■◇武士と農民の境界◇■

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
苗字帯刀スレとか、庄屋スレとか読んだけど、で結局、武士と富農の境界ってなによ。
足軽とかは武士なの?同心は本当に二本差しだったの?

重複駄すれだけどよろしく
2日本@名無史さん:05/03/01 00:15:27
2ゲット
3日本@名無史さん:05/03/06 19:20:00
3ガリア
4日本@名無史さん:2005/03/25(金) 21:46:36
足軽は武家奉公人だろ
5日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:25:18
藩による
6日本@名無史さん:2005/04/09(土) 00:47:26
そうかね?
7山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/09(土) 01:06:57
藩により異なり、明治に足軽が士族になったところもありました。
8日本@名無史さん:2005/04/09(土) 01:10:11
それは知ってるけど、明治になって士族となったことが
江戸時代において武士身分であったことを
保証するというものでもないでしょう?
9日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:59:39
一般に武家奉公人は苗字を持たない。
また足軽は苗字を持ち、多くの足軽は世襲化していくので武家奉公人とは言えない。
10日本@名無史さん:2005/04/10(日) 10:19:53
江戸時代の武士の事でも上級武士の事ならそれなりにわかるのですが
下級武士のことはわかりにくいですね。幕臣ならお目見え以上が旗本や
大名で、それ以下名が御家人で町奉行配下なら奉行の下に与力、その下に
同心で、そのへんは時代劇のハイライトをあびる部分ですが、その他の
役回りとなるとなかなかわかりませんね。四谷鮫が橋の伊賀組も最底辺で
その拝領地が貧民街になったといいますから、下級武士と賎民との間も
底で通じている部分があるような気がしています。
11日本@名無史さん:2005/04/10(日) 11:07:22
ある藩の家臣の通婚を調べてみると、
いわゆる下級藩士にのみ百姓との婚姻関係が見られる。
12日本@名無史さん:2005/05/03(火) 10:32:20
その場合は他の(下級藩士の)家の養女とかにしてから結婚するの?
それをやらずに武家と農家という形のまま婚姻?
13日本@名無史さん:2005/05/04(水) 04:17:15
>>12
そのまま。
もちろんただの平百姓ではなく、三役だけど。
14日本@名無史さん:2005/05/23(月) 20:50:49
豚に歴史がありますか?
15日本@名無史さん:2005/05/29(日) 00:29:56
ありますち
16日本@名無史さん:2005/06/23(木) 21:37:16
17日本@名無史さん:2005/06/24(金) 11:44:09
武家と上層農民との区別はかなり曖昧なはず。近世でも。
関東では、江戸初期の頃から、兄の家系が旗本(幕臣)、弟の家系が名主(庄屋)
という例が結構多くみられるようです。郷土史の本などで見つかるはず。
越谷の会田家なんかもそう。大名までになった喜多見家も小田原の役直後
は、当主が喜多見村(世田谷区)に隠棲して、帰農してた、つまり農民身分
になっていた、と読んだ記憶があります。
それと、名主クラスの上層農家の場合、藩の家老など重臣クラスや、ときには
藩主との姻戚関係をもつ例もありますよね。足軽が、かりに士族だとしても、
上層農家とは、むしろ身分が釣合わないのでは、と思われます。
18日本@名無史さん:2005/06/24(金) 11:48:13
千人同心や牧士の例もあるのでなんとも言いがたいでしょう。
確か、近世の身分的周縁という研究書があるので読むことをお勧めします。
19日本@名無史さん:2005/06/24(金) 11:57:10
>>17
>兄の家系が旗本(幕臣)、弟の家系が名主(庄屋)
竹ノ塚の河内氏もそうだな

あと兄は農業継いでて、弟は武家奉公して用人に出世、
有力旗本の家政を牛耳ってたという研究があったと思ふ
書名わすれたが
20日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:45:07
 
21日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:49:59
ということは家柄は、
紀子さまの庄屋>>>>雅子さまの小和田家(足軽と中間)
ということでよろしいですか。
22日本@名無史さん:2005/07/15(金) 18:56:17
お金を持ってるのは庄屋さんかも知れないが、下層でも武士の方が
位は上だと思う。
23日本@名無史さん:2005/07/16(土) 06:44:24
>>17
>藩主との姻戚関係をもつ例もありますよね。足軽が、かりに士族だとしても、
>上層農家とは、むしろ身分が釣合わないのでは、と思われます。
藩主や家老との姻戚関係はいわば、内々の関係であり、公的つまり正式な関係ではない。
つまり正室ではなく側室でしかない。
つまり百姓はあくまでも百姓であり、百姓の娘を公式に妻にできるのは下級武士でしかない。
24日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:22:28
ということは「下級武士>上級百姓」ということ?
25日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:37:02
平時は百姓一旦緩急あらばブシ(兵隊)、これ常識
26日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:38:19
やなこった(百姓)
27日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:08:44
>>19
「江戸の訴訟」高橋敏著でそんなのを見たな。
28日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:41:23
士農工商なんて安易な部類分けをしたからややこしいんだよね。

百姓身分でも武士に順ずる待遇を受けていたり,農村に住んでても商人している人もいるんだし(在郷商人)
29日本@名無史さん:2005/09/01(木) 20:55:07
30日本@名無史さん:2005/09/01(木) 22:17:27
武士と言われるのは、家系として士分になった家の人だけ。
言い換えれば、武士の家という株を持った人達だけが、士の身分。
今の相撲の親方をイメージすれば大間違いはしなさそう。
それと武士格は武士じゃないから。武士の扱いを受けられる民ってだけで、士分より下。
それ以外は、職種で分けるだけで、土地に縛られて大体身分が固定してる。
商人から農民へは難しいけど、逆はできるし、ある程度の流動性はあったみたいだよ
31日本@名無史さん:2005/09/03(土) 09:44:18
>>30
株っていうけど、親方みたいに総数が決まっているわけではない。
固定でもない。
農民になるのも難しくはない。
32日本@名無史さん:2005/10/08(土) 06:18:08
農民は土地支配に関係してるから、勝手に増減できない。
税金を払って無い「え○」には自由になれた。
33日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:00:10
水戸藩領の場合、佐竹氏が秋田にいかされて、土着の武士団の嫡流はそ
のまま残って庄屋層や村落の指導層になり、次男以下が秋田に行ったり、
その途中で仕官したりしてる。山形の鳥居家に仕官して、取り潰し後、
その後にきた保科に仕官し、ともに会津に移り、会津松平の家臣になっ
てる(上層の)。水戸の士族は新規の藩なので、北条や武田の旧臣がい
たりするせいか、ずっといる国人、庄屋層には若干軽んじられていた感
がある。二代 徳川光圀公が西山荘に隠居したのは水戸の前の長い佐竹
の根拠に住み、旧佐竹恩顧の農村有力指導者層を懐柔する目的があった。
そういえば、土佐山内家の家老の家も参勤交代のおり、三河かどこかの
庄屋の家の挨拶に寄っているはず。そこは、その家老家の本家。
34日本@名無史さん:2005/10/08(土) 19:22:36
歴史があるのが武士
歴史がないのが百姓と豚
35日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:31:44
>>34
うちの本家は江戸時代農民だった。しかし、室町時代までさかのぼれる家だ。
戦国末に領主が没落。
下手な武士より歴史があるぞ。
36日本@名無史さん:2005/10/09(日) 05:01:31
百姓には百姓の歴史がある
37日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:52:59
ほんまや
38日本@名無史さん:2005/10/23(日) 02:57:14
同心 徒歩 足軽 中間
この辺の株は30両くらいだろ
但し江戸町奉行の同心株は賂が多いので
1000両の相場がついたらしい
39日本@名無史さん:2005/10/23(日) 03:03:20
武士と足軽の比率は1対4位だからほとんど足軽だろ
足軽は確か明治初期士族ではなく卒族になってその後
すぐに士族に吸収されたのでは?
40日本@名無史さん:2005/10/23(日) 03:14:43
足軽からは戦時刀で戦ってないよね 槍足軽とか弓足軽とか鉄砲足軽とは
また城下のことは置いておいて足軽が農村に使いに行って時はそこの庄屋
と同席して五分五分だったようなその辺から足軽は武士ではないのでは?
中元になると刀も差していないからそれ以下だと思うが
41日本@名無史さん:2005/10/23(日) 03:19:59
39の訂正
卒族の一部 大名の直臣はなったのがいるが陪臣はあまり卒族から
士族になっていないが
42日本@名無史さん:2005/10/23(日) 13:51:56
勝海舟の妻は元芸者。勝海舟は下級の御家人だが、一応は武士なので
、妻は知り合いの武士の養女と言う形で結婚した。
43日本@名無史さん:2005/10/24(月) 14:25:31
勝さんはおじいさんがお金持ちで士株買ったんだよね
44日本@名無史さん:2005/10/24(月) 14:37:11
小普請組だろ 仕事はなく普請のときはお金出すから生活苦しいよ
45日本@名無史さん:2005/10/24(月) 14:39:11
40石だっけ
46日本@名無史さん:2005/10/24(月) 17:22:49
家も武家(たぶん下級)ですが
調べたら、そのあたりでは有名な豪農と親戚関係だったようだ
あと、祖母方は豪農だったと聞いていたが、4代ほど前に
なぜか実子を全員養子に出して武士だった某家から養子をもらって
家を継がせていたことが判明、ほとんど差はなかったのでは無かろうか

47日本@名無史さん:2005/10/24(月) 17:24:33
>39
足軽(卒族)はほんの一部が士族に吸収されただけで
ほとんどが平民になったと聞いたが
48日本@名無史さん:2005/10/24(月) 20:56:08
足軽というのは不思議な人たちだったんだね
49日本@名無史さん:2005/10/24(月) 20:58:50
そもそも足軽米1日5合だろ 相当副業しないと暮らしていけなかったのでは?
スレ違いだけど
50日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:57:29
足軽のイメージとは・・・
秀吉の兵農分離政策以前は、農民からの臨時徴収兵。鉄砲などは主に
彼等が扱う。特に一人が特定の標的を撃つのではなく、集団で発砲す
るので、極端な命中精度は必要なく、臨時徴収兵でも可能だった。
兵農分離後は、鉄砲の扱いが上手な者などが、正規に採用され、幕藩
体制後は、「最下級」の士分として藩の組織の一部となる。
歴史書読むと上記のイメージだが、訂正よろしくお願いします。
また、一人前の士分は、戦場で鉄砲を扱う機会がなく「鉄砲は足軽な
どが扱うもので、サムライは刀・・・」という思想が時代を経るに従って
強まった=映画「ラストサムライ」は間違いではない。
51貧農史観をただす:2005/10/25(火) 00:00:01
武家は貧しかった。
天下のお百姓様はやりたい放題だった。
52日本@名無史さん:2005/10/25(火) 17:34:30
>>50
それだと秀吉以前にも足軽鉄砲隊が存在したみたいだけど
53日本@名無史さん:2005/10/26(水) 15:35:10
同心は刀で戦ったのかな?
あまり同心と足軽の区別がつかなくなってきた
54日本@名無史さん:2005/10/26(水) 15:39:01
足軽は刀一本しかさしてないのかな?まさかやくざみたいに道中脇差じゃないよね
55日本@名無史さん:2005/10/26(水) 16:32:37
加賀藩では足軽といっても庭付きの一戸建ての住まいで、
当時足軽の住居街が何か所も形成されていました。

http://web3.incl.ne.jp/matsuura/k_central_nagamachi_ashigaru01.htm
これ玄関まであるんだけど普通足軽は足軽長屋で四畳半住まいでは
藩によってずいぶん違うみたい
56日本@名無史さん:2005/10/26(水) 16:41:04
彦根藩の足軽もいい暮らししてる
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/yashiki/index.html
57日本@名無史さん:2005/10/26(水) 17:12:45
流石、加賀百万国 しかし参勤交代で江戸に向かうのは最悪だったと聞く。
58日本@名無史さん:2005/10/26(水) 17:54:32
相当親藩に気を使ったみたい 日程もぐしゃぐしゃだったようだ
59日本@名無史さん:2005/10/27(木) 07:31:07
〉〉51
具体的にどれくらいやりたい放題だったの?
60日本@名無史さん:2005/10/28(金) 12:04:05
足軽はもともと戦時だけ臨時で雇う傭兵だから身分上は微妙
61日本@名無史さん:2005/10/28(金) 22:51:12
>>50初期の足軽でしょ。時代が下るに釣れ財政が辛くなり下のものからリストラ。後期には一時的な臨時雇いが大多数だと思う。
周辺論なら郷士などが面白い。薩摩などは士族だが無足人と呼ばれる農民身分の郷士など様々。この辺の区分けは戸籍が
村落にあるか藩にあるかだが最近は流行らないみたい。
62日本@名無史さん:2005/10/29(土) 10:09:49
家の先祖は代官手代だったが、なんとか士族になった
維新のさいに、政府と身分の保障をやりとりした文書が残ってる
ここらへんがボーダーラインか?
63日本@名無史さん:2005/10/29(土) 14:52:58
>>62官軍、幕軍で差が出るから微妙
64日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:57:44
>>42
勝海舟の家はご家人ではなく旗本。

>>53
同心とかいうのは、もともと立場を表現しただけで、身分の呼称ではない。
一概に同心だから云々と括ることはできない。

>>61
同心と同様に足軽の身分も各大名家でまちまち。
ある藩では世襲の足軽と壮年の農民を一定期間雇う足軽とに分かれていたりした。
65日本@名無史さん:2005/11/01(火) 19:45:22
頭痛に同心
66ねえノーミン:2005/11/02(水) 06:30:15
伊藤博文のこと下級武士とか言うけど、
親父さんは純お百姓で、中間やってたんでしょ?

直参旗本勝海舟の爺さんぐらいは金貸し検校かなんかだから
町人だろうし。
67甲斐犬 仕事休み:2005/11/02(水) 18:16:39
 戦国大名とは、国人・地侍と言った中小領主の連合体。そして、農村には
核家族の自作農などは珍しく、多くの農民は、国人・地侍の従属民だった。
 この地侍の経営形態だが、現代の、住み込み従業員をかかえるパチンコ屋や
旅館のようなものだ。
 パチンコ屋経営者一族の男が、屈強な従業員を率いて出兵する・・・・戦国
時代の平均的な農民兵は、こんな感じだ。だから、農繁期も実は、なんとか
出兵可能である。農民兵では、農繁期の出兵が不可能とする俗説は間違い。
この俗説は、農民を核家族の自作農と思いこんだ過ち。「出兵できない」では
なく、「出兵しにくい」が正解なのだ。
 さて、好戦的な君主によって、出兵が強行されると、次第に、農民兵も
農村の中に生活基盤を失う。帰ってきても耕す田畑は無くなる。城下町
に住みやすくなってしまう。
 つまり、兵農分離と、農繁期の出兵は、卵と鶏の関係。
 地侍一族の、好戦的な男は、城下の武士になり、配下の農民兵は足軽になり、
戦嫌いの男は、庄屋に、その配下の農民も純然たる農民になっていく。
 これが兵農分離の実態。
 太閤検地と兵農分離政策は、先進地では、既成事実の公認に過ぎなかった。


 
68日本@名無史さん:2005/11/02(水) 18:51:54
>>22
小和田家は村上の足軽か中間?
そんなの士族のうちには入らんよ。
正田家は館林の庄屋だったそうだが、小和田家が正田家よりも家格が上だと
言ったら笑われるぞw
69日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:00:36
>>68>>正田家は館林の庄屋
聞いた事無いぞ。ソースは?確か穀物商だったと思うが。
70日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:10:53
館林の米穀商でありながら庄屋も務めていたんでは?
士農工商の最下層である正田家は、村上の足軽以下の小和田家よりも
ずっと下の家柄、とういうことになるわな。
足軽>庄屋>商家
だと思い込んでいるバカな香具師の理屈から言えばwwwwwwwww
71日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:19:44
>>70微妙なんだよな。紀子様の実家は庄屋だが・・・マスコミにいろいろ書かれてたような。。。雅子様のほうは元士族が前面に出された。
72日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:24:15
っていうか、日本史板に士農工商があったなんて思ってる人間が
いるなんて。。。
73日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:27:20
>雅子様のほうは元士族が前面に出された。

そうだっけ?テレビで一度も明治以降の制度としての「士族」だった
って話は聞いたことがない。「卒族」かもね。
74日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:34:42
士族団体である村上鮭産育養所の奨学金を貰ってるはず・・・先祖が。
75日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:38:09
>>72
教科書に書いてあったもん。
76日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:41:25
紀子さまの先祖は和歌山の庄屋だよ。
雅子さまの先祖の方がハッキリしない。
77日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:52:17
3代前以上の先祖の素性も分からない>小和田家
78日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:52:28
>>74

それもらってたの父親の恒だよ。しかも戦後だから士族関係ないよ。
そもそもあの父は二男か三男だから、士族でも卒族でもない。
79日本@名無史さん:2005/11/03(木) 00:00:00
正田は徳川遺臣で徳川郷の支配者(旗本ではないが、お目見え)正田隼人家(徳川伝説に乗った旧家)
の分家で商家。
80日本@名無史さん :2005/11/03(木) 00:01:49
正田家は士農工商以下の身分であった、と某雑誌に載ったな・・・
81日本@名無史さん:2005/11/03(木) 02:51:07
分家の小和田家だから平民だと思う。何かの本で読んだ。
本家よりも分家の方が栄えた。

士農工商という身分の括りは正しくない。
村に住んでりゃ、農業をしてなくても百姓だし。
逆に、町に住んで農業に従事してたら町人身分。
82日本@名無史さん:2005/11/03(木) 06:10:49
>>81>>分家の小和田家だから平民だと思う。
あまり意味のない議論だと思うが・・・士族の家柄かどうかが問題では?
83日本@名無史さん:2005/11/03(木) 06:23:17
つ■◇武士と農民の境界◇■
84日本@名無史さん:2005/11/03(木) 09:27:00
>>82
雅子妃の小和田家は士族じゃない。分家だから。
士族は小和田本家。
85日本@名無史さん:2005/11/03(木) 10:59:21
村上市にある小和田家の墓には「士族」だと書かれてないそうだよ。
だから士族ではないのは事実だと思う。
86日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:16:38
くだらんことを詮索してるな。どっちにせよ、ショボイ家柄だろうにw
87日本@名無史さん :2005/11/03(木) 11:50:13
小和田家
           小和田金吉(同和)
            |
            |
            |
            |   田村又四郎(同和 平家の落人村出身
            |    |    田村家に養子)      
           毅夫=竹野_|
             |          
           小和田恒=優美子
               |
           徳仁=雅子
               |
              愛子
           
         
88日本@名無史さん:2005/11/03(木) 14:12:18
>>67 甲斐犬 仕事休み
ふ〜む
89日本@名無史さん:2005/11/05(土) 02:36:45
>1
秀吉が農民と武士を分けただけ。
どちらになりたいか、申告させた。
ただそれだけ。
90日本@名無史さん:2005/11/06(日) 23:40:32
秀吉の自己否定だよね 自分と同じ人間が二度とでないようにした
91日本@名無史さん:2005/11/06(日) 23:43:39
秀吉は税収を増やしたかったんだよ
92日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:04:12
ふっふっふ 年貢に消費税付けるか
93日本@名無史さん:2005/11/17(木) 13:08:58
>>85
ちょっとまて、墓に士族とか書いてある物なのか?
94日本@名無史さん:2005/11/17(木) 18:09:53
>>93書いてあるのが多いかもね。あと貴族院議員とかも見るな
95日本@名無史さん:2005/11/18(金) 01:06:20
>>94
明治になると、院号居士とか増えてくるから
そういう部分で差をつけたのだろうか
96日本@名無史さん:2005/11/18(金) 12:09:44
>>95おそらく上級武士の墓には記述は無いんじゃないのかな。下級武士とか成り上がりが箔を付けるために彫ったのでは。
97日本@名無史さん:2005/11/18(金) 15:01:40
書名も作者も失念したけど、
確か岡山藩あたりの研究では、
徒士ですら初期には定着性がなく一代限りの性格が強かったが、後半には譜代化した。
足軽は譜代的なものと、年季奉公的存在が混じっていた。
そして譜代の家筋でさえ実際には入れ替わりが激しかった(薄給過ぎて夜逃げ多し)。
つまり中には本当に世襲していた家も有るがそれは例外で、
標準的な足軽は農民(当主含む)あたりが働き盛りに出稼ぎ感覚で勤めるものだったようだ。
また普通足軽になるのは上層農民ではなかったようだ。
確かそんな内容だった。

こう言う藩の足軽は武家奉公人ではあっても武士とはいいがたと思う。
結局藩によって違うから一概には言えないとしか言いようがないのでは。
98日本@名無史さん:2005/11/18(金) 17:20:42
>>93
家も士族だけど墓には何も書いてない
ただ、士族が会った時代に誰も死んで無いから
だけかもしれんが、あと墓地の場所は変わってないらしいが
改修でずいぶん削られたと父親が言ってたのでその変もあるかもしれない
爺さんの代でたくさんあった墓石を一つにまとめたらしい
99日本@名無史さん:2005/11/18(金) 19:08:25
大身旗本の譜代の家臣で、維新後に主人が禄を削られて失業した人達って平民ですか?
静岡藩士になった旧幕臣とか3000石以上でも当初5人扶持(後十人扶持)とかで、
とても家臣を雇えたっとは思えないので気になった。
と言うかそもそも首でない場合は士族だったのですか?
100日本@名無史さん:2005/11/21(月) 04:30:34
うちは、庄屋の家系だけど、家にお嫁に来た祖母は下級武士出身です。
祖母の女学校の卒業証書に
○○県士族 ○○○代
と書いてあるので士族出身だと思います。
祖母の母方は家よりも大庄屋でしたので、家のランクがスレタイのランクだったんだと思いますよ。
周りの親戚を見ても、庄屋か下級武士出身の士族がほとんどです。
101日本@名無史さん:2005/11/21(月) 09:43:02
どうも下級武士より庄屋のほうがいいな
102日本@名無史さん:2005/11/21(月) 10:15:41
乱暴に例えると
中小姓以上が総合職、徒士が一般職、足軽はアルバイトかパートで、
庄屋は下請けの小企業の社長って感じなのかな?
103日本@名無史さん:2005/11/21(月) 14:06:19
紀子妃の実家は和歌山の庄屋だけど、
会津藩250石取りで大阪市長であった池上四郎の娘を嫁に迎えるくらいだから
それだけの格式があったんだろう。
104日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:18:27
野口英世の学位記見たら「福島(だったと思う)県平民」と書いてあった。
105日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:44:43
>>102
江戸時代なら足軽でも正社員じゃないの
もすごい薄給の
106日本@名無史さん:2005/11/23(水) 19:23:32
けどフリーターみたいな足軽も多かったらしいよ。
107日本@名無史さん:2005/11/23(水) 20:54:44
でも足軽のバイト倍率高いのでは?
108日本@名無史さん:2005/11/23(水) 20:59:28
日本人を平均すれば、中くらいの本百姓だろ。
先祖を辿れば、江戸初期は土豪クラスに隷属してた小農クラス。

それに較べれば、足軽の方がまだ上。
109日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:10:34
小作農はそんなにいなかったらしい
110日本@名無史さん:2005/11/23(水) 23:40:13
ニート状態の武士は多い
111日本@名無史さん:2005/11/23(水) 23:49:28
大半の近世武士は公務員というより年金生活者や予備役軍人に近い。
112日本@名無史さん:2005/11/24(木) 01:07:13
武士と農民の境界は俗に苗字帯刀と言われる
完全な契約主体であることと関係あるのか?

武士であることとは、雇い主である領主との奉公契約を意味する。
奉公契約が有効であるためには、雇われる武士が完全な契約主体性を有する必要がある。

中世以前の社会での農民は、荘園と荘園領主に隷属しており
領主との関係は相互的な契約関係にないから契約主体は関係ない。
しかし、中世になって荘園管理人や上層農民が武士として領主と主従関係を新たに
結ぶとなると契約主体性をあらたに獲得する必要がある。
荘園の隷属民としての有象無象では、領主と奉公契約を結べないから
自身の独立性を誇示する意味でも苗字を名乗る必要がでてきた。

実際に中世末期の寺社が管理する荘園では、上層農民が苗字を名乗り
地頭と結ぶことを禁じる意味で苗字を勝手に名乗ることを禁じる動きもあったようだから
やはり農民の名乗りは、隷属民から独立した契約主体としての自立宣言を意味したんだろうな。
113日本@名無史さん:2005/11/24(木) 01:18:58
江戸期になって兵農分離が進み、上層農民はふたたび土地と領主にしばられる形になり、
武士も領主との関係も隷属的関係に近い関係になってしまってわかりずらくなったが、
やはり基本型は、農民は領主に対して契約関係と言うより隷属的、武士は契約関係とみるべきなんだろうな。

領主と家臣が契約関係を結ぶためには、家臣が誰に対して隷属しておらず独立した契約主体性を有する必要がある。
そのためには、武士が隷属的身分にあって独立した契約関係を領主と結べない農民と明確に区別されなければならない。
そのあらわれこそが、契約を結ぶ際に自らの独立性を証明する苗字であり、ということか?

明治以降の近代化政策で、すべての市民に苗字を名乗らせたのも、今後はすべての市民が自由に契約を結んで
市民社会を作らせるための方策とみるべきか。
114日本@名無史さん:2005/11/24(木) 04:20:49
前レスした、家が庄屋の家系だった者です。
基本的に戦前までは家の家系で働いている人はおりませんでした。
下級武士だった祖母の家系も、借家をいくつか持っており、働くようなことはなかったですよ。
昔は家と家同志の結婚でしたので、お互いの家の雰囲気に釣り合う人としか結婚しなかったはずです。(恋愛結婚を除く)
農地改革、財産税で、財産も大分持っていかれましたが、宅地を開放した地域としてない地域があり、宅地を持っていた地主で開放しなかった人は今でもそれなりに裕福であるはずです。
115日本@名無史さん:2005/11/24(木) 15:14:44
ところで浪人ってのはどうなるのかのな?裁判の時とかの法的取り扱いは町人並みたいだけど。
それと何代も続いた場合でも浪人を名乗り二本ざしでもいいの?
あと世襲代官の手代なんかは武士?
116日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:34:52
>>114家の格での婚姻ってのがよくわからん。うちは庄屋の家系ですが確かに明治初期は本陣と婚姻関係
ですから分かるのですが、それ以降は士族がほとんど。金じゃね?
117日本@名無史さん:2005/12/01(木) 19:33:28
岡山藩の支藩の鴨方藩では上士は同等の家柄同士で婚姻関係を結ぶが、
徒士以下は農民と縁を結ぶ(嫁取・養子)のがむしろ通例だったそうだ。

118日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:02:00
へえ。徒士同士というのは珍しいわけ?
119日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:55:58
>>115
手代は厳密には武士ではないだろうな。
120日本@名無史さん:2005/12/10(土) 22:52:06
>>115
手代は二本差しだけど
世襲は出来ない
121日本@名無史さん:2005/12/19(月) 00:14:46
半農半武
122日本@名無史さん
age