由をつけて赴任せず。
10、藤原顕季→赴任せず。 11、源基綱→任地で死去。
12、源重資→任期中に帰京し、辞任。 12、藤原俊忠→赴任せず。
13、藤原長実(二回目も)→赴任せず。 14、藤原経忠→赴任せず。
匡房も、二回目はこりごりだった様です。もっとも、彼自身も次に任じられて
いた藤原季仲を配流させる様に主張していますが。
これは、彼が八幡を強く信仰していた事によるらしい。
季仲は、八幡の叔母の宮の帰属問題で配流される事になっていましたから。
季仲は、『平家物語』巻一で、「黒師」と綽名されていた人物。
『古事談』所収の永長の大田楽に関する記述は、彼の日記の逸文らしい。
>>328 山野さん 大宰権帥についてん 詳しく教えて頂きん 謝謝
うまみもあったとは思いますがん 何か呪われてるんかなん
嗚呼 菅公
>大宰権帥
重要かつ責任が問われるポストであったからこそ、闘争の増加した院政期に
は、危険も大きくなっていた訳です。匡房は、その点有能でした。
摂関期には海外の物産が手に入る旨みのあるポストで、これに就任して一気
に裕福になったという話が、『栄花物語』にあります。
『宇津保物語』や、『浜松中納言物語』からも、窺える事でしょう。
『竹取物語』には火ねずみの皮衣が出て来ますが、毛皮は10世紀初期に渤
海が滅亡するまでは、あの地域からの輸入品でした。主にクロテン。
『源氏物語』で末摘花が着用していたのがそうです。評価は「古臭い」。
渤海滅亡から一世紀を経過していましたから、無理もありません。
また、藤原隆家は、大陸から来た眼科医を求めて希望・赴任しています。
一方、伝統的な左遷職でもありましたが。
既出だったらスミマセン
命懸けの浮気
鎌倉時代からの武家社会において妻に密通された夫は、妻への制裁及び
密通相手の男にも制裁(殺害)するのが通念だった。
ただ「御成敗式目」には密通現場以外での殺害は許されてない。
1479年に梅酒屋の小原と言う者が妻と密会した男を殺害した。
単なる殺人事件として復讐に立ち上がった密通相手の男性とそれを迎え討つ
夫側で一触即発となったが幕府は夫の妻敵討ちを認める事によって事態の収拾を
図った。これ以降と言うものの現行犯でなくとも妻と密会した男性に報復する
事が認められ姦通は武家社会では禁忌となった。
妻が姦通するのは夫に魅力が無いか妻の欲求不満を解消出来ないからではないのか?
とマジレスしてみる。
姦通相手は、僧侶が多かったですね。説話集や『日本紀略』に例が見えます。
『沙石集』は、当時の法を知るための好史料。
慰謝料を取り立てて、妻と共に放逐した(大事にせず、きれいに済ませたと
称賛された)という話もあります。
>ただ「御成敗式目」には密通現場以外での殺害は許されてない。
自宅がアジールであり、家主に無断で侵入した人間を殺害出来たという面も。
>>332 やっぱり男の方が偉いから非は妻にあるって事なんでしょうな。
江戸時代にも僧侶が女性を部屋に招いて交わっていたとの記録があったような・・・
家父長制が確立されたのは、鎌倉時代後期からです。
女性の場合、どうしても屋内にいて招き寄せる事が多いので、奥にも自然に
入れる僧侶が間男になる事が多かった。
その代わり、家政(家事に限定されない、生産その他の機能)をとりしきって
います。ただ世話をするだけの主婦とは、また違う。
平安時代以降の女性の公的な地位が弱かったのは確かですが、単純に昔は男
が偉かった、といった言い方は出来ません。
鎌倉時代末期には、『袋法師詞書』というポルノが成立しています。
『陸奥話記』・『曾我物語』などにも、僧侶はどこにでも出入り出来る存在とい
った発想が見られます。勝手に推参した仏御前の様なもの。
もっとも、白拍子らの勝手推参は、鎌倉時代に規制されて行きますが。
・・・とまあ、連続でうるさい事ですが。
つまらないネタですが
織田信長の重臣の佐久間信盛は陣中で茶ばかりやっていると追放されたが、罪状は職務怠慢だけではなかった。
信盛は三方ヶ原の戦いにも救援として参陣していた。
その際に平手(さんずいに凡)秀が討ち死にしているが、それを見捨てた罪も含まれているらしい。
自分を諌めるために切腹した政秀の息子だけに、そのような処置をするのも何処か納得できますね。。
337 :
読瓜瓦板 ◆346ldcNLQ. :2005/04/17(日) 17:16:39
[政治]
スレ首脳部機能せず スレ衰退の道を辿る
あと、二ヵ月と少しで創設一周年を迎える官位スレだが、最近は人がいない。
御所の動きは全くといっていいほどなくなり大臣も左大臣を除いては音沙汰がない。
以前までスレの中で一定の支持を保っていた関白もめっきり来なくなってしまった。
一部情報筋によると関白は四月いっぱいでスレから距離を置くことを決めたとのこと。
今後のスレの流れは予想できないが大多数のコテハンはスレに見切りを付けたと見るものもいる。
しかし、官位スレは今まで様々な知識を見ている人に提供してきたことは事実であり、今後も知識を求める人々から官位スレが望まれるというのが一番よい形ではないかと思われる。
いずれにせよ、コテハン方々はスレに活気を取り戻すことが急務であろう。
>>337 やけに詳しいですねぇ(・∀・)ニヤニヤ
読瓜瓦板はトリップが公開されてるから分担制で書いてるんだもん。
某所の雑談場所で話し合われたことも書いたり。今回は某の分担でし。
でも、関白が四月で辞めるといったのは事実だよ。
あ、そうだったんですか・・・
小ネタを…。
平治の乱における源氏の総大将 源義朝が平家方に敗れ東国に落ち延びる途中、
鎌田兵衛政清の舅であり同じく源氏の家人であった尾張の住人 長田忠致の屋敷に
かくまわれることとなった。
長田忠致親子は自らも血筋は平氏と仰ぐとは言いながら、源氏重代の家人であり、
その大恩は海より深いにも関わらず変心を起こし、主君義朝と実の婿 兵衛政清
を討ってしまう。湯殿でのことで、義朝は木刀の一振りさえあればと自らの武運
に悔恨を覚えたといい、その悲話は嫡男 頼朝の胸に深く刻み込まれた。
後に頼朝が平家追討の兵を挙げると、長田は恥じらいもなく源氏方につこうとして
その幕下に入ったという。頼朝は武門の棟梁たる主君を殺した重罪人にも関わらず、
働き次第では美濃尾張をやると伝えたといい、長田親子は懸命に奮闘したという。
殊勲を挙げて源氏軍として凱旋した長田親子に対して、頼朝は「約束通り、美濃尾張(身の終わり)
を進ぜる」として親子を殺害したという。
343 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/17(日) 22:43:54
>>左大臣様
確か、そのネタは既出だったような気が致しまするが…。
344 :
永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :2005/04/17(日) 22:53:42
人が少ないなら、まろが引き継いであげても
良いでおじゃるよ。
まろは優しいでの
春厨か。春は好きだが、変な奴が出てくる季節でもあるな。
いかん。ネタ採取していくと、どこで得たものか混乱してしまった。
無官大夫殿には申し訳なかったの。でもまぁ、幕府評定所で申し上げているが
新ネタばかりではなく、かつて官位スレで出されてきたネタを掘り返し、回顧して
みるのもいいんでないかということを話し合ってみた。
ネタだけぽんぽん出しても、結局話題として消化されずに流させることも多い。
今一度、既出ネタを交えて官位スレを盛り上げていくのがいいと思う。
348 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/17(日) 23:39:50
>>宰相中将殿
幕府評定所でのネタでござりましたか…。
>>左大臣様
御意の如くに。
2度目の返り忠は認められないのは、この話からでござりましたか?
二度目の返り忠が認められないというのは、古く贈従二位源頼信公に至るだろう。
下手をすれば、それ以前。源氏の家人は武力で下して配下となった者も多い。
それは、源氏が東国で勢力を扶植する上で旧敵や謀反人を吸収したことで一定の力
をつけたことだ。
頼信の嫡男 源頼義も平永衡を討ったし、藤原経清も撫で斬りにした。
>>342 その話をこのスレ以外で聞いたことがあるんですけど、どこだったか忘れててしまいましたです。。
あと
>>344には誰が何て書いたんですか?
そこだけ見えないんですけど。。
351 :
( ^ω^)(^ω^ ):2005/04/18(月) 03:49:40
352 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/18(月) 04:17:24
>>宰相中将殿
宰相中将殿もですか。某も、何やら物音が聞こえたような気がしたのではありますが…。
まあ、放っておけばよろしいかと。
353 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/19(火) 15:57:44
ネタ投下です。
《斬捨て御免→斬捨て厳禁》
水戸家支藩守山藩の参勤交代に関する通達は、時代により変遷しています。
江戸初期には「共割れ」(大名行列に横合いから割込みがあって列が切れる事)があったら、
割込んできた相手が武士(例えば他の大名行列)であろうと町人であろうと、
また、どちらに原因があろうとかまわず斬り捨てよ、と命じていましたが、
17世紀中頃には、よく話し合って、こちらが悪い場合や、しかるべき理由がある場合
(どうしても大事な用事があった、など)はそのまま行かせよ、となり、
18世紀初頭には、ついに、何があっても気にするな、たとえ列が三つ四つに切れてもかまわないから相手を通し、
相手が怒ってきたら、身分にも、どっちが悪いかにも関係なく、あやまってしまえ、
さらには、たとえ殴られても蹴られても我慢するのが立派な奉公である、となります。
つまり、「常に武士道の鑑であらねばならぬ」という建前と、
「実際、そんな立派な生き方(特に実力)が出来るやつがいるか?」
という本音の境目で、現実化してきたのが、
(殴られても蹴られても我慢して、何も無かった事にすれば、
武士道の発露としての鮮やかな行動は必要とされないので)
「本当はちゃんとできるんだけど、別に何事もないからそういう行動をとらないだけだもんね」
という、実にいじましい処世術だったわけです。
354 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/19(火) 16:10:58
上の関連ネタです。
《斬捨て御免はムリポに近かった》
「斬捨て御免」は武士の特権ですが、実際に「斬捨て御免」を認められて御構い無し
になることは難しかったようです。
例えば、旗本の場合ですが
慮外者に無礼な振る舞いをされる→斬って捨て、そのまま放置→「斬捨て御免」には
当たらない→単なる殺人として、評定所送り
となるわけです。では、「斬捨て御免」を認めてもらうにはですが、
慮外者に無礼な振る舞いをされる→斬って捨て、大目付に報告→被害者の関わる役所(
町人なら、町奉行所。農民なら、勘定奉行所)と大目付とで状況を審議
という流れになりますが、ここで、斬って捨てるほどの無礼では無かったりした場合、
単なる殺人とされて、これまた、評定所送り。
さらに、斬って捨てるほどの無礼であると認められても、躊躇したり、一刀で斬捨てず、
何度も斬ったりした場合は、今度は「士道不覚悟」でこれまた、評定所送りとなったわ
けです。
実際、「斬捨て御免」の特権を行使するまでには、時間がかかりすぎたようですね。
江戸時代も中期に入ると
経済力は
商人>>>永遠に超えられない職業の壁>>>武士
斬捨て御免が通用しないと武士は弱い存在なんですよね(武家社会じゃなかったら・・・)
356 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/20(水) 08:56:26
>>宰相中将殿
正確には、
商人>>>超えられない職業の壁>>>武士>>>永遠に超えられない職業の壁>>>公家
になると存じますが。
辞表
関白の任を本日をもって辞退いたします。
平成十七年四月二十日
358 :
正四位下畠山頭弁行右衛門佐平重忠朝臣 ◆OtHPw98ikE :2005/04/20(水) 11:21:16
《朝廷蔵人所発表》
関白藤原長者館学院別当従一位本多藤原朝臣忠則卿、本日、関白を致仕したいとの申し出が
ありました。
当面の間、左大臣征夷大将軍源氏長者淳和奨学両院別当従一位六条源朝臣義立卿が朝廷内を
御まとめになられたいとの御申し出もありました。
正式な決定がありしだい、追って公表致します。なお、スレ主については、光和院執権別当
関東申次検非違使別当従二位鎌倉大納言平朝臣景之卿が引き続き勤められます。
>>356 参勤交代の際には大名は参勤交代により自国が如何に豊かで格式高いか、
という事を表す為に相当な金額を使い込んだようです。
経済が破綻したからと言って規模を縮小する事も出来なかったようだ。
取り合えず商人から限度額一杯まで借りておき、
それを返すことなく更に金を借りに江戸家老が商人の下を訪れ
商人に金を貸すように頼みます。勿論、武士の方が偉いから謙遜はしません。
そんなもんだから商人は貸しません。
窮した江戸家老は商人が金を貸さない旨を国元に送り筆頭家老が、
江戸家老を伴って商人の下を再度訪れました。
なんと筆頭家老は土間に額を擦り付けて商人に懇願したそうです。
商人もまさか筆頭家老がこのような懇願をしてくるとは夢にも思わず、
商家が傾くほど融資したそうです。
戦が無くとも商人は肥え、武士は寂れる一方
公家は戦乱時も平安時も金は無いが、形だけの権威はばかにならないものがある。
農民は戦に駆り出されないだけマシか>平安時
年貢取り立てキツイけど。。。
>>360 具体的な名称は忘れてしまいましたが江戸時代になって
日光の東照宮に朝廷として公家を使節として送っていたそうですね。
道中、公家は近隣の商人から物凄い待遇を受け(勿論、彼等の懐も温まる)
公家の中ではその日光への旅が夢だったそうですね。
362 :
内府 ◆6VRCp96va. :2005/04/20(水) 23:29:09
>>361 例幣使でおじゃる。
日光へも送ることを条件に、伊勢神宮への例幣使の復活も認められ申した。
卯川でござんす
吉備真備と文室浄三・大市兄弟のお話だよん
神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御するけんど 皇太子は決まってなかったねん
右大臣吉備真備はん 長親王の子従二位文室浄三をん 天武帝の孫ということでん推すよん
反対したのが藤原雄田麻呂(後の百川) 従三位藤原宿奈麻呂(後の良継)らだよん
「浄三真人、子十三人有り。後世を如何とす」 変な理由だねん
この話は文室浄三が固辞したことで流れたねん
懲りない真備はん 今度は浄三の弟の参議文室大市を推すねん
でんも 大市も固辞するねん ここで雄田麻呂が反撃に出るねん
称徳帝の遺宣があった 白壁王を指名している ってん この宣命は真っ赤な贋物なんだけどねん
この宣命でん 白壁王が太子になりん 即位するなりん
政争に負け辞職を願い出たん真備やけどん 光仁帝は右大臣辞職を翌年まで許さなかったなりん
ついでに浄三はすぐに亡くなるけんど 大市の方はん正三位になり 翌年大納言 更にん従二位になるよん
宝亀3年(772年)辞職を願い出るけんど 慰留されてん 後にはん中務卿を兼ねるなんど 活躍するねん
スレ主さん辞めないでん
364 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/21(木) 18:32:51
兜神社と鎧の渡し(1)
言わずもがなの日本橋兜町ですが、地名の由来は東証の北にある兜神社の兜岩にあるようです。
この兜岩にはいくつかの異なる伝説があります。
一つは源義家が奥州から凱旋した際に、東国の反乱鎮定のために兜を楓川のほとりに埋め塚を築いたという説。
二つ目は前九年の役のころ、源義家が東征する際に、岩に兜を懸けて戦勝を祈願したという説。
三つ目は俵藤太が平将門の首を討って、兜とともにここまで持ってきたが、兜は埋めて塚を築いたという説です。
この兜神社は明治期に、時の太政大臣三条実美が御社号を染筆した神札を納め、
当初は義家公の御神霊を祀っていましたが、稲荷神と合祀され、その後義家公の祭祀は廃止、
三井家の信仰していた、三囲稲荷の福神社の大国主命と事代主命を勧請し、合祀したんだそうです。
明治11年の東証開設以来現在まで、東証は神社の氏子総代であり、証券界の信仰を集めているんだそうです。
365 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/21(木) 18:33:37
兜神社と鎧の渡し(2)
兜町と小網町を結ぶ鎧橋には、かつて鎧の渡しがありました。
鎧の渡しには源義家(頼義とも)が下総国に渡ろうとした際に船を漕ぎだすと強風で転覆し、
鎧一領を海中になげて龍神に祈ったところ、無事に渡る事が出来たという伝説があります。
この伝説がもとになり、鎧稲荷ができ、これが兜神社と合わされたとされます。
一方で義家ではなく、平将門がこの地に鎧と兜を置いたという説もあります。
義家、秀郷、将門と何やらオールスターキャストな、兜神社、鎧の渡しのお話ですね。
小ネタ
島津義弘は家臣からの信望がとても厚かったですよね。。
彼が八十五歳で亡くなった時に家臣十三名が殉死するほど。。。
その遠因かも?という逸話がありますが、、
諸士の子供が初御目見えのとき、
「その方の父はいずこかの合戦で手柄があった。その方は父に良く似ているので
父に劣らぬ働きをするであろう」
と申し聞かせ、手柄の無い者の子には
「その方の父は不運にも手柄は無いが、その方は父に勝る様子だから
手柄をたてよう」
と一人一人声をかけたと言われる。。。
そんな義弘は常にこう言っていた。。。
「我ら一人の武功を以て三ヶ国(薩摩、大隅、日向)を取り治めたるにあらず、
みな諸侍の働きの故なり」
と。。。
また小ネタ
勇猛かつ父譲りの智謀に長けた武将、黒田長政に関する逸話。。。
ある時、観世宗雪から謡の筋がいいと褒められた長政が上機嫌で家臣たちに
話した。
皆がお世辞を言うなかで家臣の毛利但馬が沈んでいる。
そこで不審に思った長政が訳を問うと
「宗雪は大名の殿に世辞を言ったのでしょう。それを真に受けて喜んでいる
ようでは当家の将来は長くない。家臣たちも世辞を重ねるだけで殿を
諌めようとしないからです。」
と答えた。。。
それを聞いた長政は席を立ち、やがて刀を携えて戻ってきた。。
家臣たちが固唾を飲んで見守る中、長政は・・・・
「その方の諌言もっともじゃ。そちのような家臣がいるから政道にも落ち度無く、
これまでやって来れたのだ。」
と言い、但馬に刀を贈ったという。。。
ねーわらひはー?(わくわく
[人事速報]
朝廷における官職を賜っている上達部
左大臣六条、内大臣源、大納言鎌倉、参議榊原
※関白および太政大臣である藤原忠則、秋山氏長は官職を辞退された。(秋山氏長は正式には決まっておらず暫定)
現在のスレ住人………減少中
秀吉子飼いの武将、福島正則に関するネタ
彼は豊臣家に対して清正に勝るとも劣らぬ忠誠心を抱いていましたよね。
それを実感する逸話が残っております。。
文禄四年(1595年)、太閤秀吉から疎んぜられた関白秀次が、高野山追放・切腹
を命じられた時、正則は件使役として切腹に立ち会った。。
が、恩を受けた豊臣一族をことのほか大事にした正則だけに、哀れな秀次の
運命に涙したという。。
しかも皮肉なことに、その後、正則は秀次の所領だった尾張清洲二十四万石に
加増された。。。
ただ関ヶ原の際に織田信秀の岐阜城を攻め落としたのはどうだったん
でしょうかね・・・
とは言っても
「故障十人ばかりで落ちてゆく大将を討っても功にならず。
かえって非義無道である。侍の情はこのようなときにあるものだ。」
とかカクイイこと言ってますが・・・。。。
板倉勝重の小ネタ
彼は若いころから現代で言う法医学に関心を持ち、死体の検死にあたって
鋭い観察眼を発揮し、隠された犯罪は暴いたという逸話がいくつか
残されています。。
こうした非凡な手腕と熱心な仕事ぶりが後の京都所司代という大役への
抜擢につながったのでしょうね。。
ちなみに某がかつて出した勝重ネタは某の中でもお気に入りです。。。
追加
抜擢の際の加増具合
五百石→二万石
さらに追加
勝重の口癖は
「奉行職で第一に肝心なのは、賄賂受けぬことだ。」
政 治 家 の 鑑 だ ! ! !
時は天正天正13年4月16日、医者の投薬の効果も無く、
衰弱したおのれの肉体にその命が長く保たないことを悟った長秀は
自ら腹をかっさばいて死んだ。享年51歳であった。
しかも、ただ腹を切ったのではなく、次のようなエピソードも残っている。
丹羽家の家譜によれば、長秀の病気は結石(当時は奇病とされた。むろん現在では治療によって治るが)
であったとされるが、
長秀はもはや、治療も及ばず死期が近い事を悟るや自ら腹を割いて切り抜き
鳥の嘴のような形をした病根をほじくり出した。そして
「こいつが俺を苦しめたのか」
そう言うやこの病根を砕き、そのまま死んだと言います。
このエピソードは100%信頼のおけるものではありませんが、
また一説にはいつまで経っても織田家の再興をしない秀吉に苛立ち、なんとか
対抗できる手段は無いかと考え抜いたが状況を打開できる策が浮かばない
ことに、「もはや無用の長物」と言い残して自刃したとも聞く。
いずれにしよ、自ら腹を切って死んだのは間違いないらしいです。。
この話を聞いて某が思い浮かんだ言葉は「意地」である。
その対象は秀吉、もしくは病魔と色々考えられる。
その時何を思って腹を切ったのかは本人のみが知るところであろうが、
「ただむざむざと死ぬくらいなら」という、気概が私には感じられた。
むろん、現代で言うと「自殺」ということになり、決して歓迎できることでは
ないかもしれないが、それでも普段温厚と言われる人物がこのような死を
遂げたという事を知った時はやはり衝撃的で、当時の「武士(もののふ)の心理」
を知る一つの参考となるのではないか、と某は考えるのです。
大阪冬の陣における木村重成のお話
至る同年11月26日、大阪城の東北、大和川の北岸に位置する今福の堤(;つつみ)に
東軍(=徳川方)が攻撃を仕掛けてきた。
この今福堤(別名:蒲生堤)は東軍の侵入に備える要地で、大阪方はここに柵を設け
精兵を置いて守らせていたのである。
一方、家康と秀忠も軍議において城攻めの拠点となる陣場をこの堤防に設けようとして
佐竹義宣を今福堤攻撃の任に当たらせた。
かくしてこの今福堤の防衛戦が重成の初陣となった訳である。
まず、佐竹軍はその臣・渋江内膳政光(;しぶえ ないぜん まさみつ)ら6,7千騎らが
今福の柵を急襲して守備兵を逐い、そこに手勢を残して引き返し陣場の普請に取りかかった。
ところが午後二時頃、これをかねてから警戒していた城中から3000余騎が突撃し
鉄砲を撃ちならしながら怒濤のごとく押し寄せてきた。
この部隊を率いていたのが西軍において武の誉れ高い後藤又兵衛と
若武者・木村重成であった。
これに対して、兵数においては上回る佐竹軍も矢玉にて猛烈に反撃し激戦となった訳で
あるが、霰のごとく飛来する弾丸の中、敵勢に肉薄する重成に一族の木村半四郎が
「御身はこれを持ち下され。」
と盾を差し出し、重成はそれを一度手に取ったがすぐに放り捨てて言った。
「盾は矢玉を逃れようと、運命をのがるる事はできぬ。」
所詮死ぬ奴は死ぬ、と突っぱねた重成は、盾を投げ捨ててさらに突撃を続け
敵方の渋江内膳と一騎打ちに至り、遂にはその首を取るという武功を示した。
やっぱカクイイ
しばらく出せなかったぶんまとめて出してみました。。。
木村重成かぁ。髷に香を焚きこめていたのが思い出される。
武将の美徳を重んじた人なんだよね。若いのにさ。
色んなエピソード聞くと重成の場合、ハラが据わっているのだと感じる。
真田左衛門佐や新宮行朝、後藤又兵衛、明石全登など豊臣もそれなりの武将
がいたんだけどなぁ。石田三成と大野兄弟といった武将にはやはり負の部分を
感じてしまう。
重成は大阪の陣の時点で若干22歳。しかも初陣。
それでも兵卒を巧みに率いるほどの軍才。。
正信←→忠勝
負 正
もありますね
どうしても文官はずる賢いというイメージが付きます。。
「武士の潔さ」の塊ですね>重成
奥さんもいましたが夫が気兼ね無く死地に赴けるように自害してます。。
あの若さで惜しいが、だからこそ哀れさと敬愛の感を抱かせるのやもしれぬ。
細君も出来た人であったのだな。
中務省
本正四位下源康長朝臣今授従三位
平成十七年四月二十四日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十七年四月二十四日 宣旨
従三位源朝臣康長
宜任中納言
蔵人頭行右中弁右衛門佐重忠 奉
幕府、そしてスレを担う中核として相応しき官位と存じます。
これからも宜しくお願いします。
ははぁぁぁ、謹んでお受け致しまする。。。
卯川でござんす。
榊原さん中納言ご就任 おめでとん ござりんす
そりにしてもん 華麗なネタ出しでしたねん
料理の神様 山蔭中納言
藤原山蔭といえばん 伊達氏の祖として有名だけんども 総持寺やん吉田神社を創建したんでも有名だよねん
その一方で四条流 包丁式の祖としても有名だよん
時の光孝帝は自らも包丁を持つほどの料理好きでん 中納言山陰に古来の料理方法や国外の料理法を研究させてん
山蔭は工夫を加えてん新しい料理法のん 後に四条流とよばれるん 包丁式を確立するねん
山蔭が自ら鯉を庖丁でおろしたことからん 包丁式が始まりん また調理 調味付けに秀でてたんだってん
この四条流はん いろいろな分派を生みながらん 今日でも伝えられているねん
京の吉田神社の境内にはん 山蔭を祀るん 山蔭神社があるねん
年一回の例大祭ではん 包丁と長箸を使ってん 一切食物に手を触れることなくん 調理していく儀式をやるよん
山蔭神社はん まさに料理の神様ねん
385 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/25(月) 17:13:27
>>381 榊原様、中納言ご昇進おめでとうございます。
今後とも大活躍されることをご祈念申し上げます。
ここで前中務大輔様に是非参議になって頂きたい、というテスト。。
>卯川殿
>佐竹殿
ありがとうございます。。。
お互いにがんばりましょう。。。
東寺と西寺に関する話
現存していないが東寺と対をなす寺として、西寺がありました。
東寺の空海が天長元年に神泉苑で雨乞いの祈祷を行なったところ
三日三晩雨が続き、西寺のライバル守敏に妬まれ矢を射られました。
母校洛南高校の宗教の授業で「歴史」として習いましたがどちらかと
言うと伝説に近いと思います。
いきなり殿上人を望むのは僭越ですので正六位上近衛将監を希望します。
このとき身代わりとなったのが羅城門跡にある矢取地蔵です。
すいません。トリップ付け忘れてました。
389 :
卯川大宰大弐明良 ◆plzvjBAXYs :2005/04/25(月) 19:16:40
前川さんよろすく 卯川というよん
ネタ一つじゃん ちょっときびすいん と思うのでん ネタ出しも少し 頑張りやんそねん
>前川殿
始めまして、、、榊原です。。。
もう二つ三つネタを出していただければ相応の官位が賜られることでしょう。。。
>>384 『今昔物語集』では継母に海に落とされ、亀に救われていましたね。
光孝天皇云々は後世に出来たお話でしょうが、この帝はご自身でも炊事をな
さったという逸話があり、似つかわしい。
貴族自身の料理風景は、『宇津保物語』や『古今著聞集』にもある。
『とはずがたり』では、嫌がる僧侶に無理矢理鯉を料理させています。
>387
大江匡房が、『本朝神仙伝』の中で弘法大師と修円なる僧侶の術比べを記して
います。呪殺や神泉苑での雨乞いについても書かれていますが、これらは初
期の伝記には見えないもので、平安中期頃に出来た話の樣ですよ。
現存する神泉苑は小さなものですが、『三代実録』などでは龍神が住むところ
とされ、旱の際には京都の人々が当地の水で命をつないでいました。
あまりに広いので、白い鹿などが放される事があり、また狐等もいました。
『空也誄』に、空也の前に神泉苑の霊狐が出現したという話があります。
更に時代下って、承久頃には後鳥羽院が猪狩りを楽しまれたとか。
時には、死体を棄てるところとして利用され、公を悩ませています。
9世紀に御霊会が行われ、『大鏡』では150を過ぎた大宅世継が祭を見物す
るのに立ち寄り、『続古事談』では式神が出るなど、一種の異界でした。
>>378 >どうしても文官はずる賢いというイメージが付きます。。
新井白石あたりの刷り込みでしょう。
あの人は、仏教とか貴族とかいった中世には当たり前にあった価値観を打ち
砕いて、儒教(+神祇信仰)と武士の価値観を称揚する事に全力を注いでいま
したが、この史観が、貴族や文化的な社会を否定的に見て、武力を振るう革
新を持ち上げる思想を生んでしまった(本宮ひろし系と言えば分かり易い)。
おそらく、あなたの抱いてらっしゃるイメージの源流も、その辺りです。
現在では、貴族の価値観や武士との補完的役割も注目される様になり、以前
の様に「退廃によって衰退した」という安直な見方は是正されつつある。
>山野殿
わざわざレスどうもです。。
そろそろ官位をお受けになっては如何でしょう・・・?
貴殿のような方が野にあるのは惜しいものです。。。
無理にとは言いませんがね。。。
河に行っても、耳を洗うよりは枕にする方です。
固辞する訳では御座いませんが、コテハンは変更出来ませんので、どうかそ
の点は御容赦下さいませ。ずうずうしい言い分ですが。
深いですね・・・。。
承知しました。
これからも貴殿のネタでこのスレを盛り上げて下さい。。。
396 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/26(火) 09:53:25
>>392 白石とカタカナ
宝永五年(1708年)イタリア人宣教師シドッチは、屋久島の恋汨村の浜に秘かに上陸します。
鎖国中の日本における布教の密命を受けての潜入でしたが、すぐに捕まり、長崎へ、次いで江戸へと護送されました。
小日向の切支丹屋敷に捕らえられたシドッチを尋問したのが、新井白石。
白石は天主教に対しては荒唐無稽という評価を下しましたが、シドッチの知識と人格を高く評価し、
天主教や世界の地理について「西洋紀聞」「采覧異言」に著し、後に広く流布されるようになりました。
又、それまでは外来語を表すのにひらがな、カタカナ、漢字など様々に使われていたのを
白石は西洋紀聞において、カタカナで統一し、この後外来語はカタカナ表記が主流となりました。
白石の又違った一面ですね。
そう言えばん 政頼さん どこさ行っただろかん
いますよ。
>>398 政頼さん お元気そうでなにより だりん
政頼さんも そそそろ 上を望まれては 如何ん
上を望むも何も官位を持ってないだろw
401 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/26(火) 18:04:51
田安宗武と国歌八論論争
吉宗の次男であり、松平定信の父である、田安中納言宗武は只者じゃない。
少年期より和歌に親しんだ彼ですが、歌道を研究しようと、荷田在満に歌道書を著させました。
「国歌八論」がそれですが、一目見た宗武は気に入らない。
「国歌八論」の堂上派に対する批判は良いけど、和歌なんて論理的な道徳教養につながる価値なんてないなんて。
ましてや万葉集より、新古今集が素晴らしいなんて…… よし……
宗武は自ら筆をとり「国歌八論余言」を著して反論する。
歌の道がおかしくなったのは、歌合から始まっているんだよ。
歌は喜び、悲しみ、怒り、楽しみなんかを表し、心の尊重が大事なんだよ。
勿論、新古今集なんてダメ。万葉集、万葉集こそ絶対だよ。。
この論争は賀茂真淵を巻き込み、三年余りも続いたそうです。
こんな優秀な方が、家重に替わり将軍になっていたら…… さてどうなっていたでしょうね。
植ゑし時は枯るべく見えし我が庭のしだり柳のめでたくなりぬ 宗武
>歌は喜び、悲しみ、怒り、楽しみなんかを表し、心の尊重が大事なんだよ。
まあ、この辺りもうがった見方をすれば、白石流の武断派・公家式否定派の
論理と言えなくもありませんが・・・と思うのは私が京都寄りなせいか。
「且、諸国の防人の歌をおびただしくのせたり。今とは時世異なれば、とて
も詞歌言葉を玩ぶのみならば、至りて卑賤の者の人々好みよむべきにあらず。
けだし今の世の小人のはやり小歌をうたふ類なるべし。(中略)
巧拙を論ずべし。されど、万葉集は聞くままに取りのせたる物にて、古今集
のごとく歌を選みたる物とは見えず。」とは、春満の弁。
芸術性を考慮する気持ち、分からなくもありませんが・・・。
なお、関係文献は『日本歌学大系』七巻に全て収められています。
>>396 白石がシドッチを尋問したのは小石川にある「切支丹屋敷」ですね。
大目付の井上政重の下屋敷だったらしいですね。
この屋敷には以前にジョセフ・コロウ(日本名、岡本三右衛門)と言う
シチリア島出身の宣教師が居たそうですな。ジョセフが来日したのは
島原の乱の後、1643年の事です。結局は棄教したので妻帯も許され
日本名も与えられたそうだ。
ちなみに吉宗の時代に焼失したが再建される事も無く、寛政年間には宗門改め
も廃止され歴史から姿を消した。この際にジョセフが記した書物も散逸してしまった。
遠藤周作著の「沈黙」は来日した宣教師の物語について書かれているので
面白いですよ。
404 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/26(火) 22:40:28
>>403 ジョセッペ・キアラですか、何か転びバテレンの代名詞と評されてるみたいですね。
伝馬町の牢で斬罪に処せられた岡本三右衛門の名と妻を後家としてもらい、
念仏の信者となって暮らした……なんとも面白い方ですね。
ところが後に又切支丹として立ち上がり(切支丹に戻り)、
幕府の知るところなり、この切支丹屋敷に四十年間も監禁されたのですね。
405 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/26(火) 22:59:17
>>402 山野殿 私は純朴な田舎武者ですから、万葉集の方が合ってるような。
>>405 まあ、その辺は人それぞれですね。私は新古今辺りが好みの様です。
岩波文庫の黄色の新刊はさっぱりですが、八代集でも出せばよいものを。
初代社長が「あの」角川源義氏だったのですから。
秀吉は神様第一号だよん!?
この前山蔭中納言の話でん ちとふれたけんど 山蔭卿は京の吉田神社創建してるねん
かの卜部兼好のん一族がん 代々吉田神社の神官をしてたけんど
彼の一族の後裔のん 吉田兼倶がん 吉田神道(唯一神道ともいうねん)を確立してん
そん後 絶大の権威をもっていったみんたい
ところでん この吉田神道を秀吉はん 信仰したねん
そんして 秀吉が没すると 豊国神社が創建されるねん 秀吉は豊国大明神になったよん
秀吉はん怨霊神を除いたらん 神として祀られて始めての人だねん
この豊国神社はん 大坂の陣のあとん 家康により壊されて 明治になってん再建されるよん
豊国神社壊した家康もん 没すると 神 東照大権現になったねん
408 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/27(水) 15:56:02
最近、人が少ないな〜と思っております、佐竹です。
我が友村上殿、長宗我部殿、付島殿……お顔をお見せくださいね。
そして諸先輩方、たまには遊びに来て下さいませ。
>>407 >この豊国神社はん 大坂の陣のあとん 家康により壊されて
大坂夏の陣の二ヵ月後、社頭を破却して豊国大明神は方広寺に移転させられ、
道具類は吉田に移されていますね。神官(社僧)らは知行召し上げ。
初めは全域が対象だったものの、北政所の嘆願もあり、外郭のみに。
しかし、家康の死後に改めて破却され、霊廟のみ山上に残されています。
『その時歴史が動いた』では、秀吉の遺骸を鴨川に流したとかいうナレーショ
ンが流れていましたが、私が調べた限りでは、出て来ませんでした。
>豊国神社壊した家康もん 没すると 神 東照大権現になったねん
こちらも吉田兼見の弟が神としていますが、後から天海が異議を申し立てて、
山王神道で祭り直していますね。吉田は神が本体で実が佛、山王はその反対
という教義(中世なら後者が一般的)。
>408
確かに、少々寂しい気もしますね。私は枯れ木も山の賑わいとばかりに来て
おりますが・・・。
410 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/28(木) 10:00:41
>>409 山野殿
いろいろ教えて頂きありがとうございます。
花にもいろいろございますゆえ、それぞれの咲き方が……
411 :
天堂太郎藤原朝臣一角:2005/04/28(木) 11:57:20
ははぁ!!!
412 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/28(木) 16:50:45
葬式仏教の始まり
今日の日本仏教はおよそ宗教らしくなく、葬式仏教と呼ばれていますね。
このかたちに持って行ったのは、江戸幕府です。
前時代に過激化し、鎮圧に苦労した仏教を、まず寺院諸法度で統制し、
切支丹禁制の徹底のため、寺請け制度(いわゆる檀家制度)を敷き、民衆を近くの寺の檀家にしました。
寺は家族構成などを把握し、ある時は役人に報告すらするようになりました。
一方、葬式は江戸期以前は僧侶をわざわざ招いたり、神官でもある村の長老が執り行ったりしていましたが、
寺請け制度が敷かれてからは、檀那寺に葬儀を執り行ってもらわなければならなくなりました。
寺側はわざわざ布教して、信者を獲得する必要がなくなり、檀家は葬儀の心配をしなくてよい。
いわゆる葬式仏教は、寺院の力をそぎたい江戸幕府の施策から生まれたのですね。
>神官でもある村の長老が執り行ったりしていましたが、
この辺がよく分りませんが・・・(申し訳ない)。
とりあえず、それ以前の事について述べさせて頂くと、地域共同体ぐるみで
の葬送が見られる様になるのは、中世後期からの様ですね。
中世前期までは、家族以外は原則として葬送には加わらず、仮に身寄りの無
い隣人が死んだとしても、死体を葬る事はありませんでした(家に放置)。
死穢(49日相当とも)に触れると考えられ、神事に参加出来なくなるので。
なお、平安時代以降は葬儀となると仏式になりますが、近世になると復古の
動きが見られる様になり、神葬祭や儒葬祭が出て来ます。
熊沢蕃山も、「かつては神葬祭があったが、中古に仏葬祭にとって代られて、
今に伝わらないのが残念である」と言い、代って儒葬祭を希望しています。
吉田家では、中世後期から社僧を故意に遠ざけて神葬祭を行っていましたが、
実態はそう古くも無いものでしょうね。
他板では、「日本の伝統を大切にしたい」という理由で神葬祭を希望するとい
う方もたまに見られますが、『つくられた伝統』の方だと言えるでしょう。
(そういう題名の本があります)今や仏式の歴史の方が古い。
414 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 04:37:27
ヽ(`Д´)ノウワァァン!!
415 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/30(土) 09:02:27
>>414 真宗大谷派正覚寺さんのホームページより一部コピベ
一般的にいえば、お葬式に聖職者はいりません。
人類の長い歴史の中で、日本のお坊さんのように聖職者が葬儀に従事するのはむしろ特殊です。
世界一般には、俗人が葬儀を営みます。
そしてその場合、そのグルーブの長老が葬儀の責任者になります。
イスラム教やインドのヒンドゥー教、また江戸時代までの日本の神道も専門の聖職者のいない宗教でした。
それらの宗教では、村の長老が輪番制で一定期間、神官・聖職者の役目を勤めるのです。
もちろん、大きな神社には専門の神官がいますが、そちらが例外で村や町の神社は長老が葬儀やお祭や結婚式等を執り行ないました。
したがって、葬儀も一般的には俗人によって行なわれていたのです。
だから、お釈迦さまの時代も、葬儀をするのは長老(在家信者)でした。
無断コピベ申し訳ありません
そしてそれ以後の時代も、南方仏教においては僧侶は基本的には葬儀にタッチせず、葬儀は在家の人々が中心になって執行されることになっています。
〜無断コピベ申し訳ありません〜を 書き込む位置が、引用中に入ってしまいました。orz
ううむ、今ひとつ根拠がはっきりしませんね。
・・・あなたに申し上げても、仕方がありませんが。ありがとうございます。
真宗さんも、神や葬祭が絡むと都合のいい説き方をす(ry
卯川でござんす 葬式にちなんでん 道昭と火葬のはなしなりん
道昭さんはん 玄奘三蔵が印度から持ち帰ってん開いた法相宗をん 玄奘本人からん教わりん 日本に伝えたなりん
一説にはん 道昭はんなかなか玄奘にん会わせてもらえなくてん 教興寺大雁塔を建立の時にん 土工として働きん
現場を訪れたん 玄奘に会えてん やっとんお弟子さんにんなったとのことだよん
道昭の弟子にはん あの行基がいるよん
さてん 続日本紀によればん 道昭がん火葬の始まりとされるねん 時にん文武四年(700年)
飛鳥の栗原でん彼が荼毘に付されるとん 遺骨はん風に巻かれて何処かへとん 飛んでんちゃったみんたい
でもん 考古学上ではん 仏教伝来前のん 5世紀半ばから火葬がんあったみんたい
蛇足やけど 持統天皇がん 天皇としてはん火葬の始まりなりん 大化の薄葬令の影響もあるみんたい
持統天皇の時はん 実際火葬されたのはん 一年後やったみたいやけど
元明天皇はん6日でん 元正天皇は1週間でん火葬されたねん 所謂ん殯宮の風習はん なくなったなりん
起源は別としてん 高僧道昭とん 持統天皇の影響でん 火葬は貴族に広まっていくよん
『万葉集』にも、火葬の記事がいくつかありますね。
当時の火葬塚には、墓碑と共に近世に偶然掘り起こされたものの、盗掘もあ
って現存するのは写しだけという所も少なくない。
道昭が荼毘に臥された時には、親族と弟子が争って骨を拾おうとしたとあり
ますが、当時の葬送への参加者を考える上でも重要です、と補足(蛇足?)。
トイレ・・・無いと困る生活必需品。
日本名、厠。貴族の時代は清箱などと呼ばれる箱で用を足したが
現在のように家屋の中に設置される事は無かった。
屋内に設置されるようになったのは幕末の頃。裕福な家から始まったと言われる。
「厠」と言う字は建物の側にある小屋と言う意味であり、便器は桶にして
回収出来るようにしてあった。
食事中の方々、真に申し訳ありません。
>>420 カワヤにはん 京極さんがおっしゃるん 側説とん 川で用足したん 川屋説があるみんたい
平安朝の貴族はん 御樋殿という部屋でん 樋箱(オマルみたいなもんやね)に用を足したみんたい
お片付けは家人の仕事ねん 今頃は江戸時代みんたいな リサイクルの考えは無いみんたい
庶民はなんかすごいねん 餓鬼草紙によればん 道の脇の朽ちかけた築地塀のとこでん
老若男女がん排泄してるなりん 家にはトイレなかったみんたい
なんと周りにはん それを食すん 餓鬼が群がってるってんいうかんら ちょっと怖いねん
今より官位詮議を始めます。
各大臣の皆様方は御参内くださいますよう。
423 :
武田譲新斎:2005/05/04(水) 20:00:48
ささやかなネタを
浅井氏に使えた海北家は綱親の代には赤尾、雨森と並んで海赤雨三将と呼ばれ家老に名を連ねていました。
綱親は秀吉に「我が軍法の師」と言わしめたほどの戦上手でした。
息子は絵師として有名な海北友松です。
彼は父を小谷落城の時に失いますが、敵討ちよりも僧籍に入って絵を描き父を弔うことを選びました。
彼は長谷川等伯、狩野永徳と並んで桃山文化の代表的な画家として知られています。
皆様ご機嫌うるわしう。よき季節になりましてござる。
あ、いや、如何な用向きでもござらぬ。ほんの立ち寄り
がてらの挨拶までに候。しからば、御免仕る。m(。。)m
官位くれないと1000まで荒らすぞ!
元服の後に叙任がスムーズに行くようにネタ出し。。
赤備え「井伊直政」のお話
関が原の役の時、直政は家康の四男松平忠吉の介添えを命じられていた。
当時忠吉は二十一歳。これも若いためなのか戦いに急き立ち臣下に馬の口を取られるのを振り切り突撃を行おうとした。
そこで、臣下のあるものは直政に相談したところ、、、
「武士の子を左様に用心して、なんになる。
放して討ち死にすればとて、その分のことよ。」
と言ったとか。
直政配下の武田旧臣達は本多忠勝を好敵手として見ていた節があるようで、
「本多忠勝は退かず進まずの麾をふる明敏なしょうである。
そこで殿は、信玄が謙信に対したのと同様に、忠勝を向う指すとして戦場に奉公されてはどうか。」
とも言ったと言う。。らしい。
赤備え「井伊直政」のお話その二
直政は関が原の役において忠吉を担いで先陣を切ってたりもする。
その時、先鋒を務めていた福島正則の配下可児才蔵が、
「今日の先鋒は左衛門大夫なるぞ。」
と行く手を阻んだ時、
「物見でござる。」
と謀り抜け駆けしたことは有名である。
戦が終わり直政は正則に、
今日の先駆けは戦の潮合に候えば、貴殿を出し抜く気は毛頭なきにて候、と断った。
正則は
「ご念の入った申し条、痛み入る。
野合わせは総じて、たれの手ということはなく、
敵に取りつき、いつにても戦端を開くのがよいと思う。」
と言った。
直政は喜色を浮かべ一間ほどその場から歩いた後にふと鍾を返し、戻り正則に、
「左候はば、今日の一番合戦は我らにて候。さよう、お心得賜れ。」
と言った。
一説には当日の朝に家康が直政に、忠吉を介添えして一番駆けすることを命じたとも言われている。
あ、元服前なんですか・・・
トリップ変更しますよ
関が原のお話を続けてちらほら。。
島左近のお話。
関が原から歳月がたったころ筑前福岡黒田家の家臣が話をしているうちに島左近の話になった時のことである。
一人の者は、
「あの時の左近は馬に打ち乗り、麾を振り上げて、かかれ、かかれ、と叱咤しておったがあの声は耳朶について今も離れないでいる。
左近はその節、真っ黒の具足、兜の立物もなく、指物も指しておらなんだが、陣羽織は柿色であった。」
しかしある者は、
「それは異なることを、左近の陣羽織は鼠色であった。」
しかし別のある者は、
「否否、何も着ていなかった。」
と各人の記憶がまちまちであった。そして、
「さても、左近が装を見覚えぬほどに我等がうろたえていた筈がないのに、なんとも不思議なことではないか。」
と皆口々に言い、誰の記憶が正しいか確かめることになった。
そしてかつて石田光成に仕えていた者を呼び、左近の服装の話を聞いた。
そうすると、、、
左近の兜は前立があり、それは三尺ほどの朱の天衝であった。
具足は桶皮の溜塗りで菱綴、陣羽織は木綿で浅黄色、さらに縄を帯に巻いていた。
ということが明らかになり一人の老武者が、
「あれはまさに一息切断の場であり、我らの面すらまともに見ることができなかったことは誰しも覚えがあろう。
左近の名を聞くと、俺は今でも身の毛がよだち、胸が悪くなる。
あの折、鉄砲で撃ちすくめなかったら、俺らが首は、左近に手もなく獲られていたであろう。」
といったそうな。。
左近‥‥((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
島左近の話その二。
秀吉没後光成は側近とともに大坂城の天守閣に上り、市街の繁栄振りを見て言った。
「天下擾乱の中に故秀吉公出て、群雄をしずめ、五畿七道を平定した。
そして政都大坂は、今に至るまで繁栄し、庶民の悦ぶ顔を見、歓声を聞く。
秀頼公の世のとこしえのだ。」
と言い、側近の者たちは「しかり。」と頷いてばかりであったが、左近は、
「王公の都府に、人集まり、繁栄が齎されるのは、古のならいであり、なにも大坂に限ったことではない。
ましてや、豊臣家の徳によるものでもない。
ただ城市に来るのに利があるから人々は集まってくる、集まれば繁栄すると言うことだけに過ぎない。
さらに繁栄すると言ってもそれは都心だけである。
城下を二、三里も離れれば、そこには雨露も凌げぬ茅屋に住む飢えた民があふれ路傍に死すものがはなはだ多い。
さてさて、この有様を見るにとても大坂は高枕に安臥していられる段ではない。
ただ城市の繁昌なるをおごり士民の憂苦に耳も貸さず、兵をつくろい、城塁を修築すると言う風では豊臣家は安閑としてはいられぬ筈である。
傾いた屋台を保持するに武力に頼るは、自分の採らぬところである。
まず、将士を愛し、庶民を徳を持って撫育をするのが先決であろう。
云々‥‥‥‥‥‥‥‥」
と言い、三成を諌めた。
左近は三成が現実直視に甘い人物であると見ていたことが伺える出来事である。
>>421 >庶民はなんかすごいねん
使用後の紙と、木の棒が付近に転がっているのが見えます。
『落窪物語』では、そこで転んだ男主人公が、足を汚していますね。
『餓鬼草紙』の時代になると、鼻紙も使用される様になりました。
本多さんよろすく 卯川どす また山野さんいつもありがとん
本多さんに便乗 島左近の墓の話なりん
関ヶ原で討死したん左近やけど 墓がいくつかあるねん
昔から有名なのがん 京都市上京区の日蓮宗立本寺なりん
ここの過去帳にはん なんとー 没したのがん 寛永九年(1632年)六月二十六日となってるよん
関ヶ原を逃れてん 立本寺に隠れてん 三十余年生き延びたんだってん ホントかなん
一方ん 昭和57年に地元の郷土史家が発見したん 奈良市の三笠霊苑東大寺墓地の墓があるよん
こちらは関ヶ原合戦当日に亡くなってることになっててん 墓石も当時のものでん 信憑性があるかなん
他にもん 陸前高田や対馬にもん 左近の墓あるんやってん
左近は果たしてん 生き延びたのかん
434 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 16:08:29
卯川さん、話し方気持ち悪いです。
普通にして頂けませんか。
435 :
伊達正三位右大将統宗 ◆Vpn0mZGDW2 :2005/05/07(土) 16:30:59
[ これが本当の豆知識 ]
枝豆の正体は大豆
436 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 09:46:00
伊達、日本史に関係ないこと以外書くな。しかも、その官位は官位スレで認定したものでないから
使用したら「荒らし」として嫌がらせしているのと同じだぞ。
後藤又兵衛の話を一つ置いときますね。
島左近の軍勢は黒田長政の奇謀によって打撃を受けたがその黒田隊の中に後藤又兵衛と言う者がいた。
後藤又兵衛は関が原より数日前、黒田隊の一員として岐阜救援部隊をとめるため従軍した。
そして号渡川まで来たとき石田方の岐阜救援の部隊が対岸に陣を張っていることがわかった。
八月だったため川を渡ることができず香ヶ島の札の辻に諸将は陣を張り評定を行ったが一決しなかった。
すると藤堂高虎が銀の天衝の前立のある兜をし、黒母衣をかけた武者に目を留め、
「あれなるは黒田の侍大将、音に聞く後藤又兵衛であろう。
あの戦い巧者の所存を聞こうではないか。」
といって、扇を振って又兵衛を招き寄せた。
又兵衛は高虎から議の一致しないことを聞くと笑いながら、
「御評定も結構であるが、それも時と場合によるものでござる。
今日、岐阜の城攻めに遅れ、また、ここにて一戦なければ内府公に対して面目が立ちますまい。
この川を討死の場と覚悟めされずば、男子にあらずと存ず。」
と言い、諸将はこの言葉一つで川を渡って攻めることとなった。
このときは東軍として戦場に身をおいた又兵衛であったが大坂の陣では豊臣方につき壮絶な最期を遂げたとか。。
というか、川を渡る必要がないと思うのは私だけであろうか‥‥‥。
水かさが増した川を渡るということは格好の的になるような気がする。。
因みにこの又兵衛と言う人は羽柴秀吉から陣羽織を賜ってたりする。
439 :
征夷大将軍従一位六条左大臣源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :2005/05/08(日) 19:57:43
後藤又兵衛は黒田家出奔の折、奉公構(他家への再仕官の禁止、切腹の次に重い処分)を受けたため、結城秀康や細川忠興、福島正則、前田利長からのお声がかりに応えられなかった。
大坂の陣では家康から法外な恩賞を提示されたにも関わらず豊臣家についた。それはそれで武士の生き様よな。
むしろ、その生き方を選んだのは、徳川方につくよりは後世においてより名を知らしめる上では吉と出た気がす。
黒田家では一万六千石の身でありながら謀反の疑いがかけられたりしてたりする。
>>左府様
しかしながら、世の中では真田幸村が信濃一国を断り豊臣方についた方が又兵衛よりも有名ですね。
442 :
伊達正三位右大将統宗 ◆Vpn0mZGDW2 :2005/05/08(日) 23:27:10
なにやら頭のおかしい人がいますね
443 :
武田譲新斎高信 ◆7SvE5zhy4Q :2005/05/09(月) 01:57:21
豪傑たちはだいぶ優遇されてたみたいですね。
そういえば可児才蔵の話がありましたね。
才蔵がある大名(誰かは忘れました…)に召し抱えられたときに一般の武士の二百人分の禄をもらっていたとかで
その話を聞いた他の大名が
「いくら才蔵でも二百人に勝てるはずがない。二百人の武士を雇ったほうがいい」
といったそうですがその大名は
「いや、才蔵の名を聞けば二百人の武士も逃げ出す。才蔵の名前だけで二百人以上の働きがある。」
といってのけたとか
左近といい又兵衛といいやはり優秀な将は得難いものだったのでしょうね。
>才蔵がある大名
福島正則ではないのですか。可児の墓は、現在広島市にありますね。
445 :
武田譲新斎 ◆7SvE5zhy4Q :2005/05/09(月) 21:42:00
あれ?可児才蔵だったかな?どうも記憶があいまいです…
446 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 21:42:16
あげ
大坂の陣参戦の見返りだと他に
長宗我部盛親が土佐一国の約束で
明石全登がキリスト教信仰と布教活動の自由、宇喜多秀家の解放でしたね。
毛利勝永はそうゆうのありましたっけ?
中務省
本正六位下源高経朝臣 今授従五位上
平成十七年五月十一日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十七年五月十一日 宣旨
従五位上 源朝臣高経
宜任 近江守
蔵人頭行右中弁右衛門佐重忠 奉
中務省
本正七位上 源高信朝臣 今授従五位下
平成十七年五月十一日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十七年五月十一日 宣旨
従五位下 源朝臣高信
宜任 甲斐守
蔵人頭行右中弁右衛門佐重忠 奉
上卿鎌倉大納言
平成十五年五月十一日 宣旨
正四位下 平重忠朝臣
宜任 参議
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
>京極殿
>武田殿
>畠山殿
御昇任おめでとう
更なる御活躍を期待してます
謹んで近江守の任をお受け致します。
>>451 榊原殿、ありがとうございます。
今後とも宜しくお願いします
453 :
従五位下武田甲斐守高信 ◆7SvE5zhy4Q :2005/05/11(水) 21:47:58
ありがたき幸せ。
スレ興隆のために微力ながら尽力します。
京極さん 武田さん 畠山さん ご昇任おめでとん
更に活躍してねん
日本語を勉強中の卯川よりん
455 :
日本@名無史さん:2005/05/12(木) 15:08:49
卯川さん、語尾の「ん」をとれば完璧よ!
そういえば今日は信長公の誕生日ですね。
457 :
正四位下畠山新参議 ◆OtHPw98ikE :2005/05/13(金) 12:26:08
参議の重責、謹んでお受け致しまする。
ただ、復帰までは今暫くの御猶予を。結婚準備に追われておりまする故…。
458 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 20:26:08
引き籠もりが集うスレはここか
459 :
日本@名無史さん:2005/05/13(金) 21:06:36
>>456 旧暦では6月18日にあたりますね。だからふたご座
15世紀以降の日記を読んでいると、「誕生日」の記録も出て来ますね。
社参(代参を命じる)などを行っている。
>>460 では文献で『誕生日』と記された最古の記録はいつ頃なんでしょう?
ちょっと調べてみます。
462 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/05/14(土) 09:08:48
北条時頼は安貞元年(1227)年の、5月14日生まれですね。
463 :
本多家世継@元服前 ◆eENusiPA8M :2005/05/14(土) 18:40:35
>>武田殿
可児才蔵でございますね。仕官の順は前田利家→福島正則ですね。
この人は十五歳の時に利家に見いだされ、前田家家臣の奥平助右衛門永富を烏帽子親として元服していますね。
末森の合戦が終わったのちに前田家を辞してます。
そののちの逸話を一つか二つ。
才蔵が福島正則のもとに仕官を乞うたとき、才蔵は「その方、芸は何をたしなむか、申してみい」といわれた。
才蔵は「自鬢自刺に手練をえまして御座る」と真面目な顔で答えたという。
正則の近臣達は、才蔵はうつけ者かすね者かと囁きあったが、正則は才蔵を召しだし禄七百石を与えた。
正則は、
「自鬢自刺は後ろに目がついているようではなくてはなかなか習練できるものではない。
目に見えぬことを上手にすることが出来るというのであるから、この者は目前のことなら何事もこれたやすく出来るに違いない。」
と見立てた。
この正則の考え通りの武功を才蔵は重ね、関ケ原では首級十七を上げている。
464 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 22:35:06
>>464 変換ミスです。ご指摘ありがとうございます。
466 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:06:41
従六位くらいでいい、おくれ。
先祖は平氏千葉氏流。
467 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 07:30:54
>>466 根拠ねーもんな、そりゃ誰だって先祖名乗れるわなwww
468 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:14:27
>>466 ここの官位はネタの成績だってぇのに、官位だけもらったって意味なんかねぇぜ。
自己満足したけりゃ自称しな。だけど、ここじゃ通用はしねぇけどな。
もし、普通に望むのなら礼儀は正そうぜ。ひとつおまけに何かネタだしな。
千葉氏流とまで分かっているのなら、おめぇさんしか知らない様な逸話が残っているんじゃねぇのかい?
それがないんじゃあな。誰だって俺は松平、足利といえるわけだ。
先祖との関係なぞ、ここではあまり関係ないんでね。
可児才蔵って前田利家の前に仕えてたのって豊臣秀次でしたよね?
>>471 元服→前田利家→福島正則
前田利家には元服直後に仕えはじめている。元服したのが利家が前田家の家督を兄から譲られる一年前のこと
ひさしぶりのネタです。。
堀田加賀守正盛。
徳川家光の乳母、春日局を母とする彼は13才にして家光の近習となり、
六人衆(松平伊豆守信綱、阿部備後守忠秋、三浦志摩守正次、太田備中守資宗、阿部対馬守重次)
として幕政に参加。老中にもなりました。
まさに親の光は七光り。スピード出世です。
エリートぼっちゃん故か、その言動にも奢りが見られていたそうです。あとかなりの『知ったか』だったとか。
今日はそんな正盛さんの逸話ネタを紹介します。
正盛はかねてより、茶人として名高き豊前小倉藩主、細川三斎が有名な茶器を多く所持していると聞いていたので
とても興味を持ち、人を介して三斎に
「是非、細川家秘蔵の道具を拝見致したし」
と申し入れました。
これに対して三斎は快く承諾し、期日を決めて正盛を招待しました。
さてさて当日。
ワクワクして細川家に出向いたのはいいんですが出てくるものは刀、槍、甲冑…。。。
「な…なるほど。お見事なものばかりでござる。」
しかし出てこない。。
肝心なものが出てこない。。
一向に茶器が出てこないので不満ながらに辞去する正盛。
そこで頼んだ者に不満をこぼします。。
するとその者は急いで三斎を訪ねて理由を聞きました。
すると三斎
「加州殿(正盛)が『道具』を見たいと言われるのでその通りにしたまで。
およそ武家に『道具』とあらば武具以外に何があろうか。」
(´・ω・`)
475 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/05/16(月) 14:21:28
>>475 道具=武具ですか、なるほど
佐竹にもこんな話があります
鬼義重の初陣の際,上杉謙信は備前三郎国宗の太刀を贈ったそうです。
「この太刀を隠居後は杖にでもしようと思っていたが、あなたは武略に優れているので、譲るよ。」
義重はこの太刀を大切にし、隠居後義宣に譲りました。
ところが、義宣はなんと長すぎて使いにくいと、切っ先を削って脇差してしまったのです。
佐竹義重は刀の魂が失われてしまったと嘆いたそうです。
武具=道具は早くから失われてしまったのですね。
ではもうひとつ。ちょっとネタ振りもこめて。
今回は豊臣秀俊についてです。
…といっても小早川秀秋のことではなくて
秀吉の弟、秀長の子(と言っても実子ではなく瑞龍院の子を養子とした)の秀俊です。
天正十九年。父、大和大納言秀長が病没します。秀俊はまだ14歳でした。後見人は藤堂高虎。
文禄元年。秀長の死の翌年従三位権中納言にすすみ、大和中納言、郡山中納言と呼ばれていました。
文禄二年。彼は不幸に見舞われることになります。業病(癩病、ハンセン病)を患ってしまったのです。
薬と湯治による治療を繰り返す毎日。果敢な時期に度重なる不幸が続き、彼は不安と絶望を怒りに代え始めてしまったといいます。
柏崎永以の『古老茶話』には
「此の秀俊、暴悪にして罪なき家臣を切殺すこと幾度也。」
と記されています。
また、この時期、秀吉は健在でした。
文禄三年。秀俊は突如横死します。
『古老茶話』には
「業病となりて吉野十津川の温泉に浴せんとて彼の山中に参り、それより吉野山一見の所、西河の滝に至り
河の深渕へ とべと、小姓に申し付けたり。然るに此の小姓こらへかね、秀俊をたがへて数丈の岸を飛び降り、
ともに死したり。之により秀俊嗣子なく長く断絶したり。」
と、あります。どうもうさんくさいですね。この手話はよくありますが、どれも背後に何かあるような気がしてなりませんね。
ちなみに文中で引用した『古老茶話』は延享三年(1746)年に著されています。
藤堂高虎はこの後、剃髪して高野山に隠棲しています。
そして翌文禄四年、兄秀次は切腹することとなります。
この事件、みなさんはどう思いますか?
>>475 義重公の思いは現代にも通用するすばらしい考えかたですね。
決して長さのことを悔いたのではないんですよね。
板違いなので詳しくは書きませんが
近年の某神社の文骨の話がでたときにも似たような思いを持ちました。
あと前述の堀田正盛はおもしろネタにしちゃいましたが
それなりに政治はできたようです。まぁイヤミな人ではあったようですが。
あと、家光死去の際に殉死していますね。
「道具」と言えば、その道の仕事道具である事、『貞丈雑記』にも出ています。
単なる皮肉というより、故実に無知な相手をコケにした発言ともとれる・・・。
太刀についてですが、重代の品の寸を詰めて当世風の打刀にした例なら、
珍しくありません。ただ、脇差まで行くと?
伊勢貞丈ですか。当代きっての知識人ですね。(こうゆう言い方はおかしいかな?)
「道具と云う詞は、其の家々の家業に用いる器物を云うなり」
『貞丈雑記』=礼法的なうる覚えしかなくてお恥ずかしいのですが
山野さんレスに興味を持ち調べてみると『道具』の記述が事細かく記されていますね。
>>479 >>480 卯川でござんす 関連して言うと 「道具」というのは もともと仏教用語みたいです
「身を資け 道を進め 善法を増長する具」を道具と言ったみたい
修行僧に最低限必要な 三種類の衣 托鉢に用いる鉢 の「三衣一鉢」が基本で
それに坐具と漉水嚢(水をこすもの)を加えて 「六物」と云い これが道具なり
ついでに言うと 衣 鉢 坐具の三つが揃うことを 「具足」(十分に備わっている意)と言うなり
Σ(゚Д゚;)卯川さんの言葉が普通に近づいてる!!!
>>483 さすがに 2年9ヶ月も立つと少しは。。。(しんみり)
そうですよね。。
しかし嬉しいやら、ちょっと寂しいやら。。(しんみり)
>>466 姓名とネタで官位をもらえるスレなんで、ネタ出し宜しくお願いします。
>>480 >伊勢貞丈ですか。当代きっての知識人ですね。
あの時代の「知識人」に多い様に、神祇信仰回帰傾向が強い人でしたね。
極端な廃仏派でもありませんでしたが。
「道具」は、特に密教の法具を指す事があり、御請来目録でも「道具」の
項が記されています。
武家では、主に鑓(か同じ長柄の長刀)を指しましたが、それ以外でも可。
卯川氏の口調ですが、私は今までのものでも・・・。
>>486 一つのちょっとした言葉も 究めれば ホント深いですねん
今後もいろいろ 究めたいですねん
(口調は適度にいきますよん)
488 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 07:43:45
あげ
みんないなくて スゴク寂しいかんらネタ行くよん
鑑真和上と漢方のはなし
日本に中国医学が入ってきたのは 四世紀末から五世紀初めといわれるねん
允恭三年(414年)医薬に詳しい新羅の使者金武が来日して 允恭天皇の持病を治したんだってん
このあと最初は朝鮮半島を経由して それから遣隋使 遣唐使で直接漢方は入ってくるねん
ところであの鑑真和上も医学で活躍するねん
和上は医術や薬物の鑑識に通じていて 盲目なのに薬物を鼻をもって分別して錯誤することがなかったんだって
今には伝わってないけど 「鑑真秘方」を伝承したり 光明皇太后の病気をなおしたりん
唐招提寺には 奇効丸という薬が今日まで伝わってるし 正倉院には和上が献納した薬物が沢山の残ってるし
鑑真和上は只の仏僧ではないなり
ちなみに 医学の集大成としては 永観二年(984年)丹波康頼が著した 「医心方」が今日に伝わってるねん
490 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:33:37
来日時盲目じゃなかったって説もあるのに
何語ってんだよ?
492 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:55:20
鑑真和上と署名された手紙が何通か残っているが
そのうち幾つかは二人の高名な弟子が代筆したことが筆跡鑑定の結果判明している。
その中に鑑真の御名を崩し文字で署名されているものがあった。
鑑定の結果、上述の弟子二名の筆跡とは異なっているうえ、
師匠の名を弟子が崩して書くことは考えにくいという理由から
鑑真は来日時盲目ではなかったと推測する学説もある。
この間NHKアーカイブスの再放送でやってた。
>>489のネタ ご指摘受け加筆
7行目と8行目のあいだ
(もっとも鑑真は来日時 盲目ではなかったする学説もありますが)
495 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 14:36:57
卯川さんを昇進させてあげなよ。
それに住人がことのほか減ってないか?
496 :
本多家世継@元服前 ◆8rwPJshdek :2005/05/21(土) 14:56:09
伊勢神宮に関する話。
天照大神を祀っている伊勢神宮がなぜ伊勢にあるのか?
その答えは「日本書紀」にあります。
それによると崇神天皇の時、国内に疫病が流行し国内が大混乱に陥ったらしく、
当時の人は宮中に天照大神を祀っているためだと考え、大神を大和国の笠縫邑に移している。
そして垂仁天皇の時に皇女倭姫が大神を奉じて大和から近江・美濃を巡り伊勢に来たとき、
大神が
「伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国也。
傍国の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ。」
と言われたので倭姫は伊勢に天照大神を祀った。
この時に五十鈴川流域の小豪族である宇治土公氏の進言により五十鈴川の畔に立てられたのが内宮であり、
天照大神に朝夕の食事を提供する神として豊受大神が造られた。
これが伊勢神宮の始まりである。
497 :
本多家世継@元服前 ◆8rwPJshdek :2005/05/21(土) 15:06:24
上記のはあくまで「日本書紀」の記述であり、どこまで信用するべきかと言うのはある。
日本史をかじれば定説として、大和政権の東国進出の拠点として南伊勢の地が選ばれたとされる。
事実、大和政権は朝鮮における軍事行動が失敗したため五世紀中頃から東国への勢力拡大に乗り出している。
当時の伊勢は東国進出への足がかりとなる湊が各地に作られている。
話を戻して、伊勢神宮が南伊勢の地に造られたのは安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇との対立に起因していると思われる。
安閑天皇と宣化天皇の母は尾張出身のため欽明側は陸路の尾張を避けて海上を東国に行くため南伊勢を重要視したと見られる。
それで南伊勢に伊勢神宮が造られたと。
その後、壬申の乱の折も大海人皇子が伊勢朝明郡迹太川の畔で伊勢神宮を遥拝している。
このこともあり伊勢神宮も国家神となったのである。
>>496 >>497 本多殿連投お疲れ様どす
このスレが盛り上がらない原因 一つ気づいたなりー
お世継殿がたくさんネタ出してるのに なんの音沙汰もないなり
彼は 本多忠則公とは別人格なり 是非気を使わずに 任官した方が良いなり
499 :
本多家世継@元服前 ◆8rwPJshdek :2005/05/21(土) 15:25:11
これは卯川殿。お久しぶりです。
某はネタをいーぱいためて五位スタートを目論んでおります。
>>499 こんにちは 500
五位に十分値するかなーと思いますよん スレ主さん次第ですけど
501 :
本多家世継@元服前 ◆8rwPJshdek :2005/05/21(土) 15:34:07
>>卯川殿
500GETおめでとうございます。
音沙汰がくるまでまたーり待ちますよ。
和蘭陀国より留守帰国しましたぁ
褒美に衣服などを贈る場合は肌に近い方が上で、上衣や刀剣は身に付けている物をその場で脱いで(外して)与えるのが厚遇
接待の場では主人が膳を席まで運ぶのが最上で、主人自ら料理はその次
503 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/05/21(土) 17:18:30
ご無沙汰して申し訳ありません。
>>501 私も本多殿に音沙汰があることを期待しています。
>>502 留守様今日は。和蘭陀国に行かれていたのですか。これからもよろしくお願い致します。
なんだか遅くなってしまい申し訳ありません。。(汗
ではでは詮議を始めましょうか。
ただ大臣の皆さん(秋山相国様、六条左大臣様、源内府様、)が急で集まれないようでしたら
幕府=榊原殿
朝廷=藤原政頼殿
院=卯川殿
以上の方々を代理として立てることを許可します。
本多殿、元服後の忌み名も考えておいてくだされ。
505 :
卯川大宰大弐明良 ◆plzvjBAXYs :2005/05/21(土) 17:40:27
>>504 卯川は鎌倉さんに一任 ごめんなさいねん
「武士は食わねど高楊枝」の言葉通り、
武士階層には一種の賤貨思想やヤセ我慢的なものがあり、
金銭に執着するのは恥辱という風潮があった時代、
『貯蓄』に執着し続け通した武士がいます。
あ、けど吉村寛一郎の話じゃないですw。
今日取り上げるのは会津藩蒲生家猪苗代城代、岡左内定俊。
しかし決してよく言われる『守銭奴』的な弱々しい武将ではありません。ではネタです。
彼の貯蓄癖が始まったのは始めに蒲生家に仕えていた頃、
天正三年に武功があり百五十石の武士に出世した頃だと言われています。
暇さえあれば草履を作り、売りさばく。地味ながらも小金を貯めていきます。
上役が「みっともない」と言おうが一向に気にしません。
しかし彼はただのケチンボではありません。
貯めて貯めて貯めて…いざ出陣!…というとき(このときは小田原征伐のとき)に「いざ名を上げん」とばかりに
大金はたいて名馬を買っています。
馬ぞろえのとき、さすがの蒲生氏郷もビクーリして「左内が馬は本日等一等なり。」と激賞して三百石に加増しています。
なんだか山内一豊夫妻のようなことを1人でやってますね。そして見事武功も立て、左内は一万石の大身に出世していきます。
しかしその後、氏郷が亡くなると突如蒲生家を離れて上杉家を頼ります。
直江山城の旗本として給された石高は蒲生家のときの十分の一、一千石にすぎませんでした。
また、彼の貯蓄癖は武家としての誇りを尊ぶ上杉家中では評判がひどく悪いものでした。
それでも周りを気にせずコツコツ貯蓄をして貯めたお金を畳に並べて眺めながらご満悦。
それを見てムカムカする上杉の家臣たち。
何だか嫌なループです。。 (続く)
そんなこんなで
ある日のこと、左内は非番だったので、また自宅で黄金を並べてご満悦。
しかしそこへ急報が来ます。
家中の同役の間で争論が起こり、それがきっかけで二つのグループに分かれて対立、
あわや血が流れるかもしれないような事件が起こっているとのことでした。
それを聞くと左内、急いで現場に駆けつけます。
そして興奮した双方の間に割って入り、一歩も引かず見事な説得をして事態を収めたのです。
しかもあれだけ執着していた黄金を畳に置きっぱなしにしていたことが知れると左内の家中での評判が一気に上がりました。
それから月日が経ち、来たる関ヶ原の役のとき、財政難の上杉家中では金策がうまく行かずに頭を抱えていたものが多かったのですが、
左内は皆が要求する額を気持ちよく貸してやり、しかも主君景勝には永楽銭一万貫を軍費として献上したと言います。
いざ戦が始まれば直江勢の副将として奮戦、伊達勢の部将、木幡四郎左衛門を討ち取り、(本当かは判りませんが)政宗とも
刀を合わせたといいます。
戦後、左内はそれらの功績により景勝から上杉家の名誉である『越後守』を名乗ることを許されていますが、
上杉家厳封と共に家を去り、浪人となります。それを聞いた伊達政宗は3万石で誘いますが左内はそれを断り、
蒲生家に帰参を申し出ます。蒲生秀行もそれに快く応じ、旧地でもある1万石で向えられ、そこで生涯を終えることになります。
それから後も、もちろん左内は貯蓄を続けています。
死期が近づいた際には友人、同朋、主家に多額の黄金や太刀などを贈り、
前述にも触れた貸金の証文もすべて焼いてしまったといいます。
ただの武辺者でもなく、利益追求ばかり考えているわけでもなく…いやはやとてもおもしろい人です。
この他にもいっぱいおもしろい逸話があるので、もし左内を知らない人が興味もっていただければ嬉しいですね。
508 :
武田甲斐守高信 ◆7SvE5zhy4Q :2005/05/21(土) 21:37:32
出仕もままならずに申し訳ございません。
岡左内とは面白い人物ですね。
本当に金の使い道のわかっている人間はなかなかいないものです。
大奥の話
江戸城の大奥は年間の維持費が15〜20万両に達していたそうな。
これはほぼ彦根の井伊家や土佐の山ノ内家に匹敵しています。
細かく分ければ20にも及ぶ階級ですが、ようはお手付きかおきよ(まだの人)かで待遇が変わったわけです。
あまり大奥にくるまでの身分は関係なく、例えば綱吉の母桂晶院は朝廷から一位に叙されていますがもとは町医者の娘です。
家継の母お楽?などは谷中の寺の前の花屋の娘で、墓参りの帰りにでもみそめたのでしょう。
509 :
武田甲斐守高信 ◆7SvE5zhy4Q :2005/05/21(土) 21:45:05
続き
床の中での会話は全て監視役から老中に報告されてました。
これは寵姫が国政に口を出すのを防ぐためでした。
将軍が死ぬと大奥は総入れ換えが行われました。
女性たちは棺桶のなかに自分の髪を入れることを許されました。
家斉など棺桶が髪で埋まってしまいそうですね。
尼になった女性たちは幕府管轄の専用の屋敷に住むか庶民に戻るかを選択することが出来ました。
>女性はパワフル
16世紀には、逆に女性が財産を管理・相続している事、女性から男性を離縁
している事(稀でしたが)、男が女の後を歩くのではなく、男が女の後を歩いて
いる事(状況によるでしょうが)、女性にも酒飲みがいる事が、ヨーロッパ人の
宣教師らに驚かれています。
誇張された面もあるでしょうし、俗人ならさして驚かなかったかもしれません
が、職人絵詞に出て来る様な女性陣のたくましさは感じられた事でしょう。
亭主亭主の留守なれば、隣あたりを呼び集め、人ごと言うて、大茶飲みての大
笑ひ、意見さ申さうか(室町時代の俗謡・亭主元気で留守がいいと云々)
久々にネタ
戦国最強の鉄砲集団、雑賀衆のネタ
まず雑賀衆とは現在の和歌山県、紀ノ川下流域に住む地侍、農民、漁民の総称です。
紀伊の守護は畠山氏でしたが、応仁の乱で畠山氏は徐々に没落。
代わりに土着の地侍らの勢力が強く、さらに紀州北部では「根来寺」や「高野山」
といった強大な自社勢力が存在してました。
さらに雑賀の民らはルイス・フロイスの書簡に「富裕な農夫」と呼ばれたように
「強力な財源」を持っていたんですね。
これについては後に説明しますです。。
さて、この雑賀衆が、なぜ有名になったのか。
それは知る人ぞ知る「織田信長と本願寺の抗争において(本願寺側として)
大活躍した事」の為です。雑賀衆は三千丁とも五千丁ともいわれる鉄砲を
使って散々に織田軍団を苦しめました。
顕如の「頼みまいらせる」の檄をうけて立ち上がった雑賀衆は
「闘って死んでこそ極楽浄土に行ける」と信じ、各地で獅子奮迅の
活躍をみせたのです。
雑賀衆における一向信徒の正確な数は不明ですが、一万前後であったと
推測されます。
信長軍団は石山抗争時には5〜10万の軍兵を抱え、しかもそのいずれもが
兵農分離による「戦のプロ」。
普通に考えると戦力差は歴然のように考えられます。
しかし、雑賀衆には信長に対抗できる2つの武器がありました。
それは全体の半数以上ともいわれる鉄砲保有率と、
抜群の命中度を誇る撃ち手の技量の2つです。
信長軍団が「戦のプロ」であったならば、雑賀衆はまさしく「鉄砲のプロ」
だったのです。
長篠の戦においての信長軍が使用した鉄砲は三千(一説には千)丁と言われて
います。この時の鉄砲保有率は多く見積もって12%。
雑賀衆はそれを超える50%であったと言われます。
なぜそんなに保有できたのか、それは次レスで。。
先見の明をうたわれ、堺(大阪)を通じて鉄砲を買い漁った信長軍団と
比べても格段の鉄砲保有率を誇った雑賀衆。
彼らは一体どこから鉄砲を入手してきたのでしょうか。
この問題を語る上で欠かせないキーワードは「貿易」です。
「紀伊続風土記」などによると、「雑賀五組」のうち、「中郷(なかつごう)」
「南郷」「宮郷」の生産力は確かに高かったようです。
しかし逆に「雑賀荘」「十ヶ郷」の二組の土地は農業向きではなく、
生産力はむしろ悪かったそうです。
そこで出てくるのが「交易」。彼らは琉球(沖縄)や中国などにまで進出し
海外交易によって財源を確保していたのです。
また、この貿易によって雑賀衆は阿波の三好、土佐の長宗我部らの水軍を
持つ大名と交流をもったといわれます。
交易は中世から現代にいたるまで、非常に大きな財源となりえるのは
皆さん御存知でしょう。
このように、海外や他国との交易が鉄砲の大量入手に繋がることになります。
1543年に種子島に鉄砲が伝来したのは教科書などに載っている通りですが、
その年のうちに紀伊出身である津田監物(後の津田流砲術の祖)は種子島の
使い方などを学びました。
そして、当時の領主・種子島時尭から種子島を一丁もらいうけて、
紀伊に帰国。(この監物に関しては種子島に漂流していた、
その年に訪れたなどあり、はっきりしないです)
帰国後、監物は弟・明算がいる根来寺の一寺院「杉之坊」に入る。
その後、根来寺の門前町に住んでいた刀剣鍛冶、芝辻清右衛門によって
鉄砲の試作品を製作させる。
これによって、まずは同じ紀伊の根来寺の勢力によって鉄砲の制作が開始。
さらに、そこから根来寺と交流が深かった雑賀衆の副頭領格、土橋平次を
通じて雑賀にも鉄砲制作技術が伝えられたといいます。
かくして、鉄砲を擁した集団「雑賀衆」が誕生していきました。
榊原殿のネタにもあるように根来や雑賀の人達は各大名からの信頼も相当深かったようですね。
本願寺が雑賀に対し選りすぐりの鉄砲の使い手を「鉄砲よき衆」と名指しして援軍に求めている記述もありますね。
あと個人的になんですが、
伊賀惣国一揆での『伊賀忍(新堂小太郎とか)』や雑賀の『雑賀孫一』等が講談等のネタに良く使われるのは
『弱いもの(とくにこの場合、村社会)への肩入れ』的なもの以外にも
当時の民衆の信長に対する『新世界』への不安がとても含まれているような気がしますね。
あれなんですよね。
フツーの人って歴史はガッコの授業とかでしか学ばないから雑賀衆の存在自体
知らないんですよね(´・ω・`)
肥のゲーム(某は太閤立志伝をよくやってますが)で知った人もいるでしょうが、
太閤立志伝だと忍者(杉之坊明算)とか一般武将(雑賀孫市ら)な表現が多いので
勘違いされやすいんですよね(´・ω・`)
いまだに服部半蔵を『伊賀忍者の棟梁』なんて記している人物辞典もありますね。
『百地三太夫』も実在の人物らしいですが決して『石川五右衛門の師匠』ではありませんしね。
実際江戸初期に『雑賀孫一』『雑賀孫市』を名乗ってる人(鈴木姓や平井姓)がいますが
ぶっちゃけ、やはりネームバリューに惹かれたんですかね?
本当のことはよく判らないらしいんで想像の域をでませんが。
紀州繋がりのネタです。
和歌山藩附家老 水野土佐守中央。
紀州家の江戸家老として藩政を牛耳った『南紀党』のドン。
かの吉田松陰に「関東の二奸」の1人に評され、「一世の豪」と言わしめた人です。
井伊直弼を大老につけたのもこの人です。
この人、今でいう『石油王』的な財源確保を要として地位と財をなしたといいます。
その財源とは紀州新宮(中央の領地、水野藩)の『備長炭』と『鯨油』。
どちらも庶民には欠かせない生活必需品でありました。
そしてその二つの資源を『専売』として江戸輸送したことにより、
水野藩は莫大な利益を上げ、天下有数の富裕藩になったといいます。
商才にも優れ、出世欲、権力欲も旺盛。賄賂には金や進物はもちろんのこと、女をよく使ったといいます。
家中の政争ではそれまで紀州家の実験を握っていた一位老公が没するや、国家老安藤と手を組み、
政敵たちをことごとく幽閉、一気に政権を奪取します。(このころ、政略からか容貌からか『土蜘蛛』とあだ名されています。)
そしてその後、一橋党を追い落とし、紀州家の幼君慶福を将軍に就任させるというはなれ技を演じます。
…と、そこまでは順調だったんですが、井伊直弼は中央の野心を恐れ、幕政への登場を容易に許さなくなります。
しかも1860年三月、直弼が桜田門外の露と消えると、中央の政治的背景も失われ、
これを期に和歌山藩内での勢力にも翳りをきたし、一気に凋落の運命をたどっていきました。
中央の人物を評する意見はすっぱり分かれるところ(嫌われ者パーセンテージのほうが多いような気がします。)ですが、
幕末の混乱期に権謀術数に長じ、機略縦横な策士っぷり。
学問、産業の育成、武芸…と一芸にも二芸にも長けた中央には頭が下がりますね。。
。
すいませんデカイ打ち間違えやってしまってました。
『中央』ではなく『忠央』です。ミス返還をずっと使ってました。。
申し訳ないです。。
ミス返還…×
ミス変換…○
もうだめぽ。。
ちなみに前述の忠央、
>学問、産業の育成、武芸…
…と、ひとくくりにしちゃいましたが
学問の面では江戸の新宮藩邸に育英館、赤坂藩邸には和歌山藩文武館をおこしています。
そして自らも『丹鶴泳草』という著を残していました。
産業の面では和紙の改良、陶器、瓦の製造、櫨の植栽、
武芸はとくに馬術を得意とし、『丹鶴流』なる独得の騎馬調練を創案、西洋の兵式を取り入れています。
いやはや軽く調べただけでも多才すぎますね。。
521 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 01:36:53
>>516 服部半蔵は伊賀忍者衆を配下に持つ、という意味では
伊賀忍者の棟梁といえますが?
雑賀孫一の件については鈴木や平井姓を持つ人物たちの
活躍を集約して作り上げられたキャラクターであって
実在した人物ではないという説が主ですが
>実際江戸初期に『雑賀孫一』『雑賀孫市』を名乗ってる人(鈴木姓や平井姓)がいますが
この部分の出自は?
522 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 01:47:18
>>506 この時代に藩という呼称は使ってないだろう?
>>522 わかりやすいように言っているだけだろうに
>>521 伊賀忍者って名前の通り伊賀に一番多くいるんだけど
藤堂家中の方が多い
525 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 09:54:29
>>522 最初に『岡左内』の紹介文として書いただけです。
そこに至る経緯も書いてあります。
>>507の
>蒲生秀行もそれに快く応じ、旧地でもある1万石で向えられ
ってとこです。蒲生秀行は会津藩の藩祖ですね。
>>521 雑賀のくだりはちょっと何に載っていたか忘れたので見つかりしだいレスします。
服部の件ですが、そもそも当時、『伊賀忍者』なんて呼称が無かったですし、
ましてや三河生まれの半蔵がそれを率いたってのも真実味を帯びません。
伊賀越えで活躍したのも伊賀同心のなったのも『伊賀忍者』じゃないです。
半蔵正成が評価されているのは『武将』としての槍働きですね。
伊賀の場合、土豪や地侍の副業として下の身分の人間を諜報活動に派遣社員として
送り込んでいた…みたいな感じが『しのび』と呼ばれている人達なので、
可能性として半蔵には伊賀に親戚がいて、
優先して諜報活動に長けた人間を借りていたことがあるのかもしれません。
あ、上のレスは某です。
527 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 10:30:53
伊賀忍者とは呼ばないにしても伊賀者、伊賀同心と呼ばれ
永禄年間から半蔵旗下につけられていたことを示した史料もあるぞ。
だいたい半蔵の父保長の出自が伊賀の土豪あがりだろ。
528 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 12:50:59
529 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 14:27:19
「徳川家康と其の周辺(中巻)」 岡崎市編 国書刊行会 「徳川家康・伊賀越えの危難」 川崎文隆 鳥影社
「新訂 寛政重修諸家譜」 * 続群書類従完成会 「徳川諸家系譜(第一巻)」 * 続群書類従完成会
「群書系図部集(第三)」 * 続群書類従完成会 「甲賀郡志(下巻) 」甲賀郡教育会編 弘文堂出版部
「甲南町史」 甲南町史編纂委員会編 臨川書店 「宇治田原町史第1巻」 宇治田原町教育委員会編
「精華町の郷土史(その1・その2)」 生田太三郎・中畔肇 精華町の自然と歴史を学ぶ会
「京都府田辺町史」 田辺町役場編 「信楽町史」 信楽町史編纂委員会編 臨川書店
「新註 近江與地志略」 宇野健一編 藤本弘文館
「三重県史 資料編T」 三重県編 「伊賀町史」 *
「伊賀町地誌要領」 竹島至郎 「定本 三国地志(下巻)」 藤堂元甫・富士林正直 上野市古文献敢行会
「奈良市史11 大和武士」 * 名著出版 「鈴鹿市史 」*
「改正三河風土記(中) 」桑田忠親監修 秋田書店 「戦国人名辞典」 阿部猛・西村圭子編 新人物往来社
「織田信長家臣人名辞典」 谷口克弘 吉川弘文館 「戦国時代街道物語」 中沢正 雄山閣
「歴史の道を歩く」 今谷明 岩波新書
「歴史読本 特集織田信長 真説「本能寺の変」 」歴史読本編集部(1992年12月号) 新人物往来社
「京都事典」 村井康彦編 東京堂出版 「京都乙訓・山城の伝説」 京都新聞社編 京都新聞社
「河内 歴史の古里」 森迫博美 京都法政出版
「木津川歴史散歩」 斎藤幸雄 かもがわ出版 「奈良 大和路の歴史を歩く」 藪景三 新人物往来社
「伊賀・甲賀忍びのすべて」 * 新人物往来社
好きなのを読みなさい。
比較的入手し易いやつだけ列挙しとくから。
>>526 526の書き込みだと『父が伊賀の生まれで自分の旗下に伊賀者と呼ばれた人が組み込まれていたから伊賀忍者の頭領である』となりますが大丈夫ですか?
>>528 「三重県史 資料編T」 持ってるが どこに「服部半蔵は伊賀忍者の棟梁」なんて書いてあるんだ?
元服しました。
中務省
藤原忠定朝臣 今授 正五位下
平成十七年五月二十五日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十七年五月二十五日 宣旨
正五位下 藤原朝臣忠定
宜任 左近衛少将
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
中務省
従四位下卯川明良 今授 正四位下
平成十七年五月二十五日
中務卿
上卿大納言平朝臣景之
式部卿
上卿鎌倉大納言
平成十七年五月二十五日 宣旨
正四位下 卯川明良
宜任 参議
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
当スレを去られても官位はそのままにしておきますんで、いつでもお立ち寄り下さい。
おめでとうございます
あれ?トリップがおかしいな・・・?
スイマセン明日修正します。。
もちろん本人ですよ。。
風魔!
538 :
卯川大宰大弐明良 ◆plzvjBAXYs :2005/05/25(水) 00:21:51
謹んでお受けいたします ラストスパート頑張りますねん
榊原さん ありがとう
謹んで任をつとめさせていただきまする。
本多さんおめでとうござんす 最初から正五位たー さすがでござんす
前左大臣さん 前准大臣さん 相国さん のお子さん登場しないかなーん
秋山さん現役だよ
テスト
卯川新宰相殿、本多左近衛少将殿、ご昇任おめでとうございます。
ともにスレを盛り立てていきましょう。(卯川殿は何時お帰りなのですか?)
久々にネタ行きます。
没落の平島公方とまむし除け
永禄十一年(1568年)二月松永久秀、三好三人衆に擁立され室町14代将軍に擁立された足利義栄ですが、
九月に上洛した信長、義昭に京を奪われ、失意の内に没してしまいました。
義栄の弟義助は阿波平島館にいて復活を狙っていましたが、頼りの三好は滅亡し、長曾我部の支配下に入ります。
長曾我部は公方の所領三千貫を安堵して、権威を保障ましたが、後の蜂須賀支配下では苦渋を極めます。
禄を百石内外に減じられて、四代目(初代を義栄の父義冬として)の義次は、家名を足利から平島と改めさせられた。
蜂須賀はその出自からか、平島公方に全く敬意を払わなかったと云われます。
没落した平島公方ですが、一つのエピソードを残しています。
上記の義次の代に、館の煤払いをしていると、床下から沢山のまむしの死骸がでてきたそうです。
「さすが平島公方様、まむしも威光を恐れて、みんな死んでしまったYO」
これが噂になって、平島公方の館にはまむし除けの守札を求める人が相次いだそうです。
「阿州足利家」と書き「清和源氏之印」の朱印を押したお札が、沢山配られました。
ちなみに下記の呪文を三度唱えると、まむしに咬まれないとの言い伝えがあります。
「くちなが咬まず、はみは咬まず、平島生まれの戌の年(義栄の生年)の男」
没落しても、貴種は貴種。一種の信仰の対象となりました。
変わった褒美ネタ
一風変わった褒美は信長の足半・柿・饅頭が有名ですが、秀吉は伏見地震の折りに加藤左馬頭嘉明に歯を贈っています。
今でも豊国神社に飾ってあります。
豊国神社には行ったことありますが『歯』の話は初めて知りました。
留守殿のご復帰、心より歓迎いたします。
留守殿、新たな門出ということで真田姓になられては?
今の官位がおかしいと思う人達/秋山さん、鎌倉さん、藤原さん、伊達さん、留守さん
秋山さんはネタも出してないし運営も積極的じゃない
鎌倉さんはもうちょっと評価されてもいいと思う
政頼さんは位階だけでもあげてあげないと
伊達さんは出仕しないのにあの待遇はおかしい
留守さんは古参の人だしネタもだしてるから昇任してもいいのでは?
留守は望んで今の位階におりますので、現状に満足しております。
眞田姓に関しては、なんかの折りの褒賞として賜ればと存じます
553 :
藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :2005/05/27(金) 20:03:54
>>551 ありがたいお言葉ではございますが某は最近ネタの一つもろくに出しておりません。
そのような者が昇進などしては他の方々に面目が立たないことは明白でございます。
ついでにage
平島公方家かなつかしいな。明治後は足利に改姓したのだったな。
三管領 畠山家の末からも足利に復姓した例があり、いくらなんでもさかのぼり過ぎだという
意見もあったほどだった。
蜂須賀も、足利の名門 斯波家の末裔を称(自称)しているのにな。
もっと、高く遇したところで国主の権威は揺るがぬだろうに。
伊予大洲に入部した戸田勝成が、旧領主 西園寺家を抹殺したとおり、
旧権威は毒でしかないのか。。名家撲滅反対!
556 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:52:49
おまいらまだやってんだな、まあ頑張れや、継続してれば歴史に残るだろうしな
>>551 たしかに藤原殿の位階を上げたいのは山々ですが当人がなかなか受け取ってくれません…orz
武田殿と共に三戦朝へ使者として赴いたという功績で…とも思っていたんですが。。
伊達殿に関してはいつでも気軽に戻ってこれるように今のままでいいかな、とも思っております。
秋山相国様はこれからまた出仕なされるかも…と淡い期待を抱いております。
某はとくに今のままで不満はありません。
留守殿は御本人のおっしゃるように、あえて中納言から今の采女になりました。
ご復帰されたのを機に眞田姓への改姓と、位階を上げたいと思っております。
558 :
藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :2005/05/28(土) 23:06:01
>>557 位階云々と申されましても、某は昇進する気は余りありません。
某としては必要な場面で必要な行動をすることができるだけでよいのです。
>>藤原殿
必要な場面とは?
>>鎌倉卿
某が必要な場面になったときに必要な働きをすると言うということでございます。
それに某は公卿になる気はありません故、四位で十分です。
某が公卿になると人数比が公卿>not公卿に近づくこともあります故、スレが頭でっかちになりかねません。
>>560 そのためにも世継ぎ制度が重要になりますよね
>>藤原殿
しかし今は公卿であるとか無いとか言うほど人がいません。。
なにより逆に藤原殿が『必要じゃないとき』なんてありません。。
ぶっちゃけ架空の官位なんで、自分の任官した官位見て「あーけっこうネタだしたんだな」とかぐらいに思う基準として捉えていただいても結構です。
某としましては今はネタが豊富なマターリ進行でいいかなとも思ってますんで面白いネタあればよろしくお願いします。
陛下のお言葉をお伝え申す
<全文和訳>
日本史朝廷の皆様 つつがなきや 日頃のご厚情に感謝します
五月も末日になり 先に約束の通り 劉明も帰国の日を迎えるこことなった
二月の末日以来 三年の永きに渡り 貴朝にてひとかたならぬご指導を賜りしこと
厚く御礼を申し上げる
帰国後の愚息の去就に関しては 未だ定まってはいないが
貴朝と我が邦の友好は 変わることがないと思っている
謝謝
日本史官位スレの皆さん 本当にお世話になりましたん
オリをやさしく迎えてくれて 本当にありがとん この御恩は忘れません
調べることの楽しさを 勉強させて頂きましたん
帰国にあたり全ての官職を辞めさせて頂きます 現任一覧の片隅にでもこんなのいたよん と書いといてねん
父帝は書いてませんが どうも母国に席はないみたいです
世界史板でも旅して 勉強しろ と言うことみたいです
卯川コテで登場した時は 厳しく指導してねん
ありがとうございました また遊びに来ます
卯川殿の帰国に伴い卯川殿の位階を三位に進めることを提案いたします。
卯川殿、永きに渡り日本史板官位スレに御出仕くださり、まことにありがとうございました。
位階は残りますので、またいつでも気軽にお立ち寄りください。
そして一時は劣悪だった三戦、日本史両朝の友好に前向きにご協力くださった皇帝陛下にもよろしくお伝えくださいませ。
また、本多殿の提案、
このことは廷臣皆、異論無きものだと判断し、本日、卯川殿を正三位に叙したく思います。
上卿鎌倉大納言
平成十七年五月三十一日 宣旨
正四位下 卯川明良
宜叙 正三位
567 :
武田甲斐守高信 ◆7SvE5zhy4Q :2005/06/01(水) 11:07:02
卯川殿お帰りになられたんですか…別れは寂しいですね。
一つ提案があるんですが、暫くしりとりやりませんか?
といいますのも俺世界史板にもしばしば足をはこんでおりますが日本史板のしりとりスレは世界史板のと比べて説明が少なく少々物足りなく思うのです。
しりとりするついでにその用語について解説をすればネタを出すかわりにもなるかと存じます。
>>武田殿
ご提案ありがとうございます。
ですが、そうなると出したいネタをだせなくなることもあるかと。
そして、その方針でいきなりスレが活性化するとも思えませんので、やはり『官位スレ』としての立場を他スレのやり方に変えるというのは少なくとも某がスレ主を受け継いだ以上は、やりたくない…というのが本音であります。
569 :
武田甲斐守高信:2005/06/02(木) 10:32:50
いえそんなスレの方針まで変えるような大袈裟な意味ではなくてただのお遊びのつもりなんですが 駄目ですか?
廷臣の皆さんが同意するなら構いませんよ。
ただのしりとりなら反対だが、まぁ検討の余地はある。
評定所で実験してみなされ。危惧するのはその話題で流れが出来、
結果として投稿を遮ることにならなければいいんだが。
一応評定開きましょうか?
廷臣の皆さん、評定の間にお越しください。
久しぶりにネタでも書くことにするよ。面白くないかもだが。
戦国時代の戦場用の携帯食についてじゃ。おにぎりなんかが有名じゃね。
いくつか紹介しよう。
芋がら縄
里芋の茎を煮しめて干した物じゃ、そのまま食べてもよしちぎって煮ると即席の味噌汁になるらしい。
長期保存が可能だそうな。普段は荷縄として用い非常時に食べる。
兵糧丸
戦う上で欠かせない成分を練りこんで作った物。
この丸薬を二つ食べれば一日中空腹にならず激しい運動をしても体力低下が起こらないという。
作り方は秘方らしいが米粉、そば粉、きな粉、鰹節の粉末など色々入っている。
梅干水渇丸
のどが渇いた時に取り出して眺めるだけの物じゃ。
唾液が出てとりあえず渇きが治まる、舐めるといっそうのどが渇くので舐めてはいけないのじゃ。
美味しくはなさそうじゃなあ。
保守もかねて
後は干飯などもありますね。
ところで米は2〜3日分の5〜6合をまとめて渡したみたいです。
なぜ5〜6合を小刻に渡したかというと、一升も渡すと酒を作って呑む兵がいたそうで。
576 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 19:38:07
あげ
兵糧の第一は餅ってのが会津松平(保科)家の教えだって見たような?
米は1日1升(雑兵物語)〜4合5尺
東日本は干飯が多く、西日本は炒米が多かったそうです。
餅は腹持ちが良いので評定など会議の前に重宝されていたらしいですね。
579 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:46:33
あげ
お久しぶりでございます。
非常食の話ですか。確か、どこかの城で篭城時に食料に困っても
いいように、城の土壁に食料を入れたと言うのを耳に挟んだ気がします。
581 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 20:52:14
勲六等単光旭日章
勲五等瑞宝単光章
上記の2個もってるんだけど、昔の位にするとどのくらい?
おまえら平民とどのくらい違うの?
582 :
581:2005/06/12(日) 20:58:26
間違えた
勲六等瑞宝単光章じゃなくて、勲五等瑞宝双光章だった。
>>581 ゴミ。永年勤続の保護司とかが貰うレベル。
>>583 少なくとも、真っ当な職で永年勤続できるくらいだから、
2chねらーやニートよりはましかと。
営業とかSEとか派遣じゃ到底無理だし。w
スレ違いは消えろ。
今の俺が三十年だまって大人しくしてももらえる勲章よりも下位だし。
御所の壁紙初めて見た
おまいらの勲位を吟味してやるスレはここですね?
>>587 おまいの勲位を地位に換算すると大統領並といったところか。ひょうたん島あたりのな。
ひっこめ。
591 :
藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :2005/06/16(木) 20:37:06
あげ
まだまだ戦場食を紹介しようかの。
みそ玉
戦場では肉体を酷使するので塩分消費が激しい、塩分とアミノ酸の多い植物性タンパク質の供給源としてミソは重要な物なのじゃ。
みそ玉は数種類のみそを固めた物で湯でとけばみそ汁になる。「みそがきれれば、米無きよりもくたびれるものなり」とたいがいの兵法書にも記されていたらしい。
体内のカリウムとナトリウムのバランスが崩れ、極端に塩分が不足すると無気力になってしまうので戦場では米の次に重要である。
煮干
カルシウムが不足すると冷静な状況分析が難しくなる、このため高カルシウム食は陣中食に欠かせない。
干豆
大豆は脳の働きに不可欠なアセチルコリンの原料となるレシチンを多く含み高タンパクで高カロリー、陣中では干飯の次に重要。
うはっちょっと失敗したのう。
ちなみに下級武士の普段の食事は雑炊が多いらしいのう。
石田三成に使えた下級武士の娘(おあむ)の思い出話を記した『おあむ物語』によると、朝夕は雑炊ばかりだそうな。
兄が山に鉄砲を撃ちに行く時だけは弁当に菜飯を持たせたんだと、じぶんも相伴にあずかって菜飯を食べられるので兄に鉄砲撃ちに行くよう再三勧めたんだってさ。
菜飯はゆでた大根の葉を米と炊いて作るらしい、米があまり入っていない、雑炊よりいいもんだ。
594 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 14:21:55
>>590 世の中、しらねぇなぁ。。おぬし、少なくとも現行体制がある限り、
人間ポストで勲章の等級が決まるもんだ。
若くても、もらえるというのはオヤジの地位を継げるとか、あるいは
出世していくコースが決まっている人間など。
第一、勲五等より上といったって四等だろ、さすがに三等は高いが
大体そこまでは現実的な線だ。
ま、いいわけするでもないんだけど。勲章制度って面白いし、ばかばかしいところもある。
ネタとして理解しとけ。
もちろん、この話は勲章制度が改革されず、また勲章という
ものがジジイになるまで残っていればの話だが、外交上勲章は必要だしまずはなくならない。
人物評価が重視される様になってもポストに対する評価もまた落ちることはないと思う。
595 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:15:38
中納言にしてください。
官位は3位。
596 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:39:47 BE:249523294-
御所の壁紙見せてください
ちなみに御所とは京都御所ですよね?
花の御所と言われた室町でなく東京御所でもなく
京都御所ですよね?
帝は京都ではなく 東京におわすらしい
卯川タソ、釣られちゃダメ!
599 :
間者:2005/06/17(金) 20:08:54
いらんことかくけど、ここより良スレは日本史板にないぞ。
あえて上げるなら「スレ立てる前に質問スレ」くらいか。
まぁのんびりやって下せー。
>>580 城郭における初期の天守閣は畳が敷かれているのが普通でありました。
なぜかと言いますと籠城時の兵の休息所といての役割の他に畳に乾燥させた食物を編みこみ非常食にしたというのもあります。
しかし江戸中期以降に竣工された天守閣は初めから板敷きというのが多いみたいです。
畳を敷くことで維持費は跳ね上がるので仕方がないと言えばそうですが、、、実際に天主に住んだのは織田信長だけらしいし。。
天守閣にどれだけ畳が必要であったかというと名古屋城天守閣では大京間畳で二千三十一畳敷きという記録が残っています。
これだけ敷いても城主が天守に上るのは多くても年に一度位なんですよね。。
602 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:51:26
スレ違い、とっとと消えろ。
叙勲をそれほどありがたがっているのなら、それでいいんじゃね?
603 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:56:37
ちなみに功労章の類は20代前半のうちで3個もらっている。
いまどき、褒章は清掃員の小母ちゃんももらえる。所属が公的機関かボランティア性があれば。
叙勲など八百屋の組合の理事だってもらえるんだな。
消防団員でももらうし。ちなみに余談でいえば団員の中にもニートはいるから、ニートが叙勲されない理由もない。
栄典制度しっかり勉強しる!
物凄く久しぶりのネタ出し(ネタと言うかどうでもいい話)
クジラ来襲!?
1798(寛政十年)の5月1日、品川沖にクジラが出現したそうです。
地元の漁師達は逃がすまいと網を張った船を並べ、追いかける。
クジラも必死に逃げるものの浅瀬に乗り上げ、身動きが取れなくなった。
そこに漁師たちが襲い掛かって撃ち殺してしまった。
当時の鯨漁は紀州で行なわれていたので、江戸の人々の間には評判となり
将軍家斉がわざわざ浜離宮まで運ばせて見物したという。
御所に入れないんですが・・・。。
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との事。
>>603 >団員の中にもニートはいるから、ニートが叙勲されない理由もない。
引きこもって、でてこれないニートが団員として活動できんだろ?
どうやって推薦されて叙勲されるんだ?
>>607 ニ−ト=引きこもりと思ってる馬鹿ハケーン
>>608 アホ。東大の玄田先生の定義からすると引きこもりもニートの範疇に入るぞ。
よく知らんくせにカキコしてると恥じ掻くぞ。
>>609 アフォだなw
ニートが全部引き篭もってるとでも思ってるのか?
街中ブラブラしてるニートもいるんだぞw
>>610 >>609のどこに>ニートが全部引き篭もってる
なんて書いてんだよ?
>>609は>引きこもりもニートの範疇に入るぞ。
って書いてるだけだろ。
何熱くなってんの?
612 :
藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :2005/06/19(日) 20:37:39
ななしさんたちが言葉遊びをして遊んでいる件について。
ニート云々の議論はともかく、勲等談義は一応、官位の類ということで。
不毛な域に達しつつあるのでそろそろしめにしとくが。
消防団のツッコミなので、その点でいえばだが。
ニートの定義で団員活動をしている者を含むことができないのであれば
ニート=団員の叙勲はその時点で不可だろう。
ただ、ニートでもヒッキーとは限らない場合は不可能ではない。
>>611 確かに609では全部引きこもっているとは直接的に言っていないな。
しかし、脈絡からしてそうとるのは自然だ。けして610は曲解していない。
すべては
>>607の「引きこもって、でてこれないニートが…」という発言に対して
指摘している。ここではニートのことが問題になっているのであって、引きこもっているニートという話題を
持ち出したのはあくまでお前。俺等ではない。
引きこもっている話題なんかいつ誰が出したよ。ニート=引きこもりではないんで、
その上、引きこもりの叙勲の可能性なんか最初から話題に出していない。論理のすり替えはお前に原因がある。
少なくとも、ここで明らかにすべきはニートの定義に入る人間が叙勲対象になる可能性
を指摘すべきなんで、引きこもりの概念まで持ち出したらさすがに論理がずれてくる。
ニートだろうが何だろうが、「分団長として十年以上」という最低限の叙勲対象を
物理的に満たすことができればオK。
引きこもりは任務をこなす必要性から部屋湯にこもる人間が消防団員の身分を維持することは困難だが、
まぁ、周りが除外しなきゃ、不可能ではない。まぁ、分団長でヒッキーなんかいないだろうけど。
病気や怪我もありえるわけで、副分団長が補佐する体制を回りが許容すれば、
ヒッキー分団長の叙勲はありえる。そこまで人望があるかどうかはヒッキーとか分団長の地位を離れて
あくまで個人の問題になってくる。
御所がまだ使えないようなので緊急の場合は幕府評定所でお願いしますです。。
多分大丈夫でしょうけど。。。
615 :
前博陸 ◆8rwPJshdek :2005/06/19(日) 22:29:26
御所復旧させました。
御所復旧させたはいいけど、参加者が減ってる。。
限界かなスレとしても。。
参加者が増えることを前提としたスレだしね。
617 :
正六位下京極長門守高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/06/19(日) 23:25:00
頑張ってネタ出し
甲府勤番の恐ろしさ
品行が悪かったり真面目でない旗本・御家人が恐れた処分は甲府勤番だったそうだ。
甲府勤番が制定されたのは柳沢吉保の息子である吉里が大和郡山に転封されて
幕領になってからのことである。甲府勤番は完全な左遷で、二度と江戸の地を踏むのは
不可能とまで言われた。甲府勤番でも勤めを怠れば下部や昇仙峡への転勤を
よぎなくされる場合もあった。
下部・昇仙峡って今のどこら辺なんでしょうか?
木曽義仲の愛妾 巴御前は朝夷三郎義秀の母だが、その朝比奈氏は
今川、徳川に仕え連綿と続いている。
木曽氏は一応、室町幕府からも源氏扱いだが、藤原説も濃し。。
義仲の子孫はおらぬのか。
>>京極長門殿
下部は山梨県下部町で下部温泉があります。
昇仙峡は甲府市の北部です。
>>619 ありがとうございます。
山梨県でも相当な僻地と言うべき所でしょうか。
(山梨にお住まいの方、ゴメンナサイ)
452 名前:前博陸 ◆8rwPJshdek 投稿日: 2005/06/16(木) 21:10:42
予は正式な外交交渉や外国の方をお迎えするための殿舎をここに造営しようと思う。
そこで、名前の公募を行いたいと思う。
六月二十二日まで公募し、六月二十三日に有位者による投票で決定したいと思う。
一人が複数案を出してもかまいませんよ。
という訳なので有位者の御歴々は至急御所評定の間にお集まり願います。。
一応本日二十三時までとなっておりますので。。。
>>621 時間が来てしまいましたので明日の同時刻(午後七時〜午後十一時)と
7時になったので投票の方宜しくお願いします。。。
624 :
天皇朕墓丸 ◆mEq.Fp/iL. :2005/06/24(金) 21:43:06
天罰じゃ〜糞虫ども
↑朝敵決定 征伐せよ。
626 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:10:26
>582さん
また間違ってるよ。勲五等瑞宝双光章ではなく、勲五等瑞宝章か
勲五等双光旭日章のどっちかだよ。瑞宝章は勲一等から勲八等まで瑞宝章
のみで、あとに何も付きません。
故二子山親方に従五位旭日小綬章を授与か。
もとは勲四等旭日小綬章だろ。勲等が廃止されたのは分かるが、
従五位旭日小綬章という言い方するのか?
親方の場合でいえば、従五位の位階に叙せられた上で旭日小綬章を受章
しているのだから、ニュースでやっていた「祭壇には従五位旭日小綬章が・・・」
というのは間違いなのでは?
友人が事故死してしまい色々慌ただしくなった為、しばらく出仕できなくなってしまいました。
すいません。
629 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:31:21
>>626 間違ってるのはお前だよ
瑞宝章にも大綬章から単光章まであるよ
俺は今の職場で上り詰めても瑞宝中綬章までしか貰えんがなorz
631 :
永井尚志:2005/07/01(金) 05:30:54
くっくっく。
ついに余の野望が果たされたわ。
このスレも過疎化して事実上の廃止じゃのw
あの時、余をだまって親皇にしておればよかったものをw
氏んでこいや。
スレが機能していない点について。
徐目は年2回。
のんびり、まったり進行すればよろしいかと。
1スレを一年に見立ててみるのはどうでしょう。
スレ主殿や大臣・公卿に負担がかかり過ぎるように思います。
ですよね。
大臣の仕事が軽くなっているような気がしたもので。
age進行開始
新しい参加者が増えないことには…。
何かよい案はないものか…。
ななしさんに聞いてみたい。
コテハン同士の馴れ合いがひどいから
ななしはカキコするのをためらってるんジャマイカ?
>>642 そうですよね。
本来はななしさんを中心とした流れの中で官位を‥という話になるのが普通なのかもしれません。
人目につくようにあげとこう。
645 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:07:27
この際永井に預けてみれば?
>>645 俺もそれしかないと思う。
正直永井は人を呼び込む力はあると思うし。
奈々氏である以上、おまいが永井であるとしか思えんが。。
もう、600台、ここらで切り上げるのも手だと思う。
有志がいれば、復活の兆しもあると思うけど。
俺も昔はいたけど、やっぱ波ってものがあるよね。生活にもネタにも。
根本的な要因は個人の事情と、あまりに長期化したことにある。
648 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 01:35:53
人を呼び込む力ってさぁ…
根拠がないよね。盛り上げるのと、荒らすのでは根本的に違うだろ。
一時的に人が来ても、短命に終わったらそれまでだぞ。やることの意義が
はじめからない。あいつにやらせるくらいならいっそ…というところだ。
呼び込めばいいってものじゃないだろ?荒らしには変わりないんだから。
官位スレはそれでなくとも、人の目をひくんだから。評判だって
二分しているしな。
649 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:22:43
な
650 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:27:15
れ
651 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:30:16
あ
652 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:30:29
い
653 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:30:43
や
654 :
ニャルフ ◆wFunYEnlco :2005/07/07(木) 02:58:19
日本は晴浪なれど波高し…(意味:日本は平和だが、少しづつ進路を誤り始めている)秋山信之参謀の言葉を引用し手を加えました
朝廷に仕えさせてくださいお願いします
>>647 少なくともおいらは永井ではないよ。
>>648さんが言っている通り荒らしと人を呼ぶ力は違うけど
やっぱりこのままこの官位スレを終わらせるのはもったいないと思うんだよね。
だったら最後の悪あがきとして永井に宣伝をお願いするとかさ。
まぁ永井がこのスレに来なくちゃなんにもならないけどさw
656 :
647:2005/07/07(木) 11:16:26
当面、先立つものがないにせよ、ニーズがあるのなら
余力だけは温存しておくのが、賢明だと思うけどどう?
歴史のスレなんだし、歴史に学んで捲土重来を期すのも
手だと思うけど。
悪意の宣伝をすれば短命かつ、評判を落とす。
ダラダラ続けるだけが能ではない。少なくとも、人頼み
はいかんのだと思うな。奴だけが栄えて、俺らが
つられてノるわけ?俺等の自主性の問題でしかないと思うけど。
ましてね忙しいネタ切れなどの事情だけはどうにもならんし。
やっぱり、波はあると思うよ。ここは一旦うちきって、御所だけ
温存しておけば、2chに復帰も可能だ。それだけの発想と労力がない
うちは基礎体力をつくる方が先じゃないかな。
秋山信之?
善哉善哉、まったりとやるがよかろうぞよ。
スレ上層部の反応がない…
そのせいか僭称のレベルが低くなってる
これは政頼殿、久しぶりじゃな。
殿下もいないし鎌倉殿もいないし…
公卿の方々も最近は見ないし…
スレとしては機能を全く果たしてないし…
変なのも居るし…
御所に参内してみよう………
御所に賊が入ったみたい…
欝だ………………………………
ななしさんの意見を取り入れる立場の人たちが居ない……………
欝だ………………………………………………………………………………
某は四位な上に散位だからどうしようもないし……………
ひとまず、ななしさんのご助言は某が必ず上に伝えまする。
664 :
永井尚志:2005/07/07(木) 20:31:15
まろの話題がでているでおじゃるなw
良いでおじゃる、これからこのスレは永井尚志にまかせてたもう。
ほっほっほ
665 :
従三位内府 鷹司朝臣惟麻呂 ◆sJumk.I3Cg :2005/07/07(木) 20:34:42
>>664 それが一番の豊策かと思われまするにや、麿も賛成でおじゃる。
従三位で内大臣とは結構な家格ですね。。。
コホン、いやなんでも。。
>>中納言殿
誰だかわかりませんがその嵐は差し詰め知識がないのでしょう。
669 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 03:55:39
でも永井の話題が出てからスレが伸びたのは事実・・・
皆様初めまして!!先日元服した姉小路 基綱でございます!!
不慣れでございますが、日本史ネタをご紹介したいと思います。
まずは江戸時代屈指の豪商・鴻池善右衛門のルーツについて・・・
善右衛門は最初、酒造業で財をなしその後は大名貸しを中心とする金融業にも
着手して豪商へと成長し現在まで至る。(鴻池グループ)
そのルーツをたどると七難八苦で有名な山中鹿之助に行きあたります。
鹿之助は上月城の籠城戦で敗北後、吉川元春によって護送中に斬殺されましたが、
彼の二男一女は無事だった。
この内、長男の新六幸元が初代・鴻池善右衛門の父親となるのです。
父の死後、摂津国・伊丹の鴻池村に逃れてきた幸元は、元服の際、鴻池を名乗った。
以後、武士を捨てて商業で身を立てることを決心した幸元は鴻池村で酒造業を営み、
慶長五年・1600年に清酒の醸造に成功。豪商のきっかけを掴んだ。
この次は加山雄三の先祖が岩倉具視!?をさせていただく予定です!!
基綱「これからもネタがあるかぎり出していきたいと思いますので・・・
え〜、非常に言いにくいのですが・・・「飛騨守」の官位を・・・
是非ともほしいなぁ〜と・・・よ、よろしくお願いします!!(笑)」
飛騨守というと六位でつね。
もう2、3ネタを出せばほぼ確実に叙任されると思いますよ。
>>671 初めまして!!飛騨のど田舎から来ました姉小路基綱です。
関白様が居られる時にでも改めて挨拶させていただきます!!
ネタは5つほど用意していますので・・・ニヤッ!!(まずは飛騨守、そして侍従ぐらいに
その後は・・・晴れて位人)
それは楽しみなことです。
ネタ投下待ってますよ。
>>673 それではお言葉に甘えて・・・
後世に語り継がれている木曾義仲四天王の一人に樋口兼光(?〜1184)がいます。
義仲と共に義経らと戦って近江・粟田口で敗死しました。
兼光死亡後も家系は続き、上杉家の重臣・直江(旧姓・樋口)兼続は子孫の一人です。
また、五千円札で有名な女流作家・樋口一葉も兼光の末裔であるといわれます。
基綱「これからは政頼様と懇意にできれば嬉しいかぎりです。」
またまた、振っても何もでませんよ(笑
御所の方は誰もいないみたいなので暫く待って下さいな。
>>675 気長に待っておるつもりです!!(笑)
政頼様にお聞きしたいのですが、ここではどの時代まで語りあえるのでしょうか?
さすがに明治時代の事を語るのは・・・ダメですよね?(笑)
大東亜戦争前か戦争中までは大丈夫だと思います。
>>677 卑弥呼の時代から昭和時代まで大丈夫ってことですか・・・(笑)
ありがとうございます、また皆さんが集まることを期待して待っております。
(1日も早く飛騨守護職と中納言くらいの官位を手に入れたいなぁ)
>>672 残念ながら関白は空位です。。。
あと叙任はスレ主である鎌倉大納言卿が行います。。
ですがいろいろ事情があるみたいで暫くいらっしゃられないかも知れません。。
というわけで気長に宜しくお願いしますです。。
>>678 守護職というのは幕府の役職ですので官位ではないです。。
飛騨守(朝廷の官位)≠飛騨守護職(幕府の役職)
>>679 は、初めまして!!飛騨国出身の姉小路基綱でございまする!!(うへぇ〜中納言様だ)
助言ありがとうございます!!右も左もわからぬ田舎もの故、失態(失言)があると思いますので
その際はよろしくお願いします。
それにしても中納言兼中将の位とは・・・(早くその地位になりたいなぁ)
不肖この基綱、政頼様と同様に康長様とも懇意にできれば幸せです!!
いえいえ。。
このスレで官位の上下関係なくお互いに学びあえたらイイと思います。。
筋斗雲を自在に操り(苦笑) 一時来朝の卯川でごんす
当面 我が朝 日本史朝を瞬間移動し ネタ出し参加をさせて頂きますん
(くれぐれも申し上げるが 一時来朝ですから 官位はいらないですよん)
>>670 姉小路殿 初めましてん 期待のホープですねん
頑張って下さいん
(どこかでお会いした様な…)
僭越ながら申し上げますん ネタが官位に見合う場合は 迅速なるご対応の程をん
小ネタですん
人を運ぶ牛車は ご存知の通り 平安朝で盛んでしたがん
(桜井小立古墳で七世紀後半の最古の車輪が出土し 牛車では?と言われていますが)
江戸初期には 荷物を運ぶ牛車や馬車が一部ではあったもののん
殆どが馬の背や牛の背に荷物を積んで運んでいたようですん
大八車ってありますよねん
これが考案される切欠になったのが 明暦の大火(明暦三年 1657年)だそうですん
江戸復興の為に 沢山荷物を運ばねばならないん
そこで 芝の車大工八左衛門が考案し みなが飛びつき 普及したんだそうですん
もっとも寛文の頃考案され 八人分の代わりになる 代八 大八車という説もあるみんたいですがん
本スレの廷臣、幕臣に対し明日午後四時までに御所の評定の間に参内することを呼びかける。
参内しこれからのスレの方針について何か良い考えがある者は述べてほしい。
それを受けスレの今後について決めたいと思う。
>>姉小路殿
速やかに叙任の手続きに入らせていただきます。
あ、上記のは宮京御所霞ヶ殿内での前殿下のお言葉からの抜粋です。
686 :
藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :2005/07/09(土) 17:13:45
ついでにあげとこう
>>682 初めまして!!飛騨国出身の姉小路基綱でございまする!!
筋斗雲を自在に操り…筋斗雲とは何でござるか?(笑)
私めも卯川様とはどこかでお会いしたような気が…。
>>684 ははっ!!叙任に必要なネタを今日か明日中に2・3書き込みさせていただきます!!
あと我が同士にも参加を呼びかけてみますので、そちらのほうも期待して下さいませ!!
霞ヶ殿って何すか・・・?
>>688 こんばんは、中納言様!!
それではネタを…
俳優の加山雄三の先祖をたどっていくと、明治の元勲・岩倉具視に行き着きます。
加山雄三の母親は女優の小桜葉子。本名を具子と言います。
この葉子(具子)の父親が岩倉家に連なる岩倉具顕です。
具顕の父親は岩倉具定、具定は岩倉具視の次男です。
整理すると岩倉具視→岩倉具定(具視の次男)→岩倉具顕(具視の孫)→
小桜葉子(具子)→加山雄三という流れであります。
基綱「叙任(飛騨守)の件、なにとぞ…なにとぞ〜!!」
スレ主の従二位行鎌倉大納言平朝臣景之 ◆FYiXlX6Jvk殿から文が届きました。。
姉小路殿、始めまして。鎌倉と申します。
勝手ながら私事にて現状出仕がままなりません。
今月中には復帰できるようにしたいと思っております。
叙任に関しては某不在の場合は各大臣様方の協議において決することになっておりますので
引き続きネタ投下をお願いしたく存じます。
それでは今後とも宜しくお願いします
>>690 基綱「ははっ〜!!大納言様に一日でも早くお会いできるのをお待ちしております!!」
それではネタを1つ・・・
聖徳太子との強い繋がりをもっていた「秦 河勝」について。
秦氏は古代日本の渡来系帰化氏族の一で、中国の秦の始皇帝の子孫を称しています。
秦 河勝は七世紀頃に現れた族長的人物です。
推古天皇の御代に廐戸皇子(聖徳太子)の近侍者を務めて広隆寺の建立に力を尽くしました。
その秦 河勝の子孫に忍者の元締めである服部氏、大和の長谷川党、戦国時代に四国の覇者となった
長宗我部氏などがいます。
さらに、秦氏は歌舞音曲にも縁が深く、能の観世氏や金春氏、宮中の伎楽の楽家である東儀氏(現在も有名)も
秦 河勝の子孫と言われています。
また、農耕神を祭る伏見稲荷大社や、酒造の神として知られる松尾大社の創建者も秦氏です。
基綱「皆様の談義が再開するのを心待ちにしております。」
692 :
藤玄隠 ◆eENusiPA8M :2005/07/11(月) 22:57:05
上卿従一位前関白藤原朝臣忠則
平成十七年七月十一日宣旨
藤原基綱
宜叙従六位下
並
宜任飛騨守
>>692 基綱「ははっ!!ありがたき幸せでございます!!叙任の儀、謹んでお受けいたします。」
皆様も御存知と思いますが姉小路について改めて・・・
藤原氏北家流。藤原師尹のとき姉小路を称する。建武新政期に飛騨国司に任じられたといわれ、
南北朝期以降では飛騨守護と対抗状況にあった。
天文・弘治の頃(1532〜1558)、姉小路氏は絶え、有力国人の三木氏が同氏の名跡を継承した。
三木氏は守護佐々木京極氏の被官という。
三木(姉小路)良頼は永禄五年(1562)に従三位、翌年「参議」に任官、また子の自綱も同六年「侍従」に任官し、飛騨国司家としてあった。
甲斐武田氏や越後上杉氏の勢力の侵攻を受けるも、尾張織田氏と結ぶことにより飛騨国内を統一を進め、
天正十年(1582)に江馬氏などを滅ぼし、飛騨一国をほぼ統一した。
その後、越中佐々氏と結んで羽柴氏に敵対したため、天正十三年に羽柴氏の武将・金森長近の攻撃を受け姉小路氏は滅亡した。
基綱「若輩者ですが今後とも宜しくお願いいたします!!」
(姉小路飛騨守基綱…くぅ〜官位と名前の絶妙な組み合わせは何とも言えない)
694 :
佐竹右京大夫源重隆 ◆lr.SvCnhCc :2005/07/12(火) 16:58:12
>>693 姉小路殿初めまして、そして叙任まことにおめでとうございます。
私も久しく顔出しをしておりませんでしたが、廷臣の一人であります。以後よろしくお願いします。
それにしても、叙任時にネタ書き込みとは素晴らしい!
すぐに抜かれてしまいそうですね。
今後のご活躍期待しておりまする。
>>693 秋山将軍太郎氏長と申す。今後ともよろしくお願いいたす、姉小路殿。
姉小路殿の官位スレ参加は心強いかぎりでござる。
せっかくなのでネタを
以前に同じようなネタが出てる可能性は大きいのだが・・・・・。
戦国の鬼を紹介しようかと思う。
鬼の異名は戦場で人並み外れた活躍をした者に付けられる事が多い。
新納忠元・森長可・・・鬼武蔵
佐竹義重・・・鬼義重
本多重次・・・鬼作左
戸沢盛安・・・夜叉九朗
原虎胤・・・鬼美濃
馬場信房・・・不死身の鬼美濃
波多野宗高・・・丹波鬼
籾井教業・・・青鬼
丹羽長秀・・・鬼五郎左
柴田勝家・・・鬼柴田
とまあ他にもまだいるけどこのくらいにしておこ。
丹羽長秀は鬼って感じはしないなあ。以上軽ーいネタでした。
>>694、
>>695 基綱「は、初めまして!!飛騨国出身の姉小路基綱でございまする!!(ドキドキ…)
重鎮の御二方に声をかけてもらい…(ドキドキ…)え〜痛恨の…いえっ感激の極みでございます!!(動揺)
じゃ、若輩者ですが何卒宜しくお願いいたします!!」
少し世界史(三国志)ネタになると思いますが・・・
秦氏と同じく渡来氏族の東漢(やまとのあや)氏について。
五世紀末に都加使主が加耶から渡来してひらいたと言われます。
東漢氏は大伴氏ついで蘇我氏と結んで成長した。
そして、坂上・大蔵・東文など多くの氏に分かれました。
蘇我氏は本家が滅亡したとき、東漢氏の勢力は一時的に後退するが、朝廷がかれらの先進文化を必要としたため、
東漢氏系の人々は様々な場面で起用されました。
壬申の乱で東漢氏の兵力が大きな働きをし、そのため、東漢系の諸氏は天武朝に忌寸姓をもらい、朝廷の中級官僚として
幅広く活躍していきます。
その東漢氏の先祖が中国の第11代後漢皇帝・霊帝の子孫と言われています。
>>697 姉小路さんおめでとうござんす
でも面白くて飛ばし過ぎないでねん
しかし本当に大物新人でごわすな
>>698 基綱「はい!!新参者ゆえ、暴走を少々してしまいました…(笑)
今後は落ち着きを取り戻して?(笑)頑張ります!!」
東漢氏の子孫で有名なのが坂上田村麿だね。
あと、蘇我馬子の命で時の天皇を殺したのも東漢氏の一族だったような。。
>>700 基綱「初めまして!!飛騨国出身の姉小路基綱でございまする!!
まだ、皆様の名前を把握できていないので1日も早く覚えたいです!!」
皆様、お久しぶりでございます。ネタ無いですが一応顔出しでも。
姉小路殿の成長が楽しみですな。精進して下さい。
(ん…。最近こんな言葉使っていないから変だな…。)
703 :
征夷大将軍従一位六条左大臣源義立 ◆7TFwpvkt0s :2005/07/13(水) 02:21:15
姉小路飛騨守殿、頑張って下され。
今日、工事現場の横を通り過ぎたら、甲斐源氏の●宗我部という姓の人が
工事責任者だった。(●の中は長じゃないよ)
名字四文字って大変だろうね。テストの時とか。
と・・・思った今日この頃。
>>702、
>>703 基綱「初めまして!!飛騨国出身の姉小路基綱でございまする!!
(すいません、毎回同じ自己紹介で…)
せ、征夷大将軍様と本多様のありがたき御言葉、この基綱…ただただ嬉しく思います。
これからも精一杯頑張っていきますので宜しくお願いします。」
705 :
新皇永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :2005/07/13(水) 12:52:59
朝敵が入り込んだようですな。
>>697 東漢氏ですか…何やら感慨深いですねん
東漢氏は百済系の製鉄技術 機織 須恵器の技術をもたらした事が有名ですがん
文書記録や財政なども得意とし 算術に秀でていたと言われていますよねん
>>696 >籾井教業・・・青鬼
赤井直正も、赤鬼と呼ばれていた様な。
中世後期(特に戦国期)に目立ちますが、それ以前の鬼は変幻自在の存在で
あったのが、図像イメージが確立されて却って恐怖が薄れ、喩えにも使える
様になったのでしょう。狂言「朝比奈」が出来たのも、この時代です。
毘沙門天なども、狂言のネタにされており、顕密仏教の権威も過去の話。
>>707 その当時の百済系氏族の族長的立場にあったのが「百済王氏」と言われています。
百済王氏は百済国義慈王を祖とし、舒明朝に来日、白村江の戦い以後日本に永住したと言われます。
>>708 初めまして、姉小路基綱でございます!!今後とも宜しくお願いします。
すいませんが
>>705殿には挨拶をしたほうがいいのでしょうか?
朝敵と言われてますが…新参者なのでそのあたりがよくわからないもので…(笑)
>>708 お話しするのは初めてですね山野殿、今後ともよろしくお願いします。
赤井直正も赤鬼ですね、鬼と呼ばれていた方は他は多いので大変なので割愛しました。
丹波は鬼と呼ばれた人が3人もいるんですね、それだけ激戦地だったということでしょうか。
波多野宗高は正親町天皇の即位式で洛中を警護したり、確か合戦の調停をしたりと武勇だけの人ではないんですね。
>>709姉小路殿
その方には挨拶しなくていいです、朝敵ですから。
711 :
新皇永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :2005/07/13(水) 21:31:15
今の我への対応で姉小路飛騨守基綱 は
コテの自作自演であることは明白である。
あえて言うなら藤原政頼の辺りの一派であろうなw
嵐の戯言は聞かぬことが寛容だけど強いて言えば…永井の推測は早速外れたわけだが。
コテの間の信頼関係を崩そうと必死な永井がいる件についてw
まあ永井が一番糞コテなわけだが
永井は可哀想な人。
>>709-710 よろしくお願い致します。
>波多野宗高は正親町天皇の即位式で洛中を警護したり、
織田信秀といい、朝廷と各戦国大名の関係は、興味深いものです。
『言継卿記』は、純粋に読み物としても面白い。
おもしろそうなスレですね。
はじめまして。
これからこのスレに参加させていただきたいのですが、
このスレはどのようなことをすればよろしいのですか?
日本史に関するトリビアのようなものを、
出せばよろしいと解釈していいんでしょうか?
名無しがお答えします
面白い日本史ネタ、トリビアみたいなものを出すと官位もらえるよ
「トリビア」の定義が難しいですね。
例えば、ここでは、
比叡山の焼き討ちはなかった。
というのは常識レベルなんですか?
>トリビアみたいなものを
岩波文庫本『日本書紀』の注釈(他に家永三郎、大野晋、坂本太郎が参加)、
『日本浄土教成立史の研究』などで知られる井上光貞先生は、
井上馨の孫(正確には、祖父が井上卿の甥で養子)。井上馨自身、宋の徽宗
の『桃鳩図』などをコレクションしていた目利きでした。
井上先生も、世が世なら侯爵樣。桂太郎の外孫でもあります。
ネタについては上の方をちょっと見てみてください
>>718 >比叡山の焼き討ちはなかった。
少なくとも、横川では焼け跡は発見されませんでしたね。
ただ、当時既に生活の場は坂本に移動しており、当地で虐殺行為が行われた
という説もあります。なお、信長は後で気にしています。
虐殺自体ではなく、鎮護国家の寺院を焼いてしまった事を。
なるほど。
すごくレベルが高いのですね。
私は戦国しかわからないので、あまり貢献できないかもしれないです。
>>721 まさしくその通りです。
虐殺行為自体は行われたらしいですね。
あと一部寺院を焼いたのも事実でしょう。
信長が気にしているというのはどのソースに載っていますか?
『兼見卿記』元亀四年(1573)四月一日条
「亡父(兼右)云、南都相果之時、北嶺可破滅其分也、然者王城之災歟、
此義慥申乎、直可有御尋之由也(中略)即有対面而云、亡父事達文学、
惜人也、次右之条御尋也、答云、南都北嶺相果之間、可有王城之祟之由
連々申也、但無書裁文書義者歟申、信長、尤寄特也、今度洛中放火治定也」
南都は興福寺とする説明もありますが、松永の放火した東大寺でしょう。
これまた、鎮護国家の寺院。両者が消滅する事によって、今度戦の為に洛
中に放火すれば、(都=日本の)再興が叶わないのではないか。
それを気にして、問い詰めたのでしょう。
それは比叡山の焼き討ちに関してではないですよね?
信長は自社であろうと政治・軍事に介入しなければ存在を認めていたはずです。
本願寺との合戦も本願寺側から売ったけんかですしね。
もし『兼見卿記』に記されているように、信長が気にしているとするのであれば、
当時、信長は天皇の気持ちを慮ってそのような発言をしたのではないでしょうか。
信長が日本全土の再興まで考えていたとは思えませんし。
また都のみの再興であるならば、信長の経済力を考えれば、叶わないなどということはありえないでしょうしね。
まぁ、このあたりは、見解の相違でしょうから議論しても仕方ないですね^^;
名前が信成なのは中の人が信成だからか?
>信長は自社であろうと政治・軍事に介入しなければ存在を認めていたはずです。
ええ、寺社勢力自体を認めなかった訳ではなく、反抗的なものを対象としていましたね。
>それは比叡山の焼き討ちに関してではないですよね?
「南都北嶺相果之間」とあるのですから、現状を慮ったのでしょう。おそらく、後にな
って「無書裁文書義者」話を聞き、糾問したのでは無いかと。
>信長の経済力を考えれば
その発想が、既に近代のそれです。鎮護国家の寺院や仏といったものは、十万億土の
彼方の仏とは異なり、直接日本の国土にいて守護してくれる存在とされていた訳です
から、その存在が無くなった以上、「国土滅亡」の危機は高まる。
物理面だけではなく、「冥」の世界への視線、「冥」からの視線が注目されていたのが、
中世です。ただ、中世といっても最末期ですが、方広寺の大仏にしても、豊臣〜徳川
政権からは、東大寺同様、鎮護国家の存在と見做されていた様です。
地震で大仏が崩壊した後、善光寺の阿弥陀如来が移動されていますが、あれは日本最
初の仏像とする伝承があった筈で、その霊験を大仏に相当したものとして恃むという
意識もあった筈ですよ。
いくら物があっても、「冥衆」の援助が無ければ、国土の災害は鎮まりません。
>まぁ、このあたりは、見解の相違でしょうから議論しても仕方ないですね^^;
ただ、あなたのこの発言は賢明なものと思われますので、ここまでと致します。
728 :
織田信成 ◆FeFanRQiVI :2005/07/14(木) 12:58:57
>>726,727
見方が違うと考え方ってすごい変わるんですね。
色々と参考になりました。
ありがとうございます。
山野殿にぜひ位階だけでも…
むしろ、早々に叙任の沙汰が無いのはなぜにあらしゃろうか。
スレが持ちなおしてきたのかな。
でも楠木さんとか細川さんがいないのが残念です。
一応、楠木さんのため橘氏長者は今後空席にしたいものです。
スレが過疎化したらたいしたネタふりがなくても叙任されるのに
順境だったら叙任されない。
このあたりがコテハン同士の馴れ合いと言われる部分では?
>>730 山野殿の知識から言って叙任は当然のことだと思いますよ。
>>730 今までにどれだけ貢献したと思って(ry
今までに叙任されてないことがおかしいと
>>730は言ってんだろ?
>>728 今後とも、よろしくお願い致します。
位階については、ご随意に。「大鳥も小鳥も、逍遥する事同じ」ですので
(東寺観智院本『世俗諺文』)。こちらに逍遥させて頂いております。
さて、今日は宵々々山でしたが、祇園感神院は八坂神社と改称され、仏
教色は無くなったものの、祇園会は続いております。御一見を。
祇園天神(牛頭天王)を祭祀対象として、平安中期に始ったものです。
「御霊会」については、『枕草子』にも記されており、振幢及び馬長の記述
が存在します。また、「散楽空車」が神輿に付いて回っていた様ですが、
その形態は不明。
中世に描かれた『年中行事絵巻』、『鳥獣戯画』には、山鉾は出て来ません。
ただ、武器としての鉾は数点確認出来ており、これが現在の「鉾」の起源と
考えられています。
それでは、現行のイメージに繋がる「山鉾巡行」の成立は何時か。
永和2年(1376)に、「高大鉾」の下敷きになった老尼が圧死しており、
通常は、この頃より車輪を付けた「鉾」が登場するとされています。
これにも異論がありますが(武器状の鉾でも打ち所が悪けりゃ死ぬ、など)、
少なくとも、上杉本『洛中洛外図屏風』のそれは、現代のそれとほぼ同じ形
態をしており、復興前の15世紀末には、原形があったのではないかと。
巡行するのは、山と鉾(ほこ、濁らない)の二つ。「山」の方も、14世紀
には確認されており、やはり車の形で出していたと見ていいかもしれません。
機能の違いについては、山を依り代と見做す説もありますが、当たり前過ぎ
る気もしますので、下手な詳述は避けます。
735 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 01:16:26
山野のオナニーすげえ!
皆の衆、ごきげんよろしう。
737 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 11:12:38
あげ
>>710 秋山様が波多野宗高について語られたので、自分も波多野氏について1つ…
秀郷流藤原氏。相模波多野荘(現・秦野市)が本領。
保元の乱には義通が義朝の家令でしたが、その子義常は石橋山合戦で頼朝に
敵対して、自刃。
その子有経以降は幕府御家人だったが、鎌倉中期以降は丹波などに移住し
後に明智光秀に滅ぼされた。
庶家に八上・氷上・秦野・日下部・多紀・松田などがあり、江戸幕府の旗本に
なった者もいたそうです。
なお「秦」ということから大陸渡来民という説もあります。
基綱「暑くて意識が…も、もうだめかもしれませぬ…(泣)」
三戦にて官位スレやっておじゃる九條いう者におじゃる
三戦の源流を遡衍すんのも趣あることやと思いたち罷り越した次第
波多野言えば隻眼の驍将波多野義重を思い起こすでおじゃるが
その子孫は越前にもおじゃって、信憑性はともかくも今でも存続しておじゃる
「越前国城跡考」や「日本城郭体系」に見ゆる波多野館跡は現在でも
子孫とされる波多野某氏の所有におじゃるよ
また戦国期には朝倉からの入嗣がおじゃり、「日下部系図」における波多野氏あるいは
「朝倉始末記」には刀禰坂で戦死したものに波多野道景が見えるでおじゃる
三戦板に立つ官位スレで本朝の承認を受けたのは三戦朝のみである。
従っていくら本朝を源流と仰ごうが承認することはできないだろう。
はて 麿がここに窺がったのは承認を得るためやないでおじゃるが・・・
というか いつから三戦は日本史板の承認を得なあかんくなったのか
ようわからんでおじゃるな
本朝の決まりだから。
官位スレが乱立して質が下がり官位スレの評判が下がるのを防ぐため。
承認するに値すると判断すれば本朝から使者が赴く。
すなわち、外交関係成立。
承認云々は言い換えれば外交関係が有るか無いかということ。
本朝が承認をしていないところが他板や他スレに迷惑をかけても本朝に関係なしということでもある。
外交関係が有れば相手の官位スレの官職を本朝で名乗るのも許される。
日本が台湾を国家として認定していないように、本朝では貴国を主権ある官位スレとして
とらえていないということ。スレを立てるのは自由だが、本朝にも弊害が及ぶようならその限りにおいて
抗議する権利があると心得られい。まして、他人のアイデアということを認めたうえで官位スレを営まれる
のなら、なおさらのこと。
なにやら揃いも揃って えらい物々しい雰囲気におじゃるな
日本史板で過去になにがあったんかは麿は知らぬし
三戦官位スレの
>>1がどういう意図をもってスレ立てたのかも知らぬ
歴々の言から察すると 過去に他板の官位スレがここに何らかの迷惑をかけたんかと
勝手に邪推致すが それならそれ相応の説明なり何なりがあって、ゆえにどういう方針かと
言って頂いてもばちは当らんと思うがいかがにおじゃろう
それを端折って頭から「あなたは日本史板の承認を受けられぬ」だの
あるいは日本史が頂点であるのようなルールを突然押し付けられても麿やのうても
ただ相手をびっくりさせるだけでおじゃる
礼節に欠く印象を相手に与える対応は 四海に敵しか作らぬだけにおじゃるよ
どのような経緯があったにせよ それだけ敏感に反応するのは
それなりの事情があってのことじゃろう 迂闊に立ち入った麿にもし非があらばお許し下され
748 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 00:51:29
糞スレ晒しage
749 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 06:36:33
正二位吐紀喪男多大臣
>>746 まあ・・・こちらも色々とあったのですよ。。
>>九条殿
物々しき扱い大変申し訳なく存ずる。
貴朝が荒らしの可児を受け入れたことや三戦朝の荒らしのことなどでピリピリしているのは事実です。
本朝で貴朝を承認できない理由は
一、荒らしがはびこっている。
これに尽きます。
>>751 日本史板おまいら官位スレの荒らしと思われる、朝敵 永井尚志が
三戦板室町幕府スレを侵犯し、皇帝僭称と言う大罪を犯しましたので
帝の勅命により彼を拘束しました。彼は処断致しますので、今後とも
荒らしが跋扈しない様にスレの遵守に徹したいと存じます。
御スレへの上奏文
これはご丁寧に。
永井が本スレで朝敵になって久しいですが、三戦板で皆に迷惑をかけているとは…
九条殿はしっかりとした方に思いますれば貴朝の発展も楽しみです。
>>753 素早い返答。有難く存じますれば、我が室町官位スレでも朝敵となさるよう
九条殿に上奏致す次第であります。
貴朝が決まりごとなどを決め国としての形が定まりますれば、対荒らし協定を結ぶのはいかがでしょうや?
三戦板には三戦朝がありますので日本史朝は貴朝と正式な国交を結ぶことはできませんが、協定ならば結べると思います。
これについては他の官位を扱うスレと結ぶことも個人的に考えております。
>>755 それは誠に上策だと思います。荒らしは国家栄達の憂い。
弊朝と致しましても荒らしが跋扈し、賢人を遠ざけるような事があっては
三戦板内での一官職スレとしての地位を確立出来ず、糞スレと罵られる事
になりましょう。ですが協定締結の件は九条殿の一任に任せたいと
思いますので、この案を九条殿に上奏致そうと思っております。
これからも貴朝とは誼みに交流したいと九条殿は考えていると思います。
では、この協定が素晴らしい事となる事をお祈り申し上げます。
我が国の情報機関の調査によると相関の朝敵 永井尚志が外交使を日本史官位スレに
送り込み、一官位スレとしての地位を確立しようと画策しているので十分に警戒して頂きたい。
朝敵といえども礼・義に則りし行いをするならばそれを最初から拒む必要はないと考える。
使節が来て官位スレとして本朝のように成り立つならば拒む必要があるであろうか。いや、ない。
本朝が承認する要素としては国法を持つことが第一であるし。
永井殿からの命により参りました。
私、外交使の大魔玉が、永井殿の国建国をここに報告させて頂きます!!
以上です!!
本朝は貴朝が国としての形を確立し知識の泉となるようにと願います。
間違っても荒らしは呼ばぬように。。
すいません。緊張のあまり大事な報告を忘れておりした。
永井殿は、故郷であるこの場に是非自分が国を建国することを伝えてほしい。
そして皆さんにも官位スレとして今まで以上の発展をしてもらいたいと言っておられました。
これからも先ほどのような無礼な行いがあるかもしれませぬが、温かく見守り頂きたいです。
乱文、散文失礼を致しました。
762 :
藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :2005/07/24(日) 18:45:46
伏見城と福山城
現在、福山城には文禄三年に築城された伏見城の遺構として伏見櫓・筋鉄門が重文指定されている。
これらの遺構は元和五年、水野勝成が福山に築城するにあたり幕府から下賜されたものである。
幕府はこの他にも水野家に伏見城の本丸御殿、松之丸櫓、風呂屋、大手之門、練塀四百間を下賜し、
さらに「御助力」として金一万二千六百両、銀三百八十貫目の拝借を許し、城普請には小幡勘兵衛、戸川肥後守、花房志摩守らを派遣している。
なぜ水野家はこれほどまで支援されたか?
それは、、、
一、松平家康の生母は水野信元の妹であること。
一、水野信元の弟水野忠重が家康と三成が対立したとき、伏見城を守ったこと。
一、水野勝成が家康から見て従兄弟に当たること。
などといったこれら三つのことがありさらに外様大名の領地の間に楔を打ち込む意味もあったと思われる。
そういうこともあり福山城は現在でも伏見城の遺構が残る数少ない城なのです。
>>762 それがし伏見城の遺構と言えば西本願寺の唐門や
養源院にある鳥居元忠ら将兵の切腹した廊下を移した血天井を思い出しますね。。
案内の人が長い棒で天井を指しながら棒読みで「えーこれが元忠公で…」
まぁ、黒ずんでよくわかんないんですが壮絶さが伝わってきましたね。
私、永井殿の使いの者でございますが、皆さんに話があって参りました。
一つ聞いては貰えないでしょうか?
766 :
大目玉:2005/07/25(月) 20:50:29
皆さんに死んでもらいにきました
私の主君、永井尚志殿がもうすぐ次スレを立て、国としての繁栄、治安の維持に全力を注ごうとしております。
そこで、尊敬を抱く日本史板の官位スレを親善友好スレとして テンプレに載せたいと思っております。
どうか、我が国にお力をお貸し頂けないでしょうか?私達も出来る限りの協力は致しますので…
良い返事をお待ち致しております。
768 :
大目玉:2005/07/25(月) 21:19:33
売官スレですが永井という神の下結束しています
>>767 無理だろう。
さんざんこちらのスレを荒らしておきながら何を言うか。
それに永井は朝敵である。
朝敵に力を貸すなど言語道断。
朝敵になるほど荒らしていた事実を忘れないように>永井。
もちつくのじゃ。
一応、御所で詮議する。
みな集まってくだされよ。
>769殿>770殿
忙しい時にすみません。
>>771 永井氏のスレの趣旨が荒らし駆逐と伺っています。
荒らしが駆逐されると三戦官位スレは勿論のこと国交を結んでいる当方にも
得る物があります。
駆逐された暁には永井氏を「恩赦」という形で朝敵解除、永井氏のスレを
友好スレとして扱うことも良いでしょう。
しかし不穏な動きあらば断行も辞さない。
上記の旨が朝議により決しました。
>772殿
返事ありがとうございます。
>772の内容は、親善友好スレとして日本史板の官位スレをテンプレにいれても良いと解釈してよろしいでしょうか?
まあ結論から言うと
「現状では無理」
以上
>774>775殿
わかりました。
必ずや荒らしを駆逐し、三戦板はもとより日本史板の皆様方にも平和が訪れるよう全力で頑張らせて頂きます。
私のような者のために貴重なお時間を使わせてしまったことを深くお詫び申し上げます。
また外交によりこの場を訪れるやもしれませんが、その時はまたよろしくお願いします。
散文、乱文失礼致しました。では失礼します
恐れながら貴朝の重臣方に申し上げます。
我が室町朝の開設初期、可児一族や魔玉一派の跋扈を許し、
朝廷は荒れ果てその威光を失いつつありました。
中期に入りますと永井を駆逐し、私が征夷大将軍に任命されると、
急に抽象的な誹謗・中傷、恣意的な埋め行為が横行しました。
その異常現象をおかしく思った私が、荒らしの実態の調査を開始致しますれば、
荒らしの絶対数で私に対する誹謗中傷の数は急上昇したのに関わらず、永井に対する
誹謗中傷の数はスレの運営を脅かす数に満たないものでした。
あのようなスレが三戦で公認されれば、永井は荒らしの家臣を増やし、
三戦板の秩序がますます危ぶまれます。内政干渉になるかも知れませんが、
もう一度方針の方を御検討して頂きたい。
これは相関的な繁栄の為に必要だと思いますので・・・。
名無しの報告によると「三戦板に見切りをつけた奴の数→ 」と言う糞スレに
家臣と共に書き込み、物凄く三戦住人に敬遠されているにも関わらず、
その事に対する誹謗中傷は無く、荒らしと共存してる次第との事。
最早糞コテ同然と言っても過言ではないと思われます。
更に糞コテを仕官させており、彼等と手を結べば、官位スレ自体の品格を低下し、
荒らしを助長していると思われてしまいます。どうか永井朝との断交を議決して頂きたい。
531 :長井和馬 ◆8o3nia8Vd6 :2005/07/26(火) 00:18:17
蕎序!蕎序はいるか!?出てこい!(`・ω・´)
534 :長井和馬 ◆8o3nia8Vd6 :2005/07/26(火) 00:31:40
蕎序はいないのか…あの逆賊め!会ったら覚えておけ!(`-ω-´)
541 :長井和馬 ◆8o3nia8Vd6 :2005/07/26(火) 00:48:41
>>538 はいはい(´-ω-`)ワロスワロス…名無しで書き込む負け犬に言われてもな。
更に永井朝の重臣による我が朝への迷惑な書き込み。
名無しを私の自作自演に仕立て上げ、負け犬と煽って我がスレを荒らす醜態(上記参照)。
永井の甘言に惑わされぬように判断して頂きたい。
是だけ証拠があがっているのに食い下がり、過去の悪行を忘れて評定の間に
無断で参内しようなぞとは言語道断、もし貴朝の判断が奸賊を黙認するものならば
この蕎序、命に代えても貴朝を滅ぼすことになりましょうや。
是非とも断交の御英断を下されるようお祈り申し上げておりまする。
貴朝の決断が長引けば、我が朝は滅びてしまいます。是非ともご英断を。
547 :長井和馬 ◆8o3nia8Vd6 :2005/07/26(火) 01:03:14
>>544 名無し潜伏乙だな負け犬。痛い目みるぞだと?貴様はチンピラかWW(´-ω-`)
日本史板の重臣の方々、私の話を少し聞いて頂きたい。
永井殿の国はつねに名無しの荒らしによる被害を受けておりました。
2日前にレス数が400前後だったのにも関わらず、荒らしによる執拗な上げ、や主君を愚弄するような書き込みにより1日で300近くのレスがありました。
その中、我々の書き込み数は2〜3割程でございます。
そしてやっと少しの間平和が訪れたのにも関わらず、同じように荒らしによる被害を受けていた室町の方からは我々の自演だという説が出ておりました
主君である永井殿は室町に対する荒らしが酷いので助けに行こうとしておりました。
それなのに我々が疑われるのはとても不快に思われます
室町との関係をよくし、荒らしを駆逐しようと考えている永井殿を一方的に突き放したり、文句を言うのはどうかと思われます
過去に永井殿が何の罪を犯したのかは私は詳しくはしりませぬ。
が、しかし今は荒らし駆逐のために全力で取り組もうとしております。
おそらく口で何を言っても無駄かと思われます。
なので我々は自分達の誠意を行動で示したいと思います。
必ずや三戦板に平和をもたらしてみせるので今暫くお待ち頂きたいです
>>781 我々はこの報告をここに書き込みしてから、永井が下記のように宣言し、
一時的に永井の家臣・信仰派による荒らしの弾圧は沈静化しました。
しかし、彼等が勢力を持ち我がスレや三戦板にまで危機が及ぶようになれば
最早我が朝は滅び、次なる標的は貴朝になりましょう。
彼は元々日本史板のコテハンですから・・・。
今や三戦おまいら官位朝も閉幕の危機と相成っている中、我等は唇と歯の関係に御座います。
我等が滅ぼされれば貴朝もやがてその報いを受けることになりましょうや。
是非その事を御考慮頂いた上で御英断を下されたし。
544 :無名武将@お腹せっぷく :2005/07/26(火) 00:59:47
>>541 まさに夏厨w
調子に乗ると痛い目にあうぞ。もうやめとけ。
547 :長井和馬 ◆8o3nia8Vd6 :2005/07/26(火) 01:03:14
>>544 名無し潜伏乙だな負け犬。痛い目みるぞだと?貴様はチンピラかWW(´-ω-`)
549 :皇帝永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :2005/07/26(火) 01:05:57
>>547 和馬、
あまり室町スレに迷惑を掛けるでないぞ。
三戦板荒廃への争いはなるべく起こさないようにしなければなるまい。
どちらでもよろしいが、異朝の方々で、レスを消耗しまくるのはご遠慮願いたい。
問題があれば、使節受け入れの要望を出されたし。または、自分のスレにて行われたし。
>784
申し訳ございませんでした。次からは気をつけます故、何とぞお許しくださいませ
何か忘れておらぬか?
本朝が国交を持つは三戦朝のみ。他国の争いに関しては干渉権はない。
それに室町朝が日本史朝に宣戦布告をするなどばかげている。本朝は紫明殿の他に幾つか防壁を持っているからのう。
最も、限られた者しか入れぬが…
また、本朝は裁判所ではない。
それでもまだ本朝に対し意見があらば使節をしっかりと立てよ。
永井朝(仮称)の意見を詮議したは使節が正式な国の代表として来朝したからじゃ。
>>787 その可能性も孕んだ誠に国際事情に相違有りませんし、貴朝に宣戦布告しようもの
なら私は九条殿に申し訳が立ちますまい。
その上、本多殿、榊原殿等の三戦おまいら朝への友好使節の大任、
私はしかとお見受けしております。私は貴朝の人間に愛国忠君の志しか
居ない事もよく承知しているつもりです。私は貴公の重臣には誰一人疑いの目では
見ていません。但し永井の臣下が荒らしている事が許せなかったのです。
改めて貴朝の方に使者を遣わしますので、誤解を生ませた事は御容赦を。
仮に永井スレの者が荒らしているとするならば、三戦板に荒らしがいるということに変わりはない。
つまりその間は永井スレとの友好は有り得ないというわけですね。
>>789 私は個人的な理由で永井を忌み嫌っているわけではなく、
あくまでも荒らしを囲っている永井帝国に対して公明正大に考えた結果、
このような決断に至ったわけで、決して恣意的に誰かを排斥しようと言うものでは
ありません。
今日蕎序って人、永井スレを荒らしてたけど、自分は荒らししてもいいんだ。
人のこと言えないよね。
たしか蕎序って自演で有名な人だよね?
しかもなんか部下にも見切りをつけられてたし…
なんだろ、自分に都合よく解釈しすぎなんだよ。見てて気分悪くなる。
そんな人が日本史板に媚び売りに来ても無駄かと
後醍醐天皇が入信した真言立川流ていい宗教だな(*´ー`)
男女の陰陽を合わせてお経をむにゃむにゃ
煩悩捨てよーぜ
丁寧な使節派遣痛み入ります。
本朝では完全な合議制を敷いておりますので、他国から干渉されて詮議というのも、のぅ。。
それに本朝からそなたたちの裁判所に代表を送ることはないでしょう。
無礼を承知して言うが貴朝の本朝への内政干渉及び越権行為に関しては予は不満認めたくはない。
>>795 こちらこそ御礼遇頂き、誠に痛み入りまする。
国際司法裁判所の件は御目通りして頂けるだけで結構だと思っております。
しかし幹部の影も荒らしだと言う事が発覚しました。
私は、度重なる激憤甚だしい侮辱に対して怒りを収める事が出来ず。
ただひたすら我慢に我慢を重ねております。侮辱されている蕎序殿本人が
どれだけ恥辱を味わったか。考えるだけでも憤慨してまいります。
国際司法裁判所のレスは、あくまでも貴朝の政治の役立てて頂ければ
光栄と思って、荒らしの正体を追跡して、逐一書き込んでおりましたので
使節の件はお気になされる事はありません。
官位ちょーだい
(*´ー`)
798 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:48:59
799 :
黒沢忠正 ◆n5ho56J9Xg :2005/07/27(水) 22:11:28
三戦板に援軍を送ってくれ〜!国が潰れてしまう
801 :
ただあき ◆hLIS.MfTAw :2005/07/27(水) 22:46:04
日本史官位スレ住人いないのか?俺達の国が潰れたら、永井がここに攻めてくるかもしれないんだぞ!?
>801
はいはい、まずはsageから始めような坊や
>>801 だからどうしろと?
>>799の言うとおりに援軍みたいなことをすると余計にこっちに攻めてくる可能性が高いわけだが?
まあ永井氏がこっちを攻めても何も得るものは無いだろうが。。
日本史官位スレとまったく関係ないことを仰られてもこちらから見れば嵐以外の何者でもないし。。
>>803 榊原殿はただあき ◆hLIS.MfTAwと知り合いなのですか?
すみませんでした。官位の取り忘れです。
807 :
おかみさ〜ん!時間ですヨーダ ◆wqVeruyTlo :2005/07/27(水) 23:27:22
ネット戦争の始まりじゃ
>>806 全く弊スレとは関係無い御仁に御座います。
私は最初から国交・協同施設・協同協定以外の交渉はしますまいと言っております。
その上、荒らしを巻き込むかも知れない紛争に援軍を頼もうなどとは無礼の極み
私どもはただ貴朝とのUNの様な共同体の設立、FTAのような交流協定など荒らしを
締め出し、スレを活気立たせるものの共同提携による構築という事が一つの念頭です。
809 :
ルーク・スカイウォーク ◆bV3tXzaXio :2005/07/28(木) 00:14:00
二度目の悪い予想が的中しました。永井帝国が本間賢助のVIPPER煽動に
より、陥落の様相を呈しております。恐らく後一時間後ぐらいには陥落するでしょう。
我が朝もより一層荒らしに対する警戒を強めたいと思っていまする。
今回の犯行は日本史官位スレに侵攻を呼びかけていた本間とは裏腹に、
永井が本間の侵攻案を無視した為の両者間での内紛が原因だと思います。
あなた方だけで何故に20スレも消費せねばならぬのです。
これも一種の荒らしみたいなものですぞ。スレ違いがわかりませぬか?
>>811 >20スレも消費
(((((( ゚Д゚)))))ガクガクブルブル
>>812 誠に申し訳有りませんでした。使節派遣は自重しますゆえ。
まともにネタ投下したのにスルーですかい?
(*´ー`)
他の朝からの交渉なんぞに返レスももったいないぞ
>>814 三戦には関わりたくないらしい。九条のネタもスルーしてるしな。
まだ叙任に値しないだけ。
なにも知らないくせに勝手なことは言わないで欲しい。
名無しや他板の官位スレに対する
>>816の態度はひどいよな。
>なにも知らないくせに勝手なことは言わないで欲しい。
何、この態度。
新参者を認めないコテハン同士の馴れ合いスレだな。
勝手に三戦には関わらないという発言をするのは名無しさんも(・A・)イクナイ!
けど榊原さんも餅つかないと(・A・)イクナイ!
他官位スレも何もここが官位スレとして扱っているのは三戦朝だけだからね。
使者を送ってきた二つのスレは荒らしがはびこる危険なところだし。。
>>818 訃報をお伝えします。永井帝国が崩壊しました。
難民板にて再興を機する様です。
>>817 >新参者を認めない
(゚Д゚)ハァ?
第一どこにネタがあるのかと(ry
仮にあったとしてもそれだけで叙任できたらそのうち正一位が何人も出る罠。
この御時勢それだけで叙任されるのなら苦労しない。
>三戦には関わりたくないらしい
これに対して「勝手」と言った訳だが?
何を以ってそう判断できるのか。
まあ名無しはなんでも言える罠。責任も生じないし。
ここはもう無理だな。
>>820みたいなやつがいるんじゃ誰でも参加したくなくなるよ
夏だなぁ。。
>>820 >この御時勢
どんな時勢よ?
>まあ名無しはなんでも言える罠。責任も生じないし。
目には目を。煽りには煽りですか?
コテハンつけてるだけで目立つのにこんなレスしてたら
まずいんじゃなーい?
なんか論点が変わってる気がする。
そっちの勘違いでこちらが叩かれてるし。。
考えてみればスレ状況を把握してないで発言してる君に叩かれる筋合いは無いよね。。
>>817 お前な、榊原殿の事知らんくせに勝手な口叩くなや
榊原殿はな、使者としても十分たる功績をあげてるのや
過去の乱発(ryの事があるから慎重に構えてるだけで、それは愛国心がある証拠だろ
>>803で酷な事を言ったのも御国を思うが故の事、我が国の者を語る荒らしに
sageもせんと援軍を送れなんて言われて怒らん奴おるか?
榊原殿はな、偶然荒らしを我が国の者やと思ってしもうただけや
俺も分かってたからこそ元の荒らしの撲滅路線に乗せただけや
>>821 認める認められへんの問題や無しに、共同していかなあかんと言いにきただけや
冷遇上等の気持ちできたのに構ってくれて有難いと思ってる
榊原殿は律儀な御方や、あんまり困らせんであげてくれ
批判の続きしたいんやったらラウンジのスレ貸したるからそこでしろ
日本史官位スレの人に迷惑やろ 名無しの言い分も認めずしも分かるから
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1122449257/
叙任に値しないのは構わないが完全スルーは痛いですぞ
(つ∀`)
>>827 日本史官位スレの方々はそんな方たちではありません
貴殿の名前を見てふざけてると思われたのでしょう。
私が名前を差し上げます。村上源氏出身の(姓)久我か北畠(氏)具成・具盛・具守
流れを戻す為にネタを投下し、叙任してもらうのです。
氏姓を名乗ってもらえると有り難いっすよ。。
鳥獣戯画は漫画っすか?(*´ー`)
831 :
824:2005/07/31(日) 16:53:47
[国際]
各国使節団次々と来朝
先頃から日本史朝を取り巻く外交関係は風雲急を告げている。
というのも各板に官位スレを名乗るスレが乱立しだしたからだ。
(最もすべてが三戦板発祥のものであるが…)
ともあれ使節団来朝が相次いだのにはある理由があるようだ。
日本史朝の国法では他官位スレに関して"承認"の有無を基調としている。
承認とは国交を意味するらしく現在では三戦朝のみである。
なぜ承認が必要かというと、今回使節を派遣した国は日本史朝を源流と位置付けたり、友好を享受したかったがためだったようである。
が、結果的に既成事実として使節団を送った国はほぼ壊滅しており今回の騒動はこれで集結しそうである。
[社説]
公卿衆は世代交代を!
官位スレが寂れた原因は何か?
答えは難しいが、参加者の減少とネタの減少は容易に答えとしてあげられるだろう。
参加者の減少には有効な対策は講じられないが、ネタに関してはなんとかなりそうである。
なぜならばネタが減ったのは参加者が高位に昇りネタを出す必要がなくなったことも影響しているからである。
それならば一度初心にかえり二代目としてやり直すのも楽しみ方の一つではないだろうか。
ともあれ官位スレの繁栄を望む。
834 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:06:24
蔵人の五位でいいので官位ください。
蔵人の五位は無理だと思われ
蔵人は国の大事な職だから
>>832 我が朝の意見を勝手に代弁するな
>今回使節を派遣した国は日本史朝を源流と位置付けたり
九条殿が日本史官位スレを訪朝して源流と位置づけ無いことを表明して以来
我が朝の使節等はその方針を貫いてある
>友好を享受したかったがためだったようである
それの何が悪い、他国の国事行為に一々口出しするな
>結果的に既成事実として使節団を送った国はほぼ壊滅しており今回の騒動はこれで集結しそうである。
貴殿が勝手に終結するなよ
[反論記事]
源流というのがのちに否定されたのは知らんかった。正直スマン
さて、旧室町朝は今になり当紙の記事に対し国事行為云々…と言いだしたが、前にそれを行ったのは他ならぬ旧室町朝ですよね?
日本史朝の外交政策に対し国として干渉してきたのは他ならぬ内政干渉ですよね?
(まぁ、過ぎた事だし首脳部が黙りを決め込んでるからこれ以上は言わないけど)
それに当紙は報道機関である以上、代弁になることはあります。しかしそれはスレ参加者に分かりやすくするためです。
この方針は変える気はないです。
壊滅云々は既成事実を述べたまでです。
国としての機能を有しなくなったので壊滅状態にある。実際、正解でしょう?
それに官位スレの参加者になりたいのならばどこぞの官位・官職スレに仕官すればよいのでは?
840 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 14:59:40
夏故に晒しage
841 :
平忠直@トリップ失念:2005/08/02(火) 00:23:56
一身上の都合に依り、某は総ての役職を辞し、位階及領地を朝廷に返上致します。
今迄有難う御座居ました。m(__)m
[近況]
チョッパーバイクに嵌りました。
842 :
平忠直@トリップ失念:2005/08/02(火) 00:37:15
官位ですた…。
役職就いてなかった。
843 :
本間賢輔 ◆o1Yv.4vsa2 :2005/08/02(火) 19:19:24
さて、ここを再び荒らすときが来たな
お〜い永井、武田集まれ(^-^)
>>841 前左大臣閣下、何も位階まで返さなくとも‥‥‥‥‥
846 :
本間賢輔 ◆o1Yv.4vsa2 :2005/08/02(火) 21:23:22
>>845 ここでも祭りが始まるだけだよ
永井も祭り好きだったよね(^-^)
847 :
本間賢輔 ◆o1Yv.4vsa2 :2005/08/02(火) 21:27:38
祭りが\(´・ω・`)/始まるよ
848 :
本間賢輔 ◆o1Yv.4vsa2 :2005/08/02(火) 21:28:32
祭りが\(´・ω・`)/始まるよ
849 :
本間賢輔 ◆o1Yv.4vsa2 :2005/08/02(火) 21:30:07
祭りが\(´・ω・`)/始まるよ
850 :
本間賢輔 ◆o1Yv.4vsa2 :2005/08/02(火) 21:33:54
呪
\\ //
∩_
[|__] )、
( | ´∀`)_ (( ), ボオオー
| ̄|つ ̄| |つ♀`
| ノ | |_ノ. 人
|ー――|
/___|
(__)_)
結局祭りなんか始まらないじゃん!偽本間乙!あっ違ったwww藤原乙!
上卿鎌倉大納言
平成十七年八月三日 宣旨
山野野衾
宜叙 正四位上
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
山野殿、当朝からのせめてもの気持ちとしてお受けくださいませ。
そしてこれからもその御才識を以って色々と御教授くださいますれば幸いにございまする。
>>平忠直様
トリップがないのでご本人なのか判りませんが、
ご本人だとすればとても残念です。
また気が向いたら気軽にお越しください。
>>貧血殿
>>後醍醐天皇が入信した真言立川流ていい宗教だな(*´ー`)
レスを返すのが遅れて申し訳ございません。
真言立川流…
髑髏を本尊とするなど(あとその儀式はかなりディープですね。。板違いになりそうな気ガス)
『邪教』として有名ですね。
ちなみに後醍醐帝が(確か)50人ぐらい子供を生んだことは、やはり文観の影響も多少あるのでしょうか…?
真言立川流って髑髏が本尊なんでしょうかね?
理趣経という真言立川流の経典だと荼吉尼天、つまりはお稲荷さんと同じ白狐を崇めるような?
>>留守殿
そうなんですか?某が読んだやつだと…
漆か何かを何重にも塗りたくったドクロの前で…(/-\*)そしてドクロに…(_ _;)
>>858 某が聞いたものですと髑髏を本尊としていたとかしていないとか。。
後醍醐帝が入信したというのは知りませんでした。
南北朝の時代には弾圧を受けていたとか無いとか。
髑髏に塗ったのは男女の愛液だったような気がします。
藤原殿…直下型なレスありがとうございます。。
漆塗りドクロの前で性交んして男女の交わった液をそこへ塗る…てな感じでしたよね。。
いやあディープなネタ振り乙ですね貧血さん。。
そういえば密教自体、発生地のインドからはとうの昔(十三世紀)に消え去ってますよね。
インド→中国→日本という流れですから当時(七世紀)の中国の密教の影響のほうが強いのかもしれませんね。
しかも日本に密教を持ってきたのは空海の師匠の恵果という罠。。
留守の持ってる仏教解説書によると
本尊は髑髏説と荼吉尼天説(髑髏は修法の道具)の並列
修法
1)漆を塗り重ねた髑髏の前で美女と和合
2)その時の和合水を髑髏に塗る
3)120回塗り重ねてから、0時〜2時に反魂香を髑髏にあてる
4)真言(あ〜)を千回唱える
5)髑髏の頂部に曼荼羅をかく
6)7年放置
7)8年目に髑髏がしゃべり出す
8)髑髏の言葉を聞くと神通力が得られる
南北朝期には密僧の9割が真言立川流だったとの資料もあるそうで。
ラマ教よりの教義と言われてますが、勉強不足ですorz
そうですね。崇拝してたのはダキニ天でしたね。
永井が始めてここをVIP使って荒らしたのって
何月位だったっけ?覚えてる人いる?
865 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 16:47:53
晒しage
866 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 16:48:30
晒しage
社会科の宿題で困ってます・・i||li _| ̄|O i||li
40年前の日本について教えてください!!
>>864 私が関白だったか内覧だったかを辞した後に永井は新皇を名乗りだしたような気がします。
で、大規模な荒らしがきたのが三月頃です。
>>854 頓首頓首死罪死罪・・・とでも言って、まずは辞退するところでしょうが。
前置きは省略し、謹んで承り、仰せに従います。
七夕時に、何か出すべきでしたが、時を失いました。
旧盆の時にでも、何か出せるかもしれませんが。
>>867 マツケンサンバ風に
あーんぽあーんぽ、に・ち・べ・い あーんーぽぉと
歌ったら教えてもいいよ。
871 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 02:55:29
ぱちもそage
懐かしいのでsage
873 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 17:26:59
従三位権中納言、東宮の別当ならいいな。
或いは従三位で右近衛権中将とかも暇そうでいい。
暇で金ありそうだ。出仕しなくてもよさそうだし。
中納言だと権官でも出仕必須なのかな?
蔵人は権勢大だが激職だよ。特に頭弁は強烈だ。
因みに弁官、蔵人などは、頭がいいだけでなく機転もきいて、
更に書にも通じてないと任命されないとの事。
>>873 時代設定が平安朝ならね
江戸期なら何の官位でも閑職だよ
織田信長も徳川家康のことを結構恐れてたんですね。
今読んでた文献によると
長篠の戦の前哨戦の長篠城篭城戦の際
家康は信長に武田相手の戦のための戦力の援助を求めてたんですが
なかなか腰を上げない信長にこんなこと言っちゃってます。
「援助しねーなら武田と一緒に尾張攻めちゃうぞ(#゚Д゚)ゴルァ」
それで織田・徳川連合軍として長篠の戦へと到る訳ですが。。
フツーならその場で即あぼーんですよね。
信長を脅すとは家康の肝っ玉のでかい事でかい事。。。
ミスった。。。
上のは某です。。
どなたかか教えていただけませんか?
織田上総「介」信長
羽柴筑前「守」秀吉
この守とか介ってどういう意味で付けられるんでしょうか?
古代はその地方の国司の肩書きですが、戦国時代はどういう意味でしょうか?
信長にしても上総と接点が見当たらないですし。
戦国大名ローカルの官位と考えていいんでしょうか?
>>877 国司と守では法制で時代がズレますよ。
守・介は律令官でしょ?
まんこ
>この守とか介ってどういう意味で付けられるんでしょうか?
守→その国の長官
介→ 次官
上総、常陸、上野の三国は親王任国と言われてるので
この三国の介=その他の守と考えればおk。
まあ大国、上国、中国、下国と分類があるんですが。。
>戦国大名ローカルの官位と考えていいんでしょうか?
一応正式な物ですよ、ただ自称とか(ry
あと〜守について某サイトより引用
>国司の長官。定員は一人。鎌倉以後、官位冒称が激しくなってくると
>国司の長官はただ「国司」をもって長官のことを称した。伊勢・土佐・陸奥・飛騨
>は、戦国まで国司が続いており、「伊勢国司」等と称して官位冒称と区別した。
>任地に赴任する国守を「受領」と称し、赴任しない国守を「遙任」と称した。
>相当官位は大国が従五位上、上国が従五位下、中国が正六位下、下国が従六位下。
ああ、またミスったorz
上のは(ry
テスト
>>877 戦国大名の名乗りの「〜守」とか「〜介」というのはほとんとが自称です。
まぁ、言ってみれば支配していることや力を誇示する目的が大です。
うろ覚えですが信長は最初上総"守"を名乗ってましたが上総守というのは存在しないので上総介に変えたような変えていないような…。
>>884 確か信長が誰かにツッコまれたんですよね。「上総は〜」と。
>>875 家康の脅迫というより切羽詰まった感じですね。
「これまであんだけ協力したのに何だよ!こっちは今いっぱいいっぱいなんだよ!」的な感じがします。
>>877 本多殿のおっしゃるように自称がほとんどです。しかし中には正式に叙任されている人もいます。
室町時代では応仁の乱前ぐらいまでは地方大名の直奏は基本的に許されませんでしたが
幕府の権威失墜に伴い武家執奏が容易に行えなくなったこともあり朝廷も直奏を認めていきます。
まぁ言ってしまえば『金』なんですが。
つまり流れとしてみればこの室町後期あたりから朝廷が『官位セール』的なことを行い、それが戦国気風と重なり官位そのものの価値基準が変化したことが要因として考えてられます。
そして官位=『箔をつけたい』。これが守護等だけではなく全体に広がっていきます。下克上の正当化にも大義名分は欠かせません。
で、気づけばあの人もこの人も官位を自称…「じゃ俺も」みたいな感じになってしまった。。
ちなみに一応ここでは自称はダメです(^^;)
>>855 いえいえ。
鎌倉様は良くして下さり、大変感謝致して居ります。m(__)m
官位一覧と諸侯国絵図の更新の再は、某の部分は削っておいて下さい。m(__)m
887 :
877:2005/08/15(月) 21:04:26
方々拙者へのレスサンクスでござる。
そういえば、、、左離れ立ち葵を使っている家ってあるのだろうか。。
889 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:09:43
終わってるね…
(*´Д`)=з
守、介、掾、目(目代とは関係ない模様)ですね。
親王任国であった上総・上野・常陸は介が実質的な守であり、事実「上総守」
とも呼ばれていましたが、他国の介も、慣習上「守」と呼ぶ事がありました。
吉良上野介は有名。菅原孝標も、上総介でした。
>>山野殿
更級日記の作者の父ですね。
菅原家は文章博士などを家職していたようなきがします。
それにもかかわらず孝標は一介の国司とは‥‥‥。
文人貴族の国司への赴任は、累代・起家ともに珍しい事では無く、大江匡衡
も『本朝文粋』に見られる文章の中で、しつこく自家の優位と就任を要求し、
大曾根章介先生ら伝記を書かれた方々を、呆れさせていますね。
勿論、本分は文章博士なり、式部大輔なりにあった訳ですが、所謂「菅江両家」
も、匡衡の没後は実力者を欠き、藤原三家の「累代」への進出を許しています。
藤原明衡ですら、結局は「累代」で無かった為に文人としての出世は遅れてい
ますが、院政期になると、菅原・大江・藤原三家で世襲が確立されました。
匡衡のライバルであり、同じ勧学会の一員であった紀斉名は匡衡より早く亡
くなっており、1000年前後は文道の世界もやや沈滞していたらしい。
『宋書』日本伝では、当時の詩は技巧に拘って実が無いと評されています。
ただ、菅原孝標女の「兄なる人」為紀は、勧学会の再興に立ち会った人物。
彼の時期には、かなり活発な活動を見せていますよ。
893 :
京の人:2005/08/18(木) 22:19:11
三戦朝が仕切り直しをしたみたいよのう………ヒソヒソ
>>893 何が言いたいんだ(((((( ゚Д゚)))))ガクガクブルブル
895 :
本多忠則 ◆8rwPJshdek :2005/08/21(日) 14:28:56
関が原の戦いの話。(軽いネタですが、、、)
石田三成の敗因は色々といわれているが今回は金銭面に目を当てていきたい。
石田三成は豊臣方(最も豊臣方の大名で家康についた者もいたが)である。
ここで豊臣家の全国政策を思い出してほしい。
主要な金山、銀山から運上金を取り立てたのは豊臣家である。
ではその資金は関が原で使われたか?
答えはNOである。
古今消息集において九月十二日に三成から増田長盛におくられた書状の内容からそのことがわかる。
「度々申し入れる如く、金銀米銭遣わさるべき儀も、この節に候。
拙子なども、似合に早手の内有たけ、この中出し申し候。
人をも求め候故、手前の逼迫、御推量有るべく候。」
と書かれてある。(読み下し文)
という訳で三成には秀頼からの金銀米銭が与えられなかったようである。(多少はあったかもしれないが、、)
この理由については定かではないが、少なくとも秀頼側近が出し渋ったのではないだろうか。。
結局、三成はこの戦のために多くの自腹を切っている。
もしも、大坂城の有り余る物資を西軍が使えていたのなら関が原の戦いも別なように転がったかもしれませんね。
関が原の戦いの話の続き
では、三成が大坂城の金銀米銭を使うことが出来たならどのように戦が変わったのでしょうか。
史実では西軍は兵站の確保にとても苦労しました。
戦では兵糧・玉薬は基本的に自弁です。
しかし島津家の様に単身やってきたような者に対しては公儀から支給されていたそうです。
しかしながらそれはあくまで特例だったようで実際は兵糧の確保が十分ではなかったのです。
関が原合戦図屏風には西軍の兵士が苅田をした稲を運搬している光景が見られます。
もし三成が金銀米銭を思うように使うことが出来たなら西軍はその様な準備不足にはさいなまれなかったと思われます。
食べ物が有無や味美味しいか美味しくないかは兵の士気にかかわる重要な問題ですし。。
従って西軍は兵糧・玉薬に配慮した戦を強いられていたわけです。
流石に金銀米銭が関が原の結果に大きな影響を及ぼすとまでは言いませんが、戦の展開も多少は変わったのではないかと思います。
東軍も秀忠が指揮しいていた軍は兵站確保に苦労してたな。
容易に確保できてたら東軍圧勝だっただろうな。
>>897さん
そうですよね。
東海道筋の大名は城と兵糧を家康に献上している上に、
清洲城には福島正則が秀吉から預かった兵糧三十万石が有りましたからね。
それに秀忠隊は早々に家康隊と合流する予定だったので清洲の兵糧を期待していたのかもしれません。
しかし上田城で足止めを食ったことから期待していた早々に合流する事で得られる兵糧が入らなかったわけですし。
私は秀忠は兵站問題が出てくる前に軍勢を清洲に到着させる予定だったのではないかと思います。
天下分け目の関ヶ原の合戦と言いますが、とうの天下人は認識出来てないっすね。。
秀頼君はまだ子供だし、淀殿はただの内乱としか受け取ってない。。
楽観視しすぎたあまり豊家滅亡までまっしぐら。。。
900!!!!!!!!!!!
>>898 上田以前の小諸で本多正信が江戸まで金策に走っているところを見ると
真田に足止めをくったというより本多正信のミスではないでしょうか?
また中山道は小大名ばかりで兵糧の献上も微々たる物だったのでしょう。
兵站の破綻、連絡将校の遅延、これらの悪状況では秀忠の周囲に老臣がいても
どう仕様のなかったのかもしれません。
>>901さん
なるほど、、、確かに言われてみればそうですね。
もし秀忠隊が難なく中山道を通っても兵站は厳しかったわけですね。
あと、、、全廷臣及び幕臣は御所に急遽参内されたし。
903 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 11:22:19
何回もやり直すなよ
お前らキモ杉
904 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 11:31:37
もう末期なんじゃない?こんなに過疎ってるのに良くやるねぇ
>>904 何とかがんばって建て直しをしてみようかと思います。
過去の官位スレの活気が取り戻せればいいかなと。。
何か、今のスレ運営に対して「ここがおかしいぞ!!(・∀・)ゴルァ!!」というのはありますでしょうか?
何かありましたら是非何か意見をお願いします。。
906 :
904 :2005/08/23(火) 06:21:25
>>905 お前が一番キモイ
飽きられてるのが分からんのですか?
スレには盛衰がある。だから、まぁ無理にやる必要もないと思う。
しかし、逆にここの持っている可能性は割りとネタ中心でやってきたので
その情報量やゲーム感覚による人の集約力があることだ。
長く休憩もおかず、形も変えず続ければ、そりゃ衰退するにきまっているわけで
これが違う方向に持っていけば活気づくはずだ。
無理にはやるなというのは突き進むなという意味で、過疎ったから
やめると割り切る必要はない。続けるという需要がある限り、可能性は死んでいないんだから。
俺は官位スレのアイデアと情報量こそ愛するべきで、この体質に固執したり、
する必要はないよな。ネタを戦略的に用いればいいわけでさ。
後、ネタはネタでも話題の掘り下げにいまいち弱点があると思うよ。
たくさんネタが出されるのはいいけど、掘り下げがないからどんどんネタが
消費されて、出すものがなくなる。みなも忙しい。ついつい、来なくなる。
これが衰退の原因だから。
つまりさ、本多家もうまく経営したとは思うけど、それって
活性化ありきだったわけよ。ゆるいものであったとはいえ、参加
義務的な流れをつくった。
幹部はともかくよ。これがスレの印象として蔓延すれば面白さがなくなるわけで
スレありきになっている印象を受ける。
ネタスレだというのなら、ほんの忙しい時にでも、ちょっと見てクスっと笑える
そんなものであればいいと思うんだよ。で、自分も出してみる。
知識のひけらかしとかじゃなく、真に娯楽として。
笑いあり、エロスあり。趣あり、感動あり。
性を正当化する源氏物語みたいなソフトパワーがありながら、それを
活用していなかったね。運営とネタのノルマ化みたいな
印象すらあったよ。
スレの流れはゆっくりで結構。つぶれない程度にね。
もう、ネタはでつくされたのなら、同窓会にしてしまえ。
で、笑いをとれ。で、官位はゲーム感覚にして、ゲームのための厳しい
管理下において、既得権のための官位にしちゃいかん。
貴族志向から、官位に関わらず全員チャレンジャー志向に意向せよ。
一時、道場スレもあったりしたけど、あれではひきつける要素がなかったわけだな。
でも、やりようによっては、昇進して極めてもその中で地位に安住させない仕組みを
活用できた。
官位スレは確かにゲームとしてやる分には、非常に信長効果的なシンパシーも感じる
人間も多いし、わかりやすいし、インセンティブを刺激する要素が強かったが、欠点は
官位上昇した奴は衰えていることだ。というよりも、官位スレを活性化(長寿化ではなく)
させた意味では相当貢献度は高いはず。でも、そいつにも限界はあるはずよ。
高位者、低位者双方にとって真のインセンティブになるものかをもっとうまくプロデュース
すべきであったと思う。一定のポストを占めると、もう昇進の可能性がない。
これじゃあ、いかんな。せめて、位階だけでも進めたり(一部やっているが)
他の評価要素を用いたり。
悪いけど、世代交代そのものは本質でないし、二代目をまた起こすエネルギー
の残っている人がどれだけいるのか。実質、官位を下げて、後輩に主要ポストを
譲って活性化する保障はどこにもないよ。
戦略も面白みも変えていかない限りね。狙いが定まっていない。
そうだな。改革案としては、
歴史ネタを生み出す、労力の削減と面白みの倍増を狙う。
個々人のネタ評価ではなく、全員ネタづくり作戦をする。
議論を中心に、話題に乗った回数、笑わした回数を評価する。
運営貢献は官職、ネタ評価は位階、面白くした評価は勲等
こんな感じで如何?
人事制度としては
中堅階級を昇進させる。そこから、たまたまデキル人間だけが閣僚化する。
忙しければ退任し、交代する。現国会システムを応用せよ。
やめても、インセンティブ低下に拍車をかけないように違う可能性の要素を
別個に設けよ。
官位制と道場にあった段位制の導入。幹部に政治と違うスレの本質である歴史ネタの
技能向上にインセンティブを。技能も官位みたいに既得権化した一定評価ではなく、
持続可能な評価にしたり、表彰という制度にきりかえる。
うーん、評価体系が複雑化してもあれか。
段位は前線から一歩退いた高位者の評価用として、
参加意欲とクオリティ維持に使うというのもある。
本スレでなく、元老院の中だけでやる分には評価体系は
こんがらがんないし、迷惑かけないだろう。
後、意識改革としてはプレイヤーは大名諸侯、公卿百官意識から、脱却。
官位に関わらず一人のネタ戦士であり続けることじゃな。
ある意味、おまいらに官位を与えてやるスレ を乗り越えていかにゃいかんよ。
全面改革するつもりでね。ネーミングも官位という要素はなくして。
歴史王朝 あくまで昔の官位を継続したいなら歴史王朝として
歴史騎士団 ゲームの本質を維持して、評価をフラットにするならこれ。
武士団でもいい。
道場 禁じ手。失敗例がある。用いるなら制度改革を。
まず、官位スレの本質論を評定で語りなされ。
今の勲章制度が見直しを受けているように、ゲームとはいえ評価すること自体
負担なのよね。それをわんかって続けるんじゃないの。
理屈と運用はまた違うよ。それは動かし方次第でもあると思う。
つまり担当がいればいいんだと思うよ。スレ主とサブとで、閣僚化する。
朝廷・幕府で担当しあってもいいじゃない。
スレ主中心主義ももはや衰退したしな。ジェダイ評議会みたいに一人、
マスター・ヨーダみたいなのがいて、集団指導体制にする。
相撲協会みたいに寄合制に。
まぁ、確かに難しいと思うね。でも、一理はあると思うから意見だしたのよね。
対案だした方が前進すると思うけど、現行維持も含めてさ。
初期の頃は叙任を辞退することもしばしばあったわけですが最近は官位にこだわる風潮がはびこっています。
そこも官位スレが衰退していった原因の一つかと。
位階と官職の詮議基準を分けるというのは賛成です。
ただネタ評価については評価する側の人間によって基準がかわることも考えなければならないかと思います。
ネタについては現状の形を維持したいです。
一つのネタに対して他の人がレスしさらに充実したネタにする。これだけではやはり不十分でしょうか?
シンプルイズベスト 複雑になりすぎたり 難しくなるのはどうかと思います
今回の本多殿提案には 世代交代を図ることによる ネタ増加 それに伴う活性化があるのではと思います
確かにネタと一口に言っても 掘り下げ方とか難しい部分はありますよね
しかしネタも出ないところからは 何も始まらないではないですか
工夫と言うか手法というのは そこからまずは各々がまたはみんなで話し合って出して行けば良いのでは
追々名無しさんが 参加したくなる雰囲気造りが重要になるでしょうが まずは今回の案でと思います
・重臣官職は運営できるのか、できないのかで峻別を図る。
・ネタ消費と労力についても問題にすべき。ひとつの議題にとらわれないまでにも
話題のふくらませ方に工夫求む。
・評価基準はあらかじめ、スレ主が簡単にでも説明しておけば、後は個々人が合意すればいい問題。
奈良七重 七堂伽藍 八重桜 芭蕉の句と伝えられる
左近の桜は山桜ですが 奈良の県花になっており 4月下旬から5月上旬に咲くのが八重桜
品種は諸説があってはっきりしないそうです
聖武天皇の御世 天皇は三笠山の奥の鶯ノ滝で美しく咲く八重桜をご覧になり 宮中に移植されました
光明皇后以下宮廷でたいそうもてはやされたそうです
後にこの八重桜は 興福寺に移されたそうです
一条天皇の御世 中宮彰子は興福寺の八重桜の噂を聞き 宮中に移させようとしましたが
八重桜を惜しんだ堂衆達が 懇願し移植を止めさせたそうです
彰子は逆に堂衆達の心意気に感じ入り 伊賀国余野庄園を興福寺に寄進し 花垣の庄と呼ばせたそうです
奈良の八重桜の一株を移し 花守がおかれ 伊賀上野の花垣神社には今日も八重桜の老樹があります
一里は皆花守りの子孫かや 芭蕉
いにしえの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな 伊勢大輔
大正11年奈良で行方知らずとなっていた八重桜が発見され 昭和43年奈良県の花となりました
某は官位スレについてあるルールを提案したいと思います。
ネタ書き込みは原則age、他愛も無いような話は原則sage進行というのはどうでしょうか?
ネタを皆が見るようになれば深く掘り下げることも多くなると思います。
>>親切なななしさん
某、思うに官位スレのよい所の一つは別に日本史的内容ならばどんなネタでも受け付けるところだと思います。
他のスレはあるテーマに沿った話中心です。
しかし官位スレは様々な知識が集まりさながら日本史雑学事典のような形になっていると思います。
ですがスレ上層部は運営絶対主義というべき状態に陥っていると思います。
官位スレが盛り上がるには運営云々も確かに大事かもしれませんが一人一人の不断の努力が大事なのでは?と某は考えています。
今回の世代交代は不断の努力というものを思い出すのにはうってつけかと思います。
某としてはこれからの流れを観察するだけですが。(四位なので運営に口出しはしないです。)
皆さん、仰せの意味はわかります。そして、おいらの言ったことが
七面倒くさいこと(現実性)がないことも。でも、ある意味、一理突いているというだけの
自信はあるんだわ。俺の言ったとおり、実行されるとは思ってないしね。
ある意味で煽った部分もある。(注意:荒らしでなく)
要は良くも悪くも長寿スレってこと。二代目になって刷新したいのは分かる。
近視眼的にはまぁそれもいいだろう。でも、世代交代もいい風を入れる機会。
元老のサポートもまぁいいだろう。
でも、スレとしてそのままではぬぐいがたい、衰退の兆しを抱えている、
飽きられる要素がふくらんでいるという面も強い。
最終的に人をしばりかねない負の側面もある。
既得権と新しい血を入れる上で新旧の住み分けも課題だと思う。
もっと、マターリ感をとりいれ、長く愛せるスレを目指して欲しい。
笑い要素と話題の長期的な運用はもっと強化してよい。
改革には不断の努力を求めたい。
>ネタ書き込みは原則age、他愛も無いような話は原則sage進行
これは次のテンプレにも書くつもりです。
皆さんの案をもとに『わかりやすい』方針にしようと思います。
今まで流れ的には『わかりやすい』から『体制化』になったわけなんで
あえて今一度『シンプル』にするのはいいと思います。
>>910さん
ご提案ありがとうございます。
しかし
>運営貢献は官職、ネタ評価は位階、面白くした評価は勲等 …etc
はややこしくなると思いますし『段位制』『閣僚化』には賛成できかねます。
まずは初期のように『ネタ』=『官位』が中心として、馴れ合いは各人の常識の範囲内で行うようにする…と。
>>藤原殿
位階問わず意見を申してもらって結構ですよ。
鎌倉さんは920をお読みいただいたかな?
>>922さん
色々なご意見をお持ちのようですがまとまっていないと議論のしようがありません。。
マターリすぎて起こった今回の改革案ゆえに『長く愛せるスレ』の焦点を変えようとしているわけです。
『スレとしてそのままではぬぐいがたい、衰退の兆し』が現状のマターリ+過疎化なわけでありまして
現段階での『飽きられる要素』が『馴れ合いの無さ』であれば、
それはそれで『過度の馴れ合い』ゆえに現在の運営に至った経緯も踏まえて考えなければなりませんね。
そして、おっしゃるとおり『笑いの要素』の欠如は否めません。
うまく『ネタ』と『笑い』のバランスがとれるようになれば良いのかもしれませんが。。
ネタは噛めば噛むほどとは申しません。同じ話題で膠着状態に陥る危険性もありますしね。
ただ、仰せの通り、マターリしても仕方ないのかもしれません。
ごたごた理屈をいっても仕方ない。単純に申し上げれば、ある意味、トリビアはいいお手本だと思います。
評価基準はともかく、やり口としては、トリビアの種やガセビアもとりいれると。
あくまで比喩ですがね。
925 :
秋山将軍太郎源氏長 ◆lyhaiNydT6 :2005/09/01(木) 23:19:54
日本史官位スレの世代交代の方針に従い太政大臣を朝廷に返上する。
思えばこの一年間いろいろあったなぁ。
今後、元老院に入るかは未定。
926 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 01:12:13
官位について、2つ質問です。
官位の制度って、今でも残ってるんでしょうか?
あと、従五位から昇殿ができるということですが、
従五位でも貰えると凄いものなんでしょうか?
926です。
すいません、質問の意図が分かりにくいですね。
生前の功績などで、今でも官位を貰うことはあるのでしょうか?
と聞きました。
>>927 大正15年に公布された位階令が現在も有効です。
現在の最有力候補は中曽根元首相でしょうか?
現在は栄典制度の一部として運用されてます。
929 :
土御門左兵衛督泰重:2005/09/06(火) 12:57:44
こんぬずわ
930 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 13:06:30
926です。
928さんどうもありがとうございます。
うちの爺ちゃんが従五位もらってたので、気になり質問しました。
ところで中曽根さんだと、正二位ぐらいでしょうか。
932 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 19:19:23
従一位かと。
小渕さんは従二位だった気がするんだけど、
大勲位だとやっぱり違うの?
934 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:10:23
大勲位は従一位から正二位というのが相場。
叙勲基準などから比較は可能だから、個々人で検証してくれ。
勲一等で従二位から正三位が相場では。
中野文庫を見れば一発だと思うんだけど。
総理は確か勲一等のはず。
936 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 19:07:20
功績の著しい首相経験者は大勲位。
但し、存命中に大勲位を受ける首相経験者は数えるほどしかいない。
大勲位といっても、勲章の等級は最高位の頚飾に準じた大勲位旭日大綬章だけどね。
通常、首相は勲一等だった。前の制度下では叙勲を受けてから7年をおくと
さらに上位の叙勲を受ける道が開かれていた。だから、昔、首相経験者の叙勲にあっては、
叙勲基準の中で、内閣総理大臣の初叙は勲一等とするとなっていたんだよ。
首相はすべて勲一等だったら、中曽根大勲位は誕生していないし。
議員在職50年で大勲位だろ。功績が著しいって中曽根が何やったよ?
938 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 10:30:42
残念ながら、叙勲基準において政治手腕は無関係と思われ。
だって、行政機関が政治家を評価すること自体、中立性の観点からいって
厳密化が難しい。
議員50年やっても大勲位にはならんだろ。
あくまで、ポストのランク、在職期間、そして勲位を受ける上で明らかな
罪は犯していない。政治家はじめ叙勲基準の評価はたいていこれだけで評価
されているんだろう。
勲章は長年、勲等との相対関係があったからねどうしても経歴主義になってしまう。
叙勲を受けにくい人は褒章という制度があるが、これはランクもないため、行為活動の
実績評価が可能。栄典制度で厳密に実績評価できる仕組みが機能するのは勲章よりも
褒章ってことだな。
939 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 10:31:36
参議院議員4期でちょうど正四位くらいか。
940 :
京の人:2005/09/11(日) 00:58:37
秋山前相国は余命いくばくも無いらしいのうヒソヒソ…
941 :
むべ:2005/09/11(日) 00:58:38
山野さんお久しぶりです。
お国板のむべです。
挨拶代わりに質問を一つ。
織田上総介の「上総」は何故上総になったのでしょう?
上総は織田家とは全く関係ないですよね。
僭称するにも何らかの基準があるのではないでしょうか?
平家の上総介にちなんだのかとも思いましたが、
信長が上総介だったころは織田家は藤原氏だから関係ないですよね。
まさか、語呂がいいからとかそんな簡単な理由なのでしょうか?
ここの皆さんなら常識かもしれませんが受領名のトリビアを一つ。
松前慶広が秀吉に隷属した時、秀吉は慶広に「志摩守」を与えた。
これは蝦夷が島だから「シマ」のシャレだったんだね。
現在久しぶりにスレに出仕された方々、今回、仕切りなおし案施行によって処々変更点があります。
このレスを御覧になりましたら御所に御参内ください。
あと、次スレのテンプレについて等についても各廷臣の皆さんのご意見をお聞かせ願いたく思います。
とくに内大臣様、畠山殿、姉小路殿、武田殿、佐竹殿、京極殿、至急御参内頂きますようお願い申し上げます。
>>941 どうも始めまして。鎌倉といいます。
>織田上総介の「上総」は何故上総になったのでしょう?
…すごい質問ですね…!確かに何故でしょう…?
『守』と『介』を間違えてたぐらいなんで
すごく固執していたとも考えにくいですが…。
しかも吉良義央の『上野介』とはワケが違いますからね…。。
スイマセン…結局「ワカリマセン」。。orz
山野さんのご見解が待ち遠しいですね…!
他の廷臣の皆さんのご見解もお待ちしてます…!
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
正三位 卯川明良
還任 参議
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
正五位下 藤原朝臣忠定
遷任 右近衛少将
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
従三位 源朝臣康長
宜叙 正三位
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
正三位 源朝臣康長
宜任 大納言
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
948 :
本多忠定:2005/09/12(月) 20:34:01
>>943 確か今川を牽制する為と何かで読んだ事がある様なない様な。。
今川の領国さらには三国同盟に対して圧力でもかける気だったんでしょうか?
もっとも私も正確なことは記憶してませんからよくはわかりませんが。。
誰か知っている人いたらおながいします。。
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
正五位下 藤原朝臣忠定
宜任 正五位上
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
>>948訂正
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
正五位下 藤原朝臣忠定
宜叙 正五位上
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
それがしの名乗りは
正五位下守正五位上兼右近衛少将本多忠定になるわけですか?
上卿鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
正五位上 藤原朝臣忠定
宜任 中務大輔
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
>正五位下守正五位上
新しいww
名乗ってみる
>>946-947 昇叙の儀、有り難き幸せに存じます。。
新体制の柱の一部と成り、日々精進していく所存に御座います。。。
長くしてみる。。。
御所メンテ中なので参内は評定所次期スレ主討議の間まで。。
訂正
評定所評定はこちらまでスレに参内してください。
御所復旧の模様
入れました。
上卿 鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
従一位 源朝臣義立
宜任 太政大臣
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
964 :
前征夷大将軍六条太政大臣従一位源朝臣義立:2005/09/12(月) 22:57:32
ははぁ。
965 :
むべ:2005/09/12(月) 23:57:17
皆さん、始めまして。
あのー、官位が欲しいのですがどうしたら頂けるのでしょう?
できたら従四位上武蔵守がいいのですが。
ついでに関東管領も欲しいなあ。
因みに我が家は源氏です。
966 :
前征夷大将軍六条太政大臣従一位源朝臣義立:2005/09/13(火) 00:07:46
はじめはから四位かいw
967 :
前征夷大将軍六条太政大臣従一位源朝臣義立:2005/09/13(火) 00:10:53
おっと、すみませぬ。
よかったら歴史ネタをドゾー。朝臣で審議してスレ主が決定します。
学位論文の審査みたいなもんです。違うか。
歴史ネタはあまり知られていないような、かつ面白いのがウケます。かといって
そんなハイレベルでなくても心配無用。むしろ、小さなこと、身近なところに人の知らない情報がたくさんあります。
だから、自分の趣味で詳しい部分があれば何かネタを出してみて下さい。
関東管領ですが、最近幕府を廃止したので(関東管領は佐竹家にありましたが)。
>>965 姓名とトリップをご自分でお付けしていただいて
日本史のネタをいくつか出して頂ければ官職を受けることができます。
初任は七〜八位ぐらいからになりまして、そこからステップアップしていく感じです。
幕府は現在廃止されていますので関東管領は無理ですが。。
969 :
むべ:2005/09/13(火) 00:54:09
今のハンドルネーム気に入っているからなあ。
以前は牛沼久太郎と名乗っていました。
諱は頼良(よりよし)です。
今は無位無官だから牛沼久太郎頼良ですね
歴史ネタで官位に関することを書こうと思いましたがちょっと思い浮かびません。
歴史ネタから離れて文学ネタで一つ。
芝居では悪役の名は大体決まっている。
玄蕃、大膳、采女は悪役の名。
逆に隼人、兵庫などは善役の名。
悪徳商人が越後屋なのと同じだね。
>>969 >玄蕃、大膳、采女は悪役の名。
>逆に隼人、兵庫などは善役の名。
それには何か由来とかはあるんでしょうか?
>>牛沼殿
あとネタ出し以外はsageでお願いしますね。
はは〜 謹んでお受け致します
今後はスレ発展のために邁進する所存〜
>>965 >>969 牛沼殿はじめまして これからよろしくお願い致します
>>969 おや、お久しぶりですね。トリップなしで、御名前も変更なさったのですか。
「むべ」と言えば、文屋康秀を思い出し、次いで朝康、宮田麿、如正と続きま
すね。最後の一人、『本朝麗藻』が完全に残っていれば、もっと知名度も上がっ
ていたかもしれませんが、『和漢朗詠集』でも出番が無い様なら、無理か。
その内、どこからか完本が出てくれば・・・と思わずにはいられません。
三戦朝の朱嵩でございます。皆様お久方ぶりにございます。
帝よりお祝いのお言葉を預かりましたので、お伝え申します。
鎌倉公を始めとする日本史朝の皆様 今回の新体制発足を心よりお慶び申し上げる
貴朝の益々のご繁栄と 今後の更なる皆様のご活躍を祈念しております
今後ともよろしくお願いいたします。
>>朱嵩様
毎々格別の御厚情を賜り、まことに有難く存じます。
本来であれば国賓として御迎えしたはずの卯川殿に
ご助力頂くことになったことは
偏に某の失政に依るところであります。
これからも貴朝に何かございましたら
当朝のできる範囲においてお手伝い致しますので
気兼ねなく仰ってください。
こちらこそ今後とも宜しくお願い申し上げます。
977 :
秋山秀任 ◆lyhaiNydT6 :2005/09/13(火) 18:28:12
皆さん始めまして秋山氏長の嫡男、秀任でござる。以後よろしくっす。
じゃあネタ。
伊賀について
国名の由来
古くこの地を領していた猿田彦神の娘、伊賀津姫に由来するものとされている。
680年に伊勢国から阿拝、山田、伊賀、名張の四郡で独立した。
どんなどころかと言うと・・・。
東海道西端の国で、周囲は外郭山地からなり内側に伊賀上野盆地が展開する内陸国。
盆地周辺の山地に源を発する河川は集合して西に流れる、他国との交通はこの河川交通が便利で京へは上り2日下り一日と近い、古代には東大寺、興福寺、藤原氏などの荘園が数多く存在した。
古代から奈良や京から伊勢へ出る通路として要衝の地とされていたが、四方を山に囲まれた閉鎖的な状況が災いしたのか伊賀には統一的な権力は育たず、土豪や地侍が小党分立していた。
このため伊賀国内の抗争は小規模なものが多く、奇襲、謀略戦が多くなり、夜討ち、放火、間諜など忍びの技が発達した。
戦国期の伊賀
戦国期には周辺の大名領国からの圧力に対抗し、在地領主権を守る為大小の国人領主が団結して惣国一揆を起こした。
国人領主66名は伊賀上野の平楽寺で談合、評定を行い近江甲賀郡の国人衆とも連携し合議による独自の支配体制を築く。
この支配体制は1581年の天正伊賀の乱まで保たれた。
こんな感じ。
>>976 もっとも義昭自体は秀吉から飼われていましたけどね。。
関白は一家独占は大変難しいというよりほぼ無理なので安定政権を望むなら秀吉とて征夷大将軍を望むはずです。
義昭なら赤の他人より息子の義尋を征夷大将軍にしたかったと思います。(親子ですからねえ。)
そういったこともあり関白が問題の着地点となったと私は"個人的"に考えています。
>>977 前相国様のご嫡男殿にござりますか!
これから宜しくお願いいたします!!
>>978 そうですね。
あと某としては
>天正7年といえば、義昭追放から6年も後のことではないか!
もちろん織田政権の管理の下でのことであろうが、
この期に及んでもなお、室町幕府の官僚機構はその機能をはたし続けていたのである
…の部分が個人的に気になっていました。
確かにサイト内にも書かれているように
室町幕府で将軍が京を離れることはしばしばありましたからね。。
つまり公式(形式的)に室町幕府が滅んだのは『義昭の死』ということなんですね。
お初にお目にかかります。しばしのスレ汚し ご無礼いたします。
「ネタ」
小倉百人一首 陽成院の一首
つくはねの みねよりおつる みなのかわ こいそつもりて ふちとなりけり
この中に出てくる「みなのかわ」男女の川
一般的には表筑波(南斜面)に流れる男女の川を指しますが
実際には、裏筑波(北斜面)にも男女の川があり
未だにどちらの川を対象にしているか定かではない
表筑波(旧筑波町)裏筑波(真壁町)
真壁町もかなりの歴史有る町です。
http://www.tsukubasan.co.jp/
筑波と聞いて思い出すのが、「此面彼面(このものかのも)」という言葉。
『万葉集』では、二上や筑波嶺に対して使われていますが、後世の歌合で
は忘却されていた為に、「耳慣れない言葉であるが、典拠がどこかにある
のか」と、判者から追求されています。
なお、『万葉集』は下卑な歌も収録されているという理由で、歌合の例証
として認められない事がありました。もっとも、鴨長明なども指摘して
いる通り、先例に拘り過ぎると、まともな歌も出来なくなりますが。
歌が良過ぎる場合には、耳慣れない言葉でも認められましたが、通常は
聞きなれない言葉は排除されました。
もっとも、院政期の源俊頼などは、地方の民俗的習慣にも注目しており、
それらを歌に詠む事もした事が記録されています。
『古来風体抄』であったか、『袋草紙』であったか。
>>981山野様 感服いたしました。
私などまだまだ未熟者、官位等戴こうと思ったことが恥ずかしくございます。
歌合については、歌合大成もあり、日本古典文学大系本に収録された歌合、
岩波文庫でも出ている『六百番歌合』などを見れば、大体のパターンが分か
ります。よろしければ、参照なさって下さい。
さて、日本での和歌や漢詩の親しみ方として、著名なのが朗詠でしょう。
『枕草子』には、白詩や『文選』に着想を得て、男が漢詩の体裁で上の句を口
にし、女が和歌形式で(原典の内容を和訳して)下の句をつける事がありま
したが、所謂連歌というのもこの同類と言っていいでしょう。
『江談抄』などにも類例が見られますが、平安時代の日本人は、四条大納言
こと藤原公任の『和漢朗詠集』にある通り、漢詩を鑑賞する際、特に興味を
ひかれた一節だけを抜き出して楽しんでいました。
『平家物語』に、「林間に酒を〜」、「前途程遠し〜」などの例が見られますが、
何も全文を暗記しなくてもいい。寧ろ、一節ごとに興味を持ち、かみ締める
事で、当時の人情に近づける事があります。
千取り合戦スタートですかね??
>>常陸殿
姓と諱を教えていただいてよろしいでしょうか?
>>山野殿
次スレもよろしくお願い致します。。
>>985右大臣様
初めて御意を得ます。
常陸平四郎時幹と申します。
以後 お見知りおきを
987 :
常陸平四郎:2005/09/14(水) 01:51:17
上卿 鎌倉右大臣
平成十七年九月十二日 宣旨
源朝臣頼良
宜叙 正八位上
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
>>988訂正
上卿 鎌倉右大臣
平成十七年九月十四日 宣旨
源朝臣頼良
宜叙 正八位上
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
上卿 鎌倉右大臣
平成十七年九月十四日 宣旨
源朝臣頼良
宜任 織部佑
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
上卿 鎌倉右大臣
平成十七年九月十四日 宣旨
平朝臣時幹
宜叙 正八位上
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
上卿 鎌倉右大臣
平成十七年九月十四日 宣旨
平朝臣時幹
宜任 隼人佑
蔵人左中弁式部権大輔助平 奉
あと牛沼殿、常陸殿、トリップをお付け願えますか?
右大臣様
任官の義 御礼申し上げます。
この後も精進いたします。
>>995 どうぞ、これからもよろしくお願いします。
名乗りとしては『常陸隼人佑時幹』がよろしいかと。。
>>常陸殿
朝臣について
平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)、氏の下に朝臣、
諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。
四位以上の者は氏、諱の下に朝臣とつけて呼称した。
氏ではなく諱の下に朝臣とつけることを名乗り朝臣という。
例 足利内大臣正二位源朝臣義政公
例 細川右京大夫従四位下源勝元朝臣
Byうぃき
で、「宣旨のときは平朝臣じゃないか」と思われると思いますが
前にそれについて六条相国様達と話たとき宣旨のときはそう使われてる例もあったので
当スレでは宣旨のとき「○朝臣●」(○=姓 ●=名)としています。
さてと
初の1000GET!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。