1 :
2248# :
05/02/18 23:58:37
2 :
2248# :05/02/18 23:59:58
倭王権樹立の歴史と歩みを騙ろう。 *ローカルルール (あくまでも荒らし対策です、ご理解下さい。) 1)自説発表及び反論は、出来ればコテハン&トリップが望ましい。 2)邪馬台国論争(特に比定地論争)は専用スレにて語る事。 3)荒らしはスルー!迷い込んだ邪馬台国論争者は専用スレに誘導する事。 4)まず自説を述べてから議論に参加する事。その際にはコテハンを使用してください。 5)考古学板ではありません。記紀や倭人伝への考察を忘れずに。 6)異説、異論を排除してはなりません。大いに議論して真理を探りましょう
スレ立て慣れないのでテンプレが
>>2 に。
しかもトリップが、、、、
逝ってきます
向こうは酷いね。 つうことで誰かあっちの削除依頼だしてけろ。
6 :
日本@名無史さん :05/02/19 01:08:56
あっちに客とられたな。
7 :
日本@名無史さん :05/02/19 01:11:24
本スレあげ
8 :
日本@名無史さん :05/02/19 03:23:57
荒れた方は、ほっといて、こっちで真面目に語ればよい。
ここで、亡命百済人・天武のこと語っていい?
10 :
日本@名無史さん :05/02/19 14:25:18
>>1-3 乙!
ボヤキで恐縮ですが、
>>2 で倭王権=畿内王権 を前提にしてしまったのは
マズいんじゃないだろうか?でもあとはいい感じです。
>>11 現段階で確実に言えるのは畿内王権(後の大和朝廷)が存在した、ということだけですね。
失礼しました。
時間軸によって、文献の倭の主体がどこに存在するかは議論中でした。
13 :
プラム :05/02/19 16:56:33
日本において、かなり前から王権の形が出来あがっていても、中国側が文献として表さなければ国際的に認めてもらえない王権であり、文献記載されるまで王権そのものが闇に葬り去られたことになるのでしょうか?
>>13 プラムさんへ。ご質問の主体者はどなたでしょうか?
つまり、葬り去るか去らないかするのは、どの時代の誰を指していますか?
15 :
プラム :05/02/19 20:02:22
倭奴國なんかはどうでしょう。 実体がまるで掴め無い、筆一本でなりたっていた王権
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/19 20:49:55
おおここか。 現段階では北部九州しかないなあ。 冬でも温暖で王権の遺物が出る邪馬台国候補は。
17 :
日本@名無史さん :05/02/19 22:23:32
>>16 北部九州が冬どれだけ寒いか知らんのか?奈良盆地と大差ないぞ。
君が何をもって王権の遺物とするかは知らんが、鏡なら認識が古すぎるのだが。
>>15 プラム氏は前に「邪馬台国がスレに入ってなければ絶対に来ない!」と
捨て台詞を残して去り、皆の顰蹙を買っていたが、それについての謝罪はないのか?
君は「どこですかスレ」でもスレ主に露骨に注意されていただろうが。
君の書き込み自体が荒らしそのものなのだと、いい加減気づいて欲しいものだ。
>>17 >プラム氏の件について
その経緯は私も見ました。ただ今後彼がスレタイとテンプレに沿って、自説の書き込みや他説への質問をする事を排除したくはないと考えます。
ただ、学説と人格は別というものの、おっしゃることはよく理解できます。
>>プラム殿
貴兄は敢えて素人を「売り」にされているとお見受けしております。
そこから斬新な発想が生まれ、真理への到達へ飛躍的に寄与することがないとは言い切れません。
しかし、素人、研究者ともにお互いへの尊敬の念を失ってはそれもかないません。
と、いうことでよろしくお願い致します。
19 :
プラム :05/02/19 22:52:13
確かに。 でも、あの時のスレと今のスレが別物だと判断しているからカキコしてる。 それとも、このスレも考古学板スレなのかい? 邪馬壹國の名前入れ、あの時の流れを引いたバリバリ板違いバージョンならば 『さよならするよ』 多少まともにカキコ出来るようになったのも皆さんのおかげ (感謝) スレ汚しスマソ さようなら
>>19 >それとも、このスレも考古学板スレなのかい?
断じて違います。比定地論争でなく、畿内王権が大和朝廷になっていく過程のなぞを探るスレです。
敢えて言いますが、この畿内王権は邪馬台国と「同一」「別王権」「後継者」のいずれとする説の論者も排除しません。
また、専門家だから(素人だから)バカにしたりないがしろにするのはやめましょう、と私は言いたいのです。
あなたにも他説や専門家に対して(真理を究明する同士としての)尊敬の念があるのなら、ぜひまたお越しください。
お待ちしております。
>>20 「別王権」説はデムパ九州王朝説を呼び込む可能性が大きいので排除すべきと思うが。
あと、考古学オンリーではないが、考古学の成果を参照しない文献脳内解釈論者は排除したいが。
みなさんはどう思います?
>>21 >別王権
九州王朝説論者の視点で「畿内王権→大和朝廷」の流れを説いていただくのは善しとしたいです。
なぜなら、それぞれの論にとっても理解が深まるチャンスが増えると思うからです。
ただし、くどいようですが比定地論争はスレ違いとします。
自生説以外の論にとっては参考になる可能性が大いにあると思うのですが。
>考古学の成果を参照しない論者
文献を考察しない論者以上に不要でしょう。
24 :
日本@名無史さん :05/02/19 23:41:32
>>23 いや、3世紀のことだけならいいですが、九州王朝説派を認めると、
前スレで「前スレ941」氏とのまともな論者の間であったように、(5世紀の朝鮮半島をめぐる議論)
4世紀以降の議論で不毛で不愉快なやり取りが起こってしまうと思います。しかもやはり九州王朝説派は弥生時代から3世紀まではやたら考古学を引用しますが、それ以降は全く無頓着・無知になるので話が噛み合わないと思います。
つまり、4世紀以降については、考古学的に「九州王朝」なる倭国王権の主体が全く根拠ないのに、事実、4世紀以降は文献解釈だけで突っ走る傾向がきわめて強いわけです、九州王朝派はですね。
「古墳から律令へ」という以上、そのような不毛な議論は避けるためにも九州王朝説派は他の九州王朝スレや邪馬台国スレに隔離すべきだと思います。
>>23 これは考古板の受け売りなんだけど、なぜあえて文献を考察しないかというと
「批判資料に乏しいため、記載事項の真偽がそれだけでは判断できない」からだそうです。
記紀の絶対年代の確定が困難である限り、根拠は考古資料に重きを置くのが正解への道しるべではないかと。。。
文献資料は、考古成果に沿って解釈すべきだと考えますよ。
7世紀の馬子邸跡らしき建造物が発掘された事例など、まさに該当すると思いますが。
26 :
日本@名無史さん :05/02/19 23:55:46
>>25 同意。
文献ももちろん参照するし、無視はしない。文献と明らかに矛盾するのは不可。
だけど、主体は考古学資料にすべきで、文献は少なくともここでは従にすべきかと。
文献解釈主体の方にはつまらんかもしれないが、このスレッドはそういうことで行きたいと思いますが、どうよ。
漏れも九州王朝が来たら引くな。
>>19 プラム氏の勘違いは
「このスレも考古学板スレなのかい?」この一文に集約されていますね。
古代史においては文献資料が絶対的に不足しており
これ以上の新資料が出現する可能性がほとんどないため、考古学が有効になるんですよ。
現代の考古学とは一種の総合学であり、専門化するのは避けられないわけです。
そのあたりを専門家(院生さんや埋文関係者の方)が書いてくれているのに、無視しちゃいけないでしょう。
第一考古学が解き明かした事例なんて、古代史よりも近世・近代史のほうがずっと多いですよ。
信長の比叡山焼き討ちの真相や、三段鉄砲隊の実態なんてその際たるものです。
>>24 排除する気はないけれど、話が噛み合わないというのは
今まで散々見てきたので、消極的にですが住み分けには賛成です。
29 :
プラム :05/02/20 00:20:30
>>20 よく解りました。
皆さんの意見動向にしたがうつもりです。
どうしても、『いやだ』と思われる方がいるようなら、私の存在事態が荒しの原因を作る恐れがのなら
参加を自粛します。
>真実の究明
そうしたいから 疑問点が有れば場所を選ばずかみついてしまう
>>24 ずいぶん勘違いしてますよ。土器編年の見直しを提唱したのも
天皇の古墳発掘を提唱したのもあなたの嫌いな派閥からです。
>>30 それは嘘ではないけど、本当でもないよw
編年の見直しなんて派閥を問わずに繰り返し行われてきているし
近年になってやっと一応の決着を見たというのが実情でしょう。
陵墓発掘も然り、派閥にかかわらず皆が提唱している。
君の書き方だとまるで「九州王朝説のみが主張してきた」ような印象を受けるが
それは嘘をつくよりもたちの悪い、事実の隠蔽だよ。
そこまで主張してませんが
33 :
日本@名無史さん :05/02/20 02:46:28
こっちが本スレ。あげとく。
34 :
プラム :05/02/20 06:30:38
自分はただ『王権』について認識を広げたいだけ。 他のスレにお邪魔するのもその内容について勉強したいだけ だから、よそのスレにお邪魔しているときは『邪馬壹國』の話題には触れていないし、スレからも逸脱してないと思ってる。 考古学を否定してるのではなく、『日本史板』で考古学絶対主義の議論をされるのが嫌だと、主張しているだけです。 解っていただけないでしょうか。
35 :
日本@名無史さん :05/02/20 07:40:51
プラムは来なくていいよ。 他にスレがいっぱいあるのだから。 プラムの話を聞いて何か参考になったやついるか? いないだろ。
36 :
プラム :05/02/20 08:40:36
>>35 君の意見はよくわかった。重視したい
>参考にならない、だから来なくていい
俺に対してだけの発言なら問題無いけど
2ちゃんねるのスレって、そんなに権威有るものかね?
さっきした君の発言は、かなり問題発言かと思われるが。
一般素人や初心者を排除する発言だ! しっかりとした『根拠』や自説の説明を十分示せないから“2ちゃんねる”に遊びに来てるはずだよ
スレから逸脱しなければOKなのが“2ちゃんねる”
違いますか?
37 :
日本@名無史さん :05/02/20 08:55:39
>>23 の◆mKnFQ6unGkや、
>>25 の◆zCHh4EGUak や、
>>26 に同意。
文献だけ、あるいは、考古学だけ、というのではなく、
文献と考古学を、クロス・チェックすることが大事。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/20 09:18:19
糸島が奈良盆地並に寒い? 馬鹿ではないか。 最低気温が0度付近の糸島と−15度の奈良が どこが同等だ?
39 :
日本@名無史さん :05/02/20 12:33:03
>>37 >文献と考古学を、クロス・チェックすることが大事。
その通り。まずは、
「東征は、3世紀以後には無かった」ということで誰も文句ないね?
考古学的にもありえない。文献にも無い。神武は紀元前の人。
「畿内王権は、古代から存在した」ということも誰も文句ないね?
考古学的に証明済み。文献にもニギハヤヒ政権があったとされている。
「3世紀以後、九州王朝は存在でき無かった」で、いいね?
考古学的にも否定。 文献にも熊襲征伐が繰り返されており、九州の独立性は無い。
このへんから出発しようじゃないか。
>>39 >東征は、3世紀以後には無かった」ということで誰も文句ないね?
考古学的にもありえない。
ソースは。大規模な東遷ならともかく、東征は考古学では証明が極めて困難ではないか。
>文献にも無い。神武は紀元前の人。
無いとは言い切れない(新唐書)。神武が紀元前の人とするには、詳細な文献批判が必要。
しかしこのスレの前提として仮定することに異議なし。
>「畿内王権は、古代から存在した」ということも誰も文句ないね?
考古学的に証明済み。文献にもニギハヤヒ政権があったとされている。
その通り。
>「3世紀以後、九州王朝は存在でき無かった」で、いいね?
>考古学的にも否定。 文献にも熊襲征伐が繰り返されており、九州の独立性は無い。
文献では磐井の乱は看過できない。が九州王朝派からこのスレへの参加表明がなければ、その前提で構わない。
>このへんから出発しようじゃないか。
保留。
41 :
日本@名無史さん :05/02/20 13:48:05
「九州の邪馬台国が東遷した」という説は除外していいね。 日本書紀には、神功皇后紀に魏志倭人伝の引用があるのだから、 文献を尊重すれば、残る選択肢は、二つだけ。 1、畿内に邪馬台国があった。大和朝廷に続いた。卑弥呼は神功皇后。 2、九州に邪馬台国があった。熊襲討伐で、神功皇后に滅ぼされた。 でも、文献を尊重すれば、1はありえない。 台与にあたる皇族が記紀に書かれていないからだ。 よって、答えは2。 それでは、畿内王権=大和朝廷について、存分に語らいましょう!
>>41 ヒミコが神功皇后なんて説いってるやつはいないだろ。
文献自体がどこまで信用していいか怪しいから考古学を基本とすべきだということだ。
なんかおかしな方向に逝ってるな。
>>41 神功皇后の在位年代は捏造っぽいから、仮定のやりすぎ。
ちょっと厳しいのではないか?
じゃあ、女王国を「邪馬臺国」のはずが「邪馬壹国」とした魏志倭人伝は 畿内説からすれば捏造された伝となるのか?
魏志倭人伝に極端な作為・捏造は作者の逆境からしてありえない。 記紀は自国と天武の大義名分のまえで、小細工大細工ありとみていい。
それくらいでは貴殿の恣意だよ。
>>45 それでは、貴殿は魏志倭人伝は捏造ではなく、女王国は「邪馬壹国」
という派であるな?
ここは九州王朝説は出入り禁止のはずだが
>>47 そう、文字はよほどの根拠がなければ、いじってはいけないと思う。
百歩譲って明らかに誤りでも、注や( )で対応すべき。
しかし「壹」字を「臺」の誤りとする根拠は充分とはいえない。
壹⇔臺を錯誤する確率が低すぎる。むしろ国名の変更があったと
見るべきだろう。
>>48 禁止されているのは比定地論争。説による出入り禁止はなし。
48のような荒らしも禁止。
日本書紀は畿内王権、大和朝廷の歴史書。魏志倭人伝は外国からみた日本の歴史書。 両者には大きな齟齬がある。その訳には大きく二つの説がある。 1魏は畿内王権を知らなかった、または皆倭種として認識していた。 2畿内王権が朝貢していた歴史を恥じ、自らの歴史書に事実を記さなかった。 どちらにも決定的な根拠はない。唐までは畿内王権を知らなかったとする説もあるが、かろうじて「あるもの曰く日本は元小国…」「みかどの性別」くらいで、漢籍に 「邪馬台国東遷」は述べられてはいない。2は全くの想像でしかない。 文献上での新たな発見がないかぎり、水掛け論に終始する。 だから、考古学はもちろん民俗学言語学などからの視点も非常に重要なのである。
魏が畿内王権を知らなかった、これは当時、魏と畿内がかなりの遠隔だったからだ と考えるのが、自然な論である。 ということは、「邪馬壹国」とやらの情報を魏が入手していたということは、 ストレートに、女王国は魏にとって畿内より近場にあったという考察となりうる。
>>51 遠隔じゃないだろ。西域とも交流があるのにあんで畿内程度が遠隔なんだよ?
>53 久宝寺辺りからでも楽浪系の生活遺物が出るってことを認識してない奴はスルーしれ。 それと、コミュニケーションが可能な相手なのかも考えてだな。
>>54 コミュニケーションが不可能って、たとえばどういう情況をいってるの?
>>54 楽浪とも交流があるのになんで畿内くらいで遠隔なんだよw
>>56 畿内のどの天皇の時に交流があったというのか?
記紀等のどのへんに記述があるわけ?
>55 他の関連スレを見てきてごらん。 コテハンだからわかりやすいよ。 ま、ここでもわかるかもしれんけどね。
60 :
日本@名無史さん :05/02/20 18:29:03
>>54 >久宝寺辺りからでも楽浪系の生活遺物が出るってことを認識してない奴はスルーしれ。
それは畿内王権の認知の証明にはならない。少し考えてものを言ってくれ。
>>60 議論の多い三角縁神獣鏡を除いても、中国鏡は3世紀中頃以降は畿内に集中している。
>>54 マトモな議論のために聞くが、そんなのあったっけ?
63 :
日本@名無史さん :05/02/20 19:00:25
正倉院の宝物の産地と、正倉院当時 国交はなかったよね かの国が日本の王の名を知らなかったとしても全然不思議ではない。 考古成果で証明できる事柄と出来ない事柄を厳密に区分しないといけない 過小評価もいけないが、過大評価もダメ
64 :
日本@名無史さん :05/02/20 19:04:51
65 :
日本@名無史さん :05/02/20 19:11:05
九州年号は北部九州に圧倒的に多い。それが畿内でも使われているので、畿内も邪馬台国の勢力範囲だったと推測される。 九州年号を捨て、独自の元号を制定したときが畿内王権の始まり。大宝元年(大化の説あり)から畿内が独立したとみたい。 という説を、特に考古学的観点から否定できますか?
>>63 正倉院宝物は奈良時代、九州王朝(そんなのは本当は無かったわけだが)があったとしてもその後w
喩えではずしてるよこいつw
九州王朝を考古学的証明できないから(できる訳無いわけだが)、必死に考古学を否定する気持ちは分るよw
ただな、そうなら3世紀以前についても考古学使うなよ。
三雲遺跡とか須玖岡本遺跡とか使うなよw
九州元号でもよく見ておくことだな
69 :
日本@名無史さん :05/02/20 19:23:35
日本列島で使用されていた、最古の連続元号だろが。
>>67 >>60 や
>>63 は正論だよ。奈良時代でさえそうなのだったら、それ以前は(
なにを熱くなってるのか知らないがレスが変だぞ。言っておくが私は文献畿内派だ。
>九州王朝を考古学的証明できないから
今の所証明できない。それは自生説も外部説も東遷説も同じ。
>ただな、そうなら3世紀以前についても考古学使うなよ。
>三雲遺跡とか須玖岡本遺跡とか使うなよw
九州派にも考古学の造詣を深めていただかないといけないと思う。学問的に自殺行為なレスと言わざるを得ない。
72 :
日本@名無史さん :05/02/20 19:39:19
九州年号の分布は北部九州を中心に東北にまで使用例がある。 通説では私年号とされている。 東洋史を知っている人間なら、最高権力者以外が制定したと考えるのは論外という認識。 対して通説は「仏僧が定めたものか?」としている。 ならば畿内王権の勢力が、実際には北部九州には及ばず仏僧によって支配されていたこととなる。 仏僧にしろ伊都国の末裔にしろ大宝までは畿内に影響力を持ち、畿内王権の元号制定を持ってその影響から完全に脱したとするのが自然。
>>67 本当にあったんだよ。貴下の過信による誤り。
74 :
日本@名無史さん :05/02/20 19:45:08
自生説の人は九州年号について、どう説明するのでしょうか。
75 :
日本@名無史さん :05/02/20 20:04:59
>>72 ホツマツタヘとか、外津軽三群誌の世界だね。
九州年号が出てくるのは、1著作だけじゃないけどな。
77 :
日本@名無史さん :05/02/20 20:10:16
金石文まで否定しちゃう、九州年号インチキ説って、そりゃもう学問じゃないよね。
「九州年号」は後世の偽作私年号ということが定説なわけだが いつからこのスレ九州王朝スレになったんだ?
倭人伝で、か? 「人臺文字」を否定しちゃうのがうんといるよ〜ん。
80 :
日本@名無史さん :05/02/20 20:42:54
古田だけだろ。九州年号なんて言ってるの。
81 :
日本@名無史さん :05/02/20 20:48:53
無視しちゃうの?
九州年号というネーミング自体、捏造すれすれじゃん。 あれは中立的・客観的にいえば「私年号」以上でも以下でもない。
>>75 >>77 確かに金石文からも九州年号は出てるからな。
調べもせず拒否反応起こしたらいかんよ。
>>78 それが定説。しかし謎は多い。
>>72 はうまくまとめてると思う。
ただこのスレ的にはこの話題は適さないと思う。出来れば九州王朝スレなりで議論を深めて戴きたい。
だから、「何説支持者だから追放」などと言う、勘違い君には 落ち着いてほしいと思う。比定地論争は避け、考古学を踏まえた 各種文献学等の探求を、皆でするのが望ましい。
85 :
日本@名無史さん :05/02/20 21:24:50
>>83 東洋の常識から考えて、私年号などというのはありえないし類例もない
通説は間違いと言い切ってもよい
そして正史は、一部の例外を除いて二中歴を切り捨てている
このことは、権力の移動を暗示する
この問題を語るには九州王朝説を避けて通れない
ただ九州王朝説は年号問題以外では破綻も多く、私は採れない
この論を深めるとスレ違いを招く恐れが大きい
結論としては、今は分からないとするのが適当
そのように、比定地論争を避け、畿内王権を語りましょう。
二中歴なんて鎌倉時代の落書きみたいなもんだろ。
そんなことは、研究してから言えよ。
89 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:29:25
90 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:31:08
まあインチキ学者は学位もやってることもインチキだな
91 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:33:31
友人が古田史観にはまって困っています。 別に古代史が専門じゃないので、いいかもしんないけど、 古田系雑誌に投稿とかし出す将来に傷つかないかと心配です。 どうしたらいいんでしょうか?
92 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:34:12
友人が古田史観にはまって困っています。 別に古代史が専門じゃないので、いいかもしんないけど、 古田系雑誌に投稿とかし出す将来に傷つかないかと心配です。 どうしたらいいんでしょうか?
>そして正史は、一部の例外を除いて二中歴を切り捨てている この一部の例外が重要。少しカジったひとなら知っている。しかしスレ違い。
94 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:35:18
シュリーマン=神話を元にトロイを発見する
原田大六 =神話を元に平原墓を発見する
詐欺師和田 =クジラの骨を埋めて阿倍頼時の墓を捏造する
遺骨はクジラの骨だった…(平成10年8月13日の産経新聞)
「岩手県衣川村に埋葬された阿倍頼時のものとされる遺骨がこのほど、
岩手医大と岩手県立博物館で鑑定され、クジラの骨だったことが分か
った。」
という記事だが、それにいたる経過や和田氏の名前が書かれていない
ため次のような二次記事ができてしまった。これはこれでおもしろい
が、もっと面白い裏があったのに。
遺骨はクジラの骨だった…(雑誌「GON」10月号)
「阿倍頼時がクジラだったなんて、まったく知らなかった。きっと
子供の貞任もクジラだったのだろう。クジラが反乱を起こすとは、
岩手県も鋭角的だ。グリーンピースも真っ青だろう。古事記などを
読んでも、日本人の祖先は海産物であると思われるふしがある。………」
http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/tukuru/tugaru/tugaru.html
96 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:39:56
古田の足摺岬プロジェクトってどうなってんですか? 誰か知ってます?
>>89 当スレは、スレタイテンプレに沿ういかなる説も排除しません。
個別の説だけで議論を深めるなら。別スレ立てるかホームページ立ち上げるかして対応して下さい。
98 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:48:16
九州王朝説の本拠スレッドは、こっちでいいの? もう一つあるけど どっちに書けばいいですあk
99 :
日本@名無史さん :05/02/20 23:57:47
古田氏も親鸞研究まではよかっったが。 九州王朝はちょっとな。
>>98 比定地論争でなく、畿内王権が大和朝廷になっていく過程のなぞを探るスレです。
敢えて言いますが、この畿内王権は邪馬台国と「同一」「別王権」「後継者」のいずれとする説の論者も排除しません。
荒らし認定。たぶん同一人物。 >96>98−99
>>100 こうなるから九州王朝は排除すべきと言ったのに、、
それとも貴方も実は九州王朝派?
いずれにしても今の状況は本スレの趣旨とは関係ないことばかりだな。
>102 荒らしてるのは、対立派でしょ。追放すべきは荒らし。
>104 そう言ってまた荒らすなよ。
106 :
日本@名無史さん :05/02/21 00:21:17
畿内に有力な国主はかなり古代からいたと思う。 ただ、現在と同じ範囲での日本の領土全体をカバーする 中央集権統治は、果たしていなかった。 そしてそれは九州の有力国主も同じだった。 そのうち一つが邪馬台国と呼ばれようが否が、 要は、そういうこと。
107 :
日本@名無史さん :05/02/21 00:22:09
粘着してるのは、ほんの一部の畿内派だな。
>>39 まではマトモだったが、、、
プラムがいた頃の方がマシだったとは、、トホホw
109 :
日本@名無史さん :05/02/21 01:35:39
110 :
日本@名無史さん :05/02/21 02:36:45
九州年号がそんなに不思議ですか? 今だって「平成何年」「西暦何年」を併用してる。 年号を必要とした人が、使い勝手のいい年号を使っただけ。 九州年号を使用したのは九州在住の僧侶。 広めたのは、檀家。
111 :
日本@名無史さん :05/02/21 02:48:28
またいい加減な断定してるな。僧侶限定なんて証拠はないぞ。 あまり荒らすな。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/21 12:50:26
なんだ、 畿内王権の話が出てないではないか? 渡来人の政権かどうかくらい明確にしろ。
113 :
日本@名無史さん :05/02/21 13:03:18
渡来人政権を主張する人はあまり記憶がないのだが、 「結論言いっぱなし」の人はいたかもしれない。 言いっぱなしだから誰も賛同しようがない。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/21 14:57:37
では、 畿内の縄文人は弥生人になり大和朝廷になった というのには賛同できるのか?
115 :
日本@名無史さん :05/02/21 20:36:27
縄文の弥生国家がないから、その質問自体が存在し得ない。
116 :
訂正 :05/02/21 20:37:00
縄文の畿内国家がないから、その質問自体が存在し得ない。
『国』とゆう概念について聞きたいことがあるのですが、お邪魔してもよろしいですか?
>>114 の質問は意味不明。
「九州年号」は「九州」の年号である根拠なし。
15世紀後半の文献に初見するが、九州年号の根拠なし。
すでに江戸時代に否定されている。
室町時代の僧侶らが遡って勝手に捏造し使用したに過ぎない。
もともとは江戸時代の鶴峰がこれを使って「襲国偽僭」を補強しようとありもしない文献をさらに捏造して引用したのが発端。
これが学界の定説だが、古田は確信犯的にこれをぶり返したにすぎない。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/21 21:52:06
馬鹿ぞろいだな。 畿内説が渡来人政権で無いなら、 縄文依頼土着勢力とする以外になにがある? まず論理学をやってからにしろ。
>>119 極論だろ。
たとえばここでは畿内王権成立が列島内ではあるが外部勢力により立てられたという説が論じられている。
「渡来人」か「縄文以来の土着人」か、というのは極端な二者択一。
論理学どうのと言う問題じゃない。
極端な2説を勝手に作って、どっちだ、そして片方が間違いだから片方が正しい、とするのは論理学では詭弁といいいますが、何か。
121 :
日本@名無史さん :05/02/21 22:22:08
韓国人が、日本が天皇の墓の発掘を途中で止めたのは天皇が韓国からきたのがわかるのがやばいからだといってるんだが、どの天皇の墓のことを言ってるかわかりますか?
>>122 そもそも、それデマじゃん。
そうでないならソース出せ。
124 :
日本@名無史さん :05/02/21 23:35:42
>>118 の言ってる話も大嘘。
「江戸時代に否定されている」なんてことはない。
皆さんよく見てください。 こういうのが荒らしです>121
江戸時代の伊勢貞丈が『安斎随筆』の中で、後世に僧侶が勝手に作ったものとして否定していますが、
>>124 おおもとの『海東諸国記』では大和朝廷の年号ということになっていますよ。
鶴峰戊申が、自分の「襲国偽僭」説の主張のために「九州年号」として捏造したのがことの発端だが。
そういう基本的なことも分って言ってるのかきわめて疑問だな。
127 :
日本@名無史さん :05/02/22 00:32:27
だから日本全国を配下に置く 中央集権政府がなかっただけで、 近畿エリアに国や王(国主)は古くからいたんだよ。 そういう証拠が考古学からでてきている。 ↓ 前1世紀の近畿に王権か 大阪、池上曽根遺跡 市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。 神殿から約100メートル離れたこの一帯に、支配者の特別区画を設けて 政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。 邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外は まだ農村のような共同体社会とみられていたが、既に権力を一手に握る 「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重な発見だ。 (共同通信) 2004年11月9日記事から抜粋
128 :
日本@名無史さん :05/02/22 00:36:49
>>127 それはそれでいいんだけど、
ちょっとオーバーな評価なんだけどな、これって。
少し大型の倉庫群の存在だけで「王」が証明できるものか疑問。
各建物の規模や棟数も本当はまだ検討中なのに打ち上げたのが真相かと。まあ吉野ケ里も同じようなもんだが。
>>128 おいおい、いくらなんでも縄文前期の岡山県地方に「近畿勢力」はないだろ。
そもそも「勢力」など以前の時代と思うが。
>>217 それって『王権』じゃなく大きな生活集団(自治体?)じゃないの?
『王権』が出来るには
@地域の治安が乱れる
A宗教的なカリスマが現れる(やはりこれにも人々の不安要員が必要)
B外部に巨大な敵対国が存在する
C大陸から『国』という制度が入ってくる
最低限、このどれかに該当しないかぎり『王権』を証明することは出来ないと思うが!
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/22 10:24:27
ここも馬鹿ぞろいだな。 >>> たとえばここでは畿内王権成立が列島内ではあるが外部勢力により立てられたという説が論じられている。 「渡来人」か「縄文以来の土着人」か、というのは極端な二者択一。 論理学どうのと言う問題じゃない。 >>> 列島内?当たり前だ畿内は列島内だ。 大和朝廷は外部勢力によって立てられた? じゃ 渡来人の侵略政権ではないか。 馬鹿ではないか。 では、先に進むか。 その侵略政権はどこから来たのだ?
>>132 答え
徳島の田舎から淡路島経由で畿内へ
134 :
日本@名無史さん :05/02/22 11:43:22
>>129 倉庫跡だけじゃないよ>大阪の池上曽根遺跡
中心部で祭祀をしていた神殿跡があって、
その柱は何百年後に建てられた法隆寺の柱と
遜色ない太さ。
中心部に神殿、倉庫、住居跡という
意図的な区画の様子もある。
やはり大人の権力者(←当時としては、ね)がいて、
それに従って民が労働しないと、そんな大きな公共建築物は
建てられないよ。
135 :
日本@名無史さん :05/02/22 11:55:10
>>131 古代の『王権』の殆どは(世界中)神権政治だよ。
古代ギリシャではオリンポスの神々がいて、オラクル(神託)を
聞く人がいて、為政者が民をそれに従わせる。
古代中国だってそうだよん。殷とか。東アジアでは
神のお告げを聞く巫女がいて、それに従って政治をした。
というのは、電気もなく夜は漆黒の闇で嵐や疫病など
自然の力の脅威を感じていた時代だから。
人的脅威がなくても、そういう天の力を怖れて
神権政治をするんだよ。古代にいくほど世界中そうです。
だから紀元前1Cころの池上曽根遺跡の中心に、
祭祀跡があったのは世界中の例に照らして本物だと思うわけ。
プラムさんは後世から逆に解釈してる気がする。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/22 12:04:28
あいかわらず馬鹿ぞろいだ。 古代は神権政治だとー? うぷぷぷ。 馬鹿ではないか。 古代は強権政治だ、 戦いだ。 ほんとに駄目なやつらだなあ。
「遺跡の中心に祭祀跡」があると本物っていうのもどうかと思うぞ。 海洋民族だったら、沖ノ島みたいに島が祭祀場になるだろう。
>>136 あいかわらず馬鹿ぞろいだ。
現代は民主政治だとー?
うぷぷぷ。
馬鹿ではないか。
現代は強権政治だ、
戦いだ。
ほんとに駄目なやつらだなあ。
あんまり馬鹿を連呼してもはじまりません。 マタ〜リとスレの進行を願います。
あ〜あ。 おじいちゃん、考古板だけじゃなくて 日本史板まで荒らしてるのか つД`)=З
141 :
日本@名無史さん :05/02/22 23:48:13
石塚っていうくらいだから、昔は石がゴロゴロしてたと思うんだよね。 古墳で石っていったら石室か葺石だろうけど、葺石ではなさそうだ・・・とすると、 石室が露出してたのかもしれんね。かなりむかしに。
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/23 09:21:05
答えるまで再掲するか。 >>> たとえばここでは畿内王権成立が列島内ではあるが外部勢力により立てられたという説が論じられている。 「渡来人」か「縄文以来の土着人」か、というのは極端な二者択一。 論理学どうのと言う問題じゃない。 >>> 列島内?当たり前だ畿内は列島内だ。 大和朝廷は外部勢力によって立てられた? じゃ 渡来人の侵略政権ではないか。 馬鹿ではないか。 では、先に進むか。 その侵略政権はどこから来たのだ?
143 :
日本@名無史さん :05/02/23 10:25:23
百済だろ?
>>142 別人だが
侵略政権って言ったって、周縁部の遠戚勢力だって外部勢力だろう。
イギリスのように、皇室が外部から招聘されることもある。
なんで列島外だけを想定するのかさっぱりわからない。
この辺、考古学的にはどうなんだろう。
145 :
日本@名無史さん :05/02/23 12:23:06
畿内にとって一番近い海外『徳島』が有るだろう
>>142 は多分あのデムパだから気をつけろ。
畿内の外部と言う話がいつのまにか列島外になっているしw
そのうち騎馬民族と言い出すよ。
何を言っても聞かんからw
時間の無駄だよ
まあデムパ祭りも面白いがw
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/23 13:41:00
なに? 畿内の外部で列島内部から来た? で、 どこからだ? 徳島? 徳島の前はどこにいた? 結局、渡来人とするしかないんだよ。
徳島の前は 『イザナキとイザナミが木陰でエッチして〜。』 これで良いのかw
>>147 は、小泉首相が先祖代々太古から世襲制で日本を統治してると信じてるぞ。
>>147 は
人類の起源がアフリカだったことを知らないらしい。
その700万年前、アフリカのどのへんからなんだ? そこの英字列よむのが面倒。
なに、チャドか?
155 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/23 17:11:41
チンパンとサピエンスの枝分かれは、 ミトコンドリアのDNA変異からだと、 480万年前だそうです。
結論 畿内王権の始まりは『ビックバン』だ。 畿内王権の奥は深い。
157 :
日本@名無史さん :05/02/23 23:12:15
あんたおかしいことがありすぎなんだよ。 ・東日流外三郡誌真書説 ・パシフィックウェスタン大学学位 ・河童パクリ なんであんただけ次から次へと胡散臭いものが出てくるのさ。
なぜいつのまにか原田実スレになってるんだ?
学歴詐称の原田実age
161 :
日本@名無史さん :05/02/25 01:28:30
宮司がもらった額は0円。130万円も嘘で、局が用意した90万円程度の土木費用が、 掘らないままパーになっただけ。金と引き換えに、土偶を渡したのでもない。 ドジな番組制作者とマヌケな宮司のお粗末な失敗談というのが真相。 こうして、ありもしない事件が捏造されていく。
163 :
日本@名無史さん :05/02/26 00:41:07
>162 それ言ったの安本だよ。
安本が原田を仲間に誘って、原田が言いふらしたのさ
165 :
日本@名無史さん :05/02/26 01:33:19
>164 なんで原田がそんなことすんの?
166 :
日本@名無史さん :05/02/26 02:03:11
●足摺の古代文明圏 古田氏が連発する「真実、大発見」のひとつ。読売の記者を引き連れ足摺に 入った古田氏は、そこに縄文時代の巨石文明を大発見してしまった。 土佐清水市足摺岬に大きな石がたくさん転がっている場所があるのだが、 それらに人の手が加えられているとブチあげた。三つに割れた石に「天」 「海」「地」の古代人の宇宙観とゆーものを見てとり、石に銀紙を貼ると 遠くから見えるので縄文時代の灯台だった可能性があるというのだ。(「 THIS IS 読売」平成5年7月号) ということで土佐清水市の教育委員会は古田氏に調査を依頼する予算を計 上した。
売名行為
168 :
日本@名無史さん :05/02/26 10:14:03
どんな著名人や学者であろうが、2ちゃんねるで個人批判するのは止せ。 お前らに直接危害与えた訳ではないだろう。 我慢できないヤシは、直接本人に言ってやれ マジうざい お前らの行為は、どんな『荒し』よりも卑劣だ 社会悪なんだよ
169 :
日本@名無史さん :05/02/26 11:27:37
学歴詐称野郎は、黙れ。
>>169 だからー
実害の及ばない(2ちゃんねる)で反発してもしょうがないだろう
学歴詐称が許せないなら、今から本人の所へ行って罵倒してこい
ここでやるな!
172 :
日本@名無史さん :05/03/07 01:38:26
age
173 :
日本@名無史さん :05/03/07 21:17:32
age age
174 :
日本@名無史さん :05/03/10 04:08:23
360年代以降の応神朝については、日本書紀のストーリーで大筋は史実と思う。 それ以前の崇神朝の記述については、4世紀前半の畿内王権の歴史を どの程度反映しているのかよくわからない。 この約60年間に、女王国体制と応神朝の間をつなぐ いろいろな出来事があったはずなのだが・・・。
将棋で古田、安本クラスをプロ八段とすれば、原田などアマ5級 人の仕事にまとわりついてはこき下ろして食っている寄生虫
176 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:25:11
原田=古田=安本=珍電波
>>176 お前はティンカス。
つうか読みもせずにごたく抜かすな、クズが。
178 :
日本@名無史さん :05/03/11 00:35:24
>177 古田は詐欺師だろ
ま、少なくとも3人とも、史学雑誌・歴研・日本史研究なんかに 載る論文は書かんわな
180 :
日本@名無史さん :2005/04/06(水) 00:22:54
なぜこっちのスレを先に使い切らない?
姫彦制の提唱者はどなたなのでしょうか。
182 :
日本@名無史さん :2005/04/08(金) 00:55:41
老教授がそんなこと言ってたな。 古代に個人の商人は存在しなかったとか、原始共産制とかデンパを飛ばしてたが。 最近来ないのは、卒論が終わったからだろ。
183 :
日本@名無史さん :2005/04/10(日) 20:56:09
『諸君』を買ったら、とんだ拾いものをした。 5月号258-269頁に田中卓「祖国再建。正統史学を 貫く一学徒六十年の闘いP」はなかなか読み応えがある。 漠然と疑問に思っていた上田正昭のイリ王朝(河内王朝)論が 文献史学の立場から徹底批判されていて面白い。 文献派諸君はぜひご一読されたい。
>>183 今頃いってんのかよ。それ連載もうかなり長いだろ。
185 :
日本@名無史さん :2005/04/10(日) 22:27:30
イリ王朝なんて誰も支持して無いし。
186 :
日本@名無史さん :2005/04/11(月) 11:25:21
>>184 17だから長いんだろうが、今回気づいた。
「天神・地祇」制は<神武天皇の東征>の証だそうだ。
考古学系の人はこういう文献のひとの仕事はスルーなの?
>>184 スルーというか、考古学は文献よみの仕事に対しては中立なんじゃないの?
考古学はあくまで考古学の成果を述べるまでであって、
文献にこじつける場合は素直な読み方にこじつけることはあるだろうが、
文献の伝承を二度も三度もひねった解釈した上で考古学にこじつけるのは
文献の方で大家とされる一部の学者だけじゃないのか?
>>186 田中卓は基本的にはいい仕事たくさんしてると思うが、
すべてに賛同はできない。たとえば186でいってる
「天神・地祇の区別が神武の畿内征服の結果できた説」
などはまったく賛成できないね。
189 :
日本@名無史さん :2005/04/11(月) 12:29:53
>>187 実際には、考古学は文献史学に対して中立じゃないよね。
魏志倭人伝は使用して記紀は信用しない。
考古学者は「卑弥呼」とか「邪馬台国」という言葉を使うべきじゃないと思う。
>>188 ではどのようなお考えですか?
>>189 >>「天神・地祇の区別が神武の畿内征服の結果できた説」などはまったく賛成できないね。
>ではどのようなお考えですか?
最近の比較神話学からいえば、天神・地祇の区別は神話にもともとあるデフォルトの構造でしょう。
191 :
日本@名無史さん :2005/04/12(火) 16:40:04
>>190 単なる用語的には有り得るが、氏族的系統にはそれでは納得できないな。
>>191 ん? 具体的にどういうことをいいたいのかイメージできないので詳しく。
193 :
日本@名無史さん :2005/04/13(水) 09:56:15
宗教的観点でなく、田中氏が歴史学者からして歴史的考察なのでは? 神々が、氏族の祖として繋がっている源(原因)の事を田中氏は 云っているのでは? その説が正しいのかどうかは、読んでおらんので不明。
死んだ者に対しても鞭打つという中国・韓国のモノの考え方 を見ていて最近気づいたんだが…、 石舞台古墳って報土が取り除かれてるだろ、この時代の 価値観って朝鮮と共通してるなって思ったんだが。
日本だろうが中韓だろうがドキュンはいるってことだろ。 つーか当時の畿内の上流階級は三分の一くらい帰化系だし。 この際、蘇我を鬱憤ばらしに使おうって奴もいたろう。
196 :
日本@名無史さん :2005/04/30(土) 05:23:14
珍説大王の江上波男はどうして叩かないんだ。他の3にんはたいしたこと無い。 騎馬民族せつは最大の奇説だ。
198 :
日本@名無史さん :2005/05/01(日) 13:48:43
当時は日本が朝鮮を支配していたからな。若干、奴隷として連れてこられた朝鮮人もいるようだが、何の役にもたたなかったようだな。
大陸系の帰化氏族の方が重用されたからね。
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! ̄= [二] = ̄~ !二二|」;i ($).i二tiii ($).i;;;;|三||三三三三三||三三三三三||三;;;;;;|ii ($).i;;;;|二二二l]
 ̄ ̄ ̄ゞ;三ノ ̄~ゞ;三ノ''ゞ_,ノ 'ゞ_,ノ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ゞゞ;三ノ ̄ ̄ ̄  ̄ゞゞ,_ノ ̄ ≡3
すいません、ちょっと
>>200 取りますよ。
201 :
日本@名無史さん :2005/05/06(金) 03:03:51
日本国は、銅鐸国家・物部朝・古日本を、日向人が征服して成立した。いやしい 身分の天皇家は物部氏を征服して10代目の時、近畿を統一した。そのご東に 大彦王子やオウス王子の軍を送り、戦わずして従え、吉備と連合して出雲征服。 九州筑紫王朝は日本国に熊襲王朝との戦いの援軍を求め、ケイコウ天皇に一時 臣従し国造の称号貰う日道命が。 やがて仲哀天皇と妾の神后は、吉備王子鴨別とともに熊襲討伐の援軍を筑紫に出す。 夫の死後、神功皇后は近江の都の本妻の子と戦い、天下取る。その子の応神天皇は 晩年、貿易のことを考え、難波遷都。日本国河内王朝はじまる。
202 :
日本@名無史さん :2005/05/06(金) 03:23:50
セイム天皇は北陸に皇族や竹内や大和直や物部の国造送り、毛野を臣従させる、 河内時代、日本国は新羅奈物王や実聖女王や納祇王と友好。また百済王と友好。 中国系文物をえて発展。巨大古墳と埴輪文化が発達。 筑紫の和国は文化が新羅並で、華北系石人石馬文化が発達。しかし百済と 同盟して新羅や高句麗と戦争くりかえし国力疲弊。 やがて日本国に葛城氏が台頭し、百済と筑紫の弁の支配に日本国が参加する。 弁諸国は日本にも臣下の礼をとる。 葛城が滅ぶと日本国と和国の友好にヒビがはいり、イワイ戦争で筑紫を滅ぼす のが物部荒鹿枇。筑紫物部は日本国軍に参加しイワイを滅ぼした。
203 :
日本@名無史さん :2005/05/06(金) 03:26:26
物部アラカビは同族筑紫物部をたよった。彼らを配下に収めて八女攻略。
204 :
日本@名無史さん :2005/05/06(金) 03:34:31
日本国は和国を滅ぼす。この混乱を狙って百済が弁西部をほしがる。 新羅が弁東部を侵略して併合。日本国をたよる弁諸国。そのとき 荒カビの政界のライバルの大伴金村が百済の要求を飲み、この事を 荒カビに突付かれ失脚。しかし物部嫌う竹内氏族を中心とする人々が 曽我イナメをかついで物部のライバルに成長させた。
205 :
連休 :2005/05/07(土) 23:18:47
>>202 どおして
>中国系文物が入ると、巨大古墳文化や埴輪文化が栄えるのだ?
巨大古墳が造られたのは
百済と友好関係になり中国系文物がはいってきたから巨大古墳が造られたのか?
巨大古墳は本で造られているのか
>中国系文物はいったい誰が持って来たんだ? >百済との友好関係 >>いったい誰が橋渡ししたんだ? どうして君達のスレには天皇とか王とか彦とか命とかヒメしか登場人物が居ないんだ
207 :
日本@名無史さん :2005/05/27(金) 02:56:08
しらんがな
208 :
日本@名無史さん :2005/06/13(月) 09:21:35
濁らない方が正しい。
210 :
日本@名無史さん :2005/06/16(木) 22:42:12
NTTドコモ関西が「古江古墳」の大部分を破壊 無届けの基地局建設工事で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050616-00000111-kyodo-soci NTTドコモ関西(大阪市)が大阪府池田市古江町の山林で行った携帯電話基地局の
鉄塔新設工事をめぐり、府の風致条例と文化財保護法に基づく工事開始の届け出をせず、
現場にあった「古江古墳」の大部分が壊されていたことが16日、分かった。
古江古墳は同法に基づき、「周知の埋蔵文化財包蔵地」に指定。土木工事などを行う際は、
着工60日前までに届け出るよう義務付けられているが、ドコモは住民から指摘を受けるまで
その事実を知らず、届け出をしていなかった。
府教委は同日までに、NTTドコモに工事中止を命令。近く発掘調査を実施する。
府教委などによると、古江古墳は推定直径約13メートル、高さ約1・2メートルの円墳。
1976年、池田市の調査で発見された。横穴式石室があり、6世紀後半ごろのものと
みられていたが、詳細な調査は行われていなかった。
211 :
日本@名無史さん :2005/06/16(木) 23:00:44
http://www.asahi.com/national/update/0616/OSK200506160028.html NTTドコモ関西が、大阪府池田市古江町の山林で、府の風致条例や文化財保護法に基づく届け出
をせずに携帯電話基地局の鉄塔新設工事をし、現場の「古江古墳」(6世紀ごろ)が全壊していたこ
とがわかった。府教委は工事を中断させ、近く市が調査に入る。
古江古墳は直径約13メートル、高さ約1.2メートルの円墳。横穴式石室もあり、地域の有力者
が埋葬されていたとみられる。76年に池田市の調査で見つかったが、詳しい調査はされていない。
府教委によると、同社は地権者から用地を借り、高さ約14.8メートルの鉄塔建設を計画。昨年
9月に同市と府池田土木事務所と打ち合わせて、風致条例と砂防法に基づく届け出が必要だとの指示
を受けた。今年2月に砂防法の届け出を出し、4月下旬に着工した。
しかし風致条例による届け出をしていないことが5月に住民の指摘で判明。現場が工事前に文化財
保護法で届け出が必要な「周知の埋蔵文化財包蔵地」であることも初めて認識したという。
府教委から指摘を受けたドコモ側は5月27日に工事を中断し、府と府教委に風致条例と文化財保
護法に基づく届けを出した。現場はコンクリートの基礎工事が進んでおり、墳丘や石室の大半が破壊
されていた。
府教委の文化財担当者は「業者が必要な手続きを怠ったことに加え、市も古墳があることを業者に
伝えていなかった。原状回復は不可能で、初歩的なミスで貴重な遺跡が失われてしまったのは極めて
残念だ」と話した。
212 :
日本@名無史さん :2005/07/01(金) 02:41:28
で?
213 :
日本@名無史さん :2005/07/03(日) 06:07:31
NTT、GJ
214 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 21:40:03
は?
215 :
日本@名無史さん :2005/09/01(木) 21:19:13
ひ
216 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 00:52:51
217 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 01:05:45
百舌
218 :
日本@名無史さん :2005/10/25(火) 00:02:33
ん?
落ちるよ!
599 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/09/29 20:38
>>598 経験の無い子だね!初序ですか?男は逝く時に思わず声が出るもの。出ない時もあるが。
706 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/11/30 01:38
>>695 >シックスナインってなんですか?
誰も答えていないので、答えます。69の形で準備作業をすることです。○が頭です。これで解からなければ、他板に逝ってヨシ。
716 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 18:26
>>715 30以上の年齢の女性のあえぎ声っていいですなぁ。
718 :50代せんのおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 21:41
>>717 他の女性は知らないですが、ぼくの知っている女性は、喘ぎ声がとまります。その時に叫ぶ女性っているのですか?
727 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/20 22:10
>>725 声が止まる以外に、もだえが止まります。涙があふれます。汗をドッとかきます。よく締まります。
221 :
日本@名無史さん :2005/11/16(水) 19:33:12
止まります
>>695 男が女のおまんこ舐めて、それと同時に、女が男のチンポしゃぶる行為だよ
基本的に、男が下女が上になるパターンが多いが
二人とも横向きパターンや逆パターンがある
落ちないね
224 :
日本@名無史さん :2005/11/28(月) 23:02:22
sage
227 :
世界@名無史さん :2006/01/08(日) 18:59:49
紀元前の日本でも、なんらかの広大な政権は存在していたのでは?
争い事を収拾->仲裁専門家or得手者の発生->政権の萌芽
229 :
日本@名無史さん :2006/02/01(水) 23:23:07
使女裸形、坐平板上、牽馬就前遊牝 ハァハァ…
230 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 17:53:54
弥生時代と古墳時代の開始時期がよく分からない。 いまはどうなってるんだ?
231 :
的外れ :2006/02/02(木) 19:00:39
卑弥呼の墓が纏向型前方後円墳にみえる、という説があらわれ、混沌としてきました、
232 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 23:10:24
そういえば某番組で桃太郎の話は1800年前の話と関係がある といっていたが、すごい前だな!
233 :
日本@名無史さん :2006/02/08(水) 20:23:56
神話で神武天皇が和歌山から上陸したように、現実にも摂津・河内に 強い勢力が存在していたらしい。淡路島北端に狼煙を上げていた遺跡が、 高速道路の工事で発見されている。
234 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 19:21:56
ニギハヤヒ系の国ですかね?
235 :
日本@名無史さん :2006/02/15(水) 15:09:29
土器は、弥生時代後期の後半から末。 鉄製やじり、3個。 見張り台らしき、高床式建物1棟。 竪穴式住居6棟
236 :
日本@名無史さん :2006/02/16(木) 18:59:13
>>229 変態プレーは貴人のたしなみ
武烈天皇は普通の人だったとおも
マソコ濡らしたのはどんな女だったのか?
237 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 13:59:59
maintenance
239 :
日本@名無史さん :2006/03/24(金) 12:47:00
240 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 09:22:19
日本国は和国を滅ぼす。この混乱を狙って百済が弁西部をほしがる。 新羅が弁東部を侵略して併合。日本国をたよる弁諸国。そのとき 荒カビの政界のライバルの大伴金村が百済の要求を飲み、この事を 荒カビに突付かれ失脚。しかし物部嫌う竹内氏族を中心とする人々が 曽我イナメをかついで物部のライバルに成長させた。
maintenance
242 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 12:20:17
セイム天皇は北陸に皇族や竹内や大和直や物部の国造送り、毛野を臣従させる、 河内時代、日本国は新羅奈物王や実聖女王や納祇王と友好。また百済王と友好。 中国系文物をえて発展。巨大古墳と埴輪文化が発達。 筑紫の和国は文化が新羅並で、華北系石人石馬文化が発達。しかし百済と 同盟して新羅や高句麗と戦争くりかえし国力疲弊。 やがて日本国に葛城氏が台頭し、百済と筑紫の弁の支配に日本国が参加する。 弁諸国は日本にも臣下の礼をとる。 葛城が滅ぶと日本国と和国の友好にヒビがはいり、イワイ戦争で筑紫を滅ぼす のが物部荒鹿枇。筑紫物部は日本国軍に参加しイワイを滅ぼした。
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
244 :
日本@名無史さん :2006/06/11(日) 16:49:10
あげ
245 :
日本@名無史さん :2006/06/28(水) 20:38:32
邪馬台国は奈良だ
246 :
日本@名無史さん :2006/06/29(木) 00:21:25
古代の畿内政権を語るなら、銅鐸のことは無視できないだろう。 >>201になって銅鐸のことが少し触れられるとは、 鏡のほうは神社や神棚で結構中央に飾られているのに、銅鐸は まったく飾られなくなったとは、全部鋳潰されて鏡になってしまったの かなぁ。
247 :
日本@名無史さん :2006/06/29(木) 13:44:34
銅鐸は、地面に埋めておく物らしいよ。
248 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 20:49:36
飾り物なんだよ
249 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 22:23:18
銅鐸は発掘された場所が違っても、同様な形式で埋められていた。
250 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 10:32:16
大化の改新の頃の用語すごくわかりにくい。 参考書なんかだと「食封を与えた」とあるけど、「封戸(給料)を与えるシステムを食封といった」じゃないの? それとも封戸と食封は全く同じ意味なのか?
251 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 11:03:36
>>243 天皇在日説はいいけど、中国人は徐福説を支持しているから、足並みが揃わなくなっちゃうねw
252 :
日本@名無史さん :2006/07/23(日) 12:59:44
なにをいう
253 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 21:36:43
神武天皇は、応神天皇。 応神天皇には、飛鳥を目指す理由があるが、神武天皇には、山陽道の豊かな土地を無視して、 飛鳥を目指す理由が無い。
254 :
日本@名無史さん :2006/08/22(火) 18:24:16
意味わからんね。
255 :
日本@名無史さん :2006/08/27(日) 00:16:39
邪馬台国やっぱり畿内?有利な証拠集まる 古代史最大の謎とされる邪馬台国の所在地について、「畿内大和説」に有利な“証拠”が、近年の発掘調査で集まってきた。 邪馬台国が存在した時代(3世紀前半〜中ごろ)に築造されたとされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長80メートル)を 中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつある。 2000年に発掘されたホケノ山古墳は、〈1〉墳丘が前方後円形〈2〉木槨(もっかく)内に木棺を納めた二重構造の埋葬 施設〈3〉画文帯(がもんたい)神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴があった。 一方、今年3月、徳島県教委などが調査した同県鳴門市の萩原2号墓は埋葬施設は未確認だが、全長25メートルの前方後円 形で、3世紀前半の築造。その南50メートルにある同時期の萩原1号墓からは1979、80年の発掘で画文帯神獣鏡が出土 している。埋葬施設は二重構造とみられている。 (読売新聞) - 8月22日16時59分更新
256 :
とりあえず :2006/08/28(月) 18:44:08
ていうか頭のおかしいやつがよく使う日向族って何? 妄想だってのはわかるけど
257 :
日本@名無史さん :2006/08/29(火) 23:46:21
>>255 それで四国が候補に挙がらないのが不思議。
ぷりぷりぷー ぷりぷりぷー _| ̄|_| ̄| | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄| | ̄|_| ̄|_| ̄| |_ _|| | ̄ | | | | ̄ | |  ̄| r┘└へ| |二コ ┌'| |二コ ┌| |二コ ┌'| |二コ ┌┘ 〈 〈] ゚,、〈| | o ヽ| | o ヽ| | o ヽ| | o └「 ̄\ ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ ____ ____ ____ /⌒ ⌒\ ./⌒ ⌒\ ./⌒ ⌒\ o゚((●)) ((●))゚o o゚((●)) ((●))゚o o゚((●)) ((●))゚o /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ /::::::⌒(__人__)⌒:::: \ /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ , -‐ (_) |r┬-| |, -‐ (_) |r┬-| |, -‐ (_). |r┬-| | l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | /
百済の王、御門氏族
260 :
日本@名無史さん :2006/10/23(月) 08:01:31
銅鐸は飾り物なんだよ
261 :
サガミハラハラ :2006/10/23(月) 08:16:55
そうですね。祭祀の際に鳴らしてつかうもので進行の対象ではありません。
262 :
日本@名無史さん :2006/10/23(月) 23:29:14
偉い人にはそれが分からんのです。
263 :
サガミハラハラ :2006/11/15(水) 12:58:17
出雲の加茂岩倉で大量の銅鐸が発見されたでしょう。 大国主尊も大量の銅鐸を集め(加茂岩倉の銅鐸は大国主と時代が違いますが)、宮殿の祭祀場につるし、朝に夕なに一斉に鳴らしていたとおもうのであります。
加茂岩倉の銅鐸には つるした痕跡が鈕にあったのでしょうか?
奈良時代の頃の青森には律令制が及んでいたことは確かですよね?
266 :
サガミハラハラ :2006/12/03(日) 18:26:42
銅鐸には全体を吊るす部分があり、中に舌を吊るす部分があり、舌もみつかっているとのだから、つるして鳴らしたと考えるのが、自然だと思います。(ただし後期は除く) しかし念のため調べてみます。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。
ここも養豚舎でつか?
はい 当然そうですよ 何か?
(´・ω・)ブーブー
豚豚仔豚おなかが空いたブー
273 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 00:22:30
age
274 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 13:40:36
ε ⌒ヘ⌒ヽフ ( ( ´・ω・)呼んだ? しー し─J
275 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 14:01:06
今4世紀から7世紀あたりの研究をしておるのであるが、崇神来の一元王朝でよいのではないだろうか。各豪族が新王朝をたてたとかいう、葛城王朝だの河内王朝だのというが、 別の豪族等が新王朝をたてたとかいうには、無理ではないだろうか。せいぜい都を変えたぐらいでは。 また、イリがついているから入り婿だなどとは、本気でわらってしまう。
普通に考えたらそうだよね。
葛城王朝だの河内王朝だのというファンタジーが罷り通ることのほうが不思議。
>>275 王朝交代説は、若い学者は無視しているみたいですね。
「イリ」は、外国から来たから「イリ」という人もいたようなww
279 :
日本@名無史さん :2007/03/02(金) 23:12:55
真の継体天皇陵と思われる今城塚古墳で今回明らかとなったのは 横穴式石室 3段構造の墳丘 ってことだな
今城塚古墳に特に目新しさは感じないな。 横穴式石室にしても、少し時代的に遡る大阪平野南部の河内大塚山古墳や岡ミサンザイ古墳なんかも 横穴式石室だったらしいしな。したがって墓制からは王朝交代は感じ取れない。 もし仮に継体天皇が前勢力を打倒して成立したというなら、普通だったらその打倒過程を英雄的に描くと思う。 しかし記紀では血統的に遠いというだけで単にそれまでの大和政権の継承者として描かれているだけ。 なので王朝交代説は無理があると思うが。
墓室と外界が完全に遮断される竪穴墓と通路を残す横穴では、 冥界と現世にかかる世界観そのものも異なる可能性がある。 横穴式古墳は高句麗辺りまで影響されている北方系文化の担い手たちが、 馬具嗜好等とともに持ち込んだものではないんか? 継体擁立勢力と旧基盤勢力でその浸透力に違いが有ったためかもしれんが、 思想的違いは大きく、王統交代レベルを超えた「変化」だったのかもしれない。
>冥界と現世にかかる世界観そのものも異なる可能性がある。 そこまで宗教観が違うなら葬送方式そのものが大きく変わったんじゃね? 墳丘周囲の埴輪とかが全く違うものになるとか。 もっと言えば前方後円墳そのものを止めてしまうとか。 でも、そう言うのがないので、どっちかって言うと前時代からの継承性が強いと感じる。 >馬具嗜好等とともに持ち込んだものではないんか? 馬具なら継体以前でも珍しくないと思うが。
>>285 > もっと言えば前方後円墳そのものを止めてしまうとか。
うむ、確かに前方後円墳は孫(敏達)の代まで続いたな。
2007/03/14-17:20
類例のない埋葬施設=ホケノ山古墳の「原形」か−徳島県鳴門市の萩原2号墓
徳島県教育委員会は14日、同県鳴門市大麻町萩原の前方後円形の墳丘墓
「萩原2号墓」が、弥生時代後期〜終末期に当たる2世紀末から3世紀初め
に築かれたことが分かったと発表した。墳丘から見つかった供献土器片から
判断した。また、埋葬施設は木棺を木の板で覆った木槨(もっかく)に石を
積み上げた構造。全国に類例がない「積石(つみいし)木槨」とみられている。
3世紀半ばに築かれ邪馬台国の有力者の墓という説もある国内最古級の前
方後円墳「ホケノ山古墳」(奈良県桜井市)で確認された「石囲い木槨」の
原形の可能性が高く、古墳時代初期の竪穴式石室の起源とも考えられるとい
う。県教委は、弥生時代から古墳時代の墓制の変遷過程を知る上で貴重な発
見としている。
ttp://www.jiji.com/jc/zc?key=%c7%eb%b8%b62%b9%e6%ca%e8&k=2007031400796
畿内古墳と構造同じ 西都原・女狭穂塚
2007年3月29日
県教委は28日、西都市三宅の西都原古墳群・陵墓参考地「男狭穂塚」「女狭穂
塚」の原形を浮かび上がらせる地中レーダー探査で、女狭穂塚の外堀から中心部へ
と通る「渡り土手」の存在を確認、近畿地方に造られた5世紀前半の古墳と細部ま
で同一の形だったことを明らかにした。
また、男狭穂・女狭穂両古墳の外堀の重なり具合から築造の前後関係を調べた結
果、重複は認められずそれぞれ独立した古墳だったことも判明した。両古墳の形状
を明確にしたレーダー探査事業は本年度までの3年間で終了した。
本年度の探査は前方後円墳・女狭穂塚の正確な形を調査。後円部の南西方向に、
近くの171号古墳の方向に通じる渡り土手を確かめた。
また、円形と方形の間のくびれの部分に位置し、祭事などを行う小さな方形の丘
(造り出し部)は左右対称ではなく、右側の造り出し部は比較的小規模で円墳から
離れていることも判明した。
こうした特徴は応神天皇(第15代)の皇后だった仲津姫の陵とされる仲津山古
墳(大阪府藤井寺市)と同一。畿内から地方の豪族に古墳の設計図が渡されていた
ことも推定される。
ttp://www.the-miyanichi.co.jp/domestic/index.php?typekbn=1&top_press_no=200703290105
289 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 20:57:34
本日夜10時から趣味悠々で「遺跡ウオッチング・・・・・」放送しますね
290 :
日本@名無史さん :2007/04/05(木) 22:32:00
見てるよ。
>>278 :日本@名無史さん :2007/02/24(土) 01:29:04
>
>>275 王朝交代説は、若い学者は無視しているみたいですね。
その最大の要因が、近年のマキムクの研究の成果にある。
マキムクと邪馬台国の関係。
それによって、日本の記紀の年代感が徐々に
表に表れてきた。
292 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 14:08:32
易姓革命と王朝交代をごちゃ混ぜに考えてるな。
矢塚古墳はホケノ山タイプで、東田大塚古墳はポストホケノ山タイプ?
古墳“発祥”の纏向古墳群はすべて前方後円墳 奈良
2007年04月12日
奈良県桜井市にある最古級の纏向(まきむく)古墳群(国史跡)を調査した同市教
委は12日、形が明確でなかった東田(ひがいだ)大塚(3世紀後半)、矢塚(同半
ば)の両古墳が前方円墳とわかったと発表した。これで、女王・卑弥呼(ひみこ)の
墓との伝承もある箸墓(はしはか)古墳(3世紀半ば〜後半)などの古墳が密集し、
「古墳発祥の地」とも言われる一帯の主要墳墓がすべて前方後円墳と確定。厳密な年代
や古墳出現の状況など謎の多い古墳時代を探るうえで重要な発見だ。
両古墳の範囲確認調査として、前方部があると推定される場所計192平方メートル
を発掘した。
東田大塚古墳(桜井市東田)は、従来の調査で後円部が直径68メートルと判明。
今回は西側で5カ所を掘った結果、前方部の盛り上がりを確認した。その長さは40
メートル前後になるとみられる。このため、後円部の直径が前方部の長さの2倍ある、
最古タイプの「纏向型」よりも新しい古墳の可能性が高まった。
ttp://www.asahi.com/kansai/news/OSK200704120073.html 前方後円墳の発展過程、奈良・纒向遺跡の発掘で確認
同遺跡内には、3世紀代の最古級の前方後円墳が点在。「纒向型」と呼ばれる最
初期の前方後円墳は、前方部と後円部の長さの比率が1対2。矢塚は後円部の直
径が64メートル、前方部の長さが32メートルと推定されることから同型に当てはま
るが、東田大塚は後円部の直径が68メートル、前方部の長さが40メートル以上に
達するとみられる。
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070412i215.htm
ホケノ山 地籍図みたら、「ボケノ山」になってたんだが('A`)
ホケノ山ってどういう意味?
296 :
サガミハラハラ :2007/04/20(金) 21:22:16
日本書紀紀年法であるが、倭の五王までは、日本書紀紀年法のスレでやっているので、雄略以降推古天皇までをこのスレをつかってやりたいと思います。 皆様のご意見を参考にして進めたいと思いますのでよろしくご参加のほどをお願いもうしあげます。 ここでは、推古天皇の代から遡る方法をとりたいと思います。 まず、推古天皇の年代であるが、593年から628年まででよろしいでしょうか。 異議のあるかた、ご意見をご記入ください。
297 :
フリージア :2007/04/21(土) 17:50:40
天皇の年代について、辻直樹氏は「上古の難題」のp188で まず基本になる推古を考えてみよう。推古は書紀によると628年に73歳(75歳との異本もある)で崩じたが、この73歳が普通暦ならAの欄から555年生まれ であり、2倍年暦であればBの欄の通り591年うまれとなる。記録によると推古は欽明の皇女であって、異母兄の敏達の妃であったが、その敏達は記紀いずれによっ ても591年よりも先に崩じている。だから推古が591年生まれということはあり得ない。換言すれば推古の宝算の73歳は普通歴で記録されており、推古は555 年に生まれたことになる。(AB欄は省略した) 記崩年干支と紀の崩年干支は用明、崇峻、推古諸天皇は同じであり、記干支はこのあたりでは普通暦となっている。
298 :
サガミハラハラ :2007/04/22(日) 08:03:43
推古天皇の在位年について、593年から628年ということに意義がなかったので決定といたします。 次に崇俊天皇の在位年であるが、588年から592年ということでよろしいでしょうか? 異議のあるかたご意見をご記入ください。
299 :
フリージア :2007/04/22(日) 08:36:14
辻直樹氏は「上古の難題」の中で更に、 「次に31代の用明を先に検討しよう。用明は推古の同母兄であるから、推古の生まれ年の555年から考えて、518年の生まれとするわけにはいかない。すなわち用明の 宝算の69歳は2倍年暦で記録されているとしなければならない。従って宝算は約35歳で、552年頃の生まれであろう。 用明の王子が聖徳太子で太子は573−622年とされている。太子の生まれた573年は用明の21歳の時にあたるから、父子の関係としても無理のない数字であろう。 次に崇俊であるが、女帝の推古を除いては兄弟の中で皇位につくのは最後であるから、用明よりも後年の生まれであろうとは容易に推定されるし、記紀の系譜の記載も後である。 崇俊の宝算72歳を普通暦とするとAの欄から520年生まれ、2倍暦とすると556年ということになる。後述するが崇俊の父の欽明の生まれた年は509年頃であるから、 520年では欽明11歳となり、これは不都合な数字となる。一方、556年の方は前後とも合理的なつながりで妥当である。」 とある。
300 :
日本@名無史さん :2007/04/22(日) 12:55:50
やれやれまた数字遊びか('A`)
301 :
サガミハラハラ :2007/04/23(月) 09:25:47
崇峻天皇の在位年について、588年から592年ということに異議がなかったので決定といたします。 次に用明天皇の在位年であるが、586年から587年ということでよろしいでしょうか? 異議のあるかたご意見をご記入ください。
ホケノ山の地主は曙太郎らしい
意義ないよ
紀年法のスレのサブタイトルの五王は、五番目のスレの意なので・・・ 雄略移行も向こうでやった方が反応あるかもよ。 向こうは、姉妹がみるからね。
305 :
サガミハラハラ :2007/04/24(火) 08:40:09
用明天皇の在位年について、586年から587年ということに異議がなかったので決定といたします。 次に敏達天皇の在位年であるが、572年から585年ということでよろしいでしょうか? 異議のあるかたご意見をご記入ください。
意義ないけど・・・・ 興味有る人いないんじゃないの?
307 :
フリージア :2007/04/25(水) 09:48:05
敏達天皇の没年は紀では乙巳8月で585年となるが、記では甲辰4月で584年とある。 ここに1年もの違いがある。記干支はこのあたりは紀の干支と同じく普通年暦である。ちなみに 2倍年暦だとすると、甲辰は586年春年(T類)となる。 記と紀の1年の違いはどのように解釈されているのであろうか?
308 :
日本@名無史さん :2007/04/26(木) 08:01:09
一年ぐらいの違いなど、どうってことないでしょ。 考古学では20,30, 50年の違いぐらいなんでもないですよ。 こんなちまちましたことにこだわりなさんなwww.
309 :
サガミハラハラ :2007/04/26(木) 21:56:52
この件は紀と記のどちらの年代を重視するかということになるのであるが、 この時代については紀のほうをとりたいとかんがえる。 記よりも紀のほうが、多くの編者により、多くの史料をてらしあわせた結果であると 考えるからである。 次に、欽明天皇の年代に入るのであるが、この天皇の年代には大きな謎がある。 まず、それから述べていきたい。
述べていきたいのかぁー!はぁーー、どうぞ、どうぞ
311 :
サガミハラハラ :2007/04/27(金) 09:33:43
まず、継体王朝の諸天皇の記録を基礎にして、その真の宝算を推定していってみよう。 辻直樹氏の上古の難題p189より 「次にこれらの諸天皇の父にあたる欽明について調べてみよう。 欽明の宝算の62歳を2倍年暦と考えると生まれ年は540年となるはずである。この年は欽明の父の継体が すでに崩じてしまった十年の後ということになる。これはあり得ないことであるから、欽明の宝算は普通暦でなければならず、 生まれ年は509年ということになろう。 後で述べるが、法王帝説にある欽明の治世41年との記述と矛盾しないし、父の継体が近畿に迎えられて、手白髪命をめとっ たのが507年頃と考えられるから、その間に生まれた欽明が509年生まれというのは全く矛盾のない数字と言えよう。 安閑と宣化はしばらくおいて、次にこれらの父継体について検討してみよう。 継体は先にも述べたとおり古事記では43歳、書紀では82歳でほぼ2倍に近い開きがある。継体の在位は25年くらいであるから 古事記の43歳が2倍年暦ということはあり得ない。だから書紀の数字が2倍年暦かどうか、もしこれが2倍年暦なら、古事記の方は 普通暦で記録されたことになる。 今、書紀の82歳が普通暦なら継体が近畿へ迎えられた507年には58歳である。( 上述のように書紀には武烈の崩じた時にヲホド王は57歳とある)継体の妃の関係を古事記から拾ってみると近畿へ入る前には妃は二人で 御子は4人である。そして近畿へ入ってからは妃は5人で15人の御子と記録されている。(中略)このような点からみても継体が近畿へ はいった時に60歳近い年齢であったとは考え難い。したがってやはり書紀の宝算は2倍年暦とし、古事記の方が普通暦であるとするのが妥当であろう。 あとで精しく議論するつもりだが継体、安閑、宣化の崩年には疑問がある、安閑、宣化の宝算にも若干の問題が残るが、継体の生まれたのは書紀を基 にして490年、古事記からは484年という辺りということになる。しかし決して450年頃までさかのぼらないと考えてよい。
312 :
サガミハラハラ :2007/04/27(金) 11:42:15
そこで安閑と宣化を考えてみると、この二人の宝算は2倍年暦と思われる。なぜならもし普通暦であれば表からみるとおり 二人の生まれた年は456年と466年で、これは父継体より先に生まれたことになる。また70歳という宝算がそのままなら、 このような2代続いて長寿の天皇の在位期間が4年とか2年とかいう短いこと自体不自然であろう。 さらに古事記や書紀の記録を見ると、安閑は4人の妃を入れたが皇嗣はなかった。この4人の妃はすべて近畿の出身である。 宣化も二人の妃は近畿の出身であり、古事記によると男王3人、女王二人を得ている。 書紀には男二人、女3人と記録している。この王子や皇女の少ないことも70歳という長命でなかったことを 暗示しているし、近畿へ迎えられた父継体に従って来たものであるとしても、安閑と宣化は40歳代であったとは到底考えら れず、せいぜい6,7歳くらいであったとすべきであろう。この二人は500年頃の生まれが妥当である。 これで継体王朝の諸天皇の記録を基礎にして、その真の宝算を推測する仕事はおわった。
313 :
サガミハラハラ :2007/04/27(金) 12:49:39
文中に出てくる「第二表」について乗せておきます。( )内は古事記の数字 生まれた年 崩年 宝算 即位年齢 在位年数 継体 490(484) 531(527) 41(43) 17(23) 25 安閑 500 535 35 31 2 宣化 502 539 37 33 4 欽明 509 571 62 30 32 敏達 537(536) 585(584) 48 34(35) 14(14)
314 :
サガミハラハラ :2007/04/28(土) 09:22:48
継体天皇の崩年と辛亥の変 継体の崩年は、紀と記ではことなる。 @ 527年(丁未)継体没(記) A 531年(辛亥)継体、大兄を天皇とす(紀) 継体没(記・百済本紀) 欽明即位(諸寺縁起より推定) B 534年(甲寅)継体没(紀分註の一本) 安閑元年(紀) ( C 535年(乙卯)安閑没(記紀) D 539年(己未)宣化没(紀) 欽明即位 紀の本文では継体25年(351年)は、百済本紀に辛亥の年に日本天皇、皇太子、皇子ともに崩じたとあること からであるとし、ある本には継体は28年(534年)に没したとあるという。 法王帝説に欽明の治世は41年とある。欽明の崩年は571年で諸本が一致しているので、 逆算すると、531年即位となる。 この欽明即位531年説をとると、安閑元年は528年で継体崩年は527年(丁未)となる。これは古事記崩年と合う。 (紀干支はこの時代は普通暦とかんがえられる。ちなみに2倍年暦では527年秋年が丁未である) また、継体元年は507年である。 ところが以上の史料を付き合わせた結果、継体崩御と前後して、安閑・欽明の二人の天皇が同時に並立し、 安閑・欽明の二天皇朝が同時に並存した形跡が極めて濃厚だという。 「上宮聖徳法王帝説」「元興寺伽藍縁起併流記資材帳」などでは、安閑ー宣化の治世と欽明の治世とが同時に並存した事実を おもわせるという。 これがニ朝並立論である。 ということでこの二朝並立があったかどうかを論じてまいりたいとおもいます。皆さんのご意見を期待しております。
315 :
サガミハラハラ :2007/04/29(日) 23:17:24
継体・欽明の在位年についての問題点 1 継体在位25年は百済本記の史料による。国内史料では28年である。 2 記干支では丁未(527)である。紀干支では辛亥(531)である。 3 九州のイワイの乱は527年のことである。 4 百済本紀では日本の天皇・皇太子・皇子がともになくなったとある。 5 安閑の即位年と継体没年の間の開き。 6 帝説や縁起では欽明7年は戊午(538)とある。これからみて、即位は531年となる。 7 記干支はこの時代は2倍年暦ではない。 ざっとこうなるのであるが、補足ありましたらレスください。
316 :
サガミハラハラ :2007/04/30(月) 00:15:38
age
317 :
日本@名無史さん :2007/05/01(火) 17:20:40
初歩的な質問かもしれませんがよろしくお願いします 律令体制下において、日本は唐に朝貢という形で外交を行っているのに冊封体制のもとには入らないという記述を良く見ます。これはどういうことなんでしょうか?
>>317 「冊封」・・・「冊」により「封」じられること。
「冊」とは皇帝名で出される「勅書」、「封」とは職に封じられること。
つまり、勅書により○○国王とかに封せられること。
國郡制と言う封建体制下では中国周辺諸国の王が皇帝の支配下の国の長に任じられること。
ただ、隋・唐期の日本は聖徳太子の「日出る処の天子」と言う主張のように
対中国対等外交路線をとっており、それが一定の効果を得ていたのか、従属の意は示すものの
皇帝領に組み居られる「国王」とは成らず、独立常態を保ちえたようである。
319 :
サガミハラハラ :2007/05/01(火) 21:30:54
継体天皇没年について紀から引いてみよう。 25年春二月、天皇はヤマイが重くなった。7日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に82歳であった。 ーある本によると、天皇は28年に崩御としている。それをここに25年崩御としたのは、百済本紀によって記事を顔タノである。その文 にいうのに、「25年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を殺した。また聞くところによると、日本の 天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった。」と。 これによっていうと辛亥の年は25年に当る。後世調べ考える人が明かにするだろう。 つまり、継体25年没としたのは、百済本紀の記事によるといううこと、本来の日本の記録は28年没であったが、外国の記事とあわない 場合は、外国史料をとるという編集方針であったので百済本紀の説をとったのである。
>>318 成程、そういった微妙な外交関係にあったのですね 緊迫していたのもうなずけます ありがとうございました
632 :日本@名無史さん :2007/05/02(水) 02:56:01 日本書紀に記載されている崇神天皇10年の武埴安彦命の謀反が 魏志に記載されている247年の狗奴国王との戦いなら 日本書紀と古事記を複合的にみたら だいたい、可能性がある神武天皇の生存時期は 西暦50年前後〜西暦120年前後です。
322 :
サガミハラハラ :2007/05/02(水) 08:27:09
百済本紀(三国史記百済本紀ではない)には、高麗はその王を殺したとある。これは 三国史記高句麗本紀安蔵王13年(531年)夏5月に、王が薨じた。号を安蔵王とした、 (これは梁の中大通3年、魏の普泰元年であるが、梁書には安蔵王は在位8年(526年)は、普通7年に 亡くなったとなっている。これは誤りである。)とある。 安蔵王13年は531年で辛亥年である。 よって、この継体25年のところに「日本天皇ーー」の記事があることから、この年におこったとみたのである。 ところが三国史記の中にはこの「日本天皇ーー」の記事は存在しない。また、記紀にもそのような記事はない。 それでは、この皇室に起こった事件とは何なのであろうか。
323 :
サガミハラハラ :2007/05/02(水) 13:51:25
そこで史書を探してみると、このような事件は一件だけ、宋書倭国伝の中にみられる。 倭王武の上奏文である。 「臣の亡孝(亡父)済は、じつに仇かたきが天路を閉じふせぐのを怒り、弓兵百万が、正義の声に感激し まさに大挙しようとしたが、にわかに父兄をうしない垂成の功もいま一息のところで失敗に終わった。」とあるのがそれである。 済=允恭天皇で兄とは安康天皇である。 允恭天皇崩御は459年春で、安泰天皇崩御は460年秋であるが、安康天皇抹消の系譜でみると、允恭末年は460年秋であり、允恭 と安康はともに死んだようになり、また雄略即位に際して多くの皇子が死んでいる。 これらから考えると、この25年の件は、允恭から雄略にかけての時代のことが誤って挿入された可能性があるとみられる。 そうなると、継体崩御は国内の記録のように28年としてよいことになる。 其の前に、百済本紀の「天皇ーー」は、誤記入であり、継体没年のことではないという結論を出したいと思います。 いかがでしょうか?異議のあるかたご意見をお願いいたします。
324 :
日本@名無史さん :2007/05/03(木) 00:13:33
>誤って挿入 >誤記入 結局自分の概念に合う記述だけを抽出する自慰行為かw
325 :
サガミハラハラ :2007/05/03(木) 08:44:00
問題はその概念が正しいかどうかというわけです。
サガミハラハラの本が売れませんww
327 :
フリージア :2007/05/03(木) 22:39:20
それはともかく、
>>324 は異議になっているのかな。
誤記、誤入ではないという論にはなっていないとおもうのであるが。
328 :
サガミハラハラ :2007/05/04(金) 20:15:53
継体の治世が25年ではなく、日本の記録のように28年だとすると、3年の違いがあるので、 年代を3年ずらす必要がある。 そうすると、今年は平成19年ではなく平成16年ということになる。 西暦は影響を受けず、2007年のままである。 ことしは本当は平成16年であるということに異議のあるかたのご意見をお願いいたします。
>>328 > そうすると、今年は平成19年ではなく平成16年ということになる。
ならねえよw
330 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 00:05:35
>ことしは本当は平成16年であるということに異議のあるかたのご意見をお願いいたします。 意義あり。 市役所で叱られます。
意義あり ↓↓ 異議あり
333 :
サガミハラハラ :2007/05/06(日) 17:04:37
3年ずらすという考えは大変な不評つまり、なりたたないということである。 つまり、継体帝の没年が3年の差があったとしても、他をスライドさせるわけにはいかないのである。 正確な年代がわかっている天皇がいるのであるから、それは動かせないということである。となると、継体帝の没年の 齟齬をどこで調整するのかということになる。 ここに安閑天皇前紀なるものがあるという。安閑の即位は継体帝没年の2年後であるという説である。 これは継体の没年が辛亥年であるのに、安閑の即位年が甲寅年となっていることから、この2年の空白のことをいっているのである。 しかし、継体治世28年説をとるならば、この空間は埋められてしまう。 継体28年は534年甲寅年である。安閑とかさなるが、当年称元法よるものであろう。紀で統一される前の記録であろう。
334 :
サガミハラハラ :2007/05/07(月) 08:51:39
八木荘司著「古代からの伝言 悠久の大和篇 角川書店」よりところどころ抜粋。p310 ところが、現代の歴史学界では、奇妙なことにこの時代、中世の南北朝の対立のように欽明帝と安閑・宣化帝との抗争が起き、 金村は欽明帝側と争って敗れたという、とんでもない仮説が主流となっている。 ーーー百済の歴史書「百済本紀」の記述から引用して、欽明帝の父、継体天皇の死を西紀531年(辛亥年)とした、。 ところが、日本書紀より古い聖徳太子の伝記「法王定説」によれば、欽明帝の治世は41年(実質40年)におよんだとあり、欽明帝が亡くなった 年から逆算すると、即位は世紀531年、つまり父、継体帝の崩御の年となる。 欽明帝が父の死後すぐ即位したとなると、ではいったい、継体帝のあとを継いだはずの安閑・宣化帝の治世は、どこへ消えてしまったのか。 下手な推理小説のナゾ解きのように、この間、安閑・宣化朝は欽明朝とは別のところに対立して存在し、宣化帝がなくなってのち両朝はようやく 統合された、というのが今の学界の「定説」、あるいは「ほぼ定説」なのである。(中略) もし、南北朝時代のように、このころ欽明朝と安閑・宣化朝が対立していたとしたら、どうだろうか。その一方の勢力が、朝鮮半島へ征討軍を派遣し、九州に補給の基地をもうけるようなことができるか、どうかである。 いうまでもないことだが、古代のいかなる文献にも、そのような内乱状態をうかがわせる記述はなく、風土記や万葉集などにも、それを示唆する伝承はいっさいない。 つまり、西紀531年をめぐる数字合わせだけが、ひとり歩きしているのである。
335 :
サガミハラハラ :2007/05/07(月) 13:30:42
続き なるほど、継体帝が崩御してすぐ、531年に欽明帝が即位したことにすれば、都合のいい場合はある。 たとえば、聖徳太子の伝記「法王帝説」などは、仏教伝来の年を欽明天皇の御代の戊午年(538年)としているが、日本書紀では、この年にはまだ欽明帝は即位していない。 両朝が並立していたとすれば、こうした記述もつじつまがあうことになる。 しかし、それもたんに数字の問題であって、「法王帝説」が両朝対立を示唆しているのではないことは、いうまでもない。 ようは数字をみるか、人間をみるかである。数字のみをみて、金村が欽明帝に敵対し降伏したなどと主張するのは、あまりにも人間無視の機械的な歴史観といわざるをえない。(後略)
336 :
日本@名無史さん :2007/05/07(月) 16:59:27
サガミハラハラの本が売れませんww とってもかわいそうです。皆さん買ってあげてください。 倭国歴訪(1300円)卑弥呼の登場(1500円)どちらも明窓出版です。 もう、どこの本屋の店頭にもおいてありません。本屋さんで注文してください。
337 :
サガミハラハラ :2007/05/08(火) 07:39:48
それでは、この問題は日本の本の継体28年でOKかというと、もう少し解決しなければならない問題がある。 それは干支の問題である。
338 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/08(火) 08:45:26
”【古墳から】畿内王権生成史の謎【律令まで】3”スレッドの住民の方々にお役にたつかどうかわかりませんが、
HP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/ )の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門にて、古墳時代とも称される5世紀は、日本書紀紀年法においては、
多列・並列構造となっていることを説明いたしました。
興味のある方々は、ぜひ、ご覧になってみてください。
339 :
サガミハラハラ :2007/05/08(火) 17:38:24
拙が絶対的ともいえる信頼を置いてきた”古事記干支”でもって天皇の没年を決定する方法であるが、 推古天皇が戊子で書紀と同じ、崇峻が壬子で書紀と同じ、用明が丁未で書紀と同じ、敏達が甲辰で書紀が乙巳で1年の違い、 宣化・欽明がなく、安閑が乙卯で書紀と同じ、継体が丁未で書紀は辛亥、ずーっとなくて、雄略が己巳で書紀は己未となっている。 これからわかることは、安閑以降は書紀と同じく普通暦で表記されているということである。 継体以前は2倍年暦の干支を使用していたということである。 今、継体の没年が継体28年(当年称元法)だとすると、古事記干支は普通暦では甲寅である。 ところが真福寺本の古事記干支では、丁未でありこれは527年となる。 (古事記2倍年暦では527年秋年T類では丁未である。継体25年の531年春年T類は甲寅である。)
340 :
サガミハラハラ :2007/05/09(水) 06:33:34
つまり、527年は普通暦の干支と記干支(2倍年暦)は同じなのである。 またこの527年は別の重大事件の起こった年でもある。 それは磐井の乱である。 そのため、百済本紀の日本天皇太子皆の天皇等は九州王朝のことであるとの説がある。 ただし、紀では磐井の死は528年である。
341 :
サガミハラハラ :2007/05/10(木) 10:07:33
前に百済本紀の「日本天皇云々」は武の上表文のできごとではと書いたが、この460年ごろの干支を調べてみると、 普通暦では457年丁酉、458年戊戌、459年己亥、460年庚子、461年辛丑、462年壬寅、463年癸卯となっている。 百済本紀でいう辛亥の年はなく、461年辛丑があるだけである。461年は允恭末年、安康没年、他多くの皇子が死亡した年である。
342 :
サガミハラハラ :2007/05/11(金) 21:39:10
欽明天皇の在位は書紀では32年となっているが、法王帝説では41年となっている。これは531年即位となる。 この差異は次のように考えられる。 法王帝説においては、安閑・宣化二帝の即位を認めていないということである。かつて、安康天皇の即位を認めず、允恭天皇の在位42年を46年に伸ばした系譜が あったことを論じた。 今度は逆に安閑・宣化の治世を無視する(二帝は継体の越前時代の子であり、欽名のほうが高貴である)ことにより、欽明の即位を継体の直後とした(当年称元法) のである。 このように考えれば、仏教伝来の戊午年が欽明在位年となり矛盾はない。 つまり、二朝並立はなかったのである。
343 :
サガミハラハラ :2007/05/11(金) 22:30:56
継体帝崩御語の二朝並立はなかった、という結論にたっしました。 以上について異議のあるかた、ご意見をお願いいたします。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命 卑弥呼と台与の間に短期間だけ即位した男の王=大田田根子命 台与=豊鍬入姫命 卑弥呼の男弟=卑弥呼の即位時は孝元天皇 239年の時点では開化天皇 442年くらいから崇神天皇 狗奴国の男王・卑弥弓呼=武埴安彦命 難升米(239年、卑弥呼が魏へ使わした大夫)=梨迹臣(崇神時代の中臣氏の先祖) 都市牛利(239年、卑弥呼が魏へ使わした次使)=丹波大県主・由碁理 伊聲耆(243年、卑弥呼が魏へ使わした大使)=彦五十狭芹彦命
やれやれまた数字遊びか('A`)
346 :
フリージア :2007/05/14(月) 10:48:55
異議あります。 確かに日本書紀による年代ではそうなるのであるが、古事記干支ではそうはならない。古事記干支は丁未 である。日本書紀の訂正した干支では癸丑(533年)か甲寅(534年)となる。 丁未は普通暦で527年、記干支では527年秋年である。 532年から534年にかけても記干支を2倍年としても丁未はない。 サガミハラハラ氏は記干支にかなりの信頼をおいているようであるが、この件に関してはいかが解釈いたすのであろうか。
347 :
サガミハラハラ :2007/05/17(木) 10:13:42
記干支との不一致については、今後の研究課題としていきたい。
348 :
サガミハラハラ :2007/05/17(木) 10:50:53
次に武烈天皇の在位年について論じたい。 辻直樹氏の「上古の難題 毎日新聞社刊」のp199から 最後の武烈について確かめておこう。武烈の即位は498年、崩年は506年と上述したが、宝算はともに記録がない。 扶桑略記、水鏡には18歳、帝王編年記には57歳とあるが、57歳は論外である。崩年の506年に18歳でも488年生まれということになる。 製寧の崩年が484年とすれば、仁賢が春日大郎女をめとったのは早くともそれ以後になる。武烈は古事記によるとその間の第5子、書紀によると第6子 であるから488年生まれとは考え難い。したがって武烈の崩散の18歳というのも二倍年暦で、普通暦にすれば9歳ということになる。宝算は506年だから生まれた年は497年であろう。すると 武烈は1歳か2歳で即位したことになる。これはどういうことを意味するだろうか。武烈といえば日本書紀に暴虐な行為を記録された天皇である。しかし9歳までの天皇にこのような性的残虐を含む行為 が可能であろうか。古事記にはそのような記録は一切ないのであって、これは書紀の性格を知る上に重要なことであろう。これについては疑問とされる見解もなかったわけではないが、武烈の1けたの年齢 から考えてそのようなことはあり得なかったと論証したのは初めてのことであろう。
349 :
サガミハラハラ :2007/05/17(木) 10:53:54
訂正 6行目製寧は清寧に8行目崩散は宝算に訂正します。
愚や愚や汝を如何せん
351 :
サガミハラハラ :2007/05/17(木) 17:52:13
武烈天皇は幼児であり、紀の残虐行為の記述はフィクションである。 武烈から継体への移行を易姓革命のごとくみて、武烈悪玉論をでっち上げたとみられる。 という結論に達しました。 異議のあるかたご意見をご記入ください。
352 :
サガミハラハラ :2007/05/18(金) 08:53:38
異議がないようですので次にすすみます。 次は顕宗、仁賢についてである。 同じく辻直樹氏の「上古の難題」から、p196 「古事記によると雄略の崩じた後、白髪の大倭根子命ー清寧が皇位を継いだ。この天皇は皇后も御子もないまま崩じて、後継者がなくなり、履中 の皇女で忍歯別王の妹の飯豊王が後継者を探しながら政務を見たらしい。 (中略)其の年に忍歯王の二人の御子オケとヲケの二王を播磨から見つけて(中略)。 清寧の父雄略は、兄の安康天皇が目弱王にしいされた後、二人の兄王を殺し、さらにいとこに当たる履中の皇子忍歯王を射殺して即位した。この忍歯王の死を聞いて二人の押さないおうじ、オケ とヲケの兄弟は逃げ出して播磨にかくれ、、牛や馬を飼う下男として世を忍んだ。(中略) 飯豊王は二人の甥の出現を喜んで、二人を上京させた。まず弟のヲケ王が皇位を継いだ。顕宗天皇である。
353 :
サガミハラハラ :2007/05/18(金) 10:19:35
続き 顕宗は書紀によると在位3年、古事記では8年と食い違う。その宝算は古事記では38歳、書紀には記録なく一代要記には48歳とある。このまま の年齢ではいずれにせよ即位した時に少年であったというのと矛盾するから2倍年暦で、宝算は19歳というのが妥当であろう。 (中略)顕宗に妃はあったが子はなかった。この後を兄のオケ王がついで仁賢天皇となる。 仁賢は雄略の皇女である春日大郎女を妃とした。仁賢の治世は書紀によると11年であるが、これは少し疑問である。宝算は記紀ともに記録が なく、水鏡、紹運録には50歳、帝王編年記に50歳とあるが、いずれも2倍年暦であることはあきらかで、宝算は25歳と推定される。 仁賢の皇子がその後を継ぐ。武烈天皇である。武烈の治世は記紀ともに8年であって、武烈の崩年は506年と考えてよい。従って武烈の即位は 498年が妥当で、この年が仁賢の崩年であろう。書紀によると仁賢7年に武烈を太子にしている。 この辺から仁賢11年の治世が疑われるのである。 そこでもう一度賢宗に立ち戻って考えてみよう。賢宗は484年に清寧の崩じた後に皇位を継ぎ、古事記に従えば8年在位し、19歳で崩じたとす れば崩年は492年である。これから計算すると生まれた年は473年で、もし清寧の崩じた484年にすぐ即位したとすれば11歳ということになる。 これは播磨で発見された説話とよく一致する。 そうすると仁賢は492年から498年まで在位し、25歳か26歳で崩じたものであろう。従って仁賢の生まれた年は472年か473年となり、この兄弟は そんなに年齢差はなかったようであるから妥当なところ であろう。あるいは双子であったかも知れない。仁賢は20歳ぐらいで即位したことになる。 ただ賢宗の在位を書紀が3年にしている。また扶桑略記や皇胤紹運録には賢宗の前に飯豊天皇という女帝を置いている。(中略)古事記の8年は あるいは飯豊の在位期間が入っているのかも知れない。
354 :
サガミハラハラ :2007/05/18(金) 11:25:58
続き p199 しかしながら私にはまだ十分年代的に納得できないところがある。(中略)播磨から探しだされた、仁賢、賢宗と清寧の関係についてである。(以下要点を記す。) 父の忍歯王は履中天皇の長子であり、雄略の父の允恭は履中の兄弟である。 仁賢顕宗が忍歯王の子とすれば、清寧とは同列になる。 しかし、清寧の祖父の允恭は仁徳の第4子であり、雄略はその允恭の5男に当たる。したがって履中、忍歯王と続く仁賢の方が、清寧よりも年長であって当然であろう。 事実雄略に父忍歯王が殺された時、二人の少年は難を避けて逃げ出したのであった。 忍歯王が殺されたのは460年頃と考えてよい。殺された時の年齢は35歳から40歳近い年齢と推定して差し支えない。従って父の 死を聞いてにげだした二人の王子の年齢は15歳前後としてよかろうか。 ところが古事記の記述を見ると清寧の死後後継者がなくなったときに(雄略の治世は23年である) 播磨の国の長官に任じられた山部の連小楯によって、オケとヲケの2王子が発見されたのだが、古事記は 少子二人とあり、さらに二人の身分が明らかになったときに、小楯は二柱の御子を左右の膝の上に座らせたと記録する。 このことは二人がまだ10歳そこそこの年齢であったことを明らかに物語っている。 この矛盾ほ何に由来するのであろうか。二人の皇子が忍歯王の子である限り、発見された時に少年ということはあり得ない から、私はこの二人が忍歯王の孫であったと考える。 忍歯王が殺されて逃げ出した15歳くらいの皇子が丹波から播磨へ逃れ、その間に妻をめとって二人の王子を得たとすればいかが であろうか。460年から5年か10年のあとに妻を得たとすれば473年頃にはオケとヲケの2王子を得たとしてもちょうど年代も合致し 物語とも矛盾しなくなる。その父もその時には亡くなっていたものであろう。 以上から、仁賢顕宗は、忍歯王の孫であるという結論にたっしました。 このことについて異議のあるかたはご意見をご記入ください。
355 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/18(金) 16:36:01
昨今、壁画の解体保存をめぐってニュースとなっております高松塚古墳の被葬者につきまして、
HP「倉西先生のご学問所(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/ )」の歴史学コースの
歴史発見物コラムにて、改葬説を提起させていただきました。また、本コラムを改稿いたしまして、
高松塚古墳を再利用した人物についても推論してみました。
ご興味のある方々は、ぜひ、ご覧になってみてください。
356 :
サガミハラハラ :2007/05/18(金) 20:15:18
飯豊天皇について(邪馬台国の台与のことではない) 「上古の難題」より もう一つそれらしい痕跡がある。それは書紀の注に飯豊は忍歯王の子であるという異説を 記録し、仁賢と兄妹とも姉弟とも書かれている。この兄妹というのは具合がわるいが、やはり叔母 という古事記の方に従うと相互の関係はよかろう。 清寧の亡き後をこの飯豊皇女が政務をみたらしいが、忍歯王の妹であれば50歳かそれ以上の年齢 であったろう。しかし忍歯王の皇女であれば30歳くらいということになろうか。そう言えば書 紀の清寧紀に少し奇妙な話がある。清寧3年7月のこととして飯豊が性体験をしたことがかかれている。 そして「終に男と交はんことを願りせじ」と言ったとある。書紀は更に注として飯豊に夫があ ったかどうか分からないと記している。(中略) 倭の大王家の後継者がなくなったのは家臣団にとっても重大なことであり、何とか飯豊に配偶者を 求めて、その血統の後継者を得ようとしたことを暗示している。 【中略)オケとヲケの二皇子が発見された時、飯豊が大変喜んだという記録は、単に肉親の発見と いうことだけではなく、自分に課せられていた後継者を得るという責務を脱した喜びも多分に含 まれていたのではあるまいか。 飯豊が性体験の後、「もうこりごり」と言ったのは、臣下が一発必中を狙い、相手に勢力絶倫の男性を選んで めあわせたからである。相手の何があまりにも立派すぎ、飯豊は恐怖を覚え、もうやりたくないといったのである。 異議のある方ご意見をご記入ください。
>>356 性的暴行したのって、雄略天皇という説も在る。
358 :
サガミハラハラ :2007/05/19(土) 09:59:31
>>357 その説しらなかったです。詳細をお知らせください。
359 :
サガミハラハラ :2007/05/19(土) 10:21:17
清寧天皇に皇后も妃もいなかった件について、「生まれながらにして白髪であった。−−雄略天皇の大勢の皇子たちの中で、特にふしぎで変わった ところがおありになった」 このことから、清寧は白子(アルビノ)であったといわれている。しかし、そのことだけで皇后も妃もいなかったとは考えられない。(アルビノでも普通に結婚している) 昔であるから、本人の意思を尊重せずめあうことがあったろうに、それでも妃のなりてがないということは、 清寧によほどのかわったところがあったのであろう。おそらく一見しただけで身のケもよだつほどのものであり、女性としては、めあうくらいなら死んだほうがましだと いわせるくらいのものであったのであろう。 以上について、異議のある方ご意見をお寄せください。
360 :
フリージア :2007/05/19(土) 23:12:00
異議あります。清寧の異常さであるが、「大勢の皇子たちの中で、特にかわったところがおありになった。」とあるが、 これはかれの生殖器の異常さをのべているのではないだろうか。つまり、他の皇子と比べてであるから。 勿論この異常さは一見してわかるものであろうが、果たして身の毛のよだつようなものであったかは、疑問である。
ちゃんとした男性じゃなかったんだね
362 :
カナカナボウシ :2007/05/20(日) 10:06:39
>>342 について
法王帝説において在位が41年となっている。
継体在位が25年ではなく28年だとすれば、安閑の即位が534年であるから、そこから
欽明崩年の571年までは36か37年である。
となると、法王帝説は継体25年説をとっているということである。
となると日本書紀より古い法王帝説において既に百済本紀の内容で継体の在位が計算されているということになる。
それでよいのか?
363 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 10:07:06
古事記干支の不一致と帝説の欽明帝の在位年がサガミハラハラ氏の紀年の確定の 阻害となっているわけだね。
364 :
サガミハラハラ :2007/05/29(火) 22:54:07
昨日、新宿の劇場に出かけ、踊りをみながらこの問題を考えていた。 安閑天皇以降は記と紀の崩年干支は同じである。(敏達天皇は1年違い)となると、問題を解くポイントは次のようである。 @ 記干支では天皇の崩年と末年は異なっている場合がある。 A 天皇によっては即位のみとめられない天皇がいた。(安康天皇) B 欽明天皇については、安閑・宣化をみとめていない系譜があり、欽明天皇の即位年をくりあげている。 C 逆に継体天皇の在位期間をのばしている系譜もあるのでは? D 伸ばしたとすれば宣化崩年までとなり、539年己未である。 E 己干支で十干と十二支が実際の崩御年と食い違う場合があった。 (応神天皇崩年甲申が甲午となっていた。これは崩年の壬午Aと末年の甲申を混同して、末年の候と崩御年の午とをくみあわせてしまったものである。 C 同様の間違いがほかにはなかったとはいえない。 G 安閑以降は記と紀の干支が同じであるとするならば、紀干支は己未であるはずである。 よって、記干支継体天皇崩年の丁未は、己未の誤記であると考える。 古い時代の記録では、多種の系譜や干支があったようであり、記干支はそれらをあまり整理 せずに古事記に載せたようである。
365 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/05/29(火) 23:09:45
はじめまして。 私は市井の古代史ファンにすぎず、専門知識もまだまだ未熟な者です。 この板の複数のスレを彷徨した果てにこちらに辿り着きました。 素人視点からの、たあいもない話しか出来ませんが スレの発展に寄与できればと思います。 やっと理想とするスレを見つけました。以後よろしくお願いします。
366 :
サガミハラハラ :2007/06/01(金) 06:53:25
オケ、ヲケの二皇子のことであるが、二人はやはり、双子であろう。 弟のヲケが先に継いだということは、日本では双子のばあい、つい最近まで後から生まれたほうが長男とされているからである。 ただこの記録からみると、跡継ぎは後から生まれたほうであるが、弟とかいているところいをみると、古くは、先が兄と呼称されていたが、跡継ぎは 弟がということになっていたようである。呼称がいれかわったのは後世ということになる。
367 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 08:41:54
双子である理由、証拠がない
368 :
サガミハラハラ :2007/06/01(金) 08:54:53
ですから、弟が先に位を継いだということです。 兄が最初位を継げなかった理由は、弟の死後位を継ぎ数年経過したことからも、 兄の方になんらかの欠陥があったとは考えられない。 となれば、日本の家を継ぐ風習がそうだったからとしか考えられないです。
369 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 09:08:15
弟に「自分達の身分を明かした」という重要な功績があるから 「先に皇位を」というのが兄の主張なわけだよね? ただ、神八井耳命と綏靖の関係に似ているからこれは 同種の説話的作り話とでも考えているの?
370 :
サガミハラハラ :2007/06/01(金) 11:39:22
うーん、ただ兄弟の発見されたときの年齢は11,2才だったからね。 主張できるといえばできるだろうけれども。
371 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 21:31:31
サガミは長男? 「兄より優れた弟などいない」と考えてるタイプ?
372 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 23:56:52
安康3年に父が殺されて逃げ隠れた時「丹波小子(11,2歳?)」と名乗ったわけで 清寧2年に発見された時はすでに20年以上経っているので子供ではない この時「小子」ではおかしい
373 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/02(土) 07:48:42
明智小五郎も小林少年も「小」の字がつくが? 桂小五郎とか超大柄な小錦とかもつくよ。
374 :
日本@名無史さん :2007/06/02(土) 08:45:22
あほか、それなら丹波小子は兄弟のコンビ名だな
>>295 亀レスだが
ホケノ山を豊城入姫(=豊鍬入姫)の墓とする伝承がある。
「豊城(ホーキ)の山」の意味らしい。
今ひとつ信じられないなぁ・・・・
法華山じゃね? いや・・・ただの思い付きだ
378 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 17:17:17
age山古墳
379 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 07:24:54
清寧天皇の御子が旧事紀に載ってる
載ってないよ
381 :
サガミハラハラ :2007/06/21(木) 20:43:10
清寧天皇の御子がいたかどうかは、旧事の真贋性にかんする重大なことです。 果たして載っているのでしょうか?
後漢時代の鏡出土 鳴門の萩原2号墓 2007/06/22 10:34
徳島県教委は二十一日、国内最古の石積み墳丘墓とされる鳴門市大麻町萩原
の萩原二号墓(二世紀末−三世紀初頭)で、石積みの内側に木材を立てた墓室
「木槨(もっかく)」内から中国・後漢時代の一世紀中ごろから同後半に作ら
れたとみられる銅鏡「四葉座内行花文鏡(しようざないこうかもんきょう)」
の一部が見つかったと発表した。同墓が築造された時期から、前方後円墳の起
源となる王墳への鏡の副葬が始まったとみられる。
発見されたのは、長辺四・八センチ、短辺一・四センチの鏡片。厚さは一・
四−二・一ミリで、櫛歯(くしば)文や松葉文など四つの模様が描かれていた。
当時の墳墓では鏡を割って副葬する例があり、見つかった鏡も人為的に割られ、
棺(ひつぎ)の上か木槨のふたの上部に置かれていたと推測される。
徳島文理大学の石野博信教授(考古学)は「前方後円墳につながる墓であり
ながら、鏡を砕く弥生時代の風習も残し、過渡期の墓の姿が見えて興味深い」
と話している。
【写真説明】萩原2号墓から見つかった中国・後漢時代のものとみられる銅鏡
(県教委提供)
ttp://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_118247623632&v=&vm=1
萩原2号墓:埋葬施設の構造判明 前方後円墳発生の謎に迫る−−鳴門 /徳島 ◇徳島大総合科学部の東教授「貴重な資料だ」 三重構造の珍しい埋葬施設「積石木槨(つみいしもっかく)」で知られる萩原2号墓(鳴門市大麻町萩原) を調査していた県教委と県埋蔵文化財センターは21日、最終報告を発表した。埋葬施設の構造が明確 になり、新たに中国から伝来した鏡の破片が見つかった。【加藤明子】 県教委によると、萩原2号墓は弥生時代終末期(2世紀末〜3世紀初頭)の墳丘墓。積石木槨の底には 一面に厚さ1〜2ミリの薄い青石(結晶片岩)がタイルを張るように敷き詰められていた。同様の構造を持 つ古墳は朝鮮半島にあるが、日本では例がないという。 木槨の構造は直径20センチ程度の木材をログハウスのように積み上げたシンプルなものだったと推 定。同じように木槨を積石で囲む全国最古級の前方後円墳、ホケノ山古墳(奈良県桜井市)では枕木や 柱の痕跡である溝が見つかっており、技術の変遷がよく分かるという。 (続く)
(
>>383 の続き)
出土した鏡の破片(長さ48ミリ、幅約14ミリ、厚さ約2ミリ)は、渦などの独特の模様から、中国・後漢で
作られた銅製の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)(直径16・7センチ)の一部と推定。割った鏡を棺の上
に置いたらしい。県教委は「被葬者の魂を閉じ込めたり、弔う意味があったのだろう」と説明する。
また、埋葬施設の東北部分の一部で、人為的に石を動かした盗掘の痕跡が見つかった。副葬品を狙っ
たかどうかは不明だが、県教委は「掘っても掘っても石だらけで、途中であきらめたのではないか」とみ
る。
徳島大総合科学部の東潮教授(考古学)は「萩原2号墓とホケノ山古墳は、埋葬施設の類似性だけでな
く、サイズにも規格性があり、非常に興味深い。前方後円墳の発生の謎に迫る貴重な資料だ」と話してい
る。
鏡の破片や土器などの出土品は23日〜7月1日、板野町犬伏の県立埋蔵文化財総合センターで一般
公開される。無料。問い合わせは同センター(088・672・4545)。
毎日新聞 2007年6月22日
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokushima/news/20070622ddlk36040541000c.html
385 :
サガミハラハラ :2007/06/25(月) 15:08:56
稲城について。 記紀に稲城についての記述がある。 垂仁紀のサホヒコの乱で「稲城を作り待ち戦ひき」 雄略紀に根使主が「稲城を造りて待ち戦」 物部氏が「稲城を築いて戦」 とあるが、これは稲束を柵や壁のようにして城を築いたかのごとく解釈され、 稲束で柵や壁をつくったところで役にたたないのに可笑しいといわれていた。 ところで、鎌倉に稲村ヶ崎という名所がある。紀行文「海道記」に「稲村ト云処アリ。嶮キ 岩ノ重リフセル迫ヲ」とある。 これを考えると、稲(イナ)とは険しいとかきついとの意味なのではないであろうか? 岩、石、いかめしい、いばる、苛め、痛い、とかから連想される言葉の一つではないだろうか? その言葉に稲という漢字をあてたことから、稲束で城を築くとなってしまったのではないだろうか? それではイナとはどういう意味であろうか? 愚考するにこれは「否」ではなかろうか。 つまり拒否する、拒むという意味である。 敵の攻撃を厳しく「拒む城」ということであろう。 それが稲という漢字を当て字にしたため意味不明となったものである。 これで古代の謎がまた一つ解けました。といいたいところであるが、この拒否のイナが 大和言葉であるかどうか調べていません。 どなたかご存知の方よろしくお願いいたします。
386 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 15:20:42
きついね→キツネ→稲荷 この流れかね?
387 :
日本@名無史さん :2007/06/26(火) 07:47:50
祖谷の吊り橋で有名な祖谷も同系の言葉かも知れませんね。
388 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/26(火) 07:57:18
イヤか〜。20余年前旅行に行った。そこから剣山に登り、平家の馬場で昼食を とった。頂上は晴天で最高だったな。途中茶屋のおばさまとソロモンの秘宝の 話で解説をして場所も教えてもらった。懐かしい。 イヤとイナ? イヤの洞窟あったよな?行って入ったのを思いだす。一般人の経営だったはず だ。能登のハニベ岩窟院にも同様のトンネルがあり、面白かったな。
389 :
日本@名無史さん :2007/06/26(火) 10:18:17
播磨の伊和大神のイワは、山と言う意味だとか。
390 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 09:44:46
長野の伊那谷もその部類かも。
391 :
日本@名無史さん :2007/08/09(木) 22:22:01
上に行ってみよう。
392 :
すみれの花のような ぼくの友だち 実はサガミハラハラ :2007/08/21(火) 08:47:09
北部九州に邪馬台国があったとして、大和の人たちはいつ頃遠い西のかなたの 邪馬台国のことを、卑弥呼のことを知ったのであろうか? これは、魏志倭人伝が輸入されてからとおもわれるのであるが、記紀を呼んでみると、どうもそれ以前に、 邪馬台国や卑弥呼のことが知られていたようである。 一つには、スイニン天皇の時代、倭彦命の死に際し、近習の者を生きたまま墓の周りに埋め殉死させたことである。 殉死は殺してから埋葬するものであるが、この時代まで倭では殉死がおこなわれていなかったということを表し、(または、殉死しても主人の墓の周りに埋葬しなかった) しかるに、このような方法をとったということは、かれらが、卑弥呼の埋葬のときのことを聞きかじり、本来の形式を知らずにいきたまま生めてしまったことを表している。 二つには、崇神垂仁の時代から大和に前方後円墳が築かれ始めたことである。 これは卑弥呼の墓を意識したものであろう。卑弥呼の墓が前方後円墳であったかどうか、はっきりしないのであるが、 歩百歩に匹敵する墓は卑弥呼の墓の巨大さを知ってのことであろう。 今のところ以上二つであるが、いかがなものでしょうか。
393 :
日本@名無史さん :2007/08/28(火) 03:06:14
394 :
日本@名無史さん :2007/08/28(火) 03:08:25
後円が太陽、前方が光。 初期の前方後円墳は張り出し部分が無い。 魏志倭人伝からは卑弥呼の古墳の形までは分からないが
395 :
日本@名無史さん :2007/08/29(水) 21:26:42
age
396 :
日本@名無史さん :2007/10/15(月) 19:18:59
あげ
397 :
サガミハラハラ :2007/11/08(木) 22:41:29
いつだったか、テレビで、なぜ古代では墓碑等での文字の使用がないのかについて、日本はいわゆる言霊の国であって、言葉を文字としてのこすのを嫌ったからだとの解説があった。 それでは、国産であるはずの三角縁神獣鏡や仲平年等には文字がきざまれているのかという問題になるが、これらは外国製として偽造したものであるから文字がつかわれたものであろう。 これは現代でも見られ、メートル法施行の時罰則までもうけて尺貫法を取り締まったのに(秦の始皇帝が度衡量をきめて違反者は万里の長城工事で使役したのに匹敵する悪法である)、 ヤードなどのゴルフ用の単位はOKとしたのはそのあらわれである。
398 :
日本@名無史さん :2007/11/13(火) 00:51:45
>397 おなじ相模原市市民としてひとこと 死後の霊魂に対して、生存者が供養して33年〜50年したのち 「個人霊」から「祖先霊」に転じると信じられていたため、 古墳の有効期限が短く、金石文を残す習慣は生まれなかったのでしょう。 白骨が土に還るまでの、一時的なモニュメントが墓なわけです。
>>397 >>398 私は、墓碑を作る習慣がなかったからだと思います。
あと、首長墓については、その地域の人々はそれが誰の墓かは
言い伝えで分かるので、作る必要さえ感じなかったのでしょう。
天皇稜はその際たるもので、大規模な労力を動員して陵を作って、
陵墓を守るための専用の人たちもいたので、墓碑が必要などとは
思いもよらなかったのでしょう。
日本書紀の崇神紀には 戸籍をとったと書かれているんだよな。 それって、やはり文字で記されたんと違うかな? あと、魏志には戸数まで記されているし... ということは、千とか万という漢字単位も知っていたのかな?
魏志のは北九州西部のことだろ 崇神紀潤色の出典はなんだっけ?
402 :
サガミハラハラ :2008/01/05(土) 08:29:38
上げます。
403 :
サガミハラハラ :2008/01/16(水) 23:21:29
上に行きます。
404 :
霰黒齊 :2008/01/16(水) 23:46:21
稲城じゃなく今城だろ! 臨時の城とか急造の城! あと佐保彦は族長の名称だな! 佐保の地はかなり狭い領域なんだが、ヤマトから山城にかけての交通の要所を押さえていた。 イクメイリヒコや後継者達は佐保の地を征服した後、 勢力圏内に古墳群を作った。 佐紀盾並古墳群は2群に分かれているだろ?
405 :
日本@名無史さん :2008/01/17(木) 00:14:57
図式的な考え方だけど、 @崇神王権の存在と衰退〔存在自体も〕 A応神・仁徳王権〔倭の5王〕の存在と衰退 B継体・欽明王権の確立〔蘇我王権の成立・聖徳太子も〕 C大改のクーデター〔天智・天武王権力による統一〕 を如何に説明出来るかに尽きる! 邪馬台国は中国からみた資料だけに始めから関係して考えると前に進めない!神話は何を隠そうてし何をアピールしようとしているかの判断が必要になる!
406 :
サガミハラハラ :2008/02/08(金) 14:59:01
しばらく休んでいましたが、天皇の年代についての話をつづけます。 「上古の難題」p196から。 古事記によると雄略の崩じたのち、白髪の大倭根子命ー清寧が皇位を継いだ。この天皇は皇后も御子もないまま崩じて、後継者がなくなり、履中の王女で 忍歯別王の妹の飯豊王が後継者を探しながら政務を見たらしい。 一方書紀の方では、雄略の皇太子が星川皇子の叛乱を制して皇位を継いだ。この清寧は葛城韓媛を妃としたgあ、翌2年子のないことを恨み、御名代を置いてその名を残そうとしたと記述する。 そしてその年に忍歯王の二人の御子オケとヲケの二王を播磨から見つけて喜んだとあり、在位5年目に崩じた。年齢は若年と記録している。神皇正統記では39歳、 水鏡によれば41歳、皇代記では42歳であり、水野氏は水鏡の数字を採用しておられる。 この清寧に関する書紀の記述は信じ難いところがある。妃と定めた翌年に子がないのを残念に思って御名代として白髪部を作ったというのはあまりに性急で不自然である。むしろ古事記の妃も子もないいまま崩じ 御名代が定められたとする方が妥当のようである。この清寧の宝算の40歳というのはやはり二倍年暦と考えるべきで、清寧は20歳前後で後継者のないまま崩じたものであろう。清寧の崩年は484年と推定できるから、464年頃に生まれ、 479年に15歳で即位したものと考えられる。初期には雄略の遺詔があるが、やはり若 年の皇太子を気づかってのことと思われる。
407 :
サガミハラハラ :2008/02/09(土) 15:04:56
p197 清寧の父雄略は、兄の安康天皇が目弱王に殺されたのち、二人の兄王を殺し、さらに従兄に当たる履中の王子忍歯王を射殺して即位した。この忍歯王の死を聞いて二人の幼い王子、オケとヲケの兄弟は逃げ出して播磨にかくれ、 牛や馬を飼う下男として世を忍んだ。 古事記は清寧の崩じたのちこの二人を探し出したと記述するが、書紀は清寧の在世中に見出されたことにしている。いくら雄略の亡くなった後とはいえ 清寧の在位中に名乗り出るという危険を冒すとは考え難い。古事記の記述どおりによると思われる。飯豊王は二人の甥の出現を喜んで、二人を上京させた。まず弟のヲケ王が皇位を継いだ。顕宗である。 顕宗は書紀によると在位3年、古事記では8年と食い違う。その宝算は古事記では38歳、書紀には記録なく一代要記には48歳とある。このままの年齢ではいずれにせよ即位した時に少年であったというのと矛盾するから二倍年暦で、 宝算は19歳というのが妥当であろう(後略)。 顕宗には妃はあったが子はなかった。この後を兄のオケ王が継いで仁賢天皇となる。仁賢は雄略の王女である春日大郎女を妃とした。仁賢の治世は書紀によると11年であるが、これは少し疑問である。宝算は記紀ともに記録がなく、 水鏡、紹運録には50歳、帝王編年記に50歳とあるが、いずれも二倍年暦であることは明らかで、宝算は25歳と推定される。
408 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 19:52:24
奈良時代最大の謎 遺跡すら見つかっていない聖武天皇時代に存在した南都清水寺(奈良の清水寺) 現存する福智院と関係があること以外、謎に包まれている テレビや雑誌でも、あまり取りあげられていない
409 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 23:07:42
ちなみにこの寺があったとされる奈良市狭川町と同じ狭川がはいる上狭川城と下狭川城という城もあった
410 :
日本@名無史さん :2008/04/21(月) 22:53:45
あげ
411 :
サガミハラハラ :2008/06/13(金) 22:34:08
貴重なのであげ
412 :
日本@名無史さん :2008/09/02(火) 16:55:58
んもお
413 :
日本@名無史さん :2008/10/12(日) 07:17:49
面土国(吉野ヶ里)東遷なんてのを言ってるやつは居ないのだろうか
414 :
サガミハラハラ :2008/10/13(月) 09:06:30
倭面土国は、糸島から博多にかけてあった国です。 倭は古くはイと発音していました。よってイメンドが正しいです。土は古くは奴の字で表記されましたが、この時代(AD107)には土で登録されたようです。(よってイメンド国の成立は新しい) ドは国をあらわす言葉ですので、国名はイメンです。 メンは博多訛で前の転訛です。お前、手前がオメエ、テメエとなるわけです。 イは倭のことで、イマエは倭の前にあたる国ということになります。 中国中心ですから、中国に向いているところが前となり、糸島博多がうまく合います。 国王の元帥升はシュセンと発音します。これも博多訛です。サシスセソはシャシィシュシェショと訛ります。 よってスセン王となります。糸島に周船寺(スセンジ)があり、このスセンはこの王の名が地名として残ったものです。
415 :
サガミハラハラ :2008/10/13(月) 09:21:52
上記の元帥升は帥升の誤りです。 かれは、記紀に登場するホスセリ命です。(ホは美称であるから、スセリであり、訛ってシュシェリで通訳はシュシェンといったのを中国の記録者はシュセンと聞き取った。) このことから、天孫降臨は1世紀の出来事であったといえる。
416 :
夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/10/13(月) 22:13:14
>>414 お久しぶり。
個人的には、あくまでも倭面土国は「倭の面土国」。
吉野ヶ里遺跡を王都とする国だったと考える。
後の「米多国」。
417 :
日本@名無史さん :2008/10/14(火) 21:56:00
「倭面土」は「ヤマト」ではなく、「イツメト」である。 「倭」を「ヤマト」と読むのは「ヤマト」が倭国の代表になったからで、 昔はかつての倭国代表「伊都国」にちなみ「イツ(Itsu)」と読んだ。 「倭面土」は「倭の面土」つまり「イツメト」である。 伊都国との勢力争いに勝った面土国は、のちに今の大和へと東征する。 そのとき引き続き「イツメト」を国名とし、それが訛って「ヤマト」となった。 つまり「倭面土」が大和なのではなく、それが訛って大和となったのである。
418 :
日本@名無史さん :2008/10/16(木) 16:29:49
大和王権の重層構造 前方後円墳を見ると良く分かるのだが、 古墳の周りに周溝を掘っている、これは大和に昔からある 方形周溝墓を踏襲している。 葺石、これは出雲の四隅突出型墳丘墓の影響。 鏡・剣・玉等の副葬物、これは筑紫の影響。 突出部と埴輪、これは吉備の大型墳丘墓の影響。 古墳時代中期からの副葬物の武具馬具化は百済の影響かもしれない。 日本神話を見ると、 もともと長髄彦が大和に国を築いていた所へ、 出雲系とも伝えられる饒速日が来て王になる。 その次には九州から神武天皇が。 崇神朝は吉備を平定した。 応神天皇は九州から大和入りしている。 一部には「応神天皇以前は全て架空だ」とする人間もいるが、 こうしてみると、そういう事は無い。
419 :
日本@名無史さん :2008/10/16(木) 17:05:38
別に征服した地域のよいと思った技術風習取り入れていっただけだろ
畿内王権、特に大和を中心に考えた時、 唐古・鍵、坪井 纏向・柳本・大和 佐紀盾列、巨勢山 百舌鳥、古市 明日香 こういった遺跡群の時代変遷は何を物語っていると思いますか?
421 :
日本@名無史さん :2009/02/01(日) 22:12:08
422 :
日本@名無史さん :2009/04/17(金) 07:09:50
上に参ります。
423 :
日本@名無史さん :2009/05/14(木) 22:46:22
創価大学
前方後円墳=男性器ってのは なんかタブーなのか
そもそも皇族が埋葬された事が確定してる古墳ってあるの? 古墳を築造した文化を持つ豪族達と、 それを征服した後の大和政権につながる勢力って別系統だよね?
426 :
日本@名無史さん :2009/08/20(木) 00:19:20
んなあこたあない。
427 :
サガミハラハラ :2009/10/14(水) 23:53:43
>>424 タブーどころか全然関係ありません。
>>425 いいえ古墳築造は大和政権がはじめたことです。
428 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 00:11:26
>>418 それらの地域を畿内勢力が征服して文化を吸収しただけ。良いものを取り込むのは日本人の気質なのだろう
出雲のスサノオは古代出雲が楽浪郡とつながっていたからむしろ征服を強調するためのものだろ
新羅に天下った、つまり高天原である葛城から一旦移動したのも新羅がやはり倭人の影響を強く受けた国で
ある証左なんじゃないか
429 :
サガミハラハラ :2009/10/15(木) 00:16:53
確かに新羅は倭人の影響を強く受けた国ではあるが、スサノヲは新羅にいったがおいだされたようであるが。
古墳=前方後円墳っていう狭義の「古墳」用法はやめて欲しい。
431 :
日本@名無史さん :2009/10/15(木) 22:44:52
430と同じ。 古墳には、上円下方墳とか、双円墳、帆立貝式とか、四隅突出墳とかあるのにねw 八角墳とか、古墳じゃないと思う。7世紀中頃だろ。
新羅でろくに仕事をしないスサノヲが倭に追い出され、近江の女王の屋敷きに転がりこんだ スサノヲが初めこそ大人しくしていたものの、女王に手を出し、その子供のうち女の子の所有権 を主張するようになった。女王の亭主面を始めたスサノヲは我儘が通じると思い狼藉をし出す。 自分の言うことを聞かない連中に獣の生皮を投げ込んだり糞尿を撒き散らしたりしたため その苦情を寄せられた女王は鬱状態になり政務を放棄、結果スサノヲは袋叩きに会い出雲に追放された 進退極まったスサノヲは出雲では素直に国津神の命令に従い、治水・土木業務に回されたが 国津神はスサノヲの血筋を慮り、地位と居住区と姫を保障した。幸い治水・土木業務は大きな 成果を治めたためその功績をスサノヲのものとし、自然(=神)と渡り合ったスサノヲは神格化される。 同時に既に幾多もの荒くれ現地人たちの親分格となっていたスサノヲは居住区を城砦化、 絶大な政治的影響力を持つ存在となった。
433 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 08:32:34
小説におかきになったらよろしいかと。
>>433 記紀が小説ならこんな感じで現代語訳されるわけで
国譲りの内実もこの辺りから明らかにしていかないとスレタイに申し訳ないwww
435 :
日本@名無史さん :2009/10/18(日) 11:35:28
小説でいいのなら帥升は九州の豪族であり九州の王にしか過ぎなかった。中国も 半島南部から九州までしか認識していなかったため倭人最初の王とされたが畿内 では物部氏の治める勢力が着々と規模を拡大しており日本海側に基盤を築いて いった。その権力構造は比較的地方分権的で意思決定は有力豪族の長老会議 で決められた。そしてあるときその勢力下の越から半島に移った人が有力者を補佐 して国を作らせたのが新羅だが?婁との権力争いに敗れ日本に戻る。そのご山陰 方面に攻め込み意宇の地に熊野大社を作り征服を強調した
>>435 誰が いつ どうして を入れろよ。
可哀想な独り言になってるだろ。
437 :
日本@名無史さん :2009/10/23(金) 14:00:14
物部王朝ってほんとにあったのか
ニギハヤヒがそうなんじゃね そうじゃなきゃ大物主系列か
439 :
日本@名無史さん :2009/10/24(土) 11:50:37
宗教権力が世俗権力を凌駕することは別段特別なことではない。弥生人が渡来してきた 時点で縄文人国家が成立していたのなら弥生人が女性のDNAしか伝えていない事の説明 も付く。稲作の技術を吐き出させられた後集団に取り込まれて消えていったのだろう
誤爆が多い時間帯
437 あったんじゃない?
どっちなんだよ! こんな研究で金貰ってる奴いたらマジ氏ね 嘘つき!
443 :
日本@名無史さん :2009/10/24(土) 22:37:27
今のとこ神武東征の神話でニギハヤヒが先に天下りしているってことになっているだけで考古学的証拠もない
ナガスネヒコは本当に足が長かったのかな オレ的には凄くカッコ良い存在になってるんだが
445 :
日本@名無史さん :2009/10/25(日) 00:13:56
【岡田外相】 民主党"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる 植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40 1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」 岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」 2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」 岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。 陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」 3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」 岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。 "勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね? このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」 4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」 岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官 をクビにするだけです。それが政治主導です」 5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」 岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。 民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)
446 :
日本@名無史さん :2009/11/02(月) 23:50:06
そもそも弥生人ってほんとにいたのか。紀元前に渡来してきて玄界灘周辺に定住した 大陸難民はいただろうが彼らが何かを日本に伝えたのだろうか。稲作も縄文中期から 陸稲の栽培が行われていたわけでその延長の技術に過ぎないわけだし弥生式土器 ってのも生活習慣が変わったためにおきたトレンドの変化によって成立したものに過ぎな いんじゃないか
447 :
日本@名無史さん :2009/12/11(金) 17:59:18
448 :
日本@名無史さん :2009/12/27(日) 11:11:27
>>446 弥生人が渡来したのは、近畿・山陽地方を中心に北部アジア系の外見種が現代でも
主勢力として分布している点で明らかだろ。
何を日本に伝えたかって、鉄器をお忘れのようだね。
449 :
日本@名無史さん :2010/03/06(土) 20:15:45
そうか。
450 :
日本@名無史さん :2010/03/22(月) 20:48:27
そうよ。
451 :
日本@名無史さん :2010/04/21(水) 14:01:16
>>446 日本人はアイヌとか北海道の少数民族を除いて、全て弥生系の人種だよ。
琉球人も薩摩による征服以前から日本語と同系統の琉球語を喋っていたようだし
琉球民族形成の中核は弥生人か大和民族だろうね。
縄文人が中核になって民族が形成されたなら、アイヌ語と同系統の言葉を喋ってるはずだし。
素人の素朴な疑問なんだけど誰か教えてくれるかしら 出雲の大国主神って古代大和の側からみれば御先祖の天孫一族に負けて退場したローカルな神ですよね? その田舎もので負け組の大国主神がなんで大和一番の聖地である三輪山にまつられて大きな顔するなんてことになるの?
>>452 つ【別の神である】
全国の神社の祭神を冷静に見れば分かることで、
大国主を祭る神社は、近畿どころか東日本の太平洋側に濃密に分布している。
(典型例は、埼玉県の氷川神社。氷川神社は、東京都内にも実に多い)
ところが、これらの地域は、島根県とは考古学的特徴を全く共有しない。
氷川なんて、島根県の川の名前(斐川)まで共有しているように見えるが、
その実、掘り出しても何も出て来ない。
この非共有は、もちろん三輪山も同じ。
つまり、先住民の信仰していた神々を指す一般名詞扱いと考えたほうがいいのだろう>大国主・スサノオ
つうことは、初期大和朝廷は土人の神を崇め奉ってたってこと??
455 :
日本@名無史さん :2010/08/11(水) 14:07:44
つか。 神話を融合させるとか信仰が融合するなんて事例は珍しい話じゃない。 日本に限ったことではないよ。 融合のしかたから見ると、戦争による征服よりは、どちらかというと平和的な融合に見えるがな。
456 :
日本@名無史さん :2010/08/11(水) 16:02:16
>>451 おいおい、センズリこくなや。
お前が大和言葉喋る大和民族かよw時代背景的にもこの大和民族気取り
なんとかしろ。
>>454 そう。崇神記を読めば、そのことが明確に読み取れる。
崇神帝といえば、奈良盆地を超えてはじめて広く征服した「征服王」。
ところが、「疫病がはやって」、これは困ったとなったら、
三輪山に大物主を祀れと御神託があったとある。
要するに、征服の過程で生じた、被征服者の怨嗟を鎮めなければならなかったということ。
三輪山は、「被征服地の在来の神々の鎮魂の山」といったほうがいいのかもしれない。
そういえば、三輪山の麓は、
全国津々浦々からの遺物が出てくることで有名な巻向遺跡だ。
そして、考古学の語るところによれば、
巻向遺跡が出来てから、三輪山信仰が始まる。(順番に注意)。
三輪山は、征服に伴い、巻向に集まっていた全国各地の被征服民が、
それぞれ祀っていた各々の神々を、まとめて合祀した山と言えるんじゃないかと思う。
結果として、まさに国土の神々を祀る「日本最古の神社」になるのも当然の理。
日本人って昔から宗教に関してはなんでもありってことだな